氷将レオンハルトと押し付けられた王女様 - タテ書き小説ネット

氷将レオンハルトと押し付けられた王女様
栢野 すばる
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︻小説タイトル︼
氷将レオンハルトと押し付けられた王女様
︻Nコード︼
N6952BX
︻作者名︼
栢野 すばる
︻あらすじ︼
四十歳独身の将軍レオンハルトは、ある日国王ジュリアスから﹃
問題児﹄と噂の妹姫を押し付けられた。﹃わが妹リーザを娶れ﹄と。
当然、そんな結婚は断固拒みたかった彼。
だが初夜で甘えてくる噂の姫様は滅茶苦茶可愛く、元来情愛深い性
質のレオンハルトは、ものの五分で恋に落ちる羽目に⋮⋮。
一方の姫様は、十三の頃から片思いしていた、憧れのレオンハルト
の妻に収まることができて幸せいっぱい。
1
こうして二人の、熱すぎるほどの新婚の日々が始まりました⋮⋮が。
※本作に出てくる爆弾はリアルではありません。
︵反社会的描写になることを避けるため、ファンタジーな仕組みに
しました︶
この作品は自分のサイトにも掲載しています。
2
プロローグ
﹁お前は私の妹、リーザをどう思う﹂
若き美貌の王ジュリアスに問われ、レオンハルトは言葉に詰まっ
た。
﹁リーザ殿下、でございますか﹂
﹁可愛いとかやさしいとか、美しいとか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何だこの質問は。
仮にも王国の右翼を守護する軍人の長、﹃氷将レオンハルト﹄に
向けてのご下問なのだろうか。
動揺して国王陛下の麗しき紫紺の瞳から目をそらした。
﹁うーむ、リーザ様、うーむ﹂
答えにくい。
国王の実妹でありながら、いまだに嫁の貰い手がない時点でお察
し頂きたい。
先週は後宮の中庭の噴水を爆発させ、いまだに噴水は無残な姿の
まま。。
先々週は十人位の男共を引き連れて、髪も結わない乱れた服装で、
街中を闊歩なさっていたと聞く。
その前の週は⋮⋮いや、言うまい。きりがない。
王国は彼女の悪口でもちきりだ。
﹃バカ姫様は次はどこに迷惑をかけるのか﹄と。
もちろん自分も全く同意だ。
なんというバカ娘なんだろうと思う。
3
﹁いやぁ私は御免ですな、あの手の娘御は﹂
ダメだこんな答えでは。
もっとこう、美しい何かにくるんで遠まわしに表現せねば。
いいところもあったはずだ、顔が綺麗とか、他にも⋮⋮顔だけは
綺麗とか⋮⋮。
﹁そうか、君の気持はしっかりと私の心に収めた﹂
国王陛下が、花のかんばせに蕩けるような微笑みを浮かべてうな
ずいた。
﹁⋮⋮﹂
心の声が漏れていたようだ。
氷将レオンハルトともあろうものが、最悪の敵の前で丸腰になっ
てしまった。
﹁ああ、レオン﹂
真っ白な手袋に包まれた手を胸に当て、夢見るような瞳で、国王
が言った。
﹁君のやさしさに心からの感謝をささげよう﹂
︱︱来る!
陛下の無茶ぶりが来る!
いつものキッツイ奴が来る!
﹁どうか私の愛するリーザを回収、いや引き取っ⋮⋮じゃなかった、
娶っておくれ、わが腹心よ﹂
何だと⋮⋮?
予想外の方向からとんでもない一撃が飛んできた。
いやいや、これは。面白いハハハ。
正直に認めよう。動揺して手が震えている。
4
﹁リーザを、ローゼンベルク家に降嫁させる事が御前議会で正式に
決定した。ははっ、感動で声も出ないか﹂
﹁わ、私の意思は、私の意思、確認してない、陛下、恐れながら﹂
やばい!
声が裏返った!
それ以前にちゃんと喋れてない!
﹁⋮⋮リーザが爆破した噴水は我が国の国宝だった。兄である私は、
お偉方の爺どもに目から火が出るほど説教され、当のリーザは軟禁
中だ。貴族院は﹃このままリーザをその座敷牢で飼え﹄と激怒して
いる﹂
国王陛下が自分の都合だけを並べ立て、大きくため息をついた。
ぐりぐりとこめかみを押している。疲労が麗しい眉間ににじんで
いた。
︱︱じゃあそのまま座敷牢で飼えばいいじゃないですか! 何で
自分が押し付けられるんですか!
もちろんそんなこと口が裂けても言えない。
でも嫌。
そんな変人、押し付けられるの嫌。
﹁お前も年貢の納め時だ、レオン﹂
年貢の納め時くらい自分で決めさせてくださいよ!
何で陛下が決めるんですか!
﹁おめでとう﹂
﹁な、なにがです﹂
﹁結婚おめでとう、お前の花婿姿が見られるんだな、嬉しいよ﹂
国王陛下が涙をぬぐうふりをした。
わざとらしい。
ウソ泣きなのが丸わかりだ。
5
涙なんて、一滴も流れていない。
﹁陛下、あの、陛下、お慈悲を﹂
しない!
押し付けられての結婚なんかしない!
絶対にしない!したくない!自分は仕事一筋二十年、婚姻などで
この国の守護という重責を濁らせたりはしない!
そうでなくても女が側にいると、頭がそっちに行っちゃう性質な
のに!
﹁取り急ぎ誓約書に一筆もらえないかな、早く話を進めたい﹂
﹁ハイ﹂
口が。口が勝手にハイって言ってしまった。
常識で考えて、イイエなどと国王陛下に言える訳がないので当然
だが。
こうして四十歳の独身男は、二十三歳のもてあまされた、ではな
く、麗しき王女殿下を娶ることになった。
何も言い返せないまま。
結婚式での姫様は、豪華絢爛なものすごいドレスを着せられ、わ
さわさした透き通る布を被せられていた。
きれいだと侍女たちがほめていたので、あのすごいドレスはきれ
6
いなんだろう。
自分には、女の服の事はよくわからない。
姫様が、一応余計なことをせず、大人しくしていたのでほっとし
た。
式次第は、自分が緊張しすぎて何も覚えていない。
お約束通り、挨拶は噛みまくった。
リーザ姫を自分に押し付けることに成功した国王陛下は終始上機
嫌。錚々たる賓客の表情もまあ、晴れやかだった。厄介払いができ
たからだろう。
ゴミはゴミ箱に捨てる。
リーザ姫は将軍レオンハルトという名の何でも屋に押し付ける。
︱︱これにて安泰。お歴々は正しい判断を為された。自分にとっ
ては大迷惑な話だが。
そして流されるがままに初夜を迎えた。
当然ながらねまき姿だ。
新妻様もねまきだ。
あまりに布が薄くて正視できないので、自分はビビッて逃げ出し
た。
無意味に露台から庭を眺めていたら、甘えるような、愛らしい声
が聞こえた。
﹁ねえ、どうなさったの、レオン様﹂
子猫のような、柔らかく暖かい体が腕に絡みつく。
年甲斐もなく心身の各所が﹃きゅん﹄となった。男は悲しい⋮⋮。
﹁い、いや、考え事を﹂
7
傍らでじーっと自分を見上げている、黙っていれば菫の花のごと
き美女を見た。
兄上に似た美しい紫の瞳だが、もっと花のような色合いで、どこ
までも透き通っている。
﹁ふふ﹂
美女が嬉しそうに微笑んだので、慌てて目をそらす。
この女性こそが王妹リーザ殿下。
わが奥方にして、ジュリアス国王陛下の妹君。
﹁ねえ、早く抱いて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
直球のおねだりは意外と恐ろしいものだ、反射的にハイと言いそ
うになる。
﹁ねえ、お兄様に女の子と男の子をそれぞれ1人以上生むように命
令されたの、だから抱いて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁レオン様、早く抱いてってば﹂
﹁いやあの、某は明日も明日も、ずっと会議⋮⋮あの国境に蛮族が
出現して、あの、出張も⋮⋮﹂
ろれつが回っていない自分の言葉に、麗しのリーザ姫の目がみる
みる曇る。
﹁いじわる仰らないで﹂
﹁し、仕事が忙しくて、ずっと来年まで忙しいので﹂
姫様の美しい瞳が曇る。忙しいから何なんだよ!と言いたげなの
がわかる。
でも絶対に無理。子作りなんか無理。
国中の者に﹃将軍様もヘタレだな、あのへんてこ姫に手を出した
んだな、ハハハ、助平心は龍をも殺す!﹄などと言われるのは死ん
でもイヤだ。
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それに国王陛下に﹃やっぱりお前も人の子だな、ん? どうだっ
た? ん?﹄などとしたり顔で言われるのも嫌だ。
何もかもが嫌だ!
﹁さ、先にお部屋でお休みくだされ、リーザ姫﹂
紳士的に言って、姫様の細い肩をそっと抱いた。
﹁わたしのことは、呼び捨てにして﹂
﹁⋮⋮⋮⋮い、いえ﹂
正直に言おう。リーザ姫はすごーく可愛い。可愛すぎて震撼する
くらい可愛い。
やっぱり、美貌の二十三歳なんて、中身がどんなにアレでも魅力
的極まりない。
危険信号が脳裏に点滅する。
無言で華奢な姫様に背を向けた。
寝間着が透けてるように見えて怖くてたまらなかった。
﹁先に休みます﹂
﹁一緒に寝る﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
自分は、自分のちっぽけな体面の為に、この姫様に手を出したり
はしない。
絶対に。絶対に、出さない⋮⋮。
﹁レオン様﹂
一糸まとわぬ姿で、しっとりと湿った肌の姫様がしがみ付いてき
9
た。
﹁ああ、レオン様⋮⋮生涯リーザはレオン様の妻でいる﹂
リーザ姫が、首筋に、頬に口づけをし、もう一度抱き着いてきた。
可愛い⋮⋮。
可愛い!
びっくりするほど可愛い!
見れば見るほど可愛い。ときめきでこのまま心臓が止まるかもし
れない。
﹁わ、私、このままレオン様しか知らない体で生きていく﹂
﹁姫様⋮⋮﹂
新妻様は、抱いてみたら処女だった。
嘘だ⋮⋮。
男引き連れて練り歩いてたという話は何だったのか? 処女の振りしたアバズレにいいように騙されているのだろうか、
それはあり得る。
そう一瞬考えたが、今は賢者の時間なのでどうでもよくなった。
﹁姫様﹂
﹁リーザと!﹂
﹁り、リーザ様﹂
﹁様もいらない⋮⋮﹂
そう言って、リーザ姫が顔をほころばせた。
﹁浮気しないでね、レオン様﹂
﹁あの⋮⋮﹂
﹁絶対浮気しないで、約束して、浮気したらこの家爆破するから﹂
﹁爆破?!﹂
﹁そう﹂
小さな顔をこわばらせ、リーザが真剣に頷いた。
噴水を爆破したリーザ様のことを思い出す。
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そういえば彼女は何であんなことをしたのだろう?
だが今は賢者の時間なので気にならない。
ま、何か理由があったんだろうな、と流した。
﹁う、浮気はしません! 浮気なんて絶対に﹂
そんな、新妻が先だって起こした爆破事件などより重要なことを、
噛みつつも真面目にリーザ様に伝えた。
﹁よかった﹂
リーザ様が、満ち足りたような柔らかい笑顔を浮かべた。
甘えるように体を擦り付けるリーザ様と、寝台の上で隙間なくぎ
ゅうっと抱き合う。
﹁あの﹂
﹁はい﹂
﹁い、色々覚えたいから⋮⋮だからもう一度抱いて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
胸がドキドキして何も言えず、さらさらした栗色の髪を指で梳く。
姫様がうっとりと目を細め、その手に頬を寄せた。
﹁リーザも絶対、浮気はしません。レオン様一筋に生きるから﹂
﹁リーザ様⋮⋮﹂
情熱の火が燃え広がるような心持になり、そのまま二回戦に突入
した。
姫様は、痛かったが構わぬ、二度目は一度目より良かった、とお
っしゃって下さった。
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姫様なんか絶対に抱かない。
そう立てた誓いは5分位は守れた!
ように思う。
氷将レオンハルトにしては頑張ったほうだが、世間はどう思うだ
ろう。
﹃姫様に鼻の下を伸ばした馬鹿男、いやー助平心って本当に恐ろ
しいな﹄と言われる日々が始まるのだろうか。
だが考えても見てほしい。
政略結婚で娶った妻に手を出さないなんて、そもそも譴責ものだ。
あとリーザ様は可愛い。
﹃バカで手におえない女﹄という噂を信じていた自分が悪かった。
抱いたら﹃この子はすごく可愛い﹄と確信できた。
⋮⋮⋮⋮。
四十まで独身だった男とはこれほどまでに哀れな存在なのだ。
嘲ったりせず、憐憫の心をもって接していただきたいと切に願う。
﹁ねえ、レオン様、レオン様は冬、国境の砦に移動されるのでしょ
う⋮⋮。私も行きたい、レオン様と離れるのは嫌﹂
薄物に何だかかわいい上着を羽織ったリーザが、書き物をしてい
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る自分の背にしがみつく。
﹁いや、あの辺りは少々危険なので、リーザはここに残っ﹂
﹁嫌! 一緒に行く!﹂
﹁リーザ﹂
﹁レオン様⋮⋮﹂
甘い唇に唇をふさがれ、うっとりと目を閉じた。
﹁まだお仕事なの?﹂
﹁え、ええ﹂
﹁じゃあ、まってる⋮⋮﹂
この暮らしは孤独だった四十歳が見ている、都合のいい幻覚なの
だろうか。
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01︵前書き︶
⋮⋮その喧嘩は、氷将レオンハルトが押し付けられた王女様を娶る
六年前に起きた。
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01
﹁馬鹿を言うな。お前の相手は大公家の長男だ。子を授かれない私
の代わりに早く世継ぎを﹂
リーザは唇をかみしめた。
﹁大公家の長男は嫌!﹂
﹁だめだ﹂
誰に対してもやさしく穏やかな微笑みを絶やさない兄ジュリアス
が、氷のような表情で言い放ち、自分の肩を突き飛ばした。
国王としての兄の冷淡な面、強情な面は、今まで嫌というほど見
てきたが⋮⋮。
﹁私はレオン様が好きなの。前からずっと言っているわ!十三の時
から好きなんだから!どうしてダメなの!﹂
﹁十三の娘が、三十の男に懸想している時点でどうかしている、世
迷言だ、レオンハルトはお前など相手にしない﹂
何もおかしくない。
あの人は格好いい。皆渋くて格好いいと言っている。
それに、お願いしたら、枝に引っかかっていた虹鳥のひなを巣に
戻してくれた。
いい人なのだ。みんな鳥のことは放っておきなさいと言って、木
に登ってくれなかったのに⋮⋮。
﹁どうしてお姉さまは自由で、私はだめなの? 私だけお兄様の道
具なの?﹂
兄が表情を変えずに、淡々と言った。
﹁他の姉上方は正妃様の娘。私とおまえは側妃の子。姉上方が私を
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王位につけてくださった恩義は、生涯付きまとう。姉上方は王家の
幸福を、お前は私と王家の苦労を分かち合う身なんだ、リーザ﹂
﹁嫌!﹂
兄の机の上に置いてあった飾り物の何かを床に投げつけ、大声で
もう一度叫んだ。
﹁わたしだけ身分が低いからって、お兄様の道具で一生生きるなん
て嫌! ほかのお姉さまは幸せなのに!﹂
激高した兄に頬をたたかれた。大した力ではないが、心がひどく
痛い。
悲しくて床に座り込んだ。
兄もどうしようもなく苛立っている。
﹁王家の威信は、先々代の失政で地に落ちている。王家の予算は削
られ、国王でいて得をすることなどない。嫁がれた姉上たちに、子
を養子に頂きたいなどと頼めないんだ。姉上方は皆、今の暮らしを
維持したいとおっしゃっている﹂
そのことはわかるが、他の姉たちの幸せのために、兄の便利な道
具としてしか生きられないなんて。
自分だって国のために尽くす。
でも、一事が万事、全て兄の言うとおりにしか、してはいけない
なんて。
﹁すまないな、リーザ﹂
兄が小さい声で言って、自分の体を引きずり起こした。
﹁後生だからすべて私のいう事を聞いて、おとなしく従ってくれ、
リーザ。大公家の長男は悪い男ではない﹂
﹁いやぁ!あのひと嫌い!﹂
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全身に嫌悪感がこみ上げ、髪をわしづかみにして泣き叫び、床を
叩いて宣言した。
﹁あのひと、愛人と、愛人の子供が三人もいるのよ、嫌、絶対嫌、
愛人を作るなんてお父様と一緒、絶対にイヤ!﹂
再び兄の目に怒りの炎が灯る。
﹁リーザ、いい加減に⋮⋮﹂
﹁死んでやる⋮⋮﹂
負けじと兄をにらみ返して、腹の底から言い返した。
﹁愛人がいる人に嫁ぐくらいなら舌を噛んで死んでやる!﹂
兄との大ゲンカは、十七の齢から長く続いた。
兄はとても自分に厳しいが、己だけが得をしようなんて絶対にし
ない人だ。
むしろ自分が率先して辛い思いをする。
先代の王の血を引く唯一の男児で、正妃の産んだ姫様たちに後押
ししてもらえたお蔭で、幸運にも王位を得た立場なのだと、だれよ
りも良く分かっているからだ。
だが、一つ問題がある。
兄は同母妹である自分のことを、昔から己の一部だと信じて疑わ
ないのだ。
己は常に一番厳しい道を選ぶ。だから妹にも、一番つらい道を選
ばせるのが正しい。そう信じて疑わない⋮⋮。
それからは、あまりの反抗ぶりに怒り狂った兄に、幽閉に近い暮
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らしを強いられた。
乳母の息子ヴィルヘルムだけが機嫌取りに顔を出す、退屈な日々。
そんなある日、庭からこんな声が聞こえたのだ。
﹁もっと質のいい爆弾さえあれば、レオンハルト様の開墾作業もは
かどるのになぁ﹂
﹁雪に岩じゃ苦労するわな﹂
片思いの将軍様の名前を聞いて心が躍り、胸がいっぱいになって
窓枠をつかんだ。
﹁結局、手でやるのが一番じゃねえか? 辺境は雪がすごいからき
つい仕事だよなぁ﹂
﹁爆弾ってあんまり爆発しないからなぁ⋮⋮﹂
男たちの声が遠ざかってゆく。
﹁ばく、だん⋮⋮﹂
呟き、ますます強い力で窓枠を握りしめた。
レオンハルト様が、爆弾を必要としているのだということが分か
り、胸の高鳴りを抑えられなくなる。
王宮の古い書庫に駆け込み、本という本を引っ張り出して、爆弾
のつくり方を調べた。
爆弾を上手に作れば、きっと自分はレオンハルト様の役に立つ。
この爆弾があれば、レオンハルト様が手を焼いているという岩ば
かりの国境地帯の開墾、それから貯水池の開発だって早く終わるは
ず。
蛮族の襲撃に苦しみながら、額に汗して鍬をふるい続ける必要は
なくなるはずだ。
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十三の誕生日、ひとり途方に暮れた自分に声をかけてくれ、ひな
を巣に戻してくれた将軍レオンハルト様。
あのころ彼は将軍様ではなかったけど、絶対にこの人と結婚する
と自分は決めたのだ。
相手の意思は全く確認していないが。
だから、毎日一生懸命爆弾の試作を繰り返した。
兄に閉じ込められて本当に良かった。一人の時間がたくさん持て
たから。
それに王城は予算不足で手入れが行き届いておらず、生垣も穴だ
らけだ。
いくらでも抜け出せるし、監視もない。
ヴィルヘルムを護衛代わりに連れて、城下町で﹁爆発岩の粉末﹂
とか、﹁黒輝石の粉末﹂などの火薬原料を買い、専用の実験室で細
心の注意を払って爆弾を開発しつづけた。
でも、一生懸命頑張ったが、自分の爆弾は全然爆発しなかった。
素人の爆弾ではダメなのかもしれない、この国の火薬はとても燃
焼力が弱く、爆破力がまるでなくて。
だが、あきらめられなかった。
世間知らずで、側女の産んだ末娘としてそれほど教育もされてい
ない自分には、他にできることがない。
レオンハルト様の役に立つことは、何もできないのだから。
︱︱そして気づけば、自分は﹃変人姫﹄と呼ばれるようになって
いた。
自分は万年火薬臭くなり。
大公家から、縁談の話は正式にお断りされ。
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皆、そんな自分の悪口を言った。
裏庭で何かをドカンドカンやっている姿がおかしい。
いつもぞろぞろ男を引き連れて歩いていて怪しい。
いろいろ悪く言われたものだ。
反論させてもらえば、街へ降りるたびにくっついてくる奴らは、
ヴィルヘルムが勝手に連れてきた彼の遊び友達だ。
騎士気取りでどこにでもついてくる。
﹃姫様の顔を見ていたいのです﹄と言う理由なのだが、邪魔だし、
意味が分からないので無視していたが。
おもしろくない。
そもそもあの噴水の爆破の件だって、自分は兄のためにやったの
に。
あの噴水に⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
だが、もういい。
自分はレオンハルト様に嫁げただけで幸せだ。
兄も、後継者が生まれない現状に危機感を覚え、とうとう折れた
のだろう。
レオンハルト様がなぜ結婚してくださるのかわからない。
でも、身も心も結ばれ、心から愛されていることが分かったので、
もうそれで満足した。
たぶんお祈りを神様が聞き届けてくださったのだろう。
あとは、ヴィルヘルムが嫁いだことを祝ってくれなかったのが気
に障るが、うらやましければ自分もお嫁さんをもらえばいいと思う。
20
﹁レオン様!﹂
仕事を終え、疲れ果てて戻って来た旦那様に抱き付き、顔を見上
げた。
凍り付いた無表情が見る見るうちに溶け、やさしい顔に変わる。
一緒に暮らして一月。この地に来て三日。
旦那様は仕事の時は怖い顔で、家のことを忘れている。
そして家では仕事のことをあまり口にせず、やさしい顔をしてい
るのだと分かった。
﹁リーザ、かわりはなかったか﹂
﹁はい!﹂
侍従頭に旦那様の外套を渡し、居間へ続く粗末な木の扉を押す。
ここは辺境のレオンの邸宅だ。
彼は治安の乱れているこの場に責任者として駐留し、いろいろた
くさん、難しい仕事をしている。
旦那様のたくましい腕にぶら下がり、温かい居間に引っ張って行
った。
﹁こら、重いよ﹂
旦那様に微笑み返し、背伸びをして口づけをする。
旦那様は朝ひげを朝剃らなかったので、少しチクチクした。
﹁リーザ、ここは王都と違って治安が良くないから、あまり好き勝
手に出歩かないようにな﹂
﹁はい、わかりました﹂
﹁貴女の素直な返事は、信用できないな、じゃじゃ馬すぎるからな
ぁ﹂
21
額を小突かれ、旦那様に笑われた。
﹁何にでも頭を突っ込むんじゃないぞ。淑女らしくないところがい
いところなんだが﹂
力いっぱい抱き寄せられ、旦那様の胸に頬を押し付ける。
襟のあたりから雪のにおいがした。
﹁あの⋮⋮お寒かったでしょう⋮⋮﹂
﹁え? ああ、雪がすごかったからな﹂
﹁ゆ、夕餉はとられましたの﹂
﹁うん、職場で皆で食べた。兵や将官たちと﹂
こちらに来てからは、三日。
旦那様はいつも外でご飯を召し上がって、家に戻られる。
ただ今日は、地元の女性たちが﹃開拓責任者さん﹄の嫁である自
分の顔を見に来て、スープのつくり方を教えてくれたのだ。
旦那様は﹃将軍様﹄であって、﹃開拓責任者さん﹄ではないのだ
が、説明しても彼女たちにはうまく伝わらなかった。
ただ、スープは信じられないくらい上手に作れた。
雪の下に生える辺境の珍しいキノコをたくさん入れ、干し肉もい
っぱい入れたスープである。
旦那様にも食べさせたかったが、もうお腹いっぱいなら残念だ。
﹁どうした﹂
﹁いいえ﹂
旦那様がかすかに鼻をひくつかせ、自分を引きずって厨房に入っ
ていく。
﹁あ、美味そうなのがあるな﹂
旦那様のごつごつした手が鍋のふたを開けた。
﹁リーザが作ったのか﹂
﹁は、はい!﹂
22
﹁じゃ食べようかな﹂
薄い水色の瞳で微笑みかけられ、天にも昇る心地でスープを温め、
お椀によそった。
最近は爆弾作りを忘れるくらい幸せで、毎日が夢のようだ⋮⋮。
いい爆弾を作ってあげたいのだけれど⋮⋮。
﹁旦那様、あの⋮⋮﹂
快楽の涙をこらえて、上から旦那様の顔を覗き込む。
﹁あの、上に乗るの、上手になりましたでしょうか⋮⋮﹂
旦那様は、意地悪だ。何も答えてくれない。
自分は最近感じすぎて、抱かれれば抱かれるほどおかしくなりそ
うなのに。
分厚い肩をつかんで、必死に声をこらえる。
﹁あ、あの、旦那様、⋮⋮っ、いや、このお屋敷、壁薄い⋮⋮やぁ
⋮⋮ダメ⋮⋮っ﹂
慌てて手を回し、お尻をつかむ旦那様の指を外す。
これ以上何かされたら、人に聞かれるくらいの大声を出してしま
いそうだ。
旦那様の体にしがみついて口づけすると、そのまま寝台の上にひ
っくり返され、大きく脚を開かれてしまった。
声が出てしまうと訴えたのに、こんなにされたら。
小さなクッションを引っ張って、顔に押し付ける。
だがそれも外され、両手を抑えられて唇まで塞がれた。
23
﹁ん⋮⋮っ﹂
かっこいい、旦那様は世界一かっこいい、絶対ほかの女の人にな
んか渡さない、浮気したら許さない。
自分の旦那様は、浮気心で侍女だったお母様を側女にしたお父様
とは全然違う。
だから大丈夫だと思うけど⋮⋮。
﹁あ⋮⋮﹂
熱の広がりを体の奥に感じて、弛緩した旦那様の背中を抱きしめ
た。
しばらく抱き合い、口づけを交し合った後、そっと旦那様の体が
離れた。また微かな快感が走り、思わず声を漏らす。
湯を使ってくると仰った旦那様の背中に、湯あみ用の衣を着せ掛
けた。
お風呂も一緒に入りたいのだが、屋敷のものに見られてしまうの
で出来ない。
辺境の屋敷で最も不便なの事は、旦那様のお背中を流せないこと
に尽きる。
旦那様に抱かれた体を無意識に撫でまわした。
自分の肌が、こんな柔らかく潤うなんて。
きっと今の自分は、旦那様の愛で満たされているのだろう⋮⋮。
24
02
レオンハルトの乳母が駆けつけてきたのは、リーザが辺境の街ロ
ーゼンベルクにやってきて、一週間が経った頃だった。
彼女の末娘のお産の手伝いを終え、とるものもとりあえず、大慌
てで来たらしい。
﹃いつまでレオン坊ちゃまを﹃坊ちゃま﹄とお呼びすればいいので
しょう。 ローゼンベルク領主の嫡男でありながら、このお年まで
独り身を貫かれるなんて。 ああ嘆かわしい、弟のフェルセン様は
すでに七児の父であられるというのに!﹄
毎度一言一句たがわぬ愚痴を垂れ流す乳母が、彼女らしくもなく
乱暴に走ってくる音が聞こえる。
ちなみに、弟の子供の数が毎回正確に反映されているのが地味に
堪える。
﹁坊ちゃま! 坊ちゃま! どこにおいでです? 奥様はどこにお
いでですか!﹂
﹁お前、慌てなくても奥様は消えたりせん!﹂
夫である執事が叱責する声が聞こえ、居間の扉が開いて、乳母の、
いつもの小柄な姿が飛び込んで来た。
リーザが怯えたように背中に隠れる。
愛妻は人見知りなのだ。
王宮で半ば放っておかれて育ったせいだろう。
そんなところも小鳥のようで頼りなく、愛おしくてたまらないが。
﹁ああ! 奥様! こちらのお嬢様が、奥様でいらっしゃいますか
⋮⋮﹂
乳母が、感極まった声を上げ、こちらに突進してきた。
25
一応この家の主である自分を押しのけ、雪も払わぬ姿のまま華奢
なリーザの両手を取る。
﹁こ、こんにちは、はじめまして⋮⋮リーザです﹂
リーザが蚊の鳴くような声で言った。
﹁リーザ姫様、いえ、奥方様⋮⋮レオンハルト様にお仕えする、ア
ルマと申します、ああ⋮⋮!﹂
アルマがそういって、リーザの真っ白な細い手を取ったまま、は
らはらと涙を流した。
どれだけ﹃育てた坊ちゃま﹄に嫁が来なかったことが悲しく、嫁
が来たことがうれしいのだろう。
そう思うとだんだん申し訳なくなってきた。
﹁ふう、それにしてもこの家の男共は気が利かないこと﹂
とつぜんリーザから手を放し、乳母が顔をしかめた。
また始まった、説教が。
もちろん﹃この家の男共﹄には遠まわしに自分も含まれる。
これから始める終わらない説教の対象には、当然含まれる。
仕事の振りをして逃げたい。
﹁はぁ、嘆かわしい﹂
﹁な、なにが⋮⋮﹂
﹁なぜ奥方様に、こんななりをさせているのでしょう﹂
﹁こ、こんななり?﹂
リーザの姿をつくづくと眺めた。
﹃こんななり﹄と言われても、自分の目には可愛い服を着ている
ようにしか見えない。
布の色が水色のところが可愛いと思う。
26
服はきれいに見える。汚れていたかどうかは分からないし、気が
付かなかった。
髪も、さっぱり結んでいて問題なく見えるのだが。
⋮⋮⋮⋮。
自分に分かるのはそれだけなのだが、多分ダメなのだろう。
何がダメなのかまるで分らない。
﹁さ、奥方様、このローゼンベルクは、都と何かにつけて違いがご
ざいます。ご領主様の奥様に相応しい、乱れのない服装に急ぎお召
替え下さいませ﹂
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁新しいご衣裳類は後ほど整えてお持ちいたします。恐れながら、
嫁いだ長女のものでお許しいただけますか?﹂
何やらやさしい声で言い聞かせながら、乳母がリーザを引っ張っ
て居間を出て行った。
慌てて後を追う。
﹁おい、アルマ、リーザに何を⋮⋮﹂
﹁ああ!男共は気が利かない、奥方様にこんな汚れた服を平気で着
せて、髪も梳かして差し上げないなんて! 王家の姫様がご自分で
身づくろいなんてなさる筈もないのに、気の利いた侍女すらつけず
!まったく気が利かなくて涙が出てくる⋮⋮﹂
これ見よがしの独り言に圧倒され、足を止めた。
乳児の頃から﹃ばあやには逆らえない﹄と刷り込まれているので、
正直、未だに怖い。
心根はやさしい女だと頭では分かっているのだが。
リーザはいったいどうなってしまうのだろう。
乳母のことだ、悪いようにはしないと思うのだが。
27
﹁本当にうちの男衆は⋮⋮奥様に侍女すらつけないなんて。申し訳
ございませんでした。旦那様も宅の主人も、おなごの事には気が回
らないのでございますよ﹂
﹁そうなの﹂
アルマさんの言葉に、あいまいに頷いた。
自分も王宮では、侍女がしてくれるがままにお任せしていたので、
いまいち良く分からない。
暖かい服も一枚しかなく、着替えがなくて困っていたところだ。
﹁どうか旦那様をお怒りにならないでくださいませ、リーザ奥様﹂
﹁だいじょうぶ、大好きよ﹂
そう答えると、アルマさんが鏡越しににっこり笑ってくれた。
嬉しそうだ。この人も旦那様を大事にしてくれる人なのだろう。
﹁ああ、お綺麗な髪が、傷んで台無し﹂
アルマさんがしみじみと言い、絡まってどうにもならなくなった
毛先を切り、髪を梳かしてくれた。
それから、料理中に汁が跳ねて汚れてしまったドレスの代わりに、
持ってきた毛織の民族衣装も着せてくれる。
アルマさんや、スープのつくり方を教えてくれた女性たちと、よ
く似た服だ。
自分が着ていたものより暖かい。
兄が持たせてくれた流行のドレスは薄くて露出が多く、ここでは
28
到底着られなくて困っていたのだ。
﹁暖かいわ、ありがとう﹂
ほっとして微笑み、お礼を言った。
アルマさんももう一度微笑んで、うなずいてくれる。
﹁お体を冷やされませんように。それから御髪も結いましょう。こ
の土地では、嫁いだ娘は皆髪を結います﹂
﹁そうなの?﹂
今までと違う。特別な場所でもない限り、若い女は皆、長い髪を
誇るように背に流していた。自分は忙しい侍女たちに結ってもらえ
ず、ただボサボサにしていただけだが。
だんだん不安になって来た。
今まで何でも人任せだったのだが、大丈夫だろうか。
﹁とくに、垂らした髪は殿方に見せてはなりませんよ、こちらでは
未婚の娘の髪型です﹂
アルマさんがそういって、器用に髪を持ち上げ、三つ編みを巻き
付けたお団子頭を作ってくれた。
この髪型を、明日も自分で再現できるだろうか。
立たせてもらった鏡の向こうには、きれいな格好をした自分が映
っている。
﹁わあ、きれいな刺繍﹂
声を上げ、ドレスの裾をつまみ、素朴な花柄の刺繍を確かめた。
上着には、手をつないで躍る人々の柄が刺繍されている。
こんな服を着るのは初めてだし、こんな髪型も初めてだ。
お団子にしてもらった髪は、夜会に行かされるときのまとめ髪と
も少し違い、かわいらしく見えた。
﹁これに毛糸の襟巻をして、首を暖かくして仕上がりです。ここは
本当に寒いですからね﹂
﹁わかりました﹂
29
その時、控えめに扉がたたかれ、旦那様の声がした。
﹁アルマ、リーザはどうした?﹂
アルマさんが吹き出し、そっと自分に耳打ちする。
﹁心配性なんでございますよ、怖いお顔に似合わず﹂
﹁いいえ、旦那様は怖くないわ、とても素敵なかたよ﹂
真剣に言ったのに、また笑われてしまった。
旦那様は、銀の髪に水色の瞳をしている。
若いころ、その容貌の麗しさゆえに、自分の父王から﹃氷将﹄の
二つ名を贈られたのだ。
銀髪銀瞳だったという極北の蛮族の姫君を母に、氷の街ローゼン
ベルクの領主を父に持つという伝説的な生まれも相まって、﹃氷将
レオンハルト﹄の存在は本当に皆のあこがれだった。
もちろん﹃一人ぼっちの変人姫﹄にとっても。
︱︱肝心の旦那様は、﹃もういい年だし、気恥ずかしいからそん
な風に呼ばれたくない﹄と言っていたが。
﹁あらあら、お惚気。それはようございました﹂
笑い出したアルマさんに背を押され、扉を開けて旦那様を見上げ
た。
﹁あ、あの﹂
顔が真っ赤になるのを感じながら、旦那様から目をそらして報告
する。
﹁この衣装に、着替えをさせてもらいました⋮⋮髪もこんな風に結
ってもらって、あの﹂
旦那様の顔が見られない。
30
この格好、多少は似合っているのだろうか、着慣れないからすご
く恥ずかしいのだが。
﹁おお!見違えた。やはりリーザは美しいな﹂
そう言って旦那様が自分の頭に手を置き、氷色の目を細めた。
掌から伝わる温もりに、自分もうっとりして微笑み返す。
よかった、まあまあ見られる格好のようだ。旦那様のひいき目も
あるだろうけど⋮⋮。
﹁すまなかったな、気が利かなかった。まともな格好もさせてやら
なくて﹂
﹁あ、あの、私もあまり服に気を使わなかったから﹂
何も言えなくなり、恥ずかしくなって旦那様の広い背中に隠れた。
旦那様がいて、他の人にもいろいろ良くしてもらえて、幸せすぎ
てこわい。
﹁さ、旦那様!奥方様、お茶にいたしましょう、これから忙しくな
りますよ。奥方様にお教えせねばならない事がたくさんございます
からね。伝統柄の刺繍に、お料理に、お裁縫にね⋮⋮﹂
アルマさんが楽しそうに色々と言いながら、すたすたと廊下を先
に歩いて行った。
31
03
﹁脱がせちゃダメ⋮⋮着方が分からないのに⋮⋮﹂
リーザが花紫の大きな瞳を翳らせる。
自分は、合わせた襟を大きく開き、こぼれだした豊かな白い胸を
そっと啄ばんだ。
﹁んっ﹂
リーザの小さな手が頭を押しのけようとするが、子猫みたいな力
で何の抵抗にもなっていない。
この地方の女の衣装のことはよく知っている。帯を解いてしまえ
ば、細い体をむき出しにするのは簡単だった。
一番下に着た柔らかい肌着をめくり、姫君の秘めたる花の淵を焦
らすように撫ぜる。
﹃壁が薄いから声が聞こえる﹄と信じ切っているリーザが、口を
とっさに抑えた。
こんな分厚い石造りの城館で、壁が薄いなんてありえないのだが、
妻は世間知らずゆえ、戯れに教えた嘘を信じ切っているのだろう。
﹁⋮⋮っ﹂
華奢な体をねじり、リーザが自分の指から逃れようと抵抗した。
﹁あの、壁が薄いから、声が⋮⋮﹂
素直だなぁ、と思い、思わず吹き出して口づけをした。
もうやめてくれるの? と言わんばかりの半泣きのリーザを見つ
め、もう少し意地悪をしようと決める。
何しろ中年になって以降、暴発とかしなくなってすごい機能的に
進化⋮⋮いや退化? いやいや進化したから。
一回しかできないが、一回をしつこく、否、たっぷりと楽しめる
ようになった。
32
﹁だんなさま⋮⋮っあ、だめ⋮⋮いや、いや!﹂
指を動かしただけでこの反応、本当に可愛い上に敏感で素晴らし
い。
素朴で鮮やかな色合いの衣装の波に絡まるリーザが、真っ白な脚
をわななかせ、自分の腕を押しとどめようと、必死に袖を引っ張っ
た。
﹁ね? 旦那様、普通にして、気持ちよくしないで、おねが⋮⋮だ
めぇ⋮⋮﹂
堪えられぬと言わんばかりに半身を起こしたリーザと、もう一度
唇を合わせる。
涙を流しているので、指は抜くことにした。
そのまま脱げかけた衣装を一枚残らず剥ぎ取り、自分もさっさと
脱いで肌を重ねる。なんという、やわらかな肌だろう。
そして、唇を鎖骨から胸、腹に向けて這わせた。
リーザが律儀に両手で口を覆い、責めから逃れようと暴れて、寝
台の上部で頭を打つ。
ごん、という間の抜けた音がしたので、慌てて顔を上げた。
﹁こら、逃げるな﹂
慌てて抱え寄せ、下にそっと引っ張って、しつこく同じことを繰
り返す。
いや、いやと繰り返すリーザの愛らしい声を楽しみながら、もう
一度じわじわ指も入れた。
﹁旦那様、だめ、壁、かべが⋮⋮﹂
リーザの小さな足の指がひくひくしているのを見て、非常に興奮
する。
ようやくこちらの準備も整った。
自分は哀しいかな、昔から性欲がそれほど濃厚ではなく、あまり
33
即物的に反応できないのだ。それが年齢とともに悪化した。
己の名誉のために言っておくが、時間をかければ準備は絶対でき
る。
愛する妻のことを毎晩無意味に泣かせ、申し訳ないと思うが。
﹁さ、リーザ、何がほしいか言ってご覧﹂
我ながら白々しいと思いつつ、涙でぐしゃぐしゃのリーザの小さ
な顔を覗き込んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
白い肌は首まで真っ赤に染まっている。
恥ずかしくて言えないのだろう。
﹁何? 聞こえないよ﹂
﹁いや⋮⋮言えない⋮⋮﹂
﹁じゃあ、今日は止めとこうか?﹂
リーザがようやく、猫の子のような小さな声で呟いた。
﹁や、やめないで⋮⋮お、おねが⋮⋮だ、だいて、くだ、さ⋮⋮﹂
そんなセリフでさえ、勇気を振り絞ったに違いない。
羞恥でリーザの白珠のような肌は桃色に染まっている。
﹁かしこまりました、奥方様﹂
謹んでそうお返事申し上げ、しゃくりあげるリーザの脚を大きく
開き、肩の上に持ち上げた。
処女だった王女様は、無垢すぎる。
オッサンの様々な不備、不具合にも何も突っ込んでこないから、
本当に可愛い。
︱︱逆に、これが演技だったら、自分は衝撃で心臓が止まるだろ
うが。
34
﹁リーザ﹂
アルマに言われるがまま、真剣に皿を拭いていたリーザがチョコ
チョコと駆けてきた。
可愛いすぎて顔を見るたびに動機がする。
だが悲しいかな自分には、リーザの愛らしさを示す語彙がない。
目が大きいとか⋮⋮髪の毛ふわふわとか⋮⋮うーん、だめだ。た
ぶん的を得ていないだろう。
﹁もう仕事に行く﹂
﹁はい、いってらっしゃいませ!﹂
リーザの小さな赤い唇に口づけをして、前髪のほつれをピンで留
めなおしてやった。
朝方服を着つけてやったのも自分だし、髪を簡単な形とはいえ結
ってやったのも自分だ。
何故できるのか。それは、自分だって若いころは多少⋮⋮。
いや、あまりに昔のことだし、新婚の夢をむさぼる今となっては
野暮な話だ。
ちなみにリーザは疑問にも思っていない様子だった。
服をちゃんと着られたと喜び、暖かくて可愛い服をもらえてよか
ったと微笑んでいた。
万事に無垢すぎて心配である。
健康に長生きして、リーザの面倒を生涯しっかりと見なければ⋮
35
⋮。
⋮⋮。
さて仕事だ。リーザのことを考えると集中力が皆無になることは
事前に分かっているので、すっぱりと蓋をして、凍てついた道を歩
き出した。
家の前の坂には執事によって大小の砂利が撒かれ、滑り止めの役
割を果たしている。
いかなローゼンベルクの出身とはいえ、この砂利がなければ転び
に転んで、職場につくころには青痣だらけに違いない。
リーザにも凍り道の歩き方や、犬ぞりのつなぎ方をそのうち教え
てやろう、と思う。
しばらく歩くと、湯気を立てるレーエ河が見え、そのほとりに、
煉瓦を凍り付かせ、白っぽく色が変わった国境の砦が見えた。あの
物々しい建物が、自分の職場だ。
﹁そろそろレーエ河も凍結する時期だな﹂
リーザはさぞ驚くだろう。
北の国境地帯であるローゼンベルクの寒さは、まだ序の口。
これからが本番なのだ。
広がる﹃黒い森﹄が葉まで凍てつき、空気が凍って煌めく朝を迎
えるのも、そう遠い事ではない。
昔、とある高名な詩人がこの街を訪れ、あまりの寒さと不毛さに
こう書き残した
﹃ああ、氷雪の大地よ、ただひたすらに真白を愛するお前は、薔
薇一輪の彩りさえも許さないのか﹄。 その詩ゆえに、この町は皮肉を込めてこう名付けられたのだ。
﹃薔薇の都、ローゼンベルク﹄と。
どうでもいいが寒い。
36
自分も王都の暖かさにあっという間に適応して、故郷の寒さがだ
いぶ堪えるようになった。
リーザのために、軽くて暖かい毛皮の外套をあつらえよう。
それから、﹃奥方を連れてこい、二人の元気な顔を見せろ﹄と手
紙をよこした母にも、挨拶に行かねば。
﹃こちらに来るのは、リーザ様が寒さに慣れてからでよい﹄と言
ってくれているので、休みの日にでも行けばいいだろう。
父亡きあと、母は﹃ローゼンベルクは私には暑い﹄などと意味不
明のことを言って、故郷である極北の地・ヨルムンドへ戻ってしま
った。訪問は、往復で三日がかりの旅行になる。
⋮⋮ヨルムンドの寒さは、ローゼンベルク出身の自分からしても
異常だ。
やはり、訪問は春先でもいいだろうか。母は嫁の顔を見たがって
いるに違いないが、あの地方の地獄のような寒さで、リーザが病気
になったら困るから。
37
04
﹁うーん、爆弾の材料、欲しいな⋮⋮﹂
腕組みをして呟いてみた。
嫁いでふた月、ここに来てひと月が経った。自分は家にいるだけ
で何の役にも立っていない。
旦那様に甘やかされ、家で刺繍を習ったり、ご飯を作ったり。そ
れから旦那様が帰ってきたらお世話をして愛し合って眠るだけ。
どう考えてもすごく役に立っているとはいいがたいので、もっと
役に立ちたい。
その為に、開拓にとても役に立つ爆弾を作り、旦那様を大喜びさ
せたいと改めて思い至ったのだが。
きょろきょろと家の中を見回す。
アルマさんは、腰痛の湿布をもらいに行くと言って今日は早く帰
ってしまった。
執事も何やら会合があるらしく、ここにはいない。
もちろん旦那様はお仕事だ。
﹁⋮⋮⋮⋮よし!﹂
嫁いでくるときに持ってきた荷物から、お金を取り出した。
我が﹃カルター王国﹄の金貨が、革袋に詰まっている。金貨は確
か価値が高いはず。だからこれでお釣りをもらえばいいはずだ。
︱︱やっぱり、ヴィルヘルムがいないと、お買い物にも気軽に行
けなくて不便を感じる。
金貨を何枚か、旦那様にもらったかわいらしい手提げに入れ、靴
を履いた。
38
この前お散歩したとき、市場は海沿いにあると旦那様に聞いた。
海に行ってみよう。
最近は、だいぶん凍り道を上手に歩けるようになってきた。
まだ明るいし、治安が悪いとはいえ、市場に行くくらいなら大丈
夫だろう。
旦那様と近くを歩いていても、変な人は見かけなかったから。
念のため目立たないように、頭にも布をかぶることにした。
それにしても寒い。
全身着ぶくれて、歩くのがやっとだ。
家を出てしばらく歩いたあたりで、男が声をかけてきた。
﹁お嬢さん﹂
旦那様以外の男だ。
人妻はみだりに異性と口を利くものではない。
顔をしかめ、ぷいと横を向いた。
無視したまま、なるべく撒かれた砂利を踏むようにして歩く。
⋮⋮もし何かされたら大声を出す。
﹁大変ですよ、将軍様が病気でお倒れになりました﹂
﹁えっ!﹂
あまりのことに、声を出して男を振り返ってしまった。
なぜ自分がレオンハルト・ローゼンベルクの妻だと知っているの
39
だろう。
目立たない、地味ななりをしているのに⋮⋮。
あまりのことに立ちすくんだ自分を見て、男が一瞬笑い、真顔に
なった。
﹁早く行かないとと死に目に間に合わないかもしれません﹂
﹁そ、そ、そんな﹂
旦那様が病気だなんて。朝はいつもの通り、お元気だったのに⋮
⋮。
﹁さ!こちらです!﹂
滑る道で強く腕を引かれ、逆らうこともできないままよろよろと
歩きはじめる。
﹁ねえ、旦那様の職場はこっちじゃないわ﹂
﹁こっちで倒れたんです﹂
﹁どうして?﹂
﹁その⋮⋮視察中に倒れられて﹂
視察。確かにそういう仕事をなさる事は、旦那様から聞いていた。
その途中でお菓子を買って、ちょっと家に届けてくださったことも
ある。
﹁そ、そ、そんなこと、って⋮⋮﹂
頭が真っ白になり、涙が出てきた。急に寒いところに出て、卒中
を起こしたのだろうか。
お父様も冬、愛人のところでいきなり服を脱いだせいで、卒中で
亡くなった。お兄様はあの時涙を流しながらも、﹃父上は自業自得
だ﹄と怒っていたが。
どうしよう、怖くてうまく歩けない。旦那様には無事でいてほし
い。
﹁こっちです﹂
木立の奥にあるぼろぼろの小屋の中に突き飛ばされ、分厚い毛皮
を着たままコロコロと転がってしまった。
40
厚着のおかげで痛くなかったけれど、乱暴すぎる。
それに旦那様の姿が見当たらない。
分厚い衣装に苦戦しながら必死で顔を上げた。
﹁旦那様!リーザが参りました、旦那様!﹂
どこにいるのだろう、旦那様は。 その瞬間、旦那様に結ってもらったまとめ髪を乱暴につかまれ、
痛さに悲鳴を上げた。
﹁痛い!﹂
﹁単純な女だ、世間知らずの王女様って噂は本当だった。尾けられ
ていることも気づかないなんてな!﹂
怖い声で、男が言う。
さっきまで丁寧な口調だったのに、別人のように変わっている。
だまされたのだ。
そのまま仰向けに転がされ、男と目が合った。男の目は血走って
ぎらぎらとしていて、尋常の顔つきではない。
﹁おい、さっさと脱げ!﹂
態度を豹変させた男が、下卑た表情で言う。
﹁な⋮⋮っ﹂
息をのむ。
男はなぜか下ばきを全部脱いで、下半身を露出していた。
いったい何なのか。このぎらついた、得意げな顔は一体何を意味
するのか。
訳が分からず、とりあえず露出されたものを凝視した。
﹁さあ、怖いか、なんとか言ったらどうだ﹂
﹁えっ、ちっちゃ⋮⋮﹂
目を見張った男に、慌てて付け加える。
41
﹁あの、あの、なんて言ったらいいのか⋮⋮勃っているのにすごく
小さいからびっくりしたの。それに変な皮がたくさんついてる⋮⋮
あなたお医者に行ったの? さすがにそれは病気だと思うけど﹂
勃っていた小さいものが、見る間に萎れていく。
何が起きたのだろう。というより、何がしたかったのだろう⋮⋮。
﹁て、てめえ、調子に⋮⋮の、乗りやがって⋮⋮!お、思い知らせ
てやる!﹂
再び下履きを履き直しながら男が言う。脱いだり履いたり忙しい
事だ。慌てているせいか、それとももさもさの上着が邪魔なのか、
なかなか上手に履けていない。哀れなくらいに萎びたお道具がはみ
出したままになってしまっている。
男が苛立って舌打ちした瞬間、扉をぶち破って複数人の男がなだ
れ込んできた。
﹁居られました!やはり目撃証言通り、リーザ姫様です!不審な男
が着衣を脱いでおります!﹂
国境警備隊の制服を着た、たくましい男の人が叫ぶ。
﹁下手人を確保しろ、リーザ様を急ぎ外に﹂
毛皮の外套のせいでうまく動けずバタバタしていた自分を助け起
こし、男の人が外に連れ出してくれた。
小屋の中からは﹃何なんだよ、あのクソ女はぁ!﹄と泣き叫ぶ男
の声が聞こえる。
﹁リーザ様、ご無事でようございました。道を歩いていた街の女が、
﹃ご領主の奥様が変な男に引きずられて森へ連れ込まれた﹄と教え
てくれたのです。たまたま我々が見回り中で良かった﹂
旦那様に似た水色の目で、大きな男の人がにっこり笑った。
ローゼンベルクの人々は、目の色が薄い。
42
﹁旦那様と一緒にお仕事されてる方?﹂
﹁さようでございます、奥方様。皆でお送りしますゆえ、お屋敷へ
戻りましょう﹂
﹁ええ⋮⋮わかりました。ねえ、あの男の人は病気だと思うの。お
医者に連れて行ってあげて﹂
男の人が、険しい表情で言った。
﹁あの男が行くのは牢屋です。女子に狼藉を働いたものは、未遂で
あっても重い刑に処せられます﹂
﹁そう⋮⋮﹂
狼藉。
その言葉を口の中で繰り返し、なんとなく意味が分かったような
気がした。
助けが来なかったら、あの男に首を絞められたり、殴られたりし
たのかもしれない。
きっと、お金が欲しかったのだろう。
﹁私、危ない目に遭ったのね﹂
しみじみとつぶやく。
迂闊だった。やはり旦那様の言うとおり、家に居なければいけな
かったのだ。
今頃、使用人達も心配しているかもしれない。
買い出しに行くことに浮かれ、まったく皆への配慮が足りていな
かったことに思い至る。
今更ながらに申し訳なく、悲しくなってきた。
﹁さようでございます。ご理解いただけて良かった﹂
男の人が自分の背に手を添え、﹃転ばないようにご注意ください﹄
と言って歩き出す。
43
部下らしき人たちが、その後についてきた。
良かれと思って赴いた買い出しで、とんだ大騒ぎになってしまっ
た。どうしたら良いのだろう。
﹁みなさま、勝手をしてごめんなさい⋮⋮﹂
流した涙が、夕暮れ迫るローゼンベルクの風にたちまち凍り付き、
顔がひりひりと痛んだ。
頭を掻きむしりたい思いで、しくしく泣いているリーザを見つめ
る。
部下から事の顛末を聞いて、椅子ごとひっくり返りそうになった。
勝手に出かけて男に襲われかけるなんて予想外だ。
結婚して以降、大人しくしていたから油断した。
心臓に悪い、止めてほしい、彼女を幽閉したジュリアス陛下の気
持がちょっぴりわかりそうで怖い。
踏み込んだ時、犯人の男は服を着ようとしていたが、リーザはな
ぜか着膨れしたまま転がっていたという。
良く分からない状況だが⋮⋮通報女性の目撃時間と犯人確保まで
の時間に差がないことから、リーザが不埒な真似をされていなかっ
たことはほぼ確実のようだ。
ちなみに犯人は﹃あのアマ!ふざけたこと言いやがって!取り消
せ、取り消せぇぇぇ!﹄と牢の中で絶叫しているらしい。
リーザは何を言ったのだろう。ややぶっきらぼうだが、可愛いら
44
しい事しかしゃべらないのに⋮⋮。
﹁ごめんなさい、私、旦那様の役に立ちたくて﹂
﹁危ない目に遭ったら何の意味もない、どれだけ心配したと思って
るんだ﹂
﹁だって、役に立ったら、喜ぶかと思って⋮⋮﹂
何をしようと思ったのかわからないが、おとなしくしていてもら
えれば、自分は十分嬉しい。
余計な行動をされると本当に落ち着かない。ましてや国境で、治
安もよくないこのあたりを、土地勘もないままうろうろするなんて
言語道断だ。
リーザは、立っているだけで人目を引くほど美しく、ひ弱で、世
間の事を全く知らない。
狼藉ものにとってこれ以上美味しいエサはないだろう。もうだめ
だ、妻を一人にしておくのが怖い⋮⋮。
頭を抱え込んで突っ伏すと、リーザが向かいの席を立って、チョ
コチョコと走って来た。
﹁旦那様、ごめんなさい﹂
﹁本当に許さないぞ、危ない真似をして﹂
﹁ごめんなさい、爆弾作ろうと思ったの、旦那様の役に立ちたくて﹂
爆弾⋮⋮?
リーザが爆破したという、国宝の噴水のことを思い出す。
﹁爆弾をつくって、役に立ちたかったの﹂
花紫の瞳を翳らせ、リーザが悲しげに言う。
﹁いらん、爆弾なんて必要ないっ!﹂
怖い顔で言いきり、ぶんぶんと首を振った。何故、彼女は爆弾を
45
作りたがるのか。兄上にあれだけ叱られても止めないこの根性は、
いったいどこから湧いてくるのか。
おっさんが爆発するのは肌を重ねるときだけで十分だ。
これ以上余計なことしないでほしい本当に⋮⋮。
﹁う、う、うわぁぁぁ⋮⋮﹂
着膨れのせいで丸っこいリーザが、床に突っ伏して泣き出す。
鳥の子みたいでちょっとかわいい⋮⋮それに、本格的に号泣して
るので可哀想になって来た。
先ほどから反省を口にしているし、よほど懲りたに違いない。お
説教はもうやめよう。
﹁リーザ﹂
軽い体を抱き起し、腕の中に抱きしめて言い聞かせた。
甘い香りが鼻をくすぐる。何から何まで、花のような娘だ。
﹁そうだな、私を喜ばせたいなら、もっと別の爆弾を寝床で爆発さ
せておくれ。もう勝手に出かけるんじゃないよ。どれだけ危険かわ
かっただろう﹂
﹁えっ、寝床を爆破するの?﹂
妻には、如何にもオヤジが言いそうな遠まわしな例えが通じてい
ない。年齢差を噛み締めつつ、慌てて言い方を変える。
﹁違う。私に抱かれて可愛い声を出してくれさえすれば、十分幸せ
だという意味だ。リーザ、危ないことは絶対にするな﹂
﹁は、はい⋮⋮わかりました﹂
リーザが泣き止み、ほんのりと耳たぶを染めて胸にもたれ掛る。
よかった、寝台を爆破されずに済んだ⋮⋮。
﹁お前は可愛い顔をして、本当に突拍子がないなぁ﹂
実際のところは本気で焦ったのだが、余裕ぶって偉そうに言って
46
みる。
リーザがますます耳を染め、自分の胸にしがみついた。相変わら
ず芯から素直な娘だ。そのおかげでみっともない狼狽を誤魔化せた
けれど⋮⋮。
﹁だ、旦那様﹂
﹁リーザ⋮⋮﹂
お互い手を伸ばし、改めてひしと抱き合う。
ああ、可愛い。妻が可愛くてたまらない。
でも、可愛いのに色々と斜め上⋮⋮。
何ゆえ、いとしいわが妻は爆弾制作に拘るのだろう。
そもそも何故このような、こう言っては何だが﹃ろくでもない事﹄
を覚えてしまったのだろうか。
47
05
﹁おお、どうした、可哀想に﹂
かがみこみ、鼻水を垂らす犬の子の顔を覗き込んだ。
箱の中、毛布にくるまれて悲痛な声を上げている。
﹁よしよし、私の館に一緒に行こうな﹂
︱︱不肖レオンハルト・ローゼンベルクは、こうして今年11匹
目の犬を拾った。
この中途半端な優しさ、我ながら本当に嫌になる。
飼い主探しに奔走する羽目になるのに、何で拾ってしまうんだろ
う⋮⋮。
部下にも母にも﹃領主として、王国の将軍として、他にやること
があるはずだ﹄と怒られるのに。しかもそんな事、人に言われなく
ても、自分が一番、痛いくらい良く分かっているのに。
考え込む自分の腕の中で、目があいたばかりであろう子犬がキュ
ウキュウと泣く。親を探すときの鳴き声のようだ。病気がないかは、
犬のことに詳しい召使に見せよう。
毛布が小便臭いので、自分の襟巻を外してくるみなおした。
子犬がスンスンと鼻を鳴らす。体が温まってきたのだろう。
﹁おお、お前は良い毛皮をしているな﹂
月明かりの下よく見れば、捨て犬は銀色まじりの黒茶の毛をして
いた。赤子ながらも顔付は精悍だ。狼の血が混じっているのかもし
れない。だとしたら捨てた人間は、宝を放り出したことになるだろ
う。狼犬は、最高のそり犬に成長する。
子犬を抱き、あらためて帰路をたどり始める。
48
大方、犬ぞり用の犬に子を産ませ、育ちが悪そうだのなんだの言
って、遺棄したに違いない。北の街は決して豊かとはいいがたく、
民度も高いとはいいがたい。ひどいときには娼婦が生み捨てた乳児
すら、道端で悲痛な鳴き声を上げているほどだ。
犬、猫、人間⋮⋮どれだけ拾っても拾っても、次から次へと捨て
られて、追いつかない。
同じくどれだけ働いても、王国の辺境であるこの地が豊かになる
兆しはなかなか見えない。
リーザが、王宮よりはるかにみすぼらしいローゼンベルク邸に不
満を漏らさないことが、不憫だった。
側妃の腹で、変人の汚名を着せられていたとはいえ、リーザは王
女だ。もっと裕福な、まともな嫁ぎ先があっただろうに⋮⋮たとえ
ば、姉君たちが嫁いだ家のような。
﹁奥方様、これではお苦しいでしょう? もう。仕方のない旦那様
ですこと。奥方様が風邪をひいたら可哀想だからって、こんなに上
着をお着せして﹂
夜に﹃奥方様に不自由がないか﹄と様子を見に来てくれたアルマ
さんが、ぎゅうぎゅうに着せられた自分の上着を、笑いながら何枚
か脱がせてくれた。
彼女も多忙な女性なのだが、頻繁にやってきて、出来る限り頼り
ない自分のそばに居てくれる。
自分が脱走して、男に襲われたりなんかしたからだろうか。ほん
とうに迷惑をかけてしまったと思う。
⋮⋮もう、あんな真似は二度としない。
49
﹁奥方様、お召しになる上着の数は、半分でようございます。置物
のお人形のようになっておいでじゃありませんの﹂
アルマさんが笑った。
やはり、他の女の人に比べて、自分は着込みすぎだと思っていた。
これに外套を羽織った日には、歩くのがやっとなんだから。
﹁いかがです?﹂
﹁変わらないわ、寒くない﹂
﹁着込みすぎても意味はないんですよ、もう、やはり殿方にお任せ
すると色々おかしなことをなさるから﹂
その時、扉が開いて旦那様が入って来た。
﹁ただいま﹂
そういって、胸に抱いていた包みをなぜか床に下ろす。そして、
自分の姿を見て目を見張った。
﹁なんだその薄着は。風邪をひくじゃないか、さ、上着を着て﹂
言いながら、卓の上に畳まれた上着をとって、自分に着せてくれ
ようとする。
﹁旦那様、着せすぎです。あれでは動けませんよ。リーザ様が転ん
で怪我をしますから﹂
﹁リーザは若い娘なんだぞ、あんなにきゃしゃで。寒いだろうに﹂
言い合いをしている二人を見ていたら、スカートの裾に何かが飛
びついて来た。
つぶらな目で自分を見上げ、ピンクの舌を出してはっはっと息を
している。
﹁いぬ⋮⋮﹂
ちっちゃい、コロコロした子犬だった。
あまりの可愛さに思わず抱き上げる。
美しい子犬だ。灯りを浴びた黒っぽい毛がキラキラと銀の光を放
ち、どこか旦那様の髪を思わせた。
50
犬や猫、それに鳥は昔から大好きだ。王宮に迷い込んだ野良の動
物にエサを上げて懐かせ、一緒に遊んだことを思い出す。
もこもこの子犬が短い尻尾を振った。手足が太く、体こそ小さい
ものの、大きな犬に育ちそうだ。
言い合いをしている二人に背を向け、子犬を洗ってやろうと浴場
へ連れて行った。
湯あみ用の湯を盥に入れ、子犬をそっと入れる。一瞬暴れたが、
すぐに大人しくなる。
顔にかからないよう慎重に湯をかけ、ふかふかした体を自分用の
洗浄剤で洗う。
盥から出すと、ぶるぶると体を震わせて、甲高い声で一声吠えた。
思わず吹き出し、犬を布でくるんで抱き上げる。
﹁こら、水が掛かったじゃないの﹂
元気なうえに、賢そうな子犬だ。青と茶色の混じった、宝石のよ
うな瞳を見てそう思う。
きっと旦那様が、自分の友達にと連れてきてくださったに違いな
い。
﹁ポン⋮⋮タロス⋮⋮﹂
﹁はい、あの子はポンタロスという名前にしたいです、旦那様!﹂
白い体にねまきを羽織り終えたリーザが、嬉しそうに言った。
拾った子犬に名前を付けたらしい。別に一匹位なら、無聊をかこ
つリーザの慰めに飼っても構わない。召使たちもそう言ってくれた
ので、あの子犬はもうこの家の一員だ。将来はそり犬として活躍し
てもらおうと思っている。
51
⋮⋮⋮⋮。
でも教えて、ポンタロスって何? どういう意味なの? あいつ
は生涯﹃ポンタロス﹄って呼ばれるわけ?
その犬生、ちょっと悲しすぎはしない?
﹁おかしいですか?﹂
リーザが愛らしい顔を曇らせた。
﹁じゃあ、ジュリアスっていう名前にしようかな、お兄様みたいな
賢い犬になるように﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
やばい、可愛い妻が大変なことを言い出した。
国王陛下の御名を、将軍家の飼い犬につけるなんて絶対にダメだ。
へたすれば﹃謀反のおそれあり﹄などと言いがかりをつけられか
ねない。
そうでなくとも、ジュリアス様は言いがかりや無茶振りが大好き
な御仁だし、考えるだに怖い。
﹁い、いや、それは⋮⋮よそう、リーザ﹂
どうしよう、この超感覚の持ち主。
そのうち﹃旦那様の名前を付けたい!﹄とか言いかねない。
﹁うーん、じゃあ、ポンタロス⋮⋮でいいかな⋮⋮﹂
何を勝手に納得したのか、リーザがそう呟いた。
あわてて細い肩を抱き、なるべく猫なで声で、たった今思いつい
た名前を口にする。
﹁シュネーはどうだ、雪の中で拾った子犬だ。毛の色にも雪の輝き
が混じっているし﹂
﹁そうですか? ポンタロスはだめですか﹂
リーザが寂しげに言い、ころりとこちらに背を向けてしまう。
﹁ダメではないが、そり犬に育てたいんだ。だから街中で名前を呼
52
ぶこともあるし、その、普通の名前にしよう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なぜ、何も言ってくれないんだろう。
絶対にその珍名じゃなければ納得してくれないのか。
街中で橇を走らせながら﹁ポンタロス︱!右!﹂と絶叫してる自
分の姿を想像する。犬も自分も可哀想すぎて無理だ。
﹁なあ、リーザ﹂
背を向けたままの奥方の顔を覗き込む。
が、肝心のリーザは既にスヤスヤと寝息を立てていた。
﹁リーザにもう四回手紙を書いたのだが﹂
白い手袋をはめた手で最後の書類を決裁箱に投げ入れ、ジュリア
スが言った。
﹁一向に返事もよこさない。まあ、読んでいないのだろう。兄の言
うことを聞かないのは昔からだし、想定の範囲内だ﹂
痛々しく吊った左手をかばうように立ち上がり、ジュリアスが紫
紺の瞳にいらだった光を浮かべる。 ﹁⋮⋮未遂で済んだが、王である私の命を狙う不届きものがこの国
にいる。ヴィルヘルム、リーザの乳兄弟であるお前に、内々に使い
を頼みたい﹂
包帯に包まれた腕をそっと撫で、ジュリアスが続けた。
﹁この傷は、夜会で酒を過ごした私が、夜中に一人、廊下の飾り壺
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ごと倒れて切った傷だ。少なくとも皆にはそのように伝えてある。
だが、レオンハルトとリーザには真実を伝えなければ。私を襲った
刺客がいる事をね。護衛の騎士が一人深手を負ってしまい、刺客に
は逃げられた事もだ﹂
ジュリアスが自由な右手を伸ばし、金貨の入った袋と﹃休暇の許
可証﹄を差し出した。
﹁完全な隠密行動を頼みたい。お前ならいかなる場合にも、適切に
判断し、動いてくれるだろう。警告と妹夫妻の警護を頼んだぞ、﹃
黒騎士﹄よ﹂
54
06
﹁モロダス、おいで∼﹂
リーザの甘い声に答えるように、むくむくの子犬がトコトコと走
って来た。
この凍てつく寒さの中、雪の上でも元気いっぱいだ。
この子犬を捨てた人間は見る目がなかったと思う。
﹁いい子ね﹂
華奢な腕で子犬を持ち上げ、リーザが幸せそうに花紫の目を細め
た。
うっとりするような眺めだ。真っ白な雪の庭で、絶世の美姫に抱
かれた銀に輝く狼犬の子。
その中でもリーザの美しさは際立っている。
こんなに愛らしく清らかで夜は淫乱な娘が、くたびれたおっさん
に過ぎない自分の妻だなんて⋮⋮。
﹁モロダス﹂
﹁わん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんでこんな名前を思いついたんだろう。モロダス、じゃなかっ
た、子犬が不憫に感じるのは自分だけか。
何というか⋮⋮胸がざわつく、不吉な名に思える。異国の邪教の
言葉とでも例えるべきか。
早く罪なき子犬に﹃シュネー﹄という名前を覚え込ませねば。
でも無理矢理犬の名を変え、リーザに嫌われるのも嫌だ。
本当に困った。どうしたらいいのだろう。
﹁旦那様、モロダスは賢い子です﹂
﹁う、うむ、シュネーと呼びなさい、あまり変わった名は悪目立ち
55
する﹂
こんな名前なら、ポンタロスのほうがまだマシだったのに⋮⋮。
さりげなく目頭を押して頭痛を散らした瞬間、モロダ⋮⋮ではな
くシュネーがキャンキャンと吠えた。
﹁あら?﹂
リーザが振り返る。侍従頭に案内され、庭に背の高い黒髪の男が
入ってくるのが見えた。
﹁レオンハルト様、王都からのお客人です。国王陛下の書状と、王
室護衛騎士団の身分証をお持ちでいらっしゃいます﹂
薄着だな、寒いだろうに⋮⋮と思い、うなずいた。
﹁そうか﹂
一礼して去ってゆく侍従頭を見送り、背の高い男に向き直る。
漆黒の髪に薄茶の瞳。鍛え上げた体に、端正な面差しをした青年
だった。
が、どこかで見た事がある。
凍った雪の上に膝をつき、青年が口上を述べた。
﹁私は、国王ジュリアス陛下より密命を賜り参りました、ヴィルヘ
ルム・アイブリンガーと申すものでございます﹂
差し出された国王の証書と、身分を表す繊細な飾りのついた札を
受け取る。
証書を自分の懐にしまい、札を青年に返した。
﹁確認した。密命とは何だ﹂
﹁はい、半月前、国王陛下が⋮⋮﹂
﹁ヴィルじゃない!﹂
のんびりした声が、青年の緊迫した声に割り込んだ。
﹁どうしたの、遊びに来てくれたの﹂
リーザがモロダ⋮⋮シュネーを地面におろし、小さな指を楽しげ
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に組み合わせた。
そんな雰囲気ではないのだが⋮⋮リーザは嬉しそうだ。
正直に言おう。リーザの笑顔を見て、一瞬にして全身が燃え上が
り、消し炭になるほどの嫉妬を感じた。
何なんだ、この若い男前は。ヴィル呼ばわりとはどういうことだ。
渡さん、嫁は絶対に渡さん。
そう叫びたいが、どうもそういう感じでもないのでギリギリで踏
みとどまる。人間、年を取ると嫉妬深くなって良くない⋮⋮。
青年がニコニコしているリーザを無視して、話を続ける。
﹁⋮⋮国王陛下が身元不明の刺客の襲撃を受けられ、全治ひと月ほ
どの刀傷を負われました﹂
リーザが、青年の言葉に文字通り凍り付いた。
﹁お、お兄様⋮⋮が⋮⋮﹂
慌ててよろめいた妻の肩を抱き、青年に合図をして家のほうを指
示した。
﹁中で聞こう﹂
あまりのことに立っていられなくなり、フラフラし始めたリーザ
を抱き上げる。
﹁大丈夫だ、リーザ。何かあったら、王室からの使いが群れを成し
てぞろぞろ来ているはず。兄上は無事だ﹂
ヴィルヘルムと名乗った青年が一瞬こちらを見て、すぐに目をそ
らした。
57
悔しいが、勝ち目などまったくなかった。
長旅の疲れも忘れ、真白な庭にたたずむレオンハルト・ローゼン
ベルクの姿に見入ってしまい、内心舌打ちをする
先代の両刀国王がその美貌に鼻の下を伸ばし、﹃氷将﹄の名を賜
ったという伝説の武人。
極北の伝説の部族の姫を母に、この氷の街ローゼンベルクの領主
を父に持つという、神話の世界の住人のような男⋮⋮。
齢40を過ぎてなお、彼は氷の彫像のように美しかった。
北の民の血を引く雄渾な体躯は見事に引き締まり、彫りの深い美
貌に、氷海のごとき不可思議な青の瞳が輝いている。
短く切られた髪の色は、王都ではめったに見られない銀の色。
白金や白ではなく、まごうかたなき純銀の色だ。
間近で見ると、彼がそのへんの職業軍人とは別格なのだというこ
とが、痛いほどに分かった。不肖ヴィルヘルム・アイブリンガーも、
騎士の端くれではあるのだから。
それにしても何という﹃存在感﹄だろう。
彼に心酔し、ローゼンベルクの国境警備隊に志願して﹃寒いから
止めとけ﹄と軽くあしらわれた同僚の話を思い出したが、むべなる
かな、と思う。
それだけの圧倒的な華が、この男にはある。
世間知らずのリーザが﹃私はレオンハルト様が好き! お嫁さん
になりたい!﹄と騒いでいた時はアホだな、と思っていたが、実物
と対峙して改めて思う。
︱︱リーザの身の程知らずぶりが恐ろしい、と。
﹁密使の役割ご苦労だった、ヴィルヘルム君。そうか、陛下は命に
別条はないか、それは良かった﹂
長い指を頬に沿わせ、低くつやのある声で将軍が言う。
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自分は、まぬけな直立不動のまま、うなずいた。
﹁はい、ですが取り逃がした刺客の件は、いまだ⋮⋮﹂
﹁この季節、刺客は長時間外で待ち伏せできない。いかに厚着をし、
防寒をしたとて、真夜中の気温は人間の許容範囲を大きく超える。
迂闊に外に出ていたら朝には凍死体だ。刺客の活動範囲は限られる
だろう﹂
レオンハルト将軍が、かすかに目を細めて言った。
﹁私の部下全員に不審者への警戒を徹底するように伝える。もちろ
ん、国王陛下の件は伏せておく﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁不審者の取り締まりは、日々の国境警備隊の義務でもある。蛇の
道は蛇だ。やくざ者の元締めに、普段見ない顔を見つけたら報告を
上げるよう、袖の下を渡しておこう。刺客がそれ以上の金を積んで
いないことを祈ってくれ﹂
﹁⋮⋮かしこまりました。その件は、そのようにお願いいたします﹂
将軍の言葉にうなずいた。
彼の言うとおりだ。相手の正体もわからない以上、今は他に手の
打ちようはない。
この地を掌握する彼に、この件は一任するしかない。
﹁では自分は、これより将軍ご夫妻の警護に当たります﹂
その言葉に将軍がちょっと笑い、眉を上げて答えた。
﹁大仰なことだな、王室護衛騎士団の選良が、わざわざ我らのもと
に滞在してくださるとは﹂
﹁いえ、陛下のご命令です⋮⋮おそらくはリーザ様を案じての事か
と﹂
そう応じて、ちらりと目の端で乳兄弟の姫君の姿をとらえる。
兄が無事だと聞いてどうでもよくなったのか、菓子をかじっての
んきな顔をしていた。
あれは話が複雑になりすぎて、分かってない表情だ。
﹁閣下、私の母は、リーザ様の乳母を務めておりました。ですので、
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姫様と気心の知れた私に、その⋮⋮リーザ様の気まますぎるふるま
いをお止めせよ、という意図も、陛下はお持ちではないかと存じま
す﹂
将軍が肩を竦め﹃そうか﹄とだけ言った。
なんとなく居所がないように感じ、もう一度リーザを横目で見る。
相変わらず菓子をかじっている。全く何も考えていないのは明ら
かだった。
ああ、嫌だ。リーザの事なら、自分は何でも分かる。それが嫌で
たまらない。
リーザにちゃんと、危険が迫っていることを言い聞かせねば⋮⋮
人妻になったのに、彼女は何も変わっていない。
胸が痛み、慌ててそれを押し殺した。
﹁では、よろしくお願いいたします、将軍閣下﹂
60
07
﹁やぁっ⋮⋮ぜったいおっきい⋮⋮っ﹂
大きく脚を開かせ、責め立てていたリーザの言葉に、思わず動き
を止めた。繊細な息子がびくりと反応する。
﹁あ⋮⋮ぜったいおっきい、あのひとよりおっきい﹂
大きな美しい瞳をうるませ、唇を濡らしながら、リーザがあえぐ。
﹁り、リーザ⋮⋮﹂
すごくイイところだったのに、一気に全身から冷汗が吹き出す。
何を言っているのだ、わが最愛の妻は。
誰と比べているのだ。
何の大きさを比べているのだ!
﹁おっきいのぉっ、あのひとより、ぜったい⋮⋮んっ﹂
二の腕に縋り付く細い指に力がこもった。
﹁旦那様抱いて、お願い、一人で何回も、いくの、イヤ﹂
﹁う、うん﹂
とりあえずもう一度精神を集中した。柔らかくとろけるような体
を抱き寄せ、己の体をこすりつける。
﹁好き、旦那様、好き⋮⋮﹂
口づけをねだるリーザに応じ、なんとか中断の悲劇を迎えずに果
てることができた。
無事に務めを果たせて良かった。
中で折れ⋮⋮いや、言葉にするのもおぞましい。そんな事が実際
に起きたとしたら、涙を禁じ得ない話だ。
甘えて抱き付くリーザをもう一度抱きしめ直し、毛布をしっかり
ときゃしゃな体に掛け直す。
恐る恐る、何とも言えないつややかな瞳で自分を見上げるリーザ
を見つめた。
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﹁あの⋮⋮﹂
﹁大好き。浮気したら私、爆発するから、絶対﹂
リーザが満足げにそういって、微笑みながら大きな目を閉じる。
いつの間にか自分自身が爆発するという話になっているのは何故
だろう。たぶん彼女なりの嫉妬の表現なのだろうが。
﹁リーザ⋮⋮﹂
﹁お休みなさい、旦那様ってあったかい﹂
幸福そうな若妻の表情に見えた。いつもと同じ、甘く美しいリー
ザの顔だ。
﹁お、おやすみ﹂
暖かな体を抱きしめているのに、身も心も寒い。
嫁いできた夜は清い体だったはず、自分が騙されていなければ処
女だったはずのリーザは、いつ誰の何を見て、﹃夫のほうが大きい﹄
などと言い出したのだろう。
怖い。もしかして、否、もしかしなくても、男のお道具の大きさ
についてリーザは言及しているのだろうか⋮⋮。
だとしたら自分はこのまま速やかに死ねる。いや待て、ただ死ん
でたまるか。何も知らぬ清らかな彼女を汚した不届きものが、この
ローゼンベルクに居るかもしれないのに!
そんな男が仮にいるのだとしたらぶっ殺、いや、己の身分にある
まじき品のない発言をしそうになった。
が、間男がいるのだとしたら、絶対にぶっ殺す。絶対に。
旦那様の温もりを感じながら眠ったら、出会いの日の夢を見た。
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自分は十三歳で、兄は十七歳。あれは﹃王太子の誕生日﹄の祝宴
の会場だった。
﹁姫様!
鳥の騒ぐすさまじい声が聞こえて、着替えも途中のまま部屋を飛
び出す。
虹鳥の声だ。何があったのだろう。
人になつく可愛い虹色の羽の小鳥で、最近庭園の木に巣を作り、
ひなが孵ったばかりなのに。
﹁姫様! 勝手は許されませんよ! お兄様と一緒にご挨拶なさら
ねば! リーザ様っ!﹂
庭に駆け下り、楽しげに笑い合う﹃偉い方々﹄を押しのけて走る。
こんなに庭を派手に飾って、爆竹なんか鳴らすからだ。
庭に暮らしていた鳥や獣が怖がって暴れているのかもしれない。
人の気配のない庭の隅っこに到着し、思い切り背伸びして巣を覗
き込む。
ずっと上のほうに、巣はちゃんとある。そして自分ではどうして
アンダードレス
も手が届かない枝に、ひなが引っかかって暴れていた。親鳥が悲痛
な鳴き声を上げている。
﹁あ! 落ちちゃったんだ!﹂
レースで仕立てられたドレス用の内着のまま、木によじ登る。や
っぱり手が届かないし、巣にまで登ることもできそうになかった。
慌てて周囲を見回し、警護をしていた騎士の袖にすがる。
﹁ねえ、鳥が枝に落ちちゃったの、助けてあげて﹂
﹁あ、姫様。なんて恰好でお庭に出てるんです、さ、鳥は放ってお
いてお支度を﹂
騎士はそういって、自分の肩を抱き、侍女のほうに連れてゆこう
とする。
﹁おーい、早く姫様のお召替えしろよ!﹂
63
ダメだ、侍女に捕まると鳥を助ける暇がなくなる。慌てて騎士の
手を振り切って、庭を突っ切って逃げた。
他に誰か、頼めそうな人はいるだろうか。どうしよう。
まだ飛べないひなだから、体力がなくなって死んじゃうかもしれ
ない。
﹁誰かぁぁ⋮⋮﹂
べそをかいていたら、背後から声をかけられた。
﹁お嬢さん、どうしたの﹂
あきれたように腕を組み、とても背の高い男性が自分を見下ろし
ている。
その人を包む輝きに、自分は言葉を失った。光り輝く銀の髪に、
宝石みたいな水色の目。偉い武人であることを示すように、衣装に
はたくさん勲章がついている。
しばらく何も言えずその人を見上げていたけれど、我に返って縋
り付いた。
﹁と、と、鳥がぁぁ﹂
﹁鳥? 鳥がどうしたの﹂
水色の目を見開き、男の人が驚いたように言った。
﹁鳥がぁぁ、枝に落ちてるぅぅ、わぁぁ⋮⋮﹂
泣きながら巣のある枝を指さすと、煌めくように美しいその騎士
様が笑って、軽やかに走って行った。
﹁あ、いた、こいつだな。虹鳥は人の匂いが付いても子育てを放棄
しないから、巣に戻すよ﹂
軽々と木によじ登り、小さな雛をひょいとつまんで巣に置く。
自分も慌てて駆け寄って、その騎士様を見上げた。
﹁あのー﹂
﹁もう大丈夫﹂
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そこではじめて気づいたように、美しい男の人が笑った。
﹁宴会はどうも苦手で、抜け出して涼んでいたんだよ。都はちょっ
と暑くて⋮⋮君の格好もずいぶん涼しいね、服を着ておいで﹂
軽やかに木から飛び降り、男の人が手をはたく。
たくさんの人が走ってくる足音が聞こえた。
﹁レオンハルト様! 陛下のご挨拶が始まります!﹂
﹁わかった﹂
何も言えず、素晴らしい騎士様の背中を見送る。
︱︱レオンハルト様。
知ってる。あの人は氷将レオンハルト・ローゼンハイム。北限の
国境警備の総責任者で、とても強いと有名なお方だ。
﹁リーザ様! そんな恰好でお庭に出るなんてっ!﹂
怒り狂った侍女に引っ張られ、叱られながらドレスを着せられて
いる間も、それからも、大人になってからも、あの優しい人のこと
が忘れられなかった。
我ながら病のような一途さに笑ってしまうが、鳥を大事してくれ
た﹃大人の男﹄を、あの人以外知らない。
自分の世界を肯定してくれた大人は、あの人だけだった。
夢のような彼の容貌も相まって、レオンハルト・ローゼンハイム
は、あの日から自分の﹃夢の王子様﹄になったのだ。
﹃いやぁ、旦那様のおっきい、いや、いや⋮⋮っ﹄
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
65
黒騎士ヴィルヘルムともあろうものが、情けない。
はるばる王都から一週間かけてやって来て、新婚夫婦がいちゃい
ちゃまぐわい合う声を聞いているなんて。異様に寒いローゼンベル
クの地で、暖房器具の使い方もわからず、凍えながら何をしている
のだろう。
そもそも、あの阿呆娘はあえぎ声がでかすぎる。
いったい何なんだと言いたい。
盗み聞きしているお前こそ何なんだという話だが。
﹁ふう﹂
夫妻の部屋のすぐ傍に与えられた自室の壁に張り付き、聞き耳を
立てるこの虚しさをどう例えればいいのだろう⋮⋮。
悲しい。
リーザのこんな声を聴く日が来るなんて⋮⋮。
真実を突きつけられたこの時間のことを、自分は永遠に忘れるこ
とは出来ないだろう。
壁際にへたり込んだまま、もう一度聞こえた甘い声を反芻する。
﹃だんなさま、好き⋮⋮んっ⋮⋮すきぃ⋮⋮ヴィルヘルムなんかど
うでもいい!﹄
後半は勝手に脳内で補完したものだが、まあ大体合ってる気がす
る。
﹁ふ、みじめな男だな、俺は⋮⋮﹂
得体のしれない快感を感じ、慌てて振り払った。
何かの間違いだ、自分は興奮など断じてしていない。
ふてくされた気分でそのまま寝台に転がり、毛布をかぶりこんだ。
⋮⋮眠れない。
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﹁くそっ﹂
かすかに聞こえたリーザの声で、興奮しすぎた。
落ち着くためにちょっと抜こうかと思ったが、みじめすぎるので
手を止める。
眠れない。
明日もこのくらいの時間に壁に張り付けば、あの声が聞こえるだ
ろうか。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮いや、眠れるかも⋮⋮眠れそうだ。
昔から寝つきがいいので、悲愴な失恋に旅の疲れが勝ったらしい。
俺は本物のバカだ。何をしている、しっかりしろ。
そう思いながら意識を失った。
67
08
﹁だからリーザ、この家から決して出歩くな。出来れば庭にも出な
いでくれ。閣下が護衛を増やしてくださったが危険なんだ﹂
﹁はぁい﹂
返事をして、掃き出し窓に両手をかけて尻尾を振るモロダスの頭
を撫でた。
母親代わりのおばあさん犬が、モロダスの小さな体を舐め、毛づ
くろいしてやっている。
﹁いい子ね﹂
手を伸ばし、おばあさん犬の頭も撫でてあげた。
なんだか、自分とアルマさんのようだな、と思う。モロダスは男
の子だけど。
﹁リーザ、犬のことは犬に任せておけ。お前はひたすら部屋に籠っ
てるんだ、分かったか﹂
グチグチと説教を続けるヴィルを無視し、思う存分甘えるモロダ
スの頭を撫でた。
こんな寒い場所にわざわざ来て、苦労して自分を殺す奴なんて本
当にいるのだろうか。
﹃リーザ﹄は、国民からは半ば忘れられ、兄からは迷惑がられ、
高貴な姉たちからは相手にされていない、側女の産んだ価値の薄い
末っ子なのだし。
自分を大事にしてくれる人は、昔は乳母とその家族だけだったし、
今は旦那様とその周りにいる人だけだ。
本当に、全く重要視されていなかったのに⋮⋮。
﹁私じゃなくって、お兄様を守ってよ。お兄様は頭でっかちで体が
弱いんだから﹂
﹁いや、精鋭の騎士が終日警護に当たっている。私はここで任務に
68
就く﹂
﹁風邪ひいてたら意味ないじゃないの﹂
氷嚢を頭に乗せ、長椅子に寝かされているヴィルを振り返る。
彼は、ひどい熱で寝込んでいる。
執事が手当てをし、お医者さんに見せてくれた。
ヴィルの寝た部屋は、二重窓も暖房も壊れていたらしい。そんな
場所で寝てしまって、異様な寒さで風邪を引いたのだ。
執事は、命に係わる思いをさせて申し訳ないと頭を下げていた。
風邪を引いただけで済んで奇跡だと。
でも、他に部屋を用意したのに、あそこがいいといったのはヴィ
ルだし、そもそも彼は昔から異様に丈夫なので、すぐ治るだろうと
思う。
﹁明け方が一番寒いんだから。気をつけなさい﹂
自分も知ったばかりだが、ちょっと偉そうにそう教えた。ヴィル
は感銘を受けた様子もない。
﹁ここの寒さにはもう懲りた﹂
吐き捨てるように言ってヴィルが目を閉じる。
とりあえず姉代わりの身として、世話をしてやらないと。そう思
って布を濡らして絞り、顔を拭いてあげた。
﹁ぶは!何する!もっと水を絞れ!﹂
自分の手を払いのけ、ヴィルが怒りの声を上げる。昔からそうな
のだ。いつも機嫌が悪く、何をしてあげても礼を言わない。
﹁絞った﹂
﹁絞れてない、全然っ!﹂
ヴィルは飛び起き、自分で布を絞って拭き直す。それから怒った
顔で言った。
﹁リーザっ!何度言ったらわかる!お前は大人しくしていろ!﹂
﹁うぅぅ⋮⋮﹂
69
弟分のくせに生意気だ。もう知らない。
掃き出し窓を閉め、ヴィルの部屋を出て、居間の窓を開ける。モ
ロダスが転がるように走ってきて、大窓の縁に手をかけて、パタパ
タと尻尾を振った。
﹁あら、お利口さん。見つかっちゃったわ!﹂
そう言ってあげると、嬉しそうに﹁わん!﹂と吠える。
おばあさん犬はモロダスを見守りながらゆっくりと付いてきて、
少し離れた雪の上に優雅に寝そべった。
﹁閣下﹂
﹁お、ありがとう﹂
部下がまとめてくれた書類にざっと目を通す。
王都の大学を優秀な成績で出た人間だ。こんな辺境で務めさせて
申し訳なく思うが、勤勉な男だった。本人も自分の裁量が多く、王
都ではできない仕事ができて楽しいと言ってくれている。
部下が持ってきたのは、分厚い紙束だった。もちろん彼の努力の
結晶だ。いま、山腹を掘削し、王都への直通路を作る計画が持ち上
がっていて、その事についてまとめたものだ。
非常に危険、かつ時間のかかる工事だが、この道さえできればロ
ーゼンベルクは活性化するだろう。
山に囲まれ、海を構える天然の要塞は、平和な今では﹃交通の不
便さ﹄ばかりが際立つ。
病人を帝都に運ぶのも一週間仕事だし、世界でも指折りの漁場で
70
あるローゼンベルク湾近海で採れた魚介類を王都や他の都市へ売り
に行く場合も、海周りの長い旅を要求される。
だが直通路ができれば、王都へ赴く時間は二日に短縮されるのだ。
万年雪を頂く山岳道を歩く必要もなく、レーエ川をのんびりと船
で下る必要もなくなる。
﹁だいたい、この数字で固まってきたな﹂
かなり時間がかかったが、発破工事計画の素案は大体出来上がっ
た。
先年、外国で高性能の火薬が開発された。
もちろん取り扱いは危険きわまるし、戦場で使われれば戦況を変
えかねない代物だ。
大陸の北方に領土を構える諸外国の王侯達は、火薬の独占よりも、
均衡状態を維持することを望んだ。
長い戦乱の果てにようやく得た儚い平和だ。五十年前の戦乱は繰
り返したくない。もちろん我らがカルター王国の王、ジュリアスも
同じ思いだ。
ジュリアスは国際会議の場で、火薬の売買を統制する委員会の設
立を提案し、ようやく今年の初めにそれは承認された。
ローゼンベルクからも、発破用火薬の購入及び技術者の派遣を要
請する予定だ。
技術者の雇用、警護、滞在にかかる費用、それから実際の工事期
間、気が遠くなる大計画だがやり遂げねばならないし、優秀な部下
たちも賛同してくれている。
この不便きわまる北の街を活性化するのは、自分の夢でもあるか
ら。
﹁閣下、またアイシャ族から連絡がありました。北青石の鉱山を採
掘させろと﹂
71
﹁断れ、あれは数百年前からローゼンベルクの領土にあるものだ。
同じことを何度でもいって、何度でも断ってくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
アイシャ族は、もっともローゼンベルクに近い場所に暮らす﹃極
北の原野﹄の部族の一つだ。これら部族は、王都では蛮族と呼ばれ
ているが、文明の程度は高い。最新の様々な利器も輸入して取り入
れている。
﹃氷に閉ざされた神秘の一族﹄の振りをするのは、観光客を呼ぶ
ためだ。
﹁北青石がほしければ、買ってくれ。ローゼンベルクの主要な資源
だ。お隣さんのよしみで三分引きで売ってやると言っておけ﹂
アイシャ族は、希少な宝玉の鉱山を、﹃先祖代々の神の山だ、返
せ!神の怒りが!﹄などと、思いついたような言い訳をしては所有
権を主張し、時には威嚇のように攻め込んでくることすらある。
要するに彼らは、北の大地では最も拓けているローゼンベルクが
欲しいのだ。
ついでに金になる鉱山も欲しいのだろう。北青石は採掘量が少な
く、国力を高める助けになるほどの量は採れないのだが。
とにかく、アイシャ族はしつこく、かつ定期的に祭りのような侵
攻もどきを行ってくる。だが自分の目の黒いうちはおかしな真似は
させない。
⋮⋮。
このように仕事は多忙で、治安に気を配る必要もあるし、開拓責
任者でもあるご領主様は忙しいのだ。
女にかまける暇などなかった。
だから、手も金もかかり、気位も高くていつも機嫌が悪く、実家
の利益増ばかりを夫にねだる貴族の娘など娶らずに来た。
72
ローゼンベルクの娘と深い仲になったこともあるが﹃王都に行く
のは嫌だ!﹄と言って、彼女は自分のもとから去った。
そして半月後に、裕福な漁師の息子と婚礼を上げた。
半月⋮⋮。
どう考えても二股掛けられていた上に自分は本命ではなかったと
いう⋮⋮。
そんな魔性の彼女も、今では五児の母だ。
半年ほど前、大きな網元である夫と共に子連れで挨拶に来て
﹃領主様!よかったらうちの上の娘を嫁にする? なんちゃって
ね、あはは、年が違いすぎるわよねぇ、ハイ魚の干物あげる、どう
ぞ! いっぱいあるから食べて!﹄
などと言いたい放題のたまい、一人で機嫌よくしゃべって帰って
行った。
完全なる北国のおばちゃんに変貌を遂げていて、衝撃を受けた。
リーザもあんな風になるのだろうか。ならないはずだが。
そう、リーザ。
リーザはいったい何を見て夫のモノが大きいなどど⋮⋮ダメだ、
仕事中はだめだ、仕事中は仕事に集中しないと!
﹁どうされました﹂
﹁い、いや、次の会議いつだっけ﹂
﹁今お迎えに上がりました﹂
﹁うん﹂
手の汗をこっそり拭って、胸を張って歩き出す。
あのほっそりした華奢な娘が、氷将レオンハルトをここまでグダ
グダのおっさんに変えてしまうなんて⋮⋮予想通りだ。
予想通り過ぎて自分が悲しい⋮⋮。
73
09
﹁旦那様﹂
風呂上がりに頭を拭いていたら、布を手にしたリーザが微笑んで
近づいてきた。。
﹁私がお拭きします﹂
﹁ありがとう﹂
頭を差し出すと、リーザが頼りない手つきで髪を拭いてくれる。
姫君育ちの彼女なりに、何だかんだと世話を焼いてくれる様が可
愛くて仕方ない。
年齢が十七歳も離れているから、可愛いのは当然かもしれないが。
だがリーザのいつもの奥様ぶりっこも、今は心が沈んでいて素直
に喜べない。
リーザは誰のモノと、自分のモノを比べていたのだろう。誰のモ
ノと自分のモノを⋮⋮こんなことばっかり考えている自分が気持ち
悪いうえに情けなく、かといって嫉妬を抑えることもできず、総合
的に﹃お前、嫁さん貰ってダメになったんじゃないの?﹄という感
じになっているのが本当に痛い。
﹁旦那様⋮⋮?﹂
リーザがひょいと覗き込んでくる。
花紫に染まる澄んだ瞳に微笑み返し﹁大丈夫だ﹂と答えた。
口では大丈夫などと言ったが、正直ダメだ、嫉妬で頭が濁る。
だって﹃ここに来てから毎日幸せ﹄とか﹃旦那様大好き﹄とか﹃
長生きしてね!絶対ね!﹄とか言ってくれる可愛いその口で、別の
男にも似たようなことを喋っているのかと思うと⋮⋮。
なんとなく精神統一の真似事をして目を閉じた。
平穏など全く訪れなかったが、﹃冷たく見える﹄と言われる表情
74
は取り戻せたかもしれない。
﹁ところで、君の乳兄弟の騎士は大丈夫か、朝はひどい熱だったが﹂
﹁はい! 彼の事は心配しなくて大丈夫です。昔からすっごく元気
なの﹂
リーザが、とろりとした笑みを浮かべた。
常のリーザの少女めいた清らかな笑みと違い、なんだか﹃女﹄っ
ぽく見えて心臓が止まりそうになる。
﹁すっごく、元気⋮⋮なんだ⋮⋮﹂
﹁はい、いつもいつも、もう嫌になるくらい元気で﹂
﹁そう﹂
そうなんだ。
⋮⋮⋮⋮。
若いからかーッ!
絶叫しそうになって必死に呑み込んだ。
どうせ自分は若くないし、いつもいつもすっごく元気とは言い難
い。でもでも。でも!
﹁リーザ﹂
聞くな。
これを聞いたら終わる。
終わるけど聞かずにはいられない。
あの、南方の血を引いているであろう、黒い髪も麗しきヴィルヘ
ルム。
彼がリーザの昔からの恋人なのか。
自分は、間男を唯々諾々と家に入れたというのか。
﹁あの、リーザ⋮⋮き、きみはもしかして、彼と私のを比べていた
75
のかな、ハハハ﹂
声! 震えてる! しっかりしろレオンハルト!
しかし、妻の返事はない。
﹁モロダス︱、どうしたの﹂
リーザはいつの間にか自分のそばから離れ、戸口にかがみこんで
いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁今夜は特別寒いもの、執事さんに入れてもらったのね? そうよ
ね、まだ赤ちゃんだもんねー、いらっしゃい﹂
そういって、きゅうきゅう鳴いている子犬を抱き上げ、振り返っ
た。
﹁旦那様、モロダスが自分一人で、私たちのお部屋まで来ました!﹂
毛に埋もれそうな子犬に頬ずりをして、リーザが言う。
﹁お利口ですね、モロダスは!﹂
﹁あ、ああー、うん⋮⋮﹂
︱︱やっぱその名前で定着させるわけ?
いや、そんな事より、どうなんだ。
自分はあの、若くて顔が良くって、異国情緒漂う美青年と比較さ
れていたの? あいつは君のモロダスな訳? 自分は何を言ってるの?
今自分たち夫婦にとって一番大事なのは、この話なんだけど!?
﹁どうしたの、ねんねしましょうねぇ﹂
バタバタしている犬を抱いたまま、リーザが部屋を出て行く。
自分の荒れ狂う嫉妬心も、どうかやさしく寝かしつけてほしい。
清い体である事を証明し、安心させてほしい。
余計なことばかりを考えてしまい、どうにかなりそうだ。リーザ
は自分の嫁で、自分だけの嫁なのに⋮⋮。
76
﹁ヴィル、元気になった?﹂
一応、寝る前に様子を見ておこうと思ったのだ。あの子が熱を出
すなんて珍しいし⋮⋮。
ヴィルのために、執事さんに、暖かくて整った一階の客間をあつ
らえてもらった。
お薬も飲んだし、だいぶん元気になったはずだ。
﹁ああ、まあ﹂
体を起こし、ヴィルがうなずいた。床に下ろしたモロダスがトコ
トコと知らないお兄さんの寝台へ走ってゆく。
だが、高くて登れないので、自分を振り返った。
笑いながらモロダスを抱き上げ、ヴィルの毛布の上に下ろす。
﹁犬を寝台に入れるな﹂
﹁可愛いでしょう、旦那様が私のために連れてきてくださったのよ。
旦那様ってすごく優しくて、捨てられてる犬や猫を、すぐに拾って
いらっしゃるの。あんなに冷ややかに見えるのに心根はとってもあ
ったかい方だから。部下の皆さまにもとっても好かれててね、それ
に⋮⋮﹂
ヴィルは返事をせず、尻尾を振って飛びつくモロダスを片手でポ
ンと抑えた。
﹁⋮⋮やんちゃな子犬だな﹂
﹁え? うん。狼の血が混じってるの。活発な犬種なんですって﹂
﹁ふうん﹂
パタパタ尻尾を振っているモロダスを自分に差し出し、ヴィルが
ぼそっと言った。
77
﹁お前みたいだ﹂
﹁え?﹂
桃色の舌をちょろりと出し、キラキラした目で自分をしているモ
ロダスを見つめた。
似ているだろうか。この子と自分は⋮⋮。
﹁似てないわよ﹂
﹁そうでもないよ﹂
ヴィルが疲れたように答え、ぼふっと枕に頭を乗せて目をつぶっ
た。
﹁まだ熱があるの?﹂
﹁明日には下がる。感染するから出てけ。お前に移したら閣下に面
目が立たないだろうが﹂
﹁そうなの﹂
面目⋮⋮。何の面目だろう。
何の事か良く分からないが、重々しくうなずいて見せた。
﹁わかったわ。明日の朝も見に来てあげる。早く治してね﹂
﹁ありがとう、出てけ﹂
﹁なによう!﹂
﹁出てけ﹂
ヴィルは人がいるところでは丁寧にしゃべるが、二人でいるとき
は無礼極まりない。
赤ちゃんの時からずっと一緒だし、自分は身分が低い姫だったの
で、彼も気を使わなかったに違いない。
まあ、いいのだけれど。いきなりご丁寧にしゃべられたら気持ち
悪いから⋮⋮。
﹁じゃあね、おやすみ。早く元気になってね﹂
思い切りやさしい声で言ったが、無視された。
腹立たしい⋮⋮。
78
あっという間に眠ってしまったモロダスを抱っこして、ヴィルの
部屋を出た。
ねまきの胸に顔を押し付け、ぐっすり眠っている。
﹁リーザ﹂
旦那様の声に顔を上げた。
﹁あ、旦那様!﹂
﹁そんな恰好で寝室から出るな﹂
言われて、自分の体を見下ろす。寝間着に分厚い上着を羽織った
姿だ。
﹁えっ﹂
何がダメなのだろう。いつもこの格好で部屋から出ているのに⋮
⋮。この格好で旦那様の寝る前のお水を用意したり。
誰からもとがめられた事なんて一度もないのに、何で今日いきな
り言われるのだろう。
﹁犬は執事に返してきなさい﹂
﹁え、はい⋮⋮﹂
旦那様が、そのままくるりと背を向けて階段を上がり、寝室に戻
って行った。
怒っていた⋮⋮?
﹁奥方様、子犬をお預かりします﹂
執事に声を掛けられ、慌てて彼の手にモロダスを預けた。
自分の手が震えている事に気づく。
﹁あ、あの、お願いします⋮⋮﹂
﹁冷え込みがきついので、室内のかごで寝かせますね﹂
﹁はい⋮⋮﹂
どうしよう、怖い、何だかわからないけれど旦那様が怒っていた。
怖い。
79
怒られた事なんてなかったのに、いつも優しかったのに。
どうしてだろう。子犬ばかりかまったから?
でもそんなことで怒る方ではなかったのに。
﹁奥方様﹂
﹁は、はい!﹂
びくりとなって、執事を振り返る。
﹁夜遅くに、そのようなお召し物でヴィルヘルム様をお訪ねになり
ませんように﹂
﹁えっ﹂
何を言われたのかわからず、首を傾げた。
すぐに勘違いされていることに気づき、慌てて微笑みを作った。
﹁大丈夫よ、あの子は弟なの。昔からこんな感じ﹂
﹁いえ、なりません﹂
執事が怖い顔をして首を振り、深々と一礼した。
﹁お風邪をお召しになりませんよう、早く旦那様のところへお戻り
ください﹂
﹁は、はい﹂
釈然としない気持ちでうなずいて、ゆっくりと階段を上った。
何だか怖い。
旦那様が変だったから怖いのだ。
階段を上り切り、寝室の扉の前で足を止めた。
いつもは旦那様のもとへ向かう足取りは軽いのに、今は何だか重
い。
ぼんやりと扉の前で佇んでいたら、いきなり扉が開いた。
﹁きゃっ!﹂
予想外のことに、悲鳴を上げる。
80
そこにいたのは、旦那様だ。
でもいつもと違ってやさしい顔をしていない。明らかに怒ってい
た。
あまりの怖さに、何も言えずに後ずさる。
﹁来なさい﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂
﹁何が嫌なんだ?﹂
﹁だ、だって⋮⋮﹂
怖い。どうして旦那様が自分を怒るのだろう。
もしかして、自分が気が利かないとか、子供っぽくて妻失格だと
か、そういうことで怒っているのだろうか。
やっぱりそうなのかもしれない。
ローゼンベルク家の奥方として役に立っていないから⋮⋮。
﹁早く来なさい、⋮⋮それとも私を拒む理由でもあるのか﹂
﹁いやだ、怖い﹂
聞きたくない、旦那様の口から﹃お前は役立たずだ﹄なんて。
ここでもらった幸せが全部ボロボロ崩れていくように感じ、涙が
吹き出す。
あり得ないくらい乱暴に旦那様に引っ張られ、寝室に引きずり込
まれてしまった。
81
10
﹁そうか、泣いているということは、私を拒むんだな﹂
己の言葉が、ぐっさり心の臓に突き刺さった。
自分が自分の傷つく所を一番良く分かってるからすごく傷つく。
当たり前の話だが。
﹁どうなんだ﹂
﹁こ、拒んでない⋮⋮﹂
リーザの大きな目は真っ赤で、涙に潤んでいた。自分が怒った顔
など見た事がなかったから、怯えているのだろう。
⋮⋮⋮⋮。
あぶない。
特に理由もなく、漠然とリーザを許しそうになった。
だが、浮気したのかどうか、いや、嫁に来る前から処女ではなか
ったうえに不適切な比較行為を行ったのかだけは聞きださなくては。
この事象にこだわり続ける器の小ささに我ながら驚愕するが、もう
爆発しそうなのだ。中年の嫉妬は燃え上がると自分では消せなくて
手におえない。
それに、若さは持続時間や硬度、それから持続時間や硬度、持続
時間や硬度⋮⋮などに密接にかかわっているから、若くて元気なほ
うがいいに決まってる。
自分が必死に仕事をしている間、リーザは四十の色狂いのおっさ
ん相手では満たされない色々な不平不満を、馴染みの若い男の肌で
すっきり解消していたに違いない。
考えれば考えるほど、自分だけが傷つくこの時間は何なのだろう。
⋮⋮今すぐ極寒の氷海に飛び込んで死にたい。妻に去られるくら
いなら本当にそうしたい。
いつからこんな男になったのかというと、割と昔からこんな感じ
82
だ。外見ばっかり派手で情けない。
だがそんな欠点も、愛する女が側にいないから誤魔化せていたの
だ。
男共に対して﹃イヤ︱!俺を捨てないで︱!﹄などと死んでも思
わないから。
結果的に、妻帯した今はもうグダグダである。
リーザはしくしく泣いているが、自分も泣いている、心の中で。
﹁ど、どうして、怒るの﹂
リーザが可愛らしくて弱弱しいしぐさで涙をぬぐった。
﹃怒って済まなかった!私がすべて悪かった!﹄と絶叫して抱き
しめたくなる大変な可愛さだ。
﹁旦那様がこわい⋮⋮﹂
﹁⋮⋮怖い?﹂
﹁こわい⋮⋮﹂
やはりこれは浮気がばれたから泣いて誤魔化そうという、単純に
して最も有効な作戦が実行されているのだろうか。だとしたら自分
の妻は可愛いうえに賢い。泣けば少なくとも自分のことは確実に誤
魔化せるのだから。
ほら、ご覧。もう誤魔化せた。
氷将レオンハルトは、水将、いや湯将レオンハルトになったでは
ないか。
﹁泣かなくていい﹂
腕を伸ばし、心細げに泣きじゃくるリーザを抱き寄せた。それか
ら絹のような栗色の髪を撫でる。
﹁すまなかった、お前を怯えさせて﹂
﹁う、うわぁぁぁぁ!﹂
83
子供のように声を上げて、リーザが自分の胸にしがみついた。
﹁ご、ごわがったぁぁぁ﹂
いつもながら、美貌の姫様と思えないような、威勢のいい泣き声
だ。
睦言の真っただ中とはまた表情が違い、自分が守らねばという気
持ちにさせられる。
﹁お、おごっでるがらごわがったぁぁぁ﹂
﹁すまない﹂
﹁わぁぁぁぁぁ﹂
こうして、リーザが何を比べて大きいなどと言い放ったのかは聞
きそびれた。
だが仲直りできてよかったと思う。
自分が勝手に怒って妻を怖がらせ、勝手に謝っただけだが。
我ながら何がしたかったのだろう⋮⋮。
こうなったら自棄だ。賢者の心持が訪れる魔法のひと時に、さり
げなくリーザが何のことを言っているのか聞きだすのだ。
今聞いたら恐らく、質問途中で泣く。
﹁リーザ、おいで﹂
﹁だめ⋮⋮﹂
﹁駄目じゃないだろう﹂
旦那様が低い声で喉を鳴らす。
強く惹かれたが、あえて顔をそむけた。
84
身をひねって旦那様の手から逃げようとしたが、ここは狭い寝台
の中。
旦那様にあっさりとらえられてしまい、裸の胸に抱きすくめられ
てしまった。
突然怖い顔で怒られて、本当に不安だったのだ。この家から追い
出されるのではないかと。
それなのに、﹃別に理由はなかった﹄だなんて意地悪すぎる。
だから、今日は何もさせないと思ったのだが、そんな決意はあっ
という間になし崩しになった。
気づけば厚みのある身体に足を絡ませ、あられもない悲鳴を上げ
ながら旦那様に縋り付いていた。
﹁リーザ﹂
名前を呼ばれて我に返る。
最近、我を忘れてしまうことが多すぎるのだ。何かおかしいこと
を言っただろうか。
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁何の話だ、私のほうが大きいって﹂
﹁えっ﹂
言われて一瞬本気で考え、何の話か気づいて羞恥に耐えられなく
なり、旦那様にしがみつく。
﹁あ、あの、恥ずかしいので、いいです﹂
﹁いいよ、話してごらん﹂
旦那様の声は優しかった。
そうだ、旦那様になら何を話しても許されるはず。なぜなら、自
分たちは夫婦だからだ。
恥ずかしいけれど⋮⋮。
85
﹁はい、あの、下手人の⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁下手人の⋮⋮﹂
﹁は?! 下手人?!﹂
﹁はい、私を襲った下手人が、あの⋮⋮あの、局部をいきなり見せ
て、仕舞ったのです⋮⋮それが病気で小さかったのです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど﹂
﹁本当に小さかったのです!﹂
﹁なるほどね⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの、人妻でありながら、そのようなものを目にしてしまって、
油断いたしました。気を付けます、旦那様、それで、あの﹂
最近ぼんやりと考えてしまうのだ。
木立の小屋で、自分を襲おうとした良く分からない露出男のこと
を。
彼の見せてくれたものは異様だった。
⋮⋮たぶん病気だったのだと思う。
だからこそ思うのだ。
ひょっとしてあの男は、無意識の底で、自分に助けを求めて見せ
つけてきたのではないかと。
自分は王の妹でありながら、病の男を犯罪者として切り捨て、見
捨てたのではないかと。
だが、とてもはしたない事なので誰にも相談できないと分かって
いたし、頭のどこかで悩んでいた。
自分は世間知らずだし、もしかしたら余計なお世話かもしれない
し。
その気持ちが、旦那様の身体に乱され、頭が滅茶苦茶になってい
86
るときに無意識に転がり出てしまったのだろう。
もういいのだ、夫婦だから何でも話そう。
﹁げ、下手人が病だったら、助けてやってくださいませ!﹂
言ったら、心の底からほっとして笑顔が出た。
旦那様も何とも微妙な笑顔を浮かべてくれた。
怒っていないようだ。
﹁ああ、よかった、言えた。頭のどこかで気になっていたのだと思
います、病人を見捨てたんじゃないかって﹂
旦那様は何も言わず、自分を抱きしめ、毛布を掛け直してくれた。
きっと牢屋に捕まっている男も、何とかしてくださるだろう。
﹁なあ、リーザ﹂
﹁はーい、なーに、ヴィル﹂
リーザは、菓子を食っている。
元は痩せすぎなくらいだったが、明らかに丸くなった。今のほう
がふっくらしていて健康的だ。
太ったのは、夫に甘やかされ放題甘やかされ、家でのんびりしつ
つ犬と遊んでいるだけだからだろう。
ローゼンベルク家の妻として領地を切り回して欲しい、などとい
う期待はだれもしていない。
87
兄君もしておられないし、将軍閣下ですら全くされておられない。
まあ、余計なことをせず、おとなしく夫と暮らし、跡継ぎを産ん
でくれればいいのだ。
⋮⋮自分は嫌だが、物心ついたころから覚悟はできている。
リーザと結ばれる未来なんて永遠にないのだから。
そもそも本当に、爪の先ほども男と思われていない。
むしろ、夜中に便所に付き添ってやらねばならない、泣き虫の弟
だと思われている。
﹁おいで、モロダス﹂
リーザが﹃旦那様が拾って来てくれた﹄と自慢する、溺愛してい
る犬の名を呼んだ。
彼女は﹃古代の武将のようでいい名前だ﹄というのだが、その名
前は何だか嫌だった。良く分からないが、何だろう、こう、異国の
不吉な言葉を思わせるような⋮⋮邪悪な感じがする。
子犬は素直に走ってきて、おとなしくちょこんとリーザのドレス
の裾のところにすわった。
﹁あのさ﹂
﹁何よ﹂
﹁陛下はだれにお命を狙われたんだろうな﹂
﹁え?﹂
その問いに、リーザがきっちりと結った小さな頭を傾げた。
﹁んー⋮⋮お兄様を殺したって誰も得しないのよ。だって王様にな
りたかった姉さま方なんか、一人もいないんですもの﹂
リーザが断言する。
やはり姉君、及びその嫁ぎ先が犯人という線は消えるのか。
﹁お義兄さまたちも﹃名誉と秤にかけるには、王の責務はあまりに
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おもいッ!﹄とか仰って、毎年ちょびちょびお金を寄付して下さる
だけなのよ。忙しくてもうけが少なくて、貧乏な王家の仕事は嫌な
の。お兄様はそうおっしゃっていたけど、内緒にしてね。兄が妹に
聞かせる愚痴だったんだから。公式な発言じゃないわ﹂
﹁わかった﹂
そう答えるとリーザがにっこり笑って、犬を抱き上げた。
﹁さ、お庭に行きましょうね、モロダス﹂
リーザにしてはハキハキした回答だったことに若干の違和感を感
じたが、兄上が言い含めた事なのだろう、とその場は納得した。
89
11
﹁リーザ様、初めましてお目にかかります。わたくしはレオンハル
ト様がご母堂、ミラドナ様にお仕えするセルマと申すものでござい
ます﹂
そういって、不思議な装束の小柄な女性が深々と頭を下げた。
真白な衣に小さな毛皮の襟巻をしていて、目が覚めるように美し
い。
旦那様によく似た色の、まっすぐな銀の髪が足首くらいまでキラ
キラと流れている。
目の色も銀色だ。灰色を金属のように輝かせたような不思議な色、
と例えればいいだろうか。
﹁レオンハルト様、お久しゅうございます。ミラドナ様は所用にて
故郷ヨルムンドを離れられないため、わたくしが名代として、新婦
リーザ様へご挨拶にあがりました﹂
﹁ああ、久しぶり、わざわざありがとう。それにしても大きくなっ
たな。セルマは今いくつになったんだ?﹂
この若い女性は、どうやら旦那様の知り合いのようだ。
﹁はい、二十二になりました﹂
まったく抑揚のない、低い声でそう答え、セルマさんが自分を振
り返ってほんのりと笑った。
氷の妖精のような女の人だ。
自分が暮らしていた王都では、こんな不思議な姿をした、美しい
女性を見た事がない。
モロダスも彼女の銀色の姿に驚いたように、おとなしく足元でお
座りをしている。
﹁リーザ、紹介しよう。私の母方の親戚の娘、セルマだ。極北の部
90
族の中でも、もっとも寒いヨルムンドの地を本拠とする、レヴォン
トゥリ族の巫女を務めている﹂
﹁まあ、巫女さんなの﹂
驚いて、氷細工のようなセルマさんを振り返った。
こんなきらめく容姿で、巫女さんだなんて。何だか神聖な感じが
する。
﹁はい、ヨルムンドの神殿で氷神様にお仕えする巫女でございます﹂
セルマさんがうなずいた。
相変わらず、何の抑揚もない低い声だ。
氷の中に閉じ込められた、白い花のように見える。
﹁氷神様ってなあに?﹂
﹁はい、氷神様とは人の心を凍らせ、永久凍土に暮らすことの絶望
を眠らせてくださる、ありがたい神様です。我らレヴォントゥリの
守り神であらせられます﹂
﹁そうなの﹂
伝説の部族と呼ばれているレヴォントリの女性から、とても神秘
的な話を聞けて深く満足した。
永久凍土、という言葉は初めて聞くし、絶望を眠らせてくれる神
様というのも、いかにも神話的に思える。
﹁姫様、私はこれから、カルター王国の王城に向かい、ミラドナ様
から、新婦様の兄君である国王陛下への献上品をお届けにまいりま
す。兄君へのお手紙などがおありでしたら、お預かりいたしますが﹂
﹁え?﹂
手紙か。
そういえば一枚も書いていなかった。
慌ててうなずき、椅子から立ち上がる。
﹁ちょっと待っていてください、すぐに紙を持ってきますね﹂
手紙⋮⋮。
噴水爆破事件の件で、兄とは険悪なまま挙式の日を迎えてしまっ
91
た。
なので兄から来た手紙も読んでいないし、自分からも手紙を書い
ていなかった。
何を書けばいいんだろう。
しばらくぼんやりと考える。
兄に謝ろうか。
⋮⋮でも、謝るって何を⋮⋮?
そのことを考えると眠くなり、別の話にしようという気分になっ
て来た。
﹁うん、違うことを⋮⋮書こうっと⋮⋮﹂
あくびをかみ殺し、さらさらと筆を走らせた。
部屋の外から、モロダスのきゃんきゃん鳴く声と、旦那様が笑い
ながら﹃シュネー、静かにしなさい﹄とたしなめる声が聞こえる。
どうやら旦那様は、モロダスという異国の武将のような名前がお
気に召さないらしい。
子犬のうちからいろんな名前で呼ぶと、混乱してしまいそうで不
安なのだが。
眠いなぁ、と思いながら手であおいでインクを乾かし、手紙をた
たんで封筒に入れ、立ち上がった。
﹁お待たせしました、セルマさん。お兄様へのお手紙を書いてきま
した﹂
﹁はい、お預かりいたします﹂
セルマさんの真っ白な手に手紙を渡す。
﹁では、私はこれで。船の時間がございますので﹂
キラキラの髪を揺らし、セルマさんがもう一度深々とお辞儀をす
る。
﹁食事位していけばいいのに﹂
旦那様の言葉にも、セルマさんは首を振る。
92
﹁急ぎますので。早く王都へ向かい、なるべく早くミラドナ様のお
手伝いに戻らねば﹂
引き留めたのに﹃もう王都へ向かわねばならない﹄と言い張って
去ってしまったセルマさんを、旦那様と二人見送った。
﹁旦那様、セルマさんはお一人で王都へ行くのでしょうか。それに
あんな薄着で雪の中に出て行ってしまいました﹂
﹁大丈夫、レヴォントリの女は強いから、うん。寒さとかいろいろ
なことに対して﹂
﹁そうなんですか﹂
うなずき、旦那様と手をつないでお部屋に戻った。
それにしても、夢のように美しい巫女さんだった。不思議な彼女
と、時間が許せばもっとお話をしたかったのに。
ようやく平穏な日々が戻って来たと思う。
不安な日々にしたのは自分だが。
で、おっさんはあまりに安心したので、また奥方の体を楽しみた
いという不埒な気持ちになってきた。
あちらの準備具合もよろしいようで、なかなか奥様に良い声で泣
いていただけている。
﹁見てご覧、君はこんな顔で私に抱かれているんだ。悪い子め﹂
耳たぶをそっと噛み、抱きかかえて後ろから番っているリーザの
体をゆすりたてた。 93
びくりと反応し、リーザが腕の中で必死にもがく。
﹁だめ⋮⋮鏡だめェ﹂
リーザが鏡の前で貫かれ、脚を開かされる己の姿から、必死に顔
をそむけた。
﹁イヤ⋮⋮んっ、こんなの、私じゃない⋮⋮﹂
﹁本当に?﹂
リーザの細い顎をつまんで、もう一度鏡のほうを向かせる。
﹁到底そうは思えないな、すごい音がするだろう、聞こえないなん
て言わせない﹂
体を突き上げ、咀嚼音に似た音をわざと立てると、リーザの奥が
びくびくと震える。本当に感じやすくて感動する。夫を飲み込んで
いるしとどにぬれた部分に指を這わせると、リーザがおのれの細い
指を咥えて、一すじの涙を流した。
﹁やぁ⋮⋮ダメ⋮⋮あぁっ!﹂
激しく脚をわななかせるリーザの豊かな胸をそっと持ち上げ、先
端をいじりながら耳元でささやいた。
﹁君は天国を見たようだが、私はまだだ﹂
﹁やっ⋮⋮だめ⋮⋮っ﹂
リーザがぼんやりとうるんだ目を開いた。花紫の瞳と、鏡越しに
目が合う。
なんという目だろう⋮⋮いつからこんな淫蕩な目をするようにな
ったのか。
ただ単に自分が興奮しすぎて、都合のいい解釈をしているだけの
ような気もするが。
﹁さあ、次は私に天国を見せてくれ﹂
リーザの体を寝台にそっと横たえ、脚を開かせた。かすかに体を
よじって、リーザがまたはらはらと涙を流す。
﹁ねえ、何回も、一人でいくの嫌⋮⋮﹂
﹁今度はあんな意地悪はしないから﹂
﹁⋮⋮だんなさま⋮⋮﹂
94
無我夢中で、細い腕に抱かれて体を合わせた。
﹁んっ、ン⋮⋮っ!ひとりでいくの、ヤダぁ⋮⋮﹂
甘い声で泣き、リーザが腰を使ってもっと体を寄せてくれと強請
る。
﹁リーザ﹂
﹁んはぁッ⋮⋮だんなさまあっ、またいっちゃうッ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
リーザ、あまりしゃべるな!
さっきの鏡遊びでただでさえ興奮しすぎているんから!
心の中でそう答え、汗だくになりながら唇を重ねる。
子供みたいな顔をして、とんだ小悪魔姫だと思いながら、死ぬ思
いで何とか最後まで致すことができた。
⋮⋮⋮⋮。
ゆっくりと体を離すと、リーザが小さな悲鳴を上げてまたのけぞ
った。
伸ばされた細い腕に、再び体をゆだねてそっと抱き合う。
﹁旦那様⋮⋮﹂
﹁リーザ⋮⋮﹂
胸に抱いたリーザが、驚いたように顔を上げた。
﹁何だかすごくどくどく言ってます、旦那様の心臓﹂
興奮しすぎたからです。
そう答えようと思ったが、恥ずかしいので無言で体を抱き寄せた。
リーザの言うとおりだ。最近やりまくりすぎてて四十歳の身体が
心配なのだが大丈夫だろうか。
ぽっくり逝ったらどうしよう。
95
いや、あまりシャレにならない。朝起きると、たまに足がガクガ
ク言っているのだが⋮⋮。
﹃お兄様、怪我をされたと聞いてびっくりしました。
ですがご無事で、ちゃんと護衛がいると聞いて安心しました。
リーザは幸せに暮らしております。
旦那様は思った以上に素敵な方で、飼い犬にも私にも優しいです。
最近は家の人に家事を習っています。
お兄様におかれましては、どうぞ安全に気を配ってお過ごしくだ
さいませ﹄
慌てて書いたと思しき女文字が、質素な白い紙に躍っている。
ため息をついてジュリアスは、妹リーザからの手紙をたたんだ。
﹁この文章だと、飼い犬とあいつが同じ扱いに見えるな、まったく
あいつは幼いまま変わらない﹂
冷たい紫の石のような瞳に優しい光が灯る。
妹の前では決して見せない﹃兄の表情﹄だった。
﹁仕方のないやつだ﹂
呟いて、手紙を執務机の引き出しの奥に仕舞った。
﹁安心できました。﹃いつものリーザ﹄です。手紙すらよこさず新
96
婚の夢に浸っていたらしい﹂
﹁さようでございますか﹂
﹁ご足労いただいて恐縮です、セルマ殿﹂
銀色の瞳、銀色の髪をした女が深々とジュリアスに頭を下げる。
長くまっすぐな髪が、凍土に湧き出した水のようにさらりと流れ
た。
﹁我らがレヴォントリの巫女の力、お役に立ててようございました﹂
﹁ミラドナ様によろしくお伝えください﹂
﹁かしこまりました。帰路にもう一度、レオンハルト様のお屋敷に
立ち寄りいたしますか﹂
﹁いいえ、それよりこれをミラドナ様に、急ぎお届けください﹂
ジュリアスは首を振り、懐から取り出した小さな包みを差し出す。
それを一瞥し、セルマがそっと毛皮の襟巻の隠しにそれを仕舞っ
た。
﹁私個人に託されたものです。やはり火薬というものは、国際社会
までもを破壊する魔性の存在らしい﹂
セルマが、ジュリアスの言葉に静かに答えた。
﹁お預かりいたしました。確かにミラドナ様にお渡しいたします﹂
﹁レヴォントリの助力にはどれだけ感謝しても足りない﹂
セルマは、その言葉にゆっくりと首を振った。
﹁神は仰いました。世界を燃やし尽くす火種は、凍土に抱かれてそ
の炎を鎮めるべきだと﹂﹂
呟くようにセルマは言い、静かに銀色の目を伏せた。
97
11︵後書き︶
♪ 第一章完 ♪
98
12︵前書き︶
第二章開始です。
99
12
﹁旦那様が心配。お仕事中にお倒れになるなんて⋮⋮﹂
リーザがそう言って、服を脱ぐ。
薄い肌着一枚になって、同じく腰に布を巻いただけの姿になった
自分の服を、不器用に畳んでくれた。
﹁ですが、こうして湯治に来られたのはうれしいです、一週間も旦
那様と一緒﹂
そういってリーザが最後の一枚を脱ぎ、白薔薇色の肌に湯あみ用
の布を一枚巻いた。
﹁!﹂
﹁あ、あの、お背中お流しします⋮⋮ね﹂
﹁う、うん﹂
リーザの肌を絡みつくようなねちっこい目で堪能した後、重々し
くうなずいた。
美しいうえに、最近むっちりしてきて、ますます美味しそうだ。
ああ、若奥様のこの色気は何なんだろう、襲いたい⋮⋮。
温泉の中で襲いたい!
でもダメだ!
この施設は、木造りのすかすかした壁なのでリーザのあられもな
い淫蕩な声が漏れまくるから駄目だ。
それに、そもそも自分は﹃やりすぎ﹄でぶっ倒れたのだ。
情けないことに若妻の色香に完全にやられ、少々頭がぶっ飛んで
毎日抱いていたからである。しかも﹃浮気されているのでは﹄とい
う妄想にかられ、ほとんど寝てなかった日もあった。
なんという自業自得であろうか。倒れるに決まっている。
本気でこの阿呆を心配して涙してくれているのは、万事に於いて
訳がわかっていないリーザだけだろう。
100
酒の席で部下たちに﹃おやっさん!奥様若いんでしょヒヒヒ⋮⋮
うらやましいなぁもう!﹄と言われるからつらい。職場に行くのが
つらい。乳母のアルマにも﹁いい年して、加減をお考えなさいませ﹂
と叱られたので家にも帰りたくない。
自分はいろんなことの責任者なのに。涙が出る。本当に情けない。
結婚したらダメ男になるだろうという予感も的中した。むしろいい
男にならねばならないのに。
﹁ふー﹂
天井を仰いだ。
いい湯だ。こんな愚かな馬鹿者の身体も芯からほぐしてくれる。
﹁あったかい﹂
リーザが桃色に染まった肌で、嬉しそうに笑った。
﹁疲れが溶けていくようだな﹂
ため息をついて目をつぶる。
リーザは大喜びだが、これは旅行ともいえぬ旅行だった。何しろ
ここは近所だから。
温泉宿の部屋の窓からは、職場である国境の砦が見える。少し時
間をかければ、自宅へも歩いて帰れるほどだ。
自分は、今はローゼンベルクを離れられない。
特に冬はだめだ。国境線を兼ねた大河であるレーエ河が凍結し、
対岸のアイシャ族がいつ侵入してくるかわからないからだ。
本当は、普通の若い夫婦のように、リーザを物見遊山にでも連れ
て行ってやりたい。
だが、氷将レオンハルトの細君に納まった身では、そんな楽しみ
すら味わえないかもしれないのだ、彼女は⋮⋮。
﹁旦那様ぁ﹂
101
﹁なんだ﹂
﹁温泉、初めて来ました。楽しいです﹂
﹁そうか﹂
あた
王宮に閉じ込められて育った彼女なら、そうかもしれない。喜ぶ
姿がほんのすこし哀れに見え、不意に愛おしさがこみ上げる。
﹁楽しいなら良かった、リーザ﹂
目を細め、白い頤を引き寄せて口づけをした。
リーザはうっとりと美しい色の目を閉じている。
﹁明日は、お前が見たがっていた市場へ行こうか﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
リーザがぱちりと目を開き、顔を輝かせる。
﹁生の魚が食えるぞ、冬の魚なら、食べなれていない人間でも中ら
ないだろう﹂
﹁そうなんですか﹂
不思議そうにリーザが呟き、自分の腕に寄りかかって﹁生のお魚﹂
とつぶやいた。
可愛い。妻が可愛くて仕方がない。
ああ、本当に心を入れ替えよう。
この頼りなくか弱い妻を守らねば。肝心の自分が腎虚で早死にし
てどうする。
自分も温泉というものに入ってみることになった。
102
ローゼンベルクの名物で、この風呂に入るためにわざわざ南から
やってくる人間が後を絶たないのだという。
将軍閣下から﹃ヴィルヘルム君もお湯を使いたまえ﹄と寛大なる
許可を賜ったおかげだ。
恐る恐る服を脱ぎ、岩にたまった湯に足を入れた。
﹁こ、これはッ⋮⋮!﹂
なんという心地よさだ。
湯の中で体が溶けていくように感じる。
﹁ふー、いいもんだな、これは﹂
実家の両親もこの﹁温泉﹂に入れてやりたい。いつか時間ができ
たら連れてこよう。
とくに父は、異国の人間だ。さぞこの珍しい﹃温泉﹄を喜ぶだろ
う。
剣の武者修行の為にカルター王国にやってきた父は、宝石問屋の
お嬢さんだった母と知り合って恋におち、結ばれた。
今は母の実家の問屋で番頭を勤め、日々算盤を弾いている。剣士
よりも、帳簿のほうが向いていたのかもしれない。だが仕事の手が
空いたときには、自分に異国の剣術を教えてくれたものだ。
一方の母は、自分を身ごもっていた時、乳の出が良さそうだとい
う理由で、側妃が生む子どもの乳母として採用された。
リーザと自分が日を継いで生まれ、母は姫と息子、二人の乳児を
抱えて大変だったと良くこぼしていた。楽しかったとも言っていた
けれど。
商人の娘である母が王家の姫の乳母に選ばれた理由は、当時の正
妃様の意向だったらしい。
﹃側女の産んだ姫に、自分の産んだ姫たちと同じ、貴族らしい教
育など受けさせたくない﹄と。
103
結果として、リーザは母の尽力であのように育った。
動物や植物への思いやりがあり、気立ては良く素直だ。
その代わり、母が知らなかった﹃お嬢様らしい口の利き方﹄や﹃
上流の作法﹄、﹃貴族の家の切り回し﹄などは頭に入っていない。
嫉妬の塊だった正妃が目を光らせて、そんなものを身に着けない
よう監視していたせいもあるだろう。
﹃あの女の娘に良縁など相応しくない、市井の女のように品のな
い育ちをすればいい﹄と、正妃は心臓の発作で急死したその日の朝
まで、呪うように言っていたと聞く。
だが、正妃の呪いをよそに、末姫リーザは美しく育った。
正妃の自慢だった五人娘など差し置いて、抜きんでて美しく⋮⋮。
自慢の種だった美しいリーザの結婚を、母は喜んでいる。
リーザが七つになり、乳母を解雇された後もずっと、母はリーザ
を案じていたのだ。かわいい姫様が良い殿方に嫁げて良かったと涙
し、神殿でリーザのこれからが幸せであるよう、陰ながら手を合わ
せ続けている。
﹃姫様のそばに上がるなら、私の分もしっかり新婚生活をお手伝い
してね。時間があったら自分でお手伝いに上がりたいけど、お父さ
んの手伝いが忙しくてローゼンベルクに行けないのよ﹄
母に念を押されたことを思い出し、腹の底からため息が出た。
新婚生活の手伝いって。
みじめな振られ男に何をしろというのか。
考えるだけで嫉妬にくるいそうなのだが。 そう。
そうなのだ。
愛したリーザは今はもう、人妻なのだ。
この風呂にだって夫と二人で⋮⋮。
﹁リーザ⋮⋮﹂
104
胸をかきむしられるような気持ちで、白っぽい温泉の水をすくっ
た。
その拍子に天啓を得、我知らず、目を見張る。
﹁そ、そういえば、こ、このお湯にリーザが浸かっ⋮⋮﹂
全身を朱に染め、白薔薇色の肌を湯にさらす、あられもないリー
ザの姿が脳裏に浮かんだ。
﹁よしっ!﹂
息を止め、勢いよく温泉の湯にもぐりこむ。
このお湯にリーザの素肌が溶け込んでいたなんて⋮⋮。
なんということだ、この湯に!
﹁んっ!?﹂
おっさん
だが直後に大変なことに気づいた。この湯には将軍閣下も入って
いたということに。
おっさんのあと湯を満喫するのは止そうと思い直し、水面に顔を
出す。
空しかった。
﹁はぁ﹂
護衛の仕事も特にないし、毎晩リーザの喘ぎ声が聞こえないか耳
を澄ましているので疲れるし、できれば早く王都に帰りたい。
この未練を断ち切りたい⋮⋮。
105
13
﹁むぐ⋮⋮﹂
リーザが生魚を頬張って、目を白黒させる。
口に合わなかったのだろう。王都の人間に、魚を生食する習慣は
ない。
﹁吐き出していい、ほら﹂
顔の前に手を差し出してそういうと、リーザが困った顔で魚の切
れ端を飲み込んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁口に合わなかったな﹂
細い肩を抱いて言うと、リーザが申し訳なさそうに頷く。
﹁これはどうだ﹂
甘辛いたれで焼いた串焼きの鹿肉を差し出すと、今度は目を輝か
せてかぶりついた。
﹁うまいか﹂
﹁はい!﹂
ほんのり桃色の小さな顔をたれで汚し、リーザが夢中で串焼きを
かじる。
思わず吹き出し、ほつれた柔らかな細い髪をピンの中に押し戻し
た。
﹁落ち着いて食べなさい﹂
﹁はい、美味しいです﹂
目を輝かせ、リーザが慣れないしぐさで串にかぶりついた。
自分も串から肉を抜き、フォークで突き刺して口に放り込む。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうした、リーザ﹂
﹁お肉は、この棒から抜くんですね﹂
真剣な表情だ。如何にも今学んだ、と言わんばかりの⋮⋮。
106
﹁どうやって食べてもいいんだ。ここの食事に礼儀作法などない﹂
﹁そうなの⋮⋮?﹂
しばらく何かを考えていたリーザが、再び肉にかぶりつく。
串から外す手間も省きたいほど美味い、そんな結論が出たのだろ
う。
何をしていても、妻は愛らしい。
行動に裏表がなく幼いところが、かえって自分の庇護欲を掻きた
てる。
ひとしきり食べた後、満足したらしいリーザの顔を引き寄せ、懐
から出した布で拭いた。
﹁ベタベタに汚れているぞ。可愛い顔が台無しだな﹂
﹁私はかわいくない⋮⋮です、変人ですから⋮⋮あの、ここ外だか
ら⋮⋮﹂
リーザが耳を疑いたくなるようなことを呟いて、耳まで真っ赤に
なった。
人前でほめられ、照れているのだ。
あまりの可愛さに中年の心が舞い上がり、顔を覗き込んで言って
しまった。
﹁いや、可愛い、ものすごく可愛いぞ﹂
﹁!﹂
リーザが首まで真っ赤になって椅子の上で飛び上がり、ねじまき
人形のようにぎくしゃくと立ち上がった。
﹁リーザ?﹂
﹁か、かわいく、ない、です!あの、やめて、人がいっぱいいるの
にダメ⋮⋮﹂
⋮⋮。
なんだ、この新鮮な反応は⋮⋮。
感動し、よろよろと後ろを向いたリーザの顔をさらに覗き込む。
﹁何を言うんだ。リーザは世界一可愛い。妖精より可愛いぞ﹂
107
頬杖をつき、にやけながら言うと、茹でダコのようになったリー
ザがふるふると首を振った。
﹁あ、あ、あ、こ、声大きいです⋮⋮もう外に行きます⋮⋮﹂
真っ赤なリーザがふらふらと店を出て行こうとするので、慌てて
細い腕をつかみ、給仕用の小銭を卓に置いた。
﹁おーい、ご馳走様!﹂
﹁はあい。あら、ご領主様、奥様初めて見ました!可愛いですね﹂
込み合った店をすいすい横切って現れたおかみが、寒さで焼けた
頬をほてらせて愛想を言った。
﹁ああ、可愛いだろう。ありがとうな﹂
リーザが再び飛び上がり、怯えたように自分の腕にしがみついた。
さっきよりさらに真っ赤だ。どこまで赤くなるのか。
﹁そ、そんなこと、ありません⋮⋮ふつうなのに⋮⋮﹂
まさか、リーザは﹃可愛い﹄と言われ馴れていないのだろうか。
可愛いのに。
ものすごく可愛いのに。
少なくともここにいる自分にとっては、気がおかしくなるほど可
愛いのに⋮⋮!
﹃無視されてきた変人﹄、それが嫁いでくる前のリーザの評判だ
った。
なんという不当な評価だったことだろう⋮⋮。頭からそんな流言
を信じ、リーザに関心すら抱かなかった己が許せない。
しみじみとそう思い、腕にぶら下がっているリーザの体を軽くゆ
すった。
﹁お前は可愛いよ、世界一だ。いつも言ってるのに何を拗ねるんだ﹂
﹁や、ヤダ⋮⋮﹂
しかし、恥ずかしがりすぎて、リーザはつれない態度だ。
閨でならいくらでも甘えてくるのに、この照れようは新鮮すぎる。
あとで⋮⋮あとでいっぱい可愛がろう、いや、自重せねば。だが
可愛がりたい、ドロドロになるまで可愛がりたい!
108
⋮⋮落ち着こう。
気を取り直し、腕にぶら下がるリーザに声をかけた。
﹁さ、店の前でヴィルヘルム君を待たせすぎてしまった。護衛なん
ていらないんだけどな﹂
﹁は、はい﹂
だが、よろよろしているリーザを連れて店を出ると、何やら人だ
かりができ、騒ぎが起きていた⋮⋮。
﹁ぐう⋮⋮ッ﹂
みぞおちに肘の一撃を食らった男が、情けない声を上げて冷たい
地面に倒れた。
男が取り落した短刀を蹴り飛ばして振り返る。
自分をにらみつける、薄汚れた格好のチンピラ。
あれが最後の一人だ。
短刀を矯めるように構えて突っ込んできた男の動線から、すっと
体の軸をずらした。
﹁なっ﹂
男の目論見では、﹃この黒髪の異国人は、隙を突かれて立ち尽く
す﹄筈だったのだろう。
だが馴れている、捕り物は。
十七で騎士団に採用されてから、ずっとこんな訓練ばかり受けさ
せられてきた。
父からも剣技の特訓を受けさせられているし、自分にとって、小
競り合いは日常の光景だ。
さらに言わせてもらうなら、王都の貴賓を狙う刺客よりも、この
109
チンピラ共は数段格下だった。
油断しているわけではないが、動きが眠たく、次に何をしようと
しているかも手に取るようにわかる。
隙を誘い、そのまま体を大きく捻って、男の脇腹を軸足と逆の足
で蹴りつけた。
横殴りの力を受けた男が、上半身を固めた姿勢のまま固い石畳に
たたきつけられ、手の短刀を取り落した。
すかさず野次馬のほうに短刀を蹴り飛ばし、打ち付けた肩を押さ
えつけて立ち上がる男の片手を無理に背中にねじりあげ、痛みで戦
意喪失した男を、地面に押し倒した。
男の上着をめくって下履きの帯を抜き取り、手首を縛り上げる。
﹁早く、警邏隊を呼べ。とっとと牢に入れたほうがいい﹂
﹁お、おう、今呼んでくらぁ﹂
うずくまる男二人を縛り上げていた街の衆の一人が、慌てたよう
にバタバタと野次馬をかき分け、走り去った。
﹁クソ⋮⋮てめぇ⋮⋮何者だ﹂
﹁黒騎⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮通りすがりの旅人﹂
名乗りそうになって慌てて誤魔化した。
﹁嘘つけ!尋常じゃねえ、お前、尋常じゃねえよ!﹂
﹁尋常だ﹂
名乗りたくない。それに、チンピラの相手をするのが面倒くさい
ので早く警邏隊が来ないかな、と思う。
リーザと閣下も食事を終える頃だろうし、二人が食事をしている
店の前に戻らないと。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
だが人がどんどん集まってくる。
予定より大立回りになってしまったようだ。 縛り上げられた男たちに向かい、野次馬が叫んだ。
﹁こいつら、この辺を荒らしてた押し込みだよ!短剣で罪もない私
らを脅しつけて、金や肉を持っていきやがる!こんな奴らの首ちょ
110
ん切っておくれ!﹂
﹁そうだ、そうだ!﹂
﹁ふーん、それは警邏隊に言ってくれ、俺は戻らねば﹂
そういって、人込みを押しのける。
まとめ役らしい年かさの男が、慌てたように声をかけてきた。
﹁押し込み強盗を退治してくれてありがとう、あんた、名前は﹂
﹁⋮⋮名前はない﹂
﹁そんな、あとで礼に干し魚届けるよ。家どこだい?﹂
﹁家もないんだ﹂
断固として首を振る。
この野次馬たち、早く解散してくれないかと思う。
﹁お兄さんいい男だね、うちで遊んでかない?﹂
他の女からも声が飛んでくる。身構えた瞬間、変な汗が噴き出し
た。
﹁いや、いい⋮⋮﹂
断固として、首を振った。
女遊びは出来ない。理由もある。
自分は悪友からの誘いも断り、父母が持ってくる見合いも断り、
精進潔斎と修行に明け暮れた結果、今でも穢れ無き肉体の持ち主な
のである。
その事実を他人に知られたくないのだ。
ゆえに遊郭などの男の楽園で遊ぶことさえもできず、八方ふさが
りで今に至る。
⋮⋮いや、きっと道は開けるはずだ。
どうにもならなくなったら泥酔して娼婦を買おう。
朝気づいたら清らかさがわが身より失せている⋮⋮みたいな都合
のいい、自分が傷つかない展開を迎えたい⋮⋮。
﹁お兄さんてばー﹂
111
﹁照れてるんじゃないの﹂
照れてはいない。むしろ困惑し恐怖を覚えている。だから放って
おいてほしい。
笑い合う女たちに背を向けた瞬間、目にリーザと閣下の姿が飛び
込んできた。
後ろから、﹁どいた、どいた!﹂と言いながら走ってくる警邏隊
の男たちの気配も感じる。
﹁何の騒ぎだ、ヴィルヘルム君﹂
閣下に尋ねられ、首を振った。
ただの捕り物であり、将軍閣下と王女殿下が耳に入れるほどの事
でもない。
﹁短剣を手に市民を脅しつけているものがいたので、取り押さえま
した。もう警邏隊も来ております﹂
閣下に花のように寄り添っていたリーザが、不安げに言う。
﹁ヴィル、大丈夫? 怪我しなかった?﹂
﹁はい﹂
うなずき、何か言いたげな二人の視線を振り切って、背後に回っ
た。
リーザが今、自分を心配してくれた。胸が痛いくらいときめく。
この幸福と恋心のむなしさを自分は忘れない。家に帰ったら日記
に書こう⋮⋮。
﹁旦那様、ヴィルは強いのです!﹂
腕に抱き付いて嬉しげに言うリーザの言葉に、閣下が真剣な声音
で答えるのが聞こえた。
﹁そのようだな、リーザ⋮⋮武器を持った賊三人を、素手で制圧す
るなど普通は出来ない﹂
﹁そうなんですか、いつもあんな感じです、ヴィルは﹂
﹁ほう、大した護衛をよこしてくださったものだ、陛下は﹂
閣下がリーザにそう答え、氷色のまなざしを一瞬自分に投げた。
112
何も答えず、そっと視線を外して、彼の興味をやり過ごす。
⋮⋮本当に、目立ちたくないし誉めそやされたくもない。
放っておいてほしい。
そうでなくとも異国の地を引く面構えのせいで悪目立ちするのだ。
学校で、騎士団で、どれだけ﹃外人﹄とからかわれたことか。
とにかく、自分は目立ちすぎた結果、根掘り葉掘り聞かれて口を
滑らせ、童貞バレすることだけが本当に恐ろしい。
この人生最大の秘密を守るためにも、絶対に目立ちたくないのだ。
何があっても己を語ることなく、沈黙を貫いてみせる。
113
14
﹁⋮⋮﹂
﹁ん? どうした?﹂
﹁足の指が⋮⋮﹂
宿の寝台に腰かけ、何かを気にしているリーザの前にかがみこむ。
小さな人形のような足の指が、赤く腫れている。霜焼けになりか
けているのだろう。
﹁旦那様、足の指が⋮⋮﹂
心細そうなリーザの言葉につい吹き出し、額に口づけをして立ち
上がった。
﹁そうか、リーザは雪の道を歩き回るなんてなかったからな﹂
愛妻は、この年齢になるまで広い世界を知らず、王宮暮らしから
突然、北国を本拠とする十七も年上の男に嫁がされた身の上なのだ。
しみじみと思い、不安そうなリーザの頭を撫でた。
﹁氷の温度に触れつづけると肌が焼けるんだ、私はもう体が慣れて
いるが、気が付かなくて悪かった﹂
﹁うぅ、かゆいです﹂
﹁ここでちょっと待っていなさい、手当の道具を貰ってくる﹂
そういってもう一度額に口づけし、もう一度座って待っているよ
うに言って、宿のおかみのもとに向かう。
﹁お湯をもらえるか。妻が霜焼けになりかけてしまって﹂
﹁あらあら。可哀想に。若奥様、暖かいところから来たんでしょう。
やっぱり馴れないとこっちは厳しいわよねぇ﹂
おかみがそう言って、盥とやかん、軟膏のツボを大きな盆にのせ
て戻って来た。
礼を言い、受け取って部屋に戻る。
114
リーザは言われたとおりに、同じ姿勢で座って大人しく待ってい
た。この齢に似合わぬ素直さが、愛らしくもあり、不憫でもある。
王妃に疎まれた側女の娘。皆から無視されて育った孤独な王女⋮⋮。
妻の育ちの特殊さをしみじみと思い返しながら、小さな足をひょ
いと持ち上げた。
何も知らぬ、何もわからぬのは当たり前なのだ。
せめて兄君のジュリアス様が、いろいろ世話を焼くようなお方で
あれば良かったのだが。
しかしあの方はあの方で、﹃非常につらい立場﹄に常におかれて
いる。
彼なりに、よく妹姫を庇ってきたのではないだろうか。
﹁さ、指を揉むぞ﹂
そういって、リーザの赤ん坊のような小指をそっとつまんだ。痛
いのか、リーザが悲鳴を上げる。
﹁やあっ!﹂
﹁揉み散らさないとどんどん悪くなるんだ﹂
﹁痛い、痛い!やめて﹂
﹁我慢しなさい﹂
あまりに嫌がるので一度手を止め、顔を上げて涙目のリーザと唇
を重ねた。
リーザが首筋にしがみつき﹃もう足揉まなくていい﹄などという。
﹁ダメだ﹂
﹁うう、だって痛い⋮⋮﹂
﹁これは霜焼けっていうんだ。揉まないとどんどん悪くなるんだか
ら﹂
﹁うっ、うっ⋮⋮﹂
リーザが白いこぶしで唇を押さえた。大きな目に透明な涙が溜ま
っている。
﹁ほら、盥に足をつけなさい﹂
﹁やぁっ、だめ、離してっ⋮⋮痛いぃ⋮⋮んっ⋮⋮﹂
115
妙な声を出されてモヤモヤした気分になってきたが、色々いたず
らしたい気持ちを自重した。
﹁まったく、妙な声を出すんじゃない﹂
苦笑しながら、足の指を揉みほぐす。
これからも外に連れ出すたびに、こうやって手当してやらねばな
らないだろう。
その役目が自分でよかったと思い、知らず浮かんでしまう笑みを
押し殺した。
人間、中年になってもいい事ってあるものだ。
ずっと仕事場に詰めて男共と飲み食いして、部下が温かい家庭に
戻ってゆくのを寂しく見送っていた中年が、図らずも嫁を迎えるこ
とができるなんて。しかも嫁は素直ですごく可愛い。心から一生大
事にしたいと思う。
それに、欲張りすぎかもしれないが、一人くらいは子供も欲しい。
だからやっぱり長生きしないと。
﹁リーザ、足の指、だんだん痛くなくなって来ただろう﹂
﹁ハイ⋮⋮﹂
リーザが力を抜き、素直に頷いた。この笑顔⋮⋮可愛すぎて爆発
する。
﹁はは﹂
胸のときめきを笑いに紛らせて、そっと押しやる。今は彼女の手
当てに集中しよう。
ああ、長生きしたい。自分と彼女の間に子が生まれ、成人し、幸
せな道を歩んでいく姿までは絶対に見届けたい。だからこそ、本当
に本当にやりすぎに気をつけねば。
いい歳こいて発情しまくらないように気を付ける。
⋮⋮⋮⋮。
それしか心がけることがない自分って、いったい何なんだという
話だが。
116
﹁なっ!真昼間から⋮⋮っ?!﹂
リーザの悲鳴のような声が漏れ聞こえてきたので、思わず壁に耳
を押し付ける。
が、慌てて離した。
虚しいうえに、心が苦しい。
さっきは怪我を心配してもらって嬉しかったが、その嬉しさは、
日記帳にしたためるまでもなく散って行った。
ずっと欲しかった手に入らない宝物は、別の男の﹃愛妻﹄になっ
てしまったのだと思い知らされる。
壁ひとつ隔てて、自分を置き去りに愛を深める二人と、童貞すら
捨てられない情けない自分⋮⋮。
いやもう本当にこの事案にこだわるのをやめたい。誰か犯してく
れと思う。きれいなお姉さんがいいとか絶対言わないから。
なんとなく寝台の上で膝を抱えて丸まり、そのまま寝台に転がっ
た。
護衛しろと言われても敵の姿も見えず、風邪をひいて寝込み、あ
とは盗み聞きしているだけ。
自分の存在価値を感じないので、そろそろ本国に帰りたいのだが、
帰還命令は出してもらえないのだろうか。
しかも死ぬほど落ち込んだ果ての果てに、今まで知らなかった奇
妙な快楽が見えていて怖い。
117
これ以上、良く分からん存在に進化したくない⋮⋮。
しばらくじめじめと涙を流していたが、むくりと起き上がって分
厚い日記帳を鞄から出した。
帳面に不釣り合いな頑強な鍵を番号を合わせて外す。
そして空きページをめくり、愛するリーザの顔を心の中から写し
取った。
絵は昔から得意だったのだ。
下手人の手配書を書くときも、この能力が重宝されている。
﹁こんな風に、笑っていたな⋮⋮﹂
レオンハルト閣下に寄り添うリーザの姿が、薄い紙に浮かび上が
る。
王宮では見た事のないようなリーザの花咲く笑顔、そしてレオン
ハルトの威風堂々とした美貌⋮⋮。
﹁⋮⋮っ!﹂
再び得体のしれない快感が背骨に走り、体を丸めてうずくまった。
悲しい、苦しい、なのに気持ちがいい!
︱︱どうしてしまったのだ、自分は。嗚呼⋮⋮。
﹁ジュリアス様、色々と王都を見て回りましたが、得心が行きまし
たのでレヴォントリに戻ろうかと存じます﹂
小さな氷細工のような顔に何の表情も浮かべず、巫女セルマが言
118
う。
白い指が、毛皮の細い襟巻に触れ、離れた。ここにあずかったも
のを隠してある、という意思表示であろう。
﹁わかりました。本当に色々有難う、志を同じくしてくださったあ
なた方への感謝は忘れない﹂
普段の芝居がかった笑顔のジュリアスとは違う、わざとらしさの
ない、低い声だった。
﹁我らレヴォントリも、一国の王でありながら、もっと大きなもの
を望んでくださった陛下への尊敬の念、決して忘れることはござい
ません﹂
氷の瞳と、紫紺の瞳が、同じ重さを共有し、離れた。
﹁ミラドナ様は、すぐにでもご子息レオンハルト卿のもとに赴かれ、
全てをお話になる所存。あの方にアイシャ族を押さえて頂きます﹂
﹁妹は⋮⋮﹂
不安げに表情を翳らせたジュリアスに、セルマは首を振って見せ
た。
﹁危険は、危険かと。計画通り、カルター王国で最も富裕、かつ権
勢の強い大公家に降嫁されることが最善の策ではございましたが、
レオンハルト卿へのご降嫁も、次善の策であったかと存じます。事
態の急変が見られた場合は、私、もしくは私に準じる力を持つレヴ
ォントリの巫女が側に控え、お守りいたしますゆえ﹂
強く指を組み合わせ、何かを考え込むジュリアスに、セルマが静
かにつづけた。
﹁まずは無事、陛下が生き延びられることをお考え下さいませ。腕
の傷はもうほぼ癒しましたが、陛下の宿痾にまでは私の癒しも及ん
でおりません﹂
﹁それは結構。この病は抱えたままで良いのです。病があるからこ
そ、私は心濁らずにいられる。そうではありませんか?﹂
﹁⋮⋮差し出たことを申しました﹂
119
さらさらと銀の髪が流れ、うつむいたセルマの顔を隠す。
﹁レヴォントリの巫女は何でもお見通しで怖いくらいだ。私にも秘
密のひとつ、持たせてください﹂
ジュリアスの声音に、再び作り込まれた華やかさが戻る。
セルマの表情は、全く変わらなかった。氷神の巫女。まさに彼女
の姿は氷の神にささげられた麗しい人形そのものだった⋮⋮。
120
15
﹁わぁ﹂
中に毛皮を敷いた大きめの靴を与えられ、リーザが目を輝かせた。
自分をきらきらした目で見上げ、それから壁にもたれている無表
情の美貌の青年を振り返る。
﹁すごいわ、こんな靴初めて履きます、ねえ見て、ヴィル﹂
﹁良かったですね﹂
青年の態度はそっけなく、表情は全く動かない。
これほどの異国情緒溢れる美貌なのだ。
ニッコリ笑えばどんな娘もころりと行くだろうに⋮⋮いや、夫の
立場からしてみれば、そんな笑顔を愛妻に向けられては困るという
べきなのか。
﹁だんなさま、市場に行きましょう﹂
リーザがニコニコして言うので、﹁ああ、わかったよ﹂と返事を
し、靴をしっかり履かせ直して立ち上がる。
この地では、たとえ﹃領主様﹄であっても自分で何でもやるのが
美徳だとされている。
寒いから動いてないと死ぬ、という意味もあるかもしれないのだ
が、少なくとも母ミラドナからは、嫁や召使をこき使うような男に
だけは成るなと叱咤されて育った。
馬にブラシをかけるのも、そり犬の脚に靴を履かせるのも自分で
しているし、平穏な時は砦の掃除までしている。
世の貴族はそういうものではないのだと、王都に赴任して初めて
知ったくらいだ。
当然、妻の世話も、自分で焼く。アルマに﹃もっと王家の姫様へ
の気働きを持て﹄と叱られた内容を頭に叩き込み、何も知らぬリー
ザに不自由はさせぬと改めて心に誓っているところだ。
何しろ妻は、望みを叶えられないことが当たり前の環境で育ち、
121
﹃新しい服を買ってくれ﹄と夫にねだる発想すらなかったのだから。
生まれてすぐに母を亡くし、父には別の家庭があり、唯一の男児
である兄とは引き離されて育ったがゆえに、ずっと孤独だった美し
い姫君⋮⋮しかも嫁いだ相手は田舎の中年⋮⋮。
日々愛おしく思えば思うほど、リーザの育ちが哀れで泣けてくる。
唐突に泣けるので誤魔化すのが大変だ。
如何にも鼻がかゆかった、と言わんばかりに顔をこすり、機嫌よ
くニコニコしているリーザの肩を軽く抱いた。
﹁夕飯も外で食べようか﹂
﹁はい!﹂
髪のほつれをとかしつけてピンに押し込み直し、緩みかけた帯を
きっちり整え直す。リーザは大人しくされるがままになっていた。
妻の身支度を終え、護衛官の青年を振り返る。
﹁ヴィルヘルム君は大丈夫か、霜焼けは出来てないか?﹂
﹁ええ、大丈夫のようです。靴はここに来た日に変えました﹂
乳兄弟の姫君とは違い、彼はわりとしっかり者のようだ。
薄着でやって来た彼には、自分が若かったころの外套を与えた。
︱︱同じ服を着せていると、自分が若いころより遥かに良い男に
見える。嗚呼、着せなきゃよかった、この嫉妬心どうしよう。でも
王都暮らししかした事のない若者に、また風邪ひかせたら可哀想だ
し⋮⋮。
﹁こちらもお借りしておりますので、だいぶん暖かくなりました﹂
流れるような仕草で分厚い外套の襟にそっと触れ、ヴィルヘルム
がかすかに形良い唇を綻ばせる。
﹁⋮⋮それは良かった﹂
やっぱり都会の男はカッコいい。
見た事もないような細長い剣を腰に下げているが、あれも都会の
若者にはやっているものなのか。
それとも異国の洒落た刀なのか。
ローゼンベルクは正直ド田舎なので、分からない。
122
全身がどうしようもないくらい下らない嫉妬に燃えたが、全身全
霊、再び平静を保った。
﹁ヴィルは来なくても大丈夫よ、旦那様がいるもの。領主様を襲う
人なんかいないわよ﹂
のんきな声でリーザが言ったが、ヴィルヘルムは首を振った。
﹁護衛が仕事ですので﹂
﹁もう、別にいいのに。二人で歩きたいのに﹂
﹁!﹂
二人で。
二人でって今言った!
リーザが二人で歩きたいといった!
恋の喜びに、おっさんの胸がキュンキュン高鳴る。
だが四十男のトキメキなど、どう贔屓目に考えても気持ち悪いの
で、誰にも気づかれないように慌てて押し殺した。
﹁⋮⋮いずれ安全が確認されたら、ご存分にお二人でどうぞ﹂
デレデレと肩を寄せ合う自分たちに呆れた様子で、ヴィルヘルム
が呟いた。
﹁あの、旦那様﹂
冬の日差しを受けてキラキラと銀の髪を輝かせる旦那様を見上げ
た。
最近はとても疲れた顔をしていたが、温泉に入ってゆっくり眠り、
少し顔色がよくなった気がする。
﹁なんだ?﹂
﹁火薬がほしいです!あの、黒い石のと、燃える石のと、香木と金
123
鉄鉱の粉がほしいです﹂
﹁えっ?﹂
﹁えへへ﹂
欲しいものがあったら言うように言われたので、思い切って口に
出してみた。
服も靴も、嫁いだアルマさんの娘さんたちが﹃若すぎる意匠なの
で、もう着ない﹄と置いて行ったもので良いし、靴もこの、子供用
のもので良い。だけどやっぱり爆弾は作りたい気がする。
恥ずかしいのだが、自分は本当に旦那様が好きで好きで大好きな
ので、爆弾を作って役に立ちたいのだ。
自分が他の人より知っている事なんて、爆弾作りしかないから⋮
⋮。
だが、旦那様が何かを言う前に、すぐ後ろをのそのそと付いてき
たヴィルが﹁だめです﹂と冷たい声で言った。
﹁何よぅ﹂
むっとなって振り返る。自分が旦那様に捧げられるものなんてそ
うそうないのだ。愛を込めて作りたいんだから放っておいて欲しい
のに。
ああ、嫁入りの時に兄に持たされた金貨を持ってくればよかった。
﹁どうしてよ。市場で火薬を買って、いい匂いの爆弾を作って大爆
発させて、荒れ地が開墾されればいいのに。そうしたら旦那様の仕
事が楽になるんでしょう﹂
ヴィルの薄茶色の目をにらみつけてそう言い聞かせたが、理解し
てくれた様子はない。
いつもながらに頑固で冷たく、譲ってくれない様子に見えた。
﹁リーザ、魚を見に行こうか。今は大型の漁船が港に戻る時期だ、
もしかしたら砕氷船も寄港しているかもしれないな﹂
旦那様が、明るい声で言う。
なんだか、話をそらされようとしている気がして慌てて言いつの
った。
124
﹁違います、火薬がほしいの。旦那様の役に立つ爆弾を作ります!﹂
﹁そうだな、リーザ、衣でも見にゆくか﹂
﹁火薬がほしい﹂
足を止めて、旦那様を見上げて必死に言った。自分が役にたつと
ころを見せる、最高の機会なのに⋮⋮。
﹁うーん⋮⋮すまないがリーザ、うちの庭は王宮ほど広くないんだ。
その⋮⋮国宝の大噴水を爆砕するほどの威力の爆弾を作られても、
危険だから困るんだよ﹂
﹁え?﹂
国宝の大噴水を爆砕?
﹁何の話?﹂
きょとんとして瞬きをした。
何の話だろう。大噴水⋮⋮。
︱︱何かを口にしようとした瞬間、目の前が暗くなった。
まるで兄に﹃さっさと寝るように﹄と言われ、顔を掌で覆われた
時のように感じた。
そうだ、お兄様は、自分が⋮⋮文句を言うたびに、こうやって、
子供を寝かしつけるように顔をふさいで言ったものだ。
リーザは考えなくていい、それは兄様の仕事だって⋮⋮。
﹁リーザ!﹂
大きな声がして目を開けると、旦那様の顔が目の前にあって驚い
た。
﹁リーザ様、いかがされました﹂
ヴィルの顔もすぐ傍にある。
何だろう、どうしたんだろう⋮⋮。
窓からの光が異様に眩しく感じ、とっさに顔を覆った。
125
﹁貧血を起こしたのかもしれないな﹂
﹁はい、姫様は温泉にもこちらの食事にも慣れておられません、体
が驚かれたのでしょう﹂
なんだか、大変なことになっているようだ。
慌てて起き上がろうとしたら、旦那様に頭を抱き寄せられてしま
った。
﹁気分が悪かったのならちゃんと言いなさい﹂
﹁え、大丈夫⋮⋮﹂
﹁大丈夫じゃない、驚いたよ。急に気を失ったりして﹂
旦那様がそういって、髪をゆっくり撫でてくれる。
そこではじめて、自分が転びそうになったのではなく、気を失っ
ていたのだと知った。
だが、体は何ともない。気分も全く悪くない。
首を振り、大丈夫だと言ったが、旦那様に靴を脱がされてしまっ
た。
市場に行くはずだったのに⋮⋮。
﹁ヴィルヘルム君、ここは私が見るから大丈夫だ。君は休憩を取っ
て、夕飯の時に合流してくれ﹂
寝台に横たえた自分の帯を緩めながら、旦那様がそうヴィルヘル
ムに言った。
﹁大丈夫です、市場に行きましょう、旦那様﹂
﹁駄目だ、今日は温泉も外出も中止だ、少し昼寝しなさい﹂
そういって微笑み、旦那様が毛布を掛けてくれた。
﹁火薬は? 火薬を買いに行きたいんです、それに香木と⋮⋮﹂
言いつのろうとした唇を、唇で塞がれる。
﹁んっ⋮⋮﹂
ゆっくりと顔を離し、旦那様が悲しげな声で言った。
126
﹁リーザ、お前が病気になったら、私は正気ではいられない。今か
ら医者を呼ばせる、ゆっくり寝るんだ、分かったね﹂
127
16
﹁レオンハルト様っ!﹂
焦ったように扉をたたかれ、慌てて立ち上がった。
素直にスースー眠ってしまったリーザが可愛すぎて見とれている
うちに、ずいぶん時間がたったようだ。
﹁どうした﹂
扉の向こうには、副官・ヘルマンの姿があった。
銀髪銀瞳、雄渾な体躯は極北のレヴォントリの男の典型だ。母が
﹃見どころがある﹄と言ってよこした若者で、巫女セルマの兄でも
ある。優秀であることはもとより、何より丈夫で誠実なところに信
頼がおける男だった。母の人を見る目は、若いころから微塵も曇っ
ていない。
﹁お休みのところ申し訳ありません﹂とヘルマンが頭を下げ、目く
ばせで﹃ちょっと外へ﹄と合図をする。
﹁アイシャ族が、3年前の大規模侵攻と同規模の武装準備を開始し
ました﹂
﹁何﹂
その瞬間思ったことは、ああ、休暇が終わる⋮⋮だった。
だがすぐに無念の火は消え、普段の仕事時の思考に切り替わる。
そっと扉を閉めて廊下に出、あたりに人の気配がないことを確認
して口を開いた。
﹁わかった、妻を人に任せたら、すぐに砦に戻ろう﹂
﹁本当に申し訳ありません﹂
﹁川に氷が張ったからな、あいつら、いつでも渡ってくるぞ﹂
﹁防御線の準備はとうに整っております、閣下が戻られ次第すぐに
でも戒厳令を出せます﹂
慣れた口調で部下が言う。有能なヘルマンらしい手際の良さだ。
128
また、侵攻か。恒例行事のようだ。
どっと背中に疲れを感じた。
﹁防衛線どうしようかなぁ⋮⋮﹂
だんだん面倒くさくなってきた。何の意味があって毎年毎年無意
味に攻め込んできては蹴散らされ、賠償金の支払いを滞らせている
くせに上から目線で﹃和解してやる﹄などと言ってくるんだろう、
あの部族は⋮⋮。
気候風土も土地条件もローゼンベルクとそんなに変わらないのだ
から、自力で開墾・開拓をすればいいのに。
しかし彼らはあくまで、ある程度開拓済みのローゼンベルクが欲
しいのだ。それほど金にならないとはいえ、希少な宝石の鉱山もあ
る。
それにしても不思議なのが、彼らの思惑だ。こちらの人口は30
万、あちらの人口は2万で、2つの街は長年の敵対関係にあり、反
発感情も強い。たとえアイシャ族がローゼンベルクを制圧したとこ
ろで、彼らは何をどうやって支配階級に収まるつもりなのだろう。
ローゼンベルクの民は大概が大柄で、農作業や開墾、漁業などの
肉体労働で鍛え抜かれている。
もちろんアイシャ族も条件はそう変わらないが、15対1の圧倒
的な数の不利の中、どんな手を使ってこの地を押さえつけようと考
えているのか⋮⋮。
そのとき、ふと違和感を感じた。
アイシャ族からは2年前、多額の賠償金のうちの未払い分を、か
なり強引に回収したはず。
大規模侵攻には金がかかるはずだ。武器の購入、犬ぞり、馬の準
備、それから傭兵や兵士に払う特別手当、食料、もろもろ⋮⋮。
おかしな話だ。退屈を感じている余裕はない。すぐに余計な﹃馴
れ﹄を頭から振り払う。
降り積もりたての新雪のように、心を無に入れ替えた。
﹁ヘルマン、お前がわざわざ来てくれた理由が分かった﹂
129
通常のアイシャ族の﹃ごね得狙い突撃﹄であれば、わざわざヘル
マンが自分を呼びに来ることはなかっただろう。
﹁はい、あ奴らに金を渡したものがおります、おそらく﹂
ヘルマンの言葉にうなずいてみせたが、まだ違和感は残った。
﹁金が彼らに渡ったら、別のことに使っていたんじゃないか。アイ
シャ族は今、新しい港を作ろうとしているだろう﹂
﹁軍事に用途を限定した融資でしょうか﹂
﹁そんなことをした国があったとしたら、我が国への宣戦布告だ。
うちの国から出た金だとしたら、大逆罪に値する。どちらにしろ大
ごとになるが﹂
﹁さようでございますね。あるいは、新種の火器をアイシャ族が⋮
⋮あっ!﹂
思い付きのように口にしたヘルマンが、はっとなったように口元
を押さえる。目には愕然とした光が浮かんでいた。
﹁どうした﹂ ﹁閣下、新種の火薬、我々が人口洞穴路の開発用途で、購入申請を
出したあの火薬です。あれが、どこぞの経路からアイシャの者に流
れた、ということはあり得ませんか﹂
﹁いや、まさか⋮⋮﹂
否定しようとした言葉が、尻切れに消える。
思わず目を見合わせた。
あれはまだ、カルター国王ジュリアスを中心として設立中の委員
会の認可がなければ、使用はおろか購入すらできないものだ。
火薬の監視委員会には諸外国の王侯が名を連ね、単独国家による
火薬の占有を防ぐよう、たがいに睨みを利かせる構造になるはず⋮
⋮なのだが。
だが、その委員会は完全な設立を見ていない。
抜け穴はいくらでもある。悪意を持った列国諸侯の誰かが﹃出し
抜こうとする意志﹄を持ってしまったら。
﹁閣下、今回の侵攻を﹃常と同じもの﹄とみなすのは危険です﹂
130
ヘルマンの額に汗がにじむ。
﹁仮にですが、新型爆弾で町や砦を爆破されたら、ローゼンベルク
始まって以来の大惨事になります。民や国境警備隊に大きな痛手を
与えるのに、これ以上の武器はございません﹂
﹁ああ﹂
うなずいたが、二つ疑問に感じることがあった。
一つは、あの聡明なジュリアスから、今回のアイシャ族の侵攻に
関し、何の警告も届いていない事だ。
それからもうひとつは、大噴水の爆破事故の事を尋ねたリーザが、
人形のように気を失ったこと。
︱︱これまでリーザは、変人だ、爆弾を作って遊んでばかりいる、
と揶揄されてきた。
だが﹃リーザ姫の作る爆弾は危険だ﹄などという噂は一度も聞い
ていない。
そもそも危険だったら、貴族が出入りする王宮の裏庭で実験する
など許されるはずがないのだ。
皆が悪く言いつつも見逃していたのは、彼女の爆弾が﹃大した実
害のないもの﹄だからだろう⋮⋮。
今日彼女が欲しがっていた材料も、音だけがうるさい火薬擬きや、
いい匂いのする香木、煙に色を付ける粉などだった。
どう考えてもあれは、まともな戦術火薬の材料ではない。
おそらく、リーザの手作り爆弾が、石を切り出して作った巨大噴
水を跡形もなく粉砕するなんてあり得ないのではないか。
まだ何もわからないが、あの爆破事件の犯人は、本当はリーザで
はないのかもしれない。
だが、ジュリアスはリーザにその罪を着せ、王宮から体よく追い
出したのだ。
リーザが﹃爆破事件の真相﹄を喋れないよう、何らかの処置を施
131
したうえで。
﹁しゃべれなくする処置、か﹂
人の心を、記憶を、自在に操るとある力のことを思い出した。そ
れを、自分は母の故郷レヴォントリで見た。
氷神に仕える銀瞳の巫女が持つ、﹃凍てつく眼差しの力﹄。端的
にいれば﹃強力な催眠﹄の力⋮⋮だ。
氷神の巫女のひと睨みで、沈黙を守り抜いていた罪人がすべてを
喋りだした光景が思い出される。それから、ふらりと屋敷を訪れた
セルマの事も⋮⋮彼女は文字通り、リーザの様子を見に来たのでは
ないか。
レヴォントリの姫を母に持つ自分は、一族の秘中の秘に近しく育
った。あの術の恐ろしさは、良く知っている。絶対にレヴォントリ
の巫女を嫁にもらいたくないと心底思える、肝が縮み上がるほどの
力なのだ。
もちろん、おいそれとその力が振るわれることはない。
私欲で使えば、希少な聖なる巫女ですら厳しい罰を受け、目を潰
されると聞く。
強大な力は、心ある権力者によって統制されるのが正しい姿なの
だ。
﹁いろいろ怪しげなことになってきたな﹂
ため息混じりの言葉に、聡明なヘルマンが頷く。
新型の火薬もしかり、氷神の巫女の力もしかりだ。
これから起きることは、﹃いつもの小競り合い﹄ではおそらく済
まされないだろう。
﹁ヘルマン、まずは物騒な火器を持っているかもしれない奴らを、
ここに近づけないことが肝要だ。防衛策を練り直そう。撒きびしを
使って犬ぞりを足止めしてもいい。この寒さだ、夜には彼らも動け
132
ない。昼間の防衛に注力しよう﹂
そう命じ、腕を組んでつぶやいた。
﹁君は先に帰って、今の話をイルマリに報告して動いてくれ﹂
ああ、たった二日で休暇が終わってしまった。
リーザと仲良く過ごすどころか、顔を見に帰れるかも怪しい。
それに⋮⋮近いうち、レヴォントリの母が、私の顔を見に来るよ
うな気がする。
信仰心熱いレヴォントリの民は、大氷原の和を乱すアイシャ族を
快く思っていないから。
﹁リーザ﹂
恐る恐る声をかけ、寝台を覗き込む。
リーザは王宮で暮らしていたころと変わらない無邪気な顔で、ぐ
っすり眠っていた。
顔も体も細く小さいので、北国独特のフカフカの布団に完全に埋
もれている。
﹁リーザ、レオンハルト閣下がお出かけになったぞ、リーザ﹂
﹁ん⋮⋮﹂
なまめかしい声に全身がびくりと反応したが、必死でこらえる。
つやつやした唇がかすかに動き、リーザが大きな目をぱっちりと
開いた。
﹁あれ?﹂
﹁あれ、じゃない﹂
﹁ちょっと、ヴィル!人妻の部屋に男が入っちゃ駄目でしょ!﹂
むくりと起き上がり、リーザが生意気なことを言った。
相変わらず姉貴風を吹かしたがるところが腹が立つ。なのに、彼
133
女が嫁ぐ前と変わらない重さで、リーザが愛おしい。
自分の秘めたる恋は自動的に終わり、自分だけが取り残されたの
だと改めて思い知らされ、胸が痛かった。
﹁なんだよ。俺は﹃弟﹄なんだろ﹂
口にした瞬間、ぶっすりと致死的な何かが自分に刺さった。
感じた事のない強烈な快感が走り、慌ててリーザから目をそらす。
﹁まあ、そうだけど、ううん⋮⋮。そう、私はもう人妻だもの、弟
でも部屋に入っちゃダメ!﹂
ふてくされたようにリーザがいい、よれよれになった衣を掻き合
わせた。
寝かされる前に、レオンハルトが帯を緩めていたからだろう。
思い切り前が開いて、細い体に似合わぬ豊かな⋮⋮見ちゃだめだ
! だが正直なところ、あの胸を見たい。
見ちゃだめだ⋮⋮見ちゃだめだけど、相変わらず無防備にちらつ
かせている谷間を心行くまで見たい。
⋮⋮⋮⋮。
哀れな自分には褒美が必要だ。
そんな口実を思いつき、素直に見ることに決めて振り返った。
武人の目は、刃を交わす相手と目を交わした瞬間にすべてを脳裏
に刻みこみ、隙を見出すもの。父にそう叩き込まれた。が、残念な
がら自分はその技を碌なことに使っていない。たとえば惚れた女の
胸の谷間を記憶することなどにしか⋮⋮。
それにしても嗚呼、何という身体だ。
目の毒になるために生まれてきたのかこの女は。
﹁リーザ、その格好で外に出るなよ﹂
﹁わかってるわよ!﹂
言いながらリーザがもぞもぞと体をねじる。そしてだんだん泣き
そうな顔になって来た。
﹁この服うまく着られないぃぃ⋮⋮﹂
134
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
興奮する。泣き顔で服が半脱げのリーザを見ていると異様に興奮
する。
﹁自分じゃうまく着られないぃぃ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁うぅ、脱げてくる、何で⋮⋮﹂
不器用に衣を掻き合わせ、落ちてしまう帯を引っ張り上げながら、
リーザがとうとう本格的なべそをかきはじめた。
遠まわしに﹃早く助けて﹄と言っているのだ。
あきらめて手を差し出し、袷を手早く引っ張って衣を体に添わせ、
帯をきっちりと結んでやった。
リーザの体は相変わらず頼りなく、柔らかく、華奢で、髪がゆら
ゆら揺れるたびに甘い香りが鼻先をくすぐった。
﹁ヴィル、着付けできた?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
唇からこぼれそうになる言葉を飲み込み、着付け終えたリーザの
体を冷たく突き放す。
﹁服ぐらい自分で着れるようにしておけよ﹂
﹁いつも練習してるわ。まだ練習中なの﹂
リーザが流れ落ちる絹のような髪をかき上げ、不機嫌そうな顔で
言った。
いつも自分の前では不機嫌でわがままな﹃姉﹄から、また目をそ
らす。
﹁でも旦那に甘えて、任せきりなんだろう。お前らしいよ﹂
﹁う、うん⋮⋮そうだけど⋮⋮﹂
耳まで真っ赤になり、リーザがしきりと髪をいじる。
そうだろう。自分なんかよりも、脱がせた男に着せてもらうほう
が嬉しいに決まっている。なんという状況だこれは興奮⋮⋮あれ?
﹁ふん﹂
動揺を押し隠して鼻で笑い、心で泣いて立ち上がった。
135
﹁レオンハルト閣下から、お前の世話を焼いておくように頼まれた
よ﹂
﹁えっ、お出かけなさったの?﹂
﹁仕事らしい﹂
やはり寝起きに、自分の言葉を聞いていなかったのだろう。リー
ザがみるみる悲しげな表情になった。
﹁⋮⋮お仕事? あんなにお疲れなのに?﹂
リーザが心配そうにつぶやき、言われたとおり立ち上がる。
﹁旦那様、大丈夫かなぁ﹂
﹁お前に心配されるほどヤワじゃないよ、あの方は王国の右翼、北
限の国境を10年以上も守って来られた武人だぞ﹂
﹁うーん、でも心配⋮⋮私も旦那様の役に立ちたいなぁ﹂
腕を組むリーザを、ため息とともに見守った。
またあの妙ちきりんな爆弾もどきを作りたいなどと、言い出さな
ければいいのだが。
136
17
﹁おやっさん、腎虚で早死にしないでくださいね﹂
﹁ごふっ﹂
仕事中とも思えぬしみじみした口調で部下に言われ、啜っていた
茶を吹いた。
まさかの直球をくらい、アイシャ族が怪しげな動きをしている事
も忘れ、ひとしきりむせる。
脳裏によぎるのは﹃なぜバレた﹄、その一言だけだった。
﹁おっお前は、くだらないことを言っていないで!早く足罠の設置
に向かいなさい﹂
﹁いや、だって嫁さん二十も年下なんでしょう。年下の若い嫁さん
をもらった男なんて、みーんな鼻の下伸ばしてヤリまくって、あっ
というまにぽっくり死んじまうじゃないですか﹂
血の気が引いた。まさにその通りではないか⋮⋮!
いや、待て。35歳の時に17歳年下の母を娶った父は、70ま
で生きた。自分は長男だが、下に弟が2人と、妹が3人いる。子だ
くさんだからさぞ夜も盛んだったに違いないのに、父は長生きして
ぽっくり逝った。
いやいや待て待て、何を考えているのだ自分は。親のそんな話は
気が滅入るだろうが。
ため息をつき、精一杯怖い顔を作って言い放つ。
﹁えええ縁起でもないことを言うな、風邪だ風邪、風邪を引いたん
だっ﹂
まずい、どもった。
﹁そうなんですかねぇ⋮⋮﹂
納得できないように部下が首を振り﹁とにかく若い嫁さんに夢中
になりすぎて腎虚で早死にしないでくださいね﹂と繰り返して出て
137
行く。
本当にもうやめて⋮⋮と泣きそうになりながら、農作業と開墾作
業で鍛え抜かれた、鋼のような背中を見送った。
さすがローゼンベルクはカルター王国でも指折りのど田舎。
みんな、下の話題に開放的すぎる。他にすることもないから子だ
くさんだし。
子を持つ親であるという意味では、部下たちは先輩方なのだ。
あいつらはそのうち先輩風を吹かせ﹁赤ちゃんいつ仕込むの? 冬に産ますと寒い中夜泣きされて、死ぬほどつらいよ、春の終わり
に産まれるように、夏くらいに仕込んだほうがいいよ﹂とか真顔で
忠告をしに来るに決まっている。﹁今の時期が仕込みにちょうどい
いよ、ハイ精力剤﹂とか言いに来るに決まってる。
怖い。どうしよう。
部下を追い払って茶を飲みほし、自分も外作業を手伝うか、と立
ち上がった。
最近寒いと膝に来る。やはり体は齢を重ねているのだ、毎晩リー
ザをあんあん言わせて鼻の下を伸ばしていたら、あっという間にぽ
っくり死ぬ気がする。
ああ、部下の言うとおりだ。心からそう思い、反省しながら歩い
ていたら、声が聞こえてきた。
﹁閣下の嫁さん可愛かったよ、おれ、暴漢から救助した現場にいた
からね﹂
﹁へぇ、すげえ美女なんだって? 兄上によく似て﹂
全力で気配を殺し、耳を澄ませた。
リーザのうわさをしている部下がいる!
﹁美女っていうか、若すぎてびっくりした。たぶんありゃあ16歳
くらいだな﹂
⋮⋮たしかに大柄な人間の多いローゼンベルクでは、リーザのほ
138
っそり華奢な体は幼げに見える。だがそれは皆より多少背が低いせ
いであって、リーザは脱いだらそれはもう⋮⋮いや、それは人に教
える必要はないのだった。慌てて再度気配を殺し、話の続きに集中
する。
﹁16歳くらいなんだ﹂
﹁ああ、16歳くらいだ﹂
部下は自信満々に適当なことを言っているが、違う。妻は23歳
だ。世間を知らなくてふわーっとしてるから若く見えるが、23歳
だ。
ちなみに日の高いうちは無邪気で可愛くて永遠の少女のようだが、
夜はお色気溢れる小悪魔に変身する。自分はリーザに精気を吸い尽
くされて文字通り生きた干物に⋮⋮いやいや、これも別に人に教え
る必要のない話だった。
﹁16歳じゃ、俺の娘と同じじゃねえか、まだ小便臭い年頃だぞ﹂
尋ねたほうの部下が呵呵大笑し、自慢げに﹃妻を知っている﹄と
言っていたほうもそれに追従した。
﹁そうだなぁ、親子みたいなもんだろ、あの夫婦は﹂
﹁政略結婚だもんなぁ﹂
﹁うん、うん、親子親子﹂
﹁父親と娘みたいなもんだ、24も違ったら﹂
﹁!﹂
ああ、このとき全身に⋮⋮とくに男のお道具のあたりに落ちた稲
妻のごとき衝撃を、自分は一生忘れないだろう。
親子⋮⋮。
あまりの事によろめく。
自分とリーザは恋人同士のつもりだったが、はたからは親子に見
えるのか。
これは萎える。
すごい萎える。
139
肉体的にではなく、精神的に超萎える。
﹁まあ、妙に着膨れしてたから子供っぽく見えたのかも。普通にし
ていたら違ったかもな﹂
﹁寒かったんじゃないのか、王都から来たなら﹂
部下が何か言いながら遠ざかってゆくが、何一つ頭に入らなかっ
た。 全身から変な汗が噴き出す。
これはキツイ、鬼神に源を絶たれたかのように萎えた。
なんかひゅんって言って縮んだ感じがする⋮⋮どうしよう⋮⋮。
腎虚どころじゃない大変な事態になってしまった。
情けなく汗をぬぐっていたそのとき、ヘルマンがすごい勢いで駆
けつけてきた。
﹁閣下っ!﹂
﹁ど、どうした!﹂
わが身に降りかかった大惨事をとっさに押しやり、精一杯﹃決め
た﹄表情で振り返る。
﹁アイシャ族の本陣で大爆発が起きました!怪我人多数の模様!﹂
﹁⋮⋮爆発?﹂
﹁どうやら、何らかの強力な火器の使用を誤り、自爆した模様です。
救護班を向かわせましょうか﹂
﹁⋮⋮あ、そう﹂
あまりの斜め上の事態に、とっさにそれだけ言うのがやっとだっ
た。
今日はいろんなことが起きすぎだろう。本当に。
﹁⋮⋮そうだな、救護班は、頼まれたら出してあげればいいんじゃ
140
ないか⋮⋮﹂
命の重さに大小はないが、アイシャ族を助けても、何故か﹃助け
方が気に入らない﹄という理由で賠償を請求されたりして、これま
でいい事は一度もなかった。
だから、真剣な救護の依頼が来るまでは見守ろう。自分にはロー
ゼンベルクの益を守る義務がある。冷淡なようだが、この街の領主、
この国の将である限り、﹃お人好しのレオンおじさん﹄ではいられ
ないのだ。
﹁そうですね﹂
冷淡にヘルマンも言い放つ。彼も同じ考えなのだろう。
だがすぐに再び険しい表情に戻り、付け加えた。
﹁ですが、アイシャ族が未知の強力な火薬を持っている可能性は極
めて高くなりました﹂
﹁ああ﹂
うなずき、レーエ河を見渡すことのできる見張り窓に駆けつける。
ヘルマンの言うとおり、真っ白な平原に、真っ黒な尋常でない量の
黒煙が上がっていた。
﹁すさまじい煙だ﹂
﹁はい、ここまで硝煙の匂いが漂ってくるような気がします﹂
ヘルマンの言うとおりだ。あんなものをこの街に持ち込まれなく
てよかった。
相手が間抜けで、今回は助かったのだ。
﹁爆発の確認と同時に、使者を王都へ向かわせました。緊急事態で
す﹂
﹁正しい判断だ、ありがとう、ヘルマン﹂
これまで真っ白で、氷に煙るだけ立った北の大地に、新たなのろ
しが上がった。
見かけ上の平穏は、今、緩やかに破られようとしているのだ。
141
踏みなれたこの白雪の下に、地底に届かんばかりの深さを持つ氷
の裂け目が隠れているかのように感じられて、全身に強い緊張がみ
なぎった。
﹃氷将レオンハルト﹄の名に賭けても、ローゼンベルクの民には
傷一つ負わせたくないのだが⋮⋮。
﹁もっと温泉に入りたかった﹂
顔を膨らませるリーザの手を引き、ようやくレオンハルトの屋敷
に戻って来た。
とろい﹃姉﹄は、氷の上をまともに歩けないので、えらく時間が
かかった。
リーザ
練習を兼ねて、これからも少しずつ歩かせねば。
彼女はこれからここで暮らすのだ。自分と離れて生きていけるの
か不安で仕方ないが。
そんなことをしみじみ考えていた時、門扉につながれている不思
議な生き物に気が付いた。
馬に似ているが毛が長く、色は銀とも白ともつかない。頭には、
コブのような二本の角が生えている。
背には婦人用と思しき、美しい鞍がついていた。
﹁ねえヴィル、不思議なヤギがいる﹂
﹁ヤギじゃないだろう、鹿じゃないか﹂
﹁ヤギさん、こんにちは﹂
142
動物好きのリーザが、笑顔でよろよろと近づき、動物の鼻づらを
そっと撫でた。動物は、目を細めてされるがままになっている。
人に飼われている動物なんだな、と思った。随分と馴れているか
ら。
自分も手を出し、見た目よりフカフカしている保温性に富んだ毛
を撫でた。
大人しい獣だ。それにずいぶん分厚い爪をしている。
﹁まあ、あなた方は﹂
やさしい、どこまでも穏やかな声が聞こえて、振り返った。
そこに立っていたのは、白銀の髪を結いあげた、ほっそりと背の
高い貴婦人だった。
年のころは自分の母と同じくらいだろうか。
まっすぐに伸びた背とゆったりした仕草が、生まれながらの身分
の高さを伺わせる。
慌てて頭を下げ、ぼんやりしているリーザにも頭を下げさせた。
﹁あなたがリーザ様ですの﹂
柔らかい声で尋ねられ、リーザが少し怯えたようにうなずく。
それを見て、白銀の貴婦人が端正な顔を輝かせた。
﹁まあ、やはり。初めましてリーザ様。わたくしはレオンハルトが
母、ミラドナと申します﹂
えっ、と言いかけて慌てて飲み込んだ。
⋮⋮若い。
確か将軍閣下は御年40のはず。この貴婦人は一体いくつなのだ。
どう見積もっても50くらいにしか見えないのだが。
ぼんやりしているリーザに﹁お前の義母上だ﹂と耳打ちすると、
リーザが我に返ったように、優雅な王女の礼をした。
﹁初めまして、リーザです。よろしくお願いします﹂
さすがに一連の動作は堂に入っていて、気品にあふれている。母
143
が﹃姫様に恥をかかせたくない﹄と必死に教え込んでいたので当然
だが。
﹁可愛らしいわ﹂
満足げに貴婦人ミラドナがつぶやき、そっとリーザの手を取る。
銀色の目には満足そうな光が浮かんでいた。
﹁良く、このような寒い場所に嫁いでくれました。息子はあなたに
不自由をさせておりませんか﹂
﹁は、はい﹂
リーザがうなずくと、ミラドナがにっこりと微笑んだ。
﹁それを聞いて安心しました。さ、中に入りましょう。護衛の方も
いらっしゃい。温まるお茶を入れます。王都の方にはこの気候でも
冷えるでしょう?﹂
144
17︵後書き︶
腎虚:この小説の場合はやりすぎで生命力を喪失する状態の事を表
わす。
145
18
﹁懐かしいわ。私が夫を見初めたのはもう⋮⋮45年近く昔の事で
すね。私は13、夫は30。レヴォントリとカルター王国の交流会
の席での出来事でした﹂
ミラドナ大奥様がしみじみと言って、ゆっくりと氷を浮かべたお
茶をすすった。
こんなに寒いのにとても薄着で、温かい飲み物もいらないと言う。
彼女は氷でできた人間なのだろうか。銀髪銀瞳、まさに氷のよう
に輝く女人ではあるが。
しかも58歳なのか。到底見えないのだが⋮⋮。
﹁あの、私もです。13の時、兄の誕生会にいらっしゃったレオン
ハルト様を一目で好きになって、あの、それからずっと好きでした
⋮⋮﹂
リーザが嬉しげに相槌を打った。
楽しそうに頬を染め、ニコニコしている。
正直、彼女の恋は単なる妄想のように傍からは見えていたが、本
人の脳内では大恋愛ということになっているのだろう。
好きにすればいい、﹃弟のヴィル﹄としては、全く面白くないが。
﹁まあ、うちの息子にそこまで言ってくださって。ありがとう。⋮
⋮わたくしの夫は当時、仕事が忙しいからと独り身でね。私はどう
しても彼を夫にするべく、16で結婚の自由を得てすぐに彼の家に
押しかけたの。レヴォントリの女は、伴侶となる男を自分で選び、
勝ち取るものなのです、文字通り全てを賭けてね。私もその美徳に
倣い、家に帰りなさいと言う夫にひたすら付いて回って、18の時
に無事レオンハルトを産みました。本当にうれしかった。﹃赤子が
生まれたから結婚しよう﹄とあの人が言って下さった日の事、きっ
146
と一生忘れられないと思います﹂
大奥様が亡き夫をしのぶようにかすかに目を潤ませ、手巾をそっ
と押し当てた。
﹁まあ素敵⋮⋮ねえヴィル、素晴らしいお話だと思わない﹂
﹁はい﹂
同意を求められ、死んだ魚のような眼で相槌を打った。
どこが素敵なのか。この話。
自分が童貞だから分からんだけか。
男に付きまとった挙句、強引に孕んで結婚に持ち込んだという話
ではないか。
さらっと聞くと美しい話に聞こえなくもないので、リーザは単純
に感動しているが⋮⋮。
﹁本当に愛し合うご夫婦だったのですね﹂
いや、そのは解釈おかしいだろう。
そう思うが言えず、むやみにがぶがぶと茶を飲む。
だが、手持無沙汰にきょろきょろとあたりを見回した刹那、ふと
身体が勝手に動きを止めた。
何か、強い違和感を今感じた気がする⋮⋮。
︱︱音? そう、今のは金属のこすれる音だ。
長剣を鞘から抜いた音に、自分には聞こえた。
氷の入った盃を卓に置き、すっと大奥様が立ち上がる。
﹁ところでリーザ様、今すぐに二階のお部屋にお隠れになってくだ
さいな、鉄の扉を付けた避難部屋がございますのよ﹂
大奥様のその言葉に、全身に緊張が走った。やはり、誰かいるの
だ。彼女もそれに気づいている。
突然のことに対応できず、リーザがきょろきょろとあたりを見回
147
した。全く何もわかっていない。
﹁え、え⋮⋮﹂
﹁護衛官殿、私はリーザ様を避難させます。貴方は賊を⋮⋮﹂
大奥様の言葉の途中で、日光浴用の硝子でできた室のあたりで、
何かが叩き壊されるような音が聞こえた。
とっさに大奥様と、彼女に手を引かれたリーザの背を押す。
﹁畏まりました﹂
﹁急いで!﹂
大奥様の声に、リーザがよたよたと走り出す。ああ、相変わらず
とろい、だが今は彼女の事は大奥様に任せるしかない。
もう一度耳を澄ます。
窓が割れる音が聞こえた日光浴室のあたりには、人の気配は感じ
ない。
恐らく陽動だ。
自分も急いで、リーザと大奥様のあとを追う。
この屋敷は代々の領主の屋敷としてさすがに考えられている。
袋小路の奥にその室はあり、挟み撃ちになって逃げられなくなる
のを防いでいた。
﹁さ、ここに。リーザ様﹂
怯えたようにもたもたしているリーザを、大奥様が分厚い扉の奥
に押し込んだ。
それから、自分を振り返って静かに言う。
﹁6人ですね。わたくしも加勢しましょうか、護衛官殿﹂
︱︱何故、その数が分かったのか。
それに女の細腕で加勢するとはどういう事か。
だが問いただしている余裕はない。
強く首を振り、剣がしっかりと鞘に固定され、抜けないようにな
っていることを確認した。
﹁いいえ﹂
﹁わかりました、できれば一人は生かして残してくださいね﹂
148
静かな柔らかな声と共に、鉄の扉が重たい音を立てて閉まった。
おそらくあの部屋からは、更に外へとのがれる隠し通路などもあ
るはずだ。そうでなければ奥方が真っ先に逃げ込むはずはない。
︱︱生かしておけ、か。
当たり前と言えば当たり前のことだが、賊はとらえて、尋問をす
る必要がある。
むやみやたらに殺しては意味がない。
あの奥方の落ち着きようはいったい何なのかが何より気になるが、
今はそれどころではない。
もう一度意識を集中し、敵の気配を探った。
いる。
そばに来ている。自分の様子を伺っているようだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
全身の力を抜き、﹃気合﹄を緩めた。
まるで風呂に入りに行くオヤジのような足取りで、ゆらゆらと廊
下を歩きはじめる。
﹁まったく、何が来たっていうんだよ。硝子を割ったやつは誰だ﹂
グズグズとつぶやき、﹃廊下の角﹄に差し掛かる。あそこに2人
居るのはわかった。わずかながらに影が見えている。それほど腕は
良くないのかもしれないし、油断しているのだろう。
恐らくは挟み撃ちにして、自分を殺す気だろう。
片方が刃の付いた長物、もう片方は弩を持っている可能性がある。
弩のほうを先に潰さないと、逃げ回りながらどこまでも撃ちまくら
れて迷惑だ。
刃の方は何とでもなる。
廊下の角まで近づいて、わざと足を止めた。
決めた。
先手を仕掛けてくるほうを誘い出す。
﹁あれ、ないな、忘れたのか⋮⋮﹂
独り言を言い、そのまま後ろ向きに歩いた。目は廊下の角から放
149
さず、手には、投げ刀子を握りしめた。
ゆっくりと、まるで今来た廊下を戻ってゆくように歩く。
同時に、それを隙だと思ったのか、予想通り弩を構えた男が廊下
に躍り出た。
﹁な!﹂
自分と目が遭い、賊が驚愕の声を上げる。己の方を向いて立って
いるとは夢にも思わなかったのだろう。
隙を狙い、すかさず刀子を力いっぱい投げる。
石弓を構える利き腕に、誤りなく深々と刀子が突き刺さり、男が
うめき声をあげて弩を取り落した。
全力で走り、鞘に入れたままの剣を抜く。
落ちた弩を廊下の後方に思いきり蹴飛ばし、飛び出してきた剣士
らしき賊の脳天に、鉄の棒と同様の威力を秘めた剣の鞘をお見舞い
した。
運が悪かったら死ぬだろうが、流石に知った事ではない。
自分の主や大奥様⋮⋮つまりか弱い女を狙ってきたのであれば、
容赦なく駆逐する、それだけだ。
うめき声をあげている弩の使い手のみぞおちにも、剣の鞘の頭を
叩き込む。一瞬にして、もがいていた男が意識を失った。
男の身体から矢筒を奪い、自分の体に帯ごと掛けた。それから弩
を拾い、そっとあたりの様子を伺う。人の気配はない。随分高価そ
うないい弩だ。これは自分が頂こう。
そのまま廊下をわたり、階下へ降りようと思ったが、人の気配を
感じゆっくりと退いた。
すぐ側にレオンハルトの寝室がある。扉を開け、あえてわずかに
扉を開けたまま、身をひそめた。
枕元に置かれたリーザの香水を、そっと入口にたらす。この部屋
に女がいる、と誤認させるためだ。
毛布を丸めて、さらに上から毛布を被せ、怯えきって寝台に潜り
込んでいる女の姿を偽装した。一瞬誤魔化せればそれでいい。
150
ゆっくりと廊下を歩いてくる足音が聞こえる。一つ一つの部屋を
探しているようだ。
音を聞かれぬよう、ここに近づいてくる前に、あらかじめ弩を構
え、引き金に指をあてて動きを止めた。
足音が止まる。
入ってくるのは︱︱誰だ。
﹁おっと﹂
弩を侵入者の頭に突きつけるのと、丸腰のレオンハルト閣下が両
手を上げるのは同時だった。
﹁いきなり撃たないでくれて有難う。さすがだ、ヴィルヘルム君。
こんな状況でも敵味方の確認だけは確実に行うとはね﹂
落ち着き払った声音に、力が抜けて弩を下ろす。
﹁失礼いたしました﹂
﹁庭のは縛っといたぞ、靴を脱がせて足の裏に蜜を塗り、犬達にな
めさせている。あばらを折られた状態で雪の上に置かれ、笑い転げ
るのは地獄だろう。日光浴室の硝子を直すのにいくらかかると思っ
てる、そのくらいは許されるはずだ。残りの報いは、牢で受けさせ
よう﹂
レオンハルト閣下の言葉と同時に、しずしずと大奥様がやって来
た。
フラフラしているリーザの肩をやさしげに抱いている。
﹁レオンハルト、お帰りなさい﹂
﹁!﹂
その瞬間、落ち着き払っていた将軍閣下が、文字通り飛び上がっ
た。
﹁あああああ母上!なななななぜ家に!﹂
普段の悠然たる態度はどこへやら、閣下は明らかに動揺している。
﹁どうしたの、おかしな声を出して。あなたたち夫婦のお祝いに来
たのですよ。とりあえず賊を家から出して納屋にでも入れて頂戴。
151
リーザ様が怯えてらっしゃるじゃないの﹂
﹁旦那様! 怖かったああああああ﹂
奥方の腕から離れたリーザが泣き声で叫び、閣下の分厚い体にし
がみついた。
﹁リーザ、大丈夫だ、もうあいつらは居なくなったから﹂
なんとも言えないやさしい顔で、レオンハルト閣下が華奢な体を
そっと抱き寄せる。
﹁わあああああ、変な人が、来たっていうから、わあああああ﹂
﹁大丈夫だよ、リーザ﹂
荒事に慣れていないリーザはぼろぼろ涙を流し、完全に怯えきっ
ている。
この様子ではしばらく宥めないと泣き止まないだろう⋮⋮。
だがその役目は﹃御主人﹄に任せよう。
肩を竦め、大奥様を振り返る。
﹁さ、お片付け。家が散らかっていてもいい事はありません﹂
大奥様が明るく言って、如何にも上流の夫人らしい微笑みを浮か
べた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうなさいましたの、護衛官殿﹂
﹁いえ﹂
賊の襲撃を受けたというのに、大奥様は動揺のかけらも見せてい
ない。
同じ思いをしたリーザはあんなに怖がっているのに。
﹁賊は括って閉じ込め、警邏隊を呼んで参ります。それから硝子の
掃除と、使用人の方々に怪我がないかも確認を﹂
﹁大丈夫です﹂
﹁え?﹂
奥方が優雅に裾を払い、しずしずと廊下を歩き出した。
﹁皆には、賊の襲撃があったら隠れるように普段から教えてありま
した。私の言葉を覚えていれば、皆、地下の倉庫に籠っているはず
152
ですよ﹂
この気品あふれる北国の貴婦人は、見かけよりも肝がずっと太い
のかもしれない⋮⋮。
153
19
ジュリアスはいつも、日の出の時間に起きる。
寝間着から着替えもせぬまま、ぞうきんを手に取って掃除を始め
た。
豪奢だが古ぼけた調度を神経質に拭き、床も拭き、寝台の下も拭
く。
︱︱部屋の中に異物がない事の確認は、ざっと終えた。
次に、侍女の手を借りずさっさと着替えを済ませる。乱れのない
服装であることを確認し、慎重な仕草で寝る前に汲んでおいた水を
口に含む。
味に違和感がないことを確認し、飲み下した。
それから、壁に垂らされた遮光のカーテンを引き開ける。そこに
は、淡い紫の目をした、雪のように儚い女性の肖像が飾られていた。
彼と妹のリーザに生き写しの若い女性だ。
先王の寵愛した若い側女⋮⋮彼の母の肖像だった。
彼女は﹃王宮に侍女として上がってすぐ、好色な王の目に留まり、
手を付けられてしまった不幸な美女﹄ということになっているが、
本当は違う。
少なくとも父王は、側女の立場にあった母を愛していた。
子供だったジュリアスにもそれはわかっていた。
第一、父が自暴自棄になり、女遊びに耽溺し始めたのは母の死後
だ。
噂は不当なものだと彼は内心憤慨している。
人々は面白おかしく噂を流す。まるでそれが娯楽ででもあるかの
ように。
だがそれを押しとどめる術は、王であるジュリアスにすら無いの
だった。噂という大河をせき止める門は作れない。
154
ただ、彼にとって無念なことが一つあった。
妹リーザのことだ。彼女は母が亡くなった時はまだ3つで、物心
も付くかつかぬかの頑是ない幼児だった。ゆえに、自分に近づこう
としない父親を嫌い、度重なる浮気で母を苦しませた男だと思い込
んでいしまった。
嫉妬深い王妃の嫌がらせから守るため、父は迂闊に娘に近づけな
かっただけなのだが。
口で父上の情愛を疑うなと言い聞かせれば、リーザは﹃分かりま
した﹄と答えはする。
だが、姉たちのように父親に可愛がってもらえなかったという思
いは、妹の心に根付いて消えない。
手を伸ばし、母の肖像に触れた。
父と母の間にあったのは、単純な男女の愛情だったと聞く。
母は若くして世を去ったが、思い残すことなく生きたのだろうと
思う。
王妃に憎まれようと、人々に悪態をつかれようと、父との間に、
お互いだけを見つめる愛があれば満足だったに違いない。
彼女の生き方は、万人に褒められる生き方ではない。そのことは
息子の彼にもわかっている。
母は愛した男の孤独を埋めたかった。それを短いと分かっていた
命の使い道にしただけだ。
ジュリアスは、丹念に書き込まれた銀色の髪の筋をそっと指でな
ぞった。
幻の民・レヴォントリの出であることを隠すため、母はいつも髪
を染めていた。
ジュリアスも妹も、髪の色は母から受け継がなかったのだ。
そこで我に返り、ずいぶんな寒さに気づいて椅子の背に投げかけ
ていた厚手の上着を羽織る。
155
彼は、こんな寒い朝はいつも、幼い日の事を思い出す。妹とヴィ
ルヘルムが二人して、﹃お兄様が寒いかと思って﹄と、寝台に潜り
込んできたことを。身を寄せて眠った翌朝、そのいたずらを乳母や
侍従に咎められ、二人で子猫のように身を寄せて泣いていた姿を。
﹁私はヴィルからリーザを、リーザからは自由を奪いました。大切
な妹と弟分から、一番彼らが欲していたものを取り上げた﹂
母の肖像に微笑みかけ、ジュリアスはかすかな声で呟いた。
﹁ですが私は、妹と弟分を守りたいのです。もちろん王としてこの
国も、そして自分の身も守りたい。欲張りな息子ですが、どうか見
守ってください。︱︱私に、レヴォントリとの縁をくださってあり
がとうございます、母上﹂
勃たないのだ。
ああ、勃たない。
昨夜はリーザに﹃ああ疲れた、すごく疲れた﹄と言い張って速攻
寝た。
アイシャ族は自爆するわ、自宅には賊が押し入るわで、もう泣き
たいくらい疲れていたのは真実だが⋮⋮。
リーザがぷよんぷよんの乳を押し付けて﹃旦那様、元気出して﹄
156
と慰めてくれたが、ピクリとも反応しなかった。
妻が、娘⋮⋮確かに、娘に見えなくもないかもしれない。
それなのに自分は娘のような年齢の女に手を出して⋮⋮あああ!
﹁うっ、胃が痛いっ﹂
ダメだこれは。自分の中の、ものすごく嫌悪感を抱く何かをグサ
リと刺す事案のようだ。
自分は誇り高きローゼンベルクの領主だ。
何も知らない無垢な少女を嬲り倒す中年男など、断じて許せない。
そんな男は処刑されてしかるべき。そのくらい許せない。
つまり⋮⋮自分を許せない⋮⋮?
いやいや、うちのリーザは23だから少女じゃない。大人の女性
だ。
しかし子供っぽく見えるのは本当だ。少女らしく透明な感じがす
るともいえるが、幼いという見方も出来なくはない⋮⋮。
つまり自分は処刑されるべき⋮⋮?
いろんな言い訳をぐるぐると繰り返し、どうにも決着がつかない
ことに気づく。
忍び込む冷気に我に返り、緩んだ襟元の巻物をきっちりと巻き直
した。
この心の問題をどうにかしないと、一生勃たなくなってしまう。
﹁はぁ﹂
案の定、アイシャ族の火傷患者の受け入れ処理で忙しくて、とん
でもなく遅い時間になってしまった。
彼らは本当に、どういうつもりなのか。
人道的な見地から今回は受け入れをしたが、次は拒否する。いい
加減にしないと踏み潰す、本気で。
さらには納屋に捕えた賊が、何もしゃべらない。
拷問しても死なれたら困るし、扱いに困っている。
157
﹁きゅう、きゅうぅぅ⋮⋮﹂
﹁よしよし、寒いな、もうすぐ乳をやるからな﹂
さらに言うなら、さっきまた犬を拾ってしまった。
うちの民、ほんっとうに要らない犬猫を気軽に捨てすぎ。
貧困ってどうしてこう残酷なのだろう。そしてそれを改善できな
い自分の無能さが苦しい。
目に付いた子犬や子猫、時には子供を拾うくらいでは償いにもな
らない。それはわかっているのだが。
﹁きゅうきゅうぅぅぅ⋮⋮﹂
﹁腹が減ったな﹂
外套の首のところから顔を出し﹃なんか食わせろ﹄と悲痛な声を
上げる子犬を抱き直す。
モロダ⋮⋮いや、もうあの名前でいい。モロダスを拾った時より
小さい。まだ正真正銘の赤ん坊だ。
これまでの人生で、通算何匹の犬を拾ったのだろう。数えるのも
怖い。
﹃氷将﹄とかやたらカッコいい不釣り合いな名前を返上して﹃犬
拾いおじさん﹄とでも名乗るべきではないだろうか。
⋮⋮。
それにしても、勃たない。
リーザは何もわかっていないだろうが、明らかにオッサンの繊細
な心の均衡が壊れてしまった。
しかも内容が情けなさすぎて誰にも相談できない。
﹁⋮⋮ああ、しまったな﹂
今日は家に母が居座って、ではなく滞在なさっておいでではない
か。
お前は犬を拾っている場合なのか、とチクチク嫌味を言われるの
158
だろう。
またしてもずっしりと足が重くなった。
かわいい孫たちがいっぱいの、弟妹たちの家に行けばいいのに⋮
⋮。
昨日は事後処理でバタバタしていてまともに母と話せなかったが、
今日はじっくり説教されるのか。もう嫌だ⋮⋮。
40にもなって母が怖いとか、どこのバカだ。
本当に疲れた。自分の情けなさ加減に疲れた。
家のあたりが見える場所で足を止め、真っ白な息をそっと吐いた。
本当に寒いし、弱った子犬が死んでしまうので家に帰らねば。
だが本音を言えば帰りたくない。
物の役にも立たぬ男など妻に合わせる顔もないし。
重い溜息を吐いたそのとき、門から細い影が飛び出してくるのが
見えた。若い男の制止する声も聞かず、慣れない足取りでよたよた
とこちらに走って来る。
﹁だんなさまー!﹂
﹁リーザ!﹂
﹁旦那様、遅いから心配してました!﹂
目の前で氷で足を滑らせたリーザを、慌てて抱き留める。
﹁きゃっ﹂
﹁こら、走るな﹂
雪の薄明かりの中、巻物の端から覗く美しい目を細め、リーザが
明るい声で言った。
﹁お帰りなさい! 寒かったでしょう、旦那様﹂
﹁待っていなくていいのに、もう遅いんだぞ﹂
自分の言葉に、リーザがニコニコしたまま首を振った。
﹁待っていたかったの!﹂
﹁閣下が戻られるまで、寝ないと言い張って居られました﹂
ヴィルヘルムが、相変わらず感情のない声で付け加えた。
159
﹁旦那様、朝から顔色が良くなくて心配していました。さ、お家に
入りましょう﹂
リーザがそういって、自分の腕を引いた。
ほんの少し、いじけて萎縮していた心がほどけたように思う。
そして、今は男としてものの役に立たないが、やはり自分はこの
愛らしい妻に恋をしているのだと改めて実感した。
﹁そうか、済まないな﹂
﹁キノコのスープがあります、こちらに来た時に習った⋮⋮今日、
アルマさんがキノコを届けてくれたから﹂
自分を見上げて、リーザが笑う。
﹁お義母様にも美味しいって言ってもらえました。召し上がって元
気になってくださいね﹂
﹁うん﹂
自分のキノコも元気になればいいのに。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
バカ!
この四方を壁に塞がれたような事態で、そんなくだらん冗談しか
思いつかないとは。
こんな自分は雷に打ち砕かれてしまえばいい!
﹁旦那様、やっぱりお顔の色が﹂
﹁いや、寒かったから﹂
表情を曇らせたリーザに笑いかけ、どよんとした気分で、懐の犬
に触れる。
身体が温まったのか、子犬はいつのまにかぐっすり眠っていた。
﹁リーザ、もう一匹子犬を拾ったんだ。モロダスと一緒に可愛がっ
てやってくれ﹂
自分の言葉に、動物が大好きな優しくて美しい、だれより愛しい
妻が、目を輝かせた。
﹁こいぬ⋮⋮!﹂
160
﹁ああ﹂
﹁嬉しいです、早くお家に入って見せてください﹂
﹁そうだな﹂
リーザの反応に、ちょっとホッとする。
ローゼンベルク本邸が犬猫屋敷になっても、リーザはあまり怒ら
ないだろう。そう思えた。
161
19︵後書き︶
﹃第二章:氷原にくゆる煙は﹄
完
162
幕間1
﹁おじちゃま﹂
﹁おじちゃま、これあけて﹂
﹁キエエエエエー!﹂
﹁おじちゃまー、お庭の大きい犬、お部屋に連れてきていーい?﹂
﹁ねえこの人だれ、この人がお姫様? ねえこの人お姫様!?﹂
﹁にゃあああ、んにゃああああ﹂
うるさい!
久しぶりに会って2秒くらいは﹁ああ幼い甥っ子姪っ子、可愛い
なぁ﹂とほんわかした気分になるのだが、あとの半日以上はずーっ
と子供たちにまとわりつかれて疲れて泣きそうだ。今も3人身体に
よじ登り、3人が自分の膝に座ろうと大ゲンカをして、3歳児に踏
まれた赤子が怒りの絶叫を上げている。
﹁子供たちを見ていなくていいの﹂
母の声に、上の妹が明るい声で言った。
﹁兄さんが遊んでくれてるわ﹂
二人の弟も相槌を打つ。
﹁うちの子たちもだ﹂
﹁放っておけば、いとこ同士仲良く遊ぶよ﹂
無責任なことを言わず、親のお前らが回収しろと叫びたかった。
自分には弟が2人、妹が3人いるのだが、レヴォントリに嫁いだ
二人の妹以外全員が子連れで集まり、今、わが家には子供が10人
いる。大きくなった子は連れてこなかったとはいえ、いや逆にうる
163
さい兄姉がいないせいで、家は阿鼻叫喚だった。
リーザは子供たちのあまりの勢いに怯え、部屋の隅で赤ん坊の犬
を抱いてへたり込んでいる。
ヴィルヘルムは自分と同じく、子供たちにしがみつかれて団子の
ようになっていた。
あれでは護衛官の役を果たせないだろう。
﹁こらっ、そのお兄さんとは遊んじゃだめだ、離れなさい!﹂
子供たちを叱りつけたが、弱腰のおじさんの言うことなど聞くは
ずがない。ヴィルヘルムは主君の一族の子を窘めることも出来ず、
正座したまま子供団子になっている。
チビ共は珍しい広い屋敷で暴れ放題だ。
母は、孫がたくさんいて満足なのか、笑顔を浮かべている。
弟や妹は、相変わらずのんびりぼんやりと、菓子を食いながら談
笑していた。
自分の目には、甥や姪は暴れすぎに見えるが、親から見たら大人
しい挙動なのだろう⋮⋮。
﹁おひめさま!ワンちゃんだっこさせて!﹂
幼い姪のひとりが、リーザに抱き付いてねだった。
﹁駄目⋮⋮﹂
リーザが蚊の鳴くような声でいい、目があいたばかりの毛布でく
るんだ子犬をぎゅっと抱きしめる。
﹁乱暴に抱いたらダメ。まだ赤ちゃんだからダメなの。この子、無
理すると脚が外れちゃうの。ちょっと関節が弱いのよ、だから⋮⋮﹂
﹁なんでダメなの﹂
関節などという言葉の意味を理解できない姪が怒り出す。
﹁みるだけ!みせて、可愛いから見せて!﹂
﹁関節が弱いのよ⋮⋮床に落ちたら⋮⋮﹂
164
﹁いーやーだー!みせて!みせて!﹂
姪が泣き出した。
それから、リーザの肩掛けを引っ張る。リーザが怯えたように身
を引いた。
﹁ワンちゃん見たい!見たい!いじわるー!﹂
﹁⋮⋮ダメ﹂
頑なな表情でそう言い、泣いて転がって足をばたつかせる姪を無
視して、リーザが部屋を駆け出して行った。
二十三とは思えぬ、幼さばかりが目に付く態度だ。
適当にあやして突き放せばいいものを。
弟も妹も、不思議そうな顔をしてリーザを見ている。
︱︱心配だ、様子を見てこよう。
膝の上で好き勝手な歌を歌っている甥︱︱名前は⋮⋮もはや名前
がごちゃになって分からない幼い子供を抱き上げ、弟の膝に押し付
けた。
妹が﹁レオン兄さん、その子はうちの次男よ﹂と苦笑するので、
適当にひとこと、ふたこと言い返してリーザを追う。
彼女は、赤ん坊の犬が来てから、朝も夜もなく、ずっと弱った子
犬の世話をしている。
アルマにたしなめられても頑として聞かず、寝室に子犬の寝籠を
持ち込み、真夜中にも朝方にも授乳をして手厚く面倒を見ていた。
そのおかげで子犬はだいぶん元気になり、自分もぶっ倒れて以降
の夜のご奉仕が全くないことを、なんとか咎められずに済んでいる
のだが。
本当にやめたい。
夜のご奉仕ができないことを悩むのをやめたい。
悩めば悩むほどお道具から力が失せてゆくように感じられる。
しかもこんなことばっかり考えてる色ボケ将軍って可哀想すぎな
いか、と思うし⋮⋮。やめよう。考えるのは本当にやめてリーザの
165
心配をしよう。
﹁リーザ﹂
寝台に腰掛けたリーザが、暗い顔で子犬を包んだ毛布を撫でてい
いた。
﹁はい﹂
﹁大丈夫か﹂
﹁⋮⋮はい﹂
子犬にはまだ、名前は付けていない。
元気になったらつける、だから早く元気になってほしい。リーザ
はそう言っていた。
⋮⋮名前をもらったら、満足して天国に帰ってしまうかもしれな
いからと。
変わった考え方だと思ったが、今まで拾った動物に名前を付け、
死なせてしまったことが何度もあるのかもしれない。
なので、彼女の中にある小さく頑なな﹃法律﹄はそのように改正
されたのだろう。
﹁リーザ、済まなかったな、躾のなってない子供たちで﹂
﹁いいえ、子供なので⋮⋮仕方ないです⋮⋮あの、でもこの子は乱
暴にされたらダメだから⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
子犬の小さな頭を撫でで、同意した。
暖かい胸に抱かれて、子犬はぐっすりと眠っている。本当にまだ、
乳飲み子なのだろうなぁと思う。
﹁足が外れたら、将来歩けなくなるからな﹂
﹁はい﹂
リーザがうなずき、ようやく微笑んだ。
階下の喧騒をよそに、しばし唇を重ね合う。
先ほど飲んでいた茶の甘い香りが、リーザの唇からふわりと漂っ
た。
166
﹁ごめんなさい、私、この子犬が心配で、子供に意地悪を﹂
リーザが涙をためた目で呟いた。
もう一度小さな顔を引き寄せ、唇を重ね合う。
小さく息をつき、リーザが胸に抱いた子犬ごと華奢な体をゆだね
てきた。
その細い体を腕に抱え込み、柔らかな髪に頬をうずめる。
彼女のこの髪の感触が、たまらなく好きだ。どんな布よりも柔ら
かく、絹よりも暖かくて⋮⋮。
﹁リーザ、泣くような事じゃない。あの子はかんしゃくを起こした
だけだ。もうお前や子犬の事なんて忘れている﹂
細い背中を撫でてそう言い聞かせた。
幼くても、ものを知らなくても当たり前だ。彼女の生まれ育ちを
思えば当然のこと。
いい大人の自分が守ってやらなくてどうするのか。
﹁旦那様、この子がもうちょっと大きくなったら、あの女の子にも
抱っこさせてあげますから﹂
﹁うん﹂
リーザの譲歩を笑いながら肯定した拍子に、胸に抱かれた子犬が
目を覚まし、くうくうと甘えた泣き声を立てた。
167
幕間2
子犬が走り寄り、リーザを見上げてぴこぴこと尻尾を振っている。
雪にまみれて戻って来た、疲れ果てたおっさんの心をいやす光景
だった。
拾って一週間、子犬は一回り大きくなり、脚もしっかりしてきた。
このままなら、元気に育つだろう。
老犬のローサが、モロダス同様、この子世話も焼いている。
犬達の女王であるローサが仕切ってくれれば、この子も家で飼っ
ているそり犬の群れに受け入れられるに違いない。
﹁お帰りなさいませ﹂
リーザが笑顔で言って、子犬を抱き上げた。
﹁あの、旦那様、この子の名前を決めました!﹂
⋮⋮来た!
﹁チンデル!いかがですか?﹂
﹁シュネーにしよう﹂
我知らず全身に悪寒が走り、気づいたらそう口走っていた。
何だろう、禁断の神を呼ばう不吉な異国の言葉のように聞こえた
のだが。
リーザが可愛い唇を開いて何かを言いかけたが、言葉を重ねて強
く主張する。
﹁私はシュネーという名前を犬につけたかったんだ。その子は雌だ
ろう。雪、良い名前じゃないか﹂
﹁チンデルが可愛いです﹂
何故その名に拘るのだ!
﹁この前はお前が名付けた。今度は私が名付けたい﹂
﹁⋮⋮はぁい﹂
168
ちょっと不満げに返事をしたものの、すぐにまた笑顔になって、
リーザがフカフカの小犬に頬を寄せた。
﹁シュネーちゃん、可愛い名前ね﹂
なんだろう、すごくほっとした。すごくすごくほっとした。巨大
な災厄から間一髪で逃れた、とでもいうような感じがした⋮⋮。
﹁きゃん!﹂
シュネーが得意げな声で吠える。拾った当初はひいひいと鳴くば
かりだったのに、見違えるようにしっかりした声になってきた。リ
ーザがたっぷりと愛を注いだお陰だろう。
シュネーはぷりぷりと小柄で、可愛いらしい犬だと思う。モロダ
スより毛が白っぽく、目は緑。狼の血は薄そうだが、その分大人し
げで、やさしげな印象を受けた。
﹁そういえば母上はまだいらっしゃるのか﹂
﹁はい、もう少し滞在なさると﹂
﹁そうか﹂
母は、何をしに来たのだろう。
特に説教をするでもなく、息子にダメ出しをするでもなく、おと
なしく館でニコニコしている母が怖い。
怒っていても怒っていなくても怖いなんて。自分は一生母に頭が
上がらないのかもしれない。
﹁お食事はいかがされますか?﹂
﹁砦で皆と食べてきた、遅くなるから﹂
﹁そうですか﹂
少し残念そうにリーザが微笑む。拙い手際で甲斐甲斐しく世話を
焼いてくれる新妻の可愛さは異常だ。言葉に尽くせないほど可愛い。
冷えと疲労も吹き飛んでしまう。
そのうち、自分は彼女の尻に敷かれるのだろうか。いやそんなは
ずはない、リーザの儚げな可憐さはずっと変わらないはずだ。多分。
状況が落ち着いたら、リーザのキノコのスープを食べたい。リー
169
ザはそれ以外作れないので、そろそろ誰かが他の料理も教えてやっ
てほしいな、とは思うが。
﹁お風呂がたててあります、旦那様﹂
リーザがそう言って不器用に外套を受け取り、しずしずと廊下を
歩き出す。小さなシュネーが、尾を振って主のあとを追ってゆく。
少し離れたところに佇んでいたヴィルヘルムが、足音もなく後を
ついてきた。
完全に気配を殺している。まさに影だ。この無表情な美青年は、
一体どれほどの手練れなのだろう。国王陛下の近衛として選抜され
た、選良中の選良⋮⋮。同じ武人として、一度戦う場面を見てみた
いものだが、下手に戦ったらすぐ負けると思う。戦いぶりは見るだ
けにしておきたい。
ああ、今日も本当に忙しかった。
背伸びをして、湯殿にそのまま直行する。
適当にごしごしと体を洗い、湯船に身を沈めた。
ローゼンベルクは蒸し風呂も浴槽も普及していて、人々の冬場の
唯一の楽しみのようになっている。
だが、家の風呂より温泉がいい。またリーザと温泉でしっぽり過
ごしたい。一回入って終わりなんて悲しすぎる⋮⋮。
あまりの気持ちよさに目をつぶり、深く息を吐き出した。
⋮⋮。
眠い⋮⋮。
﹁怖い⋮⋮﹂
170
えっ? と思って動きを止めた。
気づけばリーザの細い体を組み敷いている。ローゼンベルクの冬
にはありえぬような薄物を纏っていて、体のあえかな線が透けそう
だった。
﹁あ、あの、あんまり見ないで﹂
ゴクリと息をのむ。
なんという眺めだ、なんという⋮⋮。
﹁何が怖いんだ、今更﹂
自分がそういって、ぎゅっと目をつぶるリーザに唇を押し付ける。
何かが変だ。体が勝手に動いたような気がしたのだが。
これは。
まさかこれは。
︱︱王都でおざなりに迎えた初夜の光景⋮⋮?!
かすかに唇を震わせるリーザを見下ろし、処女の振りがうまいな、
と自分が苦笑したのが分かった。
ああとんでもない事だ。悪い噂は全部嘘、リーザはすごく可愛い
うえに人見知りの処女で、自分はリーザが可愛すぎて腰が抜けるま
でやりまくってぶっ倒れて部下に笑われるんだぞ、余裕ぶってる場
合じゃないのに!
自分で﹁抱いて﹂とあっさり言ったくせに、リーザは華奢な拳を
唇に押し付けて、がたがたと震えていた。それを鼻先で笑い、自分
が上着を脱ぎ捨て、下履きの帯を緩める。
﹁寒いですか﹂
リーザの薄物をはぎ取りながら、そう尋ねた。
﹁さ、さむく、な⋮⋮﹂
農作業の手伝い、ぼろくなった城壁の修理、石畳のしき直し、兵
の訓練⋮⋮リーザの知る都会の男と違う、無駄に鍛えられた巨躯が
露わになり、リーザがひときわびくりと震えた。広い寝台に投げ捨
171
てられた花のように、嫁いできたばかりの王女様の身体は華奢だっ
た。
﹁さ、脚開いてください﹂
バカ!何その台詞!
田舎者! 自分の田舎者!
お前はもう田舎にすっこんで犬でも拾って⋮⋮。
﹁や⋮⋮怖い⋮⋮﹂
リーザがもがく蝶のように体をよじった。なんという色香、何と
いう儚さだ。絹のような淡い色の髪が敷布の上に散り、絹の布のよ
うに輝いている。
やはり続きを見たい。続きを⋮⋮してください⋮⋮!
勝手に動く自分の体に入って、自分のすることを見ている。そん
な変な夢の中、頭を掻きむしりたい気持ちで、あの夜の再現を見守
った。
﹁リーザ様﹂
華奢な両ひざに手をかけ、ふと夢の中の自分が考え込む。
やっぱりこうやってじらされたほうが可愛いな、姫様はさすがに
男遊びに狂っているという噂だけあって、じらし上手であられる、
と。
﹁じゃあ、適当にいたしますので、そのまま寝ていらして結構です﹂
ああっ、言うことが全部田舎者っぽくて嫌だ。
ごつい手を伸ばし、リーザの脚の間に無遠慮に指を差し入れる。
撃たれたようにリーザの華奢な背中が跳ね、細い足がぱたぱたと寝
台を蹴った。
﹁やだ、こわ⋮⋮﹂
﹁ははっ、何を可愛いことを仰っているんです、リーザ様﹂
172
笑った自分が、リーザの折れそうな細い手首を空いたほうの手で
つかみ、強引に口づけた。
なんかもう、無粋なクマが美しい小鳥を食おうとしているようで
胸が痛い。
だけど興奮はするので続きをもう少し見ていたい。
﹁やぁ⋮⋮指やぁ⋮⋮っ﹂
目を潤ませ、息を弾ませてリーザが叫ぶ。
しつこく弄りすぎたかな、と思ったが、イマイチ入り口が狭いよ
うに感じられた。昔から閨では即物的なのだ、田舎のおじさんなの
で許してくださいとしか言えないが。
﹁こんな狭かったら入らない﹂
おいおいずいぶんな自信だな、と思いつつ、リーザの中でゆっく
りと二本の指を広げ、じらして緩めてを繰り返す自分の行動を見守
る。なんか興奮する。すごく興奮する。
﹁いやぁぁ⋮⋮!指ダメ⋮⋮っ、ん、んっ﹂
﹁可愛い﹂
もう一度リーザに覆いかぶさって口づけし、指でもてあそびなが
ら、奥を探る。本当に狭いのだが入れて大丈夫だろうか。体のでか
さが違いすぎるからか。
﹁⋮⋮ぁ、はぁ、レオン様、怖い⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
うぶっぽい反応に、久しぶりに腹に反り返るくらいお道具が反応
した。
ま、大丈夫だろうと思い、リーザの脚の間に、先端をあてがう。
リーザが怯えたように身を竦め﹁ダメ﹂とつぶやいた。
﹁脚を開いて﹂
﹁や、やなの⋮⋮っ﹂
﹁仕方のない方だ﹂
173
がたがた震えている細い柔らかい脚を、有無を言わさず開いた。
そしてそのまま、ゆっくりお道具を沈める。
﹁−−−−−−ッ!﹂
両手で唇を抑えたリーザが、激しく体をねじって、自分の身体か
ら逃れようと暴れた。
⋮⋮あれ、様子がおかしい?
そこではじめて、どうもこの反応、慣れた女のものじゃない、と
気づく。
﹁⋮⋮やぁ、いたい⋮⋮こわいッ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無理やり中途半端につながった状態で、硬直した。
全身に汗をかき、涙をボロボロ流している﹃アバズレ姫様﹄の髪
をそっとかき上げる。
﹁あの﹂
﹁な、に⋮⋮﹂
リーザの長い睫には、たくさんの涙が溜まっていた。それが夜の
淡い光の中でキラキラと光っている。
﹁リーザ様は、あのー、こ、こういうの初めてですか?﹂
間抜けな質問、間抜けな質問だ、間抜けな質問すぎて泣ける⋮⋮。
﹁あ、あたりまえ、王家の娘は嫁ぐまで乙女﹂
嫁いできたばかりのころの、そっけない口調でリーザが言った。
可愛い顔を精一杯怖くして、自分をにらみつけている。
﹁そ、そうなんですね﹂
﹁そう、あたり、まえ⋮⋮﹂
長い長い静寂の後、すさまじい感動が襲ってきた。
男はバカだ。こうして客観的に初夜を追体験した今、つくづくと
174
そう思う。
﹁大変失礼しました、リーザ様、お力をお抜きください﹂
いきなり優しくなったバカが、美女に覆いかぶさってそう言った。
﹁む、り⋮⋮﹂
﹁大丈夫﹂
小さな蕾のあたりをそっと指で嬲ると、リーザの半身から力が一
瞬抜けた。ズルリと音を立てて、お道具が呑み込まれる。
﹁ンっ⋮⋮やぁ!むりぃっ、んん⋮⋮っ!﹂
リーザがぎゅうっと目をつぶり、涙を流して自分の肩にしがみつ
く。
肩で荒い息をして、そのまま豊かな胸を押し付けてきた。
﹁そんなに痛い?﹂
恐る恐る尋ねると、リーザが蚊の鳴くような声で答えた。淡い花
のような紫の瞳がうるんで、自分の顔を映し出している。
﹁ん、だいじょうぶ⋮⋮でもおっきい⋮⋮﹂
ああなんていい夢なんだろう、リーザ可愛い。なんでこんなに可
愛いんだろう。ぼけーっと愛らしくも淫蕩な姿に見とれていたら、
風呂の戸をドンドン叩く音で目が覚めた。
﹁レオン、あなたお風呂で寝たら死にますよ﹂
母の氷のような声でばっちり目が空いた。
最悪な目覚めなのだが。まさに天国から地獄だ。
どうやら自分は、風呂に浸かりっぱなしのまま、寝てしまったら
しい。
﹁レオン、聞いていますか﹂
﹁はい!﹂
最高にいいところだったのに。
175
あそこから動いて責め立てて泣いて泣かせて、初めて夫婦として
結ばれるという夢のような場面が待っていたのに。
﹁のぼせますよ。早く出なさい﹂
﹁はい、出ます﹂
﹁気を付けるように﹂
扉の向こうで母が言い、しずしずと去ってゆく気配がした。
⋮⋮⋮⋮。
母上はいつ帰るんだろう。
そもそも何のためにローゼンベルクに滞在しているのだろうか。
そう思いつつ、内心期待してお道具の様子を確かめる。
ピクリとも反応していなくて、とてもがっかりした。すごい夢だ
ったのに。
もうこのまま、役立たずキノコを生やすだけの犬拾いおじさんな
のだろうか、自分は⋮⋮。
176
20
﹁リーザ﹂
﹁はぁい﹂
リーザが機嫌よく返事をして、足元でもこもこしている子犬を膝
に抱き上げた。
菓子を食いあきて、犬と遊ぼうと思ったのだろう。
まあいいんだが。
夫婦の事に口を出す気はないのだが。
リーザがあまりにも﹃ただ遊んでいるだけ﹄なので、多少は嫁っ
ぽい事をしたほうがいいのではないかと、自分のほうが焦り始めて
いる。認めよう。自分は細かいうえに貧乏性で、童貞であることも
頷けるような小さな器の男だ。
﹁はぁいじゃない、お前、家のこと本当に何もしなくていいのか﹂
﹁うーん、おとなしくしていろって言われてるから⋮⋮﹂
リーザがぼんやりと言葉を濁す。
﹁新婚だろう、閣下の夜食くらいつくったらどうだ?﹂
﹁きのうもおとといも、要らないって言われたから止めておくわ﹂
王家も将軍閣下も、彼女に難しい事を頼む気がないのは承知の上
だが、何というかあまりにも⋮⋮。
リーザが王宮にいたころの、兄上に幽閉されるほどの気性の激し
さも忘れたように、毎日ぼんやり庭の犬を見てニコニコしているだ
なので、だんだん不安になって来た。
﹁ボケるぞ、お前﹂
﹁大丈夫﹂
愛らしい笑顔でそう言い、赤い舌で頬を舐める子犬にリーザが微
177
笑みかけた。
昔から動物好きなのは変わらない。手がかかる弱い子犬を溺愛し
ているようだ。
﹁大丈夫じゃない。大人しくするにも限度があるだろ。下働きの皆
に声をかけたりとか、旦那の服を仕立てる勉強をするとか、夜食の
準備とか⋮⋮なあお前、キノコ汁しか作ってないだろ、やる気ある
のかよ﹂
﹁やる気⋮⋮?﹂
リーザが首を傾げる。
大人しい、聞き分けの良い子供のような表情だった。
長い長い片思いがかなって、緊張の糸が切れたのだろうか。
だんだん心配になって来た。
新しい暮らしになれないから大人しくしている、という次元を超
えているように思えるのだが。
﹁そうね、さぼりすぎたかも。爆弾作ろうかな!﹂
﹁そういうやる気じゃない﹂
﹁爆弾を作ったら旦那様の開墾作業も楽になるもの。役に立ちたい
⋮⋮そうだ、ヴィル、明日一緒に市場に行きましょう?﹂
旦那様の役に立ちたい、か。
胸が痛い。痛みが全く緩和されないのだが、恋っていつかは完全
に忘れられるものなのだろうか。
﹁あのな、爆弾作りは禁止だ、閣下に言われた事を忘れたのか。お
前、王宮でもあんな大騒動起こしておいて、どの面下げて⋮⋮リー
ザ?﹂
不意に、今までふつうに会話をしていたリーザが、うとうとと舟
をこぎ始めた。
子犬を膝に置き、人形のようにぱたりと長椅子の背もたれに身を
投げ出す。
178
﹁おいリーザ、人の話の途中で寝るな﹂
﹁眠い⋮⋮﹂
そのまま大きな目を閉じ、かく、と頭を落として寝息をたてはじ
める。
﹁⋮⋮ったく﹂
子犬を抱き上げて床に下ろし、リーザの身体を長椅子に横たえ直
して毛布を掛けた。
﹁おい、飽きたら兄上に手紙を書けよ! お前何通手紙をためてる
んだ、せめて封くらい切れよ!﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
リーザはむにゃむにゃと返事をし、そのままスヤスヤと寝入って
しまった。
﹁おい、手紙、聞いてるのか。あと姉上方にお祝いのお返しもしな
いと、お前ちゃんとしたのか、リーザ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
完全に眠っていて、反応すらしない。
正妃様はともかくとして、正妃様の腹の姉上方は別にリーザを憎
んでいない。正妃様も、側妃の娘への嫉妬を娘たちに見せることだ
けは必死に我慢していた。そのおかげで、姉妹の中はさらっとした
ものだ。
それは唯一、正妃様に感謝すべきことだろう⋮⋮。
だからこそ、姉上方は皆、妹へ結婚の祝いを色々と贈って下さっ
たではないか。
なのにリーザは包みも解いていない。
この国では一般に、家族の女性が花嫁になるときは、高級な布や
宝石を送る。嫁ぎ先で不自由しないようにという意味を込めて。
179
だから腐るような生ものはないはずだが。
何で自分はこんなに細かくて口うるさいのだろう。
護衛官より主婦に向いているのではないか。
それにしてもリーザは気を抜きすぎだ。子供か、と思う。
閉じ込められる暮らしから解放されて、気が緩んでいるのだと思
いたいけれど⋮⋮。
﹁俺が手紙代筆するぞ! ずっと待たせてたら陛下も姉上方も心配
されるし気を悪くされる! 分かったかリーザ!﹂
リーザは返事をせず、眠りこけている。たぶんやる気がないのだ
ろ、夜のお勤め以外は。
そう思うとちょっと興奮する。
⋮⋮⋮⋮。
いや、しない。
間違えた。
興奮などしない。
同じく眠った子犬をリーザの腹に乗せ、自室へ向かう。
奥方は、閣下の弟御のお宅へ、夕食に招かれてお出かけされた。
家には使用人と執事がいるが、彼らはいつも静かなものだ。
雪の降りこめる独特の冷えた重たい気配が、廊下の窓の外からし
んしんと伝わってくる。
﹁⋮⋮?﹂
ふと、勝手に体が動きを止めた。
今何か、違和感を感じた。
目を凝らす。
暗い庭に人影が見えた。
180
腰の剣の鞘が固定されていることを確認し、そっと壁に身を寄せ、
目を凝らした。
何人かが、庭にばらばらに居る。
また、襲撃か。気温の下がる夜なのにご苦労なことだ。
ゆっくりと廊下の窓を横切り、何も気づかなかったようにそこを
通り過ぎて、廊下の突き当たりの勝手口まで走った。
今出るべきか。
だが、明るい場所から暗い場所へ飛び込むのは、賊にすべての有
利な権利を与えるのと同じだ。
夜襲対応の基本は、徹底して気配を絶つこと、闇の利を、光の利
を利用しきること、長時間の活動においても息を上げない事、即時
の判断で急所のみを狙って仕留めること、退路を確保できない場合
は行動に出ない事だ。
この場合どれも満たしていない。
難しい。家から出るのは愚策、だが、手をこまねいて襲撃を待つ
のも愚策だ。
﹁そうか、そうだな﹂
考えて、しっかりと勝手口の錠をおろし、持ち前の馬鹿力に任せ
て近くの客間から大きな鏡台を引きずり出し、扉に突っかかるよう
な角度で置いた。これで扉を外さぬ限り、外からは開けられない。
日光浴の為のガラス張りの部屋は運よく修理中で、分厚い木で保
護され、壁と同じ状態だ。
あとは、玄関。
かんぬきを掛けた玄関は破れないだろう。
各客間には大きな窓があるが、客間から居間へは同じ廊下を使わ
ないといけない。
居間と廊下をつなぐ扉を、居間の側から閂を掛けた。
おそらく、裏口の戸は使用人の便利を考えて、作らないわけには
181
ゆかぬ扉なのだろう。賊がそこを狙うことは当然のこととして、中
継点であるここに閂付きの分厚い扉を設けたのだ。⋮⋮ここは、確
保した。
続いて、居間の鎧戸をおろし、それを内側から施錠する。
籠城準備はこれで完了だ。
これで外部から侵入する術は絶たれたはず。火器でも使われない
限り、多少の時間は持ちこたえるはずだ。
廊下を駆け抜け、台所に立つ執事に言う。
﹁皆、前の場所に避難してくれ、庭に賊がいる。鎧戸をおろし、居
間と廊下の境の扉を閉じた﹂
﹁⋮⋮かしこまりました﹂
何も聞き返さず、執事が台所を駆け出してゆく。使用人たちもそ
れに従った。
あとはリーザだ。
一番たくましい身体の使用人に、病的なくらいに眠りこけている
リーザを抱いて連れてゆくよう頼む。
使用人が﹁奥様、奥様失礼します!﹂と話しかけ、彼女を軽々と
抱き上げるのを確認した。
自分は、自室に戻って弩を取り、あらんかぎりの矢をかき集める。
それから一番身動きのしやすい、毛皮を裏打ちした外套を着こみ、
のど元に分厚い布をぐるぐると巻く。矢から頸動脈を守り、保温す
る。首も固定されて狙いがつけやすく一石三鳥だ。
一階の灯りを消して回り、二階に上がった。二階も念入りに灯り
を消して回る。
館の異変を知らせ、外部の賊の動きを誘う。
今宵も異常な寒さだ。長い時間はかけられない。
弩を構え、剣を握る手には薄皮の手袋しかはめられない。そのう
182
ち冷えでまともに動かせなくなる。
ここの寒さに慣れていない自分はなおさらだ。
封鎖した裏口を破られる前に、賊を恐慌状態に陥れて、寒さで体
力を奪われるよう仕向ける。
そう決めて、裏口の見える露台にそっと滑り出た。
﹁灯りが消えたぞ! 気づかれてる! 裏口まだか﹂
押し殺したような声が飛ぶ。
目を凝らすと、何人かの人影が裏口に体当たりしているのが見え
た。
寒さが限界なのだ。突入をあせっている。
﹁何かがつっかえていて扉が押せない﹂
﹁他の入り口!﹂
誰かが走っていく。雪に慣れない動きだ。
この前の賊と同じで、ローゼンベルクや北の部族の人間ではない
ように感じる。
広い館の周りを走り回って気の毒だが、他の入り口はない。そこ
を破らねば無理だ。
無駄に体力を消耗すればいい。
﹁どこも開きません! 客間から侵入を試みましたが⋮⋮﹂
﹁撤退の余力を残さなければ﹂
何かを話し合う声が聞こえた。
撤退の余力ということは、歩いてのこのこ来たのか。寒さを甘く
見たのかもしれない。
﹁だめだ、一度戻るぞ﹂
﹁ですが、あのミラドナを何としても⋮⋮﹂
183
﹁今は無理だ! くそ、なんて寒さだ、ド田舎め﹂
⋮⋮ミラドナ?
聞こえたのは、大奥様の名だ。
かすかに眉を上げた瞬間、よたよたと何人かが走り去る姿が見え
た。
﹁ふん⋮⋮﹂
自分の格好を確かめる。日ごろから黒装束を徹底していて良かっ
た。閣下から譲り受けた外套も、表布を黒に変えてもらった。
身なりを改めるとすぐに、雪をかき集めた山の上に飛び降りる。
賊たちが足を止めたが、動かず雪の山の影に蹲った。
﹁何の音だ﹂
﹁木から雪が落ちたんだろう﹂
﹁早くしろ﹂
しばらく身をひそめ、雪の山を掻き分けて這い出す。
少し考え、腰の剣の留金を外した。指が凍えたときにはずせなく
なる可能性があるからだ。
︱︱この剣さえあれば、最悪の事態でも何とか切り抜けられるだ
ろう⋮⋮。
気配を殺して、足跡をたどる。
あいつらを追い、隠れ家を突き止めて戻ろう。
賊の狙いはミラドナ・ローゼンベルク。
目的の見えない滞在を続ける、閣下の母君だ。
184
21
﹁陛下、御前会議が⋮⋮﹂
事務官の声に、ジュリアスは振り返った。
彼が覗いていた庭には、国宝だった大噴水の跡がある。
﹃妹姫のリーザ様が、爆弾の実験をして破壊したもの﹄だ。
彼はすぐに明るく親し気な笑みを浮かべ、露台から戻って来た。
﹁行こうか、皆を待たせてしまったかな﹂
白い手袋をはめたままの手で襟を直し、一瞬真顔になって鏡の向
こうのおのれの姿を確かめる。
ジュリアスは明るく気さくで気遣いもある反面、非常に神経質な
ところがあり、服装の乱れをひどく嫌う。
妹姫がいたころは、汚れた服や乱れた髪を飽きもせずに叱り続け
ていた。
﹁そういえば、陛下﹂
貴族の出である事務官は、国王に話しかけることを立場上許され
ている。
屈託のない声で、彼は若い美貌の王に語り掛けた。
﹁リーザ姫様のお部屋、手付かずですね。嫁ぎ先に﹃あれら﹄は持
って行かれなかったのですか﹂
事務官の言葉に、国王が笑顔でうなずく。
﹁嫁がせるにあたって、心を入れ替えさせたんだ。国王としては、
ローゼンベルクに爆弾魔を解き放つわけにはいない﹂
﹁はは﹂
国王の当意即妙な言葉に、事務官は控えめな笑い声を上げた。
185
﹁さようでございますね、陛下のご判断に賛同いたします﹂
﹁レオンハルトは妹を可愛がってくれているようだ。あの子も大人
しい、普通の人妻になるだろう、それでいい﹂
﹁ええ、仰る通りです。あれだけお美しい姫様なのですから、それ
が良うございますよ﹂
事務官の相槌に、ジュリアスは小さく微笑む。
﹁女は愛嬌だ。暖かな家庭を守り、外で戦って戻って来た男を安ら
がせてほしい、そういうものだろう﹂
﹁ええ﹂
新婚の事務官が、自分の愛妻を思い出したように、幸せそうな笑
顔でうなずく。
その表情を見て、ジュリアスが冗談めかした口調で言った。
﹁多忙で妻帯もままならない国王の前で惚気るとは、いい度胸だ。
お祝いに仕事を増やしてあげよう、おめでとう﹂
﹃お前ならどうする﹄
兄が、皆には見せない冷たい表情で言う。
﹃何を?﹄
﹃これだ、さっき説明しただろう﹄
顔を顰める兄が指さすものを、恐る恐る覗き込んだ。
﹃危ないものだわ﹄
﹃それはわかっている、これを作り出した博士でも完全な制御は出
186
来なかった。理論上は可能なはずなのだが﹄
少し考え、兄の問いに答えようと口を開く。
でも、ダメだ、頭がしびれる。
﹃あれ、ごめんなさい、わたし、なんか、頭が⋮⋮﹄
自分の頭なのに、全く働かない。ふわふわと浮いている雲をつか
んでいるように感じる。
ずっと、北の大地で苦労をされているというレオンハルト様の役
に立ちたくて、爆弾の研究をしてきた。
だからこそ、その研究の成果で得た内容を、兄に教えようと思っ
たのに。
何故だろう、思い出せない。
兄の冷たい紫紺の瞳を見つめ返し﹃わかりません、ごめんなさい﹄
と謝った。
﹃そうか﹄
失望したように首を振る兄の姿が、銀色の髪の巫女に変わる。
金の髪の兄が、銀の髪の女性に⋮⋮。あまりのことに恐怖を覚え、
体を引いた。
﹃お兄様?!﹄
﹃ご結婚おめでとうございます、リーザ様﹄
結婚⋮⋮?
首を振る。自分は結婚などしていない。
慌ててあたりを見回した。いつもの兄の執務室ではない。
ここはどこだろう。ごつごつした石壁に、古びた木の扉。
冷えて籠ったような、しんしんとした気配が自分を取り巻いてい
る。
187
﹃王都の兄上は、きっとリーザ様のお幸せを祈っておいでです、短
き王としての未来をかけて、兄上は⋮⋮﹄
銀の髪の巫女が、感情を感じさせない、氷のような声で言った。
﹃な、何⋮⋮? お兄様はどちらに行かれたの﹄
﹃リーザ様は、兄上様のことを気にされなくて結構です、貴方は平
凡な奥様になられ、このローゼンベルクの地に幸福に埋もれる定め﹄
不思議な光を放つ瞳が、頭に焼き付いた。じりじりと、頭の中が
銀色に染まってゆく⋮⋮。
もう一度辺りを見回す。兄の姿がない。
大公家に嫁がされるのは嫌だ。
自分は浮気をする男は許せない、父のように、いろんな女性を不
幸にする男は。
ここはどこなのだろう、兄はどこにいたのだろう。
︱︱いつも嫌いと言ったけれど、自分は兄を憎んでなどいない。
ただ一人の保護者だから兄に甘えていただけで、決して憎んでな
んかいない。
どうして離れる前に仲直りを⋮⋮。
﹁リーザ!﹂
188
頬を軽くたたかれ、目を開けた。
きゃんきゃん鳴く子犬の声が聞こえる。
体が水を吸った綿のように重たい。
﹁リーザ、どうしたんだ、しっかりしなさい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
自分を抱きかかえる人を見上げた。
大きい人だ。誰だっけ、と思う。
自分の心配をしてくれる男のひとなんて、お兄様とヴィルくらい
しかいないのだが、あの二人よりはるかにがっしりしている。
きれいな目だ。北の海を切り取ったような、澄んだ水色の目。そ
れに輝く銀の髪⋮⋮。
﹁名前を言ってご覧﹂
男の人にそう言われて、ちょっと考えて答えた。
﹁リーザ、です﹂
﹁じゃあ、私の名前は﹂
そう聞かれて、我に返った。
﹁だんなさま!﹂
お仕事から戻られたのに、眠りこけていたようだ。
旦那様の腕にすがって体を起こし、その足元をちょろちょろして
いるシュネーを抱き上げた。
﹁ごめんなさい! うたた寝していました﹂
﹁リーザ⋮⋮﹂
心からほっとしたように旦那様が言い、分厚い胸に抱きしめてく
れた。
﹁名を呼んでも目をあけないと皆が言うから、どれだけ心配したか。
私だって、随分長い間お前を呼んでいたのに﹂
旦那様の声は苦しげだった。目には、かすかに涙が浮いている。
﹁そんな⋮⋮﹂
189
なんといっていいのかわからず、シュネーを抱いたまま旦那様に
身を寄せ、謝罪の言葉を口にした。
﹁ごめんなさい、ご心配をおかけしました﹂
﹁気分は悪くないか﹂
﹁はい﹂
﹁前もこんな風に倒れた事があったな、明日、医師に見てもらおう、
リーザ﹂
﹁大丈夫、お医者は嫌いです⋮⋮﹂
﹁ダメだ﹂
強い口調で言われ、思わずひるんで﹁わかりました﹂と返事をす
る。ニコニコやさしい顔をしていないときの旦那様は、とても素敵
だけれども迫力がありすぎる。
﹁お前に何かあったら、私は正気でいられない。最近自分の体調や
仕事の事ばかりでお前を顧みていなかった、済まない﹂
﹁旦那様⋮⋮﹂
本当に辛そうに、旦那様がおっしゃった。人にこんなに心配して
もらえたことが、今まであっただろうか。涙が滲み、旦那様の広い
肩に言葉もなくしがみ付く。
﹁心配をお掛けして、ごめんなさい﹂
体を寄せて唇を重ね合ったあと、旦那様が寝台の毛布をめくりあ
げ、﹁シュネーと寝ていなさい﹂と仰った。
﹁旦那さま、またお出かけされるの﹂
﹁ヴィルヘルム君がいない、捜索に行く。とにかくお前は今夜は、
寝室から出てはいけない﹂
厳しい口調でそう言われ、驚いて旦那様を見つめた。
﹁ヴィルがいない?﹂
﹁すぐに連れ戻してくるから、いいな、頼んだぞ﹂
190
﹁はい﹂
旦那様のたくましい背を見送り、ギュッと毛布を掴んだ。
眠ってしまったシュネーの背中を無意識に撫でる。
ヴィルが勝手にお出かけしたのだろうか?
彼は、仕事中にそんな事をするような子ではないのに、不安だ。
いったい何が起きているのだろう⋮⋮?
191
22
ああ、怖かった。
毎日元気でニコニコしているのが当然だと思っていたリーザが、
ゆすっても顔を叩いても目をあけず、腕の中で一時間近くぐったり
していたことを思い出し、鳥肌の立った腕をごしごしこすった。
温泉に連れて行った時も突然倒れたし、脳に血腫でもできていた
らどうしよう。
⋮⋮。
自分の想像に泣きそうになる。
あんなに若くて、子供もいず、まだ何もいい思いをしていないリ
ーザが病かもしれないなんて。
最近、自分の情けない事情ばかり考えていて、本当にリーザに気
を配っていなかったことが悔やまれた。
﹁閣下、足跡が残っています﹂
屋敷の襲撃の話を知らせたと同時に駆けつけてきたヘルマンが、
そういって身をかがめて雪の様子を探る。
慌てて情けない表情を引き締め、心を鬼にして愛妻の事を脳裏か
ら切り離した。
しっかりしなくては。
二度も襲われた。この屋敷を放棄し、別の場所に退避する必要が
あるかもしれない。
リーザを王都に返すことも検討しなければ⋮⋮。
﹁靴が全部新品ですね、雪踏みの鋲がまだ新しい靴ばかりだ﹂
こちらの目をくらますためにそうしたのかもしれないが、冬靴は
硬く、足に馴れるのに時間がかかる。
わざわざ新品を下ろし、こちらの人間でないことを偽装する益は
192
無いように思う。おそらく下手人は、ローゼンベルクのものではな
い、それが答えだ。
﹁下の道に出た後の経路がたどれればいいが⋮⋮﹂
屋敷の下を通る道は、人通りが多い。足跡が混じってしまい、賊
の形跡は辿れないかもしれない。
ヴィルヘルムは単身で追跡したのだろうか。争った形跡はなく、
拉致されたのではなさそうだ。
彼の事だ、もしかしたら手掛かりを残しているかもしれない⋮⋮。
﹁閣下﹂
ヘルマンが指さす、道のわきによけられた雪の塊に目をやった。
銀色の短めの矢が突き立ててある。手帳のようなものから千切り取
った紙が巻かれ、中には⋮⋮。
﹁リーザ様のお顔ですね﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
見事な絵だった。
一息に描きあげたのであろう生き生きした線が、愛する妻の笑顔
をはっきりと浮かび上がらせている。
﹁ヴィルヘルム殿の描かれたものでしょうか?﹂
ヘルマンの問いにうなずき、紙だけを折りたたんで懐に仕舞った。
敢えて名前や手掛かりを記さずに、ここに矢を刺した主が誰かを知
らせている。仕事が確実で、一つも間違いのない男だ。ヴィルヘル
ムの才能に、改めて驚嘆させられた。
それにしてもこの美しいリーザの絵、何という笑顔だろう。描き
手の情愛までが、その線に滲んでいるようだ。
しかし、そのことについて考えるのは止めよう、彼の心の内まで
間詮索する権利は、自分にはない。そう思った。
﹁リーザが、ヴィルヘルム君は絵がとても上手だと良く言っていた。
193
彼だと思う。おそらくこの矢を目印について来いということだろう﹂
﹁あ、お待ちください、一応これを﹂
ヘルマンが、雪かき用に置いてあった長い箒を手に取った。
﹁これは柄が金属で丈夫です、長い武器があったほうがよろしいで
しょう﹂
﹁そうだな﹂
自分たちは格好いい武器で戦うことがあまりないのだが、オシャ
レな都会者のヴィルヘルムに笑われないといいなと思う。
ちなみに自分は、下手人を生かしてとらえたいので﹃さすまた﹄
トライデント
を持ってきた⋮⋮。
愛用の鉾は砦に置いてきてしまったし⋮⋮。
あれ、もしかしてやりすぎたかな、随分弱いなと思いながら、最
後の賊の鳩尾に膝蹴りをたたき込んだ。
宿の親父が悲鳴を上げて腰を抜かし、宿泊客たちが遠巻きに玄関
から覗き込んでいる。
︱︱それにしても、宿が根城とは。ぬるい賊だ。
﹁縄﹂
﹁ひえええええええ﹂
﹁縄をくれ﹂
﹁あ、あ、あ、ひえええ﹂
宿の親父が床を這うようにして転がり出ていく。
194
あれは逃げただけだ。縄は持ってこないだろう。
ああ、剣を使わずに済んでよかった。異国のこの武器は斬撃専用
で、使えば殺してしまう。
コレの使い方をみっちり伝授してくれた父からは﹃決して抜くな、
無用な人殺しになってくれるな﹄と言われたが、それならそんな物
騒な武器の使い方を息子に叩き込むなと言い返したいところだ。
こっちに被害者が出ていないのに、相手にだけ全滅の憂き目を見
せるのも躊躇われたので、とりあえず全員、ぶんなぐって蹴り飛ば
して締め落として、気絶させた。5人とも死んではいない。目が覚
めたら半月ほどのたうち回るくらいで済むケガだ。
﹁ったく、縄、どこだ﹂
人々を押しのけて、その辺の物置でも漁らせてもらおうとした瞬
間、銀髪の巨漢二人が立ちはだかったので足を止めた。
﹁ヴィルヘルム君!﹂
﹁はい﹂
レオンハルト閣下と、見た事のない若い男だった。
つくづく眺める。自分より一回りたくましいのは間違いない⋮⋮。
北国の男は体格が良くてうらやましい。
﹁無事か?! 賊と一緒に姿が見えなくなったと執事に聞いて、探
しに来た﹂
﹁将軍閣下が自ら来ずとも﹂
﹁何を言うんだ、緊急事態だろう﹂
﹁そうですか﹂
⋮⋮危ないのに。
貴族らしくない、良く分からん御仁だ。
195
しかも二人とも何を持っているのか。
先のほうに良く分からん輪を輪切りにしたような部品の付いた棒
と、雪をガリガリ掻ける頑丈そうな箒に見えるのだが⋮⋮。
﹁下手人は取り逃がしたのか?!﹂
若い男が言うので、首を振った。
﹁宿に転がしてあります。縄を探してくるので見張りを頼みます。
それから、襲撃の狙いは大奥様だということまで分かりました﹂
﹁なんだって!﹂
宿に飛び込んでいく若い男にあとを任せ、縄を探しに庭に出た。
鎖でもいい、なんでもいい。何か巻くものはないだろうか。
捕り物劇というか、一方的な自分の大暴れを見守っていた人々が
ついてくる。
足を止めると、彼らも同時に止まった。
﹁おい、誰か、縄ないか﹂
そう声をかけると、男の一人が大声で言った。
﹁思いついたんだ、生垣に、菰を巻いてる縄があるだろ、それ使え
ばいいよ、外すのを手伝おう、おいみんな、菰の縄を外そう!﹂
﹁あ、ああそうだな、いい考えだ﹂
﹁外すぞ。今夜は降らないだろ、雪は﹂
どうやら地元民の知恵で助けてくれるらしい。ありがたい事だと
思い、その男の提案に従うことにした。
外は、本当に寒い⋮⋮。
視線を感じて振り返ると、将軍閣下が、何を考えているのかわか
らない、冷ややかな顔で自分を見つめていた。
本当に黙っていると迫力がありすぎる。リーザとお話をされてい
る姿などは、気さくでおおらかに感じることもあるのだが⋮⋮。
196
それにしても、将軍閣下は目の力が尋常ではない。
視線が強すぎ、値踏みされているようで居心地が悪い。
間が持たないので会釈をし、菰の縄外しに手を貸した。
リーザは、膝の上でスヤスヤ眠っているシュネーをそっと撫でた。
とても小さいので、まだまだ外には出せないな、と思う。お昼に
はいつも、お兄さんのモロダスと楽しそうに遊んでいるので、他の
犬達と暮らさせてあげたいのだけれど⋮⋮。
﹁みんな、どうしちゃったのかなぁ。ねぇ、シュネーちゃん﹂
さっき執事さんが部屋を覗きに来て、﹁そのままお休みください
ね﹂と言ったので、大人しく横になってはいる。
でも誰も帰ってこない。
ヴィルは、どこへ行ったのだろう。それに旦那様は、お疲れなの
にまた出かけて行って大丈夫だろうか。
﹁⋮⋮なんかさっき、変な夢を見たわ﹂
呟いた瞬間、不安になった。
兄の夢だ。
兄の事なんかすっかり忘れて楽しく暮らしていたが、なんだか落
ち着かなくなり、そっと寝台を抜け出した。
隣の自分の小部屋に滑り込み、突っ込んでいた紙の束を取り出す。
王都から届いた兄の手紙⋮⋮。
そういえば、うたた寝してしまう前に、ヴィルがしつこく言って
いた気がする。
197
お兄様に返事を出せと。
それから、お姉様たちからの贈り物も開けて、お礼をしろって。
当たり前のことなのだが、なんとなく後回しにしていた。何故だ
ろう。おざなりにしていたのは、旦那様と過ごす時間が楽しすぎた
から⋮⋮なのだろうか。
﹁⋮⋮⋮⋮お兄様﹂
兄からの手紙は、五通もたまっていた。
ヴィルが来ることも怪我をなさったことも、身の危険に備えろと
いう注意書きも、全部書いてある。
ちゃんと読まなかっただけだ、自分が。
それから、どの手紙にも、お菓子ばかり食べないように、髪を梳
かして結ぶように、服装を整えるように書いてある。お前は行動が
突拍子もないので、何か心配事があったら勝手な行動をせず、周り
に相談してから動くように、とも。
たくさん、たくさんの、いつものお小言だ。
白い紙の上で踊る流麗な文字を追っていると、不意に、兄が側に
いるように感じられて涙が出た。
﹁お兄様﹂
ヴィルの言うとおりだ。何故、こんなに心配している兄に、一度
も返事を書かなかったのだろう。
自分の便りは、適当に書いてセルマさんに渡した、あの一枚だけ
だ。
喧嘩ばかりとはいえ、なんてひどい妹だったのだろう。
ひどい妹だ、そう、迷惑をかけた、お兄様に、あの事件で大変な
恥をかかせて。
198
⋮⋮⋮⋮。
不意に眠気を感じ、壁にもたれかかる。
もしかしたら、寝ているうちに何か薬を飲まされたのかもしれな
い。そんな病的な眠気だった。
耐えられなくなり、椅子に腰かけて、そのまま鏡台に突っ伏した。
眠い⋮⋮。
199
23
﹁リーザ﹂
肩をゆすられて、目を開けた。
いつの間に寝ていたのだろう。
この部屋は暖かいので、風邪をひかずに済んだけれど⋮⋮。
気づけば、シュネーも旦那様の足元でぴこぴこと尻尾を振ってい
る。
﹁どうしたんだ、寝ていろと言ったのに⋮⋮シュネーが教えてくれ
なければ、頭を掻きむしりながら探し回るところだった﹂
旦那様だ。額に汗を浮かべている。
とても心配をかけたのだと分かり、胸が痛んだ。
自分はここに何をしに来たんだろう?
大量の手紙を引っ張り出していたことに気づき、鏡台の引き出し
に押し込んだ。
何かをしようとした気がするのだが、思い出せない⋮⋮。
疲れているのかもしれない。明日の朝考えよう。
いつの間にか鏡台にもたれて眠っていたようだ。
﹁ごめんなさい﹂
﹁さ、もう誰も起きていないよ、ヴィルヘルム君も見つかった。お
前も休みなさい。私は風呂で汗を流してくる。明日はお前を医者に
見せなければな﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
うなずき、お部屋から出てゆく旦那様を見送った。
⋮⋮⋮⋮。
200
誰も起きていない⋮⋮と、いうことは。
﹁そうだ!﹂
その言葉でいい事を思いついた。
お風呂へ向かう旦那様の背中が見えなくなったことを確認し、シ
ュネーを、寝かせる時用の柵に入れた。
それから、自分と旦那様の着替えをもって後を追う。
久しぶりにいっしょに入り、お背中を流して差し上げよう。
そっとお風呂の様子を伺うと、はぁ、という重苦しいため息が聞
こえた。
倒れられて以降、旦那様はため息ばかりついているし、大きな声
では言えないが何もせずに眠ってしまう。
ずっと仲良しだったのに、さっさと寝なさいと言ってぐうぐう寝
てしまうのだ。
さすがに最近寂しくなってきた。
旦那様と自分の服を棚に置き、脱衣所の内鍵をかける。
それから、そーっと服を脱ぎ、体を洗う布で胸のあたりを隠して、
扉を開けた。
﹁わっ!﹂
﹁!﹂
浴槽でぐんにゃりなさっていた旦那様のけわしい目元が、自分を
見てまん丸くなった。
口もぽかんと開いている。驚きの表情に、思わず吹き出す。
﹁ふふ﹂
旦那様に微笑みかけた後、さっさと体を洗って、まだ口をあけて
いる旦那様と同じお風呂に浸かって、ぎゅっと抱き着いた。
久しぶりの感触だ。旦那様の肌の感じ。すごく安心する。
﹁びっくりしてらっしゃるのね!﹂
﹁あ、ああ﹂
201
旦那様がざぶざぶとお湯で顔を洗った。
﹁あ、上がろうかな、もう﹂
﹁まだ体が冷たいのに﹂
そういって、広い肩に頭を乗せた。
本当に、旦那様が大好きだ。
とても強面で威厳があるのに、実際は子犬にも自分にも優しいと
ころとか、部屋にゴミが落ちてるとずっと拾って回っているような
ところとか、庭の樹を自分で切って整えたりしているところとか、
意外性があってすごく好きだ。
﹁いやいや、もう上がる。のぼせたような気がする﹂
﹁全然ですよ、顔も赤くないです、一緒にあったまったらお背中も
流しますから﹂
体に巻いた布がぷかぷか浮いてくるので、外して浴槽の縁に置い
て、もう一度旦那様の腕にしがみつく。
一糸まとわぬ姿だが、夫婦なので恥ずかしくない。
︱︱と思う。
﹁ああ、広いお風呂でよかったぁ。みんなが寝ている時間なら、こ
うやって一緒に入れますね﹂
﹁ま、まあ、そうだな、そろそろ出ようかな﹂
﹁もう⋮⋮ダメ﹂
立ち上がった旦那様の背中にしがみつき、ちょっと怖い顔で言っ
た。
﹁どうせお体をちゃんと洗ってないでしょう、私が洗いますから﹂
そういって旦那様を座らせ、泡を立てて背中をこすった。旦那様
はお疲れなのか、されるがままに大人しくなさっている。
﹁旦那様﹂
﹁何?﹂
202
﹁いつもお仕事お疲れ様です﹂
﹁あ、ああ、うん⋮⋮﹂
旦那様の広い背中を洗いながらしみじみ思う。この人と結婚でき
て幸せだなぁ、と。愛人のいる美男子でお金持ちの大公様なんかよ
り、ずーっとずーっと素敵だ。本当に大好きだ。
そう思いながら、しみじみと旦那様の背中に抱き付いた。
やっぱり肌に触れていると安心するし、心が伝わるような気がす
る。
と、その時。
﹁なんか、すまんな﹂
こちらを振り返らず、旦那様が暗い声で言った。
﹁え?﹂
顔を覗き込んだが、背けられる。
不安になってもっと抱き付き、旦那様の肩口にもたれて尋ねた。
﹁いい歳なのに、ちゃんと父親代わりを勤められなくてすまんな、
と思って﹂
﹁え、なに⋮⋮﹂
父親?
﹁いや、やっぱり私とおまえは年齢差からいって親子みたいなもの
だし、その、これからは父親代わりの自覚を持って、ちゃんとお前
の保護者として勤められるようにしようと思って、そうだな、妙な
真似も慎むべきかと考えていて、うん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しばらく旦那様の仰ることが分からず、ぽかんとしていたが、次
に感じたのは強烈な怒りだった。
何?
203
父親代わり?
︱︱親子?!
﹁リーザ?﹂
﹁ちがう﹂
あまりの口惜しさに言葉を失う。
なんで自分が、旦那様の子供になってるの? その言葉が頭の中
をぐるぐる回った。
﹁ちがう⋮⋮﹂
唇を噛んで旦那様をにらみつけ、そのまま旦那様の前に回って膝
の間に体をねじ込み、思い切り抱き付いた。
﹁ちがう! 夫婦なのにどうしてそんなこと言うの﹂
﹁リーザ﹂
﹁意味が分からないこと言わないで!﹂
怒りのあまり、さっきまでのふわふわとした眠気が吹っ飛んだ。
旦那様の水色の目をにらみつけ、もう一度念を押す。
こんなに怒ったのは、久しぶりの気がする⋮⋮。
﹁私は旦那様の子供になんか、なりたくないです。妻だと思ってた
のに﹂
﹁で、でも、あの﹂
唇をかみしめ、旦那様の困惑したような瞳としばらく見つめ合っ
た。
﹁私が頼りないからね?﹂
﹁リーザ、いや、その⋮⋮そうじゃない﹂
﹁私が奥様らしくなかったから、子供みたいだったかもしれないし、
問題児だったかも⋮⋮﹂
204
そう言った瞬間、ぐらっと壁や天井が回った。
﹁⋮⋮っ﹂
死ぬほど眠い。
不思議な、銀色の瞳が自分を睨んでいるように感じる。
だが、それを歯を食いしばってこらえた。
さっきから急に眠くなってばかりだ。寝てしまったらお話ができ
ない。
﹁甘えて、こっちの暮らしに慣れないことを言い訳に⋮⋮して、ず
っと甘えていたから、ご負担に⋮⋮なってしまったかと思いますけ
ど⋮⋮﹂
必死で目をこする。何だろう、この眠気は⋮⋮。
﹁リーザ、どうした﹂
旦那様の首筋にしがみつき、体をぎゅっと押し付けた。
旦那様のたくましい腕も、おずおずと背中に回る。
﹁大丈夫です、とにかく子ども扱いなんて嫌、絶対違うから﹂
そう言いきったら、だんだん頭がすっきりしてきたように思う。
﹁でも⋮⋮﹂
﹁でもじゃないわ、お体流しますね﹂
旦那様がまだ言いよどむので、とりあえず体を離し、お湯を汲ん
で旦那様の身体の石鹸を流した。
それから自分の体の石鹸も流し、旦那様の腰の布を外して床に膝
をついた。
さっきから当たる。
ちょっと気になるのだ。
205
﹁⋮⋮⋮⋮止しなさい。あの、その、私はもう風呂を出るから﹂
﹁ふふ﹂
旦那様が焦ったように自分の頭を押したが、振り払って遠慮なく
手を伸ばす。
﹁リーザ、やめ⋮⋮!﹂
口ではそんなことを仰るが、旦那様のお道具はとても元気だ。
さっきから存在を主張しているし、かわいがりたくなってしまっ
た。
﹁ちょっとだけ﹂
﹁もう風呂から出るから!﹂
﹁イヤ﹂
旦那様も逃げようとなさらないので、色々期待されているのだろ
う。
教えてくださったのも旦那様だし、上手になったところをこんな
時こそ披露したい。
﹁ちょっ、リー⋮⋮﹂
舌先で舐めた瞬間、びくりと旦那様のたくましい体が跳ねた。
﹁ふふ、旦那様かわいい⋮⋮﹂
そういって、旦那様の脚の間に顔をうずめる。このお道具、大好
きだ。なんというか、夫婦を結ぶ命の塊⋮⋮という感じがする。
久しぶりだし、お疲れ様の旦那様には、もうちょっとだけお疲れ
になっていただこう。
206
﹁くっ﹂
大捕り物劇で疲れたので風呂に入ろうと思ったら、おっさんの幸
せそうな声が聞こえてきた。
そんなもん聞いたら耳が腐ると思ったので踵を返して部屋に戻り、
寝台の上でまるくなって毛布をかぶる。
完全にすっぽりもぐりこみ、胎児のように身を縮めた。
︱︱こらッ、リーザ⋮⋮ッ、そんなところまで!⋮⋮か。
何をどんなところにどうしたのだろう。
いや、冗談抜きで、穢れ無き身には良く分からなかったのだが。
何をどうしてどうする行為が行われたのだろう。
普通の23歳は知っているのだろうか。
一発ヤッたら分かることなのか。
自分は本当にこの清らかさを捨て去ることができるのだろうか⋮
⋮。
でも童貞バレしたくない⋮⋮!
しつこいようだが泥酔して娼婦を買い、朝起きたら童貞じゃなく
なってる⋮⋮以外の納得できる解決方法を思いつくことができない。
失恋、嫉妬、童貞。焦げ付く自分を持て余して、ぎゅっと目をつぶ
った。
207
24
﹁あ、あ⋮⋮旦那様ぁ⋮⋮﹂
身体をぬぐうのもそこそこに、寝台に押し倒したリーザが、自分
にしがみついて善がる声を上げた。
今話しかけられてもイキそうなんでちょっと困るんですけどね⋮
⋮そう思いつつ強請る唇に自分の唇を重ねる。
﹁んっ⋮⋮ねえ、わかった⋮⋮?﹂
リーザがいやいやと頭を振って唇を振りほどき、息を乱して尋ね
てきた。
わかりません。
今はホント謎々とか出されても困るんです。と思う。
質問するならもうちょっとお道具を責めたてるのを手柔らかにし
てほしい、と思いながら、再びリーザの唇をふさぐ。
﹁ぷは⋮⋮わかった? ねえ、私の気持ちわかった?﹂
リーザが、再び唇を振りほどいた。
よほど話したいことがあるらしい。
﹁わかってる⋮⋮? ねえ、旦那様⋮⋮んあっ⋮⋮!﹂
花紫色の大きな目を潤ませ、抑制のきかない喘ぎ交じりの声で言
う。
ぐ、と甘い肉の締め付けが強まった。
﹁リーザ⋮⋮﹂
﹁旦那様のこと、すっごく好きなのわかった? 好き、旦那様が好
きなの、わからなきゃダメ⋮⋮っ、やぁッ、そこすごい⋮⋮ッ﹂
︱︱え、何、やめて、そんな可愛いこと言うと興奮してあっとい
うまに⋮⋮。
208
リーザが自分の胸に唇を押し当てては何かを確認している。
すっかり賢者の心持になった。
良く分からん行動も、何でも優しく受け入れられる。
﹁どうした﹂
リーザがうるんだ目を上げ、﹁旦那様のお肌に痕をつけています﹂
と答えた。何かきゅんとなって、絹のような髪のほつれを解きなが
ら尋ねる。
﹁何のためにだ?﹂
毛布を掛け直し、腕に抱きしめ直して頭をなでた。
ああ、可愛い、可愛い、可愛い⋮⋮。
リーザが可愛すぎて困る。
すべての問題がどうでもよくなって来て怖い。
頭が溶けているような感じがする。いや実際に溶けているのでは
ないかと思う。
明日はヴィルヘルムが完膚なきまでにボッコボコにした賊の訊問
なのだが。
割と緊急事態だし、妻をのんきに抱いてる余裕も本当はなかった
のだが。
そういえば母が戻ってこないが、どこへ行ったのだろう。
まあ母のことだから無事だろうが、賊が母を狙っていたという話
が気にかかる。
209
賊も命知らずな真似を⋮⋮。
﹁これは、浮気防止です、旦那様はカッコいいから、最近心配です﹂
ぼんやり考え事をしていた自分に、リーザが真剣な声で告げる。
﹁何をばかなことを。浮気なんてしない。お前が居るのに﹂
そもそも自分はもう中年だ。
レヴォントリの血が珍しいと、やたら持ち上げられた若い頃に比
べたら、随分としょぼくれたと思う。
﹁うぅ⋮⋮でも心配だからぁ⋮⋮﹂
リーザが不満げな声を上げ、再び小鳥のように唇を押し付けた。
押し付けているだけでは痕は付かない、そう教えてやろうとした
が、止めた。
﹁こら、くすぐったいだろう、リーザ﹂
﹁旦那様ぁ⋮⋮﹂
︱︱やっぱり奥様は可愛い!
寝台の中で、ひしと抱き合った。
やっぱり愛している。何をごまかそうとも愛している。
一人で迷宮入りした結果の﹃お父さん代わりになります宣言﹄と
か、永遠に撤回だ。
妻はだれにも渡さない、自分たちは夫婦だと改めて心に誓い直す。
結婚式で誓ったのにあっという間に忘れた自分が、愚かだった。
これからはリーザときちんと向き合い、リーザを妻としてしっか
り扱おう。
医者も呼んで、あの眠り病のような症状の診察も受けさせる。
一回合体しただけで即﹃修理完了﹄した自分の心が単純すぎて痛
々しいが、いろいろ反省した、本当に。
この反省の軽さこそが、たくましさのみが取り柄の田舎者である
210
自分の良さだと、改めて思う。だめだ、お道具の回復と同時に、変
な自信が湧き上がって来ているから自重せねば。
﹁リーザ、愛しているよ、済まなかったな、最近つまらない事で一
人で悩んで。これからは何でもお前と話をする﹂
嫁が子供みたいだと陰口を叩かれて、お道具が起動不能になり、
勝手に嫁の父親宣言するなんて。ああ、こうして言葉にすると本当
に痛々しい。自分は齢40にして心が迷子すぎる。
﹁はい⋮⋮そうしてください、だんなさま! 何でも話してくださ
い!﹂
リーザが小さな顔をパッと輝かせ、嬉しげに額をこすりつけてき
た。
仕事は問題が山積みだが、奥様が可愛すぎて爆発しそうだ。
可愛い!可愛い!
︱︱合体・即・回復。単純な自分が可哀想すぎて、ちょっと涙が
出た。
﹁そろそろ出る﹂
全裸の美しい女にそう言われ、男はぼんやりとうなずいた。
彼は独り身で、レヴォントリ街道沿いの旅籠の下働きをしている。
彼の住む部屋は、旅籠の離れにある質素な小屋にあった。
211
﹁美味しかった﹂
彼を覗き込む女が、赤い舌で唇を舐める。
﹁そうか⋮⋮俺もだよ、すごく良かった⋮⋮﹂
﹁おかげで満腹した。これでまた﹃走って﹄旅ができる﹂
﹁走って⋮⋮?﹂
この凍てつく冬空の下を⋮⋮?
そう言おうとした声がかすれ、彼は咳き込んだ。一晩中、悲鳴の
ような声を上げ続けていたからだろう。
体の中が空っぽになったかのようだ、力を使い果たして。
それだけ激しく女と睦み合ったのだと思いだす。
まっすぐな銀の髪を引きずるようにして寝台から降り、女が振り
返って銀の目を細めた。
氷を刻んだ人形のようだ。小さな体なのにひどく艶めかしく、気
の狂いそうな抱き心地だった。
彼は、彼女が道のわきで雪にさらされ、うずくまっていたところ
を助けたのだ。
それがなぜ、こんな事になったのだろう?
﹁ねえ、君、名前なんて言うんだっけ⋮⋮﹂
体を重ねている間はずっと名前を呼んでいた気がするのだが、も
うろうとして思い出せない。
﹁セルマ﹂
﹁セルマ、さん⋮⋮﹂
そんな名前だったかなと考えた。そう言われれば、そうだったよ
うな気がする。
女が手早く服を身にまとい、帯を折れそうな細い胴に巻き付けた。
212
﹁じゃあ、行くわ。﹃精気﹄を分けてくれてありがとう﹂
色の薄い唇で女が言った。
助けたときは真っ白だった顔は、ほのかに血色を取り戻している。
﹁さよなら﹂
﹁⋮⋮うん﹂
もう会えないのかな、と思い、薄い外套一つを羽織った女の背を
見送る。
でも何も言葉が出ない。
自分はあの女と寝て、全てを搾り取られたんだな。そう思いなが
ら彼は目をつぶった。
﹁まぁ、昨日は大変だったのね﹂
薄手の外套をさらりと脱いだ大奥様が、執事にそれを手渡しなが
ら微笑む。
﹁皆は、無事ですか、リーザ様は?﹂
﹁は、皆さま、つつがなく⋮⋮﹂
﹁そう、良かった﹂
大奥様がそういって、ため息をつく。
﹁おそらくは私を狙ってきたのでしょう、あなた方には迷惑を掛け
ましたね⋮⋮けれど、レヴォントリから﹃彼ら﹄の目をそらすため
には仕方がなかったのです﹂
﹁えっ﹂
213
大奥様が、微笑みを浮かべて話をつづけた。相変わらず穏やかだ
が、流石の彼女の表情にも、どこか硬さが見える。
﹁ヴィルヘルムさん、先ほど国境の砦に寄り、常駐班のヘルマンに
会いました。昨日あの子と話をしたのでしょう? ヘルマンがあな
たの捕り物の腕を大変褒めていましたよ。もし良かったら、一度顔
を見せてやってちょうだい﹂
ヘルマン⋮⋮。
あの銀髪のでかい男か、と思い出す。
﹁閣下の許可が得られましたら﹂
そう返事し、大奥様に頭を下げた。
彼女は何かを知っていて、隠している。いや、全てを知っていて、
それを語ろうとしているのだ。その気配を察知し、知らず知らずの
うちに背筋が伸びた。
﹁そうだわ、ヴィルヘルムさん。レオンを起こしてきてくださるか
しら﹂
﹁は⋮⋮かしこまりました﹂
﹁皆で朝のお茶でもいただきましょう﹂
やはり、何かある。そう思いながらも彼女の言葉に頷いてみせ、
二階の主寝室へと足を向けた。
昨日ひっくり返ったリーザは大丈夫なのだろうか。様子がおかし
いのは確かだ。
リーザの事を思った瞬間、足が止まる。
改めて思った。
自分を愛さない﹃自称姉上﹄が、他の男を愛しているところを見
ている事が、本当に辛い。
この立場を完全に仕事と割り切ることも出来ず、微妙にその状況
に興奮したり悩んだりするのが辛い。非の打ち所のない男である閣
214
下を妬む自分の情けなさも、また、辛かった。
叶わぬと言い聞かせてきた恋が、本当に叶わぬ恋として確定し、
ずっと一緒だったリーザと自分の人生が、切り離されて遠くなって
ゆく。
陛下が自分をここに遣わしたのは、あきらめろ、という意味を込
めてなのだろうか⋮⋮。
﹁はぁ﹂
いまだに心と体の切り離し方が分からない。恋と肉体の切り離し
方が。
乳兄弟の姫君に叶わぬ恋をして、焦げ付いて、どこにも進めない
⋮⋮。
﹁おはよう!ヴィル!﹂
明るい声が階段の上から降って来た。
ピカピカの笑顔だ。
幸せなのだろう。ほっとして微笑み返そうとして、その笑顔の由
来が自分でないことに気づいて興奮した。
ダメだ、やはり自分はおかしい。悲しいのに、辛いのに、切ない
のに、リーザが他の男に抱かれているのかと思うと興奮する。具体
的に何をしているのかモヤモヤして想像できないくせに興奮するの
だ。
﹁起きたのか、閣下は﹂
﹁すぐにいらっしゃるわ。ねえあなた、昨日夜に賊を退治してくれ
たって本当?﹂
無邪気な笑顔でリーザが言う。
そっけなくうなずき返し、リーザに背中を向けた。
﹁仕事だから。大した相手じゃなかった﹂
215
﹁ヴィルは強いものねぇ。ふふ。旦那様があとでヴィルとお話しし
たいっておっしゃってたわ﹂
リーザが機嫌よく言う。
話、とは⋮⋮何の事だろう。まあ、聞かなければわからない。勝
手に色々早合点するのは止そう。
﹁⋮⋮⋮⋮わかった。大奥様がお待ちだ、早く来い、リーザ﹂
そういって、階段を駆け下りた。
﹁待って、ヴィル﹂
運動神経の全くないリーザが、もたもたと追ってくる気配がした。
眠っている子犬を抱いているせいで、余計足取りが遅い。
まったく、このローゼンベルクは物騒な街だ。この屋敷も何度賊
に襲われた事か。
陛下は何故、こんな場所にリーザを嫁がせたのだろう。
身を守るすべも持たぬ彼女を。ただ一人の愛してやまない妹姫を
⋮⋮。
216
25
﹁何からお話ししましょうか。事の起こりは6年前ですね。カルタ
ー王国の王立中央大学で、一人の天才博士が、この世を終わらせか
ねないあるものを発明しました﹂
大奥様が、そういって氷を浮かべた茶をすする。
リーザがピンと来ない顔をして、彼女同様寝てばかりいる小さい
犬っころを膝に乗せたまま、お茶に口をつけた。
﹁リーザ様はご存じないわね﹂
﹁はい!﹂
リーザが笑顔で返事をする。
その表情を見て、何故か奥方が満足そうにうなずいた。
なんだろう。
違和感を感じたのだが、言葉にできない。自分はいつも体が先に
反応し、その理由を後から考える性質だから、だろうか⋮⋮。
﹁⋮⋮ヴィルヘルムさん、どうなさったの?﹂
﹁いいえ﹂
首を振った。違和感の正体は、分からなかった。
﹁そう。ならいいの。⋮⋮レオン、何をぼんやりしているの。眠い
のですか﹂
奥方が、うとうとしている閣下をとがめる。閣下が慌てて立ち上
がり﹁茶のお替わりを入れてくる﹂と言って部屋を出て行った。
母親にはいくつになっても頭が上がらないモノなのか。
自分は23だが、母には全く頭が上がらない。40になってもあ
んな感じのままなのだろうか。
そう考えると、なんだか胸がざわつく。
217
居心地悪くキョロキョロしていると、大奥様が静かな、落ち着い
た声で話をつづけた。
﹁レオンはもう知っている事ですから、いいわ。貴方たちに話しま
しょう。大学で生み出されてしまったものは、火薬です。氷温を超
えた状態で衝撃を受けると、これまでになかった強力な燃焼反応を
起こす火薬。そうね、このお茶の飲み残しと同じ量で、この館が吹
っ飛ぶのよ﹂
奥方が﹃お花が咲いたわ﹄というのと同じような口調で言って、
微笑んだ。
﹁火薬⋮⋮﹂
とんでもない火薬だ。そんなものがあるのか、と思う。
庭に小さな穴をあけるだけだったリーザの爆弾と、だいぶん違う。
まあ、うちの﹃姉上﹄は、爆弾を自己流で作っていたから、比べ
る対象にはならないか。
火薬自体はいつも市場で買っていたし。
石だの、樹の枝だの⋮⋮。
興味がなかったので、詳しくは知らないが。
自称﹃リーザ様親衛隊﹄の悪友の一人が﹃あの姫さんの爆弾、あ
んまり爆発しなさそうだね﹄と言っていたのを、何となく思い出し
た。
リーザはふむふむと真面目な顔をしながら、寝ている犬を撫でて
いる。
相変わらず眠そうだ。さぞ昨夜は夜更かししたのだろう。
そう疑いたくなるようなボーっとした表情だ。
リーザには本当に、大奥様の話の意味が分かっているのだろうか
?
218
彼女の頭は、亡き父君、そしてジュリアス陛下に似てそんなに悪
くないはずなのだが⋮⋮。
やはり閣下に甘やかされてボケているのではないかと思う。
﹁あんなに強力な火薬は今までこの世に無かったの。あれが生み出
されたのは、文字通り世界を変える出来事でした。当然、列強はそ
の火薬を自国のみが占有しようと、水面下で火花を散らし合いまし
た﹂
﹁まぁぁ﹂
リーザがぽけーっとした口調で相槌を打った。
これは⋮⋮!
たぶんわかっていない⋮⋮!
﹁ですが、火薬の生みの親である博士は亡くなられました。これ以
上火薬を﹃人の手に扱いやすいものにしたくない﹄と仰って、自ら
命を絶たれたそうです。生みの親であった博士の死と同時に、開発
中だった火薬の制御機構、燃焼反応を停止させる装置の開発も止ま
ってしまいました﹂
﹁はぁい⋮⋮﹂
リーザが目をこする。
義母の前で堂々とうたた寝しかけるとは、何という度胸の持ち主
だ。
真夜中まで色々とお楽しみだったせいだろうか。
興奮する。
ちなみに自分も火薬の話はさっぱり分からないし、ずーっとああ
でもない、こうでもないと妄想を続けていたので、眠くて仕方がな
い。
219
﹁人の手に扱いきれない火薬を、扱えるようにしよう。そして、平
和のためだけに活用しようというジュリアス陛下のご提案で、列強
は手を組むことにしました。各国の王侯を委員に選出した﹃火薬管
理委員会﹄を設立し、強力な火薬の管理と安全な開発のために、予
算と人材を投入することを決議したのです。最後に完成した火薬を
手にするのは自分の国。そんな下心をどの国も持っているのでしょ
うけれどね﹂
ダメだ良く分からん。
眠くなってきた⋮⋮。
聞き手の劣等生ぶりに何か思うところがあったのか、大奥様が明
るい声で、端的におっしゃった。
﹁要約するわ。新しく作られた強力な火薬を、研究して、扱いやす
いものにして、自分の国のものにしよう。今は、どの国もそう思い
つつ、表でニコニコ笑いながら手を組んでいる状態なのです﹂
﹁なるほど﹂
そういわれるとなんとなくわかる。
火薬をみんなで作って、自分が独り占め、か。戦争になりそうだ
な、と思う。ここ数十年、戦争は起きていない。それは列強の努力
と平和外交によるものだと習ってきたが、その均衡も破られようと
しているのだろうか⋮⋮。
﹁ふぇぇ⋮⋮﹂
リーザがくにゃくにゃと体を揺らし、自分の肩に頭を乗せた。
こら、寝るな。
必死にそっと足を蹴ったが、リーザは目を開けているのがやっと
の様子だ。
220
﹁ところで、ヴィルヘルムさん。ジュリアス陛下を襲った賊は、近
衛騎士が取り逃がしたと聞いたでしょう。それは嘘です。尋問の上、
解放されました﹂
奥方が唐突に話を切り替える。
頭をぶんなぐられたような衝撃が走り、目が覚めた。
陛下は左腕に軽いお怪我をされたと仰っていた。
事件が起きたのは、自分が当直ではない日だったし、賊は逃げ出
したと聞いて、この国も平和ボケだなと呆れていたのに。
だが、そうではなかったのだ⋮⋮。
﹁賊は、隣国レアルデの刺客でした。かの国は火薬を自国の占有物
として開発し、戦略火器として完成させる気です﹂
﹁あの﹂
言いかけた声がしわがれたので、慌てて残りの冷めた茶を流し込
んだ。
﹁何かしら? ヴィルヘルムさん﹂
大奥様が、ドレスの話でもしているかのようなのんびりした声で
言い、首をかしげる。
﹁な、なぜ大奥様が、そのような事情をご存じなのですか﹂
﹁何故って?﹂
大奥様が、かすかに唇を釣り上げる。
穏やかな貴婦人⋮⋮その仮面を被った、まぎれもない支配者の強
かさが、銀の瞳に宿る光から垣間見えた。
﹁氷神様が、世界の乱れを厭われるからです。世界は凍り付いたよ
うに静かで平穏であるべき、それが氷神様の御意志ですから﹂
いつの間にか自分にもたれてすうすう眠っているリーザを見つめ、
221
大奥様が付け加えた。
﹁それに、リーザ様は必ずお守りしなければなりません。それにし
ても遅いわね。あの子はお茶を入れるのにどれだけ時間をかけるの
かしら﹂
﹁今できましたよ!﹂
閣下が、不器用な手つきで茶器を乗せた盆を運んできた。
だが、リーザの様子に気づいたらしく、慌てたように近づいてく
る。
﹁どうした、リーザ﹂
﹁ねむ、い⋮⋮﹂
目を開けていられない様子で、リーザが呟く。
﹁そうか、今日は医者を呼ぶからな、大丈夫だ、リーザ﹂
閣下がそう言い、リーザの身体を自分の傍らからひょいと抱え上
げた。
愛情にあふれた優しい声、宝物を扱うような手つきだ。そうでき
る﹃権利﹄が羨ましいと思ったが、その思いを切り離す。
﹁レオン、それからヴィルヘルムさんも。最後に聞いて頂戴﹂
大奥様が、不意に声を張った。
力強い響きが、暖気に満たされた部屋の空気を一変する。
﹁私は、火薬の保管所、および開発研究施設を、レヴォントリに誘
致したいと考えています。極寒で迂闊に人が立ち寄れず、火薬が安
定する超低温の中立地帯。いかなる国のいかなる利害にも属さぬ場
所として、人類最悪の発明を管理したい。これはジュリアス様のお
望み、そして氷神様の御意志でもあります﹂
﹁え?﹂
思わず声を漏らす。
ジュリアス陛下が、その計画に一枚噛んでいるというのか?
222
﹁私を狙った賊は、レヴォントリの介入を面白く思わない人間。私
を殺し、誘致計画を破棄しようとしている様々な人間たちです。こ
のローゼンベルクの流民に交じり、見えぬ牙を研ぐ賊。すべての列
強が私の敵にまわっていると考えて良いでしょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
寝ぼけたような顔をしていた閣下が、鬼の形相になって母君を振
り返った。
﹁母上!﹂
﹁何ですか、レオン﹂
﹁そんな話は私のところに届いていません。なんという火種を、こ
のローゼンベルクに持ち込んでくださったのか⋮⋮!﹂
自分も、何も言葉が出なかった。
陛下がこの計画に加担しているなんて。
剣ひとつまともに使えない線の細い陛下が、無事で過ごせるはず
がないではないか⋮⋮。
﹁母上、馬鹿なことを仰るな。火薬の管理は委員会に一任されるべ
きです、ジュリアス様も強引過ぎる、レヴォントリを世界の火薬庫
になさるおつもりか!﹂
﹁そうですよ、委員会など、所詮狸の化かし合い。提唱者のジュリ
アス様も、時間稼ぎだと明言されておりますから﹂
そう答えて、大奥様がにっこりと笑った。
﹁まず、博士の﹃遺産﹄をレヴォントリへ運びます。ジュリアス様
が博士から直接託されたそれを、今、セルマが抱えて走っている筈
よ﹂
銀の瞳が、朝の光が差し込む大窓を振り返る。
﹁まあ、いい天気。レヴォントリの地吹雪も落ち着いているのでは
223
ないかしら﹂
透明な冬の光が、木の床に硝子の波打つ模様を浮かび上がらせて
いる。
冷たく平和な朝。だがそれは、見せかけだけのものなのか⋮⋮。
﹁セルマの脚なら、そろそろレヴォントリにつくころね。列強の目
は私に向いていて、セルマの動向までは追っていなかったと思いま
す﹂
﹁その、つまり、目くらましのために、わざわざこちらへ赴かれた
のですか、母上﹂
﹁ええ、そうよ﹂
誰も、大奥様の言葉に返す言葉を持たない。
木から雪が落ちるどさりという音が、かすかに部屋に響いた。
224
26
母とリーザ、それからヴィルヘルムを連れて、取り急ぎ国境の砦
に避難して半日経ったが、リーザが目覚めない。
眠りこける我が愛妻を前に、医者が首を振る。
﹁現代の医学では悪いところは見当たりません。頭に血腫があるよ
うな兆候も見当たらず⋮⋮﹂
﹁でも、すぐに倒れて眠ってしまうんですが﹂
首を振り、医者にそう訴えた。
普通には思えない。
賊から身を守るため、こうして大事に抱いて砦に連れて来て、司
令官室の長椅子に寝かせても、一向にリーザは目覚めようとしない。
﹁うーん、精神的に何かあると、そういう風になってしまう人もい
ますね。こちらの生活がお辛いんですかね﹂
﹁そんな﹂
このど田舎の寒くて貧乏な街で、おっさんの嫁として暮らす生活
⋮⋮辛いのかもしれない。
そう言われると、どんどん不安になって来る。
リーザはローゼンベルクの暮らしが辛いのかもしれない⋮⋮!
﹁奥方様はお体の方には問題が無いように思えます。頭痛や吐き気
を訴えられましたら、とにかく頭を動かさずにいてください。頭の
中に病変があったとしたら、もう、あとは運です。申し上げにくい
事ですが﹂
そういって、医者は帰って行った。
リーザは桃色の頬をして、すやすやと眠っている。
225
連れてきたシュネーは、暖かい毛布を入れたかごの中で、大人し
くしていた。身体が大きくなってきたモロダスは、他の犬と一緒に
居るので大丈夫だろう。
とにかくリーザが心配で、どんどん自分が萎れていく。
守ろうと必死なのにすり抜けてゆくこの感じが、たまらなく辛い。
こんなに辛いとは思わなかった。
アイシャ族の事、母のしでかそうとしている事、山のように問題
があるのに、心を苛むのは一番弱くて小さくて近くにいる、妻の事
だ。
妻を犠牲にしても、領民のことだけ考えるべき立場なのに。
そうだ、しっかりしなければ⋮⋮。
﹁リーザ、私は少し仕事をしてくる﹂
気持ちよさそうに眠っているリーザの髪をそっと撫で、そう話し
かける。
愛おしいのに可哀想だ。王の妹などに生まれなければ、変わり者
の美しい娘として、王都の裕福な家に嫁いで、幸せに暮らしていた
のではないか。こんな良く分からんおっさんに嫁がされたりせずに
⋮⋮。
﹁リーザ⋮⋮﹂
すべすべした額に手を当て、どうか早く良くなるようにと祈って、
後ろ髪をひかれながら部屋を出ようとした。
その瞬間、リーザがはっきりとした声で、ひとこと呟いた。
﹁エリカ博士⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
起きたのか、と思い、顔を覗き込む。
226
エリカ博士という名は耳にしたことがある。
たしか、エリカ・シュタイナー博士という名だったはず。﹃例の
火薬﹄を作り出してしまったという、天才の名前は。
まだ若い女性だったらしいが、既にこの世を去ったと聞いている
のだが。
﹁リーザ?﹂
彼女は、エリカ博士と面識があるのだろうか。
爆発させないとは何の話だろう。夢の中でも爆弾にこだわってい
るのか。
幽閉されていたリーザに、博士と会話する機会があったとも思え
ないし、もしそうならなんでもしゃべるリーザの事だ、自分に話し
てくれてもいいはずだ、と思う。
リーザは答えず、再びスヤスヤと眠り始めた。
﹁あれ、奥方様﹂
ヘルマンは、子犬を抱いてよろよろと出てきた華奢な姿を見咎め、
慌てて走り寄った。
うるうるした大きな紫の瞳に見つめ返され、心臓をわしづかみに
されたような衝撃が走る。
﹃先代国王を骨抜きにした、美貌の母君に生き写しだと聞くが、こ
れほどとは⋮⋮﹄
227
内心そう呟き、ヘルマンは言葉を失った。
奥方の長い髪はほどけ、ローゼンベルク風の刺繍をした上着に絡
みつくように流れている。
このあたりの古い時代の人間は﹁だらしがない﹂と言いかねない
ような身なりだが、彼には、春の一番花のような儚げでやさしい姿
に見えた。
﹁あの﹂
奥方が怯えたように、ヘルマンを見上げた。
﹁は、はい、奥方様﹂
﹁リーザです⋮⋮﹂
麗しの美女、否、将軍閣下の奥方様が困ったようにそう呟き、鼻
を鳴らすフカフカした犬を抱きしめた。少女のような透明感が、奥
方の全身に満ち満ちて見えた。
﹁ここ、どこですか⋮⋮﹂
かすかな声でそう呟き、怯えたように奥方がうつむく。
ヘルマンは打たれたように背筋を伸ばした。
﹁し、失礼いたしました。ここは国境の砦でございます! あのっ、
何かお困りでしょうか、なんでもお申し付けください!﹂
同僚たちは﹃紙巻人形みたいな丸っこい姫さんだった﹄などと言
っていたが、大ウソだと彼は思った。
非の打ち所なき美女だ。
彼の妹のセルマも美女だと人は言うが、彼に言わせれば、妹は美
女というよりも、女に見える妖怪というか人食い魔女というか世に
解き放ってはいけない存在というか、なんというか⋮⋮そういう存
在だ
。
﹃い、いや、セルマのことなどどうでもいい! 奥方様が風邪を召
228
されたらいかん!﹄
ヘルマンは薄い肩に慌てて自分の脱いだ上着をかけ、他に何かこ
の美女が困っていないかを必死で探った。
﹁あの、これ⋮⋮﹂
戸惑ったように、奥方が上着に触れた。
一つ一つの声やしぐさが、揺れる淡い紫の花のようだ⋮⋮。
﹁あ、あ、あの、お寒いかと思いまして、う、薄汚いものでござい
ますが﹂
﹁ヘルマンさーん、昼飯当番ですけどー、あれ?﹂
背後から、部下たちの雑な気配が近づいてきた。
慌てて麗しい奥方の姿を背中に隠す。
将軍閣下が頑なに奥方連れで遊びに来なかった理由を、彼は心の
底から理解した。
この奥方を、己を含めたむさくるしい男共に見せたくなかったの
だ。
﹃羨ましい!﹄
尊敬すべき閣下が羨ましくて臓腑がねじ切れそうだ。ヘルマンは
そう思った。
﹁おお、別嬪! 誰ですか?﹂
﹁カワイイね、こんにちは!﹂
華奢な奥方様を、筋肉の塊みたいなむくつけき男たちが取り囲む。
奥方様が、ますます怯えたように子犬を抱いて縮こまった。
﹁馬鹿者、この方は、閣下の奥方様だ、いまからしかるべきお部屋
229
にご案内を⋮⋮﹂
﹁へえ、奥様かぁ、あ、そうだ、奥様も釣りします?﹂
部下の一人がヘルマンの言葉も聞かず、田舎訛り丸出しで、笑顔
で奥方に尋ねた。
﹁釣り⋮⋮?﹂
奥方様が不安げに繰り返す。
﹁そう、珍しいんじゃないのかなと思って。氷の穴釣り﹂
﹁そうそう、レーエ河の氷に穴をあけて、昼飯を釣るんですよ、や
ってみません?﹂
﹁冬しか釣れない魚が、たくさん釣れますよ!﹂
部下たちが口々に言う。
高貴な麗しい奥方様が釣りなどに興味を持つはずが。そう言いか
けたヘルマンの前をふわふわと横切り、奥方様が嬉しそうな声を上
げた。
﹁はい! 私、釣りしたいです!﹂
﹁わぁ﹂
河の氷に開けた穴を覗き込むシュネーの前で、白い小さな魚がひ
ょいと釣り糸に懸かり、飛び出す。
シュネーがビックリしたように飛びのき、ピコピコと尻尾を振っ
た。
230
気づいたら砦にいたのだが、旦那様が寝ている自分を連れてきて
くださったのだと、ヘルマンさんという親切な人が教えてくれた。
旦那様の家は、誰かに狙われていて危険らしい。
あの家が好きなので寂しかったが、皆が魚釣りをさせてくれて楽
しいし、嬉しい。きっと不慣れな自分に気を使ってくれたのだろう。
白っぽい魚を氷に穴をあけて釣り、バケツに入れる。
言われたとおりに餌をつけ、糸を垂らすと、ほいほいと魚が釣れ
るのだ。
美しい氷のような色の魚、食べるのが少し可哀想だけれど。
﹁私、5匹も釣れました!﹂
﹁5匹じゃ腹が膨れねぇなぁ﹂
砦の皆さんが笑うので、自分もおかしくなって笑った。
とても楽しい。いろんな人がいて。
それに、氷の上で魚を釣るのは初めてだ。氷に乗るのは怖かった
が、絶対に割れないと皆が太鼓判を押してくれた。
旦那様も忙しいのだと思うが、周りにいる人たちが明るいいい人
で本当に良かった。
⋮⋮いつも胃が痛い、軋轢に気を使って苦しい、と自分にこぼし
ていた兄を思い出す。
兄は周囲の色々な人の事でとても苦労をしていたから、可哀想だ
な、と思う。
﹁お兄様⋮⋮﹂
呟いたら、何かを思い出しかけた気がした。
だが、その尻尾を捕まえようとした瞬間、するりとそれが逃げて
しまう。
231
寝てばかりいたのに、まだ眠い。
ぼんやりと釣り穴を見つめていたら、男の人が笑いながら教えて
くれた。
﹁ほら、引いてますよ! 奥様! 釣れますよ!﹂
232
27
﹁ミラドナ様は?﹂
よろよろと壁にすがったセルマの姿を見つけ、姉のレータは慌て
て手を差し伸べた。
﹁どうしたの、セルマ! こんなに吹雪の中出歩くなんて危ないで
しょう!⋮⋮お帰りなさい。ヘルマンのところに行っていたのでは
ないの?﹂
﹁兄さんの所には行っていない。ミラドナ様は?﹂
﹁ローゼンベルクにお出かけになったわ。この天気だからお戻りは
遅れるかもね﹂
鈍色の空から叩きつける雪を見つめ、レータはそう答えた。
﹁ふうん、なるほど﹂
何がなるほどなのだろう、と思ったが、レータは妹の肩を抱いて
家にいざなった。
﹁さすがの私たちも寒いわね。さ、地下に行きましょう﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
妹の冷たい、痩せた体を支え、レータは雪に覆われた半球状の建
物の戸を開ける。
レヴォントリは、万年雪に覆われた不毛の大地に居を構える、銀
の髪の一族だ。
世界で一番寒い場所、大氷原の極北。
その場所を﹃氷神の御坐﹄と人は言う。寒さに強い体を持つレヴ
ォントリの民ですら、地上で暮らすことはほぼ不可能なので、地下
に日の光を採光できる巨大な空間を構築して、そこに街を構えて暮
らしている。半球状の小さな建物は、その入り口だ。
233
﹁セルマ、力を使ったの? すごく顔色が悪いわ﹂
妹を彼女の部屋へ通し、寝台に腰かけさせて、自分が飲んでいた
滋養強壮のお茶を妹のカップに注いだ。
﹁使ったけど、許可は貰ってる﹂
姉の差し出した薬草茶をすすり、セルマが疲れ果てた声で言った。
﹁もちろん、それはそうでしょうけど⋮⋮お父さんが心配している
わよ。あとで帰ったと報告なさいね。あっ、貴方まさか、また道中
で妙な真似していないでしょうね!﹂
言いながら目を吊り上げた姉に、セルマがにっこりと微笑みかけ
た。
﹁もちろん、見ず知らずの男性と不適切な肉体関係を結んだりして
ない。嫁入り前だから当たり前﹂
答えがいい子すぎる。
そんな不安を感じたが、流石に何度も何度も姉に嘘をつくような
子ではないと信じたい。
そう思い、レータはうなずいてみせた。
﹁ならいいけど。今度あんな破廉恥な真似をしたら、お父さん許さ
ないって言っていたわよ﹂
﹁わかってる、姉さん、私は少し寝る。疲れた﹂
﹁⋮⋮そうね。ミラドナ様のお仕事、お疲れ様。今建てているあの
大きな建物に、火薬の研究施設を作るんでしょう﹂
﹁そう﹂
﹁いろんな博士とかが、大氷原の外から来るのかしら﹂
﹁たぶん来る﹂
つっけんどんな口調は、いつもの事だ。
大人しく寝台に潜り込んだセルマの様子に安心し、レータは﹁お
やすみ﹂と言って部屋を出た。
妹は、生まれつき氷神様の御意志によって、巫女の力を持って生
234
まれてきた。
両親はその名誉を心から喜び、幼いころからセルマを氷神様の神
殿に通わせ、色々な勉強をさせて、立派な巫女にと育てたのだ。
見事氷神の巫女に任命されたセルマは、レヴォントリ王家の長姫
ミラドナ様に可愛がられ、様々な難しい仕事をしている。
一つの問題を除き、一族の誇りだ。あの小柄な妹は。
⋮⋮妹の、ただ一つにしてどうにもならない欠点。それは男癖だ
った。強大な魔力を授かった割に小柄で体力も弱いセルマは、力が
欠乏すると男の精気を食って補うようになってしまったのだ。
何をどこでどう間違ったのか⋮⋮。
氷神様に許された力とはいえ、そんな真似をされるのはいただけ
ない。
あの事実を知った時、父はひっくり返り、母は腰を抜かし、弟は
顔を真っ赤にして怒り狂った。だが、セルマは男に手を出すのをや
めない⋮⋮。
通常の男女であれば、まともな恋愛感情をもとに行うであろう行
為が、セルマにとっては食事なのだ。男の気持ちなど顧みず、愛ら
しい顔で男を誘って貪りつくす。
﹁⋮⋮﹂
レータは足音を忍ばせて部屋に戻り、そっと扉を開け、セルマが
逃げ出していないことを確認した。
長い長い銀の髪が寝台からこぼれおちている。
大丈夫だ、妹は眠っている。
納得し、安心してレータは部屋を出て、自室へ向かった。
もう﹁あそこの娘さん、巫女様になったのに男狂いなんだってね﹂
などと近所に言われたくはない。
235
﹁⋮⋮よし﹂
姉が部屋に籠ったことを察知し、セルマは窓からひょいと抜け出
した。
襟には﹁預かりもの﹂を隠した小ぶりの襟巻をひょいと巻く。
これは、身から離してはならないものだ。確実に主に届けねばな
らぬものが隠してある。
襟巻がきちんと喉元に収め、通りの窓をキョロキョロと確かめな
がら歩いた。
何人かいる﹃男たち﹄には、やれる日は窓辺に赤い布をひっかけ
ておけと言ってある。
通りを走り、人目を忍び、15のころから共寝している魚屋の男
の部屋の窓に、赤の布を見つけた。
彼は、三十半ばのなかなかの男前だ。妻を新婚のころに亡くし、
その妻を愛し続けていて、彼女を口説こうとしない所が、セルマの
気に入りだった。
やれればいい、という殺伐とした冷たい心、何も育たぬ大氷原の
ような心のありようが、彼女にとっては好ましい。
両腕を窓の桟に掛け、体を引きあげて、鍵の開いた窓から滑り込
む。
男は振り返りもせずに、机にもたれて本を読んでいた。
236
セルマは何も言わずに男に歩み寄り、両頬を引き寄せて唇を重ね
る。
﹁久しぶりだね﹂
男が疲れたように言い﹁窓は締めてくれ、声が漏れる﹂と言った。
うなずいて、言われたとおりに窓を閉め、掛け布を下ろす。
それから、服を脱いだ。男も何の色気もないしぐさで服を脱ぎ、
それを寝台に投げ出す。
﹁おいで﹂
﹁うん﹂
一糸まとわぬ体で、寝台に腰かけた男にのしかかった。
硬くなり始めたそれに舌を這わせ、じわじわと満ちてくる精気に
喉を鳴らす。
自分好みの固さになるまで舌で責めたてた後、何も言わずに己の
ものに先端をあてがい、飲み込む。
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
﹁今日はこのまま、出していいのか﹂
﹁いいよ﹂
根元までずっぷりと銜え込んだ後、男の分厚い胸に手をついて、
セルマはうなずいた。
﹁なんでお前、孕まないんだろうな﹂
﹁精気は食い尽くすから。子供になるほど残らない﹂
彼女は男を抱くときはいつも避妊薬を飲み、秘所には消毒用の塗
り薬を仕込んでいる。
それを言っては、幻の女を抱いているという興奮が冷めるだろう、
と思って、言わないでいるだけだ。
﹁⋮⋮あんまり、腰を振らないでくれ。俺も楽しみたい﹂
237
男が懇願をにじませた口調で言うが、セルマは取り合わずに動い
た。男のものを締め付け、じらすようにゆっくり動き、びくびくと
震える茎をもてあそぶ。
﹁んっ、美味しい⋮⋮﹂
﹁セルマ﹂
﹁はぁ⋮⋮やっぱり、あんた、良い⋮⋮大っきい⋮⋮っ﹂
ぐちゃぐちゃとあられもない音を立てながら、二人は汗にまみれ
て体をこすりつけ合う。組み敷かれた男が身をよじって敷布を掴み、
弱った狼のような吠え声を上げた。
﹁そんなに突き上げないで、動きにくい﹂
細く軽い体を揺らされ、男に跨ったままセルマが苦笑する。
﹁だめだ、そんな風に動かれたら、出ちまう﹂
うめき声を聞いてセルマは笑い﹁出したら、また搾り取ってあげ
るよ﹂と答えた。
男の悲鳴のような声と、安っぽい寝台が跳ねるがたがた言う音、
それから女の快楽を訴える意味をなさない言葉が、閉め切った部屋
を満たした。
﹁⋮⋮ッ!﹂
男が声を絞り切り、セルマの太ももを思い切り掴んで、ひくひく
と体内に精を放つ。
汗で銀の髪を張り付かせたセルマが、満ち足りた笑顔で唇をなめ
た。
﹁いいね、溜まってたんだね⋮⋮﹂
うつろな表情で顔を上げた男の濡れた頬を白い指で撫で、その汗
を舐めてセルマは言った。蒼白だった肌色が、いつしか血の色を取
り戻している。
238
﹁ねえあんた、抜かずに二回できる? 試してみたいから今からし
ようよ﹂
239
28
﹁はぁ⋮⋮﹂
史上最強の火薬の管理開発所を、レヴォントリに創設する。
列強はその案に難色を示し、管理委員の一人であるジュリアス陛
下への風当たりも強まっているという。
だが、中立地帯である、という意味ではその判断は間違っていな
い。
レヴォントリはこの大陸で唯一﹃氷神﹄と呼ばれる、偶像のない
概念的な神を崇拝する民族だ。
この大陸の国々はすべて﹃翼ある光の神﹄を信仰しているのだが、
レヴォントリだけはその宗教を受け入れようとしない。つまり、他
国と折り合おうとしないのだ。そして、到底人が住めないような極
北の大地に居を構え、めったに他国との交流を持たずに細々と暮ら
している。
悪意ある国家が、レヴォントリに作られる研究所を襲撃しようと
しても、それはかなり難しい。
かの場所は、垂らした水が即座に凍り付き、息を吸えば臓腑が氷
で焼けて絶命しかねないほどの低温の地。慣れない人々が迂闊に近
寄れば、レヴォントリにたどり着けすらせずに凍死し、全滅するだ
ろう。真夏であっても危険は同じだ。冬の氷が緩み、地元の人間し
か見分けられない深い亀裂が万年雪の下で口を開け、無知な余所者
を飲み込む。
人を寄せ付けぬ極寒の地。そういう意味では、レヴォントリの中
立性は最も高いと言えるだろう。
だが⋮⋮。
240
﹁母上と陛下がそんな大問題にかかずらかって居られる事が納得行
きません。敬愛すべき王が、危険にさらされている状況はどうにも
耐え難いものです﹂
無駄な抵抗だと思いつつ、平然と扇子で己を扇ぐ母を睨み付けた。
﹁そう? これから世界は更なる混迷に突き進んでゆくのですから、
先手を打つのは当然でしょう﹂
﹁母上!﹂
﹁大きな図体をして、覚悟のない事。世界は流転します。今日の平
和が明日も続くとは限りません。先手を打つのが、支配階級の人間
の義務です。それができないなら﹃将軍様﹄なんてやめて開墾でも
していたら﹂
ぐうの音も出ずに口をつぐんだ。
母の言うとおりだが、触ろうとしているものが危険すぎる。他国
も今は紳士の仮面を被っているが、そのうちなりふり構わず牙をむ
いて、陛下に、カルター王国に、そしてレヴォントリの王姉である
母に襲い掛かってくるのではないのか。
自分は、自分の身近なものを守りたいとまず考えてしまう性質な
ので、母の言うとおり人の上に立つことには向いていないのかもし
れない。
さぞ、情けない顔をしていたのだろう。
母が自分を鼻で笑い、氷水を飲み乾して汗をぬぐった。
﹁暑いわね⋮⋮そんな顔をしているとお父様そっくりよ。お父様も
私にいつも﹃平和を乱すな﹄とうるさく言っておられました。です
が、いくら素晴らしい理想の男性でも、その点では折り合えなかっ
たわ。平和は壊れるものだと考えられないのは、愚かなことです。
今の平和は奇跡、そして偶然から成り立っているものなのですよ﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
241
﹁まったく。この齢で息子に失望させられるとは思いませんでした。
帰ります。事態が悪化したら母様を助けに来て頂戴﹂
冷たく言い放って、母が立ち上がる。いらだたしげに扇を閉じた
のは、息子の煮えきらなさに本気で腹を立てているからだ。母は他
人の前では穏やかな貴婦人ぶっているが、だれより気性が激しい。
17になるかならずの年齢で、拒み通す父のところに押しかけ女
房に来、自分を産んで妻に収まったような女性だ。大人しいわけが
ないのだが。
﹁母上!﹂
﹁見送りは結構よ。仕事してちょうだい、ではね﹂
母は、振り返りもせずに出て行った。
﹁まったく、子の心も知らんで勝手なお方だ﹂
どっと疲れを感じ、ゴシゴシと顔をこすった。
肩にのしかかる荷物が、一つ増えたような気がする。
新型火薬の研究所を、レヴォントリに建設するなんて⋮⋮。
国王陛下は、なぜ自分の頭を飛び越えて、直接母に話を持って行
ったのだろうか。
メンツを汚された、という事ではない。閉鎖的なレヴォントリの
人間が、なぜカルター王国の国王と連絡を取り合うことを是とした
事が不思議なのだ、
レヴォントリの実質上の支配者であるミラドナの長子であり、ロ
ーゼンベルクの領主である自分が仲介に選ばれなかった理由は、な
ぜなのだろう⋮⋮?
母の故郷はやはり自分には遠い場所だ、と改めて感じた。
自分は、父に似ていて、母方の血が薄い。髪色以外、母に似たと
ころは無いように思う。
母や祖父母が奉る﹃氷神﹄を信仰したこともないし、レヴォント
242
リの人間の独特の考え方もピンと来ない。
一糸乱れぬ結束を誇り、氷神への帰依のもと、永久凍土で暮らし
続けるレヴォントリの人々に、心から交われた試しがないのだ。
あの一族は近いようでいて遠い。
それとも今回の件には、まだ自分に見えていないことがある⋮⋮
のだろうか?
腕組みをして考え事をしていたら、とんとんと扉がたたかれた。
﹁なんだ﹂
﹁旦那さまぁ﹂
のほほんとした愛らしい声が聞こえた。
何故、職場で妻の声がするのか混乱し、ああ、連れてきたのだっ
たと思い出す。
よかった。眠りこけていて心配だったが、無事起きて機嫌よく過
ごしているようだ。
鬼の形相を揉みほぐして緩め、笑顔を作って立ち上がった。
仕事と家庭の切り替え、苦手かもしれない⋮⋮。
﹁旦那さま! お食事をお持ちしました、開けてくださいぃ﹂
慌てて扉を開けると、リーザが盆を掲げ持って、得意げな顔をし
ていた。
大きな皿の上に、小さな魚の揚げ物がちょっとと、茹でた芋のぶ
つ切り、それからリーザが唯一得意とするキノコのスープの壺がデ
ンと乗っけられていた。
﹁お、おお、ありがとう、リーザ﹂
243
すっごく少ない⋮⋮。
子犬の餌みたいな量に見える⋮⋮。
﹁一緒に食べましょう﹂
﹁二人分?!﹂
﹁はい!﹂
リーザが笑顔でうなずいた。
﹁はじめてお芋をゆでました。それと、お魚を7匹釣りましたので、
教えてもらって揚げ物にしました!﹂
﹁そ、そうか、ありがとう⋮⋮﹂
愛妻の手作り、嬉しい。顔がにやける。
だが10秒で食べ終わるだろう。自分には足りない⋮⋮!
葛藤しながら、リーザの運んできたわずかな食事を分かち合って
食べることにした。リーザは白い頬をほてらせ、氷の上で魚を釣っ
たことを喋り続けている。
﹁リーザ、具合は悪くないのか﹂
﹁ハイ、元気です!﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
案の定三口で食事を終え、手をこすり合わせて﹁うまかった﹂と
褒めた。
量はさておき、味はいい。
きっとリーザなりに、ものすごい苦労をして芋をむき、魚を揚げ
たのだろう。
そう思うと滅茶苦茶可愛くて、頬ずりの一つもしたくなって困る。
自分は妻を好きすぎて困る。どうか、この愛らしいリーザが病気な
どではないようにと、改めて心の中で祈った。
﹁そうだ、リーザ、こっちの暮らしはどうだ?﹂
244
医者が言っていたことが心に引っかかっている。さりげなさを装
ってそう尋ねると、リーザがニコニコしながら言った。
﹁幸せ﹂
﹁本当に?﹂
﹁ハイ、幸せです。ここにお嫁に来られて良かった、旦那様が大好
きだから!﹂
﹁リーザ⋮⋮﹂
なんか今、ちょっと泣きそうになってしまった⋮⋮。
あわてて目頭を揉んで誤魔化す。
﹁そ、そうか、ならいいんだ。苦労を掛けて済まないな﹂
﹁大丈夫です﹂
リーザがそういって、魚を小さな口に押し込んだ。
﹁また明日もお魚釣りたいなぁ、明日のお昼も私が作りますね﹂
﹁そうか、楽しみだ﹂
﹁えへへ﹂
リーザが満面の笑みを浮かべる。可愛い。
ずいぶんと釣りが楽しかったようだ。
手の空いている部下たちが、妻の相手をしてくれたのだろう。
︱︱明日の釣りは大漁であることを祈りたい。
すきっ腹はあとで厨房に行って残り物でもつまもう。空腹で盗み
食いする将軍なんて、他の国に居るのかって話だが⋮⋮。
245
シュネーを抱いてお庭のあたりをうろうろしていたら、大きな犬
を見つけた。
頑強な鎖でつながれているが、そんなものをものともしない、不
思議な威厳を漂わせている。素晴らしい犬だった。輝く硬そうな毛
が、鋼のような色に見えた。
﹁まぁぁ﹂
近寄って、顔を覗き込む。賢げな眼で自分とシュネーを一瞥した
後、犬はつんとそっぽを向いてしまった。
﹁どうなさいました、奥方様﹂
ヘルマンさんが、頬を赤くして近づいてきた。
寒いから顔が真っ赤になってしまうのだ。自分もこっちに来て、
皮膚が低温で焼ける症状に随分悩まされた。今は軟膏を塗っている
けれど。
﹁あの、この犬⋮⋮﹂
﹁将軍様が拾ってこられた野犬ですよ。頑丈そうなので番犬にして
います﹂
﹁そうなの﹂
旦那様は良く犬をお拾いになる。捨て犬を減らそうというお優し
い心がたまらなく好ましくて、胸が高鳴った。旦那様にまた恋して
しまったように感じる。
幸せな気持ちで、ヘルマンさんを振り返った。
﹁ヘルマンさん、この子のお名前は?﹂
﹁無いんですよ。忙しくて誰も付けておりません。奥様が名付けら
れますか?﹂
﹁まぁ、そうなの、じゃあ⋮⋮﹂
見事な黒い毛並みを見つめ、しばらく考えているうちに、素晴ら
246
しい名前を思いついた。
﹁ベベホンタス!﹂
﹁は?﹂
ヘルマンさんが何故か、銀色の目を見開いた。
﹁ベベホンタスという名前はどうでしょう﹂
﹁べべ⋮⋮ホンタス⋮⋮?﹂
我ながら、素敵な響きだ。
意味は特にないのだが、勇者のような素晴らしい名前だと思え、
満足して繰り返した。
﹁ベベホンタス﹂
﹁さ、左様でございますか、あの、斬新に存じます﹂
﹁ありがとう! 良い名前でしょう? いい子ね、ベベホンタス﹂
ヘルマンさんに微笑みかけ、大きな犬の顔を覗き込んだ。
黒い毛並みの勇猛そうな犬は、一瞬グルルとのどを鳴らし、また
そっぽを向いてしまった。
247
29
﹁おい﹂
小さなモロダスが、ヴィルの足元でチョコチョコと走り回ってい
る。その後ろにはおばあさん犬のローサが悠然とお座りをしていた。
﹁閣下がお前に犬を連れて来てやれと仰せだから、屋敷から連れて
きたぞ。ほら﹂
﹁わぁ﹂
長靴に飛びつくモロダスを、シュネーを抱いていないほうの腕で
抱き上げた。
﹁モロダス、お留守番させてごめんね﹂
モロダスがキュウキュウと鼻を鳴らす。顔を毛にうずめると、フ
カフカで不思議ないい匂いがした。
﹁ローサもありがとう。モロダスの面倒を見てくれていい子ね﹂
頭をなでると、お座りをしたまま尻尾をふさふさと雪の上で振り、
ローサが目を細める。
﹁犬屋敷みたいになったな﹂
ヴィルヘルムがちょっと笑った。
﹁うれしいわ、寂しかったから。ねえ、私、しばらくここに居なき
ゃいけないの?﹂
﹁ああ﹂
ヴィルヘルムがそう言って﹁犬小屋はあっちだとさ﹂と言って自
分に背を向けた。
﹁モロダスは大きくなったから、犬小屋で大丈夫かしら﹂
﹁閣下はローサが居れば問題ないとおっしゃっていた﹂
﹁そう﹂
ピョンピョン跳ね回るモロダス、悠然と歩くローサを連れて、ヴ
248
ィルの背中を追う。
そういえばずいぶん大きくなったなぁと思う。
昔は﹃おチビさん二人﹄なんて言われていたのに⋮⋮。
お姉様の自分を置いて一人だけ背が伸びて、剣も教えてもらって、
立派な騎士様になってしまった。
﹁ねえヴィル﹂
﹁何だよ﹂
﹁私も剣の修行しようかな﹂
今、危険な状態なのだと思う。何回も賊が家に押しかけてくるな
んて。
自分が何の役にも立っていないことは良く分かるので、少しは身
を守れるようになりたいな、と思うのだ。
王都でも名うての騎士だったヴィルなら先生に適任ではないだろ
うか。
﹁無理だ﹂
振り返りもせず、ヴィルが言った。なんで頭ごなしにそんなこと
を言うのかと思い、彼に追いつこうとしたら、氷を踏んで見事につ
るんと転ぶ。
﹁いたた⋮⋮﹂
﹁走るなよ、どんくさいんだから﹂
ヴィルがすいすいと氷の上を歩いて、転がってじたばたしている
自分を起こしてくれた。
﹁ありがとう、もう嫌、私、氷の上をうまく歩けなくって﹂
そう言ってヴィルを見上げた。相変わらず不機嫌な顔をしている。
結婚したからずっと不機嫌で、おめでとうを言ってくれないのも
相変わらずだ。
﹁もう夕方だ、さっさと来い。お前も飯炊きの手伝い位しろ﹂
249
﹁そうねぇ﹂
確かにその通りだと思い、ヴィルに腕を引かれながら頷いた。
﹁旦那様のお夕飯を作らなくっちゃ。お昼も作ったのよ。すごく美
味しいっておっしゃって下さったわ﹂
﹁ふうん﹂
﹁何を作ればいいかなぁ﹂
﹁俺に聞くな﹂
ヴィルは何の助言もしてくれず、不機嫌な表情のままずんずん歩
いてゆく。
可愛くない。もしかしたら自分がぐずでイライラしているのかも
しれない。
ヴィルも尊敬しているであろう旦那様の、素敵な所などを話して
あげたら、彼も楽しそうな顔をするだろうか。
﹁あのね、旦那様がすごい犬を拾ってきたのよ。旦那様はとっても
動物にお優しいの! 私、動物に優しい人がやっぱり好きだなぁ。
それでね⋮⋮﹂
﹁ほら、犬舎についた。犬をつなげ﹂
話を遮られ、突き放されたような気分になって、しぶしぶうなず
いた。
﹁うん⋮⋮﹂
モロダスとローサを空いている杭に繋ぎ、頭を撫でて犬舎を後に
する。
ヴィルの不機嫌さに違和感を感じ始めた。
この子は、ここまで意地悪だっただろうか?
﹁ねえ、旦那様のお食事何がいいと思う?﹂
﹁知らない﹂
相変わらず振り向きすらしない。
﹁うぅ⋮⋮﹂
250
だんだん腹が立ってきた。
﹃知らない﹄﹃やめろ﹄しか言わないなんてちょっと意地悪すぎ
ると思う。
﹁ね、さっきの話だけど、私も剣を習いたい。だってここ物騒なん
だもの。貴方上手なんでしょう? 教えて頂戴よ﹂
﹁嫌だね﹂
﹁何でよう、どうして何でもかんでもダメって言うの?﹂
﹁別にお前が訓練しても意味がないから﹂
﹁むぅぅぅ﹂
腹が立ちすぎて涙が出てきた。
﹁なによ!冗談で言ってるんじゃないのよ! 旦那様の足手まとい
になりたくないの、わたし﹂
しかし、ヴィルには無視された。
よろよろと氷の上を歩いて追いつき、ヴィルの顔を覗き込む。
﹁⋮⋮何を怒ってるのよ、さっきから﹂
﹁怒ってない﹂
ヴィルが目をそらし、機嫌の悪いときの低い声で言った。
﹁お前は、何のために俺が強くなったと思ってるんだよ﹂
﹁え?﹂
何のためにって⋮⋮。
﹁そんなの、お兄様を守るためでしょう? それ以外なにがあるの
?﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだな﹂
251
頷き、ヴィルは自分を無視してさっさと砦に入ってしまった。
変な態度だ。
剣も教えてくれないし⋮⋮。自分を鍛えてくれてもいいのに。
釈然としない気持ちを抱え、砦に戻った。
﹁何なのかしら。寒いから機嫌悪いのかな﹂
あまり考えても仕方がない。いきなり田舎に連れてこられて、つ
まらないのかもしれないし。
さっきヴィルに言われたとおり、旦那様のお食事を作ろう。でも
厨房のおじさんの邪魔にならないようにしないと⋮⋮。
﹁国王陛下﹂
栗色の髪をした長身の青年の声に、ジュリアスは顔を上げた。
カルター王国第二の権力者である、マイヤー大公家の嫡男・アド
ルフの姿を認め、ジュリアスは愛想の良い微笑みを浮かべる。
﹁ご足労いただいて申し訳ない、アドルフ君﹂
﹁いえ、あの⋮⋮﹂
端正な、育ちの良さそうな顔を赤らめ、アドルフと呼ばれた貴公
子が首を振った。
﹁心からのお礼を申し上げたくて。陛下、親同士の決めたリーザ姫
252
との婚約を見送りにしてくださって、ありがとうございました﹂
﹁はは、うちの妹がそんなに嫌だったかな﹂
思わず漏れた本音だが、アドルフは驚いたように首を振る。
﹁い、いえ、そのようなつもりで申し上げたのではございません!
リーザ様が評判と違う、気立てのお優しい姫君であることは存じ
上げております、ただ﹂
﹁ただ?﹂
ジュリアスが、人当たりの良い笑顔のまま相槌を打った。
だが、目の芯が笑っていない。彼に極めて近しい人間であれば﹃
ジュリアスはまた何かをたくらんでいる﹄と言いかねない表情だ。
﹁あの、私は身分違いと蔑まれようと、使用人の娘だったマリアを
十七の歳から愛しておりました。マリアとの間に三人も子を授かり、
その家庭を壊したくありませんでした。両親からも、親族からも、
マリアとの関係を続けるのは愚かだと罵られましたが、マリアは私
の妻であり、子供たちの母です。リーザ様をお迎えしたら、きっと
リーザ様もマリアも、愛する娘たちも傷つけることになったでしょ
う。過ちを続ける私をお許し下さった陛下に、本当に心から感謝し
ております﹂
その言葉を聞いて、ジュリアスは不思議と満足そうに微笑んだ。
おおやけ
﹁そう。やっとご両親に結婚を認めてもらえたそうだね、おめでと
う﹂
﹁家督を継がぬことを条件に、やっとマリアと公に一緒になれまし
た﹂
幸福そうに、アドルフ公子が言う。
﹁優秀な君という跡継ぎを失って、ご両親もさぞ気落ちしている事
だろう﹂
﹁いいえ、弟も、妹の夫も優れた若者です。私の穴を見事に埋めて
253
くれることでしょう﹂
﹁そうか﹂
ジュリアスが白い手袋を嵌めた指を組み合わせ、顎をその上に乗
せた。
﹁前にも言ったことだが、君にはいつか、色々と難しいお願いをす
るだろう﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
アドルフが、幸せに緩んだ頬を引き締め、真顔になって頷いた。
﹁祖父の失政で、王家への評価は地に落ちている。父が地面から拾
い上げ、私が必死で引きずり上げている最中だが、元のような王家
に戻るにはまだ時間がかかる﹂
﹁存じ上げて⋮⋮おります﹂
﹁おそらく、私は長くこの地位にはいられない。その日が来たら君
に代行を頼むよ、アドルフ。リーザの産んだ子が王の位に付ける年
齢になるまで﹂
ジュリアスが、軽い口調で言った。
王の地位に長くいられない⋮⋮アドルフが何度尋ねても、ジュリ
アスはその理由を濁す。
だが、確定的な口調から、それはほぼ変えられない未来なのだと
アドルフは悟っていた。
﹁大義のためなら、命は惜しくない﹂
﹁陛下?﹂
ジュリアスの紫紺の瞳が、その色を濃くした。
何らかの熱狂に浮かされたような口調で、ジュリアスが続ける。
254
﹁氷の神が自分を呼ぶという感覚を、私は初めて理解した。母も恐
らくこの声に呼ばれ、父のために命を使い果たしたのだろう⋮⋮ア
ドルフ、君に重荷を負わせることを心から申し訳なく思うが、君な
ら信頼できると信じている﹂
﹁ああ、くそ﹂
頭を掻きむしり、広い大浴場でざぶざぶと頭から湯を被った。
︱︱リーザ、俺はお前を守りたくて強くなったんだ! まあ公式
的には陛下のお為だけどな!
︱︱ああそうだよ、頼まれずにやったことだよ、お前にとっては
夜中に便所に一人で行けないチビの餓鬼のままかもしれないけど、
俺にとっては違うんだ!
言える訳がない。
幸福な人妻になった王家の姫様に、自分の虚しい片思いなんて一
方的に押し付けられない。
体をかきむしられような口惜しさと虚しさを感じた。
身分も立場も釣り合った、立派な夫に抱かれ甘い声を上げている
リーザ。彼女は永遠に自分の手には入らない⋮⋮。
そう思うと同時に、ぞくりと背筋に何かが走る。
255
何故、悲しいのに気持ちがいいのか!
思わず自分の肉薄めの身体を抱きしめた。
その時引き戸が開いて、素晴らしい体格の男が一人入って来るの
が見えた。
﹁あれ?﹂
閣下の副官、ヘルマンだった。
﹁ヴィルヘルム君か、ちょうど会いたいと思っていたところなんだ﹂
別に誰にも会いたくはない。
今自分は、最近覚醒した新しい概念に困惑しているところだ。
慌てて背を向け、しつこく顔に湯をかける。
﹁なあ、ヴィルヘルム君は閣下の護衛が仕事なんだろう﹂
﹁ああ﹂
つっけんどんに答え、またしつこく顔にお湯をかけた。
どこかへ行けと思う。
失恋をかみしめつつも変な快感を感じている姿なんか、だれが人
に見られたいものか。というか、見ないほうがいいと思う。
﹁イヤ、君と一度話してみたかったんだよ、失礼﹂
ヘルマンの巨体が湯に沈む。一気に水位が上がった。ほんとうに
あの体が羨ましい。
﹁あのさ、きみ、よかったら俺のところに来ないか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何の話だ。
256
﹁君が素晴らしいのは良く分かった。正直に言おう、一目ぼれだ。
閣下は好きにしろとおっしゃっている。どうだ? 悪いようにはし
ない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁僕は君が欲しい﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁なぜ黙ってるんだ?﹂
なぜ黙る、だと?
答えは自分の行動を見ればわかるはずだ!
浴槽の隅っこに逃げ、うずくまって震えているこの俺、黒騎士ヴ
ィルヘルムの情けない姿を⋮⋮!
童貞なのに処女じゃなくなるとか本当にふざけるな! どうか助
けてくれ!
そう思って歯を食いしばる。
﹁いやー、それにしてもいい男だねえ、君! いい筋肉だ!﹂
万事、休す⋮⋮ッ!
257
29︵後書き︶
※BLタグなし︵安心︶
258
30
﹁旦那様ぁ﹂
﹁なんだ﹂
﹁あの⋮⋮夜中に二人でお風呂に入れて良いですね、この砦⋮⋮﹂
﹁ああ、うん、温泉を引いてるからな﹂
﹁そうなんですね﹂
リーザが満足そうにいい、薄い寝巻のままぎゅっと抱き着いてく
る。
素直に納得しているリーザには申し訳ないのだが、温泉を引いて
ることなど何の関係もないと思う。
我ながら適当なことを言うおっさんだ。言いくるめられているリ
ーザと合わせて、いい夫婦だと思いたいところだが。
ああ、それにしても、奥さんの言うとおり二人お風呂って、イイ
!サイコー!
人のいない時間にリーザを風呂に入れ、中から鍵をかけて閂もし
て、職場でしっぽり広い風呂を楽しむ、あの背徳感がイイ!
明るい風呂でリーザの真っ白な肌を眺めて楽しめるし、体を洗っ
てやると真っ赤になって恥ずかしがるし、爆発するほど可愛い。
まあ、背徳感と言っても、職場の風呂に入るのは仕方がない事な
のだ。
執務室には泊りの日用の簡素な寝室、寝台はあるが、風呂などな
いし。
家には危険で帰れないのだし。
﹁ああ私、旦那様と結婚してよかったなぁ﹂
259
狭い寝台の中で自分に身を寄せていたリーザが、しみじみと中年
を喜ばせるような事を呟く。
何だか、伝わる優しい温もりと同時に、こびり付いた疲れがホロ
ホロとほぐれていく感じがする⋮⋮。
﹁リーザ、そうか、ありがとうな﹂
絹のような暖かい髪に頬を寄せ、日々癒してくれる礼を言った。
アイシャ族の訊問、ヴィルヘルムが捕獲した賊の訊問は、はかど
っていない。
寒さで下手人の衰弱が激しく、いったん病院に入れた為、何も調
査が進まない。
ちなみにリーザを襲おうとした下手人は、牢に入れっぱなしだが
元気だ。相変わらず何か叫んでいるらしいが。
何もかもが煮詰まっているものの、リーザがいると息抜きになる。
ああ、結婚して可愛い奥さんもらって、本当に良かった。押し付け
に近い政略結婚であったが、本当に幸せだ。
﹁幸せだなぁ﹂
リーザが自分の気持ちと同じ事を、しみじみ呟いた。
﹁どうした、急に﹂
﹁だって毎日楽しいから。それに好きな人といられて幸せ﹂
﹁リーザ⋮⋮﹂
なんだかすごく感極まり、気持ちが盛り上がったが、流石に職場
の泊まり込み用の寝台で妻を抱くのは憚られた。
声が響くのだ、この砦。
部下の多くも寝泊まりしているし。
退職するその日まで﹁将軍様あの時は張り切ってたなぁ﹂とから
260
かわれるだろう、そんなの無理⋮⋮。
﹁旦那様、どうなさったの﹂
いつものように服を脱がそうとしない夫を不審に思ったのか、リ
ーザが可愛らしい顔を曇らせた。
﹁いや、もう寝よう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
最近分かるようになったが、これは不満な時の沈黙だ。
誤魔化すように小さな頭を抱き寄せ、やさしく言い聞かせる。
﹁お前も体調が不安定だろう、休もう﹂
﹁もう元気ぃぃ⋮⋮﹂
リーザがぐずるような声で言った。
やっぱり怒ってる⋮⋮。
﹁だめだ、お休み﹂
そう言って、リーザを抱きしめて目をつぶった。この甘々な態度、
部下に見られたくない。朝は誰かが起こしに来る前に起きて着替え
も済ませよう⋮⋮。
と思った瞬間、素直に反応しているお道具を細い指で握られ、変
な声が出そうになった。
﹁⋮⋮⋮⋮リーザ、今日はダメだ、さ、お休み。私は寝るからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
妻の手が、すごく巧みな技術を披露している。
いっそ、破れかぶれで抱いてしまおうか⋮⋮。
いやダメだ、リーザのあられもない可愛くて淫蕩な声を人に聴か
せたくない!
261
﹁ダメだ、止しなさい。さあ、お休み﹂
﹁はぁい⋮⋮﹂
リーザがプンプンに膨れ、ようやく大きな目を閉じる。
まったく清純な処女だった姫君に、あんな碌でもない手技を教え
たのは誰だ。自分だが。
教えた以上の技術を習得しつつある優等生を抱きしめ、深いため
息をつく。
砦での生活はいつまで続くのだろう。拷問だ。
それに恋すると格好良くなる男と、気持ち悪くなる男がいるが、
たぶん自分は後者だ。
悶々としっぱなしの自分が、正直気持ち悪い。
﹁だんなさまぁ﹂
リーザが甘える声を出したが、心を鬼にして無視をした。
﹁ダメ?﹂
⋮⋮ダメ!
﹁あ、ふふっ﹂
ダメ!
﹁ぁ、はぁ⋮⋮っ、声でてない⋮⋮っ?﹂
﹁出ていないよ﹂
旦那様がそう言って、口づけをしてくれた。気持ちが良すぎて気
が狂いそうだ。
男女の間には体の相性というものがあるらしいが、自分と旦那様
はおそらく最高なのだと思う。
262
声を漏らしそうで、唇を噛みすぎて痛くなってきた。
﹁⋮⋮!﹂
ず、と奥までつかれて、また大声を出しそうになって必死に呑み
込む。
砦の中は真っ暗で何も見えず、自分の匂いと旦那様の匂い、それ
から肌の温もりしかわからない。
﹁奥、ダメ⋮⋮﹂
これ以上責めたてられたらおかしくなると思い、必死でしがみ付
いて訴えた。
だが旦那様は足を閉じさせても下さらず、抜いても下さらない。
自分もまたお腹をすかせた子供のように、旦那様のものに喰らい付
いていて。
﹁やぁっ、奥ダメぇ⋮⋮っ、ダメぇ、へんなこえ、でちゃうっ﹂
﹁聞こえるよ、リーザ﹂
﹁⋮⋮!﹂
慌てて手の甲を噛み、漏れる声を抑えた。
あまり動くと寝台がギシギシいうし、動くのを我慢していると声
が漏れるし、ひたすらに快楽を注がれる拷問を受けているようだ。
気持ちが良すぎて別の生き物になってしまいそうだ、と思う。旦
那様を食いつくす、何かおぞましくも甘ったるい蛇のような生き物
に。
﹁だんなさまぁ⋮⋮﹂
息を乱して自分を責めたてる、汗に濡れた背中にしがみついた。
﹁だんなさま、すき⋮⋮﹂
263
他に言葉も思い浮かばず、達して体をこわばらせる旦那様の腰に、
ぎゅっと足を巻き付けた。いつものように、お湯がじわじわとお腹
の奥で広がるような感じがした。
何回も一人でいかされて寂しかったけれど、ようやく一つになれ
た感じがする⋮⋮。
しばらく何も言わずに濡れた体で抱き合い、息が落ち着いたころ
に旦那様に尋ねた。
﹁あの、声出てなかったですか?﹂
﹁うーん﹂
旦那様が声を曇らせた。
もしかして言いつけを破って、とんでもない大声を上げていたの
かと思い、恐ろしくなって起き上がる。
一糸まとわぬ肌に、暖房では抑えきれない冷気がまとわりついた。
﹁冗談だよ、静かだった﹂
旦那様の笑いを含んだ声が聞こえた。
暗くて見えないけれど、きっとあの素敵な、いたずらっぽい笑顔
を浮かべておいでなのだろう。
﹁もう!﹂
吹き出した旦那様のわきに再びもぐりこみ、抱き付いて目を閉じ
る。
﹁からかわないでください、旦那様。びっくりしました。おやすみ
なさいませ!﹂
264
ああビックリした、冗談抜きでビックリした。
童貞のくせに処女喪失の危機にさらされるのかと思って昨夜は死
にかけたが、閣下の部下の若い男前⋮⋮ヘルマンが言うには、ただ
単に彼が責任者を務めている警邏の仕事を手伝ってほしい、それだ
けの話だったらしい。
思わせぶりすぎるわ! そう怒鳴りたい気分だが、まあ自分も考
えすぎた。
最近自分が童貞であることを悩みすぎていて、何を聞いてもシモ
の話題に切り替わっているような気がする。
大丈夫なのだろうか⋮⋮。
早く娼婦を買ったほうがいいのだろうか⋮⋮。
とにもかくにも身支度を整え、食堂に置いてあった朝食の残りを
かっ込んで、副官ヘルマンの部屋を訪れる。
﹁ああ、ヴィルヘルム君! おはよう﹂
彼の部下らしき、がっしりした男たちが振り返る。
ヘルマンはずいぶん若いようだが、この砦では要職を見事勤めあ
げているらしい。
まあ、あの鋼のごとき肉体を見れば、彼の戦いぶりも想像できる
が⋮⋮。
265
﹁おはようございます﹂
別に﹃休暇中﹄に﹃滞在先の主の仕事を手伝うな﹄とは言われて
いない。ある程度頭を使って動けというのが、陛下のお気持ちだろ
う。
陛下⋮⋮。
リーザも心配だが、陛下も心配だ。
あの方の事を思うと、遠く離れたこのローゼンベルクに居ること
がもどかしい。
だが、陛下の事は、精鋭の諸先輩方がしっかり守ってくれるはず
だ。
自分の目から見ればイマイチ腕が足りない先輩方もおられるのだ
が、ここは、信用するしかない。
﹁みんな、紹介しよう。今日から仲間になる、ヴィルヘルム・アイ
ブリンガー君だ。リーザ王女のご降嫁に随行し、こちらにおいでに
なった優秀な騎士だ。リーザ様は砦で保護することになったので、
ヴィルヘルム君には我々の仕事を手伝ってもらおう﹂
ヘルマンの言葉に、皆が一斉に振り返った。
﹁ほう﹂
﹁優秀な騎士⋮⋮﹂
変な宣伝をするな。上げ底されると化けの皮が剥がれた後がきつ
いだろうが。
そう思って、皆から目をそらす。
ああ、男ばかりのむさ苦しい場は苦手だ。すぐ女とヤったのなん
のと、そういう話になるからだ。余計なことを口走って童貞バレし
たくない。話しかけられたくない。
266
この秘密は生涯誰にも知られたく⋮⋮何を考えている。生涯清い
体で居るつもりか。落ち着け、落ち着くんだヴィルヘルム⋮⋮!
﹁どうも。よろしくお願いします﹂
素っ気なく言うと、ヘルマンが笑いを含んだ声で言い添えた。
﹁このように、彼は自信家だ。もちろんその自信に見合う実力を俺
はこの目で見たぞ。皆も帝国の騎士から色々学ぶようにな﹂
目立ちたくないのに失敗した⋮⋮。変な誇大広告は、本当に困る
から止めて欲しい!
267
31
﹁⋮⋮旦那様﹂
吹雪に打たれながら、ミラドナはつぶやいた。
ミラドナの、特異な肉体に特異な能力。
氷神の巫女として生まれた彼女には、時折、偉大なる神の声、祖
先の霊の語り掛けが聞こえてくる。
けれど、彼女がこの世で一番愛した、夫の声は聞こえない。
ミラドナは、わが子より、孫より、夫を一番愛していた。
けれど、100まで生きてほしい、絶対に自分を置いていかない
でくれと願った人は、朝起きた時に冷たくなっていた
苦しみも痛みもない、眠るような死でよかった。子にも孫にも恵
まれ70まで生きたのなら大往生だ。
友人も子供たちも、皆そう言って彼女を慰めたけれど、彼女の救
いにはならなかった。
葬儀を終えて夫を見送り、ミラドナが何の迷いもなく首を掻っ切
って後を追おうとした瞬間。
氷神の意思がミラドナに降りてきた。
︱︱世界に広がりつつある﹃炎﹄を消せ、と。
だから彼女は死ねなかった。
﹁旦那様は私にいつも、﹃お前は己の力を過ぎた事ばかりしたがる﹄
と仰っていましたね﹂
ミラドナを乗せた氷獣が、きゅるるる、と澄んだ声で鳴いた。
レヴォントリ街道の果てが見える。
もうすぐ、永久凍土の故郷にたどり着く。
268
﹁氷神様のお声を聴くというのは、この命を、凍てつく平和のため
に使い尽くす定めを負うこと。どうか力弱い私を、永久の氷の底か
ら見守っていてくださいませ、旦那様⋮⋮﹂
凍った涙を振り払い、ミラドナは顔を上げた。
迷いの影も悲しみの跡も、彼女の顔からはすっぱりと消え果てい
た。
どの時期を見計らって病院から犯人たちを移送しようか。
病院に入れていることは伏せている。もし仮に、移送が漏洩した
場合の特定経路がどうなるかを、ヘルマンに確認させねば。内部に
密偵がいるならついでにあぶり出す予定だ。
それからアイシャ族が反省のそぶりももせず、氷青石の鉱石を定
価でいいから売れと言ってきた。
最近アイシャ族が、あの氷青石の採れる山に異様なこだわりを見
せ、﹃先祖代々の神の山である氷青石の鉱山をお前らが奪ったんだ﹄
だの、﹃石を安く売れ﹄だのと因縁を吹っかけてきているのを思い
出す。
︱︱なので、今回の素直な態度が正直気持ち悪い。
担当の技官に、氷青石の国際価格がいきなり吊り上がったり、氷
青石を用いた新しい技術開発がなされていないかを確認させよう。
もちろん氷青石は、アイシャ族が土下座して侵略を謝罪し、賠償
269
金を全額払い終えるまでは取引しない。
ギルド
爪のかけらほどの鉱石すら、彼らには売らない。
それを宝石卸の協会に徹底させねば。
あとは母が口走っていた、火薬の研究所の創設の話。
どこまで誰が何を知っているのか。王立大学に使者を派遣し、詳
細を報告させよう。
エリカ・シュタイナー博士が何をどこまでどうやって開発し、ど
のような状況で亡くなられたのか。事前に分かる情報はすべて握ら
ねば。母からの提供を待っていたらまたネチネチ説教される。
警邏隊の装備も見直しだ。鋤・鍬・竹ぼうきで捕り物をしている
末端の隊員にまともな武器を使わせる必要がある。
まあ彼らは農具で戦わせた時が一番輝いているのだが。
他にやることは⋮⋮。
﹁ハーイ旦那様ぁ! お昼お持ちいたしましたぁ﹂
はっ、と我に返る。
リーザとヴィルヘルムを砦に連れて来て一週間ほど。
愛妻は文句も言わず、王宮と比べれば無骨一辺倒の暮らし難い場
所で、大人しく可愛らしく、夜は淫乱に過ごしてくれている。
﹁おお、ありがとう﹂
鬼の形相のままこわばった顔を慌てて揉んでほぐし、立ち上がっ
た。
独身の長すぎた自分は、いまだに家庭と仕事の切り替えが苦手の
ようだ。
﹁魚﹂
﹁お、おお、魚か⋮⋮﹂
また同じ魚。皿の上がすっかすかな昼飯が運ばれてきた。
270
リーザはどうやら、魚を釣って油で揚げて、旦那に昼飯として食
わすのが、ここでの己の使命だと思い込んだようだ。
今日は、3匹⋮⋮。
小指くらいの氷魚が3匹しか釣れなかったらしい⋮⋮。
﹁お魚、あんまりいませんでした﹂
残念そうにリーザが言う。
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁あとお芋です、旦那様﹂
﹁おお、芋も﹂
2個⋮⋮たぶんリーザは芋の皮むきが嫌いなのだと思われる。
﹁あと、キノコのスープ﹂
﹁リーザの得意料理だな﹂
﹁ハイ!﹂
具はキノコだけだ。
美味しいのだが⋮⋮。
毎日、頑なに変わらない献立だった。これしか作れないのだろう。
もしかして遠まわしに﹃でかすぎるから縮め﹄と言われているのか
もしれない。
だが、あえて言わせてもらうなら。
︱︱ねえ、奥さん! ちょっと工夫しようよ!
別に毎回お魚釣らなくていいよ!
芋の皮むきも苦手だったら、皮ごと大量に茹でてくれたほうがい
いの!
おっさんはそんなの気にせずバリバリ食うから!
⋮⋮⋮⋮。
271
やっぱり言えない。
シュンとされると、何故かおっさんが泣きたくなりそうなので言
えない。
﹁美味しい?﹂
﹁ああ、美味いよ﹂
子犬のエサほどの量の料理を謹んで受け取り、笑顔で口に押し込
む。
食べてる途中で腹が減ってきた。
今日も台所で焼き肉の残りでもかっぱらってくるしかないだろう。
忙しいし腹減るし、内心泣きそうだ。
﹁旦那様ぁ﹂
﹁ん?﹂
﹁お魚飽きましたねぇ﹂
﹁!﹂
大変な好機が突然訪れた。
昼飯を腹いっぱい食える好機が!
いや、落ち着けレオンハルト。焦るな、焦るな⋮⋮。
﹁そうだな﹂
威厳を保ったまま、重々しくうなずく。
﹁でもお魚しか採れないの﹂
⋮⋮だから君が採らなくて良いんだよ!
いやダメだ、頭ごなしにそんなこと言ったら泣いちゃうかもしれ
ない。
リーザが素直に聞くように話をしなければ。
272
﹁そうか、そうだなぁ、うちの砦には、厨房係がいるだろう? 白
い帽子をかぶった男だ。彼に食材を分けてもらうといい。代金は私
に請求してくるだろうから﹂
﹁白い帽子⋮⋮﹂
ぼんやりとリーザが首を傾げ、しばらくしてコクリとうなずいた。
﹁そうなんですねぇ。私もお魚じゃお腹が膨れないなぁ、お肉が食
べたいです、頂けるか頼んでみますね﹂
よし⋮⋮!
明日からは昼飯を腹いっぱい食える⋮⋮!
﹁ベベホンタス︱!﹂
お皿に顔を突っ込み、何かをむしゃむしゃ食べているベベホンタ
スに声をかけた。
あの勇猛そうな素敵な犬と仲良くなりたい。
いつもつんつんしていて怖い顔だが、きっと優しい、いい子だと
思う。この前は小さなモロダスを舐めてくれたし。
﹁ベベホンタスちゃん!﹂
﹁グルル⋮⋮﹂
唸り声をあげ、黒く輝く毛並みをしたベベホンタスがプイとそっ
ぽを向く。
毎日声をかけているけれど、なかなか仲良くしてくれない。見た
目通り、強く気高い性格なのかもしれない⋮⋮。
﹁はい、毛を梳かしてあげる﹂
273
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
持ってきた大きなくしで、見事な毛をくしけずってやる。ベベホ
ンタスは興味が無いように、ずーっと自分と違うほうを向いていた。
﹁あなた、旦那様にこの近くで拾われたんですって? 昔はどこに
いたの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あら?﹂
もさもさの毛を持ち上げて気づいた。
毛に埋もれて気づかなかったが、ベベホンタスは首輪をしていた。
たぶん、だれも気付いていないだろう。冬毛の間はだれにも見え
なかったに違いない。
﹁まぁ、きれいな飾り﹂
首輪に、小さな飾りが括りつけられていた。薄水色の宝石の周り
を、銀の糸のような細工がつつんでいる。なんて綺麗な石だろう。
高価な宝石と違って濁りや内包物があるが、天然の石という感じが
する。
どこかで見たような石だ、と考え、思い出した。
﹁あら、これは、氷青石なのね⋮⋮﹂
氷青石⋮⋮?
そんな名前なのだろうか。
自分は、この石の名前を、何故知っているのだろう?
裏を返し、刻まれた銘を確認する。﹃愛する妻、ミラドナへ﹄と
刻まれていた。
﹁え? おかあさまの?﹂
その瞬間、ずきりと頭が痛んだ。
274
﹁⋮⋮ッ!﹂
思わずこめかみを抑え、ベベホンタスの傍らに蹲る。
なんだろう、頭がくらくらする。こんな風に頭が痛くなったのは
初めてだから怖い。
そっぽを向いていたベベホンタスが、くるりと自分のほうを向い
たのが分かった。きりりと引き締まった顔が、二重にぶれて見える。
頭が痛い、目が回る⋮⋮。
あまりの気分の悪さに歯を食いしばった瞬間、はっきりと声が聞
こえた。
﹁忘れてくれ、リーザ。私が全て、お前の代わりに覚えておくから﹂
お兄様の声、だ。こんな場所に、居るはずはないのに⋮⋮。
﹁おに、い、さま⋮⋮エリカ、はかせ⋮⋮の⋮⋮﹂
体を支えることが出来ず、ベベホンタスの大きな体にしがみつく。
激しく吠え立てる声が、だんだんと遠ざかって行った⋮⋮。
275
31︵後書き︶
第三章:完
276
32
エリカ・シュタイナー博士の死によって、開発された新型火薬の
平和活用への道は大きく後退した。
彼女の自死を英断だったと言うものも、逃避だというものも、そ
して損失だというものもいた。
つまり、若い女の死を誰も悼むことはなく、利害でのみ﹃その出
来事﹄は語られたのだ。
国王ジュリアスに博士の死の一報が届いたのは、一年前。
博士の活動を支援していた王はその知らせに動揺し、急ぎ﹃博士
の研究の遺物﹄を提出するように大学に指示を出した。
受領した膨大な量の資料はすべて王宮の書庫に死蔵され、堅牢な
鍵によって封印されたという。 すでに火薬の存在を察知していた
列強は、ジュリアス王の行動を激しく非難したが、博士の遺産が再
び紐解かれるのは、管理委員会が正式に発足し、火薬の安全な利用
と開発に関する国際協定が、確かなものになってからだ⋮⋮と王は
宣言した。
列強は表向きその表明を受け入れ、委員会の構築を急いだ。
だが⋮⋮。
﹁警備の兵がみな息の根を止められております﹂
ため息をつき、騎士の一人が言った。
火薬の大量の資料は、残らず奪われたのだ⋮⋮。
﹁そうか﹂
ジュリアスは顔色も変えず、横たわる警備兵たちの頬に触れ、そ
の冥福を祈る。一人一人に対し、同じように祈りの仕草を繰り返し
た。
277
﹁陛下、王宮に手引きのものが﹂
﹁ああ、もう居るだろうね、王家に見切りをつけた人間だろう。心
当たりがありすぎる﹂
猫でも侵入したかのような軽い口調で言い、ジュリアスがゆっく
りと立ち上がる。
﹁私を背中から斬ろうとする人間か。誰だろうな⋮⋮だが一つ言え
ることは、売国奴に未来はない、と言うことだ。裏切りを教唆した
人間は、裏切り者を必ず切り捨てる。残酷な形でね﹂
ジュリアスの紫紺の瞳に暗い影がよぎる。
﹁愚かな話だ。人の手に余る炎を、己の口に甘い蜜だと錯覚するな
んて﹂
﹁陛下?﹂
﹁なんでもない﹂
手袋を嵌め直し、ジュリアスがゆっくりと歩きだす。
王と騎士たちが去った後、後片付けを名乗り出て残った一人の中
年の騎士が、舌打ちをして顔をゆがめた。
﹁あの、クソ王め、俺に聞かせたつもりか!無能な先王の、愛人の
息子の分際で⋮⋮!﹂
︱︱裏切りを教唆した人間は、裏切り者を必ず切り捨てる。残酷
な形でね。
その言葉が、中年の騎士の心を激しく動揺させた。
そんな事はないはずだ、あの国は、自分に報酬と地位を約束して
くれた。自分にそう言い聞かせながら、賊の手引きをした裏切り者
の騎士は、流れ落ちる汗をぬぐった。
278
﹁どうしたんだい、ヴィルヘルム君﹂
﹁いや、別に﹂
﹁元気がない﹂
ヘルマン殿は基本的に男に対して距離が近いんだよ!
何だか知らんが俺が妙な誤解をするから止めろ!
あと風呂に一緒に入りたがるのもやめてくれ!童貞のまま処女で
なくなる事だけは断じてごめんなんだ!
そう思って、ヘルマンの精悍な顔から目をそむける。
﹁奥方様の事か。慣れない環境でお熱を出されただけだろう。番犬
が吠えて知らせてくれたから、お倒れになってすぐに見つかってよ
かったな。もう熱もだいぶん下がったと聞いたが﹂
﹁うーん﹂
あいまいに頷き、もう一度己の思考に沈み込む。
やっぱりおかしい気がする。
リーザの態度に、若干の違和感を感じるのだ。まあ、新婚で、こ
う、愛する夫に⋮⋮愛する夫に甘えて、女の幸せを感じまくって頭
のネジが飛んだのかもしれないが⋮⋮。
﹁そうですね﹂
﹁そうだよ。ゆっくりお休みいただけばすぐ回復する。さ、うちの
新兵たちに、君の模範武技を見せてやってくれ﹂
279
ヘルマンに背を抱かれ、何で背を抱かれるのかという強烈な危機
感を抱きながら、ゆっくりと歩き出す。自分がリーザに抱く違和感
は、小さなものだが寄せ集めればいっぱいある。
あんなにこだわっていた爆弾作りを、ほとんどしたがらない事。
子供のようにおとなしく、言われた事しかしない事。喧嘩をしたと
はいえ慕っていた兄上、それから良くしてくれる姉上方に頼りの一
つも出そうとしない事⋮⋮。
自分はリーザが爆弾作りで使っていた資料をほとんど見た事がな
い。興味がなかったからだ。
けれど王宮のリーザの部屋には、ひとかどの学者のようなすさま
じい量の資料があった。
リーザは全身全霊あの研究に打ち込んでいたのに、なぜ、未練な
く投げ出してしまったのだろう。もちろん個人的には人妻が爆弾研
究に没頭するなんて反対だが、あまりにも諦めが良すぎる。﹃旦那
様の役に立つ爆弾﹄とやらを作りたかったのではないのか。これか
らだって必要になるものだろうに。作って欲しくはないが。
﹁あいつ、陛下に手紙も書いていないし⋮⋮陛下⋮⋮﹂
国王ジュリアスの、優美な顔が脳裏をよぎる。
得体の知れぬ不安が込み上げてきた。
この不安はヘルマンがやたらベタベタするから感じているもので
はない⋮⋮と思いたい。当然、陛下に関することだ。
当然、警護の諸先輩方は気づいているだろうが、深夜国王を襲う
なんて手引きがいなければ無理だ。近衛に暗殺者、もしくはそれを
手引きするものが居るのだろう。
泳がせているのか、それとも尻尾をつかみきれないのか。今、陛
下の周りで何が起きているのだろう。
280
﹃お前は大学に行くのは初めてか﹄
部屋から自分を引っ張り出したお兄様の言葉に頷き、その顔を見
上げた。
﹃私、外に出かけていいの?﹄
﹃私が同伴するときなら許可されるに決まっているだろう? 本当
に融通の利かない子だ。王の妹として、未来のカルター王国を担う
優秀な人材とは、ぜひ交流してほしい﹄
兄がちょっと笑い、黒い上着をきっちりと着込んだ。
﹃きょうはおしゃれなのね、お兄様﹄
﹃⋮⋮余計なことを言っていないで、侍女を呼んで着替えをしなさ
い﹄
﹃はあい﹄
侍女に髪を梳かれながら、兄を見上げる。
いつものお兄様だ。黄金の髪を撫でつけ、一部の隙もない服装を
なさっている。
﹃おいで﹄
侍女にされるがままにドレスを着せられ、兄に連れられ馬車に乗
った。
お兄様がいると、侍女たちも愛想がいい。お兄様は侍女たちのあ
こがれの的なのだという。自分にとっては、ただの口うるさい肉親
だが⋮⋮。
﹃ここが大学なの?﹄
﹃ああ、そうだ﹄
﹃すごいわ、若い人がたくさんいる﹄
自分の言葉に兄が吹き出し、腕を引いて歩き出した。
281
﹃それはそうだ、若い人間を集めて勉強をさせる場所だから﹄
護衛の人たちと連れ立って、大きな建物の中に入った。
並んでいた偉そうなおじさん、おじいさんが、お兄様に頭を下げ
る。
しばらくして、若い女の人が引っ張り出されてきた。
いつもの自分のような汚れた服を着て、髪を短く切っている。
﹃ああ王さま、こんにちは﹄
女の人がそういった瞬間、皆が一斉に女の人をしかりつけた。
﹃エリカ博士!﹄
﹃御前だぞ!﹄
﹃何という口の利き方だ!﹄
﹃⋮⋮あ、すいません。そうでしたね陛下、ようこそおいで下さい
ました﹄
女の人が、叱られることをものともせず、兄の背後に隠れてきょ
ろきょろしていた自分のほうを見て言った。
﹃うわ、美少女、その子がお姫様ですか?﹄
﹃ええ、そうです﹄
兄が笑顔でうなずく。
自分もおずおずと、自信に満ちた博士に微笑み返した。
博士のくすんだ緑の瞳が、自分をとらえてキラキラと輝いた。あ
んなにうれしそうな笑顔を、女の人に向けてもらったことはなかっ
た。今でもはっきりと覚えている。
エリカ博士が生きていらしたころは、みんな笑顔でよかったなぁ
と思う。
お兄様はいろいろな問題を抱えるようになってから、ほとんど笑
わなくなってしまったし⋮⋮。
博士がどこにも居なくなってしまって、噴水爆発事件が起きたと
きに、色々決めたんだと思う、お兄様は。
282
どうして、お兄様の事を思い出すんだろう。
そうだ、手紙の返事を書かなくてはいけないからだ。
お兄様が自分を心配しているなんて、当たり前の事なのに。
でも手が動かない。
紙があるのに字が書けない。
どうしてお兄様に手紙を書けないの?
﹁リーザ﹂
まって、手紙を書いてしまうから。お返事をいただかないと何だ
か安心できないから。
﹁リーザ、大丈夫か﹂
⋮⋮旦那様?
びっくりして目を開けると、もうあたりは真っ暗だった。室内の
薄明かりの中、旦那様の銀色の髪が光の滝のように浮かび上がって
見える。
﹁⋮⋮?﹂
﹁番犬の所で倒れているのを、うちの若いのが見つけて運んで来た
んだ。やっぱり大丈夫じゃないようだな、心配した﹂
言われて、体が痛くて、気分も悪い事に気づく。頭もずきずきす
る。
﹁医者は風邪だと言っている。熱があるから休んでいなさい﹂
﹁ね⋮⋮つ⋮⋮﹂
声を出した瞬間、咳が止まらなくなった。旦那様が抱き起して背
中をさすってくれ、水の入った杯を口元に当ててくれた。
﹁ほら、これと薬を飲んで。食事はいるか?﹂
283
﹁いらない⋮⋮です⋮⋮﹂
﹁わかった。私はもう少し仕事をして、隣の部屋で休むことにする﹂
旦那様の言葉に頷いた。風邪をうつしてはいけない。
﹁私がお前の毛布を取り上げて寝ていたのかもな﹂
﹁そ、な、こと、ない﹂
喉が嗄れ、声が出ないが、必死に首を振った。旦那様は自分が毛
布を被っていないことはあっても、自分から毛布を取り上げたこと
など一度もない。
﹁あの、かぜ、うつるから﹂
﹁リーザ、さっきも酷くうなされていたよ。この薬を飲んでもう寝
なさい﹂
旦那様がそうおっしゃったので、おとなしくうなずいた。
さっきまで、起きて何かをしなければと思っていたはずなのだが
⋮⋮。
なんだろう?
﹁⋮⋮﹂
苦い薬を頑張って頬張り、旦那様にもう一口、二口水を飲ませて
もらった。
水を飲むのもしんどくて、ひと苦労だ。全身がだるい。
﹁さ、横になりなさい﹂
旦那様がまめに面倒を見てくれるのがうれしいので、風邪をうつ
さないよう、耳たぶに口づけをする。旦那様が小さく笑い﹁こら、
いたずらするな﹂とおっしゃった。
﹁きがえ、ありがと、ござ⋮⋮ます﹂
﹁普段の服だと苦しいからな、さっき寝間着に変えた﹂
﹁はい﹂
旦那様が全て良いように手当てして下さったのだろう。
安心して微笑みを浮かべ、﹁おやすみなさい﹂と出ない声を絞り
出した。
284
﹁お休み、リーザ﹂
暖かい毛布にくるまれ、目をつぶる。自分は昔から見かけによら
ず丈夫で、風邪の治りも早い。薬のおかげで手足もポカポカしてき
たし、今回もすぐに良くなるだろう。
285
33
﹁もうだいじょ⋮⋮ぶ、かぜ、なお⋮⋮た﹂
長椅子で眠っていた自分を揺り起す気配と、ガラガラの声で目が
覚めた。
﹁ん?﹂
何事だ、と思って目をあけたら、寝間着姿のリーザがいた。
﹁なお⋮⋮た、かぜ、ごめ、なさい﹂
確かに顔色は良くなったが、ひどい声だ。
﹁そうか、心配したぞ、ここでまた無理をしたらぶり返すからな﹂
そう言い聞かせて髪をくしけずって結い直してやり、真っ白な額
に口づけをする。
﹁ありがと、ござ、ます﹂
声がまるで出ないようだ。
﹁本当に大丈夫なのか?﹂
不安になって問い直すと、リーザが深々と頷いた。
﹁だいじょ⋮⋮なお⋮⋮ました﹂
本当に、声だけが出ないならしい。
でも心配だ。
リーザは毎日外に出て、キノコをほじり出したり魚を採ったりし
ているが、冷えるので今日は止めさせねば。
﹁今日は砦の外に出てはいけないよ﹂
﹁はい﹂
素直に頷いたリーザが、細い手を伸ばして自分の額に触れた。
﹁まえがみ、ぐしゃぐしゃ、です、だ⋮⋮なさま﹂
﹁ん?﹂
昨日は枕が変わったので、寝癖がひどいのだろう。
286
﹁水を付ければ取れるんじゃないか?﹂
﹁はい、わか⋮⋮ました﹂
リーザが立ち上がり、いつもの手桶の前で朝の洗顔の支度を始め
た。
本人の言うとおり、体は元気そうだ。ホッとして立ち上がる。
﹁終わったら来なさい、着替えをしよう﹂
リーザはいまだにローゼンベルク風の衣装の着付けを覚えない。
たぶんわざとだ。
夫に着せて欲しいのだろう。
自分もそれが分かっていて、その甘ったれた態度が可愛いので許
している。
そういう意味では息の合った夫婦になってきたかな、と最近思う。
﹁うーん、それにしても私の寝癖はひどいな﹂
触るだけでタワシのように逆立っているのが分かった。
この頭で朝礼に立つのは、さすがにまずい。
寝ぐせが取れないようなら頭を洗おう。
そう思いながらリーザの細い腰に帯を巻き付け、若い娘らしく蝶
のように結ぶ。
﹁さ、今日も一日頑張ろうな、リーザ。少しでも具合が悪かったら
寝るんだぞ﹂
﹁はい﹂
リーザが素直に頷き、何故か勇ましく拳を固めた。
﹁おい、リーザ﹂
287
目の前をフラフラとリーザが歩いていく。犬は足元をチョコチョ
コと付いて行っていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
自分の声に、リーザがくるりと振り返った。
顔色は悪くないようだが。
﹁熱、大丈夫なのか﹂
﹁だいじょぶ、なお⋮⋮た﹂
﹁その声でか?﹂
﹁なお⋮⋮た﹂
﹁まあ、外に出るなよ、今日は。ぶり返すと周りに迷惑だ﹂
リーザが珍しく素直に頷く。
その様子を見て、気になっていたことを尋ねた。
﹁なぁ﹂
﹁?﹂
﹁お前、陛下にお返事を書いたか? まだ書いてないんじゃないの
か?﹂
﹁へんじ﹂
リーザが不思議そうに首をひねった。
やはり、違和感がある。
兄王に手紙を書くだけのことを、なぜこんなに言ってもやらない
のか。
やろうとしても止めてしまうのか。
そして、王宮での暮らしに言及すると、不思議そうな釈然としな
い表情を一瞬浮かべるのか⋮⋮。
﹁あのさ、俺がついててやるから書けよ。お前どうせ書かないんだ
ろう﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁今から書こう、俺は少しなら時間が取れるから﹂
﹁わか⋮⋮た﹂
288
リーザが頷き、チョコチョコと付いてくる。
与えられた自室に入り、備え付けてあった便せんを取り出して、
リーザの手にペンを握らせた。
﹁さ、書け﹂
ここまでしないと、こいつは絶対に投げてどこかに行く。
最近本当におかしいから、最後まで見ていなければいけない気が
するのだ。例によって、根拠のない勘だけれど。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうした?﹂
黙りこくっていたリーザが、紙を見つめて小刻みに震えはじめた。
何か恐ろしいものでも見ているかのように、淡い紫の瞳が焦点を
失い、虚空を睨んでいる。
﹁おい、リーザ!﹂
自分の慌てた声に、リーザががたがたと震えながら呟いた。
小さな白い手から、ペンが音を立てて床に落ちる。
﹁はかせ、うらぎら、れた⋮⋮おにいさ、ま、あぶな⋮⋮い﹂
﹁リーザ?﹂
リーザの言葉に不穏な単語が混じっている。
﹁お兄様が危ないって言ったのか?﹂
﹁あぶな、い、だ、て、博士、ころさ⋮⋮た、あの、博士、恋人、
に⋮⋮けほっ、けほ﹂
咳き込んで自分の胸にもたれかかったリーザを、慌てて抱き留め
る。
﹁な、で、しってる⋮⋮のに、分かって⋮⋮のに、おに、さま、あ
ぶない、のに﹂
﹁リーザ﹂
289
﹁けほ、けほ﹂
リーザが咳き込みながら、顔を上げた。
小さな顔が、涙でぬれている。
だが、淡い紫の瞳は、確かにしっかりと自分を捉えていた。
﹁ね、ヴィル⋮⋮けほっ﹂
リーザの細い指が、黒い上着をぎゅっとつかむ。
顔が、痛みをこらえるように歪んだ。
﹁おに、さま、助けて、おねがい、おに、さま、殺され⋮⋮火薬、
狙う奴が、けほっけほっ﹂
﹁落ち着け、医者を呼ぶか?﹂
﹁いい、だいじょ、ぶ⋮⋮エリカ博士、恋人、レアルデの密偵、博
士、殺された、お兄様も、殺され⋮⋮火薬⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
全身に、冷たい汗が噴き出した。
﹃姉上﹄は何を言っているのか。
一番ジュリアスに近い立場にいた王女は、一体何を。
﹁閣下のところに行こう﹂
﹁⋮⋮っ、いく、つれて、て﹂
﹁わかった﹂
リーザの細い体を抱き上げ、立ち上がる。
腕の中でリーザが、何度も額の汗をぬぐうしぐさを見せた。蒼白
だが、様子は落ち着いている。
その表情は、ぼんやりと甘ったれた人妻のものではなく、見慣れ
た昔のリーザのものに見えた。
290
﹁どうしたの、セルマ﹂
ミラドナの声に、セルマは首を振った。
﹁申し訳ございません、ミラドナ様﹂
小さな唇を舐め、セルマが低い声で呟く。
﹁リーザ様の暗示が解けそうです。さすがはレヴォントリのお血筋。
氷神様に選ばれた巫女の娘御﹂
﹁そう、早いわね、予想より﹂
小さな薄い青色の石の細工を手に取り、光に透かせて眺めながら
ミラドナが呟いた。
﹁あの子はペラペラしゃべると思う?﹂
﹁いいえ、ですが、陛下を守るために暴走するかもしれません。兄
上思いのお方ですから﹂
﹁そうね﹂
セルマの言葉に、ミラドナが頷いた。
﹁セルマ、あなた、ローゼンベルクへ向かってくれますか。私は引
き続き、研究所設立の監視をするわ。それから、昔リーザ様が作っ
た﹃これ﹄を氷神の御坐に封印しておきますからね﹂
ミラドナの言葉に、セルマが純銀の瞳を曇らせる。
﹁この季節は、危険です⋮⋮ミラドナ様﹂
291
﹁わかっているわ、でも私は寒さに強いほうだから﹂
主の言葉にセルマはうなだれ、しばしのちに頷いた。
﹁畏まりました。すべて大巫女ミラドナ様の指示通りに抜かりなく
やり遂げます。氷神様の御意志の元、世界を凍てつく平穏の眠りへ
導きましょう⋮⋮﹂
292
34
︱︱そなたが命を平和の薪に。
眠るジュリアスの耳に、雪嵐のような轟々とした声が届く。
前も見えないほどの地吹雪の中で、純銀の髪、淡い紫の目のほっ
そりした女が、ジュリアスに手を差し伸べているのが見えた。
﹃母上﹄
呼びかけるが、嵐のような風にもまれ、息子の声は届かないよう
だ。
女がリーザによく似た顔を緩め、ジュリアスの目を見て何かを言
った。
その声を聴きたい。彼はそう思い、必死に耳を澄ますが、女の声
はまるで届かない。
︱︱そなたが命を平和の薪に。
もう一度、声がジュリアスにそう命じる。
彼は頷いて、吹雪く鉛色の空を見上げた。
レヴォントリの民は、世界の平穏を望む氷神の意思の代行者。
ジュリアスもまた、同じ定めを共有した。
姿かたちこそ父譲りの色を纏っているが、ジュリアスの身の内に
流れるのは、凍れる穏やかなレヴォントリの血。
吹雪に遮られて手の届かぬ母の傍らに、大柄な男が寄り添う。
二人が幸福そうに眼差しを交し合い、ゆっくりと自分に背を向け
て大氷原のかなたに去ってゆく。
﹃父上!﹄
世を去った先代の国王が、一瞬振り返る。
そして生きていた時のように片手を上げて唇だけで微笑んだ。
293
﹁!﹂
目を開けると、まだ薄暗い天井が彼の目に飛び込んできた。
彼が今見たものは、課せられた使命の重みに力尽きた両親の夢。
目をこすり、ジュリアスは冷えた室内で体を起こした。
︱︱自分の、迎えの時が近いという暗示なのか。
そう考え、壁に掛けられた月の暦に目をやる。
半月後、ジュリアスの誕生日の祝賀会が行われる。
露台に出て、国民からの祝福にこたえる日。﹃国王ジュリアス﹄
が最も隙だらけになる日だ。
彼は立ち上がり、一枚の紙を手に取った。
リーザを大公家の長子アドルフに嫁がせていれば、必要のなかっ
た﹃手駒﹄の情報が記されている。
ジュリアスの手にあるのは、公子アドルフの愛人マリアについて、
亡くなった先王が残した書付だ。
敷居の高い大公家への就職を、孤児のマリアにあっせんしたのは、
先王だった。
マリアをアドルフの口に合うよう玄人女に磨かせたのも同じく、
先王の指示。
⋮⋮純粋なアドルフは、侍女マリアの貞淑な美しさに夢中になっ
たという。
マリアは玄人仕込みの狡猾さですぐにアドルフの子を孕み、次々
に三児を産み落として、内妻の地位を確固たるものにした。
その﹃遣り手のマリア﹄の正体は、隣国レアルデの王の妾腹の娘
だ。マリア自身さえ知らぬことだが。
30年前、レアルデ王妃の嫉妬から逃げ出した侍女は、腹のマリ
アを産んですぐに身罷った。
修道院で育ったマリアが、母の形見と信じて身に着けている首飾
りは、王が寵愛した女に与えていた飾りと同一の品だ。
つまり、次代の王の代行者アドルフの正妻となったマリアは、隣
国レアルデの王女ということになる。
294
図らずして、二人の関係は政略結婚の体を為した。
この事実が公になれば、ある程度の政治的緊張は強制的に解かれ
るだろう。
施政者が駒を進めるときには、必ず複数の手を用意しておかねば
ならない。
それが、ジュリアスの父の口癖だった。亡き先王のおかげで、ジ
ュリアスにはもう一つ、レアルデに対して打てる手が増えた。
先々代の失政で国力が低下したカルター王国では、国王に対する
感情はあまりよくない。
先代は﹃色好み﹄、そしてジュリアスは﹃面白みのない学者肌﹄
と揶揄されている。
﹃火薬の統制より、国を太らせることを考えろ﹄と陰口をたたか
れていることも、彼は良く知っていた。
だが、あの火薬が他国に渡れば、いずれ遠くない未来に軍事利用
されるだろう。
誰かが統制しなければ、いずれ割を食うのはカルターの民だ。
圧倒的な火力による侵略の憂き目を見て、弱い女子供や豊かな自
然を蹂躙されたいというのか。
そのことを理解する国民もまた、カルターの民の中には現れ始め
ていた。︱︱大衆は、愚かではない。
﹁適度に慕われ、適度に嫌われている王﹂
そう呟き、ジュリアスはその言葉に満足したようにうなずいた。
﹁熱狂的に愛されてはいなくても、死ねば哀れだし、悲しみを誘う
若い王﹂
ジュリアスは、不正も大きな失敗もなく、ただまじめに働くだけ
の若い男だ。
彼が誕生日を祝う席で、火薬の独占を狙うどこぞの刺客に射殺さ
れれば、流石に世論も動く。若死にした王への同情と﹃争い事﹄へ
295
の怒りへ。
時を同じくして、哀れな女性博士の死の真相が取り沙汰されるよ
うになるだろう。
そして隣国レアルデで、火薬の取り扱いを誤ったがゆえに起きる、
爆発事故の一報が入るだろう。
新型火薬の存在は、覇者の夢を叶える勝利の担い手ではなく、悲
劇と危険性をはらんだ忌むべきものに変質するだろう、人々の心の
中で。
﹁だ、な、さま、おに、さま、けほっけほっ﹂
﹁リーザ、無理して喋るな、えーと、打ち合わせがあるからちょっ
と出ていいか﹂
目をうるうるさせて出ない声を絞り出すリーザの肩を抱き、そう
言い聞かせる。
予想外の大事態が起きてしまったのだ。
悠長に妻といちゃついている余裕はないかもしれない⋮⋮。
︱︱アイシャ族が使用した火薬がようやく割れた。
けが人のアイシャ族の将校が一人喋ったのだ。
おかげで、以前から不穏な関係性を垣間見せていた隣国レアルデ
から、アイシャ族に火薬が渡ったと判明した⋮⋮。
西の隣国レアルデは、北のアイシャ族と共謀し、挟み撃ちを狙う
気なのかもしれない。
296
だがレアルデの誤算は、火薬を手に入れるなり、レアルデの制止
を振り切ってアイシャ族が侵攻を開始したことだろう。
アイシャ族の事を、悪い意味で高く見積もりすぎだ。
彼らは難しい事は何も考えていない。族長が代替わりしてそれが
悪化した。ゆえに、逆に厄介なのだ。
そんな情報を、レアルデに教える気はさらさらないが。
どちらにせよ、この事実の取り扱いを誤れば、へたすればカルタ
ーとレアルデの間で戦争が起きる⋮⋮。
﹁ヴィルヘルム君、リーザが何を言いたいのか聞いておいてくれ。
さっきより咳がひどいから、無理をさせずに﹂
﹁けほっけほっ、まっ⋮⋮だ、な、さま﹂
リーザが、ペンを握ろうとして、また落とした。
理由はわからないのだが、リーザはいきなりペンが持てなくなり、
何かを書こうとしても握っていられないのだ。
﹁どうしたんだろうな。腕でもぶつけたのか?﹂
そう尋ね、時間を確かめる。
もう会議だ⋮⋮自分が行かなければ、始められない。
レアルデの件を早馬で王都に届けねばならないし、喫緊の事態な
のだが⋮⋮。
﹁けほっけほっ﹂
思い余ったらしいリーザが、細い指をインク瓶に突っ込んだ。
﹁こら! 止めなさい、それはなかなか落ちないぞ!﹂
だが、手を止めずリーザが指を紙に擦り付ける。
﹁リーザ、爪が染まってしまう、止しなさい﹂
﹁けっほ⋮⋮﹂
珍しくヴィルヘルムが、リーザの蛮行をとがめずに見守っている
ことに気づいた。
金色の目が、不気味なくらい冷たい光をたたえている。
297
﹁リーザ様、早く閣下に﹂
﹁⋮⋮っ、うん⋮⋮﹂
リーザが咳を飲み込み、歯を食いしばって震える指で紙に字を書
いた。
左手で震える右手を抑えながらだ。
様子がおかしいのは明らかだが、こんなに必死なリーザを見るの
は初めてだ⋮⋮。いつもフワフワしていて、のんびりとした娘だと
思っていたのに⋮⋮。
﹃あの日、博士が殺された日、火薬は大学から盗まれて他国に漏洩
した。お兄様は委員会を作って拡散を止めたい。火薬はまだ実用段
階じゃない﹄
それから紙をめくり、新しく字を書いた。大きな目は険しく黒ず
んだ色に、小さな指は漆黒に染まっている。
﹃レアルデは、管理委員会を作ろうとしているお兄様を殺して、火
薬の開発権を独占しようとしている﹄
﹃火薬の開発者のエリカ・シュタイナー博士の恋人だった男は、レ
アルデに博士の研究成果のほとんどを売りました﹄
﹃お兄様が危ない。お誕生日の日に狙われると思う。レアルデの大
使も来るから﹄
震えるぐしゃぐしゃの文字を目で追い、しばらく言葉を失った。
お兄様が危ない。お誕生日の日に⋮⋮狙われる?
それに火薬は実用段階ではない、なんて。
なぜリーザが国際的な軍事上の、重大な機密を知っているのか。
震えるこぶしを握り、精一杯声を落ち着けて、顔をしかめている
298
リーザに問う。
﹁なぜ、そんな大事なことを今頃言うんだ。もっと早く言わなかっ
たのは何故だ﹂
﹁けっほ、⋮⋮、⋮⋮﹂
黙って居るにはあまりに重すぎる事実だ。
そんなこともわからない娘には見えなかったのに。
リーザが眉を顰め、じっと自分を見上げて、新しい紙に字を書い
た。
﹃わかりません、忘れていました、でもさっき、この事を思い出し
ました、でもまだ思い出せないことがある気もするの﹄
リーザが不安げに手を止める。
そしてまた、大きな翳った瞳で自分を見上げた。
﹁リーザ、大丈夫だ、お前の話は理解した﹂
言葉が、それしか出てこない⋮⋮。
旦那様、どうしよう。妻のそんな声が聞こえた気がして、慌てて
薄い肩に手をまわした。
会議の時間が迫っているが、この事態も放置しておけない。逡巡
が生まれた。いったい、どの順で処理をすれば⋮⋮。
そのとき、気配無く佇んでいたヴィルヘルムが、はっきりとした
声で言った。
﹁閣下、こちらでお仕事を頂いた身の上で恐縮ですが、王都へ帰還
するのをお許しいただけませんか。陛下はリーザ様の兄、私にとっ
ても、恐れながら兄代わりのお方です。あの方の安全を確認し、納
得ができ次第、急ぎリーザ様の護衛に復帰しますゆえ﹂
299
35
旦那様が、わかった、ヴィルをお兄様の所へ帰す、と言った。
どうしてよいのかわからず、弟代わりのヴィルと旦那様を見比べ
る。
﹁君から見ても、陛下は危険な状態に思えるのだな﹂
﹁はい﹂
ヴィルヘルムが頷いて立ち上がる。
﹁すぐにでもここを発ちます、冬期は移動に時間を取られますから﹂
﹁海周りで、砕氷船でいくといい、政府関係者しか基本は乗れない
が、私の口添えがあれば最速5日で王都へ着く﹂
旦那様がそうおっしゃって、手元の呼び鈴を鳴らした。
すぐに、淡い金髪の男の人が駆け込んでくる。
﹁お呼びでございますか﹂
﹁砕氷船の乗船許可証を至急出してくれ。ヴィルヘルム君、彼と一
緒に手続きを﹂
﹁かしこまりました﹂
ヴィルが立ち上がり、男の人と一緒にすたすたと出て行ってしま
う。
強い不安を感じ、胸の前で指を組み合わせた。
﹁⋮⋮⋮⋮けほっ﹂
︱︱どうして忘れていたのだろう。危険にさらされているお兄様
の事を。
突然﹃ローゼンベルク家に嫁げ﹄などと言い出したお兄様の事を。
昔から変わり者の私が﹃将軍レオンハルト様﹄に憧れ、騒いでい
たことはお兄様も知っていた。
でも、いきなり結婚させてくれるなんて。
自分も自分だ。それで納得して、お兄様をあっさり切り捨ててし
まうなんて⋮⋮。
300
お兄様を放っておいて、平気だったのはどうして?
忘れてしまった理由すら分からない。
どうしてあんな風に、何も感じずに平気で楽しく暮らしていたの
だろう?
自分が怖い。記憶に開いていた穴がいつの間にか埋まったかのよ
うに感じて、何だか気味が悪い。
﹁リーザ、私は打ち合わせに行かねば﹂
旦那様が立ち上がった。
﹁は、わか、ました⋮⋮けほ﹂
考えに沈み込んでいたけれど、我に返って頷いた。
喉が嗄れはてて、声が出ない。
﹁あとでゆっくり、お前が﹃忘れていた﹄という話を聞かせてくれ、
忘れていたことになっていた理由も含めて﹂
﹁わか、ました⋮⋮﹂
うなずいて旦那様を見上げる。
何だか、いつもの旦那様と違って怖い顔をしているように見えた。
自分は嘘をついて、隠し事をしていたと思われているのだろうか
⋮⋮。
違うのに。
旦那様に嘘なんかついていないのに。
﹁大人しくしているようにな﹂
﹁はい﹂
でも、言葉が出てこない。
ハイとしか返事できなかったし、旦那様は自分を振り返らず、す
ぐに部屋を出て行ってしまった。
一人になり、しんしんと冷える砦の部屋で立ち尽くす。どうも、
夜も喉が復活するような気がしない。
旦那様の机に腰かけ、お仕事で使っている紙を引っ張り出した。
やはり手が震えるが、先ほどではない。
急に治った理由。
301
それはきっと、火薬の秘密を﹃しゃべってしまった﹄からだ。
根拠はないけれど、そう思う。そう確信できる⋮⋮。
きっと、﹃しゃべってしまった﹄から﹃記憶の封印﹄は解けた。
怒っていたように見えた旦那様の顔を、歯を食いしばって振り払
う。
﹃嘘なんてついていない、嫌いにならないで﹄と泣きつく前に、
早く思い出した大事なことを紙に書いてしまおう。
そして、忙しい旦那様に読んでいただくのだ。
そのくらいのことが出来なくて、氷将レオンハルトの奥方が務ま
るわけがない。
筆を力を込めて握り、震える指を抑えながら、ゆっくりと文字を
綴り始めた。
︱︱旦那様、私はエリカ博士のところで、一流の研究員のするい
ろんな作業を見学させてもらいました。
お兄様も、大学の学生や研究者と交流して、彼らを励ますのは良
い事だとおっしゃってくださいました。
大学にはたまにしかいけませんでしたが、色々なことが分かりま
した。
自分のやっている爆弾作りが、危険で、自己流で、発展性がない
ことだと。
だから、本を王宮の図書室や、大学のエリカ先生から借りて勉強
しました。
そんなある日、宝石問屋を営んでいる乳母⋮⋮ヴィルのお母さん
が来ました。
ぶるぶる震える手でそこまで書き終え、手を振ってしびれを取り、
またペンを握った。
302
足元でお座りしていたシュネーが吠えたので、静かにするよう微
笑みかける。
︱︱新型火薬の研究室には入れてもらえませんでしたが、私はエ
リカ博士たちがとある石を使って、新型火薬を生成したことを知っ
ていました。
だって、大学で見かけるには珍しい石だったからです。
機密事項なので、石の名前は口頭で申し上げます。
乳母は、笑顔で私に﹃火薬の原料と同じ石﹄を見せて言いました。
﹃ご覧ください姫様、ご存知でしたか。この石にこちらの白い石
をくっつけると、色が変わるのですよ。うちの主人が気づいたんで
す。都で流行いたしますかしら?﹄
そう言って、乳母はゆらゆら揺れる石の首飾りを置いて帰ってゆ
きました。
でも私は、別の事が気になりました。
別の石に触れると、火薬になる石の色が消える。
そのことをエリカ博士に報告したら、ビックリされました。
﹃その、別の石の特性を利用すれば、安定性のない火薬を自在に
運搬できるようになるかもしれないね﹄
博士はそうおっしゃいました。
ちょっとした刺激で爆発してしまう火薬を、安全に運べる。
その技術が完成すれば、山や湖、どこでも爆破工事ができるのだ
と博士は言いました。
でも、それは恐ろしい爆弾にもなりますね。
博士が、婚約者だった同僚の方に殺されたのはそれからすぐでし
た。
博士が作っていた火薬の安定剤は、その同僚の方が持ち去ってし
まいました﹄
そこまで書いたら、涙が出てきた。つらい。
303
博士は明るくて、女の子も科学に興味を持つのはいい事だと自分
を肯定してくれて、本当にお姉さんみたいなヒトだったから。
﹃お兄様が、偶然博士の死に際に居合わせました。
火薬が気になり、お忍びでお出かけになられたときに、血だらけ
の博士を偶然見つけたそうです。
あとの事は良く分からないんです。
なんだか大事なことを忘れている気がするんですが。
お兄様は、博士の活動を支援し、火薬の管理委員会を作ろうとし
ているので、博士を殺した一味に狙われています。
騎士が居るけれど、騎士も信用できない気がします。博士だって
恋人に裏切られたので、怖いです﹄
これだけ、これで全部⋮⋮。
たぶん。
そう思った瞬間、手からペンが転がり落ちた、指がぶるぶると震
えて痛む。
まるで、しびれ薬を打たれたみたいだ。
床に落ちたペンを、シュネーが鼻先でつついた。
﹁こら⋮⋮メ⋮⋮!﹂
立ち上がってシュネーを抱きあげようとした瞬間、静かな声が響
いた。
﹁リーザ様﹂
﹁⋮⋮﹂
入り口に立っていたのは、セルマさんだった。
旦那様の知り合いで、レヴォントリの巫女だという美しい女性。
だが、異様な姿だ。長いきらきらした髪は乱れ、白い靴には血が
にじんでいる。
まるで雪の中を駆け抜けてきたようだ。たとえ足の豆がつぶれ、
指がやぶれても足を止めずに⋮⋮。
304
﹁何を書いておられました﹂
﹁⋮⋮﹂
インクの乾かない紙を、慌てて取り上げて畳んだ。読めればいい。
これは旦那様以外に見せてはならないものだ。
﹁何を書いておられました﹂
血のにじむ足跡を床に残し、セルマさんがおぼつかない足取りで
近づいてくる。
怖くて、動けなかった。
﹁お見せください、リーザ様﹂
低くて感情のない、美しく華奢な姿に似合わない声でセルマさん
が言う。
霧吹きで水をかけたように、セルマさんの肌は汗でぬれていた。
肌の色は雪のように白く、側に近づいてきたことで彼女の呼吸が
ひどく乱れていることが分かった。
﹁お兄様のお気遣いを無駄にされるおつもりですか。リーザ様には
永遠に、凍れる幸福の中でまどろんでいただきたい、それが我らが
同志、ジュリアス陛下の御意志なのですよ﹂
﹁⋮⋮!﹂
シュネーを抱いたまま、じりじりと後ろに下がる。
背中が壁に当たった。
﹁お忘れください⋮⋮﹂
銀色の瞳が、自分を刺す。なんていう、強い眼力だろう。動けな
くなってセルマさんを見つめ返す。
﹁どうか兄上の分も、幸せにお過ごしくださいませ﹂
﹁⋮⋮﹂
セルマさんの言葉を聞いた瞬間、弾けるようにお兄様の顔が浮か
んだ。
自分の頬に、手袋を嵌めていない裸の両掌を当て、微笑んでいる
お兄様の顔が。
305
﹃お前には噴水を爆破した犯人になってもらおう。国宝を傷つけた
バカな妹は、融通の利かない私の部下に押し付けるしかないな。愛
しているよ、リーザ﹄
あの時お兄様の傍らに立っていた、純銀の髪の巫女。
﹁セルマ、さ⋮⋮﹂
まるで出ない声を絞り出し、セルマさんの不思議な光をたたえた
瞳を睨み返した。
﹁セルマさ、あう、の、三度⋮⋮め、おにいさ、と、一緒、居た⋮
⋮﹂
セルマさんが、え? と言わんばかりに目を見開き、そのままく
るりと白目をむいた。
﹁!﹂
慌てて床に頽れたセルマさんに駆け寄る。
﹁けほっ、セルマ、さ、セルマさ⋮⋮ッ!﹂
慌てて揺り起こすが、体は氷のように冷たく、ピクリともしなか
った。
﹁セルマさ、けほっ、けほ﹂
慌てて体をさすり、必死で長椅子に引きずり上げた。
いったい、彼女はどうしてしまったのだろう⋮⋮。
306
36
ジュリアスは、初めてセルマと出会った日の事を思い出していた。
あれは、博士の最期を看取って、半月ほどの事だったか。
﹃氷神の声を聴くものが生まれたと知り、参りました。私はお母上
とおなじレヴォントリの民、セルマと申すもの﹄
そう名乗ったセルマは、本当に不思議な女だった。
男でも女でもない、氷の人形のような不思議な生き物にジュリア
スの目には映った。
﹃大きな希望を失った時、レヴォントリの巫覡は氷神様のお声を聴
くと言います﹄
セルマはそう言って、ジュリアスに尋ねた。
﹃伺ってもよろしゅうございますか。陛下は何を失い、氷神の声を
聞くようになられたのですか﹄
何の感情も映さない大きな瞳を見たとき、ああ、彼女はすべてを
薄々理解しているのだとジュリアスは思った。
﹃私が失ったものは、我が国の平穏ですよ。王として当然守るべき
ものを、自分自身の愚かさから失ってしまった。悔やんでも悔やみ
きれない﹄
その時ジュリアスの脳裏に浮かんでいたのは、血だまりに倒れ、
かすかに意識を保っていた博士の姿だった。
︱︱男を見る目、ありませんでしたね、私⋮⋮。
博士はそういって皮肉げに微笑み、ジュリアスの手に小さな塊を
押し付けた。
それが、彼女の唯一の形見、博士の﹃遺産﹄となった⋮⋮。
掌に未だに残る偉大な科学者の温もりを確かめるように、ジュリ
アスは手を開き、セルマの問いに独り言ちるように答えた。
﹃私は、科学の進歩に偉大なる幻想を抱き、それを最悪の形で失う
ことになった。夢を見たことのツケは重すぎ、後悔だけが我が身を
307
苛んでいます。その絶望が、遠い地の神を呼んだのかもしれません﹄
君は何を失ったのか。そう問い返そうとしたが、ジュリアスは口
をつぐんだ。
なんとなく聞いてはいけないような気がしたからだ。
﹃レヴォントリの民は、氷神の意思の代弁者。陛下の使命は、この
私、巫女セルマがお手伝いいたします﹄
セルマがそういって、白い手を差し出した。
その手を握り返した時、母の血筋に導かれ、レヴォントリとジュ
リアスの絆が生まれたのだ。
﹃では、同朋となった貴方に頼む。私の妹リーザが、新型火薬の安
定化構造を理解してしまった。火器転用も可能な技術をあの子は完
全に知っている。爆弾作りになど興じさせるのではなかったよ⋮⋮
氷神の巫女の瞳の力で、エリカ博士と出会ってから今日までの記憶
を全て封印してもらえないか﹄
己の言葉を思い出し、ジュリアスはため息をついて壁の暦を見上
げる。
夢の代償を払わねばならない。
エリカ博士に実らぬ一方通行の思いを抱き、己が目を濁らせ、裏
切り者を見抜けなかった罰を受けるのだ。
︱︱お兄様、今日はおしゃれなさっているのね。
リーザの無邪気な声が、ジュリアスの耳に蘇る。
聡い彼女は、兄の押し殺した想いにも薄々気づいていたのだろう
⋮⋮だが、全てを忘れてほしいと彼は願った。
﹁めでたくもない誕生日がもうすぐだな﹂
平和の薪として燃えつきる日が迫っている、彼はそう思った。
308
﹁ヴィルヘルムさん、では夕刻に船が出ますので、それまでにお支
度を﹂
﹁わかりました、ありがとうございます﹂
舟券の手続きを頼み、急ぎ部屋に戻ることにした。
盗み聞きに疲れたので王都に帰りたいとは思っていたが、まさか
この剣を捧げた陛下の御身に危険が迫っているとは。
リーザもリーザだ、どこまでボケれば気が済むのか。
ここに一人で置いて行ったら、またしてもボーっとして肝心なこ
とを何もせず、犬を撫でまわして過ごすのではないか。
心配だ。
もしも陛下を狙う暗殺者がいたとして、そいつが相当な手練れだ
ったら、自分も命を落とすかもしれない。
そうなったら、もう二度とリーザのそばには⋮⋮。
﹁⋮⋮。最後になんかしないけどな⋮⋮﹂
護衛官は命を投げ出して王を守る。
だが、初めから死ぬと思って仕事をしていたら、逆に腰が引けて
急場で者の役には立たない。
心を無にして、常に最適な行動をとるのみだ。
﹁⋮⋮﹂
とりあえず、出かける支度をしなければ。弩用の矢をかき集めら
れるだけ集め、投げ短刀も用意し、目つぶし用の薬もひそませてお
かねば。
それから最後、もしもの時の為、にリーザにはいろいろと言って
おかねばならないことがある。
大事なことは夫に黙っているなとか、あんまりボーっとするなと
か、時々声が漏れてるから気を付け⋮⋮いや、それを知っているの
309
は毎晩精神を集中して聞き耳を立てている自分だけだった。
余計なことを言うと別の意味で命取りだ。
﹁よし、やるか﹂
⋮⋮しばらく集中して身支度をしたら、完全な人間凶器になって
しまった。
上着の異様な重さは短刀と毒針を大量に仕込ませたせいだし、ベ
ルトには折れた時用の予備の剣、それから吹き矢にいつもの剣に背
中に背負った弩に煙幕を張るための特殊な弾丸。
⋮⋮自分は一個中隊にでも突撃するつもりなのか!
それとこの、どう生易しい視線で見ても﹃暗殺用﹄の武器の数々。
これらの使い方を自分に教えた父は、本当に﹁通りすがりの異国
の剣士﹂なのだろうか。
まあ、いいか⋮⋮。
すべてを身に着けた状態でいつも通り動けるか確認する。めった
に使わないが大技の確認もする。
かかと落としができるか、回し蹴りができるか、体をどこまで捻
れるか⋮⋮。
﹁やっぱり予備の剣は邪魔すぎるな﹂
体を自然にひねれなかったので、剣は外した。
短刀で代用できるだろう。
準備に納得し、身に着けた武器をすぐに取り出せる状態で、鞄に
収納する。
普段着に戻り、リーザに説教をするために部屋を出た。
説教。か。
本当は話したいだけ、気を付けてねと言ってほしいだけだ。好き
な人の口から、やさしい言葉がほしい。
めったに出てこないモノだけに、自分にとってはどれも甘い宝石
のように感じられる。
310
我ながらさもしいと思うが、仕方ない。
廊下を急ぎ、閣下の部屋に向かった。リーザはそこで大人しくし
ているはずだ。昨日ひっくり返って、声もあまり出ないのだし。
﹁リーザ様、失礼いたします!﹂
声をかけ、扉を開けた。
リーザは長椅子の前に屈みこんでいた。長椅子には、白と銀の塊
が横たえられている。
長い髪の女だ。それに、足から出血している。靴で指を潰したの
かもしれない。
﹁リーザ、どうした﹂
﹁倒れちゃった、けほっ、急に﹂
先ほどまでよりはましになった声で、リーザが言う。
それから困ったように眉を顰めた。
﹁ヴィル、少しだけこの、人、けほっ、見てて﹂
﹁別にいいが、何の用だ﹂
﹁旦那様に、渡すものがあるから。けほっ﹂
﹁閣下は今、お打ち合わせ中だぞ﹂
﹁すぐ、渡す。すごく急ぐから、おにいさまの、けほっ、話だから﹂
﹁わかった﹂
まあ、王女殿下が兄君の急ぎの話をするとなれば、火急の話だ。
﹁お願いね﹂
部屋から駆け出してゆくリーザの背中に﹁あまりお邪魔するなよ﹂
と声をかけ、病人らしき女の前に屈みこむ。
真っ青なので貧血でひっくり返ったのだろうか。
とにかく血で汚れた足が痛そうだ。リーザが傷を洗ったのか、濡
れた布巾が洗面器にあった。
﹁⋮⋮﹂
生きてるのか、と思って顔を覗きこんだ瞬間、女がばね人形のよ
うに跳ね起きた。
﹁!﹂
311
驚愕のあまり腰を抜かしかけた自分の襟元を、細い指が鋼のよう
な力でつかむ。
﹁⋮⋮な、なんだ、お前は﹂
長い沈黙が流れた。
女はじっと自分を見つめているが、その目はうつろで、何かを見
ているように見えない。どうしたというのだろう⋮⋮。
﹁おい、手を離せ﹂
細腕からは想像もつかない女の剛力に呆れ、手を無理やりもぎ放
そうとした瞬間、女が言った。
﹁ちっ、童貞か、使えない﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁男⋮⋮探さなきゃ⋮⋮﹂
自分を手すり代わりに、女がよろよろと立ち上がる。
茫然として、されるがままに女の小さな頭を見つめた。
今この女は何といったのか。
童貞、使えない⋮⋮?
︱︱ななななな、なぜそれを、なぜそれをお前は知っているんだ
ああああああッ!
﹁お前﹂
﹁なっなっ、なっ﹂
﹁惚れた女がいるのに、ずーっと石みたいに黙りこくって左手を恋
人にして生きてきたんだね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なぜ、それを⋮⋮。
312
﹁すまない、余計なことを言って。童貞色男﹂
﹁童貞⋮⋮色男⋮⋮﹂
なんだそれは⋮⋮!
褒めてるのか、けなしてるのか、どっちかにしろ!
快感なのかそうでないのか分からんだろうが!
真っ青な顔の女が腕を上げて冷汗をぬぐい、痙攣している己の手
を見つめてちょっと笑った。
﹁腹が減った﹂
﹁え、じゃあ、厨房で飯でも食って来れば⋮⋮﹂
言いかけた自分に、銀髪の女が首を振る。
﹁色男、お前に言えと氷神様が仰っている⋮⋮。キッチリ砕け散り、
再生しろ。そうでないとお前の運命は動かない⋮⋮本当の強さも見
つからない。じゃあ、私は食事に行くので失礼﹂
﹁何﹂
よろよろと、女が壁伝いに廊下を歩き去ってゆく。自分は何も言
えずに、ただその細い背中を見送った。
﹁砕け散れって、なんだよ﹂
脳裏に、自分を弟と呼ぶリーザの愛らしい笑顔が浮かび、ひびが
入って砕け散った。
313
37
﹁⋮⋮﹂
見た事もない怖い顔で自分の書き付けを見終えた旦那様が、ひと
こと﹁わかった﹂とだけ仰った。
会議の席に並んだ皆様も、不思議そうに自分と旦那さまを見比べ
ている。
﹁下がって居なさい、部屋から出ないように﹂
﹁ハイ⋮⋮﹂
旦那様の冷ややかな声は、お仕事中だから⋮⋮のはずだ。
自分の事を、怒っているのではないと思いたい。
本当に、大事なことを全部、すっぽり抜き取られたように忘れて
いたのだ。
爆弾の事、お兄様の事、とても大事なことなのに、ローゼンベル
クに嫁いでからというもの、かけらほども思い出さなかった。
うなだれて皆さまがお仕事をなさっている部屋を出て、旦那様の
お部屋に戻る。
﹁あれ、けほっ、ヴィル?﹂
部屋では、ヴィルが、蒼白な顔でぼんやりと佇んでいる。セルマ
さんはいないし、ヴィルはなんだか茫然自失しているように見えた。
﹁どうしたの、あの、セルマさんは?﹂
さっきまで長椅子で横たわっていたセルマさんがいない。血がに
じんだ靴も無くなっていた。
﹁あんな女⋮⋮知るか﹂
吐き捨てて、ヴィルまでもが自分を押しのけて出てゆこうとする。
﹁まって、セルマさん、倒れちゃったのに、けほ、どこに行ったの
?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
ヴィルが、ものすごく不機嫌な顔で振り返った。
314
金色の目にぎらつく光を浮かべている。
何だろう。
怖い⋮⋮。
伸ばしかけた手をひっこめ、拳を握りしめてヴィルを見上げた。
﹁リーザ﹂
﹁なあに?﹂
﹁何か俺に、言うことないのかよ﹂
そう言われ、脳裏にまとわりついて離れない、旦那様の冷たい表
情を振り払って、笑顔で言った。
﹁これからお兄様のところに行ってくれるのよね、気を付けてね。
お兄様をお願いね﹂
﹁もういい﹂
ヴィルが自分に背を向け、足早に廊下を歩いてゆく。
﹁待って、だって危ないところに⋮⋮けほっ、気を付けて頂戴、お
兄様の事も⋮⋮﹂
慌てて走って後を追い、ヴィルの上着の背中を掴んだ。
怖い顔をしたり、いきなり出て行ったり、何なんだろう。
弟なんだから、お姉様の言葉くらい、最後までちゃんと聞く態度
を見せればいいのに。
﹁ねえ、けほっ、お兄様に気を付けてって言ってね、お手紙を書か
なくてごめんなさいって﹂
﹁俺に言うこと無いのかよ﹂
﹁え?﹂
全身から血の気が引き、音が消えた。
何か、怖い事が始まる⋮⋮自分にとってすごく怖い事が。
ヴィルの顔が、﹃私の嫌いな顔﹄になっているから、わかる。
﹁決めた。⋮⋮じゃあ、たのむ。言ってほしい事があるんだ﹂
﹁やめ⋮⋮﹂
315
聞きたくない言葉が耳の中に流れ込んできた。
恐怖に震える手を上げ、耳をふさぐ。
﹁お前は俺の姉さんじゃないだろ。何でずっと俺の本音だけ無視し
て、ちゃんと見てくれなかったの?﹂
﹁やめて﹂
何でヴィルに抱きしめられているのかわからない。
怖い。
弟なのに、何でこんなことをするのだろう。
こんなのまるで旦那様に抱きしめられているようだ。
旦那様と同じことをこの子にされるなんて⋮⋮嫌だ⋮⋮。
﹁言ってよ。俺がダメな理由、俺がお前に選ばれなかった理由を今
全部﹂
聞きたくない、こんな言葉を弟から聞きたくない。
家族はお兄様と弟しかいないのに。
二人のうち一人がいなくなっちゃうなんて、耐えられない⋮⋮。
何か言おうとするのだが、歯の根が合わなくて言葉を発すること
も出来ない。
﹁や、やだ、家族が居なくなったら、嫌⋮⋮﹂
お父様には愛されていない。お母様は死んでしまった。お兄様は
元から遠い。
ヴィルもまた、遠くに行ってしまう。
幼い頃、指を咥えて見送った光景が心を引き裂く。
ヴィル、もう帰りましょうね、そういって弟を連れて行ってしま
316
う乳母。
︱︱お母さんがお迎えに来る弟、妹や弟、お父さんがいる﹃弟﹄
⋮⋮。私と一緒に帰れない弟⋮⋮。
どのくらい時間が経ったのかわからない。自分を抱きしめる腕は
鎖のようで全くほどけない。
﹁家族、居なくなっちゃう⋮⋮﹂
震える声で、必死にそう訴えた。
自分だけ寂しいのは嫌なのだ。
たった一人のお兄様は王太子で、お姉様たちは王妃様に遠ざけら
れて、どちらも一緒になんか居てくれない。
どうしてそんな思いをしなければならないのか、どんなに考えて
もどうしてもわからない。
﹁居るだろ﹂
﹁え?﹂
ヴィルの腕があっさりと離れた。
﹁お前には旦那様がいるだろ。だから大丈夫だよ。もう俺に﹃弟﹄
をやめさせてほしい。お前の口から、ヴィルの事は選ばないって言
ってくれ﹂
やさしい笑顔でヴィルが言った。
﹁や、やだ⋮⋮﹂
涙が止まらない。怖いのだ。家族がいない自分になるのが⋮⋮。
見たくなかったものを見せないで。せっかく忘れていたのに。
そう思いながら首を振る。
﹁けほっ、そんなの、知らない⋮⋮嫌⋮⋮﹂
﹁いいから早く、船が出る時間になるから﹂
﹁⋮⋮﹂
317
床にぼたぼたと涙が落ちて、薄い染みを作る様子がゆがんで見え
た。
まとわりつく﹃弟﹄の視線から逃れられないと知り、唇を噛んで
いた歯をそっと外す。
本当に、ヴィルの事を愛している。でもどうしてもその愛が、彼
の望む形にならない。どう頑張っても無理だった。だからちゃんと、
言わなくては⋮⋮。
﹁⋮⋮私は貴方じゃなくて、旦那様が好き。旦那様とずっと一緒に
居たいの。旦那様にはうそつき女だと思われてるのかもしれないけ
ど、けほっ、旦那様に嘘なんかついてない⋮⋮﹂
﹁だから?﹂
﹁ごめんなさい、貴方のことは選べない﹂
そう言い切って、歯を食いしばる。
︱︱自分の見た夢の世界に、貴方を押し込めてごめんなさい。
昔からあなたの気持は薄々知っていて、無視をしていただけ。
そして、ここに来てそれを全部忘れて、一人楽しく生きようとし
てごめんなさい。
﹁⋮⋮ありがとう、リーザ、ごめんな、押し付けてばっかりで﹂
ヴィルが明るく言って、自分の両頬をつねって持ち上げた。
﹁いふぁい⋮⋮﹂
﹁陛下は何があっても絶対助けるから、お前は自分の身を守ってろ、
閣下の邪魔をするなよ﹂
ヴィルは全く泣いていない。明るい笑顔だった。
そのことに少しほっとして、金色の目を見つめ返す。
﹁⋮⋮⋮⋮わかった﹂
318
﹁じゃ、行ってくる﹂
ヴィルは、それだけ言ってあっさりと出て行った。
何も言えず、その場にしゃがみ込む。今まで被っていた毛布を﹁
返して﹂と言われてはぎ取られた気分だった。
でも、そうなってよかったのだ。
自分はもう寒くないはず。
ずっと寒かったヴィルに、本来の暖かさが戻ったはず。
涙は止まらないが、仕方がない。
﹁わたし、あと、けほっ、何を忘れてるのかな﹂
顔をびっしょり濡らし、うずくまったまま、呟いた。
大人しくしていたシュネーがスカートの裾にまとわりつき、不安
そうに自分を見上げたのが分かった。
319
38
﹁氷神様のお言葉を理解するのは難しい﹂
ミラドナは、だれもいない銀色の伽藍にたたずんでつぶやいた。
その場所は﹃氷神の御坐﹄と呼ばれる、レヴォントリでももっと
も寒く、最も神聖な場所だった。
御坐に近づくには、雪に閉ざされた地底へつながる氷原、そして
氷原に口を開けるいくつもの巨大な裂け目を超え、なおかつ、人知
を超えた寒さに耐えねばならない。
この氷原で生まれ育った銀髪銀瞳の民にも、訪れるのは稀な場所
だ。
﹁おそらくはジュリアス様は、氷神様のお言葉を正しく理解できて
いないのでしょう。絶望を味わいつくした舌は、如何な甘露も苦く
感じるはずですから﹂
懐から取り出した青い石の塊を、ミラドナはそっと祭壇に置いた。
エリカ・シュタイナー博士が完成させた、世界最強の﹃安定化し
た爆弾﹄だ。
この秘密を誰にも奪わせない。
そして、若い者たちの命を失わせない。
﹁ジュリアス様、約束をたがえてごめんなさい。妹君が﹃忘れてい
ない﹄と知れば、ジュリアス様は命を投げ出そうなどと愚かなこと
は考えないでしょうから﹂
氷の神は、リーザを犬の首輪につけた﹃胸飾り﹄に導いたことだ
ろう。
あの石を見たら、きっと眠り姫は目覚め、全てを思い出すはず。
ミラドナは口をつぐむ。
それから、何もない広い場所に銀色の瞳を泳がせた。
﹁⋮⋮レオンも奥さんをもらったし、もう思い煩うこともない。旦
那様のところに行きたいわ、早く全てが終わらないかしら﹂
320
涙も枯れ果てた。そう言わんばかりの光のない目で、ミラドナは
そう言葉を絞り出した。
﹁待って、ヴィル﹂
氷の上をよたよた走って来たリーザが、思い切り滑って突っ込ん
できた。
細い体を受け止め、反射的に栗色の小さな頭を怒鳴りつけた。
﹁どうせ滑って転ぶんだから走るなよ! 船の時間があるから、話
なら帰って来てから聞く﹂
⋮⋮自然に言葉が出た。
そのことにホッとする。
部屋から出るなと言い聞かせたのに、なぜついてくるのか。
﹁ヴィル、貴方のお母さん⋮⋮オルガに伝えて頂戴、氷青石をどこ
にも出荷しないでって﹂
﹁はぁ?﹂
実家の宝石問屋の話をいきなりされ、当惑して眉をひそめた。
氷青石。
ローゼンベルクで見つかった希少な鉱石だが、希少性とは裏腹に
宝石としての価値は低く、売れ行きも芳しくない。
収集家が買うか、透明度の高いところをくりぬいて小さな飾りに
仕立てるか、そのくらいしか用途はない石だ。
それが、どうかしたのか。
321
﹁あれは人気ないから売れないよ。内包物が多くて透明度が低いか
ら﹂
﹁⋮⋮火薬の原料なの﹂
声を潜め、リーザが愛らしい顔を精一杯こわばらせて言った。
﹁は?﹂
﹁新型火薬、いま、国際社会で問題になっている新型火薬の話は知
っているでしょう。氷青石はあれの原料なの。機密事項だからお兄
様は表だって動けないかもしれないわ、あなたの実家は王都一番の
宝石問屋でしょう、お願い、何も言わず私を信じて﹂
﹁お前、何言って⋮⋮﹂
﹁私が時々、お兄様と大学に行っていたこと覚えてる?﹂
﹁ああ﹂
﹁あそこで、教えてもらったの。あの石が諸外国に出荷されたら大
変なことになるわ、火薬の製法が漏れてしまったのよ﹂
リーザの小さな顔に、汗が伝っている。
細い指は震え、最近のぼんやりしたリーザとは明らかに様子が違
うことが分かった。
ダラダラと話をする時間はないし、リーザがそう言うのであれば、
おそらくは何がしかの緊迫した事態が迫っているに違っているに違
いない。
﹁⋮⋮分かった。氷青石の卸売りの事は任せてくれ﹂
うなずいて、付け加える。
﹁親父とおふくろには事情を話してもいいか。もしあの石を狙った
刺客が来ても、うちの親父が居れば返り討ちにできると思う。それ
に、俺の親は王家の不利になることは絶対にしないから、俺の事も
信じてくれ﹂
﹁うん、お願い、お願いします﹂
リーザが頷き、小さな拳で汗をぬぐった。
322
まだ震えている。だが自分にはリーザを抱きしめていい腕は、な
い。
﹁さ、砦へ戻れ﹂
﹁わかった、気を付けてね。お願いね﹂
何度も振り返りながら巨大な石の砦へ戻ってゆくリーザの姿を見
送り、踵を返す。
︱︱とんでもないことになっている、気がする。
砕氷船が出るまで、時間がない。すさまじい重さの荷物を担いだ
まま、足を急がせた。
これはやばいんじゃないか。そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る。
はたして、陛下が無事なうちに、王都にたどり着けるのだろうか。
国王の誕生日の演説会まで、あと半月を切った。
警備の見直しも、不審者の洗い出しも含めて、時間は足りるだろ
うか。
﹁ぐずっ﹂
⋮⋮一生懸命探したのだが、セルマさんの姿は砦から消えていた。
それから旦那様は、夜中を過ぎても戻られなかった。
323
お忙しいからだろう。
自分を嫌いになったからではないはず。
今日はずーっと旦那様の事と、ヴィルに言ってしまった事が頭か
らグルグル離れず、ご飯も食べずお風呂にもいかずに、寝台で毛布
をかぶってグズグズと泣いている。
旦那様にはやく氷青石のお話をしたい。
火薬の製法が博士から盗まれた今、あの石はとても危険な存在な
んだって話したいのに、砦から出て行かれて、戻っておいでになら
ない。
旦那様は、ローゼンベルクの治安に関して全責任を負い、国境防
衛の要を勤める将軍様だ。
お忙しいのは仕方がない、王女として将軍に降嫁したからには、
甘やかされて幸せなだけではいけないのだ。
⋮⋮分かっているけれど心細い。
どれだけ、ヴィルや旦那様に甘えて過ごしてきたんだろう⋮⋮。
﹁ぐず⋮⋮﹂
自分の無力と、自分の頭の中にある知識が怖い。
お兄様が自分の記憶を消そうとした、セルマさんはそんな事を言
っていたけれど、確かに消されても文句が言えないほど、恐ろしい
事を自分は知っていた。
﹁おにいさま⋮⋮﹂
呟いて、爪を噛む。子供のころから、不安が強くなると爪を噛ん
でしまうのだ。
お兄様はどんな気持ちで、妹の自分だけを安全圏に送ったのだろ
う。
厳しくて口うるさくて、何をする時も怒ってばかりだったお兄様。
でもお兄様があんな風にがみがみ屋だったのは、後ろ盾のない妹
を、いろんな良くないモノから守ろうとしてくれたからだって、今
なら思い出せる。
324
ちょっと毛布をめくって、シュネーがいい子に寝ているかを確認
しようとしたら、静かに扉が開いた。
﹁ああ、リーザ、まだ起きていたのか﹂
⋮⋮旦那様だった。
何を言っていいのか分からず、思わずまた毛布をかぶる。
どうしよう。嘘つきだと思われてて、離婚したいって言われたら
どうしよう⋮⋮。
﹁何してるんだ﹂
ぺろりとかぶっていた毛布を持ち上げ、旦那様が寝台に腰を下ろ
した。
﹁まだ具合が悪いのか﹂
﹁う、うう﹂
﹁何を泣く、ああ、お前、風呂はまだか。じゃあ一緒に入ろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ちょっと顔を上げ、旦那様の笑顔を確認した。
怒ってない⋮⋮ように見える。
慌てて起き上がり、かごの中から二人分の着換えを取り出して胸
に抱えた。
﹁よし、行こうか﹂
旦那様がそういって、自分の肩を抱いて歩き出す。
﹁忙しくなりそうだ、明日もまた一日会議だ。代理人を立てて王都
に向かわせて、街の組合長たちも呼んで治安悪化に備えさせないと。
アイシャ族の動きも今までより警戒しないといけない﹂
﹁はい、アイシャ族が、新型火薬の爆弾を使ったからですよね﹂
﹁ああ、失敗したけどな。火薬は迂闊に扱うと大爆発する。制御機
構はどの国も喉から手が出るほど欲しいだろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
自分を見つめる旦那様の目は笑っていなかった。
やはりなにか、自分に対してご不満があるのかもしれない、と思
325
う。
お風呂場の戸をあけ、内側から鍵をかけて、旦那様が服を脱ぎ捨
てる。
﹁リーザ、おいで﹂
﹁ハイ⋮⋮﹂
慌てて服を脱いで布を巻き、先に体を洗っている旦那様の背中を
流す。それから急いで、自分の髪と体を洗った。
﹁どうした、さっきから元気がないな﹂
﹁いいえ﹂
首を振り、先に湯船で足を延ばしている旦那様の隣に、体をそっ
と沈めた。
﹁まあ、なんというか、リーザ﹂
﹁ハイ⋮⋮﹂
﹁いろいろ大変だったな、お前も﹂
旦那様がそういって、顔をお湯でざぶざぶと洗った。
何と返事をしていいかわからず、黙ってその様子を見守る。
﹁お前がすぐに倒れて眠ってしまうのも、記憶を弄られていたから
ではないかと思い当った。レヴォントリの巫女に、そのような力を
持つものが居る。もしかしてジュリアス様は、お前の記憶を封じる
ために、あのセルマか、似たような力を持つ娘を使ったのかもしれ
ない。ジュリアス様は私の母と共同戦線を張り、火薬の管理施設を
レヴォントリに建設しようとしておいでだからな⋮⋮﹂
やはりそうなのだろうか。
ぼろぼろになったセルマさんが、なぜ記憶を取り戻したのか、と
自分を詰問してきたことを思い出す。
彼女には、確かに王都で遭っている、と思う。
お兄様と一緒に居た、と思うのだ。
セルマさんが、お兄様に頼まれて、自分の記憶を⋮⋮。
326
﹁リーザ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
旦那様の真剣な声に、内心怯えながら返事をした。
何を言われるんだろう。
﹁お前は必ず私が守る﹂
﹁え﹂
びっくりして、旦那様を見上げた。
旦那様がずぶ濡れの顔を大きな手で乱暴にぬぐい、ニッコリ笑っ
た。
﹁必ず守る、大丈夫だ。もしこの事態がどうにもならなくなっても、
レオンハルト・ローゼンベルクが﹃将軍様﹄ではなく﹃ただの敗残
兵のおっさん﹄になっても、私はみっともなくお前を背負って逃げ
回ろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮だ、だんなさ⋮⋮﹂
﹁ま、そのかわり、将来私が碌でもないジジイになっても、見捨て
ずに面倒を見てくれ﹂
﹁う、う⋮⋮﹂
﹁嫌か? まあなるべく若作りして頑張るから﹂
涙がぼろぼろ出てくる。
ついに我慢できなくなって、声を上げた。
﹁う、うわああああああ、嫌じゃないいい⋮⋮﹂
そう叫んで、旦那様に力いっぱい抱き付く。
旦那様が、泣き叫ぶ自分の頭を撫でて苦笑した。
﹁記憶障害が戻ってよかったな。お前の若さで、頭の病なんかじゃ
なくて本当に良かった﹂
たくましい片腕が、しっかりと背中に回る。
327
﹁わあああああ、わあああああ﹂
﹁泣かなくていいんだ、リーザ﹂
﹁うっ、うっ⋮⋮﹂
黙々と暖かな湯気が立つ中、旦那様としっかり抱き合う。
なんだか、すごく安心した。
家族が居なくなるなんて間違いで、旦那様は、本当に自分の家族
なんだと分かったから。
自分と旦那様は、これからずっと一緒に暮らして、病気になった
らお互い面倒を見合い、困ったときは話し合う。
これから、二人には長い未来が待っているのだ。一緒にすこしず
つ積み重ねる未来が。
﹁だ、だんなざま﹂
﹁何だ﹂
﹁お、おごっでるがと、おもっで、ごわがった⋮⋮﹂
﹁まったく。お前はせっかく美人なのに、どうしてそんな妙な泣き
方をするんだろうな、いつも﹂
旦那様が呆れたように言い、大きな手で自分の両頬を包んで、口
づけしてくれる。
ゆっくり唇を離して、再び旦那様と力いっぱい抱き合った。
ああ、この人は、私の﹃旦那様﹄⋮⋮。
﹁ねえ、旦那様﹂
﹁ん?﹂
﹁旦那様が、ヨボヨボのおじい様になっても、面倒見る、私﹂
今やっと、自分たちは夫婦なのだと腑に落ちた気がする、本当の
意味で。
328
39︵前書き︶
エロあり︵風邪は治った︶
329
39
﹁旦那様﹂
お部屋に戻っていらした旦那様が扉を閉め、自分の耳元に唇を近
づけてささやいた。
﹁氷青石の鉱山は、落盤事故を理由に閉鎖し、部隊を派遣して警備
にあたらせた。案の定、アイシャ族が突入しようとして小競り合い
になったそうだ﹂
旦那様がそういって、疲れ果てたお顔でため息をつかれた。
ヴィルが旅立ったのは昨日、早くお船が王都に着けばいいのだけ
れど⋮⋮。
﹁ありがとうございます。あれがなければ、そもそも新型火薬は作
れません。将来代替えされた原料で火薬ができると思いますけれど﹂
﹁そうか、わかった﹂
﹁お肩をおもみします﹂
﹁うん、ありがとう﹂
旦那様の分厚い肩を指で一生懸命押していたら、笑われてしまっ
た。
﹁何だか、鳥に突かれてるみたいだな﹂
﹁鳥⋮⋮﹂
そうだ、旦那様はあの時の事を覚えているだろうか。
お兄様の誕生日の日、虹鳥のひなを樹に戻してくださったことを。
﹁ねえ、旦那様﹂
﹁ん? そろそろ風呂に行くか﹂
﹁そうじゃなくって、あの、昔私と会った事、覚えていますか﹂
﹁うーん、宴でちらほらお前の顔は見かけていたぞ﹂
﹁違う、あの、10年前。お兄様のお誕生日の日に私と会った事。
330
旦那様はひな鳥を巣に戻してくださったの﹂
﹁うーん﹂
旦那様が、悩むように首をひねった。
﹁あったかな、そんな事﹂
﹁ありました! あのね、私は下着姿でお庭を走り回っていたの﹂
﹁おっ、その言葉で思い出したぞ﹂
その言葉で、旦那様が噴き出した。
﹁王太子様の妹姫が、鳥を助けろと泣きながらしがみついてきた事
があった。いや、おどろいたなあ、何という格好だと度肝を抜かれ
たよ、あのときは﹂
思い出したんだ。
嬉しくなって目を輝かせると、旦那様がおかしくてたまらないよ
うに肩を揺らした。
﹁リーザは変わっていないな、あのころと同じ動物好きのお転婆だ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
旦那様の腕に抱き付いて口づけしてから、機嫌よく立ち上がった。
ちゃんと旦那様も、自分たちの出会いを覚えていてくださったの
だ。
嬉しい⋮⋮。
﹁それにしても美人に育ったな、あのお転婆娘が。今のお前は母君
に瓜二つだ。私にはもったいないくらいに美しい﹂
お風呂用の着替えや布をたたむ自分を見つめ、旦那様がしみじみ
と言った。
﹁旦那様、お母様をご存じなの﹂
﹁もちろん、陛下がおそばから放そうとしなかったからな、何度も
お見かけした。染めた淡い金の髪に、お前と同じ色の瞳。お美しい
女性だった。レヴォントリに居たころから、美貌で名高い娘だった
らしいから﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
自分が今まで知らなかったことが、旦那様の口から飛び出した。
331
レヴォントリに居た?
亡くなったお母様が?
﹁ん? 知らなかったのか。お前の母上はレヴォントリの民だ。王
都に観光に来て陛下に見初められたんだぞ。きっとお前と同じで好
奇心の強い令嬢だったのだろうな﹂
旦那様がそういって立ち上がり、自分の肩を抱いた。
︱︱お母様がレヴォントリの出だなんて、知らなかった。
自分が知らないお母様のことを、旦那様はご存じなんだ。
そう思って、ずっと年上の優しい顔をじっと見つめる。
﹁支度が出来たなら、風呂に行ってもう休もう。私は明日が早いか
ら﹂
﹁は、はい﹂
慌ててうなずき、胸に抱いた布の塊をぎゅっと抱きしめる。
︱︱知らなかった。お母様は旦那様やお義母様と同じ、不思議な
銀の髪の一族だったんだ。
3つの時に亡くなったお母様と、もっといろいろお話ししたかっ
た。
自分が今人妻となり、危険に巻き込まれながらも、幸せに暮らせ
ていることもお母様に伝えたい。
冷たかったお父様と違って、生んでくれたお母様なら、娘の幸せ
を喜んでくださったはず。
そう思った。
332
﹁やぁ、旦那様ぁ⋮⋮こわい、初めてするみたい﹂
︱︱いやいや、初めてする子は男にまたがらないだろ。
そう思いつつ可愛い奥様の太ももを押さえつけ、甘い音を立てる
脚の間を責めたてる。
リーザが身をくねらせ、細い腕を自分の胸の上についた。
﹁だ、だめぇっ、すっごく、奥に、あたってる⋮⋮﹂
﹃怖い﹄だの﹃いや﹄だの言いながら、リーザが腰を振ってお道
具を苛め抜く。
ああ今日疲れてるから早く終わりそう、そう思いながらじゃじゃ
馬の細い腰を両手で掴み、体をゆするのをやめさせた。
﹁そんな甘ったるい声、外に聞かれたらどうするんだ﹂
﹁⋮⋮いや⋮⋮聞こえた?﹂
﹁聞こえたかもしれないよ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
リーザが小さな拳を口元に当てる。
それから、銜え込んだものをギュウギュウと締め付けてきた。
﹁むり、奥、当たるの⋮⋮声出ちゃうっ⋮⋮﹂
ああ、リーザも10年前は、悪戯をして下着一丁で庭を走り回っ
ていたんだなぁ。
あの子どもがあっという間に大きくなって⋮⋮あっという間にこ
んなに美しく⋮⋮いやいやあっという間に妖艶に成長しすぎだと思
う。自分が色々教えたにしてもリーザは優等生すぎる。
自分に跨るリーザの白い乳房の間を、一滴の汗が薄く光って伝っ
た。
333
なんという、素晴らしい眺め。
このまま死んだら絶対成仏できる。文句言わずにすぐ死ぬ。
﹁旦那様ぁ、うごけないの、上に来て⋮⋮﹂
すぐにでもいうことを聞こうかと思ったが、ちょっとこの豊かな
お山が揺れるところを見ようかなぁ、などという不届きなおっさん
独特の欲求が湧き上がってきて、リーザの軽い体を下から突き上げ
た。
リーザが両腕で胸の下あたりをかき抱き、漏れだす声を押し殺す。
﹁んぁっ、だめ⋮⋮は⋮⋮っ﹂
ねばりついた水の音が、異様に興奮を誘った。
﹁いやぁ、も、んぁっ、動けな、いっ﹂
リーザが悲鳴のような声を上げたので、そのまま体を抱いてごろ
りと押し倒した。
﹁こら。今の声、聞こえたかもしれないよ﹂
ま、この階から人は追い払っているが。
﹁だって、我慢できない、いじわるするから﹂
リーザが細い脚を、腰に絡めた。柔らかな肌は汗ばみ、おっさん
の潤いの失せた肌に吸い付いてくる。
﹁リーザ﹂
﹁あ、硬い⋮⋮すごい⋮⋮んっ、⋮⋮ッ!﹂
腰をくねらせ、体の下でリーザが呻く。どこで覚えたんだろうこ
んなすごい台詞を⋮⋮すごく興奮する。
﹁旦那さまぁっ、一番奥まで挿れてぇっ﹂
あ、だめだ、これはもう自分も無理。
そう思い、濡れた顔でひくひくと体を震わせるリーザと、隙間な
く体を合わせた。
334
40
なんかやる気が出ない。
耳を澄ましても、重たい波音が繰り返されるばかりで、リーザが
アンアン言わされている声が聞こえない⋮⋮。
︱︱俺、わりと楽しみにしていたんだな、盗み聞き。
そう思いながら膝を引き寄せてうずくまる。
我ながら最低の人間だと思うし、しみじみ何言ってんだお前、と
も思うが。
変態なのは元からだが、そんな自分にも意外とあの失恋が堪えて
いるようだ。
寝るに水でも飲もう。与えられた部屋を出て、廊下を横切った瞬
間、何かドスドスと壁にぶつかる音が聞こえてきた。
﹁?﹂
何の音だ。そう思って耳を澄ました瞬間、飛び上がりたくなるよ
うな、トンでもない声が聞こえてきた。
﹁やあっ、イイよ⋮⋮船員さんの、最高だよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
こっ、この声は!
なぜ。
なぜ自分は全身を耳にして聞いているんだ。
よせやめろ、こんな事ばっかりしているから童貞を喪失できない
んだぞ、分かっているのか、ヴィルヘルム。そう思いつつ耳を壁に
ぴったりくっつけた。ダメだ自分の意思では止められない。
﹁もっと頂戴⋮⋮ッ⋮⋮﹂
何を頂戴と言ってるんだろう。
﹁ぁ、はぁ、おっきいっ、美味し⋮⋮っ、っ、ん⋮⋮!﹂
335
ヤりながら飯でも食ってるんだろうか。よくわからん。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁−−−−−ッ! もっと突いて! すっごいイイッ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そこまで聞き耳を立てたところで、ふと記憶がつながる。
この声、聴いたことある⋮⋮。
気づいた瞬間、全身から変な汗が噴き出した。
ローゼンベルクの砦で、リーザたちの部屋に寝かされていた、満
身創痍の銀髪の女の声だ。
自分の事を突然﹃童貞﹄呼ばわりし、挙句に悶々と片思いしてる
やつ気持ち悪い、みたいなことを言ってくれやがったとんでもない
アバズレ女。
まあ、おかげできっぱり振られて半死人になりつつ、妙な解放感
も感じているわけだが。
それにしても、何なんだあいつは。
やってることまでアバズレじゃないか!
聞き耳を立てたいという思いよりも、恐怖が上回って後ずさった。
そもそもこの部屋、物置ではないのか。
こんな狭い場所に閉じこもってどんな体勢を取っているのか。ガ
タガタと煩いし。
色々考えてみたが、悲しいかな、自分にはイマイチ分からない⋮
⋮。
とにかく、この怖い人達には近づかないようにしよう。
そう心に決めてひっそりと足音を殺し、部屋に戻ることにした。
︱︱自分はビビりすぎだ。そう思いながら。
336
﹁だんなさまー﹂
かわいらしい妻の声がして、扉の向こうで何やらごそごそしてい
る気配がする。
報告書を鬼のような形相で読み込んでいたが、慌てて笑顔を作り
直した
﹁お盆が大きくて開けられないぃぃ⋮⋮﹂
何やら困っているようだ。
面白いので見守っていると、困り果てた声が再び聞こえた。
﹁だんなさまー、開けてくださいませー﹂
ああもう可愛いやつ。
そう思いながら戸を開くと、盆に巨大な皿、その上に山盛りの肉
だけを乗せたリーザが心底得意げな表情で立っていた。
﹁肉﹂
﹁お、おお、肉か⋮⋮肉だな﹂
リーザがつやつやした頬を光らせ、ニッコリ笑う。
﹁もらいました、厨房の方に﹂
﹁ほう﹂
多分、一回分の量ではなかったのだろう。
もしくは他人の分も全部持って来て焼いてしまったか、どちらか
だ。
だが、文句を言ったらリーザが泣いてしまう。
自分の頭より大きな薄切り肉の山を前に、急いで嬉しそうな表情
を作った。
﹁なるほどな、何人分だ、これは﹂
﹁二人分です﹂
337
﹁そうか﹂
二十人分の間違いじゃないか? お前は何を言ってるんだ?
そう思いながら、妻を室に招き入れ、机の上を片付けて肉を置い
た。
﹁今日は肉だけか﹂
﹁はい﹂
そうか、肉だけか。
頷いて小皿に肉をとりわけ、頬張った。
﹁おお、美味いな﹂
﹁はい、朝起きてからずーっとお肉だけを焼き続けていましたので
!﹂
﹁そ、そうか﹂
心の底から得意そうな表情を見る限り、彼女の中では﹃大成功﹄
なのだろう。
うなずきかけ、肉を頬張る。味は美味いし、妻の愛がこもってい
ると思う。
﹁旦那様ぁ﹂
﹁ん?﹂
﹁ヴィルの実家が大きな宝石問屋なのです。ですので、内々に氷青
石を出荷しないでくれと頼んでおきました﹂
ぽやぽやしたリーザの口調に思わず顔を上げた。
夜、淫乱な姿を見せる時以外はぽえーんとしている妻が、恐ろし
く気が回ることに吃驚したからだ。
﹁ダメでしたか﹂
﹁い、いや﹂
自分も王都の組合に、内々の通達を出さねばと思っていたところ
だ。
まさかこの莫大な量の肉を焼いてご機嫌な幼な妻に先手を打たれ
るとは⋮⋮。
﹁ありがとう、わかった﹂
338
﹁ハイ﹂
リーザが、満足げに頷く。
﹁それから、だんなさま。氷青石の鉱山を本格的に封鎖したほうが
いいかもしれません﹂
﹁えっ﹂
リーザが肉にかぶりつきながら、神妙な面持ちで言った。
﹁私、設備さえあれば、新しい火薬を作れます。氷青石の鉱山は爆
破して故意に落盤させて、もう誰も石を取りに行けないようにした
らどうでしょう﹂
真剣な表情で花紫の瞳をきらめかせ、リーザが言った。
不思議に思う。
こんなリーザの表情を、今までに見た事がない。
甘いばかりだと思っていた美しい顔に、兄によく似た怜悧さが漂
っているように見える。
﹁⋮⋮その発想はなかったな、いくら危険な新型火薬とはいえ、山
岳地帯の開発などに使用できる、有用な資源の一つだと思うが﹂
だが、素直に頷くはずだったリーザは、ゆるゆると首を振った。
﹁代替えの材料は近いうちに発見されると思います。製法が漏れて
いるから⋮⋮だから、時間稼ぎ。お兄様が研究所をレヴォントリに
設立され、委員会を本格運用できるまでの時間稼ぎをしたいんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
手を止めて、つくづくとリーザを見た。
﹁お前の口から、そんな言葉が出ると思わなかったぞ﹂
﹁はい﹂
リーザが次の肉を口に入れ、はっきりした口調で言った。
﹁私にやらせてください、旦那様。私はエリカ博士から、安全に火
薬を生成する方法を習っています。低温であることが、火薬を安定
339
化させる絶対条件なんです。⋮⋮ローゼンベルクの氷が解けない寒
さであれば、危険はほとんどない状態で作業ができると思います﹂
何と返事していいのか戸惑い、肉を食べる手も止めてリーザの口
元を見守る。
﹁いや、でも危険なことは⋮⋮﹂
﹁危険でもします﹂
リーザが、大きな目を見開いて言った。
﹁お兄様はもっと危険で、もっと大変なことをなさろうとしている
の。私は旦那様の役に立ちたくて勝手に爆弾の勉強をしていたけれ
ど⋮⋮良かったわ。私の知識があれば、旦那様もお兄様も助けられ
る﹂
リーザの白い指が伸び、自分のごつごつした指にそっと触れた。
﹁お願いします、絶対に安全に配慮しながら作るから﹂
﹁でも﹂
﹁お願い、エリカ博士の⋮⋮ううん、エリカ博士とお兄様の、本当
のお願いを叶えたいの﹂
リーザの指に力がこもった。
340
41
男は、苛立ちをこらえかねて机をたたいた。
︱︱彼はずっと、エリカ・シュタイナーに見下されていると思い
込んでいた。
研究の能力でも、周囲の評価でも、実際に出した成果でも、ずっ
とずっと、天才シュタイナー博士の影だと感じ続けていた。
だが、唯一彼女に勝っていると、彼が自認している部分はあった。
それは、異性との交流能力だ。
若い頃から容貌の良さと人当たりの柔らかさで、色々な人々に愛
されてきた彼にとっては、研究一筋のエリカ博士を籠絡するなど他
愛もない事だった。
己の才能で目障りな女を凌駕出来ないのであれば、性的な意味で
組み敷いてしまえばいい。
そしてそれは上手く行き、異性に免疫のない彼女はあっさりと籠
絡された。彼は、天才研究者の伴侶となる一歩手前までやってくる
ことが出来たのだ。
だがあの日、思いつめた表情のエリカ博士から﹃やはり君と私は
合わないと思う。研究に専念したいから、別れてほしい﹄と告げら
れたとき、彼の薄っぺらい満足感は激烈な怒りへと転化した。
︱︱俺に恥をかかせやがって、許さない。
彼の爪が掌に食い込んだ。
エリカ博士の残した大量の資料を前に、彼は目を血走らせてもう
一度拳で机をたたく。
︱︱お前が残したこの資料は、俺が作ったものだと詐称し、名誉
を独り占めしてやる。俺は火薬をレアルデで大量生産し、新たなる
軍事兵器の父として名を残してやる。お前が一番嫌がっていたこと
を、俺がやってやる⋮⋮。
341
彼はたった一人、ぶつぶつとその言葉だけを繰り返していた。
﹁陛下は何故平然としておられるのですか!﹂
大臣の一人が声を荒げた。臣下にこのような口の利き方を許すの
は、もちろん王であるジュリアスの本意ではない。だが彼は、いつ
もの穏やかで人懐っこい笑顔を浮かべて、申し訳なさそうな声を装
った。
﹁もちろん、打てる手はすべて打っている。各国の大使館には、賊
が逃げ込んだ場合の引き渡しもお願いしている﹂
﹁後手に回っておりませんか。そんな弱腰だから、我がカルターが
舐められるのではありませんか﹂
﹁そんなことはない。我が国は他国と対等な外交関係を結んでいる
よ﹂
﹁本当にそうでしょうか。陛下一人が夢の世界で政治をなさってい
るのでは。はぁ、若造はこれだから頼りないと言われるんだ﹂
バカに仕切った口調で、大臣が吐き捨てる。
会議場がしんと静まり返る。
皆がかたずをのんで、王と大臣の様子を見守っていた。
﹁夢の世界か。大臣、貴方の目から見たらそうかもしれないね。だ
が流れはやがて変わるだろう。人々は争い合うことの愚、人の手に
負えない炎の恐ろしさを少しずつ知るに違いない﹂
342
白い手袋を嵌めた手を顎の下で組み合わせ、ジュリアスは穏やか
な声で答える。
大臣の振りかざした刃など堪えてもいない、そう言わんばかりの
表情に、人々の目には見えた。
﹁いつになるやら。全く気が緩んでいるからこんな舐められた真似
をされるんだっ!﹂
﹁大臣⋮⋮﹂
傍らの文官が、そろそろ止せ、というように、興奮しきった大臣
に耳打ちする。
赤い顔をごしごしとこすり、不愉快極まりないと言った仕草で大
臣が椅子を蹴って立ち上がった。
﹁ふん、今日は引き揚げさせてもらう。他国の密偵どもがウロウロ
しているなんて我慢ならん。弱腰な統治責任者の顔を見ていると吐
き気がしますのでね﹂
だが、ジュリアスはなおも何も言わなかった。
穏やかな微笑みを口元に湛えたまま﹁ええ、分かりました。今日
は下がって結構ですよ﹂とだけ答える。
あとには、息をのむ人々と、静まり返った会議場が残された。
さて、旦那様といただくお昼ごはんも終わったし、後は氷青石の
鉱山封鎖の件を旦那様に検討していただくだけだ。
うんと言っていただければいいのだけれど。
現在はまだ、あの石を原料とする以外に火薬を作る方法はない。
343
エリカ博士はこれから、代替え材料やより性能の高い材料が見つ
かるだろう、と仰っていたけれど。
ああ、エリカ博士が懐かしい。
女の子もたくさん勉強して、科学の発展に寄与しようと思ってい
いんだよ。
そういっていつも励ましてくださった博士。
お綺麗なのに、いつも髪を短く切り、汚れた白衣を着ていた博士
の姿を思い出す。
死んでしまったなんて嘘みたい。
忘れていたことも嘘みたい。
今だって、思い出すとこんなに悲しいのに。自分の記憶を封じた
力は、何と恐ろしく、何と強大なものなのだろうか。
﹁博士⋮⋮﹂
庭の樹に寄りかかって、顔をぬぐった。
﹁博士、ごめんなさい。博士の事を忘れていて。今でも大好き。天
国でたくさんお昼寝して、たくさん研究してください﹂
指を組み合わせ、お祈りを捧げる。
突然いなくなってしまった人に自分があげられるものは、天国で
の幸福を願う祈りだけだ。
︱︱そういえば、お兄様は言っていた。博士の残した書類の目ぼ
しいものは、博士の恋人だった研究員の人が盗んだって。
残りの遺産を回収したけれど、どれだけの価値があるかわからな
いって⋮⋮。
そうだ、自分は確か、その内容を確認したんだ。お兄様に言われ
て。
そのとき、ふと、お兄様の声が蘇った。
記憶を失っている間に、夢に見たお兄様と自分の姿が。
︱︱リーザ、お前ならどうする。
344
︱︱これを作り出した博士でも完全な制御は出来なかった。理論
上は可能なはずなのだが。
お兄様は、執務机の前に書類を広げ、自分に向かってそうお尋ね
になったのだ。
博士にも、完全な制御は出来なかったって。
﹁えっと⋮⋮﹂
指の背を唇に押し当て、必死に頭を働かせた。
﹃博士にも完全な制御は出来なかった﹄
そう、お兄様はそうおっしゃったのだ。
博士が残された大量の書類にご自分で目を通されて、私に意見を
お求めになったのだ。博士の﹃ひみつの一番弟子﹄だった私に。
でも、おかしい。
博士に、火薬の完全な制御ができなかったなんて、嘘だ。
うん、間違いなく嘘。
お兄様が見た書類には、嘘があった。私と博士にしかわからない
嘘が。
でもだめだ、そこまでしか思い出せない。
自分の頭の中に、まだ少し術が残っているのかもしれない。
どうしよう。
あの記憶はいったい何なんだろう。
﹁ベベホンタスちゃん、お散歩しましょうか﹂
太い鎖につながれたベベホンタスにそう話しかけ、フカフカの黒
い毛を撫でる。ベベホンタスはふん、と横を向いて、こちらを向こ
うともしなかった。
﹁ね、いらっしゃい。ベベホンタスちゃんが居れば安心な気がする
345
から。私の守護騎士になってちょうだい﹂
砦でじっとしていると、運動不足で太ってしまう気がする。
お夕飯のお手伝いまで時間があるし、魚を釣る必要はなくなった
ので、お散歩でもしようと思うのだ。
杭にひっかけられた太い鎖から首輪を外し、軽い手綱に付け替え
てベベホンタスを引っ張る。
﹁さぁ、行きましょう﹂
シュネーの細い紐と、ベベホンタスの太い綱を引っ張って、雪の
上を歩き出した。
歩いていると色々な発想が湧いてきていいと思うのだ。体の中の
血の巡りが良くなるせいだろうか。
最近記憶が戻ったし、何か浮かんでくることがないか確かめたい。
他に何か忘れていることはないだろうか⋮⋮。
大事なことを、忘れていないだろうか。
﹁ベベホンタスさんは、どこから来た犬さんなんですかぁ﹂
自分から顔を背け続ける大きな背中に話しかけながら、砦の中庭
をお散歩する。
ああ、いい天気だ。
雪に反射した光で目が痛くなるほど眩しい。空は真っ青で、空気
は澄み渡っていた。
﹁ベベホンタス先生は、もしかしてこのお名前が嫌なんですかぁ﹂
話しかけると、ベベホンタスがくるりと振り返った。金色混じり
の茶色い瞳がきらりと輝く。
﹁ウォンっ!﹂
一声吠えて、自分の顔をじっと見ている。
﹁あら? 本当に嫌なの?﹂
首を傾げ、しばらく考えた。いい名前なのに。適当に頭に思い付
いた名前を付けたのだが、古の勇者みたいですごくいいと思うのだ
けれど。
346
﹁じゃあ、チンデルって名前は?﹂
﹁グルル⋮⋮﹂
怒ってる⋮⋮。
﹁じゃあ、ポンタロス!﹂
ぷいっと向こうを向いてしまった。
どれも伝説的でカッコいい名前だと思うのだが⋮⋮。
﹁うーん、貴方はうるさ方なのねぇ。じゃあ、パンチラス!﹂
ベベホンタスは自分から顔をそむけたまま、雪の上に座り込んで
しまった。
機嫌が悪くてお散歩を嫌がっているのだ⋮⋮。
﹁シリデオンさんはどうですか?﹂
微動だにしない。
何が面白くないんだろうか。
綱を離さないように気を付けたまま、腕を組んだ。シュネーはい
い子にお座りをして、不思議そうに自分を見上げている。
﹁うーん、違う名前⋮⋮違う名前っと﹂
違う名前。
そう口にした瞬間、頭の中に電流が走ったような気がした。
347
42
﹁お前、何回腹筋をするんだ﹂
﹁わああああああああ!﹂
銀の髪が目に入り、反射的に体を起こし、腰を抜かしたまま甲板
の手すりまで退避する。
脳内ですさまじい警鐘が鳴り響いた。
危険だ、危険、危険が人間の形をした存在が今、自分に最接近し
ている!
﹁何?﹂
﹁な、な、何って﹂
純銀の髪を甲板の床に垂らして蹲ったまま、たしかセルマ⋮⋮と
かいう名前の怪我人だった女が首を傾げた。
﹁お前、王都に何をしに行くんだ。リーザ様の護衛官の役目を投げ
出したのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何か言い返そうかと思ったが、何も言い返せず、へたり込んだま
ま銀の瞳を睨み返す。
狭い船に同乗しておいて何だが、このままこれ以後は、王都まで
顔を合わせずに済ませたいのだが。
﹁なあ、童貞は⋮⋮﹂
﹁ヴィルヘルム!﹂
慌てて体を起こし、小さな唇をふさぐ。童貞童貞と連呼するな。
誰かが聞いていたらどうするんだ。
﹁声がでかい、失礼極まりないぞお前! 俺にはヴィルヘルムって
名前があるんだ!﹂
﹁むぐ﹂
﹁いいか、お前は俺に近づくな、これからも話しかけないでくれ﹂
﹁むぅ﹂
348
口を⋮⋮いや小さな顔全体をふさがれた女が、ジタバタと暴れて
自分の手を?ぎ放した。
﹁苦しい!﹂
銀色の目でにらみつけられ、反射的に﹁すまん﹂と謝った。
﹁バカか! そんな風に鼻も口も塞がれたら死ぬ﹂
﹁すまん﹂
﹁はぁ⋮⋮まったく童貞は女の扱いを知らんな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
一瞬たいそう傷ついたが、すぐに打ち消す。童貞であることは関
係ないだろう。いや、関係ないと思うのだが。思いたいのだが。
﹁お前は何で、人の嫌がることを大声で言って回るんだ﹂
﹁別に﹂
﹁別にってお前な﹂
﹁名前が分からなかったから、個性で識別をした。それだけのこと﹂
﹁個性?!﹂
ため息をついて、銀色の小さな女を見つめた。
何だろう⋮⋮やはり落ち着かない。正しく言いかえれば、怖い。
なぜならば、この銀色の小さな女から、どことなく不気味な印象
を受けるからだ。
本能的に、彼女の銀色の目を異様なモノのように感じるせいだろ
うか。例えるならば﹃邪視﹄という言葉がふさわしいかもしれない。
﹃邪視﹄とは、眼差しに強い意志を込めれば、人を殺すことすら
できると言われる魔の力。幼い頃父に聞いた異国の伝説だ。
子供を脅かすための夜話、お伽噺の一種なのだろうが、子供のこ
ろはその話がとても恐ろしかった。
﹁ねえ、お前、リーザ様の幼馴染なの﹂
銀髪の女が、表情筋を動かさずに行った。どことなく異様な感じ
がするのは、あまりに無表情すぎる故かもしれないな、と思う。若
い娘はリーザのように表情豊かで愛らしいものだと勝手に思ってい
たが、彼女には暖かさも可愛らしさも全くない。氷に刻んだ彫像の
349
ようだ。
﹁なぜおまえに話す必要がある﹂
﹁なぜって? ああ、私はかつて、ジュリアス様の命令でリーザ様
の記憶をいじった。だが、あれはもう封じられないな。リーザ様の
お力に押し戻されて、私の介入は完全に拒まれてしまった。さすが
はレヴォントリの巫女の血筋。氷神の意思のもと、先王陛下と心結
ばれたリューディア様の娘御ということだな﹂
何やら納得したように、銀髪の女がぶつぶつ言っている。
昨夜の御乱行と言い、この顔つきと言い、謎の独り言と言い、確
実にこれはダメな人だ。
ダメな人だからちょっとおそばを離れて部屋に引きこもろう。
そう思ってそろそろと立ち上がろうとした刹那、女の手がかなり
の力で自分の袖をつかんで、止めた。
﹁まて、清らかな男﹂
大して言い方変わってないじゃないかふざけるな!
だが自分で自分の秘密を宣伝することになるので、大声で反論が
できない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前についてゆけば、氷神様の御意志が果たせると託宣が下った。
安心しろ、繰り返すが私は童貞は頂かない。三分程度でいかれても、
美味くも何ともないからな﹂
ふざけるな童貞は三分で達するかどうかも自分では分からないん
だぞ! 何しろ対人試合を試みた事すらないんだからな!
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁王都に着いたらまず先に、リーザ様の件をジュリアス様にご報告
に上がる。お前は私の手伝いをしろ。いいな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
350
良くない。
一緒に行動なんてしたくない。微妙に手下扱いなのも面白くない。
しかし、いつ﹁おい童貞!﹂と叫ばれるかと思うと、怖くて言い
返せない。
なんということだ。この世で一番要らないモノを人質に取られる
なんて⋮⋮!
﹁燃焼実験も成功ですね﹂
周囲の人々の声に、男はうなずいた。エリカ・シュタイナー博士
の残した論文は完璧で、共同研究者だった彼は論文をなぞるだけで、
恐ろしい威力を持つ爆弾を安定化させ、持ち運びができるように加
工することが容易にできた。
﹁これを我が国からアイシャ族に内々に渡しましょう。カルター王
国の王、ジュリアスの誕生祝賀会と時を同じくして、国境ローゼン
ベルクで大爆破事件が発生します。人々は新型火薬を用いた爆弾の
威力に恐れおののき、己らの不利を知ることでしょう﹂
﹁すべて博士が、我々の国に付いてくださったからですな﹂
賞賛の言葉が上滑りしてゆく。
成功しているうちだけが花だ、そのことは彼にも理解できていた。
いずれ失敗すれば、あっさりと切り捨てられることだろう。
だが、今の段階では、エリカの論文を理解し実行できるのは彼し
351
かいない。
大きなしくじりさえなければ、レアルデから捨てられることは無
いはず。カルターの王宮に封印されていた大量の文書もすべてレア
ルデが回収した。
それらさえあれば、彼は﹃エリカ・シュタイナー﹄の偉業を再生
できるのだ。
大丈夫、大丈夫だ。己にそう言い聞かせ、彼は口を開いた。 ﹁国王は誕生日の祝宴の席で落命する。その直後に、王都にローゼ
ンベルクの悲劇の一報が届くでしょう。カルター全土は麻のように
乱れ、レアルデの侵攻をたやすく受け入れるはず﹂
口にしたら、本当にそうなるのだろうな、と考えることが出来た。
彼は整った口元に笑みを浮かべ、人々を見回す。
︱︱不要なお荷物として切り捨てられたら、自分には帰る場所が
ない。エリカが自殺ではなく、他殺であることは、とっくに王には
ばれている筈。
﹁博士、これからもご協力、よろしくお願いいたします﹂
レアルデの大臣に、男は微笑み返した。
何があってもこの場にしがみつき、成功という名の利益を生み出
し続けよう。彼は心に固くそう思い定めた。
このレアルデで﹃火薬の父﹄としての地位と名声を手に入れ、エ
リカに与えられた屈辱をすすぐのだ⋮⋮と。
352
43
﹁わぁぁ﹂
﹁爆薬の開発施設など、ローゼンベルクには無いんだ。だから仕方
ない、ここを使わせようと決議した﹂
﹁すごいぃぃ⋮⋮﹂
旦那様が用意してくださったのは、砦の今は使われていない地下
牢だった。
冷え切った真っ暗な牢獄だ。灯りがぽつぽつと灯されていて、そ
れだけが新しいのだと分かる。
天井から錆びた鎖がつるされ、朽ち果てた扉がギイギイと音を立
てていて、なんだかすごく秘密基地っぽい。
﹁ウーン⋮⋮亡霊が出ると噂なんだが。怖くなければ使ってくれ﹂
﹁カッコいいです!﹂
胸の前で指を組み合わせ、旦那様を見上げた。
これだけ湿度があり、温度が低ければきっと実験は上手くいくだ
ろう。
とても気に入った。
亡霊が出るのであれば会話もしてみたい。誰の亡霊なんだろう?
兵隊さんだろうか、氷原で朽ち果てた旅人なのか⋮⋮。
冒険浪漫の香りに胸を膨らませ、ぽたぽた水音のする牢を覗き込
んだ。
﹁ここなら、万一の爆発にも耐えられそうですね﹂
﹁それ以前に、爆発はさせないでほしいんだが。おいリーザ、危険
なことならさせないぞ﹂
﹁えへへ﹂
もちろんだ。
爆弾の取り扱いは重大な責任をもって臨まねばならないのだ。
失敗には多くの犠牲が付きまとう。
353
博士にもお兄様にも、何度もきつく釘を刺されている。
むしろ、博士が秘密の弟子に自分を選んでくれたのは、火薬の取
り扱いが一番上手だったからだし。
﹁3日で作れます!﹂
﹁本当に、危険なことならさせないからな。分かっているのか、リ
ーザ﹂
﹁大丈夫です﹂
旦那様に頷きかけ、しっかりと目を見つめて返事をした。
﹁エリカ博士に習った事以外は、決していたしません。お約束しま
す、旦那様﹂
﹁うん、やっぱり不安になって来たから坑道封鎖は別の方法で考え
ようかな⋮⋮﹂
あまり信頼されていないようだ⋮⋮。
﹁大丈夫です。エリカ博士に許可された中で、一番強い爆弾を作り
ます!﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですから!﹂
﹁うーん、怪我なんかしたら許さないからな⋮⋮﹂
﹁ハイ!﹂
心配そうな旦那様を見送り、持って来たお掃除道具で、埃が無く
なるように独房を磨き上げた。
入り口のそばに居る兵隊さんにも﹁ゴミが舞い散るから入ってこ
ないでください﹂とお願いする。
兵隊さんたちに旧牢が怖くないのか、と聞かれたので、大丈夫だ
と答えた。
﹁さ、頑張ろうっと﹂
袖まくりをして、旦那様に用意してもらった氷青石の原石を確認
354
する。
色が濃く、新型火薬の原料となる氷青石の色素がたっぷり抽出で
きそうだ。
それから同じく、準備していただいた蝶水晶の原石も確認した。
蝶水晶は光に透かすと虹色にきらきら輝く、若い女の子に人気の
半貴石だ。
これが乳母オルガの見つけた、新型火薬の燃焼を、触れている間
だけ完全に停止させる不思議な石だ。
制御用の小さな部品を火薬に触れさせておけば、火薬はただの水
と同じようになる。
けれど蝶水晶の部品を抜き去れば、火薬はちょっとした刺激であ
っという間に爆発するのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
蝶水晶をじいっと眺めながら、頭の中の記憶をさぐる。
火薬の燃焼を抑止するための原料は、大学でもたくさん調査・研
究されていた。
色々な﹁燃焼を一時的に停止させる﹂部品が考え出され、そして、
実際には使えないと判断されたものだ。
﹁綺麗だなぁ﹂
この蝶水晶が、エリカ博士が唯一﹃本物﹄だと認めた制御装置の
原料だ。
これさえ火薬に浸せば、どれだけ危険な火薬も軽々と持ち運べる
ようになる。
﹁でも、お兄様に見せて頂いた、博士の書類には違うことが書いて
あったのよねぇ﹂
呟いて、石を机に戻す。
お兄様は、エリカ博士の遺産である文献や報告書に基づいて、新
型火薬の実験を大学に命じたのだと仰った。
355
だが、それは上手くいかなかった、と。
理由は、エリカ博士の作った書類に嘘が書いてあったからだ。
自分には、書類に書かれた博士の嘘がすぐに分かった。
思い出したのだ、全部。
⋮⋮あの書類は、色々な個所で﹃名前﹄が変えてあった。制御装
置の部品に使える﹃原料﹄の名前が。
博士の残した文献にはすべて、制御装置に仕える唯一の石は﹁白
剛石﹂と記してあったのだ。
宮殿や貴族のお城で使われる、白くて硬い、ぴかぴかの石だ。
あの石を使っても、制御が完全に出来ないのに⋮⋮。
正しくは、一見できるように見えるけど、ダメだったのに。
何故、博士はそれを、公式の書類に﹃唯一の制御装置の原材料だ﹄
と書き残したのだろうか。
遺された書類にあった、博士の嘘。
自分の口からそれを知ったお兄様は、何もせずに宝物庫に書類を
戻した。
博士の遺体のそばから盗まれた最新の書類も、爆弾の試作品も、
追及はあとでよいとおっしゃった。
︱︱お兄様は何を考えておられるのだろう。自分はお兄様の事が、
まるで分らない⋮⋮。
356
﹁氷神様の御意志はジュリアス様を真の意味で平和の薪とすること
だ。やすやすと命を投げ出すなど許されない。お前、騎士団に顔が
利くなら警護計画の見直しを提言してくれ。氷神様はジュリアス様
が危険だと私に仰っている﹂
表情を全く動かさない不気味な女が、自分の部屋に居座ったまま
ブツブツ言っている。 怖いから出て行ってほしいのだが。
しかし、目を離したらどこで何を喋るかわからないので追い出せ
ない。
なんと驚いたことに、この女は密航者だった。
船員からは、何故か自分が滅茶苦茶に叱られる羽目になった。
︱︱この女の子はまだ子供じゃないか、ちゃんと面倒を見ろと。
まあ、チビでガリガリなので子供に見えなくもないが⋮⋮。
それから、げっそり痩せて枯れ木みたいになった船員が、自分と
セルマを見てそっと目をそらしたのが気になるが。
あれが多分、セルマと昨夜良からぬコトをしていた船員だろう。
何がどうなるとあんなにやつれる羽目に陥るのだろうか。本当に
怖い。
﹁あー、セルマ。お前の話は全然分からんが、ジュリアス様は命に
代えてもお守りするぞ﹂
間が持たないので適当に相槌を打つと、セルマも深刻な表情でう
なずいた。
﹁氷神様の御意志に従い、私もジュリアス様の救命に全力を尽くす。
あの方は平和の薪、平和の火を燃やすための鍵となるためにこの世
に生を受けたのだから﹂
やっぱり話が良く分からない。
357
この女が新興宗教の信者であることしか。
﹁俺は新興宗教は興味ない、勧誘するな。ジュリアス様も勧誘する
なよ﹂
﹁新興宗教ではない、痴れ者﹂
セルマが溜息をついて、だるそうに立ち上がった。
銀の瞳が、何とも言えない爛々とした光を湛えていることに気づ
いた。
﹁おい、お前どこに行く。ここにじっとしてろ。 お前は密航者な
んだぞ﹂
﹁力が戻らないんだ。走りすぎて。だから別の船員さんを食べてく
る⋮⋮お前は寝てていいぞ。﹂
﹁おい!﹂
またこの我儘バカ女は、碌でもないことをしようとしているのか。
頭にきて立ち上がろうとした瞬間、セルマの目がギラリと強く輝い
た。
﹁お休み、童貞﹂
⋮⋮その言葉が聞こえた瞬間、目の前が真っ暗になった。そこか
ら朝まで、夢も見ずに眠っていたようだ⋮⋮。
目を覚ますと、セルマが床で毛布にくるまって眠っている。
髪は乱れ、毛布からはみ出した肩には薄い歯型まで付いている。
﹁え?﹂
歯型? 何故歯型が⋮⋮。
いったい昨夜何があったのだろう。このアバズレは何をしてきた
のだろう。
なぜ自分は、突然気を失ってしまったのだろうか。
﹃邪視⋮⋮﹄
もう一度セルマを見る。
何を考えているのか分からず、やはり気持ちの悪い女だと思った。
こんな女に秘密を握られ、良いように使われてしまうなんて。
358
騎士団を最優秀の成績で卒業し、﹃黒騎士﹄を名乗ることを許さ
れた自分の名誉にかかわることだ。
まあ同僚が恋人を抱くだの新婚妻を抱くだの娼婦を買うだの楽し
く過ごしている間、父と共に訓練に励んでいたおかげで得てしまっ
た称号だが。
思い出したくもない訓練の日々を思い出した。同僚達が皆、若く
てかわいい恋人と過ごしている間、自分は異常に厳しい実家の親父
のシゴキに耐え続けていたことを。
やっぱりうれしくない。黒騎士なんて貰ったときくらいしか嬉し
くない称号だ。
︱︱ふざけるな同僚共め良い思いをしやがって、自分は黒騎士じ
ゃなくていい、どちらかと言うと童貞じゃなくなりたい!
359
44
﹁旦那様ぁ﹂
﹁お、おお、リーザ⋮⋮何だその恰好は⋮⋮﹂
リーザにゆすり起こされて目を開けると、そこにはとんでもない
筒状の物体が鎮座していた。
﹁な、なんだ、その恰好は﹂
びっくりしたので同じことを二度聞いてしまった⋮⋮。
たとえようもない。妙ちきりんな格好だ。
普段から自力で動けるギリギリまで着膨れさせているリーザが、
更に頭から分厚い布をかぶっている。
目の所には硝子で作った、何とも言えないメガネのような器具を
掛けていた。
布の土管⋮⋮。
可愛い可愛い妻のリーザが、布製の土管に見えるのだが⋮⋮。
﹁原料の取り出しと制御装置の作成が昨夜で終わったので、今日は
火薬の合成にはいります﹂
布の奥でもごもごと声がした。
﹁そ、そうか、何だその服﹂
﹁防護服です、旦那様。お嫁入りの道具の箱に突っ込んでありまし
た。朝とっても早くに起きて、衛兵さんたちと一緒にお家に取りに
行ったの﹂
﹁なるほどね﹂
防護服か。物々しいので何かと思った。
リーザは昨夜、延々旧牢獄に閉じこもり、何やらもぞもぞと作業
をしていた。
夕飯にも現れず、自分が慌てて探しに行くまでずっと不気味な真
っ暗な牢獄に籠っていたのだ。
無言で佇む愛する妻を幽霊だと思って﹃ひっ﹄とか言ってしまっ
360
た自分が情けない。
怖くないのだろうか、幽霊が出る牢獄に一人で籠るのが。
ずっと心配して何度も人を見にやらせたのに﹁近づかないでくだ
さい﹂しか言わなかったというし⋮⋮。
移動する土管と化した妻が、かごの中のシュネーに屈みこんだ。
シュネーが悲鳴のような声を上げてキャンキャン吠え立てる。
﹁リーザよ、シュネー﹂
通じないようだ。シュネーはひぃひぃ泣きながら毛布に潜り込ん
でいる。
土管型の妻がしょんぼりと肩を落とし、そのままくるりとこっち
を振り返った。
﹁旦那様、昨日の鍵をお貸しくださいませ。続きを致します﹂
﹁あ、ああ、うん⋮⋮﹂
目をこすって立ち上がる。
﹁張り切って準備しているところ悪いが、私も着替えをして顔を洗
う。ちょっと待っていなさい﹂
自分も自分で、今日も忙しいのだ。
アイシャ族の所持しているであろう爆薬の脅威からローゼンベル
クの街をいかに守るか、街の組合の長達を集めて話し合いをしなけ
ればならない。
レヴォントリの母の動向は分からない。
この季節は、使者をレヴォントリまで行かせるのも難しいのだ⋮
⋮。
本当に不毛の大地だ、この大氷原は。
だが自分は最低限の王都勤務以外は、ずっとここで過ごす。
︱︱先代の王、リーザの父君に言われたではないか。
溶けない万年雪のように常に氷原にあり、将としてカルターの北
限を守り続けてくれと。
そのあといつもの様にヘラヘラ笑いながら、﹃お前は見目もいい
からいいんじゃないか、﹃氷将﹄。格好いいだろう﹄などと仰って、
361
誤魔化すように笑っておられたが。
自分は今までずっと、後半の冗談が先王陛下の本音だと思ってい
た。
だが、それは違うのかもしれない。底知れぬ危機にさらされた今、
韜晦に込められた国王の本音に気づかされる気がする。
土管のような姿でもぞもぞと部屋を行き来しているリーザを振り
返った。
﹁旦那様︱、朝ごはんを頂きに参りましょう﹂
﹁その恰好でか﹂
﹁ハイ! ほら、口のところは開いておりますので﹂
リーザが土管の中から手をにゅっとだし、顔のあたりを引っ張っ
た。
桃色の唇が、布の隙間から覗く。
﹁ははっ﹂
妻の無邪気さに思わず吹き出すと、頭巾のようになっている頭部
をめくり、リーザが愛らしい顔をひょっと見せた。
﹁ホラ、頭の所はボタンで外れますので、ふふっ﹂
リーザが嬉しそうに笑い、また頭巾をかぶった。
この防護服とやらがかなり気に入っているのだろう。
﹁じゃ、行こうか﹂
﹁ハイ﹂
︱︱溶けない万年雪の様に常に氷原にあり、将としてカルターの
北限を守り続ける⋮⋮。
﹁リーザ﹂
﹁何でしょう?﹂
﹁お前、あんまり王都に帰れない生活でもいいのか。これからもっ
と帰れなくなるかもしれないんだが﹂
ふと、腕にぶら下がっている布の塊のような妻に尋ねた。
妻が不思議そうに顔を上げ、花紫の瞳をにっこりと細める。
﹁ハイ、夫婦だからずっと一緒。ずーっと一緒です、旦那様!﹂
362
﹁そうか﹂
﹁ハイ!﹂
何だか安心した。
お前だけは王都に帰れ、もしくはレヴォントリに避難しろ。
そう命じるべき時なのに、リーザが一緒に居てくれるというだけ
で心の底からホッとするのが不思議だった。
この小さくてイマイチ頼りない、いつも自由な姫君が、いつの間
にか同じく頼りない中年の心の支えになっている。
﹁陛下、あのう﹂
化粧気のない侍女が、申し訳なさそうに盆の上に何かを乗せて佇
んでいた。
中年で、ジュリアスが幼いころから仕えてくれる侍女だ。
彼はいつものように笑顔を作り、やさしい声で﹁どうしたんだい﹂
と尋ねた。
﹁このようなものが、ゴミ集めの場所に転がっていたそうです。あ
の、陛下の銘が刻まれておりまして、万が一の事があってはならな
いと処分係が申しまして⋮⋮﹂
盆の上にあったのは、指輪だった。希少な、濁りや内包物の少な
い氷青石が嵌められた指輪。
﹁ああ﹂
しばらく何かを考え、ジュリアスは手袋を嵌めた手でそれをつま
み上げた。
﹁あの、陛下、何か間違いがございましたでしょうか。銘を騙った
363
代物であれば、銘を潰して予算係に引き渡しますが﹂
国王の名を裏側に刻んだ指輪だ。万一にも不正な使い方をされて
はと、侍女は気をまわしたのだろう。
﹁いや、僕がなくしたものだ、これは﹂
言葉を切り、ジュリアスが気を取り直したように微笑みなおした。
﹁これは嫁ぐリーザに渡そうと思っていたんだ。リーザの名前を入
れさせる前に紛失してしまって﹂
﹁まぁ﹂
ジュリアスの言葉に、侍女が目を丸くする。
﹁僕がやたらと神経質に掃除をしているのを知っているだろう。た
ぶん、その時に屑箱に落としたのに気づかず、慌てて会議に行った
んだろうな。ありがとう﹂
その返事を聞いてほっとしたのか、侍女が微笑んで深々と頭を下
げた。
﹁さようでございますか、それであればようございました。リーザ
様へお送りする手配を致しましょうか﹂
﹁うん﹂
侍女は再度うなずき、ジュリアスの手から受け取った指輪を盆に
のせ、しっかりとした口調で言った。
﹁畏まりました。再度綺麗に磨かせたのち、リーザ様の銘を加えて
お送りいたします﹂
侍女の姿を見送り、ジュリアスは執務室へ戻った。
彼の顔は歪んでいた。
ようやく捨てることが出来た指輪が、手元に戻ってきた理由は何
だろう⋮⋮そう考えたからだ。
あれは、ジュリアスがとある女に贈ろうとした指輪。
﹃ジュリアスより、エリカとユーアイルの結婚を祝福して﹄
正式に彼女が人の妻になる祝いに、そう刻んで贈ろうと思ってい
たものだ。
364
だが、渡そうとした本人から突き返された。
﹃お祝いは要りません、銘も入れて下さらなくて結構。あの人との
結婚は断ったんです、私﹄
あの言葉から始まった、ほんの一月ばかりの甘い時間。
それから、女と再び手を取り合うことがかなわなくなった、むな
しい男の夢。
侍女が持ち去ったあの指輪は、二人のすべてを見ていた。
だからジュリアスは捨てられなかったのだ。
けれど、涙を絞りつくした彼もまた、近いうちに世界の為の平和
の薪となって燃え尽きる。
指輪はもう要らない。冥土には何一つ持っていけないのだから。
ジュリアスは手袋をはずし、じっと自分の掌を見た。あの時の血
で、まだ自分の手が汚れているように感じ、思わずそこに口づける。
﹁本当は、僕は平和のために死にたいのではないのかもしれない﹂
そう呟き、ジュリアスは再び手袋を嵌めた。
彼の表情は、いつもの若く気を使ってばかりいる王のものに戻っ
ていた。
365
44︵後書き︶
第4章:完
次回から最終章です。
366
45︵前書き︶
最終章、マイペースで集中更新しますのでよろしくお願いいたしま
す。
︵マイペースで集中とはこれいかに⋮⋮︶
367
45
﹁出来たぁ。出来たぁ。出来ましたぁ﹂
リーザがキラキラと輝く青い石を頭の上に掲げてくるくると回っ
た。
﹁馬鹿ッ危ないッそれは爆弾だろうリーザっ!﹂
小心者丸出しの声が出てしまった。
爆弾が怖い。
﹁えへへ⋮⋮大丈夫です、旦那様﹂
﹁こらっ回るなっリーザっ危ないだろう爆発したらどうするんだっ
!﹂
﹁大丈夫でーす﹂
﹁いやっ、爆発するんでしょっ⋮⋮それ爆弾だから⋮⋮!﹂
怖すぎておばさんみたいな口調になって来た。
元から無い威厳が全く無くなったのだが、どうやって取り繕えば
良いのだろう。
﹁危なかったら寝室には持ち込みません、旦那様!﹂
リーザが小さな顔をキラキラと輝かせ、目の前にずいっと﹃爆弾﹄
を突き出した。
﹁液体の中心に、芯が刺さってますでしょ、ねじをまわして引っこ
抜いて、別のこっちの芯を指し直して、10分たたないと、爆弾は
爆発しません。今はただのお水と一緒です!﹂
﹁⋮⋮本当に爆発しない?﹂
368
何この震える子猫みたいな声⋮⋮。
﹁ハイ! 中和状態が偽装されていますので!﹂
﹁⋮⋮本当にしない?﹂
﹁大丈夫、私とエリカ博士にしか作れない爆弾です﹂
そういって、リーザが大事そうに爆弾を首から下げた。
爆発させるための﹃芯﹄は、ロケットのような飾りに隠して、宝
石箱に仕舞う。
﹁このように、起爆装置と爆弾は必ず別に保管します。爆弾は肌身
離さず。これも博士との約束です﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
﹁はぁ、それにしてもあの牢屋よかったなぁ、湿気があって低温で、
誰もいなくって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あのね、旦那様。暗くなったころにね、﹃ローゼンベルクにわざ
わいあれー、うぅぅぅぅ﹄って言う男の人の声が聞こえました! 亡霊の声でしょうか。悪い事して、処刑された人かなぁ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの牢屋、今度一緒に冒険しましょう!旦那様﹂
﹁忙しいから今度⋮⋮﹂
変な汗をかきつつ、震えながらそう答えた。
自分の嫁は世界一可愛くて素直でいい子なのだが、ちょっと色々
ずれている。たぶん姫育ちだから、だと思いたい。薄々天然だろう
と気づいてはいるが⋮⋮。
﹁ねぇ、旦那様ぁ﹂
リーザが甘えるように腕を絡めてきた。
何故か着付けてやったはずの衣は乱れ、胸の谷間に、青くきらめ
く爆弾が挟まっており、素晴らしい眺めになっている。
369
﹁もうお風呂に行く?﹂
﹁そ、そうだな﹂
﹁⋮⋮お風呂の前に可愛がってくださる?﹂
﹁い、いや。風呂に入ってから⋮⋮﹂
﹁ダメ!﹂
どうやらそこまでお待ちいただけないようだ。背伸びをしたリー
ザにぶら下がられ、唇を奪われて目を閉じる。
﹁わたし、火薬の精製作業中に考えていました﹂
ぴちぴちと柔らかな体をおっさんのくたびれた胸板に押し付け、
首にかじりついたままのリーザがぼそりとつぶやいた。
﹁何を﹂
﹁旦那様の、挟めるかなぁって﹂
﹁えっ﹂
﹁挟んでみたいなぁ⋮⋮﹂
﹁!﹂
そんなこと考えながら作った爆弾、本当に大丈夫なのだろうか。
だが、その思い付きはぜひ、奥様ご自身でそのすばらしい双の胸
の谷間で確認していただきたい。
﹁おい童貞起きろ、カルターの都が見えてきたぞ童貞、身支度をし
ろ童貞お前いつまで寝てるんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
370
聞きたくもない最悪のアバズレの声で目が覚めた。船の中では水
で体を拭くしかできなかったので、とりあえず実家に帰ってひとっ
風呂浴びたい。それからこのアバズレをどこかに解き放って自由に
なり⋮⋮だめだ、こいつを自由にしたらどこで何を喋るかわからな
い。なんということだ、守りたくない捨てたいもののために自由を
失うなんて⋮⋮自分で自分の身体に鎖を巻いて﹃助けないでくれ!﹄
と叫んでいるようじゃないか、これではただの変態だ。
寝起きからどんよりと気分が沈み、見た目だけは可愛くて少女の
ようなアバズレに吐き捨てた。
﹁お前こそそのグチャグチャの髪と服を何とかしろ﹂
﹁どうにもならない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁顔にぶっかけやがってあの若造、ほんと若い男って腹立たしい。
一応髪も顔も洗ったけど、水だけじゃバサバサになってダメだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど﹂
なにが、どうして、どうなると、顔で終わるんだろう⋮⋮。
だが、分かったふりをした。完全なこけおどしと分かっているが、
如何にも理解した、という表情だけは作った。
それから、可能な限り重々しい声音を作って言う。
﹁王都の様子が気になる、ジュリアス様のお考えも知りたい。なぜ
危険に身をさらさんばかりに、リーザだけを逃がして、近衛だった
自分まで遠ざけられたのか。リーザも不安がっているし、なにより
不吉な予感がするんだ﹂
﹁ふうん、うーん⋮⋮薪、か﹂
アバズレのセルマが自分の言葉を鼻で笑い、ふと真顔になって呟
いた。
﹁薪は一瞬で燃え尽きるものではないよな﹂
371
﹁は?﹂
﹁薪は、長い間燃えて周りを暖めるものだ、そうだろう﹂
意味が分からず、ボロボロのセルマの顔を見つめた。
彼女は何を言おうとしているのだろう。
﹁答えろ﹂
﹁あ、ああ、薪ってのは⋮⋮長く持たないと薪じゃない。火おこし
の枝とはわけが違う﹂
おずおずとそう答えると、セルマが一瞬だけ首を縦に振って頷い
た。
﹁まあ合格だ童貞。さ、荷支度をしよう。王都に着いたらまず、お
前の家の風呂を貸してくれ。顔に塗っていろいろ誤魔化したいから
化粧品も用意してくれるとセルマすっごく嬉しいなぁ⋮⋮。ちなみ
に金は全くない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
嫌だ、もう付きまとわれるのは嫌だ、この女もう本当に嫌だ!
なんで一カルティンの得にもならないのに財布代わりに使われ、
宿まで提供せねばならないのか!
372
45︵後書き︶
1カルティン = 1円
373
46
﹁おい童貞、あのねぇ、セルマねぇ、あの顔にぶっ叩く粉欲しいな
ぁ、一番高いやつ⋮⋮この死人みたいな顔も多少桃色になって、性
欲持て余してる男を誑し込みやすくなるからぁ﹂
﹁ええい強請り事の時だけ気持ち悪い女の子口調になるな貴様!﹂
まるで暴行でも受けたかのような、ボロボロ、よれよれのセルマ
を連れて歩くのがつらい。
自分が何か非道を働いたかのようではないか。
やり方すら分からないのに。
カルターの王都は、国の中でも最も富裕な人々の集まる場所だ。
血まみれの靴、破れた上着、バサバサの髪をしたセルマの姿はひ
ときわ異様すぎる。
﹁あとちょっと透けててひらひらしてる可愛い服も欲しいなぁ⋮⋮
あの高いやつ。﹂
﹁返せよ﹂
﹁金はない﹂
﹁絶対返せよ⋮⋮!﹂
﹁本当に金はない! 氷神の巫女は無償で平和のために尽くす立派
な存在なんだ、お前、喜捨しろ﹂
﹁嫌だ!﹂
﹁あれ買って!﹂
﹁嫌だ!﹂
﹁買って!﹂
周囲の人々がひそひそ言い交しながら通り過ぎてゆく。
﹃あの彼氏さん、何で彼女さんに酷い格好させてるの?﹄などと
374
いう心外すぎる言葉が耳に飛び込んできた。
﹁くっ﹂
違うのに⋮⋮自分は童貞、こいつはアバズレ、それ以上でも以下
でもないのに!
将来嫁をもらえず、子孫繁栄もかなわなかった場合を考え、自分
は日々貯蓄に励んで過ごしてきたのだ。こんな訳のわからないアバ
ズレ魔人にくれてやる金などびた一文ない。心底腹が立ったが、暴
れるセルマを引きずって店に入り、欲しいとわめくものを買い与え
た。
﹁ありがとう!﹂
見てくれだけ可愛くなったセルマが、値段の高い服を着てくるく
ると嬉しそうに回った。腹が立つ。
﹁あとはお風呂に入って、お化粧して、男を食いに行かなきゃ。力
を溜めないといざというとき刺客を仕留められないからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁風呂、かしてくれ﹂
舌打ちして、実家に向けて歩き出す。
リーザに頼まれた﹃氷青石の出荷凍結﹄の件を急いで両親に話さ
ねば。
それからこのセルマが、この事態にどこまでかかわっているのか
聞き出したい。ジュリアス陛下と知己であるかのようなこの振る舞
い⋮⋮。ただの頭がおかしい女だったらどうしようと思うが、自分
の直感ではそれだけではない、という気がするのだ。
空を見上げる。カルターの空はどんよりと曇り、今にも雨や雪が
降ってきそうな雲行きだった。この国は広く、起こりつつあること
375
は規模が大きすぎる。他国が火薬の利権を求め、カルターに、そし
て王に魔手を伸ばしつつあるとは。
自分には、一体何ができるのだろう。
﹃お兄様を守って﹄
涙ぐまんばかりだったリーザの様子が、ありありと脳裏に浮かん
だ。
遠いローゼンベルクで、彼女はどれほど兄君を案じている事だろ
うか。
幼い自分とリーザに、絵の描き方を教えてくれた若き国王を思う。
自分にとっても、恐れ多くも兄代わりのようなお方なのだ。
いざとなったらこの身を盾にしても、ジュリアスだけは守らなけ
れば⋮⋮。
﹁さー、爆弾でございます、みなさま﹂
リーザが小さな顔を精一杯引き締めて言った。
威厳のある表情のつもりなのだろう。
﹁よろしゅうございますね、旦那様。大爆発いたしますので、中に
居る人も埋まってしまいます!﹂
トライデント
﹁うん、承知した﹂
愛用の三又鉾にもたれかかり、可愛いリーザの言葉に頷いた。
376
これから、氷青石の鉱山に発破をかけ、侵入を不可能にする。し
ばらく火薬の開発、および生産は止まるだろうが、一時的なもので
あることに変わりはない⋮⋮。
恐るべき炎を迎え入れるために、人類は成熟せねばならないのだ。
そのためには今ひとたびの時間が必要とされている。
﹁坑道からは皆引き揚げさせました﹂
﹁今内部に居るやつが居たとしたら、それは不法侵入者です﹂
﹁じゃあそのまま爆破しちまえや﹂
部下たちが同じく武器を手に、残酷なことを笑顔で言う。
ああ、この大味さ。
まさにローゼンベルクの田舎者らしい適当さ、そして天然の残酷
さといえよう。
﹁これを坑道の底に投げれば、10分後にどっかんと爆発致します﹂
リーザがすました顔で言う。
彼女が連れてきた大型の番犬が、傍らでハタハタと尻尾を振った。
この前、自分が捕まえた野犬だ。その辺をうろうろしていたので、
誰かを噛んだら危ないだろうと思って砦につないでおいたのだが、
随分おとなしい。その上、改めてみると賢そうだ。
﹁ほーう、奥方様、凄いもんこさえましたね﹂
﹁じゃあ、すぐに鉱山から離れないと、投げるのはヘルマンさんに
おねがいしましょう、重槍投げの競技でいつも優勝していますから﹂
﹁心得ました。坑道の最奥目がけてぶん投げさせていただきます﹂
ヘルマンが頷き、リーザから爆弾の説明を受け始めた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そういえばこの犬、まだ名前がなかったな。そう思って頭をなで
てやると、大きな黒犬がもう一度ハタハタと尻尾を振った。
377
隆々とした筋肉に、ものすごい牙。輝くガラスのような漆黒の毛
並といい、これほどの犬はそうそう見かけない。
言い訳のように聞こえるかもしれないが、良い番犬を拾ったと思
う。
皆は﹃犬ばかり拾ってくるな、食い扶持が増える﹄と煩いけれど
⋮⋮。
﹁さ、ベベホンタスちゃん、わるい人がお山から逃げ出して来たら、
全部捕まえて頂戴ね﹂
リーザが、嫌がる黒犬の頭をばふばふと撫でた。犬好きの妻は、
この犬の事も心底気に入ってしまったようだ。
﹁べべ⋮⋮ホンタス?﹂
何その名前。いや、そもそも名前なのか。
﹁はい、旦那様。このお犬くんに、私が名前を付けました﹂
リーザが得意満面な表情で微笑む。
﹁どんな意味があるんだ﹂
﹁意味はないですけど、古代の勇者の名前です﹂
﹁⋮⋮そうか、意味はなしか﹂
突っ込んで聞いても無駄だと気づき、うなずいてリーザから顔を
そむける犬の頭を撫でた。
﹁よし、いい子だ、勇者の犬。お前は氷青石を盗んで飛び出してく
る人間がもしいたら、全員捕まえておくれよ﹂
﹁ばう!﹂
お座りしていた黒犬が、パタパタと尻尾を振って立ち上がる。
ちょっとしたヤギほどの大きさがあって、とてつもない威圧感だ。
﹁ウーン。では少々恐ろしくはありますが、不肖ヘルマン、こちら
を坑道の最奥目がけて投げ落とし、全力で駆け戻ってまいります﹂
378
﹁この辺まで戻ってくれば大丈夫です、気を付けてくださいね﹂
リーザが腕を広げ、ヘルマンを見上げた。
﹁か、かしこまりました、奥方様﹂
ヘルマンが真っ赤になって頷く。なぜ赤くなるんだろう面白くな
い。うちの奥さんなのに他所の男がぽーっとなるなんて本当に面白
くない。
だがそんな事をのんきに考えている余裕はないのだった。
表情を引き締め、ヘルマンに頷きかける。
﹁頼んだぞ。爆弾投入後、﹃10分後に爆破する!﹄と叫んでくれ。
どうせアイシャ族が潜んでいて、氷青石を大量に抱えて逃げ出して
くるだろう。さ、リーザ、危ないから戻って居なさい﹂
﹁はぁい﹂
リーザが頷いて、チョコチョコと峠の方へ戻ってゆく。
何人かの部下が、護衛として彼女に付き添った。
﹁勇者の犬、頼んだぞ。全員確保だ。お前にも期待している﹂
﹁ウォンっ!﹂
坑道に潜って行ったヘルマンが、ややして駆け戻って来た。あれ
ほどの巨体でありながら、彼は素晴らしい俊足だ。
﹁うまくいきました!﹂
それからくるりと振り返り、すさまじい大声で言い放った。
﹁10分後に坑道は爆破される! 残った鉱夫が居たら即時撤退せ
よ! 繰り返す! 即時撤退せよ!﹂
ヘルマンの言葉に答えるように、わらわらと数名の人影が坑道か
ら飛び出してきた。
なんだか悲しい。
予想が当たりすぎて。
379
﹁な、なぜ国境警備隊がいるんだーっ!﹂
山のように氷青石を背負ったアイシャ族と思しき男が絶叫する。
なんでアホって頼んでないのに、自己紹介するんだろう。こんな
アホ共の相手で過ぎる日々を切なく思いながら、手に取った鉾を構
えた。
﹁おい、お前たち! 賊は生きたまま捕えろ!﹂
380
47
﹁アイシャ族に新型火薬を利用した爆弾が納入されたそうです。博
士のおかげで、火薬の運搬が安定して行え、本当にようございまし
た﹂
ここは、カルターの隣国、レアルデの大学の特別棟。
エリカ・シュタイナーの﹃後継者﹄を名乗る男、ユーアイル博士
のために与えられた、火薬開発のための一室だ。
﹁ユーアイル博士がおいでであれば、レアルデは火薬の開発におい
て、世界を制することが出来ます﹂
大臣の言葉に、彼はあいまいに微笑み返した。
﹁それにほら、カルターから強奪したエリカ博士の残した資料群。
まさにあなたとこの資料群は、この国の宝です﹂
ユーアイル博士は頷き、腹のあたりでぎゅっと手を組み合わせる。
エリカ博士から盗んだ様々な知識、爆弾の試作品がなければ、彼
はただの﹃無能なエリカ博士の元助手﹄にすぎない。
その不安を押し隠すように、ことさらに明るい声で彼は言った。
﹁いよいよ、国王ジュリアスの暗殺と、同朋アイシャ族によるロー
ゼンベルク侵攻が始まるのですね﹂
﹁はい。何か⋮⋮ご不満がおありですか。故郷カルターに対しての
憐憫や、悔いが﹂
レアルデの大臣の言葉に、ユーアイル博士は慌てたように首を振
る。
381
﹁いいえ! そのようなことは決してございません。私はこの国で
火薬の父となり、科学の発展に名を残したい﹂
ユーアイル博士の爪が、ぐっと手のひらに食い込んだ。
﹁火薬の父に、なりたいんですよ、僕は⋮⋮﹂
彼の脳裏に、一人の女が浮かんだ。
めった刺しにされて血だまりに倒れ伏してなお、薄笑いを浮かべ
ていたエリカ博士の姿が。
ユーアイルは、どうしてもエリカ・シュタイナーが許せなかった。
彼との婚約を一方的に解消し、若き美貌の国王ジュリアスと肉体
関係を結んで、彼をせせら笑っていた女。
だから、殺したのだ。その日に国王と逢引の約束をしている事を
知り、エリカの死体を国王に見せてやろうと、彼は考えた。
憎き女は無残な死を遂げ、国王は情人を失う。
それで彼の痛めつけられた心は晴れやかになるはずだった。
だが、普通の人間の心は、﹃殺人﹄に耐えるようにはできていな
い。
凡人の域を出た事のなかったユーアイルもそうだった。
蛮行を犯したことにより、じわじわと彼の精神は蝕まれ始めてい
た。
︱︱最低の女だ、裏切り者、あいつのせいで僕がどれだけのもの
を失ったか分かっているのか。
目の前で眉をひそめる大臣の存在も忘れ、ユーアイル博士は爪を
噛み、危うい口調でブツブツと呟いた。私こそが栄誉を得るべきだ、
火薬は私のものだ、と⋮⋮。
382
﹁ジュリアス様、磨きに出しておりました指輪が仕上がりました﹂
夜半、いつもの侍女が侍従長に伴われ、絹の台座を捧げ持ってや
って来た。
﹁御銘をご確認くださいませ、ご指示通り﹃兄ジュリアスから、愛
する妹リーザへ﹄と入れました﹂
微笑む侍女と侍従長に頷きかけたジュリアスが、微笑んで手に取
った指輪を台の上に戻す。
﹁リーザは手が小さいからね、ぶかぶかのようなら自分で直しに出
すよう言ってくれ﹂
﹁畏まりました﹂
﹁急に決めた結婚だったから﹂
ジュリアスが、唐突に言った。
﹁辛い思いをしていなければいいんだが。リーザは本当に世間を知
らないから⋮⋮。レオンハルトは穏やかな気性だから、それなりに
あの子をかばってくれると思いたいけれどね﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
383
突然の言葉に、侍従たちが目を丸くする。気弱な言葉はあまり発
さないジュリアスの、かすかな異変をかぎ取ったのだろうか。
﹁これからリーザを支えてやれるのは、レオンハルトだけだ﹂
ジュリアスの視線がそれ、背後の壁かけの布をふととらえた。
﹁そうだ、あの絵は外して、母上の顔のあたりだけ切り取って、父
上の墓に供えてやってほしい﹂
﹁ジュリアス様⋮⋮?﹂
﹁気分を変えたい。そのうち別の絵を入札しようと思う﹂
顔を見合わせる侍従たちに﹁指輪を頼むよ﹂と言い置いて彼らを
退出させ、ジュリアスは寝台にへたり込んだ。
白い手袋をはずし、己の手を確かめる。まだ血で汚れている気が
した。
﹃資料は全部にせもの、リーザ様だけが真実を⋮⋮医者は呼ばな
いで、このまま居てください﹄
かすかな声が蘇り、みじめな涙が上着に落ちた。
ジュリアスの父は、愛妾をなくしてゆっくりと壊れた。父に似た
ところのあるジュリアスもまた、同じ苦しみを味わったがゆえに、
心が割れ始めているのかもしれない。
残された希望は、せめて己の死を有意義に使うことだけだ。
悲劇の最期を遂げた若き王となり、平和に慣れ、全てを他人事だ
と思い始めている人々の心に、恐ろしい危機が迫りつつあることを
知らせたい。
﹃レヴォントリの巫覡としてのせいを全うせねば﹄。何かにすが
るようにジュリアスは考える。
︱︱だがそれは、果たして真実なのだろうか。氷神の声などとい
うものは、真に存在するものなのか。
384
死んでしまった心に、体が追いつきたがっているだけではないの
か⋮⋮。
﹁ああ、私が、馬鹿だった⋮⋮﹂
大学から事前に報告があったにもかかわらず、火薬の開発を制御
しきれなかったこと。
あれを生み出そうとしていたエリカを、秘密裏に﹃処断﹄できな
かったこと。
むしろ彼女の夢に、そして彼女自身の放つ強烈な何かに、飲み込
まれたこと。
すべてはジュリアスの失策だ。国の舵取りを誤った愚王に、未来
などあるはずがない。
ジュリアスは涙をぬぐい、上着の裾を強く握りしめた。
護衛の騎士の中に、裏切り者の賊が居る。レアルデと通じ、国王
襲撃の首魁となる人物だ。
それは彼にもわかっている。
彼を泳がせさえしておけば、近くジュリアスは血だまりに沈み、
氷神の意思を叶えることが出来るだろう。
﹁氷将レオンハルト、化け物め⋮⋮﹂
385
言い置いて、最後のアイシャ族ががっくりと気を失う。
﹁誰が化け物だ。コソ泥に化け物呼ばわりされる覚えはないぞ﹂
トライデント
三又鉾の槍尻をドスンと地面について、ため息をついた。
アイシャ族が本当にむかつく。
ちまちまちまちまとこすい悪事ばっかり働いて、本当に本当にむ
かつく。
しかも氷青石を盗みに来たということは、自分たちで爆弾を開発
しようとしているのだろう。
﹁ん?﹂
賊の身体を探っていたヘルマンが、見事な懐中時計を取り出して
眉をひそめた。
﹁これは⋮⋮閣下、ご覧下さい﹂
﹁どうした﹂
﹁象嵌の中に真珠がはめ込まれています。この時計は、レアルデの
貴族が功績のあった平民に与えるものに極めて酷似しています﹂
﹁レアルデとアイシャ族。やはり、真っ黒な線でつながってますね
ぇ﹂
部下が肩を竦め、ごろごろ転がしたアイシャ族の賊たちの身体を
器用に縛り上げてゆく。
﹁うぉんっ!﹂
犬の吠え声で振り返った。雪の上に真っ赤な血が飛び散り、腕と
386
脚に深い噛み傷を負ったと思しきアイシャ族の男が転がりまわって
いる。
﹁おお、お前も捕まえてくれたのか、勇者よ﹂
﹁うぉんうぉんっ!﹂
ちぎれんばかりに尻尾を振る黒犬の体中を撫でまわし、賊の腕を
止血して縛り上げた。
﹁まったく、お前らはいつになったら国境という概念を理解するん
だ! そろそろ本気で切れるぞ、私も!﹂
﹁くっ、でかい口を叩いていられるのも今の内だ⋮⋮レオンハルト・
ローゼンベルク﹂
痛みに顔をゆがめたアイシャ族の男が、唾を吐いて言った。
﹁お前の後生大事に守り続けているこの街は灰燼に帰す⋮⋮今更慌
てても無駄だぞ、みじめにのたうち回るのはお前らの方だ!﹂
阿呆が、何か大事なことを自己紹介でしゃべってくれるらしい。
ゆっくりと跪き、アイシャの男の顔を覗き込む。相当な怒りが顔に
出てしまったらしく、男が﹁ひっ﹂とのどを鳴らした。
﹁灰燼に帰す?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前らが先日しくじった爆弾が、完成したということか。もしそ
うだとするならば﹂
唇をなめて雪の上に横たわる男を引きずり起こし、小柄なその体
を片腕で目の前に持ち上げた。
387
﹁く、苦し⋮⋮﹂
﹁我がカルター国境警備隊もアイシャ族への侵攻を開始する⋮⋮か
もしれないぞ、どうする?﹂
﹁ばか、め、こちらにだって、味方はいるんだっ⋮⋮﹂
襟首を締め上げる力を強め、宙づりにした男ににっこりと微笑み
かけた。
﹁なるほど、レアルデ軍がすでに合流しているのか。ひとつ教えて
やる。レアルデは、お前らの皿から、美味い部分だけを食い散らか
して去ってゆくだろう。アイシャ族の規模で、あの大国と同等の関
係性など結べるはずがない﹂
﹁そんな、ことは、無い⋮⋮っ﹂
﹃お前の言うとおり、すでにレアルデと合流した﹄︱︱そんな説
明を男の言葉から読み取り、ジタバタ暴れて弱弱しく蹴って来る男
の身体を新雪の山の上に投げ捨てた。頭を冷やして、アイシャがど
れほど強烈な身中の虫を呼び込んだのか、理解すればいい。
﹁閣下﹂
﹁完成形を見た新型爆弾が、アイシャ族の手にある可能性がある。
また大氷原のアイシャ族の集落には、すでにレアルデの上級将校が
出入りしている可能性がある﹂
﹁さようで⋮⋮﹂
﹁アイシャ族の大好きな﹃レーエの岸辺﹄近辺に溶氷剤を巻け。氷
をもろくして大軍を川に落とす﹂
アイシャ族はいつも、河の幅が最も狭い﹃レーエの岸辺﹄と呼ば
れるあたりを渡ってやってくる。
388
今回も侵攻経路は変えないだろう。冬の川に落ちれば、死者が出
る。これまで哀れで使ってこなかった手だが、ローゼンベルクを爆
破などさせない⋮⋮。
﹁閣下、それは﹂
ヘルマンが言いかけた瞬間、氷青石の鉱山から百の雷を落とした
かのようなすさまじい轟音が響き渡った。
靴底から伝わる不気味な振動と、雪煙を巻き上げながらの岩盤の
崩落。小さな山の斜面が内部に向けて変形し、その稜線を変える。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
リーザが作り、ヘルマンが投入した﹃新型爆弾﹄が、今この瞬間
に坑道を爆破したのだと分かった。
ああ、だが、何という威力だろう⋮⋮。
まさに、神の雷が振り下ろされたというにふさわしい、人知を超
えた威力。
そこに居た人間はみな、何も言えずに崩れゆく小さな岩山を見守
った。
389
48
﹁はぁー。すごいどっかんでございます⋮⋮﹂
﹁あ、ああ、すごいどっかんだな、リーザ﹂
砦に避難させたリーザが、爆薬の様子を見たいと戻ってきて言っ
た。自分で作った爆薬の効果を確かめたかったのだろう。
氷青石の鉱山は、爆薬で完全に崩落し、姿を変えている。その様
子に満足したらしきリーザが、くるりと振り返って微笑んだ。
﹁これで石は取れないので大丈夫! 爆弾はしばらく作れないと思
います﹂
﹁あ、うん、そうだな﹂
生返事をし、額の汗をぬぐった。
悪夢のような威力の爆弾だった。仮にこれが、アイシャ族に渡っ
ていたとしたらどうなる。
これほどの火器がローゼンベルクの町中でさく裂したら。
﹁旦那さまー﹂
﹁なんだ﹂
﹁元気がございませんね。﹂
ほんわかとしたリーザの声音も、今は慰めにならない。つややか
な髪を撫でてやり、リーザの身体を部下たちの方へそっと押しやっ
た。
﹁あの、旦那様! 大丈夫ですよ﹂
﹁何がだ?﹂
390
﹁たぶん、他の人が作る爆弾は失敗しますから﹂
リーザがそういって、傍らに居た黒犬の頭をなでる。
犬が嫌そうに顔をそむけた。
﹁べべホちゃん﹂
﹁ぐるるるる﹂
﹁ベベホちゃんどうしたの﹂
﹁がるるるる⋮⋮﹂
今、リーザは何と言ったのか。
エリカ・シュタイナーの内弟子であったリーザは。
﹁どういう意味だ? 他の人が作る爆弾は失敗?﹂
﹁はいぃ⋮⋮﹂
リーザが花紫の美しい瞳を翳らせ、もう一度崩れはてた鉱山を振
り返った。
﹁博士はたぶん、何もかも見えていたんだと思います⋮⋮だからき
っと、私の頭だけに﹃本当﹄を残して、他の全部を嘘にしたんです。
博士は資料に、嘘を書いていました。嘘というか、一つ前の代の爆
薬の生成方法を書いていらっしゃいました﹂
リーザが手を伸ばし、自分の腕にぶら下がった。
﹁博士⋮⋮博士⋮⋮﹂
涙を流し、リーザが自分の腕に小さな額を押し付ける。薔薇色の
唇をかみしめ、リーザが声を振り絞るように言った。
391
﹁旦那様、博士はずっと、火薬とお兄様と、ずっと一番そばに居た
ユーアイルさんの事を心配してました⋮⋮博士は今天国で、いっぱ
い実験をしているでしょうか。本当に実験がお好きだったから。研
究が本当に楽しいっておっしゃっていたから﹂
﹁り、リーザ⋮⋮﹂
リーザがこぶしで涙をぬぐい、力強く顔を上げた。
﹁もし爆弾のつくり方を盗んだ悪者が居ても、大丈夫です! 博士
がみんなを守ってくれました!﹂
﹁どういうことだ﹂
﹁それは⋮⋮すぐわかります、旦那様﹂
濡れた顔に微笑みを浮かべ、リーザが明るい声で言った。
﹁偽物はね、作って三日経ったら、爆発しなくなるのです。お隣の
国で爆弾を作ったとしても、ローゼンベルクに持ってくるまでに三
日以上かかるでしょう? だから、大丈夫﹂
﹁な、に⋮⋮?﹂
﹁大丈夫﹂
リーザが歌うようにつぶやき、再び腕にぶら下がる。
﹁爆弾は、野原やお山を工事するための道具なんです、旦那様。私
も博士も、あれを人殺しの道具になんか絶対にさせない﹂
392
目の前を轟音を立てて、黒い馬車が駆け抜けて行った。
なんという危険な馬の駆り方をするのだろう。
呆れ果てて舌打ちすると、セルマが大きな目を見開いたまま呟い
た。
﹁おい童貞、あれはレアルデの大使の馬車だな、覆面の裏に紋章が
透けていた、見えたか﹂
﹁童貞って言うな!﹂
でかい声が出てしまった。咳払いしてその場を全力で離脱する。
ぼさぼさ頭に洒落た服、という異様ないでたちのセルマもちょこ
まかと付いてきた。
﹁何でレアルデの大使が、全力でうちの国から逃げ出すんだ。陛下
の誕生の祝宴に⋮⋮﹂
﹁祝宴で事を起こす気だからだろうよ﹂
セルマの銀の瞳が鈍く輝く。
﹁筋書きはこうだろう。国王ジュリアスを殺害し、麻のごとくに乱
れるカルター王国に侵攻する。おそらくはすでに、新型火薬の作成
法も剽窃済みなんだろうなぁ﹂
﹁なっ﹂
レアルデとの国交には問題などなかったはずだ。不可侵条約を交
393
わし、互いの国に大使を置いて、国交を保ち続けている。
そこまで事態が差し迫っているとは思えなかった。何かを言い返
そうとした瞬間、セルマがつけつけとした口調で言葉を継いだ。
﹁いいか童貞、どうせお前は一生童貞だろうけど覚えとけ、戦争に
なったら国は品位など保たない。野生の動物の食いあいが始まるん
だ。ミラドナ様はそれだけは回避したいと本気で考えておいでだか
らな﹂
﹁アバズレ、お前⋮⋮﹂
﹁風呂に入りたいから行こう、今バタバタしても敵に警戒されるだ
けだ、さーて風呂入ったら何か食って男も食おうっと﹂
すたすたと好きな方へ歩き始めたセルマの腕を乱暴に引き﹁俺の
家はこっちだ!﹂と叱りつける。
目抜き通りを抜けた先に、両親の経営する宝石問屋の看板が見え
た。
最高級の宝石は扱っていないが、庶民向けの半貴石や金属を扱う、
それなりの大店だ。立派な看板を見て、セルマが﹁良い風呂に入れ
そうだ﹂などと勝手なことを呟いた。
﹁おや、ヴィルヘルム、おかえりなさい﹂
店の裏からすっと顔を出した父が、自分を見つけて微笑んだ。
東洋人の父は小柄で痩せていて、目も髪も黒い。
細い目はいつも微笑んでいるようで、声音も物腰も極めて穏やか
な人だった。
﹁た、ただいま、親父﹂
﹁陛下に頼まれた仕事は終わったんですか?﹂
﹁あ、ああ﹂
394
ただ、今の父は、黒い衣装の全身に返り血を浴びているが。
日の光の加減で、はっきりと血まみれであると分かるのだが。
何なんだろう本当に。
物騒すぎて我がオヤジながら逃げたしたい⋮⋮。
﹁うーん素敵なおじ様、何者なんだ。出迎えにしては異様すぎるぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ふん、あの返り血。五人は殺ってるな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セルマが不気味な笑顔で言う。
彼女にもあの血のりは見えているのだろう。
父は時々、良く分からん刺客と戦って返り討ちにし、全身血みど
ろで帰って来る事があるのだ。
だが、いい人だ。いい人だということになっている。
それに自分たち兄妹の良き父だ。
良き父ということになっていて、家族の誰も突っ込まないという
不文律が出来上がっているので見逃してやってほしい⋮⋮!
﹁何者って⋮⋮宝石問屋の番頭⋮⋮ということに便宜上はなってい
る、じゃなくて、宝石問屋の番頭です!﹂
﹁はっ、お父さんはおいしそうだな、童貞と違って﹂
﹁おいお前、ふざけるなよ﹂
﹁ああん、本当にセルマの好みぃ⋮⋮お・い・し・そ・う﹂
﹁冗談をいうな! ふざけないでくださいお願いします!﹂
唾棄すべきアバズレのことばを、震え声で制した。
冗談でも心臓に悪いから止めてほしい。
395
﹁おや、ヴィルヘルムの友達ですか﹂
父が血で汚れた手をそっとこすり合わせ、後ろ手に組み直してに
っこり笑った。
﹁可愛らしいお嬢さんだ。あなたも隅に置けませんね﹂
﹁違う違う⋮⋮違う⋮⋮ッ﹂
首を振る自分を無視して、セルマが勝手に明るい声で言った。
﹁初めまして、ヴィルヘルムさんのお父様。彼の友人でレヴォント
リの巫女、セルマと申します﹂
﹁おお、これはどうも。ヴィルヘルムの父のヤマト・ハガクレ=ア
イブリンガーです。おや? どうやらお疲れのようだね、家へどう
ぞ﹂
﹁ありがとうございます、ヴィルヘルムさんのお父様!﹂
﹁気にしないで、妻にお茶を用意させましょう。ヴィルヘルムもお
いで﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
蛇と蛇が化かし合うような、礼儀正しい挨拶を聞いて息をのむ。
そして、心の底から思った。
︱︱全力で、他人の振りをしたい、この怖いやつらから逃げ出し
たい、と⋮⋮!
396
49
﹁なるほど、氷青石を狙ってきていたんだね、あの集団は﹂
父が得心が行った、と言わんばかりに頷いた。
返り血を浴びた衣装はいつの間にか着替えている。父は、頑なに
黒しか着ないが⋮⋮。
同じく、貸してやった風呂で体を洗ったセルマは、ぼんやりとア
イブリンガー商会の古い帳簿が並んだ棚を見つめている。
﹁成る程ってどういう意味だ、親父﹂
﹁いや、見かけない人たちが物騒な刃物を持ってウロウロしてたか
らちょっと﹂
ちょっと何だ。ちょっと葬り去ったのか。
﹁気を付けないとね、母さん﹂
父の言葉に、商家の娘とも思えぬのんびり屋の母が、おっとりと
うなずいた。
﹁宝石泥棒かしら﹂
こんな一山いくら、加工前は大して値もつかない半貴石を、物騒
な刃物を持って強奪しに来る暇人などいるはずもないのだが。母は
世間知らず過ぎはしないか。
﹁そうかもしれない、ウルリヒとグレーテに気を付けるように言っ
ておくれ、物騒だから﹂
397
弟妹の名を上げ、﹃見かけない人﹄を無慈悲に葬り去ったであろ
う父が茶をすする。
賊もちょっと気の毒だ。父の凡人そのものの容姿に騙されて、何
が起きたかもわからぬままに返り討ちにされたのだろう⋮⋮。
﹁ええ、そうね、外で暗くなるまで遊ばないように言って聞かせま
す﹂
弟と妹は、母が乳母の職を解雇された後に産んだ子供達なので、
まだ幼い。
だが、14歳の弟ウルリヒが﹁最近彼女が出来た﹂などと言い始
めて兄は発狂しそうなのだが⋮⋮。
﹁ヴィル、氷青石の事は⋮⋮良く分からないけれど、危険だという
ことはわかったわ。倉庫から出さないようにして、お父さんにも泥
棒が来ないように気を付けてもらうから﹂
母が不安げな表情で言う。
父が母をなだめるように手に手を重ね、やさしい声で言った。
﹁そうだな、変な人が寄ってきたら注意するよ。大丈夫だ﹂
むしろ変な人がいても手加減してやってほしい⋮⋮!
﹁なあ、ど⋮⋮じゃなかったヴィルヘルムさん﹂
﹁何だ﹂
﹁⋮⋮お前のお父様が殺、じゃなかった、追い払った賊はどこから
来たと思う﹂
398
セルマが押し殺した声で言う。純銀の瞳がぎらぎらと獣のように
輝いていた。
﹁我らが命は凍れる平和のために﹂
﹁何言ってるんだ、おい﹂
脈絡のないセルマの言葉に面食らう。声音は暗く、自分にしか届
かないほどにかすかだった。
﹁ミラドナ様も私も同じだ、己の命が平和のために贖われることを
魂の底から願っている⋮⋮。おい、今からレアルデの大使館の様子
を見に行こう﹂
唐突にセルマが立ち上がり、ぺこりと両親に頭を下げた。
﹁ヴィルヘルムさんのお父様、お母様、ありがとうございましたっ。
お茶とってもおいしかったですぅ﹂
︱︱このぶりっ子口調、腹の底から気持ち悪い⋮⋮!
家を出るなり、かろうじて浮かべていた可愛らしい笑みを完全に
消したセルマが、すさまじい早足で走り出した。
﹁レアルデ大使が逃げたのは間違いない。がら空きになった大使館
に居るのは誰かなぁ、何人かはお前のお父さんが天国にお引き取り
願ったみたいだけど﹂
﹁な⋮⋮﹂
﹁カルター王国はやる気がないな、ただ一人の王たる陛下も、妹の
リーザ様も諸侯から粗略な扱いを受けている。一部の貴族だけが私
腹を肥やして、民は平和ボケ。やる気満々のレアルデに踏みにじら
れなければ目が覚めないかもしれんな﹂
399
セルマのせせら笑うような言葉が辛辣に響く。
﹁そんなことは⋮⋮﹂
﹁そんなことはない、か。ふーん、選良の近衛騎士までそんなんじ
ゃ先は知れてるな。火薬の平和利用を望まれ、一人必死で戦ってお
られる陛下は犬死、そしてレアルデが放った炎は世界全土を舐めつ
くすわけか﹂
悔しいが、彼女の言う通りかもしれない。
何も言い返せず、歯を食いしばって栗鼠のように道を駆け抜ける
セルマを必死で追いかけた。
﹁そうだ、君に頼んでいたレアルデ大使館の警護のことだけど﹂
何気ない口調で国王が言う。
近衛の騎士が一斉に、王から名指しされた一人を振り返った。
﹁問題はない?﹂
﹁⋮⋮ござい、ませんが⋮⋮﹂
400
彼はそう答え、そっとあたりに視線を滑らせた。近衛隊の﹃同僚﹄
の視線は、何の疑念も浮かべてはいない。
まだ大丈夫だ。
まだ何もしくじってはいない。
レアルデの賊に、火薬の資料を盗み出させたことを知られてはい
ない。
生誕祭の祝宴で国王に隙を作らせ、レアルデの射手に殺害させる
計画も、嗅ぎ付けられてはいないはずだ。
﹁そう﹂
裏切りの騎士の言葉に、国王ジュリアスが薄い笑みを浮かべた。
神の匠がその鑿を振るったかのような麗容に、酷薄な何かが更な
る彩を添える。
氷のようだ、騎士はそう思った。
この王は人ではない、氷の化身なのだと⋮⋮。
だがその怪しげなかぎろいは直ぐに鳴りを潜め、王は元の人懐っ
こい笑みを浮かべていた。
﹁レアルデの大使にお会いするのが楽しみだ。祝宴では是非、我が
国とのとこしえの友好を確認し合いたいものだね。ああそうだ、旧
大公子のアドルフ殿とマリア夫人には、特等席を用意してもらわな
ければ。彼らは、僕の良き友だ﹂
ジュリアスが紫紺の瞳を細めてそう言い、滑るように歩き出した。
護衛の騎士たちもまた、表情を変えずに﹃裏切り続ける者﹄の彼
に背を向けた。
﹁皆、招待客の安全には気を配ってくれ﹂
﹁畏まりました﹂
401
近衛隊長の返事と共に、騎士たちが同時に一礼した。国王ジュリ
アスの近衛隊は先代の三分の一に満たない数だ。隙だらけの王の命
は、いつでも取ろうと思えば取れる。
裏切りの騎士はそう思い直し、何食わぬ顔で近衛の一隊に従った。
402
50
塔の部屋の扉を開け、ジュリアスはため息をついた。
妹の暮らしていた残滓がところどころに感じられ、目を細める。
言うことを聞かず、気が強く甘ったれで、可愛い妹だった。
レオンハルトはおそらく、アイシャ族の監視でローゼンベルクを
離れられない。
将軍の正室である妹も祝宴には来ない。ジュリアスは、危険な場
所に妹を呼ぶつもりはなかった。
︱︱リーザはただ一人の妹、そしてただ一人の﹁火薬精製の技術
を理解した人間﹂だから。
﹁最後に会いたかったな﹂
気の抜けた口調で呟き、妹が放り出して行った本を手に取る。
日記のようだった。毎日食べたものを書き連ねただけの、娘らし
くない日記。ジュリアスは吹き出し、それを机に戻した。
﹁あいつ⋮⋮らしい﹂
ジュリアスの紫紺の目から流れ出た涙は、いつしか喉を伝い、服
の胸までしみわたっている。最後に妹に会えない事、彼の本当の味
方などどこにもいない事、そして、無残な死を迎えねばならないこ
とがすべて辛く、恐ろしい。何度覚悟を決めても、それは突き崩さ
れる。だが、人のいない場所でなければ、うろたえた表情を面に出
すことすらできない。
︱︱怖い。自分は頼りだった父に若くして死なれ、世界に危機を
招こうとしている今も手をこまねている、ただの愚かな若造だ。
ジュリアスは臓腑を引きちぎられる思いで、深淵にも似た自らの
403
心の傷を覗き込む。無力故に舵取りを誤った咎は、命をもってして
も償いきれないのだ、血の色に濁る真っ暗な淵が、ジュリアスにそ
う語りかけた。
今エリカがここに居たら、尋ねたい、と彼は思う。︱︱君を飲み
込んだ死はどれほどの苦痛だったのか、自分は平和の薪となり、こ
の国が生き延びる手がかりとなれるのか、そして、最後の息を止め
たあとに、僕は君に会うことが出来るのか、と⋮⋮。
だが涙をぬぐった瞬間、かたり、と彼の背後で音がした。
﹁⋮⋮誰だ﹂
汚れた顔をこすり、ジュリアスは誰何の声を上げた。
﹁旦那様﹂
リーザが背伸びをやめて振り返る。
それから、石造りの手すりに掛けた手を、冷たそうにひっこめた。
﹁何も見えません﹂
﹁雪が風で巻き上げられているからな⋮⋮﹂
そう応じて、レオンハルトも小柄な妻の肩越しに、遥かな平原を
望む。アイシャ族とレアルデの一個大隊が、あの雪嵐の向こうに控
404
えている可能性がある。
﹁レーエの岸付近に融氷剤を撒いて侵入を防ぎたいが、この低温で
は意味をなさぬかもしれんな﹂
﹁そうですね、河が普通の道路になっちゃった﹂
﹁河によって遮られた国境の功罪だ、真冬はお前の言うとおり、た
だの道路になる﹂
そして、この地はかつてない恐ろしい災厄により、炎に包まれる
かもしれない。
きょとんとした愛らしいリーザの頬に、自分の無骨な手のひらを
添えた。
﹁リーザ﹂
﹁はぁい、あっ、シュネーを抱っこしたら手が温まりました﹂
全然大きくならない白いモコモコした子犬に頬を寄せ、リーザが
微笑む。
乱暴な手でなぎ倒されればあっという間に散ってしまいそうな儚
い子犬と妻の姿に、胸がチクチクと痛んだ。
﹁リーザ、お前少しレヴォントリにでも行くか﹂
﹁えっ?﹂
リーザが自分の言葉に首をひねり、それから目をキラキラと輝か
せた。
﹁新婚旅行?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
405
首を振る。そんな楽しいものならいいのだが、行ってもらうのは
リーザ一人で、だ。もしかしたら自分はこの地で屍になるかもしれ
ない。
リーザは﹁敵が爆弾を持っていたとしても、それは爆発しない﹂
と言い張っているが、妻のその発言をうのみにすることは、ローゼ
ンベルク防衛線の守護者としては到底できない。
ローゼンベルクには大きな危機が迫っている。それは間違いない
のだ。
だからこそ、高貴な王妹殿下、ただ一人火薬の真実を知る娘、そ
して自分の愛する妻である彼女だけでも、安全な場所に逃がしたか
った。
崩れ落ちた鉱山の稜線が、爆弾の悪夢のような威力が瞼の裏に蘇
る。
﹁リーザ、あの、お前だけでも母上のところに行かないか﹂
﹁嫌です﹂
﹁こら、嫌じゃなくて、ちゃんと聞きなさい、お前だけでも安全な
場所に避難を⋮⋮﹂
聞いてませんと言わんばかりの表情で、リーザがぷいと顔を背け
て再び手すりから外を覗き込んだ。多分緊迫した国際情勢というも
のを、実感できていないのだろう。箱入り娘の姫様だ、仕方のない
ことかもしれないが⋮⋮。
﹁そうだぁ、旦那様、河もどっかんしちゃいます?﹂
﹁何の話だ、ちゃんと私の話を﹂
﹁じゃじゃーん﹂
気の抜けた効果音と共に、リーザが得意げに上着をぺろりとめく
った。犬がぴょいと床に飛び降り、リーザの周りをくるくると回る。
406
﹁別に爆弾は一個じゃないのです!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁うふふ﹂
小さな上着の内側に、見覚えのある青いきらきらした飾り石が大
量にぶら下がっている。顎が外れそうになり、なんとかギリギリで
威厳をとどめた。
﹁一個じゃないって、リーザお前﹂
﹁洗面器になみなみできたから、全部捨てずに加工しておきました、
再活性化の器具はそこの籠にあります﹂
思い返せば確かに、リーザに渡した材料は、あのちっぽけな爆弾
一つで終わる量ではなかった。
気づかなかった、こんなに山のようにこさえていたとは。
なんという美しき爆弾魔だ⋮⋮!
﹁あ、あの、それ、あといくつあるの⋮⋮かな﹂
﹁百個!﹂
﹁百個⋮⋮﹂
またしても怖すぎて変な汗が噴き出す。
リーザがにっこり笑い、スカートのすそ飾りにじゃれ付く子犬を
もう一度抱き上げた。
﹁百個爆発させたら河の氷もばんばん壊せるし、なによりアイシャ
族の皆さまは腰を抜かされると思います。旦那様の役に立つ爆弾で
す!﹂
﹁あ、ああ、うん﹂
407
﹁やったー!でございますね﹂
そういってリーザがするりと上着を脱ぎ、自分に差し出した。
﹁旦那様!旦那様ならこれを悪人に渡さず、正しく使って下さると
信じています、リーザからの贈り物です、受け取ってくださいませ。
それで、お兄様をお助けしてくださいませ! ヴィルと旦那様と私
で、お兄様をお守りするのです﹂
﹁り、リーザ、お前という子は⋮⋮﹂
﹁はぁ、温泉に入りたいなぁ﹂
唐突にリーザがいい、腕にぶら下がった。
あの、今までの真剣な話は何だったの⋮⋮と思い、頭が真っ白に
なった。
﹁旦那様ぁ、旦那様はいつになったらお暇になります? 温泉に一
緒に入りたいなぁ⋮⋮また挟んでみたいの、ダメ?﹂
話の展開が唐突過ぎるのでついていけないが、反射的に重々しく
うなずいて﹁この前はあっという間ですまんかったな﹂と言った。
リーザがにっこり笑って、頭を二の腕にこすりつける。
﹁ふふ⋮⋮すぐいっちゃう旦那様も可愛いかった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
とうとう、可愛いとまで言われるようになったのか。だが、この
見た目がすごく可憐で美しいのに、中身がとんでもない妻の尻に敷
かれ切っていて、一滴の涙も出ない。ああ、中年の取柄は長い事だ
けだったのに最近は気持ちよすぎてそれすらも⋮⋮。いかん、爆弾
をもらって安心したのか、思考がものすごい速さで緩み始めた⋮⋮!
408
﹁はぁー、最近旦那様が可愛くって怖いくらいだわぁ﹂
リーザがパッと体から離れ、犬をかごに入れてぺこりとお辞儀を
した。
﹁では、皆様のお夕飯の手伝いをしてまいります。お仕事がんばっ
てくださいませ! 私たちはここで戦いましょう、旦那さま。絶対
にこの砦と町を守り抜きましょうね!﹂
とんでもない女神さまの声が、勝利の鐘のように石造りの無骨な
砦に響き渡った。
409
51
﹁陛下﹂
床まで届きそうな純銀の髪をした巫女の姿に、ジュリアスは目を
見張った。それから、その背後から足音もなく入室してきた、黒髪
の﹃弟分﹄の姿にも。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ヴィルヘルムが痛みを感じたように眉を寄せた。
ジュリアスの顔を汚す涙と、やつれはてた顔に気づいたのだろう。
妹リーザの守護を命じたはずの﹃最強の騎士﹄がなぜここに居るの
かと、若き王はかすかに顔をしかめた。
﹁一階の入り口に警護が居たはずだが、なぜ入って来られた﹂
﹁⋮⋮ジュリアス様、リーザ様の部屋で何をなさっておいでですか﹂
﹁なぜ入って来たのかと聞いている﹂
ジュリアスは、気遣わしげな二人の視線に背を向け、質問に質問
で言葉を返した。
顔を見られたくなかったのだ。王らしくもないみじめな顔を。
﹁ジュリアス様、レアルデの大使館がもぬけの殻です。内部に居る
のはどうやら傭兵部隊。かの国は、何か怪しからぬ動きをしている
ようでございます﹂
﹁国境の封鎖と、大使館内の賊の捕縛をお急ぎください﹂
黒髪と、銀髪の二人が口々に言う。だがジュリアスは鷹揚に頷い
410
ただけだった。
﹁⋮⋮なにか、誤解があるのだろう﹂
あやふやな国王の言葉に、二人が愕然としたように目を見合わせ
た。当然だろう。国家の危機を伝えた部下の言葉を、検討もせずに
流そうとしたのだから。
﹁誤解ではございません、私がこの目で確認いたしました。大使館
員とは思えぬ男たちが裏口から出入りしておりました。おそらくは
10を超える傭兵が館内で寝起きをしている様子﹂
﹁ヴィルヘルム﹂
ジュリアスは二人のいぶかしげな眼差しから視線を外し、静かな
口調で言った。
﹁レアルデの大使の警護だろう﹂
﹁違います、陛下、大使は既に大使館内に居りません﹂
﹁証拠がない﹂
﹁証拠は⋮⋮﹂
言いつのるヴィルヘルムの言葉が途切れた。
﹁証拠は大使を招聘なさり、その目でご確認なさればよろしい﹂
﹁確証もないのにそんなことは出来ない﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
澄んだ金色の瞳が、だんだんと曇ってゆく。
﹁ローゼンベルクの国境地帯もきな臭くなり始めました。陛下のも
411
とにはご報告が行っている筈﹂
﹁⋮⋮帰りなさい、ここへ戻ってきていいなんて誰が言った。リー
ザの護衛がお前の仕事だ﹂
﹁リーザ様が!﹂
とうとう耐えかねたように、気の短いヴィルヘルムが声を荒げた。
﹁そのリーザ⋮⋮様、ご本人が仰ったのです、お兄様が危ない気が
するから戻ってくれと! 記憶をなくさせた自分を遠ざけて、何を
なさるおつもりなのかわからぬと﹂
﹁記憶?﹂
ヴィルヘルムの言葉に、ジュリアスは一瞬言葉をとぎらせた。
記憶をなくさせた。
その意味するところを知って、彼の心臓が急激に高鳴り始めた。
﹁何を言っている﹂
誰も知らぬはずの話だ。エリカと彼、リーザしか知らぬ秘密は葬
り去られたはず。
ヴィルヘルムの傍らにひっそりとたたずむ巫女セルマを睨み、ジ
ュリアスはかすれた声で言った。
﹁漏らしたのか、セルマ殿﹂
﹁いいえ、リーザ様がご自分で話されたようです、この騎士に。私
の術は、姫様に流れるレヴォントリの巫女の血に屈したようです。
陛下と姫様の母君もまた、私と同じ身の上の氷神に身を捧げたお方
でした。つまりは﹂
セルマの薄い色の唇から発せられた言葉が、ジュリアスの心を一
412
瞬にしていてつかせた。
﹁リーザ様の記憶が戻ったのは、氷神様の御意志。そしてリーザ様
がヴィルヘルム殿をこの場に遣わしたのも、氷神様の御意志と言え
ましょう﹂
ジュリアスの足の先、手の先から温もりが失せてゆく。
かすかに震えを帯び始めた己が指の感触を確かめ、ジュリアスは
声を絞り出した。
﹁そんなはずはない⋮⋮私は、平和の薪となる。私には薪となる未
来しかない、氷神は私にそう告げている﹂
何も言わずに佇む二人の背後を指さし、ジュリアスは言った。
﹁出ていけ、そしてローゼンベルクに戻り、命じたとおりの任務を
果たしてくれ﹂
﹁陛下!﹂
﹁二度言わせるな、お前を信用してリーザを任せたのにがっかりだ
よ、ヴィルヘルム﹂
﹁へ、陛下⋮⋮﹂
︱︱ヴィルヘルムは、リーザと同じく、兄弟のような存在だった。
幼いころから弟分のようにかわいがっていた彼がそばに居ると、弱
い心が漏れ出してしまう。まだここで終わりたくない、自分を助け
てほしいと口走ってしまうだろう⋮⋮。
背中を向け、ジュリアスは頑なな拒絶の意を彼らに示してみせた。
静かに扉が開き、そして気配が消える。
これで正しい。何度もジュリアスは腹の中で繰り返した。この国
には、大公家を廃嫡されたアドルフという、新たな王も用意された。
413
アドルフ
これまでその存在を秘められていたレアルデの姫を妻に娶った、
カルター指折りの家柄出の、血筋正しき王。
ジュリアスが死んでも、戦争にまではならないだろう。レアルデ
王の寵姫が産んだ王女、アドルフの最愛の妻・マリアの存在を、レ
アルデに認識さえさせればいい。
老いの見え始めたレアルデ王は、かつて王妃に追放された寵姫を
心から愛していたという。
王妃亡き今、彼女に生き写しのマリアを見て、そのマリアが隣国
の王妃となった姿を見て、王がわずかでも心揺らさぬはずがない。
﹁⋮⋮きっと、うまくいく。﹃平和で豊かな未来﹄のための薪に私
はなるんだ、そうだろう、エリカ⋮⋮そうしたら、君は私を⋮⋮﹂
ジュリアスはつぶやき、リーザの日記帳を本棚に戻した。
その拍子に足元がふらつき、思わず細い腕を突っ張って体を支え
る。
怯えたように足元に目をやり、ジュリアスはわずかに唇を開いた。
︱︱この災厄を招いたのは私だ⋮⋮エリカを罰せずに爆弾の開発
を続けさせ、あまつさえ、君を⋮⋮。レヴォントリの研究所の開発
を見ることは無いだろうが、僕はこのまま最も重い刑をこの身に受
けようと思う。
色のないジュリアスの唇が動いて、そんな言葉を刻んだ。
414
﹁落ち込むなよ童貞﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁陛下は死人のようだったな。大丈夫じゃないなぁ、あれは﹂
﹁⋮⋮陛下がおかしい⋮⋮普段の明晰なご様子がまるで見られない
⋮⋮﹂
言葉にしたら、不安で体がずっしりと重くなった。何なのだろう、
あの泥の池に沈んだうつろな人形のような目つきは。
自分の知っている国王が消えてしまったように思える。
リーザの部屋で涙を流していたことも解せない。
﹁氷神様の言葉を曲解した人間は、多かれ少なかれ過ちを犯すもの
だ。私だって犯しているかもしれない﹂
庭園をキョロキョロしながら歩いていたセルマがそういって、か
つて大噴水があったあたりでくるりと振り返る。
﹁巨石をくりぬいて作った噴水が木っ端みじんになったそうだな。
それがひと匙の火薬から作られたものだとは﹂
﹁セルマ⋮⋮﹂
﹁こんなものを作れる妹様だけでも、何としても守りたかったのだ
ろう。そういうお方だ、ジュリアス様は﹂
セルマが絹を張った高級な靴で、足元の石を軽く蹴った。
﹁氷神の巫女たちの目には、時折未来が見える。燃え上がる世界と、
豊かな世界の二つが見えるんだ。もちろん私は、豊かな世界が進む
べき正しき未来だと思っている﹂
415
﹁何の話だ﹂
﹁火薬は、正しき父の御腕に抱かれ、この世界を新たな世界に導く
礎とならん﹂
答えにならない言葉を呟き、セルマがぴょいと花壇の縁に飛び乗
り、フラフラと歩き出した。
レアルデ
﹁落ち込んでいる暇はない、童貞。今から大使館の賊どもを狩る﹂
﹁うん⋮⋮はぁ?!﹂
カルター
﹁じゃ、行こう。そのご立派な剣の留め具を外しておけよ﹂
セルマが、例の栗鼠のような速さで走り出す。
﹁家に虫が入ってきたら気持ち悪いだろう。ここは人間の家で、虫
の住処じゃないってことは、最低限教えておかないとな﹂
416
52
ジュリアス陛下の、あのおかしな態度は何なのだろう。幼いころ
からそばに居る自分は、強い違和感を覚える。何かがおかしい。な
のに、何もすることが出来ない⋮⋮。
重苦しい気持ちをあえて振り払い、目の前にいる小さなセルマの
輝く髪を眺めた。
動物は、小さい個体のほうが獰猛だと言うけれど、それは正しい
のかもしれない、とふと思いつく。
自分の父もセルマも小柄だ。そして攻撃的極まりない。
息を潜め、セルマの背後からそっと闇に包まれた大使館を覗き込
む。すべての鎧戸は閉ざされているが灯りが漏れている。内部には
かなりの人数が居そうだ。
﹁いったい中は⋮⋮﹂
その拍子に後ろ足で脛を蹴られ、悶絶した。
﹁ここは大使館の庭だぞ、目立つな。のろま﹂
﹁て、てめえ、この狂犬⋮⋮!﹂
﹁ふん﹂
﹁第一、俺たちだけで﹂
﹁しっ!﹂
自分たち二人で、ここに居る賊どもがどうにかなるとも思えない。
ここをどうこうするよりも、様子のおかしかったジュリアスの事
を、騎士団の先輩方に相談し、護衛計画を練り直したいのだが。
もちろん名目上は休暇中だから仕事はしなくてもいいはずなのだ
417
が、今はそんな事を言っている場合ではないと思うし。
それにしても痛い⋮⋮なんという力で蹴るのか。
﹁おい、俺は近衛の先輩にジュリアス陛下がおかしいことを報告に
⋮⋮﹂
﹁近衛?﹂
セルマが呟いて、しばらくだまりこくって何かを考えるそぶりを
見せた。
それから首を振る。
﹁ダメだ。近衛隊には接触するなと氷神様が仰っている﹂
どういう意味だ、近衛がダメ⋮⋮とは。あそこは自分の職場なの
だが。ジュリアスの様子がおかしい今、彼らにこそ真っ先に話をす
べきではないのか。
﹁それにしても、大使館というよりも軍事施設だな、監視の目が他
国の大使館の倍はある﹂
﹁本当か? 俺には良く分からないけど﹂
﹁誕生祝賀宴の隙をついて、国王陛下を襲撃する気なんだろう﹂
何でもない事のようにセルマが言い、ゆっくりとこちらを振り返
る。
﹁お前の素敵なお父様がぶっ潰したのは、間違いなくあいつらの仲
間だな。この時間なのに室内全てから灯りが漏れてる。襲撃を異様
に警戒してる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何者なんだ、お前の親父﹂
418
﹁入り婿の、番頭だよ⋮⋮母さんとは河原で知り合ったらしい。特
技は算盤だ﹂
﹁算盤かあ、今どきの算盤は人斬りの機能でもついてるのかね﹂
セルマがそういって、するりとすぐそばの木によじ登った。
﹁来い﹂
﹁なっ﹂
あわてて、彼女の後に従って樹をよじ登る。セルマが自分の身体
に子供のように細い手を回し、﹁息をひそめろ、擬態する﹂とつぶ
やいた。
﹁人が居たと報告があったが﹂
﹁⋮⋮いないな﹂
﹁樹の上は﹂
﹁⋮⋮樹の上も⋮⋮いない﹂
え、と思って下を見ようとした瞬間、セルマがぎゅっと腕をつね
った。
﹁別の場所を確認するか﹂
﹁そうだな﹂
偵察らしき男たちが去ってゆく。
自分に抱き付いたセルマが、ふーっと息を吐いて体を離した。
﹁無駄な力を使った﹂
そう呟き、セルマがかなりの高さからひらりと飛び降りた。慌て
419
て自分も続く。
氷神の巫女とは何者なのだろう。この身のこなしは常人にはあり
えない。
﹁裏からまわって一人ずつ潰す。私は4人までなら無力化できるの
で覚えておいてほしい﹂
﹁は?﹂
﹁残りは悔いなくお前がやっていいよ﹂
﹁おい、ここを二人で制圧なんて無理だ、セルマ!﹂
﹁ロクでもない行動に出られる前に、あいつらの鼻っ柱を折ってお
きたい﹂
﹁ちょっ、待て、追いコラ!﹂
何なんだ、このチビの好戦的な性格は⋮⋮!
歯を食いしばり、剣の掛け金を外す。
︱︱この剣の鞘だけは抜きたくないのだが。
﹁私が心潰せるのは4人までだ、数は数えられるな、覚えたか童貞﹂
﹁それって、お前の、その目の話か﹂
時折怪しく輝き、船の中では自分の意識を楽々と奪った﹁邪眼﹂
を見つめ、そう問うた。セルマは何も答えず、色の薄い唇を釣り上
げただけだった。
﹁陛下は疲れ果て、傷つき、氷神様のお言葉に混乱しておられる。
あのような時、人は自ら死を呼び込んでしまうものだ。危険は前始
末しよう、行くぞ﹂
走り出すセルマを慌てて追った。庭を周回するように照らす、動
くカンテラの灯りをよけて庭を横切る。
420
小さなセルマは足手まといどころか、まるで熟練した暗殺者のよ
うな身のこなしだった。
︱︱闇ではなるべく灯りを見るな。目を光でつぶすことになる。
父のくどいほどの教えが耳に蘇る。灯りの動きを頭に叩き込み、
身を晒さぬように避ける。暗闇に溶け込んだ警護のものが居ない事
を全身全霊で探りながら、庭の端の勝手口までたどり着いた。
そこで気配を探るが⋮⋮内部に護衛が居るようだ。わずかな気配
を感じた。
﹁もう少し手薄なところ﹂
セルマが吐息と変わらぬほどのささやき声でいい、顎をしゃくっ
た。
その先には花を植えこんだ見事な庭と、光あふれるテラスが見え
る。ちょっとした晩餐会を催せそうな広い部屋と、大きな硝子の嵌
った窓だろう。
あそこに出たら、中の人間にすぐに見つかる⋮⋮。
﹁あの部屋は手薄だ。可能な限り明るくして侵入者を圧迫し、代わ
りに警護を減らしている。なあ、広間の灯りを何とか消せるか? 照明器具を落とすとか⋮⋮﹂
﹁照明を釣る金具は金属だから、投げ刀子では無理だ﹂
﹁ちっ﹂
セルマがかすかに舌打ちし、親指を噛む。
﹁でかい灯りだな、確かに簡単には落とせそうもない、上に行こう﹂
セルマが、窓ギリギリの雨どいに手を掛けた。足をだらりとたら
したまま、音もなく、腕の力だけでゆるゆると這い登ってゆく。
421
⋮⋮なんという腕力だろう。だが自分の体格では体が窓際にはみ
出し、見つかる。
そう思って躊躇した瞬間、セルマが屋根から身を乗り出し、細い
手を差し伸べた。
﹁樋の金具に足をかけて伸びあがれ。指にさえ届けば引き上げられ
る﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁早く﹂
言われたとおり、膝の高さにある金具につま先をかけ、思い切り
体を跳ね上げた。中指の先が、屋根から半ばぶら下がったセルマの
小さな手に触れた。
次の瞬間すさまじい力で手首をつかまれ、次に服の背中を思い切
り引っ張られ、気付けば屋根の上に居た。
﹁何だ今のは﹂
﹁術の一つ。氷神様のお恵みくださった火事場の怪力﹂
セルマが自分に背を向け、そろそろと屋根を張ってゆく。そして
小さな頭を覗かせ、灯りの洩れる鎧戸の隙間を覗き込んだ。
そのまま姿勢を崩さず、指を二本立てる。二人いる⋮⋮。
弩を構える真似をすると、セルマが頷いて、指を一本立てた。
飛び道具を持っているのは一人。
いきなり飛び込めば、反射的に打たれるだろう。ゆっくり堂々と
入って相手を躊躇させよう。
立ち上がり、ドスドスと屋根を踏んで﹁開けるぞー﹂と小さく声
を上げた。
422
そのまま普通に鎧戸を開け、窓も開けて部屋にのそのそと入り込
む。
ここで、力を溜めて、体をできるだけ後方に引いて矯めを作った。
﹃侵入者は、仲間なのか賊なのか﹄と茫然としていた二人が、自
分の姿を認めてあんぐりと口を開けた。
︱︱その隙で十分だった。一番の問題である、弩を持った敵まで
は大股で四歩でゆける。
二歩で助走をつけて三歩目で体を回転させ、四歩目の位置で回し
蹴りをお見舞いする。
回転を乗せた蹴りで、弩を構えようとしていた男が横殴りに吹っ
飛んだ。男の手首を踏んで砕いて無力化した後、鳩尾を踵で蹴りつ
けて男の意識を落とす。
斬りかかって来たもう一人の男はギリギリまで引きつけ、身を躱
す。
同時にまた体をひねった。その勢いを乗せ、呼子を鳴らそうとす
る顔面に靴底をお見舞いし、そのまま緩んだ男の手から、手刀で剣
を叩き落とす。
﹁ぐぅ⋮⋮っ、貴様らッ⋮⋮な、なにも⋮⋮﹂
同じく倒れた二人目の鳩尾を踵で蹴りつけ、眠ってもらう。たぶ
ん死んではいないだろう。
﹁おい、これ、もらうぞ﹂
一応断りを入れて、落ちていた弩を手にした。気絶した男の身体
から帯をはがし、矢筒ごと自分の体に巻き付ける。全く、いい迷惑
だ。大使館を襲撃するなら、準備作業位させてほしかった。おかげ
423
で武器を自力で回収せねばならないではないか。暗器の類は上着に
潜ませているが⋮⋮。
手にした弩を眺める。高級品っぽい上に、ローゼンベルク家を襲
った賊のものと同じだった。
レアルデの工房で作られたのだろう。得した。貰ってしまおう。
﹁やっぱり白兵戦は足技が最強だな。大した技量だよ全く。あの魔
人に叩き込まれたのか﹂
窓からひょいと飛び込んできたセルマがそういって、落ちていた
剣を拾い上げ、人差し指を男たちの額にぐいぐいと押し付けた。あ
の魔人とは⋮⋮いうまでもなく父の事だろうが。
﹁さて、ちょっと長めに寝てもらおう﹂
﹁何を怪しげな真似を﹂
﹁怪しげではない。この力は氷神様のお恵みなのだ﹂
同じことしか言わなくて、本当に怪しい。
﹁セルマお前、剣なんか拾って、使えるのか?﹂
﹁さぁ、振り回して暴れるくらいなら何とか。童貞が頑張ってくれ
ないとセルマ困っちゃうな。繰り返すが4人しか無力化できないか
ら、宜しく﹂
そう答えたセルマが剣を鞘に入れ、肩に担ぎあげた。
﹁そろそろ第二波がこの部屋に駆けつけてくる。あ、来た﹂
セルマがそういって、紐を引いて灯りを消したのと、真っ暗にな
った部屋に男たちが飛び込んできたのは同時だった。
424
3人⋮⋮。
とっさに目を凝らす。ああ、先ほどまで夜に目を馴らしておいて
よかった、と思う。きょろきょろしている男たちのおぼろな輪郭が、
直ぐに浮かび上がった。
425
53
夜目の利を得ているのは自分だ。
一瞬立ち止った男のうち、真っ先に飛び道具を持った男を狙う。
鞘ごと刀を抜き放ち、渾身の力で鳩尾を打った。剣を構えた背後
の男を巻き込んで、弩を構えた男が吹っ飛んでゆく。靴底に鉄板を
入れておいてよかった。そう思いながら、弩の一番繊細な部品を踏
み壊した。︱︱背後から撃たれてはかなわない。
こちらに向けて剣を振り上げた男の姿が、肩越しに見えた。相手
も目が慣れたのだろう。
とっさに自分の弩を構え、一回に撃てる二発を、それぞれ左ひざ
と右腕に打ち込んだ。
これで相手は利き手でない左のみしか使えなくなった。対角にあ
る利き足で踏ん張れずに、力が入らないはず。
﹁ぎゃっ﹂
三人目の男の悲鳴が響いた。
目を覆い、くたくたとくずおれようとしている。
セルマがさっと身をひるがえして男を避け、倒れ伏した姿を冷た
い視線で見下ろした。
﹁1人目だ、あと3人なら無力化できる。行こう童貞﹂
﹁何をした、セルマ﹂
﹁お前にさんざんやったことだ、私の目の力。巫女にのみ許された
氷眼の魔力﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁行くぞ、一階﹂
426
セルマが駆け出し、廊下を全く音を立てずに走り出す。いくつか
の部屋は扉が開いていて、いま入って来た男たちは、ここを守って
いたのだろうと思わせた。
﹁おい、行け﹂
﹁はぁ?﹂
セルマがさっと背中に隠れた。
階段の下には⋮⋮4人。全員剣を持っているではないか。二階の
男たちは高い場所から敵を狙うために弩を持っていたのだろう。
彼らは屋内の白兵戦のために短めの剣を持っている。
︱︱間合いを間違えれば、アレでぐっさり刺されてあの世送りだ。
自分の武器は⋮⋮長すぎる。肉弾戦で行くしかない!
﹁アバズレ! 援護しろ!﹂
掴み出した矢と手にした弩をセルマに投げ渡し、鉄板を仕込んだ
硬い靴底でそのまま手すりを滑り降りる。
あっけにとられた男のうち、一番近い男の頭を思い切りけり上げ、
空いた場所に着地した。
そのまま切りかかる男の一撃を、鞘に入ったままの剣で受け流す。
ふらついた男を突き飛ばし、全力で走って窓の多い布を引きちぎ
り、残りの二人に向かって投げつけた。
駆け寄る残り一人の勢いを利用し、膝を曲げて足を振り上げ、思
い切り足の裏を顔面に叩き込んだ。
背後に人がいないことを確認し、そのまま振り下ろした脚を軸足
にすげ替える。
もう片方の足の踵で、布から顔を出した男を後ろ回し蹴りで蹴り
飛ばした。横倒しに倒れた男は鎧を着ていて、小柄で布の中でもが
いているもう一人を巻き込んだまま、どうと音を立てて倒れ込む。
427
そろそろ疲れてきたので、慌てて息を整えた。
相当な音がしたはず。まだ次が来る⋮⋮!
﹁眠っていただこう﹂
階段からぴょんと飛び降りたセルマが、蹴り攻撃で倒れ伏した4
人の額を指先で次々に押す。
﹁わたしの術で、彼らは三日間眠り続ける。全員寝かせておくつも
りだ。今、起きられても面倒だから﹂
﹁そうか、分かった﹂
セルマの言うとおり、男たちはそのまま動かなくなった。
﹁おい﹂
流れ落ちた汗をぬぐい、顔色一つ変えないセルマに尋ねる。
﹁次はどっちに行ったらいいと思う?﹂
﹁⋮⋮﹂
セルマがかすかに目を細め、左側をしゃくった。おそらくは厨房
や水回りがあるであろう、狭い場所だ。自分の長めの剣、それから
足技では不利だな、と思い、懐から出した銀貨を何枚か指の間に挟
んで握りこんだ。
殴り倒すしかない。
﹁弩で俺を撃つなよ﹂
﹁たぶん大丈夫﹂
428
セルマがそういって、再び軽やかに走り出した。
細い廊下なら一人ずつ片づけていけばいい。
気合一閃、目の前に現れた男を力いっぱい殴り飛ばす。吹っ飛ん
だと同時に歯が口から飛び出したので内心﹁あ﹂と思ったが後の祭
りだった。まあ死んでいないだろう⋮⋮。硬貨を握りしめた効果は
あったのか不明だ。
﹁だあああああああっ!﹂
あまり声を出さないようにしていたが、だんだん疲れてきた。そ
の時、背後から現れた男が弩を構え、自分の頭を正確に狙った。ま
ずい、挟み撃ち⋮⋮!
﹁ちっ﹂
回避行動をとると、すぐに次の攻撃には移れないが、仕方ない。
とっさに頭を下げようとした瞬間、弩の射手が何かに撃ち抜かれ
たかのように、後ろ向きに倒れ込んだ。
自分の背中から、セルマがじっと射手を睨み付けていた。あの目
⋮⋮銀の邪眼でやったのだ。何かを。
﹁2人目。あと2人やれる﹂
﹁せ、セルマ⋮⋮﹂
﹁行こう、半数以上は潰した。残りを無力化する!﹂
何を問うても始まらない。うなずき、息を殺して台所の入り口の
両脇に立った。中に⋮⋮居る。
妨害物の多い室内で息を殺し、闖入者である自分たちの様子を伺
っている。
429
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セルマと見つめ合う。お互い、かなり消耗しているのが分かった。
彼女もあの怪しげな力を使うと、相当体力を失うのだろう。4人
が限界とはそういう意味だ。
黙りこくっていたセルマが、何かを決心したようにうなずいた。
もたれ掛っていた壁からゆらりと立ち上がり、扉を小さな拳で叩
く。
﹁すみませぇん﹂
信じられないほどぶりっ子な声だった。この女の魔女っぷりを見
聞きしている自分でさえギョッとなる。
扉の向こうの緊張感が一気に高まった。
ありえないからだ。﹃少女﹄の声がこの場で響くなんて。
セルマが、後ろ手で拳を白くなるほど握りしめたのが見えた。
﹁どうして誰もいないんですかぁ∼。えーん、こわぁい! 大使館
の方ぁ⋮⋮!﹂
いい加減なせりふを吐いた後、セルマが長い髪をかき上げて、額
を露わにした。
慌てて自分も、一つはなれた柱の陰に身をひそめて成り行きを見
守った。
﹁⋮⋮なんだ﹂
扉を開け、男が出てきた。手には弩を構えている。さすがに隙の
ない構えだ。
430
だがセルマと向かい合った刹那、その男が、強い力で突き飛ばさ
れたかのようにのけぞった。
よたよたとたたらを踏んだのち、うつろな目で天井を見上げ、ゆ
っくりと背後を振り返る。
室内から﹁おい、どうした﹂という誰何の声が上がったが、男は
何も答えなかった。
同時に、セルマがへなへなとへたり込み、這うようにして壁にも
たれかかる。
﹁4人分⋮⋮使い切った⋮⋮後は頼む⋮⋮﹂
セルマの言葉が終わるや否や、台所の中から絶叫が上がった。
﹁うぎゃあああああ!﹂
﹁何をする!﹂
﹁やめろおッ⋮⋮ぐぁっ!﹂
とっさに台所を覗き込んだ自分の目に映ったのは、信じられない
様子だった。
先ほどの男が、味方に次々に弩を打ち込んでいる。
︱︱セルマに操られたのだとすぐ理解できた。
だが、なんという凄惨さだろう。
同志の突然の狂乱に戸惑い、男たちがなすすべもなく弩の矢で貫
かれてゆく。
﹁おい童貞、ここは制圧だ⋮⋮あとで追いかける。お前は庭を掃除
してきてくれ﹂
﹁でも﹂
セルマの振るった力のあまりの残酷さに言葉を失いかけ、慌てて
431
感じた当惑を振り払った。
﹁⋮⋮お前は大丈夫なのかよ﹂
﹁まだ、動ける⋮⋮氷神の巫女を舐めるな。いざとなったら比較的
怪我の軽い、元気のいい賊をおっ立てて⋮⋮﹂
﹁わかった﹂
皆まで言わせず、阿鼻叫喚の台所を離れて庭に飛び出す。
まだ賊が居る。まだ気配がする。
⋮⋮聞こえた。
かすかに雪を踏む音が耳についた。自分の無駄に聡い耳が、ほん
のわずかな軋みの音を捉えたのだ。
一人、見つけた。
背後から佇む見張りの首を締め上げ、声を出す前に締め落とした。
刹那。
432
54
﹁!﹂
相当な手練れと見られる剣士が、賊を絞め落とし、体勢を崩した
自分に斬りかかってきた。想像以上の動きの速さに、反応が遅れた。
避ける間がない。
振り上げられた銀の刃を目にした瞬間、走馬灯⋮⋮と思われる何
かが流れた。過去の光景、それから、リーザの笑顔。いつ思い出し
ても、かの姫君の笑顔は愛らしい。
同時に、脳裏にかつての父の言葉が蘇り、周囲の時の流れが止ま
った。
﹃騎士になったら、お前一人で完全装備の一個中隊を殲滅しなきゃ
ならないだよ、ヴィル﹄
嘘。嘘つけ。絶対嘘だ。そんな事させられる騎士、自分くらいし
か聞いたことがない⋮⋮!
だまされた畜生騎士になんてなるんじゃなかった死にたくない童
貞のまま死にたくない⋮⋮!
怒りが、絶望を凌駕した。死にたくない。リーザ﹃姉さん﹄に、
帰ると約束したのに。そう思った瞬間、無意識のうちに体が動き、
留金を外した剣が鞘走った。
父に叩き込まれ、体に染みついて離れない﹃型﹄通りに、身体が
反応する。
相手の攻撃など避けない。
向かってくるものは、その力を利用してこの剣で両断する。
433
︱︱正眼に剣を構えた男の動きに合わせ、抜き放った剣を一閃す
る。少しでもぶれれば刃こぼれするが、どの線に合わせて剣を薙げ
ばいいのかは、筋を叩き込まれた腕が、背中が、腰が、足が知って
いる。
目を見開いた男の剣が、腕ごと吹っ飛んだ。
反射的に剣を返し、躊躇なく腕から血しぶきをあげる男にとどめ
を刺した。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
残酷に過ぎる己の剣の切れ味に、思わず歯を食いしばる。
父の教えてくれた技が招く結果は、毎度ながらに取り返しがつか
ない。
嫌いだ。
こんなものを教え込んだ父も恨めしい。
︱︱だが、国を、王を守るという重みはそういうもの。
手を汚さずには守れないし、人を殺すのが初めて、という訳でも
ない。
﹁!﹂
茂みに潜んでいた人の気配が引いてゆくのが分かった。
あっという間に腕を飛ばされ、命を奪われた同胞を見て躊躇して
⋮⋮いや、怯えきっているのだろう。
﹁隠れても無駄だ!﹂
⋮⋮不利だった状況を、自分の有利へと反転させる最大の好機は
いまだ。
434
そう気づき、わざとらしいほどの恫喝を込めて声を上げた。
﹁無駄だと言ったはずだ!﹂
逃げ出そうとした人影に向け、すかさず父譲りの暗器を投げつけ
る。
強烈なしびれ薬を塗った短刀だ。
悲鳴を上げて転がった人影が、起き上がろうともがいて悶絶する
様が見えた。
﹁この大使館はカルター騎士団が制圧した!﹂
騎士団と言っても一人とおまけの魔女しかいないが、嘘ではない。
﹁うぎゃあっ﹂
襲い掛かって来た命知らずをまた、一刀のもとに切り伏せてしま
った。︱︱本当にこの剣は危ないから近づくな馬鹿ども⋮⋮と思い
つつ、返り血を浴びた姿で絶叫した。
﹁すべての武器を捨てて投降しろ!﹂
それから、カルター警邏隊に知らせるための笛を、ようやく思い
切り吹いた。
持っていた事を今思い出したのだ。
もうちょっと早く吹けばよかったかな、半分ぐらい制圧したとこ
ろで。そう思ったがまあいいだろう。
仕事を減らしてあげたので、警邏隊には感謝してほしい。
435
﹁それにしても⋮⋮何が起きてるんだ⋮⋮って、今更だな﹂
呟いて、首を振る。
カルターに襲い掛かろうとするもの、平和を突き崩そうとするも
のの大きさに、震えが走った。
平和は去りつつある。
もう何の余裕もない。
セルマの言うとおりレアルデの大使は逃げ、戦争に向かって情勢
は転がり出しているのだろう。
﹁陛下⋮⋮﹂
お兄様を助けて、と言っていたリーザの涙が蘇った。
﹁リーザ⋮⋮﹂
ここが、正念場だ。ここで踏ん張らねば、ジュリアス陛下もリー
ザの笑顔も、自分は守れない。
﹁ほうこれが⋮⋮﹂
﹁新型火薬の⋮⋮﹂
﹁爆弾⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
436
目の前に置かれた可愛らしい娘風の上着と、内部に縫い付けられ
ている、これまた可愛らしい宝石の飾りをみつめ、ローゼンベルク
国境砦の重鎮たちは言葉を失った。
もちろん、自分も今言うべき適切な言葉を思いつかない。
ああ、うちの奥さんはすっごく可愛くてお姫様育ちで純粋で夜は
淫乱、申し分のないいい子なのだが、目を離すとわりとびっくりす
るような事をしでかす。
鉱山を崩落させるほどの爆弾を、百個も作ってくれとは流石に頼
んでいなかったのだが。
﹁伺った威力から鑑みるに、4つほどで⋮⋮十分な示威行為になる
ことでしょう。むしろレーエの河中に居る生態系への影響が心配な
ほどの威力です﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
うなずいて、斥候隊の隊長を振り返った。
﹁アイシャ族は近くまで来ているか?﹂
﹁はい、犬ぞりで一時間足らずの距離まで。野営地を張り、本格的
な構えのようです。それから﹂
一瞬言葉を考えるように、目立たぬ白い服装の男が腕を組んだ。
﹁それから⋮⋮おそらくはアイシャ族ではない人間も交じっており
ます。将軍閣下の予想されたとおり、レアルデ訛りの共通語を話し
ておりました﹂
﹁そうか﹂
﹁挟撃でしょうかね﹂
﹁ああ。カルター王都とレアルデ王都は、一本の線で結ぶと、その
437
線が平野を突っ切る形になる。彼らが新型火薬を手にしているとす
れば⋮⋮王都とローゼンベルク、中枢と国境の防衛線が同時に火の
海になる危険性があるな﹂
﹁爆弾は﹂
﹁すでに王都中の要所要所に仕掛けられている可能性があるだろう
⋮⋮﹂
重い沈黙が、砦の質素な会議場に満ちた。
﹁それにしても、この爆弾はいったいどこから﹂
リーザの秘密を迂闊にもらすわけにはいかない。知っているのは
レヴォントリの意向を強く受けて動いているヘルマンのみだ。
とっさに﹁国王陛下から、リーザが下賜されたものだ﹂と答える
と、皆が分かったようにうなずいた
﹁カルター王立大で開発されたものだと聞きました﹂
﹁素晴らしい嫁入り道具でございますね。列強が喉から手が出るほ
ど欲しがっておるものです﹂
﹁陛下のもとには完成品が届けられていたのでしょうか?﹂
﹁なんにせよ、有効に活用せねば⋮⋮あ、そうだ、これで開拓が進
みますね! 残った分は治水湖の掘削や、崩落危険性の高い岩盤の
破壊に使えるのでは?﹂
文官の一人が、目を輝かせた。
目の前の戦にばかり目が行ってしまい、つい失念しがちだが、そ
もそもローゼンベルク領は、﹃実用化した火薬を開拓用途で買い入
れたい﹄と設立中の管理委員会に申し入れを済ませている。
この完成した爆弾があれば、開拓が大幅に進むだろう。
438
﹁そうだな、街に水を引くため池の開発にまず使える。計画立案班
と一緒に、有効活用を考えよう﹂
そう答えた拍子に、ちんまりとしゃがみこみ、犬を撫でているリ
ーザの姿が浮かんだ。
リーザ
奇跡の爆弾を作る﹃天才﹄が残した、唯一の愛らしい遺産。
︱︱ああ、彼女は﹁豊かな未来﹂への切り札なのだ。
そんな思いが唐突にこみ上げる。
自分が夫として愛しているからだけではない、もっと大きなこと
のために、リーザは守り抜かねばならない。そんな当たり前の事に、
今更気づいた。
国王ジュリアスから託された、文字通りこの国の希望。リーザの
持つ知識は、豊かな未来を招くためにこそ正しく使われるべきだ。
﹁そうだな﹂
部下の言葉に頷き、丸まっていた背筋を伸ばした。皆の視線が自
分に集まったことを感じ、大きく息を吸って口を開く。
﹁カルター王国、およびローゼンベルクのさらなる発展のためにも、
アイシャ・レアルデの連合軍の侵入は絶対に防ぐ。防衛線を突破す
る気配が見えたら、第一次示威行動に入ろう。指揮は私がとる﹂
﹁閣下自ら?﹂
﹁いい的になるぞ、私は目立つからな、そうだろう、ヘルマン﹂
﹁将軍閣下に的になられたら、私どもの命がいくつあっても足りま
せん﹂
ヘルマンの軽口に、会議場の皆がどっと笑った。
︱︱爆弾は爆発しない、と言い切ったリーザの言葉を信じよう。
439
生前の父に﹁お前の派手な見た目は、ここぞの大舞台で活用する
んだ。私がお前の髪に映える、銀色ピッカピカのすごい鎧をやる。
それを着て皆の代わりに標的になる覚悟を示せ﹂と渡された、死ぬ
ほど目立つ鎧を着こんで、アイシャ族の前に立つ。
爆弾の脅しに屈さぬ防衛線の総責任者、氷将レオンハルトの底意
地を見せつけるのだ。
自分はずっとこの砦と、警備隊の皆と共にあった。この街の領主
として、カルター王国の右翼を守護する最高責任者として、いつで
も矢面に立つ覚悟はできている。部下たちの頼もしい背に隠れなど
しない。もし自分が倒れたとしても、代わりの優秀な軍人はいくら
でもいる。
凡人の自分が示せるのは、誰より強い覚悟だけなのだ。
﹁まあ、私は死なんし、お前たちにも怪我はさせんよ。一緒に頑張
ってくれな、いつものように﹂
﹁そ、そうですね⋮⋮北方駐留軍も明日にはこの砦に到着します。
アイシャの軍勢はどう頑張っても五千は超えないでしょうし、こち
らの軍容を見て引いてくれればいいのですが﹂
部下たちに、何とも言えない沈黙が満ちた。
自分は﹃武人としての名誉ある死を覚悟せよ﹄という言葉があま
り好きではないので、今日も言わなかった。なので、気分が盛り上
がらないのだろう。
﹃命を捨てろ﹄というあの言葉。本音の所、好きではないのだ。
その証拠に、自分は命を絶対に捨てない。
砦が陥落した時は、レオンハルト・ローゼンベルクは将軍位とこ
の街を放棄する。
そして、武人の名誉をすべて失うことになっても、リーザを連れ
て逃げる。
440
リーザはジュリアスから託された、豊かな未来へのたった一つの
鍵。エリカ博士の﹃知恵の現身﹄だ。
敵に奪われるようなことがあってはならないし、希代の天才自ら
が授けた知識が絶えることも、またあってはならないからだ。
おそらくジュリアスは、﹃氷将レオンハルト﹄のこの軍人らしか
らぬ性格まで見抜いたうえで、愛する妹姫を託したのだろう。
だが、部下全員が背中に馬のクソを投げつけてきたとしても、自
分は耐えるだろう⋮⋮。
必ず守ると約束した時の、リーザの涙を思い出す。
陰謀などとは無縁の、優しく無邪気な彼女が哀れでたまらない。
できれば、この事態が平和裏に収束してくれればいいのだが⋮⋮。
武人が活躍する世界など、本来はあってはならないのだ。将軍様
は退役なさるまで、平和な昼行灯だったな、と陰口をたたかれるよ
うな世界が、自分にとっては望ましい。
心の底からそう思い、見慣れた砦の天井を見上げた。
ああ、明日も明後日も、その先の未来も、今日と同じ眠たく平穏
な毎日であってほしいと思いながら。
441
55
﹁シュネー、敵の軍隊が向こうに居るわ﹂
﹁きゅぅきゅぅぅ⋮⋮﹂
旦那様の言うとおりだった。雪原の向こうに小さな灯りが揺れて
いて、人がいるのが分かる。
あそこに軍隊が居るのだ。このローゼンベルクに攻め入ろうと、
待ち構えている。
雪原に展開した大部隊は、何を待っているのか。
それは、レアルデ本国との呼応だろう。
何かの﹃事件﹄をきっかけにして攻め込もうとしているのだ。
薔薇無き町、この白く平和な旦那様の街を踏みにじろうと、悪意
が雪嵐の向こうで牙を研いでいる。
冷え切った手を手すりから外し、台を降りて手袋をしたままシュ
ネーを抱き上げた。
寒くて不満なのか、きゅうきゅうと鼻を鳴らしている。
﹁ごめんね、寒かったね﹂
そういって頬ずりし、部屋の中に戻った。
﹁ヴィル⋮⋮﹂
行ってしまった﹃弟﹄の名を呟き、涙をぬぐった。
あのアイシャ族の様子から察するに、きっと王都も大変な事態に
なりつつあるのだろう。
442
危険な場所にいるお兄様を守るため、弟もまた危険にさらしてし
まった。
でも、あの子が一番強い。あの子にしか頼めなかった。
怪我や怖い思いをしていないか心配で仕方ないが、あの子以外に
お兄様を守ってくれる人を知らない⋮⋮。
﹁エリカ博士、お母様、どうかお兄様とヴィルを守ってください。
特にお兄様は剣を握られた事も無い、お勉強ばかりのお方です。ど
うかお怪我をしないようにお助け下さい﹂
シュネーの小さな手をちょんと合わさせ、次いで自分も指を組み
合わせ、天国の大好きな人達にお祈りした。
それから慌てて、暖かい室内に入る。
旦那様のお食事を準備しなければ。鏡を見て、念入りに涙の痕を
拭きとって、お化粧用の粉をはたいた。
鉱石が入っていて、顔がキラキラになるのだとアルマさんが言っ
ていて、とても素敵な品物だ。
明るい笑顔でいなくては。
のんびりしていて優しい、旦那様をほっとさせる女の子でいなけ
れば。
ローゼンベルクの危機に一番神経をすり減らしているのは、ほか
ならぬ旦那様なのだから⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
お兄様に見せてもらった、エリカ博士の残した文献の内容を思い
浮かべる。間違いなく、あの処方が出回っているのであれば、火薬
の安定化には失敗するはず。
あの時のお兄様の、深く傷ついて疲れた顔も同時に思い出した。
443
﹁お兄様⋮⋮﹂
自分もお兄様も、エリカ博士が大好きだった。お兄様は⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思わず手で、お化粧の粉をはたいたばかりの顔を覆う。
お兄様は早くにお父様をなくし、ダメな妹の自分をかばい、一人
で歯を食いしばって戦ってこられたのだ。
おしろいでかぶれるから女は嫌いだ、などと仰っていたが、お兄
様には奥様を娶る余裕もなかったのを知っている。
貴族を優遇せず、国際社会が変わると言い張って軍備の増強を図
ろうとされていたお兄様に、娘を嫁がせまいと気炎を吐いていた貴
族たちの事を思い出す。
︱︱そのお兄様が唯一愛した人が、無残に殺されるなんて。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
慌ててその辺の布を取りあげ、顔を抑える。せっかくきれいに直
した顔がまた崩れてしまった。
でも心が痛い。ずっと苦しいのを我慢しなければいけないお兄様
を思うと。
自分だけを幸せにしてくれようとしたお兄様のことを、簡単に忘
れた自分の馬鹿さ加減を思うと⋮⋮。
﹁う、う⋮⋮﹂
誰よりもお兄様の理想に添い、お兄様の力にならなければいけな
444
かった妹の自分が、その役目を忘れ、お兄様を見捨ててしまったな
んて。
自分の我儘を、いつも最後にはつらそうな顔で飲み込んでくれた
お兄様、妹の自分に対しては厳しい事ばかり仰って、何とか王とし
ての自分を助けてほしいと必死に訴えていたお兄様の事ばかりが、
ひたすらに脳裏をよぎる。
﹁きゅぅきゅぅ⋮⋮﹂
布を口に押し当てて泣いている自分を心配したのか、シュネーが
服の裾に纏わりついてしきりに飛びつこうとする。
﹁ごめんね、おいで﹂
無理やり笑ってシュネーを抱き上げ、モコモコした顔に頬ずりを
した。
そうだ、安全で旦那様に守られている自分が、めそめそ泣いてど
うするのだ。
早くお食事の支度を済ませてしまおう。
﹁シュネーもお腹がすいたよね、ちょっと待っていて﹂
お兄様の事は、ヴィルを信じて任せる。
あの子ならだれよりも信じられる。絶対に、お兄様を一番いいよ
うにしてくれるはずだ。
445
大使館を警邏隊に引き渡し、疲労でぼろぼろの身体を引きずって
帰路をたどる。
セルマは既に歩く気も無いらしい。
﹁ほら、自力で歩け﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁セルマ!﹂
﹁うぅ⋮⋮童貞じゃない男⋮⋮童貞じゃない男をくれ⋮⋮﹂
背負ってやっていたセルマが、かすかな声で呟く。
かちんと来て道に捨てようと思ったが、舌打ちして背負い直した。
﹁まあなんだ。今日はお前のおかげで何とか生き延びたな、あの、
ありが﹂
言いかけた言葉など聞いてもいないかのように、セルマがずるず
ると背中を滑り落ちる。
﹁どうでもいい、疲れたぁぁ⋮⋮童貞じゃない男をくれぇ⋮⋮﹂
﹁普通に飯を食え!﹂
﹁男、男がいい⋮⋮明後日のジュリアス様の祝宴に間に合わない⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
446
もう一度背負い直して確認すると、セルマは死んだように眠って
いた。スースー寝息を立てている。
面倒だが、家に帰って母に部屋を準備してもらい、厳重に見張っ
て寝かしつけよう。
父や弟に手を出されたらたまったものではない。
童貞をばらされてもたまったものではない。
﹁レアルデの大使館に傭兵がわんさかいたなんて、大問題だ。これ
からこの国はどうなるんだろう﹂
﹁かじ取り次第だ⋮⋮﹂
目を覚ましたらしいセルマが、蚊の鳴くような声を上げた。
一応、会話する気はあるらしい。
﹁レアルデが﹃大使は急用で国に帰った。大使館を傭兵部隊に占拠
された事は、レアルデとは無関係だ﹄と言い張ってくれれば、まあ
戦争にまでは発展せずに済むだろう。国の体面とはそういうものだ。
まだ相手を追い詰めない方がいい⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
﹁戦争になったら、踏みにじられるのは弱い人間だ。いまは新型火
薬の問題もある⋮⋮戦争は最後の最後の、これまた最後の手段だか
らな⋮⋮﹂
セルマが眠そうに黙り込んだ。
﹁アバズレ、お前何者なんだ、色々詳しいな﹂
﹁お前は頭空っぽだよな、童貞﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
猛烈にむかっ腹が立ち、やっぱり道に捨てようと思った。
447
だが、すんでのところで留まる。
何なんだろうこの女。胸もないし。本当に。
リーザと比べて、百分の一くらいの可愛さしかない。
﹁お前、家で寝かせてやるけど、絶対俺の父親と弟に手を出すなよ﹂
﹁弟もいるのか⋮⋮いい事聞いた⋮⋮純なお子様も美味しいよねぇ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
最悪の展開になった⋮⋮。
448
56
ほんのわずか眠っただけで、もう朝が来た。アイシャ族はどうし
ているのだろう。
ボサボサの頭のまま、飛び起きて寝間着のまま露台に走る。
晴れ渡る雪原の奥に、確かにかなりの数の人間が控えているであ
ろう、煮炊きの煙が上がるのが見えた。
アイシャ族は動いていない。すぐに斥候の報告を聞かねば。
急ぎ部屋に戻ろうとした瞬間、さっきまで一緒に寝台に潜り込ん
でいたリーザがちょこちょこと走り寄って来た。子犬のシュネーも
駆け寄って来る。
﹁おはようございます、旦那様﹂
﹁おはよう﹂
華奢な体を抱き上げ、額に口づけをした。リーザは毎日明るく愛
らしく、変わらない。その事にホッとして、もう一度額に口づけし
た。花紫の大きな瞳を細め、リーザが喉を鳴らす。
﹁くすぐったいです﹂
﹁はは﹂
ひょいとリーザを床に下ろし、壁に掛けた服を手に取る。
﹁寝坊してしまった⋮⋮急いで行かないと﹂
﹁お水、お持ちしましょうか、旦那様﹂
﹁いや、あとでいい、ありがとう。犬と遊ぶのもいいが、先にちゃ
んと服を着るんだぞ﹂
﹁はぁい﹂
449
よれよれの寝間着姿のリーザの額にしつこく口づけし、上着にそ
でを通して部屋を出た。
可愛いのでついついしつこくしてしまうが、いい加減嫌がられて
いないかちょっと心配だ⋮⋮。
爆弾はすべて砦の保管庫に厳重に保管され、その存在は上層部を
除いて隠匿されている。監視中のアイシャ族が移動の気配を見せた
ら、直ちに威嚇として雪原の侵入経路、およびレーエの岸近辺を爆
破する予定だった。
あの青い小さな塊は恐れでもあり、希望でもある。
エリカ・シュタイナーは悪意を持ってあれらを作ったわけではな
い。そして、最も悪意のない少女のような姫君だけに、そのすべて
を伝えた。
﹁天才、か⋮⋮﹂
冷え切った石壁の廊下を歩きながら、ふと思う。
火薬の母とされる、エリカ・シュタイナーとはどんな女性だった
のだろう。
希代の天才と呼ばれた彼女の目は、どんな未来を見ていたのだろ
う。
﹁でも30前で死んじまうなんて、可哀想にな。若い娘が死ぬよう
な世界にはしたくない﹂
母が作ろうとしている、レヴォントリの火薬研究所の事が頭をよ
ぎった。
正直なところ自分は、わざわざ火の粉を被ろうとしている母ミラ
ドナの判断を、誤りだと思い続けてきた。
世界の平和を、辺境の小さな部族に過ぎないレヴォントリで担お
450
うなどと、荷が勝ちすぎると。
だが⋮⋮その役割は誰かが率先して担わねばならないのかもしれ
ない。
あの火薬は強大な災厄でありながら、同じ大きさの希望も抱えて
いるのだ。
︱︱その守手となるべき定めを、あの一族は担っていたのかもし
れない⋮⋮。
氷神の声を聴き、極北の永久凍土で暮らす、銀の髪の不思議な一
族は。
﹁おやっさん! おはようございます!﹂
侵攻に備えて砦に供えている部下たちが、アホみたいな寝癖の自
分に次々に声をかけてくる。
猫っ毛はこういう時に微妙な癖がついて恥ずかしいと思いつつ、
頭を掻いて﹁おはよう!﹂と返事をした。
﹁おはようございます!閣下、あの銀の鎧を出しておきましたけど﹂
自分と似たようなぼさぼさ頭の将官が、笑顔で声をかけてくれた
﹁おう、おはよう。やっぱりあれは派手かな。派手だよな﹂
﹁似合いますよ、閣下男前だし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんなこと言われると、身の置き所がないのだが⋮⋮。
﹁何照れてるんですか気持ち悪い﹂
451
部下はそういって、もじもじしている自分を残して歩み去って行
った。ああ、この上下関係の適当さ、まさにローゼンベルクだ。
派手な都会で立派な公邸に暮らし、﹁氷将様﹂なんて言われてち
やほやされているより百倍落ち着く。
つまるところ、自分は骨の髄までこのど田舎のおっさんなのだと
いうことだ。
最大の危機に直面し、この街を愛しているんだな、と改めて実感
したというべきか⋮⋮。
晴れ渡る空を見上げた。陛下の誕生祝賀会は明日だ。
おそらくは明日、すべてが動くはずだ。
﹁負けられんな﹂
氷将レオンハルト・ローゼンベルクに任されたのは、この北辺の
国境線の守護だ。
のんびりした気性だけが取り柄の唐変木だが、その任は命に代え
ても果たしてみせねば。南の街に本部を構える北方駐留軍の一個大
隊も、今日の昼にはローゼンベルクに合流する。アイシャ族との雌
雄を決する時は、刻一刻と迫っている。
﹁そうだ、街を見に行かせた部隊はどうだ﹂
﹁今のところ戻ってきていませんよ、怪しい人間が居たら片っ端か
ら押さえろと言ってあります。アイシャ族が爆弾を持ち込んでいる
かもしれませんからね﹂
﹁ああ﹂
うなずいて、握りしめた拳を掌で包んだ。
守り切れるだろうか、この街を。
いつどこで、何が起きるかわからない⋮⋮。だが、何が起きても
452
慌てずに済むよう、北辺の最高責任者として心を張り続けなければ
ならない。
ふと背後を振り返ると、柱の陰からリーザが覗いていた。
何を隠れているのだろうと吹き出した自分に、愛する妻が子犬を
抱いたままブンブンと片手を振ってみせた。
思わず、吹き出す。
ほんとうに、リーザのなにもかもが愛らしくて心和む。
あの明るさに本当に救われる、と思い、顔だけ出してニコニコし
ている妻に声をかけた。
﹁寒いだろう、リーザ、部屋に戻りなさい﹂
﹁アドルフ、君とマリアを私の後継者として紹介する話だが、少し
ばかり気の利いた挨拶でも用意しておいてもらえないかな?﹂
不安げな元・大公子夫妻に微笑みかけ、ジュリアスは白い手袋に
包まれた手の甲に己の頤を乗せた。
﹁あの、陛下、やはり⋮⋮陛下が譲位をお考えになるには少々早い
のでは﹂
アドルフがそういって、ちらりと傍らのマリアに目をやった。
﹁陛下が奥様を娶られ、お世継ぎに恵まれるほうがずっと国の平穏
453
が保たれるように思います。マリアともそう話していたのです。さ
すがに、陛下の跡を継がせていただくには、私たちでは役不足では
ないかと⋮⋮﹂
﹁そんなことはないよ﹂
やさしい声でいい、ジュリアスが優雅な仕草で立ち上がった。そ
れからゆっくりと二人に背を向け、窓の外を見つめる。
﹁前にも言ったけれど、僕は⋮⋮﹂
ジュリアスが一瞬言葉を切り、空を見上げる。
それから再び、穏やかにつづけた。
﹁そう、これからは、火薬管理委員会の委員として活動してゆきた
いと考えているから。あんなものを国内で生産させた責任の一環を
取らないとね。私は先代の唯一の男子だから、王にえらばれただけ
の身の上にすぎないしね。代わりはいくらでもいる、君はその中で
も最も優れ、この地位にふさわしい人間だ﹂
﹁陛下⋮⋮これまでに手がけられてきた国内の改革は如何なさるの
です、陛下に期待している人間たちも、実際は大勢⋮⋮﹂
何かを言いたげに、アドルフは言いよどんだ。
それから部屋を見回し、ふと壁の絵に目を留める。
﹁あの、絵を変えられたのですか﹂
﹁ん?﹂
壁に掛けられた華やかな風景画に視線を移し、ジュリアスは紫紺
の美しい瞳を細めた。
454
﹁そうだよ、気分を変えたくて。大学の学生が描いたものらしい。
天国の光景の様だろう﹂
455
57
﹁かわいそうに、貧血持ちなのかしら。痩せているものねえ﹂
母がそういって、セルマに毛布を掛け直して額を拭いた。
﹁お母さんが時々見に来るから、貴方は仕事に行ってらっしゃい、
ヴィル。氷青石は一番厳重な蔵に集めて、鍵はお父さんに預けたか
ら平気。他の小売りさんにお売りした分も、返してもらえる分は返
してもらったわ﹂
﹁なんて頼んだの﹂
﹁法律が変わって、販売できなくなるかもしれないからって言って。
まぁこういうお商売は、普段からの信用よねぇ⋮⋮無理を聞いてく
ださる小売りさんばかりでよかったわ﹂
母に礼を言い、もう一度セルマの顔を覗き込む。土色で死にかけ
のようなひどい顔色だ。起き出して変な真似はしないと思いたい。
﹁ねえ、あの子はあなたの恋人?﹂
﹁いやいやいやいや、全然そんなんじゃない﹂
﹁まあ﹂
母の嬉しそうだった顔がみるみる曇る。
23にもなって女っ気のまるでない息子が心配なのかもしれない
が、ズバリ、自分は母の心配通りの真正童貞だ。
リーザ以外の女にはまともに触ったことすらない。
14歳の弟には身の程知らずにも彼女が出来たというのに、弟に
は彼女が出来たというのに、弟には⋮⋮。
︱︱やめよう。眠れなくなる。一睡も、だ⋮⋮。
456
﹁とにかく俺は仕事に行ってくる。色々事件が起きてるから﹂
そういって母に片手を上げ、再補充した暗器と、さっき人を切り
捨てた刃の具合を再確認して家を出る。
﹁貴方の職場、忙しいのですね﹂
﹁うわあああああああ!﹂
家を出るなり、夜道で突然背後を取られて絶叫した。
文字通り、虚を突かれて腰が抜けそうになる。
気配が全く、これっぽっちもなかったのだ。いったい何が起きた
のかわからない。
﹁ヴィル、何をそんなに驚いてるんです。自分の親に声を掛けられ
てやましい事でもあるんですか﹂
﹁あ、あ、あ、な、な、なん﹂
父の姿に、反射的に全身が粟立つ。
﹁あっそうそう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁レアルデの大使館を制圧したのはあなたですか﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁こん睡状態の賊と、死人しか見つからなかったと聞きました。全
員潰しましたか? 虫は一匹でも逃げたらあとが面倒ですよ﹂
﹁わからない。数が多すぎたから﹂
こん睡状態というのは、セルマに術を施された人間の事だろう。
自分の答えに父が華奢な肩をすくめた。
457
﹁わかりました﹂
﹁は?﹂
﹁ローゼンベルクからの半貴石の搬送が止まっているようなんです﹂
﹁はぁ?﹂
何の話だ。なんで石の卸売りの仕事の話になるのか。
﹁今期の売上達成が難しくなりそうで、困っているんですよねぇ。
せっかくの結婚記念日に、お母さんに口を利いてもらえなかったら
悲しいし。温泉に連れて行けって頼まれてるけど、売り上げが立た
なかったら、従業員の手前無理じゃないですか﹂
自分が知る限り世界で一番怖い人が、訳の分からんことを延々喋
っている姿って、本当に完膚なきまでに怖い⋮⋮。
﹁仕方がないので、お父さんが羽虫を潰してあげます。また今度特
訓しましょうね、ヴィル、その時はお父さんを殺す気でいらっしゃ
い﹂
﹁ちょっ、﹃特訓しましょうね﹄じゃないって⋮⋮いいです、余計
なことしなくていいです、家で飯食ってて、あの本当⋮⋮﹂
﹁じゃあね﹂
﹁いや、本当にいいです、あのっ親父、本当に余計なことしなくて
いい⋮⋮﹂
父の姿が、路地の先の闇に掻き消えた。
言ってることもやってることも、いや頭自体が遠い世界に逝って
るのに、本人は﹃平凡な優しいお父さん﹄のつもりなところが本当
に昔からアレすぎる。
しかも何年たっても変わらない。当然、悪い意味で⋮⋮!
458
﹁はぁ﹂
父を野放しにしてはいけない事は、家族全員うっすら分かってい
る。
あの奇天烈な言動を見て見ぬふりをしつつ、父が﹃不正を働くど
こぞの貴族が目障り⋮⋮はぁ、殺りたい⋮⋮﹄とか言い出したら、
家族一丸となって﹃お父さん、魚釣りに連れて行って﹄﹃果樹園に
遊びに行きましょうよ﹄﹃ねえ僕に剣を教えて!﹄などと話をそら
して、頑張って来たのだが⋮⋮。
⋮⋮あの魔人の気を引くために﹃剣を教えてくれ﹄などと頼んだ
ことを死ぬほど後悔しつつ、職場への道を急いだ。特訓の時の父の
口癖は﹁強くなりなさい!そしていつか、お前がお父さんをなぶり
殺しにしなさい!﹂だ。自分は何かを間違えたのだと思う⋮⋮。
親父をかまっている場合ではない。
それに親父に任せれば、﹃相手は気の毒、仕事は確実﹄な結果に
なる。
あまり時間がない、とりあえずその道の玄人に丸投げしよう⋮⋮。
レアルデの大学の研究室の一室で、うつろな目で座り込む一人の
男が居た。
保管実験を行った火薬が、発火しない。
459
おそらくは精製時の何らかの誤りが原因であろう、そうレアルデ
の学者たちは仮説を立て、再精製に着手している。だが、ユーアイ
ル博士は薄々気づいていた︱︱身の破滅が近い事を。
﹁なぁ、エリカ﹂
うつろな声でユーアイル博士はつぶやいた。
震える手に布で短刀をぐるぐる巻きにし、体をぶつけるようにし
て刺したあの瞬間を思い出す。
エリカは何も言わなかった。逃げ出すユーアイルの背中に、何も
言葉をぶつけなかった。
﹁ジュリアス陛下と二人して、俺の事笑ってたのか﹂
言わずとも分かっていた。そんなことは無いと。
エリカは清らかで、公明正大な人間だった。
彼女を前にした弱い人間は、己のゆがみに、己の卑小さに目を逸
らしたくなる程に。
﹁可笑しかったって言ってくれよ、俺がみじめに見えたって﹂
だが、ユーアイルのつぶやきに答える声はなかった。
永遠に、彼の問いに答える人間は現れないだろう⋮⋮。彼の手の
中には、エリカの命を奪った白刃がきらめいていた。
460
﹁閣下、北方駐留軍の総指揮官殿が参られました﹂
部下の声に顔を上げると、かつてから慣れ親しんだ友人・フォル
カー中将の顔が目に飛び込んできた。カルター王国の中将の位を授
かった、自分より4つ年上の恰幅の良い男と肩を抱き合い、拳を押
し付け合って再会を喜び合う。
﹁参りました。ローゼンベルクは寒いですね、閣下﹂
﹁馬車で一時間北上するたびに、一度ずつ気温がさがると言われて
いるからな、ご苦労だった﹂
﹁1万人連れてきました。3日くらいは滞在できそうですかね﹂
大隊を動かすには、莫大な予算と、その受け入れ先が必要だ。王
女リーザの降嫁に伴い、ローゼンベルク領には少なからぬ﹃姫様の
化粧料﹄が支払われた。もちろんその本当の意味は﹃軍事予算﹄だ
が。
﹁何とかなる。ヘルマンが投宿先と食料の調達責任者だから、対応
してくれ﹂
フォルカーが頷くと同時に、背後に控えていた将校がすぐに部屋
を出て行った。
調達作業に移るのだろう。
﹁了解した。私たちも野営の準備はしてきたが、どうしても寒くて
461
ね⋮⋮﹂
国境砦には、三千の兵を収容する余地がある。あとの七千は町の
宿と野営で回すしかないが、暖を取るための火種や薪の補給もする
必要がある。結論から言えば、﹃冬に戦争などするものではない﹄
という結論に帰結するのだ。アイシャ族も、天幕での野営でうんざ
りしている頃合いだろう⋮⋮。
﹁ああそうだ、閣下。ご結婚おめでとうございます﹂
真っ青な目を細め、フォルカー中将が言った。
﹁貴方がご結婚なさるとは思っていなかった。リーザ姫には一度お
会いしたことがあるが、大変な美人だった記憶があります。閣下は
果報者ですね﹂
﹁ほめ過ぎだよ、リーザには、後ほど皆の慰問に回ってもらおう﹂
そう言うと、フォルカー中将が破顔し、満足そうにうなずいた。
﹁それはありがたい。兵士からはこの寒さでの野営に不満が出てい
ますから、ぜひお願いします。ジュリアス陛下の妹君直々にお声掛
けいただければ、皆喜ぶことでしょう。あの方は英明な君主です、
亡きお父上と同じ﹂
ジュリアスは、貴族の間では﹃側女の子﹄と蔑まれているが、軍
閥からの評判は悪くない。
北方の守りを固めるための予算を多く割き、レアルデとの外交に
力を入れようとする政治方針は一定以上の評価を得ている。
﹁レヴォントリの王統である貴方を、北方守護の将軍位に据え続け
462
ていることもまた、陛下のご英断ですからね﹂
﹁んー⋮⋮自分でもお飾りだと分かってるからなぁ。ほめても何も
出んぞ、見てくれ、このなにもない砦﹂
そもそも父はローゼンベルクの領主ではあったが、将軍ではなか
った。
自分が将軍位を与えられた時、納得のゆかぬ抜擢人事だと陰口を
たたかれた事、砦の修理や農作業ばかりして、あの将軍はバカなの
かとお偉いさん達に罵られた事を思い出す。
いろいろあった。得はあまりせず、損のほうが多かったように思
うが⋮⋮。
﹁俺の代わりなんぞいくらでもいる。弟三人に、優秀な部下共。い
つ俺がくたばっても問題ない、強いて言うならそれだけが自慢かな﹂
﹁またそんな事を⋮⋮さ、あまり時間がない。おそらく明日あたり
に来ますよ。いくら馴れているとはいえ、アイシャ族も寒さで限界
でしょう﹂
そういってフォルカー中将が立ち上がり、斥候用に覗きを設けた
壁から、外の様子を伺った。
﹁数は?﹂
﹁五千前後かな⋮⋮レアルデの将兵が千人ほど合流しているらしい﹂
フォルカーが、茶色混じりの緑の目をちらりとこちらに寄こし、
そのままじっと河向こうを見据えた。
﹁なるほど⋮⋮河が完全に凍ってますね。数の利、地の利はこちら
にあるとはいえ、どこから渡って来るかわからないから不利だ。融
氷剤は足りてるんですか? 凍った河を崩さなければ﹂
463
﹁ああ、その事で話がある﹂
リーザの爆弾の事を告げるべく、フォルカーの矢傷でつぶれかけ
た耳に唇を寄せる。
あれの存在は、軍事機密だ。本当に信頼できる人間にしか話は出
来ない。
﹁人払いを頼む。我々はとある武器を入手した。その事をフォルカ
ー中将にも報告しておきたい﹂
464
58
今日はとても晴れた朝だ。昨日、北方駐留軍の皆さまが旦那様の
砦にお見えになったのだ。
﹁さ、これからリーザ姫様からのご挨拶がある。整列!﹂
フォルカー中将の一声で、ざわざわとしていた人々がぴたりと口
をつぐみ、背筋を伸ばす。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
一斉に自分に向けられた目に立ちすくんでしまう。
白銀の中庭で、黒っぽい軍服姿の人々が立ち並ぶさまは、圧巻の
一言だった。
なんという迫力だろう⋮⋮王宮で貴族の皆様にご挨拶するのとは、
全然違う。
手に汗がにじみ、重たいスカートをぎゅっと握りしめた。
この服は、ローゼンベルクの領主夫人の正装だ。いつも来ている
フワフワの軽い服と全然違う。
さっきアルマさんが砦に来て﹁さ、奥様、長い距離を苦労してき
てくださった皆様を慰問して差し上げてくださいませ﹂と言って、
時間をかけて着つけてくれたものだ。
黒い上着に、硬い黒のスカート。頭には黒い毛織の冠のようなも
のを乗せて、髪を結った部分を隠す。
縁取りには赤と緑と白の糸で精緻な刺繍が施され、腰帯には黄色
の花が幾何学模様に咲いている。
いつもの明るい色合いの娘装束とは違う、どっしりと重々しい、
風格のある衣装だった。
465
大丈夫だろうか。この衣装に、着られてしまっていないだろうか
⋮⋮。
﹁リーザ様、北方駐留軍の将兵たちです。寒い中を行軍してまいり
ましたので、どうぞ、ねぎらいのお言葉をかけてやってくださいま
せ﹂
恰幅の良いおじさま⋮⋮旦那様の次にお偉い、フォルカー中将に
そう言われて、緊張を隠して頷いた。
お城に居た時のように、王女リーザとしてふるまえばいいのだ。
このローゼンベルクで旦那様に可愛がられ、のんびりと過ごしす
ぎて忘れかけていたけれど、ちゃんと出来るはず。
服装だって、アルマさんがきちんと着つけてくれたのだ。
おかしいはずがない。
︱︱背筋をただし、地位順に立ち並ぶ人々の近くに歩を進め、列
の頭で立ち止まって、深々と頭を下げた。
﹁皆さま、レオンハルト・ローゼンベルクの妻、リーザです。お寒
い中を、我がカルター王国のためにお力添えくださってありがとう
ございます﹂
軍人さんは、貴族のみなさんのようにおしゃべりをしない。なの
で、とても緊張する。
﹁キャン!﹂
ふとつま先を見ると、シュネーが自分を見上げて尻尾を振ってい
た。
何人かの軍人さんが、笑いを我慢するかのようなしかめ面になる。
466
この子、一緒に付いてきてしまったんだ、と焦ったが、逆にシュ
ネーの無邪気な様子を見て緊張がほぐれた。
なので、思ったことを喋ることに決めた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
たくさんの軍人さんの厳しい顔つきを見ていると、お兄様を思い
出す。
この国を背負おうとして必死で、くたびれきっている愛するただ
一人のお兄様を。
彼らも同じ。暖かいお屋敷で、毎日ご馳走を食べられる貴族の人
と違う。
きっと、本当に国のために身を粉にして働いてくださっているの
だ。この砦の皆さまのように。
お兄様も、きっと彼らには心から感謝をしていることだろう⋮⋮。
自分はお兄様に代わり、この国を命がけで守ってくれる彼らに、
礼を尽くさなければならない。
砦のみなさんが優しくて穏やかで忘れていたけれど、彼らは皆﹃
軍人﹄なのだ。
お兄様は、軍閥への予算を増やそうと、いつも貴族院と議論なさ
っていた。軍にお金を使いたくない貴族と、国の守りを固める時代
が来たと言い張っていたお兄様。正しかったのは、お兄様の方では
ないか。これまでずっと軽視されていたカルター王立軍の力がなけ
れば、この国に広がろうとしている災厄は、たぶん消し止められな
い。
彼らは、不要な存在だと蔑みに近い扱いを受けても、平和を守る
ため、訓練を重ねてきた人々だ。お兄様と同じように、自分も彼ら
に最大限の感謝と礼儀を捧げねばならない。
王妹リーザは、国王ジュリアスと意思を共にする存在。お兄様の
助けになるよう、ここに嫁がされたのだから。
467
そう思い定めたら、心が落ち着いた。
︱︱わたしは、きちんと彼らに礼をつくし、その力になると誓お
う。軍の増強を10か年計画として策定し、その稟議を通そうと必
死だったお兄様を、ここで、将軍レオンハルト・ローゼンベルクの
妻として助けてゆく。お兄様がいつも口癖のように仰っていたでは
ないか。永遠の平和など、ありえない。平和は皆で力を振り絞って
守るものなのだから。エリカ博士が下さった希望の灯を、平和を壊
す武器になどしない。カルターを他の国に踏みにじらせたりしない。
そう思って精一杯胸を張り、続きを言うために再び口を開いた。
﹁私は王宮育ちで、このように皆様とお会いするのは初めてかもし
れません。ですが、これからはずっとご一緒させて頂きます。私の
これからの人生は、ローゼンベルクの国境警備隊、それから北方駐
留軍の皆さまと共にあります。わたしも兄のように⋮⋮兄と同じよ
うに、この国を守るために魂を捧げます﹂
傍らで驚いたように自分を見ている旦那様に背を向けて、フォル
カー中将に一礼する。
﹁フォルカー中将、どうぞ未熟な私めをお導き下さいませ﹂
﹁⋮⋮身に余るお言葉、光栄でございます、リーザ夫人。こちらこ
そ良しなに﹂
先ほど﹃リーザ姫様﹄と言った彼が、呼び方を変えてくれたこと
に気づいて、嬉しくなって思わず微笑みかけた。
よかった。少し仲良くなれるかもしれない⋮⋮。
中将に一礼し、裾をさばいて他の皆さまのところへ挨拶に伺う。
468
﹁お寒い中ありがとうございます﹂
﹁まあ、寒すぎて腹がって仕方なかったですけど、いいですよ。貴
方の話を聞いて気分が変わった。国王陛下と王妹殿下に栄光あれ﹂
若い将校の一人がそういって、ちょっと意地悪そうな顔で笑って
くれた。
ジュリアスは、王宮の隅に作られた墓地の前にたたずんでいた。
正妃の嫉妬で、彼の母はこの日陰の庭園のはずれに葬られた。
正妃の父である大貴族に頭の上がらなかったみじめな先王は、正
妃の目を盗み、愛する側妃の墓前で瞑目していたと聞く。
ジュリアス自身も同じだった。時間を見つけては、遊んでいたい
とぐずる妹を引っ張って、孤独な母の墓に詣でたものだ。
幼いころのリーザは乳母と乳兄弟にばかり懐き、﹃お墓のある暗
いお庭に行きたくない﹄と泣いていた。病弱でずっと療養していた
母親の顔を、哀れなリーザはほとんど覚えていないのだ。
﹁リーザが一人になるな﹂
彼の脳裏には、男のものとも女のものともつかぬ、幻の声がこだ
469
まし続けている。
﹃其が命を平和の薪に﹄と繰り返すその声に、彼の全身から温も
りも、希望も失われてゆく。課された使命の重さに、魂そのものが
萎えてゆくように感じられた。
﹁リーザ⋮⋮には、レオンハルトが居る⋮⋮﹂
ジュリアスは、手袋を外した手で、朽ち始めた墓石に触れた。雨
に弱いこの石を選んだのもまた、正妃の悪意だ。
だが、彼にはかの貴婦人を責める気はなかった。
誰もがどうしようもない悲しみを背負い、そしてそれを癒されぬ
まま生きてゆく。
父も、母も、正妃も、エリカも、自分も、ユーアイルも⋮⋮。
﹁疲れた﹂
人気のない庭で、母にすがるように墓石にしがみつき、ジュリア
スは蹲る。支えなどなかった。どれほど疲れ果てても、彼を支える
腕はどこにもない。
﹁もう疲れた、私一人では背負いきれない物ばかりだった。母上が
与えてくださったレヴォントリとの縁を、つなぐことで精いっぱい
だった⋮⋮この先のすべてを投げ出すことを、どうか許してほしい、
母上﹂
470
59
セルマは夢を見ていた。
両親に連れられて行ったローゼンベルクで、流れ者の男たちに繰
り返し犯された夢だ。
忌々しい出来事だったが、あれがきっかけで、セルマは氷神の声
を聴くようになった。
人は何かを失った時に、かの神の声を聴くという。
セルマがあの日失ったものは、まともに男に恋する心、そして鋳
型にはめられた﹃女の幸福﹄の形だった。
刃物で脅しつけられ、暴行の痕跡を拭き清めろと言われて泣いて
いる、15歳の自分自身の姿がセルマの目に映る。
︱︱ああ、幼い私に言ってやりたい。男は皆、いずれ餌になるの
だから泣かなくていい。
彼女はそう思って、苦い過去を振り返るのをやめた。
氷神の声を聴くことは﹃不幸﹄ではない。
小さな力であっても、何かを支える一助となれことは、大きく人
生を俯瞰すれば幸福なことなのだから⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
目を開け、セルマは起き上がった。
体がまだ重い。
男でも食って精力を溜めようかと思ったが、流石に童貞の家の親
父と弟を犯すのは憚られるなぁ、と思い、立ち上がって窓の外を見
た。
夕方だ。眠り続けていたらしい。
眠る前よりはだいぶ楽だな、と思い、置いてあったカルター風の
服を身にまとって、部屋を出た。
471
毛織の服は彼女には少々暑かったが、文句を言える筋合いではな
いと思った。
﹁明日か﹂
大使館で手間取りすぎた。
そう思った瞬間、突然勝手口の戸が開き、小柄な男が入って来る
のが見えた。
﹁ああ、目が覚めましたか。大丈夫ですか﹂
彼の全身から漂う気配は常人のものではなく、セルマですら一瞬
肌が粟立つ。
﹁はい、申し訳ありませんでした、随分長い時間休ませていただい
て﹂
﹁邪眼だなぁ﹂
﹁えっ﹂
セルマは目を見開く。身構える隙すらないまま、その男⋮⋮童貞
の父親が間合いに入り込んできたからだ。
﹁この国では初めて見ましたよ。人は殺せるの?﹂﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
言葉を失ったセルマの前で、男がにっこり笑った。
他意のない笑みであることが、いっそ不気味なほどだった。
﹁そういうたぐいの力ではなさそうですね、いや失礼、珍しかった
ものだから﹂
472
そういって、童貞の父親がすっと離れ、声を張り上げた。
﹁母さん、お嬢さんが目が覚めたようだよ﹂
彼の動きと同時に、セルマの鼻にかすかな血の匂いが届いた。
嗅ぎ馴れていなければ分からぬほどのわずかな匂いだ。
﹁終わったら、街の見物でもどうですか﹂
﹁見物?﹂
男の糸のように細い目を見つめ、セルマは彼の言葉を繰り返した。
︱︱この魔人が、ただの﹁街見物﹂などに誘ってくることは無い
はずだ。彼女は、そう確信する。
﹁ええ、面白いものがありました、たくさんね。まずは食事にしま
しょうか﹂
首を傾げたセルマに背を向け、興味を失ったとばかりに男が歩み
去る。
﹁ふん⋮⋮息子に似ているな、身のこなしだけは﹂
呟いて、セルマも後を追う。男でなくてもいい、何か食わねば身
が持たないと思った。
473
﹁陛下のご様子が⋮⋮﹂
そういって、侍従長が表情を曇らせた。
﹁ヴィルヘルム殿、どうか目を離さずおそばに付いていてください。
何故陛下は、私どもはおろか、近衛隊まで頑なに遠ざけようとなさ
るのでしょう? 何をお考えなのかわかりません﹂
私室にこもりきりになってしまったジュリアス陛下を案じ、侍従
長も困り果てているのだろう。
明日は国王の誕生日の祝宴が執り行われるというのに、例年と同
じでよいと言い置いて、ジュリアスは興味すら示そうとしないのだ
という。
﹁警備体制は例年と同じでよい、だなんて。今年は王宮に賊が押し
入ったりして不安なところに、レアルデの大使館での話も近衛隊長
に伺いました。新しい警護体制をご説明したいのですが、耳も貸し
てくださらず⋮⋮﹂
普段は控えめな侍従長が、しきりに王の変調を訴えている。常に
ジュリアス陛下に付き従ってきた彼から見ても、最近の彼の様子は
おかしいのだろう。
レアルデ大使館に武装した賊が潜伏していた件をうけ、王宮には
戒厳令が敷かれた。
無関係な、王宮にたむろしているだけの貴族には皆、帰宅命令が
出された。
474
他の近衛隊は皆、大窓、および入口などの重要な侵入口を封鎖し
ている。
王の部屋の扉の警護にあたるのは、今は自分だけだ。
繰り言になって来た初老の侍従長の言葉に頷いて見せ、今はとり
あえず下がるようにと頼んだ。
﹁陛下﹂
侍従長を見送った後にそっと呼びかけてみるが、やはり返事はな
かった。
さすがに国王の部屋の扉を勝手に開け、中に入ることは出来ない。
﹁陛下、あの⋮⋮明日の警護の事なのですが﹂
やはり応えはない。だが、かすかに気配は感じるので異変はない
⋮⋮と思いたかった。
自分の話を聞いてはいるだろう、と思い、話を続けることにした。
度重なる事件に、心痛で疲れ果てておられるのかもしれない。
政務を投げ出しておられる、という状態は異様なのだが、だがな
んとか、陛下の無事を確認せねば⋮⋮。
﹁アイブリンガー少尉﹂
呼ばれて、顔を上げた。近衛隊の先輩の一人、ザックス中尉だ。
﹁大使館に居たレアルデの賊、お前が制圧したんだってな﹂
﹁え﹂
一瞬何かが引っかかったが、うなずいた。
475
﹁私には、彼らがレアルデの賊かわかりませんでしたが﹂
言いかけて、違和感の正体に気づく。あの大使館の中で、賊がレ
アルデの側だと証明するものは何かあっただろうか?
賊の持っていた弩は、レアルデの工房産のもので、ローゼンベル
ク邸を襲った賊のものと同じだった。
だがそれだけでは決め手に欠ける。
賊はもうすでに尋問を受け、自白を済ませたということか。
ザックス中尉は、不審げな自分に、少しゆがんだ笑みを見せた。
﹁もう大方尋問は済んだそうだ。あとは治安部に引き渡される。少
尉は気にしなくて大丈夫だから﹂
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
﹁ここの警護、交代しようか。君も疲れているだろうから﹂
中尉の言葉をしばらく検討する。確かに体は疲れ切っているが⋮
⋮。
扉を振り返り、しばらく王の私室の中の様子を伺った。
ジュリアス陛下も、こちらの様子を伺っているように感じられた。
︱︱やはり、話がしたい。リーザの気持ちを陛下にお伝えしない
と、色々と手遅れになるような気がして、たまらない。
﹁いえ、この場は私が受け持ちます、大丈夫です﹂
﹁そうか﹂
ザックス中尉が軽くうなずき、明るい口調で言った。
﹁若いからな、元気でうらやましい事だ。じゃあ何かあったら俺を
呼んでくれ、少尉﹂
﹁はい⋮⋮﹂
476
ぼんやりとした違和感が、だんだん腹の内で強くなる。
何だろう⋮⋮。
だが、それが何なのかわからず、言葉もなく分厚いザックス中尉
の背中を見送った。とびぬけた腕や才覚はないが、貴族の出身で、
手堅く仕事をする男。彼はそういう男のはず、だが⋮⋮。
﹁ヴィル﹂
﹁!﹂
不意にしたしげに名を呼ばれ、背後の扉を振り返る
そこに居たのは、分厚い扉にもたれるようにして立つ、国王ジュ
リアスだった。
黄金の髪は乱れて白い額にかかり、土色の隈が目の下にうっすら
と影を作っている。
﹁お前がここの見張りをしてたの﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁そう⋮⋮仕方のない子だ、ローゼンベルクへ帰れと言っているの
に⋮⋮まあいい、少しだけ時間をとろう、おいで、ヴィル﹂
ジュリアスが音もなく身をひるがえし、室へ戻ってゆく。
﹁は、い⋮⋮﹂
王を案じていた侍従長を呼ぶべきか思案したが、今は余計なこと
はしない方がいいだろうと思い、慌ててジュリアス陛下の後を追う。
違和感はどんどん大きくなる。だが、その正体がまだつかめなか
った。
王の室から、古い倉庫のような、どこか据えたようなよどんだ空
477
気が漂い出してきた。
窓覆いを下ろしたままの部屋にゆっくりと踏み込み、周囲を見回
す。
何度か昼間に訪れた事はあるが、だいぶん印象が変わった⋮⋮よ
うに思えた。清潔ではあるが装飾の少ない壁に、寝台、書き物机。
一国の王でありながら、広くはない部屋でひっそりと地味にお暮し
なのは変わらない。
﹁何かのむ?﹂
﹁い、いえ⋮⋮﹂
﹁そう⋮⋮じゃあお茶を入れてあげよう﹂
先ほどまでの死者のごとき白茶けた顔色に、わずかに血の気が戻
ったようだ。ジュリアスはいつものような朗々と闊達な﹃王の声﹄
でそう言い、慣れた手つきで保温用のやかんから、茶器に湯を注い
だ。
﹁⋮⋮?﹂
王の白い手袋に包まれた手をじっと見ながら﹁恐れ入ります﹂と
かすれた声で答える。
何だろう、どこがおかしいのだろう、この部屋の、何が。
違和感は、やはり消えない⋮⋮。
478
60
﹁ヴィル﹂
﹁はい﹂
﹁リーザは息災にしているか﹂
そうか、壁の絵が変わったんだ⋮⋮そう思っていた時に名を呼ば
れ、慌てて姿勢を正してジュリアス陛下に向き直る。
﹁は、はい! 大変お元気で、その⋮⋮物忘れも治ったと仰ってお
りました﹂
﹁物忘れ?﹂
ジュリアスがちょっと苦笑して、小さな壺から掬い取った砂糖を
茶に混ぜる。
﹁そう、何の話だろう? あの子も色々どたばたと騒がしいね。レ
オンハルトとは上手くやっているのかな﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
﹁それならよかった。お前は甘いお茶が好きなんだよね?﹂
﹁はい、ですがあの、本当に今は結構です﹂
﹁寂しい事を言わないでおくれ、少しは付き合いなさい、﹃ジュリ
アスお兄様﹄の退屈しのぎに﹂
白い陶器の器に唇を当て、ジュリアスが目を細めて茶を口に含む。
﹁陛下⋮⋮﹂
先ほどまでの徹底した無視、侍従長の呼びかけにすら答えぬほど
479
の沈黙は、一体何だったのだろうか。
ザックス中尉が去った後、突然ジュリアスは部屋を出てきた。そ
うして陰鬱な表情が嘘のように、明るく振舞っている。
上手く例えられないけれど、へたな芝居を舞台の袖で見守ってい
るような、得体のしれぬ違和感がぬぐえない。
それから、もう一つ気づいた。何だろう、この匂い。かすかに空
気に混じるこの匂いの正体を、自分は知っている筈。
﹁どうぞ﹂
ジュリアスが薄い陶器の器を差し出す。
ふわふわと漂う湯気が鼻先をかすめた刹那、疲れ切った頭の中で
何かが雷のように閃いた。
﹁!﹂
とっさに、その器を机に叩きつけるように置いた。
ジュリアスは自分の荒々しく不躾な行いを、顔色一つ変えずに見
つめていた。
﹁陛下、この茶にはしびれ薬が﹂
言いかけた瞬間、ジュリアスが紫紺の瞳をふと逸らした。
﹁陛下⋮⋮?﹂
ジュリアスが先ほどまでの明るさはどこへやら、再び陰鬱な表情
になって、自分から離れてゆく。
﹁出て行ってくれ、それを飲んでくれないのなら﹂
480
﹁え?﹂
少し離れた場所で、ジュリアスが振り返った。美しかった瞳はし
おれた花のように色を失い、今にもひびの入りそうな笑顔を浮かべ
ている。
彼の背後には、花の咲き乱れるどぎつい彩りの風景画があった。
あそこには布がかけられていたはず。
その奥には、リーザと王の母上の、優しい笑顔の肖像があったは
ずなのに⋮⋮。
﹁陛下、あの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ざあっと、全身の血の気が引いた。
﹁俺に﹂
﹁出て行ってくれ﹂
﹁俺に、薬を盛ろうとなさったんですか﹂
自分の言葉で、心臓が早鐘を打ち始めた。
﹁何で、陛下、俺に⋮⋮﹂
﹁忙しいんだ、邪魔しないでほしいんだよ。お前が予想外に張り切
ってくれたおかげで﹃彼﹄も焦っている。僕は彼に用事があるんだ。
薪はもう燃え尽きていい頃あいだから﹂
薪⋮⋮その言葉を聞いた瞬間に、ゆらりと視界が崩れ、巨大な炎
が目の前に現れた。焚火がぱちぱちとはぜながら、暗い空を照らし
ている幻だ。なぜ、こんなものが見えるのだろう。
その焚火の火種になっている薪は、人間だった。先王陛下、絵姿
481
しか知らぬリーザの母上、見た事も無い赤毛の女、リーザ、レオン
ハルト閣下、ヘルマン、砦で知り合った多くの兵、この国の貴族達、
そして⋮⋮ジュリアス。
ジュリアスの身体は他のものよりも火の周りが早く、見る見るう
ちに形を失って黒く崩れてゆく。
﹁⋮⋮っ﹂
のどから、間の抜けた音が漏れた。
膝の力が抜け、思わず壁に凭れかかった自分の耳に、誰のものと
も知れぬ、性別さえ分からぬ殷々とした声が届く。
︱︱夜を照らす、平和の薪よ。
ジュリアスの姿をした薪が弾けて崩れ、その形を失う。燃え盛っ
ていた薪が、みるみるうちにその勢いを弱めた。明るく照らされて
いた夜空がのしかかり、橙色の炎を押し潰して、幻と共に掻き消え
た。
なんなのだ、これは、しびれ薬の湯気が自分に見せた幻覚なのか。
﹁陛下﹂
頑なにこちらを向かぬジュリアスの名を、うわごとのように呼ん
だ。
﹁陛下! なりません! 陛下が欠けたらなりません! 焚火が崩
れて闇に潰される﹂
手を伸ばし、自分よりもはるかに細い王の肩を掴み、何かに操ら
れるかのように叫んだ。
482
﹁平和の薪は最後まで燃え残り、次の薪に火を移す﹂
何だ、何の話だ。さっぱりわからないのに、口が勝手に言葉をつ
づける。
﹁リーザもレオンハルト閣下も、この国の人間の未来すべてが、陛
下のお心次第なんですよ! 陛下が崩れたら皆崩れてしまう!﹂
﹁⋮⋮なぜおまえが、薪の話を知っている﹂
﹁陛下が崩れたらすべてが台無しだ、真っ暗になって終わります。
陛下、陛下が私を﹂
何者かがおのれの身体を借りている、というような、妖しく耐え
難い感覚が少しずつ離れてゆく。
同時に頭がはっきりした。
今分かった。
分かりたくないことに、気が付いた⋮⋮。
﹁陛下が私を眠らせようとなさったのは、ザックス中尉を近づける
ためですか。あれは、レアルデの刺客だ⋮⋮そう、あの人は嘘をつ
いた﹂
賊は皆、昏睡状態か、死亡していたはず。
セルマも父もそういっていたではないか。
なのに彼はこう言ったのだ。
﹃もう大方尋問は済んだそうだ。あとは治安部に引き渡される。
少尉は気にしなくて大丈夫だから﹄
︱︱口を聞けない人間たちから、何を聞いたというのだろう。
483
あの場をごまかし、事件は大体解決したと思い込ませようとした
ザックス中尉は、何をするつもりだったのだろう。 黒騎士ヴィル
ヘルムを持ち場から引き取らせ、単身、王のそばに近づいて。
﹁陛下﹂
そしてジュリアスは、彼の声を聴いて、籠っていた室から出てき
た⋮⋮。
﹁リーザが言っていました、何回も。お兄様が危ない気がするって。
あいつは分かってたんだ、貴方が少しずつ壊れて始めていたことを、
きっと。だって、陛下の一番近くに居たのは、生意気なことばかり
言うチビのアイツだ、そうでしょう、陛下﹂
ジュリアスの痩せた肩を揺さぶり、耐えきれなくなって声を張り
上げた。
﹁何故、刺客を側に寄せようとなどなさったのです! 何をなさる
おつもりか分りかねますが、危険でございます! レアルデはなり
ふりなど構っていない、大使館に傭兵を置くなんて異常事態なので
すよ、ですから陛下﹂
﹁⋮⋮お前は、なぜ﹂
ジュリアスが、かすれた声で言った。
﹁お前は何故、﹃処刑﹄を邪魔した。国の舵取りを誤り、私情にお
ぼれ、大いなる災厄を招いた人間を、私は処刑したかったんだ。も
う耐えられない、未来を見ても、そこに居る自分が見えない。早く
咎人に適切な罰を与え、正しき航路にカルターという名の大船を戻
さねば。火薬管理委員会はミラドナ様が良いように、そしてこの国
484
はアドルフ公子が良いようにしてくれるだろう。私はただ罰を受け
るだけ﹂
﹁陛下?﹂
﹁カルターで起きた火薬の盗難、そしてレアルデの刺客によって国
王の殺害が行われれば、かの国の国際的な評価は﹃野蛮な国家﹄と
いう形で定着するだろう。連合での発言権は極めて小さくなる⋮⋮
そして平和に慣れたこの国の人間も、王が無残に死ねば気づく。破
滅が近づいている事を。平和はただ眠っていれば貪れるわけではな
いということを﹂
ジュリアスの濁った瞳に、薄暗い炎が燃え立った。
﹁私は王の器ではなかった。それに、気力が尽きてしまったんだ。
薪は燃え尽きた。⋮⋮行ってくれヴィルヘルム、私の死は、未来へ
の小さな供え物になれるだろう。若者が無残に殺されるというのは、
いつの時代も悲しい教訓になる。人はそういう話が好きなんだ﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
圧倒的な暗さにのみ込まれ、何も言葉が出てこない。
いつの間に、ここまで王は病んでいたのだろう。自分がここを発
つ頃はまだ、かつてのジュリアスだったのに。いや、あれすらも、
気力を振り絞った演技だったのか。
何がしかの圧倒的な絶望を養分として、闇が王の心を染め上げた。
﹁陛下、あの、違います﹂
⋮⋮辛い。
知的で前向きだった王が、ふらふらと死を望む抜け殻になってし
まったことが辛い。
485
﹁ザックス中尉はもうここにはいないでしょう。陛下を殺す機会が
ないと知って、すぐに逃げたはず。レアルデの送りこんだ賊が殲滅
されたということは、彼の不利を意味します。尋問で﹃ザックス中
尉はレアルデの刺客だ﹄などと吐かれたら、彼は一巻の終わりです。
グズグズと王宮に残っている筈がない﹂
ジュリアスが、その言葉にゆるゆると首を振った。
﹁そう、残念だ⋮⋮﹂
﹁今、侍従長を呼びます、お休みになってください、お疲れなんで
す、陛下は﹂
﹁美しい物語のほうが、ひとの心を打つのに﹂
美しい、物語⋮⋮。
ずしりと背にのしかかるものを感じ、ジュリアスの顔を覗き込む。
ジュリアスだけが虚しく屠られる物語など、何が美しいものか⋮
⋮何故そんな簡単なことを、彼はわからなくなってしまったのだろ
う。
悲しかった。
何がジュリアスをここまで壊したのかは分からないが、ただひた
すらに悲しかった。幼いころ、リーザと二人で花をむしり、ジュリ
アスの部屋の硝子の瓶にさして飾った事。幼いころ、リーザと二人
で怖い絵本を読んで眠れなくなり、泣きながらジュリアスの寝台に
潜り込んだこと。そんな取るに足りない思い出ばかりが、自分の心
に次々に蘇って来る。 ﹁美しい物語は、ただ悲しいだけの話じゃないと思います⋮⋮あの、
必死に荒れ地を耕して、いい畑作った農民の話とか、毎日玉鋼を叩
いて、良い剣を作った職人の話とか、そういう話が、美しい話なん
じゃないかと思います。俺にはそうとしか思えない﹂
486
答えぬジュリアスに、言葉を重ねる。
﹁陛下が非業の死を遂げて伝説になったって、俺はそんなの美しい
と思えない。一生消えない傷を負って、どうして陛下を助けられな
かったのかって夢を見て、毎晩飛び起きて、酒浸りになってしまう
と思います。俺だけじゃない、近衛隊長だって侍従長だって侍女頭
だって同じ⋮⋮それにリーザだって、泣きすぎて死んじまうかもし
れないじゃないですか。美しく思えません、どうしても、どう考え
ても、そんなの美しくない。リーザが可哀想です。あいつが本当に
血を分けたと言える、ともに育った家族は陛下だけなのに⋮⋮﹂
ジュリアスの表情が、その時初めてゆがんだ。言いかけた自分の
言葉をきつい口調で遮る。
﹁そう、いい話だね、お前やリーザが好きそうな優しいお伽噺だ﹂
﹁ジュリアス様⋮⋮﹂
﹁まだ私に苦しめというんだな、ヴィル⋮⋮。疲れ切った馬車馬に
鞭をくれてありがとう﹂
明瞭な怒りを瞳に滲ませ、ジュリアスが言葉を継ぐ。
﹁⋮⋮賊は何人だ﹂
明晰な口調に、逆に耳を疑う。
﹁え?﹂
﹁賊は何人かと聞いている。至急ザックス中尉の身柄を確保し、レ
アルデの関係者を武装解除して一か所に集めてくれ。﹃白銅の間﹄
でいい。明日の祝宴の間、彼らはそこで寝起きしてもらう﹂
487
ジュリアスの目から、曇りが消えた。
明白な怒りを浮かべ、王は自分を睨みつけていた。
﹁陛下⋮⋮﹂
﹁死んだほうがマシだというくらいこき使ってあげよう。私がこれ
から見る地獄をお前も見るんだ。昼は毎日毎日会議、夜は毎日毎日
刺客とのいたちごっこになるだろうな。︱︱さあ、早く近衛隊長を
呼んで来い﹂
ジュリアスが吐き捨てるように言って、ドスンと乱暴に椅子に腰
を下ろした。
﹁徹夜で働くぞ。明日は隈を作って皆に祝賀の言葉をもらおう。2
8歳の誕生日は一生思い出に残るだろうな﹂
488
61
﹁ここはね、レアルデからの移民の家なんです。前から目をつけて
いたんですよね﹂
ヴィルヘルムの父親であるヤマトが、やさしげな声で言った。
その声がまるで響かない事に気づき、セルマはかすかに目を見張
る。
﹁一人、お出かけするようだね﹂
彼の声は、自分の耳にしか届かない。あのどたばたと煩い童貞息
子とえらい違いだな、と思いつつ、同じように暗がりに身をひそめ
た。
﹁⋮⋮これから彼は、繁華街にほど近い屑捨て場に向かうんじゃな
いでしょうか。そしてその配管の近くに小さなものを置く。それを
置く理由は、大使館の本体が殲滅されたからでしょうね。逃げた羽
虫が知らせたのです。﹃決行を早めよ﹄と﹂
﹁何で分かるんですか?﹂
﹁蜘蛛は自分の巣と定めた場所に糸を張り巡らすものなのです。私
の巣は、このカルターの王都に定めましたから﹂
糸のように細いヤマトの目が、かすかに見開かれた。
すす
その奥にある黒い瞳のあまりの空虚さに、セルマは息をのむ。 長い間河の流れで漱がれた石のように、なめらかで何の歪みもない
瞳だった。
﹁私、奥さんが好きなんですよね﹂
489
﹁え?﹂
﹁私、本当にうちの奥さんが好きなんです﹂
﹃魔人﹄の名にふさわしい男の言葉に、流石のセルマも絶句した。
何の話なのか、とっさにつながらない。
﹁美人で優しくて料理も上手で、子供も3人も産んでくれて、本当
にいい奥さんなんですよね﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
ヤマトの妻は、王女リーザの乳母に選ばれただけあって、やさし
く美しい女性ではある。だが、この話は今すべき話なのだろうか。
﹁なので、流れ者だった私も、ずっとこの国に暮したいと思ってい
ます。昔取った杵柄で、街の自警団もどきを自発的に買って出てい
るんですよ﹂
﹁じ、自警団?﹂
自警団にしては物騒すぎるだろうが、と思ったが、あいまいに微
笑むにとどめた。刺激しない方が良い人間というのは、確実にこの
世にいる。この魔物めいた男に己の氷眼が通じるかどうかも、セル
マには確信が持てなかった。
﹁ほら、見てご覧なさい。小さな瓶のようなものをいじって、蓋を
取り替えている﹂
そういって、ヤマトが突然走り出した。セルマも慌てて後を追う。
﹁こんばんは﹂
490
ヤマトが手を伸ばし、壁際に蹲っている男の肩に手を掛けた。
﹁ひっ﹂
小瓶をいじっていた男が身動きも出来ずに声を上げた。のど元に、
淡い光を照り返す白刃が付きつけられたからだ。
ヤマトの武器は、珍しい異国の剣だった。片刃で、わずかに反っ
ている。
芸術品のごとくに優美な曲線を描いているが、その美しさはまが
まがしく異様なものにセルマの目には映った。
また、ヤマトの剣の腕前もまた、魔の領域に踏み込んでいること
をセルマは認めざるを得なかった。
︱︱あれほどの長さの金属の剣を、ヤマトはまるで己の腕の先で
あるかのように操っている。その証拠に、首に刃を突き付けられた
男の肌は、傷一つ負っていない。紙一枚ほどの隙間を残して、ぎり
ぎり刃が止まっているのだ。
﹁それは何ですか﹂
﹁はな⋮⋮れろ⋮⋮﹂
﹁石ですね。氷青石の細工ですか﹂
﹁はなれろぉっ! しぬぞ、お前らも!﹂
死の爪先にとらわれた哀れなレアルデの男が、耐えられなくなっ
たように絶叫した。
﹁これは爆弾だ! 10分後に爆発する! 早く離れてくれ! お、
おれは、ここに置けって命令されただけだ、死にたくない、俺は関
係ない!﹂
はっとなって、セルマはヤマトを振り返った。
491
彼の表情は、まったく変わらない。
﹁へえ、関係ない⋮⋮んですね﹂
魔人が、ゆっくりと唇を舐める。
﹁セルマさん﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁この男の自由を奪ってください、なんでも本当のことを喋ってく
れるように。⋮⋮その邪眼なら、できますね?﹂
とっさに額に手を当て、セルマは﹃力の残量﹄を図った。一人く
らいなら出来そうだ。だが⋮⋮。
﹁この側に、運河があるんですよ﹂
楽しげにヤマトが言う。
﹁この男の懐に爆弾を突っ込んで、そこに突き落としましょう。1
0分あれば十分です。すごい水柱が上がって面白そうですね。さ、
おねがいします﹂
明るい、虫を潰す少年のような口調だった。
彼に何を言っても無駄と悟り、セルマは怯えきった男の前に屈み
こんで、その目を睨み付けた。
︱︱すべてを吐き出し、真実を今宵の月の御許に晒せ。
セルマの声なき言葉が男の脳に溶けてしみこみ、彼の首がガクリ
と落ちる。
同時に、全身からすさまじい勢いで体温が抜ける。ああやはり、
まだ精気が足りていないのだ、と彼女は思う。だが、この状況で食
492
える男が居ない⋮⋮。
﹁爆弾の設置ですか。へえ。誰に指示されました?﹂
﹁レアルデ⋮⋮﹂
﹁そう、ありがとう。もう用はありません﹂
拾い上げた爆弾を男の懐に突っ込み、小柄なヤマトが彼の肩をひ
ょいと担ぎ上げた。
﹁セルマさん、気分が悪かったらうちに戻って居なさい﹂
かすむセルマの視界の向こうで、ヤマトがそういってスタスタと
歩み去って行くのが見えた。
確かに彼の言うとおり、この体では足手まといにしかならない。
セルマは歯を食いしばり、よろめきながら帰途についた。ヤマトは、
何をしようというのだろう⋮⋮。
その日、朝の空は晴れ渡り、冬の澄み切った空気がカルターの王
ジュリアスの生誕を祝福するように、透徹した陽光をまき散らして
いた。
493
﹁陛下、昨夜はお休みになられたのですか﹂
﹁少し横になったよ﹂
白皙の美貌は疲労という名の薄暗い陰に彩られている。だが国王
はいつもと変わらぬ闊達な口調でそう答えた。
﹁派手な衣装だな、いつ着てもそう思う﹂
ジュリアスはそう言って宝石を縫い留めた重い外套を羽織り、王
位の宝冠を黄金の髪に乗せた。
﹁⋮⋮ああ、ジュリアス陛下、お見事なお姿です﹂
﹁道化の若僧に見えなければいいが﹂
侍従長は首を振った。
﹁いいえ、陛下が第一正装をされるたびに、先王様と母君にこのお
姿を見て頂きたかったと⋮⋮毎度のことながら、私めは⋮⋮﹂
慌てたように横を向き、きっちりと火熨斗を当てた手巾で目元を
ぬぐい、侍従長は鼻をすすって続けた。
﹁失礼いたしました。陛下。少々失礼いたしまして、肩掛けの裾を
直させていただきます﹂
ジュリアスは、驚いたように紫紺の瞳を見張った。
涙を流し、そそくさと膝を折って長い衣の裾を直す老人の存在に、
今気づいたとでも言わんばかりに。
﹁侍従長﹂
494
﹁はい﹂
ジュリアスは、温もりのある声で、老いた忠実な侍従長の仕事を
ねぎらった。
﹁ありがとう、昨夜は心配をかけてすまなかったね。この服はお前
が着つけてくれたなら崩れないだろう、さ、行こう⋮⋮そうだ、今
日は疲れているから、いつもの滋養薬も用意しておいてくれないか﹂
495
62
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
レヴォントリの極北にある、氷神の御坐。かの神をまつる最高位
の聖域︱︱。
ミラドナは、質素な石の台座の前に跪いて、ひたすら祈り続けてい
た。
氷神の意志はつねに一つ。
永劫の凍土のごとき乱れなき平和をこの世にもたらすこと。
ミラドナはその意思を具現化するために、巫女として選ばれた存
在だった。
だがその彼女は今、巫女として初めて﹁己の願い﹂を氷神に届け
ようとしている。
人の身でありながら、偉大なる氷の神に声を届けるなど許されざ
る不遜である。それは理解している。
偉大なる神の怒りを買うかもしれない。身の程を知れ、と⋮⋮だ
が、祈らずにはいられなかった。
ミラドナは13の時、ローゼンベルクの領主になるべく育てられ
た、一人の男に激しく恋をした。
彼を愛し、彼だけを見て、彼の愛するローゼンベルクで暮らした
短からぬ日々。あの時期こそが、彼女の幸福そのものだった。
ミラドナの宝はすべて、遠きローゼンベルクにある。
夫の愛した街、夫の授けてくれた子供達、そして夫が守ろうとし
ていた、大柄で素朴な北の人々⋮⋮。
彼女は、祈りながら深く息を吐き出した。
︱︱ああ、故郷に戻って来た今でも、夫への愛は消えないし、彼
を失った悲しみも消えない、その思いが、彼女の痩せた双肩にのし
496
かかる。。
﹁氷神様、どうぞローゼンベルクをお守りくださいませ﹂
答えぬ神に、ミラドナは祈り続けた。
火薬の母であるエリカ博士の助手だった男が、レアルデに逃亡し
た話、火薬を用いてローゼンベルクに侵攻しようとして、自爆事故
を起こした話、レアルデがアイシャ族と合流した話、全てはミラド
ナの耳に入っている。
おそらく、レアルデ王国は、新型火薬を⋮⋮何がしかの強力な火
器を手に入れたのだ。
それを用いて、夫の故郷を禍々しき炎で焼き払おうとしているの
だろう。
カルター王国への侵攻の足掛かりとして、北限の国境が突破され
ようとしているのだ。
﹁わが身の内にある宿業が、かようなねだり事を口にするのを止め
させてくれないのです、神に言葉を届けんとする愚を、どうかお許
しください﹂
氷神の御坐に、疲れ果てた女の声が吸い込まれてゆく。
﹁どうか⋮⋮レオンハルトをお守りくださいませ⋮⋮今の私は、知
恵のないただの母親にございます﹂
御坐にたたきつける雪礫の音がますます大きくなる。極北の氷嵐
が激しさを増し、唸り声をあげて伸び上るのをミラドナは感じだ。
﹁レオン⋮⋮﹂
497
額に組み合わせた手を押し付け、ミラドナはつぶやいた。
﹁いくつになっても息子は息子。母の泣き所は、器に合わぬ重荷を
背負わされた、気ばかり優しいあなたなのですよ、レオン。本当に
⋮⋮無事でいて頂戴⋮⋮﹂
氷嵐の猛り狂う声が、その凄みを増す。
その瞬間、人の目には知覚できぬ絶対的な存在が、その凍えたま
なざしを南の街、ローゼンベルクへ向けたのだ。分厚い鉛色の雲が
ゆっくりと広がり、極北の大地を覆い尽くしてゆく。吹雪が、先ほ
どまで日の光を跳ね返してキラキラ輝いていた大氷原を、ゆっくり
と舐めはじめた⋮⋮。
今日はことのほか暖かくてよく眠れた。
そう思って目を開けた瞬間、長い髪の毛が手に触れた。
引っ張る。
長い銀の髪が、指に絡みついている。その先に小さな頭と、毛布
から覗く銀の目があることに気づいた。
﹁うわあああ!﹂
﹁うるさい童貞。朝から喚くな清い体の分際で﹂
498
﹁ななな、何でお前、勝手に、お前⋮⋮﹂
驚愕のあまり飛び起きた。もう、空は白み始めている。
書類上は休暇中の身だが、やはり王の誕生祝賀会の警護には参加
したい。そう思って自宅で仮眠を取ったはずだった。それがどうし
てこうなったのか。セルマがなぜ自分と同衾しているのか。
﹁肌を重ねるだけでも、多少の精気は食えるかなと思って⋮⋮まあ、
いい感じではあった。お前は無駄に元気だからな﹂
自分の寝台に潜り込んだセルマが、毛布から目だけ出して言う。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
とっさに毛布の下に手を突っ込んで、自分の体を確認する。
上、全部、着てない!
何も着てない! むしろ脱がされてる!
︱︱しかし肝心の下は、ちゃんと着ていた。
童貞は守られたのだろう⋮⋮が、なぜこんこんと眠っているうち
に適当に奪ってくれなかったのかという気もちょっとした。いや、
何を考えているんだ。今日は忙しいからそれどころではないのに。
﹁くしゅっ﹂
セルマがくしゃみをした。
﹁ああ、流石に力を使い果たした身には、若干寒さが浸みる。服を
取ってくれ童貞﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何にも着ていないから寒いんだよ、気が利かないな、早くしろ﹂
499
何も着ていない。
︱︱つまり、このアバズレは裸なのだ。理解した瞬間、反射的に
寝台から飛び起き、床に投げ捨ててあったセルマの服の塊を寝台に
投げつけた。
それから、同じくグチャグチャになっている自分の服に袖を通し、
何とか一言吐き捨てる。
﹁お、お、おまえ、ひとの部屋に入って来るなら、こ、声くらいか
けろっ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セルマがバカにしきったように笑い、ボソッと言った。
﹁ばーか。この期に及んで逃げながら捨て台詞とか。情けなさすぎ
て笑えるわ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁こっちは素っ裸で非力な女なんだから。文句言ってないでさっさ
と抱けばいいのにヘタレ野郎﹂
﹁⋮⋮お、おまえこそ、勝手に部屋に入って来るなっ、知らん、出
かける﹂
﹁ぶち込まなくていいの? 童貞捨てていけばいいのに﹂
﹁よ、よけいな、お世話だ⋮⋮!﹂
﹁へー。私がいいって言ってるんだから、いいのに。三分でイって
も許してやるよ、空腹の今なら﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁チッ、泣くなよ。でかい図体して⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
への字口になって唇を噛んでいることを自覚しながら、無言で部
500
屋を出た。
泣いてない。
自分は、決して、泣いていない!
それにしても、素っ裸の女と裸で抱き合って寝ていたのに﹁あー
暖かい気持ちいいなー﹂と思いながら寝ていた自分は何なのか。
もしかして機能に不具合でも持って生まれて来た人間なのか。
でも、使ったことがないから分からない。
﹁待って、童貞、お前は朝方に帰って来たよね﹂
背後で声がして、振り返った。
部屋から飛び出してきたセルマは、あられもない下着姿だ。
目のやり場に困って、慌ててまた前を向く。
﹁そうだけど⋮⋮だからどうした﹂
﹁昨日の夜、爆発事故の知らせがなかった?﹂
﹁え⋮⋮? そんな届け出はなかったぞ。何故だ?﹂
そう答えると、セルマがひらっひらの下着のまま駆けつけてきて、
背伸びをした。耳を貸せと言うことだろう。
﹁昨夜、レアルデの密偵らしき男を、お前の素敵なお父様ととらえ
たんだ。爆弾を起爆させ、死にたくなければ逃げろ、というような
ことを言っていた。その爆弾は、密偵ごとお前のお父様が始末した
はずなんだ。街中の運河に捨てると言っていたが、幾ら水中に投棄
しても、無事では済まなかったはずなのに﹂
爆弾を、運河に捨てた?
いや、ない。そんな爆発事故があれば、この戒厳令下では直ぐに
情報が届くはず。
501
﹁いや、無いぞ、聞いていない。運河監視局からも何の報告もない﹂
﹁そうか﹂
セルマが肌もあらわな姿で、腕組みをした。
チビでガリガリのくせに仕草だけは妙に大人っぽい。
落ち着きを失い、再び慌てて目を逸らす。
﹁爆弾は⋮⋮爆発しなかったのかもしれないな、理由はわからない
が﹂
王宮の一室に集められたレアルデ王国の関係者たちは、目の前に
投げ込まれたものを見て凍り付いた。
あるものは悲鳴を上げ、あるものは固唾をのんで、それを見守る。
それは、男たちの頭だった。レアルデの﹃密偵たち﹄の。
異様なほど真っ直ぐな切り口で床に直立させられた首たちは、目
から血の涙を流していた。
全ての首が、同じ位置で、同じ角度で両断されている。言葉にで
502
きぬほどの凄惨さ。誰が屠ったのだろう。誰がこれをこの場に投げ
込んだのだろう。
誰にも、何も解らなかった。
たった一つ、密偵を屠った人間は、魔人に等しき剣の腕を持って
いるのだろう、ということ以外は⋮⋮。
︱︱同じころ、王宮の近衛隊の詰所の前で、ずぶぬれで縛り上げ
られた男が転がされているのが見つかった。
男は半ば正気を失い、﹁化け物が、化け物が出た﹂とひたすら繰
り返すばかりだったという。
そして、国王ジュリアスの、28歳の誕生日を祝う宴が幕を開け
た。
王都の空は晴れ渡っていたが、北辺の空は重い鈍色に染まってい
た。
503
62︵後書き︶
黒騎士も爆発しなかった
504
63
﹁わああ! だんなさまー﹂
ド派手な鎧を着せられた自分を見て、リーザがチョコチョコと走
って来た。
今日も、分厚く重たい﹁領主夫人の正装﹂を身に着け、砦の庭で
野営をしている兵士たちに何やら声をかけたり、差し入れをしてい
た様子だ。
緊張の続く日々ゆえに、もっと遊んだりさぼったりしたがるかと
思ったが、思った以上にリーザが献身的で驚いている。
驚いたと言えば、昨日の兵士をねぎらう演説にも驚いた。
正直、この可愛い幼い姫様が、あれほどまでにしっかりした内容
を喋ると思っていなかったから⋮⋮。
兄君とセルマが施したのであろう、何がしかの﹃封印﹄が解除さ
れた今、リーザは別人のようにはっきりとした目をし、前よりも活
発に、明るい娘になってきて最高に可愛い。とろとろしていたのも
可愛かったけれど、利発なリーザが可愛すぎて身もだえしそうだ。
だが、この状況ではさすがに嫁といちゃつくわけにはいかない⋮⋮
いや、﹃いちゃつく﹄という発想がある時点で﹃お前、将軍として
どうなの﹄という話だが。
﹁旦那様ぁぁ!素敵ぃぃ!﹂
リーザの声に、増援部隊の皆が笑い声を立てる。
﹁こら!﹂
慌てて叱りつけたが、リーザは心の底から嬉しそうに自分を見上
505
げていた。
﹁氷将閣下だぁ⋮⋮本当に氷みたいです、旦那さまぁぁ﹂
﹁こら! そういうの、この齢ではもう恥ずかしいんだ、止めなさ
い﹂
﹁すごい!かっこいいです!﹂
﹁いや、だから、私はもうおじさんだから。とにかく止めなさい﹂
皆が、年甲斐もなくド派手な格好をした自分の姿を、口を開けて
見ている。
後悔した。いくら目立って﹃すごいのが来たぞ!﹄と見せつける
為とはいえ、さすがに40歳のおっさんがキラキラの鎧など⋮⋮。
﹁何という雄渾な体躯だ﹂
︱︱おれのガタイがいいのは別に自分のおかげじゃないよ! 親
父がでかかったんだよ遺伝だよ! 自分の弟たちも皆、巨人だよ!
﹁あの鎧、閣下の銀の髪に映えるな﹂
︱︱あっ、銀髪は白髪が目立たなくてイイですよ。若い頃は目立
って嫌だったけど。
﹁噂以上の美貌だな﹂
︱︱ちょっ⋮⋮! やめて、やめて、分かってるから止めて! 中年が着るには痛々しいよね、この鎧、でも鎧買うと高いから若い
頃の奴をさぁ⋮⋮! もう美貌って年齢じゃないのわかってますよ
! 40歳のおっさんにどんな恥かかせる気だ! それにローゼン
ベルクは貧乏だから俺をほめたってなにも出せないよ!
506
﹁はぁ⋮⋮﹂
ひとしきり見えない敵との戦いを終えて、ため息をついた。やは
り変に目立つのは嫌だ。
変な汗をかいてきたので、皆に背を向けて砦に戻ることにした。
この鎧はいったん脱いで、あとで着なおそう⋮⋮。
リーザが腕にぶら下がって﹃カッコいい姿を皆に見せてやれ﹄な
どとひどい事を言うので、頑なに首を振る。
﹁こら、リーザ。私をからかうのは⋮⋮﹂
その時、晴れ渡っていた空に、灰色の雲が流れてくるのが見えた。
この季節、北から吹雪雲が流れてくることはあまりないのだけれど
⋮⋮。
国境砦勤めの皆も、驚いたように顔を上げて空を見ている。
﹁何だ、この雲﹂
﹁吹雪が来るぞ﹂
﹁野営組のみなさん、急いで馬とそり犬を屋根の下につないでくだ
さい、吹雪が来ます、かなりマズそうです!﹂
にわかに、砦の中庭があわただしくなる。
リーザをぶら下げたまま慌てて見晴らし台へ走り、大氷原の目と
鼻の先で陣営を構えるアイシャ族の様子を伺った。
大氷原の寒さに慣れないレアルデ将校もいる。
猛吹雪の中の野営は無理だ。彼らは一体、どう出るのか。
侵略を焦り、新型火薬を用いた爆弾を抱えてローゼンベルクに突
っ込んでくるのではないか⋮⋮。
あのバカどもならやりかねない。
507
⋮⋮。
いや、絶対に来る。彼らが野営を初めてもうかなりの時間がたっ
た。
今日は国王の誕生日。国中が祝賀にうかれ、隙だらけになる日だ。
レアルデ本国との挟撃が来るならこの日しかないと、軍議でも結
論付けられたではないか。
﹁ちっ﹂
﹁どうなさいましたの、旦那様﹂
﹁河の爆破を急ぐ。吹雪が来そうだが、迎撃の準備に切り替える。
リーザ、起爆の準備にすぐに取り掛かってくれ﹂
きょとーん、としていたリーザが、最近丸くなった顔を引き締め、
しっかりとうなずいた。
﹁はい! わかりました! ヘルマンさんと支度してきます、えっ
と、10分でできます。爆破は15分後!﹂
﹁きゃんきゃんっ﹂
リーザと子犬が、チョコチョコと飛び出してゆくのを見送り、改
めて氷原の遥か彼方に陣を広げる、アイシャ族の大軍に目をやった。
動いて来ている。確かにこちらに向かって。
︱︱どうやら、この恥ずかしい鎧を脱いでいる暇はなかったよう
だ。歯を食いしばり、砦中に響かんばかりに、大声を張り上げる。
﹁フォルカー中将!﹂
﹁心得て居ります! アイシャ族の主力部隊の移動確認済み! 二
十分後に大砲の照準内に入ります!﹂
負けじと、どこかの露台に居るらしい中将の馬鹿でかい声が返っ
508
てきた。
声がでかいのは軍人として、最高の美点のひとつだ。ただし内緒
話をするには向かないのだが。
﹁あら、お父さん、お帰りなさい、朝のお散歩?﹂
﹁ええ、ちょっと王宮を見てきました。すごい人ですね﹂
妻の声にヤマトは笑顔で答えた。
﹁なあにこのお荷物。夜逃げの荷物みたいね﹂
﹁ああ、今日、家族で温泉にでも行こうと思って準備して置いたい
たんですけど﹂
﹁温泉?﹂
﹁日帰り温泉ですよ、貴女と子供たちと。国王生誕祭だから逆に空
いてるかなと思って、でも﹂
にっこり笑って、ヤマトは妻の手を取った。
﹁出かけるのは止めておきましょう。寒いから貴女や子供達が湯冷
509
めして風邪をひくと困るし﹂
﹁あら、そう? 私はどっちでもいいわよ、お父さんが行きたいな
ら行きましょうよ﹂
﹁いや、やめよう、やっぱり。どこかちょっといい店に食事に行こ
うか﹂
﹁まあ! お食事? いいわね。ヴィルは仕事に行っちゃったのか
しら?﹂
妻が目を輝かせ、背後を振り返った。
﹁おチビさんたちー、お父さんがお食事に行こうっですって。起き
ていらっしゃい﹂
愛する妻の様子をニコニコしながら見守り、ヤマトは腹の中で呟
いた。
︱︱レアルデの支給した爆弾は、起爆しない。この街のどこに爆
弾が仕掛けられていようと、おそらく悲劇的な事故は起きないだろ
う、と。
なぜそんな﹁なまくら﹂が支給されたのかは、彼の理解の範疇外
だったけれども。
﹁ヴィルは仕事を頑張っているでしょうか﹂
﹁あの子なりに頑張っているんじゃないかしら。リーザ様が嫁がれ
てから、元気がなかったけどねぇ。実のお姉様みたいに慕っていた
から﹂
妻ののんびりした言葉に、ヤマトはにっこりと微笑み返した。
﹁⋮⋮そうですね、あの子もずいぶん大きくなりました。下の二人
もあっという間でしょうね﹂
510
﹁ね、お父さん、あの銀髪の子、ヴィルの彼女さんよね? あの子
奥手だから心配してたけど⋮⋮﹂
﹁どうなんでしょう。ヴィルには高嶺の花かもしれませんよ﹂
﹁そお? 親の欲目かもしれないけど、ヴィルもいい男よ﹂
妻はそう言うと、ヨロヨロと出てきた寝坊助の子供たちに向かっ
て、﹁さ、支度してらっしゃい、お茶を飲んだらお出かけするわよ。
全く夜更かしするから⋮⋮﹂と明るい声を張り上げた。
﹁ああ、そうだ母さん﹂
﹁なあに?﹂
﹁セルマさんに伝えておいてくれないかな。﹃カルターの人間が居
なかったよ﹄って﹂
妻が首を傾げ、見る見るうちに表情を曇らせる。
﹁お父さん!まさかまた危ないことしてるんじゃ⋮⋮﹂
﹁違いますよ、探し人を頼まれただけ。彼女にそう伝えてくれれば
わかります。私は⋮⋮⋮⋮着替えてきますね﹂
疑わしげな妻に口づけ、ヤマトはさっさと踵を返した。黒い服に
散った赤い染みに、今日の妻はかろうじて気づかなかったようだ。
511
64
国王ジュリアスの28歳の誕生日の祝賀会は、つつがなく進行し
ていた。
普段は地味な王宮の庭はこの日のために温室で丹精された花の鉢
で埋め尽くされ、大広間では先代国王の時代に熟成を始めたという
年代物の果実酒をはじめとした、様々な美味が卓上を飾っている。
﹁本当にわたしらしい誕生日だ、春の前の一番地味で寂しい時期を
選んで生まれてきてしまって﹂
ジュリアスは側近にそう告げると、満足そうに祝いの杯を舐めた。
それから、傍らで困惑したように立ち尽くすアドルフを、満足そ
うに見上げる。
﹁私の後継を君にお願いする話、みな嫌な顔をせずに受け入れてく
れて良かった﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
﹁私はおしろいが苦手なんだ。あれを吸ってしまうと、呼吸も出来
ないほど咳が出る。女を近づけるのはちょっと無理だな﹂
面白い冗談でも言ったかのように、ジュリアスが薄い杯を唇に押
し当てたままくすくすと笑った。
﹁ですが、ご家族を作られる努力を先にされるべきだったのでは﹂
﹁それを決めるのは君じゃないよ、僕は今後は、火薬管理委員会の
仕事に邁進したいから、このような形を取らせてもらった。誰も僕
の引退なんて引き留めやしない。﹃教育や軍閥にばかり投資し、貴
族を虐げる王など不要﹄だというのが、この国の支配層の総意のよ
512
うだから﹂
アドルフの年齢は、ジュリアスよりも一つ上だ。彼をジュリアス
の後継に任ぜるということは、そのまま王統を大公家へ移譲するこ
とになりかねないのだが、彼は気にした様子を見せなかった。
確かに、大公家は王家と密接な血縁にある。事実、アドルフの母
はジュリアスの父の従妹にあたる、高貴の生まれだ。身元も知れぬ
側女の息子と、王家の血を濃く受け継ぐ、筆頭貴族の嫡子⋮⋮国王
の冠を頂くのには、むしろアドルフの方が相応しい。
だが、当のアドルフはずっと﹁承服しかねる﹂という表情を崩さ
なかった。
﹁さ、あいさつ回りに行こうか﹂
ジュリアスが優雅な仕草で立ち上がった。アドルフの背後にひっ
そりと控えたマリアに微笑みかけ、すっと背筋を伸ばす。自然と、
談笑していた人々の視線が美しい王の上に集まった。
﹁あそこにレアルデの使者がおいでだね﹂
顔色わるく、キョロキョロとあたりを見回している老人のほうへ、
ジュリアスは真っ直ぐに歩み寄る。国王の誕生祝賀会に出る身分と
は思えぬほど質素な身なりで、身を飾る勲章もほとんどない、大人
しそうな70前後の人物だった。
なぜ、自分がこの席に連れ出されたのか理解できないというよう
に何度も顔を拭っていた彼は、ジュリアスを見上げて慌てて直立し、
杖で体を支えて深々と頭を下げた。
実直で人の良さそうなところが、一連の動きからにじみ出ていた。
﹁ジュリアス陛下、このたびは28歳のお誕生日、誠におめでとう
513
存じます﹂
﹁ありがとう、足が痛いなら座ってください﹂
﹁いえ! とんでもない⋮⋮あの、私はクラレンス・マグドガルと
申します、現レアルデ国王の乳兄弟でございます。ええ、かような
席にお招きいただける身分では本来ございませんが、大使の名代と
して本日は⋮⋮﹂
言いかけたクラレンス老人が、アドルフの背後で微笑んでいるマ
リアに目を留め、凍り付いた。
そのまま、しわ深い顔を震わせる。
﹁如何なさいました﹂
ジュリアスが、芝居の台本を読み上げるように、明るい声で老人
に尋ねた。
﹁い、いえ、あの⋮⋮﹂
﹁ああ、彼女ですね。紹介しましょう、レアルデに縁深い女性です
から。彼女は﹃翡翠の馬﹄の首飾りを父親から与えられた娘、私の
後継者、アドルフの妻、マリアです﹂
翡翠の馬。
レアルデの王家の紋章の名を聞いて、老人が腰を抜かしたように、
へなへなと再び椅子に座り込んだ。
杖が倒れ、人々が一斉に振り返る。
﹁そんな﹂
老人が蒼白な顔で呻く。
514
﹁見覚えがございますか、マグドガル卿。陛下に縁深い貴殿であれ
ば、マリアの母であった女性の事もよく覚えておいででしょう﹂
大広間の時が止まる。
皆が声もなく、ジュリアスと目立たぬ老人を見つめていた。
﹁ま、まさか⋮⋮﹂
﹁ええ、そのまさかです﹂
ジュリアスの言葉と同時に、老人の目からはらはらと涙が流れた。
﹁あ、あ、やはりこの方は、あの時レアルデ正妃が追放なさった、
寵姫レーナ嬢の姫君⋮⋮その瞳の色は陛下に、そしてお顔立ちは、
寵姫レーナ様にそっくりです。30年近く昔の事ですが、わが国王
がどれほどレーナ様をご寵愛為されておいでだったか、私は片時も
忘れた事はありません。ずっと陛下が探し続けておられた寵姫様の
⋮⋮陛下の姫君が⋮⋮﹂
身を震わせる老人を優しげに見つめたまま、ジュリアスはだれに
もわからないほどに、かすかに口元をゆるめた。
溺愛していたかつての愛人の娘。亡き父が、うら若き孤児のマリ
アを、アドルフに近づけた。その陰謀は十年以上の時を経て、今、
見事に結実を見たのだ。亡き父が巻いて育てていた種は、今芽吹い
た。
命を絶つつもりだった己の心のに、得体の知れない快感が生まれ
るのを、わずかにジュリアスは感じた。つい先だってまで命を絶ち、
終わらぬ重責から楽になりたいとばかり考えていた彼の中に、得体
のしれない何かが目を覚ます。︱︱﹃布石﹄を打ち続ける楽しみを
味わわずして、何が人生なのか⋮⋮と。亡き父王から受け継いだ何
かが、ジュリアスの体内で好き勝手に唸り声をあげる。表情を変え
515
ぬまま、ジュリアスは己の胸をそっと押さえた。
︱︱マリアを突破口に、レアルデに対し優位な外交姿勢を取るこ
とが出来そうだ。
肉親の情にはことのほか溺れがちだというレアルデ国王は、彼女
の存在を﹃この場を監視している密偵﹄からいずれ受け取るだろう。
70の声を聴き、耄碌しかけた彼は、娘可愛さにカルターへの進撃
の手を緩めようとするかもしれない。そうなれば、御の字だ。レア
ルデ国王の政治手腕は疑われ、国内は乱れる。
そうでなくても、カルターが取った人質の存在を、この場に居た
すべての人々に知らしめることが出来た。実施は王太子と、姫ひと
りというレアルデ王の血を継ぐ、まごうかたなきマリア姫の存在を
⋮⋮。
﹃母のことを知っているのか﹄と、涙を流す老人に取りすがるマ
リア、それを支えるアドルフ、そして茶番を演出し終えたジュリア
スのまわりを、人々が取り囲み始めた。
﹁陛下﹂
近衛団長に耳打ちされ、ジュリアスはかすかに頷いた。
﹁先ほど縛り上げられ、我らの詰所前に転がされていたずぶ濡れの
男ですが⋮⋮吐きました。レアルデの命令で、爆弾を仕込む役を与
えられていた密偵のようです。国内には他にも、爆弾が仕掛けられ
ている筈だと申しております⋮⋮ですが﹂
ジュリアスの紫紺の瞳が、かすかに細められた。
﹁爆発しなかったんだろう﹂
﹁はい、そのような事故の報告は、どこからも入っておりません﹂
﹁そう、分かった。引き続き万事計らってくれ。頼むよ﹂
516
﹁畏まりました﹂
足早に去ってゆく騎士団長の背を見送り、ジュリアスはそっと息
を吐き出した。彼の脳裏に、一人の若き天才博士の姿が浮かび、す
ぐに消えた。
﹁陛下﹂
アドルフがそっと傍らに寄り添い、ジュリアスの耳にささやく。
﹁今しばらくは、私に王位を譲られるなどとお考えにならぬことで
す。この状況で、施政者の交代は危険すぎる﹂
﹁アドルフ⋮⋮﹂
﹁対レアルデの舵取りに専念なさいませ。まさかこのような国家情
勢になろうとは⋮⋮。陛下が王位に就かれて以降、軍事予算の増強
に励まれてようございました﹂
それは、貴族達から反対され続けた﹃貴族優遇措置﹄の縮小と、
新型火薬の管理支援を含む軍事予算の増強という二策を肯定する言
葉だった。他ならぬ貴族筆頭の大公家の、元嫡子の口からその言葉
が出たことに、ジュリアスは内心驚愕した。
﹁私どもは所詮、大公家を廃嫡された身。体はいつまででも空いて
おりますし、何より⋮⋮特に王になりたいとも思いません。捨てて
きたものよりなお重いものを負うなど、本当はまっぴらなのでござ
いますよ﹂
アドルフのこげ茶の瞳には、笑いが浮かんでいた。
﹁そうか、嫌われたものだな、王様業も﹂
517
﹁ええ﹂
﹁レヴォントリで、火薬の面倒を見て余生を過ごしたかったんだが﹂
﹁それはもっとふさわしい、学者にでもお命じになればよろしい。
レヴォントリと連携し、この場所から統制をおかけ下さい﹂
﹁なるほど。父君の大公閣下が未練を残されているだけあるな。君
は有能で、口うるさい跡取り殿だ﹂
ジュリアスは姿勢をただし、国王の座に腰を落ち着け直した。
﹁アドルフ、感動の再会を果たしている君の奥方についていてやり
なさい。私はここで皆からのお祝いを受けさせていただくから﹂
昨夜とは少々﹃気が変わった﹄今となっては、殺されるつもりで
放置してしまった刺客の事が問題だ。カルター王宮の保管庫から﹃
博士の遺産﹄を盗み出し、レアルデと通じ、おそらくは今、窮鼠猫
を噛む気分で国王ジュリアスを狙っているだろうあの男。
︱︱元が近衛隊であるだけに、王宮の仕組みを熟知していて厄介
だ⋮⋮。
﹁やはり、碌でもない事を考えたツケは自分に回ってくるのだな﹂
﹁陛下⋮⋮?﹂
﹁なんでもない﹂
白手袋を嵌めた手で頬杖を突き、ジュリアスは笑った。
﹁健啖家ぞろいの来賓の皆様方が良く召し上がってくださって結構
なことだ。とくに﹃先王手ずからの御酒﹄の人気が尋常ではない。
父は果実酒を漬けることにおいては天才だったからな、今頃天国で
得意満面でおられるだろう﹂
518
65
﹁ううう、うううう⋮⋮凍っちゃうぅぅ﹂
耳当て、首巻、帽子、外套で、着ぶくれた人形のようになったリ
ーザが呟く。
レーエ河の氷の底、あらかじめ決めておいた地点に爆弾を埋め終
えたヘルマンが、全力疾走で戻って来た。
﹁皆、指示した場所より先には進むな! これより例の作戦開始!﹂
一斉に応えの声を返す兵を振り返り、皆が爆破の余波が届かない
とされる線まで下がるのを見届けて、ギラギラ鎧の継ぎ目から忍び
込む寒さに思わず身震いした。
ほんのわずかな時間で吹雪はその激しさを増し、ローゼンベルク
の大地に白い礫が叩きつけられる。
アイシャやレアルデの兵もまた、同じ異様な寒さを味わっている
筈だ。
おそらくは、下手にレアルデと手を組んだがゆえに、軍事行動を
強制されているのに違いない。新型火薬を使用した爆弾を優先的に
分けてやる、ローゼンベルクの漁港や鉱山は君たちに譲る、などと、
甘いエサもちらつかされているのだろう。
カルター王国が仮に制圧された場合、真っ先に駆除されるのはチ
ラチラと物欲しげな周辺の蛮族なのに。
頭は回らなかったのだろうか。自分も父も、アイシャ族に過酷な
制圧は加えてこなかった。季節ごとに湧く迷惑な虫みたいなものだ
と思って接してきたのが、裏目に出たのかもしれない⋮⋮。
﹁えーん、寒いですぅ、あと5分で起爆ですぅ﹂
519
﹁だから砦に居ろと言ったのに、あのなぁ、お前はこっちの気候に
慣れていないんだから﹂
﹁私も皆さまと戦うのです﹂
﹁いや、別にそこまでせんでも、お前はいつもよくやってくれて⋮
⋮﹂
﹁あ、旦那様、やっぱりその鎧カッコいいです、えへ﹂
唐突にうまく話を変えられ、動転した上に、何故か鼻の下まで伸
びてきた。
﹁え? いや、そうでもないだろう、派手だろう?﹂
﹁あぁ、カッコいいなぁ、本当に本物の王子様みたい﹂
﹁いや、何年か前までは、お前のお兄様が本物の王子様だったろう
に﹂
﹁旦那様のほうが100倍カッコイイです!﹂
﹁そ、そうかな﹂
希代の美青年とおっさんを比べてそこまで言われると世辞だと分
かりすぎて辛いよ!
﹁はい!﹂
﹁そ、そうか﹂
だが嫁にもっと褒められたい。そんな田舎のおっさん心と、今そ
れどころじゃねえだろ、という責任感がせめぎ合い、後者がギリギ
リで勝利を収めた。どんな時も頭の片隅でどうでもいい事を考え続
けて居られるこの性格、なかなかお得だと思うのだがどうだろうか
? まあ、くそまじめなフォルカー中将などにバレたら説教では済
まないだろうが。
520
﹁閣下﹂
﹁ん、見えたな﹂
地平線の彼方に、大群⋮⋮少なくともこの国境に現れるには多す
ぎる、と言っていい数の敵が姿を見せた。もう、スグに国境に到達
するだろう。
フォルカー中尉も、ヘルマンも皆、声もなくアイシャ族の襲来を
見守っていた。国境砦だけを中心としても、防衛線を守るのは極め
て難しい。河が完全に凍り付いている今、侵入を防ぐ壁などないに
等しい。
示威行動として火薬で氷結したレーエ河を爆破し、アイシャ族を
退散させることが出来ればいいのだが。
﹁ちょうど彼らの目の前で、新型火薬が爆破するでしょう。彼らも
爆弾を持っていたら﹂
﹁大丈夫です!﹂
ヘルマンの言葉を、リーザが遮った。
﹁エリカ博士は、本物のつくり方を誰にも漏らしていらっしゃいま
せん。爆弾は、爆発しません!﹂
リーザの言葉が、託宣の巫女の言葉のように自分の耳に届いた。
そばに居た兵士たちが、驚いたようにこちらを振り返るが、リー
ザは頓着した様子を見せず、花紫の美しい瞳で河向こうをぎゅっと
睨み付けている。
﹁リーザ﹂
﹁エリカ博士がみんなにあげたかったものは、武器じゃない、平和
なんです、旦那様!﹂
521
愛らしい声は、確信に満ちていた。
在りし日のエリカ・シュタイナーを知る数少ない人物。かの天才
が、後事を託した唯一の﹃弟子﹄の花紫の瞳は、爆弾を仕掛けたレ
ーエ河をひたと見据えている。
﹁盗まれた製法は、﹃盗ませたかった製法﹄でもあると思います。
エリカ博士は、爆弾を人殺しの道具にしないために、何もかもを考
え抜かれておいででしたから。私、お兄様が⋮⋮した人を、信じま
す﹂
﹁えっ?﹂
風が強くて聞き取れなかったが、何となく、もう一度聞くのは憚
られて、口をつぐんだ。
不安は尽きぬが、今は妻の言葉を信用するしかない。
吹雪はその強さを増してゆき、段々と視界を奪い始めている。
﹁もう、じきですね﹂
ヘルマンが銀の瞳に険しい光を浮かべ、レーエ河を睨んだ。彼の
手の中にある不格好な砂時計から、砂が落ち切ろうとしている。リ
ーザの作った﹃爆発までの時間を図る時計﹄だ。
もう一度、周囲に目を配る。彼女が﹃爆破の余波が届かない線﹄
だと言った後ろまで、全軍が下がっていることを目視で確認した。
﹁じきです﹂
ヘルマンの言葉に、フォルカー中尉が太い腕を組んで、重々しい
声音で呟いた。
522
﹁新型火薬の爆弾か。陛下がカルター王立大からそんなものを入手
されていたとはな。軍事上の一大事ではないか。もっと早くに、我
ら王立軍にお知らせくださればいいものを⋮⋮﹂
カルター王国は平和ボケしている、一刻も早い軍備の増強を図る
べきだと主張し続け、貴族院から北の一個大隊を任される形で﹃左
遷﹄されたフォルカー中将は、軍の増強に心砕いているジュリアス
に私淑している。
彼の即位当初、フォルカーは﹁小僧に舵取りなど笑止千万﹂と言
い切っていたが、今では﹃王妹リーザ﹄を妻に迎えた自分同様、誰
よりも国王寄りの武人だと言ってよい。
﹁何かと周りがごちゃごちゃしているようだが、陛下とこの国は我
らがお守りする﹂
フォルカーの言葉が、鉛色の空に力強く響いた。
北の駐屯地からローゼンベルクまでの北上には、莫大な費用がか
かる。この遠征が無駄に終わった場合、王都の関係者から突き上げ
を食らうのはフォルカー自身だ。だが彼はごねもせず、正しく状況
を把握して、自らの責任において大隊を指揮して連れてきてくれた。
それだけの統率力、決断力を持つ一級の武人に、ジュリアスはこれ
ほどの言葉を言わせることができる王に成長しているのだ。
彼の身辺で何がたくらまれているのか、自分には分からない。無
事でいるのかも、分からない。
﹁ヴィル⋮⋮大丈夫かな﹂
自分の気持ちを読み取ったように、リーザが呟いた。
ジュリアス王の事は、彼に託した。彼は必ずジュリアスを守ると
リーザに約束したという。
523
分からないことは考えても仕方がない。今は目の前の難事にのみ
集中せねば。
そう思った瞬間、爆破時間の計測を行っていたヘルマンが、﹃お
前の声こそ爆破音じゃないのか﹄と突っ込みたくなるような大声を
張り上げた。
﹁全員耳をふさげ!﹂
あらかじめの指示通り、大隊長たちが﹁耳塞げ!﹂﹁耳塞げ!﹂
と号令をかける。
慌てて腕を上げて思い切り耳を押さえた瞬間。
﹁!﹂
何だろう。なんといっていいのかわからない⋮⋮こんな光景を見
るのは初めてなので、表現するのが難しいのだが⋮⋮。
︱︱レーエ河を覆っていた大量の氷が、内臓をねじり上げるよう
な轟音と共に粉砕され、霧の壁のように吹き上がった。
ザックス中尉は、息をひそめて王城の中を伺った。
︱︱レアルデの内通者とことごとく連絡が取れない。あの忌々し
い王が、何か手を打ったのかもしれない。
貴族の生まれである彼を優遇せず、﹃実力主義だ﹄と言って、こ
こ十年授与されることのなかった﹃黒騎士﹄の名誉を妹姫の乳兄弟
524
に与えた愚かな王。身びいきもほどほどにするがいい、そう毒を吐
いて回ったザックスは、逆に周囲にたしなめられたのだった。ヴィ
ルヘルムの実力は若手では群を抜いており、いずれは近衛隊長をも
上回るだろう⋮⋮と。
すべてが面白くなかった。レアルデから持ち掛けられた話は、渡
りに船だった。かの国の密偵は目利きだった。堤防の真っ先に崩れ
る場所を、確かに見抜いたのだから⋮⋮。
﹁⋮⋮っ﹂
警備兵に身なりをやつした彼は、ひそかに矢を装着し終えている
弩に触れた。
ザックスの逃亡はとっくに近衛隊に把握され、レアルデとの関係
も調べ上げられている事だろう。
近衛隊に見つからず、国王に近づくことは不可能だ。故に、仕方
がない。祝宴の締めの挨拶にジュリアスが姿を現した時を狙う予定
だった。彼の手にしている弩は現在作りうる最高の性能のもので、
ひ弱なジュリアスであれば、一撃でその命を奪えるだろう。矢じり
にもたっぷりと毒が塗ってある。
王を射殺し、その手柄を手土産にレアルデに乗り込み、報奨を得
るのだ。︱︱出自に合う、正しい評価を受けよう。そう思い、ザッ
クスは口元を緩めた。彼の中で﹁そんなことは無理だ、もう手遅れ
だ、レアルデが一度しくじった密偵を受け入れたりするものか﹂と
いう声が聞こえたが、無視した。
すべての扉は閉ざされ、彼のゆくべき道は見当たらなかった。
525
66
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セルマは、精一杯お上品な顔をして、ヴィルヘルムに買わせた高
価な服をまとって立っていた。
黙っていれば氷の精霊のような美貌の持ち主だ。今日の彼女は小
さな身長を侮られまいと、驚くほど高い踵の靴を履いている。裾は
床に触れんばかりに長く、品よく足元を覆っていた。
﹁まあ、あの方はもしかして、レヴォントリの御令嬢?﹂
﹁綺麗ね⋮⋮瞳まで銀色なんて夢のよう⋮⋮﹂
褒め言葉に一瞬満足を感じたが、セルマは直ぐに頭を切り替えた。
ヴィルヘルムの家を退去する際、ヤマトから預かった伝言が頭か
ら離れない。
﹃自分が捕えた密偵の中に、カルターの手引き者がいなかった﹄
と。
大使館制圧と、ヤマトによる駆り出しから逃れた賊が居るのだ。
どこかで、国王ジュリアスを狙いつづけている可能性は大きい。
ヤマトの言葉をヴィルヘルムに伝えねば。休暇なのに﹃警護の仕
事をする﹄と言ってどこかへ行ってしまったヴィルヘルムを探して
いるのだが⋮⋮。
﹃ちっ、探してるときは居ないなんて、使えない⋮⋮あ、いた。ふ
ん⋮⋮まともなナリをしていればそれなりに見られるな﹄
内心そう吐き捨て、金色の縁取りに黒の羅紗で仕立てられた、近
衛隊の見事な制服に身を包んだヴィルヘルムに近づいた。
526
異国の血を引く情緒あふれる美貌と、カルターの人間らしい引き
締まった長身痩躯。黒い剣のような美しさだ。
黙って立ってさえいれば、国王の威容に花を添える若手の騎士と
してなんら恥ずべきところは見当たらない。一皮むけば、貯金が趣
味の童貞だが。
遠目にセルマの姿に気づいたのか﹃こっちに来るな﹄とばかりに
ヴィルヘルムが睨み付ける。だが、セルマはにっこりと﹃かわいい﹄
笑顔を浮かべ、裾をつまんでするすると近づいた。
﹁ヴィルヘルムさん!﹂
セルマが﹃かわいい﹄声で語り掛けると、ヴィルヘルムの傍らに
いた、配下の一般兵らしき青年が目を輝かせる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ヴィルヘルムが、返事もせずにそっぽを向いた。
青年が気を利かせたかのように、張り切った声をあげる。
﹁ヴィルヘルムさん! お呼びですよ﹂
﹁⋮⋮忙しいから勝手にその辺でうろついててくれ﹂
﹁えっ﹂
彼の馴れ馴れしい口調に何かを誤解したのだろう、青年が目を輝
かせた。
﹁この方、ヴィルヘルムさんの恋人ですか! うわぁ、きれいな方
ですね⋮⋮﹂
﹁ち、ちが!﹂
527
ちょうどよい、と思い、セルマはもう一度﹃かわいい﹄﹃いい子﹄
の笑顔を浮かべて﹁よろしくお願いいたします﹂と青年に頭を下げ
た。
﹁彼と少しだけお話がしたくて﹂
そう言った瞬間、これまでとは違う刺すようなまなざしが、一斉
にセルマに向けられた。
笑顔で服の裾をつまんだまま、そっと周囲を伺う。
なるほど、己を検分しているのは﹃近衛隊﹄の面々だ。ジュリア
スが居るであろう大広間を警護している。ヴィルヘルムの同僚だけ
あって、各人が相当の腕前であるようだった。しかも、いい男ぞろ
いだ。︱︱ああ、許されるならあとで食べたい。全員並べて、美味
しそうな男から⋮⋮。
﹁ちょっとだけ。他の護衛のかたもおいでだから良いでしょう?﹂
ヴィルヘルムの眉間のしわに向け、セルマはにっこりと笑った。
﹁おお、ヴィルヘルムの連れ合いか? 奥手のお前にも一足先に春
が来たんだな、紹介してくれ﹂
上官らしきたくましい男前がやってきて、破顔した。﹁ちが﹂と
言いかけたヴィルヘルムの足をとび切り高い踵で踏みつけ、セルマ
はしとやかな声で﹁よろしくお願いいたします﹂と言った。
﹁お美しい方だ。ヴィルとはどこでお知り合いに?﹂
﹁わたくし、レオンハルト閣下の遠縁のセルマと申します。レヴォ
ントリの出で、休暇中のヴィルヘルムさんとローゼンベルクでお引
き合わせいただきましたの!﹂
528
たぶん、それなりに筋道が通った話だったのだろう。上官は微笑
み﹁10分くらいなら話してきていいぞ、しばらく陛下は大広間か
ら移動されないから﹂と言った。
﹁何なんだよ! 俺は仕事中だ!﹂
﹁お前のお父様から伝言されてきた﹂
﹁は? 親父?﹂
セルマは、ピンと来ない顔をしているヴィルヘルムの耳を掴み、
そっと唇を寄せる。周囲の貴賓淑女が一斉に二人を振り向いた。
にっこり微笑んで会釈をし、そのままの表情でセルマは彼に告げ
た。
﹁レアルデ側はほぼ殲滅したが、カルター側の密通者を狩れていな
いらしい﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ヴィルヘルムが言いよどみ、かすかにセルマのほうを顧みて、顎
をしゃくった。花の鉢で飾り立てた回廊に出て、ヴィルヘルムが小
さな声で言った。
﹁把握している。レアルデの貴族を禁足している部屋に、密偵らし
き人間たちの生首が投げ込まれて、朝方大騒ぎになった。表ざたに
は出来ないが⋮⋮あれはうちの親父がやったんだろう。昔から加減
を知らないんだ。親父なりに、カルターを守ろうとしてくれている
んだと思うが﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
﹁その首の中には、確かにうちの国の人間だ、と言える人物の物は
なかった。それに俺や陛下は、内通者がだれか気づいている。信じ
529
たくはないけど、近衛隊の中尉だ﹂
ヴィルヘルムの金色の瞳に、黒い影がよぎった。
﹁何故なんだろうな、陛下を守ると誓ったその身で、陛下の命をレ
アルデに売り渡そうとするなんて﹂
セルマは何かをこたえようと思ったが、言うのをやめた。人の心
は容易に闇に落ち、そこに沈み続けることを良しとする。劣等感や
嫉妬に負けてもそこで終わりではないと思えるほど、強い人間ばか
りではない。
なまじ自尊心が強すぎるばかりに、心を病んで腐っていくものも
また多いのだ。だが、容姿と才能に恵まれ、常に輝く側の人間であ
るヴィルヘルムには、理解しがたい事だろうと思えた。
﹁お前は、氷神様の声が聞こえぬ男なのだろうな﹂
﹁は?﹂
﹁いや、いい。きっと賊は陛下を狙って出てくる。怠るなよ﹂
﹁うん⋮⋮でも本当に、俺たちの仲間だった人が⋮⋮﹂
言いかけ、ヴィルヘルムは首を振った。
﹁止そう。大事なのは陛下の御身だ。アドルフ公子を後継に指定さ
れたとは言え、陛下の御身がカルター王国の安泰にかかわることに
変わりはないし、何より俺にとっては大事な兄上に等しい﹂
﹁手加減するなよ﹂
セルマの口から、そんな言葉が勝手に転がり出た。目を見張るヴ
ィルヘルムに対し、突き動かされるようにセルマは告げた。
530
﹁死ぬ気で掛かって来る人間相手に手加減するなよ。そんな情けは、
絶対に要らない。甘い仕事をしたら陛下を失うと思え﹂
531
67
アイシャ族と合流したレアルデの将校は、ギリ、と奥歯をかみし
めた。
レアルデ本国から支給された新型爆弾が、爆発した様子が見られ
ない。巻き上がるはずの黒煙が、ローゼンベルクの街から一向に見
えてこないのだ。
あの町の要所要所を爆破して一気呵成に砦を襲う計画が、このま
までは進められない。起爆にてこずっているのか、爆弾に何かしら
の不備があったのか。本国での爆破試験では、目を見張るような効
能を発揮した代物だったのに⋮⋮。
その時だった。氷結し、道になっていたはずのレーエ河が、粉塵
と共に砕け散ったのは。
﹁うわあああああ!﹂
﹁神の怒りだああああああ!﹂
突如轟音と共に巻き起こった氷嵐に、アイシャ族の兵たちが一斉
に進撃をとめた。
あまりの寒さに朦朧としていたレアルデの将兵は我に返り、﹁浮
足立つな!﹂と号令したが後の祭りだった。
﹁なぜ我が国が仕込んだものは起爆しないんだ!﹂
爆弾の手配、密偵による仕掛けを総括していた部下を、レアルデ
の総司令は叱りつけた。
﹁それにあの河で起きた爆発は何だ!﹂
532
部下がぱくぱくと口を開けているが、何も聞こえない。
あまりの音に耳がつぶれたのだと、一瞬遅れて総司令は気づいた
⋮⋮。
︱︱総崩れになるはずたったローゼンベルクは揺るぎもせず、何
故か有利であった己の側が浮足立っている。
巻き上がった粉塵がだんだんと鎮まってゆく。音のない雪原に呆
然と立ち尽くす総司令の目に、純銀の鎧を纏った巨躯の男の姿が映
った。
﹁レオンハルト・ローゼンベルク⋮⋮!﹂
アイシャ族は、彼を唐変木だの、弱気な将だのと揶揄していた。
だが、敵襲を前にひるんだ様子も見せず、三又鉾を手に国境警備隊
の先頭に立つその姿は、そんな﹃愚かな存在﹄には断じて見えない。
最高位の将である彼が、攻め込む軍勢の矢面に身を晒す理由はた
だ一つしかない。
彼には、レアルデ・アイシャ連合軍に討たれない自信があるとい
うことだ。
﹁⋮⋮っ!﹂
総司令は唇を噛んだ。
認めたくない事実が心に突き刺さる。︱︱我らは、レオンハルト・
ローゼンベルクの姦計に嵌り、敗北を喫し、退却する定めなのだ⋮
⋮と。
533
﹁アイシャ軍が恐慌をきたして退却してゆく模様!﹂
ヘルマンの一声に、フォルカー中将が鼻を鳴らした。
﹁噂通りのその場しのぎだな。この寒さではどのみち、数時間と持
つまい⋮⋮にわかなる猛吹雪の恵みに感謝だな。指示通り、砦より
監視を続けよ!﹂
﹁は!﹂
﹁それにしてもようございました、将軍閣下。わが精鋭が剣をふる
う機会を与えられなかったこと﹂
日に焼けた顔を綻ばせ、フォルカー中将が付け加えた。
﹁姫様の仰る通り、敵方の爆弾は爆発いたしませんでしたな﹂
﹁はい!﹂
腕にしがみついて雪を避けていたリーザが、ぴょこんと顔を出し
て言った。
﹁しません、フォルカー殿。絶対大丈夫です﹂
⋮⋮あああ、カワイイ⋮⋮! リーザが可愛い!
ちょっとホッとした今だから言うけどリーザが超かわいくて今す
ぐほっぺに口づけしたい!
ダメだ、この﹃とりあえずアイシャが退却したな﹄という緊張か
534
らの解放状態がヤバい、最近歳のせいか気のゆるみが半端なくてヤ
バい!
威厳、威厳を保たねば、亡き父と母に﹃どうしようもないときは
口を開いてはいけない。お前は口を開くと評価が地に落ちる性質な
のだから!﹄と口を酸っぱくして言われた事を思い出し、黙ってリ
ーザの頭を抱えよせた。
﹁お前は砦に戻りなさい﹂
﹁ハイ!﹂
レーエ河の氷の爆破を見届けて満足したらしいリーザが、よたよ
たと雪の上を去ってゆくのを見届け、傍らのフォルカー中将に告げ
た。
﹁アイシャ族が完全に引っ込むまで、中将の隊の兵をどれだけ残し
てもらえるのかな﹂
﹁三割。私の腹心を二名残します。あの爆発をみたアイシャは、お
そらくはレーエを渡ることを躊躇するはず﹂
どのような時にどれだけ兵を残して退去するかは、すでに決めて
いたことなのだろう。明瞭な答えがフォルカー中将から返って来た。
﹁この吹雪では本拠地に戻れないかもしれませんね。全滅するかも
しれません。愚かなことだ、引き際を誤るとは﹂
﹁ウーン⋮⋮﹂
あいまいに頷き、腕を組んで引き潮のように退却してゆくアイシ
ャ族を見送った。
あいつらは、生き延びる気がする⋮⋮そしてこれからも、延々要
らんちょっかいを出してくる気がするのだ。
535
彼らを根気良くいなし、時にはお灸をすえ、この国境を﹃大きな
争いのない、人の暮らせる﹄状態に舵取りし続けるのが、自分の役
目だ。
長い期間、氷に閉ざされるローゼンベルクをひたすら開墾し、蛮
族の襲撃に備え続ける生活は、根本的には大きく変わらないだろう。
だが、大きな名誉も武勲も要らない。自分はリーザの秘密を守り
抜き、この街を守り抜き、夏でも溶けることのない万年雪のように
静かにこの地に在って、先祖たち同様、ここに骨をうずめたい。ロ
ーゼンベルクに張り続ける万年氷のように、静かにそこにありたい。
﹁閣下﹂
﹁ん?﹂
﹁いや、閣下はいつも落ち着いておられるなと思って﹂
そういってフォルカーが破顔した。自分もつられて、笑い声を立
てた。
﹁そうだな﹂
ぐしゃぐしゃに氷の割れたレーエ河を見わたし、フォルカーに答
えを返した。
﹁それしか取り柄がないんだ。俺が慌てたらいよいよ危ないと思っ
てくれ﹂
﹁若い美人の奥方も娶られましたしな﹂
一瞬表情が緩みかけたのを敏感に見て取ったのだろう。フォルカ
ーがわざとらしく咳払いをした。
﹁さ、奥方の美貌に鼻の下を伸ばしている場合ではございませんよ
536
!ローゼンベルクにはレアルデの間諜がうんざりするほど潜り込ん
でおるはずです。警邏隊を増強して洗い出しなさらねば! 私は吹
雪がやみ次第、急ぎ駐屯地まで軍隊を返さねばならない。これから
会議三昧です、閣下のお嫌いな、そして私も大嫌いな、ね﹂
537
68
﹁そろそろ陛下のご挨拶が始まる﹂
近衛隊に一斉に緊張が走った。ザックス中尉を見つけ次第、捕縛
する。捕縛が無理であれば⋮⋮かつての仲間であっても手心は加え
るな。それが、近衛隊長の命令だった。
﹁ヴィルヘルムは露台の下から狙える場所、庭園を監視してくれ、
ザックス中尉は飛び道具の名手だ、陛下を狙いやすい場所に居るは
ず﹂
﹁庭をどれだけ探してもいなかったのに?!﹂
上官に反論しようとしたが、では、どこになら居るのか説明でき
ないことに気づく。自分なら。自分が誰かを狙うならどうするか。
あれだけの人がいる庭、あれだけの人がいる場所に身をひそめるは
ずがない。
狙いは、陛下の命だ。いつ殺すかではなく、どうやって確実に殺
すか、だ。
⋮⋮まさか。あいつが居る場所は⋮⋮! ﹁セルマ﹂
﹁何だ﹂
﹁おまえ、あの目でにらみつけて人をぶっ倒す奴、今できるか﹂
﹁無理だ、男を食ってないから。今朝、どこかの童貞が役にたって
くれなかっ⋮⋮むぐ!﹂
慌てて口を押さえ、今日は妙に高いところにある耳にささやきか
けた。
538
﹁よーけーいーなーこーとーいーうーなー!﹂
﹁むぐぐ、むぐ⋮⋮﹂
﹁じゃあいい、お前は足手まといだからここに居てくれ。いいか、
よく聞け、俺は陛下の私室を見てくる﹂
セルマが大人しくなり、大きな目でぎょろりと自分を睨みつけた。
ゆっくり手を放すと、乱れた髪を手ぐしで整えて早口で言う。
﹁陛下の私室? なぜ﹂
﹁そこに賊が⋮⋮﹂
周囲の視線に気づき、慌ててセルマの小さな耳に顔を近づけた。
﹁そこに賊が隠れているんじゃないかと思うんだ、今、監視の目が
ない、がら空きなのはそこしかない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セルマが眉を顰め、それからこくりとうなずいた。
﹁あり得るな﹂
﹁とにかく、お前はここを見ててくれ、隊長のところに行ってくる﹂
﹁わかったよ。ここは代わりに見張っておいてやる。変な奴を見つ
けたらあのカッコいいお兄さんたちに報告しておく﹂
﹁それでいい﹂
言い置いて、走った。自分は一応あのクソ女を信用しているんだ
な、と思いながら。
賊は庭などうろついては居ない。確実に、殺せる場所に居る。リ
ーザの涙が、お兄様を守ってと言って流した涙が繰り返し思い出さ
539
れた。
ムカつく。
死ぬほどムカつく。
自分はきっぱり振られた今でも、リーザを忘れていないし、変わ
らず愛している。これからも、愛し続けるだろう。叶わぬ思いを夜
な夜ななめ回すみじめな男として生きるだろう。
﹃絶対、俺が守るから、安心しろ、リーザ⋮⋮﹄
何としてもジュリアスを守らねば。王を孤独にしたのは、自分で
もあり、リーザでもあり、近衛の皆でもあり、彼の臣下の皆でもあ
るのだ。
﹁隊長﹂
﹁なんだ﹂
目だけを動かして続きを動かす近衛隊長に、自分の懸念を報告す
る。
﹁おそらく賊は、もっともこの時間帯に警護が手薄な﹃陛下の私室﹄
に居るはず。刺し違えても、お命を奪おうと思っている筈です﹂
﹁⋮⋮なにを﹂
言いかけた隊長の目に、一瞬暗い光がよぎった。自分の言うこと
が最も可能性が高い、と、すぐに思い当たったのだろう。近衛隊長
は、華やかな容貌を買われて採用されたお飾りではない。人員不足
にあえぐ近衛隊をまとめ、統制を続けている切れ者だ。
﹁理解した。陛下はあいさつを終えられた後、大広間に再度お戻り
いただく。お前は今から何人か連れて行って、部屋を囲め﹂
540
﹁わかりました﹂
﹁手加減は不要﹂
﹁⋮⋮はい﹂
隊長の冷たい声音に、セルマの言葉が蘇る。﹃甘い仕事をしたら
陛下を失うと思え﹄という言葉を。
﹁イルゼ、ローレンツ、マルク!﹂
そばに居た近衛隊の先輩たちを呼び、隊長が顎をしゃくった。
﹁ヴィルヘルムが賊がひそんでいると思しき場所を特定した。始末
して来い﹂
無言でうなずく三人が、一斉に自分に目を向けた。頷き返し、人
目を避けるように庭を大回りして走り出す。
﹁陛下の私室?!﹂
﹁確かにあの場所は、今、誰の目もない﹂
﹁戻られた瞬間に、命と引き換えに刺し違えようというのか⋮⋮﹂
陛下が挨拶をしているのだろう。庭から聞こえる華やかな喝采を
背に、自分たちは日当たりのよくない国王の私室に走った。
﹁弩はあるか?﹂
ローレンツの問いに、マルクが答えた。
﹁俺が持っている﹂
﹁ヴィルヘルム、お前は最後に踏み込め、その長い剣で俺たちを斬
541
らないでくれよ﹂
﹁わかりました、ローレンツ先輩﹂
扉の少し手前で速度を緩め、全員が気配を殺した。
一番耳の良いイルゼ先輩が手を出して﹁とまれ﹂と合図を出し、
目をすがめる。
それから、小さくうなずいてみせた。異音は聞こえない⋮⋮中に
人がいるかどうかは分からない⋮⋮ということだ。
﹁俺が行こう。あの扉は弩で撃っても弓は飛び出してこない。中か
らこちらを撃ってきても大丈夫だろう﹂
言いながら、最年長のローレンツが一足先に出て、扉をたたいた。
﹁ザックス、居るんだろう、そこに居るのはわかっている﹂
何の返事も帰ってこない。
﹁陛下はここには戻られない。お前はもう包囲された﹂
自分の前に立った二人が、己の剣、そして弩に手を掛けた。立て
こもりが、錯乱して飛び出してくる可能性があるからだ。その際に
誰か一人に集中して襲い掛からないとも限らないのだ。
自分も、留金を外した長剣の柄に手を掛ける。いざとなったら、
一刀のもとに斬り伏せねば。どのような姿勢で、どのような速さで
飛び出してくるのか、無言でいくつも仮説を立てる。どんな場合に
もザックス中尉に隙を与えぬよう構えねば⋮⋮。
﹁何をしている﹂
542
ローレンツがわずかに扉に身を寄せ、中を伺う。
しかし、ザックス中尉は飛び出してこなかった。
どしゅ、という弩を放つ音、それからどさりと人間の体が倒れる
音がして、それきり、何も起きなかった。
皆が、一斉に顔をしかめ、扉から目を逸らす。
︱︱遅かった。裏切り者は裏切り者のまま、告解もせずに自らの
命を絶ったのだ。しかも国王の私室を穢すという、最悪の形で⋮⋮。
543
69
﹁陛下﹂
﹁何﹂
﹁少々﹃お部屋が汚れ﹄ましたので、本日はべつの⋮⋮先代の正妃
様が使われておられました室にてお休みくださいませ﹂
侍従長の言葉に、ジュリアスは片眉をあげた。彼の言わんとして
いる事はわかっている。﹁それは呪われそうだね﹂という皮肉に、
侍従長が顔をしかめてみせた。
﹁御冗談でもそのような﹂
﹁冗談が下手なんだ。わかったよ。どうせ先王妃様亡きあとは片づ
けられた部屋だ、かまわないよ﹂
﹁陛下のお部屋をお掃除ついでに、お預かりしていた絵も戻してお
きます﹂
侍従長が、何も答えようとせぬジュリアスの背中に続けて告げた。
﹁お母上の絵でございますよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ジュリアスが振り返った。そして、形良い口元に笑みを浮かべた。
﹁そうだな、やはりあの絵を勝手に処分したらリーザが悲しむだろ
うし﹂
それから、懐かしむように付け加えた。
544
﹁小さい頃、あの子はいつも﹃お母様の絵は何で白い髪なの﹄と言
っていた。いつかリーザにも、我ら兄妹とレヴォントリの縁をきち
んと説明しなくては﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
﹁今日はいろんなお偉方に会って疲れた⋮⋮アドルフも皆に紹介出
来たし、満足だったよ。さて、また仕事だ。執務室にこのまま向か
う﹂
豪奢な衣装の襟元を緩め、ジュリアスが言った。
昨日までの暗く沈んだ瞳とは裏腹に、その端麗な瞳には炯炯とし
た光が浮かんでいた。
﹁王位を引退し、火薬管理に専心するにしても、やることをやって
からだろうな。うるさい貴族の爺どもに少し静かにしてもらおう⋮
⋮。彼らがかき集めた財産も、このままゆけばレアルデと我が国の
戦火で燃え尽きかねないのだという事実を、きちんと叩き込んでや
らねば﹂
﹁はい、さようで⋮⋮﹂
﹁それが私の責務だと今ならわかる。吹き消されそうな平和の炎を
必死に燃やすこと。ただ、それはひたすらに身を削り、衰えきった
体に鞭を入れるような人生になるだろう。本当に疲れることだよ⋮
⋮﹂
ジュリアスの靴音が、冷え切った王宮の回廊に響き渡った。
545
﹁下ろせ童貞! 近衛騎士さん食べたい! 近衛騎士さん食べたぁ
ぁぁい! イルゼさんとローレンツさんとマルクさんと4人で楽し
く貪り食い合いたい! もうお前の婚約者だなんて寝言は皆様の記
憶から抹消してあるからっ!﹂
傍らに抱えたセルマに大暴れされ、頭痛がした。
この女はちびっ子童顔の仮面をつけた化け物だ。化け物なんか触
るのも嫌なのだが。
﹁本当にやめてくれ! どんなアバズレを近衛騎士団に連れ込んだ
んだって話になるだろ! 下手すりゃ俺が解雇されるだろうが!﹂
﹁お腹空いたぁぁ⋮⋮セルマ、ガタイが良くって頭がいい人すごく
好みなのぉぉ⋮⋮﹂
﹁じゃ、そういう恋人を作れよ﹂
作れない自分が言っても説得力など皆無だが!
﹁お前は毎日パンだけ食べて満足できるのか。私は無理だ。えーん
セルマ飢え死にしちゃうよぉ⋮⋮﹂
かわいこぶって泣きまねをするセルマを小脇に抱え、夜の王都を
疾走する。
セルマの事を未だにしつこく﹃息子の恋人ではないのか﹄と思い
込みたがっている母に預けて監視してもらい、バタバタしている王
宮の後始末に戻らねば。
546
なんでこの女はこんなに骨の髄まで⋮⋮ああもう、冗談じゃない、
本当に冗談じゃない。
だが、阿呆の相手をしているお蔭で、向き合わずに済んでいるこ
とがある。
近衛の先輩の裏切りを⋮⋮自分たちの国がここまで腐り果て、他
国に対する防御を怠って来たのだという事実を、このひと時だけは
忘れて居られる気がするのだ。
﹁キー! イケメンの胸板に抱かれて躰の芯まであったまりたい!﹂
﹁風呂で我慢しろ! うちの風呂を好きなだけ使っていいから!﹂
﹁おろせー、おろせー、童貞に触られたらバカがうつる︱!﹂
ああっ、前言撤回だ。
腹が立つ。純粋に腹が立つ。
女ってみんなこんなクソみたいな存在なんだろうか、愛らしいリ
ーザと全然違う、やはり可憐で思いやりがあったリーザは特別なの
だろうか。
﹁童貞に運搬されるんじゃなくって、イケメンさんに朝までガッツ
リ抱かれたいんだよぉぉ、お腹空いたぁぁ﹂
ああもう! 運河に捨てて帰りたい⋮⋮!
547
諸事を終え、ジュリアスは空が白み始めるころにようやく床に就
いた。侍従長の入れてくれた薬湯を飲み乾し、明日には多少体温が
戻っていることを祈りながら、目をつぶる。
︱︱そして、夢と現の境で、その姿を見た。
どちらかと言えば男性的な顔に、短く切った赤い髪。手には鼻か
ら下が割れ、失われてしまった仮面を捧げ持っている。
﹁エリカ!﹂
迷わずに愛した女の名を呼び、駆け寄ろうとした。だが、女が割
れた仮面を差しだして、首を振る。
﹁見て﹂
﹁!﹂
その仮面は、ユーアイルの顔だった。閉ざされた目から、一すじ
の赤い涙が流れている。まるで、死に顔のようにジュリアスには見
えた。 ﹁私はこの人を連れていきます、ありがとうジュリアス様﹂
﹁エリカ⋮⋮嫌だ、私は﹂
﹁貴方は平和の薪、どうか、おねがいします、人に過ぎなかった﹃
私﹄の不始末を。人の世に降りてみたいと思った、私の犯した過ち
を漱いでください⋮⋮﹂
エリカの赤茶色の瞳が、赤い髪が、不意に純銀の色に染まる。
548
﹁私は人間の祈りに応えたかった。人間たちに豊かな未来をあげた
かった。だからこうして、かりそめの人の身にわが魂の一部をやつ
して降りてきた⋮⋮﹂
﹁エリカ⋮⋮﹂
真っ白な唇で﹃エリカ﹄の顔をした女が告げた。その声は明るい
エリカ・シュタイナーのものから、もっと暗く、重く、得体のしれ
ぬ恐ろしくも深いものへと変わろうとしていた。
﹁⋮⋮ジュリアス、お前は良い人間だった。美しく、清い。氷神た
るわたくしが人間の男と情を交わすなど、何千年ぶりのことであっ
たか﹂
知らず、ジュリアスはこぶしを握りしめて居た。彼の全身を支配
しているのは、ひたすらに偉大なる存在への畏怖だった。
﹁エリカ﹂
動かぬ手を伸ばし、ジュリアスは叫んだ。喉も裂けよと声を振り
絞った。
﹁僕は愛していた、君がだれであろうと、今だって君を﹂
﹁⋮⋮そう、嬉しい。ただひたすらにお前のその言葉が嬉しい。だ
が我の在る彼岸へは、お前を連れて行けぬ。故に生きよ。生きて、
豊かな未来を見届けよ⋮⋮﹂
姿を変えたエリカが、言い終えて悲しげに首を振った。宝石のよ
うなしずくが彼女の顔の周りをキラキラと舞い、その表情を押し隠
した。
氷嵐がジュリアスの視界を奪う。圧倒的な風にさらわれ、ジュリ
549
アスの躰が傾く。
滂沱と涙が流れ、それが頬で凍り付くのが分かった。だが、ジュ
リアスはむせび泣いた。エリカが死んで初めて、これほどまでに泣
いた。泣いて泣きぬれて、気づけば朝の光が寂しい元王妃の私室に
差し込んでいた⋮⋮。
﹁エリカ﹂
重い体を引きずり起こし、濡れた顔を枕に押し付けてジュリアス
は呻いた。
﹁生きるよ﹂
絹の敷布をちぎれんばかりに掴み、ジュリアスは絞り出すような
声で言った。
﹁君が望んだとおり、僕は生きるよ、そして君の願いをかなえる。
平和を照らす炎に喜んで身を捧げる、一本の薪になる。そうやって、
生き抜いてみせるよ⋮⋮﹂
550
最終話:小さな春のおとずれに
﹁さて、私はジュリアス陛下に手紙を書いたので、これを届けてく
れ。お忙しくて拝謁はかなわないだろうから﹂
そういってセルマが、卓上に折りたたんだ紙を置いて、だぶだぶ
の上着を着込んだ。
母が隣の部屋で監視してくれたはずなので、街で男を漁って食っ
たりはしなかっただろう⋮⋮しなかったと思いたい⋮⋮。
﹁いやもう早く出て行けよ⋮⋮母さんが誤解するからさ、勘弁して
くれ﹂
﹁ふっ、知るか。ああそうだ童貞、私はローゼンベルクの兄のとこ
ろによる予定なんだが、リーザ姫様に何か伝言はあるか﹂
﹁⋮⋮兄?﹂
﹁閣下の副官のヘルマンという男だ。私とよく似てるだろうが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
羆をも圧倒しそうなヘルマンの巨躯を思い出す。このリスみたい
な女との血のつながりを察せよ、と言われても、髪と目の色以外何
の共通点も見当たらないのだが⋮⋮。
﹁伝言﹂
﹁あ、ああ﹂
我に返り、彼女に伝えたいことは二つしかないな、と思い当たる。
どれほど自分が寄り添いたくても、割れた流氷の端と端に乗って
しまった関係だ。もう、二人の道が重なることは無いだろう⋮⋮。
551
﹁ジュリアス陛下にお変わりはないと⋮⋮それから、元気でいてく
れ、ずっと、って伝えてくれ﹂
そういって、じっと自分を見上げるセルマの銀の目に微笑みかけ
た。
﹁子供が生まれたら、いつかその子の絵を描いてやるって伝えてく
れよ。頼んだ、セルマ﹂
﹁⋮⋮うん、了解した。じゃあな﹂
言い置いて、セルマがすたすたと部屋を出ていく。さんざん引っ
掻き回したわりに、あっけない退場だった。かすかな、けれど不思
議な物足りなさを覚えてため息をつき、我に返って慌てて上着を羽
織った。
﹁やばい! 俺も遅刻だ!﹂
これから、冗談抜きで山のような残務処理が待っている。
レアルデの一件は、とてつもない緊張状態を二国間にもたらした。
なにより、ジュリアスの身の安全を徹底せねばならない、一人欠け
た状態で⋮⋮。近衛騎士団も苦しい仕事を強いられるだろう。
﹁よし﹂
顔を叩き、部屋を飛び出した。リーザには元気で、安心して暮ら
してほしい。自分がここで、﹃お前の兄さん﹄を守ってやる。そう
思い、セルマの手紙をひっつかんで、王宮に向けて全力で走り出し
た。
552
﹁ん? リーザがひっくり返ったって?﹂
﹁そうみたいです。今医師の先生が呼ばれていましたよ﹂
吹雪が開けて一夜。その辺で凍えて転がっていたアイシャ族の残
党の収容も終え、ようやく一息ついたところだ。忙しすぎて自室に
帰れていない。
リーザは風邪でも引いたのだろうか。慣れないこと続きで参って
しまったのかもしれない。
﹁わかった、ありがとう﹂
部下に礼を言って、私室の扉を開いた。
﹁おお、リーザ、どうした。変なもんでも食ったか、寒かったのか﹂
いつもの様にリーザが弾丸のように飛び出してきて、腕にぶら下
がった。
何だ、元気ではないか。
﹁こら、重いぞ、リーザ﹂
﹁やったー! 嬉しい! 赤ちゃんができていました!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何の話⋮⋮?
553
﹁閣下、おめでとうございます、ですがお気づきになるのが遅うご
ざいます。奥方様は、ご成婚されてすぐからご懐妊あそばされてお
いでだったのでは?﹂
医師が笑顔で言う。
何の話⋮⋮?
﹁もう3カ月過ぎです。じきにお腹も目立ってこられるでしょう﹂
﹁目立ってきます! 旦那様ぁぁ! ああよかった、無事お兄様の
血をひく跡継ぎができました、お兄様もホッとなさいますね!﹂
リーザが腕にぶら下がったまま、くしゃくしゃの笑顔で言った。
﹁つわりもなくお元気なのは大変結構、ですが決して無理はなりま
せんよ﹂
﹁はい! わかりました!﹂
帰っていく医師に、リーザがぺこりと頭を下げた。
﹁旦那様!﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁結婚式して、すぐに赤ちゃんができていました!﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁ですが気づいておりませんでした! 嬉しいです、お兄様に手紙
を書かなくては⋮⋮﹂
リーザが嬉しげに言って、小さな手を腹に当てた。
妹たちが妊娠したときは、辛いだるい気持ちが悪い、ああ何もで
きない、つわりで気が伏せると文句を言っては、母やアルマを呼び
554
つけていたではないか。リーザはなぜこんなに元気で⋮⋮。そうい
えば最近丸くなったなぁとは思っていたが、お菓子ばかり食べてい
るせいだと思い込んでいた。
﹁うれしいなー、男の子かなー、女の子かなー﹂
ケロッとした表情でリーザが言った。多分本人も全く気付いてい
なかったのだろう。
﹁そ、そうか﹂
あんなに毎晩やりまくっていたのに、赤子もよく無事でいてくれ
た。
怖い。全く気付かなかった。怖すぎる。
だが多分リーザに気づけというのは無理だ。もちろんこのポンコ
ツ中年に気付けというのも無理だ!
﹁ずっと月のものが来ないので、冷えのせいじゃないのかなぁ、と
思って診て頂きましたの。良かったぁ。気づかずにお腹が出っ張っ
て来るところでした。河での氷穴釣りは止めなきゃですね、旦那様﹂
﹁あ、あたりまえだ、馬鹿者、キノコ拾いに行くのもやめなさい﹂
﹁はーい﹂
﹁氷の上を歩くんじゃない、滑ったら絶対ダメだから﹂
﹁はーい﹂
リーザがそういって、ぎゅっと腕に抱き付き直す。
﹁旦那様﹂
﹁な、なんだ﹂
﹁喜んでくださいませ!﹂
555
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そ、そうだ、このドタバタした未熟な夫婦に、子を授かったのだ、
こんな歳でまさか自分が父になるなど⋮⋮。
唐突に事態が理解できて、どっと涙が噴き出した。
唖然としているリーザの前でごしごしと顔を拭う。だめだ。涙が
止まらないのであきらめて、メソメソした口調で告げた。もう恥ず
かしい事なんてない⋮⋮自分がやっている事の大半は恥ずかしい失
敗ばかりなのだ。腎虚でぶっ倒れるとか。うん、開き直ろう。
﹁う、う、嬉しいに決まっているだろう。大事にしなさい。廊下を
走るな、部屋もだ。とにかく走るな、分かったなリーザ⋮⋮﹂
待て! 他にもっと大事なことがあるだろう!
雷に撃たれたようにその事を悟り、慌てて付け加えた。
﹁えー、名前は我が家の家訓で夫である私がつけるから﹂
﹁ミラドナ様は子どもの名前は皆、ご自分でつけたとおっしゃって
いましたけど﹂
返す刀でぶっ刺されたー!
どうする、どうするレオンハルト⋮⋮!
﹁母上の我の強さ、お前も見ただろう。 普通の穏やかな良き奥方
は、夫の名づけの権利を奪うなんて、そんなはしたない事はしない﹂
声が震えているけど、嘘だってバレただろうか⋮⋮?
﹁良き奥方⋮⋮﹂
556
こだわっている点を上手く突くことが出来たのだろう。リーザが
納得したようにうなずき、晴れて今日初めてその存在を認知された、
お腹の我が子に優しく語りかけた。
﹁お父様がお名前を付けてくださるって。良かったわねぇ﹂
おそらくは両親に対して﹁気づくのが遅い!﹂と思っている事だ
ろう。⋮⋮自分たち夫婦はおそらく、これからもこんな感じに違い
ない。わが子には許してほしいと思うが。
﹁お母様はね、男ならゼンヌゲル、女だったらポロリーヌという名
前を付けてあげようと思っていたのよ﹂
﹁名前を付けるのは私だからな﹂
念を押し、満面の笑顔を浮かべるリーザを抱きしめる。リーザが
嬉しそうに、自分の躰に細い腕を回した。
﹁無理をするなよ。毎晩寝る前に安産を祈ろうな﹂
﹁はい!﹂
再びダラダラと涙が流れた。全く実感がわかない。これはたぶん
驚愕の涙なのだが⋮⋮赤子は、母の様々な不調やら寒さやら、いろ
んなことをよく耐えて、腹にしがみついていてくれたと思う。
月満ちて、この強い子の顔を見るのが楽しみだと思った。
本当に、元気でいてくれるならば、阿呆でも何でもいい⋮⋮。な
んとなく亡き父の気持ちが分かったような気持ちがした。
﹃お前たちが元気でいてくれればそれでいい﹄
そう、口癖のように言っていた父。
あれは、子だくさん過ぎて子育てが面倒だったからではなかった
のだな、と、今、ようやくわかった。
557
我が子の世話はリーザに任せるのが怖いので、自分でしよう。乳
母も雇わねば、と思いつく。
何だか、慶事はすべて他人事で、ひたすら地味で開墾や警備ばか
りしていた己の身の上がずいぶんと華やいだように思えて、とても
嬉しかった。
ああ、私、お母さんになるんだなぁ、と幸せな気分で床に就いた
その夜、夢を見た。
男の人が赤ちゃんを抱いて、露台に立って月を見ている夢だ。
﹁だあれ?﹂
自分の声に振り返ったのは、お兄様に少し似た逞しい人⋮⋮お父
様だった。私をいつも無視し、めったに抱っこしてもくれなかった
冷たいお父様。
むっとした気分になり﹁なんですか﹂と言うと、お父様が腕の中
の赤ちゃんを優しくゆすって、明るい声で言った。
﹁久しぶりだな、リーザ。あいつによく似てきた﹂
﹁⋮⋮お母様の話、お父様がしないで﹂
﹁まあ、そう言うな﹂
そういって、お父様が近づいてくる。そして、腕の中の赤ちゃん
558
を見せてくれた。
﹁腹の赤ん坊の魂は、生と死の境でふわふわと彷徨っているんだ。
だから生まれるその日まで、私が抱いて守っていてやる。おお、お
前にそっくりだ、見てご覧﹂
﹁え⋮⋮﹂
お父様の言葉につられて、その子の顔を覗き込んだ。髪は自分よ
り淡い栗色で、目の色は水色だ。昔みせてもらった、自分が赤ちゃ
んの頃の絵姿に生き写しだった。
﹁可愛いもんだな﹂
﹁お父様⋮⋮﹂
﹁そうだ、リーザ。今まですまなかったな。ジュリアスにばかりか
まけて。⋮⋮さ、ここは冷えるから戻りなさい。この子のおもりは
私がするから﹂
お父様にぐいぐいと押され、部屋から押し出される。お父様と自
分の間にある扉が、バタンと音を立てて閉まった。
﹁何よ、お父様なんか﹂
拳を握り、勝手にこぼれ出した涙をぬぐった。
﹁お父様なんか知らないんだから⋮⋮ばか﹂
そう口にした瞬間、不思議と、これまで燻っていたお父様への怒
りが消えていることに気づいた。
赤ちゃんが生まれるまで、お父様が天国とこの世の間で、抱いて
守っていてくれる。
559
その約束は、本当なのだろうと思えたから。
﹁ううん、違う。⋮⋮ありがとうお父様。今までひどい人だと思っ
てたけど⋮⋮本当は知っていました。王妃様が居らっしゃるから、
私のことは、表立って可愛がれなかったんだってこと⋮⋮私がお母
様に生き写しに育ってるって、いつも喜んでくださっていたこと⋮
⋮﹂
ふんわりと、幸福感が胸にあふれてきた。そのままうっとりとし
た気分で睡魔に身を任せる。ああ、早くお兄様に手紙を書こう、そ
して、ヴィルにも。自分に起きた一番うれしい事を、早く大事な人
達に知らせてあげよう⋮⋮そう思った。
﹁どうしたヴィル。ん? セルマ殿からの手紙か﹂
多忙の隙を見計らって手渡したそれを、ジュリアスが手に取って
開く。
目の下にはクマができ、痩せた体はさらに痩せこけている。だが、
その体にはいつになく覇気がみなぎっているように、自分の目には
見えた。
﹁⋮⋮恙なく、レヴォントリの火薬研究所の建設は進めるそうだ。
560
我らとカルター王国の絆は途切れず、か。まずは懸案の一つが晴れ
た﹂
ジュリアスが微笑み、手紙を懐に仕舞った。
﹁密使としてのセルマ殿の腕前を高く評価したい。いずれ何がしか
の礼の品を届けさせようと思う﹂
﹁畏まりました。侍従長殿に申しあげておきます﹂
﹁うん﹂
そういって、ジュリアスがふと不思議そうに自分を見た。
﹁ヴィルヘルム、お前、見合いでもするか﹂
口元には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。だがまさか童貞のま
ま、女の抱き方もさっぱりわからずに見合いなどできるはずもない。
泥酔している間に娼婦に犯してもらわないと無理だ。そう思い、慌
てて首を振った。
﹁陛下を差し置いて娶るわけにはまいりません。陛下がお先に、王
妃様をお迎えくださいませ﹂
﹁言うようになったな、お前も﹂
ジュリアスが苦笑した。そこで思いついたように、紫紺の瞳を輝
かせる。
﹁セルマ殿はどうだ﹂
﹁気が合いませんな!﹂
即答すると、ジュリアスが麗しい顔を曇らせた。
561
﹁なんだ。張り合いのないやつ。いや、まてよ﹂
再び口元に笑みをたたえ、ジュリアスが囁くように言って、白手
袋を嵌めた手で頬杖をつく。
﹁嫌よ嫌よも好きの内、という言葉があってな﹂
﹁嫌なものは嫌です、あの、昔の偉い人の言葉とか関係なく本当に
嫌なので﹂
﹁ふん、まあいい、ゆっくり話し合おうか。手紙は確かに受け取っ
た、ありがとう、ヴィル﹂
そういって、ジュリアスが滑るように立ち上がる。近衛隊長が影
のように王に従って歩きだし、自分を振り返って告げた。
﹁そうだ、ヴィルヘルム、午後からの緊急警邏会議に、私の代わり
に顔を出してくれ﹂
隊長の言葉に敬礼し、ジュリアスが退去したのを見届け、王の執
務室を飛び出す。
﹁本当に忙しいな﹂
だが、気持ちは不思議と充実していた。
なんとなくだが、この国はよくなる気がする。ジュリアスのあの
表情の輝きを見ていると、そう信じることが出来た。
﹁よし、何が何でも陛下をお守りするぞ﹂
腹の底から、気合が入った。
562
今日も一日張り切ってゆこう。
﹁ミラドナ様がお目覚めに⋮⋮!﹂
その言葉で、ミラドナはあたりを見回した。彼女が居るのは祈り
をささげていた氷神の御坐ではなく、見慣れた自宅の寝室だった。
﹁どうして⋮⋮﹂
﹁起き上がってはなりません、お倒れになられたのですよ。ああ、
ずっと長いこと眠っておられました。どれだけ案じた事か⋮⋮﹂
巫女の言葉に、己の身に何があったのかをミラドナは悟った。お
そらく、心の臓か何かの発作を起こし、祈りの途中で昏倒したのだ
ろう。
⋮⋮だが、生きている。
﹁ああ、旦那様のところへは行けなかったのね﹂
呟いて、しわ深くなった掌を見つめた。自分の役目はまだ終わっ
ていないのだろう。生き延びたということは、氷神の意志は未だ、
彼女の命に重なっているということなのだ。
563
﹁まだまだやることがあるなんて、気が重い事﹂
﹁そう言えば、ミラドナ様、おめでとうございます﹂
巫女が愛らしい笑顔で告げた言葉に、ミラドナは目を見張った。
﹁リーザ様がご懐妊されたそうですわ。レオンハルト様もお父様に
なられるのですね﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
心に蟠る気鬱の雲が、わずかに晴れる。ミラドナはゆっくりと体
を起こし、笑顔の巫女に問うた。
﹁いつごろ産まれるのかしら﹂
﹁使者が申すには、半年と少しとか⋮⋮あ、今、レオンハルト様か
らの書状をお持ちいたしますね﹂
﹁ええ﹂
巫女を見送り、もう一度枕に頭を乗せ、ミラドナは静かに息をつ
いた。
︱︱あの頼りない子が父になるというのだ。自分がしっかりしな
ければ。
そう、それにいまだに若く、卵の殻を付けたひな鳥のような﹃火
薬研究所﹄を見守るという責務も、やはり他人には譲れない。
自分がしっかりせずしてどうするのか。
﹁忙しくなるわね、早く体を整えなければ﹂
湧き上がる気力に任せ、ミラドナはうっすらと微笑んで呟いた。
﹁旦那様、わたくしがすべてを遂げた暁には、必ずお迎えに来てく
564
ださいませね。できれば若くて素敵だったころのお姿で、ね﹂
氷原の春は、すぐそこに近づいてきていた。
565
最終話:小さな春のおとずれに︵後書き︶
お時間を頂きましたが、本作、ようやく完結いたしました。
ご覧くださったみなさま、本作に感想をお寄せくださったみなさま、
本当にありがとうございました。とてもうれしかったです!
機会があったら喪失されるDT、大人なお兄様は普通のイケメンじ
ゃねーか!つまらん!みたいな話も書いてみたいですが、具体的に
は未定です。
何かありましたら、またよろしくお願いいたします。
次回は別のお話の完結話でお会いできれば幸いです。
氷将レオンハルトと押し付けられた王女様 完
566
後日談∼小さなクラウディアと、その両親の日常
﹁クラウディアちゃーん﹂
﹁はは、泣いてら﹂
﹁うちの末のガキも10年前はこんなんだったなぁ﹂
うちの砦の猛者共には、平均6.3人の子供がいる。
ローゼンベルクは娯楽のない街なので必然的に皆することがそれ
しかない上、寒いのでついつい同衾してしまうがゆえに、子供が多
いのだと言われている。
私が今更偉そうに言うことでもないのだが。
人数が増えるのは良いことである。
いや、人数が増える割に、皆このくそ寒い田舎を嫌って出て行っ
てしまうので発展しないのだが。
﹁別嬪さんだなぁ、おおよしよし、んーかわいいなー﹂
﹁俺も抱かせろ﹂
﹁あとで雪だるま見せてあげまちゅよー﹂
私の娘クラウディアは、この砦で生まれた。
そして砦の子育て猛者のおっさんたちに舐めるようにかわいがら
れ、本日誕生三か月目をめでたく迎えたのだ。
﹁ふぎゃあ、ふぎゃあ﹂
﹁泣き止まないなぁ。そろそろおっぱいじゃねえか?﹂
﹁閣下に返してくるか﹂
クラウディアと遊んでいた巨大な羆の一人が、慣れた手つきで小
さな娘をあやしながら笑顔で歩いてきた。
567
﹁腹減ってるみたいですよ﹂
﹁あ、ああ、ありがとう﹂
﹁可愛いなぁ﹂
目じりを下げてクラウディアの額を撫で、羆はのそのそと去って
行った。娘は私の手で大暴れしながら、のけぞって泣きわめいてい
る。
父である私よりも、父親経験のあつい部下たちのほうが、ずっと
娘を抱っこするのが上手だ。
私は、こんな感じでいつも、元気いっぱいのクラウディアを落と
さないようにするのが精いっぱいだ。
﹁ぎゃああああん! うぎゃあああああん!﹂
﹁お、おお、よしよし、もうすぐ母様が来るからいい子にしような﹂
﹁うがああああ﹂
三か月の女の子がこんな獣のような声で泣いて大丈夫なんだろう
か。
元気なのはいい事だけど、ちょっと淑女らしくないというか⋮⋮。
赤ん坊を見慣れている部下たちも﹁姫さんが男の子なら良かった
のにね﹂などというし、この子はやっぱり標準よりも野性的な気が
する。
﹁ひぎゃあああああ! ふがあああああ!﹂
怒りのあまり父の私に蹴りを入れながら、クラウディアがリーザ
そっくりの愛らしい瞳からボロボロ涙を流す。
︱︱乳を飲ませろ! 今すぐにだ! ええいこのぐず親父!
ほんのり紫がかった水色の美しい瞳がそう言っているのが分かる。
568
感情豊かな娘なのだ。親ばかかもしれないが⋮⋮多分頭がいいの
だと思う。どうしよう。乳、じゃなかった、リーザ、はやくキノコ
拾いから帰ってきてくれ!
﹁だんなさまー﹂
能天気な声がして、前掛けを掲げたリーザが笑顔で戻って来た。
初雪の時期を迎えたというのに、リーザは庭や茂みに生えている植
物をむしるのに余念がない。今も、雪下茸を前掛け一杯に抱え、と
てもうれしそうな顔をしている。
出産前後に食べられる草やら実を毟れなくてさぞもどかしかった
のだろう。元気になった今では、暇さえあれば娘を部下たちに預け
てもぞもぞと辺りを這いまわっている。王家の姫君である麗しの妻
の趣味は、野草採りと爆弾作り、それから犬の世話と魚釣りなのだ。
﹁クラウディアちゃん、ただいまー﹂
寒さで火照った顔で、リーザが言った。それから巨大なかごに、
大量のキノコを放り出す。
母ののんびりした声に反応し、クラウディアがキッと母の方を振
り返った。
⋮⋮ああ、乳児の今から片鱗を見せる、この気の強さよ。
泣き叫ぶクラウディアを、リーザが笑顔で抱き上げた。
﹁あら、お腹空いた?﹂
﹁だいぶ泣いてるぞ、誰があやしても泣き止まないんだが﹂
﹁さっき一杯飲んだのにねぇ、食いしん坊さんね﹂
リーザがのんきに言い、クラウディアをあやしながら寝室に入っ
て行った。
569
様子を伺うと、何やら優しい声で話しかけながら乳を飲ませてい
る。
﹁リーザ、キノコは⋮⋮﹂
﹁あ、厨房に届けてくださいませぇ﹂
﹁わ、わかった﹂
奥様の言うとおり、私はかごを持って部屋を出た。
どこから拾って来たんだ、こんな大量のキノコ⋮⋮。
砦の食堂のおばさま方が﹁奥様はキノコ拾いに関しては天性の才
能がある﹂と褒めていたのだが、それって喜んでいいのか良く分か
らない。
たぶん今夜もキノコのスープとキノコの揚げ物、それと肉とキノ
コを炒めた物が夕飯なのだろう。四季の恵みを毎日味わえて幸福な
ことだ。
⋮⋮⋮⋮。
キノコ尽くし6日目、私はキノコの夢を見るようになった。いく
らローゼンベルクが田舎だからって、冬の食材はキノコだけじゃな
いんだよ! 遠まわしにそう言って聞かせているのだが、リーザは
ピンと来ない顔をしている。
私だって知っているのだ。妻の興味は非常に偏っている⋮⋮とい
う事を。
ああ、そろそろ、河に穴をあけて氷魚を釣る時期だ。
そうしたら、夕飯は氷魚づくしになるのだろう。小指ほどしかな
い氷魚をその日釣れただけ出す。そんな質素な食卓を思い出す。私
の空っぽの腹が鳴りっぱなしの日々が始まる⋮⋮。
どうかリーザが他の食材にも興味を示してくれますように⋮⋮!
570
後日談∼我儘クラウディアとお母様
﹁あんぎゃああああああああ﹂
今日も砦に、愛娘の泣き叫ぶ声が響き渡る。
何だ。何があった。今度はどんな我儘で叱られたというのだ。
私は大泣きしているクラウディアの元へ急いだ。
中庭に、小さな点のようなクラウディアの姿と、﹁めっ!﹂と声
を張り上げて娘を叱りつける部下の姿が見える。
なんという大声だろう。3歳にして、鍛え上げられた兵たちと声
量が変わらないなんて。
子どもって、大きくなるにつれてしとやかになるものなのだろう
か?
たぶんならないだろうな。
リーザと二人、甘やかさず厳しく躾けているのだが、なぜあれほ
どに暴れ放題なのだろう。クラウディアは、教養高くあるべきロー
ゼンベルク家の総領娘なのだが。
他所のどのお宅のお子さんよりも、うちの娘は我儘なのだ。
お父さんはお前の事で悩みすぎて禿げそうだよ⋮⋮!
﹁どうした﹂
娘の元に駆けつけた私に、部下が苦笑しながら言った。
﹁お嬢がね、あの物見の塔に上らせろって泣いて喚いて聞かないん
ですよ。いやぁ、まず梯子に手が届かねえし、登れないって言って
聞かせてるんですけどね﹂
﹁のぼれましゅよ﹂
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クラウディアが、大きな目を怒らせて叫ぶ。
﹁ディアのぼれましゅよ!﹂
言いながら私や部下の隙をついて駆け出し、高い位置にある梯子
めがけて石垣の壁をヨジヨジと登り始める。
﹁馬鹿者!﹂
私は声を張り上げた。一月前にも同じことをして転落し、医者に
担ぎ込んだのに何も懲りていない。頭を強打して﹃痛い、痛い﹄と
大泣きし、私もリーザも命にかかわっては大変だと、蒼白になって
徹夜で看護したというのに⋮⋮。
﹁のぼれましゅよっ、とうしゃま、あっちいって!﹂
﹁いい加減にしなさい!﹂
もうこの子に優しい顔をしても無駄なのだ。私は心を鬼にして娘
を怒鳴りつけ、壁にしがみ付く娘を容赦なく引きはがす。
﹁のぼりたいんだよおおおおおお! キエエエエエエエエ!﹂
なんという大声だ。耳が痛い。
﹁怪我をしたくせに何を言ってるんだ。いい加減にしないと地下牢
に閉じ込めるからな! お化けが出る地下牢だぞ!﹂
﹁キィィィィィィ!﹂
﹁お嬢! 本当にお化けの部屋に入れられるぞ、お父様が怒ったら
怖いんだぞ!﹂
﹁うるしゃいよ! あっちいけ!﹂
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あ、ああ、部下にまで何という口のききよう。私は娘を小脇に抱
え、モコモコの服に包まれた尻をバシッと叩いた。気位の高いクラ
ウディアには効果覿面、信じられないくらいの勢いで暴れ出し、大
泣きし始めた。
﹁やあああああ﹂
﹁許さんぞ、ワガママ放題しおって﹂
﹁はなちて!﹂
﹁いいや、離さん。お前はどうしてそんなに父様やおじさんたちの
言うことが聞けないんだっ!﹂
﹁うっぎゃああああああ!﹂
ドタバタと暴れる私たちを、白々と眺める視線に気づいたのは次
の瞬間だった。
リーザだ。冷ややかな表情で私たちの顛末を見守っている。
﹁おおリーザ、お前からも言ってやれ、もうこのやんちゃ娘は手に
おえん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
真っ赤な顔で暴れ、隙あらば逃げ出そうともがき続ける娘を、リ
ーザが冷たい視線で一瞥する。
﹁いいのよ、クラウディア。好きなだけ梯子にお上りなさい﹂
﹁リーザ!﹂
何を言うのだお前まで!
絶句して振り返った私に、リーザが淡い微笑みを湛えたまま続け
た。
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﹁でも、降りられなくなっても誰も助けません。冬になって雪が降
ってきても、ずっと梯子の上に居ればいいわ。ご飯もなしよ。落ち
て怪我をしても母様は知らないわ﹂
母の冷たい言葉に、クラウディアが動きを止める。そしてわずか
に紫がかった水色の瞳で、じーっと母を見上げた。
﹁いいもん。のぼるもん﹂
﹁どうぞ、ご自由に。さ、旦那様、二人でおやつを頂きましょう。
それにエリアスにお乳をやらなくては﹂
﹁⋮⋮ディアも行く!﹂
娘の言葉に、リーザが冷たく首を振った。
﹁梯子に登るんでしょう。好きになさい、クラウディア。さ、皆さ
んもこんなワガママな娘は放っておいて、美味しいおやつでもいた
だきましょう﹂
﹁ディアもおやつたべる﹂
娘の声が不安げにくもった。母の激烈な怒りが伝わったのだろう。
﹁ね、もうのぼらないから。おやつくださしゃい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁のぼらないから!﹂
暴れるのを止めた娘を地面に下ろしてやると、スカートの裾がめ
くれたままリーザに駆け寄り、ドレスの裾にがっしりとしがみ付い
た。
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﹁かあしゃまごめんなさい﹂
﹁もうあんなわがままを言って、お父様や皆様を困らせないと約束
して﹂
氷のような声に、甘えた仕草で母にぶら下がっていたクラウディ
アが動きを止める。
リーザの厳しい声に、何故か私まで姿勢を正した。部下も直立不
動で固唾をのみ、いきさつを見守っている。
﹁エ⋮⋮やくそくしましゅ﹂
﹁何を?﹂
﹁エー⋮⋮﹂
﹁梯子を上らない事でしょう。それから、お父様がダメと仰ったこ
とは、絶対にしてはダメ。お母様の言うこともちゃんと聞くんです。
それが出来ない子は知りません!﹂
鞭で打たれたように私は立ちすくんだ。別に私が怒られたわけで
はないのに。
部下が私に聞こえるくらいの声で、﹁いやー奥様強くなりました
な、さすが二児の母﹂などと言ったのが聞こえた。
﹁う、うう⋮⋮ううう﹂
クラウディアがか細い声で泣きはじめる。先ほどまでの耳をつん
ざくような声とは別人のようだ。
﹁おこらないで﹂
﹁怒りますよ、悪いことをしたら﹂
リーザが言って、クラウディアの前に屈みこんだ。
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﹁約束して﹂
﹁はしご、のぼらないよ﹂
﹁いい子ね﹂
リーザが、ふわ、とやさしく微笑んだ。いやー、可愛い。たまに
新婚の時みたいな表情をすると本当に可愛いんだけど、最近育児に
追われていて、全然してくれない⋮⋮。
﹁旦那様、参りましょう? よろしかったら皆さんもいかが?﹂
べそべそと泣いている我儘娘の手を引いて、リーザが美しい笑顔
で言った。
﹁あ、ああはい、行きます﹂
﹁わ、私も相伴にあずかりますぞ奥様﹂
何で俺たちは緊張してるんだ。
最近思うのだけれど、リーザは本当に兄上にそっくりだ。歳を重
ねるごとにあの威厳溢れる国王陛下に似てきた。さすがは王家の姫
君と言ったところか。気が強いところは、ある意味娘も似たのかも
しれないが⋮⋮。
﹁あー、ゆきがふったらー、きのこ、はえてくるー﹂
あんなに泣いていたくせに、クラウディアがのんきな声で歌を歌
いはじめた。
不安だ。この娘、反省しているんだろうか⋮⋮。
﹁さ、エリアスがおじさんたちのところに居るから、早く迎えに行
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きましょうね﹂
﹁ウン﹂
私は腕組みをして、顔だけはそっくりな妻と長女の後姿を見守っ
た。
我が家の女性陣は強い。
長男のエリアスはあんまり泣かないし、ずっと寝ているし、でか
いし、なんというか私に似ている気がするので気の毒だ。ああ、願
わくば、あの子が姉の尻に敷かれませんように⋮⋮。
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後日談∼我儘クラウディアとお母様︵後書き︶
続編
﹁黒騎士ヴィルヘルムの受難﹂
連載中です!
http://novel18.syosetu.com/n38
59ce/
気が向かれたら、本編でリーザに大振られしたヴィルの新しい恋?
の顛末を見守ってやってください♪
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n6952bx/
氷将レオンハルトと押し付けられた王女様
2014年7月23日06時50分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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