1 「血の報い」

 神の歴史−28 「血の報い」 2016.1.24
創世記 42:8-24a、ルカ 15:11-24、Ⅰペトロ 1:3-9
88 ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。99 ヨセ
フは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。ヨセフは彼らに言っ
た。
「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」1100 彼らは
答えた。「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。 1111 わた
しどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者など
ではありません。」 1122 しかしヨセフが、「いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たにちがいな
い」と言うと、 1133 彼らは答えた。「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住
むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人
は失いました。」1144 すると、ヨセフは言った。
「お前たちは回し者だとわたしが言った
のは、そのことだ。1155 その点について、お前たちを試すことにする。ファラオの命に
かけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから
出すわけにはいかぬ。 1166 お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。
それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしその
とおりでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ。」
1177 ヨセフは、こうして彼らを三日間、牢獄に監禁しておいた。 1188 三日目になって、ヨセフは彼らに言った。「こうすれば、お前たちの命を助けて
やろう。わたしは神を畏れる者だ。 1199 お前たちが本当に正直な人間だというのなら、
兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家
族のために穀物を持って帰り、2200 末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの
言い分が確かめられたら、殺されはしない。」彼らは同意して、2211 互いに言った。「あ
あ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほど
の苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふり
かかった。」 2222 すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と
言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報
いを受けるのだ。」 2233 彼らはヨセフが聞いているのを知らなかった。ヨセフと兄弟た
ちの間に、通訳がいたからである。 2244 ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。 Ⅰ. 再会
ただいまお読みした創世記42章には、エジプトの宰相となったヨセフが20数年ぶりに (17歳でエジプ
トへ、30歳でエジプトの宰相、7年の豊作、2年の飢饉)、兄たちと再会した時にあったことを伝えています。それ
は実に奇妙な光景です。離れ離れになっていた家族が20数年ぶりに会ったのです。しかし、そこには再会
を喜び合う姿はありません。そもそも兄たちはそれがヨセフだとは気づきませんでした。ヨセフは一目で兄
たちだと気づきますが、素知らぬ振りをして、「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにち
がいない」と攻め立てたのです。ヨセフのこの言い回しは、「地の弱み(文字通りには「裸」すなわち「恥
部」)」という比喩的な表現によって非常にどぎつい表現になっています。まるで彼らが、非常に汚いことを
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企んでいると言わんばかりです。
過去に、ヨセフと兄たちとの間に何があったというのでしょうか。語り手は、エジプトに食糧を買いに来
たヨセフの兄たちが、
「地面にひれ伏し、ヨセフを拝する」その姿を、
「ヨセフは、そのとき、かつて兄たち
について見た夢を思い起こした」と説明しています。つまり語り手は、この出来事をヨセフが17歳のとき
に見た夢の実現であるとしたのです。 かの日ヨセフは、兄たちだけでなく、父も母も自分にひれ伏す夢を見たと話したのです。結果、「兄たち
は夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ」とあります。「ますます」とは、兄たちがヨセフを憎
む理由が他にもあったのです。語り手はそれを次のように描きます。「イスラエル(=ヤコブ)は、ヨセフ
が年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、
父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すことができなかった。」
こうした日常の積み重ねの中で、ヨセフと兄たちの溝は徐々に深まり、ついに決定的なことが起こったの
です。ルベンが「血の報い」(22) と表現するほどのことが起こったのです。兄たちはヨセフを殺そうと謀っ
たのです。ルベンがそれに異を唱えたことで、ヨセフは九死に一生を得て、エジプトに奴隷として売られ、
囚人の世話をするという考えうる最底辺の生活を13年間送ったのです。そのヨセフが、ファラオが見た夢
を解き明かしたことで、エジプトの宰相になり、食糧を求めてエジプトにやってきた兄たちと20数年ぶり
に再会したのです。 語り手はこの再会の結末を、37章で、ヨセフが獣に噛み殺されたと聞いたときの父ヤコブの悲しみで結
びます。あのとき「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲し」み、
こう言ったのです。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」ここでもまた、
ヤコブはひどく動転し、今は亡きヨセフの影が立ち現れ、重々しく死者の国に下ると口にするのです。「お
前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミン
までも取り上げるのか。…�…�お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」 「白髪のわたしは悲嘆のうちに陰府に下る!」これほどの不幸な一生があるでしょうか。悲嘆のうちに死
ぬことは、「美しき晩年」ではなく、特別に不幸な晩年です。キューブラ・ロスが『死ぬ瞬間』で語った言
葉が迫ります。最近の大きな社会変化の中で、悲嘆のうちに死ぬ老人が増えているというのです。「だがそ
れよりももっと多いのは、衰えた肉体能力、身体障害をもってなお生きようとし、それにまた孤独と隔離、
それに伴うあらゆる苦痛、あらゆる苦悩をもった老人の患者である。」今、日本では、老人の貧困化が問題
となり、「下流老人」という造語が生まれました。同じ不安で42章は始まり、そして不安の中で終わるの
です。生命の根底が揺らいでいるのです。命は危険にさらされているのです。食料危機がやってきたのです。
Ⅱ. 涙の理由
エジプトには食糧があると聞いたヤコブの息子たちがエジプトにやってきたのです。エジプトへの道、そ
れは、父ヤコブが「何か不幸なこと」があってはならないと言って、末の息子ベニヤミンを手元に残したほ
ど危険な道です。申命記には、「炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野」(申命記
8:15) とあります。その道を通ってヨセフの兄たちは、はるばるエジプトにやってきたのです。そして、異
国の領主の前に平伏したのです。この動作が何を意味するかは、自明です。アブラハム、イサク、ヤコブ、
そして12人の息子たちに継承された祝福の担い手が、異邦人の前に、パンのためにひれ伏しているのです。
しかも、この事態を作り出したのは神なのです。祝福の源、祝福の継承者がパンのために異邦人の前にひれ
伏すという事態を作り出したのは神なのです。人の本性はそこであらわになるのです。
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以下の対話がそれをテーマにしています。ちなみに、ヨセフと兄たちの対話を描いたこの部分は、比類の
ない美しさをたたえている、と言った人がいます。一目でそれが兄たちだと知りながら、ヨセフは素知らぬ
ふりをして、
「お前たちは、どこからやってきたのか」と問いかけます。
「食糧を買うために、カナン地方か
らやって参りました」と答える兄たちに、ヨセフは、兄たちが思いも及ばぬ言葉を口にしたのです。「お前
たちは回し者だ!」この後、エジプトの宰相ヨセフとヤコブの息子たちの対話は、この言葉を軸として、亡
きヨセフの話題にまで進むのです。決して忘れることのできないヨセフの暗い影が、兄たちの魂を陰らせる
のです。
「お前はやっぱりスパイだ。」それに続けて、ヨセフは通訳を介して変な言い方をします。
「その点につい
て、お前たちを試すことにする(精錬される)」と。
「精錬する」とは、鉱石を溶かし、金属を精製する工程
のことです。ヨセフが兄たちに与えた試練は、お前たちの中から一人を返すから末の弟を連れて来い、と、
三日後の、一人だけを人質として残し、他の9人は食糧を携えて行って、末の弟を連れて来い、です。末の
弟は父ヤコブが「何か不幸なこと」があってはならないと手元に残した、ヨセフと同じ母から生まれたたっ
た一人の弟ベニヤミンです。
この試練を前にして兄たちは、状況が20年前のことに非常に似ていることに気づきます。20年前のこ
ととは、ヨセフを憎み、殺そうとしたことです。語り手は今初めて、あのときの兄弟たちの心の内を開いて
見せるのです。遥か昔に犯した罪の記憶が彼らの中に頭をもたげ、その因果応報に気づくのです。「ああ、
我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を
貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」「あの子の血の報いを受けるのだ!」
語り手は、兄たちのこのやりとりを聞いていたヨセフの反応を描きます。「ヨセフは彼らから遠ざかって
泣いた」と。多くの注解者たちは、ヨセフがなぜ泣いたのかを問題にしてきました。一般的なのは、「ヨセ
フはそれを聞き、感極まって思わず一人涙する」というものです。実は、ヨセフは兄たちとの再会で三度泣
いています。二度目は、兄たちが末の弟ベニヤミンを連れて食糧を買いにきた時、そして三度目は兄たちに
正体を明かす時です。その時流したヨセフの涙は、確かに「感極まって」流した涙です。しかし、ここは違
うのではないでしょうか。
エジプトの宰相になり、オンの祭司ポティ・フェラの娘との間に生まれた長男を、ヨセフは「マナセ」と
命名しました。その意味は、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」です。
ヨセフは兄たちの顔を見て、忘れたはずのエジプトでの苦労と父の家のことを思い出したのではないか。頭
では分かっていても、気持ちがついていかないことがあるのです。それが、ヨセフが兄たちに投げかけた厳
しい言葉となったのではないか。
そのヨセフが、「弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかっ
た。それで、この苦しみが我々にふりかかった」のだ。「あの子の血の報いを受けるのだ」と言う兄たちの
本性を見て、涙を流したのです。涙で心のわだかまりを洗い流したのです。それは、この後のヨセフの行動
に端的に描かれます。「ヨセフは人々に命じて、兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀をめいめいの袋に返
し、道中の食糧を与えるように指示し」たのです。あれほど厳しい言葉を投げつけていたヨセフが、このよ
うな行動に出たのです!
Ⅲ. 神の慈愛
涙で兄たちへのわだかまりを洗い流したことでヨセフは、45章で起こると兄たちとの和解を準備したの
です。問題は、兄たちが口にした良心の呵責です。これを高く評価する人もいます。「我々は耳を貸そうと
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しなかった」、「お前たちは耳を貸そうとしなかった」(21、22) という告白の中に、過去の彼らの拒絶への悔
いと反省とが出ていると。
わたしは少し見解を異にします。「兄たちの良心の呵責は、奇妙にも世俗的で近代的な形式で表現されて
いることは注目に値する」と言った人がいます。つまり、兄たちの良心の呵責は、罪を罰する神の前での戦
慄というより、因果応報、つまり応報史観、言い換えますと人間としての倫理感なのです。反省はしても回
心、悔改めてはいないのです。
そもそも応報史観では、人は救われません。これとの関連で注目したいのは、主イエスが徴税人や罪人た
ちの仲間であると非難されていることです。主イエスにあっては、神の愛が向けられるのは、まさに侮辱さ
れ、滅びたとされている子たちなのです。主イエスの呼びかけが彼に妥当し、義人には向けられていないと
いうことは、一見するところあらゆる倫理の解体です。それはあたかも道徳的振舞いは神の眼に意味がない
かのように見えたのです。
主イエスの同時代の人々は、神との関係の基礎を人間の倫理的な行動の上に置いていました。福音がこれ
をしなかったのは、まさに宗教の基底を揺るがしたのです。それゆえ、福音そのものから躓きが生じるので
す。神の意志は貧しい者や罪人とかかわりを持とうとしており、神は義人などよりも彼らの方に一層近いと
する主イエスの宣教は激烈な抗議を特にファリサイ派の人々の間に呼び起こしたのです。
先ほどお読みいただいた、放蕩息子の譬えがこの真理を最も感銘直裁に語っています。主イエスがこの譬
えで描き出された光景は実に奇妙です。何が奇妙かと言えば、生前分与された遺産を放蕩で食いつぶし、何
もかも失い裸同然で帰ってきた息子を、父親は一言も咎めることなく、喜んで迎え入れているからです。
「寛
大さが正義を廃棄するかのように思われてしまう」と言った人がいます。
ルカはこの譬えが語られた背景を次のように描いています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエ
スに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事ま
で一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは云々」。
主イエスは、神の愛が向けられるのは、蔑まれ、滅びたとされている人たちであると言われたのです。主
イエスのこの振舞いは、あらゆる倫理を解体したのでしょうか。放蕩息子の譬えは罪を不問にしているので
しょうか。
これとの関連で注目したいのは、放蕩息子の譬えの前に置かれている「見失った羊の譬え」と「無くした
銀貨の譬え」です。この二つの譬えは、譬えの内容と結びの言葉が符合していません。譬えの結びで主イエ
スは、「悔い改める罪人」に言及しています。しかし、二つの譬えとも罪人の悔い改めについては何も語っ
ていないのです。というか、この二つの譬えは、悔い改めて神に立ち帰ることのない人間の罪の現実を浮き
彫りにしているのです。
もし罪人が悔い改めて神に立ち帰ることができるなら、羊飼いは迷い出た羊が帰ってくるのを待てば良い
のです。このことを端的に語っているのが無くした銀貨の譬えです。銀貨は見つけ出されるまで、ただそこ
に置かれているだけの存在です。この二つの譬えは、人間は自らの力で罪を悔い改めて神に立ち帰る可能性
がないことを浮き彫りにしているのです。人間の罪を、預言者にもまさると劣らない仕方でえぐり出してい
るのです。
「放蕩息子の譬え」も同じです。御言にこうあります。16 節以下、
「彼は豚の食べるいなご豆を食べてで
、、、、、
も腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って 言った。云々」
(16−17)。この「我に返る(正気に戻る)
」を「回心」と見る人もいます。放蕩息子は回心したのでしょうか、
罪を悔い改めたのでしょうか。
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ルカは「悔い改め メタノイア 」、および「悔い改める メタノエオー 」(時には「立ち帰るエピストレフェイン」) を重要
視した福音書記者であることが分かっています。そのルカが、
「我に返る(本心に立ちかえる)」放蕩息子を描く
のに、悔い改める( メタノエオー )や立ち帰る( エピストレフェイン )という語を使わずに、別の― エルクォマイ(来
る、行く)という ―ギリシア語を使っているのです。つまりルカは、放蕩息子が「我に返る (本心に立ちかえる)」
を回心とは見ていないのです。
それは、
「我に返った」放蕩息子が口にした言葉、
「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余る
ほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」と符合します。放蕩息子がパンの欠乏、生命の危
機の中で最初に口にしたのは、「わたしはなんという惨めな人間なのか。誰が、この死のからだからわたし
を救ってくれるだろうか」ではないのです。ここには灰をかぶり、己が罪に泣く、悔いの涙は流されていな
いのです。父の許に行けば食い物にありつける。これが彼の本心なのです (17)。
この譬えで罪は不問にされてなどいないのです。不問どころか、主イエスは放蕩息子の本心を、罪を悔い
改めることのない本心をえぐり出されたのです。
この譬えの中心は、正義を廃棄するといわれるほど不可解な父親の寛大さです。主イエスは、父親の行動
を実に生き生きと描いています。「まだ遠く離れていたのに、父親は、息子を見つけて、憐れに思い、走り
寄って首を抱き、接吻した」と。息子に対する父の愛情を情感たっぷりに描いているのです。息子はといえ
ば、この父の腕の中で、あの言葉を語ったのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対
しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父は息子が「我に返った (本心に
立ちかえる)」ことなど全く問題にしていないのです。息子が生き延びるために必死になって、「お父さん、わ
たしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません 」と
語ったとき、
「そうか、お前もやっと気づいたか。これからは心を入れ替えて真面目にやりなさい」、とは一
言も言っていないのです。父はまるで息子の言葉を聞いていないかのように、側にいた僕に、「急いでいち
ばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥
えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」と言ったのです。余談ですが、わたしはこの祝宴に聖餐
の秘儀があると考えています。
私たちはここで、悔改めが何であるかという問題の中心に到達するのです。回心とは、天の父に全き信頼
を持つことなのです。究極のところ、悔改めとは神の恩恵に自分をゆだねること以外のものではないのです。
悔い改めの決定的な動機は、量り知れない神の慈愛に出会うことなのです。この恵みによって回心が生み出
されるのです。神の慈愛こそ一人の人間を真の回心に導くことのできる唯一の力なのです。
結びに、量り知れない神の慈愛について語った第一ペトロの言葉を聞いて終わりたいと思います。「わた
したちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わた
したちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくだ
さいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、信仰によっ
て守られています。…�…�今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたが
たの信仰は、その試練によって本物と証明され」るのです! 私たちの信仰は「本物」でしょうか。
21世紀を生きるわたしたちの信仰の試練とは何か。それは、「同情的イエスがカルバリーのキリストに
取って代わってしまった」(ホプキンス) ことです。「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名
称で世界に普及しつつある」(W.ジェームズ) ことです。「キリスト者の神」は必ずしも常に「十字架につけら
れた神」ではないし、むしろそうであるのは極めてまれである(モルトマン)ということです。
「この世の生活
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でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」(Ⅰコリント
15:19) であるとパウロは言いました。パンのために異邦人の前にひれ伏したヨセフの兄たちのようにです。
わたしたちがひれ伏すのは、主の晩餐、神の量り知れない慈愛のためなのです。 6