姉 崎 正 治 - 日本宗教学会

キリシタン宗教文革中の殉教文篇
て殉教マルチリヨに射する態度の攣蓮
姉
崎
正
治
日東に於けるキリシタン停道史は、世界で有数の迫害史であり、その殉教者の数に於て、幽土年数の比例から
云はゞ、ロマ帝固の迫害で出来た殉教者よりも多いと見てよからう。その殉教の跡は、教師等の書簡報告で中
多く俸はつて居るが、ロマ帝国に於ける殉教者の停詭の如くに文畢的に侍って屠ない。此の展に多くの殉教倖
ある誇張修飾が少くて、却て史宴を得るには都合よいが、その跡を停へる文畢としては物足りない。然し、殉
者個々の事跡の外に、殉教に虚する勒謙や注意審で、賓際の悪戦苦闘中に出来たものがやつと停はつた事は、
に珍重すべき事で.その昔煩は、先に﹁潜伏﹂に於て﹁マルチリヨの莱﹂として世に紹介した。其等は通常云ふ
意味での文拳的作品ではないが、血涙の産物として生死の間をくゞつた信仰と熱情との文字である。その﹁莱
して績めておいた三篇中二.マルチリヨの鑑﹂はサントス停の一種であり、他国の事例、苗代の模範として、まだ
概念だけの作︵又稲澤︶であるに謝して、第一一の﹁勧め﹂は目前に起る迫害について、その間に殉教の死を途ぐ
べき螢悟を促し.それが第三の﹁心得﹂になつては、一屠切迫して、愈よ殉教の死を途げるについての賢際注意
キサシタン宗敦交華中の殉教文飾
キワシクン宗教文畢中の殉教文箱
を苔きつらねた卦に於て、故に波を重ねる扱がある。
此の如く﹁勧め﹂と﹁心得﹂とは事寮生死の問に出入して出廉た作で.眞に血涙の産物であるが・それにして
も.高専母なる軟骨む儀表とし模範としたキリシタン俸道の産物として、どれだけかは母数曾の典籍に基く併あ
ったと云ふ事は、容易に想像し得る。此等の文書の筆者が、外国人教師であつたか、日本人であ
ぁるが、何れにしても、多少は模表を持って、それを現前の事態に適用したと考へちれる。而し
に出た日本文のキリシタン宗教文畢を調べて見ると、少くとも一部分は、その材料源泉を指摘し
そこで此等の材料と共に他を合せて殉教文革の跡をたどつて見る。出版年代で云はゞ1信心録﹂よりは少しあ
とで.妄九四年に出たと考へられる﹁臨終心得﹂︵﹁停学宗︶の中にある一成敗︵刑罰︶で死品む者に輿へる
教訓︵﹁樽邁﹂︼州荒頁l︶は一事素からまさかの時に虚する発情姦へ雷の、而かも具鰹的教訓の形で現荒て居
る。つま少キリシタンの信仰に於ては、死の発悟が重要の位置を占め、その死も如何なる形でく
信仰の食に刑に死する事は、特に平素に用意し魔悟すべき事であつた。然し、此の書の出た時に
それから教理書、特に護教篇たる﹁信心叙﹂には、ヂウスの御奇特として慶ばマルチ
茸際の必要が甚だ迫って来るとは考へて居なかつたであらう。
きざく
二巻の中には、ロマ軟骨が段々に異数を征服した事を、教の眞理たる許嫁とし、而してその膠利
カは殉教者の死にあるとして、殉教者を讃嘆してある。
その中に古口マ帝観で三有年迫害の間に多数のマルチルのあつた事盈祝いて日く、
ク
善人邁の中に於て.先づマルチレスに就て少し沙汰するに、その数限りなかりし也。何れも勇猛の心を以
て前代未聞の苦みをこらえ給ふ事は、ヒイデスに少しも誤サあるまじき焉な少。・⋮:此等の数を云へば、或
キリシタン宗教文学中の殉教文薪
を停へた﹁サントスの御作業﹂などでは、諸殉教者が受けた苛貴の数々は、その持寄に多少
等の頭上后加管管掌になるとは汲想しなかつ雲あらう。その他﹁信心録﹂︵墟鋸虻巴や、多くのマルチル
心線﹂には、過去の歴史、:帝国に於ける辛苦として叙して居るのみであり、評者も十数年後には、それが自分
四頁
︶。制札、追捕、没収など、何れも普段々日永セも事箕にな少、寛永年間にその頂鮎に遷した事算セあるが、﹁倍
以下
それと同じ様に、﹁信心線﹂は、又迫害者が吹捲を以て如何誉迫書の手段を表すかといふ書措いて居る︵
も、まだ霞の奥の花を指すものであつた。
れから又二十年以後には緯出するといふ漁感は抱いて居なかつたであらう。マルチⅥ′ヨが信仰の花だと敦へ
それが殉教者として讃嘆せられたのであるが、それを和辞した人は、恐らく五年後に日本で殉教の先駆が出、
で一時に二十六人出たのである。原著者が十六世紀の年頃に此書を書いた時には−壁地の停遺著が時々殺され・
此書の出版は一五九二年であるが、一人あつても喜ぶといつたその殉教者は、それから五年飴の後には、日本
︵信心鉄、一九九−二〇〇頁︶
ゼンチヨの団々に於てキワシタン一人マルチルになり給ふと聞く時は、大きに喜ぶ也。
也。⋮⋮かほど人衆、すぐれたるマルチリヨの道を以てヂウスのゴロウリヤを崇め給ふ也。普代︵現在︶は、
時には一度に盲人∵⋮︰萬人、・⋮︰或時は一在靡の人々、一人も残らずマルチレスになり給ひし事もあり
只
キリシタン宗教文型中の殉政文蔚
四
も角.過去の殉教者の忍受とヂウスの御加護を讃美する偏に描かれて居る。勿論、讃歎と共に、必要に應じてそ
の跡を畢ぶのが、キリシタンたる者の義務だと云ふ激励教訓をも含むで居るには遵ひないが
歎であり、ヂウスの舎崇忙ある。然るに、それ等の苛貴も、二十年後には虎々事案になり、
でにない苛黄の手段を志すに至った。
拷問苛責を加へても野手が頑として之に屈しないに従って、追善者が新手段を諾するのは
敢て不思議ではない。それにしても元和から軍水にかけての苛貴幸段は如何にも頻忍で一日
のない位であつて、それが総て日本人の考からのみ湧き出たや否やと疑ひ得る位である○即
ぼ虔崎代官等、その他迫害の常局吏員には、ころび者も少くなかつたのであるから、彼等が
んだか聞いたか、此等の過去の苛責記録を幾分知って居て、今度はそれを質際に應椚したと
着たる代官末次平成の如きは、憶に此の如き事をなし得た酷薄の人吻であり、その他下級捕
が渾山居たのであるから、此の想像は必ずしも峯とは云へまい。其を静明すべき的膝の材料
行した苛貴方法とキリシタン文書にある記録とを比較して見る事も一材料にならうか。即ち極めて極端な︵又誇
張とも見られる︶苛貴方法、餌ちカテリナを茸めた花車やロマで多く周ひた猛駅︵此も日本にも一例はあるが︶を
除けば、方法は大抵両方豊ハ通である。焚殺、穴つるし、あぶりこ、手足切断等は勿論の事
て海に沈めるのでも、同様の事が西洋にはあり・只温泉岳の噴湯づけと賂印だけは−日本の新工夫といつてもよ
からう。此鮎は.伶ほ詳しい比較と前後事情の節究とを要する事であるが・兎に角・迫害拷問が加はるに従って、
今までは概念的教訓であつた記鉄が、蟹際目前の激励となつた事は明かでありl而して又同じ材料が、迫書する
側に逆用せられたといふ事は、十分想像し得る。
兎も角.マルチリヨに関する文章は、キリシタン文拳書に現はれ、而してその大部の物竺五九七年の殉教前
教史であり、且つ十た惟紀に僻道が世界に擁がるに際して、螢地で殉教の例も段々に
は、その大木がキリシト自らの死︵此もマルチリヨの一種・否原型︶から椚馨し、初三百年の致命史は大牢が殉
なかつたことは勿論、都評者も空般の教訓又は教理詭明として之を停へたに過ぎない
そこで﹁勧め﹂やr心得﹂の出るまでの教育は大抵骨都謬物であるから、その原著に‖本といふ特別の関心の
二、マルチリヨの意義説明と諌歎
そこで、マルチリヨ文篇の前後を通覧して、事前の訓誠と眼前の激励との費遷を戦察
も文畢の上にも重要の事項となる謬である。
者の書簡にも現はれたのである。
に目前の激励又注意として、﹁勧め﹂が出来、命竺屠切迫した1心得﹂にな少、又賓際迫宰に苦しめられて居る
に刊行せられた。即ちその内容は、概念的教訓又は追憶奇崇であつたのが、段々日本
β
チリヨといふ一事は、キリシタン信仰にとつては賢際雫火の一項目であつたっ且つキ
救ふ満と云ふ大字解約意ジがあり、アダムの堕落と相拝んで、ヂウスのポロビデンシ
キリシタン焉秋文里中吟殉扱寸、欝
五
キワシタン宗教文斡中の殉教文節
六
従って又それは、世界の創造、人間の運命、別しては世界を支配すべき軟骨の天職と密接の聯絡ある事になる。
従って一般信者の殉教も皆此等世界的規模計劃の一部分一要素となる謬で.殉教の事箕は、葺際の教訓たるのみ
ならす、数理即ち宇宙説明の中に必然の位置を占める事になる。それ故、護敬意たる﹁信心録﹂には、此の如
意味での教理詮明を施してあるが、その他の文書では、多くは教訓激励として殉教の事を詭いてある。
先づギヤドペカドルは絶てが退悪修善の箕際教訓であるから、殉教もその一面として教へてある。即ちキヮシ
タン道徳の中で冒邑eNp堅固強精の徳を勤める鰯に、一方には修道者の禁欲生活と、他方にはマルチルの苛貴
忍受を奉げて勅諭してある。即ち日く、
右の鏡︵山居の修道者︶をもても未だ遷せすと思ふに於ては、マルチレスの鏡を見よ。ニケレジャよりは
日としてマルチレスの上を顛し⋮其
:道
⋮を
・畢ぼせ給はんが属地。然るに貴きマルチレスの御身といふもー
天の快粟も古今かはる事なしといへども、如此の人々は/水き世の命を保ち給はん霧に、かほどの辛苦を堪
今の我等が色身に替り給ふ事なし。マルチレスに御カを添へ給ふDSも今更替り給はす、人々の眼をかけ奉る
けらく
ぇ給へぼ、是を鑑みて我等も天の寿命を保つ褒に、いかでか骨肉の邪なる望みを捨てまじきや。善人澤、深
き飢渇を堪え給へば、いかでか汝一日のゼジュンをなすまじきや。クルスの上に打付けられ給へどもーオラ
ショをやめ給はぎるに、いかでか汝、膝を立て片時のオラショをなすまじきや。御身命を惜み給はず、悪
人共より害をなし奉る事をも鞭くうけ堪え給ふに、いかでか汝の妄りなる望みを裁らざ
手にてかきさかれ給ふに、いかでか汝御玉Ⅹに勤し奉りて少しの行醍をすまじきや。多くの善人−籠の内に
たヤ†し■むら
ら●−ノ
β
に年月を透り給ふに、汝いかでか暫時の閑居をなすまじきや。
︵ギヤ下巻七七、村岡版、下一三二束︶
此書の出た一五九九年は、最初の大殉教のあつ空一年後であるから、此の勒読も既忙幾分は萱際的になつて居
た評であるが、昔時の状腰では、殉教が辟ほ績々出やうとは思はれなかつた時代であるから、此も先づ概念的教
訓に留まつ冤此と共に﹁コンテンてス﹂には、クルスの道として憾み辛労左堰画してあるが︵車一別︶、明に
マルチサヨとは記してない。
﹁信心録﹂と﹁サントスの御作業﹂とには.教理と歴史の上から見て殉教に関する章節が可なり多い。サントス
とは一般に徳行の聖者ながら∵御作業篇に収めた大多数は殉教者であり.その模範は即ち又殉教の奨励であるが、
その後牢は、一々の列停ではなく.パシュンシャ、忍受忍耐、特にマルチりヨを説き、本文の章名にはないが、頁
毎に﹁マルチヮヨのことわり﹂と題を附してある。此書は一五九一年の刊行であるが、まだ葦際問題にはならす
とも、殉教奨励の意は強く報って居る。一際此の﹁マルチりヨのことわりLは、後にいふ﹁信心鈷﹂の原本と同一
だとその序言に記してあるが、文章は同一でない。叙詭の順序や.又その中に引用してある事例も大分蓮ひ、﹁信
心鉄﹂が教理説明を主とするに射して、絶てが算際的教訓的であるり然し、殉教の意義、殉教者の光柴など、所
︵原書の章節に基き、綱目に番兢を附し、真数を附して︶
詮の内容は大鰹に於て﹁信心録﹂と同一であるから一々之を叙する要なく、﹁信心録﹂の事を記せば、その中に合
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
まれる繹である。然し、本文を諌む汲備として、又比較参照の虜に、先づサントスの中の﹁マルチりヨのことわ
り﹂の綱目を挙げて見る。
ヽ
キリシタン宗教文筆中の殉教文薦
七
ア
キリシタン宗敬文政中の殉教文箱
十六草紙設︵童訂︶。
司
竺節︵竜箭︶。
サンシビリヤノ︵S・Cヨ牒E.nO︶が殉教激励書簡、マルチりヨの功徳﹂使徒パウロの箕例、彼を繋いだ錦の事。
竺節︵㍍訂︶。
撃二節︵㌫折︶。
心に怠るを諌める桐をなすと共に、マルチル等自身はそれ忙依つて天hの螢冠を得る。
肉鰹を粟て1、憲に人るが世界の目的。従ってマルチりヨの道も重の遣であつて、信者が肉牌を重んじて信
瑚同
マルチりヨの道は..ヂウスに謝する忠節の鰯に悪魔と戟ふ密闘で、その辛労、強固、忍受、奮闘に依って天
詣節︵加減﹂︶。
上の位を得る。
勒同
マルチレスに勤してはデウスの保純合力があり、その褒に台特を顔はされる。
拘第十七輩線詮︵霜折︶。
β
マルチりヨの意義、それはデウスの光発と人間の奥態との褒であり、又キりシト自らの一生忙見える
伺
︵t一
模範である。
激励するカである。その意義を捕へるには、肉眼でなく婁の限で見るべく、キヮシトの御パションはそ
散骨の許嫁には軽々あるが、マルチりヨは眞理を澄明する血の茫操として最も貴く、又従って信者を感
入
パピロニヤとシェルサレンとの封照。悪魔に謝する戦闘に於て一書人達はデウスの司令の下に信愛望のカを張
〇二束
九人−/e
︶
めて勇戦し、その果報を得る。
の同一節︵一
エケレジャを亡ぼさうとする悪魔の軍勢とその用ひる苛責の撹酷。
拘マルチレスの合戦︵二∞箭︶。
9
マルチレスは此の苦戦に際して天上の壌勢を得るが、又キワシトのパションを観念する事に依
後の膠利を得る。
桝第十八草︵二認則︶。
ロマでヂコケレシヤノとマシミヤノ︵崇邑etiB。こIPHimi琶︶帝の迫害、その苛責とマルチレス。
岬第十九章︵二㌫則︶。
八八東
四六−
サンタオラリヤ︵∽・〇㌻l︼−p︶を始めマルチイナ、アナスタジャ等、婦人マルチレスの事。
刑竺十章︵
サンケレメンテ︵S・Cleme旨︶の一生、その長期の苦難と殉教、それについての観念、特にヂウスの御合力を
頼むこと1御パションの搬念。
八九1−ノ○
︶
㈹第廿二又
〇五災
レヨンとビエナとに於ける迫害とそのマルチレス、迫害中からの書簡井にマルチレスの詐徳。
キリシタン宗教交野中の殉欧文持
九
キサシタン宗教文華中の殉教文箭
囲苧二及廿三尊︵ニ謡東l︶。
ペルシャでサボル︵S竜。r︶王の加へた迫害井にマルチレス。
㈹普豊︵≡箭︶。
スミルナに於ける迫害.サンボヮカルポの殉教。
㈹第廿喜︵二三一む。
右に記したマルチレスの作業についての観念、マルチリヨの不思議。人が天性に背き喜んで死に
スの力、特にあらゆる苦急に耐えるは自然の事でなく.特別の加護から出る不思議・又その人数の多いのも
不思議のカ。
㈹苧六章︵三監折︶。
迫害者の運命、但し罰は直に現世に於て加はるとは限らぬ。それでも迫害着たるロマの帝王は皆
け、之に反してキサックンになつた帝王は皆昌へた。
右併設の内容は、﹁信心録﹂に於ても周じであるが、﹁サントス﹂では嘗際の教訓である粘を.信心簸では、絶て
数理説明の中に編入してある。マル言ヨに学芸の主要部は、第二警十九、二十、≠この三章︵二虻地引︶
にあるが、此もヒイデスの詮嬢として、その他の徳行や敦曾の膠刺や改言と相井んでの論定の一つ
っまり.ヒ‡丁スの眞理で、それで世界全鰹を感化する、その一面が天魔に謝する戦闘、肉身現世に謝する婁の
膠剰を示すマルチ¶′ヨとなるといふにある。然しーこの主要部以外に、教理詮明の中にもマルチりヨに言及して
rβ
あるから.それ等を絶て順に列聾する。
川第二巷第一章、ヒイデス線訣の中︵㌍則︶。
チレスが出来た。
︶
二三七−ノ0 四四東
キリシタン宗敏文華中の殉教文篇
九九−ノ0
〇一束
少、マルチルの光粂は又キワシト自らの光粂を顛彰する。
戦を経ての膠利は散骨の光発となる。叉この苦戦にはキリシーの御パションを観念して
マルチルが多けれぽそれだけ天の都城、即ち膠利の敦曾を飾るこ−とになるが.それだけ苦戦を必要とし、苦
囲同輩第一節︵
それが顛書的経に顛はれる。
マルチりヨは信仰の許嫁であ少、デウスの光発と信者の果徳を登揚する虜に生じ、その苦急
㈱同第十九車線詮︵二義酎︶。
以下三幸マルチヮヨ主要部。
右と同意でキリシタン膠利の鰯にマルチレスが出来た、マルチレスの貴いといふ事。
伺同第十六軍世界の改良関して︵
︶
異数の偶像は天魔であゎ、キワシタンの信仰が之を亡ぼすので戦となり、三吉年間の嵐
囲同第十五章、異教滅亡の事に関して︵蒜針︶。
マルチサヨは信仰の澄擾の一つで、男女老若の別なく、信仰ある人が之に昔る。
JJ
二四丘−ノ0 五C頁
︶
キリシタン宗教文勢中の殉秋支倉
伸同葦第二節︵
キワシトの御パションと死とは.マルチル忙射する感化合力ハ源泉であるから、マルチルの受けろ苦出けーそ
の合力で弧められ、希望のカで殉教のカを加へる。
閏同輩■窮≒節︵但し本文には第二︶︵二諾両︶。
此に勤して悪魔は悪をそ1のかして迫寄を加へ、あらゆる苛責の方法を巧み出すからー此に勤して甚溌の兜
悟を必要とする。
閏同輩第囲と五節︵本文竺と旦二相打︶。
マルチルの数の甚だ多い事、その苛責、苦患の探測な軍之に虚してマルチルの忍耐の強い
パションの功捻の甚大なるを澄明し、キりシトと共にマルチレスの光焚を輸す。
仰向鷹三十真芯計︶。
マルチルの増例十七日、即ち殉教サントスの御作業。
㈹同第廿一章︵二折東︶。
マルチルの因級事情は種々あるが、結局は信仰のカ里芋。その数、その位、苛責の離烈、
ゥスの合力等、前章の紙括。︵次の第廿二奪は奇特l如ち奇蹟の事を記すが、画接マルチルに勝れてない。︶
甘廿三輩、世界をキリシタンk感化するカについての一節︵≡訂︶。
マルチルが苦忠を耐える力。
7β
囲同第廿七草、第二巷併設の総括の中第一節︵志箭︶。
マルチルの苫患に勤して迫害者の受ける現前。
岬第三巻第七草、キワシ去禦ションについての併読の中雷節中の一節︵開削訂︶。
キワシトの御パションを模範として力としマルチルの苦戦と名著。
㈹第三者第十二軍御パションとインカルナサンとについての併読の一節︵諾︶
マルチルの苦忠貰徹はヂウスの智憲合力の現れ。
此の如く同じ諭鮎が南方に出て居るのは自然の事であるが、その文章や引例は可なり逢ってゐる。例へばサン
︵
トスの㈹乃至叫に種々殉教者の話しがあり、信心蝕の桝には十七日もあるが、一つとして同じなのはなく、又何れ
︵
もサントス篇の前部にあるのとも違ってゐる。叉同じ信心録の中でも何と叫とは論鮎は同じで重複して居るが、
云ひ方は違ってゐる。其他、詳細は略する。
三、マルチリヨの勧説激職
同じくマルチりヨを説くにしても、過去の事例を讃嘆し、又は教理として詮明するのと、目前の事賓として勒詭
するのとは、その怒度の達ひが文字に現はれるのは必然の勢である。而して日本で殉教が目前の事貨となつたの
は一五九七年の二十六人殉教であるが、樽ふる併では、その翌年、天草で日本字で刊行したマルチリヨの一書が
キリシタン宗教文拳中の殉教文箱
73
キサシタン宗教文撃中の殉教文照
一四
ぁったとレふ。此はブ云ヒレー︵−季ハ︶にべ一口ゴメス︵写。曾me芸作だとして音牒e胃−富口星
日当耳完︵マルチヮヨ釘功徳︶と名づけてゐる。現在までその賓吻は費見せられないが.最初の大殉教から生じた精
紳的昂奮を代表するものとして昔にあるべき作である。その内容は勿論不明であるが、その番目を見ればー信心
鉄等と同様に殉教の徳を讃嘆したものらしい。それでも目前の事例に鑑みて.激励の意味を包むで居た事は想像
し得る。
それからして一方停遣も進んだが、迫害も段々加はつて充た慶長の未には、段々葦際の勒詮が現はれて来た。
その;として、一六一二年に有馬讐、迫菩に虚してどうすべきかといふ事を敦へる書が出雲といふ︵
二三
︶。此年は、駿府で御豪人に射する歴通が始ま少−江戸では殉教者も出宗、それよりも有馬顔内で大に腰通が
頁
始ま少、寺を破壊し、信者を追放し、幾分殉教者も出た事であるから、有馬僚で働いて居た教師が、法難に應ず
る偏に信者に勤して勒誠又ぬ注意書を輿へたものと見える。此の一篇も葦物が出て来なければ的確の事峰云へ
いが、﹁静め﹂に似たもの、その前駆と見るべく.マルチサヨの讃歎よりも.迫害に廃する覚悟を壬としたもので
あらう0
そこで命ほ一歩進めて、迫害が一般になり殉教者が段々槍すに及びて、慶長の未年に出たと思はれる1マルチ
サヨの勧め﹂に至っては、勒詭が具鰹的に又直接になつて居る。而して前代の文昔にない諭鮎もその中にある
それと共に前に書かれた書から材料を得たと思はれる鮎もある。俵て前二育と共に他の殉教文篤と共通の鮎を、
﹁潜伏﹂の頁数を基にして列聾する。
7J
一七三三つの悪徳に射して戟ふ三つの善徳。−信心蝕三春十八草、キヮシトの徳︵蒜︶。
一七四、殉教と。ハションの戟念との聯洛。−取部甚五郎とシャシソトの書簡、﹁人物﹂︵二謡︶。
一七六、人壱金の如くに錬へる事。−内藤采女の書簡、﹁人物畠監︶。
一七九、現前日本に歴然の事例。−シャシソトの書簡−﹁人物﹂︵⊥
一八〇、殉教竺は弱いキヮシタンを警る褒。−サン三、十六章二節︵転。
一八二−一八八、迫害者が直に罰を受けぬ理由。・−−−此は右信心詠一三やサントス一六に現罰の例を渾山挙げて
ゐるのと封照して興味ある鮎で、後に詭く。
但しサントス︵二整には現罰の直に現れぬ書も詮いてある。
一八四、悪人に射する前基世に延す事。−サン三、廿六章の中数行︵二竪
一八五、アウグチイノの言。−一1⊥類似の引用文、サントス同右︵ニ守
一八六、悪寺冨が故に殉教のサン三が出来たといふ事。−サントス同右︵監守文章同じ。
一八七、彗等が罰を受けた賓例。−・サントス右同︵
一九二﹁妻子、財軍嘉の三つに心引かれて信心や殉教精紳の慧る事。1シャシソトの書簡﹁噂道﹂︵㌫︶。
一志、妻子財驚には何れ完別すべ量、従って心引れるなといふ訓誠。−内藤釆女の蕎、﹁人物﹂︵正箪
シャシソトの書簡﹁停道﹂︵議︶。
二CO、身をのみ殺す者を恐れす、身をもア一一マをも亡ぼすヂウスを恐れよ。−・−シ.シソトの書簡、﹁俸道﹂
キリシタン宗教文華中の殉教文薦
イ尺
キ∴リシタン宗教文蝉中の殉教文茄
︵鉱︶。
二〇〇以下.一。ろぶ計のか。つけ貫種芸言分。・−1シ†シントの蕎、﹁停道L︵山歳計︶。
二C四、その中、迫害も一時の事だから、暫くその過ぎ行くを待たうといふかこつけ。・−−Iシャシソトの書簡、
﹁椿遥L︵山築釘︶。
二三マルチル彗ウスの光警警す。!信心錬二警九章︵二撃サントス十六章二節︵㌫︶。
三三、ヂウス墓敬する管してのマルチリヨ。−サントス十六章二節︵一前︶。
二蒜、聖母マりヤもマルチルに準ずる事。・・・・信心録.二巻i九草︵ニ等
三四.洗警ハネのマルチ三。−サントスの十六章二節︵鮎︶。
三六.使徒パウロの遺骨井に鎖の事。−サントス右同︵㌫︶。
一1.
二四
︶。ギヤ︵群四︶。
信心蝕右同 ︵鮎︶。サントスの中・カチエの事︵臥五︶。
二∵ハI二一九、マルチルに現れた諸の奇特。i信心錬二軍九章︵虹等サントス右同二姉針︶。
ニー九、サンタカテリナの死際の事。−
三九、サンケレメンテの棺の事。・−信心録右且
二二二、マルチルは一。−の善力近あらず。−サント
二二三−マルチリヨに慧の必警事。・⊥ントスの中マルチリヨ廿壷/配腎但し㌃簑琶
二二三、殉教朋意の薦の善事信行。−1服部甚五郎の書簡、﹁人物﹂︵宗︶。
二二七、御恩と殉教との聯絡。−服部甚五郎の昔管、﹁人物﹂︵宗︶。
TJ了
二二七、殉教とバションの朔念。・−−−上記一七三頁の分と同じ。
そこでこの﹁勧め﹂に於ても.マルチリヨはデウスの光粂と信仰の澄明の鰯であり、殉教者にとつては来世の
キリシタン宗敏文撃中の殉教文眉
右五項の中夢二鱒前項の重複にな少、活着最も重要なのは第二のヂウスの光粂と第五の受難者の
五、迫音量ける宴等が、蒜の誠嘉す事によつて、天上聖果報を受け得る様にする償︵“竺射︶。
る墨梵天l︶。
四、キワシタンでも異にヂウスの御恩を知らぬ者もあるから、之を折檻し又信心の轟い者を弊威
三、迫寄書にも打讐教。そ眞の警あるから、教の羞姦筆墨㌶則︶。
に蹄致する肴が苧︵蒜如む。
二、ヂウスの光柴、教曾の勝利の焉に.天魔の強敵に打勝つ軍此事は今日本に眼前の事葦で、迫害のある馬
︵童箭︶。
一、迫害苛責によつて眞の信者と償の者とを陶汰する一郎ち穿と稜穿とを底別する展、文具金を
チサヨを行はせるか、何故直に迫害者を罰し、奇跡を以て信者を救はぬかなどいふ疑問に勤して解
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
その秀一にマルチりヨの必要として五項を拳げてゐる。
その要粘は、先づ第一にマルチリヨに射する疑義である。ヂウスが大緒ならば、何故に信者を嘗
叉常時信徒等の間に起った疑義に謝しても解答を輿へんとしてゐる。
果報の鰯だといふに大淑目に於ては、前二番と同じであるが壷懇切迫の勧告としてぢつと痛切の助
J7
キサシタン宗教文撃中の殉教文常
此は他の諸寄にもある。其以外に注目すべきは、前二番には殆ど現れて屏ない第一の眞償陶汰と第四の折檻の事
である。聖書には穿と稜蓼との唇もあるに、前二書が此粘に解れないの.は寧ろ奇妙である。御折檻の事も、イス
ラエル民族の流窺など背約にも多く出でゐる鮎であるに.此の亦二審に漏れてゐる。それと云ふのは、二書のマ
︵
ルチりヨ論は、目的とする靡讃歎棲蕩にあつて、朝食的であるに反して、﹁勧め﹂が痛切にその事箕に面してゐた
食であらう。第二項−ヂウスの光発といふ革も一倍心録の叫でマルチサヨの因縁五つを敦へた中、ヂウスの御加
警して述べてゐる事︵二仙箭︶と同じ冨るが三者毘べると、﹁勤め﹂の方のカある論述文句に謝して、信
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ︳ヽ一
心録の方は峯に浮遊し孝言詮といふ感じがする。﹁勧め﹂が単に綴少合せでない事は此でも十分何ふに足る。
第二の問題は、何故に迫害を加へる悪王等が直に罰せられぬかといふ事で、答は、ヂウスの正義は犯すべから
ざるものであるが、直に罰を加へるのみが正義でないといふ事に節する。此にも五項を分けてあるが、重複交差
してゐるから一々分け述べない。要するに封のないのでなくて罰の延期であ少.それは迫害者自身に悔悟の機曾
を輿へようとの慈悲の曹蕗であり.又一つは迫害者あるに依って、迫害せらる1もの1功徳を檜す膚であるとい
ふに節し、特に来世インヘルノでの罰といふ事を主にしてある。此は先に述べた二書で悪王現罰の例を多く挙げ
てある過去の追憶に比して、現前迫害者と封抗しっ1ある信者等の心にしつくり宛てはまる。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽtヽヽ
第lニにヂウスに背き信を棄てる事の重罪なるを強調してあるのも、前二書には飴り強く現れてゐない鮎で、迫
害と戟ひつ▲ある時の産物たる特色を能く表して
此には重罪たる併以を十項に分けてあるが︵福計︶一基げない。此等は、前二書マルチルの記鉄中に反面
Jβ
ヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽヽヽ︳
から詭いた灘もあるが、此方では飴虚事でなく、直接問題として簡潔に十罪を数へてある鮎に特色があ
シト姦てるもの︵蒜新︶。
四、迫害の苦痛、苛責を恐れる卑怯臆病。−
キリシタン宗教文革中の殉教文篇
︼九
ぁるが、賞際かこつ富のあつた跡を俸へ、而して﹁停学︵山襲釘︶に出しておいたジャシソよ濫にも同じか
書物や概念の上で得尭記事でなく、貰際の境遇から出た産物であり.それにlニ項ある。三項の内容は結着同じで
の中で段々出たころび者の中に、賞際に現はれた辞解かこつけであつたので、前二書には放けてゐる。
に出したジャシトのジョセフの殉教激励には正しく此の四粘を拳げて居る。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
弟五尤、迫害に怯えて信を粟て、ころぴを言明する者のかこつけ。此は箕忙慶長の後年に起って充た
此等も.二書−には始終詮いて雪が、此窄け組織的でなく、又簡荒切で漂。之に反して﹁慧﹂︵山㌫董
仰を貫いたかを観じて、自らの臆病を征服すべきである︵一一一流則︶。
此に射しては、古来のマルチルが如何に強く苛貴を忍受して信
三.現世の主人に屈従する事。−1此れ同じ︿永遠の主君デウスを忘れ、特に我等の展に一死を敢てしたキワ
上の伴侶はアンジョであぇ︵蒜畑則︶。
二、妻子や友人に執着する事。靂此亦、何れは別離すべき現世の伴侶の焉に、天上不替の伴侶を失ふ
︵蒜箭︶。
一、現世の財撃に懸念する事。■−Il此は朽ち果つべき財賓の虜にアユ
弟四に、迫害に屈してころぶ者の動機を列挙して各自の瞥戒を促してあるも﹁勧め﹂の特色でそれに
Jタ
キサシタン宗教文型中の殉教文節
こつけ言を挙げて野戒して屠る。
一、信仰を主張して遠方に流罪にでもなれば、親しく教師の数を受ける事も出来ず.又一時信仰を曲げても後
に能く之を貫けばよいではないか。
二、心中さへよく信仰を保てば、表面には一時、ころぶと見せてもよからう。
lニ、迫害の嵐は今は激しくとも、暫くで過ぎ去らう.されば一時之を凌いで、その和ぐのを待サ霧竺時の便
法を講七てもよからう︵二∞霜︶。
ヽヽヽヽヽヽ︳ヽ︳ヽヽヽ
此等に射する叱責厳戒は一々述べる要はなく.その中には、駿河の殉教者道帝の箕例をも引いてある。
〇六
一〇
則︶。
そこで棒じて、右の反射に、勇気を以て信仰を貫く功徳については一天囲の果報−サキサヒショの意義、殉教
による眞理の表彰など、此等窟二書にも同棲の鮎は多く現監て居る︵
此の如く信仰を貫いてマルチルになれぼ、その光螢は天上至高の任になるといふ雫此亦一々記述する要はな
く、その記述の材料は前二書と共通が多い︵二三副︶。
ヽヽヽヽヽヽヽ
最後に、マルチルの蒐悟、此亦簡で痛切に五項を拳げてある。
一、謙遜の必要、即ちマルチルになるとて誇りの心を以てしてはならぬ事。
二、マルチルの覚悟を定め進んで之に就くに雷って、心身を揮うすべき革。
三.オラショを申上げ二アサスの加被合力を頼むべき事。
四、妻子脊族その他現場の人々に信仰を勧める事。
β∂
五、絶て頼み聖アサスにかけて、身命を調つにも、その光桑の偏に捧ぐべき事︵二二訴︶。
キリシタン宗教文華中の殉教文蔚
ない。
るが︵二≡酎︶、此には目前に挑戦的殉警エルナンドとナバレテの事例があるにーそれ姦げないのは−物号
はならぬから、此の如き場合には進むで名乗り出づべき事を詮き、その箕例としてセバスチャンの
く、高山右近や熊谷豊前の事が一宿適切である。同様に、教師たる者が逃げ隠れをする褒に信者が
穿てないのは物足りない感がする。例へぼ、:武士マウリショが武力を以て反抗し奈つた︵虻竪と同じ
にあるものであるが、勿論文句の引用でなく、短く事柄を述べてある。然し、此等の草例に目前
単にあるだけである。その引例、セバスチャンの事はサントスに長物語があ少、てサショの事牲信心級︵毎
的に述べてゐる文章をして顔色なからしめるものがある。従つて聖書文句の引用は只一つ、古事の
ルになるかと云ふ様に一々心得をひしひしと示してゐる粘に於て.卒和時代の二審が追憶や讃欺を事として修辞
である。逮捕に虚してどうするか、刑場に臨むで、如何の心を保つか、どうすれぼ罪になり、ど
動を決する鰯の適切な葦際的訓令で、讃歎の修辞もなく、又激励とか教訓とか言ふ粘をも飛び越え
﹁潜伏﹂︵宗︶にも運べた如くー﹁心得﹂は﹁勧め﹂より一層切迫した迫害に面してー直に生死の分れ目になる行
此等も材料は多少、前二書にあるが、﹁勒め﹂の教訓は直接であり、又最後の所りには光とカと
御恩忙封する感謝を、哲りの警して示して雪︵二㌫頁−︶。
而して此の最後の項について、特に殉教に際して心に概念すべき駄、ヂウスに身を捧げうとの心
寧J
ヽヽヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽ︳ヽヽ
キクシクン宗教文華中の殉教文第
二二
第四項に殉教の難に虚して如何にすべきかと云ふ事項を十四列挙してあるがー婁復交叉の多いのは−蓋し沈思
して能く分類些理する飴裕なく.目前の必要に應じて思ひつき次第に書き連ねたしるしと見るべきである。然し
書き振は何れも緊切で力強く、此も血涙の産物たるしるしで、特に最後.刑場で他人に論法する場合の算例とし
て挙げた款行の文字の如ぎは、賓に死に臨んでの信仰の火花といふぺく、其他線て生死の巷に出入した
粘に於て、血涙の費露である。されば彼の﹁助め﹂が慶長の未年−迫害の嵐が吹き始めた頃の産物たるに勤して−
此の﹁心得﹂は、元和年間︵或は軍永の初期︶.迫害の嵐の中に殉教の血の蓮少、而も信徒の熱心は寛永年間に於
ける如く萎靡し始めなかつた時代の産物と見るべく、多分元和八年︵−罠︶大殉教の迫りつ1ある時の産物かと考
へられる。
先にも述べた如く﹁勧め﹂の中には慶長十九年︵−≡︶駿府の殉教者ジフン道春の事を記してあるから、その
後の物らしい。その前からあつ売文吾に、怨だ事例孟ヘ音のと見られるが、その前︵鮎︶にも﹁此軍今日
本に於て眼前に歴然﹂云芸あるのを見れぼ、文章の凍きれら見ても、後に加へたとの璧昆竺厚躊躇する
兎に角、右の如く﹁勧め﹂を慶長末.﹁心得﹂を元和年間と見てよからう。
此等と共に葦際迫害に虚し生死の間をくゞりつ∴或は他を激励し.或は自らの覚悟皇呂しー臨終のコンヒ
サンをもこめた書簡も多かつたに遵ひないが、現存すむ物は教は多くはない。而して此等は、今西洋例
知れてゐるだけで、その原文たる日本文はどこかに潜むで居るかも知れぬが・兎も角今はない。それ等
第二十七草と﹁人物﹂の虔々に蓬繹で出して置いたが、肥後の殉教者書簡の中には痛切の告白があゎ、
β2
トのジヲゼフの文は、先に比較引照に示した通ゎ﹁勤め﹂と似通ったものがあり、且もつと適切に目前日本の殉教 幻
者を手本促せよと勒諾してゐる。命ほ此の間に出た物でマルチヮヨ文拳申重要なのは二六二〇−二一年に有馬地
方初め各地の信徒がロマへ法った書簡で、その全文を﹁人吻﹂︵当節︶に出しておいた。何れも迫害の中に守
る覚悟と共に敦曾教皇の助力を乞ふてゐるが、そのヰでも有馬と長崎との分が、迫害打ついて最も悲痛の言を述
べ、且つその署名者の中にはその後殉教した青もある。何れも文章文句に於て他の殉教篤と似通つて居るのを見
評者、。ハウロ養方︵又は養甫︶父子。
れぼ.此等の文章が範を他に取った事も伺はれる。今此等絶てを年代順にして列聾する。
川一五九一年。 サントスの御作業。
全経としてサントスの多数が殉教者で其を模範とせよとの意味はあるが、特にその最後の盲七十頁﹁マルチ
胡浮出版主任.ペドロライモンド。
サヨのことわり﹂が殉教の讃嘆と奨励とになつてゐる。
拘一五九二年。 信心録。
作者不停。
二三
教理の上から、キリシタン宗教の眞理であるといふ琵接の一つとして殉教を詭明し、庭々に論述があるが、
﹁臨終心得﹂の中。
特に第三巻の中の二重︵第十九、廿、廿一︶が殉教論になつてゐる。
榊一五九四年︵?︶
二四菓、卸成敗に撮むで殉教に死ぬべきものに射する教訓。
作者、べドロゴメス。葦物不停。
ギヤドべカドル。下巻七七頁に殉教の讃嘆。
㈹l五九八年。 ﹁マルチりヨの功徳﹂
同一五九九年。
キワシタン宗教文華中の殉教文篇
キサシタン宗教安寧中の殉教文節
二四
M〓ハ〇二土奉。内藤飛靡守とその子釆女との書簡、自己の殉教精神藍呂すると共に同信徒に封する激励。
雲不停.詳文からの諾は﹁人物﹂︵≡箭︶にあり。
の一六〇七−八年。ジョアン限部甚五郎の書簡。マルチザヨの螢悟と陳終用意のコンヒサン。
雲不俸、更からの遁辞は﹁人物﹂︵註箭︶。
阿一山ハ一二年。。ヘルセギサンに虞する心得。作者不停。長崎改で出来たと停へるが葉物
桝一六一五年頃。マルチ三の勧め。作者不倖。﹁蒋伏﹂︵完箭︶。
㈹三二〇−三年。日本各地信徒から教皇へ奉答書。
五通の中−特に有馬と長崎との二通に殉書悟の表白が強い。﹁人物﹂︵男針︶。
伸一六三年。ショセフヂシャシン去霊に讐た書に警る心得、殉億踊の蕃綺。﹁停道L︵山㌫酢︶。
㈹一六二二年頃。マルチ=の心得。椎葉停。﹁潜伏﹂︵ニ宗則︶。
牌一六二六年。パウロ内堀装荷門の数彗何。﹁彗L︵山神㌶頁−︶、﹁潜伏﹂︵山還副︶。
此の如く併べて見てその内容を検査すると、姶に述べた過少、マルチりヨについての費悟
に切迫する状態が歴々と見える。特にその後の﹁心得﹂が適切に又簡潔で力強い貼は、シ†
危難を置いての激励と互に照し合ふものがあつて.血涙の迂りの拓き′∼としたものがある。而してその以後、
寛永年間、迫害の赦しくなると共に、此だけの激励をする欝等者も段々亡くなつた事と考へ
サヨ篇の樺尾には此の如き痛切な血涙の文字が出たのである。
朗
\ノ︶
固 頓
戒、源
流
諭
1主として最澄渡支以前の奈良朝沸教を考察す
久
−
野
芳
︵
隆
↓序説1末法時代の新倫慧慧㌣−ヒ最澄の波支以後邁邁を通じて撹承ぜる支部天台の受菩薩戒儀ミ戒律軌−E渡文
以前最澄lこ及ばぜる奈良朝彿致
初案良朝時代に薄茶ぜろ梵網霞ま梓書
㈲潰塘教畢の解剖−−光定の一心成文−顕戒論の南唐謹軽の批判
何首時敦界の状態古畳澄の事茸上の動機−蓉眞の梵胡戒ミ四分療−帝都学匠聖二釆挿戎論1最澄の一向大乗戒−
−学風の解熱を推定す
∴
M頓戒源流論
を知らうとするも不可能である。生活の全領域を賓珪修道とする彿数に於て天台教拳の占むる地位はその理論
天台の粥稜的立場はその根本的理論より導き出される第二次的のものではない。賞授的立場を除いて天台敦畢
○
の根本基調の上に於て考察さるべき一研究たるを失はないと思ふ。
園頓戒の問題は単に天台宗といふ限られたる二軍涯で問題にする事柄ではない。少くとも新興併教徒の賓鎮静
息5
観焼成源流論
戟貼を何鹿に置くかといふことを究明すればよい。
諸法貧相はあるが優に白魔された経験界のすべてを意味する。それがあるが健に白魚されす、現
の王朝.客観の如き封立した固定概念を以て眺める曝その誤れる見方を番に復し、あるが倦の相に引き庚さんと
する努力こそ修道であるb囲蝕三静によつて覚られ.一念二手の下に活きる経験の相を知らんとする生活活動が
修道である。歪める習慣的な現葦生活を葦相の下に救照せんとする努力の外修道はない。蓉心修
立つことを目的とすることでなく、自らの源に選ることを意味する。
天台の倫理戟も個々の道徳行鰯を一々中道妊相に清かす生溝を主眼とする。言ひ凍れぼ生活その
虜の横線ならぎるものなしと叙する。世界は崇高なるこの人間行慮の無蓋である。
之を彿敦の術語で言へぼ或は一々中道葦柏に非ざるなく、自性清浄戒の光は凡夫たると彿陀たる
に鎗なく常恒不要に輝いておるといふべきである。
斯く解辞する支那天台の戒律救を継承し、その葦填方法を授かれる最澄の園頓戒建立といふ思想
放て以下彿敦史の立場から考察することlする。
常盤博士が諸法案相閏敵三紆の哲拳は最澄の創喝したものでなく、支那に於て充分婁達しー戒律
なしたが、小乗戒即ち二百五十戎といふ固定した具足戒を受けることから超脱することが出来な
て最澄が充分徹底してその実捨を断行し、到る虚まで到らしめたと断ぜられたのは全く卓見であ
最澄の小誠実捨はやがて日蓮法然親漕の受戒に謝する潜度を導き出し親好の如きは徹底して愚禿
を菓捨したのである。
顛戒論に於て最澄は山林偶数を高潮し出家より出家するの必要を力説しておる。彼は大集経月賦分.法減車経
画境戒源流脊
むるのが圃清境港の一向大乗戎でなけねばならぬ。
有ゆる救ふ能はぎる程の重罪を犯せる末法悪業の磯にも絶て正しき戒を認めて人々に道徳的貰践を再忽念せし
得ないかを最澄は敦へた。
ともすると道徳修練の努力を弱める諸法賽相の軌跡論に立脚して而も如何に人類が道徳的賛域に努力せざるを
る。如何なる劣悪の機も最上微妙の一乗法を経験し得るといふ理想が園噴戒である。
彼は人々が末法の世に立ちて如何に彿教を活かすべきか.如何に彿敦を経験すべきかを決定したものと言へ
ったがそこ迄徹底した賛際問題は貴報出来なかつた。
避けて之を一切の人類に共有せしめんとした。その理想の賓現は彿敦制度上の改革にある。之は最澄の理想であ
究はあつたが箕接の駄は大に快けてゐたと見るべき鮎が多い。彼は来るべき時代の併教は僧侶の専有することを
に謝しての具足戒棄捨の宣言は昔時の融曾に於ける峯谷の発音であつた。南都六宗によつて蘭菊菜を競ふ敦拳
ならぬ。法は如何に完全でもその時代の磯に如何なるものが最も適するかを知らねぼならぬ。貴族と等しき檜
檜統は官許の借職であ少、檜官であつた。最澄が山林彿敦を高唱して出家の出家を必要とした時代相を知らねば
︵顕戒論下、開示知時任山明墟由十七.開示蘭著修単発一義諦六羅著明墟四十八、大音二間経七十匝瑳、六一四賀︶南都の
等を引用し、正俊時過ぎ末法塑来の時に於て機に適する沸教の如何なるものなるかを問題としておる。
g7
闘頃成源流給
二八
一切の彿法を拳ぶといふこと竺切の人類を完成することに結きる。一衆挺官完成しないではゐられない。
世界は度を滝野掟件とする駿の舞宝である。二空軍中道貧相を開斯せざるものはない。即ち世界の何一つと
して道徳的行鰯の機振にならぬものはないっ庸てが縛相を表し、具醍的の経験の下に溶きて怠る。
鎌倉沸教の源泉たる叡山の中心人物最澄が従来行はれた四分律小戒を案捨して園頓一魂の大戒を持すべきこと
如何に慮すべきかを敦へ且つ道徳的規定を定めたものである。
最初その基礎となつたものは梵網経、地梓経︵壕伽師地論菩薩地︶・硬洛経の中の一でー他の経の内容を含まな
gβ
際上の儀式で、小乗の受戒儀式と封照比較せらるべきものである。その内容は主として大乗徒はその生活悪疫を
園頓戒を貨際受ける場合に必要なものは受戒俵である。詳しくは愛書薩威儀と耕する。之は大乗戒を受ける賢
こ
の平民沸教に新なる芽を生ぜしめた。最澄は次で来るべき無戒出の黎明時代の偉人であつ冤
最澄の戒壇建立の運動も死後成立はしたが.しかしその偉大なる花は叡山の正系に果を結ばすして反って鎌倉
った。即ち虚峯不動戒の樹立は新日本倫理遊動と見てよい。
倫理運動の展開が起ったのであつた。この新倫理運動を建設することは如何に悪戦苦闘しても悔のない生活であ
類の普通妥常なる道徳律によつて有ゆる人間生活の秩序を錐拝せんとするにある。此鬼に嘗相園心に立脚せる新
日本彿敦より見たる道徳の骨読は眞俗一貫の道徳得である。出世問の教国道徳によらず伶俗を一廿盲る一切人
を宣言したことは印度小乗敦圏︵敢て輝舎の原始教団といはない︶成立以後未だ嘗って無かつたことである。
−
かつたが、後世になると一つの受戒俄に各控の内容が併せ採用されておる。
圃頃成瀬流論
以上述べた内容は常盤博士邁暦紀念論文集中拙稿﹁最澄を終鮎とする受菩薩威儀の成立過
も白四掲磨の如き形式は用ふるが之を以て受戒の必須條件とはしてゐない。
根源的の戒と考へてゐたが、之を定中より平常心に引き下せば最澄の画境式になると思ふ。
観は戒の正隆なりといふ摩河血税の旬を基礎とするものである。智顔は定中の戒︵定共戒︶は白四弗磨に依らざる
叉梵網の教主度合那彿と華厳経の教王とを同位に考へておる。明蚊の躇習した意思本の戒鰹
又湛然の梵網経に射する見解は智鼓を全く組述しておる。智街は梵嗣経を別風音薩の受く
故に最澄の継承した妙薬本は璃伽戒の形式を通過し.憲思本の項洛経中心で成立しておるものである。
る。この憲思本の戒鰐論は明療が踏習し.最澄が之を継承して、その園噴戒の根本基調となした。
意思本の戒鰹論に於ては準二鵜磨の時饗得する戒の無表︵A鼻茸ti︺の根底は中道賢相心が経であると述べてお
生戒を中心としておる。之は壌伽戒と相遺して硫律儀或憂十無蓋戒としておる。
之は表面梵納経老主としておる様であるが箕際は項洛経中心で、理路経の三相即ち溝律儀式、耗書法戒−塙衆
断倖の安立産威儀である。而してその内容は憲思造と倖へられる受戒儀を中心としておる。
眞撲でなく、八十撃巌辞出以後の天台系統の辱匠の作である。
最澄は湛然の受戒儀郎ち妙柴本を採用して自己の受戒鍋蓋琶た。湛然の受戒犠を普通妙柴
の妙柴本はその形式を法相宗の憲沼に拳んでおる。暮沼の受戒儀は塊伽師地籍菩薩地中の戒
β9
∬榎戚海流鈴
述してあるから御参照を麒ひ度い。
これ迄述べた伊は主として渡支後最澄が継承せる天台教拳中の戒律に掬する問題を捉へて論じたのであるが、
以下主として最澄が青年時代日本に於て拳習せる敦拳の内で圃頓戒に謝儀のある問題に就て考察して行かうと思
ふ。
三
典籍の上からいふと奈良朝の悌敦は今の一切鰹節歳の教と殆んど費りない程多数になつており且つ今無い参集
も相嘗多い。即ち宋浮の経典を除くと奈良朝時代の方が今より多い。蕃眞和侍の東征停には囲十八部の典籍を賂
来したとあるがその中天台に掬するもの五部、四分律宗に膠するもの、菩薩戒に謝するものが見られる。之によ
って和鈴が四分律、天台、梵網戒の知識の優れたことの一の茫嬢が載取される。
それより以前来朝せる道痔、菩提倦那の典籍婿来は更に要眞以上であつたといふのが畢者の簸である。
奈良朝に於ては新藤系の撃巌挙が盛であつたことは注目すべきことである。元暁、義湘等の拳匠の華厳に園す
る研究が尊ぼれ、一面に於て蓮磨群の中心たる捗伽の疏も主として新羅系の畢匠のものが賂来されておる。
義湘は智厳に就て革んだ人で元暁は義湘と倶に支那に行き途中引返して猪拳で華厳を重んだといふこになつて
おる。従って元暁の著述を謹むといづれも猪創的などちらかといへぼ辟的な自然智的な憩度が見られる。彼の敦
は華厳三論法相︵法性宗といふ方が安富かも知れぬ︶に捗り四十除却の註辞書が我が奈良朝に藤森されておる。律
3ク
に節しては奈良朝時代は四分律と大乗戒の典籍が最も多く稔入されたが、その中大乗戒では梵親、攻伽.項洛の
釘
三部とも全く来てお力、その中殊に梵納の疏が他家す一宇しており約十部もあつた。その表面の名は梵納経の内
′l
︵
容の解輝であるが、精細に諌んで行くと皆、梵綱のみで終始せす寧ろ壌伽菩薩地を引用し、項洛を詮いておる場
合が多く、その中でも項洛を中心にしたものが相昔多いことは注意すべきである。
︵
ヽノ︶ 現存しておるもので奈良朝時代に稔入されたものは次の七部である。即ち、ヒ苅暁の梵網菩薩戎本私記に義寂
︶︶ の梵網菩薩戎本疏ヨ膠荘の連記四撲揚智周の疏五太賢の古遡記︵古跡記の中に大里の宗要を引用しておることは
︶ヽl一′′ 注目すべきことである︶六元暁の持犯安置世冗暁の硬洛経疏。
今此等の典籍に就て簡単に注目すべき特色を挙げるならば元暁の私記はその特色の粘から言へば彼の持犯要記
に造に劣る。梵綱経の内容解鰐に就てはやはり有力な資料であるが菩薩戒に謝する彼の鮮梓は持犯要記に轟きる
・
といつてよい。又彼の硬洛の疏は昔時あれ樺梵綱の疏が渾山あつたに狗はらす硬洛の誌群がないのに比して極め
て参らしいといふ以外にそれ程内容的の牧獲はない。
私記に於て南門忙分ち第一に将題名字即ち序論。第二に人文解繹即ち一旬一旬の解繹を行っておる。
第一の序論で注目すべき貼はこの世界を以て法性より威すれぼ渾土に非ざるなしと見ておることである。眞を
以て俗を輸すれば一法として一如に非るものなしといつておる。而して第二人文解繹に於て有心音、有二種心.
謂一着眞細心⋮⋮二者心生彿心と述べておる貼は如来戒思想を有しておることを示すものである。
叉その戒健診は唯諸思想に同じで三業の中の意業を以て陛となし、その無作の卦に就ては掻大乗論の阿頼耶請
圃折戊蘇流論
であるから罪不罪不可怨と空。︵琴第垂九
弼頓戒源流誼
三二 中の薯睾鰹として考量萎誓つて警蓋と
あるといふのである。又心の上から言へば心は自性雷のもの
十玉堂、弟二鼎︶
理路経の疏蜂谷上は逸奏して苧今墓下の繹墨
轟品に於て菩薩地決揮中の還夢曇る警芸歴の受注あゎて捨法姦Lゐ
弟三に持犯要記華
文と野比し∵野草竺二震による不完全嘉の撃
義あるがー誓経の方が造かに進ん窄考を蓮べて
のいふ様にもきへる。︵臍横座基編、至奮、第義
言へぼ持犯聖安に三門ありとし、第一軽重門
第壷再の申その類別を論ヒて前蛸は小重富共通で雷といひJ後の軍票登と.いつて芸ら
考へてよい、今戒曇る腰度華−例
この警遠戚の八重罪を中心として論じて書こ
六に雷といふの蓋警撃て解辞してぎ見ねばなら
してその鮮貰紳嘉にすべきかを力警蓋猫時の撃
として埼伽戎七最初鱒詑く飼重罪の中の自署華
る慧旨靂するならば癌セあろて犯ではないヒ若し無記心によらばこの
且9
際の自讃毀他は染汚でない。ヨ若し他人に勤して愛或は志の心を以て自訴毀化すれば染汚であるが重罪は犯して
︶
ない。聞苦し食求刑養の寓めであれば自訴毀他は正しく重であつて軽罪でない。
︵
そ聖突中上の三晶の氾を論ずるに富って第三の上品の解繹の如きは極めて鎗く、彿教者を僻死せしむる底の気
慨が横溢しておる。即ち第一段は心拳を中心とする二額の虫があつて彿法を食滅し、琴一段は戒拳を甘心として
彿法を食滅する二類の虫あることを指摘しておる。一には邪戒正坐するものであり、二は正成に坐しながら而も
その態度は単に身を正しくし威餓忙鉄鮎ない丈で、滑極的な防非止悪のみに終始し、積極的に菩をなす態度に鉄
くといふのである。彼は古の大賢の詮を引いて云く.慎んで菩を展すこと勿れと、然らば悪を偏すべきやといへ
る子に答へて親の言く善命ほ虜す勿れ、況や悪をや。
第三斐は主として教理上の自讃毀他を論じ三性二諦の敦は無併有中條名を施設するものなりといふ唯誠的の思
想を以て眞資としておる。
↑自毀讃他是両、自讃毀他是罪、ヒ自穀讃他是罪、自讃穀他是痛、三若毀讃若讃撃或罪或痛、潤非穀讃非讃
第二持犯の洩探に就て上土は一隅を挙げて三隅を審にすといひ何句を以て自讃毀他を考察しておる。
ヽl/︶1−1′︶
毀或宿或罪。
第三究克持犯せ明にする併では故に即して戒妃非す線を離れて戒なし郎を除き離を除くも中間に得ず。是くの
如く戒を求むるも永く有ならすといひ、衆線に託すれぼ戒なしとせずといひ、二遽に堕せざることを本優として
おる。
刷岐波源流論
︵
33
卸頓戒源流論
聾烙法界燃一燈
仰俵聖典丁衣文
六意五修秀成耕
併用停燈周十方
粗沌戒森閑要門
三四
斯くして之を梵網鮭の文を引用して澄明しておる。彼の結論ともいふべきものは次の俗文であらう。
四句三寒成風蒲
等金一味遊方外
︵大正一切経、四十五巷、九一入頁︶
遠離二逸滅諸罪
次に義寂の菩薩戎本疏の内容を考察する。
′一■lヽ︵
青く受を排するに二ありとし初に順線荷受を明し次に蓮線失受を明しておる。而して得に四あれとし∵
ヽlノ︶ ↑賓券を簡ぶ、口師徳を簡ぶ、三受の方軌、即問答して疑を遣るの四に分類しておる。
︵
糞券に就て菩薩地、梵網、項洛の文を順次引用して説明しておる。師徳に就ては四徳をあげ叉羅什のいふ五徳
︶ を奉げておる。又此庭にも菩薩地を引用して説明しておる。第三受戒の方軌忙就て六門を設けておる。即ち一徳
︶︶︶︶︶ を顛し受を勒む亡寓線優劣巨七衆総則四大小鬼後伍正しく受法を明す伍校址膠を顕す。
第三に於て三種戒中擁書抜生は道俗の相多く同じ、旗律儀或は七衆儀各々異る。今律儀に就てその線則を餅ず
′.■\
れば律儀戒を受くる方軌に二ありHは飴の二と絶して受け口は飴の二と別に受くといひ、地持の受法と優姿塞戒
囲の大小先後に就て云く、一発に小.後に大といふの堅剛の小乗或は捨するのもあり継親するのもある、不殺
経の受法とを拳げておる。
︶
等は螢醜と同じく而も新しく得るが故に前戒忙即する。
∂4
若し娘心の時は小樽じて大を成する故に前の小戒も捨てすしてあれど小乗戒とは名けない。既に姐心後である
からである。従って不共戒だけ新しく得する。或は斯うも言へる、娘心して新しく安くる時は前を捨てざるも期
︶
心の異りがあるから殺生なら殺生を二重に受けてもよいと。二先に大後に小といふのは若し大を過して小に入る
︵
時は大乗戒を失ふが若し大を過せすして小を障って拳ば稟前の大を失はす聾聞戒を受くるも小乗人と名けない。
︵︵︵
方軌に八あ少とし之を菩薩地厄依って立て1おるが、すぐ後で地時によると述べておるから、南方の意を基礎
H講師亡求力仁乞戒邸長養野心伍問線六正受七啓白請託爪繰退文。
としたと考へられる。即ち彼の受戒儀は次の如くである。
︶︶︶︶︶︶
第四の問答疑を造る中で注目すべきは有人が必ず先忙野間戒を受けて後菩薩戒壱受くると.いふがこの義如何と
いふ靡である。答に日く未だ必ずしも然らず。何んぞ菩薩必ず先に小心を起して然る後大乗に入るとのみ限らん
やといつておる。然し経の文を引用し普通には小を受けて後大を受くるのが順雷だと言つておる。
︵︵︵︵︵′llヽ︵
︶︶︶︶︶︶︶ 大賢の古迩記では七門に分別しておる。一時些一機根亡戒旗個顧謬皇違休題名七本文︵績疏、一、六十、三︶
↑申経意門 二能併成門 亡修行差別門 ︵
彼は宗更に於て些二門によつて詮明しておる。
︶︶︶
注目すべきは菩薩戒を啓開誠に望めて見るとその間三種の相違あ少といふ粘である。
第一受不同分相。菩薩或は七遽を具するを除き一切受得すといひ本業経、唸伽論にょつて説いておる。
第二犯不同分柏。
園長帆戒淑流論
3
冊慣戒源流諭
三六
lノ
性罪に就ては拝聞と共、遽罪に就ては響胤と不共・菩薩は身語心を具し、聾胤は身語二戒のみなりといつてお
る0
二癒不同分相。之に就ては長くなるから略さう。︵績蔵、第一編、第六十套、第二哲
膠荘の連記。
之は法相宗中心の解繹である。即ち、通じて諸経の宗を排する教判に於て一陪審顛有軍ヒ陀有顆空前、ヨ遽
離二遽宗盲いつておるのは正しく法相宗の拳匠たることを詮するものである。︵統裁、第一編、璽ハ十奮、第二哲
彼の目次に従ふと聖教興題目.第二緋鯉宗鰹、第三族数分弊−第四教肝被桟、第五判文解得である。
彼は第四に於てこの教を受くる機に就て論じ五種ある中即ち三乗定性及び不定性と第五の無般捏粂性との中に
於てこの数は但菩薩と不定性との馬めに説き他の三の薦めにせずと耕しておる。
その戒鰹諭に於ては法相宗の主張たる思の種を以て鰹としておる。︵績赦、﹁六十、二、首十大東右︶
最後に智周の菩薩戎本疏は最澄の蔚戒論に引用されておるから、今の場合相雷重要であるが簡畢に特色を挙げ
れぼ天台大師の揮討止観の六郎の数理を以て梵網戒を解繹しておることが最も重要成すぺき鮎であらう。
六郎を以て梵綱戒を解したのは撲蕩大師以外に一寸見普らないものである。
俵天台帥作六位秤戒光慈
一自性清浄光
二梓索学戒光
三親行戒光
∂β
五分荘戒光
四相似戒光
︵帝政経、第一輯、第六十套、第二那、官五十二束︶
六究東成光
−
︶︶︶︶︶︶ ﹁俵天台帥搾併催眞子、一二理性俳位眞子二名学清浄平等俳位鼓子三親行心中
俊足子。︵同上、官五十七某︶
−
四相似法
−
五分荘
−
六究尭俳位打席俳
今俵天台智者作六義持之、一理即、二名宇帥、三親行帥、四相似帥、五分正郎、六究尭帥。︵同上、首六十四真︶
之を判り易く蘭表すれぼ次の如くである。
 ̄l
︵︵︵′tヽ︵︵
∂ア
晰幌成源流論
ったことは総軍であり、それより何より、此等の証繹が昔時の拳者に輿へた影響内容が今の問題では更に重要で
以上奈良朝の停禿たる贋網経の註繹書を全部最澄が讃んだが如何かは明かでないが、その中の若干は知ってお
る。
彼によれば菩薩戒の木原である自性清浄心は終始一貫しておるといふのである。彼に之を木原清浄戒と搭してお
 ̄
圃頓成瀬流詮
三八 最澄ば此等産品合して生れた大乗戒に閲する常時の見解
︶
︵
さて今度窒として光定の偉蓮一心戎文の詮に従って靂の心澄上
不生不滅不常不断不−不具不去不雷
常苺士が最澄の農戒の雷護慧誓りの相承であるといつたことは
穆如ち南唐の嘉経に射する解輝は今その著述が仲はらない薦
さざる晶ないの完念で空し客欝事誓調査するといふことになる
も霊の雷上の問題の霊姦ねる粘に於て芸者が産の穎戎論及び光定
り推定することは最も至首なことである。
例の光定の引望琴更書く菅ない署名にならて吾が便宜の薦め許
今実演痴和上註梵劇文、彼芸経孜、我己富、修行是心地、警馬鹿邁郭俳、彼注文云、修行者大台師読、修行一切之法
名虚業俳、亦知、如天平輝賓年中、共誓和J来、法進脚部註梵細療育亦同
慧上空、亦同漂首線文、票差
竺相、檎知慮空、言霊描、自性琴是産行、如是行人、於自性
自性清浄心中、安住不動、如須洞山、是則虚空不動定、又於
是毒︵大空切繹、辛琴六五三誉︶
聾者窟頓戎の雷に警この文のみに志して考しかしもう少し廉く
3β
言ひ壊れば少くとも造一心戒文運承和皐帝上別常藤原大納言成排寺家倖戒文の全文忙掩って考臆するのが至普で
現に近い思想が昔時流行してゐ、花と孝へ得る。
︶
今一心戒文の文を見ると前掲の引用文の前の文章に於ても二つの電要なる問題を提出しておる。
一望最遠替と蕎思主の禽合である.出は慧思は海束に誕生せよとの澤磨の提唱とその貰現した事貫として憲
思が聖徳太子に再生されたといふのである。
郵税戒源流論
昔問南嶽之思肺肝遷化之後託生倭国王子
Qは鑑長和南東征備に既に現れておるから最澄以前の思想である。
る。而してこの記事は天台憲拳が秤的賓践に裏付けられて初めて償値思ることを開明せんとする意鼠に外ならぬ。
↓は之を史寛の上より見て吾人をして慧思が菩提澤靡に面脅せることを是認せしむる詮壕はない。その詮の重
︵
要性は寧ろ群が心授を薮んじ、駄々相承を尊ぶ靡から憲思の膵は蓮磨の直接心授なることをカ詮高唱する鮎であ
︵
に於て常然あり得ることである。一方に於て奈良朝時代に来った澤磨膵は冴伽控中心であるから一屠に道壕の表
北宗辟は教膵一致の悪度を採るから、南宗蹄の如く畢授を重んずることはない。従って一心三拳の思想は道痴
ゐる。︵内繹傍注相承血腺譜、倍数大師全集、二、五二五東︶
道壕は北宗辟を曹寂より停へ、我が邦に来朝以後之を行表に停へ行表は之を最澄に停へたといふ倖訣になつて
遽に存するかゞ判るであらう。
あるし、更に欲をいへば停述一心戒文三春全鰹を通読すべきである。之によつて光定の表現せんとする意筒が何
3タ
蹴頓痕源流論
四〇
この慧思の太子再生詭にょつて彼は何を表現せんとしたか。意思に創るといふ天台敦畢が如何に日本に必然的
に生ぜねばならぬかを強調するにある。言ひ撲れば眞俗一貫を主唱せられた聖徳太子の法撃経観が日本彿敦の基
右であるといふことが眼目である。
之を道靖に普てはめて考へれば彼は単なる梵網経の文字上の誅繹着でなく草壌を以て之を解し、膏接を王とす
る鬼に日本彿教に必然的な立場を有つこと堅言ひ表しておると見るぺきである。
昔時停った如来繹の思想もこの賓接を壬とした天台教畢を基礎づける以外の根接はない。
光定の一心戒文の言ひ表さんとする本旨は最澄の四箇の血泳を解辞せんとするにある。
即ち天台の由来を談り、繹を詮き戒を強調し、密教に言及しておる。
大日如奔、即日受用法易、虚舎那俳、是則他受用接点、同而不同、兼蹄於本、不二而二⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:
自記滅法、則是茸相心、是茸相心自性清浄心、是自牲清浄心、帥是阿字門、一心印空・即畷・帥中
之によつて園、辟、密によつて戒を基礎づけたことは極めて歴然たるものが思る。
上官太子の法華による一乗詭は南岳に潮ることを得、南岳は達磨に翻るべく、太子によつて花を開いた法華経
の眞髄は印度、支那、日本三岡の間に汲々相席して禿たものであることをいふ以外にない。
澤磨の如来繹と天台の憲皐と園頓戒と太子の眞俗一貫の思想とを聯絡関係せしめ、之に常時新興の気を真へる
寮歌思想を加へたものである。
次に前掲の文に就て考察すると光定は道塘のこの文を以て法進の詳梵納経の文と同じといつておる。是は道痔
40
個人の考を法進が引用したか、或は光定が趣旨に於て法進通癌の解将が同じであるといつたのか、或は法進も道
痛も或る一人の設を同じ様に引用したのでなけねばならぬ。道療も法進も各々自己の燭創的の鮮繹を行ったとい
ふのであれぼどちらも全然同じ文句の文章を書くはづはない。今想像すれば最澄が顛戒論に於て智周の改も道蒋
に同じといつておる併壱同じ綾な文句が道堀の通りに智周にもあると思ふと失敗する様に恐らくこの場合法進の
文は趣旨に於て道噂に同じといふのであらう。
この場合両者が倶に智賢の文を引用したといふのならば同じ一人の有名な文を多くの人が夫々の場合引用する
ヽt■一′
卯
例は渾山あるのであるから問題はないのであるが、今智鞍の著述の全部考渉猟して見たが見昔らない。︵勿論鹿漏
で見落したかも知れぬが︶
そこでこの文章を二つに分けて孝へて見やう。
H隻剛牛で修行の語を天台によつて解輝するといふ項で之は中諭の八不を以て詮明しておる。二後年は団清盲
11■′′ 録の督琴二畢の文を基礎にしなけれぼ成立し難い文である。↑に於て智顔の文に強いて類同を求むれば繹摩討般
若汲羅蜜経発意三昧であらう。殊に耕法相第一の文は之に近い。しかしもつと端的に舞岡の思想を見出さうとす
ると寧ろ憲思の安柴行の文の方が邁忙今の道密の文に近い。即ち道婚が不幸にして典籍を将来せす記憶によつて
Oe
OOO
如是親時、都不見心、亦無生滅、非断非常、不住中道、如血税巳帥無死兇、法食品中、取一切沈、著普法著不善法、著無
00000000000
天台か意思の思想を以て修行の語を解したと僻定すれば私は今の修行とは安楽行ではないかと考へる。
0000
記法、皆知慮空不可避揮、於諸法中畢尭心不動、亦無住相、得不動三味⋮⋮⋮⋮・:⋮;何以故、色心三愛、車乗不生、無十
圃板戊源流論
励頓波源流諭
四二
000 界故、無有内外受取、既無受、帥無可捨、親行維同、無三受間放、巧落着便、能具足故、是名安聖行。
︵大正︼切軽、四十六巻、七〇一兵乳b︶
′,■■tヽ
潜頂によれぼ安楽行は園敢膵で如来行を行するものであるといふ。︵親心論疏第五、大正一切詳、六一五箕、六一七東︶
二最澄の受戒儀は湛然のそれを踏召したことは前述の如くであるが裏書を尊重すると慮垂不動戒の文字は特に
︶
最澄の童龍鮎晴と考へてよい。
如来一戒三行文、不是唐本也、本朝租師俵本儀上︵大音二切脛、.七十四巻、六三〇頁C︶
之は光定によると道噂の虚峯不動の三拳より相承せることは明瞭であるが、道稽の文は固清盲錬の普蕗の文を
汲想しなくてはあり得ない。そこで道瑠が歯清首線を知つてゐたか如何かを吟味せねばならぬ0常時滞来された
典籍の中古録はない横である。
そこで別の方面から考察して来ると誓典の弟子の法進の汐滴十戒並威儀経疏には天台の小止観の文を引用して
おるが更により以上に注意すべき蜂吉就が天台側に敦を受けた物語が記載されておる。ハ日本大蔵経、小乗律章
一四一京︶
道宣の療高僧停の文と之什二致してない。元森吉戒か天台に敦を受けたことは天台側の停詮では後になる梓潤
色されておるが、始は極めて軽い意味で智賢の書を借用し度いとの申込をした程度であつたらう。それ皇義の
方の俸には全くなく、輩安の停にあるのみである。之と観滞百錬の吉成の昔閥とが基礎となつてあ1いふ停詭が
生じたのであらう。即ち寡絆の吉成の如き一流の人物でさへ天台を畢ぶといふことを天台側がカ改したものと思
ふ。法進璧眞の頃には汐猫十戒並威儀経疏の記述の如き樽詭もあつたのであらう。
この敷から考察すると同時代の道噴も之に顕する内容を毀想しておつたと見て不富でなく、叉遣塘璧眞時代に
首線が存在してゐたことは事賓である。
然るに此鬼に問題となることは百錬普踵の文が果して智置の伸か細何かといふことである。
賢者の探玄記は主として華厳堅ハ十巻本三十憫品を解辞し、澄戟は主として八十巻本二手九晶を基にして疏を
作っておる。
撃戯経探玄記第ニ︵大正萩三十五巷、︼二五兵乱︶
今些二萬六千偶経有七度八曾謂人中三庭天上四盛食七、重合普光食入曾
大方廣俳華厳経疏四︵大正戚、三十五巷、五二八頁b︶
八本末大位科者、木曾食九.未曾有五十五
三晶轟七虞九曾無愚之文︵同上、五三〇頁8︶
今宵錬の文は七鬼九曾としてあるのは明かに八十巻本繹出以後でなけねぼならぬから、智蟹及び漕頂の作とす
ることは出来ない観清寺の誰か巨匠の作が智顕作といはれる様になつたのであらう。観清首線の文は
普縄十方三世譜悌寂滅道場上底含郵俳
普光法堂上鷹合耶俳
憫利天上成合郡併
灸膀天上慮舎榔彿
励頓成源流諭
4β
固頓娘振流論
児率陀天上鹿含雛併
他他自在天上適合部俳
軍令普光技監上底舎那俳
・紙担林間尊財宝千慮含那加
七虚九含脱硝頓敦慮舎那併
0 0 0 0 0 0 0 〇
虚空不動戒戴虞舎那傍
0 0 0 0 0 0
虚空不動定蔵慮合邦俳
0 0 0 0 0 0
虚空不動寮就農舎郡俳
0 0 0 0 0 0
︵大正一切粧、四十大怒、七九五黄b︶
この文章に閲する限り天台智鼓の作とも章安作ともいふことは出来ない。しかし囲清百錬のこの文が年代の上
で智艶作が否定されても翌眞来朝十八年以前に来朝せる道壕が百錬の督鰻の文を知っておつたことに就ては年代
的に何等支障はないから滑廠的には道頻は首線を知っておつたらうと言ふことが出来る。
この新鹿めて不明瞭であるが更に他の有力なる詮樺は東大寺大彿脇士建立の問題である。
要録一によれば天平感賀の年四月挟侍琴音虚重蔵二菩薩の像を作るとある。之は璧眞来朝以前五年である。こ
の虚重蔵菩薩は親虚客戒菩薩経の典嫁に依って作ったことは明白である。
この戟盛事戒菩薩経は大集紅塵姿戒品.大集塵垂戒菩薩肝閉経、虚審戒菩薩経等と一聯の密教的経典で戒律を
犯した場合儀悔の方法を放き明しておる。
亜
魂に智顎も津南血税劣由の戒律を叙する靡に於て麗容戒経を引用しておる位であるから威容戚菩薩の連
台的解繹をなした人によつてされたと想像してよい。
蹴横波源流諭
寺の大彿が華厳宗併立のものであるといふことは否定し嫌いと思ふし・又畢に戦虚容戒経よりの立詮だけ
又盛宴蔵書薩を搬虚重蔵経によつて考経せられたヱとは全く敬服の外なく一之に真ふて立論したが、但私
判る。︵小野玄妙氏の沸教之美術及歴史に於て同氏が東大寺の度合那彿は梵網任所詮によつたものであると説かれ
之によつて見ると最澄の画境或は東大寺大彿建立に囲聯した背景の偉大な思想に汲々として通じておる
如何しても之は百錬の督鰻の文を漁想しなければ成立し得ない。
であると解することは出来るが、之と虚茎蔵書薩との閲係に就ては正縫な連鎖の茸料になるものが見出し
忙普つて梵網経の敬重も華厳経の教主も天台の敦判より眺めて同一であるから、梵網経の教主としての慮
戎の並列の薪は判明するが、之と鷹合邪彿と如何いふ願係があるか不明である。又天台系で度合那彿を見
戦塵峯戒経を知ってゐねばなし得ない肝である。言ひ携れぼ単に密教的造像問題より解辞する丈では載音−虚客
東大寺大彿と虚重蔵とを合せ考へると観清首線の文なくしては考へられな小し、之を更に軍曹と配する
すに苦しむ。
之は道婚の如き巨匠の考によらなけれぼ成合那彿の脇士に一見不釣合に思はれる虚峯戒観音を配した理由
事賓としても、之を解輝するに督つて天台的に解しても梵綱経の本尊として解しても一向差支ないわけで
又天台系では梵納経を華厳経と同一に考へてゐたから、東大寺の大俳が華殿宗ゐ本舎であることは動か
舶
皿噴成源流論
′
合那俳と虚室兢菩薩との閲係が不明であると思ふ。その粘を力説して見たが禽否は御叱正を賜り度い。︶
四六
虚峯といひ、不動といふは大乗的の表現では法隆々言ひ表し般若の別語である。大智度論にその説明があるの
みでなく大品般若にも観取出来る。繹牌御節論忙は屡々この種の説明がある。大日経疏では虚重蔵菩薩は自性清
浄心を本鰹としておることが述べられておる。︵大正一切経二二十九巻、六三五菜e及び六八一頁8︶
又諸法無行儀谷下︵大正一切経、十五番、七五六貫以下︶には般若的の解繹によつて不動の相を説明しておる。又
蓮磨の繹法より眺める時は虚峯といひ、不動といふのは屡空言ひ表はされる語で直指人心見性成俳の別名と見れ
ば見れないことはない。彿は戒を持せす戒を犯さす善悪を造らず、若し彿を覚んと欲すれば性を見よといひ、動
は心を離れず、心は動を離れす勒にして不動終日去来すといふが如きが澤磨膵の筆法であるからこの方面からも
虚室不動の言葉は共鳴鄭を蕾見し得る。
之によつて中諭思想を中心とする園頓思想.如来繹.密教思想、大乗戒の戟念は背この虚客不動の川字で表現
せられておると考へるのも混紡ではないと思ふ。
最澄の唱へた園密膵戒の閃は執も奈良朝南都六宗以外の教理である。法華研究は盛大であつたが濁宜し窄宗と
して立ってゐない。撃ハ宗の附属研究であつた。密教も相常爆発したが未だ二宗として濁立してゐない。蹄宗も
蓮磨辟の渡来は明白であるが萄宜した宗としては存立してゐない。律は四分得宗のみ勢力を棒大乗或はその附静
事業の様な状態である。官寺檜綱の規定では必ず出家たるもの形式的には二百五十戒を具足せねばならぬと張ら
れる。
46
之によつて見れば放任は全く南都六宗に寓せざる奈良朝に粛芽を草した新興教導を一事に収めて自己の手にょ
0
って公然と出訂晴れた宗として成立させ髭いとの念願を立てたものであらう。
南唐註経盲。関大乗戒菩薩断筆。撃開成律儀。亦得是菩薩庚撃不。答今以四教料簡。初大小相隔者。如此隆起一念二乗心。
単二乗経律。帥犯軽垢罪。法華食替小乗三戒聾者不興共任。二以大斥小者。経度虚妄心浄故衆生浄。心垢故衆生垢。不出於
次に嶽戒諭引用の南唐道暗の証梵納経の文に就て考察する。左に全文を掲げると。
000000
闘頃戒汝流論
之によつて彼の文の億といふわけには行かないことが判る。たゞ趣旨に於て同一であるといふ意味である。
︵績戚、第一轟、六十奮、第二那、官七十二左︶
四具線有四一是大乗法、二起彼此恕、三心背貫井、四捨大費や便犯背大内小、向外亦厨。剰
盈、著起〓腎二兎之心帥羞犯。翫
原種性送破腰蒙、俳子之行頃成蔀僻、連行之甚放資聖制也、大般若経戒品云、若菩薩親疎伽沙却受妙五欲、
不得背大向小成第八文前七門
初利恵者、蕗菩薩着任十倍之倣十任之位、名習種性人、唯捨邪法、膵正法、背小乗入大乗。今力捨正蹄邪、
の引用文と同一の債鬼を智周の文に求むるならば次の文であらう
最澄が道稽の文が智周に同じといふのは勿論趣旨に於て同じといふのであらう。今現存する断片より張て最澄
台法撃宗健二経意、暫一十二年相隔今修何帝聖教。
汝等併行是菩雪。漸漸修撃雷成俳。叉大経云菩薩摩討薩持四罪禁裏嘉敬重豊固等無差別靴音署栗岡此祝、天
如。叉迦発破呵一男我徒是凍。不復勒人以蟹聞辟支併行。三調伏接受小乗者。一切登地以上曹薩。現作二乗
而調伏之。捉是三十貿菩薩。著出家者。一々普受行二乗戒泣。及欲接受。不興二乗而相邁音。四開小人大著
47
用頓戚源流請
四八
顛戒論の文は小乗具足戒を粟給して純同大粟戒を新設せんとする最澄の理論的根醸である。此が源泉は
ぁり、その説は亦智闇に同じと最澄は彼の園顧戒設立の新運動の理論的根膵を提供しておるのである。
この道堵の大小相隔の思想は飽迄理論的根はであつて、最澄の如く之を箕行運動迄には進展してゐな
即ち道楯は行馬の上では四分律が支配してゐたことは、智顔以下支那天台単音が小秀典足戒を井持し
同一であつたと言はねばならぬ。このことは東庸法進から梵親戚疏の訓を聞いたといふことも同様のこ
得る︵俵憑天台集︶と思ふ。
法進も囲分律を保持してゐたことは明瞭であるから今最澄の此等二先輩に畢ぶ鮎はその大乗戒に閲す
根披でなけれぼならぬ。然らばこの顛戒論の場合は道場と智周とを並立して考へてもよいのではないか
そこで遺療の註経が散逸しておる限少、文献の現存する便宜上之と同一の理論的棋蟻を提供する撲陽
を考察してもよいと思ふ。
智周の梵納経の鮮輝はその中心的内容は天台陸封止敬に依り而も注目すべきは、摩討止親第四の智顔
や義疏の解繹によらすして、寧ろ短刀直入に摩討止報の六郎の説を理論的根接としておることである。
而して二阿に於て法戒の分類形式を躇習しておるからその方面も注意せねばならぬ。明凍は法戒の梵
通過しなけれぼ如何しても説明のつかない紆膵が多々あるがー智周も叉法戚の戎本疏を参考にしておる
白である。もつと露骨にいへば法戒より智周に来智周−法戒南方豪明痍が知って各部門の分類を既定事葦として
明示せす内容を同様な進み方で解繹しておると考へ得る。今形式の上で智周が法戒に畢んだ粘を指摘す
4β
I−、︶
︶、、︶、ヽ
然るに智
︵
′l
′−11、
−−−−−1−/︶−−.1−′、 を僻する場合法或は、第一不殺生を挿する段に於て十門に分つて詭明しておる。↑御蔵、仁次弟.主#名・個具
1
線.左別線、六軽雫七得報、伍通琴九封治.十繹文としておる。︵大正一Ⅵ鮮、四十巷.六〇九東上
、1ノ
周は五門を以て不殺生戒を解辞しておる。即ち
100、・・・′00︶001Iノ00\ノ0 ↑制不殺意、亡繹不穀戒名、仁具線成犯、恩納穀菜得報軽雫五勒断殺持戒、である。而してこの外に正繹戒
文を別にしておるから合計六門となる。
0
第一制意に於て十意を挙げておるが、之は全く法戒の説明と一致する。殆んど速字的に︼致しておるといつて
よい。第二の繹名は法戒の夢二と同一である。夢二具線は法戒の第四具線と内容が一致しておる。
第四の得報は法戒の第七得報と同一の文の内容を有しておる。五の内容は法戒の第九封治の内容と全く等しい。
そこで法戒にあつては智何にないものは次第と閑線と軽重と逼塞とである。他は全く等しい内容である。
其他各五十八罪に就て比較すれば殆んど一致鮎を見出し得るが今は略して最澄の引用した文章と同一趣旨のあ
智周は第八軽罪の内容を七門に分猿して説明しておる、法戒によれぽ八門である。即ち制意、次第、渾名−具
る債鬼を調べて見やう。
︳ヽ一ヽヽヽヽヽ
線、閥線、軽重、逼塞、繹文である。
ヽ↑ヽヽヽヽヽヽ
智周は七門といつておるから一見一門不足の様であるが繹文は別宜しておるから法戒と分頬形式は全く同じと
見てよい。而して内容も途字的に同一であるといつてよい程である。
斯く分類形式に依って法戒智周明勝彦見るとこの第八背正向郭戒に閲する三者の見解は汲々相通するものがあ
州境波線流論
′l
姻
囲岐戒源流論
るといはねばならぬ。
従って最澄が道痴の註梵網経の文をその小戒葉陰の理論的根濾とするに雷つて採れる態度の源泉に閲して私は
意味の上に於てもつと範鼠を拡大して之を法戴、智周、明靡紆文に求めることも敢て不昔ではないと思ふ。︵明瞭
の背正向邪戒の説明の文l‡大正一切経、四十巷、五九一貫を参照され磨い。︶
戒に脱する大小相偏の思想は前述の如く之を智語に求むることを得.湛然の将にも明瞭にしておるし・明療勿
論その意を汲んでおる。今述べた法戒、智周の改も固振であつて考へ方から論ずれば充分支那で凰熟しており、
言はゞ費火粘に達した乾草の様なものである。
之に火を献じたのが最澄の小成案捨の葦際運動でこの鮎道噂にも法進にもなかつた潜度と言はぬばならぬ。従
って最澄の心許上の確心を葺際化した歴史的事賞の認識に限を向けねばならぬと思ふ。
︶
e
︵
奈良朝に於て僧侶となるには必ず南山道宣の流を汲む四分律宗の具足戒を正しく受けねぼならなかつ冤苛も
出家たるものは東大寺か下野薬師寺か筑紫犯世膏寺かの一に登って受戒せねぼならぬ。
然るに南都六宗は公然この僧綱の上の認可括を覇握してゐ.たが、他の辟拳、法華拳、密教拳.浄土筆捏柴草、
地諭畢等は宗とじて成立し得ない展め、公然の僧綱に於ける代表権を保持しておらぬ。即ち眞の意味の猥☆植の
ない研究で之を自己の根本敦撃とする時は他に従撼せざるを得ないといふ悔みを有った。
最澄は齢朝後大同元年冬十二月二十二日叡山止観院に於て画澄以下盲飴名に勤して囲停戒を授けたと樽へられ
占ク
る。しかし之は公然と天下に園頓戒によつても出家し得るといふことにはならなかつたのである。たゞ天台一門 朗
の人々の間にのみ行はれた事柄で、勿論未だ出家たるには小乗具足戒を受けねばならぬし、貰際問題としては東
大寺等の世話にならねぼならぬ状腰であつた。
最澄が之を公然と天下に向つて貫首したのは五十二歳、弘仁九年五月十三日以後のことである。彼の死は弘仁
十三年六月四日、五十六歳であるからこの間四ケ年の僅かな奮闘であつた。
今この事箕を調べるに嘗って叡山例の文献は現存しておるが、南都例のものは殆んど残ってゐないのは遺憾で
ある。東大寺景深の迷方示正論七篇は晋顛戒論扱超十巻に載せられてゐたといふが、その下巻も散逸して全く研
究の資料を失った。最澄の顛戒諭の巻首に収められた僧綱の電︵檜最澄奉献天台武並表不合致理事︶が唯一の文
献であるが、大鰹は顛戒論等庭々に引栢され反駁されておる文を集収すれぽ線醍の意向が何庭にあつたかは判明
する。叡山側は比較的散逸せず次の如くである。
最澄のものとしては
天台法撃宗年分畢生式︵六膝式︶
勧奨天台宗年分畢生式︵八條式︶
天台法撃宗年分度者向小向大武︵四條式︶
請立大乗戒表
蘇戒論三春
踊頼政源流論
捕虜波線流論
上期戒論表
顕戒論縁起二巻
猶弟子光定の樽蓮一心戒文三春は重要なる文献であること望一一三を要せぬ。
今六條戒によると最澄の主張は斯うである。
ヽ
国男とは道心である。道心ある人が国賓と名けられる。能く行ひ能く言ふものが国賓である。之を西では菩薩
と耕し、束では君子と壊する。君子と菩薩とは同一の異名である。︵彼は眞俗一貫の理想を述べ聖徳太子の御行跡
に随順せんと試みておる︶
坦家には小乗の類と大乗の類とがあるが、今我が邦では寛際は小乗の額のみで大乗の察が放けておる。此慮に
於て観出たる菩薩伶を養成せねばならねと力説した。
この六株式と八條式とを最澄が作った後更に一段進んで南都に封して戦端を開いたのは弘仁十年三月十二日の
請立大乗戒表である。之は最も最澄の主張を簡単に開明しておる。
請立大乗戒表
抄門最澄言、最澄聞、如来制戒随應不同、大小亦別、文殊風虚、上座別使、一師十師、掲磨金具、カ有絵筆宗年分爾箇得
度者、萱天桓武警茅、除法撃宗、新併開建也、伏惟弘仁元聖文武皇帝陛下、徳合乾坤、明並日月、文薄穂首、銀鈎新今、
萬国歌心、師事蹄牝、定冶制龍、今正是時、誠願爾発出家、永過小乗儀、同名大乗儀、俵法華経制、不変小律儀、毎年春
三月先帝国見日、於比叡山寺、典帝押出家、霊晶抄珊、望最大戒、亦食菩薩附、帥便令佐山値毎〓十二年、禽囲家筋
一
護.福利群雄、娼畢地利具知謀式等、天恩開許、先帝高願我々珊興、大乗戒球祀々清浄、弘仁烙渡、俸此大成J型博戒廠、
占β
搭蒲主上.療任誠懇之至、謹奉表決綿以間、債厳仁潜腸重罪泉、軽度漉覚、迫埠職汗・苗雷、弘仁十年三月十二日。
0000000000000000000000000000
阿併波振流論
適法教、如是人等、徳高於時、都無臭準而借最澄未見唐都・貝在逸州、即僻遠釆、今私蓮式、趣廠奉献、英文洩漏、事
著療逸州開拳失、何況此蘇自然智也。︵大正一切経、七十田巻、六〇四克b︶
した意味を含んでおると思ふ。
味はないといふ聾者と、師承を待たざる猫悟の聖者といふ意味であると解する単著とあるが、私は両方とも合致
この中比蘇道蒋の自然智の解梓が拳者の間に問題になつたが之は滝野智といふ意味で師承なき猫悟の聖者の意
000000000000000
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
恰銃奏日最澄只在過州印倣達雄、馨知天下警食堂、併之芸、狛難室行、註盛之軍
00000000
錐不巡天下諸寄食堂、巳竺隅、亦得新制、英文云、合天下食堂、紀文殊上座、嘗今節奏詮誤之事、未見過州
開示見庸一隅知天下上座明墟十八
最澄は之に勤して有名な次の旬を以て駁しておる。
0 0 0
理不詳。
百済王奉渡傍注、聖君敬具至今不純、入唐畢生遭照達意等、社逢明師、拳業抜革、天竺菩提、唐朝嬰眞等・
ょって知ることが坦来る。その中注意すべきは
南都仰の悪度は如何といふに弘仁十年五月十九日の沙門護命等彗一口、伶最澄奉献天台武井奏不合致理事の文
下に捧げたが間もなく右大所長峰の手から右牒状を返されたといふことである。︵大正︼切経、七十四螢、六三入賞︶
に附し、伶綱より七大寺に告げ七大寺から一乗戒無き軍最澄の奏状道理なき事を記した牒を捧げー艶物之を隣
俸述一心戒文巻上によれば四條式文を立春寮頭眞蘭宿細雑物に腸ひ、難物冨臼を承りて僧綱の首たる侭都誰命
朗
回顧戒源流論
五四
さて上奏文の連署は藩命、長憲、在狭山池肝︵三論の勤撞か︶施牢、豊軍修園、泰演、の名がある。
幹命は法性宗二元奥寺の任、長慧は禅宗、施牢は得宗であらうか、璧安は唐招提寺任.戒律将来記の著者とし
て有名である。倭国は賢寮の弟子で興扁寺任、泰演は西大寺任で法相宗、即ち法相宗と四分律宗との肝臓伶の連
署である。
之を以て観れぽ伶綱は南都の各宗から選ばれて任命された伶が務めるのである。即ち治部省に属する公の機園
である。而も新興彿軟から視れば殆んど南都六宗の人々に由て公の確聞を左右されておると考へられる。弘仁十
左二月二十九日最澄が朝廷に呈出した反駁書に﹁大同二年より弘仁十一年まで十陶ケ年間に養成した年分度者
二十八口の大牢が詠に障って散った﹂事賃を述べておることは終に囲頓戒建立の外的横線である。
○
璧道が来朝後上皇に授けまゐらせたのは梵綱戒であつたことは否定出来ない。たゞその内容が古き梵納本によ
ったか、理路本を琉受した未だつたが、漁伽威儀通過した戒伐か細何かは判然しない。席日本紀春十九の﹁菩薩
戎を有つことは梵綱踵に本づく﹂といふ記述や法進の註梵綱経の存在したことや.竪眞停の天降甘露又は感天雨
甘露より甘露壇の名︵之は梵網経の旬から探ったものと私は考へる︶を採ったこと等より欲すれぼ梵網経に通じ、
之を講じ、何等かの形式の梵納本によつて授戒を行ったことは否定出来ない。
又最澄の顕戒論によれぼ従来は小乗具足戒と倶に梵網戒を授けてゐたが之は自分が腐蝕の三諦を以て梵綱を解
繹するのと雲泥の差あることを指摘しておる。
∂4
梵綱之戒.⋮維先代停、PJ此間受入、兼併同意︰︰︵大正一切踵、七十四巻、六−○頁。︶郎ち桑濯以前には梵網戒と小乗
具足戒とが併用されてゐたといふのが常識であつたと思はれる。
固頃成源流論
蕗記、周易、白虎通、孝経、訝雅、祝文
下、智度諭、五分律偶、浄土論、
算辞、菩薩成上、普噸軽、襲積裡、仁王軽、起信論、入大乗論、法華経、撃腰経、金剛経、憬戒律、苔藤波序文、
小止蔽、大品経、捏奥裡、法撃経、新書金光明鮭、経歴好、四分痕軽、唯識論、尊見律、婆沙静、父母恩空挺、菩
今その主なる引用書名を出せぼ
解梓法を知らねばならぬ。汐弼威儀経疏に於ては可成渾山の書を引用をしておる。
瑚分律を中心としてゐたこと望一口ふ迄もなく承認されやう。葉網経が散逸しておるから間接的方面から法進の
法進は璧眞の弟子であり、四分律に節する受戒の方軌も今に現在しておるから、この粘からも停記の上からも
述べた奈良朝時代に渡来した支那、朝鮮の梵網経の註群青の内容を観るとこの事は是認されやうと思ふ。
之は常時流行の唸伽論菩薩地の三乗渾戒の鰹系によつて之を総合したといふことはあり得ることである。前に
である。
問題となることはこの梵嗣戒と四分律とを併せ授けた場合両者を統一する解繹将帥は何によつたかといふこと
あらう。
璧眞が上皇に梵綱戒を授けまゐらせた後衆檜に授けたのは南山遺言の四分律であることも否定出来ない事箕で
∂∂
囲頓成瀬流論
五六
元来、沙満十戒威儀経は小乗律部に属する薙書で、而も入門の心得を書いた低い程度のもの甘ある。之
て斯くの如き、大小乗の中心的経論を引用し、係数以外の聖典迄も言及しておることは如何宜法進がこ
戒攣竺憤りて常時の僧侶に自己の考を吐露せんとしたかが判明する。之によつて彼は自己の抱懐せる道徳
に宜明せんとしたことは明瞭である。
彼は小薬具足戒を修して犯さざれぼ阿羅漢果を得、菩薩戒を受くれば最膠彿果を得と遊べて怠るが故に
を最高目的としてゐたことは明白である。その天台止戟の二十五万優を抄適して怠る鮎より見て歩くとも
本敷革は天台教拳であつたことは確賛であると思ふ。今の問題で重要なことは菩薩戒といふのは梵網経そ
を指し、撃落でも璃伽でもないことである。
従って彼の梵駒経の解繹には天台の教理を以て解辞したものと推定して誤ないと思ふ。
法進の解繹も道噂の解繹も同じであるといつた光定の言葉はこの粘からも誤甘でないことを確証する。
而して法進の舌ふ菩薩戒とは畢尭梵綱経を意味するが故にこの粘からも寧竺次が梵網戒を保持してゐた
は否定出来ないと思ふ。彼は菩薩戒序文として﹁小罪を軽んじて以て執なしと展すことなかれ、水の液り
りと雄も漸く大器に盈つ、剃那の造罪換無間に堕す﹂といふ文を引用しておるが之は塀に梵綱脛の下巻の
ぁる。彼は大乗或は心を重んじ、成彿に至る迄謝せないが∵野間或は但身口のみの防非lヒ悪が轟形詩のみの期間
であるといふ。之は明白に大乗的解繹の片鱗を示すものである。
璧眞が多賢塔を戒壇に安置したことも、梓迦、多琴一価並庭を行ったことも支那常時の流行である法華
依憑したことは明かである。この粘からも璧眞一波の戒律観は如何しても天台的ならざるを得ない。
囲頃戒源流論
相系統の三果浮戒の分類に俵つたことはあり得訂。この鮎しかし経たる許嫁はない。たゞ間接的な推定を下して
に依って大乗戒をも軽け得る様にしたといふことが出来る。又出家の具足戒には四分律を用ひたがその解輝は法
従って誓興の戒壇は望旦の戒壇固経によつて建立し、四分律を授けるを主とし、加ふるに常時流行の法華思想
この駄犬に天台的である。之によつて道宣の基礎拳は法相、天台にありといふも過言でない。
容としておるがー戒違憲三尊を一元に節し、一戒一切戒の思想により.定も慧も皆戒ならずと言ふことなしと、
之と障聯して彗且の園敦の解繹は相常夫台智顔の影響の深いことを認める。彼の国数の或は法相唯識思想を内
︵績萩野、第一霜、六十四套、第五那、四二八頁左︶
欲了芯情須知忘業、故作按受還薫忘心、於本成就成菩種子、此戒健也
彼の戒鰹論は法相宗によつておる。即ち四分律掲磨疏によれぼ
純な小乗四分戎本その健を護持してゐるものではない。
からその解輝は大乗的で殊に法相宗的教理と天台の数理とが重要な基礎をなしておる株である。従って印度の軍
足である。之によつて受戒者の捏菓詮得を表現したものである。遺宣は表面四分律を採朋したが分過大粟の意味
勿論遣宣些二束の分類を知っておりその著に於て充分この語を用ひてはおるが戒壇国経の指示する三成壇堅二
と見る方が正しくはないか。
南都の戒壇が若し望見の戒壇固経によつて建立されたとせぼ三重、三解脱門を表するのみで未だ三果を示さず
∂7
鳳暖波渡流論
断定するのみである。
学者政之に警造に後世の史料に掠って立論して雷・殊に凝然の詭は相雷重要な地位を占め
凝然の憩度は正艦姦る史鱈を叙述して富ものとのみ認め讐。常時南都側−叡山仰は相互に散財行讐採り、
相互に論陣を張っておつた。従って凝然は南都の態度を擁護する人であり五十年も南都に立
南都彿敦の昔日申柴を嘆要することは止むを得ぬ雪雲。彼の著述に現れた表現が思建なる史
のとして論経の棍按とする時は往々にして歪める事砦基警することになる・この警洞察して
ないと自己の論的根接が大にぐらつ一いて来ざるを得ない。
例へて言へば彼の俸邁縁起に於て鎌倉新彿敦の南宗膵に謝し奈良朝道癌の北宗膵の傍系が
きかを詭き∵眞言に謝し弘法以前奈良朝時代の薯無畏渡来詭を力説七ておる。
今天台敦漂言ふ迄もなく璧遠来警正系とし、大書戒に警最澄のいふ如く大小交雑の戒律に
以を説明し、純園頓妙趣成の戒なりと高調してある〇
禅宗の條下に於て
併立戒場恵三軍壇、表大乗菩薩三翠浮浪、故第三重安多㍍塔、塔中毒迦多撃−漂、去〓罪深妙嘩智冥谷之相、誓和
偽宗研天台、神弘四分、雷宗分由夫東、祝儀内諾天台敦宗、立噂弘律、−奏法東関霊妙、枇尼聾者帥大乗撃、五慧釆
印度詞紆、第一義光非青書、三辟五戒八戒十戒沓是壷妙、摩穿、芸大乗三軍実八八萬頓諾
雷、⋮⋮⋮⋮⋮・・和倫弘律、猶非待免、覚渉蔵盛典門之義、雷知純跳頓妙棲戒、併給戒
受戒活着、温受刑機敏三繁殖逼之燈J別愛別成三条問餌之養。組師和伶博戒東根宙鹿東砂、意致知新、璽峯人於此戒壇・
占8
各受流津、随宗立哉、曹是大乗一畢境界、
又日く
日本自昔唯有大乗堅入行者、本自無有小乗行人。
奈良朝の彿敦文献は記鉄によると非常に豊富であるに拘らす、その現存するもの極めて少く、食めに正確なる
昔時の事葦を知ることは極めて困難である。叡山側の文書や南都方の文昔が夫々客槻的事豊を恩賞に叙述すると
いふよりは寧ろ各々の立場から一種の目的論的の方法から述べておる薦め今より耽る時は多少歪める事賞しか眺
められない。ありし建の要を知るのは容易な技ではない。
四分五分十諦檜舐四部辞意必兼愛十戒、然後棒具戒不同外道一各項受、併滝如大海漸探漸入也
0000000〇
東大寺戒壇院受戒式は叡山の鯛W度を論破する意味が含まれてゐないであらうか、即ち次の旬によつて之を知り
る0
.
護命を王とする南都六統が最澄と封抗した時に於て塊伽威の三果浮戒の中の横棒或は小乗の具足戒を汲想して
おるから普時採用した閤分律を大乗的に擁謹する時は琉伽誠によつて最澄に反駁を輿へたと想像することは可能
である。
南都の或は塊伽戒なりといふ主張は南都の六統が最澄と封立して四分律を擁護する拐合漁伽菩薩地中の三乗の
中の硫律儀戒によつて之を解精したと考へる鮎に於て是認せられるが要具の解輝が如何であつたかは史賓の敬す
べきものがない病め不明である。
固横波源流論
甜
団横波源流論
諾経の将帥蛋受出雲あるから最澄が嘉によるといひながら雷買主としてゐた
納経は道俗通戒であえと警られるから俗にあらて蛋雲あるが・袋にあつては具
を重受するのが普通と解せられてゐたと思ふ。
従って四分を表看警する昔時にあつて鱒梵綱と穿と霊列すれば2姦伽菩薩地の精警解するか、宗
造俗要で空から出家者は更た旦宮戒毒すると思惟したものと思ふ。従って解繹
最澄は理蕗中心であ少、南都蒜伽中心であゎ、票は着通受の嘉と坦家畢受の四
する。
羞博士は宗教研究特輯教﹁最近宗教研究思潮﹂1=虚数大師の豊戎嘉ずLを1容斐﹂竿天平文化史論に1柑敦大師
の法豊嘩冒大要空に於けろ位置な聞明寺Lを、1相性﹂等、ニに1南都違論﹂を、﹁藁﹂巷七、巷八に1聾眞利侶
岩本文化及かその故址につきて﹂な揚載し、四要が相互に漂書L芸箸孟誓言れて雷。
その後大正大草教授二宮芙氏は﹁大正大草畢報﹂第五輯に1義博士の閻頓戒論な謹みて﹂誉論文姦げ、措いて構起
語日氏は﹁宗教研究﹂薪第豪雪既に1囲頃戒に廠富て﹂を書き、清澄誉論戦姦開﹂㌔
葦此等量誉論文妄ふて更に別方向より︰の間虜に興味憲つ嘉ギ見宗、多少以上諸氏甲静粘に組元ろ=嘉
ぁってもー々引用L光かつ㌣から、その粘御含みの上環よれん=ミを望む。
β0
ユダ
ヤ教徒
二
ユダヤ軟徒パウロ
パ
ウ
ロ
三
枝
義
夫
これ等の引用文がパウロの過去について言及した全部の箇所である。先づ私蓮はこれ等の旬を中心に彼の人と
我もイスラエル人にしてアブラハムの裔、ベニヤミンの族の者なり︵ロマ一一、一︶
りき︵ガラチャー、一四︶
又囲入のうち我と同じ年解なる多くの者に膠少てユダヤ教に進み、わが祖先蓮の青侍に勤して甚だ熱心な
べき併なかりし者なり︵ビザビ三、五!六︶
人なり。律法につきてはパリサイ人、熱心につきては敦曾を迫害したる者、律法によれる義につきては責む
我は八日目に割鰻を受けたる者にしてイスラエルの血統.ベニヤミンの族、ヘブル人より出でたるへブル
然り︵コワント後一一、二こ︶
彼等へブル人なるか、我も然少、彼等イスラエル人なるか、我も然少、彼等アブラハムの裔なるか、我も
あるために、ここからユダヤ教徒パウロの生活と思想とについて充分鮮明にすることは出来ない。
キリスト教徒に同宗した後に、パウロは回宗前の過去について些一三度簡単に告白して居るが、趣めて簡決で
βJ
ユダヤ教徒パウロ
六二
なり生ひ立ち、その思想生活を観客して行かなければならない。即ちパウロ自身のいふ肝によると、。ハサロはイ
スラエルの十二支族の一つ、ベニヤミン族出の純粋のヘブライ人であつて、とのヘブライ人パウロは父敵停来の
ユダヤ教の規定に従って生後八日目に割縫を受け、パワサイ人的訓練を受けて律法の熱心な寮行者になつたとい
ふ。
この簡単な過去の経歴を我々は更忙詳細に明瞭に考察して行かうと思ふ。この或部分は既に宗教史拳的方法に
ょって充分解明され、そして或部分は今に至るまで、異常な努力が排はれて居るにも係らず、異論百出未だ充分
に解読されて居ない状腰にある。而も最も異詮のあるところはユダヤ教徒。ハサロの思想生活の線醍を綜合し一粘
に凝縮し、それを批判し、そこから韓向せしめた回心の動機内容である。資料の極めて僅少なるのと相倹って、
問題の内容が極めて複雑多岐に亘つて居る駄にこの問題の異常の困難性がある。
〓
後に再び充分に吟味するが、この間題に封する解繹の最も新たな最近の傾向は.此等の過去告白においてパウ
ロは常に過去の思想生活に謝して後悔と不清とをもたす、反って反射に誇らかに過去の経験を述べて居るといふ
︵一︶
解繹である。就中ビワピ書において﹁律法によれる義につきては貴むべき肝なかりし者なり﹂と彼の律法生活に
おける充全な滞凪が示されて屠るとする。
︵t〇
﹁彼は回心者として蓋恥の感情で過去を罪過の中に堕落した時代として顧みたのではなく、むしろ誇少の感情で
顧みて居る。彼は重荷から解放されたのでなく、誇らしげな過去を犠牲に供したのである﹂とブル†マンはいふ。
♂β
ここからユダヤ教徒パウロの全思想生活を類推し、従って又彼の回心の内容と意義とを新たしく解解しょうと 関
するのである。
。ハウロがべ一lヤミン支族出の純粋なユダヤ人であるといふ彼の外面的生涯を、此等の引用句から決定すること
は趣めて容易なことであるが、その思想生活の全貌を、この僅かな簡単な一旬からいきなり推定しやうといふこ
︵三︶
とは極めて不用意な胃険であるといふ非難は決して避け得られない。
先づ私溝は、これ等の過去の告白が如何なる事情の下に如何なる目的をもつて述べられたか、その時の特殊な
事情を考慮に入れて考へなけれぼならない。これ等の人選は一般にこの背景事情を考慮の中に入れないで、いき
な少この一句を披き出して、そこから全鰹を類推しょうとする。不用意な胃瞼であるとするのはこの鮎を指すの
である。
コリント復啓において過去を述べて居るのは、昔時同数圏に権威あるユダヤ人︰ハウロの言葉によれぼ﹁偽使
たはかり 徒﹂︵同一一、三︶﹁詭計の労働人﹂︵同上︶﹁キリストの使徒忙扮へる者共﹂︵同上︶が凍て同数囲にユダヤ主義を
鼓吹王張したのに勤して、との愚を意識しながら彼等と比較して自分も亦生梓のユダヤ人であることを誇ったも
のである。﹁誰も我を愚と思ふな。もし然思ふとも少しく誇る概を我にも指させん馬に愚なる者として受容れよ云
云﹂︵同一六−二こといふ長い言辞をしながら誇つたものである。ビリビ書の場合も全く同じ情況の下において
であつた。﹁もし他の人、肉に悼む併あ少と思はゞ我は更に悼むところあり﹂︵ピサビ三、四︶どりビ書における過
去の誇りも亦或ユダヤ人がユダヤ人たるが故に誇ることと比較しての誇少である。ガラチャ書の場合もユダヤ王
ユダヤ教雀パウロ
いふ旬は、紳は
についていはれ
ユダヤ教従パウロ
六四 義的キリスト教徒を考慮の中に入れて述べたので
を感ぜずに只誇是け姦じて望のやうに誇らしげに述べた
雪た粘においてのみー他の吾人でユダヤ重義に熱心で雪
ある。従つてここからパウロが自己の誇つた過去をー直
もう一つの論警省略した飛雁であぇ。︰書における過去の告白k全くこれと異誉状況のもの
て居る。﹁我基イスラエル人にしてアブラハムの裔ベニヤミンの族のもの菅﹂︵二、こと
¢こ
恩莞選によつて遣れ
その民イスラエル塞く見捨てたのだらうかといふ自問︵同1︶葵て1今も窪恩蕊の選によ
りて過れる者あり﹂︵同五︶自分若の一人として欝て居るので考自分蒜純にユダヤ人であるにも係らず
ダヤ人はあし着
る者の一人であるといネ言葉である。特にここで豊すべ
ないと⋮雲異同六︶。過去の行鰯の結東正よつて選ばれたのではない。すべてのユ
ヤ人品いたか
警よつて贋い宗・その中から或苧の者窄けが過去の窟の
よつて救荒たのである?従つてこの語はこの1漁足芸警r匡夏訂○−・ieと・何故ユダ
といふ彼のユダヤ人禦ら著され露れぼなら友示。
よりた¢
れ
イスラエル芸の律法を追求めたれどその律法量らざりき。何の故かl彼等造仰によらす行盛元より
て追求めたる故な少、彼等は庶く石に警た乞録して﹁親よーわれ贋く石、攣る岩警オンに置く−こ
に依頼む者違められじ﹂と雪が如し︵ロマ九三丁三三︶
β4
と。ここではむしろ律法を資践窮行するすべてのイスラエル人は、律法を追求するけれどもそれに到遷し得ない
といふことを述べて屠るものである。.ハサロが過去を追想して自分も亦イスラエル人であつたと認めざるを得な
かつた時に、そしてすべてのイスラエル人は行膚によらうとしたが故に贋き、自分も亦行男によつて選ばれた着
甜
JO訂冒針we訂がいふやうに:ハサロは過去形をもつて自己のユダヤ教徒時代の
でないと感じた時に、パウロ自身の過去の律法に謝する賓践窮行は誇らしげなものであつたと推定すべきであら
うか。然しヨハンネス・ワイス
︵四︶ 経験を述べて居ない。ここでも亦後のキサスト数的立場に立つて一般人類について述べたものである。
パウロの過去は一朝にして類推することは出来ない。前提的な諸鮎を明瞭にして本間題に入らう。
三
使徒行停の停へる肝にょると、パウロは人々から﹁クルソ人﹂と呼ぼれ︵九、一一︶自分自身も亦明かにクルゾの
生れだといつたといふ︵ニー、三九、二二、三︶のそしてパウロの父はパワサイ人であつたので︵二三、六︶彼も亦
長じてエルサルムに行き、そこで常時の著名な律法拳者ガマリエル¢am已ie−の門に入って同様にパリサイ人的教
養を受けたといふ︵二二、三︶。パワサイ人修業のパウロについては使徒行停の中でパウロ自身がいつて居るとい
ふ言葉と.彼が書輸の中で告白して居るのとは全くその勒を一にして居る。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ一
我はユダヤ人にてキりキヤのクルソに生れしが、この都にて育てられ、ガマサニルの足下にて先組遷の律
法の顕しき方に淳ひて敦へられ、今日の汝等の如く紳に謝して熱心なる者なりき︵二二、三︶
といふ使徒行停の記事と、ガラチャ書におけるパウロ自身の次のやうな述懐とは全く同じである。
ユダヤ教従パウロ
ユダヤ教徒パウロ
又国人のうち我と同じ年輝なる多くの者に膠りてユダヤ教に進み、わが先姐澤の言停に謝して甚だ熱心な
りき︵ガラチャ一、l四︶
と。同年幣の仲間を邁かに凌駕して、殆んど狂信に近い熱心さを持ってユダヤ教に精進して居ったのであるとい
ふ。此等の旬の眞償を疑ふ理由は今のところ全くない。
以上の叙述は、更に宗教史的研究によつて極めて萱富な内容を盛ることに成功した。先づ彼がクルソに生れた
といふことは彼にとつて極めて重要な影牲を及ぼした。クルソはロマ嶺キサキヤ地方の首都で、世界交通の要路
に普少、小アジアとシザヤとを結ぶ有名な古い都、ギワシヤ人や各地の東洋人が相混じて居住して居ったヘレニ
ズム文化の瀦衛した代表的な都曾であつた。だからかうした都市に生れ育ったパウロが、かうした都市の持つ文
化習俗の影響を必然的に或程度まで受けたと孝へられなければならない限少、抑くの初めからパウロがパレステ
ィナのユダヤ人と極めて相違して居ったことを先づ第一に看取して置かなけれぼならない。﹁パウロがクルソ出で
あることは決して偶然でない。世界使徒は世界交通の古都の出であ少、彼の故郷自身は彼にとつて、小供の時か
︵五︶ ら一つの小世界であつた、その中には地中海世界の大きな古い世界が存在して居った﹂パウロが後に敢行した世
界停道の大事業は、全くこの﹁小供の時から﹂の世界主義的環境の影響によつたと見ることは是裔されてい1だら
う。常時の著名な地理聾者ス!フポンス警註○記の記述する肝によると.このクルソの地は叉著名な商業地とし
︵六︶
て有名であつたが、同時にアテネやアレキサンドサヤをも凌駕する拳闘の府であ少、就中ギ¶′シヤのストア哲畢
はクルソにおいては最も隆盛を極めたといふ。
ββ
此等のクルソ都市の持つ特質がパウ。に及ぼした影響として最も明瞭に宥取することが出来るのはストア哲盛
思想の影響である。
彼の。ハサロ思想中からストア曹畢思想灯極めて類似した思想用語を指摘することは、さう困難なことではな
い。例へば自然によつて紳を諾意することが出来るといふストア哲畢の紳の認識論は、次のパウロ思想と疑似し
て居る。
そは紳の怒は不義をもて眞理を抑ふる人々の、すべての不虔と不義との上に天より啓示せらるればな少。
−如何となれば、静の知らるべき事は彼等のうちに顛にして、静は︹これを︺彼等に翫はし給ひたれぼな少。そ
は彼の目に見えぬ事、この無窮の力も、また辞任も造られたるものに世の創造より︹このかた︺解せられて、
明かに見らるれぽなり︵ロマ一、一八−二〇︶︵永井直治氏謬︶
又﹁良心﹂︵ロマ二、一五等︶とか﹁自由﹂︵ガラチャ五、一三等︶とか﹁徳﹂︵ピサビ四、八︶とか﹁自然﹂︵コリント
前一一、一四等︶とかのストア哲拳の根本概念は、パウロによつてしばく使用された。パウロの敢行した世界停
道は、その根本原理において、ストア的コスモポサタンの有力な影牡に歎へることも出来る。
ヘレ一一ズム都市クルソ出のパウロの中からヘレニズム文化の影響感化を指摘しやうと思へば、畢にこれのみ
は轟きない。
尤も彼自らが﹁ヘブル人より出でたるへブル人﹂といつたが、このへブル人︵︸m書き0伽︶とは、昔時にあつては
圏外ヘレニズム文化の世界にあつて、世界通用語たるギリシャ語を話すユダヤ人を意味するへレニスト︵−E己で・
ユダヤ教雀パウロ
ユダヤ教従パウロ
六八
§ヱ︵使徒行壁ハ二、九三九︶に勤して、ユダヤ人の母国語たるアラマイ譜を話す。ハレステイナのユダヤ人を
巨erOnimd切がパウロの故郷をガザラヤの
意味して居ったのであるから:ハサロは恐らくパレスティナからクルソに移住したユダヤ人の手でー彼も亦母国
語を常に使糊して居ったものであるらしい。従って彼のと⋮ニムス
︵七︶ ギシヤラGi乳ど旨であるといふ停詮を侍へて屠ることは:ハウロがクルソの生れであることを眞茸とする限少、
これは彼の家族がクルソに移住した以前の故郷を停へて居るものであらう。パウロも亦イエスと同棲にガ
の血を継いだものであつた。
かうしてパウ。は純粋なユダヤ人、斯学へブル人﹂であつた。それにも係らず彼の生長したヘレニズム
界の影坪は次の譜粘において瀬音に示されて居る。
第一に。ハウ。埜一つの名前を持ったこと。彼の家族が彼を呼ぶ時に用ひ、周囲のへブル入澤もその名
呼び、使徒行停の記者もユダヤ教徒たる彼を呼ぶ時に用ひたのは、ユダヤ団の最初の国王の名からとつた
ぎlであつた。同時に彼自身手紙の上に用ひたパウロ︰雷邑。肋といふ名を持って居た。この二つの名前は決して
筏の回心を境にして別備に用ひられた名前ではない。昔時の鴎外ユダヤ人の一般的習慣としてユダヤ名と
︵八︶ 明を持ったギリシャ名、或はユダヤ名の意味をとつたギヮシヤ名を同時に持って居るのが常であつた。パウロも
︵九︶ 亦生れ付きユダヤ名と類似の攣を持ったギリシャ名を同時に併有して居ったのである。このことが彼が如何にヘ
レニズム文化潮流の中に生れたかを示す一つである。
第二にパウロは常時の世界語たるギリシャ語を極めて自由に繰ることが出来た。恐らくは﹁外囲人のや
︹一〇︶
くギザシヤ人のやうに喋Lることが出来たであらう。後にペテロのやうに適評者を使った根跡もなく、彼の手紙
︵一一︶ 忙はアラム的な考へを単にギワシヤ語で表現したやうな根跡もないといはれて居る。むしろ反封に彼の手紙を見
甜
ると如何にパウロがその文鰹において、修辞畢において、思考の方法と用語において、救貧の様式において、ヘ
レニズムの影響を強く受けて居るかを明瞭に表はして居ることは疑ない。パウロはかつてギリシャの喜劇作家メ
ナンデル害eロpnderの一旬を引用したことがあつた。日く
悪しき交際は書き風儀を書ふなり︵コザン上耶、一五、三三︶
と。又愛を讃美したコサント前善一三牽は彼が最釘よくギリシャ語の修辞法に長けて居たことを示す代表的なも
のだといはれて居る。従ってこ1からパウロはクルソにおいて正式なギリシャ的な教育を受けたのではないかと
いふ推定さへ提出される。
要するに。ハウロは自分自らがいふやうに﹁ヘブル人のへプル人﹂であつたと同時に、ヘレニスト中のへレニス
トでもあつた。
四
この。ハウ。が後にエルサレムに行って律法聾者ガマサニルの門に入って律法を研究しそQ熱心な腰行者となつ
た。そこで我々の最も重要な問題となるのは、この時におけるパウロの思想生活は果してどうであつたかといふ
ことである。
この時に閲するパウロ自身の告白は.最初に見たやうに極めて僅少であつて、それは特殊な事情のもとに物語
ユダヤ教雀パウロ
ユダヤ教徒パウロ
られたもので空から、こ1から直ちに一部論者の圭苧るやうに律法の命令に服麿して衛足の感情違って居
ったと推定することは出来ない。
︵一二︶ かつてオルシ‡ゲィスキーW・〇訂署粁iが指摘して以誉マ讐章の霊肉願寧の記雷︰ハウ蒜回心前ユダ
ヤ教管して熱心に律曹追求して居つた時代−既に彼の胸中妄ぐ孟た措辞雲海の開署記し雷のとし
て多くの人に好んで採用された。
然しとれは既にブヮセァトW・冒邑がいつて雪やうに、こ喜一人響警盲で述べられて居る内的清紳
︵〓ニ︶
の願事苦悩は、決して。ハウ昌身の思前の自害的霊ではない。1バク二倍人の経警述べたもので亨l
パウ芸現在の信仰経験の高さから人間的我の富−警思苦に碗警たものである﹂この優れ毒見に謝し
て芸敦史畢派申他の一人の暁警ハンネス・ワイスも蛮して臥態望め多く警れ雲
自餃偉的経験の叙述と見ることに反謝して居る。
こ去私漂ヨハン、ネス・ワイスの豊富壷想起し露れぼ彗ない。1パウでは彼の個人的パワサイ的過
︵一玉︶
去晶へ意ない。警棒殊空ダ品色彩・就中この場合必要な過去形姦いて居る。こ1では只次のことだ
けが明かである︰ハウ蒜思凄くして高き璽の観察に従つて居るやうに、一般人間の位置を述べ雷ので雪﹂
従って曇Tこ1にはパウロの過去の恩讐知る鱒適する直接的な資料を我ふは持たないこと晶ら露れぼなら
ない。
■ そこで我々遠方面から資料を見出さ露れば監ない。即ち云ウロ竺ダヤ敦管
7β
いふ粘である。同年輩の者にまさつて甚だ熱心に律法に精進したといふこと。その結果反ユダヤ的傾向を持った
キサスト教徒に射する猛烈な迫菩者となつたといふことであるっ
迫害が極めて猛烈であつたことは、彼自身が﹁烈しく紳の敦曾を責め且つ暴した﹂︵ガラチャ一、三一︶といひ、
又このことを度々凍返して居るが︵コワント前一五、九、ピサビ三、六︶
キりストにあるユダヤの語数曾は我が顔を知らざhiじかど、たゞ人々の﹁我等をさきに責めし者、曾って
暴したる信仰の道を今は停ふ﹂といふを聞き.我がことによりて紳を崇めた少︵ガラチャー三二1二四︶
とパウロが後に回心してキサスト教徒となつたといふ報告を聞いてパウロを知らない者までも歓喜したといふこ
とを倖へて居る程、それ程彼のキサスト教徒迫嘗は域烈を極めたものであつた。使徒行停は彼が敦曾を荒し、キ
リスト教徒が集って居つた家々に入って男女の区別なく引出しては投獄し︵八、三︶彼等の殺さるる時此に同意し
と停へて居る。何故彼はユダヤ教に熱心に精進し、更に
︵二六、一〇︶死にまで到らしめたが︵二二、四︶、この﹁恐喝と投書との気に充﹂ちた︵九、こ彼の恐るべき迫害は
﹁甚だしく狂って遜忙外囲にまで至った﹂︵二六、一こ
キサスト教徒の迫害者となるに至ったか。
表面に表れた併庭よれば、聴かにパウロはイエス及びイエスをメシヤと信するキサスト教徒は反律法的態度に
よつて攻撃迫暮されるに催し雷のであつたっブルトマンの言警借りていへぼ﹁イエス・キヱトか律
︵Pt司edeT=Ode:d覧若邑≡d針Je呂Cbrぎ凰がパウロのキサスト教迫害の主要動機であつた。
パウロが猛烈に迫害したキサスト教徒とは決してエルサレムに於けるキりスト敦周ではなくて、概してユダヤ
ユダヤ教雀パウロ
ユダヤ教従パウロ
七二
観外の地に散在して居ったキサスト教団であつた。何となれば前者は極めてユダヤ教と類似の色彩を持ち、律法
を含量貴行して居ったが、後者は意詩的に反ユダヤ教的であり反律法的であつたからである。
︵一七︶
最初のキリスト教囲は決して反ユ、ダヤ数的ではなかつた。むしろ﹁イエスが転嫁した関係に節男、ユダヤ教
の立場に復廃した﹂ものである。従ってユダヤ教からは彼等の存在はさまで危険性を持つものとは見られなか
った。だがイエスのメシヤ性を主張し、それを中心とする限り両者の危険性は漸次革まれざるを得ない傾向にあ
ったことは嘗然である。これが箕際において爆香したのはステパノの反律法的公開諭寧からであつた。ステ.ハノ
はこの裳に殺された︵俊行七︶かくして恐らくユダヤ人とその指導者パリサイ人とは、ステパノによつてこの新
興教囲の中に反律法的なイエスの拝辞の存楷をいやでもはつきりと認識せしめられたに遵ひない。彼等の目には
最早同じ傾向の一波として映ぜずにむしろ危険な異分子囲醍として映つたらう。かくしてキサスト救国泊蕃の動
機は一方ユダヤ人の側から自費的に醸成され、同時にステパノの死は救国内部の.特に外囲居住のユダヤ人蓮の
間には、立法の拘束性を無威し∵律法の束縛から脱して自由の境地に入らうとする一種の反動的気運が勃興した
一
ヽ
その日エルサレムにある教曾に封ひて大なる迫害起り、使徒葦の他は皆ユダヤ及びサマリヤの地方に致さ
であらうことは想像に難くない。かくしてキヮスト敦の迫菩が、ステパノの死の重要な結果として許されたので
ある。
むか
る︵使行八、こ
ユダヤ教的色彩の濃厚な使徒遷のみはエルサルムに留まることが坦乗た。従ってエルサレムの教園は純粋なユ
72
ダヤ主義的傾向のあるもののみによつて組織継承され、非ユダヤ傾向のものは国外に行き、それ等の人々によつ
て新宗教思想は外観に停播され、これはユダヤ思想から著しく自由なものであつたと見ることが出爽る。
柑
.ハウPのキリスト教徒迫害は、意識的にはこの反律法的要素に謝する反抗的迫害である。従ってここでは恥づ
べき刑死を迭げたイエスをメシヤとする主張に勤しては.たとへ無園心ではなかつたにしても重要な閲心とはな
らなかつたことが知れる。パウロが果してユダヤ教徒として生前のイエスを見たかどうかといふ困難な問題はこ
こで特に解決しなければならない重要な問題とはならなくなる。
何故パウロはかく熱心にキリスト教徒を迫害したか。それは律法に反抗する膚であつた。即ち彼等の反律法的
立場から父組停来の律法を防禦しやうとした努力の現れであつた。
狂信とはべート]許多のいふ併に従へば、宗教史を通じて外向性の︵邑ra責ti毘︶人間に強く現はれる。何と・孜
れば外向性の人間は心を外部に持向するので本来の宗教的願望を猫足に完成することが出来す、これは不安を生
じ、この不安は外部に向つて奇動する。従って内向性の︵⋮旨冨邑e毘人間には狂信的なものはないといふ。そこ
で彼はパウロの狂信をかう詭明した。﹁パワサイの弟子サウロのナザレ人に謝する熱心は、彼の修業の間、恐ら
︵一入︶
くは既に長い間、彼自身無意識に、彼のうちに成熟した多くのものを抑摩しなければならなかつたとすれば、そ
れは心理的に理解される﹂と。私はこのべートの主張をそのまま受入れやうとするものではない。然し彼のいは
︵一九︶
んとする狂信とは常に内的疑惑の表現であ少、従って。ハササイ人パウロの狂信も亦律法の命令に厳密に従って而
も内的平和を得なかつたがためとする‡張は承諾しなければならないと思ふ。
ユダヤ教従パウロ
ユダヤ教徒パウロ
五
︵二〇︶ この壬張に謝する竺の反封は、既虹見たビ三三、七の句を根撼とするものである。ここではパウロは明
瞭忙過去におけるさういふ経験と全く反封な経験を述べて居る。然しこの旬の述べられ
我々にとつては.最早この反射詭に少くとも決定的な根按を輿ふることは出来ない。この不安が・ハウロにおいて
無意諦に成熟し雪すれぼ彼の過去の追想もさう明瞭に竺の黙皇息諭しなかつたかも知れ
ノが殉教の死の傍に傍戟者として立って居った青年パウロの胸中に、悔恨の情が時を経
禿たとする推定.或は彼の迫害にもか1はらすよく耐えた熱烈なキリスト教慧彼に深い印象を輿へ雪する推
定が、何れも単なる想像として取るに足らないにしてもー私は決してさうは思はない。
摸は持たないにしても−彼の内的不安はその狂信の事葺から推定することが出来ると思ふ。
これに勤して反射論者はいふ。パリサイ人の律法藩守は決してかくの如き精静的不衛
射に律法に謝しては全き信頼を持ち.それを葦行することに喜びと瓶足とを感ずることあれー決しで待法そのも
のに勤して不蘇や疑があるものではないと。﹁吾が道を直くしてエホバの律法を歩む者
って初まる詩篇第−∵九の律法碗こそ誠にパリサイ人の律法に謝する親方を最もよく示すものである。パウロが
律法に謝する疑惑、内的不安を持ったと考へることは出来ないと。
恐らくパウ冨亦パワサイ人として律法に謝する根本的疑惑は持たなかつたであらう0従つてこの貼に閲する
不安は生じなかつたであらう。然し形式化した昔時のパリサイ人の法律主義に勤して一
ア4
たであらうことは想像に難くはない。
汝ユダヤ人と稀へられ、律法に安んじ.紳を誇り、その御意を知り律法に敦へられて善悪を排へ、また律
法のうちに知識と眞理との式を持て少として盲人の手引、暗黒に居る者の光明、愚なる者の守役、幼鬼の
それ表面のユダヤ人はユダヤ人たるに非ず肉にある裏面の剖鎧は割盛に非ず。際なるユダヤ人はユ
ユダヤ教従パウロ
ない。前者が楽天的傾向を持つならば、後者は必ずしも楽天的ではない。パウロが後に
けれぽならない。前者においては律法を藩奉することによつて精神の平和を得、後者においては必ずしもさうで
から.ハササイ人。ハウロの思想生活にも亦純粋なパワサイ的傾向の外に倫特殊な一頃向のあつたことをも承認しな
既に見たやうにパウロは純粋なユダヤ人であつたと同時に又へレニスト中のへレニストであつた。従ってここ
はこれにパウロに及ぼしたヘレニズム文化の影響を見たい。
そこでこの.ハリサイ人としてはむしろ異常な、律法戟の疑惑、精紳の不安は如何なる深い根援に基づくか。私
といふ精神が養生したであらうことは考へられることである。
︵二一︶
なり、儀文によらす婁による心の割鰻は割蕗なり︵ロマ二、二八−ニ九︶
ひモか
も持ったはすがなかつたとは決していひ得ない。やがて漁言者の精神の理解と同時に
かういふ普時の律法主義のユダヤ人に謝して、彼がパワサイ人であつたが故に此に勤して何等の批判的精神を
法を破り紳む軽んするか︵ロマ二、一七1二三︶
師な少と自ら信する者よ、何故人を教へて己を敦へぬか、窺む勿れと宣べて自ら窺むか⋮⋮律法に誇りて律
かた
7∂
ユダヤ教徒パウロ
七大
我等既にユダヤ人ギザシヤ人も皆罪の下に在りと告げたゎ。録して﹁義人なし一人だになし⋮⋮﹂
如し︵ロマl二、九以下︶
或は
すべての人罪を犯したれぼ紳の発光を安くるに足らず︵ロマ三、三ニ︶
それ造られたるものは切に幕ひて紳の子たちの現はれ
などといふ常人がすべて一人残らず罪あること、人間と罪悪とは自戯的必然的に囲聯して居るといふ悲
を持った人生戟、又は
ヽヽヽヽヽヽヽヽむたしき▼ヽヽヽヽ
て、紳の子たちの光粂の月由に入る望は有れり、我等は知る、すべて造られたるものの今に
己が顕正よる忙非ず、服せしめ給ひし者によるな少。されど造られ礼るものにも滅亡の僕たる状より
のこ
き共に苦しむことを︵ロマ八、一九−二二︶
といふ萬物すべてが人間と同じやうに不幸な状態に沈潜して屠るとする悲観的世界観は決してユダヤ的
的拝辞からは発生しない。ギリシャ文化の影響としてのみ初めて理解される。而もパウロにとつてかか
人生救世界戟は彼の後のキリスト教紳畢の出費粘をなしここから彼は律法の存在を批判したのである。
ヽ▼︳ 新たな立場は彼自身の過考及ひ.ハリサイ人一般の過去の生活を意識的に反省して初めて形造られたものであ
る。無意識中の生活を意識的に反省した言葉としてのみこの無意識の不安を輿へた根本的なもの放彼の
ム文化の影幹であ少、この不安を無意識に終らしめたものは彼のユダヤ的バザサイ的影響であら。従っ
意識生活の過去を何等反省的に顧みず、畢にその表面のみを顧みた時に.誇らしげ.な過去の追想の言兼が現れた 汀
のである。誇らしげな追想を持った過去のみがパウロのユダヤ教徒としての全生活思想ではない。パウロの回心
はかういふユダヤ教徒としての生活思想の突発的な変草として理解しなければならない。
t監010gieetd銃q白鼠iOnS邑i乳eG
W●p内㌃mmd−諾merヾ誓ddi¢厨熟eビ2ngd袋謬已GS、
妊 ︵一︶ 既lこA・﹂﹃註nit♪PpeOロ■琵iOコdの許已deT寛S2・謬ヨのde
Ⅶ・訪印−念ヾが指摘,し㍗ミいはれて居ろが、最近でli
−¢望︸∽●−笠・R●せ已tmpnロ︼吋賢lu♂知G宅●−冨0ぞ●−○旭等
︵ニ︶ ibid.茸・−○琵
︵三︶ 山谷省吾氏﹁ロマ寄集七草望感肉の争儲﹄の記事についでこ宗教研究新八ノ一、昭和六、一、一三入京
︵四︶ JOが6n魚名ei玖−U院d言Fユ賢ロtu臼、−讐石−S.∽冨一−
︵五︶ A・Dei扮mpnn︼憎a已u∽、−岩美00●柏00
︵六︶ 択一メぎひ
︵七︶ ln苫ile巳∵誓・De与野i已邑r山b戻P=の停親に新約聖北︰の記事から創られた停視で布い=ミは明かであるから、
博改号して極めて債低ぁろものミ考へられろ。
等後に攣北、し㍗
︵八︶ 新約聖書の中で二つの名前を持つ王者托可成り多い。前者の方法lこよろものヨセフJかs旦7−エスト計⊂qrO吻
︵使行一、二三︶等、後者の方法に二よろものケパーぶ甘−−ペテロヨ↓勺Q匂等。
︵九︶ 冒i捨m冒n、巨b計F巴en−こ00りひーSJS−円山謬lllきS∴蝮∴ぎー1日呂n、汐uluⅥ−RGG∴Sp●−○芦
ユダヤ教従パウロ
ユダヤ教従バロウ
一
ミいふのは、現在では只一人Her2anロ︰ロe臣u、せer甥amedesApOStels
けでぁろ。生れ付きミいふのほ現在の殆んご定説ミ克つて居一わ。
︵一〇︶︵二︶ JさPnn法名什河山bid、Ⅵ・−∽旭
︵三︶ せie﹂七焉邑ndeりp呂liロi乳訂n白F訃t〇10恥ieこ¢声
七入
︵許巨m
Pu−∈−呂ermes缶︹−ぎ○︺∽●筐
R註giOロinnerb已bde∽甥昌en↓乳ame忌こ¢−¢
︵三︶ W●出○ロ繁t・J窃已derHのき星ぎぎr厨e仁nれA宏ein冒d巧莞計ung告Nu内¥iOSOF訪︷OS﹂誓♪匹巴
︵l申︶ JO訂呂袋We訂−ibid●p⋮苗讐
︵一五︶ JOF呂neのW軋現、家d●弾⋮道警
︵一六︶ 封●せ已tm呂ロ、ibid●普●−○巴
︵一七︶ Q邑Clemeローせi¢国n亘ebロロgderCF賢li¢Fen
S註eロ︶S●遥
︵一入︶ 出etサー句aロ註mmu∽、封GP旭日d●iI●−¢琵、ぜ●巴忘
︵一九︶ 国d尋ard試eⅥer、dり将星コge宕d A︼ちぎged鑓CF乱賢n吉日∽●田d−1コ●−琵00、∽●詮−
︵云︶ W●¢●内︷imme√ibid・Ⅶ●−怒
︵三︶ AdO︼︻Dei訟mpnn−吋a已焉−−諾竃S.諾♪−○鍔
7省
タウトpギl
斎
藤
過ぎない﹂と。これ汎紳論の根本要請である。けれど
si扁屠pど⊇︶Ⅰ紳は世界に内在し、一切は紳の容貌に
は世界の原因と紳の存在とを同時に否定することにな
造されたものでなく永遠から存在してゐると孝へる者
者だ。換言すれぼ紳が無いと主張する者だ。世界が創
﹁世界を紳と耕する者は世界に原因が無いと主張する
必要は奄も見あたらないやうに思はれる。ホップスが
請は畢克同語反復ではあるまいか。それを静と辞する
スピノザの宿命観に裁て
−、汎紳論の秘密
せ冨
も必しも凡ての汎紳論的鰹系が此の如き信條を明言し
る﹂と云ってゐる。かくしてスピノザの汎紳諭はフォイ
﹁紳が世界であ少、世界が紳である。紳和白然
てゐるわけではない。ただ此の如き信條と同一の意味
エルバッハの云ふやうに之を徹底すれぼ無紳論となる。
フィジオグノーヽ1
に勝者する鰹系の秘密を有してゐる。
常時宗波の紳畢者薙がスピノザを無細論者と解したこ
それでは汎細論の根本要蔚は単に宗教的鰹裁を鮭ふ
こ1で紳とは何を意味するか。
即ち各自永遠無限なる本質を表現する無限数の械軽か
ために案出されたトサックであらうか。否、それだけに
とはあながち彼を誕ひたとは云はれない。
ら成ってゐる賢鰹である。︵倫理拳第一部定義六︶。か1
止まるものではない。そこに今私の語らうとする秘密
スピノザによれば、紳とは雁封忙無限なる有である。
る静は自然であ少、箕鰹である。それをわざく紳と
が潜んでゐる。自然に射する敬虔な齢依の感情を表は
七九
僻するのは如何なる理由に基づくか。汎紳諭の根東雲
スピノザの宿命覿に就て
79
スピノザの宿命軌lニ就て
八〇
的世界閻系の紬耕である。スピノザは紳郎自照賀鰹︶
すために紳の名都が用ひられたとも考へられる。少く る。彗一号れば、汎紳論は一夕の内在的紳に依る開合
ともスピノザに於てか1る要素が多大の役を演じてゐ
ることは梶かである。しかし単にそれだ軒で片付ける の郎︵Si且に重大な忠義を輿へ、彼自身の紳の定義に
識してやつたわけではない。たゞ彼が過去の宗教的停
ことは出来ない。何故かと云へば、それは紳に射する 現はれてゐない糊細工を行った。スピノザ自身勿論意
人間の心理的態度の問題であつて、辞そのもの1問題
緊縛の赫に惹かれて辿った径路である。故にスピノザ
ではない。﹃紳﹄が一片の修辞拳的用語でない限わ∴か
続から自己を解放しょうと努力しながら、その力強い
かる論議は無駄であらう。
汎紳論は一所論の牽種である。フォイエルバッハの語
哲拳を単純に無細論と解することは過度の悪罵か過度
に従へば﹁多紳論を述語とする一紳論﹂である。一紳 の賞讃か執れかでなければならない。厳密には無紳諭
論に於ける紳の鎧兜性や人格性は失はれても、その由 的努力とこそ辞すべきであらう。
稀であるとすれぽ更にその﹁一つの内在的紳に依る﹂と
汎所論が一つの内在的帥に依る開合的世界鰹系の線
しめんとする人間の要求を表明する。しかし自然︵乃
は何を意味するか。それはほかでもない。﹁統一的﹂と
凍する限りに於て、一つの鰹系のうちに世界を包含せ
至資鰹︶は自然︵乃至賓鰹︶であればいい。なにも無理
に紳と呼ばれる必要はない。しかし紳と呼ばれること いふほどの意味である。特に紳と欝せられるのは、嶺
によつて賓は永遠なる唯一者としての鰹系のなかに入 々の現賽生括の統一的焦鮎を暗示してゐるに過ぎな
寮生活の統一的理念としての一元的な自己開合的な世
れられるのである。郎ち汎紳論は経験勉錐を組織して い。かやうにして獲た廉義の汎神論を定義すれぼ、﹁現
ヽヽヽヽヽヽ﹀ 一つの紳︵即ち葦隠︶といふ統一に蘭し、一挙にして一
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
切が既に輿へられてゐると見るところにその本質があ 界鰹系﹂といふことになる。
飲)
二、〓冗的自己開合饉釆の二遺
如何にしてそれは行はれるか。
ヽ
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の別名である。曾どが紳の玉座に如い
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ヽ ヽ ヽ
︳
ヽ ヽ
︳
この世界は権勢調和的に開合された宇宙的荘厳をな
ヽ
ヽ
ヽ
さて一元的な自己開合的鰹系に於ては、宗教的な彼 して一挙にして一切が輿へられる。それがためには紳
ヽ
ヽ
切を支配しなければならない。一切を支配することに
岸がこの世に欝されてゐる。二元的な中世的世界観に 的意志即ち萬能的威力を有する合理的精紳が完全に一
於ては、現算的矛盾にせよ論理的矛盾にせよ.これを
ヽ
代る。こ1に於て一種の概念論が成立する。一切は自
ヽ
悉く彼岸に追ひやることによつて現世に射する静念と よつて客観的合理性は失はれ、主観的法則性がこれに
不可知論が要求された。之に反して、か1る矛盾は汎
る。森経常象は菱幻出浸するけれども、忽然念起によ
紳論に於ては全身を暴露し来り、我々はこれを簡単に 由奔放であるが、この支配忙勤しては耗掛に従順であ
忌避することが出来ない。これをr註。邑i邑乳Fにどこ
悪意︵Wil−荘r︶
までも論理化する必要が生じてくる。ところが調和的 って生起する。従ってこ1で裳はれた合理性は意識の
な汎紳論的詮系にあつては現賛在そのものに.か1.る
もしさうでなければ、一切は氷結し凝固する。.あら
矛盾、即ち非開合性が存することは到底許されないこ たのであるりかやうにして現世が彼岸化される。
とである。蓋し中世的な二元性は止壊されなければな
る。一切は整然たる秩序を保ってゐるが、我々の制限
らない。しかもこの二元性はまだ厳然としてその存在 ゆる流持あらゆる差別は単なる幻影だといふことにな
を主張するのである。こ1に於て彼岸を現世化するか
八一
1る現象は葺鰹︵即ち静︶の様恕でなければならない。
婆婆との要素が濃厚に交錯する。
三一口で云へば、偶然なものとして自己を現象する。か
現世を彼岸化するか、その執れかによつて同時に両者 された感螢の性質上、それが混乱と撞著とに倭せられ、
の主張を調和することになる。いづれにせよ、彼岸と
スピノザの宿命軌lニ就て
スピノザの宿命軌lこ就て
貨は必然的な因果納忙めぐらされた理想的世界に外な
らない。従つて我々は如何なる塵芥の一片に勤しても.
そこに必然性の連館を感ぜずにはゐられない。そして
八二
三、スピノザの決定論の琵明
これに閲してスピノザの言葉を引用する。
性の性質に属してゐる。﹂︵﹁倫理塾痙攣一部定理四十四︶。
物を偶然としてゞなく.必然としてするてとが﹁理
も許されす、時間は永遠の今といふ一薪に停止する。
﹁こ1からして、もし我々が物を過去及び未来忙関し
部分は潅射的に全鰹から規定され、何等の自由も偶然
凡ての発化や費展は有ることは確か忙有るけれど紳の
︳
着第一部定理二十五系︶
紳の展性を
或る限定された仕方で表現する横憩に過ぎない。﹂︵同
﹁個物は紳の層性の発根または棲歴、−
ヽ
mit邑Ⅶ超eeie︶に知兇することが腐する。L︵同右系二︶
﹁理性の性質には物を永遠の柏の下︵00各q仁乳pm麗訂
tiO︺に起因するわけである。﹂︵同右系一︶
て偶然として観察するならば、それは表象力︵Hm藁㌢
ヽ
滝野無制約の超滝的意志は失はれて、冷たい自然必然
性がこれに代る。既にもうとつくに済んだ事として一
ヽ
ヽ
切が奥へられる。ここに宿命論が成立する。かやうに
して彼岸が現世化される。
ヽ 、 ヽ ︳ ヽ ヽ
一元的な自己馳合的鰹系は.観念論か宿命論か、ど
︳ ヽ 、 、 、 1 、 ヽ ヽ ヽ − ヽ
、、、、、 ヽ 、、、、、−
、 、 、 −
ぅしても.避けることの出来ない揮一︵Alすn邑ユに直
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 面する。前者はヘーゲル、後者はスピノザ。
﹁或る働きをなすやうに決定せられてゐる物は必然
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
スピノザは概念論を棄て1箕在論を採った。それは
的に紳にかく決定せられたのでぁる。また紳に決定さ
− ヽ ヽ
彼の眞理を憧促する料率的非宗教的要求に基づいてゐ
れない物がそれ自身を働きに決定することは出来な
い﹂。︶同右定理二十六︶
る。しかし彼は汎細論者として現はれることによつて
必然的に宿命論に赴かざるを得なかつた。
﹁或る働きをなすやうに紳忙決定されてゐる物は、そ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
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ヽ
ヽ ︳ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
︳
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
され得る。第二に我々が、紳は自分のなしたことを中
止し得なかつた、と論断するならば.それ一軍彼の完全
することを中止し得るのは紳に於て或る不完全性で
性から認めたのである。何故かと云へば、紳が自分の
静的性質の必然性から決定せられて一定の仕方で存在
ヽ
眞賓だからである。それゆゑ紳によつて一切の事物は 朋
ヽ
ヽ
れ自身を決定されてゐないやうにならしめることは出
ヽ
ヽ
これ以上完全には彼も生ぜしめ得ないほど完全に創造
ヽ
﹁自然界には一として偶然のものはなく、凡ての物が
ヽ
ヽ
来ない。﹂︵同右定理二十七︶
ヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
し作用するやうになつてゐる﹂︵同右定理二十九︶
﹁意志は自由なる原因ではなくて必然的な原因との
あらう。但し彼の中に最上ならざる創始的原因を侭定
し、それが紳を行動にまで動かすのだとすれば朋でぁ
み呼ぶことが出来る。﹂︵定理三十二︶
﹁紳は意志の自由から作用するのではない﹂︵同右系︶
﹁そこで我々は云ふ、生起するすべてのものは静によ
るが、それでは蓋し彼は何等紳ではないてとになる。﹂
他の秩序で静に産出されることは決して出来なかつ
って展されるのだから従って紳に於て必然的に改定さ
﹁事物は現に産出されてゐると異なつた他の仕方や
た。︵定理三十三︶
て把捉してぉる限りの完全さで一切を創造するといふ
て澄明せられる。何故かと云へぼ、紳は彼の概念に於
を我々は否定する。・⋮:このことは紳の完全性によつ
から、こ1からして樅箕に、−
存しなければならす、その永遠には前や後は存しない
るであらう。そしてこの改定は紳に於て永遠からして
るであらう。即ちそれは彼に於て大なる不完全性に嘗
れてゐなけれぽならない。然らずんば彼は可愛的とな
こと、同棲に紳に認識せられる事吻は彼が現に認識し
から決定されてゐるより他の仕方では、前以て改定す
﹁紳が自分のすることをせずにゐられるといふこと
てゐるよりも一膚完全に彼に認識せられるやうになる
ることは出来なかつたし、紳はこの決定以前に又はこ
八三
紳は事物が現に永速
ことは出来ないといふこと、これが何等の疑ひもなく
スピノザ今宿命覿にこ就て
スピノザの宿命軌に就て
といふこ
入四
ヽ
ヽ
ヽ
することをせすに放って置くことは出来ない。即ち、
−
ヽ
の決定無しに存することは出来なかつた
ヽ
彼は一切を完全に創造してゐるので、それ以上完全な
ヽ
とになる。更に紳が或る事をするのを止すとすれば.
ヽ
らしめることは出来ない。そして同時に、二、如何な
ヽ
それは彼のうちなる原因から生ずるか又は何等かかる
ヽ
る事物も彼なしには成立することも認識され右ことも
ヽ
原因からでないかでなければなるもい。紳のうちなる
ヽ
出来ない。今は、一鰹自然には何等かの偶然的事物が
︳
原因から生するとすれば彼が虜すことを止さなければ
ヽ
存するかどうか、即ち、生起することも生起しないこ
ヽ
ならないのが必然的である。か1る原因が無いとすれ
ヽ
とも可能なやうな何等かの事物があるかどうか.を考
ヽ
ば彼が止してはならないといふことが必然的である。
ヽ
慮する段取である。⋮︰・だが.偶然的事物が存しない
ヽ
このことは自明である。更にまた創造せられた事物は
ヽ
ことを我々は次のやうに澄明する。
ヽ
存在するための原因を有しない或物は存在すること
存在すること紳によつて惹き起されたことが或る完全
性を意味する。何となれば一切の不完全性のうち非有
こそ最大の不完全性だからである。そしてすべてのも
ヽ
ヽ
︳
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
が不可能である。偶然的である或物は原凶を有しない。
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
故に偶然的事物は存在しない。
大前提は何等問題がない。小前提もかう澄明する。
の1浄痛と完全性は紳の意志であるのに、また静はこ
の事物が存しないことをも意慾するだらうとすれば、
を有するならばそれは必然的に存在しなければなるま
偶然的である或物が存在するだめに或る一定の原因
になるであらう。これは自己矛盾である。︵以上﹃短論
い。しかし、偶然的にして同時に必然的であることは
まさしくこの事物の滞痛と完全性は非有に存すること
文﹄第一部欝胸章﹁紳の必然的な作用に就て﹂︶
矛盾である。故に黙らす。
多分誰かどかう云ふであらう。或る偶然的なものは
﹁紳の第三の展性は静的改定である.と我々は云ふ。
我には前に次のことを証明してゐる。一−紳は自分の
月A
するのであると。苦しさうだとすると、それは分離的
何等或る一定の原因を有しないが.偶然的な原因を有
能であらう。これまさしく矛盾である。﹂︵以上F短論
すことも創り出すのを中止することも共に一般に不可
するやうに決定せられてないとすれぼ、それ訂創れ出︻ 郎
ヽヽヽ
意味かまたは合成的意味かでなけれぼなるまい。即ち
ヽヽ
文﹄第一部第六章﹁紳の改定に就て﹂︶。
大醍、機械論的決定論と耕しても葉支へない。元来機
スピノザの壬張は以上によつても判明するとほり、
四、機械論の矛盾
原因の存在が原因としてゞはなしに、それだけで偶然
的であるのか、それともその或物が︵夫自身は恐らく必
然的に自然のうちに在るのだらうが︶偶然的な或物を
寄生させる原因であるやうなところが偶然的なのかで
ある。とはいへその一もその二も共に誤謬である。
械論的決定論は世界を合理化する熱烈な自然科拳的要
求の表現に外ならない。しかしそれは結局形式的要求
何故かと云へば第一に関しては若し偶然的な或物
が、その原因が偶然的だから偶然的であるとすれば、
の範同を出てゐない。その内容から云へば依然として
裁を下してゐる。それがため辞意は現世的事象を通じ
﹁紳は世界を創造した。そして自然と人間に勤して決
えてゐるもので、左の如く公式化することが出来る。
﹁奮約聖書﹄やゾフォクレースの﹃オイディボス王J等に見
その原因もそれを惹き起す原因がまた偶然的であるた
︳
古き宗教的宿命戟に引きづられてゐる。古き宿命観は
ヽヽヽヽヽ︳ヽ
ヽ
ヽ
めに偶然的なのでなければならない。かくして無限に
、 、 ヽ ヽ 、 ヽ − − ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
至る。そして一切は唯一の原因に依存Lてゐることを
、 、
前以て澄明したから、か1る原因もまた偶然的でなけ
ればなるまい。これ明白に誤謬である。
琴一に閲しては、若し原因がもはや或物または他の
て連行されつ1ある。これはたとへ人間に認許されな
つく
物を創り川すやうに決定せられてゐないとすれば、郎
くても、紳は自ら知つてゐるから一定にして動かすこ
ヽヽつく
八五
ちこの或物を創り出したり創り出すことを中止したり
スピノザの宿命軌に放て
とが出来ない。これに謝して人間の零しき分別や努力
である。自然料率者などでこれを奉する者は必しも紳
に共通する戎物を有する。それは辞意を候足すること
八六
は紙数に節する。我々が何等かの機縁乃至手段にょつ
といふ概念を口にするわけではない。しかし静的智憲
スピノザの宿命親lこ就て
て紳意を察知することが出来れば神聖なる改言が菅生
萄dti已elligeロNを漁想してゐる.しかも﹁設計ブランが
小さい偶然的事件が残されてゐる。これは取りも直さ
なほ自由の粗小︵呂n首um︶を保有し、自然には幾多の
文の個條が挿入されてゐるに過ぎない。従って人間は
計プランの如く大綱を定めると共に部分々々に特別法
これにょれば紳意は籍封不可侵であるが建築師の設
る。ところが現象的自然は牽化流樽して無限に賛展し
の︵乃至吟紳の︶謬爵のうちに映寒されてゐる次第であ
過去も現在も未来も、唯一つの開合的鰹系として我々
れて少しも菱更を加へる飴地が無いとせられてゐる。
るまで精密に決定された設計として既に完全に輿へら
は時間的には永劫の未来を有してゐるが微小部分に至
我々の事の中にある﹂といふ考へが潜んでゐる。世界
ず二元論的汲想に基づい
命を有すると云はなけれぼならない。スピノザはかl
てゆくから、この設計に従って必然的に決定される運
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
と云ふのは是れである。しかし箕現任を有しないとは
云へ、現賢に存在し生成する以上、何等かの意味に於て 郎
ヽ
ヽ 賓ヽ
ヽ ヽ ヽ ヽ
之に反して機械論的決定論は一切を完全に横紙
は存在を包含しない﹂︵﹃倫理畢﹄第一部定攣一十四︶
る現象的自然に謝して賓在位を否認することによつ
の事柄に勤して我々は小さき紳として決定を輿へるこ
宿命を費更することは出来ないが、更に未決定の幾多
ことが最も賢明である云々。﹂
する。我々は卑言に勤して滝野的蹄俵を以て順應する
ヽ
とが出来る。故に古き宿命親は決して徹底的に宿命的
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
、
て、その一元論を維持してゐる雪静から生じた物の本
ヽ
ヽ ヽ ヽ 、 、 ヽ ヽ 、 、
なものではない。網の目から水が漏れて出てゐる。
ヽ ヽ ヽ ヽ
、 、 − ヽ ヽ 、 −
性の下に句境し、何等の例外も何等の自由も残存する
ヽヽヽヽヽヽヽ
ことを許さない。けれども根本信俵に於て古き宿命親
存在してゎなければならない。こ1から古き二元論の
飴韻が聞えてくる。しかしか1る二重世界は同一であ
私は今、これを詳静する嘔を有しないから、宿命漑
を以て、スピノザに.於ける一つの謎として、汎紳諭の
往々機械覇的決定論を観念論の立場から攻撃する人
るか別物であるか。少くとも何等かの意味に於て応別 致命的な秘杏を指摘するにとゞめたい。
をれるものでなけれぼならない。然らば設計と賓現は
如何にして相應することが出来るか。時間を媒介とす 々がある。これは却て思想の逆韓としか云はれない。
る必要があるやうに思はれる。ところが時間は完全に 汎紳諭の秘容は依然として.そこにつきまとつてく竜
は輿へられてゐない拝顔である。それは永遠の世界か ほかない。たとへ、概念論的詳記法を以てするも、や
ら見れば不完全性を意味することになる。従って機械 はりこの粘に於ては何等の差異をも費見することが出
層シヤに於ける機械論排撃運動
必然性から出費して時間を無と等しくすることによつ 来ない。
て、未来をも過去に繰入れ.ここに決定鎗が費生する。
しかし唯一の世界しか存在しないとすれば、それは ルグスが鮮かな論法を振りかざしてゐるが、あれも要
幾何拳的世界で有り得るだらうが、決して改定といふ するヘーゲルの辞記法そのままを借用してゐるらしく
やうな未だ箕現せられざる計童の決裁を意味する相掬 思はれる。あれでは説明はつくが概念論である。最近
々係を費見することは出来ない。腋密に云へば、やは 彼等が概念論的へーゲワァンとして﹁哲拳研究所﹂から
り古き宿命論に件ふ不可避的な偶然性の確飴がそこに 失脚したことも尤もだと肯づかれる。我々は汎神論を
降されてゐることになる。即ち設計にαが加はること 放棄することによつてのみ前述の望em日pから免れる
るであらう。
八七
︵一九三一・ニー二八︶
によつて質現されてゆくと考へなければならない。だ ことが出来る。それに就ては又別の横倉を待って諭ず
が、それでは決定論は自己矛盾忙陥るではないか。
スピノザの宿命軌lこ就て
甜
我国に於ける宗教ご政令事業ミの関係
−
特にその歴史的考察1
鎌倉時代以後な取扱つ圭ものであよTl王
山
惑
林
伊勢帥道、吉田細道等が生じたが、優に教化の方面に
ー=の稿はさ与こぃ本誌特輯来所裁﹁鎌倉時代までの沸教鹿骨事情﹂の績稀で、
谷
我国に於ける宗教と敢曾事業との蹄係
大
鎌倉時代に於ては、敢骨に溶剤たる生気が横溢し寄
て輿したに過ぎなかつた。
ゐたが、次ぎの足利時代に入れば、その反動として萬もと、この時代には天農地臭が頼香し、しかも常に被
事緊張状憩より弛緩状態に費じた。彿教界も亦その害
例が大であつて.惨状目もあてられぬ時が多かつたが、
に洩れなかつたが、融合事業方面はこれと全く趣をか
異かる場合に一幕府は茫然自失して、ほとんどそのなす
にした。他の諸時代に磨ては常に朝廷、幕府等薦政と
者ころを知らず.技手併載する有機であつた。義政の
が主として敢曾事業を行つたのに謝して、この時代如
はきは寛正元年の大飢饉に直面しながら、自暴自棄と
幕府のカがほとんど失せ﹂赦曾の秩序も亦素れたかな
らり
、新第を造りて遊宴夜を徹することが少なくなかつ
は一鱒次第に操厳し来れる群雄と、他は伶徒等とであ 郎
僧侶の働きけ新来の切支丹教徒の事業と共に特に目た
立。か1る間に立ちて、よく救貧の事業につくしたもの
った。細道はこの時代に入りて幾分か色彩を鮮明にし.
った。これ等の群碓中に武田信玄あり、北條早雲あ十
り八、
年ヂエスイト敦︵切支丹宗︶のフランシス、・ザビー
上杉謙信等がゐるが、多くは彿敦の信奉者であつた。
ル︵St・字書訂。野訃r・︺が渡来して以来、同派の宣教
檜徒中最も著しき働きをなせるは頗阿部である。彼師
は井にその信者等が大に救貧事業及び昏療保護事業に
て、憐憫の情に堪へす.京都六角長徳寺の南終に、草舎
販岨度に過ぐと言はれる程であつた。グルメーダ︵ト已∽
民政務のことを軌め、宗麟も亦よくこれに聴き、逸に
かの寛正年間の大飢饉に流離する者が堵をなすのを努
見めた。ザビールは大友宗麟と柏倉するや、直ちに貧
十歎軒を建て1、こ1に飢病者を収容し、殊に動き得ざ
持ち来れる五千金を投じて豊後に政務院ニケ併壱設け
に至っては、自ら印度より
く葬った。この願阿弼の外に、東南寺の聖林︵臨臍宗︶、
た。その一は廠病患者収容所であり、他は条窮者井に孤
るものむ竹輿にて運び、死せる者は鴨河の河原等にP
厚︼日eidPどi∽d室m註㌘︶
大雲院の高明︵辞土宗︶、相観寺の周伸︵陸潜宗︶、武蔵挿
鬼幼鬼の保育所にあてたのである。彼も亦宗麟に射し
我閲に於ける宗教ミ社食事業ミの圃係
許可せられた。かくして療病者の保護、貧病者の保護と
八九
しかし末期に至って形勢に一埜化を生じた。即ち天に
正借着等の中にて祈然群を扱いてゎた。この外フロイ
面に於ては、俳教徒乃至伶侶の活動が目敏しかつた力
。したと言ふ。兎に角彼の功績は常時渡来の宣教師井
守護の士にて次につくす者もあつた。兎も角も救貧メ
方ーイダはその後三度病者のために救済院
た。僧侶以外に筒井臓昭、同順慶、飯田氏の如く俳附
寺金を貧困者に解ち輿ふることを忘れなかった。グル
雷願寺を初めとして諸国の寺院も共に放資事業に従併
っせて幼鬼保育のこ致済院を設立し、文数曾の慈善寄
ならすとも.天龍寺、蔭涼軒、京都の五山、悲出寺、
を援け、或は鱗寡瓜濁の者をあわれんだのである。信
個者
人よりも賓を得て、これに充てむことを戯ひ出でて
媚衣も亦故地にカを濁し、天愛地異の際直ちにに苦て
民病者井に貧者を救助するの切要なるを詮き、民間の
図寺の聞記︵押土宗︶、武蔵善應寺の貞極︵辞土宗︶等の
βp
詮を見逃すべくもなかつたであらう。アキナス讐一︶
九〇
ス︵どi∽﹃岩eS・︺が火災の節に擢災者を怯み、所持品を
凍える者に衣服を給し、︵く乳。︶︵二︶渇ける者を晋⊥
我国に於けろ宗教王政付加業亡の関係
蓼げて彼等に施輿したことがあるが、か1る事例は決
して珍らしくなかつた。かくの如く新来の宣教師等︵
が冒。︶︵三︶餓えたるものに食を輿へ∴Cid。︺︵豊田人
︵七︶死せる者を葬るー
故意条窮者等の政商に巌むるや、逸には基督敦は世の
を救ひ、︵redim。︶︵五︶宿なきものに住家を輿へ、︵tegO︶
落伍者のみの宗教なりとの誹りを蒙る迄になつた。︵
宣六︶病める者を授け、︵匿−i邑
教師ならずとも、一般軟骨最も亦慈善組合を組織し︵
てC。n首べきことを勒めたのである。ザビール等が・
醸金をなし、或は敦曾の前に慈善箱を置きて一般よこ
りれに刺乾され費奮努力したことは想像に難くはない
寄附金を葬り、集め得たるものを糞看病者等に施輿が
す.見地面、何れの宗教画膿も新しき地にその宗教を
るを常とした。それは平戸、樺島等九州の諸地のみ宣
な布ら
する際.敢曾事業を曹みて以て、先づ人心を収摸
ず、山口、更に京洛に於ても行はれた。永敢五年三す
好る
長を常とするが、ヂエスイト敦囲の活動官これ忙因
慶の乱が費るや、京師中貧窮に憾むものが摺出したっ
がた
、のであらう。兎に角、救貧方面に於ては、普代の
教徒は金品を醸出して、彼等を販はし、叉月一回曾前
合年は伶侶井に彿教徒の努力の大に見るべきものが
して苦行方法の協議をなしたと言ふ。淘にヂエスイあ
トつたのに謝し、末期に及び、基督教徒の活動が日食
敦粛の敢食事業方面に謝する貢献は偉大なものであま
つしく、彿教徒等の事業は萎靡として振はなくなりー
た。もとこの敦囲は、新に敦界に覇を唱へむとした逆
新に
教ザビール等をして、俳伶等は真人を看ること土芥
に謝して、厭く迄これを排撃し、菌数に新なる生命の
を如
吹く、少しも依むの情を有せすと論難せしめるに至
き込みて、再び盛り立てむことに易めたのであるがっ
、た
従。淘にザビールの批簸せし如く、昔時の寺院井に
って音数の巨撃たる聖トーマス、アキナスの﹁善業
のは、費民を圭とする土一揆と利害全く相反し、し
紳﹂敢
タ∂
かも彼等貧民階級に謝する廃置が宜しきを得なかつた を垂れると共に自ら閑雲に従事し、大に瀞農につとめ 朗
轄じて疾病方面を見るに、この時代は大飢饉が頻奪
のもー原因となりて、土倉、酒屋と共に、常に土一揆襲
たことなどが特忙目を惹く位のものであつた。
撃の的となつてゐた。北野赦.東南寺、末寺、西八條
寺、康隆寺、威光寺等を初めとして近畿の敢寺はこの したと共に.疾病も亦常に狙恢を極めた。しかも疾病
難に悩んでゐた。この土一揆のおぴやかすところは寺 たるや、単に疫痛の流行のみならず、梅毒も新たに輸
院、神政、土倉、酒屋のみならす、幕府をも靡迫して 入せられ、非常な勢を以て蔓延した。故に疾病方面に
頻りに徳政令を委布せしめた。この徳政たるや、貧困 於ても亦多難なることを思はしめた。さて、疫病等が
者にとりては一時的に都合よく、貧富の懸隔を寛和し 流行すれば、仁王経、般若経、最膠王経、大般若経、
得たかの搬があつたが、箕は反りて貸借の途が絶えて、般若心経等の諸経を誘斎し、鹿島帥官等の神政に幣崗
貧困者は愈†困窮する外なきに至ったのである。薫風 を奉ったこと等は奈良朝以来殆んど発りがなかつた。
んとすることは速かに減少した。しかもか1る販他の
はこの事情を知り徳政論一篇を著はして大にその非な たゞ賑触井に赦宥を行ひ、それに依りて病の手を緩め
るを説いた。
救貧方面に於て、俳基両教徒の寄輿が頗る大な少し 際被施輿者は多く高年の僧侶にのみ限られてゐた。野
に比して、防東方面は寂蓼を極めた。俳教徒が従来、八
猿は常時明忙渡り督術を畢びて蘇れる少数の民間欝
奇数の渡来後は同数徒の此の方面に力む致す者が多く
藤田詮に従ひて、盛んに土木を起したが、この時代はそと、彿侭中欝術をよくする者によつて行はれたが、基
れすら等閑成せられ、僅かに悪銭が五條の梼を来し.
九一
者の力に待ったと言ってよかつた。而して彿伶中特に
夢葛等が大喝川に渡月梼を設け、今滞迦、今行基と耕 な少.皆療保護のほとんど全部は宗教に園係を有する
せられたる美濃の囲峯︵臨帝宗︶が北海道に渡りて教化
我圃に於けろ宗教ミ社食事業きの関係
我圃に於けろ宗教J−社命事業ミの関係
名ありしものに無文元選︵臨帝宗︶、高定和倫、稀念︵浄
土宗︶、寛妙房光淳等があつたが、これ等彿附よりも遠
九二
以上の如く悌耶南敦の数囲が、救貧方面に於て、勝
た又野猿方面に於て、相皆の成績を収め得たが、犯罪
な施設となつた。足利時代は乱離廠の如く、群雄が酎
かに常時の融合に射して、著しき感銘を輿へたのはヂ 方面に於ても亦.寺院紳敢が猪其の性質を帯びて蛮要
エスイト教陶の活動であつた。既に運べたる如くグ
ルメイダは外科治療をよくし、救臍院の一を療病患者 摸して攻防を常とする故に、敗れる者は遜れて何慮か
収容所となし、その後に建てた府内の三枚酉院巾の二 に生命の保全を期すべく、叉菟罪を蒙りし肇は罪の晴
院を瀬病患者及び貧病者の保護屏に昔てた。特に第三 れる迄一時たりとも身を隠さねぼならなかつた。か1
院が遁げ入れるものをかくばひて二命を救ふは.寺院
この種の避妊を指して寺入、又は蓮科屁と科した。寺
次の救済院は廣大な病院であり、日本建の木造にして る場合にその避妊扉として寺院井に紳敢が存した。
室の数十二.蕗弄堂、欝務室もそなはり、全癒迄患者
をこ1に留めて保養せしむる方針をとつたのである。
る真には.常時確かに相雷の勢力を有してゎたと共に、
ないが、しかし他面寺院跡政がか1る避難をなさしめ
グルメイダは又屡ヱ折帝者及び拝所病者等の途に憾め 等聖地に於ける殺生禁断の観念に基けるは言ふ迄も
るに遭へば.必ずこれを治する・など、この方面に於て
も功績が著大であつた。フェルナンデス︵叫rm呂G21?
巴○勺ernand箪︶やミゲル。ハス︵Hrmだーせ巴g邑ぎ且等も群雄等有力者の信仰をつなぐに足りる構成をも有して
亦同様に督療方面に努力し︰慈善組合と稀するものも ゐたのである。越後の上部彦大明紳が上杉謙信により、
勿論病者の救護及び慰安を計つたのである。而してこ 磐城の癌末寺が豪族田村隆顛により各く寺入の地とさ
寺入の地を設けてそこに屠らしめたのである。但し蘇
れ等ヂエスイト教囲の皆療事業は次ぎの織豊時代に入 れ、信玄も亦、忠節の士の子孫が若し罪を犯す際には、
りて、更に旺んとなつた。
9β
末寺の場合に明かなる如く、寺入は長期ならざること、北斗星とも仰がれしは足利畢枚であつて、前代の鎌倉 ∴
一人を救ふために反りて多数の人を失ふことを禁じた 時代に於ける金浮文庫とその地位−寧同じくしてゎた。
のである。これ等寺院神政の僧侶神官が奇人せるもの 足利拳校の賛辞につきては諸説があるが、足利義発射
等に勤して深く教詣を垂れ、改過選書に努めたことは ち鎮阿寺の開組鐘阿の設立したるものとも停へられて
言ふ迄もない。かくの如く緩かに寺入は足利時代に於 ゐる。この拳校は伶快元が鎌倉園兇寺より招ぜられて
いて、犯罪者井にこれ比類する者にとりて重要な保護 草餅となつて以来.大に曹展した。それ以後は常に伶侶
入門者箕に三千人と注せられた。而してこ1に畢ぶも
磯掬であつた。この寺入が顛著な欺績を挙げたのに比 が畢頭に禰せられ、第七世の畢頭玉同和鈴九華の時は.
すれば、奈良.平安南朝更に下っては鎌倉時代に於て
常に犯罪者にとりて感謝せられたかの赦宥は、この足 のも、教ふるものも、多くは伶侶であつて、これ等倍
利時代に及んで極めて少なく、天発地妖、改元、疫病 侶は京都及び鎌倉の五山十剃を初めとし諸国の名刺は
流行の場合に於ても販蓼々たるものであつた。叉俳教 勿論、到る虚併任の地に蘇りて陰に陽に教化につとめ
善.義政の生母の死去、柏幽寺の大供養等の場合に赦
濫鱒である。こ1に拳ぶものは主として伶侶たらしむ
は村校と僻した奉賛を有したが、これ将来の寺小鬼の
に直接、関係あるものも僅かであつて、足利義無の追 たことは察するに好くはない。殊に寺院は昔時小峯或
宥が行はれた忙過ぎぬ。
次ぎに教化方面に於ける借侶等の功績は最も顛著で るもの、即ち推兄の外、武士の子弟、紆紳の公選等であ
あつた。しかもその教化たるや奈良、平安井に鎌倉の った。大出道藷、上杉謙信、織田信長、徳川家康等は皆
諸時代及び後に来る織登時代のそれに比して、確かに こ1に通ったのである。庶民の子弟とても決して人草
九三
異彩を放ってゎた。まづ足利時代に於て一世の教育の を矩耗されたのではなく.反りて青く保護され厳権さ
我国lこ於ける宗教亡社食初発童の腸係
我凶に於けろ宗敢ミ社食事巣ミの関係
九四
れた。例へば武士紆紳の子弟等が若し悪しきこと
倉を
敏な
景、毛利元就等のもの皆然らざるはない。文庫も
せば、直ちに放逐されることになつてゐたが、庶
京民
都の
及鎌倉の五山十剃を初めとして、諸地の寺院は彿
子弟に勤しては十度迄も訓試するを惜まなかつた
典と
の言
みならず、和漢の啓を戒して、好皐の士忙敬譲を
ふ。而して敦ふるところは看経、蕗麺、習字、請
許書
し、
、自ら文庫の親を呈した。就中、東南寺の虎禦随
洒掃腰掛等であるが、読み物の中心をなしたもの
往の如きは海戒院を建て1文庫と耕してゐた。拘
所は
宗︶
来物であつた。往来物は庭訓往来、異制庭訓往来
に、
普遊
代撃
の伶侶の教化方面に於ける貢献は日発しかつ
往来、繹氏従束、山容従来、売嶺問答等、ほとん
たど
。過
伶侶等の如く著しくはなかつたが、紳道を崇ぶ者
牛は檜侶の事に成少、殊に足利中期以後の編述は
に全
もく
教化鱒志すものが斯く生じ、伊勢内宮の神官にし
れたが、これも亦僧侶によつて著はされ.存兇︵浄土
れ、時人及び後人を稗姦したことが砂くなかつた。
の中首肯﹂即ち伊勢論語を詠ひ出で鬼世上の訓誠を垂
僧侶の作であつた。径魔物の外に教訓書も相常に
て現
連は
歌中興の組と蒋せられる荒木田守武の如きは、﹁
眞宗︶の報恩記、宗藤の鬼教訓、義賞隠密宗︶の修善
論、蓮如︵挿土眞宗︶の御文、一休︵隠密宗︶の詩歌その
教化の旺んなりしに比して、矯風方面に於ける努力
井にその教具は天地答壊の差があり、殆んど述ぶべき
外古今著聞集等何れも通俗平易の裡に教訓を蔵し、教
めて侮蔑L人中貴下の経として之を早め・遊女に射し
化に資することが頗る深かつた。家訓、家書も亦
前代
ものがなかつた。穣多に謝して.五山の信徒等は口を極
に劣らす流行し.しかも多くはこれ伶侶の草案にか⊥
った。加之、何れも紳彿の舎崇すべきを詮かざる
ても
もの
、異に教化を垂れる僧侶なく、たゞ僅かに親好及
がなかつた。楠正成、新田義貞のものは固より、
日細
蓮川
の亜流が両者の教化につくした位のものであつた
加之、玩童の弊風は伶侶の問に愈く流行し、急に一見
頼之.今川丁俊−斯波義賂、北條早軍武田信玄、朝
OJ
山王の蓼を生する迄に板場に走少、囁風方面に於ては れとても決して強き含崇心があつたのではない。特に
僧侶等の功罪は相申する戦があつた。さは言へ、融合事秀吉は敢曾階級の樹立に夙めしだけに、伶侶等が政治
に容嫁するを好まなかつた。かかる事情よ少.彿教
業全館よりすれば、此の時代は、静、彿、基の三敦が共等に
カを致し、しかも他の樺力者より援助乃至利用される は抗争に力を袈し、内面的に賛巌することが緩く、基
事が割合に少く、又敢て協力を求めすして濁自のカに 督教は漸く褒政者の擁護に甘んするに至ったが、この
の活動が著しく、秀吉の頃には、彿耶二敦が共になす
大勢は政曾事業方面にも表はれ、信長の時代は基督敦
て事を行ひ、且つ相常の成績を螢げ得た時代であつた。
七
まづ前代に於て窮民の救助、孤猪者の愛護等に濁し
次ぎの織豊時代に入れば、褒故老の宗教に封する悪 なく、殆んど諭するに足りなかつた。
度に大なる華北を生じた。即ち奈良、平安.鎌倉井に
足利の諸時代は直接伶侶が政治に蓼輿したか、或は陰 て、貢献の大であつたヂエスイツー教徒は、更に信長の
に膚攻者の諮絢に答へたか、或は鰯攻者が敬紳、崇彿 援護を得て、愈々活躍し、散骨には慈恵組合を作り、そ
の念強かりしか、兎に角宗教と密接な園係を有し、従 の目的の澤成につとめた。擁津高槻城主高山長房の如
って各時代に於ける敢曾事業も直接に間接に宗教を度 きは、身自ら組涙画人中の一人として、条困者を救ひ、
外成し得なかつた。しかるに信長は法華一揆並に︼向 病者を見舞ひ、或は死者を葬り、戦時に寡婦及孤鬼の保
一揆に懲り、彿敦に射し嫌悪の情が頗る深く、その反動
護を怠らなかつた。その手右近友拝も亦大にこの方面
督教徒の活動が著しかつた。豊臣時価の末期には彼等
として新来の基督敦を擁護したが、これも全く利用し にカを用ゐた。これ等は一例に過ぎないのであつて、基
たに過ぎない。秀吉は比叡山の再興.大彿殿の建立を
九五
なすなど、幾分俳敦に好意を有する如くなりしも、こ 教徒も次第に疎んぜられ、活動も亦微弱となつたにか
我国lこ於けろ宗教ミ鹿骨事業ヾ1の関係
衣を穣ひ、粗食に甘んじながら、なほ救助の事業を継帝
は掠奪忙遭ひて入港せざる際に、宣教師等は厳寒に弊
をやめなかつたが、施輿品を翳す葡萄船が偶々難破或
かわらず、なほ欧洲よりの施輿品を以て貧困者の救済
非人乞食などの病に悩める者を探し求め、連れ膵りて
洛中洛外に人を渡して、野山の辻堂、梼の下に至る迄、
なしたと言ふ。それに封し、基督教徒の建てし京都の永
ケリワリ
†ワイス
線寺即ち南螢寺に任せる計離故離、及び海里居須等は、
門に施米屏を設け、前後二回各二百日間施薬救療を
九六
せむとし、窮蝕の一策として倖伶及び教養中の少年等
手首を施し.療病、瘡毒等の筆に射しても大に政療につ
我国に於ける宗敦ご政令譲葉ごの関係
に勤し一時、畷をとらすこととなした。しかるに少年等
くし、彼等より眞の彿、菩薩と崇められたと偉へられ
コスモスシ 右衛門は昔須蒙と呼び、市橋庄助と僻し、曹五郎も亦帝
キン
門と名づけ、島田清晦を嘗名となして、共に町穿となり
る。而して南螢寺にありし患春は献尉と耕し、呉服屋安
は痛く離別をかなしみて、ひたすら留らむことを嘆願
窮民救助につくしたと言ふ。如何に昔時の基督教徒が
て赦療事業に轟した。この南螢寺に於て単に病者の治
し、教師等も亦その熱情にうどかされ、遂に共に腰し
眞に熱意をこめて、この方面に努力したかが窺はれる。
療を行ひしのみならす、患者が病中家庭の生計に苦慮
き業務につきて賓をえ、或は一倍年間朝餐を慶して.
基督教徒のかかる活動に比すれぽ、彿教徒はほとんど
束の補助をなしたと言ふが、その用意の周到なるには
し、従って同夜の捗々しからざるを憐みては、その生清
.
技手傍観何等なすところがなかつたと言つても過言で
はない。
てゐた。俳借にしてカを用ゐて名ありしものに僅かに
伊吹山に五十町四方の地を獲て.本城より三千種の柴
節すものが多かつたが、宣教師浮藤天は信長に講ひて
驚く外ない。ここに用うる皆葵の如きも勿論.外囲虻少
秀吉の時丹波全宗︵天台宗︶がゐた位であつた。全宗は
草を逸らしめ、以て一大薬観を作った七も停へちれる。
疾病の方面に於ても、基督教徒は断然彿教徒を座し
京都に疫病が流行せる際に、秀吉と相謀りて、宮城の南
.渦軋轟苛敵中心どしで一瞥嶽事業は規尊大セあ針−
ぎりし軋雌ず硝璽憫垂欄潮盛叩uが
教師ワリニヤン︵A−霧andrOく巳官昌。︶は信長に講ひ、安
Ⅳ
救積も亦頗る見るべきものがあつた。これと共に数曾 った。しかしこれとても、基軒数鹿の活動であつた。宣
に於ける慈恵組合による病者保護の成損も亦決して度
外成し得なかつた。四旬節の間、金曜日毎に療病院を 土に拳枚を設けて子弟を教育せんことを以てし、許さ
彿教徒の技手傍観なすなきに比すれぼ、天地零壌の差
の畢校を見たと樽へられる。叉豊後にては大友宗麟の
ナワオ︵Sem山npri。︶である。有馬及び京都にも既に同様
訪れて喜捨金を恵むなど、ひたすら慰安にこれ努めた。れて最適地と莫大の菜用とを得て、建てたが、これセミ
があつた。
犯罪方面に於ては、前代の足利時代に、寺院並に紳 厚き援助を受け、管内臼杵にも設けられたのである。セ
オ︵C。llegiO︶
は紳畢校とも僻すべく、豊後の府内や長
赦が寺入の意味にて重要なる保護施設の賢を挙げてゐ ミナリオが主として普通教育を施せるに勤し、コレジ
たが.これもその末期に及び、寺院等の勢力が失墜し
て、寺入も事賓行はれ妊くなつた。況や織豊の時代に 崎に設置された。かくして、基督教徒の教育は、次希に
入り、なほ更、有名無箕となつた。かかる時に雷りて、勃興し凍れる儒教教育と寺院にて行ふ寺小屋教育とに
かの高槻城主高山長房が、領内の追剥十一人を摘へ、 相封崎し、酷かに着目すべきものとなり、この三者は
音等の教訓もの1編蓮も、前代の如く旺んなりしも、
貧窮の飴り罪を犯せるものに対しては、糧食を給して 共に教化興拳に貢献し得たのである。家訓、壁書、掟
家庭を維持せしめ、.以て改俊を計つた如きは、犯罪者
九七
矯風方面に於ては、普代に入りて喫煙及吾妻等が特
ょって作られる傾向を生じた。
に謝し應報主義をとり蕨罰主義を用ゐしこの時代に於 最早侭侶等の手を煩はすことが少なく、寧ろ儒者等に
て、全く異数の魔道法であつて特筆に償する。
概して足利時代に於ける犯罪者保護の成綺がよから
我国に於けろ宗教ミ鹿骨邸業寸しの関係
何時の世も大同小異なれども、無力の讃りをまぬがれ
て、その弊風の打破をなした者もなく、全般としては、
極めて論難せしならむも、未だ敢然起ちて大呼叱管し
に著しくなつたが、これに謝して何れ基督教徒は口を
庇護に押れ、宗教の眞の使命を忘れ去りて、凡ての方面
れ、一石二鳥の教具を収め得た。それだけに僧侶は厚き
幕府は僧侶を戸籍吏たらしめて以て自己築籠中に入
徒を押ふるために基督教徒を擁護したるに似て、徳川
別の改め役となした。かくの如く、以前に信長が彿教
九八
なかつた。要するに織豊時代に於て、敢曾事業の主潮
に活気を失った。されば、一方、従来新しき意気と、新し
我国に於ける宗教王政骨都塵盲の由係
となつたのは、むしろ基督教徒であつて、彿教徒等は
その後塵を挿したにすぎない。
八
き施設とによりて政令事業方面に貢献した基有数が撲
滅せられ、他方彿侭の括動も亦萎靡して振はなかつた。
代とほとんど比較を許さざる迄に凄展したにかかわら
故に徳川時代の敢曾事業が全般としては、従前の諸時
吉の存世中、天五十五年、﹁日本は紳観なり﹂との理由
ず、彿教徒の活動はこれに政行するを得ず、沈退の讃
年家康も亦秀吉の邁園を継ぎて、再び宣教師を逐ひ、
したことは云ふ迄もない。徳川時代に入り、慶長十六
的に箕行されなかつたが、少︿とも同教の宣流を阻止
要せざることとするなど.内外共に紳官並に紳道を奉
鮮明とな少、又虚によりては紳葬には必ずしも檜侶を
めより林道春.吉川惟足等によりてその旗峨が次第に
し、その一隅に押し込められてゐたが、徳川幕府の初
をまぬかれなかつた。押通は中古以来彿敦の中に混清
同数を厳禁して、宗門改めの制を布き、爾来幕府は愈
r簸附町匿鮎軒胚ル臥軋
する者の勢力が伸張して来た。しかし敢曾事業方面へ
臣酬郡散策げて㍗蕾塵取七山作且.藩救い瞥外い
々障れたる同教徒に謝して歴迫を加へ.逸には寺請定
すべきことを命ぜられた。但しこの命令が直ちに徹底
を以て、邪教と見倣され、宣教師は二十日以内に退去
かくの如く諸方面に活躍した基督敦も不幸、既に秀
ヽ
犠雌
。
箇
の
際
洩喝これ等価教並に雲よ少もーむしみ崖盟郡と・そ
も目
々
普代の就曾事業の中軸となり、馬攻者の十中八九は
の儒教の精紳を鰹して敢曾事業を行つたのであるっ
まづ、救貧方面に於ては幕膵並に諸侯等褒故老は政
米、政金、拝借金、拝借米、施粥、政小屋、焚出し、
輝米、店賃地代の免除、棒線の檜加、破発、貸借訴訟
の棄却、低利貸付.代用食奨励、娠他規定の薩立等、
種々の方法によりて、あらゆる階級を政商したのであ
光
二
天
宗
るが、これに比すれぼ僧侶等のなすところは、殆んど
賑他の一方法に止ま少、しかも天菱地妖等危急の際に
行ったのである。さて徳川前期にありて、大飢饉火災
等にて人々の最も苦しめるは天和年間であり、後期に
於ては天明及び天保の年間であつた。この時に嘗りて、
幕府憂初め、諸侯武士、庶民等が夫々故地につとめたが
僧侶の間にありても、天和年間に、長崎の千凱健保︵責
柴宗︶は径五尺五寸の大鍋を以て、五ケ月にわたり飢
民に粥を施し、慈岳道深︵黄壁宗︶も亦同様施粥をな
し、或は京都紫野の宗忽︵臨埼宗︶.大雲院の高熱︵浄土
我国lこ於けろ宗教ミ証骨革業ミ¢関係
服道
親}
戸
活
との動
慣
)
かつ
し
の
た。
明
哨
て文庫を設け、上野の寛永寺内に助拳安を興し.或は
童し、或は欝薬を施し、又は不忍池中に排天島を造り
凛漑工事を起して早魅の夏なからしめ、或は発見を牧
宇治の大凶飢に飢病者に鏡簗を奥へ、或は五介の庄に
た。丁翁の事業は単にこの天和の販他のみではなく、
には葬式の束を給し或は遺族にその扶養料を支出し
少きは一二貰文を人々に奥へて救助に努めた。又死者
を憐み、鳥目一千一首二貫文を出し、多きは十賃文、
道、八寒八熱叫喚の地獄道を現出するや、いたくこれ
れ、庶土茫々十三里に亘少、彼の言ふ如く無量の餓鬼
である。了翁︵黄奨宗︶は天和二年江戸が業火に見舞は
中にあつて、特に記すべきはかの了翁と織眼との事業
い。かくの如く僧侶の活動が微弱にして小規模なりし
が、しかし全段として働きが旺んであつたとは言ひ嫌
るや借財に待った。域限は貧者に衣食を奥へしのみな
民を政ひ、月を鞄へたと言ふ。而してその賓を捻山す
てたる書状によりて見るも、時に蛙二日一馬飴人の飢
人より救世大士と迄推耕せられた。山崎年左衛門に宛
即ち彼の蛾眼寺に入りて、大に飢民の救助につとめ、時
足したるに係らず、直ちに踵を回へして大阪の瑞籠寺
際して、既に成少し一切戒経を賂軍に献ぜむとして蓉
るや否やは明際を快けども、天和二年寄畿内の飢唾に
出して、その政助につとめたと倖へられるが、果して然
些亭、大阪の大洪水の節に、一切戒経翻刻の巽を投げ
接したと言ふ。域眼︵薫染宗︶は了翁の道友であるが、嬉
葉である。これを池の畔にて棄り出せるに買ふ者拉を
ヽ
りて、男根が悟道の障擬たるを思ひてこれを断ったが、
製にか1つた。彼が未だ修行中.一夕感憤するところあ
一〇〇
舌稀の戒として観音の小銅像lニ十三萬三千三百三十三
らず、病者には湯柴を餉け、粟鬼忙遭へぼ人に托して
我国に於ける宗教草鞋骨事業ミの闇係
鰹を天下の諸人に靡つなど、頻りに民人のために計り
その痛苦に堪えかね、夢に見し鬼方によつて製した釜
てやまなかつたが、その賓を得るや寄捨によらすして、
養はしめ、途で囚人に池へば官に請うて免ぜしめるな
ど、了泌漣洪粧、敵陣,紛蘭紅≠に匿臣附﹂ 脚
麻袋風の賢上高を似てした。この励袋勘は、丁鈴の創
曝せる双鵬笥であつた。
ちで、、蛾準ば惰と具したが.鍾や捻そ.の笥環噸葛嘲・
防貧方面に於ても、徳川時代に入りて、方法
頗則
るに告げて斡旋大につとめ、逸に栽府の許可を
相が
乗正
得せしめた。愈々若手したるに中途刑部左衛門が残し・
あつて、伶侶は多く架橋方面に主力を注いだ。澤葛︵臨
食事菜園係者にして、しかも常葉欒宗の僧侶であつた。
云ひ、また蛾眼と云ひ、共に徳川時代に於ける著名な政
我国に於ける宗教ミ政令事巣ミの関係
に、神道の賄係者も亦救貧防食等の方面に直積最むる
居宣長とである。梅辻規清は上㌍茂の武人.跡習敦の教
一〇一
荷石新田の開単に力を致したことである。始め
白あ
井る
治が、文化文政の頃、江戸の遊民浮浪者等所謂ヤ
組で
郎右衛門は刑部左衛門と計少、椿沼埋立の事を
思者
ひ等
たが次第に檜加するを慨き、印旅沼の開墾に従
クザ
面に於て、特に記すべきは蛾牛遺機︵黄欒宗︶が椿沼入
江戸に婁厳島を作ったのは栢々見るに足る事者
績が
で砂
あなつ
かつたが、貧困の寛和につきて卓識を有する
た。かくの如く僧侶の活動が不振であつたこも
のの
防が
粂ゐ方
た。その中最も聞くに足りしは梅辻規清と本
も長崎に石橋を架した。これ等の外に婁厳︵浮土宗︶が
をなすと共に故里趨中、伏間江村にて椅藍氾以
少上
、の
如如定
く一般に伶侶の活動が割合に振はぎりしと共
鱒宗︶が八瀬梼を無し、妙信尼も亦私財を投じて開墾
倉の諸設備が窄ひ、廻米、米の買上、及び棄そ
沸の
も女
大婿規
菩右衛門が遺業をつげるに、鍍牛またこれを
模に行はれ、食用米の節減、造酒製菓の制限援
、け
物て
償、調
幕府より六千両を補給せしめた。加之自ら武繚
節と工餐の制限、節度奨励、授産、救臍土木、
土を
地往
の来し、或は弟子大通をして沿湖の人民に鎗し
の間
開墾、溝渠の開撃築堤、河川の開優等によりて
、て
大工役に就かしめ、寛文十五年功を竣へしめた。
て以
に教典を収めたが、これ等は多く褒吸着のカ住
に民
待はっ
域た
牛。
の令旋を大に態とし三尊三政を建立して、
然るに檜侶、前官によつて行はれた事業は拘以
にて
僅そ
かので
恩に報ゐたと言ふ。この鏡牛と云ひ、了翁と
進歩し、官靡、滞庫.敢倉、郷戒、義倉.敢倉、常平
J側
我国に於けろ宗秋ミ紋付亜業ミの関係
一〇二
黙せしめて、以てその土に安んぜしめると共忙、その ない。その反掛に、小商人は多く不利を招ぎ、茎償
小首姓の間に於ても亦、同様の群が存し、併謂片ゆき
取締を容易ならしむべきを、時の老中に献策した。而 徒らに糞え、その貧富懸隔が愈々大となるが、豪農と
して遊民放逐後の江戸府内−竺二千町の陰城に定め、一
寓南以上の資産家一萬五千人を揮び、一町に五人を配 となり、.富めるもの等はその富を大にし得ると共にそ
して住居せしめ、野菜棄、日雇人、紙屑異などその日暮
の数が減少し、貪しき者はその条愈々甚しく、数も亦
しの者等をして条に堕せざるやうに常に相談にのりや 多くなるべきを論じ、この粂併の弊を打破すべきこと
行はしむべきを診いた。この梅辻規清と云ひ、本居宣
らしめ、若し怠堕なるもの、商を休むものあれぼこれ を主張し、進んで褒攻者は富める者をして自ら仁志を
を戒め、病むものは町野に診療せしめ、葬逸し得ざ
るものには自ら葬りやる等、萬事象窮者の監督保護に 長と云ひ、生気を帯び来れる押遣家等は堂々として所
雷らしむべしとなした。これ今日の方面委員制であつ 懐を吐き妙策を述べ、敷こそ少なけれ、儒者の間に介
の活動も亦、前期及後期を通じて、頗る微弱となり。
疾病方面に於ける俳伶並に神官等宗教に閥係ある者
て、その卓抜なる意見には驚かざるを得ない。規清よ 在して遜色がなかつた。
りも更に根本的に貧富懸隔の鱒周を説き、且つその根
雁を論じたのは本居宣長︵復古辞退︶である。宣長は早
かつた。これに反し薦政者等によつて行はれた事業は
くも資本蹟集の理を看取した。即ち富商は富むが故に 基督教も僅かに慶長元和の頃療病院を有するに過ぎな
有利の任地に立ち、償安き際は急ぎて小Hる要なく、反
りて多く異ひ込み、償高けれぼ直ちに束りて利を占め 頓に檜加し、施襲、施療、特に小石川養生所の設置、
る。貸借に於ても利をえ、潜み倒しに骨ふとも、よき 行波病人の保護、俸染病の汲防、摩填の虚置と下水の
疏遵、灸肺の奨励、瞥拳折及西経静捗肝め毀証︰小“医降り掴
⋮様に汲め他より刺を計る方針を立つる故抗することが
誇等種々の方面より考慮され蒼行されたが、宗教閲係
犯罪方面に於ても、幕府を初め鰯攻寄は贋親玉莞
刑法の改正、特に線坐制の撒堅を計り、或は特穐犯罪
瑚
者によつて行はれたのは漸く施薬と施療に過ぎない。 び應報主義をとつたが、なほ一服の保護概念を有し、
頴川入道︵蹄化侭︶、旗本︵黄嘆宗︶、貞極︵浄土宗︶等の藩
伶、礫敦の井上正成などが何れもこの方面に努力し、 者の減刑を発し、又獄舎の設備改良につとめると共に、
かの了翁も亦大いに蓋した。前述せる如く、了翁は錦 囚人取扱の改善をなし、就中、囚人をして穿働につか
袋園を創製して、池の端に底餅を張りて棄り出したる しめて無馬のため悪を思ふことなからしめ、進んで鏡
タノ
のみならず、これを四十二常人に施すことを念願し、 山役夫の制、人足寄場制を設けるなど、甚だつとめ、
伊勢上野柑安養寺門前、京都泉涌寺、及売薬山高癌寺 民間にも滑を設け、或は五人組制を愈々巌重にして、
の門前等に於て施し、十三年間擁まず賓行して途にこ 犯罪者.の保護並に汲防に重したが、との間に立ちて伶
の麒を成就したのである。これ以外の施輿はその数を 侶等の努力は頗る微弱であつた。たゞ赦宥の夜令に幾
知らないと云はれる。高野山に経堂を建立するために 分の牌係を有した位のものである。赦宥は織豊の時
賛足せる際も四千轟を持し、途中の病者等に背くこれ 代に一時影をひそめたが、徳川時代忙入りて再び行は
を恵み、殊に乞食井に紳宮参拝者に各々金一歩を附し れ、天皇の践詐及び崩御等量主に於ける吉凶の際、改
て施興した。柾川時代全鰹を通じて、この丁翁の如く 元の樹、絡軍宣下の時、世子の誕生時、賂軍家の吉凶
個人にて大規模に施菓をなした者はない。しかも丁翁 の際にこれを見ることが多かつた。将軍家に於ける年
は他のカを借ることなく、自ら賓を得て、貧困、疾病 忌法曹の際、日光叙参の時.正遷宮井に修覆の節など
一〇三
ことは決して紗くなかつた。而して法曾の赦の場合に
の方面のみならず諸方面に活躍せる粘に於ても、軽か の、直接間接宗教に閲係ある場合にも赦宥の行はれた
に猪自の地位を占めてゐる。
我岡に於けろ宗教王政付事光ミの隣保
我国lこ於ける宗教ミ祀骨非業ミの関係
一〇四
は、箪永寺井に村上寺が赦帳を幕府に出し、囚人は法 った寺小屋は、普代に及びて大に旺んとなり、伶侶紳
曹の窃にて直ちに繹放されたのである。各藩に於ても、
官等は最もよく之を通じて魔民の子弟を教育し得たの
いづれはこれに倣ったことであらう。囚人の敦誇は主 である。もと徳川時代では、家康が拳を好み、武に替ふ
化を重んずる気道を生じ、昌平祭、薄拳、郷拳.幕府の
として心聾者がこれに雷ったらしく、少くとも人足寄 るに文を以て世を治めむとしたゞけに、自ら講拳、教
場へは中澤道二を初めとして心聾者等が常に出入し
た。維新以後ではあるが、毎月一、六の両日心拳講話 直轄拳闘併、教授所等の畢校施設の外.私塾もなかな
をなしたと言へば、又以てそれ以前の時代に於ける活 か旺んであつた。これ等の渚畢校諸拳塾中.庶民井に
動を想察するに妊くない。かくの如く心聾者等が人足 その子弟の教育につくしたものもあつたが、眞にこれ
寄場の敬語に進出せることは、これ碇かに、その訓話 に雷つたのは石門心拳の徒とこの寺小屋とであつた。
が俗耳に入り易く、又遺徳を主として設けるにもよつ 寺小屋の師匠は必ずしも神官.僧侶のみではなく、浪
ば反りて檜侶紳官の師匠が少くな少、浪人及び町人が
たのであるがー一は常時彿敦の各宗派が自己の勢力接 人あり、野師あり、町人もゐたが、しかも幕末に近け
張に腐心して相互に排斥しあへるため.幕府は三雲
派に囚人等の教義を委しなかつたにもよるのである。 多くなつて魂た。さは言へ、全時代を通すれぼ、やは
に教導併を設けて教化鯛を張るべきをす1め、配所八
ただ日章が囚人の教化につくしたと言へぼ、或は日蓮 り、檜侶神官のカが強く、かの梅辻規清の如きは幕優
宗が死際埋葬の際.事に嘗ったらしい。兎に角、この
に於ける教化は習字を主とし、これに謹書、算術を加
犯罪方面に於ける檜侶の努力は甚だ徴諺であつた。況 丈島にて旺んに寺小屋を作つたのである。この寺小屋
や甜官の活動について些言ふを要しない。
椿じて教化方面を見るに、足利時代になほ訪穿であ へ、次節忙穿控な少﹂上膠紛い酢
道、生花、詩歌、地理.紛遥.裁縫、武術等も自ら加
北方法として大忙効果を収め得だ瑚の蛾肇易な適作Ⅶ
鵬
一J
へられて禿たが、教科背中主なる者は従来物であ
つた
たが、心聾者等は最もこの方面にカをつくし、儒者
あつ
筆を著はし、鈴木正三︵陳潜宗︶は萬民徳用、麓草分等
相富にこれに志した。僧侶中、澤葛︵臨鱒宗︶が玲瀧随
ことは足利時代と同様であつた。加之その教が遥
中か
にに
も撃を染めるものがあつた。又僧侶井に紳道家も
檜大し、常代に用ゐられしものが六首五十飴種に及びl
内.農工商に関するものだけにて盲五十八種であつた。
但しこれ等従来物中、寺小屋教育の根幹をなすも
の、元攻︵日蓮宗︶は食鬱要編等をものし、盤珪︵臨
をの
作少
多くは、既に前代の檜侶紳官等の手にて成れる往
物も亦芳野歌等を詠し、紫笛道人の孝の道、天准︵曹
臍来
宗︶
及び普代に入りて作られたものであつた。この寺
屋の渡世の船唄、悪霊︵眞言宗︶の人となる道、仰誓
洞小
宗︶
によつて應民の子弟教育を施せると共に、庶民の
の教
妙化
好人嘩−法恩のいろは心、信暁の臼摺紛引歌、餅
につきても、昔時の僧侶及神官等が詮歌謡話によ
て引歌などはその例であるが、就中、自隙︵隠密
瑞つ
の紛
相皆の数兆を収め得たことは廉かれるが、心拳者
宗等
︶は
は徳川時代の蹄界に於ける詫象たると共に、常に
所謂心挙道諸によつて直接、教化を目的としただ
庶け
民に
の教化に志し、夜船閑簡を初めとして、寝惚けの
常時の世に影碑することが頗る大であつた。この
眼心
蒐拳
し、大道ちよぼくれ、施行の歌、おたふく女郎紛
僧侶例の好代表であつた。これに謝し、従来僧侶の下
とても辞儀彿の三遣を経とし、老荘の撃を経とし
成御代の腹破等を著はし、大に教化の賢を拳げ.
引て
歌、
れるものであ少.その弧石田梅戯は何丁雲に紺を重ん
だ。この心草道託と共に辞誰の裡によく教訓をふ
位く
にめ
つきし脚道家は漸く猥立の気運を生じて、佑彿二
一C五
加l伊勢の鞄神道が各々濁自の紳道に立脚して蒸すに
世を会すること大なりしは落語であるが、これは道柴
に雌
封略するに至り、敢脅教化の方面にも.青田.垂
の案出に基いた。宮代に於て.庶民及びその子弟の教
我囲に於ける宗教王政食事業ヾJの関係
我圃に於ける宗教ミ泣付事業ミの関係
一〇六
至った。山崎闇訝、本居宣長等の如き聾者も時には土 ︵三志︶に至った。三志は従来の富士諸に焙れる積弊を
論語を連作し、鈴木以敬︵垂加押遣︶墜掃神教訓袋を、
注ぐ者も相接ぎて顛はれた、澤田源内︵青田押遣︶は倭
とLて教化に努めたが、更に進んで専ら主力をここに
るものが五寓人に遷し、又常銀地方のみにて三思より
に追がなかつた。この二恵にす1められて信者となれ
るまで議団を廻りて慮民の教化に昔り、具に席暖まる
し、四十餞年の問、西は長崎より、末は下線銚子に至
金三種拍手捲、玉くしげなどの苦を著はし、通俗を旨 一掃して、大に孝行と報恩とを基調として改革を断行
井澤播龍︵垂加押通︶は大和女訓、女訓みさを草等を、
及んだと停へられる。加之、三志は諸国を巡歴申その
檜穂残口は残口八部書を、梅辻規清は蟻の念等を、井 探き感化を受けて、篤行家となれるものが八十三人に
上正錬は罪答崇問答を、叉黒任宗忠︵黒任教︶は五事、
七佐井に書翰を以て、共に庶民の教化を計つた。軽か 地の発行家を訪ね二々之を其友高田輿清に語りしに、
にこれ等の講書は紳道の通俗化に成功したと共に、敢 奥津は之を凍りー他の者が又其記事を補綴校正して一
合致化に資することが大であつた。これ等の文書によ 書となしたが、これ乃ち鳩谷三志勒善錬である。この
る紳道家の鹿骨教化よりも、造かに算救を収め得たの 勧善銀は時人井に後人を碑金することが頗る大であつ
は小谷三志の富士諮であつた。もと普代に於ては、偶 た。兎に角三志の率ゐた富士請は徳川の後期に於て、融
数にも話中組織が頻りに起ったが、静道に於て牲富士 合教化上忘れ経いものであつた。樽じて文庫の閲係を
講が頗る旺んとなつた。この富士籠は富士山の信仰を 見るに、寺院跡敢には多く寺小屋が附隣し、又説法謹話
目的としたが、既に古き頃より存してゐた。しかるに が此虚にて行はれたと共に、書籍等も多くこれに成さ
こそせざれ、好拳の者には披講を許してゐた。加之、蛭
織豊より徳川の初世にかけ角行来兜がこの富士講の色 れ、自ら常時としては一小文庫の戦があつて、ただ公開
彩を鮮明にし、敷代を経て敢行三思小谷庄兵衛鳩谷
Jロβ
三常飲巷を収蔵した。これ等の書籍を一般に披講せし
川時代に於て公開せる文庫は背これ宗教に囲係を有し に分ったが、ここに二間に三間の文庫二棟を附し、群書
てゐた。豊宮崎文庫.林崎文庫及び了翁文庫などはそ
席を開いた。膚暫松田剰庵を呼びて試ぜしめた時には
れである。豊宮崎文展は伊勢外宮の紳官疫曾延佳等の めたのは言ふ迄もなく、更に進んで.偏光︰等外典の議
費起により.賛成者七十飴人を得、更に朝廷及幕府の
撰助を受けて成ったものである。又林崎文庫は内宮の 聴講者が二首に遷した。この劫壊寮の文庫ほど大なら
文庫にして、宇治曾合併の年寄等の発議の下に、諸国 ざれども、了翁は芝白金瑞聖寺にも同様の試みをなし
て活動をなし、功療が偉大であつた。全鰹として紹て
の有志が蘭書を寄附して作ったものである。しかしこ た。その外了翁は実見の牧巷を膚す等、諸方面に向つ
の二は公開と僻すれども、規模が小であつたのに謝し.
了翁文庫は徳川時代全醍を通じて、最も大なるもので 凝蓼の感ありし徳川時代の宗教関係の敢食事業も、と
あつた。初め丁翁は池の端の鋪屋に威経以外、儒教老 の了翁ありしによりて幾分の生彩を加へた感がある。
荘百家経史子集古今の群籍皆道の請書、上古より近代 最後に矯風方面を見るに、常時宗教上の国際行事が旺
我国に於けろ宗教ミ洗骨準兼モり随係
目溝.大々講、地場誌等が弊蕃をともなひ、反りて幕
なす行者等も放属するや、共に奈麿せられた。加之、
一〇七
内方の地を得て、以て勒畢喪面棟を作わ∴各棟を五十房に、外に謝する矯風よりも、むしろ内に向つて風紀の
意初志の貫徹につとめ、火災前に上野山内に五十四閣 h∴風俗を素し公安を害することが屡々であつただけ
高四千飴春が烏有に節した。これにも屈せす、了翁は鎗法華寺の伶を初めとして僧侶等の乱行が目に鎗るに至
二年の大火のために棄斐併の勧草屋が薬療し.群書一
蓉願した。而して着々歩を進めたが、不幸にして天和 府井に諸侯等より取締を受け、又修験者、加持所躊を
勒草案を建て1、以て披賢者の便に供せしむることを
に至る我観の紳書歌番記録等悉くここに牧戒し、傍に んに行はれ、鳩谷三志以前の富士講を初め、念彿講、題
JO7
我国に於ける宗教ミ鹿骨事業寸Jの関係
︼〇八
廓清を必要とした。ただこの間にあつて、僅か
拐
にに
掲げ
てぐ
非行の防雌につとめ、智隆︵眞言宗︶も同綴こ
べきは堕胎及び婁見殺しの防止につきて努力の
せ方
る両
僧に
侶カを致した。土佐と封比し東北の仙北の地も
の存したことである。堕胎井に嬰見殺しは何符
時土の
に以て鬼撰を失ふことが多かつたが.ここで
な世
るを
も行はれることであるが、徳川時代、特にそも
の慶
後念
靭坊
には
於これを燐みてその防止に固めた。これ等は
て最もよく見た現象であつた。富時天下に足業
跡績
のの
遍顔
ねはれたものであるが、各地に於て障れて、堕
かつた佐藤信淵は、越後を除く外、ほとんど胎
全井
国び
にに
こ嬰
の鬼歴穀の防止に蒸した伶侶神官が多かつた
弊風の存することを認め、越後に堕胎等のなき
女う
子。
では
あら
生るれば遊女に寅りて反りて昔ぶ習借あるがためとな 九
虚に随ひ、文人の如何によりて、その趣を異にし、叉
し宅かくの如く蔓延せる堕胎等の悪風防止につさ
きて
て稲って、上に述べ来った紳代より鮭川時代に至
る迄の宗教と政令市業との踊係を見る㌢時によりー
は.常時の仁君誠人等が労しく起つてカを用ゐ、まづ
教化を以てその非を諭し.進んで養育料の補給をなし一
層に保育所の設置を主張し寒行するなど、大宗
い教
に、
計宗
る瀬の教義井に侍統的傾向の相異も自ら融合事
まづ宗教と融合事業との一般囲係を見るに、紳代に於
ところがあつた。僧侶中にも亦この方面に貢献
す
者種類.脛螢等に反影することが多かつた。
業の
理る
想、
が砂くなかつた。白河の常重寸︵渾土宗︶の住僧は広平
定信が名工文鬼に小融かしめた堕胎及嬰見殺て
しは
防宗
止教
のと
諷して、たゞ健脚の道のみが存し、しかもす
刺蕎を夷ひて、粘下の各村落を巡歴して、その
非の
行文
な化
るは未だ充分に分化発展せす、融合事業も亦
べて
を諭し、土佐も亦土地墳鞠の故を以て、この特
弊別
風に
が存
甚せ
しざりしが故忙、宗教と敢骨事業とは一にし
て二、二忙して一であつた、否、むしろ後世の所謂敢
かつたが.法遣︵挿土宗︶は地獄極東の同線を紳敢俳閤
食事菜は惟紳の道の一部分の現れに過ぎず、Lかも左
我国に於けろ宗教ミ洗骨準兼モり随係
くその跡を経った。次いで平安朝後年に入れば、.娃厨
が、新香二次は共に敢食事菜に閲係し.焉政者も亦多
が、五山十剃を初めとして、伶侶は昔時文化の有力な
僧侶中優れた者も紗く、殊に融合事業をなす者は絢
じられたるを以て、濁異な跡道による配付事業は久利
しの兼堺に苦りて次塊に指頭したが、殊に秀吉の費せ
神道は彿敦と混清せしめられ、既に本地垂跡の詭がる
信とき、基有数は信長の庇護を受け、神道も亦既に足
琴言の二宗に鳩する者が代りてカを来した。この間に
、稀であつた。沸教がかくの如く全く不振状悪忙陥れ
宗檜侶が主動肴となり、平安朝に於ては、自ら天台.
費じなかつた。ただ奈良朝にあつては、南都彿教の形
各勢過に樽じて彿敦は痛く鰯政者より疎んぜられ、又
年に於ても、大胆、この奈良朝に於ける二者の関係貴
が行着たるの和があつた。しかるに織豊時代に入れぼ、
曾事業と俳敦との圃係は密接不経となつた。平安朝維
前持者となク.敢曾事業に閲しても、ほとんど唯︼の
るに従ひ.その融合施設も彿敦に則ることが多く.敢
事に常つたが、他面、皇室も彿教との関係が濃密にと
なされ、赦曾に秩序なく.銑離麻の如しと耕せられた
僧侶等は寺塔の建立等をなすと共に、大に融合改善り
のに利生の道を講じた。次期足利時代は督適時黒時代
った。次期の奈良朝に入れば、併数の尊信が愈々厚く
く彿
、敦の信奉者なりしだけに、僧侶等とカを協せて頻
じ.従来のものと合して多種となり、規模も亦大とな
新しくして且つ堅き根抵をえ方法上嘗て無きものがい
生で興少、他方、南都併敦の復古連動が旺んとなつた
彿教の渡来に遭ひ、その精紳に於ては彿教の教義よ台
り∵
、鼻音三雲菖そ衰萌したれ、一方、新俳︰敦が相接
亦その悪度及び内容上砂からす影晒を受けたが、更努
に力も頗る後藤となつた。しかるに鎌倉時代は.天
開けて儒教文化が我国に移植せられるや、敢曾事業般
もに彿敦は萎靡して振はず、従って杜曾事業方面への
程蛮要成されもしなかつた。しかるに韓土との交通寺
が等が伶兵を擁して、外に射して拭暴を極めたが、一
Jの
我国に於けろ宗秋王政食事麗壱の由係
一一〇
る切支丹宣教師撤去命令に吾が邦の神国なるを明かに 信奉者によつて.赦伊都其の通年が螢まれたと言つて
してより、自らその勃興を誘致されるに至った。ただ、
もよいのである。基督教は渡来以後久しからずして禁
敢曾事業方面に於ては、未だ神道豪等望見献が少かり 腰せられたが、その間に於ける活動軋常に熱心にして、
しに反して、切支丹教は教義井に倖統的傾向等により、
頗る敏且つ要餞をえ、教具甚だ見るべきものがあつた。
大に敢食事業に若手したのである。下って徳川時代に これに比すれば、我歯固有の宗教と耕せられる紳道に
然らば、これ等紳彿基三敦中の、何れの宗汲宗門
入れば、基督教が禁腰せられ、偶数は幕府及び諸大名 ょった敢曾事業は、常に微々として振はなかった。
より政策上庇護を受けて、反りて去勢されたるかの戟
を呈し、凡ての方面に射する活動力を映ぎ、敢曾事業のに.敢曾事業を蕾むものが多かつたか。まづ彿敦に於
方面に於ても、全鰹として甚だ振はなかつた。叉紳道 ては渡来後日なほ湧く、柴草の風が頻りに行はれてゎ
は儒教と共に猫立の気運が熟して、愈くその旗峨を鮮 た時代に、鹿骨事業に努力せる伶侶等の併旭宗派を定
明にするに至ったけれども、儒教が番吸着の指導原理 めることは困難であるが、蹄化侭中、﹂この方面に心を
とな少、敢曾道管の中枢となり得たのに比すれぼ、神 用ゐたものが相常に多かつた。奈良胡に於ては三論宗、
道は未だ赦曾事業方面に進出して席数、彿敦に封立す 法相宗、律宗に関係のある僧侶が割合に多く、就中、
峯貫一宗が新たに開かれるに及び、敢曾事業に掲せる
るには程遠かつた。これを要するに、我国の宗教中、 律宗の伶侶が最も多い。しかるに平安朝に入り、天台、
彿敦が渡来後.日最も久しく.皇室を初め償吸着、民度
の六宗は敦勢衰ふると共に、その敢曾事業も亦概して
の間に深く信奉せられてゐたゞけに、敢曾事業との交 者の殆んど全部は此の二宗に鷹すること1なり、南都
渉も亦自ら最も深く.奈良悶前後より足利時代迄は、時
に一進一退こそあれ、全鰹を通じて、檜侶乃至沸教の 振はなくなつた。しかるに我閻併敦史上塞要なる地位
JJO
祓曾事業に射しては、飴他の文化と共に、殆んど顧み
頻りに兵力を蓄へ、一揆を起して攻伐をこれ事とし、
代に入れば.彿教の宗派中、平安末期の教圏と等しく、
したが、ほとんど言ふに足らなかつた。次いで足利時
宗、眞言宗の檜侶中にも、なほ幾分努力するものが存
中.律宗に傑出した者が多く、平安の二宗派たる天台
ては新興の宗派を塵する慨があつた。これ等南都彿敦
業にたづさはる者が多く、少くとも敢曾事業方面に於
も亦再興を現して起ち、その僧侶中にも好んで融合事
が著しかつた。これ等新興の宗派に勤して、南都沸教
期に既にこの方面に指をそめ、普代に於てもその活動
するものが砂からす生じ、中にも法然の門流は平安末
その教組、或はその僧侶乃至教徒中、敢曾事業に貢献
土宗、臨臍宗、曹洞宗.眞宗、日蓮宗、時宗に於て、
神道、楔敦、静習教、黒任敦∵貰行数に朗係ある者中
生じた。これ等細道の各派中.書出、垂加、伊勢の諸
の旗職を鮮明にしたが、頂いて種々の所謂宗教細道を
苔こ少、特に復古神道によりて大に面目を改め、濁立
代に入りてかの唯一紳道と共に、垂加、伊勢の紳道が
は、ともかくも静彿二道は混清の状態となり、徳川の時
神道も唱へられたが、唯一紳道が現はれた足利の世道
で、両部習合押遣、山王一賛辞遣も行はれ∵三数詞和
く、彿教の渡来後、幾許ならずして本地垂跡の詮が出
頗る盛観を極めた。吟じて押遣を見るに、上述せる如
普代忙於ける偉大なる事業伶は皆これ、この宗に属し、
ところ大なりしは、新たに涯来せる黄葉宗であつて.
然として顛はれたが、これ等二宗よりも更に貢献する
利時代の如く、臨済、浄土二宗の活動は再び諸宗液中薪
敦の何れの宗淡も夫々配合事業忙努力したが、就中足
全く諭するに足りない。下って徳川時代に於て■は∵併
ぎる向も存したが、五山十剃を擁する臨臍宗井に浄土
祀曾事業にカを用ゐたものが次第に多くなつた。次ぎ
を占ぬる鎌倉時代となれば、一方、新興の宗派たる浄
宗に属する伶伊中、カをこの方面に用ふる者が最も多
に基軒数を見るに最初渡来のものは切支丹敏郎ちヂエ
︼一︼
かつた。織蜜蜂代は、俳敦の何れの宗派につきても、
我国に於けろ宗教ミ洗骨準兼モり随係
∫Jl
我国に於けろ宗教ヾJ社食事業ミり園係
一一二
スイツー致であつたが、之に謝し新教次の入団は頗る に、院合に収容の上に救護する併謂院内救助も亦大に
用ゐられた。教北の方面に於ても、寺小屋等の草食組
JP日成織、征衣もの等の著述及び文庫などを通じて、貧困、疾
遅れ.#未の安攻六年であつた。米観監督敦骨の宣教
ヘボン
ブラウン︵Spm邑R。bb訂智者n︶等病
が に謝する事尭に劣らざる程、貢献するところが大で
師ウイリアムス、︵C訂nnFg一句ご︼i巴巳︶
2ユ訂穿pb焉n︶
教汲に廃するもの1活動が反りて旺んとなつた。さは
事業に、賂た又教化事業に犬に巌めたが.後来この新
雷の致緯を蓼げて来た。たゞ矯風事業に至りては、寄
或は為政者を通じて、赦宥、死刑鹿止などに努め、相
もあつたが、伶侶等が畢燭に囚人の敦高等にあた少、
相接ぎて来り、布教と共に政褒事業に、或は欝療保護 あつた。犯罪者に封する事業も、時には振はないこと
言へ.少くとも明治維新前迄の我国の基督敦と言へば、
その理想、経螢方針.態度等に於てこそ.他の宗教の
た。これ等、僧侶乃至教徒のなせる諸種の赦曾事業は、
ほとんどこの、ヂエスイツト敦を指すのであり、その 具するところよ少も、反少て風俗を薬ることが多かつ
赦曾事業に射する悪度は眞に熱心であつた。
かくの如く.紳俳基の語源中に於ても、敢食事菜と
の交渉に自ら厚薄があつたが、これ等諸派の園係せる 願係者と異なつたところがあるにしても.事業の種類
赦曾事業は如何なる種類のものであつ、花か。まづ沸教につきては大陛等しい。たゞ開墾を初め.架橋、築堤、
の政曾事業は諸方面にわたつてゐた。その各時代に於 河川の開墾.津拍の修造、布施屋の設置等防条を目的
場合に飴り見ないのである。これ言ふ迄もなく.八
ける状腰は既に大館述べた通りであるが、今概括して とする土木事業が頗る多かつたことは、飴他の宗教の
その趨勢を見るに.賑馳等の救貧が旺んに行はれ、野
も、貧困、疾病、犯罪、教化、矯風の諸方面にむかつ
猿保護も亦常に溌き注意を排はれた。而して此等救護 藤田詮.五明法等に基いたものであらう。基密教とて
の方法たるや.その居住に於てする肝謂院外政助と共
JJβ
範囲も諸方面に接がり、いその事績も亦大であつたであ
れなかつたならぼ、それ等の活動も特色を帯び、且つ
舟教徒が禁座せられす、神道も亦彿教に混清せしめら
ど教化の一方面に努力したに過ぎなかつた。若し切支
貢献したこともあつたが、徳川時代に於ては、ほとん
とを忘れなかつた。細道は古く欝療、販他等の方面に
院舎施設を興して、一意不幸なる者等のために蒸すこ
帆と.犀寂保護井に教化とにカを注ぎ、しかも頻りに
せ守療温石彿首皇女富左したが、就中、褒嵐、..特略服
ればそれだけにその敢曾の不幸験隕の解決するに都合
慰を輿へむことを期した1めと、他方、有力なる宗教な
ても、到底欺威するを得ず、その解決をなして以て安
の安立を計ると共に、その時の敢曾の不幸映陥に謝し
時代に於ても、強宙多少の差こそあれ、常に個人の魂
動の盛衰と多く勒を一にするは、一方、宗教が何時の
前者の場合の如く.宗教宗彼の隆替が、敢曾事業の活
上の意味も多分に含まれてゐたことも否定し経い。又
的見鞄都鋸朝粥測謝儀裾雌繋駁扇㌔飾聾石最
一切衆生の度を詭き、隣人の愛を勧め、或は祖先の一
よく、叉解決すべき使命を感じた1めであらう。殊に
さて、寝て少い歴史的事箕に基いてゞではあるが、
なるを固く信じて共存共柴をうながすなど、その詮き
らう。
或る宗教宗派が、その敦勢を張るときには、多く融合
て振はなかった。又新宗教が渡来する常初には多くの
宗教宗派が衰顧すれば、その祀曾事業も斉しく萎靡し
填して閻宿の境に到らしめんとしたのである。か1る
不幸に謝してはこれより脱せしめ、映陰に謝しては充
至扁を巽ふ粘よりすれば、形潜様式が如何に摩るとも、
方こそ異なれ、紳、彿、基の何れの宗教も皆斉しく至幸
場合政令事業が行はれた。百済より沸教の渡来せる時、
不幸放陥の最も現晋的にして、しかも苦しむもの1最
事業の方面へも進出し、相昔の成績を奉げるが、その
切支丹教の宣布されし時、或は黄欒宗の倖へられし時
も多きは貧困.疾病、犯罪なるべく、従って紳悌基の
一一三
専管この例に洩れなかつた。この後者の場合は.宗教
我国lこ於ける宗教ミ社食那巣ミの脚係
■
我国に於けろ宗教ご社食事業ミの関係
︼一四
三敦が自らこれ等三者を主として勤象とする融合事業 事業との掬係にも亦一大菱動が生じた。単に宗教の種
を通じて、以てその目的の貨現を計つたのであると解 寮のみよりするも、紳彿基三敦中に幾多の流れを生じ、
僚侶.宣教師、紳官及び教徒等が、自己の信奉する宗
た。而してこれ等の諸宗教中直接に聞損に赦曾事業に
既成宗教の形を採らざる宗教も可なり行はれるに至っ
することも出来る。たゞ赴曾事業に努めし諸宗諸彼の 且つ外来の新宗教が腐々現はれ、新興の宗教も勢を得、
教の溌き教理に基いて.これにたづさわつてゐたのか。
或は目前に摸はる不幸駄陰に直面して、その刈除補填 膵係を有するものが頗る多くなり、関係しないもの迄
を急とし、後に至りて教義上の根按を詮索したか。そ も、何故に蹄係をしないか、その理由理論を有せねば
れともたゞ漠然として宗教的博愛の拝辞より努力した ならない迄に、敢曾事業、敢曾運動を度外威し得なく
謂官磨事業や、世俗的な赦曾事業と同一方法を取るべ
のか。その悪度の詳細につきては種々の差異があらう なつた。園係を有するものは業際的方法について、併
が.深き宗教的信念に立ちて政食事業を行ひ、その行
は管軌を一にしてゐた。
己の抱懐する宗教及びその教義と敢曾事業とが如何な
きかを深く考究せねばならない計りでなく、理論上自
ふやひたすら熱誠をこめて、筍しくもしなかつたこと きか.又畢に海外の宗教のなすところに追随模倣すべ
十
惟ふに明治維新迄の、我国に於ける宗教と政令事業 る鮎に於て板木竹園係を有するかを開明し曜信せねぼ
との交渉は、時に非常な緊密の度を加へ、時に甚だ峯 ならなくなつて禿た。泡に明治、大正、昭和にかけて
疎となつて、相常の費化があつたが、しかし未だ眼を の宗教と融合事業との交渉は、これ等の粘に於いて吾
驚かすに足りる大葬化がなかつた。ところが明治維新 人にとつて探き興味をそ1らすにはをかないのである。
仇硬り我周の層状が細欄かに一焚したせ此ハに.宗教と敵曾
JJ≠
一
骨大地畔の碑を見て
梵寧験者街智を憶ふ
∴
東大梅内の、心字池の遽少にある、万石の横面に、
ー
中
里
君命重石褒基而安置像並
勒俳名且螢堂字以窟護云
文字剥落不可讃焉其像者
不知由来蓋此千歳之奮物
之内従昔相停有彫石之像
の行智であるのを、経信することができた。行智の事
てその碑を見るついで、年戟や由来などから、修験者
なるか、殆んと顧みられなかつた。が、この度、始め
と、行管の誌した碑石がある。従凍この行智の何人
天保墨碧月日棟大僧都法印行盈
乃大日如来四智彿鰹併謂
蹟に閲する文献は、甚だ乏しいが、いまその大概を記
江戸城之北富山大守薄邸
東方阿閑彿南方貿生俳西
して、大方の御教示を侯つことにしたいと思ふ。
︼
l五
駿に威する、螢畔院の住持であつた。父の行群もこ1
行智は浅草南井町にある、銀杏八幡の別雷、畢冨樫 ′
〓
方無量讃俳北方不室成就
彿也亦穿石頂点孔如可容
物憶共営時伊納併合利種
子梵文等欺今立有
梵撃鹸者行智を憶ふ
ブナ貞
梵畢駿者行智わ憶ふ
に任し.組父の行春と共に、拳讃のある修験者である。
一一六
そのうち﹃悉牽字記眞碍﹄八巻は、斯界の白眉である。
註痔で、その綜諭に、字記は悉塵界に於ける、指南書
平戸の蕾藩主、静山松浦公の随筆﹃甲子夜話虹二百 これは庸の智庚が作った、印度の文法昏、悉畳字記の
八十巻のうちに.行群が語るといつて、橡後の三途河
婆子の話などあるやうに、行智の話が数々出てゐるの であるけれども、本邦に停富されてゐるのは、文句に
しなけれぼ.後乗誰あつてか、これを正誤し得ようと、
で、松浦公とは、可なり懇意な間柄であつたに蓮ひな 錯簡があ少、注が混入してゐる.今にしてこれを校定
い。
る。上野の帝国囲書館本は、天保三年のものを、同六
彼の書に、行智日くとして、役行者と二言主調の話、
堂々たる白魚の磨度で校正して、解明を加へたのであ
圭豪雪下圏の話.人磨像とは小野当の俊であるとの話.
浅草の篠塚稽荷の由来、山伏の容磨に古今の相遵ある 年に、弟子の行阿が窟したものであるが、その原本と
こと、養老瀧の話、讃岐の金毘羅に詣でたときの話、 日される自筆本は、大正震災前に、東大筒井館にあつ
大和の山上ケ嶽にある鐘掛の話など、数多く見えるが、
て、三筋本であつた。然るに著者が自ら重校した完本
ある。此の菩によつて、文政十二年の校正本を、天保
三年に薄枚し、更喧天保六、七年に重校したものであ
同時に諸観を歴遊したことなども、この随筆によつて が、いま日比谷固書館の江戸史料に現存して八巻八冊
知られる。
三
行智は冷泉家から、歌道の奥義を停へ、持明院基時 ることが判少.唯一無二の善本である。第八巻の奥書
於東武浅草里
草屋造之﹂と、天保三年本と同じであるが.その次ぎ
に書道を習つたといはれるが、彼れの著書によつて、 に﹁樹林菓停秘密塊伽秀光験沙門行智
悉丑単に精選したことがわかる。
悉亜忙関する芳容は、二十飴に及ぶといはれるが、 に﹁天保六岡七月七旦再校啓宮了﹂など⊥あ少−其
JJ¢
のうち“帯一から三、五、七の巷は.天保七年の重枚で、
花話¢も見禿てみる。トごd枚正調は1光政十一t年であ卑
が、彿敦大群彙には文些一年の校正本のあること、﹃悉
一巻があり、天保四年刊行の﹃悉畳字記正文﹄一巻が
行智が天保元年に編纂したものである。行智の自筆稿
曇﹄一巻は.零海、賓月、宗叡、慈慶大師の口停を、
れの自筆らしいが、これによると、悉丑字記の慶安本.
に初めて本邦に停へられた梵文の話などがあり、二十
日比谷に一巻ある、しかしこれには識語がない。嘗初
本らしいものに﹃字記新帝引書書抜hといふものが、
高野本、寛文本、戎経本などによつて校合したが、そ
菓の寄木がある。
﹃悉曇字記彦談﹄も自筆らしいが、日比谷にあるのは、
弟二番の一筋のみである。此の外、日比谷には﹃併判
そして本書に、赦梵書院森本の朱印があるのは、彼れ
附鍬の書後に、重訂悉畳字記政文とあり、﹁文政十一年
こ1に注目すべきは、本居宣長の門人で、尾張の歯
の宋音印であらう。同所で同時に購入したといふ﹃竺
評﹄﹃魯西亜文字﹄の手澤木があ少、後者には行智師書
唇音鈴木朗や、幕府の天守番をした、荻野梅鳩など1
語纂﹄は、数十丁の梵濃艶語を蒐めたものであるから、
晋月三十日加重訂改憲−行智稽首蕗﹂の璽仰があ
交ったことが、この序文で判り、弱が心づいてよこし
或は梵洪辞典でも完成する積りだつたのかも知れな
入とあるから、かなり廉く語草を修めたことが判る。
たので.校定したのもあるとか、梅噂は余の畏友で、
一一七
い。
梵現像音符智を憶ふ
博遷無埜であるといつてゐる。また梅鳩の話は、甲子
る。
とし.眞繹を著すに先きだつて、これを正したもので、
の本文が註に雑少、註が本文に混入してゐるのを遺憾
日比谷蘭書鰐にある﹃悉畳字記付政文﹄一巻は、彼
ある。
それから﹃悉畳字記眞繹談義﹄七巻、﹃梵文兵書字鑑﹄ 畳字記輝﹄二呑もあるよしを記してゐる。﹁正承四家悉
それムlllll識語がある。
JJ7
井草験者行智を憶ふ
四
行智の編した﹃梵浜封謬芋類編﹄一巻は.天保六年
一一八
日く、0竺二韓萄彦文にてりの字なり﹂などlある。こ
れは苑輝に、蒙古字は梵文の異鰹、清、蘇、彦文は、何
に刊行され、四十菓しかないが、密教の経典や儀軌の れも悉畳の法に則わ∴西洋語のアべセ二十六字や魯語
梵文を検知するのに、簡便で廉く用ひられた。内容は も.その法はみな悉塁にもとづくと、言たつことでも
踪論と、母字の園、韻字の園、及び本文からなつてゐ 首肯される。亦後事に.清帝の姓、愛親発揮を、アシ
る。弟子の行阿が書いた、無拳の故に、﹁讃彿の飴畷、ハラ︵葦原︶に通ずるか、とするなどの極言は、必ず
悉曇の拳を修め、嚢に字記眞揮の作あり﹂とある。﹃鹿しも富らないが、兎に角も、博言着であつたことが推
本﹄一巻は彦文と梵文を井記したものに、和解したも 察される。
がlニ十二歳の薯であらう。芳賀博士の編した、日本人
ので.朝鮮の彦文にも通じたことが解る。そして彦文
また国語畢書目解題に﹃僻名遥古意山一巻は、文化
に古今の二脛があり、三韓の幽初からあ恵ものと、李 六年に.行智の自序ある刊本と記してゐるから、彼れ
朝の世宗の時.前代の古文を改別して、製したことな
どを誌し、天保五年に訓繹したよしを記してゐる。 名節典に、僅かにこのことをのみ叔せてゐる。なほ貝
新村博士の東方言語史叢考に、行智は博常博言で、 多羅菓を考詮したものに、文政四年の著﹃多羅菓略記﹄
其
る。それから放れの賢いときに・誤ひ潜んだのトた思 描
著した。前者は屋代弘賢の地底叢書に収められてゐ
賓停﹄二審を撰し、﹃緋鯉大菩薩略停記私考﹄の一巻も
満蒙の字も解したといひ、これは大槻玄幹の西音蕾微 一斬があゎ、寛政十一年に、光格天皇から寅筆を以て一
や、甲子夜話にみえるとしてゐる。その前古を見ると 役行者に紳愛犬菩薩の戟を護られた折、﹃静雄大菩薩行
ヽヽヽ︳ ﹁蒙古字は梵字忙因つて制せしょし、近来行智閣梨
の調法を粗解せり云ごとか、アエイオウの母韻は、
もと印度kあつたと、行智がいつたとか、﹁行高梨
ひ出して編したといふヨ革蕎集﹄は近世文革叢書の第
十一冊に収められた。尤もこれを解題した朝倉無聾氏
勢力の地理的分布鼓見るの町、好僑の材料とされ一﹁靖
疑ひない。頭註は.行智に遅れて空虚死んだ、柳亭種
から察しても、この行智が、文政三年に編んだことが
明に取扱ってゐる。が、彿敦の文句や山伏関係のもの
ものを編んだとし、行智園十三歳の題とあるのを、不
の書と略ミ内容を同ふすを﹃鈴懸衣﹄は、患者に﹁山
打ち破った、近世駿門の一大名著と謂はれてゐる。こ
な識見を以て、新聾見の詮を吐露し、古来の定説をも
れた﹃木葉衣﹄三春は、天保三年の撰にか1h∴卓抜
であるといふ。この二部と共に、日本犬義経に収めら
三宮御所の命によつて、天保七年十一月進猷したもの
雲鉢事﹄二巻は、修験道の来歴を詳述したもので.准
彦のものであるといふ。天保六年五月に、行阿の停寓
ぶしのすゞかけ衣きてもみよ、おくある花のむかした
は、この嘉は江戸以外にないもので、糞暦明和年間の
tた﹃紆字要歌解﹄一巻は、奥書に﹁愚なるこ1ろも
づねて、行智﹂とあり、其の鱒篇には、窮黒渡優駿の
ことなど、前書と相違するところも少くない。例へぼ、
はぢす育とむる、われにひとしき人もあるやと、天保
六年乙未三月十五日、不材曳
役行者の本名、小角のよみ方を、木葉衣ではヲスミと
行智﹂とあり、これを
行阿が寒したよし、及び安攻四年の渾寄木は、昨年の
主張し.本書ではヲヅヌであると、極力傍託して論じ
︼一九
の息、行憲の詭で、こ1に息子のあつたことも知られ
され1ば幸ひであるが、木葉衣の小角考だけは、行智
考﹂と題して、詳しく紹介したのであつたから、参照
このことは、嘗て観畢院錐誌で、﹁自尊女と役君小角
てゐる。
八月津浪によつて、原本は水腐した意の朱書がある。
ヽヽヽヽ
播この書に般若師梨造とあり.前掲の正承囲家悉曇に
ヽヽ︳ヽ
は、梵拳沙門、般若宝利敬纂とあるから、こんな親を
用ひたこともわかる。
五
この外冒田山修験停統血脈﹄などは、昔時の修験道
発製験者行啓わ憶ふ
ユゴ9
る。
発製験者行啓わ憶ふ
大
一二〇
の龍谷寺を訪ねると、過去帖の天保十二年のところに
﹁停燈大阿陶製法印棒大伶都行智大和帝、三月十三日、
この行智が、帝大の構内にある碑文を書いたか何う 挙呼院事﹂としてある。厩劃整理で、無敵の碁石は悉
か﹂果してこれを苦くやうな人か何うかを調べたいと く失ったといふが.隣家の室他に碁石椴の未だ散蹟し
思って、彼れの優した、浅草の銀杏八幡に出かけてみ てゐるのを辛ひ、漸くにして探り得たのが、果して彼
ると、その敢輩渡逸綱吉氏が、大正の震災に辛ふじて れの箪標である。憾むらくは無線の故を以て、この名
持ち出したといふ、一尺飴ある御緋鯉の背振の真に、 家の蕃碑も、近い藤森に於て.破滅の運命に遭はなけ
伸せになつてゐるのを、桟にして洗つてみると−中央
略汝起の銘が刻まれ、源義家手植の銀杏と樽へられる ればならないのである。石工二人で手樽って貰って.
配水が、延事三年の大風.文化三年の火などで、幹が
僅か三尺ばかり残ったので、その過大を以て、彿工野 の上に梵字が二字、その下に﹁興隆梵畢汐門行智之蕃﹂
村源光が刻んだことを、天保五年に記し﹁林下小隊行 とあり、下に天保十二年草丑三月十三日暁逝とある。
記したことが解る、なほこ1には同時に.同大を以て
名節鞍に﹁楚畢興隆汐門行智﹂と記したのは、これに
だ、縦八尺瑛二尺の板碑療の若石である。日本彿家人
智敬識﹂とある。これによつても、行智は漢文の銘を その左に妻女晴應院の戒名、右忙その妹の法名を刻ん
刻んだ義家の神像と.その原型とみられる.弓矢を持
京都の醗柳lニ寅院門跡から、常山派の熊笹前に禰せ
に建てたことが判讃される。
全文は判らないが、門弟同志が鍍金して、天保十閏年
った二寸一分ばかりの、義家の錆像が一位現存してゐ ょって誤りであることが知られる。裏面は落剥して、
る。
七
さらに.行智を葬った菩提寺である、浅草北鰐荷町
メラO
(赦舘書園大東)のもたしに本拓度のこ
石碑の畔地大束た し誌の智行
られた彼れは、修験者の常とする在俗の沙門で、父行 とし、天卒の高物ではないが、侶也掲のものでもない。 封 ■⊥
群の後をつぎ、妻子もある拳匠であることが解った。 天平三年は巳亥でなく、これは天正三乙亥の誤讃であ
そして棒大僧都に任ぜられたことは、過去帖と帝大構 るといひ.松浦侯が、彼の略記は行智が書いたのかと
た。詳しくは甲子花話、第六十五番及び鍍篇の第九十
内の碑銘が、一致することによつて、いよいよ鮭算で 諮すと、彼の帯の響師が起草したときいてゐるといつ
ある。
七巷等に誌されてゐる。この話にょつても、行智が往
甲子夜話によつて、行智が彿像等の考証をもした一 古の造物を考証したことが知られる。故に東大の碑銘
帝大構内の池畔にある碑文忙、富山の薄邸とある如
九
例を記してみよう。それは敢寺奉行に提出した、出現 も、行智が番いたものと、想像するに難くない。
不動尊略記に歳時を記した、天保四年五月の出来事で、
帝大の碑と同年である。
松浦侯の扱者、久留里使果田氏の腐である、上州吉 く、束大の敷地は、もと加州の前田邸と、その支薄の
澤柑の農夫が、道路修理の志から、石楷を掘りあて、 大聖寺、富山の二滞邸であつたことは、周知の事であ
つね
中に黄金の不動尊などを得たが、その石葺忙、天平三 る。そして行智が、富山大守といつた常時の渚主は、
己亥云云の銘があり、一千有飴年前の古無であるとい 前田利幹で、君命といふのも、此の人をさすのであら
って、領守の藩邸に遷し、堂字を蕾んだところ、信者 うが、如何なる由線でもつて、これを行智に軸した
の群参が雁えないといふので、敢寺奉行からひどく吟 かを調べると、被れの養子に前出別保がある。天保六
味された。行唇はこれを考許して﹁石函の模様は奇古 年利幹が致任したので、利保はその封を袈いだ。利保
lニー
なれども、銘文の舐俗なる、決して天平の物に非ず﹂ は歌拳から進んで、国辱を修め、本革塾や蘭畢をも習
梵畢験春希智か憶ふ
焚畢勝者行智を憶ふ
一二二
菓衣﹄などの国語の著述には.行智の読も、大いに影
の注目したものは、行智阿常梨の自筆本の何筋かであ
彼の稿本などを見られて.﹁案内されてゐるうちに、私
って、博畢な名主であつた。その著革も多く﹃ことの京大の新村出博士は.塩野記に、日比谷蘭書館で、
響したことが.彼れ﹁自ら謂ふ、骨て修験者行智に.
悉曇拳を畢びしが、此れ大に音韻研究の助となれりっ
﹂た。行智は私が大串一年生の時の論文、日本音韻折
と抵中史料にあるので、至極明瞭である。故に行智究
の史以来、その字記眞輝や、芋類編を大に讃美し.幕
生前、天保四年頃に悉虫を畢んでゐる折、或はその末
前言語拳史上の先発者として、景伸してゐる人である。
昔など、幕末期に於ける、語笹折究の新機蓮を看取す
後いづれの時にか、薄邸にあつた、古い石像の考証思
をへ
、ば三十年になる云云﹂と述懐され、魯西亜文字の
藩主から行智に俵賭されたものと想像される。
いまこの薯石だけ遣って、これに関する何らの文る
献ことができる、といつて居られる。
も見常らす、此の上にあつた石像の現存するや否や、行智の事蹟は、鷲尾博士の日本彿家人名幹事の外に
い善知識である。
が、彿者としても.語草育としても.忘れてはならな
絶えて知る人もなく、且亦行智の何人なるかさへ、は
不、彿教舵係の群書賓、畢言宗年表にすら見常らない
明に終らんとするのは、遺憾の趣みである。
−0
藤岡膠二博士に、行智のことを寄ぬると、修験者と
して、斯くまで言語を畢んだのは、全く珍らしい、自
分も悉畳字記眞繹は、震災前の帝大本によつて富さし
てある。また彼れb著した或る刊本も.肝癌して居る
と諭された。
貰ββ
数骨法畢研究序説
−
伊
藤
道
畢
︵宗教圏脛内部の規定︶の研究上に於いて、教骨法挙
世界法系lこ於ける軟骨法の世羅、軟骨法の性質、軟骨法の淵源、
軟骨法撃研究序説
稿者の興味を感ずる粘は、雑然たる日本の宗制寺法
とき.散骨法畢は等閑親し得ざる科唇である。特に
位置又は靡き意味に於ける宗教制度上より考察する
合的科挙である。殊に観際関係上に於ける法王磨の
て来た。散骨法拳の研究は如上の囲係を支配する綜
於いて法王磨に封する興味は近来愈く其の度を加へ
市は、国際法上の一重鰹として承認せられた。弦に
二九年二月ラトラン條約の結果法王磨ヴァチカン都
リス・カノニチを全カトサック教曾に公布し、同一九
eOde
de
d;詳e呂Oni宅e︵COmヨeまPi−○
O竹串ロ○ロ
J勾
ワ雪is.−¢岨¢.
QOd勺H
cPnOn.旧T.吋弓訂.−∽遥−∽−.
﹂二三
句●宏l乳−厨ib︼iOtFguet監Ol品i宅edu=巴舛乱g2−冒Oit
iG︼・訂e§○︼︼訂i.出ら日詰.試C試国舛くHH.
句・負me︷ier、吋0弓舎已ieニecOde計d→Oit2n02琶e・
賀軋netetpr邑q焉︶加持謬ri肋・−琵ヾ−隻
A.臣ロee−1﹂e
㌻ヨSく.トOndOn.−¢−8−柑柏
増・Au票数臼2︸AeOm−監nt発﹃Ont訂ne司e乱e
主要参考書
る。︵恩師アルヴュン博士に此の稿ね捧ぐ︶
全文二四一四旋よりなる新教骨法典コディックス・ユ が最もよき方法と資料とを輿ふると云ふ一郭であ
はしがき。西紀一九一七年五月法王ブノア十五世は.
新教合法典の蓉布、敢骨法撃
−
_
軟骨法単研究序説
−世界法案に於ける教合法の位置
一二四
来、ローマ法畢は多くの進歩を或はさなかったのであ
るが、紀元第十二三世紀に至り、イタワー・ポロナ大
敦骨法P。itc呂Oniq宕とは、教権A註○をかeccl紅露・
移入せられ所謂兼支障代許諾pti。n邑tを出現せLめ弦
に第十五世紀より第十六世紀の頃に於いて、ドイツに
であつて、イタワーに復興せられたるP−マ法と1も
に於いてこれと並行して出現し其の黎蓬を逸げたもの
払戻等は其の代表者である。散骨法は此の中世紀時代
サー註繹轟沈G10望賢蒜nなるものを生じ、計。−Aec与
芸ue が其の宗教的融合の善吹の鰯めに制定せる法律の 挙︵一二〇〇年創立︶に於いて再び勃興を見.所謂イタ
全陛を云ふのである。敦曾Eg−iseは事賓に於いて立法
と司法と行政の三樺を紳より授けられたる﹁完全なる
赦曾﹂哲ei監p雪家teである。其の詳細なる事項につ
いては使徒Ap旨e肋及び其の後籍者等が静の意思に徒
ひ、其の時の必要に應じて規定せしめんことを命じた
のである。
優に貫首等を以つて其の本源となし其の教義に基きて
此のローマ法及び敦骨法は単にドイツのみならす、其
夢乳ど
にドイツ固有法と合流し屏謂ドイツ普通法G巨eF悪
其の鮭系を形成し.敦曾の権勢及び利金を擁護するを
の他各観の法制にも大なる影響を輿へ殊にドイツの法
敦曾法はもと法王の命令、諦達及び宗教曾議の決議
以って其の主眼となした。教骨法は西P−マ帝観覆滅
制を継受せる我国の法制に於いても亦其の流れを汲み
を形成して、近くは民法施行以前迄行はれた。
後法王磨の隆昌と1もに其の登蓮を見た。勿論それ以
併しながら今日に於いては、軟骨法がローマ法に比し
前古代エジプト法、ハムラビ法典、ユダヤ法及びヴェダ、 入れてゐることは、理論上昔然のことからであらう。
マヌ1等の印度法又はギザシヤ法等の後をうけたる屏
粛P−マ法全典COrp房iur訂ei量訂の存することはて
周殆んど其の存在すら忘却せられんとしてゐるのは果
︳
して如何なる坪由七韮1ものであらうか。紗心く其の 血
知のことがらである。P−マ法全典の作製せられて以
経緯を叙癒してみやう。
たのであづた。.西紀﹁﹁束−卑劣一宮l畢邪心胡欄仙郷朝訂
惟ふに、西紀一〇八四年、ツスカニーのマチルグ伯 D野合deGr邑en凌布せられ、後同一一八〇年法王ア
爵夫人なるものあ少、法王グレゴアール七世の褒めに レキサンド.ル三世は、檜侶のP−マ法折究を禁じ∵同
−マ法を研究せしめ且つ之れを講義せしめたのであ
ドミヌスイルネⅥ∴ワスをして、ポロナ大挙に於いてP
の遺産たるP−マ法を興すことにあ少と膚し、法拳者
て法王インノサン四世訂ロ0■曽こく・は俳英蘇西及びハ
九世も教令集D野e邑袋dのGr威Oi詔一国・を聾布し硬い
きことを宣言した。叉同一二三閤年法王グレゴアール
大挙のユスチ一lアン法典の講義を聴くものを破門すべ
致命洗車研究序説
ひに行はる1ことなくして終ったのである。
一方ローマ法は、法王磨の衰退と1もに反比例し.
した。各囲亦固有の民族法を棄ててP−マ法を採用す
し形となつたのである。殊に近世に至り﹁宗教改革﹂の
影塘として.国家は敦曾︵宗教圏健︶と分離し.法律は
︼ニ五
利金主義及び資本萬能主義なるを欣びて之れに合伸し り疎遠せらる1傾向を呈するに至ったもの1如くであ
以って自己の健勢を張少、貴族有力者亦其の個人主義 宗教と陸別せらる1に至って漸く敦骨法が一般法拳よ
去れば、昔時の帝王侯伯は競ふてロ・−マ法を採用し、
の意思な少となしたるが放である。
横カは即ち健利なり、法律は神意にあらすして、帝王 るに至り従って敦骨法はP−マ法の鰯めに騙除せられ
辞意を以って法源となすものなるに反しーP−マ法は
ものであつた。何んとなれば、散骨法は正義を基準とし
帝王侯伯の現資的勢力の費暢と1もに正比例して襲遷
利にして、帝王侯伯にのみ有利なる結果をもたらした
其の富初の企園に反し.寧ろP−マ法王には極めて不
然るにイルネサウスの紹述したるユスチニアン法典は ンガリーに勤して、ローマ法の適用を禁じたれども途
る。是れ西欧に於けるP−マ法復活の起端であつた。
はかり、法王磨の樺勢を皇張するの謀は、ローマ帝国 一二二〇年法王オノウウス三世、叉合を草して▲ハサー
J亜
軟骨浅草研究序説
る。P−マ法の督及に勤して苦情を鳴らすもの猪り散
一二六
ア十五世冒岩it舛く・に至るや、新教骨法典C。d賃iur訂
骨法支持者のみにあらす今日の併諸政曾主義者若しC
くaロ。niciを公布するに至った。該法典は中世以来の柾
は是れに解するもの之に和し、又彼等ゲルマン民族然
、たる敦曾の法律命令諭達及び宗教合議の決議等を全
フランス民族は、従来本来部落共同生活を以つて其文の
二四一四條堅旦りて整頓したる一大法典である。中
らる1肝謂我観に於ける宗制寺法︵宗園内部の規則︶に
集園をなし、土地は共存なり耕作は共同なりとの思世
想時代のそれの如く純粋にカーサック全数曾に適用せ
を持したりしも、一度ローマ法の輸入せらる1や、個
人主義、土地私有制及び自由兢寧主義等を採りたる相
食督するものであるが、前述せる如く、法王應ヴァチ
め従来の淳嵐美俗を破壊せりと主張す。夫れ共産主カ
義ン都市は、西紀一九二九年二月のラトラン條約に依
是か非か今故に更めて之れを詮かぬ。只ゲルマン、り
フて国際法上の一重醍として承認せられたるを以っ
ランス、スラグ等の諸民族は其の文化幼終にして束て
だ、上述の新教曾法典は一団法として亦一団際的法律
土地所有棟、私有財産制等を解するに至らず、寧ろと
帝しての形式と資質を具ふるに至り漸く敦骨法勃興の
王侯伯は自己の利金の偲め敦骨法に杭距してローマ気
法運に遭遇したのである。去ればか1る見地のもとに
を採りたる偲め、ヨーロッパ及び其の法系を汲む我﹁
が敦骨法の性質﹂、﹁淵源﹂及び﹁敦曾法轟﹂の何たるやを
国の敢曾状恕及び経済上の事物を一発せしむるに至叙述して、敦骨法拳研究の基礎概念を得やうとするの
こ
教合法の性質
少、伶ほ敦骨法が法拳上無成せられ忘却せられむとも
す我々の科拳的欲求は是れを是認せぎるを線ないであ
らう0
る傾向を生ずるに至った抑上の拾由は蓋し此の遽にあ
るものと思はるバのである。
併し時宛かも西紀一九一七年五月廿七日∵法王ブノ
才%
一般に法日昌i[とは.ラティンのJ已であつて同じ
と人法︼e計。山︻甘農。祭㌢㌦t−㌢m乱臣と義拙冴庵ぺ∵飾ト ■⊥
くラティンのせirigereこegere即ち指導監督又は支紳
配法
統は自然法則を瞭定し或は自然法則が厳格に命令せ
治等の意を有し、文法律の全鰹亡nen写さred鑓−。6.即ざる伴食又は不作馬を強制するところのものにして特
法者11n厨i賢旨巧どm乳n
の自由意思に基いて作成せ
定する。之に反し人法は紳の意思を潅奉する人間の立
ち散骨法とか一般法とかの意を有する。又或る時は投 に超自然界−♂各・e寛邑弓d に施する凡ての事項を規
票樺とか教育擁とかの所謂人の精神的︵カ︶︼のp。弓。ir
喜邑を意味することもある。要するに法は樺カとし
云ふのである。人法は之れを敦合法及び一般法led3it
明文に規定して此世に於ける制裁を件はしむるものを
ての法︼ed邑†pO宕Oiりと法則としての法︼¢d邑エOiら
とれたるものであつて、紳法の苦行を確保し又之れを
の二様の意味を有するのである。
次に後者即ち法則としての法︵法律としての法︶は之
邑篤
紅邑iq莞OGC賀○ロiqロee二ed3itei邑 とに分類せら
れを分類して自然法と制定法二edrOitn賢邑温pOSei
次の如くである。
ー自然法
−制定法−
1紳
法
法−
−一般法
一致骨法
とに分寮せらる。自然法とは事物本然の理及び其の必 る。依って如上叙ぶる教骨法尊者の法の分類を示せば
然的膵係に根壕を有するものであつて、そが人間に適
用せられたるものを道徳律と耕するのである。制定法
とは、ラティンのり○払li三S即ち個性−だ意味し立法者の
自由なる宿意正依りて作成せられたる偶性的法律︼e∽
1人
カノン法即ち散骨法とは、宗教的政令の法律又は其
−。iseOnt−.n内enteSの全鰹を云ふ。自然法は其の性質上普
遍的恒久的なるに反し、制定法はそれ自身としてはか
︼二七
かる性質を有してゐないのである。更に制定法は紳法 の科挙を意味する。C写。nieiつue2ぢn官Gと云ふ言葉は
救命法華研究序説
致命法華研究序説
其の初めグリークの雲Ue亡︵内管ぎ︶即ちreg已a忘g−e即
︼二八
−成文法と不文法−㍍dr。it賢te二edrOi︷nOロ.貧︷
ち定規の意を有したのであるが、次に人間行展の
定ut音i㌢立法榛に依りて明鹿に制定せられたるも
。規
≡。
並に準則の意となつた。カノユキ、cpn邑eiと云ふ言葉
のを成文法と云ひ、一定接伴のもとに慣習に依りて採
は少くとも現代に於いては唯敦骨法にのみ残って
用ゐ
せる
られたるものを不文法と云ふ。
言語である。カノン法即ち敦骨法は又法主の裁可又
は 公法と私法−edrCi−p邑ceニed・pま・公法と
ⅠⅠ
承認忙依りてのみ其の欺カを蟹生するので法王法
はと
敦も
曾の悪法並に王位に閲する規定牽吉、之れを更
に分ちて、完全赦曾たる敦曾それ自身を専ら規定する
解せられ.又其の屏規の目的及び原因よりして敦骨法
−ed・p・eH︷e完と解する。次に私法とは敦骨格成員−e∽
般的又は宗教囲鰹との牌係を規定せるものを野外公法
︵寺院法︶ledrOit3nti許lと呼ばれ、又其の立法者も
、の
其を封内公法訂d岩itpubliei暴言と云ひ、他の一
の終局目的及び其の節規の事項に準じて神聖法︼ed守
ite邑敦訂茸雇とも耕せられる。又一秩序的赦曾たる全
教曾に関する法なることよりして稿者は之れを教
m曾
e願
旨esde−、厨訂相互の関係を規定せるもの
係法略して敦骨法と措辞する。去れぼ最も廉い意味
に般法と特別法−ed邑︷e。mmGロet訂d.p邑cu声
m一
於ける敦骨法の定義は次の如くなすを適昔なりと
或す
る。
敦骨法拳者は、教曾全鰹に閲する法を一般法と云
﹃宗教的融合の終局目的にクリスト教徒を教導
る曾の一部に閲する規定を特別法と呼び.又他の
ひす
、敦
Ⅳ
番法、新法.現代法le
d昌首呂息唱・層雲嘗et
膨
食めに、敦橙に依少て準備せられ、制定せられ
拳且
者つ
は、如何なる特棲も又如何なる反射慣習にも願係
裁可せられたる法律の全鰹である。﹄
なく課する法規を一般法と云ひ、特権又は慣習に基伺
敦骨法は如上述ぶるが如き見地に基きて次の如
しき
て種
生じ来る法規の全鰹を特別法と僻してゐる。
鮪料忙分たれる。。.
腋曹此れは新教▲甘莞0か一計仙乱酔。q許邑乱・岱薫8
の序に於いて、ガスパワー枢機負︼eβ邑占已0眉弓i
懇盟邸腰顎W疇健づ葛欄楕覇
キサスト教徒の憶験であり、
鰯一▲
賜のを現代法j烏口。■試ヨm・と耕する。後者について
nOY訂i日umと云ひ、同第十六世紀よ少第二十世紀迄の
同語十二世紀より同弟十六世紀迄の敦骨法を新法je
第十二世紀迄の敦骨法規を奮法j畠邑官亡mと云ひ、
離敦崇卦i⋮β監Fi胃の等に射する瞼国側度の如き閲
規定例之教育優に信仰告白に閲する規定及び異端又は
de−p芽邑g官eを保持する目的を以つて、種々なる
に基いて、カーサヅク数的信仰の眞なることーpp弓急
に未来の諾項等が其の研究目的である。敦骨法は此れ
の主張する分類法である。クリス†敦の興起より紀ろ
元は、紳、人間の罪悪性、キリスト及び聖重、救済並
は敦骨法の淵源︵後述︶について其の詳細を再述する。
次に敦曾法と紳畢及び︼般法との閲係について叙係
ぶを規定するのである。次に倫理紳畢は、人間が内部
れば、紳畢は大別して三部門に底別せられ、歴史的的
紳にも外部的にも行盛すべき凡ての行展の準則を教示
せしむるを以つて目的としてゐる。敦骨法はキサスl
畢、組織的紳畢及び賓壌的紳拳是れである。其の中す
組る草間であつて.キりスト数倍者の幸福を各個に得
織的紳拳は教義拳.倫理静畢、非澄畢、宗教哲拳及び
園係の深いものは教義拳−:b芭。gied。gm邑q宕と倫
となすのである。
の一般利藤並に外部的秩序を保持せむことを其の主眼
宗教心理拳等が包含せられてゐるが、敦骨法と比較数
的倍者の外部的行膚を併規の目的となし、宗教的祀曾
理紳畢−p昏邑。giem。邑eとである。教義畢は又定理
の立法者が政樺の代表者︸認repr紆ロt呂広dup呂乱rei主
紳拳とも呼ばれ、キリスト教曾が眞理として認むる教次に一般法と敦骨法との関係であるが、前者は.其
義l忍冬itms卦監e∽を詮明し論許し且つ之れを妨証し
一二九
以つ丁唯一の教理鰹系を構成する草間であつて其の本
にして現世的吻質的利金le仏−巨.t監ts訂mp。re訂を直接日
歌骨法学研究序説
棟
基本
priロ
ぎtO
】
ri忘
的
淵
源
根
剰
−p
反
者
e
捕g宇
官
法の
、
淵源
一三〇
源である。併しながら教護照合の命令の如きは法王の
裁可なくしては其の赦力を費生せしむ.ることが出兼ざ
るを以って、畢克法王椎−ぎtOri㌫pO邑訪旦eのみ敦合
法の唯一の直接基本的淵源と云ふことになる。
間接基本的淵源とは、敦骨法を制定する忙ついて.
法王は、自然法、耕法︵聖書又は倦統︶、慣習、神父並
に法聾者等の思想及び一般法等を参照して之れをなさ
監nt∽βロ0己の鉄鮎を補ふ意味に
ねぼならぬ。其の昔、P−マ法が敦曾裁判官の適用す
る紳聖なるカノン
於いて敦合法化Caロ。口紅せられたのであるが、新教骨
法典は諸規定について、例之、養子︵法典籠一〇五九−
八〇條︶時効︵法典第一五〇八條︶契約︵法典秀一五二八
條︶等は其の利害閲係閲の民法を適用すべきことを命
じてゐる。此等は軟骨法の間接なる抑源ではあるが廣
記録的淵源
敦骨法源の二大部分の一としての
意に於けるF葛gi竃の立場より基本的淵源とする。
lI
蜘
此の記鍬的脚源とは、散骨的法律を構成する各種の正
瞥
教
。u
と
依
軟
的と
せ
軟骨
法
骨
学研究序
説
法
は
mさ畠
中q
e邑紅邑
唖室の席男ば形盛な.各l霊簡W議珊鵬
法律として停へられ又は公知せられたる革質的淵源
Pnt虜eOgロ○琵ndi−SOure虚巨邑riel−亀を意味する。其の初
期に於いては、敦曾の捉㌻di乳p︸il︼。de昌gli。eは成
文法ではなくして使徒及びサン・ピエールS2.nナ注ぎ¢
の第一後継者等のトラデイションに依少て規定せられ、
後ち散骨の生括が段々複薙し蓉蓮するにつれて屡々シ
ノド︵宗教合議望。dA︶を開催し種々なる命令又はカ
ノンを制定するに至った。それ等は執れも常時の必要
に應じて敦曾の綻を明文上表はしたものであつた。即
ちシノドに於いて議決せられたる数多のカノンは敦骨
法の大部分を構成したのである。かくしてシノド制度
の草薙とともに其の規定する範囲も各方面に亘少一九
一七年の新教骨法典の出現迄には其の数茸に莫大なも
のであつた。教骨法聾者はそれ等の敦骨法規を歴史的
に分類して奪法、新法及び現代法となしてゐることは
前述せる如くである。以下簡単に之れを概改しやう。
何 番法 D邑t呂乱g曾β告u巴H臥g凸
致命法拳研究序祝
J調
散骨法撃研究序説
︼三二
歴代法王の新教曾を追加し西紀八〇二年フランク王時 拝所の成聖、結婚、サクラメント及び其の他の題辞式
囲
代、Ai巳a・C訂pe︼−議骨の決議の結果公布せられたるも等を規定してゐるのである。
のを巳beロC呂。ロumと耕するものにして中世時代を通
上述せるダラチアン大助書の後、テトラン・訂tr呂に
新法冒Oitぎ雲e呂︵︵lu舛IHの旨如くHごiかele︶
じ偉大なる構成を以って行はれたる教骨法規である。
が、此等の時代に於いて最も有名なる法王アレキサン
其の後西紀八五〇年頃に出現せる所謂償致命集謬・ 於いて鱒前後四何の萬固宗教合議が開催せられてゐる
ロ訟袋崇e昼巴貌は前八世紀間に作成せられし眞の教譲
合令及び致命集よりも其の数多く其の中には執れも皆 ドル三世及びインノサン三世等は数多の重要法規を制
捏造せる六十通の書翰がありそれ昼前四世紀間の歴代 定し公布した。後ちグレゴアール九世は=謬うEnddO
の法王がものせるものとして償はつてゐる。斯くして 才nn旨ユに命じて、従来の敦骨法規を編纂せしめた。
編纂せられたる集録は凡そ四十種類の多きに澤してゐ グレゴアール九世敦曾集せ腎欝訂sde曾eg。ireIM・とは
るのである。此等の凡ての敦骨法規のあとをうけて編 即ち是れである。全文五章より成り、前述ダラチアン大
纂せられたるものは、かの有名なるダラチアン大勅書 勅書をかのユスニチアン帝法律嚢集U⋮g乳e に比すれ
FゆH買電空de曾邑enと耕せらる1ものである。かのダぼ、此の敦曾集はユスチエチアン法典9dedeJ邑iPien
ラチアソはボロンヌ修道院の清伶であつて西紀第十二 に柏嘗すべきものであらう。散骨の種々なる法規JudeH
世妃の中頃に於いて、。9ncOrd呂tipdi筈rd賀tium昏裁
ロ判
? 権Judid冒聖職事項9e2こ廼凋CO日計p及び刑
q〃
ール九世は西紀一二二七年より同四一年迄の法王であ
nロmミと題する著作をものした。此れが即罰
ちCダ
チ琶ア
rラ
im
等が規定せられてゐる。何ほ此のグレゴア
ン大助音叉は単に大勅書せee邑亡mと耕せられてゐる
りて麗澤め蓉金仰心た伊セあも〇・此れ 招
ものや、三加配口上増徴廿、襲撃藍、山号
彗讃慨・義義
表層闇
M
現代法D3itm。deme︵dβ舛ヨぎ■国内臥毘e︶
満が、後ちボンフ丁−ス八世のセクスト
トレント宗教曾議︵一五四五−六三︶の決議及び布告
Se乳ed¢哲ロ・
P諸ノコHH︵−哲00︶及びヂヤン廿二世のクレメソ一致令
ノア十四世第一巻勅令集︼Oprぎi訂邑占巨edロ宮亡乱re
巳be:eptim宏冒e邑巴iロmと耕する法規を発布し、又プ
て白eme口許竹馬aeくⅠIHせecr邑em宅pe■已響こ呂n窪np呂t弓
なかつた然るに西紀一八七〇年に亨呂蜘謬見計に依り
業を継承して法典編纂に努力したのであるが完ふし得
の編纂に心を注ぎたるを始めとし、代々の法王其の事
法王グレゴアール十三世及びシキスト五世等が新法典
集n訂m邑in包dのJ昏n国巴H等に依りて法規の内容がは.上述せる従来の教曾大法典の不充分なるを認め、
完結せられた。前者即ちセクストは、グレゴアール希
十一世以後の致命集を編纂せしものにして、後者即ち
クレメント敦合集は、西紀〓二三一年クレメソト第五
世の教令及び一三一一年ウヰン宗教合議の宗規Cp臼○巳
d≡。neロ乙の≦eロ牒等を蒐集して編纂せるものである。
以上のダラチアン大赦書、グレゴアール致命集、セ
クスト及びクレメント致命集は、紀元第十六世紀の始
C。rp∈首訂Bロ邑ciとは即ち是れを云ふ。此の法典は
る⊥等、法典編纂の気邁が漸く芽生へ来ったのである。
れてゐる。倍ほAe訂d盛容弓er臥ロ∽宮nti許が公布せら
めに於いて一大集線として纏め
られた。教曾大法典
de謬邑t舛Ⅰく・及びP−マ聖省の法令集等が発布せら
単なる列挙的な集線にすぎないのである。併し我々は
西紀一九〇九年以後の法規は法王廉の機閲紙たるA旨
ヨルビユスユリスカノユタ
此の外、ヂヤソニ十二世エクストラヴアガントE各ar守
新教会法典の奇布
眉○賢−ig評d甘の中に登表せられてゐる。
四
〓ニ三
gpロ百dの訂呂国柄HI及び彼の後継者に依りて蓉布せら
れたるエクストラヴアントコムユン出H汀胃凋呂t袋eOm・
m亡日金との二つを加へたるものを普通敦曾大法典と呼
致命洗車研究序説
Jβ廓
三
四
たのであ
編纂
る
蚤
致命法華研究虎視
βn
上乗述ぶるが如く、敦曾の法律は拘に其の数漢大に
昇り然かも何等の秩序なき雑然売る集録にすぎず其の
壊しのぎの解答に過ぎなかつた。去れば前法は後法と
相矛盾することを免れなかつたことは、かのガス。ハリ
ー枢機最も新教曾法典の前文に於いて叙述してゐる。
従って敦骨法典の立法作業は難中の推事であつた。け
れども其の反面一系統ある完全に整頓せられたる法典
の出現は全教曾を通じての希求であつた。
偶々西紀一九〇閏年、法王ピー十世増訂舛・教骨法の
法典化の可能なるを思ひ、秘書ガスパワー枢機島中
鼓邑芦︵小眉買iと諮り、先づ全枢機農より調査委農
を任命して法典編纂の最高横間となした。其の外ロー
マ以外の各地より顧問又は編纂委員右任命して法案作
成に従事せしめた。法案作成についてはガス。ハリー梶
磯貝之れを主宰し十数同に亘る審議合を重ねた結果漸
︼■
く完成せられた。尤もそれ以前前後三岡に亘りて︵一
九一二−三一−一四︶各国の司教及び主なる修道院長
粧驚い装の萱基炉レい担町虻防圧l紆阻打払軋乱
拍∫
降
iu留声
ブ
可
せ
gn
びとな
年
り
日
れ
a軋l
ら
。
已
法王
已
れ
て
裁
罫摩
1
}
一
命
令
】
宮nti
て
運
吋ie
O己.t…
る
の
世
除
ノ
教
に依
り
ら
に
七
兎彿奇才種々熱風附確恕用摘也瑞鼎¢研郊上峰多大な
劇
三
敦合致育Dem鼠賢ri。e邑乳邑ど・
宗儀じ巾Cu︼七戸di藍声
Ⅵper︼∽●
一璃要び讃‖層等郡
暫く之れを措き唯其の内容とするところを列挙すれば
四
る便宜を輿へてゐる。今其の詳細なる事項については
次の如くである。
iロ賢邑O g
聖職扶持冒bene軒家巴官O
d乳邑e訂−10nC011腐i已詳声
教曾財産せebOnis国邑乳琵t告pO邑ibuⅥ・
宗事訴訟D。p買虞ib奉
一訴訟事績せニndic夢
第四編
六
五
敦合法典
第一編 細則寧0冒ggene邑貌
一散曾の法律せe︼鼠bus邑乳邑ici㌘
慣習せecO記uetlldi・︼e・
時の計算DetempOr訂2pput註。岸
詮南武及び僧職任命に既する訴訟手硬せe
e害乱ひb昏t㌫ePtiOn訂¶訂ヨ0岩mせeietc冒○ヨiN已i・
二
五 特種せep告i訂g詳
〇niの田eptO⊇m.
四 勅答せer薄暑tis・
六 免除せedispeH陸tiOnib一1訪・
一犯罪せedelic許
犯罪及び刑罰Dede︼iet訂乳pO乱m・
刑罰ロe宮eni甲
等五編
一聖職者Dee−e訃軒
二
各犯罪に射する其の刑罰ヨepOeni:t乳ng・
第二編 敦食入事りepegn軒
二 修道士De邑igiO乱s・
≡
de︼i温P
一三五
倫ほ新法典は以上の外に更に巻末に於いて補充参考
已p
三 俗人︵一般信者De㌻id∽︶
第三編 敦曾物事︰Ue邑u肋・
一サクラメントDeg諾ment軒
数骨法畢研究序説
軟骨法華研究序説
文書り。edmenすを附け加へた。此れは、ガス。ハリー枢
一三六
的の各方法を同時に適用して始めて完結せらる。去れ
機員が敦合法重曹の病めに特にものし此の方面に廃す ばクリスト敦曾の現行法規を秩序づけ文系統づける丈
る幾多の参考資料を記載してゐる。︵︵COdi訃J臼r訂2ロ?
の歴史的進化を知解する盛めに其の起原に迄遡らなけ
けにては足れ少とせず、更に進んで如何にして其の法
規が敦曾それ自身の使命に連合するかを究明し且つ其
﹁註︺ 倫ほ散骨法聾者は法王靡¢評診たる︵曾∽謬邑fi?
れぼならぬのである。依つて若し唯だ葦際的怒る方法
nid訂nt且︶とはそれである。︹註︺
i音︶︶ね見逃がLてー‡なら光い。それ具︵謬p鼠○計mj弓i・
のみを採用するならば、狭範囲の特殊事項忙のみ限ら
れ何等の興味なき努力と化するが放である。因つてP
di2巨e邑軋邑icu且︶︵塁pp・山口∞。︶¢中より法典解梓委
員合由解沓忘集琴したものでぁる。倫lほ猫乙では増ribO弓g・
−マ聖者−p9ロ鼠g巴i。ロは西紀一九一七年八月七日の
en参1i董岩大拳より新集録︵︵Au裟⋮d2dee告eHquir?
命令を以って全教曾の紳拳校及び紳単科大拳に勤し、
。dum︶︶を端野し、ローマ宗教法院謬tQHどmaineでは年
ふ以前に先づ敦骨法の沿革即ち教骨法の法制史的解滞
心放る窒息を以って解繹すべき外、各法律問題を取扱
散骨法軒先に際しては、法典の順次に従ひ各五條に細
−ニー回︽U2ei臥On虚芦S邑e邑n富S・謬m賀荒野t旦︶を
啓行Lてゐるが散骨技研先着の好資料ミなつてゐる。
弟玉章 教合法尊
敬骨法畢とは敦骨法の理論的なしかも樅箕なる研究 を
○なすべきことを命じたるは、如上の研究方法に根接
認識は勿論必要ではないとしても.散骨構成員の一人
カトサック敦曾の信者は散骨法会鰹に謝する料率的
を云ふ。即ち其の原理原則を追究して其の目的の論理 を置きたるが故である。
的な説明をなし又其の合理的なる基礎と歴史的狩源と
を叙述することを此の拳闘の本旨となすのである。
其の折先方払は.法争的■脛際的∵哲謳拇及び歴史 とし.て自己uUk醇騒
l防
まい。併しながら敦食生活は一般融合生活と祷接なの
各である。後ち紀元舞十四世紀の中頃其の衰退を兼し
期係を有すること多々あるを以って、散骨法畢は少た
くのであるが、トレント合議︵一五四五−六三︶の後ち
とも裁判官、法曹家、立法者及び政教閲係を研究すは
る再び敦骨法拳の復興を見た。去れど其の後上述せる
人々にとつては必要鉄くべからぎる料率である、殊如
にき原因に依りて今回の新教骨法典発布迄の長い間の
下教骨法拳の歴史について.、新教骨法典費布を基準と
入寮の持前拇指導の任にある聖職者就中司祭司教等散
は骨法拳は至って振はぎるものがあつたのである。以
等閑し得ざる料率なることは言を倹たない。
して其の前後の敦骨法拳について之れを一瞥したい。
教骨法の祈究は其の雷初に於いては上越せる如く唯
だ法規の蒐集に停まるのみにて何等の料率的な方法をⅠ 新教骨法典曹布以前の教骨法拳
ヂクレクールの順序に従った註椿事
及び其の書名なる参考書は大腰次の如く分属せらる。
試みられてゐなかつた。此れが始めて属されしと思は一九一七年の新教骨法典蓉布以前に於る軟骨法尊者
る⊥のはかの法王グレゴアール七世︵一〇六〇︶及びダ
川
句題n旨い9日mpnt邑pinづロee邑巴i亡m︼ibrOⅦ●カOme、−宗−●
ラチアン勅令︵一一四〇︶の蓉布以後とせられてゐる。
後ちp−マ法のボロン買大畢及び其他の誇大畢に開講
i〓巨−頓づ.−笥A−ヨ.
吋㌢亘訂g︶S・J・−J・、J畠βロOnieumnO遥営昏OdOe旦i邑・
を話ずるものをヂクレチストDぎ瓜tぎ∽と呼び後者を
散骨洗車研究序耽
Ye冠、−可畠.
ⅠコgO︼乳pd︷こ岩戸
〓ニ七
した。此の時代が所謂敦骨法畢の黄金時代をなしたもせerOti−J∈・訂c旨02.C〓ibriく.晋.−00ーーー誓.
請ずる聾者を一役にヂクレクリスト︼宗旨ぎ詳訂と科
評訂邑厨⊇eber、S一J・−Ju仏e已乳邑ieu日gir甘s昌−叫雪.
ル致命集の講義をなしたのである。去れば昔時牲前者
謬i謬口賢2一−〇・句・︶J忌焉d邑c声日unire遥−m、∽く・An一
多の教授は或はダラチアン勅令を講じ或はグレゴアー
せらる1に及びグレゴアール致命集先づ出版せられ数
Jβ7
軟骨法単研究序説
ぎn−㌣吋rae︼ec︷i㌢認Juri仇C呂○已ci.ひく哲2e.︼∽∞P
−¢−柏−−㌢
要論書
一三八
l
一ノ1ernN−S・J・﹀Ju∽宕e邑邑亡mぁく.ROm♪−望㌫−−00こ○く.
㈹
De A磨el訂、苧aeleetiOロ現しu︼・打電ロOniee.¢くー00芦
囲 アルファべワト順にせる著者
ln
邑㌢
eetiOロ盛Jur︼me旨Oni卦∽く.
句e︼・rp矛ヲOmptPbibliOt訂epcPロOnicP00く●冒
す胃
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の−
﹂守謡
昏1
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l呂d∼︶Jusc呂Onieu日−∽く・−∞鍔
Andrm昏コd訂︶Dieti昌n乳−・ededrOitn琶On︼que.∽く.
ゴー︼○さ曽Pit瓜⋮ded岩iIn琶Omque・柏く・︼篭訊・
出On已こ邑it已iOne払Sn02.eぶ旭く.−00芸.
On、試買‘已のーOt2.S盲ri00eanOnier鴎く﹂霊∽.
Ojeま、S苫○唱㌫r曜日mmO邑i⋮5 et juユs苫n琵eii● 9
叩p
く訂.
ぎヨe、−聖芯−−柏.
閏 組織的詭明書︵主にトレント曾議後︶
増El訂ncdOt−Hn邑ti已iOn貌j弓訂c呂Onici−−巴声 野鼠≡阜り邑eaOn鎗j象sc賀Oniei.匝づ.−等閑︵−乱.︺
時殊問題書
︼特殊問題を取扱ったも玖は無数あるが其の詳細な
つFOm転岩−Di乳p︶iロ貌ee象乱邑i宅e2り︼忘b訂㌫e翠∞く.何
山コS。.
すれば充分である。
の
u邑ゴt巧巳弓d虫e呂○己汚訂日射neど∽
新教曾盛典発布以後の教骨法挙
誰癌書
1Ⅰ
用
A・くe︻m藷1邑−S●J●etJ・︹誌一晃n−S●T■﹀国pぎロe
j弓針
∃nG邑iOnbid邑die穿gen尋邑−笥・−笥研−芦を参照
et C呂On山?
のの衿已cEedeりQuel訂n
ッタ百科辞書や、敦魯文畢を研究したかの哲ぎーte
る参考書については上掲WernNや㌘gm邑eHのカー∴リ
冒rbO皆−J彗i胡eeele乱註ci百iYerS=ibりitrま一口苫コこ雷∽
−−︼↓−P
官nOit国︻くーゥe袴ヨOmm Dei be已i詳已iOne
已⋮One−ひく∴n・才︼i〇.
モ ーせ∼托句10dOdiOe彗nPHく・in−空iP
モ、せemgriかdO景山鴨夢lづ.in・琶⋮〇.
■
憎hilip軍内ire訂ロreCぎヾく●知pt訂b呂ne.−監やし岩.
−mm●
せロb巴︼き9ur芸○ヨ甘tdedrOitβロ○ロ、↓く●P巴・⋮♂−00芸
1
J3β
c呂昌ie⋮.叫勺●試註e聾0窺PiP︹−乱﹂篭匝︰款d・︼諾e
増.害prOtO.C.声句.、皆0−.害ad監こロ∞1︼や・RO冒eこ箆︼
A.星阜〇.句.−C音ent乱umt星uごu訃昏nつnie㌻d告雲1・
モ
︼eせe吋巧SO臥Ⅵい一望如
軟骨法華研究序祝
ー己P鼠age︼egisl邑○ロ・
▲■
モ 、︵ど乳ぎ告nOft訂cど邑こnt訂ロe司eOde・
eOde O︻cpnOロ︼p司.
モ
lp詳言e
J・才nt哲ium・
ー吋eロ巳legi賢哲n P∴く・立村司▲叫2醇・
A己i du3erg巾−20u霊呂tか∽dロ9d∼Hこ¢︼?⊥琵・
A●ぎ笥−C呂m昌t已記d呂S
re厨iO乱P出○巨e・
A●C呂e2−訂cOde
憎弓is.
概論書
de
drO山−すロ92q奉加く・−父顎−芦
吋.汐umm卑−〇.㌘民呂邑eJur⋮∽昏nOnieニ¢声乳−篭柏︸
ei5.−訂.叩く.
A.de試乳er−9冒pen読umi一1已s葛nO−1ieieこuユ∽C呂01計?
評rgil︼賢−淳邑ecIiOn庄J弓−00e呂昌ie山・匝く・
拘
声A.A宣n訂e.吋.Ⅵ.S・SユGene邑︼eg証邑呂int訂ne司
e写On︼p声00く.FO−乙.−告∞−琵・
一三九
mpn−彗−−浩芦︵固く00罵・に関する説明がない︶
七.Rp巳−C.SS.謬dこロ賢邑OneSC写っni邑in冒mp︵?
−¢翠︵ぎ蒜me碁に関する説明がない︶
句・9ぷ苛由呂畠eユe−¢■SimOn−試買邑eJu訃昏nOnici・
字ibO弓g−en冒i頗E●
Aug邑inP〇・Ⅵ・声−AeOmm2nす﹃Om︷b¢ne司COdeOf
le J畠m旨iβ02.已e.−¢誤.
のは次の二部丈けである。
究には好資料である。但し現在出版せられてゐる
畢詭の適確と簡明なるもので、殊に法拳的なる研
J忌H露語邑i旨の改訂せるもの漉して.、参考書と
句.国.Wern甲p●5d已−J忘ePn。已︵u2︵此は前述We⊇N、 甲良e草COm−inCOd・首imePn。niei・−器ヾ・
ロ訂i Pd戻l︼m汚ぎlP⊇臼、d各こj・
句.COCeE−P]芦−COm日邑買ぃu巨iB9d好日Ju訃PnA
?.訂r壱OnP−CO日m昏t已昌dp日払︼巾9m臼2ntp旨ヨp冒
︵9mment説話pppr。許Lid仁9dej属官岩?禁書︼訂白面
J3ク
致合法草加究序眈
句・句eRe透︶匹↑︸H邑il象On虎C呂0口許1.相月﹂讐∽.
︼四〇
詳言巾h灰9m雲n邑認許蜃e口篭・等数種類を教へる.こ
イタニリーに於いては次の如し。:l試Onぎ扁邑露i邑・
吋・賀旨已・de加増かr認望P呂−9q邑﹃ade官房pr邑q亡と
命が出来る。
etde吉irsd認望見切et
囲
depF∽−¢岨−︶ニーdi説きe邑乳邑ic〇.
敦骨法辞書
et掃くlle
特殊研究書
如くIl
p邑iβ莞d袋C呂口臥捨h岩ee邑i・
et舛くHコ0玖g−e.
試●試胃iOn、ロi象On已pi詔d窪in邑tまiO己de︼p増r呂C巾岩国
gie11S鑓・︵金津三十巷、二十四巻既刊︶
増・C訂象eり、DiaOnn巴re
偏Ouこpdirect●deA.Am呂ie且
A・51−i浮et声空尉nぎDietiOn邑reded邑t謬n呂宅e.
㈹
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監夢
rm白en︷賀iump岩邑芭0昇J宏pOnti詮uロ″︵H﹀弓A.
pO弓︼Opr空詔㌢巳−enO■串ロCOdee呂○巨q6e﹂岩野
試−出弓乳E阜 DrOit
p罵0訂i琶H対数仇︸−慧芦
吋●句●試まFOn︸H邑ilまiO巳e呂OP−琶串 ●
︵適切二云へバ概論書デハナイカ好資料ナり︶
拘 評論書
フランスでは西紀一八七八年已、Gr冒del呂deに依り
て創刊せられし︵︵Fee芦邑浄e。旨mpOrP豊は後ち一八
九二年以来芦宮邑n訂。に依りて療刊せられたが一
九二二年に休刊となつた。一九二四年に再刊同二六年
は法王應の許可なくしては之れをなすことを許されな
新法典は全部ラティン語であるが其の再版又は概評
は軟骨専門の評静書はない謬である唯だ︵︵Amiedu苧
いことは前述せる如くである。現在砿於いて法王磨の
の終りに至りて無期休刊となつた。去れぼフランスに
電g妥︵︵謬2eA苫︼Og畏que︾等が其の主なるものである。
許可を得てなされたる法文の稀薄書は次の如し。
封e言貌dec訂q岩diO乳欝︰崗p訂mer
袋gi乱臣0ロ参nOn−q宕eOnee呂旨=現邑igiO己−巳日義・
モid
︼訂
ベルギーに於ける評論書は次の如くである。警実包
r3焉t監OFgざロど
︵一九三一復活祭の日︶
t註○︼Ogi昏O FO■賀計監e仇⋮吋erhOdi昏de詔e呂○ロicp
モet
▲Pm
]O
野邑
云i
巴ざ⊥Pdedudr。itcpロ。風琴︼器柏・耗版︶
−¢−¢⋮せO r象giO獣史−已乳口篭i訂2pp︼emenすetmOnGm昏首”
J4∂
宗教経験の
二
︵一︶
上
野
隆
誠
者が出邑i評≦si呂を以て進むと云ふ事はあり得る事
果情緒が第三の形式︵心的統一作用︶を以て費展し経験
心理現象
宗教経験の心埋的過程に於て、吾々は宗教的契機
後に婁展する情緒兢ニニつの形式に分けて、その様相をであらう。﹁宗教経験とは心理的生命︵寓en邑−iぞの費
記述した。然しその何れが宗教的経験として委蓮すべ 見である﹂と云ふ言葉もこの契機に於る此等の現象を
きものであるかは直に決定される問題ではない。吾々 見れぼ直に推察せらる1肝である。かくして吾々は此
既に述べた如く、宗教契機に於ては青々の意識状麿
はたゞ契機後に於る情緒乃至行動を記述したゞけであ 契機に於る心理現象を記述する事が次の間題である。
る。屏で吾々には宗教的契機を前後とする有機的過程
の記述以外に、最早問題は残されてゐないのであらう が棲めて明晰にせらる1事は明白である。然らばその
はこれを次の二つの特質に見る辛が出来ると思ふ。郎
か。既に明にした如く宗教的契機に於ては、青々の意 意識状憩は如何なる特質を有するであらうか。吾々
識は特にその明断さを檜しそこに現る1封象に勤して
︶
︵
は、強烈な注意の向けられる事を知った。換言すれぼそち一江意を焦鮎として心理作用が統一せられ、心理
作用の明断さが高められて行く事、二注意作用の領域
一四一
︵
の契機に現る1封象は﹁言表すべからぎる﹂ものとし
が一時的に黎展して、伏められて行く事、此現象は宗
︶
て.吾々の注意の封象となつてくるのである。その結
宗軟経験の心理現象
J4J
宗政審験の心理現象
教経験に於る病的現象l例へば催眠観象としての
す
一四二
に射する傾向の繹放せられた状怒として、第二次的注
くして吾々の注意現象も.これを有機的に見れば.刺
p唱岸夢袋訂や麻睦︵Anp灸訂si風Y孜どの徴候に見られる 意状懸から統一の心理的状腰の現る1過程である。か
ものである。
第一、云ふ迄もなく、吾々の心理的過程には種々戟
の反應の形式を以て考へられなければならないである
型の注意的状態が見られるのであるが、この注意的状
が.その意味に於て先づ注意現象の寄生聾澤について
態は大鰹二つに分って見る事が出来る。一はたゞ一献
つ載する必要がある。
の魚粘に注がれる場合であ少、他は一つ以上の焦鮎に既にエンジェル︵Ange︼︼︶ティチェナ一等の心理畢者に
手薄の初期の段階へ幼鬼に於ても同じ︶に於ては、或
注意の注がれる場合である。此を有機的に云へぼ、ょ
注りて認められた如く、低級な動物の段階、又は人類
意的反應訂出す刺戟がたlサニつの場合か、又はその利
ー︵ぎb葺︶が第一次的注意︵一㌘m罵y星eロ許n︶と
れは既にティチプー氏が第一次的注意と僻したもので
戟が一つ以上の場合かである。第一の場合はティチ種
ェの
ナ刺戟が注意的反應を喚起するのは事賓である。こ
一
耕するものであゎ。第二の場合はジェームスが意諦あ
のるが、この注意を喚起する刺戟の形式は一般的忙﹁強
れてゐる。然るにワァトリン︵Wpt賢︶やモーガン︵ぎ7
流れについて述べた如く、﹁結婚、部濁、猪逸、フさ
ラ﹂
ン﹁突嵯﹂﹁新奇﹂﹁刺戟封象の運動﹂等にあると云は
ス⋮⋮等﹂の概念が攻から攻へと流jlな状態で、そ
の形式として﹁原初的刺戟﹂︵Or蛍邑邑巨lu仇︶を加へ
し、更に原初的な﹁反射的無條件的﹂反應を起す刺戟
g邑等の心理拳者は此等の注意的反應を起す刺戟に勤
ヽ
︵三︶ れは欝l一次的注意と鰯せられる。
宗教的経験Ⅵ於ては.勿論此等の多なる注意的状態
が一なる注意的状腰に統重さ・る1過程を持ってゐる。
即ちかの宗教的契機に於る昏々の注意的状態は、行動
て偽る。此は両氏が幼見に現はるl反應を賓験した結 城
共に現れたものであるが.例へば﹁幼鬼を暗室に入れ
て、時々光線を暗室に閃めかせて見たが、幼鬼には恐
怖の反應は現れなかつた。たゞまばたきと頭部の欲動
が現れたのみで思る。然るに大きな音によつて恐怖の
︵田︶
反應が現れた﹂と云ってゐる。嘩言すれば、前者の光
線が刺戟となる場合には、注意的反應となる屏の感発
券官の適合が放たれるのであるが、後者の場合には注
意的反應となる感覚許官の適合のみでなく、恐怖に現
る1▼ ]岩u菖lptu蒜やg︼巨象等の特殊的な反應が現れて
ゐるのである0
これは注意的反應の最原初的なものと、その封象と
なる刺故に就て述べたのであるが、未開人や幼鬼の段
階に於て此等初歩的な注意的反應が現れ又此原初的反
應が第一次的注意の心理的特質となつてゐるのであ
る。吾々堅剛に第一次的注意の喚起せらる1封象の條
制するもの﹂
︵CO日罵lling臼旦
があり、又それが注意
に﹁適合﹂してゐるからであ少、又これに注意を向ける
︵五︶
のは、﹁本能的興味﹂︵l邑in註nter邑︶に基くものである
と云ひ、心理的にはその封象に射して﹁腐植あるもの﹂
︵WO巨富ilen窺いを輿へてゐるキ云つてゐる。然るにジ
ェームスは第一次的任意の喚起せらる1時には、﹁勿
論この封象を﹂︵TbFO音et・0やB弓且と云ふ感情が現
はれてくると云ってゐるが.五菜この原初的な注意反
應の経験は、上述するが如き封象に謝する腐植感と云
ふが如き心理的に進歩した感情の伴ふ事は稀であ少、
寧ろこの経験は封象に﹁強制するもQ﹂があるが褒に
喚起せられるものと考ふべきで、此経験は吾々が急に
顔を赤くした少、宅をよたてたりする刺戟が始めて現
る1時など忙見らる1現象である。
上述する併は注意現象の蕾生乃至その特質を有機的
最も注意すべき鮎は、此等の任意的反應の静坐と共に
件として﹁弧さ﹂﹁突嗟﹂﹁新奇﹂﹁刺戟勤象の連動﹂等 に明にしたのであるが、以上の注意現象の中、吾々の
をあげたのであるが、心理聾者は更にこの原初的な注
心理的方面に於ては.その封象との麒係に於て.上越
二四三
意的反雁の喚起せらる1候件に観し、その封象に﹁鋸
宗教経験り心理現象
1幻
宗教経験の心理現象
一四四
するが如く﹁強制するもの﹂が魔知せられた少、ジェ 附輿せられて来るので、こ1に所謂ジェームスの﹁勿論
ームスの云ふが如き﹁勿論この封象を﹂と云ふ感情が この封象ぎと云ふ感情が現れて来るので、そこに現れ
的な﹁意識状怒﹂︵㌘ヨ邑乳邑品8の現れてゐる事で
く、原初的注意反應に現る1状憩と全く同一である。
意識状腰を現出するので、此等の状悪は前途するが如
現はれたりする事で、結局この反應と共に、一の特殊 た封象が﹁強制するもの﹂﹁腐植あるもの﹂となつて一の
ある。
記すならば、↓心理的錯綜が完全に除去せられ、二荘
︶
′−I、
併で吾々は注意的現象の特質を宗教的経験について 従って今この宗教的契機に於る心理的統一の特質を
考へて見なければならないのであるが、それには上述
′Jll
かくして、青々は宗教的契機後に於る心理現象、即
するが如き宗教的契機の様相について見る事が出来る ︶︶ 意が統一せられ、三意識が極めて明噺となり.四比ひ
︵
であらう。既に述べた如くこの契機は行勒に射する傾 なき歓喜の感ぜらる1事の四貼となす事が出来る。
向の群数する刺戟の現れた結果として現れたものであ
るが、更にこの契機に於ては観念的な宗教経験者の記
るから、その契機に現れる現象はそれが啓示の形式を ち心理的方面の統一、特質を有機的に明にしたのであ
以て現れても.直観の内に現れても、果た又観念の中
に現れても、その掛象は注意の中心封象とな少、此に 述するが如く、契機前の錯綜状態がそこに現れた封象
興味が切茸に注がれる事は、その有機的過程によつて によつて解滑せられ、心的統一の搭乗せらる1時には
自然である。又前述するが如き封象に﹁強制するもの﹂意識は轟々明断とな少、又温烈になつて行くのである
︵六︶
に於る意識の明断の度を組織的に詮明した如く、この
があ少、又これが﹁構成﹂ぁるものとなつてくるのはそが、此はガイスラー氏︵Ge訂︼er−PR.︶が注意的状態
の謝象が統lせられた注意の中心を占め、その中にこ
の封魚と野ふ封魚が存在しないから、自然その野良に 契機に於ては心理的続︼と共止そこに現れたる幻像とl班
︵
略表ぼ一億叩把]何秒訪れ1でみる現せ
bヨ巾邑F乳琵に.その経験の形式は寛に種々雑多であ
あ劉獣≠劇W雌覇昭灘皿W劇剛盛凋胡誹恥餞闇澗戯闇雌
る注意的反應としての現象とすれぼ、それは詩域が技
然し此等の病的現象も、上述する肝のこの契機に於
る0
あるが.この意識の明噺さはこの契機後も継増し、又
更にその度を檜す事は宗教経験者許りでなく、断食修
行をした者にもよく見らる1併のものである。
二
上述する屏によつて、吾々はこの契機に於る心理的 巧的に病的に迄、高められたり下げられたりする屏の
統一方面、即ちこの契機に現れたる封象に注意が注が 特殊的現象に過ぎないのである。吾々は宗教聖者の経
れ、意識が明噺となる状態に就て述べたのであるが、 験の中に経験の封象が意凝集申せられて、それが種々
次に青々は第二の特質として奉げた注意作用の一時的 の錯覚となつて現れたものや.又感魔や想像作用の異
賛展に伴ふ異常的現象に就て述べなければならない。 常に饗遷したものを見る事が出来るのであるが、此等
る封象に勤し.注意が集中せられ.意識が明噺となる
於る心理過程の発化即ち意識の明噺さが特に発展した
必ずしも一般的現象ではなくー寧ろそれはこの契機に
もし上越するが如く、この契機に於てそこに現れた の現象は経験者の鰹力乃至叡智忙よる事が多いので、
ものとすれば.此注意的状漕が︼時的に強められ、更
ものに就て見ても、その意織状態は此契機前と集り.
にそれが病的に迄強められて行く事は、宗教経験現象 場合に過ぎないのである0今この契機のヴィヴィウドの
として通常見らる1屏であらう。例へば印度の苦行者
述するが如き異常的なビ童era畳訂⋮詮や耽睡状悪に封
キヮスト教聖者に見るが如き麻睡状態などは飴りにも 極めて明噺にされてゐるのが常であるが、此経験が上
有名な事賓であるが.更に此等の鹿睡状潜.す琶呂写
する傾向によつて誘導せられたものと限定する事は山
一四五
tォ臥琵、錯綜等の状態も、宗教史葺に極めて多い.その
宗教経験の心坤現象
J適
もの
で
、
るが
︵七︶
に
宗教経験¢心理現象
意
(八) ゐる。
現
来ないのである。叉催眠状態の特質と停へられてゐる
靡の趣端な形式、例へば意識が裁然と分割せらる1が
如きものも、この契機には屡々見らる1併であるが、必
ずしもそれは一般現象ではない。
一般に吾々の心理意識、乃至注意的意識状腰の銃型せ
らる1状腰は各人によつて相違してゐる辛が質験的に
澄明されてゐるが、この注意的意識の統婁には﹂一種の
で行はれたりする
で行はれたり、意
形式があると云はれてゐる。即ち一は意諦の統登が意
詩のより明噺な部分︵雷egrO百d︶
識の明噺でない部分9g打grO仁nd︶
ものであ少、他は心理に現る1感発的乃至想像作用が
種々の程度の明噺さを取って統要されるものである。
此等の中何れが異常な心理作用となつて婁遷するので
あらうか。前者の型が催眠状腰忙見らる1様な裁然た
る意識の分離現象を現すのか.勝た又後者の型が異常
才」β
あ
な
四六
的
牡
役
−公証m払好捕簿,
な心理的統一を示すのか、此等は容易に決定されざる
問題である。エラスムス︵E責m邑は後者の型の人で
塵取抄臥瞥rめ阻阻肌阻−鮮
はれ
て
屏
は、勿
論
注
象
の
異
】
数略称サる戚隠釈庸五どは、此草瞥によつで級阻礫計 るのセ.又これと共正上述するボ如く...苧Q上下に 岬
三
る併であらうし、叉一般人が自己の邁命に謝して意欲 よつて内的生命を把持する辛が坦禿るのである。
を似て抑制する事が出来るのも、此事案によつて証明
考へられるので.結局此等の﹁内なる生命﹂の蕾展に
象は.心理的には平行論以上の特質をもつてゐる事が
諸感覚の反射的適合伸用が容易とせられ、更に明断に
は有機的に見れば、行動に射する諸傾向が梓放せられ
費澤の記述である。肝で上乗蓮べ来った如く、此契機
上述する併は、主として宗教的契機後に於ける意諸
ょって、吾々は封象︵救念的であらうが感覚的であら
された注意状思の下に諸種の感覚が喚起せられ、叉一
する事が出来よう。従ってこの異常的な心理登蓮の現
ぅが︶とこれに封する反應的傾向との間の調節の性質
が理解せられて凍るので、又更に此等を理解する事に 方そとに現れた封象は諸種の感覚を以て把握せられ、
用に基く聯憑作用によつて統一せられて来るので.結
ょって、吾々は心理的生命、即ち﹁内なる心﹂の人と 且つその知発作用は主として成発乃至賠境等の感発作
なる事が出来るのである。
青々は上来迎べ来った靡によつて、宗教的契機後に 局此状態は心理生理的適合の完成せられた状磨であ
而らば此契機の宗教的経験としての特質は何鹿に見
えノ0
於る心理的過程を概観したのであるが、今これを要約 り、それは一の知的料率的憩度とも耕する事が出来や
すれぼ、その特質は注意作用が一貼に集注せらる1事、
意識が明晰になる事、諭域が病的に道上下せらる1事
機鰹の思度を宗教的潜度と科挙的怒度の二に分けて考
の三に辟する事が出来るのであるが、結局此等の心理 らる1のであらうか。こ1に吾々は此契機に現る1有
的過程の特質によつて.此契機を境として、各人は自
へて見なければならないのである。勿論上述するが如
一四七
己の﹁発醒L即ち﹁経験してゐる自己Lを覚醒して来
宗教経験の心理現象
票数経験の心理現象
︼四八
然しこの契機を宗教的態度として見るならば∵前者
︵︼0︶
き有機性の適合の形式に於ては何等宗教的経験として 料率的態度としての特質が見らる1。
の侍質を見る事は出来ない。従って此契機に於ける宗
教的経験としての特質、乃至料率的態度との相違は、 の態度と著しき相違がある。既に述べた如く.この契
験せらる1のであるが、その特質は云ふ迄もなく、そ
この契機に現れた封象忙謝する心理状憩即ち注意的状 機に現る1封象は﹁言表すべからざるもの﹂として歴
態乃至注意の中心となつて現はる1封象の意義形式に
ついて見なければならないであらう。此二鮎は此契検 の封象が情緒の形式を以て把握せらる1事である。摸
も、観念を以て把握せられても、此等の知能乃至観念
が宗教的経験としての特質を表すものとして最も注意 言すればそこに現るゞ封象が知姪む以て把握せられて
すべき鮎である。
の相違は注意乃至封象の開腹である。上越するが加
ょって統制せらる1状腰について述べた。従って両者
宗教的経験としての特色た示してゐるので、この特長
情的作用がその封象に向けられてゐる事が、此契機の
る。即ちこの契機に於ては単なる知的作用ではなく、
既に青々は南懸度の共通貼として有機鰹が此契機に が感情乃至情緒の形式を以て統制されてゐる事であ
く、この契機に現る1謝象によつて有機鰹は心理生理
凡ての宗教的経験の特質として特に任意しなければな
的に適合が完成されてゐる。併で此適合を料率的知的 は単に此契機の宗教的経験の特色と云ふ許りでなく、
態度として見るならば、此契機に現る1封象は主とし
て知発の形式を以て把握せられ、これに謝し情緒的反 らない屏である。
應などは現れてゐない。即ちこの契機に現れた封象は、 以上は両怒度の任意的状腰の相蓮があるが、上越す
機に現るJ掛魚の相蓮宣直に理解する事が周来やう。
姻
主として知的に把握せられ、感情乃至情緒の形式を以 る肝によつて、青々は両者の第二の相違鮎、即ちこの契
て把握せちる八草膿ないのである。こ1叱この契機の
岩 九 ノヽ 一也 ブく 五・
Hbid、ワ︼笠●
︼bid−p■−笠.
Jp巨硯、Wi︼︼ip日、Wi−〓O
一匹九
汐旨n−OpeF−p●−霊−−雪.
l︶eli雪♪−00¢可.
C■知己呂−哲ieロeO雪d︷訂謬︼igiOu∽巳ダp.㌫声
︰冒eler−Jpm認−In監n象inm呂こ讐リp.芦
pp・−の如−︼可P
AmeriβロJO弓np︼。へ覇叫eど訂gヨ如何ヨーニ巴ヾ.
首︸¢声
J細
即ち群議的感度k於てはそこに或る1封魚は単に知
︵囲︶
′ヽ ′■ヽ ′■■ヽ ′ ̄ヽ ( ′{\
兜を以て把握せらる1﹁事賛﹂の封象であり、そこに
何等費化したものを見る事は出来ないのであるがー宗
教的腰度に於ては、その封象は単なる﹁事葦﹂の封象
ではなく、各人の有機的反應によつて﹁菱形せられた﹂
封象として現れてくるのである。既に述べた如く、そ
の封象が﹁言表すべからぎるもの﹂として現れて来る
と云ふのも、これが﹁菱形せられ声﹂封象として現れ
て来ると云ふ意に外ならない。
かくして青々はこの契機を宗教的憩度と科畢的感度
の二に分けて、その相違を明にしたのであるが−結局
此契機を宗教的腰度として見れぼ、その封象が主とし
て触緒の形式を以て常に把握せられ、叉その封象は単
にありのまゝの事葦ではなく、新に意味が奥へられ﹁発
化せられて﹂現れてゐる事を特色としてゐるのである。
︵二︶ テ
証︵一︶ 宗教第研究新入巷第三舵参照。
︵三︶ Jpm貌−W巨岩︰づ賀iet訂○へH訂︼igiO戻Ppe▲
宗教軽食の心理現灸
)
しノ
)
)
)
)
︻日本神話の研究bむ苛む
r日本新話の研究﹄を読む
松
村
一五〇
武
雄
鰭民の生息する地方の季節祭と密接な関係を持ち.従
F一団民の紳話は、その国土の特殊な所産であり、其
﹁日本紳話の研究﹄が公にせられたことは、紳話畢の研
ってその気候風土の影響を蒙りやすい。よし我国民が
﹁フランス拳曾﹂叢書の一として∵近頃松本信廣氏の
究に従ふ者の欣快とするところでなくてはならぬ。
本書の収むるところは、﹃外者歓待停論考﹄、﹃豊玉姫 北または南方から今の島喚に渡来したとしても、此観
長し、我観特殊の形態立とるに至ったと考へられる。﹄
停詮の一一考察﹄、﹃笑ひの祭儀と神話﹄、﹃スサノヲノ命土に適合する祭儀を費遷せしめ、紳話は之と結んで生
及び出雲の静々﹄、﹃我国天地開朗紳静に謝する一管
には種々なる方法あり、何れも一長一短あるが、その
見﹄、﹃蛭兄と日女﹄、﹃日の紳の子孫﹄の七篇であり、 −−氏は先づ第一に、かうした見解の下に、﹃紳話研究
而してそれ等の論考の要約としての﹃放譜﹄が添へら
中最も重要なるは祭儀と紳話とを結びつけて考察する
方法であらう﹄となした。
れてある。
載するところは七篇に過ぎないが、その各ミが考察
﹃従来の日本紳諸研究は、あまりに日本紳話を濁自的
の所産と見.また
する事項は頗る東きに亘つて居り.日本古史神話の殆
んど全面に解れてぉると言っても.決して過言ではな
響としての一み解膵心て胞た傾いきがある。日溶瀞廠の細 腕
之を朝鮮支那等の高等な文明の影
い○
氏が神話を凝親してゐるとき、さうした心的牌発が餓
き複雑な瞭系む具えたものは、之を多方面から考察す 掌徒であ忍。..痢の執着敬謙みづ獣拙て和登昭威盛喘l 血
る必要がある。T氏は次にかうした見解の下にl日
本近隣諸民族の神話にして、日本訓話と類似した形式 椰な感発をふるはし、しなやかな弾力性を働かせて、
を探り出すのを感ぜざるを得なかつた。氏は、﹃個口女
を有する場合には、それ等を比較研究して、その類似 凡庸の徒が色認し得ざるところに、幾多の潜めるもの
性が﹃単なる偶然の一致なるか﹄.若くは﹃速く本源的
親殊に基くものなるか﹄を検討すべきことを主張する。従r今以徒不一得一呑餌叫又不γ得γ預l天菰之供可郎以盲女魚一
而して這般の立場から我が国の神話を眺めて、それを 所一一以不盲準敵軍此其鉄也﹄といふ日本紀の記述に、
祭だといふ思想む前提にして考ふべきではなからうか。
通して古代敢曾形磨の種々相に追進することに努力し ﹃これは釣られて食せられることの魚にとつて却て光
たところに、本書の持前がある。
之を要するに、氏が日本紳話の考察に於て採ったと これを禁止せられることは却つて魚族にとつて嗣なの
りの停承に﹃下級の巫女が高教の巫女に移り葬る時行
ころは、フランス政令拳旗の紳話拳研究法である。そ であるLと感得する人であ少、天賦大部紳の天岩戸籠
してその意味に於て.我が国押詰の科挙的な研究に先
鞭をつけた故高木敏雄氏及び氏についで現れた多くの はれる入門式に際し、巫女が何等かの覆ひにより隔離
に戻される儀式が行はれたとすれば、吾人は此虎に天
拳徒の研究法から、可なり楷み出した新尖な研究法で され、また或曙併正閏ぢ籠められ、それが再び明るみ
あるといふことが出来る。而して恵まれた氏の天稟
る﹄と感知する人である。而してかうした感知カが最
は、更にかうした研究法による紳話考察の産黒を磨ろ の岩戸紳話の紳秘を解くことが出来るやうな気がす
優秀なものにしてゐる。
一五︼
私の見るところでは、氏鱒鋭敏な心的鱒鼻を具へた も縦横無碍に括確して.尋人の見ざるものを見、開か
﹃日本調話の研究巨空環む
﹃日本御許の研究hを譜む
一五二
あつては.さうした心持.気分.感じが.一方に於て
ざるものを聞いた論考の尤なるものとして、﹃豊玉姫停もの虹と押詰との関係はその二である。後者の場合に
詮の一考察﹄があり、﹃蛭兄と日女﹄がある。
心的牌兇の鎗いものは、鮨てもすると推理を払越し、祭儀となり、他方に於て神話となるこせがあり得る。
事葦の詮徽を閑却しがちであ少、従って折角見出し得 この場合に於ては、祭儀と紳話とは同一母胎からの二
たところのものが客観的安富性に乏しいことがある場 見であつて.祭儀が直ちに甜請の母胎となつたのでは
合にも、猶これを是として推し通さうとする傾向が強 ない。またさうした心持、気分、感じが祭儀とはなつ
儀とはならぬ場合もある。更に神話が先存して、その
いものである。氏に於て喜ばしいことは、かうした傾 ても紳話とはならす、若くは反封に紳話となつても祭
向から概ね自由であることである.氏によつて感知せ
られたものの多くは、詮徴によつて裏書きせられてゐ 具象化としての祭儀が生れることもある。︵この事象は
る。事資がよく駆け出さんとする奔馬の絆を拘制して 比較的に稀少であるが︶そして祭儀と押詰との間係Q
ゐる。そしてさうした経壕固めは、氏が日本及びその 様態が.Lれ等の中の何れに属するかの見分けは一決
間周民族の祭儀や神話に閲して有する知識が璧富であ して容易ではなレ、。私の解するところにして誤つてゎ
ることによつて、頗る効果的になつてゐる。﹃祭儀と静ないとすれば、氏の限は一に祭儀が紳話の母胎となる
話とを結びつけて考察する﹄といふことには、いろん 場合に注がれてゐるやうである。自分たちは、氏が祭
な意味があると思ふ。﹃一の形態に具象化した祭儀﹄と儀と神話との開係について、更にその親野を廣げられ
神話との館係がその一であり、﹃ゆくゆくは祭儀と名づることを要望してもよいではなからうか。
けられるものに具象化するであらうところのものにし
氏は、一つの神話の後納な部分の一つ一つに深い意
て、まだ︼の心持、気分、感じなどとして存してゐる 味を讃み取つて﹂行く用さまぎまの鮨互匿聯賂し旋盤γ予
J丘2
峰苫ほど磯路のとれてゎない意味が一府伊に創出へさ
なれ
い。各部の原畿の究明が、紳輔研発句上佗鰯も重要 凋
る。単一の甜話にかほどまでいろんな意味を酌み
で取
あっ
ることは云ふまでもない。同時忙民衆がいかなる
てよいであらうかと、盛る人ミには思はれさうに
、鰹としての談話を受入れてゐたかの賃際的赦
意ま
味で
で全
それが行はれる。馬琴が﹃燕石雄志﹄で試みた民
構考察も︵これが時代や敢曾類型によつて動く
食辞
事の
象の
成の﹃切り刻み虹的な手法が、ここでは神話の意
上ることは勿論であるが︶亦決して等閑に附す
も味
のの
であ
て意味したところと、記紀の紳代巻のやうに、ある意
に施されてゐると云ひ出すものがあるかも知れぬ
べと
き思
ではなからう。更にまた一の神話が本来畢猟に於
はれるほどである。しかしさう考へる.のは鈍根の畢徒
の不雷な心配であらう。ただ私の懸念するところ
味は
で、
の叙事詩に於ける一個の物語的鎮魂としての該神
氏が一つの神話の部分部分に木原的な意味を認め
話る
が比
意味するところとも、亦必ずしも同一ではない。
熱意するの飴り、民衆が受取ってゐた全鰹として
而の
し意
て私の見るところにして誤りなくば、この粘への
味に留意することに疎かになつてはゐないかとい
氏ふ
のこ
脚心は、割合に少ないかのやうに見える。
とである。
しかし恐らく氏の狙ふところは、神話の構成要素の
或るものが語り或るものが聴く。その間には必そ
ずれ吻
ぞれの原義を突き留めることであつて、それ等の
語の意味がはつきりと通ひ合ってゐたに遵ひない
後。
期さ
的な流動費化ではないであらう。若くは原義を究
ぅぁって始めて論詰の洗骨集図的な使命が有数に
明果
すさ
ることが即ち後期的な流動費化を痕づける所以で
れ、またその意味に於て説話が生きてゐるのであ
ある
る。
とされるであらう。もしさうであるとすれば、私
而してさうした場合多くの成鳥の心に相通うた、の生
云き
璃するところは、無用の証文である。しかし氏の
︼五三
た意味は、必ずしも説話の各部の原義であつたと
立は
場云
をさう限定しても、猶ほ次のやうな場合が存する
﹃日本紳話の研究bを読む
﹁日本紳話の研究≠里讃む
︼五四
民族を離れての該紳話の突きつめた意味ではな
話の突きつめた意味は、必ずしも該国土若くは該
川或る一定の国土若くは民族をもととしての或る紳
が大切であると、私は考へる︶に郎するなら、神
紳話を産み出した民衆の資際の心持︵そしてこれ
間腹であり得る場合が存する。後者に於ては、該
於ける意味を突きとめるといふこととは、自ら別
繹ねるといふことと、或る特定の紳話の出費鮎に
い。例へば我が歯の白鳥鬼女詭話に於ける勿衣
話を生み出した﹃生ける力﹄は.Aではない。Aは
ことを忘れてはならぬであらう。
に、之を纏へば室威となり之を脆けぼ人間となる
民衆の知らざるところのものである。
知らず、氏はかうした種l相を明白に意識して、紳話
巫人の衣を認めるのは正しいであらう。しかしそ
れは日本に於ける羽衣の意味であつて、日本を離
の意味を古きに遡等してゐられるであらうか。はたさ
うした底別は氏にとつて問題外であり、若くは考ふる
れての羽衣の草生的な意味ではない。
囲風習・信仰・制度・祭儀等は、その流動につれて、
をAとし、第一次、第二次⋮⋮の嬰化を受けた意
ら段階が存する。憤りにそれ等の民間停承の原義
るむのを遡尋して而して到りつくところにも亦自
等を母胎とする押詰︵もしあ少とすれば︶の意味す
の感を抱いたとすれぼ、その罪は一に私の不敏に存す
ところを誤解し、若くは氏の無用とするところに筍望
とする飴少.思はす多梓を弄した。氏の言はんとした
の未だ到り得なかつ空向い境地に澤し得たことを欣快
氏の努力によつて、日本訓話の研究が、従来の研究
に足らぬことであらうか。
味をそれぞれB、C⋮⋮とすれば、紳許は必ずし
るのであつて.偏へに氏の寛恕を乞ふ外はない。
その意味するところに蓉化が生するっ従ってそれ
もAから生れると限られたものではなく.月.〇
・・か
¶あ
・も生れ一得る。かくて腋序に霹の意味セ
†ぬ
支那に於けるキリスト教排斥運動
甘
粕
石
介
ソヴエート同盟や又近来の我国忙於ける反宗教連動 いてすつかり国民化された﹁宗教﹂に射する反封運動
に相昔するものとして支那にも又支那猪特の反宗教運 といふ鮎でその必然的な根嬢と見られる政治的閲係も
動がある。その一は民団五六年頃北京を中心として盛 複雑な国際的願係にまで及ぶことがなく比較的単純
屏が欧洲大戦以来支那各地に起ったキワスト敦の排
んであつた排儒教連動であるが、この排膚敏速動の場 である。
合を考へて見るとソヴュート同盟や我国に於ける反宗
教運動と同煉に、その思想的な性質、或は政治的な根 斥運動は勿静反宗教運動と見らるべきものであるが、
按は夫々比較的単純な閲係竪琴元されるやうである。 以上の場合とは大分趣きがちがってゐる。この運動の
といふのはさういふ連動の封象とされる宗教、リグエ 封象になつてゐる支那に於けるキサスト敦は支那人の
ート同盟の場合であればギワシヤ正教、我国の場合で 内的生活にまで淀透してその宗教的要求を滞してゎた
あれば彿教或はキリスト教等は、支那に於けを儒教の ものであるかと云へば、それは甚だ疑問だと云はぎる
場合と同じく夫々長い年月を経て、その固の風俗習慣 を得ない。支那のキリスト教はどちらかと云ふと宗教
にも合致し団民の内的生活にも根強く浸潤してゐるの 運動といふより寧ろ啓蒙運動乃至は教育運動の載を呈
一五五
である。それでこれらの場合は、さういふ自国内に於 してゐる。是は各地に散在してゐる多数のミッション
支部に於けるキサスト敢排斥連動
J郎
支部lこ於けろキリスト教排斥連動
一五六
多い。是にはキリスト教の諸施設が英米に輿へた賠償
スクールを見ても解ることであるし∵現国民政麻中の 侵略政策のお先棒であると見倣されてゐる場合が頗る
多数の要人︵王正延、顧維釣などもさうである︶がそ
れらの拳校の出身であることや或味外人宣教師の支那 金でつくられてゐることや、ミッションスクールに於
人に射する一般的な態度を見ても解ることでである。 ける親英的或は親米的教育を以て英米の経済外交政策
兎に角支那のキリスト教は教育事業等といふ様な名前 を糊塗しょうとすることやらで.さう見倣される理由
で呼んでもよいが、是を眞の宗教と云ふのは如何かと も十分ある。その結果政治運動−−膳級的なものであ
思はれる位のもので、少くとも国民化された宗教され ってもこの固の現段階に於ては必然的に民族的なもの
た宗教だとは絶封に云へないと云つてもよいだらう。 とならざるを得ない − と特に結びついてゐたわけで
此の虚に支那忙於けるキりスト教排斥運動の一の特 ある。支那はこんなに因つてゐる。それは誰の痛か。
徴が出てくる。もし反宗教運動が云はれる如く、比較 外囲が不平等倹約で支那を歴通し搾取してゐるからで
的内的な宗教そのものを無くしようといふ試みと比較 ある。それではかういふ不時な外国人を排斥しなけれ
的外的な宗教の敢骨的施設に打撃を輿へようといふ試 ぼならぬといふことになつた結果、眞先に目をつけら
みとの二つに分れるとするならば、此の場合鱒前者の れたのが支那人の日常生活に一番よく解れるキサスト
意味が大分稀薄であつて、赦曾的施設としてのキサス 敬重教師及びキワスト敦禽といふことになつたのだ。
一致を排撃しょうといふ後者の目的が著しく前面に出 我が国の場合と興る支那に於けるキリスト教排斥運動
′ てゐるのである。しかもこの反宗教運動は階級運動
、かういふ性餐をよくきはめておくことは、これは支
の
欠これが我屈め拠骨よ興る.辞問は南海扮掛氏経粧浮 脱
特に民族運動と強く結びついてゐることに注意しなけ 那に於ける最後の反宗教運動であるか細何か、従って
ればならぬ。いろくの意味からキりスト軟骨は英米
するも由であるか.それとふ匿兇附段縛の昼席∬谷
ものであるかといふ問題に答へることが出来ないだら
ちノ0
反粥舶ガ
から特にあ1いふ大きな運動になつた原因としては大
戦終了後に於ける歯民感情の覚醒.新思想の普及、.ハ
りの平和合議及び国際聯盟が参戦囲としての支那に冷
いふ素因があつた屏に丁度一九一九年頃からリグエー
淡だつたことかういふことが挙げられるだらう。かう
ふ人が是を四つの段階に分つて説明してゐる。この段
ト同盟及びフランスに留草してゐた無紳論由盛鹿が辟
訂増訂HOdO亡玩とい
階の分け方には多少異論のないこともないが、この道
朝したことが直接の動機になつてこの運動が始ること
さてこの遊動の進展に願しては
動を量的な強度から段階づけた者としては大隠安富と
になつた。
その火蓋を先づ切つたものはコンミューlストであつ
思はれるから、今その段階を踏重してこの運動のその
大館の歴史を紹介して見よう。
た朱執信の著書﹁耶蘇是甚座乗西﹂である。この著暑
が出ると非常な人気で、雑誌やパンフレットになつて
Chinpこ
謹 TbeJO弓n已Of封eligiOn−OetOber岩加0
−−The A↓邑inFi裟pn試OYement ni
第一期一九一九
−
−
二四年
二二年
普及期
潜在靭
あるが、もう一の基礎は支那の若い思想界に影響を輿
再三再四現れ、その後出た反キリスト教文書の中にも
第二胡一九二二
直接行動明
へたバー!フンド・ラッセル等の料率的な考方の影響
氏によるとこの四つの段階は
第三朋一九二四†−1二五年
弘化.旗大胡
一五七
である。是は特にキリスト教に限らないで宗教一般に
これがこの運動の思想上の一の基礎を築いたもので
是が盛に引用されたものである。
第四期一九二五年
といふことになる。
支那に於けるキリスト教排斥連動
J礪
支那に於けろキリスト教排斥連動
一五入
射する反封を表明した思想運動と見られるのであるが、なるキリスト教信者が支那思想界の最も健全なる指導
それによるとかうである。宗教は鎧挿といふ感情に根 者の役割を果しっ1あることを強調し.支那は唯血を
是に射しては又支那を救ふためにも文明を救ふため
ら紋はれる旨を訣いたものである。
ざしてゐる。然し鰻丼といふ感情は科挙に矛盾する料 以てキサストに従ふことによつてその時黒と罪悪とか
率の費邁と共にか1る感情に根ざせる宗教もなくなる
だらうし.又我々はなくしてゆかねばいけない。それ
に代って現れるのは教育と塾衝である。薙封的概念な にも宗教は不必要だといふ反駁を加へる沈氏が出て来
る静がなくなると共にさういふ文化的な費化に随従し たりしたが、要するにこの時代は所謂思想家、拳者等の
ものではなかつた。即ち賓行運動忙這入る決定的な一
て政治及び融合生活に於ける殖財主義も亦なくなると 間に於ける論難討議の時代であつて、書斎の外に出る
いふのである。
これらの潮流に謝しては勿論支那人の内部にも宗教 歩を踏み出してゐなかつた。併がこの一歩を踏み出す
梓轟論が現はれ、宗教は人間の生活を旗大し、人類の きつかけとなつたのは一九二二年の北京に於ける寓固
科挙と矛盾するものではないといふことが論ぜられ
携った。第一に立上つたのは上海の非キⅤスト敦畢生
地に反キリスト教畢生大骨が開かれた。これは全観に
進歩に重大なる役割を果すものである。宗教は決して キリスト教畢生同盟の大骨であつた。是に反射して各
た。
の極端な敵となつた支那文拳革命の指導者︵陳度宿︶
等に於けるそれである。
盟、蕪湖の中非キサスト同盟その他杭州、武漢、天津
この段階に於て一の興味ある事件は後にキワスト教 同盟、次いで北京の非宗教大同盟大原の非キりスト同
Cb、2ぎ・訂i司の著書である。これは一九二〇年は現は
れたものであるが、それには支那に於廿る多款の丘ハ拳 是辱の運動惣見洛紅い始めは弛藍牡計艶野
に於ては科鋳掛迷信といふラッセル等の立場から反キ に加へてもうTつ更にその義朗麒uで媚楷髄q蟻励葡 城
りスト教運動となり、中支及び南支にては政治立揚か 主義的民族主義的傾向である。この傾向が加はつて反
ンスクールに謝抗する教育擢回収運動となつて現はれ
ら是をなしたのであるが、後には前者も漸次その立揚 宗教運動としての支那のキリスト教連動は複雑なもの
′
とな少、支那猫時のものとなるのだが、是はミッショ
が政治的となり後者と一致するに至った。
註 例へば東亜経済訴査局費行﹁経済資料L第十二審、第
かうである。散骨の教育事業は教魯魚をふやす食めに
た。この代表者の一人である王景親の或演説に由ると、
七批十三東以下、上海り非キサスト致畢生同盟亡北京
の非宗教同盟両者の宣言な比較・して見れlでよく分る。
その結果諸方でつくられた反キリスト教畢生同盟の 行はれてゐる、その限りに於てはよいのであるが.然
如何にしても支那の子弟をして支那の馬といふことを
貫首を見ると大股次の康な上海系の形態をとることに し教育事業が現在殆ど外人の事でなされてゐることは
ヽ−■′′ なつた。↑現代の敢曾は資本主義赦曾であること、0
して了ふことになる。これを防ぐ食めには如何にした
しかるにキリスト教はこの資本主義の罪悪を支持して 考へさせないで自然彼等を親米家なり親英家になりに
ゐること、8それと同時に萬囲キ呈卜教畢生同盟及
それは信者の偲以外には小峯校及び中等草枕を教曾が
びキリスト教そのものが資本主義によつて支持されそ らよいか、それには是非行ひたいことが三ケ條ある。
の手発となつてゐること、㈲かくて反キりニ︵一致同盟
の目的は資本主義的組織をなくする満に戦ふものであ 建てないこと.大串に於て宗教の研究批判の樺曾を輿
一五九
是は更に後に至って蓉展せしめられて支那の教育照
とであるとなしたのである。
ること、とかうなつてゐる。此虚に明にマルクス主義 へること、宗教上の説教は厳重に食堂内にのみ限るこ
的見触の這入つてゐることが看取されるセあらう。
反キリスト教運動に於けるかういふ融合主義的傾向
支部lニ於けろキサスト赦排斥注勅
支那に於けるキリスト教排斥運動
野の共通的な政東となるに至りミッションに致命的な
︼六〇
我等lェ如何なろ宗教簡碓lニ野しても利害臓係を有†るも
ほない。我々は園長は宗教について細野の自由を保蒋†べ
然L向時に反宗教連動に野しても是lこ好意を寄するもので
打撃を輿へたのであるが、その背後に国民焦があつたのでl‡克くl叉如何なる宗教をも支持†ろものでも互い。
ことは察せられlる通りである。さきにキ町スト敦の辟
護着であつた、陳度信が恕度を牽へてキサスト敦の攻きもりミ思惟する。信教の自由は法律の保詮する併でぁる。
撃者となるに至ったのは丁度此の頃である。その昔﹁嘗
キ局者は=の構利の無戒妨写されるが如き事態わあら﹂め
利和無成鹿暮するもの写して是に反撃し此庖に=の聾明な
リスト教と軟骨﹂の中で彼は、軟骨の説教とその賓際てほ光らない。菅人は現在の反キHノスート敢連動なかゝろ横
この外この運動に謝しては反封を表明する畢者もあ
の行動との間に劃然たる別がある。敦曾は一方では博管表するの
愛.懐塵といふことを説きながら、箕際に於ては科畢
と自由に反射し軍団主義に賛同する。教曾がその紳っ
畢たが、全図に報ったキサスト敦排斥の喧騒の渦巻の
校でどんく造る倦尊者は何ら生産的な仕事にたづさ中ではさういふ聾はあまりに微少であつた。最後に開
−
二二年の最初の期間が終ったものと
及び拳校内に於ける宗教宣停を禁止させることを以
はらず、資本家の手先になつて螢働者を鹿追する手封
樽の教育囲髄の大骨が、支那に於ける外人の草枕経費
をしてゐる有様だといふことを書いた。
かういふ反キサスト教運動に謝して一部の所謂自由
て、一九︼九
主義者と云はれる人々からの反射がないでもなかつ見
たら
。れやう。
これは単に信仰の自由を妨害するのみではない、政治
る。例へば一九二二年か1る人々によつて次の如き鮮
し︼九こ周年になると傍劇連動掌虫迩勤の優越耽りれ
も云ふべきもので.この間は運動は閉息してゎた。然
的自由をさへ危胎に隕さんとするものだといふのであ次に来る普及期一九二二1二四年は寧ろ沈款期と
明善が蓉表せられてゐる。
#の
≠で嶺山ⅧⅦスト血初の冊︼鵜が取上げ以.作巷hごと.把ご鱒つ
た。この時は非キリスト教的畢生によつて種々なる反
宗教的催しがなされたが.その中で有名なものは、モ
スコーより輸入した反キリスト数週間の催しである。
是は一九二四年の丁度十二月二十二日から二十七日に
汎って行はれた。勿論意地悪くクリスマスにぶつけよ
ぅといふのであるが、この間にはキリスト教の害毒を
宣侍する講演示威行列パンフレットの蓉行等が盛に行
はれた。是は最初はさほどまで賓践性をもつたもので
なく.又政治的意識もはつきりしたものでなかつた。
例へばその一般の平均された畢生に庚般に謹まれたと
思はれる。ハンフレツトの内容を訂鼓氏より引用して
見よう。
義翳
我等は生活の向上年期す、然るに宗教ほ労働者に激痛盲
苦難ご忍従ごな強いる。
我等l‡特lこキリスト教に反謝す、キリスト教の信條注進
他論ビ哲撃lニよつて代らるべきである。キリスト教ほ支部
を歴迫すろ帝国主義列強の宗教でぁる。キリスト教の馬l二
我等ほ軟骨に反射す。軟骨は官僚及び資本家亡弟琴し、
我等は賠償金を翼はされ、多くの国土を失つた。
圃主義的棟カに頼つて公人を脅迫、し、公事に容嗜L、裁判
民衆を金銀及び虚名を以て誘惑ぜんミサる。牧師ほそめ帝
我等はキサスト敢畢枚lこ反射すキリスト教畢校ほその畢
に反射†ろ。
生に思想ざ行動り自由な許さす、幼見に荒婚無稽なろ迷信
ね数ふ。彼等は国家主義に反封す。彼等は聖菅を使用J抑
歴的方法を用ひ免童の正常なろ菅達を阻害す。
繁を厭はす挙げたが、是で解る様に可成りその立場
我等に教育の進歩を欲す、然ろに宗教は葡慣を墨守ぜんが曖昧なものであり、その運動も表面的なものの捷で
一六一
出した。﹁帝駒主義の支那侵略の方法としては武力麿迫
一九二五年八月に至って、大健次の様な意味の写言を
ミ†。
あつた。併が翌年の所謂五、肝事件はこの遊動を猛烈
我等は人頬の親尊な堵進ぜんご欲す、然ろに宗教ほ分波
に煽ふることになつた。北京の反キリスト教大同盟は
立哉を強調す。
我等ほ個人り自費性を進展ぜLめんミサ、然ろに宗教は
我等は科挙の費展を欲す、然ろに宗教は迷信を好む。
支部に於けるキリス一散排斥連動
J嘲
ンの
ロジ
あ
義
ること、教育棟を支那人の手に回収することなどを明
く.
で
催に議決し、それを蒼空軍行した。鰻丼の妨害、掠奪、
る
殺人までが至る所で行はれた。この教は彿教徒等の他
を
意
固す
、
る様
な階
帝
支那に於けろキリスト教排斥連動
は
経済侵略の外に文化侵略といふものがある。彼等が前
二者の侵略では一時的で早晩支那民衆が覚醒して反抗
する恐れがある。それで無抵抗主義のキリスト教を宣
侍するのだ。﹂といふので、帝国主義の走狗としてキり
スト敦の打破を唱へ現在の敦曾畢校の畢生は線退聾す
ボ
ハな
ニ
力が〓で
宗教もキリス一致に劣らぬ被害を受けたのである。か
ういふ情勢になるを普然の結果として列国から北京政
府に向つて抗議が費せられることになる。それを受取
った段執政は非宗教連動制止令を出してゐる。
然し間もなくこの様な大衆の昂奮に封する反動がき
た。それは先づ穏健な支那の指導的な人々の聞から起
された。又一寸意外に思はれるかも知れぬことは常時
脚
コミンクーンを代表して廣東欧府の顧問をしてゐたボ
蛋希己・モれ杜息、医
ロジン自身もこの熱狂的な反キりスト教運動に好感を
匡狩
動
りスト教畢生とも共同行動を執るべきである。反キリ
運動は帝国主義反謝の基礎の上に立つべきであ少、キ
ぬ⋮⋮﹂とある。又青年同盟に於ても﹁反キリスト教
混同すべからざむものであることを知らなければなら
宗教は宗教である、両者は如何なる條件の下に於ても
だらう。一九二六年の決議によれぼ﹁薫は煮であり.
言葉を守つてその暴力的行動に賛同してゐなかつたの
射する態度は﹁宗教は私事である﹂といふレーニンの
事畢この昔時のコミンクーンの反キリスト教運動に
動として出奪したものが最後にはそのキサスト教徒を
になつたのである。この様にして最初反キヮスト敦運
ことにな少、遜に妥協といふ最後の段階に這入ること
動が民衆の中に旗るにつれて流血、殺人、掠奪を見る
以後はキヮスト教の文化的帝観主義の排斥とな少、連
の手先であるといふことになつた。そして一九二五年
二年よ少二四年に至る二年間はキサスト教は帝国主義
の非科拳的性質に謝する攻撃といふ形をとり、一九二
動を回顧して見るに、鼓動は宗教一般特にキリスト教
﹁﹂﹁イ¶︻まりⅧ眉Ⅷ欄川欄
きを見せるに至った。一九一九年を以て始ったこの避
惑切瑚欄堀溺一鰯憫仙川崩¶却瑠
スト教運動鱒宗教反勤の基経の上に立ち、自らをキ牒
これで敦骨は少くとも外面的には大衆と等しく愛飴
も含めて宏般な民族運動、愛国連動となつて終ってゐ
身として窺立せず、政治運動の線に拾ふて行はふとい
玉義者となつた。文教育事業等も支那人の手に管理棟
スト教青年よ少分離せしめるが如きことは許されぬ﹂
ふコミンクーンの方針が此虚に表れたのであらう。こ
が握られることになり、ミッションによつては仕事か
る。
れでキサスト敦はコンミュニストの正面の敵でないこ
ら手を引いたものも渾山ある。その結果敦脅そのもの
といふ決議が通過してゐる。則ち宗教反謝連動は夫自
とが明にされ、その結果としても五、朴事件後の表面
も、教曾の事業も著しく支那化されることになつた。
一大三
的な非弧織な暴動が鎮静するに役立った。
支那l二於けろキリスト教排斥運動
J欄
支部に於けろキu′スト欲排斥運動
一六四
このことは丁度我が国に於ける現在のキリスト教の は民族的とも云ふべき矛盾を主なる起因として、起さ
段階に支那のキリスト教が至りついたものだと云ひ得 れた。それ故.その民族的な矛盾が、キリスト教の支
よう。支那に於けるキリスト教が外国人のキリスト教 那化、教育植の回収といつた形で、一腰支那自身の手
でなく、支那人自身のキリスト教となつたわけである。で、といふより国民真の手によつて解決されることに
叉これは丁度政治的には支那の北伐完了に成功し、政 なれぼ、富然キサス・ト教排斥連動もその火の手を収め
作らないにせよ、今度は園内牌係のみに於ける純粋な
然し今後支那が民族的に統一した国家を作るにせよ
治的に支那が支那人自身の支那たらんとしてゐること るこにになる。叉賓際収った。
×
に相應せるものに外ならぬ。
×
かうなることによつて支那に於ける反キリスト教運 啓蒙運動として或は階級的な矛盾を起因としてもう一
う0
動は一段落を告げ、従って支那に於けるキリスト教自 度この種の運動が起ることが期待されねぼならぬだら
身もその姿を費へて国内に兎も角落ち着くことになつ
たのであるが、そこで問題になるのは支那に於ける反
キサスト敦運動乃至は反宗教運動はこれでその後の如
何なる政治的菱化にも拘らず勃管しないものである
か、如何かといふ問題である。
是に謝しては既に上乗の記述が答へてゐると思はれ
るが、要約して云へば、是は大隈次の如く答へられる
贋鋸
﹁現代沸教の研究L就を謹みて
偶数の融合性に関する一思考
−
ー
西
義
雄
丁静氏
羽瑛
ヽ.■/
亡俳教典起の政冶的曹長
ヽ■./
︶
埠谷 文雄民
生室 静成氏
過般の特輯戟はこれを﹁一現代彿敦の研究﹂と僻する
に原始沸教ミ種姓制度
︵
のであるが、其の出来上れる内容から判ずると必ずし
ヽJ
ゴ唯識思想の僚連ミ其の影響
↓大乗経典の研究ミ宗畢
︵
/ヽ
芋井
洪岳氏
伯讃氏
一大五
布施
︵
免市民
嘉林氏
四宮廷貴族王寺院
伍鎌倉時代までの件数鹿骨事情
︵我が国lこ於ける宗教ミ証曾事業ミの関係
特にこその歴史的考落の一駒︶
︶
映寺領赦園の擁張政策
上代寺院ミ国家構カざ竺鱒学−1細川
谷山
0000
も﹁現代彿敬﹂の研究戟といふ名に相應しくはない。
勿論、﹁現代彿教﹂といふ語義の解繹の仕方にも依るで
あらうが、大観上からすれば.寧ろ﹁現代の畢者の主
として彿敦に関する諸論文集﹂とでも稀すべきもので
−
第〓、沸教数理並びに史料の研究に関する
むると思ふ。従って其の内容はー甚だ多様である。予
は便宜上、本能併収の全文を短く大雄巴に以下の五種
もの
正治氏
第二、沸教教理並びに史料の研究l二節すろもり
︶
一価敢lこ於けろ分別及び分別説ビ非詮法 宮本 正尊氏
類に分って見た。
妨崎
第−、まとして係数の′鹿骨性に関心焦鮎を
置きてものせる論文
俳教の縫合性に閲すろ一息考
ヽtノ ︼彿敢り鹿骨軌ミ赦合奏
、l
J側
彿敢の政令性に閲する一息考
牒雄氏
慶壱氏
長井眞琴氏
矢吹
渡通
− 法撃経の原形を論じて宗教ミ¢交渉に及ぷーー
︶
仁沫華絆にこ於けろ鴬木琴薬事妙音救世音
譜菩薩の戎ろ歴史的考察
︶
三支那悌敢虹ミ現存侭経
︵
︵勝地土現存佑経を中心写して︶
第三、梓に関する論文
H俳秋成律の問題
友松
俊乗氏
固辞氏
第四、或る個人又ほ畢涯の係数畢又は係数
軌を述べたるもの
ヽノ
↑現代フランス併軟畢の一形勢
− ヂヤン・ビルチルスキ教授の彿政轟 −
︶
に藤樹畢振の彿敢叔
高椿
第五、彿数に関係なく印度外畢にのみ関す
る&Uの
np︶
快龍氏
〓ハ六
ー、特に仲秋の社食案に就きて
以上の藩論文の中、予の最も多く共鳴を感じたのは、
妨崎教授の﹁彿敦の赦曾概と融曾菓﹂である。教授は、
此の世の生存生活の一切の放果を衆生の業因業果なり
と詭く敦詮を以て、彿敦の理想翫としてよりも寧ろ現
質設明としての敢曾親と見るべきことを畢示し、更に
之に基く考へとしての大法界観.の質現を以て、彿敦の
敢曾理想と認め、此の理想を葦現する究めには、先づ
︶
↑発生産業皆正法に順はしめること.即ち物資に謝す
′.■lヽ
る正しき債値評偵を鰯さしむること、︺正しき政治の
ヽノ
指導亡文教の自主尊厳の貫徹の三大綱要盲目棲として
掲ぐべきことを説きて、沸教徒の今後進むべき大道を
示して屠らる㌔目下、反宗連動が一部の思想家の間
に熱烈な叫びを奉げてゐるに勤して.辛じて反動的曾
合や聾明のみを属すに止h∴何等確固たる信念の有る
山本
以上藩論文中、特に沸教の敢曾性に閲する一二の論
ととを里示するでもなく、硫糎他に方針も立てす、況
︶
隻ハ況菅聾1ニ於ける紳の閉経
文に就き、読後の偶感を率直に運べて、木枕の紹介に
匡監紬
l幹
教権芯此の注意は.正に適時の大文字たることを倍じ
合改革策も建立し得ない有様には、頗る遺憾であるが
も、何等らしい敢曾戟も、世を首肯せしむるが如き融
現在の彿教徒が、偶令、何々等といふ聯盟を作って
︵甥㌢息言且・の眞義は、勿論、第一義的に云ふならば、
的な意義を見し得るのではないかと思ふ。此の経典
的な教義より見ても、可なりに敢曾理想に閲する近代
決して正しい解繹ではないが、而し、これを部派彿数
ても、況して大乗彿教の不住捏奥の理想から見ても、
ることば−魂ぐ劫感
予も亦、同感せざるを得ぬのである。而し傍敦其れ自
只是れ唯彿輿彿の超絶的境界であつて、唯、腔駿に依
て疑はぬのである。
身の敢合理想又は融合菓等に就きては多少の感想無き
りてのみ貴家せらるべきものであるけれども.併し是
はないと思ふが、捏柴を理想とすることから現資敢曾
の通り捏薬は何等現資赦曾の詮明を壊す性質のもので
はない﹂と言つて居られる鮎に関して、其の中∵御詭
合改革案をそれから引き出すといふ様な性質のもので
であつて、現寛政曾をそれで説明するとか、又は、融
衣静は、虚無ではないにしても.極めて超絶的の理想
即ち先づ第一に、教授が﹁彿教の究蓋世想たる捏弊
ち見行は知的瑚諭的の闘評の因であり、愛行は主とし
又は盲目的偏執・謬執・邪執︵愛行︶との二行とする。即
識に立たざる種々の偏見・謬見・邪見︵見行︶と、利己的
一切衆生の闘辞の根本因を、一般に彿教では正しき鑑
は、一切の聞静をその根本原因より波除するに依る。
授の虚々で詮かれてゐる屏である。究尭安穏なる所以
究尭の安穏︵A富ntp・y£詩灯訂mp︶であること、己に教
れを思琴言語にて表せぼ、其の内容は平和寂静であり、
︳ヽ
を得ないので、呈示して御叱正を仰ぐ次第である
の改革某を引出し得るや否やに就きては、次の様な考
て情意的賀行的闘辞の因である。この故に、見と愛と
〓ハ七
は必ずしも自己一身、即ち内的意識的にのみ作用する
へが可能ではないかと思ふ。
抑ュ堤渠を次身滅智なりとか虚無の如きものとか見
彿軟の統合性lこ関する一息考
怖教の社命性に閲すろ一息考
ばかりでなく、其れが、語言となり動作となる時に、
一六八
ヽ′ ○〟
次に長倉の小線経などを見ると、四姓制度の本線を
外的赦曾的に作用するものであるが故に、見愛二行の 詮くとて、印度に於ける観家祀曾成立の原因.私有財
してゐるが、か1る親祭は、これを今日から考へれば
闘謬の因の除滅は、とりも直さす、内外一切の固辞の 産制の成立経過、四姓差別成立の史的観察等を明かに
園を.不安の根元を除滅すること1なる。一方.一切
のもの骨相依相成なりと詮く縁起戦からも、吾人は敢 勿論幼稚な解繹もあるけれども、それにしても決して
骨牌成の一点即ち敢曾人として、自己の欲する究寛平 非料率的とのみは断ぜられない郭がある。反って所謂
穣は、畢尭するに一切敢曾の究寛平穣、永久平和の碇 る唯物史観などに封比する一種倫理畢的歴史観として
立に基かざるを得ぬし、自他意識の封立を除滅する無 の意義を有するとさえ考へられる。特忙かの閤姓差別
我行の鰹現は、利他郎自利、香、自と他との差別を超 の如きは、吠陀や波羅門教徒の主張するが如く、何等
後、菩提樹下より立ちて.一切衆生政密の行路に出費
きものとも見てないで、妨崎教授の説かるる所謂共同
と一生族と分つべきが如き本質的低値の差別を附すべ
越せる行解として現はるべきものである。彿階が成道 先天的の人種的差別に基︿ものでもなければ、再生族
l せる法爾としての︵梵天勧請詮の表面的響喩的意義は
の業因業異に蹄因するものと大鰹に於て見てゐる棲で
︶
ともかくとして︶慈悲の蕾絡も、後世、大乗菩薩の一
切衆生の政務、本願思想の論理的礎展の必然性も、共 ある。業因業果は、結果としては︵例せば、生れる降
に弦に有るのではないであらうか。若し斯く考へるこ その融合に種々の別があり、顔等にも美醜の別がある
とが許されるならば、捏磐を理想とすることから、少 等のこと︶免れ難い一種宿命的のものがあるが、それ
くとも根本原理として政曾改革案を引き出すことは、 も決して単なる宿命ではなくして、先他に於ける自他
必ずーしも不可経ではないのでないかと考へるのであるの
。業巣である。況して﹂H臣れた以配給め経柊・勤 睡
濃蘭認諾芸埜鱒鱒よかて邁持すぺき蛮力によりて.結果
いつても..覇彿嘗。嘗竹m盛噂箋
甜
う。同じ種類の経でも.檜一合第四十四巻︵大正、
■一l
は如何様にも導き出し得るといふのが俳数的薬園業奥 と解する樽愉聖王出現時の政曾に就きての記述であら
の法則である。︵但しこの業因業果論が、果して俳陀の
根本思想から出費した敦へであるか否か、従ってこれ 二、責七八七、下︶第三経に明かに記載する理想闘士
を彿説となすべきか香かといふ鮎には多く議論の飴地 出現の様などは、畷令、響喩的表現が多いとしても、
があるが、併し、予は、一つはそれが、彿陀の根本立 鈴、現代人に射する多くの指示をなすものがあると思
脚地としてはともかく、方便門としては、彿陀がこれ ふ。予は今こ1に其の要鮎を十ケ練に分って列記して
障凝無きに至ること、q人嬢の病気の患ひなきに至
を用ひられなかつたとは断言出来ないと思ふのと、他 見やう、H、全世界は地理的に統言れ、何等交通の
は賓際.部派彿教でも大乗彿教でも、これを繹尊の詮
法として取扱ってもゐるから、今は以下、俳陀の根太 ること、甲人心竺に蹄し、共に柏歓び、㈲言語は
級的差別なきに至り、㈲、下水工事等の文化的施設完
敷設といふ厳密の立場からでなく廣義の併読又は俳敦 統言れ、㈲、最膠楽土として人間に人種的、又は階
として認めて行き度いと思ふ。︶ともかく、この小線経
ヽl′00
︵
等は瓦石に等しいと云ふに至針、九、法王他に出で刀
りて相共に俗書し相苦悩せしも、今人にとりてはこれ
の所詮の如きは.聴かに教授の所謂る果としての彿教
備し、吋食に患ひ無く、ヤ所謂る金銀等其の侶値
︵
の現貫的政骨相を語るものとして可なり暗示に富み興 を失ひて、時の人が、昔時の人々は、此の金銀等に由
味あるものと思ふ。
更に服を樽輸王修行経等に韓すると、滋にも、業因
′t
︶
業果鎗に立脚して、理想的世界的鹿骨出現の可能性を 杖を用ひす正法を以て世を治化し、十
、時に郊勒俳出
一六九
詮示してゐる。殊にその中、最も注意すべきは、なんと現し微妙の詮教法化するに、諸人民皆尊敬し.随喜す
彿致¢証合性に節する一思考
件数の社食性に閲すろ一息考
るに至るといふ。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽノ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
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︳
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一七〇
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
t
︳
︳
ヽ
ヽ
り.専門の聾者に托して置けば宜からう。勿論.相互
Qとしては﹂触肌已に何重艶町賢に終瞥れた十監什
ても、菓そのものとしては、又少くとも某たるべきも
︳
ヽ
ヽ
︳
いふのでは決してない。第三の人心の節一と和奨、第
ヽ
ヽ
て治化する政治の嘗現、第十の覇勒の彿観土の建設の
ヽ
銀等の財襲に閲する正しき償値評偵、第九の正法を以
ヽ
ヽ︳ヽlヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
斯の如き意唖を説く阿合の経文は、決して単なる史
五の人煩間の人種的又は階級的差別の撤慶、第八の金
料又は物語りとして吾人に停へらるlものではなく、
経其のもの1性質からしても、少くとも俳教徒にとり
てはー其の理解と寒行とを迫るものと考ふぺきであ如
りき、
は、直ちに取りて以て現在の彿教徒全般の融合理
且つかく考へても不可なからうとは思ふが、斯く考想
ふの標峨とすべき併ではなからうか。是の如き理想は、
これを彿数々畢の上からも正しく直ちに基礎付けられ
ば単に俳囲土の建設でもよい。此の中、第七と第八と
忙腑僻すべせ≠ルQやあるから.全然無賄心なるべしと
むること、第四の言語の世界的統一等は夫々の機園敢
な曾改良案は.傾令、それが囁停せられなかつたとし
化的施設、第七の食糧問題、第二の人類を無病ならし以上の如く、考へることが許されるならば、﹁彿敦の
例せぽ第一の全世界の交通の便、第六の下水工事の文
ある。
のみを持出し、数節すべきであることは言ふ迄もな強
いち。
に牽強附曾の解輝ではあるまいと予は信ずるので
宗教家が普素敵曾の指導原理として世に示し得るも三
の大綱目中の夫々第二、第三に相昔せしめ得ることは
でなくとも、不可館のこともあらうから、此の中かは
ら教授の三大網日中の第一と相通じ、第九と第十とは
の健.現在敢曾の改革案として掲げることは、不必要
少くとも二千教育年前の赦曾坪想を現在の彿教徒がべ
其き筈はない。尤も第十の礪勒俳の名が差支へるなら
寧ろ首都の義務であらう。勿論かく言つたからとてる
、と思ふし.叉、各宗派何れに於ても別に異論の揖づ
る限少.これを敢曾菓として理解し.賢行することは.
ヽ
︳
ヽ
のであると云ひ得るのではなからうかと思ふ。
氏はこれ忙放て、雌戦勧常時の融葡胞粥嘩痛感相
川
現代の彿教徒一般が、徒らに片々たる小宗派我に囚 地層から生じた一文化現象と見る見地に立ちて、彿陀
れず、醜状極まる内証などに牽き法財と生命とを糞さ 時代の赦曾制度即ち種姓制度が、文化現象としての原
す、古聖の示した意気と精紳とを取り、鮮明にして永 始彿敦中に如何に反晒してゐるか、如何に考へられて
ことを鹿々でも聾表されてゐるので、些か予の靡見を
た。更に、氏は、本論文に於て論ぜられたと同主意の
に謝しては、直ちに讃意を表し得ざるものあるを感じ
意義を程却するものではないが、その遷せられた結論
予は氏の斬る親祭の仕方に就きては、必ずしも其の
る楼である。
遠性ある標峨を高く揚げ、一致協力して、政曾的に進 ゐたかを檜討せんとする併に.主目的を置いて居られ
出することは.教授の注意されしが如く、俳敦夫れ自
身の存在償値を問ふ褒めにも、今日、絶封に必要であ
らうと信ずるものである。
二、傭陀の融合制度に封する
態度に就きて
述べて御批判を仰ぎたいと思ふ。
′一一tヽ
君藻教授の﹁俳教興起の政治的背景は、宗研の五ノ氏が澤せられた結論中、予の屏見と全く異なる粘を、
要約して掲ぐれぼ、一価陀は政令組戚としての種姓制
二、同六ノーの両壁に発表され空一論文と併せ諌み︶
て、
印度彿教史を専攻するものにとりては必読すべきも度
のに謝して全然浸交渉の立場を持し﹂、﹁彿陀の熱情は、
として拝見したが、環いて同じ原始彿敦の題材とり全
つく、超俗の他界にのみ限られて屠り、世俗の不合理
︶
つ、可なり異つた観察の下に、彿教の赦食性を論断に
し謝する裔識も、また情熱も、彿陀の知らぎる肝であ
一七一
てゐるものに檜谷氏の﹁原始俳教と種姓制度﹂がある
。と見るべし﹂といふこと\ヒ﹁俳教は依然とし
った
俳致の祉合性に関する一思考
沸教の武舎性lこ閲すろ一息考
一七二
て貴族的宗教の範囲内に止ってをり、依然として
烈これを唯一の論接の如く其の倦、取り扱はれて
者強
が、
なる主賓的傾向を有する﹂との二粘に節する。 ゐることは、少くとも、現今の日本の草食として多少
さて如上の個々の問題に就きて予の意見を運ぶ
構る
成に
に拘りはしないかと思ふ。第二に、氏の取られた
先き立ちて、先づ、二事を注意したいと思ふ。其
方の
法第
論に就いてゞある。此は、或は鶴弥の相違に過ぎ
一は、氏が使用された材料に就いてゞある。氏は
重一
要蹴されるかも知れぬが、氏が観察の根底には、
ぬと
な結論を尊かれるときには概ね、その冷媒を、オ
デ或は物、環境︶が人心︵特に大衆︶を支配し、制
制ル
度︵
して何等の批判もなく、殆んど其の億使用し︵勿論、
打破り再建立して行くものであり、人心にょりて、あ
かれ過ぎてゐて、反封に、人心は制度音作少、制度を
ンペルヒの﹁彿陀﹂に求められてゐる。而も其度
れに
によ
射りて文化現象が決定されるといふ鮎に重きがお
其の論述の感度には多少の異りがあるが、而し︶又、
其の結果としての主張が、オルヂンベルヒの主張
る以
程上
度の文化現象が決定されて行くこともあるとの立
に殆んど出てないと思はるることである。オルヂ
ベり軽成されてゐる鮎はないかといふことである。
場ン
を飴
ルヒは斯界に於て己に認められた偉大な聾者であ
、唯物論的併託法の立場からいへば、後者の親方
勿り
論、
其の著﹁彿陀﹂に就ても己に定評ある併であるが
は、
問而
題し
にはならぬであらうが、併し、少くも凡て殿審
同時に、其の研究が己に古く、且つ其の使用せし
に史
批料
判すべき拳者的憩度としては、何れの一方に偏す
は、吾人から見て充全なりと鱒言ひ経ねし、其の
る考
態へ
度を取るのも安富を快くのではなからうか。以上
方に於ても、必ずしも安富であるとのみなし得な
はい
氏紡
の併給に就きての線鰹的所感を運べたのであるが、
があると思ふ。オルデンベルヒの所論を検討する
ここ
れと
以下氏の遷せられた結論につきて特に予の考へを
は、目下の主目的ではないが、氏の如き少壮有馬
述の
べ畢
たいと患つた肝以である。
J7β
に主張せし併であるが、而も氏の解将に依れば.踵に
となしてゐる鮎は氏も認め、箕にオルヂンベルヒも己
つであり、彿陀は四姓制度の徹慶をカ温く叩けばれた
一般には、彿敦の興起は階級制度に反射する運動の一
に勤して全然捜交渉であつた﹂といはれてゐる。而も
て阿蘇がこれを諦したことに椿詭ではなつてゐるが、
は、推察するに必ずしも困難ではない。勿論、主とし
ことが勢ひ手薄ならざるを得なかつたに相違ないこと
って比丘に非ざる俗人が聞いたであらう詮法を集める
の聞きし併を中心として経を集めたであらうこと、従
することはなかつたのである。結集する比丘遷が自己
経の結集に加はれなかつた。況して俗人はこれに朗輿
に預少、同じ比丘︵佗︶でも、最高果を得ざ瑞軒嘲雌、
生れによりて購入たるに非す、生れによりて汲羅
其の通りを信用するとしても、これを承許するは白四
先づ筍一に氏は.﹁悌陀は融骨組紹としての種姓制度
門たるに非す.業によりて購入となり業によりて
が非常に多い。而しこ1に青々は考へねばならぬこと
る。成る程阿含を讃むと、比丘尼衆にのみ関する敦へ
ではないとの主張を、一経文を許としてなして居られ
囲に限定されるから、決してそは世俗一般に通するの
のにのみ適用されるもので、彿法の大海とは.この範
て寺院に入り、僧衣を著し、比丘・比丘尼になつたも
といふが如きは、畢毒する忙彿数々園即ち世俗を捨て
れたが、曙謡者が庵ゆるならば、それ等の経は侍らぬ
集されたものでも、不断に晴諭されたものは後に残さ
経の停持の唯一の方法は暗譜であつた。従って同じ結
る迄には、相皆の年時を見なければならぬが、この間
察しなければならぬであらう。彿敦の経文が文書にな
なし得まいと思ふ。叉、更に、経の停挿に就きても考
た閲係上、借に閲する敬へが中心になつたことを否定
鵜磨式に、結集伶一切の讃成を得なければならなかつ
れr
汝羅門となる
がある。倦詮に依りても、経︵律︶の結集︵一般に第一、
のである。経の倖持に最も都合よきものは、敦囲の比
︼七三
第二結集といはれるもの︶は羅漢果を得た人のみ之れ
彿歌の鹿骨性に閲する一息考
J7g
併敦¢赦食性に閲すろ一息考
︼七四
丘蓮であつた。従って比丘邁の修養に必要なものがに
多向つて詮かれたものが多く現存してゐると考へられ
く暗諭され停持される好條件にあつたことはこれ亦る
、ことである。即ち現存の経に比丘を中心とするもの
必然であらう。復囲阿合の一切を一切の敦囲が諭しが
て多いからとて、直ちに、優婆塞優婆夷即ち俗人を中
ヽ
5ノ
ゐたのではない。律にも、有部律、摩討伶藤律等と心
名として詮かれたも
づけられるものがある様に、経にも停持する伶囲にい
よ?現に偉持には甚だ不適富な鮭件の下に有ったに拘
りて多少の異りがある。長阿が法戒部若しくは之れら
にず、在俗の封機をとし、その褒めに詮かれたと見る
近い部次の所偉と考へられ、中・雑二阿は有部若しべ
くき形式の経典も少なからず現存してゐるからである。
は出家であるけれども、後のt一着は在俗の信者である。
四衆とは比丘・比丘尼・優姿塞・優婆夷であるが、前二者
は有部に近き部浪の屏停であり、檜一阿が大衆部架の又、更に荘意すべきは、彿陀に国衆有力とせらる1。
屏倦と見らる1所以︵字井博士、印曹研究第二巻、貞
一三園︶及び停持者の傾向主張により元来由一の経の
内容にすら多少の愛化を免れなかつたことなどは線而
じも在俗の信者と錐も、在俗の健、殆んど汐門と同じ
て経の停持者に都合よきものが多く停持されたるこく
と沙門果を得るとは、出家中心主義となつたと考へら
を記することにもならう。多くの経が、謡者の滅亡れ
とる部渡俳歓呼代に於てすら己に認められてゐた程で
共に失はれたことは﹂己に紀元一、二世紀に敦園にあ
於少、其中には、在俗の信者にして、最上果を得るこ
主張する畢渡︵北造次qttarPp賢P訂の如き︶もあるさえ
て承認されてゐた。即ちこれで以て青々の知るべきと
こ、教囲に入り専門に修行する比丘︵尼︶と登り無しと
とは.経が.萬l、彿陀の敦へ其の健を停へてゐると
衆のみに限られぎる七†は一之れ丈k.て掲陛ル静思で㌧銅
考へるとしても、其は現在比丘偲たるものに詭かれ程
たである。彿敦でいふ彿法の大海とは、出家の比丘︵尼︶
もの及び.世俗を捨て1、後に比丘︵尼︶と成ったもの
はないか○
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
︳
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
次に、彿陀は終日侭圏にのみ止ってゐたのではない、
ヽ
毎日、食を施す者の有る無しに係らす、托鉢に出た。
︳
の差別は汝座門演が改定したものな沓塾と巻雲
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
しない︶、その波羅門の設定した差別観を便宜上、氏の
瑠
引用された範囲に於て考へても.最も蕨烈にし、最も
悲惨なる宗教的差別は、如上の考察によりて微塵され
た。即ち、何人も法︵吠陀を拳ぶのみでない、より勝
而も四十五年聞一虚不住であつた。托鉢の目的は云ふ
ヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ
迄もなく、﹁法を施す﹂馬めであり、﹁農夫の如く.人心
れた彿法︶を聴くことが山系、聞くのみならす自ら出
ヽ︳ヽヽヽ
を耕す﹂が褒めであ少.線に障って應機の説法を点す
ヽヽヽ
ヽノ
6
家し波羅門以上の汐門とな少、俳となることが可能と
てゐる。此等の教へによりて、特に宗教的忙恵まれな
るので、決して決定的のものではないことが王張され
なつた。職業的又は民族的の区別も、前掲の経典など
が食めであつた。此の間に、彿陀の接したであらう靡
随ってあらゆる階級の是等の人々に、彿は、﹁一切の
かつた下一族は無上の喜びと経信を得たに相違ないし、
化の有情は、一切の階級を表したに相連ないことも推
人間は彿と成る﹂ことが出来るとも祝いたに蓮ひない
にも示されてゐる通少、凡ては人間各自の業に蹄因す
し、種姓の別は.何等先天的必須的のものでなく、職
上三族殊に彿陀に紆依する国王、大臣を始め波羅門種
察に難くはない。
業の別にょ少、習俗に依るのであることを説いたと断
のものも、下一族が自己と同じ彿と成り得ることを静
ヽ
7ノ
定なし得ないこともない。
り信じ、叉、凡ては、自共某所感と知りて自ら憬しみ、
う。四姓の差別は、宗教的・職業的・民族的の諸方面か
をも、原則としては考へざるを得なかつたのではなか
更に、他の一切も自己と同等の人として尊ぶべきこと
一方此の事を種姓の差別の方面から考察して見や
ら見ることが出来るのであらう。而してこれを最も著
︼七五
らうか。
沸教の社食牲に閲すろ︼患者
しい上三族と下一族との差別として考へて見るに、︵こ
ヽ
後者
闘
選
を
な
が、封立の存在する併に於ても、其の封立意識的反抗
をたき付けず、人の内側より自然に其の階級差別の勅
ヽヽヽヽヽ 念を除き、終に制度に迄及ぼさんとする融和的方法も
亦、敢曾の不合理を除滅し撤回する有力なる方法でな
ら
び
こと
たる
ー七六 鱒常然ではな
が
に
き
い
か
俳
J
彿致の社食性に閲すろ一息考
融合又は世俗の不合理を撤回する方法として、近時
の融合主義系の人々がやる様に、制度若しくは組織の
、
へ
由
る
階級的封☆豊息識を形式的と思はる1程強く高調し、其
の上、非常手段に訴へてゞも一方の階級の確滅を期せ
んとするが如きも、或は敢曾改良の一方法かも知れぬ
俳陀
是く
ければならぬ。富者を逆殺し、其の富を奪略し.又は
強制的に取り上げて、分配するのも富を平等にする一
方法かも知れぬが、富者も果報は自作自受と白魔して、
自らも働き、自蓉的に、他の大衆と利金を平等に享
受する様にし、貧しき者も白魔して、富を平等に享受
なし得る様に努力するならば、富の平等なる分配が期
せずして行はれ得るであらう。入寮に取少て最も残逆
であり最も悲惨を極めるものは聞静に起因する戦渦で
ある。一切衆生の究寛の平穏を熱空した大人脾者たり
断
し
が思想的自由の国土であると耕せらる1所以である。
た﹂と断言してゎられる。而も考の薦の覇識
又、キリストがユダ民族に生れユダヤ教に逆きて自己 つはやはりオルヂンペルヒの﹁彿陀﹂に求めて、彼れ
の民族からも他国民からも腰通されたが如きことは彿 が、﹁彿陀は其の時、﹃良家の青年を豪卿より誘って一
ヽヽヽヽ
陀にはなかつた。即ち彿陀に、腰制するものに勤して 所不住の生活に入らしむる﹄清浄勤行の無上果と言つ
自ら反抗する如き情熱の表れてゐないのは、寧ろ富然 て居少、此の良家の青年は内已還邑P で貴族の子等を
屏種姓の人々を招き入るるを是れこととしてゐると推
である。だからと云って、彿陀の情熱は、全く超俗の 意味する﹂と言つてゐるのを引用し、原始彿教囲が上
世界にのみ限られ、世俗の不合理に射する認識も.こ
$
断されてゐる。が而しオルヂンペルヒすらも、﹁貴族の
︶
れを改めんとする情熱も、俳陀の関知せぎる併であつ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ一
たと云ふが如き結論は、決して安富のものと考へるこ 方へ味方する傾向は、過去の遣物として原始沸教の中
とは出来ぬのではないか。又、種々の世俗の制度を直 にも残ったらしく思はれる﹂といつて.決して断言的
も、予は必ずしも貴族の子弟を意味すると解さねぼな
ちに改めんとする外形的政策的の言辞が見出されない、判断を下してゐるのではない。又、内已pput打といふの
否.現存の文献にないからとて、直ちに斯く内側より
の融和的方法を以て世俗の不合理を微塵せんとしたと らぬとは思はぬ。が一歩誘ってそれが貴族の子弟を意
完全に運用する様な組織に扱けてゐる唯一の理由とは
いふ熱情の有無迄決定する許嫁とすることも、論理的 味するとしても、それが褒め敦陶が萬入牢等の理想を
に不可能であらう。
次に檜谷氏は、﹁彿陀在世昔時の教囲並びに其の後のならぬと思ふ。況して彼の常時の政令的状勢の上から
ー七七
原始彿数々圏は、必ずしもこの常人平等の理想を完全 考へて貴族の子弟の、殊に王族の子弟の多きは、屡モ
俳歌の祉食性lこ閲すろ一息考
った史葺を題材としたと思はる1大叙事詩などの記述
見ても推察されやうし、彿陀出世の前後又は以前に起
戦寧の因となることは.本教師仮の勿漢教授の論文を
き性質のものではなかつた。即ち現代の敢曾現象をそ
係は.決して企業が旗張されて、奴隷が檜大するが如
が見らる1であらう。又、この再生族と一生族との園
族の人口に比例をとることに依って始めて科畢的決宏
一七八
の状勢からも推断し得られる屏であると思ふ。か1る
のま丁∴二千弟百年前に普放るのは正しき方法でない。
俳敢の赦有性に嗣すろ一思考
意味に於て.戦鵡の最も多き原因をなすこれ等有閑有
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ一
を箕際に奉げ得ることを、蕗肉温存の戦国時代の如き
汲羅門族の多いのは、茨羅門族に、か1る方面に志す
前引︵証記︶の赤沼氏の表を参照せられたい。この中.
︵此の彿弟子と停へらる1四衆の、四生の別に閲しては、
普時の印度に、少くとも豪族の責任的世襲者として即
ものが、而して習慣上志ざさざるを得なかつたものが
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ+l■+ カ者の子弟を出家さす事が、融合的に見て多くの利金
ち悉運太子として、相富に長き経験を有する彿陀が、
多かつたことにも依ることを忘れてはならぬ。
次に氏は、此の萬入牢等の理想が、彿数々囲に於て
知悉して、斯く主張したのだと考へることは、強ちに
不嘗な解鐸ではあるまいと思ふ。若し此の考へが許さ
として、﹁法は智者のものにして愚者のものに非ず﹂と
完全に行はれる榛な組織を有せなかつた根本的な理由
ヽヽヽtヽヽヽヽヽヽtヽヽヽ
に良家の子弟を出家さすことを彿陀が薦められたのだ
いふ、これもオルヂンベルヒの使用した文句を引用し
ヽヽヽヽヽ−ヽヽヽヽヽヽヽ− れるならば、貴族の馬めにではなしに世俗敢曾の食め
との鮮鰐も成立し得るではないか。︵弦に無上果といふ
て、奉げて居られる。而も.この文句を更に援用して、
て氏族的宗教の範疇内に止ってゐる﹂理由ともし.又−
原始彿教が多分に資族的気分恕有し、即ち﹁依然とし
一語にのみ囚はれ必要はあるまいと思ふ。︶
それはともかくとtて現在の文献からも貴族ならざ
る廟八め子も肪陀経も少なからす入閣し.辟洪果を得
と
憾皿
朋
「
軟
法
が
智
者の
」
葡
次に沸教が主智的傾向を有するものなる鮎は、一般
に否定されはしない。香、彿教が智的であり科拳的孝
へ方を有するものなることを論証することも必ずしも
困難ではないと考へられ、情意のみを依撼とせんとす
る傾向を有する宗教に勤して、こは彿敦の大なる特長
であるとさへ解されてゐる。然しそれだからと云って
不合理に満ちる人生の上に、吾等人数の父としての天
ての吾人に、疑惑、反省等の知的作用の停止を命じJ
的作用を先天的に具有し、考へざるを得ざる生物とし
もの﹂であるとの結論を導くことは早計であらう。知
﹁彿敦は充分なる拳識を有するに非ざれば、理解し難き
J欄
に在す合理的なる又は、慈悲に富める静の存在を認め、
信じなけれぼならぬことは、彼六師外道的思想の流行
した昔時の印度人にとりても現代人に於けると同様容
易であるとのみ限らない。又、これを内在の紳として
︼七九
ければ得心することが中々困難な場合がある。か1る
見るとしても、可なりの紳畢的又は哲拳的訟明を経な
′
剛欄慨瀾瀾闇儲欄
的
に
もの
に
て
愚
萄
者
の
の
に
非
す
も
彿歌の杜仲性に鯛する一思考
粘から見ると俳教は、四諦八正道の教へでも、十二因
縁でも.凡て現賢の日常の経験に出管する上、病苦と、
病因と、野者と葉と養生と快癒との事賓を知りて、そ
れを生活苦、精紳苦の方面に迄、推し進めて考へれば
よいのであるから、反って理解し易いといふことlな
らう。成程目下の併、沸教教理を語る経典は何れも難
しい。併し言語が難しいからとて教理そのもの迄も理
解し難いとはいへぬ。彿敦は非常に高速な哲理も包含
する。理解するに優秀な畢識を必要とする部分もある。
が、如上の如き極めて平易な数理でもある。彿防が成
遣後蕉くべき短日月に非常に多くの信者なり弟子を獲
得したとの史賓は決して偶然ではないと思ふ。
文法は智者のもので、愚者のものでないといふ場合
の、智の意味も吟味しなけれぽならぬ。彿教で智︵㌢
琵Tpr昔釦︶の語は、必ずしも高速な畢的知識、組織的
知的鰹系のみを意味しはしない。寧ろ悶単にいへば.
輩者無瑳窟利肴鈍者一切に怠れてゐ亮直戟智叡智とい
掛野抑陛欝膵妙闊好漁藩腔紅掛取取酢鮮紅経野粧齢艶
0
舶用頚髄
解れを見た丈でも、編輯者の苦心の程が察せられるし、
要之、本﹁現代彿教の研究﹂兢は、其の執筆者の顔
除滅するには必ずしも高速なる畢識を有する必要はな れてこれを省略する。
萄んポ煽め.把魂加れ泡ので考惑瓜瀾曙苛葡
いのである。
以上予は氏の論述に勤して主とtて反射意見を舅し
て来たが、併し、予は最初にも述べた通り、氏の研究 現代彿敦研究の多角面を指示するものとして、又、夫
方針其のものに必ずしも不讃意表するものでない。唯、々の尖端を示すものとして、甚だ有盆な論文集であ少、
れ
飴りに今日の敢倉又は融合又は階級制度といふが如き 兎も角畢界の一大収獲であるとすることは、異論のな
︹註︺
平面的表現法を現存史料に求めるに急にして、俳陀と い肝と信するのである。
いふ大人絡の立膣としての全思想・全活動迄も一律に
ヽ
■ヽ
▲.一■L一ノーllリヽ一ヽ
ヽ
■’ヽ”ヽ
一﹁︼i︼で◆一二.−
論﹂、三五七頁以下、及び﹁眞空よ
1t−ヽl一hhr.ナL,−−け’︼ヽしどけ
同上申舎弟五十五の井
準
■
基
之れを片肘けとせられる鮎に物足らなさを表明したに
起
優下 婆○
放水村数授は巳lニ、此の=寸Jに就きて、預述ぜらて
ヽ以
ヽ′
○ぜ有
過ぎない。氏の力と撃とを以て、更に氏自身に依りて
仰
経例妙
■
、
授
■.1...■l’l一ヽ
ヽ
LLK
、、
、原始俳教思想論、三〇入京参照。・
;出uddFa一こP−↓P
一入一
埠一合、第十一、大正二、頁六〇﹁上、参照。
毘寮歌難事第九、婆沙発育〇五巻。
木
就■
几一ト
本俳秋草協骨年報
首、第一年、赤沼智尊氏の﹁俳陀¢
葬 り
得られた論評の上に本稿上の欠感を先番して他日、予
を啓蒙せられんことを御麒する次第である。
三
終りに望み二言附加したいのは、此の外に、太助に
は非常に優れた論文が積載されてゐるし、復その中に
は、予の意見を豊永して、種々部数示を仰ぎ度いもの
俳教の社食性lこ関する一息考
(11)(10)(9)(8)(7)(6)(5)
ゐる
l▼▼t■
想
はl
一八二
舘
文
氏
同
介
畢
新 刊 紹
鮎lこ於てこの上ないものミ考へる。=ミに人ほ本書の第二宗
教改革に於て彼の面目に壊するでぁろ、つ。デイルタイの歴史
童 心
サ
宗教現
紹
心理の
新 刊
多野
=げ︺い。︵石津︶
討
家写しての資質的研究が国許によつて紹介される=寸Jliよろ
治普
亡
江澤銀爾謬
理
象
の
デイルタイ・文轟復興と宗教改革
ろ
廣
春陽堂密行
は
東京
デイルタイの歴史叙述の方法についてはそ¢立場のいはゞ
宙ぶらりんを雛Cろ人もないでけ㌫仏い、併、し人は彼の歴史的
研究に接Lてその叔蓮亨れろ人が、時代が、よそーび或は満足
ぅ。告ごへげ丁度ドストエフスキーの小説に攣して作者ミ作
するでぁろうミ思托れろやうセ叙述ぶりに魅了されるでちら
中の人物ミが意気今し、作中の人物が恐らく作者に謝意を表
するヘーゲルの着眼ミシュライエルマツヘルの情操亡が揮然
†るであろうミ感官られろ場合ミ同棲な感をもつ。歴史に閲
モ表れてゐるやうに恩はれろ。
A亡襲拓簑n明∈乙An已甥巾d盛試e昆C訂nim−ひ亡nd−の
本書はデイルタイり仝災第二巻の最初の部分
JPhrど已ert及び同じく第二懸り巻末に附ぜられろ彼¢
泄
手記な繹出■し圭ものでぁろが特に勧ゆの部分l‡彼の﹁精前科
匡藍繹艶髄阜鮎に於て粧秒葺を賽的嘔丸掛る
束京
」
か
波
鬼
盛Ⅷ憾欄哺側
︰打者はよ上兼閑人心瑚亡兄頚心稲ミの透徹こ主項似又注
射比を指示﹂てあますミ︰ろが塞い。レギ・ブリユル的見地
がごの程度にまで=の見童聾者によつて認容されてゐるかを
昏見†るだけでも撃的興味をそゝられろであら、つ。こゝには
ま㌣子供の呪衝心に射する巧妙光分析さえも見出さろる。普
らほ宗教畢徒が暫く東門的偏愛から胎甲して虚心この著を邁
いミ信やる。︵古野︶
寛著
ヘーゲルと歴史哲畢
︼八lニ
著者は哲学の窮極在席史暫単におさ、その職分を鹿界猟人
現代lこ於て再び歴史の問題が或は史吼の問題が論ぜられろ。
方面にも脛衝撃方面lこも、さらlこ正統史畢に於ても、そ・して
東京 同文舘費行
十九世紀後中には史挙り理念が盛んに論議ぜられた。紳撃
桧
原
で
弟
ち
ふ
。
思
ろ
う
義 三
一
・
著
者
を
深
こ
く
の
か
ら
憩
ぜ
意
ら
義
よ
る
々
人
で
知
れ
ら
て
あ
理想社費行
︺て鬼童の心理、青い鳥の世界に蓮ぷ=ヾしが決Lて徒宵でな
畑志壷
東京
クローナー・へぃグルの哲畢
クローナー・グロツクナー。薪ヘーゲル畢徒与して今最も
そ,して彼等は大間に於て等︺く﹁カントの深化﹂l二於てヘーゲ
新鮮な要望を拷ふものほ猫逸lこあつて︰れらの人々であろう
ル復興の秘鍵な見出L変らに饅験及び生ミいふ方向にも伸び
ん写してゐるやうであろ。
本書はクローナーの名著﹁カントからヘーゲルヘ﹂二審の中
ヘーゲルに閻†ろ部分が課され圭もので、懸顕に原著者lこよ
介
るカントからヘーゲルへのかけlェ、し写してのフィヒテ、シエ
新 刊 紹
モ
新 刊 紹
介
生観でぁろミ見て、著者は概念論の立場な国井ぜざるを得な
本
立扱か
の
本書はこり立場に立つて著者が宗教哲草間應より歴史哲畢
最近
の
一
克
研﹂
究
四
八
J、種
較
高
究
い寸Jすろ。
ミいふ。蓋、しヘーゲル主義研究をカントの深化lこ於て見出†
旋
本信
日
進ね
雄
に轄Cカントからヘーゲルに移つて行つた清算の記録である
=ミな主張すろドイツの新ヘーゲルま義に於て左様であろ如
くに我国の研究傾向の歴史からJても少なくごもアカデミッ
これらの立場から著者li本書を四章に分ける。﹁文他曹畢ご
クlこは嘗然の行き方でぁるミいはねばならわ。
歴史哲嘩﹂に於て新カント振の歴史曹畢を検討L↓史撃方法
一派の歴史型の方法論むトレースレ変らに﹁歴史の理念﹂lニ於
論﹂に於てはランプレヒトやドロイセン及び圭子して新カン
てはヘルデル以降フィヒテ、シュラー、カント、ヘーゲルの
それを吟呼し、最後lニ﹁ヘーゲルの歴史哲畢﹂lこ於て批判的
方法ご雑記法その他の二筋が論述されてゐる。
全般ご,してl‡歴史曹撃の聾史上の諸問題、諸傾向を批判的
組織的にあどずけてヘーゲルに締結L圭もの、特lニスベシヤ
織を整ヘスここいふ=どが現代斯畢の一つの傾向であろ=ゴ∴トニ
官
ル克間麿究明ミいふでに光いがこり見通、しによつて哲撃的組
って極めてよき収確でわろこ寸Jわヾしくに哉†ミ同時に近く著
踪脚
徴Lても復常囲畢界に類書の殆んごセきlこ徴・しても撃界lこミ
者が︰り見通Lの上に立つて特殊傾城の討究か出される:ミ
夢沖紳止日野艶什U
々
朝
松
著
フランス拳骨は新地撃の多きを訝る中.ト、特lこ倣竣の如く癒
彿四年親亡くダラネー、モース等り指導を受けて研鎖され主
筆者のあろ︰ミli誠lこ力強い。
外者款待俸訊考lこ於て季節祭に際Lて訪れろ異族の紳を饗
†れば、そ¢千倍の報軌を待ろ三富ふ原始的七宗教信仰を明
かに﹂、或は早覇ね前に黎廃L、祭主も之にあづかる都督の
祭儀を詳細に読明されてゐる。==に﹁今日も光ほ到る所に
これな研究する=ミによつて必らすや外圃聾者の解き待克か
特異七地方的停承、祭儀、信仰が傭然写して存在Lてゐる。
つ圭謎も解決する﹂ご云ふ教授の信念が具髄的に示されてゐ
る。これは笑小の祭儀ヾJ耐話、スサノチノ命及び出費の紳そ
の他随所lニ見られろ所で併願西庇曾撃捉の一特色を花すもの
﹁南.カ
土
俗L.︹昭和六年︺
寅北
南方土俗畢骨
鼓北帝大の土俗人種畢研究室を中心写して宰相に於けろ熱
心光る民族堅良俗撃、比較言語聾等の研究者を糾合L昭和六
年春期より創刊された﹁南方土俗﹂諒ほ、婁酎の土俗のみで克
く﹁比律賓、ポ㌣ネオを初め亨して南洋の島々、東西アジア、
南支那、或lミ琉球、更に=れlこ関係あろ内地の=寸Jごもの民
族隼人種畢考古単に連関する一切を﹂記鎖する意囲のもモーニ
されて着々ミ健賃七成果をみぜてゐろのは非常に悦lでJい。
編輯されてゐろっそして十一月よでlこ第一、二、三戟が刊行
殊に=り方面々探求が等閑視され或は好事家的趣味ミ埜許さ
れてゐ失わが国後死の弊風な排撃Lて、現地研究の豊富光野
︵音野︶
漁期L王政臭があげられないだけl二〓看附嘗さぜて頂く。
際上目立上ない地味なそ、して労音多い仕事でちろため仲々に
展開諸兄のつごに熟知、してゐられるミ、ろではあらうが、賞
㌣敬展を示されん=ミわ願ってやまない。=の鮎はもちろん
ミ思惟さろる資料及び報皆の欄は今後大いに凍韻Jて充箕J
でぁる。我国天地開脚神託に封する一管見でに南太平洋諸島
象
を卑してゐろ南方土俗拳骨が益々撃的探求に努力Lて権蛮
の紳話ミロ本訓話ごの頬妹を主張されてゐる。
光ろ結果を費表される=ざは何lこも草して望まJい。賂衆lこ
最後lニ吾人の妄言を許、して戴けろ光ら教授の態度注油話俸
漸次に賓現さるべきその使命ほ重大でぁる。内容に閲Jてlェ
の研究に薄い。勿論 普ら門外漢の云々︺うろミニろでは光いが、唯=の誌の中枢
承のe注昌Si盃光研究lこ厚く∴已ensi窟
間の按牌、俸播の有様を翫明Jて裁かなくてl‡、その比較研
紳話何よりも倦播性に富むもりでぁろうが、時ミ所及びその
介
究も償値砂いものであるミ思ふ。︵杉浦︶
新 刊 紹
J8β
新 刊 紹
軌
西田長左衛門
新
介
墨
︼八大
のでぁる︵日本にもこの影響によつて薄かれ圭もりに幸徳秋
水り﹁基督抹殺論﹂がある。琴し=れ托肯定的でぁつこ。
って、背き支那哲撃への大衆的回顧を要望J且つ可能なら︺
っになつても裾え先い。著者は合理主義者、歴史主義者、軍
所謂キ¶ノスト敷から歴史的イヱスを取除か、ヱ、いふ態度l‡い
一九三一、 三 省 堂 キリスト信仰のために歴史的イエスを香草しやうさすろ者、
歴界
史の
申向
からイエスり存在を拒草しや、ヱ与る者、=れ等の
混沌写して蹄趨な知らねかに見えろ現代の日本思想
に
めろべく生れ主支那哲撃思想草書﹂の二部である。M裏手l=封
大衆的理解の阻まれろ=軍砂くなかつたが、それだけに彼の
たキリスト教を主張Lて、同じ諸寄によつて前回研課され㍗
確質性な主準し、歴史におけるイエスの原罪思想わ中心にL
、しては古来毀隼其の軌な一にぜす、基経の難解ミ相
使義っ
て信、
用雲
春、
仰敬虔者が障り易い歴史菅定ね吟味L、歴史の
科華や論理撃に野Lては各方面から近代的研究の熱意が示さ
﹁基
督解
教の
本質﹂ビ同C結論lこ到達すろ。
れてゐるやうでちる。本吉はその惟質上基経の専門的
註
に
は白
より近い現在において同C問題に蓮華して居る。歴
寒きを置かず、墨子畢徳り研究の成果ね平易に赦する我
事等を
岡田費行
田逸書利著
ってもよき参考ミなるヾJ信ずろ。︵三妓︶
きわ知ろ者にミつては勿論、現代の新開塩を考察する者lこミ
ろ思想ね展寧し悉くこて立論L上本寄11、常時の思想界の動
史研究の剖聾し圭イエスの歴史的不可知論、キエルケゴール
指Lてはゐるが、同時に原書の姿を直観的に努幣写しめろ楚
にも少からね努力が排はれてゐろ。墨子研究の入門の
書復
写興
しに
てよろ歴史的イエスよりも現常に生きろ信仰的キサス
†をごる盛謹諭的紳撃の主張等。一九一〇年代よでのあら岬
も好個光一着でわら、つ。︵佐木︶
ビ・ビ・ウアーブイールド著
岡 田
稔諸
基督なき.基督敦
紳月
目弓Prdヨe〇一〇gi邑好まeuこ讐柏のCFを1e拐C巨象邑1y
フランス政令畢史研究
の釈詳でぁろ。原論文が書かれる数年前猫逸でドレフスの基
東京 刀江葦院潜行
膨評言して放資の把般をゆるさねものは十八世紀から十九
せ抹殺詮か嶋へられ、本論交互︰の影響l=よつて解かれ㌣も
Jββ
世相隼lこかけての科車文化風潮の傾向である。現代由科鹿
人は序文l二於て著者の風格な察知するであらうが、筆者の
印象からすれlて人言しての著者は多分の哲畢的肌合か感ぜ,し
コyト¢饅発¢ヾlちl:鳶に、着む省、は無慮騰腑撞緩谷部抽
た諸学説の検討ミいふ抱負わあげてゐろ。
或ほ分析記述すろこせはそれだけlニ至雛であろ。ミくlこそれ
ゆるなつか・し古風格をもち研究者写して江華的ド純発憤虚妄
亡くにその文化万両に於けろ着眼手法け亡くに︰の時代にこ瓶
liフランス思想史に於て左様であろ。国民性からか或は撃の
蔵†る悪魔主張l‡嘗爽の畢従の心がけ写して推︺tいものが
持ち待ろ人で、著者の熱情ミミもlこ研究者の有機的研究ね重
黎酵熟・し㍗亡者へられろ。併︺その撃競思想の費展を組織﹂
博続からかかの圃にこ托撃史的にまごめられ圭労作は大健lこ於
ミもかくも著者がフランス祀食草の撃史研究に校旗する=
ある。
て妙いごきく。
田過氏の社食畢史の研究は=の意味に於て単にわが国の撃
ざほ撃界にごつてまこミに人を得圭=ミであり、同時に亦そ
徒lこ研究の指針ごなろばかりで克く研究の傾向写しては本国
串
庸
一九三︼年
中
三
省
デュルケム紋付畢研究等。︵石津︶
大
堂
パスカル草鞋曾拳−1−十八世紀フ
のそれに封Lてもユニーク尤ものミいへるであら、つ。著者li
−
ー
の人にミつても好個至極の領域でぁるミ思ふ。
覿
一入七
苧ヱ﹂され、後輩は儒教哲畢の最高峰写しての中庸を紹介L
政治哲拳lこ圭ををき、堕落ぜろ現代の政治lこ更生の方途右京
中庸ほ飯島教授の櫓常による。前者l‡大挙に説かれろ儒教的
﹁支那曹畢思想叢書﹂の一。内容な二分L、大草は宇野教授
新
宇 野 哲 人
共 著
飯 島 忠 夫
ランス鹿 骨拳
全篇を四つに分ける
いふ。﹁Lか、し克がら個々の撃沈ねそゐ時代、その博統、その
圭ぜひその分析が締密に克されても余lこ於て充分の僧借夢附
証曾的背景及び現代ミの関係より切り雛Jて研究すろ=寸Jlミ
レンスlこ赦骨的賓凍の必要に應ずる㌣めに産み出された各個
するこミが出水拍。セぜ光らすべての科畢のうちバーニクセ
の武骨理論わその鹿骨的起源及び効用な無視して取扱ふヾJい
ふ=ミは少克くごも放骨撃者lニ於て許さろ.へき態度ではない
べき社曾撃沈の研究lこぁつては従非の諸単に於けろ畢史的研
亡者へられろからでぁろ。すなはち社食撃者によつて光さろ
究ヾしは異なり社食筆紙ねその停統及び流れに於て研究しセけ
三、
二、コントの正統光る費鹿
れば光らぬ﹂ミ。そJてその研究り目安写して一、コント祀
介
ミJてのデュルケム及びデュルケム畢派の併読の分析
食草に於ける寄託的精神の究明
新 刊 紹
J肝
新 刊 紹
介
日本思想史め一礎石な開明Lや、ヱJされろ。共lこ難解焼餅光
儒苔な平明且つ曜貿に現代化、してぁろ。難字雛旬には振仮名
誌解を附・し、漢文托暇名変りに書換へられてゐる。飼飲島教
授は中庸わ説くに常つてその孟子ミの関係を特lこ在日するミ
共l二、中庸の著者に園Jてほ=れを子息ミする邁祝に逆つて
孟
子
三
省
堂
始皇帝渡史記完成前に、帥ち紀元前二世紀喝に、子息孟子¢
軌
二研究者が著L㍗ものミ見てゐられる。︵佐木︶
内野室嶺著
新
支那曹撃思想叢書の中¢二鱒写して、断片的であり、直感
こ、その脛紛わ明l÷して、=れが解剖ご組織ミを試み㌣も
的でぁり、浸線的でわろ﹁孟子﹂り中から、孟子の哲畢を考察
山
口
薪
察
常
駁
著
論
語
一八八
三
省
堂
雷々の特に東洋人の思想内容が草して如何なる経路を剋つ
て今日1二及んだが、古代人が安住Lて居上境地は命其盛に魂
の現代にあつて確に意義あろ仕事lこは相違ない。かゝる立場
在慣使わ草してゐないか、を絆lこ検討すろ=ミは、思想浪乱
から徳数人倫の香子しての論語の現代的意味をその教単の要
綱を琴準しつゝ求め圭ものが本書であろ。穆朱を勧め、汗牛
たり、或−‡章句の末−こ捉l‡れろこご光く、又拳而から逐語考
充棟も見ならす、所見を異−ニす診解改ま繹の香に引きつられ
本書の性質からも時宜lこ準したものでわり、詞み辛い論語へ
詮的訓話的解秤の方法を亘らす、例へば、仁、超、政冶紀、
教育説ミ首ふ如く夫々の要綱に就いて論述を進め圭こごは、
¢。孟子一生の努力は併謂覇道の排撃、平道の賓現lこあつ㌣
は鹿骨人生の整理が目的でに先からうか。反省には償・しても
筆者の率直なろ感を嘩へLめろ光らば、論語托、鹿ごて儒教
ら光され王tあで、あり、その主張の根粒にli如何光る哲垂が
の平易な解讃の潰を輿へるもり写して推奨し圭い。序説ビ鎗
論も春秋時代ミ孔夫子の理解を助けろもの。門外漢写しての
ぁつ㌣か。=れを検討Lて政論家ざ丁しての孟子り全貌な描く
債l二閻、しては自ら別個り見解が存†ろでわらう。︵村上︺
思想的蹄︼の根波又は現代思想浪乱¢野菜写しての論語の償
︰ざ托言ふまでも光いが、その努力ミ事業圧如何光ろ主張か
ご共lニ、﹁孟子﹂の中から政治論王道徳論モな平易lこ而も破棄
lこ論邁L了のる。章節の解樺や、語句の統明に過ぎなかつ主
従死のも¢に比︺て出色のものでわらう。︵村上︶
l齢
両
宗
敬
班租 ⋮鳳 尊
意
頗眞嬰鹿出版部
ミいふ
人物
︼八九
Ⅷ周
、
京都
ルク
に
ツ
わすか百飴頁¢小加子でほあろが、そ・して極めて平俗lこ書、
かれてはあるが、二三の珪意すべき見解をふくんだ宗教心哩
拳の文献である。帥ち著書が、︵こ宗教心埋草lこ於てli普通
第二次的のも¢にすぎねこミ、︵二︶宗教心埋草はつねにそゐ
の型の宗教経験が最も重要なものでぁり、異常な型のものは
限界の厳存な忘れてになら甲主などな、殊にアメリカの宗
至禽の見解ミ言ふべく、アメリカの宗教心埋草界も最近lこli
教心理学者に射すろ瞥骨子して強調,してわろこざほ、極めて
自らそれらの故障を認琴し響戒Jてをろようであろ。例へば
然寸JJて智情意り三つ−こ分つ=ミによつて宗教心埋り研究を
クラークやユーレンの近著がそうでぁる。LかL本著者が依
では兄いだらうか。︵埠谷︶
ダ
京都
顛眞撃苑出版部
進ゆん写してをろりは、恐らく最近心理撃の塀琴し得塞い事
ヘルマン・ヘッセ作
ツ
画 田 菅 勤 評
シ
介
ヘルマン・ヘッセは猫逸現文噴の一方の雄でぁり、西洋文
新 刊 紹
二
……
三の作
年
九
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ろ。
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シツ
廠
描く
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を
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新刊紹介
ホートン著高松孝冶謬
田
新
新刊崇敬関係書目︵離醐和六±一︰三ハ︶
﹁現代人ミ有耐忍憩﹂
紳
田
自
生
楊
レーニン日本戦闘的無所論同盟詳
一・〇〇
﹁レーニンの反宗教論﹂
紳
紳
田
自
浄
日本戦取的無所論者同風諾
一・三〇
﹁レーニン¢反宗教思想﹂
丁三〇
文
文
行
宗
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宗
〓T00
︼九〇
滋賀解
奈
良
栗原武平著
近
囲
城
赴
寧光費希所
代
音義眞育宗宗務併
辻尊之助編
和歌山
教﹂ 富士川訪蟄
丁二〇
三・〇〇
﹁束大奇観存注物銘記及文様﹂
堂 ﹁巌
﹁大乗院寺紅紫事故﹂︵第二巷︶
・九〇
放 ﹁音義鼻音宗宗制類纂﹂
放
舘 ﹁人 間 旬
丁五〇
境野黄洋著
本
芝
大
郷
同
刊
啓
大束出版社
敬
院
寺
骨
甘﹂別巻︵梵鐘和英合算土三部軽︶
漁連帝隣制定l押 脚h
阪 宗
脛﹂︵論集部六︺︵密教部三︶
全
骨
中 野 三 歌 書 院
俳﹂ 佐山柴犬部者
丁五〇
日本橋 大阪屋張書店
﹁沸教思想大系±︵沸教研究法︶
舘
浮一切
土・宗
行
大束出版社
芝
﹁俳 教 大 系﹂︵絵筆玄義四︶ 原子廣喉謬
堂
下板播 其 完 成
院
﹁浄
﹁漢和謝辞﹃浄土三部寮ヒ
﹁囲
骨 ﹁俳 敢 大 僻 典﹂第一巷︵アーケ︶ 望月借亨著
文
同
至
同
田
枝
刊
日本園舎刊行骨
何
田
紳
神
赤
大西貞治著
松本信尿管
二・〇〇
﹁記紀論究﹂建国篇︵師水宮︶松岡静雄著
﹁日本紳話の研究﹂
二・〇〇
﹁古代日本株新文化の研究﹂
三・八〇
水谷活着
田
名古屋
柳
二・〇〇
﹁古 事 記 大 藩﹂︵第十九巻︶
﹁明治前書壁藍史﹂
一〇・〇〇
沓
内山印刷所
治
郷
明
本
島地大等著
田
・二〇
論﹂
﹁甘 圃 常政一璧﹂
﹁数 理 ミ 史
紳
宮城信雄著
三・五〇
﹁卸城 専 ¢ 研究﹂
﹁浄 土 布 教全音﹂︵二三︺
一・五〇
三井晶史腐
阪
刊
秋
曾′
丁八〇
大
大
政
大
阪
三・五〇
朝
日本株
田
東
誠実歌委員含
別所梅之励外一氏編
二・五〇
歌﹂
京
今日耐話撃は大建科挙の健を心サしてゐる一社って紳話の意
味の研究モ云へlで、=れ中質淀科畢の立場から見る、言lニー
致してゐろ。然ろlこ紳話の意味わ明かlこするミ云ふ本省が整
一九一
調語草で考究Lてゐろ呪術、宗教儀鰻の間厩を突撃的に見や
堂
所 l、でも光い。今日の耐話撃の問盈ミ緩の遭いものでl‡ぁる
﹁恕劇の誕生﹂先ビが息ひ出されて一種の時代錯訣の感じがな
Lてゐるのを見ろミシェリング¢﹁紳話哲撃﹂やニイチエの
術の目的及び永久性ミか、訓話宗敬ミ則り費生首かの耽明を
山
J
日曜世界祀
日噸世界証
甘囁り職外川銀
阪
﹁新約型番註解▼タイ博廟音沓﹂︵一︶日高普一考
二八〇
・五〇
﹁アルクバン物醇﹂︵宗教見重文塾叢書四︶高瀬無扱者
芙
店
−
巷
三裁・上野
崎
−
長
含
ロaker.︵句ゴ岩村︶
込
社﹁諌
行、曾 ﹁聖 書 物 誇﹂ ダアン・ルーン著前田晃遅
行
浄土教報杜
同
刊
春
同
柴田︼能競
小石川
芝
﹁日 蓮聖 人全彰﹂︵上・下︶二股
﹁照一邁 和 偽金集﹂︵第︼斡︶
大
﹁前 田悪妻.全集﹂七︵柴Jい人生外四篇︶
日本株
大東出版社
岩野眞雑著
芝
牛
店 ヨyきコatur¢aコdぎd‡dua√
星
トOndOロー一芸−一
書
京 都中外出版株式曾鹿
明
ギルポン著浦川和三郎課
崎
旦品善一著
長
豊
波
日濁音院邦文部
生
岩
新
田
ベイサー著桑由芳延詳
﹁併数倍仰質話全集﹂︵皇室篇︶
﹁基督教中心問題﹂
二・〇〇
紳田
両島重義著
紳
木村大部諾
二・五〇
究﹂
ニュー〇
﹁日本廿大聖人殉教記﹂
﹁献 示 錬 研
本郷
﹁基督敢教程輩菅﹃新約文撃序説﹄﹂松本卓夫著
・五〇
使﹂
二・〇〇
﹁註倉科拳より親㍗る奮約聖撃概論﹂ 阻口鮨苫著
﹁基 督 の 天
介
﹁新約聖薄註解コリント前後番﹂
新 刊 紹
新 刊 紹
介
っ二rてし主併lこ斬らJい意囲も匿見される。
日eココet∴C・A︶
費行するlこ至つ㌣。︵骨谷︶
︼九二
本流︰ほ二つの論文に分れ第一部の方は標鐙がないが目的論
APhニ0琶Ph訂a一SどdyOfMy裟cぎ一
の立場から泰衡、紳話、宗教を見んミすろものであろ。先づ
Y已e qniづ巴各y吋r穿こ琵−.
目的論から見圭生命及び理想の問題から論どて、人生の花で
この書は一九三二年にその第一版を菅行㌔数多い帝劇主
あろ峯衝の目的及び永久性に及び、塾術ほ個人的薮術家の人
義摘係の書籍の中でも相常に説まれてゐ圭が、いまよた、紳
祓主義研究の構成ジョーンスの序文を加へて、その第二版を
格な超越Lた細像ミそり燕術家の屠ろ社食頚城ミの南方から
生ずるものでぁる。然かL茹術の本質は人格を超越こ圭もの
る0
甥e弓H雪enY已edni語数t句官爵こ蛮−
↓heロ=eヨヨaOfReニg6.u00knOW夏的e・
であろ帥ちレオナルド、フローベル、ミケロアンヂエロの塾
衝の精髄ほ政令濃視で光くて彼等の超人格的幻想から産れた
ミ断じてゐろ。こり見方で紳話、宗教、劇の常盤を諭ごてゐロ雪コett.︵C訂ユesA●︶
更に今日の神話撃、宗教民族畢の問題を目的論的lこ見て呪
じ意識へ動いて行くものでぁる。それは問のやうな晋Lみの
聾なぁげー
A謬ilOm。p已邑Stud﹃Of巨首紆mに名
そLて一生病贈ミ職ひながら研究に淫頸L蒐lニ
の哲学教授ミなり
る。誰わらう汐呂ettそ¢人なゅでぁろ。彼は後にY巳e
術ほ神話¢目的論でわろミ餅ご、食入行鰯、性的な行露ゎ初 JOs㌻ざR。yCOがざle大単に於て週lニー度宗教哲畢及び
め死者及び太陽崇痺、供臓、犠牲等凡て入紳を自的ミこて同倫理撃を講じてゐ主項その諮延lこ侍つて深く感動,し主人がぁ
意識から、かゞやか,しい意識へ突進するデオニッス的熱狂で
あろミ云ふ。
第二部は眞茸の紳話ざ紳話の眞蜜、紳話撃の地位主意味ミ ー九三〇年五月一日齢未だ四十四オlこLて永い眠に就い㍗。
云ふ踵で紳話、科挙ミその意味を革質寸し幻想、夢の生活ご現此の審は詞ゆ一九三〇年里香 ]冒きn 日ng㌔CFa甘−の
与彼の友H罵言rdの教授≠日韓Oekiコg
によりて通常l=
賓の生活から論じ、更に普欒ミ冷菓に隣する美挙、紳話拳、︸○司ele訂ct一莞∽り琵ri臨写して奥へられ圭∵ものであるがな
形而上畢的解揮をLてゐろ。︵杉浦︶
現代lニ於て宗教の思索握逃避ド満ち㍗もの.は来いり紳や杯
麟梅、し誅義兵ノ付去つて出版され圭もの富江ゞ沈痛てちる。
iββ
m裏町瀞郡dl獣欄昏e甘首望見常惑儲闇馴馴削州
igiOロS訂0已ed喝のの間組の誤れる解決への否定攻撃に鱒琴し
l邑eM●
穿凰許tiOロ宅Ote
出PY⇒
CPロ勾e訂0司↓の問超が任意の諏鮎に克つてゐる。併が我俵
回避へり墳鐸ミ=してものされ上本昔はその性質上殆ど邑・
靖や人胤¢昔ぺ¢正攻浅的解決に苔亡んで今日でば
な思想家蓮lミ宗教から形而上撃や超自然を取り除く事によつ
思索的先論述ね嬉けるがその詩的な香魚ご新鮮な脊智ほ重苦
﹂華Ft司eCpn打nO声
て所謂不可知論のヂレンマから逃避L
め大のである。
宗教代襲顔的光廊究で草して充分汲み鼓し得るでわらう
か。これl‡よく掛ろ問題でぁるが著者ほ断乎ミLて経段的な
研究に反射﹂、滑々Jげに科拳的研究を攻撃して宗教菅拳を
輝謹L認識原理写して一種の直感を敦へる。彼代言ふ﹁理性
は超自然な扱わつかふ事lェ出来兄い然Lて宗教は超自然なく
Jてl‡すよされ互い﹂︵繋ぷ︶叉云ふ﹁宗教的生活りドラマは
草光ろ心的葛藤の詑銀lこ蹄ぜ・しめろ事は出来兄い⋮⋮:私は宗
教及び其の間庖を人規準や社食華や心理撃に手渡さん寸しする
一切の企てを排すろ⋮:⋮宗教の問題l‡曹畢的であり宗教哲学
以上が一巻な通ずろ彼の主張であろが論述の範囲l‡次の如
に代ふべきものほない﹂︵吋−皆︶
介
呂d昌亙還Oe巳Ogi邑 胃ロm冒i訝・くⅠ︶ Sロ夢2tiOn
新 刊 紹
トOndOロ、−篭−
C訂rl法官昌貪は宗教の思
索に於けろよき指導者でわらう。︵棚瀬︶
My裟cW芦
BrぎtOコ.︵ロ呂︶
↓hO
開成主義研究者の名簿の中でプリントンの名lミよだ新L
い。そこで=の青もよたジョーンスの序文によつて棟威づけ
ねげならなかつ圭。
副題が示︺てわるように、=れはヤコブ・ベーメの哲畢¢
題l二謝すろベーメの答秦を槍計考査する=ミが第一の目的で
研究を土重言してのものであつて、先づ、紳藤生義の中心問
iロ
e骨谷︶
らt
うF
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一九三
瞥ロtp苫nP く︶巧邑u邑iか5.gt訂Supe岩乳u邑‖せur写神
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主義の新教的一面な見㌣着賀光ろ研究ミいつてよいであ
t訂Ori余︰句菖領bgナ Hく︶SⅥmbO︼i邑 月訂○訃s︰∽註的
註に
eJ
ま㍗理論的l二見邁Lな試みょうミLたものでぁろ。欧洲
−︶謬−igiOn胃dSupernp言邑ⅠⅠ︶訂itブロー︶S﹃mbあ
O巳
り邑
、それミミもに、紳藤生養の積極的倫理的方面を、歴史
き章¢表塩によつて示さるだらう。
あれHOe打iロgが育つてろ棲lこ
こうL上回蓮へ¢不満が ︺野呂ett をlして此¢書を光さ︺ しさを救って錬りあろもりでぁり致へられる併も多い。ミも
の範囲に宗教を限定ぜんミする傾向がぁろ。
乃き
新 刊 紹
Oae∽ar dO
Priヨitiくe
介
くe∽ヨe.
Maコ.
ビ㌻dOローー器︼一
﹁貿験的心脹主義の歴史﹂ミ云ふ俳文の英謬である未開人の
一九四
ら軸足、感度、天使、耐ミも光る三宅ふま縫わ説明J︵︼︶﹁何
たれる︵ロ︶=れから凡てのものは﹁構鑑﹂を持つミ軌Cこれか
か宗教の起源であろか﹂ご云ふ間鹿わ出・しアフリカ、大洋洲、
術等lこ踊†る人類学況の誤謬を指摘し︵二︶﹁未開人¢最初ゐ
北アメサカ、ラテンアメリカ、の未開人の雀括ね槍鱒して呪
信仰托幼稚先陣前衛者のそれミ異る﹂ミ云ふ模簸でマナを勧
宗教に就ては心理学、人頬畢、鹿骨拳等色々の立場から祝明
め未開人の宗教現象に新鮮繹を加へてゐる。︵杉浦︶
ReニgiOu¢
が出来あ。然りミすれば心更生義の立場から東関人の票数を
の宗教現象を論じ侍l二人採草、統合拳の宗教解秤を批列Lて
COコkHコ︵Edm邑弾︶
↓h¢PのyChO10gy
、、
変じ肺患折損
R竪giOコのuコd∋Ora−padagOg芳
00tt訂﹁︵JO籍pF︶
ゐろ。概論ミli云ひセがら本音の償値は=1にある。︵上野︶
から研究し光ければ光ら氾ミする著者の意圃が濃厚に現れて
膠で空音密禁宗教心埋草の傾向わ脱L東歌を赦曾的立堤
扱はれ圭鮎にある。その中lこも個人的立場からのみ研究され
の宗教の心理的研究の成果わ最も手際よく、又最も公平に取
本書托宗教心埋草概論三富ふ可きもので、その特長は従来
星e司両○り粁−¢皆.
A且u巴∋彗t
Of
解拝する=ブ丁も出来ろ謬である。著者ほこの立場から未閑人
ゐる。
最近レビブリエール氏の﹁未開心理lニ於ける超自然ミ自然﹂
なろ力作の出版され圭時にわ上つて、=の心堤主義の著者か
ら杜合筆涯の批判を聞くのも興味ちろ=ミでぁる。社食学派
で托宗数は奇人が自然の現象ミ叙すろものを束閑人は超自然
的性質を観ずる=ミから起ろミ云ふ。著者ほ︰れ和批評Jて
政令畢涯の人l‡宗教の起源ほ超自然的事象の税森吉云ふ=寸J
説明は一向,してゐ互い。然・し=り事象をより深く研究すろ=
で耽明が出爽㍗亡者へて、超自然的事象の観察七云ふ︰ミの
ミl二よつて宗教の根底は合理的でぁろこぞが明かにされるで
ふむづか・しい開濫に踊れなくミも厳密光賓験的、科畢的確擦
あらう、その上︰の研究ほ啓示ヾJか、信仰ミか、教理ミか云
の内でにつきり理解されるこミでぁる三石ふ。
本革托先づ最初に人類単板¢根掠を光サニつの出費貼︵イ︶
番人に象要び藍鬱¢裳か℃ソ趣脂朋離農湛絹
陳鋸
春響陣求敢々︰葡粗相サ厳戒称番け督†なむ併で一束敦小
菅lこ節する凡ての間喝が要領よく一巻の申によミめられてゐ
ろ。塔頭に簡単なる宗教々青史な傲辿L、宗教々育の本質呂
的、方法を膳を迫つて論述ぜられてゐるが著者が最もカね入
FOndOローー冨−I
に親Lまん草すろものlニほ一議すべき好著。︵上野︶
れ主部分は宗教々育の木質乃至その日的論である。宗教々育
Ph≡pO諒−︵寧S︶
Edda aコdSagP
O鴫Pa訂裟コ¢−
謬甘甘○甘0ユ.︵A・8
〓訂tOry
甥e尋YOr村−−冨−
宗教lこ重鮎ををいて前後四千年に亙ろパレスティナ¢歴史
を裁こ圭もの。現在め帝国主義的危機に際Lてユダヤ人閉経
レスティナ移住問題lこ悶Lてシオニストの強力な領骨脚争が
に諸方に再燃L、著者の指摘する如く、本書の印刷中lこもパ
ンへの熱情み振起さ兄いユダヤ人ほ心意に映ける所のある着
行ほれ上程でぁる。曲り時パレスティナの歴史を殉Lてシオ
でぁり、同時lニ宗教への理解冗きシオニストは自家遺著であ
スラエル以前のパレスティナ﹂﹁︵プライ人の約束の地パレス
る、ミ著者は﹁宗教的開成家の心臓もて﹂呼びかける。こかも
北欧の文拳、紳話、停就の蟹庫エツダ及びサガの解超が 叙述の悪魔ほ不偏不発の畢的良心に基くミする。内容ほ﹁イ
HOme日日i蓋r乱t句巳b遥竜∵から出版され圭。著者はケムブ
トOndOn−−器P
︼九五
O−
ザツヂの諦師で﹁古エツダミスタンディナダイアの戯曲﹂等ティナ﹂﹁基督敦め聖地パレスティナ﹂竺二部に別ち、大戦後
官除頁の小さい本。
My裟c訂ヨ■
AコーコキOdu象0コtOthO〓誉Ory
S∋iぎ︵呂︶
てゐる。︵佐木︶
英帝国の統治下に在る現在までを.各方面から詳細に取扱つ
の著者。初¢六章をエツダーニ、後の五章なサガーニ嘗て、文畢
的形式の説明から内容の解説に及んでゐろ。一方=れらの文
畢な生んだ民族の泣付的基底lこ野しても注目を怠ら兄い。倫
サガの英諾が嘗勧説文で克され上底lこ、原本も嶺文で書かれ
介
圭も¢ミ誤解†る人が多いのに野し、著者に特に注意む促L
てゐる。︵佐木︶
新 刊 紹
J郎
新 刊 紹
介
者門的の書物では先く、西欧の紳秘思想史を、東洋lこも一
一九六
但J.致命白鰻の頼勢や、合同気運の放命的場櫨に就いては
寸ふれて、梅く入門的にまごめ㌣ものでぁる。ミいふlニすぎ
啓ミの願係l‡、特に慎重に検討されてゐる。︵佐木︶
遺憾克がらやしも成れられてゐない。倫ほ英国軟骨ビ東方敬
MattOr.
ない。︵埠谷︶
Saコtayaコa︵¢︶
↓he Rea︻ヨOf
−讐声
物質を草しての構紳は観念論の根本原義であろ。然らば栽
MOdOrコOhurch.
近業でぁろがために専攻家の批判を待㍗い。︵田淵︶
念論者の物質主義ミほ何であるか、本書は特にサンタヤナの
Ofthe
Waコd.︵J・尋・C・︶
A〓i巴Ory
ど已On−−父岩
写せ昏n乱句女史の﹁中世救曾虫﹂の姉妹持で、十大世紀か
ら現在までの基督軟骨の動与をL特lこ英国軟骨ね中心に概説
門書を成・してゐろ。著者の意見lニよれば、現代軟骨史の特徴
J圭もの。約三有賀、年代野照表は菩自を附Lて、恰好の入
は、博導への熱意、政教分離−︰れl‡散骨が政権を糞失す
を蔽味すカ1の他lこ、r各軟骨の合同魚津に現はれてゐる。
るのニケ冗らす、特定国民ミ特定軟骨ミの結合が失はれろこミ
すタβ
火曜研究曾例禽
撃士骨舘
大畠清氏
時日 十一月十日︹火曜日︶午后六時
排
研究 クルムツドの研究
ける
土
伺川
の
覇掘瑠
根本
澗憫
起
源
十五日ハ日︶︵午前の部︶
於てli懇親骨が開かれた。
俳教法興亡婆羅門津典ミの比考
頚寺用
本娘雅氏
望月軌厚氏
立花俊道氏
硬いて第−日委員附託軍七つた囲際覇盟への決議文を討議
法び
華経
こキ
於け
二ト
三の
クルムツドの性後
質分及
後l世
サろス
教間
思塵想への闘本
係田
な義
論英
ゼ氏
中野義∵照民
倍ほ四暗中より俳教拳骨主催の茶話骨、日比谷松本櫻に
lニ
議
・してもま主権封の支薄着で光けれlば叱らない。
生瀬する所の宗教でぁる。然Lながら〓万に於ては正義に野
過去の歴史の証明すろが如く我が係数は人類の絶封平和を
決
︺て原文のまゝ可決。
ミくlこge転itsg︼呂beの間琴水生の問題を資料について究明
Lt。出席八名。︹財部︶
日本彿敷革曾第臥同組合
場所 駒澤大草
十一月十四日︵土︶
於
山有川氏司骨の下lこ忽滑谷快天氏諌長ご光り経過報告や三四
機にこ臨んで国際聯盟が最も憬重光態掩をミり、此の平和ミ正
法行烙lこよつて犯さるゝ自己生命の確守である。我等は=の
究
研究費蓑︵午前の部︶
国際聯盟御中
渡英のシルブンレビ、高橋順次部、常盤大定氏等の俳致聾界あろ。
に射すろ功績を附する伴わ即決﹂研究費表にうつろ。
一九七
日本俳散華協曾
って光される国際聯盟への決箪里攣し要点附記、波逸泡旭氏義ミの間鐙を極ゆて正確に虞罷されん=ごな切望するもので
の硯秦の協議をなL、境野棄洋氏埋泉の俳敢畢肋骨の名lこよ
午前ほ文部省の西山宗教局長や併聯代表の祝辞等ぁり、光 日本の満蒙間呟lニ射すろ立場は支那の條約破壊その他¢不
時
彿
致
Jタ謂
︵午後の部︶
傲性出土の龍樹皮び馬鳴の著書に就いて
忽滑谷快天氏
羽渓丁静氏
字井伯寿氏
所 感
夜は来日講堂lニ於て特別公開詩境倉。
阿黎耶誰宣撫授晶
社食改造の宗教的理想モカ法
最高償値の性験
宇野固空氏
初演了諦氏
椎尾耕匡氏
彿政事新の根墟
十 六日︵月︶
伺ほ啓上寺墾良及び宜物拝観十四日駒澤大草に於ける理事
命に於て第乾回線曾は明年八月高野山大挙に於て開催する=
亡lこ決定Lt。︵要点・しるす︶
.常盤博士還暦記念祝賀曾
一九八
博士の御功兢lこついては今夏中すまでも光いが、殊に支部俳
績悪慧警妄ふ名の下に親・し群へんミすろも¢に外電らね。
れ上のに賓lこ偉大光る美妓であつてそれね記念すろ意味か充
教史損金五輯の完成に、更に今叉支静俳敬史蹟記念舵を出さ
分差し加へ圭い。克ほ本年帝大撃ね退かされる直前に普つて
不幸寄鍋に遇ほれ、世の斉Lく痛心申J上げ圭併であつ吾が、
=り骨なJて喜び多からしむる所でぁるミ。
本日こゝに皆様の見らろ通り殆んビ全癒なされ圭=ざは一層
次lこ宇井博士ほ記念骨の賓行要点長ミJて一般脛過を報普
され、税額記念曾に本夕かくの如く盛大に馨行L、俳敦史蹟
今一つ彿教記念論文集刊行の=軍特質は多少後れてゐるが不
記念渋への記念曾写しての補助も預定の如く履行出来よう。
次いで山本快龍氏は一般寄附者を代表・して儒教鼻緒刊行補
日印刷に廻す:ミに七つてゐる旨述べられ圭。
それから嘗日の来賓を代表・して井上菅次郎博士、.服部宇之苫
は門下な代表︺、相葉代つて門下ミJての親軒を申J上げた。
野草されt。稲葉滞、大田悌蔵、結城令聞、中田渡次郎の四民
助日銀を、布施浩岳氏は執読者わ代表Jて記食論文集日銀を
れ主。定刻休憩室が溢れる頃、常盤博士l‡看びlこ輝いて夫人
博士、姉噂正治博士の親紳味読があつて、最後に常盤博士¢
十一月十六日午後五時より紳田の畢士骨舘に於いて開催さ
宮本正賓氏司骨席︵境線右︶に着き、博士l‡左方の席に枚もな
令息令嬢打揃つて来着された。早速第︼部観衆記念式に入ろ。
感激に充ち圭あ謝軒を述べられ㍗。以上で第一部を最も麟粛
第二部は晩餐でわる。デザートコースに入る長井瓢琴博士
裡lこ終へ上のでぁる。
く蒙られる。御家族は定め壇下に控へられ主。司曾者は次の
常盤博士達磨記念骨li草なろ遼歴を脱するに止るものでli
旨わ挨拶され㍗。
敵い弥彦許
脚
取氏、高水意表博士、垂木成果博士、羽渓了請教授、安藤正
賛亮の俳性統について
白衣永年代論
久野
奇相
小本
圃治氏
芳隆氏
法輪氏
快科氏
瀾
純代識士、清水龍山修正、大谷豊潤連扱、波漁港旭師、吉田
最澄を鮭鮎ミ†ろ受菩薩戒儀め成立過程
河部
彗︼
静敦博士、衆馬家法老師、川合貞一博士、境野嚢洋博士、根
北朝に於ける度の研究
そり外年末までに姉崎正冶氏。矢吹慶瀕氏。闇野点氏。小野
茂氏
韓撃経方便品中にある蓮像史¢一考泰
士謝解に代へるせて、臥床中自ら物され㍗決詩を潮々王権嶋
結城査閲氏。そ由外敵氏lこ及ぷ筈である。四六倍版¢いミも
玄妙氏。宮本正賓氏。大田悌穀民。西義雄氏。坂本幸男氏。
稀葉
我鞘やを皐J、端境魅ぜられが如阜であつ㌣。最後に常盤博
尾耕匡博士、坪上貞二氏、眞鍋嘉l郎博士等夫々の御感想や
されそれこそ満座¢感激は絶頂lこ蓮L㍗。井上老博士の音頸
か光拒食¢賠物ざLて龍門大俳のコロタイプ版を一葉苑︻草し
わ以て海盤博士の高裁を三嶋して曾を顔官吏。そLてさゝや
これわ記するので夫々御手許lニ出発てゐろ昔の鈴文の痙臼を
も載す=ミの出来ねな残念lこ息ひ且つその非虚を謝するもり
堂々㍗ろものにする心算である=ヾJを約束L㌣い。なほ突然
致界¢秦斗を網羅﹂賓に美くLい集ひであつ圭ミ云ふべきで
散骨托十時lこ近き頃であつ圭。この日出席二首十数名。畢界
でぁる。︵稲葉記︶
世界宗数年和合議質行委員脅
あろ。
囚にこ記念論文集は栂々出版が連れ圭のであろが今手許lこあ
る鈴鹿及執筆者り名を記Lて一ほ敬意を表L、合ぜて皆棟lこ
去る八月十二日から十四日に亘ろ三日間、世界宗教平和曾
議茸行委員曾第五回曾議がジュネーブーニ於て開かれた。各国
御報告すろ。
小柳司魚太氏
苧井
伯棄氏
三歓相互に関する典籍の二三
金剛般若経及び論の飛語並に註揮
譲は世界的大骨髄ミぜす米国々内全攣主ょ事草花す事亡兄
て開く聞界曾議の方法等に就て協議を速げ圭、併L明年の骨
博士穣長ミ光りて諸種¢議事を進めt。
境野
フランクフォルトlこ於けろ繋行委員曾に於て奉げられ主、
賓行委旦の来合するもの六十、骨長シューラー、ヤシエース
﹁成箕﹂大乗義
松本文三郎氏
四箇の小委見合から各報告があり、更に明年ワシントンに於
糞洋氏
支那唐代¢俳敢彫像lこついて
林産友次郎氏
修一氏
寺崎
澄蓮氏
弘法大師の押立に関する一考家
池田
譜代詳カに関する研究
郷先比丘経にこついて
一九九
姻l
つた。
伺ほ明年二月開かろ一般軍縮合議の.開催lこ際Lても、右耳
てにここれわ提出L㍗。
希委員曾托一の決議文わ抹秤J、=れを一般軍縮曾謀議長兄
因みに日本lニ於けろ世界宗教平和合議合意日本委員脅から
二〇〇
ろ。而Lコントのそれミは異り祉骨由制度・組織・集園の背
ちろミ云う帥ち社食的決定主義の立場である。而して鹿骨は
経俊的で絶えず堕他︺行く。帥コント甲菰曾進化の観念がぁ
景・制度の路線み中心にすろもりである。宗教現像り研究も
か、る方法により、本饅・紳等より開放ぜられ原因結奥の科
上鹿骨畢的に見らろ.へきで個人¢宗教経験ら加古丘東泉草花
挙的追求−こよつてなされ、而も倫それが社食現象の一差る以
らない。個人1王政骨の投影に過ぎ互い三守っ。而、し奉賛デュ
於て開かれ㌣日本宗教平和骨議lニ就て詳細なろ報普を写し主
︵H・8︶
は常務蛮風の一人である小平国雄氏が出博し、過五月束京l=
宗教畢々生聯盟講演骨の記
全鰻弥に見ろべ喜もの光ろ=ごゝ、宗教現象は猫立的でセく
ルケーム自貞は従順に︰の方法に従ってゐ兄いのであつて更
宗教草々生聯盟は其後骨長の親睦を第一目的写し地味に
にモ
着ースがデュルケーム祝な螢展せ、しめて新赦骨学説を嶋へ
ちじ帥ち彼は儀痛の研究・鹿骨形態学の研窄社食の事茸はェ
々ここ活動を填けてゐるが、今回特に十︼月三十日︵月曜︶和揮
び各村封の親睦ミ斯撃研究ざき阿ろ勉に倉見ね中心き;して、
に於て撃術講演合を開催L圭。骨するもの束大・日大・慶大・
能ミドニ電鮎をおき、そ¢鮎左翼の経済思想等l=斬ら−しい蓉展
¢上
現象ざ交流するものであろミラ㌔仝憶宗教の起源ミ機
左記の如く青野・友松両氏を諦師写し帝大件数青年骨館他楼
ミにかく現在の畢振ミLて一異彩を放てろものであろ。
を典ふべきものである。以上︰の畢涯の草枕は非難もあろが
清人
一氏
、﹁塔婆供養について﹂
友松 囲諦氏
沸教が宗教の範尉外に亘る事多き慮徒死宗攻撃者は俳歌一せ
︵大略︶
大正の各畢生合点並lこ諸先輩約五十名。かくLて六時牛左記
の通りに開曾す。
開合の覇
帝大要点 棚瀬日出麿君
︼、﹁宗教政令垂最近の傾向ミその批判﹂ 古野
宗教¢撃的研究の着るLい一派余るフランス社食畢振帥デ
て自然現象ヾJ同ごく法則的光ろ証倉現象り研究モ同様に之に
塔婆の欝率佳境廟の意で俳陀を紀念せんミする形式でぁる
ありJJの二鮎より特に︰の間虜をどりわけた。
ュルケーム聾振は、宗教現象も亦一の証命現象でぁり、
飴従
りっ
鮎なかつ圭鮎ご、叉塔婆供拳が併致の組織ミ大なる関係
野亡ても科学的な取扱をする。即ち個人の意志を否定11︺光
紅塵拇蘭址裟牲深い川街且濱恥塗て
瀞伽
ヨUュ一刀叩l▲¶▼‖い..司ノ■R一tI一rlT一﹁﹂Ⅵ一く■qヱ刀コ一ヨ川ド▼=﹂出り罰ノ舅咽
併有・傍受不安・功徳等の開鹿が生じその解樺戸てして彿貞論・
一
繹寄は之を否定︺て三資の蹄儀ね正Lミしてゐを。又、、、ソン
俳性論が出王。前者lミ塔婆主義・後者ほ反塔婆主義より生じ
一月rゴ一−一一”︻一叛
ダパンハでは幾分之を照明Lてゐろ。帥ち部涯lこよつてその
㍗ものである。塔婆主義は経済的の大問題で報恩の思惑・塔
劇憎瀾∬岬葡萄堺箋惑
見解ね異lニすろものである。俳滅后はその舎利等が生地・悟
寿這君
︵大略・文責大槻︶
兼
婆帥法貞・法月長衣の思想等も之に伴って生じ上のでぁろ。
正大委負・司合着
近地・和親法地・入滅地等lこ塔婆写して記念されtであらう。
閉曾の齢
以上の如く爾誇師共lこ自己¢猫自なる研究ね眞面目lニ螢表
ぜられ、又聴詰め各骨農も簸り迄情宣に傾聴ぜられて愉快lこ
撃術的に=の詩境合わ終り得た。骨長の集りもかゝる種の骨
合写しては少光い方では光かつ吾が、駒大・立正¢各合点が
詩環終了後別室lこ於て青野・友松南諮師わ中心ミして有志
一名も参加ぜられ先かつ上のは遺憾であつた。
諸先輩並に畢生官員数名争して、歓談を戟liJ畢生聯盟の描
の質凝應答を光す。上野・右津・財部・佐木・中村・加藤¢
つ圭。西北部のカシヤバ部・法護或は廠感元塔婆主義で彿中
られ主九大の佐野教授を歓迎する㍗めに有り如く拳骨を開催
十二月渡欧留畢ぜられろ長井博士を送別L十一月兼蹄朝せ
葛餅
時日
帝大山上御殿
十二月五日︵土曜日︶午後五時
︵要点東︶
束の費展を親L㍗。かく、して十時和泉謀々裡に散骨L㌔.
心ミ光り塔婆に辞軒基礎毎置く。化地部でほ彿への供物より
印哲宗教梵文拳骨
も僧へのカが功徳ぁり王統く。叉中間を行くものに有部・大
こ〇一
・しゎ。
報
衆部あり悌ミ借ミ代謝等の位置lニおかれてゐる。之等す.へて
伽の一員に過宮元い。即ち僧伽坪野が塔婆経済より有利であ
に民間信仰−二合致J克かつた秀でわらう。化地部でlェ併は偲
あろ。古分別祝部・化地部・制多山部は反塔婆主義で要する
でぁるが、反塔婆主義の部況は恰院主義・蹄俵併念彿主義で
ほ排撃されてゐろ。叉塔婆主義の部振は施俳主義・信徒主義
部・制多山部・セイロン附近では曹拳的・瞑想的で塔婆供養
原始的克迷信さへあるに反Lて、経済的に彗かな南方¢化地
的地方的相異かわつて北方寒地は塔婆供養盛で現質的でぁり
阿育王即位嘗時既lこ明lこそれが現れてゐろ。その形式ほ部渡
のである。而、して滅後には功徳生天の功利の蹄俵であつ㌣。
圭のでl‡なく、彿の通俗先妻朴花道を某ひ人格にこ蹄俵,し㍗も
㍗。昔時世人は四諦・十二回線の理論によつて彿教に時候・し
つ圭でわらうが次第に経済的打算によつて布はれるlこ至つ
従つて又巡組も行はれ㌣であら、つ。始それは俳への憧憬であ
湖
餐
報
協
議
事
項
二〇二
の範囲で約五官氏に苑て十二月十一日附を以て第一次の人骨
姉噂骨長の名を以て大倭昨年¢講座記念宗教拳骨の推薦倉見
委点線倉lこ於ける以上の知音協議決議lこ基き連絡本部では
ろこミ○
五、倉見勧誘、加盟函饉及び連絡本部より合点勧誘に着手す
四、大骨の組織鹿成の件ほ主催画虚言協議†べき=ミ。
傍聴者より傍臆凛ね徴収すろ=ミ。
三、経費、倉見¢食堂の外lこ大骨出席曾見より大骨費、大骨
二、開催期日、昭利七年寄に暫定。
荷lこ報骨交渉な依頼L㍗。
鰹な東京帝国大挙ミL、大正大挙り委員にこ依頼して大草嘗
東京ドニ於て開催L、弟l候補囲髄を大正大草、第二候補圏
一、第二回大倉開催地の件
柿崎・字井・常盤・矢吹・石棒・宇野・松村・池田・宮本二浦島諸
先生を始め圭子して卒業生免蛮多く参骨L五十名に及び姉崎
教授そ¢他の歓送迎の僻に絨いて長井博士佐野教授の謝僻ぁ
り九暗中散骨。
︵田中︶
伺ほ長井博士は十二月十七日牛後三時横濱解踵¢浅間丸で
アメリカへ向け出費、英燭俳印度に滞在研究されろ由。
日本宗教拳骨
− 合点勧誘、第二回大骨1−
普
十月十二日拳骨ら要点組合lこ於て左の如く報普協議L㌣。
報
諸氏に法学し圭決議案lこ基き委員諸氏よりの修正意見を参
勧誘状を費迭、目下第二次勧誘の骨旦詮街中でぁる。
一.日本宗教拳骨規約l‡本年六月五日附な以て加盟囲鹿妻負
に通学し圭。︵規約俊文復節婁牌︶
を目的ミす。
科講座研究室又は拳骨︶及び個人の研究上の連絡なほかる
一、本骨は宗教畢の研究lこ閻係ゎろ園億︵研究所畢校堅部単
日本宗教拳骨規約
酌して原案ね修正決議︺七月一日附を以て︰れを加盟園憶
二、七月︼日附を以て宗教研究関係の未加盟園健へ本曾へ人
骨の勧誘状な蕾迭、其後同志赦大草、東洋文庫、大倉情調
文北研究併︵大倉邦彦氏︶人骨さる。
二、本骨はニケ年毎lこ一同︵日本宗教畢︶大骨を開催J紀零を
三、昨年大骨に於て次回開催地ミ︺て京都な決議乎しもそ¢
後京都の関係国憬の苗尊者より其他に於て開催困難の旨報
付点は個人わ単位写し加胤鮒俄及び激務要点骨の推戴
費行す。大命毎lこ次阿骨催地ね骨旦の協議により決定す。
盗作蒼乱−飢V落川
三、
骨ぁり再三交渉協議の結果変らに仙串及び藤岡の委員に交
、.・払臨
渉ぜ︺も弟二回大骨は東京に於て開催致さる椴ミの希望わ
紗月
畢
書氏
之氏
される加盟国髄へ御紹介下されたい。︶
地の連絡中である。︵石津︶
骨を大正大草に於て開催する旨承辞報告がぁり、日下事務基
淵
感用
鵬隕
大
けH太¶刃欄﹁.嶺
帆−璽備に葺斗して金毒針離山円仁幻叫山葛餅雛叩伸酪
布み安く。
正
大倉情調文化研究所
大倉邦彦氏
濱田本悠氏
柴野本堂氏
久松眞一氏
ね以て︰れlこ充つ。
五、大骨の軽費は合点の食費及び合点に非ざろものト痴話料
六、木骨の役員ほ骨長副食長及び委員ミす。
克
帆足理一郎氏
鈴木宗息氏
闘
宇野閻空氏
加藤精神氏
閻
菅
石棒智信氏
七、骨長副骨品は大倉毎に要点骨に於て選拳す。
但・し右の内一名は次回大骨開催地の関係者モす。
八、委員托加盟圃饉より大骨毎に一名を推薦す。
委旦¢中正名を常務要具ミJ安息倉に於て互選す。但L右
の内二名托次回大骨開催地の関係者ミす。
九、連絡本部は嘗分東京帝国大挙宗教撃研究室に置く。
山本快瀧氏
右の委員組合の協議に従つて委員側から任委旦加藤綺紳氏
原田敏明氏
赤松智城氏
大
大
相原一郎介氏
第二回宗教畢大骨
城戸陣太郎氏
を交渉依楓Lt結果十二月一日矢吹慶輝氏より明春第二回大
連絡本部からは矢吹慶輝氏を通じて大正大草に大骨開催の件
︵人骨御許望の向托直接連絡本部へ御紹介下さろか脚係な
今岡信一良氏
高島平三郎氏
石田幹之助氏
撃大草畢大 挙
羽渓了諦氏
安定氏
田
大
比屋根
倒ほ現在までの加盟囲健lェ次の通り、その今期委員は次の
十、本食ら規約li要点曾の決議にこよつて襲乾する︰ミを待。
諸氏に御願び致Lてある。
帝大大帝大 大
大
北洋正京敬谷
相
蓑田胞〓亭氏
青 山 拳 院
智 山 喜 門
早東東大束立龍唸立
塾
報
草
法 政 大 撃
同志放大草
京 都
慶 應
九 州
京 城
駒 澤
焚
大 帝 静 養帝
ーI後記T−
△絆か光ろ究拳の歩武を連れて九巷一班に至つ圭。
そLて更に膨辞たろ滑死ね漁想L待ろ。
△畢界の気力l‡党に清新。籍賓、酵熟、萌争ミりど
りの動きを示す。
△日本宗教拳骨では今春第二回大骨を前にこて自下
付員勧誘中、本誌の読者氏に於ても御希望の方江
連絡本部に御申込を乞ふ。
△前餅に紹介L告辞座記念の欧文宗教撃論文集ほ二
月に出ろ。希望の方li珠め何食先に御申込ぁりt
ヽ ○
l
△彙報爛江森々有功lこ利用L告いミ思ふ。讃老舗氏
に於ても師係の報骨ね送っていtゞきたい。新刊
紹介も亦同様、お餅ひすろ。︵でi︶
昭和七年一月二十日印刷
昭和七年一月二十五日費行
編輯者
右代表背
印励者
教行者
印刷所
宗
究
編
︵免償全車〓固︶
研
新第九巻・第一渋
教
教
研
噂
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某京帝国大串宋敬啓研究室内
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を漆へて費行併へ御
申込の事
文京市抑m臨場子町
宮
三鼎︵申年︶金三、00︵迭
共︶
金一、00︵送・〇六︶
六那︵一年︶金五、八〇︵逸
国
楽富市沖田霞憩紳保町一︵堺啓発友一
株式曾敵
六肪︵倉皇︶金五、00︵迭
宗教研究費行併
大阪西富阿波座下温︵鵡替大軍
冶
所