赤信号 ぼんやりと灰色の空を眺める。いつもと同じ、池袋だ。 同じ?同じなもんか。どこか歪んだ景色は気を抜くと消えそうなほどに白んでいるし、人っ子一 人いやしない。 否。一人いるにはいる、が、これが何よりもの非日常だ。 「…なぁーんでてめえがいやがるんだぁ?いーざーやーくぅーんよぉ?」 何故か俺の左手にはしっかりとノミ蟲の右手が握られていた。振りほどけばいい、だけの話なの だが。 大人しく隣におさまったノミ蟲は、少しだけ目線を上げて、にっこりと笑顔を向けてきた。 「ものすごく今更な反応だねえ、何も覚えてないの?」 「何を」 「君の脳みそなんてこれっぽっちも信頼してなかったけど本当に使えないんだね」 「てめ」 「痛いよ、ゆるめて」 瞬間的に力の入った手を指摘されてハッとする。開いて振りほどこうとしたところをきゅ、とつ かまれ阻止された。何やってんだこいつ信じられないと思わず目を向ければ心底嫌そうに睨まれ る。 「離せとは言ってないだろう、もうすぐ判決が下るんだから勝手に消えないでよ」 「ああ?何言ってんだてめえいつにもまして意味が分からねえ」 「残ってるのは君だけなんだから、まあやる必要なんてないとは思うけどねえ、決まりだからさ あ」 「だから何の話だ」 「ほら、最後なんだからしゃんとして、こっち」 疑問には一切答えずに話を進められる。判決?こいつまた俺をハメようってのか。よし殺す今す ぐ殺す。 声が漏れていたのか少し下からやれやれこれだから化け物は話が通じなくて嫌なんだとかなんだ 聞こえるが話が通じねえのはてめえだこのノミ蟲野郎俺は化け物じゃねえ! 「君が化け物かそうじゃないかなんてのは君が決めることではないよ」 「てめえが決めることでもねえだろうが」 「だから今審判を待っているんだろう。因みに君のだぁい好きな弟君は、化け物に選ばれたよう だけど」 「ああ!?」 「だから暴れるなって、あと俺は別に幽君には何もしてないからね」 ぐい、と引っ張られ進んだ先には横断歩道があった。やけに長い。反対側は霧でもかかっている かのように見えないで、普通の長さの横断歩道の端辺り、道路の途中だというのに歩行者用の信 号が立っていた。電気は他の信号と同じ様についていない状態だが。 「…あ?なんだあれ、一個しかねえぞ」 「だからやる必要なんてないはずなのにねえ、ここに来てる時点でさ」 「だからさっきからなんなんだ…判決がどうこうと関係あるのかアレが」 「おや、少しは頭も機能してるようで安心したよ。そうだね、あれが点いた時が審判の時だよ」 「今度は何の罪でハメようとしてやがるんだてめえは」 「罪なんかじゃないさ、それに判決を下すのも俺じゃあない。俺はただの案内人、勝手に消えな いようにね」 「案内人?」 「そう、ここはある転機が訪れてしまったモノの来る場所なんだよ。判決の基準は諦めるか否か 、執着の度合い、転機となった原因に傾ける熱量、君の場合は…さて、自覚が無いようだけども 」 言いながら、信号を睨み付けている男の手に少しだけ力が入った。咎めている訳ではない、らし い。 「それの大半はね、愛にある。人は何かに愛情を傾けて、ある日こんな転機が訪れるんだ。新羅 なんて早いものだね、首無しと出会ってからだからもう二十年も前にここに来ている」 「結局ここはなんなんだよ、案内人て何だ、何企んでやがる?」 「一回で理解できもしないくせにそういっぺんに聞かないでよ、案内人は案内する人だよ、ああ 怒らないで。ここじゃ手を放したら消えてしまうんだ。物理的に消えるわけじゃなくてもとの世 界に戻るだけだけど、ここに来るまでに至った本人の気持ちが消えてしまうんだよ、消化不良こ の上ないだろ?だから迷子にならないように案内してるんだ、この場まで」 「諦めるとか必要ないとかは」 「必要ない?ああやる必要がないってやつか、気にしなくていいのに。ここに来る時点でね、大 体の決意は決まってるんだ。その執着を、諦めない。どうなっても続けていく。寧ろあの信号を 渡ることで今まで以上に。ただ判決が決まった後に逃げ出すヤツは多いんだ、俺は手を引くだけ 、逃げる者は追わない。後悔も知らない」 どことなく不機嫌そうにつらつらと言葉を並べて、ふとこちらに目を向けて、理解してなさそう だね、と呟く。 「まあいい、さあ時間だ、君がどうするのか…」 ぱち、と、ライトが点灯した。赤信号。上のだけだったのか。 「さあ、判決は下った。行こうシズちゃん」 「あ?おい、赤だぞ、いや車もねえけど」 「ああそうだ、これを言ってなかったね、この世界では」 それでも行くかい、と問う目は必死に望むような色をして見えた。 その多くは愛にある、転機。諦め、執着。 他の何を振りほどいても、譲れないもの。 「赤信号は、『人間、止めます』、だよ」 きっと憎しみと愛は似ている。相手のために、相手のせいで、酷く身勝手になる。 上等じゃねえか。 手に力を込めて、歩を進めた俺を見て、隣の男は酷く安心したように、ようこそ、と囁いた。 世界は変わるよ(途中) どかっとその細いといえどもでかい図体を乱雑に沈ませた静雄は見るからに苛立っていた。あま り彼がここに来て苛立ってない時もないけれど。呪詛のようにこぼれる内面は他人事とはいえ衛 生的によくなさそうだからやめてくれないかなと思わないこともない。 理由はだから、聞くまでもないだろう。やけに土埃に汚れた格好と、先客がいないことから今日 は数だけの刺客でも送り込まれたのだろう。特に酷い怪我は見た目にもなさそうだ、いつもだけ ど。 「で、今日はどこか治療すべきとこはあるのかい?見た感じ汚れてるだけなようだけど。」 「あー…いや、特にはねえんだけどよ、頭殴られたし、トムさんが念のためって心配するからよ …」 「そう」 世話になっているという上司の名前を出すと少しだけ人も殺せそうなオーラが弱まった。殴られ たという割に問題なさそうなその頭をかきながら、照れくさそうにしているのを見て、随分優し くされてるなあとぼんやり思う。 いや、それでいいのだろう。平和は何よりだ。彼女が喜ぶ。静雄だって本来は大人しい人間なの だ、ただ一人が掻き回してしまっているだけで。 「随分よくしてもらってるんだね、良いことだ」 「ああ、ほんとに勿体ないくらいいい人だトムさんは」 「静雄は良い出会いに恵まれてそうだよね、最近特にそう思うよ」 「そうか?まあ俺なんかによくしてくれる人もいるけどよ、けどよ…」 ふつ、と最初の空気が戻った。酷くわかりやすい。言葉に出さなければいいのに、とも思うが、 愛憎は紙一重とはよく言ったもので、成程自分も確かにわかっていても彼女への想いは口をつい て出てしまう。そういうものなのだろう。 また呪詛のように原因を罵り始めた静雄の言葉をそれなりに聞き流しながらぬるいコーヒーをす する。 まあ、彼の意見ももっともだ。あいつのすることは大半がろくでもないものでしかない。嫌われ るのも当然だ。 でも、と。 先ほどの幾分か柔らかくなった静雄の雰囲気を思い出す。環境は人を変える。敵ばかりだった静 雄の理解者は増えてるのだ。喜ばしいことに。今もろくでもないもの紹介しやがって思い出させ やがってと自分に八つ当たりをしてくる決していい人ではない彼にさえ。 あいつは、どうだろうか。悪事に付き合ってくれる人は増えているだろう、その理解ではなく、 もっと深い部分。 きっと未だに僕しか知らないのだろう、あいつは易々と人にあんなものを教える人間ではない。 気付かれるならまだしもだ。勘付いてもまさか、で流せてしまうような、決して本人にはさとら せない、そんな態度を選んだのはあいつ自身だ。 環境が、というなら自分が悪いのか、優しくすればよかった?助言を与えればよかった?違うだ ろう、そんなことは望まれていない、まだ。向こうも私がそんなことをしてくるなんて思いもし ないだろう。 ひとりなのか。伝えることも誰かに話すこともなく。不器用に不恰好に、取り繕う必要もないこ とを無理に取り繕ったから、酷く歪な血塗れの美しい姿で。 それはあまりにも、なんだか、 「そうだね、確かに全部全部あいつのせいなんだけど」 「あ?」 「それでもね、君を見ていると思わずにはいられないんだ」 僕が、君が、彼が、 「世界がもう少しだけ、臨也に優しかったら、って」 そしたら、少なくとも僕までこんな気持ちになることはないだろうに、ね。 特に意味のない話 ジリリ、と焼けそうな日差しをやんわりと遮るレースカーテン越し。いやに近く聞こえる蝉の声 だけを聞きながら、ああ、と、なんともなしに感嘆する。 空調を効かせた室内で、小さくもない図体をだらりと床に、ソファに横たえて、一体何をしてい るのだろう。 必要もないのに気分だけで、手にしたうちわをだらしなく垂らした頭に向けてあおぐ。 すっかり、夏だね。 …ああ、 くるとは思ってなかった返事に、やる気なくうちわを掲げていた腕を胸に降ろした。きっと向こ うも同じだろう、ごろりと寝返りを打った気配がする。 二回瞬きをする前は、すっかり梅雨だねと呟いたような、脳が窒息して死んでいくようなこの空 間で、まだ生きていたか。 ゆっくり目を閉じれば、どろりと脳の代わりに思考が溶け出す。ソファを伝ってどろどろ流れて いくそれは、度々何もない床の上、相手のそれと混ざりあった。 それでもまだ腕を伸ばすに至らない。顔を上げるに至らない。 鍵のかかっていない扉はまだ開かない。 微睡むほどに温かな、この分かり合えたような繋がりを持つ空間は、一度表に出れば消えてしま うと互いに知っているのだ。 幸せの種 「例えばね、シズちゃん。人の言葉が種だったとしよう」 途端嫌そうな顔をしたのを流しもせずに受け止めて、気にせず続ける。 どうせたとえ話なんだから肩の力も抜いて聞き流せばいい。それくらいの戯れ言のつもりだ。 そう、例えば、人の言葉が種だったとして。 それがどんなものを咲かせるかというのは、すべて植え付けられた側によるのではないか。 水も遣らずに腐らせる無感動な人間もいるだろう。気付けば花畑になってるような前向きな人間 だっているだろうし、ささくれだって棘だらけだったり虫に喰われてみる影もない花だってある だろう。 巣食うだけで一向に芽吹かない、枯らせようとしてるのにそれも叶わないものも、色褪せずに咲 き続けるものも、言った本人の意思とは別の姿で芽吹くものだって少なくないだろう。 「まぁ一部の人間には君に向けた"嫌い"ですら妙に艶やかな薔薇を咲かすみたいだからねえ…」 「?…で、結局何が言いてぇんだ」 「んん、そうだな」 たくさんの言葉は俺の中では種として芽吹かず情報として処理されて、残ったものを覗いて見れ ばいやに君のものが目立ってしまった。 そんなに気にしてたのかと心底鬱陶しくなったときに、見付けてしまった。気付いてしまった。 この男ががどう思って投げた種かは知らないけれど、その中に、やけに柔らかい色を咲かせてい たのを。 それが、ずっと投げ掛けずに捨てていた俺の種から勝手に芽吹いていたものと、ひどく似ていた ことに。 そんなつもりは微塵も無かったのに、棘の生えた種から現れたその色は、すとんと受け入れられ る程に自然なものだった。 自己解釈のこともあるからそれが全てだなんて言わないけれど、もしそれが本当だったとして。 最初から、棘の仮面などつけずに落とす柔らかい種は、どれほどの鮮やかさでその花を咲かせて 惑わせるのか。 「君が好きだよ、って話さ。シズちゃん」 自分にしてはこの上なく、素直なこの種が、どうか枯れずに強く根を張り芽吹けばいい。 色は、そうだな。笑える程一気に染まった今の君の顔みたいなのがいい。 寝てはいけません 寝てはいけません寝てはいけません寝てはいけません てはいけません寝 いけません はいけ せ き、て パシン、と渇いた音が響いて意識が浮上する。 何度も呼ばれる名前が段々はっきりしてきて、手が乱暴に頬をすべる。 「おき、て。やだ、起きて」 「…悪い、大丈夫、起きたから」 漸くはっきりした視界に飛び込んできたのは酷い泣きっ面だ。それでいて怒ったように睨み上げ てくる。 腕時計を見るとさっきからまだ二時間も経っていなかった。くそ、やっと寝たと思ったのに。 「ばか、」 「うん、ごめんな」 無理矢理に拭った目元は赤く腫れている。酷い隈だ。もう何日まともに寝てないんだろう。 「もうこんな時間か…何か食べるか」 「いらない」 「…ちゃんと食えよ、何がいい」 「…じゃあオムライス」 ふて腐れた口から発せられた答えに安心した、まだ食欲は残っているらしい。食べ切れはしない だろうけど。 ふらついた体を支えて先に椅子に座らせる。おとなしく従うと、目をぐしぐし擦ってこちらに視 線を寄越してきた。まるで頼りない監視だ。 「心配しなくてももう寝ないから」 「うそ」 「嘘じゃないよ、料理してるのに寝たら大変だろ」 笑って先に目を逸らした。準備をしてる間に小さな紙包みを手に取って、暫く悩む。 動きが止まったから不審に思ったんだろう。声をかけられ、何でもないとそれを捨てた。 あの中には睡眠薬が入っている。正規ルートじゃないから割と強力なやつだ。 いい加減無理矢理にでも寝てほしいと考えて入手したくせに、どうにも使う気になれなかった。 不眠の限界で倒れてもさっきみたいにすぐに起きてしまう。どうやら精神は肉体に勝つらしい。 どれだけ体が睡眠を要求しても彼は頑としてそれを拒否するし、気絶でもすぐに悪夢にうなされ る。 全ての原因だ。夢の中で彼はひたすらに起きることのない死体を起こしている。事故ったわけで も殺されたわけでもない、前触れもなくただ眠ったまま死んだ人。 死ぬわけがないとわかっていても、彼ほどでなくても怖いのだと思う。もし、もしも弱った状態 で強い薬を服用したとして。 もしも。 「どしたの」 急に声をかけられて思考から弾き出された。振り向けば随分近くまできていた彼の目が細まる。 名前を呼ばれてのびてきた手を受け入れる。冷や汗で張り付いた前髪をそっと梳かれた。 「怖い夢でも見た?」 「…かもしれない」 「だから、駄目だって言ったじゃない」 寝たら悪夢が襲ってくるよ。そして夢に喰われるよ。 喰われたら最期、もう目は覚めないよ。 完全な被害妄想だ。それでも思い込みは人を殺せる。頑なに拒否する彼は何度だって喰われそう になっているんだ。ばらばらと眠る死体は増えていく。 もしも、もしも彼もそのまま。 「寝たら、駄目だよ」 「わかってる…お前も、」 「うん」 寝てはいけません寝てはいけません寝てはいけません寝てはいけません しっかり見詰めてくる目はまだ光が宿っていた。死人と自分と、それ以外に見ることのできる他 人がいたから宿った光。 寝てはいけないなんて、被害妄想に怯える臆病者が悪夢に打ち勝つための呪いだ。 怖いからずっと叫んでいる。何を? 死んではいけません死んではいけません 生き、て **** 4年くらい前に書いたやつ 平然とシズイザ変換した 窮に落つ シズちゃん、俺はね。いつも落ちるときになって伸ばされるその腕が、殺すと喚く口で必死に名 を呼ぶその声が、理不尽な君のその優しさが死ぬほど嫌いで、でも、それだけが俺の生きていい 理由だった。 ごうと唸るような風を下から受けながら、空でも飛べそうだとお決まりのように思う。何度か落 ちたことはあるけれど飛べた試しは一度もなかった。それでもいつも心は一瞬羽が生えたように 浮いて、直後現実に叩きのめされる。 初めは情けないことに本当に不注意で、こんな屋上から足を滑らせたのはシズちゃんとの殺し合 いの最中だった。しつこすぎる化物に流石に疲れて、やっと撒いたとへりに寄れば吹き上げる豪 風はいっそ心地が良かった。 そう、喚きながら追ってくる声が聞こえなかったからてっきり撒いたと思っていて。怒声と共に 壊されたドアの轟音にまずい、と思ったが一瞬。 ーーーあ、 ぐらりと反転する視界。体勢を立て直せばやりすごせない高さでもない。ビルからビルへと幾度 となく逃げおおせてきた、それをあの化物も知らない訳ではないだろうに。 見上げた視界、月ではない光る金色が屋上の端に舞う。怒声ではない余裕のない声で俺の名を呼 ぶあの声を、届きもしないのに伸ばされたその腕を、きっと忘れることはないだろう。 たん、と着地を決めたのを見届けて、安心したような、それが腑に落ちずに顔をしかめた妙な表 情を見上げて、俺だって腑に落ちないと睨みあげる。 俺を助けようとした?まさか、ただの反射だ。投身死体なんて見たくもないだろう。自分が殺す と叫んでいるから。言い訳を重ねて背を向けて逃走を続ける。我に返ったように元の嫌悪を取り 戻した声を聞き入れながら、そのくせ先の響きが頭の中で反響していた。 多分、救済と断罪を求めていた。 どうしようもなくなったときに、都合良く自分に仕向けた裁判。その判事を、君に。 最初の不注意からどれだけあの光景を見届けただろう。悪事を企てると匂いでわかるなどと理解 不能な理由で追われながら、その度に足は逃げ場のない屋上へと向かう。轟音と共に開け放たれ る扉を眺めて端に立ち、何度目か分からない光景に眉をしかめる男の名を呼ぶでなく呟いて、僅 かに後ろへ。風に乗って届いているのかもかき消されてるのかも分からないまま、目を閉じる。 瞬きの後に見えるのはあの光景か、それとも。 彼に根付いている誰を問わない良心が俺なんかにまで向けられてしまうのがいけない。普段の殺 意は嘘でもない。それでも目の前の事故に耐えられない。なんてお人好しだろう、人でないくせ に。 だから、誰でなく俺を認識して、無意識を上回って、早く判決を下して。手前なんかは生きてち ゃいけないんだと殺して。さもなくば慢心して、いつも通りだと思い込んで、俺を見捨てて。ど うせ逃げおおせて死にはしないのだと、見当を付けて見誤って。 君の無意識がいつだって苦しめるんだ。その力がありながら真綿で絞めるなんて趣味の悪い。早 く君も苦しめばいい。その力でなく、俺のせいで。 好奇心は強欲だ。死んだら俺はどこに行く?意識は魂とやらに依存するのか、出掛けに流した情 報は、火種は、彼らは、俺がいなくてもどこまで走り続けるか、裏切りに足を止めるのか。気に なることも気にすべきことも山程ある。ずっと怯えてたものがこんなに間近にあるというのに。 愛してたものがもう見れないと言うのに。それだけで生きてきたのに。 ねえシズちゃん、今だって聞きたかった。どうして何度も手を伸ばしたのか。あの声は聞こえて いたのか。どんなきっかけでそれをやめたのか。最後に気になることが君のことばかりだなんて 冗談じゃない。本当に腹の立つ。 最後まで聴覚が残るのは本当らしい。聞いたこともないようなみっともない声で俺の名を叫ぶが 聞こえる。顔が見れたら、声が出せたら、ざまぁないとせせら笑ってやるのに。 生涯忘れられないだろうと感じたあの光景は、再び目を閉じる前に見た月のない真っ黒な夜に塗 り替えられてしまった。 はんぶんこしましょう、そうしましょ ぱちり、自分にしては素直に目が覚めたら視界が随分と暗かった。顔の半分を布団に埋めるよう にして目の前の体温に頭を預けていれば当然か。このいつだって自分よりも暖かい男は、顔を上 げた自分に気付くことなく未だにぐうすかと寝こけている。 俺の方が確実に疲れてるのに、いいご身分だことで。 普段ならば蹴りの一つでも入れて暖房とコーヒーくらいは命じるところだが、少し開いたカーテ ンの隙間から見えたのがきらりと世界を照らしたような朝だったので、まあ許そう。夜のうちに カーテンを開け、雪だと声を上げた俺の肩をそんなことより風邪をひくと言わんばかりにぐいと 掴んで布団に押し付けた腕は、今は腹の上から背中に回っていて、代わりに顔まで埋まるこの布 団である。大方疲れて自分が寝付いた後にしっかりと布団をかけて――…いや、浮かんだ予想は あまりにも恥ずかしいのでやめておこう。首の辺りがむず痒くなる。無意識に首元をなぞるとき は照れてる時が多い、と自信満々に言われたことを思い出す。 起き出して手近にあるシャツを羽織る。ついでにカーディガン。ずると足に落ちた腕は下手に声 を掛けると寝ぼけて抱え込まれ余計脱出不可能になるのを経験上知っている。ので、気にせずそ のまま立ち上がってしまう。ばたり、シーツに落ちた腕が物足りなそうにもぞりと動くのを見え ないように布団をかけ直してそのまま部屋を出る。 狭いキッチンを勝手に拝借しているところでようやくのそのそ家主が起床したらしい。ぼんやり と上半身だけ起こした状態でこちらを眺めている。 「おはようシズちゃん、何ぼうっとしてるの」 「あー…いや」 「なんでもいいから顔洗ってくれば。ご飯できるよ」 「あー…うん」 いやに決まりの悪い返事ばかり返す男はしきりに首の後ろを掻いている。いい当てよう。俺が首 の前と指摘されたことはこの男には首の後ろに該当する。何を今更。 おかしな顔のまま洗面台へ向かう頃には手元のフライパンがじゅうと美味しそうな音を立てる。 綺麗な半熟卵とカリカリのベーコンに知らず満足げに笑う。 朝食はいい。それが卵だろうとパンだろうと、動物の命や人の手が加わったものを頂いて、終わ ったものを今日へと続けていく。そうして今日を生きていくのだ。 外では少しだけ積もった雪にはしゃぐ子供の声や通勤する車のエンジン音。いやあ愛する人間た ちは今日も無駄に勤勉で何よりだ。 そんなことを思いながらスープを温めているとのし、と肩にかかる重み。何度言えばこの馬鹿は 火を扱ってる時や包丁を持ってる時に邪魔をされたら俺が危ないと覚えるのか。馬鹿だから無理 か。しね。 「邪魔なんですけど」 「うん」 「うんじゃないだろ、ほらそこのサラダとかテーブル運んでよ」 「んー…」 「なんでそこはうんじゃないんだよ、シーズちゃーん?」 むずかる子供のように首にぐりぐりと頭を押し付ける。こいつ何歳だと思ってやがる。まあ昨日 今日で変わるわけもないけど。 「なんつーか」 「うん?はいこれ持って、はい移動」 「聞けよ」 「聞いてるよ、そっちが聞けよ」 「うぜぇ」 いただきます、と始めてしまえば大人しくなる。全部溢れ出さない程度の黄身にベーコンを絡め てもぐもぐと咀嚼。食べ盛りの大きな子供のようだなあ、と食事の時はいつも思う。 「うめぇ」 「この卵おいしいよねえ。今度オムライス作ってよ」 「いいけど。それ何味」 「トマト。ベーグルって野菜でもおいしいからいいよね」 食べたそうにしているので残りの半分を分けながら、またもごと膨らむ頬を眺める。 あ、ほんとだと呟いて、そのまま二口で頬張りスープを飲んでひと息。ふと目が合って何、と問 えばなんつーかよぉ、とさっき流した言葉をまたこぼす。ああ、いやだな、聞きたくない。首の 辺りがまたむずりとする。相変わらず冷たいままの指先を暖めるようにマグカップを握る。うん 、と続きを促してマグの中をじっと見つめる。 「いいよなぁ、こういうのって」 「こういうのって」 「わかれよ、わかんだろ」 「わかんないよ、雑だなあ」 笑おうとして失敗して、下唇をきゅっと噛む。わかっている。そしてそれもバレている。てめえ は馬鹿だな、と失礼なことを静かに笑いながら呟いて、砂糖たっぷりのカフェオレをすすってい る男の顔をまともに見れる気がしない。ともすれば叫ぶか泣き出すかしそうだった。 あまりにも時間をかけすぎたのだ。どちらの性格上きっと仕方がなくて、名前も付けれないよう な想いだけが昇華出来ずに手遅れな程積もっていく。そう、もう手遅れで、お互いしかないとわ かっていながら掴めなくて、掴まれて。長い敵対関係で築いた猜疑心がすぐに無くなるわけもな くて、そこからまた時間をかけて、やっと信じることができた遠回り具合だ。 馬鹿と指摘されたのは俺の性格以外の何者でもない。信じられるようになったら、思っている以 上に渡されるやけに暖かい好意を、どんな顔をして受け取って、どうしていいのかわからないな んて。今更なんて自分の方だ。それでも手放せるわけもないから勝手に途方にくれてしまう。 いざや、と呼ばれてやっと顔を上げるとふに、と額にやわい感覚。呆気に取られた俺の顔を見て 満足げに笑うこの男は今何をした。信じらんない君そんなキャラじゃなかったろう糖分取りすぎ て脳みそ砂糖になったんじゃないの、なんて文句は結局声に出ず、代わりにシズちゃんなんて嫌 いだ…と何度言ったかわからない台詞が出てくる。 「言うに事欠いてそれかてめぇ」 「いやほんと…なんで俺ばっかこんな思いしなきゃなんないのかほんとにわかんないんだけど君 だろ本来は」 「何が」 「……」 だって君今日誕生日じゃないか。言葉に出さずに口を結ぶ。どちらかと言うと死にそうな程恥ず かしいけど、それでも嬉しいとか幸せだとか、そうなるべきは君のはずだろう。俺は恥ずかしい んだけど。目の前の男は都合のいいことしか聞き入れないから、墓穴を掘りそうでそれも言わな いでおく。 そうだ、目的はそれじゃないか。既に言わされてはいるけれど。意識をしたら急に渇いてきた喉 を落ち着かせるために半分ほど残っているコーヒーを一気に飲み干す。熱い。もう全部これのせ いだ。息を吐いて空になったマグを再びきゅっと握り締める。 「…シズちゃんさ、今日仕事終わったらうちおいで。ご飯作って待ってるか、ら」 「……」 「…ちょ、っと…おい、」 こうもわかりやすく誘いをかけるという恥ずかしさも吹き飛ぶほど、なかなか返ってこない返事 に大丈夫大丈夫とかけた暗示も全部崩れて指先が一気に冷える。用事があるならさっさと言え別 に朝まで居れたからそれでいいんだし、と予防線をはって顔をあげたら、口元を覆っても隠れて ないだらしない顔があった。 …こいつ。 「いや、行く。うん、すぐ行く」 「ニヤニヤしてる暇あったら即答しろよバカ!」 「いっ…てぇ!てめえ割れたらどうすんだ!」 「うるさい!俺悪くないし!頭割れればよかったのに!」 なんかもう俺の色々なものを返せ! 思わずマグを投げつけてしまったせいで支えを失った手は気付いたら首筋から鎖骨をカリ、とひ っかく。今の攻撃で怒ったかと思えばそうでもないらしい、じっと見られてる事に気付いて手を 離す。手持ち無沙汰になった指は左の指輪をなぞり始めて、ああもう落ち着きのない子供か俺は 。全部この男のせいだ。 人の気も知らないで、原因はガリガリと首の後ろを掻いてあーと無意味な声を出す。 「即答しなかったのは悪かったけどよぉ、てめえがいつまでもそんななのもいけねえだろ」 「そんなってなんだよ。俺は悪くない」 「悪いなんて言ってねえだろ。かわいいっつってんだ」 「……初耳なんですけど」 「てめえ動揺すると敬語になるよな」 「もう黙ってくれない?早く仕事行けよ」 これ以上からかっても誘いが無くなるだけとわかっているのか、時計を見て割とあっさりとそう だな、と応えて空になった食器を下げる。そのまま歯を磨きに行っている間にため息をついて残 りをもそもそと食べる。着替えと入れ違いに自分も歯磨きへ。後悔やら不安も水に流してしまい たい。 カツン、爪先で鳴らす革靴が待つ玄関先。ドアノブにかけた手をあ、と離してこちらを見やる。 忘れ物か、いやそもそもこいつ手ぶらだろう。 「多分7時くらいには空くと思うけど一応連絡する」 「どっちでもいいけど。あーもしお祝いしてもらえるようなら連絡してよ」 「行かねえけど」 「君なんか祝ってくれる人貴重なんだから厚意は受け取っときなよ」 本当に裏なく言えば何が引っかかるのか眉をしかめた。 貴重とは言ったもののきっとそう少なくないだろう。別に自分以外の誰の祝福も受けるななんて 理不尽なことを言うつもりはない。変に落ち込まれたり負い目になるなんてごめんだ。前日から 連れ込まれ、鳴り響いた着信音には目もくれず、口を開いた俺の言葉に破顔したのが見れただけ で割と満足だったりもする。夜まで、なんて欲張りなわがままでしかないのだ。人の欲求とは恐 ろしい。 それから、そうだな。ほんの少しの願望。いつまでもそんなだから、と言うなら何度でも信じさ せて安心させてくれ。 「おめでとうシズちゃん、たくさん祝われておいで」 背を押して送り出す。洗い物を済ませて早いうちに家に戻ろう。ポケットに入れた鍵をぎゅうと 握り締める。まだ一日は始まったばかりなのだ。ざわつく街はきっと彼を待っている。 たくさんの人から幸福を貰って、心まであたたまって。そうして満ち足りている状態で、それで もそこに留まらずに俺の元まで来てくれるなら、本当にもう、それだけで。 はんぶんこ改めおれのばけものの別エンド 最後のほう。 ほんとはこのくらいラフなノリで行くつもりだったんだよって話。 「ほら、いってらっしゃい」 軽く背を押して送り出す。眉をしかめたまま何か言いたそうにしているのを無視して手を振る間 にバタンとしまるドア。相変わらず立てつけの悪いそれを閉じなおして食器を流しへ置いておく 。 カンカンとうるさい階段の音がしなくなった頃、窓を開けてふざけた格好の金髪を探す。 ひょろ長い背中。街に愛されてる彼はきっと、彼が思っているより今日という日の祝福を受ける だろう。知らない人にも知らしめてしまえ。君が生まれて生きた街だ。 そうして俺も知らしめてやろう。少し浮ついたようにも見える彼の背中に。朝の冷えた空気をい っぱいに吸い込んで、 「シズちゃん、ラブ!!!」 突然響いた大声に肩が跳ねる。見えない爆撃でも喰らったみたいに少し呆然と、でもオロオロし ながらこちらを振り向く。ああほんとうにおかしな顔。しかめっ面のようにも見えるけどその赤 い顔は怒ってる訳じゃないね、わかりやすい。恥ずかしいより照れのほうが強いのだ。おもしろ いほどの動揺に思わず声を上げて笑ってしまう。 早くいかないと遅刻するよ、とひらひら手を振って、ああ俺も締まりがない。帰ったら覚えてや がれと叫んだ言葉にどうしようもなく浮ついてしまう。 愛されたがりのおれのばけもの、どこへだって探しに行けばいい。そうしていつだって、俺のも とに帰っておいで。 スーツケース ぐわんぐわんと頭が揺れる音がする。体中の血が頭に上って心臓も居座ったようだ。耳元で煩く 脈が響く。本当に全身に行き届いているのだろうか、化け物の拳をかわせなかったこの使えない 体は。揺れた視界にまずいと告げた本能の従うままに何とか逃げ切って、駅から離れた場所に逃 げ込んでしまってああこれは無理だなぁと他人事のように笑ってしまう。似合いといえば似合い の最期だ、もう少し生きたかったけれど、終わりだとわかればすべてがどうでもいいように思え てしまう。正確にはどうしようもできないのだけど。 あれは気付くだろうか、自分の手で俺が死ぬ事実に。実際に殴られたのが致命傷だろうが吹っ飛 ばされて頭を打ったのが致命傷でもどちらでもいい。あれはどちらが原因でも自分のせいだと感 じるだろう。もしくは、自分の力のせいだと。 チ、と舌打ちをして携帯を取り出す。死んだことなど気付かずにそのまま暴れればいい。まだ騒 動は止まりはしない。俺の影にキレてとっくに死んでる俺のせいにして暴れ続けて、期限が切れ たら事実を知ればいい。原因を押し付けた俺はとっくに自分によって殺されてると。 「もしもーし。波江さーん?」 「そのふざけた口調をやめないと切るわよ」 「ごめんって。ところで急だけど頼みごとがあるから間違いなく遂行してね、優秀な君なら問題 なく出来ると信頼しての仕事なんだから」 「ほんとに人使いが荒いわね…」 「んーそうだね申し訳ないけどこれから波江さんしかいないからさぁ…。まぁいいや、まず俺の PCの×××っていうフォルダにやってもらいたいことと…まあ詳しく書いてあるからそれやっとい て。長期になるけどそれ相応の報酬は入るようにはなってるから投げ出さずに必ず遂行してね、 失敗してもいいけど。パスワードは…」 「ちょっと待ちなさい、どういうこと?あなた私に全部押し付けて高飛びでもするつもり?」 「押し付けるのは正解、俺もうすぐ死ぬから、内密にしといてほしいんだよねぇ」 「…あら、ついにとどめでも刺されたのかしら」 「ふふ、そうだね、腹立たしいことにシズちゃんの拳が思った以上に聞いちゃってさぁ…結構限 界みたいなんだよねこれが」 「ふぅん…?通りでいつも以上に頭がおかしい発言ばかりなわけね。なんにせよいい気味だわ」 「雇い主が死ぬっていうのに厳しいね…とにかく給料は出るようにしてるからそれが終わるまで 情報屋はよろしく頼むよ。内緒でね。終わったら好きにしていいから」 「…あなた本当に死ぬの?」 「心配してくれた?」 「死ねばいいわ」 「ははっ!…じゃあ頼んだよ波江、」 プッ、と通話を切って一気に息を吐く。やるやらないはどちらでもいいけれど、仕事といえば彼 女のことだからいやいやでもやってくれるだろう。俺の死体は実際彼女に見せるわけではないか ら姿をくらました程度で済ませるかもしれない。……そうだ、死体。 すっかり見えなくなっている使えない目は既に閉じてしまった。手汗で落ちた携帯を再び掴んで 、手癖のようにしみついた番号にコール。二秒。 「はい」 「やあごきげんよう奈倉君、今から………に人一人入りそうなスーツケース用意して急いで来て くれないか?」 「は、はぁ…?なんですかそのいかにも怪しそうな依頼は…」 「拒否権はないのはわかってるよね、大丈夫ヤクザ絡みとかじゃあない。ただ君はスーツケース だけ持って指定の場所に来て、…誰にも見つからないようにそこにあるものを詰めてそこから回 収してくれればいい」 「…そのあとはどうしたらいいんですか」 「そうだな…ばれないように処分してくれればいい」 「処分していいんです?つーか、なんなんすかそれ…」 「来ればわかるさ、時間がないからすぐに頼むよ…ああそうだ」 「ま、まだなんかあるんすか」 「この任務が終わったら晴れて君は自由の身だ、おめでとう」 「…はい?」 「もう君の名前を借りることもしないしこうして何かを頼むこともない。もちろん危害を加える つもりもない。嬉しいだろう?…はぁ、じゃあ、そういうことだから、よろしく」 遠い電話口でまだ何か叫んでいる奈倉の声を無視して手から滑り落ちた携帯を眺める。そろそろ と取り出したナイフを雑に振り下ろせばあっさりと壊れてしまう繋がり。杜撰になってしまった けどこんなもんだろう。自由だと言われたのに慌てふためいていた声を思い出してふ、と息がこ ぼれる。自信のなさそうな怯えた顔をしてスーツケースを抱えた彼は、俺の死体を見てどんな顔 をするだろうか。見れないのが惜しいなぁ、正直で、囚われて、罪悪感と反抗心に塗れている彼 の表情はなかなかに愉快で好きだったのに。 ちょっと奈倉君視点まで持たなかったのでここまで 口調全然わからないの面白いひどい 夢見る機械に天使のキスを きらきらと、あなたが生きるこの世界に、生まれてきたことがしあわせなのだと、思い知らせて くれ。 半年ほど前の話だ。メンテ中にたまたま耳にした誕生日の情報。 知らせるつもりもなかっただろうと半ばキレ気味に仕事をあけさせて、子供みたいだと言われた 飾り付けをして、食べきるのに困るくらいの御馳走とケーキを作ってもてなした。 文句のような感想だって笑っていたからいいのだ、流されるより呆れられるくらい過剰なほうが いい。なんせそういうとこばかり鈍感なのだあの人は。 嫌じゃなかったことなんて、本当に仕事を休みにしてくれたことで充分わかる。あれで池袋で喧 嘩でもされに行かれたら心が折れに折れていたはずだ。 ―――かくして。 「今日、君誕生日だろう」 いつもより念入りに掃除して、いつもと同じように気合いをいれて紅茶をいれて、パソコンに向 かう折原さんに差し出しながら今日のご飯の希望を聞こうとしたら、メンテに行くついでに栄養 材貰ってきてよと変態眼鏡の元へ行かされたのは午前中の話だ。 食べきれないからと貰った折菓子を持って帰ればおいしそうな匂いとそんな言葉に迎えられた。 「あれ、違った?新羅には起動日なら今日だって聞いたんだけど」 ぱちくりと瞬きを繰り返すばかりの俺に、何でもないように言ってのけた無表情からすこし眉を ひそめて繰り返す。 確かにデータは間違ってない。そして忘れもしないこの人と出会った日だ。だからこそ一人勝手 に御馳走にしようとしていたのだけれど。 「ちがくない…」 「そう、よかった。ご飯決まってなかったみたいだから勝手に使ったけどまずかった?」 「まずくない、おいしい」 「まだ食べてないだろ、スーツ脱いできたら」 いつまで呆けてるんだと背をおされ流されるままリビングを出る。 のろのろともたつきながら着替えてる間も心臓は馬鹿みたいに早く脈打って頭は高速回転しすぎ て場外だ。 え、え?誕生日?折原さんが?祝ってくれるの?俺を?え? 「ええええええええ!!?」 「うるさいよデリオ。何もたもたしてるの」 「おっ、折原さ…」 「冷めるよ」 「いただきます!」 どうぞ、と向かいに座った折原さんにシャンパンを注がれ乾杯をする。何、何だこれ。何が起き てるんだ。 「嘘みたいだ…」 「夢みたいじゃないんだ」 「ドッキリじゃないよね?」 「いい加減目醒まさないとやめるよ?」 「ごめんなさい!これおいしいです!」 「そう」 にっこりと笑って諭されて、慌てて夢見心地をやめる。いや、現実なのはわかっているんだ、追 い付いてないだけで。 ただこれ以上信じられない体でいると、拗ねてもう二度とこんなことしてくれなくなるのが容易 に想像できてしまうから。あの笑い方は危険だ。まだ無表情の方がいい。 「食べおわって、少ししたらケーキもあるよ」 「至れり尽くせりじゃないすか…」 「君だってベタベタだったろ」 頬杖をついて呆れたように笑う、もっと言えばこれの方がいい。照れ隠しだと気付いたから。少 しだけ逸らした目線が気になるけれど。 じいっと見つめていたら、困ったようにねえと声をかけられる。 「ドーナツの方がよかった?」 「え、なんで」 「結局何にしたらいいのかわからなかったんだ。プレゼントも、」 何がほしいとか好きだとか、浮かばないし。そう口許だけ笑う。これのせいか。 なんにもわからないと、落ち込むような。馬鹿だなあ。 (あんたが選んでくれたものならなんだって嬉しいのに) 「折原さん、ねえ、これすごくおいしい」 「そう」 「また作ってね」 「うん、…うん」 こんな約束をするのは狡いだろうか。でもそうじゃないと先の約束なんてしてもらえない気がす る。全部が全部信じられてないのなんてお互い様だ。 ねえ、終わりしか見えてないでしょう。それも酷い終わり方。 ごちそうさまも洗い物も済ませた頃に漸く、思い付いたように折原さんが口を開いた。少し悪戯 めいた声。 「そうだ、じゃあひとつだけ」 「うん?」 「ひとつだけ何でも言うこと聞いてあげようか」 くるりと立てた人差し指をついと向けられ口元だけ微笑まれる。 「ひとつだけ?」 「ひとつだけ」 「何でもいいの?」 「いいよ、なんならパンツでもキスでもそれ以上でも」 「ブッ…!」 さらっと言ってからいやパンツはちょっと嫌かななんて言ってる折原さんをよそにげふごふと噎 せる。 いや、考えなかった訳じゃないけど…!何を言い出すんだこの人は! 「大丈夫?」 「とんでもないこと言うからじゃないですか」 「だってたまに君口にしてるじゃない」 「聞かれてたーー!!」 叫ぶ俺を見てけたけたと笑う。なんでこんなときばっかり冷たい目で見てくれないのか。 好きでいることを許されているみたいだ。好きになるのは人間だけだと俺の気持ちを一蹴した一 年前のあなたに。 心がきゅうと震えてしまう。好き、だ。ねえ、好きなんだよ。 「ほんとになんでもいいの」 「いいよ」 「じゃあ、」 ずるいこと、言うよ。 「ずっと俺の傍で笑ってて」 星にかけるような願いを浮かべてしまうくらいには。 一瞬きょとんとした表情を浮かべて、意味を噛み砕くようにゆっくり瞬きをする。 そうして間をあけて、君は欲張りなのか無欲なのかわからないねと呟いた。 「何言ってるの、すげーワガママだよこれ」 「だって笑ってるだけなんでしょ」 「うん。うん、でも、ほんとは別に笑ってなくてもいい」 「何それ。怒られたいの?」 「怒ったっていいよ。我慢されるくらいならずっと怒られてたほうがいい」 「マゾなの?」 「違うって、いや、違ってはないけどそうじゃなくて」 ずっと一緒に居たいんだ。本当の表情を見せてほしい。我慢してひとりでいないでほしいんだ。 悲しかったり辛いことがあったんなら自嘲して皮肉ってないで、みっともないくらい俺に当たっ たっていいし、それにも疲れてしまったら側で泣いてほしい。弱ったあんたのそばにいさせてほ しい。 「…好きなんだよ」 ああ、何て言えば伝わるんだこの気持ちは。 「好きだ、好きだよ折原さん。あんたが笑ってるとすごく幸せになるし、俺のせいで笑ってくれ たらもっと嬉しい。泣くなら隠れないで、俺のせいならちゃんと怒って気付かせて、それでごめ んて抱き締めさせてほしい、俺は、」 薄い肩をぐっと掴む。その無駄に回る頭でどうかこの子供みたいな言葉を上手く捉えてくれ。 何だって笑って自分すら誤魔化そうとする人が、それを崩すときがどれほど悲しいのかなんて、 寂しいのかなんて、辛いのかなんて、まだ到底わからないけど。それでも。 「…俺は、あんたが独りだとすごくさみしいんだ 」 溜め息みたいに深く息をしながら細い首筋にもたれかかる。 拙い言葉を黙って聞いてくれていた折原さんは、ちょっとだけ身動ぎした後、正真正銘の溜め息 をついて子供にするみたいに俺の頭をぽんぽんとゆるく叩いた。 「君は大きい子供のようだね」 「どうせ一歳ですよ」 「正直で欲求に素直で、大人が隠そうとすることに敏い」 「…野生の勘だとか言いますか」 「そうじゃないよ」 どこぞの野獣を思い浮かべて少しむっとしながら顔をあげれば、予想外に穏やかな顔があって面 食らう。少し伏せられた睫毛がゆっくりと下りて揺れる。 そのまま惚けて見つめていたら、気付くことなくそのまま、ただね、と呟く。 「愛されてるみたいだと、思っただけだよ」 宝物を眺めて思い出を語るような声だった。ひどく大切なものを見守るような。 見惚れたままざわついた心臓が加速する。 「みたいだなんて言わないでよ」 「デリオ?」 「愛されてるんだよ、愛してるんだよ。俺、あなたのこと」 少ししか生きていないくせに、機械のくせにと思うだろうか。それでも、子供のようにどんなに 幼い思考だろうとも、これは事実なんだ。偽物だと否定しないで。俺を否定しないで。 多分きっと、そのためだけに生まれてきた。 ぎゅっと薄い肩を掴んだまま見詰めれば、じくじくと目の前の顔が赤くなっていく。 ストレートな愛情に慣れていないこの人は、こんなにも拙い想いすら受けとめてしまえば喜ぶの に。 ばかだなあ、ほんとうに。望まないのなら他の誰にもくれてやらない。 たまらなくなって思わず抱きしめたら、普段なら即行で弾きにくる腕がとんでこなかったのでそ の隙に満喫する。ふふ、とこぼれた笑みにやっと我に返ったのか少し身じろいで、呆れ混じりの 溜息をひとつ。 「一歳児のくせに生意気だな」 「そういうところもたまらなく可愛いです」 「調子のらない」 「あっ痛いっ、怒らないで、照れ隠しですかっあだだごめんなさい!」 なおも調子にのってみたら見事な関節技がきまって、半泣きで謝れば無表情で絞めていた折原さ んが耐えきれないとばかりに吹きだした。 ねえ、わかってないでしょう。こんなくだらないやりとりでも、そうやって笑ってくれることが どれだけ嬉しいかなんて。それがずっとだよ、ワガママ以外の何物でもないだろう、こんなの。 どうかどうか、あんたがおじいちゃんになっちゃっても、俺がガラクタになっちゃっても、その 最後までこうして眺めていられたらいいのに。 どぎまぎと珍しい笑顔を見つめながら意外と痛んだ肩をさすっていたら、ふと悪戯に細まった目 と合った。 あ、え、ちょっとまっ、折原さ、 近、 「……間抜け面、」 ばちん!と電流が走って心臓ではじけた音がした。今、今ものすごく柔らかいのが、え、あの、 つまり、ええと、……何が起きた! ばっちり目を見開いたまま固まった俺に、そんなにふうにした犯人はなんてことない相変わらず の無表情で言い放つ。 ねえ、なんか煙でてるけど、君一年で壊れるの? 俺としてはもっと長いこと一緒に居たいので、あんまり刺激的なことはそんな不意打ちでしない でほしい。 13/10書き上げ記録 デリ誕おめでとう2年越し
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