証券界の重鎮に聞く - 日本証券経済研究所

証券界の重鎮に聞く
野村系列になった経緯と合わせて、小貫様が日栄
証券を引き受けられた経緯、そして、日栄証券が
号では、創業者が証券界に入られた経緯や、日栄
今号の証券史談は、前号に引き続き、元日栄証
券の小貫員義氏のオーラルヒストリーである。前
証券はワールド証券との合併や、ソフトバンク・
バブル崩壊とともに日栄証券の業績は悪化。日栄
銘柄数の増加として顕著に表れている。しかし、
り組まれており、そのことは生産性の高さや引受
一方で、法人営業や店頭銘柄の営業にも熱心に取
―小貫員義氏証券史談(下)―
証券入社後、取り組まれた近代化の施策について
インベストメントへの買収を決断されたわけだ
フトしようとされたことをお話されている。また
お聞きした。
話下さっている。
また、先に法人営業に注力されたことを記した
が、小貫氏は現場を重視されていた。小貫氏は各
が、そのときに何を考えておられたのかなど、お
今号では、小貫様の社長就任後に取り組まれた
施策についてお聞きしている。小貫氏は社長就任
とともに、債券の販売と投資信託の募集に注力す
ることに決め、預かり資産を重視した経営へとシ
― ―
85
さっている。
に関する問題について、当時を振り返ってお話下
会員権の外資への開放問題、社債市場の規制緩和
験から、東証が債券先物を導入した経緯や、東証
話になっている。そして、最後に業界活動のご経
の要人とお付き合いをされてきた。その一端もお
し、小貫氏は出会いと信用を大事にされ、政財界
れたことをお話になっている。そのこととも関連
もちろん、各支店の大口顧客や法人顧客を訪問さ
店舗を必ず訪問し、そこに働く従業員との面談は
えないか」と頼みに行ったんです。そうしました
者を私の後に据えたい。ついては適切な方をもら
さんに「債券と投資信託と両方の経験豊かな指導
私が社長になってから、これを何とかしたいと
思っていたんですね。それで、野村証券の大田淵
んでした。
資信託の募集というのは微々たる量しかありませ
やりましたけれども、まだ債券の販売や、特に投
券部を作ってもらって、債券や株式の引き受けを
すからね。私が日栄証券に入った後、法人部や債
ら、以前、野村証券の債券担当の常務だった、斉
藤誠夫君に来てもらえることになったわけです。
すけれども、どこかの支店長在任中に、国債の販
社長在任時に行った施策
――小貫様の社長時代の日栄証券を調べてみます
売でトップを取ったということで、取締役になっ
彼は、野村証券で一貫して営業をやっていたんで
と、株式依存度が低下していますね。
後、井阪〔健一〕さんに引っ張られて、野村投信
ていたんです。以来、債券担当で、常務になった
小 貫 私 は、 平 成 元 年 ま で 社 長 を し て い ま し た
が、社長就任前の日栄証券は、株式偏重の経営で
証券レビュー 第56巻第3号
― ―
86
長になったんです。
委託〔現在の野村アセットマネジメント〕の副社
随分預かり資産を伸ばすことができたと思ってい
なりました。そんなことで、投信と債券の分野も
ます。
とにかく私の社長時代は、株式以外に債券と投
資信託に注力して、社長を辞めるときには預かり
――そういうご経歴だと、まさに希望していた方
が来られたわけですね。
その当時としては、業界でも異例な伸びでした。
資産が六、〇〇〇億円ほどに拡大していました。
小貫 そうです。それで斉藤君に私の後を継いで
もらったんです。
――この間、投資信託の残高がかなり増えてきて
ね。というのも、債券や投信にあんまり力を入れ
い会社は、あんまり預かり資産が増えないんです
やしていこうと考えていましたので、魅力的な投
なりますか。
――預かり資産を重視すると、やはり投資信託に
― ―
87
株式に注力して、債券や投資信託に注力していな
いますね。
頻繁に繰り替えしてくれるから、預かり資産を増
信をどんどん出して、セールスマンもそれの募集
小貫 投信ですね。これで預かり資産が増える。
ていないところは、お客様が売ったり買ったりを
小貫 ええ。当時、うちは店頭株式に相当注力し
ていましたから、投資信託でも野村投信委託と組
やそうとは考えませんからね。
を一生懸命してくれましたので、随分足腰が強く
わけです。私としては、預かり資産をとにかく増
んで、店頭株を織り込んだ投信をどんどん出した
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
――また、社員も相当増えていますね。
の店舗などは、大体裏通りの目立たないところに
ようと目標を立てて、それに注力しました。そし
て、店舗の改装も行いました。それまでは、地方
小貫 そうですね。私が社長になってから、中途
採用で一〇〇人募集しているんです。
代的な総合証券会社にするために、それまで五%
施策は、まず社員を増やしたこと。それから、近
要因ですね。ですから、私が社長になって行った
人が来ました。それが、社員が増えた最も大きな
中途採用を一〇〇人募集したんです。結構優秀な
小貫 中途採用。昭和六〇年のことですから、社
長になった翌年のことですが、新聞広告をして、
――中途採用…。
各階全部改装しまして、社員が働きやすい環境に
ラス張りにして中を見えるようにして、それから
が見えないようになっていたんですね。それをガ
本社も昭和六一年に今の形にしたんですけれど
も、やはり地方の店舗と同じく、格子ガラスで中
い店舗にしたりしました。
賑やかなところへ移転させて、ガラス張りの明る
子ガラスで中が見えないようになっていまして
あるんですよ。また、店内は薄暗いし、正面は格
くらいしかなかった債券および投信部門の比重を
したわけです。本社を改装したときには、業界で
会社でも、ガラス張りで中が見えるようにした会
― ―
88
ね。これじゃあまずいと思って、店舗を表通りの
伸ばしたということですね。
――それは収入ベースでということですか。
社もあるんですよ。こうした店舗の改装も、積極
もちょっと話題になりましてね。この近くの証券
小貫 ええ。債券と投信の比重を三、四〇%にし
証券レビュー 第56巻第3号
り、社員からは家庭状況や悩み、会社の経営に対
る ん で す ね。 そ れ で、 会 社 の 営 業 方 針 を 伝 え た
全社員と一人三〇分ずつ、膝詰めで話し合いをす
七、八人ですから、一日目は女子従業員も含めた
の各店舗を回りました。支店の人数は、せいぜい
一八店舗ありました。私は年二回、二日ずつ全国
それから、営業体制を強固にすることもしまし
た。当時、北は酒田から南は鹿児島まで、全国に
的にやりました。
で…。
時、幸いにして、市況も活況を呈してきましたの
ニ ケ ー シ ョ ン を 重 視 し て い ま し た。 そ し て、 当
心がけていましたので、こうした社員とのコミュ
いなければ、よい業績を上げることはできないと
常に社員とトップがお互いに信頼関係で結ばれて
情とかも頭に入っていました。というのは、私は
すから、社員とも非常に親しくなって、家庭の事
どを行うときも、各支店へ行って、大口顧客とコ
の信頼関係を築くことにしていました。
ね。こうした面談や懇親を通じて、支店の社員と
して、それから料理屋へ行って一杯やるわけです
たんですよ。相場はどんどん右肩上がりだから、
小貫 そういう環境もよかったことと、支店の従
業員が大いにやる気を起こしてくれましたので、
――そうですね。ちょうどバブルの時期ですね。
― ―
89
ミュニケーションをとるようにしていました。で
する進言を聞いたりしましてね。そして、夜はそ
その翌日は、訪問先の支店の大口顧客とか法人
顧客を、支店長や担当者と一緒に訪問し、また、
あまりお客様が損をすることもありませんから
いくらでもお客様も増えていくし、利益も上がっ
支店の周年行事やゲスト講師を招いての講演会な
の支店の社員全員参加で一時間ぐらい研修をしま
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
気のないほうがいいと考えていましたので、彼女
――バブルですからね。
彼女の知名度も上がっていきましてね。CMも当
に、日本人離れしたスタイルで、健康的な美人な
…。
小貫 うん。ですから、私がやらなければならな
い第一番目のことは、いかにして社員のやる気を
社以外にも、ユニ・チャームをはじめ有名企業の
に決めたんです。この人が清楚な顔立ちだった上
起こすかということでした。本当に社員がよく働
CMにも出るようになったし、NHKの大河ドラ
んですよ。当社のイメージガールになってから、
いてくれました。
小貫 業績を上げるには、会社の知名度を上げな
ければならないということで、イメージガールを
ありますか。
――ほかに何か業績を上げるためにされたことは
とおっしゃっていましたけれども、店頭株にもか
――社長時代に債券と投資信託に力を入れられた
名度を上げるのに大いに貢献してくれました。
活躍していくんですよ。この人は、日栄証券の知
― ―
90
マや朝ドラ、そして映画にも出るようになって大
設けたんですよ。そして、中村あずさという女優
小貫 先ほど、野村証券から斉藤君に来てもらっ
たという話をしましたが、彼にも活躍の場を早く
お考えから…。
なり力を入れていましたよね。それは、どういう
人だと値段も高くなりますから、新人で清楚、色
彼女に決めるとき、私と営業担当の役員ら四人
で面接をやったんですね。私はとにかく、有名な
さんをイメージガールにしたんです。
証券レビュー 第56巻第3号
システムができたんですね。こうした背景もあっ
そして、そのころから店頭株の売買も動いてき
ていましたし、平成三年一〇月にはジャスダック
にも勧めていったんです。
受するべく、長期保有を前提にした投資をお客様
企業の宝庫」と定義づけまして、会社の成長を享
の宝庫」とか、「未来のソニー、本田技研の候補
しては、店頭市場を「成長性のある小型優良企業
力しよう」ということに決めたんです。テーマと
も新しい体制になるから次の体制では店頭株に注
それで、我々は「次は店頭株だと…。今度、会社
当時、たまたま非上場会社の売買が、アメリカ
のように拡大する機運が出てきていたんですね。
事を提案したんです。
に、私が会長職に就任し、斉藤君を社長にする人
与えたほうがいいだろうと、平成元年の株主総会
んですか。それとも、斉藤さんのお考えですか。
力というのは、小貫様がお考えになられたことな
――そうですね。こうした店頭株への積極的な注
か。
す け れ ど も、 割 合 い い 銘 柄 が 多 い と 思 い ま せ ん
す。ご覧になってお分かりいただけるかと思いま
も入っていますけれども、ほとんどが店頭企業で
ていますが、これには店頭以外の一部、二部企業
た。お渡しした資料に、当社の引受銘柄が書かれ
から、年を追って引き受け銘柄が増えていきまし
場よりも店頭登録の方が多かったんですね。です
株の引き受けも積極的にやりましたね。当時、上
り、野村投信委託と組んで、店頭株を組み込んだ
発掘して、これを参考銘柄にしてお客様に勧めた
度が上がっていたんですね。それで、優良企業を
― ―
91
投資信託をどんどん出したわけです。また、店頭
て、法人、個人を問わずに店頭市場に対する注目
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
証券レビュー 第56巻第3号
幹事・引受会社一覧
佐々木硝子
日東工器
アイコー
ロキテクノ
シンキ
トーアフェンス
エスエス製薬
クレディア
ヤマダ電機
ピー・シー・エー
松本建工
エイケン工業
久光製薬
コナカ
テクノエイト
福原
シモジマ商事
ミヤチテクノス
日本信託銀行
フジマック
オーケー食品
オザキ軽化学
昴
西松屋チェーン
三和銀行
ワタミフード
ホッコク
カウボーイ
共和工業所
T&K TOKA
日特建設
ドン・キホーテ
東京鋼鉄
利根地下技術
第一商品
ゼンショー
ツツミ
ケーユー
パウダーテック
東和薬品
応用地質
東京電波
MDI
コーコス信岡
札幌臨床検査セン 大田花き
ター
東北エンタープラ 幸楽苑
イズ
平和
東北銀行
クレオ
東京デリカ
大門
ジーエフシー
クラヤ薬品
キャッツ
研創
やまや
ティムコ
ハ マキョウレックス
ミスミ
アイフル
松屋フーズ
タナベ経営
イマジニア
ジャパンケア―
ヤマウラ
日本鋼管工事
UHT
寿製菓
日本色材工業研究所 PEOPLE
武富士
関東電子
共同コンピュータ
ジオマテック
石井工作研究所
日本コーリン
ユニオンツール
ローランド
ユニダックス
創建社
パルステック工業
かねもり
明和地所
イトーキ
共成レンテム
新星堂
大成
新興通信建設
オリエンタルランド ホームワイド
アイ・オー・
データ機器
カッパクリエイト
アイエー
神田通信機
長野銀行
ダイワラクダ工業
マークテック
東邦レマック
昭文社
共信電気
日本ピグメント
旭松食品
ホウライ
山大
ナビタス
パスポート
フェローテック
オリジン東秀
ヤマダコーポレー 王将フード
ション
エス・イー・エス
ナ・デックス
アジア航測
桂川電機
ベンチャー・リンク たいらや
東新住建
日本管財
国産電機
山喜
宮
ウィルソン・
ラーニング
日本ユニコム
サイゼリア
日本サーボ
神鋼パンテック
コージツ
高見澤
環境管理センター
光波
加藤スプリング
藤木工務店
愛光電気
ライトオン
オーデリック
東京リスマチック
ロンシール
ササクラ
松本油脂製薬
サワコー・コーポ アールビバン
レーション
トレンドマイクロ
一吉証券
ナナボシ
リーダー電子
ジーンズメイト
アクモス
エイブル
高木証券
イタリヤード
マツモト電器
ニチイ学館
シンポ
日立プラント建設
サービス
カテナ
ヤギ
ダイトーエムイー
ダイセキ
ダイケン
ユニパルス
ダイワボウ情報
ドウシシャ
レオ
松田産業
田中亜鉛鍍金
ファンケル
長大
機動建設工業
北部通信工業
本間ゴルフ
オーネックス
大和通建
商工ファンド
タイカン
渡辺組
第一興商
東建コーポレーション イ,アイ,イ
タカノ
竹菱電機
サリ
エース交易
パーク24
丸和セラミック
フクビ化学工業
東テク
東京カソード研究所 ニッパンレンタル
日東エフシー
ナック
ジオトップ
旭ダンケ
セフテック
城南進学研究社
― ―
92
日本マイクロニクス
マルミヤストア―
下川
談をしたときに、先ほども申しましたように、店
小貫 斉藤君と、「 今度、君が社長になる んだか
ら、新しい営業方針を決めようじゃないか」と相
人を…。
蔵省が総合証券になったんだから、海外に現地法
すよね。ところが、総合証券になったときに、大
たわけです。後から思えば、それが非常によかっ
ですね。それで、店頭株にグーッと注力していっ
これからは店頭株でいく」という方針を出したん
をやったりして、アメリカとオーストラリア株の
小 貫 そ れ で 当 社 も、 そ の 前 か ら 外 国 部 を 作 っ
て、メリルリンチ日本法人の社長を招聘して研修
――出したらどうかと。
はいたんですけれども、なかなか難しかったんで
頭株が拡大しそうな機運が出てきていました。で
たと思います。
すね。
も、海外にも駐在員事務所を作ったりされていま
――店頭株に注力される少し前のことですけれど
きに、当社は四大証券と違って、小さな証券会社
にしたんです。では、どこに出そうかと考えたと
も言われましたしね。それで海外に店を出すこと
の扱いもだんだん増えていましたし、大蔵省から
売買は多少やっていたんです。それで、外国証券
小貫 香港ね。
――はい。
すよね。
ていた香港が一番いいんじゃないかと思ったんで
ですからね。出すんだったら、日本企業も相当出
小貫 これはね、私もいずれは海外にもと思って
― ―
93
すから、私 がバトンタッチする 前に、「当社は、
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
て い く 局 面 で、 香 港 の 雲 行 き も 怪 し く な っ た ん
したけれども、バブルが崩壊して、株価が下降し
現地法人は、香港にある日本企業との取引が主で
には入れるんですけれども、株式の幹事にはなれ
いろ未公開会社の開拓をしても、社債の引き受け
ない弊害として、野村証券とタイアップしていろ
ところが、当社は三和銀行がメインバンクです
から、関西に取引会社が多かったんです。会員で
て、会員に復帰しなかったんですね。
で、利益が一億円残っていたこともあり、平成五
ないわけです。ですから、私は大阪で法人営業を
それで、香港に事務所を出して、一年後に資本
金二億円で現地法人を設立したんですね。香港の
年に閉鎖しました。
に自分の意思を変えないんです。先ほど、大証の
めるまでは非常に慎重だけれども、決めたら絶対
ね。奈良県出身の人って、大体頑固なんです。決
小貫 いや、そうではないんです。ちょうど、私
が社長になった前年に創業者が亡くなりまして
ね。これは先物…。
―― ま た、 大 証 の 会 員 に も 復 帰 さ れ て い ま す よ
い う の で、 そ の う ち の 一 つ を 取 得 し た ん で す。
で、「それじゃあ、大阪の会員に復帰しよう」と
大 証 の 会 員 権 が 三 つ 残 っ て い た ん で す よ。 そ れ
たんです。しかし、創業者が亡くなったときに、
かったですから、会員に復帰しないままできてい
を買われたらどうか」と言ってきていたんです
考えていました。また、野村証券も「早く会員権
― ―
94
やるためには、会員になっていた方がいいよなと
会員を辞めた話をしましたが、創業者は亡くなる
残った二つを取得したのは、藍澤証券〔現在はア
よ。 け れ ど も、 創 業 者 が 絶 対 に 首 を 縦 に 振 ら な
まで、「絶対に大証の会員にはならない」と言っ
証券レビュー 第56巻第3号
券〕でしたけれども…。
イザワ証券〕と丸起証券〔現在のインヴァスト証
要をパレスホテルでやったんですが、大証の山内
すね。ですから、その直後に、創業者の一周忌法
億株だったんですけれども、当社の出来高が三、
初立ち会いの日に、大阪証券取引所の出来高は一
小貫 それで、会員に復帰して七月二〇日が初立
ち会いだったんです。日栄証券が会員に復帰した
――アイザワ証券ですか。
小貫 私が社長になった翌年ですから…。
か。
――大証の会員に復帰されたのは何年のことです
ね。まあ、そんなこともありました。
大阪の御歴々が大挙して参列して下さいまして
株主や法人のお客様からご祝儀ということで、注
――昭和六〇年ですか。
小貫 非会員だった。だから、毎月一回は大阪へ
行って、法人活動をやっていたんですけれども、
― ―
95
〔宏〕理事長とか、協会の巽〔悟朗〕会長以下、
〇〇〇万株、つまり三割が当社の取引だったんで
文をたくさん下さったんですよ。
――注文をいっぱいもらったわけですね。
小 貫 う ち は 法 人 の お 客 様 が 多 か っ た で す か ら
ね。それに、大株主からも大量の注文が来たんで
す。それで三、〇〇〇万株の取引を執行したんで
――なるほど。じゃあ、二〇年間ぐらい…。
小貫 昭和六〇年。その七月二〇日に初立ち会い
でしたね。
す。というのは、大証に復帰したというので、大
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
も、 株 式 の 幹 事 が と れ な い わ け で す よ。 だ か ら
社債の引受シンジケートには入れるんですけれど
小貫 ええ、そうです。
――あの話は野村証券が持ってきた話でしたね。
とになることは目に見えていましたからね。
から、うっかりそんなのと合併すると、大変なこ
すよ。というのは、大阪には組合もあることです
小貫 うん。あれは、私はあんまり詳しくは知ら
ないんですけれども、後藤君が断ったと思うんで
じゃないですか。
「石塚証券と合併しなさい」という話があった
――ちょうど大証の会員を辞められていた間に、
――今おっしゃった野村投信委託が御社の株をた
きましてね。
です。その結果、受益証券の預り資産も増えてい
どん新しいスポットのファンドを出していったん
ね。それで、うちは野村投信委託と組んで、どん
小貫 また、同時期に野村投信委託も井阪さんが
社長で、あの方は非常に積極的ですから、日栄証
よ。
…。
――ということは、後藤社長時代のお話なんです
くさん買い取ったという話ですが、おそらく昭和
――僕もそのときの話は、よく覚えているんです
ね。
上の株式を保有してはならないことになりました
五七年に銀行法が制定されまして、銀行が五%以
― ―
96
券の株をどんどん買い増ししていったわけです
小貫 ええ。後藤君のときの話なんですよ。だか
ら、たぶん彼は即座に断ったと思うんです。
証券レビュー 第56巻第3号
けれども…〔野村投信委託は、昭和六〇年までは
よね。ですから、そのころのことだと思うんです
小貫 そうです。
を持っていったんですか。
になっており、昭和六〇年から六二年にかけて、
八%、昭和六二年には七・一%を保有する大株主
株主ではなかった。しかし、昭和六一年には六・
委 託 ば か り じ ゃ な く て、 ほ か に も 日 本 生 命 と か
小貫 ですから、野村投信委託は当社の株式を大
量に持つようになりました。もちろん、野村投信
――ああ、なるほど。
――ええ。ちょうど銀行法のときでしたよね。
い証券会社だと、業界では言われていたんです。
― ―
97
日栄証券の発行済み株式の五%以上を保有する大
日栄証券の株式を買い増している〕。
ね。銀行は五%に制限されましたが、生保はそう
が持ち株を売ったと思うんです。その株式の多く
いう規制がありませんでしたからね。
小貫 ええ。
は、野村投信委託に…。
株の日栄証券に加えて、法人営業にも注力したん
――それはあらかじめ御社が、銀行が放出する保
と い う の は、 法 人 営 業 は ロ ッ ト が 違 い ま す か ら
ですよ。ですから、当時、日栄証券は生産性の高
有株を持ってもらえないかと、野村投資委託へ話
小貫 そういうのは、おそらく井阪さんのところ
に行っているんじゃないでしょうかねぇ。
小貫 そうですね。それから、あと私の社長時代
に注力したことと言えば、先ほど申し上げた店頭
――おそらく、御社の場合は、おそらく三和銀行
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
ね。例えば、日本生命なんかの注文は、一回で五
運用をしていました。
も、使い途がありませんからね。それで、株式で
地価が上がると、融資したお金がすぐに返ってく
〇万株とか一〇〇万株という単位ですから、個人
うちは資本金では業界で三〇番目ぐらいの会社
でしたけれども、出来高では大体二五番目から、
るから、またほかの業者に融資して、というのを
営業よりずっと効率がいいわけですよ。
ときには一八番とか一七番とかに位置することも
次々にしていました。結局そんな安易な融資をし
私 は、 長 銀 の あ る 支 店 長 と 親 し か っ た ん で す
よ。当時、とにかく五〇〇億円単位で融資して、
ありました。
資金を運用しなければ、「経理部は何をやってい
からも、しょっちゅう株の注文がありました。大
― ―
98
ていたから、長銀は潰れちゃったんでしょうね。
小貫 ええ。これは法人営業を活発にしていた証
拠だと思いますね。バブルのときは、銀行も海外
るんだ」と言われる時代でしたからね。だから、
そういう時代ですから、一般の会社でも多くの
会社で、利益をため込んでいました。また、その
に出るためには、八%の自己資本比率が必要にな
法人営業は本当に活発だったんです。うちなんか
――自己資本比率を上げるためにね。
保有するんですけれども、そのほかにも運用とし
体そういうところは、取引先の株をそのまま長期
小 貫 で す け ど、 銀 行 の 内 部 に お 金 が ダ ブ つ い
ちゃってね。銀行は増資をしてお金が入ってきて
も、生命保険会社、損害保険会社といったところ
りましたから、どんどん増資をしたんですね。
――東証の出来高がですね。
証券レビュー 第56巻第3号
回ったと発表しました。このように当時は法人の
ちなみに、昭和六二年一月、東証が前年の昭和
六一年の法人の株式売買代金が初めて個人を上
…。
て 株 式 を 売 っ た り、 買 っ た り し て い ま し た か ら
らくはよかったわけです。
小貫 うん。日経平均株価は平成元年の大納会が
最高で、だから、斉藤君も社長になってからしば
下がりになりますよね。
――しかし、その後バブルが崩壊して業績は右肩
社 長 に な っ た 最 初 の 年 度 の 決 算 で す ね。 そ れ か
ら、私が社長時代の業績は、五八期、つまり私が
高 い 証 券 会 社 だ と 思 わ れ て い た ん で す。 で す か
も法人営業に注力していたので、当社は生産性の
小貫 ええ、そうなんです。
ますけれども…。
以降、かなり経営が苦しくなっていったかと思い
――ところが、御社の場合も、バブルが崩壊して
を残しました。それで、私はこれを花道に斉藤君
の数値を倍にすると、総合証券化以来最高の成績
たので、この期だけは半年決算ですけれども、こ
ましたが、六一期は会計時期の変更が行われまし
小貫 それは絶対ありません。
ですか。
がありましたが、証券不祥事の被害はなかったん
保険会社からの注文を取っておられたというお話
――先ほど、バブル期に生命保険会社とか、損害
ら、在任期間最後の六一期の営業成績をお持ちし
にバトンタッチしたわけです。
― ―
99
運用が盛んに行われていた時代でしたから、当社
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
きないと思っていましたから。また、一任勘定も
金なんて絶対やらないです。そんなこと絶対にで
たんだと思うんですね。他方、我々の会社は、特
やったのか、あれはやっぱり四社におごりがあっ
小貫 やらなかった。そんなことできるはずない
と思っていたんですよ。四社がなぜあんなことを
――全然なかった…。
ね。
金を運用していらっしゃったということですか
――ということは、バブル期に地方銀行の余剰資
したからね。
ましたから、各地で同じようなことが起きていま
― ―
100
小貫 そうそう。必ず各地方に地方銀行がありま
す か ら、 そ う い う と こ ろ と 取 引 が あ っ た ん で す
――あと、生命保険会社の注文を受けたりとおっ
よ。
しゃっていたお話の中で、地域金融機関にも営業
会社をうちが幹事で店頭公開させたりしていて、
しゃっていましたけれども…。
小貫 例えば、酒田とか鶴岡には支店がありまし
て、荘内銀行と取引があったんですね。当時、荘
やっぱり銀行との取引というのは、いろいろと仕
をされたかと思うのですけれども、それはどうい
内銀行も、運用益を求めた時代だったんじゃない
事が広がっていくんですよ。
うアプローチをされていたのでしょうか。
ですか。みんなそういう世の中になっちゃってい
小貫 ええ。その他にも、地方銀行からいろいろ
な地元企業や優良企業を紹介してもらって、その
―― バ ブ ル 期 に 法 人 営 業 に 力 を 入 れ た と お っ
やっていません。
証券レビュー 第56巻第3号
していたということですか。
を受けてつないであげる。ブローカー業務に特化
しゃっていましたけれども、ということは、注文
―― 一 任 勘 定 で の 運 用 は さ れ な か っ た と お っ
に素直で、仕事熱心でお客様を大事にして、銘柄
斉藤君の後に来てもらった氣谷時男君、後藤博信
ことで、野村証券から後藤君や斉藤君、それから
分それを勧めたことを記憶しています。そういう
信用取引を使ってやれと推奨していましたね。随
君や伊沢健君らの話だと、日栄証券の社員は非常
小貫 一任勘定のようなことは絶対にしない。で
すから、ブローカー業務に徹していたんです。
――だから、握りとかそういう話もないと…。
社員との一体感というか、お客様を大切にすると
を非常に褒めていました。これはやっぱり「和心
―― し か し、 バ ブ ル が 崩 壊 し て 以 降、 株 価 が
― ―
101
のこともよく研究していると、うちの社員のこと
小貫 ええ。そうです。うちはあくまでもお客様
を大事にする。おそらく小さなオーナー系の証券
いうトップマネジメント、これがあったと思いま
一体」という創業者以来、この会社に形成された
会社は、皆そうだったと思いますけれども。だか
すね。
なくすることを考えていましたね。
バーッと落ちていきますと、だんだん業績も…。
ワールド証券との合併
ですから、当時、私は現物株のヘッジ取引を、
下がっているときは、できるだけお客様の損が少
で罫線の勉強をしていたりしていました。株価が
に対する研究を熱心にしていましたよ。土日も家
ら、うちの社員たちは、お客様が保有している株
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
やったんです。両社とも社長は野村証券から来て
なく、辞めてくれました。一方、同じ野村証券系
金を割増しましたので、社員も不平を言うことも
て、会社都合で社員に辞めてもらいました。退職
は、それまでにも当社は二回ぐらいリストラをし
小貫 それで、当社が二一世紀に生き残るために
は、 体 質 強 化 の 重 要 性 を 痛 感 し た ん で す よ。 実
――業績が悪くなっていきましたね。
という会社を合併していますから、長野県に強い
小貫 親しいでしょ。しかも、ワールド証券の営
業範囲というのは関東地区と、それから松興証券
関係にありましたね。
――どちらも野村証券の系列でしたから、親しい
野村証券と親しい関係にあったんですよね。
人かの役員もお互いにそうでしたから、両社とも
小貫 ええ、だんだん業績悪くなってきて…。
のワールド証券も、大体同じような規模だったん
んですよ〔松興証券は、昭和五九年四月に三重証
― ―
102
もらっていますし、それから副社長をはじめ、何
です。
一〇月にワールド証券の前身である東一証券に合
券に合併されて大洋証券となった後、昭和六二年
――同規模ですね。
――甲信越ですね。
併された。そして、東一証券と大洋証券が合併し
た合併新会社の商号が、ワールド証券にされた〕。
株式を使って、ワールド証券と株式の持ち合いを
株は、全部会社で買い取っていたんですよ。その
小貫 リストラしたときに、当社の株は流通して
いませんから、辞めた社員が保有していた当社の
証券レビュー 第56巻第3号
たし、それから引き受けの幹事会社数も…。
小貫 当社の場合は、全国的な規模であることに
加え、地域金融機関に強いという強みがありまし
――ということは、ITバブルの最中に、ワール
常に市況がよかったんですよ。
なってきたんですよ。ですから、合併した後は非
う時期だったんで、日本株のほうもグーッとよく
――結構多かったですね。
あ っ た と 思 う ん で す。 そ れ で、 お 互 い に 条 件 が
こ と で、 ワ ー ル ド 証 券 に と っ て も 非 常 に 魅 力 が
ングスの北尾〔吉孝〕さんが、あそこは大沢証券
役になったんですね。その後、SBIホールディ
小貫 そうです。合併した時期もよかったと思い
ます。それで、両社の合併後、私は会長から相談
ド証券と合併したんですね。
揃ったので、合併の交渉も非常に順調に進みまし
〔現在のSBI証券〕を…。
――イー・トレードという証券会社になりました
てね。そして、平成一一年一月に、合併は四月一
日、新社名はワールド日栄証券にするということ
で、基本合意に達したんです。
小貫 イー・トレード証券が大沢証券を買収した
んですけれども、何しろ規模が小さい。それで、
ね。
ね。たまたま、その年の三月二九日にニューヨー
北尾さんは当社に目をつけたんですね。それで、
二月には、両社の臨時株主総会で合併契約が承
認 さ れ ま し た の で、 四 月 一 日 に 合 併 し た ん で す
ク株が一万ドルの大台に乗ったんですよ。そうい
― ―
103
小貫 引き受けの企業数も断然、当社のほうが多
いわけですよ。しかも、店頭市場の先駆者という
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
んじゃないかと考えまして、せっかく北尾さんが
の自由化も行われて、もうIT化なしには厳しい
請されたんです。我々としても、時期的に手数料
をSBIホールディングスの子会社にしたいと要
野村証券から手を回して、ぜひワールド日栄証券
という名前になって…。
て、今はうちの店舗が、「SBIマネープラザ」
業 績 も い い ん で す よ ね。 そ れ ら の 対 面 店 舗 と し
う。生保に損保、住宅ローンなどをやっていて、
ディングスはいろんなことをやっていますでしょ
尾さんは「IT証券だから支店は要らないよ」と
この両者の合併の際に、私は「うちの支店を残
すこと」を合併の条件にしたんですけれども、北
になった。
主も了承してくれまして、株式交換でSBI証券
主は保有株式数が一割増えるわけですので、大株
グス株一・一株が交付されたわけですから、大株
ド日栄証券の株一株に対してSBIホールディン
てSBI証券になったんです。そのとき、ワール
ようということで、イー・トレード証券と合併し
社にはいらっしゃらなかったんですか。
創業者のご長男がお亡くなりになってからは、会
――うまいやり方ですね。創業者の血筋の方は、
思っています。
長 で ま だ い ま す し ね。 合 併 し て よ か っ た な ぁ と
てくれたわけです。うちの社員も半分ぐらい支店
小貫 今のマネープラザってそうなんですよ。で
すから、北尾さんは全国の支店をそのまま活かし
栄の店舗なんですね。
――じゃあ、今のマネープラザは、旧ワールド日
― ―
104
そういう提案をしてくれているのだから、そうし
言 っ て い た ん で す よ。 と こ ろ が、 S B I ホ ー ル
証券レビュー 第56巻第3号
――一方で、ビッグバンの前の金融危機で倒産に
至った会社もありましたが…。
小 貫 山 一 証 券 と 三 洋 証 券 で す よ ね。 山 一 さ ん
だって、かつては日本一の証券会社だった。三洋
小貫 創業者の次男、即ち義弟は関係会社の日栄
不動産と先に述べた芳栄商事の社長をしておりま
ども、長男はバンカーズトラスト銀行、次男はア
も準大手の中では最大だったでしょう。
したし、義兄には、三人男の子がいたんですけれ
ラビア石油、三男はキヤノンに勤めていて、後を
継いでくれない。ですから、後を継ぐ人はいない
菱重工と興銀だったものですから、やっぱり後を
小貫 準大手ではね。
――準大手証券の中ではね。
は、 創 業 一 族 は い ら っ し ゃ ら な か っ た わ け で す
――じゃあ、SBI証券になる前には小貫様以外
ね。
山一らしく取引先の依頼に応じたと思うんです。
合は、特金やファントラにも手を出して、法人の
小貫 何たって業績がよくて、大手証券に迫るよ
うな勢いがありましたよね。他方、山一さんの場
――かなりのものでしたよね。
か ら、 野 村 証 券 に 頼 ん で 斉 藤 君 を 迎 え た ん で す
ね。
先輩でしたし、常に暖かく何かと相談にのって下
三洋さんの場合は、土屋〔陽三郎〕さんは中学の
小 貫 え え、 そ う で す。 株 主 で は あ っ た け れ ど
も、実務の上では切れていましたね。
さいましたし、本当にお気の毒だと思いますけれ
― ―
105
継ぐ意思はないと…。私は娘二人ですが、婿は三
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
行業務をやろうとしていたらしいですね。
ども、息子さん〔土屋陽一氏〕が、将来、投資銀
に合った経営を志向して、絶対背伸びはしない。
なんていうのは夢物語でしたね。私は常に身の丈
たよね。
――結局、ファイナンス会社が命取りになりまし
ないっていうのが、私の基本的な営業方針なんで
儲けないけれども、一方でそれほど大きな損もし
ないというような保守的なものですから、大きく
だから、営業方針も、絶対に仕手株には手を出さ
小貫 そうですね。それから深川に大きな…。
ね。
械化をしなきゃダメですよ」と、盛んに彼がそう
に増えていくんだから、ちゃんとそのうちに、機
のですが、「取引所もこれから売買高が五〇億株
やったときに、土屋さんの息子さんとご一緒した
小 貫 デ ィ ー リ ン グ ル ー ム。 あ れ も 無 用 に な っ
ちゃった。とにかく、私が取引所の何とか委員を
たよね。そのときに高木、いちよしをはじめとす
の系列証券の株を売却するという話が出てきまし
したけれども、同じように野村証券も、野村証券
て、山一の系列証券の支配権が流動化していきま
して、山一系列の中小証券の株式を山一が放出し
しましたけれども、その二年前に山一証券が倒産
――日栄証券はワールド証券が平成一一年に合併
言っていたんですよ。
があったと思うんですが、それはどうだったんで
る野村系六社が一緒になるんじゃないかという話
確かに東証でも、当時、売買高が二八億株くら
いになることはあったんですけれども、五〇億株
― ―
106
――ディーリングルームですね。
証券レビュー 第56巻第3号
小貫 私は、その話を聞いていません。私のほう
は、エース証券からの話はあったんですが、それ
すか〔平成九年一二月三〇日の「読売新聞」に、
経 営 基 盤 の 強 化 を 目 的 と す る 一 吉 証 券、 高 木 証
は断ったんです。
日栄、いちよし、高木、エース、丸八、ワールド
たと聞いているんですが、そのときに、同規模の
堅証券の株も全部処分したらどうかという話が出
売っちゃいましたよね。あの調子で、野村系の中
の 株 を 売 っ ち ゃ え 」 と 言 っ て、 国 際 証 券 の 株 も
合理的な人だから、「もう野村証券は、系列証券
と思いますよ。高木証券も当時、そのつもりはあ
業績もよかったから、むしろその必要はなかった
ていましたし…。まあ、いちよしさんは、非常に
ちゅう交流していましたから、意思の疎通ができ
小貫 東京と関西の証券マンじゃ、そんなに親し
くないですから。ワールド証券とは、私もしょっ
――気心が合ったんですね。
小貫 ワールド証券の方が、規模からいっても同
じような規模だし、営業基盤が東京でしょう。
もいいけれども…。
――比較的近いワールド証券となら一緒になって
券、ワールド証券、エース証券、日栄証券、丸八
証券の六社合併が報道された〕。
――野村証券の経営者が酒巻〔英雄〕さんから鈴
木〔 政 志 〕 さ ん に 代 わ っ て、 そ の 後、 氏 家〔 純
の六社を合併したらどうかというふうな話が出た
まりなかったんじゃないかと思いますね。
一〕さんに代わりましたでしょ。氏家さんは割と
かと思うんですが、それはご存じないですか。
― ―
107
小貫 それはなかったと思います。
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
がありましてね。我々は一組五〇人でしたけれど
も、一組を二五人ずつに分けて、アメリカのスタ
――なるほど。ちょっと話は戻るのですが、小貫
い。私は昭和一六年に入学しましたけれども、戦
ちり英会話を教えるんです。日本語をしゃべらな
「信用は資本なり」をモットーに
様 は 藤 原 工 業 大 学〔 現 在 の 慶 應 義 塾 大 学 理 工 学
争に入ってもしばらくするまでは、英会話の授業
ンフォード大学とかを出た先生方が、二時間みっ
部〕のご出身だとお聞きしたんですが…。
入ったのは、藤原銀次郎先生の考えに魅かれたん
屋を作りたいというものでした。私が藤原工大に
原書も読める、また会話もできる、そういう技術
て、あまり教養がない。だから、教養があって、
ジニアというのは、さもすると象牙の塔にこもっ
教養のあるエンジニアを作りたい。今までのエン
進駐軍の翻訳の仕事をやったんです。その初任給
いないので、みんなアルバイトしたんです。私は
は学校へ行っても、東京が焼かれたために先生が
大学が全部焼けちゃったんですね。それで、我々
司令部は大丈夫だったんですけれども、藤原工業
部があったんですね。そこが狙われて、連合艦隊
それが非常に幸いしたことがありまして、藤原
工業大学のあった日吉には、海軍の連合艦隊司令
は続けられていました。
ですね。
を出た会社員の初任給が七〇円ですから、一〇倍
が当初七〇〇円だったんですよ。あのころ、大学
藤原工業大学は、原書を読めて、会話もできる
技術者の育成を目指していますから、会話の時間
― ―
108
小 貫 そ う で す。 私 は 府 立 一 中 か ら 藤 原 工 大 へ
入ったんですが、藤原工業大学の建学の趣旨が、
証券レビュー 第56巻第3号
本ゼオンに出向して、ボンベイで技術指導をした
意外なところで役立ったんですね。それから、日
していましたが、藤原工業大学に入ったことが、
円になった。ですから、私はそれを学費にしたり
なんですね。そして、一カ月ぐらいしたら八〇〇
よ。
それから、学校生活で役立ったことと言えば、
府立一中に行っていたこともまた役立ったんです
それで、慶応の理工学部になったんです。
に寄附してほしいとも言われていましたのでね。
よかったなと思いました。
きたわけで、そのときも、藤原工業大学へ行って
小貫 ええ、証券局長を務められた坂野〔常和〕
さんが、三年先輩にいらっしゃったり…。
――後の日比谷高校…。
我々学生もそう思ったんですけれども、戦争も相
としては、時期尚早だとお考えのようでしたし、
泉信三塾長が兼務していましたからね。藤原先生
小貫 そもそも、藤原銀次郎先生はいずれ慶応へ
寄附するという予定でおられましたし、学長も小
りましたね。
雄さん、私の一年下には長岡實さん、それから山
てつき合ってくれました。そのほかにも、竹内道
目だろうというお考えをお持ちで、非常に安心し
よ。坂野さんも、こっちが工学部出身だから真面
小貫 私が証券界に入ったときに、坂野さんが大
臣秘書課長だったんで、しょっちゅう通いました
――坂野常和さん。
――藤原工業大学は慶応義塾大学の理工学部にな
当深刻化してきたし、もうそろそろ慶応の工学部
― ―
109
ときも、半年間、不自由なく英語を使うことがで
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
さんとか竹内さん、吉田太郎一さん、橋口〔収〕
いるんですが、昭和一九年というと、下条進一郎
た。坂野さんは昭和一九年に大蔵省へ入省されて
し、坂野さんのほうも率直に話してくださいまし
かそういうことも坂野さんには話していました
さんのとこでいろんな話をしました。経営方針と
ですから、非常に人的なつながりに恵まれたん
です。しょっちゅう大蔵省に足を運んじゃ、坂野
のOBなんです。
口〔光秀〕さんと、三人の東証理事長が府立一中
の横で、私は青山、彼は渋谷に住んでいて、一中
ら編入してきたんです。彼の席がたまたま私の席
それから、府立一中の一年のときに、後にアラ
ビア石油の社長になった水野惣平君が麻布中学か
府立一中だったからよかったと…。
四、五回は一緒にゴルフをやる間柄でね。これも
んや、下条さんもメンバーだったんですが、年に
れくらい私の面倒を見てくださった。竹内道雄さ
野さんと下条さんの推薦で、霞ヶ関カンツリー倶
楽部の名誉会計をされていたんですよ。私は、坂
私が証券界に入るとき、私は水野君に相談した
んです。そうしたら、彼は即座に「絶対に行くべ
― ―
110
楽部のメンバーになったんです。坂野さんは、そ
さんなんかが同期になるんですね。
は渋谷くらいまでは徒歩通学を奨励していたの
で、だいたい彼と一緒に歩いて帰って、お互いの
政界に出られるので大蔵省をお辞めになられた
きだ」と言ってくれてね。私は「それなりの応援
家に遊びに行ったりしました。
後、鳩山さんの後を受けて、霞ヶ関カンツリー倶
小 貫 そ う い う 人 た ち が 同 期 に い ら っ し ゃ っ て
ね。それで、坂野さんは、鳩山〔威一郎〕さんが
――橋口収さん。
証券レビュー 第56巻第3号
私が証券界に入った後、彼は政財界、大蔵省の
中堅で、将来トップになるような優秀な人材を一
秘書として、重要な仕事をやっていました。
いった財界の中心人物に囲まれて、小林中さんの
ん、水野成夫さん、桜田武さん、永野重雄さんと
書を務めていた。そういうことで、彼は小林中さ
ね。小林中さんが開発銀行の総裁のとき、彼は秘
小貫 そういうことで、山下太郎さんは、水野君
が北大を出たときに、小林中さんに預けたんです
――ああ、そうですか。
なったんです。
水野成夫さんの養子になって水野惣平という名に
は山下太郎さんの子どもだったんですけれども、
は協力を惜しまない」と言ってくれましてね。彼
をしてくれよ」と言いましたら、彼は「絶対に僕
るだろうという人が、奈良県の出身者にはたくさ
務の石橋信夫さんと、このように将来、社長にな
士製鉄の専務を務められていて、それから大正海
に新日鉄の副社長になった藤木〔竹雄〕さんが富
三〕さんが関西電力の専務になっておられて、後
ら、村野辰雄さんが三和銀行の副頭取、吉村〔清
た。神戸製鋼の外島〔健吉〕さんも社長、それか
者 が、 瀬 川 さ ん は も う 既 に 社 長 に な っ て お ら れ
また、人とのつながりが重要だと感じたのは、
先ほど申し上げたように、創業者が奈良県の出身
上、随分参考になったんです。
ら、いろんな議論がそこで出るんです。営業政策
す。 こ う い う メ ン バ ー の 集 ま っ た 勉 強 会 で す か
を招いて、私のために勉強会をやってくれたんで
て、毎月一回、赤坂で夕飯を食べながら、ゲスト
上の専務の平田〔秋夫〕さん、大和ハウス工業専
― ―
111
でしょう。私が証券界に入った当時、奈良県出身
〇 人 集 め て、「 正 見 会 」 と い う の を 作 っ て く れ
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
すね。
業者が「大和三山会」という懇親会を作ったんで
んいたんですね。そこで瀬川さん、村野さんと創
沼組社長、嶋中鵬二中央公論社長、津村重孝津村
丸一鋼管社長、奥村俊夫奥村組社長、淺沼茂夫淺
大同生命社長、阪本龍児南都銀行頭取、吉村精仁
―― 天 香 久 山、 畝 傍 山、 耳 成 山 の 大 和 三 山 で す
元奈良県知事などの名があった〕。そして、この
和敬塾塾長、福辻道夫中央自動車社長、柿本善也
順天堂副社長、絹谷幸二東京芸大教授、前川昭一
か。
会では、年に四回、夫婦連れで旅行をしているん
です。私は常任幹事としてこれらの方たちと非常
臣などを歴任され、活躍されました。引き続き、
小貫 うん。先生は当時、自治省の財政局長でし
たが、次官を経て政界に入り、法務大臣や文部大
――自民党の政治家ですね。
ねていきました。ですから、信用を失墜するよう
にかく人とのおつき合いを通じて、信用を積み重
このように人にも恵まれました。私は「信用は
資本なり」というのを自分のモットーにして、と
く影響を受けたと思います。
― ―
112
小貫 そう。それで、奥野誠亮さんにもメンバー
に入ってもらって…。
個性豊かな方々が入会されましてね。〔「大和三山
なことをすると、元へ戻すのは大変ですから、一
に親しくさせて戴き、私の人格形成の上にも大き
会」入会者には、増田四郎一橋大学学長や綿野脩
日一日を大切にしてきました。
今里英三近鉄社長、中畑義愛電通社長、福本栄治
三東洋経済新報社社長、富井一雄ユニチカ社長、
証券レビュー 第56巻第3号
――これを実現されるのに、業界でもいろいろ意
見があったのを取りまとめられた、というふうに
教えていただけましたら…。
東京証券取引所での債券先物導入
――次には、公職のお話を聞きたいと思いますけ
ちょっと耳にしたんですが、代表的な意見などを
れども東京証券取引所の債券先物業務委員長をさ
小貫 中には、それに疑問を呈する人もいました
から、そういう人とは腹を打ち割って何回も議論
ることというのはあまりないんですけれども、債
小貫 取引所というのは、非常に事務方が綿密に
仕事をやってくれますから、特に印象に残ってい
ますか。
残っていることがありましたら、お話しいただけ
れましたけれども、そのときのことで印象が強く
――そのときに、東証は債券先物をお作りになら
小貫 ええ。
のか、そういう議論はあったんですか。
とき、どうして大阪は株式で、東京は債券だった
が っ た か と 思 い ま す け れ ど も、 東 京 は 債 券 先 物
だということで、デリバティブ市場の創設につな
トとして発展するためには、デリバティブが必要
――当時、日本のマーケットが国際的なマーケッ
したりして、それで納得してもらいました。
で、大阪は株式先物を取り扱いましたよね。その
券先物の下ごしらえは、事務局が綿密にやってく
小貫 あれは、大阪は巽さんが、「先物は とにか
く大阪でやろうじゃないか」と非常に熱心にやっ
ださいました。
― ―
113
れましたよね。
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
ておられましたから…。
小 貫 ま あ、 そ う い う こ と も あ っ た と 思 い ま す
ね。やっぱり大阪は、業界の雰囲気として、株式
か。
京でやったほうがいいということになったんです
物のお客さんは銀行を中心としていますから、東
るという話になっていたんです。やっぱり債券先
相を使ったりして、政治問題化しましたからね。
小貫 これは、そういう時代の流れということも
ありましたし、アメリカやイギリスが大統領や首
ましたよね。
券会社が、東証の会員権を開放しろと要求してき
会の理事もされていますね。そのときに外国の証
――同時に、ちょうど同じころに、東証正会員協
東証会員権の外資への開放
の先物の方を好むところがあったんじゃないです
で す か ら、 こ れ は や っ ぱ り 時 の 流 れ と し て、 ま
― ―
114
――最初は、債券先物も株券先物も全部大阪でや
かね。
いかということで、業界の人を私なりに説得して
た、国際化を進める上ではやむを得ないんじゃな
――大阪は相場が好きな方も多いですからね。
歩きました。取引所は竹内さんが理事長で、最初
て、会員権定数の定数増を定めた改正定款を施行
ですが…〔昭和六〇年一〇月に、第一次開放とし
は二社か四社に絞って、徐々に増やしていったん
小貫 特に、巽さんがすごく熱心でしたよ。
証券レビュー 第56巻第3号
社(メリルリンチ証券、ゴールドマン・サックス
すか。
小貫 そういう話もありましたけど、やっぱり大
勢には抗し得ずというところだったんじゃないで
し、昭和六一年二月に国内証券四社と外国証券六
証 券、 モ ル ガ ン・ ス タ ン レ ー 証 券、 ヴ ィ ッ カ ー
ズ・ダ・コスタ証券、ジャーディン・フレミング
〇社が会員となった。また、昭和六三年二月に行
証券、エス・ジー・ウォーバーグ証券)の合計一
すか。
――やっぱり政治的な配慮があったということで
社債市場の規制緩和と
銀行の証券業務参入
小貫 ええ、と思いますね。
六社の合計二二社、さらに平成元年一二月の第三
次開放では外国証券三社、国内証券七社の合計一
〇社が会員権を取得し、この一次から三次の会員
権開放で、外国証券二五社が東証会員権を取得し
――次に、公社債引受協会の理事もされています
からは、「海外の証券会社を優遇せずに、我々の
――東京の会員権を持っていない地方の証券会社
取り払っていきましたけれども、社債発行限度枠
撤廃していって、また、発行会社の起債の制限も
けであったと思いますけれども、それをだんだん
た〕。
ほうにも公平に応募する機会を与えてほしい」と
の拡大というふうなこともありましたね。その辺
ね。当時の社債市場は、興銀や銀行の既得権だら
いうふうな声はなかったんですか。
― ―
115
われた第二次開放では外国証券一六社、国内証券
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―
小貫 そうです。それが肝心だったと思います。
バーターみたいな話になっていましたね。
―― 銀 証 分 離 の 撤 廃 と、 起 債 制 限 の 撤 廃 が 何 か
ね。
ら、これは撤廃しなきゃいけないと頑張りました
よ。私は規制緩和の必要性を痛感していましたか
小貫 あのときは、七社会とかがあって、起債に
ついては彼らが絶対的な権限を持っていたんです
…。
のご苦労をちょっとお聞きしたいんですけれども
んまり利益がありませんでしょう。
券の場合は、起債制限を緩和してもらっても、あ
――そのあたりはいかがだったんですか。中小証
小貫 うん、まあそういうことですね。
歩したわけでしょう。
――ということは、証券会社としてもある程度譲
小貫 ええ。
めるとか、そういう話も出てきましたね。
――他方で、そのためには銀行の証券子会社を認
我々の目的でしたから…。
小貫 銀行は「既得権を守りたい」という気持ち
が強かったと思います。だけど、それを崩すのが
思いますけれども、どうだったんでしょうか。
――そのあたりは、利害がいろいろ絡んでいたと
リットがないのに、銀行が証券業務に入り込んで
――そうすると、中堅証券や中小証券はあまりメ
ありませんからね。
小貫 そうですね。それが大きく影響するのは、
四社と準大手…。それ以下の会社はあまり影響は
証券レビュー 第56巻第3号
― ―
116
くるわけですから、利益はないのに、ダメージだ
けを大きく受けるのは我々じゃないかという、被
害者意識のようなものはなかったんですか。
小貫 ありましたよ。しかし、銀行の力というの
は強かったんでね…。
うございました。
※ 本稿は、二上季代司、小林和子、深見泰孝が
参加し、平成二七年八月三一日に実施されたヒ
アリングの内容をまとめたものである。文責は
当研究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
― ―
117
――非常に長時間、興味深い話をどうもありがと
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(下)―