「〔史談〕証券界の重鎮に聞く—井阪健一氏史談(下)—」を掲載しました。

証券界の重鎮に聞く
勤務された経験から、両地域の顧客特性の違いな
お話をお聞きした。また、東京と大阪の両方でご
貯金箱」の配付や「貯蓄株セット」の販売などの
して実現しようとしていたのか。「野村の百万両
「ピープルズ・キャピタリズム」を、どのように
野村証券が大衆資金導入に成功した基底にある
では、投資相談所での勤務時代から話が始まり、
井阪氏の営業時代のお話を中心に掲載した。前号
今号の証券史談は、前号に引き続き、井阪健一
氏のオーラルヒストリーを掲載する。前号では、
第二の論点では、野村証券の経営哲学には、預
ている。
話、最後に、東証の副理事長時代のお話を収録し
投信委託の社長として、信託財産を拡大されたお
当常務時代のお話、次に、第三の論点である野村
る。そして、第二の論点である株式部長、株式担
営業マン当時の野村証券の経営方針から話が始ま
営業時代のお話を収録した。今号では、井阪氏が
た。前号では、その第一の論点である野村証券の
さて、前号の前書きにも書いたとおり、筆者ら
は四つの論点から井阪氏へのヒアリングを行っ
―井阪健一氏史談(下)―
どもお聞きした。
― ―
95
次に、井阪氏は野村投信委託でご活躍になる。
井阪氏がまず取り掛かられたことは、信託財産の
含めて、お話をお伺いしている。
とにつながった。この背景となった出来高競争を
四社の中での野村証券の地位を一層押し上げるこ
余剰を抱えており、オイルマネーの獲得は、大手
ン隊」であった。当時、産油国は巨額の経常収支
乗り出される。それが「日本株投資促進キャラバ
ルマネー導入のため、アラブ方面への訪問外交に
来高競争で営業体に無理を強いた反省から、オイ
かり資産の拡大が挙げられている。井阪氏は、出
録している。
話から明らかになる。今号ではこれらのお話を収
場へと立場が一転する。これまでとは勝手が違う
そ の 後、 井 阪 氏 は 東 証 の 副 理 事 長 に 就 任 さ れ
る。これまでの営利追求から公益性を重視する立
ている。
に、井阪氏がお考えになったことなどをお聞きし
託財産の拡大につなげられたのである。このとき
通じた販売力強化を三位一体として見直され、信
まり、新商品の設定、運用成績の改善、営業体を
ドマネージャー制度の採用などが挙げられる。つ
――昭和三〇年代の証券経営についてお聞かせい
不況時の信用取引ルールの 厳格化や管理会計の導入
中、取引所職員の意識改革に邁進された姿が、お
拡 大 で あ っ た。 こ れ は 営 業 体 を 通 じ た 販 売 強 化
資環境PT、銘柄開発PTなど)の発足、ファン
査部の設置や運用委員会、各種プロジェクト(投
運用成績の改善にも力を尽くされる。それは、調
ンドの設定などを通じて行われた。その一方で、
や、公開販売専用ファンドの設定、ふるさとファ
証券レビュー 第56巻第5号
― ―
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…。
和三八年一月に信用取引の管理規定を制定して
するんですけれども、逆に野村証券の場合は、昭
基準をちょっと緩くして、お客さんを集めようと
なれば、地場の中小証券は、大体信用取引の開始
ただきたいんですけれども、例えば市況が不振に
の二の規程により、信用取引の委託保証金は約定
引所の受託契約準則第一三条の二および第一〇条
んですが、株券だけでいいんですよ〔東京証券取
井阪 取引所のルールではないですよ。取引所の
ルールでは建玉の三割を預からなければならない
ベースで作れるわけですか。
―― そ れ は 証 券 取 引 所 の ル ー ル で は な く、 個 社
運営に際しての管理、④客先連絡についての管理
前管理、②取引開始に際しての事前管理、③取引
取引管理規定を制定し、①口座開設に際しての事
――厳しくしたと社史に書いてありますね〔信用
も、それでもお客さんは「ああ、いいですよ。一
す か ら ね。 営 業 部 隊 と し て は 大 変 で し た け れ ど
は現金で預かりますよと…。ただ、出先は競争で
を開く場合は、申し訳ないけれども建玉の一〇%
価証券で代用できた〕。だけど、野村証券で口座
価格の三〇%以上とされ、ただしその払込には有
を実施し、信用取引に適した顧客のみに信用取引
割入れりゃいいんですな」ということで、何なく
― ―
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井阪 厳しくしましたね。
の利用を制限した〕。
入れてくれましたね。
――それはやっぱり野村証券は、信用取引を厳し
井 阪 建 玉 の 一 〇 % は 現 金 で 預 か り な さ い と い
う、現金担保比率を入れたんです。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
いいわけですからね。
て、信用取引をやってくれるお客さんを選んでも
さ ん も 証 券 会 社 を 選 ぶ け れ ど も、 証 券 会 社 だ っ
だから、財務に安定感は出たと思いますよ。お客
ていますから、すぐパッと入れられますからね。
んじゃないですか。野村証券は一割の現担をもっ
に、入金が遅れたりしたことも一因としてあった
経 営 危 機 に 陥 っ た の も、 信 用 決 済 損 が 出 た と き
は知りませんけど、山一さんが昭和四〇年不況で
まぁ、それもそうなんですが、損が出るとすぐ
に現金が入らないことが多いんです。詳しいこと
も野村証券を信用してくれますからね。
井阪 経営的なね。そうすることによって、利益
が若干落ちても、社会的な信頼だとか、お客さん
うことですか。
くしてもやっていけるだけの財務力があったとい
現場はこんなに競争しているのに、変わったこ
うなことをおっしゃっていたと思います。
変わらないよ。だからいいじゃないか」というよ
いことをやったって、証券界全体で見たらパイは
券界全体のことを考えてやるんだ。だから、厳し
いやった ほうがいいし、当時、北 裏さんは、「証
ど、社会的な信用をより得るためには、そのぐら
井阪 現場はやっぱり競争ですから、そんな方針
が 出 る と 大 変 だ な と い う の が あ り ま し た。 だ け
は違う考え方があったんですか。
――信用取引に対する考え方というのは、他社と
負ってやるのかよ」と言って、大変でしたけど。
業 の 現 場 で は、「 何 だ。 ま た こ ん な ハ ン デ を 背
与信業務を持ってもいいわけです。そういう考え
けれども、我々だってどこまで与信を与えるか、
― ―
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がどこかにあったのかも分かりませんね。我々営
つまり、銀行は与信業務をやっているわけです
証券レビュー 第56巻第5号
とを言う人だなとは思いましたが、北裏さんの発
つながるはずだという考えがありました。たしか
も、かえって長い目で見たら野村証券の信頼感に
井阪 そうですね。それはあったと思います。先
ほど申し上げたように、証券貯蓄の野村のミディ
表していますよね。
――そのことは、野村証券の経営の足腰の強さを
ともあったかも分かりませんね。
に、そうすると追証がかからないんですよね。
さんだって、人件費とかいろいろ考えたら、最初
その先にもっと大きい実りがここから生まれるは
――社史に、昭和三八年一〇月に管理会計制度を
― ―
99
想 と い う の は、 現 場 は 苦 労 か も 分 か ら ん け れ ど
――ああ、ちゃんと…。
一〇年間ぐらいはコスト的には採算に合わなかっ
――一割入っているとね。それもあったわけです
ず だ、 と い う 経 営 上 の 読 み が あ っ た ん で し ょ う
たでしょうからね。それを耐えてやっていけば、
井阪 一割現金で入っとると…。
ね。
なかったから分からないですけども、北裏さんは
る と、 お 客 さ ん も た ま っ た も ん じ ゃ な い で す わ
導入したことが書かれています。それは、経営陣
な。そのあたりは、当時、私はまだ上の立場じゃ
井阪 追証がかからなくなると、お客さんだって
安心して信用取引をやってもらえるじゃないかと
そういう深読みをするお方でしたから。
な。それはもう結果論ですけれども、そういうこ
をつついたように「追証を入れろ」とせっつかれ
…。相場が下がっているときに、証券会社から火
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
哲学の中には脈々としてありましたからね。
という運動が、昭和二〇年代から野村証券の経営
の出来高だけじゃなくて、預かり資産を増やそう
井阪 うん。いわゆる会計的な経営管理をするた
めにそういう制度を入れたわけです。それと、株
たという理解でよろしいでしょうか。
による計数把握のために、そういう制度を導入し
思っていたところに、ニクソンショックが起こる
です。そして、株式部長って何をするんかなぁと
半やって、昭和四六年七月に株式部長になったん
井阪 梅田支店から丸の内支店長になって、丸の
内支店長を二年ほど務めて、本店営業部長を一年
になられるわけですが…。
長になられますね。そして、昭和四七年に取締役
井阪 うん、預かり資産。それは保護預かりの株
券であったり、投資信託の募集残高であったり、
――預かり資産ね。
された〕。
の一時停止を宣言し、戦後の国際通貨体制が解体
〔昭和四六年八月一五日、アメリカのニクソン大
― ―
100
わけですよ。昭和四六年八月一五日だったかな…
割引債の募集残高であったり、とにかく募集残高
てね。営業マンも真っ青、私も真っ青でしたよ。
したんですよ。ボードは青ランプで真っ青になっ
統領が、諸外国への通知もなく突然、金ドル交換
を増やそうと…。
――次の話題へ移りますが、昭和四六年に株式部
日興証券との出来高競争
土日があったから、空があいたんですよ。だか
ら、チャートで見ると、バーッと窓を開いて暴落
証券レビュー 第56巻第5号
ね。
―― 株 式 部 長 に な ら れ て 一 か 月 後 の こ と で す よ
クロスで何とか逃げ切ったようですが…。あのと
――ちょっと調べてみますと、最後は日本通運の
――その後、株式担当常務になられますが、その
したよ。
という思い出もありますね。あれはゾーッとしま
ら、「今日はこのぐらいで」と言って、終わった
と 言 っ て い る の に、 今 さ ら 引 く わ け に い か ん か
ます」ってメモが入ってきましてね。檀上で強気
ですよ」と言っていたのに、「今、大暴落してい
演会をやっていたんです。そこで、「相場は強気
自 宅 に「 井 阪 さ ん、 も う い い 加 減 に し よ う よ 」
当時の日興証券の常務が、私らと同期の昭和二
八年入社で荻原達郎さんというんですけど、夜、
レッシャーがかかっていたらしいんです。
営業体だけでなく、株式部、商品本部にも相当プ
い越せ」と営業を指揮されたとされる〕。それは
氏は過酷な営業ノルマを課して、「野村証券を追
プレッシャーをかけるんですね〔当時、中山好三
皇」と言われたぐらいの方で、物すごい営業体に
井阪 あれはね、日興証券は中山〔好三〕さんが
社長になられたんですよ。中山さんは、「中山天
きの話をお話しいただけますでしょうか。
ときに日興証券との間で、NN戦争というのがあ
と、電話をかけてくるわけです。私も「いや、俺
― ―
101
井阪 株式部長になって一カ月ですね。たしかあ
のときは、町田支店かどこかの支店へ行って、講
りましたね。
もいい加減にしたいがな。せやけど、うちも負け
るわけにはいかんがな」と…。そうしたら、彼が
井阪 ありました。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
当時、私があるゴルフ場で風呂に入っとったん
で す よ。 そ う し た ら、 中 山 さ ん が 株 式 担 当 役 員
ね。まあまあ、そんなことがありました。
から、「これがいいよ」と言わざるを得ませんわ
ね。「じゃあ、何がいいんですか」と言ってくる
支店には「おい、頼むぜ」と言っとるわけです
から。頼むぜと言われても、支店長は困りますわ
り負けるわけにはいかんがな、うちも」と…。
なこと全然何も言わんけどな。せやけど、やっぱ
だ」と言うから、「ワシとこの北裏さんは、そん
て、『 明 日 は ど う す る ん だ 』 と、 詰 め が あ る ん
入っとると、中山社長から直接電話がかかってき
「 い や あ、 ワ シ も 家 へ 帰 っ て き て 自 宅 で 風 呂 に
かな。
す。日興さんは副社長の梅村正司さんが行ったの
でしたね。それで、出来高競争をやった後に、実
言いませんでしたし、瀬川さんも全然言いません
ん顔して聞いとった。北裏さんはそんなこと全然
たなんて、面白い一幕がありましたな。私も知ら
は私の顔なんか知らんから、俺と話をせいよとい
村がおるよと合図しているんですけど、中山さん
ていた荻原さんはウワーッとなって、こっちに野
とこまで来て言うかと思ってね…。そこに同席し
て言うわけ。おぉ、聞きしに勝る人だな、こんな
で、中山さんが「おい、今日敵はどうやった」っ
――ああ、後に社長になられた梅村さん。
は大蔵省から両社の社長が呼び出されているんで
で す か ら、 私 の 顔 を 知 っ と る わ け で す。 と こ ろ
井阪 ええ、後で社長になられたね。野村証券は
― ―
102
う感じで、「今日は敵はどうだった」と聞いてい
だった川畑〔敬〕さんと荻原さんと、風呂に入っ
が、中山社長は私の顔なんて知らないわね。それ
てきたんですよ。川畑さんと私はお互い株式担当
証券レビュー 第56巻第5号
ね。
かん」と言って、あれは昭和五三年八月でしたか
は、いつまでも野村の後塵を拝しとるわけにはい
んはああいう人やから、「俺が社長になった限り
井阪 銘柄は同じ銘柄をやるんですよ。東証での
市場シェア競争をしとったわけですから。中山さ
――銘柄は、どういう銘柄をされたんですか。
と知るどころか、戦っとるわけやからね。
われたらしいです。こっちはあの当時、そんなこ
来高競争が目にあまる、ちゃんと指導せい」と言
也さんが行ったんです。そこで、大蔵省から「出
北裏さんも行かないから、社長の代わりに田淵節
北裏さんに呼び出しがあったんですよ。だけど、
は言っても三〇億埋めなあかんから」と言ってい
ら、「もう、動かす玉がないですよ」と…。「そう
大 手 客 を 一 発、 お 前 動 か せ や 」 と …。 そ う し た
屋支店で営業部長をやっていたから、「名古屋の
井阪 そうそう、滋賀大学の出身。彼は滋賀大学
の出世頭ですよ。彼が株式部長になる前に、名古
――あの方は滋賀大学の出身なんですよ。
きの株式部長が福島吉治君だったんですよ。
けたってええわ」と言っていたんだけど、そのと
や、どうもならん。もうええわ。一カ月ぐらい負
ん で っ か 」 っ て 聞 い て く る ん で す よ。 私 は「 い
まっせ。うかうかしてると負けまっせ。どうする
日経新聞の記者が、「井阪さん、あっちはやって
――そうでしたね。
合うよ、やろうや」と…。それで彼が名古屋のあ
〇〇万株か二、〇〇〇万株、空売りしてでも付き
る と、「 え え わ。 じ ゃ あ、 大 型 株 だ っ た ら 一、 〇
井阪 八月三一日の引けの前に、兜倶楽部にいた
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
― ―
103
れてね。
が「どうやって力を貸せばいいんだ」と言ってく
か」と電話してくれてね。そうしたら、その会社
ど、 ち ょ っ と 足 ら ん の で 力 を 貸 し て く れ ま せ ん
る 会 社 に「 実 は 出 来 高 競 争 を や っ と る ん で す け
売ってもらって、さらに自己売りでクロスをふっ
けだからね。それで投信が持っていた日本通運を
るわけですよ。それに自己勘定で向かえばいいわ
い」と…。向こうも売りたい玉、買いたい玉があ
いでも何でもいい。付き合うから玉を出してほし
と、またこれの人気がつくし、敵もやっとるから
と は 言 っ て も、 で か い 株、 例 え ば 新 日 鉄 を や る
て、その読みの範囲の中でですけれども、引けの
辛抱したら集められるだろうという読みもあっ
まぁ、日本通運だったら、個人営業体の手の内
のお客さんが玉を持っているし、三日間ちょっと
たんだよね。
塩を送るわけにもいかんしと…。それで、日本通
五分前にバサッとクロスを二、〇〇〇万株くらい
――ああ、それがなかったら…。
― ―
104
こっちは自己で空売りをするわけですからね。
あまり小さい株をやったら、えらい目に遭うし、
運だったら大丈夫だろうと…。
てもらいたいんだけど」と電話したの。そうした
ふったんですよ。ちょうどその差が出来高競争の
差でしたね。
ら、 柿 原 さ ん が「 井 阪、 投 信 の 力 ま で 必 要 な の
か」とおっしゃるので、「とにかく、売りでも買
井阪 それがなかったら…。逆転していたかも分
か ら な い ね。 で も、 も し 日 本 通 運 で や ら な く て
投信委託の柿原春市さんに、「ちょっと手を貸し
ただ、玉が集まるだろうかというんで、投信の
手持ちがいくらあるかを調べてね。そして、野村
証券レビュー 第56巻第5号
い二、〇〇〇万株ぐらいだと読んでいましたから
が 下 が っ て き て、 手 数 料 だ け の 損 で 済 ん だ ん で
でも、あれはどこも損をせずに済んだから、よ
かったですよ。しばらくじっとしといたら、株価
も、違う銘柄でやったと思いますけどね。だいた
…。
――日経の記者の話が出てきましたが、周りは随
し て ね。 だ け ど、 こ れ で 終 わ り。 ま ぁ、 今 思 え
い戻しを二、三日してやって、ちゃんと埋まりま
す。相手に損させちゃいかんから、売り戻し、買
分囃し立てていたわけですね。
ないかんですよ」とは社長に言えないから、「分
「相手が大人げないことをしたら、こっちもやら
をしなさんなよ」と言われたくらいでした。私も
くらったらしいんだけど、私は「大人げないこと
を、君たちがやったらダメじゃないか」と大目玉
出 し が か か っ て、「 市 場 を 破 壊 す る よ う な こ と
万株しか玉がない。だから、一、〇〇〇万株は投
だったと思うんだけど、投信委託には一、〇〇〇
井阪 クロスの相手方ですな。買ってもらったわ
け で す よ。 ク ロ ス を ふ っ た の は 二、 〇 〇 〇 万 株
取ってもらったと…。
い う の は、 投 信 が 出 し て き た 玉 を 向 こ う に 引 き
――さっきのお話の中で出てきた名古屋の某社と
ば、若気の至りでやっちゃったというようなこと
なんだけどね。
かりました」と言っといたけどね。そんな一幕も
信の玉だけども、残りの一、〇〇〇万株は自己で
もお話しましたが、大蔵省から両社の社長に呼び
ありました。
― ―
105
井阪 周りは高みの見物で、囃し立てましたね。
だけど、出来高競争が終わった次の日に、先ほど
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
空売りしたんですよ。自己の空売りなんて、前代
で、ああ言っとったからね。
ジションが残っているんでしょう。
未聞ですけどね。
――一、〇〇〇万株もね。
井阪 空売りが残っとるわけですよ。空売りのポ
ジションが…。
――でも、月末に自己で空売りしたら、売りのポ
井 阪 あ あ。 だ か ら、 誰 に も 一 言 も 言 え ま せ ん
し、ただ株価が上がらないように祈るだけでした
やもんね。社長だったらいいけど、株式担当常務
ら、次の日にブワーンと買い煽られて、もう一発
井 阪 怖 い で す な。 ま ぁ、 た だ 何 と か な る だ ろ
う、何とかしないかんと思いましたんでね。
――怖いですね。
の立場じゃあ、三日間も空売りしとれないでしょ
うな。ちょうどクロスの分が、日興さんと野村証
券の差でしたね。
オイルマネーの獲得と日本株 投資促進キャラバン隊の派遣
――ちょうどNN戦争の少し後のことだと思いま
――それだけ日興証券の中山さんは、野村証券を
意識していたんですね。
られて、アラブの方に行かれたかと思いますが…
すが、日本株投資促進キャラバン隊というのを作
井阪 いやあ、向こうはものすごく競ってきたん
ですよ。先ほども言いましたが、ゴルフ場の風呂
― ―
106
ね。 も し、 自 己 で 空 売 り し て い る な ん て 言 っ た
証券レビュー 第56巻第5号
部のことを「国内は雑巾で、海外部門のやつは絹
しているのは国際本部なんですよ。我々は国際本
と、四社ともそうですけれども、比較的ゆったり
井阪 これはやりました。NN戦争以降は営業体
に こ れ 以 上 無 理 さ せ ち ゃ い か ん と …。 そ う す る
二二%へと上昇した〕。
四年九月期には一九%だったが、翌年九月期には
の日本株売買に占める野村証券の比率は、昭和五
て、アラブ方面への営業を行っていた。非居住者
エコノミストやアナリストなどをグループにし
の担当者、海外拠点の担当者、および野村総研の
〔昭和五四年末頃から、本社担当役員、国際本部
井阪 そうですね、ええ。その前兆がちらほら出
とったんですよ。
つけようと…。
――なるほどね。産油国のマネーを日本株に惹き
きっかけになったと思いますね。
て い っ た ん で す よ。 あ の キ ャ ラ バ ン 隊 が 一 つ の
ちに結構できて、オイルマネーの導入につながっ
うので始めたんですよ。そうしたら、やっとるう
しい営業企画として、そういうことをやろうとい
それで、今後は国内だけじゃいかん、海外に日
本株を売り込みに行こうというので、翌月から新
にもプラスになるわけですからね。
むことを始めたんですね。このことは長い目で見
ないかんよなというので、海外に日本株を売り込
――だからそこに目をつけて…。
ても、日本のマーケットにプラスになるし、会社
井阪 ええ。その前兆が出ていたので、海外支店
の 日 本 株 営 業 を、 も う 二 ケ タ ゼ ロ を 増 や そ う と
これからはちょっと彼らに、ひと働きしてもらわ
のハンカチだよ」と言っていたんです。そこで、
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
― ―
107
んですね。
まして、次にスコットランドのエジンバラに行く
ギリスに三日間滞在して、全土でセミナーをやり
一六人をヨーロッパへ派遣したんですよ。まずイ
部と調査部、野村総研から二人入れて、四チーム
の人間、それと現地支店の担当者、それから株式
で、一チーム四人編成にして、主となる国際本部
そして、野村総研に、日本経済のファンダメン
タルズを分析した資料を作らせたんですよ。それ
たまらんというので、海外へ…。
ていたのでは、大蔵省にも叱られるし、これでは
だと…。目先の出来高を稼ぐために空売りをやっ
もいいことだし、日本のマーケットにもいいこと
にとってもいいことだし、野村証券全体にとって
…。それは現地支店にもいいことだし、国際本部
んですよ。いやあ、まぁいろいろ、そういう戦術
はランニングストックを持たないかんから、ある
かね」と、言ってくるわけですよ。他方で、うち
行くらしいけども、どんな銘柄を推奨するんです
今度は、国内で提灯がつくじゃないですか。そ
うすると、 支店が、「来月、またキャラ バン隊が
てきたんですよ。
来高競争なんて考えなくてもいいぐらい差がつい
れを三年間ぐらい続けましたね。そうしたら、出
買 っ て く れ て ね。 そ れ で 味 を し め て、 年 四 回、
新 日 鉄 だ っ た か な、 二、 三 〇 〇 万 株 を ボ ー ン と
いいんだったら買おう」と言ってくれて、当時、
社でして、 そこへ行ったら、「そう か、 そんなに
いうのが、なかなかユニークな運用をする運用会
家がいましてね。スコティッシュ・ウィドウズと
程度仕込みを始めると、これがまた分かっちゃう
― ―
108
キャラバン隊を派遣することにしたんですよ。そ
スコットランドには、スコティッシュ・インベ
スターっていう、逆張りで非常に特徴のある投資
証券レビュー 第56巻第5号
循環を作り出し、そのあたりから、出来高を気に
トは上昇していたんで助かりましたね。それが好
的なことはありましたけれども、概してマーケッ
うまく循環していくようになりましたので…。
ないし、結局そうしたことによって、翌月もまた
く、割合いい株をやっていましたから傷にはなら
導入してから、出来高を量的に追っかけることな
知らんけど、大体追いかけてくるなよ。うちは一
から、「いやいや、おめえさんところも疲れたか
長になられて、その年…。
なります。次に、昭和五八年一一月に取締役副社
⑴ 国内営業体の販売強化と運用成績の改善
――じゃあ、野村証券時代の話はこれで終わりに
信託財産拡大への取り組み
しなくていいぐらいになったんですね。
NN戦争のときは、先ほども言いましたが、日
興さんの株式部長から電話がかかってきて、「井
生懸命走っているんだから、君のところは君のと
井阪 〔野村投信〕委託会社に移るんですね。
ブーブー文句が来るし、ワシも疲れたよ」と言う
ころのペースでやったらいいじゃないか。おたく
合っていましたよ。まぁできないことだけど…。
張 し て も ら え 」 と か、 冗 談 で そ ん な こ と を 言 い
らっときゃいいじゃないか。それか、どこかへ出
井阪 委託会社に行ったときに、野村投信委託の
ですが…。
ら、まず信託財産の拡大に注力されたかと思うん
――はい、行かれますね。投信委託に移られてか
の大将がこう言ってきたって、適当にうまくあし
しかし、キャラバン隊を出して、オイルマネーを
― ―
109
阪さん、もういい加減にしようよ。営業体からは
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
る、 い わ ゆ る ユ ニ ッ ト 投 信 の 残 高 が 非 常 に 少 な
んだけれども、株式型のファンド、毎月定型でや
ド、公社債型のファンドは物すごく規模が大きい
投資信託の残高は、国債を主に組み入れたファン
で、相場と銘柄とがうまくヒットするように、岡
う考え方なんです。それだけではいかんというの
野村証券は、相場を売り込むという考え方じゃ
なくて、個々の企業、個々の銘柄を売り込むとい
査機能の中には、相場分析が絶対必要だよと…。
から人を野村投信委託会社へスカウトしたんです
本博君がチャートの専門家なので、彼や野村総研
かったんです。
――ああ、そうですか。
運用成績がよくなるんだというので、それまでは
もハッパをかけないけませんからね。どうしたら
で、委託会社に行ったもんですから、委託会社に
投信委託の運用成績にあると思いましてね。それ
薄なんじゃないかと…。しかし、その原因は野村
円だったんですけれども、来月は六〇億円やって
支店はユニット投信の募集額が月間六、〇〇〇万
じゃいかんから二つ上げようと…。例えば、京都
やっているユニット投信の募集額を、ゼロを一つ
う一回作り直そう。そのためには毎月定時定型で
そして調査機能を運用会社としては高めたわけ
ですが、それと同時に、営業体との信頼関係をも
― ―
110
よ。
野村総研のデータを使っていたんですけれども、
くれと…。
高めようと思いましてね。それで、委託会社の調
これをベースにしつつ、会社としても調査機能を
井阪 これはやっぱり、投資信託というものに対
する野村証券の営業体の取り組み方がちょっと希
証券レビュー 第56巻第5号
「エッ、六億じゃないんですか」と言うから、「い
で 六 〇 億 集 め て く れ や 」 と 言 っ た ん で す。 彼 は
なきゃ力にならん。再来月でいいから、京都支店
えようと思っているんだ。大きいファンドを持た
飲みながら「ちょっと投資信託の募集額の桁を変
は渋谷支店で一緒に働いた後輩なので、彼と一杯
時、猪口一郎君が京都支店長だったんですよ。彼
を規定するよ」なんて勝手なことを言って…。当
井 阪 う ん、 一 〇 〇 倍。 ゼ ロ 二 つ。 そ う し な い
と、組織と いうのは動かない。だ から、「量が質
――一〇〇倍ですか。
うにもならんわな」と言ってね。
やったのに、大阪の支店が三億円、五億円じゃど
やったんですね。そして、今度は「京都が六〇億
株式営業の姿勢を変えようやないか」と言って、
長にはワシから頼んどくから、ひとつ野村証券の
らしたらルール違反かも分からんけどね、「本部
ちゃんと六〇億円集めたんだ。あんなのは会社か
を準備期間にしてやってくれ」と言ったら、彼は
目を瞑っといてくれや』と言っとくから、一カ月
の本部長には、ワシがちゃんと『来月はちょっと
ことによって、支店の保護預かりの残高も増える
〇億ですか」と言うから、「違う。京都支店だけ
――それはそうですね。
― ―
111
から、営業の質が変わるはずだ。だから、おたく
や、六億だったら君に頼まないよ。六〇億や」と
で六〇億や」と言いましたら、「そんなことを言
われても」と…。
ですから、「あのな、投資信託の残高を増やす
出しましたね。
井阪 それで、ウワーッとなった。それ以降、野
村証券の投資信託の募集残高が、ガガーッと増え
…。そうしたら、彼が「井阪さん、近畿本部で六
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
預かり資産がそれだけ増えると、支店の会計に
もメリットがあるんですよ。というのは、野村証
券は預かり残高に応じて、本店からフィーがつけ
られたわけですね。
額になっちゃったけど…。それで、フィデリティ
当 時、 フ ィ デ リ テ ィ の 資 産 が 一 六 兆 円 ぐ ら い
だったんですよ。今はもう五〇兆円とか物すごい
営業マンも育つでぇ」なんて言ってね…。
もみんな活性化するはずだから、やってみろよ。
すごく骨太の支店になるよ。それと、支店の資産
井阪 ああ、公開販売専用ファンドを作りました
…。
託財産の拡大ですね。その方策として、公開販売
委託にいらっしゃってから、大きく三つぐらいの
――事前に調べていますと、井阪さんが野村投信
⑵ 公開販売専用ファンドやふるさとファンドの
設定
井 阪 そ う で す ね。 瞬 間 世 界 一。 そ の 後 は ま た
フィデリティに逆転されるんです。
を抜こうやと言って、募集活動を頑張って、フィ
ね。
られるというシステムになっていますからね。だ
デリティを一時抜いた時期がありましたね。
――これを強化されましたね。
― ―
112
から、私は、「 預かり残高を増やす と、 支店が物
――井阪さんが野村投信委託に入られたときは、
井阪 はい。
ことをされていたように思うんですね。一つは信
資産が大体四兆円ぐらいだったんですが、お辞め
になるときは一六兆円まで増やして、世界一にな
証券レビュー 第56巻第5号
ドも作られていますね。
――また、いちよし証券などに向けた単独ファン
井阪 そうです、そうです。証券会社の名前を書
いてね。
と、ここと、ここで売っているんだと書いて…。
ところがないと困るよ、というような考え方が若
するためには、いざとなったときにちゃんとやる
でしたというわけにはいかんから、一定の規模に
蔵省もそういうものを認めた以上、集まりません
がある。そこで販売しているんですよというのを
井阪 あれは窮余の一策で、自分で考えたんです
よ。日本地図を描いて、どこにこういう証券会社
たんですが…。
――あれは、なかなかユニークな宣伝だなと思っ
― ―
113
井阪 単独ファンドも作りました。これで一番苦
労したのは、野村証券の投資信託部長ですよ。大
干あったようですね。
アピールしようと…。黒字の日本地図に…。
――何とか証券、何とか証券と書いてありました
――ピンを打って。
――ちょっと、古い新聞を見ていますと、公開販
ね。
ね。
売専用ファンドの宣伝を見つけましてね。あれ、
井阪 旭川には東宝証券〔平成十年に自主廃業し
井阪 ピンを打って、こう…。
日 本 地 図 が あ り ま し て、 地 図 上 に こ こ と、 こ こ
井阪 ふるさとファンドも作りました。
――それから、ふるさとファンドも作られました
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
「 い や い や、 そ ん な こ と は 言 わ な い よ 」 と お っ
と 言 っ た ん で す よ ね。 そ う し た ら、 橋 本 さ ん は
券が売ってくれないんだ。行政が文句言うのか」
「野村の投資信託を何で地方の証券会社、中小証
橋本貞夫さんが投信課長だったので、橋本さんに
それで、「私はこんな考えを持っとるんだけれ
ども」と言って、大蔵省に行ったんですね。当時
の業者にも投資信託を売ってもらおうと…。
ケタを上げて売ってくれと…。そのほかに、地方
券が売るのは当然ですわな。これはこれで募集の
ましたよ。というのも、野村の投資信託を野村証
売ってくれませんか」と言って、販売してもらい
「 こ う い う ふ う に や り ま す か ら、 野 村 の 投 信 を
証券会社の名前を入れてね。それで、地場証券に
おきなわ証券〕があるというふうに、日本地図に
た〕というのがある。沖縄には沖縄証券〔現在の
入になるじゃないですか。中小証券の収益力が低
も、地場証券にとっても、これを毎月やれば定収
売っている。こういう状況を作ろう」と…。しか
る。長野のアルプス証券〔現在の八十二証券〕が
る。新潟の中証券〔現在の新潟証券〕が売ってい
ら、野村の投資信託を四国の香川証券が売ってい
託 と い う の は 証 券 業 界 全 体 の 商 品 だ と …。 だ か
中小証券は、投資信託なんか関係ないわと、そん
それまで地方の証券会社が、野村の投資信託を
扱ったことがないわけですよ。当時の地場証券や
やってみます」と…。
し ま せ ん よ 」 と お っ し ゃ っ た ん で、「 じ ゃ あ、
やったらいいじゃないですか。そういうのは反対
橋本さんは割合革新的な人でしたから、「大いに
くれるか」と交渉したわけですよ。そうしたら、
券以外の、全国の証券会社で売ることを認可して
な感覚だ ったんですよ。それを、「 いや、投資信
しゃるので、「じゃあ、野村の投資信託を野村証
証券レビュー 第56巻第5号
― ―
114
ので…。
いのは、ああいう商品をやっていなかったからな
四国では香川証券、九州では前田証券〔現在のふ
社、東北では荘内証券、信州ではアルプス証券、
証券会社が一〇社くらい出てきて、このファンド
これも一回やると、頑張ってやってくれる地場の
公開販売専用ファンドというのを作ったんです。
用力を使って、ぜひ売ってください」と言って、
から、野村投信委託会社が運用するんだという信
なた方だけを対象とした公開販売ファンドを作る
井 阪 う ん。 そ れ で、 地 場 証 券 に も 投 資 信 託 を
売ってもらうために、「野村証券は扱わない。あ
――株式一本ですからね。
て、工場見学やゴルフをやったり、そんなことも
よ。それで、一〇月会の会員が仲よくなっちゃっ
ネ ー ム バ リ ュ ー で 扱 え る か ら、 集 ま る わ け で す
地場証券にとっても、「これは当社と野村投信
委託が組んだファンドです」と、自分のところの
を作りましたね。
るさとファンド」と銘打って、そういうファンド
「一〇月会」という名前を使ってね。それを「ふ
てもらったんですよ。この公開販売専用ファンド
くおか証券〕とか、そういう地場の会社に募集し
だけで一月に一、〇〇〇億円くらい集まりました
やっていました。
⑶ 直接販売や元本保証ファンドの設定を模索
――そのほかに直接販売も模索されたと…。
― ―
115
を 販 売 し た 一 一 社 が、 一 〇 月 に 会 合 を や る の で
からね。
と 銘 打 っ て、 東 証 正 会 員 じ ゃ な い 地 場 の 証 券 会
そ う し た ら、 今 度 は そ の 会 社 だ け で 募 集 す る
ファンドを作ろう。それを「ふるさとファンド」
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
―― 今 は さ わ か み フ ァ ン ド な ど が、 直 接 販 売 は
尚早」というので、許可をしてくれなかったな。
よ」ということになって、これは大蔵省も「時期
んが「それは井阪さん、もうちょっと時間をくれ
て作ろうとしたんです。ただ、それは行政的に時
ら、もう一度、販売会社を委託会社が一緒になっ
か。その後、販売会社が全部総合証券になったか
井阪 当時は、委託会社は運用の会社であって、
募集するのは販売会社が別にあったじゃないです
やっていますね。
だ か ら、 公 開 販 売 専 用 フ ァ ン ド ま で し か で き な
期尚早と言われたんですけれども、私はそういう
井阪 直接販売もやろうとして、大蔵省に行った
んですよ。それで、橋本さんに「委託会社が直接
かったけれども、実は野村投信委託でも直接販売
考えを持っていたんですよ。
――ほかにも損害保険会社と提携して、元本を保
― ―
116
販売をやりたいんだけど…」と言ったら、橋本さ
をやろうと思っていたんですよ。昔、投信販売会
ばいいわけですからね。それも考えとったんだけ
井阪 そうそう、それを持ち込んだんだけどね。
仕組みとしては、運用損を損害保険で填補して、
もあったと…。
うふうに考えられて、それを作ろうとされたこと
なかった人でも、買ってくれるんじゃないかとい
証するファンドを作れば、今まで証券投資してい
ね。
井阪 大蔵省が「時期尚早」という事で認可され
な か っ た。 だ か ら、 宿 題 と し て 残 っ た ん で す よ
――大蔵省は…。
ど…。
社があったじゃないですか。あれを子会社で作れ
証券レビュー 第56巻第5号
それも大蔵省が「それはちょっと無理だ」と言う
元本保証を実現するというものだったんだけど、
井阪 そうですね。
う。
ちょっと委託会社の社長をやっていたら、何とか
すけどね。これはちょっとできなかったな。もう
かけて元本保証の投資信託を作ろうと思ったんで
し、それなら保険会社とタイアップして、保険を
がいかに元本保証と言っても信頼してもらえない
ていかれますよね。
ジャー制度を変えようとか、運用面の改善もされ
た ね。 ま た、 そ れ に 加 え て、 フ ァ ン ド マ ネ ー
たり、それから運用委員会を設けられたりしまし
――まず、先ほどおっしゃった調査機能を持たせ
しますので、高い運用成績を出したら、ボーナス
― ―
117
わけです。こういう商品を考えついたのは、我々
できたかもしれませんけれども…。
井阪 ええ、運用委員会を設けましたね。運用資
本を集めるのは当然のことですけれども、運用成
⑷ 運用成績の改善に向けた取り組み
――そうやって、ふるさとファンドや公開販売専
をボンと出すこともしました。それは委託会社の
績が上がりませんと、せっかく集めた資産が流出
用ファンド、それから専用ファンドだとか、そう
人事政策ですから、それはかなりやりましたよ。
け で す ね。 ま た、 井 阪 さ ん が 投 信 委 託 に 移 ら れ
て、二つ目に力を入れられたのはパフォーマンス
の 向 上 だ と 思 う ん で す が、 そ れ は い か が で し ょ
⑸ 投資顧問業の兼業
――資産拡大にパフォーマンスの向上もされまし
いう商品を開発して信託財産の拡大を図られたわ
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
投資顧問の兼業とか…。
社債を引き受けたときに、その支店にもフィーが
井阪 そうですね。それと、海外の支店が利益を
得るのは、ブローカレッジしかないじゃないです
た。そして、新規事業もされますよね。例えば、
井阪 これも兼業業務で投資顧問会社を作りまし
た。また、委託会社では最初にロンドンに支店も
落ちますけれども…。だけど、投資信託の募集残
か。まぁ、アンダーライターは、ドル建ての転換
作ったし…。
る。国内支店には独立会計という制度がありまし
高 が あ れ ば、 そ れ の フ ィ ー が 毎 月 入 る よ う に な
――そうですね。海外進出もされていますね。
も、やっぱりその根本にあったのは、信託財産を
―― こ う い う 施 策 を い ろ い ろ さ れ ま し た け れ ど
う な 商 品 を 開 発 し て、 裾 野 を 広 げ る こ と に よ っ
成績を改善したり、投資未経験者を取り込めるよ
んだという話をされましたよね。投信委託が運用
― ―
118
たけど、海外支店にはそれがないから、それを海
外支店にもフィーを付け替えられるようにしまし
――信託財産を増やそうと考えられたのは、先ほ
てね。
ね。
どの京都支店で投信の募集額を大幅に増やされた
増やしたいというところにあるんですか。
お話の中で、預かり資産が増えると営業が変わる
井阪 そうですね。
――現地法人も企画ファンドを組成していますよ
井阪 はい。それからニューヨークと香港にも支
店を作って、海外支店を三カ所作ったんです。
証券レビュー 第56巻第5号
て、野村証券の経営哲学であるところの、預かり
ゆ る 商 品 の 募 集 規 模 を、 ゼ ロ を 一 ケ タ じ ゃ な く
から…。そこで、預かり資産を増やすには、あら
ネスチャンスが増えますし、来店客数も増えます
んから、忙しくなることは確かですけども、ビジ
も、もちろん営業活動は足を運ばなきゃいけませ
井阪 そうです。そうです。預かり残高が増えれ
ば、 自 ず か ら 営 業 は 活 性 化 し ま す よ。 と い う の
しょうか。
営業に力を注ごうとしたとお話になる方が、複数
の力の差を作り出したんだから、自分たちも募集
証券は募集営業に力を入れていて、これが他社と
て、自分の会社へ戻って経営を担うときに、野村
れます。そして、野村証券でのトレーニーを終え
集営業に非常に力を入れていた」というお話をさ
ニーとして行かれた方は、皆さん「野村証券は募
――我々は、これまでいろんな社長さんにお話を
りますから…。
て、二ケタ増やすつもりでやれば、結果としてゼ
いらっしゃったんですけれども…。
資産の拡大が実現できるとお考えになったので
ロが一ケタ増えますよね。ちょっと支店長が力を
は時間がかかりますからね。まぁ、野村証券全体
井阪 極東証券の菊池君は、野村証券の本店で一
――例えば極東証券の菊池廣之さんとか…。
― ―
119
お聞きしてきましたけれども、野村証券へトレー
入れれば、支店単位では二ケタ増えるんですよ。
井 阪 あ あ。 他 の 証 券 会 社 か ら、 野 村 証 券 へ ト
レーニーとして来られた方が…。
となると、ゼロを二ケタ増やすには一〇年はかか
一ケタ増やすのは短期間でも可能だけれども、
分母が大きくなればなるほど、ケタを増やすのに
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
緒に働いたことがありますよ。
――菊池さんも、北裏さんから「これからは、債
券の募集営業をしないと残っていけないぞ」と言
れるんですか。
井阪 鍛えられますね。
MMFの認可と 証取法第六五条問題
え。何でもいこう」とおっしゃっていましたね。
踏めば体重がつく。大きくなるためにたくさん食
やないか。体重を増やして、四股を踏め。四股を
だ。相撲で強くなるためには体重を増やさなダメ
で や っ て く れ と。 何 で も た く さ ん 食 え ば い い ん
考え方でしたね。他方、瀬川さんは「理屈は理屈
井阪 そうですね。北裏さんは非常に論理的な人
ですから、債券の残高を積み上げていこうという
たいのですが…。
覚えておられることがあれば、お聞かせいただき
いかと思うんですが、MMFの認可に関して何か
いるんですが、それにはご苦労があったんじゃな
ます。MMFは認可までに三年の月日がかかって
ど会長をしておられたときに、MMFが認可され
投信協会の会長をされたと思うんですが、ちょう
――なるほど。それでは次の話題に移りまして、
たくさん食えというのは、預かり資産を増やせと
― ―
120
われて、自分たちは…。
いうことですから…。
井阪 時間がかかりましたね。ただ、あれは企画
のときから野村証券が主導していましたからね。
――やっぱり募集営業をした方が、足腰は鍛えら
証券レビュー 第56巻第5号
てやったんです。というのも、野村証券は銀行預
MMFは、野村証券が物すごい情熱と時間をかけ
井 阪 委 託 会 社 は デ ー タ と か を 集 め ま し た け ど
ね。あれは野村証券の主導だったと思いますよ。
藤正則さんだと思います。彼は若いときからアメ
ましたよ。だから私は、MMF誕生の功労者は伊
ね。彼はMMFの実現に物すごい執念を持ってい
は、野村証券の副社長だった伊藤正則さんでした
――野村証券主導で作られたわけですね。
金に匹敵する残高商品(超短期金融商品)を持ち
リカに行っていた人で、証券会社が銀行に対抗し
だけど、当時MMFをどんなことがあってもや
らないかんと、神がかり的な信念を持っていたの
たかったんですよ。
アメリカじゃMMFは預金に匹敵するぐらいの
つのはどうか、ということですよ。銀行さんの抵
井阪 あれは時間がかかっていましたね。要する
に、おっしゃるように、証券会社が預金業務を持
規定されていましたから。
ことですか。当時は、証取法六五条で銀証分離が
円、五〇〇円上げたなんて、小さいんだよ。そん
運用をちょっとうまくやって、基準価格を三〇〇
井阪 ええ。伊藤さんは、それを目の当たりにし
ています からね。だから、「井阪、お前 が株式の
ね。
―― メ リ ル リ ン チ が M M F で 資 産 を 集 め ま し た
― ―
121
て大きくなるには、MMFをやらなダメだと…。
――三年間も認可までに時間がかかったというの
…。
抗があって、暇がかかったんですよ。
との利害調整をするのに、時間がかかったという
は、MMFが預金類似商品だということで、銀行
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
抗はあったんだと思いますよ。だから、橋本さん
で す か ら、 M M F を 始 め た と き は、 銀 行 は
ちょっと青くなっていましたし、かなり銀行の抵
になる」と、よくおっしゃっていましたよ。
定着させれば、証券会社も銀行と張り合えるよう
う商品がある。これを一刻も早く日本で始めて、
いのに任せておきゃええ。アメリカでMMFとい
なものは戦術的勝利だ。だから、そんなことは若
井阪 違いましたね。ビックリしましたね。
けども、そのあたりはいかがでしょうか。
は、随分勝手が違ったんじゃないかと思うんです
度は市場の番人として、公共というものを重視し
けれども、東証の副理事長になられますよね。今
て、営利を追求する側にいらっしゃったわけです
者になられたわけですね。つまり、市場を利用し
活躍になって、次に、投資信託の運用会社の経営
― ―
122
なきゃいけない立場になられたわけですね。これ
もMMFを認可するのには、ちょっと躊躇したん
―― そ の あ た り を 最 後 に お 話 し い た だ け た ら と
…。
井阪 その格差には正直ビックリしましたね。取
引所の副理事長になって会議に出たんですよ。最
のは公正、公平な株価形成が一番なんですよ。そ
営利追求から公益重視へ、 東証副理事長への就任
――それでは最後になりますが、証券界に入られ
のためには、何でもディスクローズするというの
初は黙って聞いとったら、取引所の立場っていう
てから、井阪さんは証券会社の営業の第一線でご
からね。
じゃないかな。でも、あれで懐が深くなりました
証券レビュー 第56巻第5号
価が形成されて、それに基づいて出来高が増える
はそういうものだ。公共のものだから、公正に株
よ。そうしたら、彼らは「いや、取引所というの
て、 取 引 所 の 人 に 私 の 疑 問 を 聞 い て み た ん で す
が感じた疑問を言っとかなきゃいかんなと思っ
おったんだけれども、ちょっと一言、やっぱり私
取引所内の会議に二、三回と出ると、全然雰囲
気 が 違 う な と 思 い ま し た し、 不 安 に 感 じ な が ら
じた疑問ですね。
いのかというのが、私が取引所へ行って最初に感
姿勢でいいのか。取引所は営業活動をしなくてい
いる取引所が、いくら会員組織といってもそんな
もったんです。営利企業である証券会社が作って
じゃあ、取引所は儲けなくていいのという疑問を
券 会 社 は 儲 け な か っ た ら い か ん の だ け れ ど も、
が二番目の哲学なんですね。話を聞いていて、証
ても、取引所は大蔵省以上に役所的だ、官僚的だ
と言ったことがあるんです。当時、大蔵省に行っ
たなきゃダメやないか。全くないのはおかしい」
だから、取引所の人に「若干は営利的な考えも持
いいか考えなきゃいかんと思っていたんですよ。
所自体の収益を増やすにはどういうふうにすりゃ
を公開することも検討されていたんだから、取引
なかったけれども、将来は株式会社化して、株式
要があると思うんですよ。取引所は役所じゃない
入を増やすには、何をやったらいいかを考える必
しかし、取引所だって、会員からフィーを取っ
て運営しているわけでしょ。だから、取引所の収
んです。
すよ」と言うわけです。そんなことは分かっとる
動をやる必要はないんだ。野村証券とは違うんで
開発することは取引所の使命だけれども、営業活
んだから…。しかも、そのときはまだ公開してい
ことはよろしい。したがって、取引手法を新しく
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
― ―
123
た と 思 う け れ ど も、 そ う い う 違 い は あ り ま し た
かってきましたから、まぁそんなに摩擦はなかっ
取 引 所 へ 行 っ て る う ち に、 取 引 所 の 雰 囲 気 が 分
彼らも、言っているうちに分かってきたし、私も
ういうところに違いを感じていましたね。だけど
ないよというのがあって、ちょっとしばらくはそ
だ か ら、 私 は 取 引 所 に 対 し て、 自 主 ル ー ル を
作って仕事をやっとるなんて思ったら、とんでも
ですからね。
と言って、「取引所官僚」という言葉があったん
いかんよ。そうしようやないか」と…。
てもエレベーターのところまでは送り迎えしにゃ
ども、そんなことじゃ衰退するぞ。理事長であっ
まで送り出した職員は誰かおるか。取引所といえ
なっていないと思うよ。審査が終わった後、玄関
一人いないんですよ。だから、私は「あの態度は
た後、その人を玄関まで送り出すような職員は誰
すか」と聞くわけです。ところが、審査が終わっ
しゃることもあるわけですよ。それで東証の職員
の創業者が、「よろしくお願いします」といらっ
すよ。ところが、公開のルールがあまりにも縮こ
ね。
―― 上 場 を 希 望 す る 人 は お 客 様 と い う こ と で す
― ―
124
は、「これはどうなんですか。あれはどうなんで
ね。要は、「取引所はどうやって収入を増やすん
まって固過ぎる。だから、もっと弾力的に対応し
取引が行われているか、ディスクローズが徹底さ
ようと…。
大体、上場審査というのがあるでしょ。その最
終段階には、もう明らかに八〇歳に近い事業会社
井阪 そうそう。上場企業、発行体はお客さんな
んですよ。我々はそれを管理して、公正、公平に
だ」と言えば、「上場企業を増やすこと」なんで
証券レビュー 第56巻第5号
ダメだよと徹底したんです。
せてやっているんだ」というふうに考えちゃ絶対
れているかを監督はしているけれども、「上場さ
ましたけれども…。
いうのは権威づけだから、そこまでしなくてもい
に勧誘に行くんだ」と言ったら、「いや、上場と
緒に行くんだ。取引所が証券会社と組んで、一緒
かん。我々は発行体から上場フィーをいただいと
かもしれないけれども、職員までそうなってはい
長は大蔵省から来られた人だから、それでいいの
は「審査してやっている」とこうなっとる。理事
も四社の法人部門は頭を下げている。一方で東証
我々が動かなかったらダメじゃないか。少なくと
企 業 が 少 な い と か 何 と か 言 っ と る ん だ っ た ら、
から、「違う。 バッティングしない。日 本は上場
をつけていて、それとバッティングする」と言う
「いやぁ、 みんな野村、山一、日興、大 和がツバ
していれば、いずれ職員の官僚臭は消えるはずで
い」と喜んでくれました。まあ、そういうことを
ませんか」と勧誘してくれるのは非常にありがた
引所が証券会社と一緒に外交に行って、「上場し
で変わったかは分かりませんが、大手四社は「取
げることは違う話だよ」と説得しました。どこま
姿勢を低くして、発行会社はお客さんだと頭を下
よ。ただ、そのことと公開企業に対して、我々も
井阪 うん。だから、「取引所集中原則があるの
は知っているし、上場基準があるのも知っている
――東証に一極集中していますからね。
いんだ」とか言うわけですよ。まぁ、それもやり
そうしたら、それは分かってくれたんですよ。
だから、次に取引所も上場企業の勧誘に行こう、
るんだ。だから、証券会社に紹介してもらって一
― ―
125
それを一つやろうじゃないかと…。そうしたら、
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―
ね。まぁ巽さんは大阪の理事長になって以来、東
で、彼が言うことによる反発もまたあるんですよ
ことを言っているんだけども、彼はアクが強いん
井阪 ええ、ありましたね。大阪は巽悟朗さんが
躍起になってやっていましたよね。巽さんはいい
はありましたね。
ましたから、かなり早くからそういう営業センス
――大阪の証券取引所は、東京へ一極集中してい
すからね。
けどね。
ら思うと、気の毒なことがあったように思います
なっちゃったものだから…。あのあたりは、今か
東京へ上場することが一つのステータスみたいに
やっぱり、東京マーケット、東京マーケットで、
ふうにすればよかったんだけれども…。そもそも
ら、大阪の企業は大証で上場するとか、そういう
井阪 そうかも分かりません。やっぱり、東京へ
一 極 集 中 し た こ と は 気 の 毒 だ っ た で す な。 だ か
思いますよ。
――テリトリー制があっても、最初だけですから
――ただ、巽さんがご存命だったら、東証と大証
証券取引所に上場した後、東証や大証に上場しな
リー制が敷かれていた。そのため、まず、近隣の
― ―
126
新聞が大証の相場を書かないしね。それに世間は
証に対してやけに反発することがあって、「それ
緒 に な っ て し か る べ き だ。 い ず れ そ う な る は ず
ね〔かつては、地元企業が上場する場合は、近隣
〔大阪証券取引所〕が統合することはなかったと
の証券取引所に上場することを義務付けるテリト
だ」と言ったこともあるんですよ。
は巽さんおかしいじゃないか。東京と大阪とは一
証券レビュー 第56巻第5号
に 大 証 が、 七 月 に 東 証 が テ リ ト リ ー 制 を 廃 止 し
ければならなかった。ところが、平成一二年四月
究所にある。
ングの内容をまとめたものである。文責は当研
し、平成二七年七月二八日に実施されたヒアリ
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
た〕。
井阪 そうですね。
ますからね。
井阪 だけど、天変地異があったときのことを考
えれば、やっぱり東京と大阪と二カ所、取引所が
ないと危険ですよね。流通機能が一日といえども
止まったら困りますもの。
――そうですね。本日は長時間にわたりまして、
興味深いお話ありがとうございました。
※ 本稿は、西山政一氏、岡本博氏にご同席いた
だき、二上季代司、小林和子、深見泰孝が参加
― ―
127
――上場してしまえば、あとは東証と重複上場し
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(下)―