<実を結ぶ者> マルコに 4:10-20 節(5 月 10 日) 先週の「種をまく人

<実を結ぶ者>
マルコに 4:10-20 節(5 月 10 日)
先週の「種をまく人の譬」に引き続き、今日はその譬の説明の部分を聴きます。
この 4 章には、神の国の秘密を幾つかの譬で語られていますが、何故譬で語って
いるのかというと、それは私達一人一人の主体的な応答を求めておられるからで
す。
神の国とは愛の事柄です。つまり、愛は杓子定規のものではありません。生き
ているものです。
招きと応答、プロポーズと応答、そういう交わりの中で生きているのです。招
かれた者が、愛の告白をされた者が、その招きや告白に応えるか否か、交わりに
入るか入らないか、そこにかかっているのです。
単に、言葉を正確に理解するとか、解釈するとかに止まるのではなく、その言
葉に込められている愛に応えることがなければ、それは、ただ聞いただけなので
あって、まさに「聞くには聞くが理解できない」事になるのです。
だから、神の国の譬は、多くの人に理解を求めるものであると同時に、多くの
人にとって謎になるのです。
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さて、今日の箇所ですが、10 節にこのように書いてあります。
「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人達が
たとえについて尋ねた。」
とあります。と言う事は、彼らも、主イエスの譬が分からなかったのです。13
節でも主イエスはこうおっしゃっています。
「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかの譬えが理解できるだろ
うと。」弟子達は、分かっていないのです。
主イエスは、御自分の側に集って来た夥しい群衆に譬を語っておられるのです。
それは、何故でしょうか。全ての人間を招くためなのではないでしょうか。
もし、特定の人間しか、主イエスの周囲にいる人間にならないのなら、そして、
その人間は、すでに決まっているのなら、こんなに夥しい群衆に語る必要などな
いでしょう。
また、4 章 33、34 節にはこうあります。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語ら
れた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子達には、ひそかに
すべてを説明された。」
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聞く力に応じて語るのは、理解を求めるからでしょう。人々が理解して、神に
立ち帰り、つまり、悔い改めて赦される事を願っておられるからでしょう。
そもそも、主イエスの宣教の第一声は、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。
ここの時はクロノスではなく、カイロスの時、神様の時です。
主イエスは、こう叫ばれる事で、その歩み始められ、全ての人を神の国に招く
ために歩み続けられたのです。
それは、最初に「私に従いなさい」と、弟子達をお招きになった事からも分か
ります。神の国に生きる事は、主イエスの後に従う事です。
主イエスの招きに応える、応答する事です。その応答を、主イエスは、全ての
人に求めておられます。それが、この福音書が語っている事でしょう。
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しかし、それでは 12 節にあるイザヤからの引用は、どういう意味なのか。
「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがないようになるためである。」
この言葉が言わんとしていることは、外の人々は悔い改めて赦されることがな
いために、すべてを譬で語るという事になるでしょうか。
このイザヤ書の引用は一体どういう意味でしょうか。この疑問に対する答えを
13 節以下から聴き取りたいと願っております。
13 節から、譬話の説明が始まります。この譬えを聞く聴衆が種が蒔かれた地に
いると考えれば、種を受け取る地のあり方が問われる事になります。
この譬話の説明を聞きながら、ある人は、自分は果たしてよい地なのだろうか
と考えざるを得ません。
礼拝で御言葉を聞いても、礼拝堂を出た途端に、何を聞いたかも忘れてしまっ
て、すぐにこの世のものの考え方で生きてしまうほどに、堅く踏み固められたよ
うな人間ではないか。
あるいは、説教にすごく感動するのに、その説教で言われたように生きよう
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とすれば必ず襲ってくる困難や迫害を前にすると、たちまち御言葉を聞いた時の
感動が薄れてしまうそこの浅い人間なのではないか。
あるいはまた、迫害などなくても、自分の内側にくすぶっている地位や名誉、
色や欲の方が強くて、聞いた御言葉を少しも成長させない人間なのではないか。
そういう風に考えるだろうと思うのです。
さて、話を元に戻しますが、弟子たちには神の国の秘密が打ち明けられている
が、外の人々には、すべてが譬で語られる。ここには明確な区別があります。
13 節によると、彼らにとっても、主イエスの譬は外の人々のように謎なのです。
ここには区別がないのです。彼らと群衆の間には、違いがないのです。
ここでマルコ福音書における、言わば、弟子たちに代表される教会と、外の人々
に代表される世の人々との関係において、少し考えてみたいと思います。
主イエスは、すべての人に神の国を譬で語られました。しかし、それはすべて
の人に謎であったのです。弟子たちにとってもそうです。
しかし、主イエスは弟子たちだけには、秘密を打ち明け、説明されたとありま
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す。しかし、その後も弟子たちの歩みを見ると、彼らはその説明を聞いても、決
して分かったわけでも理解したわけでもない事は明らかです。
つまり、彼らは他の群衆たちと少しも変わらないです。彼らが他の人々と違う
のが、無理解のままであっても主イエスに従い続けたことであり、主イエスが彼
らにその業を見せ続け、その御言葉を語り続けて下さったという事です。
例えば、
8 章 17 節以下には、御自分の語る言葉に全く無理解の弟子たちに対し、
主イエスが語った言葉が記されています。
この部分の直前には、7 つのパンで 4 千人以上を満腹させたという出来事が書
いてあります。その事を弟子達は経験しています。
それにもかかわらず、その出来事の意味が分からないままでいる弟子達に対し、
主イエスが次のように語っています。
「まだ、分からないのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえな
いのか。覚えていないのか。」
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主イエスに言われるように、弟子たちは、分かっていない点において、目があ
っても見えない点において、耳があっても聞こえない点において、群衆と何ら変
わることがないのです。
さらに、8 章の 27 節以下を読みますと、主イエスに対し、「あなたは、メシア
です」と告白したペトロでしたが、その直後、主イエスは弟子たちだけに、その
メシアは殺される事、三日目に復活される事を告げられたのです。
他の者にはご自身がメシアである事を告げてはならないと厳命された上で、で
す。
しかし、ペトロは主イエスの受難預言を聞かれると主イエスを脇へ連れて行き、
なんと「いさめ始めた」のです。
これに対し 33 節を見ますと「主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、
ペトロを叱って言われた。
『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」
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今日の箇所に当てはめれば、ペトロは、主イエスの御言葉すぐに取り去ってし
まう鳥のような存在なのです。弟子たちは、神のことを思わず、人のことを思っ
ているのです。
それから、主イエスは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」言われます。ここ
で、弟子たちと群衆の区別は全くありません。
そしてこの二つの部類、つまり教会に対しても、教会外の世の人々に対しても
同じく、主イエスは、ご自分に従うとはどういうことかを語るのです。
しかし、ここで弟子達は、すべてが分かったかというとそうでもありません。
彼らは最期まで主イエスについて理解する事が出来なかったのです。
彼らは、主イエスが十字架につけられて殺され、三日目に復活されるメシア、
キリストである事を、全く分からなかったのです。聞くには聞くが、理解できな
い民です。
さらにペトロの三度の否定がありました。迫害を恐れたからです。全く無理か
らぬ、ことですが、彼らは誰も実を結ぶことが出来なかったのです。
御言葉を聞いて受け入れることがないのです。見るには見るが認めず、聞くに
は聞くが理解しないのです。それが弟子たちなのです。
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種まきの譬話は、まさに主イエスと弟子たちのその後の歩みそのものではない
かと思えるのです。彼らは聞いたのです。しかし、誰も実を結ばなかったのです。
しかし、種蒔く人は、種を続けて蒔いてくださったのです。その種が無駄にな
ることあまり多くとも、しかし、蒔くことを止めることがなかったのです。
その方は、地の質の良し悪しに関わらず、愛と忍耐を持って、最高の種を蒔き
続けてくださるのです。そのことによって実を結ぶことが出来るのです。
決して地の質の良し悪しではないのです。
今日の 14 節以下の説明部分に、4 回「聞く」という言葉が出ています。
聞いても実が結ぶ事が出来なかったのですが、最後の「聞いて受け入れる」だ
けが、実は今も続く行為として実(30 倍、60 倍、100 倍)を結ぶ事が出来るので
す。
復活の主イエスに出会い、その不信仰を咎められた弟子たちが、主イエスのこ
の譬話を人々に説教した時、彼らは最初の 3 つの種に、過去の自分達を重ねざる
を得なかったでしょう。
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彼らは「聞いた」けど、すべてを無駄にしてしまった。しかし、最後の実を結
ぶ種の話は、現在の自分達を重ねつつ語ることが出来たのではないでしょうか。
主イエスは、ただ、ひたすらにその罪を赦し、あるいは罪の支配を打ち破って
下さるために、語り、御業をなし、そして、十字架について死に、神によって復
活させられ、今も生き続けて下さっているのです。
弟子たちが最後に知ったことは、そのことです。それ以後彼らは、もちろん幾
つもの躓きがあったでしょうが、しかし、いつも新に神の愛の言葉を聞き続け、
受け入れ続けたのです。
主イエスの言葉を恥じることなく、いつも新に聞いて受け入れつつ生きるなら
ば、神の国が完成する世の終わりに、自分達に復活の命、永遠の命が与えられる
ことを信じて喜んでいたのです。
彼らの信仰と喜びに溢れた御言葉を聞いて、また多くの人が、十字架を背負っ
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て従う歩みを、やはり信仰と喜びに溢れて生き始めた。そこに、今に続く教会の
出発があるのです。
私達は、確かに神の国の秘密が打ち明けられる弟子たちであり、同時に、悟る
ことも理解することもない弟子たちでもあります。
でも、主イエスは今日も御前に私たちを呼び集めて下さって、神の国の秘密、
神の愛を知らせる御言葉を語って下さいます。感謝しましょう。この事実にしか、
私たちの希望はありません。
この変わることのない愛と赦しの福音を聞き続けることにしか、私達の信仰と
喜びに生きる可能性はないのです。
お祈り致しましょう。
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