1 「寄留の民」

 神の歴史−33 「寄留の民」 2016.2.28
創世記 47:1-12、マタイ 6:24-34、ヘブライ 11:13-16
11 ヨセフはファラオのところへ行き、
「わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、す
べての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります」と報
告した。 22 そのときヨセフは、兄弟たちの中から五人を選んで、ファラオの前に連れて
行った。 33 ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。「お前たちの仕事は何か。」兄弟たち
が、
「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、44 更に
続けてファラオに言った。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、
参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。
僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」 55 ファラオはヨセフに向�かって言った。
「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来
たのだ。 66 エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄
弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう。もし、一族の中
に有能な者がいるなら、わたしの家畜の監督をさせるがよい。」 77 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはフ
ァラオに祝福の言葉を述べた。88 ファラオが、
「あなたは何歳におなりですか」とヤコブ
に語りかけると、 99 ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。
わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及
びません。」 1100 ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。 1111 ヨセフはファラオが命じたように、父と兄弟たちの住まいを定め、エジプトの国に
所有地を与えた。そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった。1122 ヨセフはまた、父
と兄弟たちと父の家族の者すべてを養い、扶養すべき者の数に従って食糧を与えた。 Ⅰ. 厭われる者
ただ今お読みした創世記47章には、飢饉を逃れて、カナンの地からエジプトにやってきたヨセフの一族
が、ファラオに謁見した時のことが伝えられています。パレスチナの羊飼いが、超大国エジプトのファラオ
に拝謁したのです。パレスチナの羊飼いが権勢並ぶ者なき神の化身ファラオに謁見を許されたのです。そん
なことはありえない、作り話だという人もいます。ありえないことが記されているのです。語り手が狙って
いるのはまさにそうしたことなのです。私たちは、その興奮の渦の中に身を置きたいと思います。
語り手は、ヨセフがこの会見を成功させるために熟慮したことを伝えています。2節に、「ヨセフは、兄
弟たちの中から五人を選んで、ファラオの前に連れて行った」とあります。「兄弟たちの中から選んで」と
訳されたこの箇所は、ヘブライ語では「兄弟たちの尖端の中から……」という妙な言い方になっています。
恐らくヨセフは、ファラオの前でも怖気づかず、堂々と振る舞える、肝の据わった兄弟を五人選んでファラ
オと会見させたのです。
しかもヨセフは兄たちに、宮廷の流儀に従い、ファラオの前でどう振る舞えばよいかを指示し、そして兄
たちはヨセフの指示通りに振る舞ったのです。すべてはヨセフの一族70名、および僕たちと多くの家畜が
ゴシェンの地に落ちつくことができるようにするためです。「ゴシェンの地」はナイル川の下流で、エジプ
トの東の国境に位置しています。エジプトへ下る主要道路の一つ、シュルの道筋にあって、昔からパレスチ
ナの遊牧民が川を渡って領土侵犯をするので、国防上問題のところでした。スパイなどが入り込まないよう
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に気をつけなければならない地域なのです。身元不確かな者を住まわせることはできません。ヨセフの身内
をそこに住まわせるのです。ヨセフの身内であれば問題ありません。
しかもゴシェンは牧畜に適した土地でした。46章34節後半に、「羊飼いはすべて、エジプト人のいと
うものであった」と付記されています。にもかかわらず、ヨセフが兄弟たちに自分たちの職業を隠さぬよう
くれぐれも注意したのは、そこがエジプトの中心部ではなく周縁地であったからです (46:33−34)。
こうした諸点を考え抜いてヨセフは、家族がゴシェンの地に住めるよう兄弟たちに指示を与え、彼らを伴
ってファラオの宮廷に参上し、こう言上します。「わたしの父と兄弟たちが、羊や牛…�…�を携えて…�…�今、
ゴシェンの地におります」と。ヨセフはここでたまたま家族がゴシェンの地にいるというような言い方をし
ていますが、「ゴシェン」の地名を出したところにヨセフの深い思慮があります。ヨセフはこの後の話の展
開の布石を打ったのです。
このあと語り手は、ファラオと兄弟たちの謁見がヨセフの思惑通りに進んだことを描きますが、二つの点
で、ヨセフの思惑を超えたことを伝えています。一つは、先ほど触れた、「羊飼いはすべて、エジプト人の
いとうものであった」という一文です。この言葉が、ファラオとの謁見への準備と謁見の間に置かれている
のです。実は、この点に関して、実際にエジプト人が羊飼いに対して差別的であったという証拠は、エジプ
トの史料からは裏付けられていません。
つまりこの一文には、エジプト側の理由ではなく、イスラエル側の理由が表現されているとみてよいので
す。では、この一文をここに置いたイスラエル側の理由は何か。そのことについて一つの示唆を与えてくれ
るのは_すでにアブラハムにも (15:13−14) ヤコブにも (46:3−4) 語られていたことですが_、400年後、モ
ーセがファラオの前に立って、イスラエルをエジプトから解放するように迫った時のやりとりです。御言は
こう記します。
「ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、
『行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲を
ささげるがよい』と言うと、モーセが答えた。『そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲
は、エジプト人のいとうものです。…�…�』」(出エジプト 8:21−22)。
エジプト人は羊飼いを厭うというこの一文には、ゴシェンの地に家族を住まわせるヨセフの思慮を超えて、
やがてイスラエルの民がエジプトから解放される日への語り手の祈りというか、神の約束の成就を信じる信
仰が表明されているのではないでしょうか。
Ⅱ. 寄留の民
この解釈が度外れた解釈でないことは、この後、ファラオとの謁見の場で起こった、ヨセフの思惑を超え
たもう一つのこと、4節の兄弟たちの発言からも分かります。彼らはヨセフから指示されたことを越えて、
更にこう言ったのです。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。…�…�僕た
ちをゴシェンの地に住まわせてください。」
ファラオから「お前たちの仕事は何か」と聞かれたら、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊
飼いでございます」(3) と答えたところまでは、ヨセフの指示通りでした。しかし兄たちはそれを超えて、
「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。…�…�僕たちをゴシェンの地に住ま
わせてください」と願い出たのです。
兄弟たちのこの願いは、ヨセフがファラオの謁見を準備した、宮廷における作法を超えているのです。そ
れは、ファラオが、まるで兄弟たちの発言を聞かなかったかのように、ヨセフに向かって語った言葉に暗示
されています。5節、「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来たのだ。エジプトの国のことはお前に
任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのも
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よかろう。もし、一族の中に有能な者がいるなら、わたしの家畜の監督をさせるがよい。」
ヨセフの兄弟たちがどこに住むか、それを決定するのはファラオの裁断によるのであり、好意、つまり恵
みによることなのです。ファラオの好意を引き出すためにヨセフは、「わたしの父と兄弟たちが、羊や牛を
はじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります」と布石を打っ
たのです。
ところがヨセフの兄弟たちは、ヨセフの指示を超えて発言したのです。ということは、この言葉に、神の
民イスラエルにとって重要な意味が込められているということです。兄たちが自らの意志で語ったこと、そ
れは、「この国に寄留したい」ということです。語り手はこの言葉で、エジプトに下った「滅びゆく一アラ
ム人」(申命記 26:5)、つまり神の民イスラエルの本質は「寄留の民」にあるとしたのです。
このことをより深く掘り下げたのが、この後に行われるヤコブとファラオの謁見場面です。ヤコブがファ
ラオに祝福の言葉を述べると、ファラオは、
「あなたは何歳におなりですか」と尋ねます。するとヤコブは、
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯
や旅路の年月には及びません」と答えたのです。
わずか一つの問いと一つの答えからなるヤコブとファラオの謁見場面は、荘重な文体で、しかも非常に美
しい場面として描かれています。ファラオの前に立つ族長ヤコブ! しかもファラオは、明らかに眼の前に
立つ老人の風采に深い印象を受け、年齢を尋ねたのです。洋の東西を問わず、長寿は神の祝福です。誰もが
健康で長生きを願っているのです。
この時ヤコブは130歳、目の前に立つ高齢者を賛嘆するファラオ! しかしヤコブは、ファラオの関心
をかわすのです。ヤコブは、ファラオが聞きたがっていた年齢を答えるのではなく、自分が寄留しながら過
ごした歳月について語り、話題を数字から歳月の内容にすり替えたのです。「わたしの旅路の年月は百三十
年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
「わたしの齢の日はわずかで、苦しみ多く……」とは、一見すると何か自分の一生を嘆き悲しみ、老いの
くりごとを言っているかのように聞こえます。ヤコブは自分の一生を嘆き悲しみ、老いのくりごとを言って
いるのでしょうか。それを読み解く一つの手がかりは、語り手がこの会話を、「祝福」で囲い込んでいるこ
とです。7節、
「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」10節、
「ヤコブは、別れの挨拶(つまり祝福)
をしてファラオの前から退出した。」
この祝福の尊厳と重みは、ファラオに食物を乞い願わねばならない、荒野から辿り着いた一介の牧夫にす
ぎないヤコブが、強大な国家の偉大な王の前に進み出て、しかも彼を祝福するという、まさにそのことのう
ちに示されています。ここでの祝福に独特な尊厳を与えているのは、この対照なのです。言い換えますと、
ヤコブは今、アブラハム以来の「祝福の源」_「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入�る」 _としてファラオの前に立っているのです。
そうであるがゆえに、「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月
には及びません」は、自分の不幸な一生を嘆き悲しむ、老いの繰言などではないのです。ここにあるのは、
自分の人生をありのままに見る冷静さです。ヤコブはファラオの前で、人生の晴れ舞台で、自分の人生をあ
りのままに冷静に見つめているのです。ヤコブは人間の一生を旅路として捉えているのです。「寄留しなが
ら過ごした年」としたのです。
フロムは、土地を持ち、財産を持ち、定住しようとするあり方からはより多くの繁栄を追求する「持つ」
生き方が生まれると言いました。旅路として人生を見るとき、人は執着から自由になるのです。寄留生活と
は、神が族長たちに、ゆえにすべての信仰者に定めた人生行路全体の特質なのです。寄留者であるとは、定
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着と土地所有との断念を意味するのです。
Ⅲ. 聖餐の秘儀
私は、語り手が、約束の地を離れてエジプトに下ったヤコブの口を通して語ったこの寄留者としての在り
方は、土地を巡って争い、殺し合いを続ける人類、特に現代人の苦悩に光を与えるものである、否、唯一の
光であると考えています。今日、超大国からイスラム国に至るまで、世界の混乱はすべて土地を巡る争いで
す。今、世界を巻き込む不毛な争いに終止符を打つものがあるとすれば、それは、ヤコブがここで言明した
寄留者、旅人しての生き方を他にしてはないのです。言い換えますと、世界中のキリスト者が、旅人、寄留
者としての在り方を回復する以外にないのです。
ヘブライ人への手紙の著者はそれを次のように語りました。「この人たちはみな、信仰を抱いて死んだ。
まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者
であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを
示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼が
望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった!」
私は、現代ほど旅人・寄留者として生きることが困難な時代はないと感じています。現代文明の基本的な
性格の一つは、新−発見、新−発明にはじまった近代的性格を継承した〈新しさ〉の追及に見られます。この
新しさの追及という生き方の最大の問題は、焦点が〈今〉だけにおかれ、過去も未来も見えなくなる点にあ
ります。言い換えますと、現代人は時間と歴史全体を捉える捉え方を失っているのです。
主イエスが山上の垂訓で私たちに突きつけたのは、この〈今〉だけに焦点がおかれた生き方です。主イエ
スは言われます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親
しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない!」主イエス
は、富を神と並ぶ至高の価値であると言われます。
今、世界を覆い尽くす闇は、この〈富(マモン)〉を神とする者たちから吐き出された闇なのです。ドイ
ツの経済学者ゾンバルトは産業革命以降の時代を「経済時代」と言いました。「経済が、経済的利益が、し
たがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、
そのために経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている」と。
今、世界は、富を神とする者たちが走り回り、巻き上げる粉塵で光のない闇の中を生きています。その闇
を前にして、ローマ法王は異例の談話を発表しました。アメリカの大統領選の共和党の有力候補トランプを、
キリスト教徒ではないと断罪したのです。私はローマ法王の言葉を、断罪されるべきは、〈今〉だけに焦点
がある、つまり旅人、寄留者でなくなったキリスト教徒であると聞きました。私たちは寄留者、旅人しての
在り方を取り戻せるでしょうか。
主イエスは言われます。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を
着ようかと思い悩むな」と。〈今〉だけに焦点がおかれた生き方であってはならないと。こう言って、空の
鳥を養い、野の花を美しく装われる神の配慮を例に挙げ、ただひたすら、「神の国と神の義を求めなさい」
と言われたのです。主イエスは、〈今〉だけに焦点をおいて生きる者たちに、「永遠を思う心」(コヘレト 3:11)
を求められたのです。言い換えますと、主イエスは、この世にあって旅人であり寄留者であることを求めら
れたのです。
寄留とは異国の旅のことです。それは、「放浪」とほとんど同じ意味です。キリスト者は旅人であり寄留
者であるとは、「二つの世界の間を歩く人」であるという意味です。二つの世界とは、神の秩序と地上の秩
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序をさしています。人間は、地上にある間、この世の秩序に組みこまれて生きる他はありません。今を生き
る他はないのです。しかし、キリストを信ずることによって、この世にありながら、すでにこの世ではなく、
神の秩序に属するものとして、旅をつづけるのです。
紀元200年頃に書かれた手紙(『ディオグネトスへの手紙』)の一節が心に迫ります。そこには次のよう
にあります。 キリスト者は場所、言語、あるいは習慣において他の人類から区別されたのではない。というのは、
彼らは……何か別の言語を使用しているのでもなく、また常でない生活様式をとっているわけでもない
からである。……彼らは、自分自身の国に住みつつも、その寄留者にすぎない。……彼らは肉において
生きているが、肉に従って生きているのではない。彼らの存在は地上にあるが、その市民権は天にある。
……要するに、魂が肉体に存在するように、この世にキリスト者が存在するのだ。……(彼らは)牢獄
にあるかのごとくにこの世に閉じ込められている。しかしながら、彼ら自身が世界を一つに保っている
のである。
ボッシュは、この描写は、空想的ではないにしても少なからず理想的であると言います。しかし、そうで
あっても「世界を一つに保っている」のがキリスト者であるということは、世俗的な歴史観からでさえほと
んど疑い得ないのです。ハルナックは、彼らの持っている「愛と慈善の福音」を細心の注意を払って記述し
ました。そこには、最初の三世紀の普通のキリスト者の生活に関する比類なきみごとな証言が提供されてい
ます。
私たちは、教会の宣教にとって、この次元の意義深さを決して知りつくすことはできないのです。何千も
の普通の信徒の、素朴な信仰が、ゆっくりとそして確実に帝国全体を変貌させてしまったことは疑い得ない
のです。 私は、こちらに派遣される前、銀座というこの世の真只中に立つ教会で御言の奉仕をしました。その時、
強く捕らえられた思いがあります。それは、街にあふれた放浪者を巡礼者に作りかえるのが主の晩餐である
という思いです。そして、こちらに遣わされてきてから、失われた主の晩餐の秘儀を追い求めました。その
取り組みを支えたのは、天の故郷を乞い求める者は、すべからく、教会が授けるキリストの秘跡にあずから
ねばならないという真理です。
主イエスは言われます。「神の国と神の義を求めなさい!」私たちが追い求めるべき「神の国と神の義」
とは何か。それは十字架のキリストです。パウロは、キリストが罪の贖いの犠牲として十字架に上げられた
ことに神の義があると言い (ロマ 3:21 以下)、ヨハネは、キリストは十字架ですべてを完成したと言いました
(19:28)。
キリストが十字架で裂かれた肉、流された血の秘跡によって、巡礼の旅の難行苦行は、はじめて耐えうる
ものとなるのです。その道中の安全が守られるのです。しかし、聖餐の秘儀はそれだけではありません。今、
世界を覆い尽くす闇を吹き払うことができるのは、主の晩餐を他にしてないのです。イザヤはそれを次のよ
うに証言しました。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。…�…�主は
この山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてく
ださる!」(25:6−8)。キリストの肉と血が、死を命に、闇を光に再創造するのです。
十字架のキリストを、今、目の前に現前せしめる主の晩餐だけが、「敵意という隔ての壁」(エフェソ 2:14)
を取り壊すことができるのです。ゆえに、「平和を実現」(マタイ 5:9) したいと思う者は、すべからく、教会
が授けるキリストの秘跡にあずからねばならないのです! 人は言うでしょう。宗教的なものの物の見方は、あまりに高遠であり、あまりに理想的であり、非実戦的
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であると。しかし、この批判は障害になりません。「非実践的」にもせよ、宗教的なものは政治の最も美し
い夢の、永遠性によって聖化された再現だからです。本気で「平和を実現」(マタイ 5:9) したいと思う者は、
すべからく、教会が授けるキリストの秘跡にあずからねばならないのです!
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