宇 野 固 空 - 日本宗教学会

しへ′\)
宗教を語る時に捉へられるもの
宇
野
固
空
宗教といふ言葉の使用度が多くなるだけ、それだけ意昧の碓定が困難になるのは、言語畢的に
、−L
も敢曾畢的にもやむを得ないことでぁらう。西洋でもこれが事耳上主にキ,スト徽を蒋してゐた
閉は、今からかへり見てよほど問題も少なかったが、それが他の教義憶系や歴史上の種々の異
数、▼、とに未開民族の信仰や行事をも総括するやうになつてからは、その意昧内容に根本的な炭
化があつた。これは思想史ことに宗教畢史の上での一大渾進でふ∵り、初期の宗教哲畢と一般宗教
史とい
へたやうでみる。さら㌃それが宗教畢や宗教膏畢の中心的目標として、宗教の本質とか宗教一般
などいはれるものを、よト多ぐ指示するやうになつてからは、通俗的にもこんな概念が頼嘗につ
よく印象されて、人々がこれを口しする時の考が、よほど複雑にもな㌔また時によつて区々な
内容をもつやうになつて凍てゐる
我国の宗教といふ語が、書から宗旨とか宗門とかいつたのと、可捏了りの開きをもつてゐるのは、
宗教を静る時に捉へられるも¢
∫
宗教み語る時に扱へられるも¢
二
大健同じやうな知識や唐度の襲化にもとづくのであつて、それが一つの翻評語であつてもなくて
も、つまりは新しい意味を盛って取入れられた欺洲語のそれと、思想的に同じ役目をしてゐるわ
けである。したがってそれは偶数かキリスト敷か、それとも細道などの諸派の中で、自分が属し
てゐるか、または封手や多数の人々が信奉してゐると認めた一つの宗教鰭系を意味することもあ
♭、それらを中心にして大よそ知ってる限らの種々の宗教を概括することもあり、特に眞賓の宗
数とか若くは宗教その牒のといつたやうな観念を、主として表はしてゐる場合もある。
もちろんこれは言語の螢連若しくは樽毒性として普然のことであるが、これら種々の臭った憲
政が、入寸乱れてゐることは、一つは日本語の性質として、日常の曾話にも畢問上の議論や思索
︰に人ことに甚しくあらはれてゐる。ヨーロッパ各国の言語では同じ宗敦といつても、それを限
定する形容語句のほかに、その単数複数をしめす語尾の鼻化と、特殊的か汎解約かの冠詞の作用
などで、直接にもその意味が多少はつきら表はされる。ところが日本語にはこんな要素がないた
め、特に念を入れてそれを制限しないかぎり、上のやうな種々の意炊が、宗教といふ一語に混線
してあらはれ、そこから種々の誤解や議論のゆき蓮ひが起るばかり†なく、思考に射する言語の
機能は、話者や筆者のま観にまで反省と論理の錯綜を輿へる。
それで言葉の問題は別としても、私たちの宗教観や宗教論に於て、一つの宗教と諸宗教と、ま
β
た各宗教と宗教一般といふこと∼が、はつきりと区別されずに取扱はれることば屡々あるので、
宗教わ辞る時に捉へられるも¢
であつても、その方法論的過失は同じことであ丁り、そこにまた一つの宗教と諸宗教との混同があ
って、もし特殊的なものを無制限に普編化するならば、・てれがいづれの宗教から見出された理法
も一宗教の原理が、必ゃしもすべての宗致を支配する普偏的なものでないことは注意すべきであ
考察と理解をす∼めることが、何よ♭も適切な方法であることは疑はれない
けだし宗教の諸現象の訣明には、一つの宗教ことに内面的に著しく蓉展したもの.について、深い
一
宗教特に俳致を中心とすべき甘といふ意見も、近頃さかんにぁらはれてゐる。道理写﹂とである。
るか、とにかくこれを規準として考へられたものでぁるのに封して、今後の我々の研究は東洋の
欧米の赴曾で生れたこれまでの宗教の研究が、多くはキリスト教を出立鮎とするか締着鮎とす
して見る必要がぁることは確かである。
を語る時には、これらの中でのどんな意味の宗教についてゞあるか、少くともこれを自分に反省
が見失はれ、いつか大なる誤審が是認されるやうなことがあつてはならない。そこで人々が宗教
とは、もとより互に開聯して考へらるべきであるが、これがためにそのま眼鮎としで捉ふべきも
が或る程度までは宗教といふ事象の性質上除儀ないことでもあり、かつ個々の事賓と本質的概念
時としてはそれが自他を無意味な迷想に導き、無用の諭蹄を費させる仮になることが多い。それ
β
宗救わ療盲時に捉へられるも¢
回
る。これがすべての宗教を批判せんとする宗教畢の立場からは、特に親しい宗教についての主観
的な見解が、
すい宗教については、この警戒も全く不必要ではない。
また同じ宗教でも、それを過去の歴史や現貰について考へるのと、その清水を泳想した♭主観
的に理想化して見るのと、その説明や評偶に甚しい偏庭のあることはいふまでもない。しかもこ
れがまたま軌の信仰や愛書と開戦して、畢的にも屡々錯綜して諭せられる場合が多いことは、こ
れを批判する上から見のがLてはならない事賓でぁる。客観的な考察には宗教の寮生や史質が主
として着目されるのに対して、自分の信奉する宗致は、それ自身にすでにその好ましい方面だけ
が邁揮されてをり、なほこれを未だ現はれない最上のものにすら引つけて考へることが多い。そ
こに同じ名を冠せられセ宗教が、質際は全くちがった封象としで典へられてゐるので、信者とし
ても批判者としても、これにもとづく議論の触齢に悩まされるのは、その宗教といふものに対す
る反省が十分でないことを示してゐる。
なほ歴史的に事賓としてあらはれた諸宗教、乃至まだ現賓にあらはれてゐないでも、具憶的な
ものとして想定された特殊の宗教のほかに、宗教そのものとか宗教一般といふやうなものは、一
つの抽象的な概念にすぎない七いふ非難がある。これは非難といふよ♭も、或る程度まで鼻音で
4
ある。しかしたとひそれは抽象的なものではあつても、研究の封象としての一つの存在ではあアワ
かりにこれが事茸上の諸宗教をさす場合でも、人々がざんな事象を宗教と怒めてゐるかを考へ
される鮎である。
に封して、その理解と反省をす∼めることこそ、いづれの側に向つても問題の解決のために要求
そしてむしろそれらの内容を、時に應じてはつきりと区別して考へ、特に度外成されやすい意義
ば、強ひてこれらを一義的に決定して見そ1とは、おそらく無理でもあら不必要でもあるだろう。
かくLて宗教といふ言葉や軌念が、時によつて種々の意味や範囲をもつことに注意するなら
しないまでも、軍にこれを﹃あつた諸宗致﹄の普遍的な概括と解し去ることは許されない。
畢の目標とするものとは、その間に可打7りの駐離がある。壊者を﹃あるべき宗教そのもの﹄と限定
のは除儀ないことであるけれども、こんハ与意簸での宗教一ざ語るのにも、宗教史的な考へ方と宗
考察に多い傾向である。したがって通俗的な宗教の論議に、この鮎から甚しい混乱が適って凍る
一般と小ふことが、直ちに諸宗教もしくは各宗教の意味に理解されることは、特に歴史的科畢的
の諸宗教といふ観念と、必ずしも同じものではない。これがまた賓際には屡々混同されて、宗教
得るので、同時にそれは具髄的な特殊宗教とは甚別さるべきであり、鹿史的な事茸をかへらみて
占
てみると、その見込や解辞はさらに区々雑多であつて、これを一つの鮎に締結せしめることは容
宗教み蘇る時に捉へられるも¢
五
宗教を経る時lこ捉へられるもの
六
易でないのみならす、それには屡々宗教としての重要な方面が看過されてゐるものが少くない。
宗教を考へる時に、私たちは何よ♭もまづ一定の教義倍系や、これを信奉するどれほどかの人間
の集囲もしくは敦園組織を想ひ浮べる。そしてその各々の健系や個々の数園を一っの宗教と見な
し、それらの絶和が諸宗教であ♭宗教一般ですらあるやうに考へるのが、普も今もどこの社食に
も習慣づけられた傾向である。その僚系や組織の整理と制度化は、貰際に於て程度の問題であ丁ク、
それら相互の対立関係も、相反敵対から、類似聯合のそれにいたるまで、仝健が決して一様では
ない相対的なものであつて、一つの宗教としての単位は、つねに動揺して明確でないのである。
それにもかゝはらすこんな見方が少くとも常識的に、もつとも有力なものとして行はれてゐるこ
とは否定できない。そしてこれには教主や曾議によつて統制された集囲をま限として、カナダ監
督敦曾とか天台宗眞盛況といふやうな特定の敦園を、夫々れ一宗教と見る制度的な見解と、彿敦
マホメブート敦といふやうに、比較的にひろい統一をもつた教義燈系を、宗教の質憶と見なす考と
が、液温には区分されるのであるけれども、茸際には多くこの雨着が、どれほどかの歩合で結合
されて、便宜にしたがって人々の宗教観を形ってゐる。
それでこんな制度的i邑it邑。邑なもの、整頓承怒された∵室F≡isF乱もののみに宗教をみとめ
ることは、一方では宗教の赴曾的集園的な見解となト、他方ではまたこれを輿へられた数囲や敦
β
我と見なす客観主義ともへ与つて凍る。換言すればこの立場からする宗教とは、人々が宗教
をいとなみ、宗教的になり得る唯一の手が∼らとしての散骨であ㍗り、各人がそれに蹄供し信奉す
そしてこの場合になほその人の説くところの致や、信仰内容としての思想を、特にその宗
するならば、それは個人的主観的な見解が板柾となってゐるのである。
が、集囲的客観的な宗教観であ︹1∵その宗教的ぢ経験そのもの、もしくはその信行の感度を意味
らの礎化でぁる。すなはち何基の宗致といふ時に、その人が属する敦囲や信奉する教義々さ
リスト自身の信仰や絶倫の内容に、宗教そのものが動いてゐると見るのは、宗教観としては
教としてその敦囲や教義に宗敢の本鰹をみとめるよーリも、ことさらキリストの宗教といつ
開聯してま軌的な信仰や生活そのものだといふ個人的、主観的な宗教観が強調される。キリ
教心埋草の立場からは、宗教が個人の経験であト、輿へられたる教義や敦園ではなくて、こ
対して宗教を各人の信仰にみとめる新教の傾向や、まとしてそのま軌的経験や意識に窒息す
れ、宗教史に於てもその資料取扱の便宜から、自然に助長されてゐるやうである。だからこ
客軌的所奥への傾倒からも凍るが、特に散骨とその侍統を食重するカトククなどの思想に支
ることよりは、その所信の封象としての教義そのものである。こんな見方は通俗的に捉へや
7
見なすことは、素朴な批評などに屡々あらほれてゐるので、それは集合的に保持された教義
宗教わ誇る時に捉へられるもの
七
宗教む経る時に捉へられるもの
八
敦とするのと同棲に、むしろ宗教の形態的な見方といふペきである。これに封して信仰から抽象
した思想や観念よhソヰb、これらを包括しての信仰の動き、すなはち個人や集園の宗教的憩度その
ものに宗教をみとめるのは、機能的な宗教観とでもいふか、とにかく畢的には一つの重要な立場
、
である。スポートを考へるのに、野球蹴球庭球などの種類や形式をかへりみ、それらを支持する
組合やクラブを単位として見ることも必要ではあるが、これを本質的に見たら、人々が夫々れの
形と〝−ルによつて、遊び競ふことがスポートであるやうに、宗致の詩形感としての敦囲や教義
を是認しても、結局宗教がこれらの形式をとつてあらはれる集囲や個人の宗数的機能であること
は度外成してはならない。それ放この機能をその形愚によつて区分して諸宗数を教へることは便
︰宜の問題であつて、それらの形態そのものが宗教であると見なしては.、宗教を最密に考へたもの
とはいはれない。
もつともこの立場からは、一つの宗教といふものが、それを形膿的に見る場合のやうには、容易
にかつ簡明に捉へられない。けだし生活機能を中心として宗教を見る時には、たとひ人々の信仰
の内容や儀租の形式が一致してゐても、各人の経験や憩度に於て、夫々れ燭自の宗教があるばか
りでなく、桑園の宗教的生活でも個人のそれと同様に、時間的に断頗があるのであつて、それら
が必ずしも同じ思想や形式で一貫してはゐないから、極言すれば宗教的経験や感度のあらはれる
β
回時ごとに、そこに宗教の単位をみとめる外ないことになる。こんなに突つめた宗教の把握は、
常識的には不可能に近いことであ♭、宗教の種類を宗教史的に考察するには、無用の努力でぁるか
も知れないので、したがって一つの宗致を、一定の時間塩績する各々の信仰状態や行男と見なす
ことは、塵尭上これまでの宗教観にはほとんどみとめられてゐない。しかし長い歴史と襲化をも
つ宗教を概括するためL、これをその形式の方面から捉へる必要はあるにしても、賃貸の上から
考へた宗教自健が、それらの形式をとつて動く人間の生活であり、時間的にぁらはれる経壌また
は活動の過程でぁることは事茸である。そしてこの意酸からする個々の宗教ほ、その経唸の内容
.
忠想や活動の形式の抽象ではなく、一定の時間有機的に連績する具億的特殊の生活態度であつて、
例へば人々が或る.日紳を想起してこれに斬る時、その紳の観念や所の形式よhソーb、その時虞に限
定された斬ること自憶が一つの宗教だといはぎるを待ない。これはぁたかも衣服といふものを考
察するのに、その国土、性または階級による形式の種類を教へ、年齢、寒暑及び儀頑による舜化
を見ることも必要でぁるが、衣服の音質ほこれらの形式を配合して、装飾、保健、儀祓の機能を
はたすやうに仕立てられた装身物でふ∵り、
あるのと同棲である。
もちろん機能的に見た宗致は、これを形憩的将にその知的思想的な方面から見た宗教に比べて、
宗教む経る時に捉へられるもの
九
9
宗教を語る時に捉へられるもり
︼○
具膿的な揮励や活動といひ得をのであつて、これ一で人間の生活全能から見たら、それもまた一種
の抽象的な存在であることは否定するわけに行かない。宗教的経験を単なる戚情として説明する
ことは、心理畢的にもとうてい許されない謬想であるけれども、それが生活反應の原始的な形鹿
で今Q情緒的複合から出立して、多少の観念や思想を包合した情操の鰻系をなすものでぁること
はみとめなくてはなら互い。それは信仰といひ愛といひ、尊敬といひ従属といひ、種々な言葉で
いひ表はされて、しかもそ汀が何れも適確にその宗教性を指摘し得ないやうに、事賓上時によつ
て囁々の心情を随伴し、それらの配合からまた複雑多様な慶化を示してゐるが、それらに共通す
る根本的な要素としては、畏敬または紳聖ともいふべき情操的複合を指摘することができる。そ
してこの複合はこれ一どその観念内容や、その戚情的色調強度などに分析抽象して見ない限り、現
讃とはなれないので、これらを全鰻として意識するのが、人々の生活紅顔の賓際である。それ故
る。紳命に封する畏敬の戚が同時に道徳的な義務戚でふγり、穀物の神聖は必然に経済的な償便意
嫌多な経験にも不可分につながって、現賓の内部的な生活としての経験を形ってゐるのが常であ
な戚憤や観念がこれと結合して、その多様ぢ慶化をあらはすばかりでなく、宗教とはいはれない
験されることはきはめて稀でぁつて、その威受的な方面だけを見ても、上のやうな種々の随伴的
賓の具憶的な経験ではあるが、質際生活に於てこれだけが他と切りはなされて、箪狗に純粋に経
/
JP
これらの経験の中から、特にその宗教的な要素や意味を、適確に分析七て見ることは、畢的
宗教な語ろ時に捉へられるもの
に徒事した♭、宗教的な行勒がそのまゝ道徳、政治、経済等の生活であるやうな場合は、個
同時に、宗教的な使命の落行でぁつたり、租先に射する奉仕として、民族の繁農をもたらす
性質をして多方面ならしめることが少くない。研究に没頭することがヽ串間への寄奥でもあ
他の動機による行動と苦行の上で一敦し、一つの行動に種々の勒梯が結合してはたらき、行
く、事賓上Ⅰ㌻り多くそれらと結合してぁらはれる。換言すれば宗教的な.動機による行動は、屏々
質をもつのであるから、外面的には他の非宗教的な生活々勒との分斉が明かでないばかゎで
れ自燈に宗教的な特徴を示すこ.とが少く、むしろその内的経験の特徴によつて、それの宗教的性
感度で雪。そしてこの宗教的勒向、ことにその内橙的な活動は、その心的経験に比較して、
それは屡々憶駿と呼ばれるやうに、内外の生活を通じて有梼的竺健をなすところの反應でゐ
にそれは必然に衝勒や意志のはたらきと結合し、そこから内債的な活動や態凌がぁらばれる
る戚受ではない感動がふくまれ、その威傍白億が一つの心的感度に外ならないのであるが、
ことに宗教的経験は一方でいちじるしくその勒向的な方面をいつ。すの情操といふ中にも
獲たところの宗教なるものは、必ずしも具臆的な生活経験そのまゝ†はないのである。
業としては可能でもあり必要でもあるが、その作業自慢が一つの抽象作用で通わ、それによ
JJ
宗教を誇る時に捉へられるもの
ーこ
も桑園でも賓際の生活には甚だ多いので、それらの動機は互に目的とな♭手段となり、時により
て豊作の位置をかへるけれども、他の動機を交へない純粋の宗教的な行勃は、生活全潰として見
て賓は陰ら多くないものである。祭祀や鹿邦など普通に宗教的な行勒と見なされてゐるもので
も、比較的に他の生活動機の加はることが顕著でないといふだけで、他方では衣食や娯業などで
すら、屡々それに宗教的な態度が加はつてゐることが多く、種々な生蒔々勒を、その一々につい
て宗教的打了ものと、他の系列に属するものとに直別することは、賓際に於て不可能に近い。そし
て宗教が他の動機をふくまない狗自の行動となつてあらはれるのは、最密にいふと極めて特殊な
′
場合であつて、むしろ他の生活々勒をそのま∼宗教的ならしめ、宗教的態度の下に行動せしめる
方が、事賓上はるかに多い。それ故行動の方面から見た宗教は仝健として、他の生活形式に依存
するともいひ得るであろうし、またぁらゆる行動に宗教的な態度や調子を典へるところに、宗教
の存在があると考へることもできる。この意味でも宗教は他の生活と分饉した特殊の行動や生活
ではなく、むしろ現賞の人間生活を、その動機や態度王っいて分析して見た時に、はじめてその
存在がみとめられる抽象的な機能にすぎないので、むしろこれを具簡約な生再現象の一断面と見
た方が、泉質に近いのではなかろうか。
もし宗教をこんなに把捉することが謬でないとしたら、それを個億的に教へたり、普通にいは
J8
れるやうな一つの宗教として指摘したりすることば、全然不可経でない←︺吉もよほど困難
て凍る。そして宗敢を客観的形態的に見た時に、概括的にそれを幾つかに分類Lたり、教義や敢
宗教を語る時に捉へられるも¢
い。宗教的思想や教義が同じでも、それに件ふ宗教的感度が人によつてちがふことはいふま
上から概宿したり分類する指標にはなつても、必ずしも宗教の個別的単位を決定する所以では
教に於て、さまで根本的な要素でないことは、前にも一言した通りであつて、それは宗教を形
らも考へられてゐるのは、すなはちこの意味lこ於てゞある。しかし教義や思想が機能的に見た宗
容や信奉された教義に根本的な鼻動のないかぎり、人は同じ宗教をもつ
をなしてゐるものと見なすこともできる。普通に宗敦は信仰だといふ前提のもとに、その思
て、少くとも人の年涯のどれほどかの時期、もしくは民族生活の或る時代を通じて、一つの
ら、事ごとにあらはれる宗教的鰻度は必ずしも偶発的な、各自別々の衝動的な駿現ではなくし
はその欲求の目的観念や理想などの思想的要素によつて、前後を通じて多少統一されてゐる
あらはれる宗教的感度は、個人に於ても集囲に於ても、その主なる封象の観念や世界観、も
を決定するものとして、宗教の類型を区分する一つの辛が∼りにはなる。また種々の生活々動に
滅する。もつともこの場合にもその宗教的憩度の基準となる概念や思想は、どれだけかその形
園の形式に於で個々の票数といふものを考へたやうな意味と必要とは、この場合にはほとんど
J3
宗教む語る時に捉へられるもの
一四
なく、同じ個人に於てすら、その思想や信仰が慶らなければ、いつもその宗数的態度が同じでぁ
るとはかぎらす、これらを現賓に一つの宗教と見なすことは、腋密な機能的考察としては昔を得
たものでな、︶。
まして人々の賓際生活には、その宗数的理想や観念の瀧制をうけない宗教的な態度や行男が、レ▲
串賓上可ヤ∴り多くあらはれる。極柴往生を終局理想としてゐる儒者が一病気には平癒の所願や加
持を超んだ♭、一紳の鈷理を信じてゐるものが、卜占呪法などの調和に宗教的な畏敬をもつたり
することは、現賓の人生に於ては到底否定でないことであ・る。そして粕曹に廣汎な宗教的思想の
憶系をもつて、生活のあうゆる方面を細大となくこれに結合せしめて・虻る人々に於てすら、卒然
と接する自然現象や、
経験を禁じ得ないことは屡々ある。これらを多軸的な宗教的生活だと批列する人もあろうし、斉
際多くの人はこんな断片的な経験をば、その倍仰の債系を中心にして見て、自ら宗教的なもので
はないとしで看過してゐる。しかし科畢的な立場からは、それが多軸的であらうと断片的であろ
ぅと、その経験、鮭度または行動が、性質上宗教的なものである以上、その人の中心的な宗教患
想や信仰に従属してもしなくても、それ自身で曹然その人の生活の宗数的方面を形くるといはぎ
るを得ないので、むしろそれらの一つ一つが機能的な宗教の畢位とも見られる。人々の宗教的生
∫4
、
活に於てこんな断片的な要秦が何れほどの部分を占めてゐるか、またその宗数的生活が金牌
宗教か語る時に捉へられ・?もの
ことはできない。そこには粍成り敬重や憧統的な依成はなくても、非惟系的ぢ経験と猫創的
ものもある。それが前後を通じて全鰻的に統一されないといふ理由で、断然その人に宗教を
じて、これ一三質する思想信仰をもたないものもあウ、またその範囲が狭く連結のきはめて
必ず信仰でなくてならないとは誰が断言し得るか。人によつて或る時代や時期の宗敦生活を
活のどれほどかの部分を占めてゐることを認めるならば、信仰はつねに票数であつても、宗
係以外に歴々存在すること、またそれが性貿上皆然宗教と呼び得るものであつて、その宗教
へ仏さない未組織のものである。これが可だアり有力な信仰思想の燈系をもつ人々に於ても
認されたものに対する猶創的なものでふ∵り、個人としても習慣的ではない偶費的なもの、
行動や思想の形式に於て、集脚的に制度化されたものに封する個人的なものであ∵り、赦曾
立した宗教に封する措凍の宗教とか、兼務に預想される甥想的な宗教といふ意味ではない。
これをいほゆる既成宗教に封して、私は未成宗教といつて見たことがある。それは歴史的に
も人々の生活にあらはれる革質はみとめなくてはならない。
生活統制力の如何によるの一であるが、とにかくこの統制の中に入らない宗教的なものが、
てどこまで思想的に純分されてゐるかば、その思想や信仰の憮系の大小、組織の精粗、及び
Jβ
宗氷な語ろ時に認へられ予bり
皮とが宗教的にあらはれ得るであろうし、弔質入生はこんな宗教的生活によつて多分に
ゐる。
これを宗教的生活として原始的なものであるとか、無侶危な宗教だとかいふならば、
題が別である。今は思想的統合のない宗教的生活にも、事賓としての宗教が存在するこ
その一っ一つが宗致の貰健であることを認めたらいゝのである。そしてこんな意味での
宗政一般といふ概念ではないと同時に、形態的に見て個々の宗教とか諸宗教とか呼ばれ
は全然ちがつてゐる。それは現賓の経験であり態度ではあるけれども、一そう贋い人間
断面でふ∵り、具健的な賓生活の一つの様式または調子にすぎない。これを抽象的な存
宗教だといはれても、機能的に見た人生の事賓は如何ともすることができない。
Jβ
寧発彿数と密教
∴
法華一乗奥言一乗有向優劣衰。
が既に密教への費足空不し、
︵一︺
大
凡遽那薬草歳々毎白長二念邁邦、孔雀、不審、傭頂、諸眞言等、護国要員
が叡山のま疏であ・♭、茂峨であつた。而して、邁那業を規定して、
︵こ︶
といひ、
︵三︶
連邦兼具令r催ユ習三部念諦︰
といひ、文
事策偽敦±密政
屋
徳
一七
城
密教への合洗が始った。﹁堆石一乗法、無二那無三﹂の一乗法華宗も、止軌、邁那所業の併置から
言宗は申すに及ばず。最澄に依って.創められた天台宗も、寧欒朝から引繚いた南都の六宗も、曹
平安朝に於ける沸教の基調は、南北に於けるあらゆる宗派の密教への行進曲でぁる。容海の暴
J7
夢真備歌ミ寮歌
︵rq︶ 大悲胎蕨菜軍港頂道場藤森畢言契膏声閲念滴文名顔護。
一入
といふ先のほヾ璽見之れ密教を修業するのであつて、連邦業といふのは、密教の代名詞に過ぎな
毒しを
かった。而して、止観光と遽邦業とを両翼とする叡山の沸教、いはゆる日本天台なるものが、其
の後、漸く止艶美奇聞いて、遮那業への邁進は平安初期に於ける敦界の偉軌で無くて何であらう。
霊に璽軍事密を分ち、唯理和宏を治産由仁配して、止粗菓七宛て、芸岩美晶に配
†がた
して、邁郵菜に宛て、終に理同事勝の洗を荒するに及びては、四明峰上、止晩飯に没して、連邦
︵八︶
︵六︶ 正に天に押する粕では無いか。同仁、固珍を経て、安然に至っては、自ら挿して真言宗といひ、
︵十一︶
︵七︶︵九︶ 或は暴言法華宗の稀を生する状態と焉♭、金剛頂踵疏、蘇悉地産疏から、菩提場軽義輝、稔舐経
︵十︶
鹿の積出と焉り、四一十門、五時五敦の数列と鱒ヱしほ、天台の一流悉く密教の大海に朝して、
︵十二ノ
岱に沫泡の如き退部の名目を存するのみ。名は天台宗にして、其の賓は密教以外の何物でぁらう。
謂はゆる台密なるもの即ちこれ、若し夫れ鳥旦の祖師を九鬼に起し凍らば、壊々たる萬里の白雲
に梵施せんのみ。
時は凡てを礎す。汲んや慶すべき要素を既に合存するに於いてを㌢斯くの如き叡山偶数の襲
化は固より怪むに足らぬ。併し斯様ぷ慶化を惹起した原因は決して峯海の暴言宗への翠なる撲倣
ではなかった。
J∂
に過ぎなかった。障って重源に対しては、
或宰十任心−列一二代改葬今血疏不足奉諭撃
今泉言宗此十住心次第用香、答有宝失政不一用こ十住心次第︰
と庇し、或は五菜を奉げて、
ル††へ十︻︶
寧策俳敦ミ帝政
を創造したのである。而して此の気運は平安全期を通じて愈其の度一軍将加したのである。
一大飛躍を蓬ぐるに至った。此の内外の二大契機は期せずして、平安初期に哲酵して、斯る基調
天台よbも、密致の全盛を示し、寧襲朝以来潜流した密数的要素ほ、容海の侍密を機骨として、
︵十五︶ に於ける密教の洗行であ♭。二は即ち閣内に於ける密教の要求である。中庸以後、晩唐の沸教は
叡山沸教の斯る鍵化の契機を点すものは、大凡二に分つことが出水よう。一は即ち海彼の大陸
いふのである。
丁つたではないか。邁郵業、畢吉宗、密教、名は三にしてその賓は即ち一、之れを耕して台密と
て、邁邦の全回何に没し去ったでは無いか。換言すれば、その日ら耕するが如く、真言宗と舜じ
でみるが、その到着鮎も亦到着鮎として認めぎるを待ぬのである。何の謂ひぞや。即ち出費貼は
.
正しく、天台一大固致の半面たる邁郵業の宣場に存したが、到着粘は又正しく隷定の字面を越え
と弾した。併し復び大局に立って大観すれば、叡山宗徒の出費鮎は飽く迄出費貼として怒むべき
Jタ
寧築俳敢ミ密教
駐 ︵一︶ 銭▲奉屯−筆致山澄利府毎春。︵惟荘集、笹十︶
︵ニ︶ 天蓋法華宗年分草生式。
︵王︶ 勒炎天真宗年分畢生式。
︵ア︶ 的㌘示大官護国食滞護国樽軽明墳ニニ十五。︵斬戒論、巷岬︶
︵五︶ 閉何等名琴錦教示、答請三乗敢是昇一顛、問何故彼三乗敢以負鼻崩軟↓答声眈毒手倶寧故也、同所一首理事供奉者其趣
如何、答世俗勝義副融不二鼻声理賀著三世如来月評意準星学事密︰同筆戯維摩般若法華等諾大乗敦於一此鱒寧何
等域耶、.答如毎腰椎摩等誇大乗数■骨是密教也、開署如レ重商是寧者、兵一︼今府立些弓祓撃有‘何等異沓彼華厳等経
姓一兵苧密、而声轟あ来訪智之旨︰故奥ム今所立見吉敷l別、仮令錐レ祝■少密官等ご㌘盛−究貞義如来祓密之意ギ庸一立地
慮那金剛頂等経戌皆究ユ婁如来事理倶智之藁是故匁レ別也。︵囲仁、蘇悉地経疏、巷一︶
︵〇 例へげ敢時間答の如きも、具lこは乳首宗数時間答ミいふが如き、叉別に引くが如く、空海め十任心わ列Cて.眞
首宗の用香わ給するが如き、叡山の件数わ以て、眞官宗ご自群・して居る。
︵︵︶
揃祀経疏三巷、安然鱗。
菩提場粧義痙五巷、阿珍群。
金剛頂綬疏七巷.蘇悉地群疏七巷、共に脚仁挟。
で、其の先に長放元年十l月云々ミぁる。
︵3 大原三千院蔵の悪党大師停ほ内題に、比叡山延暦寺乳首法華宗第三法主志免大師侍ヾ−ぁる。新本ほ巻尾圧具薩暦
︵九︶
四一十門、五時五軟は安然の眞百宗教時問答に訊かれてぁる数列。
天産大師。
)
)
釘珍部、大日経指師。
安然撲、乳首宗教時間答、巷二。
却
′、
′ヽ
(
)
)
(
︵十︶
」卜 十 −■一 一十● ■l■ 三三 =ニ ・一一
︵十き 平安朝に於け竺二大努力の抗申ミ調和、英大手慈善。︵日本俳敢史の研究、琴一巻所収︶
二
寧奨彿敦即ち飛鳥朝以水草斐朝迄に侍蒸した彿敢は、後世南都の六宗、又は舌京の六宗と呼ば
事欒儒教ミせ敢
● の一両を有する。而して、夫れ等六宗の貰際的方面−換言すれば、草準備数の茸密約方面は願
最澄が天台法華宗の名の下に、止軌、邁那、戒、藤の四宗を併置したのと、或鮎に於いて、共通
宗六宗といふやうな勃然たろ溝渠があつたのでなく、或は二宗、或は三宗を東草したのでぁる。
なかつた。一部の有識階級の畢何は夫れ等の教理を研究したに相違ないが、夫れでさへが元々五
然るに草葉朝に行はれた偶数は決して右の如き五宗とか六宗とかの抽象的概念に依る数理では
等の親繰を有しないといはねばならぬ。
密教とは全く練の無い偶数で軋る。故に此の敷からみて、夫れ等の宗派と密教とは、内在的に何
朝、隋、唐の沸教でぁる。随って、華族に幾身の密教分子があるとしても、其の他に於いては、
るゝもので、謂はゆる倶合、成賓、三諭、法相、華殿、梓の六宗である。即ち支那でいへば、六
・
︵〓
茹である。
る事業沸教即ち奈良の六宗と密教との圃係を諭せんと欲する。これ正しく本論文の目的とする要
以上は卒安朝に於ける三大宗派の一たる叡山宗の密教化の篠路である。次には、他の一宗派た
βJ
寧欒償敦ミ密教
る臭った断面を残して居る。
畢欒朝には種々の経典が、﹁宗﹂に何等の関係無く、各其の燭自の内容を以て民衆に接鰯した。
金光明経、最膠王経、法華経、仁王脛、薬師経、種畜浮土経の如く、謂はゆる﹁宗﹂なるものゝ
背景を脱して、如賓に、赤裸々に、数理的背景、若しくは聯絡無しに、直に民衆に接触して、各
其の功果を奉げて居る。随って、夫れ等流行経典に説かれてぁる傍、菩薩乃至諸紳、諸天が其佳
良衆崇拝の封象と満った。輩師、阿浦陀、吉祥天、群才天の如き其の顕著なる例である。而して、
夫れ等の対象に向つて、所願し、希求したものは、往生得股、樽迷開悟といふが如き、宗教的欲
求の最上位に於ける満足もあつたに相違ないが、一般的には、持病延書、五穀成熟、天下泰平の
如き、極めて卑近な物的欲求の満足が研磨されて居る。之れは一面からいへば、密故に於ける新
府の心理と同一であつて、謂はゆる息英樹益の法に外ならぬのである。容海が加水の説法に浅噂
趣と秘密趣の二種があつて、諸経中の長行や偏頗は珪嗜趣で、病源や柴性を説く本草経の如く、
秘密趣は詩経の中の陀羅尼で、法に依って、薬を合せ、服用して病を除くやうなものである。今
若し病人に封し、薬方を披讃するも何の功かあらん。必すや薬を合せ、方に依って服食せねばな
らぬと詮き、最膠王経を講する寧欒彿致の最勝曾を許して、次の如く述べて居るのは、研か我田
︵二︶ 引水の嫌ひが無いでもないが、亦這般の油息を造破した明言でぁる。
ウウ ノヽl′J
然るに、軍楽朝の係数に於いても、最膵三拝に多大の密教分子哲包合すること、薬師経の祉暢
然今併レ奉レ溝戯膵王折、低率共文壷談夷垂不詣俵レ泣声像、夢現修行姦レ国学祝甘露之撃
︰三︶
寧欒俳致モ密致
︵E︶
たものでなくして何でぁらう。これ即ち中居以後、晩唐偶数の影響を蒙った活ける賓例であ
であるに拘らす、其漁期せざる結果の斯くの如きに立至ってゐるのは、正しく大陸の畢風に
︵九︶ 帥法を受けて、小栗栖に侍へて居る。此れ等は何れも法相を、三諭を畢ぶべく入唐した事が明か
︵凡︶ 心地軌経の評者であるが、五基山に於・いて、大元帥法を僧へ、三諭の常暁は雲仙の遣弟から大元
て、密法を侍費し、購恋した例に乏しからぬ。今一二を奉ぐるならば、法相宗の登仙は大乗
身の留畢生が、大陸に於いて、.其の威する宗i巨細ち法相を、三論を学ぶと共に、或は畢ばゃし
︵ヒ︶ 摩河術諭を始め、多くの膚部の典籍の輸入のあつた事は、背く間はすとするも、伺賽斐の六宗出
次には大陸偶数の傾向との関係は、上述の叡山傭放と全く同一径路一ピたどつて居る。大
が密教に合流すべき内在的要素を包含することを認めねばならぬ。
る澄披が残る。而して、此れ等はたとへ井部に屈するものとしても、此の鮎に於いて、寧欒
奨朝には、たとへ、泰澄、小角等の密法に関するろら岬る樽詭を抹殺しうるも、荷動かす餞
︵六︶ 大群才天女壇、陳求壇等の行は、れた串が、正倉院文書の中に確鐙が今q。斯様に観察すると、寧
︵五︶
燃燈などの謂はゆる延命法を除いても、僻種々り壇法の行はれた澄墟歴然たるものがある。
エフ
寧欒儒教ミ密敦
.
二田
斯くの如き内在的要素と、外的影響とは、卒安朝に入って、愈其の度を高め、寧欒沸教の密教
への合流に加速度を典へたのでぁる。以下これに就いて詳に諭するであらう。
旺 ︵こ 信佗令には﹁宗﹂上る規定が無く、駈つ三ハ宗の名も見えねが、奈良朝の文書にほ、往々六宗の名が見えて居る。
正倉院文番の六宗厨子帳−こ見l少る宗名に、目撃戯畠、囲法性宗、鱒二給宗、仰律宗、糾薩婆多宗、抑成梵宗り六
でわろ。
︵ニ︶ 宮中乳首院正月御修法奏状、承和元年十一月空海。︵性環集、巻九︶
︵三︶ 日本にける金光明縛及び最疲王経、参照。︵日本件数史の研究、第一怨所収︶
︵〇 俳枕兼師如爽本願経︵達磨笈多謬︶に、阿雛の問に封︺、救腕首薩が除病の法を説く中に、七日七夜八分斉む受け、
種々の法にて比丘ぉ供琴し、暮夜六時に祀痔・し、七航の菓師像ね達す、l一の倣前に七燈み置き、︵帥ち四十九燈
な鮎七︶四十九尺の五色の幡わ造り、斯鍔四十九題を積む.へき=どが速.へてぁろ。其の他、菓師躍にほ陀羅足り
誰出もわつて、頼政分子が少く互い。業師溜増光如来本願功徳経︵玄典許︺には、除滅一切衆生苦情の陀羅尼ざし
て、南無薄伽伐帝、稗殺紐萱嗜、存瑠埠鉢卯婆嶋曝閣也、阻陀渦多邪、阿鼻嶋帝、三択三勃絶邪、恨娃陀、咤、
の阿C陀黒尾が紙かれてぁろ。叉、香積囲、金色襲米所行成就如死の陀羅尼も山亡てわー〃。
碑殺逝﹁々々々、々々就、三設硯帝沙河が説かれ、業師瑠璃光七仰木願功徳経︵二懸、哉沖誇︶l︰け、帝詫薄伽
伐帝云々
︵諷︶ 揮疏出納帳︵天平膵賓五年︺
︵六︶ 隋求地所解中綿所用井残雑物蔀︵天準賓幸四郎十月十六口︶
︵七︶ 案文朝−こ於ける偶数典籍の停東に就いて、︵日本俳敬史の研究.第二笹併収︶
︵∧︶琵仙ご其の縁の史料、︵日本沸教史の研究、弟l巷併収︶
︵九︶星雲唐弟子耐≒人授常噴政夫元叩像法文道具等、︵大元帥阿咤繕俗大栗歪、嘉抄猷箭自警砂敵枇
gヰ
停本
︶大元法由来軍人別苦難記︶︹以上、監仙嘉¢後の荒に収ご
朝事
三
軍安朝に入って、南都六宗と新興の叡山、末寺二宗との関係を観察すれば、最澄は初め南都と
好かったが、終には甚しき抗学を穎けて、其の死に及んだ。即ち一乗三乗諭と、大破小戒諭に依
って、嵐都六宗と正面衝突を演じたので、叡山の密教と南都との聯絡はあら得ない朕鰻と点った。
加ふるに、最澄の侍密は十分でなかったので、後れ自身でさへも、高雄に於いて、客渾の濯水に
浴した程である。之れに反して、垂海ほ常に南都諸大寺と園蒲なる交誼を結んで居たのみならす、
東大寺や大安寺と密接の関係があゎ、東大寺に眞言院を建て、輿頑寺に南固堂を建てるといふ機
運哲つかみ、其の影響は少からす首宗に及んで居る。随って、平安初期に於ける密教の潮流は東
寺方而から、大和へ流れる輯となつた。即ち弘仁三年十二月十四日の高雄雅頂曾には、大冊二十
︵一︶
二人の中、典頑、元興、東大、西大、大安等の南都誇大寺に属するものが、貿粂、澄得、卒智延
丑、脚環、願澄、股膠、蛋寵、光仁、悪讃、光忠、恵暁等の十鎗人が見えて居る。
興廟寺の南固堂に藤原内磨の螢麒で、冬嗣の道立するところ、不容茄索を本尊とし、容海之れ
を鏡した。之れ専ら藤原の繁柴を所願する馬である。其の因縁は不審罵索の浄土たる禰陀落山
二五
には莞の吹いて居ることが、不垂扁東沖慶衰言霊語にみえて居るからで雪う。績いて
寧無償敦ミ密教
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寧策俳敬一1密教
︵円︶
弘仁十三年二月、東大寺に重言院を建て、二十一倍を置いて、息英樹益の法を修し、淳頂道場を
建立したのでぁる。此れ等の関係から、密教は六宗の問に入ら込むを待たわけである。
併し峯海と峯築偶数との間にも、御かの粁格が無い事は無かつた。即ち峯一声宗未汲の画題がそ
れである。此の諭は強ち南都と畢盲宗上の問のみならや.、天台宗との問にも問題と焉つたもので、
いはゞ申安朝初期には一般敢界の問題であった。
之れに開聯して、三宗問に群論具備の諭がある。先づ夫れから述べよう。即ち天台宗が之れを
償撰とすろに対して、南都と眞言宗は之れを具現とするのでぁる。奈良朝の末に戒明の手に依つ
︵菟.︶
て、滞諭の侍蒸するや、先づ之れを疑ふたのは淡海の三船であつた。然るに、峯海は此諭を真言
︵六︶
宗徒の必修すべきものと定め、弘仁十四年、巷言付五十ロを末寺に任せしむることを定められた
︵九︶
︵七︶ 時、大日経、金剛頂紆、蘇悉地理等と共に、繹諭等の十一諭を修むべく事を規定した。而して、
︵八︶
︻ト︶
之れ皇日足するものに、常暁があり、徳一があト、道詮があ♭、南都は留峯海の意見に賛した。
︵十一︶︵十二︶︵十≡︶
此にも亦眞言宗と南都諸宗との一敦が見られる。然る.に、天台宗は極力之れを否定七て、償諭な
ることをま張して居る。最澄、固珍、安然の如き代表的の人物皆起って其の失を鳴した。
証 ︵一︶ 漕頂歴名。
︵ニ︶ 僧綱補任︵興福寺本︶第一義昔。七大寺巡鐙記。
ガ
1. ▼ ’、
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法敏活押遣
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︵三︶ ⋮:中ぎ禰陥落山東山状像高村山王お有乱写状闘鶏撃、井貫心買拭大平正、山上寧諾聖樹撃樹藤枝学業、山下∴ガ
ノヽ 七 六 五 ■■
虻凛併敢ミ密敬
二亮
雷野草苛、聖霊貫最云巧彗、豊孟慧、什富澤、夢之不垂於壁表芸、席穿雪一審、
︵十ニ︶ 智悪筆二蔵に文疑†る書の中に、左の如く準へてをる。
耳。
大安寺戒明法師者天鹿年中自レ唐終末、尾張大恰都芦停槍勘日、己勘成壷垂巌何以森撃取挙華厳任り此亦一息
象、眞酔夢梁、幸代筏提謬己同姦家琴著正義貧者従レ寿以降至高開元︼日録不レ載、疏師不−写l是以不足敵襲此論
不レ足レ夢誠琴何者劉辞不参明敦、・隋唐滞日録不義瓦銀︼故、英数官学不レ似義軍故、其教理相違本革故、
︵十︼︶ 守護圃界章の巻上之上、野良食券撃破因数位去芸空ハの中に左の如く六失を畢けて居る。雰日、汝引南歴討衝撃
︵十︶ 蔵諒途方馳。
此歴河野論−倶龍桝菩薩商法、茸有一相琴哉ミ鴻.へて居る。
︵九︶乳首宗束瀧の帥易成併載の中に、天童京辟・官印貞成併者、罷軌義盛京痍之文㌫寧藍量産之行ご空曹提心論央一
ホ鹿討街諭者桟持上顛敦盛持主祓撃大論撃先爽宕売声定、今以一瓦琉︼撃彼大乗可
巳上一部俵高官停法阿圃梨等中東死、
繹晴謝紆論臨︼部lニ巷
哲填補光臥殊に、左の如く見えてをる。
弘仁十野牛十月十日甘称。
鼻音宗所畢鉾符論目線。
淡海居士法子成明開梨香。
東大寺雪線、諸院章算四。類撃二代格、紋日本後記。
大キ種々魚獣︰︵出世解脱境像品第二十六︶
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卒業沸教ミ密教
徒£中天義博邑吐蕃叫未−事■彼此軍票
︵軍︶ 乳首宗教時間答、帝︼の中に、左ゆ如く鼠髄論り竹串を彗へてなる。
同便調節論、昔者戒明和上相乗之時、有上浦濾俗一論定卓侶論り叉帝人寺新羅閣僚珍也底ニモ是論新見由大空山沙門月
徳一は法相宗典頑寺の徒で、故ありで東国に居♭、岩波の徳一と辞せらる。又徳溢とも寄し、朗
起り、安然、宣淳等の天台畢徒又之れに呼應して、平安朝を通じての問題と腐った。
異音未決の問題は穂一に依って費せられ、巷海を始め、済邁、呆貴等眞言宗例の反駁相速いで
四
宥峡の梓論紗︵巷一︶等ふ参照ぜよ。
伺、此の論争に申して托、南北朝に下りて、仁空り捜決抄、︵怨二、二︶果吏の揮厘討紆論温飯事︵梵舶抄巷十八︶
論可夫引レ謹者可レ引鼻白地共詐之文可著一詐︼不詐不一足レ食レ詑乱。
二者不レ検畠文眞悌是非小野引慌猛菩薩祝着見せ討好論文、此諒是海和上編東和上以可高論昆叡山及諸宗皆琴薗
如く述べて居ろ。
而Lて、数百宗教時問答、第一の中lこ.空藩の成就箕輪み離するについて、空海が侶論な引く串わ駿Lて、左め
新羅中朝月山息妄走、後潅和上黄泉育三挙溌膏天下哀裔真山遭詮和上放海破古画琴立夢高率
梓蝉河野論、硯材、戒明初来之臼、浩俗列挙霊神義徳溢師引用、叡山本師硬筆面第三東上開高大寺新羅付珍屯云.
又、八束秘録︵上︶にも、左の如く述べくわる。
行天下可其甘符要撃貝鱒壁後有義基和上萩臨迷Ⅶ託中具骨鈷四人四失七失一論衰昇給小論痙下云工龍野軍歌引銭壷
墟”可レ謂額晦陸レ時、行蔵在レ蓮者也。
息純血、而回引角ユ砲柑論−証、答有‘居き諭付‘四大一、後有島暦畏l夏草−七失可次有亀吉鹿部主奏八良書宗之蔵之中一流−
′
第三
弟八
弟九
卯月成体疑
梵字疑
ほじり
揮巷疑
第十一
五
第智
五疑 決定二乗疑
毘度合那悌
井疑
十
幕四
慮
ー
銭塔疑
第六
最“渾・Lむ間に、一乗三乗の評論を惹起した卒安初期の一大給客である。徳一ほ大口経に封し、十
第二
一の疑問を提げて常時の教界に獅子吼した。十一疑とは、
第一 結集者疑
菩薩十地疑
容色掟
示偉人嫁 菜七
の十一條の疑問である。
今其の大綱を赦せんに、第一に結集老疑とは、大日経の首に、如是我開とあるが、此の経は彿
滅後入有年、大日加水が普資、執金剛手等の菩薩に封して説く所である。然れば阿難迦菓は既に
入滅して居るG若し龍樹の結集といはゞ、大日トり普貴に侍へ、普貿より龍樹に侍へたから、如
■
何ぞ龍樹我問と耕せん。然ら虻集者何人ぞ、著し普賢といはゞ、普貴は二乗凡夫の能見に非す、
何ぞ人間に交りて結集せんや。第二に紅塵疑とは、大日経の首に、﹁薄伽梵住コ金剛法界宮l設ユ此経こ
とある。金側法界宮は自受用の浄土か﹁他受用の浄土か、若し自受用の浄土ならば、下位見失、
虞不落失の二失がある。若し他受用土ならば、経に法界といふ。法界とは具如の名、鼻血理宮に
不逼ならざかなしで、摩醸首羅天王宮を指す事は出水ね。此の疑未決。琴こに帥身成彿疑とは、
瀧樹の尊書提心諭に、﹁今泉言行人能徒丸入魂位l考亦超i十地菩薩境界赤鼻言行人三行芦田、即
身成俳、一着行願、二者勝義、三者三度地とあるが、之れに二つの失がある。一行不具失、二閉
嘗欒儒教ミ密致
駒
三〇
寧簗儒致き専政
二 慈悲失、行不具の失とは、凡て菩薩は無量の行を修するが、絶て六度に簸して悉く亜すのに、
言の行人は六度の中の静鹿波鹿密だけで、除の出皮を行せぬから不具で㊦る。朗悲慈の失4は、
諸の菩薩は慈悲を旨とするのに、墨一声の行人は衆生を捻てゝ自ら先に成沸する履悲慈に於いて明
くる。笥四に五智疑とは、螢菩提心諭に、﹁東方阿閑彿成夫固鏡筆筒方貿生彿成年等位華南方阿
珊陀彿成−妙観琴買北方不定成就彿成コ々所作智串央批度合那倣成誌界智郎真如理︼﹂とぁるが、之
れに二失ある。一諸傭智不平等失、二除彿無智失、不平等の失とは、一切諸俳笛五智を具するに、
五方の彿は各一智を成する。こは唯識、彿地等の諸論に達する。除俳無智の失とは、四分の彿各
一智を成せば、鎗の四腫上下の彿は何智を成するか。第五に決定二乗疑と宜、螢菩提心諭に、﹁
定二乗之人堆顔入執誠有誌執大成一兎位︰以東身滅争赴義理撃知夫慮峯議然常寂姦レ可塾生︰
要待勤限等鱒方乃螢生﹂とあるが、之れに自語相違の失がある。即ち或は次身滅智といひ、或は要
特効限等満といふのが夫れである。第六に開示悟入疑とほ螢菩提心諭の註に、﹁準醜虞邁那経疏
翠東野阿軍配;渾法華経中開示悟入四字︼也、開字者開傭智見即是菩提心義也、示字者示彿智見、
置菩提行義也、悟字者悟傭智見、是符菩提義也、入尊者入傭智見、是般担姫義也﹂とあるが、大
8経疏は一行の造、何の経論に依りて開示借入を解するか。又、開示悟入の解は法華諭に達する。
第七に垂薩十地疑とは、大日鮭、華良禽部品、梵網経等にいふ所と、寵樹の詮とは臭って居る。
ヱ妙
如何か併設に背いて、菩薩︵龍樹︶の詭を信すべきか。第八に梵字疑とは、鼻音の徒は梵字は梵
寧聖沸教寸J密教
も穏和であつて、別人の軌があ一Q。尤も論敵に射する文でなく、抽象的に意見を費表したにも囚
次に稔伽諭に関する読が逓べてあるが、之れを最澄に対する徳一の態度に比較すると∵いかに
此所遥之諾疑間者、恐詐法差招l衰間墾唯欲誕訪疑密融智解二向臨信、藩学真宗l耳、民話同法者、其最速疑問森●軽彼萎
べて居る。
智の説と辞するが、ロ侍ならば信するに足らず、文倍ならば明文を示せといひ、終に左の如く並
に鉄塔疑とは、寵柑南天鉄塔にで、金剛薩摩に受法すといふが、文偉か、口侍か、暴言者は金剛
に軌雷奉行と今一Q。然らば第六番迄は併設、第七巻は人師の作で、併設に非るペし如何。第十一
底合邦如非、金剛手菩薩等に封し三十二申牢記し、即ち第六巻で、未だ虜累品を載せす、終の行
不迦・舜化身應二無用l致、﹂此疑未決。第十に経巻数疑と軒、開元銀に枇慮連邦経七審とあるが、地
得んや。﹁若法身説法老芦誰説法、若芦機説法者不レ軍他受用身應義用−敦、夢二乗凡夫︼説腋考此亦
身に過ぎす。此の怯身は十地の菩薩の所見でない。執金剛手等何で之れを見、其の詮を開く串を
成合都債疑とは、疏に﹁説︼︼此粧政即地底合邦俳本地抜身﹂といふが、本地法身とは理智不二の法
か、稔伽疏躍第五には、党天等の件とする。梵字は法然に在りといふは解すべからす。尭九に枇
天の作に非す、外道の作に非ず、偽の作に非す、法然にして在♭といふが、法然とは有馬か無焉
β∫
寧欒償敬ミ聖致
るものであらう。
此の疑問に封する眞言宗側で意見を費表した人は、平安朝では客海と済邁を代表者とする。容
︵“︶ 海の答辞は秘密漫茶足付法侍に、溺波子、了本師の問答として出でゝ居るのが夫れでぁるといは
︵二︶︵三︶ れ、済邁のは疑難決断抄といふのであつたが、今は散逸して、宣汚の明矢石諭の中に引かれて残
天台側で意見を螢表した人は安然と宣淳の二人である。安然は菩提心義砂の中に、徳一の第四
って居るのみである。
︵n︶
︵五︶
難に封して問難し、宣韓は明矢石諭を製して、徳一と済邁の意見を双ペ奉げて、自偶の意見を述
べて居る。其の詳細は到底本論文の如き小篇では過し難いから、絶て省略に附する。
拉︵一︶ 笹第二末に出て居ろ。最も付法博ミいふ性質上、付法に閲すろ徳一の疑問帥ち第十一餞塔疑に封する答梓のみで
ぁる。
︵ニ︶ 済邁は文綱の子、出家Jて仁和苛性信法規王に徒ひ、密教を学び、怒耳院に化、し、天仁二年仁和寺の停法骨に講
師写して理趣脛な請じ、性雀集が末部な亡逸し上のわ補ひ、招邁帽僚揮性⋮光軸脚砂三奪わ炎禁ト。
注疏わ作つtが、永久三年十一月十六日寂︺、九十一歳でぁつ㍗。
︵三︶ 寛淳ほ停明か耽らす。正安、嘉元の頃、明失石論五懸な作って、諸宗の論難む決持・し㌔奄五、懸六の二等−ニ眞
六の相関二巷li東寺の観音院lこ博lェり、巷五に、﹁正安元年己亥五月日記之、俗年七十六。夢空一年乙巳五月日再
貫宗未決ミ、津浪の疑難決断抄な収ゆた。之れに依つて、徳一に封†ろ漸進の態度を知る串が出先ろ
論了、八十二。﹂第六ドニ、正安元年巳亥六月日記之、俗咋七十六。夢嬰:年云々︵第五ミ同じ︶の奥書がぁる。
32
て居る。
︵囲︶霊に、開基作垂嘉十妄決東還書L芸文窟J、些妄決如何夢之⋮て、左の如く答挿完Lお
答今乳首宗石併教則寧哀歌二琴牽所蒜蒜、而四天真師誓、剛霊地監理欝敢之外、若妻還
密之歌哀、前四外更加東五故、今問鼓、汝俵義教何門垂疑、若約ネ乗︼汝我不レ立宝怖
嘲衆生無始本有蒜重森些亦成熟彿藩学此体重豊島ご−要約︼訊撃我許こ朝来生︼如墾作意起以後各位不
同放ぎ成彿姦淫別併記竺俳、苦学此俳−非詠首撃ニ、若約面教義許二間衆生本埜如姦凡夫志郎犬上十空一
冊鍍彿二億不ニ、祝事議彿i方法界無誌㌘此俳俵正荷併何智而非二軍然東南分開寧豆智三密事雲改名毒祓
密教車名義理倶密妄望誌俳−非詠青学円、著約義相−我立一切衆生非二竺心盲〓心一心故至−成併三高修行
荘有高級友誌静旦無毒来今可然後三世譜俳各社こ門え芯本渡︼故、徒末席迫門垂法界襲
加水芦喝故此軟申動学二切如野郎此轟也、若望−−此郁恵社主智門入員心木墾今虚妄智門一入轟界準五俳二
●●●●●●●●●●●●●●●■
故、不レ中森第二験併無智失霜汝雀以義教之撃雛義寧堅豆非毒手云々。
皆以−二間如爽−辞世、貞菅平等夏無議劣↓故不レ中誌壷〓諸廟智不平等失赤夢偏堵膵劣之社交十方併営同瓦撃
︵吉や安朝に於け三夫努力の抗争王領和、第三章第五節参照。︵日本俳史の研究、第二巷所収︶
五
其の後、密教の盛行に徒ひ、草葉偶数に於ける密教の浸潤漸く甚しく、奥頑寺の克典に至りて、
′■
終に手島の一流を生するに至㌔永く其の法脈を存して、速く後世に及ぶ串と点った。其の他、
定深、珍海、貰範、寛容の如き人々が輩出して、南都の六宗愈多くl密教の影響を受け、申安兼に
至りては、全く密教に合流する婁と飼ったのである。
寧策俳敦i密疲
事業併敦ミ電奴
三四
此れ等の影響が法式の上付アり、孝明の上なり、法具の上に移しく現ほれて居るが、併し夫れ等
はいつの時代に、如何なる方法に依って行はれたかは指摘ヰること甚だ困難である。叉、南都側
の侍詭に依ると、平安朝以前、既に善無長正博の密教が侍はつてゐたので、現行の修法や法式に
密教約分子があつても、夫れは台密、束密に閲しない奈良朝正博の密教であると主張するのであ
る。随って、夫れ等の一々に就いて論及する串は徒穿に属する場合が少くないから、まとして、
思想上の問題に就いて考察してみょう。
平安初期から鎌倉時代にかけ七、南都六宗に属する撰述の中に、密教的色孝ぎ帯びたものが少
からすある。併し夫れは極めて一部分上止る事もあれば、多分に亘ることもある。先つ最も早い
時代の著作の中には、願暁の最勝王経玄梶の如き、其の例として寒ぐべきものであらう。
︵一︶
願暁は元興寺の畢何で、襲賓、勤操の二帥に三諭一で畢び、点軌六年五月十六日、已諦の穿に依
りて梓師に任じ、同十六年三月二十七日寂した。かつて最膠王経の註祥十巻を編して玄梶といふ。
徒四位下文章博士播磨樺守菅原朝臣の序に、
将燈四依大師等
斯乃金光理窟之妙鍵、最勝法門之玄梶、改名日一玄梶︰
とぁら、巷首に、
蹄命三身正魔海
∂≠
我今暁rカ翠痙王一
寧欒靡数ミ覆放
顧若こ衆生︼住二不動一
例によつて、澄明さるゝわけである。
♯朝と殊るところである。随て六宗の畢者が密教に指を染めたのは頗る早かったといふ事が此の
即ち三論宗の願瞭が蘇悉地鮭や金剛頂経に関する知識を有する鮎は、明に平安初期の色彩で、寧
︵二︶
鮮悉地金剛頂等︰
二天、南紳所詮、文虞顔也、初是磯部、観音畢言即蓮華部、除金剛部、三部各三郎成一丸部︰贋如ニ
六軍秘密法政有︼三類三部︰一世奇襲説、二大舞岡唱、謂覿自在、執金剛主、梵帝、四王、親王、
義を述べてあるが、六に秘密法を説く傭の如きは明に密教に接鰯して居る。
.塵を説く、七に人を護り物を勧め、入に法を護ら温を弘め、九に現曹を刺し、十に准益を得の十
さんが焉に、三に憤悔を明さんが男に、四に滅罪を陳ペんが男に、五に菩薩行一里顕し、六に秘密
法一双、現利嘗金一双の五双で、更に夫れを開いて、一に捏盤を顕はさんが焉に、二に菩提を示
四を加へて、五双十義を立て∼居る。即ち菩提捏柴一双、憤悔滅罪一双、顔敦秘密一双、諸人護
第一に戯奥の因縁を説くに、初に迫田を明し、後に別線を述べ、別線に略して六哉を奉げ、更に
文を解すといふ五門を開いて述べてあるが、多くは隋唐の註疏を緬給して文を溺して屠る。先づ
との一個がある。一に興因を叙し、二に宗憶を顕し、三に数硫を明し、四に名義を辞し、五に本
35
寧欒簡敢吏密致
三六
平安中葉に及んでは、此の傾は愈助長せられて居る。その代表的人物が手島の眞典である。
\
異臭は兵藤寺の任、法相を栓室の仲算に受け、因明に委しく、且つ密教に心を傾け、著すとこ
ろが多く、世に子島先徳といふ。長保五年十月十六日法榛に叙し、寛弘元年十月十四日、七十歳
︵三︶
にして寂しセ。薯はす所、因明四相違私記四巻、囚明四相違段格記一巻、因明纂要略記一巻、十
人道義群生起一巻、薩達磨芽茶利迦素但撹略領一巷、胎戴界儀軌解繹三谷、韓日是駄都私記一審
等がある。就中、胎裁界儀軌解繹と縛日羅駄都私記は密部に関する
決以凍の著作でぁる。彼れはいはゞ凄数に射する疑難であるが、これは正しく密教を姐逃したも
其輿は輿頑寺の畢匠として、常に北京の大骨に列し佗事が御堂関白記に散見して居る程でぁる
のである鮎に於いて、南都の畢徒に於けろ劃期的の撰述である。
︵円︶
から、台、東南東の畢徒と接する革も多く、自ら昔時の主潮たる密教を昧ふ横倉も多かった串と
思はるゝ。後世、手島の一流を点すも亦所以あトといはねばならぬ。
具奥の密教に関する事相部類は随分渾山残って居るが、事相に回する事は門外漢たる金の分有
に非るを以て、今は終日尾駄都私記、胎就界儀軌解渾等に就いて、一應の解蒋を逓ぶるに止むる
外はない。
耕日羅駄都私記は不審評の金剛頂蓮華都心念涌儀軌を注澤したもので、韓日羅駄都は金剛界の
3β
楚菅でぁる。
秘密之法意趣難r解衰言印契任エロ輿享、但其軌行文障義蓬.始行初心之人可速三郎身成併有依−替
見︰指三共位次︰同率之発車留レ意耳﹂
と設出Lて、﹁軌云﹂として儀軌の文を出し、﹁私云Lとして私滞を述べてみる。要は儀軌の文を唯
識の階位に配して、一家の見を立て∼居る。而して終に云く。
金初畢誌邁︼滑加工嬰見肩一正l秒間束勤王師訣嘉以芦滑;暗昧一配繹如覿、邁入一痴鋼コニ賓放乏、虚言
・ 細語坂占勝義l故、以己此功徳︰自他倶利而己。
天元五年琴育三十五日腎春山筆記畢、興福寺秤眞興
とあるから、四十人歳の作である。
寧欒俳敦ミ密教
金普撃慈氏大士之宗谷尋二金剛薩唾之逆嵩㌢人両家宛如融部之費粍契二一道惑招三成胡之噂姦言
●
如く述べて居る粘から考へて、法相、密教雨宗調和の意に出でた事が察せらるゝ。
と説き、﹁軌云﹂として儀軌の本文を出し、﹁私云しとして辞する事前者と同じく、総括の文に左の
恕一二畢而己。
抜界深廣由敦難読、若不迦恵略知知二英和鶉嘉以綾廻こ愚情之角慮祓尋二聖旨之素懐︰唯願三茸令
蓮華胎戒界儀軌解梓上中下三巷は↓法皇阿閑梨集の胎戒界儀軌を註澤したもので、
.
∂7
辛欒沸教ミ密敦
細語皆蹄−藤鶉︰願施一︼此書︰一切成彿夷。.
正暦甲午歳霜月比輿頑専修行拝金剛魔集
ヽ
即ち異臭五十六歳の作である。之れより後、密致の潮洗は潜天の勢ひを以て、南都に打寄せ
である。
技
︵ニ︶
御堂関白馳の長保六年に、嵐其の事が左の如く叙Lて居る。
︵l︶ 肩綱補任、共編寺本、巷一。
最鯵王座無橿、巷一。
僧綱補任、共編寺本、巻一。
︵皇︶
︵H︶
腎和書琵管品物等茄M
十盲、御芳命請師眞東女、層不レ少、以主誓念敷−彗品
腎時参内、欝真供奉藤質妄借入前、参入一面中悪所右近豊御前儀如誌這轟師論苧、立一座、召−彗−
仰▼敏レ任添少蛋白承レ仰、耽真下葬併、儀高次−就−−温座前潤
二品法横芝婆臭許慧前畑
腎品少霊異霊曽典、農芸絹ニニ十琴此賃霊泉人併聾。謂十︵訳鳩畑︶
大
天仁の頃、京都清水寺に定深あら、法相宗の人であるが、密故に心を傾け、著すところの教書
が今に遣って居る。即ち
β∂
四十手要決
千手経二十八部衆渾
一巻
一幕
〓︶ の如き、其の一例である。降て東大寺に書滑珍海が出て居る。五掌文殊像の作者として名高く、
︵二︶ 玄澄本の帝輝夫及望口群天の如き其の婁風を侍へて居るっ春日元光の子で、魔樹に三諭を、醍醐
寧欒儒教ミ軒数
名の今に侍はつて居るものは、
ェハ︶ らる。又西方に心をかけて、珊陀を信仰した人で、其の方南の著述もある。賓範の薯として其の
招提寺に行き、戎伶に遭ひ、戎品を受けたといふ事に点って居る。戒壇式一巻を撰し、今に侍へ
耳範は典廟寺の畢何で、密を醍醐の巌魔に、止軌を横川の明資に受け、戒律の須磨を悲しみ、
南都では逸する事能はぎる互匠である。
ては、眞具と共に最も傑出した阿閥梨である。重巷は賓範の門下から出た人で、之れ又平安朝の
定深、珍海と並んで峯ぐペう人は賓範と重巷の両人である。就中、賓範は南都系の密教家とし
としては南都の代表的人物で透る。
︵六︶
提心集、法定往生集、人語義幸研習砂、一乗義私記等、其の地多いが今一々列拳せぬ。凍教養家
月廿三8の寂である。著はすところ三諭に関するものが多く、三諭玄成文竜野繹土鶉私記、苛
三賓院の定海鋒に湖底寺寛信に寧ぜ受け、傍ら渾土に給し、螢袋と交遊があつた。仁中二年十一
へ≡︺
βタ
れ強敷詰顔料文
曜親抄
病中修行馳
親日在三昧託
束大帝戒哩式
犬種要諦抄
犬種序分哉
一巻
一巻
一巻
二管﹂
一巻
二筍
七啓
一巻
寧欒併敦ミ密敦
花蛇論五念門行式
般舟三昧経観念阿鞘陀悌
眉間自尊巣
鴎修電文
である。就中、大綻序分我と大紋要義砂が共に大日経に関するものセ、密教著述中の代表作であ
る。此の外、賓範と辞典が藩頂を受くる用意に就いて、心得べき僕々を談じたもの一曾華厳したむ
のが七谷ある。入点茶羅紗といふ。静輿は如何なる人か明かでないが、或は賓範門下の重巷では
︵七︶
あるまいかといふ読もある。斯書の古岩本は諸虞に侍はって居るが∵辞典に封し的確な史料一ピ提
供すろものは、未だ管見の及ばぬところである。
賓範の浄土教に関する思想は、非常に密数的色彩の濃厚なものである。未だ之れに関する撰述
︵入︶ を得ぬが、嘩音の諸家念彿集に引くところを観ても、其の一斑は分る。天養元年九月十日に寂し、
4β
賓範の門下には重巷、玄充、鼻聖の二大が秀で∼居たが、其の中点も鼠はれて居るのが重春で
へ九︶ ﹁件聖人年凍懸二心安拳之申封而時所詣也﹂と台記に見えて居る。
︵I.︶
︵十一︶ ある。三諭と眞言た長じ、又西方の欣求着であつた。此の事は疑然の浄土源流章にも見えて居る。
其の著として名の聞えて居るものは、
西方集
成宗教相砂
深密鯵
十任心略砂 又多肝心砂一
昔隠心論紗
学託紗
五相成負託
辞せ雑記
十 三
JJ
寧欒件数ミ密敦
︵三︶ 本朝世紀に左の如く見えて属官。
︵ニ︶ 其正本の吉祥天1こは、竜洋天、珍海撃、大骨都定樋本号也、撞永二年l一月十五寓り託がちる。
妊 ︵一︶ 醍琴二宗院並に高野山金剛三昧院鹿のものが聞えて居る。
︵卜二︶ −†り十までを収め、問答解辞し、終に保建玉年光明山で撰した串を記してぁる。
でぁる。就中、十住心略砂は刊本がある。十住心論砂と越し、上は諭三より五、中は六、下は七
巷 奄 葛 巻 巻 春 巻
専業沸教ミ密教
ヽ
−
′
由二
仁平二年十一月廿四日甲寅、天晴、観音院港項也、横中約言忠雅脚、桟右中郷光屏朝臣外詑史各↓人、参入行事、
吉夜珍泡己罷入滅云々、三論之喝畢也。.
′
\
︸
ノ
︵ご 奥に云く。保彗一年七月−日勃発、自︼夷承之比蒔待▲喀騒南三年之間抄乏、近日分レ巷、三論拳沙門珍海記乏。
︵五︶ 奥に云く。大治三年政教戊申八月六日、沙門珍海寄託。
.
︵火︶ 諸宗章疏銀、長西録。
︵七︶束奇襲菩提院本懇七1こ1ェ先の奥書がぁる。
望八晶三月中旬比、豊明山之霊夢藁葺
来賓如箕
生年五十一
●
先師大何部御口授云、此書箕範辞典両人談話抄云、小野慶椎浄侯夙云此香ハ故御虜御抄也云云故御厨者鰐典阿閑
梨也、秘中極秘心可レ俵占博之−
同軌智院本り巻七にほ、方丈¢前lこ更に先の一節がぁる。
ノ
建具七年十二月六七八日之閉、以南本赤翠交合丁、一字一旬無−−相違瓦本∩]経蔵本交無異丁場、薇代不口詑レ之、
械少僧都冤恕画十三
唐招提寺本にlェ質砥ご騨奥の事ほ見えね。第一各の奥lニは、連泊元年八幡地普段幹院に於いて守黛の写しt旨の
記がわり、第七怒の奥にも、法治元年寄寓町記がぁる。
七撃芦地、由誌哩草加持戒鳥樹≠常現象官有来信解願力荘厳無丑、其土中央有島乾埋草議孔雀生長挙能座轄
可一念基軸陀四税法貞俵正”浦河弼陀者是蓮華部革労便具足鱒是故俳子弟歩記念茜方有融真名日毎準五大所造
︵∧︶ 三條な引いてぁる。試lこ︼條ぉ出富う。
●●●●●
地位河沙由旬、有鼻八萬四千相”︼一相各有入萬四千琵好叫︼一好有−八萬四千光明”是併一貞鼻白法泉常世不袋故自
輪王将‘大串鱒垂療■時宜産上有基月輪森中有島蓮華∵翠上有義子︼成三厭耶形荊成▲本尊阿靖陀俳風高六十億那由
性鼻.自愛法欒故自受用、今砧受用一故地愛用、紳濯襲北貞平等瀧出故等浅草如王国土義挙四積商此俳男優宥一差
42
帥£彼彿︼我心今念下郎二我心−併主又知即上彼土一我心音レ生▼即▲我心衰去飽食節食、能生所、生、皆意不レ勅こ大法昇一
別東南北住重機租熟完誌併貞有夫小鬼細妄櫨義挙平等〝ヱ知見俵正帥是我心︼大法界無蓋別故、明知
︵九︶ 台紀.天草元年九月十日、
後脚、今日賞範上人於▲光明山え滅云々、先日閲一疾虫遣−式部大夫盛挙向−之夢云々、成人云、我生梅欒云々、件聖人
l
▲授浄吉夢西方琴二莞
年束懸芯安寧之由、封両時節静也、又或人云、結線弟子開▲青学云々、奇異之事也。
︵十︶ 節煙後銀、後二。
︵芋︶ 彼世同時有克明山室著大襲帥三論項匠也、魚研l密琴
︵十ニ︶ 保漣五年三夏之此於一光明山草拳抄丁、沙門重審。
七
.以上平安朝に於ける寧奨沸教と密教との関係に洗車てⅥ交渉を大観したが、其の趨勢は叡山宗
が非常な速力を以て密教に殺到したやうには此すべくも無いが﹂併し粕曹の速度を以で密敢に合
洗した事は怒める事が出水る。抑叡山宗は前述の如く﹂最初かち止軌、道都の封丑で、いはゞ二
分の︼かlニ分の一の密教を含んで居るので匂渇から、其の合洗の速度に於いて駁目す.ペき現象が
見ゆるのも、固より理由のある事といはねばならぬ。之れt反して、事業彿厳欄方は草欒潮に於
いて、幾分の散訣された密教分子と、信仰の
への合流に封する契機を構成したに過ぎぬのであるから、此の程度の速力で合洗したといふ串に
於いて﹂細管の成揖を示しセものと点さなければなるまい。何れにしても、密教への合洗といふ
寧無償秋モ笥扱
等簗俳致ミ容赦
串が申密朝の大勢である串は看取されよう。
抑寧欒沸教といふ名の下に絶枯せらる∼謂はゆる六宗なるものに、支部でいへば、六朝の沸教
であ♭、隋の偶数であ丁り、唐初の沸教である。夫れが日本に侍成って、表面上唯侍統の一面を成
守して、何等の慶化をも示して居ないやぅであるが、其の賓は時勢に應じ、外務の刺激に反應し
て、相皆の舜化酢水し、環境に順應すべく努力して居るのである。例へば、法相宗が国内二明を
併せたるが如き、梓宗が鎌倉時代に慶通を試みたるが如き、又春日権現井に八幡大菩薩に関する
本地垂迩の信仰を完成して、春日畳茶羅や春日権現駿記の如き重病を産み、付形八幡の如き神像
を創作したのは、寧欒沸教が平安朝の紳俳融和の風潮の中から奉げた、生きんが焉の苦情の叫び
ではないか。束密、台密の急潮の渦きに沈みつノ∼も、眞奥の如き調和的濃度が出たのは、伸びん
が食めの闘ひでなくして何であらう。鎌倉時代に、碑、念彿の新興偶数の黎明が凍るや、南都の
畢者も亦活きんが食めの努力一で試みて、時勢に追随せんとする意気王燃えて居る。食玄、固照、
良邁、疑然等の浄土への欣求、良邁、聖守、絹爾等の輝への躍進は何を物語るであらう。併しな
がら、彼れ等の有する数理の内容は既に費展し壷して、もはや新しき道への沸芽を失って居た。
而して終に活力を消耗して死滅の温を選んだのである。今日串間沸教の名の下に葬らる∼六宗沸
教の歴史に於いても、環境への順腰に就いて、非常なる奮闘の過程を看取せねばならぬ。
jは
ビ
ヤ
ン
の経歴
ころびイルマン不千密ハビヤンの事
ハ
妨
崎
正
キリシタン侍道に関する日本の俗書、南蟹寺興廃記の頻には、イルマソであつたハビヤン
治
︵字
は色々に書いてある︶については垂想的の話を侍へてゐる。それは所謂る京の両壁寺に関する侍
ころびイルマン不干斉ハビヤンの事
ノ∵ト侍造刊行﹂の第二境の解説にある。而して自分がそれを禰ふのは、一五九三年ゼスス合致師
あるから、以下それによつて、記述するに一々その箇虞を示さない。ナウト氏のは、その﹁ゼス
右新村君の研究は、﹁南蛍廣記L︵一ノ九と二ノ三︶と、日本古典会集中の﹁妙貞問答﹂の取説とに
迭巻︵即ちその上巷︶を同夜して見るといふ一事にある。
自分がこ∼に企てるのは、少しく右の研究結果を禰ふと共に、ハビヤソの著作である妙眉間答の
博士の業蹟であり、♪ビヤソの人物事業は、大鱒新村君の研究で亜きてゐると考へる。そこで今
そこでサトク氏の書誌研究と他の材料とを綜合して、不干密ハビヤソの史賓を確定したのは新村
設俗話に閑聯したもので、靴侍と峯想の交ってゐると共に、又多少は史賓の核賓を合むでゐる。
≠β
=ろびイルマン不干賽ハビヤンの暮
衷のハビヤソ記述と、﹁寛政没収教書﹂中の断片とである。
それ等を纏めて見ると、♪ビヤソの一生は左の通になる。
永線入年﹁一票ひ︶頃の生れ、生国は北国だといふが、定かでない。生ひ立ちも分から氾が﹂京の
辞寺で小冊と汀Tり、所化と七て志俊といふ名でぁったと博へ、又雲居といふ名もあつた。婁居と
は仮に苑てたので、散骨の記餞にqn鼠。とあ巧からの推測である。︵居は多くゴと蓉音してゐる
が、キヨの例もある︶。十九真の頃、即■ち天成十′一年︵−冨︶頃じキリシタンになら、.洗惑で句鼓昌
といふ名を受け、ハビヤソ、ハビヤソ又、それを色々の漢字で書いた。此頃は信長が不意の最期
を蓬げた後、安土のセミナクヨは、一旦届欄に移え
ソは京にゐセものと見守べく、初の間は恐ちて京で傲師の許に数理を習ったであらう。その頃京
阪地方でのバデリはオルガンチノがま管で、外国人ではセヌペデスやウマイう日本人では:
ソソなどが働小てゐたから、それ等の人かの教育を受けたであらう。又その頃には、管区長三
サ′ヨが長崎から上って、大阪城で秀盲に謁見して厚遇を受け、キ,シタy布教の最も得意な時代
′
であつた。♪ビヤンはその潮洗に乗って、辞寺をぬけ出てキ,シタソになつたのでぁる。然し、
彼が洗虐を受けてから四年ばかかの彼に、天正十五年︵−雷可︶の教師温故命が出て、キ,シタソ布
教は、一時大打撃を受け、今主での得意に引き払へで、公然の布教は出水なくなつた。
亜
此頃ハビヤソは長崎に出て、そこの畢院で正式の紳畢修業を始めたらしく、■孟九二年︵文繚元一47
年︶の教師表には、紳畢生の中にハビヤソ婁居の名があ㌔京の着で世心こ十七歳︵西洋風︶、畢院
に入って六年とあるから、即ち大迫及前年に畢塵となつたので卑右。・而
ってイル†ソとなつたのは、一五九三年︵支線二年︶頃、即ち三十歳近︷の′頃であつ一た。而して
彼が平家物語を問答燈にして、簡略にその登健を書き下して、㌧それがヌ
右教師表にある年の末、ハビヤソニ十入歳︵日本風︶まだ醐畢修業中のであつたが、その年には恰
も山口セ洗蕗を受けた四十年凍町有カな布教者イル;の宣ルソソが亡くなつたっ∴イル:とし
てのハビヤyは、京都でも長崎でも億に此の老劫の布教着から色々の教訓と威化とを得たに蓮ひ
ない。而して。レ∴ンソは、山口では元琵琶法師であつて一大名や武士美
粧励を布教にも應用し、その顛躯汲脚竿旨の奇慮な倭で、流麗の潮音を振
で雪。されば、;ヤソは京で、洗線を受けてからモ女特に畢雀上しては、
を受けて、それに私淑したことは想見すろに足る。されば、♪ビヤソ計ら
ぁ与フが、又:シソの群青でその話しをきいたことも多からう。きすれ.ば、日本語の煉習用と
してではあるが、ハビヤソが中家物語抄を書き下⊥たのには、pレ∴/ツ・の除韻を侍へるものがあ
∵個鴫
ると見てよかるペく、又その才気であれだけ儲明で又興味ある物蕗を崖っ
ころぴイル▼ン不干蒼ハビヤンの事
ころぴイルマン不干狩ハビヤンの事
四八
ふ名は、此の平家物語の未に句uc呂としてゐるのと、後にいふ林羅山の記事とが一致してゐる。
而して不干ハビヤソはその序言の中に記して左の如く述べてゐる。
︵甫響廣託、︸七六頁︶
予も亦、造蕗不尊の貞に、して、聯か以て功力写しミ錐も、此人々︵パデレ等︶わ帥ミこ、其後へに随ひ解か伺う†。
+
その頃は、億に信心熱情のイルマンであつたのでみらう。而して、その終に、﹁御出世一五九
二、デセンプロ、十﹂としてゐるが、それは文祓元年十一月七日でぁつた。
それから十数年、彼れの動静は一向分からぬが、京に締って働いたらしく、彼の最大著作﹁妙
貞問答﹂が出版になつたのは慶長十年︵−雷ヱ、即ち彼が約四十歳の時。その内容を見ると、彼は
その間に、傭法の外に、儒教︵特に朱子辱仮の理気論︶と細道︵主として苫田流の細道︶を研究し、
それ等の所説を樅横に利用して、之を論破し、而し耳最後にキリシクソ数理の解滞群護をしてゐ
る。﹁妙貞問答﹂の事は、何ほ後に記す。
次の年、慶長十一年︵−GOG︶には、林羅山が♪ビヤンと問答したので記銀に留まる。その時、藤
山は二十四歳の少壮畢徒、意気批たるものがあつた。彼は稔永貞徳の案内で、弟信澤と共に不干
沓を訪づれた。先づそこにあるデクスの童像などについて問をかけたが、♪ビヤソは浅薄を恐れ
てか、除ウ答へなかったと記してある。そこでめ光りに置いてあつた﹁脚摸の地閏L、即ち地球儀
4β
について問ふて見ると、ハビヤンは地の囲いこと東と西と相通することを説明した。道春は、此
を以て天は固で勒、地は方で静といふ理に反し、上下東西を混同する非理の説だと批評してゐる。
4ク
=ろびイルマン不干葬ハビヤンの事
産山と♪ビヤソとの倉見に関する此記事は、儒者のキリシタンと封抗した記餞の第一であるが、
して物別れになつたのである。
からは﹁非卿曹窮年之所知﹂と叫び、倍澄は﹁汝狂鞄也﹂と罷った。つiチり﹁専一才﹂、﹁ばか﹂を交換
倒し始めたらしい。儒の太極とキリシタンのデクスとどちらが優るといふ様な議論で、ハビヤソ
者が之に封萌したのは普然で、それから法論が大分執℃た時に、雷雨が起ったので、南方互に馬
まだ中世紳畢の観念賓在諭に通じてゐ.なかったので、寧ろ席宗風の答をしたものである。朱子畢
物を作り出す虞に理があ♭、その前は無念無想だと答へたとしてぁるが、さすれば、ハビヤソは
といふ問題については、可打アり討論したらしい。即ちハビヤソは、デクスがフィヤトの一念で萬
の天ま賓義を領むでゐて、ブタスに関する質問を賛したらしい。而してデクスと理と何れが発か
見開答で数理の内容に観れたら⊥いのは、デクスに関する数理で、羅山は利噂笑茅露。Ri軋︶
間答空不されでは、卑俗の見で蚊虻の如しだと許してゐるが内容には観れでゐない。
の他ブタズムを見せられては、奇巧の器、庸人を旺威するものに過ぎないと許してゐる。又妙点
朱子畢瀕の畢者には、まだ天画地方が天地の原理で動かすべからぎるものであつたのである。そ
■
●
●
ころび木ルマン不干草ハビヤ㌢ゆ事
五〇
♪ビヤソが京でイルマンとして働いて.ゐた間には、俳書や儒者と同様の討論をしたことが多かっ
たのであらう。その焉には紳儒彿の数理をも研究し、妙点間答の中には、その間に得た材料が多
いであらう。
此の如く儒単著と論寧して、﹁青二才﹂と尾㌔意気盛であつた♪ビヤンは、・どうしたむのか、
その年又は次年にキリシタンを棄て∼還俗し、ころび発となつた。元和六年︵−詔○︶に彼が著した
﹁破堤宇子Lの序文に、実数してから十有五年になるといつてゐるのを見れば、ころぴは慶長十一
年︵−父岩︶にあるらしく、その本文の未に、十九で出家して、彼の苛で二十二三年も修行したと云
ってゐるのを見れば、此と能く一致する。兎に角、一宗門に入って二十徐年、齢四十二歳の頃、キ
リシタンに背いた.のである。而してその乗数の動機は、﹁一旦裕然として﹂、彼徒の敦の邪なるこ
とを知って、門を出たと云ってゐるのみで、事情は一向不明である。一倍、慶長十﹂年頃は、キ
′′
ワシクソ侍造にとつては、中和順調の時代で、徳川幕府は禁教の方針を定めてゐる様なものゝ、
鹿追などは高になく、一年に五千人の新授洗があト、前年には大阪天王寺の一高倍が改宗し\
且つ司教セル〆イラは京に上って、公式に家康に謁見した位である。但し、その年には、岡本大
八一件から、有馬晴信が流罪にハ仏つたが、それは宗教上の理由ではなかった。又次の年からは、
_
少しつゝ武士に封する腰迫が始まつたが、それが卒民に及ぶのは数年後であり、特に京の奉行、
の
■
ヽ
板倉伊賀守は頗る温和政策を執ってゐたのであるから、♪ビヤソが京にゐたとすれば、上からの
迫育といふペきものはなかったと考へられる。
然らば、異に信仰問題から、﹁ご具鱒然としてL悟って実数したか呈警ば、㌣うもそれは修僻′
であつて
.
﹁破綻幸子﹂の中に見えてゐる。即ち、その未に、外国人バブレ等の計慢でろることを、いかにも
にぐにくしげに述べて、伺Ⅵ日く、
からす、向後は日本人わ伴天連一江†=ざ勿れミの轟lこて、常克面白くも存ゼナ。
日本に任†る伴天連、イルマンのはごくみなげ、南軍の帝王よりつけらるゝに、日本人は何モーLても、我が本意に叶ふべ
此が本音だと推測してよか.るペく、皆々は別として、♪ビヤソが﹁面白く存せ﹂なかったゞけは
燵で、而してその不卒は、永くイルマソの僅でゐてバデレになれないといふ鮎にあることも、殆
ど明確である。一倍、日本人を教職に就かしめるといふことは、キクシクソ侍道史上の宿題でぁ
ったが、兎に角、・♪ビヤソが改宗しセ頃には、一方畢院軋制度も整ひ、教師になるペき青年打数
育を進め、又有能なも仇は庶々イルマンに就痕せしめてゐた。然し、・;レに任命することは中
中放ってゐて、ハビヤソが背教した慶長十一年︵−空茶︶頃には、二三人しかなかった︵一々的確に
任命の年が分からぬが︶。それには、敦合間としては教育訓練上から凍る理由もあつ陀のである
ころぴイル†ン不干響ハビヤyの事
′
占J
ころぴイル▼ン不干井ハビヤン¢事
一
五二
が、又ハビヤソの如く十欺年イルマンの聴を勤めて功労ある着から見れば、日本人をバデVにし
ないといふことに不平のあつたのも無理ならぬ串であつた。
此の如く前後の事情を観察して見れば、♪ビヤソの如き才気啓削の人間が、長く従属的位置に
おかれるので不平を抱き、而してその限から見て外国人教師の高慢といふことに、敏戚であつた
︵C弓−OSpi邑エ
のは、曹然の人情で、ハビヤソが背教の一般原因はそこにあると見て間違なからう。その上に又
その頃に京の散骨で生じた特殊の事情と考へられる事がある。それはスピノラ
の京に凍て骨計掛になつたことで、♪ビヤソは、このスピノラと衝突したのではないかと思はれ
る。スピノラが日本に水着したのは慶長七年︵−芸柑︶、京に凍てその合計を司る様になつたのは、
同十年︵−冨︶その時四十一歳であつた。此甲信者の埠加に比例して㈲源の供給が登ならす、ス
ピノラは、京の敦管財政磐謹の烏に任に就いたのである。而してその頃には、♪ビヤソが改宗し
た昔時の教師オルガンチノは去って長崎に在り、セスペデスやフロイスも死に、pレンツも居な
い。pド,グスのみはゐたが一兎に角、♪ビヤソにとつては、初に師と仰いだ人々は居なくなつ
て、自分は京の穀倉での長者であつた。然るに、そこへ薪水の教師、自分と同年輩のスピノラが
凍て、甘計と共に教務を司配する、ハビヤソは従属の位置に立つ。然し、ハビヤソは串質、京の
散骨にとつての重要人物であつた。慶長十一年︵−宮の︶の報告に日く、
j2
真のコレジ可ミ肘近の駐在所にlミパデレ七人ミイルマン十三人が居て、その中の或者lェ、博畢光一イル†yの指導で︵兵
歓の︶諸宗涯か研究・してゐる、云々。︵パゼス〓ニ玉東︶
=ろぴイル†ン不千若ハビヤンの事
十二年︵−雷︸︶夏より彼の串になる謬である。然し、﹁その焉に書き下した﹂といふ記事が必しも正
てないが、見﹁その焉に書き下したLといへば、随行してゎたらしく、さすれば、その乗数は慶長
明であつたといふ。それはその年の夏であつたLしいが、ハビヤソが随行して放行したとも記し
時、本多上野介へ一書を呈した、それはハビヤンがをの眉に特に書き下したキクシタソ数理の詭
此について一つ考ふべき鮎は、その次の年︵−苫↓︶の記事に、管嘔長.♪エスが駿河と江β王出た
べく、而して.その年砿林羅山と問答し雲、の年、即ち慶年十妄︵−⋮︶秋よ♭の彼のことらしいい
を起すのはよくないといふ捺なお説教は別問題で、兎に角此不卒から政令を飛出したものと見る
握って構成を擁するに皆ったので、ハビヤソの不申は益々つのったであらう。その様な串で不平
と共に自分の保護者を失った威じもあつたかと想像し得る。而して他方薪水のスピノラが骨計を
に散骨の手落であつた。又、丁度此年にはオルガンチノは長崎で死に、♪ビヤンは恐らく師を失ふ
でゐb、又内部では典宗研究の指導者である。それをいつまでもイルマソにしておいたのは、確
討識の産物と見るべきである。♪ビヤソは此の如く重要の位蓋を占め、儒者偽者に封する應接掛
此の﹁博畢なイル†ソ﹂が♪ビヤソたることは殆ど明白であつて、妙月岡答は、此の蒋導と共同
∂き
ころびイルマン不干賓ハビヤンの事
確でなく、妙展開答を提出したのだとしても、♪ビヤンは随行でなく、
ても蓋支ない渾で⑯る。
五四
又をの前に乗数したとし
兎に角、ハビヤソは散骨を飛出した。それから彼の彼の生活は致骨の記録に
の未に、彼自らの物語る所によれば、京では身遽が危いので奈良に逃出したが、奈良でも危いので、
木津川から府で溝津の枚方に行き、その近傍なる中宮村に隠れてゐたといふ。而して乗数から十
四五年後、元和六年︵−琵○︶にキリシタン破折の﹁横堤字予﹂を書いた時は、京に居たらしく、齢は五
やす
十五六でぁつた。その序文には江閣野手好葛といふ名を記し、書未にほハビアソと記してゐる。
兎に角、
時代が凍る様になつて、実数者は、キ,シクソ破折の標本を示すべぐ東南に現れ出た。即ち﹁破
堤草子﹂の著作損版がそれで、彼は、その序言に於て、世間のキリシタン排斥は、その宗旨数理
を知らずにするから却て邪説の興隆を加へる、今日分はそれを能く知ってゐるから、本管の破折
堤
字
子﹂
をする資格がめると贋言してゐる。
﹁横
そこで﹁破捏字子﹂の内容は、七段の談義とて、キリシタンの数を七段に分け、偽数、細道、倍数
の立場から批評論破し、多くは常固を奪ひ取る虜のだまかしだといふ楼に片附けてゐる。その中
∂4
で備致などの数理については、♪ビヤンは青年の暗から論破の田的で研究し、㍉妙眉問答Lでは、
ころぴイルマン不干蓼ハビヤンの事
頑健が人間だから、拝むに足らぬといふが、彼等の致へるゼスキワシトもやほり人間じや
格を争フしてゐないのは、デクスのカの不足だといふことを示してゐる。叉キクシタソは
悲憲法の源だといひながら、キリシタン教徒たる高山右近や小西行長、日比屋や桔梗屋な
について欺簡に分けてある。即ちデクスが無糖難路といふのは、閥常立食でも同じである
源を説くのはどの故にもあることだとし、例へば囲常立食の如しといひ、それからデウス
先つ第一段は、天地に餞造の豊がなくてならす、そ、れがブラスだといふ故に対して、
ひかけて来た材料を用ひたものであらう。
徹底的の諭瓢は殆どない。恐らく、ハビヤソがキリシタン教師であつた間に、他致の宗徒
それから係数又は神道倍数の立場から之を論破してゐる。但し、その論難は極めて簡単な
侍邁説教の場合に用ひたのかも知れない。兎に角、七段に分て先ウキリシタソの数魂を終
さて所謂る﹁七段の談義Lといふのは、必しも数禽で一定した簸ちでもないが、或は♪ビヤンが
でも使ひ得るもの、理窟はどちらにでも附くものといふ威を輿へる。
リシタンを論接しやうとしたもの。両方の書を比べて見ると、宗論などには一同じ数をど
キリシタンの標尊から見て、非理不備だと排斥し去った、その庸じ教理を倒用し、その武
う5
ころぴイル▼ン不干オハビヤyの事
五六
此等の鮎を奉げて、・最後には、萬有の本俵は、畢寛一切の差別相を超絶した無に紆する。その無
の意味がキリシタンには分からぬのだとして、キリシタンから彿法を虚無論だとすろに答へ、而
して萬物畢鼻白然の埋で動くと断じてゐる。此の最後の諭鮎は、繹京風であるが、儒教者と同様
の論鮎を以てキリシタンに封してゐたのである。此の第一段は、﹁妙月間答し下巻の始め︵刊本、三
七−四七頁︶で、♪ビヤソが先に他俄に封して蹄逢し論許せんとLた鮎であるが、論鮎の精軌は
くらペものにならぬ位で、ハビヤソが果して異心からキリシタンを論破し得ると思ってゐたや否
や、疑はしい位である。
第二段はアニ了と凍世の賞罰とに関する敦である。此は﹁妙点間答L下笹︵刊本、四七以下︶に述
お
べてゐる数理で、草木は邑mP≦鰯et註言動物はa−1imP準星車⊇人間は岩i2て邑。n已を有し、
此の人間の魂は形憶以上であるから、物栗の離散と共に滑渡せす、不滅であつて、それハ\の性と
法とに應じて永遽の賞罰を受けるといふにある。此に封する破折は、萬有の理は一つで、右の如
き差別は単に作用の差であるから、根本の別とするは謬見だといJにある。而しで儒教や沸教で
も心の法について詳しい畢設があるとて、一二鮎心理詮を述べてゐるが、滅不滅の問題には観れ
でゐない。﹁妙眉間答Lでは、彿注が此の不滅を知らないから虚無論だと高調してゐるのと封照し
て見ろと、顧みて他皇一日ふの感じがぁり、只心の働きが火鰯蛾の三にあるといふ類例だけで終っ
てゐる。£から歪の薫につい㌣は、デクスが慈悲の重苦ば、人間の警曹て警輿へ︹献堪
るよ♭も、自ら責むべきだといふ鮎を奉げ、キリシタンの敦で特に日本人の腑に落ちなかつた永
劫の罰といふ鮎一ざ論破してゐる。此は燵にユダヤ教思想と俳敦思想との封照になる要鮎である。
第三段は、天上に於ける快楽、その中に住むアンジョの事と、そのアンジョの中でデクスに背い
て堕落したルシヘルの串である。此に封する論破は、つ与チり此の如き堕落者一ぞ生するといふのは、
デクスが三世丁蓮の慈悲のまだといふのと矛盾するといふにあり、前段に於ける罰の問題と同じ
である。此は﹁妙点問答﹂下巻四段︵刊本五七頁以下︶に説いてゐる鮎でぁるが、彼の方は、此の不
合理には観れす、打彿法でいふ諸天など、常客の作り事だといふだけでぁる。此鮎に於ては、信
者であつた閉のハビヤソにも、満足した解繹はなかったものと見える。
弟四段は、ルシヘ〝堕落のケゞきで、その焉にアダムとヱワとが智慧の質を食して罪に堕ち、
その子孫たる人間に罪が侍はつてゐるといふ敦。此に封する論破の鮎は、前二段のつゞきでぁつ
て、つまりデクスの三世了建といふのは償だといふことにへ仏る。此は、﹁妙点間答﹂では、特別に
七す
一項とせす、下巻の第五段で、﹁扶かり﹂即ち救ひといふことの始め︵刊本六一頁︶に一寸述べてゐ
るだけである。而して此項は、井上筑後守などが特にキリシタン数理の不合理として馨げた事で
あり、後に渾野息巻の﹁顕償餞﹂にも、曹へ、メタホラの話しを異質とする非理を奉げてゐる。
=ろびイル▼ン不干葬ハビヤンの事
●−y
ころぴイルマン不干井ハビヤンの事
第五段は、科造りの敦で1ァダふとヱアとの罪科は、無限のデクスに封する罪であるから、そ
の耕法打、即う債ひも亦無限であるべく、到底人間では出凍ない、それ故に
曹る楼になつたといふにある・。此に射する論破としては、頗る機智ある言
ブタスは恰も大工が家を造るに、材木を切卜茂った検なもので、それも長す
点く切♭すぎたのだから、直せないで因ってゐるのだといふにある。此敦の
き表はさなかったのではなからうか。
第六段は、キヅ.ストの出世に節する致と論詰で、妙貞問答︵刊本六二頁︶にあるよ♭も大分詳し
く記してある。それに射しては、キリストの山儲が世界の飴から五千年だと
といふ串、死後復活の串なく一々論破して、畢克絶て魔法幻術から出る邪説
第七段は、十訴と洗癌との事。それに対する批評としては、第一のデクス
謳は、一般倫常の事で取ら出でて云ふまでもなく彿法の五戒に節する。而し
せ物で、ブタス哲敬ム鰯に君父に背く敦になる。現に日本には醐倣の這があ
する邪法が此の第一誠に現れてゐるので、をの致は固を奪ふ眉の手段に外な
受けなければ、義人でも扶からぬといふも、畢尭は奥に邪心のある澄接だと
る。僻ほ十儲について.、ハビヤソは此の如く第一誠が悪いので、他の九誠は昔然の事としてゐる 即
に射して、彼の願僑餞には、一々、キリシクソがそれに背いてゐることを奉げて、厭く
してゐる。
右所謂る﹁七段の談義﹂といふが、それでヰリシクγの赦を重してゐj〃ではなく、現に此中に
は教官で最も大切としたサカラメソトの事も洗惑の外には記さす、又エケレジャに関す
は一つも観れてゐない。出版の焉に簡略にした卦もあらうが、バツバの串は妙貞問答︵刊本六二
裏︶には述べて欄ながら、破綻字子に少しも観れてゐない。バツバの構成といふ串は、政治上の
意義に曲解すれば、囲を奪ふ手段だといふに最も都合のよい鮎であるのに、少しも述べ
のは、奇異の成がぁる。
最後には、難事ともいふペき諾簸で、その中には、先に述べた如く、でアレンの高慢
とを多く記Jて憤慨の澄を漏らし、その他教師等の品行については、全く患いとは云はないが、
けちのつけられるだⅥっけやうといふ燈度が見える。例へば、づ7レツが狗身でゐること、即ち
邪淫減を能く守ることは怒めながら、それも日本だけの事で、甫単には妻帯の者もむる
いひ、.二プレとは父といふ義だから、子のあjのは曹♭前だといふ様ないやみを述べてゐる。又、
司教絶承の寧については、長崎で寧のあつた事を﹂†タオで大喧嘩をやった様に云ひな
ころぴイル†ン不千野♪ビヤンの事
:ろぴイルマン不千野ハビヤンの事
のは、燵に詭謹の意志あるものといふペきでみる。
何一つ、最後に、彼徒が云ひはやす奇瑞といふ様な事は償で、自分が二十二三年も彼の宗
修行した問に、一つも見たことはないと云ってゐる。そのついでに、﹁高祖日蓮聖人﹂が大
け、終に龍の口で太刀の折れた事を奉げて封照してゐるが、その書き抜を見ると、♪ビヤソ
数後、日蓮宗に籍を置いてゐたのでないかと思はれる節もある。然し、キリシタンを論破す
の諭鮎には、特に日蓮宗らしい鮎はなく、多くは曹時一般に行はれた廊宗と儒教との取交せ
な論鮎を用ひ、用語も﹁無字蛾閥千萬里﹂だとか、﹁柳は綾に花は紅﹂といふ様な藤凪が可
彼が、辞宗で育った遺風がどこまでも残ってゐたのであらう。
兎に角、﹁破堤字子﹂は、昔時に於ては、キリッタソ破折の最良書であつて、ハビヤソが
てゐろ如く、他の人は、キリシタンを知らずに旨詐をしてゐるのに、彼は能くその数理に通
ゐて、此の破折書を出したのである。従ってそれから以後、キリシて破折書は、多く彼に倣
その材料は殆ど轟く破堤字子に基いたものでぁつた。且つ又、賓際ハビヤソ以前には、上か
禁教はあり、備付の反抗はぁつても、民間で組織的の論破をしたものは一っもなかつたので
先に記した林展山の記事の如㌢も、極めて断片偶のものに過ぎ慕った。﹁破堤宇子Lの出版は、
時代の順風に帆を揚げたものでぁるが、兎に角、その投げ出した波紋は可打アワ大きかった
佼)
寛政没収教書と妙点間答
︰一のぴイルマン不千野ハビヤンの事
A ﹁紳滋の木枕ミ申ほ、大鹿の周文王の子に黍伯、仰稚.学歴才三ご上≠人の王子ぁり。・:∵⋮:⊥切の物の
巷が今匂が、憶に妙月問答の中の紳道諭と同じものであろ。その比較をして見る。
先.っ中等について云ふと、没収数寄の巾に﹁紳造の串﹂しJいふ越境があつて、断片でぁり且っ錯
。
々費見し得た
見ると、その中に一のる﹁偽法の次第客攻寄Lといムー茸が妙点問答の上巻に粕督するといふこ上
に、先に﹁潜伏﹂で世に紹介した寛政没収教書中に、妙点間答の断片が頻ってゐるに気がついて
上谷即ち偶数破折の分を逸し、中谷の儒教前迄と、下笹のキリシタンの身のみ存してゐる。然る
妙真岡答の刊本序説にある如く、元林崎文庫にぁるぞの寓本は世界唯一のものであるが、その
ついては一々奉げす、只係数に関する分について記さう。
長十三年の禁令諭皆を書いた金地院崇侍など、と材料を同じうしてゐる。今Jゝには、その論鮎に
は朱子畢、細道は苫田流がまにな♭、昔時一般の畢夙によつて研究したもので、此鮎は大健、慶
見れば、彼が三敢を研究したことも十分に看放し得る。但し、係数は辟と共に天台が重で、儒教
四十歳の頃であつた。その文章も健裁も絶て彼が中々の才物であつたことを示し、又その材料を
先に記した如く、三致破折、・キリシタン舛護の焉に、ハビヤソが妙点間答一で書い化のは、そ
βJ
ころぴイル▼ン不干蒼ハビヤンの率
こご侶ミL虚言の沙汰の限りの事ごも也﹂
此は刊行二七頁入行﹁昔周の太王に泰伯、仲薙.季歴と申して三人の王子のおはせし﹂から、二八
頁三行﹁一切の物の父母なりなど∼云は疎なる事にはさふらはすやLとあるに相督する。
8 丁て八適ミ云ほ、人王五†代の御門應鮒天皇也。:⋮:・ニ⋮⋮八幡lこも生死縮福なも兵へ玉へる、天地萬像
事、本意也。﹂
此は刊本三二頁十一行、﹁八幡と申は人王十五代の御門應紳天皇也﹂から、三二頁末から三三頁に
かけて、﹁八幡一ピ初め、天前にも、生死を輿へ玉へる天地萬像の御作者へいのヶ奉らすては叶ふ事
に非す﹂とあるに舶督する。
0 ﹁地所五代の事﹂主卑し、文章に、﹁第一、天照大紳至蔓⋮⋮白本紀−ェ耕代の事な共よゝ停て、私克く銅㍗る故に、三部¢
内lこは口□□意ご†・8也G﹂
此は刊本﹁九頁四行、﹁さて地軸五代とは、第一天照大神﹂とめるから、同入行、﹁日本紀は御代の
事を其ま、集めて私なく舶たる故に、三部の内には日本紀を正意とする﹂とあるに普ら、妙貞問
答にはつゞいて﹁と申さると開て侍るLと談話髄にしてある。
D ﹁醐藩の事﹂三甲し、文章は、﹁細道ミ云に三様lこ有り、一には本速繰他の紳準︰⋮⋮⋮・鼻音天紳七代ミ
五代ミほ﹂
即ち先のCの先項につゞく文句で終ってゐるが、全健は刊本一入頁十行の﹁細道の事L、それから、
ββ
幽貞の答の言葉を少し書いて、﹁絶じて先つ押遣と申す事は三様に定めらると承る。其一には本姓
0
心
十
十 六
行
港
行
失
行
迭
行
E
A
迭
行
矢
失
刊本l八東十行−一九束四行
枚
着つゞさ−一九頁入行
数
故
刊本二四東一−六行
五
枚
刊本二七頁入行−二八頁三行
四
敗
刊本三二束ノ天六行
以下三日枚迭失、絡
ころぴイル†ン不干斉ハビヤンの事
8
十 九
九・
亜へて見れば、左の通トになる。
ノ
此に依て見れば、没牧故事にかる醐造諭が、妙月岡答岡本の断片たることは明で、その順序を
まゝ天神七代也と心得るが神道の本意にてさふらふ﹂とめるに相管する。
此は、刊本二四頁一行に﹁是は皆神道の速くほ天地陰陽の上に付けての﹂から、同六行、1一身其
︻ ﹁此専管速く−ミ天地陰陽の上に附て.⋮⋮⋮二月そのき天紳七代なりミ心得ろが耕法の本意也﹂。
相管する。
縁起の細道﹂とぁるから、一九頁四行に、﹁是を天紳七代と云へり、さて地軸五代とは﹂とあるに
尉
=ろびイルマン不千野ハビヤンの事
六四
その上に又、没収教書には、澄墟諭の断片があり、﹁潜伏﹂改版の一三九頁に出しておいたが、
それは刊本四五頁の五行から絡までに相督し、刊本の方は文章が少し長く形容が加はつてゐる。
その長くなつてゐるのは、前の刷造諭と同様、問答憶になつてゐる焉で、常男は同じである。
そこで、此専断片と拝んで偽法論があ去のであるから、同本だといふことも大抵推知し得る繹
である。且つ、妙眉間答申等で、儒追給の初に、彿法は﹁撃寛容無に給するを本とする﹂敦だと云
ってゐるのを見れば、迭矢上巷に於ける諭鮎も結局そこにぁるを知り得る。而して没収教書中に
ぁ畠﹁彿法の次第格技芦−の趣意は、丁度それで、虚無の数だから自然ま鶉にもなることを論じて
彿
法
線
論︺
ぁる。今左に、その文章を節に分けて寄本にJのるま∼の文句と順序で全文一£山して見やう。
︹第一節
\
ホツ 夫れ彿法と云は、弼陀、繹迦.大日、是也。右三俳を法報應の三身と云也。是即人間の一心の事也っ人の心
に彗−つの精徳あ少、貪欲.喋怠、愚痴。此三つと分けて云へば・愚痴と云は、無念無心なる鬼を法身彿土石、
是を大日如来と云也。次に食欲と云は−をしいそ︵9・︶ほしいと思ふ虚を報身彿と云、之を阿頚陀如来と云也。
次に嘆藷と云薩∴いかりを起して、遺恨をふくむ虚を謄身彿と弓是を拝趨如来と云也。是れ
キチタ 具足する者也.此外1観音、薬師と云も、人の身を離れて有る事にてはなし一人間のみにも限らす■鬼吾人ン
β壷
天、皆是れ大円と握して有り。其故に繹迦も、草木闘士悉皆成俳と詮かれたり。
さて又、彿法の二字を大方知︵る︶人まれなり。彿ッと云は、天竺の略、具には俳陀と云也。さて唐土にては
パ・Iヤクキシンイシュ
鬼者と云.かくしやとはさとりたる者と云主也。何事を覚りたるぞと云へば、無とさとりたるを彿ヅとは云也。
さて又.法とは何事ぞと云へば.唐土に馬鳴と云拳者の起信論と云書を作りて云く、唇音ン活着謂衆生心ンと辞
したり。此こ1ろは、云ふところの法とは、衆生の心をゆうと有少。然らば、色手心ンの二つ心と云ぞ、後蛮は
将迦の因位託生の事略︺
無しとさと口口□あらあさましく。
︹第二節
ナック
夫、痔迦の託生を寄るに.中天竺の内摩河陀囲の王辞飯王を父として、靡耶夫︵人︶を性として生れられ.其
名を悉澤太子と戟。産︵れて︶後チ七日目に母のマヤフニンは死去せられし也。娩母の摩討姿閣婆提に養育せら
・ワレJr
J・l’﹁
れ.年十七と申︵す︶に、耶喩陀謎女を妻と定︵め︶、羅喉経と云子を憧け、後又耶輪陀羅女は死去せられし︵に︶
俵て.母にはなれ.妻に別︵れ︶、一方ならざる愁嘆きなれば、所詮たゞ世を厭、出家に成︵り︶、母と妻との菩
〆り 捉を最︵ひ︶、我身も後生盲挟んとの志遠ふして、十九の年、王宮を出て、楷特山に入少.阿羅々仙人、迦羅
々仙人と云二人の山居人を師匠と定︵め︶、六年の間遊行苦行し、十二月八日の花.明星を見て、悟りを開て.
五十年が間説法し.八十と云二月十五日に、既捉河の逸り沙羅林ンの内にて死去せられしを、弟子邁あつまり.
火葬し、栴檀の煙りとなられたりと云へり。
カツテ
是が梓迦の由衆旭、然は是れ人にてはなきや。妻を辞し子を傾け、坐るれは死したるをは.飴併には俳とも
ヒカ
云へ、紳とも申せ、此方にては人と申すなり。人ならば人の後生を扶くるこ主は曾以て叶べからす。然るにロ
ロロ人とは心得すして、光を放ち無量の□も有る楼忙、人々思ふは僻事也。
=ろぴイルマン不千野ハビヤンの串
β∂
タ
︹第三節
テン
阿弼陀の因位の事略︺
ころぴイルマン不干番ハビヤンの事
ナック
シノヒトリ
セウ
トセ
シク
太子と境なり。然亀忙、東天竺の三善心ン王の姫宮に、阿閉夫人と申貴人有少、右の善照太子聞及︵ぴ︶−俳聖
ありと雄も、同心なし、終に忍取て山中に隠れ、三年が間忍︵び︶たり。三年セの情ケにソウリ、ソクヮと云男子を
二人儲られとし也。然は.西城固を︵にてこは、善照太子を見失︵ひ︶、三年三月些尋逢︵望l太子、阿開未入
一﹁llヨウ
pシタタヒレ
力タク
に堅約束し玉い、本図に蘇り玉へぼ、革民観躊渇仰不斜。未によつて約束の日限延引す。共時、アシユク夫人待
御母の病原に愁嘆しける鬼に、親疎にて善照大手行逢︵ひ︶玉いて、常人り、世自軍雲上彿ソ︵の︶御元に禁り︶、
かね玉へ、二人の子をつれ、西城固へと下り玉ふ賂忙草軌、病の床に伏玉ふと維も、旗の察にて養生も叶はさ
ムナシク
れぼ.克に容成玉ふ彗某所の者共、由有る人と見て、遺の透に納置し也。然は、ソウリ、ソクワ二人の御子
︰・ヤト
もといを切つて、法戒比丘と名を付.囲十八願を起し革ふと云へり。
是又、シヤカに少も違いたる事なし、父もあり母もあり、妻もあり、子もあり、各々我等に替︵ら︶ぬ人間也。
大日
の事略︺
両々の生死禍福をさへのがれ得ざる身の、零︵でか︶人の後生をぼ狭くべきや、かた腹いたき事也。
︹第囚節
夫れ.大日魔王と云は、色もなく形もなし。但し六大の大日と云は、地水火風葬識の六つ也。さて亦金ン剛
界の大日と云は男の事也、胎寂界の大日と云は女也。撃華大日と云諸陰陽の二つとも心得べし。阿閉、男生−
蒲陀、繹迦、大日と云ふ五彿も飴併にある五備にあらず.人間の身の内にある五堅ハ根、是を配督して見る事
也。彿と云ふ軍人の身を雄れてある事にては・なし。此故に彿とは.人のはてと書︵き︶たり。さてこそ彿法の
こ字む云へば、彿とは色鰹の事、法とは一心の事也。右の埋は因位誕生の沙汰也。
ββ
︹第五節︺
・ワ
さて叉、彿法に有無のやれ、中道のやれと云ふ事を諭するは、何事ぞと云へぼ、只人間に捻一心と云て、知
恵の醍あり、此心は何としたる物ぞキ云ふ論ぁらそい也。然ぼ、[人々後生苦節と麒ふ事も、一心法ロロ汰な
り。一代口□︵捏繋て︶の教主の如来と申て、膵迦一人の敦へせ、末世の今に至るまでも倖愛して信ずる者也。
︹第六節︺
シハラク
され共.繹迦の故に樺数等敦の二つに分けられたり。棟数と云は、かりに暫方便を以て後生ある様に敦へた
クウ
り。亦筆致と云は、筏盤は察無︵に︶頼ると致られたり。其詳按には、輝迦、震鷺山にて説法ありし陣、一枝の
シュ 花を括して、大衆に見せられたりしに、衆皆欺然として其心を悟らぎりしに、迦英一人、破顔微笑すと云て、に
コノかタ
つこと笑いたれぼ、その時、繹迦、吾れに正法眼飛弾薬妙心あり、迦菓に附属すと云はれしょり巳衆、致外別
ネハン
俸と云ふ繹法は事起たり。然ぼ、其時、倖法の偏に、法の本法は無法也、無法の法も亦法也。今無法を付する
時、法々何そ骨︵て︶法ならん。此心は、先︵づ︶法とは右に云し如く、心ンの事也。法の本法は無法也とは、本
心と云物は無心無念なる物をと云儀也。触法の法も亦法なりとは、彼︵の︶見せたる花も、木をぁりて見れぼ、
繰l︸も紅イもなけれども、春の線に逢い、雨露の恵に引︵か︶れて、眞はなき花が憤りに嗅たる如く、元衆は無心
なれども、時の境界につれて︵美︶しきたなしの心も起れば、此をさして、無法も亦法なりと云へり。今無法の
付する時・法口何︵そ︶骨︵て︶法ならんと□口口心を侍る口俸が俸にもあらず、畢毒口る程の事皆定︵て︶無ぞと
云心なり。天竺廿八絶と云も、唐土の六絶と云も、皆彿法は無二頗也。此故にこそ善悪不二、邪正一如と些莞。
︹第七節︺
さて/\彿法は苦々敷事哉.此分に後生ほなきそとのみ見破ては、何かはよくあらんや。往生□□もやり
︰ろぴイルマン不干賓ハビヤンの事
=−わびイルマン不干草ハビヤンの事
六八
丈て︶す.現在の作法も1上に愁るぺき王を知ざれば.遣の道たるべき棲もなし.人の心は私の欲タに引︵か︶
れて、邪†の終に至んとのみするに.無玉無我と云て.何たる悪を作りても.訝をあたへん主もなく.曹を勒
ても、利生を行るべき併もなし。只何事も察壕察滅と云て、自由自在に数ては.なじかわよくあらん。かやう
の法をこそ邪法と昼芸べけれ。
如是叫蒐に.人に依は被仰ずるは.いや左様に察牛察放とのみ見す.其ゆへは、古人の云く、庶事は杢にし
て無也、併任の塞は察にして眞也と見る。庶容盲り生じて辟察に節すると見るは断見と云たりと。
容.不知の日.心ンの本容と云へり。此心は、凡夫は、心は虚
苓云.それは今まで沙汰せし如︵く︶.席亭口付口口別々に見るを凡夫の迷と云へり。大唐の黄集と云帰着の
ンつトナ
ウキ一、ヘ 辟心法要に云く、凡人多くは不草垂心熟−落
コン
琴にしてたき物也と聞ては、あらもつたいなの事や、察見とて.それは迷也と云て同心せす。是れ己が心の元
より察なる事を知︵らす︶と云て.わらいける也。人の心を絹︵し︶て、峯とも、併任とも、水分とも、眞とも.
法佐とも、法身とも.菩提心とも云︵ひ︶.宗旨々々に名を替て、色々に云︵へ︶り・。難波津の輩も伊勢の輩荻と
云われの串也。
︹節八節︺
さて亦天竺は千宗に分け、大店は首廿宗に分、日本は十二宗に分、如此京口流□に分ると駈も.彿法の見本
セウ
は梓迦一代の説法也。たとへは、梅の大の枝、千席に別れて︵も︶、何れの枝になりたる梅の昧も.すいき昧の
外は有べからす。亦山根の未も、何れの故になつたりとも、常幸味なり。英知く、梓迦一人の法権め口□極意
ぴβ
カワル
は串尭無の法を條︵へ︶られし上へは、千宗琴宗に分れたると蘭も、易事有べからす。
︹第九筒︺
\
亦阿斬陀法といふも.皆うそつきの梓迦ロロロきしかれたる事也。ある王の后キに口提夫人と申人、輝迦︵に︶
甜
鮮碧︵慕︶ぁり、我れ女人の身なれば、大罪経を拳する事叶︵ひ︶粧し、たやすく後生扶︵かる︶遺を示し玉へと有
スキ
ければ.共時披イダイケに勤して、押土の三部経を誰︵く︶。彼三部経の中に、是より西方十萬億土を過て世界
有り、名付て掩発と云、其土に傭あり、阿弼陀と渋すと詫︵か︶れしょり巳来、阿ミグと云彿ロロと人骨申︵す︶也。
ピ
彼繹過と云仁が、人もやとわぬ間︵は︶ずがたり、侭斗りを云置︵き︶て、アミタにも限ず、毘汝戸彿のやれ、
シユキ
セノシ
ロ那戸粟彿のなどと、過去の七併有しが、其中.の︵燃︶樗彿より授記せられて.今此俳果を得たりなどと云て.
カウユ′1
あいよし︵?︶もなき云度倍の云戌たてなきヤ。
井上へ、五劫思椎の沙汰、是又天下には1か︵らざ︶る大虚言也。先︵づ︶知恵ある程の者は、思案し見玉へか
し.囲十星山方のあをめ㌘挙竺至年に一匡、天人の口口調天にて撫て轟︵し︶たるを一劫の閉と云。去︵れ︶ば.
五の岩を擦菰︵す︶聞を五劫と云也。さて是は有︵る︶べき事にてありや。四十里川方の岩をはをき玉へ、只事の
内に掘る程なる石を/羽衣をはをき、如何もあら口ロロロにて、毎日毎夜、鏡とぎのかゞみとぐ様にすりみが
くとも.壁豊富へて、千都城の羽衣は枝れ失︵す︶とも、共石は轟る事あら七.況や四方四十里の岩ならば“
右左んな詫雷て驚の人数に㌣⊥餌場︶
⋮⋮⋮⋮東へ旋は︵づ︶るは、世界の形準き物にあらざる事明也。其上、ヒロザウヒヤと云拳文にて明白也。
獅又黒船と云物にも諦担てつもりたる上より七千七百七十二里飴と記せ少。然に、西方十萬億土とは何囲をさ
して云たる事ぞ、かた腹痛︵き︶轟旭■∪西方和栗なくば∵阿粥陀もなき事明也。
︹節十和︺
其れに依、惟心の渾土、己心の覇陀と云て、一心をさして阿弼陀とち挿土とも云が本設なbと勘排すべし。
︰ろぴイルマン不干諾ハビヤンの葦
ころぴイルワン不干凝ハビヤンの串
七〇
,¶ンユダゴウガビヤタガウウセンワンテン 観軽に.阿鶉陀の身の長、六十萬億那由他恒河︵沙由︶旬にて、眉︵間︶自宅右旋椀樽知立須満山︰知和眼大海ノ
水′青白分明とあ少、恐︵ろし︶の身のたけや、限のふとさや。是を以.︵心︶得玉ふべし、阿朝陀と云はなき事
也。其故は.如此廣大に云ふは、虞容法界をさしての事也。そもや色身具足したる程の者に、かやうに大きな
・Iチフサカ, る辛が有物にてありや。頼経に、諸彿如来は、是れ法界の身也とあるも、庶事法界に清塞たる風をさしての
事也。さてこそ峯耶上人の歌に、﹁咽れば彿も我もなかりけり、南無阿靖陀彿のこえばかりして﹂とよめる歌も、
里に叶︵ふ︶者也。こ1ろと云ふ意の字は、音と心と蕃︵き︶たり。此晋餌風なり。此酎アミダ也。然︵る︶時んば、
さて一向宗Q開山親欝上人も、此所を能︵く︶悟り得たる人なりし故にこそ、身を安くせんと、往昔月ノ輪の
︹第十一節︺
何れの宗旨も同︵し︶彿法なれば、替︵る︶事なし。
ソ′カ・−
ハ、カリ 評定口王の姫君む盗取りしが、此事天下に際なく、其慣に俵︵り︶、しばしは智恩院の下なる坂穴にかくれ居ら
カショキテダナ
ヘタテ
れしかども.後には世も廣く成︵れ︶るにや、今に其門菓世上に弘まる者也。後はなきぞと見たる上にては、是
キミ◆ウ ホッケワンヱカウ
ほどの賢 行は有ぺからす。持戒も破戒も、重責零なれば、隔はなし。南無阿璃陀彿と云は此心也。千秋萬
歳、あら心安の敦哉。
︹第十二節︺
り
シヤク
謂道和伶の将に、南無と云は蹄命、亦是蓉願廻向也。阿弼陀彿は其形口と云へり。先︵づ︶南無の二字を中
\ せば、みなみなしとよめり、何とて南無と云ぞなれば、■南ミは推中と云ふ、離中は慮也と云て、重々寂々たる
′ネン
ケリタン が故に.易の卦にも、南をば火に取る也。火は株の卦にてあり。排中断とて、卦の形≡かやうにあり。是︵れ︶
鋸心中虚にして無心無念なる肝、虚無自然の鹿を南無とは云ふぞ。本の事なれば容無とこそ云ふべけれども、和
南無阿弼陀彿と云へば.いかなるぽんぶも聞知︵る︶が故に、方便を以︵て︶南無と付けたりJ阿蒲陀彿と云ふはー
カヘス
右に云し如︵く︶、風大の事也。南無と云ふは、蹄命と辞したる心は.命を節すと語也。何闊に命をかえすぞと
セウ
十二分経は.常是︵れ︶不評を拭故紙と嘲者也。此故に、#迦も、最期
ノnウ丁サケル
然は、回向は、地獄、餓鬼、寮生、修辞、人天、草間、縁軍書薩、
云へば.南無に節と云ふ事也。只庶事より生じて又虚峯に節すると云ふ下心にてあ少。
ガキシュラセウモンエンボナツ
ナイ
様にて、寓事は皆目前の境界にして、かつて以︵て︶後生の事にあらす。
サンセンサシカ’
セツ
ころぴイルマンボ干努ハビヤンの事
文章のあつたことを示してゐる。その外、笛五節憬第一節に次ぐべきものである
今のまゝでも脈絡はある。兎に角、先の露姐諭や神道諭に比して邁に完全なもの
答上巻の内容を伺ふに足る。其他、文字の誤は段々偵寓の間に生じたものであら
節の中に⋮・.⋮⋮で記しておいた廃止、様に五劫といふ事の論評から十劫といふ事に移る若干の
此の如く奉げて見れば、大橋前後のつゞきも整ってゐる接で、簡と節との問に
の文章もあつたかと思へるのみである。例へば第八節の終りにほまだ文句があつ
信抄と云成育あり。此書をは門跡の親子兄弟より外には倖へず、所詮彿法の梅は窄無に究︵る︶と心得玉へ。
かやうの理をは、彗晋もに祀轄晋にして、人には倖︵へ︶ざる也二向宗の開山親鸞上人より停へられし轄教
に茹で、四十九年一字不設と云︵は︶れて、.そう︵エ我れ一期の問、後生の事竺事も︵詮︶かす、口口口儀なり。
/ゾン
然︵る︶間、参辟参鼻をしたる人は
アJ
︰ろぴイルマン不干賓ハビヤンの事
.
七二
●
伸ほ、此の傍注諭の内容を、他の記餞にある、キリシタンと備付との問題と比較して見るも輿
眈あることであるが、他に一つ関越がぁる。即ち、没収教書に残る断片から推測し得る三教諭威
及キリシクン軒護の書と、妙点間答との関係如何である。二者を比較して見れば、妙点
由者の内容を問答憶にし、又多少文飾を加へたゞけである二とは明白で、問答の方が後に
て出水たものと断じてよからう。そうすると、没収教書に残る原本の作者は何人だとい
出て凍るわけである。只此は確に定められることでほないが、恐らくやほ♭ハビヤン自
ぅと考へる。但し、前にも記し七如く、彼は京に居る致師等の為に、自分の知識を傾け
破の鰯の研究をしてゐたのであるから、その中には相互の討論もあつたの
で論
あ駁
らうし、破
︰が他の教師から提出したのもあらう。さすれば、ハビヤンは、その集成者と見るペく、
点間答は、それを大成して、面白く着み得る様にしたのでぁる。而してハビヤンは、乗
その同じ材料を倒用して、キリシクン破折を企てたのである.。何れにしても、彼れの文才はその
何れにも表はれ、キリシタン文畢中の顕著な書物を遺したものでみる。
い′\1
、●▼.
民俗文献の検討
二
民俗の研究者が、いかに己れの研究に熱心であり思
をなすことは.
松
村一
武
雄
礎として行はれる。第一兼的な研究法では勿論ないが.
慈し止むを得ざる仕儀と云はねばならぬ。
さうだとすれば、民俗研究の讃料としての文献の記
≦邑
な悶簸であることは.国土卑官ふまでもないこ
賓であつても、自分の考察の封魚となる民衆の任地に
録するところが正しいか青か、首つてわるか否かが、
出かけて行つて、親しく蔓ら2r諾勺
なかく容易なことではない。封象が歴史上の民族の とである。民俗の軒究者が、自分たちの面接する文献
習俗信仰である揚合には、若くは封象が、特定の民族
の内容の検討に血眼になるのも無理はない。しかし血
≡Te﹃は、殆んど経堂であるゥ現存してゐる特定の民
り、若くは諸民俗に通する法則である場合には.琶d
へることが一月来ない。それほど民俗文献には、自分た
少くとも自分だけの経験から云へば.決して然少と答
鳥が踊られてゐるのである。さうした都路に欺されて、
ちの正しい歩みを誤らせるやう美都紡が構って居り﹂
局俗文献の検討
七三
ら、民俗の研究は、主として民俗を記蝕した文献を途
基方もない方角に迷つて行ったり、さうした良に落ち
放である。かうした事情−モの他さま1r・1・の革檎か
放に掬してすむlその過去に属する民俗については同
の習俗倍仰ではなくて、多くの民族のそれの比較で眼
あになつたために、結果が常にうまく行くかといふと、
∫
ものであるかは別間匙として∵民俗文献は.必ず何等
七囲
込んで、惨めな傷を栄つたりする毎に、今度こそはと.
かの意味に於て、記鉄上の鋏隋若くは弱卦を含んでぁ
民俗文献わ桧打
ゆく足を椅みしめ直しても.更忙斬らしい、未経験の
る。そしてそれが自分のやうな思慮あ足らぬ民俗研究
者にとつて、恐るべき都路となり鳥となるのである。
邪紡や昆が現れては.士た自分たちと痛めつける。
この道の尊閂哀や、先導者には.さうした搾村も大
方取り除かれてゐるであらう。しかし自分のやうな非民俗の記鈷者が、故意にさうした鋏陥を作って置く
筈がないことは明かである。何等かの原因があつて.
的な民俗研究者に
専門的な∵言はゞ一種の
記録者自身も気がつかぬうちに.おのづと生れてーI∼る
di︼告nt巾
は.あとからあとからとさうした邪路や隋穿が現れて、
〓
は諺鮎と、それを産み‖す薬園とである。
とめどもなく考察の凪どりを脅かすのである。そこの
でである。自分が考へて見たいのは、這般の映新著く
せめて今までに気がついたそれ等に嘱してなりと.若
干の虎番を作って置いて、一には自分自身のための用
心棒とカし.一には、自分のやうな立場にある民俗研
究者の参考に供しょうといふ辣膵な心を起したのが、或る地域で.或る赦甘集閥の間に、こと愛つた習俗
分古くから存してゐる。今日でも自然民族に接する人
れを着き留めて遼きたくなる。かくて民俗の記銀は債
この小論考である。専門豪にとつては、無用の菜く信
れ仰等を見出すと.少し心掛のい1人なら、誰でもそ
であらうことは.言ふまでもない.
民俗の文献は.古往今来敷限りなく存してゐる。し
かしいかなる意味に於ても映鮎を有しないと云ひ得る
の手から.かうした文献が績々と生れ出てゐる。
してまた現代人について見であることの多くは、昔の
文献は、殆んど見出されない。少くとも自分はさう信昔の人の記鉄に小言を申し出ても気が利かぬ故.そ
じてわる。それが可避的なものであるか.不可避的た
β
︵£づy・寧2三︶の﹃原始的
とが出来る。マリノウスキ氏︵声試p一illO弓詮︶は.トロ
︵三︶
心性﹄︵訂巳21已il仇㌘−nlE苫︶の中に数多く見出すこ
分たちは、レゲィ・ブリ⊥−ル
人についても亦兵であるから、自分は主として瞼討の うした一見不合理で忘恩的な土人の行先の寮例を.自
眼を現代人の文献に向けることにしよう。
一位民俗の蒐集といふことは、それ自身に於て.蒐
集者の思考推理の様恐が.被蒐集者のそれと若干の隔
りや差異を持ってわることを改定してゐるっこれは常 ブリアンド島に滞在中、自分に附添ってゐたモラデダ
詩的なことである。しかし山。隔りや差異が存すると考といふ男によく似た他の男に山達つて、二人が兄弟で
へること﹄と、﹃その隔少や差興そのものの様態に通じあるといふことを聞くと.覚えず﹃道理で顔がょく似
てわること﹄とは、自ら別問題である。だからいくら てゐる﹄と云つた。と.突如居合した土人たちが異緩
る。多くの蕃人.の間では、葵のカは紳から来るもので
へ門︶
り残された氏が.茫然自失の態に隕つたのは勿論であ
生れる。
めてゐたが、やがてこそ︿と四散してしまつた。取
自分と射手方との間に心的差異があると承知してゐて に埠をひそめ、牛ば困り牢ば怒ったやうに氏を睨みつ
もー箕際に臨むと、滑稽な、若くは悲しむべき誤解が
.ヘントレイ師︵W・︼︻・宮邑ey︶の夫人は、コンゴー
の一土人に柴を輿へて、その病を治してやつたあとで、あ少、而して外人の紳は自分たちを恨んでゐると倍ぜ
一の大きな危険を持すことである。外人はさうした危
その土人から、﹃葉を飲んでやつた代償として金をおくられる。だから外人か
れ﹄と云はれて、発きの日を睨つた。マッケンジー師
険を敢てせしめた代償を沸ふべき義務を寅うてゐる1
︵一︶
も.虎から受けた傷を癒してやつた亜
︵J・巴萬kg且0︶
弗利加の一土人から、封縫の言葉の代りに、小刀を呉 −﹂これが蕃人の思考である。また彼等の間では.往々
︵二︶
七五
れといふ要求を持ち出されて驚き且つ怒ってゐる。か にして母系的親戚の問の容貌の類似を云愛すること
民俗文獣の検討
3
民俗文献の検討
は、大きな侮藻とせられる。トロブリ7ンド島の土人
は、さうした行軍言説を﹃タブタキ・ミギラ﹄︵tpp旨一ハi
⋮宜−冒−もある者の顔をその親戚と比較することに上
︵五︶
自分といふものを.民衆の悪度や思考推理の方法に慣
ヽヽ
、t
七ふハ
.
ヽ
−
はそれ七関する正常な知識上理解とを有するとは、決
らさなくてはならぬ。また低い文化階暦の自然哲畢を
ある。その何れヰが、民俗に敏感な賓稟を持う.苦く
形づくつてゐるところのアニマチズ.アニミズム、﹃性
館﹄や﹃紳聖﹄の載念、呪術その他の原理としての﹃
感限られてゐない。単に教化を目的として、若くは
して
\.
染﹄や﹃交感﹄などに閲する知識と理解とを若干持つ
南東のために、は空官華として出か労る人々などの
てわなくてはならぬ。尤も拳間的にかうしたことを記
拳鉄には、頗る頼りないものがあり得ることを発情し
び知らなくても、その境地に身をおけば、おのづから
なくてはならぬ。サルヴ丁ドといふ牧師の如きは、フ
﹃この白人の野壊さと黒人の野壊さとの問には、.殆
間に行はれた問答を批評して.
それが感得せられるやうな、恵まれた性情を具へてわ
レーザー博士が、該牧師とオースト一っリアの黒人との
れば.それでも結構である。しかしこの二つの何れも
持ち合せない者が、立験な民俗文献をつくり上げよう
4⊥▲
のではない。だから本宮な意味で民俗を採集するには、
そ
し
て
そ
れ
等
が
ょ
く
屈
俗
畢
の
折
究
の
資
材せtて採り上
ヽヽ
げられる。しかしさうした人にも、ぴんからきⅧまで
..ヽ
だ﹄と心得たぐらゐで、食指の行くやうな生優しいも
等の民俗信仰に掬して、何等かの記録を作り上げる。
畢に理智的に﹃われと彼との問には心的差異がある筈自然民族の間に︰一相雷の歳月を透った人は、よく彼
.
▼
ってゐたかとい.ふに、必ず⊥宣さlうでぁるとは云び得
れもかうした後天朋な確備か若くは先天的虻能力を挿
それならば∵従来の烏俗の概察考
とするのは、甚だ無理な濯文でなくてはならⅥ。
、・
一▼
全く思ひがけない考方の相違である。かうした相違は
、資偶にあると思ふ。
ない
って汚密する﹄の栽︶として、心から忌み嫌ってゐる。
〃
んど邁ぶところが無
べる必要がある。その他静々の閉に或る腔系が見出さ
訣散骨は生活経済の上で特に農耕的であるか香かを調
れるところでは、それ等の紳を信奉する融合奥歯の問
と云つたくらゐ無智であつた。
かうした人々忙ょつての自然民族の習俗信仰の記述
に政治組織が精細に成立してゐるか香をつきとめ払く
てはならぬし・首長に終る多くの薬忌を見出したむの
は、昔然自分たちに、
︵一︶肝要夜風俗信仰を見出しそこねてゐる。
は、首長の地位が世襲であるか香かむ知る笹とを忘れ
てはならぬ。トーテミズム一の行はれてゐることを知っ
︵ニ︶或る風習信仰の中核となる鮎を掴み得ないでわ
るQ
にまで及ばなくて虻ならぬ。ゴム博士︵LPmm。︶編
ではない。必ずやそれ等が行はれ信ぜられてぉる環境
観察は、習俗信仰そのものに止まつては、決して充分
であらう尤どといふ心配を起させる。且つまた民俗の
﹃何時L、﹃どんな風に﹄行はれたかについて、何ものか
わるか、もしそれ等に菱化があつたとすれば.それは
わ入れられたか、苦くは採り入れられたと考へられて
の史的過翠ト∴何時﹄、﹃誰にょつて﹄、﹃何威から巨探
されること、▲或る儀式や習慣の葡見が、々れ等のもの
たものが.秘密結敢の有無に注意む向ける責務を寅は
S●戸∃且二好訂の﹃民俗畢手引h
︵三︶途方もない昔推量をしてゐる。
著、.ハーン女史︵P
る○
を見出すに努むべきことを改定することも、勿論であ
︵b︶
︵ヨ僧正邑bOOkOト冒k︼○且が注意してゐるやうに、女
性に閲する多くの禁忌が存するなら、そこでは女たち
凡そかうした心がけは﹂細心で聴明で、そして民俗
拳に相昔の知諦と理解とを有してゐる人にでなべては
が何か特殊な呪力を有してゐるか香かを知らなぐては
ならぬ⊥.もし人が裸地に崩れることを禁ぜられ、若く
所期し得ない底のものである。何かの役目や用事で盛
七七
は裸他の上に血を滴らすことを恐るる風習があれば、
艮俗文獣の槍肘
箭
β
局俗文獣の槍料
七八
いのである。タイラー博士の﹃原始文化h︵ワ︷miti■鵡
地に出かけたといふやうな人々に、さうした用意を望 といふ注意を奥へてゐるが、箕際の事潜は、もつと悪
むのは、望む方が聞達ってゐるであらう。しかしさう
うした葬に隕つてゐるのを知ってゐる筈である。
這般の無意蘇芳くは善意の錯誤は、滑極的、夷的な
︵九︶
した人々も、やはり自分たちの前に多くの民俗文献を 21t与W︶ を播いたものは、相昔の畢徒までが、屡々か
提供してわるのである。
殊に始末に悪いのは、自分の個人的概念信仰に固ま
って、邑然民族の習俗信仰を無意帝のうちにその鯛角 変で現れるばかりでなく、また積極的、正的な形で生
からのみ眺めてゐる者の記録である。宣教師たちのう れて来る。或る民俗信仰が含んでゐる本質を、個人的
ちに、よくさうした園つた賓例を見出す。野倭人や未 な見解で賦彩して、本然の要や意味とは頗る若くは全
開人と宗教上の問答をして、彼等の語る超自然的婁物 く異つたそれ等として自分たちに倍へてくれる。コ有る
が、自分の抱挿してゐる﹃糾しの概念にあてはまらぬ もの﹄を﹃無いもの﹄にしてくれるのも困るが、﹁無い
と、すぐに彼等の間には、紳がないとか宗教が存して もの﹄を﹃有るもの﹄に、若くは﹃有るところの或る
Qerc︶は、自分
それならば民俗畢の後備知惑を相嘗に持ってゐる者
のは、更に人惑はせでなくてはならぬ。
ゎないなどと云ひきるのは、かうした筆である。オー ものLを.﹃有るところの或る他のもの﹄にしてくれる
ギュスタン・ド・クレルク氏︵A磨星許dO
たちに謝して、
﹁倖道拳枚の生徒たちに勤しては、彼等自身の意見の記録は、必ず折究考察の正しい典撼になり得るかと
で報倖を書くことを望んではならぬ。彼等は、無 いふに、これも可な少の程度に於て疑問である。﹁白紙L
ぅところの民俗拳的な良に、なまじひに民俗築上の知
意識裡に基奇数的色調をそれに賦彩するであらう としての頭の持主ならば、陥ることを免れ得たであら
︵八︶
からである。L
β
場合には、さうした無意識的の托歪のために、白が黒
諌を若干囁つてゐるために、却って蘭落し易いといふ した紐歪が常に看破せらるれば無事であるが.多くの
傾向が厳存するからである。自然のま1の地面なら、
水は自らの努で、低きについて、流るべきところに流 となつてゐることが、読者に判らぬ。民俗文献の艮の
民俗採集の第一の要卦は、賓際に存在するところの
三
れて行くが、人工的に溝をこしらへて置くと、水は無 一つは、正にここに存する。
理にもその方に流れ込まねばならぬからである。﹃擬
娩宍9弓已&の習俗を、母系制から父系制への推移の
産物であるとのみ思ひ込んだ者が、自分のH曾った同
一の習俗をすぐにそれらしく記録してゐる如き、若く 具
腋髄的事暫T−−それが習俗、信仰.制度であらうと.
﹁非人格的な勢能﹄といふ観念をのみ込んだ者が、 その他の何であらうとー1を経め.而してこれをあり
後に来る問題に属すべきである。
理窟の上からは、まさにさうであるが、賓際に於て
き出すといふのが、人情の眞である。二個若くは二個
らゐであるのに、記執した常人は、一固に思ひ込んで.
も.それが同一敢曾集圏のものであ少、且つその間に
七九
近似性がほのめいてわると、いつの間にか観察者は、
民俗文獣の検討
それと極めてしまつてゐる一︶しかし読む者の目にさう
念と矛盾する或るものを含んでゐることに気がつくく 以上の民俗を、異なる時間に異なる地方で見た場合で
移の傾定を哀切つて居少.若くは非人務的な勢能の観
そこに記された擬娩の内容が母系制から父系制への推 から、もう心の底のどこかにそれを解挿する気持が動
な記鉄そのものでも、他人がこれを熟読して見ると、 は、なかくさうは行かぬ。或る民俗に面接した瞬間
ゐる如き、その最も顛著な箕例である。さうした軽率
たものに拉l曾ふと、直ちに該勢能の範噂にくり込んで
自分の出かけてゐる蕃地で、少し神秘的な傾向を帯び の俺に記録することであつて、それ等の事案の解将は、
7
民俗文献の検討
それ等の問に何等かの聯絡をつけようとしてゐる。る
そことは、決して稀ではない。
八〇
れ等の民俗を記録にのぼす段になると、無意識的な解かうした記述で、自分たちが最も弱らせられるのは、
輝が、殆んど不可抗的に忍び込んで来る。人間の考民
へ俗の解繹詮明の自他牲に閲してである。自分たちの
求してゐるからであるっそれは一のn焉ぎr:墓であ
箕際の考へであるか.若くは記述君自身の候定的解揮
ゐる。しかしその説明が、該民俗を有する民衆自身の
出した﹁文章﹄といふものが、さういふ解痔を自ら前
要には、さ童丁ぐーの民俗とその説明とが提供せられて
るかも知れぬ。
であるか、二者のけじめが判別し経いのが、かうした
だから縄封的な意味で、記飯箸の解繹の誘導を排放
することは、言ふべくして行はるべきことではない記
。述.の通患である。自分たちの第一に知りたいのは、
自分が民俗文献に於ける邪終着くは良となることを前
恐者であつて、後者ではないのであるが、猫新約な記
もない。
れる鮎は、他に存してゐる。それは、無意識的若く述
はにあつては、さうした要求がなかく滞されさうに
意識的のいづれを閉はす、民俗に謝する解樺が.事箕
はない。紀元一世紀頃の希臓の大旗行家.ハウサニ7ス
が詰るところから抽き出し得る或るものの正常な範囲尤も民俗の記述者の中には、注意深い人々もないで
から踏み出してゐる場合である。
rグ†チック
民俗の採集者、記鉄者は、習俗信仰等に用する彼等
の如きは、その尤なるものであらう。パウサニアスは、
の言説に於て、甚だ度々﹃猫断的﹄であり過ぎる。靡
せくい
希臓の内地む遍歴して、各地の風習、信仰.祭儀、
︵吋。賢i↓e
その努力の結晶である﹃希腹記﹄
︵HC︼lPdO∽才ri萱乱じ
ぜいのところ一個の﹃ありさうなこと﹄︵PprObPbi︼ity︶民辞等を音嘆すべき根気を以て戟察し記述してゐる。
以上の何物でもない事柄が、﹃確賓な事賛﹄
ざ芭 として記述せられ若くは取扱はれるのに逢着を
す強いて、自分たちが最も有難く感する掛は.この放
β
て.強いて無理な説明をつけてくれなかつたことでな
区別して置いてくれたことであ少、更に想像を敲任し
事柄と、自身が試みに下した解繹とを、可なり明白に
てくれたことであり.諸地の民衆が賓際に考へてゎた
行蒙が、﹃事躊巳と﹃推定せられた事箕﹄とを書き分け
閲する音詮は、よく氏の周到な記述的態度を許示して
︵An10日gt訂訂di§仏○︻Guipn与
であると云へる。氏の﹃ギアナの印度人の間にありてk
覧d
の中で、その畢的憩度を推賞してゐるサーン氏︵守er・
が.最近の著述﹁擬娩の風習﹄︵TbOP旨mO︻9雪いd凸
に於ける擬娩の風習に
の如きも、這般の慎重な記述者の一人
くてはならぬ。彼の書物は、なるほどフレーザー氏が
ゐる。氏は、この奇異な、しかし廉く諸民族の間に旗
imぎl旨︶
許したやうに、
布
、ざ○ ロuCすp m町e邑巴○望e O、呂ti宅i氏きtF巾d
一し
句 てゐる習俗の説明を自分たちの前に舅示するに昔
とを、注意して書き分けてゐる。しかしかうした粘1−
︵ニ︶士族自身の解辞したところのもの。
︵一︶自分自身の考へ且つ信するところのもの。
つへ
て、
訂n袋0へknOまagO巨富詳enedすt訂br串臣○
︵一C︶
im−肋甘邑○ロ一ご
俗研究の資料といふ立揚からすれば、級数そのものが
民俗折究に
であるといふ鋏鮎を持ってゐるかも知れぬ。しかし民
大きな店値となつてゐる。この偉大な民俗蒐集束が.
意を掛ってゐる記述と、これに無頓着な記述との数量
5.邑な捕虜を持つ鮎に勤して∵細心の注
想像力に乏しかつたといふことが、やがて輝やかしい
的比較を求めたなら.自分たち疫必ずや大きな嘆息を
事貰豪紐
峯想に去まれた人々の特に陥り易い誘惑
漏らさす虹はゎられないで慮らう。それほど官許ti庄
−
き歪めた少、色調を菱へたりする誘惑から、彼を解放
八一
夢雲0−一︶ の混同が多くないと主張するものがあつたら、その人
とpO軋bilili虎とは混同せられがちなものである。︵這般
R
してゐるからである。
ダブリュー・7−ル・ドーリン氏︵W5琶
民俗文献の検討
タ
八二
とになつても、決して飴り速くまで行ってはなら
民俗文献の検討
は.多くの場合民俗に関する文献に勤して、放漫な見
ぬ。一しょに行く赤見の精塞が疲弊するからであ
る。そして入江を渡るときには、先づ第一に、自
方をしてわて、それがために混同現象に気がつかすに
ゐるのである。︶
けてやるか、若くは濁木舟の形に採集を曲げなく
分の同行者︵赤鬼の精霧︶のために小さい橋をか
ヨユは、﹃ギアナの森の中にて﹄︵︸ntlle2i詫巨︼才云邑︶
てはならぬ。﹄
一例を拳ぐるならば、ジュー・ロッドウェー氏︵J・冒d・
に於て、
蒙らせたりするに至るからである。だから彼はお
を射た少、斬つた少、若くはその他の方法で傷を
やうなことを敢てすると、思はす知らずその精釜
は、彼のあらゆる遊行に随伴する。だから以上の
には、目に見えぬ閲傾が存してゐて、赤鬼の精室
倒したりしてはならぬ。なぜなら彼と赤鬼との間
彼は或る期間狩に出かけた少、弓を射た少、樹を
沸って、おのれの義務と考へることに準備する。
冒アナの印度人は、子供が生れるとき、.落ちつき
は、その主観的解群が、恰も客槻的事案であるかのや
主税的解樺とが混在してわる。しかも最も悪いこどに
る虹といふ客観的事箕と﹃かくかくであらう﹄といふ
と推定とが厳密に拓別せられてわない。﹃かくかくであ
はゐられない。ロ?ドゥェー氏の言訟にあつては.事賓
こに多くの畢的鉄路が潜んでゐることに気がつかすに
越を奉げてゐるが、仔細にこれを瞼討して行くと、そ
﹃エスノロジー﹄で、掌讃的にロッドウェー氏の此の記
円epne︶
と云つてゐる。そしてエー・エッチ・キーン氏
︵一二︶
eerFどi袋と苫・
は、一千八百九十六年に勧橋で奇行せられた
Ⅰ叫●
のれの吊床に引き込んで、時には赤見を抱きなが
うな擬憩を採って、本常の意味の客概的事案の間をつ
︵A●
ら、自分の友遷の就鮮並びにその政令集団の長老
なぐ連館となつてゐる。切言すれば
︵一一︶
たちの助言を受けてゐる。もし放に出るやうなこ
JO
●ヽ
−イ.、,
∫・7
ー ■
∼
≒⋮屠〆
†▼
せられた毒の何に、矛盾撞着が存するといふことを
ー
−一︷
暮■−■ケ
改定心てわ藩。
島の轟が暮する芸格と良房して、カーサ・げー
デ﹂jリサ丁▲・ズ師︵出育.竜竃百ど凰Tは.フィジィ
忙して−良俗の研簑みむことの甚だ危瞼なことと
︵同㌢8ぎ︶及びカワウ一号聖衰となし.両者
l
二
ェ
JJ
\Jレ
︸i、 きTとが、・一癖等α誉威とと以て屯融してね.︰
る○、
ハ
自分たちは、かうじた曽七含んでわる文献と土塁・
感ゼナ忙はわられない。しかも鬼に云つたやうに.這
を峻別して.▼前者むr兵正の鑓巴盲笥£となし.
・ヽ
般由鋏粘は決して稀有な現象ではないとすれば,自分
後者寧り亡墓↑盲息︶となtてわる。然るにエ!エ
︵一三︶
たちは.それを発情で研究の歩武と弛めることを僚機
ホ、カート氏り︷卜寧日邑︶Jは.カp.ウ・ヴーQすべ
守
なくせふれてわるわけであ.る。
から議定せちれた串†︼モ拓別する心眼と鎗く働か
更にダブサて・・デーーン師.︵夢1・声冒Bも、その
●■
せるととが.自分たちの慕の真薦やあるQは首ふま
著rフィジ﹂人の敢骨﹄︵扇甘監母︶忙放て、ウイリ
ー
一
七七っ﹂何の丸正の紳であるゾしかし若し自分たち
ぅ。彼はノ、ウ﹂リア・ムズ氏の周ひた青葉の意味に於
主事たるンヂンゲイ∵︵空合亀︶.ヤを一例に採ら
存す電の虻唯稗度の善のみであうフージ†の併謂
ラスの何には、何等嘉の差別も存してゎない。
﹁葺のところ.氏匹よって畢示せられ空一つのク
TAズ師の見解を否定んてい㌢一㌧・一″
でもないが.その実捕が由窒忙具し得られるかどうか
一
,は、翳る翳何である。民俗軒先の困難な卦は.七こに
も存してねると云はなぐてはならぬ。
四
同一の部族、敢嘉の民俗忙陶して.多くの文献
の存してわむこむが−折究者忙とつて有難いことであ
ー・・.■.一
ろ再拝﹂勿†でか為細工かし岡持にそ
︰
、・‘・ヰ∵、︰↓−、−1ヰ、㌧.イ
l
.’・J 、◆ J ;JりJ
︰蓋許・
−
八田
ける宗教、民俗、風習の研究﹄︵SどdieューlRel藍On−句○苧
民俗文献の検討
が爆承に従ひ得るならばJ彼が一個のヤロ︵Y旨︶
田OrneO冒d
︼Ore
︵一︶悪魔崇拝が吋なり著しいこと。
に於てーこれと殆んど全く封舷的な観察壱
甥Ortb
即ち亡蛋であるといふこと、普て一個の昏長であ
どninsulP︶
O邑Onこll︰冒i一計J
り、フィジィへの古い移住者の一人であつたといふ
下して、セマングの問に、
れだけのことは、民衆の詩体故に明砥忙且つ一般
︵二︶亡塞が大いに恐れられてゐること。
ぎd
七と以上には、何等確かなことは知られない。こ
に述べられてゐるところである。更に他の例証を
を.おのれの賓際経験として力説してゐる。
と8
︵ニ︶ア一て、、スチックな活動念が大いに拗音であるこ
ヽヽ
べき賓播、使件を具へてゐるか。
︵一︶これ等の観察者のうち.その何れがより信組す
を判断する材料性.
かうした矛盾に逢着した場合、その何れが正しいか
︵一七︶
奉げるなら、オノの紳クノヴー︵T呂い言︶がある。
タノヴーは、その節依着たちによつて、昔て人間で
あつたと明白に推言せられてゐる。しかも同時に
彼等はこれを呼んでカロウ・ヴーとなしてわる。﹄
︵一五︶ と言つてゐる。スキート氏︵W・﹂く●Sk邑︶は、﹃異教的
種族宍m笥n巨岩風︶に於て、馬来の旗小種族セマング
の宗教に脱して、
ヽヽ
ら推せば.二者の何れがより多くの蓋然性を持
︵三︶問患になつてゐる民衆が持つ他の多くの民俗か
見てゐるか。
It各0要言2雪﹃bly訂尋t一貫求0へdemOn司Or臣p︵
−二︶これ等の概奏者以外の人は、問題の民俗をどう
扁r﹁−ittle訂rO︻gぎ且♪旨d象−〓臨:ちだq望呈
︵〓ハ︶
と断言してゐる。ところでエッチ・エヌ・エヴアンズ氏
つか。
b、戸口⋮日im仁e FW︼i仲野
︵声声望呂Bは、﹁英餞北ボルネオ及び馬来年島に於
t訂已巴p
オーストラリアの黒人たちと問答をしてゐるうち
に、彼等が人間の案魂を小人と救じてわるのを知つた
︵豊岡罵になつてわる民衆と同一系統の、若くは隣
接して住む民衆の、さうした民俗はどうである
飲轟巴の二冨教師が、人間が死んだ後には、さうした
小人はどうなると尋ねると、一人の黒人は、鼓のうし
か。
等せあらう。しかしさうした材料が放けてゐる場合に
ろに行くと答へ、他の一人は、海に入つて行くと答へ、
しかしかうした矛盾問題は.或る理由のために、更
常任の葬一の場合である。古典的希臓にあつては、冥
第三の男は、どこへ行くか知らぬと答へた。これは不
へ一八︶
は.自分たちは全く困惑してしまふ。
に面倒になる場合があることを忘れてはならぬ。或る
界の王者はハーデス︵呂邑凰若くはブルーー︵ヨutO︶
であつたのが、近代希臓に於ては.カロン︵Cb5−1−
理由といふのは†民俗の不常任である。そして該不労
牲は.
古典時代には冥府の河の薩守であつた︶が、その地位
︵一九︶
にのぼつてゐる。これは不常性の第二の場合である。
も、或る人てある地方では、Aの形相又は意
マリノウスキ氏が、l﹁ロブリアンド島で所接した一人
.
±︶民俗が、同一融合集廟苦くは同一地域にあつて
味を有し、他の人々、他の地方では、Rの形相
の土人は、女人の簡内に墨魂が入って生見となるとい
第三の場合である。
八五
同一の事柄に押して、互ひに相異り若くは相矛盾した
かうした事情があるので、撃つかの民俗文献に於て、
︵二∩︶
の時には陰部から入ると答へてゐる。これは不常任の
ふ載念に掬して、或る時は女の頭より入ると答へ、他
又は意味を有すること。
︵ニ︶民俗が、同︼融合集薗若くは同一地域にあつて
も、時間的な菱化をなしてわることり
︵三︶民俗が、同一人の口から語られても、場合に上
って、異なる話方をせられること。
等から成り立つてゐる。−
民俗文献の槍肘
J∂
一
八六
な燭少ぎめ.若くは常座の思ひつきであるかも
艮俗吏獣め綾蔚
記録が見山されたとしても、必ずしもその中の何れが
知れぬ。
といふやうな大切の問題が昔然起って来ることに泉が
正しくて.何れが誤ってゐると速断することは出来な
い。その何れ宣正しい場合があり得ることを承知して、
つかねばならぬ。そして気がついたら川来るだけその
解決に努むべきである。
材料によらすして、自分膠手な推測でlさうした問題
かうした面倒の貸任が.轟く民俗記扱者の上にかか
驚と勘考しなくてはならぬといふ面倒が起る。
究者の引受くべきものである。しかし他の鹿分かは、
を片附けて丁ふといふことでは滋い。自分の見聞した
尤も解決に努むるとい
どうしても民俗の採集者.記録者の不用意から凍てゐ
ことが、ある疑問を潜在さ廿てゐること軋泉がつい
ってわるとは思はぬ。その幾分かは、文献に上る民俗研
るとしなくてはならぬ。たとへば.先に奉げた欧羅巴
ヂ⊥−ストーン島の土人の﹁死蛋の行くところ﹄に掬する
といふのである。この鮎に於て、りヴ丁−ズ氏が、エツ
ときに、始めてありの優に記録して這いてもらひたい
うした努力を重して、しかも猶ほ問題の解決がつかぬ
に、更にこれを見出すことに努力することである。さ
ちそのものの間に存してゐるではないかといふ考の下
て、これむ解決する資料となるやうな民俗が、土人た
′
の一宣教師は、蜃魂としての小人の行方について三楼
の邁答を得たとき.
︵一︶三成の蓉のうち.その何れが黒人たちの共通意
識であるかっ
︵ニ︶これ等の答が含む解雇以外の解群が.共通意識
として存在克てゐるかも知れぬ。
■
︵三︶若くは共通意識としては、何も成立してはゎな
冶仰を取扱った方法は、頗る自分の意を得てゐる。艮
虻.土人たちの問に、死婁の行くとろに関して、互に
∫j
√
ゝ ︶
/
いかも知れぬ。
′㌧
︵四︶三雄の答は.轟くこれをロにじた者のいい加減
ヽ
◆︷
、
叫︰
一
軒盾した二様一Ⅵ信仰が有し〆ぶろこJを見出⊥た。
+
t士る、○ ▲ヾ、、
といふのがこれである。り氏は、これ専二億の信仰をそ
の偵省きとめ忙安かじなげで、一
、
アの土人の死に脱する概念がー.一位に
︵一︶メラネ
穿であつて.東北人の概念で解し易からぬ新
の貰際に存するこ才を.賓例にょつて指摘し.
−
∴るかも知れぬと考へて見たり、
山︵ビltで、それにょると、死人は移柁前の故土
に締って行くとされるものとの混親の産果であ
いろくl問題の解決に努めて、しかも解決の基礎とな
る賢際の習俗信仰を見川し食ねたとき.氏は始めてオ
仰を抱いて∴明かに安慰な心持をしてゐるこト
﹃かうした険件は、この民衆が這般の矛盾した析
府を矛盾として、
r.
−
を説明するに足りないといふことを、自分は充
っ二︶
死茶の行くところ些関する信仰の矛盾も、土人
一分に認めてわる。−っ
ヽヽ
の思考を知ることが上り淡くなれば、自ら滑滅 となしてゐる。かうした行方をしてこそ、始めて民俗
一
J.了
するかも知れぬといふことを、孝へて見たり、 ヽヽヽ 文献がたよりになり得るのである。先に黎げた宣教師
のやうに、三偶の相異つた答を平面的に羅列しただけ
−一は.エブディストーン島の土民自身の
ては、多くの文献が、この一宣教師の記録と同じやう
料としては、頗る債値が減殺される。しかし賓際に於
それから常然に起る疑問を
で碕してゎられては、−
で、それによると、死人は島中の洞穴内に住む
に、かうした疑問を自ら起さうともせす、従ってそれ
の一個の場合であつて.これ等の民
昂nq邑詠.E︶
全く無成してゐられては、その記録は.民俗研究の資
とされるものう他は同島耽溺任して衆た民衆
犀俗文獣の槍
㌫叫t肘;や
ヽ
Cu一t
衆の宗教は.二つの相異なるCultの混敵わ達見
︵二︶這般の矛盾は、いはゆる苫前数的混成﹄ハre覆三ln
し
唖
●︳
︵ニ︶死畢彗速ぐ樅れた或る島に行くゥ
一●
︵一︶死蛋彗云∵ッ≠ま.トーン島の一洞穴の巾に朗・u
J
■・ト’
ー ●■ l・
=、
昆俗文獣の檎肘
等の疑問に射して何等の示唆をも輿へてゎない。この
J・R。d弓睾︼−ニ訂¢u㌻np宇r蚤pp一誌∴声
八八
︵〓︶
A・声同区n夕日訂已CgYワ鍔∽●
書−■0︼∴−M−担
︵;︶
︼ぎ・βWi≡p星−きi巳已t訂句萱p艮やg00●
︵未完︶
︵三︶
︼邑itま00︻
−卜 已● せのPtl¢y−T訂巳訂呂d HibO亡コ○、F
JCur邑0、tbのAntbrOp010各巳
︵一叫︶
Sk邑買〓︶厨dきP召lPc註−YO〓iここご●
ぎ1・ノ一、・せ巨臼e、句学ln酔岩訂tさpワ睾さ
Gl多t哲itヒnこ巳騨p.食P
崇YCr,p勺●監−㌫●
J・ソ㌻c打en計−Tenぺ謬ユF冥○ユJ Oニ訂9ngO
︵一五し
ヒ∵㌢﹂㌘貞一Ⅵ︶望已i針ヨ.戸l直Ol一、戸苧︼〇reヨl︵l
C邑0−巳u冒iti巴l試eエビ冒rngMl已tぎソ︻已与
つヨli己u㌻、つ.︼∽P
C
L毒筆l−匡OdGコ︵ぎC打−1C−k⊥OrC呂J
R堅く〇d¢︸g宮山透hぎ阜ll望仁キAuき已ぎ
J●
And邑Gr藷k訂竜ODIpp−雷−E↓一
︵一九︶
p・−昌■
︵一∧︶
︵一七︶
︵一光︶
野∴胃・FO⇒数,TFe﹃邑l∼r㌻ヲib−iti一d層う
−−伽押
ビ∫ユ甲邑一−訂リー苫邑itかヲiEEきp勺●も∽
三.
昏責○ヨ0日霞﹂、pp●︼b揖、だヾ●
鮎も確かに自分たちの不平の種子としてい1ことであ
ると思ふ。
牲 ︵こ
︵ニ︶
︵三︶
︵ご
ど︼〇gゴ︼竜・∞ご00野
巳已FOd各i−Op・ロt●−勺−夢
J● G● 宇島e︼・−GO︼d3皆兵b−TO︼●iji−T少ぎ○
呂dt訂吋乳︼止ま∵旨eぎ乙−p●誓−宅Otタ
ロm∵冒Eぶ∴ヨe呂旨ddOO打0︻句OIE〇諸▼︻llナ
︵竜︶
岩巳gまkr︵す人ぎ−pp一ぷ声
rOduユiOn.
︵ニー︶一声l:∴ロ︼亭蒜き︼耳号ど︼○電§L空三乙童ヨ
胃−宏−㌫●
出こrコ♪○勺CiLこErOきetiつ⊃、
OrL・
声声TヒOr−Prin一itile21ture−雲エ■i、p●竺﹂●
J・G・句ヨぎr−︻.p⊂事niだ訂︰ロ皮至・i言C−一〇r
J〃
〓一
知音仮名書き統一に就いて■り一提案
金
倉
固㌧
腰・・・‡
準と成ってゐる拉典文字を使用してはどうかといふこ
ならばいざ知らず.多少でも一般の読者を捜想する物
と一考へられるが、これも雑搾に専門的な述作に於て
今旦盈宍巴鮎譜も含めて︶を原語のま1和音に書き
にあつては、日本文が所謂ローマ字で普通に行はれる
第
改める必要と生ずる時.書々は常に多くの不便に遭遇
する。普通仮名文字で之を現すが、文字其物が梵語の やうにでもならぬ問は.到底貨行は難かしからう。賢
曹音を現すに不完全な焉と、多少偉統的な色彩を帯び 際今日では唯だ専門家のみを読者として期待すみやう
た慣用の差異とから、今日では日本国内で人と場所と な論文を蓉表する時でも、吾が腋畷名寄きむして更に
しても.チ†−シー−グヤともチハーンドーグヤとも或
った。囁へば同じ已鼠id。g盲といふ膏を書き表はすに
返して行ふ有様である。沈んや梵語の知識を紋く読者
典文字を添加するかの繁雑な手帝きを一々の場合に練
て断り書きをするか、それとも脚甜又は附註として拉
に依て相逢するといふやうな複雑な状恕を呈するに至 拉典文字を入れるか、何凰かで償名書きの寄書町つい
はチ†−ンr−ギアとも其他色々に稲ゎられてゐると
いふが如きである。然らば斯様に不完全な償名書きを をも漁期する際には、拉典文字のみを漢字僻名交り文
八九
全く使用しないで、西洋七行はれてゐるやうに全部標 中に孤立的に挿入することⅥ、たとへ理としては正し
−翌日仮名菅・統一に就いでの一提案
上敷段セあるl何でる着であ毛試に思へ・︰成笛の単
九〇
いとしても.古としては行はれ難い。乏は読者が虫
音が偉名文字阻で′㌢竃㌣掛軸何に苦可せかと問へ
発音仮名一号−統︼に就いての.︼提案
鼓轟典系文字に上る梵錦と井粛までは正しく調
ヤでも良匪と答へ一るな㌃町∵必ずや奇異の感に打たれ
に封してー⋮日本ではイハ一一ルギヤもダル▼マでも其他然
み得ないと叶ふ計打や隠州く東軍に印刷上の手間すや
毒と損するといふ負でも無て.虚ろ普通竪軋読む和
やに
むらケ。今計此方面の串問瞥礼節に進歩して我邦
文曙俄眩横町研む梵文が附加せられ然もそれが頻る繁
一
■
∵・ヽ・
都の統一に任す可ぎであむしと叶ふ意見に勤しで.も余
のせ告ケか環余は請革者環↓考㌢兢じ庇いぺ吹管自
っ.て.軋る際∵我串界モ梵請の階名書きさ.へも統一され
、
の貌者の論文も外周人に引用せららるるやケな気邁に向
敵軍逼らるるといふ鮎に.L長らく心瑚邸的な重な快
て
耳簸ぎをれば.冊かに温む叶む読者の理解力が其都度
癒駅醜んんせね.曇彗j古うバ㌧ともあれ.哀し之寄打防
〃﹁・ヽ.
−
蕗の如む盃﹁一一基し耐も諾ば執筆者のr一人A軋
臥賛成む表し難叫。由一絨計請の如ま替とは興って
せ善意邑署首鼠農聾ぞす汀隼忽
舶忙陰るの邦粁身れないて
材晋q豪は嵐心象に思・れをがら、一濾紙脊せの如き
’■■ノj
議毒︳堅愈平澤思妄㌣痘晋に一光い瞥
l
音之む鏡コじぬぐて露がの方法に自終に統
﹂ぜらるる曙せはな.い・か﹂と論サる人もあるかも知れ
ぷ著しぐ駄文嘗執る?蟹ノー.に此際群音Q文字は井意
晩には何等の阻係腋持たないホ管主射手義の有ナる
一1
管す貰打貯移し符牒といふ油絵的の瑚由を示すと思ふ
仮名脊きを一定しやケと騒音が協定すれば.即日から
ないが﹂余は粛﹂跡東関に野心でば若し統一し得
沖て
さ必
れj串が無軒。些ち打方位今打でも若し梵語の
サー、定の鰻鎖に雫如何な毒忙r一定の梵青を直に
′−▲◆
Jβ
,
一
に促進すべきであつて、決して今月の如く放任し置く
て将来の統一を待たねばならぬとしても、之を人馬的
いといふことを提示したのであるが、仮に一歩を護っ
趣積趣の二理由は.洛先の自然の統一に任す可きで無
を捨離しないであらう.といふ事を拳げ得る。以上滑
人名的に改革の機曾を得ざれば.有年を経ても逸に之
ぬとすれば、自然各自は共催統的な侭名義ひを重んじ、
する鬼に従ひ、然も甲乙何れも幾分宛の鉄鮎を免れ得
ては、現今の如く何等一定の標準も無く、各自が芙蓉
人偏的に之を定めねばならぬといふ積極的の理由とし
三郎教授の解説梵語拳に覚め得る。該者は特に梵語の
と見る可き物は存するのである。吾人は其一例を御苑
間ふの形式は踏まないでも、曙欺裡に採集をせられた
余の未だ知らない虚である。尤も之を提案として世に
思ふが、之を提菓として一般に開はれた事は、寡聞な
は或は英俊宜なるべきを相談せられし事もあつたかと
かる提案は存し無かつたかと言ふに、.二三の畢著聞に
も亦其主旨を此虚に置く物である。更に然らば従来か
効な方法が残されてゐるだけである。而して余の提案
りを捨てて爾今之を薄守するといふ事にのみ、最も有
或一定の規約を聾者が定め﹂定めた上は従来の行き懸
不完全とは如何にして除去し得るか。それには唯だ、
可きでは無いとtいふこと腋、少くとも明にせられたと
野音を論ぜらるる部分に詳細で、吾人の訓へらるる鮎
が.第三に単に自然の統一を待つ可きでは無く進んで
思ふひ
偶にて鈴梵語の仮名番きの必要なること、現行の仮名
を現はす片僻名に特殊の府戟を附する笑いふ方法む採
を以てせられ.邁普な僻名港覚め得尤い時は類似の音
宣多いが、教授は其虚で梵語の婁昔履示す偏に片傾名
香きは鹿めて不統一なること、其統一を計る必要の存
られた。若し草書拳的に腋軽を期するといふ粘から言
上兼余の述る鹿は、轟さない鮎もあるが、一今日の事
すること、其統一は人馬的に少くも促進する要のある
へば此榊式は少くとも方法として最上の物であること
九︼
然らば斯かる不統一と
こと等の諸項に獲め得る。−
梵音仮名警・統︼に銑いてり一提案
Jタ
梵音仮名書き統一に就いての一連集
せ一.
に昔っては、此多くの特徴を有する様式を遺憾ながら
なつてゐるのであらう。佃で此鹿に斬らしく提案する
不便な鮎が多いといふ事が、流行を阻んだ重な原因と
七あらうが、一面には理論上は正しくても茸用として
用せらるるに至らなかつたといふことは、色々の事情
られてから二十年以上に成るが、其間に之が一般に使
式は現に行はれてゎない。偏に榊教授の該暑が専行せ
る。併し不幸にして我邦では此に準すべき榊教授の様
するといふ如きの方式が一般に採用せられて、琴音歩
い
上の厳密性をも保持してぁることは周知の事箕であ
新嘗を現はすに類似の拉典字母の下に黒載︼個を附加
併し候名文字配雷を一定する鮎に賛成を得ても.何等
目的の一部分む達したものとして清足するのである。
の措置を採るぺきであるとせらるるならば、此提案の
満足でも、少くとも斯かる必要を同感せられて何等か
庵少数の人でも卑見に賛成せられ、仮に菓共助には不
は一事と雄も企重し得ないといふ結論と成らう。余は
はなく.如何なる堤菓でも最初から不賛成を汲想して
い。之は必ずしも梵昔傾名文字配嘗に限定した開放で
判断するといふ畢者の拳的良心に訴ふるより他はな
いといふ恐れは、一に私情を棄てて大鹿より見て物を
之そ脱却し得るものと余は倍する。更に賛成者を得難
必ず一定の音竺定の僻名字計常て得て他と紛ふこと
,J.
暫く静外に措かざるを得ぬ。従来拳者が茸際に不便を
かの原案が無けれ.ば、一々の可否は論じ得ない。故に
るといふこと壱恐れた超であらう。併し最初の国雄は
感じ乍ら、叉冬的良心の敏感な研究者が執筆に際して
ヽヽヽヽ
常に何等かのこだはりを感じっつも、今日まで敢て此
余は次に一の私菓を提戻することとする。而て此私菓
.は.皆異論の無い鬼であらう。現に欧米では、囁へば
間短音公元治じなかつたのは、事貰として僻名文字の
は.次の諸項を原則として立案したものである。
第一逢った膏は必ず興った仮名の組合せによつ
釦
無きを得、又それが算用償値を失はない程度であれば、
配昔が完全に行はれないといふ困難がある計わでた
く−戚に提案しても賛成者を得ぎれば邁に無意味に終
で鴇はナ。
第二、従来普通に用心られ・ない新符兢は使用しな
い。
第三、始に少さい活字の僻名の来ることを避け
る。
第由、配首の理論は成る可く簡単なものに嬢る。
第五、成る可く類似の音で現はす。
第六、成る可く少ない爬名歌で現はす。
弟七、成る可く現に行はれてゐる僻名寄きを顧慮
する。
此中第三項を除いた他の話項は、菓其物の性質から
又上に述べた理由から、若ぺは賓用便植の顧慮から自
然に明白であると思ふが、唯だ第三項に就いて少しく
詭明するならば、試にjの音をヂで現ばすと定め、更
︰11にと区別する男に単なる1は小活字ヂを朋ゐるとせ
上。然る時は、jが中間に来る時喩へばアビヒアニャ﹂
ナ︹記憶︺の如き場合、又jが最後に来る時喰へばスラヂ
︹花環︺の如き場合は都合良しとするも、jが最初に来
梵音仮名着き銃lに就いて¢一提案
る時囁へば知を現はす語の如きはデーl†−ナとなりて.
め此松陰を除かんと試みたのである。
ならしむる紋鮎がある。故に今特に第三項を設けて汲
直前に猪立の梵語が存する際には南語の応分を不明瞭
単に古来の償名書き用例に反するのみならす、若し其
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六 玉 円
弟〓箭
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発音仮名苔き統一に就いての一環実
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発音艦名著書鰊−に拭いて¢︼提菓
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発音仮名重言統一に就いての一提案
一−九七・
ゑ5
附
言
梵昔仮名零さ統一に就いての一提案
第三筋
前掲の配字表比第一節の最後に述べた七則を参照せ
九人
い前例もあるが、コー・チョー・トーの如く子音を附し
て言ふ場合を考ふるに、本来の性質に従って延書記披
秀である。ククはクーと学者せらるる恐ありとの快鮎
第二行にて、FをクゥとしたのはAのクと差別する
を附して統一するを可なりと考へた褒である。
ヽヽヽ
すべき鮎に就いて改め提案者の意見−鑑少しく附言して
を有するが、本表にあつては本来長く聾者すべき際に
ちるるならば、自ら明かであると思ふが、命凝議の生
置きたい。
上り夢二則までは之を厳守することとした。従って第
始に来る原則程之を重んじたことである。而て第一則
ヽヽヽ
いでクーとしたのは原則第六に掘る。又此等の配字の
意さへすれば紛はしさを免れ得る。Gをクサーとしな
は必ず琴音記鰊﹁−﹂を附するから、若しそれを汲め注
由則より第七則までの執れかが前三則の執れかに堆解
の合気をカハ式に現すは原則第一。因に梵語の含気は
最初に任意を促し度いことは、此表では垂の七則中
する時は、之を守らなかつたことである。以下個々の
決して日本語のカハやドハて無いといふ議論は撃青草
が、従来普通行はれてゐるやうに之をりとすれば第二︵
梵に合気はカハ又はダハ式とする。・−−府K列のケヘ一
慣名書き用例が存するから、今は原則第一を殴奪する
上正しいけれども、本来チャでないのをチ†と現はす
理論は以下の諸行に於ても同断である。第三行︹其他︺
例に就いて言へば、
ヽヽヽ
第一行母韻で問題と成るのはPヰ以下の三つである
行第二九行の牛韻との陸別が困難と成少、原則第一に背
第六行は第一一二六・二一三六及夢二五︵随韻︶と共
に、最も差別に困妊なものである。今はそれぞれン・
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
式も一應読者の注意を乞ひ度い。
更に最後の囲段
反するに至るからである?従ってHよりJに至る三列
は全部ロェ式に撲ることとした。−
をなす重韻も、之をエ・アイ・オと琴音の記披を用わな
ヱβ
ヽヽヽヽヽ 而て一六ではノと其基育としたQである。又↓六と三
育もある程で、ツといふ音の本位から考へても此虎で
濁音をヅとする如きは現に之と嘗際用わてゎらるる拳
したので、モれとの差別を明ならしむる名である。其
ヽ 五とではシとムに限り小字モ用わたが、此甫音は語Q
別に詳しく諭する必要もある士い。大粒1の行にタチ
ミ・ン︵小字︶・ヌこTム︵小字︶に俵て之を区別した。
首拡充ることは先づ掩封に無いから.厨則劣三には低
■しない。何ニー行に於て特にヌーーとしたのは一六 ッチトを配し、nの行にナ一lヌネノを配し.pの行に
行にサシスセソを配したのは、慣用上使用者の便宜を
行のノーとの紛はしさを赴ける負セ、特に讃者の注意 パピプベポと配し.1の行にラサル⊥こご旦配し、鰐の
と促したい。
ヽヽヽヽヽ
重んじたからである。
ヽヽ
ヽヽ
二八行と二九行とでロ及びルを用ぁて類似の雨音−疋
墓音をチ・上等としたことは、他の場合に多くは太巫宣
▼ヽ
のある音と基音としてわるのに射して、コンシクェソ 差別したのは.母親のP▲及びル◆に封して配したので
した。
ヽヽ
れに莫れる組合せの僻名を配し得た。三三に於てサは
一例であるが.今はシ・シュ・スを基音として.それぞ
ヽヽ
三一以下の三の吹気青も差別に困難を感するものの
るが.普通蝕り用ゎられないからグーーを採ることと
トでないといふ異論も生じ得るが、今は厨則廃六第七 ある。三〇行のヴューは群論的に比吏−と成る筈であ
希書
lに雄て斯く定めたのである。又チ丁としないでチャとし
たのは僻名寄きの用例を重んじた愛である。−
のヂ†以下は甘通日本人の智音に従ってジ†とす可し
と言ふ人もあるが.提案者の如きは容易に拓別して家
書し得るから−今日団請で東とシガシと書かせな打と
九九
スてセはスェとする方がコンシクエソトではあるけれ
同じ理由でヂ†と採用すべしといふ意見である。
ヽヽ
一七行以下歯音せツと採用したのは、靡昔にトを配 ども.前に言へる如く従来の慣用と.原則嬰ハと、他
鶉芸名書古鏡一lこ銑いて¢一提案
2ア
一口〇.∴
原語はマツ.∵スヰ﹂ァでなて乍‖マナチ†上するが如きセあ
発音仮名書き統一に就いての一握案
の二の吹気音の該者育との差別を考へて、今の如く定
∵J
る。次に此虚に混めた僧名書きに操る梵語を杢ハ用例
・︰・
与ぎd岳箋はチハーヌド
≒︰l≡ハトはグハロマ
∵k蔓盲はタロヰシュノノァ
∴S苫︼′ニ羊はサームクワヤ
=−きi互はり。ハニシュアヅ
として拳ぐれば、
めたのである。
さて以上に依て大鰐個々の場合の説明を試みたが.
詳細な鮎に至れば、辟表さない慮も多い。併し採集者
−グヤ
j㌢≡はヂ三−ナ
は決して之を終趣的決定某としたのでは無く.寧ろ問
題があれば此上に議論を喬すべき研究箕として提目す
訂官︰はカル。ハ
はアンガ
餌
︻L†もか財ト
はヌヤーヤ・ヴ﹂︸月ツティ.■
の如く成る、。原音の異る直に必ず侶名書きを相違せし
カ・クーツ.ハロヤ・トィーカー
コ笠¥・まrtt芳ま空っ≒レ・エコハP
a昇p
るのであるから.微細な論斬は総て問題の生じた時に
決定したい。
又上端の配常表で殆ど如何なる場合にも異れる原音
は必ず違った侭名の組合せで表現せられるとは思ふ
・′γ.
めるといふプリンシブルの鷹彗∴弟分宛従来の用法と
が、隠だ前屈の種芸樵僻の結畢一定の基音が母損
と配合せ
は相違するが、決して繁雑算用に耐えない梓度では無
...∴.りぺ︰し ㌧′㌧
じて計る?即ち鹿英文字の配嘗とは些か状悪を異にし
と成れば、従来の如き不統一・不幣載せ蝉脱し、印刷組∵
て.甘なのせ.ある.∵儲っ守手管が±っ以上重なる場合に
いと挨某者は信ずる看で居るり芳し幸にt七此野菜又
∵.
−†㌧−・−
■ は後好子音は吹払掛音せ組合廿られた綴名書きを必ず は其改良案が決定し.畢者が一致して之を用ゐること
ヽ・▼ H
一一、
一†ヽ:
ヽI、 〃■†√ハ ■・
蕃例富示せば﹁正評の厨
版の如きも無用の手間々除サ■得て.剰余する虚は凄め、
一一、
t −■−−、
自意孝常宿普
て大であると考へ虻。無論常分は拉典文字の併別も生
.丁√′﹂㌍・.′
用ゐ鼠といふことを
、、
請政女ヰア卜すとは
チセ忘ヤーヤと成ク、﹁魚﹂の
せ.、ご名
を公開し、汲め酢究を乞ひ置か町一虐使宜あるべし
く捨て去中難いであらうが、次第に慣用せらるるに至 提案を試みるのもー方法と思ふが、それに先じて断案 勃
らば.畢術的巌寮を期する上からも刺する施が多い。
さる可書て余の如き専有が毒舌で無い事は
本誌の梵語の僻名寄きは必ず一定の標準に依ることと
したのである。又、偏に木誌に於て私某を採用せられ、
本来斯くの如き提案は経験に富める梵語畢者に依て成 と考へ、最も閥係の探かる可き本誌を煎りて之を公表
自覚してわ
一〇一
容以て余の提案を賛同し以て研究批議を加へ
思ふ。梵語及び沸教那究家の諸先輩阻に岡拳の士が寛
備なることを痛感し∵近来また或必要上ともかく之を も成らば、余の希望の欝現は一屏舵資性を将すことと
一定することを逼られてゐるので−敢て諸賢先輩の清
琵を仰ぐこととした。前に音へる如く.菓其物が特に
軍曹畢的に見て枚隕を免れないことは白も良く認めて ・とを.衷心より希望して止まない。
わ訂のであるが、今は専ら耳用を目的としてゐるので・
若し串に批韻せらるるの糞を得ば.個々の場合に就い
て如何に之と改めるかの代案を提示せらるるの寛度を
希望する次第である。余は若し優れたる物あらば直に
之を随順することに於て、何等私纂を固執する着では
ない。
最後に此種の提案は、若し日本に﹁梵語拳骨﹂の如き
ものあらば、先づ之に誇る可きである七とも心付いて
ゐる。串ひ近頃﹁日本例数協曾Lも成立したから、之に
発音仮名香き統一に就いてり一塩案
■川蝉虎lこ於ける宗門手形
亀
市
を以て、々の一端を玄に#用し.此の小文を成したい
徳川時代に於ける宗門手形
今更弦に述ぶるまでもなY.徳川三代賂軍家光が.
宗門改めは毎年一同行はれ、長初村役人が組中へ廻
キサスト教の信仰と禁止し、糎めて厳格なる鎖嗣政兎 と思ふ。
を採って以東は、沸教のみが唯一の国教として公認さ
れ、赦昏的にも経洒的にも各種の保護を安くるに至っ 状を以て寧媛ならびに下女・下男の拍入相減ありしや
えつ1、黙雷警棒環されたのであるが、而も昔
上野団に於ては、次の如き﹃廻り状﹄を以て隅なく周知
宗門手形を提出せしめたるもの1如くである、例へば
た。爾永年と共に農牧へ射する禁断は轟々その度を加 否やを尋ねて該常者には之を申辞せしめ、且つ同時に
時の人心は農の.宗教にょつて清足されざるを得ざ
駅
せしめて居る。
,
戌二月四日
村
中
村
役
人
候方ハ、七月迄二御出可被成候、以上、
側年之通り宗旨相改俣問、聾嬢並下女下男技さL有之
旦
りしもQl如く、軋ら沸教の紳が一般に弘通し・キリ
1♪
スト教信者へ封tてはあらゆる迫害が加えられたと同
時に、それを未鮮廠防止落見するために種々なる方途
が講ぜられた。錬k述べんとする宗門手形の如きもま
たそQ一つやぁる?私は今春、香川阪下へ杖と曳き、
古封と訪問して種々貴重なる資料を閉弄するを得たる
3り
ノ
迫雨中蓮候下里‡茄入破成候御方者、証文御捕参
可破下♯、正典サ欺留リヨサ御返シ可萩成侯、以上
︵鰊‘鍵山田耶相生村下新田、森田久三氏原森︶
女房
子
い
菅
′
人
寸﹂
苗午四十六
轟
音牛十戒
三
右之者共養、三野郡︵今の三豊郡︶佐股付出貞二而、代々
へ引越住居角致度段申遣二付、出生村へハ拙守ヲサ掛
拙寺旦那二紛無御座候、然析此度勝手之筋二付、共闘村
即ち此の過り状によつて見れば、宗門改めは毎年一
回づ1行はれ.苦し人見忙移動出入なければ其の偉と 岬F・ し.線組.僕脾窟傭等遺せる場合には.本人の元居
住地の寺院上む異驚にあらぎる旨の託明答を欲せね
サ八ケ補之式中遣ミも拙寺流出、早速噂明、御村方へ
へ、如何様ニモ御支配破成供、尤宗旨之轟こ仲川方ヨ
ばならなかつた。謂ふところの宗門手形なるものが即
合、致険帳俣間、普午年ヨサ其御村方宗門御帳甲−榊加
ちそれである。
一口にb盃門手形と云ふも、其れには色々の種類があ
蔵
常午五十萱
見
人
中
歓
言
宗
三野郡下麻相
安政五年年三月
役
科料榎井村
御
二じ三
咤㊥
取締りは梅めて厳重にして、而も寺院が相常誼大なる
即ち此の文書に俵て見れば†移住者の宗教へ射する
喜
少シモ御彼等相掛中間敷恢、食後臼、宗旨一札如件、
って一様ではなく、或は移住の場合、或は一時的逗留
の場合.或は四最強の場合、更にまた婚姻投組等の
場合があつた。而して最も多かつたものは、云ふまで
弟
もなく最後のものであつた。私は以下順次その讃凄を
指摘しやうと思ふ。
︵一︶ 移住.手形
宗旨一札之事
徳川時代に於ける宗門手形
3J
徳川時代に於ける宗門手形
一〇四
こ付、拙守宗門人別雌、.常時葉陰中條間、貴寺宗門雌
此摩職分勝手二付.其御地工硫蕗任用致度段脚出中位
︵二︶ 通留手形
二御苓加、諸種彼等御勤可談下供、有之者赴迄之宗門
地位を灸指して居ったことが明かであるっ
徳川時代は麿に外囲へ封して鎖国して居ったのみな
之壱二付、六ケ救儀致山楽侠へハ、拙守罷損、魚座噂
嘉永元年申九月
書
院
青
竜
同国何郡同村
讃州三野郡下府相
鉄
四国道痛手形
帝㊥
く.常に八十八ケ併を巡嬉して居るのであるが、それ
跡八十八ケ併あり、信徒は之を崇拝すること姓の外厚
川囲は有名なる弘法大師の誕優地であつて.その聖
︵三︶
形御︰灰シ可破下僕、依両角後打返留申宗門l札如件
明可申候、光岡人勝手二付此方へ鞄拓下僕節ハ、此手
らナ、更に観内に在りても洋を異にするに従って人民
の往来は原則的に封鎖されて居たのであるが、併し商
人や手職人等は廉く新関を通交せねばならなかつた。
如何に諸侯駒岡の封鎖が厳重なりとは云へ、人民もそ
の生活手段のためには高雄を排して其の目的を琵せね
ばならなかつたからである。而して手職人の宗門改め
の如きは特に取範であつた。彼等は宗門手形を所持し
なければ、他団へ山桜することが汁l来たかつたのであ
る。茹永元年叫九月.阿波別の青竜寺は.讃岐国教書
院へ左の一書と逸った。′その文に日く.
逗留中宗門手形之事
に、巡婚者には必ず宗門手形を所持せしむること1し
に名を蒲って異教を定借するものあるを防止するため
尊
た。次に戻すは讃岐図丸鶉溝内のものである。
京庵佐汚守殿筒分
き
阿州三好ポ佐野村大工
女房
右之者、宗旨代々眞言宗、捌寺租那二紛無御座候、
3ヱ
後日之、従来手形如伴、
明治二年巳三月
−一b
譲州三野都下僻村
村
富
喜
三野郡下麻村・
歓
藤
同郡同相庄屋
應判時汎整笥苧形
平
布
の
の
つ
治㊥
院
供、其所御作法チ以、御霊悲之上、御取哩被下銭、乃
苗一何開こ而葦痢親等仕儀ハ、、同元工御附属及不巾
迫シ可敢下候、苦行暮候前者、一宿破仰付可破下張、
首宗二而、拙守旦がこ紛純御座侠併、御関所無相違御
右之者、今般四国頼好こ取出申候、宗旨之載ハ代々足
よ ゑ ま 芙 さ ゑ
庄屋未申
御幣斯御役人衆中棲
村々
此の文眉は明治二年のものであるが、維新政府は其
の筈初に於いては徳川幕府雲茄数万針を享けて、異教
へ封する禁断政党を採って居たのであるから、右によ
線
組
手
形
って.徳川時代に於ける宗門手形の一班を崩ひ得る謬
である︺
︵川︶
宗門手形のうち最も多数だつたのは、恐らく婚姻・
縁組に基くものであつたであらう。云.ふまでむなぐ此
の手形は異数の信仰を防止し、彿教徒たる澄明脊であ
迭り手形之串
三野郡比地中相異治郎枠
漣
戒
るっ私は戌に童近に入手せる若干の資料を引用するで
あらう。
l
右之者、代々炎吉宗二而︰即拙守桶那二紛強靭座供、然
ル虞此度貸院秤根菜中、周都下廃村箕右街門カニ養子
ニ硯越棟問、衰シ彼着こ附外力ヨリ切支丹等約数宗門
山〇五
33
せ川時代l二於ける宗門手形
群
嘉泉四辛亥年二月一F
両角後8.迭サ既知特
‡
院殿
文久四年子三月
歎
上
︼〇六
卯
下#材軟冶倖
■
瀬
村
宗
市
苛
伸加、御支配可秋成候、於拙寺何之故障tt此俣、偵
二付.任其よー宗旨塗−拘遺♯上ハ、け真寺宗門帳面二
慮、鼻手工付責寺且家内‡方エ■手工重度趣庶出侠
有之舌代‘浄土鼠宗一;拙守且縦三紛集御座候、然ル
法サ状之書
‡
之俳人御座候ハ、、引鰐腕昔日迄ハ、拙寺畿出、景虎
西廿 七.鎮 有ノモノ代々眞音素−︼両、即拙守檀那二紛無御座候、
れ
噂明可申候、徒其巳後暮院輝鱒手二御玉配可複成鶴、
寺㊥
三野耶下♯村
特捜臼逸す手形↓札如停
室村
那珂郭鼻元村議四郎悍
積
弘化四午未年霜月廿日
香
送手形之事
同耶下鳥相
鉄 ‡ 院
之
同
熱ル■.此度士民押檀家中、三野軒下嫡村鍵蔵方エ‡チ
最
在耶
エ塁傾向、著シ彼着こ付外方早−切支丹等紛敷宗門
院㊥
たるものゝ.如く見えしも.その内†に於いては必ずし
も一般人民忙よつて藩守されたかつた。軍永年度以降
の土地永代貿買禁令然少、著修禁止令士た然甘しこと
34
局
之鱗人御座候舟ハ、引鐸餞昔日迄着、拙守鴨出、景虎
持耶
周
文村
惟ふに徳川幕府の話法今は.表面上はまこと些販路
噂明可申鎮、徒井以後★玖村’手工御文机可哉成
惧、
食後β.遣手形−札如件
岡
は.些少なりとも史拳に手を染むるもの1何人も承認
せざるを得ないところである。然るに弦に述ぶるとこ
ろの切支丹禁過・−﹂宗門改めは頗る巌終に行はれ、少
数の例外を除きては之を謝する脱法者を出さなかつた
のは.一面に於いてはそれが直接に民衆の物質的生活
に干輿せざりしためならんも、而も側面に於いては王
朝時代以降より彿敦が民衆の間へ強固なる地盤を鮭立
し来り、彿敦を信仰†るを以て常然の常然とし来りた
るが鰯めに外ならぬ。史拳の研究に志す拳徒は、歴史
過鞋の摂綿性を須貝の間も忘るぺからす。
徳川幕府が異数の禁断改発を採りてより弦に既に三
青年.此の聞古剃に讃する貴重なる史的諸費料は多く
泡放して、史拳拳徒の事に料理さる1機骨漸次紗くな
りつ1あるのば、まことに痛恨措く琵はぎ㌃ところで
ある。吾々は徹カを捧げて之等のもの1乗出に努め、
以て日本宗教史のより廣き戒野を展開せしむべく努力
せねばならぬ。されば私は此の貧しき小文が、斬る意
宙のために何等かの役立つところがあるならば、筆者
徳川時代に於ける宗門手形
はそれを至眉の幸扁となすであらう。
︹附託︺
∽並l=引用ぜム六種の宗門手形ほ、皆悉く香川撃一望耶麻
村大字下腐り良書東あ古刹たる歎書院の所蔵lこかゝるも
のにJて、住職西山厚嘉氏り懇情により随晃†るな特㍗
るもり、筆者l‡銭に同氏へ韓く感謝の念を致†ものでぁ
る○
閏日本に於ける寺院は、哲に宗教史的研究り封象tるのみ
光らす、一層重要克=ミにに、寺院が紐曾経済史上越ゆ
て特筆すべき地位を占め米つたミ云ふこヾJでぁる。私ほ
に藩望†ろもりでぁろ。
一〇七
ぴl二小菅﹃明治初年の一向一揆b等わ参踊されんこざを切
論集、新興科挙、其の他の撃術雑誌上に於ける拙文耽ら
頓死、斯問題に脚†る論稿を菅華しっゝぁり、法政大拳
3;
紅組肢ヤミ族の埋葬法に耽て
賢︶
野
一〇八
忠
雄
の遅林があり、此慮は砂地で、それに此の錯綜
鹿
紅顔岐ヤミ族の埋葬法に裁て
蕃族聞に於ける埋葬法は︰彼等相互の文化脱係を酢
究するには、好資料を輿へてくれるのが常である。余
は此の鮎上りして、埋葬法に勤しては、特に注意を怠
らない着であるが、紅涙岐ヤミ族の埋葬法に裁て、重
要な奄見があるので、それに就て以下記錬報告して選
かうと思ふのである。
よ薄暮族の大多数の種族は∵屍世を皆.蒙の土間と
か.潅姦の下とか、又家の周囲近く埋めるのである︵火
葬.風葬.火葬等は紹封にない、皆土葬である︶。如皆
自分の凍結する近屏に屍位を置いて、決して放れない。
然るにヤミ族吉見ると.これとは全然異少、廃位は各巻
就から隔つた併に埋めるので決して家の傍には埋葬し
する枝が、相交って茂って居るのである。そして此慮
は特殊の地域をなして居少・
な位であるが、下は砂地で下草はない。ヤミ族は此鬼
を墓地として定めて居るので、紅涙岐中、七の蕃敢は
骨各々其の近くに、此の一定の董地を有して居るので
ある。そして彼等は普通の場合光封に近寄らない。
此の度に、此のヤ﹂、族が、鋳り他の蕃族とは興り
の緩庵埋葬法をするのは、非常に興味あり又重要な文
化の一特徴でもある。そして或る者は、此の方法を見
て、ヤミ族は大いに衛生思想が昏遷して居ると早合鮎
するかも知れない。然し此れは次の様な宗教的掬係か
ら、此の様な輿つた場合が生じたのであらうと思ふ。
ー
ない。即ち海岸の〓誹には、サンタウ︵才nd呂戻訂旨ユ責
⊃
)
る。組先の婁は、骨子孫である我々に謝して擁護富垂
恐廃するものではなく、親しみさへ持って居るのであ
念は、此れを有するのであるが、彼等は別に、それを
弧先の婁に勤しては、皆尊敬の念は持ち、叉畏敬の概
られなかつたが、−冨¢年A月二度目の紅頭岐滞在中.
一つ蕃地費掘となつたわけである。併が仲々横倉が得
鳥居博士の報告を疑ふわけではないが、物は試しで.
と云ふのである。彼等は桟に寝せ石と云ふ。其慮で、
俗に就き.調べて居るとき.彼等は此の様にはしない
多く行ふ靡と、同一である。然し、余が、ヤミ族の土.訝
れると云ふ礁侶は、別に死骸に謝して、特別な恐廠を表
いよいよ出掛ける事となつた。
即ち、塞港本島の話者族は、骨組先崇拝であつて、
はす棲な事はなく、自分の父母兄弟が、自分の傍に絶
然るに、ヤミ族の場合は、此れとは、全然臭って居
君の五人、其れに同島の巡査をして居られる田中長兵
考古拳者小此木忠七郎翁、宮本助手、同大冬季生馬淵
四月十二日の午後、同府は、塞北帝大の移川教授−
る。彼等の宗教の段階は、はるかに畢緋であつて、死
衛、後藤の両氏、つきまとふ蕃人は.うまくまいて、
えずあると云ふ事は.反って力強くさへあるのである。
人魔はp2.t〇として、甚だしく恐怖し、此れは青を加
此の叢林は、仲々に廉く、其の中央にでも入ったな
此のタユ、キの叢林中に入って行った。
さへ口にするを恐れる。此の様なわけで應るから、彼
らば、一寸簡単に出られない。下は砂地で下草は生えて
へるものであるし、死骸を傍に置くは勿論、死人の名
等はその恐偏す可き魔物たる屍燈を、蕃敢上り隔つた
居ないが、小さな泥木が生えて居るのである。叢林は.
サンタウを玉木としてしケガキ︵DiO弓0ニ訂010芸i・
一定の場所に葬るのであると思はれる。
ヤミ族の埋葬死醍の姿勢に就ては、鳥居博士の﹁紅
︼ld・︶、コサトウイヌビハ︵ヨe星Cumiロi乱写g・︶、又トウ
に載って居る。その
涙岐土俗謝査報告明清三十五年﹂
︵C暑mubm弓内乱t罵声lP藷︶等が生えて居る。
︼〇九
姿勢を見るに、即ち蹄居であつて、裏湾本島の蕃族の
虹踊岐ヤミ族甲埋葬法にこ就て
ウの枝を切った跡が見つかるが、此れが、墓の存在を
いか分からない。然し、此の叢林の中に生えて居るト
るが、別に何の墓棲むないので、何虚から掘ったらよ
此の廣い叢林の中に、ヤミは屍憶を埋葬するのであ
埋葬す
此Q
ある。
が出来た。揚げた厨は、其の壊でスケッチしたもので
だ布など残って居少、その萎を後納に解剖すること
一一〇
示す棲戟ではないかと思はれる。唯、何の菱化もない
る探さ
紅頬岐ヤミ族の埋葬法に放モ
一帯の砂地なので、五、六ヶ所掘りかけてやめた後、
は、親
失張少、特に埋めたものらしい。深さ地下五寸位にし
ないのであるが、何かしらある様な気がする。其鹿に
前記の如く.平らな砂の上には、何等特別な墓棲も
戚が多
一つやうやくさがしあてる事が出来た。
下は砂地なので、穴掘すははかどるっ掘って行く
て、死醍を蜃見する。下に板を敷き.その上に屍詮を
自然と持って居る図石も董の債断崖知って居るもの
いものは.深く埋め、又両側を板で囲むらしい。
Abpどの布に包んで摸たへる。その姿勢は、両腕を組
には.積読になるものかも知れない。
と、囲い石が、二三個見付かる。此れは頭の傍にある。
合せて.足を屈し、右枕にして、横臥せしむるのであ
以上の茸に倣って、鳥居博士の報告とは逢った結
果を得た。余の霜は.唯の一回であるが、ヤミに開
る。頭を向ける方位は北東である。上や周囲には、振
らしきものを認めなかつた。廃位を測定するに.屈し
いて見ても.皆、かくすると答へるので、余は現在の
居博士の報告されたのは、特別な例外であらう。
併、此の形式である事を確信して居るものである。鳥
た全長斧m●大腿骨の長さを如才芦得た。
此Q嘉した廃位は、比較的近年の埋葬に係るもの
であ少、又土地の保存状態が良好だつたので、くるん
jは
特に初期の研究に就い
印度彿教美術研究資料
−
/
で
財
印度に於ける彿故実循の組織的な研究が行はれる述
様べょうと思ふ。
になつたのは勿論さう古心音の事ではなくして極めて
ー
部
健
次
近代の事である。即ち十九世紀に入つて印度古拳の研改印度に於ける彿敦美術の研究は近世に起った事で
究が取入問に勃興する棲になつてから初めてそれにそ
伴れは印度に於ける古拳折究の勤異に基づいたと云ふ
印度堺散策術研究資料
の宗教、律法又は風習等の那究を奨励した。弦に初めて
一一一
にその毒の経過に就いて極めてその素描的な梗概を等の文献的の研究が行はれ従ってこ1に印度文畢の研
微細査問摂に迄も詳細な研究が行はれてゐる。で今な
次つた。此の初めには先づ在来の宗教とか律法や風習
時亦此の方面に謝する折究の出版頗る多く極めて特欧
殊人に上る印度文化の組締約研究熱心に行はれる様に
って充たのはこ1廿年そこくの事である。従って近
の如く盛に廣く世界一般の国々に於て行はれる様に習
な等に従はなくては成功せぬと悟ってそこで大いにそ
る迄には半世紀以上の年月を要した。そして更に現前
代の政策を助け印度の統治には其の国固有の文化、風
って来た。而して此れが相常に有力に行はれる様にr
な苫巳邑iコgが初めて印度総督に任命せられると彼は従
って漸次彿教美術の研究も欧人の問に行はれる様に事
なは前述した併であるが之は十八世紀の後年にノ一打・
3ク
印度併敏美衝研究費科
究の気運が醸されて兼た。か1る結果として千七盲八
ぎmbPヽ
一一二
併で丁度此の十九世紀印度初頭には印度に於て多く
て吾々は直ちにAj邑pの窟院とぎ象の大塔とを奉げ
十四年に初てC巳邑tpにA乱註eぎiety〇︻謬コg已が創の
設 遺物が各地にて挙見された。その最も著しい例とし
せられた。次いで千八百四年に至ると今度は
に︼ぎヨbPy守∃e一:rR〇旦A㌢t訂許cietヽが創立せられ
る事が出来る。後者郎評克己の大塔はその地の蓮卑な
東洋に於ける萎術、科挙、及び文拳の調査、奨励を膚
そに回教徒の破嶺を免れ十四世紀以後全く密林中叱匪
︼つr
遣物の調査、研究も相富に行はれ例へば、G昌e邑甘与
ゎたのが千八百十九年偶然にも蓉見された。で此等の
Aj邑Pの窟院は之れも同棲に全く外界から隔離されで
の目的とした。かくして印度古代文化の研究は次第乾
にしてゎたのを千八盲十八年に至って発見された。亦
隆盛に赴いて来たのであつた。
か1る状勢にあつた時偶十九世紀の初めの頃にA隼
邑e浮乱etyOr才コ望−●の書記を務めておつたJ︻自庄ヲin
詔りは初め各地に於て蓉見せられた屏のAさFn巴i喜
を判讃して印度沸教史研究上忙一大貢献をした。其百
の十九年にその報告を出し以来多くの調査報告が出さ
て度度その調査が誉表されJPヨ氏冒gu彗nも後れて
後同氏は印度古銭の研究を行ひ多くの有余なる論文を
れた。書ntpに於ては初め芋JPヨ蛮人︼e望derにょつ
著はした。之れは同氏の死後に於て2ヨrdヨ○ヨ現に
ょって編寒されて左記の如き書物として出版されたこ
。の地を訪れその調査を寄表し更に已与一夏︼︼に上
︼山番︸∽⋮TコdiPn
Aコtiq邑訂−司賢0−・ie−甥uヨ訂ヨ註e.§d
って前後廿年を要してその壁壷の夜宮が果されたが之
は水晶宮の炎上の際殆とその全部を失ってし空つた。
時的のもの多く且印度吸塵もこの方面へは一向に注意
かく各々調査報告等が出たがその何れも断片的な一
l、⋮︻G雪gr旦lぎ。〓一−e訂tのJ胃袋ヲぎ対p.柏T〇︼孤−どロdつコー
一刀nS.
この書物によつて吾々はJ.ヲiコ褐つの研究を知り得る。
を沸はなかつた。併乍ら前述の二大遺跡の零見は砲口
の欧人等の印度彿敏美術研究の園をなしたと云っても
過言ではない位の洗い印象を彼等に奥へた。併乍ら此
の問にも欧人のこれら覆見物に謝する研究腋次第に深
く熱心に進められて行った。郎紆l旨iに就いては左記
Cunnin各P2 − ヒ己訂TO扇肌−どndOnこ∞竺−
の重要なる書物が漸次刊行された。
A・
千八百七十五年より訪れて来て多くの模寄を取り後彼
の大著たる
︼JO−乙Oll−−00雲一
−
醇肇yOロt訂Archi−eclurO
F昌d昌−−00芝●
Or
l︼一eHi
ゴ岩買lillgニnth。芝。rぎ。芸ノ巳A音Pぎ︼p
を出版した。
此の他左記の如き書物がこの頃に出ておる
旨ローFg
・JOuY堅†Dubr邑︼・Plく註eゝ邑q已1iき︼00串
J・勺弓g一−営口 ーTJe巾 2−d 哲rpen−一ぎ邑−ip−ど1乙○ロ、
印度沸教美術研究費料
た。次に聖lの模寒があつたし亦Gri碧bがこの地を
−1邑Pなる短日の下に冒宣A乱臣cSOCi号.−∝畠に書い
に出され J・せ一点一−哲−−が同様に穿c打C亡︻T∈︻訂Cr
せOEbP︸guricr●−00等●
評点已計i邑け評c⋮乳忘JO己・邑●︼00芦
苧呂賢HtiC記○ご訂苧苫一卜臥ptic許dきy●−讐P
施する厚遇が
同様にしてよ邑鉾に就いてはJ.A訂E−d晋の壁童に
−
−
ヒーci昌tA岩Et邑ur巾i−−呈mdO旨ロ.どn・
dOロー一宏↓.
月FOAロtiq亡ili袋︵︶rOr山薄rど已On−︼00芦
RトS●召︼■‡.︼霊00.
︼
〓ニ
J・句er雪害−一−b包ri号昌。〓訂人山宅§邑TOp寧J.
−監声
TpylOr、芳一g転Ou−Arc冨ccど1・eat野合で0ロ9︼cu旨、
声H︸呂首p
J・句空■g一︼哲n
unddiのRO︼○鸞■0︻−醇自首昌●せer−in−伽芦
日昏k2−0pコd¢﹁−ロ.d?b旨tr証ぎ二夢音旨麺
増・∩−璧Fi霜y − 許neきざd訂こ紆︼︼︼乱臣どndOnこ笠柑. 巨tter − ロiOSt扁琵︵TO−議︶Od宅die 宅ebi訂ktOl−山袴Fel1
−∽のヾ匪−∽↓P
4l
印度儒教美術研究資料
斯くてこれらの研究次第に盛に行はれ煉として充た
時に督り印度政府もかかる考古拳的研究に意を用ふる
而て此の
一一四
苧JOぎ茅邑邑−が
Ar㌻琶︼点宮已︼旨p邑g呈は後事菜蓮行上
に一頃準急芳したが改革して
忙昔り千八百七十年になるとArcl″p邑0乳已UepPユnlenロ
t r邑。ワ¢雪e邑に就任しで着々として研究調査を進め
に托し同氏は亦初めての
巨r乳0へ
7て命現在にも事業を糟行してゐる。
はA邑p邑0的i邑警ヨつー0=ndiPを設けて之れをA︼eH
彿−
故実術のみならす廣く印度文化研究上に大貫献を奥
Pnd巧2ヨn菖︼−Pヨ●
亦十九世紀年頃よ少Jpn︼急ぎr内屡J巳=現﹃9・胃○ニ.
の二人は印度に於ける建築拳と考古畢の折究に精進し
に就任した。・かくして同氏は印
度に於ける考古拳と古代地誌排溺とに偉大なる功綺を
殊にJ・専属讐蓼の考古拳上の功鋳と及びJ.﹃ergu誓コ.
¢ene邑○︻Areざ琶︼Og﹃
残した。左に其書名を記す.
碧pOユ
C−
のP建築
車†上のそれとは後世長く滅す可からざるものが
Sur∃︸0︻﹂ぺ星erコ一己i芦
FOコdつn.−笥−−㌫仇P
ゝreF罵O10gi邑
︼1かづ○︼P
試〇n宮−苫甘−一emp一盛
冒d
Aヨ巴雲註 ぎd
ぎt袋○コt︼一e謬u監h中野落丁en一p︼象二ち
Or
よPn首鼠e−︰冒日bぢ、−00諾.
§ei昏t
絆u︼p一u一袋Or訂diP誓OF
T訂
J⋮l慧善ヨj旦ぎ二訂nd〇nこ∽S可.
T訂出uddFぎ望up説
−
ある。今此の二人の著書名を下記する。
つ訂せhご撃Tつ勺窮、Orヨuddl︼i洛ソぎ宇
cutlp−1票N−誓.匝ぎ○訂.
トロー≡5.g訂ヨ 一 人rc一一p邑Ogi邑Su−・1ey
ーdO.−
−d〇・−
−︵−2−
J・夢−扁韻
The乳βpp O︻星laTどt−Hb已Onこ笥¢●
ヨent功OM n巾已r巳In禁P
1dO.−
E旨bOdFrOりtheGり邑せGddbi乳↓eヨ・
p一皮二鼻︼営乙dbP ¢pⅥP 1.〇コ計n、−雷嶋●
−d2−
An計ntG3grpp一一︸0︻Tn︷︼iブC小l12ttP−
′
−ム〇.−
1ムP−
Pi己OrA邑穿t lロdiP、ど已On、−雷︼●
賢−.−g望.
−dO.1
9i己○︻ソiedip雪巳Ⅰ已ぎdO●−涙声
J・冒r内針−Pnd訂2警官莞象ipJOヨ邑○ニnd㌻n
−−dO.−
42
ll■l■
ヽ
一計・−
ト鼻■・−■■I︼や声
′l,
A・Cu邑11㌢m・の三人迩摩鎌に初めて印度に
旗此の︺.ヨur電笥−J●﹃竜n・の二人と前托述べた
併の
▲
於ける●故実︳の併究の蓋が集かれたと云つてょ
い。・鍵石て申ナ迄ぐなく印度k放ける斯畢の折究は日
㌣卓l裁r︼貴岩﹁
甥〇t亀○コンヨl■鼠〓雷電√寅已r阜−監ド
J・︼ど−t一鉢トFつ嘗ク ー T−‘︷r言ぎ音○コ已F ヽ
ゝg僧0︻Ⅰ︻乱F一P■l象
lnd㌻コト1己雲弓y−T011●
第に深くよりよく研究は進められて稟たが僧♯兼に残
から以後の状勢に就いての大要を述べよう。
した初窮の頃の棲めて大まかな梗概である。次にこれ
今迄蓮べて禿た所が印度に於て沸教美術を折究し出
された多くの閉塩を有しておる状恩セある。
Arehi・
曽≡p訂F
今迄運べて来た靡に於ても見られるが如くに最初印
もょい位であつた。之の凪が十九世紀後年に於七森々
A邑手
Ⅰ〓=誉ptiOn∽○〓訂︰ぎc一ハ・CutT望一p−e∽つr
l−乙i∫Hらコd呂−︼平岩−
−一訂言r貸q篤Ⅰ︼訂tヨ仁○民○、Anc訂nt
度の彿教美術折究は考古学的研究上り起ったと云って
Arc−1誇○︼Og︸in lndiどF2乙菖−㌫00ト
t究turP FOndOn−︼∽苫−︼巴P
A唇i乳Orヽ○、llldrn岩d E邑のm
わ︼加↓P
ト音コ ーTr罵−已才一罵芝弓邑すlbP甘f−箋﹁ 一命洩きものであつて凄其履Q大京の︳出にょつて次
ーム〇.−
1・巨︶.−
−ム〇.−
−dO一−
−︵lつ.−
筈n等の研究に刺乾されて働故実彿の考古牟的折究法
盛になつて棄て殊にA.9nni貞訂ヨーJ●冒rgずJ..増空電・
以上はほんの自分が知っておるlものに過ぎないのせこ
が次第に廉く多くの人々にょつて行はれる棲になつて
Fn−七a F唇ぎdO各昌−︻も毘OP︼監戸
の蒙肴略したものに色ま芸孟等にのせた論文があ
来た。従って考古畢的調査、費掘も屡々大規模に組織
ヽ■J−・γl口rl■nr.tむr
る。従って両者共に纏めて不十分な目線である事を汲
め中速ぺておく。
甲蜃五重蒜;免責嶋
︼一五
的に行はれるに至った。此のょき例としてはかのE︼Prp
も
4∂
印度併敦美術研究資料
−
一望石.
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曾巨llI﹃巳lle庶
︼一六
¢r C昌t邑・l已F
Pu︼モーur∫ Ⅰ已i昌An千
民G喜≡Cコt舐
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コuPry−g︼T●
亡rどituer!昏PgO・Pdd訂t
試亡胃占声
P邑0望ePnd︼−呂db00粁○=Fe
の窟院は千八首七十七年に豪掴され砥固持合の遺
跡が
A・ぎ冒er− 寅OnOgr月計︵吉︼どddbaS旨箋臼岩ni㌔巳ユア
千八首六十六年より数回に捗って毒された。その他
pl㍍Ce A−Fぎb乙、−00当.
彿陀伽耶、及び那蘭陀寺等の遺跡の奇瑞も亦此の
時代
Gつb−etd−已たellp − ロ袋i邑u⋮ce d屍−gueS d買︼どtd¢
上り初めて行はれたのであつた。従って此等の結果に
︼︸Ⅰ已?冒亡He︼︼認−−霊戸
就いての研究報告は頗る多く出版された。今次にそーれ
dC.−
C代ターe−、ll一㌢dOit P︼p︵申r¢きざri才
らの著述を挙げよう。
J・Aロd亀On
︼Ogiβ︼911邑iOnS㌻t訂Hndip
′
Ⅰ已邑i巳A−訂0〓nd㌢晋01寧どndOヨ、
匝吋罵声CLeut−P−悪声
dE吉Od−¢・−
︼∞∞〇一
、・・
芳∴∵∴∴∵㌣
匹
Smぎーく.A.−
Th?H腐岳毒p巴upp
宮ddFi蕗Anti官Eき試乙苫、
A.m.︼笥P
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浮雲u−声−ぎddb㌻1r冒巳屋已−ノG巨1日p巳FJ・声・A・
−富戸
A・謬MTl−SOntb
e昌t巴n肯邑i金▲已
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試旨訂墓−↓●声−−・Art巳写一−㌢t一lrま○、:ndi臼.dP−澄声
卜き・十・.や.ギ一一¢計t由uddE00tTO扇Pt評邑i.2・
b訂iinGuj買prHbndO臼、−監00.謬p恩.W●C岩d
1d〇・−一・・了嘗邑0巳01許ti。邑呂。nun邑の ー ∴∵・へ■ ・菜蕾嘉塗瑠。をt芸已P−監戸 ゝ■■㌧
ー
一⋮叫字音息息・S㌻F︼欝
せur内湯陸9一宮ぷロ
寧書コ出∵P︼巾 − 詫m日Or呂du巳昌 Ancient 已On仁巨en露 人.ヽt
Cutぎー00芦
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第です。
お折
出打ちユOnA日−夢一旦iぎ葛どロd呂こ衰芦
TrP・哲の
9i
1を
1 利用し又比較研究等にょつて夫等個々の物の
材0料
出て来る様になつて凍る上今後は在来のそれらの簸て
ⅥOm巾HFd匿brOロN包pnd−・di声J.封.A.
斯くして各方面に捗つて.の清車な研究が次寿に多く
四 ︼讐声
Si日︻告ローWl−⊥ndi呂AT註it邑‘遷iロtbe
を生じて充た。A.G2n焉de︼∵は印度に於ける彿敢闘係
研究より全鰹的のまとまつた研究へ向はうとする傾向
0r謬y已Ⅰ員tit已⋮On O↓寧﹁il訂bAl各i︷g・
tu一戸どlldOロ、−父子−−芸ド
︼∽gP
ロeEl乱
︼紆でr訂
宅
Pn
−
宮dd已乱川e訂
内邑in一日di芦
がある。此の書物は後英葬されて出阪さ
A.Gr亡n⇒乱e︼
の彫刻に於て此の方法を先づ試みた人である。即その
著に
謬ユiロ、−慧戸
れ︵どロdOコこ¢○−︶て欧洲拳界に相富力強い影響を及ぼ
2n已ng訂m−浮rg崖∴旬月印南On.の三人によつて
した。かくして此の初めに述べた様に十八世紀の中頃
P一ndOn・
上り
初めて蒔かれた彿敦美術研究の種子は十九世紀末に至
Arc訂glOgi邑
The出已dbist勺⊇ヒコg≦hee−●
ern Arebitgt弓P ibid.−∽望.
Ori鵬in呂dソ2蛋iOn in Iコdipコ︻ロコdE邑・.
−∞↓¢−血P
Sぎ畷On、W● − せ已dE乳 A昌bitgturc−J已≡−旨邑−ibid
よ〇.1
−ム〇.−
芦A●望乱n −
一一七
間だけの彿敦美術研究史の梗概に止めておく。
充た。これに就いとは他日にゆづって今は十九世紀の
折究香及び参考も従って一.空拳げきれぬ程多くなつて
できせ埠邑i診0〓訂Stu唱○、わb寛ぎt・廿世紀に入ると新卒研究の努は轟々隆盛に赴きその
って漸く力強い成長を初めたと云ってよい。
TO弓まtF lbe出unerヨd︵l・才rce−訂bOre、
−監声
打J●W5﹂8 −
FeideP−00¢P
以上も亦棲めて不完全な只自分の手許にあるか又は
見た事のある一部分のものに過ぎない事を御許甘して
印度俳散策蛎彿戎資料
耶
原始青郷歌聖典の内容概由
原始者邪教聖典の内容概観
ー一入
眞
添加たることは明らかである。之に反して前篇は轟
章
先きに本誌に於いて原始者群数聖典の成立過程とそ
書なしには殆んど読み得ない程詳解のものであるが、
山
の特性とを略述したから、今それらの聖典の内容を招
それは停焉の不正確と牛マガダ語で書かれてゐること
龍
介し.香邪教の聖典が如何なる開放を取扱ってゐるか
不亨や輪廻や業や組師等に閲するもの
ー
さて前篇の内容は多くの者邪教的金言 − 例へば
丁ヒンサー
サンサーラ カル†ン ティールタカラ
とによる。
−白衣渡の宗典の内容
︵一︶第一支正行支︵ざぎかgぎ
が雑然と並べられたものである。其中や1凄まれるは
第一章にして、先づ輪廻轄壁の思想む運べ次に業を捨
雄して輪廻を脱すべきことを勤め、第二教以下に於い
すべて壁命︵・コ妄︶を有するが故に害すべからざるこ
て生物に地・水・植物・火・風・動物の六群ありて彼専は
ブーケ
四、十五、十六の四群に分たる。而して又前篇は現存
でないであらう。要はその革域である。如何にして膣 舶
とを説く。惟ふに善部教の根本教理は是等の諸動と出
の意︶といふ別名を有する粘からも文悪からも後世の
雲集中最高の屠に慶し、後篇はぢ㌻ut親好呂dh︰−︵後篇
六章、三十関数を有し、是等十六章は一−七、八−十
有し︵以前は九章五十一散であつたといふ︶、後篇は十
︵一︶ 法を規定する。而して前篇は八草に分たれ囲十何故を
買t・首ぎ首︶ 本控竺一語に分たれ、出家者の生活
人 十一支︵A厨P︶
Tン〃
を考ヘヤうと思ふ。
′
敦との論戦的テーマを用ふるものが多い鮎が異る。異
数の諸兄は百八十行男論者
道を完成するかの修行法如ち出衰者の生活規定は後篇
吉、八十川非行名論者︵ゝkr富ま︵lin−茅■.A−。︶、六
︵㌘首乏dぎi>kt.声質苫■
十七不可知論者よぎ一ikp−⊇t●An−−号音邑︶、三十二持
︵ヨ㌢竹富倉翠官︶、
節二乞任鬼法︵つぎS&£、第三歩行法︵ヨt●訂富︶、
に於いて取扱われる。第一乞食法
︵吋F﹁ノご三−︼軍
律論者︵ぎin鼠−ハa、買t・くe旦苫鼓︶と四種に総括され、
誓蓄電︶、第七無所有
第四話法︵勺ぎ学訝萱㌢︶、第五乞衣法
︵苫t.
書芯︶第六乞鉢法 ︵冒t●
の七に分け説かる1も.相互に出入あ ︵三︶ 註解書に於いて種々なる草紙と比定されてゐる。而し
て此等の異教は前篇第一章・第十二章・後篇第一章の
〇gg乙lP習血i已︶
りて混乱してわる。後篇の後年は祖師大雄︵ぎ已古風
三幸に論ぜられてをり、その中窮一の場所では十五の
●
の伴記と載せその粉飾せる文鰹は後に此れを材料とし
てバドラバーフが製作せる聖行経 ︵只已葛S芝且 にも 異数の詮が雑然と教へられ、第二に来って上述の憫様
に総括されー第三では有名な蓮華の軋配が述べられる
劣らぬ程であり、時にはそのま1此れより移された個
蓮撃の響喩とは、こ1に清冷なる一大池ありてその中
︵二︶
所もある。
さて一人ありて束方より来りかの大白蓮華を得むとて
岸を離れて未だ至らざるに泥中に陥りて進退する能は
︵二︶琴イ軒遺文︵S邑号gP毒t.S膏l嘗首︶ に無数の白蓮畢生じ、その中央に一大白蓮挙がある。
アンガ
は畢習帯向年に置かれる。第一支と同じく前後二篇に
分たれ、前焉はシュ
ぎるに至る。南方・西方北方の人も亦同じ。時に一拍
ローカその他の職文にて書かれ、
十六輩より成り、聖典史上最古の盾に属す。後焉は第
︼一九
んだ呼.忽ち自適撃は飛び乗った。而して此の文畢的
中に人らす岸上に立ちて、﹁白蓮華上、飛び上れ﹂と叫
家者ありて此の梓に至り、かの大白蓮華を得むとて泥
を説きつ1も、本経は異
東こハ章を除きて散文にて書かれ、七輩より成り、前
アンガ
篇上歩も斬らしき履に崩す、内容も亦第一支と同じく
州蒙者の正行︵辞d亨蛋且
原始青郷故聖典の内容機微
d7
原始書邪教聖典め内容機厳
\ノ
に興味嫌い菅喩の後に.唇喩の意表が説明され、次い
︶︶ で異教の設川種を畢げる。一唯物論︵7ジタの詮︶.二
︵
五大軽視︵同︶、三唯我設︵婆詳門教の我訟︶、囲運命訣. ′し︵
の四織である。本鰹の特色を栗すは葦に此等の異教の
一二〇
分裂の起った場所、及び年代を記してゐる。
︵六︶
丁ンガ
︵1四︶︵ 第由支耗合支︵S書写青苗gP穿t.1。叫乱写︶は
丁ツガ
単に一章より成り、初め三分の二は本質的に第三支と
同一であり.その頗篇の形を探る。然し十以上の名目
を奉げ、百・千・或は萬のものに至る。次に終りの三分
アンガ
謙見を取扱ふ鮎に存し∵他の語草は教理の類型的説明
の一は避き成立にして附鉄の形をなし.十二支全鰹の
︵花︶
丁ン.J
にすぎない。
には各支の篇・章・敦・及び旬の薮が奉げられてゐる。
丁ンが
内容日示を掲げてゐる場所が我々の任意を発く。そこ
は十章より成り、第二・三・川牽は各々国教、第五輩は
伺最後に者群数の聖徒播及び散骨史が簡単ながら附加
︵三︶ 節三支鹿支︵竺1ぎ試gMご︻声づ一針−1邑gP︶本経
三敦を有し.外の各章は敦薮と分たぬ。形式は一歎上
︵七︶
り次第して十敷に至る範疇的名目或は概念の説明であ
十一章︵㌢a−穿戸Sa凰、上り成り、中初め二十章が
根本的部分であり、他は彼の数回の添加であるe而し
とを語るもので、諸支巾掩めて蚤要なる地位を占める
侶
笠hどOr5富i︼P・pan邑li︶別名.至南経︵字品賀lli㌔四
︵五︶
されてゐる。
丁ンカ
第五支詳誇支︵くypk百言且ぎp︷y旨gPこぎくi・
り.井等はek邑訂nどLノ・i旨ぎp等と呼ばれる。巴利聖
典の檜支部と同じ形式で.そのアンガはこ1ではスタ
ーナの語を以てせらる。
内容はその編輯の性質上混交してゐるが、中に注意
て初めの部分は大雄とその弟子インドラブ7−ティ︵l=・
丁ンけ
す.へき二三を記せば、星宿の名辞、支分以外の原軋ハの
ニr旨h註︶との封話の形式を採りつ1帝邪教々理と俸説
一偏にある看邪教々骨七分裂の記事であり.前後七何
と思ふ。その俸詮は大雄の先編者及び県粛な苦行に上
アンわ
陳述、及び食も注意を窯くは第七草第五十六・−六十
に亘る異端者の分裂に就いて、各次の名稀、主唱者名.
りて天界に達したる敬慶な苦行者に就いて語る。又そ
の天界・地獄の措苛も詳細を摘めてゐる。又注意すべ
アンガ
︵コ邑ぎlp主の聖者が再生の姿で描かれてゐ霊︶
きは第十五章にして大雄とその敦敵なりしゴーサーラ
在家信者︵餌ち沙門に従ふもの︵芦t.さヨ占っTぎgぢ了
乙をe︶は十葦より成り、各章に大雄の敦へを信奉せる
第七支十傑婆渡文︵t︺︶ぎlハ≡lをⅥ.〓ハ一.已象ハl苅・
︵G。S己P︶邪命外道との牌係を述べてゐるが、非常に厚
召︶1p︶
︵七︶
誼的色彩にょつて染められつ1も命歴史的事箕の上に
く富有にして、大雄の敦詭に従って清挿なる道に入少、
︵八︶
立つと考へられ、それによつて.ハールシュヴの徒とゴ
在京者の五戒即ち物質的並びに精神的抑制を点し、蒙
の意︶の生活を都賀する。彼等十人の家主は悉
ーサーラの建とは菅生的には相互に短めて逝き胸係に
をゆづりて後は苦行断食を修し、逸に天界に生れたる
丁ンげ
アン〃
次に十二支中てに塙七・八・九支の三は在家信者の生
pl−ttP︶
︵J削岩ムhprmp・ぎhぎ︼︼kt.者と記される。中に興味あるは初めゴーサ17の信者
︵九︶
立ってわたことが知られる。
丁ンガ
︵〇 第六支ナーヤ法話
︵一〓
にして後大雄忙坂せるサッダ!フの子︵ぎdd一ユP
後篇は十章︵ヨggP︶にして法話即ち教化的倖話を掲げ
涯に閲し、原始首都故に於いて在家信者の有してゎた
の記事︵第七草︶である。
り責苛d訂−⋮毒訂t一l封。︶
之は第七支に通するものがある。此等雨篇は形式は異
地位の重大さを示すものである。碇かに苓群数を現在
前後二篇に分たれ、前篇は十九
章より成り、ナーヤーニ︵ヨリきC即ち雪喩話を載せ、
るも密接な関係を持つ。さて前篇を縮す多くの習喩話
は一つづつにて完結せるもので.中には幼稚ながら童
まで生命あらしめた者は、借院の苦行者ではなくして、
丁ヒンサー
寺を建て不書の遥を寅践に移した在家着であつたと
−ニー
第八支十完成者︵An︷をtOdPmぎ詩t.人見P習†
丁ンガ
話小・琴史話として文皐的に見るべきものもある。例
︵八︶
思ふ。
、lt ︳
ティールタカラ
へば第八草には唯一の女性の祖師たるマッサー︵茅・
,
⋮︶の停琴笥汁末輩肱はげーヴイー・ドラウ.ハディー
、 ↓
ぃ、
卦瑠嬉領欄扱
J9
‘一■ユー,
一二二
梓を意味する。面して此二は香群数の梶本敦瑚たる七
片贈■轟数■手の内●︳一′∼・・・
巳邑p︶は驚愕成して八輩▲り誉。︳の鷺の﹁♯︳
‘●
竺竜叩に分れ、各く十章を有す。種々に善悪
▲rヽ一▲▲ll■■‘■
フ・豊の不串な薄人言見で犬讐尋ねる、
丁ンガ
ト■邑一考㌢Fぎ
や
㌘r∈・㌢寮p等との胴欄は如何たるものであらうか。
ぁる.帯して本#が併殺丈暮中の
:一翼義■ヨ裏の凍む称か教へる形式と揮って
l▲−いU■一lJ
▼
の蒼結果暮雲示せる講の歪であるパインドラブ
ロ⋮官許︶
︵〓︶■節十﹂支報果︵経︶.︵くip芹Pぎ巳ニー勺ぎ≦コキ
アンげ
︳へるlめであったらしいといふ。
と燭せし人﹂打ち完成者の塵礪を‡せる。此等の簿記
−
■
︵一五︶
諸説の第三及び第五諦を成すものである。又ウェトハ
︵一門︶
丁シガ
ーは産も赤枝蔚的には第六−i九支の如き借諦を取
は繁く掃一形式にして苦行斯食に上りて生命と■ち.
、,
モれ亡ID天ヒ霹る玖やわもが.たゞ人も.鬱︳畢t
!し、■重ゆら芋ぎ髭。。
丁一方
◆1▲
l
は二重のみにして、前支と同形
Tン∫
︵九︶ ホ九支十︳上嘩脅︵㌢妄5雇員皇邑むr−買L
A胃管r。言鼓﹃邑邑。︶
.1t▼ 苓tの︳寧ぷ官哀してゐる。
に▲lて暮妾■鱒︳したる人d︳
▼i ・
︵二八︶
弟十二支畳︵H首ti邑F浮t.Dit宗‡dp︶は発きに
述べたる如く現在は喪失してわる。
輿は十二支に厳って配列されたものである。而して其
丁シガ
十二韻文︵q冨首、ヨ︷1・q象雪︶.此の一#の蛭
正法と雄ぺ●。#入とは義一の●︳ち蔓鶉が聯行に上
B
りて次欝に染汚さる1誉♯し.カ鋤とは之に反
▼シガウパーンガ
郎
的には十二支と何等の彗を持たね。又
して義一一汗れたる鋤か皇−丑︵ぎu巳︶三鯨†︵2・
互聞にヽ内容葦は少なく.多くは数理的或は挿話
■..■勺.1●■−
18辱の更しき行匪の暮爾絃よりて芸丁る濾
ジーイ
の椒序は主として経典の分最の上から封比され.内容
ジーケ
♯左門ば蓬の抑馴︵P巳−■ヨ︺と毒するための克つの
ま︵㌢∫ぎ㌻P︶墨く五つの非嘗・、
品である。騨して内議上蔀後二部に分たれ、炉五門は
T片息F︶ 十門︵冒む上り慮り、繊挿に数理的作
︵岩︶ ●十竜手串か・■音√︳芦p■r・
▲
八である。
ウパーンガ
るかを述べてゐる。
︵一望
第三副支命詭︵J富bh官mp︶は二十車上り
第四副支詮智︵経︶︵ヲ忌P苫np−吋kt.Pnn甲
三十六章、命の分類をなし、殊に興味あるは人
ウバーンガ
第五副支日数︵S曾yppr思量㌣芽ぐ∽弓li等号
ウバトンガ
第六副支闘浮捉教︵JPm訂d意Pp且閉息i、眉t
J5
サパーンガ
第七副支月数︵︹pndrppr&許p亡−浮t.ロ5d弓
此等の三経は一連lをなし.帯五副支は二十牽を有
一二三
して太陽及び諸天能に就いての苓那天文拳であり、第
サパーンガ
呂n茎古
︵一︵︶
甘Eb已d−筍p旨n邑i︶
︵石︶
lm已ti︶
︵一大︶
間を㌢竃と邑昌llpとに分つことである。
≦官︶
︵妄︶
成少、地上の命即ち生物の形悪・分類等を記す。
サパーンガ
サパーンガ
.ハセーナ王の間に答ふるものである。
昆草ごヨ芦声音蔓垂鼠管Yほ向じく死後昇天に閲して
︵三︶弟二副支王間︵挺︶︵R昔pr琵n告t一〇r男百獣・
︵一入︶
丁ンガ 的内容を持つ。その成立も概しておそく次、
二篇
支は上
い十
で後
十り
二天界の生活は如何にして待避せらる
後なることは勿論である。︵併し第五−−七の如き材料
サム㌧ハ一にょれば十二副支はその形式上より次
として古き要素を含むものもある︶。
︵一七︶サパーシガ
三l三部分的に類似す。
の二本ミいはれる。第
五−七lェその駐百中に勺呂ロP邑の
語わ有・し、殊lこ五ご七寸Jli同一書
の教群に分ちうるといふ。
第一真三︶−七︵
第二八・−十二︵
t∵もので
此等五割支ほ元ほ一書光りLが、
十二支亡の封比上分つて五ざ冗こ
ぁる。
第三 四︵第三ミ頼似†︶。
第囲一
−
望二︵諾鳩鳩郎謂祁鯛謂摘㌔︶
サパーンガ
右中注意すべきは第一及び第五
︵三︶ 第一副支昇澤︵経︶︵Al膏琶ikp、芽t.〇∂鼓・
盲OrO邑苫︶は二篇に分たる。前篇はクー一lヤ︵Hど・
且苫︶即ち阿常世王の治下なるチ†ム.ハー︵C賀意︶固
への大雄の遊行とその説法とを述べるっ漢言すれば此
の王の大様への巡絶と辟依との詳細なる描焉である。
躍如曹部数由典の内容機知
、
原始曹邪教聖典の内容概観
︼二四
七は同じく月に関する天文拳である。而して第六は固
囲のものである。主として数理と行法とを取扱ひ、第
辞提如ち人間の世界に就いての地理的記述であるが、
二−1由が死時の用を述べ、第七が三十二天の計算、
その中には種々なる偉話が織込まれてゐる。且又此等
第十が大雄の蒋競の計算を焉すが如き特異なるもので
ある。筆者は一の原典をも見得なかつたから詳細はこ
m露弓m呂の幾分の
は先述の喪失せるブールヴ中の
−
五は聖
六断経︵C訂d邑tr∫芽tC訂琶l£此の一群を点
す六経は比較的古きものであ少.就中第三
D
こに略す。
︵一九︶−−︵二三︶ 第八 − 十二副支は全経として地
︵一九︶ 面影を存するものとされてゐる。
サパーンガ
獄列︵ヨrP苫.畠穿訂、りkt・誓rい一首邑掌っ︶と名づけらる。
ウパーンガ
四は各々十章.第五
第一断経禁戒教︵崇聾試dすa琶lp、芽t.ヨ賢?
の生活規定を数ふると共に、多くの停詩を併せ載せて
此の名を持つ一書が五品に分たれ、其等
五最
副古支
典が
中の
暦に
に属すものと考へらる。一般に六経の内
カンダカ
容は彿歓待典の博度分に比せらるべきもので.出家者
昔てられてゐる。而して第一−
は十二幸を有す。或は全鰹としてq一,邑g首旨tP茸・つ
︵蔓︶
貞則 ともいはる。内容は、戟ひに死せる十人の皇子
ゐる。
− 中にクーニヤ及びチャン.ハーの諸王あり・−−の転
地上的運命に関する物語である。中にも第八副支は地
jjhち膏邑二十車上牒成少、出家者の義務とそれに違
第二断経大柴戒︵試pF釧ni八itbP−芽戸買a罫︼iぎ・
獄の描富、第九は天界に澤せる十皇子の描克を載せて
背せる時の儀悔法とを記す。
︵柔︶
第三断経行儀︵く︶当巳︼腎ぎ買t.くP↓旨ぎ︶十節
Pi・
コークマ︵大雄の弟子︶の説教。
眉︶八草より成少、戒規の違反及び儀悔法に就いての
興味を乗く。猶王子の歴史性の問題はウェーバーの研 ︵歪︶
十錐集・︵ヲP雷雲︹kp︺−買t
︵二〇︶ 究︵Ⅰ已●浮u●誓︼.S.畠−.︶を参照。
C ︵二豊 − ︵重︶
雲p︶この一群をなす十経は侶より成り、内容は狭い範
占月
.
にして散文を以て書かる。修道上の種々なる規定を記
す。
二年の苦行、全智者︵Rつ邑iコ︶
への遷成︵四十二虚︶、
教化の場所︵ギデーハ・マガダ・アンガ三団を主としコ
︵控︶︵㌢ぎd乳眉二茅t.富野乳邑0︶十節より成り、遊行
大雄の生瀬はヲC・四囲八・−三七六にして.彿滅
こと少なし︶、入滅等を記す。宇井博士の研究によれば
︵二︶
ーサラ固はゴーサーラの敦横地たりし掬係上遊行する
の規定を定む。此書は.ハドラバーフ仲と停へられーそ
後十年七十二歳入滅と考へらる。而して他の二十三
︵宕︶ 第四断経十︵経︶︵ロ臥訂.、浮L日展芭或は十行
の第八節は青郷教徒の驚く告崇し、且文畢的にも興味
︵芋P卦で
師の生涯も大雄のものと全同であり、畢に生時・
ティtルタカラ
年齢等を異にするのみ。第二部偲長老相承
ある所謂望行経︵R昔a蔓r中︸勺ぎ只⋮苫望tt£である。 敵
木曜些二部より成り、中筋二部は明らかにバドラバー
邑i︶と名づけられる。大雄の教囲は元来分割制度−箪採
ガナ
れたる彿停と好一封を偏す。先づ天界より婆羅門女デ
れは紳磁化されたる大雄の生涯であり同じく紳感化さ
積いて彼に先行する二十三組
賓は雨安居期中の生活規定であり、三部中最古のもの
は渇しがたい。第三部は行持規定︵許ヨ獣r叫︶
ねる。そしてバドラバーフ以後にも及ぶから彼の作と
には其等の統率者及び其の後の教囲の首脳者の名を連
り十一人の統率者が九つの囲鮭を有してゐたが、こ1
ーブナンダー︵せe遥nPndヱへの托胎、彼女の喜好なる
であらう。
師の生涯を語る。こ
フの作ではない。先づ箱一部は勇者併行︵Jiコ芦ri£と
カーサヤ
稀せられ、宮廷詩の格調を以て大雄の生涯を措字し、
一
ティール’カラ
十四の夢、彼女の胎より剃奇利女ト∴リシャラー︵Tri恥−
︵天︶
り成り、眞の古きカル.ハ経は茸に此の経にして、その
第五斯経大カル.ハ︵経︶︵聾h賢言古六毛よ
にして、
已抑︶への移胎︵こ1に剃奇利の自負と優越とが見られ
る︶.再び彼女の十四夢、託生、固を奉げての親書と祭
内容は男女の出家者に封する、鰯すべき及び想すべか
一l一五
鰻、生長、父母の断食自殺と大雄の出家︵三十歳︶、十
原始者群数聖典の内容概観
β3
一二六
日tど畠Fp︸§PⅥ已£三十六章より成る。その内容は極
原始書郡軟聖典¢内容機由
らざる種々の規定である。之に封應するものは第三断
めて豊富にして我々の注意を粟くものが多い。或は序
︵二三︶
経にして更にや1新しきは第一断経である。伶第三−
持規定あゎ、又文膿も散文も偽噴もある。恐らくは一
五の三経はしばく一群としてD急・E葛pp・ヨ召b腎pと説あ少、或は誓喩あり.或は敷詰、或は教理、或は行
呼ばれ、六軽中の中核を偏すものである。
人の著作に非すして一つの叢書を点すものであると考
へらる。教理として重要なるものは、菜の八分類法︵三
︵完︶ 第六断経五カル.ハ︵経︶︵句臥昏邑pg浮﹁対談?
臣貞風 前諸経と類似の内容を有し、製作おそきもの
乳訂︶︵二幸︶、命の分類法︵三十六章︶等であ少、歴史的
ジーケ
十三章︶、苦行の十二分類︵≡十章︶、二十二忍苦︵Pri・
歓喜経︵巧巳乙iぎrP︶三部上
である。
E 猥立二鮭 ︵四〇︶
に注意すべきは.ハールシュヴの弟子ケーシー︵内乱︶と
師・大雄の倍続者二二十人の古き
り成る。初めに租
大雄の弟子ゴークマの倉見記事︵二十三幸︶等である。
チJ﹁−ルタカラ
聖者に就いて語少、次いでシッグーンタを成す四十五
る概括書である。
教理の大網と修行の道とを知る鰯めには放くべからざ
︵二電︶
︵望︶第二根経必事経
本経の原本は失はれ、二十章より成る註繹書中
超であ棄︶
捨股.軋師の讃嘆.師匠の尊敬、俄悔、告白、悪の距
日々の六つの﹁必修的﹂義務を表はす。その六とは悪の
に含まる1ものが現存する。㌣鼓官許とは看邪教徒の
茎古
︵㌢吾旨邑声望チ㌢毎号
︵二田︶ 経全醍の分類及び内容目示を掲げる。
︵望︶ 問︵答︶門︵A呂3習d■野中、りぎA琶Ogadぎ︶此
此等四軽は概して成立おそ
挺は前経の別本と考へらる。その内容は宗教に就いて
丁ルーハカー▼
の耳ならず、辞掌・利率・牲皐等に就いても述べ、貰に
︵二日︶ 百科全書的内容を有す。
F 囲根経︵匡巴邑trP︶
召−註す名賀p∽かすー茅﹁
く、そのことは内容的に立証せられる。
︵望︶ 第一根経勝敦控
占4
アンガ
ある。而して此等の宗典は大醍支と支外︵A昔話b写︶
︵二人︶
とに二分され、前者は十経を、後者は十四捷を含むとい
︵琶︶ 第三較経十夕︵9・︶経︵P㌢2⋮訂likPS巴P、買■.
せ毎扁y巴i忘こピtす︶は十車上り成り、内容は法旬経を思
︵t一九︶
その最下限はA・P九
︵豊c訂r眉ぎu3賢貨餞法に掬する書二種。
︵三︶Dra童ぎl亡3胃管畢に牌する著作数種。
︵二︶賢r眉賢u3gP宇宙論に関する三春。
︵一︶ワ邑l萱ぎu苫gP脛史・倖詮に閲する二十囲輩。
世紀の終までと考へらる。四書とは
等の製作は種々なる年に豆h∴
纏められてゐる。教徒は此等を四ヴュダと耕する。此
次に此等喪失せる宗典の内容は今日次の四煩の書に
ふ。絶て此等は現存せざる故経名は奉げない。
はする金言的侭領土り成る出家者の規律にして、又註
︵二七︶ 梓書中に合せる1物語文拳と閲係を有す。
︵豊︶ 第四根接吻食書︵ヨ旦宵宮首竪−吋kt●ヨ且旨ij・
jutti︶出家者の乞食その他食物に閲する規定である。
以上にて白衣浪の現存聖典の内容を概観した。次に
峯衣浪の聖典立見る。
〓 容衣次の宗典
峯衣派︵Dig冒b胃P︶は、華子城に於いてストゥラバ
丁ンガ
ーラ︵Stll已PbF訂︶によつて編集されたる十二支は玩
峯衣次の聖典に就いては簡単に記述した。伶白衣準
姿衣派共に後世の註滞書文畢・讃歌類に於いて非常な
丁ンガ
に喪失せるものと見撤し、現在白衣波併借の十一支を
認めない。而して客衣派としてはブシュ.ハダ
蜃展を示しゐるが、此れに関しては後日を期すること
此尾に用ひ㍗篇・革・致の原語ほ次の如L。篇l‡
音乳邑p︶の下にA●P一五六年に聖典を編集したが、
︵こ
とする。
駐
それらも現在は失なはれてゐる。然しその喪失せる聖
典の内容の記述は彼の著作中に見出される。それに上
お
∝2t臣k呂db中、吋ぎSuP昏訂nd訂−章li
Adh苫・
れば峯衣派の宗典は一部は白衣派のものと同一題目を
ー二七
y呂a、増村t一とjba苫琶−敢ほ一2d臥計二 憎ぎ
原始著那敦聖典の内容概観
持つが.果してどれだけ内容的に一致するかは不明で
ヽ
原始響郵政虫典の内容概観
ddd悪習の畠でぁる。
︵ニ︶ Te且●H・JPCObiいAy腎邑gp S邑p−−冨柏−冨︼i
一二八
望一局買三
勺r長日e已d宅
S望rP−ぎ≡bPゴー00ざーー00ヨ●At訂
00望rP−benPreP︼雷ド
ロP互生ロコg”Weber、e各巧乱n
ヽl
弓巾︻tP SrHAar帥身pji許tタロ12ttP−︼0000○●
S望rP、P−e星P、
トeip巨g−−冨一●ヨ官d訂mmpぎ︼−訝蔓p臣
P
−
J研削t帥・日﹂邑−1un・
Cさりutlp−100・
Pコd喜コ甲T︼・P︶
dPrnett、AコtP習合︵一邑つーL︻︶ヲ
せPrnettいAnt品且乙邑0づ・−柏−−∽P
T買t山Aコutt弓0ヨ身iypd邑号−口許uttPこS讃.
d∃、−父石●
出nやT⊇︰L
↓勺Ht一Aコt品鼠乳箆苫P−C已cuttPこ彗戸
笠こ00箋●︵Text
R■lIOerコ一e∵qますg2ど軌訂一拍一三︼P
弓eHtい已p削ぎ訂dコ軌深︷rP−C巳2一tPこ彗P
St邑ur申−筈↓●
g3im邑邑eロA音戸d認R昌OnSderJiコ賢3−
t各ungいW●H已︷eりm呂n●U訂
︵≦d3dPyp試品焉iコ8C已cuttpこ00¢g●Up守
l邑罫●
︼竺岩●つ●S︷eい已ぎl芯p邑m昌der宅首巴FPmm?
︼一eHt∴J欝罫d訂r日pFt試厨p
望貞雪邑−謬rliコーー00票−可●
︵岩︶
︵三︶
︵〓︶
Hng●T声ⅠⅠ●J芳○︼i童声声HH:−﹀︼笠−・
︵ヱ︶ en弓e官rユnd訂訂望udi昌,Hづ︻●∽●崇P
●●
︵一こ IJ︼−句u見当訂”出コg●TrPも寓〇一−i−坪︰P∴声
・対ロく一句●
WOユ○試已l賢一r已−
︵韮︶ T巾H﹁誓苫習合厨PS望rど宮ヨブPさ︼00芋
Eng・Tr2こgObi、00・声E・舛Lく・︼00芦
︵ポ︶ 分裂触手の研究に就いてl‡ロイ†ンの丁曇りふ見
られぉい。声Feロm告白こ買e巳ten謬ricEe∃n
den絆已胃苫d電J巳コP︵Ⅰコd●S声舛くⅠⅠ.声
望﹁q︶Te肇St試n帥身PS望rP、謬n弓空こ笠○●
︵七︶ Te諷SP2P乱甘コ.唱二苗trP−謬mbPyこ芸P
︵三︶
AppendiH﹂●
HOe邑e、ど一丸kP六in司邑F
︵入︶ 司Oem︼e、dT別途内Pdだ軌○−Hコg・TrP
l=抄許さる。en
乳■出﹁Hr]戸︶
︵九︶ ↓e邑.出﹃gpヨt珂 S巴rP−Or 5hi⊇増uコnult完
占β
Eコg■TrP H㌻rlle〓∵bid︶ロー畠−持■
︵一冒一斉訂rこ〓d●望u・招くⅠ■抗.記誓
︵芸︶ T宗tこ寸獣n宣y詳賀モp警tき二ピ︼cu〓ごー00ざ
︵一穴︶ T爪已”く甘算定望rぎPIcl三幸−彗P
︵−七︶ Weberこbid●匹彗声巽
︵一︵︶ T正江い已召乱こi S賢rどC巳2tg−悪声
︵童︶
拝巴pp
已011こ00念−HIindi¢いR§iロryc賀d︶声巳pPS竺・
ra、ナ亡CknO司.︼彗㌢
T︹已ュ一、・絆buナ一山コg−D崇
S望rP︵2it
L′nmerk.u−1dD邑.ぎer邑エどip茸.−宍戸
T賃t芯r∵軍書dこ叫S望rぎC已euttpこ∽篭●
Anu苫内乱乱rpj叫Sぎー㌘臣lcutlpこ彗誓
丁告ごet雷巴ざpy呂P深trどC巴cutすー00一芦
許H
︵二田︶
︵ニ吉
J●CbPr勺entier”TFe已tl腎已b¥y竺pS望rP−ep
整︼ど一誌−−ド
Eng●Tr鯵∴声J篤Obi−匹出●声涙rく●−票声
T邑壱■訂GE撃呂︶Diの㌢獣苫FE邑已仁n票n、
ト軋p恩こ笠ヾ●
T巾Ht⋮声訂u巨岩nこPぎ邑窓likぎ望rpu已ni・
らG︼罠nppp−D馬J臣l訂≡u撃印−01ぅ発
r¥どi●︵担∴ロ∴巳●G一た㍗訊:漂−﹂00岩︶
︵天︶
巳︷●○へ訂・
cわ句罵q各pM、Out15.¢良二紆li的i呂申
dip−吋.誓¢●
一二九
︵完︶
︵云︶
︵JA芸︵
●兵︶
diO許r箋句風賢pli
出﹁Hねum呂コ︼ せ臣 Aupap註kp警tr小l、−づbei−●
Hb甘乳g−−00鍔
︵完︶ P邑dlgg”Wcber、亡ber
Ind●嬰ぎ,H︶−00︵芦
G・Tt−ib呂t、011 tb¢S官等づ且印ppti
g︼●MFI舛︶
︵ニ○︶ T爵t諒T・W覧reロ、誓r首ぎ畏首ut︷p争AE?
P首官民色ぎ謬ロpHき一等00.
terdp日−−笥P
↓舜ごD臥p
︵三︶ 字井伯蔀﹁印度哲壁材究﹂第二巷、一〇二束
︵ニニ︶ Te已ニー・㌢cObi・R已pDatrP F軋p已乎−00ぎ
寧lg・曽Pこi●J寓Ob山−鉾出●E●舛舛こ▲
声Ste■¢ロ等n−同已ppSPra紆ZP■pT臣事ど・
原始者那秋空典の内容概観
57
ブェデルブロームと宗教軍講座開設
枝
芦Ⅵとっr事▼ヨリEニき11r喜月i−−d⋮つRつニ∽iOコS雪已−ic︼1︷つ・ドLどP
三
犬
I上JZg・、−汚S・
韮
して草の成宜誕畑を速げたことは、†むめていふまで
ックスミュラーソ㌻日ソ≡l雪が数多の不純の菅井によ
もない。オックスフォード大事の比較言語堪わ数授マ
非に丈で鳴り鍾を︰㍑らかl二鳴り和牛かぜt二=本り若き日隼昔
って斯堪研究にれカな捌心と影研とを胤ハへたが、又他
〃大草内忙於て或は紳隼満座の申で、或は照雄講座の
中で比較㌫敢堺の科挙的溝諏が各地大肇に於て行はれ
るやうになつた。特に糾隼縄樅の申で科挙的方法を以
十九世紀末葉以降小爪敏明象を脛史的批判的に比噸瞼
とは十九世紀に既に‖山仰究の路標地スイス上オラン
るものとして特に往〓すべき和衷であつたが、このこ
てなされたこと比㌫教隼の隼としての誕嗅を條作付け
対して、細枠的見地に北った護数的色彩む耶脱し、科
一三一
ダに於て先鞭付けられ増わされたのである。スイスで
′几デルブ〓−ム亡宗教丹講座閃繹
草的〓持と方法との下に組織考究しやうとする気運が
を述べて比やう。
今私扶円く捕逸を中心とする丹ポ敢堪講座開設の紺未
現収火付パ敢隼溝川期秋用石橋博士でJりろ。
の樟咋助手亡ほ常時根大︰パ敬伊郡宜Ml一業血縁の開咋弊社、
咋がわつt。北棟S−昭付いごl工ノェデルブロームでわり.日本
手ご就けル、相協力・して揃通︰パ教材非から廷いて世非宗秋型
のが一九一二年でわつト。此の畔被の叩裾によつて彼のよき助
畢を周絆†ろ鴨lこライブチッヒ大枠の紳隼溝隼l二招略され㍗
北棟スエーデンり比較㌫敬把■り田町ヤが、捕逸り若き小頓
ポに
敬虹
拗洲として各地に勃興し、小爪敬隼が比校ハ・パ教史と
J
ノェデルブロームミ宗秋蝉講座開設
一三二
然し那逸にあつては未だ新興科挙は鮮としての存在
は N賢icJ大挙が一九七七年以降紳隼溝鹿の申で規則 本隼神崎教授によつて設光を見るに至つた。
的に比較㌫欲火の湖北を初めたが、オランダに於ては
一八七山ハ咋L仁iden−コr已ユもr呂iコgeコ各大挙の帥牢講爪
座他を㍊められなかつた。一九〇七咋骨叫畔ベルリン大
草船長ハルナツクと.↓.コPヨ︰rCkは、㌫教火の寧的僧植
Lヒl岩r
を訳認めす、﹁紳隼講座は本質的にキり′スト教の研究と叙
が敢曾より純正して小爪教史爪†溝匪となつて、L′・こ仁nで
ゴe︼C が、コ≡ごでロつL玩が、︵中r〇=iコのe−1 で
織の下にシャントピー、ヂ、ラ、ソー七−C㌻=言㌻
ミュラ1がかつて﹁一つの項バ教を知るものは㌫教を知
で及ぶべきであるか﹂といふ糊揖を拙〓し、マックス・
が犬∴加数隼を講じ、アムステルダム大挙では同一組 述に局限さるべきであるか、或は一般宗教史誹跳にま
㌢︼︰lS︰岩城い苫が講じ、弦に︰パ敢埜は自らの埴にすべき
はあらゆる小ポ教を知lる脊である﹂と運べ紳拳講座の存
場所を得て弧い根た張ると共に、百花一畔に咲き競ふ らぬに等し﹂と郁したに射して、﹁キリスト教を知る者
感触を#し.宗教塑師究の興味む頗る鋸く刺拭したの
で、外的大挙は軍ふて宗教隼の講座を開設するに至っ 在は小一パ敬拳補胱の揮花む必要としない郡由を講演した
て急速に宗教隼講座設罠む結英する様になつて来た。
た。一八八〇牛にフランスのCO戸gede誓呂Ceで、一が、時代は漸次小ポ教火の講苑む弧く要求し、此は又やが
八八川隼には白耳苅の㌢れ釘lに、廿世紀に入って一九
丁抹のレーマンむ沼潤し.鋸るる二虹㌧一九一二年ラ
一九一C年ベルリン大挙紳隼講離はjE教授の縄を以て
が非溝姉となり、スエーヂンではウ
〇〇咋には丁抹のコ.ヘンハーゲン大鉢に於てレーマン
巳丁罵d Peh旨nn
来ゾェデルプロ−ムがその教授となつて新興銅鉾の馬
机鮮を迎へて窮迫に於る宗教撃界はその要求む偏し、
エーデンのナタン・ゾェデルブロームを招和し、此二大
ブサラに一八七入牢同課巌が設荒され、一九〇一年以 イブチッヒ大牢甜撃講姓は同校正数捜の祀を麗してス
に気を吐き、我が観では今上旬廿草年前−釦ち一九〇
■l′q
初めて薄利たる活気を呈するに至ったのである。
るから、先づ部分に於る舞〓家となり、然る後に他宗
ゾエアルブロームがライブチッヒに到節すると同時 教を椚準的に討究すべきことを要求し、此仕紳準講匪
は宗教史鮮溝煉について謂演し
ノ←デルプロ−ムヒ㌫秋野講座関取
に心拍さるべきことを述べ、﹁小石教撃講座の過瓢な炎
て宗教堪講座は今や各地大隼に設犯され、レーマンと
共︼に
たO先
TOnS
一蒔
iい
nt
す附帯ゾエアルプロ−ムの努力の純は濁泡
︵Dcr
Enlまみl呂g・−Sg∽・
ゾエアルプロ−ムの紫郎抹吋成り多い。著名た併では
Uieヨりl車0ロ∈㌫diesONi巳e
rユe2t弓ed首r訂訂ソ㌻N︵蒜㌃日P︼琶−︵鱒庫諒︶
一二三
0たノ君乙eロd誌GOtte鼠呂訂nリーi3P
〓ポD
欲i
火e読が
全厨iOロ仁−d巧Erdeこ巳ひ・
Re
景教に通暁することはユートビアであつて不吋龍であ
r﹂亘巨訂㌘音0点窪bi旨ご三ト︶
A中 日e訂ヨ6日
年.一九一川年ベルリン大牢紳斡講就教授ダイスマン
の時の叩士の講鶉に基づいたものである。爾後十数
帯中ロrJsEbPS已の名の下に引川されて居るのは、こいふべ浮である。
にされた。この苔は彼の棚隼に弟嘆せしめられるが、 ≠五川咋を枇賀されることとなつた。文運命の一奇と
仰の燕成﹂︵D︰︼ニ↓巧dePd托GClte阜己benBとなつて姉
公 崎Ⅲ王女助けて同講座を愛撫小長せしめ、本年開設
助教授として‖本に於けろ丹那数鉾講座の建設者、教授
のこの畔の溝鶉は脾即されて一九一∴ハ咋に米澤﹁紳㍍
泡宗教隼非に押高い嶋鋪を和いた。ゾエアルブけーム 功損に埠興した白面の昔隼雄従が、今や、東大宗教拳
mu箭︶を講じ、円本宗教史む別にして柵共に黎︰
明加
期数の
枠狐
外に大きた精出を珊した。浩畔彼を助けてこの
d貌○辞nbPF2日唱g軋呂訂nsin mer︵小繋巳cb−e
の小で﹁糾道脛史忙於る啓示揖憩の菟蓮﹂︵El一t致ck︼Cng
た木桶博士であつた。彼の洞督﹁啓示L︵○謬nbPb2ng︶椚﹂について論述したが、かかる反射運動を押し切っ
べル川ンに在ってレーマンの下に新邸を究めつ1あつ
に、彼の助手とな少、祉の誹詭を助けたのが、さきに の研究力法と一致するが故に、小爪数肇講匪は紳埜講匪
3
二∴川
亦、〓示教が脛火の過程に於て敷椚の教運をなしてそ
ゾ′ェデルプロ−ム寸J崇魯隼講座問設
Ti︵エ塾eユー︼○≡S︸㌢≡P⋮′一ぎニLer Pニ尺㌻n式辞L−㌻l−tつ.
力持棋む粛化すろのが普通である〓上、同招分翫のほ
耶と性在り得ない。ユダヤ教は民肱小爪救より稗∵︰布巾パ
い.ンuP lつnウ
マがぁろか、一九∴八咋﹁㌫放火胱ぬ﹂∴版︵H真二与
故にむに律法㌫故に紀化渾沌をして居り、ヒンヅ一致
こうした前二祈の欠陥む指摘してゾエアルブ〓−ム
どー・ie︶又は唯一紳㍍押︵ソ㌻H受Fぎu古︶であろ。
には多帥”パ抑があるが、その門際は一柳の黒揮︵ソ㌻コ?
≡哨㌢㌻㌢覆っ︰︼堰邑己き︶がノ一.訂e琶F=I−已巨︵F︼銅
箔非小の一つとして公にされた。彼の叩雄が四六判一
九C余日の小肘に追憶なくコンデンスされて㍍る。
本邦に於て問題となるのは、特殊の︷一加数分類法であ
スト放と仰放との二火刑拭を認め、﹁余示教輩沌を脈史
らうか。従来全肛外の種々雅多な崇敬瑚免の史的聖迅 は第三の新力法おとつた。即ち畔外的㌫放としてキリ
を組織分類する陽に、その里山くべ汁−招準について多く
的に放べやう上するには、この小パ放火の最も姉要な機
運段椚にぁる両者の一つを以て叙述の柁心とも7リア
の人々が甚だ囚錐を用心じて来た。
︵一︶ 種族或は地理的分布による分新方法は、大股
論であつて㌫放それ‖身にょる分類法ではない。イラ ドネの細とも、叉宜脚加ともする粥に二者の一を選ば
ンのツアラツストラの宗教は、同柿放のインドの宗教 ねばならない﹂ハS・8ことを※張した。彿教キリスト教
よりは、鱒∵︰者宗教の鮎に於てセム民放のモーゼの崇何れかを上髭として全㌫敢史を組織北てやうとするの
キリスト教を〓堀鮎とすべきであること。
︵一︶⋮新帝が西洋人である限り西洋文化の︰小欲たる
とした。その理山として
敬に柁近して居る。北アメリカ・インデアンのトーテミである。披はここで仰敬を捨ててキリスト教を〓替卦
ズムは地理的槻係を飛び越えてオーストラリ7のトー
テミズムと翫似して居るが如くである。
︵二︶ 各小ポ教の特門戌は聴建柑度によろ分輌方法も
・J
︵二︶ キリスト教は輝車以前イモソエル、ギリシャ
それに槻聯せろ講他の小石放とその耶慢に持し来って運
ヨidハ
べろのであろから、胃腔的敢述としては縦に骨⋮を得て
コ王nr山旨
此を許して﹁非増際的でけない﹂といつた︵ゴrg︼・・学・
帰やう。ハインリツヒ・ソリッタ
の︰ポ放と豊浦に槻逃して居ることは彿敢の比でJ.hい車
︵三︶ キリスト教は脈史地相に於て他のあらゆるハ.ポ
教と脛史的に柁僻して居ること、
む挙げて㍍る。ここでーけ外の小満秋根はキリスト教史≡
と訂㌘︼i㌢コSま華n竹C己−一−詫S●S一さ︶。然しそれは同時
キリスト教以外の小爪放火との∴つに大別されるが、兼に、少くともハ▼パ放分析た隼的に見て︵彼は此を唯一の
アユデルブローム寸∴小難雄溝川問綿
ことによつて除かれるだらう︶、名丹加数の内容特罵に封
も
それは必ずしも購弼な隼代にょらす、戒※粟接偶の年
た︵こ︵二︺の介翫と五十非Hルでわること等に、その
一三五
以上の分類叙述力法は、一※潮流を搬定しながら、 欠附セ■バして居るもので扶なからうか。
‖木のハパ敢む放べて帰る。
等の講コー一門から支那の丹那放む、最後に切支ル棚道代
かに
らよった鮎において、火昭諭として彼‖身が拒香し
11[紀にハ八教師によつて磯兄されたこLL、マルコポーい
運動に乱読の⋮小却が知られたこと、点数紀念碑が十七こと、而も接硯咋代にょつて分析したと耶しながら、
の㌶放から印度に及び、Ⅲ綾に十八世紀の英沸理曲数 スト放との偶的然接椙年代によつてのみ一描分類した
の下に成正したイスラム教を見て、八代ゲルマン民放 †る考鮎を分類上全︿無祀し、従って、ユダヤ、キリ
P−マの講小爪故を慨拭し、キリスト教1ダヤ敢の影騨
教と閥頗した加持の講丹ポ敢を一川し、むにギリシャ、に分利根逃せわばならぬこと︵これは両帝川糾合せる
た。いはゞ従の分類である。キリ∴ト敬〓前はユダヤ は▼全小ポ放火む一王要︰パ放火し′■講他の宗教史との二つ
スト教と歴史両に摘樹した各地丹パ放た咋代肘に鋏適しりていへば﹁第一義的椚他﹂に基づいた分類法として
務はキリスト教の惟史を既知のものと稚足して、キリ 草的分耕法だたは鎚く※張はしないが、︶彼の〓吻をか
ウ
宗教の艮族弊的研究への一部典
一三六
再・吊救民放球の形成に好かれた道筋を明かにして、之に
宗琴の民族軍的研究への一寄輿
轡に赤松博士の﹁軟近㌫敢隼訟の研究Lむ輿へられた
吾々は、今文字野助敬捜の力作﹁ハパ敬艮族隼﹂を恵ま附
れすろシJミノト一派の功紺を適宮︰⋮に認めつ1、而もP
を※張して居る﹂次に第二群﹁丹パ救民族埜の地位﹂に於
挙非亦多事にして多忙と云った形である。木郡は人新 ヰ\ べート等と北ハに基封免をより戯く帥すべきこと
鮮道都の垢六編と歌ってあるが.勿論排謂道子−、。︰物で比
ゲネソ.フの諜をば、依甘に粥川だ♪■斥けて、其が一般
ては/之む以てハ・吊敬の人相r−勺特徴の研究となすファン・
無く、序文三貴、目次ふハ貞、本文∬関山ハ貞、紫引及引
別巻考革トl六八貢、堂々たる菊判の大冊で.全巻を十
三単五十一箱に分ち、郡毎に詳細な訂が附いて㍍る。 民放川北艮放火の一部でぁると同町に、宗教隼及︰バ放
釣一部﹁小机救民拡埜の軍畑﹂では、隼名の由如と概火
念の∴耶でもぁることを述べ、≠ハ㍊述的方面即ちハ・邪教
一般ハパ放火、小山敬川十に京粧すりごL上を認めろ凱に於て、
民妬むも、説明的力両即ち狭義のハ.小数民族撃も、共に
であると、詔裾に椚足した筏、それが理論上㌫数隼L√
大鰐ゾ〓スに倶成して㍍ろが、既にも亦俳誹民族草的
を述べて.之む未聞酢曾にあらはれた小ポ教現数の研光
民放撃との交叉鋸に北つものであl・心と川畔に、葦批的
にも両替に結び付くことむ明かにする偶に、丹前数堪の析究に附する肝史派及押隼派の批鉦に省ることを忘れ
誕批と民族鉾との交渉とを述べ、北野㍍の過程が蓬に す、共助某と制限に捌すろ汗烹を典へた薇に、今迄轡
〃
定して米た対象の問揖を犯に詳論して居る。
形態に圭る迄は、或意味に於て埼川舟に省みられた姿
進んで第二山草では、葦料の種類と基鈍間を考へて、牝論のよⅠ︶詳細な展開L′−吟味とであつて、凡そ景教昆
民放隼及先史考パ準の方面、八代文化民族及パ今の未 放埴土のれ要問題にして購れざろ無く、而も其の一々
瞞聯して全谷を流れるシJミット一派の新見に附する
なわ文に聴明な慈廿の語るが如き莱祈の励精を侭ばせ
始的心理、n粥川︰小押と呪物崇拝、人と非慰魂、紳揖硯
樟血r一川朕蔑して、点し枠外の肝槻でぁる。加ふるに
を持し来って、明快な論糊の下に釣l︰lの境地を問いた
崇敬り民族隼的研究へり山祭典
一三七
構硝の特徴の講串を経て、最綾の尺族的景教の址曾的 印刷、紙質、装帖の気‖⋮も、此力作を捕るに粘かしく
念の帝展、呪力勅念、トーテミズムの︰加数什.原始的
それから第五敢㌫放と呪備との糊係以下、呪術と原 ると胱ハに、骨⋮咋の赤松伸上がフランス勅命堪派の某紙
より多く傾いて居る様に思はれる。
派の脛史主義に、北ハ目的や方法の制限を罠く條作付で特
、に深い理研と公中な兄姉とは、淡々として流れる様
ロス等の折衷的見解に田岡しつ1も、寧ろシュミット一
と新興の脈史‡光の硬隼論とを考ばして、ロヰー、ブ 専〓宣の糊には論議の小心ともなろであらう・︶又之と
る挙証の班遷を運べた後に、従来の俳調進化的段椚説 ては、藍し莱清濁〓の刑場であろと共に、それだけ又
併わ、宗教聴再論の北越を考へて、景教の起融に閲す いものがあるり就中第十二草に持目した構鵡論に至っ
第囲輩に於ては、斯挙が成宜し来つ声王嬰動機である 宜場む明かにしてHる手腕は−まこLLに敬服に堪えな
注と内搾的方法との功罪を公準に論断して居る。更に 解剖し、推招し、批判しっ1、急軒々々に粟井自らの
示し、文化の綜合的考察を注意すると共に、俳謂比校 締めて〓然に驚︿べ汁一〓山さを‖て、細密に叙述し、
未聞民族に就いての観察の川意と、賛糾選揮の標準む て.又隼系の筋む分って∵前綾照腫、常小印刷應じて、
開民族の宗教に閲する祈究の成裾をたづね、殊に現存 に就いて里パの如く起った講説をば、非発根の跡を辿っ
lヽ■
㌫軟の民族塑的研究への一帯輿
ない北浜なものであ少、この新しい準問を之据迄にま
とめて、之に撃的根拍と棺系とを奥へた糸井の功紙に
対しては、洗く敬恵を衣せざるを得ないJ
拉後に郎門一暮−外の私が一首汗文がましいことを云ふぺ
く許されるならば、揮狗邦文で〓される判別的な中小救
民鉄拳であろ以上.†少し‖本のことも省みて頂く澤
には行かなかつたものかといふばがする。勿論概論の
性質上豊昔な事例と盛ることは〓来まいが、それでも
シペリヤや南洋が繰返して‖て来る古ハ宙鎗真の長の道
中、改組の山がゎきすりにちらつと姿と見せたきり、
7イヌの服も、琉球のノPも、﹁たま﹂も﹁いみ﹂も全然
警‖さぬといふのは如何なものであらうか。殊に日
本の新道と朝鮮の継規とを右つ訴脊む導く馬ゎには、
芽者も序文に断って居られろ抜に、シャマニズムの一
課だけは迫非人れて欲しかつた。尤も放定上りは部将
になつて隋分切拾忙苦心されたらしい木澤に、此上村
補がましい注文む付けることは/付ける方が無即とは
承知して居るが、併潤愉を得て崩を望むといふ鐸であ
る。妄工臼多謝。
∂
文
銃
といはれてむる︼切絆そのものこそは如何なる仲秋射
爾︵b吊与÷g.1弓沸諏部︶丹妹爾︵ごSt与だり弓論印那︶
数祉が令姉楯来した西張語彿典∵即ち∴大別して≠殊
た祥輿をなすものではなからうナ揖ふJけれども嘲鯨
如来大赦紅組目録に就て
二
十咋八〃人正二切控の別巻として〓版せられた明和
法認=録禦粘聖m侶識−八にー加水大滅稚拙
〓録︰怨たろものがある。これ扶知る人ぞ知る円に俳 究のカ両に槻しても種々なる溌描とたり、光−リJを輿へ、
の串に旭するはいふまでもないのである。
あり、増鉛である。従ってその研究姉別は不可闘喫緊
訓⋮北邦殿版亦†西浦語大減維の≠妹爾郡の沌文〓欽な
.謹左となり、雛排を仰決するでわらうところの出陣で
のでぁる。
茫茫空わ棚敢俳究の望mに於て†や西城語彿典の研
拍要件は十分に河曲められ叫ばれてをるJ而して私の兄
歴史を閲し、彿典の排究▼校刊、御謂等も粕多見るべ
だと抹∴・〓へない。勿論畝米人の西成柵究は∪にH年の
削炊が爪人なる∵什摘む果すべく、その一分野としての 然るにこの西廉価典の研究井に運用性今佃太だ墟ん
ろ限り西成に弘通せろ彿敬.揮刑刷明嚇敦の放火及び教
∵三九
その沸典の研究運用に比較すれげ獅未だ及ばぬものが
理に仝棚加毎にとつては、さまで市大なる研究封免で き成紬む鵜げてわるl︶併しながら雅語ヤパーリ語非に
はたく.又その硬九例の結黒も一般彿教撃に附して人し
如邦人賦押捺〓銀に胱て
ク
如来大敵押紙日蝕lこ辣て
ある。殊に吾が組忙於て然りの悠を深くする。
さて西戎彿典の那究は先づ如何なる鮎上りこれを始
めるべきであらうか。予は之に封して躇蹄なく答へる、
﹁凡そ漢揮経典の研究に於て常に経蝕を机逸に忘るべ
からざる如く、西戎彿外の軒先に於て先づ必要放くべ
からざるものはその日簸である。而も畢なる経恩の日
蝕でなく、西戎経の一一について梵・巴痍の各種蛙典
との封同有無、更にその功容の長短見放、漢本に塊評
あるものはそれらの何れに親しきかの分別等をなるべ
く詳細転巌癌に封此所究したる成典としての勘同日錬
である。個々の経典妻抽出し来って研究し、彿教壌の
補助‡糧とすること元より大切であるが、今は寧ろそ
の様研究の基礎若しくは指南として上述の如き勘同釦
の完成こそ先づ努力しなければならぬものであ.る﹂と。
〓
︵二︶
︼四〇
は六版と十五錬として示されてある。予は今現存の明
p・
由三五二紙−
よOn・bいP首
︵北京版舟殊紺C16
かな日録のみを左に挙げることとする。
一、ダン・カル・マ‖録
三七三机︶
二、ブ・トン・リン・ポ・チエ日錬︵d憎凋・b汐m
サ岩二R引川︶
三、北京凍桝推正版自由
四、デリゲ版日録
五、ナルタン新版‖銀
Hゝ旨
﹃eeり︰An首盛d仁
H〃?
]野6djO弓−
de吊?ひA計i已ic
次に近代単著の公にされた西戎戒経口鍬としては次
の如きものがある。
一、チヨーマの錬AleH呂計りCsOmp
巳●
冨hCビ店く○︼.MM■︶−∽駕,
二、フエーヤ錬
r巾ヨ胃qG伊卜3n、−S芦
S‖Jヨidt︰b同風ふ笥弓・g且
d領内呂且弓,S﹁誓†
d内Prd訂g
t⊇b已tede︼−呂g︼獣et岩内m3t紆d2di↓m詔帥邑diti・
〇ロ閉et
三、シュミツド錦
︵原本西鍍都︶0乙erder訂計H
e邑︶弓g−−00㌫・
Jの
抑−西戎忙於て大蔵経の開版及び目録は灘種ある
︵一︶
か。多田野獣氏は±ニ版十川鍬壱列挙し.河口恕海氏
\
︵九︶
ルは忽ち不審を抱いて
る馬本甘殊術の日蝕で、この寄木の節水はペックはデ
︵八︶
四、ぺツク録Her日昌P田汚kF︰ノ、巧NeiqFP訂計り島訂ti衿ア
ド版だといつてをる。糊は伯林の帝嵩文楯に漬せらる
巾P匡礼拝巾P軒数n−−巴↑
五、コルデイエ鋒句●9a訂r︰P邑Og宕dG才n計t監t巳
リロ
ヂ版だといつたが∵フウフェ
七、絆bie訂er︰已b巧di2︼Og軒heコuコdgrPmm乳首訂n弓?
のものとしては、
右の外甘妹爾叉虻押妹爾の全備には慮らぬが式部分
爾附崩の日蝕に和押む井行せしめた勝馬版刷である。
を奪うてしまつた。捕情忙域へぬ。山ハはナルタン版甘殊
洲大槻はこの業者に甘殊裾線を‖さしめすしてその命
巴里組民団榔桐祓雑正版丹殊爾の目録である。かの欧
研究し、明の永楽版に裁くものなる串を論証した。五は
H●T●P訃こ¢豆1︼¢−P
ナルタン版西敵大祓細甘球目録
d∼Fbib許tFβue巨昏邑e
六、河口錦 河口慧海押
東京、昭和三咋刊
右の内チョーマ録はカルカッタ克納亜協骨に託せら
るるホヂリン先集の張本によつたもので甘殊御の分析
的目録で丹殊爾の略目録に迄及んでをる。この節木は
︵三︶
ナルタン版であるといはれてをるが、その記述は裡際
のナルタン放とは少し合致しない械である。これはチ
r汀ei日TPコj弓︵Pl︼・de−PC︼転eFぎ・p呂〇.ムe︼嶋邑.
︵円︶
ヨーマの疎挫らしい併もあり、折本の差克と思はれる
︵b︶
八、Hu︷Fノ、er邑ern訂d毎il︼︼Ti訂t訂訂n
T巳昔r−Ab†
︼笠ひ.
ScE字間
T〇コ
We︼■ke︶汐・
ユ訂
同補通︵Z■D・リー●G,HCHH
一四一
九、JP3ロ戊ヨ覧○︷︰FCOご邑ぎニ︼gtPine
pp■当ひー㍑£︼富加・
ざ邑Inロつ、出Fロd︵Hリー︼け血︶enth已tenen
−∽●−P︶
1ヨワd鏡野ien読dOⅥ︷・崇ter机b3毒TOヨ.1↓●男つり.
︵丸︶
如来大蔵経捜日録に拭て
ンは北凍版で乾随時代のものだといひ、.ヘリオはアム
︵六ノ
る。断水はラルストンはナルタン版だとい払、キヨッ.へ
の節米引を西藤文字のまま石版印刷に附したものであ
を加へたもの。r二は蕃鑑都の弘光科挙々士院購甘殊術
のフエーヤ錬はチヨーマ鉄を仰−押し、フエーヤの祁止
和もある。鼎して何れか、記して後の考をまたう。二
JJ
〓′こ.ヽい′.J∵ヽ小一ー∵一・J二し
んメ71︵﹂ノ︰㌣レ不′ろー左ト.■r什ノ
︵一三きへご︵〓︰﹁ごい∵H∵;二ニe︷㌻j一㌻ニl=∵﹁﹂⋮︰・⋮︶P′㌢ ﹂一・
手蔓・TG︰≒C′./∴︰㌻‖・︺︵た.︶
叶−り汁J︰仙﹂−,べ汁もの予一あるっm又これ∴再㍍西牝結い〓
㍑ではたいが、法り頼︰切捏〓蹄にい持症〃勇卜してあろ
捉宮=桁㌫狂
机晶に於て圭ぺとた︰りものに、h〓く工
lい、.†邦汗Ⅵ仙〓組錐
わり、近くは
二、人臣斯伯上、琉結ⅢH‖打 ∴
かわるJ
一門∴
′∴一−=
く
妹両神刷を㌍一ったので、少しくり十一山内合†ろ経
典の.〓柚∵∵∵・りいかL耳目・り得たいでれり七
三
一
そ、一∴〓出に引いた和束∴−帖帰結〓描について附か㍊
ノ、■、
・・
この片付け内鮎湖出陣土山宮て本人にて輯小=呵i1年来
−し丁′しこL∴い山、∵Jl†たろべく侶⋮里にそれむ列㍊し
■一
卜し、ノ.一
﹁
サられしれいに卜∴いて昭利法H鉦に入れられたJ己うで
本の招来㌫−ト・
か㍍が、ュれ㌫山・∵㍊かに銅人されたらしく、偶に根
結晶七我許純真を押絵†㍍腑少くないが.何れも情し
しこれけ項に穴有人隼にけ邦備揖存すろ庇凧仙版≠妹爾の
囚に前掲敷棉い〓㍑に何れも丹よ里が苓・、精進助′イ〓の
むらくはゃが先に述べた.叩ぎ出足昧での期日〓鈷とたつ
附H〓〓、rいい往−、﹂れわばならたかったぃであろっ火元
伸・古・い糾校もたかつたのであえり排
てゎないこ圭一∵あ︰㌔=揖班公川の人サ県緑拗日録には
郡帝人賎わ別のハい木も一木あろといふこ士である。
、.﹁′ノ
かたり多くの.西扁鉦典・宰附照してあろが.m軟柑の兄
﹁∴■
こ、この〓録はぃ根両肌≠鞍山〓鉦で西蛸文・競ぃ女・
満洲文のし人=せて川木一几のものである。決して胱文
八︰⋮畏と、≠妹嗣〃けぃ小セも人的〃∴十結の射川せし
むべきもいを脱鮎したこ圭に川根根であつたJ予張に大
〓結のみ損辛いものでない。従って、この浩文〓録は
元か再・成文でけパ︰かれたものヽの
闘詳であ︰わり犬放そこに
′.1
谷大牢の帰を蒙り川里俳紙状涼版西賦・∴隼旦笹泄詔木
と封比価究してその・M容比較〓録の作製に綻串し.折
ノ.
J3
録で総数む算へ又は♯就における和無を考へたりして
際の内容と枕厳密には一致しないのである。故忙此目
茹請わ批挽か.省略か、何れにしても、この日錬と班
三、この〓釦は鹿撫仮附則のものであるが、日掛舶
把際との柵迎は断ろ迷惑な謂でl日蝕の岱佃を草城し
らないのであることむ注意せねばならぬ。この日鍬と
られねばならない筈のものが、川十六脅しか載って居
としての如来大成腔〓鍬には川十九令脱紡なしに準げ
てゎなかつたと考へられるけれども如拙版の附鳳‖蝕
ある古い時代忙於ては西戎の謀耕粍は川十九命典備し
云云するならば意外な課に陥ることがあるのである。
て什辣ふものであるから、こ1に一一触けたるものを
は測らすも誕港や脱落も損じてむる。
最も甚だしいのは秘密郡︵首鼠︼T邑rP︶であつて.
祁人の謂に列挙したいのであるが、あまり繁雑になる
︵一札︶
この鍬で教へると一ハ州五部或は往放すれば六六三郎と
から常略する。
︵﹂二︶
なるが、貴際内容に苦って軟へれば七二八郡あつて六
い。華北蝕むみると此竹舶ハ春木同.もしくは此畠仙♯
見える。チ︺−了ソェーヤの鍬でみると川十川脅しかな
この如来大畑紐〓鍬でみると川十ふハ骨しかないらしく
と同じく川十丸和︵命︶から成ってをるのだけれども.
く幌略や瑚決がある。たとへば型机郡の如き賢際は藩押
桝した文辞なのである。西戎文‖錬ではgPロbわ巳謬・
略†︶が、川輩各々川鞘に分かれて十六僅あることを説
木出︵訂・巨苫言PEP訂︸○㌢ご邑rPrだ邑2p西敵膜名今
る如く紹名ではないり前條の修習冊大本組玉音辟川枕
四川川十人ハ本絹とある。.これは洋悲してみれば明かな
こと。例へば秘術瞳姉川巷の終から姉川に.1叫位使分偏
四、次に捏名にあらざるものが捜名らしく〓てをる
木閲とか証して結局囲十一骨しかないこと吏ホしてを
re・F︼r㌣b勺ed㌫巳ケ巳ムeビP・drug︵川位各々同輩で十
東部の脱落といふことになるっその他の部分にも少し
る。然るにH陽を調べてみると削らかに川十九骨揃つ
人ハなり︶とあるものの瑚繹である。又同釣十七粘の節
二∵︶
加水人鵜経線‖錦に郎て
二田三
てをり﹂アリゲ版もナルタン版も血十九骨である。尤も
J3
加水大成経線日銀l二就て
十八に妙基金剛心仲陀羅厄︵成文日蝕では屋e・bt買・ヨP 宮u・pP
一円田
︵節川十︶を川十稀と評し剰へ抒の一字を加へ
に苅†邪の紹名む列してあるのは、不解なやうに思は
五.諸〓⋮組の部に人つて∵何々経一巻内とあつて次
︵∵し︶
︼仁?骨幹ms・mそgZu且と名づけるものがあるが、こ︵一尺︶ て、集安川十種絞と杜充てあげてしまつたのである。
れも倶は控名でない。本文を瞼するにこれは第十七の
聖肴獅子吼搬臼在菩醍陀緑旭の謝辞肴の一人にぷ?bt・
2n・mP巴?骨Sel弓ヨP妙‡金剛心︵女性︶の名がある。 れ、動もすれば課鮮し易いのであるが、これは﹁何々
それに配然陀羅旭なる字を附けて一粋揖の如くしたも 柁を始めとする一墨の内﹂といふことであつて以下に
−
だ。例へば妙法建碑紆一巻内とある次の次の毎に揖聖
のであつて、摺物にそんなものは決してないのである。はその怨︵痢︶に収められた第二挫から列記してあるの
又粟耕紐帯山ハ巻の第三妙手長考補間大乗鯉は第五私第
六の脆〓である、ここには貨護長者前岡大乗経となけ 荘厳栴梨胱弊大乗紺︵阿瑚陀腔に相常するもの︶とある
番目に阿煽陀継があるといふことなのである。
布衣の借用語との相通の如きは∬らく措いて聞はぬ
六、この‖錬の沌文繹名に於て評語の過不過、或は
︵一八︶
ればならぬのである、それは兎軋角としてその次の次 のは.法華経を始めににかれたる一粘︵cど二輌︶の第三
bShi計守唱︵節
に集要何十稀経なるものがあるが、これは蜜に幽薮な
のである。正麓は西城文では乞じ与pP
用十命︶とあり、前の渾信童女溝閃難要接が大邁硫鍵
の姉川十骨だといふ鯉未の尾根の一部なのである。そ が、西城辟名む帆かに誤解して謬したものがある。そ
れがこの戒文各村のは揖には必ずしも常に命数番幼が の一例は秘帯紐筋十八巻の第二十五不日、染着椚口陀
そのは揖の一部分の文字が宛も一部狐元の控名の如く
gz5.Slであつて、戒名を和押すれば、﹁聖メーカラと名
nビロpdl一首卓二照輝名廿P首・pPソ.︻?再訂⊥PSb巧b叫?音i
ついてわないのに、たまたま押信詣女伊にあつた偶に、騨尼がそれである。この陀捉旭は梵名 ㌢I﹃p崇eE旨冒
に故はれ、挑文日蝕者はぜP守PP︵骨︶を輩と、b票・
J4
くる陀羅厄﹂となる。而して巳?旨甲lpは梵語の青馬
では紙計二十囲碁︵痢︶であるが、谷大木は二十五番で
測って謬†れば、此陀緋佗名は﹁聖賓珊陀紆佗Lと押せ
は上第一粘として冠混紡一巻の前に持ち‖され、その
火臨授兜井心児班及一倍師博名購なるものが谷大本で
る一株繹には警俄鬼陀臥いふものもある,そこ
如くみて.旨は﹁火﹂であるから椚、警Pは‖であ
のは.戴の︸F舛﹃・Fを梵語膏富と思はす.西藤語の
ふものを祁ってあろ。そして最初松下の秘密鮮二十四
抄好調、畷須寺等併存梵郡内、布斯端林仰切評‖とい
雅聖光髪軟便沸舟木純、於天竺闘犬班的球音絆沼阿挽
評〓の滞伽
帰敬と改版の内容和裁は秘術軽部に於て阿捉抄︵Ati仇且
その檜都政版のものなることむ龍宮する。而してその
ほここに北諒搬仮の地鼎版には二糀あつて、谷大木は
く谷大木に人=する。そこでこの相殺は何を語るか。予
C卑附︶には折本の丁数を朱記してあるが、それもょ
おの外は内藤木、谷大木同一である。板原木︵弘一
谷は二十五怨と改ヰつてをる。
加水大蔵相地目銀に兢て
一問五
ら木
れ、椚第二十二雅は改版では上第一巻︵○計↓剛︶と
しない。それから、本文に入って、秘密総部は内せ藤
梵存
製在
氷室救腔併称本州が∵郁卯二十二等の位置に新加
て、この小箱五の職名なるものは内藤叩土本には
水、布斯融林仰切︵字slOnR首・唱島e︶
部介になつてをる。然るにその順序はともかくと肺し
七−校閲序日蝕啓二紙.八.聴即監修大成経一紙の八
文︶十六紙、五.職名一紙、六、校閲総字嘲廠一紙、
舵、三、郡訊序疏川統、川、如来大赦経地目錬︵本
木はこの日蝕は一、御製番戒経序三紙−二−満序疏二
七−大谷大卒蔵触煙版の日蝕と相投あること。谷大
尼としてしまつたのである。
で糾忽にもーpなどはオミットしてしまつて椚n陀羅
りた
として第二十二怨︵撰は第二十:面目の由︶に滞伽
に合致するものである。それを今、椚‖陀揮佗と代し
らるべくー内容は施護諸の賓帯階梯尼︵大正ぎーヨ︶
︵一九︶
あ故
るに
。その相蓮は内藤木琴一十二客用郡密児申併集兵
であつて、これを辞すれば金珊又は班珊である。
J5
如来大蔵群経口鋒lこ就て
山西古ハ
そは、それを物弧.・・lつてをるのではなからうか。
して口頭忙移されたのである。そしてその他は悉く肇 のべた内藤本になくして谷大本にのみある職名一紙こ
︵二一︶
版その櫨をmわられたらしい。この非は谷大本附廟日
準旨肘掛犬猫紺承造
●●●●●
和船紛糾か書冊釦
で、仰外に職名とあ少、本文は︵閻鮎正私に附す︶
蝕を詳細にみれば、自らその別の滑息と語ってをる。・ その職名といふのは一紙表裏に亘り一両三十二行詰
先づ漢文目録では肪二十二歩の適に於て、目録八丁衣
三村上り八行までの五行は明かに粥版木む切りとつ
て一新しきものを候人した跡む柁してをる。そして上 と記し、次に監潰宜上lとして司業m阿勅卑議胡.内閣
●○●●●
第一巻の記入ある節一紙の表は一部分の條入でなく一 持説撃土田野晒以下獅二十八人の名む列ね、又、封宥
鵬漕傘拾玖年揮月十=‖刊成としてある。思ふに先に康
●●●●●●
両全部を改刻したことは、文字の筆勢の相迎、及び行 明晰として、京家訊問間他六名を墾げ、最後に、大浦
数が他は常三十六行なるに拘らすこの而のみ三十八行
なるにょつても明瞭である。次に西戎文日蝕を瞼すれ 鼎二十三年こ.の弼収成り︵内藤木はその時の日蝕︶十六
ばこれ亦姉二十二怒に常る腎二幽の幽を政見し、好一 年を綬て髄腰三十九年制遣欧版が川た︵それが谷大本︶
紙は全郵政刻してある。而も面白いことはその改刺せ のではなからうか∵㍊して先述講弛旺の雅致を仰ぐこ
へ二二︶
以上如来大輔枠組日録の公刊を機紬として、完全な
られない前の肇版の邦一紙も存在して、その両者で一 ととする。
紙の表薬をなしてをることである。かくてこれらの卦
と内臓本との封黙考先によつて陳脾腹といふもー柿で る西城大蔵経の拗吊〓録の必冊ズを運べ、如来大成鮭日
を運べたのである。今や我閥に於ても束寂帝大、寿都
蝕の内容、何位より、榔じて髄搬版の二郎あるべきこと
果して然らば、その改版は何畔−何人等の平によつ
帝大︵最近到着︶、大正大挙.拙持キ.河〓郡海氏ナルク
はなく再版柑祁きれたことは疑ふべくもない。
てなされたか。こは退かに制定し難いが.恐らく先に
Jβ
ン版む嬉し、西木尉寺光帯食、東北帝大、流離蕗大、
河口悪海氏、高野山火種︵最近到着︶にデリゲ版あり、
によつて校令された一大わり。同氏より端折む
うけて珍戯Lてをろ。
﹁内戚大政押紙‖録緑韮に就てLり巾に成漆囲文
︵〓︶=れについて守木先生が仲秋虹隼琴二鋸弟六淑
の日録り=亨しか紀され光かつ㍗弗、石河純太
大谷大卒に北新版ありて冬着の使用に扶大いに便宜を
柑して来た。早くこの貨戒を問いて光凧を蒙りたいも
郎氏ほ﹁満洲叛⋮諦大祓押考L︵鞘物の趣味第一脚︶
に於て大谷大枠の躍叔輌郡ほ共l二蔵沌桐文の
日銀丈り梢でわろどいほれ㍗が、禦はさうで布
く0
い、囲措⋮典でわろ=寸﹂む︰ゝに明かl二・してお
例へば耶十四懸り下に聖椚除一切疾病二捕陀羅
尼ごわろlェ同名の陀錘尼紺が二捕わろのわ略標
︵蒜︶
︵三︶
河口錬及び前川ラルー女史の論文によろ。
寺本兜批、徳格版.甘殊日銀鹿本lこよろ。
る○
Lたのだから二郡ミ削ふべきでわる如きによ
︵三︶
のである。
同文紺哲準大師苔迫加五〓九封以下
同風祥ナルタン版甘殊敵日銀墜一、三文
駐 ︵こ
︵ニ︶
ベリオ等l二よつて
㍗寸−へばJOロヨ巳6.P︷iqG∼︼謂可p・p●ほ声−真芯
︵三︶
︵川︶
少︻.ト巳0ロ︰ドP づe乱On tigt臥ロe d一−カP言P打聖P
を彦珊ぜよ。叉河口錦ご封澗ぜよ。
Ti訂tPロT巳認序文p・邑
司pdde−−︰出u註F訂mどTi訂tp﹂芦
才已Pel−iOt、甥0−硯P 雪OpOM2dごロ邑巴つg宕
du M且弓・JOGヨ巳邑巴iq宕︸HT●コ1.
ペック錦序文
︵一缶=のホわ知られ化かつ.十弗にl牧焚良金氏の大聖
梢組成謂且無品㌍㍍虻︶中西絨本に就いて
J・R A・S﹂讐かワー一拍ふ汚
泥州の怯れtろ揮興研究米収餅肌軌氏が大正十
の所論に抑んご正袖わ失LてLよつ㍗。
一−M七
三咋に義和帝大のを邪紺L吏に梨坪内謄博士本
如来大蔵樫油日錬lこ就て
∫7
一円八
わつrLのか、裾逝の畔堺人旦に削除L十王ぁ
如来大蔵粍般lヨ錬に耽て
︵一六︶ ︰の乞P守PPの文字むつけ㍗IIりlユ他にLわろ
かたかにL招い。似・し手り乏Jい抑桧からいふ
︰れご川時にこ升殊肘り漢文‖蝕も混入Lて苅ひ
。
tかつtが†ヾ﹂克つてに祉らに追憶む恩ふのみ
︵二ニ︶
ミり川述鮎来ろ易介が踵∼てJりつ㍗。
ご、それらの両∴巨にナルクン城lェデリゲの澗版
が、=れlェ一切搭虹学的l二みろミ、他の紹墟ミ
相侠って︰の抑が洗招からり叩隔てわろこミむ
示Lてなる。
︵一七︶ 蔵文でほ⋮UO Sロ?−旨0唱で、大正絃抑に微へ
lで揮姓部ミ名づくべきLのでわろ。
︵一入︶ 邪際坪井ほわる人から﹁両級の阿瑚陀維に法難
締の申にこわろさうで†が・⋮⋮・
⋮い;
﹂⋮
ヾJ
ふ耶
み受けて笑つ㍗和がわろ。
︵一九︶ 食滞l‡ 巳pぎ■ヨ寸P三 に鳩り、賓聞は抽諮り
詣でぁろ。
︵云︶ 両親経では他に=の沃謂に骨⋮スTbのがわろ。如
雑犬繊細日銀でいへば郡十五筍の邦七十川救護
眺鬼嫡[1陀羅尼ミぁるものがそれでわろ。
︵三︶ 尤もこの外、北京版lこ揮論の踵々に、押通より
は小さい文字で限られ㍗場趨へつめ=んで輩い
tらLい戚、或lェ反封lこ行の問にこ虎々甘て文字
のわつ㍗のが抹消ぜられゎらLく空自む存Lて
かる部分光ビわろが、それらほ政利裁からLて
∴
﹃李
朝
俳
数b
を
讃
む
印
綬
雄
ふ計郭である。従って沸教に服してはなほ以前の時代
を越.へるものが和刊せられるわけであるが、此の﹃李
最近新城帝観大挙教授南棟サ博士が﹃朝鮮の思想史 朝沸教﹄だけでも椚に堂々一千頁を出える大部なもの
近畔彿欲火の那究は世非を通じて却々焔んであり.
は新に吾人‖本の堺祉に向つて輿へられたる一大研究 である。
の封象L︵序二頁︶であるといふ何食の下に﹃朝鮮思想
損があり、支那の彿教に就いても亦好著必ずしも乏し
史大系﹄を刊行せられることになり、非の第一冊とし 殊に印度の沸教に就いては内外挙者の多くの丸派な業
て﹃李朝彿教kを‖版せられた。
くないが.‖木の㈱故に㈱する限り、未だ殆ど折った
﹃朝鮮億劫史大系﹄は博士によれば、一、朝鮮の郁拳、
併し削った著
結果は現はれてゎないと言ってよい
ー
二、弼鮮の沸教、三∵朝鮮特有の宗教の三部に分れ.
沈んや朝鮮の彿教に於ては何
述の川ないことは必ずしも其の挙糊の瑞んでないとい
ー
更に非の小.朝鮮の捕琳は新締高朋の郁撃と李朝李過
疎までの併撃と及び李過浮以後の描瑳との三葡に分れ ふことはならないが
一己九
ある。斯かる際に突如、牛島より博士にょつて朝鮮彿
籾郎の彿教は三刷新排高腰彿教と李朝沸教との二葡に 吏で、俳かに李硝利氏の榊鮮俳教池奴等が有るのみで
分れて.爾今稿を東えに従って逐次制脚に附するとい
﹃李朝俳敬一を組む
J〝
﹁窄棚彿軟♭を稚む
一五〇
とは正lこ・﹁朝鮮韓虹界にl区つて、又彿教史拳界に取っ
ったものが、全く同家より教化の柿を奪はれ、摘腰の
ては此の団の文化の摂砥となり、閉民の指導折坪せあ
敢火の斯くの女‖き火なる好繋が帝表せられたといふこの彿教は、なかんづく、非の代表的なものである。甘
て一大舘東と一大枇祥とでなければならない。
﹃何故に卒明々廷は棟数わ教化撒を斬へるか。而して
明沸教の如是抑である。
一昭瑚鮮の欄数揉内地より二百隼も早く樽はつて上 侮婦と耶追とを被った奇作なる歴史の跡を示すのが李
下千五H隼の胚史︵三間畔代二百年新擢時代三河年、
高庖畔代五百年、李朝畔代五百年︶を持ってはぉるが、
何な
故に何社は之に反抗せざりしか。非の経過は如何な
博士も予︰はれる如く、﹁数理華運史として住内容蛋疎
心する何人もが舛しく知らんとすろ肝のものである。
ろむ免れすと挑も、瞞りて之を具備仙宗教吐として蹴 りしか。宍序三貞︶之は欄鮮の沸教に、欄鮮の脛史に閥
るときは他に比類たき帰路を有す矢作二頁︶るのであ
る。飢ち朝鮮の㈱教は胡酢の支那に附する自然的文化 是等の疑問に射して詳細なろ答帥を典へんとするが本
的楓係にも依るであらうが、教傘の再版に於ては支那 音ある併以である。然し木澤の取扱へるが如き確聞の
仰故に於ける準些十ハム〓の組織もなく、‖本体故に於那
け究は決して一朝一夕に成し得るものではない。之は
る異音押土の大成も見られない。従って之が猫創的茸 雄に博士の如く雅鮮二十倹年、大川の苗閤に玲非命溝
料を捏供するといふ柿顆のものではないが、粥し一の を博捜し、巷刷の邦底に断簡零抱む渉猟し.民川の型
脊の容易に規ふ御ざる﹃東胡択錬﹄の如き甘府の錨郡
文化現数としての小爪敢、民放融宙の柑釧的革班として
の小ポ敢の城東降件の締めて鮮やかた銃として之む見る
む白山に肺き得、∬は朝鮮に舶すろ坪右文化科挙例へ
時には、五導に類柑なる彿数刊持と餅新なる郡的興味 ば胡餅の史拳、文隼殊に嬬邸、宗教、址付及び語畢等
とを悲き超さしめるであらう。斯かる忠味に於て李朝 に封して油唆せられると共に、銀揮たる史恨と紙鼎あ 即
㌧U抹配し′−む←l・lてすろに非ざれば.到腫になし鄭き葉で
三川とせられた二L﹂は専用棚放り性情上楯山て筍常な
あり烏。斯くてものせられた︰ん本邦は現れ他の何人のカ
道法である.
相初の彿放
欄致、川、囲初十∵り世相に坐ろ名冊、丘、成︰小用の僧
∵太爪と彿教∵∵太ハ・パ及世︰で′一雄放、三、泄融と
第一福
て、ポのみの揖〓を準げろたらば.
端とも用烈㌦ござる新附仙九でみ∴♪いふも決して過言 †本論の内容た机ふ偶に、符や北ハの紬〓旺ヱた省い
ヤはあろ空いJ
〓
本邦の結構は朝鮮日直烈火大系祁一.・−︰む悍頂に摘げ、次
佑∴銅
李朝彿敢第∴則
で李朝彿致序説を述べ、本論に入るや、ウしを二︰鮎に攻
分.∴、浩頼わ上陸しし彿敢
け、最後に四つの論文より成る俺諏を附加してある.
川、明の
丘、
⋮−
−パ
什よ
り明・
にノ
︰︰ノ
∴ろ
∵へ
ハ.パ
榊泥攻
ハ
肘
ヽ
l右■
′、
博士が李朝の彿軌の分銅む囲石衣の放牧のカ而や、パパ
一.珊ハ州∬の放牧∵∵準榊の何科、二∵小︰パの仰攻、
u〓及げ悼描の上からせすに、..余の述べんL√・すろ尤︰瑚伸
叱.︰.十、、.仁の析、仁一、
敬扶※として空欄に於けろ敢法螺封の迎を尋ぬリリに在西山大輔休静、十.両川扶机、八、浮休及北︰再嗣は、
れば、之を∵期に分つ∴﹁け烏∴八〓.︶L′lて、伸敦なほ
;㍑畔の㍑持し.痛敦、
㌧∵州仙敢折∵期
︰僅†門.∴、描〓派︰一■、椚根〓
派、明、光小山
■
第二.編
川或公認︰パ放でぁつた囲初より成︰バネネを第一期王骨
し⋮畔の拾侶の牛一〓.卜
胱に公認︰パ放ではないが、敢法相菓へす、名仰木郡〓
した燕川弟よII仁州丈でむ第∴叫L∴し、敦勢やく滋へ、
′−−−−−/
l
ヽ■
よりれ︰右にや∴m攻、丘、骨⋮畔のm≠の状況∴ハ、発
のにたり、け
●
励行閏絨制度損J∴ハ拝し′、畔柁せられ、
1
..、.
、. ⋮√.∵し、〓〃︰、左舶再畔の批.
判 八、直ハ小〓の僧
正一
吉品川ありて.帥江▼り上圧J、たったい∴車〓穐巨大圭︰山を第
完⋮朝棚状h毎誹し
つJ
﹁李朝彿秋山を誰む
一五二
等二三の王を除く外、殆ど猥井者であつたことである。
攻、九、経机以後の冊侶の状態、十、阻宗臨祈宗の宗 して乾せられる興味ある邦楽は贋代の靭妊が太宗粛宗
論、十一、最近朝鮮彿教の柵況、
畔に一進一退の起伏があり、殊に仰が最後宵のい彿はか
されば李朝破俳の政治も前後一Hするものではなく、
一、李胡に於ける奇利土田の班遷∵∵李朝附織の強
なり狙いものであつた。叩士は﹃恐らく朝鮮沸教は婦
姉川鍼 李朝沸教像政
運、三∵朝鮮僧侶の受戒、川、朝鮮音別の研究、
来女㍍従を通じて一般離骨に弘布せらる1たらん。﹄
彿教が隆盛の擁、胱氾寺や彿串、叉寺領の祥附の馬に
︵八五貞︶と言ってわられる。
である。
以上を孤覚するに、李朝沸教は要するに備考の執拗
なる斥彿と之に動かさる1王者の沸教禁歴の政治の連
鎖開展に外ならないと言ってもょい。奇利の盛衰、教 闊家の牧故に彰堺を輿へたことは奈良胡の脈史に於て
儲臣の進言になる脈代の破沸も一は‡剃肝右の土田を
派の巌合、人批の活糀も竹之が偶に起ったのである。 も見られる併であるが、朝鮮に於ても亦此の耶あり、
彿教は何故斯の如く排斥され.肘侶は何故斯程までに
泊帯されねばならなかつたか。博士は之が閉山む高麗 削減又は況牧せんが偶に川で︵一〇一員九九二頁等︶
の彿弊に求められる。﹃何例の遣行の椚落と政邪の郡椚又不批兼的闘通人と見伽さる1冊従を工柁に位相せ
と良民が租我を逃れる篤の‖家と寺院緩衝の焉の観土 んが娼に‖でた︵二七七貞等︶と見ることが〓来る。
の濫費と寺靡の膨脹とがそれである。然し其辞の沸教 何官椋ヤ南淡暗級の寺肘搾取に刺粧せられて専有財産
自身の側にある原因よりもまして力強き破彿の魔手は や伊根の私有財禿の稀々なる制度の蓬を見た。博士
価掌殊に朱子傘の職人勃興と串大恩却に好み一身の安 は之に就いて柁の制度を述べられてわる。︵九一一
事と串とせる筋臣の妄動にあつた。其故に本音を強請 責︶仲秋には同和廠−合併稽の外、担架、‡生硬−
ββ
成道鏡、浬粥楔、七巌楔、山新搾等がある。日韓合併
軒先に於て従来の疑鮎が間明せられたものが非常忙多
である。此の西山大師浦蹴は併し単なる尋常の一武男
本領を逸したるものとはいへ、李朝史に束を吐くもの
王義柑妻Ⅲし.‡辰の大役に功を建てた如きは彿徒の
深山を修築し一成は付兵として西山大師門下多くの勤
付従が土木工郡に従って現在京城郊外に球ゆる南北
鯉に敦へられたことである。︵序一七貞等︶仰侶を非常
とである。文相士に御示教を乞ひたいことは肘侶を八
呼付法の嗣とし、一〇一〇頁には正しく法統とせるこ
興寺である。叉金渾の弟子大隊胡肝を山ハ六C真には連
辞南道野城那としてわるが、之は座付繭道河水郡の紳
巌が七而の門徒に誰接し、柏布が示適せる甜典寺と告
い。只狙いて臼玉の後蝦む求むるならば、二三の
伶に非す。其の人物、邸閃、文革叉び河風共に健れ、
忙種侮はしたが、従来の躯押、自丁等の七賊の上に加
の際.此の楔が専有に放せられたのは之が教建と阻止
門徒亜にして今‖朝鮮附祉の大牢は師の法擦に屈し.
へたといふ撮は何もないようであるが、如何であら
と文字の誤りとが捕摘されることである。例へば、効
李朝肘史上最も硫安なる使道を占むる人である。博士
シか。由有名な付の苦節を貌ぐる碧‖菜並び畢げら
中経せしめることになつた。
叉締成及び其の門派につき首数十貞の記述を脱されて
るべきもの1悦那したものもあるように見受けられる。
二瓦三
職後に借越ながら博士の寛厚に訴へて本邦全鰹忙通
三
のではない。
併し斯くの如きは決して泰の個他を左右する程のも
わる。
以上水苔と通じて一挙胡沸教の全般に舶する那究が
殆ど澄なく吾人の桐前鱒屁開されてゐる。それは決
して博士が謙遜せられる如く司聯か満に革莱と描き横
井を代り以て前陥の役に任﹄ぜしのみ忙JI二士らず、大
柿を油じ、土木を起したものであると思ふ。本番の新
完ナ朝償敢bを稚む
23
∵十州仰し存.〃、1
すろ特色他車十.もいふべ・汀L∴”い一︰↓l′りならば、
・
雉L放丹的・〃川も彿射〃与〓︰弥に非ざテ∵bよく走徹せ
.11
敬に糾すろ枠右史Hむ糾推し∵わろノ就中各町代に於
ろ記運たたし.敢行火力州も依人J■ケん硯Ⅳを‖て、ル
にも運べたように印度支那〓木の佃真に闘すりり仲究は
け∴〓〓の畑⋮⋮状はほ︰Mも揮十∴∵汁悲した肝のように
第︰は彿敢史に附する新刊論わ捏供でめりbJ既に前
㌧.
多かれ少小か‖てわろが、硯酔い棉故に就いて圧れど
るL′豆言ことが〓須乙、il㌧は桔苦い圧棉数の申に桔沸
圧史√∵∵
水井︰ひ先射であろり、而も水車︰托李明代鉦の出汁一加∵
幹.
混の
論囚
才は
ハ十
樟に
し榊
J†
L∴
西方射光であ
料を尤分に利用し.又文献Jl外山頼大の材料㌃−M便し
⋮心州心む掠証し、或は諺宍小混山中に沸教の㍊畔を尋ね.
㍍慢托︿I紹の仰敢史の糾明九に必ず小丁照せらるべきもの
荘に椚細北恒お肝油L√∴り旧稀㌢招∵りれる。斯の如き
て仲秋の仝く新しい習識た捉供してわ㌫.
部∴巨仲秋史粧究方法への︰バl史であ・る∴右敢史む廟
究すろ場合、幣通、数理・史と敬や史しLに分け、前
で・㌧〃りり。
トゲJンナシヒ′.■ベル ヘンイシ仁r
澤を正エバ敢の敬排の猪遇、準辻を射光すろものとし一
用酢椰寂の裏撤な佃呪し、侶桝山無気力を浩嘆し、取
け.り∵l﹂伴豪的鼓舞的拙︰ぃであり烏,十小出︰は余仲山到る巌、
椰放火上しては是隼を帰分せすに、数理の冤建と守則
って‖て現代振興の糀昆に際脅せ㌫用酢彿敬祉の搾豪
花芥を敬川の人叫声件を研究するもの上してわ︰りが、
の史Hとを相即させて押黙たる一の文化史上して見て
ぉるものが多いJ県叫るに本邦の方法は非の研究附象の
合があつても、据ゎ両持骨⋮両する稲川にのみ闘拍して
く数理史の二両に槻・汀.上し数回の史Hに拗諏すろ場
云々㌧′八八五い︶といひ.〓彼の三相論の‡餅なー0を
述べて、﹁井村を増車として宮守掃と小心めたろかホ明たり
たトニ射てわ㍍り例へに∵・†∵不〓〃過労たえことを
ては、畔には購父の如く.時には慈父り如く、一拍語
わくべ洋一であろた⋮心ふ。然るに従来の彿欲火附究は多 に草し、鼓舞激励の材とJは︰bべき火Hを述ぶるに骨⋮り
作愕にも依るが、数理火と敢曾史とを頼めて通告に合
βJ
﹃〓本の甜肘−忙して止せしむれば、他の醜.爛特藤と
たさん﹂︵八川七頁︶といひ、又寺刹が郡守等より財物
供櫓武‖範之利付とを鳥眞と挿入して評楯せしものも
亦此の藍に〓づるであらう。
隼中川晰なく土光大宮史の課求捌専に泣きしなりり﹄
ものに止別々として三明を整じ得ないものがある。又
外題なり∼文雄⋮借むJ二lて邦かれてわる。殊に人を付する
労役を求来せらるゝを叙ペて﹂り斯の如くなれば串︰り刹第
は川に文輩の上兼なることである。水火=は持に貼狐
︵八正人貞︶と。又﹃朝鮮の肘mは太H利桐が臨折の法
井恨名む桃川したことが∵扶律帯わ如きぎごちなさを
川還しめないこともないが一婦文の貼狙胱む〓してゐ
服を継げると酔旧⋮研一む−iが火慈抑仙−−iに私淑したるとにょ
り、往々捕縛∴パをあげて其他の甜準星11乏する師円あ
のみ。り下﹁.八川C貞︶L′一か何侶の粥城に人い小こと・︶忙∬︺己れ
ど.ヒリサド、コンマ、﹂〓ンまでの描絨た感じが‖
班別であらう。叉木北︰の旬満都の切り方正視特のもの
り。米銀怠れるは洞山の五化瑚む誹めば直に加ぇべき る。隼鳥人に説史し狛る需には隼椙名よりは片桐名が
しむ叙ペては.﹃境迎l山脈辿堆くに構へたり︺今椎彿法
で−意眈わ明瞭を晒すこししか多いリヱは用語旬晶拭に
れた川北も右り斯い。印刷圧や∼鮮明を飯く場合もあ
一つの輿水を山へへるものでホリリリ怨来に嘉引む附せら
︼
の蜂須はいに繁りて他称侶祉の躍追加何にあり。†は
朝鮮
わ彿に
ろ㌧
な.
り九
︵︰八
奴多
賂の
兼㌍
大を
壷く
揺昔
日ハ︶とか∵基山桁仙人城酢禁の串を成就し、李朝桐故
終りに斯の如き大北を常に問はれた博士の労を感謝
に︰峠期を刺せる〓通㌫桐侶佐野前拗帖た朝鮮彿放と るが、製油虹摘めて高雅なものであり㌔
竹洞丹ヤ′一む紙人=せしめんL﹂し、戎・昼埋れり朝鮮沸教小
からんこL′一む研会しっ∼叩を描く。
一五五
火教務院の制艇糾純を舶んで、朝鮮梯毅亜興のカ帖を し∵問陸組として拍刊が川で、本人糸の完成の‖の早
︵吏め、托圧伊預統監の腑根に参じ、一遇曾の帥机とな
り、李容九等む説いて合邦の串む捉旧せしめ椚洞︰パの
﹁*用仰叡h小鮒む
ク.う
最近の囲−心耕究l二拭い/し
久㍊会すべきものであろり
一五六
隆
誠
いて登用した結北は、聯‖=法に於ろ一大業紺として永
ホール二一滑が#咋を小心として小爪歓心囲菟の状態につ
業梢を収めた扶に⋮心はれる。殊にスクーパノク、コー、
最近り同心研究に就いて
∴
小爪敬の心理的研究に於・∵〃J仏でわり.≠つアメリ
カに於て※たる研究班し.吉/ノてわ㌫機関法は一九〇〇
葦問に射する正しき椎敢︰む得るの榔、雛茶に附する正
烈しこの襟川法による心理的研究には種々の雅加、
云ふ研究も肇張せられてわない状㍍である1J我国に於
粧な内省を施すの雉称があり、従って統計を以って示
年前緩む境としてい持溝渠此〓げ、こ1三十年川これと
ても郎一協竹鍼の﹁靴代昔年の㌫放心﹂以外にこのカ而
ので、この即究法は骨⋮初から一力法とは云ひ乍ら、戌
された結北に封†る触感が醜されると云ふ串になる
云ふ迄もなくこの襟川法による研究はスタンレー・
翫迄聞出にされてわた串止.ジ∴−ムスのこり方法に
の研究は前週せられてわる相手である。
ホールの提唱に始ったのでぁるが、これに招いてスタ
附する不い什を始めとし、心理隼淋む異に↓■るストラ
︵一︶
ーバソク、ジェームス、リ∴−バ、ランカスター、ダニ
トンの∴﹂︰によつても狂する継が日米るのであろ。
此等の排鮎がこの研究法の聯眠た阻止したのであら
ハ.、︶
エル、コ一等の講読現れ一八八C咋よI︶一九〇川年に
至る約二十五年榊は服用法に十ご㍍心理的研究は和浩の
都
≠尤咋血この種の研究には何等兄乙べきものが上圧いの
うか、一九〇川咋ホール教授の欄遇む最後L√一してこ1
署肴クラーク戊がこの郡忙石〓し川心の語を川ひす、
謂に於ては著しき鳩化をぺけてゐるのであるり従って
托に対する那先に﹂︰り、一概に川心L′去ってもその意 冴
二二︶
である。而るに≠五隼む距てゝ昨年新教メソヂスト救
﹁︰ポ故紙醒﹂としたのは.本邦の統計に現れたる結と
果
は云へ、梅めて<=理的であるとm小ふのである。
命に屑するクラーク比∴扁ざ彗T.C打・k︶がスターバッ
ク・コ一等の研究法に上り篭冊法セ‖て現代昔年の小爪
も泄外人鞘を閲し肛外‖仙洞の著しく攣化した†〓、こ
は.市岡扶に附すろ雅凱む十分に㍊むるにしても、荷
た、ごTざワリ■与0言り○−、㌘﹂山号u㌦レゴ.=汀昌言=の一部
且つ従来宗教心理隼に於て扶此等の両里中‡として情
は突奇的M心・漸次的回心の二を鵜げる塞が川東る。
綿々の型式が見ら・れるので、その兆型的なものとして
られた雄⋮であるが.この︰パ放心糊聯の状懸についても
通常回心と云へげ小爪欲心闘潜の状悪について命名せ
れに伴ふ#年宗教心の樋化動揺の状闇を察知する葦料
的突革的回心を研究の附放として米たので、漸次的回
敢経験を問ひ、その折某を精密な統計衣む〓て試され
としてその償旭大なるものがある。
心は蔑分前週せられてわた朕闇である。特にジェーム
勿論水井は現代穴‖隼の﹁宗教覚醒の心理L的研究であ
行はる1この突礫の紹験を特に飛州したのである。勿
次的回心の例も関所に見られるが、潜在忠誠忙ょつて
スの如きは載ら楠的突尊的回心を取扱ひ、忠志的な漸
り、膵純的な言張む〓てすれげ川心?ヨeAつコの研究
論此突蔑的経験の純要刷せられた排〓はキり︰トス教徒
〓
でぁる。従来丹ポ敢柁佃と.バへげ、専ら川心と椚せられ、
の人仏経験が令抽せられた偶であ▲るが、この経験に対
︵M︶
殊にキリスト教新教に於て推果せられた紺埴である。
一五七
然るに宗放心理肇の描減、これに作ふ付少隼の再︰右敦情 してほ夙に反射の群が叔たれ、スターパ′ク帰航漸何
前沢の円心附先に就いく
一∬入
口の粍愉の埴げられる以上、兆してホールの云ふが如
=M祉の川心研究lニ就い一\
れの⋮杵臓に上ろも小爪放心川碓が同一の結共に即する併
を得ないのである。
き現象にM心を限るべきものなりや甚だ疑出とせざる
から情的突叢的回心が必ずしも回心の決定力に非すと
、
云ひ、コーの如きは川心に川抑の意訳を雛げ、急激の
、し、ノ って反射し、又ブラソト教授が急激なM心とは紳隼の
ら論議せらるる串となつたので、特に#年別の宗教発
相が見られるので、又回心に附する意義も此等の動か
従って回心と云ってもその推験の内容から幾多の様
影彿又は暗ホに由るものであり、急激的な回心の十中
酵と⋮叫に阿心の語を以て説明すろを得ざるは莱者クラ
回心の如きは㌫数机活に入る一偶の門に過ぎないと云
八九は敢曾紳準教授を受けたものに限るとして温和型
ーク氏の力説してやまぬ併であるっ
雄って本署肴クラーク氏も前述するが如く昔年桝に
三
の漸次的な回心を配したのは、何れも突菟怨敵の回心
に附する不桁仰の純左である。
然るに一方この怨敵、漸次何れの形式も聴措して鋪
評評に於︰b回心の語法を以て同心の名耶を輿へんとす
於る㌫放心問焚の状態む回心とせす小机敬姥椎と云ふ語
決定的兇酢
るものがある。例へばホールは回心とは﹁人損が〓己
︵一︶
情的刺蛇穂酢
を川ひ、この紹験を以下の三種型に分って現代青年の
ゐるが、これについては回心現象が昔年期の婆建と川
︵二︶
漸次的兜酢
中心‡端から酎他的礎既に轍向する畔、何人も経験す
一糾せられ、叉これと同調に川ひられる串や、引いて
︵三︶
宗教拙醐巾着豆めやうとしてゐる。
回心現象に㌫軟性が認められない郡となる結共、更に
この中郡一は前適する突発的碓椎餌ち回心である。 部
る﹁自然的な仲通的な又必然的過租である﹂と耶して
悪政仙川心の典型的なものとしてオーガスナンやパウ
第二の情的刺胱兇酢は動もすれば回心と混同せらる1
花する状態であるが、その典型的なものに掟ヘールの
上越する三種の兇醐型はクラーク氏が現れ米脚に於
経験であ・るが、此申に於ては回心の如く構的興奮によ㌫教控除が聴げられやう。
って仏様的に経験者の悪疫が直に決定されると云ふ串
したものであるが一面らば此竺諒の兇酢椚式中現代
ほない、一甥∵︰すれば、たゞ一川にて兜醜せしめられろ
る大隼批・守門堺校批班女二一閃七人の報偉から分新
様な情的典粥状ばば著しく減ぜられ.或肴に於ては此
状態が全然映如する串もあえのである。寧ろ此狙の鮮 穴‖隼り女は如何たり小楯向吏ホしてわるであらうか?鱈
駆常に〓己の丹ポ数的意誠の喚起せしめられた契機を、に本非は此問に附する答へ草加したもの1如く考へら
前適した如く山水麗輌法には綿々の郷鮎が甲げられ
四
堤酢にがらしめろ併の刺蛇としてこれを見越してわく れろのである。
のであるJ従って此柿の僅榔はその不断に哲理して行
か.面も折にふれて情的に刺胱を受け微弱ながら‖己
るが、その小にも囁州法技あろ︰端数教派に屈するもの
く何から、第三の晰次的兇酢と梯めて似たものがある
のハ加数的意識・悪疫を刻んで行く上から、nら漸次■的
云ふ維新を有するのであるが、忌仰なく云へばクラー
穂酢と瞬別されるべきものである。従米川心として敷 に附してのみ輩問せられ、兢く州=適的にわはれないと
へられてゐネ綬験の小にも、此椚の経験がそのま1回
兼ないのであろ︶何故ならば氏も川じくキリスト教新
心として朝舘せられてゐる串は謹む加の‖来ない邦把 ク氏の草間法もこれと川一の批鮎から兎かる1革が〓
である二
第三の漸次帆傲酢は云ふ盗もなく∴ホ歓心が水の絞 教祉にのみ葦問した結某む統計にして衣してわるから
ろゝが如︿、何等の時平も受けす晰次に高潮し先に用 である。然し氏がメソヂスト数行の訳穐たる以上この
品近の回心研究に就いて
βク
位近の回心研究lこ続いて
射止むなき肝であらうと川心ふ。
視てクラーク氏が黎閲した男女隼症二一周七人︵班
七尤川人、女一川二C人︶について宗教心開幕の状態を
二〓凹七
■
.リd‖■
一穴〇
hリ
三四・七
二七・二
五四・〇
三〇・七
六六二
漸次的型式
三二・六
決㍑的型式桐捌封
∴ハ・
三冊∵六
一三由
五三・〇
四九三
三∵0三凹・〇
一一正・四
四二三
二γご1−.初
人
一三〇
二三四
化一七︰ハ
家裏.1−於る
的
漸型
次式
的型式
日用畢校lニ
力
七三・一
五五∴ニ
ー九∴ハ
一七・七∴七・〇
一
七・二
五七四
五七一
二八〇
者
人
七七・四
職
倉
牧職者の子
弟
祁
一八・川
敬
欠亡ぜる老
佃的刺軸
六六・一
川欠不定の
詣
宗教々再の
決定的型式
二七二一
七一・〇
以上の三型に分けた統計表−箪見ると次の如くである。
取
六・七
二人ハ・五
二〓四七
二・五
地
女一四二〇
五七・七
一四・六
二七・七
男 七三六
即ち第一形式の急激的免醜・回心が著しく減少し、
第二・第三の組駿が著しく檜大してゐる事が見られる
のである。
肝で従来キリスト教に於て推提されて来たこの第一
の粍験・同心が何故か1る少数忙減少したのであらう
に比し祁曾人の経験の仙何れの損合に於ても、回心捏
この統計に兄らる1が如く二一閃七人の基本統計傘
ト教の紳隼の影搾∴・聖教々育、口嘱埜校の感化による
験の率の高い串が見られるり従ってこの結葉は紳輩の
か?クラーク比はこの原因む研究せんが馬に、キリス
許の経験・更に湘脅人・地力人・教職者俳にその子弟の
経験を聞ひ、同じく此を統計表に示してわるが、今以
者の他、現代の北‖咋扶従来の川心な維臓しないと云ふ
影研や‖嘱望柁乃至末庭に於︰たパ数々“口の軌亡に関る
・/
上二一川七人の統計と比較して尉衣に示すと
30
革になるので、併調急政的阿心はこの統計によつて根
本的に現されたものと考へられるのである。
佃二百すべき串は、二一糊七人の宗教心開襟の年齢
であるが、従来の研究によれば、決定的覚醒の牢均年
︵八︶
齢は男女とも十五歳、回心の平均隼齢は男十六斑女十
回避とし∵此雨期輌が宗教心開幕の平均年齢とせられ
てわた。然るに本音の統計によれば宗教心閲登の平均
年齢は十歳より十二歳迄の期間となカ、若し少年が過
宜の環境ににかれ順調に戟葦すれば、十二才には完全
に兜推するものとなつてゐる。従ってこ土二十年の榊
には宗教心開扉の年齢が約三年間早められた結黒革ホ
爵近の同心研究に就いて
口許︸ヮeP籍、p・T・
︵ニ︶ mtTPtl呂−G.リーこPけ︸旨○︼Og﹃0、the出訂︼i軋○伝
0リト
荘 ︵こ J5歩ノ一.・ワiロC乞灰︵−〓茸註旨篭=C︼●Pワ
らない。
来の統計よりも幾分過れてゐる串を注意しなければな
してゐる。但し決定的発醒の年齢は十八裁とな少.従
ヽ
憎苛C訂︼Og叫a乙
A三才cpC︼つ顎−S扇
;︶−Hヒ︼︸G・笹A㌢︼籍2ごCつーHIs
H−肌冒ど㌻=○買siO︼○顎︶
︹ri己ご.P青山g︶P已E旨c註〇P
JヒーJきノノ.・T訂ノ1≒i仁r沃Cら叫㌢ljgi≡sHMp3.・
︵・宍e・竃−〇C一︰︶望S・
CO勺︶The済りっ訂lO明Ⅵ○↓㌘茸iO−こPnき卦P
pp,−芦
︵五︶
︸Eigi01−れC呂邑○ご讐e歩
AdC︼篤昌Ce二〇︼−卑−p.∽芦
一六一
光子してスクーパツクの統計
︸i︰きG・p
−ひ︷.
ヮ︰きT訂
︵∧︶
︵竜︶
︵六︶
︵⋮︶
3J
栗岡派︰パ放心叩隼の稲井
冒l客壷
]茸与号苧
米国振宗教心理軍の清算
C︼・つll︰Rec3t
︼つ崇・
谷
一六二
文
雄
来川︰競芯理隼派が最近の三分の一世紀川に於て成
‖隼はその限外を忘却して住むらぬか。科嬢は存在 †法の捕批判と、その成火の清算とであらう。
の全域たおほふ香椎を右するであらうか。碑志するに
科堪とは、客岨世非ことに無機物の世界を支配すべき
即知の荷物ではないか。栴ユ﹂‖すれば、襟川の要求にし
上得たる折先の拓北ほ、まことに〓兜しきものとユ∴=は
りて弛れたろ小浦の道北ではないか。そして科塑的説 ねばならぬ。併しまた、この≠れ汁■科隼が甘受せねばな
ざるべしと⋮心はれろ。
明と補するものは、存在む如賢に説明することではな ら揖非経と、l要求せらるべき反省とは、決して砂から
くて∵云托ゞ、直摘蛙醸軒享の申のihる吊其嘉を無硯す
ろことにょりて閃技経験のすがたにかへ、作付ハ的差別 彼等は、心理隼に於て水明仙されたろ帰理にょりて、
を介八北的攣化に師弟せしめて、それセ数珠血に分量的㍑々たる㌫敢的瑚免む検討せんことむ※張とする。而
せば、今〓の科隼の暴慢とも耶すべき摘⋮度とm心ひ合せ
れせすと結論した。小爪故的機棚とは押放心理によりて
別の瑚象であつて、何ら宗教的にユニークなるものを
に計兢すろものに他たらぬのである。果してしかりと して彼等仕付ごとむ成就したか。回心とは損なろ#隼
て、骨⋮然に要求せらろべきものは.科隼におけろその
J2
なされたものなることが結論される。而してその宜凄
説明しうべきものであつて、リゲイプリストの析川手 この肇派の研究は、最も明瞭忙自然王義的尭場に於て 調
段は郁眠術仰のそれであることむ鵜ユ;=した。戌︰“また、
例へばこの堪漉ほ、㌫秋根清の諸現象の中でも、特
から常然薫れ凍る.へき特長と欠勤とがある。
諏明し、新宿とは即ち心理鉾上の地銀のカ法でぁると
に際光った、異常な、更には病的な現象に髄する研究
紳秘家とは即ちH巳催眠の術に長じたる㌫数人なりと
結言した。その手法や斬新、その成典や眩椰。併し彼
等もまた粥能の鍵を有ってをるわけではない。その成 に於ては、仰大なる成功を示してをる。そして、正常
典も約言すれば、宗教を駅なるよ拙論に蛇下したにす なる丹那教生清のそれに翻する説明には甚だ失望すべき
ぎぬとも言へる。その斬新と眩糀とに惑乱せすして、 ものが多い。これは含昧托き津恵む要する市坪である。
R已○肯F
して宗教意識なるものを明椛にし得たであらうかとい
研かにその手法と成典とを批判浦節することもまた今 また例へば、この邦雄にも舶通して、宗教心埋隼は英
‖の必要である。その必要を充さんとして
こ
明解にすれば、宗教的感情とその他の感情との性照的
意識下的に﹁帝﹂を〓志してわるようである。この斉を
ふで
疑問が存する。この疑糊に封して吾々は、恐らくは
H﹁3の冒31甲一⋮壇iOuS句苛C訂︼Og¶はものされたの
あ■る。
ウーレンの指摘するところを踪A=すれば、︵一︶
の宗教心理輩派の碓五し得たる最大の成共は教育的の 苑別の無祀に掛る不信任のかたちともなるだらうと思
この準派の収捜扶何ら舞踊的
一人ハ三
米朗宗教心理隼派華附の仰向照度にはいさ1か不遜
めてわないことは甚だ物止らない。
ものである。即ち料隼的小部数々昔に封して成就せる離ふ。ウーレンがこの趨の消息些明快なる論断の葦を進
揮的貢献であろ。︵二︶
僧他を有ってはわない。しかし肺水の小ポ教伯桝謹論忙
射しては、恐らく大なる影晒を奥へるであらう。︵三︶
米用派ハ吊れ心理畢の棉井
の領域を不省に榎略してをるように想はれる。この新
にすぎるの媚がある。そのあるものは進んで形而上撃
ぎた言ひかたではない。消耽読識などの術語は.たし
避錐併となつた。﹂ん∵リーレン咋∵=ふ。これは決して過
﹁㌫欲心理鉾にとつて.潜存意誠は度々心理挙的無竹の
一穴四
に就てウーレンが項目の一針が忘れなかったことは宜
かに、更に説明を要する説明語である。リーーバは猫
米膵派宗教心理学の締許
い。
相腰すべき何らの客親的存在を認めない。これは越経
って宗教意識の串釈を完全に説盲うる畔があつたとし
たとへ一少を謀って、堆朱n然的心理学的法則にょ
柳的に切言したことがある。﹁我々の心理熔的法則に服
である。この描桃に射しては反省が要求せらるべきで
ても、それが直ちに人間性前に超越的作間の存在する
彼竿は科隼的法則によりて宗教的現象を検討するが
ある。或はまた、最近の宗教心理埜の傾向は、票数恵
或は存在せざる詑明とはならぬ。宗教心坤邸派の常套
する椚識は小爪放心の粧紳的状謄を説明するに充分であ
識に瞞するあらゆる問魁を解き、㌫教批前のあらゆる
的論法−
故むもつて、その現象に闘する払自然的言及を全く無
瑚貌を説例し得べしとの澄を宥する。その意気は新
を糾す、ゆえに宗教は眞埋にあらすーーとれ性別かに
る。﹂と。これはいさ1かリェーバの錯放であらう。
興の科挙にふさはしい。しかも彼等の班べる丸場と方
コ○Ⅰ=ぷuilur
伯他なりと断じ、人糊の※靭的なる㌫数的精紳状思に
法より浩然貼るぺき制限の存することに注目を怠って
紹肌することも反節することもできぬ。その間剋は宗
例へば一昭示とか痛坪的とか潜布悲話など、彼等宗
法にょつて成就し、特に揮抑圧浦の現象を研究部‖と
教心理壁上の諭揖とはなり得ない。心理隼は辟験的方
である。宗教の眞鞘は自然料率にょつて
衷敦の眞理は心理単にょりて膵明すること
はなるまい。
教心理解次の常套用語を用ひることにょつて、宗教現
なす自然科挙。宗教心理撃は人肌意識の㌫数現象をl軽
封
象のあらゆる抑秘性が解かれたものとは思はれない。
軌的職位に就ては、宜しく托へをるべきである。彼等
伸餅や形而上隼の桝域む侵す葦梢はない。今や作興と
ではない。説明のm抽は押隼にわーる。㌫放心理隼には
錯を餅肌記述すろにあつて、その眞即を決定すること
は苑判!の問他に就ては、閃かに椚柚的来場に立つもの
道徳と丹ポ放との名にぉいて〓然料草の根外の認識を要
扱ふ一般心理撃の一分波。宗教拝験の邦雄に閲する客
である。
求すべき畔ほ兼てむ︰㌔罰し精神的串招が存加するな
らば心理雄はその什‖おいかんを嘩∵︰することに於て
之を要するに、心理隼の停止すべく、哲邸の日動す
べき限外に就て、最近の丹那放心理撃派はいさ1か服眩
全く無彗楕昔でれ︰㌔相投に︰パ敢現数の究耕的形而上
邦⋮を非することは鵬肺であり、また危除である。
隼的根底の存在に附して、小爪放心理隼があれこれと決
みしに仕あらすやと円心ふ。科鉾止自己の骨窃と方法と
に於て正師を失はぎりし限りに於て、人批に無敦の恩
灘を導き斬らすべき道を鮒装したのである。しかも舗
装したるにすぎぬ。宗教心排撃の什務は宗教意識の串
米用浜︰小欲心理摩り棉許
∂β
紹
介
の錦城が異太ろから上パ薫ん入れて叶咋し在りれl∫耽ら?、
告ものごり進化論り㍑湖心僧刷り成たに通弊し㍗もり。通階
ざ托低にこ甘皿〓ぜられてよい。
ごでほわろが、鉦今別佗机描に︰の血﹁誹な油川†ろミいふこ
tごろ。亡くlこ後者、呪術帥り塀に用度元郡Mで未聞人から
シャインや呪晰帥か、l︶漸次l二語掴Lrl,の与しくそり抽構わ
ツムも亦至高のカl二よつてハ止やりれ㍗Lのでに叱く来血人の
し■
て線描的互几痛L小†しt∵1のでわろが、.フりノ1・ステン
Of〓u∋aコ↓hOug悔
T、︷
ノ1.11享†、\\\−ヽ’′.ノl・t.︶ll・lヽノt一tl一\′l\l・ノl/ll
新 刊
BOaS︵Gきrgこ
↓he AdくeコtureS
冥e司Tぐr打︼汚り.
野草憾系のほかlニ、祈︰聖水そり人り什格光らぴl二在清が、
大き〃興味ミ役割寸1わ有†ろ三芯ふ考へカがわりうろ。そり
姓浦ごかを考へて且ろまいふ行きカでわる。︰り訳じ物li恐ら
うか。帥ち帯封憫系の傑姐以外lニ、押︰黙そりLのの性格ミか
㌣企キリスト敬わカし・リノク化及び僧職の槌㈹を棉駿Lヤう
部分ほそりけにLいふ如く酵蒙的互トりでローヤから博林・し
象与して地ば、悪婿信仰、丹端歌隈叩わわけろ。乗らに琉彼の
ト釈僧職.批申法王削小県扱ぃ、文化わ阻止†ろその折件現
考へカほ暫畢此全開乃至は思想史企昭に應川され郡毎いだら 古代の文化囲艮に至ろヘドニズムハパ故を級ひ、次lニほキu′ス
,∼それにむいぢへカから〓敬Lて、斬=隼史り問に倍ぜられろ
Reニg石コ・
寸し†ろ。ミもわれそり弟服が斬ら・しく、宗類別咋批判の一軍
問臨む、外怖式lニうづめよう寸ユ﹁ろー・ゅでわろ。りつら・しい
典でわろ。︵石津︶
aコd
ロa
P﹁訂steき≡一のu
コw
dsOコ∴︹ぎ耳︶︼至・︶
C㌻rleエ
武みの哲畢史ミいえ・ハ∴ ・㌔︵棉谷︶
ロarwぎ︵R呂dCli︶h
ロ訂mコtW首k一uコgdes
d¢﹁、、P﹁訂sterre訂heOderScha∃a⊃eコP
.rOgreSS
口・ipN辱︼書P
︼六七
桝胡未聞野顧わ祉が課・しく開化・し弼少Lてゐそ言を知らL
振隼弟の聞lニ﹁文化﹂り尺朕伊的検討が進や・︸れて伴澗的に
ほ鯨りにL唯物論的仰向ヘビ遮り†ざてゐろ。最近英米り民
舅●↓・、−∽3・
Wuコdeユ警er uコd CO諾ヨeコのCheコ a訂
ダrウインり進化論が描椚さー・Lて=のカ、和代り紋付心潮
BeherrscTer der We戸
凡ての咤−勿、人閃は頓n然の賎能lニよつて刷られろLので
介
ほ克く、茄下胱り里憶から苅黒、漸次−ニ敬鱒り細過か㍗ごつ
新 刊 椚
新 刊 紹
介
め′\んろりほ人いlこ汗〓†.へ・うてわろ。文化虹わ講じて鉦什
隼l二L損誹沌からn署東予ウソンーユ肌く人類山頂の鉦曾虹拾
一六八
拾的りLめ元から︰り川︰り惜肌が弘lニ〃†ろ。︵M︶
l二いいてぃパ招いH守一ん糾仙た股捌む箱脱†べさ=ミむ力湖L
ロ≡﹂一〇コt.︵憎︶E・︶
一■
Cul︷e<edT
﹁.A仰くaヨed訂−DescコP岩コduSac﹁罰ce
Cニeくa一dOコS一e
SO訂ココe一du
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ト常に吠陀畔代り一人㍍式仁一り仙洞、帥11蟻眈寸しLて損な
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てゐ一石。針frむM俗化↓、ろ︰、、㌧ほその鉦′けり沼カノ小机止ハ†ろ
㍗村里川小畑、︰の舶署ほ必†しL棚容れ布いLS一でほ互い︵よ
仁科隼ほ㍍薮l:代ろ=寸JLでさ兄い羊JJふのでわろ。︵ホⅣ︶
附けlこ従つて語・り・しわトろLりでわろ。︰几附膵ぜL一ヽ畏ヤジ
㌢名臣−賢LJ亘壱の本文︵彿謂︶そのもの牢して、祭式の
Ⅵぎ占、及びノ一半声〓ハ・レ・P謹㌢ざi阜
抹ぐろ代捕り即納内容か、自ヤ.シュールゴ〆、それに基くカー
Reニg10コ■
トヤ
ーコ
ヤナ
の悶緯︵才い1〓ド
Aエis︷OryOfSc訂コCeいaコd訂Re一ati
O
S
ロa∋P訂﹁つ〓−et︼−書こ
Wi宴P≡OSOP百aコd
ュールヱダに届†る与巨Eニ号︰l㌢ulドをrHl二・l一蔓∴至
Chl≡bri︵l驚こ詫P
︼rud訂キ巨亭豆Tぎ≒F塾き二手眉.㌫いノ、已訂ニイP苧呂︷鞍巴コーー
糊代l二於りろ斜里の膵利に、捷ひIl叱く来曾宥の掃かLさ
てわん。それlニ比.へて村里の過去l工わよりl二LⅢきlニわふて
現にれL脹銅り記辣を、それ⊥\め水身
コポ≡⊆ls・の三邦に於りろ馬刷り叙沌、及び大紋事故小l二
︵彿謂︶によりてホ
†ハ1.ハーラク
の描出わ脛へようヾしでろのが︰り労作てわ一㌔
﹁こ巨邪に供㍑申■り#ぺり﹂宇ソ†々バタ死出小に言l上ろゝ
︹てゐ・り。
に兄いか。その附い封去に光むL√∵ワして柵組的化から和雄
ギリシャ畔代lニに㌍隼寸−斜里ビか一つてわつr。中世紀lニ
如く、腸別に祭式り荘人左ろ凱よりL、机け・・、ろゝほ耽り批
圧紳丹がそり両者■け文机L㍗。文軌︰拍柚ハごミLlニ分併が行に
れ㍗。カント、ヘーゲルの祉に耶︰砕から利いソを建ひ川Lt。
鮎よりも、吠陀帖代に於け・の爪笹大.在ろ村山式でわつt。此り
よりL、り椚め弦く・∴㍑り裾よりL、叉そいⅥ川り英人圧一り
・
咋しほひ川さ1L再卜料〃†に1、け、−︶Lい紺泄ルー・して、再び抑︰隼ヤ
納付ヤ㌫紋lニ刑ヾろ人÷写謂咤J付Jて・ら隼わ/、.んろ。一字㌧\ハ
ごいび、一てり拒小木の偶式は梨咋叩l二げ∵ゎヾしいl工頼ろ。之中称
ヤ椚け仁むめぐつて班々・い・関川か〃†・ハ。一∵こて斜由・そりしり
鰐両け二一=問の供用でわーー、そり準備lェ一隼戎ほ二咋を嬰†
の軒此!・仙骨⋮描人克意味ノ︰・ト?ニ:しぺちりてわろ。餌も扁
り
式の人変圧本邦のルに示されてゐろ。
けら一山、糾ほ宮にインドラ、かり戦ひり紳でわつ㍗。そり偶
此り供捕り基登仙は供械第一口に至ろ造り準備儀式、供繊
︼謁■..与野昭Lたカが婁仝でわろ。
リ.轟−ル
∴月革命後三世紀揖て附かit㍗民亮的去曾は十月薄命・で兄
=でわり、第二‖lェ黒分捕一‖、第三=lェ県骨苅二=亡兄ろ。
‖lェノ.︰Lハ︰訂F刃︵即ち四−五月︶の‖分節十五=の満月り
儀式 ︵Ei−・ひtrも、及び終末り儀式より成ろ。而、してその第一
むりほケエザルに返†、,∴几亡、新涯L不人伝耽特急泥分子を
の殉だ亡罵ろ。今では鞘派も拍庸子軍備L妬巧てケエザルり
日り祭む助けて﹁批けろ致fr﹂一で起﹂中卜。再演lユニわー政治禦鋸
㍗拍肝ほ無輌論⋮け博lニ努めろ一力分裂助成策わ抹り、急進的
グーべーウ一
反甲した組立秋等ほ†獄Lr。﹂か・し敬曾り似り難いりむ几
子しての鵜掴む要り㍗。人肌純み機lニヰ射川“・昭が晰行さ巨、
ノし偶然保守化・し、組立敢削か復活され.り集敢付け反動囲昭
佃謹東豆この供蟻lェ頻りくインド・イラエァン時代より起源
耕一=り構式︵じ吊︼−ぶちコlP︶、第二‖の構式︵1−空−で︶、第三‖り
、し.孫娘・羅鵬lニ1・か、ろ祭式の作†ろ仰より戎lェイント・
油WLト。漁火の利ほ政府り手に消ちl一し行く。
︵一e
lP
U£誓ti昌
Ar︵・11小010g−宅e
A澤訂−計t巴−・ぎmeコ・︶PleつdつS
這D∽.
嘲、γ∴/ガニスタンの考〃り的澗沓霜罠‖が隼舛に尊叩ぜらる
アフガニタンが世界り彿軟研究新通lニ汗〓dらiL右卜此り
づ?㌢5r〓Heニ夢
︼さte胡乱︵litiつロe〓謡計崇.ワ岩−P≧iニt−
誓P−1官話en
ヘソⅠかmOi一・謡
﹁esAコt茸ui︷esBOuddh茸uesde日当.一ぞaコ
COdard︵A・G〇︵㌻乙︶q・︶胃PCkiローJ・︶
示さ拉一ヽゐろ鮎にわろ。︵佐水︶
まれ本非り興味は既成㌶放り批曾的活動力り一水準が清々寸し
誹れは追捕む試練ご几、丹ポ敢‘ェ為に内面化L㍗・ミムふ。ご
アリヤン時代よりわつたからし拉ないミいふ。ごlニかく本諮
り如ヽ−頼めて面倒叱ろ化媚を完成ゼろ署常り努力ーニ膵き敬治
み刷ふLりでわ入・。︵龍山︶
mヨ訂rdtつ﹂−︶C・︶
ソ︻i一オ岩村雫−1汚戸
Reニg石コぎSOV誉Russ訂・
井命でロシγの・丹パ敬井lェ一億・し告。抹殺され㍗基督敢寸し独
耶ふ無は仲基端、こ一ピ.昔常ほそ=に比ろ。
別路肝、射諸外㈹等り旧作の交錯り申lニ正教曾l王朝蕉二渥
に分別墾し、令衆囲でほ歓呼出蔑む草って裁判l二在つ㍗が、之
に肌†ろ粥経りT︰・U‡ハ.ノ・の一主張が本川︰後節与して謂載され
I︹ゐろ。前描ほ捕捉釈曾出り紹介で純㍊減法がほ傍されてほ
介
︼六九
ゐろが、加温の∴F訂r、Pli的⋮つコu已︹:訂S鼠ets︶プ∴r
ろに一trむm㍗〃。殊l二死耶桁︵冒ロ・キ当︶り火㈹仰が大乗仲秋
新 刊 椚
新 刊 紹
介
研究者lニ貸珊布資料与して視めらろろlニ到つてからかゝる考
古斬的調査の正大なろほいふまでも無い。此q沓の六五如か
一七〇
Scu膏ure
aコd訝
HbロdOクエり彗.
aコd<くes一、
﹁aterCr籍k
﹁awreコCe︵A・ノぺ・︶
OコmaSt
も知ろ通りでぁろが、甜省トP∃enつe氏li肛lこ高い見地から
ラ釣術ゴなり、印踵の沸教沓術の上lニ一時期わ謙t王如た人
希膿の耶像⊥り様式が印度のそれにこ影響な及lばLてガンダ
ら七四火に一年りて、巳軒甘iP氏lェDOEF︷馬車u訂bi⊇ぎの督 Ce
几刑法及びササニアン王朝時代の輪班について認めて居ろ。
笹lニ大仰像の調査のみ圧らす進んで他の小彿撤や大体他の岩
希脱文北住エジプト、アフリカ、フェニキヤ、パルチヤ、シ
がそれより駈lこ珊大守ろほ梵椰街大仰他の調査沓でわつてー
のLりでl王克く、台裡等の給油丁五山ハ枇杷のもりで、アヂ†
雄り諷悪か写し、此の彿倣lェ.ヘルシヤ式で紀元後三根紀以前
る雄む述べて、就中印遁へ最も多く影鹿蕗及ば・し、ガンダラ
氏が新渦省りミーラー
ザヤ、パレスチナ、アラビヤ等の講囲へも其の影響か及ばせ
A・SleF
ンタの第九節十別の棋譜石
・してゐる。
Ma的コ訂コ︵くi旨r・︶
﹁e∽ヨyS薪蒜伊d垣望Sis●
Pr−ゲ︼岩P
支那日本l二も希脱文他の影響力‡及lばされてゐるミ簡滋だこ結論
敲備に於て、其の頂鮎に迎J瞼淡の及ぷ怖小火並細窺わ押て
ン︵ヒ耳品5︶で教訓L㍗根郡等む除い㍗在らけ印度の彿政夷術
上︸い時代のものでわろミ評者も論決・して川られろ。
ェ
erReニ岨0コ名h号sOPh計・
縛翫締約い一。gi邑eMeIhOde葛
Dre乱eロ、−¢HC.
け小秋の本質規㍑の刀経論。主ざしてシエラーヤフッサール
TO已Cu肌e大草教授り背者の添腰の幣構宗教でも殊に耕名
†・〃労作。概括的lこI,その超脱ヤ人信の繊維わ租蘇・しゎもの
で一力多くの詑錐も相中してゐろエリユシスけ弊儀研究に脚
によつて宗敢相貌撃のカ法、即ち宗取の本質の直感、本質の
.シティナな紅組む否定すろ。
いのにいささか不満でわろ。︵青野︶
抑叩ぜれけ光らない。苅むの緒研究にこわより押出触れ七い兄
でわろが、綜令的光猫りの見解が随所ド展附されてゐろ鮎な
問規を叙述棟甜†ろ。結北軍して現象解約立場から副撃のポ
寸Jもわれガイザーヤクレソペルの軒耕さ共に宗教現象封を
知ろlニ通常邦婁考聾でわろ。︵石津︶
4
Malalasekera︵G・P・︶
↓he Pal鵬﹁許rature
孤む典ふふl二過すろ耶か嬰求Lてゐろ猫の鶉lド響かれ主上あ
規ではわらうが、菅祈り附配布薙叩やその柵机的互つかみカ
粍新鮮ド脱Lて、再拝幣塵た於けろ如く巣さろ1や否ゃほ問
O︷Cey10コ■の山でぁろ。勿論そうL㍗課程lこ此北=の目的り枝光:ミが印
﹁Cロ︿どー︼︼︼el⊃飢.
文畢及芝目ふよりlェ錫附の脛史−ニ緋て文弊の領域以上の問
てゐ・わ。叉前祝り臼的の肝†範膵l出で、部致ん非微lこ耐白く
ほ些の偏見布き批評的能力ざ祁保って可叱りの効果わ衷はL
Lわろので、一眼的lこL視み易い伯川のー1i氷ろ印度思想の小
ぉり、新前り愛用的光熱情がそうさぜ㍗ごL〓心へろSでわ
猫でわら、㌔紫引附きで印刷も止いカでぁろ。︵合板︶
低か取扱ふてゐろご首へろが、脛史の倒血を据由・してゐろわ
にわろのだが、︰れlこli流石に聖断光内容が腋られてゐろ。
reCtureS一
ストリーダー博士け昨秋汎太平洋骨韻の際ド、英関の強員
FOur
Streeter︵B・声︶
る。で此辞の賞賛的部分l‡邦四草以下lこ扱lェれろ文畢的力面
が郁鮨の刊行状態光ビの耽桝が不親切lこ見えろのは机袈掲を
みて感する靴猫の期待を薬効ろものでぁる。勿論完全光bi㌣
liO笥pす ほ期待出嫌克くても今少・し此カ所lこ溝赴を典へら
れ㍗いミ恩ふ。
写して邦朝、丸大に於て三回に亘ろ諦洗わされ㍗、骨髄後、
支那l二洩り、北平北ハの仙で巡諦。そil等わ挑めて桝め㍗もの
肘白いの托酌泄紀中再拝廃水毎巴利久至鋤拙文献に封†ろ
研究郡仰の耽桝ぜ近代鋤勘llニ於ける文攣力至宗軟力面の経典
が、此の約五十東に亘ろパンフレットでぁろ虻
、、−巨t︸モ中にも、科畢・哲撃・宗秋・の融通柵鮎が諭ぜられて
昨秋、氏の米朝前後に相席氏によ?て諦招盲れ上巻業
状態の部分でわる。殊に外聞人の政清的師弊的侵略より氷つ
てゐろ。︵令阪︶
ゐろが、本革坤lニもそれが中心問凰写してわらl‡れてゐる、
殊に=節四諦も熟ptO︻官P。ほ、東大でl‡請轟ぜられ布か
一七︼
押lェ、近く刊行されろ雉放でわろ。︵岸本︶
=のパンフレットの村属氏l二よる日本評、弘氏による支那
て興味わろ軌推がわろ。
つy
㍗■
Lのでわるが、その中にti、彿軟の背の披lこも折々触れ
lコdiaコPhi一OSOPh
㍗此曲の柚々り不孝lこ耽てほ著者ほ寧ろ感仰そのもので甘い
Pra¢ad︵H召已P︶
一コtrOduct訂コtO
Al︼P巨Y︼巴声
P邑e 教授の序文がわり、それlこよろご本鞘圧印腫の大
介
坪の声巨邪推り土にLて、幣草躯攻の伊畑に印柁哲如ゐ知
新 刊 紹
β
新 刊 紹
介
ILOコdC〓こ汚P
O︷PuriぎPartニ.
Tぎ︵PeソF︼ng︶
↓訂Path
仲井りノJ⋮d旨i≡毒n︰″り共詣でわつて、︼︺まは六咋前lこ
一七二
く大低理性の範囲云々り園内で論わ尤寸。論理や北ハ他の隼凪
の上でコヘンほ:の派の最㍗ろわ失lェわか机り宗秋抑︰世論在
菅茄ほ=の側面む槻隼しょうミ†ろ。﹁畔問的l二L帯嘉的に
ろものは粍想ミ反・して徹ろポ.シティゾで,り↓り。
‖てゐろ。此l二は射三帯上り十三ポよて、業蹟、地演毘、除
ヘンの闇糸の叫に於て如何光ろ什ガで頼りいふ研の椚念が甜
もコヘンの宗教野里ごlェ糾群が先行†ろごり嗣捉り下上ニコー
に於て︰りポ.シティγ冗研伊的規㍑わ受け一ヽゐ一〃彼の糾り情
隼的光駅的規定む受けて居ろか、そ・して別の観念的な世昇租
霜超、木津兼良、六念、念蹟、光圧、無色、三相持、糾尤、
糾油の十一‖岬む摘めて川ろ。
沖氾仇−刷が拍力論部申唯一の銅よっ㍗糾華北︰でわり拍力沸教
B00k
O鴫.芳e
W00dward︵﹃﹂J.︶
↓he
Lつコ・IlOコこ3.●
本鞘に巳朝川腹部︵予コ︼ソ・三一日ソニハキ‖け︶り邦川堰Ⅵエキュ︰l≡
Paユーく一
Kニ﹂dred S首コg
に於りろ傑出・し㍗仲秋佃論寸しも郡†へく巴利阿比適齢の研究 念が如何に承認亨りれtわかに拭いて論じ一\川ろ。︵石津︶
は此誹より入ろわ至竹⋮ミ思にれろもりでわるが、文意難解わ
極め容易lニ入り印し寸Jぜられ㍗者だが、裁に漸次謂本な典へ
Aユ笹が同
らろ、粥lェ何より童洋∵しい皿−iでわム。英謂溝l二組てはⅠ︶︰︻ロコP
が訂釘ぎま冬ニコニーコdわl・S︷Pコ︵l⋮−︼gヾし在り、城lヱ
りし封の叫lこ乙rミも∋ulごL謂さろ、如′、純一キ炊く坪も
わろ傍だが、何ヾ主百つてL、此心血り舶−∫ll︰恥ぢわソどl︼明Tご
ドワード氏り謂ミLてlェ邦二服〓でわろ。仰ぜてリス・デブィ
ノJ的gP︵乙・bリ・㌃○コアき︼S芦ワT.Ⅵ.︶の英謂にLて、ウッ
爪のとりが∴八三封に晶呵せられ㍗りに一l二本文り総軍しわ略
ソブ大人ゆけ文が載ぜられてゐろ。巳利頂仙ハでは円〇二一︰吊り
うか。今橋む飴ゆか・−︶mむ新化別与して、例へけ
PユlH−
本態の如く維返・しわ晰Lて謂†ろ︰寸しに射州毎ろLりでわら
謂なLてゐろが、繹典り特異圧ろ来現形式わ有すろLりむ、
Ph:O・
Sし
O㍗P
ろh
が訂
鳩めてわム。リス・デブィソヅ大人ほ此郡に拭いて烹
軟捏のもりでわりn山l二謂揮苫弾み漁り得㍗析l=光分の頂
備わ認わnけ亨h兄いビM心ふ。︵曾根︶
UckO∴SiegPied.︶
出巾r︼iコ、−呂¢.
ロel nす蔓esbegli箋ぎder
〓e﹁∃彗CO訂コS.
カント派の完敗哲撃lユダインクラーの指摘わよつよでむ光
β
ド∽−u ︵勺−uひ竿︶わ組む布ほ仮令淡然ご内幕な想佗・し・空し
京秋的な感付か味ひうろだらうか。だが=れlェ一考か要すろ
カール・ハイム滞
新
生
党
刊
=り針状む瞼紺L、そり
東武
科挙萬能め今日に、我々の揖ひもかけn畢が甲乙ろ。﹁カト
一わ○
把捉に到建ぜんミ†ろりが=り﹁基僧秋り木質﹂の所期でわ
各々の特色わ聞明すろ︰、こにょつて、同時に基督放り本質り
カ・rサックご.フロテスタントー
韮鷺敬の本質
も経典の如何光ろもの光るかわ感得・しうろだらうか。一て・して
視覚此之助謂
問題でわり、軍托略・しカ如回が椛要如でわらう。
かくて巴利相階部の英謂完成の近きむ我々ーェ心から櫻ぶも
のでわろ。︵龍山︶
大 江 精一詣
リックの時代が氷㍗。﹂而Jて否む=ごの川北互い雄邪でわ
ヘーゲル精細現象論序説
ろ。多くの人々は=の仲人互棉糾的故郷へざ阿りつゝわろ。
理想抽出版部費行
束或
科学的研究に桐油・しt幼がそ=に清ひを輩ゆて捌く。形式ビ
一八三二の金塊初版り第二、コ1ぎ0ヨ︵コヘーざg訂 d訪へ訂町有
の序論の全謂。山水ヘーゲル仝災は初版がよく二版圧軋如i
人l二王つて大きな魅力ご在りつ、わろ。=り魅力l工充分に認
柁式守し儀式、不離ご昭峻ミ糾秘。カトリックl工㍗Lかに現代
ントでわろ。﹁何故.7〓テスタントでわろか。﹂此踵lニ、捕ビ
nけ在ら乃。・しか・しカール・ハイムに依然与してプロテスタ
彼の大系り吋l二於て現象畢が如何耽る他社ご役目む受持っ
いはれる。
て居ろか今駐ら冗言わ要・し互い。詐者ほ析調ヘーゲルルネサ
軋ごむLつて押†べヽ−糾、琵心の一筋耽る犬への溝、而Lて
ンスのl取残が此輩に紅かろべきわ信†ろ。彼の論虎的大系
lこ於て心神的署証的兼地を祈†ろのが此非でわる。−−⊥勒に
一七三
脱胎基僧敢虹考
朽敢の成立
謂昨はゃ易に経けれてわろ。謂棚が多い。︵竹谷︶
プロテスタントの道徳ご敬付ごの誠実ごがわろのでわる。
琴し現象畢lェロマンテイク同一哲学から離れて精細哲撃ゆ
リーベルトヤシヨルツ近く圧グロツクナーが指摘・しゎ梯lこ。
一謂
l
ねもつて知られろ。本謂溝は許新一l月lニよつてその見通,しな
ツ ゲ掃
殿堂か築く礎石ビ在ろもの、その内容の理路ほ錯雑多岐雛解
キ ル
ス
兆
﹂わもの、革lニ現象やのみ在ら†彼の普畢全損の傾向か珊解
介
†ろ上に必謙りLの写して拙技・し㍗い。︵ポ津︶
新 刊 調
カ エ
ク ン
新 刊 紹
介
岩波帯川敏行︵岩波文恥︶
一七日
動の甚だLい牧外の印象む、的恥lこ且つ迅速lニ欄叫lLて、之
の。嗣新ほ一入九四−九光隼の郡一堰排紙で、ヨハネ琴前線
文の邦押でわる。何れL雑誌
・しわん偶の意由ら下ド、土撞訟秋氏は起って之れか細茹J、
宗の聯介統一桝個lニ賛し脚家祉命及び全人粕軟化の文献rら
緋局に虚L、一ti仰秋宜仰に駅猷ぜんtわ、∵托肪兆沸教各
燭めにこ之む企て相互い理由圧少LL無い。然ろにニ、†、︰の
れむ組織的lニ編纂†ろ耶の車齢でわろ圧云ふよでL互いが、
中新約慮音の文献亨しそ=から畢生常時の原始基骨軟り状患
原始韮甘教ゎマルクス主義的研究方法ね以て研究Lt二論
わ推論L、後部lェ一八八五年¢所載で、基督軟散在地盤tる
文部省宗敬局等の好忠l‡勿論、大力の賛助に依つて敬刊む凰
責︵ue詳ミ、に施破ざれ上t
ローマ帝政時代の紋付状態を泳法・し、何れL基暦数め隊毎㍍
㍗郡lユ糾lニ慶†べきでわろ。
計企、法令、統計、邦茹の十煎に分つて、内容の正純ミ充箕
描け、本文は︰れむ大野、完拶、秋野、寺院、人耶、行事、
懸拍に略歴、勅紺、十七憲法、洗乱入道御受戒一斑衷等を
イエスの人格lニ越川†ろこまわ拒み、その掴虹的存在か否定
って成立J㍗ものミjLた。ミまjt︰の邦諸によつてマルクス
︺て物‡納経婁阿り弗物帥ち常時り祉命的政ホ的詳細係lこよ
生菰薪の湘史解押が如仰叱るものでわろかむ知ろに格症七資
茹上の取々の苦心に同相ゴ感謝ミむ寄せろミ共に正批に、無
究及び信仰方面の粗野な靴述・してゐち=どでわろ。鮎lこ非舶
昭和時代り怖教わ概糾L几つ研く1−一升各囲に於けろ彿教の研
いもりがわろ。妹lこ軋るべさは、大勢猫に於いて、明治大正
ろl‡、茄初の仲秋咋鑑ミ︺て北づ咋鑑の仲介を余丁ぜるlこ近
寸ヽむ勅L、膳さ範㈲に政新の材料な蒐恥訓査Lての成華でぁ
鑑
仰秋年鑑址併行
料か手近lこ央へられ上=ミか睾ぷ。︵三枚︶
土屋除数舶慕
彿 数 年
東京
.叔近彿軟外lこ於けろ敬宋の清即l‡、軟化浬動に忠恕重鎮た
理か云へば.その他の各茄lこ多少の不満無・しミほ云へ布い。
ヽヽ
ヽヽ
併別記搬の守院五十昔晰配列の人ホの調法な奴等代紋訂を要
社命硝薬に斡的研究lこ政拾的進〓lニ各様大命l二、目ぬで干しい
本
†べき二茄でわらう。それに、鬼もわれ、かくて、新・しく生
まれ㌣年鑑の健全おろ姓両誌心から斬つてヤよ互い。−
ものがわる。併L鼓lこ、疾くl:祈る.へくLて祈り相克かつt
彿赦咋鮭の置刊は多咋歌外の黎望†る併でぁつ㍗lこも拘l‡
ミも光り.各甘栃、草枕、圃沓㈹等に必嬰光ろ︼本耽る托勿
戦lェ四六版、七召弄のもの。各宗布教仲池上撒御車使な敦材
ものに﹁仲秋年鑑﹂がわる。
布かつt。蛍lニ、椀めて複雑にLて多郡多咄、而かも婆遷典
ら†、敷咋削舶ゆて山王﹁キリスト数年鹿﹂の加古それむホ㍗
.二「
諸
概
論
理想放出版部刊
論、一般、人々の好古参考諜でもわろ。︵村〓︶
J・Ⅹ・カーペンクー背
堺 谷 文 雄
宗 教 準
北京
原著者カーペンター托一昨々咋物故L㍗人。八十有線咋の
生花か宗教の史的研究に挿げ、彼の閥lニ於けろ新鮮の一構威
綱
什
雑
記
△敢行梓川文相の組織攣駈の㍗めlニ、正月鱗の諾行
t。︵研究室内舶刑部︶
△本年膵の宗教研究骨英名渾を同封御題付中止け
先硝榊了姥ぉい㍗ゞき㍗い。
持す、三四月の交に併行の推定光れげ、︰れよ㍗
△正月兢の迎娃l‡おのづから三月舵lこ‘影響左きふ
上げろ。
がかくのご亡く甚だ漣娃L㍗こミな、お詫び小L
㌣り、最維の労作㍗ム二ぎddb粁m Sd nFlいabLPit﹃︵−¢㌶︶l‡
モの成野の姐汎在るモモの叙述の硝施在るごlこよりて知られ
てなる。1この沓li恢lこ竹谷氏の名詩がわるが、氏住ま圭
錐に⊥P−ロつ巳﹂P牙c訂亡giOn の榊謂な典︺て、カーペンター
氏の思想の企豹を示さんざ†るのでわろ。
おさむろご=ろ入幕。宗教の比摂研究のせ碩か耽き、過去
及び現代に於けろ宗軟研究り火机わ光L、次いで原始宗放、
介
個々の間組につき、型冨光ろ材料をぽ位Lて典闇的純明む光
宗教的行場、宗秋的文献、宗歌ミ道徳、水仙軌の輔々柵等り
︺てわる。︵石渾︶
新 刊 紹
ク
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竺
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Dすま与頂な償代lこ別に合場の渋別特但q
管要所
費行所
製 複 許 不
宗
︵定鱒金宝圃︶
研
究
編
輯
新第七巷・芳一渋
教
教
崎
研
究
正
費
行
部
併
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東京嵩・甲大学索敵塾研究室内
藤
森
山
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所
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宮
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宗
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宥
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猷鷲関甥誼完針醜誓l省堂大阪支店
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堂
宗教研∴究蓉行所
東京市紳田匡邁紳保町一番地・株式曾政商文舘
析 者者
二月二十日印刷
三月一日費行
惑輯者
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別行
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刷