先週講壇 主人が帰って来る、その足もとを照らす光です。そ 目を覚まして こに立っている男の姿から「この男は主人持ちであ 2015年8月9日 夕礼拝 関伸子副牧師 ゼファニヤ書3章8~13節 ルカによる福音書12章35~40節 る」ことが分かります。 「この家には主人がいるの だ」ということが分かります。 しかも、ここで語られている主人は、ほんとうは その家だけの主人ではないのです。すべての者の主 です。道行く人たちの主でもあるのです。この主の Ⅰ.伝道者の自由 今日のルカによる福音書12章に記されている 言葉、これは誰もが聞くべき言葉です。私たちはそ のように聴きたいと思っています。しかし直接、こ の主の言葉を聞いているのは弟子たちです。この弟 子たちは、この後、伝道者となりました。皆それぞ れ教会の柱になって生きたのです。いや、もうこの 時既に、主イエスによって伝道に遣わされる経験を 持った人びとです。そういう伝道に生きる者たちに 対して、主イエスが恐れからの自由を語られました。 自分のいのちを奪われてしまうかもしれないとい う不安から自由になることを求められました。ある いは、この世の財産のことで、あれこれ思い煩うこ とから自由になるようにお勧めになりました。 Ⅱ.腰に帯を締め、ともし火をともしている ことを語り告げながら、この主が来られることを待 ち続ける自分の姿を示しながら生きる。まず第一に 伝道者は、そのような者です。そのように主に仕え る、主を待つあかりを高く掲げて、腰に帯をしめて、 生き続けるのです。そして、その伝道者を見ている 者は、その伝道者を見ている者、その伝道者を重ん じている者は、自分もそれを真似するのです。 今この地上に生きている限り、私たちがすること は、私たちが地上のいのちを終えて、どのように神 に扱われるかということも、すべて神にお任せする こと以外にありません。ただはっきりしていること は、死の彼方から、甦られて天に昇られた主イエス が、 「もう一度、わたしは来る」と言ってくださっ た約束を守って来てくださるということです。私た ちはその主を仰ぎ続け、待ち続ける。これは確かな ことです。伝道者は、どんなことをしていても、何 を語っていても、主が来られることを指し示す旗の 35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしてい ような存在です。あるいはここで語られている言葉 なさい」と記しています。これはとても具体的な姿 で言えば、伝道者自身がそのための〈あかり〉にな です。 「腰に帯を締める」 。パレスチナの服装は割合 るのです。そして、その伝道者の言葉を聞きながら だらっとしているものですので、腰に帯をすると動 生きる教会は、教会を形作るすべての者が、やはり きやすくなります。いわば私たちのかつての和服の 同じ望みに生きるのです。 生活になぞらえれば、たすきをかけ、ももだちを高 く取ることです。聖書の他の表現で言えば、まさに 腰引きからげて、自由に、どんな命令にでも応じて 動くことができる備えをするということです。この 言葉の意味を考えていて、私はまるで赤穂浪士の討 ち入り前夜みたいだなどと思ったことがありまし た。ただ、ここで大事なことは、そのような姿勢を 取るのは、自分が攻め込むためではないのです。腰 に帯をしめ、あかりをともして待つのです。待ち続 けているのです。主人がいつ帰って来るか分からな いからです。だから、ここでのあかりは、何よりも Ⅲ.必ず成就する仕事に励む 36節によれば、この主人は、婚宴から帰ってき ます。なぜ婚宴なのでしょう。なぜ、主が行き先が 婚宴であることについて言及されたのか、それはよ くわかりません。ただ、さまざまな想像をすること も許されるでしょう。 たとえば、皆さんが家族が結婚の祝いに招かれて いる間の留守をすることにします。両親がどこかの 婚礼に招かれています。自分は簡単な食事をしなが ら、さびしく思う。ましてここでは留守番をしてい ょう。ところがこの主人は帰って来ると、もうその るのは僕たちです。主人だけがはなやかな婚宴の席 帯を解いてよろしい。ゆっくり食卓に着くがよい、 に招かれ、なぜ自分だけが粗末な食事に我慢しなけ わたしがあなたに給仕すると言う。そういう主人だ ればいけないのかと思ったり、自分が主人でなくて ったのです。 僕なのだという身分の違いを痛感するかもしれま せん。 特にこの頃の婚宴は長く続いたそうです。現在の ここに「僕」と訳されている言葉は文字通り奴隷 を意味します。主人が奴隷に仕えているのです。主 人が奴隷に食卓を用意し、もてなしているのです。 私たちのようにホテルで2時間、3時間で終わりで 喜びを分け与えるように、この主人は今僕に仕えま 帰るということではないのです。38節には、 「真 す。このところについて書く人びとがすべて思い起 夜中に帰っても、夜明けに帰っても」と記されてい こしていることがあります。それは、文体も思想も、 るように、いつ帰ってくるかわからないのです。場 書いている事柄もまるで違うように見えますが、ヨ 合によっては、一晩中あかりを絶やさず、目覚めて ハネによる福音書13章の記事です。 「イエスは、 いなければならないかもしれなかったのです。 この世から父のもとへ移る御自分の時が来たこと コリントの信徒への手紙一13章に、パウロが歌 を悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛 うように書き記した「愛の賛歌」があります。愛は し抜かれた。 」 (13:1) そう書き始めたヨハネ とこしえに存在すると確信を持って告げる言葉で 福音書は、最後の食卓を弟子たちと囲んだとき、主 す。4 年半前、津波で破壊的な被害を受けた仙台市 イエスがその食事の間に立ち上って、手拭いを取っ 宮城野区の「シーサイド・バイブル・チャペル」跡 て腰に巻き、弟子たちの足を洗い始められたことを 地に立っていた十字架の土台に「それゆえ、信仰と、 書いています。この食卓に着く者の足を洗う行為も 希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中 また奴隷だけがしたことです。ルカ福音書もヨハネ で最も大いなるものは、愛である」が刻まれており、 福音書も、全く違ったところで、違った言葉で主イ 十字架の愛が被災した方々の希望の光となってい エスの姿を書いていながら、この点においては全く ることを思わされました。主イエスを待つことなく 共通した主の姿を書き残しているということ、これ して、人に信仰を求め、自らの信仰に生きることは もまた不思議な恵みのわざです。 できません。希望を持って死ぬことができるのだと 主イエスは一度、私たちのところに来てください 語ることはできません。主イエスは来られるのです。 ました。十字架におつきになりました。殺されまし そして、その主イエスが来てくださるのを待ちなが た。神はこの主イエスを甦らせてくださいました。 ら、せっせと信仰と希望と愛に生きるのです。この その主イエスが、また来るとおっしゃったのです。 歩みは絶望を知りません。失望を知りません。必ず 主イエスは、だからこそ、私たちに、目を覚まし続 成就する仕事に勤しむのです。 けることをお求めになりました。目を覚まし続けて 生きる教会を造るように、弟子たちにお求めになり Ⅳ.目を覚まし続ける ところで37節は、不思議なことをそれに付け加 えて語ります。 「主人が帰って来たとき、目を覚ま しているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言 っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事 の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」 。主人 が帰って来た時に、 「それっ!」と立ち上り、主人 の足を洗い、飲み物を用意する、それが僕の姿でし ました。いつ主イエスが来られるかわかりません。 しかし、私たちは少しも心配しない。目を覚まして、 喜びのあかりを掲げて主を待つことができます。こ の主のみ言葉に従いながら、主のみ言葉を重んじて 生きる、それ故に伝道者を重んじ、自らを重んじ、 他者を重んじる教会であることをもう一度、神から 戴いたものとして受けとめ直したいと思います。お 祈りします。
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