キリストに献げる

霊降臨後 第14主日
礼拝説教 (2015年8月30日) 飯川雅孝 牧師
聖書
コリント第二の手紙 2章12-17節
説教
『キリストに献げる』
(説教)
イエス誕生の時、
星に導かれて東方から来た博士たちはイエスが生まれた家の上で星が止まると大いに
喜び母親マリアに抱かれた幼子に「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物
として献げた。
」とマタイ福音書は語ります。一番大切な方の誕生を祝福するため、最大限の献げものを
した。この上ない喜びと尊敬を表したのです。
そこで、初めに「献げる」という意味について考えてみましょう。この「献げる」という行為には本来
一番大切なもの、
つまり自分の命とそれをお与えるになる方との間にあるどうしても越えられない壁を真
心からの「献げ物」によって取り払って頂かなければならない。という意味があります。だから、その方
と自分が心から納得する一番大切に考えるものを差し出さなければならない。
身近な日常生活ですと、
「献
げ物」でなくても「贈り物」は友人やお世話になっている方には自分が痛みを覚え、相手に喜んでもらえ
るものを贈る。その精神には通ずるものがあります。キリスト教・ユダヤ教にかぎらず、神への「献げ物」
は古代から宗教儀式の重要な役割りを果たして来ました。神との関係を結ぶこと、つまり神への感謝、神
との交わり、
罪の贖いの意味を持っていました。
現在のわたしたちの神に献げる毎週の礼拝、
教会の奉仕、
献金も全く同じ意味を持たなくては神に喜んでいただくものとはならないのです。
古代イスラエルでは自
分の命を差し出す代わりに、遊牧民族にとって一番大切な家畜を差し出しました。それはエルサレム神殿
の儀式として千年の長きに渡り、モーセの十戒と結びついて厳密に規定されて来ました。
「献げ物」につ
いては旧約聖書には949回も記述があるほど重要な意味を持ちます。
それはイスラエル民族の信仰の深
さを証明していると言えましょう。エルサレム神殿でなくても、イエスの時代に地方の人が病気に罹って
エルサレム神殿に向けて神に治癒を祈願する。
それが治ると年に2回エルサレム神殿に参拝する祭司に託
して献金をもって行ってもらうというしきたりがありました。
次に、
「献げ物」の中でも罪の贖いは神に対して犯した罪を消していただく、つまり良心の咎を取り除
き心の平安を神から与えられる儀式でありました。それは人間として、心の自由を得ることの一番大切な
根元的な事柄であります。
旧約の時代に特に注意すべき事柄は第二イザヤといわれるイザヤ書53章12
節にあります。故国ユダ王国から敵国バビロンに連れ去られて70年、そこで囚われの身として過ごした
後、神を忘れ放縦に生きたことへの罪が許されて再び祖国に帰ることができる。自分たちの罪のために苦
難の僕がそれを引き受けてくれた。その喜びと感謝を託してイザヤは詠います。
「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背い
た者のために執り成しをしたのは この人であった。
」
イエスの弟子たちは
「イエス様が全く同じようにわたしたちの罪のために十字架に架かって死んでくれ
たんだ。
」そのような信仰体験をした。 新約の時代では、民族の神への背きに替わって、わたしたち人
間一人一人が、聖なる神に従い得ない罪存在として、心の奥深く自分を内省した時、
主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
」
(マルコ10:45)
このことを自分のこととして受け取り、神ともにいます新しい世界に導かれたことを告白する。敬虔な
クリスチャンからそうした体験をよく聞きます。神への「献げ物」という意味で、大切なのは、このよう
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に神の前に立つ自己の内面性を通して神に見え、自分ではとうてい救い得ない罪深さを、救い主イエス・
キリストに明け渡し、
自分と神との関係が救いイエスによって栄光の中に移されることを実感することに
あります。
わたしが若い時、教会の夜の礼拝に出席しました。その時、教会員から敬虔な方だと思われていた40
歳くらいのある信徒が
「自分は結核の病を患った。
いろいろ悩むことはあったが、
キリストに出会った時、
こんなにも深い自分の罪を赦してくれるイエスの愛を知って、感謝のあまり毎晩枕を濡らした。
」と告白
されたことを50年後の今、昨日のように覚えています。
第三に本日の箇所でパウロのいう「献げ物」について考えてみましょう。聖書はパウロの生涯を通じた
伝道旅行で、当時のローマ世界の至るところに行った時の経験を語っております。皆様ご存じのようにパ
ウロはクリスチャンを迫害している最中、自分の命をさえ支配する神の神性を持ったイエス・キリストに
出会い、180度人生の方向を変えられたのであります。その後、その実であるキリストの香を携えてあ
ちらこちらに伝道した。すでに、お話した第二伝道旅行ではあの映画にもある古代ギリシャとペルシャの
戦争の兵隊が木馬の中に入って「トロイに連れて行かれたギリシャ妃:ヘレン」を助け出すという物語が
あります。パウロはこのトロイ、つまりトロアスで宣教の地盤が用意されますが、海を渡ってマケドニア
に行きます。
使徒言行録16章に書かれた記事をたどって初めにフィリピの町に行った物語を語ってみま
しょう。そこには紫布を商うリデイアのいう婦人がいました。紫布とは高価な商品ですから、彼女自身も
有力な人であるわけです。彼女はパウロの話に耳を傾け、
「私が主を信じる者だとお思いでしたら」とパ
ウロと伝道の苦難をすることを申し出ます。リデイアの家では家庭集会が持たれ、パウロはその後フィリ
ピの信徒たちに心を許し、気位の高い彼があちらこちらに行く時、心から支援を受けたと言われておりま
す。また同じこのフィリピで女奴隷に占いをさせて儲けていた人たちから、その女性がパウロの霊的な力
により占いを止めるようになると、金儲けをしている人たちはこぞって彼を迫害し、牢屋に入れました。
パウロたちはその牢屋の中で神を賛美した。その時大地震が起こって牢屋が崩れ、鎖も外れて彼らは自由
になった。と聖書は伝えております。つまり、今日の箇所、パウロたちを伝道する所どこでも勝利させ、
キリストに従うことにより、パウロに宿った神の霊性は神に「献げられる良い香り」となった。つまり、
罪ある人間がキリストの血によって清められ神への
「献げもの」
として用いられるようになった。
しかし、
残念なことにそれを無視してパウロたちを迫害する者には滅びに至らせる香となった。
フィリピでの体験
はパウロの持つこの香りがリデイアのように救われた者にはキリストの永遠の命に至らせる香となり、
逆
に反抗する者にはかえって命に至る道には戻ることがないことを語っております。
パウロは現実に妥協せ
ずにそれぞれの人に自己責任を問い、是非救いに与る道を選んで欲しいと嘆願しているのであります。そ
の上で、パウロは自分が誤ることの無いように神に対して「誠実な働き手」となれる。それはキリストに
結びついていることを実感している思いから語っております。
最後にまとめをしたいと思います。わたしは若い頃からの教会生活で、すでに天国に召された先達を含
めて良き信仰の友を与えられたことに感謝の思いを抱いています。勿論、教会生活に与る機会のなかった
方にも同じ思いを持つのですが。その中で信仰生活に与った方の放つ香は、誠実な信仰生活、礼拝や教会
および社会奉仕への心の在り方とその業から養われたと感じております。
わたしたちも残された人生を表
面的な行為としてではなく、本日の交読詩編でダビデが心から語る “神の求める打ち砕かれた霊。打ち
砕かれ悔いる心”を「キリストに献げる。
」そこには主イエス・キリストの祝福と喜びがある。その思い
をもって信仰生活を確かなものにして行きたいと思います。
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