姫カム! - タテ書き小説ネット

姫カム!
遊樹厘
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
姫カム!
︻Nコード︼
N5404BS
︻作者名︼
遊樹厘
︻あらすじ︼
どこにでもいるような高校生・杉原達稀は、ある日、彼の通う学
園の理事長に戦国時代の姫様を預かってほしいと頼まれる。
1
第一章 平穏の最期?
春の朝日が窓から差し込み、薄いカーテンを通してリビングがや
わらかい光に包まれている。
プレート上の焼かれた食パンから上る芳ばしい香りと、淹れたて
のコーヒーの香りが絶妙にマッチして、鼻孔ををくすぐる。
これが杉原達稀⋮⋮つまり俺のいつも通りの朝の一幕だ。そして
いつも通りこそが至高、そう感じられる場でもある。
それ故、この時の俺は、コーヒーを口に含んだ時に振動をはじめ
たケータイを手に取り、画面の通話キーをタップすることで俺の普
通の人生に暗雲が立ち込めることになろうとは微塵も考えはしなか
ったのだ。
着信は、海外赴任中の親父からのものだった。
﹁もしもし、どうしたの珍しい。こっちは今、朝だよ﹂
﹃あぁ、達稀。こっちは⋮⋮八時だ。朝か夜かはよく分からん﹄
いつも通り、起きてるんだか寝てるんだか分からないような声だ。
﹁なんでだよ⋮⋮﹂
﹃地下の研究室に三日くらい籠りきりだったからなぁ⋮⋮あれ、四
日?﹄
欠伸混じりの声で親父は言う。どうせまた何日も寝てないんだろ
う。不規則な生活ばかりしてると早死にすると姉が口を酸っぱくし
て言っているにも関わらず、その生活を直そうとはしない。むしろ
生活リズムは悪化の一途を辿っているが、何故か病気どころか体調
を崩しそうな気配すら無いと来ている。パッと見、そこまで丈夫そ
うには見えないが⋮⋮恐らく実験の過程で体の主要な部分がサイボ
ーグ化されているのだろう、と思わないでもない。
ロボットおとうさん爆誕だ。
﹁どんな生活してんだ⋮⋮母さんは一人にしておいて大丈夫なの?﹂
2
下らない妄想を断ち切り、俺は両親⋮⋮主に母の近況を訊ねる。
親父は放っておいてもなんとかなりそうだし。
﹃さっき電話入れてみたら今日はご近所さんとホームパーティーな
んだそうだよ﹄
訂正。両親共に放っておいても問題ないようだ。
﹁たくましい所の話じゃねえだろ、それ⋮⋮今の国ってまだ二週間
目くらいだろ?言葉の壁をなんだと思ってるんだあの人⋮⋮﹂
あるいは段差程度にしか思っていないのかもしれない。とりあえ
ず壁ではないのは確かだ。
﹃俺は基本的に日本語と英語しか話せんのだけど、母さんは国が変
わるたびに言語を習得してるから⋮⋮今七ヶ国語話者ってところか
?﹄
﹁さすがは元全国模試一位の才女ってところか⋮⋮羨ましいねぇ。
それにしても異常だと思うけど。で、何の用なの?近況報告ってわ
けでもないんだろ?﹂
﹃あ?あぁ、そうだ、完全に忘れてたわ。達稀、宗賀京子って人は
知っているか?﹄
その人物の名前に、一瞬虚を突かれる。宗賀京子?それって⋮⋮。
﹁知ってるも何も⋮⋮ウチの学園の理事長だろ?﹂
彼女の事はいろいろな意味で有名であるため、ウチの学園で彼女
の名前を知らない者などいないが⋮⋮一体親父とどんな関係が?
﹃そうだ。んでその理事長から頼まれごとをしたんだよ。それが要
件だったわ﹄
﹁はぁ?なんで親父への依頼に俺が関わるんだよ。ってか理事長と
親父の関係って?﹂
﹃京子ちゃんは達成の⋮⋮友松おじさんの姉貴の娘なんだよ。ほら、
正月とかに会ったことあるだろ?﹄
そういうことか。友松おじさんは父さんの幼馴染で小中高通して
の悪友だったはずだ。ということは幼馴染の娘さんが理事長⋮⋮ん?
﹁ち、ちょっと待って、理事長って今何歳なんだ?﹂
3
理事長といえば、若々しく美しい容姿でも有名だが、年齢は謎に
包まれている。それはもう国家機密レベル⋮⋮らしい。以前に一度、
何を思ったか理事長の年齢を探ろうとした愚か者共が理事長の﹁教
育的指導﹂を受け、学園で有名なガリベンくんになったのは、理事
長伝説のもっとも有名なものの一つである。
しかし、今の話からすると⋮⋮まだ実は相当若いのではないだろ
うか。
﹃ええと⋮⋮確か二十八じゃないか?﹄
﹁若ッ!そんな年で理事長やってんの!?﹂
﹃旦那が早世したからなぁ⋮⋮あぁ、京子ちゃんの母親の旦那の事
な。まさか俺も京子ちゃんがやるとは思っていなかったが⋮⋮﹄
﹁へぇ⋮⋮そうなんだ⋮⋮﹂
﹃おう、そういうことだ。じゃあまた電話する﹄
﹁あぁ、父さんも気を付けるよ、体調とか⋮⋮﹂
﹃大丈夫、サプリ飲んでるし﹄
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
﹁本題はどうしたんだよ﹂
﹃それだよ﹄
﹁まったく⋮⋮﹂
﹃あ、時間あんまりないから簡潔に言うぞ﹄
﹁分かったよ、んで?﹂
﹃京子ちゃんの屋敷に戦国時代のお姫様が現れて住むところに困っ
ているらしいからウチで預かることになった。京子ちゃんの屋敷は
洋館だから落ち着かないんだそうだ。詳しいことは多分今日中に話
があると思うから⋮⋮﹄
﹁え?ねぇ、何言ってんの?﹂
﹃戦国時代の姫様をしばらく面倒見て欲しいんだよ﹄
﹁分からない!脳が理解を拒否してる!﹂
4
﹃もうすぐ研究に入らなきゃだから、何かあったらメールしてくれ。
特に可愛いかどうか写真付きで。あっ、奈央にもこれ伝えておいて
くれ﹄
﹁やめて!話を打ち切ろうとしないで!不安の海に俺を沈めないで
!﹂
﹃それじゃあグッナイ。いい夢見ろよ﹄
﹁朝だっつってんだろ、クソ親父!﹂
俺の怒声も空しく、電話口からツーツーという無情な音が聞こえ
てくる。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
ディスプレイを見てみると、そろそろ家を出なければならない時
間になっていた。通話時間は十分、案外時間がかかっていたようだ。
冷めたコーヒーを一気に飲み干し、残った食パンを口に詰め込む。
今日の一限は⋮⋮古典だったか、やだなぁ⋮⋮。
家を出て学校に向かう最中、先ほどの電話の意味がようやく分か
った。
︱︱そうだ、親父は酔っているんだな。
だってそうとしか思えないだろ?支離滅裂なあの話を他に解釈し
ようがないじゃないか。
そうとなると、酒を生きる喜びとしている親父には申し訳ないが、
親の身体を心配する息子として苦渋の決断をしなけらばならないよ
うだ。
俺はケータイのメールアプリを起動させ、画面をタップし、文字
を打ち込む。
︱︱親父、禁酒するってよ。
その後、あることを思いだして文面を追加する。
5
︱︱そういえば可愛い女の子の写メ要求されたんだけど母さんな
んか知ってる?
送信をタップして、俺はふう、と一息吐く。
ざまあみろ!
6
第一章 平穏の最期?
学校に到着すると、案の定、校内放送で理事長室への呼び出しを
食らった。
まぁ、予想していたことだったがもう少し目立たないやり方はな
かったのだろうか。クラス中の注目を浴び、全校生徒に名前を覚え
られるハメになってしまったではないか。
好奇心むき出しの視線を全身に浴びながら、席から立ち上がると、
幼なじみで同級生尚且つクラスメイトの姫川葵も自分の席から立ち
上がって小走りでこちらに向かってきた。
﹁達稀、一体何したの?理事長室に呼び出されるなんて前代未聞だ
よ?﹂
声優にでもなれそうな可愛らしく、澄み切った声には、いつもと
は違った響きを感じる。どうやら俺がとんでもない悪事を働いたと
でも思っているらしい⋮⋮いや、面白いことになったと内心ワクワ
クしているに違いない。こいつはそういう奴だ。
﹁安心しろ、お前が思っているようなことはしてないよ﹂
﹁えっ⋮⋮えぇ∼﹂
そらみろ、言った途端一気にテンションが下がった。
﹁で、でも何の理由もなく呼び出されるわけないじゃない﹂
しかし諦めきれないのか、小動物を思わせるような可愛らしい顔
で、上目づかいで俺を見つめてくる。
葵自身、身長がかなり低いので、こういった光景は他人から見れ
ば兄と妹の会話と解釈されがちだ。少なくとも学校外で事情を知ら
ないものが見ればの話だが。
しかし、あくまでそれは他人が好意的な解釈をした場合に限る。
そう、最近の社会の風潮で、葵と仲良くすることは、下手したら
いわゆるロリコン疑惑をかけられてしまう恐れがある。こいつと外
出するときには、俺は割とお巡りさんにひやひやしなければならな
7
いのだ。
俺はこっそりとこいつの事を﹃歩く冤罪製造機﹄と呼んでいる。
﹁理由があるらしいから困ってるんだよ﹂
﹁理由⋮⋮?何かあるの?﹂
﹁説明してやりたい所だけど、俺もちんぷんかんぷんでさ⋮⋮親父
がなんか関わってるらしいんだけど﹂
﹁そうか⋮⋮あのおじさんがねぇ⋮⋮分かったよ、昼休みにでも詳
しいこと教えてね﹂
﹁あぁ、そうするよ﹂
声も容姿も可愛いロリっ子と幼馴染で同級生など、うらやまけし
からん?リア充爆発しろ?⋮⋮なんかそんな言葉が飛んできた気が
するが⋮⋮バカを言え。
こいつは男だ。
それでもけしからん?そっちのがたぎる?⋮⋮帰ってくれないか?
﹁どうせ説明させられるだろうから夕月ちゃん達も呼んどいてくれ。
二度手間はごめんだしな。それじゃあ、ちょっと行ってくるよ﹂
﹁うん、分かった。いってらっしゃい﹂
手を振る葵を背に俺は歩きはじめる。
しかし、俺は葵の元を離れて数歩のところであることに思い至り、
すぐさま引き返した。
﹁葵!理事長室ってどこ!?﹂
※
理事長室は職員党の最上階、三階にあった。何度か一階の校長室
の外観は見たことがあるのだが、それよりもドアの造りが重厚⋮⋮
な気がする。
嫌な予感がしつつもドアを二回ほどノックしてみると、すぐに中
8
から反応があった。
﹁入っていいわよ﹂
聞こえたのは学校行事で何度か聞いたことのある力強くも女性的
な柔らかさのある声。理事長の宗賀京子の声そのものだった。
ドアノブに手をかけ、そっと回す。ドアが発する重厚感や気分の
重さとは裏腹に、案外それはすんなり回り、中の様子が視界に入る。
﹁失礼します⋮⋮﹂
恐る恐る中に入ると、室内は外観からイメージしたほど絢爛豪華
というわけではなかった。アニメや漫画で﹃よくある﹄理事長室の
イメージに近いかもしれない。
⋮⋮いや、よく見てみると置かれている物の質が異常に高いよう
に見えるが⋮⋮素人目にはよく分からない。
﹁突然の呼び出しごめんなさいね、貴方のお父様からお話は伺って
いるかしら?﹂
部屋の様子を眺めていると、なるだけ視界に入れないようにして
いた人影から声がかかった。俺は仕方なしに現実逃避を諦めてその
人影の方を向く。
﹁えっ、あぁ、話の大枠だけですが⋮⋮﹂
答えながら、少々不躾ながら理事長の姿を観察する。当然のこと
ながら、いままで近くでじっくり眺めたことなどなかったが、こう
実際に目の当たりにしてみるとある種の超然とした美しさがある。
ただ、そこに気の強さというか、人間味も感じられる。肩までス
トレートの、少し珍しい赤茶色の綺麗な髪に、完璧なバランスで配
置された顔のパーツに抜群のスタイルにスラッと伸びる⋮⋮今まで
見た中でも相当の美人だ。
﹁⋮⋮?何を見てるのかしら?﹂
﹁いえ、その、見とれ⋮⋮いや、何でもないです﹂
﹁み、みとれ⋮⋮こ、こほん、そんなことより、話の大枠と言うと
どの辺りまで?﹂
若干頬を染めながらも理事長は話を進めようとする。あれ、この
9
人以外に扱いやすいのではないか?という疑問が生まれたが、ひと
まず胸の内にしまっておこう。重要なのはそこではない。
ぶっちゃけた話、さきほど理事長の方を向こうとせず家具観察に
勤しんでいたのは理事長に目を奪われてしまうのを防ぐ為でもあっ
たのだが、これでは完全に無意味ではないか。
﹁えっと⋮⋮﹃京子ちゃんの屋敷に戦国時代のお姫様が現れて住む
ところに困っているらしいからウチで預かることになった。京子ち
ゃんの屋敷は洋館だから落ち着かないんだそうだ。詳しいことは多
分今日中に話があると思うから⋮⋮︵原文ママ︶﹄って所ですかね﹂
そう言うと、理事長は頭を抱え、憂鬱そうな息を吐く。うむ、心
中お察しいたします。
﹁⋮⋮そう、私の言ったことの一割くらいしか伝わってないのね⋮
⋮全く、あの人は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんかすみません﹂
﹁いや、こちらこそ⋮⋮﹂
バツの悪そうな笑みを浮かべながら、互いに力なく笑う。両者の
間には一番悪いのが親父だという共通認識が生まれていた。本当に
制裁を加えておいて正解だったな。
しばらく困ったような表情をしていた理事長であったが、もう一
度咳払いをして、いたしかた無し、といった様子で口を開く。
﹁分かったわ、一から全部話すしかないようね⋮⋮とりあえず、あ
なたのお父様が言った内容自体に間違いはないわ﹂
それを聞いて、朝感じた絶望感がフラッシュバックする。心なし
か、少しばかり頭痛も感じる。
﹁⋮⋮つまり、理事長のお宅に姫様がタイムスリップしてきた、と
おっしゃるのですか?﹂
﹁そう、さすがに驚いたわね、あれは⋮⋮﹂
眉間にしわをよせ、何かに耐えるような仕草を見せる理事長。
話自体は信じがたいことだし、実際、俺自身何一つ理解できていな
いが、先ほどからの理事長の様子に、嘘をついている感じはしない
10
し、そもそもそのような嘘を吐く理由も分からない。
一度、確認のために太ももを強くつねってみたが、どうやらこれ
は現実の出来事であるようだ。
﹁⋮⋮言っておくけど⋮⋮夢であってほしいのはあなただけじゃな
いのよ⋮⋮﹂
理事長が疲れたように呟く。
﹁理由は一切分からないけど⋮⋮とにかく現実よ。正確には今のと
ころ、﹃戦国時代の姫様を名乗る女の子﹄⋮⋮だけど﹂
ふむ、ここで理事長の言葉の真偽について考えていてもらちが明
かない。 ここはひとまず、理事長の言葉を真実であると仮定して
話を聞くのがベストだろう⋮⋮となると、タイムスリップなどより
可能性があるのは⋮⋮
﹁そういった人物を演じている⋮⋮という可能性はないんですか?﹂
それにしてもそんなことをする理由も意味もわからないが、可能
性としてはそちらの方が圧倒的に高いはずだ。
しかし、理事長は首を横に振る。
﹁突然私の部屋に現れたのよ?音もなかったし⋮⋮ふと振り返った
らそこにいたの。そんなことあの着物姿でできるはずがないわ。我
が家のセキュリティはあの娘が単身乗り込んで誰にも気づかれない
ほどザルじゃないと思うわ⋮⋮勿論、防犯カメラも片っ端からチェ
ックさせたしね﹂
そう言い切る理事長。
後ろ向いたら突然着物を着た女がいた⋮⋮それは恐ろしい⋮⋮俺
だったらショック死してるね、多分⋮⋮
しかし、そうなると⋮⋮いや、難しい事は今考えることでもない。
いや、考えた所で答えなどでないだろう。それよりは、他の疑問点
を潰す方を優先させるべきではないだろうか。
﹁分かりました、ひとまず理事長の言うことは信じます。タイムス
リップなんてまだ、さすがに信じがたいですが⋮⋮それにしても何
故僕なんですか?理事長のお宅に現れたのなら⋮⋮﹂
11
そう、一番の疑問はここだ。
何故そんなことを俺に⋮⋮俺の親父に頼むのか。
理事長は親父と親交があるようだが、このようなトンデモ話を他
人に押し付けるような依頼をした意図はどこにあるのだろう。
当然のごとく、ウチに家出少女を匿ったなどという実績もない。
理事長にとって自分の経営する学校に在籍する一介の生徒に過ぎな
い俺が、何故こんな話を持ち込まれなければならないんだ。
﹁えぇ⋮⋮私もそうするしかないと思ったわ。本当に自慢ではない
んだけれど、我が家は無駄に部屋は多いし。でも、あの娘が﹃この
時代に私の知る者はおらんのか?﹄って言うからね⋮⋮さすがに知
る者はいないだろうけど、いろいろ聞き出して調べてみると、あな
たのお父様の事を思い出したのよ﹂
その言葉に、眉間の皺がより深くなるのを感じる。
親父を思い浮かべる理由⋮⋮?
確かに親父は研究者としては世界各国の研究機関から引く手数多
ではあるが、一人の娘を預ける対象としてはミスキャストもいいと
ころだ。実の娘と息子とすら一緒に暮らせていないというのに。そ
れに、親父の研究分野はタイムマシンではない。
となると他の可能性は⋮⋮いや、待て、そういえば理事長はその
姫様から﹃いろいろ聞き出し﹄たと言っていたではないか。
となると、親父ではなくむしろ、親父の家⋮⋮つまり、杉原家に
関わりがあると判断すべきだろう。
⋮⋮ということはもしかすると⋮⋮
﹁え、ってことはその姫様って⋮⋮﹂
﹁やはり知っていたみたいね。そうよ、その姫は秋宮家の姫様らし
いわ。あなたの家、つまり杉原家がかつて仕えていた⋮⋮ね﹂
やはり、そうか。
理事長の言うとおり、杉原家は戦国時代、秋宮の殿様に仕えてい
12
たという話を祖父から伝え聞いている。
秋宮家はこの地域で栄え、決して多くはない軍ながらも馬を使っ
た機動力と白兵戦に長けた武将で、よい軍師に恵まれ、一時期は﹃
秋宮を敵に回せば天下が遠のく﹄とまで言われる存在だったらしい。
しかし、今ではこの地域で秋宮家に仕えていたという家は、我が
杉原家以外には残っていない。
秋宮家も、今では残っていない。
⋮⋮しかし、秋宮家は当時はそこそこ名のある戦国大名であった
らしいのだが、現代では全く有名ではない。俺はかつて祖父から聞
いた為、ある程度の知識はあるが、恐らくこの地域の住民ですら、
かつてそういう武将がいた、という程度の知名度だろう。
ということは、その姫様︵仮︶が虚偽の名を語って戦国時代の姫
として振る舞っているという可能性は低くなる。そのような姿を演
じて理事長の家に忍び込むことにメリットを感じないし、もし騙る
のならより有名な人物の名を騙るのではないだろうかという直勘に
過ぎないが。
となると⋮⋮やはりその姫は⋮⋮。
確証の無い、勘のようなものではあるが、やはり本物の秋宮の姫
様ではないだろうか⋮⋮一番信じられない可能性がもっとも高くな
っていく感覚に思わず身震いをする。
何か有りえない事に両足を絡め取られていっているような、そん
な感覚。
そうこう考えていると、おもむろに理事長が口を開く。
﹁彼女はここが未来だ、ということは少しずつ受け入れてきてはい
るわ。でも、彼女にあなたの家に仕えていた人の子孫がいる、と話
したら、﹃その者と過ごすことは⋮⋮できんか?﹄と言われてね⋮
⋮私としても二日とはいえ共に暮らし、情が移ってしまって⋮⋮で
きる限りのことはしてあげたいの﹂
13
﹁そんなのは⋮⋮!﹂
言いかけて、言葉に詰まる。
そんなのは知ったことではない!そう言おうとした。
断っても、いいはずだった。
平穏な今の生活を壊されるのもまっぴらだ。
しかし、何故かその女の子が気になって仕方がなかった。
一人で未来に放り出され、見知らぬ地において、絶望と不安の中
で唯一自分との接点を知った時その子はどう思ったのだろう。俺が
手を差し伸べなかったらその子はどうなってしまうのだろう。
終わらない葛藤を続けていると、突然理事長が頭を下げた。
﹁お願いします!!どうしても無理と言うなら、会うだけでもいい
の!!身勝手なことだろうけど⋮⋮あなたの家にしか頼る当てがな
いの!﹂
聞いた瞬間、何故か納得のような感覚に襲われる。
ああ、そうか、これが杉原家の宿命なのかもな⋮⋮そういうこと
ならもう、選択肢はなかった。
﹁分かりました。でも、とりあえず姉さんと相談させてくれません
か?﹂
﹁もちろんよ!ありがたいわ⋮⋮﹂
まぁ、答えは分かりきっているんだけど。
どうやら、平穏な日常なんてのは、今日までみたいだな⋮⋮
14
第一章 平穏の最期?
﹁⋮⋮というわけで、戦国時代のお姫様をウチで預かることになっ
た俺だけど質問ある?﹂
四本の腕がぴんと伸びる。そりゃそうですよね。
﹁はい、ちゃんとひじピンができていますね。それじゃあ御崎さん
!﹂
﹁先生!病院には行きましたか?なんて診断されました?突発性馬
鹿?﹂
﹁はい、御崎さん。僕にどこもおかしいところなんてありませんよ。
おかしいのは世界の方さ﹂
﹁はい!先生!毬ちゃんルートが難しすぎテラワロスなんですけど
どうしたらいいですか!?なんでギャルゲに格ゲーのスキルが求め
られるんですか!?﹂
﹁朝哉くん。そうですね、まず手元のPSTを半分に叩き割ってみ
ましょう﹂
﹁ふ⋮⋮このPSTが死んだとしてもまた第二、第三のPSTが現
れることだろう!﹂
﹁舌を噛んで黙るか息の根を止めて黙るか、どっちにします?﹂
﹁じゃあ、概念になる!﹂
﹁選択肢にねぇ!どこの魔法少女だ!なれねえよ、少なくともアン
タは!﹂
﹁ソレハ☆マジカ!?﹂
﹁腹立つ!なんかすげえ腹立つ!﹂
﹁論点がずれてるよ⋮⋮ここはいつから小学校になったの。成長し
ないね、君たちは⋮⋮﹂
俺と一年先輩の御崎朝哉さんとのミニコントを眺めていた葵が溜
息交じりに言う。ちなみに朝哉さんは、先ほどの御崎さんの兄であ
る。先ほどの御崎さんの名前は、御崎愛乃。俺と葵の同級生兼クラ
15
スメイトである。
それにしても、成長しない⋮⋮か。
﹁そうだな、小学校の頃から俺たちは成長しているのだろうか?あ
の頃ならなんでもできた気がするのに⋮⋮ひょっとして俺たちはこ
こまでただ劣化を繰り返してきただけなのではないだろうか?﹂
﹁お兄ちゃん、ヤバいよ。多分先輩の言ってること本当だよ?なん
か哲学的な事言い出したよ、現実逃避だよ﹂
葵の妹で一年後輩の、姫川夕月が焦った様子で葵にすがりつく。
幼馴染の妹なので、当然俺とも幼馴染だ。俺は彼女の事を実の妹の
ように思っている。ちなみに、身長な兄に似ず、平均的な女子程度
はある。
﹁そうだね、完全に遠い目をしてるもんね。分かったよ、達稀、君
のいう事を信じよう﹂
﹁どんな判断基準なのよ⋮⋮で、でもさっきの話、ああは言ったけ
ど私的にはけっこう説得力あったんだよね﹂
御崎が葵に同調する。人を患者呼ばわりしておいてこの野郎。
そんなこんな話を続けていると、不意に、朝哉さんの挙動がおか
しくなりはじめた。まぁ、普段から挙動不審ではあるのだけれど。
﹁⋮⋮って事は、ひょっとしてまれ氏は戦国家出少女と一つ屋根の
下なのでござるかあああああああああ!?うわああああああそれな
んてエロゲ!?!?!?!?!?パンツ飛んでって下半身寒いんだ
が!?!?!?!?﹂
大声でわめき散らすその声は、中庭全体に響き渡った。当然のご
とく、大勢の目がこちらに集中する。
﹁ちょっ、朝哉さん、死んでください!間違えた!死んでください
!﹂
﹁そんなことより達稀、先輩のせいで君のあらぬ噂が光速で広まっ
ていっているよ﹂
16
﹁なっ⋮⋮!﹂
葵に言われて耳を澄ましてみると、﹁家出少女を下半身の下に?﹂
﹁二年の杉原がパンツ脱いだってよ﹂﹁えぇ、杉原が!?⋮⋮ウホ
ッ﹂などという声が聞こえてくる。なるほど、情報社会において情
報伝達スピードが正確性に反比例する素晴らしい例を見せつけても
らった気分だ。
しかし、うん、なるほど、なるほどね⋮⋮
﹁葵、この学校規模の爆破にはどれほどの火薬が必要だ?﹂
﹁知らないよ、てかまず、誤解を解くのが先決なんじゃない?﹂
﹁あぁ、そうだ⋮⋮夕月ちゃん!俺と話を合わせてくれ!御崎!朝
哉さんを止めてくれ!主に息の根を!﹂
﹁はい!分かりました!﹂
﹁⋮⋮もうすでに、虫の息よ﹂
ピクピクと死にかけの虫のように動く朝哉さんを尻目に、俺は大
きく息を吸い込む。
﹁まっ、全く!朝哉さんは何を言っているんだろうなぁ!﹂
場がシンと静まり返る。引いている者と、次の言葉を待っている
者、半々といった所だろうか。夕月ちゃんも頬をこれでもかという
ほど染めながら大きく息を吸い込む。
﹁そっ、そうですね!先輩がそんな事するわないじゃないですか!﹂
いいぞ、その調子だ!
﹁だ、大体!鈍感で臆病で人の気持ちにちっとも気付かない先輩に
そんな度胸があるわけないじゃないですか!﹂
ん?なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ?
17
﹁⋮⋮夕月ちゃん、ありがとう。もう十分だよ。ちょっと言い過ぎ、
いや、やり過ぎだ﹂
しかし、何故か興奮状態に陥った夕月にはそんな言葉は微塵も届
かなかった。
﹁御崎先輩とかお兄ちゃんみたいに二次元にしか興味がないのなら
まだいいですよ、でも達くんは三次元にも興味あるくせに!それな
のに!うぅ、うわああああああん!!!!!!!!﹂
そこまで言うと、夕月はその場に座り込み、ぐずぐずと泣き出し
てしまった。
死ぬほど嫌な予感に襲われながら、もう一度、周りに耳を澄まし
てみる。
﹁え?二年の杉原が後輩を泣かせた!?﹂
﹁二年の杉原が二次元にしか興味がないのに家出少女を鈍器で襲っ
た!?﹂
﹁臆病で二次元にしか興味のない杉原がパンツ脱いで家出少女を下
半身の下に組み伏せた!?﹂
﹁﹁﹁﹁﹁変態だ!!!!﹂﹂﹂﹂﹂﹂
⋮⋮ふむ⋮⋮。
﹁俺、もうお嫁に行けない!﹂
﹁私ももう死にたいです!﹂
俺と夕月の思惑が一致した。かくなる上は⋮⋮
﹁葵、手ごろなロープを用意してくれまいか⋮⋮?﹂
﹁お兄ちゃん、私の分も⋮⋮﹂
﹁早まるんじゃないよ。夕月も達稀も大丈夫だよ。夕月に関しては、
別に特に汚点を残した訳でもないし、本人もそれどころじゃなくて
18
気付いていない﹂
﹁⋮⋮ホント⋮⋮?﹂
﹁あぁ、信じられないほどの鈍感さだとは思うけどね。それに、達
稀だって⋮⋮﹂
﹁なんだ!?俺にも救いの道があるのか!?神はまだ俺を見放して
いないのか!?﹂
﹁達稀も、あと二年弱、﹃変態ゲス野郎﹄のあだ名で生きていけば
いいだけじゃないか!﹂
﹁神は死んだ!﹂
﹁大丈夫だよ、最近は人生八十年なんて言われているんだよ?その
内の二年間のあだ名が﹃変態ゲス野郎﹄になるだけだよ?なんてこ
とないじゃないか!﹂
﹁なんてことあるわ!高校の三年間は老後の三十年間に相当するん
だぞ!同窓会で﹃あっ、変態だ﹄って後ろ指差され続けるんだぞ!
最悪、同窓会に呼ばれないかもしれないんだぞ!﹂
﹁違うね⋮⋮達稀、君は大きな勘違いをしている﹂
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁同窓会に呼ばれないのが最悪?同窓会の存在を知っているだけ、
恵まれているじゃあないか。本当の最悪は⋮⋮﹃同窓会が行われて
いるのかどうかも分からない﹄ことだよ﹂
﹁ぐわあああああああああああああああ!?!?!?!?!?﹂
もうダメだ。さようなら、俺の青春。
﹁まぁ、僕が声かけてあげるから、生きてみなよ。案外悪い事ばっ
かりじゃないぜ?﹂
﹁⋮⋮あぁ、厳しめの鞭と飴、ありがとう。おかげでもう前が見え
ないよ。姫様だけが俺の味方になるやもしれん⋮⋮﹂
﹁で、でも!!そんなのよくないと思います!!そ、そんなお姫様
と一緒に暮らすなんて!!﹂
19
解くべき誤解を指折り数えつつ、その膨大さに絶望の溜息を吐い
ていると、なんとか復活した夕月が大声をあげた。
﹁⋮⋮いや、俺だって正直面倒だよ。でも他に引き取り手のアテが
あるわけでもないし⋮⋮﹂
うーうー唸る夕月。いつもは大人しいのに今日はなんか荒れてる
な。本人を前にして言えないけれど、俺の今の状況の二厘くらいは
夕月の責任であると思う。絶対に言えないが。残りの九割八厘は当
然、故・朝哉氏のせいだ。
しかし、まぁ、過ぎてしまったことだ。徐々に、俺も回復してい
くべき⋮⋮だろうか。できるのかは知らんが。
﹁そ、そうだ、ウチで引き取れば⋮⋮﹂
﹁無理に決まってんでしょ。あの堅物親父をどうやって説得する気
なのさ﹂
呆れた様子で否定する葵。まぁ、そうだろうな、この二人の父親
がそんなことを信じるとは到底思えない。いい人なんだけどね。
しかし、どうしても諦めきれない様子でぶつぶつ言い続ける夕月。
ここまで頑なになるのは相当珍しいな。一体何がそんなに気に食わ
ないのか⋮⋮ あ、そうか!それならば先ほどの暴走も納得がい
く。
﹁心配しなくても大丈夫だよ。夕月ちゃんが一番だから!﹂
﹁ふぇ!?あっ、あの、えっ!?﹂
顔を真っ赤にして慌てふためく夕月。ふふ、隠そうとしても無駄
だよ。幼馴染だからね、何を考えているのかくら分かって当然じゃ
ないか。
﹁姉さんが構ってくれなくなると思ってるんだろ?大丈夫だよ、姉
さんも俺も夕月ちゃんの事を今まで通り一番可愛い妹だと思ってい
るからね!﹂
決まった⋮⋮と言わんばかりに親指を立てる。サムズアップ、と
いうヤツだ。
20
なのにどうしてこんなに、空気が凍り付いているのだろう⋮⋮
﹁いやぁ、まれ氏⋮⋮それはない。さすがに外道すぐる⋮⋮﹂
﹁もうここまで来ると刑法で裁かれるべきだとすら思うよ⋮⋮妹な
がら、不憫な奴だ﹂
﹁さっきはちょっと同情しかけたけど⋮⋮死ねばいいのに﹂
⋮⋮⋮⋮言葉のナイフに絶賛切り刻まれ中なんだが!?どこかで
言葉のチョイスを間違えたのだろうか⋮⋮理由も分からないので途
方に暮れるしかない。つか、朝哉さんはいつ復活したんだ。
﹁やめろよ!もうちょっと人の気持ちを考えて発言するべきだ!言
葉は凶器なんだぞ!?﹂
﹁﹁﹁お前が言うな﹂﹂﹂﹂
うわぁ、すげえシンクロ率。これは世界狙えるぜ。
涙目で助けを求めて夕月に顔を向けると、こっちもこっちで魂が
抜けきったような顔をしている。全く、なんという厄日だ。
﹁ゆ、夕月ちゃん、あの、その、ご、ごめんね﹂
とりあえず謝罪。理由が分からなくても謝罪。社会で生きぬく基
本だ。
すると夕月の表情にようやく生気が戻った⋮⋮しかし安心したのも
束の間、夕月は一気に泣きそうな顔になり、立ち上がると
﹁達くんのばかあああああああああああああああああああああ!!
!!!!!!!﹂
と、今までに聞いたことのないような大声を出し、校舎に駆けだ
して行った。
︱︱な、何がどうなっているんだ⋮⋮
残った三人の絶対零度の視線を浴びながら俺は、他人事のように
21
そう思ったのであった。
︱︱それにしても、達くんって呼ばれたの久しぶりだったな⋮⋮
22
第二章 邂逅?
﹁ただいまー﹂
激動の学校での一日が終わり、俺は家に戻った。
俺と葵の努力のおかげで、なんとかある程度の誤解を解き、あだ
名も﹃変態・杉原﹄。略して﹃ヘンスギ﹄に収まった。あとは二年
をかけて徐々に﹃ヘン﹄の部分を取り除いていければ、同窓会参加
も不可能ではないだろう。
どうにも将来の目標が消極的なのは、この際目を瞑るとしよう。
不景気がから仕方ない。何もかんも政治が悪い。
玄関には姉さんの靴が置いてある。どうやらすでに帰宅している
ようだ。
居間に向かうと、姉さんがソファに仰向けに寝ころびながら、漫画
を読んでいた。五月に入って随分と日中は過ごしやすくなったため
か、Tシャツ一枚というラフな格好だ。
そんな姉の無防備な姿から︱︱弟相手に警戒もクソもないだろう
が︱︱なんとなく目を逸らしつつ、冷蔵庫の扉を開けて中身を物色
する。
うーむ、ちょっとこれでは寂しいかもしれないな⋮⋮
﹁あれー?達稀帰ったのー?﹂
頭の中で必要そうな物を思い浮かべていると、姉はソファから気
怠そうに少しだけ頭を上げ、こちらに向けて声をかけてきた。
﹁あぁ、姉さんは早かったんだな﹂
﹁そだね、四限休講だったから﹂
なるほど。なかなかいいよな、大学生。
﹁そういえば、あんたお母さんからのメール見た?﹂
﹁は?⋮⋮いや、母さんからは来てないな。父さんからは電話あっ
たけど、そのことかな﹂
﹁あー多分そうだね。﹃話は伝わってる﹄って書いてあったし﹂
23
﹁ってことは姉さんにも姫様の話は伝わってるんだ?﹂
﹁うん、てことはなんかお母さんに吹きこんだのアンタ?お父さん
から泣きの留守録も入ってたんだけど﹂
﹁あーうん、よしよし。なんのことかな∼﹂
﹁⋮⋮あんまりやりすぎないでね、お母さん怒ったら本当に怖いの
知ってるでしょ?﹂
﹁まぁ、いいんじゃない?俺のことじゃないし!﹂
﹁あんた⋮⋮まぁいいや。それにしても、不思議な話だよねぇ⋮⋮
それで達稀、あんたにお願いがあるんだ﹂
姉はすでに起き上がり、漫画を読むのをやめ、ソファに足を組ん
で座っていた。
﹁なんだ?一緒に暮らすってのなら別に構わないけど?﹂
﹁そんなもんあんたの意見なんか聞くまでもなくOKに決まってる
でしょ﹂
﹁おかしいな、一応多少の発言権はあったと思うんだけど﹂
﹁自惚れるな!!私の意見が絶対だ!!﹂
﹁絶対王政だ!!﹂
﹁パンがないなら私にお菓子を買ってこればいいじゃない!!ああ、
飲み物付きで!!﹂
﹁マリーが聖母に思えるほどの非道っぷりだな!!いずれ革命が起
きるぞ!!﹂
﹁弟は黙って姉に搾取されればいいの﹂
﹁嫌だ!!﹂
﹁さもなくば死だ﹂
﹁そんな!!﹂
なんてこった、死刑か姉刑かを選べだと⋮⋮くそぅ!!五十歩百
歩じゃねえか!?
﹁あ、本題忘れてた、もうあんたのせいだよ﹂
どちらの極刑を選ぶか頭を悩ませていると姉が思い出したかのよ
うに口を開いた。すぐに本題を忘れる辺り親父の血だよな⋮⋮てい
24
うか理不尽すぎやしやせんかね、姐さん。
﹁もういいよ⋮⋮最悪俺のせいでも⋮⋮で?頼みってなんだよ﹂
﹁うん、えーとね、今から理事長さん?の家にその姫様を迎えに行
って欲しいの﹂
﹁あぁ、別に⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮あぁ!?﹂
まるで近所のゴミ捨て場にゴミを捨ててきて、とでも言わんばかり
の調子で言う姉に、思わず了承の返事をしてしまいそうになったが
ちょっと待て!
﹁迎えに行けって⋮⋮俺は理事長の家なんて知らないぞ!﹂
﹁はぁ?あんた櫻ノ原学園の生徒でしょ?なんで知らないのよ﹂
なんだその無茶苦茶な理論!
﹁貴様は今までに出会った教師の住居を押えているというのか!?﹂
﹁ちっ、全く使えない弟ね﹂
心底がっかりした表情を浮かべる姉。
﹁もういいよ、使えなくていいよ⋮⋮﹂
﹁んーそれなら⋮⋮ちょっと待ってなさい﹂
そう言って姉は机上のケータイを手に取り、どこかに電話をかけ
始めた。しばらく何やら話していたが、やがて電話を切り、近くの
メモ帳に何かを書き込み、こちらにメモ帳ごと投げつけてきた。
なんとかキャッチしてメモ帳の一番上に書かれた文字列を眺める。
神原市の⋮⋮どこかの住所だろうか。
﹁何だこれ﹂
﹁その理事長の住所だよ。そんなに遠くないみたいだね﹂
平然と言ってのける姉だが、今の時代の個人情報管理を何だと思
っているのだろう。
﹁あんたは探偵かなにかなのか⋮⋮?﹂
﹁正確には探偵の知り合いがいるだけだよ﹂
﹁いや、それもそれでどうなんだよ﹂
﹁体は子ども頭脳は大人のヤツがな⋮⋮﹂
﹁まさか⋮⋮あの玉川だか久我川だかいうヤツを味方につけやがっ
25
たのか⋮⋮?﹂
﹁葵だよ﹂
﹁でしょうね!﹂
至極冷静に言い放つ姉さん。
おい、なんだその目は!やめたまえ!姉さんのボケに乗っただけだ
ろ!手のひら返しは基本か!
ていうかなんで葵くんはそんなこと知っているんでしょうね。
﹁まぁいいや、でもいきなり押しかけたら驚くんじゃないか?﹂
﹁はい、はい、そうです。今から向かわせますので⋮⋮はい、よろ
しくお願いします﹂
﹁⋮⋮姉さんや?﹂
﹁今アポとったから!大丈夫!﹂
にこやかに話す姉の横には黄色い電話番号の書かれた冊子。それ
便利だな⋮⋮。
﹁もう、分かったよ⋮⋮﹂
もうどう転ぼうと俺が行くしかないようだ。
行ってきます⋮⋮と力なく言うと俺は項垂れながら家を出た。
正直、不安で仕方ないが、メモ書きに書かれた場所に近づくにつ
れ、姫様に会うのが少しだけ楽しみになってきた。
だって男子だもの。
※
数十分後、俺は理事長の屋敷の前にいた。
馬鹿でかい、というわけでは無いが歴史と趣を感じさせる洋館で、
細部まで意匠がこらされている。庭も広く、こちらもただ金に物を
言わせただけでは生じえないと思える雰囲気がある。
こういう屋敷の方が馬鹿でかい、いかにも金かかってます、みた
いな屋敷よりよっぽどお金がかかったりするものなのかもしれない。
まぁ、一般人の感覚からすれば十分馬鹿でかい屋敷ではあるのだけ
26
れど。
一度は住んでみたいとは思うが、突然戦国時代から飛ばされたお
姫様には恐怖の対象でしかなかったかもしれないな、とも思う。
屋敷に圧倒され、緊張しつつもインターホンを押すと数秒後に理
事長のものと思われる声が聞こえてきた。
﹃あ!待っていたわよ!今からそっちに迎えを⋮⋮こら!!やめな
さい!引っ張るな!﹄
なんだ?何か騒がしい。
﹃おお!これは何じゃ!?また奇怪な箱から声がするぞ!京子!説
明じゃ!﹄
﹃ああもう!高橋!!客人を迎えにあがって!﹄
理事長が翻弄されている⋮⋮。
おそらく理事長と一緒に聞こえるこの声が例の姫様なのだろう。
しかし⋮⋮なんというか、イメージとだいぶ違うぞ⋮⋮もっとこ
のなんていうか⋮⋮
﹃私は何故未来に飛ばされてしまったのかしら⋮⋮お父様⋮⋮お母
様⋮⋮およよよよ﹄
︱︱的な儚げなイメージだったのだがこの様子だと⋮⋮いやまて
!まだそうと決まったわけでは無い!心に深い悲しみをたたえてい
るに違いない!
そうこう考察しているうちに目の前の扉がギィッ⋮⋮と音を立て
て開く。
白髪混じりで痩身の男性が﹁お待ちしておりました﹂と厳かに言い、
俺を館に招き入れた。歳は・・・五十歳くらいだろうか、白髪のせ
いでやや老け込んで見えるが老体、というわけではなさそうだ。
﹁私、この屋敷でお嬢様の執事をさせていただいている高橋と申し
ます。この度はお嬢様のお話を受けていただきありがとうございま
す﹂
27
そう言って高橋氏は深々と頭を下げる。俺もつられて、あ、ども
⋮⋮、とおじぎをする。
それにしても本物の執事はなんて初めて見たぞ。都市伝説だとば
かり思っていたが、本当に実在するんだな。
俺がリアル執事を前に感動していると、溜息交じりに高橋氏は語
り始めた。
﹁恥ずかしながら我々も途方に暮れておりまして⋮⋮最初はお嬢様
がどこかからネコでも拾ってきたのかと思っておりましたが、まさ
か人間の少女とは⋮⋮しかも戦国時代の姫とまで仰せられて⋮⋮正
直頭を悩ませていたのです。さぁ、こちらです﹂
言葉の節々にこの件での心労が伺える。そりゃそうか。到底理解
できないのは俺も同じことだ。その後は黙って高橋氏についていく。
ある程度、屋敷の奥に進んでいくと、とある部屋の前で高橋氏は立
ち止った。
﹁ここが客間でございます。お嬢様と姫君はここにいらっしゃいま
す﹂
そう言うと扉を数回ノックする。中から、入っていいわよ、とい
う声が聞こえる、高橋氏が、扉を、開ける。
⋮⋮そこにおおよそ、姫君と呼べるものは見当たらなかった。
いたのは謎の亀のような着ぐるみを着た理事長と、そしてその傍
に布団ようなもので顔を隠して蠢く物体α。
物体αはなにやらもぞもぞと動き、ベッドの下に隠れようとしてい
る。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
プランA・見なかったことにする
プランB・突っ込む
プランC・交流を試みる
28
うん、ここは当然!
﹁高橋さん、帰りますね!﹂
﹁はい、よろしければまたいつでもお越しください﹂
﹁おーい待って、杉原くん。まだあなたは目的を果たしていないで
しょう?高橋も帰しちゃだめじゃないか﹂
亀に呼び止められた。チッ、プランAは失敗か⋮⋮。
﹁目的もクソも、僕に地球外生命体と電波少女との交流なんてミッ
ションは課せられていなかったと思うんですけど﹂
頭を切り替えて、行動も異文化コミュニケーションに切り替える。
﹁あはは、面白いことを言うのね。そんな人どこにもいないじゃな
い﹂
亀が喋る。
﹁ベッドの裏のはまだしも、僕の目の前にいる生物は自分と同じカ
ゴテリに分類したくないです﹂
﹁ん?言われているわよ、高橋﹂
﹁失礼ながら、私もそのような着ぐるみを部屋着にするのはいかが
なものかと﹂
﹁⋮⋮もしかして、杉原くん、私の事?﹂
心の底から驚いたような表情を見せる亀。ずいぶんと、顔が理事
長そっくりな、亀。
﹁逆になんで今まで自分の事だと思い至らなかったんですか。脳ま
で両生類並なんですか﹂
﹁失礼ながら杉原様、お嬢様はいついかなる時もカラスよりは賢い
かと﹂
おおぅ、この執事もなかなか辛辣だ。
﹁うぅっ⋮⋮あなたたち、少しは容赦をしなさいよ⋮⋮!私だって
傷つくのよ⋮⋮で、でも!これ可愛くない!?思わず部屋着にした
くなるのも頷けるでしょう!?﹂
﹁そうですね、昆布の次くらいに可愛いと思います﹂
29
﹁ええ、ニラの次ぐらいに麗しゅうございます﹂
﹁可愛くッ!ないッ!それッ!﹂
呻きつつその場にうずくまる理事長。
そして、ものすごく落ち込んだ様子で、そっかぁ⋮⋮可愛くない
かぁ⋮⋮そっかぁ⋮⋮と呟いている。
﹁で、理事長、謎衣装の披露は堪能しましたから。姫様はどこです
か?﹂
﹁な、なぞいしょう⋮⋮う、うん、コラ出て来なさい!!﹂
理事長がベッドの方を向き声をあげる。するとベッドの向こうか
らやはり物体αがそのままの姿で登場した。
﹁あzwせrちゅいおp@﹂
物体αが声を発する⋮⋮なんて!?
すると、いい加減業を煮やしたのか理事長が苛立った様子で物体
αから無理やり布団をもぎ取ろうとする。うわぁまるで八つ当たり
のようだ。
﹁ほら!お待ちかねの杉原くんよ!!顔を出しなさい!!﹂
﹁あうぅ⋮⋮き、京子!!﹂
そしてついに、物体αの正体が明らかになった。
それは、とんでもなく、美しい少女だった。
黒く、長く、美しい髪に一本の葉を模したかんざし、大きく、く
りくりっとした瞳、小さな鼻と口は完璧なバランスで顔に配置され
ている。身長は⋮⋮百五十前後だろうか。絶世の美女というものが
いるのならこの少女を指すのだろう、そんな気さえした。
しかし、そんな驚きの裏でタイムスリップしてきた、ということ
一番信じたくない事が事実であることをほぼ確信した。
具体的に何故、と聞かれると困るのだが、彼女が放つ雰囲気とか
そういうものが明らかに現代の人間ではない、と告げていた。
﹁君が・・・秋宮の姫様?﹂
30
恐る恐る尋ねてみると、理事長の足にしがみついた少女は一度び
くっとしたが、数秒のブランクの後、勢いよく話し始めた。
﹁いっ⋮⋮!いいいいいいいかにも!私が秋宮成雅の娘、楓姫であ
るぞぞぞぞぞぞぞ!﹂
こうして、450年の時を超えて、俺は楓と邂逅した
31
第二章 邂逅?
﹁理事長﹂
﹁どうしたんの、杉原くん﹂
﹁いや、さっきからその子理事長の背後に隠れてでてこないんです
けど﹂
﹁あなたの顔が怖いんじゃない?﹂
﹁ひっでぇ!﹂
そう言いつつ、頬の筋肉をほぐしにかかる。
﹁冗談よ。それに今更キメ顔作っても大して変わらないわよ﹂
﹁理事長、俺が傷つきやすいお年頃って知ってます?﹂
﹁知ってるわよ。でも、傷つきやすいからこそ傷つけたいんじゃな
い?杉原くん﹂
﹁なんだその理論!?﹂
嘲るように笑う理事長。ちくしょう、さっきの意趣返しのつもり
か?大人げないにもほどがあるだろ。だから婚期を⋮⋮
﹁おっと、それ以上の事を考えるとあなたを生かして帰すわけには
いかなくなるわ﹂
﹁なんで分かったの!?﹂
恐るべし、理事長。
﹁き、京子⋮⋮?﹂
楓姫がこそっと影から出てくる。そして、俺の顔を見て再び影に
引っ込む。
そうだな、これから一緒
﹁ほら、あなたが前に出なくてどうするよ﹂
そう言って楓を前に押しやる理事長。
に暮らすからには早く仲良くならないと!
﹁﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂﹂
32
沈黙が広がる。
そういえば一体何を話せばいいんだ⋮⋮。
しか
王道としては共通の
話題だが、姫様と俺に共通の話題なんてあるとは思えない。
しこのままではいけない。とりあえず何か、この沈黙をブチ殺す話
題を⋮⋮。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁う、うむ⋮⋮﹂
﹁い、いい天気ですね⋮⋮!!﹂
﹁そ、そうじゃな⋮⋮!!﹂
﹁し、趣味はなんですか⋮⋮?﹂
﹁え、ぶ、舞踊を少々⋮⋮﹂
﹁へ、へぇ、すごいですね⋮⋮﹂
﹁そ、そうかの⋮⋮?﹂
﹁﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂﹂
﹁ってお見合いかお前らあああああああああ!!﹂
突如、傍で経過観察をしていた理事長が叫んだ。
﹁お見合い初めて同士で右も左も分からないタイプかお前らあああ
あああ!私のトラウマを目の前で再現して楽しい!?満足!?微妙
な空気で終わって﹃あんた結婚諦めた方がいいわね﹄って叔母に言
われた気持ちがお前らに分かるのかああああああああ!?﹂
﹁ちょ、ちょっと理事長、落ち着いてください!まだ大丈夫ですよ
!多分!﹂
やはりこの人⋮⋮婚期を逃していたか!
﹁何が大丈夫なの言ってみなさい!言えるものなら!﹂
﹁た、高橋さん!これどうすれば⋮⋮!?﹂
とりあえず近くの高橋さんに助けを求める。執事であればこの恐
慌を止められるかもしれない。執事は基本的に最強だからな。
33
﹁お嬢様は現在お見合い十連敗中で気が立っていらっしゃいます。
二十八にもなって彼氏のかの字もできない状況を叔母様は大層お嘆
きの様子で⋮⋮﹂
﹁うわあああああああああああああああああ!!!!!!!!!﹂
なんだまるで理性を失った獣のような有様ではないか。てかなんで
高橋さんも火にガソリン注いでいるの!?
頭を抑えながら処置なしと言った様子で頭を振る高橋さん。実は
この人も、相当アレな性格なのかもしれない。
﹁す、杉原とやら⋮⋮?こ、これは一体⋮⋮﹂
理事長の豹変に怯えて楓姫がしがみついてくる。そんなことをし
たら胸が⋮⋮当たらない。
少し残念。
﹁い、いや分からん⋮⋮﹂
実際には分かるが、ここまで結婚できないことで取り乱す人は都
市伝説だと思っていた。ぶっちゃけ、俺も怖い。
とりあえず嵐が去るのを待つしかないかな⋮⋮そう思っていると、
楓姫が、そうか、と小さく呟く。どうやら漏れ聞こえる﹃結婚﹄﹃
遅い﹄﹃二十八にもなって﹄などのワードから察したのだろう。
﹁京子は婚期を逃したのか⋮⋮?﹂
あっ、言っちゃった。
すると、理事長の動きが停止し、やすやすと地雷を踏みつけた楓
姫を凝視する。そして、悲壮感溢れる表情を浮かべ、おもむろに部
屋の隅に移動し、体操座りを始めた。
どうやら完全に心がへし折れたらしい。
﹁いや⋮⋮婚期とか⋮⋮価値観の違いだし⋮⋮それにまだ私⋮⋮二
十八だし⋮⋮高校の理事長っていうとみんな引いちゃうだけだし⋮
⋮だし⋮⋮だし⋮⋮﹂
すげえ、体操座りで地面に指で謎の図形を書き殴るタイプの落ち
込み方だ。これも本当にやる人いるんだな。
﹁おい、本当の事言うから理事長泣いちゃっただろ﹂
34
さすがに少し哀れなので、申し訳程度のフォローをする。
﹁す⋮⋮すまん。しかしこんな広い家に住んでいる者なら許嫁くら
い⋮⋮﹂
﹁君の時代ではそうなのかもしれんが、この時代ではそうも行かな
いんだよ﹂
﹁大変なんじゃな﹂
﹁大変なんじゃよ﹂
一緒に溜め息をつく。理事長に目を向けると、体操座りすら保て
なくなったのか、なんか倒れこんで動かない。
まるでただのしかばねのようだ。
﹁京子、大丈夫じゃ。生きてればいいことあると思うぞ﹂
死人に鞭を打つ楓姫。
恐らくは慰めているつもりなのだろうが、言外に結婚以外の道を
探せ、と言ってしまっているね。もうやめて!もう理事長のライフ
はゼロよ!
しかし⋮⋮一連の流れで楓姫がタイムスリップしてきたという話
が現実味を増してきた。
やはり話し方というか⋮⋮雰囲気が明らかにこの時代の人間とは
違う気がする。
あくまで個人的な印象にすぎないので正確性には欠けるが、こう
いう直観が一番当てになるのも事実だ。
そうなると楓姫をウチで預かるにしてもいろいろ障害が出てきか
ねない。一般常識を教えたり、社会のシステムを教えたり、そうい
う苦労も必要になってくるだろう。自分たちにとって当たり前の事
を教えるのが、実は一番難しいことなのだ。
普通に考えれば、実にめんどくさい。
しかし、なぜか先ほどまでよりも楓姫と暮らすことを具体的にイ
メージできる。いろいろな事を面倒くさそうに教えている、自分の
姿が。
俺は、この姫様を幸せにしなくてはならない気がする。
35
秋宮家に仕えていた、杉原の血⋮⋮なのだろうか。どうしても、
宿命めいたものを感じる。
﹁楓姫ダメだぞ。傷口に塩を塗ったら﹂
頭にぽんっと手を置くと、楓姫は不思議そうにこちらを見上げて
きた。妹みたい⋮⋮か、懐かしい感じだな。
﹁しかし、それは痛そうじゃのう﹂
﹁理事長は今心を痛めているんだ。重症みたいだぞ﹂
﹁ふぅむ⋮⋮早く治るといいな﹂
そう言って楓姫が微笑む、笑顔を見たのは初めてだが、やっぱり
さっきまでの緊張した面持ちよりは断然似合っている。
叶うならずっとこんな顔をしていてもらいたいものだ。
﹁⋮⋮グッ⋮⋮私を踏み台にして随分と仲良くなったようね⋮⋮そ
れでいい⋮⋮それでいいのよ⋮⋮﹂
瀕死の理事長が︵精神的な︶吐血をしながら呻く。
相手、早く見つかるといいですね。
﹁そうですね。じゃあ、楓姫﹂
ようやく本題だ。
俺は体の向きを変え、楓姫の目を見る。
﹁うむ﹂
可愛らしい微笑みのまま、俺を見つめる楓姫。少し緊張してしま
うな。
﹁俺の家で一緒に暮らさないか?俺も姉さんも、歓迎するよ﹂
そう言うと、途端に楓姫は目を大きく開き、本当に嬉しそうに頷
く。
﹁ん!行く!お世話になります!お前と話すのもけっこう面白そう
じゃしな﹂
こうして、ちょっぴり人見知りで可愛い姫様は杉原家の新しい家
族となった。
この時、楓姫がここまで嬉しそうな反応を示した理由が分かるの
36
は、もう少し後の話だった。
37
第三章 姫、COME!?
﹁ふむ、ここがお前さんの家か?﹂
楓姫が物珍しそうに言う。理事長の車に乗っていた先ほどまで窓
の外の現代風な家屋を見て、理事長から、最近の家はこんな感じな
んだ、と説明を受けていた楓としては、我が家は少し、いや、かな
り異質に思えたのかもしれない。
﹁ああ、そうだよ。ちょっと古いけど、まぁ、我慢してくれ﹂
玄関を開け、楓姫を招き入れる。﹁古い﹂というのは言葉通りの
意味で、謙遜などではない。本当にこの家⋮⋮いや屋敷というべき
か⋮⋮は古い。
なんでも杉原の先祖様が室町の時代からここに居を構えてから、
何度か建て替えが行われたらしいが、今の我が家は明治時代に建て
替えられたものがベースになっているそうだ。改修工事も何度とな
く行っているため、耐震・災害にはそこそこ強い︵と言われている︶
が、やはり家内のところどころ古臭さを感じる。
明治時代の当主も当主でかつての武家屋敷をモデルに建て替えた
とのことだからもう、なんというか、その内重要文化財にでも指定
されてしまうんじゃないかという雰囲気さえ放っている。
屋根こそは瓦で覆われているものの、木造で、かつての名残か、
敷地面積もかなりあるため、一見すれば道場のように見えてしまう、
と以前知り合いが言っていた。
住んでいる本人からは分からないものだけどな。でも、俺からし
たら現代風の家が少し羨ましかったりするわけだ。
まぁ、そんな風情の家に住んでいるというのも、理事長が俺に楓
姫を託そうと考えた一因でもあるのかもしれないが⋮⋮気休めかも
しれないが、あの 洋館よりはのびのび暮らせるかもしれない。
﹁姉さんは⋮⋮買い物か?なんか張り切ってるな⋮⋮。まぁ、そこ
らでくつろいでくれ﹂
38
玄関にあった姉さんの書き置きを眺めつつ、楓姫をとりあえずは
客間に案内する。客間とは言っても、最近は客などほとんど来ない
のだけれど。
無駄に部屋数が多いのも考え物だ。
﹁うむ⋮⋮この家は私の時代の雰囲気に近いかもしれん。この時代
にもこんな屋敷があるのじゃな⋮⋮﹂
周りを見渡しながら、やや感傷的に呟く楓姫。
あぁ、なるほど、さっきの表情はこの家が物珍しかったわけでは
なく、自分の時代の面影を見つけて驚いていたというところか。
﹁元々が武家屋敷らしいからな。建て替えもその武家屋敷をモデル
に⋮⋮真似して行ったらしいし。戦国時代よりは敷地は狭くなった
らしいけど﹂
明治時代になんやかんやあったらしいが⋮⋮詳しいことはよく分
からない。
﹁む!武家じゃったのか!﹂
﹁お前、なんでウチに来たか覚えてる!?﹂
﹁⋮⋮?おお!そういえば京子が杉原の家系の者がいるとかなんと
か言っておったな!お主じゃったか!﹂
﹁ちょっと待ってくれ!お前今まで俺の事なんだと思ってたの!?﹂
﹁見知らぬ足軽じゃな﹂
﹁知らない足軽に着いて行っちゃいけません!﹂
﹁なんじゃ!草履取りじゃったのか!?ならばはよ私の草履を懐に
入れて温めるのじゃ!﹂
﹁ウキー誰が猿だ!﹂
﹁あはは!なかなか面白いやつじゃな!杉原の次くらいに面白い!
そういえばお前も杉原か!あはははは!﹂
何故かものすごく嬉しそうに笑う楓姫。
こいつ⋮⋮大人しい娘だと思ってみれば⋮⋮なんか騙された気分
だ。
具体的に言えば乳牛だと思って近寄ったらあばれ牛だったみたい
39
な。ちなみに麗しの楓姫様はどう見ても貧なので今の例えに他意は
ないよ。
﹁お褒めに預かり光栄だよ⋮⋮ったく。まぁいいや。なんか飲むか
?﹂
﹁んっと、冷たいものをもらえるかの?﹂
客間の真ん中に出してやった座布団にちょこんと座る楓姫。この
ような姿勢はやたら洗練されているように感じる。やはり姫様とい
ったところだろうか。
﹁了解。ちょっと待っていてくれ﹂
そう言って客間を抜け、台所に向かう。
冷蔵庫を開けると、さっき見たとおり麦茶があった。ジュースも
あるが、まぁ慣れた味の方がいいだろう。麦茶が戦国時代にどのポ
ジションにあったのかは一切知らないが。
グラスにそそぎ、楓姫のいる客間へ戻る。
﹁ほら、麦茶だ﹂
麦茶のグラスを楓姫に渡す。
﹁おお、すまんな⋮⋮!?ものすごく冷えているな!美味しい!﹂
目を輝かせて残りをこくこく飲む楓姫。あぁ、そうか。戦国時代
に冷蔵庫なんてないだろうし、キンキンに冷えた飲み物なんて飲ん
だことないのかもしれない。
﹁そりゃよかった。麦茶って楓姫の時代にもあったのか?﹂
﹁ん?ああ、あったぞ。たまに飲んでおった﹂
それを聞いてホッと息を吐く。もしかしたらこの時代の物が全部
口に合わないんじゃないか、という危惧もあったのだが、どうやら
杞憂だったようだ。押し付けられたに近い形とはいえ、新しい同居
人に不自由な思いはさせたくない。
﹁⋮⋮しかし⋮⋮数百年というのは⋮⋮恐ろしいものじゃな。私の
知る物はほとんど残っていない。あったとしても全て形を変えてい
るんじゃからの⋮⋮もちろん、それが愉快でもあるのじゃが⋮⋮﹂
突然憂いを帯びる顔。
40
﹁不安か?﹂
﹁少しの。いや、かなり不安じゃの﹂
寂しそうな笑みを浮かべる楓姫。さっきまでのハイテンションは
不安や寂しさを紛らわすためのものだったのかな⋮⋮とつい邪推を
してしまう。
﹁過去に戻りたいのか?﹂
それとなく尋ねてみると、楓姫は先にも増して微妙な表情を浮か
べた。
﹁戻りたくない、といえば嘘になる。じゃが⋮⋮恐らくそれはひと
ときのことじゃろう。もう二度と戻らない覚悟は決めてきたしの⋮
⋮﹂
そう言う楓姫の目には力がこもっていた。よほどの覚悟の上のこ
となのだろう。
﹁現代にきたのは⋮⋮お前の意志だったのか?﹂
予想はできているが、これから生活していくうえでどちらなのか
を明確にしておきたい。
最初は何かの間違いで未来に飛ばされたものだと思っていたが、
理事長家で会って以降、楓姫には意図せずこの時代に飛ばされてし
まった悲壮感が一切感じられなかったのだ。
まるで、こうなることを予期して⋮⋮望んでいたかのような⋮⋮
﹁ああ、﹃儀ノ書﹄を私の意志で使って先の世界に来たのじゃ。じ
ゃから、もう泣き言などは言っておれんの﹂
そういった楓姫の顔は、しかし、やはり寂しさの影はぬぐい切れ
てはいないように思える。
﹁戻る術はないのか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮どうなんじゃろうな、よく分からん﹂
少し眉を寄せて言葉を漏らす楓姫、警戒しているのだろうか。俺
が過去に帰したいと思っていると勘違いしているのかもしれない。
﹁大丈夫だよ、お前を過去に帰したいなんて今はまだ思ってないか
ら。それより、﹃儀ノ書﹄ってなんだ?﹂
41
﹁ああ、儀式書、のようなものかの⋮⋮城の古い倉庫で見つけたん
じゃ。そこに﹃先の世へ行く手立て﹄という項があって⋮⋮それの
通りに儀式を行ってみたら、いつのまにか京子の屋敷に⋮⋮﹂
なるほど、その﹃儀ノ書﹄とやらが全ての元凶というわけか⋮⋮
しかし、かの時代にタイムスリップの手段があったという部分が
どうにも引っかかる。
何故そんなものがありながら、その技術が誰にも知られることが
なかったのだろう。楓姫の話によると﹃儀ノ書﹄なる怪しげな書物
は戦国時代の無名大名の古びた倉庫にあったという話ではないか。
深く地中に埋蔵でもされていたのならともかく、少なくとも当時は
姫様が見つけられるほど比較的目に留まりやすい場所にあったはず
だ。
となると、誰が、どんな意志を持ってその書物を所持し、倉庫に
置いたのだろう。そんな怪しげな本に書かれている事なら、気にな
って書物通りに実行し、過去から未来に飛ばされる人がいても何も
不思議ではないのに、何故今までそんな話を聞いたことがないのだ
ろう。
⋮⋮ええぃ、そんなこと考えて何になるっていうんだ。今はそれ
よりも楓姫のこれからのことの方を考えるべきだろう。どうせそん
な本、この時代には残っていないんだろうし。
さきほどまでの考えを脳から追い出し、黙り込んでしまった俺を
不思議そうに見つめる楓姫に向き直る。
﹁⋮⋮しかし、それは壮大な家出だな。何があったか⋮⋮は聞かな
い方がいいか?﹂
﹁今は⋮⋮な。いずれ私から話そう。割と今も、混乱しておってな﹂
﹁わかった。今は何も聞かないよ。混乱してるのはお互い様だし。
ウチも自分の屋敷だと思って使ってくれていい﹂
これくらいの声をかけるのが、何も知らない俺には精いっぱいだ
った。部外者が口をはさむべき問題でもないし、今すぐ聞かなけれ
ばならない事でもないだろう。
42
﹁すまんの﹂
そう言って楓姫は黙り込んでしまう。
﹁⋮⋮おかわり、持ってくるな﹂
俺は空になったグラスを持ち、この重い空気から逃げるように客
間から出た。
いずれちゃんと知れる日がくるといいが⋮⋮そう、考えるべきは
この先の事だ。
43
第三章 姫、COME! ?
﹁たっだいまぁ∼!﹂
グラスに麦茶を再び注いでいたところで、能天気な声とともに姉
が買い物から帰ってきた。
﹁お帰り。姉さん﹂
﹁おう!弟!ってことは麗しの姫様はもう来てるのかな!?﹂
﹁うん。いるよ、客間に。あんまり驚かせるなよ﹂
そう言ってついでに空のコップに麦茶を注ぎ、姉さんに差しだす。
姉さんはごくろう、と言わんばかりにコップを受けとるやいや飲
み干し、会話が再開される。
﹁よし!じゃあ行こう!あ、でも、これ冷蔵庫に入れなきゃな⋮⋮﹂
床に置かれた買い物袋を見下ろし、もどかしそうにする姉。
﹁アイス買って来てんじゃねえか早く入れないと溶けるぞ﹂
姉は何やら葛藤しており聞いちゃいない。弟の声をもう少し耳に
入れる努 力をすべきだと思うよ。しかも⋮⋮ああ、それしるこバ
ーじゃないか、早く冷やさなきゃ⋮⋮。
﹁むむむ⋮⋮でも私だけで行くのもあれだしなぁ⋮⋮﹂
といいつつ、買い物袋を持ち上げ、自然な流れで俺に袋を押し付
ける姉。
その動作に一切の無駄は無く、洗練されていた。
普通ではとてもこうはいかない。どこかで必ず相手が違和感を覚
えるはずなのだ。なにせ、相手に意図的に負荷を加えることになる
のだから。
そう、長年重いものを弟に押し付けるという動作を繰り返し行っ
ている姉でもない限り、この動きは再現不可能だろう。
かくいう俺も、一瞬俺が買ってきたのかと錯覚してしまった。こ
こまでくるともはや一種の幻覚の類と呼んでも差し支えないだろう。
姉は、計画通りッ⋮⋮と言わんばかりの、それはもう悪い顔で買
44
い物袋の移動成功を確認すると、ニカッと笑った。
﹁やっぱりいきなり知らないヤツが入ってきて怖がらせても悪いし、
達稀がしまうのをまっているよ!﹂
クッ⋮⋮ここでその技を繰り出すのかッ!!
この姉に耐性のない、一般的な男子であれば、袋を自分の物と勘
違いしたまま待っててくれるなんて優しいなぁ、とかなんとか思い
つつ、知らぬ間に姉さんの術中にはまってしまうことだろう。最悪
の場合、恋に落ちてしまうかもしれない。
しかし俺はこやつの弟、こんな手に騙されやしない。
﹁なんで俺がしまうことになってるんだよ!ここにいるなら自分で
やれ!﹂
俺はいつも通り、至極当然の主張をする。
しかし姉さんは髪をかきあげ、魔王のような笑みを浮かべる。
﹁ふっふっふ⋮⋮しかーし!お前は袋を受け取ってしまった!所有
権はお前に渡った!よってお前がやれ!﹂
全く意味不明だ、一体コイツは何を言っているんだ?
﹁さては貴様!弟を召使いだと思っているな!﹂
﹁そんなことないよ!姉さんをあんまりみくびるなよ!﹂
姉さんが必死に否定する。
あぁ、そうか、こんな扱いをしていてもやっぱり姉弟。こんな姉
でも弟は弟として⋮⋮
﹁弟は姉の奴隷だ!﹂
﹁もっと悪いわ!人権すらないのか!﹂
﹁弟の人権は、姉のもの﹂
﹁剛田さんは帰ってくれ!﹂
第一、あの剛田はシスコンだしね!優しくしようよ!
そんなやりとりをしつつも積極的に食品を冷蔵庫につめる俺。
これは、アレだもんね!この鶏肉をこのまま傷ませるのが忍びな
いだけで、お姉ちゃんの暴論に従ったわけじゃないんだからね!
﹁さぁ、しまったんなら行くよ!遅い遅い!﹂
45
そう言って姉はズンズンと客間に向かって歩きはじめる。
この扱いにはどうにも納得がいかなかったが、俺は仕方なく追いか
けるように客間に向かい歩きはじめた。
※
﹁な⋮⋮ななななな⋮⋮﹂
客間の障子戸を開け、楓姫が座布団にちょこんと座っているのを
確認して以降、この姉は﹁な﹂以外の言葉を消失している。まるで
壊れかけのレディオゥ。
﹁えっ⋮⋮えっと⋮⋮す⋮⋮杉原。この人は⋮⋮?﹂
楓姫がおっかなびっくり俺に尋ねる。
﹁あぁ、言ってなかったか。俺の姉さんだよ﹂
﹁ふ⋮⋮ふむ。さっきから﹃な﹄しか言っておらんが大丈夫なのか
の⋮⋮?﹂
心配そうに姉を見つめる楓姫だが、残念ながら⋮⋮
﹁大丈夫じゃないよ。元からだけど完全に壊れたみたいだ﹂
﹁な⋮⋮なななななな⋮⋮﹂
粗大ごみの収集はいつだっけ。後で調べておくとしよう。お金取
られたりするのかなぁ、やだなぁ。
﹁こわれッ!?お⋮⋮おい⋮⋮どうすれば⋮⋮?﹂
どうしようもないんだが⋮⋮まぁ刺激を与えれば直るかもしれな
い。
﹁ああうん、自己紹介でもすればいいんじゃないかな?﹂
蹴りを入れるという選択肢も浮かんだが、俺はまだ死にたくない
から却下だ。
﹁な⋮⋮名乗りをあげれば治るのか!?よし!﹂
というと楓姫は意気揚々と姉の前に進み出て、ちょこんと座り、
頭を下げる。
﹁はじめまして、杉原の姉上。私は秋宮成雅の娘、楓と申します。
46
本日よりここでお世話になります。どうかよろしくお願いいたしま
す﹂
おお、お姫様っぽい。いや、本物なんだろうけど。
そんな感想を抱いていると姉から、ぷすん、という音がした、気が
する。すると、姉の硬直していた体が突然動きだし、目の前に座る
楓姫に飛びついた。
﹁なんだこのカワイイ生き物は!?ふわぁ⋮⋮髪さらっさらだしお
目目大きいし鼻小っちゃいし声可愛いし!反則でしょ!可愛いかわ
いいカワイイ可愛いかわいいカワイイ!﹂
ガッチリと取り押さえ、楓の身体を撫でまわす姉。うわ、やめろ
着物がはだけてうわああああいいぞもっとやれ。
﹁!?!?!?!?!?!?!?なんじゃ!?あうあうあうあ。す
⋮⋮杉原!助けてっ⋮⋮!﹂
助けを求める楓姫。悪いな、暴走特急と化した姉を止める術はこ
の世にはないんだ。というよりまともに目を向けることもできない
んだ。太ももとかはだけてアレがソレだからな。
恍惚の表情を浮かべながら頬ずりする姉と目をぐるぐるさせなが
ら頬ずり被害にあう楓姫を音声のみで楽しみながら、なんとかやっ
ていけそうだな、と俺はしみじみ思ったりするのであった。
⋮⋮しかし、そろそろ止めどころだろうか。
﹁おい、姉さん。そろそろ離してやれよ。突然、知らないヤツに突
撃されて処理落ちしてるぞ﹂
楓姫が姉に苦手意識を持つ前にそれとなく止める。
﹁おおぅ!そういや名乗ってなかったね!私は奈央だよ!杉原奈央
!奈央姉と呼びたまえ!﹂
なぜか偉そうに自己紹介する姉。まだ人間としての理性は失って
いなかったようだ。
﹁う⋮⋮うむ、姉上、よろしくお願いします⋮⋮﹂
対照的に力なく答える楓姫。力関係成立の瞬間だな。ちなみに姉
さんより力関係が上の哺乳類は存在しない、と思う。
47
﹁ふむ⋮⋮姉上⋮⋮。いい響きだから採用!!﹂
そう言いながら姉は楓姫の頭を撫ではじめる。よほど気に入った
のだろう。楓姫も困ったような表情を浮かべながらもどこか嬉しそ
うだ。
でもそろそろ⋮⋮、と時計をちらりと見る。
﹁姉さん、晩御飯の支度はしなくていいのか?あんなに買い込んで
きて結構手間がかかるもの作る気じゃないのか?﹂
まだ少し早いが、そろそろ腹の虫もウォーミングアップを始める
時間だ。
我が家の料理は全て姉が請け負っている。
先ほどのはち切れんばかりの買い物袋を見る限り、相当気合が入
っているように見えた。
ある程度時間もかかるだろう。
﹁おお!そうだった!すっかり忘れてたよ!じゃあとりあえず楓ち
ゃんの身の回りのことはあんたがしてあげなさいね!﹂
そう言い残しキッチンに向かって駆け出す姉さん。全く嵐のよう
なヤツだ。
その感想は被害にあった楓姫も同じようで小声でぶつぶつと、﹁
なんなんだあれは⋮⋮なんなんだあれは⋮⋮﹂としきりに呟いてい
る。
﹁あれがこの家のいわゆる主だよ。この嵐には慣れるしかない﹂
﹁わ⋮⋮分かった﹂
﹁さてと、珍獣紹介はここまでにして⋮⋮そうだな、この客間は君
が使っても大丈夫だから寝起きはここでしてくれ。姉さんの部屋で
もよかったけど⋮⋮﹃教育上よろしくない﹄ものがたくさんあるら
しいから﹂
主にBL本や男同士が絡み合う本だがな。俺は腐海と呼んでいる。
一度、辞書を借りる為、無断で入ったら家中引き回しの刑にあっ
て以来、あの部屋はトラウマと化した部屋だ。だってマジで死ぬか
と思ったんだもの。
48
﹁そうか⋮⋮私も姉上と一緒に寝る覚悟はできていないが⋮⋮。何
から何まですまんな﹂
楓姫は申し訳なさそうに呟く。
﹁いいんだよ、いちいち謝らなくても。今日からここで暮らすんだ、
難しいかもしれんが自分の家だと思ってくれていい﹂
﹁すまん⋮⋮あっ。⋮⋮ありがとう﹂
そういって柔らかく微笑む楓姫。うん、やはりそっちの顔の方が
可愛いな。
﹁ははは。少しずつ慣れていけばいいんじゃないか?時間かかりそ
うだし﹂
﹁⋮⋮むぅ⋮⋮そんなことはない、私にかかればすぐに⋮⋮﹂
悔しそうに少し顔を膨らます楓姫。言いきれないあたり不安とい
ったところだろうか。ようやく慣れてきたのか、さっきから表情豊
かだ。
﹁じゃあ布団は後で出しておくとして⋮⋮服は、まぁ、姉さんに借
りるか。明日にでも買いに行かなきゃな﹂
服を買うなら大江町あたりだろうか⋮⋮よく分からんが⋮⋮
﹁姉上の服は私には大きいんじゃないのか?﹂
﹁胸がか?﹂
﹁違うわ阿呆!全体的に大きいじゃろ!それにそんなに小さくない
わ!!私の時代では普通⋮⋮よりちょっと小さいくらい⋮⋮じゃ!﹂
なるほど、飽食の時代でなくても並以下か⋮⋮
﹁悪いがここは現代だ、発育が楓姫の時代とは圧倒的に違う。この
時代では楓姫のサイズは一般に﹃まな板﹄と呼ばれる﹂
ちなみに﹁まな板﹂はヤツの専門である。誰とは言わないけれど。
楓姫レベルが平均︵以下ではあるが︶の時代があったと知れば﹁
ロリコニスト万歳!!﹂などと叫び、﹃儀ノ書﹄とやらなしでもタ
イムスリップしてしまいかねないヤツだ。
誰とは言わないけれど。
﹁ま⋮⋮まなっ⋮⋮べっ、別にいいわ!気にしてないし!﹂
49
ふて腐れてそっぽを向くが、そんな態度では気にしていると言っ
ているようなものだ。
﹁まぁ落ち着けよ。この時代に来たんだ。成長が見込めるかもしれ
ないぞ?﹂
﹁本当か!?﹂
餌に面白いように食いつく楓姫。なんとなく分かってはいたがこ
いつ⋮⋮からかいがいがありすぎる⋮⋮。
﹁やっぱり気にしてるんだな。そういえばいいじゃないか、誰も笑
わないぜ?﹂
﹁謀ったな!?﹂
顔を真っ赤にして怒り始める楓姫。
﹁大丈夫、姫の魅力は他にありますよ﹂
﹁慰められた!?しかも、それとなく諦めろと言っておるのか!?
どうしよう、泣きたい!!﹂
﹁よし、そんなことよりも家を案内しないとな。行くぞ﹂
﹁そんなこと!?くそぅ、貴様いつか泣かしてやる!絶対にじゃ!﹂
何やらぷんすかぽんと怒りながらも俺の後ろをてこてこ着いてく
る楓姫。なんだか子犬でも飼いはじめたような気分だ。
50
第三章 姫、COME!?
まず、トイレと洗面台を案内する。さすがにトイレは理事長の家
で使用済みらしく、まだ慣れてはいないそうだが、とりあえずは一
人でできるらしい。
これに関しては理事長とはいえ感謝すべきかもしれない、だって
女の子のトイレとか知らないし、なんかいろいろ倫理的に危ない気
がする。
しかし、理事長の家は洗面台の水もトイレの水も全自動で流れる
らしく、 どのようにトイレの水を流すのかという講義が必要にな
りはしたのだが。
次に、万一の時のために俺の部屋を教えておくことにした。
特に変わった所のない、やましい物などない、平凡な部屋だが、さ
すがに女子にまじまじと眺められるとそわそわする。いや別にやま
しいものは無いんだけど。大事な事なので二回言いました。
もちろん⋮⋮紙媒体では、な。データ社会最高。やましい画像は
jpegに限る。
﹁ふむ、これが現代の殿方の部屋か!布団が少し高いのだな⋮⋮お
ぉ!ふかふかじゃ!﹂
そういいつつ、俺のベッドに寝転がる楓姫。
︱︱おいやめてくれ、今晩悶々とする羽目になるだろ!
俺の心の悲痛な叫びも空しく、ベッドでやわらか∼とか言いなが
らゴロゴロしつづける楓姫であった。
なんとかベッドから姫を引っぺがし、次へ行く。姉さんの部屋は
入れば命はない。と教えたので問題ないだろう。姉さんが招き入れ
る時まで保留だ。
他は軽く触れた程度で済ませる。もともと武家屋敷ということも
あり、部屋数はそこそこあるが、重要な場所以外は普段の生活で知
っていけばいいだろう。
51
最後に風呂場。我が家自慢の檜風呂だ。なんでも爺さんが檜風呂
に特別なこだわりがあったらしく、爺さんが往生した後の、十年前
のリフォームの際にも父が遺志を継ぐ形で広い檜風呂の注文を何よ
りも優先させた。デザインも一新され、俺のお気に入りの場所の一
つでもある。
楓姫もこの場所が気に入ったらしく、
﹁早くはいってみたいのう!﹂
などと弾むような声で言っている。
﹁それよりも、この蛇のようなものは一体何なんじゃ?﹂
楓姫がシャワーを指さす。
﹁これか?これはシャワーって言うんだ。理事ちょ⋮⋮京子さんの
家では使わなかったのか?﹂
﹁なんだか怖くてな。一度も使わんかった。どう使うんじゃ?﹂
⋮⋮何故だろう、目を輝かせながら俺に尋ねる楓姫を見ると無性
にいたずらごころが湧き上がってくる。
﹁これはな、自宅で簡単に滝行ができる便利な物なのさ。この蛇口
を回すことで温水が滝のように出てくるから現代人はその湯で己の
煩悩を取り去るんだよ﹂
よくもまぁここまで嘘がスラスラ出るもんだ。我ながら呆れる。
﹁ふむ⋮⋮現代にも滝行は残っておるのか⋮⋮﹂
楓姫の表情は真剣そのもの。楽しくなってきたぞ!
﹁ああ。俺はあまり長くは使わないが、姉さんなんかは毎日一時間
以上もここに籠って修行を重ねているぞ﹂
ホント、女の人の入浴ってなんであんな長いんだろうね。入浴、
電話、買い物の長さときたらキリンさんですら首を長くするのに疲
れてしまいそうだよ。
﹁姉上が!?⋮⋮やはり只者ではないと思ってはおったが⋮⋮あの
快活さは修行の末悟りを開いた故だったのだな﹂
どうやら姉さんへの評価は異常に高いらしい。俺からしたら姉さ
んは煩悩が具現化した姿とすら思えるのだが。
52
﹁よし、私も今日から滝行をやるぞ!せっかくの機会じゃ!﹂
⋮⋮しかしこの子は疑うってことを知らないのかなぁ。だんだん
不安になってきたぞ。
冗談を訂正しようと思った矢先、悟りを開いた煩悩の、ごはんだ
ぞー!、という声が聞こえてきた。
⋮⋮うん、まぁいいか。なるようになるさ。
﹁楓姫、晩御飯だそうだ。行こう﹂
﹁うむ!なんじゃろうな、けんちん汁とかかの?﹂
また渋いチョイスだな、と思ったが、ひょっとしたら戦国時代で
はけんちん汁が若い姫の間でトレンドだったのかもしれないと思い
至る。いや、知らんけど。
無駄に長い廊下を歩いていると辺りをキョロキョロ見回していた
楓姫から問われた。
﹁そういえば杉原、この屋敷はいつからあるんじゃ?﹂
﹁ん?あぁ、土地自体は戦国時代からこの場所にあるみたいだよ。
屋敷は何回か建て直してるから、さすがに戦国時代のままとはいか
ないけどな﹂
﹁なるほど、じゃから懐かしい感じがするんじゃな⋮⋮最近は行っ
ておらんかったが幼い頃は杉原の家によく遊びに行っておったから
な⋮⋮あっ、杉原というのは私の時代の杉原じゃぞ﹂
﹁それ、紛らわしいから俺は達稀でいいぞ﹂
﹁うむ⋮⋮タ、タツキ、か⋮⋮どういう字を書くのじゃ?﹂
﹁あぁ、稀に達すると書いて達稀だ﹂
﹁ふむ、いい名じゃな。父上殿が名付けたのかの?﹂
﹁いいや、名付けたのは爺さんだよ﹂
﹁ふぅん⋮⋮﹂
そうこう話しているうちに食卓にたどり着く。
⋮⋮む、この匂いは⋮⋮
﹁おー遅かったじゃん!冷めちゃうよ早く座って!﹂
姉さんはすでに食卓に座り、所在無さげにサラダのレタスのふち
53
をいじっていた。
﹁ああ、すまん。やっぱり卵スープか。いいね﹂
﹁うわあ!ご馳走じゃの!﹂
食卓には、貝柱の炊き込みご飯、カレイのから揚げ、筑前煮、ミ
ニサラダ、そして卵スープが並んでいる。姉は思考はぶっ飛んでい
るが家事の腕は 相当なものである。特に得意なのが料理で、味は
絶品だ。
その中でもこの卵スープ。コンソメベースのスープに卵とコーン
を加え、片栗粉でとろみを出したもので、レシピ自体は簡単だが、
それも姉が一から作ったコンソメスープを使うと一瞬で至高の一品
となる。スープ自体のとろみと卵の濃厚な舌触りと姉お手製のコン
ソメスープのうまみ、そしてコーンの甘みが合わさり絶妙な味わい
を醸し出す。
小さいころからの俺の大好物にして、死ぬ前に食べたい料理ナン
バーワンだ。
楓姫もその絶品オーラに気付いたのか、目を輝かせながら卵スー
プを凝視している。
﹁よっし!それじゃあ食べようか!いただきます!﹂
﹁いただきます﹂
﹁いただきます!﹂
まずは炊き込みご飯を一口。うん、美味い。いい出汁が出ている。
他の料理もつまみながら、ニコニコしながら食べる姉に話しかける。
﹁今日はずいぶんと豪勢だな。張り切ってるとは思ったけどここま
でとは思わなかったよ﹂
﹁いや∼楓ちゃんに美味しいもの食べてもらおうと思ったらついね
!﹂
﹁よっぽど嬉しかったんだな﹂
﹁そりゃあそうだよ!妹ができるみたいなもんだし!私、妹欲しか
ったんだよね∼﹂
楓姫をチラチラ見ながらなおも嬉しそうに話す姉さん。食卓がこ
54
こまでにぎやかなのも久しぶりだな。
﹁おい、そんなことを言うと弟が泣いてしまうぞ!﹂
﹁弟はもちろん重要だよ!荷物持ちとかパシリとか本当に便利だか
らね!﹂
﹁だよね!予想してた!⋮⋮でも夕月ちゃんがいるだろ?完全に姉
さんの妹分じゃないか﹂
そう言うと姉さんは何故か困ったような表情を浮かべた。
﹁うーん、夕月ちゃんは妹分ではあるんだけど⋮⋮むしろ妹になっ
てほしいんだよ﹂
﹁はぁ?意味わからん﹂
﹁まぁとにかく、賑やかになって嬉しいんだよ!﹂
なんか強引に話を打ち切られた。あまり突っ込むべきじゃないの
か?それなら、まぁ、いいけど。
当の楓姫は隣で筑前煮を一口食べ、頬に手を当てながらうっとり
とした表情で﹁∼∼∼∼∼∼﹂と声にならない声をあげている。よ
ほど気に入ったのだろう。一口一口、噛みしめるように食べている
姿を見ると、時代を超えて食卓を囲んでいることに感謝すらしたく
なってくる。
﹁楓ちゃん!どう!?おいしい!?﹂
﹁うん!私はこんなにおいしいものを食べたことがない!﹂
﹁それはよかった!今日は楓ちゃんの歓迎会だからね!いっぱい食
べてよ!﹂
﹁うん!この卵のスープは本当においしいな!ちょっと甘いこのぶ
つぶつしたのが好きじゃ!﹂
そう言ってスープの中から箸でコーンを取り出す楓姫。
﹁おお!いいねぇ!ウチに向いてる舌を持ってるよ楓ちゃんは!お
かわりあるからね!﹂
﹁欲しい!﹂
﹁お前の時代にはとうもろこしはなかったのか?﹂
﹁ううむ⋮⋮南蛮からの物ならあったのかもしれんが、私は食べた
55
ことがなかったの﹂
﹁ふうん。じゃあいろんな食べ物が初めてなんだな﹂
戦国時代ってのは微妙な時期だから境界線がよく分からなかった
りするんだよな。
﹁ふぅむ⋮⋮それなら明日は洋食にしてみようか!﹂
﹁しかしいきなりそんな飛ばして大丈夫なのか?洋食なんてそれこ
そ未知の食べ物だろ﹂
﹁大丈夫だって!和風にアレンジするし!﹂
﹁む!ヨウショクとは南蛮料理かの?楽しみじゃの!﹂
本当に待ち焦がれているように楓姫ははしゃぐ。
ああ、そういえば明日といえば⋮⋮
﹁そうだ、姉さん。明日からの楓姫の服だけど⋮⋮﹂
﹁あぁ、そうだねえ。洋服よりは和服がいいかなぁ⋮⋮私の小さい
ころの服は⋮⋮捨てちゃったっけ⋮⋮﹂
﹁ほとんど夕月ちゃんにあげちゃったんじゃないか?﹂
﹁あーそっか⋮⋮どうしよ⋮⋮﹂
そこでようやく、理事長からいくらか初期投資用に資金をもらっ
ていたことを思いだした。中身を確認してみたが、アレだけあれば
何着かよさそうなのが買えるだろう。
﹁大丈夫だ、理事長からいくらか貰ったからそのお金で明日いろい
ろ買ってくるよ﹂
﹁えっ、何、そんなの貰ったの?いいのかなぁ⋮⋮﹂
﹁俺も一応断ったんだけどな⋮⋮強引に渡されちゃって⋮⋮さすが
に無下にもできないだろ﹂
﹁そっか⋮⋮それなら遠慮なく使わせてもらおうか。後でお礼の電
話しとこっと﹂
﹁それならとりあえず今日は何着せようか﹂
﹁そだね。う∼ん、私の昔の浴衣はまだあったハズだから⋮⋮それ
でいっか﹂
こうしてみると、考えなければならない事は山ほどあるんだな⋮
56
⋮戦国時代うんぬんは抜きにしても家族が一人増えるって言うのは
意外に大変だ。
﹁うう⋮⋮ありがとう姉上﹂
﹁よいぞ∼よいぞ∼ういやつじゃ∼!﹂
これでもか、というほど顔を緩める姉さん。デレッデレだな、も
う。妹っていうより孫に対するソレに近い気がするが⋮⋮
﹁姉さん明日予定は?﹂
俺は無い。あるほうが珍しい⋮⋮友達は、いるよ。四人くらい。
﹁う∼ん、めちゃくちゃ行きたいんだけど明日はちょっと用事があ
るんだよなぁ⋮⋮妹の服を選ぶという夢がッ⋮⋮!くそう!あんた
たちで行っておいでよ!﹂
心から悔しそうな顔をする姉⋮⋮大学のアレコレだろうか⋮⋮ま
ぁ仕方ない。
﹁分かった。二人で行くか﹂
なんやかんやよさげな服見繕えばいいだろう。俺の服買う時と変
わらないや。
﹁うむ。何かよく分からんが行こう!﹂
﹁あんたが下着選ぶんだぞ!頑張れよ、弟!﹂
﹁⋮⋮?﹂
ナニイッテンダコノヒト?
﹁いや、だから下着だって。楓ちゃんが選べるわけないじゃないで
すか∼!﹂
うん、そりゃそうだった。
﹁抜かった⋮⋮﹂
﹁ふふふ⋮⋮これはビックイベントだぞう!大人の階段3段飛ばし
だぞぅ!﹂
ヘラヘラと笑う姉さん。こいつ、最初からそこに気付いていやが
ったな。
﹁⋮⋮仕方ない。夕月ちゃんに事情を説明して⋮⋮﹂
﹁しまった!夕月ちゃんという手があったか!封じておくべきだっ
57
た!﹂
﹁数少ない女子の知り合いだからな。断られたら死ぬ﹂
社会的に。あと、精神的に。
﹁じゃああとで達稀は﹃明日パンツ選ぶの手伝って!﹄ってメール
するわけだ!﹂
﹁頭とち狂ったと思われる!﹂
まぁそれでも夕月は、私でよければ!とか言ってくれそうだけど。
﹁あーあ、これで夕月ちゃんも本当に頑張らないといけなくなるな
ぁ⋮⋮確定だと思ってたのになぁ﹂
何故か遠くを見つめる姉。この人もたまになに考えているか分か
んないんだよな。
﹁は?何が?﹂
﹁なんでもないよー。そうだ、楓ちゃん!ごはん食べて片づけたら
一緒にお風呂入ろう!﹂
﹁修行じゃな!﹂
﹁?﹂
不思議そうな顔をする姉と目を輝かせる楓姫。そういえばあの誤解
をまだ解いてなかったな。
まぁ、いいや。面白そうだし。
そんなことよりも、カレイが美味い。
﹁たああああああああああつううううううううううきいいいいいい
いいい!!!!!!!﹂
風呂からあがった楓姫が鬼の形相で俺の部屋に突撃してきたのは、
その二時間後くらいのことであった。
58
第四章 女子の買い物が長いのは世界の理?
翌日、俺は姉さんに叩き起こされた。
﹁⋮⋮なんだよ、せっかくの休みくらい寝かせてくれよ⋮⋮﹂
﹁いいから早く起きなって!夕月ちゃんたちもう来てるよ!﹂
そこでようやくこんな時間に起こされたことに合点がいった。時
計を見ると⋮⋮八時半か、随分と早くね?
﹁分かった、起きるよ⋮⋮夕月ちゃんは居間?﹂
﹁うん、でも楓ちゃんが来客に怯えて客間に引っ込んでるから連れ
てきてね﹂
﹁あーうん、分かった⋮⋮﹂
ぼさぼさになった頭を手で直し、簡単な着替えを済ませて客間に
向かう。
﹁楓姫、入っていいか?﹂
﹁あ、達稀か?い、いいぞ﹂
﹁そんじゃ遠慮なく﹂
襖を開けると楓姫も昔の姉さんの浴衣に着替えを済ませていた。
﹁おはよう、よく眠れたか?﹂
﹁うーん、正直あんまり⋮⋮﹂
﹁だろうなぁ、こればっかりは慣れるしかないんだけど⋮⋮﹂
﹁あぁ、でも!最後にはちゃんと眠れたし!寝不足というわけでは
ないぞ!﹂
何故か慌てた様子で訂正する楓姫。若干の違和感を覚えたが、具
体的に何に対する違和感なのかが分からない。
﹁まぁ、それならいいんだけど。それじゃ居間に行こうか。今日買
い物に付き合ってくれる子がもういるから﹂
﹁あ⋮⋮うぅ、なんか⋮⋮怖いのぅ⋮⋮﹂
﹁大丈夫だって。てかなんでここに引っ込んじゃったの﹂
﹁だって、見知らぬ者達が入ってきたから⋮⋮﹂
59
﹁ふぅん、でも大丈夫だよ。夕月ちゃんは姉さんの五倍は優しいか
ら﹂
﹁そう⋮⋮かの?それなら⋮⋮﹂
ようやく楓姫を部屋から連れ出し、居間へ向かう。しかし、何故
かここで非常に嫌な予感がした。昨日の食事の後、俺は夕月に楓姫
の買い物に付き合って欲しいという旨のメールを送った。しかし俺
は、それに一文を付け加えた。
葵は絶対に呼ばないように、そう付け加えたのだ。
何故か?それは楓姫の容姿と、葵のことを考えた結果、二人を今
引き合わせるべきでない、そう判断したのだ。
しかし、先ほどから何かが引っかかる⋮⋮何がだろう。
﹃いいから早く起きなって!!夕月ちゃんたちもう来てるよ!!﹄
﹃だって、見知らぬ者達が入ってきたから⋮⋮﹄
⋮⋮たち⋮⋮?
﹁なぁ、楓姫﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁見知らぬ者達って言ってたけど、どんな奴らだったか分かるか?﹂
﹁いや⋮⋮声がしただけなのじゃが⋮⋮女の子の声が二人分だった
かの?﹂
﹁ほぅほぅ、それで?﹂
﹁片方はやけに可愛らしくて幼かった気がするの⋮⋮もう片方はな
にやら﹃なんで付いて来たの﹄とか言っておったような⋮⋮﹂
﹁なるほどなるほど、楓姫、俺、先に居間に入るからさ、ちょっと
ここで心の準備していてくれる?﹂
﹁え?あぁ、分かった﹂
﹁うん、また自己紹介でも考えておくといいよ、それじゃ!﹂
そうして俺は二、三歩先にある居間への扉を開いた。俺の要請通
60
りならそこには夕月と姉しかいないはずだ。
﹁あ、先輩、おはようございます!﹂
﹁やぁ、達稀!全く寝坊助だねえ!﹂
俺は葵の顔を視界にとらえた途端、助走をつけはじめた。そして
畳を蹴り、ドロップキックを繰り出す。標的はもちろん、葵。
﹁うわぁ!危ないなぁ!下手したら当たってたよ!﹂
﹁ちっ、外したか⋮⋮悪かった葵、足が滑ったんだ﹂
﹁嘘つけよ初動からフィニッシュまで流れるような動作だったじゃ
ないか﹂
﹁滑ったのは本当さ、次は当てるからな﹂
﹁そっちの意味でかよ!せめて少しくらい害意を隠そうとしようよ
!﹂
﹁先輩、すみません⋮⋮お兄ちゃんがついてくるってきかなくて⋮
⋮﹂
﹁あぁ、夕月ちゃんは何も悪くないよ。それにここで始末してしま
えばそんな状況にはならないからね﹂
﹁そんなこと夕月が了承するわけないじゃないか﹂
﹁あ、あのっ!気絶まででお願いします!﹂
﹁おかしいな、なんでオーケーが出てるんだろう!?﹂
﹁第一なんでてめえがここにいるんだ?呼んだ覚えねぇってかむし
ろ来るなって言った気がするんだが﹂
﹁夕月が昨日そわそわしてたし大体の予想はできたからね。あとそ
れは初耳だね、すごく今傷ついてるよ?﹂
﹁そわそわなんて⋮⋮﹂
顔を真っ赤にして俯く夕月、まぁ姫様と初めて会うのに浮かれる
気持ちは分からないでもない。でも、夕月にしたら子どもみたいで
恥ずかしいって所だろうか。それをわざわざ公言するとは全くひど
い兄だな。
﹁奈央お姉ちゃん⋮⋮なんかすごい勘違いされた気がする﹂
﹁うん、もうアレは病気だから諦めるしかないよ﹂
61
一緒にソファに座っていた姉さんとなにやら話し始める夕月。何
故か姉さんからの視線がキツイのと関係があるのだろうか。
﹁そいじゃあ私は先に行くね。あんたたち、ちゃんといいの選んで
あげなさいよ!﹂
そう言って姉は居間を後にする。下手したら俺たちを付けてくる
のではとも思っていたが、どうやら本当に忙しいらしい。
﹁それにしても今日は女物の買い物だぞ?お前、そういうの嫌いじ
ゃなかったか?﹂
﹁君と夕月と姫様の買い物なんてそんな修羅b⋮⋮もとい、面白そ
うなもの見に来ないわけない手はないだろう!?あぁ、大丈夫、心
配には及ばないよ、僕は邪魔なんてせず後ろから尾行するだけだか
ら!﹂
﹁尚悪いわ!むしろ考え得る最悪の状況だろ!何をもって大丈夫な
んだ!﹂
﹁でもなんでそこまで嫌がるのさ、普通に姫様を見られるのも嫌、
みたいな反応だよね?﹂
﹁うっ、それは⋮⋮﹂
﹁僕にだけ見られたくない理由⋮⋮?はっ、もしや!!﹂
突如目を輝かせる葵、チィ、気付かれたか⋮⋮!
﹁その子は⋮⋮ロリなんじゃないかい?﹂
﹁ソ、ソンナアルワケナイトオモウンデスケド⋮⋮﹂
﹁やっぱりそうなんだ!!ってことはロリなんだね!?そうなんで
しょ!?早くロリ出せこの野郎!﹂
﹁うるせぇ黙れ犯罪者予備軍!だからお前は呼びたくなかったんだ
よ!﹂
﹁何言ってんのさ!父性的な観点から見ても幼女を愛でるのは決し
て罪ではないよ!第一、僕は常々思ってるんだ、ロリコンという業
を背負っている身としてはロリコン=犯罪者みたいな最近の風潮に
は遺憾の意を表明したいね。ロリコンはロリコンだし、犯罪者は犯
罪者だよ。全くの別物だ。一部の手折る側のバカのせいで僕ら愛で
62
る側の人間まで冷たい目で見られるのは勘弁してもらいたいよ。そ
れにね、幼女を性的な目で見るロリコンと父性的な目で見るロリコ
ン、この二つにも明確な違いを設けるべきだね!いや、実際にはあ
るのかもしれないよ?でも今の現状では両方とも同じような目で見
られるじゃないか、本当にどうかしてるよ!﹂
やべえコイツ、目がマジだ⋮⋮
突然、怒涛の勢いで持論を展開しはじめた葵に、言いようのない
恐怖を覚える。普段はわりとしっかりしたキャラではあるが、こち
ら系統の話になるとどうにも⋮⋮
仕方ない、ここは実力行使だ。難しいことを考える必要はない。
あの爛々と輝く両の眼に指を突き立てれば俺の憂慮は一蹴されるだ
ろう。
﹁⋮⋮達稀?入ってもいいかの?﹂
クソ、楓姫の心の準備が最悪のタイミングで出来てしまったよう
だ。
﹁もう少し待っててくれ!今こいつの目を潰すから!﹂
﹁おい!チョキはいけないよ!それは人体にとってひどく有害なフ
ォルムだよ!でも、甘いね!例え視界が奪われようとも僕クラスに
なると声、匂い、オーラ、その他要素で全体像の把握ができるんだ
よ!﹂
﹁もう少し延長だ!五感全部潰す!﹂
﹁うわぁ!目がマジだよ!姫様!悪いけど入ってきてくれない!?
僕が絶命する前に、早く!﹂
﹁へ?え?あ、うん⋮⋮入るぞ⋮⋮﹂
﹁あ、おい!﹂
くそ、あと三十秒もあればこの世から滅することができたのに⋮⋮
扉が開き、楓姫が姿を現すと、葵と夕月の息を飲む音が聞こえた
気がした。夕月にいたっては﹁お人形さんみたい⋮⋮﹂などと漏ら
している。
﹁は、はじめまして⋮⋮秋宮楓⋮⋮です﹂
63
﹁あっ、えと、姫川夕月です!﹂
深々とおじぎをする夕月。いや、恐縮しすぎだとは思うが⋮⋮し
かし楓姫の、なんというかやんごとないオーラの前ではそうしたく
なるのも分かる気がする。そちらに一瞬気を取られた内に目の前に
いた葵が消失していた。周りを見渡してみると、意外!彼はすでに
楓姫の前に跪いているではないか。
﹁初めまして、姫川葵と申します。以後お見知りおきを⋮⋮我が姫﹂
﹁えっ、あっ、う、うむ⋮⋮よろしく⋮⋮﹂
戸惑う楓姫に最高の笑みを向けた葵は何故か再び俺の方ににじり
寄ってきた。
﹁大変だよ達稀⋮⋮とんでもない逸材じゃないか⋮⋮ロリにして完
成形、至高と言っていいと思うよ⋮⋮﹂
﹁冷静な分析ありがとう、落ち着け﹂
﹁クソ、あの堅物さえいなけりゃウチで預かるのに⋮⋮神は死んだ
のか!?﹂
﹁⋮⋮いや、ある意味妥当な判断だと思うぞ⋮⋮﹂
﹁需要に合わせて供給するのが世の定めでしょ﹂
﹁神様はそんな市場原理に即していないと思うけど﹂
﹁くっ⋮⋮まぁいい、それならば僕がここに通いつめればいいだけ
の話!﹂
﹁夕月ちゃん、これ、おじさんにこれ伝えておいておくれ﹂
﹁り、了解しました!余すところなく!﹂
﹁やめてよ!割とマジでヤバいからそれ!﹂
泣き叫ぶ葵を眺めていると、ふと疑問が浮かぶ。そういえば俺、
楓姫の年齢知らないんだよな⋮⋮
見知らぬ人が自分についてわーわー言っているのにびっくりした
のか、楓姫は隠れるように俺の後ろに移動していた。
﹁そういえば楓姫は何歳なんだ?﹂
﹁知らなかったのかよ。昨日何してたんだよ﹂
葵の茶々は一切無視の方向で。
64
﹁えっ、えっと、十五になるかな⋮⋮﹂
﹁へぇ、思ったより歳近いんだな﹂
﹁そういえば私も達稀の歳は知らんのじゃが⋮⋮十八くらいか?﹂
﹁十七だよ。姉さんは十九﹂
﹁そうなのか。そっちの子は⋮⋮十二くらいか?﹂
﹁いいや?俺と同い年﹂
﹁!?﹂
﹁ちなみに隣の女の子⋮⋮夕月ちゃんはそいつの妹だよ﹂
﹁何がどうなっておるんじゃ⋮⋮﹂
呆然と立ち尽くす楓姫。まぁ当然のことかもしれない。小顔で端
正な顔立ちに大きな瞳、そして百四十センチ代の小柄な体躯。さら
に奇跡が奇跡を呼び、見事に変声期に忘れられた存在⋮⋮それが姫
川葵という男だ。一見して高校生⋮⋮いや、そもそも男子と判別で
きる人間すらほとんどいないだろう。
普通ならそのことをコンプレックスに思ってもおかしくない。し
かし、こいつの性癖が功を︵?︶奏して、むしろ喜ばしいこととす
ら思っているらしい。
何故かって?簡単なことではないか。そのほうが幼児とお近づき
なりやすい⋮⋮そういうことだ。
背が小さく、極度の童顔であることを逆手にとって休日に近くの
緑地公園で幼児と遊ぶことを趣味としているからな、こいつは。ロ
リ神様は僕に味方した!というのが彼の自分の容姿への評価だ。
さらに妹の夕月は普通の女の子として普通に成長したため、夕月
が姉で葵が妹のように世間的には見られがちである。普通よりは可
愛いか。いや、断然可愛い。まぁ、だからこそ昔は、兄に思えない
兄よりも姉さんに、そして何故か俺にとてもなついてくれていたわ
けだが⋮⋮最近、俺とは少し距離が開いてしまったように思える。
俺としても夕月の兄貴分であるという自負があったためこの現状は
寂しい限りだ。
﹁あぁっ⋮⋮くぅ!十四⋮⋮まぁでも見た目がこれなら⋮⋮﹂
65
しみじみとそんなことを考えていると葵が何やら言い出した。す
まないな、葵、暴走を止めるにはこうするしかないんだ。
夕月ちゃんに目配せをする。昔決めた合図なのだが覚えているか
⋮⋮そんな心配をよそに、夕月ちゃんはポケットからケータイを取
りだし、耳元にかざした。
﹁あっ、お父さん?お兄ちゃんが⋮⋮﹂
﹁ホールドアップ!夕月、今すぐ通話を切るんだ。さもなくば僕も
達稀にいろいろお話をしなければならない﹂
チィ!気付かれたか!しかし脅しが脅しになっていない!そんな
ことでこのホットラインが止められるとでも⋮⋮
﹁お、お父さん、ごめんね!なんでもなかったみたい!﹂
止まった!わりかしあっさり止まったよ!
やはり心の距離か⋮⋮泣きそう。
﹁よし、下手な真似をしたら撃つからね、言葉という名の弾丸を﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
﹁こら!葵、あんまり夕月ちゃんをいじめるな!﹂
﹁違うんだ真犯人、これは防衛本能ってやつなのさ。最悪死に至る
んだ、分かってくれないかな﹂
鋭い眼光でこちらを睨み付ける葵。その視線は俺が夕月の行動を
示唆したことを見抜いているようだ。
﹁⋮⋮ばれていたか⋮⋮﹂
﹁ワンパターンなんだよ、君たちは。昔と違ってでかい綻びがある
しね⋮⋮そうでしょ?夕月?﹂
﹁お兄ちゃんのバカ⋮⋮﹂
こいつ⋮⋮妹の弱みを握っているのか?なんて卑怯な⋮⋮
﹁それじゃあ姫様。そろそろ買い物に出かけようか!!可愛い服選
んであげるからね!﹂
﹁あ、う、うむ⋮⋮よろしく⋮⋮﹂
くっ⋮⋮このままでは葵の思うつぼではないか⋮⋮別にもう楓姫
が顔バレしてしまったことだし、葵が買い物についてきても何も問
66
題は無いのだが、こいつの思い通りに物事が進んでいるのが無性に
腹立たしい。
何かこいつをどん底にまで叩き落とす方法は⋮⋮
そこで俺は先月の、ある出来事を思い出した。仕方ない、こうな
ったら⋮⋮
﹁夕月ちゃん、どうせだから御崎も呼ぼう﹂
﹁やっぱり僕は帰るよさようなら!﹂
俺が言い終わるのとほぼ同時に回れ右をして居間から出ていこう
とする葵。そうはさせるものか。
﹁おい待て。いいじゃないかみんなで行こう﹂
俺は葵の肩をガシッと掴む。この間に夕月ちゃんもケータイの操
リンネ
作を始めている。さっきと同じ轍は踏むまいと思ったのか、今回は
画面をタップしている。おそらくメールかLINNEを使っている
だろう。
﹁バカ言わないでくれ。なぜ御崎さんを呼んだんだ。勘弁してくれ
!﹂
﹁おいおい、そんなこと言うと御崎が泣くぞ?﹂
﹁泣きたいのはこっちだよ!前に買い物と称したコスプレ地獄を味
わってから御崎さんとの買い物はトラウマなんだ!﹂
そう、これが先月の事件。葵が出先で御崎兄妹に捕まり、怒涛の
コスプレ地獄を味わったのだ。何故知っているかって?だって写真
送られてきたし。
﹁いいじゃないかコスプレ。似合ってたぞ?﹂
﹁ふざけるないいから離せ!てかなんで知ってるんだ!お願い僕に
男としての尊厳を守らせてくれ!﹂
﹁母親の胎内に男らしさを忘れてきたような顔で何を言う。そろそ
ろ諦めろ。罪に罰が与えられるのは当然じゃないか﹂
﹁罪に対する罰の比重が大きすぎるだろ!﹂
無駄な抵抗をする葵を取り押えていると、ガララと玄関の開く音
がした。まさか⋮⋮でも、早すぎるッ⋮⋮!これが歪んだ愛の力か
67
ッ⋮⋮!
﹁おっ、もう来たみたいだぞ。よかったな﹂
そして居間の扉がものすごい勢いで開いた。つかなんでこいつウ
チの居間の位置まで把握してるんだ?アレか、これが歪んだ以下略。
﹁おはよう!あおくんがコスプレしてくれると聞いて!﹂
﹁夕月!貴様何を言った!﹂
ものすごい形相で怒鳴る葵。おぉ、怖い怖い。まるでハムスター
の逆鱗に触れたようだ。
﹁え?前みたいに買い物行かない?って⋮⋮﹂
そして悪びれる様子のない夕月。普段は控えめな性格だが兄に対
しては容赦ない。
﹁終わった⋮⋮今度こそ全世界にアップロードされる⋮⋮世界中の
変態にzipでダウンロードされる⋮⋮﹂
この世の終わりのような表情を浮かべる葵。ちょっとした仕返しの
つもりだったのだが、まさか前回アップロード寸前まで行っていた
とまでは思わなかった。それを知ると少しだけ葵が可哀想に思えて
ざまぁみろ。
﹁それじゃぁ、揃った所でそろそろ行くか﹂
居間の時計を見上げるとすでに出かけようと考えていた時間を回
っている。まぁ、特に時間には縛られてはいないが、下手にこのま
ま他愛のない話で時間を浪費するよりはさっさと要件を済ませてし
まった方がいい。
楓姫に目を向けると御崎と夕月に囲まれおどおどしていた。楓姫
にとっては、新キャラが次々に現れて混乱しているのかもしれない。
最初の印象より人見知りなんだよな。
楓姫の動揺が伝わったのか、御崎も夕月もなんて声をかけていいの
やら決めあぐねている様子だ。
﹁あ⋮⋮えっと、あなたが楓姫様⋮⋮?へぇ⋮⋮﹂
﹁そ、そうじゃ!!え、えっと⋮⋮﹂
﹁あっ、私は御崎愛乃。愛って呼んでいいよ﹂
68
﹁う、うむ⋮⋮うーんと、愛に⋮⋮ゆ?ゆ⋮⋮﹂
﹁あっ、ゆつき、だよ﹂
﹁ふむ、ゆ、ゆつきか⋮⋮き、今日はよろしく⋮⋮﹂
﹁﹁﹁⋮⋮⋮⋮﹂﹂﹂
やれやれ、やはりまだ会話が弾んでいないようだ⋮⋮仕方がある
まい、ここは今日の買い物の最年長者として、楓姫に二十時間ほど
早く知り合った身として彼女らの橋渡しをしてやる必要がありそう
だな。
あれ、そういえば朝哉さんは?こういうときは大体ついて来そう
なもんだけど⋮⋮
御崎曰く彼は朝からオタクの聖地でのイベントに向かったんだそ
うな⋮⋮本当に、マイペースだよな、あの人。
※
﹁む!ここは一体いずこ!?﹂
その男はとある街に突然出現した。街、とはいっても一本路地に
入ったような所で、人目に付き大騒ぎになることは無かったのだが。
しかし、男の姿はおおよそ普通とはいいがたいものであった。髷
に武士装束、大きな風呂敷包みを持ち、そして帯刀。明らかに近代
的な街とは異質の雰囲気を醸し出している。
そう、まるで過去からタイムスリップしてきたかのような⋮⋮。
男は焦った様子で周囲を見回し、やがて呟く。
﹁⋮⋮そうか、ここがいわゆる﹃先の世﹄という所か﹂
何故か納得したような表情を浮かべる。男の中では、突然この場
所に現れたことに何らかの心当たりがあるようだ。
いろいろ考えを巡らしているような仕草の後、男は表通りへと歩
きはじめた。
69
﹁全く、こんなところに何故姫様は⋮⋮﹂
70
第四章 女子の買い物が長いのは世界の理?
﹁楓ちゃんって趣味とかある?﹂
﹁うーん、本を読むのは好きじゃな﹂
﹁へぇ、楓ちゃんの時代の本とかどんななんだろう﹂
﹁そうじゃのー例えば⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
﹁大丈夫、今日はコスプレやらないから!﹂
﹁⋮⋮本当だよね?信じていいんだよね?﹂
﹁私を信じてよ!﹂
﹁⋮⋮わかったよ﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
家を出て三十分後⋮⋮これが奇数人数の宿命か、どうしても一人が
あぶれるの法則が発動した。
便宜上これを﹃おーい誰か西野と組んでやれーの法則﹄と名付けよ
う。
あれ?俺って思うほどこいつらと仲良くなかったのかな?とあぶれ
た人に絶大な精神的ダメージを与えるこの法則ゆえ、ぼっち、もし
くは友人との微妙な距離に悩む少年少女は奇数人数で行動すること
西野症候群﹄と言う。
を極度に恐れる。これを﹃別に寂しくねーし一人が好きなんだし
by
なぜこのような高度な学術用語の解説を始めたかって?今回俺があ
ぶれたからだよ。
なんだやめろそんな目で見るんじゃない!誰だ今あれだけ意気込ん
でたのにぼっちかよとか言った奴はわーわー聞こえないキコエナイ。
71
最近こんなことなかったのになぁ⋮⋮恐るべし女子の協調性⋮⋮な
んで彼女たちは新年度が始まった次の日には席の前後の人と友達に
なっているんだろう。女子の七不思議の一つだよな。
まぁ、それならそれで葵や御崎と話せばいいのだが、こっちも楽
しくトークタイムを繰り広げていて俺が割って入る余地など微塵も
ない。いかん、これはいかんよ。ぼっちは大人数内でもぼっちにな
りうるけれど!
とりあえず周りからの視線対策として、興味なさげな表情を浮か
べながら周りの店を眺めるぼっち特有の奥義を発動させているため、
事なきを得ているが、この技は霊力の消費が激しいのであまり長い
時間は使えない。﹃俺、なんでこんなことに力入れているんだろう
⋮⋮﹄と、泣きたくなるからな。
幸いこのメンバーなら妹にせがまれて買い物に付き合わされてい
る兄を演じきれない事もないが、それでも精神の摩耗は激しい。ぼ
っち回避系の奥義は自己嫌悪と背中合わせなのだ。
そんな下らない⋮⋮いや、俺にしたら死活問題な⋮⋮ことを考え
ていると前方の四人が一件目のショップに入った。
ここは確か⋮⋮清楚系のアイテムを売りにしている店だったか、
名前くらいは知っている。
店内に入ると場違い感は尋常ではなかったが、まぁ今日ばかりは
仕方ない。女物の店って特に客がいなくても男性に対するお呼びじ
ゃねーよオーラが半端じゃないよな。
﹁あ、あおくん、この服なんてどうかな?﹂
﹁そうだね、でも姫様にはカジュアルすぎるんじゃない?﹂
﹁いや、あおくんにいいかなって思ったんだけど﹂
﹁⋮⋮ここ、レディース専門のお店なんだけど⋮⋮でもそうだね、
これいいかも﹂
﹁試着してみようよ!﹂
﹁え?あぁ、うん⋮⋮そうだね﹂
店内に入って早々、楓姫のファッションショーを楽しみに⋮⋮そ
72
れはもう鼻息荒く、危うく通報してしまいそうになるくらいに楽し
みにしていた葵であったが、同じくらい気合の入っていた御崎にど
こへやら引きずられていった。うん、やはり御崎を呼んでよかった。
自分の機転を心中で絶賛していると、不意に前方から声がかかっ
た。
﹁先輩、これなんてどうですかね?﹂
そう言って夕月は淡い色のワンピースをこちらに見せてくる。
﹁なかなかいいんじゃないか?夏らしくて。楓姫の雰囲気にもあっ
てると思うよ﹂
﹁ですよね⋮⋮それはそうと、楓ちゃんは今まで着物しか着たこと
ないんでしょうか?﹂
当の楓姫は物珍しそうに店内を散策している。
﹁んーどうなんだろうな⋮⋮あんまり戦国時代の風俗は知らないん
だよなぁ⋮⋮おーい楓姫。ちょっといいか?﹂
﹁ん?なんじゃ?﹂
ひょこひょこ戻ってくる楓姫。
﹁ちょっと色々着てみろよ。夕月ちゃんが選んだヤツ﹂
﹁うむ、分かった。えっと、どこで着るんじゃ?﹂
﹁楓ちゃん、こっちの試着室入ろうか﹂
大量の衣類を抱えた夕月が試着室を指さす。
﹁んむ。分かった﹂
﹁じゃあ先輩はちょっと待ってて下さいね﹂
そうだよな、さすがに一緒に試着室に入っていくわけにもいかな
い。夕月は他にも何着か服を抱えていたため、選ぶのに少し時間が
かかりそうだし、その間服を見ようにもこの店にはレディースしか
ないようだし⋮⋮そういえば近くにおいしいホットドックの店があ
ると聞いたことがある。一度行ってみようか。
﹁分かった。近くの店にいるから終わったら電話を⋮⋮﹂
﹁ダメですよ。ちゃんと選んであげないと!﹂
﹁え⋮⋮﹂
73
食い気味に却下された。
﹁ここにいてくださいね!﹂
理由は述べず、大量の服と共に試着室に消える2人。
⋮⋮ま、まぁ、気に入ったのだけ着るだろうし?そんなにかからな
いよね!
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
﹃うーむ、この足にピッチリする感じは苦手じゃのう⋮⋮﹄
﹃やっぱりパンツはダメかぁ⋮⋮こっちの服は?﹄
﹃あ、これはいいかもしれんな。﹄
﹃やっぱりワンピースはいいのかなぁ。丈が長いスカートかぁ⋮⋮﹄
⋮⋮なんか気まずいぞこれ⋮⋮
いやしかし、待っていろと言われた手前、勝手にどこかに行って
しまうのも⋮⋮夕月怒ると怖いし⋮⋮
こうなったら葵と御崎の様子でも窺うしかないな。少し離れた試
着室に目を向けると、丁度着替えを済ませて葵が出てきた所だった。
薄青色の半袖パーカーに黄土色の短パン⋮⋮思ったより普通の格好
をしていることに少し驚く。てっきり、フリルのスカートでも穿か
されている物だと思ったのに。そういえば、穿くって字なんかエロ
いよな。え?そうでもない?いやでも⋮⋮そうですか⋮⋮ダメです
か⋮⋮気を取り直して聞こえてくる声に耳を澄ませる。
﹁まぁ、いい感じかな﹂
﹁お∼∼やっぱり似合うね!!最近はレディースでもかっこいいの
多いからなぁ﹂
﹁そうだね、僕もびっくりしたよ﹂
﹁今は男の人でもレディース着る人はいるらしいよ﹂
﹁ふぅん、僕はメンズでなかなかサイズがないから助かるなぁ﹂
﹁そうでしょ?次はこれとかどうかな?﹂
74
﹁⋮⋮これは?﹂
﹁レディースだよ?﹂
﹁⋮⋮うん、それは分かるんだ。これが他の何よりもレディースな
のはよく分かる。だから僕にはこれを着ることはできない﹂
﹁どうして!?さっきと同じレディースだよ!?﹂
﹁よくそこまで意外そうな顔ができるね⋮⋮いいかい御崎さん、こ
れはスカートだ﹂
﹁そうだよ﹂
﹁そうだよ、じゃないよ!僕は男だよ!?﹂
﹁性別なんて些細な問題よ。要は似合うかどうか。アンダスタン?﹂
﹁本人の意志というひどく重要なものをなんでそこまで無視できる
の!?君にとって僕は何なの!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あ、あれ、御崎さん⋮⋮?﹂
﹁えっ⋮⋮その⋮⋮すっ⋮⋮すっ⋮⋮﹂
﹁す?﹂
﹁す⋮⋮着せ替え人形!!﹂
﹁違うよ!?まさか人としてすら見られてないとは思わなかった!
遺憾の意を表明します!﹂
﹁う、うるさいなぁ!それっ!﹂
﹁うわっ!どうして僕の服を取り上げるの!?着替えられないじゃ
ん!﹂
﹁あ、あおくんの服は頂いたわ!返してほしくばこれを着なさい!﹂
﹁無茶苦茶だ!﹂
⋮⋮うん、御崎を連れてきて正解だったと確信した。しかし⋮⋮御
崎も策士だな⋮⋮レディースを着ることへの抵抗を和らげた後に本
命の服を見せつける⋮⋮恐れ入ったぞ。二人のコントを眺めている
と、おもむろに眼前のカーテンが開いた。
﹁先輩、お待たせしました!﹂
75
﹁あぁ、どうなった?﹂
﹁やっぱり元が抜群ですし体も細いから何でも似合いますね⋮⋮髪
長いからストレート以外おアレンジすればいくらでも⋮⋮正直羨ま
しいです﹂
﹁へぇ、そういうものなんだ﹂
感心しつつ、夕月の後ろに目を向けた瞬間、俺は思わず、すげぇ、
と声を漏らしていた。
﹁どう⋮⋮かの⋮⋮?﹂
そこには淡い水色のワンピースを着た楓姫が立っていた。元がか
なり清楚で上品な顔立ちなので、やはりとても似合っている。服装
以外は変わっていないはずなのに、めちゃくちゃ可愛い。
﹁お⋮⋮おお、やっぱり雰囲気変わるな。いいんじゃないか?﹂
﹁そ⋮⋮そうかの⋮⋮じゃあ⋮⋮﹂
頬を染めて照れ笑いする楓姫。あれ、なんか⋮⋮あれ⋮⋮?
﹁⋮⋮よし、決まったかな。それじゃあレジに⋮⋮﹂
なんとなく目を逸らし、レジへ向かおうとすると、夕月に、先輩
!と呼びとめられた。ひどく嫌な予感がする。
﹁まだですよ、一着じゃかわいそうじゃないですか﹂
﹁オ、オウ⋮⋮そ、そうだね、あとどれくらいかかりそう⋮⋮?﹂
﹁そうですねぇ⋮⋮このお店、楓ちゃんに合う服が多そうですし、
でも、あとほんの一時間くらいですよ﹂
マジッスカ。
そうしてまた無情にもカーテンが閉まる。
﹃じゃあこの短いのはどうかな?﹄
﹃こ、これは⋮⋮その⋮⋮すーすーするから⋮⋮﹄
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮待ってくれこれは拷問じゃないか?
椅子などが無いためどこにも座れず突っ立った状態でこのままカー
テンの向こうから聞こえる女の子トークと衣擦れの音に耐えろと?
そこのお前、アザープレイスが突っ立つってか∼HAHAHAHA
HA∼、じゃねぇよ炙るぞ。
76
こんなの常人が耐えられるわけ⋮⋮いやまて、逆転の発想だ、今こ
の時から俺は僧として生きようそうしよう。
故にこの状況下でも余裕で無の境地に到達するときができ⋮⋮
﹃それにしてもゆつきは意外に⋮⋮あるんじゃな⋮⋮﹄
﹃きゃ⋮⋮やっ、触っちゃダメ⋮⋮﹄
⋮⋮るわけねぇだろ!何が僧なんだ!いつ仏門に入ったんだ!
クリスマスパーティーしたその足で初詣に行くタイプの日本人だ俺
は!
しかし、このままでは⋮⋮この状況では圧倒的な精神力の摩耗が確
認される。
そりゃあもう、ガリガリと削れている。
⋮⋮そ、そうだ!!あいつらどうなっているかな!!
仕方なく視線をコント会場に戻すと、そこでは御崎のケータイによ
る撮影会が開催されていた。中央には、フリルのスカートを穿き、
頭にリボンを付けた葵。ざまぁ⋮⋮いや、さすがにちょっとだけ不
憫になってきたな。本当にちょっとだけ⋮⋮。
﹁これで満足かい⋮⋮?﹂
﹁うん、やっぱり可愛い!普段からこういう格好しなよ!絶対可愛
いって!﹂
﹁うん、それなんだけどね、そんなことをしてしまえば周りから完
全に女の子だと思われかねないんだよ。それくらい僕の立場は今危
機的状況にあるんだよ。こないだなんて女子会にお呼ばれしてしま
ったんだからね。お願いだからそこのところを理解してほしい﹂
﹁んーまぁ、微妙の立場だよね⋮⋮﹂
﹁そうだろう?分かってくれて⋮⋮﹂
﹁やっぱ男装趣味は肩身狭いよね⋮⋮﹂
﹁何も分かっていないよ!正確な性別すら!ちょっとここらで僕と
いう存在について小一時間講義を⋮⋮﹂
77
﹁ちょっと待って、店員さーん!ちょっといいですかー?﹂
﹁はい、なんでしょう∼?﹂
﹁って何で店員さんを呼ぶのさ!?もういいでしょ!?僕もロr⋮
⋮姫様の着替え見に行きたい!!﹂
﹁うわぁ、すごくお似合いですね∼!﹂
﹁ですよねーそれでそれでこの娘、あんまりこういう格好してくれ
ないから記念に一枚いいですか?﹂
﹁無視かよ!それになんで今﹃娘﹄って字あてがったの?何となく
分かったよ?﹂
﹁はい、分かりました!それじゃあ並んでください∼﹂
﹁はーい、あっ、この服邪魔だな⋮⋮カゴに入れちゃえ﹂
﹁もういいよ⋮⋮諦めたよ⋮⋮せめて早く撮ろう⋮⋮﹂
﹁それじゃあ行きますよ∼!スネを英語で言うと∼?﹂
﹁ニー!﹂
ぴろりーん。
﹁ありがとうございます!﹂
﹁いえいえ∼ご姉妹ですか∼?妹さん可愛いですね∼﹂
﹁ですよね!!それでもうちょっといろいろ着せてみたいんですけ
どどんな感じがいいと思いますか?﹂
﹁それじゃあこのキュロットスカートなんてどうですか∼?﹂
﹁おぉ、いいですね∼着てみて!﹂
﹁嫌だ!﹂
﹁店員さんこの服燃やしちゃって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮くっ、なんで僕がこんな目に⋮⋮﹂
御崎の脅迫に渋々従う葵。仕方あるまい、女装か下着で歩き回る
かを選べとなれば⋮⋮まぁ、俺だったら下着を選ぶね。
その後、二時間ほどこの店での洋服選びが続き、俺の足が棒にな
ったことと葵の精神がズタズタにされたことを除けば、当面の楓姫
の服も買えたし、有意義なものとなった。
78
しかし、女の人との買い物は時間も金もかかるな⋮⋮けっこう高
めの物が多いし。
資金はある程度理事長から受け取っていたため資金難に陥ることは
無かったが、毎週のようにデートしてるリア充は化物かよ、と若干
尊敬する。きっと、喜びと苦しみは表裏一体なのだろう。
様々な店で四万円分くらいの衣料品を購入した後、夕月が気まずそ
うに俺に語りかけてきた。
﹁次は先輩が選ぶのは抵抗があると思うので⋮⋮﹂
そう言って指差す先にあるのは下着売り場。
うん、まぁ、そりゃあ、無理ですねぇ。
葵は食い下がる御崎を必死の形相で振り切ろうとしている。なんと
か男としての最低限の尊厳は守りたい⋮⋮という所だろうか。
今度こそ自由の身となったが、もう例の喫茶店まで戻る体力はない。
自販機でコーヒーでも買って飲もう。買う際になってふと思い、ペ
ットボトルのお茶も一本購入する。これくらいなら葵を労ってもい
いだろう。
飲み物を持って近くのベンチに腰かけると、ようやく敵を撒いた
葵が俺の隣にへたり込んだ。
﹁疲れた⋮⋮﹂
心底疲れ切った声を出す葵。精神、体力ともに限界と見てとれる。
﹁おぅ、お疲れだな。お茶でも飲むか?﹂
﹁あぁ、うん、ありがとう﹂
受け取ったペットボトルを額に当て、大きなため息。ストレスと
は無縁のように見える葵が頭痛まで発症とは、いったい御崎にどこ
までやりたい放題されたのだろう。
﹁それにしても災難だったな。結局何着着たんだ?﹂
﹁分かんない⋮⋮ってか大体君のせいだからな。一生許さない﹂
﹁はは、そういうなよ。最終的には目的の楓姫のファッションショ
ーも拝めたんだし、プラマイゼロだろ?﹂
﹁マイナスの割合がどう考えてもデカすぎるでしょ⋮⋮まぁ、急に
79
押しかけた引け目もないではないからこのお茶で勘弁してあげるよ﹂
そう言って葵はペットボトルのふたをギリギリと取り外す。
﹁それにしても⋮⋮元気だよなぁ、あいつら﹂
俺たちはもうヘトヘトだというのに、その十倍以上精力的に活動
している女性陣はまだ疲れの影すらみせない。いったいあのエネル
ギーはどこから来ているのだろう。
女性がエネルギー埋蔵量的に男性を遙かに凌駕しているのはあの
姉を見ていれば十分分かるが⋮⋮いや、アレは例外か⋮⋮とにかく、
それが発散される買い物の魔力たるや恐るべし。
﹁達稀は今日完全にお父さん役だったね。夕月も夕月で買い物長い
から﹂
﹁だよな⋮⋮まぁでも、楓姫が楽しそうでよかったよ。俺と姉さん
だけしか仲良くできないんじゃ、この先心配だしな﹂
そう言うと、葵は飲んでいたお茶から口を離し、やや真剣そうな
表情になった。
﹁⋮⋮そのことだけど達稀、君はこの先一体どうするつもりなんだ
い?﹂
﹁え?どうって⋮⋮﹂
言葉の真意が分からず横目で葵を見てみると、前傾姿勢になって
指を交互に組んでいる。真面目な話をする時の、昔からの葵の癖だ。
茶化す事など許されない雰囲気に、俺も真剣に言葉を探す。
これからどうするのか⋮⋮か。
﹁どうって⋮⋮楓姫が帰りたいというまではウチで面倒みるつもり
だけど⋮⋮﹂
そう言うと葵は何やら考え込み始めた。何かが引っかかっている
という様子だが⋮⋮
しばらくすると、考えがまとまったのか顔を上げこちらを向く。
﹁過去に戻る方法は?知っているのかい?﹂
﹁⋮⋮よく分からない﹂
﹁ふぅん、じゃあ君は姫様を過去に帰したい?それともずっと現代
80
にいてほしい?﹂
何が言いたいんだ、こいつは。予想していなかった質問がいくつ
か続きさすがに少しイライラするが、葵の目は真剣そのものでやや
気圧される。
﹁それは楓が⋮⋮﹂
我ながら呆れるほど歯切れの悪い返事だ。案の定、業を煮やした
葵がやや語気を強める。
﹁違うよ、達稀。そうじゃない。今のどっちつかずの状態が一番ま
ずいんだよ。過去から女の子がやってきて、そういうこともある、
で済ませられるのも、なるようになるって考えで上手くいくのもマ
ンガやラノベの中でだけなんだよ?この状況は異常なんだ。彼女の
タイムスリップがこの先どんな影響を与えるか、全く予想できない
んだから﹂
﹁そ、それはそうなのかもしれないが⋮⋮それじゃあ楓姫は⋮⋮﹂
﹁もっとも望ましいのは、そうだね。姫様の意志も君の意志も無視
すれば⋮⋮過去に帰すのが一番だろう。そうでなくとも、タイムス
リップの手段が存在するのなら、その方法は消しておくべきだ。現
代にあっていいものではないよ、それは﹂
葵の意見は正論だ、どうしようもないくらいに。
確かに楓姫を元の時代に戻して、その手段を抹消してしまえば、全
て元通りなのかもしれない。
今まで通り、何事もない、平凡な、特筆することもない、学生生活
が再び始まるのだろう。
しかし、それでいいのだろうか。楓姫がこの時代に現れたのに何か
理由が⋮⋮この大規模な﹃家出﹄に深い理由があるのなら⋮⋮とて
も俺にはそれらが無視していいものだとは思えない。
言い方は悪いかもしれないが、葵のそれは臭いものに蓋をしてしま
えばいい、というものだとも思える。
81
﹁まぁ、どうするかは君次第だよ。でも早めに何らかの決心はすべ
きだよ。もちろん姫様の意志も大事だけど⋮⋮ね﹂
どうやら俺の考えを読み透されたようだ。表情にでも出てしまっ
たのかもしれない。
﹁⋮⋮分かった。すまないな﹂
﹁いいんだよ。僕もバックアップすると決めたんだから。理想論を
言ったまでだし。でも最後の切り札としてでもいいから、過去に帰
す手段を探してみようよ。あとは君か、姫様が決めればいいさ﹂
そういって葵はペットボトルに残ったお茶を飲み干す。再び横目
で見た葵の表情はいつもの柔らかいものに戻っていた。どうやら、
言いたいことは全て言ったらしい。
ただ単に、一緒に過ごせばいいというのは、甘い考えだったのだ
ろうか。このままでは、いけないのだろうか⋮⋮。
しばらく葵の言葉を反芻しながら悶々と考えていると、下着売り
場から楓姫たちが出てきた。買い物袋を手に提げた楓姫が俺の姿を
確認し、駆け寄ってくる。嬉しそうなその顔に、少しだけ心が痛む。
﹁楓姫、買い物は終わったか?﹂
﹁うん!なんかいっぱい選んでもらった!﹂
﹁そうか、よかったな。ちゃんとお礼言ったか?﹂
﹁うん!二人とも優しいな∼!﹂
﹁そっかそっか、じゃあそろそろ帰ろうな﹂
﹁うん!﹂
立ち上がり、地面に置いた荷物を拾い上げていると、遅れて夕月
と御崎がやってきた。
﹁夕月ちゃん、御崎、今日はありがとうな。本当に助かったよ﹂
﹁いえいえ、私も楽しかったですよ。楓ちゃんとも仲良くなれまし
たし﹂
﹁そうだね、私はかえってあんたに感謝したいくらいだし。おかげ
で、その、コレクションがおっと!﹂
﹁御崎さん、僕の削除要請は⋮⋮?﹂
82
﹁後ろ向きに善処します﹂
﹁政治家かよ!いや、政治家でも上っ面だけならもうちょっと色よ
い返事くれるよ!?前を向こうよ、前を!﹂
﹁前を向くのもいいさ、でもたまには後ろを向いて一息つくのも悪
くないんじゃない?﹂
﹁オ、オウ⋮⋮せやな⋮⋮じゃないよ!何煙に巻こうとしてんの!
?消してよねぇお願い!﹂
﹁消してと言われれば消したくなくなる⋮⋮そう、私の溢れんばか
りの反骨心がそう叫んでいる!﹂
﹁稀代の天邪鬼だ!じゃあ消さなくていいよ!これならどうだ!﹂
﹁言質は取ったし録ったからね!早く帰って無数のバックアップを
作成しなきゃ!﹂
﹁ダメだこれ、説得が通じない!﹂
今日何度目か分からないコントに、楓姫も夕月もくすくす笑って
いる。葵をここまで翻弄できるのは御崎の他にいないからな。もう、
葵はグロッキー状態ですけどね。
﹁夕月ちゃん、楓姫は今日、楽しかったと思う?﹂
﹁え?そうですね、多分ですけど、楽しかったと思いますよ﹂
﹁そっか、それならいいんだ﹂
それならば⋮⋮いい。
﹁葵、俺決めたよ﹂
﹁ふえ?僕の画像のアップロードを?そうか、君も僕の敵で⋮⋮﹂
﹁違うよ、楓姫の話﹂
﹁え?あぁ、それで⋮⋮どこまで決めたの?﹂
﹁楓姫をただ突き返したりはしない。過去に帰す方法が見つかった
としても⋮⋮少しずつでも、ちゃんと楓姫の事を知って、その上で
決めたい。どうかな?﹂
﹁ふぅん、まぁ、いいんじゃない?全然悪くないと思うよ﹂
83
﹁あぁ、初めからそうすりゃよかったよ﹂
正直なところ、タイムスリップが出来るべきではない、とかそう
いうのはどちらでもいい。そんなことは俺の知ったことではない。
でも、こんな日がずっと続けばいい、などという事では、楓は前に
は進めないというのも事実である。
夕月と御崎と共に談笑する楓姫を眺める。よく姉さんに鈍い鈍い
と言われる俺ではあるが、それでも今の楓姫が本当に楽しそうなこ
とくらいは分かるんだ。ずっと、こんな顔をしていてもらいたい、
とも思う。そう、なぜなら⋮⋮
﹁俺たちは、家族なんだからな﹂
84
第四章 女子の買い物が長いのは世界の理?
平日の午後という事もあって、この街は最盛時からは程遠い人通り
しかなかった。
しかし、男にとっては異常な数に映ったようだ。
﹁これは⋮⋮戦の支度かなにかか⋮⋮?﹂
それにしては、戦う意志がありそうな者は見てとれない。一体何
なんだ、この場所は⋮⋮
謎の場所に飛ばされた不安もあり、男は苛立たしげに近くの人間
に声をかけた。
﹁お主、姫様の居場所は知らぬか?﹂
声をかけた人間が振り返る。なかなか端正な顔をした男だ。歳は
十代後半といったところだろうか?
﹁⋮⋮もしかして、レイヤーさん?﹂
れいやー?また謎の言葉を発する男だ。
﹁問いに答えんか!斬るぞ!﹂
しかし目の前の青年は一向に動じない。それどころか何故か嬉し
そうな笑みを浮かべると男をジロジロ観察しはじめたではないか。
こいつ⋮⋮只者ではない。
﹁むむむ⋮⋮その身なりはもしや、﹃戦ツルギ﹄の武嶋里次郎のコ
スですな!?色あいといい雰囲気といい、かなりの完成度でござる
ぞ!﹂
﹁む⋮⋮お主も拙者と同じ武士であるのか?⋮⋮しかし、拙者は武
嶋という者ではない。拙者の名は杉原陣兵衛じゃ。﹂
﹁ん?杉原氏か。どこにでもいる名字ですなぁ!しかし平日にレイ
ヤーさんに声をかけられるなんて拙者感激でござる!一体どうされ
たのかkwsk﹂
﹁くわ⋮⋮?う、うむ、拙者が仕える姫様を探しておるのだが⋮⋮﹂
﹁姫ですとぉ!?それはもしや﹃ひめぎみパラダイス﹄のことです
85
かな!?いやぁアレは神アニメと呼んで差支えない出来でしたな!
最終回の作画なんてもう⋮⋮それで、お主の嫁は誰ですかな?拙者
は成原為親たん一択ですた!いやぁ八話の為親たん回はもう十回は
見ましたぞ。ツインテはたまりませんなぁ!﹂
﹁ぱら⋮⋮?あに⋮⋮?一体何の話じゃ?それに拙者に嫁などはお
らんが⋮⋮﹂
﹁なぬー﹃ひめパラ﹄を見たことがない!?そのようなコスをして
いるからには戦国モノがお好きなのだとお見受けするが、それなら
ば﹃ひめパラ﹄は外せぬでござるよ!いわゆる既存の武将の女体化
ではなく、オリジナルの女武将たちによるオリジナルの物語、それ
でいて戦国時代という舞台の雰囲気を一切壊すことのない緻密な脚
本⋮⋮アレを見ていないのは実に惜しい⋮⋮ヌフフ、妙案が浮かび
ましたぞ。今から我が家で﹃ひめパラ﹄上映会と行きましょう!こ
の間ブルーレイボックスを衝動買いしてしまいましてな!なぁに、
拙者もそろそろ見直したいと思っていた所でござる。さぁ、行くで
ござるよ﹂
﹁??う、うむ⋮⋮。何を言っているのかさっぱり分からんが⋮⋮
どこかに案内していただけるのだな。かたじけない⋮⋮﹂
男はそう言うと、素直に青年について行った。
説明が遅れてしまったようだ。
この街は春葉原。いわゆるオタクたちの聖地だ。
※
帰り道、少し暗くなった道を俺と夕月と楓姫の三人で歩いている。
葵はちょっと違う方向にあるホビーショップに寄りたいらしく、御
崎もそれについて行ったので今はいない。
﹁そうだ、夕月ちゃん、今度、今日のお礼をするよ﹂
﹁え?﹂
﹁いや、せっかくの休みに付き合ってもらったからさ。何がいい?
86
ケーキでも奢る?﹂
世間はゴールデンウィークも半ば。普段の俺なら買い物などに付
き合わず、家でゴロゴロしていただろう。しかし、夕月ちゃんは嫌
な顔一つせず付き合ってくれた。楽しかった、と本人は言っていた
がやはり付き合わせてしまったという若干の罪悪感があるのだ。
まぁ、普段から夕月ちゃんの頼みなら、俺は何でも聞くつもりで
はあるのだけど。
﹁えと、その、いいんですか?﹂
﹁遠慮しないで、これでも相当感謝してるんだよ?可能な限り何で
もするからさ﹂
そう言うと、夕月は急に俯いて何やらブツブツ呟きはじめた。
﹁可能な限り⋮⋮可能な限り⋮⋮﹂
⋮⋮可能な限り、とはいってもその﹃限り﹄を要求する必要はな
いんだぞ?そう口に出しかけて、口をつぐむ。いかんいかん、姉さ
んや愉快なトリオのせいでどうしても悪い方へ悪い方へと考えてし
まう癖ができてしまっているな。夕月ちゃんに限ってそんなことあ
るわけないじゃないか。
だが、ややそうしている時間が長いため、少しばかり心配になっ
てきた。
﹁あの、夕月ちゃん?﹂
声をかけてみると、夕月は弾かれたように顔を上げた。
﹁わっ!あっ、えっと⋮⋮それじゃあ、今度映画見に行きませんか
?﹂
﹁いいね、でもそんなのでいいの?﹂
﹁大丈夫です!その⋮⋮ホラーなので一人で見る勇気がなくて⋮⋮﹂
﹁ああ、なるほど!よし、じゃあそうしようか。日程とかは決めて
くれる?﹂
﹁はっ、はい!メールしますね!﹂
満足そうな笑顔を咲かせる夕月だが、微妙に引っかかる点がある。
そういえば夕月って、お化けとか大の苦手だったのでは⋮⋮いや、
87
しかし夕月が見たいというんだ、その辺はもう克服したのだろう。
そんなに簡単に克服できるレベルではなかったような気もするが、
気にしないようにしよう。
﹁じゃあ、楓姫は留守番だな﹂
﹁むー、なんでじゃー?﹂
俺の言葉に唇を尖らせる楓姫。
﹁そんなの見たら楓姫は倒れちゃうぞ﹂
作り物だと知っている現代人ですら怖いと思うんだ。楓姫に見せ
たらそれこそ失神していしまいかねない。
﹁ほらぁってなんじゃ?﹂
﹁そうだな、幽霊が出てくる劇かな﹂
﹁ひっ、ゆ、ゆうれい⋮⋮?怪談は苦手じゃ⋮⋮﹂
﹁だから姉さんと留守番だ﹂
﹁そ、そうじゃな⋮⋮またの機会に⋮⋮﹂
﹁うん、その内映画には連れて行ってやるよ﹂
映画デビューはアニメくらいがいいかな。ザクリとかなら親しみ
やすいだろうし⋮⋮あれ、ズブリだっけ?グサリだっけ?まぁいい
や。
﹁うむ!それも楽しみじゃな!﹂
満面の笑みを浮かべる楓姫。しかし、何故かその顔がすぐに微妙
に曇り、俺から視線を外す。
﹁⋮⋮?ゆつき⋮⋮?どうしたのじゃ?﹂
その視線の先にいるのは先ほどまで上機嫌に見えた夕月だった。
今はちょっと悲しそうに前髪の先をちょんちょんいじっている。こ
れは昔からの夕月が相当に不機嫌な時の癖だ。
﹁⋮⋮むぅ⋮⋮﹂
この仕草を見たのは本当に何年ぶりだろうか⋮⋮昔こそ度々不機
嫌になることはあったが最近は多少の事では怒らない、むしろ怒ら
せるほうが難しいくらいに思っていたのに。
﹁え、ゆ、夕月ちゃん?どうした?﹂
88
動揺を隠せず声が震える。正直どうしていいのか分からない。何
が原因なのかも分からない。
﹁先輩なんて知らないです⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もしかして怒ってる?﹂
もしかしなくても間違いなく怒っているようだが。
﹁知りません⋮⋮!!﹂
ぷいっと横を向いてしまう。やばいぞこれ、歴代ベスト5に入るく
らいお怒りだ⋮⋮具体的には八年前に葵が夕月のプリンを食べてし
まったあの﹃血のプリン事件﹄に次ぐレベルだ。
﹁そ、それにしても、ゆつき、今日はありがとうな!可愛い服がい
っぱいじゃ!﹂
微妙な空気を感知したのか、心配そうな表情をしていた楓姫が夕
月に声をかける。いいぞ、これで誰が原因なのかは判別できる!
﹁あっ、ううん、また行こうね!﹂
﹁うん!﹂
にこやかに話す夕月。
つまりそういう事だ。いや、分かっていたさ。諸悪の根源は、この
俺。
しかしどう謝っていいのか分からない。ここは我ながら情けない
が、とにかく楓姫との会話で少しでも機嫌を直してもらうしかない
だろう。
しかし、そんな愚策を練っている間に我が家の前にたどり着く寸
前になっていた。いかん、このままでは夕月ちゃんに嫌われてしま
う。
ここは思い切って謝る時間を確保した方がよさそうだ。
﹁そ、そろそろウチに着くな!楓姫、先に中に入っていてくれるか
?この時間なら姉さんいるから﹂
ひとまず楓姫を先に家に帰そう。先ほどのファインプレーはある
が、女の子を怒らせて謝る理由すら思いつかないようでは、この先
どんなミスを犯すか知れない。その前に、目撃者を一人でも減らす
89
必要がある。死ぬほど姑息な考えだけど、この際どうでもいいよね
っ。
﹁分かった。でも、達稀はどうするんじゃ?﹂
﹁俺は夕月ちゃんを送っていくから。ほら、もう暗いし﹂
﹁ふーん。じゃあ先に入ってるからの﹂
そう言いつつ楓姫は、家に駆け込んでいった。
⋮⋮さて。
﹁あ⋮⋮あの⋮⋮夕月ちゃん⋮⋮?﹂
﹁なんですか﹂
﹁いやあ、そのどうしたのかなぁって。もしかして怒ってる?﹂
﹁怒ってませんよ﹂
﹁そ、そっかそれなら良かった﹂
良くねぇだろ。
﹁でもなんとなく、今日ほとんど私に構ってくれなかったのが、寂
しかったんです。せっかく久しぶりに遊べると思ったのに、楓ちゃ
んの事ばっかりで⋮⋮ほんのちょっとだけ⋮⋮﹂
ポツポツと語った夕月は少しさみしそうで、それが本心なのだと
判断するのは、俺でも難しい事ではなかった。やはりさっきの夕月
は機嫌を損ねており、原因が俺にあったようだ。
﹁⋮⋮ごめん﹂
﹁いいんですよ。それが我が侭だって分かってますし。今日は楓ち
ゃんに服買うのが目的でしたからね。私も楓ちゃんとお買いもので
きてすごく楽しかったです﹂
﹁そうか⋮⋮それなら良かった、かな?迷惑かけちゃったと思って
たし﹂
﹁妹ができたみたいで嬉しかったですよ。妹みたいなお兄ちゃんは
いますけど、けっこう妹と買い物って憧れてたんです﹂
﹁ははは、一般的には葵が妹に見えるだろうなぁ﹂
﹁ふふふ、ですよね﹂
よかった、ようやく笑ってくれた。たったそれだけのことでとて
90
つもない安心感を覚える。この子の笑顔は、存在は、どこか人を安
心させてくれるのだ。やはり楓姫には、夕月と仲良くなってもらい
たい。本人は隠しているつもりかもしれないが、楓姫はまだ、大き
な不安をこの時代に対して抱えているように思える。できることな
ら、その不安を友達という存在で和らげてやりたかったのだ。今日
の買い物の目的は、実はそこにもあったのだ。
今日見ていた感じでは楓姫も夕月も互いを気に入っていたようだし、
そういった打算的な側面を抜きにしても二人が仲良くなるといいな、
と心から思った。
﹁あの⋮⋮良ければさ、楓姫とはこれからも仲良くしてやってくれ
ないかな?あいつ、この時代に友達とかいないし﹂
探るような俺の言葉、夕月はそれに、今日一番の笑顔で答えてく
れた。
﹁こちらこそお願いします!!﹂
胸を撫でおろし、後は二人とも黙って姫川家を目指す。黙ってい
ても、不思議と気まずくない。昔から、そうだった。
﹁⋮⋮あっ、そろそろ着きますね﹂
﹁あ、うん、そうだね﹂
姫川家の門が見えたところで、少し名残惜しさが胸を突く。なん
だかんだ言いながら、俺も今日は楽しかったのだろう。そういう日
の終わりにはいつもこうだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮じゃあ、また何かあれば誘ってください﹂
﹁うん、バイバイ⋮⋮。あっ、そういえば、これ、今日のお礼﹂
そういって雑貨店で購入した物を渡す。自由になった際、自販機を
探している内に目に留まったものだ。
夕月は驚いた様子で受け取り、開けていいですか?と言う。首肯で
答えると、おっかなびっくりといった様子で小さな袋を開けた。
うーん、なんか妙に緊張するな⋮⋮。自分のセンスが問われている
みたいだ。
﹁あ、かわいい⋮⋮﹂
91
そう呟く夕月。その言葉に心から安堵する。夕月に似合いそう、と
いう直観のみで買ったものだからあまり自信がなかったのだ。
﹁良かった。夕月ちゃんに似合うと思ったんだよね﹂
﹁あ、ありがとうございます!一生大事にします!!﹂
そういってぎゅっと袋を握りしめる夕月。
中に入ってたのは、向日葵がデザインされたヘアピンだ。一生は大
げさだけど、そんなに喜んでもらえると、ちょっと値は張ったけど、
買ってよかったなぁと思う。そういえば、夕月に何かプレゼントす
るのは初めてかもしれない。誕生日にしてもプレゼント自体はいつ
も姉さんと二人でお金を出して、姉さんが選んだものを渡していた
し。
﹁うん、またつけてる所見せてよ。じゃあ、ここで﹂
﹁⋮⋮はい﹂
そして来た道を戻り始める。その背中が消えるまで、夕月は惚け
たような顔で見つめていた。
※
御崎愛乃が自宅に帰ると、玄関に奇妙な物体があった。⋮⋮草履
だろうか?
一体こんなもの誰が⋮⋮まぁ兄だろうとは思うが。
兄貴の行動が読めないのは今に始まったことではないのでここは
スルーするとするか。あ、スルーするとするかってダジャレっぽい。
声に出した訳でもないのに無性に恥ずかしくなってくる。自爆です
ね分かります。
夕食前に着替えてしまおうと自分の部屋に直行すると、途中兄貴
の部屋からアニメの音が大音量で聞こえてきた。これは⋮⋮また﹃
ひめパラ﹄だろうか。本当に好きだよね。もう何回目なんだ。
私も﹃ひめパラ﹄が名作だとは認めるが、それにしても見すぎで
はないだろうか?第一同じアニメを何十回と見るくらいなら他のア
92
ニメを見た方が有意義だとアレほど力説したのに⋮⋮
ってか戦国モノなら﹃ツルギクライシス﹄が至高だろ、常考。
しかし、あまりにうるさい。少し注意してやろう。
﹁お兄ちゃんうるさい!ボリューム落として!﹂
ドアを開けると同時に大声で怒鳴りつける。部屋の中に誰かいる
とは気づかずに⋮⋮
﹁お、愛乃、お帰り﹂
﹁む、こちらは御崎殿の妹君でござるか?﹂
い⋮⋮いま起こった事をありのままに話すぜ⋮⋮
兄の部屋に入ったら武士がいた。
何を言ってるか分からんと思うが私も分からん⋮⋮
93
第五章 そして日常に?
ゴールデンウィーク三日目、なんとなく朝早く目が覚めたので、
俺は居間で読みかけの本を読んでいた。
洗濯やら掃除やらは俺の当番となっているのだが、もう少しまっ
たりしてもいいだろう。
しばらく読み進め、物語はクライマックスに差しかかった。うう
む⋮⋮これはなかなか面白い。トリックも緻密だったし、久しぶり
に当たりかもしれないな。
﹁む⋮⋮達稀、もう起きておったのかぁ⋮⋮﹂
最終章に入ったところで、居間の入り口から声がかかった。目を
向けてみると、まだ半分寝ているような状態の楓姫が立っていた。
しかし、浴衣がはだけて若干目のやり場に困るんだが⋮⋮。
﹁ああ、おはよう。じゃあ顔を洗いに行くか﹂
そう言って名残惜しくはあるが、本にしおりを挟み立ちあがろう
とする。まだ水道のシステムに慣れていないであろう楓姫の補助の
つもりであったのだが⋮⋮
﹁ううむ⋮⋮大丈夫じゃ、顔くらい一人で洗える⋮⋮﹂
まだ眠そうな目を擦りながら首を横に振る楓姫。
む、断られてしまった。
歯磨きに関しても理事長や姉に教わったらしく、もう問題はないと
は聞いていたが⋮⋮。まぁ、そこまで言うのならば無理に着いて行
く必要もないだろう。
洗面所に向けて歩き出す楓姫の背を見送り、一抹の不安は残りは
するが、何より本の続きが気になって仕方なかったので、お言葉に
甘え読書を続行することにしよう。
※
94
洗面所まで来ると、ようやく目が覚めてきた。
一から十まで手取り足取り教えてもらわないとできない子、と思わ
れたくないがために達稀にはああ言ったが、さて、どうしたものか
⋮⋮
姉上を観察していた限り、どうやらこの時代はこの丸いヤツを回せ
ば水が出てくるらしい。京子の家では手をかざせば出てきたが⋮⋮
まぁあそこは特別だったのだろう。現代に疎い私でもそれくらいの
事は分かった。というか初めて見た時は魑魅魍魎の所業かと思った
ほどだ。
こういう所は本当に便利になっている物だと素直に感心する。まぁ、
一応姫という身分上、自分で水を汲んだことなど元の時代でもほと
んどありはしなかったのだが。この時代では井戸から汲み上げるな
んて作業はほとんど必要ないようだ。
しかし、ここで一つ問題が生じた。おそらく水が出て来るであろう
場所は一か所なのに、回す丸いヤツが二つあるのだ。片方には一部
に赤色がつけられており、もう片方には青色が付けられている。そ
ういえば姉上が﹃洗面所がなぜかけっこう古いんだよねぇ⋮⋮一発
でいい温度の水出ないし、ここを一番りふぉーむしてほしいよ⋮⋮﹄
とぶつぶつ呟いていた気がする。
⋮⋮しかし、困ったな。回したら水が出る、という所までは観察し
ていたが、どちらを回すのかまで気が回らなかった。
達稀に聞くという手段もあるが、さっきあんな見栄を張った手前、
切り出しづらいし⋮⋮
﹁まぁ、適当に回してみるかの⋮⋮﹂
そう決めて赤い方を勢いよく回す。すると、思った通り水が出て
きた。
ふふん、どんなもんじゃ。
少し水の勢いが強い気もするが、問題はないだろう。これだけの
ことであったが、ちょっと誇らしい気分になる。
しかし、さっそく顔を洗おうと手を差しだすと、指先に思いもし
95
ない刺激が走った。
﹁ッ⋮⋮熱ッ⋮⋮!?﹂
どうやら間違えてお湯を出してしまったらしい。思っていた温度
と差があったのでものすごく熱く感じたが、別に耐えられないほど
ではない。でも、できれば冷たい水で顔は洗いたいものだ。
迷った挙句、もう片方の青いヤツも限界まで回してみる。しばら
くすると、冷たいとまでは行かないが許容範囲の温度にはなったよ
うだ。しかし、水の勢いがさっきより激しくなっている。
﹁⋮⋮とりあええず洗ってしまおうかの﹂
何はともあれ試行錯誤の末、水を出せたのは嬉しかった。謎の達
成感に包まれる。
⋮⋮いや、実際には水すら満足に出せない自分が情けなくはあっ
たのだが、こういうのは慣れだと姉上が言っていたので、あまり気
にしないようにしよう。
そんなことを考えつつ、水に両の手を差しだす。滝のように流れ
出す水に四苦八苦しつつもようやく顔を洗い終え、はぶらし、とや
らで歯も磨き終える。このはみがきこ、というのは昨日初めて使っ
たのだが、口がすっきりするので割とお気に入りだ。
また、悩みながらなんとか水を止め、ようやく一息つく。朝の支
度を一人で行うのにここまで疲れるとは思っていなかった。
ふと浴衣の袖口を見ると先ほどの水のせいか、ビショビショにな
っている。全く、うまくいかないものだ。
本当にこんな有様でやっていけるのだろうか、とそこはかとなく
不安になり、似合わない溜息を吐く。
とりあえず着替えよう⋮⋮そう思い、浴衣の帯を外し、姉上が昨
晩用意してくれたのであろう着替えに手を伸ばした時、信じられな
いものが視界の隅に映った。
そんな、嘘だ、まさか、こんな時代にまで⋮⋮。
﹁いやああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァ
ァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!﹂
96
杉原家に、絶叫が響き渡った。
※
﹁⋮⋮遅いな、何やってんだ⋮⋮?﹂
読み終えた本を机の上に置き、一度背伸びをする。洗濯をしよう
と思ったのだが、何故か一向に楓姫が帰ってくる気配がない。何も
言ってこないからには大丈夫なのだとは思うが、やはり少し心配だ。
ついてくるなとは言われたが⋮⋮洗濯しに来たとでも言って様子
を見に行ってみるか。
少量の洗濯物を抱え、洗面所の扉の前にたどり着くと、中から何
やらゴトゴトと音が聞こえた。
まだ何かやっているのか?
何か問題でもあったのかと思い、衝動的に扉に手をかけたところ
で、待てよ、と思いとどまる。
⋮⋮そういえば楓姫の衣服は前日に姉さんが洗面所に用意していた
ハズ⋮⋮もしここで不用意に開けてしまえば大変なことになるので
はないか?
いや、しかし、洗面所は浴場と直結しているから、鍵がかけられる
ようになっている。姉も当然、入浴中や着替えの時には鍵を閉める
ように、と指導したはずだ。ならば扉を開けようとしても問題ない
のではないか?鍵がかかっていれば大人しく待っていればいい。
そうして、再び扉に手をかける⋮⋮いや待て!
︱︱冷静になるんだ!すべての可能性を考慮していない以上、扉を
開けようとするのはあまりに危険すぎる!もし、例えば、仮定の話
として、洗顔、もしくは歯磨きの際に袖を濡らしてしまい、ついで
に着替えてしまおう、という事になっていたらどうする!本来の目
的では無かった故、鍵を閉め忘れていても何も不思議ではないじゃ
ないか!
一度大きく深呼吸をする。
97
︱︱オーケー、オーケー。俺はもう冷静だ。そう簡単に、ライトノ
ベルの主人公のような展開を許してたまるものか!フラグとなりそ
うなものはへし折っていくのが賢い生き方だ。第一、ラッキースケ
ベとは一瞬のことである上に、その後のいたたまれない空気や、周
囲からの軽蔑の眼差し、罪悪感という到底釣り合わない対価を支払
わなければならないと相場が決まっている。総合的に見ればアンラ
ッキースケベなのだ。誰も幸せになんかなれやしない。ここは無難
にノック。最初からそうすればよかった。
しかし、俺は結局ノックすることなく、扉を開け放った。
中から、断末魔の叫びにも似た悲鳴が聞こえたから。
﹁大丈夫か!?﹂
そう言って扉を開け放つと、予想通りお着替え途中の楓姫様がお
わしたとさ。
浴衣の帯が取れ、体のセンターラインの肌色部分が露わになって
いる。おへそがとってもキュートだ!イイネ!
いや、これは肌色というより白に近いのではないだろうか。
シミひとつなく、輝くような肌は、まるでオーストラリアビーチの
砂浜のような美しさだ。性的なモノよりも素晴らしい美術品を見た
時のような感動に包まれる。
胸は⋮⋮控えめなのが災い⋮⋮いや、幸いしたのか、浴衣の布部分
で覆われている。
クッ⋮⋮これが大人の事情による自主規制というヤツか!ブルーレ
イ版では見えるアレなのか!⋮⋮いや、しかし少しばかり角度を変
えればあるいは⋮⋮
ここらで目を背けなければ言い逃れはできないぞ、そんな心の声が
聞こえた気がするが、男子の悲しい性か、残念ながらそれを実行に
移すことは叶わない。
98
時間にするとおそらく数秒の事であったのだろう。しかし、楓姫が
俺に気付き、二度目の悲鳴を上げるまでの時間は、永遠にも思えた
ことは確かだ。
⋮⋮姉さんの足音が近づいてきた。あぁ、ここでは姉さんと書いて
死神と読んでくれたまえ。
二度の悲鳴でさすがに目が覚めたのかな!いやあ、目覚めなくてよ
かったのに!この現場を見た姉さんはどう思うだろうね!
⋮⋮さぁ、ここからは処刑の時間だよ!
頬を冷たいものが伝う。
あぁ、今もしも願いが叶うなら。
全てのラッキースケベを、生まれる前に消し去りたい。
全ての宇宙、過去と未来の全てのラッキースケベを、この手で。
※
︱︱処刑より恐ろしいことって、あるんだね。びっくりしちゃっ
たよ。
あの後、潔く負けを認めた俺に、姉の断罪の拳がめり込んだ。以前
はすぐに止めに入ってくれた楓姫も、ショックのあまり放心状態だ
ったため、十七連コンボを食らったあたりでようやく説明の機会が
与えられるまで、制裁は続いたのであった。
﹁あっ⋮⋮あの、姉上⋮⋮ぐすっ、多分達稀は⋮⋮私を心配して⋮
⋮﹂
﹁む、そうなの?﹂
そう言ってボロ雑巾⋮⋮否、俺を一瞥する姉。ひどいよね、弁解
99
の余地くらいくれてもいいのにね。まぁ、あの時の浴衣の帯をなし
で怯える楓姫とそれを見つめる俺という構図は、正直勘違いされて
も仕方がないのかもしれない。
﹁ぐすっ⋮⋮えぐっ⋮⋮着替えようと、思ったら、黒い、アレがい
て⋮⋮びっくりして⋮⋮私⋮⋮﹂
その言葉に姉の顔色が瞬時に青ざめる。俺もようやくそこであの
悲鳴の理由を察した。
﹁まさか⋮⋮でも対策は完璧なハズ⋮⋮どこかに抜け道があったと
いうの⋮⋮?いや、いや、いや⋮⋮アレだけは⋮⋮駆逐しないと⋮
⋮﹂
幽鬼のような足取りで洗面所から出ていく姉。おそらく、膨大な数
の殺虫剤を買いに出たといったところか。今日の午後にも、この家
に巣食う害虫は根絶やしにされることだろう。
﹁ぐすっ⋮⋮達稀、大丈夫か⋮⋮?﹂
﹁あぁ、もう六割方回復はしたが⋮⋮なんかごめんな﹂
﹁いや⋮⋮元はと言えば私のせいじゃし⋮⋮強がって自分一人で出
来るなんて言わなければ、アレに気づかずに済んだのに⋮⋮でも、
できたら忘れて欲しい⋮⋮﹂
﹁あぁ、努力するよ﹂
まだ若干体は痛むが立ち上がる。どうやら手加減はされたようだ。
とはいっても、楓姫の証言次第ではどうなっていたか知れないが⋮
⋮。
﹁出来るだけ、達稀や姉上に迷惑をかけたくなかったんじゃ⋮⋮で
も、結局失敗して⋮⋮﹂
そう言ってまた涙目になる楓姫。頼むからそんな顔しないでくれ
よ。
﹁⋮⋮分からなかったら、聞いてくれよ。知らなきゃ、出来ない事
だっていっぱいあるんだから﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁少しずつ、出来ることを増やせばいいんだよ。最初から出来るわ
100
けないんだからな?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁よし、いい子だ。じゃあ、行くか。何から知りたい?﹂
﹁⋮⋮えへへ、水の出し方﹂
﹁うん、分かったよ。これはな、蛇口と言って⋮⋮﹂
その後、いろいろな事を教えて回った。実際にやってみて、何度
も失敗してはいたが、ようやく楓姫とこの時代で暮らしている。そ
んな実感が持てた一日であった。
姉さん?殺虫剤装備して虚ろな目で家中巡回してたよ?
101
第五章 そして日常に?
﹁ご飯だよー!﹂
居間で女児向けアニメを楓姫とぼおっと見ていると姉の声が響いた。
﹁楓姫、行くよ﹂
﹁むぅ⋮⋮まだ終わってないのに⋮⋮﹂
﹁なんかお前順調に現代に馴染んでるな。大丈夫だよ、録画⋮⋮え
ぇと、後で見れるようにしてあるから﹂
楓姫が先週この番組を食い入るように見ていたからな。抜かりはな
い。
﹁ん、それなら後にしようかの。﹂
そう言ってリモコンの電源ボタンを押す楓姫。素直でいい子だ。
食卓に向かうと、何種類かのパスタが並んでいた。
﹁今日はパスタか、珍しいね﹂
﹁2人だとあんまり種類食べれないからね∼あんまり作らないかも。
楽だし割と凝れるから好きなんだけどね∼﹂
﹁む?細いうどんのようじゃのう﹂
﹁イタリアのうどんみたいなもんかな﹂
﹁いたりあ?あぁ、南蛮の国か!﹂
﹁そうだよ、じゃあ食べようか﹂
いつものようにいただきます、の合唱。
そしてフォークの使い方を教授する。最初は箸で食べようとしてい
たが、食べにくい上、俺や姉さんがクルクルやってるのが気になっ
たのか、私にも教えて!と、泣きついてきた。
﹁ん!これ美味しいの!﹂
﹁えへへん、それは和風の味付けにしてみたんだよ!﹂
﹁これは⋮不思議な味じゃな。酸っぱいような⋮⋮何というか⋮⋮﹂
﹁ああ、ミートソースだね!それは口に合うかわかんなかったんだ
けど、定番だからね∼﹂
102
﹁美味しいぞ!姉上の料理は全部美味しい!﹂
﹁嬉しいこと言ってくれるねぇ、おいコラ達稀!聞いてたか!﹂
﹁美味しいぞ!姉上の料理は全部美味しい!﹂
ズガァ!
机の下でスネを蹴られる。なんか嫌な音がした。
﹁おい!本気で蹴るか!?してはならない音がしたぞ!?きっと折
れてしまったぞ!?﹂
﹁うるさい!オリジナリティの欠片もない返ししやがって!﹂
﹁オリジナリティのない返答すると足が砕けんばかりの蹴りを入れ
られるとか、どんな恐怖政治!?﹂
﹁可愛くない弟の骨を折る権利が、姉には認められている﹂
﹁認めたのはどこのどいつだ!訴えてやる!﹂
﹁国連だよ!﹂
﹁ぐおぉ⋮⋮グローバルスタンダードだと⋮⋮?﹂
﹁世界は姉に味方した!﹂
全世界の理不尽な姉を持つ弟、超頑張れ。
﹁あはは、本当に仲がいいんじゃな﹂
﹁仲がいい?一方的な支配の間違いだろ﹂
﹁見ていて楽しいぞ、もっとやれ!﹂
﹁俺に死ねと!?俺は弟の地位向上を声高に叫ぶ!﹂
﹁そんなことより楓ちゃん、今日はどうだった?﹂
なるほど、俺の命がけの主張はそんなことらしいよ。
﹁うむ、その⋮⋮ちょっとだけいろいろ出来るようになった⋮⋮か
の?﹂
﹁そうだな、まだちょっとだけだけどな。飲み込みが早くて助かっ
たよ﹂
だが、ある程度身の回りのあれそれの心配はなくなっただろう。
楓姫は賢いから、そこから応用させていくこともできるだろう。
生活面での懸念はある程度取り除かれたと考えてよいかもしれな
い。
103
﹁えへへ⋮⋮﹂
ちょっぴり嬉しそうにする楓姫。まぁ、実際頑張ったからな。
﹁そっか、それなら良かったよ⋮⋮それにしても、私、日中の記憶
がないんだけど⋮⋮何してた?﹂
何をしていた⋮⋮か。何というべきだろう、ありのままを伝えて
しまうのも可能だが今は食事中だ。できるだけあの状況を婉曲に、
ソフトに表現するとなると⋮⋮。
﹁一方的な殺戮?﹂
その言葉で全てを察したのか姉さんは項垂れ、ポツリと呟いた。
﹁⋮⋮また、やっちまったのか⋮⋮﹂
﹁オウ、酷い有様だったぜ﹂
﹁すまねぇ、ブラザー。アレだけはダメなんだ、アレだけは⋮⋮﹂
﹁分かってるよ。別に責めちゃいねえよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮人とは、業の深い生き物じゃな﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
﹁そ、そういえばさー明日からどうしようねー﹂
沈黙に耐えかねて主犯︵姉︶がおもむろに口を開く。ああ、嫌な
事を思い出した⋮⋮今年のゴールデンウィークは祝日が日曜日と被
っていないため、なんだか損をしたような気分になる。
﹁あぁ、そうか学校だな﹂
﹁む?ガッコウとはなんじゃ?﹂
おぉ、そういえば知らないよな。
﹁大勢が勉強する所だよ!うーん、楓ちゃんの時代で言うと⋮⋮寺
子屋?﹂
﹁寺子屋は江戸時代だろ。姫って勉強とか城内でやってるんじゃな
いか?﹂
勝手なイメージだけど。
案の定、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる楓姫。
104
﹁そうじゃな。しかし⋮⋮勉強か⋮⋮うへぇ、嫌な物は残っておる
のじゃな⋮⋮﹂
﹁まぁ、そういうモンだろ﹂
﹁思い出したくもないのぅ⋮⋮それにしても、この時代は勉強を外
でするのか﹂
﹁外というか、一つの建物に集まってって感じかな∼勉強って言っ
ても友達と喋ったりするために行くようなものなんだけどね﹂
確かに、本当に勉強がしたいヤツは塾とかに行ってるし、どちら
かというと学校自体は社交場としての意味合いの方が強いかもしれ
ない。なんとも寂しい話ではあるが⋮⋮
﹁む、ガッコウには人がたくさんおるのか?﹂
﹁あぁ、ウチだと九百人くらいかな﹂
﹁そんなにおるのか!ちょっとした軍じゃのう⋮⋮﹂
﹁そうなるかもなぁ﹂
おそらく全く戦力にはならないだろうが⋮⋮
﹁しかし⋮⋮友達かぁ⋮⋮いいのぅ⋮⋮あまりそういう相手はおら
んかったからのぅ⋮⋮﹂
寂しそうな顔をする楓姫。おっと、ちょっとした地雷だったのか
もしれない。
﹁そうか、確かに姫様はなかなか難しいかもしれないな。でも女中
とか家臣とかはいたんだろ?﹂
﹁いたがのぅ⋮⋮なんというか、私の時代は身分差があったからの、
向こうも馴れ馴れしくするわけにはいかんのじゃよ﹂
﹁そうか、今とは違うんだもんな﹂
重要な事だが、価値観の違いからかどうもその点を忘れがちにな
ってしまう。
﹁まぁ、唯一私の世話を焼いてくれたのが杉原なんじゃけどな﹂
﹁おぉ、ご先祖様だね!!どんな人だったの?﹂
﹁口うるさい奴じゃったな。秋宮の姫たるもの云々⋮⋮正直辟易し
ておった﹂
105
そんな口ぶりながらも、表情自体はさほどまんざらでもなかった
ような雰囲気だ。
﹁なんか達稀みたいだね∼!﹂
ぶすっとして顔を少し背けた俺をからかうように姉さんが言う。
﹁ひどい言いがかりだ!﹂
﹁まぁ、杉原だけが私を人質に出すことに反対してくれたんじゃが
な﹂
そう言って楓姫はやや目を伏せる。
あぁ、そうか。楓姫はウチが杉原家だから、ウチに来ることを決め
たんだ。もし、理事長が声をかけたのがその、自分を差し出すこと
に賛成した家臣の子孫だったとしたら、おそらくこの姫は理事長の
家に残ると言ったのではないだろうか。
見知らぬ足軽だとか何とか言っていたが、実は慎重に、自分を裏切
らない所かどうかを見極めていたのではないだろうか。
過去から家出というとんでもなく突飛な事をしでかしたせいで判断
が遅れたが、それくらい、実は臆病で怖がりなんだという事が数日
共に生活したことで分かってきた。
しかし、それならば何故家出なんてできたのだろう⋮⋮。
﹁達稀?どうかしたのか?﹂
顔を覗き込み、楓姫が心配そうに尋ねる。
まぁ、いい。いずれ話してくれるだろう。
今は、新しい家族が馴染み始めて心地良くなりつつあるこの空気を
楽しもうじゃないか。
たとえ、いずれまた元に戻る事になっても。
そうして俺は、なんでもないよ、と楓姫の頭をこんっと小突いた。
106
※
翌日、俺は再び理事長室に呼び出されていた。
前回のように校内放送で呼び出したら理事長の趣味やらなんやら
を全てバラすと脅迫しておいたため、今回は担任を通しての呼び出
しだ。
まぁ、担任には﹁お前と理事長どんな関係なんだ!?賃上げとか頼
めるのか!?﹂とかなんとか言われたが⋮⋮頼まねぇよ。
ゴールデンウィーク明けの登校でただでさえ面倒極まりないのに、
朝っぱらから呼び出しとか勘弁してほしいものである。
﹁それで、今日は何の用ですか?﹂
まぁ、大体予測はつくんだけど。
﹁えぇ。楓姫の件だけど、上手くやっているかと思ってね﹂
やはりその話か。理事長としても数日共に暮らした楓姫に、少な
からず親しみがあるのだろう。
﹁色々ドタバタしてはいますが、元気ですよ﹂
﹁ドタバタ?﹂
﹁まぁ、現代の事は何も知らないわけですからね。テレビに感動し
たり、洗濯機に怯えたり⋮⋮そんな感じですよ﹂
実際にはもっとアレな事も起こしてはいるのだけど、楓姫本人の
名誉の為にも秘密にしておいてやろう。
﹁ふうん、なるほどね。それはよかった。あなたの家に行って私に
会えず寂しがっているかと思っていたんだけど⋮⋮﹂
﹁いや、そんなことは微塵も言ってませんでしたけど⋮⋮﹂
信じられないという顔をする理事長⋮⋮いや、そんな顔されても
本当に何も言ってなかったし⋮⋮
﹁え⋮⋮?いや、そんなはずないでしょ?だって、けっこう懐いて
くれてたし⋮⋮ねぇ⋮⋮﹂
﹁いや、理事長の﹃り﹄の字も出ませんでしたけど⋮⋮﹂
﹁あぅ⋮⋮そ、そう⋮⋮そっか⋮⋮ははは⋮⋮﹂
107
そう言って魂の抜けたような顔をする理事長。あぁ、これは本気で
凹んでるな。
﹁でも多分感謝してますよ﹂
ここはもう推測で物を言うしかない。フォローって大切ですよね。
﹁あ、うん⋮⋮そだね⋮⋮﹂
ははは⋮⋮と力なく笑う理事長。なんかちょっと可哀想だな。優
しくしてあげるのがいいかもしれない。しばらく理事長の渇いた笑
いが響き、もう帰ろうかと思った矢先、ふと気づいたように理事長
が真顔に戻る。
﹁そういえば、今楓姫はどうしてるの?﹂
﹁え?⋮⋮俺も姉さんも学校なんで、家にいますよ﹂
﹁あぁ、そっか⋮⋮まぁ学校に連れてくるわけにもいかないだろう
しね⋮⋮﹂
そう、楓姫がウチに来て一番の問題は、俺たちが学校に行ってい
る最中楓姫の相手をする人間が誰もいなくなってしまうのだ。
楓姫には日中の外出を許可していない。というのも、下手に外出し
て補導でもされようものなら⋮⋮楓姫には当然のことながら戸籍が
ない。その後、楓姫をちゃんと引き取ることが出来るのか⋮⋮そう
いった心配すら出てくる。何故か異常な権力を握っている理事長に
頼めばなんとかなるのかもしれないが、いたずらにパニックを引き
起こしてしまうのも忍びない⋮⋮という配慮の上のことである。
そのため、楓姫に窮屈な思いをさせてしまっているのはとても申し
訳ない所なのだが。
﹁そうなんですよね、基本的に楓姫はこの世にはいないはずの人間
ですから。学校なんて入ろうにも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なるほど、そういう事もあるか⋮⋮よし、そのあたりは私の
方で何か考えておくわ﹂
理事長がポケットからスマートフォンを取りだし、なにやら操作
を始めた。
﹁なんとかって⋮⋮なんとかなるような問題なんですか?﹂
108
﹁まぁ、私の手にかかればね。戸籍を一つくらい増やすことくらい、
造作もないことよ﹂
﹁貴女一体何者なんですか⋮⋮﹂
少し大事になってしまいそうだな⋮⋮でも最終的には早い方がい
いのかもしれない。どの道、この世界で普通に暮らす上では必要に
なってくるだろうし。
冷静に分析していると理事長が、とんでもないことを、言った。
﹁日本の権力者共にある程度の無理を通せる程度の力を持った乙女
よ﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?
﹁乙女!?﹂
いやぁ、久々に素で驚いたわ。下手したら楓姫のくだりよりびっ
くりしたわー。世界が揺らいだわー。
﹁なんでそこに反応するの!?どう考えてもその前が突っ込みどこ
ろでしょ!?﹂
涙目で机をドンドン殴る理事長。
﹁いやぁ、前者はまだありそうだと思ったんっすけど、後者はちょ
っと看過できなかったんですよ。さぁ、早く発言を取り消してくだ
さい﹂
﹁そこまで!?そこまで乙女発言は禁句だった!?﹂
﹁正直、全世界の乙女に全力の謝罪を要求したいくらいですよ﹂
﹁え⋮⋮っていうか!なんであなたそんなに私に辛辣なの!?高橋
の顔チラついて嫌になるんだけど!﹂
あぁ、やっぱり高橋さんは平常でもあんな感じなんだな。なんか
仲良くなれそうな気がするよ。
﹁なんででしょうね、大人のクセに大人っぽくないって言うか子ど
もっぽいからですかね?体は大人、頭脳は子ども的な?﹂
﹁何それ!?タダのダメ人間でしょ!﹂
109
﹁あれ?そう聞こえませんでした?﹂
﹁もう嫌だ!﹂
﹁まぁ、そういうことですよ。とりあえず、当分この時間は、ウチ
に一人でいてもらうしかなさそうですが⋮⋮出来るだけ早く帰るよ
うにします。部活にも入って無いですし﹂
﹁うーん⋮⋮思った以上に負担をかけてしまっているようね⋮⋮﹂
操作していたスマートフォンを眺め、やや渋面で、クソッ、と悪
態をつく理事長。どこにだかは知らないが、色よい返事がもらえな
かったようだ。
﹁それは大丈夫ですよ。でも、楓姫には辛いかもしれないので何か
考えないと、とは姉さんと話していたんですけど﹂
﹁⋮⋮分かったわ。そちらの方も考えておきましょう。でも、少し
だけ時間をもらえる?﹂
再び操作を始める理事長。まぁ、そっち方面は任せておくしかな
いか。
﹁よろしくお願いします﹂
そう言うと俺は理事長室を出た。
案外人間が不自由なく生きるのは大変なのだ。
110
第五章 そして日常に?
﹁え?なんで今のままじゃダメなんですか?﹂
昼休み、再び中庭で五人、昼食を摂りながら、事の顛末を話すと、
夕月がそんな疑問を漏らした。
﹁今のところ楓姫はこの世界には﹃いない人﹄扱いだからね、﹃い
ない人﹄には戸籍もないし⋮⋮事実上、幽霊みたいな存在なんだよ。
もちろん、学校にも通えないし結婚だってできない﹂
﹁⋮⋮幽霊、か。なんだか寂しいですね、世界に存在を認められて
いないみたいで⋮⋮でも結婚って書類上の事ですよね?ずっと一緒
にいるだけなら⋮⋮そう、内縁の妻みたいな感じでも大丈夫なんじ
ゃないですか?﹂
不思議そうにする夕月を見て、隣に座る葵が、はぁ、と大げさな
溜息を吐く。
﹁全く、夕月はもう少し考えられないのかい﹂
その言葉に夕月は珍しくむっとした表情で葵を睨む。
﹁じゃあちゃんと説明してよ﹂
﹁仕方ないな。戸籍ってのは何も結婚だけに関わる話じゃないだろ
う?さっきも言ったけど、今の楓ちゃんは書類上は幽霊みたいなも
のさ。当然のことながら幽霊には人権も保険も何もかも存在しない
よ。まぁ、人権なんかは周りの人があるように接してくれるだろう
けど。もし楓ちゃんが病気になったとしても病院にだって連れてい
けない。それに内縁の妻っていったけど、例えば楓ちゃんが子ども
を授かったとしよう。その子は一体どうなる?﹃いない者﹄から生
まれた子どもだ、出生届なんて書けるわけがないだろ?﹂
﹁そっか!今のままじゃ子どもができないんだ!﹂
夕月の声が中庭に響き渡った。同じように中庭で昼食を摂ってい
たいくつかのグループの視線が一斉にこちらに突き刺さる。高校生
が昼間から結婚だのなんだのと言うような会話をしていれば不審に
111
思われても仕方ないかもしれない。注目の的となった夕月は顔を真
っ赤にして俯いてしまった。
たまにあるよね、にぎやかだった場所がふとした拍子に突然静か
になること。そういう時に限って恥ずかしい発言だけが響いちゃう
こと。
ある俗説によると幽霊が通りかかったときに起こる現象らしいけ
ど、もしそうならその霊とやらはよほど性格が悪いか、逆恨みで他
人まで死に引きずり込もうとする悪霊の所業に違いない。あまりの
いたたまれなさにはずみで死ぬ恐れがあるからな、俺だったら。
小さくなっている夕月を哀れに思いつつ、傍にいる御崎に目を向
けるとなにやら真剣な面持ちで朝哉さんと話し込んでいる。この二
人が真面目そうに二人だけで話をしているなんてどういう風の吹き
回しだろう。明日世界の一つや二つ滅ぶのではないだろうか。あま
りに珍しいので、多少不躾とは思いつつもそちらの会話に耳をそば
だてる。葵が夕月を慰めという名義を借りた止めを刺している声の
せいであまり聞こえないが、﹁⋮⋮伝えたほうが⋮⋮﹂だとか﹁⋮
⋮今混乱させるのは⋮⋮﹂などと少しの情報だけ漏れ聞こえてくる。
まぁ、家庭内の話かもしれないし、首を突っ込むのは野暮な話だろ
う。どうも先ほどから御崎が少しばかりよそよそしいのが気がかり
ではあるのだが。
﹁⋮⋮ということだよ。分かったかな?夕月﹂
﹁うぅ⋮⋮お兄ちゃんのバカ⋮⋮﹂
おっと、そんなことを考えている内にこちらの兄妹は決着がつい
たようだ。葵の圧勝で夕月涙目、いつも通りだ。
﹁アホの夕月は置いておいて君たち兄妹は一体何を話してるんだい
?﹂
葵が踏んだり蹴ったりの夕月から目を逸らし、御崎兄妹の方を向
く。なんだよ俺が気を回したのが馬鹿みたいじゃないか。グッジョ
ブだ。本当は気になって仕方がなかったんだよね。声をかけられた
朝哉さんは﹁ん?なんでもないですぞ?﹂と涼しい顔だが、妹の方
112
はそうも行かなかったようだ。わたわたと手をばたつかせ、全身で
動揺を表している。
﹁いっ、そんなウチに来た人の話とかそれを葵くんたちには話さな
い方がいいとかそんな話は全然してないわよ!﹂
あれまぁ、何を話していたか要点を全部教えてくれるなんて。そ
こまでは期待していなかったのだが、サービス精神が旺盛な事この
上無しだ。
﹁何見てんのよバカ杉原!視神経潰すわよ!﹂
そして意味もなく罵倒される俺。理不尽だよね理不尽だよ。
﹁⋮⋮あおっち、妹ってのはどうしてこう⋮⋮﹂
﹁分かりますよ先輩、お互い頭が痛いですよね﹂
﹁僕はあらゆる萌えに精通していてね、オーソドックスなツンデレ
萌えに始まり、獣萌えにも一定の理解を示しているほどなんだけど
ね、一つだけ理解できない萌えがあるんだよ﹂
﹁分かります先輩、実妹萌えだけはありえないですよね﹂
﹁そうなんだよ。さすが分かっているね。現実を知ってしまうとど
うにもね⋮⋮﹂
﹁﹁はぁ⋮⋮﹂﹂
二人の溜息が重なる。全く、ハイレベルな妹を持っていながらな
んて贅沢な事を言っているんだ。夕月ちゃんは言うまでもなく完璧
に紛う事のない美少女でちょっとアホの子という特徴すらも愛おし
いレベルだし、御崎にしても俺への脅迫とか俺への迫害とか俺への
虐待さえなければ、料理も上手いし美人だし誇れる妹じゃないか。
しかしそこまで考えた所であることに思い当たる。よくよく考え
てみれば俺にもいるではないか、ハイレベルどころではなく、料理
を始めとする家事全般が得意で文武両道にして容姿端麗、毎日のよ
うに下駄箱に男女問わずラブレターが入っていたという伝説を持つ
姉が⋮⋮ふむ、なるほどそういう事か。
﹁あぁ、よく分かるよ、お二方。確かに実姉萌えは絶対に無理だ﹂
﹁﹁姉は萌えるだろ常考!!﹂﹂
113
さいですか。
しかし、なんやかんやこの二人に賛同するという形を取ってしま
った上に、見事に拒否られてしまったため、この場での俺の立ち位
置が危うくなってしまった。こうなった以上、話題を変える他ない。
﹁そんなことよりも、御崎の家に誰が来たって?なんで話さない方
がいいんだ?﹂
俺は御崎を見据え、尋ねる。御崎の家に誰が来ようと問題ではな
いが、俺達に内緒という点が気になる。別に全てを話さなければな
らないというわけでもないし、聞きたいわけでもない。仲間内では
秘密は無し、みたいな暑苦しい友情のようなものは残念ながら存在
しない。プライバシーの自由だ。
しかし、俺たちに内緒、などということはつまり、俺たちに関係
がある、俺たちの何らかに影響があるという事を暗にほのめかして
いるというものだ。俺に関することを秘密にされるのは、やはり気
持ちがいいものではない。
答えづらそうな表情の御崎との睨めっこがしばし続いたが、やが
て御崎は根負けしたように俺から視線を逸らし、御崎兄に救いを求
める。朝哉さんも朝哉さんでどうせこうなることが読めていたのか、
めんどくさそうに口を開いた。
﹁なんていうか、ウチにも今居候がいるんだよ。お前らに内緒って
いうのは⋮⋮まぁ、話すまでもないことだし、達稀はまだいろいろ
ゴタゴタしてるだろ?だから余計なこと考えさせたくなかったんだ
よ﹂
一息でそう告げ、また一つ溜息を吐く朝哉さん。しかし何かを隠
している事は明白だった。
﹁で?本当のところどうなんすか、何隠してるんです?﹂
すぐに彼の表情がバツの悪いものに変わる。この人は割と高い頻度
で冗談や軽い嘘を吐くが、重大な隠し事をしている時は言動が素に
戻るのだ。めんどくさがりで投げやりな御崎朝哉という素の姿が。
まぁ、今となってはオタクスタイルでいる時間が長いため、どちら
114
が真の姿かと言われると正直微妙なのだが。
﹁そんなに分かりやすいのかよ⋮⋮うーん、どうするかな⋮⋮﹂
頭をわしゃわしゃと掻き、なにやらブツブツ呟きはじめた。そし
てしばらくの後にその動作を止め、まれ氏、と声を発した。
﹁どうしたんすか、決まりました?﹂
﹁いや、うん⋮⋮決まったと言えばそうなんだけどさ、とりあえず
今のところは﹃ウチに居候が来た﹄ってだけで納得してくれねぇか
な?やっぱどう考えても今話すことにメリットがねぇと思うんだわ﹂
﹁⋮⋮分かりましたよ、じゃあまぁ⋮⋮居候の子の世話、頑張って
くださいね⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮プチッ。
何かが、切れた音がした。
それが朝哉さんの張りつめていた感情の糸だと気付いたのは、そ
んなに遅いことではなかった。
﹁ふっ⋮⋮﹂
朝哉さんは何が可笑しいのか鼻から息を漏らすように笑い、そし
ておもむろに自分の弁当箱に顔を突っ込んだ。
﹁きゃあ!お兄ちゃ⋮⋮兄貴!何やってんのよ!﹂
﹁あsfryついゆおいぽ;p∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼!!!!
!!?!?!?!?﹂
﹁言語化してよ!言葉にしなきゃ伝わらないよ!?言語ってそうい
う物よ!?﹂
﹁ど⋮⋮どうしてっ⋮⋮﹂
少しずつ弁当箱から顔を上げ、音が言葉になる。
﹁どうしてまれ氏の家には美少女でウチには男なんでござるかああ
あああああああああああああああああああああああああ!?!?!
?!?!?!??!?!?!??!?!?﹂
そう咆哮し、俺の方を向いた彼の顔は赤く染まり、目からは血涙
115
を流していた。その有様はまるで、恨みを抱いて死んだ落ち武者の
ような⋮⋮
﹁いやああああああああああああああああああああああああああ!
!!!!!!!﹂
バチコーン。
御崎が惨状を目の当たりにして兄の頬を張り飛ばす。朝哉さんは
その顔のまま、夕月と葵の前まで吹き飛ばされる。
﹁きゃあああ!!!!み、御崎さん、コレ、病院!?警察!?一一
七だっけ!?﹂
﹁おおおおお落ち着いて夕月ちゃん!!最後のは消防署だよ!!﹂
いや、時報だろ。
﹁そ、そうだね!!一一〇番でいいかな!?﹂
﹁いいんじゃないかな!?最悪アリなんじゃないかな!?﹂
いかん、このままでは朝哉さんが不審者として連行されてしま⋮
⋮別によくね?
﹁ぺろっ、これは⋮⋮君たち、落ち着きなよ、これはケチャップだ
!﹂
おぉ、体は子どものヤツが出張ってきたぞ。
﹁ケ、ケチャップ!?﹃籠目﹄の仕業なの!?﹃籠目﹄が仕事をし
てしまったの!?﹂
﹁御崎、ホラー実況動画の見過ぎだ﹂
﹁御崎さん、今日のお弁当はなんだった?﹂
葵は事件の解決を確信したのか、いつもよりキメ顔で御崎の方を
向いた。
﹁えっえっ⋮⋮から揚げ⋮⋮?﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ﹂
ケチャップ要素がないだと!?
116
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
﹁お、おっちゃん⋮⋮じゃなくてお兄ちゃん⋮⋮﹂
﹁と、とにかく!何らかのケチャップ要素が介在したに違いないん
だよ!﹂
﹁ハッ、そういえば兄貴は生粋のケチャラーだったから⋮⋮﹂
﹁な、なるほど!マイケチャップだね!さすが僕、名探偵!﹂
﹁いいのか、そんな新設定。後々首を絞めかねないぞ本当にいいの
か?﹂
﹁うるさいよ、ワードにメモしておけば問題ないよ﹂
なんてことを言うんだお前は。
﹁あ、あの⋮⋮御崎先輩、目を覚まさないんですけど⋮⋮打ち所悪
かったんじゃ⋮⋮﹂
﹁設定なんて現れては消える泡沫のようなものさ⋮⋮ちょっとくら
いなら誤差だよ、誤差﹂
﹁大体忘れるしね∼﹂
﹁もう止めろよ!そういう話はよくないよ!﹂
﹁あの⋮⋮コレ⋮⋮あの⋮⋮死⋮⋮﹂
そして不穏な発言が飛び交い、朝哉さんの死後硬直が進む中、今
日も昼休みは過ぎていくのであった。
なお、朝哉さんはその後、﹁今期のアニメも見ずに死ねるか∼∼
∼∼∼∼∼∼!!!!!!!﹂とか言いながら復活してたよ。オタ
クの執念ってすごいね。
※
﹁⋮⋮なんてことがあったんだよ﹂
家に帰った俺は、縁側に座りながら、今日あった出来事を、楓姫
に話していた。この縁側は風通しも良く、学校から帰って一息吐く
のにはもってこいの場所なのだ。
117
居心地の良さに関しては楓姫も同意らしく、特に一番風通しのよ
いこの場所はお気に入りで、この時代での楓姫の安息の地と呼んで
も差し支えないように思える。
﹁ふぅん⋮⋮なにやら学校とやらは楽しそうじゃのう⋮⋮他には何
をやる所なんじゃ?﹂
﹁基本的に勉強と社交の場だよ。まぁ球技大会やら学園祭やら体育
祭やらのイベントもあるけどな﹂
﹁ん?いべんと?﹂
﹁端的に言えば、そうだな、お祭りみたいなものかな。年に何回か
あるんだよ﹂
その発言のどこに反応したのかはわからないが、楓姫はやや機嫌
よさそうに表情を変え、庭の方に出していた脚をすこしパタパタさ
せる。
﹁お祭りか!いいのぅ、私もお祭りを普通に楽しんでみたいものじ
ゃ﹂
﹁はぁ?どういう⋮⋮﹂
そこまで言った所でジト目で睨まれる。
﹁どうもこうも一国の姫が城下の者たちと同じように楽しめるわけ
がないじゃろ。城下に出ても従者がおって一人にはなれんし、楽し
もうにも皆が私に気を遣うから微妙な雰囲気になるし⋮⋮﹂
﹁はぁ、なるほどな﹂
これまでいくつかそういった現代との違いについて話していたが、
どうやら姫様と庶民は根本的に分けて考える必要があるようだ。
しかしまぁ、なんとも面倒くさいことだ。
﹁だから、こっちではお祭りを普通に楽しんでみたいな。ふむ、学
校⋮⋮学校か⋮⋮﹂
﹁行きたい?﹂
少し悩んだ様子を見せた楓姫だったが、やがて首を静かに横に振
った。
﹁⋮⋮いや、いい。この時代の学がない私が行っても迷惑なだけじ
118
ゃろうし。それにそんな簡単な話でもないんじゃろう?﹂
﹁まぁ、そりゃあそうだけど⋮⋮﹂
﹁それなら、いい。こんな大それた事をしておいて言うのも変な話
ではあるが、私は秩序が守られている平穏な世界が好きなんじゃ。
それをもう、これ以上壊したくない﹂
そういう横顔はやはり寂しそうで、諦めと我慢の色を隠せていなか
った。俺はたまらず、普段は使わない思考回路を総動員した。
﹁⋮⋮そうだ、楓姫がこの時代の勉強をしてみれば?それで学校に
来ればいい。それなら、転校生として来ても問題ないんじゃないか
?多少注目されるかもしれないけど、秩序を乱すってほどじゃない
し﹂
その時、楓姫は希望を見いだしたような、そんな表情を浮かべた。
少なくとも、俺にはそう見えた。しかし、すぐに俯き、行儀よく膝
の上に乗せた小さな手にぎゅっと力が込められる。
﹁⋮⋮そんなことしたら、もう戻れないじゃろ⋮⋮﹂
心の内が漏れ出したようなその呟きは、ひどく弱々しく、俺の耳に
は届かない。
﹁なんか言ったか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なんでもない。そうじゃな、考えてみる﹂
﹁あ、あぁ⋮⋮﹂
その言葉は、弱いが明確な拒絶の色を帯びていた。ひょっとしたら、
楓姫はこの時代に馴染むことを恐れているのではないか⋮⋮そんな
気さえする。
︱︱でも最後の切り札としてでもいいから、過去に帰す手段を探し
てみようよ︱︱
再び脳内で反芻される、葵の言葉。
思えばここで、もっと話しておくべきだったのだ。楓姫が何を思い、
悩んでいるのかを。伝えておくべきだったのだ。彼女の居場所が、
119
既にこの時代にあることを。
そうすれば、彼女に、楓姫にあんなに辛い思いをさせることはなか
っただろうに。
120
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5404bs/
姫カム!
2013年8月14日03時15分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
121