先週講壇 子です。今、この礼拝に出席しておられる皆さ んのほとんどが、洗礼を受けている方々です。 断固たる服従 2015年7月26 日夕礼拝 関伸子副牧師 列王記上19章16b節、19~21節 ルカによる福音書9章57~62節 洗礼を受けるということ、これは、その人にと っていろいろな意味での変化を意味しますけ れども、何よりも、これまでやったことのない 生活をするということです。やったことのない 生活とは何か。主に従うということです。これ Ⅰ.預言者エリヤを想起させる表現 先ほどお読みしましたルカによる福音書9 章57節から62節の少し前に記されている 51~56節には、預言者エリヤを想起させる 表現があります。それは、51節「天に上げら れる」 (列王記下2:11) 、52節「先に使い の者を出された」 (マラキ3:1,23) 、54 節「降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」 (列 王記下1:10~12)の三つです。エリヤを 彷彿とさせる表現を用いたのは、神の支配が今 ここに接近していることを表すためです。主イ エスがユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人 の村に入ろうとしたのは、神の支配がすべての 人に例外なく宣べ伝えられるためです。彼らか らは拒否されますが、イエスは争うことはせず に、神の支配を宣べ伝えるために、 「他の村へ」 向かいます。 Ⅱ.召し出し 道中、三人の人がイエスに従う意志を表明し ます。ルカはこの場所に、この三つの対話をは っきり書き記すことが、主イエスのご生涯の道 を辿るのに最もよいことであると考えたに違 いありません。この三人の者たちと主イエスと の対話は、一貫した主題を持っています。それ は<従う>ということです。二番目の男に対して、 59節に「わたしに従いなさい」と言われたと あります。これが鍵になる言葉です。 「わたしについて来なさい」。主イエスのほ うが断固として服従を求めておられます。それ に対する答えとして、初めて私たちの側にも、 わたしは断じて主イエスに従うという、断固た る決意が生まれて来ます。 ところで、私たちも弟子です。主イエスの弟 までも、いろいろなものに従ってきたかもしれ ませんけれども、ここで断固として、従うべき 方を見出したということです。 カトリック教会では、このように神に召され ることを〈召し出し〉と呼びます。面白い言葉 です。私たちは、ただ、神の〈召し〉を受けた とか、〈召命〉を受けたと言います。この〈召 し出し〉という表現は、日本語としては少し未 成熟です。しかし、そのように言わずにおれな いところがあります。召されたら、〈出る〉の です。わたしの友人である牧師の証しを読んで、 数年後、わたし自身も神の召しに応えて、神学 校で学び、今、牧師として神と人にお仕えする 道が開かれました。今までいたところから出る。 しかも思いがけず、そこに平安があるのです。 そのことを実感しています。 主イエスが、このルカによる福音書が伝える み言葉によって語られるもの、従って来なさい と言われたのは、出て来なさいということです。 そこに留まるなと言われたのです。出ていく道 をはっきり示されたのです。主イエスに呼ばれ て出て行くことです。 Ⅲ.「わたしに従いなさい」 最初の人は、無条件に「どこへでも従う」と 申し出ます。イエスは「人の子(イエス)」の 現実を教え、人の子は宿を拒絶され、安らぐ場 所もないと告げます。人の子がそうならば、従 う弟子にも同じ境遇に甘んじる覚悟が必要で す。 第二の人に、主は「わたしに従いなさい」と 言われました。そのみ言葉を聞いた者が、「主 よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言 います。ちょうど父が死んだ。その葬儀に行か なければいけない、イエスさま、今しばらくご 猶予をください。そう願いました。 先ほどお読みしました列王記で、「エリシャ にも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」 スは、それをよく知っておられたのでしょう。 よく知っておられながら、あの時よりも、もっ と今は緊急であると言われます。 という主の言葉を受けたエリヤは、牛を使って 「鋤に手をかけてから」と言われました。畑 畑を耕しているエリシャと出会います。エリヤ を耕す鋤は、よそ見をすると畝筋が曲がってし はそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエ まいます。もう働き始めている。主イエスが働 リシャに投げかけますが、この象徴的な行動は いておられる。主イエスが一所懸命に働いてお エリシャを後継者として選んだことを意味し られる。主が手にしておられる鋤に、自分も手 ます(列王記下2:13) 。それなのに、 「わた を添える。あるいは、自分も鋤を持って主イエ しの父、わたしの母に別れの接吻をさせてくだ スと一緒に働き始めている。そこで、先生、申 さい。それからあなたに従います」と言うエリ し訳ありません、父にさようならを言って来る シャに答えたエリヤが、「わたしがあなたに何 のを忘れたから、母にこれから出かけると言う をした」というのは実に奇妙です。 のを忘れたから、別れの言葉を言いに帰らせて 幾つかの解釈があるようですけれども、ある くださいませんか、とお願いする。息子に不意 注解では、エリヤはエリシャを後継者としたい に出て行かれてしまった父や母の悲しみを放 と願って外套を投げかけたけれども、決断しな っておいてよいのか。そう問えば、その通りで ければならないのはエリシャ自身であること あろうと思います。家から出て行く。神の国に を知らせ、自己決断を迫るために、「わたしが 生きるために、神の国のために、主イエスのま あなたに何をしたというのか」と述べていると ことに緊急の激しさをよく知る者として、神の 言います。いずれにしても、従う者の決断が強 国に熱中するのです。そのようにイエスにしっ 調されています。エリシャはこの決断を示すた かりと結びつき、イエスが運ぶ神の国にまっす めに牛を屠って振る舞います。 ぐに目を向ける者が神の国にふさわしいので 主イエスは、自分が、どこへ行くかをはっき り知っておられました。そこへついて来なさい、 す。 ルカによる福音書は、その主イエスの、熱中 と言われるのです。どこへでもついて行くとあ して歩み続ける歩みを、ここに書き記していま なたがたが言ったが、そこで見えていたのは、 す。そして、この主イエスの歩みを共にする者 これほどの深さと広がりを持つものではない は誰かと、語りかけます。しかも同時に、この でしょう。しかし、ご降誕から始まった主イエ 主イエスの歩みは、一方では全うされているこ スのみわざのなかに現れてくる神の救いの計 とを認めなければなりません。主イエスは、歩 画は、遥かに大きく、もっと確かで、もっと明 み抜かれたところで、その十字架と甦りの喜び るい。今は、葬りをも無視してそこに急ごう。 の知らせを携えて、今その歩みを続けることを ここでは主イエスは、まさに大急ぎで走ってお 教会に求めておられるのです。私たちには、主 られるように思われます。 イエスの行く先がもうよくわかったのです。そ して、そこに、ひとりも残らず、私たちが救わ Ⅳ.「イエスが運ぶ神の国にまっすぐに目を向 れるようにと、私たちを召していてくださいま ける す。私たちを捕らえようとしてくださっていま 第三の男に対して、主イエスが言われた言葉 す。 を、くどくど説明する必要はもうないと思いま 教会が、常に変わらない喜びをもって生き続 す。第三の男は、「まず、家族にいとまごいに けて行くことができるように、また今信仰を求 行かせてください」と言いました。旧約聖書に めつつある方たちが、この主に従うさいわいを よれば、ある預言者の弟子になろうと思った者 一日も早く悟られるように祈るほかありませ が、同じことを言い、許されています。主イエ ん。お祈りをいたします。
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