信仰の神秘−88 「政治と宗教」 2015.3.15 ヨハネ 18:28-38、ガラテヤ 3:26-29、創世記 12/1-3 28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であっ た。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためで ある。 29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるの か」と言った。 30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引 き渡しはしなかったでしょう」と言った。 31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自 分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑 にする権限がありません」と言った。32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示 そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。 33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前はユダヤ人の 王なのか」と言った。 34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言う のですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を わたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36 イエスはお答えになった。 「わた しの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わた しがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わた しの国はこの世には属していない。」 37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」 と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることで す。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に 属する人は皆、わたしの声を聞く。」 38 ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、 こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何 の罪も見いだせない。」 Ⅰ. イエスの死に方 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はヨハネ福音書 18章28節以下です。ここから「使徒信条」と「ニケア信条」(正式にはニケア・コンスタンチノープル信条)の二 つの世界信条にその名を記されたポンテオ・ピラト_ マリアは主イエスに地上の生を与えた人、ピラトは主イエスの地 上の生を終わらせた人 _の下での主イエスの裁判が始まります。 この場面も、先の主イエスの逮捕の場面や、大祭司アンナスの下での尋問とペトロの否認の場面と同様、 共観福音書のそれと趣を異にしています。まず形式面で言えば、分量が違います。ヨハネはピラトの裁判に 共観福音書の倍以上の分量を割いているのです。 ヨハネが伝えるピラトの裁判は、六つの部分から構成され、それらは三つの場面に分かれています。そし て三つの場面のそれぞれで、ピラトは主イエスを提示しています。第一場面では 38 節、 「わたしはあの男に 何の罪も見出せない」と。第二場面では 19:5、 「見よ、この男だ」と。そして第三場面では 14 節、 「見よ、 お前たちの王だ」と。わたしはピラトのこの言葉は、洗礼者ヨハネが主イエスを提示した言葉、「見よ、世 の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)、「見よ、神の小羊だ」(1:36) と呼応していると考えています。つまりヨ ハネは主イエスの公生涯の始めと終わりで、〈見よ、この人だ〉と主イエスを指し示したのです。 内容に入る前にもう一つ確認しておきたいことがあります。それは、これまでも主イエスとユダヤ人との 1 論争がそうであったように、ヨハネはこの裁判で、ユダヤ人、即ちこの世が天の法廷で裁かれることを象徴 しているということです。ここで裁かれているのは主イエスではなく、この世なのです。 ヨハネはそのことをすでに語っていました。それは、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城され た時のことです。主イエスは、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た何人かのギリシア人たち が会いたがっているとの知らせを聞くと、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23) と言って、こう言われ たのです。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられ るとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(12:31-32) と。ピラトの下で行なわれる裁判の真の被告 は、イエスを「十字架につけろ」と叫ぶこの世なのです。ヨハネはこうコメントを付しています。「イエス は、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(33)。 ヨハネが、ピラトの裁判で描いているのはまさにこのこと、主イエスが十字架の死を遂げるということな のです。モーセの律法には「石打の刑」があります。姦通の現場で捕らえられた女に対して、律法学者やフ ァリサイ派の人々は、 「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」と言ったのです。 モーセの律法に従えば、 「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者」 (5:18)とした主イエスもまた石 で打ち殺されるべきなのです。事実、 「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」 (8:59) こともあるのです。 しかし、主イエスの死は石打の刑ではなく、十字架に上げられる死でなければならないのです。死に方が 重要なのです。なぜでしょうか。主イエスは、夜ひそかに御自分のもとを訪ねて来たイスラエルの教師ニコ デモにこう言われました。 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかに、天に上った者はだれもいない。 ................ .............. そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように 、人の子も上げられねばならない 。」荒れ野の旅が耐え難く、 神とモーセに向かってつぶやいた民は、火の蛇に噛まれて死んだのです。ところがモーセが掲げた青銅の蛇 を仰ぎ見たすべての人が生きたのです。主イエスはすべての人を御自分のもとへ引き寄せために、十字架に 上げられねばならないのです。 Ⅱ. 現在 (ピラト)、過去 (ユダヤ人)、未来 (イエス) 主イエスを十字架に上げるために行なわれたピラトの下での裁判の第一場面は、象徴的な言葉で導入され ....... ます。28 節、「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった 。」ヨ ハネはこの直前、ペトロが大祭司アンナスの屋敷の中庭で三度主イエスとの関係を否定「するとすぐ、鶏が 鳴いた」と記します。今や闇の夜が開けると、鶏は鬨の声を上げたのです。ヨハネはそれを受けて「明け方 であった」と記したのです。 つまり主イエスは今、夜の闇から光の朝へ姿を現わされたのです。その姿は、夜の闇の中に消えて行った イスカリオテのユダとは好対照です。ヨハネは夜の闇の中へ消えて行くユダを次のように描きました。「ユ ..... ダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった 」(13:30)。そのとき主イエスはこう言われたので す。「今や、人の子は栄光をうけた!」ヨハネは、ピラトの下での裁判で文字どおり、人の子の栄光を描く のです。「明け方であった」とは、世に対する主イエスの勝利の日が始まるという、より深い意味をもって いるのです。 ところで、この導入句にはもう一つ象徴的な言葉があります。それは、「彼らは自分では官邸に入らなか った。汚れないで過越の食事をするためである」という一句です。このときユダヤ人たちはモーセの律法を 守り、異邦人である総督の官舎には入らなかったというのです。モーセの律法には、異邦人の家に入ると七 日間汚れるとあり、目前に迫った過越の羊を食べることができなくなるからです。 2 改めて言うまでもなく、ヨハネはこの一句に辛辣なアイロニー(皮肉)を込めています。というのは、モ ーセの律法、すなわち〈シナイ契約〉はすでに破棄され、無効になっていたのです。エレミヤは言います。 ..... 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約 を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、 かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが ........... 彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った 」(31:31-32) と。 同じことを第二イザヤは次のように語りました。「始めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐら ..... すな。見よ、新しいこと をわたしは行う。今や、それは芽生えている!」(43:18-19a)。 「このように・・・旧 と新、つまり来たるべきこととの裂け目を開いた者は他にいない」と言われます。その上で、エレミヤも第 二イザヤも、神は契約を履行できない相手と新しい契約を結ぶと言ったのです。その新しい契約が今、主イ エスが十字架に上げられることで結ばれるのです。そうであるのにユダヤ人たちは、すでに破棄された契約、 もはや効力をもたないモーセの律法を後生大事に守っていたのです。 「始めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と言われたのです。しかし、ユダヤ人たち は神が始める「新しいこと」に目を向けようとしないのです。この神の民が陥っていた深い裂け目、死の淵 で、ヨハネは、主イエスが十字架に上げられるという新しい契約の締結を語るのです。 この法廷で、ピラトが主イエスに発した最初の言葉は、「お前はユダヤ人の王なのか」でした。主イエス をピラトに訴え出た人々の口から、主イエスがユダヤ人の王であるなどとは一言も触れられていません。確 かに、主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた時、群衆は主イエスを、「この人こそ、世に来 られる預言者である」と言って、自分たちの王にしようとしたことがあります (6:14-15)。しかし、その人々 が、「わたしは天からくだって来たパンである。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの 内に命はない」という主イエスの言葉を聞くと、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられよう か」と言って主イエスのもとを去り、もはや共に歩まなくなったのです。 そうであるのになぜピラトは主イエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と問うたのでしょうか。ピラト ...... .......... にそう問わせたヨハネの意図は、次の主イエスの言葉にあります。「わたしの国は 、この世には属していな . い 。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦った .. ................. ことだろう。しかし、実際 、わたしの国はこの世には属していない 。」主イエスは、今、わたしがこの裁判 の被告となっているのは、 「わたしの国はこの世には属していない」からであると二度くり返されたのです。 するとピラトはすかさずこう言います。 「それでは、やはり王なのか。」主イエスは、何としても御自分を 王に仕立て上げようとするピラトに、次のようにお答えになります。「わたしが王だとは、あなたが言って いることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。 Ⅲ. 真理とは何か 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と主イエスは言われたので す。 「真理とは何か。」ピラトでなくても、そのように問いたくなるのではないでしょうか。このピラトの問 いこそ、この裁判の第一場面の頂点です。 真理とは何か。これとの関連で注目したいのは、《ロゴス賛歌》が語る永遠のロゴスの受肉です。そこに は次のようにあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。そ ..... れは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理 とに満ちていた」(1:14)。そしてロゴス賛歌はさらにこ ..... う続くのです。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理 はイエス・キリストを通して現れたから である」と。 3 ロゴス賛歌はここでくり返し「真理」に言及します。肉となった永遠のロゴス、イエス・キリストを通し て恵みと真理が現れたと。肉となった言、イエス・キリストを通して現れた真理とは何でしょうか。ロゴス 賛歌によれば、それは次の一点に尽きます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独 り子である神、この方が神を示したのである。」然り、肉となった言イエス・キリストは、父に至る唯一の ..... 「道であり、真理であり 、命」(14:6) なのです。イエスを「見た者は、父をみた!」(14:9) のです。 初めにあった言、神と共にあった言、神であった永遠のロゴスが肉となって、わたしたちの間に宿られた のです。この神の自己放棄に至るまでの下降に、ロゴス賛歌は恵みと真理に満ちた神の栄光を見たと語った のです。しかもヨハネの信仰、神学によれば、この神の自己放棄に至るまでの下降、すなわち受肉は十字架 で完成するのです。言い換えますと、わたしたちは十字架のキリストに、父の独り子としての栄光、恵みと 真理を見るのです。 そして、ここから始まるピラトの下での裁判が、主イエスの十字架刑を決定するのです。 「わたしの国は、 この世に属していない。・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」 と言われた主イエスが、この世の政治的権力によって十字架に上げられるのです。 いったいヨハネは、このピラトの下での主イエスの裁判で何を描いたのでしょうか。そのことを思い巡ら していた時、キルケゴールが『単独者』のまえがきに記した言葉が思い起こされました。キルケゴールは言 います。 「現代においてはすべてが政治である。宗教的なものの物の見方は、これとは天と地ほども相異しており、 同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。というのは、政治的なものは地にとどまるた めに地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天に まで引き揚げようとするからである。」キルケゴールの言う「現代」とは、 「自由、平等、博愛」を旗印とし たフランス革命以後の時代です。 キルケゴールは言います。政治家は、宗教的なものがあまりにも高遠で、あまりに理想的であるというぐ あいに非実践的であるとは思うであろう。しかし「非実践的」にもせよ、宗教的なものは政治の最も美しい 夢_ 自由、平等、博愛 _の、永遠性によって聖化された再現である、と。宗教的なものが政治の最も美しい夢 の、永遠性によって聖化された再現であるとはどういうことでしょうか。 キルケゴールは言います。 〈人間−平等〉を、最後の帰結まで一貫して考え抜くこと、あるいは実現するこ とは、いかなる政治にもできたためしはないし、いかなる政治にもできることではなく、いかなる世俗性に もできたためしはないし、いかなる世俗性にもできることではない。「世界−平等」〔世俗性〕の媒介におい 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 て、すなわちその本質が差別であるような媒介物において 完全な平等を実現すること・・・それは永遠に不 可能である、と。 キルケゴールは、この世の本質は差別であるというのです。言い換えますと、自分が差別者であることを 知らない者は、十字架のキリストに現された恵みと真理を知ることは出来ないのです。この経験を端的に語 ったのがパウロです。パウロは言います。 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、 ベニヤミン属の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの 点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」であったと。しかしパウロは、この肉 の誇り、この世性、差別者としての自分を、「わたしの主キリスト・イエスをしることのあまりのすばらし さに」よって、塵あくた、糞土とみなしているとしたのです。もちろん、すべてのキリスト者がパウロのよ うであるわけではありません。キリスト者の神は必ずしも常に「十字架に上げられた神」ではないし、むし ろそうであることは極めてまれであるからです。しかし、十字架に上げられた神イエス・キリストの恵みと 4 真理によるしか、この世性、差別者からの解放はないのです。 キルケゴールは言います。 「ただ宗教的なもののみが(わたしはそれをパウロやヨハネにならって十字架のキリストを 信じる者と言い換えたい) 永遠性の助けをかりて、 〈人間−平等〉を、最後の最後まで徹底的に遂行できるのであ り、それゆえにまた・・・宗教的なものが真の〈人間性〉なのである。」 わたしはキルケゴールの言う、真の〈人間性〉、〈人間−平等〉とは〈聖餐共同体〉のことであると考えて います。この〈人間−平等〉、〈聖餐共同体〉の形成のためにわたしは召されているのであると。これとの関 連で注目したいのは、パウロがガラテヤ書で語った次の言葉です。「あなたがたは皆、信仰により、キリス ト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着て ....... ............. ............. ..... いるからです。そこではもはや 、ユダヤ人もギリシア人もなく 、奴隷も自由な身分の者はなく 、男も女もあ .... ....... .... .............. りません 。あなたがたは皆 、キリスト・イエスにおいて一つだからです !」この〈一つ〉を誰の目にも最も 印象的な仕方で表現するのが〈聖餐共同体〉なのです (Ⅰコリント 10:16-17)。 第二次大戦下、ナチスドイツに抵抗し、ゲシュタポに捕らえられ、終戦間際に処刑されたボンヘッファー は言います。「教会は、わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがその代理的行為 においてわれわれを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験されるのである。 教会は恐らく、大都市における聖晩餐を守る集まり (ゲマインデ) という状況において、最も確信をもって現 われ出るであろう。自然的な結びつきはほとんど何らの役割をも演じない。軍国主義者と平和主義者、資本 家と労働者、その他これに類する人たちの間には、最も深い対立が横たわっている。神がここキリストにお いて設定したもうたことは、最高に逆説的な一致であって、それは人が宗教的共同体の概念をもってしては 近づくことのできないものである。」 キリストにある一致、真の〈人間性〉、〈人間−平等〉、然り、〈聖餐共同体〉の形成のためにわたしたちは 召されたのではないでしょうか。キリストの死を世の終りまで告げ知らせる〈聖餐共同体〉の形成こそ、神 の救済史の目的なのです。パウロはこう言葉を続けます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするな ら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です!」どういうことでしょうか。これ との関連で注目したいのは、アブラハムの召命で語られた次の言葉です。「あなたは生まれ故郷、父の家を 離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名 を高める。祝福の源となるように。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」 アブラハムは、神のようになろうとした人間の罪の結果としての、何も生み出し得ない死の世界を、呪わ れた世界を、祝福された世界に造りかえるために、すべての民の祝福の源になるよう召されたのです。そし てパウロは、「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であ り、約束による相続人です」と言ったのです。聖餐共同体であるとき、すなわちキリストにある一致、真の 〈人間性〉、〈人間−平等〉であるとき教会は、すべての民の祝福の源なのです。 聖書の民はアブラハム以後、自らの在り方を創世記12:1−3に照らしてくり返し検討しました。エレ ミヤは、世界の祝福はまことのイスラエルへの悔改めにあるとし(4:1-2)、ゼカリヤは、自らがのろいから救 われることによるとしたのです (8:13)。教会は、自らのこの世性を認める、すなわち十字架のキリストを仰 ぎ見る深い悔い改めなしには、使命を果たすことはないのです。 (祈り) 主よ、あなたの平和を人びとにもたらす道具として、 わたしたち〈聖餐共同体〉をお用い下さい。 5 憎しみのあるところに愛を、 不当な扱いのあるところには許しを 分裂のあるところには一致を、 疑いのあるところには信仰を、 過ちのあるところには真理を、 絶望のあるところには希望を、 暗闇には光を、 悲しみのあるところには喜びをもたらす者として下さい。 わたしたちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 6
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