先週講壇 Ⅱ.「神の国はいつくるか」という問い 今日、私たちに与えられているルカによる福 音書のみ言葉はとても短いものです。しかし、 このみ言葉の中で問われていることは、深いも 2015年10月11日夕礼拝 のがあります。20節に「ファリサイ派の人々 秋の歓迎礼拝 が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので」と記 関伸子副牧師 エゼキエル書13章17~23節 されています。 ルカによる福音書17章20~21節 ファリサイ派の人々は、まだ神の国が来てい ないと思っています。だから、いつ神の国が来 Ⅰ.自分の生活を受け入れているか るのかと問うのです。ファリサイ派の人々は、 このことに最も心を注いだ人びとです。ファリ 3年前の夏、私が卒業した神学校の研修旅行 サイという言葉は、「区別する」という意味を で長崎と五島列島を訪れ、そこにある教会をい 持つ、他人からつけられたニックネームです。 くつか見て周りました。五島列島には約50も 自分たちは世間の人たちのような生き方をし の教会が点在し、集落から外れた山の麓や、海 ない。考え方においても、生活の上においても を眺める高台など、欧米の教会のように、街の 他の人と違う生活を志したからです。なぜでし 中央に位置することなく、ひっそりとたたずん ょうか。この世における神の支配を、とても真 でいました。中に入ると、美しいステンドグラ 剣に考えたからです。神の民として選ばれてい スや装飾が施され、窓から差し込む光が色鮮や かな模様を照らし出し、誰もいない教会なのに、 るユダヤ人たちが今、ローマ帝国の圧政のもと にある。神の民が、なぜこんな目に遭っている ふと人の気配を感じさせる、そのようなやさし のか。そう言っては変かもしれませんが、やは い空気が流れているように感じました。観光案 内をしてくれた方に、五島列島は景色もいいし、 り、私たちに近い心を持っていた人びとである すばらしいとほめますと、その方は一方で喜び、 と言ってもよいと思います。私たちも同じ問い 五島列島の教会群は日本一ですと言いながら、 を持つからです。 教会に来て、祈ることを覚える。毎日祈るよ 他方では、台風がよく来て大変ですと話し、一 うになる。祈るときに、私たちは、祈ることが 歩踏み込んだ話をしますと、島脱出をいつも夢 できなくなるほどに、この世界の苦しみを見て 見ている方たちが結構多いのです。今、ここに 落着いたけれども、それは諦めの心境に近い。 しまう。何の理由もなしに、人が殺されるとい うことが、どうして許されるのか。なぜこの悲 それではいけないと自分では思っているとい しみ、悲惨が許されるのか。そのような問いを う話でした。 毎日呼び起こされてしまう。新聞が語る世界の こうした、何でもない、ささやかな体験にお 出来事だけではありません。自分の家族のこと いても、私たちが自分の置かれている場所、そ を考えてもそうです。神が生きておられる。神 こで営む生活を、なかなか受け入れることがで が、みこころを行っていてくださるというのな きないことを知ります。そのように、自分の生 活を受け入れることができないという思いは、 らば、なぜ自分の家族や自分自身が今、こんな 多くの方が知っているのではないでしょうか。 目に遭わなければならないのか。神の国は、ま だ来ていないとしか言いようがない。ですから、 それを信仰に生きている者の問題として言え このファリサイ派の人々の問いには私たちは、 ば、自分の今の生活のなかに、神のみこころが 心から共感を表明せざるを得ない。そういうこ 見えてこないのです。あるいは、こうまで言え とではないかと思います。 るかもしれません。これがもし神のみこころで あるとしたら、こんな神は、いらないと思い始 Ⅲ.神の国の到来を見守る人 めることさえあるのです。 神の国はここにあり このファリサイ派の人々の問いの理解と並 んで、もうひとつ別の理解があります。それは、 このファリサイ派の人々の問いは不信仰の問 いでしかないとする考え方です。なぜ、そのよ うに解釈するのでしょう。主イエスは、ガリラ ヤの地、故郷ナザレの地で伝道されたとき、ユ ダヤの人びとが集まる会堂で説教なさり、イザ ヤ書の言葉を開いて、イザヤが待ち望んだ恵み の時、救いの時は、今ここにきていると告げる ことから始められました。ルカによる福音書4 章が語ることです。そして、ここまで主はみわ ざをなし、み言葉を語ってこられました。しか もここで、主イエスははっきりと、「神の国は 実にあなたがたのただ中に」もう来ていると言 われる。すでに来ている神の国を見ながら、い や、その神の国の現実に触れながら、なぜ神の 国がまだ来ていないかごとき問いを発するの か。事実は、とても単純に言うことができます。 神の支配を信じるとは、主イエスを信じるとい うことです。それなのに、神の国は、いつ来る かと問うのは、それを信じない、主のみわざも、 み言葉も見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞 いていないということになります。 主イエスは、このファリサイ派の人々の問い に対してこう言われました。「神の国は、見え る形では来ない。」ここで用いられているギリ シア語原文が、ただ「見る」という意味には留 まらないのです。英語の聖書でよく用いている のは、オブザベーションという言葉です。会議 のオブザーバーなどといいますと、ちょっとわ きに立って、しかし、目を光らせてじーっとよ く観察している人の姿を思い浮かべます。その ように、神の国の到来を見守る人びとが、すぐ 見てとることができるような仕方で神の国が 来るわけではないと、主は言われるのです。 たのでしょうか。ファリサイ派の人の罪は、神 の国は、自分たちの目で見届けることができる ような仕方で来ると、今なお思い込んでいるこ とに現れてくるのです。あなたがたはここに来 ているのに見えていないではないか。「実に、 神の国はあなたがたの間にあるのだ。 」 文語訳聖書の言葉では、こう言いました。 「神 の国は汝らの中(うち)に在るなり。」この言 葉は、一般に、神の国は、私たちのこころの中 にある、というように理解されることが多かっ たのではないかと思います。神の国は、私たち の心に深く関わります。主イエスもファリサイ 派の人々に、内側をきよめなければならないと 何度も戒められました。しかし、それは神の国 を、私たちの心の中に閉じ込めてしまうことで はありません。 まず第一に、教会です。私たちが、礼拝に集 まるここです。イエス・キリストご自身が、い てくださるのだということを、確信をもって生 きるところに、神の国の現実はある。キリスト の支配は既に始まっています。主は既に、ここ で神の支配のなかに置いていてくださる。私た ちの信仰、信頼は、そこに集中します。 そして第二に、私たちが生きていく世界です。 この主の言葉が語る「あなたがた」とは誰でし ょう。主イエスは、ファリサイ人に尋ねられて 答えられたのです。言い換えれば、神の御子に よる救いを、恵みとして、受けとめるところに、 実現する神の支配のことなのです。主イエスは、 そこに神の愛の支配を始めておられます。もの すごい力をもって始めておられる。神の国はそ こに開かれる。五島列島に行く必要はない。こ こにそれが始まっている。私たちのただなかに、 神の国の現実がある。 Ⅳ.神の国はここにあり 主イエスが共に生きていてくださる。日々の 生活が、どんなにつらくても、この「神の国は ルカは、21節の始めに主の言葉を続けて、 あなたがたの間にある」という約束から外れる こう記します。 「 『ここにある』 『あそこにある』 ことのない生き方はできるのです。神の賜物と と言えるものではない」 。 「見える形では来ない」 して生きることができるのです。お祈りをいた という言葉を言い換えています。ファリサイ派 します。 の人々が、特別な使命感をもって、神の支配の 到来を見つめている。そのようなところで、見 えてくるような神の支配が、私の父なる神が、 今ここで始めておられる神の国ではないのだ と言われたのです。なぜ、こういう誤解が生じ
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