マルコ 15:21~32 節

<強いられた恵み>
マルコ 15:21~32 節(3 月 29 日)
今週は受難週ですが、主イエスの十字架は私達に一体、何をもたらしたのか、
そして無理に十字架を担がされたシモンにどういう祝福が与えられたかに「強
いられた恵み」
という説教題で見て行きたいのです
主イエスは、ガリラヤ宣教活動を行なっている間、御言葉の解き明かしをし
たり、病気を癒す、数々の奇跡的な業を行なったりしました。
そういった結果、主イエスは人々に称賛され、親しまれ、絶えず、人々が主
イエスの後をついてきていたのです。
そのため、主イエスに敵対視していた祭司長や律法学者は、人々を恐れて主
イエスを捕える事は出来ませんでした。絶えず、主イエスの周りに多くの人々
がいたからですね。
しかし、事態は一変します。イスカリオテのユダの裏切りによって主イエス
は捕えられ、最高法院と総督ピラトの前で裁判を受ける事になります。そして、
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主イエスは何も悪い事をしていないのにも関わらず、死刑囚にされ、十字架に
かかる事となったのです。
今まで主イエスを慕っていた多くの人々は残念ながら、主イエスのもとから
離れて行ってしまいました。
そして、人々のみならず、主イエスの弟子達も主イエスと同じ十字架にかか
る事を恐れて主イエスのもとから逃げて行ってしまったわけです。今日の聖書
個所は今、まさに主イエスが十字架にかけられようとしている個所です。
今日の21節を見ますと、アレクサンドロとルフォスとの名が挙げられてい
ます。おそ@らく彼らは初代教会でよく知られていた人物だったと言われてい
ます。
そしてその彼らの父であるキレネ出身のシモン、このキレネと言うのが現在、
アフリカ北部です。そのアフリカ北部出身のシモンが、主イエスの十字架を無
理に担がされた事が記されています。
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この担がされたと言う言葉は、これ、実は担わされたと言う意味が含まれて
いる言葉です。何故、この通りがかりのシモンが十字架を無理に担わされたの
かと言うと、主イエスは見せしめのために町中を引き回され、虐待され、衰弱
しきっていたので、最後まで十字架を背負う力がなかったためです。
主イエスが最後まで十字架を背負う力がなかったとは言え、そこを通りがか
ったと言うだけで十字架を担わされたシモンは悲劇としかいいようがありませ
표현할 방법이 없습니다.
ん。
そこを通りがかったという理由だけで担わされる。何と理不尽(りふじん)
極まりない話でしょうか。しかし、これを他人、事として聞き流す事は出来ま
せん。私達の私生活を見たら、どうでしょうか?
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理不尽極まり無い事が自分の身の周りに、絶えず、なにか、おきているので
はないでしょうか。自分が積極的に喜んで担ぐのではなく、強いられて担がさ
れる理不尽極まりない十字架!これをキリスト者として、とりつくろった言葉
で言うならば、
「強いられた恵み」と言う言い方が出来ます。
しかし、強いられた恵みに対して正直な気持ちを言えば、とても恵みとも思
えない恵み。文句の一つでも言いたい。神よ!なんでだ!なぜ、私をお見捨て
になった!
何故、私をお見捨てになったと言う言葉、聖書を思い起こすと、この言葉、
どこかで聞いた言葉ですね。そうです。
マルコ15章34節、主イエスがその十字架にかかった時に言われた言葉で
す。私達の主も、また強いられたその恵みに理不尽な思いを持たれていたので
す。
主イエスは 100 パーセント神なんですけれども、それと同時に 100%人間な
のです。
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ゲッセマネの祈り、マルコ 14 章 36 節を見ると、主イエスは「この杯を私か
ら取りのけて下さい。」と、そういった祈りをする位、実は十字架にかかる事は
避けたかったのです。
主イエスはこの杯を私から取りのけて下さいと言った後に、しかし、私が願
う事ではなく、御心に適う事が行なわれますように。」と祈っておられるのです。
つまり、自己保身よりも、父なる神との関係を主イエスは最優先されたわけ
です。
自分の十字架を避けたいと言う願いよりも、父なる神の願いであるところを。
人間を救うために十字架を担うと言う事を最優先されたのです。
もっと言うと、十字架を父なる神に担わされると言う事を良しとされたのです。
それと比べて当時のユダヤ人はどうだったでしょうか。彼らはどこまで、いっ
ても自己保身の事しか。その証拠が聖書に記されています。
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30 節を見ますと、人々は「~十字架から降りて自分を救ってみろ」と言って
います。また、32 節を見ますと、祭司長たちや律法学者たちは「~十字架から
降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と言っているのです。
皆様、お気づきになるでしょうか?
30 節、そして 31 節に「救う」と言う言葉が出てきています。そして 30 節に
も 32 節にも「降りる」と言う言葉が出てきています。
つまり、当時のユダヤ人のその考える救いと言うのは、苦しみや災いから逃
れる事や、それらが取り除かれて解決する事、つまり、苦しみや災いが「無い」
状態こそが救いと考えていたのだと言う事が分かるわけです。
実際、祭司長や律法学者を、はじめとする当時のユダヤ人たちは、神を信じ
て正しく生きる人は、現実的な神の祝福が与えられると信じていました。
神の祝福とは、家内(かない)安全、商売繁盛、無病息災と言う事が言える
でしょう。
そして、そういう神の祝福の現実的な物を頂いて、幸せに生きられる事が「救
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い」だと信じていました。
確かに旧約聖書を見ればそういった事も言えなくもないです。病気にかから
ず健康だったり、仕事がうまくいって儲かったり、家庭内にトラブルがなく仲
良く過ごせたり、そんなように人生が思うようにうまく行くに越した事はない
のです。
またそういう祝福を与える約束もたびたび旧約ではだされています。
だれでも、そのような順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な人生を願う事でし
ょう。しかし、どうでしょうか。現実的にはそううまく行かないのではないで
しょうか。
私達人間は、自分の願うようにはいかない人生をひょっとしたら、送ってい
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て苦しいかも知れません。しかしおそれる必要もなければ、価値のない人生と
悲観する必要もないのです。
「神よ!なぜ私をお見捨てになったのか!」と正直叫びたくなるような強い
られた恵みです。キレネ人シモンのように、無理に担わされた十字架かも知れ
ません。
しかし、そういう人生にこそ、真の命の輝きがある事を、聖書を通して知っ
ていて主イエスを通して知っているのです。
そういった強いられた恵みを経験しなければ、味わい得なかったものがある
べきです。気づく事のできなかった人生の深さ、優しさがあるのです。
その値打ちを、神様を信じて生きる中で、きっと発見する事ができるはずの
です。
キレネ人シモンも、そのような発見をし、神に救われ、十字架を、担わされ
る自分の人生を「これでよい」と受け入れる人になったからこそ、今日の聖書
の個所にこの名が刻まれているわけです。
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ああして下さい。こうして下さい。と願い求める「請求書の信仰」から、神
が下さったのだから、これでよい。確かに受け取りましたと受け入れる「領収
書の信仰」に転換する事こそ重要な事ではないでしょうか。
自分の現在与えられている事を否定し、自分の理想を目指して一生懸命に頑
張ると言うのではなく、現在、神に与えられている事を大切に一生懸命、生き
て行く時に、人生は本当の自由を得る事が出来るのです。
結論なのですが、主イエスは「この杯を私から取りのけて下さい」という事、
以上に、「御心に適う事が行なわれますように。」と願って、
一生懸命に生き、父なる神に強いられた十字架をになったからこそ、私達人
間は神の救いに預かる事ができるようになったわけです。
そしてそのような主イエスのあり方から教えられるのは、請求書の信仰から
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領収書の信仰に転換すれば、人間は本当の自由を得られると言う事です。今日、
十字架を強いられ、恵まれたキレネ人の恵みの領収書を確認して見ましょうか。
ローマの信徒への手紙 16 章 13 節を開いて見ましょう。新共同訳 297 ページ、
ローマの信徒への手紙 16 章 13 節からお読みいたします。
「主は結ばれている選
ばれた者(もの)ルフォス、及びの母によろしく。」そのイエス様に十字架を代
わりに担がせられたキレネ人のシモン、自分のイエス・キリストへの信仰持つ
事だけではなく、自分の妻、自分の息子であるルフォスまで、聖書に記録され
る祝福されたのです。
私達の人生がキャンバスに描(えが)かれているとしたならば、そこには自
分の人生と言う絵を汚してしまっているしみが沢山、見つかる事でしょう。し
かし、その染みの一つ一つはとても尊いものなのです。
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その染み一つ一つがあるからこそ、私達キリスト者は十字架の尊さを知らさ
れ、現在救われている私達がいるのです。キリストにあって自由を得る事が出
来ている今があるのです。
理想的な自分の人生の絵にするために、人生の汚点である染みを全部、取り
去ってしまっては、十字架の尊さと言うのは分からなくなってしまうのです。
皆様、請求書の信仰から領収書の信仰に転換してみては、如何でしょうか。
主イエスのくびきは負いやすく、主の荷は実に軽いのです。
今日、主は父なる神に担わされた十字架により救われているキリスト者1人
1人に対して、それぞれが担わされている十字架がもたらす豊かな恵みを味わ
って欲しいと切に願っておられます。お祈りいたしましょう。
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