死の都市 LION タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ 死の都市 ︻Nコード︼ N0098U ︻作者名︼ LION ︻あらすじ︼ はっきりとした目標もなく平凡な毎日を過ごす大学生、伊東皐月。 退屈な授業中いつものように居眠りをしていたその日、世界は急変 した。人を食らう化け物が蔓延る地獄と化した大都市東京。死が身 近に迫る異常事態の最中、皐月は仲間たちに出会い、生き残るため 協力しながら街を駆け巡る。皐月は生きてまた大切な家族と再会で きるのか。 1 プロローグ︵前書き︶ 初めまして、LIONと申します。小説を投稿するのは初めてで、 表現や話の運びなど拙い文章だとは思いますが、一人でも多くの方 に楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。 この小説はいわゆるゾンビものです。私はダークでシリアスな話 が好きなので、苦手な方はご注意ください。 2 プロローグ ﹁ぎゃあぁぁぁっ! 痛い、痛いぃーっ!﹂ ﹁いやっ⋮⋮いや、来ないで、来ないでぇぇー!﹂ ﹁や、やめっ⋮⋮うわああぁっ!﹂ 私︱︱伊東皐月︱︱は今、悲鳴が響き渡る廊下を全速力で走って いる。一体何が起きているのかというと、この騒動の渦中にある私 でさえもとても信じられないようなことだ。だって、こんなこと割 と平和な現代日本で誰が信じてくれるだろう︱︱私の通う大学のキ ャンパスのいたる所で、無差別で残虐な大量殺戮が行われているな んて。それも普通の殺人とは違う。人が人を食い散らかす︱︱カニ バリズムのお祭りだ。 こんな非常事態なので当然同じ大学の仲のよい友達の安否が心配 だが、他の人の身を案じてもいられない。少しの気の緩みが、自ら の死につながる。こうしている間にも背後から殺戮者の気配が、呻 き声が迫ってきているのだ。 死をこんなにも身近に感じることになる日が来ようとは考えても みなかった。宇宙人やモンスターの襲来なんて、空想上の出来事だ と心の底から信じて疑わなかった。でも今となっては平和だった日 常の方が嘘のようにも思える。いや、十数分前までは確かに平和だ ったのだ。退屈な授業、いつものように居眠りをしたあの時までは。 3 第一話 異変 気怠い空気に満たされた大教室。廃墟にいるような静寂の中、遠 くの方から教授のぼそぼそとした小さな声のみ微かに聞こえる。⋮ ⋮マイクが遠すぎるのではないだろうか? 教室が広いせいもあり 話が部分的にしか聞こえない︵教授に指摘しようとは思わないが︶。 学生も学生で授業に対して無気力で、教授の目の前で堂々と惰眠を 貪っていたり、スマートフォンの小さな画面上に繰り広げられる人 間模様に夢中の様子だ。 そんな様子を眺める私は、今激しく後悔していた。なぜ土曜日に 授業を入れてしまったのか。四月病は新学期開始直後から順調に回 復の兆しを見せ始め、ついこの間全快した。 ふうと静かに息を吐く。頭が麻酔をかけられたように、ずっしり と重い。あと少し気を緩めれば忽ち私も夢の世界だろう。 この大学に通いはじめてはや1年と3ヶ月。特に目的意識もなく、 周りの雰囲気に流されるがままサークルに入ってそれなりに楽しく やってきた。しかし本当の意味で充実しているかと言われれば疑問 を抱かずにはいられなかった。 自分が今していることは意味があるのか? 明るい未来につなが っているのか? 母子家庭で弟ひとり、都営住宅に三人暮らし。とても裕福とは言 えなかったが、そこそこ物覚えが良かったようだ。高校は進学校に 進み、行きたかった国立大学には落ちたものの現役で第二志望だっ た私大に入学した。少し前の時代だったら女であるという理由で大 4 学へ行くことさえままならなかったに違いない。しかし私の家は金 銭的な問題はあったが、大学へは当然のように進学させてもらえた。 陰で母が私へかける期待やそれに伴う労力はそれだけ大きいのかも しれない。 よくある成功者の物語に照らし合わせれば、貧しさという逆境を 乗り越えようと毎日何かを必死で努力するところだろう。しかし私 はそのような境遇であるにも関わらず熱意を持って何かに取り組む ことができないでいた。 学問は、専攻を間違えたかもしれない。授業を聞いていると、と てつもなく強引な性格の睡魔が襲ってくる。 サークルは、必死に取り組んだ先に何があるのだろう? 絵が好 きで美術系のサークルに入ったが、プロになれるわけでもないのだ。 運動系でもないので、就活でアピールするには弱い。ずばり将来に 向けた実用性はほぼゼロである。仲良しの昭子と由美と好きな男性 のタイプについて語る時間は楽しいのだが⋮⋮︵ちなみに三人とも 生まれてこのかた彼氏なしだ︶。 何に関しても今は楽しくても、未来が見えてこない。私は何をす るためにここにいるのだろう。 そんな考えは甘えだと心の底ではわかっている。やるべきことは たくさんあるのに、何をすればいいのかわからないと言って何もせ ずにいるのだ。成功者の理想像を思い描けば描くほど自分がひどく 価値のない存在に感じる。ああ、憂鬱だ。落ちてくる瞼の重みを感 じながら、何やら堅苦しい用語を交えて話し続ける教授の姿をぼん やりと見つめ、ふと虚しく思った。 5 と、その時だった。ガタンと大きな音をたて、私の席から斜め前 の方向にいた女子学生が椅子から転がり落ちた。四方八方から、わ っと一瞬どよめきが沸き起こる。数列隔たっていたので学生が疎ら で空席が目立つにも関わらずよくは見えなかったが、床に倒れた彼 女の長い黒髪が通路に広がっていた。 教授が急ぎ足で女子学生に近寄り、容態を尋ねる。幸い意識はあ るようだ、彼女は教授の肩を借りながらどうにか身を起こした。 ﹁バイトで寝不足が続いていて⋮⋮すみません、休んでいてもいい ですか?﹂ つらそうな声だった。よほど体調が悪いのだろう。その証拠に彼 女が椅子に座り直すとき一瞬見えたその横顔は、恐ろしいほど真っ 青だった。教授は何度も大丈夫かと確認していたが寝不足なんです と再度強調され、苦笑いを浮かべて教壇に戻って行った。女子学生 はそのまま机に突っ伏してしまった。 意識を保つのに精一杯で気づかなかったが、回りを見渡してみる と今日はやけに寝ている学生が多い。それも大胆なことにほぼ全上 半身を机に投げ出すようにして。 そのあと何事もなかったかのように授業は再開された。そして同 時に帰宅したかのように思えた睡魔さんも再来した。母親が汗水流 して稼いだ学費を無駄にしたくはない。そう思っていても先に述べ たようにそんなにできのよい孝行娘ではないので、気がつけば意識 が飛んでいた、なんてことはよくある。そして今日もその例に漏れ なかった。 6 * 目が覚めた時にはホワイトボードに全く覚えのない板書がしてあ って、最後に時計を見てからもう30分近く経っているのに気づく。 ああ、やってしまった。何だかとても申し訳ない気持ちになる。 姿勢を正し、目を大きく見開いた。最後に熱心な学生を演じよう ︱︱そう思った矢先、視界の隅で何かが動いた。あの女子学生だっ た。あれからずっと眠っていたのだろうか。 彼女の様子が変なのにはすぐ気づいた。上半身を左右にふらふら と揺らしている。まだ調子が悪いのだろうなと視線を教授に戻そう とした。 その時。彼女が横を向いた。同時に揺れがぴたりと止まる。私の 体に瞬時に緊張が走った。横を向く彼女の目は虚ろで膜が張ったよ うに白く濁り、口は弛緩してだらしなく開き涎が垂れていた。どう 見ても普通ではなかった。 彼女のその目の先には真面目にノートをとる女子学生がいた。何 故だかわからないがその時叫ばなければいけないと思った。そして 私の勘は正しかったのだと思う。 それはゆっくりと私の目に映った。彼女が、女子学生の首に⋮⋮ 噛みつくのは! ﹁い、痛ああああぁいっ!!﹂ 7 私が噛んだと認識してからしばらく間があったように思えたが、 実際は一瞬だったかもしれない。耳をつんざくような女子学生の悲 鳴。彼女の細い首は深くえぐれて血が大量に吹き出していた。そこ から僅かに覗く白いモノは首の骨だろうか⋮⋮? 目の前の出来事に訳もわからず呆然としていたが、はっとして辺 りを見渡す。驚いたことにこんな状況下でも顔を伏せて眠り続けて いる人もいたが、回りのほとんどの学生は 立ち上がって困惑して いる様子だった。声が上擦りちょっとしたパニック状態になってい る人もいる一方で、電話を取り出す冷静な人もいた。 黒い長髪の女子学生は背の高い男子学生に拘束されていた。口の 周りを真っ赤に染めて、剥き出しの歯にはピンク色の何かがこびり ついている。そして顔は能面のような無表情で、眉ひとつ動かさな い。噛まれた女子学生は痛みとショックで倒れてしまい、ピクピク と痙攣している。これは、普通じゃない。 その時なんとも言えない悪寒が走った。目の前の出来事も信じら れないくらい恐ろしいが、これは悪夢の単なる一部分にすぎない。 そんな気がした。 救急車を呼ぶべきか、いや、他の人がしているし大学の事務員を 呼ぼうか? 一瞬頭をよぎったそんな良識的な思考はこのおぞまし い事態の前では現実的ではないように思えた。ちらと出入り口を見 ると数人が外へ向かって歩いていた。そうだ。途中で大学の人がい たらこのことを伝えよう。だから、今すぐ家に帰らなければ⋮⋮。 直感がこの場から立ち去れと告げていた。 これほどの異常を目の前にすれば授業を含め今はすべてがどうで もいいことに思えた。机に広がるペンケースなどをそのままに、上 8 着と鞄だけ手にして席をたつ。そして急ぎ足で出口に向かおうとし たが、数歩踏み出したところで体がものすごい勢いで傾いた。 ﹁あっ!﹂ 情けない声をあげバランスを崩し、机に手をつく。鞄を引っ張ら れたということはすぐにわかった。体勢を整えまた歩き出そうと顔 をあげた私と、そこに座る男子学生の目があった。私の前の席でさ っきまで寝ていたはずの彼の目は、あの女子生徒と同じく白く濁っ ていた。 ﹁いやああぁぁぁっ!!﹂ それが自分の声だとすぐにはわからなかった。理性より恐怖が先 立ち、私は鞄を手放すと全速力で駆け出した。 やばい、やばい、やばい!! 既に何人かが飛び出した後の閉まりかけた扉に手をかけたその時、 背後で悲鳴が上がった。第一声を皮切りに、続々と悲鳴があがる。 振り返ると、一体何が起きているのか︱︱教室のあちこちで学生 同士が取っ組み合いになっていた。本能に突き動かされるように大 口を開け、相手に噛みつこうとしている生徒と、それに抵抗する生 徒だ。 私のすぐ側には茶髪の女子学生を必死に押さえつけている男子学 生がいた。 9 ﹁あ、あぁ⋮⋮や、やめろっ、やめろっ⋮⋮﹂ 馬乗りになって襲いかかる女子学生の手首を掴む男子学生の腕は 震えている。女の子なのにすごい力だ。大丈夫だろうと思っていた が、危ないかもしれない。 怖い気持ちを抑え、助けにいこうと数歩近づいた時、女子学生が 大きく前へのりだし、男子学生の頬へ噛みついた。 ﹁ひぎゃああぁぁっ!﹂ 悲痛な叫び声をあげ、男子学生の力が抜けた。追い討ちをかける ように首へと食らいつく。 鮮血が、お気に入りの青いワンピースの右肩部分を真っ赤に染め 上げる。鉄の臭いが鼻をつく。男子学生に目を移すと、首もとをえ ぐられ泡を吹いて気絶した彼に、新たに数人が近付いていた。 駄目だ、私も殺される⋮⋮! 私は教室を飛び出した。 教室から廊下に飛び出してどちらへ行くべきか悩み、下へ続く階 段のある右を選ぶまでの数秒間。私の目に、さっきまでいた教室の 様子が写った。 白い机に、壁に、血、血、血。最後に見たのは、年老いた教授の 恐怖に歪んだ顔。さっきまで自分の授業を受けていた生徒に捕えら れて、今にも襲われようとしていた。 10 ﹁一体、何が、起きてるの⋮⋮?﹂ 無意識的につぶやいたその声は、自分のものではないような気が した。すぐに我に返り、私は階段の方向に走り出した。 11 第二話 出会い 外に出るにはエレベーターという選択肢もあったが、階段と逆方 向の廊下の突き当たりにあるため、待っている間にあの人達に追い 詰められてしまう危険性があった。普段便利なものは緊急時となる と途端に頼りなくなってしまう。 階段は既に人でごった返していた。さっきの教室から私より先に 逃げ出してきていた学生の他に、隣の教室からも続々と人が出てく る。中には衣服が破れ腕や足が露出し、生々しい傷口を覗かせる人 もいる。あのおかしくなった人達にやられたに違いない。だとした ら、隣の教室でも同じようにおそろしいことが起きているというこ とになる。一歩引いて様子を見ていた私は、見る見るうちに長くな る階段への列に入り込むこともできず、行く手を完全に遮られてし まった。 ﹁おいっどけよ!﹂ ﹁早く! 早く行って!﹂ 悲鳴と怒声が絶え間なく飛び交い、鼓膜がビリビリと震えるのを 感じる。このパニックを起こした状況を見ていると、もう終わりな んじゃないだろうか、と早くも不吉な予感が頭に浮かぶ。 振り返るとやはり、いた。人々の間からわずかに見えるあの 背後で呻き声が聞こえ背筋が凍りついた。あの人達が出てきたん だ! 人たちは、目は白く濁り、赤黒いモノで汚れた口をだらしなく開け、 服を返り血で真っ赤に染めていた。早く外に逃げなくちゃ⋮⋮。人 に囲まれ動けない状況の中、緊張は極限に達していた。 12 下へ続く階段は使えない。あの人達が追い付いてきたのを知った 学生たちは、悲鳴をあげ、我先にと押し合いながら階段を下ってい る。あれではドミノ倒しになるのは時間の問題だ。彼らはすぐそこ まで迫ってきている。足を引き摺るようにして、ゆっくり、ゆっく り。 考えている時間はなかった。どうにか開けている唯一の道︱︱上 り階段に足をかけたその時、下の方で悲鳴があがった。 階下にもあの人達がいるのだろうか⋮⋮! 絶望的な気持ちにな りながらも思わず下り階段の方を覗く。学生が学生を襲っていて︱ ︱それは信じられないことに人混みの中心で起きている。というこ とは、逃げる学生の列の中にあの人達が混じっていたことになる。 そんなことがあり得るのか⋮⋮? 混乱しながらもあたりを見渡し ていると、襲っている学生の首筋につけられたばかりであろう深い 傷が見えた。 引き返そうとする学生を、教室から出てきたあの人達︱︱いや、 もう普通の人と考えていいのかわからない︱︱あの狂人たちが待ち 構えていた。焦りと恐怖とで痛いほど体内で鼓動する心臓の音を感 じながら、私は地獄の光景を背に階段をかけあがった。 先程の大教室があったのは三階だった。ここ五号館は七階建てで 高いかわりに、各階の部屋数が二、三しかない縦長の建物だ。そし てちょうど中央の階である四階は、隣接する六号館へと続く渡り廊 下がある。私はそこから脱出しようとしていた。 何十もの絶叫が私の足元から体の芯まで突き抜ける。震えのあま り力が入らない身体に鞭打ち、やっとの思いで階段を上りきり四階 に着いた。 13 四階は学生専用のPCルームがあるだけで、授業を受ける教室は ない。そして今日は授業の少ない土曜日だけあって利用者もあまり いないようだ。廊下にいる人といえば、私と同じように三階から上 がってきた人達で、一目散に渡り廊下を走り抜けていった。 鳴り止まぬ悲鳴に突き動かされるように、私も渡り廊下へと向か う。緊張と日頃の運動不足で足がガタガタと震え、思うように動か ない。 ﹁⋮⋮君?﹂ ﹁ひゃああーっ!﹂ 逃げなきゃ! 振り切って走り出そう 腕に触れる背後から伸びてきた手に、私はまたしても情けない悲 鳴を上げた。逃げなきゃ! とするが、その手は離れない。 ﹁落ち着いて。さっきからみんな尋常じゃない様子で階段を駆け上 がってくるが⋮⋮どうかしたのか?﹂ はっとして顔を声のする方に向ける。私の腕を掴んでいたのは、 見知らぬ男子学生だった。背が高く、小柄な私を険しい顔で見下ろ している。この人はおかしくなってないようだ。 ﹁⋮⋮! 肩をどうした? すごい出血だ!﹂ 彼は真っ赤に染まった私の肩を見て、驚いた声をあげた。とりあ えず簡単な応急処置を、と手にした鞄から何やら探し始めた彼に私 は焦って弁解した。 14 ﹁あ、いや、これは大丈夫です。それよりもっ! 早く、早く逃げ なきゃ!﹂ ﹁逃げる⋮⋮? そういえば下が騒がしいな⋮⋮一体何が起きてい るんだ﹂ 悠長に話してなどいられなかった。いつあの狂人たちがここに来 るかわからない。それにいつの間にやら階下から上ってくる人も少 なくなり、聞こえる悲鳴も弱々しく途切れ途切れになっている。と ても人間のものとは思えない、獣染みた甲高い声だった。 事態の異常さを感じ取ったらしい︱︱彼は眉をひそめ意識を集中 させて階下の様子を探っている。 ﹁⋮⋮少し見てくる。君は先に行っていてもいいよ﹂ ﹁だ、だめっ、絶対に危ないから! 逃げよう!﹂ 実際に見なければ信じがたい現実だが、彼を行かせるわけにはい かない。名前も知らない人だが、このような状況下で普通に話せる 存在がいるのはありがたい。いなくなってほしくなかった。 もう誰も階段から上がってこない。あんなにたくさんいた人が全 員下り階段から逃げられたとは思えなかった。逃げそびれた人がど うなったか⋮⋮すっかり静かになった階下のことは考えたくなかっ た。 アァ⋮⋮ァアアァ⋮⋮ 微かだが聞こえてくる地の底から轟くような呻き声。あの狂人た ちに違いない。そのうちこちらに近付いてくるだろう。 15 ﹁⋮⋮確かに、逃げた方がいいかもしれない﹂ 迫り来る危険を理解してくれたようだ。視線を向けてきた彼に、 私は頷き返した。 渡り廊下を二人で駆け抜ける。不気味なくらい静かな空間に足音 が響く。窓から地上の様子を確認すると、門を目指して走る学生が ちらほら見えた。そして、地面に倒れた誰かに群がる複数のあの姿 も。 ﹁嘘でしょ⋮⋮外にもいるなんて﹂ 立ち止まって思わず口走っていた。私より少し先を走っていた彼 も引き返してきて隣に並ぶ。硝子越しに地上の人々の様子を他人事 のように眺める︱︱あれは、人を⋮⋮。 ﹁何だあれは⋮⋮人が人を喰らってるのか⋮⋮?﹂ 隣で彼が呟いた。信じられないといった様子で、固唾を呑んで状 況を伺っている。そう、あれは人を食べている。噛みついて、肉を 食いちぎっているんだ。 外にもいるとわかった今、ここから出ても安全とは言えない。頑 丈な扉のついた部屋で救助が来るまで籠っていた方がいいかもしれ ない。 ﹁や、やばいよね? これ⋮⋮。どうしよう、外、出ないほうがい いかな⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮いや、ここは狭い建物だ⋮⋮逃げられる場所もそうない。外 の方が接近の危険は少ない上に行動範囲も広くなる。PCルームに 16 籠城するのも手だが引き返すのは得策じゃないな。幸いあの人食い らしき者どもはまだこの階に上がってきていないようだが⋮⋮。と りあえず六号館に急ごう。何人か向かったにも関わらず悲鳴が聞こ えないということは⋮⋮少なくとも今来た場所よりは安全だろう﹂ このような状況下でつらつらと現状を分析する彼に少し驚くもそ の説得力に同意せざるを得ず、私達は再び走り出した。今見た光景 からこの建物を出ても安全ではないことはわかっているが、この狭 い渡り廊下は危険だ。彼の言うとおりできるだけ逃げ道を多く確保 できる場所に行かなくてはいけない。 渡り廊下の反対側に着いた。六号館は比較的小さな教室がたくさ んある五階建ての校舎だ。今日はこの階で授業は行われていなかっ たらしく、人の気配を感じない。 ﹁挟み撃ちにあったらまずい⋮⋮階の安全を確認して可能な限り下 に降りよう。外に出れそうもない場合も考えて安全な部屋も確保し つつ⋮⋮だ。﹂ 彼は冷静だった。もと来た方向に注意を向ける横顔は頼もしい。 彼に出会うことなく一人だったらと思うとぞっとする。 私達は一部屋一部屋を注意深く確認しながら下の階を目指した。 17 第三話 遭遇 目と目で合図を交わしながら忍び足で教室を一つ一つ覗いていく。 音が聞こえない様子から予測はしていたが、幸い三階までの間に狂 った人間たちの姿は見えなかった。しかし安心したのも束の間、二 階へ下り長い廊下の直線上に来た時私達は絶句した。 ﹁⋮⋮っ!!﹂ 白い廊下を汚す赤黒い血溜まり。生々しいそれは、つい先ほどま でここで殺戮が行われていたことを証明していた。強烈な生臭さが 鼻をつく。 ﹁うぷっ⋮⋮!﹂ 血の海に浮かぶピンクの肉片や、蛍光灯の光を反射してテカテカ 光る臓物が見えた。魚の内臓を見ただけでも気持ち悪くなるのに、 まさか人間のこんなものを見せられてはとても堪えられない。 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い⋮⋮。俯いて口に手をあて、 未だ込み上げる吐き気を抑える。足元の白い廊下が涙で霞む。 ﹁あまり視界に入れない方がいい﹂ 彼が背中を擦ってくれた。しばらくそうしてもらったおかげで吐 き気も少しおさまったようだ。 ﹁ありがとう⋮⋮﹂ 18 私は彼に礼を言うと、目の前の異常な光景から逃れるため、もと 来た階段の方を向いた。あんなにぐちゃぐちゃになっているんだ。 あれらの持ち主が無事な訳がない。 ﹁こんなの、普通じゃないよね⋮⋮﹂ ﹁そうだな⋮⋮俺たちが知っている殺人事件や、戦争とは違う。人 間性、理性というものがまるで感じられない⋮⋮そっくり抜け落ち てしまっているようだ。まるで、獣⋮⋮だな﹂ あまり動じた素振りを見せずに淡々と見解を述べる彼だが、その 表情は重く、内心かなり動揺しているようだった。 ふつう人を殺す時は︱︱憎むべき相手にしろ国家の敵にしろ︱︱ その人間の存在を消すことが目標であり、人を殺すという意思を持 ち、様々な感情が付きまとう。しかしあの狂った者たちにはそれが 感じられない。その人を殺すことに対して何の心の動きもないのだ。 電車に乗り遅れまいと急いで走り、その途中の道で蹴り飛ばした小 石程度の感覚。その人が生きようが死のうが考えも及ばない。どう でもいいのだ、ただ血と肉にありつければ。 私が落ち着いたのを確認すると、彼はより緊張した面持ちで私の 耳元で囁いた。 ﹁聞こえるか? 階段の下だ﹂ 耳をすますと、下り階段の方から不気味な呻き声が聞こえる。 ァアァー⋮⋮ゥアアァー⋮⋮ 喉の奥から絞り出すような、低い声。狂人たちに違いない。階段 19 を下りたすぐ近くにいるようだ。 ﹁この階段は使えない⋮⋮ね﹂ ﹁ああ。あっちのを使う必要があるな﹂ 彼は血塗られた廊下の奥、こちらと反対側の突き当たりを指差す。 この建物は長い廊下の両端にそれぞれ一つずつ階段がある。この階 を無視して手前の階段から下に降りたかったが、危険なのならばや むを得ない。ここまでと同じようにこの廊下を端から端まで安全を 確認しながら歩かなければならない。 ﹁⋮⋮大丈夫か?﹂ 複雑な顔をしているであろう私を気遣って彼が声をかけてくれた。 ここで躊躇して迷惑をかけるわけにはいかない︱︱いつ追い詰めら れて食い殺されるかわからない危険な状況なのだから。私は無理矢 理口角を上げて頷いた。 ﹁奴らはまだこの階に潜んでいる可能性が高い。注意して進もう﹂ そう言うと彼は手にしていた荷物を降ろした。状況が状況なので 今まで気付かなかったが、彼は鞄の他にも渋いえんじ色の大きな袋 と、同色の布で包まれた私の足元から肩ほどまでの長さの棒状のも のを持っていた。 ﹁竹刀?﹂ ﹁ああ。剣道部なんだ。今日も午前中は練習だった。殺傷力は低い が、丸腰よりはましだな。いざとなれば相手の動きを封じるくらい はできるだろう﹂ 20 袋の紐を解き、彼が竹刀を構える。シャツから覗く逞しい腕と全 身から放たれるその気迫が、彼の剣道の実力を物語っており、心強 く感じた。 竹刀を持った彼を先頭に、血溜まりを避けながら廊下を進む。あ まり直視しないよう視界の隅に入るようにしていたが、やはり気分 が悪い。彼は両手が竹刀で塞がっているので私が持つことになった 彼の荷物は結構重く、気持ち悪さも相まって少しふらふらする。 見なくてもいいと言ってくれていたが気になって、彼が安全を確 認した教室を恐る恐る覗くと、授業中に惨事が起きたようだ︱︱ノ ートや筆記用具など持ち物がそのまま残っており、血にまみれて床 に散乱していた。 次いで幾つか教室の中を確認したが、狂人たちの姿はなかった。 逃げる人々を追って一階へ行ってしまったのだろうか。 あと少しで階段にたどり着く、という時。もうこの階にはいない のだろうと少し安心していた私の耳が、聞きなれない物音をとらえ た。 クチャ⋮⋮クチャ⋮⋮ 静かに響く湿った音。断続的に聞こえてくる。階段の向かいにあ る端の教室からのようだ。嫌な予感がする。 ﹁ねえ⋮⋮聞こえる?﹂ ﹁ああ。おそらく、奴らだろうな﹂ 彼の竹刀を握る手に力が入ったのがわかった。⋮⋮どうする? 21 気付かれなければそのまま素通りしたいところだが、一階がもっと 危険で引き返さなければいけなかったらのことを考えると、挟み撃 ちになるのだけは避けたい。今のうちに危険は排除しておきたいと ころだが、﹁排除﹂の行動内容が曖昧なまま部屋のすぐ側にまでき てしまった。 私達は音をたてないようにドアに近付き、そっとその教室の中の 様子を伺った。 私たちの正面に、狂った人間がいた。心臓がドキンと一際大きく 鼓動し、その衝撃で短く悲鳴をあげそうになったが、堪えた。元々 ホラーが好きだったのである程度耐性があると思っていた。しかし 廊下の時点で気付かされたが、実際目にするのとは違う。 狂人は、人を食べている最中だった。目の前にある肉の塊を、犬 のように這いつくばり顔を近づけてむしゃむしゃと頬張り咀嚼して いる。それが人だということは、何も状況を知らずに今この光景を 見た人にはわからないだろう。何故なら、それはもはや原型をとど めていなかったからだ。白い骨にこびりついた僅かな肉を、あれは 貪っていた。 ﹁うぐっ⋮⋮﹂ じっと観察していると戻しそうになって慌てて口をおさえる。こ ちらの存在がバレやしないかと背筋が凍る思いだったが、狂人はこ ちらを気にも留めず食事を続けている。 音をたてなくとも、私たちの姿は視界に入っているはずなのに。 何故? 22 その時。教室の開け放たれた窓から風が入り込んだ。机の上に放 置してあった空き缶が転がり落ちる。 カラン⋮⋮カッカラカラカラ⋮ 乾いた音をたてて私の足元へ転がってきた空き缶を見つめ、視線 をまた正面に戻す。 狂人が、ゆっくりと顔をあげた。少々長めの茶髪でラフな格好を した男子学生だった。新鮮な血でぐっしょり濡れた半開きの口から 赤黒く染まった歯が覗く。白く濁った瞳はピクピクと動き、焦点が 定まらない。 ﹁下がって、廊下の様子を見ていてくれ﹂ 彼が正面を見据えたまま私に言う。本当に大丈夫なのだろうか。 あれの力は⋮⋮強い。言われるがまま二三歩下がったが、気が気じ ゃない。 そう考えている間に狂った男子学生が緩慢な動作でのっそりと立 ち上がった。 ゥアアァァ⋮⋮ こちらに手を伸ばし、前のめりの体勢になりながら、不安定な足 取りでふらふらと彼の方に近付いてくる! 23 第四話 戦闘 ふらふらと不安定な足取りで近付いてくる気が狂った男子学生を、 彼はじっと凝視していた。手が彼の身体に触れるまであと二メート ルちょっと︱︱男子学生が大きく一歩を踏み出した時、彼が動いた。 鋭い、大きな音が教室中に響き渡る。目にも止まらぬ早さで、彼の 竹刀が男子学生の伸ばしてきた腕に強烈な一打を放ったのだ。後ろ から見ていてもすごい迫力だった。 衝撃で数歩下がった男子学生の腕は変なところで折れ曲がり、彼 に掴みかかろうとしてもビクンビクンと震えるだけだった。打撲ど ころか、もろに打撃を受けたところは骨が折れてしまっているよう に見える。しかし、男子学生は表情一つ崩さず何事もなかったかの ように前進を再開した。 ゥウゥアァァァ⋮⋮ 男子学生の姿をした化け物はくぐもったおぞましい声をあげなが ら、もう一方の手を伸ばしてくる。すさまじい獲物への執念だ。 ﹁ーーーっっ!﹂ 彼はまだこの階に潜んでいるかもしれない脅威を意識してか意図 的に掛け声を押し殺しているようだった。しかし威力は変わらず凄 まじい。大きく竹刀を振り上げ、化け物の額に一撃をお見舞いした。 長机や椅子にぶつかりながら、化け物が激しく転倒する。受け身 をとらなかった上に足や腕が変な位置にあったため、嫌な音をたて おかしな体勢で背面から倒れこんだ。最後には頭も強く打ち付けた 24 ようだ。 普通の人間なら痛みでのたうち回るところだ。しかし化け物は動 かない手足をピクピクと痙攣させ、やがて無理だと悟ったのかうつ 伏せになりそのまま地面を這って近付いてきた。 ﹁こいつ、化け物か⋮⋮?﹂ 彼が低い声で呟く。私も言われた通り周りに気を張り巡らせなが らも、その光景から目を離せずにいた。目の前のそれは人の姿をと どめてはいるが、もはや人間性は全く感じられなかった。そうだ、 あれは化け物なのだ。人を生きながらにして喰らうなんて⋮⋮まる で映画に出てくるゾンビじゃないか。 ﹁むこうを向いていてくれ﹂ 彼が竹刀を構え体は化け物の方へ向けたまま背後の私に言った。 そうしている間にも化け物は片足で床を蹴って少しずつ少しずつ近 付いてくる。首をもたげ口を大きく開き、目の前の彼に噛みつこう ともがいているのがわかった。 ⋮⋮これは、人間ではない。人間の姿をしているだけで、中の人 間は死んでしまっている。彼が今からしようとしていることを何と なく察して、私は無言で後ろを向いた。 間もなく何か固いものが崩れるような重い音が教室に響き、呻き 声が途絶えた。 しばらく沈黙が続いた。背中の向こうに意識を集中させるが誰も 動いている気配がしない。おそらく一人はもう二度と動くことはな 25 いだろうが⋮⋮。彼に何か声をかけるべきかと思い口を開きかける が、よい言葉が浮かばない。ただじっと彼が動くのを待つ他なかっ た。 ﹁⋮⋮行こう﹂ 手が肩にポンと置かれ、反射的にビクンと震える。見上げると、 どこか苦しげな表情の彼がいた。私と目があうと強張った顔で少し 微笑んでみせた。 廊下に出るよう促す彼の背中越しに動かなくなった男子学生が見 えた。首が奇妙な方向に曲がっている。ほっとした反面、いたたま れない気持ちになる。急に化け物がやはり一人の人間だったように 思えてきた。 ﹁首の骨を折った。⋮⋮そうするしかなかった﹂ 少し俯いて小さな声でそう言う彼の竹刀を持つ腕は僅かに震えて いた。気がおかしくなったといえども、あれは元々人間だったはず なのだ。非常時とはいえ人を殺してしまったという自責の念に駆ら れているのだろうか。今度こそ何か言わなくては、と思った。 ﹁⋮⋮ありがとう﹂ 彼が伏せた目を見開く。我ながら急に変なことを言い出したなと 思ったが、止めるわけにはいかない。焦る気持ちで続ける。 ﹁ああしなきゃ、私達もやられてた。⋮⋮正当防衛だよ! それに ⋮⋮﹂ 26 私は彼の背後、息絶えた化け物の側に転がる無惨に食い漁られた 人の残骸を見つめた。彼も首だけ動かして同じ方向を見る。 ﹁あれは⋮⋮化け物だった。普通の人間が、あんなことするわけな いよ。絶対そんなことあるわけない﹂ ﹁化け物⋮⋮か。それなら殺人の罪には問われないかもな﹂ ﹁殺人だったとしてもあっちだって人殺しだよ! それにあの様子 じゃ社会復帰も無理そうだし⋮⋮大丈夫だって﹂ 彼を元気付けるために根拠も何もないことを言う。気付けば私も 小刻みに震えていた。緊張の糸が切れたのか。しかしすぐに冷静さ を取り戻した。まだ、終わっていない。早くここから出て家に帰ろ う。もし万が一化け物だらけで出られなくてもこんな非常事態だ︱ ︱大ニュースになって救助がすぐに来るはず。それまで生き延びな ければいけない、必ず。 ﹁ありがとう。人殺しかどうかは⋮⋮考えないようにする。今は脱 出することが先決だからな﹂ 私の言葉には説得力も何もなかったが、彼の表情はさっきよりも 幾分か緩んだように見えた。 廊下に出てもう一度二階が安全になったことを確認し、ついに一 階へ降りることに決めた︱︱が、一階へ続く下り階段を前に私達は 立ち尽くしていた。 ⋮⋮ゥウ⋮⋮アァアァ 27 微かだが、声が聞こえる。おそらく階段のすぐ近くにあの化け物 たちがいる。それも二、三体。 ﹁こっちにもいるなんて⋮⋮。ど、どうする?﹂ ﹁行こう﹂ まさかの即答に私は目を剥いた。 ﹁え、本当に行くの?!﹂ ﹁⋮⋮ああ。少し奴らのことで試してみたいことがある。危なかっ たらまたここまで戻ってこよう﹂ 彼が考えるには、あの化け物たちは極端に視力が悪く、ものがぼ んやりとしか見えず、主に音を頼りに行動していると言う。そして 動きは鈍い。確かに思い当たる節はある。しかし彼が信じられない 訳ではないが、憶測を過信してよいものか。⋮⋮でも他に道のない 今、彼の言う通りにするのが一番だ。行くしかない。 ﹁どうだ、行けそうか?﹂ 彼が尋ねる。私は決心がつかず数秒口ごもったが、はっきりと返 事した。 ﹁うん、行こう。行くしかないよね﹂ 彼は力強く頷き、階段の方に歩き出した。 ﹁⋮⋮ねえっ﹂ 私は彼を呼び止めた。さっきからずっと聞こうと思っていたこと 28 があったのだ。こんな時に能天気な奴だと思われかねないが、聞い てしまえ。 ﹁私、伊東皐月っていうんだけど⋮⋮あなたは?﹂ 彼は一瞬ぽかんとしたが、すっと目元を細め優しげな笑顔で答え た。 さえきよしたか ﹁俺は佐伯義崇。よろしく、伊東さん﹂ ︵あっ︶ 心の中で思わずつぶやいた。頭をよぎったのは、いつもは母から ﹁こんなの届いてたよ﹂と渡されても読みもしない大学の広報誌。 それを最近何気なく読んだことがあった。そこにあったのは剣道で 優秀な成績をおさめた在学生の写真。袴を着た凛々しいその男子学 生の姿に目を奪われたのだ。同じ大学ならばったり会わないかなと も思ったことがあったが、まさかこんな時に合うとは。しかし感動 している場合ではない。 佐伯君︱︱か。よし、絶対に二人で生きてここから出るんだ。 心の中でそう決意し、私達は下り階段の一歩を踏み出した。 29 第五話 脱出 一歩。また一歩。音をたてないように慎重に階段を下りる。緊張 で大粒の汗がこめかみから頬を伝う。そしてようやく到達した階段 の曲がり角からそっと一階の様子を覗く。 ⋮⋮いた。階段を降りてすぐの廊下。化け物たちがゆらゆらと揺 れている。こちらに背を向けているので顔は見えなかったが、十中 八九その顔は血で汚れているだろう。鼻につく濃厚な鉄の臭い、何 かを引き摺ったかのような血のあと。少し前にここで何が起きてい たか容易に想像できる。 佐伯くんは私に待っているよう手振りで伝えると、後ろを向いた 化け物の正面に位置するこの階段をゆっくりと下り始めた。あと二 段で一階の廊下に足がつく。化け物たちが彼に気付かないよう、私 は心の中で何度も祈りのことばを呟いた。 佐伯くんが一階の廊下に一歩を踏み出した。化け物たちは依然と してぼーっとあらぬ方向を眺めている。その時気付いた。彼は竹刀 を持つ右手と別に、左手に何かを持っている。⋮⋮さっき狂った男 子学生に遭遇した時に転がってきた空き缶だ。 廊下に出た彼は化け物のすぐ近くにいるにも関わらず、冷静に左 右にのびる廊下の様子を確認していた。そして、意を決したように 空き缶を左の方向に、投げた。 カーーン⋮⋮ッカラカラカラッ⋮⋮ 軽やかな音が静かな廊下に響いた。佐伯くんが思い切り投げた空 30 き缶は階段にいる私の視界から消え、左にのびる廊下のずっと奥の 方で落ちたようだ。 ⋮⋮ウアァァァ 化け物たちが音のした方を向き、視界の隅に入っているであろう 彼には目もくれず、ずるずると足を引き摺るように歩きだした。や がて化け物たちの姿が消え、佐伯くんは空き缶を投げてからずっと 構えていた竹刀を下ろす。 ﹁伊東さん﹂ 佐伯くんが小声で手招きをする。私は大きな音を出さないようそ っと階段を下り、廊下の直線上に立った。 彼が空き缶を投げた左側を見ると、十メートル以上離れたところ、 空き缶が丁度落ちた地点にあれがいた。その数はざっと数えて十以 上。 ﹁こっちだ﹂ 佐伯くんが耳元で囁く。彼の指差す右側の廊下の先には、外に通 しかし油断などできない。閉じた環境 じる開け放たれた扉が見えた。私は走りたい気持ちを抑え、忍び足 で扉へ歩き出した。 やっとここから出れる! から出ることはできたが、あれは外にもいるのだ。とはいえ、今頃 警察が到着してあれを取り締まっている⋮⋮はずだ。 ⋮⋮早くお母さんに会いたい。誠はもう学校から帰ってきてるか 31 な? 私は一見適当でサバサバしているけど本当は心配性な母親と、ち ょっとひねくれてて生意気な弟の姿を思い浮かべた。帰ったらきっ とお母さんの胸で年甲斐もなく泣いてしまうだろう。誠のやつ、だ せぇって笑うだろうな。そしたらこの右肩の血を見せつけてやる。 誠の怯えた顔を想像したら自然と笑みがこぼれた。こんな状況な のに、人が死んでいるのに、私は変かもしれない。やはり今起きて いる非日常をどこか信じきれてないのだと思う。 そうこう考えているうちに無事扉の前に着いた。後ろを振り返る と、化け物たちは階段のずっと向こう、空き缶の周囲で右往左往し ていた。知能が低いのならば生きて帰れる可能性がぐっと広がる。 希望が見えてきた。 ﹁さあ、出よう﹂ かけられた声にはっとして扉に向き直り、私は佐伯くんの後に続 き扉をくぐった。 * 外はやけに静かだった。学生一人いない。授業の少ない土曜日で はあるが、いつもそれなりに人がいる。この短時間で皆この大学の 外に逃げ出したのか。食べられてしまったとは考えたくない。辺り を見渡し何気なく視線をすぐ横に向けると︱︱ ﹁いやあぁぁっ!﹂ 32 さっきまでいた六号館の校舎の壁にもたれかかるように、それは あった。髪を明るい茶色に染めた女の子。 濃いアイラインで縁取られた両の目を大きく見開き、口は苦痛に 歪んでいる。ピンクのチークを施していたであろう頬はかじりとら れ、生々しい傷となり今も血を流し続けていた。 衝撃的なのは、彼女の身体が⋮⋮首から下が、ないこと。いや、 あるにはあるのだが肉という肉が食いつくされ、露出した肋骨の間 には内臓は一つも残っていなかった。無残にも骨だけになった彼女 は壁に背を預け静かに座っていた。 ﹁あ⋮⋮ああ⋮⋮﹂ 私は彼女を知っていた。あの教室でいつも一緒に授業を受けてい たのだ。友達、というほど親しくなかったが、あれは1ヶ月程前の、 5月に入ってすぐだったか。 * いつものように開始ギリギリで席に着き、慌ただしく筆記具など の用意をしていた時。 ︵ないっ⋮⋮︶ ファイルに挟んでいたはずの先週貰ったプリントが見つからなか った。今回の授業で必要だから持ってくるよう言われていたのに。 33 ︵なんで、絶対入れたのに︶ 諦めきれずにファイルの中の書類を一枚一枚確認する。八割見終 わったところでもまだ見つからない。残り二割を紙と紙の間を覗き こみながら確認している時。 バサバサバサーッ 本当にそんな音がしたのだ。ファイルから製造業者が想定してい た容量をはるかに越えているであろう、大量のプリント類がなだれ 落ちた。 クスクスクス⋮⋮ 笑い声が聞こえ、顔がかーっと熱くなる。高校のクラスならまだ いい。しかし学年ごちゃ混ぜ、見知らぬ人ばかりの大学の授業では 恥ずかしい以外の何でもなかった。 整理しておけばよかった。激しく後悔しつつ書類をかき集める。 図々しくも隣に座る人の足元まで私のプリント達は勢力を広げてい た。 ﹁あっ⋮⋮すみませんっ﹂ 謝罪しながら隣に座る誰かの顔を見上げると︱︱派手な赤いハイ ヒールの靴から想像はしていたが︱︱今風のお化粧バッチリのお姉 さんが座っていらっしゃった。私を見下ろす目が⋮⋮怖い。位置関 係的に仕方がないのだが。 すると、彼女はふと目を細め、優しい笑顔をつくった。 34 ﹁いいよ、こっち私がやるから﹂ ﹁えっ⋮⋮あっ﹂ 彼女は手際よく書類を拾い上げ、あっという間に丁寧に揃えて私 に差し出した。 ﹁あ、ありがとうございます!﹂ ﹁プリント忘れたんでしょ? 見なよ﹂ さらに彼女は探していたプリントを私との間に置いて見るよう言 ってくれたのだ。︵余談だが、あのプリントは弟がメモ用紙に使っ ていた。無論、後に叩きのめした︶ * 彼女と話したのはその時が最初で⋮⋮最後だった。ただあの教室 内でも大学内で偶然すれ違った時でも、目が合うと彼女は必ずニッ と笑いかけてくれた。 周りからしたら小さなことかもしれないが、あの時から私は心の 中で彼女のことを︱︱同い年、あるいは年下の可能性もあったが︱ ︱﹁お姉さま﹂と呼び、こっそり慕っていた。大人びた彼女が時に 見せる子供っぽい笑顔が、好きだった。 ﹁⋮⋮伊東さん! 伊東さん﹂ 肩を激しく揺られ、我に返った。佐伯くんが必死の形相で私の顔 35 を覗きこんでいる。私の頬を熱いモノがボロボロ流れ落ちていた。 ﹁今ので中の奴らが気付いたみたいだ! 周りのも集まってくるか もしれない。気を確かに持つんだ!﹂ ﹁⋮⋮ごめん、ちょっとだけ待って!﹂ 私の手を引き走り出そうとする彼を引き止め、無我夢中で地面に 転がる彼女のものらしき鞄を掴んだ。血で汚れていたが、手に付こ うとどうでもよかった。 ﹁ごめん、行こう﹂ 涙を拭き、彼の目を見て言う。今は感傷に浸っていられる時じゃ ない。もうこれ以上佐伯くんに迷惑をかけちゃ駄目だ⋮⋮。 私達はこの地獄から逃れるため、門に向けて走り出した。 36 第六話 予感 キャンパスの中央通りに出た頃には、私はパニック状態を脱しだ いぶ落ち着いてきていた。この通りをこのまま真っ直ぐ進めば正門 がある。しかしここから見る限り、私たちのいる位置から門の付近 にかけて誰もいないようだ。 ﹁なんだか、嫌な予感がする⋮⋮﹂ 思っていたことが自然と声に出てしまった。 ﹁あぁ⋮⋮何だ、この静けさは﹂ やはり佐伯くんも同じように感じているようだ。事態が収束に向 かっているのなら、武装した男たちが門の前にバリケードを作り、 救助に走り回っているはず。しかし、誰一人としてこの大学のメイ ン通りに姿が確認できないのだ。 ﹁とりあえず、行ってみようか﹂ 私達は歩き始めたが、胸中に膨れ上がる言い知れぬ不安に突き動 かされ、やがて走り出した。通りに点在する血溜まりや人の死体も 今は避けるだけで気にならない。 門が近付いてきた。それに従い、徐々に断片的な音が聞こえてく る。 ︱︱ぁぁぁーー! 37 誰かの叫び声? おそらく門の外、商店が建ち並ぶ大通りからだ。 そして、救急車やパトカーのサイレンの音。一つや二つじゃない。 幾つものサイレンが重なり、不協和音となってじんじんと耳にまと わりついてくる。まるで、戦争のようだ。 ﹁銃声が聞こえるぞ!﹂ 佐伯くんが興奮した様子で呟く。確かに、パンパンと乾いた音が 街の奥の方から聞こえる。私は息が切れ、足が軋むのを忘れて走り 続けた。だんだんと外の様子が鮮明になっていく。 門をくぐり商店が連なる大通りに出ると、そこには信じられない 光景が広がっていた。 横転した乗用車、立ち上る黒い煙。車が衝突したのだろうか、商 店の窓ガラスは粉々に割れ、周囲に飛散している。コンクリートの 地面に転がる鞄とその中身⋮⋮そして人間の残骸。車のフロントガ ラスにも建物の壁にも、どこもかしこもべっとりと血がついていた。 大学内だけだと思っていた︱︱いや、そう信じていたかった︱︱ 地獄が外の世界を侵食していた。 しばらく唖然と立ち尽くしていた。佐伯くんも同様だった。サイ レンの音や悲鳴が鳴り響く中、風が煙と一緒に地面に散らばる紙類 を巻き上げるのを夢の中の出来事のように眺める。 夢じゃない。これは、現実に起きている。この大学の学生を襲っ た化け物たちは、新たな獲物を求めて外に出て行ったのだ。︱︱で は、あれは今どこに? 疑問に思い、左右に広がる通りの奥の方に 目を向ける。 38 ﹁佐伯くん、あれ!﹂ 門から道路を挟んで向かいにある学生御用達の食堂のガラス戸が 血飛沫で真っ赤なのをぼんやりと見ていた佐伯くんは、私の言葉で 目を見開いた。 ﹁⋮⋮奴らか!!﹂ いつもなら車が活発に行き来している大通り上に、のそりのそり と片足を引き摺りながらこちらに近付いてくる化け物の姿が見えた。 通りの向こうにいくにつれ煙が濃くなりよく見えないが、目を凝ら すと煙の奥でいくつもの影が蠢いているのが確認できる。もう一方 も同じだ。囲まれている。 ﹁だ、大学に戻ろう!﹂ 咄嗟にそれが浮かんだ。このまま街に飛び出すより、構造をよく 把握している場所に逃げる方がいい。 ﹁そうだな⋮⋮部室だ。剣道部の部室なら人がいない。安全なはず だ。行こう﹂ さあ、と私を促し走り出す彼を追う。 剣道部や柔道部といった部活の活動する畳の大部屋や、トレーニ ング機器を備え、いくつかの部室が入った体育館がこのキャンパス の端にあった。バスケットボール部やバレーボール部などが活動す る体育館とは別にある、少々古い建物だ。とはいえ空調が壊れてい ることに加え鬱蒼と茂る木々に囲まれているため虫が多いことから、 39 利用する団体は少なく、大学の外の施設を使っているようだった。 確かにあそこには人はあまりいない。したがって生者を狙う者た ちも少ないはずだ。 生い茂る木々の間から体育館の緑の屋根が見えた。もうすぐだ。 精神も身体も限界に近かった。今はただ生死の危険から解放されゆ っくり休みたい。 ﹁⋮⋮止まって﹂ 急に佐伯くんが立ち止まり、私の進路を塞いだ。 ﹁ぎゃっ﹂ 可愛さの欠片もない短い叫び声をあげ、勢いよく彼に激突した。 一見細身だが鍛え上げられがっちりとしたとした彼の背中が私を身 体を受け止める。 ﹁どうしたの⋮⋮?﹂ よろよろと体勢をたて直しつつ小声で佐伯くんに尋ねる。しかし 彼は答えない。じっと何かに集中しているようだ。化け物の気配を 感じたのだろうか。そう聞こうと口を開きかけたとき、佐伯くんは 振り向いて立てた人差し指を口元にあて、静かにするよう私に伝え た。 ⋮⋮あぁっ⋮⋮あ、あっ⋮⋮助けてくれえぇー⋮⋮ 若い男の声がした。生存者だ! しかし、辺りを見渡してもそれ 40 らしき姿は確認できない。と、私達の少し先、校舎に囲まれた細い 道に、男子学生が飛び出してきた。 男子学生は後ろを何度も振り返り、疲労して重くなった下半身を 鞭打つように小走りで移動していたが、こちらの存在に気付いたよ うだ。 ﹁あっ生きてる⋮⋮! た、助けてっ助けてくれー!﹂ ﹁声を出しちゃいけない!﹂ 少し安堵した様子を見せた男子学生に佐伯くんが叫んだ。その時、 こちらへ走り寄ってくる彼の背後の建物の影から化け物が数体現れ た。生きている男子学生と比較してみてよくわかった。あれの肌は 死体のようにまっ白なのだ。白い肌にところどころある黒い損傷部 分がよく目立つ。 ﹁あーよかったぁぁ⋮⋮あああっ!?﹂ 私達のいる場所まであと数メートルのところで彼の足がもつれ、 前から派手に転倒した。急いで立ち上がろうとするが、足を挫いた ようだ︱︱バランスを崩して膝をついてしまった。化け物たちがも うすぐそこまで迫ってきている。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 佐伯くんが肩にかけた荷物を放り出し走り出す。そして竹刀を構 え、地面に伏せる彼に覆い被さろうとする化け物に鋭い突きを食ら わせた。化け物が仰け反り、後ろにいた一体を巻き添えにして後ろ 向きに倒れる。突きを受けた一体は咽喉部がやられたらしい。息が できずに身をよじらせてビクビクと震えている。 41 また他の二体が近付いてきていた。化け物たちは対象を佐伯くん に変えたようだ。半開きの口から不気味な呻き声を漏らしながら彼 ににじり寄ってくる。 佐伯くんはすぐにそのうちの一体に肩から胸にかけて強烈な一撃 をお見舞いしたが、先ほど巻き添えを食らって倒れていた化け物が 這いつくばって彼の足を掴み、もう一体への反応が遅れてしまった。 化け物たちが彼のすぐ近くに迫ってきていた。間合いを取ろうとす るが、足にまとわりつく化け物のせいでうまく動けないようだ。 佐伯くんの足下にせまる化け物をどうにかしなくては︱︱考える 間もなく私は駆け出していた。 42 第七話 休息 ﹁くそっ、寄るな!﹂ 佐伯くんは前方から迫り来る化け物の腹部を蹴りあげた。しかし、 足もとに気をとられているせいか威力は弱く、化け物はよろめいた だけでまた前進を再開した。さっき一撃を食らった化け物もゆっく り近付いてきている。 佐伯くんが殺されてしまう! ⋮⋮そんなの、絶対にいやだ! 無我夢中で恐怖を感じなかった。三体の化け物たちに襲われる佐 伯くんのすぐ側まで駆け寄ると、彼の足もとにまとわりつく化け物 の側頭部をサッカーボールのように勢いよく蹴りあげた。 ゴキッという嫌な音と感触。おそるおそる見下ろすと、化け物の 首は変な方向に折れ曲がり、彼の足首を掴んでいた手は力なく地面 に落ちた。 その瞬間を待っていたと言わんばかりに、佐伯くんの剣技が炸裂 する。十秒も経たないうちに彼の竹刀が二体の化け物の首をとらえ、 地面には計四体の屍が転がった。 終わった⋮⋮。私も彼も生きている。男子生徒も無事だ。無意識 に塞き止めていた息を思い出したように吐き出す。 ﹁⋮⋮助けてもらっちゃったな。ありがとう、伊東さん﹂ ﹁そんな、私だけ助けてもらってばかりは申し訳ないから⋮⋮﹂ 43 佐伯くんにじっと目を見つめて真剣に礼を言われる。なんだか気 恥ずかしく感じゴニョゴニョと弁解しながらぱっと顔を背けると、 屈んだ男子学生の後ろ姿が目に入った。 ﹁あっ、大丈夫ですか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 男子学生は何も答えず俯いている。あれだけ追いかけ回されてい たのだ、心身共に疲れきっているのだろう。少し休ませておいてあ げたいが、いつまた化け物が現れるかわからない。 ﹁えっと、結構大きな声出しちゃったんで、あれがまた来るかもし れないんですよね。近くに安全な場所があるので、一緒に⋮⋮﹂ ﹁近付いちゃだめだ!﹂ 男子学生の肩に手を伸ばそうとした私を佐伯くんが力強く引き寄 せたと同時だった。男子学生が勢いよく振り返り、飛びかかってき たのだ。 数秒前まで私がいた丁度その場所に男子学生が思い切り倒れこみ 砂煙がたった。どうしたのか? 何があったのだろうか? 茫然と 私は地面に伏せる男子学生を眺めた。 ﹁彼はもうだめだ! 行こう、伊東さん!﹂ 佐伯くんは投げ捨ててあった剣道用具はそのままに、鞄だけ拾い 上げて私の背を押した。私も慌てて血塗れの鞄を持ち直し、走り出 す。 ﹁なんで? なんで? あの人、さっきまで﹃助けて﹄って⋮⋮﹂ 44 ﹁わからない! ただ、彼は⋮⋮﹂ 彼は腕に噛まれた痕があった︱︱。 何が何だかわからない。ただあの男子学生はもうダメなことはわ かった。私と佐伯くんは後ろを振り返ることなく走り続けた。 * 大きな音をたてて勢いよく扉が閉められた。窓から射し込む夕日 の淡い光が薄暗い空間をぼんやり照らしている。 あれから私達は脇目もふらず目的の体育館まで走り続けた。予想 通り体育館の付近には誰もおらず、扉を開けて中に入っても人の気 配はなかった。一番安心したのは、今や大学内のどこにいても目に 飛び込んでくる死体や血が見られないことだ。ここだけいつもの時 間が流れている。そう感じた。 私は部屋に入った途端膝の力が抜け、よく磨かれツヤツヤ光る木 の床になだれ込むように倒れた。 ﹁大丈夫か!?﹂ 佐伯くんが驚いて私の身体を支える。背中に回された腕が温かく、 逞しく、心地よい。 ﹁平気、平気⋮⋮。だけどやっぱり、疲れちゃった。ごめんね、私 だけ甘えて⋮⋮﹂ 45 力の入らない声でそう言ってからふと気づく。︱︱そうだ。佐伯 くんと出会ってから今までの間、私が恐怖や不安を口にして感情を ぶつけてきたのに対し、彼は感情を抑制して冷静に状況に対応して いる。私は迷惑をかけてばかりだ。 ﹁佐伯くんがいなかったら、私今頃死んでただろうな⋮⋮﹂ 私は重たい身体を起こし、彼に向き合う。今初めて佐伯くんを見 た気がした。 男性にしてはほんの少し長めの真っ直ぐな黒髪に、切れ長で奥二 重の涼しげな目許。すっと通った鼻筋。唇は固く結ばれて意思の強 さを感じさせる。少し強面な表情からは、生真面目な性格が滲み出 ている。若い子達に人気な男性アイドルのような華やかさはないが、 日本人的で端正な顔立ちだ。 じーっと顔を見つめる私の視線が気になったのか、居心地悪そう に彼は目を逸らした。 ﹁俺も伊東さんと出会わなかったら死んでた。あの時俺、階段下り て様子見ようとしてたからな﹂ そう言うと佐伯くんは苦々しい表情を見せた。そして私に向き直 ると柔らかく微笑んだ。 ﹁どっちがどれだけ助けたとか考えるな。こんな非常事態だ、お互 い生き残るために自分に出来ることをするまでだ﹂ ︱︱いい人だ。佐伯くんの言い方はぶっきらぼうで時々突き放す 46 ような冷たい印象を与えるが、言葉自体はとても温かい。少し不器 用だが、誠実なこの人ならこの先何があっても信じられる気がする。 ﹁これからどうしようか⋮⋮﹂ 少し落ち着いてきたところで私は佐伯くんに尋ねる。彼は少し考 え、口を開いた。 ﹁⋮⋮日も落ちてきたし、今外に出るのは危険だ。すぐに救助が来 るかはわからないが、とりあえず朝まで待つべきだろうな﹂ 確かに、今無闇に動き回るのは危ない。私は彼の言葉に頷いた。 ﹁今するべきことは⋮⋮情報収集だな。一体何が起きているのか、 把握する必要がある﹂ 佐伯くんはそう言うと鞄の中から丈夫なケースに入ったノートパ ソコンを取り出した。持った時に随分と大きくて重い鞄だと思った が、そういうことだったのか。彼はそのままパソコンを起動させよ うと電源に指を伸ばしたが、直前で止めた。 ﹁⋮⋮その前に腹ごしらえをしようか﹂ 彼は鞄から保存のききそうな栄養食品を取り出した。救急セット を持ち運んでいたことといい、随分しっかりしているなあと素直に 感心する。四角いパッケージのそれを差し出されて、私は礼を言う とすぐに包装を破りかじりついた。恐怖で空腹を忘れていたのだ。 ﹁本当に非常食として食べる時が来るとはな﹂ 47 佐伯くんが呟いた。 この束の間の休息が過ぎ去った時、私達はどうなってしまうのだ ろう? 今から知る現実に対し希望を抱く反面、抑えがたい胸騒ぎ を感じた。 48 第八話 現実 私達はパソコンの画面の前で愕然とした。インターネットに接続 しトップページの最新ニュース一覧に並ぶのは衝撃的な見出しの数 々。 ﹁都内各地で大規模な暴動発生︱︱死傷者多数。人が人を食べる︱ ︱精神病の一種か? 首都圏全域及び日本国内各地で同現象確認⋮ ⋮アメリカ、中国、ヨーロッパなど世界各地で⋮⋮﹂ ﹁う、嘘⋮⋮世界中で同じことが起きてるっていうの?﹂ 佐伯くんが読み上げる記事には、にわかには信じがたい事実がこ れでもかという程書かれていた。︱︱世界中で同じような悲劇が。 日本全国どころかこの大学内のみでの事件だと思っていたのに。い や、このとんでもない異常事態にどこかそんな予測はしていた。受 け入れたくないあまりに自分を誤魔化していたのだ。だがいざ目の 前に真実として突き付けられると衝撃が大きすぎて思考が追い付か ない。 私がそうしている間にもネット上の記事を読みふけっていた佐伯 くんの動作が止まった。そして彼の目が私をまっすぐとらえる。 ﹁伊東さん、⋮⋮そういえばその腕はどうしたんだ?﹂ ﹁え? ⋮⋮あぁ、これはね、襲われてた男子学生の血が⋮⋮﹂ あの時の光景が脳内で再生される。痛みで顔をくしゃくしゃにし た男子学生。近くにいたのに助けられなかった。教授もだ。いつも 睡眠時間に充てていた授業だったが、私はあの年老いた教授が好き 49 だった。エレベーターで一緒になると﹁今日は暑いね﹂とか、こん な私にいつも話しかけてくれたのだ。 ﹁⋮⋮わかった、ありがとう。こうして無事でいるんだから杞憂だ ったな﹂ 私はよほど悲痛な顔をしていたのだろう。彼は申し訳なさそうに すると話を続けた。それにしてもなぜ彼は今突然そのことを聞いて きたのだろう。不思議に思っていると察してくれたようで彼が続け た。 ﹁あの化け物に噛まれるなどして、唾液などやつらの体液に含まれ る何らかが体内に入り脳に達すると、噛まれた人間もやつらと同じ ようになるそうだ。⋮⋮一度死んでからな﹂ ﹁死んで⋮⋮生き返る?﹂ とても冗談を言っている風ではない佐伯くんの言葉に耳を疑った。 そんな馬鹿な。それじゃああの化け物たちはまるで⋮⋮。 ﹁やつらは映画にちなんでゾンビと呼ばれているようだ。もっとも 人間としての心が死ぬだけで、単純な思考をするのに必要な脳の一 部と身体は死なない。むしろリミッターが外れて筋力は格段に強く なる。あと脳がほとんど機能してないから動きも緩慢。何故死人の ような肌をしているのかは不明だそうだが﹂ ⋮⋮ゾンビ! 本当に現実に現れるなんて誰が想像しただろう。 ゾンビが人を襲って内臓を引きずり出しぐちゃぐちゃにする映画だ って、心の底では存在しないとわかっていたから楽しめた。いつか テレビで放映されていたのを見たときは、まだ小さかった誠はすっ 50 かり怯えていたが。 ゾンビの生態について頷きながら聞きながらも心は上の空だ。何か 大事なことを忘れている気がして。 ふと思った。⋮⋮日本中で、起きている? 誠。お母さんは無事 なのだろうか? 急激に血の気が引いていくのを感じた。 私は上着のポケットから携帯電話を取り出した。弟が修学旅行の お土産で買ってくれた、鹿の全身をかたどった妙にリアルな木彫り のキーホルダーがついた携帯。震える手で着信履歴から家の番号を 探し出す。︱︱発信。 ⋮⋮トゥルルルル⋮⋮トゥルルルル 耳に膜を張ったようにコール音がこもって聞こえる。早く、早く。 コール音がいつまでも続くように感じたその時、プツッという音と ともに聞こえる音がクリアになった。 ﹃こちらはNTTです。ただいま回線が非常に込み合っております。 暫く経ってからおかけ直しください﹄ 冷たい無機質な女の人の声。相手が家族の時だけに聞かせる母親 の面倒くさそうだけれども温か味のある声とはかけ離れすぎていた。 電話は、つながらない。次にどうするべきかはもう考えるまでもな く決まっていた。 ﹁私、帰らなきゃ⋮⋮﹂ 51 居ても立ってもいられなかった。化け物たちが、ゾンビが二人を 襲うところを想像するだけで心臓が爆発しそうだ。ドアノブに手を かける私を佐伯くんが引き止める。 ﹁気持ちはわかる。でも今は動くべきじゃない﹂ ﹁だって! こうしてる間も弟が、お母さんが襲われてるかもしれ ないのに!﹂ 手を押し退けて無理矢理出ていこうとする私の肩を彼が強く掴み、 正面に向き合わされる。 ﹁痛っ⋮⋮﹂ ﹁冷静になれ。もうじきに夜になる。まっ暗闇の中家族の元に向か ったって無駄だ。一時間もしないうちにやつらの餌食だろう。それ に⋮⋮自分一人で行ったところで何ができる? 今家族のためにで きることは、安全な場所で生き延びていることを祈るだけじゃない のか?﹂ 頭をガンと強く打ちつけられたようだった。彼の言うことはわか っている。わかってるけど。無力感に苛まれ涙が込み上げる。と、 私の両肩を掴む彼の手が震えているのに気付いた。 ﹁⋮⋮すまない﹂ 佐伯くんがそっと手を離した。その顔にはなにか悪いことをして しまった後のような苦々しさが浮かんでいた。 ﹁とにかく、夜は危険だ。家族のもとへ行くにしても、今は出来る 52 限り情報を集めて明日の朝から行動しよう﹂ 落ち着きはあるが何かをこらえているかのような声で彼が言う。 佐伯くんだって家族がいるのだ︱︱一刻も早く帰りたいはずだ。し かし彼は理性を失わず、安全かつ少しでも確実な方法をとろうとし ている。それなのに私は⋮⋮ ﹁ごめっ⋮⋮ごめんなさい。また私、何も考えずに感情に任せて⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 佐伯くんは何も言わず、私の頭にぽんとその大きな手を置いた。 優しさが心に染みて、自然と頬を涙が伝う。それからしばらくの間 私も佐伯くんも何も喋ることなく、ゆっくりと時間だけ過ぎた。 どのくらい時間が経ったのだろう。壁に背を預け何も考えずにぼ んやりしていると、彼が話を切り出した。 ﹁伊東さんは、どこに住んでいるんだ?﹂ ﹁⋮⋮西東京市だよ﹂ ﹁そうか、結構遠いな⋮⋮﹂ ここではっとした。家まで家族に会いに行くのは難しい。公共の 交通機関が機能している可能性は限りなく低いからだ。途中で自転 車を拾ったり他に移動手段が見つからない限り、家まで歩いて向か わなければならない。それも一人で。目的地が一緒ならば佐伯くん と一緒に行動できるかもしれないが、そんな都合のいい展開は期待 53 できない。死の危険が蔓延している今、他人につきあう余裕など誰 にもないのだ。 家族の無事を一刻も早く確認したい。電話で連絡がとれなければ 直接家に行きたい。しかし、一人で行く自信はない。せっかく得た 心強い存在、佐伯くんと離れたくもない。ジレンマに陥っていた。 佐伯くんはこれからどうするつもりなのか。聞くのは怖いがおそ るおそる口を開いた。 ﹁⋮⋮あのっ﹂ ﹁しっ、静かに﹂ 驚いて口をつぐむ。何事かと耳を澄ますと、扉の向こうから廊下 を歩く足音がかすかに聞こえてくる。 ﹁⋮⋮! ゾンビ?﹂ ﹁いや、違うと思う。やつらはあんな俊敏な動きはできそうにない。 ⋮⋮まぁどちらにしても見逃すわけにはいかないな﹂ 佐伯くんは竹刀を手に取り扉に向かう。私も心配になり着いてい くことにした。 万が一ゾンビだった時のことを考え、音を立てないよう慎重に扉 を開く。そっと廊下に出ると、大きめのスポーツバッグを担いで出 口へ向かう男子学生の姿が目に入った。 ﹁待て!﹂ 佐伯くんが彼を呼び止める。リズミカルに歩いていた男子学生は 54 ピタッと動きを止め、ゆっくりと振り返った。逆立った色素の薄い 金髪に︱︱いや銀髪というのだろうか︱︱日に焼けた褐色の肌。シ ャツは胸元を大きくはだけ、シルバーのアクセサリーが鈍く光って いる。大抵日本人がすると無理のある格好だが、彫りの深い顔立ち のこの男にはよく似合っていた。 ︱︱生存者だ。全身にぴんと張りつめていた緊張が抜け、安堵感 を覚えた。生きているというだけで見ず知らずの人の存在がこれほ どまでに大きく感じるだなんて。 ﹁ん? 誰だあんたら﹂ 訝しげな顔をして彼が尋ねる。ギョロリとつり上がった目はどこ か危なっかしい光をたたえ、まるで獲物を狙う猛獣のようだ。 ﹁俺は佐伯義嵩、こっちは伊東皐月さん。見ての通りここの学生だ。 君も学生のようだが、ずっとここにいたのか?﹂ ﹁⋮⋮ああ。いたぜ、ずっと。地下の施設で日課のトレーニングし てたんだが、まぁ人気ないしな、ここ。他に利用者がいたのは予想 外だったか?﹂ いまだ警戒を緩めない佐伯くんに、彼は肩を竦めてニヤリと笑う と言葉を続けた。 すどうひでお ﹁おっと、自分は名乗ってなかったな。俺は須藤⋮⋮須藤英雄だ。 一応よろしく言っておこう。⋮⋮で、佐伯さんだっけ? あんたら はこんな人気のないオンボロ施設で何してたんだ?﹂ 意地悪そうな笑みを浮かべ軽い調子でペラペラ話すこの須藤と名 55 乗る男子学生は、どうやら外の様子を何も知らないようだ。地下に いたそうだから音が聞こえないのも不思議ではない。 ﹁⋮⋮悪いがまずは一通りこちらの質問に答えてもらいたい。ここ には今君の他に人はいないのか?﹂ ﹁おいおい、こっちの質問は無視かよ。⋮⋮まあいいけどよ。安心 しろ、あんたら以外に見てないぜ。おまけに変な音も声も聞こえち ゃいねぇよ。この部屋の防音設備にはこれからも頼っていいんじゃ ねぇか?﹂ この人は私達を見て何か勘違いをしているようだ︱︱彼の意地の 悪い物言いに頬がカーっと熱くなるのを感じた。何か反論しなくち ゃと佐伯くんの様子を伺うと、半ば呆れたように眉間に皺を寄せて いる。 ﹁君は本当に何も知らないようだな﹂ ﹁⋮⋮あ? 何を知らねぇって? あんたらがここで逢引きしてた ことぐらいは見りゃわかるが﹂ 本当に今外で何が起きているかわかっていないらしい。須藤くん は片眉を上げ、何が言いたいんだ? と言いたげな顔をしている。 ﹁来てくれ。今何が起きているか教えるから﹂ ﹁ったく何なんだよ。俺これからバイトだからお暇するぜ、じゃあ な﹂ 須藤くんは面倒くさそうなやつらにつかまっちまったと言わんば 56 かりにくるりと背を向けた。 ﹁だめだよ! 本当に危ないんだから!﹂ そのまま歩き出そうとする彼に、私は咄嗟に大声を張り上げてい た。黙りこくっていた女の方がいきなり大声を出したのに驚いたら しい、振り返ったその顔は大きく目を見開いていた。 ﹁あぁっ? 一体なんなんだ⋮⋮あんたら本当意味わかんねぇよ﹂ ﹁見ず知らずの俺たちにこう付きまとわれて迷惑だと思うが、少し 話を聞いてほしい。君自身に関わることだ﹂ ﹁はぁ⋮⋮じゃあ一分だけだぜ﹂ お手上げだ、と両手を力なく投げ出す。何も知らない須藤くんか らはまだ私たちがいた日常が感じられた。⋮⋮それももうすぐ失わ れることになるのだろうけれども。私達は怪訝な視線を向ける彼を とりあえずさっきの部屋に連れて行くことにした。 57 第九話 計画 ﹁⋮⋮なるほどな、話はわかった。だがよ、その、ゾンビだっけ? そんな荒唐無稽なホラ話、信じろってのが無理な話だ﹂ 須藤くんが現在起きている異常事態について説明している途中の 佐伯くんを遮って言った。胡散臭いものを見るような目で佐伯くん を見ている。どうやら全くと言っていいほど話を信じていないよう だ。 ﹁馬鹿げた話に思えるだろうが事実だ﹂ 生真面目な顔をして断言する佐伯くんを見て須藤くんはぽかんと していたが、すぐに冷笑を浮かべるとわざとらしく長い溜め息を漏 らした。そしておふざけに付き合っていられないと言わんばかりに 立ち上がろうとする。 ﹁ほ、本当なの! 外に出ちゃ⋮⋮﹂ 反射的に彼の服の袖を掴むと、鋭い目を向けられ言葉に詰まって しまった。怖い人だ。普段だったら見かけても極力関わらないよう にするタイプかもしれない。しかしそのまま振り切られるかと思っ たが、彼は体の向きをこちらに戻すと再び腰をおろした。 ﹁なら今すぐここで真実ってことを証明してみせてくれよ。できな いんなら帰るぞ﹂ ﹁ああ。どちみち話だけでは済まないとは思っていた﹂ 58 そう言うと佐伯くんはスタンバイ状態にしてあったパソコンを起 動させると、慣れた手つきで何やら検索し始めた。画面には大手動 画投稿サイトのトップページが表示された。迷うことなく注目の動 画一覧にある動画を適当に一つ選択する。 ﹁⋮⋮何だこれ﹂ それまで面倒くさそうに画面を見ていた彼の目の色が変わった。 そこには、まさに私達が今まで目にしてきた惨状が映し出されてい た。二階からズームで撮られたものらしい、道路であれが寄って集 って人を貪り食う様を撮影した動画だ。撮影者は狼狽した様子で緊 張した息遣いが聞こえてくる。動画はブレが激しく画質もよくはな かったが再生回数は投稿してから一日も経っていないにも関わらず 100万回を超えようとしていた。 ︱︱映画か何かの撮影ですか? ︱︱この世の終わりだ ︱︱何これ、ゾンビ!? 動画のコメント欄は驚き、疑い、絶望する人々で溢れかえってい る。 ﹁はは、よくできた映像だな。まぁ今ゾンビブームが起きてるって るのは理解した﹂ 次の証拠を促すような須藤くんの態度に、動画が終わると佐伯く んはパソコンを脇へ避けた。 ﹁スマートフォンを持っているか? ニュース番組を見てみるとい い﹂ 59 須藤くんは言われた通りスポーツバッグのポケットからスマート フォンを取り出し、ワンセグを起動させる。私も彼の背後からそっ と画面をのぞいた。私たちが普段信じきっているマスコミの報道が この非現実的なゾンビ騒ぎをどう扱っているのかが気になったのだ。 ﹁マジかよ⋮⋮﹂ 須藤くんが目を大きく見開き呟いた。異常事態を映し出す画面。 流れるように映し出される町の惨状、これまでにないほど平常心を 失った馴染みのアナウンサーの姿に私の目も釘付けになる。これで 疑いを抱く余地はなくなった。やはり悪夢のような人類の危機は現 実に起きているのだ︱︱。 しばらくして真剣な表情で画面を凝視していた須藤くんは私と佐 伯くんに視線を移した。 ﹁あんたらの言ってることに少しは信憑性があることはわかった。 だがニュースで報道されてるにしてもだ⋮⋮こんな非現実的なこと、 外に出て実際に目にしてみなきゃ納得できなぇな。何せバイトの責 任がある﹂ ﹁な⋮⋮なんてものわかりの悪い人なのかな﹂ ここまでしても疑ってかかる須藤くんに呆れてつい思っていたこ とを口に出してしまった。言い終わるとほぼ同時に彼の吊りあがっ た目が私をとらえる。思わず身を固くするが、彼は途端に険しい顔 を緩めた。 ﹁⋮⋮ん? おいっ、その肩はどうした!?﹂ 60 驚いた声で須藤くんが私に問いかけた。彼の視線の先には、返り 血を浴びて今はどす黒く変色しパリパリになったワンピースの肩の 部分。 ﹁目の前で噛み殺された人の血が⋮⋮ついたの﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁これでわかったか? 本当は直接見てもらうのが一番いいんだが、 俺達は疲れている⋮⋮。かと言って君一人に見に行かせて危険に晒 すのも嫌なんだ﹂ ﹁⋮⋮ああ、わかったよ。外はまじで危険なんだな﹂ 須藤くんは複雑な表情をしながらも納得してくれたようだが、そ のあっさりした態度に違和感をおぼえた。事態を呑み込めばきっと 取り乱すと思っていたから。しかし佐伯くんがゾンビの外見上の特 徴や習性を話しはじめると、須藤くんは落ち着いた様子で黙って聞 いていた。 ﹁何か武術の心得はあるか?﹂ ﹁ガキの頃空手をちょっとばかしかじったが⋮⋮今はボクシング一 筋だな。実戦も結構積んでるぜ?﹂ そう言って彼はニヤッと笑った。須藤くんは今起きていることを 知っても余裕のある態度で、怯えもせず、家族の心配もしていない ように見える。まだ本当の意味で実感がわかないのか、それとも強 がって振る舞っているのか。 61 ﹁須藤くんも佐伯くんも、家族は⋮⋮大丈夫?私はお母さんと弟が いるんだけど、まだ連絡とれないんだ。二人とも家にいたと思うん だけど⋮⋮﹂ 二人とも不安でも努めて冷静に振る舞っているかもしれないのに 自分の家族のことが頭から離れない私は気になって聞いてしまった。 嫌な思いしただろうなとすぐに思いいたり、語気が自然とすぼむ。 ﹁俺の両親は海外にいる。仕事の都合でな⋮⋮だから大学近くのア パートに一人暮らしだ。姉もいるんだが、結婚話の際に勘当されて な⋮⋮今はどこにいるのかわからない。俺も連絡はまだ⋮⋮だな﹂ ﹁⋮⋮そっか﹂ どう返したらいいのか。聞いたのは私なのに、言葉に詰まってし まう。私よりも心細い状況に思える。それなのに今までああも気丈 に振る舞っていたのか。自分が恥ずかしくなった。 ﹁⋮⋮まあしかし海外は銃があるからな。両親も姉も昔から逞しい 人たちだったから大丈夫だと俺は思ってる﹂ 付け加えられた前向きな言葉。気を遣わせてしまった。でも彼が いうと説得力があり、聞いていた私も気持ちが落ち着くようだった。 ﹁ところであんたら、ずっとここで救助を待つつもりか?﹂ 冷めた声が響いた。さっきの問いかけなど聞いてなかったかのよ うな憮然とした口調。触れてはいけなかったのかもしれない。思わ ず俯く私に佐伯くんは気にするなといった感じにぽんと肩を叩く。 62 ﹁いや。⋮⋮救助は来ないと思った方がいい。日本全国いたるとこ ろで同じことが起きているなら待つだけ無駄だ。やつらへの対処法 が見つかったというのなら話は別だが、そうでない限りやつらは増 える一方⋮⋮時間が経つにつれ危険も増す。それに待つにしても食 料がないからな。じっとしていたら飢え死ぬだけだ。教えたように ゾンビの特性をうまく利用すれば俺たちにも勝機はある﹂ ﹁じゃあ明日にでも外に出るんだな?﹂ ﹁そのつもりだが⋮⋮﹂ 佐伯くんが私に確認の視線を送っているのに気付き、あわてて同 意する。日本全国、世界各地でこんな化け物騒ぎが起きている以上、 生きているうちに救助が来るなんて保障はない。自分の力で食べ物 を手に入れたり安全を確保するしかないのだ。 ﹁で、外に出たところでどうするんだよ。指定の避難所でも探すか ? ⋮⋮あるかわかんねーけど﹂ ﹁それも選択肢の一つだ。あとは、家族の安全を確認しに行くこと も﹂ ﹁おいおい、それは無茶なんじゃねーか? 街にはゾンビがあふれ てるんだろ? この近所に実家があるならまだしも、電車使うよう な距離にあんなら命がいくつあっても足りやしねぇんじゃねーの﹂ 須藤くんの言葉が胸に突き刺さる。佐伯くんは反論しようとして くれていたが、私はそれを制止した。心臓がズキズキ痛む。目頭が 熱くこめかみが締め付けられるようだったが、声の震えを抑え言っ 63 た。 ﹁近くの避難所を目指した方がいい⋮⋮よね。家族の無事は携帯で 確認できるし。確認できなかったら⋮⋮それは直接会いに行っても 無駄かもしれないし﹂ 言っていて辛くなってきた。このまま連絡が来なかったらどうし よう。もしかしたらこのままずっと会えないかもしれない。我慢し きれず目に涙が溜まっていく。 頬になにか柔らかいものが触れた。見上げると佐伯くんがハンカ チを差し出してくれていた。 ﹁⋮⋮とりあえずは指定の避難所に向かおう。自分の安全が確保で きなければ家族に会えるものも会えなくなるからな。きっとその道 中で連絡があるだろう。⋮⋮もし万が一連絡がつかなければ、出来 る限りの協力はするよ、伊東さん﹂ ﹁ありがとう⋮⋮﹂ 彼の気遣いにあふれた言葉で心がすっと軽くなったのがわかった。 ﹁ちっ、見せつけやがって。それよりだ、避難所ってどこにあんだ よ﹂ ﹁そのことだが﹂ さっと態度を切り替え佐伯くんが再びノートパソコンのマウスを 手に取る。停止したままの動画のページからタブを切り替えると、 地図が映し出された。どうやら政府指定の避難所の一覧らしい。 64 ﹁いま機能している避難所で一番近いのは駅のずっと向こう側の⋮ ⋮ここだな。ここから徒歩で一時間もあれば行けるだろうが、安全 を考えれば倍以上かかることを想定した方がいい﹂ 彼が指しているのはこの大学の最寄り駅を隔てて反対側を大通り 沿いに進んだところにある私立の小学校だった。少し遠いが、徒歩 で十分行ける距離だ。ただ確かにゾンビのことを考えると一筋縄で はいきそうもない。一進一退するはめになりそうだ。 ﹁そこで、だ。避難所に向かう途中に俺の家があるんだが⋮⋮寄っ てくれないか? 非常用の食料もあるし、個人的に剣の練習に使っ ている木刀もある。武器になるはずだ。仕切り直す必要が生じても 困らないだろう。どうだ?﹂ ﹁いいと思うよ。休憩にもなるだろうし⋮⋮須藤くんは?﹂ 須藤くんに同意を求めるとジロリと睨まれてしまった。いちいち 恐ろしい人だ。 ﹁俺はなんでも構わねぇよ。言っておくが、俺があんたらと行動す るのはこの意味わかんねぇ状況を直接見て把握するまでだ。そのあ とどうするかはその時に決めさせてもらうぜ﹂ そんなつれない返答をしてそっぽを向いてしまった須藤くんに、 佐伯くんと顔を見合わせる。この人とこれからうまくやっていける だろうか。危なくなったら私たちを囮にしてもおかしくない不良的 な雰囲気を持つ須藤くんに、佐伯くんも少なからず不安な気持ちで いるに違いない。 65 ﹁そうだな、君の自由にしてくれ﹂ 須藤くんはそのまま言葉を返さなかった。 これからの方向性が決まった。大学を出て佐伯くんの家に向かい、 食料や武器を調達。そこで休憩の後は避難所に指定されている小学 校に行き避難民として受け入れてもらう。きっと危険な旅になるだ ろう。その道程で家族と連絡がとれればいいのだが。 どうか、お母さん、誠、無事でいて⋮⋮。家族のことを考えると、 また涙が込み上げてきた。 66 第十話 出発 ゾンビが現れてからすっかり時間を忘れていたが、腕時計を見る ともう十時になるところだった。窓の外は真っ暗で、夜の闇が部屋 に溢れだしてきそうだ。耳を澄ますと、ゾンビたちの呻き声が聞こ えてくる気がする。 三人で今後のことを話し合った後、私達は体育館の中を探索した。 食料と、なにか避難所までの道中で使えるものを探すためだ︵須藤 くんはひどくお腹がすいているらしく﹁抜け駆けされちゃこまるか らな﹂と渋々付いてきた︶。二時間ほど探し回って見つかったのは 倉庫にあった鉄パイプ一本と、鍵の空いた部室に蓄えてあった菓子 類、そしてビニール袋一杯につめた空き缶くらいだった。 鉄パイプは須藤くんが武器として使うことになり、武器のない私 はゾンビを欺く音を鳴らすための空き缶を持ち運ぶことになった。 そして今、私達は見つけてきたお菓子をつまんでいる。盗み同然 の行為だが、こんな状況だ。仮に許されなかったとしても罰金を払 ったり牢屋に入る方がずっとましだ。何せ私達は現在命が危ぶまれ ているのだから。命は何にも替えられない。 私と佐伯くんはさっきも食べたのであまり手が進まなかったが、 須藤くんはこの体育館でトレーニングをする前から何も口にしてい なかったらしい。物凄い勢いでポテトチップスや煎餅を平らげてい った。 ﹁なんだよ、あんたらは食わねぇのか。⋮⋮だったら全部いただく ぜ。腹が減ってどうしようもねぇんだ。何せトレーニング後はいつ 67 も特盛の牛丼食いに行くんだからよ。非常時らしいとはいえ堪えら れねぇ﹂ 須藤くんは食事を始めてからは機嫌がよく饒舌だった。凶悪な顔 や態度は案外空腹からきていたのかもしれない。そして気付けばさ っきから須藤くんしか話していない気がする。佐伯くんはじっと一 点を見て何か考えこんでいるし、私は時々話しかけてくる須藤くん に曖昧な相槌しか返すことができない状態だった。そんな私達を見 かねたのか、須藤くんは軽く溜め息をついた。 ﹁あんたら、もう寝た方がいい。俺は直接見たわけじゃねぇから想 像もつかないが、よほど酷い場面を見てきたんだろ。てか寝ろ。辛 気臭ぇあんたらの顔見てたら飯がまずくなる﹂ ﹁そうだな⋮⋮﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 須藤くんが口にしたのは予想外に優しい言葉だった。外見があれ だしちょっと怖い人だと思っていたけれど、彼なりに気遣ってくれ ているようだ。 ﹁でも三人一遍に寝るのは危険だよね?﹂ また須藤くんが機嫌を悪くしないか不安だったがおそるおそる聞 いてみる。幻聴かどうかわからないが、さっきからずっとあれの呻 き声がひっきりなしに聞こえてくるのだ。無防備に寝てなんかいら れない。 ﹁そうだな、誰か一人見張りを置こうか﹂ 私も須藤くんも佐伯くんの提案に賛成し、須藤くん、佐伯くん、 68 私の順で三時間おきに見張りを担当することになった。 ﹁仮眠用の毛布が確かここに⋮⋮あった﹂ 佐伯くんがロッカーから毛布を二枚取り出して一枚私にくれた。 私は礼を言って受けとると、冷たい床に横になる。やはり心身共に 限界だったようだ。段々と意識が遠退いていく。 このまま、何事もなかったかのように平穏な日々が戻ってくれば いいのに⋮⋮。そんなことをぼんやりと考えながら意識が途切れた。 * 身体をゆさゆさと揺らす振動で目が醒めた。 ﹁⋮⋮伊東さん。あぁ、起きたか。起こすのが可哀想になってきた ところだったよ﹂ ずっしりと重い上半身を無理矢理起こし寝ぼけ眼で声がする方を 見ると、見知らぬ青年がいた。心配そうな顔でこちらを見ている。 うーん、結構カッコイイかもしれない。 ﹁あれ、⋮⋮佐伯くん?﹂ 段々と状況を把握してきた。そうだ、私は⋮⋮。 夢心地な気分にどす黒いものが入り込んでくる。しかし、昨日の 寝る直前の気分よりは大分落ち着いていた。ぼけーとしてなどいら 69 れない。見張りに行かなくては。 ﹁見張りお疲れ様。後は私に任せて﹂ 力ない笑顔を作ってそう言い、扉に向かう。その時視界に入って きたのは、彼女︱︱お姉さま︱︱の鞄。はっと思い出し、血が染み 付いた鞄を掴んで廊下に出た。佐伯くんは申し訳なさそうによろし く、と私に言うと床についたようだ。 時計を見るともう5時だった。佐伯くんは一時間長く見張りをし てくれていたみたいだ。彼の優しさをありがたく思う反面、自分の 不甲斐なさに腹がたった。 よし、あと二時間しっかり見張ろう。少しの異変も見逃さないん だから! 私は拳に力を入れ意気込み、出入り口の様子を見に仄暗い廊下を 歩き出した。 この体育館は出入り口が正面の一つしかない。二階建てのそんな に大きくない建物で、各階に幾つかの大部屋と小さな部室が並んで いるシンプルな構造だ。 私が今いるのは一階。この階は入り口から入ってすぐ二つの廊下 に分かれ、それぞれの廊下の両側に部室が並び、突き当たりに畳の 大部屋がある。寝泊まりしているのは入り口に近い位置にある剣道 部部室だ。 というわけですぐに出入り口に着いた。両開きの扉はガラスでで きており外の様子が透けて見える。もう日が出てきておりだいぶ明 70 るい。通りの奥、校舎が密集したところに黒い影が蠢いているのが 見えた。ゾンビは音には敏感だが視力は悪いので向こうが私の存在 に気付くことはないだろう。 私はこの小さなロビーに幾つか並ぶ錆び付いたベンチの一つに腰 を掛けた。ギィッと軋む音がして焦ったが、黒い影との距離はだい ぶあるので気付かれていないだろう。それでも不安だったので少し 様子を見ていたが大丈夫だとわかり、ポケットから携帯電話を取り 出した。着信もメールもない。重いため息が漏れる。 昨日は色々あった。想像の産物であったはずのゾンビに似た化け 物が現れ、多くの人が殺された。それも食い殺されるという、日常 の生活では考えられない殺し方で。 きっと昨日一日の間に仲がよかった友達の何人かは死んでしまっ ているだろう。正直、未だに信じられない。だって、数日前まで一 緒に楽しく笑いあっていたのだから。何の兆候もなかった。あれは 本当に突然現れたのだ。 一晩寝てあの惨劇の現実感が薄れてしまったようだ。全て悪い夢 だったような気がしてきた。 私は部屋から一緒に持ってきた血塗れの鞄を眺めた。何故これを 拾ってきたのか。無我夢中で深く考えていなかった。気付いたら掴 んでいたのだ。今後事態が収束するなら、持ってきてはまずかった かもしれないな。そんな苦笑いを浮かべながらそっと鞄に触れる。 持ち主である彼女の赤黒い血がついた、お洒落なピンクのエナメル バッグ。パチッと留め具を外すと、綺麗に整頓された中身が見えた。 インデックスできちんと科目ごとにプリントが分けられたファイ 71 ル。ずっしりと重い大きめの化粧ポーチ。色とりどりの付箋がたく さん貼られた使い古された憲法、刑法の教科書。彼女は法学部だっ たんだな⋮⋮。 私は学生手帳を取り出した。パラパラと捲り、学生情報の記され た最後のページを見る。予想通り、几帳面な彼女は欄をしっかり埋 めていた。 法学部四年 植村 智子⋮⋮ ﹁うえむら、ともこ、さん。やっぱりお姉さまだったんだぁ⋮⋮﹂ 私はぼそっと独り言をこぼし、今は亡き憧れの植村さんを想った。 それなりに楽しかった大学生活を、仲の良かった友人たちの顔を思 い出し、頬をつうっと涙が伝う。 これは、現実だ。昨日見た恐ろしい化け物たちも、人々の無残な 死体も、全て現実。そしてこれからも私が好きだった人達が化け物 の手にかかり死んでいく。覚悟はしているが、その時どうなるかな ど今は考えたくない。でも、もう外の世界に出て現実をみる決心は ついている。絶対に生きてもう一度家族に会うんだ。 目を閉じて弟とお母さんがいる平和な日常を思い浮かべようとし たが、はっきりと思い出されたのは最後の日常︱︱あの大教室での 授業だった。漠然と将来のことを考えながらも怠惰な時間を過ごし ていたあの時。今と変わらない世界が、未来へと続いていると信じ て疑わなかったあの時。一瞬にも思えた眠りから覚めた時にはもう 既にあるかもしれなかった平凡な未来も幸せな未来も堕落した未来 も失われていた。過去も未来も閉ざされ、残酷な今という袋小路に 迷い込んでしまった。しかしいつまでも立ち尽くしていられない。 72 今この時に大切な存在があるのだから。 ガラスの扉越しに外を様子をじっと見続け、気がつけば日が上っ ていた。出発の朝がきた。 73 番外編 佐伯義崇 見慣れた剣道部の部室が全く別の空間に感じられる。それは、こ こにいるのがいつもの部員たちではないからか。それとも、この非 現実的な状況がそう見せているのか。 俺は極度の緊張で疲労しきった身体を壁にもたれかけ、立てた片 膝の上で腕を組み、目の前の二人を観察していた。 ﹁湿気てやがるぜ⋮⋮。おい、これもしかして賞味期限切れてない だろうな?﹂ そう言って眉間に皺を寄せながら菓子箱の裏を覗くのはさっき出 会ったばかりの須藤英雄という男子学生。派手な容貌をしており軽 いノリでよく喋る、普段あまりつるむことのないタイプだ。言葉づ かいや態度が荒々しく正直言って信用できるかどうかはまだ怪しい ところだ。 ﹁大丈夫だよ、持ってくる時確認したから﹂ 困った笑顔で須藤に応じるのは同じく今日出会ったばかりの伊東 皐月さん。印象深い目をした娘だ。表情や動作がどこか小動物のよ うで、彼女の挙動を見ているとこのような状況にあるにも関わらず どうも微笑ましく思えてしまう。 彼女は恐ろしい思いをたくさんしたにも関わらず、人を気遣う気 持ちを忘れない。感情的に物事を考え行動してしまうところもある が、素直で誰とでもうまくやっていけそうな柔軟性がある。彼女と ならこれから長い間行動を共にしようと問題ない。 74 これから徒歩で避難所へ向かう。距離的にはそんな遠くもないが 一筋縄ではいかないだろう。そしてそれまでに家族の安否が確認で きるか。避難所へ着くまで家族とこんなこと彼女の前ではとても言 えないが、家族が生きているかどうかは正直疑問だ。何せよ世界中 がこの大学のような状況なのだ。自分の大切な人達が全員生き残っ ている確率は至極低いだろう。俺の海外にいる両親も、出ていった 姉も、今頃食い殺されているかもしれない。 無論そんなことはあってほしくない。しかし⋮⋮どうしようもな いのだ。家族が生きているかどうか。この考え始めたら止むことの ない負の思考を捨ててしまうことが今必要なことだ。とにかく今は 生き延びて、家族へとつながる僅かなチャンスを見つけだすことが 最善であるはずだ。 ⋮⋮世界は一体どうなってしまったのか。ここに来るまでそんな こと考える余裕もなかったし、考えたところで所詮は学生の憶測︱ ︱答えが見つかる訳がないことは十分わかっているが、真実への手 掛かりは俺の周りで起きた出来事にも隠されているかもしれない。 重く鈍った頭で記憶の糸を手繰り寄せる。 ︱︱そうだ、この異常な騒動が起きたとき、俺は⋮⋮ * 目の前の相手の姿をじっと見据える。相手の剣先は小刻みに揺れ、 俺の面に一本叩きこもうと機会を伺っていた。触れる剣先を軽くい なし、すっと軽く息を吸う。その時、相手の気が大きく乱れ、迷い 75 が見えた。⋮⋮今だ。 大きく一歩を踏み出すと、予想通り相手は前に伸ばした竹刀を引 きながら身を後退させる素振りを見せる。すかさず俺は相手の竹刀 に打ち込み、そのまま押し出すように掛け声と共に面にもう一打を 放った。 ﹁⋮⋮一本!﹂ 練習が終わり、汗まみれの剣道部員たちは続々と部室へ向かって いた。ロッカーの前、中に熱がこもった防具を外してタオルで火照 った手足を撫で付ける。 ﹁本当に流石だよ、山城さんからまた一本取るなんてさ。あの人五 段だぜ?﹂ 面を布で磨きながら話しかけてきたのは、同学年の友人、河辺だ。 ﹁山城さんと一戦交える時は本当に集中力を使うんだ。ほんの一瞬 の間の取り方で勝負が決まる。今度はわからないさ﹂ ﹁⋮⋮とはいってもお前絶対五段以上の実力あるよなー。何で受審 条件なんてあるのかねぇ﹂ 剣道の段位の取得審査を受けるには、今持っている段位に合格し た時から決められた一定の年数を経ていることが条件だ。俺の場合 次の五段の審査を受けるにはあと二年修行を積む必要がある。 ﹁段位は単なる実力を測る物差しじゃあない。経験だとか、成熟し た精神の強さだとか人間としてのあり方を問われるんだ﹂ 76 ﹁へーい、へい。やっぱ大先生の言うことは違うねえ。中高帰宅部、 大学デビューで剣道始めた俺は何もわかっていませんぜ﹂ おどけた口調で河辺が言った。小学校に上がる前から竹刀を握っ てきた俺と違い、大学から剣道を始めた河辺は、休憩中こそこんな 調子だが、いざ練習が始まると別人のような真っ直ぐな目で真剣に 竹刀を振るっているのを俺は知っている。 ﹁佐伯﹂ 着替え終わり、道具を担いで河辺と廊下に出た俺を師範が呼んだ。 ﹁おっ、師範のあの顔はいい知らせかもよー。俺、今日バイトだか ら先急ぐぜ! またな﹂ ﹁ああ﹂ 河辺と別れ師範と向き合う。この人は月に一回この剣道部に指導 に来ている錬士の称号を持つ大先生だ。嘗て数々の大きな大会で名 を轟かせたという師範の顔は深い皺が刻まれ威厳があり、身体中か ら常に隙を見せない張りつめた気を放っている。もし今俺がここで 先生に切りかかったとしてもそれより速く切り返されてしまうだろ う。 ﹁何のご用ですか、師範﹂ ﹁先月の関東学生剣道選手権大会、首位で全国大会出場を決めたそ うだな﹂ 五月に開催された学生の地区大会を俺は一位で通過していた。そ して七月には全国大会が控えている。 77 ﹁⋮⋮よくやったな﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 初めて聞く師範からの誉め言葉だった。師範の表情はいつもの厳 めしさが抜けていなかったが、目は優しく細められていた。 ﹁お前なら卒業までに全日本剣道選手権大会でいい成績を残せるか もしれん﹂ ﹁⋮⋮期待に添えるよう精進します﹂ 課題を終わらせるためPCルームへ向かう俺の頭の中を師範の言 葉が何度も木霊する。全日本剣道選手権大会。今俺が目指せる一番 大きな大会であり、幼少の頃からずっと憧れてきた場だ。足早に目 的の校舎を目指しながら自然と口許が緩むのを感じた。 門の付近まで来たとき、外の大通りをパトカーが数台連なって走 り去っていくのが目に入った。パトカーのサイレンに混じって救急 車のそれも聞き取ることができる。︱︱何か近くで事故でもあった のだろうか。しかし野次馬根性が沸くことはなく、俺は歩みを止め ることはしなかった。 思えば、あれは異変の始まりだったのかもしれない。しかしあの 時の俺はそんなことに気を止める神経の細かさなど持ち合わせてい なかった。まさか刻一刻と世界が破滅に向かっているだなんて考え もつかなかった。 目的の六号館に着き、誰もいない教室が並ぶ静かな廊下を渡り、 PCルームの厚い金属の扉を開いた。 78 ︱︱それから間もなく外の騒がしさに気付き、彼女と出会ったわ けだが。 * 再び意識が今いる剣道部室に戻る。今日一日を思い返してもやは り何の手がかりもつかめなかった。唯一わかることといえば、俺が 竹刀を振るっていた時には既に悪夢は始まっていたということくら いか。 いや、悪夢︱︱夢なんかじゃない。俺は、人を殺してしまった。 人間性を失っていても、化け物のようでも、あれは人だった。幼い 頃から毎日のように厳しい練習を積んできた︱︱全ては優れた精神 と技術を併せ持つ理想の剣道を完成させるため。それなのに。その 剣で人を殺めてしまった。 河辺も師範もすでにこの世にいないかもしれない。そしてもう日 常に戻ることはないだろう。俺の直感がそう告げている。俺の剣道 は、もしかしたらこの運命のためにあったのかもしれない。それな らば、俺はこの地獄を切り抜けるために剣を振ろう。もう後悔はし ない。生き延びる。生き延びてみせる。俺は密かに思いを固めた。 79 登場人物紹介1 ※挿絵あり ■第一章の登場人物 3月20日、意味もなく着色。 いとうさつき ・伊東 皐月 <i103236|3570> 大学二年生 153? 44? 物語のヒロイン。母子家庭で弟が一人いる。 性格は優しくおっとりしている。 さえきよしたか ・佐伯 義崇 <i103237|3570> 大学三年生 181? 70? 騒動の最中に出会った男子学生。剣道部。 くそがつくほど真面目でお堅い。両親は海外にいる。 すどうひでお ・須藤 英雄 <i103238|3570> 大学二年生 178? 72? ボクシングに打ち込む青年。複雑な家庭事情を抱える。 軽いノリで斜に構えた態度をとることしばしば。 80 第十一話 覚悟 私はそっと剣道部の部室の扉を開けた。廊下から漏れでた淡い光 が薄暗い室内を照らし出す。佐伯くんはそれに気付いたのか、辛そ うに額に手を当てながら上半身を起こした。 ﹁⋮⋮朝、か﹂ ﹁うん⋮⋮。おはよう﹂ ﹁おはよう﹂ 挨拶を交わしあい、佐伯くんは大きく伸びをすると立ち上がった。 佐伯くんから少し離れたところにいた須藤くんも目が覚めたようだ。 寝起きが悪いらしい︱︱ただでさえ悪い目つきが不機嫌に伏せられ、 さらに凶悪なことになっている。 ﹁皆起きたな﹂ ﹁⋮⋮お菓子、ちょっとしか残ってないけど、食べていこっか﹂ 私達は昨日の残りのチョコレートやクッキーを朝食にした。元々 大した量ではなかったので全て食べきってしまい、外に持って行く 分はない。途中で調達しながら進む必要がある。寄り道の危険は増 すが、移動する際荷物にならないのでそれはそれでいいのかもしれ ない。 持っていく荷物は中身を最小限にして昨日もう既に用意しておい ている。私が持つことになっている須藤くんのスポーツバッグには 重く感じない程度に空き缶が詰め込まれており、佐伯くんは自分の 鞄に情報収集用のパソコンを入れて持ち運ぶことになった。武器は 佐伯くんの竹刀と須藤くんの鉄パイプ。出来れば空き缶であれを欺 81 きながら戦うことなく移動したいものだが。 荷物を手にし立ち上がったその時、須藤くんが口を開いた。 ﹁で、俺はこの鉄パイプでそのゾンビとやらと戦うと?﹂ ﹁そうだ。いくらボクシングの腕前が優れていたって、向こうの攻 撃が一撃でも当たったら︱︱噛まれたら終わりなんだ。プロのボク サーだって一発もパンチを食らわない試合なんてないだろう?﹂ ﹁ま、昨日の話を聞きゃそうだろうけどよ。俺が言いたいのは⋮⋮ そのゾンビをこれで撲殺するのかってことだ。化け物っつっても人 の形してんだろ?﹂ 佐伯くんの瞳の奥が揺らいだ。少し黙り込んでしまったが、やが てはっきりとした口調で答えた。 ﹁そうだ。やつらは化け物⋮⋮躊躇ったら終わりだ。俺達が殺られ る﹂ 何人も病院送りにしてそうなオーラを放つ須藤くんとはいえやは り殺しの覚悟は決まっていないようだ。まぁ当然だろう。異なると ころはあれど、人間の姿をしているのだから。私はもう既に一体殺 してはいるが、次に何の戸惑いもなくあれの息の根を止められるか と聞かれたら自信はない。佐伯くんだって色々悩んだ上の決断だ。 武器を持つ二人にあれの直接の対応を任せるのは心苦しいが、この 先あの化け物を相手に戦うことは避けられないだろう。迷いが悪い ことを引き起こさなければいいのだが。 ﹁なら遠慮なく殺ってやろうじゃねぇか。こっちがアホみてぇに殺 られるのは御免だからな。⋮⋮どうとでもなれってんだ﹂ 82 ﹁ああ、よろしく頼む﹂ 鉄パイプを片手に荒々しく扉を開けた須藤くんを追い、私と佐伯 くんも剣道部室をあとにした。 静まり返った廊下に三人の足跡が響く。誰も一言も喋らない。出 入り口のあるロビーに出ると、佐伯くんが先頭を歩いていた須藤く んを引き留めた。 ﹁ここから先は俺が先頭を歩く。くれぐれも慎重に進もう﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 体育館の硝子の扉が佐伯くんの手で開かれた。どうやら周囲にゾ ンビはいないようだ。目を凝らして通りの向こう、校舎が集まって いる辺りを見渡しても、姿はない。 ﹁もう人がいないと知って街へ出ていったのかな﹂ ﹁そうかもしれない。だが油断は禁物だ﹂ 私達は足音をたてないよう慎重に門を目指した。地上で起きてい る惨状を何も知らない鳥たちが可愛らしい鳴き声で囀ずっている。 動物たちに影響はないのだろうか。 中央通りが見えてきた。やはり何もいない。平日休日問わずいつ も人で賑わうキャンパスが⋮⋮。もうこの大学は、日常は死んでし まったのだと否応なしに実感させられる光景だ。 中央通りに出て周囲を確認すると、門と逆の方向、連立した校舎 83 の陰で動くものを見つけた。怪我人のようにおぼつかない足取り。 死人のような真っ白な肌。ゾンビだ。 ﹁あれがゾンビ野郎か⋮⋮﹂ 須藤くんが呟いた。平然としたふうを装っているが、初めて実物 を目の当たりにしてやはり驚きが隠せないようだ。唾を飲む音がゴ クンと鳴り、喉仏が上下に動く。 ﹁なるほど、ありゃ普通じゃねぇかもな⋮⋮﹂ ﹁わかっただろう。手加減なんてする必要ない。⋮⋮行くぞ﹂ 佐伯くんに促され、私達は再び門に向けて歩き出した。開け放た れた門から通りの様子がよく伺える。何体かのゾンビが通りをうろ ついているのがわかった。 ﹁物音をたてずに静かに近付こう。通りに出て視界内にいるやつら の数が多かったら、缶の音で道をつくる。少ないようなら、殺す﹂ 私はスポーツバッグのジッパーを下ろし、空き缶を一つ手にした。 ⋮⋮門が近付いてきた。 通りに足を踏み出す。ゾンビとの距離、およそ五メートル。あれ の虚ろな濁った瞳は私の肩のあたりを捉えているはずだが、全く気 付く様子はない。素早く左右の通りの状況を確認する。遠くの方で あれがゆらゆらと揺れていたが、門の近くには先程から見えていた ︱︱三体しかいないようだ。竹刀を構えた佐伯くんを見て、私は缶 をスポーツバッグに戻した。 ﹁⋮⋮殺るぞ﹂ 84 そう言うと同時に佐伯くんは鞄を地面に下ろし、あれに向かって 走り出した。足音に気付きゆっくりと首をこちらに向ける一体の顔 面に竹刀を降り下ろし、続けざまに首に突きを放つ。 鼻が曲がり歯が折れ、首の中心に窪みができたあれがスローモー ションのように地面に倒れる。呼吸が出来なくなり苦しそうに身を よじらせ、やがて動かなくなった。 呆然と一部始終を眺めていた須藤くんがはっと顔を上げる。一体 が倒れた音に気付いた二体がよろよろと近付いてきていた。 ゥウ⋮⋮ァアアアァァ⋮⋮ 獲物を見つけて嬉しいのだろうか、だらだらと涎を垂らし、手を 前に突き出すようにして歩み寄ってくる。 ﹁す、須藤くん、来たよ﹂ ﹁⋮⋮うるせぇな、わかってる﹂ 至近距離で見るあれの異様さに歯を食い縛って固まってしまった 須藤くんに、佐伯くんが殺れと目で訴えかけている。今、戦いに慣 れてもらわなければいけないと考えているようだ。 須藤くんが鉄パイプを握り直し、両手に力を入れるのがわかった。 目を大きく見開き、あれを見据える。 ﹁⋮⋮くそ、殺ってやろうじゃねぇか!﹂ 85 須藤くんはそう叫ぶと、手前の一体の腹部に鉄パイプの先端を勢 いよく突き刺した。ズブリと先端があれの肉に埋もれる。しかしあ れは平然と呻き声を上げながらこちらに手を伸ばしてくる。 ﹁⋮⋮なんだこいつ!﹂ 突き刺さった鉄パイプの存在を無視して何事もなかったかのよう に前進し、自ら鉄パイプを腹に深く飲み込ませていく。 ゥァアアァァ⋮⋮ ﹁くそっ!﹂ ﹁首を、頭を狙え!﹂ 佐伯くんの声を聞いた須藤くんは鉄パイプを勢いよく引き、ぐん と近付いてきたあれを思い切り前に蹴り飛ばした。グプッという音 をたて鉄パイプが引き抜かれる。血が道路に大量に零れ落ち須藤く んのズボンにも飛び散るが、彼は間髪入れずに大きくよろめいて体 勢を立て直したあれの頭部に鉄パイプを力一杯降り下ろした。 ズガッ⋮⋮ 頭がボコッとへこんで鉄パイプが食い込み、衝撃に耐えきれなか った首の骨が変な方向に曲がっていた。あれはふらふらとその場で ぐらつき、そのまま倒れた。頭蓋骨は割れ、白いドロドロとした脳 髄が流れ出てきていた。 ﹁⋮⋮殺ったぞ﹂ 須藤くんはゾンビの死骸の前、ぼんやりと立ち尽くしていた。よ 86 ろよろと接近してきているもう一体が視界に入っていないようだ。 佐伯くんの叫び声にも気付かない。 その間にも私と須藤くんとゾンビとの距離が着々と狭まってきて いる! 傾いた首に緩んだ表情︱︱だらしなく開けられた口から見 えるのは赤黒い歯ぐきと黄ばんだ歯⋮⋮! ﹁須藤くん!﹂ 彼のシャツの袖を掴み揺さぶっても反応はない。私には武器がな い︱︱焦って辺りを見渡すと、コンクリートの地面に転がった、誰 かが逃げる最中落としたであろう鞄が目に留まった。すぐさまそれ に駆け寄り掴み上げると、ゾンビに向かって思い切り投げつける。 鈍い音をたてて顔面にぶつかったが、あれが歩みを止めることはな かった。 佐伯くんが様子が変なのに気付いてこちらに走り出したが、ゾン ビは私達のもうすぐそこまで来ていた。 87 第十二話 遠回り ﹁須藤くんっ⋮⋮須藤くんってば!﹂ その場に固まってしまった彼の腕を掴み引っ張って逃げようとす るが彼は一歩も動こうとしない。ゾンビはすぐそこまで近づいてき ている。そのゾンビの肩越しにこちらに向かって駆け出す佐伯くん が見える。だが、間に合いそうもない。 須藤くんを置いて自分だけ逃げるなんて考えは思い浮かばなかっ た。一晩あけてまた再び出会ったこの人の姿をした化け物に、私も 恐怖していた。もしかすると昨日以上に。気づけば須藤くんの腕を 痛いくらい強く掴んでいた。逞しい腕。あんな化け物でも殴れば意 外とどうにかなるのかな、などと思い始めたとき、ふと須藤くんの 腕が不自然に震えているのに気付いた。 ﹁須藤くん?﹂ ﹁⋮⋮ふふふ、ははははっ!﹂ 突然笑い出した彼に一瞬呆気にとられたのと同時。彼は私の手を ぱっと払い、次の瞬間、鈍い音と共に目の前で今まさに私たちに襲 いかかろうとしていたゾンビが大きく仰け反った。 ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ 私も、ゾンビを背後から攻撃しようと竹刀を大きく振りかざして いた佐伯くんも、何が起きたのかすぐに把握できないでいた。 ゾンビが後ろ向きに派手に転倒する。顎の部分を鉄パイプで強く 88 突かれたようだ。自分の歯で噛みきった舌がベロンと垂れ下がって いたが、それでもなお頭をもたげようとするゾンビの眉間に突如鉄 の棒が生えた。 振り返ると、口を大きく歪ませてぎこちなく笑う須藤くんがいた。 ゾンビの頭に打ち込まれた鉄パイプをズルリと引き抜く。 私達の目の前の通りには三体のゾンビが見るも無残な姿で転がっ ていた。よく見ると髪を染め流行モノの服に身を包んだそれらは、 この大学の元学生のようだ。露出した腕や足には紫色に変色した生 々しい噛み傷がいくつもあり、肉がえぐれ骨が見えている箇所もあ った。須藤くんが鉄パイプで撲殺したゾンビの頭部から漏れ出た脳 味噌を見て私は吐きそうになった。血も骨も日常生活で見かけるこ とはあるが、脳味噌は動物のものでも滅多にないだろう。カニみそ は⋮⋮今はこんなこと考えている場合じゃない。 死体の細部から目をそらし、全体を眺める。朝日に照らされたそ れらは、かつては私たちと同じ普通の人間であったことを主張して いた。 ﹁くっくっ⋮⋮殺っちまった。あーあ、殺っちまったよ。おっかし いなぁ⋮⋮今になって、か。あっはっはっ!﹂ 先ほどから狂ったように笑い続ける須藤くんをどうすればいいの か対応に困り、佐伯くんと顔を見合わせる。 ﹁須藤くん⋮⋮﹂ ﹁おい須藤、大丈夫か?﹂ 私達の声が届いたのか、須藤くんは堪えるように笑いを止め、同 89 時に顔から表情が消えた。 ﹁あんたらのいった通りだったな。こいつらは化け物だ﹂ ﹁⋮⋮気が触れたのかと思ったぞ﹂ どうやら正気を取り戻したらしい須藤くんに安心したのかゆっく りした足取りで近付いてくる佐伯くんの肩越しに、何かが見えた気 がした。 ﹁⋮⋮! ねぇ、ヤバイよ! いっぱいこっちに向かってきてるよ ⋮⋮!﹂ 二人が慌てて私の指差す方向を見る。通りの奥、横転した車を避 けながらゾンビの群れが迫り来ていた。 ﹁幸い駅とは逆方面だ、行くぞ!﹂ ﹁うん!﹂ いつの間にか鞄を拾いあげ準備を整えていた佐伯くんに従って私 はゾンビの群れとは反対方向に走り出した。しかしすぐにもうひと つの足音が追ってこないのに気づく。 ﹁須藤くん?﹂ 須藤くんは大学の門の前に立ち尽くしていた。佐伯くんも足を止め、 足早に引き返す。 ﹁考えるのは後だ。今はここから離れよう﹂ ﹁早く行け﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 90 こんなことしてる場合じゃないのに。さっき間近でみたゾンビの 姿を思いだし気持ちが焦る。 ﹁どうしたの、行こうよ﹂ ﹁言ったろ、別にあんたらと行動すると決めたわけじゃない。俺は あっちに行く﹂ 須藤くんが指差す先はゾンビの群れ︱︱ざっと十体はいるだろう。 何を言っているのかわからなくなって、言葉が出てこない。 ﹁何を言っているんだ、死ぬぞ﹂ ﹁ああ。色々世話になったな。じゃあな﹂ 淡々とした別れの言葉もそこそこに、須藤くんはゾンビの群れに 向かって走り出した。手には鉄パイプが力強く握られている。薄情 にも思えたが、私も佐伯くんも彼を追うことはしなかった。もし彼 が自らすすんで死ぬ気なら、明らかに追っても無駄だった。それほ ど須藤くんは迷いなく駆け出しており、瞬く間に群れの先頭を歩く ゾンビと須藤くんの姿が重なった。 やめて! 心が痛々しく叫んだ。しかし次の瞬間倒れたのはゾンビだった。 続けて横に大きく薙ぎ払われた鉄パイプがもう一体のゾンビにヒッ トし、転倒したゾンビの頭が次の一打で窪んだ。一打一打に力を大 きく磨り減らすような刹那的な戦い方だった。 どうやら彼はすすんで化け物に命を捧げる気はないらしい。それ を察してか佐伯くんが竹刀を構えた。 91 ﹁よくわからないが、助太刀した方がよさそうだ﹂ ﹁そ、そうだね﹂ すごい戦いぶりではあるが、須藤くんは戦闘民族でも棒術のプロ というわけでもない。攻撃の間に隙が多かった。そして少し離れて 歩いていたゾンビたちが密集してきている。どう考えても一人で切 り抜けられる状況ではない。 あと数メートルというところまで近付いてきたそのとき、前のめ りになって接近してきたゾンビが鉄パイプの射程距離をくぐり抜け、 須藤くんの両の肩を掴んだ。 ﹁ぐっ! 離せ、薄汚ねぇ化け物が!﹂ 須藤くんの顔が痛みに引きつる。手から力が抜け鉄パイプがコン クリートの地面に転がった。ミシミシと音が聞こえてきそうなくら いがっちりと捕まれ、体を反らして避けようとする須藤くんの首に ゾンビの恐ろしい顔が迫る。 ゾンビの額を押さえつける須藤くんの腕が曲がり、押し負けそう になったとき、佐伯くんの竹刀がゾンビの頭を打った。ゾンビが大 きくのけ反り、同時に肩を押さえつけていた力が一気に抜ける。そ の隙を逃すものかと須藤くんがゾンビの顔面を思い切り殴る。首が グリンと回転し、そのままゾンビは転倒した。 ﹁今だ、逃げるぞ!﹂ 戦闘の音につられ数体のゾンビが迫ってきていた。今だ、と先ほ どから握りしめていた空き缶を、ゾンビの群れの奥目掛けて投げる。 92 その軽やかな音にゾンビの進行方向が変わったのを確認し、ほっと 息が漏れた。 道路が広かったのは幸いだった。私たちはゾンビの群れを避けて先 へ進んだ。 * 通りに沿って並ぶ商店はいやに静かだ。そういえば、昨日まで耳 がじんじんするほど鳴っていたサイレンや銃の音は聞こえない。人 の気配はないが、地面には赤黒い染みがあちこちに広がり、血塗ら れた硝子の自動ドアの向こうには複数の影が動いていた。 ﹁くそっ、馬鹿みてぇな力しやがって﹂ 回りにゾンビの姿が見えない位置まで来たとき、押さえつけられ 痛めた肩を擦りながら須藤くんが呟いた。 ﹁あ、須藤くん⋮⋮これ﹂ 立ち去るときに拾ってきた鉄パイプを差し出すと、少し戸惑った ような表情を浮かべながらも乱暴にひったくられた。怖い人だ。 ﹁なぜあんなことをしたんだ?﹂ ﹁⋮⋮殺しの味を徹底的に身体に叩き込んだのさ。もう躊躇するこ とがないようにな﹂ ﹁だからといって⋮⋮死ぬところだったぞ﹂ ﹁うるせぇな。死んだら死んだだ。あんたらは自分の命のことだけ 考えてな。他人のことにいちいち構ってるようじゃ早死にするぜ﹂ 93 ﹁ほっとけるわけないじゃ⋮⋮っんが!﹂ 嘲笑の混じったその言葉に反発を覚えて思わず大声をあげてしま い、佐伯くんの手に口をふさがれる。変な声をあげてしまったのが 恥ずかしい。 ﹁すまない、伊東さん。⋮⋮それでだが、少し先に進めば普段人の 少ない住宅地がある。とりあえずそこまで進もう。須藤もいいな?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 須藤くんは複雑な顔をしているが、異論はないようだ。とはいえ また何をしでかすかわからない。怖い人だ。 * 駅から離れたこの辺りは民家が多い。あれから須藤くんもおとな しくしているし、あたりを見渡してもゾンビの姿は見られないので、 とりあえず一安心といったところか。 ﹁⋮⋮もう小声なら話してもいいよね。でさ、佐伯くんの家へはど うやって行くの?﹂ ﹁駅の向こうの住宅街だ⋮⋮今は目的地と逆方向に歩いてることに なる。別の駅方面へつづく道を見つけて回り道するしかないな﹂ ﹁はっ、駅っつったら常に人がわんさか集まってんだろーが。今頃 ゾンビの巣窟なんじゃねぇの?﹂ ﹁ああ、だから駅に近付くのはなるべく避けて周囲を大きく回りな がら向かおうと思う。そう考えるとむしろこっちへきたのは好都合 だったかもしれないな﹂ 94 ﹁ふん、正直に迷惑だって言ってくれて構わないぜ﹂ 微妙な空気が広がる。その時何気なく二階建ての古い造りの家屋 を見上げていてはっとした。窓から老夫婦がこちらを見ている。お 婆さんが心配そうな顔でお爺さんに何やら話しかけているようだ。 そうだ⋮⋮皆ゾンビにやられている訳じゃあない。テレビやイン ターネットで情報を得た多くの人がひっそりと家に閉じこもって隠 れているのかもしれない。 希望に胸を膨らませていると、頭上からガラガラとスライド式の 窓を開く音が聞こえた。さっきのお婆さんたちだ。 ﹁あなたたち、そこは危ないよっ! ここは安全だから上がってら っしゃい!﹂ お婆さんが私達に向けて声を張り上げていた。一階に視線を移す と、お爺さんがドアを開けて手招きしていた。 ﹁⋮⋮これはヤバイんじゃねぇの﹂ 須藤くんがぼそっと呟いた。案の定、声に釣られてゾンビが近付 いてきているのが通りの奥に見えた。 ﹁ほら、早くおいで!﹂ ﹁ご親切に感謝します! でも俺達は大丈夫です! それよりも、 声を出さないでください! 奴らは音に反応するんです!﹂ 佐伯くんがお婆さんに向けて叫んだ。お婆さんは声をあげること の危険性を理解したようで慌てて口を手で押さえた。 95 ﹁君たち、本当に大丈夫なのかい?﹂ お爺さんが心配そうに尋ねた。私は危険を冒してまで私達を助け ようとしてくれた優しい夫婦に胸が熱くなりつつも、早く施錠して 二階に上がるよう伝えた。 ﹁おい、伊東⋮⋮っていったっけ。缶をよこしな﹂ ﹁え、あ、はい﹂ 言われた通り缶を渡すと、さっと受け取った須藤くんは迫りくる ゾンビたちの真横に向けて空き缶を投げつけた。空き缶は綺麗な弧 を描いてコンクリートの道路に着地した。ゾンビは地面を転がる甲 高い音に興味を引かれ、方向を変えた。 ﹁もう大丈夫だろう﹂ 佐伯くんがほっと溜め息をつく。私達は二階の老夫婦に手を振っ て別れを告げ、再び歩き始めた。あのお爺さんとお婆さんが無事に 生き残れますように。心からそう思った。 ﹁⋮⋮おい﹂ 再び歩き出してしばらく経ったとき、後ろを歩いていた須藤くん が呼びとめた。何事かと歩みを止め振り返る。眉間にしわを寄せ不 機嫌極まりない顔の須藤くんにあ、やばいかもと佐伯くんと顔を見 合わせる。よほど言いづらいことなのか少し押し黙っていたが観念 したように口を開いた。 ﹁悪かったよ、危険な目にあわせて﹂ 96 ﹁ええっ﹂ 驚きから間抜けな声が漏れてしまった。佐伯くんも呆気にとられ てぽかんとしている。 ﹁⋮⋮それだけだ! ったく、行くぞ!﹂ 少し照れくさそうに目をそらす須藤くんの姿を物珍しげに眺めて いると、よほど恥ずかしかったのか大股で私たちを追い越すと荒々 しく言い放った。そんなに怖い人じゃないのかもしれない︱︱何に してもこの二人の存在は心強く感じた。 97 第十三話 仲間 ﹁どこで曲がろうか﹂ ゾンビに接近しないよう小走りで移動しながら喋るため声が揺れ る。通りには食い散らかされた死体が散乱しているので、それらを 避けながら走らなければならない。チープな表現をするが、本当に 悪夢のような光景だ。スーパーの食肉売り場のように、人間の身体 が細切れのモノとなってそこらじゅうに四散している。息が上がっ てきたからかあまり深く考える余裕がないのが助かる。 ﹁おいっ、前見ろよ。何体かうろついてるぜ﹂ 足元の血溜まりや肉片に気をとられていた私ははっと顔を上げる。 真っ直ぐ続く大通り、十メートル以上離れたところに数体のゾンビ がいた。 ﹁本当だ、どうしよ⋮⋮あっ、そこに道があるよ﹂ 立ち並ぶ民家の間に細い道を見つけた。どうやらこの大通りと平 行に通る向こう側の通りにつながっているらしい。ここで別の通り に出て駅方面に折り返せるかもしれないと思い、佐伯くんの意見を 待つ。 ﹁⋮⋮少し狭すぎるな。挟み撃ちをされたら危険だ。もう少し先に 大きな十字路がある。そこを右に曲がってから向こう側の通りに出 て駅に向かおうと思っているんだが﹂ ﹁そっか。じゃああのゾンビをどうにかしなきゃ⋮⋮﹂ 98 ﹁オーケィ、強硬突破だな﹂ 須藤くんが目をぎらつかせる。殺る気のようだ。 ゾンビに近付いてきた。広い道路のあちこちで生者の血肉を求め 徘徊している。須藤くんが血のこびりついた鉄パイプを構えると、 佐伯くんがそれを制止した。 ﹁なんだよ?﹂ ﹁立ちふさがるものは何でもかんでも殺せばいいってものじゃあな い。奴らは目がほとんど見えないんだ。多少近くても静かに通り過 ぎれば無駄な体力を消費せずに済む﹂ ﹁⋮⋮まぁ、ごもっともだな﹂ 須藤くんは意外にも︵?︶素直に納得したようで静かに鉄パイプ を下ろした。私達はゾンビと出来る限り距離を置きながらその場を 通過した。もしかするとゾンビはそんなに恐るべき存在ではないの かもしれない。習性を理解していれば熊などの野生動物相手よりず っとやりやすいのではないか。 ゾンビが闊歩する通りの奥に十字路が見えてきた。数台の車が放 置されており、そのうちいくつかの窓ガラスが血飛沫で汚れていた。 車が衝突したのか、民家を囲むブロック塀の一部が崩れ落ちている。 私達は歩いてきた大通りに交差する比較的細い車道を右に曲がり、 この大通りと平行に走る道に出て私達が来た駅の方向に戻るつもり でいた。 車の中に注意を払い、慎重に交差点の中央に出る。右の方向を見 やると、やはり何体かのゾンビがうろついていたが通ることはでき 99 そうだ。今通ってきた大通りと比べ細いため、囲まれないよう気を 付けなければいけない。 私は通りに沿って並ぶ建物の中に見知った看板を見つけた。 ﹁あれは⋮⋮コンビニだね﹂ ﹁奴らがいる可能性は高いが⋮⋮まぁ大丈夫だろう。様子を見て慎 重に進もう﹂ こちらを振り向いた佐伯くんに頷き返し、コンビニのある方に向 けて歩き始めた。通りはそんなに広くはないため、一度ゾンビに気 付かれたらその息の根を止めるか動きを封じるかしなければ安心し て前に進めない。私達は極力ゾンビの目を掻い潜りながら歩いてい ったが、あまりに接近すると目の悪いあれも流石にこちらの存在に 気付くため、一歩一歩慎重に、時にはゾンビの息の根を止めながら 進む必要があった。 コンクリートに打ちつけて音をたてないよう気をつけながらゾン ビの首を狙い打つ。元から散乱していた人間の体の破片に、私達が 殺したゾンビのグロテスクな死骸が加わる。気持ちが悪い道だ⋮⋮。 腐ったら悪臭がひどいだろう、夏じゃなくて本当に良かった。しか しそう思いながらも最初と比べ徐々にその光景に慣れつつあるのを 私も自覚し始めていた。 ﹁おい、中見てみろよ。案外奴ら少ないぜ﹂ コンビニの前を通りかかった時、須藤くんがひょいと身を屈め私 の耳元で囁いた。少し警戒してしまったが、割りと友好的な態度に 緊張がすっと解けた。 100 ﹁あ、本当⋮⋮。コンビニで食べ物とか色々手に入るかもしれない ね﹂ 勿論お金を払うつもりなんて更々ない。なんて犯罪意識が低いの だろう︱︱この場にお母さんがいたら泣かれるかもしれないが、今 のこの異常な世界に秩序など存在するのかどうかも最早疑問だ。部 室でお菓子を食べた時も同じように思ったが、もし仮にいつも通り の日常が戻ってきて窃盗の容疑にかけられても私は自分の行動を後 悔しないだろう。 短い話し合いの結果、私達は少しコンビニに寄ることにした。食 べ物を漁っていたらゾンビに囲まれていた⋮⋮なんてことを防ぐた め須藤くんが外で見張りをし、私と佐伯くんが中へ入ることになっ た。 ﹁まずは店内の奴らを一掃するぞ。見たところ⋮⋮二体か﹂ ﹁制服着てないね。どちらもお客だったみたい。店員さんは逃げた のかな?﹂ ﹁そうだな⋮⋮しかし店の奥からゾンビになってコンニチワなんて ことも考えられる。確認できる個体の数は少ないが油断せずに行こ う﹂ 私達が正面に立つと自動ドアが開き︱︱聞き慣れた軽やかな音楽 が店内に流れた︵須藤くんが﹁おいっ静かにしろバカ﹂と焦ってい たが私たちにはどうしようもない︶。音に反応して二体のゾンビが こちらを向く。うち一体は頬を噛まれたらしい、パックリと割れた 肉の間から白い頬骨にピンク色の筋がこびりついているのが見えた。 ﹁あまり店の物を汚したくないな⋮⋮カウンターにおびき寄せるか﹂ 101 そう言うと佐伯くんはレジカウンターを竹刀で軽く叩いた。パシ ィッという小気味良い音が鳴り響き、それにつられて手前の一体が ふらふらと近付いてくる。佐伯くんは私に離れるように手ぶりで伝 えるとゾンビの後ろ側にさっと回り込み、カウンターのすぐ脇にや って来たあれの後頭部を︱︱思い切り竹刀で打った。ゾンビが派手 な音をたてカウンターの上に俯せで倒れこんだ。すかさずカウンタ ーの店員側にはみ出た頭に一撃をお見舞いしようとしたその時。 ﹁ぎゃああぁぁぁっ﹂ ﹁⋮⋮!?﹂ ﹁え?﹂ 思わぬ叫び声が聞こえた。まさかゾンビが叫んだのだろうか? 結構人間らしいところもあるじゃないか。⋮⋮いや、今のはカウン ターの下から聞こえてきたような気がする。身を乗り出してカウン ターの陰を覗き込むと、カウンターの端から頭を出したゾンビの視 線の先に人がいた。それも二人。制服を着ていることからするとこ この店員のようだ。 ゾンビが至近距離にいる二人の存在に気付いて手を伸ばすが、途 端ゴキンという鈍い音とともに全身を大きく震わせて動かなくなっ た。ゾンビの首には佐伯くんの腕が回されていた。佐伯くんの咄嗟 の判断力と戦闘能力の高さを少し恐ろしくさえ思った。 ﹁伊東さん、その人たちを頼んだ! 俺はもう一体を始末してくる﹂ そう言い残し店の奥へ走っていく佐伯くんを見送り視線を戻す。 真っ先に目に入ったのはカウンターの上、首が何かのホラー映画の ように180度回転して恐ろしい形相で固まっているゾンビ。︱︱ 怖い。 102 ﹁あの、大丈夫⋮⋮ですか? 怖かったですよね﹂ 歯をがちがちと鳴らしおびえた目で見る二人の生存者に、自分で もびっくりするほど優しい声をかけていた。このような状況でまだ 他の人を気遣える余裕があったのかと自分で少し驚いてしまう。 ひどく真っ青な顔でがくがくと震えていた二人は私が普通の人間 だと知って少しばかり安心したようだ。店員の一人は長い黒髪を後 ろで一つにまとめている大きな目が特徴的な真面目そうな女の子。 うちの大学の学生かもしれない。もう一人は幼さを残した男の子︱ ︱高校生くらいに見える︱︱で、ダークブラウンに染めた某有名ア イドル事務所のタレントのようなおしゃれな髪型をしている。 ﹁こっちは終わったぞ﹂ 突然頭上から降ってきた男の声に二人は驚いて飛び上がる。男の 子は後ろへ反り返りすぎて頭を壁に勢いよくぶつけてしまった。ば つが悪そうに頭をかく佐伯くんを二人に紹介し、自分の仲間である ことを伝える。 ﹁奥へ続くカウンター内には二人がいたわけだし⋮⋮店内にはもう ゾンビはいないみたいだね﹂ ﹁そうだな。用件を手早く済ませるか﹂ ﹁あ、あの⋮⋮﹂ 血で薄ら汚れた床に座って四人でゆっくり談話︱︱というわけに もいかず、安全と用件の確認をし始めた私と佐伯くんに女の子が声 をかけてきた。 103 ﹁今、何が起きているのでしょうか⋮⋮? 私も寺崎くんもずっと ここでレジを打っていて、そしたらあの人たちが入ってきたんです ⋮⋮! 店長は外へ様子を見に行ってそれっきり⋮⋮﹂ ﹁そ、そうだ。あいつら何者なんだよ! だっ、だってあいつら、 人に思い切り食いついて⋮⋮意味分かんねぇよ!﹂ 緊張の糸が切れ、溜まっていた恐怖感が一気に解放されたようだ。 彼らのことを思うときちんと事態を説明したいところだが、話した ところですぐ信じられるものでもないし、パニックを起こす危険も ある。それに外で待ってくれている須藤くんのこともあるし、危険 が迫る前に早くここを去りたい。これから何があるかわからないの で出来る限り時間の消費は避けたかった。 ﹁詳しい説明は後でいいか? 今言えることは、奴らは化け物⋮⋮ それだけだ。俺たちは避難所に向かう途中なんだが⋮⋮君たちはこ れからどうする? ここは幸い食料もあるし籠るのもありだとは思 う⋮⋮外に出ても安全は保証しかねるし、君たちの判断に任せる﹂ 二人は顔を見合わせ、それから佐伯くんの手にしている先端が血 に染まった竹刀に目を移した。 ﹁⋮⋮一緒に付いて言ってもいいですか?﹂ ﹁お、俺も頼みますっ﹂ ﹁わかった。俺は佐伯義崇、こちらは伊東皐月さん。この近所にあ る立星大学の学生だ。君たちのことも後で色々聞きたいが、今は名 前だけ教えてくれるか?﹂ 少し躊躇ったのち二人同時に声を発し、気まずそうに顔を見合わ せて譲り合っていたが、結局女の子の方から話し出した。 104 ﹁私は清見千香子です。よろしくお願いします﹂ ﹁俺は寺崎海斗っす﹂ 危険を一緒に乗り越える仲間が二人増えた。皆知らない人たちば かりだが心強い。こんなに人のありがたみを感じることができるの は、日常から離れたからなのか。私達は日持ちする食品や水などを 必要最低限の分だけ鞄に詰め込みコンビ二を出た。 105 第十四話 団結 ﹁随分長かったじゃねぇか。ったくマジ焦ったぜ、変な音楽大音量 で流しやがって。それからこんな気味悪ぃ道に一人⋮⋮︱︱ん? なんだこいつら﹂ 待ってましたと言わんばかりに文句を言い連ねる須藤くんだった が、コンビニからぞろぞろと出てきた私達をぽかんと見つめると静 かになった。 ﹁あ、えっと、生存者がいたの! 清見さん、寺崎くん、こちら須 藤英雄くん﹂ なり とりあえず二人に須藤くんを紹介する。無駄に怖い目付きで見て くるいかにも不良の形をした男にビビった様子の二人だったが、お そるおそる名前を告げた。 ﹁清見に寺崎ね。ところでお前ら大掃除でも始めるつもりか?﹂ ﹁いや、そうじゃなくて⋮⋮これは武器、一応﹂ 不可解な目で見てくる須藤くんに苦笑いを浮かべて説明する。私 と清見さんの手には長箒、寺崎くんの手にはモップ。五人のうち二 人しか武器がないのはあまりにも危険なので、店の清掃用具箱から 拝借してきたのだ。頼りない武器だがあれを突いて転倒させるのに は役立つかもしれない。そして私が持ち運んでいた須藤くんのスポ ーツバッグは今寺崎くんが持ってくれている。正直言うと大きいバ ッグを持ち運ぶのに疲れてきたところだったのですごく助かった。 ﹁悪いが、のんびり話している場合ではないぞ⋮⋮二人ともよく聞 106 いてくれ。今から俺達が相手にするのはゾンビ、化け物だ。映画を 見たことがあるかわからないが、あれのように少しでも噛まれたら 奴らの仲間入り。でもこれだけは覚えておいてほしい。奴らは目が ほとんど見えず、聴覚を頼りに行動している。だから音をたてずに 奴らの目を掻い潜るようにして移動するんだ﹂ 佐伯くんが生き残るために最低限必要な情報を掻い摘んで説明す る。二人はまだ気の昂りが収まらない様子で話を聞いていた。 ﹁もういいだろ、行こうぜ﹂ 待ちくたびれた様子の須藤くんがそう言って歩き出した。佐伯く んは呆れたように軽く溜め息をつき、私たちはその後を続く。ぞろ ぞろと一列になって歩く様子は︱︱なんだか遠足みたいだ。陳腐な 表現だと我ながら呆れたが、気持ちに余裕ができたということでい い傾向かもしれない。いや、この状況に余裕なんて言葉はとても似 つかわしくないのだが。身に迫る危険から逃れるのに精一杯で深く 考えることはできないが、家族のことがある。 私はふと思いついて上着のポケットから携帯を取り出した。私は 忘れっぽいので授業中に音が鳴ることがないよう、携帯は常時マナ ーモードにしていたのだ。 期待を込めて半開きにして覗きこむ︵カチッという音が鳴るのを 防ぐためだ。ちなみに私は母親の理解が得られずまだスマートフォ ンを買っていない︶。しかし、友達と撮ったプリクラの見慣れた壁 紙が表示されているだけで新着メールや着信の知らせは無かった。 仲の良い友達はどうしているのだろうか。︱︱昭子⋮⋮由美⋮⋮。 私は特に仲の良かった二人の友人の顔を思い浮かべた。 107 先頭を歩く須藤くんの存在に安心しきって自分の世界に浸ってい たが、気を持ち直して正面の様子を確認する。道の終わりが見えて きた。大学前の大通りと同じくらい広い通りに繋がっているようだ。 しかしその途中にはいくつかゾンビの姿があった。一番手前の一体 はこちらに背を向けるようにして道の端に佇んでいた。脇腹はくり 抜かれたように大きく穴が開いており、肋骨やテカテカ光る内臓が 覗いている。あんなに肉体が破損していても平気な顔をして生きて いられるのだ⋮⋮ゾンビという化け物は。 そのゾンビの横を慎重に通り過ぎる。︱︱須藤くん、佐伯くん、 寺崎くん⋮⋮そして私が通り越そうとした時、ゾンビが緩慢な動作 すんで でこちらを振り向いた。あまりにひどい顔に悲鳴を上げそうになり 既のところで堪える。ゾンビの顔の表面は食いつくされ真っ赤にな り、ボロボロになった筋肉が丸見えだったのだ。 ﹁て、店長⋮⋮﹂ 後ろの清見さんが呟いた。すぐにはっとしたようで口を押さえた がもう遅かった。その店長だったらしい男性のゾンビはほとんど骨 だけになった片足を引き摺り、こちらに歩み寄ってくる。普通のあ れに比べても動作は遅かったが、極度の恐怖とショックのせいか清 見さんは金縛りにあったかのように動かない。 ﹁し、しっかり。逃げようっ﹂ 私は清見さんの肩を軽く揺するが反応がなかったので力づくで引 っ張って逃げようとする。前の三人も気付いたようで、いつでも攻 撃できるように武器を構えこちらの様子を覗っていた。清見さんも 落ち着きを幾分か取り戻したようでよろよろと歩き始めた。そのま まゾンビに接触することなく通過できると思ったその時。 108 ﹁きゃああっ﹂ ゾンビが手を伸ばし清見さんの服の端を掴んだのだ。私は咄嗟にゾ ンビの手を払いのけ、彼女を前に押し出す。 ﹁行こっ!﹂ 私達は走り出した。出口の近くのゾンビ達はさっきの叫び声でこ ちらの存在に気付いてしまったようだ。しかしそんなに距離は長く ないしゾンビは疎らなので全力で走り抜ければ問題ないはず。それ に須藤くんが鉄パイプで近寄ってきたゾンビを転倒させてくれてい た。 須藤くんに続き佐伯くんも大通りに出れたようだ。そのまま無事 に全員辿り着けると思った。が。 ﹁うわぁぁぁっ﹂ 寺崎くんが大声をあげた。周囲にはゾンビの姿がない。不思議に 思って彼の足元に目をやると⋮⋮いた。須藤くんに転倒させられた ゾンビが寺崎くんの足首を掴んでいたのだ。ゾンビは驚異的な力で もって足を引き寄せ、彼は仰向けに転倒する。身体を曲げることな くまっすぐ倒れこみ、ガツンっと勢いよく頭を地面にぶつけてしま った。コンクリートの地面に頭をぶつけ朦朧とした寺崎くんにゾン ビが覆いかぶさる。 ﹁うぐっ⋮⋮やめろぉぉ⋮⋮﹂ 寺崎くんが必死にゾンビの肩を押さえつける。しかし、徐々にゾ 109 ンビの口が彼の首元に近付いてきていた。私と清見さんは彼を助け ようと走り出す。脳内にあの時の光景が蘇る。大教室、女子学生に 押し倒され私の目の前で命を失った男子学生の姿。校舎に寄りかか るお姉さまの亡骸。もう、人が死ぬところを見たくない。助けるん だ。既に転倒したゾンビ相手には役不足な箒を背後に投げ捨てる。 ﹁えいやあぁぁーっ!﹂ 気合いを入れるために発されたのはあまりにも格好悪い叫び声。 間に合ったのかどうなのかわからなかった。とにかく私はゾンビを 思い切り蹴ったのだ︵必死になった時私は相手を蹴る傾向にあるよ うだ︶。幸運にもゾンビはバランスを崩しゴロンと横に転がった。 ﹁寺崎くんっ﹂ 清見さんが彼が起きあがるのを手助けする。ふらふらになりなが らも寺崎くんは立ち上がり、清見さんの肩を借りながら小走りで佐 伯くんたちの方へ向かった。私は転がっていたモップとスポーツバ ッグを拾い上げ、起き上がろうとするゾンビの背中にモップで一撃 を加え、皆の後を追った。 道を抜け大通りに出た。周囲を見渡すとやはり道路は横転した車や 死体であふれていたが、この付近の視界内にゾンビの姿は見えない。 さっきのゾンビがこちらに来ないよう、私はバッグから空き缶を取 り出し元来た道の奥の方へ投げた。カーンと遠くで缶の転がる音が 聞こえた︵⋮⋮ギャグではない、ゾンビとの戦いを終え未だ震えが 止まらない私の耳が本当にそうとらえたのだ︶。 ﹁寺崎くん、大丈夫? 噛まれなかった?﹂ 110 私の渾身の蹴りは彼を救えたのだろうか。少しでも噛まれていた ら⋮⋮息が詰まる思いで彼に尋ねる。 ﹁だ、大丈夫だと⋮⋮。危なかったすけど﹂ 真っ蒼な顔をしているが無事だったようだ。ほっと胸を撫で下ろ す。 ﹁ふん、やるじゃねぇか﹂ 声のした方を向くと須藤くんが私にニッと笑いかけていた。少し ひねくれた笑みだが、浅黒い肌に白い歯がまぶしい。負けじと親指 を立てた右手を掲げる。やってからすぐに自分の行動を恥ずかしく 思った。 ﹁ああ、二人を危険から救ったのは伊東さんだ。男として情けない な、須藤﹂ ﹁ホントすんません⋮⋮﹂ 佐伯くんの言った﹁男﹂の範疇に自分が含まれていないのを歯痒 く感じたのか、寺崎くんが心底申し訳なさそうに言った。 ﹁ま、こんな信じられねぇような異常事態だから⋮⋮なんて甘った れたこと思うんじゃねぇぞ。もっと男らしく、逞しくならなきゃ生 き残れねぇ。すぐおっ死ぬだろうな﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ ﹁この現状に男も女も関係ありませんよね⋮⋮私も、もっとしっか りします﹂ 須藤くんの言葉に清見さんが応じる。彼女のくりっとした大きな 111 目は生き残ろうという強い意志で満ち溢れ輝いていた。二人とも何 が何だかわからないだろうに、強い。 ﹁不安だと思うけど、今は私たちを信じて。頑張ろうね﹂ 思わず清見さんの手をとりぎゅっと握る。突然のことに目を見開 いて少し驚いたようだが、彼女は握り返してくれた。清見さんと微 笑みあう。さっき会ったばかりなのに、親友のような固い絆を感じ た。 112 第十五話 侵入 学生が主な客層だったらしい、飲食店や古着屋の並ぶ大通りを五 人で進む。土曜日ゆえかサークル帰りの学生ゾンビが多いように思 われる。ゾンビの間を縫うように慎重に切り抜け、密集している時 はタイミングを見計らったり、空き缶を投げて道を作った。やはり 駅に近づくにつれゾンビの数は多くなるので、一進一退を繰り返す 羽目になった。 緊張感は常に漂うが、音さえたてなければ襲われることはない。 時間は思ったよりかかっているようだが、このまま順調に進めばあ と一時間もしないうちに佐伯くんのアパートに到着できそうだ。そ んな時ゾンビが少なくなったのを見計らってかそれまで静かだった 清見さんが口を開いた。 ﹁こんなところまで⋮⋮。あの、もしかしてこれって、同じことが 東京中で起こってたりするんですか?﹂ 痛いところを突かれ、ぎくりとした。悪いことをしているわけじ ゃない︵と思う︶のに、ドキドキする。そこは今気にしてはいけな いところだ。せめて安全な屋内についてからゆっくり説明したい。 私がそうだったように、正常な判断力を失う可能性がある。 ﹁⋮⋮わからない。身の安全を確保してからゆっくり調べようと思 っている﹂ 私がなんて答えようか考えを巡らせているうちに佐伯くんが対応 してくれた︵失礼かもしれないが、須藤くんじゃなくてよかった︶。 それもグッジョブな対応だ。東京どころか世界中でパンデミック起 113 こしてるみたいだよ! とは正直に言えまい。これが人類の存続を 脅かし得る、地球規模の危機的状況であることを二人に悟らせては いけない。今真実を知ればあの時の私のように無謀な行動に出てし まうだろう。 ﹁でも、そういう可能性もあるんですよね?﹂ ﹁おいおい、冗談じゃないすよ⋮⋮じゃあ俺ら家に帰れないわけす か?﹂ 先程見せた強い意志は揺らぎ、二人は明らかに動揺し始めた。こ の地域をターゲットにした少し大規模な暴動くらいにでも思ってい たのだろう。当然と言えば当然か。 ﹁今は黙って生き残ることに専念しろっての。生きて家族に会いて ぇんだろ?﹂ ﹁か、家族が生きてる保証はあるんですか!?﹂ 心配していた事態が起きた。須藤くんなりに清見さんと寺崎くん を思ってのことだと思うが、その挑発的な物言いは火に油を注いで しまったようだった。 これは、危ない。二人が今パニックを起こして暴走したら⋮⋮。 ﹁大丈夫だ。警察や自衛隊が動いているだろうし、この地域の多く の人は家に立て籠ったり指定された避難所に避難しているようだ﹂ 私は震える清見さんの背中を擦りながら佐伯くんが落ち着いた声 で二人をなだめるのを聞いていた。 ﹁おい! 消防署があるぜ﹂ 114 突然声を張り上げた︵もちろん抑え気味ではあるが︶須藤くんが 指差す方向に目を向けると確かに消防署があった。消防車も救急車 もやはり出動中のようでガレージはガランと空いている。 ﹁隊員はお留守みてぇだが⋮⋮消防署っつったら掃除用具の代わり にもっと何か使えそうなもの色々あるんじゃねえの? よくわかん ねぇけどよ﹂ ﹁そうだな。周囲に奴らの姿はないし⋮⋮外から様子見をして安全 そうだったら邪魔するか。少し休息をとる必要があるだろうしな﹂ 清見さんと寺崎くんの方をちらりと見て佐伯くんが言った。ゾン ビの姿も血痕もないことから、もしかしたら中に消防隊員の人がい るかもしれない。そんな期待もあった。須藤くんと佐伯くんに従っ て私達は消防署へ向けて歩を進めた。 ﹁疲れちゃったしちょっと休憩したいよね?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ おどおどしながらも二人に声をかける。清見さんは黙ったまま頷 いてくれたが、寺崎くんは上の空のようだ。 消防署の真ん前まで来た。白い建物の一階部分はほぼガレージで 占められているが、右端は壁が突き出ており受付のような部屋にな っているようだ。大きな硝子の窓から見えるのは誰もいない殺風景 な白い部屋︱︱机の上の物が乱雑に散らばっているのは、この緊急 事態に隊員たちが急いでここを飛び出したことを物語っている。 ﹁見た感じ中にも死体どころか血痕もないな⋮⋮﹂ ﹁入ろうぜ。そいつらも少し休んで落ち着いた方がいいだろ﹂ 115 ﹁えっと、入り口はその部屋からのとガレージの奥のと二つあるみ たいだよ﹂ 喉渇いたから自販機でジュース買おうみたいなノリで不法侵入を 企てる私達を第三者の視点で考えてみるとかなりおかしいだろう。 授業態度はあれだったが︱︱素行は至って真面目だったはずの学生 が一日でこうも変わってしまうなんて。 確めたところどちらも鍵がかかっていることがわかり、私達は部 屋の硝子の窓を割って侵入することにした。 ﹁大きな音出ないかな?﹂ ﹁出ても見える範囲に奴らはいないし大丈夫だろう﹂ そう話している間にガシャーンと派手な音が鳴り、見ると窓ガラス に大きな穴が空いていた。須藤くんが鉄パイプを持つ手とは逆の手 を穴に突っ込み、器用にロックを外す。 ﹁よし開いた。それにしても結構簡単に割れたな。まったく、平和 ボケした防災施設だぜ。おい、ガラスの破片に気をつけろよ﹂ 須藤くんが私のお腹くらいの高さの窓枠をひょいと飛び越し、早 く来いよと手招きをする。寺崎くんと清見さんに先に行ってもらい、 私、最後まで周囲を警戒していた佐伯くんと続く。 部屋は書類が散乱しているだけで特に何もなく、デスクの奥の扉 から中へ入ることにした。 先陣を切った須藤くんが急に立ち止まり、不思議に思って彼の体 を避けて顔を覗かせた清見さんと寺崎くんが﹁ひっ⋮⋮﹂と小さく 116 声を漏らす。何事かと私と佐伯くんも背伸びをして︵これは私だけ か︶前の様子を伺う。 私は絶句した。生活感の全くない白い廊下に広がる散り散りにな った死体。赤黒い血溜まりと汚れていない白い床が鮮やかなコント ラストを作りあげている。 壁に寄りかかる、服ごと食われ穴だらけになった胴体︱︱引きち ぎられた足がかろうじてくっついている。消防服は頑丈なはずだが ⋮⋮すごい顎の力だ。須藤くんの足元には生首が転がっており、皮 膚を剥がされて真っ赤になった顔の表面に白い目玉が一つ、虚ろな 瞳で宙を見上げていた。もう片方は窪みになっている︱︱ほじくり だされたのだろうか。身の毛もよだつ光景に、残虐な場面に早くも 順応してきた私も背筋が寒くなった。 ﹁中に入ってきてんのか、奴ら⋮⋮。外は全然汚れてなかったのに よ。おかしくねぇか?﹂ ﹁向こうにも入り口があったのかもしれませんね⋮⋮﹂ 須藤くんの疑問に清見さんが冷静に答える。焦りと恐怖で我を失 わないか心配だったので、私は少し安心した。 ﹁さて、行くか﹂ 再び歩き始める須藤くんの背中に寺崎くんが抗議したそうな視線 を向けていたが、やがて無駄だと思ったのか黙って歩き始めた。私 は清見さんと手を取り合って血溜まりを避けながら進む。 ﹁この部屋はっと⋮⋮﹂ 117 須藤くんは右手のドアを僅かに開けたと思ったら、すぐに閉めた。 そしてこちらを振り返り首を左右に振る。 ﹁⋮⋮お食事中だ﹂ その意味がわかったのか清見さんは不快そうに顔をしかめた。ど んな時もこんな調子の須藤くんと、曲がったことが何より嫌いそう な真面目な雰囲気をもつ清見さんは少し馬が合わないかもしれない ⋮⋮。こんな危機的状況でも人間関係は色々あるから厄介だ。そん な私は須藤くんに少し苦手意識というか恐怖心を抱いていたわけだ が、須藤くんの様子を見ていて、意外と面倒見がよくさっぱりとし た人であることに気付いた。ちょっと破天荒なだけだ。第一印象の 悪さを乗り越えれば大丈夫なはず、うん。 正面には上り階段があるが、一段一段がバケツをひっくり返した ような夥しい量の血液でびっしょりと濡れていたので上がるのは諦 めた。 角を曲がると奥に小さな入り口が見えた。ドアが開け放たれてお り、そこから私達がいるここまで欠損した死体や肉片混じりの血溜 まりだらけだ。慣れてきたと思ったが、ゾンビのいる緊張状態から 抜け出した冷静な状態のままで見るとやはり気持ち悪い。 ﹁ん?﹂ 須藤くんが声をあげた。何かを見つけたようだ。血溜まりを器用 に避けながら廊下を一人すいすいと進み、上半身だけの男の死体の 側に屈み込むとそれを拾い上げた。柄の長い先に大きな刃がついた それは︱︱斧のようだった。小学校の時の社会科見学で見たことが ある。災害時閉ざされた扉などの障害物を突破する時に使う、万能 118 斧というものだ。 ﹁やーりぃ。血や脂でツルツル滑るしよ、もうこの鉄パイプとはお さらばしてぇなって思ってたんだ。﹂ 持ち主の死体の側で嬉しそうに遺品を掲げる姿は不謹慎さが否め ないが、確かに大きな収穫だ。 ﹁⋮⋮ちょ、須藤さんっ後ろ!﹂ 寺崎くんが叫ぶ。斧の持ち主が足のない体を引き摺り床を這って きていた。貪欲な目をして須藤くんの足にかじりつこうとする。 ドスッ 鈍い音が響いた。何の躊躇もなしに須藤くんが思い切り振り上げ た鉄パイプをその後頭部に突き刺したのだ。 ﹁トレード成立だな﹂ そう言ってニヤリと笑う須藤くんが恐ろしく思えた。朝まではあ んなにあれを殺すのを躊躇っていたのに、武器を握る腕が震えてい たのに。佐伯くんにしても、今のこの世界に蔓延する狂気は人をこ こまで変えてしまうのか。どんな凄惨な場面にも冷静でいられるよ うになった私にも言えることだが。しかしこれは生き残るのに大切 なことであるのは間違いない。 ﹁あ、そのパイプ誰か使うか? この斧よりかは軽いと思うぜ﹂ ﹁いや、いいです⋮⋮﹂ 119 寺崎くんがぶるぶると首を振る。 ﹁⋮⋮そこの部屋はどうだ、須藤﹂ 凍りついてしまった空気を溶かすように穏やかな口調で、佐伯く んが須藤くんの近くのドアを指差す。 ﹁ああ、ここね﹂ 須藤くんが強力な武器を手に入れ強気になったのか、豪快に扉を開 く。ドキドキしてしまったが中は会議室のようで死体もゾンビもな いようだった。私達はそこで少し休憩をとることにした。 120 第十六話 亀裂 私達は会議室の椅子に腰を下ろした。少ししか歩いていないのに 下半身がずっしりと重い。⋮⋮そして喉がカラカラだ。外を歩いて いるときはゾンビのことで頭が一杯で自分の体の状態に気付かなか った。 皆も同じだったようで、佐伯くんは寺崎くんが担いでいたスポー ツバッグからミネラルウォーターを取り出すと私に差し出した。 ﹁水は重いからあまり入れてこなかったんだ。一本を四人で分けよ う﹂ 透明の水が入ったペットボトルを受け取り、キャップを開ける。 本当は全部一人で飲んでしまいたいくらいだったがしょうがない。 二、三口含むと、生ぬるい水が喉をトクトクと流れ内側を潤すのを 感じた。 ﹁はい﹂ ﹁⋮⋮ありがとう﹂ 隣に座る清見さんに蓋の空いたペットボトルを渡す。彼女は少し 俯いたまま僅かに微笑むとそれに口を付けた。 私の向かいには佐伯くん、その隣には寺崎くんが座っている。須 藤くんは疲れていないからと率先してドアの外の見張りをしてくれ ている。開けたままのドアから彼の後ろ姿が見える。ゾンビが侵入 してきた出口のある右の方向に特に注意を向けているようだ。 121 ﹁そういや何も聞いてないんすけど。俺たちこれからどこの避難所 に行くんすか?﹂ 残り少なくなった水を佐伯くんに渡し、寺崎くんが口を開いた。 ゾンビの特性と避難所に向かっていることについて話しただけで詳 しいことは何も伝えていなかったのだ。 ﹁駅の向こうの小学校だよ。でもその前に佐伯くんのアパートに寄 るつもり。食料もあるし、そこで落ち着いて考えようって﹂ 水を飲んでいる佐伯くんに代わって私が答える。 ﹁だったら今色々話してくれてもいいでしょ? 知ってるぜ、何か 俺たちに隠してんの。大変なことになってるかもしれないのにさ、 他人の家でのんびりしてる余裕ねーよ!﹂ 寺崎くんが狼狽して喚きたてる。確かに彼の置かれた立場からす ればもっともだ。私の隣の清見さんも彼を止めることなくじっと話 を聞いている。佐伯くんは無表情に声を荒げる寺崎くんを見ていた が、少し間をおいてから口を開いた。 ﹁君は俺たちに付いてくる、と言ったよな?﹂ 静かな口調だった。穏やかな声色をしているが目はすっと細めら れ、底知れぬ威圧感がある。寺崎くんも圧倒されたのか押し黙って しまった。 ﹁俺たちにも計画というものがある。生き延びるためにも予定が狂 うのは避けなければならない。こちらの都合に付き合うのが嫌なら 今からでも自由にしてくれて構わない﹂ 122 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ いつでも他者を気遣う佐伯くんらしくない、容赦なく突き放した 言い方。二人との間に冷たい空気が流れ込むのを感じておろおろし ていると、佐伯くんがまた私に水を手渡した。 ﹁ええっもう飲んだよ? 私はもう大丈夫だってー。佐伯くん飲ん じゃってよ﹂ 傍観していた私に急に対象が向けられ、間抜けな声をあげて顔の 前に両の手を掲げる︱︱﹁結構です﹂のポーズだ。街頭でチラシ配 りやらキャッチセールスやら何かの勧誘を受けると無視できない私 はこのポーズを多用して乗り切って︵?︶いた。 ﹁いや、俺ももう大丈夫だから⋮⋮須藤に渡してきてほしい。よく 働いてくれているからな﹂ ﹁⋮⋮あ、了解でーす﹂ 私のオーバーリアクションにちょっと困ったように頭をポリポリ と掻く佐伯くんから、私は赤面しながらそれを受け取った。 ﹁須藤くん?﹂ 廊下に響かないよう小さな声で須藤くんの背中に話しかける。そ ういえばさっきの寺崎くんの叫び声はゾンビの耳に届かなかっただ ろうか。まぁ異変は須藤くんが見逃さないだろうから大丈夫か。 ﹁揉めてるみてぇだな﹂ 123 須藤くんは顔だけをこちらに向け、ニッと口角を上げた。なんだ か人を馬鹿にしたような笑みだ。しかし私は気付いた。彼はもとも とこういう顔をしているのだと。私は部屋から出て彼の隣へ移動し ペットボトルを渡した。 ﹁サンキュー。⋮⋮これゾンビ来たら投げろってんじゃねぇよな?﹂ ﹁違うよ∼。ペットボトルはそんなに音鳴らないし﹂ こんな時でもパニック映画の外人ばりに冗談を連発してくれるの は彼のとても良いところだ。逆に不快に思う人もいるだろうが、少 なくとも私は救われる。 人間の破片が転がる真っ赤に染まった廊下に血生臭い風が吹く。 そんな中水を飲み終えた須藤くんはふうっと重い溜め息をついた。 微妙な雰囲気の変化を感じて見上げると、彼は固く口を結び、冷や やかな目で何もない正面を見つめている。 ﹁環境の変化に適応できねぇ生物は滅びる⋮⋮学校で習ったよな﹂ 須藤くんは暗い表情とは真逆のはっきりとした口調で話し始めた。 ﹁普通は長い時間をかけて変わってくもんだろうけどよ。そうは言 ってらんねぇよなぁ。たった一日の間に世界はがらりと変わっちま った。今まで慣れ親しんできた日常は、跡形もなく消え去っちまっ た。もう戻ってこないかもしれねぇ﹂ ﹁⋮⋮そうだね﹂ ﹁これまで世界を成り立たせてきた秩序なんてもう意味ねぇだろう な。こうなっちまった以上、古いものは⋮⋮これまでの人間らしさ はかなぐり捨てて、俺たちはかわらなきゃならねぇ﹂ 124 まるで自分自身に言い聞かせているような口調で語る須藤くんの 瞳は︱︱光を飲み込んでしまいそうなくらい︱︱深く暗く、底無し 沼のようだった。 いきなり真剣に語り始めた須藤くんに面食らっていると、彼は沈 黙する私の顔を見て可笑しそうに吹き出した。 ﹁なんだよその顔。とにかく俺はな、今までの自分を捨てる。生き 残るためなら躊躇わず殺す。やっぱりまだ俺は死にたくねぇんだよ ⋮⋮。まぁ捨てるっつっても、今までは殺しをしなかったってだけ の違いだけどな﹂ ﹁そう⋮⋮だね。生き残らなきゃ﹂ ﹁なに頬ひきつらせてんだ。⋮⋮あ、勘違いするなよ? 俺は一度 手を組んだ仲間は大切にするからな。他はしらねぇけど﹂ そう言って白い歯を見せ、軽く声を出して笑う。⋮⋮須藤くんも 変化に苦しんでいるんだ。だけれども中途半端なあり方は身を滅ぼ す。私もこの一日でそれは理解できた。 ﹁それでいいと思うよ、私は須藤くんを支持する﹂ 彼の仲間宣言にほっとして笑いかけると︱︱部屋からガタンとい う大きな物音と悲鳴が聞こえた。 ﹁日本中⋮⋮世界中で⋮⋮こんなことが⋮⋮?﹂ ﹁ふっ、ふ、ふざけてるよなぁっ!? じゃあ何? 俺これからゾ ンビに囲まれて暮らしてかなきゃいけないのかよ? ははは⋮⋮﹂ 寺崎くんがこちらに向かってくる。そして私と須藤くんの間を通 り抜け出口へ向かおうとしたが、その腕を須藤くんが捻りあげる。 125 ﹁いっ⋮⋮何すんだよっ!!﹂ ﹁大声あげるんじゃねぇ。武器も持たずに⋮⋮死にてぇのか?﹂ ﹁武器持たなきゃ死ぬのか? なら俺のお袋は、親父は、妹は弟は どうなるんだ!?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ その時須藤くんの顔が苦痛に歪んだ。動揺の色を見せた一瞬の隙 をついて寺崎くんが思い切り蹴りあげたのだ。 ﹁⋮⋮畜生! おい馬鹿、戻ってこい!﹂ 寺崎くんは出口から飛び出して行ってしまった。正常な精神状態 ではない。血の気が引いた。早く連れ戻さなきゃ、殺されてしまう。 ﹁捕まえることができなかった⋮⋮申し訳ない﹂ もう既に荷物を抱えここを出る準備を整えた佐伯くんが言った。 後ろには虚ろな目をした清見さんがいる。きっと彼女も出ていくこ とがないよう見ていたのだろう。 ﹁くそっ、行くぞ!﹂ 須藤くんが走り出す。佐伯くんも竹刀を片手に後を追う。部屋を 出ていく時私に清見さんの手を離さないよう言い残していった。私 もモップとスポーツバッグを担ぐと、清見さんに手を差し伸べた。 ﹁大丈夫だから。行こう?﹂ 彼女は青白い顔で頷き、私の手を取った。 126 消防署を出ると駅へ向かう大通りに向かって走る二人の姿があっ た。その先には寺崎くんがいるのだろう。私たちも追いつかなきゃ。 それにしても、なぜこんなことに? 疑問を胸に残したまま私たち は走り出した。 127 第十七話 恐怖 大通り沿いにガラス張りの小洒落たカフェや飲食店、ブティック が並ぶ。奥にファッションビルや高架鉄道が見えてきた。駅に近付 いてきたようだ。それにつれてゾンビの数も増加する。消防署まで は通りに疎らに点在していたが、通りの向こうではゾンビが塊とな って私たちの目の前に立ちはだかっている。 ﹁はぁ、はぁ。ヤバいよ⋮⋮ゾンビが多くなってきてる! 前、見 て。あんなの突破できないよ⋮⋮﹂ ﹁すみません、寺崎くんは⋮⋮決して悪い子じゃないんですけど⋮ ⋮熱血漢で、思い立ったら居ても立ってもいられないんです⋮⋮。 店長とも、言い合いが絶えなかったり⋮⋮﹂ もう既に息切れしている私に、走りながら清見さんが言う。消え てなくなってしまった日常の日々を思い浮かべているのか、遠い目 をしている。彼女も精神的に相当きているはずだ。私だって佐伯君 と出会って体育館で休息を取らなかったらどうなっていたかわから ない。 その時、前を走る佐伯くんが左に曲がった。どうやら通り抜ける のが不可能と見た寺崎くんが左の路地に入ったようだ。私たちも続 いて左に曲がる。と、先に走っていたはずの須藤くんと佐伯くんが 入ってすぐの位置に立ちつくしていた。 ﹁ど、どうしたの? 寺崎くんは?﹂ ︱︱いぎゃあぁぁあぁっっ⋮⋮! やめろっやめろぉぉっ⋮⋮! 128 突然聞こえたこの世のものとは思えない悲鳴に、びくっと身体が 大きく震える。⋮⋮まさか。 ﹁⋮⋮ぁあ、あ、て、寺崎⋮⋮く、ん⋮⋮﹂ 清見さんが両手を口に当て、真っ蒼な顔をして目を大きく見開い ている。その目の先には︱︱寺崎くんの血肉に群がるゾンビの山が あった。寺崎くんの姿は見えない。ゾンビの数が多すぎるのだ。ざ っと二十体はいるだろう。湿った咀嚼音と、ゾンビの間から漏れ聞 こえる彼の悲鳴。次第に弱くなっていく。 ︱︱おやじぃ、おふくっ⋮⋮ひぎゃあぁぁっ⋮⋮ぎぃぃぃっっ⋮⋮ 一体のゾンビが血にまみれた腸のような臓器を引きずり出し⋮⋮ 同時に獣のような甲高い悲鳴︱︱断末魔の悲鳴を上げて声は途絶え た。長いように感じられたが、実際は一分にも満たない出来事だっ た。 何も考えられず茫然と立ち尽くす私の腕がぐいと力強く引かれる。 ﹁奥には⋮⋮奴らの姿はないようだ。このまま真っ直ぐ行って、向 こうの通りに抜けよう﹂ そう言う佐伯くんの声は機械のように無機質で、目は私の顔を視 界に入れるのを避けるように伏せられていた。後ろを振り返ると、 魂が抜けてしまったような清見さんをどうにか連れ出そうとする須 藤くんの背後に、あれの姿が見えた。当然だ。大通りにはあれだけ ゾンビが溢れていたのだ。こんな悲鳴を聞いたら獲物を求めてわん さか寄ってくるに違いない。 129 私たちは寺崎くんに集る醜悪なゾンビの群れを避けながら路地の 端を静かに通過した。その横を通る時、隙間から彼の顔が見えた。 目が大きく見開かれ、そこに湛えられた涙は筋となって彼の頬を流 れ落ちた。 ﹁⋮⋮うぐっ﹂ 胸がギューっと締め付けられる。苦しい。悲しい。彼は両親に、 家族に本当に会いたかったのだ。それも最後まで叶わなかった。私 は彼を助けられなかった、死なせてしまった。 こんなことってあるのか? ゾンビってそんなにたいしたことな いとか、仲間が増えて心強く思ったときからそう時間は経っていな いはずだ。生存者もたくさんいて、もしかしたらこの異常事態は収 束に向かうのかもしれないとかも考えたりした。家族の無事にも希 望が持てた。なのに。いや、それがいけなかったのか。そうだ。気 が緩んでいたのだ。もし私が最初の緊張感をもってあの場にいたの なら、寺崎くんは助かったのかもしれない。私はいつもそうなのだ。 受験のときだって、油断して対策を怠ったから第一志望に落ちたん だ。あの時はそれなりに落ち込んで反省もして、でも自分のことだ から失敗の一回ぐらいって甘い考えも持っていた。しかし今、私の その悪い癖が彼を殺した。私のせいだ。 ﹁伊東さん、考えるのは後にしよう。今、気を取り乱してゾンビに 囲まれてからじゃ何もかも遅い﹂ はっとした。見上げると私の腕を引きながら走る佐伯くんは前を 見据えたままで、その目には焦りが浮かんでいた。そうだ、今こそ 気を緩めてはだめだ。まだ生きている人はいる。 130 ﹁うん⋮⋮﹂ 返事をするも、覇気のない声が漏れた。 路地を抜けると、コンビニやマンションが立ち並ぶ狭い通りに出 た。佐伯くんが言うには、この通りを真っ直ぐ進めば駅に近付くこ となくアパートまで行けるようだ。早くも日が傾き、空が朱色に染 まり始めている。街が夕闇に飲まれるまであと少し。しかしそれま でには彼の部屋に着いているだろう。 ﹁おい、しっかりしろ﹂ 須藤くんの声に振り向くと、清見さんが身体を傾かせ、焦点の定 まらない目でぼーっと宙を見上げていた。時々口を動かしぶつぶつ と何かを呟いている。須藤くんは彼女の肩を揺すっていたが、やが て無駄だとわかったのか手を離した。 ﹁こりゃ早くアパートに行かなきゃヤバいぜ﹂ そう言う須藤くん自身の顔も血色が悪く、表情も無理して余裕を 装っているが疲れ切っていた。須藤くんのこめかみから大粒の汗が 伝ってコンクリートの地面に落ちる。もう皆限界だ。早く行かなき ゃ。 ﹁ゾンビはあまり見えない⋮⋮ね。急ごうよ、走ろう﹂ 黙り込んでその場に立ち尽くしている三人に声をかける。佐伯く んは思い出したように顔を上げると、私を見て頷いた。須藤くんに 言われ、私は清見さんの手をしっかり握りアパートに着くまで離さ ないようにすることにした。 131 ﹁清見さん、あともう少しだから、頑張ろう﹂ 私の呼びかけに彼女は少しだけ身体を反応させたが、何も言葉を 返してくれなかった。正直怖かった。普通だった人間がおかしくな ってしまう。ゾンビもそうだが、清見さんのように精神を病んでし まうのは見ていられない。私は言い知れぬ恐怖感を振り切るように 彼女の手をぎゅっと強く握った。彼女も握り返してくれた⋮⋮気が した。 誰もいない通りを走る。消防署からずっと走りっぱなしだ。太も もが重く、足の裏がじんじん痛む。長距離走は何よりも苦手なのだ。 もうリタイアしてしまいたい⋮⋮。でも長距離走の時はいつもそう 思うことだが結局最後まで走る。今回も同じだ。しかし清見さんが なかなか走ろうとせず、半分引きずるような状態なのだ。きつい。 ﹁伊東さん、俺が清見さんを引っ張る。だから悪いが俺の荷物を持 ってくれてもいいか?﹂ ﹁あ、うん。ありがと⋮⋮﹂ ありがとうなんて。疲れた思考からの無意識な発言だが、まるで 清見さんがお荷物のような言い方だ。今のやり取りが耳に入ってい るかはわからないが、彼女に申し訳なく思った。 そういえばモップはどこかにいってしまった。私が担いでいたは ずのスポーツバッグは万能斧と一緒に須藤くんが肩にかけている。 時間が早く過ぎ去っていることからも思ったが、もしかして、とこ ろどころ記憶が飛んでしまっているのだろうか。 ﹁おい、前にいる。気をつけろ﹂ 132 先頭を走る須藤くんが首だけ振り返って私たちに注意を呼び掛け る。前を見ると数体のゾンビが道の真ん中をふらふらとうろついて いる。女性のゾンビと男性のゾンビの間にいるのは、頭三つ分低い 背の子供のゾンビだ。昨日は土曜日だ、親子三人でお出掛けだった のだろうか。幸せな家庭をぶち壊したゾンビの存在が恨めしい。 ﹁あれ、お父さん? お母さん? ⋮⋮歩美?﹂ 清見さんの声。寝ぼけたような⋮⋮でもはっきりとした正気の人 間の声だ。でも、歩美って? 振り返って清見さんの顔を見ると、 彼女はだらんと口を開け、目を輝かせて正面︱︱ゾンビの方を見て いた。 ﹁清見さん、駄目だ!﹂ 清見さんは佐伯くんの掴む手を振り切り走り出そうとしていた。 目はギラギラとして、嬉しそうに顔を綻ばせ、白い歯を見せている。 何かがおかしい⋮⋮! ﹁離して、離してよ⋮⋮﹂ ﹁おい須藤、彼女は何か変だ! あのゾンビを家族だと思い込んで いる!﹂ ﹁そりゃやべぇな。さっさと殺すか? ⋮⋮いやもっとおかしくな りそうだな﹂ 須藤くんの﹁殺す﹂という言葉に清見さんは異常な反応を示した。 歯を食いしばり身体をわなわなと震わせている。 ﹁⋮⋮バケモノ。私の家族を殺すつもりでしょ? そうはさせない 133 んだから⋮⋮﹂ 彼女から発されたとは到底思えない、低く恐ろしい声だった。彼 女はぐいと佐伯くんの手を引き植木の傍に身を屈めると、次の瞬間、 彼の顔に何かを投げつけた。 ﹁⋮⋮うっ!﹂ 砂だ。佐伯くんはそれでも手を離そうとしなかったが、彼女に手 首を思い切り噛みつかれ、痛みに手を離してしまった。 ﹁清見さん、待て!﹂ 追いかけようとするが目に相当砂が入ったらしい、噛まれた手首 の痛みも手伝って佐伯くんは歩くのも儘ならぬ様子だ。私はこちら に向かってくる清見さんを止めようと身構えた。しかし彼女の必死 な形相とその手にしたものを見て身体が固まってしまった。彼女が 持っていたのは、血の染み付いた竹刀。佐伯くんから取ったのか。 ﹁バケモノぉぉ!! 死ねぇぇーー!!﹂ 彼女の鬼気迫る勢いと悲しそうな瞳を最後に、私の意識は途絶えた。 134 第十八話 後悔 頭がずっしりと重く、意識だけが宙に浮いて波に揺られ漂う感じ がする。苦しいような、心地よいような。私は死んでしまったのだ ろうか? ︱︱いや、そんなこと認めない。お母さんと誠に会わな きゃ。そう強く思うとぼんやりとした意識が大きく揺さぶられ、微 かに音が聞こえるようになってきた。遠くの方で誰か話す声がする。 集中させると段々と感覚が戻ってきて、意識が鮮明になっていく。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 薄く開いた目に映ったのは真っ白な空間。どこかの天井だろうか ? 体を包むふかふかとした感触。どうやら私はベッドに寝ている らしい。 ﹁⋮⋮あ、痛っ﹂ 起き上がろうとして初めて頭部の鈍い痛みに気付いた。ずきずき と頭が疼く。そうだ、私は佐伯くんのアパートに向かっていて、そ れで⋮⋮。 ﹁伊東さん?﹂ 少し離れたところで声がした。佐伯くんの声だ。痛みを堪えて頭 をその方向に傾ける。白い壁の殺風景な部屋、開かれたドアのとこ ろに佐伯くんが立っていた。 ﹁意識が戻ったのか!⋮⋮良かった﹂ 135 心の底から安心した様子でこちらに近寄ってくる。そして私の額 にそっと手の平を乗せると傷が痛むか聞いてきた。目を覆う手には 包帯が巻かれている。そうだ⋮⋮清見さんが噛みついたのだ。 ﹁まだちょっと痛む⋮⋮かな。⋮⋮二人は?﹂ 二人、とは須藤くんと清見さんのことだ。あの時清見さんがパニ ックを起こして竹刀で思いきり私の頭を叩いたのだ。それからの記 憶は⋮⋮ない。 佐伯くんの表情が曇った。まさか。︱︱いや、そうだろうな。こ れから知らされるであろう現実を信じたくなかったが、早くも諦め が私の心を満たしていた。彼は開こうとした口をまた閉じ、そして 意を決したように話し始めた。 ﹁須藤は向こうの部屋にいる。⋮⋮清見さんは﹂ ﹁⋮⋮だめだったんだ﹂ 佐伯くんは否定しなかった。悲しそうな目をして俯いている。予 想していた現実なのに、こうもはっきりと突き付けられると理性に 感情がついていけない。冗談であってほしい。二人で手を取り合っ て、頑張って生き延びようと励まし合ったのはついさっきのことだ ったはずだ。あんなにも力強く生気に満ちた目をしていた彼女が。 呆気がなさ過ぎて、現実は残酷というよりも私たちに興味がないん だな、とぼんやり思った。 佐伯くんはゆっくりとあの後のことを話し始めた。 清見さんは私を打ち、私はその場に倒れた。そして須藤くんの方 に向かって行ったらしい。須藤くんは彼女を止めようと斧とバッグ 136 を地面に置き向かい合った。リーチの長い清見さんは須藤くんの腕 を打ったが彼は怯まず突進し、彼女の腹部に一撃を食らわせた。そ して意図通り気絶したと思われた彼女を横たわらせ、斧を拾って先 にゾンビを始末しようとした。しかし彼女は気絶していなかった。 痛む腹部を押さえながら執念で立ち上がると全速力で駆け出した。 最愛の家族の名前を叫びながら。 ﹁須藤は伊東さんを背負って、俺は手を借りながら、ここまでやっ との思いで来たんだ﹂ それまでまだぼんやりしていた頭で冷静を保っていたのに、急に 何かが勢いよくこみあげてきた。喉の奥のあたりできゅっと詰まっ て、苦しい。一緒に生き残ろうと約束したのに、私だけ生き残って 彼女は死んでしまった。そのシンプルな事実がやっと受け入れられ たと同時に、目頭が熱くなり、嗚咽が込み上げる。 ﹁最後はずっと俺たちに助けを求めていた⋮⋮彼女も自分の精神が おかしくなっていることはわかっていたんだ。ただ、壊れずには生 きていけなかったんだろうな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 止めどなく涙が流れる。なぜ、なぜこんなことになってしまった んだろう。私の心の中を見通したかのように佐伯くんが再び口を開 いた。 ﹁伊東さんが須藤に水を持って行ってくれた時、寺崎が思い出した ようにスマートフォンを取り出したんだ。電話は通じなかったが⋮ ⋮最新型のはディスプレイにタイムリーなニュースが流れるだろう ? それで気付いてしまった﹂ 137 真実を知るのがもう少し遅ければ︱︱彼らは今も生きていたかも しれなかったのに。真っ白な頭にそれだけが浮かび、何気なくベッ ドに接する窓の外を見ると、もう空は真っ暗だった。しばらく外の 闇を遮断する窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。力が抜けてだら しない顔だ。そういえばあの時からずっと化粧を直していない。そ んなどうでもいいことを考えていると大きな声が耳に飛び込んでき た。 ﹁おい、伊東はどう︱︱ってもう起きてるじゃねぇか! 言えよ⋮ ⋮ったく﹂ 目を覚ました私を見るやいなや須藤くんはベッドのすぐ側までず かずかと歩いてきた。荒々しい口調で叫ばれ頭がキーンと痛んだが、 その表情から本当に心配してくれていたのがわかり胸が温かくなる のを感じた。 ﹁須藤くんも佐伯くんもありがとう⋮⋮。ごめんね、大変な時にっ、 足手まといになっちゃって⋮⋮﹂ 様々な感情が込み上げ、みっともない涙声になってしまった。き っと眉間に皺が寄り、口周りの筋肉が強張ってひどい顔をしている だろう。しかし感情の爆発は止まらない。 ﹁前にも言っただろう、こんな時にそんなこと気にするな﹂ ﹁うっ⋮⋮ぐ⋮⋮だって私、二人には迷惑かけちゃうしっ。パニッ ク起こした寺崎くんを落ち着かせるどころか⋮⋮﹂ ﹁それを言うなら俺の責任だ﹂ 佐伯くんの声が急に大きくなる。驚いて涙で霞んだ目で見上げる と、口をきつく結び、普段は落ち着いた様子で細められた目を見開 138 いて、小刻みに震える佐伯くんの姿があった。 ﹁俺があの時、寺崎に食って掛かるような口調で言ったから。あそ こでもう少し穏便にあいつを執り成していれば二人とも今頃生きて いたはずだ﹂ 声はいつもの平静なはっきりした調子だったが、佐伯くんの切れ 長の目の端にはわずかに光るものがあった。確かにあの時の彼は彼 らしくなかったようにも思う。極度の疲れが彼の平常心を奪ったの かもしれない。これほどの非常事態となれば一人の人間、ましてや 若い学生なのだからやむをえないことだろう。むしろあれだけで抑 え、自暴自棄にならずにここまで来たのだ。佐伯くんはすごい。そ う伝えたかったが、言葉が上手く出てこない。 ﹁お前らさ、あんまり自分を責めるなよ⋮⋮﹂ 悲嘆にくれる私たちに須藤くんがぽつりと言う。 ﹁俺だってあいつらが死ぬ要因を作ったぜ。後悔してもしきれねぇ くらいだ。だがよ、ここでいちいち立ち止まってどうする? こん な状況でゾンビ以外の人間もおかしくならないわけねぇだろ。些細 な言動が誰かの破滅を招く。理不尽なことだってあるだろう。でも 俺たちは聖人でも何でもないんだ、それを全部救えるはずがない⋮ ⋮。俺たちはただ、生き残るためにその時最善と思うことをすりゃ いいんじゃねぇのか?﹂ ﹁⋮⋮須藤くん﹂ 彼の身体もかすかに震えていた。いつも気丈に振る舞う彼の弱い 一面。でもその言葉や彼の姿は私の心に深く染み渡り、少しずつ気 力が蘇るのを感じた。 139 しばらくして佐伯くんが静かに顔を上げた。目元が僅かに赤い。 しかしその表情は何かを決心したように力強く、目は強い光を放っ ていた。 ﹁須藤⋮⋮その通りだ。俺たちは聖人でも超人でもなんでもない。 自分への憤りは拭えないが、ずっと引き摺るわけにはいかない﹂ 佐伯くんが立ち上がり、窓の外を見ながら言う。 ﹁今回のことだが、俺は今でもあの時の自分の考えは間違ってなか ったと思っている。いや、正しいも間違いもありはしない⋮⋮。あ るのはそれによって導き出される結果だけ。これからは、ただ生き ることだけを考えるんだ。そして無事生き抜くことができたときは ︱︱その時は、寺崎や清見さんを思い出そう。俺は自分の行動を一 生かけて後悔する﹂ 私と須藤くんは﹁うん﹂と同時に声をあげこくりと頷き、顔を見 合わせた。いつも突っ張った態度の須藤くんが随分と素直な返事を したものだ。 ﹁あははっ⋮⋮﹂ 自然に笑いがこぼれた。つられるように須藤くん、佐伯くんが声 をあげて笑う。何かが吹っ切れたようだった。というよりみんな心 が疲れていたんだ。やっと安心できる時がきた。 ﹁まぁこれから辛いこともあるかもしれねーけどよ、乗り越えて行 こうぜ﹂ ﹁うん﹂ 140 ﹁そうだな﹂ 少しの間沈黙が続く。それさえも可笑しく感じ、私はくっくっと 忍び笑いをする。ただの怪しい人だ。 ﹁そうだ!!﹂ ﹁えぇ?!﹂ ﹁どうした!﹂ 突然叫んだ須藤くんに私も佐伯くんも驚いて応じる。 ﹁おい伊東、携帯見てみろよ。お前をおぶって歩いてた時しばらく の間バイブが鳴ってたんだよな。ゾンビを避けるので精いっぱいだ ったから確認はできなかったんだけどよ⋮⋮もしかしたら家族から の連絡じゃねぇか?﹂ 携帯⋮⋮? 急激に気持ちが高揚した。きょろきょろとあたりを 見渡すと佐伯くんがすっと私に緑色の何かを差し出した。携帯だ。 私はお礼を言うのも忘れ、胸がドキドキするのを抑えて静かに携帯 を開く。 ︱︱不在着信一件 ﹁お母さんだ⋮⋮!﹂ 画面には﹃お母さん﹄の文字が大きく映し出されていた。瞬く間 に自分の顔に笑顔が広がるのを感じる。お母さんが生きている! また生きて会えるんだ! 141 第十九話 家族 じんじんと痛む頭を持ち上げ、どうにかこうにか上半身を起こす。 焦る指で何度もボタンを押し間違えながらも、ようやく着信履歴か ら発信を選択した。︱︱鳴り響くコール音に胸が高鳴る。 ﹃⋮⋮皐月!? 皐月なの!?﹄ ﹁お母さん⋮⋮?﹂ 懐かしい声がした。もう何年も声を聞いていなかったように思え る︱︱実際はたった1日とちょっとなのだが。 ﹃あんたさぁ、災害用伝言ダイアル使えってあれほど言ったでしょ ー? ⋮⋮あぁでも本当よかった﹄ ﹁あ、ごめん! 忘れてたぁ⋮⋮﹂ お母さんは言葉の最後で涙声になって鼻を啜った。私も話しなが ら段々と涙が込み上げてきた。それにしても災害用伝言ダイアルの 存在をすっかり忘れていた。心配性のお母さんから日頃あんなに言 われていたのに。冷静に物事を考える時間は結構あったはずだが、 やはり常に緊張していたようだ。 ﹃今どこにいるの?﹄ ﹁大学の近く。安全なとこ﹂ ﹃一人?﹄ ﹁一緒に逃げてきた人といるよ。同じ大学の﹂ ちらっと二人の方を見ると、佐伯くんは口元に微笑みを浮かべ頷 き、須藤くんもニッと笑顔をつくった。 142 ﹁お母さんたちは大丈夫?﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ ﹁お母さん?﹂ あることに思い至って急に心臓がドキッとした。お母さんの無事 は確認したが︱︱誠。誠は無事なのだろうか。佐伯くんが私の様子 の変化に気付いたのか、眉をひそめ心配そうな顔をしている。 ﹃⋮⋮お母さんは大丈夫。近くの小学校が避難所になっててね、自 衛隊の人達に守ってもらってるから。各地域に指定された避難所が あるはず。あんたたちも早くそこに行きなさい。一週間以内に安全 な場所に連れていってもらえるそうよ。今まで上手く生き延びてや ってこれたんだから⋮⋮大丈夫よね?﹄ ﹁⋮⋮うん﹂ お母さんは努めて明るい声を出しているようだった。言いたくな いことがある。そう確信した。悪い予感が頭の中を駆け巡る。 ﹁ねえ、誠は?﹂ 思いきって単刀直入に尋ねる。息を飲む気配が電話越しに感じら れた。少し間が空き、お母さんは軽く息を吐き出すと話し始めた。 ﹃誠はね、こんなことになった時、まだ家に帰ってきてなかったの ⋮⋮﹄ ﹁⋮⋮! じゃあまだ高校にいるってこと?﹂ ﹃そう。正午頃公衆電話から電話がかかってきて、お昼は友達と食 べるって⋮⋮。全く、こんな時に携帯家に忘れるなんて信じられな い、あの子は! ⋮⋮でももうしょうがないことだから。あんたは 143 自分の身を守ることに専念しなさい。いい?﹄ どう考えてもしょうがないと思っている声ではない。気丈な母が 今にも泣きそうな声で無理してはきはき喋っている。 ﹃お母さんだって誠のこと諦めたわけじゃないからね。誠の高校、 設備が整ってるでしょ? 不審者対策だっていって校舎は高い塀で 囲まれてるし、地域の避難所にも指定されてたはずよ。だったらき っと無事でしょ。あんたも誠も運の強さはお母さん譲りなんだから﹄ ﹁高校⋮⋮か﹂ 誠は都心の私立高校に通っている。もともと都立高校が第一志望 だったが、部活︵誠はサッカー部だ︶に入れ込みすぎて落ちてしま ったのだ。家計を圧迫すると言ってお母さんに散々愚痴を言われ、 罰として毎日皿洗いの約束をかわされたが。それでも部活に熱心で ある意味真っ直ぐな弟をお母さんは本気で責めることはなかった。 ﹃⋮⋮あっ自衛隊の人が来た。配給かな? ごめん、もう切らなき ゃだわ。毎日夜にメールを一本ちょうだい、いい? 電池が切れな いよう普段は電源きっときなさいよ﹄ ﹁わかった﹂ ﹃⋮⋮絶対生き残ってね。皐月が危険な目にあうと思うとどうにか なっちゃいそうなくらい辛いけど、お母さんには、何もできないか ら⋮⋮﹄ ﹁大丈夫だよ。お母さんも絶対生きて待っててね﹂ 名残惜しいが、別れの言葉を最後に電話を切った。 ﹁⋮⋮はぁ﹂ 144 本当に幸福なひと時だったが、通話を終えて一番に重い溜め息が 出た。どうすればいいのかわからなくなった。お母さんは安全なと ころにいるし、誠は高校にいる。家に帰る必要は無いように思える ︱︱。 ﹁弟くんはどこの高校にいるんだ?﹂ しばらくの沈黙ののち、佐伯くんが突然そう聞いてきた。 ﹁えっ? ああ、聞こえてた?﹂ ﹁伊東の母ちゃん声でけぇのな。会話内容全部丸聞こえだぜ。恥ず かしい話題するときは気を付けろよ﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ それじゃあ︱︱いつの日かトイレを詰まらせたのは誰かについて 電話で議論したのは回りの人に聞こえていたのだろうか。結局その 時も誠がトイレットペーパーが切れていたときにティッシュペーパ ーを大量に使ってそのまま流したのが原因だったが。あの時私は気 を使っていたがお母さんは大声で好き放題言ってたからな⋮⋮。恥 ずかしい。 ﹁その顔⋮⋮思い当たることがあるんだな? 何だよ、教えろよ﹂ ﹁いやいやいや、無理無理無理ですってー﹂ 新しい悪戯を思いついたガキ大将のような顔で詰め寄る須藤くん を本気で避ける。いや、本当に無理です。きっと今の私の顔は真っ 赤だ。 ﹁須藤、やめろ。⋮⋮で、伊東さん。どこの高校なんだ?﹂ 145 佐伯も実は気になるんだろーと尚もしつこく言う須藤くんにコホ ンと咳払いし、私に話の続きを促す。 ﹁え、えと⋮⋮私立晃東学園。知ってる? サッカーの強豪校だよ﹂ ﹁ああ、じゃあここから結構近いな。目指している小学校と距離は たいして変わらないだろうし、あちらの方が避難所としての設備が 充実しているだろう⋮⋮行くか﹂ ﹁え、本当に!?﹂ 自分の住む地域でさえ道を把握しきれていないほど地理が苦手な 私は距離も何もわかっていなかった。出来すぎた展開に戸惑いつつ も喜びが隠せない。 ﹁伊東のおふくろも無事なんだったらよ、そのままそのなんちゃら 学園で救助待つので決定だな﹂ 須藤くんが軽く言う。︱︱でも。私の家族の安全だけ確認して後 はしらないなんて許されるわけない。佐伯くんの家族も須藤くんの 家族も今どうなっているのだろうか。すると須藤くんは私の胸のう ちがわかったのか、話を続けた。 ﹁さっき親父からメール来たんだよ。皆無事だとよ。⋮⋮ったく、 くたばってくれてよかったんだがな﹂ 須藤くんの家族が生きていたことに顔を輝かせる間もなく、憎し みをこめて続けられた言葉に、反応に困ってしまった。一体彼の家 庭に何があったのだろう。聞いてもいいのだろうか。 ﹁⋮⋮あ∼、おい佐伯。アレあるか? ほら、やっぱ人間⋮⋮つー か男か、生命の危機に直面すると本能が働くのな﹂ 146 ﹁なんだ、さっき食べたばかりじゃないか。まぁ家には災害用に十 分にあるから構わないが﹂ ﹁いや、じゃなくてよ﹂ 話を切り出そうとしたとき、それを見越したように須藤くんが佐 伯くんに話をふった。アレとは何なのだろうか。妙に神妙な面持ち の須藤くんに私も気になってしまう。 ﹁あれだよ、ほら。エロいの。本でもなんでもいいからよ﹂ ﹁お、お前っ⋮⋮何の脈絡もなく急に何を言い出すんだ⋮⋮。女性 の前だぞ? 控えろ﹂ ﹁ああ、今時本はねぇか。お前アナログ派だと思ってよ⋮⋮ビデオ でもいいぜ?﹂ ﹁ないっ!﹂ ﹁見え透いた嘘はやめとけ⋮⋮あぁ、お前なんか官能小説とか読ん でそうだな。じゃあいいわ﹂ とても須藤くんの複雑な家庭事情に関してなど言い出せる雰囲気 ではなくなってしまった。それにしても須藤くん︱︱ダイレクトす ぎる。佐伯くんは真っ赤になって否定している︱︱彼、見るからに こういう話題に弱そうだ。ちょっと可愛い。須藤くんはそれをわか っていてわざと口にしたのだろう。顔が意地悪く笑っている⋮⋮。 ﹁ねえ、佐伯くんの家族はどうなの?﹂ 佐伯くんが可哀想になって話題を戻したが、あまりにも話の空気 に落差がありすぎることに気付く。ちょっと失敗したかもしれない。 須藤くんは﹁伊東あまり動じねぇな﹂とつまらなそうだ。 ﹁伊東さんが意識を失っている間に両親から連絡があった。向こう 147 でも凄まじい被害だそうだが、軍に救助されたそうだ。⋮⋮ただ、 姉とは連絡がつかない﹂ 流石佐伯くん、切り替えが恐ろしく早い。お姉さんのことは心配 だが、佐伯くんが言うには簡単に死ぬような人じゃないそうだ。ど のような人なのか気になるところだが、望みを捨てずに気長に待と うということで話は終わった。 ﹁そういえばさ、今国はどう動いてるのかな﹂ ﹁ああ、さっきテレビニュースを見ていたんだが⋮⋮官公庁は被害 は免れなかったものの機能しているようだ。あそこは普段から警備 が厳重だし土日となると人は極端に少ないからな﹂ ﹁放送局も無事なんだ!﹂ ﹁いや、いくつかは壊滅したようだぜ。今は半分くらいの局が動い てる。まぁさっきテレビでヘリで中継もしてたし、案外情報網は生 きてるみてぇだ﹂ ﹁ゾンビの発生理由については今調査中らしい。国民の安全への国 の対策としては、なるべく避難所に移動し、遠かったら家で待機す るようにとのことだ﹂ 二人は得た情報を事細やかに説明してくれた。話を聞く限りやは り思ったよりも事態は絶望的ではないようだ。もしかしたら日常生 活に戻れる時が本当にくるかもしれない。 ﹁ところで伊東さん、今具合はどうだ?﹂ ﹁⋮⋮うん、大丈夫!﹂ 少し考え佐伯くんに笑顔で応える。正直まだ頭が痛いが明日にな れば歩けるようにはなるだろう。 148 ﹁無理しても危険を招くだけだぜ?﹂ ﹁う⋮⋮﹂ 須藤くんに指摘され、三人で話し合い、今日はとりあえず寝るこ とにした。ゆっくり休んで明日中にルートを決め、時間を見計らっ て出来る限り早く出発する予定だ。誠の安否を早く確認したいが、 今高校で保護してもらっているかどうかでもう運命は決まってしま っているだろう。それにきっと大丈夫な気がする。誠は生きている。 佐伯くんと須藤くんはリビングで寝るそうだ。ベッドを独占して しまい申し訳なく思った。二人は私に﹁おやすみ﹂と声をかけると 電気を消してドアを閉めた。私は引きずり込まれるように夢の世界 へと入って行った。 149 第二十話 平和 ﹁⋮⋮伊東さん﹂ ぐっすり眠っていたところを揺り動かされ、私は重たい瞼を僅か に持ち上げる。ぼんやりと映し出される佐伯くんの顔。⋮⋮近い。 涼しげな目を縁取る睫毛の一本一本まで見える。 ﹁⋮⋮ん、どうしたの?﹂ 佐伯くんは柔らかく微笑み、何も言わずに私の手をとり立ち上が る。私も彼に支えられながら体を起こした。頭の痛みはきれいさっ ぱり無くなっている。佐伯くんに引かれるままに私はリビングへ向 かった。 ﹁伊東、起きたか﹂ 真っ白な壁に囲まれた清潔感溢れるリビングのソファーに須藤く んが足を組んで腰かけていた。私が来るのを待っていたかのように 立ち上がる。 ﹁さあ、行こう﹂ 佐伯くんはそのまま直進し、玄関のドアに手をかけた。どこに行 くっていうの? 危ないよ⋮⋮。そう声にする間もなくドアが開か れた。瞬間、眩しい光が薄暗い室内へ溢れ出す。暖かい、朝日。 ﹁え⋮⋮嘘⋮⋮﹂ 150 アパートの廊下から見える正面の道路は血溜まり一つなかった。 ゾンビもいない。向かいの建物から人々が出てきていた。皆訳のわ からない様子で辺りを見渡している。 ﹁悪夢は、終わったんだ﹂ 私の肩にゆっくりと佐伯くんの大きな手が乗せられる。信じられ ない思いで須藤くんを見ると、彼もいつものひねくれた笑顔で私を 見ていた。 ﹁終わったんだ⋮⋮何もかも。あんな悲しみや苦しみは、もう味わ うことはないんだね⋮⋮﹂ 胸にじんわり広がる安堵感。幸せを噛み締めるように私は言葉を 紡いだ。 ﹁︱︱シャワー浴びるか?﹂ ﹁⋮⋮はい?﹂ あまりに唐突な言葉。そして先程から頬に感じる冷たい何か。 ﹁あれ?﹂ 須藤くんが私を見下ろしている。色素の薄い髪は水に濡れ、いつ ものように逆立っておらず下ろしてぺったりとしている。どうやら 彼の髪から水滴が垂れてきていたらしい。 ﹁なんだぁ、夢かぁ⋮⋮﹂ 私はまだベッドに寝たままだった。幸い頭部の痛みは大分引いた 151 ようで、私は再びゆっくりと体を起こした。 ﹁って、須藤くん! 何で上半身裸なのっ!﹂ ﹁シャワー使えるぜ? まだライフラインは生きてる﹂ 悪びれもせず飄々とそう言ってのけた須藤くんはまだ水滴のつい た体に白タオルをかけ、身に付けているものは派手な色をしたボク サーパンツだけだった。鍛え上げられた上半身は日に焼け、すっと 逆三角形を描いている。いやいや、三角形でも四角形でもどうでも いい。 ﹁もーっパンツ一丁でうろうろして! 向こう行ってー!﹂ ﹁なんだよ、伊東は耐性あると思ったんだがな﹂ ﹁なに勝手に決め込んでるの! ありませんからーっ!﹂ 須藤くんはわかったわかったと素直に部屋から出ていった。マー ブル模様というのか、赤や紫、青などドきつい原色が入り雑じった 柄のボクサーパンツがまだ網膜に焼き付いている⋮⋮趣味が悪すぎ る。 ﹁はぁーびっくりした。⋮⋮で、結局シャワー浴びろってことだよ ね?﹂ 動揺を隠すように独り言を言いながら、須藤くんカッコいい体つ きしてたなーと思い返す。そしてきっと佐伯くんもいい身体をして いるに違いない。一見細身な彼は隠れマッチョだ。ふふふ。怪しい 笑みを浮かべる私はそう、筋肉フェチというやつなのだ︱︱て、私 も何考えてるんだか。一人自分に突っ込みを入れて気持ちを入れ替 えるため頭をぶんぶんと振る。私もシャワーを浴びさせてもらおう。 そういえばあれだけ動いたのにまる一日、汗一つ拭いていなかった。 152 ﹁おはよ⋮⋮﹂ ﹁おはよう。頭はもう大丈夫そうだな。よく眠れたか?﹂ リビングに入ると、同じく髪を濡らした佐伯くんがすっきりとし た顔で挨拶を返した。 カーテンが閉め切られた仄暗い室内にテレビの光が浮き出ている。 どこかの避難所から現場中継らしい。公民館らしき建物を囲むよう に頑丈なバリケードを築き、ヘルメットを被った迷彩服の屈強な自 衛隊員たちが機関銃を手に避難民たちを誘導していた。その背後で は避難民を乗せた輸送車輌が到着し、ゾンビに噛まれていないか厳 重にチェックし始める。 ﹁うわぁ⋮⋮すごい、ゴッツい車⋮⋮日本にもあんなのあったんだ ね﹂ ﹁普段あまりお目にかかれるもんじゃねーからな。憲法で平和主義 だの戦争しねぇだのは言ってるが、日本は軍事力はそこそこあるし よ﹂ タンクトップにタイトなジーンズというラフな格好に身を包んだ 須藤くんが応える。髪はもう既にワックスで逆立てられていた。 ﹁じゃあ、ゾンビを根絶やしにするのも不可能じゃないってこと?﹂ ﹁それはどうかね⋮⋮。やつらはネズミ算式に増えてくだろうし、 いくらやつらの頭がすっからかんだとしても何か嫌な予感がするん だよなぁ。俺だけか?﹂ ﹁そう心構えていた方がいいだろうな。このような未知の事態に心 配をしすぎるなんてことはない﹂ 153 難しい顔をして佐伯くんが立ちあがった。 ﹁さて、ルートを決めなきゃいけないな。⋮⋮地図を探してくる。 伊東さんはシャワーを自由に使ってくれ。最後になってしまってす まない﹂ そう言うと佐伯くんはさっきまで私がいた部屋に入っていった。 そうか、あそこは佐伯くんの寝室だったんだ。男の子の部屋にお邪 魔するなんて弟を除いたら十年ぶりくらいかもしれない。そう意識 するとちょっとドキドキしてきた。こんなときに、私は変態か。 ﹁さーて、入ろっと!﹂ 思い切り伸びをしてお風呂場へ向かって大きく足を踏み出すと、 後ろから視線を感じた。 ﹁⋮⋮須藤くん、絶対ないとは思うけど、見ないでね?﹂ ﹁はっ、見ねぇよ﹂ ﹁じゃ、あっち行ってて﹂ ﹁⋮⋮えー﹂ ﹁須藤、地図が見つからない。手伝ってくれ﹂ ﹃えー﹄じゃない! と突っ込みを入れようとする間もなくドア が勢い良く開けられ、佐伯くんに須藤くんは連行されていった。 ⋮⋮仲良くなったなぁ。生真面目で古風な佐伯くんと一見不良で 軽いノリの須藤くん︱︱本来関わりあうことがなさそうな二人だ。 最初はどうなるかと思ったけれど、死と向かい合わせのこの世界で こんなに微笑ましいこともあるもんだ。私は静かに笑みを浮かべた。 154 脱衣所の扉を閉めると汗でじっとりとした服を脱ぎ、壁に取り付 けられた三面鏡に映った自分の顔を見る。 鎖骨までのびたぼさぼさの髪。一度も染めたことはないが元々ダ ークブラウンに近い色のその髪は、電球の光を浴び鈍い艶を放って いる。顔は少しやつれてはいるが、一晩ゆっくり眠ったおかげでそ れほどでもない。昨日は相当酷かっただろうが。 でもやはりお母さんの無事が分かったことと、三人で今後の覚悟 を決めたことが大きいだろう。あとテレビのニュースでまだ国が機 能していることを知ったのもある。少し明るくなった未来を思い浮 かべ、私は清々しい気持ちでお風呂場のドアを開けた。 シャワーですっきりしてバスタオルで水分を拭き取っていた時は っと気付いた。 ﹁ええと、佐伯くーん﹂ 少ししてドアを開ける音がし、佐伯くんがドア越しに近付いてき たのが気配で分かった。 ﹁どうしたんだ、伊東さん﹂ ﹁⋮⋮服がなかったです﹂ そう。よく考えたらわかることだった。私は荷物を大学に置いた まま逃げてきたのだし、そもそも着替えなんて大学に持ってきてい ない。下着もない⋮⋮。 ﹁そのことなんだが⋮⋮洗濯機の上に服があるだろ? 少々キツイ 色をしている服だ。悪いけどそれで辛抱してくれないか⋮⋮?﹂ 155 ﹁あ、これ?﹂ 洗濯機の上に綺麗に折りたたまれたピンク色のシャツと︱︱淡い 色のジーンズがすぐに目についた。 ﹁街に出たらなんとかして婦人服を手に入れよう。ここらに服屋は 多いし⋮⋮あと、本当に申し訳ないんだが、下着は水で濯ぐとかし て⋮⋮﹂ ﹁大丈夫大丈夫! りょーかいです。ありがとう﹂ 最後の方はだんだんとフェードアウトしていってほとんど聞き取 れなかったが、何だかいじめているようで可哀想になり早めに話を 終わらせることにした。 それにしてもピンク色のシャツなんて⋮⋮さっきの須藤くんのパ ンツにしても︱︱きっと佐伯くんから借りたものだろうから︱︱彼、 意外とすごい趣味してるんだな。人は見かけによらない。うん。 シャツを被るとやはり小柄な私には大きく、少し短めのワンピー スのようだ。気持ち悪いが洗いたての水でびしょびしょな下着の上 からジーンズを履いた。おしりが絶対に染みになる。まぁいいや。 ﹁おまたせしました﹂ ﹁⋮⋮やっぱすげぇ色してんのな。そんなおかしいってわけじゃな いがよ﹂ ⋮⋮やっぱり須藤くんもそう思ってたんだ。二人で顔を見合わせ 苦笑いする。 ﹁それは全部、海外に住む両親が送ってきたんだ⋮⋮。俺には似合 156 いそうもないから、ずっと着ないままどうすればいいのかわからず 保管しておいたんだが⋮⋮新品だからと思って⋮⋮すまない﹂ 佐伯くんは顔を真っ赤に染めながら本気で申し訳なく思っている ようだ。私も須藤くんもそんなことない、素敵素敵と根も葉もない フォローをする。 ﹁それよりよ、何か食い物ねぇか? 昨日の朝に菓子食っただけだ しよ、夜はすぐ寝ちまったし。腹空いただろ?﹂ ﹁そうだな、ルートを考える前に朝食にするか。非常食もあるが⋮ ⋮今は日持ちしないものを消費しておこう﹂ まだ冷蔵庫も動いていて、佐伯くんはそこから卵や納豆、牛乳な ど色々取り出す。それから手際良く炊飯器からお米をつぎ、テレビ の前の低いテーブルに並べる。三人座ったところで手を合わせ﹁い ただきます﹂と行儀よく挨拶をする佐伯くんを尻目に須藤くんは物 凄い勢いで食べ始めた。 ﹁ちょっと、そんなご飯いっぺんに食べたら喉に詰まるよ﹂ ﹁そんなんらいじょーうらよ!﹂ ﹁食べながら喋るんじゃない﹂ すごく平和な会話だ。こんな日がずっと続けばいいのに。しかし 現実を考えると、こんなご飯が食べられる時はもう二度とないかも しれない。 食べるのが遅い私がようやく箸を置き、少しして佐伯くんが話を 切り出した。 ﹁地図を見てくれ。今俺たちがいるのはここ⋮⋮大学から少し離れ 157 た駅の近くだ。そして伊東さんの弟くんがいるらしい高校は⋮⋮こ こだ。線路沿いに西に進んでこの大通りで曲がり⋮⋮﹂ 佐伯くんが地図にマーカーで線を引いていく。今いるアパートか ら誠のいる晃東学園まで︱︱確かに結構近い。線が折れる回数は十 回を下らないが、それでも半日あれば十分な距離だ。︱︱それは何 もなかった時の場合だが。 ﹁今は朝の七時だから⋮⋮あと少しで出発して、少なくとも夕方ま でに避難所着くようにするか﹂ ﹁いいんじゃねぇの?﹂ ﹁うん、いいと思う!﹂ ﹁よし、決まりだ。非常食など必要な物は昨日の夜に詰め込んでお いたから、最後に情報を確認しながらゆっくり︱︱﹂ 急に佐伯くんが黙り込んだ。不思議に思ってどうしたのか聞こう としたが、すぐに佐伯くんが静かにと手ぶりで伝える。耳を澄ます と⋮⋮どこからか、微かに人の声がする。甲高い︱︱悲鳴? 窓際にいた須藤くんが即座にカーテンを開け、下の様子を確認す る。続いて佐伯くん、私も覗きこむ。 ﹁⋮⋮あっ!﹂ アパートの下、車が二台通れるか通れないかの狭い通路に乗用車 が一台とまっていた。それをここからでもわかるくらい真っ白な死 人のような肌をしたゾンビが囲んでいる。バン、バンと車のガラス を叩く音。常人がすれば痛くてすぐに止めるだろうが、痛覚が欠如 したゾンビ達は躊躇うことなくリミッターが外れたその脅威的な力 で叩き続けている。 158 ﹁まずい、ひび割れてきてんじゃねーか?﹂ ﹁中には誰かいるのっ?!﹂ ﹁⋮⋮三人いる。ゾンビが邪魔でよくわからないが。さっきからパ ニックを起こして誰かがずっと喚き立てているようだ。あれでは時 間の問題だな﹂ そう言って佐伯くんはすっと窓を離れる。 ﹁⋮⋮助けにいこうよ!﹂ 淡々とした口調の佐伯くんに、私は縋るように佐伯くんの背中に 呼び掛けたが、すぐにそんな自分を恥じた。佐伯くんは用意してい た鞄を担ぎ、手には竹刀ではなく︱︱淡い色合いが美しい、芸術品 ともいえる木刀が握られていた。鍔付きで、形は本物の刀のようだ。 ﹁稽古用の本枇杷の木刀だ。古来より剣豪に愛用されてきた⋮⋮威 力は練習用の竹刀とは比にならないぞ。実戦は初めてだが断言でき る﹂ 食糧や缶の詰め込まれたスポーツバッグを手に、ドアの方へと進 む佐伯くんを追う。 ﹁予定より出発が早まっちまったな﹂ 後ろを振り向くと須藤くんが鉄色に鈍く光る万能斧を片手で高く 掲げていた。 ﹁行くぞ!﹂ 159 佐伯くんがドアを開け、私たちは再びゾンビの蔓延る街へと飛び 出した⋮⋮。 160 番外編 須藤英雄 白いタイル張りの、少し古めなアパートの三階。佐伯は砂が大量 に入り未だ涙を流し続ける両の目を瞬かせ、鞄から手探りで鍵を取 り出すとドアを開けようとするが︱︱なかなか鍵穴に入らないよう だ。 ﹁いい、俺がやる﹂ ﹁⋮⋮ああ、すまない﹂ 俺は手にした斧とスポーツバッグを床に下ろすと前傾姿勢になっ て、おぶっている伊東を落とさないよう片手で支えながら鍵を開け た。 ギィッと錆び付いた音をたてながらドアが開く。中は古い外観に 見合わず予想外に綺麗だった。リフォームしたばかりなのか︱︱壁 が眩しいくらい白い。いや、これは部屋の持ち主の几帳面な性格の 表れだろう。家具も少なく、必要最低限の物しか置いていないよう だ。 ﹁お前、女連れ込んだことないだろ﹂ ﹁⋮⋮そんなことどうでもいいだろう﹂ 図星だな。疲労で弛緩した顔に自然と笑みがこぼれる。別に部屋 から推測した訳じゃあなく鎌かけただけだが、思った通りひっかか ってくれた。 俺は靴を脱ぐと嫌味なくらい清潔感漂うリビングに上がり込んだ。 小型なテレビの正面にソファーと、その間に低いテーブルがあった。 161 ﹁おい、伊東はどこに寝かせればいい?﹂ ﹁俺の部屋にベッドがある。ドアは一つしかないからすぐわかるは ずだ﹂ 佐伯は俺が置きっぱなしにしていた斧とバッグを部屋に運び、ド アを閉めた。 ﹁わかった。お前、目洗っとけよ﹂ 辛そうに目を手で覆う佐伯にそう声をかけると俺はドアを開け部 屋に入った。白いシーツに紺の掛け布団。洗濯したてであろう、皺 も染みも一つもないその上に伊東を下ろす。 伊東は口を僅かに開け静かに息をしていた。睫毛が目元に濃い陰 をつくり、赤い唇から白い歯が覗く。俺はシーツに広がった長い髪 を撫で付けると掛け布団をかけようとして︱︱捲れ上がった青いワ ンピースから見える無防備な白い太股に目が釘付けになる。 ﹁おっと﹂ 俺は身体の奥からこみ上げてきた邪な気持ちを振り切るように一 人呟くと伊東の首もとまで掛け布団をかけた。 ﹁彼女は落ち着いている様子か?﹂ ﹁ああ、ぐーすか寝てやがる。⋮⋮体育館で見た時も少しは思った けどよ、改めて見ると伊東ってなかなか可愛いよな。思わず襲いか かりそうだったがこらえたぜ﹂ もはや癖の軽口を叩きながら部屋のドアを閉めソファーにドカン 162 と腰を下ろす。体のあちこちが軋むように痛い。女︵それも、ちん ちくりんな︶背負ってちょっと走ったくらいで⋮⋮いやその前から の緊張だとか色々あるだろうが、俺もまだまだトレーニングが足り ねぇな⋮⋮。 ﹁互いを想い合っているなら構わないが⋮⋮無理矢理は止めろよ。 こんな世の中だ、愚かなことを仕出かす暴徒のような輩も現れるだ ろうが⋮⋮身近な人間を殺された辛さの上にそんなことをされたら 立ち直れないくらい心に傷を負うぞ﹂ 眉間に皺を寄せて苦々しい顔で説教し始めた佐伯をぽかんと見つ める。おいおい、そんなに俺が信用できねぇのかよ。 ﹁しねぇよ。つーかお前ら付き合ってんじゃねぇのかよ﹂ ﹁なっ⋮⋮お前もしかしてあれからずっと勘違いしてるのか?﹂ ﹁違ぇのか?﹂ ﹁違う! 伊東さんとはこの騒動の最中に出会ったばかりだ﹂ 少し頬染めてやがる⋮⋮わかりやすい奴。野郎が照れたとこなん て見たくもねぇけどな。まぁそんなとこは面白いし、くそ真面目で いい奴だとは思うが。 ﹁まぁ⋮⋮素直でいい子だとは思うけどな﹂ あっ、早くもデレやがった。色恋事にどんくさそうなこいつらの 行く末を思い浮かべ、はぁーと重い溜め息をつく。すると佐伯は突 然真剣な表情になり、言い辛そうに口を開いた。 ﹁⋮⋮あまりこういうことに首を突っ込むのは好かないが状況が状 況だ。須藤、お前交際している女性はいないのか? 興味本位で聞 163 いているんじゃあない。会いに行くべき人はいないのか﹂ ﹁いねぇよ﹂ 心底意外そうな顔をされたが構わず続ける。 ﹁真剣な交際した相手なんざ一人もいねぇな。食って捨てるような 相手ならいくらでもいたが﹂ ﹁お前って奴は⋮⋮﹂ 呆れたように首を振る佐伯をよそ目に俺は今まで相手にしてきた 女たちを思い返そうとするが、誰一人顔を思い出すことができなか った。ただ一つ覚えているのは、どいつもこいつも薄っぺらで男に 媚びることしか能がない卑しい女だったってことだ︱︱あの女のよ うに。 ﹁須藤⋮⋮?﹂ 無意識にすげぇ顔をしていたらしい。あの女のことを考えるとい つもこうだ。精神が未熟である表れだ。そんな俺に佐伯は射るよう な視線を投げかけてくる。何となく気まずくなってさっと目を逸ら す。 ﹁須藤、お前何か気に病むことがあるのか。無理強いはしないが⋮ ⋮心に隙があるとこれから思わぬ事態を招くことにならないとも言 えないからな﹂ ﹁なんでも⋮⋮﹂ なんでもない。そう言いかけて、俺は何を思ったのか考えを変え た。気付いたら自然と口に出ていた。 164 ﹁⋮⋮正直言って俺は怖い。無茶苦茶なことやらかしそうでよ﹂ ﹁⋮⋮お前がか?﹂ ﹁ああ。昔から興奮が高まるとコントロールがきかねぇ。大学でも 散々迷惑かけただろ。破壊衝動っていうのか⋮⋮何もかも壊してや りたくなる。⋮⋮育ちが悪かったんだろうな﹂ 佐伯は黙って俺の話に耳を傾けていた。こいつは一見他人のこと をよく気遣える優等生的な優男だが、かなり合理的なタイプの人間 だ。危険分子は容赦なく切り捨てる冷酷さも兼ね備えているように 思う。それなら俺は危険視されるだろうが、なぜこんな話をしてい るのか。自分がよくわからない。ただ心身の疲れに任せて感情を吐 き出していた。 ﹁そういや、なぜ俺が家族を気にしないかってのはよ、ありがちだ が家庭環境が最悪だったからだ。俺の親父はDVの屑野郎で⋮⋮今 いるのは新しい母親だ。兄弟も下に四人いるが、全員腹違いのガキ どもだ﹂ 佐伯は尚も真っ直ぐな瞳を向けてくる。不思議と嫌な気分じゃあ なかった。 ﹁信じられねぇだろうが、俺の家は結構裕福な家柄でよ。親父は最 高峰の大学を出たエリート官僚だ。当時一人息子だった俺も当然な がら幼少から熱心な教育を受けてきた⋮⋮。だがこれまたありがち だが家庭は冷めきっていた﹂ ﹃あなた⋮⋮ひでちゃんは遊びたい盛りなんですから﹄ 小学四年の頃だったか。新しいゲームソフトの発売日か何かで遊 びたい気持ちが叱られるのを恐れる気持ちを勝り、俺は英会話のレ 165 ッスンをサボった。平日も休日も毎日毎日、親の望む人間になるた めの訓練をこなしていたが、遊びたい盛りの俺はとても耐えられな かった。弾む足取りで家に帰った俺を待っていたのは容赦ない親父 の鉄拳だった。いつもは割と素直に親父の命令に従っていて今回初 めてこんな暴力を受けた俺は茫然として、泣くことも忘れ心から親 父に恐怖した。その時お袋が言ったのがこの言葉だ。あの頃の記憶 はほとんどないが何故かこれだけは今も忘れない。そしてその後の 出来事も。 親父は美しい日本人形のように整ったお袋の顔を、思い切り平手 打ちした。お袋は衝撃に耐えられず柱に勢いよく頭をぶつけ倒れた。 そして泣きながら駆け寄った俺の頭をお袋は涙一つ流さず、悲しげ な笑顔で撫でた。 機械のように冷酷な父親だった。体裁だけを気にする男で、自分 の意に反することは絶対に認めなかった。ほとんど家で顔を合わせ ることもなかったし、帰ってきたと思えば恐怖で俺と母親を支配す る。ただ血の繋がりがあるというだけで俺は親父に反抗できずにい た。今にしてみればそんなDV野郎にへこへこしてた俺を殴りたい。 だが皮肉にも俺の学力は天性のものがあった。難関と言われる私 立の小学校、中学校とエスカレーターで上がり、成績も学年で三番 以内に入らなかった日はなかった。あの頃の俺は従順で⋮⋮何も疑 うことを知らなかった。その愚かな純粋さが母を殺したんだ︱︱今 になってわかる。 忘れもしない中学一年の夏。夏休みだと言うのに遊びもせず塾に 通いずめだった俺が、その日間違えて休講日に塾に行ってしまった。 授業が無いことを知り嬉しくなった俺は冷凍庫に冷やしてあるアイ スを思い浮かべ、にんまり口笛を吹きながら家へ向かった。 166 家へ帰ると妙な空気が漂っていた。リビングからすすり泣くよう な声が聞こえる。 ﹃何故ですか! 私たちよりその女の方が大切だとでも︱︱﹄ お袋の声はそこで途切れた。親父が殴ったのだ。閉められたドア越 しにでもわかった。テーブルの上のものが派手な音をたてて床に落 ちる。親父は少しでも反抗的な態度をとられるとすぐに手がでる。 それは今でも変わらない。自分をいい気持ちにさせる相手にしか興 味がないのだ。 お袋が半狂乱になって叫び声をあげる。耳をつんざくようなその 声が恐ろしくて、恐ろしくて⋮⋮俺はその場から逃げ出した。 ﹁実のお袋は死んだ。俺が中学に上がってすぐの⋮⋮夏だったか。 交通事故だった。それからおふくろの保険金ですぐにやたら豪勢な 高級住宅街に一戸建てを買ってよ。のこのこと俺の前に姿を見せや がったんだよ、あの女が﹂ お袋はきっと気が病んで注意力散漫だったのだろう。あの女と親 父が手を組んで殺したんだと思った時期もあった︱︱いや、今でも 心の奥底でそう思っているのかもしれない。 それからの生活は思い出したくもない。家事もできなければ教養 もない、若さだけが取り柄のあの女は︱︱天才的な自分を着飾る技 術と親父への媚びで︱︱俺の生活を侵食していった。親父もいい気 分であの女に好きなだけ贅沢品を買い与え、次々と弟や妹が生まれ た。他に子供ができればやつらにとっては俺は無価値だ。視界に入 れば暇つぶしに虐げられ、全てを否定されて、俺の自尊心はボロボ 167 ロだった。もはや家に居場所はなかった。 ﹁そんなある時、俺は親父を殴っちまった。あの時の親父のぽかん とした顔⋮⋮いま思い出しても笑える﹂ お袋のことを軽々しく口にした親父を気付けば俺は殴りつけてい た。俺は身体だけは成長していたから、痛かったのだろうとは思う。 まぁそれよりも従順な奴隷に反撃されて驚いたのだろう。殴り返さ れるかと思ったがそんなことはなく、ただ次の日から俺は叔父の家 に預けられた。親父の兄である叔父は親父と違って平凡だった。む しろ親父が成り上がりで家系的に特殊だったのだ。叔父は親父から 大金を受け取り俺を引き取った。そして俺は名門中学は退学し、近 所の公立中学に転入した。 全てを失って何もなかった俺は他人のものをぶっ壊すことに喜び を見出し始めた。他人の所有物を壊すことから始まり、あっという 間に暴力沙汰を起こすまでに発展した。叔父はそんな俺にはまった くもって無関心で⋮⋮問題が自分たちに降りかかってきそうな時は 如何にも迷惑そうな、ゴミを見るような目で俺を見た。 高校に入ってからも変わらなかった。何人もを病院送りにした。 でも俺が相手から奪われることは絶対にないよう、一方的に相手を 破壊するため身体を鍛え、牢獄へ放り込まれることがないようギリ ギリのところで加減した。それでも鬱屈した破壊衝動はみるみる俺 の中で膨れ上がって、日に日にその思いはつよくなった。誰かを殺 したい。そんな思いが。 ﹁荒んだ日々を過ごしていた俺はなぜかボクシングを始めた。街中 で絡んできた野郎をぶん殴ってやったらもう一人が﹃俺の通うジム にはお前なんかよりもっと強い奴がいる﹄なんて言いやがったから 168 どんなもんかと思ってな。小汚ねぇビルの1フロアを貸しきっただ けのトレーニング施設でよ﹂ 学業に加えこういう才能も俺にはあったようだ。日頃実戦を積ん でいたとはいえ何も技術的なものを学んでいなかった俺だったが、 そこにいたほとんどの奴がてんで大したことなかった。しかしそこ には一人の男がいた︱︱俺が今でも尊敬してやまないボクシングの 天才だ。 ﹁やたら険しい顔をした富士さんと呼ばれる初老の男がいた。俺の ぼろ屑みたいな人生は富士さんに出会ったことで変わった﹂ 彼は強かった。ありがちな展開なのでそれからの出来事は割愛す るが、俺は彼に師事した。俺の頭から破壊衝動、家での孤独感は抜 け、ただただボクシングに打ち込む毎日を送った。穏やかな余生を 過ごすため急に富士さんが田舎へ姿を消すと、途端に不思議と別の 熱意が湧いてきた。 ﹁それからはまぁ足を洗って、一年浪人したもののあの大学に入っ たわけだ。で、なんでこんな話をしちまったかというと⋮⋮人の姿 をしたゾンビをぶっ殺してるうちに、またあの時の俺が戻ってきや がんだよ。更生した後も他人なんざどうにでもなれって思ってきた が、お前たちには借りがあるからか⋮⋮暴走して迷惑をかけたくな い、と今は思ってる﹂ ﹁そう危惧する気持ちがあるなら、まだいい方だ。それに避難所ま であと少しだからな⋮⋮どうにかなるだろう﹂ 佐伯は飄々と答える。本心はどうだか知らんがな。それにしても あまりにもべちゃくちゃと話しすぎた。きまりが悪くなり用を足そ うと立ち上がった俺を佐伯が呼び止めた。 169 ﹁⋮⋮ひとつ疑問がある。そんな繋がりのない家庭ならば、お前に 連絡なんて寄越さないと思うのだが﹂ さっき俺が滅多に使わず存在を忘れていた携帯電話が鳴り、家族 と連絡が取れたのだ。 ﹁⋮⋮俺に連絡してきたのはガキどもだ﹂ ﹁お前の義兄弟のことか?﹂ ﹁そうだ。あいつらが生まれた時の俺は荒んでいて⋮⋮視線だけは 相手を射殺そうとせんばかりの勢いだったからあの女も俺に近付け たくなさそうだったんだが。妙に懐いてきてよ⋮⋮大学に上がって からは会うことも滅多になくなったが。親父とあの女の血が流れて いると思うと気持ち悪ぃが、まぁ⋮⋮少しは可愛いと思う⋮⋮かも な﹂ なんだか無性にむずがゆくて、俺はそそくさと洗面所に向かった。 170 番外編 清見千香子 大学生になって初めて経験するアルバイト︱︱商品を並べたりレ ジを打ったり︱︱そんな作業を黙々とこなすのが私の性にあってい ると思い、私は大学の近くのコンビニの店員に挑戦することにした。 しかし思っていたよりも仕事内容は複雑で。少しお堅いところはあ るけれども学業やサークルと両立させようと奮闘する私の相談に親 身になって応じてくれる店長や、老若男女様々で個性豊かな他の店 員たちに迷惑をかけながらもようやく慣れてきたと感じるようにな った頃︱︱その日は突然やってきた。 ﹁いらっしゃいませー⋮⋮﹂ 最初から変だと思ったのだ︱︱。それを視界にとらえた瞬間、身 体に痺れるような緊張が走った。自動ドアをくぐりよろよろと店内 に入ってきたその人は、どう見ても普通の人間ではなかった。額か ら血を流し、腕の関節は変な方向に曲がっている。目は虚ろで肌は 死人のように白い。歩き方も頭の頂点を斜め上から紐で引っ張られ ているような感じで不自然で︱︱とにかく全てが奇妙だった。 ﹁き、清見さんっ⋮⋮なんすかこの人?﹂ もう一人のレジ当番、寺崎海斗くんが困惑した表情でそっと耳打 ちをする。いまどきの高校生といった風貌の彼とは同じ時間帯にシ フトを組まされることが多かったため、早くに打ち解け今ではよく 話をする仲だ。最近所属するバドミントンサークルの活動も忙しく なり疲れが溜まっていたので幻覚かとも思ったけれど、彼も見えて いるのならその可能性は⋮⋮無いだろう。 171 ﹁⋮⋮さあ﹂ ふらふらと店内をうろつく不審者を目で追いつつ考えを巡らせる。 何か行動を起こさねばとは思うが、その人があまりにも異質すぎて 思考が追い付かない。 ﹁映画の撮影すかね?﹂ ﹁うん⋮⋮いやでもそんなこと聞いてないよね﹂ とりあえず怪しいし不審人物がいるって店長に報告しよう︱︱そ う寺崎くんに言おうとした矢先だった。 ﹁うわあぁぁぁっ!!﹂ 雑誌コーナーでさっきからずっとTV番組情報誌を読み漁ってい たフリーター風の若い男性に不審者が突然もたれかかってきたのだ。 全体重をかけ倒れこんできたその人を咄嗟に受け止められるはずも なく、男性はバランスを崩し本棚に激突する。そして次の瞬間、私 は自分の目を疑った。 ﹁いぎゃあぁぁーっっ⋮⋮!!!﹂ 不審者が男性の喉笛に喰らいついたのだ。鮮血がホースから出る 水の如く噴き出し、本棚の雑誌を真っ赤に染め上げる。 ﹁なんだぁ⋮⋮、うわぁぁぁっ!﹂ 他のお客さん達も事の異常さに気付いたようだ。店内の至るとこ ろから悲鳴が上がる。不規則に痙攣する男性の首の肉は大きく削が れ、今も血がドクドクと白い床に垂れ落ちていた。 172 ﹁⋮⋮どうしたっ!﹂ 騒ぎを聞きつけて店の奥から慌てた様子の店長が出てきた。私は 混乱した頭で黙ってそれを指差す。 ﹁何をしているんだ君っ! やめなさい!﹂ 店長が不審者を男性から引き離そうとする。しかしその人は物凄 い力で男性にしがみつき、離そうとしない。店長は不審者が男性に 食いつこうとするのをどうにか引きとめていたが、後ろに体重をか けすぎたのかよろめいて尻餅をついてしまった。 ﹁くそっ⋮⋮! 離れろって言ってるのがわからんか!﹂ 咄嗟の判断だったのだろう。血を見て動揺したのもあるだろうが ︱︱店長は側にあった小型の本棚を抱え上げ︱︱思い切り降り下ろ した。 ⋮⋮ゴキッ 正面から殴ったのだから腕をかざすなどして防ぐと思ったのだが ⋮⋮。本棚がモロに直撃した不審者の頭はあらぬ方向に曲がり、背 面から真っ直ぐ床に倒れた。 店長も周りのお客さんもしばらく唖然としていたが、外が騒がし いのに気付いた店長が携帯電話を手に様子を見てくると言ってふら ふらと外へ飛び出してしまった。 それからしばらくして立ち尽くしていたお客さんも恐怖に駆られ 173 て一目散に出入口に向かっていった︱︱が、そこにはさっきの不審 者と同じような容貌のもう一人が待ち構えていた。さっき店長が倒 したはずのも平然と起き上がってお客さんの方に向かっている。 ﹁ぎゃああぁぁっ!?﹂ ﹁いっ、痛っ痛いぃいー!!﹂ ︱︱地獄だ。カウンターに囲まれ早くも逃げ場を失っていた私達 はただ呆然と眺めることしかできなかった。その時、私の袖を誰か がぐいっと引っ張った。 ﹁いやぁ︱︱うぐぐっ!?﹂ ﹁清見さんっ静かにっ。気付かれちまうよぉ⋮⋮﹂ 寺崎くんがカウンターの陰に私を引き寄せ悲鳴を上げようとした 私の口を塞いだのだ。そう言う寺崎くん自身は怯えて全身をガタガ タと震わせていた。年下に助けてもらってしまった⋮⋮自分が情け ない。 ﹁うっ⋮⋮﹂ 冷静になると先程の光景が頭に過り、吐き気が込み上げてきた。 酸っぱい味が口内に広がる。カウンターの向こうの化け物たちに気 付かれなかったか心配だったが、どうやら大丈夫だったようだ。 * どのくらいの間こうしていたのだろうか。随分前に悲鳴は途絶え、 ただ不気味な湿った咀嚼音だけが耳に入ってくる。 174 クチャ⋮⋮クチャ⋮⋮ 人を、食べてる⋮⋮? 信じられないが、そうにしか思えない。 一体何が起きているのだろうか⋮⋮? 寺崎くんと身を寄せあって言い知れぬ恐怖に堪えていたその時、 毎日のように聞いている聞き慣れたメロディーと共に人の気配が近 付いてきた。 * 私達を助けてくれたのは私と同じくらいの年齢の若者たちだった。 黒髪の背の高い凛とした青年は血に染まって傷んだ竹刀を手にして おり、これまでいくつもの修羅場を乗り越えてきたことが伺えた。 あとの二人はおっとりとした柔らかな雰囲気を醸し出す女の子と派 手目でちょっと掴めない感じの青年で、どうやらこの三人で行動し ているようだ。 私たちはあまり情報を与えられぬまま外へ出て︵彼らは何か隠し ているようだ︶、変わり果てた店長と遭遇した。顔の表面がボロボ ロで筋肉が露出しており、片方の足はほとんど骨だけだった。何が 何だか分からない⋮⋮とにかくあの怪物たちに捕まらないよう必死 になって道路を駆け抜けた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 私たち五人は今、不気味なくらい静かな道路を歩いている。皆で 生き残ろうと励ましあったものの、やはり釈然としない。一体何が 起きているのか? 少し歩けば危険は去ると心のどこかで思ってい た。だって、ここは日本の首都東京だ。警察だって自衛隊だって機 175 能しているし、暴動はすぐに鎮圧されるはず。しかしあれは一体︱ ︱。今も視界の隅をうろつくグロテスクな外見のそれが常識から離 れすぎていて、何が何だかわからない。なるべく視界に入れないよ うにしているが常に生々しい血の臭いが鼻をつく。しかしその反面、 この事態を現実だと認識できずにいた。 それにしても、何か暴動に巻き込まれたのだと思っていたが、い つまでも同じような光景が続いている。グロテスクな化け物の姿が 見えなくなったところで思いきって疑問をぶつけてみることにした。 ﹁こんなところまで⋮⋮。あの、もしかしてこれって、同じことが 東京中で起こってたりするんですか?﹂ まさかそんなことあるわけない。少し誇張して言えばあちらもそ んな心配するなと本当のことを言ってくれるかもしれないからだ。 先頭を歩く佐伯さんが少し目を逸らしながら答える。 ﹁⋮⋮わからない。身の安全を確保してからゆっくり調べようと思 っている﹂ 冗談にしてはキツい。でも冗談ではないようだ︱︱むしろ、わか らないことが嘘のようにも思える。自分の言ったことを思い返して みる。東京中で起こっているのか? そんなことがあったら⋮⋮み んな無事なわけがないじゃないか。そう考えると黙ってなんかいら れなかった。真相を聞き出さなくては。 ﹁でも、そういう可能性もあるんですよね?﹂ ﹁おいおい、冗談じゃねーよぅ⋮⋮じゃあ俺ら家に帰れないわけ?﹂ 心配そうな顔で私と佐伯さんの話を聞いていた寺崎くんが声を張 176 り上げる。寺崎くんはパニックを起こしたら手がつけられない。で もこの時ばかりは私も彼を止める余裕がなかった。 佐伯さんは困ったような顔でどう対応すべきか考えあぐねている ようだ。この人は悪い人ではないのだろうけど。すると、少し離れ たところを歩いていた須藤さんが口を開いた。 ﹁今は黙って生き残ることに専念しろっての。生きて家族に会いて ぇんだろ?﹂ ﹁か、家族が生きてる保証はあるんですか!?﹂ あまりに軽い調子の投げやりな言葉に、大声を出さずにはいられ なかった。コンビニで見た惨状が頭を過る。あんなのが東京中で、 私の家族のところでも起きてるなら。お母さんは、お父さんは、歩 美は今どうしているのだろう⋮⋮? 考えるだけで背筋が凍る思い だ。 ﹁大丈夫だ。警察や自衛隊が動いているだろうし、多くの人は家に 立て籠ったり指定された避難所に避難している﹂ 落ち着いた佐伯さんの言葉にどうにかこうにか平静を取り戻す。 その後は自分の考えに耽ってしまいあまり何を話したか思い出せな いが、伊東さんが気をつかって色々話しかけてくれた。彼女はいい 人そうな人柄がにじみ出ているし、一緒にいてほっとする。気がつ くと私たちは消防署の前にいた。 私たちは消防署の会議室らしき部屋で休憩することになった。窓 硝子を割って侵入してからここまでのことはあまり思い出したくな い。ただ一言言うとしたら、人とはあんなになってしまうものなの か。それに尽きる。 177 安全な場所で一息ついていたそんなとき、寺崎くんが思い出した ようにスマートフォンを取り出した。そして、破滅の扉を開けてし まった。しかしどうしようもなかったのだ。こんな不条理な残酷な 世界で、私はついに音をあげてしまった。だって私の家は人がたく さんいる繁華街の近くで、木造の古い一軒家で、歩美は車椅子なん だもの。お母さんもお父さんも歩美を見捨てるわけないし、こんな 地獄を生き延びれるわけないじゃない⋮⋮。 現実から逃げたくて、逃げたくて、弱い私は考えることをやめた。 現実を捨てて、都合のいい夢を見ることにした。というか現実が夢 みたいなんだもの。いや、これは本当に夢なんじゃないかな。こん なことあるわけがないし。そうだそうだ。もう大丈夫。夢が覚めれ ば、お父さんもお母さんも歩美にも、また会えるよね。 178 登場人物紹介2 ※挿絵あり ■第二章の登場人物 きよみちかこ ・清見 千香子 <i67183|3570> 大学?年生 160? コンビニでバイトをしていた女子学生。 真面目な性格で冷静。 てらさきかいと ・寺崎 海斗 <i67184|3570> 高校生? 170? コンビニでバイトをしていた男子生徒。 今時の若者といった風貌で率直な性格。家族思い。 ■ゾンビ 普通の人間が突如血肉を求めさまよい歩く理性のない化け物と化し た。 瞳は白く濁り焦点が定まらず、水死体のように真っ白な肌をしてい る。 知能はほぼなく反応も遅いため、見つけた獲物をゆっくりと歩くス ピードで追う。 ただし身体のリミッタ︱が外れ、力が物凄く強い。 段差に気付かず落下したり、生存者に思い切り殴られたり刃物で刺 されても 痛みを感じず平気でいるため、身体の損傷が激しい。 視力が極端に弱く主に聴覚と嗅覚で獲物を察知する。 179 第二十一話 殺戮 足がもつれそうになりながらも、前を進む佐伯くんたちを追って 階段を駆け降りる。幸いこのアパートの階段にはゾンビはいないよ うだ。各階の廊下に何体か彷徨いているのが見えたが、あれが気付 くのより早く私達の姿が階下に消えるため問題はなかった。 ﹁⋮⋮この家ともお別れだな﹂ アパート前の通りに出た時佐伯くんがそっと呟いた。そうか、も うここに戻ってくることはないかもしれないんだ。こう言ってしま うと再び元の日常が訪れることはないと認めているようで辛いが︱ ︱。 さっき見えた通りはこちらの反対側だったはずだ。私達はゾンビ が角から飛び出してこないよう十分注意しながら車のある通りへ続 く細い道を抜けた。 ﹁⋮⋮あっ!﹂ 思わず声に出してしまった。シルバーのメタリックカラーの車を 囲むゾンビの群れ。車の中が見えないくらい密集している。ほんの 少しの間微かに見えたフロントガラスは蜘蛛の巣のように細かくひ び割れており、突破されてしまうのはもう時間の問題のように見え た。籠った悲鳴が断続的に聞こえる。外でさえこれなのだから中は 絶叫が響きすごいことになっているだろう。 ﹁通りの向こうからゾンビが集まってきている! 伊東さん、頼ん だ!﹂ 180 ﹁うん!﹂ 私はスポーツバッグから空き缶を幾つか取り出すとありったけの 力を込めて通りの奥に投げた。反対の方向にも同じように投げる。 周辺でうろうろしていたゾンビが何体か音にひきつけられて離れて 行った。しかし悲鳴が止まないため、何度か繰り返して近付かせな いようにしなきゃいけない。 とりあえずこれでしばらくの間はゾンビの接近は防げるだろう︱ ︱二人の状況が気になり振り返って車の様子を確認する。 ⋮⋮ガシュッッ!! 硬質な音をたてて佐伯くんの木刀がゾンビの頭を強打した。頭蓋 骨がパックリ割られたゾンビが脳髄を撒き散らしながら倒れる。確 かに竹刀とは比べ物にならないほどの殺傷力だ。⋮⋮というか竹刀 であれだけのことをやってきた佐伯くんがいい意味で異常なのかも しれない。 車を挟んで反対側では須藤くんが斧でゾンビの額を叩き割ってい た。既に二人の足元には何体もの死骸が転がっていた。ふとそれら の手に目が留まる。指が折れ全体が腫れ上がり、紫色に変色してい る。手の骨が粉々に砕けるまで窓ガラスを叩き続けていたのだ。そ の執念深さに背筋がぞっと凍りつく。 ﹁おらああぁぁぁっ!﹂ 須藤くんが大きな叫び声をあげて車にへばりつくゾンビの頭を粉 砕した。内容物が窓ガラスにビシャアッと付着する。 181 ﹁おい須藤、落ち着け﹂ 叫び声につられて私達の方に寄ってきた一体の首に突きを食らわ せながら佐伯くんが言う。木刀での突きは相手を確実に死に追いや る程の威力があるようで、ゾンビは一瞬のうちに命を絶たれその場 に崩れ落ちた。 ﹁奴らを誘き寄せてんだよっ!﹂ 須藤くんがそう叫びながら一体の顔面に斧の刃を打ち込んだ時、 もう既に周囲にゾンビは一体も動いていなかった。ゾンビの動きが 鈍いのが私達が生き残るにあたっての唯一の救いだ。夥しい血を流 す死体の中で息を切らす須藤くんに、佐伯くんは厳しい面持ちで近 づく。 ﹁やり過ぎだ﹂ ﹁⋮⋮お前みたいに冷静に殺れるほど俺は器用じゃねぇんだよ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 佐伯くんは僅かにピクリと眉を動かしたきり黙り込んでしまった。 ちょっと危ない展開かもしれない⋮⋮。どうするべきかと二人の顔 に視線を何度も往復させていると、少しして須藤くんが気まずそう な顔で渋々といったように口を開いた。 ﹁⋮⋮悪ぃ。少しでも平穏な時間を取り戻しちまったせいか⋮⋮ま た急に気が昂りやがった﹂ ﹁大声を出すことがどんなに危険かお前も十分理解しているはずだ。 今後は気を付けろ。早く慣れることだ﹂ 二人の会話に集中していたがはっとして慌てて周囲の様子を覗う。 182 ⋮⋮よかった。転がった缶を追いかけて行ったのか、ずっと向こう の方でゆらゆらと揺れる数体のゾンビが確認できた。 ⋮⋮バタンッ ﹁ひっ!﹂ 突然近くで聞こえた物音に心臓が波打つように大きく鼓動し、体 ごと跳び跳ねる。他の二人も危険を感じて咄嗟に身構えた。 音をたてたのはゾンビではなかった。車のドアが開かれ︱︱赤茶 色に染めた髪を肩につく程度に切り揃えたスラリとした女の子が血 の海の中に立っていた。大人っぽい顔立ちの美人さんで、猫のよう なアーモンド型の目を見開きこちらに射るような視線を向けている。 ﹁⋮⋮奈美、よくそんなとこに立てるなぁ﹂ 中からもう一人が顔を覗かせた。癖のある黒髪の眼鏡をかけた少 年だ。血溜まりを避けるようにしてそっと地面に降り立ち、こちら を恐る恐る見てくる。 ﹁大丈夫か?﹂ 少しの沈黙の後、佐伯くんが口を開いた。 ﹁⋮⋮ええ、助けてくれてありがとう。でももう少しで死ぬところ だった﹂ 奈美と呼ばれた女の子は口元にひきつった笑みを浮かべて礼を言 うと、周囲を見渡した。かつては閑静な住宅街だったその通りは惨 183 たらしい殺戮死体が無数に転がる地獄と化している。奈美さんは口 をきゅっと結び気丈に振る舞ってはいるが、ショートパンツから覗 く長い足を微かに震えていた。 ﹁⋮⋮この人たちは何者?﹂ ﹁はっ、人だあ? 何言ってんだお前﹂ 須藤くんが素っ頓狂な声をあげる。それに気を悪くしたのか奈美 さんは綺麗な顔をムッと不機嫌に歪ませた。確かにゾンビが発生し て三日目なのに事態を把握できていないのは少しおかしいとは思う けれど⋮⋮須藤くんたらデリカシーがなさすぎる。 ﹁言葉の通りだけど? 車で学校に向かっていたらこの人たちが近 づいてきたの。危ないと思って車を止めたらたくさん群がってきて この通り襲われたってわけ。で、何なの、この人たちは。とても正 気の沙汰とは思えないんだけど。⋮⋮あなたたち躊躇せずこんなこ として、何か知ってるんでしょ?﹂ 彼女が須藤くんに負けず劣らずの饒舌ぶりを見せる。彼女もその 後ろの少年も私たちに対して警戒しているようだった。 ﹁君たちは今起きてることを何も知らないのか?﹂ ﹁⋮⋮ええ﹂ こりゃ厄介なのを助けちまったな∼とぼやき始めた須藤くんの口 を慌てて押さえる。 ﹁⋮⋮なぁ、いくらこの人たちがおかしかったとはいえさ⋮⋮この 殺し方は普通じゃないって﹂ 184 少年が奈美さんに耳打ちをする。ゾンビを倒した私達に心底怯え ているようだ。元々目つきの悪い須藤くんと目が合うと少年はひぃ っと短い悲鳴を上げて後ずさった。 須藤くんは怯える少年を面白がるようにわざと鋭い目で睨みつけ ていたが、少しして呆れたように言った。 ﹁この﹃人﹄じゃあない、これは﹃化け物﹄だ。そう割り切らなき ゃお前ら早死にするぜ?﹂ 二人はもう一度足元の死体に目を向け︱︱傷だらけの体、内臓が 飛び出た腹、膜を張ったように白く濁った目︱︱化け物と形容する のに相応しいそれらをしばらくじっと眺めていた。 ﹁うげえぇぇーっっ﹂ 突然少年が横を向き足元の血溜まりに嘔吐した。酸っぱい臭いが 辺りに立ち込める。 ﹁確かに見れば見るほど⋮⋮化け物、だね。あなたたちの方がまと もだってことは誰が見てもわかる。まぁ優子が噛みつかれた時点で こいつらが異常だとは思ったけど﹂ ﹁噛まれた⋮⋮だって?﹂ ﹁ええ。最初は一人ふらふらと近付いてきたもんだから病人かと思 ってさ、ドアを開けて声をかけたわけ。そしたら急にそいつ優子に 襲いかかってきて。変質者だと思って殴り倒したんだけど地面に這 いつくばって優子の足首に思い切り噛みついたんだよ! それから 優子ショックでパニック起こしちゃって⋮⋮今はだいぶ落ち着いて いるけど。⋮⋮ったく、ほんと何だっていうの!?﹂ 185 すごく嫌な予感がした。ゾンビに一回でも噛まれたら︱︱ゾンビ になる。仲の良い友達が急にゾンビになったら。何も知らないこの 人たちは殺すことなんて絶対できない。 その時、少年の背後で何かが動いた。 186 第二十二話 転生 少年の後ろに、長い黒髪にゆるくパーマをかけた女の子が青白い 手を車のドアの縁にかけ、同じく血色の異常に悪い顔を覗かせてい た。 ﹁⋮⋮優子っ、大丈夫なのか?﹂ 少年が背後の気配に気付き振り返った。襲われるのではと身を固 くしたが、彼女が少年に飛びかかることはなかった。自分の身体を 抱き締めるように腕を回し、小刻みに震えている。目に生気がない が︱︱白く濁ってもおらず、生きた人間のものだった。 ﹁⋮⋮すごく、寒いの。でも奥の方は、燃えてるみたいに、熱い。 ⋮⋮身体が、変。どうし、ちゃったのかな⋮⋮?﹂ 彼女が息も絶え絶えに絞り出すようにして声を発する。もしかし て、身体がゾンビに変化し始めているのだろうか。 ﹁優子、駿の家に戻ろ。大学やってなさそうだし⋮⋮結構ヤバいこ とになってるみたい。向こうで傷を手当てして、落ち着いて考えよ う﹂ 奈美さんが彼女を労るように優しい声で言った。駿とは少年のこ とだろうか。ということは彼女たちは今までずっとそこにいたこと になる。この三人を異常事態に気付かせないなんて、一体どんな家 なのだろう。 ﹁もうこの車、使えないよなー⋮⋮﹂ 187 ﹁そだね。フロントガラスがひび割れて真っ白。歩いてくしかない か。優子、捕まって﹂ 奈美さんが肩をかし、優子さんが車からヨロヨロと出てきた。サ ンダルを履いた白い足︱︱左の足首に歯形がくっきりとついている。 ﹁おい、お前らどこ行く気だよ﹂ ﹁駿の家。ここから結構近いの。とにかく落ち着いて状況を把握し なきゃ﹂ ﹁武器も何も持たずに行くのか?﹂ ﹁⋮⋮来るときは見なかったから大丈夫だよ。そこに転がってるの だけだった。あなたたちには本当に感謝してる。色々ありがとね。 なんかあなたたちも大変だろうし、迷惑掛けるわけにはいかない。 もう行くから﹂ そう言うと奈美さんと駿くんは優子さんを連れて歩き始めた。 ﹁ねぇ、絶対危ないよね? 運よくゾンビに遭遇しなかったとして も優子さんが⋮⋮﹂ ﹁まぁ間違いなくあいつら全員死ぬだろーな﹂ ﹁だ、だったら引き留めよう! 途中まで着いていってあげよ。二 人みたいに力のない私が言うのもあれだけど⋮⋮あれが音に反応す ることくらいなら教えられるから﹂ 須藤くんの﹁俺には関係ない﹂とでも言いたげな冷たい言葉に少 しカッとなってしまった。本当に私なんかが何言ってるんだろう。 自分がひどく滑稽に思える。 ﹁俺は伊東さんがどうしても行くというのなら反対しないが⋮⋮た だいちいち人の面倒をみていたらいつまで経っても弟くんのところ 188 に辿り着けないかもしれないぞ﹂ ﹁ごもっともだな。それにあいつら助けても力になるとは思えない ぜ⋮⋮まぁ俺も強く反対はしないけどよ﹂ そうだ、二人の言う通りだ。確かに戦争にしてもこういう時にし ても、薄っぺらな正義を振りかざして他の人のことに構っていたら 自分の命がいくらあっても足りないだろう。⋮⋮でも。 ﹁でもやっぱり見捨てられない。私だって自分の命は大切だし、二 人を危険な目に合わせたくないよ。あの女の子がゾンビになって大 変なことになるのは目に見えてる。だけど⋮⋮それでも今なら防げ るはずだから。無謀なことじゃなかったら、出来るだけ助けていき たいなぁ⋮⋮なんて﹂ 元々口下手な私にとってこんな臭い台詞を長々と言うのは一苦労 だ。顔に血液が急激に集中するのを感じながらつっかえつっかえ言 葉を紡ぎ出す。二人とも無言なのが辛い。やはり無力なくせにって 呆れているのだろうか。 ﹁⋮⋮やっぱ、大変だよね。ごめんね、二人を弟のことにも付き合 わせてるのに﹂ ﹁さ、追うか﹂ ﹁へ?﹂ さも当然かのように発せられた須藤くんの声に、無意識に伏せて いた顔を上げ、二人の顔を伺う。二人とも笑ってこちらを見ていた。 嘲笑じゃなく、優しい笑顔で。 ﹁今は助けるべき場面かもしれないな。行こう﹂ ﹁⋮⋮うん!﹂ 189 私達は奈美さんたちの歩いていった方に向けて走り出した。 この通りには死体がなかった。時々血痕が目に入るがそんなに目 立つほどではない。元々こじんまりした住宅街だったのだろうから、 ここだけ元の平和だった世界のようだ。車に乗っていて異常に気付 かなかったのも納得できる︱︱何故三日間無事だったのかは未だに 謎だが。 三人の後ろ姿が見えてきた。奈美さんが優子さんに肩を貸しなが らゆっくり歩き、小柄な少年︱︱駿くんは三人分の荷物を運んでい るようだ。 ﹁あのっ!﹂ 周りにゾンビの姿がないのを確認して三人の背中に向けて声をか ける。駿くんがびくっと大きく肩を上下させ真っ先に振り返る。少 し遅れて奈美さんもこちらに顔を向けた。 ﹁⋮⋮私たちも途中までついていきます。あれが出てきても撃退で きるし、寄せ付けない方法も知ってるから﹂ 奈美さんと駿くんが顔を見合わせる。小声で私たちの申し出につ いて相談しているようだ。そして割とすぐに結論が出たらしく、奈 美さんが言いづらそうに私たちに向けて言った。 ﹁じゃあ、お願いしてもいい? 申し訳ないけど私たちやっぱり何 も知らないから⋮⋮﹂ ⋮⋮受け入れてもらえてよかった。私たちは小走りで近寄り奈美 190 さんたちに合流した。次に考えなければいけないのは優子さんのこ とだ。彼女は息が荒くとても苦しそうで着々とゾンビへの転生の道 を辿っている。このままではゾンビになった彼女に二人が抵抗でき ずに噛まれてしまう。何か対応策は無いのだろうか。 ﹁その家はどこにあるんだ?﹂ ﹁この通りを真っ直ぐ行って突き当たりを左。そこをもうちょい進 んだとこに塀に囲まれた林があるんだよね。駿の家はそこ。駿のう ちまあまあ裕福だからさ、結構敷地が広いんだよ﹂ それなら確かに街の騒動に気付かなかったのもわかる。銃声や絶 え間なく鳴るサイレンの音が聞こえなかったのだろう。 ﹁ご両親はいるの?﹂ ﹁いや、僕だけです。父さんも母さんも旅行中で⋮⋮仲睦まじいの はいいんですけどね﹂ ﹁あたしたち大学でイベントサークルに所属してるの。で期限が迫 ってきたから駿の家で企画の準備してたんだよね。土曜日からずー っとひたすら準備﹂ なるほど。外の様子もテレビも見ることなく家に籠っていたみた いだ。駿くんが事実を知った時どうなるのだろう。奈美さんもだ。 ご両親から連絡がないということは⋮⋮もう既に⋮⋮。いや、そん な縁起の悪いことを考えちゃいけない。 ﹁その首の⋮⋮襟巻を貸してくれないか﹂ ﹁ん? ああ、ストールのことね。はい﹂ 佐伯くんが急に何を言い出すのかと思ったら︵﹁襟巻﹂とは⋮⋮ 佐伯君らしい︶奈美さんが首に掛けていた黄色のお洒落なストール 191 を受け取り、長さはそのままに折りたたみ始めた。そして﹁失礼﹂ と断ると優子さんの口を覆うように巻きつけた。 ﹁え、何してんの? 大丈夫、優子?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 優子さんは力なく頷いた。身体全体がガクガクと震え始めている。 ちょっとやばいかもしれない。 ﹁⋮⋮さっきの化け物のようになりたくなければこうしておいた方 がいい﹂ ﹁なにそれ。どういうこと?﹂ 奈美さんの言葉に答えることなく佐伯くんはストールを優子さん の頭の後ろできつく結ぶ。 ﹁それ貸せ﹂ ﹁えっ、ちょっ、何するんだよ!?﹂ 続いて須藤くんが駿くんの上着をたくしあげ︱︱ベルトを器用に 外すと無理やり引き抜いた。 ﹁おい、そいつの腕を離せ﹂ ﹁は? 何する気なの? ちょっと⋮⋮答えなよ﹂ ﹁いいから言うとおりにしろ!﹂ 須藤くんの剣幕に勝気な奈美さんもさすがに怯んだのか、ゆっく りと肩に回された優子さんの腕を外す。すると途端に優子さんが崩 れるように地面に膝をついた。 192 ﹁優子っ!!﹂ 須藤くんがすかさず彼女の手首をベルトで縛りあげる。奈美さん が抗議の声を上げるが手を止めることはなかった。 ﹁ねぇ、ほんとにどうしたっていうの? 早く優子の手当てをしな きゃっていうのに﹂ ﹁手当なんてする必要ねぇんだよ﹂ ﹁なっ⋮⋮! ふ、ふざけないでよ!﹂ ﹁⋮⋮な、奈美、し、しゅ、駿﹂ 弱弱しいその声に、須藤くんと睨み合っていた奈美さんが顔を向 ける。 ﹁優子⋮⋮!﹂ ﹁優子、大丈夫か?﹂ 二人の問いかけに優子さんは真っ白な顔をただただ震わせるだけ だった。目の焦点は合わず、口が弛緩しだらんとしている。もうす ぐかもしれない。普通の人間、友達とサークル活動に打ち込むごく 普通の学生の女の子が、今自分を失おうとしている。痛々しくて見 ていられない。今まで私たちが殺してきたゾンビにもこのような瞬 間があったと思うといたたまれなくなる。 ﹁⋮⋮こ、こわ⋮⋮い、たす⋮⋮け⋮⋮﹂ ほとんど息のような声。優子さんはそれだけ伝えるとゆっくりと 仰向けに地面に倒れた。すかさず佐伯くんが傍に寄り呼吸を確認す るが、俯いたまま険しい表情で首を振った。もう息をしていないよ うだった。 193 ﹁優子ーーっ!!﹂ ﹁あぁぁ、どうしたんだってんだよぉっ!!﹂ 泣き叫ぶ二人のすぐ傍で私たちは優子さんが再び起き上がるのを 待っていた。悲嘆に暮れる二人の背後、通りの奥からこちらに近付 く影が見える。 ﹁他のゾンビが寄ってきている。早めにお別れを済まさないと危な いぞ﹂ ﹁⋮⋮くるぜ﹂ 須藤くんの言葉を合図に、ゆっくりと、優子さんが目を見開く。 ﹁⋮⋮優子?﹂ ︱︱そして濁った瞳が二人を捉えた。 194 第二十三話 屋敷 ﹁⋮⋮優子?﹂ 優子さんの目は大きく見開かれ︱︱瞳は薄い膜を張ったように濁 り灰色で、目玉はじっと宙を見つめ小刻みにピクピクと動き︱︱肌 は白魚のように真っ白で青い血管がびっしりと浮き出ている。どう 見ても普通の人間ではないのは明らかだ。しかしつい数分前までは ごく普通の女の子だったのも確かで⋮⋮。 ﹁ゆう⋮⋮﹂ 名前を呼びかけながら優子さんだったものに手を伸ばそうとする 奈美さんの手首を須藤くんがぐいと掴んだ。 ﹁離れろ﹂ そのまま数歩後退する。奈美さんは様子のおかしい優子さんから 目を離せず、引かれるがままになっていた。優子さんは手首に巻き ついたベルトが邪魔して立ち上がることができずにいたが、数回腕 を外側に開こうとする素振りを見せると、いとも簡単に革のベルト は千切れてしまった。ひぃっと駿くんが声を上げる。そして優子さ んがガクッガクッと何度もよろめきながらもゆっくり立ち上がった。 ﹁⋮⋮ゥウアァァアアァ⋮⋮﹂ 喉の奥から絞り出すような低くおどろおどろしい呻き声。さっき まで耳にしていた心地よいソプラノのか細い優子さんの声とはかけ 離れていた。そのあまりの異様さに奈美さんもたじろいでいる。 195 ﹁な、なに⋮⋮どうしたの、優子?﹂ 恐怖に上擦った奈美さんの声に反応して、一歩、また一歩と優子 さんだったものが近付いてくる。駿くんは何か声を出そうとしてい るものの、すっかり怯えきって唇を開いては閉じを繰り返していた。 ﹁⋮⋮噛まれた人間はさっきのやつらと同じ化け物になるんだ。こ れでよくわかっただろう?﹂ ﹁⋮⋮優子が、化け物?﹂ 低いトーンの声色で教え諭すように言う佐伯くんに、奈美さんは 信じられないと首を振る。優子さんだった化け物はストール越しに もわかるような大口を開け、溢れだす涎がストールに染みを作って いた。前に突き出されたその腕が私たちに届くまで、あと五歩。 ﹁行くぞ、家はどっちだ?﹂ ﹁行くって⋮⋮優子はどうするわけ⋮⋮?﹂ ﹁これがまだてめぇの友達だって言うのか? この死んだ目をした 化け物が? だったらここでこいつと手ぇ繋いで仲良しごっこでも してな!﹂ 化け物をじっと見つめたまま口をつぐんでしまった奈美さんに、 須藤くんは舌打ちをすると強引に走らせる。私と佐伯くんもその後 に続く。 ﹁ちょ、ちょっと待ってよ!﹂ 駿くんも恐怖ですくんだ足を引きずるように走り出す。手を貸そ うかと思ったが大丈夫そうだ。さっきいた場所からだいぶ離れたと 196 ころで奈美さんが後ろを振り返った。その大きな目には涙が滲み、 口はかつての友人の名を声に出すことなく呟いていた⋮⋮。 * 重い金属音が背後で鳴り響いた。人の丈以上の高い塀に囲まれた 敷地の中央には普通の家より二回り三回り大きい洋風のお屋敷があ った。門から玄関まで石畳が敷かれており、まわりはきれいに手入 れされた芝生が生い茂り、塀に沿って木がたくさん植えられえいる。 想像以上に立派な家だった。 ﹁あいつ地味なくせに見かけによらねぇもんだな⋮⋮﹂ 須藤くんがぼそりと言う。確かにすごいお家だ。部屋の片隅から 全てが見渡せてしまうような狭い都営住宅暮らしの私にとって、こ のように広くてお洒落な造りの家は強い羨望の対象だった。しかし 今は悠長に豪邸見学している場合じゃない。私たちが周囲に気を取 られている中、当の屋敷の持ち主の息子は真っ青な顔をして鞄の中 を探っていた。 ﹁今来た門以外にも出入口はあるのか?﹂ 周囲を注意深く見渡していた佐伯くんが尋ねた。 ﹁あ、はい、裏に一人がやっと通れるくらいの幅の裏門があります ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮なるほどな。しっかり施錠してあるか?﹂ ﹁はい、多分⋮⋮﹂ いちいちビクビクとしながら駿くんが答える。ショックで気が動 197 転しているのかと思っていたが、こうして様子を見ていると元々弱 気な子なのかもしれない。やっと鍵が見つかったようで、指の震え に苦戦しながらも見事な装飾が施された木彫りの扉を開けた。 中は少し古くさいが洗練されており、インテリア一つ一つにこだ わりがあるように感じられた。玄関は吹き抜けで正面には綺麗に磨 かれた美しい石造りの階段がある。どうやら靴は脱がなくてもいい らしい。 ﹁え、えと。僕の部屋に行きましょうか。テレビもパソコンもあり ますし﹂ 私たちは階段を上る駿くんに付いて言った。当然ながら友達を目 の前で亡くしたばかりの二人の背中はどんよりと暗かった。さっき から奈美さんは一言も話していない。 ﹁ここです⋮⋮﹂ 扉を開くと意外とシンプルな部屋が現れた。家具がシンプル、と いうだけでその広さはかなりのものだが。大型テレビを淡い水色の ソファーがコの字型に囲んでいる。私たちはとりあえずそこに腰を 下ろし落ち着くことにした。 * この部屋に来てしばらく経った。誰も一言も話そうとしない。た だ奈美さんと駿くんはだいぶ落ち着いてきているようで、時折説明 を求めるような視線を私たちに送ってきていた。 ﹁⋮⋮えと、まず自己紹介しませんか?﹂ 198 重い雰囲気の中、思い切って提案する。お互いをよく知らなくて は。協力せずしてこの苦境は乗り越えられない︱︱これまでの経験 で一番感じたことだ。最初に佐伯くんがそうだな、と同意し、他の 人も次々と頷いてくれた。 ﹁えっと、じゃあ私から。伊東皐月です。立星大学の二年生です。 よろしくお願いします﹂ ﹁やっぱりあなたたち立星の人なんだ。あたしたちもだよ﹂ 奈美さんが俯いていた顔を上げて言った。立星大学は結構大きな 大学でこの付近にいくつもキャンパスが点在している。学生数も半 端なく多いので駅は平日祝日関わらずいつも立星の学生で溢れ、商 店街も賑わっていた。なので奈美さんたちが同じ大学の人であるこ とは不思議なことでもなんでもない。しかしやはり同じ環境にいた というだけで相手を身近に感じるものだ。 ﹁あ、ごめん割り込んじゃって。先に言っちゃうね。あたしは高岡 奈美、立星の三年生。よろしく﹂ 足を組みなおした奈美さんの短く切り揃えた髪がサラッと揺れる。 クールビューティーとはこのことだ︱︱女の私から見てもドキドキ してしまう。ふとソファーの肘掛けに添えられた彼女の左手を見る と銀色に輝く指輪が薬指にはめられていた。彼氏だろうか? 先ほ どのこともあるし、はっきりした口調でしゃべる奈美さんだが、内 心不安でたまらないのだろう。 ﹁じゃあ次は僕が⋮⋮相田駿です。同じく立星の学生で三年生。ど うぞよろしく⋮⋮﹂ 199 おどおどしながらもぺこりと頭を下げた駿くん⋮⋮ではなく相田 さん。少年だとか好き放題言ってしまっていたが、彼は私よりも年 上だったようだ。ウェーブがかった癖の強い黒髪を指先でくるくる させながら眼鏡の奥のパッチリとした目を緊張で頻繁に瞬かせてい る。奈美さんとあまり変わらないくらいの背で男性にしては少し小 柄な彼は、女の子のような繊細で柔らかい顔立ちをしている。 ﹁俺は佐伯義崇、立星の三年だ。よろしく。﹂ そういえば佐伯くんの学年を教えてもらっていなかった。三年生 だったのか⋮⋮。このような崩壊した世界で年功序列なんて意味を なさないかもしれないが︱︱現に私は彼にずっとため口をきいてい た︱︱それでも年上には敬語を使わなくてはいけないという今まで 培ってきた社会常識が私の中で働いていた。どうしよう。今から敬 語に切り替えようか。 ﹁須藤英雄、伊東と同じ二年。どーぞよろしく﹂ 一方で須藤くんは同い年だったらしい。外見怖いし偉そうだから 年上かと思っていた。まぁ浪人の可能性もあるかもしれないけれど。 そもそも浪人による年齢の違いは以前の世界でもあまり意識されて いなかったか。 ﹁佐伯くん三年生だったんだっ⋮⋮ですね﹂ 隣の佐伯くんに小声で話しかけたが、慌てて敬語に訂正したから か不自然なイントネーションになってしまった。向かいの奈美さん がクスッと笑った。 ﹁今まで通りに接してくれていい。こんな状況下で敬語なんて、コ 200 ミュニケーションの足枷にしかならない。学生同士なんだしな。俺 や須藤の厚かましさを少しは見習ってもいいんだぞ﹂ ﹁おい、誰が厚かましいって? 俺は一浪だからお前と同い年だぜ﹂ 須藤くんが佐伯くんを小突きながら言う。須藤くんが佐伯くんと 同い年ってことは私が一番年少かぁ。それを知ってしまうと急に肩 身が狭く感じる。 ﹁じゃあ僕が一番年上だね、二浪だから⋮⋮。両親はそれなりなん だけど僕自身あまり出来がよくない息子でやっとの思いで入ったん だよ⋮⋮﹂ 相田くんが呟いた。まさかの彼が一番年上だということだ。 ﹁ちょっと、あたしそれ初耳なんだけど! ほんとに? 駿二つ上 なんだぁ、あはははっ見えないって!﹂ さも可笑しそうに笑う奈美さんに、私もつられて笑いだす。佐伯 くんと須藤くんにも軽く笑われ相田くんは困ったような苦笑いで頭 を掻いている。 ﹁でもあたしも今まで通りで行くよ。こんなときくらい、というか こんなときだからこそいつもの調子を崩したくないし。皐月ちゃん も皆にため口でいいから﹂ ﹁ありがとうござ⋮⋮ありがとう﹂ 奈美さんがフフッと笑う︱︱と、見る間に笑顔がしぼんでいった。 ﹁優子︱︱立花優子はあたしたちと同じイベントサークルでね﹂ 201 そこまで言うと一拍置いて彼女はこれまでのことを話し始めた。 202 第二十四話 真実 奈美さんと相田くん、立花さんは立星大学のイベントサークル所 属で、七夕の日のライブイベントの企画を担当していたそうだ。し かし会場のセッティングやビラ配り、肝心のバンド募集など短期間 でやるべきことがたくさんあり、金曜日の授業後からずっとこの相 田くんの家に籠っていたという。テレビも見ることなくひたすら準 備、準備だったそうだから周囲の異変に気付くことはなかったのだ。 そして今日、午前の授業がある三人は寝坊してしまい、相田くんの 家の車で大学へ向かうことにし︱︱そしてあんなことが起きてしま ったというわけだった。 奈美さんたちの状況は掴めた。あとは彼女たちが真実を知る番だ。 どう切り出すべきか悩んでいると、少しして佐伯くんが口を開いた。 ﹁⋮⋮親から電話はなかったのか?﹂ ﹁いや、別になかったけど⋮⋮あぁそういえば優子に親から電話あ ったかな。優子んち厳しいからメールだけして許可もらわずに出て きちゃったみたいで。何度もしつこいからって優子電源切ってたけ ど⋮⋮どうして?﹂ ﹁今起きていることが⋮⋮世界の秩序が全て無に帰すくらい深刻な ことだからだ﹂ 佐伯くんは淡々と真実を話し始めた。出来る限り彼らを刺激しな いようにしているのだろう。二人は身動き一つせずじっと話を聞い ている。 ﹁⋮⋮ということだ。君たちはどうする?﹂ ﹁はは、ちょっと待って。まだ頭の中整理できてないよ⋮⋮﹂ 203 奈美さんが乾いた笑い声をあげた。目は正面の佐伯くんを見ては いるが、黒目がちな瞳は僅かに揺れ、壁を透かしてずっと遠くを眺 めているような遠い目をしている。 ﹁世界中で、起きてる⋮⋮﹂ 相田くんが真っ青な顔をして呟いた。 ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ 二人は思い出したようにほぼ同時にスマートフォンをポケットか ら取り出すと手慣れた動作でタッチパネルに指を滑らせ耳に当てた。 ﹁うそっ⋮⋮出ない!﹂ 回線の混雑はないようだが電話に出ないということは⋮⋮今電話 に出れない状態か、もう一生出ることはないか、だ。 ﹁俺たちも同じような状態だ。電話は通じたが会いに行くことはで きないし、今はどうなっているかわからない﹂ ﹁今俺たちに出来ることは安全な場所に逃げる方法を探りながら家 族からの連絡を待つことくれぇだな﹂ ﹁そんな⋮⋮﹂ 無意識に前へ乗り出していた上半身から力が抜け、相田くんがソ ファにボスンともたれかける。 ﹁今から俺たちは避難所に指定されている私立晃東高校に行く。自 衛隊が管理してくれていて、一週間以内に安全な場所へ連れていっ 204 てくれるそうだ。君たちの親御さんももう既に避難しているかもし れないぞ﹂ ﹁そっか⋮⋮そうだね﹂ 奈美さんがすっと立ち上がった。須藤くんが床についた足に力を 入れたのがわかった。消防署でのことを思い出しているんだ⋮⋮。 ﹁でももうちょっと考えさせて。頭の中がごちゃごちゃだからさ﹂ ﹁ああ。高岡さんも相田さんも、辛い状況にあると思うが⋮⋮今は どうか、自分たちのことだけを考えるようにしてくれ。避難所に着 いて落ち着けるまでは⋮⋮﹂ 彼女は無理をして笑みを浮かべるとゆっくりとドアとは反対の方 ︱︱窓際まで歩いて行った。 ﹁⋮⋮で、俺たちはこれからどうすんだ?﹂ 須藤くんが腕を頭上に持ち上げ伸びをしながら言った。 ﹁今日はもう動かない方がいいかな? 奈美さんたちも気持ちの整 理がつかないだろうし﹂ ﹁⋮⋮そうだな。日没まで時間はまだ十分にあるが、まだ二人とも ゾンビどもに向き合える状況じゃないだろう。幸いここは籠るには うってつけの要塞だ。いつまでも籠るわけにもいかないが、明日ま での無事は約束されるだろう﹂ 議論するまでもなく私たちの中で奈美さんたちと一緒に行動する ことに決まっていた。二人をここに置いていくわけにはいかない。 何か事情があってこれから向かうのが同じ目的地ではないにしても、 せめて戦い方を学んでもらうまでは、一緒にいなければ。 205 ゾンビとの戦いについて考えていて、ふと私は自分の武器がない のに気付いた。そういえばコンビニで手に入れたモップや長箒は早 々になくしてしまったのだった。ここに武器になりそうなものは何 かないだろうか⋮⋮。 ﹁ごめんなさい⋮⋮ちょっといいですか?﹂ 私は真実を告げられてからずっと物思いに耽っている相田くんに 申し訳ないと思いつつも声をかけた。 ﹁うん⋮⋮大丈夫﹂ ﹁ここになにか、武器になるものなんてあるかなぁと思って﹂ ﹁あっ、うん、あるよ﹂ 一拍あけてすぐに相田くんが答えた。あまりの応答の早さに面食 らっていると、彼は﹁少し目立つ家ですからね。泥棒対策だって父 が備えているんです﹂と付け加えた。 相田くんは少し待つように伝えると廊下に出て行った。お金持ち だからすごいのが出てくるかもしれない。それからしばらくして彼 が短い棒状のものを片手に戻ってきた。 ﹁特殊警棒っていうんだ。伸縮式で、こうすると⋮⋮﹂ シュッという音をたて二十センチ足らずだったそれが二倍以上の 長さに伸びた。手渡され質感を確かめると思っていた以上に硬い。 ﹁わぁ⋮⋮すごい﹂ 206 ﹁どうぞ⋮⋮﹂ ﹁えっ、いや、こんないいもの⋮⋮相田さんは使わなくていいの?﹂ まだ戦うもなにも全ての決心がついていないというのに愚問かと 思ったが、彼は首を横にふった。 ﹁ぼ、僕は別のがあるから。奈美にもぴったりのが確か向こうに⋮ ⋮﹂ そう言うと相田くんはこの部屋の奥にあるドアを開け、中に入っ ていった。もう一つ部屋があったんだ。確かにこの部屋にはベッド も机もない︱︱寝室を兼ねたプライベートな部屋が別にあるのだろ う。 ﹁あたしにぴったりのって⋮金棒とか鞭とか持ってくるんじゃない でしょーね﹂ 窓の外を見ていた奈美さんがこちらを振り向き軽く溜め息をつく。 するとすぐに相田くんが部屋から出てきた。彼は窓際に奈美さんの 姿を見つけると方向を変えて近付き彼女に金属バットを差し出した。 ﹁僕、小中高と野球部だったんだ。宝物だったけどあげるよ﹂ ﹁え、あ⋮⋮ありがと﹂ 奈美さんが金属バットを手に取り、パシパシと先端で掌を叩く。 それから何を思ったか軽く素振りをし始めた。 ﹁えっと、相田さんの武器は?﹂ ﹁僕はこれ﹂ 207 相田くんの手にはY字型の物体が握られていた。二つに分かれた 先端は太いゴム紐でつながっている。 ﹁パチンコ?﹂ ﹁うん、スリングショットっていうんだ。これでよく趣味で狩猟を してた﹂ そう言って袋から鉛玉を取り出し掌の上で転がしてみせる。狩猟 って、なんだかヨーロッパの貴族みたい。やっぱりお金持ちの考え ることは違う。 ﹁相田さん、高岡さん、この近辺⋮⋮晃東高校までの間の地理に詳 しくないか?﹂ 先程から地図をずっと見つめていた佐伯くんが二人に尋ねた。 ﹁悪いけどあたし、駿の家に用あるときくらいしかここらへん来な いんだよね。駿は知ってるんじゃない?﹂ ﹁あぁー⋮⋮うーん、どうだろ。向こうは和泉商店街くらいしか行 ったことないかも﹂ ﹁⋮⋮和泉商店街だって?﹂ 相田くんの声を遮って須藤くんが口を開いた。 ﹁須藤くん知ってるの?﹂ ﹁あぁ、中高生の時はお世話になったぜ。通ってたボクシングジム もあったしな﹂ なんて奇遇だろう。誠へと続く道が綺麗な一直線で繋がっている ようで、私は嬉しさを隠しきれずにいた。 208 ガシャアァァン⋮⋮ッ 須藤くんに言葉を返そうとしたその矢先、鋭い音が部屋中に響い た。 音がした方に目を向けると金属バットを手に粉々に砕け散った窓 ガラスを気にすることなく呆然と立ち尽くす奈美さんがいた。その 白い腕にはガラスの欠片が刺さり、血が赤い筋となって床に垂れ落 ちている。 ﹁奈美さんっ大丈夫ですかっ!?﹂ ﹁あーあーもう、何やってるんだよー。また元の日常に戻ったら弁 償してもらうからな﹂ 奈美さんに駆け寄った私は穴の空いた窓ガラスに目を向けて愕然 とした。相田くんも﹁金持ちのくせにケチくさいっ﹂とか突っ込み を予期していたらしく、不思議そうな顔でこちらを見ている。 私たちの様子が変なのに気付いた佐伯くんが近付いてきて私の後 ろから外を覗いた。 ﹁⋮⋮なんてことだ﹂ 割れた窓ガラス越しに見えたのは︱︱屋敷内に流れるように入り 込むおびただしい数のゾンビだった。 209 第二十五話 疑問 先程私たちが通り固く閉めたはずの門は開け放たれ、無数のゾン ビが庭園に流れ込んできていた。 いくつかの不可解な疑問が頭を過った。まず第一に扉は施錠して あったはずだ。施錠し忘れていたにしても、知能が著しく低いゾン ビがあのスライド式の重い扉を開けられるわけがない。そして目が 見えないゾンビは音をたてているモノにしか反応しないはず。屋敷 内に私達が入った今、門の外から人間の存在に気付くことなどある はずないのだ。しかしこうなってしまった以上ごちゃごちゃ考えて いる暇はない。 ﹁⋮⋮悪いがゆっくりしている時間はなくなってしまったようだ。 相田さん、裏門まで案内してくれるか?﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ 私達は各々武器や荷物を手にドアの前に集まった。佐伯くんがド アノブに手をかけ、こちらを振り返る。 ﹁なるべくゾンビは俺と須藤⋮⋮あと伊東さんで倒すようにするが、 いざという時は奴らの頭を狙え。噛まれたら終わり⋮⋮攻撃を躊躇 しても終わりだぞ﹂ 戸惑いながらも二人が頷いたのを確認すると彼はドアを開いた。 ⋮⋮ドーーン⋮⋮ドーーン⋮⋮ 一階から音がする。それが吹き抜けの二階廊下まで響き、屋敷内 210 に木霊していた。玄関扉が振動し、音がする度に扉の隙間から光が 差し込んでいる。私達は階段を全速力で駆け降り始めた。 ﹁ヤバいな⋮⋮急がねぇと雪崩れ込んでくるぜ﹂ ﹁音を聞く限り一、二体が体当たりしているようだが⋮⋮凄まじい 力だ。突破されるのも時間の問題⋮⋮﹂ 佐伯くんの声に被って一際大きな破壊音が聞こえた。目をその方 に向けると扉が傾いて隙間から青白い手が覗いている。 ﹁走れっ!﹂ 一階廊下に響き渡る私達五人の足音。ただただ恐怖に煽られなが ら足を動かした。 私達が裏口があるらしい部屋に滑り込んだのは扉が床に倒れ落ち る音とほぼ同時だった。 その部屋は倉庫のようだった。木の棚には書物や箱がきっちりと 並び、床には古い新聞紙が平積みになっている。相田くんが先頭に なって段ボール箱に囲まれた狭い通路を進み、曇りガラスのドアの 正面に立った。 ﹁え、えと。このすぐ先に裏門があるんだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮外にもう奴らがいるみてぇだな﹂ 唸るような呻き声がドアから僅かに漏れ出てきていた。すぐそこ に︱︱いる。一番廊下側にいる奈美さんが焦りを隠せない様子で佐 伯くんの服の袖を引っ張った。 211 ﹁ちょっと、廊下の方からも聞こえてくるよ!﹂ ﹁ああ、もう引き返すことはできない。行くぞ!﹂ 相田さんがわきへ退き、佐伯くん、続いて須藤くんが前へ進み出 た。木刀と斧をそれぞれ構える。私も相田くんに貰った警棒の長さ を調節し、警棒と、もう片方の手に空き缶を強く握り締めた。 音を立てないよう慎重にドアが開かれた。薄暗い倉庫内に昼の明 るい陽光が差し、埃がキラキラと舞うのが見える。 ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ ︱︱息が止まった。裏門までの距離は学校のプールくらいの長さ で、約二十五メートル。その間にゾンビが数十体。多すぎる。裏門 でさえこれなのだから正面玄関から屋敷内に入っていったゾンビの 数は計り知れない。音をたてれば正面玄関から回ってこちらにやっ て来るだろう。それより早く突破する必要がある。 最後尾になった相田くんが後ろ手にドアを閉める時、微かに鳴っ たガチャンという音が静かな昼下がりの裏庭に響いた。 ﹁⋮⋮ぁっ﹂ 相田くんが思わず声を発する。手前にいた数体が一斉にこちらを 向き︱︱それと同時にその内の一体の首がグリンとあらぬ方向に曲 がった。 ズシャアァ⋮⋮ッ 横から凪ぎ払うように加えられた衝撃に、ゾンビは体を大きく捻 212 って俯せに倒れた。瞬く間にその頭部の周囲の芝生が赤黒く染まる。 ﹁最初のミッションだな。勝利の条件は一人も噛まれずに裏門に辿 り着くこと⋮⋮だ!﹂ 軽薄な言葉を吐きながらも須藤くんは新鮮な血に濡れた斧を左か ら近付いてきたもう一体に叩き込む。右では佐伯くんが無駄のない 華麗な剣さばきでゾンビの頭に次々と木刀を打ち込んでいた。 しかし︱︱やはり数が多い。音につられてゾンビが二人の周囲に わらわらと集まってくる。地面が土のため空き缶の音で誘導するこ ともできず、厳しい状況にあるのは見えていた。 ﹁⋮⋮くっ!﹂ 斧を大きく振りかぶった須藤くんに横から別のもう一体が手を伸 ばす。間が取れず後退を余儀なくされているようだ。このままでは 屋敷を背に皆追い詰められてしまう。⋮⋮よし、行こう。 バシィッッ⋮⋮ 再び斧を持ち上げた須藤くんに掴みかかろうとするゾンビの腕に 警棒を思い切り降り下ろす。意外に固く、よくしなる。腕に相当の ダメージを与えたようで、ゾンビは動かなくなった片腕をブランブ ランとさせている。そして白く濁った目が恨みがましく私に向けら れた。⋮⋮怖い! ガンッ 白い瞳が消えた。大きく仰け反ったゾンビは後ろ向きに倒れた︱ 213 ︱頭を強打されたのだ。 ﹁⋮⋮はぁっ、女の子に変態染みた目向けてんじゃないよ、おっさ ん!﹂ 奈美さんは額に汗を浮かべて、もう動かないおじさんゾンビに吐 き捨てるように言った。 ゾンビが多い⋮⋮! 倒しても倒してもきりがない。裏門に駆け 抜けようにも密集したゾンビの群れが邪魔だ。佐伯くんも徐々に追 い詰められている。数が多すぎるのだ。 ビシィッッ⋮⋮ 奈美さんと協力して一体ずつ倒していると、聞き慣れない物音を とらえた。音のする方に目を向けると、丁度ゾンビが足から崩れ落 ちるところだった。その足元の地面には小さな金属の玉が転がって いる。相田くんのスリングショットだ。 彼の放つ鉛玉はゾンビの足を的確に打ち、その衝撃にゾンビは次 々と方膝を地面につき倒れ込んでいった。佐伯くんたちに近寄ろう としている少し離れたところにいるゾンビを狙っているようだ。 倒れてもなお這いつくばって血肉を求めるゾンビ。地面を這うそ れらに気付かずその背中を踏みつけたゾンビがバランスを崩す。そ れが連鎖となりゾンビが次々と倒れていく。 ﹁今だ、行くぞ!﹂ 佐伯くんの声を合図に私たちは倒れたゾンビの群れの間を縫うよ 214 うに走り抜けた。 ﹁へぇ、なかなかいい狙撃の腕持ってるじゃねぇか﹂ 門に着き相田くんが錠を外すと、須藤くんがこちらに這ってくる ゾンビの群れを眺めながら相田くんに言った。玉のような大粒の汗 を流し背中で息をする須藤くんの口元は満足そうに笑っている。相 田くんも少し困ったように薄い微笑みを返した。 門から出るとき、何気なく屋敷の方を振り返った私は先程いた倉 庫に続く曇りガラスのドアに映る異様な影に気付いた。⋮⋮大きい。 人の原型を留めているゾンビとは明らかに違う。二メートル以上の 高さに横幅もある。ガラス越しにも肌が不気味なくらい真っ白なの がわかる。背筋が凍りついた。何なの、あれは? ﹁伊東さん、走るぞ﹂ いつの間にか私の隣に並んで立っていた佐伯くんが緊張感あふれ る声で呟いた。彼もあの存在に気付いたのだろうか? 手を伸ばし地面を這ってくる髪の長い少女のゾンビの鼻先で裏門 は再び閉められた。 ﹁走れっ⋮⋮!﹂ ゾンビの群れから無事逃れ安堵の息をつく間もなく佐伯くんが急 かす。 ﹁あぁ!? どうしたってんだよ﹂ ﹁門を突破してきた奴らだ︱︱油断しきってのんびり歩けば危機的 215 状況に陥るのは目に見えてる。⋮⋮まぁ詳しい話は後だ﹂ ﹁どっちに行けばいいの?﹂ ﹁駿が途中まで知ってるんだったよね。和泉商店街だっけ?﹂ ﹁うん。この道を真っ直ぐだ﹂ 道路に疎らに点在するゾンビたちを避けながら私達は走った。目 指すは和泉商店街だ。 216 第二十六話 脅威 どれだけ走ったのだろう。相田くんに道を確認しながら住宅街の 角を何度も曲がり、やっと周囲にゾンビの姿がない場所を見つけた。 ゾンビの集団との戦闘に加え、この長距離走。体育会系の部活やサ ークルに所属していない私や奈美さん、相田くんはもとより、佐伯 くんと須藤くんも疲れているようだった。焦って無理するよりも出 来ることなら可能な限り慎重に体力を温存しながら進んだ方がいい。 そこで私達は少しばかり休憩することにした。 須藤くんたちが鞄から飲み物を取りだし水分補給している中、私 は重い下半身を引き摺るようにしてコンクリートの段差に腰をおろ す佐伯くんの傍に寄った。 ﹁佐伯くん。⋮⋮見たよね? お屋敷の硝子越しに、奇妙な影が映 ってたの﹂ ﹁⋮⋮ああ、見た。よくは見えなかったが⋮⋮直感でわかる。あれ は俺たちの脅威となり得る恐ろしい存在だ、間違いない﹂ 佐伯くんは背中を丸め私の耳元に口をもってくると小さな声で囁 いた。⋮⋮皆に聞かれたくないのだ。確かに現状を知ったばかりで、 今まで暮らしてきた人間社会と全く異なる野蛮な世界にまだ不馴れ な二人に余計な不安を与えることは控えるべきだ。そんなことも考 え付かない自分自身に落ち込みながら声のボリュームを数段階下げ る。 ﹁お屋敷の門を突破したのはあれの力なのかな?﹂ ﹁そうだろうな。だがもうこれ以上考えるのは無駄だ。高校に到着 するまでにあれに遭遇しないよう祈ろう﹂ 217 話を終えて、頬に息がかかるほど佐伯くんに接近していたことに 気付き、慌ててお互い後退した。 ﹁⋮⋮すまない﹂ ﹁だ、大丈夫!﹂ いつも涼しげな顔に困惑の色を浮かべ視線を横に逸らす佐伯くん に、私も顔に血が集中して熱くなるのを感じる。ゾンビが現れて日 常の些細な感情なんて消えてしまったのだと思った。でもやっぱり 違う。私の中の人間はまだ何も変わっていない。生きているんだ。 そんなことを考えて何気なく視線を移すとニヤニヤ顔の須藤くん と目が合った。 ﹁こんな世界にも純愛は存在するって俺は信じてるぜ﹂ ﹁ちょっと須藤くんっ、何を見てそう思ったのー?﹂ ﹁ねえ、気になってたんだけどさ、三人はどーいう関係なわけ? 特に佐伯くんと皐月ちゃん﹂ 意味ありげに私と佐伯くんを交互に見てくる須藤くんの逞しい腕 をパシパシと叩いていると、奈美さんまで参入してきた。でも確か に私達の関係については気になるところだろう。 ﹁私達はこんな事態になって逃げてた時に偶然出会ったんだ﹂ ﹁へえ、面識なかったんだ﹂ ﹁うん。だから須藤くんもまだ誤解してるようだけど、佐伯くんと 私はそういうのじゃないの﹂ 何故か緊張して早口になる。そんな私に奈美さんは悪戯っぽい笑 218 みを浮かべる。 ﹁お似合いだと思うけどなぁ∼男前の佐伯くんに可愛い皐月ちゃん﹂ ﹁でもこいつら絶対そーいう関係に発展するまで面倒だぜ﹂ ﹁ちょっと奈美さんっ違うっ。須藤くんもまた!﹂ ﹁俺と伊東さんのことは置いておいて、だ。高岡さんには交際して いる男性がいるんじゃないか? 薬指に嵌めた指輪はつまり、そう いうことだと聞く﹂ さっきから無言を貫いていた佐伯くんが話題を変えてくれ、顔か ら火が出る思いだった私は安堵の溜め息をついた。助かった。須藤 くんは﹁佐伯、否定しねーんだな﹂と相も変わらずしつこかったが、 佐伯くんに冷ややかな視線を浴びせられ軽く舌打ちすると静かにな った。 ﹁交際なんて言葉はしっくりこないけどさ︱︱いるよ、一応﹂ ﹁近所に住んでる幼なじみなんだとさ﹂ 少し照れ臭そうに言う奈美さんに相田くんが補足する。心なしか 彼のおちょくるような言葉の中に何か別の感情を感じた。 ﹁でも今はそれどころじゃあないでしょ、親とも連絡つかないし⋮ ⋮。その避難所行ってからゆっくり考えるよ﹂ ﹁連絡はとらないのか?﹂ ﹁⋮⋮今はいい﹂ ︱︱怖い、彼の安否を知るのが。奈美さんの心の声が聞こえてく るようだった。平常心を装ってはきはきと話していたが、最後の声 は震えて、不安に軋む心を隠しきれていなかった。私のお母さんと 一緒⋮⋮。 219 ﹁奈美さん、大丈夫だよ。私ね、弟とまた会えるって信じてるの。 国はまだ動いてるんだよ。軍も機能してるし。奈美さんも、会える よ﹂ ﹁⋮⋮ありがとっ皐月ちゃん。アイツは簡単に死ぬような奴じゃな いからあたしも信じてる。ちょっとは心配だけどね﹂ 何の根拠もない薄っぺらな言葉。だけれども私は不安そうな奈美 さんをどうにか元気づけたかった。奈美さんはそれを聞いてはにか んだ優しい笑顔で私の頭を撫でてくれた。 ﹁皐月ちゃんの弟くんも、きっと大丈夫。あとちょっと頑張ろ﹂ 奈美さんは強い。でも今の世界では、強さは脆さと紙一重だ。こ の先どのようなことが待ち構えているのか私たちにはわからないが、 私は彼女を支えていきたい。もう、絶対に失いたくない。キラキラ と昼の陽光を反射して輝く奈美さんの瞳を見つめ、そう強く思った。 それから暫くして疲労が完全に抜けきることなく出発し、住宅街 を通るコンクリートの道を私達は一言も口にすることなく無言で進 んだ。奈美さんと相田くんにはゾンビが聴覚を頼りに獲物を追うこ とは伝えてある。ヨロヨロとおぼつかない足どりで徘徊するゾンビ が常に視界に入ってくる︱︱気分が悪い。それでも立ち止まること なく歩き続けていると、﹁和泉商店街﹂と古臭い書体で書かれた色 褪せたアーチが見えてきた。 ﹁着きましたけど⋮⋮。僕が案内できるのはここまでです﹂ ﹁須藤、ここからは頼めるか?﹂ ﹁⋮⋮んー﹂ 220 アーチの手前で歩を止め、全員の視線が須藤君に集中した。腕を 組んで俯き考えこんでいた須藤くんがちらと視線をこちらに向ける。 ﹁わかんね﹂ ﹁ちょっと、知ってるって言わなかった!?﹂ ﹁⋮⋮! しーっ﹂ 普段からの癖であろう、口を尖らせ身を乗り出して須藤くんに詰 め寄る奈美さんに、私と佐伯くん、相田くんが揃って静かにするよ う注意を促す。奈美さんははっとして慌てて口を押さえた。 ﹁いや、ここだと思うんだがなぁ。俺が足繁く通ってたのはもっと 栄えてたぜ。高い建物とかあってよ﹂ ﹁あぁ、じゃあこの先だよ。この商店街一見寂れてるけど、色々な 店が集まっていて結構長いんだ。確か繁華街に続いてたと思うけど ⋮⋮﹂ 確かに大きな商店街のようだ。視界が届かないずっと奥の方まで 食品店や電器屋、美容室などが両側に並んでいる。そしてあちらこ ちらから聞こえる呻き声。ゾンビが⋮⋮いる。それもたくさん。 ﹁通りは狭い上に奴らの数が多いようだな。店から飛び出してくる 可能性もある。気をつけて進もう﹂ 五人一列になって商店の並ぶ狭い通りを進む。床の血溜まりに野 菜が無惨に散らばる八百屋、豚肉や牛肉に混じって人肉が並ぶ肉屋、 ビンが割れ破片が飛び散る床をゾンビが平然と歩く酒屋。人々の生 活が密集したこの場所には、もう日常の欠片もない。 正面にゾンビが見えた。人一人分ほどの間隔をあけて数体のゾン 221 ビが横に並んでいる。かつては人であった肉塊が散乱する無人の商 店街で海藻のようにゆらゆらと揺れる人の形をした化け物の姿は不 気味で、趣味の悪いホラー映画のようだった。 ﹁これじゃあ何もなく平穏に通るってわけにはいかないね⋮⋮﹂ ﹁かといってUターンするわけにもいかないようだぜ﹂ どうにかして切り抜けられないものかと正面をじっと凝視する私 に、須藤くんが立てた親指でくいくいと後ろを指す。振り返って見 ると数体のゾンビが私たちが来たアーチをちょうどくぐったところ だった。前も後ろも︱︱ゾンビに挟まれている。 ﹁音で誘導したいところだが⋮⋮このような閉じられた環境では他 のゾンビもおびき寄せてしまいかねない。やるしかないな﹂ ﹁あ、じゃ、じゃあ僕に任せて﹂ 木刀を鞘から抜いた佐伯くんを相田くんが緊張した声で引きとめ る。手にはスリングショット。腰に下げたショルダーバッグから鉛 玉を数個取り出し、ゾンビに向けて構える。そしてビンッとゴムの 弾ける音が聞こえたと同時に数体のゾンビのうち真ん中の一体が倒 れた。 頭部を大きく反らせて倒れたところを見ると額か首を狙い撃ちさ れたようだ。両側のゾンビが骨を砕く音に反応し、真ん中のゾンビ が倒れた辺りを不思議そうに見渡す。その次の瞬間、一番右端のゾ ンビも倒れた。 ﹁残るは三体か。よし、行くぞ!﹂ 佐伯くんが少し離れた位置のゾンビに向けて駆け出す。須藤くん、 222 少し遅れて奈美さんも続く。スポーツバッグを担ぐ私は元々運動が 苦手なこともあり三人にとても追いつかない。急ぎ足で向かいなが らも佐伯くんと須藤くんがそれぞれ一体ずつゾンビの息の根を止め たのを見届け、歩の速度を緩めた。 あとは奈美さんだ。二人が傍にいるから彼女の身の危険を心配す ることはないだろうが、まだ奈美さんのゾンビを攻撃する手には戸 惑いが感じられる。それが正しい人間の在り方であったはずだが、 須藤くんも言っていたように、こんなことになってしまった今は生 き残るためにかつての常識、モラルを変えていかなければいけない。 人間の姿をしていてもこれはバケモノ。かつて人間だったとしても 今はバケモノ。そう割り切らなければこの世界で生きてはいけない。 奈美さんの両腕が振り下ろされた。頭蓋骨が砕ける重い音と共に 最後の一体が崩れ落ちる。いつの間にか隣にいた相田くんが緊張に 強張った身体を緩め、ほっと息をついたのがわかった。 ゾンビの一団を切り抜け、再び私たちは歩き始めた。通りの奥に 高い建物がちらほらと見えてきていた。商店街のおわりももうすぐ のようだ。 ﹁⋮⋮惨いね﹂ 隣を歩いていた奈美さんが呟いた。確かにこの辺りには死体が多 い。それも、人間の原型を留めているものが。血もまだ赤く新鮮で、 殺されてからあまり時間が経っていないように思える。 ﹁このあたりにはまだ生きている人がたくさんいるのかな﹂ 目に涙を溜めた女性の所々破損した死体を痛々しい思いで見つめ 223 る。 ﹁ん? おいっ⋮⋮!﹂ 須藤くんが何かに気付いたような声をあげるといきなり前方に向 けて走り始めた。 ﹁どうした須藤!?﹂ 訳がわからないまま私たちは須藤くんを追う。走ったのはほんの 僅かだった。須藤くんは一体の死体の前で足を止めた。 ﹁ちょっと、なんだっていうの?﹂ 急に何も言わず走り出した須藤くんに後ろから奈美さんが問う。 ﹁⋮⋮こっから先は気を付けた方がいいぜ。俺らの脅威はゾンビだ けじゃねぇ﹂ 須藤くんの目線の先には一体の死体⋮⋮恰幅のよい中年の男性だ。 ふつうはその人の性別、年齢、ましてや肉付きなどは食い散らかさ れわかるものではない。しかしそれは襲ったのがゾンビだった場合 だ。 ﹁人が、この人を殺したの⋮⋮?﹂ 動くことのない男性の額、胸、腕、腹⋮⋮数ヶ所に矢のような細 い金属の棒が刺さっていた。 224 第二十七話 襲撃者 中年男性の身体の至る所に生えた矢羽部分の赤い金属の矢︱︱偶 然当たってしまったのか。いや、そうだったならばこんな執拗な攻 撃などしない。ゾンビだと勘違いしたにしろ、そうでなかったにし ろ、はっきりとした殺意を持っていたのは確かだ。 佐伯くんが焦りを隠せない表情でさっと身を翻し、周囲を注意深 く見渡した。 ﹁もう襲撃者はここにはいないようだが⋮⋮この先はゾンビに加え てそういった輩にも気を配る必要があるな﹂ ﹁な、なんだって人が人を⋮⋮﹂ 額に汗を浮かべ信じられないといった様子でうろたえる相田くん の肩に須藤くんが肘を置く。相田くんは相当驚いたようでビクンと 大きく一回跳ねた。 ﹁ゲームだよ、ゲーム。法律が実質意味ねぇもんになっちまった今、 懲罰を恐れておとなしくしていたサイコ野郎どももその醜い本性を 曝け出したってわけだ﹂ ﹁そんな、残虐な欲望を満たすためなら掃いて捨てるほどいるゾン ビを殺せばいいじゃないの﹂ ﹁ゾンビなんて殺しても何の反応も示さないからな、生きた人間が 苦しみ悶え死ぬ姿を見たいんだろ﹂ ﹁⋮⋮随分とそういう人間に詳しいんだね﹂ 悪びれもせず、どこか楽しそうにも思わせる口調で飄々と言って のける須藤くんに奈美さんが怪訝な顔をして言う。声に棘がある。 225 奈美さんは須藤くんに対してどこか不信感のようなものを抱いてい るようだ。 ﹁まぁ、ゾンビと間違えて打っちゃったっていうのも考えられるよ ⋮⋮ね?﹂ ﹁いや、ふつう動作やら最初打ったときの悲鳴で気付くだろ。だが よ、こいつは何度も何度も打ちこまれてんだ。快楽殺人にしか思え ねぇな。それにだ、この辺りは元々そういった類の人間が多い。こ の先の繁華街は暴力、薬、売春⋮⋮そういった犯罪の温床だ﹂ 人として望む最後の期待もすぐに打ち砕かれてしまった。詳しい ことは知らないが須藤くんは昔はかなりの悪だったみたいだし、そ の時に通っていた場所といえば当然そういう場所になるだろう。悲 しいがそういった人間がいるのは間違いなさそうだ。 それにしても誠もこんな危険な場所に近い高校によく通っていた ものだ。ここから住宅街を間に挟んでしばらく歩くようだから隣接 しているわけではなさそうだが、それでも生徒たちに与える影響は 大きいはずだ。だから防犯対策があれほどまでしっかりしているの だと納得する。そういえば駅は繁華街とは反対側の方面にあって、 下校時は先生や警備員が生徒が寄り道しないように立って誘導して いるのだとか言っていたのを思い出した。そんなことするならこん なところに学校作らなきゃいいのに。 ﹁ちょっと、そんなとこ通るの危険すぎでしょ。どうにか避けれな いの?﹂ ﹁そ、そうだよな⋮⋮この人みたいに急に襲われるかもしれない。 知恵がある分ある意味ゾンビより怖いんじゃないか⋮⋮?﹂ ﹁繁華街を避けて行くのはかなり時間がかかるぜ? それに俺も安 全なルートは把握してるつもりだ。ま、それでも嫌だってんたら付 226 いてこなくていいけどよ﹂ その時、奈美さんと相田くんの須藤くんを見る目が鋭くなったの がわかった。須藤くんがそのような場所に通う人間の一人であった ことを知った上に、この突っかかるような言動︱︱これでよい感情 を抱けというのも難しい話だろうけども。 ﹁あまり話している時間はないぞ⋮⋮このままいくと運が悪ければ 高校へ向かう途中で日が落ちてしまうなんてことも考えられる﹂ ﹁ああ、それなら少しは安心していいぜ﹂ ﹁どこか安全な場所の目星がついているのか?﹂ ﹁⋮⋮まあな。いざとなりゃそこで一晩過ごせると思うがね﹂ 佐伯くんはこうして話している間も常に周りに気を張り巡らせて いる。とりあえず今は須藤くんに頼るしかない。早く先に進まなけ れば、いつその恐ろしい人たちが襲ってくるか⋮⋮。 入ってきた時と同じようなアーチをくぐり、私たちは商店街を抜 けだした。正面には某有名カフェチェーン店やコンビニ、お洒落な 雰囲気の雑貨屋などが並んでいる。どれも開け放たれた扉から血や 臓物にまみれた店内の様子が伺えた。 ﹁須藤くん、ここで合ってた?﹂ ﹁そうそう、ここだ。小綺麗なファッションストリートの姿は跡形 もねぇが間違いねぇ﹂ ガラス張りのブティックに車が突っ込みガラスの破片が散乱した 通りを眺めながら須藤くんが頷く。 ﹁なんか想像と違うなぁ⋮⋮。不良やヤクザというかOLさんが通 227 いそうな場所だよね﹂ ﹁ここは、な。もっと先に行けば小汚ねぇビル街に繋がる裏通りが あってよ﹂ ﹁まさかとは思うけど、不良やヤクザ行きつけの小汚いビルがその 寝泊まりできる場所だっていうんじゃないでしょーね?﹂ 奈美さんが眉間に皺を寄せ問い詰めると、須藤くんはおどけたよ うに肩を竦めて話を続けた。 ﹁悪どもが集まる危険な地域とは少し離れた場所に寂れた通りがあ る。そこに俺の通ってたジムがあったんだが⋮⋮。その裏に廃ビル があんだよ。そこなら目立たねぇし、すぐ近くは高校に通じる閑静 な住宅街だ﹂ ﹁なるほどな。一晩ここで過ごさなければならない事態が起きた場 合、俺は須藤のいう廃ビルでいいと思うが⋮⋮三人はどうだ?﹂ ﹁私もいいと思うよ﹂ ﹁ここまで来たらそこしかないんじゃない?﹂ ﹁僕もそう思う﹂ どうにかこうにか全員の同意を得て、私たちはとりあえず高校に 急ぐことにした。しかし日がだいぶ傾いてきた︱︱あと数時間もす ればこの街は闇に包まれるだろう。急がなくては。 早足で血みどろのファッションストリートに足を踏み入れた時だ った。 ヒュン⋮⋮ 耳元で風を切る音がした。汗ばんで頬にかかった鬱陶しい髪を風 がふわりと巻き上げる。すぐには何が起きたのかわからなかった。 228 最初にまず感じたのは頬を焼くような熱。そして鋭い痛み︱︱。 ﹁走るぞっ! その角を曲がれっ!﹂ 佐伯くんの叫び声が聞こえ、私の身体が勢いよく引っ張られた。 何も考える余裕などなかった。ただ背後から迫る何者かの気配と、 風を切る音を感じながら佐伯くんに引かれるがままになっていた。 曲がり角まであと少し。 ﹁うああっ!?﹂ 相田くんの声がした。後ろを振り返ると私たちより少し後ろで相 田くんが片腕を押さえ地面に膝をついているのが見えた。腕を押さ える手の指の間から赤い矢羽が覗いている。 ﹁駿っ!﹂ 奈美さんが相田くんの叫び声を聞いて引き返し走り出す。これは ⋮⋮ヤバイかもしれない。走る奈美さんの後ろ姿の向こうに数人の 人影が弓のようなものを構えている︱︱が何を思ったか顔を見合わ せて少しの間相談する素振りを見せると、こちらに向けて走り出し た。 ﹁⋮⋮ちっ。あいつら、女を狙ってやがる。相田は殺されるぞ﹂ 須藤くんが顔を強張らせどうするべきか考えあぐねている様子だ ったがやがて意を決したように相田くんたちの方へ駈け出した。佐 伯くん、私も後に続く。 ﹁ちょっと、何あんたたち!!﹂ 229 相田くんに肩を貸し一緒に逃げ出そうとしていた奈美さんの前に 男が立ちふさがる。奈美さんは咄嗟に手にした金属バットを振り下 ろそうとしたが、いやらしい下卑た笑いを浮かべた男にその腕を封 じられてしまった。 後からやってきた男を合わせ合計三人︱︱全員中年とは言えない 年頃でそこそこ若いようだが、腐った性根が顔に如実に表れており、 目は黄色く濁って汚れきっていた。 ﹁すっげぇいい女だ、今日はついてるな! おい、そいつは殺しち まえ﹂ 男たちのうちの一人がボウガンを構えた。 230 第二十八話 廃ビル 男が相田くんの頭にボウガンを構えた︱︱その時。 ﹁おい、糞野郎ォ! こっちだ!﹂ 私と佐伯くんの少し前を走る須藤くんが声を張り上げた。男たち が驚いたように動きを止め一斉にこちらを見る。私たちが近付いて 来るのに気付いていなかったようだ。 ﹁あぁ∼、なんだぁ?﹂ ﹁戻ってきやがったのか! 馬鹿な奴らめ﹂ ﹁まだ女いるじゃんか! ひひっ、残りは打ち殺そうぜ!﹂ 男たちがボウガンの照準を相田くんからこちらに移す。それと同 時に私は頭を力強く押さえ込まれ、かけられた重みでコンクリート の地面に身体を伏せる形になった。佐伯くんの腕が私の頭を抱える ようにして抑えつけていた。暫くして頭上を矢が数本通り過ぎてい く気配を感じた。 ﹁伊東さん、大丈夫か!?﹂ ﹁へ⋮⋮平気。須藤くんは?﹂ すぐ耳元で佐伯くんの声が聞こえた。須藤くんはどうなったのだ ろうか? 早鐘を打つように騒ぐ胸で大きく一回呼吸し、腕の隙間 から正面の様子を覗う。 須藤くんは無事だった。低姿勢で前進し、私たちとはもう大分離 れ男たちの目前まで迫っていた。男たちもこの異常事態の最中手に 231 入れたであろうボウガンにまだ慣れぬ様子で︱︱だから須藤くんも 真正面から駈け出したのだろうが︱︱連続して矢を放つことは困難 なようだ。そうしてる間にも須藤くんが彼らのもとへと辿り着き、 斧を向けた。須藤くんの手にした凶器に気付き男たちが情けない悲 鳴をあげる。 ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ 斧を振り上げたまま須藤くんは固まっていた。そうだ、相手は根 が腐っていようが生きている人間。ゾンビとは︱︱今までとは違う。 男たちは皆怯み自分を庇うようにして腕で頭を覆っていたが、須 藤くんが何もしようとしないのに気付くと態度を急変させた。強者 には腰が低く立ち向かう勇気もなく無抵抗で、弱者にはふんぞり返 って力で制そうとする︱︱どうしようもない人間たちだ。 ﹁へへっ、根性なしめ!﹂ 両手で斧を握っているためガード無しの状態の須藤くんの腹部を、 短い髪に切れ込みを入れた男が思い切り蹴りあげる。 ﹁⋮⋮くっ!﹂ 須藤くんは少しよろめき二三歩後退したが、次の瞬間ほぼ反射的 に腕を降り下ろした。 ﹁ぎゃあああああっ﹂ 男の叫びがゴーストタウンと化した街に木霊する。須藤くんを蹴 った男の腕が肩から切り落とされ、おびただしい量の血が滴り落ち 232 ていた。男はそのまま地面に倒れ、痛みでひぃひぃ言いながら転げ 回る。 ﹁行こう。伊東さんは俺の後ろに﹂ 私と佐伯くんは顔を見合せ頷くと走り出した。武器を持っている とはいえ相手は三人︱︱いや、一人は地面に伏したままか。それで も相手が知恵を持ち素早い分劣勢に変わりはない。 須藤くんは新鮮な血が伝う斧の刃の部分をじっと見つめていた。 男たちは皆怯え、後退りし始めている。手の拘束から逃れた奈美さ んは相田くんに駆け寄ると彼に肩を貸し、男たちからゆっくりと距 離を置いた。須藤くんはまだ動かない⋮⋮と、何を思ったか須藤く んが斧を後ろに放った。 ﹁!?﹂ 途端男たちがニヤリと下品に笑い、須藤くんにじわじわと近付き 始めた。 ﹁甘っちょろいな、てめー。そんなんじゃこの世界を生き延びんの は到底無理だろーな。やつらに食い殺されるより今俺たちに殺られ た方が楽だぜっ!﹂ 二人が一斉に須藤くんに殴りかかる。手には鈍く光る金属がはめ られている︱︱メリケンサックだ! 危ない。彼らまであと数メー トル︱︱それまでどうにか須藤くんが持ちこたえてくれれば。 一瞬の出来事だった。男がスローモーションで宙を掻くように見 えた。一人はバランスを崩し大きく前のめりになり、もう一人は顔 233 を醜く歪ませ、進行方向の斜め後ろに飛んだ。須藤くんが二人の男 の攻撃をかわし、目にも止まらぬ速さで男の頬を殴ったのだった。 ﹁いでえぇぇっ⋮⋮舌が、舌があぁぁっ﹂ 中を噛みきったらしく口から血を垂れ流しながら男がしゃがみこ み悶える。そうする間に私たちは須藤くんたちのもとに着いた。 ﹁須藤くん、大丈夫?﹂ ﹁俺は平気だ。問題は相田だな﹂ ﹁逃げるぞ!﹂ 佐伯くんが声を張り上げた。はっとして回りを見る。痛みにのた うち回る二人の男と、それを見捨てて逃げようとする男の奥に、黒 い人影を捉えた。 ﹁⋮⋮⋮⋮っ!﹂ 驚きと恐怖で声にならない声をあげる。ゾンビ。今、この世界を 支配する者たちだ。彼らの存在を忘れてはいけなかった。忘れて油 断したときこそ死が訪れる時だ。そしてそれは今のことかもしれな い。 ゾンビの奥にもまたゾンビ。数十、いや、百を超えているかもし れない︱︱ゾンビの大群が押し寄せてきていた。前も後ろも。周囲 は建物で囲まれている。八方塞がりだ。 ﹁う、うそでしょ⋮⋮? 何、あの数⋮⋮﹂ 相田くんを支える奈美さんが驚愕の表情を浮かべ呟いた。相田く 234 んも痛みと戦いながらもおびえた目でゾンビをじっと凝視している。 ﹁武器を持って、落ち着くんだ。抜け道を探そう﹂ 努めて冷静に振る舞おうとする佐伯くんに、絶望の文字が頭を過 った私も気を持ち直す。 ﹁そうだぜ、ビビってんじゃねぇぞ。抜け道はある。こっちへ来い﹂ そう言う須藤くんは平静を装ってはいたが吐く息は荒く、顔は少 し蒼ざめていた。地面に転がる斧を拾い上げ、私たちを誘導する。 彼が入っていくのは、すぐ傍にある色とりどりの看板を掲げた雑居 ビルの一つだった。私はビルに一歩足を踏み入れたところで後ろを 振り返った。 二人の男がか細い悲鳴をあげながら大量のゾンビに集られ、喰わ れていた。無傷だった一人は逃げようとするが、極度の恐怖で足が もつれうまく走れていない。やがて両側からゾンビが押しかけ︱︱。 ﹁あ゛ぁぁぁーー!!﹂ 野太い悲痛な叫びが甲高い断末魔の悲鳴に変わる。 ﹁伊東さん﹂ 佐伯くんの声で我に返る。最後尾の佐伯くんは私がいつまで経っ ても中に入らないため足止めをくらっていたのだ。 ﹁あっ、ごめんなさい⋮⋮﹂ 235 あわてて謝罪して先へ進もうとする私の頬を、彼の長い指が撫で る。突然のことに面喰らってはっと見上げると、彼は私を痛々しい ものをみるような目で見下ろしていた。今気付いた。私は泣いてい たのだった。 ﹁あ、あははっ。なんか、同じ人間なのに、こんな状況で大切な仲 間なのに、傷付けあうなんて、変だなって思って。ごめん、行こ﹂ よくわからない悲しみでうまく喋れない。佐伯くんはそんな私を じっと見据えると労わるように微笑み私を先へ促した。 佐伯くんに引かれてようやくビルの中に入ると三人が息を押し殺 して壁に張り付いていた。 ﹁中にいる⋮⋮﹂ 眉を顰めて奈美さんがひそひそ声で言う。そっと壁の端から覗く と小さな服屋や雑貨屋が並ぶこのフロアに結構な数のゾンビがいる ことがわかった。 ﹁ど、どうする? このまま突破するつもりなのか?﹂ ﹁⋮⋮いや、こっちだ。この階段を降りるとひっそりとした地下街 があってよ⋮⋮まぁ、いわゆるワル御用達の店があるんだが。そこ を抜ければ向こう側の地上に出れる。普段あまり人がいねぇから大 丈夫なはずだ﹂ ﹁ホント危なっかしいんだから﹂ すぐそこの角にある目立たない階段を指差す須藤くんを呆れたよ うに奈美さんが見る。 236 薄暗い階段を下ると派手な柄の暖簾がかかっていた。危険な雰囲 気がプンプン漂っている。普通の人はまず引き返すだろう⋮⋮。 ﹁おし、予想通りだ。﹂ 暖簾の隙間から中の様子を伺った須藤くんがOKサインを出す。 中はやはり怪しげな店がごちゃごちゃと並んでいた。大きなピアス や刺青のデザインが並ぶ木の棚、様々なナイフが飾られたショーウ ィンドー。きっとこのようなことになる前はいかついお兄さんやド 派手なお姉さんの姿をちらほら見ることができただろう。 私たちは店と店の間を足早に進んだ。店の奥から時々呻き声が聞 こえたが、私たちが音を出さないよう細心の注意を払っていれば大 丈夫なはずだ。 登り階段が見えてきた。その手前で、須藤くんがピタリと立ち止 まった。 ﹁どうした須藤﹂ ﹁ちょっといいか?﹂ そう言うと須藤くんは一つの店に入り、そして一分もしないうち に出てきた。手には先程目にした鈍く光る金属︱︱メリケンサック がはめられていた。 ﹁対人用の武器に、な。サイコパスどもはこれで叩きのめす﹂ そう言ってにやりと笑うと須藤くんが再び先頭に立ち歩き始めた。 メリケンサックをはめた拳は、爪が掌に食い込むほど強く握られて いた︱︱。 237 外に出てゾンビの少ない道を暫く歩き私たちは古いビルの前にや って来た。 ﹁きったないビルだね∼⋮⋮﹂ ﹁ここが例の廃ビルだ﹂ さらりと言ってのける須藤くんに奈美さんが露骨に顔をしかめる。 ﹁どうする、寄るか? 幸い中には誰も入ってねぇようだぜ﹂ ﹁え、どうしてわかるの?﹂ 須藤くんが汚れて曇った硝子扉をコンコンと軽く叩く。 ﹁この扉も窓も全部がたついて開かねぇんだよ。入るには割るなり しねぇと﹂ ﹁あぁ∼なるほど。ゾンビが侵入してきても音でわかっていいね﹂ ﹁⋮⋮あの、迷ってるとこ悪いけど⋮⋮お願いです、休ませて⋮⋮﹂ 相田くんの消え入りそうな声が割り込んできて私も須藤くんもび っくりして後ずさる。 ﹁あっ、ごめんね駿! 忘れてたよ!﹂ ﹁⋮⋮ゾンビかと思ったぜ﹂ ﹁寄ると決まれば急ごう﹂ 佐伯くんに促され、須藤くんはこの廃ビルと隣の建物の間の狭い 道に入っていった。私たちもその後を追う。 ﹁うぅ⋮⋮早くしてくれないかな? 意識が遠退いてきた﹂ 238 ﹁あともう少し堪えろ﹂ そこには廃ビルの外壁に沿うようにして倉庫が置かれていた。須 藤くんは胸元に手を突っ込むと、シルバーのネックレスを取り出し た。先に小さな鍵がついている。 ﹁へぇ、いけてるね﹂ 感心したように言う奈美さんに、須藤くんは振り向いてニッと笑 う。倉庫の扉を開くと、中は空っぽだった。そして廃ビルに接する 部分は大きくくりぬかれており、廃ビルのコンクリートの壁にはぽ っかりと人一人が通れるほどの穴があいていた。 ﹁ここから先は俺の家みてぇなもんだ。構造は全て把握してる⋮⋮ 当分は安心だぜ。行くぞ﹂ 私たちは一列になって廃ビルの中へ入っていった。その時はまだ 私たちを見つめる2つの影に気付く由もなかった。 239 第二十九話 思い ﹁うぐぅぅぅっ⋮⋮!﹂ 朽ち果てた椅子、錆び付いた机。薄暗がりの中、窓からは傾いた 日の光が差し込み、埃が黄金色の光を帯びて大量に舞う。そんな幻 想的でもあり幽霊が出そうな雰囲気でもある部屋に弱々しい呻き声 が響いた。 ﹁駿、男でしょ。我慢してっ﹂ 私たちは須藤くんに導かれ廃ビルの二階に上がり、そこで相田く んの荒治療を開始した。奈美さんが真剣な顔をして相田くんの二の 腕に刺さった矢を引き抜こうと力んでいる。 ﹁矢尻が肉に食い込んでいるからな⋮⋮痛いだろう。可哀想に﹂ 佐伯くんが哀れみを込めた目で相田くんを見る。 ﹁か、可哀想だと思うならっ⋮⋮こいつにもっと優しくするよう言 ってよっ、ああああーっ!﹂ ﹁はあっ、やっと抜けた!﹂ 血にまみれた矢尻が現れ、私は想像を絶する痛みを我慢した相田 くんに称賛の気持ちを込めて何となく拍手する。矢が刺さっていた 場所は肉がくり貫かれ赤黒い血が込み上げており、かなり痛々しい。 ﹁おいっ。お前らもっと静かにできねぇのか? ちょっと外に出れ ばゾンビがうようよ彷徨いてるんだぜ﹂ 240 見回りに行っていた須藤くんが帰ってきた。呆れた様子でこちら を見てくる。 ﹁⋮⋮すまない。でももう大丈夫そうだ﹂ ﹁うげっ、相田の奴哀れだな﹂ 不慣れな手付きで奈美さんが傷口を包帯で巻いていき、相田くん の片方の二の腕はアメコミのセーラー服を着た某キャラクターのよ うに不自然に膨らんでしまっていた︱︱いやあれは肘から下か。 ﹁はいっ、おしまい!﹂ ﹁⋮⋮ありがとうございます、一応﹂ ﹁そういえばその包帯誰が持ってたんだよ? もしかしてこのビル に放置されてたの使ったんじゃねぇだろーな?﹂ 相田くんがひぃぃと悲痛な声を出す。確かにそれは⋮⋮ヤバいか も。 ﹁そこまであたしは非常識じゃないって。佐伯がくれたの﹂ ﹁ああ。俺の鞄にはパソコンの他にも簡単な救急道具が入ってる。 剣道の練習があるし念のために持ち歩いてるんだ。⋮⋮そういえば 伊東さんも頬を怪我していたな。今手当てしよう﹂ ﹁えっ、あ、ありがとう! 流石佐伯くんだね!﹂ あまりのデキる男ぶり? に合いの手みたいな称賛の声を送ると 佐伯くんは困ったような笑顔を見せた。それにしても相田くんが無 事でよかった⋮⋮。 ﹁さて、駿と皐月ちゃんの傷の手当ても終わったし⋮⋮この後はど 241 うするの?﹂ ﹁まずは明日のルートの確認をしよう。いざという時すぐ行動でき るようにだ。その後は情報収集するなり⋮⋮いや、ゆっくり休んだ 方がいい。特に二人はゾンビと遭遇してまだ1日も経っていないの だから﹂ それを聞くと奈美さんと相田くんは急に真顔になり押し黙ってし まった。佐伯くんのアパートの前で出会ってからずっと、いつ死ぬ かもわからない状況で必死にここまでやってきたのだから、ゆっく り自分のことに思いを巡らす時間などなかったのだ。 ﹁⋮⋮明日の確認の前に、もうちょっと休憩しない?﹂ 余計なお世話かとも思ったが、私は思い切って皆に提案した。す ぐにみんな同意してくれ、奈美さんと相田くんはスマートフォンを 手に真っ先に廊下へと出て行った。やはり二人とも普段通りに振る 舞っていても︵彼らの普段を私は知らないが︶家族の安否が心配だ ったんだ。当たり前だ。私も夜になったらお母さんに真っ先に連絡 しなくちゃいけない。もうすぐ誠の高校に着くよって⋮⋮。 ﹁ちっ、また連絡寄越しやがった⋮⋮あのクソ親父﹂ スマートフォンをチェックしていた須藤くんが憎悪を前面に押し 出したような凶悪な顔で呟いた。 ﹁お父さんから? なんて?﹂ ﹁近所の公民館に避難してるから可能なら来いだとよ。てめぇが迎 えにこいってんだ。来たところで追い返してやるけどな﹂ 須藤くんは避けた布から綿が飛び出たボロボロのソファーに勢い 242 よく腰かけると、乱暴にスマートフォンを向かいのテーブルに放っ た。ソファーはダニとか得体のしれない何かが大量発生してそうで 正直座りたくない。痒くなりそう⋮⋮。しかし須藤くんは意に介さ ないようで平然とした表情でまだスペースに余裕のあるソファーを ぽんぽんと叩いた。 ﹁佐伯と伊東も座るか?﹂ ﹁遠慮しておく﹂ ﹁私も⋮⋮いいや﹂ しばし何とも言えない微妙な空気が流れ、少し焦った私はさっき の話題に戻すことにした。 ﹁お、お父さんもさ、何だかんだ言って心配してるんだよ。当たり 前じゃない、血の繋がった自分の息子だよ?﹂ ﹁はっ。奴らは自分たちを守る盾がほしいだけだ。俺のこと血に飢 えた獣扱いしてやがったからな。親父は外面だけはよかったが⋮⋮ あの女に限っては着飾ること以外、礼節も教養もなってねぇのに人 のこと獣だとか言えんのかってんだよ。俺はよ、奴らを見返してや りたくて不良の道から足を洗ったようなもんだ﹂ あの女って、もしかしてお母さんのことなのかな。気になるとこ ろだが一気に捲し立てる須藤くんに何も口を挟むことができず、軽 く相槌を打ちながらおろおろしてしまう。これだから私は⋮⋮。で もこんな時だからこそ何か言わなきゃ。恥ずかしがったらダメだ。 ﹁わ、私は須藤くんのこと本当に信頼してる。強くて逞しいし頭も きれるし、えっと、言葉はちょっと乱暴だけど実は優しいし。そん な須藤くんだから、私は家庭の事情なんて何も知らないけど⋮⋮大 切な存在だと思うんだ⋮⋮よね﹂ 243 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 須藤くんが真顔で固まってしまった。⋮⋮あああ、恥ずかしい! 佐伯くんが微笑ましいな、とでも言いたげな生暖かい視線を送っ てくる。 ﹁⋮⋮ったく、つくづくお人よしだな、お前﹂ もういっそのこと謝ろうかと思った矢先、ボソッと須藤くんが呟 いた。 ﹁え?﹂ ﹁別に慰めてくれなくていいんだぜ、俺は他人の評価なんざ気にし ねぇんだ。⋮⋮ああ、でもまぁ⋮⋮悪い気はしなかった⋮⋮サンキ ュな﹂ あの須藤くんが仄かに頬を染めている。これはかの有名なツンデ レというやつでしょうか? 私は心の中の萌えメーターが振りきれ るのを感じた。 ﹁須藤くん可愛い⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あぁ!?﹂ 何とも言えない温かい感情が込み上げ、須藤くんのごつごつと骨 ばった大きな手を両手で力強く握ると、真っ赤な顔をした須藤くん がいつもの余裕を浮かべた表情を崩して大きな声をあげた。 ﹁なんか私、今すごく幸せ! 須藤くんっ、ずっと仲良くしようね っ!﹂ 244 今自分は感情が爆発していて、疲れているせいもありとても変な ことを言っている。しかし自覚はあるけど止められない。 ﹁な、なんだよいきなり気味悪ぃな! ほらっ、佐伯が羨ましそう に見てるぜ。大丈夫だ佐伯、伊東は取らねーよ﹂ ﹁なんで俺に話をふる?﹂ いきなり話が回ってきて驚いた様子の佐伯くんを見て、須藤くん はニッと笑うとくるりと後ろを向いた。 ﹁⋮⋮俺は、お前らといれて本当に良かったと思ってる。絶対生き 残ろうぜ、全員な﹂ ﹁須藤、それは俺も同じだ。こんな絶望的な状況下でここにいる皆 と巡りあえたことに感謝している。皆で生き残るためなら⋮⋮俺は 相手が何であっても剣を振ろう﹂ ﹁ぶふっ、武士かよお前⋮⋮﹂ 笑いがおこり、私たちの間に温かい空気が流れた。同じ気持ちを 共有している︱︱すごく安心する。 ﹁⋮⋮ねえねえ﹂ ﹁どうしたんだ?﹂ ﹁なんだよ﹂ いい雰囲気になったところで調子に乗った私はある提案を持ちか けることにした。 ﹁こんな死線を一緒に乗り越えてきた仲間なんだからさ、いつまで も名字で呼ぶのはおかしいよ。名前とかあだ名で呼びあいたいなぁ 245 ∼なんて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮お前、中学生かよ﹂ ﹁うぐ、やっぱだめかぁ﹂ 呆れたような須藤くんのつっこみに、少し落ち込む。 ﹁いや、まぁいいんじゃねぇの? なぁ、佐伯﹂ ﹁ん、ああ⋮⋮俺はどちらでも構わない﹂ ﹁ほんと? やったあ。えっと⋮⋮あだ名なら何がいいかな。二人 とも普段あだ名で呼ばれてたりした?﹂ ﹁そんなんねぇよ﹂ ﹁ああ、俺もない﹂ ﹁そっかぁ﹂ 早くも詰まってしまう。いや、自分から持ちかけたんだから何か しら提案しなくては⋮⋮という変な義務感が芽生える。 ﹁⋮⋮じゃあさ、スドゥーとサエッキーなんてどう?﹂ 沈黙。⋮⋮すみませんでした。 ﹁お前、生き抜く気あんの?﹂ ﹁あります。じゃあ、英雄くんと⋮⋮義崇くんね﹂ 名前を呼んでみて、自分で言い出した癖になんだかドキドキして しまった。須藤くんはともかく、佐伯くんを名前で呼ぶのは緊張す る。なんでだろう。 ﹁まぁ悪い気はしねぇか。じゃあお前は皐月な。⋮⋮男同士は気持 ち悪ぃから現状維持で﹂ 246 ﹁そんな⋮⋮! 男同士名前呼びもいいと思うよ?﹂ それじゃあ試しに、と須藤くんと佐伯くんがお互いを名前で呼び 合ってみたが︱︱しっくりこなかったのかやはり名字のままにする らしい。なんだかわがまま言ったみたいで申し訳なかったが、楽し くなって二人の名前を交互に何度も復唱する。⋮⋮少しして二人と も反応に困っているようだったので止めた。 ﹁で、佐伯は?﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁佐伯も試しに呼んでみろよ、皐月って﹂ ﹁いや⋮⋮別に今はいい﹂ また佐伯くん︱︱心の中では今まで通り二人は佐伯くん、須藤く んと呼ぶことにする︱︱をからかうようなやり取りをし始めたが、 ちょうど奈美さんたちが帰ってきた。 ﹁ダメだった⋮⋮通じないよ﹂ ﹁僕は災害時伝言サービスで両親からのメッセージを確認したけど ⋮⋮今は無理だ、通じない﹂ 奈美さんも相田くんもこの少しの時間の間に疲れはてた顔に変わ ってしまっていた。二人が今味わっている家族と連絡がつかない恐 怖を思うと私も胸が苦しくなる。何も言えずにいる私たちを見て奈 美さんがソファーに腰掛けふっと息を吐く。 ﹁いいよ、あたしたちのことは気にしないで。明日のルート確認し よ﹂ ﹁⋮⋮電源が切れたとか逃げている間に携帯を落としたとか可能性 はいくらでも考えられる。少なくとも自分たちの安全を確保するま 247 では悲観的になってはだめだ﹂ ﹁わかってるよ!!﹂ 奈美さんが大声を張り上げる。苦しい気持ちがじんじん伝わって くる⋮⋮。佐伯くんは心底申し訳なさそうに俯くと再び口を開いた。 ﹁すまない。余計なことを言ったな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いや、こちらこそごめん。皆にはほんとお世話になってるの にね。でもあたし、今は冷静になれないみたい﹂ 奈美さんが憔悴しきった様子で言った。どうにかして安心させた いけど、私には何もできないのが悔しい。 ﹁なぁ、悪いけど道案内は任せていいか? はぐれないよう力を尽 くすからさ。僕たちは今とにかく休みたいんだ⋮⋮ごめん﹂ ﹁ああ。ならこれ使えよ﹂ 須藤くんが部屋に備え付けてあるロッカーから毛布と寝袋を取り 出し、それを二人に投げる。 ﹁安心しろ。つい最近まで俺が綺麗に使ってたやつだ。ロッカーに は虫食い予防もしてある﹂ ﹁でも、皐月ちゃんたちの分は?﹂ ﹁私は平気平気! 鞄に自分の入ってるから。奈美さんも相田くん も、ゆっくり休んでね﹂ もちろん自分のなんてない。ただ二人には何も気にせずゆっくり 休んでほしい。嘘をつくときはいつもどこか不自然ですぐばれてし まう私だが、今回はうまくごまかせている気がする。 248 ﹁ありがとう﹂ 奈美さんは疲れた顔で微笑んで相田くんと部屋の端に移動してい った。 ﹁さて、ここはうるさいから隣に移動するか﹂ 奈美さんと相田くんを残して私たちは隣の部屋へ移動した。そこ で佐伯くんの持ってきた地図を広げ現在位置を確認する。 ﹁あ、あともう少しだ。結構ここから近いんだね﹂ ﹁ああ。こっから住宅街を通って⋮⋮順調にいけば一時間もしない うちに着くぜ﹂ ﹁ただ何かあったらのことを考えればここに寄ったのは賢明だった。 下手をすれば途中で夜になってしまったかもしれないからな﹂ 簡単にルートを確認してまだ夕方の6時だったが私たちはもう寝 ることにした。アパートを出てから戦闘続き。改めて意識するまで もなく身体も心も疲れきっていた。 やはり不安なので見張りは一人ずつたてることにしたが、佐伯く んが念のためアラームを朝5時にセットた。お母さんに連絡しなく てはいけないので、私が最初の見張りをすることにした。私は二人 の安らかな寝息を聞きながら襲いかかる眠気に必死で耐えた。 249 第三十話 追跡者 ﹁うん、わかった。誠のことは私に任せて。お母さんも気をつけて ね。また明日ね﹂ 私はお母さんとの通話を終えると携帯を閉じふうっと軽く溜め息 をついた。誰もいない廃ビルの三階は真っ暗で、月明かりと携帯の ライトだけが頼りだ。そして携帯の明かりが消えた今、私の回りを 照らすものは何もない。⋮⋮正直幽霊が出そうですごく怖い。変な 話だ、存在自体怪しい幽霊なんかを怖がるなんて。昼間はそれより もっと恐ろしいものを相手にしているというのに。そう考えると馬 鹿馬鹿しく思えてきて私は早く寝ようと下に降りる階段へ向かった。 ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ 背筋がぞくっとした。何だろう、今のは。獣の咆哮のような低い 唸り声。ゾンビではない︱︱なら何なのか? ふと屋敷の曇りガラ スに映った大きな影が思いだされる。冷や汗がこめかみから頬を伝 う。すると廊下の直線上に一つの黒い影が現れた。 窓から差し込む青白い月光に照らされたのは︱︱色素の薄い髪を 逆立てた浅黒い肌の青年。 ﹁須藤くんかぁ⋮⋮﹂ 私の声に気付いたらしい、須藤くんがビクリと身体を震わせこち らを向いた。⋮⋮様子が変だ。私の方へゆっくり歩み寄ってくる須 藤くんに私も小走りで近付いた。 250 ﹁須藤くん、まだ私の見張りの番だよ。どうしたの? あれ、なん か顔色、悪いよ⋮⋮?﹂ ﹁名前で呼び合うんじゃねぇのかよ﹂ ﹁あ、そうだった﹂ ﹁ったく⋮⋮﹂ 無理に作った笑顔でそう言う須藤くんの声はひどく掠れて苦しそ うだった。本当に何があったのか? 問いかけようとしたその時、 須藤くんの体がふらりと揺れ、いきなり私にもたれかかってきた。 彼の熱い体温を感じ、ドキドキしてしまう。 ﹁え? な、なになに?﹂ ﹁⋮⋮感触が手に残ってる﹂ 耳元で囁かれたその言葉を辛うじて聞き取る。仄かに漂う酸の匂 い。感触︱︱ここに来るまでの間のサイコパスとの戦闘が思い返さ れる。そうだ、須藤くんは生きた人間を相手にして、斧で切りつけ たのだ。ゾンビと違って新鮮な血が噴き出し、相手は激痛に悲鳴を あげていた。 ﹁あれは、しょうがないよ⋮⋮。だって無抵抗のままでいたら相田 くんは殺されてたし、私たちは⋮⋮凌辱されてたかも。今日本に法 は機能してないし⋮⋮誰もああいう人たちを裁かないんだよ。⋮⋮ 英雄くんがあの時行動してくれてなかったら、さっきの平穏な時間 はなかった。英雄君のおかげだよ﹂ 虚ろな目で天井を仰ぐ須藤くんにできるだけ柔らかい声で言葉を 掛ける。しばらくして私の肩に軽く寄りかかっていた須藤くんがゆ っくりと離れた。 251 ﹁⋮⋮悪い。情けねぇとこ見せちまって﹂ ﹁ううん﹂ ﹁でも、違うんだよ﹂ ﹁え?﹂ ﹁俺はお前たちと約束した通り、後悔なんかしてない。ただ、変な 恐怖感があんだよ。お前が言ったように犯罪者が裁かれることのな い⋮⋮暴力が支配するようなこの世界で俺はおかしくなりゃしねぇ かなって﹂ 須藤くんは血の気のない唇を震わせて囁くように言った。 ﹁⋮⋮ならないよ、英雄君は本当は優しいから。絶対にならない﹂ ﹁⋮⋮そうだといいよな﹂ 須藤くんは口許に弱々しい笑みを浮かべると、こちらに背を向け しばらく一人にしてほしいと告げた。須藤くんがこんなに弱いとこ ろをみせるなんて初めてだ。⋮⋮皆心が欠壊しそうになりながらも 必死にバランスを保っているんだ。誰かに頼りすぎちゃいけない。 その人が壊れちゃう。皆で背負っていかなきゃ。私はあまり遅くな らないようにねと彼の背中に声を投げかけると再び階段へ向かった。 ﹁⋮⋮⋮⋮?﹂ 何か物音がしたような気がした。そして誰かに見られているよう な変な気配。でもここには私たち以外に人はいないはずだ。気のせ いだろう。疲れているんだ⋮⋮。私は早く寝ようと歩を速めた。 * 朝、アラームの音で目が覚めた。寝起きが悪い私は重たい瞼が重力 252 に負けて閉じようとするのを何とか堪えながらも、ごろんと寝返り を打ちなかなか起き上がれずにいた。 ﹁ほーら、起きなさい!﹂ ﹁うぎゃっ!﹂ 突然腹部をくすぐられ私は変な弾みをつけて飛び起きる。ゴツン と壁に頭をぶつけ何が起きたのかすぐには把握できずにぽかんとし ているとクスクスと笑う奈美さんと目があった。 ﹁もう出発するって。はい、朝ごはん﹂ 軽く放られた細長い包装を慌てて受け取ろうとするが掌にあたっ て床に落ちた︱︱大豆のスナック菓子だ。そういえば昨日は何もご 飯を食べていない。その時今まで忘れていたかのようにおなかが鳴 る。恐怖と緊張で空腹に気付かなかった。 いつの間にか奈美さんの隣にいた相田くんがぷっと吹き出す。私 は起きてから少しの間にした自分の挙動が恥ずかしくなり火照る両 頬に手を添える。恥ずかしさを紛らわすために包装を破って大豆バ ーをかじっていると奈美さんがそっと私の隣に腰掛けた。 ﹁えっと、奈美さんと⋮⋮駿さんはよく眠れた?﹂ ﹁おかげさまでね、すっきりしたよ。てか駿さんって⋮⋮あはは、 なんか新鮮!﹂ ﹁笑うなよ∼。どうせ僕は年上の威厳なんかないさ。まぁそれはと もかく、皐月ちゃんたちのおかげだな。僕たちがこうして生きて、 笑っていられるのは﹂ 奈美さんや相田くんが朗らかに笑っていることに安心した。ゆっ 253 くり休んで元気を取り戻してくれたみたいだ。私も自然と笑顔にな る。 ﹁⋮⋮うちの両親、機械の操作が大の苦手で携帯を持ち歩く習慣と かないんだよね。そう考えると大丈夫かなって。いつもあっけらか んとしてる人たちだし。関西に住んでるから会うのは簡単じゃない けど⋮⋮あたし信じるよ。もう迷わない﹂ ﹁また無事に会えるようにまずは私たちが生き残らなきゃだね。そ ういえば⋮⋮、彼氏さんはどうなの?﹂ ﹁あー、実は早い段階であいつからはメール届いててさ。友達数人 とアパートに籠ってるんだって。食べ物は近所のコンビニから取っ てきたらしいし、うまくやってるみたい﹂ 弾む声で嬉しそうに語る奈美さんに私まで明るい気持ちになって くる。 その時佐伯くんと須藤くんが部屋に入ってきた。もう既に荷物を 抱え武器を手にしている。 ﹁そろそろ行くぞ⋮⋮ってまだ食ってんのかよ。早くしろ!﹂ ﹁うぅっ、タンマタンマ!﹂ ﹁ふふっ、なんか懐かしい言葉だね﹂ 無理やり残りを全部口に押し込んでむせかえる私の背を奈美さん がぽんぽんと叩く。ようやく飲み込んで涙目になりながらも床に転 がっていた警棒を拾い立ち上がる。 ﹁ここから晃東学園まで順調にいけば一時間、よほどのことがない 限り日没までには到着できるはずだ。落ち着いて行こう﹂ 254 私たちは互いの目を見て頷く。そしてすぐに高校へ向けて出発し たが、元来た隠し扉を通って廃ビルを出るとき須藤くんが小さな声 を上げた。 ﹁どうした、須藤﹂ ﹁⋮⋮何か違和感が、いや、何でもない﹂ 須藤くんが自己解決したので私たちは何もそのことについて気に することはなかった。すぐにその違和感は解明されることになるの だが。 * 廃ビルを出て寂れた通りをしばらく進み、私たちは一戸建てが立 ち並ぶ住宅街に出た。その間ゾンビに遭遇することはあまりなかっ た。当り前のようなことだが、やはり人がたくさんいた場所にゾン ビは現れるのだ。要するにゾンビはあまり自発的に移動しないとい うことになる。 ゾンビを寄せ集めないよう無言で進んでいたが先頭を進む佐伯く んが突然道の真ん中で立ち止まった。 ﹁義崇くん?﹂ ﹁⋮⋮誰だ﹂ 佐伯くんのよく通る低い声が静かな住宅街に響く。さっぱり意味 がわからなかったが私たちに言っているのではないことは確かだ。 須藤くんはわかっているらしく、じっと後方に目を向けている。二 人の視線の先を辿ると民家を囲うコンクリート塀の陰に何かがいる ようだ。 255 ﹁そこにいるのはわかっている。出てくるんだ﹂ 少しして戸惑いながらも学生服に身を包んだ二人の男女が姿を現 した。私は思わず目を見張った。サラサラの金髪に冷たいほど青い 瞳をしたすらっとした美少年に、柔らかそうなライトブラウンのス トレートロングヘアをなびかせる愛らしい顔立ちの美少女。テレビ から抜け出てきたような美しい容姿をした二人に私はしばらく目を 離せずにいたが、佐伯くんはそんなこともお構いなしといったよう に二人に問いかけた。 ﹁答えろ。お前たちは何者だ? 何故俺たちをつけてきた?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 二人は顔を見合わせ渋っているようだったが観念したのか少年の 方から話し始めた。 おおみやさりな ﹁ボクは渡部・キリーロ・一輝。私立晃東学園に通う高校生です。 この娘は大宮紗莉南で同級生です。黙って後をつけていたのは謝り ますが、あなたたちを陥れようと悪さを企んでいたわけじゃありま せん。ただ助けてほしくて﹂ なにやら長々しい名前を名乗った美少年が淡々と聞かれたことに 答える。少女は少年の後ろでもじもじとして大きな瞳を瞬かせこち らの様子を覗っている。そういえば二人の制服には見覚えがある︱ ︱誠の着ているのと同じだ。 ﹁ハーフか。生意気な名前しやがって﹂ ﹁ちょっと英雄くんっ、怖がらせちゃだめだって﹂ ﹁そうか。晃東学園に向かおうとしているんだな?﹂ 256 ﹁はい。ボクたちだけじゃ無事辿りつけるか不安で﹂ ﹁なら黙って付いてくるといい。当然現状は把握しているだろう?﹂ ごちゃごちゃといらない無駄話をする私と須藤くんをよそに佐伯 くんが二人と話し合いを続ける。最後の佐伯くんの言葉には奈美さ んと相田くんが同時に反応し苦々しい顔をしていた。まぁ、そんな こんなで二人の美形さんと行動を共にすることになった。 ﹁今までどこにいたんだよ? こいつらみたいに何も知らず呑気に 家に籠ってたわけじゃねーよな?﹂ ﹁ちょっと、呑気は余計でしょっ﹂ ﹁ボクたちは早くにゾンビの存在を知ってずっと家に隠れていまし た。でも昨日食料が尽きて⋮⋮このままじゃあまずいと思って体力 のあるうちに避難所に移動しようと思ったんです﹂ 歩きながらも私たちは小声で話し続ける。そういえばさっきから 美少女︱︱紗莉南ちゃんは一言も喋っていない。緊張しているのだ ろうか。シャイな娘なのかな⋮⋮。いや、そうじゃなくてもこんな 事態だ、周囲を警戒するのは当り前だろう。どうにか警戒を解けれ ばよいけれど。 ﹁えっと、紗莉奈ちゃん⋮⋮だったよね?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 紗莉奈ちゃんは少し困ったような表情を見せると小さく頷いた。 よく見ると渡部君ほどではないにしろ日本人離れした外見をしてい るような⋮⋮彼女も外国人の血が入っているのだろうか。 ﹁誠、伊東誠って知ってる? 私の弟で晃東に通ってたんだけど⋮ ⋮。あ、今高校二年生﹂ 257 ﹁⋮⋮知ってる﹂ ﹁本当に?﹂ ﹁クラスメートだったから﹂ 鈴を転がしたように可愛らしいか細い声で彼女は答える。しかし あまり話したくないのだろうか。気怠げというかどこか不機嫌な感 じがする。きっと外見通り繊細な娘なのだ。気分を害してしまった のかもしれない。自分の無神経さに落ち込む。 ﹁あとどのくらいかわかるか?﹂ ﹁もうすぐ着きますよ。それにしても案外ここらへんにはゾンビい ませんね﹂ 渡部くんが汗ばんで顔に貼りついた髪を払う。そんな仕草さえも 様になっているからすごい。その時私たちの耳に久しく︱︱といっ ても一日にも満たない間だが︱︱聞いていなかった不気味な呻き声 が飛び込んでくる。 ﹁ひぃぃっっ!﹂ 呻き声を聞いてそんな高く小さな悲鳴をあげながら真っ先に列の 最後尾に回り込んだのは︱︱これまた渡部くんだった。涼しげな顔 をして、この若さで人生を達観しているような態度をとる彼が⋮⋮ 実は極度の怖がりだったとは。結構怖がりな相田くんでさえ彼の反 応を見て面白がっている。まぁまだ高校生なのだから変に慣れてし まっているよりはよっぽど自然なのだが。 紗莉奈ちゃんは大丈夫かなとチラと様子を覗う。彼女はなにも動 じていなかった。それどころか眉間に皺を寄せ怖い表情をしている。 まるで何かを嫌悪しているような。彼女になにか底知れぬ恐怖を感 258 じた。おかしなことだ、ゾンビでもない普通の女の子だというのに。 それからゾンビの声を聞いたり姿を見かけることはあってもどう にか戦闘になる事態は避けられた。それは本当によかったと思う。 この二人を連れたまま木刀や斧でガシュガシュとゾンビの頭を叩き 割ることはできない。きっと酷いショックを与えることになる。 ﹁見えてきたな﹂ しばらくして住宅と住宅の間から高い塀が姿を現した。その頑丈 な塀が落ち着いたクリーム色の壁のモダンな建物を囲んでいる。そ ういえば晃東学園は割と最近創設された学校なのだと聞いたことが あった。もうすぐだ、もうすぐ高校に着く。誠に会えるかもしれな い。いや、会える、会うんだ。 少し離れた所から塀をぐるりと見渡すと門にかけて結構な数のゾ ンビが辺りをうろついていることが分かった。しかし十分突破可能 な範囲だ。 ﹁ちっ、ゾンビ共がいやがる﹂ ﹁すまないがこれから門までゾンビのいる道を進むことになる。俺 たちがまず先に進むが、酷く凄惨な光景を目の当たりにすることに なる⋮⋮堪えられるか?﹂ ﹁だ、大丈夫。堪えますよ、もうすぐ高校なんですから。⋮⋮おそ ろしく怖いですけど﹂ 二人の同意を得ると︵紗莉奈ちゃんは何も言わなかったので勝手 に同意とみなしたようだ︶佐伯くんが私たちに向き直る。 ﹁俺と須藤が前線で戦う。相田さんは後方から援護をよろしく頼む。 259 あと二人のどちらかに渡部くんと大宮さんの護衛を頼みたいんだが﹂ ﹁そういうことなら皐月ちゃんがいいよ。人を落ち着かせる雰囲気 あるから。一方であたしはダメダメ。それに警棒よりあたしのバッ トの方がゾンビを殺りやすいしね﹂ 奈美さんに強く推されて私が二人の護衛をすることになった。そ して間もなくゾンビとの戦いが始まった。順調に前線の三人がゾン ビを倒していく。ゾンビの数が多く密集しているところは相田くん がスリングショットで的確に打ち抜き数を減らしていった。数秒の 間、戦闘にすっかり目を奪われていた。はっとして私は慌てて二人 に目を戻す。 ﹁大丈夫? 気持ち悪くな⋮⋮い⋮⋮?﹂ 近くの民家から一体のゾンビが姿を現した。死人のように青白い 肌。露出した肋骨からは内臓が今にも零れ落ちそうだ。そしてゾン ビの眼前には渡部くんと紗莉奈ちゃんがいる。なぜそこにいるの? さっきまで私のすぐ傍にいたはず⋮⋮。 民家に背を向けている渡部くんはゾンビの存在に気付いていない が紗莉奈ちゃんの目には入っているはずだ。次の瞬間私は信じられ ない光景を目にすることになる。紗莉奈ちゃんが渡部くんを︱︱ゾ ンビの方に向かって強く押した。 260 番外編 高校到着前 どうやら晃東の生徒らしい渡部くんと紗莉南ちゃんが加わり、私 たち七人は順調に高校へと進んでいた。少し大きめな一戸建てが建 ち並ぶ通りにゾンビは少なく、みんな比較的リラックスしている。 ゾンビを誘き寄せないよう一言も喋ることができないため、暇も 相まって周囲を見渡しながら通りを歩いていたとき、民家に紛れて 小さなブティックが目についた。普段からあまり客が入らないのだ ろう、中に何者かがいるような気配はない。 ︵あっ⋮⋮!︶ エスニックとでもいうのか、色とりどりの妙な柄の服が並ぶショ ーウィンドーに映し出された自分の姿︱︱そのあまりの酷さに愕然 とする。目に痛いショッキングピンクのシャツに裾を折り曲げたダ ボダボのジーパン。髪は例のごとくボサボサで⋮⋮。 ﹁ちょ、ちょっといいかな﹂ ﹁⋮⋮どうした?﹂ 先頭の佐伯くんにそっと耳打ちすると彼は私が危険を察知したの だと思ったらしい︱︱緊張感を伴った声色で返してきた。 ﹁あっ、別にたいしたことじゃあないよっ。ただ⋮⋮その⋮⋮﹂ 一刻も早くと高校へ向かう中︱︱それも私の要望で、だ︱︱こん な我が儘を本当に言っていいのかと店を横目に捉えながらも口ごも っていると、思いがけなく後ろから声がかけられた。 261 ﹁いいよ、そこ寄ろうよ。それじゃ歩きずらいでしょ﹂ 後ろを振り返ると奈美さんがニコッとこちらに微笑みかけていた。 どうやら言葉にするまでもなく私の言わんとすることを察してくれ たようだ。 ﹁ああ、そういえば服を見ると言う約束だったな。すっかり忘れる ところだった⋮⋮すまない﹂ ﹁いやいやそんなそんなっ、別にこれでもいいんだ。渡部くんたち も早く着きたいだろうし﹂ ちらと渡部くんたちに目を移すと、寄り道をすることはさして気 にしてない様子だ。 ﹁いや、構いませんけど。紗莉南もいいだろ?﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁でも⋮⋮悪いなぁ﹂ ﹁行くぞ﹂ なんだか申し訳なくなって諦めかけたその時、反論は許さぬと言 わんばかりの強い口調で須藤くんが言い放った。元々目付きの悪い 目は不機嫌に細められ、全身から威圧感を漂わせている。︵これじ ゃあ紗莉南ちゃんも怯えちゃうよね⋮⋮︶ ﹁俺も着替えてぇんだよ。こいつらには有無言わせねぇぞ﹂ そう言ってスタスタと入り口へ向かう須藤くんの背中は汗だくで、 鮮やかな黄緑色のタンクトップに大きな濃い染みを作っていた。 262 * ﹁うーん⋮⋮なんというか⋮⋮﹂ ﹁微妙だね﹂ 折角付き合ってもらっているのだからと言い出しずらかった言葉 をまたしても奈美さんが代弁してくれた。そうなのだ。何となく入 る前から予感はしていたが、ここはいわゆるおばちゃん御用達のお 店。やけにヒラヒラした薄手の生地に幾何学模様。どことなく熱帯 林の虫たちを思い起こさせる色の選択。大学生の小娘にはちょっと ⋮⋮早すぎるかもしれない。 ﹁やっぱりそれ、皐月ちゃんの服じゃなかったんだね。サイズも大 きいし、趣味悪いし﹂ 少し離れたところで服を探してくれていた佐伯くんが大きく身体 を揺らして反応する。彼の手には見ていて目が回りそうな奇妙な柄 の服。⋮⋮血は争えない、かもしれない。 ﹁なんて言いますか、ここの服からはセンスが微塵も感じられませ んね﹂ 渡部くんが涼しげな顔で気持ちいいくらいズバッと言い切ってく れた。 ﹁んー、まぁ、これでいいかな﹂ それでも早く決めねばと焦る心でずらりと並んでかけられたワン ピースの中からまあまあいいかなと思う色合いのものを手に取る。 四角とか三角が規則正しく配置されたやはり妙な柄のそれはゆった 263 りし過ぎていたがまあ見れるかもしれない。 着替えを終え出ようとした時、須藤くんの姿がないことに気付い た。 ﹁あれ、須藤くんは?﹂ ﹁試着するってさ。ここ婦人服なのに大丈夫なのかなぁ﹂ 相田くんが苦笑い混じりに答える。確かに⋮⋮ここには須藤くん 好みの服なんてない気がする。その時、シャッと勢いよく試着室の カーテンが開かれた。 ﹁まぁ、こんなもんかな﹂ 得意気な笑みを浮かべて出てきた須藤くんは元々着ていたジーン ズにピッチリしたヒョウ柄のTシャツ姿だった。うん。意外と似合 うかもしれない。⋮⋮うん。 ﹁どうだ佐伯。お前の服より数倍マシだろ﹂ ﹁ああ、いいと思うぞ﹂ ﹁こいつら似た者同士ね﹂ ﹁おしっ、行くぜ!﹂ 呆れたように呟く奈美さんの言葉は耳に入らないのか、ズカズカ と出口に向かう須藤くんの背中を見て目を疑った。 ﹁ヒョウがいる⋮⋮﹂ ヒョウ柄の中にヒョウがドンと丸ごと一匹描かれていた。須藤く んに似た目でこちらを睨んでくる。須藤くんとおそらく佐伯くんを 264 除く私たち数人の間に何とも言えない空気が流れる。 ﹁趣味わるっ﹂ 誰もが思っていたことだろう。またしても全員の気持ちを代弁し た奈美さんの一言が無人のブティックに虚しく響いた⋮⋮。 265 登場人物紹介3 ※挿絵あり ■第三章 たかおかなみ ・高岡 奈美 <i67181|3570> 大学三年生 165? 武器:鉄バット イベントサークルに所属する女子学生。 勝気で凛とした性格。姉御肌。 あいだしゅん ・相田 駿 <i67182|3570> 大学三年生 168? 武器:スリングショット 奈美と同じサークル所属の男子学生。 少し臆病で弱腰だが、豊富な知識で活躍する。 たちばなゆうこ ・立花 優子 <i78745|3570> 大学二年生 156? 奈美と駿の後輩。 健気で頑張りやな女の子。 わたべきりーろかずき ・渡部・キリーロ・一輝 <i67186|3570> 高校二年生 171? 266 私立晃東学園に通う男子生徒。ロシア人とのハーフ。 気取っている反面怖がりなどこか憎めない性格。 おおみやさりな ・大宮 紗莉南 <i67185|3570> 高校二年生 158? 私立晃東学園に通い皐月の弟誠とクラスが一緒。 シャイであまり話さないおとなしいこのようだが⋮⋮ 267 第三十一話 自責 ﹁えっ? ⋮⋮うわああぁぁぁっ!!﹂ ﹁きゃあぁぁぁぁっ!﹂ 若い男女二人の悲鳴が重なり合った。一人はゾンビに押し倒され 今にも噛みつかれようとしている渡部くん、もう一人は彼をゾンビ の方へ押しやった︱︱ように見えた︱︱紗莉奈ちゃんだ。紗莉奈ち ゃんは酷く怯えている様子で一目散に私の方へ駆けてくる。やはり 気のせいだったのだ。押したのだとしてもそれは二人で冗談を言っ て軽く小突いた程度のことだったのかもしれない。 ﹁紗莉奈ちゃん、落ち着いてっ!﹂ 命の危険に晒された渡部くんを助けたいところだが、とりあえず は暴走してこちらに向かってくる彼女を咄嗟に抱きとめようとする ︱︱が彼女は私をさっと避け通り過ぎてしまった。 今の悲鳴で他の皆もこちらの非常事態に気付いたはずだ。しかし 前線で戦う皆と私たちの間には結構な距離がある。今、渡部くんを 救出できるのは私だけ⋮⋮! そう判断し彼の方へ視線を戻す。 ﹁⋮⋮あ、ああ⋮⋮﹂ いつの間にかゾンビがたくさん集まっていた。それらは口元を新 鮮な血で真っ赤に染め上げ、口からぽろぽろと肉片を撒き散らしな がら貪り食っている︱︱さっきまで心地よいテノールの声で話して いた美少年⋮⋮渡部くんを。 268 渡部くんの頭部がゾンビとゾンビの間から僅かに見える。喉を深 く噛まれたらしい︱︱声にならず苦しげに息を漏らしながら目に一 杯涙をためて助けを請うようにこちらを見てくる。綺麗な金髪に血 飛沫が飛び散り頬を伝い、透けるように白い彫刻のような肌は噛み 痕だらけで赤い肉を露出させている。もう、間に合わない⋮⋮。そ う判断した次の瞬間、醜悪な顔をしたゾンビたちが彼のうなじに、 首に次々と喰らい付き︱︱渡部くんはびくんと一回身体を大きく痙 攣させるとぐったりと頭を垂れ⋮⋮死んでしまった。 頭が真っ白になった。しかしとにかく⋮⋮動かなくては。彼をそ のまま放置することに戸惑いはあったが、もはや私の力でどうにか なるものではない。何よりこれ以上見ていられなかった。私は惨状 から目を背けると逃げるように佐伯くんたちの方へ走った。紗莉奈 ちゃんは︱︱いた。須藤くんの背中に寄り添うようにしていたが当 の須藤くんは戦いの邪魔だ、と言わんばかりに彼女を押しのけてい た。 ここから門にかけて周囲にゾンビはもうほとんどいない。地面に は惨たらしい死骸がごろごろと転がっている。しかしとてもじゃな いが油断などできそうにない。戦いの音を聞いて次々にゾンビが集 まってきている。 ﹁もう大丈夫だ! 門へ急ごう!﹂ ﹁義崇くん⋮⋮﹂ ﹁あぁ、よかった⋮⋮怪我はないか? ⋮⋮渡部くんは?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 言わなくては。でも、何も言葉が出てこない。黙って俯き、震え が止まらない指で後ろを指す。佐伯くんは小さく声を漏らすと惨状 から目を逸らした。 269 やっと冷静になってきた。私は護衛の役割を全うできなかったの だ。何とも言えない罪悪感が襲ってくる。私がもっとしっかりして いたら渡部くんは生きていたかもしれないのに。私はいつも皆の役 に立てないし、迷惑をかけてばかりだ⋮⋮。それで人一人の命が奪 われるなんて。ひどすぎる。 ﹁わ、わたしのせい⋮⋮なんだ。少しの間目を離しちゃった。そし たら⋮⋮二人が離れたところにいて、それで⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮気にするな。今は自分たちの安全だ。行こう﹂ 声が震えて途切れ途切れにしか話せない。そんな私を佐伯くんが 心底呆れ返ったような、冷やかな響きを伴った声で突き放したよう に感じられた。 ただでさえ重い自責の念に駆られていて、その上佐伯くんにまで 見放されたら。自分の責任とは言え、苦しい。先を急ぐ佐伯くんの 後ろ姿をしばらく目で追っていた。はっとして私も後を追うが、足 ががくがく震えて歩きづらい。 ﹁気の毒だけど⋮⋮この世界はこういうことが普通になっちゃっ たってこと、もうあなたもわかってるよね。でも⋮⋮やっぱ耐えら れないよね。付き合ってた彼があんなことになんて⋮⋮﹂ 労るように紗莉奈ちゃんに話しかける奈美さんの言葉が胸に突き 刺さる。そうか。二人は恋人同士だったのだ。しかしそれにしては 紗莉奈ちゃんはあっさりと彼を見捨てたようにも思う。⋮⋮いや、 私は何を考えているのだろう、紗莉奈ちゃんに責任転嫁しようとで もいうのか。罪から逃れようとする自分の汚さに愕然とする。 270 ﹁⋮⋮彼氏なんかじゃないです。ただの知り合い⋮⋮この騒動でた またま居合わせたので﹂ 紗莉奈ちゃんはきっぱりと否定すると小走りで先頭を足早に歩く 佐伯くんに近寄り何やら話をし始めた。何を話しているのだろう⋮ ⋮。もしかすると私のことかもしれない。一緒にいた男の子を目の 前で殺され、守ると約束したのに何もできなかった私のことを責め ているのかもしれない。 ﹁⋮⋮随分あっさりしてるね。なんか変な娘﹂ ﹁奈美、彼女は恐怖で正常な精神状態じゃないんだよ。そんな言い 方⋮⋮﹂ ﹁駿、あんたも可愛い子には弱いんだね﹂ ﹁え? いやっ違うっ違うよ! 僕はただ⋮⋮﹂ 奈美さんと相田くんの掛け合いが耳に入ってはすぐに抜けていく。 もう何も考えられない。ひんやりとした心が鋭い何かで掻き乱され ていく。まだゾンビに襲われる危険があるのに、須藤くんが話しか けてくるまでしばらくぼけーっとしていたように思える。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁あっ、うん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮渡部が死んだのはお前のせいじゃねぇよ。今はもういつ誰が 死んでもおかしくない世界だ。それに約束しただろ? 何があって も後悔しねぇって﹂ そうだ。寺崎くんと清見さんが死んじゃって︱︱佐伯くんのアパ ートで三人で約束したんだ。その時の自分ができる範囲で最善を尽 くした結果であったなら何が起きても生き残るまでは後悔しない、 自分を責めない、と。でも、これは最善を尽くせていたのか? 私 271 の明らかな過失ではないのか? ちらりと佐伯くんの方を見るとまだ紗莉南ちゃんと話をしていた。 人形のように整った紗莉南ちゃんの横顔は曇った表情をしているに も関わらずまぶしいほど愛らしくて︱︱彼も穏やかな優しい表情で 応じている。胸の奥がチクリと痛んだのを感じた。 ﹁ほら、門が近付いてきたぜ。もっと嬉しそうにしろよな﹂ ﹁⋮⋮本当だ。勿論嬉しいよ、嬉しい⋮⋮誠に会えるんだもん﹂ 本当に踊りだしたいくらい嬉しいのだが、心身共に疲れ果て感情 についていけない。無理やり笑顔を作る私を須藤くんは真っ直ぐじ っと見てくる。心の中が全て見透かされているようで落ち着かない。 ﹁そ、そういえば英雄くんたら、紗莉奈ちゃんをあんな邪険にしち ゃだめでしょ。すっごく怖がってたよ?﹂ ﹁ああ、鬱陶しかったからよ﹂ ﹁もー⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それにあいつ、あの女と同じ匂いがするしな﹂ ﹁え?﹂ あの女⋮⋮この前も話に出た須藤くんのお母さんのことだろうか。 私は詳しくきき返そうとしたがタイミングがよいのか悪いのか、高 校の門の前に着いてしまった。とはいっても三メートルほどの高さ がある頑丈な門は固く閉ざされ開きそうにもない。どうするべきか と立ち往生していると頭上から男の声が降ってきた。相田くんが﹁ うわっ﹂と驚いた声をあげ奈美さんが呆れたように溜め息をついた。 ﹁避難民だな? 今開ける﹂ 272 門から少し離れた塀の上にヘルメットを被った男の人の顔が覗い ていた。物見台のようになっているようだ。男の人の首が引っ込ん で少しすると、重い音と共に門が両側からゆっくりと開かれた。ゾ ンビが来るからと早く入るよう促され私たちは急いで中へ入ると背 後で再び門は閉められた。やっと国に守られた安全地帯に着いた。 安心感で気を緩めた次の瞬間。 ﹁止まれ!﹂ 険しい大きな声が聞こえたと思うと、門を囲んでいた迷彩服の男 たちが私たちに一斉に銃を向けた。 ﹁え? え? 何でさ?﹂ ﹁駿、落ち着きなさいよ! きっとあれ。やつらに噛まれてないか 確かめるんだよ﹂ ﹁その通りだ、察しがいいなお嬢ちゃん。感染者に噛まれたり引っ 掻かれたりしたらこの避難所に入ることは許されない。厳重なチェ ックを通過した者のみ保護されることになってるんだ﹂ そのまま顔に深い皺が刻まれた軍のお偉いさんらしき初老の男に 私たちは両手をあげるように指示され、検問室へと通された。検問 室は元々は門のすぐ傍に設置された警備員の待機室だったようだ。 私たちは中へ入るとすぐに男女別々の部屋に分けられた。別れる間 際に佐伯くんたちと後でこの建物の外で会うことを約束した。 ﹁服を脱いでください﹂ 両手を拘束された私と奈美さん、紗莉南ちゃんは背の高い女性隊 員に命じられ下着姿になった。女性隊員が上から下まで傷がないか 丁寧に見ていく。 273 ﹁この頬の傷は?﹂ ﹁あ、これは⋮⋮矢が当たりました。人が放った矢⋮⋮です﹂ ﹁そうね、引っ掻き傷のようには見えないもの。大変な目にあった のね﹂ 女性隊員はヒョウなどの猫科の猛獣を連想させるきりっとしてス マートな顔をふと緩めると奈美さんの検査に移った。奈美さんが相 田くんの家の硝子を割った時の傷がゾンビにつけられた傷のように 見えることからかなり手間取っているようだ。 ﹁もう大分塞がってるし、結構前の傷なんです。ゾンビに引っ掻か れてたらもう変化してるはずでしょ?﹂ ﹁引っ掻き傷は噛み傷よりも発症が遅いのよ。噛み傷と違って体液 が体内に必ずしも入るわけじゃないから可能性も低いんだけれど。 この後どちみち全員に血液検査を受けてもらうからその時わかるわ﹂ ﹁⋮⋮はい。大丈夫なはずですけど﹂ 紗莉南ちゃんの白くて綺麗な肌には傷一つ見つからなかったよう だ。確認が終わると私たちは血液を採取されしばらく待機するよう 言われた。部屋の片隅には女性隊員が銃を持って控えている。発症 したら躊躇なく射つようだ。少ししてなんとも居ずらい空気に耐え られなくなったのか奈美さんが静寂を破り話し始めた。 ﹁そういえば、あたしたちはまだ大宮さんに自己紹介してなかった よね﹂ ﹁⋮⋮あ、そうだね﹂ 二人で紗莉南ちゃんの方を向く。当の彼女は自分が私たちの注目 を浴びているのがわかっていないのか、ぼうっと何もない正面の壁 274 を眺めていたが、ようやく気付いてくれたようだ。 ﹁⋮⋮なんですか?﹂ ﹁自己紹介させてよ。あたしは高岡奈美。大学生。よろしく﹂ ﹁私も大学生で伊東皐月です。よろしくね﹂ ﹁よろしくお願いします﹂ 話は数十秒しか持たずまたしばし沈黙が続く。門を潜ってからは 時が流れるように過ぎ何も考える余裕などなかったが、落ち着いて また暗い気持ちが蘇ってきた。紗莉南ちゃんは私を恨んでいるのだ ろうか。⋮⋮そうに違いないだろうな。そういえば彼女はこの後ど うするのだろう。ここまで一緒に付いてくるという話だったが⋮⋮。 そう考えていると奈美さんがちょうどそのことを話し始めた。 ﹁紗莉南ちゃんは、この後どうするの? 家族には連絡とった?﹂ ﹁⋮⋮家族とは避難所からの移動先で合流することになってます。 ⋮⋮それまでは﹂ 紗莉南ちゃんはそこで一拍置いて、言った。当然といったふうに。 ﹁義崇さんと一緒にいます。彼が私のことを守ると約束してくれた ので﹂ 275 第三十二話 約束 しばらく疲れて休みたいという気持ちも早く誠に会わなきゃとい う気持ちも忘れて、茫然と可愛らしい顔立ちの彼女を見ていた。 佐伯くんが紗莉南ちゃんを守る。 そうだ。避難所に向かうという当初の目的は今さっき達成された し、家族の安否が取れなければ協力してくれると言ったことも、お 母さんの無事が確認できたことで不要になった。あとはここでゆっ くり過ごして自衛隊が安全な地まで運んでくれるのを待つだけだ。 もう佐伯くんは私と一緒にいる必要はない。この先どうしようとと 彼の自由だ。 ︱︱いや、佐伯くんだけじゃない。須藤くんも、今隣にいる奈美 さんも、相田くんも。でも折角出会った仲間だし、特に親密な人が 他にいるわけでもないので、当然このまま一緒にいるものだと勝手 に思っていたし何も考えていなかった。だが今の紗莉南ちゃんの言 い方は二人は別行動すると言っているようにも聞こえる。 ﹁へぇぇ∼。短い間に随分仲良くなったんだねぇ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ぴりぴりとした嫌な雰囲気が広がった。私自身は自己主張が弱く 他の人と対立することを避ける性質なためあまりこういう空気にな ることはないが、昔から友人同士のいがみ合いにしばしば巻き込ま れていた。そんな時私はどうすればいいのかわからずいつもあたふ たするだけ。しかし今はあたふたする元気もなかった。ただただ、 悲しかった。 276 佐伯くんは私たちに話すこともなく、紗莉南ちゃんと行動を共に することを決めてしまったのか。会って一週間にも満たないとはい え、少し間違えれば死んでしまうくらい厳しい苦難の時を共有して きて⋮⋮たくさんのことを話した。いろんなことを分かち合って結 構仲良くなれたと思った。なのに。私が思っていたほど強い結びつ きではなかったのか。それともさっきのことが原因なのか。そう思 うとなんだか苦しい。 ﹁皐月ちゃん?﹂ 奈美さんが心配して声をかけてきてくれた。 ﹁⋮⋮奈美さんは、これからも私と一緒にいてくれる?﹂ 何も考えず、反射的にぽんと出た言葉だった。私は何を言ってい るのだろう。こんなことを聞いて優しい彼女の自由を奪うのか。言 ったことに後悔しつつも恐る恐る隣に座る彼女の顔を見る。 ﹁いるよ﹂ 奈美さんは明るい響きの声ではっきりと言った。 ﹁⋮⋮え、もしかしてこれで解散? あたしはそのまま一緒にいる のが当たり前だと思ってた。まぁ確かに家族とか彼氏とかすごい仲 良かった友達とかいたら、ちょっと抜けるかもしれないけどさ。で ももうそんな簡単に離れる間柄じゃないと思うんだよね、あたした ち﹂ 私が今一番聞きたかった言葉だった。奈美さんは迷うことなく言 277 いきってくれた。目から熱いものが急激にこみ上げる。奈美さんは そんな私を正面から抱きしめてくれた。 ﹁ううぅぅ⋮⋮奈美さんっ⋮⋮ありがとっ⋮⋮﹂ ﹁よしよし。皐月は泣き虫だね﹂ 頭を優しくぽんぽんと叩かれる。怖かった。奈美さんの中に自分 の存在がないことも、先程の出来事で憎しみや非難の対象になるこ とも。でもこうして受け止めてくれる人がいて、本当にうれしかっ た。 ﹁⋮⋮バカみたい﹂ そう小さな声が聞こえた気がした。泣き腫らした目でその方向を 向くと紗莉南ちゃんはそこにいなかった。見回すと椅子から立ち上 がりドアへと向かう彼女の後姿が目に入った。 ﹁止まりなさい! 許可なく立ち上がったら撃つと言ったはずよ!﹂ ﹁もう許可がでるはずですけど﹂ 彼女が横目で見る方を向くと白衣姿の研究員らしき男が書類を抱 えて立っていた。彼ははっと我に返ると私たちに向けて告げた。 ﹁全員非感染者でした﹂ ﹁⋮⋮そう。御苦労さま。出ていいわよ﹂ ようやく許可が下り私は痺れた足で立ち上がった。紗莉南ちゃん はもう部屋にいなかった。私は後悔した。年下の、あんな惨劇を目 の当たりにしたばかりの女の子の気も遣えないどころか取り乱した りして。それもその惨劇には私が関わっているのに。⋮⋮情けない。 278 佐伯くんはきっとそんな私に呆れたんだ。紗莉南ちゃんの方がよほ ど芯がしっかりしている。 部屋の外に出ると須藤くんと相田くんが椅子に腰かけ私たちを待 っていた。佐伯くんは︱︱いない。 ﹁あれ、佐伯はどうしたの?﹂ ﹁大宮連れてどっか行っちまった﹂ ﹁はぁ? ちょっと、これから避難所入るっていうのに何してんの っ!﹂ 奈美さんは声を荒げご立腹のようだ。須藤くん曰く佐伯くんたち はすぐ戻ってくるから少しの間検問所の前で待っていてくれと言っ ていた︱︱そうだ。 私たちは検問所を出てすぐ近くの綺麗に刈り込まれた芝生の上に 腰を下ろした。少し先にさっき私たちが通ってきた校門が見える。 武装した自衛隊員が常に数人そこに待機しているようだ。私は校舎 へと目を移した。暗いベージュ色に統一された校舎は五階建てで、 ところどころガラス張りだったり、窓に装飾が施されていたりと私 立らしくかなりお洒落な造りだ。そして本館のほかにも別館がいく つかあるようだ。 ﹁あの娘、ちょっとおかしいよ。何て言うかさ、みょー⋮⋮に、ふ てぶてしいんだよね﹂ ﹁またそんなことを⋮⋮まだ高校生なんだからさ、しょうがないっ て﹂ ﹁はっ。男にはわかんないでしょーけどっ!﹂ また奈美さんと相田くんがさっきと似たようなやりとりを始めた。 279 須藤くんはそんなことどうでもよさげに芝生に寝転がり居眠りをし ている。そして私は誠のことに思いを巡らせていた。この高校は広 い。この付近に住む人を全て受け入れているのだったら、きっと部 屋にすし詰めになっているのだろう。すぐに見つかればいいのだけ れど。︱︱それは生きてここにいると仮定した時の話だが。 ﹁待たせてしまってすまない﹂ 今一番聞きたくて、でも聞くのが怖い人の声が聞こえた。見上げ ると佐伯くんが少し疲れた顔をして立っていた。 ﹁ちょっと、何してたわけ!? 頼まれてもいないのにあの娘に振 り回されるのなんてあたしはゴメンだからね!﹂ ﹁な、奈美⋮⋮声でかいって。それにその紗莉南ちゃんの姿が見え ないけど?﹂ 見ると確かに彼女の姿がない。佐伯くんはふっと軽く溜め息をつ くと話を始めた。 ﹁高校の友達を探すとかで一緒に付いて行ったんだが⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あぁそういうこと。じゃあもうこれでサヨナラってわけね。 全く、あたしたちにも少しは世話になったんだから礼くらい言えば いいのに。躾がなってない娘﹂ ﹁奈美∼⋮⋮﹂ ﹁いや、また合流するそうだ。場所が決まったら後で迎えに行くこ とになってる﹂ ﹁はー!? 何でよー!﹂ 佐伯くんはすごい勢いで詰め寄る奈美さんに数歩後ずさり困った ように頭を掻いていたが、体勢を立て直すと落ち着いた声で言った。 280 ﹁相性が合う合わないもあるとは思うが⋮⋮こんなときだ。人類が 一人でも多く生き延びるために協力しなくちゃいけない﹂ ﹁そりゃそーだけどさ⋮⋮﹂ 奈美さんが納得しきれないように言う。確かに⋮⋮自分の通う高 校に来たのだから当然避難民にも仲の良いクラスメートが多く含ま れるはず。それなのに何故出会って数時間にも満たない私たちとい ようと思えるのだろうか︱︱いや、厳密にいえば佐伯くんと、か。 私はこんなときに出会ったから第一印象は薄いが、凛と整った彼の 容姿や男性らしく落ち着いた人間性に惹かれたのだろうか。だとし たら彼らの恋愛に口を出す資格など私にはない。 ﹁皐月、いくよ?﹂ 奈美さんの声で我に返る。皆はもう既に歩きだしていた。私は何 を考えていたんだろう。他の人のこれからなど私がくよくよ考える ことじゃない。いずれわかることだ。それに紗莉南ちゃんだって温 かく迎えてあげればいいじゃないか。自分の冷たく醜い人間性が恥 ずかしく感じる。今私がすべきことは、誠を探すこと、それだけ。 しかしそう考えようとしても私の胸に渦巻く複雑な感情は消えるこ となく自己主張を続けている。 ﹁で、どこ行くんだよ?﹂ ﹁確認したところ、職員室などがある本館は自衛隊の本拠地になっ ているそうだ。避難民は他の2つの別館か体育館のどこを使っても いいとのことだ﹂ ﹁じゃあそこにある東館をまず見てみない?﹂ 私たちの正面には三階建ての校舎が長く続いている。標識を見る 281 とどうやら東館はクラスの教室が集まった棟のようだ。︱︱誠は自 分のクラスにいるかもしれない。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 前を歩く佐伯くんに声をかけようとするが、思うように声がでな い。言葉が喉の奥でつっかえてしまっている。諦めて隣の奈美さん に伝えてもらおうと思った矢先、佐伯くんが立ち止まった。そして こちらを振り向く。 心臓が一際大きく鼓動した。私の目を見て戸惑いながらも何かを 言い出そうとする佐伯くんに言おうとしていたことも忘れ頭が真っ 白になる。彼は何を言おうとしているのだろう。やはり彼と沙莉南 ちゃんとのこれからのことだろうか? ﹁⋮⋮ええと、皐月、さん?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ すごく長い時間があった気がする。一体何を言われるのか、怖い。 どぎまぎしていると、佐伯くんの隣の須藤くんが盛大に噴き出した。 ﹁お前よぉ⋮⋮、名前呼ぶくらいで恥じらってんじゃねぇよ! ど んだけ時間とってんだ。しかも皐月さんって昭和かよ!﹂ そういえば今、皐月って初めて名前で呼んでくれた。凍えて麻痺 してしまっていた心がぽっと温かくなりほぐれていくのを感じる。 奈美さんと相田くんも可笑しそうに笑い出す。頬を赤く染めた佐伯 くんがそれを振り切り話を続ける。 ﹁ともかくだ! 俺が言いたいのはだなっ。皐月さん、弟くんのク 282 ラスはどこなんだ? そこに弟くんがいる可能性が高いと⋮⋮俺は 思うんだけれども﹂ ちょっと良い意味で拍子抜けしてしまった。てっきり別行動を告 げられると思ったから。 ﹁私もそう考えてたんだ。誠のクラスは2年D組だよ。だから⋮⋮ 二階かな。学年で階が分けられてるから﹂ ﹁そうか。じゃあその教室に行こう﹂ あまりにもいつも通りの佐伯くんの態度に少し戸惑いつつも安堵 する。彼女を守ると約束したとしても私たちから離れることはない のかもしれない。須藤くんも、奈美さんも、相田くんも、皆と離れ たくないし一緒にいたい。でも佐伯くんに対する気持ちは皆とほん のちょっとだけ違うような気がする。一番最初に出会ったというこ ともあるだろうけれど。 * 東館内に足を踏み入れると空気ががらりと変わった。どんよりと 暗く︱︱節電で照明が消えて薄暗いということだけじゃない︱︱息 苦しい。人々の暗い感情がこの建物の中に充満している。ふと正面 のベンチに座る人の姿が目についた。その男性は乾いて黒く変色し た血がこびり付いたシャツを着て、力なくうなだれている。その姿 は輪郭がぼんやりとしていて影のようだった。 廊下には誰もいない。時々人の声が部屋から漏れ出てくるが、多 くの人が収容されているにしてはやけに静かだ。二階へ上がる階段 の前に立つ。この先に誠がいるかもしれない。一刻も早く会いたい という期待と知らない方がいいのではという不安な気持ちが交錯す 283 る。︱︱現実をみなきゃ。私は自分を奮い立たせると誠へと続くか もしれない階段の一歩を踏み出した。 284 第三十三話 希望 窓から差し込む日の光を反射し湖の水面のようにピカピカと輝く 廊下を、処刑台に一歩一歩近付くような気持ちで進む。2年B組、 2年C組⋮⋮、次だ。無意識に塞き止めていた息を吐き出す。︱︱ 2年D組。避難してきた人々が話す声が中から少し漏れ出てきてい る。この声に誠のものは含まれているのだろうか。 先頭を歩く佐伯くんがスライド式のドアの前で立ち止まり私にそ っと目配せする。私はそれに応えるように前に進み出てドアに手を 掛けた。ドアを開くことが躊躇われた︱︱手が動かない。この先に 待ち構える現実を知った時、私はどんな気持ちになるのだろうか。 誠が生きているにしてもこの教室に絶対いるという確証などないが、 ここにいなかった場合生き延びている可能性がぐんと低くなるだろ う。 ﹁⋮⋮皐月?﹂ ﹁大丈夫﹂ 動作の途中で固まってしまった私を心配して声をかけてきた奈美 さんにはっきりと言葉を返す。もう後戻りなどできない。立ち止ま ることもできない。いかに残酷な現実が待っていようとも、前に進 むしかない。自身を奮い立たせるようにドアに掛けた手とは逆の拳 にぐっと力を込めると、震える手でゆっくりとドアを横にスライド させた。 教室はいくつかの机と椅子が端に積み重ねて寄せられており、十 数人の人々が床に直に腰を下ろしていた。私がドアを開けると教室 は水を打ったようにしんと静かになった。視線が私に一斉に注がれ 285 る。晃東の生徒も数人いるが、ほとんどが近隣に暮らしていたと思 われる人々だ。私がおどおどと軽く会釈すると人々はサッと視線を 逸らした。皆顔が憔悴しきっている。想像もつかないような凄惨な 出来事を経て命からがらここまで逃げてきたのだろう。 ﹁おい。どうだ、いるか?﹂ 須藤くんが後ろから声をかけてくる。私は十数人の顔を一通り確 認すると小さな声で応えた。 ﹁⋮⋮いない、みたい﹂ 震えが止まらない。胸に何か固いものがぎっしり詰まってるよう で、重く息苦しい。後ろの須藤くんたちが私に何かかける言葉を探 して困惑しているのが背中から伝わってくる。 ﹁義崇さん﹂ 血の気が引き、ふらりと頭が後ろに引っ張られるような感覚がし たその時、重く淀んだ教室の空気に光がさしたかのように明るく可 愛らしい声が響いた。紗莉南ちゃんだ。さっき視界に認めた数人の 制服を着た生徒たちと一緒にいたのかもしれないが、気付かなかっ た。彼女はパタパタと小走りで真っ先に佐伯くんの方へ近寄る。 ﹁もう大丈夫ですから、これからは一緒にいさせてください﹂ ﹁友達といなくていいのか?﹂ ﹁はい﹂ 彼女と一緒にいた男子生徒が何か言おうと口を開いたが、紗莉南 ちゃんが佐伯くんにべったりなのを見ると諦めたように口をつぐん 286 だ。 ﹁大宮さん。皐月さん⋮⋮伊東皐月さんの弟くんを⋮⋮誠くんを見 なかったか?﹂ ﹁⋮⋮いえ、見てませんけど。来てないんじゃないですか?﹂ さらっと言う紗莉南ちゃんに胸がズキンと痛む。やっぱり、誠は 来てないんだ。まだ可能性はあるけど、でも⋮⋮。眉間にキュッと 力が入り、そこから熱が込み上げる。頭が締め付けられるように痛 い。 堰を切ったよう せき ﹁ゴメン、ちょっと回り見てくるね。皆はここにいて。すぐ帰って くるから﹂ 私は矢継ぎ早にそう言うと教室を飛び出した。 に涙が溢れだしてきた。ぼろぼろと零れ落ち止まらない。後ろで皆 の声が聞こえたが足を止めることはできなかった。 片っ端から教室を覗いた。その都度人々の視線が私の身体に突き 刺さる。力なく一点を見つめる、今にも閉じてしまいそうな目。彼 らの姿を見ていると心の中がどんどん冷え込んでいくのを感じる。 希望があった場所に次々と諦めが置き換えられていく。 気付けば校舎の外に出ていた。門のある右手から茶髪の女性が一 人、おぼつかない足取りでこちらに歩いてくる。血を大量に被った のだろう、どす黒い赤で染まったワンピースを着ている。その顔に 生気は感じられない。ただ一人身体だけ生き残ってしまった︱︱全 てを失った絶望が彼女の全身から伝わってきた。 あんなになっても生き延びてここへやってくる人がいる。ゾンビ 287 の目が見えないことを知っていれば長い期間持ちこたえられるかも しれない。まだ諦めるのは早い。この高校の隅から隅まで何回も探 して、それでも会えなかったらその時初めて諦めればいい。そう自 身に言い聞かせるように心の中で唱えるが、自分でもわざとらしく 無理矢理だと思う。私はそんなに意志が強くないし、根性もない。 ダメならダメでもう何もかも忘れて眠ってしまいたい。これが飾り 立てた偽りのない、私の本心なんだ⋮⋮。 ﹁⋮⋮あ﹂ 門とは逆の方向、体育館の方から女子生徒が早足で近付いてくる。 半袖のセーラー服から覗く色白の華奢な身体はこの世界で生きてい くにはあまりにも頼りないが、綺麗な天使の輪が浮かぶ短く切り揃 えたおかっぱ頭を揺らして大股で歩くその姿は健康的で強い生命力 が感じられた。私は彼女に見覚えがあった。確かプリント類をカバ ンの底にくしゃくしゃにして溜め込む誠に文句を言いながらも整理 してあげた時、彼女の顔写真がふと目に入ったのだ。 ﹃あ、この子が生徒会長さん?﹄ ﹃ああ⋮⋮そうだよ、そう﹄ ﹃へぇー、可愛いねぇ⋮⋮あ、なんか顔赤いんじゃない? も∼し かして∼﹄ ﹃ち、ちげーって! そんなんじゃないからっ﹄ あの時の誠の顔。あれ絶対片想いだな⋮⋮。 そう考えていると自然と足が彼女の方へ向かっていた。目の前で 歩みを止めた私に彼女の方も立ち止まる。ぱっちりとした目を瞬か せ、不思議そうな顔で私を見つめてくる。 288 ﹁あの、私に何か⋮⋮?﹂ こみね かよ ﹁生徒会長さん、だよね?﹂ ﹁あ、はい。3年A組、小峰加世といいます。生徒会長だった、の 方が適切かもですが﹂ 彼女は目を伏せ悲しげな笑顔を見せた。透明感のある声、雰囲気。 学年は違うけれど、誠が好きになるのがすごくわかる。 ﹁えっと、2年生の伊東誠の姉で、伊東皐月です。⋮⋮あ、誠のこ と知ってるかな?﹂ ﹁あ、はい! 知ってますよ。誠くん体育委員で、一緒に体育大会 の準備したりして⋮⋮﹂ このような事態の中、自分を見失わず落ち着いている︱︱いや、 落ち着いている風を装える彼女を見て、自分がいかに平凡な人間か 思い知らされた。こういう人をカリスマっていうんだ。 ﹁お姉さんなんですか⋮⋮。誠くんに似てますね、目元とか﹂ ﹁そ、そうかな?﹂ ﹁そっくりです﹂ 状況を考慮してか控えめだが、真っ直ぐな笑顔が眩しい。加世ち ゃんはこの世に絶望を感じていないのだろうか。 ﹁⋮⋮誠くんのこと、探してるんですよね?﹂ 加世ちゃんの声で我に返る。そうだ、私は何をぼんやりしてるの だろう。しっかりしなくちゃ。 ﹁そうなの。加世ちゃん、誠を見なかった?﹂ 289 ﹁⋮⋮私は見てないです。お役に立てずごめんなさい﹂ ﹁そっか⋮⋮ありがとう﹂ 本当に申し訳なさそうに言う加世ちゃんに胸が痛む。誠が好きだ った女の子と今話してる。でもその誠はもうこの世にいないかもし れない⋮⋮。年下の女の子の前で虚勢を張る元気も意地もなく、ど んより沈んでしまった私に加世ちゃんが﹁あ、えっと⋮⋮﹂と何か 言おうとしてくれているのが何とも情けない。 ﹁⋮⋮あ、でも、藤井くんなら見ました。確か同じサッカー部で誠 くんと仲いいんです。あの時も⋮⋮この世界にゾンビが現れたあの 日も、私、藤井くんと数人のサッカー部メンバーで帰って行くの見 ましたから、もしかしたら誠くんも一緒にいるかもしれないです﹂ ﹁そ、その藤井くんは今どこにいるの?﹂ ﹁さっきは体育館にいましたけど﹂ ﹁ありがとう! 行ってみるね﹂ 加世ちゃんが言い終わらないうちに私は走り出していた。もしか したら誠がいるかもしれない。心臓がこれまでにないくらい高鳴っ ていた。どこからこんな力が湧いてくるんだろう、というくらいの 全速力。といっても他の人から見たらジョギング程度かもしれない。 ﹁⋮⋮はぁ、待って、くださ⋮⋮い!﹂ ﹁⋮⋮? 加世ちゃん﹂ 走る速度を緩めて後ろを振り返ると加世ちゃんが私の後を追って 走ってきていた。 ﹁ど、どうしたの?﹂ ﹁皐月さん、藤井くんのこと知りませんよね? だから私が一緒に 290 付いて行こうと思って﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ 広い体育館で顔もしらない人を探すなんて。私は一体どうするつ もりだったのだろう。自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れた。 ﹁ありがとう⋮⋮﹂ ﹁いえいえそんな。困った時はお互い様です。行きましょう﹂ さっき初めて会った人のために嫌な顔をせず手を差し伸べてくれ る。疲れた心に温かいものがじんわりと広がるのを感じた。 ﹁加世ちゃんは、今誰かと一緒にいるの?﹂ ﹁お祖母ちゃんと一緒にいます。お祖母ちゃんの家ここから近くて、 あの時も家に寄っていたんです。それから割とすぐにここに避難し ました。お父さんとお母さんとは電話で安否の確認ができたんです けど、会えるとしても当分先だろうし、もしかしたら⋮⋮あ、すみ ません。いらないことをぺちゃくちゃと⋮⋮﹂ くるくると表情を変えて喋る彼女を見ていて、とてもさっき初め て会ったなんて思えなかった。そしてそうこうしているうちに体育 館の開け放たれた扉の前に来ていた。中は歩くスペースは十分にあ るもののやはり人で埋め尽くされている。すいすいと人を避けなが ら進む加世ちゃんの後ろを付いて行くと、すぐに足を止めた。 ﹁あそこの⋮⋮あの人です﹂ 彼女がそっと指差す先には壁にもたれて項垂れる男子生徒の姿が あった。瞬間、悟った。誠はここにはいない。一向に動こうとしな い私を加世ちゃんが心配そうに見てくる。 291 ﹁そういえば、加世ちゃんはどうしてここに?﹂ ﹁⋮⋮仲良しの友達を探しに来たんです。でも、いませんでした﹂ ﹁そっか⋮⋮﹂ 暗い空気が私たちの間に流れる。 ﹁お祖母ちゃん、心配してるんじゃない?﹂ ﹁あ、いや⋮⋮﹂ ﹁もう大丈夫。後は頑張って探すね。本当にありがとう﹂ 突き放した言い方になっていないだろうか。でも加世ちゃんとは ここでお別れしなきゃいけない。彼女の目の前で回復の見込みがな いほど悲嘆にくれる自信があった。真っ直ぐで優しい彼女にそんな 姿を見せたくない。 ﹁私、3年A組の教室にいるので⋮⋮お力になれることがあればい つでもいらしてください﹂ 彼女は私の気持ちがわかったようで優しい声でそう言うと﹁では﹂ と一礼して静かに去って行った。しばらくして未だ俯いたままの藤 井くんに向き直るとゆっくりと彼に近付く。そして少しばかり勇気 を出して声をかけた。 ﹁藤井くん?﹂ 反応がなかったのでもう一度声をかけようとした時、すっと藤井 くんが顔を上げた。思わず声をあげそうになった。血の気のない青 白い顔に不自然に浮き出るような赤く腫れあがった彼の目。表情は トロンとして何を考えているのかわからない。 292 ﹁伊東の⋮⋮姉貴、ですよね?﹂ そう力ない声で呟く藤井くんに少しばかり驚く。何故私のことを 知っているのだろう。 ﹁うん。私のこと知ってるの?﹂ ﹁あいつ⋮⋮伊東が、よく話してましたから。写真は見たことなか ったけど、イメージにぴったりだし、伊東に似てる。⋮⋮あいつ、 シスコンですよね⋮⋮﹂ 藤井君はそう言って弱々しい笑みを見せた。誠、私のこと友達に 話してたんだ。涙腺が緩み、今にも情けない顔で泣きそうになる。 ﹁誠、今どこにいるか⋮⋮わかる?﹂ 遠い目をして斜め上を見上げる藤井くんに恐る恐る尋ねる。彼は こちらにゆっくり顔を向けると泣きそうな顔を見せた。 ﹁一緒に逃げてたんです⋮⋮でも、後ろから悲鳴が聞こえて。振り 返ったらあいつももう一人も血塗れで。噛まれたら助からないの知 ってたから⋮⋮俺⋮⋮﹂ ﹁わかった⋮⋮﹂ 不思議と私は冷静だった。感情に任せて恐怖と後悔に震える藤井 くんを責めることなんて思いもつかなかったし、すっと諦めること ができた気がする。 ﹁⋮⋮あいつを見捨てて逃げた俺のことが、憎いですよね﹂ ﹁ううん、私も同じようなことたくさんしてるもの。⋮⋮この世界 293 ではしょうがないことなんだよね。でも、もし世界がまた元通りに なったら⋮⋮誠のこと思い出してあげてね﹂ 私は静かに立ち上がると藤井くんにさよならを言い、体育館を出 た。背中越しに聞こえた藤井くんの嗚咽がいつまでも耳から離れな かった。 294 第三十四話 姉弟 体育館を出た途端身体から力が抜け、私はコンクリートの地面に 膝をついてしまった。心は感情という感情を殺してしまったかのよ うに静かなのに、腕も脚も壊れた機械のようにガクガクと震えてい る。すると急に陰が差し、驚いて顔を上げるとそこには小太りのお じさんが立っていた。いかにも邪魔だと言わんばかりの目で見てい たが、私の顔を確認するとさっと表情を変えた。 ﹁お嬢ちゃん、どうしたの? 気分が悪いのかい?﹂ ﹁⋮⋮いえ、大丈夫です﹂ 本当に心配してくれているのかもしれないが、街で出会ったサイ コパスたちの笑顔と同じようなものを感じる。今は人の親切を素直 に受け止められそうもない。おぼつかない足取りで逃げるように歩 きだす︱︱と、後ろから腕を強く掴まれた。 ﹁そんな状態じゃあ危ないよ。保健室に行こうか。こっちだよ﹂ あなたと一緒にいる方が危ないよ! とは言えるわけもなく。弱 々しくやめてくださいと言っても腕を離さない相手を振り払う元気 もなく。ただ誠を失った悲しみに流されそうになった、その時。 ﹁どけよ﹂ ﹁あ?﹂ 男の人が立っていた。体育館に向かう通路上にいる私たちが邪魔 になっているようだ。長い前髪から覗く目は無気力で、冷やかだっ た。彼は何もなかったかのように再び歩きだすと、私たちの横を通 295 り過ぎざまにドンとおじさんの肩にぶつかった。 ﹁おいてめぇ、やるってのか﹂ ﹁⋮⋮そこを動かないっていうんなら婦女暴行罪で自衛官につきだ すぞ。和を乱すものはゾンビの餌食になっても構わないって方針だ そうだからな﹂ おじさんは私の腕をぱっと離すと青ざめた顔でそそくさと立ち去 って行った。 ﹁⋮⋮そんな方針なんですか?﹂ ﹁いや、知らない。その場で思いついた﹂ しれっとした顔でそう言う彼の様子に思わず笑っていた。彼は不 思議そうに私をみると﹁また変な奴に捕まらないよう早く戻れ﹂と 言い残し体育館に消えた。私はしばらくその場に留まっていたが、 どうしても佐伯くんたちのいる教室に戻る気は起きなかった。しか し体育館に出入りする人たちの目が気になり、とりあえずその場を 後にすることにした。 校舎の裏側に来ていた。折角あの男の人が助けてくれたのに気ま ずい思いがしたが、今はとにかく一人になりたい。奥へ奥へと進み 人の声が届かない場所まで来ると私はゆっくりと地面に腰を下ろし た。この辺りは草が生い茂っており、せっかく着替えたばかりの洋 服が湿った土で汚れてしまうが、気にならなかった。校舎にもたれ かかり力なく正面を見やると、この学園の敷地の端にいるようで、 綺麗に手入れされた木と木の間に地獄と学園を隔てる高い塀が見え る。 ﹃なぁなぁ母ちゃん。旅行行こうよ、旅行﹄ 296 ふと昔交わした家族との会話が頭の中に蘇る。昔、と言っても今 月のことだから最近か。でも遠い過去のことのような感じがする。 ﹃あんた高校生にもなってまだ家族と旅行なんて行きたいの?﹄ ﹃えっ⋮⋮、普通じゃねぇの?﹄ ﹃冗談よ、冗談。何ショック受けたような顔してんの﹄ お母さんの言葉に時が止まったような顔してたな、誠。 ﹃で、どこ行きたいの?﹄ ﹃海外!﹄ ﹃﹃⋮⋮はぁ!!??﹄﹄ お母さんとその時まで黙って聞いていた私の声が綺麗に重なった。 ﹃そんなうちに余裕あるわけないでしょー。お母さんに無理言うん じゃないの。バカ﹄ ﹃なんだよ、姉ちゃんだって海外行きてーつってたじゃん!﹄ ﹃希望と現実は違います。将来夢ができていいじゃん。若いうちに 何でも経験しちゃうとこの先退屈だよー?﹄ ﹃なんだよ年寄りみたいなこと言っちゃってさ⋮⋮。だって周りは 皆ポンポン行くんだぞ∼、俺も行きたいよ﹄ ﹃それはあんたが私立行ったからでしょ﹄ そこからヒートアップして不毛な言い合いが続いた。数年前と違 ってお互い手を出すことはないが、結構毎回本気だったりする。 ﹃姉ちゃんもうすぐ二十歳のくせに彼氏いねーんだから家族だけが 心の拠り所だろ!﹄ 297 ﹃うるさいなぁっ。それとこれとは関係ないでしょうがっ!﹄ ﹃⋮⋮行くかっ﹄ ﹃﹃ええっ??﹄﹄ 妙にすっきりした顔をして立ち上がったお母さんに私も誠もただ ぽかんとしていた。お母さんはそんな私たちを見てにっこり笑う。 ﹃お母さんも前から行きたいとは思ってたのよ。でも今一歩踏み出 せなくてね∼。そんな贅沢できないけど、一回くらい行ってみよう か﹄ ﹃ほんとに?﹄ ﹃ただし一番快適でなるべく安いの、二人で調べときなさいよー﹄ 誠と顔を見合わせ、にんまりと笑う。 ﹃やったぁー!﹄ ﹃なんだよぉー、姉ちゃんの方が嬉しそうじゃん!﹄ それから夜は家に一つしかない古いパソコンの前でああだこうだ 言いながら旅行の計画を立てる日々が続いた。私も誠も機械がそん なに得意じゃないので無い知恵を足し合わせてどうにかこうにか調 べ進めた。結局この夏にカナダへ行くことになった。この世界が崩 壊する三日前に決まったことだった。 ﹁⋮⋮うぅ﹂ 私は幸せだったんだ。今になって思う。私は周囲を気にすること なくただただむせび泣いた。 * 298 どれくらい時間が経ったのだろう。しばらく意識が途切れていた ような気がする。もう日が傾いていた。少し肌寒い︱︱むき出しの 腕を擦りながら私はよろよろと立ち上がった。⋮⋮帰ろう。 帰る間際、何気なく右手奥に目をやると、木々に溶け込むように 佇む倉庫のような四角い建物が目に入った。あの辺りは周囲と比べ 草木も一層生い茂り、普段人があまり訪れない場所なのだろう。気 になったのはその建物手前の植え込みだ。明るい紺色の物体がはみ 出ている。見方によっては人の足のようにも見える。何となく気に なって引き返し、少し近寄って目を凝らす。 ︱︱足だ。 そう認識した瞬間、私は駆け出していた。何故だかわからないが、 誠であるような気がした。期待を込めてそっと植え込みの反対側を 覗く。 ﹁⋮⋮っ!﹂ やはり人だった。うつ伏せになった人。ここの生徒らしい、明る い紺の制服のズボンを着ている。そして白かったであろう半袖のシ ャツ。今は黒に近い赤に染められて、ズボンからはみ出た部分が僅 かに元々の白さを残していた。この学園に入れたのだからこれは返 り血だろう︱︱黒く変色しパリパリに固まった状態から考えるに、 血を浴びてからだいぶ時間が経っているように思える。 ﹁⋮⋮誠? 誠だよね﹂ 反応はなかった。でも、これは誠だ。私は確信していた。可哀想 299 に、頭からバケツの水を被ったようだ︱︱もちろんこの場合バケツ の中身は血だが。髪の毛一本一本に血が絡み付いているようで、ハ リネズミのようにツンツンと束になっている。肌には血がまだら模 様になって貼りついている。全身から生々しい鉄の臭いを発する彼 に手を伸ばし、その頭を撫でる。バリバリと人工芝のような感触が した。 彼が頭をもたげた。力なく見開かれた片目が私をとらえる。 ﹁⋮⋮姉、ちゃん?﹂ やっぱり誠だった! 私は血塗れの誠を引っ張り起こすと、力強 く抱きしめた。強烈な臭いが鼻をつくが、そんなことどうでもよか った。誠は呆けた顔でされるがままになっている。 ﹁よかった、生きてて⋮⋮辛かったでしょ﹂ ﹁何でここに?﹂ ﹁誠を探しに来たんだよ! お母さんも無事だよ。また三人で暮ら せるよ﹂ 最後は涙声になってしまい誠が聞き取れたか分からない。 ﹁夢みたいだな⋮⋮。夢じゃないよね?﹂ ﹁夢じゃないからっ。まだ夢の中にいるような顔して⋮⋮。でも本 当に私、誠死んじゃったのかと思ったよ﹂ ﹁俺も、死ぬかと思った﹂ 力なく微笑む誠の前歯は欠けていて、少し間抜けだった。 ﹁もう⋮⋮死体みたいな格好して。身体、洗いにいこう?﹂ 300 ﹁⋮⋮うん﹂ 私は誠の手を引いて立ち上がった。誠も弱く握り返したのが分か った。 301 第三十五話 諦め 体育館の外壁に備え付けられた水道の蛇口をひねる。グラウンド に面したそれは普段体育会系の部活動に勤しむ多くの生徒たちが利 用していたのだろう。サッカー部員である誠もその一人であったに 違いない。日常が失われて4日が経った今の時点ではまだ電気も水 も使える。しかし使えなくなる日が来るのは時間の問題。そう遠く ないはずだ。 文化祭の準備でペンキを被ったにしてもここまでにはならないだ ろう︱︱真っ赤に染まったシャツを脱がせ、誠は血をたっぷり被っ た頭を洗い始めた。透明の水が誠の頭を伝って排水溝で赤い渦を巻 いた。 このシャツは洗っても使い物になりそうもない。臭いがきついし、 何より誠が着たがらないだろう。皆がいる教室まで急いで戻った方 がいい。そう考えているうちに頭を洗い終えたようだ、手で念入り に水気を落とす誠と目が合った。 ﹁とりあえずここは寒いから部屋に行こっか⋮⋮。途中で出会った 人たち何人かとここまで来たんだけど、皆私が誠を探すのに付き合 ってくれたんだよ﹂ ﹁⋮⋮やっぱ俺を探すためにここまで来てくれたんだ。すごい危険 だっただろ?﹂ ﹁そりゃあね⋮⋮﹂ 途中で命を落とした清見さんや寺崎くん、渡部くんの顔が次々と 浮かんでは消えた。数々の犠牲の上に成り立った再会であることは 確かだろう。 302 ﹁ホントにありがと⋮⋮姉ちゃん﹂ ﹁誠⋮⋮﹂ ﹁俺、正直生きる気なくしてた。苦しすぎて﹂ 喉の奥から絞り出すようにそう言う誠は泣き笑いのような表情だ った。 ﹁俺⋮⋮っぐしゅっ!﹂ ﹁ほら、やっぱ寒いんでしょ。話は後でゆっくり聞くから、まずは 校舎に入ろ。皆誠のクラスの、2年B組にいるから﹂ その時誠の表情が明らかに強ばった。目を大きく見開き、ゆっく りと首を横に振る。 ﹁いやだ⋮⋮行きたくない﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁俺行かない。ここにいる﹂ 誠はそんなに人見知りするタイプではない。現に近所に住むおじ いさんおばあさんとはすぐに仲良くなり、﹁まぁちゃん﹂と呼ばれ 飴をもらったりして可愛がられている。ここまで拒否反応を示すの には何か訳があるのだろう。 ﹁とりあえずこのままじゃ風邪引いちゃうから⋮⋮体育館行こうか﹂ * 俯いて黙り込んでしまった誠の手を引き体育館に入り、隅の方に 腰を下ろした。誠は何か恐ろしいことが頭から離れないようで、虚 303 ろな目で血の気のない紫の唇を震わせている。 ﹁いつここに避難してきたの?﹂ ﹁⋮⋮昨日﹂ やはりゾンビ発生からずっと高校にいたわけではないようだ。昨 日までゾンビの目を掻い潜りながらやってきたのだろう。改めて再 会できたことを幸運に思った。 ﹁それまでどこにいたの?﹂ ﹁⋮⋮スポーツショップ。三階建てのビルの二階。キーパーのやつ が⋮⋮グローブ買い換えたいって言ったから帰りに寄って、それき りそこにこもってた﹂ ﹁サッカー部の友達といたんだよね。藤井くんとかでしょ﹂ 誠は頷くと体育座りして抱えた膝に顔を伏せてしまった。加代ち ゃんは誠はあの日六人くらいで帰っていったと言っていた。一緒に いた友達はほとんど死んでしまったのだろう。 ﹁⋮⋮俺のせいだよ﹂ 誠は顔を伏せたまま小さな声で呟いた。 ﹁あいつら、声に反応するんだろ。俺、逃げるとき皆を励まそうと 思って大声出してたんだ。あれがかえってあいつらを呼び寄せてた んだよな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁大量のあいつらに囲まれて、一人ずつ捕まって食われていった。 一人襲われる度にあいつらが悲鳴をあげるそいつに集まるから、道 ができて、俺たちは逃げて、また一人が襲われて⋮⋮。いつの間に 304 か半分になってた﹂ 誠は淡々と喋り続けた。 ﹁いつも馬鹿みたいなこと言って笑ったりさ、時には大会目指して 真剣になって練習してさ、そんなやつらが⋮⋮聞いたこともないよ うな、恐ろしい声出して食われてった⋮⋮。助けてって何度も言わ れたけど、もう助からないの見ただけでわかるからって自分に言い 訳して⋮⋮怖くて見捨てて逃げたんだ﹂ ﹁誠⋮⋮﹂ ﹁藤井と、キーパーの宮里と、俺が残ったんだ。でもあと高校まで 少しってところで宮里が首元を食い千切られて、すごい血が出て⋮ ⋮﹂ 誠はそこで一拍置き、続けた。 ﹁でも化け物は一体だけだったから俺、店から持ち出してきた鉄の 棒を化け物の首に思い切り突き刺したんだ。化け物は動かなくなっ たけど、藤井は血塗れの俺たちを助からないと思ったのか逃げたみ たいだった。それから宮里を一人で支えて、途中何度も転んで、内 臓とかぐちゃぐちゃの水溜りに飛び込んで血塗れになりながら、こ こまで来たんだ﹂ 誠はようやく顔を上げた。意外にも平然とした顔付きだったが、 頬には涙のあとがあった。 ﹁でも着いた途端宮里は自衛隊に連れてかれちゃってさ。たぶんあ いつダメだったんだろーな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮誠、よく頑張ったね﹂ ﹁姉ちゃん、俺、生き残ってよかったのかな⋮⋮﹂ 305 ﹁何言ってるの﹂ ﹁俺なんかが生き残っちゃいけなかったんだよ。もうこの世界は終 わりだ。死に損ないは大人しく死んだ方がいいんだよ﹂ ﹁そんなこと言わないで。誠を探しにここまで来た私はどうなるの ? 簡単に諦めないでよ﹂ 生きる力を失いかけた誠にどうしても言葉が刺々しくなってしま う。私はお母さんと三人で生き延びたいと思っているのに、誠は全 く逆の方向を向いている。なんともいえないもどかしさを感じた。 ﹁こんなところにいやがった﹂ さっと陰が差し聞き慣れた声が降ってきた。見上げるとやはり予 想通りの人物がいた。須藤くんだ。 ﹁ったく。飛び出したきりいつまで経っても戻ってこねぇんだから よ。ゾンビに喰われに行ったんじゃって心配したじゃねぇか﹂ ﹁ごめんなさい⋮⋮﹂ ﹁バカ、謝るなよ。ほら、戻るぞ﹂ つっけんどんにそう言うと須藤くんは私の手首を掴み引き上げよ うとする。 ﹁いや、ごめん。今は行けない⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 須藤くんは静かに手を離した。神妙な面持ちで私を見つめてくる。 ﹁⋮⋮わかったよ、今は一人になりたいよな。ただ、ここにいろよ ? また迎えに来るからよ﹂ 306 須藤くんは妙に優しい声でそう言うとふっと目を細めた。彼らし くない。違和感だらけで気持ち悪い。うん、気持ち悪い。⋮⋮とい うかもしかして、横にいる誠に気付いてないのだろうか。いや、た ぶん、というか絶対私が弟と再会できなかったと思っているに違い ない。 ﹁いや、落ち着いたら私がそっちに行くよ。誠連れて﹂ ﹁あ?﹂ 須藤くんはぽかんとした顔で私をじっと見つめ、それから横へ視 線を移した。 ﹁いたのかよ、おい! 早く言えよ! よかったなぁ!﹂ 須藤くんは興奮した様子でバシバシと私の肩を叩いてくる。大声 をあげて喜んでくれるのは嬉しいが、回りからの視線が痛いくらい 突き刺さる。当の誠も呆然として何も話せずにいる。 ﹁俺は須藤だ。お前の姉ちゃんとは共に死線をかいくぐってきた仲 だ。よろしくな﹂ ﹁⋮⋮伊東誠っす、どうも﹂ 差し出された大きな手を誠はおずおずと握り返す。 ﹁で、何で来れねぇんだよ? 見つかったならいいじゃねーか。み んな喜ぶぜ﹂ ﹁それは、その⋮⋮色々あってね。とにかく、後で必ず行くから﹂ 私がそう言うと須藤くんは軽く溜め息をついた。そして何を思っ 307 たか腕を組み誠をじろじろと観察し始める。彼の射るような鋭い瞳 に誠は私に助けを求めるような視線を投げかけてくる。 ﹁ええと⋮⋮英雄くん? 誠、疲れてるみたいだから⋮⋮﹂ ﹁お前、自分のせいで人が死んだと思ってるだろ﹂ ﹁⋮⋮え﹂ 須藤くんはやっぱりな、と再び溜め息をついた。 ﹁そんなこと言うならここにいる奴らは皆そうだ。目の前で襲われ てるやつを見殺しにしながらここまできた。そうだろ? じゃなき ゃ今頃骨だけの残骸になってるか肉を求めて外をうろついてるかだ﹂ ﹁でも⋮⋮﹂ ﹁漫画や映画の見すぎなんじゃねぇか? お前はヒーローでもなん でもないんだぜ。ただのガキだ。突然現れたあんな恐ろしい未知の バケモノに、普通の人間が敵うわけあるか﹂ 誠は何か言おうとしたのか、口を僅かに開けたまま黙りこくって しまった。 ﹁それとも何だ、お前誰かをおとりにでもしてわざと殺したのか?﹂ ﹁⋮⋮そんなこと、あるわけないじゃないっすか!﹂ 突然張り上げた大きな怒声に周りの人たちが反応する。誠は相当 傷つけられたのかブルブルと震えながら須藤くんを睨んでいる。須 藤くんはその勢いに驚いたのか呆けた顔をしている。すぐに冷静さ を取り戻した誠がすみません、といまだ不機嫌な態度で謝ると須藤 くんはニッと笑った。 ﹁⋮⋮何がおかしいんすか?﹂ 308 ﹁いや、十分元気あるなと思ってよ﹂ この期に及んでも飄々とした態度の須藤くんに誠はあからさまに ムッとした表情をした。それを見て来てくれたのが佐伯くんだった らな、と折角来てくれた須藤くんに対して失礼なことを考えてしま う。 ﹁悲劇のヒーローぶるなら全てが終わってからにしろ。大切な時は 今だ。また母ちゃんと姉ちゃんと三人で暮らしたくねぇのか? そ んな調子でいるといつか後悔するぜ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 誠は張りつめた表情をふっと解くと俯いてしまった。 ﹁ごめん、英雄くん。今は無理みたい﹂ ﹁ま、そうだろうな。いいぜ。また後で⋮⋮﹂ ﹁行きます﹂ はっきりした声でそう言うと誠は顔を上げた。会ったときとは別 人のような生気の漲る顔だった。 ﹁やっぱ俺生きたいっす。また家族と平和に暮らしたい。学校に通 いたいし、サッカーもしたい﹂ ﹁誠⋮⋮﹂ 私と目が合うと誠は僅かに笑顔を見せた。やっぱり同じ気持ちで いてくれたんだ。よかった。 須藤くんはくるりと背を向けるとつっけんどんに﹁行くぞ﹂と言 い残しさっさと体育館から出て行ってしまった。私たちもゆっくり 309 立ち上がるとその後を追った。 310 第三十六話 安全地 ﹁皐月!﹂ 教室のドアを開けると真っ先に奈美さんに出迎えられた。後ろに 立つ誠の姿をみとめると感極まった様子で私を優しく抱擁してくれ た。かなり心配してくれていたようだ。 ﹁弟くん見つかったんだ⋮⋮本当によかったね﹂ そう言って鼻をすする奈美さんはほんのり涙目で心から喜んでく れているのがわかった。こんな仲間に出会えて本当に私は幸運だ。 それからとりあえず教室の端に円の形に向かい合って腰を下ろし た。やはりまだ皆疲れが抜け切れていないように思える。それもそ のはず、つい先ほどまでゾンビに血肉目当てに追いかけまわされて いたわけで、高校に到着してからまだ半日も経っていないのだ。 体育座りで緊張した様子の誠に優しく声をかけ上着を被せる相田 くん︵誠はあれから上半身裸だった︶、﹁歓迎会しましょ﹂と鞄か らお菓子を取り出し手際よく開封していく奈美さん、その様子を胡 坐をかいて気だるげに見る須藤くん︱︱そうやって何気なく一人一 人を見渡していると佐伯くんの姿がないことに気付いた。紗莉南ち ゃんもいない。 ﹁あれ、義崇くんは?﹂ ﹁佐伯なら須藤と同時に皐月ちゃんを探しに出て行ったままだけど ⋮⋮会わなかったのか? 大宮さんも一緒だったと思う﹂ 311 きっとまだ私を探してくれているのだろう。しかしまた行き違い になってしまう可能性が高いのでここで待つ他ない。それから誠を 交えて各々が自己紹介を始めゆったりと時間が過ぎていった。 自己紹介が終わって少しして教室のドアが開く音が聞こえた。 ﹁皐月さん﹂ 急ぎ足でこちらに向かってきた佐伯くんはすぐに誠の存在に気付 いたようで、深く安堵の溜め息をついた。 ﹁誠くんだね? 俺は佐伯義嵩。君のお姉さんと同じ大学の学生だ った。生きていてくれて本当に良かった﹂ ﹁どうも⋮⋮姉ちゃんがお世話になってます﹂ 背の高い佐伯くんに見下ろされ、誠がおずおずと頭を下げる。そ の時佐伯くんの後ろに付き添う紗莉南ちゃんに気付いたようだ。 ﹁あれっ、お前⋮⋮大宮?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 少し二人の間になにやら気まずい時間が流れたように思えたが、 特に会話を交わすこともなく二人の再会の時間は終わった。クラス メートだったはずだが、何かあったのだろうか。渡部くんのことも ありどうも紗莉南ちゃんに対する複雑な感情が拭えない私は誠にこ っそり彼女のことを聞こうと思ったが、相田くんが話し始めたこと でそんな気も失せてしまった。 ﹁で、これからどうなるんだ? 自衛隊がヘリで安全地帯まで運送 してくれるとかいう話だったけど⋮⋮本当なのかな?﹂ 312 ﹁その話だが﹂ すぐに反応した佐伯くんは表情がいつにも増して重苦しく、これ から話す内容がよい内容ではないことが伺えた。彼は周囲を見渡し、 少し考えてから言った。 ﹁戻る途中、誰もいない空き教室があった。スピーカーもあったし ここからそう離れていないから何かあったらわかると思う。人数も 増えたことだし移動しないか?﹂ * 私たちは同じ階にある別の教室に移動した。本棚には現代文や古 文・漢文のテキスト、資料集⋮⋮どうやらここは国語科の職員室の ようだ。デスクを音を立てないよう慎重に脇へどかしスペースを作 る。皆が腰をおろすと彼はなおも回りに聞こえないよう声を潜めて 話し始めた。 ﹁偶然隊員同士の話を立ち聞きしたんだが⋮⋮安全地帯とされてい た北海道の一部地域にも感染者が、ゾンビが侵入したらしい。また 安全を確保するまで当分時間がかかるそうだ﹂ ﹁北海道に⋮⋮安全地帯?﹂ ﹁そうだ。山間の中規模の町で、早くから安全が確認されていたよ うだ。広範囲を有刺鉄線や頑丈なバリケードで囲まれ、もう既に避 難民を受け入れていたらしい﹂ ゾンビがいない地域なんてあったのか。あの日、普通の人間が突 如人を襲うゾンビと化し、恐るべきスピードでその数を増やしてい った。その安全地帯にはあの最初の変化が一人も訪れなかったとい うことになる。そんなことあるのだろうか。 313 ⋮⋮それはともかく。安全地帯への避難民輸送は見送られてしま った。 ﹁ま、ここでゆっくりして修復を待てばいいんだろ。そんな深刻な 面するなよ、気楽にいこうぜ﹂ ﹁家族の無事が確認できてないあたしらは気楽になんかできそうも ないけどね﹂ 奈美さんの言葉には須藤くんを非難するような色は込もっておら ず、軽い冗談のようにもとれる明るさが感じられた。いつもの調子 の須藤くんに佐伯くんは僅かに眉をひそめるもすぐに﹁そうだな﹂ と表情を緩めた。 自分たちがピリピリしてもどうにもならないことを皆わかってい るのだ。自衛隊に任せるしかない。それに自衛隊の保護下にいる今、 特に問題はないように思われた。食料の問題などはあるだろうが、 今まで味わってきた危険に比べれば数倍安全だ。自衛隊の活躍を見 守っていればそれでよいのだから。 ︱︱そう思う反面。どうしても嫌な予感が頭から離れなかった。 相田くんの屋敷で見た影。知恵のないゾンビを屋敷に招き入れたか もしれない存在。新たな脅威。あれがまたよからぬ事態を引き起こ すかもしれない。もしかすると北海道の安全地帯を襲ったのも⋮⋮。 不吉な想像は止まらない。 ﹁皐月さん﹂ ﹁え!? な、何、義崇くん﹂ 自分の世界から急に引きずり出され情けない声をあげてしまう。 314 佐伯くんはそんな私に僅かに笑みをこぼすと真剣な表情に戻り話を 続けた。 ﹁今から少し付き合ってくれないか?﹂ ﹁あ、うん。いいよ⋮⋮﹂ 反射的に承諾してしまったが、何の用事だろう。佐伯くんに個人 的な対応をされるのはかなり久しぶりな気がする。意味もなくドキ ドキしてしまう。 ﹁ねーちゃん?﹂ ﹁えぇっ? なに、誠﹂ さっきから挙動不審すぎる。変なところで鋭い誠が何を言い出す のかと内心ビクビクしていると、誠は少し楽しそうな声で話し始め た。 ﹁佐伯さんと姉ちゃんて付き合ってんの? なんかフツーじゃない 雰囲気を感じる﹂ ﹁なっなな、何言ってるんだか。そんなわけないでしょ﹂ ﹁何か焦ってるし。だってそれって逢い引きってやつじゃないの?﹂ ﹁違うってばー! 誰かさんみたいに変な言葉使わないのっ。ごめ んね、義崇くん﹂ 恥ずかしくて頭に血が上り、周囲の反応が目に入らない。きっと 須藤くん︵誰かさん︶あたりはニヤニヤしているんだろう。当の佐 伯くんをチラリと見ると案の定困った顔をしていた。 ﹁誠くん、安心してくれ。君のお姉さんとは⋮⋮そんなのじゃない。 ただ、ちょっと確認したいことがあるんだ﹂ 315 ﹁あ、いいっすよ。連れ回しちゃってください。ついでに彼女にで もしてやってくださいよ。まだ彼氏できたことないんだから俺不安 で⋮⋮﹂ ﹁誠っ!﹂ ﹁やるなぁ弟!﹂と楽しそうな須藤くんたちに囲まれていつの間 にか普段の憎まれ口を発するようになった誠に安堵しつつ、気まず くて早くこの場から立ち去りたい気持ちで一杯でいると、それを察 してくれたのか佐伯くんが私に行こうと促した。 ﹁義崇さん、行っちゃうんですか?﹂ 教室を出ようとすると少し不機嫌そうな紗莉南ちゃんに呼び止め られた。 ﹁怖いんです。ずっと一緒にいるって言ってくれたじゃないですか﹂ ﹁皆がいるから大丈夫だ。誠くんとはクラスメートだろう?﹂ ﹁義崇さんがいなきゃ⋮⋮嫌です﹂ 上目遣いで佐伯くんを見る紗莉南ちゃんと優しい目で、声で応え る佐伯くん。震える彼女は誰もが守ってあげたくなるほど愛らしく て、佐伯くんもそう思っていると思うと胸の奥が微かに痛んだ。 ﹁すぐ戻ってくるから。さっきから歩き通しだっただろう。ゆっく り休んだ方がいい﹂ そう言って佐伯くんは彼女の頭を撫でた。 ﹁わ、私。先出てるね﹂ 316 堪えられなかった。咄嗟に体が動き、逃げ出すように部屋の外へ 出た。少し涼しい廊下の空気に触れると、キューと締め付けられる ようだった心臓から徐々に緊張が抜けていくのがわかった。 ﹁すまない﹂ ﹁ううん。⋮⋮で、どうしたの?﹂ 後から出てきた佐伯くんに不自然に冷たい対応をしてしまった気 がする。佐伯くんはそれを感じとったのか気まずそうにすっと形の よい鼻先を指の側面で擦ると、姿勢を正し真っ直ぐな視線を向けて きた。 ﹁これから自衛隊員と話をしに行こうと思う﹂ ﹁話⋮⋮? 自衛隊員と?﹂ ﹁そうだ。相田さんの屋敷で見た⋮⋮あの得体の知れない生き物の 存在を彼らが認識しているか、それを確かめにいく。俺たちの見間 違いの可能性もあるが、人類の存続を脅かす危険性を含む情報は伝 えるべきだと思う。それに⋮⋮俺は嫌な予感がしてならないんだ﹂ しばらく呆然と聞いていた。佐伯くんも全く同じことを考えてい たのだ。それを何とも嬉しく思った。 ﹁私も同じことを考えてたんだ。ゾンビなんか出てくる世の中だも の、これから何が出てきてもおかしくないよね﹂ 佐伯くんは私の答えに安心したようで力強く頷いた。 そして私たちは自衛隊の駐在する本館へ向かった。 317 第三十七話 変異体 校舎を出ると外はもう既に日が傾いており少し薄暗かった。外気 がむき出しの腕を撫でつけ、肌寒さに体が縮む。 よくよく考えると佐伯くんと二人きりになったのはゾンビが現れ た最初の日、大学で初めて出会ったとき以来だ。その後すぐに須藤 くんと合流したため、佐伯くんと私は口下手なタイプなのもあって か、普段は何気ない会話のほとんどを須藤くんが喋っていた。実際 二人になってみると何を話せばいいのかわからず気恥ずかしい。し ばらくの間私たちは一言も発さずにいたが、本館に通じる広い道に 出たとき佐伯くんが話しかけてきた。 ﹁誠くんはどこにいたんだ?﹂ ﹁あ⋮⋮体育館の近く、校舎裏の草むらにいたの。血だらけで倒れ てたから最初は死体かと思ったんだけど、すぐにわかったんだ、誠 だって﹂ ﹁そうか⋮⋮再会できて本当に良かった。それにしても誠くんもだ いぶ辛い目にあったようだな﹂ ﹁うん⋮⋮一緒にいた友達がみんなゾンビに、だって⋮⋮﹂ 佐伯くんにたどたどしくそう話しながら改めて誠に再会できた幸 運を噛み締めると共に、ふと藤井くんの存在を思い出した。友達を 見捨てたという罪の意識に苛まれ項垂れて、魂の脱け殻のようだっ た彼の姿。誠が生きていたと知ったらきっと喜ぶだろう。 ﹁ねえ義嵩くん、用件が終わったら体育館に寄ってもいい?﹂ ﹁ん⋮⋮ああ、わかった﹂ 318 思い悩むような表情で目を伏せていた佐伯くんは突然の申し出に 軽く目を見開くも、理由も聞かずに快く承諾してくれた。 * ﹁さて、ここだな﹂ 本館の玄関口には見張りの自衛隊員が二人おり、避難民らしき老 人と何やら口論しているようだった。少し待っていると老人は渋々 といった様子でこちらに引き返してきた。どうやら交渉に失敗した らしい。道をあけようと脇に退けると、老人は私たちの前で立ち止 まった。 ﹁おや、君たちも本部に用かな?﹂ ﹁あ、はい﹂ はきはきとした口調で話しかけてきたこの老人は人のよさそうな 顔をしていたが、やはり相当辛いことがあったのだろう、目は落ち くぼみ血色も悪く憔悴しきった様子だった。 ﹁どうやらあちらは取り込んでいるようだ。私も受け入れ避難民の 一覧を見せてもらいにきたのだがね、だめだったよ。後にしてくれ と。君たちは?﹂ ﹁⋮⋮似たような用件です。お話を聞いた限り無理のようですが⋮ ⋮何人もが同じことを要求すればいつかは自衛隊も動くでしょう。 ダメもとで行ってきます﹂ 319 本来の目的を明かさないよううまく濁しながらそう言ってのけた 佐伯くんに老人も納得したらしい。うんうんと深く頷くと話を続け た。 ﹁要求をのんでくれるといいな。私もまた後で来るとしよう。では﹂ 老人が校舎の中に消えたのを見届けると佐伯くんは私に行こうと 目配せした。 ﹁なんだ、君たちは。避難民同士のトラブルは巡回している見張り の隊員に言ってくれ﹂ 余程余裕がないのだろう、若い自衛隊員は私たちの姿を目にとめ た瞬間早口で捲し立てた。その有無を言わせぬ威圧的な態度に私は 少し怯んだが、佐伯くんは意にもとめない様子ではっきりとした強 い口調で言い放った。 ﹁ゾンビの変異種のことでお話があるのですが。上部の方とお話さ せてくれませんか﹂ 隊員は佐伯くんの言葉に明らかに動揺の色を見せた。何か知って いるのに違いない。一瞬口ごもってから抑えた声で話し始めた。 ﹁⋮⋮なぜそのことを知っているんだ﹂ ﹁ここに来る道中、実際に遭遇したのです﹂ ﹁なんだと﹂ ﹁私に知っている情報を全て教えて。このことは他に漏らしてはだ めよ﹂ 割り込んできた聞き覚えのある凛とした声にもう一人の自衛官の 320 方に目を向けると、私たちの検問を受け持った女性隊員だった。険 しい表情で私たちを見ていたが、私の顔を見て思い出したようだ。 ﹁あら、あなた⋮⋮また会ったわね。この際名乗っておきましょう。 藤原美佐子三等陸尉よ。私が必ず上部に伝えるから安心して﹂ どうやら一般人が本部に入るのはどうしても許されないことらし い。その場で佐伯くんは藤原さんたちに屋敷での出来事、硝子越し に見た化け物の形状を簡潔に伝えた。 ﹁⋮⋮集団で閉じた門を突破したと。知恵が芽生えたゾンビ⋮⋮変 異体に間違いないわね。北海道のに特徴が一致してる﹂ ﹁お前たちよく生き残れたな﹂ ﹁ありがとう、貴重な情報だわ﹂ 隊員の反応を見るに私たちが遭遇したのは今まさに自衛隊の間で 問題になっている変異体であるようだ。そしてその変異体がこの高 校の近くに迫り来ている︱︱その情報が彼らに伝えられれば十分だ った。 ﹁あれと遭遇したのはここからそう遠くない⋮⋮立星大学と和泉商 店街の中間地点です。今日明日あたりは特に警戒してください﹂ ﹁ええ、伝えておく。あなたたちは安心しておやすみなさい﹂ ﹁あ、あと⋮⋮受け入れ避難民の名簿の公開に対応してあげてくだ さい﹂ 佐伯くんに続けて私も先ほどのおじいさんのことを伝える。藤原 さんは﹁もうすぐ対応できると思うわ﹂とにっこり笑った。 藤原さんに全てを伝え、目的を達成した私たちは早々に校舎へ戻 321 ることになった。礼を言って立ち去ろうとすると、藤原さんが私た ちを引き留めた。 ﹁いい、この情報は絶対に他に漏らしてはダメよ。ただでさえ避難 民は耐え難い傷をおってギリギリのところで生きようとしてる。こ れ以上彼らを刺激するようなことをしたら⋮⋮団結が乱れ、未知の 危険に対処できなくなる。約束よ﹂ ﹁もちろんです、約束します﹂ 女性隊員に固く約束し、私たちは本部前を後にした。 ﹁さて⋮⋮もう俺たちの出る幕はない。一安心だな﹂ ﹁そうだね。あとは自衛隊の人たちがなんとかしてくれるはず⋮⋮ だよね﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 何気なく上を見やると、校舎と校舎の間から地平線に吸い込まれ ていく赤く染まった空が見えた。もはや当り前のように死体が転が る血塗れの世界だが、自然だけは何も変わっていない︱︱そう思う と目の前の光景に言い知れぬ感情がこみあげてきた。 しばらくそうしていたと思う。ふと隣を見ると佐伯くんも同じよ うに空を仰いでいた。シュッと通った鼻筋が凛々しい横顔にしばら く見とれていると私の視線に気付いたらしい、彼と目があった。 ﹁あっ、いや、なんでもないよ⋮⋮ゴメンね﹂ 両手を振って慌てて弁解するも、佐伯くんはずっと私を見てくる。 涼しげな目元から注がれる熱い視線にみるみる顔が赤くなっていく のを感じる。何かついてるのかな?︱︱しかし声を出そうとしても 322 声がでない。 ﹁皐月さん﹂ ﹁え、なあに?﹂ 声がひっくり返ってしまった。恥ずかしさのあまりいっそのこと お笑いにしてしまいたくなり、おちゃらけた風を装い小首を傾げる。 佐伯くんは柔らかく微笑むと、私に向かって手を伸ばしてきた。 ﹁えっ、あ⋮⋮﹂ 彼の大きな手は私の髪を滑り、何かをつまみ上げた。 ﹁髪に虫が﹂ ﹁あ、なんだ虫かぁ⋮⋮﹂ なんてベタな展開! しかしあからさまに落胆したような声を出 してしまった。佐伯くんが指先を軽く開くと、蛾のような小さな羽 虫が少しの間のあと飛び去っていった。あぁ、気まずいなぁ︱︱そ う思いながらどうしようかともじもじしていると、左のこめかみか ら頬のあたりに温かい感触がした。 ﹁義崇くん⋮⋮?﹂ 佐伯くんの手だった。彼は頬に軽く手を添えたきり何も言わず、 何か言いたげに私を見つめてくる。不思議に思っていると彼の薄い 唇が僅かに開き、塞き止めた息が漏れる微かな音が聞こえた。しか しすぐに唇は閉じられ、手は静かに離れていった。 ﹁どうしたの?﹂ 323 ﹁いや⋮⋮、なんでもないんだ。すまない﹂ そんなこと絶対ないでしょう︱︱そう思ったが口に出すことはで きなかった。それから私たちの間に微妙な空気が流れ、会話を交わ すことはおろか目を合わせることさえなかった。 324 第三十八話 安全 ﹁凛太郎!?﹂ ﹁誠⋮⋮良かった、生きてて⋮⋮﹂ 二人はお互いの姿を目にとめるとすぐさま駆け寄り、肩を抱き合 った。誠も凛太郎くんも顔をくしゃっとさせて涙をボロボロ流し、 泣き笑いの表情でまた生きて会えたことを喜んでいる。本当に大切 な仲間だったということが見てとれた。その分亡くなった他の四人 のことを考えると心が痛む。辛かっただろう︱︱ぐったりと血塗れ で横たわる誠と、魂が抜けたような藤井くんの姿を思い出し、ああ なるのも無理はないと思った。 ﹁おい、さっき放送があったんだがよ、食料と衣類の配給があるよ うだぜ。んーと⋮⋮八人分な。俺行ってくるわ﹂ 二人が落ち着いたのを見計らってか須藤くんが切り出した。何も しなくても守ってもらえる︱︱普段特に意識することなく享受して しまいがちなことだが、今はそのありがたさが身に染みるように感 じられる。それにしても八人とは⋮⋮最初は私と佐伯くん二人だっ たのがずいぶん大所帯になったものだ。心強い。 ﹁一人で大丈夫? 私も行くよ﹂ 大変だろうと一緒に付いていく気で立ち上がると、須藤くんは振 り返りもせずヘーキヘーキと高く上げた片手をひらひらと振り、そ そくさと部屋を出ていってしまった。 疲労で足がずきずきと痛み、足早に去る須藤くんを追いかける気 325 にもなれなかった。一人立ち上がったまま取り残されたこの状況︱ ︱何となくまた座るのも憚られる。その時ほんの少し尿意を催した のをいいことに、私はそのままお手洗いに行くことにした。 ﹁須藤は力があるから大丈夫だろう。一緒に待っていよう﹂ 佐伯くんはそう座るように促してくれたが、お手洗いに行くこと を伝え廊下に出る。 ︱︱空気が一気に冷たくなった。温度は変わっていないはずだが、 どんよりと暗く異質な空間であるように感じられる。幽霊が出そう な雰囲気だ。幽霊、ともう一度心の中でつぶやく。本当に幽霊は存 在するのだろうか。明らかに人間の想像の産物であるはずだったゾ ンビが存在している今、エイリアンでもネッシーでもなんでもいる ような気がしてきた。この瞬間も外では恐ろしいゾンビが闊歩して いる︱︱自衛隊に保護されて安全を手にした今、その感覚が薄れて きているのを恐ろしく感じた。 角を曲がると前方にトイレの標識が見えた。少し歩く速度を速め て扉が閉め切ってある一つの教室の前にさしかかったその時、聞き 慣れた声が飛び込んできた。 ﹁⋮⋮いや、まだ通じないよ。もうほぼ諦めてる。親はどちみち先 に死ぬんだしね⋮⋮うん、そうだね、ありがとう⋮⋮﹂ 奈美さんだ。そういえばいつの間にか教室からいなくなっていた。 どうやら誰かと電話をしているようだ︱︱立ち聞きするのは悪いが、 なぜだか足が動かない。聞いてはいけないような気がし躊躇してい るその間にも会話が耳に入ってくる。相手は彼氏さんだろうか。普 段あんなに明るく振る舞う奈美さんが、今は震えた弱々しい声を出 326 している。⋮⋮家族のことを諦めている。彼女の正直な気持ちだろ うが、私は聞いてショックだった。幸運にも家族の生存が確認でき ている私をいつも支えてくれる奈美さん。本来ならば私の方こそ支 えにならなければいけないのに。 いたたまれない気持ちになって私はその場を引き返した。早歩き から駆け足になる。気がついたら元の教室の前にいてぼんやりして いた。 ﹁あれ、皐月どうしたの?﹂ 声をかけられたとき心臓に鈍い痛みが走った。ゆっくり首を声の した方に向けると、やはり奈美さんがいた。さっきの電話のときの 雰囲気は微塵も感じられない。いつもの明るく勝気な彼女の姿だ。 きっと今私は酷い顔をしている。その証拠に奈美さんは不思議そう な顔で私を見ている。 ﹁疲れたんでしょ、中にはいろはいろ﹂ ニッと悪戯っぽい笑顔で奈美さんは私の背中をぽんぽんと押し出 す。明るい笑顔の裏では、心の中は泣いているのかもしれない⋮⋮。 奈美さんは教室に入ると携帯を放って床に胡坐をかき、相田くん とおしゃべりを始めた。 ﹁皐月ちゃん、大丈夫? ぼーっとしてるみたいだけど﹂ ﹁疲れてるんだよ。頼りない駿と喋ったらもっと疲れちゃうから、 そっとしておいてあげなよ﹂ 私と目があった相田くんが心配そうに声をかけてきて、奈美さん がからからと笑う。相田くんもまだ家族と連絡がとれていない︱︱ 327 なのになんでこんなに優しいんだろう。自分のことで精一杯な自分 が情けなくて、こぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえる。私ばか り甘えていられない。 ﹁ほーらよ﹂ ﹁うっひゃあぁぁっ!!﹂ 立ち尽くすのもおかしいので皆の輪の中に戻ろうとしたその時、 視界が急に真っ暗になった。慌てて顔を覆う何かを取り払うと、白 い毛布のようだった。振り返るとニヤニヤ笑う須藤くんがいた。本 当にこの人はいつでもこんな調子だ。 ﹁お前相変わらず色気もへったくれもない悲鳴出すよな﹂ ﹁⋮⋮すみませんねぇ、色気なくて﹂ ﹁いや、でも俺はそんな色気がねぇ皐月が好きだぜ﹂ ﹁何度も言わないでっ﹂ あっという間にいつもの調子に引き摺り込まれ少し安心した一方、 これでいいのかと複雑な気持ちになる。須藤くんはそんな私を﹁邪 魔だ邪魔だ﹂と押し出し強引に座らせると円になって囲むように座 る私たちの真ん中に大きな袋をドサリと降ろした。 ﹁荒っぽいなぁ⋮⋮中身は大丈夫なのかぁ?﹂ ﹁中は食糧のパンと毛布、衣類、歯ブラシとかの日用品が少ししか 入ってねぇよ。物資が不足してるみたいだな。ったく、三人分の女 物の下着を受け取る俺を想像してみろ。見慣れてるとは言え⋮⋮﹂ ﹁はいはい御苦労さま。てか、あんたに手渡しされた下着なんてあ たし履かないからね!﹂ 須藤くんにきつくそう言って奈美さんは袋の中身を広げ、パンや 328 毛布を皆に配っていった。新品の毛布を受け取った時、その柔らか さに何故か涙が出そうになった。隣の誠がじっとこちらを見ている のに気付き、慌てて目元をぬぐう。 ﹁姉ちゃん⋮⋮﹂ ﹁ん、なあに?﹂ ﹁姉ちゃんはさ、一体、佐伯さんと須藤さんのどっちとできてんの ?﹂ 一瞬訳が分からなくなった。誠は何を言っているのだろう。やっ と意味がわかって、その瞬間顔がかぁーっと熱くなる。 ﹁ば、ばかっ。できてるもなにも誰ともできてないからっ! でき てるって、えぇーっ⋮⋮。て、てかこのタイミングでそれ?﹂ 狼狽しきって自分でも何を言っているのか分からない。そして、 はっとする。こんなおちゃらけた空気をつくって不謹慎じゃないだ ろうか。でもみんなはおかしそうに笑ってくれている。誠も平和だ った以前と同じ笑顔で笑っている。それを見て私も自然と笑顔にな る。 ここに来る途中で亡くなった渡部くん。家族と連絡がつかない奈 美さんに相田くん。こうして安全を手に入れた今も辛いことがたく さんある。だから笑うことに戸惑いがあった。でも、これは大事な ことなんだ。こうして笑い合うことでお互いの心の安定剤になるの ならば⋮⋮。 ﹁よかった。誠が元気になって﹂ 誠は照れくさそうに微笑んだ。⋮⋮が、だんだんと表情が曇り、 329 憂いをひめた真顔になる。何かを求めるかのようにじっとわたしを 見てくる。弟が何を言おうとしているのかはすぐにわかった。 ﹁誠が元気だって知ったらお母さんきっとすごく喜ぶよ。ご飯食べ た後で電話しよ?﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ パンの包装を破きながら、こんな日々がずっと続いていつか平和 を取り戻せますようにと強く願った。 * 夜、教室の窓際の床の上に私たちは一列になって横たわり、安ら かな気持ちで目を閉じて次の日の朝を待った。こう安心感に包まれ て寝るのも久しぶりな気がする。しかしもうみんなでおやすみを言 ってから一時間は経っているのに私はなかなか寝付けないでいた。 広い窓から漏れる月明かりが仰向けに寝転がる私の頭上でオーロラ のようにゆらゆらと揺れているように見える。顔を隣に向けるとと っくのとうに安らかな息をたてて眠りについている奈美さんの寝顔 が目に入った。夕方のことを思い出し、複雑な気持ちで綺麗な寝顔 を眺める。 いつの間にか意識が遠のいていた。心地よいまどろみが波のよう に押し寄せ、心の中を支配したと思いきや、急にさっと霧散する。 瞬間、はっきりと目が覚めた。なぜか心臓がバクバクいっている。 嫌な予感がする。その時、何かが静寂を破った。乾いた音。 ﹁皐月さん﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ 330 急に肩を揺さぶられ驚きに身体が硬直し息をのみ込んだ。緊張し た首を無理やり動かすと私の顔を覗きこむ佐伯くんが見えた。 ﹁やばいことになった⋮⋮。皆を起こそう。逃げるぞ﹂ 現実は厳しい。幸か不幸か希望に満ちあふれた夢見心地な気分は 消えうせていた。 331 第三十九話 急襲 ﹁なあ佐伯、急にどうしたっていうんだ!?﹂ ﹁ゾンビ? ゾンビがこの学校の門を突破したっていうの?﹂ ﹁どうなるかはわからない! だが嫌な予感がする⋮⋮!﹂ 私たちは鞄に支給された物資を急いで詰め込むと、武器を手にま だ夜の闇に包まれ真っ暗な廊下を走った。皆を起こして身支度を整 えているとき、最初は微かに聞こえてきていた単発の銃声がだんだ ん大きくなり、今では機関銃の連射音や爆発音が頻繁に聞こえるよ うになっていた。他の避難民たちも目を覚ましてきたようで、教室 の中から騒ぎ声が漏れ出てきている。 ﹁何で校舎から出るの? バリケードを築いて閉じこもればいいじ ゃない。塀で囲まれてる中に侵入されたら、外に出るのはかえって 危険じゃ⋮⋮﹂ ﹁それで諦めてくれるんじゃ、どの避難所も壊滅するこたねーだろ ! それにゾンビが学園内に入ってくるなんてことがあったら⋮⋮ それは自衛隊が殺られたってことだ。バリケードが崩されてみろ、 皆奴等の餌食だ!﹂ 全速力に近い速度で走りながら、私の前にいる奈美さんと須藤く んが息も絶え絶えに怒鳴るように話す。佐伯くんは少し後ろで寝起 きでふらふらする紗莉南ちゃんを支えながら走っているようだ。そ ういえば誠の声がしない。凛太郎くんもだ。ちゃんと付いてきてい るのだろうか。 ﹁誠、いる!?﹂ 332 大きな声を出すのは苦手だが、ひっくり返るのも構わずありった けの大声で後ろに問いかける。 ﹁大丈夫、二人とも付いてきてる!﹂ 少し遅れて後ろを走る相田くんが誠と藤井くんが無事付いてきて いることを教えてくれた。 ﹁そもそも、ここの自衛隊が壊滅することなんてあり得るのかな?﹂ 開けた口をそのままに、続けて相田くんが爆発音に消されないよ う大声で尋ねる。確かにここは軍備が整っているし、力が強いとは いえ生身のゾンビたちが最新の兵器に敵うとも思えない。 ﹁俺もそんな事態はなかなか考えられないと思ったが⋮⋮万が一で も何かあったらおしまいだ。最悪の事態に備えて困ることはないだ ろう﹂ 佐伯くんがそう答える間に下り階段に差し掛かった。階段を一段 駆け下りる度に頭がぐらんぐらんと揺れる。耳には絶えず戦場の音 が飛び込んでくる。極度の緊張で心臓が爆発しそうだ。 ﹁急ごう! この校舎は門に近い上に出口が少ない。ゾンビの襲撃 にあえば危機に陥るのは目に見え︱︱﹂ 佐伯くんの話の最後の部分は外からの大きな爆発音に遮られた。 その轟くような爆発音に一階へ向かう踊り場部分にいた私は足がす くんでしまった。せっかく手にした平和が早くも崩れ去った︱︱そ の現実が受け入れ難くて、心も身体もついていけていない。 333 ﹁皐月、しっかり!﹂ 奈美さんに抱き留められ、また再び走り出す。出口まで一直線に 続く一階の廊下へ出た時、両側の教室の扉がほぼ同時に開かれた。 うわあぁぁっ! 早く、早く! 奴らが来るっ! 奴らが⋮⋮い やだああぁぁ⋮⋮! 廊下に人々の怯えた叫び声が木霊する。ただでさえゾンビによっ て辛い思いをしてきた避難民たちだ︱︱皆必死の形相で上り階段や 出口を目指し始めた。人が激しく入り乱れ、目の前でお年寄りが突 き飛ばされ倒れ込んだ。しかし皆そんなのお構い無しにお年寄りを 蹴飛ばし走り去っていく。︱︱地獄だ。人として生きることが難し い世界になってしまった。 ﹁まずいよっ⋮⋮はぐれないように気をつけてっ﹂ こちらに向かってくる避難民を見て、緊張にひきつった顔で奈美 さんが叫ぶ。背後の上り階段からも騒がしい音が聞こえてくる。二 階三階の人たちが降りてきたのだ。一人の男子学生が階段から転げ 落ちてきた。変な場所を打ったのか、起き上がろうとしない彼に駆 け寄ろうとしたその時、階段から人々の大群が現れた。止まること なく階段を駆け降りる人々に男子学生は容赦なく踏まれていく。悲 鳴が廊下のあちこちからあがる。前からも後ろからも迫ってくる人 の波に、どうしようもなく立ち往生していると、あっという間に人 々が押し寄せてきた。︱︱飲まれる。 もみくちゃにされること覚悟で身を固くして目を閉じる︱︱と、 ぐいと腕が強く引っ張られた。 334 ピシャンと教室の扉が閉められた。扉の向こうでは人々のけたた ましい足音と怒号が飛び交っている。いつの間にか床に座り込んで いて、騒音を扉を隔てて聞きながら呆然としていた。 ﹁やべぇな⋮⋮佐伯たちとはぐれちまった。くそっ﹂ 声の方に顔を向けると顔を歪ませて扉を睨む須藤くんがいた。ど うやら彼が助けてくれたらしかった。こんな事態の中、佐伯くんた ちとはぐれてしまった︱︱もう二度と会えないかもしれない。そん な不吉な考えが頭を巡り、体が急激に冷えていくのを感じた。そし てもうひとつ。誠はどこにいるのだろう。もしかして人々に飲まれ てしまったのか。先ほどの光景が頭を過る。踏みつけられ骨が折れ る音、悲鳴。背筋が凍った。 ﹁ま、誠⋮⋮は⋮⋮﹂ 掠れた声で須藤くんに問いかける。 ﹁⋮⋮ここにいるよ﹂ すぐ近くから弱々しい声が聞こえ、驚きに声を飲み込む。もしや と思い背後を振り替えると、少し疲れた顔をした誠と凛太郎くんが いた。思わずさっと抱き締める。小柄な弟の身体が発する温かな体 温を感じ、一気に緊張が抜けた。凛太郎くんの目もあり﹁やめろよ 姉ちゃん﹂と恥ずかしそうにする誠が可愛くてくすりと笑ってしま う。束の間の休息だった。身体を離すとすぐに佐伯くんたちのこと を思い出し、私は立ち上がった。 ﹁皐月、待て﹂ 335 教室の扉を開けようとした私を須藤くんが引き留める。彼の私を 遮る手とは逆の手が手にしたものを見て、人が入り乱れる地獄と化 した廊下に飛び込むという馬鹿な考えは失せた。 ﹁⋮⋮佐伯? おいっ、大丈夫かよ?﹂ 電話から僅かに佐伯くんの声が漏れ出てくる。が、騒音に紛れて 何を言ってるのかまでは聞き取れない。 ﹁外か⋮⋮ああ、わかった。こっちも落ち着いたら向かう。校舎裏 の倉庫な。ああ、わかるぜ。じゃあまた後でな﹂ 通話を終えた須藤くんに早く内容を教えてほしくて詰め寄ると、 彼はぼーっとしていたのか至近距離に私の顔があるのに気付いて小 さく声をあげ後ずさった。あいた距離を詰めると須藤くんは少し苦 笑いをして話し始めた。 ﹁佐伯たちは無事だ。校舎の外へ押し出されたが幸運にも合流でき たらしい。今は奥の別の校舎に入って様子をみているそうだ﹂ ﹁学校の外はどうなってるの? 自衛隊は⋮⋮?﹂ ﹁自衛隊は機能してるってよ。んでもって相手は推定数1万のゾン ビの大群だと﹂ ﹁﹁﹁1万!?﹂﹂﹂ 私の声に誠と凛太郎くんの声が重なった。信じられない数だった。 なぜそこまでの数のゾンビがここに終結したのか。やはり屋敷で見 たあの異形の仕業だろうか。 ﹁あの、これからどうします?﹂ 336 黙り込んでしまった私と誠にかわり、凛太郎くんが須藤くんに尋 ねる。 ﹁とりあえずこっから出て本館の校舎裏の倉庫で佐伯たちと合流す る。倉庫の屋根に上ればロープを使って塀を越えて脱出できるよう だ。脱出するかどうかは状況次第だけどな﹂ 校舎裏の倉庫というのは誠を見つけた場所のことみたいだ。確か にあの四角い倉庫の上にあがれば塀の縁に届きそうだった。きっと こうなる時のことを考えて佐伯くんが脱出経路を探していたのだろ う。誠に再会したあの時を思い浮かべながら、何となく脱出するこ とになるような予感がした。 ﹁⋮⋮そろそろ静かになってきたな﹂ 須藤くんが廊下と私たちを隔てる扉をちらりと見て呟いた。人々 の叫び声はもう聞こえなかった︱︱射撃音や爆音は未だ変わらずだ が。もう逃げる人は逃げたのだろう。どう見ても正気ではない、混 乱状態に陥った人々がどこへ行ったのかはわからない。 ﹁⋮⋮行こうか?﹂ 静かに問いかけると三人は小さく頷いた。廊下の向こうではどん なに危険なことが起きているかわからないが、行くしかない。 337 第四十話 大脱出 廊下はすっかり静まり返っていた。外から壁を隔ててくぐもって 聞こえる爆音以外、人の声などは何も聞こえない。誰かいないのか と辺りを見渡し、私たちは息をのんだ。国に守られているはずの安 全地帯にいくつも転がる無残な死体。これまでに幾度となく見てき た化け物に食い荒らされた死体とは違う。サイコパスと出くわした 時以来の、正常な状態を保てなくなった人々による殺人だ。パステ ルカラーの涼しげな春服からのぞく痣だらけの素肌が痛々しい。 ﹁⋮⋮あまり見んなよ、行くぞ﹂ 須藤くんに促され思い出したように歩き出す。視線を外へ続く扉 に向けるとき、ボロボロの死体の中に見覚えのある顔を見つけた。 ﹁あぁ⋮⋮﹂ 佐伯くんと自衛隊と話をしに行ったときに会ったおじいさんだっ た。人々に踏まれたのか身体が妙な方向に曲がり、既にこと切れて いる。だが顔は痛みに歪んではいるものの、不思議と苦しみから解 き放たれたような穏やかな表情をしていた。おじいさんがいつか天 国でおばあさんと再会できますように⋮⋮。私はそっと手を合わせ そう祈ると、前方で心配そうな顔で私を見る誠の方に駆け寄った。 ﹁ひでぇな、こりゃ﹂ 校舎の外はまるで戦時下︱︱空襲の最中のようだった。何も隔て るものがない今、発砲音や爆音は耳をつんざかんばかりに鳴り響き、 血のような赤みを帯びた煙が辺りをうっすらと覆っている。このあ 338 たりは自衛隊が設置したのだろうか、強い照明で照らされていた。 地面には人が倒れ、物が散乱し、命ある人々は悲鳴を上げながら通 りを行き交う。門の外に目を向けると武装した隊員たちが門と二重 にバリケードを築き、前線へ弾倉など物資を送っているのが見える。 ﹁あなたたち!﹂ 突然かけられた声に振り向くと、そこには険しい顔をした女性隊 員、藤原さんがいた。彼女は私たちのもとへ大股で歩み寄ると学園 の奥の方を指差した。 ﹁早く、本館の方へ。ここは危ないから奥へ避難して﹂ 現在の状況について聞きたかったが、赤い煙を背にして有無を言 わせぬ鋭い目つきでこちらを見る彼女にただ頷いてその通りにする 他なかった。 ﹁なぜこんなことに⋮⋮﹂ 頭を下げてその場を離れようとしたとき、藤原さんの無意識であ ろう小さな呟きが聞こえた。彼女たちは必死になって、命懸けで私 たちを守ろうとしてくれているのだ。本館から門へ物資を運ぶ隊員 たちが、逃げ惑う避難民たちに足止めされ、さらには事情の説明を 求め詰め寄られているのを見ると私たちは本当にお荷物なのだと感 じざるを得なかった。 行き交う人々を避け、先頭の須藤くんと後ろの二人を見失わない よう注意を払いながら進んでいると、通りの真ん中でしゃがみこむ 人を見つけた。短い黒髪の女の子のようだ。顔は伏せられていてわ からない。気になったがどうしようもなく横を通りすぎる時、走る 339 男が容赦なく彼女を蹴飛ばした。力なく地面に転がる彼女の顔を見 てあ、と声が出た。 ﹁会長!﹂ 小さく呟いた私の声をかき消し叫んだのは誠だった。真っ先に駆 け寄る誠の後に続く。誠に抱き留められた生徒会長︱︱小峰加世ち ゃんは白い顔で呆然としていた。目元は赤く、長い睫毛は濡れてい る。昼間に見た快活な彼女の面影はなかった。 ﹁おばあちゃんが⋮⋮死んじゃった⋮⋮﹂ 加世ちゃんは掠れた声で弱々しく呟いた。何て声をかけようか迷 い、口を開こうとしたその時、門の方で一際大きな音がした。自衛 隊員たちがバリケードを築いていた場所には煙が立ち込め何が起き ているのかはわからないが、銃声が減り、今となってはあまり聞こ えてこないことから、かなり危うい状態であることは理解できた。 ﹁おい、走るぞ!﹂ 誠が加世ちゃんに走るよう促すと、彼女は今にも泣きそうな顔を しながらも立ち上がった。やはり彼女は芯が強い。 異変を察し焦った人々が押し寄せる本館、体育館を通りすぎ、誠 を見つけた校舎裏に入る。壁沿いに生い茂る木々︱︱その中に四角 い倉庫が見えてきた。本館の窓から光が漏れ出ているためかこのあ たりは明るい。倉庫の陰に佐伯くんたちの姿を見つけ、思わず走り 寄る。 ﹁皐月さん⋮⋮みんな。無事で良かった﹂ 340 安堵の表情を浮かべる佐伯くんたちの中に意外な人物を見つけた。 ﹁あれ、あなたは⋮⋮﹂ 体育館前でおじさんに絡まれた時助けてくれた男の人だった。彼 は私をちらと一瞥するも覚えていないのかすぐ目を逸らした。 ﹁彼は俺たちよりも先にいたんだ。ここを脱出するという考えは同 じようだから一緒に行動しようと思う﹂ 私たちの視線が一気に集中するのを感じたのか、彼は顔をそむけ ながらも名乗った。 ﹁倉本だ﹂ 彼の言葉や態度はどこか人を寄せつかない雰囲気を放っていた。 馴れ合いを好まない人のようだ。佐伯くんはこちらの加世ちゃんに も気付いたようだが時間を気にして矢継ぎ早に行った。 こ ﹁その娘の紹介はまた後で。さあ、早く倉庫の屋根に上ろう。奴ら が来てからじゃ遅い﹂ ﹁どうやって上るんだよ?﹂ ﹁跳び箱だよ。体育館から勝手に拝借してきたの﹂ 奈美さんの指の先には︱︱高校生となるとやはり高い︱︱私の肩 ほどまでに積み上げられた跳び箱が何組かあった。上部の布が裂け ていたり、木がくすんだ色をしているところを見るに、廃棄物のよ うだ。どうやらこれを踏み台にして倉庫の上に上がるらしい。 341 ﹁悲鳴が聞こえてきたよ! や、やばいんじゃないかな﹂ ﹁急ごう﹂ 焦る相田くんを奈美さんが押しやり、跳び箱を上らせる。急なこ とに戸惑う相田くんはふらふらした足取りで、体が強張っているみ たいだ。 ﹁な、なんで僕が先なのさ? 誰か見本見せてくれても⋮⋮﹂ ﹁駿! つべこべいわず上る!﹂ 奈美さんにどやされて駿くんは動きを早め、倉庫の屋根に上半身 を乗り出した。しかし足をバタバタさせたまま動こうとしない。 ﹁だ、誰か持ち上げてー!﹂ ﹁しゃーねーな﹂ 呆れて溜め息をつく奈美さんの傍ら、須藤くんは身軽に跳び箱を 駆け上がり苦しげに叫ぶ相田くんを思い切り押し上げる。背後から 加えられた強い力に相田くんは屋根の上に思い切りダイブした。 ﹁いでっ﹂ ﹁悪ぃな、だが次が詰まってんだ﹂ それから須藤くんが引き上げ役をしてくれて奈美さん、紗莉南ち ゃん、凛太郎くん、誠とスムーズに上ることができた。その一方で 佐伯くんが鞄や武器を倉庫の上の相田くんに渡していく。荷物は一 通り屋根の上に運び終え、次が加世ちゃんというところで須藤くん が急に身を引き誠を呼び出した。 ﹁おら、引き上げてやれ﹂ 342 ﹁え?﹂ ﹁いいから早くしろ﹂ 何かを耐えるような苦しそうな顔をしていた加世ちゃんは、おず おずとのばされた手に気付き弱弱しく微笑んだ。 ﹁ありがとう⋮⋮﹂ 誠は少し照れ臭そうに加世ちゃんの手をとり屋根の上に引き上げ た。 ﹁チビのくせに意外と力あんのな﹂ ﹁チビってなんスか! 平均はありますから!﹂ ﹁見栄はんな﹂ 変なところで鋭い須藤くんは誠が加世ちゃんを大事に思っている ことを既に感じ取っていたようだった。なんだか必死な誠の様子に こんなときでもほほえましく思った。 ﹁おい、モタモタするなよ。じゃれあってる場合か。これで生き残 ってこれたとはよほど強運だったんだな﹂ 口を挟んだのは私の隣に立つ倉本さんだった。 ﹁⋮⋮ああ、悪ぃな。でもてめぇのペースに合わせるつもりもない んでね﹂ 須藤くんは彼が不良だったことを思い出させるような板に付いた 鋭いまなざしで倉庫の上から倉本さんを見下ろす。しかし彼は気に もとめないようで落ち着いた様子で跳び箱を上っていった。 343 ﹁皐月さん﹂ 緊張に息をするのも忘れていた私は佐伯くんの言葉にはっとして 空気を思い切り吸い込みむせ返ってしまった。佐伯くんは﹁大丈夫 か﹂と声をかけてくれ、落ち着いたところで優しく私の背を押す。 いさか ﹁非常時に諍いは付き物だ。俺たちは今まで運が良かった﹂ ﹁そ、そうだね⋮⋮﹂ さて、立ち止まっている場合ではない。私は跳び箱に足をかけた。 ﹁んっ!?﹂ なかなか段が高い。思い出せば私は運動音痴でちんちくりんなの に侮っていた。相田くんを笑える立場ではない。やっとの思いでひ とつ目の跳び箱の上に上がり、二段目に移る。 ﹁大丈夫か?﹂ すぐ後ろで佐伯くんの心配そうな声が聞こえる。振り向くと佐伯 くんが上半身だけ見えた。補助してくれる気のようで今すぐにも一 段目を上れる位置におり、かなり近い。 ﹁へーきへーき! 英雄くん、引き上げてね﹂ 近くで自分の動作を見られる緊張に震える足でどうにか二段目を 制覇し、次は倉庫の屋根の上だ。ここまで来なければわからなかっ たが、結構高さがある。相田くんがてこずるのももっともだ。 344 ﹁今、俺不機嫌だからよ。佐伯、持ち上げてやれ﹂ 意味がわかりません。須藤くん、状況わかってますか? 冷静に心の中で突っ込みをし、顔を冷や汗が伝う。その時体育館 の方から人々の絶叫が聞こえてきた。と同時に後ろから脇腹を両側 から思い切り掴まれる。 ﹁うへっ!?﹂ くすぐったさに思わず身を捩ろうとするも強い力であっという間 に倉庫の上に押し上げられた。そのあとすぐに佐伯くんも上がって きて、ああ佐伯くんが持ち上げてくれたのかと理解する。 ﹁おい⋮⋮くそっ、なんだよあれは!﹂ つい数秒前までおちゃらけていた須藤くんの興奮した声に後ろを 振り返ると、校舎の陰から現れた異様な生物が体育館へ近付いてい るところだった。かなり大きい︱︱引き連れるように周囲にいるゾ ンビたちより頭4つ分くらい高かった。形状もこれまた奇妙だ。上 半身が異常に発達していて胸部や肩が盛り上がっており、その上に 人の首が傾いてくっついている。背中は重みに耐えきれないのか大 きく湾曲しており、それが一歩を踏み出すたびに変な方向に飛び出 た頭と筋肉隆々の長い腕がぶらぶらと揺れた。 誰もが恐怖に我を忘れていた。この時間が永遠にも続くように思 えた。 ﹁⋮⋮逃げるぞ﹂ 345 思考が停止した脳をその一言が呼び覚ました。皆の視線の先をた どって声を発したのが倉本さんだとわかった。佐伯くんはもう既に 行動を開始しており、鞄からロープを取り出して壁の向こう側に垂 らそうとしていた。 ﹁俺が先に下に降り安全を確保する。須藤と何人か、ロープをしっ かり持っていてくれ﹂ つば 木刀の鍔をベルトに引っかけるように挟んで固定し、佐伯くんは 壁の縁に手を掛けた。それから腕の力のみで身体を持ち上げ壁の上 に上半身を乗り出す。 ﹁下は⋮⋮奴らが何体かいるが問題ない。民家の影に隠れているこ ともなさそうだ﹂ ﹁何十体といようと行くしかねぇだろ⋮⋮こっちは一万だぜ﹂ ﹁そうだな。よし、行ってくる﹂ 反対側に一万もいてこちらに数体だけとは考えられない。きっと 佐伯くんは私たちを安心させようとしているに違いない。そして一 人で片付けようとしているのだろう。何が起きるかわからない。今 にもロープを伝っておりようとする彼に何か声をかけようと思うが なかなか声が出ない。 も ﹁佐伯、頼んだぜ。俺も行きたいとこだが縄を固定する強い力が必 要だし、こいつらのお守りでいっぱいいっぱいだ﹂ ﹁あんたに守られてる実感ないんだけど﹂ いつも通り須藤くんと奈美さんが言いあうところを見て佐伯くん はふっと笑い、さらに身を乗り出した。今しかない。 346 ﹁義崇さん﹂ 声にならなかった。代わりに彼を呼びとめたのは鈴を転がしたよ うな可愛らしい声。私のものではない。 ﹁⋮⋮気をつけて﹂ そう言ったのは今にも泣きそうな顔をした紗莉南ちゃんだった。 顔だけ振り向いた佐伯くんは優しい笑顔を彼女に向け力強く頷くと 壁の向こうへ消えていった。自分の引っ込み思案な性質を少し恨め しく思った。 そうしている間にも下方から力強い打撃音が響いてきた。佐伯く んが戦っているのだ。 ﹁佐伯、死ぬなよ⋮⋮﹂ 須藤くんが小さく呟く。誠たちも顔に汗を浮かべて耳に意識を集 中させており、緊迫した空気が漂っている。彼を守りたい。でも今 私が行っても足手まといになるだけだ。居ても経ってもいられない が、どうすることもできないもどかしさが私を襲う。 ﹁須藤、ロープ持っててくれよ﹂ そう絞り出すようにして声を発したのは相田くんだった。スリン グショット片手に少し震えている様子だ。 ﹁ちょっと、駿何考えてるの。佐伯の足を引っ張るようなことしな いで⋮⋮﹂ ﹁僕だって戦える!﹂ 347 奈美さんの言葉を力強く遮り、相田くんは壁の端に手を掛けた。 上に体を乗り上げようとして何度も失敗する。それでも満身の力を 込めて相田くんは壁に身を乗り出した。そしてスリングショットを 構えると冷静に下の状況を覗い、一発目を放った。硬質な音と何か が倒れる音が壁越しに聞こえてきた。それから続けて二発目を放つ。 次々に玉を命中させているようだった。そんな相田くんの後姿に さっきはぽかんと気の抜けた表情をしていた奈美さんが真剣な眼差 しを注いでいる。また相田くんが玉を放ち、一際大きな音が聞こえ た時、奈美さんが相田くんへ近付いて行った。 ﹁駿、支えるよ。足をついて﹂ 壁に手を、屋根に膝をついた奈美さんは、相田くんに宙に浮いて プルプルと震えていた足を自分の肩に乗せるよう指示した。少し戸 惑っていた相田くんは状況を理解したのか奈美さんの肩に体重を預 ける。 ﹁奈美さん、大丈夫⋮⋮?﹂ ﹁おい無理すんな。俺がかわる﹂ 私や須藤くんのかけた言葉に奈美さんは何も言わずただ頭を振っ た。 相田くんの助けがあり状況が好転したのか、佐伯くんの木刀の攻 撃音が増え、やがてだんだんと音は減っていった。何かが砕ける大 きな音と何かが崩れ落ちるような音がして少し経ち、相田くんが振 り向き力強くピースサインをした。張りつめた空気が一気に緩んだ。 348 ﹁奈美、ありがとう﹂ ﹁⋮⋮いいからさっさと降りて。あんた意外と重い﹂ ﹁あ、ごめん!!﹂ 相田くんが急いでロープを伝って降りていく。まもなくうわっと いう小さな叫びと鈍い落下音が聞こえたところが相田くんらしい。 それから高校生たちが一人ずつ降りていった。奈美さんの番になり、 彼女の背中をさすっていた私の頭を﹁ありがと﹂と笑顔で撫でると 奈美さんは降りていった。 ﹁じゃあ私降りるね﹂ ﹁おう、気をつけろよ。荷物を降ろしたら俺も行く﹂ ﹁うん﹂ 須藤くんと言葉を交わしながら、何か大事なことを思い出したよ うな気がした。忘れてはいけない、恐ろしいこと。背筋が凍るよう な嫌な予感がして何気なく体育館の方を見る。今にも体育館の扉を 破ろうとするゾンビの集団。人の頭が密集しておりこちらの校舎裏 の方にも溢れかえってきている。急がなきゃ。でも、何かがおかし い。そうだ。あいつがいない。 ﹁ねえ、須藤くん︱︱﹂ 須藤くんに目を移して心臓が大きく跳ねた。どうした? と怪訝 な顔をする須藤くんの真後ろ。白くて太い腕が伸び、大きな手が今 にも須藤くんの頭を鷲掴みにしようとしていた。 349 登場人物紹介4 ※挿絵あり ■第四章 こみねかよ ・小峰 加世 <i78746|3570> 高校三年生 154? 私立晃東学園の生徒会長を務める少女。 多くの人から好感を持たれる真っ直ぐな性格。 ふじいりんたろう ・藤井 凛太郎 <i78747|3570> 高校二年生 173? 晃東学園のサッカー部に所属する少年。 爽やかな性格と外見で誠と仲が良い。 いとうまこと ・伊東 誠 <i78748|3570> 高校二年生 165? 晃東学園の生徒で皐月の弟。 少し生意気だが純朴で素直なサッカー少年。 ふじわらみさこ ・藤原 美佐子 自衛隊隊員 173? くらもとこうすけ ・倉本 浩介 <i67187|3570> ??? 175? 350 351 第四十一話 犠牲 ﹁英雄くん、後ろ!!﹂ 状況を把握してあれこれ考える間もなく即座に発した声は、自分 でもどこから出たんだろうと驚くほど大きな悲鳴だった。自分の声 できんと鼓膜が震えるのを感じながら、彼をこちら側に引き寄せよ うと手を伸ばす。しかし伸ばした手はあろうことか須藤くん自身の 手によって阻まれた。そして同時に鋭く弾けるような音が鳴り響く。 彼が後ろを振り向きざまに化け物に回し蹴りを放ったのだ。 ﹁背後にあんなでけぇのがいりゃ気配でわかる﹂ 須藤くんは予想外の出来事に混乱している私を奥へ押しやり、ま とめて置かれた荷物のそばに転がる斧を手にとった。白い腕は怯ん で一旦倉庫の下に引っ込んだが、今度は大きな二つの手が屋根の端 を掴み、徐々に頭部が現れた。抜け落ち疎らになった頭髪が張り付 き、びっしりと青い血管が浮かぶ頭部︱︱瞳が白く濁った眼球は飛 び出し、大きく開けた口は黒いドロドロの液体を吐き出している。 あまりにも不気味なその姿に闘争心など湧かなかった。これは、現 実だろうか? ゾンビだって十分恐ろしい化け物だったが、これは あまりにも現実離れしている。ただただ恐怖にかられ、一刻も早く この場から逃げたかった。 ﹁こりゃすげえな、まさにバケモノだ⋮⋮。はは、獲物は残さず食 い尽くしたいってか⋮⋮。貪欲な野郎だぜ﹂ 須藤くんは斧を構え、後退りながらも化け物と対峙する。いつも の調子で話しながらも大粒の汗が彼の肌を伝っていた。彼の背に隠 352 れた私も警棒をぎゅっと握り締めるが、情けないことに引け腰にな っているのが自分でもわかる。 その時足下の方から声が聞こえた。佐伯くんたちだ。こちらの異 常を察したのだろう。 私と須藤くんの意識が目の前から離れた瞬間、化け物の手が伸び た。腕を掴もうとする手を須藤くんは寸前のところで逃れる。 早い︱︱今まで相手にしてきたゾンビとは桁違いの俊敏さだ。そ の後も次々と繰り出される巨大な手による攻撃を須藤くんは避ける のでやっとの様子だ。 まずいかもしれない。私が動いて化け物の隙を作らなければ。し かし逆に須藤くんの邪魔になる恐れもある。こんなときどうすれば いいのか︱︱非常時に露になる自分の無力さ。動けない体と裏腹に 気持ちだけが燃えたぎり、行き場のないエネルギーが爆発しそうに なる。 そうしている間にも化け物は襲う手を止めない。今度は低い︱︱ 狙いは足だ。須藤くんは後ろに飛び退き攻撃を避けたものの、もう 一つの手が即座に追い討ちをかける。着地直後の隙を狙った攻撃に 反応が遅れ、巨大な手が首目掛けてへし折らんとするばかりに勢い よく迫った。身をよじるが避けられない。そのままバランスを崩し、 化け物の手が首に触れたように見えた。心臓が止まりそうな思いで 事の行方を見守っていると、須藤くんの首もとにさっと血飛沫が舞 い、彼のシャツが赤く染まった。まさかと思い体がビクンと震えた が杞憂だった︱︱程なくして力をなくした白い塊がゴトンと音をた て真下に落ちた。 353 ァアアアァァ⋮⋮ 化け物が口から黒い液体を辺りに撒き散らしながら苦痛に呻く。 待っていたとばかりに斧を軽く一振りして滴る血を払い落とし、須 藤くんは化け物との距離を一気に詰める。 ﹁だあああっ!﹂ 鬼気迫る叫び声と共に頭部目掛けて思い切り斧を降り下ろすが、 化け物は骨がないかのような動きで首をぐにゃりと反対側へ転がし 攻撃を避けた。その隙を日頃から格闘技に触れている彼が見逃すわ けがない。屋根に乗り出す化け物の上半身を前方へ思い切り蹴り飛 ばす。 ﹁おらっ、行くぞ!﹂ 化け物の姿が倉庫の下に消えていくのを待たずして振り返った彼 が叫ぶ。目が恐ろしい光景をとらえた。屋根から落ちゆく化け物の 白い腕が彼の肩越しに見えた。そしてそれはゆっくりと彼の背中の 表面を沿うようにして滑り落ちていく︱︱須藤くんの顔が痛みに歪 み、白い倉庫の屋根に赤い滴がぼとぼとと落ちた。 ﹁⋮⋮止まるんじゃねぇ。あのデカブツ、また上がってくるぞ﹂ 痛みをこらえ、何事もなかったかのように振る舞う須藤くんだが、 深刻な事態に違いない。ゾンビからの感染経路は必ずしも噛みつき だけではない︱︱多少助かる可能性があるにせよ、爪で引っ掻かれ ることも主な要因だ。それに相手はゾンビの変異種。須藤くんのこ れからを想像すると背筋に悪寒が走った。 354 ﹁皐月、先に降りろ。荷物は俺が上から落とす﹂ ロープのかかった壁の方へ押し出す手がかたく強張っているのを 感じながら、彼の言葉を咀嚼する。すぐ下にいる化け物から逃げる なら、人数分の荷物を下ろす時間なんてないはずだ。それどころか 二人逃げ切れるかも怪しい。彼は命を捨てようとしているのかもし れない。やっと思考が正常に働くようになった。こうしている暇は ない。 ﹁荷物なんていらないでしょ、命の方が大事だもの。英雄くん、行 こう。二人で降りよう?﹂ 必死にすがるような私の言葉に平静を装っていた須藤くんの顔色 が変わった。苦しげに眉を寄せて俯く。 ﹁⋮⋮馬鹿野郎、言わせるんじゃねぇよ。俺はもう無理だ。さっさ と行け﹂ ﹁え、そんな⋮⋮﹂ ﹁俺だって自分がこのまま死んで化け物になっちまうなんて信じた くねぇ。けどよ、諦めるしかねぇだろうが⋮⋮!﹂ ひどく掠れた声でそう言う彼は自分の命を失うかもしれない状況 にも関わらず至極まともだった︱︱私などよりもよほど。しかし引 き下がるわけにはいかない。須藤くんは勿論のこと、佐伯くんも反 対するかもしれない。呆れるくらい馬鹿なことかもしれないが。で も彼を今ここで見捨てるなんてとてもじゃないができなかった。 ﹁英雄くん、先に行って。英雄くんが先に行かないなら私ここから 動かない﹂ 355 俯いた須藤くんの眉がぴくりと動く。ゆっくりと顔を上げた彼は 恐ろしい形相をしていた。少し怯んだが、負けじと彼を睨み返す。 ﹁⋮⋮おい。俺の犠牲を無駄にする気か?﹂ ぞくりとするほど冷ややかに彼は言う。わざとそうしているのだ。 私を助けるために。しかし私だって引き下がるわけにはいかない。 私はがっと彼の両腕を掴み、強く言い放った。 ﹁犠牲になんてさせない!﹂ 何か言おうとしていた彼の口がとまった。勢いをそのままに続け る。 ﹁少しでも助かる可能性があるなら、諦めないから。⋮⋮英雄くん を化け物にしたくない。でも、もしその時が来たら、躊躇しないよ。 人間のまま死なせてあげるよ⋮⋮だからお願い、一緒に来て﹂ 嘘だ︱︱殺す覚悟なんてこれっぽっちもないのに。でもこのくら い言わなければきっと須藤くんは考えを変えない。少しの間沈黙が 続き、頭の上から短い溜め息が聞こえた。 ﹁⋮⋮わかったよ。俺は後から必ず行くから先に行け。お前じゃ、 あの化け物が来たら手に負えないだろ﹂ そうだ、化け物はまだ生きてすぐそこにいる。片手を失ったこと で動きが鈍っているのかもしれないが、じきにまた襲ってくるだろ う。そうなった時私ではとても対処できそうもない。悔しいが彼の 言うことは事実だった。今この時は須藤くんに全てを任せなければ いけない状況なのだ。彼が本当に降りてくるかわからないが、私は 356 ただ彼に判断を委ねるしかない。 ﹁⋮⋮必ずだよ。絶対に来てね﹂ 彼の腕から手を離すのが名残惜しかった。これが最後になるかも しれないと思うと苦しくてたまらなかった。私は足元に転がった鞄 から上着を取り出すと須藤くんに着るように言った。この傷を見た らきっとみんな混乱するだろうから。須藤くんは無言で聞いていた が上着を受けとると静かに頷いた。 傷を負った彼を置き去りにして逃げる形になった自分にこみあげ る嫌悪感を抱きながら私はロープに手をかけた。 * 私が降りてすぐ荷物が落とされたが、その後しばらく待っても須 藤くんは降りて来なかった。こうなるような気はしていた。彼は他 人に迷惑をかけてまで生き残ることを好む人じゃない。荒々しい態 度や言動からでも伝わる気高さがあった。ではなぜ私はそのことを 知りながら置き去りにしたのだろう︱︱自分が助かりたかったから ? 化け物の異常な姿が今でもありありと思い出せる。怖かった。 早く逃げたかった。そんな自己保全の思考を置いといて、こうする しかなかったんだ、と言いたい自分が情けない。なんて私は汚いん だろう。胸がきりきりと痛む。皆と言葉を交わすことも視線を合わ すこともできなくて、私は何も言わず俯いていた。 ﹁⋮⋮音にゾンビが集まってくるのも時間の問題だ⋮⋮行こう﹂ 357 佐伯くんが静かに言った。皆を救うために思い巡らした末であろ う彼の言葉がまるで非情な死刑宣告のように聞こえた。傍でしゃく りあげる声が聞こえ、その方に視線を向けると相田くんだった。 ﹁須藤⋮⋮僕がもっとしっかりしていれば﹂ ﹁誰のせいでもないよ駿。⋮⋮今はしっかりしな﹂ 腕で目を覆い、肩を震わせる相田くんの肩を奈美さんがぽんと優 しく叩く。見渡すと誠も加世ちゃんも凛太郎君も沈んだ顔をしてい る。 ﹁おい、こんなことしてる場合か。そういうお涙頂戴な仲間ごっこ は安全を確保してからにしろ﹂ 動こうとしない私たちに倉本さんが冷やかに言う。手には彼が用 意していた武器らしい、工事現場にあるような大きなスコップがあ る。 ﹁⋮⋮ゾンビが﹂ 紗莉南ちゃんの呟きに皆の視線が一斉に壁に沿った道路の向こう に注がれる。学園と住宅街に挟まれた狭い道路を埋め尽くすほど大 量のゾンビの影が迫ってきていた。感傷に浸る暇はないということ か。佐伯くんに促され皆が歩きだす。私も皆より少し後ろを歩くが、 一歩踏み出すごとに心にひびが入り、崩れ散ってしまいそうだ。前 を歩く凛太郎君の足元に視線を落して、零れ落ちそうになる涙を必 死でこらえる。 その時、私と壁の間に何かが上から落ちてきた。 358 第四十二話 暗闇 その落ちてきた何かはふらふらと起き上がりこちらに向かってき た。夜の暗闇に一際濃く浮かび上がるその影は、今にも私に覆いか ぶさろうとしている。混乱した頭で咄嗟に悲鳴をあげようとして、 さっと口が塞がれる。必死に声をあげようとするも無駄で、鼻で呼 吸するのも忘れ、息が苦しくなってきた。ふと懐かしい感じがした。 そして続いて聞こえてきたのは今一番聞きたかった声。 ﹁⋮⋮お前が人間のまま殺してくれるんだろ?﹂ ここまで近付いてやっと顔が見えた。口を塞ぐ手を解放し、須藤 くんはニヤっと笑う。元からあふれ出てきていた涙が堰を切ったよ うにぼろぼろと頬を伝う。思わず彼の胸に思い切り飛びかかり、背 にしていた壁に須藤くんと二人激突する。その音に奈美さんたちが 瞬時に振り返った。佐伯くんは木刀を構えている。この数日で培わ れた危機感知能力が物音に敏感にさせているのだ。強張った顔が須 藤くんの姿を確認してみるみるうちに綻ぶ。 ﹁須藤! 生きてたんだね!﹂ 奈美さんと相田くんが駆け寄ってきた。須藤くんの肩をばしばし と叩く奈美さんは心底ほっとした様子だ。続けて涙でぐしゃぐしゃ の顔を須藤くんの服で拭うように擦りつける相田くんに、須藤くん が顔をひきつらせる。 ﹁勝手に殺してんじゃねぇよ⋮⋮そんな簡単にくたばってたまるか﹂ 飄々といつもの軽口を叩く彼に対して心配な思いが浮かんだが、 359 今はただ素直に降りて来てくれたことを喜びたかった。本当に来て くれてよかった。 ﹁須藤⋮⋮無事で良かった。だが再会の喜びは後に回そう。今は安 全の確保が第一だ⋮⋮爆音や悲鳴に釣られてこの付近のゾンビが集 まってきているはずだ﹂ 佐伯くんが迫り来るゾンビの大群と逆の方向を指しながら言う。 そうだ、いつまでも立ち往生している場合ではない。須藤くんと話 したいことはたくさんあるが、今の状況は危険すぎる。とりあえず どこか、ここより安全な場所に移動しなくては。 ゾンビの群れから遠ざかるように早足で歩く。いつの間にか一緒 に行動するメンバーが増え、十人と大所帯になったが、実際に武器 をもって戦えるのは半数ほど。武器を持っている私たちは丸腰の高 校生四人を守らなくてはならない。先頭を佐伯くんと倉本さんが歩 き、奈美さんと相田くんが高校生四人を挟み、最後尾を須藤くんと 私が進む。 夜は危険だ︱︱視界が悪く、ゾンビの姿が見えない。ましてや今 は私たちが逃げてきた学園方面に大量のゾンビが向かってきている はずだ。ゾンビと鉢合わせどころか、いつの間にか囲まれていたな んて最悪の事態も考えられる。ゾンビはもとから目が悪いので、夜 にデメリットを被るのは生きている人間だけだ。私たちの行く手を 照らす街灯の光が弱弱しく頼りなく見える。電気の供給が途絶える 日がきたら、私たちは夜は身を震わせて神に祈るほかない。 ﹁お、おい⋮⋮や、やばいって⋮⋮向こうからもゾンビきてるよ⋮ ⋮﹂ 360 震える相田くんの声にはっと通りの奥を見る。背後から迫りくる ゾンビと同じ数の大群が正面からも向かってきている。 ﹁⋮⋮そこの角を曲がろう﹂ 住宅を囲む塀が途切れた地点の少し手前で佐伯くんが木刀を強く 握りなおす。そして低めの姿勢で勢いよく曲がり角から飛び出した。 硬質な音と続けて何かが倒れる音が響く。 ﹁行くぞ﹂ おそるおそる近付くと、角を曲がってすぐの地点に立つ佐伯くん また別の避難所を探す?﹂ の足元にはどす黒い液体がじわじわと広がっていた。 * ﹁で、これからどこへ向かうの? 角を曲がり背後のゾンビの群れが見えなくなったのを見計らって 奈美さんが切り出した。相田くんがどうしようか、と困ったように 首をひねり、高校生たちは先頭の二人に視線を移す。倉本さんはそ んな流れにもお構いなしといった様子で沈黙を貫いている。夜中に 襲撃にあったのだ︱︱皆心も体も疲れきっているのか、思考が前に 進まない。そんな皆の様子を見て口を開いたのはやはり佐伯くんだ った。 ﹁そうだな⋮⋮だが、確かこの近辺にはもう指定の避難所はなかっ たように思う。夜はまだ長い⋮⋮一度どこかで落ち着いてゆっくり 話し合いたいところだな。とりあえずあの高校から距離をとって⋮ ⋮誰か、ここから少し離れたところにいい隠れ場所を知らないか?﹂ 361 再び沈黙が生まれる。おそらく佐伯くんはこのあたりの地理に詳 しい高校生たちに聞いているのだろうけど⋮⋮誠も凛太郎くんたち も疲れ切った様子で、考えようにも難しい状態であるように見えた。 と思いきや、ためらいがちに口を開いたのは凛太郎くんだった。 ﹁⋮⋮あの、ここから十分くらい歩いたところに俺の家があるんで すけど⋮⋮どうでしょうか﹂ ﹁藤井くんの実家か?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁ふん、化け物になった家族がいるんじゃないのか﹂ 割り込んできたのはそれまでずっと何も言わなかった倉本さんだ。 ﹁家族と連絡は取れてるのか?﹂ ﹁い、いや⋮⋮。でも、あの日は両親二人で出かけると言ってたん で、誰もいないと思うんで⋮⋮﹂ ﹁それはあんたの憶測だろ? あんたが行きたい場所を聞いてるん じゃないんだ。ゾンビになった母親の頭をかち割れるか? 父親の 首を滅多刺しにできるか? まさかそんな覚悟もなしに提案したん じゃないよな? え? 図星か?﹂ 倉本さんは淡々と、しかし責めるような口調で矢継ぎ早に問いか ける。凛太郎くんの頭はだんだんとうつむき、ぶるぶると震え始め た。誠が心配そうに声をかけ、倉本さんを睨みつける。 ﹁く、倉本さん⋮⋮そこまで言わなくても﹂ 凛太郎くんが可哀そうになって口をはさむと、倉本さんは鼻で笑 って話を続けた。 362 ﹁おいおい、まるで俺を悪者扱いしてるようだが。ここにいる全員 の命がかかってるんだぞ。親の動く死体を目の当たりにしてパニッ ク起こすのが目に見えてるガキを甘やかしてられるか。これ以上ガ キどもが馬鹿なこと言い出さないように教育してやってんだよ﹂ ﹁おい、凛太郎はただ⋮⋮!﹂ 頭に血が上った誠をあわててなだめる。誠も自分がかっとして大 きな声を出してしまったことに気づいたようだ。だからガキは、と 倉本さんから見下すような視線を向けられて、誠は辛い出来事を思 い出したのだろう︱︱泣きそうな顔をしている。 ﹁まぁ、確かに⋮⋮親御さんと連絡がとれてない以上万が一ってこ ともあると思うし、今はやめたほうがいいかもね﹂ ﹁うん⋮⋮どこも行き場所のない僕らとしてはありがたい提案だっ たけど⋮⋮。少し休んで落ち着いたら寄ってみてもいいかもしれな いね﹂ そう言ってフォローする奈美さんと相田くんの声は疲労がまじっ ていた。どんよりと重く、ぴりぴりとした雰囲気が広がる。今は落 ち着いて助け合わなければいけないときなのに。しかしそんな思い もむなしく話は振り出しに戻り、数度目の暗い沈黙が訪れた。 ﹁⋮⋮もう適当にそこらの民家にでも入っちまえばいいんじゃねぇ の?﹂ あれからずっと黙りこくっていた須藤くんがぼそっと呟いた。 ﹁そうだな⋮⋮。狭くて逃げ場がない構造上避けたかったが、仕方 がない﹂ 363 ﹁⋮⋮あの!﹂ 遠慮がちだが張りのある高い声があがった。加世ちゃんだ。皆の 視線が集まり彼女は少し物怖じした様子を見せたが、そのまま一気 に話を続ける。 ﹁ええと、ここから1キロくらい先に公民館があるんですけど、行 ってみるのはどうでしょう?﹂ ﹁公民館って⋮⋮どんなかんじの?﹂ ﹁二階建てなんですけど⋮⋮あの、ゾンビって階段とかあまり上が れないですよね? その公民館は外から二階へあがる階段がいくつ かあるんで、入るのも逃げるのも都合がいいと思うんです﹂ 年上に詰め寄られて緊張したのか、あわあわと身振り手振りを交 えながら説明してくれる。かわいい。 ﹁⋮⋮いいかもしれないな。じゃあ、案内を頼んでもいいか?﹂ ﹁はいっ﹂ 加世ちゃんの表情がぱあっと明るくなる。かわいい。和む。全体 がよい流れに向かったことが嬉しかったこともあり、なんとなくこ の気持ちを共有したくて須藤くんの方を見る。そしてすぐに後悔し た。須藤くんの顔には何の感情も浮かんでいなかった。いつもぎら ぎらとして生気を宿した目は目の前の闇しか映していなかった。も う彼とは今まで通りにはいかないのかもしれない。自然と持ち上げ られていた口角が急激に力をなくした。心からの喜びなど来ない苦 しい現実に泣きたくなった。 ﹁⋮⋮おい、行き先が決まったくらいで喜んでる場合じゃない。ゾ ンビ様のお出ましだ⋮⋮﹂ 364 倉本さんの声でさらにどん底まで突き落とされた。私たちが進む 一本道の先は街灯の光が届かず、闇に包まれている。だが姿は見え ないが、聞こえてくる。化け物たちの呻き声が、途切れ途切れに。 そう遠くはないだろう。来た道にはゾンビの大群が押し寄せてきて いるのはわかっている。退路を断たれた私たちは逃げることはでき ない。 ﹁え、どうするのこれ⋮⋮逃げられないじゃん﹂ 誠の場違いな笑いを含んだ呟きが頭の中で何度も繰り返し再生さ れた。 365 第四十三話 踏み台 ﹁ウソだろっ⋮⋮前も後ろも、囲まれてる⋮⋮!﹂ ﹁焦るんじゃねぇ﹂ もはや恒例の相田くんの慌てぶりに、私の隣の須藤くんが低い声 で呻くように言う。 ﹁塀を乗り越えるぞ。それしかねぇ﹂ 通路を囲む塀はよく見る灰色のコンクリートの塀で二メートルほ どある。誰かを踏み台にすれば乗り越えられないこともない。確か にこれ以外にこの状況を打破できる方法があるとは考えられなかっ た。そうと決まれば、急ぐしかない。誰が先に、と話し合う間もな く須藤くんが塀に両手をついてしゃがみこんだ。 ﹁おら、佐伯。早く乗れ。お前がとっとと塀の向こうに侵入して次 のやつらの補助をしろ﹂ ﹁ああ、そうだな⋮⋮失礼するぞ﹂ 佐伯くんは躊躇うことなく須藤くんの背に足をかけると、一気に 塀の上に乗り上げた。あっという間に佐伯くんの姿は消え、くぐも った着地音が聞こえた。 ﹁佐伯、大丈夫? ゾンビはいない?﹂ ﹁ああ、大丈夫だ。次は武器を持っている高岡さんが来てくれ。念 のためこっちを見張ってほしい﹂ ﹁わかった。⋮⋮乗るよ、須藤﹂ 366 名指しされた奈美さんが壁の向こうから差し出された佐伯くんの 手を借りて壁を越える。あと八人。こうしている間にもゾンビの気 配が迫ってきている。 ウァアアアァア⋮⋮ 地の底から響いてくるような声が耳にまとわりつく。もうだいぶ 近い。目を凝らすとゆらゆら揺れながらこちらに近づいてくる影が 見える。背筋が凍りついた。壁の方を見ると沙莉南ちゃんが上半身 を反対側に乗り出しているのが見えた。 ﹁須藤だけじゃ間に合いそうもないな⋮⋮。僕も踏み台になるよ﹂ 荷物を下ろし壁際にしゃがみこもうとする相田くんを倉本さんが 制止した。驚いたように相田くんが目を見開く。 ﹁⋮⋮自分の役割を考えろ﹂ ﹁ば、馬鹿にしないでください。僕だってそのくらいできる﹂ ﹁そういう意味じゃない。あんたはそいつでやることがあるだろ﹂ 倉本さんがくいと顎をしゃくる。その先には相田くんのスリング ショットがあった。 ﹁そうか⋮⋮そうだね、わかった。じゃあ倉本さん、頼むよ﹂ 相田くんはスリングショットを手に通路の真ん中に走って行った。 倉本さんは少し嫌そうな顔をしたが、軽く溜息を吐くと塀の前にか がみ加世ちゃんを手招きした。遠慮がちに、だが一気に倉本さんの 背に足をかけた加世ちゃんから須藤くんに目を移す。 367 ﹁詰まってんだよ! さっさとしろ!﹂ ﹁⋮⋮きゃ!﹂ 須藤くんが急に胴体を起こして、苦戦していた沙莉南ちゃんは持 ち上げられて頭から落ちて行ったように見えた。⋮⋮焦ったが、き っと佐伯くんがしっかり受け止めていてくれてるだろう。そう思っ ていると、佐伯くんが私の名前を呼ぶ声がした。はっとしてあわて て須藤くんの広い背中に足を乗せかけて、考えた。 ﹁誠! 先に行って!﹂ ﹁へ? 今ねーちゃん呼ばれたじゃん!﹂ ﹁いいから、早く!﹂ ﹁どっちでもいいから来い!﹂ 須藤くんにどやされて、乱暴に誠を彼の背中の方へ押し出す。隣 では凛太郎くんがちょうど壁を乗り越えたところだった。あと、四 人。耳が不吉な音をとらえる。ずっ、ずっ、と何かを引き摺る音。 おそるおそる通りの奥へ目を向けて息をのんだ。もう十メートルも 離れていない。顔の表面にえぐり取られたような大穴を開け、黒ず んだ歯ぐきと二つの鼻孔がむき出しになったゾンビが、片足を引き 摺りながら前のめりの姿勢で近づいてきていた。後ろを歩くゾンビ も次々にその姿を現す。はじけるような音が鳴った。先頭を歩くゾ ンビが足を撃たれコンクリートの地面に倒れた。 ﹁皐月ちゃん! 早く行って!﹂ 相田くんが叫ぶ。誠は既に塀の中へ消えていた。 ﹁⋮⋮でもっ﹂ ﹁皐月! ぐだぐだしてんじゃねぇ! 殺されてぇのか!﹂ 368 須藤くんの本気の怒声に反射的に身体がびくんと揺れる。須藤く んが抱えているものを知っているのは私だけで、彼が無茶をしよう とするのを予防できるのも私だけだろう。だがこれ以上迷う時間な どなかった。結局私は中途半端だ。須藤くんの背中に両足をついて、 瞬く間に大きな手に引っ張り上げられた。佐伯くんに抱きとめられ る形で塀の反対側に着地する。それほど時を待たずして倉本さんが 降りてきた。頬をだらだらと汗が伝った。さっきまで私がいた塀の 向こうからはゾンビの呻き声が多数聞こえてくる。眼鏡がずり落ち そうになりながらもこちらに飛び込んできた相田くんを見届けて、 私は塀に駆け寄った。 ﹁英雄くん!!﹂ 返事はない。奈美さんや誠も須藤くんが上がってこないのを心配 して塀に近づいてきた。 たぶん踏み台がなくて苦戦してるんだと思う!﹂ ﹁義崇くん! ごめん、私を持ち上げて! 英雄くんを引っ張り上 げるから! ﹁⋮⋮だが﹂ ﹁お願い、はやく﹂ 引っ張り上げる役に私は心許ないと思ったのだろう、渋る佐伯く んに必死にわめきたてると、一気に持ち上げてくれた。肩車される かたちになり慣れない感覚に少しひやひやしたが、焦る気持ちをお さえて塀の向こうをのぞき見る。心臓が跳ね上がった。塀を丸く囲 むようにして大量のゾンビが迫ってきていた。須藤くんの姿が見え ず視線を巡らせると、鈍い音が真下から聞こえた。真っ赤な血飛沫 が舞っていた。斧が半円を描くように横に薙ぎ払われ、数体のゾン ビが首を切らつけられホースの水のように血を吹きながら倒れた。 369 ﹁英雄くん! 上がって!﹂ 手を差しのべると、須藤くんが首を僅かに傾けちらとこちらを見 る。そしてすぐ正面を向くと再び斧を振った。 ﹁悪いが、こいつら隙をくれそうにねぇ﹂ 背を向けたままそう言う須藤くんはたぶん冷や汗を流しながらも いつものように余裕ぶってにやりと笑っているのだろう。 ﹁いいから、無理やり隙作ってこっちきてよーー!﹂ どうせ学園方面から聞こえる爆音や悲鳴で打ち消されるからと思 い︵もうだいぶ少なくなっているが︶、無茶苦茶なことを叫ぶ。 進路も退路も断たれてこの中の誰もが一瞬でも絶望を感じただろ うあの時、須藤くんは真っ先に動き出した。︱︱おそらく、この中 で一番絶望を感じているのに。不思議に思った。私が須藤くんの立 場だったら自暴自棄になって何もかもどうでもよくなりそうなもの だ。なぜ彼は生きるためにこうも力を尽くせるのだろうか。死を間 近に感じているから、強く生きたいと思うのか? それとも、死を 間近に感じているから、もう何も怖いものなどないのか? どちら にしても、ここで須藤くんを私たちが生きのびるための踏み台にす るわけにはいかない。彼にも私たちの一人になって、ここまで駆け 上ってもらわなければ。 とはいえ状況はそう簡単なものではなさそうだ。塀をのぼろうに もゾンビがそれを許さない。少しでも背中を見せれば待っていたと 言わんばかりに彼の首筋に食らいつくのが目に見えている。そうし 370 なくても、須藤くんは明らかに劣勢に立たされていた。こうしてい る間にもゾンビは増え、須藤くんの体力は減り、じわじわと間合い が詰められていく。どうしよう、どうしよう。何かアクションを起 こさなければと考えを巡らせるが、ぐるぐる引っかき回されるだけ で真っ白な頭から何も出てくることはなかった。 なぜ私がこの役を買って出たのだろう。よくよく考えればここに は相田くんがいるべきだったのかもしれない。そう思い至って血の 気が引いた。そんなこと今更考えても遅いのだけれども。 だがこちらにも勝機は回ってきた。須藤くんが切り払ったゾンビ たちの死体が彼のまわりを囲んで足場を悪くさせていた。須藤くん がだいぶ鈍くなった動きで斧を横に払い、またゾンビの塀が積み上 げられる。間髪入れずに向かってきた次のゾンビたちが同胞たちの 屍に遮られ転倒した。 しかし、あろうことかそのうちの一体が前のめりになりながらも 須藤くんの方へ向かってきた。︱︱危ない! 手を思い切り須藤く んの方へ伸ばした。しかしそんな行為もむなしく、ゾンビはそのま ま須藤くんにもたれかかってきた。思い切りぶつかってきた衝撃で 斧が手を離れ、硬質な音を立ててコンクリートの地面に転がる。須 藤くんに掴みかかったゾンビが上から見てもわかるくらい大きく口 を開けた。 もう、だめだ。そう覚悟したとき、ゾンビの身体が螺旋を描くよ うに回転し、人形のように宙を舞った。その異常ともいえる力に唖 然としていると、ゾンビを殴り飛ばした須藤くんと目があった。彼 の目には困惑の色が浮かんでいた。 ﹁⋮⋮思い切り力入れろよ﹂ 371 須藤くんが囁くように言った。言葉の意味がよくわからないまま 身体を強張らせると、その瞬間腕に強い力がかかり、上半身が思い 切り下に引っ張られる。 ﹁うああっ!﹂ ﹁大丈夫か!?﹂ 間抜けな声が漏れるも、必死に手に力を込める。佐伯くんも突然 襲った衝撃に私を支える力を強める。須藤くんが私の手をとり、塀 の表面のコンクリートブロックの僅かな隙間に足をかけ、駆けあが るようにして上ってきていた。気付けば彼の顔が間近にあって、彼 は私の手を握る手とは反対の手に持っていた斧の刃を塀の縁に引っ かけると、私の手を離して塀の内側に飛び込んだ。 ⋮⋮よかった。ほっと息をつき何気なく下を見て、ぞっとする。 無数のゾンビがこちらを見上げていた。恨めしそうに、暗闇の中白 く濁った目をぎらつかせて。その中の一体が鋭い音を立ててのけ反 った。 気配を感じて何もないはずの隣を見ると、スリングショットを構 えた相田くんがいた。下を見ると彼の身体を奈美さんと誠が支えて いる。 ﹁⋮⋮ごめん、遅すぎた﹂ ﹁ううん、須藤くんは無事だったんだし﹂ 申し訳なさそうに頭を垂れる相田くんに笑いかける。そうか、と ぎこちなく笑う相田くんに、うんうんと頷くと、自分の意思と無関 係に身体が揺れたのにはっとした。 372 ﹁あっ! ごめん佐伯くん!﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ あわてて降りようとしてバランスを崩し、余計佐伯くんの手を煩 わせてしまった。ようやく地面に足をついたとき、短い間だったは ずなのに足の裏の感触に違和感を感じた。冷静になって恥ずかしさ に顔から火が噴き出そうになる。 ﹁こうしている場合か。この薄い塀を隔てた先にはゾンビの大群が いるってのに﹂ 倉本さんが顔を歪ませ悪態をつく。確かに、ごもっともだ。ここ は全然安全地帯じゃない。ゾンビたちに知恵があればこの家の玄関 から回り込まれて余計ピンチな状況に陥っていたかもしれない。 ﹁高校側にある玄関はゾンビがうようよしていて、とてもじゃない けど突破できそうもないです﹂ こちらが一段落したのを確認してか、凛太郎くんがおずおずとい った様子で報告する。沙莉南ちゃんと加世ちゃんと一緒に周囲の見 張りをしていたようだ。 ﹁はあ⋮⋮やつらの様子をうかがいつつ、隙を見てここから脱出す るしかないね﹂ 奈美さんが長い溜め息をつく。まだ塀の外をぞろぞろとゾンビが 歩いているようだ。一体どのくらいの数がいるのだろう。もしかし て永遠にここから出られないんじゃないか。疲れからか、不吉なこ とを想像してしまった。 373 ﹁公民館へはどうやっていくんだ?﹂ ﹁あ、ええと⋮⋮ゾンビたちが歩いてくる方角へまっすぐ歩いてい けば大通りに出るんです。その大通りを右に曲がってちょっと先に ある少し細い道を通って行けば公民館があります﹂ 佐伯くんと加世ちゃんの会話をぼんやりとした頭で聞く。須藤く んを支えた腕がずきずきと痛むことに気付いた。それは彼が今も生 きている証拠で嬉しくもあったが、反面どうしようもなく複雑な気 持ちもあった。 ﹁姉ちゃん? どうしたんだよそんな顔して﹂ ﹁え⋮⋮? あー大丈夫、なんでもない﹂ 心配そうに顔を覗き込む誠に心の内を知られたくなくて、視線を 移す。たまたまか、それとも意識的にか、須藤くんの姿が目に入っ た。苦しげな表情で自分の掌を眺めている。ゾンビを殴った方の手 だ。もともとがっしりと鍛え上げられた彼の腕に不自然なくらい血 管が浮き出ている気がした。もしかして。頭に浮かんだ恐ろしい考 えに、私は必死に頭を振った。 374 第四十四話 致命傷 塀の外のゾンビは増える一方で、一向にその行列が途切れる気配 がなかった。このまま待っていてはかえって危険と判断した私たち は、塀を乗り越えながら民家の敷地内を跨いで移動することにした。 民家の入口が揃って高校側を向いていることは幸いだった。ゾンビ たちは高校から聞こえる音を頼りに、通路に沿って移動している。 その流れに逆らってまで民家に迷い込んでくるゾンビはほとんどい なかった。いたとしても、それはもとからそこをうろついていた﹁ 住人﹂たちだろう。 いくつもの塀を乗り越え、腕が軋むような痛みを越えてじんじん と麻痺してきた。毎回私たちの支え役をやってくれている佐伯くん や須藤くんはより辛いはずだ。そうこうしているうちに、塀で囲ま れた一番端の民家までやってきた。この周囲にもゾンビがうようよ いるようではもう為す術がない。しかしここでも幸運の女神が私た ちに協力してくれたようだった。 ﹁この通りはゾンビが少ないようだ﹂ 毎回先陣を切って塀を越えてきた佐伯くんが塀の向こうを覗いて 呟いた。 ﹁⋮⋮と言っても街灯の光が届く範囲を見渡す限り、この通りに十 数体はいる。まずは一掃しよう﹂ ﹁俺もそっちに行くぜ﹂ ﹁僕も援護する﹂ 佐伯くんと須藤くんが通りに降り立ち、周辺のゾンビたちを仕留 375 めにかかる。相田くんは倉本さんに踏み台になってもらってこちら 側から狙撃する。私たちは塀越しに聞こえてくる音を頼りに戦いの 様子を伺う。もとからの能力の高さもあり戦闘慣れしている二人だ が、こうして彼らにゾンビの相手を任せるときはいつだって不安は 拭えない。やつらが間抜けで動きがとろいとはいえ、向こうの攻撃 を食らったら終わり。少しのミスが命取りだ。ましてや今は須藤く んのこともある。もし彼に今何らかの変化が起きたら︱︱。ここに いる全員が危ない。 ﹁もう大丈夫みたいだ﹂ 頭上から相田くんの声が降ってきて我に返る。今回は何もなかっ たようだ。私を含め複数人がひとまずほっと息を吐く。ようやく民 家の塀の中から抜け出すことができそうだ。 * 通りを高校と逆方向に進み、加世ちゃんが言っていた公民館に繋 がる大通りに出た。普段から交通量が多かったのだろう、街灯は多 いが幅が広く薄暗い道路は破損した車や横転した車で溢れかえって おり、血に濡れた車内から異臭が漂ってくる。こういう視界が悪い 場所は危険だ。一見すると動くものは見当たらないが、車が密集し たあたりは夜の闇が支配していて何も見えない。物陰からいつゾン ビが飛び出してくるかわからない状況だ。 神経を研ぎ澄まして、ゆっくりと歩を進める。夜風に吹かれて道 路に散乱した空き缶がカラカラと音をたてる。その音にまぎれて、 もう聞きなれた嫌な音が聞こえた。血肉に飢えたやつらの呻き声だ。 376 割と近くから聞こえる。私の前を歩く相田くんの背中が強張った。 一層強い風が吹いた。風を切る音が耳にまとわりつき、四方八方 からゴミがコンクリートの地面を転がる音や物がぶつかり合う音、 開け放たれた車のドアが風圧で閉まる音が鳴る。同時に真横からゾ ンビの呻き声も聞こえた気がして、驚いてその方向を振り向く。び くびくしながらも何もいないのを確認する。どうやら幻聴だったよ うだ。 しかし安心したのもつかの間、車に衝突されて根本から折れ曲が っている信号機の横を通り過ぎたとき、前方の車の陰からゾンビが 数体姿を現した。暗闇の中でもくっきりと浮かび上がる不自然なく らい白い肌に寒気がした。 ﹁ちっ、やっぱりいやがったか﹂ 一気に場の緊張が高まるの 佐伯くんと須藤くんが即座に駆けだす。と、そのとき後ろから悲 鳴が上がった。⋮⋮後ろにもいた?! を感じながら後ろを振り向く。 ﹁凛太郎から手を離せ! このっ!﹂ 列の後方で、誠が凛太郎くんに掴みかかるゾンビを引き離そうと していた。その後ろでは倉本さんがもう一体のゾンビと向き合って いる。凛太郎くんの片腕を両手で掴み、ぎりぎりとゾンビの頭が近 付く。⋮⋮こうなってしまうとやばい。あいつらは異常に力が強い ⋮⋮。一番彼らに近い奈美さんや私が助けに入ろうとするも、目と 鼻の先でゾンビが凛太郎くんの二の腕に食いついた。 ﹁ああああああっ!!﹂ 377 凛太郎くんと誠が叫ぶ。ゾンビは悲痛に顔を歪め声をあげる凛太 郎くんの腕になおも食いつき離れない。醜悪なゾンビの腐りかけた 顔から滴り落ちる血液に、頭が真っ白になる。凛太郎くんが、噛ま れた。 ﹁この化け物が!!﹂ 悲鳴に近い叫び声をあげて新鮮な肉を咀嚼するゾンビの頭を殴打 したのは奈美さんだった。脳天へ加えられた強い衝撃にゾンビの体 から一気に力が抜ける。 すぐに佐伯くんが走り寄ってきた。鞄からペットボトルを取り出 すと、痛みとショックで悶える凛太郎くんの腕をとり、中の水で傷 口を洗った。断続的に吐かれる凛太郎くんの短い息を聞きながら、 まだ私は呆然と彼の腕の生々しい噛み跡を眺めていた。 凛太郎くんが噛まれてしまった。ゾンビの姿を認識してからあっ という間のことだった。思えば、一緒に行動する仲間がこうして噛 まれてしまったのは初めてだ。寺崎くんや清見さん、渡部くんは一 気に殺されてしまったし、奈美さんと相田くんの友達の優子さんは 出会ったときはもう末期だった。そして須藤くんは、どうなるのか 未知数だ。噛まれて致命傷をおった仲間のその後は、実際に体験し ていない。私は、そのことを考えてこなかった。いや、考えること から逃げていた。もし誠や佐伯くん、他のみんなが噛まれたら。想 像するだけで逃げたくなるような感覚に襲われたから。 ﹁凛太郎! 凛太郎ぉ⋮⋮! ねえ、大丈夫っすよね? 噛まれた からって絶対感染するわけじゃないでしょ?﹂ 378 誠が狼狽して傷の処置をした佐伯くんにすがるように問いただし ている。目には涙が溜まり、パニック状態だ。 ﹁ああ、大丈夫だ。それよりゾンビが集まってくる。逃げるぞ﹂ 凛太郎くんの噛まれた方の腕をタオルできつく縛りながら落ち着 いた声で即答する佐伯くんの目は、声色と裏腹に細められ、冷たく 見えた。なぜだろうか︱︱彼の冷静さには何度も助けられてきたが、 今は彼に僅かな違和感を抱いた。車の隙間を縫うようにして迫りく るゾンビの姿に、すぐにそれが馬鹿げた思いであったことに気付い たが。 ﹁こっちだ!﹂ 須藤くんに誘導されて、大通りからいったん脇道へ入る。ゾンビ が集まってくる前にと慎重かつ急ぎ足で数度角を曲がる。ゾンビの 脅威から遠ざかったところで、佐伯くんが加世ちゃんに道を尋ねる。 彼女は凛太郎くんのことで涙を目に浮かべながらも、冷静に説明し ていた。 ﹁おい﹂ 小さく抑えられた声。しかしどこか棘のある声に、反射的にびく んと体が揺れた。倉本さんだった。彼の鋭い目線で私のことを言わ れているとわかって、さらに心臓がどきどきした。 ﹁あんた、そんなんでよく生き残ってこれたな﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁あのガキが噛まれた時。近くに弟いただろ。それもゾンビ引きは がそうと躍起になって冷静さ欠いて﹂ 379 彼の言わんとしていることが瞬時に理解できた。そうだ、私は凛 太郎くんが噛まれたあと、すぐに行動に移すことができなかった。 ただ凛太郎くんが噛まれてしまったことがショックで。悲劇はひと つひとつ順序良く襲ってくるんじゃない。奈美さんが動かなかった ら誠も噛まれていたかもしれないのだ。ふと倉本さんのスコップが 目にとまった。新しい血に濡れたスコップ。あの時倉本さんもゾン ビと対峙していたのに私は何もしなかったのだと思い至り、さらに 気持ちが沈む。 ﹁体育館の前でもぼけーっと突っ立ってたもんなぁ、あんた。あの 佐伯と須藤って男がいなきゃ何もできねぇんだろ。女ってのは常時 非常時問わず利を貪る寄生虫だな﹂ なんでこんなひどいことを言うんだろう。特に女云々は性別に対 する歪んだ偏見だ。そう思っても、見下すような笑みを浮かべる倉 本さんに何も言い返せないでいた。思い当るところがたくさんあっ たから。前方の誠に目を向けると、さっきの様子とは打って変わっ て凛太郎くんを励ましながら彼と寄り添って歩いていた。私は何も できなかった︱︱その事実が重くのしかかった。それから少しの間 倉本さんの視線を感じたが、黙りこくる私にふんと鼻で笑うと興味 をなくしたかのように歩みを速めて先へ行ってしまった。せめて寄 生虫じゃないくらい言いたかったが、今の私にそんな元気はなかっ た。 380 第四十五話 決断 こうして道路の端に皆で固まって気を張り巡らせて、どのくらい 時間が経ったのだろう。背後には建物の壁、正面には目的地である 公民館が暗闇の中佇んでいる。別に大量のゾンビが私たちの行く手 を遮っているわけではない。今にでも行くには行けるの、だが。 ﹁おい、ゾンビに変化するのは噛まれてからどんくらいなんだ?﹂ こちらへ徐々に歩み寄ってきていたキャップをかぶった中年男性 ゾンビが進行方向を変えたところで、須藤くんが口を開いた。誰も が凛太郎くんの状態について直接触れようとしない中、須藤くんの 直球な言い様にどきりとした。でも彼がこうして話を切りだしたの も状況が好転しているからに他ならない。 凛太郎くんが噛まれてからもうだいぶ時間が経っていた。噛まれ た時は痛みと精神的なショックで汗と身体の震えが止まらなかった 凛太郎くんだが、今は落ち着いて平然としているようにも見えた。 街灯の下を通る時ちらと様子を伺ったのだが、顔色もよい。佐伯く んが噛まれてすぐ傷口を洗い流して傷口から上部を布で縛って血流 を止めたこともあり、もしかすると凛太郎くんは感染を免れたのか もしれない。 ﹁インターネットや高校で耳に挟んだ情報によると発症までの時間 は人によってまちまちらしいが⋮⋮噛まれた部位によるところが大 きいらしい。脳や心臓に近い部位を噛まれれば発症が早いというこ とだ。あとどれだけ血管を深く傷つけてやつらの体液が混入したか、 だな﹂ 381 ﹁凛太郎くんが噛まれたのは二の腕ってことは⋮⋮感染してたら発 症は結構早いはずだよね?﹂ ﹁⋮⋮俺、助かるかもしれないんですか?﹂ 希望のある状況だからか、思ったことをはっきりと口に出してし まった。ちょっとまずかったかなと後悔が頭をよぎったが、直後に 発せられた凛太郎くんの希望を含んだ声に安心した。 ﹁そうっすよ⋮⋮! 凛太郎、今はぴんぴんしてますよ。助かりま すよね⋮⋮?﹂ その可能性も十分ある、と僅かに口角を上げた佐伯くんに、誠と 凛太郎くんが顔をほころばせる。 ﹁だったらなんだ、調子に乗るな。未知の事態に希望的観測を持ち 込むなんて迷惑な死に方をする馬鹿がやることだ。甘ったれた思考 は捨てろ﹂ 温かくなりかけた空気が凍った。なんでこの人はいつもこうなん だろう。皆の表情が曇り、しばらく沈黙が続いた。 ﹁でも、まじで助かるかも。⋮⋮優子は、あ、ゾンビになって死ん じゃった娘のことだけど⋮⋮足首を噛まれて10分もたたないうち にだったから⋮⋮﹂ 奈美さんがそっと凛太郎くんの近くに寄って、励ますように言う。 確かにゾンビ化しかけていた優子さんは尋常ではない状態だった。 血色は悪かったし、身体は震え、目の焦点があっていなかった。そ れを考えるとやはり普段と変わらない様子の凛太郎くんはかなり希 382 望があるのではと思う。 ﹁噛まれた場合、な⋮⋮﹂ 隣の須藤くんが呟いた。他の人が聞いたら何気ない言葉だろうが、 私には重く感じた。 ﹁⋮⋮どちらにせよ考えても仕方のないことだ。万が一の可能性が ある限り、警戒を緩めてはいけないだろう。今判断すべきことは︱ ︱﹂ 佐伯くんの視線の先をたどると、そこには公民館の二階部分へ続 く幅の広い階段。そして何より目をひくのが階段を遮断するように 鎮座する、暗闇においても圧倒的な存在感を放つ巨大な何か。 ﹁すごいなぁあれ⋮⋮装甲車、だよね?﹂ 抑えめに言う相田くんの声には興奮が混じっていた。私はそれに 見覚えがあった。佐伯くんのアパートでニュースを見た時、自衛隊 が管理する避難所にこの装甲車がとまっていた。 ﹁⋮⋮あれがここにあるってことは、中に自衛隊がいるんだよね﹂ ﹁だろうね。あんなの一般人は操縦できなそうだし。ここは避難所 には指定されていないはずだけど、壊滅しちゃって移転したっての もあり得る話でしょ﹂ ﹁じゃあ、やっぱ早く受け入れてもらえばいいんじゃないすか?﹂ ﹁だから、ゾンビ予備軍のそいつがいる限り難しいっていってんだ 383 ろ﹂ 割って入ってきた倉本さんを奈美さんと誠がきっと睨みつける。 だが、なかなか次の行動に移せないでいるのはまさにそこにあった。 ゾンビに噛まれた凛太郎くんを引き連れた私たちを果たして公民館 の中にいる人々が受け入れてくれるかどうかは怪しい。高校に着い た時向けられた銃口を思い出す。 ﹁だがよ、そいつの噛み傷が痕なく完治するのなんて待ってらんね ぇぜ?﹂ 須藤くんが小石を拾い上げ遠くへ投げた。小石は元主婦らしきゾ ンビの側頭部に当たり、そのまま落下して地面に転がった。 ﹁別の場所、探します? 誰もいなさそうなところ⋮⋮。それなら ⋮⋮﹂ ﹁いや、行こう﹂ 佐伯くんが加世ちゃんの言葉を遮って言った。皆の視線が佐伯く んへ向いた。疲労しきった顔に期待を滲ませた人もいれば疑問を浮 かべる人もいる。 ﹁⋮⋮俺がまず先に行く。そこで話をつけよう﹂ ﹁ああ、それがいいかもな﹂ ﹁で、でも⋮⋮﹂ 思わず漏らしてしまったその場の流れを引き止める言葉に自分で 384 も戸惑いを覚える。私は何を言おうとしているのだろう。自分でも わからなくなってしまって口籠る私に佐伯くんが話を促すような視 線を送る。佐伯くんの肩越しに須藤くんの横顔が見えた。 ﹁いや、何でもない⋮⋮ごめんね。気をつけて、ね﹂ 佐伯くんが頷いて背を向ける。ゾンビから距離をとりながら慎重 にゆっくりと装甲車のある階段の方へ進んでいく。 これが一番望ましい選択なのだと思う。このような深夜に大人数 で移動するのは限りなく危険なことだ。それに皆身体も心も限界に 近い。私たちだけで行動する選択肢もあっただろうが、いつまでも 佐伯くんや須藤くんの戦力に頼るわけにはいかない。ゾンビの数は 多い。今この瞬間も増え続けているだろう。そして何より相田くん のお屋敷や高校で見たような未知の化け物もいる。佐伯くんがこの 決断を下したのはこれが大きいのではないかと思う。自衛隊の協力 とこの装甲車があればあの化け物相手にどうにかなるかもしれない。 でも、公民館に受け入れられたとしたら︱︱それは須藤くんの秘 密が皆に暴露されてしまうことを意味する。公民館を仕切る自衛隊 員たちは必ず私たちの身体検査を行うだろう。そうなったとき、須 藤くんはどうするのだろう。あの化け物のことを包み隠さず言うの だろうか。 考えている間に佐伯くんが装甲車のすぐそばに着いたようだ。だ がその場からそれ以上動こうとしない。何かあったのかと不安にな っていると、装甲車の上部からひょっこりと人が姿を現した。どう やら装甲車の中にずっといたらしい。目を凝らすと迷彩服を着てい る。自衛隊員のようだ。その人の合図とともに佐伯くんが装甲車の 上に乗り上げた。少しの間何か話し合っていたようだが良い方向へ 385 進んでくれたようで、佐伯くんは装甲車のある階段から先へと向か った。 階段を上る佐伯くんの後姿から自衛隊員は私たちへと視線を移し た。少し遠くにある街灯で僅かに照らされたその人は、若い男の人 だった。彼は私たちを見ると笑ったように見えた。 ﹁なに、あの人。ずっとあそこにいたのならこっちにだって気づい てたでしょうに﹂ 奈美さんが唇を尖らせる。でも、たしかにそうだ。私たちはあま り歓迎されていないのかもしれない。 しばらくして佐伯くんが公民館の二階部分から再び姿を現した。 別の自衛隊員らしき人を連れている。交渉に成功したのだろうか。 二人は階段を下りてくると、装甲車の男性隊員となにか話を始めた。 そしてすぐに佐伯くんがこちらに向けて手招きのジェスチャーをし た。 ﹁僕たち受け入れられたみたいだね﹂ ﹁そう考えるのはまだ早いぜ。あの男が抱えるモノを見ろよ﹂ 二階から降りてきた隊員が手にしているのは銃だった。もちろん 私たちが警戒されている存在だんていうことは十分想定していた。 だけれども。平和だったとき、私たちが唯一銃を見ることができる のはテレビ画面の中だった。その中で銃口を向けられるのは悪いこ とをするマフィアか、恐ろしい異星人か、それこそゾンビだとかの バケモノだったわけで。でも今は⋮⋮現実の日本で人間相手に銃の 引き金を引くのはもはや普通だ。そう考えて思わず口内に溜まった 386 唾をごくりと飲み込んだ。 須藤くんを先頭に、装甲車へと近づく。見上げると張り詰めた表 情の佐伯くんと、険しい顔をした壮年の男性隊員、そしてずっと装 甲車に乗っていた若い男性隊員がいた。 ﹁⋮⋮とりあえず中へ招待しよう。少しでも怪しい行動をとれば容 赦なく撃つ。いいな﹂ この公民館のリーダーらしき壮年の自衛官の棘のある声に、重苦 しい空気が広がった。佐伯くんがここへ受け入れてもらうことにし たということは、少なくとも問答無用で凛太郎くんが殺されること はないだろう。でも、須藤くんのことがばれてしまったならば、そ の時は一体どうなってしまうのだろうか。 387 第四十六話 公民館 ﹁十人⋮⋮ですね。では、荷物をそこの隅に置いて、前に男性五人、 後ろに女性五人の二列に並んでいただけますか?﹂ 公民館の二階、会議室のようなところに通されるともう一人若い 自衛隊員がいた。人のよさそうな男の人だ。女性五人と言われたと ころで数人が顔を見合わせる。私たちの中に女性は四人しかいない。 誰か女性としてカウントされてしまったのだろうか。 ﹁さっさと並ぶんだ﹂ 最初の指示から間髪いれずにリーダーのおじさん隊員に急かされ る。前列に並ぼうとしたところを後列に誘導された相田くんを見て、 なるほどと思う。彼は割と小柄だし色白で髪も長めの癖毛と、女の 子に見えなくもない。何も言えずにあわあわしている相田くんに、 隣の奈美さんが吹き出しそうになったのを咳払いでごまかしていた。 それにしてもどうやらこのリーダーはかなり厳格な人のようだ。 階段をのぼる時は手を後ろに組むよう言われたし、お腹を掻こうと した誠は即座に銃を向けられた︵心臓がとび跳ねた︶。今の世界で は当たり前のことだろうし、そういった注意を怠らなかったからこ そこれまで生き残ってこれたのかもしれないが。整列したところで 背後の扉が閉められた。この人たちから認められない限りもう無事 に戻れないような気がしてさらに緊張が高まる。 ﹁一人噛まれたのがいると聞いたが⋮⋮どいつだ?﹂ 前列右端の凛太郎くんが手を挙げる。焦った。先ほどの佐伯くん 388 の話など無視して問答無用で撃つのではなかろうか。凛太郎くんの 隣の誠も同じことを思っているのだろう︱︱緊張に手足が強張って いるのが見て取れる。リーダーは凛太郎くんの噛まれた腕を掴みぐ いと引き寄せるとじろじろと観察する。凛太郎くんの二の腕には痛 々しい噛み傷がくっきりと残っていた。 ﹁感染していたらとっくにゾンビ化している傷だな。噛まれてもゾ ンビの体液が身体に回らなかったのか、それとも耐性があったか⋮ ⋮発症しない人間がいるのも確かだ。だが油断するんじゃないぞ。 発症したら即座に撃つ。あとゾンビ化についての新しい情報が入る までは監禁に近い形で過ごしてもらう﹂ リーダーが凛太郎くんの腕から手を離し、前方中央に戻っていっ た。一気に張り詰めた空気が抜ける。どうやら話がわかる人のよう で安心した。もしかしたら須藤くんのことも理解してもらえるかも しれない。私たちの気が緩んだのを感じたのかリーダーは咳払いす ると話し始めた。 ﹁それでは今からお前たちが俺たちに危害を加え得る存在かどうか 確かめさせてもらう。服を脱ぐんだ﹂ 高校でも指示されたし、まあそうなるのだろうと思っていたこと だが、何かひっかかるものを感じた。この場所で、全員? ﹁ここで全員、脱ぐんですか?﹂ ちょうどその違和感の原因を突き止めたところで奈美さんがリー ダーに問いかけた。高校では身体検査の際当然のように男女別に分 かれたので、色々と崩壊している社会だがそこのあたりはまだしっ かりしていると思っていた。 389 ﹁ああ。男女一緒にだ。悪いが今冷静に銃を扱えるのは俺しかいな いものでな。俺の目が離れた場所で何かあっては困る﹂ リーダーがちらりと隣の若い男性隊員を見た。視線を感じた若い 隊員が少し俯く。 ﹁さあ、早くするんだ﹂ 良く考えれば男性が前列に並ぶよう言われたのはこのことの配慮 してくれてのことだろう。まあこんなことで戸惑っている場合では ない。目の前で須藤くんの背中の引っかき傷が皆の前にさらされる。 あの巨大な化け物によるものであることがばれれば、どうなってし まうのか。 ワンピースの胸のボタンに手をかけるも、どうしても気になって 須藤くんの方へ目を向ける。彼は躊躇することなく上から脱ごうと していた。もはや見慣れたヒョウ柄のTシャツ。一匹丸ごと描かれ たリアルなヒョウに普段は自然と笑みが漏れたが今は何も感じない。 もうあの頃には戻れない。 須藤くんが勢いよくTシャツを脱ぎ捨てた。床に脱ぎ捨てられた Tシャツからおずおずと視線を彼の背中に移す。鍛え上げられた褐 色の背中。佐伯くんのアパートで見たときと同じように逆三角形を 描いている。何も変わらない。 何も変わらない? その時近くで私の名前が囁かれた。びっくりして肩を揺らしてそ ちらを向くと、奈美さんが心配そうな目で早く脱ぐよう促していた。 390 奈美さんに曖昧な返しをしてワンピースのボタンを一気に外す。ワ ンピースの布地に顔を覆われながら、考える。どういうことなのだ ろうか︱︱須藤くんの背中には何の傷も残っていなかった。あれは 幻だったのか? いや、そんなわけはない。確かに私の目の前で須 藤くんはあの化け物に引っ掻かれた。 ﹁おい、お前何をしている﹂ 訝しげな男性の声が間近で聞こえはっとする。ワンピースを脱ぎ かけのまま固まっていたようだ。慌てて顔のあたりで止まっていた ワンピースを脱ぐと、視界が開けた。リーダーが怪しいものを見る 目でこちらを睨みつけている。やばい。何か言い訳をと口を開きか けたところでリーダーは服を着るよう指示をした。 ﹁ふむ、他に感染の恐れのある者はいないようだな。ではお前たち を避難民として迎え入れよう。万が一ゾンビ化した場合は容赦なく 撃たせてもらう⋮⋮そこはご了承願いたい﹂ ひとまず安堵の空気が広がった。須藤くんのことは不思議だが、 傷が消えていたおかげで問題なく受け入れられたことを今はただ良 かったと思う。後で彼と色々話さなければならないだろうが。 ﹁紹介が遅れたが、私はこの臨時避難所のリーダーを務める北山だ。 臨時避難所と言っても配属されていた避難所が壊滅したため逃げ延 びた生き残りで構成される非公式のコミュニティだ。そのため全員 に十分な安全と物資を提供する余裕はない。君たちは晃東学園避難 所から逃げてきたということだが⋮⋮そこで受けた待遇とは全く別 と考えてくれ。一人でも多く生き残るために君たちには協力しても らう。よろしく頼むぞ﹂ 391 ﹁自分は柴崎と申します。みなさんどうぞよろしくお願いします﹂ 軽く会釈を返す。やはり戦闘のプロフェッショナルが一緒にいる のは心強い。高校の時と違って私たちは単なる避難民ではないし、 あちらも単なる保護者というわけではなさそうだが。このような異 常事態に何かに頼りすぎると破綻を招くだけだ。 ﹁ここには今いないが、他にも加賀谷が外の装甲車に待機している。 何かあった時は私たち三人に速やかに知らせてほしい。あと君たち は後でこの紙に氏名と性別、生年月日と住所を書いてくれ。いつに なるかわからないが、安全地帯へ受け入れてもらう際必要となる﹂ ﹁安全地帯、というのは北海道の感染者が確認されなかったという 町のことですか?﹂ 安全地帯︱︱高校で佐伯くんが話していた北海道の山間の町のこ とだ。早くから避難民を受け入れていたがゾンビが紛れ込んでしま い私たちの高校からの輸送は途絶えてしまった。 ﹁それもそのうちの一つだ。ただ正確にはもともと人自体いなかっ たということだがな﹂ ﹁それはどういうことですか﹂ どうやら他にも安全を確認された地域はあるらしい。そして最初 から人がいない町だったとは︱︱確かにそれならゾンビは発生しな いだろうが︱︱どういうことなのだろうか。皆がリーダーの北山さ んの話を息をするのも忘れるくらい注意して耳を傾けていた。 ﹁こういった非常時を見越して作られた町だからだ。地図にも載っ 392 ていない。航空写真にも圧力をかけて加工するようにしている。普 段は軍部と国の一部の者だけしか知り得ない機密情報だ﹂ ﹁非常時を見越していたということは⋮⋮こうなることは想定され ていたと?﹂ ﹁それは私たちのような下っ端の自衛官にはわからないことだ。そ もそもゾンビの発生源も未だに明らかにされていない。何らかの食 品や医薬品に人間の細胞に変化をもたらす成分が混入していたとか、 宇宙から降り注ぐ放射能の影響だとかいうSFチックなものまで諸 説あるが。まあ一般人にとっては生きるか死ぬかが今一番の問題だ。 根本的な解決はお偉い方の正式な発表を待つしかないな﹂ 私は正直興奮していた。ゾンビの発生源⋮⋮ただ脅威にさらされ るだけの私たち一般人の考えが及びもしない部分。生きている間に それが明らかになる時が来るのだろうか。 ﹁まあ他の詳しい話は落ち着いてからまたしよう。隣に部屋を用意 したから君たちは早く寝なさい。噛まれたという君は柴崎に付いて 行ってもらおう。不安だろうが我慢してくれ﹂ 北山さんに促され私たちは荷物を持って隣の部屋へ移動すること にした。暗闇の中いつゾンビに襲われるかわからない恐怖と、凛太 郎くんが噛まれたショックで疲れ果てていた。 ﹁そういえばここ他に避難民いるんだよね? 全く見ないけど﹂ ﹁深夜だからじゃないかな。だって今午前三時過ぎだよ﹂ 自分の荷物を持ち直しながら奈美さんと相田くんの話を聞く。安 393 心したのか眠気が急に襲ってきた。二人の声が壁を隔てているよう にくぐもって聞こえる。瞼も垂れ下がってきた。 ﹁⋮⋮⋮⋮!!﹂ いきなり鼓膜が小刻みに激しく振動する。高い悲鳴! 若い女の 子のものだ。建物内であることは間違いない。奈美さんと相田くん が部屋から飛び出していく。嫌な予感がして私も反射的に後を追っ た。 394 第四十七話 憎悪 廊下には数人に囲まれて人が倒れていた。白い床に徐々に面積を 広げていく赤黒い血溜まりにうつ伏せに倒れるその人はもはや微動 だにせず、既にこと切れているのが簡単に見て取れた。 ﹁はは、やったぜ⋮⋮! このゾンビ野郎が! のうのうと生きて られると思ったら大間違いだ、糞が!﹂ 倒れたその人を囲んでいた一人の男が興奮に息を弾ませ、誇らし げに喋り始めた。手にした金属製の棒状の工具は血でじっとりと濡 れている。 ﹁⋮⋮あ﹂ 他の誰かが声を発した。混乱した頭で声がした方へ顔を向けると、 真っ青な顔をした柴崎さんがいた。他の避難民だろうか、制服を着 た見知らぬ若い女性もすぐ傍に見える。柴崎さんは、たしかリーダ ーに凛太郎くんを隔離された部屋へ連れていくよう言われていたは ず。 それじゃあ、倒れているこの人は⋮⋮? しゃくりあげる声が聞こえた気がして何気なく横を見ると、黒い 頭が視界の隅に映った。加世ちゃんがかがみこんでいた。身を震わ せる彼女を見て、嫌な推測が確信へ変わろうとしていた。 ﹁⋮⋮この野郎! 人殺しが! 死ね⋮⋮死ねぇーっ!﹂ 395 未だへらへらと喋り続けていた男を、茫然と見つめていた一人が いきなり殴りかかった。 ﹁⋮⋮誠!﹂ ﹁誠君、落ち着くんだ!﹂ 佐伯くんの制止も振り切り、誠は男の横面を思い切り殴りつけた。 男は数歩よろけて勢いよく尻もちをついた。なおも殴りかかろうと する誠を佐伯くんが拘束する。 ﹁なんで、止めるんですか! こいつ、凛太郎をっ!﹂ 身体的な疲れと衝撃的な事実を受け入れたくない精神的な防衛本 能からか、どこかぼんやりと夢心地で眺めていた︱︱だが、誠の口 からはっきりと発された凛太郎くんの名前に、心臓が凍りついた。 ﹁なんだ⋮⋮何が起きた! ⋮⋮これは﹂ 部屋から出てきた北山さんはその惨状に顔をしかめた。 ﹁こいつ、凛太郎を殺したんです! やばいやつです! 殺しまし ょう!﹂ 憎悪を剥き出しにして怒鳴りつけるように言う誠に、北山さんは 床に腰を下ろしたままの男に視線を向ける。男は明るい茶髪を撫で つけて、人を小馬鹿にしたようなふてぶてしい態度で話し始めた。 ﹁俺は危険を排除したかっただけだから。それよりゾンビ庇うなん てこいつのがやばいっしょ? 絶対この先お荷物になるって﹂ ﹁てめぇー!!﹂ 396 ﹁誠⋮⋮!﹂ 狂犬のように今にも男に喰いかかろうとする誠に、彼がどうにか なってしまいそうな怖さを感じて数歩歩み寄る。誠は私に気付いて はっとしたように表情を緩めるも、すぐに男に向き直り涙の溜まっ た目で睨みつけた。ますますヒートアップする二人に冷静に話を聞 き出せないと踏んだのか、北山さんは柴崎さんの方へと質問の対象 を変えた。 ﹁⋮⋮柴崎お前が説明しろ。なぜお前がいながらこういった事態が 起きてしまったんだ?﹂ ﹁浜崎が物陰に身をひそめていまして⋮⋮元から彼の殺害を狙って いたのかと⋮⋮﹂ ﹁だがお前が彼の傍についていたんだろう? なぜ止められなかっ た! 貴様それでも自衛官か!﹂ ﹁柴崎さんを責めないであげてよぉ∼。うちが柴崎さんを引きとめ ちゃったんだからさぁ﹂ 自衛隊員同士でも言い争いが始まろうとしていた時、間延びした ような甘ったるい声が割って入った。柴崎さんの傍にいた女子高生 だ。長くのばされた金髪とルーズに着こなされた制服に、凛太郎く んを殺した男と同じような臭いがする。どうやら最初から凛太郎く んを殺すつもりで二人が連携を図ったようだ。 ﹁いかにも頭が悪そうなやつらだね⋮⋮許せないよ、絶対に﹂ ﹁ああ、最悪だな⋮⋮集団に一人でも馬鹿がいるとそれこそ命取り だ﹂ 女子高生に詳しい事情を聞くリーダーをよそに、ずっと黙って様 子を見ていた奈美さんと須藤くんが低い声で呟いた。奈美さんは静 397 かな声音と裏腹に唇を強く噛み締めて何かを堪えている様子だった。 奈美さんだけではない。相田くんも、加世ちゃんも、凛太郎くんを 殺した男を憎しみをこめた目で見ている。何か小さなきっかけでも あればすぐに乱闘に発展しそうな緊迫した空気がそこにあった。私 自身も頭が真っ白になるような衝撃の後から徐々に胸に広がってき た真っ黒な感情を隠しきれずにいた。ここまできたのに、あともう 少しだったのに。なぜ凛太郎くんは死ななきゃならなかったのか。 こいつを殺してやりたい。 近くから視線を感じた。佐伯くんだ︱︱誠の方へ近付くうちにい つの間にか彼の隣にいたらしい。こちらの様子を伺うような目に、 無意識に歯を強く食いしばっていたことに気付く。少し冷静になっ て周囲を見渡すが、依然状況は変わらないように見える。この時間 が永遠にいつまでも続くように思えて、佐伯くんに目配せをする。 また彼に頼ってしまうようで気が重かったが、興奮状態にある私に まともな対応はできそうにもなく、いつも通りの冷静さを保った佐 伯くんに任せる以外良い考えは思いつきそうもなかった。 ﹁⋮⋮仲間を理不尽にも殺されてしまったのですから、非公式とは いえ機能している自衛集団ならばしかるべき対処をしていただきた いと思います。しかし先に一つお聞きしたい⋮⋮ここでは死人の処 理をどう行っているのですか?﹂ 佐伯くんは軽く息を付いて、静かな︱︱しかしはっきりとした口 調で話し始めた。その話の後半の内容にどきりとする。そのことで 激昂しているとはいえ、触れられたくない事実だった。でも、たし かに︱︱凛太郎くんは頭を打たれて亡くなったようだが、ゾンビに 転生しないとは必ずしも言い切れない。そう言うと凛太郎くんがや はり感染していた可能性を認めるようではあるが。 398 ﹁感染の疑いのある者の病気や外傷による死、感染による衰弱死の 場合はゾンビ化しないよう処置を行った上で敷地内に埋葬する⋮⋮。 その他の理由による死者も万が一を考えて同じ処置を行うことにし ている。彼も、君たちが許すなら⋮⋮明日にでも私たちしか入れな い封鎖された空き地に丁重に埋葬させていただく﹂ ﹁⋮⋮そうですか。ではそれまで彼の遺体を別の場所に移してやっ てください。このままでは僕たちの気持ちがおさまらないので﹂ ﹁柴崎、彼を部屋に移せ。万が一の処置も忘れるな﹂ リーダーの指示を受けて項垂れていた柴崎さんが動き出した。近 くに折りたたんで置いてあった大きなビニールシートを丁寧に凛太 郎くんにかぶせ、身体を持ち上げる。ビニールシートから飛び出し た膝下の部分、誠と同じ制服のズボンからのぞく肌はまだ生きてい る人間の、若い少年のもので、とてもゾンビや死者のものには思え なかった。 誠は赤い目でその姿を追って、やがて視界に入らなくなると再び 殺人鬼の男に鋭い視線を向けた。先ほどと比べ少し落ち着いたが、 張り詰めた奇妙な空気は変わらない。 やっと安心して10人そろって休めると思ったのに、こんなこと になるなんて。⋮⋮どうすればよいのだろう。最初からこんな最悪 なことが起きてしまっては、ここにとどまればこの先も悪い出来事 が起きるのが目に見えている。特に、人殺しを躊躇わない男に目を つけられてしまった誠は危険だ。ぎすぎすした感情が渦巻いている 場の雰囲気に少し物怖じしつつも、誠のためと勇気を出す。 ﹁⋮⋮さっき佐伯くんも言いましたが、凛太郎くんがこんなことに 399 なってしまった以上、このままの状態でここにいるわけにはいきま せん。この人と同じ集団でやっていくなんて考えられない⋮⋮きっ とまた争いが起きます。どうすればいいんですか? この人にこれ 以上危害を加えないよう処罰を与えてくれますか? それとも被害 者の私たちを追いやるのですか?﹂ ﹁そうだ、俺は絶対こいつらを許さない! こいつらを追放しない なら俺は出ていく!﹂ たどたどしい私の言い分に、即座に反応した興奮状態にある誠を 除いて他の皆は複雑な顔をしていた。それも当然だった。一時の感 情でこの先永遠に続くかもしれない恐怖の日々へと戻る選択をする のは愚かなことだと私だって思う。でも何事もなかったかのように 凛太郎くんの死が扱われるのは許せないものがあった。あの殺人鬼 を凛太郎くんにするはずだったように隔離するくらいの処置がされ るべきだ。そんな思いが通じたのか、北山さんが口を開いた。 ﹁こうなってしまったのは我々に非がある。その点は謝罪したい。 だが浜崎⋮⋮あのような愚行に走った加害者も精神が極限の状態に あるのだ。ここにいる全員、ゾンビに家族や友人を殺されながらも かろうじて生き残り、やっと訪れた束の間かもしれぬ安息に浸って いる。君たちも同じだろう⋮⋮だからこそ、そこをどうか考慮して もらいたい。その代わり⋮⋮これからは君たちがゾンビ以外の恐怖 から解放されるよう、我々がしっかりと監視する。私がこんなこと を言える立場ではないが、とりあえず今晩はゆっくり休んでほしい ⋮⋮浜崎からは目を離さないようにしておく﹂ あの殺人鬼のことに関してはとても満足のいくような回答ではな かったが、北山さんの態度からは真摯な偽りない気持ちが感じられ た。誠も納得できないような表情をしていたが、何も反論できずに いた。とりあえず今はここで休んで明日に備えるほかない。 400 ﹁⋮⋮行こうぜ﹂ 須藤くんが硬直した空気を破り部屋へ向かった。奈美さん、相田 くんも後に続く。 ﹁誠、行こう﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 誠の服の袖を引っ張る。誠は口を半開きにさせてまるで抜け殻の ようで、何も言わず引かれるがままに動き始めた。その様子に加世 ちゃんも心配そうに誠を見ている。 ﹁加世ちゃん⋮⋮大丈夫? 高校から色々あったね⋮⋮﹂ ﹁はい、私は⋮⋮。でも、色々な人が死んじゃって、そのことを考 えたらなんだかもうどうでもよくなっちゃいそうです。だから、今 はもう考えないようにします﹂ そう言って弱弱しく笑う加世ちゃんは青白い肌をして目も落ち窪 み疲れ切っていた。生気にあふれた彼女に初めて会ってから10時 間も経っていないのだと思うと、ここまでの間に本当に色々あった のだなぁと思う。 私たちに割り当てられた部屋は広めの板の間だった。休日はここ で近所の住民の皆さんが体操教室でも行っていたのかもしれない。 見渡すと既に沙莉南ちゃんが穏やかな寝息をたてて横たわっており、 倉本さんも壁に寄り掛かって座って眠っていた。そういえばこの二 人はあの騒動の最中姿を見なかった。真っ先に部屋へ向かってその ままここにいたのだろう。薄情な気もしたが、今自分がふらふらと 倒れそうな状況なことを考えると仕方のないことに思えた。 401 部屋の片隅に積んであった毛布を二枚とって、片方誠に渡す。誠 は無言で受け取るとくたくたとその場に座り込み、動かなくなって しまった。 ﹁早く寝よ。それで明日考えよう﹂ あっという間に眠りについた奈美さんや相田くんを起こさないよ うに、誠の耳元で囁きかける。誠は小さく頷くとゆっくりと身体を 横たえた。誠はプロフィールの特技の欄には必ずサッカーか﹁いつ でもどこでも眠れること﹂を書く。その二つ目の特技が今も発揮さ れたことに安心して、私も毛布を抱き寄せた。 寝転がろうとしたところで思いとどまって部屋を眺める。少し離 れたところで佐伯くんが僅かに片膝を立てて眠っているのが見えた。 あちらを向いているので寝顔は見えなかったが、規則正しく動く胸 部に彼も眠りについたのだと安心する。皆のために彼が一番考えて、 戦って、道を切り開いてくれた。佐伯くんをぼんやり見つめている うちに寝てしまいそうになって、慌てて振り切り、もう一人︱︱彼 の姿を探す。須藤くんはこちらとは離れた部屋の隅に腕を組んで座 っていた。一瞬起きているのかと思ったがどうやら彼も眠っている ようだった。 須藤くんの姿にあの異形の化け物の姿が重なった。恐ろしい想像 に背筋が冷たくなって、そんな自分をごまかすように勢いよく横に なる。まだ僅かに身体が震えている。大丈夫、大丈夫。そう何度も 念じて、瞳を閉じた。 * 402 朝起きたら、不自然なほどの静寂が広がっていた。まだ寝足りな いのか、重い頭を僅かに起こして寝ぼけ眼を擦る。手を付いて起き 上がろうとしたところで床が滑っているのに気付いた。はっとした ところで瞬時に鼻を突く生臭い鉄の臭い。視界が赤い。血だ。奈美 さんが倒れている︱︱相田くんも。慌てて駆け寄るも彼らの瞳は既 に光を失っていた。皆ぼろぼろの身体になって、血を吐き出し臓器 を露出させて壊れた人形のように横たわっている。 あまりの事態に声も出ない。呆然とその場に固まっていると、耳 が異様な音をとらえた。ずる、ずる、と湿った何かが擦れる生々し い音。おそるおそる目を向けるとあの化け物がいた。部屋に収まり きらない巨体を丸めて、何かをしきりにいじくりまわしている。何 をしているのだろう。化け物の手元は身体が陰になって見えない。 そんなことしないで逃げなきゃ私も殺されるのに、もうどうでもよ くなってしまった。私は引き摺るように化け物の手元が覗きこめる 位置に身体を移動させた。 巨大な化け物の腕が佐伯くんの胸を貫いて、彼の内部をえぐり出 していた。弄ぶように、ビンほどの大きさがある指を彼の身体に突 き立てていた。高い悲鳴をあげようとして寸前のところで呑み込ん だ。化け物に気付かれたと思ったが、こちらに顔を向けたのはかろ うじて意識を保っていた佐伯くんだった。 逃げろ 口がそう形を作った。そうだ、誠はまだ生きているかもしれない。 私は止まらない涙を乱暴に拭い、立ち上がった。その時、化け物が 身体を僅かにこちらに動かした。巨大な胴に傾いてくっついた頭︱ 403 ︱それは須藤くんの顔をしていた。 ﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂ 深い崖の底に突き落とされるような感覚とともに覚醒した。心臓 がどくどく脈うっている。どうやら眠り込んでいたらしい。それが 少しの間なのか長い間だったのかはわからないが、身を起こして窓 の外の暗闇を見る限り、少なくともまだ朝は来ていない。 嫌な夢だ。深呼吸、深呼吸。落ち着いたらまた眠ろう。 もう一度横たわって天井へ目を向けると、夢の中で最後に見た顔 が私を見下ろしていた。 ﹁ひっ!﹂ ﹁馬鹿、静かにしろ﹂ 悲鳴をあげそうになったところで口を塞がれる。夢の恐怖もあっ てしばらく混乱していたが、これ数時間前にもあった展開だ、とか 思っているうちに落ち着いてきた。口を解放されて改めて彼の方を 見る。 ﹁⋮⋮どうしたの英雄くん。びっくりしたなぁ﹂ ほぼ音に出さず空気混じりの声で話しかける。 ﹁来い、話したいことがある﹂ 見たことがないくらい真剣な顔をした須藤くんに、私は不安な気 持ちを抱きながらも頷いた。 404 第四十八話 密事 皆を起こさないようそろそろと忍び足で部屋を出た。建物が古く て狭かった家では、夜中に喉が渇いたりトイレに起きるたびに畳が 軋んだ音をたてて誠やお母さんが起きやしないかとびくびくしてい たことを思い出す︵寝起きが悪い二人に怒られるので︶今ではそん なことさえ懐かしい。 廊下は奥に見える非常口の誘導標識の僅かな光と天井に赤っぽい 蛍光灯の明かりが弱弱しく点いているのみで真っ暗だ。なんとも不 気味な雰囲気だが、目が慣れてくると辛うじて奥の方まで見渡すこ とができた。自衛隊員たちも他の避難民の姿も見えない。 ﹁⋮⋮リーダーに見つかったら怒られちゃうかな﹂ ﹁さあな。見つかったところで何の非もないが、ゾンビに間違われ て撃たれちまうかもな﹂ そんな無責任なことを言いつつ須藤くんは迷いなく歩き始めた。 私は戸惑いながらも膨れ上がる不安な気持ちを抑えて彼に付いて行 く。 静かだ。深夜だから無理もないが、とてもあんな凄惨な出来事が 起きた数時間後とは思えない。 凛太郎くんは誠と同い年なのにずっとしっかりしてて、素直で、 いい子だった。きっと平和だったときは誰からも好かれただろう。 一緒に穏やかな時間を過ごしたのはほんのわずかだっただけど、ち ょっとした時に見せる照れた表情が可愛かったことを思い出す。き っと誠や仲のいい友達に見せるもっと違う顔があったんだろうが、 405 もう見ることは叶わない。彼とともに過ごす未来は途絶えた⋮⋮。 ﹁本当に⋮⋮許せない﹂ 悲しみと苛立ちが急激に込み上げてきて、思わず呟いていた。私 たちが少し前に通過したのは彼が倒れていた場所だった。今は血痕 は綺麗に拭きとられ何も残っていないが、確かに数時間前忌々しい 不条理な殺人が起きたのだ。俯いた視界に前を歩く須藤くんの足が 映って、顔を上げる。 ﹁悔いの残る死に方だったな、人間に殺されるなんてよ﹂ 須藤くんはすぐにまた歩き始め、背中を向けたまま続ける。 ﹁だがどんな死であろうともいつまでも拘ってなんかられねぇぜ。 また身近な誰かが死ぬかもしれねぇし⋮⋮自分かもしれねぇんだか らな。いつか何が起きても後悔しねぇって話したがよ⋮⋮実際考え るのをやめるのは難しい話だ。この世界では何も考えねぇ馬鹿が生 き残るのかもな﹂ 話しながらいつの間にか廊下の突き当りまで来ていた。外の闇を ぼんやりと映す厚いすり硝子の扉を開けると、そこはどうやら外に 突き出たバルコニーらしかった。 ﹁だ、大丈夫かな⋮⋮ゾンビいないかな﹂ ﹁二階は安全だろ。自衛隊様が厳重に管理してると信じようぜ﹂ 危険も臆せず須藤くんはすいすいと闇の中を進んでいく。ゾンビ がいないにしても得体のしれない何かが潜んでいそうで恐ろしく感 じ、しきりに左右確認しながら彼を追う。 406 須藤くんは手すりに肘を乗せ下方を眺めていた。どうやらここは 私たちが入ってきた装甲車の止まっている階段の裏側に位置してい るようだ。明かりはほとんどないが、公民館の敷地を囲む木々の間 から漏れる街灯の光を頼りに目を凝らすと、下には芝生の庭が広が っていた。ここに明日の朝凛太郎くんが埋められるのかもしれない。 しばらく二人して外を眺めていたが、夜風が強く吹いて少し身が 縮まったところで話を切り出すことにした。 ﹁で、英雄くん⋮⋮話って?﹂ ﹁ああ﹂ こちらに身体を向けた須藤くんは闇にのまれて表情が見えず、大 きな影のようだった。高校の外壁を越えてきた時もそうだったが、 今は須藤くんだとわかっているのに少し怖く感じた。さっきからや たらと嫌な想像ばかり浮かんで落ち着かない。そんな心中を紛らわ すように拳をぎゅっと握りしめる。そんな私に須藤くんはふっと僅 かに笑みを漏らすと再び顔を背けた。暗闇の立ち込める庭を見なが ら静かに言う。 ﹁俺とお前しか知らないあの時のことだ﹂ そう切り出されて当たり前なのだが、びくびくしていた心臓が一 際大きく跳ねた。須藤くんと私が背負う秘密。まだ私は何の覚悟も できていない。 ﹁そ、そういえば英雄くんなんであんなに降りてくるの遅かったの ? あのとき⋮⋮﹂ 407 このまま話が須藤くんの身に起きていることの核心部分へ進んだ ら何も考えられなくなりそうで、心の準備体操とばかりに話を脇に 逸らす。しかしこれもずっと聞きたかったこと︱︱二人で化け物に 対峙して、私だけ先に壁を越えたあのときのことだ。須藤くんが降 りてきたのはしばらく経ってからで、皆あきらめかけていたときだ った。 ﹁ああ。化け物がいつまで経っても姿見せねぇからよ、奇妙に思っ て動向を探ってたんだ。結局化け物の野郎、諦めたのか体育館の方 へ行っちまった。そしたらお前たちが俺が来ないと思って行っちま うようだったから急いで参上したわけだ﹂ ﹁そうだったんだ⋮⋮なんで何もせず行っちゃったんだろう﹂ ﹁さあな。考えても仕方ねぇが⋮⋮不気味だな﹂ ﹁うん⋮⋮そもそもあの化け物は一体︱︱﹂ なんとなく緊張した空気がほぐれた気がして続けようとした言葉 を、いきなり腕をつかまれたことでぐっと呑み込んだ。 ﹁え? ど、どうしたの﹂ ﹁もし俺が今この時も着々とその化け物に変化しているとしたら⋮ ⋮どうする﹂ ﹁な、へ、変化してるの⋮⋮?﹂ 間の抜けた反応でうろたえる私を気にもかけず、須藤くんは怖い 顔をして詰め寄る。掴まれた腕が痛い。 ﹁冗談で言ってるんじゃねぇよ。見ただろ? 俺がゾンビ野郎を吹 っ飛ばすところを。あれは普通の人間の出せる力じゃねぇ⋮⋮異常 たが だ。何かが壊れちまったようだ⋮⋮身体の内部で暴力的な、煮えた ぎるような激情が沸き立ってくる。今は制御できてるが、いつ箍が 408 外れちまうか。そうなれば⋮⋮誰かが死ぬ。わかるだろ?﹂ バルコニーの手すりを背に、両肩を掴まれる。ライオンに崖っぷ ちまで追い込まれたネズミのような気分だ︱︱表現が悪かったが、 私は須藤くんから告げられる現実にただ身を硬直させるしかなかっ た。できれば目をそらし続けたかった現実。肯定しなければ、私は ただの卑怯者だ。須藤くんを一人辛い現実に立ち向かわせて私は考 えることを放棄しようとしている。でも、どうすれば⋮⋮。 ﹁俺が思うに⋮⋮奴らは増殖しようとしているんだ。だから俺を逃 がした⋮⋮もっと化け物の細胞を拡散させるためにな﹂ ﹁そんな⋮⋮考えすぎだよ⋮⋮英雄くんがあんなのになるはず⋮⋮﹂ ﹁今だって俺は危険かもしれないぜ、たとえば﹂ 目を泳がせる卑怯者の私に須藤くんは一層距離を詰めると、私の 顎をぐいと掴んだ。 ﹁このままキスしたら、お前も化け物になるかもな﹂ 間近に須藤くんのギラギラとした両の目が迫る。完全に思考停止 し、ただただ目を見開いて視線を返す。喉が焼き付いてしまったか のように何も声が出ない。須藤くんも私も平静な状況じゃあない。 雰囲気に流されてはいけない。そう思いつつも身体を動かすことが できず、ゆっくりと唇が近付く。 相手の顔さえ満足に見えない暗闇の中、この上なく危険なファー ストキスが始まろうとしている。こういうのは私もいつか交際して いる男性とするのだと思っていたが、ゾンビの溢れたこの世界では もう望めない夢だったのかもしれない。せめてずっと想っていた好 きな人と⋮⋮と思ったが、好きな人って誰だろう。ふと佐伯くんの 409 顔が浮かんだが、須藤くんの温かい熱を感じて頭の中がぼーっとし てまどろみ始めた。あまりそういう目で見たことがないけど、須藤 くんは本当は素敵な人だし、苦難を背負う彼を支えていきたい。で も⋮⋮。 馬鹿げたことは考えられるのに、間の前にある現実をどうこうし ようという気力は無い。せめて目を閉じようかどうしようかと変な ことで悩み始めた時、鼻先にふっと息がかかった。 ﹁おいおい、止めねぇのかよ﹂ 少し大きめに発された声。びっくりしたが私に話しかけているの ではないらしい。誰かいるのかと驚いて須藤くんの視線の先をたど る。 ﹁よ、義崇くん⋮⋮!﹂ 私たちが来た硝子の扉のちょうど前に、佐伯くんが木刀を手に立 っていた。いつの間に。驚きと恥ずかしさにまどろみが一気に吹き 飛ぶ。須藤くんは気付いていたのだろうか︱︱その上であの行動な らちょっとひどい。いや、こんな馬鹿なことを考えている場合では ない! 色々考えつつも何も言葉にできず口をぱくつかせる私から 須藤くんは身体を離すと、佐伯くんに向き直った。 ﹁立ち聞きとは趣味が悪いぜ。服の趣味が悪いのは知ってたけどな﹂ ﹁単なる男女の秘め事だというのなら邪魔をする気はなかったのだ が⋮⋮俺もかねてより気になることがあってな。それにしても⋮⋮ 武器も持たず夜中に抜け出すとは、前例もあるというのに無防備す ぎはしないか﹂ ﹁ああ、少々迂闊だったな。まぁ人相手じゃ拳だけでもどうにかな 410 るだろうよ⋮⋮もっとも今じゃあゾンビ相手にも十分かもしれねぇ がな﹂ ﹁そうだな⋮⋮俺の懸念もまさにそこにある。須藤⋮⋮今聞いた話 が真実ならば、なおさらお前を放っておくわけにはいかない﹂ 見事にキスの空気が脇に流されて少しほっとしたのもつかの間、 佐伯くんの明らかに須藤くんを敵視した態度にぎょっとする。やは り話を聞かれてしまっていたようだ。背後の硝子扉から漏れ出す廊 下の光で身体の輪郭だけ浮かび上がり、佐伯くんの表情などは見え ない。 ﹁お前くらい鋭ければ薄々勘づいているだろうとは思ったけどな⋮ ⋮こいつの態度もわかりやすいし。なら、なんで今止めなかったん だ? 別に反応を楽しむつもりで見せつけようとしたわけじゃあな い⋮⋮それなりに本気だった。もう少しでこいつまで化け物の仲間 入りするところだったぜ?﹂ ﹁あと一歩踏み出していたならどうなっていたかわからない﹂ 淡々と応える佐伯くんの声色からは冗談めいたものは一切感じら れなかった。どうなっていたかって⋮⋮どういうことだろう。なん だか危ない雰囲気になってきた。佐伯くんはまさか危険な芽は早い うちに摘み取ろうとでもしているのだろうか。 ﹁はは、お前ならこいつと違って躊躇なく俺を殺せそうだな﹂ 須藤くんが笑う。佐伯くんはどんな顔をしているのだろう。思わ ぬ展開に戸惑う私をよそに須藤くんが続ける。 ﹁どうする、俺を殺すか?﹂ 411 第四十九話 喪失 長いことその場を静寂が支配していたかのように思えた。しかし 実際はほんの僅かな間だったのかもしれない。 ﹁⋮⋮まずは詳しいことを聞かせてもらおう。須藤、お前と皐月さ んが最後まで高校内に残っていたな。あの時、一体何があったんだ。 推測するに、あの変異体に襲撃されて傷をつけられたようだが﹂ ﹁ああ、そうだ。あの化け物の爪で背中に一撃食らった﹂ ﹁爪か。しかし身体検査の際、北山さんたちは何も気にとめた様子 もなかったが⋮⋮傷痕は残っているのだろう﹂ ﹁いや、消えた﹂ ﹁消えた⋮⋮?﹂ 佐伯くんがいつもと変わらぬ冷静な口調で沈黙を破り、二人は淡 々と話を進める。未だにショックから抜けきれない私はすっかり置 いてきぼりだ。佐伯くんは須藤くんをどうにかする気なのだろうか。 須藤くんを殺すとか殺さないとか、そんな恐ろしい話題が出てもな お冷静に見える二人が怖い。特に佐伯くんだ。ここに来るまでも時 折感じてきたことだが、彼は普段は優しく頼りになる一方で容赦が ないところがある。須藤くんを殺すまではいかなくても、公民館か ら去るようにくらいは平気で言いそうだ。 ﹁消えたということは⋮⋮ほかに何か変わりはないのか?﹂ ﹁⋮⋮力が強くなったよ。リミッターの外れたゾンビみてぇにな﹂ ﹁そんな! 英雄くんはもともと強いし⋮⋮!﹂ ﹁皐月、本当のことだろ﹂ 慌てて口をはさんだものの、庇いたかった張本人に否定されてぐ 412 うの音も出ない私は本当に滑稽だ︱︱。彼は自分にとって悪い状況 を生む言葉を包み隠さず言ってしまう。私たちの生存を考えればこ れほど助かる態度はないのだろうけど、頭を抱えたくなる。 ﹁ゾンビが蔓延る世界を生き抜くだけでも大変なことだというのに、 さらに未知の危険を孕んだ存在が身近にあるとは⋮⋮﹂ 佐伯くんの溜め息混じりの重い口調に、胸がドキドキする。何を 言おうとしているのだろう。まさか、さっきの須藤くんの問いを肯 定するようなことを⋮⋮? 大学からずっと一緒にやってきた須藤 くんに対してそんなことあるわけないと思いつつ、自信が持てない。 悪い予感を払拭するため口を開きかけたところで佐伯くんの声が遮 った。 ﹁はっきり言おう。須藤、君は危険すぎる。今すぐ北山さんたちに 事情を説明しに行くべきだ﹂ ﹁で、でも! そしたら⋮⋮危険だって判断されたら英雄くん、殺 されちゃうかもしれない⋮⋮!﹂ ﹁ならばここを一人で出ていくしかない。ここまで共に助け合って きた仲間だ、俺もこんなことを言いたくなどないが﹂ ﹁だったらなおさらだよ⋮⋮! そんな、まだ危険かどうかだって 確かじゃないのに⋮⋮﹂ そう言っている最中にも自分がひどく感情的で冷静さを欠いてい ることが自覚され、自然と言葉が尻すぼみになる。まるで私自身が 詐欺師であるかのように思えてきた。須藤くんを守りたい気持ちは 本当で、その意志を貫くことに何の疑問もないはずなのに。それが 本当に正しいことなのか。よくわからなくなってきた。このままじ ゃただの考えなしのお花畑だ。しかし頭の中がぐるぐる掻き乱され るばかりで次の言葉が続かない。 413 ﹁⋮⋮わかった。ここを出ていく﹂ ﹁英雄くん!﹂ ﹁よく言ってくれた須藤。しかし今すぐになどとは言わない。明る くなったら北山さんに話をしよう﹂ ﹁ああ﹂ 最悪の展開だ。しかし彼の揺らぎない決心した様子に、ここで私 が喚き続けても仕方のないことに思えた。須藤くんの自分が化け物 に変化する恐怖を考えると、一人の方が落ち着くのかもしれない。 結局は私の偽善だったのだろうか。言いようもない悔しさと悲しみ に一斉に熱いものが込み上げてきて、たえきれず、ぐっと俯く。き っとぐしゃぐしゃのみっともない顔になっている。こうしている場 合じゃないのに。とても顔を上げられそうもない。 霞んだ視界にすっと何かが入り込んだ。須藤くんの靴だ。もとも と白いスニーカーだったろうに、血やら泥やらで汚れて黒ずんでい る。 ﹁お前、まさかこれでお別れだとか思ってるのか?﹂ ﹁へっ⋮⋮?﹂ 考えもしなかった言葉に思わず勢いよく顔を上げてしまう。真っ 正面に須藤くんの顔があった。私にあわせて少し屈んで、彼の性格 に似合わない真面目な顔をしていた︱︱が、一気に崩壊した。 ﹁ぶわっ! ひでぇ顔⋮⋮! こりゃ嫁にいけねぇな!﹂ ﹁え、ひど⋮⋮って汚いよ! 顔面に向かって思い切り吹き出さな いでよ!﹂ ﹁もともといろんな液体でびしょびしょだろ﹂ 414 ﹁誰のせいで⋮⋮っ!﹂ こんな会話が最後にできるとは思わなかった。しかし、長くは続 かなかった︱︱喉が詰まり、苦しくて嗚咽が漏れる。何も言わず背 中を擦ってくれる須藤くんに気持ちが昂って、思わず彼の胸に飛び 込む。 ﹁⋮⋮おいおい、やめろよ﹂ ﹁お別れじゃないなら行かないでよ⋮⋮﹂ まるでカップルの恥ずかしい痴話喧嘩だ。佐伯くんが見ているし、 そもそも須藤くんは恋人でもなんでもないのに、気持ちの暴走は止 まらない。やり手︵だと思われる︶の須藤くんもさすがに扱いに困 ったのか少しの間されるがままにしてくれていたが、私の身体を引 き離すとくるりと背を向けた。 ﹁俺がお前らと行動しても大丈夫だと思ったら、また戻ってくる。 判断をくだすその時まで、必ず生き残る﹂ 彼はそう強く言い切った。その言葉は不確かで素直に希望を持つ ことができないものだったが、私は何も言うことができなかった。 ﹁⋮⋮この俺の判断だったら間違いないだろう。なあ、佐伯?﹂ ノリの軽い須藤くんらしく冗談ぽく問いかける。 ﹁ああ、そこは須藤を信じよう。俺もまた生きて会えることを祈っ ている﹂ 須藤くんははっと笑うと扉に向けて歩き始めた。この世界に祈り 415 なんて意味がない⋮⋮生死という対極にある二つの結果がすべてだ。 なのに、彼を引きとめる声も出ないし、身体も動かない。再び広が る静寂に扉の閉まる音が響いた。 須藤くんがいなくなり、私と佐伯くんだけが残された。 ﹁そうこうしているうちにもう夜明けだな﹂ 佐伯くんの一言でしばらく何もせずぼうっと立っていたことに気 付く。彼の視線の先をたどると明るみ始めた空が見えた。公民館の まわりには高い建物がないからか見晴らしがよく、ここからの景色 は清々しくこんな心中でも綺麗だと思えた。 ﹁⋮⋮皐月さんは﹂ ﹁は、はい!﹂ もう体力的にも精神的にも限界なのだろう。一秒でも気を抜くと いつまでもぼうっとしてしまいそうだ。自分を奮い立たせて佐伯く んに向き直る。須藤くんと話していたときから変わりのない彼の表 情に、さきほどまでの緊張がよみがえる。 ﹁どうして拒まなかったんだ﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 私から視線を外して呟くように言われた言葉に、意味がよくわか らず聞き返してしまう。間抜けな返事をしたからか佐伯くんはふっ と笑う。 ﹁⋮⋮どうして須藤を拒まなかったんだ? 感染するかもしれない ということ、わかっていたのだろう﹂ 416 ﹁あ⋮⋮そ、それは﹂ 忘れかけていたファーストキス未遂が思い出されて首から上に熱 が集中する。そうだ、佐伯くんは全て見ていたんだ。キスしようと したことも、みっともない顔で彼に抱きついたことも。彼はそうい う意味で聞いたのではないだろうし、こんなときに恋愛脳でいるの はアホらしいとは思うが、この誤解も解いておきたかった。しかし 今にも思考が停止しそうな頭でうまいことを言えるはずもなく。 ﹁よくわからない⋮⋮なんか、ショックでぼーっとしちゃって﹂ ﹁そうか﹂ 実際そうであったのだが、こんな煮え切らない答えでも佐伯くん は深く掘り下げてこなかった。しかし彼の端正な顔に何か複雑な感 情がよぎった気がして、この張り詰めた空気をどうにかしようと考 えを巡らす。 ﹁佐伯くんはすごいよ⋮⋮﹂ 目を見開いて不思議そうにする彼に、自分でもよくわからないこ とを言いだしてしまった手前引っ込みがつかず、そのまま続ける。 ﹁私、須藤くんのこと本当に考え切れてなかった⋮⋮。自分が自分 じゃなくなるかもしれないっていう不安を抱えて私たちといるのが どんなに辛いかとか。何もわからなかった﹂ 言いながら、自分の言葉に違和感を感じる。何も知らない奈美さ んや相田くんの前で平然を装って恐怖にたえるのは苦しいだろう。 でも須藤くんだって一人は怖いに違いない。須藤くんは強いけどゾ ンビの大群には太刀打ちできないだろうし、そういったゾンビの恐 417 怖を一人で乗り越えなければいけないのだ。ここになら彼の秘密を 共有している私や佐伯くんがいる。やはり、引きとめるべきなので はないか。佐伯くんに話しかけておきながら一人考え込んでいると、 はっと声がした。 驚いて目を向けると、俯き気味に頭を垂らして佐伯くんが突然笑 い出した。大声ではないが、それでも彼にしては感情を思い切り吐 き出して。あまりのことに呆然としている私をよそに彼はなおも笑 い続ける。いつもの彼との変わりように恐怖に似たものを感じてい ると、ようやく笑いがおさまった彼が一言軽く謝罪する。 ﹁反省なんかしなくていい。皐月さんの考えは正常だ。今のこの世 界においても美徳だ⋮⋮変わりない﹂ そんなこと、と言おうとしたところで続く彼の言葉に遮られる。 ﹁君もわかっているだろうが、俺は須藤のことなんてちっとも考え ていなかったよ。ただ自分たちが安全に確実に生き延びることだけ を考えて行動しているだけだ。事務的に、機械的に⋮⋮。昔からそ うだ︱︱他者の痛みを感じないし、俺自身も感情が薄い。周りに溶 け込むために何かを感じてる風をわざわざ装うことだってある﹂ 自嘲気味に、しかし今までにないくらい生き生きと話す佐伯くん に圧倒されて、ただただ受け身に彼の話を聞く。だんだんと目の前 に立っているのが私が知っている佐伯くんではない気がして、目が 眩んできた。しかし、彼の言葉にどうしても引っかかることがあっ た。 ﹁じゃあ⋮⋮佐伯くんの家で清見さんと寺崎くんの死を悲しんだの は⋮⋮さっきの凛太郎くんのは、演技だったの?﹂ 418 それを勢いで尋ねてしまえたのは私も疲れで平常心ではなかった からだろう。聞かれた佐伯くんは少し眉をひそめて考えた様子を見 せると、言い切った。 ﹁自分にもわからない﹂ あまりにも衝撃的で、頭がくらくらしてきた。佐伯くんの言葉を すべて真実と受け取るならば今まで見てきた彼は偽りだったという ことになる。ここで不思議と自身が彼に抱いていた想いがはっきり と意識された。私は佐伯くんのことが好きなんだ。そう思うと須藤 くんのことも合わさって一気に喪失感が押し寄せてきた。⋮⋮今の 佐伯くんはおかしい。そう心の中で呟くと同時に彼が尋ねる。 ﹁俺はおかしいだろう﹂ 何も返すことができなかった。ただ自分を落ち着かせるため、心 の中でしきりに言い聞かせていた。この異常な世界で、普通に見え る人もみんなどこかでおかしくなってる。きっと彼は今疲れている んだ⋮⋮。 ﹁今からでも寝た方がいい。行こう﹂ 私が黙っていると別に何も感じていない様子で彼が言った。それ からどうやって部屋まで戻ったのか覚えていないが、いつの間にか 私は眠りに落ちていた。 419 第五十話 離脱 朝七時、公民館の裏庭に私たちは集まった。凛太郎くんの埋葬を しに来たのだ。周辺の住宅街からは物音ひとつ聞こえない。正面の 道路に集まっていたゾンビは明るくなる前にどこかへ行ったようだ った。 いつの間にか部屋に戻って寝てしまっていた私は、眠りはじめて そう経たないうちに奈美さんに起こされた。以前はとんでもなく寝 起きが悪かったがゾンビが現れてからというもの朝早くでも割とす んなり目が覚める。今日はさすがに起こされてしまったが、目が覚 めると同時に胸を刺す嫌な記憶に眠気などどこかへいってしまった。 敷地内の花壇に咲いていた花を凛太郎くんの埋められた土の上に そっと供え、手を合わせて目を閉じる。きちんとした墓石なんてな い。もちろん火葬だってしていない。ゾンビのように真っ白な肌で あることを除けば眠っているような凛太郎くんの顔に土をかぶせる 時、なんともいえない嫌な感じにおそわれた。僅かに開いた口に土 が入ってしまわないだろうか⋮⋮もう彼は死んでしまっているのに、 そんなことを考えてしまう。 以前の社会にしてみれば、一人の人間が死んだというのにこんな 粗末な埋葬の仕方など考えられないだろう。しかし今の世界ではこ ういった形式を整えて葬られる人なんてほとんどいない。死んだら そこらの道端に無残な死体をさらすか、生ける屍となって死んでも なおこの世をさまよい続ける。 本来ならば凛太郎くんはどんなお葬式をされたのだろうか。きっ と多くの人が最後の別れをしにきただろう。死を悔やんで泣いただ 420 ろう。罪のない少年が殺されたのだ。マスコミの報道陣が詰めかけ て警察が犯人を追いつめ、法が犯人を裁くだろう。 こんなふうに以前の社会のことを考えたって無駄だ︱︱あの日々 は帰ってきそうもない。しかしこんなことってあるだろうか⋮⋮。 誠が置いた墓石代わりの少し大きめの平たい石を見る。隣の誠は声 を押し殺して泣いている。理不尽で、無慈悲な世界だ。自分の頬に も熱いものを感じて、涙などそろそろ枯れ果てる頃だろうと思って いたが、まだ湧いて出てくることに驚いた。 建物の中へ戻る途中、奈美さんが話しかけてきた。 ﹁そういえば皐月ちゃん、須藤知らない?﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ たしかに、見かけていない。朝起きたときにはもう部屋にいない 人も何人かいたので、須藤くんは先に凛太郎くんの埋葬に行ってい るのとばかり思っていた。しかしさきほどまでの記憶をたどるも、 裏庭に須藤くんの姿はなかった。 ﹁奈美さんは朝からみてないの?﹂ ﹁うん。まったく、こんなときに腹でもくだしてるのかなあいつ。 後でお墓参りするよう言っとかなきゃね﹂ ﹁⋮⋮やばいかも﹂ ﹁え?﹂ 嫌な予感しかしなかった。朝北山さんたちに話すと言っていたか ら、てっきりまた会って話せると思っていた。困惑する奈美さんに なんとかいってごまかして、部屋を目指し走った。 421 部屋までは少しの距離だったのに、板の間に飛び込んだ時には息 が荒くなっていた。部屋を見渡す。⋮⋮いない。 ﹁⋮⋮あんたも朝から落ち着きないな﹂ 頭が真っ白になりながらも声がした方を向くと、けだるそうに壁 にもたれかかる倉本さんがいた。 ﹁倉本さん、須藤くん知りませんか⋮⋮?﹂ ﹁ああ、あいつか。出てったよ。たしか明け方⋮⋮あんたと佐伯が どっからか戻ってきて眠りについた頃だったかな﹂ さらりと返され、言葉が詰まってしまった。倉本さんがあの時起 きていたことも少し気になったが、それよりもやはり、もう既に須 藤くんは行ってしまっていた。ほんの僅かな望みを胸に須藤くんが 寝ていた場所に目をやるが、彼の武器の斧はなくなっていた。身体 からすっと力が抜ける。まさかこんな別れになるだなんて。須藤く んはまた会えると言ってくれたが、理不尽で無慈悲なこの世界で私 はもう夢を見れなくなっていた。 ﹁なんだ、あいつ噛まれてたのか?﹂ 平然と言ってのける倉本さんに余裕のない心が苛立つ。うなだれ ていた頭をもたげると、こちらを見据える倉本さんと視線がかちあ った。 ﹁噛まれてませんし、須藤くんはすぐ戻ってきますから!﹂ 精一杯の強がりは脆くもすぐに崩れ落ちてしまいそうで、私は逃 げるように部屋を飛び出した。そのまま気が向くまま廊下を早歩き 422 で進む。立ち止まればどんどん暗い気持ちになってしまいそうな気 がした。早歩きのスピードを緩めず角を曲がると、迷彩色が視界に 飛び込んできた。驚いて歩みを止めるも遅かった。 ﹁あ、ごめんなさ⋮⋮いたっ!﹂ 勢いよく激突してしまい、衝撃で廊下にへたりこんでしまった。 お尻が痛い。心も痛い。なんだかもういやになってきた⋮⋮。年甲 斐もなくこんなことでじわじわと視界が霞む。 ﹁大丈夫、そんな痛かったかい?﹂ 少しおかしそうにして手を差し伸べてきたその人に引き上げても らう。慌てて涙を拭い向き直って礼を言うと、その人︱︱加賀谷さ ん︱︱は細面の顔に微笑みを浮かべた。 ﹁どうしたの。こっちは武器庫以外何もないよ﹂ 壁に手をつき立ち塞ぐようにして見下ろしてくる加賀谷さんから は威圧感が感じられた。にこやかではあるが、きつい印象の吊り目 は笑っていない︱︱新参者で、しかも早々に問題を起こした私たち は警戒されているのかもしれない。 ﹁いえ、ごめんなさい。迷ってしまったんです⋮⋮﹂ ﹁そう、じゃあこれからは気をつけて。また夜みたいなことがない とは言い切れないから⋮⋮﹂ 加賀谷さんの言葉にどきりとする。ひきつった顔をしているであ ろう私をよそに、加賀谷さんは心なしか楽しげに見えた。さっきの 倉本さんといい、同じ人間でさえ苦しみを分かち合えないのだろう 423 か。その場を取り繕う余裕などなかった。彼に背を向けると急ぎ足 で元来た道を引き返す。後ろから視線が追ってくるような気がして、 勢いよく曲がり角を飛び出し︱︱。 ﹁いたっ!﹂ またぶつかった。今度は誰だろう。倉本さんだったらもういやだ。 しかしそんな私の嫌な予想は覆された。 ﹁あ、いたいた! 探したんだよ。 須藤いた?﹂ 奈美さんの顔を見たら一気に安心して、思わず彼女の胸に飛び込 む。奈美さんはびっくりしたようだったが、そっと抱きしめかえし てくれた。ゾンビが現れてからというもの、外人ばりにボディタッ チが激しくなった気がする。外人さんたちも自由奔放でタフなイメ ージとは裏腹に、他者との繋がりで寂しさを和らげようとしていた のだろうか。 ﹁⋮⋮いなかった。後で話すけど、英雄くんはもう戻ってこないか もしれない﹂ ﹁え? それ、どういうこと﹂ そう聞かれてはっとする。皆にはどうやって説明すればいいんだ ろう。とりあえず彼女から離れて、向かい合う。心配そうに見つめ てくる奈美さんに、なおさらどういえばいいのかわからなくなって しまう。 ﹁わかった、あとで話そう。それより、北山さんが集まってって。 今の状況とか今後のことについて話すみたいだよ。行こう﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 424 奈美さんに手を引かれて今度はゆっくり歩き出す。 完璧な平穏などない毎日︱︱それは以前も同じだっただろうか。 しかし今は悲しみや苦しみを忘れられる逃げ場などないに等しい。 生きようとするならば、逃げることは許されない。ただ、以前より もずっと人とのつながりは深まっている。ひとりひとりの存在が比 べ物にならないほど大きくなっている。逃げずに生きようとするな らば、ぬくもりを感じるこの手を離してはいけない。 425 登場人物紹介5 きたやまそういちろう ・北山壮一朗 自衛隊隊員 180? 公民館の避難民を統率するリーダー。厳格で時に非情だと思われが ちだが、冷静な判断力をもち避難民への配慮も忘れない優れた人物。 47歳。 しばさきはじめ ・柴崎一 自衛隊隊員 176? 若い自衛隊員。自信なさげでどんくさいところがあり、少々頼りな い人物。心優しい人物であるがゆえに利用されてしまうことも。2 5歳。 かがやこうじ ・加賀谷孝司 自衛隊隊員 178? 若手の中では屈指の実力を誇る自衛隊員。しかしその人間性ゆえに 自衛隊員内でもなかなか信頼を得ることはできなかったようだ。に こやかだがつかみどころがなく、読めない人物。射撃が得意。27 歳。 426 第五十一話 情報 うっかりですむ問題ではないぞ!﹂ ﹁柴崎! 貴様また警備の任につきながら出入りする者を見逃した と言うのか! 北山さんの怒号が鼓膜を激しく震わせる。凛太郎くんの埋葬を終 え北山さんに呼び出された私たち︱︱須藤くんを除く︱︱九人は一 つの部屋に集まっていた。あまりの迫力に息をのむ私たちの正面に は青い顔をした柴崎さんが俯いている。 ﹁⋮⋮本当に申し訳ございませんでした。建物周辺のゾンビが一斉 に移動を開始したので、そちらに気を奪われてしまい⋮⋮﹂ ﹁言い訳はいい!﹂ どうやら今朝公民館の入り口付近の見張り番をしていたのは柴崎 さんだったようだ。部屋に入ってすぐ北山さんに須藤くんがいない ことを指摘された。すぐばれることだし隠し通すわけにはいかず、 彼が公民館から出ていったことを話すと、すぐに柴崎さんが呼び出 された。凛太郎くんが殺されたときも柴崎さんがその場にいたこと もあり北山さんの怒りは激しかったが、説教はそう長くは続かなか った。 ﹁もういい、持ち場に戻れ。だがもう次はないと思えよ﹂ 過去にとらわれ一時の感情にまかせてしまってはさらなる悲劇を まねくだけ。北山さんはそれを知っているのだ。ただでさえ十分に 戦闘力が期待できる自衛隊員は三人と少ない。こうしていつまでも 停滞しているわけにはいかない。動かなければ、進まなければなら ない。 427 ﹁⋮⋮今後は決してこのような失態など犯しません。皆さんも申し 訳ございませんでした⋮⋮。失礼します﹂ 深く礼をして柴崎さんは部屋から出て行った。何気なく隣の沙莉 南ちゃんを見ると、彼女は冷めたような視線を柴崎さんが消えた扉 に送っていた。確かに頼みの綱であるはあずの自衛隊員があれでは 少し不安ではある。 ﹁さて、待たせたな。本当に柴崎が申し訳ないことをした。私から も謝罪する⋮⋮。しかし、その須藤英雄はなぜここから立ち去った のだ? 感染は確認できなかったと記憶しているが⋮⋮﹂ 奈美さんたちが顔を見合わせる。彼女たちは何も知らないのだ。 どうしよう、なんと言おう。正直に言ってしまってはまずい。須藤 くんが帰ってこれなくなってしまうかもしれない。傷は消えていた のだから化け物に接触したことは隠すことができる。しかし。 斜め後ろに立つ佐伯くんをちらりと見る。平静な態度を保つ佐伯 くんは何を考えているのか読めないが、須藤くんがこの付近で化け 物化したときの危険性を考えてさらりと本当のことを言ってしまう かもしれない。視線に気付いた佐伯くんと目が合い、慌てて正面に 向きなおる。 ﹁その、あたしたちも何も知らないんですよね⋮⋮。ねえ、本当に 須藤は出て行っちゃったの? 皐月ちゃん﹂ 私も佐伯くんも口をつぐんでいると、まだ事態をのみこめていな い様子の奈美さんが私に尋ねてきた。そこを誤魔化しても仕方ない と、小さく頷く。奈美さんは信じられない、と訝しげに眉をひそめ 428 る。 ﹁彼が出て行った理由は誰も知らないのだな?﹂ 再度北山さんが尋ねる。そうだ、このまま黙っておけばいいのか もしれない。そして彼が帰ってきたときに適当な嘘をついてもらえ ばいい。 ﹁彼は⋮⋮﹂ 背後からの佐伯くんの声に背筋が凍りつく。やばい、言う気だこ の人! ﹁えっと、その、家に帰りました!﹂ 佐伯くんが言い切らないうちに先手をうつ。こんな大きな声が出 せたんだ私。まわりの皆がぽかんとしている空気を感じながら反応 を待つ。後ろの佐伯くんが即座に言い返してくるかと思ったが、彼 は再び口をつぐんでしまった。 ﹁家に帰った、と⋮⋮。近所に家があって家族の安否を確認しに行 ったと解釈していいか?﹂ ものわかりがいい北山さんに必死に頷き返す。北山さんは張り詰 めた表情を崩し呆れたような表情を見せる。 ﹁気持ちはわかるが馬鹿なことをしたものだ⋮⋮。君たちが逃げて きた大量のゾンビの襲撃を受けた高校はここから遠くないというの にな。ところで君、何か言いかけていなかったか?﹂ 429 再び心臓が跳ね上がる。もう止められそうにない⋮⋮。 ﹁⋮⋮いえ、彼女と同じことを言おうとしただけです﹂ 覚悟を決めていた私は拍子抜けした。もしかしたら佐伯くんはも ともと誤魔化してくれる気だったのかもしれない。昨日の彼の様子 はやはり疲れからくるものだったのか。知らず知らずのうちに周り の人に対しても疑心暗鬼になっているのかもしれない。 ﹁わかった。彼が戻ってきたときは、家族も連れてきた場合はその 家族も、感染していないか確認をとらせてもらうぞ﹂ ⋮⋮うまくいった。一気に肩の荷が下り気持ちが楽になったのを 感じる。まぁこんな気持ちも一時的なものではあるが。 ﹁北山さん。それで、何のお話でしょうか﹂ ﹁ああ。今後のことを説明させてもらおうと思ってな﹂ 佐伯くんに促され北山さんはもとの用件を話し始めた。この公民 館には50人近くの人々が避難してきていて、北山さん、柴崎さん、 加賀谷さんの3人の自衛隊員が安全面を管理しているということ。 自衛隊本部とも連絡が取れており、移住地が決定し次第避難民の輸 送を開始する手はずになっていること。しかしそれがいつになるか まだわからず、それまでこの公民館で過ごさざるを得ないこと。 不安定な環境には違いないが、この国の中枢と繋がっていて守ら れているというのは大きい。しかし大きな問題があった。 ﹁︱︱人手不足、だ。最初に話したと思うがな。避難民の君たちの 前でこんなことを言うのもなんだが、安全面でさえ私たち3人では 430 心許ないくらいなのだ。ましてや変異体が近くまで来ているとあっ てはな⋮⋮。避難民たちもゾンビとの対峙は免れ得ないだろう。戦 い慣れている者は主戦力に数えてさせてもらいたい。君のような青 年は特にだ﹂ 相田くんが強張った身体をびくっと震わせる。が、北山さんが視 線を送ったのは明らかにその隣の佐伯くんだ。 ﹁あと、いざというときのために一部の避難民には銃の使い方を教 えている。もちろん見込みがあり精神的にも安定していると判断し た者だが。君たちの何人かも招集をかけるかもしれない﹂ 相田くんがそわそわしだす。と、今度はスルーされなかった。 ﹁ん? 君、銃の心得があったりするのか?﹂ ﹁あ、は、はい! ええと⋮⋮射撃の経験が少し⋮⋮﹂ もじもじと返答する相田くんに、どこの有閑階級だよ、と奈美さ んがぼやく。でもスリングショットなんて使いこなしてる相田君だ。 銃を使ったことがあったって不思議でもなんともない。 ﹁では有力候補に数えておこう﹂ ﹁なあ、それよりもここから移動した方がいいんじゃないか﹂ なんとも突飛な提案を口にしたのは倉本さんだ。 ﹁変異体、ここからそう離れてないだろ。ならなんで遠くに逃げよ うとしない。人数が多くとも装甲車で小分けにすりゃどうとでもな るだろ﹂ ﹁たしかに⋮⋮﹂ 431 加世ちゃんが声を漏らす。私も納得してしまった。自衛隊に守ら れた高校でさえ壊滅させられた︱︱ここだってたやすく突破される だろう。なぜ変異体から遠くに逃げようとしないのか。 ﹁理由はいくつかある。まず一つ。安全な移動先が確保できていな いからだ。先に言った通り人手不足でな⋮⋮いくつか移動先の候補 はあったがそこにいるゾンビを一掃するほどの戦闘力を割くことが できないでいる。そして二つ。避難民の多くが精神的に不安定でこ こから離れることを拒否している。命からがら逃げてきて、もう外 に出たくない者⋮⋮、元々この近所に住んでいて生存しているかも しれない家族とまた会えるかもしれないと希望を抱いている者⋮⋮。 とにかく、多くの者がここから離れたくないの一点張りなのだ﹂ 避難民たちの気持ちはわかる。命の危険に晒されて、見知った人 々を殺されて、ただでさえ立ち止まって泣いていたい気分なのだ。 以前の生活からは考えられない体験︱︱人の姿をした恐ろしい化け 物から捕食対象として見られ襲われてきた者たちは、手に入れた平 穏をもう二度と手放したくないだろう。それだけ北山さんたちが居 心地のいい場所を提供してくれているのだ。 ﹁そして三つ⋮⋮これは移動できない理由ではないのだが。つい先 ほど変異体の生態に関する情報が発表された﹂ この場の全員が北山さんの言葉に集中する。誰もが思っていた︱ ︱変異体とは一体何なのか。映画や漫画の中でしか見たことない、 既知の生物から遠く離れたおぞましい姿。まさにモンスターの一言 に尽きる。皆あの存在に怯えながらここまで来た。 ﹁変異体は人が多く集まる場所を狙う。それも、政府に避難場所と 432 して指定された場所を中心的にだ。これが意味することは何か。あ れは人工的につくられた生物だということだ﹂ 思わぬ話の展開に息をのむ。政府に指定された避難場所を襲う⋮ ⋮? 裏に変異体をあやつる人間がいると言うのか。 ﹁変異体の解剖の結果⋮⋮奴の身体からはゾンビと同じ細胞が検出 された。脅威的なスピードで繁殖し、破損部分を再生⋮⋮捕食に必 要な身体能力を維持するゾンビ細胞と呼ばれるものだ。では奴がゾ ンビと違う点は何か。変異体から見つかった人間にはないもう一つ のモノ。毛細血管の中でさえ通る微小なナノマシンの存在が判明し た。詳細はまだ不明だが、どうやらそれが変異体の行動に影響を与 えているらしい﹂ ﹁SF映画みたいだ⋮⋮﹂ 誠がつぶやく。本当にそうだ。毛細血管を通るナノマシン? ま だ医療でも応用されていない技術ではないか。技術は軍事面から発 達するとか聞いたことがあるが、まさかそこまで先を進んでいると は思わなかった。 ﹁ゾンビって一体なんなの⋮⋮﹂ 皆が奈美さんと同じことを思っていたに違いない。 ﹁あれもまた人為的に発生させられた生物だろうな。噂だが、海外 には感染が一切確認されていない国があるらしい。さらにはもう既 に治療薬が開発されているとか。当然その国を黒幕だとする説もあ る﹂ 433 沈黙が広がる。仮説だろうが、もしそんなことがあったとしたら ⋮⋮その国を絶対に許せない。 ﹁柴崎さんがゾンビが一斉に移動したと言っていましたが⋮⋮ここ に来るまでもゾンビが集団で建物に押し掛けてくることが数度あり ました。もしかして奴らは集団行動を︱︱﹂ ﹁いや、ゾンビにそのような知性はないだろう﹂ ﹁ではやはり、変異体が? 奴は必ず大勢のゾンビを引き連れて襲 ってきますよね﹂ ﹁変異体のゾンビ指揮能力については今調査中だ。だがゾンビを統 制するなんらかの力を持っていることは確かだな。おそらく先ほど のナノマシンに関係するだろうな。研究が進めばゾンビを無力化す ることも可能かもしれない﹂ ゾンビの無力化。尋ねた佐伯くんだけではなく誰もが表情に期待 を滲ませた。それを感じ取ったのか北山さんは僅かにうつむき首を 振る。 ﹁⋮⋮まだ不確かなことだ。過信はよそう。私も喋りすぎたな。ネ ットにこれ以上の陰謀説は腐るほど出回っているが、私が話したこ とも今の時点ではそれらと変わらないほどあてにならない情報だと 考えてくれ。どちみち我々には到底手が及ばないこと⋮⋮それまで 生き延びることができるかが先だ。とにかく、変異体が政府の発表 した避難所を中心に襲うならここはまだ目をつけられていないかも しれないということだ。さて、私が君たちを呼んだのはもう一つあ ってだな︱︱﹂ ﹁あの、最後にひとつ聞いてもいいですか⋮⋮?﹂ 次に進む空気を壊したのは⋮⋮私だ。 434 ﹁変異体に噛まれたら⋮⋮どうなるんですか﹂ 北山さんは少し考えているようだった。 ﹁確かなことは言えないが⋮⋮ゾンビと変わらないだろうな。ただ、 発症は早いかもしれない。変異体は注射だか投薬だか飲食物に混入 していたかはわからないが、直にナノマシンとともにゾンビ細胞を 注入されているだろうからな。あの奇怪な姿はゾンビ細胞の繁殖力 が強いことの表れだ﹂ そう聞いて、思わず口が緩んだ。今の時点で外見に変化があらわ れていないのならば⋮⋮須藤くん、本当に助かるかもしれない。そ んな私の様子を北山さんは不思議そうに見ていたが、すぐに話を続 けた。 ﹁さあ、話をもどそう。この避難所の事情についてだ。50人分の 食料や医療品⋮⋮ここに備えてあった物資はもうじきに尽きる。そ こでだ、君たちの中から数人物資調達に協力してもらいたい﹂ 435 第五十二話 選出 北山さんの要望は当然とまではいかなくとも、十分予想できるこ とだった。特に反対することなく落ち着いた反応をかえす私たちに 安心したのか北山さんは話を続けた。 ﹁ここからそう離れていない場所に大型のスーパーマーケットがあ る。移動は装甲車で片道10分足らずだ。そこで飲食物、衣料品、 日用品などを調達してもらいたいのだ。避難民の中から6、7名ほ ど協力してもらい、我々からは加賀谷が同行し調達班を統率するこ とになっている。君たちからは⋮⋮そうだな。3名ほど来てもらい たい﹂ ﹁それ、危なくないですか? だって土曜日でしたよね⋮⋮急に人 がゾンビ化し始めたのって。だったらそんな大きなスーパー、ゾン ビだらけになってるはずじゃ﹂ 奈美さんがさすがに困惑した様子で北山さんに問いかけた。たし かに、ごもっともだ。大学こそ普段より人が少なかったが、そのほ かの場所⋮⋮デパートやアミューズメント施設、夕方ともなればス ーパーは平日以上に混雑する。ゾンビが大量発生していてもおかし くない。 ﹁気を抜けば犠牲者が出るだろう。しかしまぁ安心してほしい。君 たちには運搬を手伝ってもらいたいのであって、積極的に戦っても らうわけではない。戦闘は加賀谷に任せてくれ。武器は十分に備え てあるし、同行する加賀谷は戦闘力でいえば隊員の中でも群を抜い ている。そしてスーパーはもちろんあらかじめ偵察済みだ。ゾンビ は多いが、十分に安全を確保しながら進めるだろう﹂ 436 自衛隊の北山さんの言うことには説得力がある。奈美さんもそ れ以上不安を口にすることはなかった。 ﹁⋮⋮というわけで、協力してもらえるかな﹂ 各々が頷き、北山さんはほっとした顔をする。なんて私たちは ものわかりのいい人たちだろう︱︱わざわざ危険に飛び込むことを 了承するだなんて。こう説明されても断固拒否する避難民も少なく ないに違いない。しかし、誰かが彼らの力にならなくては自分達の 命に関わる。これは自衛隊の人たちに守ってもらうための対価だ。 ⋮⋮その恩恵が凛太郎くんを殺した奴の分も行き渡ると思うと癪だ けど。 こちらの希望としては⋮⋮ ﹁よかった。君たちの協力が得られて安心したよ。で、早速三人を 決めてもらいたいんだが。そうだな⋮ 佐伯くんとそこの君にはぜひとも来てもらいたい﹂ 佐伯くんは準戦闘員としてほしいところだろうと思っていたが、 もう一人指名を受けたのは倉本さんだった。体格のいい大人の男性 となるとそうなるのだろう。 ﹁僕は構いません。倉本さんは?﹂ 佐伯くんが確認をとる。倉本さんは気だるげな目を佐伯くんに向 けると、ぼそっと呟いた。 ﹁ああ。⋮⋮暇つぶしにいい﹂ 暇つぶしって。倉本さんは相変わらずよくわからない。意地 悪だったり、協力的だったり。彼の隣の誠も加世ちゃんも苦笑いを 437 こぼす。 と、加世ちゃんの姿に目がとまった。顔が青白い。そうだ、ずっ と一緒にいたお婆ちゃんが亡くなったのは昨晩のこと。あれから彼 女は休む間もなく生き残るため危ない場面を切り抜けてきた。無理 をしているに違いない。今日はゆっくり休ませてあげたいところだ。 ﹁二人は決まったな。ではあと一人だ。昨晩の時点では出て行った 彼に来てほしいと思っていたんだがな。まあ仕方がない。誰か希望 者はいるか?﹂ ﹁じゃ、じゃあ僕が行きます﹂ あちらにも希望があるとしたら私が立候補したら逆に迷惑かな、 と考えていると、相田くんがおずおずと手をあげた。北山さんがう うむ、と眉を寄せる。 ﹁そう⋮⋮だな。⋮⋮いや、すまん。君には残ってほしい。今日の 日中に銃の使い方を教えておきたいのだ﹂ 拒否されたようで相田くんはショックを受けていたが、銃の話が 出ると瞳を輝かせた。 では、どうしようか。残りの五人で目配せしあう。少し考えてい た奈美さんが﹁あたしが﹂と口の動きで伝えようとしている、その 時。 ﹁じゃあ俺が行きます﹂ ﹁いや、私が!﹂ まだ目配せしあいっこの途中だったのに急に名乗りあげた誠に、 438 私も続く。 ﹁ふむ⋮⋮有志を募っていて悪いが、できれば男性の方が望ましい な。君、来てくれるか?﹂ ﹁あ、でも。えっと。わ、私の方がゾンビ慣れしてますから﹂ 誠になりそうな流れだったが、とりあえず言っておく。やはり姉 として、誠を行かせたくない思いがあった。それに、親友の凛太郎 くんを失って今朝埋葬したばかり。誠の精神状態を考えると行かせ てはいけない気がした。 ﹁ほう。君はゾンビを殺したことはあるのか﹂ ﹁はい⋮⋮!﹂ 北山さんが感心したような素振りを見せる。そして、誠の方を向 く。 ﹁君は﹂ ﹁⋮⋮いえ﹂ ﹁じゃあお姉さんの方に来てもらおうか。女性の入り用のものはや はり女性がよくわかっているだろうし、一人いた方がいいな。うむ、 その方がいい。﹂ 納得したように北山さんが言う。 これで三人が決まった。北山さんは同行する三人の名前をメモに とる。 ﹁⋮⋮よし。佐伯くん、倉本くん、伊東皐月くんだな。よろしく頼 むぞ。出発は10時だ。それまでは自由にしていてくれて構わない。 439 朝食は部屋に届けてあるから食べてくれ。では、解散だ﹂ 解散の言葉を聞くや否や倉本さんは部屋から出て行った。相田く んは北山さんに個人的に呼びとめられていた。銃の話だろう。 部屋に視線を巡らせると、佐伯くんと目があった。昨晩のことも あり気まずい感情はあったが、一緒に調達に行く以上なにか話さな くては。そんな気持ちになったところで佐伯くんが目をそらす。沙 莉南ちゃんが彼の服の袖を引っ張っていた。 ﹁皐月、ごめんね﹂ ﹁え、なにが!?﹂ 突然別の方向から話しかけられ、反射的に反応してしまった。振 り向くと、奈美さんが申し訳なさそうな顔をしていた。 ﹁調達といっても危険は危険じゃない。皐月だけ女の子代表で行か せちゃって⋮⋮本当にごめん﹂ ﹁そんな⋮⋮大丈夫大丈夫! 私奈美さんより二日くらいゾンビ歴 長いし﹂ ﹁そんなこと言って。しないと思うけど、絶対油断しちゃだめだよ。 無事に帰ってくるんだよ﹂ 心配そうに見つめる彼女に笑顔で頷く。 ﹁なにがゾンビ歴だよ﹂ 奈美さんの後ろからひょいと顔をのぞかせて、誠がささっと寄っ てくる。 440 ﹁別に俺でもよかったのに﹂ ﹁強がんなくていいの。きっと望んでなくたってこれから働かなき ゃいけなくなるよ。今日はゆっくり休んで﹂ ﹁だけど﹂ 強気な言葉と裏腹に誠の顔は元気がなく、お腹からはぎゅるると 音が鳴った。壁に掛けられた時計を見る。今の時刻は午前8時。出 発まであと2時間ある。それまでに朝食をとらなくては。 ﹁部屋に戻ろうか﹂ 奈美さんの提案に私も誠も頷く。帰ろうとしていると話を終えた らしい相田くんがこちらに来た。 ﹁⋮⋮須藤、大丈夫かなぁ﹂ ﹁ほんと、馬鹿だよあいつ。なんで一人で行くのかな⋮⋮﹂ ﹁俺も心配です⋮⋮﹂ 皆口々に須藤くんへに心配の気持ちを口にする。 ﹁⋮⋮皆に迷惑かけられないって、一人で行ってくれたの。大丈夫、 須藤くんなら無事に戻ってくると思う﹂ ﹁まあ簡単に死ぬような奴だとは思わないけどさ﹂ 私ももちろん心配だ。真実を知っているだけに、なおさら。安心 させるために自分で言っていて不安になってしまう。そんな思いを 払拭しようと考えを巡らせる。そう、何か他にも気がかりなことが あったのだ。 その時、どさりと背後で音がした。どきっとして振り返るとそこ 441 には。 ﹁会長!﹂ 誠が叫ぶ。加世ちゃんが床に倒れていた。焦る気持ちで彼女に駆 け寄る。辛そうに荒い息を吐く彼女のおでこに手を当てると、すご い熱だった。 ﹁小峰さん⋮⋮大丈夫か?﹂ 部屋の外から佐伯くんが駆け付ける。北山さんも一緒だ。 ﹁ううむ⋮⋮かなりの高熱だな。医務室へ連れて行こう。佐伯くん、 彼女を運べるか?﹂ ﹁はい﹂ 佐伯くんは半ば意識のない加世ちゃんを抱き上げると、そのまま 北山さんと一緒に部屋を出て行った。 ﹁加世ちゃん⋮⋮大丈夫かなぁ﹂ ﹁こんな世界になってもこれまでの病気も変わらず存在するんだね ⋮⋮本当にひどい世界だよ﹂ 北山さんの話の最中も青白い顔をしていたので気になっていたが、 倒れるほどだったとは⋮⋮。彼女は強い子なのできっと朝起きてか らずっと我慢していたのだろう。しかしいつまでもこの部屋で立ち 尽くしているわけにもいかず、私たちは朝食をとりに自分たちの部 屋へ戻った。 * 442 ビニール袋に詰まっていた菓子パンをかじっていると佐伯くんが 戻ってきた。加世ちゃんは40℃以上の高熱を出していて、疲れか らくるものだろうということだった。今は安静にして寝ているよう だが、どうやら医療品も不足しているようだった。 ﹁姉ちゃん⋮⋮会長のためにも何かスーパーから持ってきてよ﹂ 私も考えていたことだった。大きいスーパーなら何でも揃ってい そうだ。 ﹁うん、加世ちゃんの病気に効く物持ってくるよ﹂ ﹁そうだな。後で加賀谷さんにも話しておこう﹂ すぐ近くから佐伯くんの声が聞こえてどきっとした。振り向くと 既に支度を済ませた佐伯くんが壁にもたれて立っていた。慌てて残 りのパンを口いっぱいに頬張る。 ﹁ああ、急がなくていい。すまない急かしてしまって。ただ俺は加 賀谷さんと話したいことがあるから先に行っていようと思う﹂ 手でちょっと待って、と彼に伝える。私も時間に余裕を持って行 って自衛隊の人と話がしたかった。咀嚼しながら鞄から警棒を取り 出す。私たちの仕事は物資の運搬なのだからそのほかのものはいら ないだろう。とりあえず警棒を片手に立ちあがった。 ﹁よろしくね、二人とも。絶対無事に帰ってきてよ﹂ ﹁無理はしちゃだめだよ﹂ ﹁姉ちゃんも佐伯さんも気を付けて﹂ 443 声をかけてくれる仲間たちに笑顔で返す。 ﹁気を付けてくださいね?﹂ 沙莉南ちゃんが扉の近くまで来て、佐伯くんをまっすぐに見て言 う。佐伯くんは彼女に優しく微笑み返す。昨晩自覚した彼へのほの かな恋心は叶うことはないかもしれないな、と二人を眺めていて思 う。他にも複雑な感情が単純に彼を好きだと思えなくさせてはいる けど。 ﹁行こうか﹂ はっと我に返り、部屋を出る彼に続いた。 廊下を歩いている間佐伯くんも何も話さなかったし、私も声をか けれずにいた。彼の少し後ろを歩いていると、急に彼が立ち止まり 私の行く手を遮った。 ﹁ど、どうしたの⋮⋮?﹂ どぎまぎしながら問いかける。答えない佐伯くんを不思議に思い 前方を見ると、見覚えのある顔の男が立っていた。 ﹁あっ﹂ それが誰だかわかった時、思わず声を上げてしまっていた。同時 によみがえる忌々しい記憶。無意識に顔を歪めてその男を睨んでい た。たしか浜崎という名前の︱︱凛太郎くんを殺したあいつだった。 ﹁なにか用ですか?﹂ 444 佐伯くんの制止を振り切り話しかけていた。男はびくっと身体を 震わせると、視線を逸らした。 ﹁⋮⋮便所行くだけだよ。あんたたちに用はねぇよ﹂ そう言い残しそそくさと去るその男の後ろ姿をしばらく眺めてい た。憎い、と思った。 ﹁皐月さん﹂ 話しかけられ、私も男のように身を震わせる。別に私にはやまし いことなどないはずなのに。 ﹁⋮⋮あっ。ごめん、行こうか﹂ ﹁今朝から少し変だな﹂ ﹁え?﹂ 無表情のような、僅かに笑っているような微妙な顔で佐伯くんは 私を見てくる。逃れられない気まずさを感じ思わず一歩後ろに下が ると、彼はふっと苦々しい笑みをこぼした。 ﹁怯えているのか?﹂ そう聞かれてやっと自分の心境を理解した。昨晩三人で話したあ の時から佐伯くんのことが恐ろしかったのだ。 大学の校舎で出会った彼は冷静でたくましくて、他人に優しい頼 れる人だと思った。実際彼は何人もの人を危機から救ってきたし、 私も彼に何度も救われた。しかし昨晩彼が笑いながら聞かせた話に、 445 私の中の佐伯くん像が脆くも崩れた。それまで感じてきた彼の優し さは偽りではないと思う。でも根本にある価値観が私とはどこか違 うのかもしれない。その価値観が重要な部分であるだけに怖い。 ﹁⋮⋮ううん!﹂ 無理やり明るい声で絞り出した異和感たっぷりの返答。彼は少し 真顔で固まっていたが、そうかと呟くとまた歩き始めた。私もその 後に続く。これは今は考えなくてもいいことだ、と自分に言い聞か せながら。 446 第五十三話 発車 公民館のロビーには既に何人か人が集まっていた。いかにも公共 施設の椅子と言ったかんじのいくつか連なった青い椅子に避難民ら しき男の人が三人座っている。そのうち一人は倉本さんだ。人嫌い ぽい彼らしく、他の二人から距離をおいて腕組みして座っている。 三人の近くで銃を手に立っているのは加賀谷さんだ。こちらに気付 くともとから細い目をさらに細め声をかけてきた。 ﹁来た来た。佐伯くんと伊東さんね。座って﹂ 加賀谷さんに促され、私と佐伯くんは二人の男性の正面に座った。 やはり調達班に選抜されただけあって体格がいい人たちだった。少 し強面のごつい感じの男性は俯いてじっと自分の膝あたりを見たき り動かない。じろじろ見るのは失礼だと思いつつ隣のもう一人に視 線を移すと、対照的に柔らかい表情をした穏和そうなその男性と目 があう。気まずい感じがして目を逸らそうとすると彼はにっこり笑 いかけてきた。 ﹁どうもはじめまして。永田といいます。今日はどうぞよろしくお 願いしますね﹂ ﹁佐伯です。こちらこそよろしくお願いします﹂ ﹁あ、えと、私は伊東といいます。よろしくお願いします﹂ 思いがけずはきはきとした口調で名乗った彼、永田さんに緊張も 少し解け挨拶をかえす。隣の強面の男性は眉を寄せてちらとこちら を見てきたが、そのまままた俯いてしまった。 ﹁ああ、こいつは私の同僚の近藤です。こんなときですから元から 447 の無愛想に磨きがかかっていますが悪い奴じゃあないです。信用し てやってください。大変な任務ですし、助け合っていかないとね!﹂ ﹁お前はもっと静かにできないのか⋮⋮﹂ やっと声を発した近藤さんは永田さんを小さく肘でどつく。同僚 というだけでなく特別仲がいい間柄のようだ。それにしても土曜も 同僚と一緒に避難してきたということは、仕事があったのだろうか。 無意識に不思議そうな顔をしていたらしく、永田さんがははっと笑 う。 ﹁あ、別に休日出勤を強いられるようなブラック企業じゃあないで すよー。ただこの近くに会社の独身寮がありまして、私も近藤もそ こに住んでいたものでね。それでここに避難してきたってかんじで す﹂ さすがは社会の荒波に揉まれたサラリーマン! 読心術もお手の 物だ。しかしつとめて明るい調子で話す永田さんではあるが、その 表情にはどこか影があった。会社の独身寮に暮らしていたというこ とは⋮⋮ここに来る道中同僚たちに遭遇しなかったとはとても思え ない。毎日のように顔を合わせ、苦渋を共にし、時には呑みに行っ たりなんかして楽しい時間を過ごした人々の成れの果てに。 ﹁さて、これで全員かな?﹂ 加賀谷さんが待ちくたびれた様子で声を張り上げる。私たちは話 をやめ加賀谷さんの方に身体を向ける。 ﹁いや、まだじゃないですかね。確かあと2人ほど来る話だったと 思いますよ。私が聞いてる集合時間まであと20分ほどありますし、 もう少し待てば揃うんじゃないでしょうか﹂ 448 ﹁ふーん、まぁいいよ。もう行こうか﹂ あまりに自衛隊員らしくない発言に耳を疑ってしまった。しかし どうやら聞き間違えではないようだ。さすがのサラリーマン永田さ んも加賀谷さんの思わぬ言動に驚きを隠せなかったようで目をぱち くりさせている。 ﹁で、でもですね、加賀谷さん⋮⋮﹂ ﹁北山さんから聞いてるよね。君たちは必要な物資を車内に運搬し てくれればいい。近付くゾンビは僕が皆殺しにするからさ。じゃあ 行こうか﹂ そう言って加賀谷さんはうーんと背伸びをし、銃と重そうな鞄を 抱え出入り口へ向かう。びっくりして固まってしまっていたがすぐ にはっとし気を取り直す。本当にこれでいいのだろうか。加賀谷さ んに聞きたくても聞けずにいると、︵廊下でのことから加賀谷さん に対して苦手意識をもってしまったみたいだ︶それまで黙っていた 近藤さんが口を開いた。 ﹁おい﹂ ﹁ん? 何か質問でもあるのかな﹂ ﹁気分で簡単に方針を変えて⋮⋮あんた勝手すぎやしないか。あと 二人必要と言うのが上官の判断だろう﹂ ﹁ああ!﹂ 怖い顔で詰め寄る近藤さんに加賀谷さんはなにかを思い出したよ うに素っ頓狂な声を上げる。そして鞄を椅子に乱暴に置くと中をが さごそと漁り始める。一体何をし始めたのかと身を乗り出すと、彼 はマジックを取り出してテーブルに何かを書き始めた。 449 ﹁調達班は、出発しました⋮⋮もう君たちは、こなくていいよ⋮⋮ っと。せっかく来たのに誰もいなかったんじゃびっくりしちゃうも んね﹂ どうやら後から来るだろう調達班メンバーの2人にあてた伝言の ようだ。しかし加賀谷さんの行動は的外れなものだと言わざるを得 ない。近藤さんは奇妙なものを見る目で加賀谷さんを見ていた。 ﹁加賀谷さん⋮⋮この人数で本当に十分なのですか﹂ しびれを切らした佐伯くんが改めて尋ねる。 ﹁あー、平気平気。リーダーは念には念をってタイプだからさ。て いうかさ、一般人二人増えたところで戦力はそんな変わらないだろ うし、運搬する人手と危険を生むリスクとでトントンだと思うんだ よね。まあ、君たちを殺させないのも命令のうちだから安心してよ﹂ 加賀谷さんは息つく間もなく早口でまくしたてるとその間に準備 を終えたのか再び出入り口に歩き始めた。近藤さんが部屋に戻って 人を呼んでこようとしたが、永田さんが止めた。そうしている間に 加賀谷さんは残りのメンバーだけで行ってしまうだろう。もう止め ることはできない。 ﹁こうなったら行くしかないだろ﹂ そうぼそっと呟いて倉本さんが歩きだす。近藤さんも不服そうな 顔をしながらも後に続く。加賀谷さん以外はしこりが残る嫌な感じ の出発になってしまった。 公民館の二階部分の出入り口から外に出る。先頭を行くのは銃を 450 抱えた加賀谷さん。その後をぞろぞろと男性陣が続く。階段を下り た先には装甲車が止まっている。装甲車をはさんだ向こうには朝に はいなかった中年ゾンビが一体突っ立っていたが、装甲車は公民館 を外から遮断する壁の役割を果たしており、接触することなく中に 乗りこめるようになっていた。 その時頬に冷たい感触が走った。驚いて階段を下りる足を止める と、前を歩く佐伯くんがこちらに気付いて振り返る。彼は私を見て から、空を見上げた。 ﹁雨が降ってきたようだ﹂ 気付けば濃い灰色の厚い雨雲が空を覆っていた。これは結構降り そうだ。そういえば今は六月︱︱梅雨の時期だ。休日も平日も関係 なくなった今カレンダーなんてもう意味を持たないが、変わらず梅 雨も来れば台風も来る。いっそのこと大雪が降ってくれればゾンビ の足止めもできるのに。 そんなことを考えていると前方から気配を感じた。加賀谷さんが 早く来いと怒ってきたのかと思ったが柴崎さんだった。どうやら私 たちが来るまで見張りをしていたようだ。彼は須藤くんのことがあ ったからか申し訳なさそうに顔を伏せ、私も軽く会釈をして通り過 ぎる。 ﹁あの⋮⋮今少しいいですか﹂ 思いがけず呼び止められ戸惑うも、装甲車の前にはまだ永田さん たちが並んでおりまだ時間がかかりそうに思えた。 ﹁はい。どうしたんですか?﹂ 451 ﹁ええと⋮⋮ですね。余計なことかもしれないので軽く聞いてもら えればいいんですが。ううん⋮⋮どうしよう⋮⋮言うべきなのか⋮ ⋮﹂ 言いづらいのか煮え切らない態度の柴崎さんに私もどうしようと 思っていると、柴崎さんは一層声を小さくして話しはじめた。 ﹁加賀谷さんには気を付けてください⋮⋮﹂ ﹁え?﹂ ﹁あ、いえ。言い過ぎました。そこまで深刻に受け取らないでもい いのですが﹂ いやいや、深刻なことだと思います。まだ何も聞いてませんがこ れからその彼とゾンビに立ち向かう私たちはどうすればいいのでし ょうか。おそらく顔を思い切り強張らせた私に柴崎さんは慌てて撤 回する。 ﹁あの⋮⋮彼は少し特殊な人間でして。悪意を持っているとは思わ ないのですが時々危険なことをしでかすことがあるんです﹂ 思い切り覚えがあって頭がくらくらしてきた。本当にこれからど うすればいいのでしょう。ショッピングセンターに置いてきぼりな んてこともありうるんじゃないだろうか。現実逃避したいあまり意 識が明後日の方向を向き始めたところで柴崎さんが何やら差しだし てきた。折りたたみ式の携帯電話だ。すぐしまうようにジェスチャ ーで伝えられ、とりあえずワンピースのポケットに入れる。 ﹁危ないと思ったらとりあえず装甲車の中や安全な場所に避難して、 それで公民館に連絡ください。加賀谷さんももちろん公式な連絡手 段を持っているんですけど、一応。あ、これが電話番号です。それ 452 じゃ﹂ そう言い残し押しつけるように紙を渡して柴崎さんはそそくさと 上にあがって行ってしまった。装甲車の方を見ると既に全員乗り終 わったらしく、加賀谷さんが手招きしていた。 装甲車は成人男性の身長よりも少し高く、既に上に上がった加賀 谷さんの手を借りて車の上部に乗り込むことができた。車の真ん中 あたりと後部にそれぞれ車内に入る扉があり、今は後部の扉が観音 開きに外側に開いていた。 ﹁じゃ、この後ろ側のハッチから中に乗って﹂ ﹁はい﹂ ﹁あ、ねえねえ﹂ 中に乗り込もうとしたところで今度は加賀谷さんに呼び止められ る。 ﹁さっき、柴崎さんと何話してたの?﹂ ﹁え? あ、いや何も⋮⋮雨が降ってきたから気をつけなさいって ことです⋮⋮﹂ ﹁紙もらってたよね﹂ ニコニコ顔で指摘され思い切りギクッとする。こうして話してい ると悪い人ではなさそうなんだけれども、加賀谷さんはなぜだか怖 い。さっき結局近藤さんたちが反抗しきれなかったように、加賀谷 さんは一見柔らかな物腰だが有無を言わさないところがある。逆ら ったらどうなるかわからない。そう思わせる何かがある。 特別に連絡手段をもらったとか言ったら嫌な気がするだろうし、 453 なんと答えればいいのだろう。聞かれているのに何も答えられず目 を泳がせていると、加賀谷さんはくすくす笑い出した。 ﹁わかってるわかってる。口説かれたんでしょ。電話番号渡すとか 柴崎さん古い手使うよねー。いまどきラインだとかツイッターとか のID渡すんでしょ? 僕やったことないからわからないけどさ。 あ、ごめん引きとめて。行っていいよ﹂ 加賀谷さんが面白い勘違いをしてくれたので、半笑いでこくこく 頷いてやり過ごすことができた。安心しきったのか、入口の縁に手 をかけ内部に降りようとしていた手が滑ってしまう。 ﹁あああっ?!﹂ そんなに高さはないが思い切り着地が乱れる。そして座っていた 誰かの足を踏みつけバランスを崩して身体が反転し、そのままぺた んとその誰かの膝に座る。謝ろうと振り向くとこともあろうに倉本 さんだ。すっごく嫌そうな顔をされた。 ﹁⋮⋮すみません﹂ ﹁早くおりろ﹂ 慌てて飛びのきまわりを見渡す。装甲車の内部は高さがあまりな く、車体後方にも出入り口があったが屈んで出入りしなければいけ なさそうだった。少々窮屈だが乗員数は小型バスくらいはあるのだ ろうか。5、6人は座れるベンチシートが左右に向かい合わせに並 んでいる。今日の調達メンバーは五人と操縦席に加賀谷さんなので、 あと倍の人数は乗れそうだ。 とりあえず佐伯くんの隣に座ると、加賀谷さんがすとんと上から 454 降りてきた。 ﹁よし、じゃあ行こうか。詳しい作戦は状況にもよるしまた近くま で行ったら説明するから。あ、非常時は無線が操縦席にあるから遠 慮なく使ってね﹂ 私の顔を見て無線のことを告げられちょっぴりドキッとするも、 加賀谷さんはすぐに操縦席の方へ移動してしまった。 ﹁すごいですね⋮⋮これに乗ってればゾンビに突破される心配もな さそうだし、ずっと籠っていたいなぁ﹂ 感心したように永田さんが呟く。その時、車体が轟くような大き な音を立て揺れた。金属が擦れるような耳障りな音がしばらく続き、 装甲車がゆっくりと動き出す。こんな音をたててはゾンビが寄って きそうではあるが、今は国の軍事力を味方につけているという安心 感があった。不安がないと言えば嘘になるが、やるしかない。大型 スーパーに向けて出発だ。 455 第五十四話 蹂躙︵前書き︶ ここまで読んでくださりありがとうございます。 またもや前回の更新から時間があいてしまいました⋮。 なかなか更新できない状況ですが、完結目指して頑張ります。 456 第五十四話 蹂躙 装甲車が公民館を発って間もなく急激に雨脚が強くなってきた。 激しい雨が鋼鉄の車体を打ち鳴らし、低く唸るようなエンジン音と ともに車内に響き渡る。 ﹁好都合だよ。これだけざあざあ降ってくれればゾンビの耳もきか なくなる﹂ 姿の見えない操縦席の方から加賀谷さんの楽しそうな声が聞こえ た。加賀谷さんは前方の操縦席にいるため、今装甲車の後部の座席 には私と佐伯くん、倉本さんと永田さんと近藤さんの五人が向かい 合わせに座っている。出発直後は永田さんが持ち前のトークで場を 和ませてくれていたが、他の四人は︵私も含め︶揃いも揃って口下 手なタイプだ︱︱すぐに会話は途切れ、この先に待ち受ける危険な 任務への緊張感が漂っていた。 どうにも落ち着かず誰かと喋りたい気分だったが、隣の佐伯くん は私のたまに送る視線にも気付かず険しい顔をしているし、永田さ んも我ここにあらずといった様子だ。仕方ないので正面でずっと俯 いている近藤さんの肩越しに小さな車窓から外の景色を眺めるも、 雨で街並みがけぶって見えた。 車体が一回強く揺れて、ずっと耳に纏わりついていたエンジン音 が止んだ。緩やかに移り変わる外の景色をぼうっと眺めていたら︵ 雨のせいでほぼ変わり映えはしないのだが︶結構時間が過ぎていた ようだった。 ﹁さあ、着いたよ。あそこが目的地の大型スーパーだ﹂ 457 加賀谷さんが操縦席から出てきて、私たちの頭上、天井部分に取 り付けられたハッチを開けた。ゾンビが上からなだれ込んでくる恐 ろしい展開が浮かんで思わず身構えたが、雨がぼとぼとと車内に降 り注いだこと以外は特に何も起きなかった。加賀谷さんに促される ままおそるおそるハッチから身を乗り出す。 大通りに面する広い駐車場の奥に大きな建物があった。建物の上 部に掲げられた鮮やかな赤色の看板は買い物客でにぎわう以前の活 気を感じさせたが、今はどんよりとした暗い空に荒れた天候もあっ て死を連想させるどす黒い血の色に見えた。 駐車場にはたくさんの車が列をなして並んでいた。通路上に も逃亡を試みて失敗したのだろう、車が乱雑に放置されている。そ の中のいくつもが互いに衝突して破損し、血が付着しているのは言 うまでもない。そして車と車の間を縫うようにして多数のゾンビが 徘徊していた。 目的地を視認してひとまずハッチを閉め中に戻る。少しの間では あったが冷たい雨に打たれて身ぶるいする。⋮⋮さて、どうするか。 しばしの沈黙のあと近藤さんが溜め息をつき、重い空気が広がる。 ﹁休日だったからか車が所狭しと並んでいますね﹂ ﹁ですねぇ⋮⋮。こんなんじゃあ車に乗ったまま店に近付けません よね。いっそのことおりますか、なんて⋮⋮﹂ ﹁馬鹿野郎、それは危険だろ。荷物を車まで運んでいる間に襲われ たらどうするんだ。リスクが大きすぎる﹂ 458 ﹁もちろんそんな危険なことする必要なんてないさ。少し揺れるか らみんな気をつけてね﹂ ニコニコ笑いながら黙って私たちの会話を聞いていた加賀谷さん はそう言うと操縦席についた。ゴオン、と一回揺れて装甲車が再び 動き出す。車は右折して駐車場に向かうのかと思いきや、そのまま 道路に沿って直進を再開した。 ﹁えっと、どこへ行くんですか﹂ ﹁んー、こっちから入ろうと思って﹂ 側面の窓から見えたのは駐輪場だった。これまたたくさんの自転 車があったが、そのほとんどが倒されており車どころか人一人通る のも苦労しそうな状況だ。食い荒らされ破損した死体もあたりにご ろごろと転がっていた。見ていると感覚が麻痺してくるような光景 だ。 と、車が駐輪場に向かって大きくカーブした。そのまま止まるこ となく直進する。装甲車が何かに乗り上げて小刻みに揺れ、金属の ひしゃげるゴリゴリという音が足元から聞こえる。張り出した装甲 車のフロント部分に辛うじて立っていた自転車が次々となぎ倒され、 車輪の下敷きになっているようだった。中には当然人間の死体もあ るわけで、一緒になって車輪の下で押しつぶされているはずだ︱︱ 見るも無残な血みどろな光景が当たり前になってしまったとはいえ、 想像するだけでぞっとする。手っ取り早く一番安全な方法だろうが、 こんなの嫌だ。皆も苦々しい顔をしている。 駐輪場を突破したらしく車の揺れが止まった。と思ったところで 再び足元で何かを巻き込む感じがした。先ほどに比べれば軽い感触 459 に思えたが、しかし何かが確実に車輪の下で破壊された。 ﹁ははは、おまけにゾンビも数体撤去できたみたいだね﹂ 楽しげに言う加賀谷さんに引いてしまった。彼の感覚がこの世界 では正しい、といえば正しいのかもしれないが。 ﹁さて、スーパーの正面まで来たよ﹂ ﹁正面から突入するのですか﹂ ﹁うん。逆側にも入口はあるけど状況はだいたい同じさ。ああ、も ちろんイノシシみたいに馬鹿正直に突入するわけじゃないから、そ こは安心して﹂ 加賀谷さんの言葉を聞き終わる間もなく、急に装甲車のスピード が上がった。反動で身体が飛ばされそうになり、咄嗟に隣の佐伯く んの服をつかむ。 ﹁強い衝撃が走ると思うけどしっかりつかまっててね⋮⋮あんま掴 みやすいところないかもしれないけど﹂ 慌てて発した佐伯くんへの弁解の言葉は加賀谷さんの声と走行音 にかき消された。装甲車というとゴロゴロゆっくり走っている勝手 なイメージを持っていたが、大きな車体でここまで早く走れるのか。 一般道路を走る乗用車よりずっと早い気がする。正面の様子はよく わからないので何の衝撃が来るのかわからないまま身構える。 軽い破壊音がして、周囲の音響が変わった。窓からは煙が立ち上 り埃が舞ってはいたが外の様子がうっすらと見える。どうやら硝子 460 の自動扉に思い切り突っ込み店内に入り込んだようだった。しかし すぐに装甲車はバックする。 またもやよろけそうになったのを佐伯くんが支えてくれた。 ﹁ありがとう。⋮⋮加賀谷さん、何する気なのかな﹂ ﹁自動ドアはゾンビの相手をしながら運搬するのに邪魔になりそう ではあるが⋮⋮。しかしこんな派手に壊しては音につられて大勢集 まってくるだろうな。ここであらかた始末するつもりなのかもしれ ない﹂ ﹁その通り。自動ドアはここから狙撃するのに障害物になるからね﹂ 加賀谷さんが公民館の時も持っていた銃を脇に抱えて上部ハッチ に手をかけた。私たちが出入りした時に使った後部のハッチとは違 う、前方の小さめのハッチだ。 ﹁⋮⋮うん、来てる来てる。じゃあね、君は後ろのハッチを開けて 変なのが近付いてこないか見張っていてくれるかい。で、君は弾が 切れたらこれを僕に渡してくれるかな﹂ 変なの、とは変異体のことだろうか。やはり加賀谷さんたち自衛 隊員はあの存在を知っていて警戒しているのだ。近藤さんは怪訝な 顔をしながらも黙って後部ハッチを開けた。永田さんは渡された袋 から細長い形状の黒い塊をいくつか取り出して興味深そうに眺めて いる。中には金色の物体がたくさん詰まっていた。 ﹁うわぁ、これが弾倉⋮⋮マガジンってやつですね﹂ 461 永田さんは弾の補給係、というところだろうか。永田さんと一緒 に弾倉を手にとって見ていると、外からこの事態が起きてから幾度 となく耳にした音が聞こえた。何の合図もなしに唐突に戦闘が開始 されたのだ。 佐伯くんが近藤さんの使っている方とは別のハッチを開け、私も 彼に続いて身を乗り出す。 加賀谷さんは前方のハッチから上半身をのぞかせて銃を構えてい た。スーパーの入り口を出たところで既に一体のゾンビが仰向けに 倒れこと切れていた。頭から流れ出る血の多さに目を奪われている と、奴らが店内から次々に姿を現し始めた。先頭を歩く一体が倒れ たゾンビの位置を越えたところで弾けるような、しかし胸にずっし りと響く重厚感のある音が連続して鳴る。それぞれがゾンビの身体 に着弾し、容赦なく奴らの生命を奪い去っていく。 大粒の雨に打たれるのも気にならないほど見いってしまった。し かし銃の威力に感嘆するも束の間、正面の割れたガラスの向こう側 から黒い塊が迫ってきていた。 ﹁ああ、もう、あいつら動きがトロすぎる。待つのは面倒だ、一気 にいこうか﹂ 焦っているような加賀谷さんの声からはいつもの余裕は失われて いた。しかしこれは緊張やゾンビへの恐怖からではない。弱者を蹂 躙する喜びからくる興奮だった。 * 462 ﹁こんなものかな﹂ 加賀谷さんが満足げに銃を下ろす。ゾンビの大群にやたらと打ち 込んでいるように見えたが、銃弾は的確に一体一体の急所を貫いて いた。その証拠に夥しい数の動かなくなった屍が転がっていた。 ﹁一件落着⋮⋮と思ったけど。うーん、これじゃゾンビの死体が邪 魔で運搬ができないよね。逆の入り口からはいろうか、一階の残り の奴らもこっち側に向かってきてるだろうし向こうはきっとスカス カさ。好都合だよ﹂ 加賀谷さんは色々と作戦を考えているかと思いきや結構行き当た りばったりだ。しかしそんな状況をも楽しんでいるように思える。 これだけの銃撃戦︵一方的な︶を繰り広げたのだからゾンビが集 まってきているかと思ったが、広い駐車場のおかげで周囲のゾンビ はそこまでスーパーに近付いてきていない。装甲車はスーパーのま わりをぐるりとまわって逆側の入り口にたどり着いた。 ﹁96は馬鹿で丸腰のゾンビ相手には役立つね﹂ 96、とはこの装甲車のことだろうか。途中数体のゾンビを轢き 殺しながら自動ドアをさっきと同じように破壊すると、スーパーの 入口にぴったり車体の後部をくっつけるようにして駐車した。上部 のハッチを閉め、ずっと閉じたままだった車体後部の乗り降り用ら しきドアを開く。 荒れた店内には物が散乱している。ゾンビは加賀谷さんの言って いたとおりさっきまで私たちがいた正面入り口方面に向かって行っ 463 たのか、姿が見えない。 ﹁ここに常に一人待機して車にゾンビが入ってこないよう見張って おかなきゃね。そうだな、一階は食材品売り場だから大量に運搬し なきゃだし、男手が必要だ。女の子はここで待機ね﹂ 私はここに待機、らしい。入り口部分を車でふさいでいるので外 からゾンビの襲撃を受ける心配はないが、怖くないと言えば嘘にな る。しかし自衛隊がついている重要な任務だ⋮⋮甘ったれたことな ど言っていられない。有無を言わさないような加賀谷さんのギラギ ラした視線を受け、小さく頷く。 ﹁そんな、伊東さん一人ここに置いてくのは危険じゃないですか﹂ 私の弱弱しい反応を見たのか永田さんが異議を唱える。 ﹁作業中でも装甲車から目を離さないようにするさ。ゾンビに乗っ 取られちゃ厄介だからね。ほら、早く行こう。ここのカートを使お うか﹂ 永田さんはカートの運び役に任命され、否応なしに奥に連れ出さ れていく。仕方ない、頑張ろう。決意を固め自分を鼓舞していると、 倉本さんたちと一緒に装甲車を出て最後尾についた佐伯くんが歩み を止めてこちらを振り返った。 ﹁自己の安全を第一に考えて、危なくなったら逃げてくれ。俺もそ っちに注意を向けるようにするが⋮⋮助けることができないときも あるかもしれない。気をつけて﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。義崇くんも気をつけてね﹂ 464 再び歩き始めた佐伯くんの後ろ姿を見届ける。あとは無事に一階 の物資の運搬が終わることを祈るばかりだ。 465 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n0098u/ 死の都市 2014年10月4日15時15分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 466
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