l ヽ/ ′ し LV 原始彿教練起観の特徴 二 ・手 島 文 倉 彿陀の縁起観は質に原始沸教の暫畢的組織に於ける基調たるものでぁる。彿陀が成正大長の 費法楽の三昧に幾日かを費した時の軌照も此のぼ起の賓相を順路無亜に軌察することであった はれてゐる。それほど重要な畢詑であり乍ら彿陀自身は此に対して詳細な解秤を輿へられたこ 骨てない。縁起の詮明に関する経文の類必らすしも二三を以て止らないが、多くは後世彿弟子 繹になるものか、又は彿陀嘗時の彿弟子の解帝と倣されてゐるものかで、俳陀自身の繰起改は て簡単に記されてゐるに過ぎない。此は抑々如何なる理由に依るのであらうか。思うに俳陀大 内容を成すと見らるイき縁取軌は彼が菩提樹下の止︵S岩邑一p︶上り待たる奴︵ま㌣彗急︶.の紡果に 外ならぬ。何人も彿陀と同じ辞定三昧に入って分別観照するに非る限り、その縁起軌の質相一 することは不可能である。彿弟子たるものは彿陀が自ら無師狗悟して≡界優苦㌻と自信したる 以の本領は此の観照に由凍することを知る以上、敢て彿陀の詭明以上に此の枢機に堂々と容殊 の借越を作し能はなかったでぁらう。蓋し一は彿陀の人格の偉大に感化されし焉めと、且つは 販飴沸教繰越救の特徴 ■■ ○ 原始沸教繰越叔の特徴 二 が六年若修の大泉たる止軌に無限の敬意を表した虐めとであらうか。之が彿陀の操起解詭経文の稀 ■ なえ二の理由であると思ふ。今一つは普時の彿弟子が如何なる教養を持ってゐたかを考・へて見る必 要がある。教養の卦より観れば普時の彿弟子空一類に分って見ることが出来る。婆羅門、王者、武士、 貴族階級より傭門に入れる者は昔時の知識階級を代表する。彼等は彿陀の敷設に接する以前、既に 優政局沙土の哲畢を畢修してゐたことは疑ない。然るに彿陀の縁起軌に現はれし縁起支なるものを 見るに一として彿陀特有のものほなく、皆従妹の哲畢中に説かれた嘗套語である。左れば彼等彿弟 子が初めて併設の縁起軌に接した際には容易にその真意を理解し得るはどの隷備智識があつたに蓮 ひない。孜備智識があつた上に加ふるに説法者の偉大な人格のカに魅せられしと、説法者の雄群能 く何人にも徹底せLめすんば止まざるの巧妙さを駿揮されたであらうとの虐めに併読の縁起軌は比 ′ 較的簡潔に完了されたものと想はれる。彿弟子卜して直接縁起に閲す争質問を敢て彿陀に呈する者 の稀〃アりし理由も.阿難が之を許して至浅至浅と稀へし所以も蓋し弦に存する。更に又、傭弟子中 東に教養なき下層階放より出家入門せる者に在っては、斯る重要な哲畢上の問題は容易に任耳に入 り難かったに違ひない。障って敢て質問するの能力もなく、 してゐたであらうと思ふ。斯の如くして昔時の彿弟子は暇使翻って自ら工夫観察する時若干の疑念 無き能はすと雄も敢て之を傭陀に叩かんとする者なく、その虐めに縁起の併設が簡短に記されて凍 たことも大に有り得る理由である。即ち昔時の彿弟子上足は何れも智識教養ある着で.一面には容 3 易に併談の眞意を理解し待たであらうし−他面には同時に彼等が伶囲の牛耳を取ってゐ北開係上. 之一どその値畢純な形を以て優世に侍へ の地位に在らざるが虐め自然時の経過と倶に消滅して従ったとも考ふべきでゐ㌃。之が廃館傭典中 彿詮の割合に簡短なるに反し、後世の彿弟子説の之に関するもの複雑を残すに至った所以であら・つ。 以上は彿陀の繰起軌について先.っ味ふべき第一の特徴である。 〓 傭陀は自ら無師濁悟と言ふ。何等の舌法に則らす、何等の親師に待たす、 依てこそ彼の大壁の愈々三界濁令たる所以を語明するものである。其庭土彼の自信をして一骨牢乎. 披く可らぎるものあらしめたのに相違ない。その大魔の根本基調たる操起覿が全く彼自身の創意に 出で∼従来の世界観と根本的に相違する何物か超然たるものがめつたに蓮ひないと首肯されるので ある。単著若し傭陀の縁起軌を以て梨倶吠陀以凍の世界観たる開展説︵苫r首m守≦.dp︶の系統を紹 述するものと催し、唯その縁起支の組織整然たる所にのみ特畢のらと決する琴の宣ば之れ大なる誤 解でぁる。彿陀の縁起軌は創造主や第一原因や根本物素や最初の動力囚や質料囚等を想定する所の 宇宙開開設︵︼ハr︶讐。g。nie︶でもなべ、若干の時周的纏起を預想するに非れば詭明し難き心理寮生的 ︵雰yc㌻了gelleti邑一︶の関係を示す唯心論的世界観にも非す、此等の見解こ全く異った所に特徴がある。 三一口にして遺せば傭陀の縁起軌は即ち妹起︵P苦学夢2卓p抑dp︶であつて徒起︵.、r監m抑垂−誓pp監p︶で 原始悌秋鮭起軋の特徹 原始儒教妹親裁の特徴 四 万 居るやの理由々さへ明瞭ならしめば以て正賓見を得て革の世界を混線することが出水ると観 々遮ること甚だ温かた了りと催し﹁要は現賓の世界の異相豊還して∵漸る貰相の如何にして を説かんとする如きは単に思弁の虐めの思器に階下弊あ♭・解脱を求心ベき宗教信仰の嘗面 である。技に傭陀は大に見る所ゐ♭、或る侶想約本位より詭き凍って次第に世界の生成展開 巳むを得すして一の仮想︵Pgmエを立てー此虎から説き下らんとす右傾向に陥らぎるを得ないの かつたのである。此等の徒起的世界観は皐克第一原因たる根本貰在を無限に追求することに に七て若干の時間的経過を隷想せしむるやうな心理螢垂的説明牒傾打を全然鹿却することが こそ多少相違あれ、何れも徒起的籠明の傾向があつた。優汲屈沙土の唯心論に入ってさへ何 間世間の曹而の事質を説明せんとするものである。傭陀以前の世界観はその詭明の上に明暗 生成卑化を根本原因から詭き下らんとするものでぁるが、後者は客間的彼此の牌係によつて ︵岩野給。︶でぁるが鎮者は寧ろ諭翠的必然︵哲巨eヒ︶である。前者は時間的前後の関係によつて世界の ふのである。徒起は物理的因果関係であるが縁起は論理的必然関係である。前者は寧ろ物理 現はれし乙といふ現象偽る1よつて丙といふ現象も亦現はれて凍ざるを待ぬといふ関係を縁起とい は何等物甜的原因を濠想するのではなく、甲といふ.現象によつて乙といふ現象現はれ、甲によつセ 合は徒起である。恰も母の胎内よ♭子供が生れる如き母子の関係である。之に反して縁起と はないといふのが最も留意すべき所である。甲といふ物理的原因より乙といふ結果が生れ出 4 6 れのである。此の鮎よりすると俳陀の世界観は仮想的凄展︵gm息骨g諸逐ほ瑠氾∵茂澄骨志学. ▼J﹁いサニフート 貰的直観︵Pr乱。g邑i胃heAn筈訂≡g︶によつた牒のと許するこ.とが出水るつ人漂竃事蔓協チ ることは事斉的直観である。考埠死、憂.悲哀、嘩曹之れ苦戚の富相で透る。事賓は事草てしで 之を説明することは出水ない。如何に説明せんとしても同一卒面上にその周類語︵S召牒qje︶と異∴ 類語︵A−1tU−一り貞e︶とを羅列して肯定否定を反復するの外殻明の仕方のな小藩のであそ彿陀の苦蜜 諦︵Dlニ彗≡i⋮−・iy琶e芭F︶は則ち此の事賓の直観を記したものである。 とするには此と他との関係を説くことに依るべきである。之れに依て初めて苦諦の茸和が明瞭列然 ︵︼八一焉ll已de邑ic−ことなるのである。之が即ち彿陀の苦集撃諦︵せ鼓kF監声ml一d蔓乙=芦︶たる縁起 軌に外ならぬ。故に俳陀の世界観は上より︵ぎー⋮訂一1︶説き下るのでなく、下より︵ぎーl宣en︶詭 原始沸教繰越観の件数 、− 五・い一 ならぬ。一切の世界の差別的舜化は我々の無智無明によつて中等の絶封を見誤る所から現はれ凍つ 一切諸法有形無形の現象世界も現はれ存することを待と催す所の無事笛諭︵Akつ鼠∽且jな逐ねば 夫れは言ふ迄もなく、我々の認識ま軌を離れては世界も以て存すべからや、怒識ま軌あるにユつて 以て現賓の人生観、世界観を明かにしたものとすれば彿陀の世界観は畢寛何うい一ムーぺとに月る郁。 斯の如く彿陀の縁起軌は物理的でもなく心理的でもなく全く論理的関係を縁起支の間に詮胡し.て. ぅ。之れ蓋し徒起でなくして縁起と名けし所以である。 き上るのである、恰も今日の所謂宗教現象畢的研究の精細と脈絡相通するの慨ありヰ許して宜加ち ▼− β 原始彿教練進級り特散 大 化 た結果に外ならぬから、畢克、人間世間嘗之れ如幻如化の幻影に過ぎすと催す世界幻影論︵H−1u乳? ︼−訂日︶とならざる一ぜ待ないのである。三界唯一心、心外無別法といふ大乗沸教の詞が此の意味を詮 はしたとすれば賓によく彿陀の世界観を穿った句と稿すべきでめらう。之も優波屈沙土以乗の、無 明によつて差別の現象界現はれ、眞智によつて現象差別の蛭枯より超脱することを待と設ける鼻智 ld邑is−望1¢︶であるといふことは縁起観の最 解脱ま議の思潮・で汲んで、更に大に之を徹底せしめた世界観たるに外ならぬ。彿陀の世界観が斯の 如く純然たる遜議論的唯心論︵Erkelll旨訂・t−1eOret訂−一e も著しい特徴の一で、彿陀が自ら三界燭食の自信を堅持してゐセ所以も此に看守るのではあるまい かと想はれる。此一ざ第二の特徴と耕してをく。 三 J■■■■■1‖. る。識とは自我の意識である。認識主観である。此の分別事誠に練って客軌の世界も成♭立つし、 の二支を説明せすに行に線って起る所の識︵5鎧首p︶以下の十支を設阻する十縁起と倣すこともあ て十二支となるからである。時としては古い経文の中で無明と夫れに操って起る行︵溜巨ぎ︶と 二に依て苦の現賓から推究して最後にその必然的存在健件たる無明︵A見守︶にまで到達し、組計し る如き意味ではない。縁起することJで因縁圭一一口つた迄である。十二といふのは縁起支︵A厨£の十 といふこともある。此の因縁といふ詞は後世の偶数で因︵謬tエと妹︵Pr首ギp︶とを分って説明す 彿陀の縁起観は普通に十二縁起︵ヲ到d蔓・呈ie藍昌ゴpp監p︶といふ。又十二田操︵守則d蔓ユlidぎエ ■ ■▼ P旨pP︶あり、名色に縁って識ありとは繰起が時 生︵J聖Cや老死︵・r弓ヂ≡弓。互の苦戚も現はれて来る澤でぁるかむ讃を第一條件に儀起針説イこ とも大に意味があると思ふ。識に繰つで名色︵宅昌l 間的前後の関係でへ仏いことを最も善く詮はしてゐる説明である。若し論理的に言へば名色の客観あ って識のま軌も成卜立っ道理でぁるが、若し認識論的に諭すれば認識ま軌の識あつて客観も客観元 り得る道理となる。故に識と名と色との三者相互に依存すること室二度を垂地に結び立つる場合の 如しと苦へてゐるのである。縁起支相互の関係の如何にあるべきかは此の一例が最も明かに示して ゐる。尖れは時胎から子供の出る如き徒起関係でなく、甲男と乙女とが結婚することによつて一 夫と呼ばれ他は妻と呼ばれる夫婦関係の現はれると同じやうである。夫と婦は同時併立の現象でゐ ㌃。識と名色とも亦斯の如く同時併立の現象に外ならない。左れば名色に繰って六入︵S貴y已M〓︼P︶ ふ∵りとも言はれるが同時に復た誠に繰って六人中りとも耕し得る。主観と客観とが同時に併立する と倶に限、耳、考古、身、意の六成官の共存すべきことを必要とするからである。斯くて讃と境と放 と併荒する所に触︵⊇箋一︶が皆然現はれぎる一ぜ得ない。簡とは根に観れることではなく、心に観れ ろことである。心に触れるとは認識する作用に外ならぬ。巳に認識の作用あれば受︵つed呂P.︶の戚 である。已に愛あれば執著の念即ち取︵已盲d賢一l︶が現はれ、取によつて客観一里貫在化す 螢あり、威壁ゐ一っと惧に愛子Qも軋を追求して恨むものを速けんとする心が現はれる。之が即ち愛 ︵、−﹂ユ己−ヱ る右︵︼宴MlノJl︶の作用ふγり・、物ぁり賓在すとは之れ即ち生で、生に即して老、病、死、苦が包合されるこ 原始沸教繰越成の特徴 七 8 原始沸教姓起軋の持徽 とにぢる。然・ゃば誠以下の十縁起は苦戚の賞租を説明すべき必要催件の同時併立関係を他の詞を以 て明示したるに外ならぬこと毛頭疑ひはない。或る彿典では、毎に練って識めり、誠に繰って観あ り.偶に繰って受ふ∵り.受に繰って変あらといふ五縁起を説き、更に循環して愛に繰って行あ♭、 術に繰って識あらといふ如く循環線起を説くものもある。傭陀が縁起を順逆無適に観察したといふ その一部分は斯の如き循環線起の法であつたかも知れない。未だ具標的の考病、死に言及してゐな いけれども.愛によつて行あり、毎によつて誠ありと倣す所、既に明に差別的現象舜化の苦情に逼 迫せらるべき心理を充分認めてゐるとm心ふ。五盛陰苦は弦に明らかに個髄孤立観念の悲哀を物語っ てゐると‖心ふ。斯る術環線起の説から考へても彿陀の縁起軌が苦戚の賓相を認識論的にか論理的に か説明したまでゞ、決して物理的因果関係からではぢく、心理発生的前後の脚係でもないことを容 易に常山‖出凍るであらうと附心ふ。十縁起文相互の帆係は斯の如しとして、借て十二縁起支としての ∼ 無明と術とは誠以下と如何に闘係するか。術は屡々身、ロ、意の三村に説明されてゐ一匂如く.絶ての 賓行に出乙根源た一三所のもの、個髄をして夫れ特和の差別性を負はしめる所の資性傾向一ざ指すので ある。之は人の認識主観の働きがその人特有の資性傾向によつて特殊化さるべきことを詮は心たに 過ぎない。触⋮明は行の由って凍る併、眞知の故知よりして特殊化されて認識が働︿ことを尭⋮明に縁 之によつて発し如賓に苦戚の賓粕を説明せんとしたものと許して可なら って如ゐ♭、行に繰って讃ありと言ったのである。故に線起観の中心は要す一心に誠に在り、若くば 議と名色とり㈲係に在卜 9 と信する。藻起支相互の必然的関係とは斯の如き同時併立の意味であることを以て正に彿陀の縁起 軌の箪二特徴と名けたいのである。彼の大衆部の思想の中に.一別那の現貌蓮智を以て速く四諦の 諸相差別を知るとか、縁起支性と翌道支性とを以て無名法の中に列する思想等は明かに此の特徴を 詮はしたものでぁる。絶じて四諦も十二縁起も八正道も唯一の事賓を説明せん食めの分別訣であつ て,何人もその中の︰に徹底すれば他は自ら渾然すべき関係のものである。苦諦に徹底すれば集諦 識の一、正見︵SPm日裟写i︶の一に根底し1−しも申.り四諦.十二縁起、八正 も滅諦も準椰も自ら判明する。葵城、道に徹底しなければ苦諦の貰和一ぜ完全に捕へることは出水ハ︺ い。斯の如く触⋮明の∴ 道に精通す一り▼﹂とになる。彿陀大盤の内容としては唯山の彿智般若︵冒ンヱの大光明でぁつ れを分別観照Lて説明されたから一見して時間的過程を預想せる説明であるかの如く誤解され易く なつたが、賓は全く超時間的な、何ほ言ひ得るならば超串間的写.全く無制約な彿智の皆相を詮は したに外ならぬのである。華厳繹が傭陀大兜の内容を詮はさんとし、単著之を呼んで法界縁起観と 催す.元より所以ありと言ふべし,法界繰起は要するに彿俄の縁起詭の拡充に過ぎぢいのである。 四 更に繰起支の中で最も誤解され易い二三のものに就いて縁起軌の賓和を味って見与フじらば、無 明や、行や、識と名色とい閥係二ど度々悶過となる所でJの・る。無明lを以て盲目意志であるとか、根 本意欲で今匂とか、春在の最終根元の生きんとする意志にあることを明にせんとしたのが無明で、 原始悌赦繰越覿ら特徴 10 原始沸教縁起載の特徴 一〇 無明は夫れ自身としては白目的たるを免れぬけれども賛すれば所謂五麓たるの可能性一ど有する.もの であるとか諭する単著があるが、無明を斯の如く動的宣、積極的な作用をなすものと見るのは誤解 である。之は抑々縁起の眞意を知らず、心理螢生的に見んとする斯から衆た謬見である。彿陀の縁 起軌が如何にもま意説︵く○︼⋮−︷≒ぎー︶であるかの如く誤解してゐるが、賓はま智詭であつてま意詮 とは言ひ難い。白目意志とか根本意欲とか見倣したいとすれば夫は無明でなくして寧ろ行である。 奥の個別原理となるものは行である。無明は畢に中等の中から差別の現はれんとする何等かの理由 が必要であるから.換言すれば絶対の眞智が働いて差別の現象世界を現はすには何等かの第一備仲 無明悪習の説の如き暫単に於てはいざ知らず、彿陀の縁起覿に詮かれた無明は全 が必要であるから、此の第一要件を眞智の映如せる欺憩に名けて巳むなく無明と名けたに過ぎない。 後世の異如来習l く静的な、消極的ハ仏、畢なる眞智故知の欺に命名したるものに外ならぬと侶する。恰も教諭に於て 耐我︵Pllru嘲エが自性︵Prpkrti︶と結合する研から大︵巳已1旨︶、我慢︵Al一己i−k旨P︶等の一切世界を 出すると催す際に、紳我が何故に自性に手を出すかと尋ねて、夫は要するに醐我が自性の本性を見 誤ること、無智なること、即ち無分別︵Aまノ■ekp︶による虐めであると傾す、此の無分別なるものを 想定したと同棲であらねば写らぬ。顛分別に積極的の一カがあるのではへ仏い。唯無分別によつて醐我 が自性に作用するのである。旨目的に活動せんとする自性に紳我が一定の方向を輿へる.その方向 を輿へるのは無明にエつて輿へなくとも可いものに奥へること∼なるとい■ム迄である。之が世界願 現ゎ最初の状態であると説く。恰も無明に繰って行ふ丁りとは教諭に所謂尭明によつて自性が一 活動を始めるといふと同棲である。行り活動が世界顕現の第蒜件であ㌢﹂と沸教も教諭も全く同 じい。世界は行によつて在り、行の如く世界は在りとは優汲尼沙土にも説く所で彿陀も同棲詭く である。その意味の主意詮なら少しも差支ないが無明を論じて主意詮の由凍と倣すが如きは甚だ き謬見であらねばへ†っぬと言ふのである。無明は恰も色限寮の如きものであるっ色眼鏡を通じ ろが故に世界に色が附くのである。眼鏡そのものに見るカのあらう筈がない。大衆部が心性本渾. 客農l抱煩悩に灘染せらる∼を説いて不浄となすと言ったのも同義である。灘染せらろ∼とは限鋸の ために色が附けられ声といふので、眼鏡自身が暮色のカを持ってゐる理ではない。眼鏡を通じて るものは教諭の所謂紳我であるが、彿陀は紳我の如きものを説明しへ甘い。強ひて求むれば彼の 韮きて明現はれるといふ明︵.≦菅︶である。明は無差別中等の絶射である。若し彿陀折線起を説く 虎始沸教壕也観の特認 ると説いたりしてゐるが、此の名色とか五虚とかいふものは畢に輿へられたものとして少しも説 又彿陀の教詭わ中にはよく世界一で分って名と色との二つに顕したら、有馬の諸法は常五鹿よ きやとの質問に封しては無しと答へられてゐる所、之れ彿陀の縁起軌の特徴と言ふ.べきであらう。 てあるか∵それは有によつてふ∵り、乃専行は無明によつてあ㌻りと下から説かれ、無明以上に なったであらう。然し彿陀は孝和死は何に繰ってあるか.それは生によつてあり、生は何に上っ 場合に此の朋より説き起して生、老死に及んだならば一見如何にも従来の世界観と彷彿たるもの 11 12 原始沸教綴起動の特徴 一二 せられたことがないと諭する学者がある。之も誤解でぁる。名色と五盈とは同じことである。﹁所謂 c芦m已l夢−1畑野︼山−C旨l≡ 名君、賄、喝念、吏紫、思惟、是属名。彼云何男色、所謂四大身、及四大身所造色、是謂名馬色。L ︵チ声きこ註厨¢旨卓二意舞−2書誌訂rO−idam≦CC小鼓−−抑n室r二星野i C⋮亡旨さl■己呂12−=一p己阜P−・茸a2∵d巴FヨCC註r壱、已i一︶とあるによつても自ら明かである。即ち識 に繰って名色あり、名色に繰って讃ありとの相互関係を縦に見れば縁起となり、様に眺むれば五麓 とも名色ともなる。常之れ熱誠ま軌を乾れて超然と存し得べきものではない。彿陀は斯の如き素嘆 的賓在論者では決してハ仏かったのである。此等縁起支の二三についても著しい特徴が窺はれること を注意せねばならぬ。 五 以上姿述する所によつて彿陀の縁起軌に就いて種々の誤解のあること一で瞥見し待たと思ふが、此 の誤解も元凍由凍する朗甚だ青いのであ乙へ︶嬰抄冷や倶合諭を見ると彿陀の縁起軌について苦から 四種の異見が毎はれてゐたことが判る。各々嫁起の解滞に特色があケて面白い。第一は剃郵に約す ろ詭で.一別耶に十二縁起支を具足すと撤すのである。り即ち時間的経過を預想せす、何れも客間的 同時併立関係の必然を示したものと催すのである。正に認識論的唯心論であつて本僅諭的唯心論で へ仏いことを言ったもので今匂。之が恐らく彿陀の豊息に近いもので、正菅沢の傭弟子は斯く言ひ停 へ凍ったに違ひない。大衆布い餌辞もよく此の滑息を表はしてゐる。第二は遭搭設である。前波枝 13 生と若干の時間的経過を預想する詭である。先つ心理螢生的世界観と許して宜からう。第三は分位 である。所謂三世両重囲果説として有名な樽承で、無明と行を過去世のこと1し、識以下有までを 現世のことゝし、生、老死を凍世のことゝして輪廻の説明と催す見解である。第四の遠積読は更に 遼遠な輪廻軌に過ぎない。此の三、四の雨読が縁起を胎生畢的︵望。︼。gi汚F︶に説くので、恰も物理的 因果閲係の徒起訟たるが如き軌を呈してゐる。寧ろ彿陀の真意を速かろ甚だしいものと倣さねばな らぬ。然し此の誤解は漉し経文の誤解から由雄すると思ふ。﹁彼愚痴無間凡夫、無明所覆、愛縁所 得識身、彼無明不断、愛繰不華身壊命終−道後受身、温受身故不得解脱、生老病死憂悲苦備﹂とか、 ﹁共有衆彗不解十二繰法、洗樽生死無有出期、皆悉迷或、不識行本、於今低空後世∵従後世至今世 泳在五臓之中、求出甚難﹂とか言へば、之が縁起を如賓に知り得ざるが食めに永く生死に洗輯する といふことを誤解して、生死洗樽の状を説いた縁起であると撤し勝ちである。今少し進んでは識を 六識身と言ひ、生を恋、喝翠で得て命根出現すること∼し、老死を解して老とは諸根篭熟其形腐敗 のことなりとし、死とは拾薄給煤命根謝滅のことゝし光り、或は又識を解して﹁最初受年居母胎 減、依粕避藍、讃法具已難所増減、識日放故両生諸避.如是名色固浦具足﹂など∼説くと、全く胎 生畢的解滞に外ならぎるかの如く軌へる。後世の三世因果詭は玄に由雄したのであるが−之は決し て彿陀のとれ一り極めて通俗的方面一で捕へたものと言Åべきではなく−重く彿陀縁起軌の精神を誤解 したものと許すべきである。以上四見の中で刺邪説は超時間的の解澤でめるから全く認識論的な諭 原始彿教権趨親¢特徴 14 原始俳秋鮭起蔽毎睡虚 一団 理的な必然関係を述べたといふことになるから正しく傭陀の縁起軌を眞解したものであるが、他の 三見は何れも誤解であると億さねばならぬ。斬る誤解が何故に瞥から存したか。それは彿陀時代の 彿弟子に二類あつたことから想像して推論すべきことである。誤解の由て凍る所亦肯しといふこと も縁起軌の特徴の一であると謂って宜い。 要するに彿陀の縁起貌は上述の如き諸種の特徴を持ってゐるものであるから.之を以で梨倶吠陀 の無有歌以凍の所謂螢展詭と気脈を通するもので、印度に於ける妹超勤の模型に依った考へ方であ ると撤すの不都合なる所以は、此等の特徴を吟味することに依て充分明かとなると思ふ。 15 唐の善導大師に閲する問題 常 盤 大 定 蕃填大師は、浮土敦の大成者でめつて、沸教史上に大なる地位を取る串は、錬りに明白ぢ革質で ある。支那にあつては、蓮鹿念彿の剋師として、之を産山の慧速の次に置いて、第二剋と点して居 る。支那の全般からいへば、偶数の現勢力は∵左程に隆盛では熱いけれど.蓮放念彿は、現に上海 や普陀山を中心として、大なる勢力を有するので、随って善導の名が是等合併者の間に、支那沸教 史上の明星として輝いて居る。普陀山法雨寺の印光法師は、屈指の畢徳であつて、恐らくは.後世 に至りて念彿の租師中に加へられる人であらうと思ふが、その文集中に、大に善導を渇仰して居る。 一 日本に於ては、法然ほ、偏依善導の彿敦を開き、親鸞は善導鴻明彿正意と讃嘆して居る。斯︿重要 な位置を取るに関らす、その史侍に至っては、頗る不明であるのみならす、大なろ誤謬さへも加へ られて、而もそれが最近に至るまで明了にせられて居なんだ。これについて、予は西安碑林の隆陶 碑及び寵門威令那蝕銘文の研究によつて、社務畢者の目に観れなんだ新車質を知ら待て、之を大正 暦¢善尊大師に陶†る問癒 】6 暦の準尊大師に閻†ろ問題 〓ハ 十四年十二月の帝国率土院に報告したび其後、絵本文三郎氏や望月信亨氏の如き興者の・善導に閲 す一り研究を見るに、隆問碑及び度合邦傭銘文を基礎として居るから、この意見が、畢界に普ねく認 識せられたものと言ってよい。四回に亘って支那を踏査した研究の一端がこ∼に酬いられた事を、 予は衷心より喜ぶのでラQ。度々.知人から之について誌上に書けと勧められたが、多くの人が既 に言ひ逓Lて居るので、雪上の霜までもめるまいと差し接へて居たが、今回.某氏より長安香積寺 の大棚塔について、言ひ越された事を経として、俄にこの一文を草する事にした。 或はこの塔を以て.薄学風接の造址と見て居る人もあるが、これについては、聯か意見があるの の 記 侍 で.此際昔時畢士院に報告した事をも、押せて一應叙述する事とする。之を叙述せねば、意味が徹 来 底せぬからである。 古 ′■、︵...:...′〃卜し 善導に就ては種々の問題が雪。H天なりや.二人ならや。曾壷と善道とは・厳密に囁別せ ︶ ︶ らるべきむの打㌻りや。三捨身往生の串跡ありしや。個入寂の年代如何。丑その某所はいづこたrりや。 基仙.光明寺に閲すろ問題−悟眞寺に関する問題、字浮業に閲する問題、等等、それからそれと・ 長年月に亘って、一つとして決定せられて居なんだのである。若し多数決によるへ仏らば・之要一人 とするのが、或は定論であつたらう。よし三人の間に十一同三異を教へて、同の多きより、之一竺 入牢らんとしても、推定に過ぎなんだ。決定的な根本資料が無い限りは、舌凍の詮を取捨し合離す 】7 る外は無いから、如何へ仏る聴明て隼着でも、別に設の立てやうが無いのである。近世に至って一人 説を主張したものに、薗田完慧、佐々木月樵の二君がある、其中に於て、薗田君は捨身往生を否定 し、佐々木君は之を是認して居るの舶違はあるが、一人と焉したのは大によい。然しまだ根本資料 がないので.これも畢寛は推定詭に過ぎぬのである。 古猟の善導に関する記頒を一々叙述する事は、繁甫に堪へぬが、順序上.之を見て行く′ン最初訂 ヽ.■■′ ︶ 記儲は,唐の道宣の﹁績高帰侍﹂第l一十七の記事であるが、これは造身篇の食通博に附記せられた ︵ ︶ もので、それには、一近ごろ山帰善導なるものあり。二西河に至って渡瀬帥に遇ひ、たゞ念彿阿弼 ︵ ヽ−/ ′l ︵ ︶ 陀の渾業を行す。三昧に京師に入り、虞く此化一軍行す。期﹁阿弼陀繹﹂教萬軍官軍㌔伍時に光明 ︶ ′■一lヽ 寺にあつて説法す。六人みり導に告げていふ、今、偽名を念じて、定んで浄土に生れんや不や。噂 づ いふ、念併せば往生せん。その人藤井し託って、HUに南無阿珊陀彿を諦L寒々相次いで光明寺の門 を出で、柳樹の未に上う、合掌西望し倒しまに身を投じ.下って地に至って遂に死す、とぁる。先 これによつて、吾人は善導の念彿せる口より.光明を放った研から、光明寺の名が起ったLいふ 樽説と、善導自身が捨身往生したといふ侍設の起った縁起を知る事が出水る。﹁阿弼陀経﹂教萬巷ぉ ′l 寒したといふ事は、薪暖地方より螢推せられたも臥∼中に、願往生比丘善導の焉経のある事によつ 一七 次に唐の文詮と少康との共戯せる﹁往仕西方将士萄應侍﹂には、一.酒州の人。ヒ具戒を妙開梓帥 て、確たる澄跡を得たのである。道宣の此記傲は、いふまでもなく一人設である。 ︶︶ 暦の善導大師に関守ろ問毯 18 唐の巷尊大師に掛†る問拉 ■l/ 一八 に受くるに及び、共に脱経を恵る。三遂に締繹師に至り、念備によつて賓に往生を得るや否やを問 ︶ ′llヽ ︵ ふ。他年生常に乞食を禦む。㈲﹁摘陀紅﹂を焉す、十萬巻。浄土の菱和を重く、≡育舗。見る所の ︶ 塔廟、惨苦せざるなし。六彿法東に行はれてより、未だ稀師の旛徳あらす、といつて居る。少鹿は 彼善導といはれ、卓空一十一年、郎永貞元年︵西暦八〇五︶を以て入寂したから、善導の寂後、正に 古二十四年を隔つのである。その記事針見るに、浄土憂相を塞いたといふ事が、薪に豊息すべきだ けで、其他は頗る平易なもので、如何にも善導に似つかはしい。けれども、進藤倦の中に、善導が 入定して、紳帥の≡邦を知った事を記して居るのは、除トに善導を揚げんとして.却って大なる失 を導入したと見ねばならね。 唐代のものにては,獅、道家と善道との共庚の﹁念彿領﹂といふものがぁる。この中には.或は 西京善導閤梨といひ、善導闊梨、在西京寺内といひ、或は善道聞梨といひ、律師西京善道閑梨とい ふ。他の記事は之を措いて、善導と善道とを一人に通用して居るのは、大に注意すべき事である。 これは後に言はんとする所でぁるが、導と追との相違より、二人設を立てる事の浅薄なるを見るに は大なる資料とすべきを、克明に語るものである。 斯くて唐代に於ては、後世の異説の起り得べき除地が、頗る乏しいのであるが、然らば如何にし て典詮が起卜一、最近に至るまで博覧なる畢着までをも、困戒せしめたのであるかといふに、そは賓 に宋代の記銘からである。これには渾山の記事があ一りが、然し今は異説の起りた根原だけを奉げれ 19 ば事足ると思ふから、たゞ二つだけを奉げて置く。 ヽ/ 一は戒珠の1浄土往生博﹂である。これには一何許の人たるを悉しくせす。コ貞軌中に、面河の ︶ 綽席師を見る。ニ轟いて京師に至り,四部の弟子を筆者す。抑草し﹁蒲陀経﹂を葛す、数十萬驚 ︵ ︶ 散施し受拝す。五或は問ふ、念彿の善、浄土に生る1や、導乃はち自ら阿滞陀彿を念す。是の如く ︵ ︶ 一考すれば、則ちl道の光明あつて、その口より出づ。高宗その寺に額して光明といふ。六導この ︶ 身を厭ひ、所属の寺前の柳樹に登りて西に向って願ひ、身を投じて自ら絡ゆ。七京師の士丈夫、城 を傾けで綜信し、成くその骨を収めて以て葬る、といふのである。衝一人詭ではぁるが、この中に、 ︵ 早や三偶の誤謬を加へて凍た。光明寺の板と、投身自絶と、士大夫の牧葬とである。その誤謬であ るといふ串は、後に説く所によつて明白となるが、今は唯結論のみを奉げて置くのである。 ‡音の﹁新修浄土往生侍﹂に凍って、初めて二人設があらはれた。第一の箪笥は、戒殊に徒ひ、 ヽl/ ヽl/ ︶ たゞ渾土壁舶三富鎗培を書き、象れたる伽藍及び故停滞等を見れば.留悉く魔道すといふ卦に於い て、少康のを塵酌して居るのみである。琴一の善導について、一臨消の人。二物にして密州の明勝 ︶ 法師に投す。∈大蔵経に投じ、手に委せて之を揺り、﹁無量書経﹂を待たり。個志違法帥の勝瑞を欣 ヽlノ び、蓬に鹿山に往く。功倣にして理深きは、未だ般舟三昧に出るものにあらすとて、斯の造に畢命す。 ㈲後に迩を終前の悟眞寺に過れ、既にして勝定を得、方に障って物を刊せり。快初・綽輝師の晋陽 に開馳せるを聞き、千里を逢しとせすして、従って問はんと欲す。綽公印ち﹁無量苛粧﹂一ぎ授く。綽 横の蕃尊大師lニ脚†る間庵 ︵ コ0 唐の善導大師lこ開†ろ間組 ︵′一ll, 二〇 ヽt■一′ 公その深詣を歎す。入定して綽師の三罪を知る。七導化.京輩に沿ねし。刃浄土の鼻相を塞く。㈲ 忽然徴庚あト、長逝す。春秋六十九。時に永隆二年三月十四日な♭、と記して居る。この記事には、 幾多の問題を含んで凍る。少鹿が池州の人としたのを.これは山東臨滴の人とし、従って同じく山 東密州の明勝に徒へりとし.而して叉、慮山恵速の跡を訪へる事、終南山悟眞寺に障れたる雫﹁瑞應 侍﹂に凍って.入定によつて綽師の三罪を知った事を加へて居る。そのいづれも、之・ピ成立せしめ んとして、多大の努力を要しても、檜希望の乏しいと思はれるもの∼みである。たゞ投身白紙のな い事と、入寂わ暗が永隆二年であるといふ事のみが、偶然にも正しいのでぁるけれど.然しこの記 事を根墟として諭せんには、除りに薄弱な史料でぁる。斯くて末代の二人設のいづれにも大なる欠 鮎一で合む。第一の善導には、光明寺と、投身自絶と士大夫の収骨の三失があり、第二の善導には、 臨瀾の人と、終南悟異苛と、綽師三罪の三失がある。長所もまた両方に散在して居るが、然し随意 に之・で取捨して、都合のよいもの∼みを牧草する澤には行かね。しかせんには、■それに細管する基 礎材料がなけねばなら頂。 その以後のものは、煩はしく列奪するに及ばぬが、宋の志磐は﹁彿租統記﹂の第二十六巻には、善 導を出し、第二十七巻には善道を出して居るから.明に二人詭に従ったものでこ∼に凍♭て、導と造 とを区別して居る。清の彰希沫の﹁浄土貿聖像﹂、瑞嘩の﹁丙折畳征﹂はーその後を襲うて.同じく二 人説一ギ取って居ろ。我が法然は、善導の十徳中に、追身入滅の徳を怒げ.良忠は﹁粗鍾玄養分博通 3l 記﹂の中に、二人の書導の問に十〓刷三異を敦へて、耗局一人尤らんと論じ、西本願寺の智客は.﹁連 環集講粁﹂の中に、長安の善導一ぎ造命とし、匪溜の善導を正念牲生として居るから、また明に二人 詭に従って居る。斯く、王古の﹁新修往生侍﹂以後.二人設は牢として抜き難い重要の諒となり、 特に二人を善導と善道とによつて、芯別するは、志解の﹁彿剋統記﹂以後の事である。濁り元の普 度の﹁逆宗賓鑑﹂は、一人詭で、戒殊の詮、又は王者の第一善導詭に従ったのであるが、之一で一人 とするならば、何故に唐代に遡らぢんだかを造舷と思はぎるを得ぬ。 玄中寺、瀬林寺の諸碑について 以上は、これまでの諸説を分別したものに外ならぬ。さて、これより、自分が如何なる経過によ ∼ って、善導僧を薪な材料の上に基礎つけるに至ったかといふ事を、述べて見る。長安碑林中に、﹁大 店質際専政苛ま懐惇奉勅滑降同大法師碑銘井序﹂なるものが保存せ㌻れて居る。この碑は・筆法閻 倣にして、稀途良必至敢序碑の輩意ぁりとて、金石家の間に、音凍重要成せられたものであつたが、 これが賓に善導樽を基礎つける無二の珠算であるとは、何人も気付かなんだものである。−み碑文 の研究は、﹁支郵傭致史蹟許解﹂第﹁の中に、既に螢表して居るが、その文を誤讃して居る単著もあ つ〇︵一〇 るから.今甘夏に委しく之一で諭する必要を威する。碑文中に.浄土念沸点関して.﹁若不乗彿願力. 託貿挿方・別恐論溺長征・清昇永隔﹂といひ、﹁於是言論之際、藤樹時衆−四儀之中 つ〇〇 〇〇CO ⊃〇〇〇 陀彿願、乗此勝因.新年浮城﹂といひ、﹁珊陀俳名、亦望楼超要趣﹂といひ二.又請蒲陀眞偶、十萬鎗 磨り善導大師lこ関†る問粗 lヽf) ▲■■■ 糟ゆ溝噂左肺l二閲†・り問題 逼、即衝和知、齢か加齢敏和動齢就∴∵毛隼卯肺批評得∴と言コ′し管〇 二二 これについて、先つ言エペき串があろ。支那の金石文小、斯くまでに、深く且つ多く、適切に、 又別白に、浮上念彿に閲し三.‖つて罵るものが簸い。否/ての︰部分〃﹂にも∵∵ロひ衷はして居るも のが無い。念彿・り融曇驚の開基せる、山西石壁玄小寺の﹁俄痛勒像頗碑.tは、道綽緯帥が店の太宗 の柾偲致敬を受けた事を記して屠るけ汀ども、碑帥の念備につひては山言も触れて互い。同じく玄 UC﹀ 中寺め﹁甘茶鶉的砕﹂山小には、追雑犬上が踵覿一ど精修して、渾界に頻れる高風一で、文徳先后山嘉 一、ノ ふせる事を言って屑乙。念偶の片影を伺はせ一?やりは、唯渾界の∴字の一けで.あつて、而もこれとて も弊し禰陀の念備に限る内容を甘するものでないから、追紳の偽教空木すものとしては、頗る物足 らぬ。同‡山千彿閲の壁碑には、恩鸞の開基せる事を言って居る㌧こ正は別に曇鸞の沸教を宗きん としたものでもないから、その碑に何も無いから与し、本川心読もないが.迫紳に牌係あ・り二砕い中 には、少しは念彿に閲す・る文字がぁつても琴Qベしと思はれるが、革質無いのである。元の−時代に 、J、 速く二組の後を嗣ぎて、道友より﹁莫道龍山無風巽、縛他驚神格揃風﹂と賀せられ居る徒寛言え人 が、この玄中寺に居た。予は、大正九年の秋、こ\二ざ訪へ一〇折に、この費を見て、大に苛び、さて碑 文を見るに、別に念備に関係が無いので、そのま∼にして、去ったが、後に碑文の無いのが遺憾に 堪へすして、特に慶大生寧超武君を額はして、其拓本を取り寄せて、之を研究して見たが、矢張合彿 の弔は無くて、力:寛公の膵を習ひ、結蜘聖堂す,︺十有除年にして、一旦恍然として悟るあ弓・、平に 一−リ ■いt 向上直衣飾を偵へた蒋一ぎ言ふに過ぎ氾。支那の猫立念彿の周剋曇鸞が開基し,念備ゎ大成者善導の 帥塀せる道綽の任せる、玄中寺の内外を普ねく探って得た材料は.賓に以上の四碑に過ぎぬ。念備 に掬する材料は、皆無といつて.よいにも閉らす、枠と藤とに関する材料は∵質に豊富であるが、今 は之に嘲れぬ。勿論、蜃鸞も、道綽も、苦境も、日本の偶数着では無いから、梓と描とに於ても.共 に衆の師たるべき程の完成者であつた畢は.我が法然を見ても.想像せられ・て、然しその群が念彿、 軌傲であつた事について.少しは手が∼りのある材料が有りさうなものでは無いかと思ふが∵韓宵 背理号のでぁる。囲碑の全文は、﹁支那彿措辞解﹂第三の中に載せてある。 支邪念彿の開祖慧速法師の遺址で 山西玄中寺でさへも、然︰とすれば、他は之一ざ奉げ一言ムでも無いのであ一〇けれど、念の焉に耕一 っ鹿山の﹁束林寺碑﹂一ピ見る事とする。これは言ふまでも如く▼ ある。碑文は、焙の李監のものであ乙から.東晋レJ慧速の年代一で、邁に下つて屠ろけれど、速赴合体 の根本道場であ.るから、何か之に開設しさうに思はれる。然るにその序の中に、﹁宿根果於福頃 火 00 事前於浄土﹂といふのみで、慧速に閲すろ部分王は注目すべき文字が見えす、基彼の畏碓帥につ.い ノ・ 00〇〇 て、﹁安心堂術﹂といひ、李邑時代の寺キ佳祐等を叙する中に、﹁沐浴廊河、棲北洋華一といひ、飾 r〓 の最優に﹁敢憑挿華永紀席林﹂と言って居るに過ぎぬ。然しこの東埜Tr碑の巾に、浄土、坪牒、安 心柴術の文字の見える山は、玄中寺〇四碑に比すれば、まだ′1材料が多いとせねばならぬが、舶 ィ小物足らぬではないか。この■碑は、﹁支邪傭蹟﹂第二の中に成せてある。山西玄中寺や、江酉束林寺 糖の葦淳大師lこ抑†一ん問題 ご1 研の暮尊大師l二醍l†ろ聞及 中は、念件の道場とLて無類のものである。然るにそこにある稗史の中に、念俄に関する材料の乏 しきは、賓に是の如きものである。汲んや他の碑に堅しをやである。予は渡支踏衷の際に、幾官の 碑を讃んだか分らぬ。又、﹁金石準塩﹂や、﹁山右金石志﹂や、﹁泰山志﹂や等に於て、幾許の金 捜したか政へられぬ。けれども、その′中に於て、食傷に関する文字に接した事が、殆んど絶無で る。然るに碑林の﹁懐怖碑Lに至っては、全く異数である。初めからあの碑・ど見るものには、恐ら くは左程に成せぬだらうが、支那踏査の目的の中に於て、少からぬ部分を占めて居る,玄中寺や廃 山に於て.言ふべか′りぎ・り程の寂琴で戚じて潜る自分は、質に懐怖砕に托して、所謂畢肇り思がせ られたぃであつた。二れが為に、西京質際寺は、自分に束大の問題となつて居たの′ヾ、龍門の大 飾文の、西京賓際寺善道踵帥といふに対して、直に我が善導大師写Qに気付き、賓に名状しがたき 望外の華鱒を戚じたのであ乙。若し滞支の日時さへもあるならば.予は大正十年に於て.龍門の度 合郵備前庭に、建碑したのであつたが、何にせよ僅少の昨日を割いて、辛くも踏査するのであるか ら.その意を通せすして、今‖に及んで堪るのである。 大官賓際寺‡懐悌碑について 先つ、正直にこの碑を研究して行′、粥にする。懐怖は紙筆冗載︵西暦六六人︶を以て﹁勅により て両州寺に剃落し.勉動愈々積んで.宜分の造ならぎる一ざ思ひ、三舐の退からぎる・で想ふ祥であつ たが、暗に親鱒二昧大穂末導筐l梨の盛烈を聞いて、雅に帥発を締び、解脱の規一で斬り、.芋掟の願を 雲3 督し.一たび妙旨を承けて、十有験齢.秘偶鼻薬.親しく伸展を蒙った﹂のであつた。善導の親許 三昧といふのは、所謂三昧蚤得の事であるに相違ない。懐惇は、之に徒ふ†有除齢といふから、 暦六六八よ♭、西暦六人一頃まで、即ち璽早元年より永隆二年頃までと見て、何等の矛鳳がない これは、王舌の第二善導の寂年に、一致するちのでぁる。王舌は何の畠料によりて之を永隆二年 したか分らぬが、それが妬かも串賓の異に観れるのである。 懐怖はー‡導より秘偶鼻薬の親授付威を蒙ったが、津南にして、師資早﹁喪ったので、邁烈を って崩心し、飴恩を腐りて両面し、安に宅兆を思ひ、式に墳些を建てんとて、遂に鳳城の南紳和 に於て、憲塔一票軍フしたのであつた。遺烈と云ふの・は、帥善導の何の事蹟を指すものか分ら むの槍校せる龍門の大底介耶偶像の完成は、上足二年即ち西暦六七五であるから、この事蹟を指 して居るのでは無いかと思ふ。懐怖は、帥の造烈一で想ひ、除息を願うて、﹁紳和原に憲塔を経てL.之 を嘉峨した。これによつて、耳舌の記事中にある。京師の士大夫が、善導の骨一ぎ牧めて葬った ふの事賓ならぬを知るべきである。 懐惇は、﹁塔側に煩く伽藍を梼へ、それが、堂殿嘩燦、速く仰利を模し.樟季及琴直に砿囲を焉す﹂ 程の大工事であつた。こ山寺が、後に何といふ名・で有するに至ったのであるか、それが問題と ﹁女、寺院に於て、大寒堵妓女造った。塔り周廻二面尭、底上i三級﹂であつた。この塔は、現存 す一りや否や。ニれがまた賓に問題とハ与つて来今りである。﹁.永昌−Ⅶ年︵西暦六九〇︶、勅して法師を徴 磨の昔導火帥l二闘†る同塵 26 唐の善導大師に関する問題 三ハ して‡まと点したので、懐愕は斐旨む樽へ、用って衆望に酬いん一で巽q毎に軌絆・資護・粥陀等々譲 する、各々数十鱒二じあった。碑文は∵−・れか∴憤仰の信仰問題に触れて、次の如くに叙して居る。 1夫れ我域は、風火を易激し、結滞一で嬰抱す。井︵死り字を脱すムなÅん︶に系れば、無常の知 つ〇〇〇〇〇 期に止まるも事眞を研かば、不轟の虚脱を肇ぢん。若し彿の願力に乗じて.貿を渾方に託せすん ば、則ち恐ら︿は倫溺長く往き、清戎永く隔たん。﹂ 旗の文字与につけ品は、襲彿願力云云は則天皇后の語となるが、この一字は髪㌣義すべき であらうから、以上の文は懐仰の信念を表ほしたのである。そこで懐愕は、﹁言論の際に、懇に峠衆に 〇 勤め、四儀の中に、︰心た阿癒陀彿願を専念し、この勝因に乗じて、掛像に生れん一で斬った。﹂新の J 本の円によつて支那を見る上の疑である。一セび支部の大まかな融通的な夙に接†るものには、こ ったらするので、或はその∵心専念の他力念備に対して、疑問を抱く人もあるかと〓仙ふが、そは‖ 懐仰が如何に善導の専修念彿の祖述着であつたかゞ分る。巾に般若細川几が・のつた㌧﹁腎護紅Lがあ にすれば、功唐掲にして得るなけん。Lであつた。この懐件の信念と、之に藍ふ貰わとを見る時は、 つ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇︵.︶ 000000COつ・い⊃○︵一〇〇C00:ノ︺つ00つ s衰偶を諭する、十試験邁なら、埋ま克精兵ならしめば、版の想念徴と雅もー必す銃㌢、行か土三 梢むと娃も、此の勝繰に於て、戯る智府に遊び、甘て火般若光一笠叩†乙井高に盈んとし、又.蒲陀 Oe〇ここ︵㌧ 〇〇〇〇〇 く速に菩提を記せしめ、哺陀の傭名もて、亦簡に悪趣を超えんを苧け、諸除の鮮典を.井上心轟に 文字を、蕾初は紳と讃んだが、之を熟親するに、前の字で一項るらしい。﹁又、般若の紳児′で以て.能 00C︵︶︵︶つ〇〇〇〇⊃○、 ノ り ̄ ■_l ■ れがあつても㌻小串念に′イ.盾せぬ準左目得せ、・りれろ。‖木の特に成徳〃絶対他力故山服′で以て見る 咋は、茸導くれ口々JJ音感に.於て寸∴.稲々力問題が起乙だ▲lり・うJ 憶陣は、自他の専念を守らんが眉に・良縁として.底く有線に勧めて、九重高率円生六趣の焉に. 洋上偉一所を造った。﹂この堂は非常な立準・竃■りであつたと記されてJりるごり押上堂は.必す臆両 に番郁せる迎軋念彿の道場でJのらう。こ、には高二十三人の串は記されて二いが、北ハ後支那彿教史上 に腔々復興せられた折から推寸ればごれも腹山念偶の復興であ∴うと寮せ−しれるりこの﹁堂内には、 阿浦陀彿及び観せ勢至む潰・り、ヌ織成像を造り。﹂又、慈氏の像もあゎ一、憂填像即ち群迦像 俵仰は、大足元年d西暦七〇一ノ六十二歳を以て入寂し、神都元年︵再婚七〇空に、次の様な勅 一宝蒙った。才の勅文のま∼が.碑文中に掲げられて居乞 勅。貫際♯ま憶仲。ホ居三界、追撃ハ塵。等心境於鹿賀混発粘於物琴棟梁紺†,徹袖紺徒。 包杖勉之規模・踊乗拓之磨燭。錐已録雇滅、価⋮待於褒揚.然満治友子、触州忘於楯。満吋−幣原偶人 法帥。正邪施市。 この生柴死贈を永久に紀念せんとて・天琴一年Jで以一し.弟子大温閣尊詰心圧等の建てたのが、この 怯揮脾であろ。 糟の普尊大師・ト醜†ろ間塩 さて、この賓際葦といふぃは、京帥太牛坊にあるそれであらうか、或は華里の巷側に∵懐 》 唐の善導大師に鰐†ろ問痙 二八 模したそれでぁらうか−予は必す後者であらうと思ふ。懐惇は、永昌元年に勅して墓例の寺まとせ られた。そこには頚名′で奉げてないが、紳龍元年の勅に、賞際寄主とぁる。これは必す同一の寺 を指すのもので無くては乍らぬ。前のが墓側苛までぁつて、彼の紳離元年のが京師の賓際寺まに対 潤と共に貰際寺の明瑛といふ畢者があつたG今やま宝島由梨が任した。薪な名義に改められても、 し、一新時期を劃せしめた大詔謬を初めた時/√、の謬場に列せる音義大徳十二人の・中に、弘福寺り憲 てられて後、恐らくは梓寺として相普の名刺であつた。玄英三戎が、十七年の印度留学ど卒へて錨 受具したのは如何といふ問題が起るが、これは大問題で無い。何にせよ、賓際寺は、隋の時代に建 に、京師の賓際寺が、改められて温囲寺となつたのに、長龍二年に、豊泉が西京貰際寺に於て、茸 る有力な材料であつて、予は管轄之を知り得て、心窃に壱んだのでぁつた。細部元年又は景龍元年 って、歴然と澄明せられる。温観音の名荊は、賓に京帥の賓際寺と、墓例の賓際寺との連絡交渉を 際寺が、温国寺と改められた串は、懐惇碑を建てた弟子の思注が、大混同寺まであるといふ串によ ふ。誤とすれば、紳龍元年を以て、京師の賞際寺の名が、墓側の寺に移さ如た事となる。京帥の貰 元年︵西暦七〇七︶l=温固寺と改められたとあるが、この景寵は.或は紳龍の誤で無からうかと思 よりてせられた苛まに外ならぬ。さて﹁長安志﹂によれば、京帥 悍に対して、隆闘犬法師を贈る鰯のも砂であるから、この貰際寺まといふは、即ち永昌元年に勅に する勅であるとしては、二等の寄主となつて、頗る舜なものである。紳龍元年の勅は、賓際苛ま懐 28 l「† 他人多′、は知られた蕃名によつて呼んだに而違ない。斯る例はいくらもあ一q。腹山山鉛宗寺は⊥ハ朝 以黎の名刺であるので.よし勅によつて臍雲薄と改められても.今日矢張鮨宗ヰの部名に随って呼ば れて居る。西湖の憲隠寺は、これまた勅によつて雲林幸と改め・㍉れたが、基線滑侍巾に多くぁらは れて居らい■は憲隠の名を以て呼ばれて居る。それが別に間違では無′、て、却って便宜へ㌧のでぁる。 暫際薄の名義について、や∼頼班へう事吏∵=つたりは、莱唾棄−11uの寺が質際守であつて、諒帥太中 坤の増際守よゎ移され化名である・で知らんが秀であ一り。それは、やがて京榔・三筋際寺が、善導の所 作でtbつたといふ串を知らんが眉に外ならね。黄塵と賓際寺との連絡一で、畢界は今や普然のものと して承詣守一〇に至ったのセ.n分は大に善ふが、常時にあつては、少からぬ手数一ぜかけたものであ った。兎に角、この一砕こそは、善噂む知らしひる唯一の根本資料であつて/−のい砕が無くては、 苦境の史他の確暦な鹿痛ポ得られぬ程の聞係′ュ.汀寸′リ。然るにこ・の懐膵について、従祇畢老は殆ん 焉導公紳晃といふ、簡畢∵二旬のみに過ぎぬ。この文句も、憶怖碑 ど厘⋮知で■椚つにいは、イm心講な車である。憎仰について﹂・・︰つて居ろのは.僕に憎戚の﹁群疑諭序﹂の 、小〓ふ銑が、仰輿戚叫 ■で研究したものにあ・し†んば、令得の出水ぬものでJのる。 Iガの首尊大柵に閑J・ろ問濁 らしめ卑屈強の蕾料、而も空前絶後ともいふべきJ小で号.尊修念件の敢為を織卜込んで居一っが礪で この碑は、甲に史伯山土に於て重要宣椚構七有守るのみでは撫い。常にその中に善導の念伸一で知 鶉 30 唐の善導大師に鍾†ろ間超 三〇 ある。その乗彿願力といひ、一心専念阿浦陀彿願といひ、蒲陀偽名、亦望桔超要趣といふは.善導 が、﹁散華義﹂の中に、或は、一心専念輔陀名歌.︵乃至.順彼彿願放といひ、或は一心専念浦指名琴 定待往生といひ、まだ﹁定善義﹂の中に、専念浦陀名競得生といひ、﹁観念法門﹂の中に、二心専念阿 蒲陀彿願往生老といひ、又、一心専念浦陀俳名⋮⋮・得往生といへるものと符節を合するものである。 十帥十年 修難不至心考 千中勲 また碑文の中に、理復使精兵、廠想念錐徴而必就、二三子行、功根椙而廊待といふは、∵心専念と 雑行雑修との相違一ど説いたもので、﹁往生鹿讃﹂の但使尊意作考 一といひ、若能如上念々相績、畢命名期者、十郎十生、官印石生、輿傭本願.得祁應故、⋮⋮:若欲捨 専修難業考 古時希得山二、千時希得三五、輿彿本願、不和應放といふのと.また符節を合する如 くである。懐伴は懐戚と共に、善導の上足であつた。その念彿は、やがて善導の念彿でぁらねばぢ 通切に知る事が出水るのである。 らぬ。吾人は、懐悌碑を通して、善導の念偶の如何なるものであつたか、またその戚化の如何に甚 大であつたか東 龍門の虞合邦併銘について 暦六七二−六七五︶聖二年竿以上に五って成った。五年の後に、大彿の両に二大奉先寺一で立て、.解析 高宗皇帝の建つる所、皇后武氏之を助′、るに、脂粉健二萬貫を以てし、成享三年、至上一光二年︵西 善道種師といふは、即ち我が渾土数剋の莞連なるを、異に知る事が出来るのである。この大傭姦は、 斯の如き準備を調へて後に、洛陽龍門の度合郵大傭の銘に対する昨は、その奉勅瞼校倍西京賓際寺 ● 31 兼備の高修二七人・ぜ簡召して、住持せしめたのでぁつた。この大彿は、銘文にしよれば、徒廣十二丈 上下百四十尺あ∵りで、﹁正数束洗、七盲除歳、傭嘉功徳.唯此焉最Lと率Q如く、如何にも支那偶像の最 も輪閻具足したもので、之に対して敬腹の念に打たれぬもりは無いのである。之が建造の任に普っ たものは、書道藤師一ど努預とする諸人であつた。道と導との舶違はあるが、−︼れが善導に相違ない といふ事は、賓際寺の媒介によつて、関係づけられ乙のである。・而も年代上に於て、少しも矛盾が 寒い。又、賓際寺碑の媒介をたどつて、信仰の上から見て、泥団寺の上から見て、どこにも矛盾が無 いのみならす、却ってますく我が善導なるペきを確定せしめ二心。こゝに至れば、道と埠との粕退 ぢどは、問題とならぬのみならす、却ってその通用の例一で、容易に他に見出す事が出来島のである。 善導が蕗術上に於て豊富な天分を有って居た事は、除りに明白な事嘗である。その﹁法事讃L.の 中には、西方の石窟塞術を知って居たと思はれる明文さへもJ吋る。善導は、﹁経を造って何庭に致す と、自ら問ひて、之に答へて、造って摩周賓殿中に至れ。造って龍宮大蔵中に至れ。造って西方石 窟幽中に至れ﹂と言って居る。摩尼賓殿や、龍宮と細井べてある西方の石窟とは、小さぢもの七は 無い。大規模のもので無くてはならゐ。涼州のそれか、粉塵のそれか.明白でないが、恐くは熔煙 の石窟で無からうか。この石窟の知識があつたから、寵門の大俄禽の如き大作を焉したに相違ない。 範子の懐仰が、造烈を想うて崩心すと今川って居るのは、斯の如き功業を指すものであらう。支那の 彿像小、前後無比の完備鳳痛な大作を成し得た善導の名萄は、皆時京洛を登城したと⋮心ふ。↓でのス 庸の菩強大帥に閥†る同呟 ■l− lヽ●I 唐の善導大師に閲†ろ間越 三二 滋レ..後に墓側に、立派ヘ一幸が出黎、及び塔の出家た串も、不思議では躯⋮い。この大偶の成った嘩 七十二年にして、我が東大寺の成合邪彿が出凍た−し両者の・問に聯絡があるに舶轟モいから、善導爪 大作は、遠︿我が国に影響一で及ばした事になる。此事は、﹁支那傭蹟許解﹂第二の中に言ってあるか らこ∼には省筆する。 専念浦陀の善導が、成合郵傭を建造したについて、その信仰との関係に於て心配をしごれは勅命 によつて検校したので、自分の信仰一で表現したので触⋮いから、差支は無いといふ人もあるがそれは‖ 本風の立場から見る可秀である。支邦の思想信仰一で見るには、立場・ど壁へてせぬルームヘ?LJぬ。懐仲碑 にも見られる如く、∵念専念の念傭と般若紳兄とが、付軍り矛盾へ㌧く融合せられて居′りハ、捕陀像と慈 氏像とが、同じ党内に安置せられて居一り。善導の著述を見ても成分邦彿と輔陀彿とは、矛盾なくそ の専念中に融合して居るのである。他を排せぬ、いはゞ二即一切の浦陀であるから、善導にあつては 威令那備に対しても、之を請陀備中に融即せし空し居たものと見れば何の心配も塵いのでJのる。 杏積寺大噂塔について 善噂の法嗣は、懐戚を以て最も知名とし、懐悌之に次ぐが、猶一人金石の上から知られるものに、 渾業といふのがある。1金石草編﹂巻七十五の中にぁぁ、大唐紙典夫徳香梢寺ま辞業法師走塔銘並仔 といふゎがそれで、門人忠類等が、開元十二年を以て立てたものでゃり.・文一で見ると.法師の諒は 象、ザは浮業。高まの忌辰に落彩L二.軌鱒一﹁疑諭﹂の・Ⅷ徴■で剖折し.念定隼田の理要を抑揚したと 3:; あり、延和元年︵西席七一二︶、念彿しっヽ滅ノで告げ、その年に紳和原の大書時間梨の域内に陪望し、 霞塔を草フしたとあるから、念彿着てあつた事は、明白である。﹁臨終要訣﹂に、善導の字一竺甲業と して居るのは、弟子の名を師に混じたもーりである。南山悟眞寺は、この浮業の創始せるものであつ 抒情寺−二住縛したも再で、現有一い香稲守堵は、この人一ぜ記念したものであ・りうか た。これがまた薄噂′で怖異寺に㈲係せしめる因線でJ?っラかと田叫ふ。措銘によれば.渾業は、香積 ‡ヰで∴ろか・㌧ と‖心ふ。明の蕎暦年問に長安城南の舌蹟・ぜ詳細に拾禿した通暁は、その遊城南記の中に、寺倍の語 として、渾業措雅が、措上より塚落した事一で記して居る。英文は次に出す。ニの有精寺が、﹁長安志﹂ に永隆二年に建てられたと記して居る所から.異に懐惇が善導の墓側に立てた大塔が、やがてこの 香梢寺塔であ一句と推定する設がある。頗る慧眼の見方で今匂とは思ふが、これは研究一で要するもの である。永隆二年雄といふ.は、香箱寺であつて、大塔の事では無い。香横寺の立ったのが、紳和原 の善導の域内であつた事は疑ないが、善導墓側の大塔が香積寺塔でJのるといふ澄跡は無い。これに っいては、子は今猶﹁支那彿鈷詳解﹂第一の中に記した通りに、適噛の﹁遊城南記﹂に依順Lて、 香梢寺と賓際事と一ぎ全︿別へ住ものと見るものでぁる。池場の記事一で今日の地図に合せて見ると、そ の里歎ヤ方角に於て.幾多の疑問が起って、賓地自ら之一で踏査するに非人ば、何虔が如何に誤って 居るか、之一で決定し難いが、然し香積寺、賓際寺.首塔寺に開寸る記備については、予は之を否定 する事が出来ぬと思ふ。今その部分を掲げて見やう。 賠の善導大師に間でろ問題 34 唐の睾尊大師に脚†る問題 〇〇〇 っ〇〇〇〇〇 三田 ︵畢原より︶西南過耐禾嘩十軍馬香稽寺。焚川御宿之水交洗、其下謂之交水。酉合千澄、入千滑 〇〇〇 〇〇〇〇〇〇 付言、是塔上墜落者。・⋮⋮翌日渡交水、東南行十里。得胡村寺、励名著際寺︵賓際寺の誤ならん︶壁 亦l勝地也。寺塔中裂、院字荒涼。寺前壁上、有畢定雄撰浮菜繹師塔銘。書乱健、有登書法。寺 000〇〇〇 〇〇〇〇〇 記所謂尭桑相比、謂之盲塔者。今止存三五而巳。殿前石憺経、無可 00000 闘有進法師塔銘。是日小雨、少憩寺中。又東南五里、烏有塔寺。本信行雇師塔院。山畔唐兼行倹 書庫秋氏葬塔椅存。除小嘩 ○ 書、殊絶。︵光緒十八年版﹁石墨礁華﹂︶ 斯くまでに、明白に香確守賓除草首塔寺を記して居るのを、直に否定する事は出家ぬ。質際 ′ 寺は香積寺の東南十里にあり、而して賓際寺の東南五里に百塔寺がぁつたのである。十里といつて ト、日本里赦の壷強であるから−左程の距離では無いが、同一の毒で靡い事は見とめねばならぬ。 香積寺には渾業の塔銘のあつた事を記し、賓際寺には進法師の塔銘のあつた事を記し、首塔寺が信 行の塔院であつた事を記し.猶そこに所謂甫塔中の三五の存せる事と、無可書の経憧のぁつた革まで も記して居る。︵石塔寺や、無可の経憧の事は、﹁支部傭麓﹂第一の中に出してある。︶斯くまでの明細 な記銀、而も賓地踏査のものであるから、予は之に従って、貰際寺を、盲塔寺の西北僅かの距離に あつたものと断する。百塔寺は、関野兄の踏査に披れば、見る影もなく荒れてあつたといふから・ その隣♭の賓際寺は現存して居るまいが、然し踏査せば、何か得られやうと思ふ期待があるので− 予は一たび往訪したいといふ希望を懐抱すること、ニ∼に七年今狙其志を達せぬが、他日必ずの 35 意寛だけは寂して居る。 さて質醸寺にあつた進法師の塔銘は.﹁石墨鱗華﹂の第一の目餞の中に、唐大穂進法師塔銘陳光撰、 、 付智詳書、在温囲寺として、奉げられてあ 茸際が、貰際の誤なる 園苛政大徳進法師塔銘井序が、それである。大温国寺は、賓際寺の改稀である事は、既に之を述べ た。大滝臨寺の大徳が居た寺名は、賓際で無くてはならぬ。これによつて﹂ 00 ○ 事を、明了に知り得るのである。進法師の碑銘は、摩瀞多くして読む事が出奔ぬが、中に﹁始邁香 0 積□□、経口温固大徳﹂の語があり、﹁開元廿四年八月口日給口□十五日望在隊頑也﹂の語があるの で.香積寺にも任し温囲寺にも任し.開元廿四年を以て入寂し、こ∼に窒せられた寧曾知る事が出 射る。これまた香積寺と賓際寺郎温歯寺との相違を明白に語るものである。 こゝに更に起る薪問題は、京師の賓際寺の名が、軸禾原の薪寺に加へらる1に至って、景親元年 に温固寺と改められたが、更にその温囲寺といふ名稀まで予算際寺に伴って紳禾虎に移されたち かといふ事である。﹁駅西通志﹂巷二十八には、温固寺を以て、城南四十里塙水の岸にあタ.もと隋 の賓際寺ならといへるに徹する時は、泥団寺の名が痢禾原に移されたもの︷推定せられる。その描 水といふは、満水の誤だらうと思ふが、鎗りに問題が多岐になえから、こ∼ではその事に観れす。 唯諜診だらうといふ事を指摘するに止むる。斯くなると、﹁長安費碑記﹂に、犠惇の結ペる善導 唐巧畢導大師lニ脚†る問題 糟り冷導人帥に閲すろ間組 三六 の寺が.宮除幕で、後の紳和原滞開音であると記してあるといふのが、そのま∼是認せられる事と なる。何にせよ、軽度動揺の甚しい支∬ム派−iであろヤり.支那の畢者それ自身、而も賓地踏査したも のさへ、取扮に迷ふのであるから、文書の上だけ一で取扱ふものは、従らに阿或中に∴豆げ込まれる。 以上の額頭な痛究をまとめると、次のやうになる。 勅によ 押土敢の大成講書蒋は.長安城内大草坊■り賓際寺に化し、永隆二年に入寂した。弟子の懐悸は、 之が焉に.紳和原に覧塔を起し、その一基側に宏批な寺を立て、大塔を造った。永り‖元年 ︶に、長安の賓除草を浪岡寺と改めたの榛.その名を紳和庇の薪寺に移した りて懐怖をその‡詫とし.紳親元年に賞際寺主憶怖に、勅によ・りて隆御大法師・g贈った・︶景糀元 年︵軸親元年の撲? 下塔寺の西北 ものであらう。而して紳和虎の賃際セも、いつの時代かに温駒寺と呼ばれるに至った。朋代に. 紳和原の賓際寺は、川村守の名を以て存在した。その位置は、有精やの束南十卑 五里にある。賓際寺の大塔が現存するや否やは、不明である。 昭和五年が、善導大師の千二百五十年忌に細管するといふので.今や善導大師の研究が、続々と あらはれ凍た。この時に嘗り、有精守の大場塔が、大師を記念するものとして兆円せられて充た 頗る結構な矩であるけれど.若しや諜があつてはならねと思ふので、俄に執筆する事とし、之に因 みて、大師の史備に㈲する根本資料を得るに至った繹過を叙述しにのである。 :汀 宗教心理学の研究法に就いて 閲 寛 科挙の研究法は常に該科挙の歴史的潮流に従って蓮蓬するが、また今日の研究法は屡ゝ明日の該 AひpeC訂。r Re−直⋮S苧○皇1・︵A2eric21 JOurn已○︻l︶認宣岩−C 科挙の特性を決定する。その例澄を宗教心埋草の範囲内に求むるに、Sすbu早戸D●がASLudyCr C。−−くerSi昌卜及びSU2e =道り及び同じくC。告eこ00軍費表︶の両論文の研究法として質問紙法︵づ1e曾邑i。ml−与e冒こ1已・し を採用し、次い†J書eS︶W・が≠eぎrietiesOrRe−督∈Pl諷el−つe、富野に於て欝を Re−igi01︼こ岩戸 に於て民族心理畢的方法を用ひてS賢b焉 研究の二大映隔たる取材の偏侍並びに宗教経験の特性の看却を補正し、更にW21d丁字がまーker・ pnyc11010gie−柑・夢⋮d︰ブギth−−∽﹂戸ロd 個憶費生的暦究に系統発生的研究を常立させて以凍、宗教心埋草は是等研究法の麺化のために現在 の如き特性を帝ぶるに至ったのである。本篇の目的は、今後吾人の宗教心埋草に於てとるべき研究 法の方向を決する上の参考に供せんがために、現行研究法を歴史的費蓮の るにある。 宗教心埋単に於ける現行の研究法は、哲畢及び宗教の領域に於ける長い育みが∵心理畢の費蓮に 宗歓心翠撃の研究法に就いて 3j 宗放心増俸の研究法lこ就いて 三八 件ふ研究法の一舜化に影響されて現れた所の産物と見ることが出水る。最愛な意塊に於ての科畢的研 究法が宗教の研究に導入されて宗教心埋草が成立したのは.一般心理挙が哲畢から燭立Lようとす るまでに費達した後のことである。併し宗教研究に於て人間の精紳活動を封象とすべきことを唱へ た者には、夙にS什・A一弓︼訂Al一gu鼓⋮一S︵誓皐1兵岩・︶がぁる。氏以前の教父達は専ら紳性・霊魂不滅● クリスト耐性等の論議に没現してゐた町民に至って研究の限を始めて人性に挿すべきことが唱へ られた。併しその後氏の所説は潮流一ぎなすに挙らす、貰際に宗教研究に心理畢的方法一ぞ用ふるに至 ったのは現代の所産である。近世に至って、啓蒙時代の暫牽上の心理主義が斯る機運の初頭をつく ったのである。最初の頃は認識論や方法論が盛に論議されたが、その後Tト﹀つke−J・︵−莞申l−さこ及 び︸ゝbl︼ぎG・W・︵︼G会−−ごG・︶に至って始めて心理畢的研究の感度を現すに至ったのである。こ れより前、︼㌢eO=こ1人︼宍−−1G崇・︶及びせeぎr訂孤入−笠Gl︼G芦︶等は締約推理によつて近世哲単に 彩色を施し.精神過程の領域内に自然的解滞法を導入したが∴これは第十七世紀以後臨納法を似て科 Err享︶を用ひることは、蹄納法をして一層客軌的・科挙的にした。暫畢に科挙的精神 畢的方法と同義でぁるかの如くに思はしめるに至った。臆詮の形成及び検討に試誤法︵±1e試邑1乙 〇f.Tr已岩d を導入した両氏の功績よりも著しいのは.㌣Gつーハeこぎ㌃す︶G・︵︼宕ひー︼諾声︶い及び冒≡莞㌻ロ︵−可 〓−︼コG.︶であつて、氏等は賓髄と原因の概念の批評に於て一歩一で進打たのである。Fc訂は形而 上畢的暇定によらないで人間の観念の心理畢的起源の取扱を企てた。哲r打eleyはー﹂CCkeの感覚諭 39 OrRe︼igiOn切−︼謡Pを著して宗教の起源を自 ]芦lmeによつて完成された。Hul−−eは形而上畢的概念を心理畢的に批判したが を批評して更に一歩分析を加へた。質憬と原因との古い形而上畢的概念の破壊は、斯くIb已蒜及び 出乙己ey に始まり ために重要であるのみでなく、The甥已u邑His冒y との接嘲によつて生じた所の人間の脅威・恐怖及び希望の原始的戚備にまで翻った。蓋し中世紀思 想に於て﹁自然﹂及び﹁歴史﹂の語は﹁宗教﹂及び﹁天啓﹂の語に封立するものであつたのである。 訂ekeは賞牌一で以て吾人の直接に知り得べからざるものとし.唯1知り得るものはその性質のみで あるとし、精神は戚畳︵哲−−皇i昌︶と反省︵Reコ2CtiOn︶との印象される白紙であるとしたが、冒um2 A・︵−諾00−−芸ごに流れた。前者の両人は宗教史を以て天啓の展開とし、Hege−、 で分岐したこの反ル弔S・流れは・一はー乳−1g−G.声︵l卦⊥曇.︶及びHerderこ.P︵︼芸⊥00声︶ に.他はCu已つ︶ G・ノく・声︵−ヨCl︼00芦︶のそれに先駆する所の進化説を票数に適用した。而して氏等は非クリスト 敢民族の信仰の研究に歴史法︵ゴ岩H㌃t宅ica一己eこ10d・︶を用ひた。9m︷eはHumeに似て宗教の 起源を人位に見出し、恐怖・希望及び原因衝動に見出した。氏は超現象的賓在は不可認識的のもⅥ であり、依って紳の賓在を言ふ宗教は錯覚であると考へてゐたが、その紳の不可認識性の詮は巳i−1、 宣1n SどPrt︵−望岩−−∞声︶及びS−︶昌ぐer−H・︵︼警手−︼害戸︶に侍はつた。黙る貰詮論の昔然の鈴結と して、宗教を人間経験の社食的所産として研究するの横琴でつくり、こ∼に宗教研究は赴曾心理撃 と連繋するに至った。或る粘から見てH=meの最大業績は︼ハ⋮t−Ⅰ・︵︼べ泣−︼∞○ヱをその狗断的 宗教心理畢の研究法に就いて 宗教心軍学の研究法に就いて 四〇 睡眠から酪農させた所にある。−︵邑は宗教々主観商・道徳的のものJ見て..音数孝子芯埋草的根 こ′、・ u●. 披の重要なことを決定した。叙述は少しく前に翻るが、第十九世紀の初頭に於ては宗傲の本質に開 して大論争があ丁り、その本質を観念及び敦使にあるとする者∵成備にあると才芸、人瀾の意志に 基つく表の信仰であるとする者等がぁつた。Hegごーは是等の諸解揮を統合して点数を以て人性の すべての方面を包括する紅態としたが︰全過程は理性に屈すると七セ。虜の論の面白い鮎心、それ が宗教の哲畢諭に始ってその心理畢的性質に儲意を喚起した所にある。第十九億紀の末に近く宗教 を心理畢的見地から研究しょうとの欲求が強く彗てきた。雀eier2邑er− ∵ 宗教の心理畢的研究が上述の如くに暫畢及び宗教の額域に於て育ま.れて凍竺方圭︰、心理華や方 Ⅴ っに至り、宗教経駿が人類畢及びその他の赴骨科畢の方面か宣も研究され層ることを示してきセ。 的領域に向つてきたが、現代の科挙は宗教に射して人間の政令進化t於ける一要素上し一て臭味をも の費連と定義することが埠したやうである。斯て宗教研究は哲学的こ違約餅域から潮次に心理孝 宗教心は純然たろ本能ではなくて宗教的態度である。今Hでは宗教経験を人性の全倍Jしての或梯 に於て宗教を統制本能︵T−1芸。責ningI邑n。こと定義して笹い能力心埋草の臭眈々現七て.ゐるが、 れ、科挙的興味よりも他の考に動かされてゐるのを見る。㌢彗−は 哲nti日。阜−笥Pは宗教心埋草の方向を示サ。併しその諭は常に心理畢約分研から哲畢的問題に外 は宗警絶封綜依の感情と見る意見嘉表して.警欲求に路晶い美昌ri昔の学芸el嘗u凋 40 41 面に於ても亦斬る育成がぁつた。凡そ賓壌科挙としての心理畢は最近五十年来新たに螢蓮tたもの ぁつて、古苦から存した所の研究の結果と精神物理学の如き薪心理畢の嬰牙とを一言ldt︵−00冨仁 ︼琵〇・︶が一括して以来段々として螢達したものである。氏が最初の心理革質鹿軍£訊けたのは一人 ㌣ 七五年でぁつた。その頃から精神研究の賓駿的方法は根を固めたのであつて、今や心理畢は特殊 理畢を派生し、政令心理畢・慶爆心埋草・寮生心理畢及び應用心埋草等の分科を有するに至った 教心理革も亦その一分科とすべきものである。科挙的心理研究法は宗教心理畢の確立以前に固れL れてゐた。宗教心埋草は心寧畢の分科中最も複雑な問題を取扱ふものであつて、他の分科と全然 ってゐるものではないけれども、その材料は或る系腺に準フて選持し分類する原理計確立するに 難でぁる。心理卒研究上の各典った立場にある畢者問には種々の論寧があ云けれども.是等の原理 を確立するに至ってゐない。ん機能心理畢派及びその派生たる行動心理畢況は人間行動の生物畢 撃で以て進まうとするが、構成墟畢派は決して内的方面に於ける精神的行動を棄てない。又全然 内的方南に丑籠らうとする畢泥もある。精細分析畢派の如きでぁる。併し内的生活は如何なる横 にか如何写0方法かによつて外部に衷現されるものであり、外的生活は内的生活を統制し得るもけ でぁるから、行動心理畢派の如くに全然外部行動のみに立たうとする考ら/また全然内部行動町 二 に立たうとする考も不適雷であつて、客観的に外部行動を玉城すると同時に、内省的に内部 ● も観察し左ければならない。されば宗教的行動︵ゴ1e家督−−昌e︼1写iOr.●︸の卦折は一般行動の分析 宗教心坤撃の研究法に就いて 42 宗教心環畢り研究法に就いて 四二 と連繋すべく、内界の精神界析は常に生物畢的行動の研究と絶縁すべきでなく、また宗致経験の解 梓はこれを会心理畢的領野に於ける解拝と一致を保ち得るときに於て始めて正普であると知らなけ ればならない。 今までの叙述を大観すろに、票数研究は最初嘗畢や宗教の領域に於て行はれ、漸次に心理畢的研 究に輔じ、歴史・赦骨科畢・人類畢の如き政令現象の研究の洗鹿を受けてきた。故に宗教心理畢と ての研究法を諭する場合には、固有の心理畢的方法の外に、膏畢的方法及び赴曾現象研究法的方法 の影響を考察しなければならない。併しその前に賓験心理挙が宗教心埋草に如何なる影響を及ば かを見なければならない。凡そ心理単に於ける質険法は、人間の精神現象を物理現象的に取扱ふも のであつて、︵理想は兎に角現在の程度に於ては︶.その僧侶如何を考慮に置かないので.宗教心理の 如き侶伍を重視する方面に対しては、唯物論や賓詮諭のもたらす結果と同棲に宗教否定にhすり易い ■t のである。欝rbuckの研究ですらも、宗教を尊重しながら、新心理畢の研究法を何等の考慮なしに 通用して宗致心の侶偵知何を軽視したために、宗教経験の特性一ざ禦成することとなつてゐる︵宗教 否定までには至らないが︶。こゝに宗教心理畢は一般心理撃と連繋しながらも亦常に特殊の方法と注 意とを以て進む必要一ぜ威する。 背畢や宗教の領域に研究法を見出しっ∼、漸次に心理畢的研究に輿昧をもつてきた宗教研究は. 最近急速に進歩し意埋草に刺戟されて、研霊の上に於て瑠頗捗混合し∵−、に宗教豊畢 を生じたのであるが、その最初の費語は恐らくSt弓b一1つkが一入九二年≦コつe≡13CO〓つgつ.の敦謹 時代に馨表した一論文︵プ害量感erニー:≡︼㌻−1PSh訂宇邑萱︸A空つi一字声︶であつたであらう。 Sぎrb。。粁はm=−G・S・の字−・已書︷:E嘗l一S曽㌢身erC︼一宏re︼エ宇d尋gie已Sem訂l・ござ︼. −−−琶こ︶及び∴E㌢門冒買−−erのーーlt邑邑i。nt。t︼一eScience。rRe︼igi芦に刺戟され、他方J岩頭の 思想に甚だ影響されて.こ∼にH墓を中心とするC︼弓k宇⋮責Siギ派の好んで用ひた所の贋問 T訂P∽yC己︵︺gy。﹁Religぎ千妄芦 HP−ごJ⋮宗 宗教心埋草の研究法lこ就いて 及び Wl⋮d七 は即ち是等両論文の補正集藤である。 三氏の影響を受けないものは蓋しなからう。 即ち氏は有ゆる睡代、有ゆる氏族にわたり、クリスト致の外にマホ∫ヅト敦及びイ∴/ド人の信仰か ので、1n−一弓Sは→−−eゴrlel⋮彗r⋮g⋮ニー昌霊r訂nつつ、−㌢︵前出︶を著して是等の映鮎を補った。 あるから普遍性に、乏しい上に.宗教経験を他の普通経験と同税したがためにその特性を逸してゐる ぁる。前にも述べた如く、S︻Prb“。kの前述の二論文は、悉︿クリスト新教徒から集めた偏頗な材料で れは免責及び青年の宗教心の欄憶教生一で研究した意重な材料であつて、St弓bue︼ハのと同種のも・ので J。亡rl−已○﹃寡言l01つ苧に寄せた。間もなくCOつ、芦A・のT−−eS号it邑lJき︼冒○●が出たが.こ 一入九六年に訂lbpこ・宰は・T︼−eP∝宣1U︼C巧CrReligiuusP︼1つーlO−de声と超する長論文一ぎ 究及び思想は、一として 詳l二派の施蒐研究連動及びその青春期の研究は、宗教心理畢の確立を助けた。宗教心の数多の研 るに至った。有名なる 紙法を適用し、宗教の回心的螢達及び自然的螢達を廠究し、本篇初頭に馨げた所の二論文を公 43 宗教心翠撃の研究法に就いて 四四 らも材料一ぎ採った。加之.常に宗致経験の特性に改革ぞ排ふこせを忘れなかった。本書は㌢r㌃粁 Reま邑切、−警声でぁつ 並びにWu邑の著書︵前出︶と共に宗教心埋草上劃期的のものである。贋く宗教経儀の社曾的側 面一で取扱った最初のもの∼一はDトtくel上喜・汁の]PimitiくeT・・⋮li訂i−1R富gぎs た。J昌e仰の研究の故旧は哲畢問題にまで突入した鮎と、宗教は敢曾的・歴史的産物であるといふこ とを看過した鮎とにぅら。ここにWu−1dtの前述のま〓ハe−・−︶誓llC−〇gぎド苧ld︰眉喜一︼書■ld︸註giO−−− −苫の・が意義を有してくる。併し氏の研究が原始的な宗教の範囲に止ってゐるのは造峻である。 斯る宗教心埋草の螢達の間に常に育まれてきた研究法は如何なるものであるか、而して如何に其 等を活用すべきか。以下吾人軋Jれを1高率的方法の影響冨宗教心埋草研究法、2・軋骨科畢的● 更にこれを乱国有の宗教心埋畢的方法、h箪感心理学的方法、乱費生心理畢的方法及び孔敢骨心理 螢達した方法.を宗教心麺畢上に適用したもの、三群に大別して論評するであ 人類畢的方法の影響ある宗教心理畢研究法、及び3.固有の宗教心埋草的研究法即ち心理畢の領域に ■ 内部行動は必す何等かの形に於て外部に表現され られた時代の遺産である。されば行動心理畢汲は全然これを排斥する。その理由を見るに、吾人の いふ研究法を授けられた。内省法は精神現象を以て物的現象から分離しに別種のものであると考へ 哲学は知的思非の方法をとることが多いので.暫単に育まれた心理畢は・この方而から朴掛掛と 畢的方法の四群に小別して諭するであらう。 44 45 部に閉籠められた精細活動ならば侶命有っても無いのに等しく欝降そん誓 精銅活勒はないので、 脈捕・呼吸・衷情の微に至るまで何等かの形に於て表現される、吾人の内省によつて知−り得るものは 自己のま軌状憩のみであつて、科挙としての法則を見出す上に斯る個々的のものは何等の億偵がな いといふのでぁる。ために極端に内省法を排斥し、石動の客観的観察を以て進まうとしてゐる。こ のま張は確に内省法のみによつてゐた時代の心理学に痛棒を加へたもの ら待た材料は科挙としての普遍性に乏しい。また吾人の重税の活動は何等かの形に於て何時か外部 に表現されるものであらう。併し内省を基礎としてゐない推論は誤謬を合むことが多く、畳は必し も貿を排斥してまで科革的法則の確立に塵興し得るものではない。またこ∼に木挽があつて木片一で 挽くのを観るに、外部からの観察では、時間の長びくに従って生産数の滅するのを見て、これを疲 弊の結果であるとする。これは増価的概念でぁつて、自然科挙的概念と同種のものでぁる。然るに 木城自身になると全然選った軌察をへ仏し、最初は容易であつて後には困難でぁると認めるか、或は最 初は新奇であるが後には親熟を威するかち知れハ甘い。これは叙述的概念である。宗教心埋草の研究 に於ては、殊に未開人や原始人や兄重から材料を集め、或はWu己什の民族心理畢の取材の如くに 異なる放行者の観察や習俗のそのま∼の引用は、行動心理学派の陥つたやうt、機能的概念のみを 採用して、其等の行動を賓行してゐるま健の叙述的概念を看過し、随︵て不雷な結論を導き易い。 只者こ。蓋;︻雪e;Fl卦∽いHOpki−一ヱ]2⋮eHいG邑e∃yいSβJerいCPi乙いTCy等の民族に 宗敢心理畢の研究法に就いて 宗教心理拳の研究法に就いて ・四六 る宗教の馨蓮を諭する老の中には、ノ壬−1d什の民族心理畢の取材の陥つた取扱と同様の非難を受け待 べきものが渾山ある。殊に比較宗致畢の範囲には斯る域が多い。併し又内省法を主とするむの、即 ち叙述的概念のみを偏重して充た哲畢的研究法の面影を有するものには、機能的概念を看却してゐ るものが多い。機能的行動と叙述的行動との和一致する朗に宗教現象の心理畢的研究の正しい立場 があるであらう。 塵史.人類畢及び諸民族の安井や宗教の上の文献に見出されるやうな敢合駒宗教の客観的表現の 研究方面に於ては特に機能的概念を偏重して叙述的概念を看過した研究が多い。一般に斯る方面に 於ける研究法は史畢研究法及び政令科挙研究法の影響を著しく破ってゐるために、ともすれば行動 心理畢派の陥るやうに客観的現象の皮相に囚れて其間の現象が如何なる主観的動機によつて起るか を看過するの弊がある。暇命それに注意をしてゐるにしても、該現象を生起してゐろ壬嘩例へば 未開人ならば、観察者も亦それに頗る近似した思想及び戚情一官有しなければ完全に解辞されるも ではない。また或る時代の宗教現象の解梓は、その時代の時代精神の背景をぬきにして考へること は出凍ない。かくいふときは、未瀾人に近い畢者もなければ、過去に生れ襲って時代の人たること 政令の精細や時代の精神等に疎い人の報告す石所を、何の批列なしに直に用ひることは、奥の解澤 の意味は、W。ndtの民族心理単に用ひたやうな、単なる放行者の観察談や、該現象の生起してゐる も出奔ない謬であるから、真の解澤はむづかしいといふやうに思はれるかも知れない。併してこゝ 48 47 ・ど下す所以ではないといふのである。文化の高等な鹿骨に生れた専門の教養の高い宗教研究家は、 現象をその標準によつて解せんと寸る締がある。これは或る程度まで何人も免れ待ないことであ.る かも知れない。またこゝに警戒したいことは、或る現在の宗教現象を解辞するに、その歴史的費連/ の霹過を研究して、その結果として現在の現象を解滞する場合である。面前の複雑な現象の異相を 解かんがために、その進化又は蓉達を翻って簡軍な小心干の根本源を究めることは、研究法として又 は解群法として極めて重要である。併し現在の現象は必しも歴史的.に規制されてゐるものではなく て、その時代と個人若しくは囲燈によつて新しい勒輝が附加され、或は内容を獲じてゐることがゐ ヽヽヽ るからである。この部面に於て現在の宗教心埋草に用ひられてゐるま要な研究法は比較法である。 各種民族、同一民族内の各種型から廉く宗教現象を蒐めて、相互に比較研究L、その眞を究めんと − する方法である。内省法の如ぐに個性の特殊性に誤られることが少い。併し比較法に於て注意すべ きことは、前述の如くに、各種民族の票数現象を.其等民族の歴史・民族精神・社食状藤等をぬきに ヽヽヽ して比較してしまふ傾向がある。こヽに於て吾人は環境法とでも名づくべき方法を集出して禰正 る必要がある。現在宗教心埋草の金城城壁とする所謂Sぎb邑打護すの質問紙法や、同心その他の 票数経勝を直接口頭を以て、又は文書を以て表現させる所の戟越法や、兎に角その取扱ふ人数は囲 健的であつても、その眞の単位は個人の宗教経験の告白にあるやうな研究法は、その表現だけを直 接に取上げて研究上の結論一で下す波動とするが、併しその前に、吾人はその表現を焉さしめてゐる 宗教心鱒畢の研究法に就いて j8 宗教心雌攣り椚究法に就いて 四八 所の偶人の環境︵膿琴境遇姦養・時代・場所等︶一で同時に聞朗して、常にその関係の上に判断を下 してゆかなければならない。宗教現象及び道徳現象の如くに個人的・政令的催仲によつて規制され ることの多い禎雑な現象は、特に直接法と間接法との併用を必要とする。犯非の槍葦に於て、現行 犯について断定を下す場合ですらも、僻ほ間接の甜按品を集めなければならないのと同理でウQ。 今‖の斯方面の宗放心理寧の研究者は、W−一己tにしても、J書誌にしても・St弓buclハでも−訂ub革 も、等しくこの直接材料のみを基礎として結論してゐるのは遺憾でぁつて、赦骨現象としての宗致 一で研究する場合にも、個人現象としてのそれの場合にも、環境を調査し、傍系材料一ピ集め、常に是 等の閥係の前に直接材料ぉ庭如すべきでJのる。一歩曾遊むれば、個人の宗教経験を解辞する場合に は、特に甲心魂象及びリグァイデアルの如きもの、研究に於ては、傑畢的方面から心理畢に導入され ヽヽヽ た桝のノコぎ。rの臨沫法︵ゴー。Cli=iつPl冒こ−。︵l・︶の如きも必要であつて︵是等が病的現象なると正 常現象学。と一ピ悶はす︶.身髄的基礎に著目すべきことは敢て己㌃∴萱呂e↓の著眼をかりるまでもな いことである。 仙から牧人されて目下固有の宗教心理畢研究法として重要の位置にあるものは質問紙法でぁる。 これは紳彿観念・同心現象及び紳秘ま義の研究いノ如き宗教経験特有の現象の研究に敦を奏してゐる やうである。宗教心理学に於て回心現象は最初期に注目されたものであつて、これは神秘主義の研 究を喚起した。上述のSt⋮■bl一︵・kの研究︵l八九七乍︶、︵ごeの→訂S号︷u乙−きー⋮・及びJ書つ∽ j9 のノ一≒空︻雲−〓宴筈=ニ▲︰エーつ1■ぎ1つこ茎ドに於けろ同心の取扱は、同心問題の研究を櫨にした。一 九〇一年に苧亡邑巳uri㌢rはr−Ⅵウ訂︼邑e罰dl=邑i−亡邑−■d普u㍗﹂官署して紳醒ま義の極端聖た る巳aladyと、]コE岩tici害とに注意を向けた。氏は紳秘ま養を悉く襲憩現象と見たのである。翌年 宝一−芦 ヨildつ−・ の醐秘ま義に向つてとつた所の鰻度は一厨寛大であつた。之の彼の l≧bじ、J・lI・の螢表したl≧∴F・−d2・毎P−乙2巨−t已︵=訂Ⅰ−一首言︵・⋮︼=・かtie・︸Ⅷ、芽vlle︼︺≡ご肌色l古き 〓ノ一︸一茎♪ ︼−警︶ フランスの畢者は写一r山告−・の如くにこれを精神病畢的現象とすることは︷甘くなつた。≠つ Hヨ声︶ J。⋮■・阜﹂コこ冒∝こ昌きぎ1diつSi−−己y切告已−邑直C︼−− である。氏は後者の型すら異常とは認めないのでぁる。その他︵ぎ. / ソマs苧ism・とTニつ革ま已・ic巳y裟つぎ已・とを隠別したのはっ邑tの≠e芽−i昔=止Cつ一望計言責感−−諾声 ︵C︼≡−声 舛コ2乙 ㌢l−.C窃○ごl−e眉象c已芽ノJ㌻t㌻−1こIibbert −苫什ごHOCki−1甲声e冒⋮−︼ger苧dinH≡蔓l賢−︶eri雲つこ≡ごFcubp︶ゴーつー︶Ⅵ宣乙垂10﹃ 号=S己宣訂i当︶−琵Pも亦斯方面の重要な文献である。さて紳彿観念・同心及び紳秘主義に関する ヽヽヽヽ▼ 研究法として奏効した質問紙法︵その他贋く現今の宗教現象及び配合現象拉びに賓駿法の奏効しな い心理現象の と共に貿開法の中に従属すべきものであつて、研究せんとする要目を印刷した質問紙を各被験者ま G已ぎ、句・の用ひた方法である。併しこれ・で殆㌻でのま要方法として研究を樹 たは被験者を多く取扱ってゐる研究家や賓際家等に配附して筆答を求める方法でぁる。これは最初 冒r弓ぎCh・及び tパ歓心理学の研究法に就いて 宗教心軍学り研究法にこ就いて 五〇 立したものはぎーlつこ竺及びその寧徒であつて、彼等は殆ど濫用する㌻でにこの方法を賞用し た。芽=の・′宣c等=つつ㌔・ノ、つ一㌢はその最大な産物であつた。︸賢etは質問紙法を攻車しハ与がらそ の精神検査法には口頭質問法を用ひてゐるが、氏の一系統の精紳検査法を改訂し又はそれ・ ・示 この方紘一ざ等束した妄に、︼ぎl∵一ノ≡一一︹ も術は左けれは㍍︹たい。上甑察すべき現象生起の催件はそ山強度及び性貿か︼計芸的に捕 その経過を観察しなければならない。り“各観察はその結果を正確にするた町には一腹鰻の け自ら自由に規定し得る欺愚にゐなければならない。り“賓験者は常に注意を緊張して現象 奥の心理学的賓駿は次の四催件を遵守すべきである。L貫験老は観察すべき過祥の佳起盲出水るだ 取察に伴ふ映鮎を免れないのみでなく、解答の信否の如何を列するに難いといふ瓢にある。 等は盛にこれ一で非難した。く⋮きの非難の詫鮎は、質問紙法は賓瞼的調整を政いた所−り普通の自己 度を判断寸与1とが出凍仁い。されば≡二派の畢者が 被験者に封してこれを用ひる場合は、故意又は糊塗等に守る虞侮の答もJ明るので、其等の信憑の程 されすに誤解し又は軽率に答へられる場合も抄くない。殊に里芋その他研究を十分に理解し 研究に適する。併しこの方法は解答者の説明を藤明することが出凍ないのみか、栗悶が十分 を遂げるに適し、質瞼の効果を奏しない精神的方屈、例へば宗教意識・道徳意識・理想等の 法を妾出したもの、中では、殆ど貸賃間組はを採用してゐる。質問紙法は一寒にして敦宵千 て自己の方法一で樹立した単著の・中で、入畢試験や其地表に多数を検査す一品合に用ひる 50 させなければ写らハ㌧いと。而して ノコ≡≒は是等四條件の全部を充足する嘗駿を完全賓境と挿 質瞼であると許した。︵W2き亡訂rAu賢ge韻−象ment⋮11d旨=l山e家hOぎ て上述の四倍件の一つだも充足しないものを低質廠︵Sc11ei−−n壱象1賀l且と十ひ∵質問紙法は即ち僑 その一部だけの充足されるものを不完全賓駿と耕し、而して外観だけが心理畢的賞陰に類似⊥てゐ ′ 柔軟心甥挙の研究法に就いて の賓廟とは典って精細㍍数字を要求しないで寧ろ大燈の結果若しくは傾向を知るだけで十分な場合 不普な結論を下寸ことは不可であるけれども、精細の研究に於ては物理的性質を多分に帯びた場合 批評及び︼−已lの反囁は互に姉手であることは明らかである。勿論削雑な研究の結果によつて大願 の如きは眉間紙法よりも撃ウ﹂れが結果釘統計的に庭理す今Jとを攻草した人々であ宣。ヨ己︻の, 却って反唾を試みてゐる。︵−宣︼∵てC21を芸;IOを■−︼七草仁︼1㌢撃︼﹀・患戸︶。J2蓋、ノく・及び写ぎき骨よ 畢の取材は却って杜撰であつて何等の批判をも加へないで放行者等の観察や報告を採用してゐると てゐるが如くに親犬な肇問をも馨してゐない。氏は斯る答研から一歩を進めて二く1⋮d什の民族心理 人の漠然思惟すろが如くに別姓な結果を得べき性質のものでもなく、又現在多くの人々に用ひられ 随ってそれに答へ得た解答は正確であるといふのである。賓際に氏の質問は甚だ精細であつて.、世 は、氏の質問は頗る精細であるので、斬る事柄に十分に熟達した着でなければ應答に困難であら、 号音C︼Cgis︹−1e−・七仇y︵・︼−○−Cgiごひ・A=r︼・こ筈ドの研究法論にも現れてゐる。︶︸Ⅰ茎のこれに対する答辞 D昌kg止︶七唱C︼lO︼●哲udie−︼・こH●Bチー箕苛−声∴父蒜1㍗岩・及び同様の 51 宗教心埋草の研究法に就いて 車一 も砂くない。故に寧検法も役立たす、現象の大鱒の傾向を知るだけで十分な場合には、例へば宗教 くでも、一人でも、その場合に應じて︶比較した場合に始めて償偲あることであつて、個人の悉く 然的成長の研究の如きに見る︶、極めて浅薄な仕方である。同二個人の各馨達段階を取扱って︵数多 とは︵我国の質問紙法の恕果を統計的に取壊った二三の研究の如き、或はぎをl︵計の宗教心の自 二十歳にはかく/1であるとして.これを直に比較し打以て紳彿観念の年齢的螢展であるとするこ 的取扱は殊に宗教意識の研究に於ては皮相浅薄となり易い。十歳時の紳彿観念はかく∼㌔である、 ら、同一個人の螢達に倖ふ宗警還の欒化や、深刻な心的麺化の秘奥を知るべとは出奔ない。統計 文献を分析してもよい。質問紙法のやり方は、或る一時期を限♭、異つぶ個人を取扱ふのであるか しめ等して、宗整息識の欒化しゆイ状憩を知る∴﹂とも出家る。3.文献法。憾悔倦昌叙侍・告白等の ヽヽヽ に一質問催項に射しては長文の文章を認めさせ、該個人の各時期に幾度か同様のこと密反復叙述せ に於ては、必要の項目を明示して、長期にわたって其等に対する思想や感情を叙述せしめ、或は特 品犠を求める方法である。これに依って贋問紙法に於ける間の誤解、普方の欲する方面に射する答 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ の腹準解答の陵昧に陥ることを防ぐことが出家る。2.日記・文章等による叙述。宗整息識の研究 求めるに、問を設けぢいで或る程度の考へ得べき答をこちらから明示して、其等に封する賛否及び の上述の如き妖艶を格正することは出奔る。補正には色々の方法があらう。1.品隋法。これは答を ヽヽヽ 意識の研究の如き場合には、不完全ながら質問紙法を全然排棄することは出凍ない。併し質問紙法 _ 63 別なものから得七結果を穐的に比戟してゆくことば明らかに諭城壁換の誤謬 囁Hるヰb のでJのる0 の意味に於て、かの多数の兎葦の身憶測定を年齢別に統計して︵推に取扱った豊里が皆同一個人で ない場合︶、直に樅に比較して年齢による馨育現象と見るが如きは誤謬であつて、同一個人の教護を : 数年間経験し、かゝる結果を数多の人々から獲て統計とすることが立蕾である。故に縦に見て、取扱 った被験者に連積のない場合は/℃の統計は構的に比較することは出撃﹂も、縦的に比較すること ば出家ないのである。斯る紋陥を禰ふためには、上述の2及び3の研究法が通常してゐる。 ヽヽヽヽヽヽ 欒鰻心理畢的方面に於ては病理畢的方法がある。この方法はをの礪自の貢献の外に、病的行動の 研究によつて正常行動の開明に光を投する宣のである。この方法は質問紋法と同じく回心現象・紳 秘ま義の如き現象及び苦行など頑経病的現象と関係ある現象又は神経病的現象の研究に用ひられる ︵神秘ま義・回心等が病的であるか否かの論は始らく措いて︶。質問紙法は是等の現象の研究に於ては 主として破験老の叙述にたよつてをり、且つ正常現象の研究にも用ひられてゐるが、病理畢的方法 は是等諸現象を病的現象と暇足し、叙述の裏面を敬譲して解辞しょうとしてゐぺのである。現今、 ヽヽヽヽ 宗教心理学の方面に於いて病理畢的方法として用ひられてゐるものは精細分析である。精両分析は 写el−d及びその畢徒の創始し及び賞用してゐる方法でぁるが、副意識の観念を示したのはJ琶CSの ぎTietie訊も﹂虻gi妻戸琶−ien︷祐、︵前出︶である。精細分析説は副意識を設定し、夢の如きものを 副意識の認識される場所であるとし、赴脅制裁によつて規制される上層意識の深層を探って、創意 宗教心埋草の研究法にこ就いて JJ 小石詔心理隼り研究法に就いて 五酉 哲me ︼諾コ・及び≡弓︷ご1の A初−莞tS︵︸r し′字−・■く.﹂≡−畏等の反射派がJり乙けれ巨Lも、精神分析を奉じてゐる鮎に於 の徴 分析及び研謬によつて知らうとするのであ ︰識界に抑即された本能的・性的存在一で夢に於ける象 乙J j÷ニー二振に封し∵ の ]才一ご一つ﹁ノ1iつヂ t′﹂は攣わがハ㌧い。㌫故現象一文印刷分析的見地か−一っ取扱つ十∵ものには、芽−■讐er t㌻二L−∵ニ﹁L=〓ニ.⋮=tl一つ一﹀ソユ三言iニ一l⋮′〓ゼ二=J2一言≠・已 ≠二ソ子吉て▼r冒二号−1∵l誌﹂・が一のる。阿心や紳組ま義や苦行に於ける種々の表面的象徴を見て、 それ一で分析し舐諾してその中に合まれに革質を閻画しょうとする著限は頗る深刻である。併し副意 誠む以て全く観察か・上附推した位牌であ乙と守れば、そこに何があ一るかは誰も知ることが出来ない。 加之、それに碓謹寸aことが出水ないとすれば、鮎澤一で下すことすらも望まれない謬である。また 刷点滅は日放に性的1i件の一山に江口しようし﹂するのかっ何故に副意識は同一の感度又は欲望をもた へ与ければならないのか。暇令、色々り事件が副意識界にめろとしても、性的事件のみが特に上層意 識を支配し得ろといふ横合はない。それがあるとすれば、先づそれを開明しなければならない。 故 に夢が蛋魂や紳偶の存在を信せしめるに至った一原因であるとされても︵宗教意識の系統寮生に於 て︶、また費井上宗教が性の粗念と分離するに困難であつたにせよ、精刷分析の如き斯る幾多の根本 的疑鮎ある畢読む基礎としてゐるカ法を、何の限定もなく科畢的宗教心理学の方法として用ひるこ とは危険であノ一〇。殊上回心・軸醒ま義・吉行の如き現象を病的のものと断定すべき澄枝は不十分であ っで、かの神経病を病的とする否墟の一が身健の機質的異常にあるといふやうな科畢的澄明の可能 り・J な葦披を有すろものに比すれば、異常及.び正常の解決は頗る困井である 教現象を病的と仮定することは軽率である。この訣黙を群護するために、精紳分析を賃用する人々 は、鼻憩行動に於て働く所の勒因は正常行動の場合のそれとは畢に程度の差があるのみで賓の差は ないと侭足してゐるが、人性に質差のぢい以上それの慶態現象も亦正常現象と共通のものであるこ とは憬足するまでもへ仏いことで、若し機質的異常を以て正常と異常との有力な澄枝でぁるとすれば、 是等票数現象は号−に機質的異常を見出さない限りは正常現象と右傾すべきであらう。 ヽヽヽヽヽ 乳錐心理畢的方南に於ける研究法即ち教生的方法は宗教心埋草に於て二方面に適用されてゐる。 ヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽ 一は個冊発生方面でJのつ.て︵免童心理畢的︶、他は系統教生方面である︵民族心理畢的︶。後者は第二 群なろ軋食料畢的・人類畢的方法の影響ある宗放心埋草的研究法にも跨ること既述によつて明らか であるが、また螢生心理却的方法の中にもはひつてくる。この方面に於ては、宗教の費達の研究に 於ても、兄竜及び民族の一般精神の馨連及び進化の研究に於ても、また身僅の鷺宮及び進化の研究 に於ても、佃慨螢蕉と系統澄雄との間に大なる類似を認め、教育原理に㈱して種々の臆説を生じて ゐ一〇程であつて−民族に於けろ宗教の進化と佃饅に於ける崇敬の螢連とは和瓦にその不明な鮎軒開 明しあふ程である。故に雨着の問の比較研究によつて宗教及び宗教意識の螢邁進化の掠理を見出す ばならない。この臆説には三つめる。約設原理︵Tl一つTl一≡︶, ことも出凍る筈である。併し胸懐教生と系統教生との大なる類似の原因を解辞するには、その立脚 †る所の臆説を吟味してか∼らなけ叫 ハポ欲心稚寧の桝究法l二就い一\ 56 宗教心理学の研究法に就いて C=ど鼠tu︼atiOコ・︶・致用談︵≠eゴーeO−・y Orqtility・︶及び封應論︵±ぎ﹂享eOryO︻9rresl蔓 ある。約詑原理には三つの洗れがある。第一は第十八世紀から第十九世紀初頭に於て現れてきたもの で、一転00i点∵HerderいROu仇挙uい呂egeニケ9邑e蒜葛1eerいNil︼er等に普遍してゐた併の洗であ 殊にZi−1erはこの概念一曾教育単に適用して所謂文化史的段階設︵︼ハ已turgつSCFiegiehのS七宗−1th8rie・ を形成して、免責の教化は文化史の螢展段階に従って進むべきこと哲説いた。第二は同じ頃に生物 畢界に於て育ったもので、呂弓霊y”G・St・Hi−Pire∴岩ec訂ごく○−1出grいAg蒜i票哲1■re00”声M E●目星じ打e−等の間に流れたものである。殊に舅罵Cke−は胎生畢の形態的方南に於て個偲螢生郎系統 螢生なる公式を浩T∴これを生物教生法として樹立した。第三はHa〓、声の反復説︵隔世邁博託︶で あつて、HP男打e−が身債に於て樹立した考を摸延して精細にも適用し、かくて身心螢膏を約詑原理 によつて一元的に競りしよう上したものである。氏はこれを遊戯の発生に於て力説した。何れにし ても.約託児理のいふ所では、個憶発生と系統費雌との類似を解梓するに、前者を以て後者の要約 反復でぁると見、後者は即ち前者の原因であつて.その間は邁侍によつて連結されてゐると見るの でぁる。併しこの考へ方は入野ピ除りに定命的に見過ぎてをり・、個人が唯、1人類の進化史を反復す るのみならば新たな文化は如何にして創造されるかといふことを解辞するに困難であり、且っまた 近時生物畢的にもこの考ほ否定されつ∼ある。珪殖本能は種族の進化史に於ては最初に現れてゐる のに.佃倍の常連史に於ては最後に成熟する。脳髄は系統教生に於ては紳紅繊維の一部分の結節と その順次は基等の祖先系列に於て坐起した順序によつて定るといふ 再でウ0∴一故用盈では、傾扁わ焼成に﹂−二奪が生物髄の 生存に有数でぁるが故に選取されたといふ性 貿一で合へ衷等い出現する系列的椒序は個醗及び種族の生物隼的要求によつて遥るといふのでゐ一Q。 宗致心軍学の朝究沌に二就いて ● 傾向は博昭次に賓現してゆゝ∴ 正脚地上一︺追伸素質の構成は嘗て種族に於ける前各代に追伸したものの絶て一で食んで一でり、是等町 者を因果聞係と見ないで.並行と見、封應と見ろのである。要すこに、約訟原理では、個酷発育の の・南進化に対して同様の手段を以て影響すろが故に両者は類似し並如してゐるのであると。即ち両 =‖﹂¶ 上に起乙もいであーるから、何れが原田たり結果た一りと一で悶ふ必要はへ与いので、自然は佃髄及び種族 ︵︶・ぞこ与ニ・等の思想中に合去れてゐる。この誼に披れば、佃倍発作も系統費珪も同じく有機健の 機は、趨準じ淘汰とり結合した結果として決定されると見るのである。封應説はC−芦つ弓Eつ盲芸1薫い し、新し或る椰に期る反應が保留されるときは、その柿の仰慨費蕉に於ける斯る特性の費現する時 こものとし.系統教生の経過小に或ろ反應型か是等の原理に二従って生じ、而して保存され又は預失 頂因に賛すろものと見る∪帥も教育も進化も共に偶然遊興及び適切反應淘汰の雨原理の働から珪す との類似を解梓するに、約説原理の如′、、後者を前者の原田としないで、両者を以て共に他の同一 致用詭はT一1C=乙ニハeがー︶こ弓司i=.の思想に準っいて唱へ乙桝であつて、この説は個牌教生と系統教生 種の兄貴も何ほそれに細管すa遊戯一軍行ってゐる。斯る革質は約許原理の説く能はぎる所である。 三て霊したものであるのに、 ;〉J 5S 某社心狸掌り研究法に就いて 五八 まに封艦説では、素質的特性は、個人がそ・い環境に対して賛む所の代演的反應形式によつて︵斯る 反應は偶人山どの費通段階に‘J︺現れ乙︶、その静香里・よ封帰鮨的の一始端から示してゆくやうに出奔て をり、而して足等圧應は油例種族密通段階に封應するといふのでJのる。約設原理に大なる快晴のあ ることは上述の如くであるが、効用設は薪ダーヰン説と共に起倒するもので、更に音明を要するや うな特殊の臆詮に立脚し過ぎてゐる。是等に比して封應詮は購求益々開展すべき徐地を多分上布し てゐる。故に㌫歓心の個倍螢性的及び系統螢珪的の研究に皆って、両者一で比較してその間に洗れる 馨丑の原理又は法則を見出さんとならば、斯る基礎観念一で吟味すべきでJのつて、三畢説の外に更に 新しい教育原理を暇足することは人々の勝手であるけれごも、吾人は封應溌によら多′、の同情を寄 ヽヽヽヽヽヽヽ せて、個健教生と系統費井との間の封應を追跡すろ上に役立つ所の数多の車掌一で多く蒐めることを 人々に推奨すら。 最後に赴骨心理撃方面に於ける敢食心理的方法に就いて考察してみょぅ。前に宗教研究が心理的 方面から社食科挙倒方面に進出してきたことを述べたが、宗教心理葦といふ軸域からこの色彩を見 れば、乃ち赴魯心理畢的色彩が加味されたものとして見られる。宗教経験の研究は、上述の如く国 有の宗教心理畢的・襲媛心理畢的・螢巷心理畢的の三方面と相並んで融合心理畢との関係の方面に も進出してきた。然るに宗教鮭殿の研究のこの政令心理畢的進出は機能心理草の根本観念と混合し てゐる。祉含心理畢的方法は囲憬よしての民族の票数や種族の生活に於ける宗教の螢建一竺鱒究守る  ̄・9 鮎に於て宗教の心理的研究に用ひられてきたのでぁる。機能的方法は宗教心の問題■で取扱ふに.個 人がその環境に適應す乙場合に宗教た如何へuる部分を占めてゐるかとい・爪立場から寸る。即ち佳存 競軍に於け一エポ数的機能如何Jで︰示さうとすろ。蓋しこの里に威する顕著へ与文献は︼ハニ亭︼.■い≠ニ ⊇苧rつコユ註○⋮≡、︼一つ芽︼質21切○三等ぎ壱責牒l茎㌢及びT一一e冒乙。Pヨまr㍉冒︼i号=こ芸丁の二番 で・項つて、>≡つⅥ−︼J・Ⅵ・︺l︶Ⅵり土︶つlユ葦=二三亨 妄 ∫弓 l1・ぎユノー;︼⇒及て︶;つの≠つフて︼=・−−ニモ、 こ.≡せき≡ニ・も亦同種のものでみ・ん=苦茎〇=い、≡二﹀う≡ニモっ﹁i︼=二三亨≡:−芋二三一. はパパ数現象の融合的研究・で特色■でしてゐるけれども、機能的方面よりも構造的方南わ研究である l︶邑什のT︼−ニ己苓二勘c⋮草⋮1つ芦︵前出︶は政令的見地と画趣的見地とのや問に立ってゐる。祉 骨心理堺的方法は、宗教現象か二群囲の所有現像として見る鮎に於て徒凍の如き個人現象的取扱一で し王府究の結果よりも異った南白い方南を展閲して′、れるに退ひへ√。 てゐた㌫敦現象にして始めて正常として汚名一で雪ぐに苧じものが■のるかも知れハ与い。併し探別な 人内にひそめられた方面に突入して研究した結果と棚供って結論を下すべきであつて、さもなけれ ば皮相な解将に流れ、深奥な心的経琴でほ滞な統計的取扱を以て待遇するやうなことがないとも限 ら完い。要するに、個人心理の軍学0集合が赴曾心理でないが如くに、個人の宗教経験の集合が直 に勅令又は㈲慨の票数現象ではないといふことは朋らかに澄明される。随って個人の深奥な経験と いふことのみ一ど偏遷し、また宗教経験を他の心理絶境とは別種な紳藤的のものと宕撤し易かった徒 完歓心埋草り研究法に二就いて 60 宗教心坪畢の研究準卜就いて 六〇 凍の田心潮にEれてゐた研究法から、棒じて敵曾現象としての宗教経験といふことに書目してきたの は確かに進歩であ一る。徒凍の個人的・紳秘的・内観的の立場が叙述心理等と結合したのに この軋骨的新思潮が機能心理撃と提携すきとは常然の錆結であ■る。併しこの鮎が流行的に れ、勢力一で古むるの除り、叙述的見地を没するやうなことがあつた守りば却って蒙ふペき 倶合論上賓有思想に対する世親の態度 西 二 賓有思想と云へば・一般には所謂部派沸教巾の最も有力行てる一派としての設一 邑i;がその猫特のま張とする諸法賓宥の田還、即ち三世賓有法健恒有諒と耕せらる∼ものを意味 寸るを常とするが併し賓有思想と云っても決してか∼る一義的の着ではぢい。本小論攻は世親がそ の著倶合諭に於て如何に此の三世若布思想を取扱ったか、又如何なる態度を以て之れに射したか. 彼自身は又如何なる賓有思想を主張せんとしたと考ふべきか等の問題を吟味し、其 法の賓有特に釦ち三世賓有思想の眞の意痍やその起源を尋究せんとするに際して快 としての僧伍を定めんとするを以て目的とするものである。 〓 先づ議論の中心的興味を導かん虐めに、倶合諭が詭一切布部宗全健から見た上に め,三世賓有の思想と倶合諭との関係の必然性から考へて見ることを位利とする。布部宗根本所依 借宮脇上斉甘思想に封†る壮親の態度 の諭書と信じられま張されて凍たものは云ふまでもなく六足費智であるがこの中で 6 63 倶令書上質有思想に封†る世親の態度 六二 六論が足とせらる∼中に馨智首諭と耕せらるべきものと樽記せら一︺∼程有部宗に取りて重要なる地 位を占むるものである、又大毘婆沙諭が此の発令論乃許辟としてものせられたもの打アることも世間 周知の事賓である。而も暇命その組織に於て乱雑にして無秩序ぢものであつて、一見布部宗に限ら す部派沸教全憶の宛然たる有料全書式のものたりとはいへ、布部宗の教和学助見地から云へばこれ が布部宗の特長一ピ尤も列然たらしめ、且つ石部宗に確定的立脚地を輿へたものと耕せられる鮎に於 て前の根本所依の・詩論と耕せらる1ものよらも蛋要なる地位を占め特に世親出世時代の有部宗教従 に取らては宗派の標準的垂典として尊敬されてゐたものと考へられる。吾人の研究せし所に錬れば 異部宗輪為にて詭一切有部宗の本荒岡義として掲げらる∼特殊数理がこり時に確立承認せられるに 至ったものと言って然るべきかと思ふ。世親の倶合諭は賓に此の大毘琴沙諭二百巷の最も優れたる 綱要書として許されてゐるものであろ。倶合論述作の経過に関しては木村教授が極めて精細にその 著−阿見達磨の研究﹂中に論及されてゐる通りである′ 従って倶合諭本務の使命は大躍婆沙の真意を汲みそのま張せ′∵とする所を遺憾な′、摘出す.r・きも のであることは勿論である。世親はこの鮎に於て決して逆算はなかった。否或る場合には大腿壕抄 が言はんと欲して寧ろ裳言し能はぎわしと思はる∼鮎迄も極めて要領よ′、且つ簡潔によ示して余り ︵一︶ ないものがある。例へば毘婆沙師がその性質上最も明確にま張すべきもの\∴としての餐衷業の問 題に就いて云へば、大毘嬰沙第首二十二審が僅かに四ケ催の堅慧蒜首掲ぐるに過ぎないのに、倶合 6:, ︵二レ ニーい︶、 はその十三巻に八迂を揚げてゐる。又毘婆沙第七十六の二二世官有の澄はさすがに数或は多︿五澄を 掲ぐるに封して旗日琴亭が経澄理語各々二一品ぐるは必すしも完全なりトはいへないまでも要領 に於て前者に勝ってゐる。斯る事は単なる一例に過ぎないので、況してやその秩序の整へる、組織 に於て燭別に富める、正に出格の綱要書としての一名に相應しく、何人の追随も許さないものがある。 ︵丘.︶ が荘に注意すべきはこの書が畢ハ与る毘婆沙の綱要書としての使命を果すのみで能事丁れり・としてゐ ハ㌧い卦である。換言せば毘婆沙の主張を正直に紹介す一じに止らす.その紹介したもの∼一々に対し て之れ一ぎ批評し、更に根本的にその理論に於て承認しないもりは速慮なく論難攻草してゐることで ある。帥ちその論述一般の運び方は毘嘩沙のま張せんとしたことは之れを簡明に頚文に経め長和に 於て更に極めて明瞭にその意を押しっ∼併し同時に他部派のま張なり他の論帥準望警㌃を巧みに 拉し凍って鋸い貸間を試み毘魔正伸−′し封諭せしめつ∼往々にして毘嬰沙帥一でして理論上再び立つ能 はぎらしむるに至る程追及し、最綾に今︰度﹁毘婆沙帥はか∼る撃で許さすLとか、﹁毘嘩沙師は是の 如く説く﹂とか等の断りの許に毘婆沙師の宗を述べて一問寧ゲ盛ぶといふやり方である。勿論表面 上直接に毘婆沙師のま張なり侍説を所定するが如き場合は極めて稀であつて、その殆んどはこれを 肯定するかの如く併もその文勢上か1は否定に傾くとか、然らすとす一?も非難と成せざるを得ない 叙述が決して少くヘナい。この事は既に古へり註梓家遽の日一で托エペくもい㌃ったので.世親造諭の 意趣阿藤にJ折りやに骨ては屡々物議を施したもい一でぁる。試みにチリ代表的のものを掲ぐれば、普 倶舎巻上‡有思想にこ封†る世親の鮮度 Gヰ 惧令論上兼甘思想−ニ封†ろ1−ヒ視い悠度 六 四 二 、ヽヽヽヽ 光はその倶介諭記第∴に﹁〓坤右の義を逓ぶろと維も時に躍部を以て之れ一で正寸じ論帥稚に披って 、ヽ、、ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ へ七︺ 宗と渇し、朋軌を存するに非す﹂といひ.次の蜂貿はそわ似合諭疏第一に於て﹁此諭多く婆沙に掠 、、、、、、、、11、11ヽヽヽヽヽヽ り以て鎖を製す。走行中唯理の勝る・品て宗となし∴酔い掛ナいい新中。然も中間に於て多く経 ︵八︶ 最を以て正義となす打アり・⋮・是の中理の長するを是となし、淀んで一宗に非す云云﹂といふ。固呼 の倶合諭項疏第一の意を取ればこの諭は表面上説一切有部宗を宗としてゐるが内密には軽部を宗と ︵九︶ すると押してゐる。日本の普寂がその著快食諭要解第一に於て世親造諭の意を自ら按じて大乗の立 場に立ち小乗一ざ導かんとするものと許する如きは多少行き過ぎたるものと云ひ得やう。さてこれ等 註澤家運の意見の是非は兎も角として以上の所引に掠って倶合諭上に於ける世親の感度一般を伺ふ ことが出水ると思ふ。 三 然らば倶合盆の如何なる鮎が或は理の勝るを以て宗となし、一部に偏するに非専といはれ、或は時 に経部を以って之れ一で正すといはれるであらうか?。この事を詳細に尋究するとなると多くの税鮎 を見出し得るであらうが、此小長も剖目すべく且つ直ちに注意を引く斯は何んと云っても諸法の貰 有特に三世賓有に対する世親の焙度でへ仏ければならぬ。侶命技に大毘準沙編纂常時と世親の出世年 代とり問に起ったと考へ得る敦牌内外の数理的進歩鼻速から皆然蒙むるペき影琴又は條伸一ど考察 中に入れるとしても僻この世親の感度は注目に偏するものがあるっ更にこ・り事は倶合諭が世に現は (;5 る∼や否や直ちに之れを反駁せんとして立った泉質の臓正理論がその中心的力鮎官︼の問題に注ぐ ことからも容易に首肯し得る所と思ふ。 諸法の賓有するとの考へを説一切有部宗がその根本的な主張の一とすることはこの派が一切有 彗喜邑 亨ての部派名とする研からも鑑ちに儲かるゝが犬軒囁沙は特に諸法の三世に賓有すると の鮎を強調せんとしたものなること嘩沙諭を播く人仁とつては文明瞭な事賓でぁる。倶合諭元より この鮎に於ても手股♭のある告がない。前述の通上二世賓有の澄明など賓に要領を待たものである が同時にそれ丈亦この賓看思想に射する難問追及の度も峻烈を極めてゐるものがぁる。併しその凡 ての場合を技に韮すことは出凍ないからその中でも特に重要な鮎のみを列記することにしやう。先 ︵一一︶ つ色麓r甘首iに就いて云へば布部宗では色法を十一、に分ち更にその中の色境r壱l冨蔓Pを大別し て二とぢし、その一を顕色萱■召−・音声とし他を形色s旨stllぎPr号Pとする。而してその各々を何 へー二︶ れも質有打アりとま張するが之に封して世親は荘部師の顕色賓有形色賓無設を詐取すると思はるる。 ︵〓ニ︶ 此の形色否定の鮨趣する所、表菜賓有の否定となる。終には毘婆沙師としては数和上のみならす賓際 s巳i−ノ当事の侭立をま癒せざる 修行上に於ても重要なる役目を課せらる∼無衷色、従って燕麦業モモ官t⋮の非賓にして暇立なら ︵l円︶ となす鰻度々取るに苧Q。斯くて燕麦菜の否定は必然.善悪の律儀 を得なく小甘。。こは毘婆沙諭の考へに接る限りその戒髄論的思想の要求から云っても獣止すること の出凍へ㌧い問題でぁるといはぎるを得まい。 惧令論土資有思想に射すろ仰視の悪腰 倶含論上箕有思想に射すろ推挽の懲度 六大 次に十四不相應法︵ci〓声音コ1宣ハエを賓有とするは係数の外道諸畢汲に射する関係を知る食め ︵一茶︶ にも且つ此の部燭特の思想として見るにも最も興味深きものである。特にその最初の得非得諭−ラ ニム㌧ノ 萱㌻冨−己の賓有は大毘婆抄中の成就不成就望巨象g書⋮至亡呂忌g書声門を内合Lて毘婆沙師 の質修上不可映の問題でぁるが世親はこれにも賛意を表しない。即ち毘戦抄師が煩偶の已断と 即ち眞諦繹の倶合群論を見れば明かであるからである。即ち世襲自身としてはこれ等を否定せ 味すると解してはならない。こは正しく毘婆抄師自身が﹁我が宗﹂といつてゐるのであること とかの1我﹂といふ文字に拘泥してこれ世親は毘婆沙師の説を自己の宗sidd−−宣ト↑としたことを意 に﹂とかいふ語まで附する場合もある。が斯くいふからとてこ∼にいふ﹁我が宗﹂とか﹁我が所宗﹂ ことを怠ってゐない。のみならす玄咲誇に依れば﹁屡々そは我が宗t達す﹂とか﹁是れ我所宗の故 梓を許さす﹂とか﹁毘婆沙師は如是説く﹂とかいつて毘婆沙師自身の主張とする所を明瞭に掲 い。尤も何れを否定する場合に於ても世親は必ずその一問題の結尾上前逓の様に、﹁毘嬰沙師 舟茎一督tい︸無想定、波並定蔓i盲筆意tttご賢彗⋮2亘賢の賓有をも承認しやうとはしな といひて・得非待といふが如き別物有りて区別を生せしむるとする必翠で認竺Lゐない。同接に同 断といひ、煩悩の方面から見れば未断の状鰻にめるJで煩悩の成就といひ巳噺のものを不成就といふ 見修二道のカの功能の−1その各所断の煩悩をして現起せしめざるを煩悩已断㌢糾し、然らざるを未 とを隠別せしむるものは待井待といふ賓法有るに依るとするに射して、世親は諸の牽者にあ♭ 66 (汀 した.ものと解すべきものである。殊に竺仕異滅j草生1ぎ牒宣−1誉さ阜t盲抑の四初の備にしで. ︵一入︶ 色等の如く賓に非ざるを説く場合の如き毘婆沙師をして全く顔色なからしめた。日く﹁毘婆抄師の 詮かく生相の粕、別に質物有るの理應に成すべし。所以は何ん。豊に多く難を設くる者有る 便ち所宗を実るを許さんや、虎有ることを恐れて蓼を和えす、多く蝿の附くことを爛れで美 ︵一九︶ はぎるけは非ぎるなり云云﹂と。毘婆沙師の窮地思ひ知るべきである。最後に無名法l昌li料昔 ︵二〇︶ d−︼寛m昔の暇立もさること乍ら毘喫沙師の三世賓有の主張を軽部師の主撃で以て追究することその 極に達するものがある。第二十巻随眠品二に﹁毘婆沙師は定んで去凍二世k賓有打アりと立 白から一切宥を説くを宗とすと謂はゞ決定して賓に去来有りと許すべし。三世皆定んで賓有 説くを以ての故に是れ設一切有宗と許す。若し人有って三世賓有と説かば彼は是れ説一切有宗打7り と許す﹂と許し、即ち毘婆沙師をして説一切布部宗を有部宗たらしむる所以のものはこの三 ︵二︰︶ をま張する鮎にあ♭と語らしめ乍ら、世親は論難の後﹁是の故に此の認一切布部若し賓に過去未来 有りと説かば空数中に於て聾託と渇すに非す﹂と否定すj。更に毘婆沙師はその追究の鋭鋒終に逝 くべくもハ仏く﹁⋮⋮・然れども所有の中に於いて通辞する能はぎるは諸の自愛の者應に是 べし、法性は甚深にして尋思の境に非す。畳に滞する能はぎれば接して無−と焉さんや云云﹂といは しめられてゐる。即ちこの場合に於ても毘婆沙師としては全鰹の調子㌦ら見て、正し︿埋設 て三世賓有の義を立澄すべきであつた。而も世親はこれを理論によつて説くべきに非すと説 快食論上質有思想lこ封†る世親の懸崖 88 倶令論上質有思想lこ射する世親の態度 を待なからしめてゐるのである。 四 斯の如く世親は鬼婆沙師の賓有思想に封し特にその最後の三世賓有の主張に対しては.瞭つきり 反射の意を表するに至った。この世親の態度こそ後世の註渾家連が、倶合諭一部の部執兢属に関し て種々の疑戒と異論を起すに至った関心焦鮎であらうと思ふ。併し吾人はか∼る所論のみを以て倶 合諭部執の揖展開題に何等決定を輿へんとするものではない。只在では世親は諸法の賓宥思想に射 しで全然滑締約な経度を取るに終ったか、又は彼自身に何等か枯極的に諸法の賓有に封する解澤な り、ま張なト、騒度互りを放らなかった.かどうか、を次に槍せんとするものである。 ︵ニー︶ 倶合諭上、世親が諸法の賓有︵三世賓有のみ・ど意味しない︶といふ問題に対して、綜合的に何等か の態度を表明したと考へらる∼重写む斯は、先つ第一に、快食諭第一幕の濫虞畢二科の促音問題に 於てこれを見なければなるまい。毘嬰沙師が盛者昔≡界d−1旨は勿論題許21≒pまでもその賓 井呂dぶー︶一■萱P冨竺lti にして界虞南賓の立場をとつたと耕せらる∼ 有を認あんとするに随はす、それがとて軽部師が麓は勿論廃までもその暇立をま張せんとするに得 ■ 心せす、世親自らは唯鑑暇有 鮎である。 第二に掲ぐべきは倶令諭第二十巷に特に著しく見出さる∼﹁法の本無にして今市り、有り已って 邁て無し﹂とする議白から成すといひ、或は瀧婆沙師が例の世友の作用ki︹をrPに約して三世の別 あれども健に異ト∴はし︵−1P ︵二〓︶ dr雪yP冒y已h賢一昌一︶とするを採用するに対して種々難破して、法の本 条にして今有り、有♭巳って還て無しとの義が許されなければ三世の義及び一切諸の有馬法は皆成 立しないであらうとま張するものである。更に、 虜三には世親は前述の通り、毘婆沙師は三世賓有をま張するものに非ざれば、詭一切有部宗と稀 ・すべからす、となすと、斯く解し、斯る解滞に止る限♭.詭一切布部宗は種々なる難問に遭はぎる ︵一l一Cヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ を得㍍いことを絆述した後、過去未凍が賓有するといふが如き一ぞま張するものは.垂致中に於て であると思ふ。 倶告諭上箕有思想に封†る世親の鮮度 る所でぁる。例へば眼根の如きは一極徴が能︿綜となつて、眼識を起すのでは打了、、又色境も一極 く心撃で珪する用一ぜ作すが故に寧で賓となす、といふ一で捉へて、伏線は必や多極徴が稽集して成す 説をとろとする。則ち石部宗が庭草旨lM↑はこれ生門の義なり、その所以は極微が依経とぢつて聴 ︵lい門︶ りとするには一腰説明を要する卦がある。光記の解する所に従へば謹部は次の如き理由の下に虞慣 者共に界を寮とすることとには敢て・論議を要しないが、荘部が十八界を賓Lしぢがら十二虞を暇な 以上掲げた三偶の瓢に於て、第一の詭一切布部宗が鹿靂界の三科を悉︿賓和なりとする鮎と二二 _ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 切石とは唯十二虜なト、或は唯三世なり、其所有の如く而も有の言を説くべしと、言ってゐる瓢等 ヽ 如く説くべし。契経︵魂阿十三、正毅二、夢二古十丸紅参照︶に説くが如し。梵志嘗に知るべし、一 ㌢呂e華設となすべからすと破斥し、結いて﹁若し善く一切有を説かんと欲せば應に契経の所説の G9 TO 偶令諭上‡称思想に封†る世親の態度 七〇 微が能く経となつて眼識を起すのでは書い。即ち伏線は必ず積集して成するが故に積集するものは 凡て賓とはいへない、と、かく主張するのであるといふ。更にこれに対して世親が廃寮と主張する 所以は限根及び色境等は積集して依繰となるに相違ないが、根根の二の極微にも亦所依のカあか、 色墳の一一の極微にも亦所縁のカがあ・りと認め得るから.虔は賓といひ得るとなすもの∼如くであ る。而して世親は虚は積集を義となすが故に、積集の義が慣でめれば、従って虚は暇であるとなす こと軽部と同棲であるが.、虞に於ては積集の方面一でとらないとす告ともかくこゝに光記等に依る ︵五二︶ 限ら世親は明かに.毘婆沙師と経部とから燭立な主張をなしてゐるものと考へらる∼。特に光記は この鮎を以て世親が一宗に偏せざる謹としてゐる程である。 次に第二の法本無今有、有巳邁無の主張は光記も貿疏も共に軽部の諒となすがこの句の前句たる 本無今有 u︷■︼︶邑与︼︶冒一室i−︰ま裟id勘≡.−㌻bl至1atiの考へば、巳に嬰沙論第七十六巻中に屡々見出し 得るものであつて、之れを別に誓喩老の設とも況して経部の詭とも断りもせす自問自答的に用ひて ︵二六︶l ゐるし.無著の大乗阿毘達磨集諭第一巻に不和應法の中の一生の設明下に於ても諸行本糞今有の考へ を適用してゐる程であるから可打†りに一般的の考へであつたと思はれるものである。次の三世の義 に就いては世儲は官有と昔有に約する写らば過去も未凍も有りと許し得る主仏す。世親は、毘婆沙 師が三世賓有のま張理由として輿ぐ一?ものとして白から掲ぐ竺一致霞二埋設の二を破すため、且 っ以上の如き白からの設又は自己の讃する設のま張の虐めに彼が用ひた積極的理由根嬢としては. 71 特に軽部師の詭として引用するもの∼外は、勝義客粟経中の﹁浪板の生する位に徒残する朗なく聯 根の滅すろ時に造集する所無し。本無くして、今有り、有ら己つて遽無し﹂の文句と、無を渡する所 の心ぁら、とするま張との二つをその重なるものとしたと考へてよからうと思ふ。無所縁心ぁらと 傍々毘嘩沙師の主張一ぞ破るに非常に便利にして、且つ金利な武器として廣 の考へはこ∼では過去未凍の有を曾常に約して有hソー亡する外、世親が週末を現在の如く貰有ではな いとする主張を保証しt く樽用してゐるものである。 第三の一切有とは唯十二虞なり、或は唯三世云云の句は∵−れを葵経の託といふ下に今Qが決し ︵一︰七︶ て同一契経中に出てゐるものではない。三世以下は世親の設であらう。即ち蔽宗論第二十六巷に於 て衆貿もこの契経を引き彼れ一流の解梓を下してゐるが或は三世なり云云以下はその所には連結し こ凡 てゐないし、大鬼婆沙諭第七十三巷にも十二寧ぞ耕する際に丁度この突撃ピ引き一切者十虔云云と 挿してゐるが、或は三世云云以下はない。かく見待る限ケに於て、この撃一時元凍は.若し善く一 切有を説かんと欲せば一切有とは或は唯十二虔ならと説き.或は一切有とは唯三世なり。某所有の 如く而も有の言を説くべし、との二丈から成立してゐると見るペきである。とにかく之れを一文と ︵二九︶ 見うニ0としても、かく二つの文句よト∴豆ると見ても、之れから種々な意扱が引き出されるのでぁる。 先づ光記は之れを一文章と見て次の如く解繹してゐる。これに依れば布の諸には侶有・もあれば貰有 もう匂、骨有、普有も有と云ひ得る等多義を含んでゐて、その凡てが現在の賓有なる如く賓有とい 保倉論上兼有思想にこ封†ろ世親の態度 72 倶舎脊上箕有思想にこ封†る世親の態度 七二 ふのではない。三世有といつても過去は曾有であり未来は雷有とすべきであつて、賓有すると辞す べきものは正に現在のみである。従ってこの文は、現在の十二虞の貰有を愚妹するもので、精しく は十二庭中八慮は賓有で他の四虞は少分賓有であら少分は雷無とすべきであるとかく解してゐる。 ︵ニ︷︶ 賓疏も之れに異論はない。こは衆質の正理論第五十一巻がこの倶合諭の意を駁する所に於て又汝等 説現十二虞、少分賓有少分賓如云云と解してゐるものに依ったものであらうと思ふ。さて著し正理 や光記等のとりし如く、果して世親がか∼る意味で一切有とは唯十二庭なト云云といつた.と解し 得るとするならば第一の鮎として掲げた世親の庭の賓有をま張したとせらる∼鮎と考へ合されて甚 だ深い意味を持つことにへ与らう。 次に稀友Y告mitr。が倶倉澤論Ab−1id訂−・mp六。掛声ゴ已古訓に託する所に依れば、彼は或は唯 三世云云を狗立に辞して、 如何にして或は又三世が一切有打アワと定義するのかといへば、恰もこ∼に於て、それが有る如く、 丁度その様に︵有上といふ、︵即ち︶骨てありし所のものそれが過去でふ∵り、存在が困たる場合に普 にあるべき所のものそれが未来であゎ、巳に有って未だ滅しない例のものそれが現在であると、 S巴・息邑丁己き 芽讐e∽巳t己rb訂 lad邑1巨富言ml小iyPJbh言pぎ22・ 斯様に一切有望急邑を説くことが、整数中に於て善哉たる打了り。 2d貫atr雲−ilまki2.空言邑i・宇ad己k手早宣言a−rp ︵繋蜃魂什糠 袋少b●︶ 訂ぎbha宣言t己呂茸at邑y已bgt早鼠n旦b邑t已p邑ヽu官nn冒ili・eヨF 73 と斯く解してゐる。この稀友の滞は先に琴一の鮎として奉げたものに合する。こ∼に於て−壱弟三 の鮎は第一と第二の雨着を包合するものと考へることが出凍る。 以上第ニ、撃一に亙って奉げた世親の諸法の賓有思想に封する綜合的騒皮を迫撃呈とき・吾人 が技に世親のはい喪有思想に射する一つの観念を浮べらることは左程困難ではない。即ち過去兼務 は無、現在の十二庭のみ賓有にして而も有箪なト、となすものこれである。さて部派彿教室憶を通 じて諸法の賓有を諭するに種々有うフが最もよく敏和上の問題となるものとして、吾人はこゝに四 珊の賓右思想を剋げたい。その第一は識身足論第一巻と第二巻の初頭に出づる沙門目連の週末無、 現在と無為とは有にりとする立場で・のる。第二は大蛇婆沙論に前後凡そ十三四回も記せらる.∼所謂 三世に愚か㍍;?ものの、週末無、現在は有へ与れども無為なトノ、とのま張である。箪二は有名法に於 ても過去未来現在帥三世は質右であり、触⋮鶉怯も亦元よ・り賓布ならと、毘嬰沙師の解する設一切布 部宗のま張でふ∵る。最後に第四として吾人は光記等かこの場合世親のとらしものと解せし立場即ち ︵三一︶ 前述の週末準現在十二慶賓有而有名なりとの立場ら常然あゎ得たものと考へるのである。即ち正 又若し然らば前掲第一項の十八界も欝有ぢり一と世親は説いたと群せらる∼も 理が唯和現在一念諭宗といはんとしたものが之れに皆るであらう。併し此ゝに疑ひを起さぎるを得 ヽヽヽヽ ないのは果して世親は一切有とは唯十二虞云云の意味を光記等の解する如く白から皇息味せんとし たものであらうか? のとよ︿矛爪へ与き一箪得云か否かゃ・世親の賓有思想に封する倶弁論上の程面〓般は如何に解するを 棋舎論上策有川蒜心に封†ろ世親の態度 74 倶含論上‡有思想lこ野†る世親の態度 重曹とすべきか?これ等の問題が最後に考究さるべきものとして残る。 五 正理や光記等が解せし様に、一切有責唯十二度云云といふ文句を、賓際世親自身も唯現十二度賓 有の内容を附し、積極的固定的に定立せんとしたものであると解するならば、直ちに次の難問に遭 遇するで祈らう。先つ前第一項として掲げた世親の界をも賓なりとしたとせらる∼ものと、こ∼の 唯現十二廃貨有の唯の語の持っ意味と矛盾しはしないか9・といふ問題である。この三科の借賃に 封して世親が庭をも界をも賓ならとした、といふ解梓に射して舌凍特別の異寧のるを未だきかない し.本論上からもこれを否定し得るものは見出難いと思ふ。真に十八界にか∼る限密な意味の唯現 在賓有詑を通用するとなると、界中の意放と第六意識との関係などに於ても相雷な議論を醸しうる。 これ等の細論は必要を認めないから荘に略すケJとゝするが、ともかく諸種の難問の生することは 疑ひ得ないであらうと思ふ。 勿論こ∼に世親が一切有とは唯十二廃車亭と云ったのは軽部師の設であつて世親自身の託と見て 論議すべきものではないといふ意見の下に一應この問題を一蹴し得るかも知れないっこれに就いて ︵三二︺ 光記−賓疏共にこの十二廃貨有詭を軽部の諒とへ仏すが、併も前述の三科の慣質問題に於ては、軽部 は石部宗とも世親とも異なつて十二虞の仮立をま張するものと見て両者共敢て怪しまない。この間 一 果して彼等に矛盾なしとし得るであらうか?。仮令鮭部の説又は態度に二三ありと許し待として吏 に揮解するとしてもか 、∼る濃密ならぬ解答は直ちに之れ一軍採用することは出来ぬ。一歩護って之 れ等南方とも一で経部の説へ与♭としても何等の断りなしにか∼る矛盾する詮′で用ひた世親の饅度が不 徹底へ仏誠りを免れないであらう。以上の如き難問と不徹底さの起一〇所以は、要するに、世親の 有者唯十二度云云の語に、正理や光記等が、世親のとく賓有詭として之れに固定的憩度を強ひて認 則ちか∼る難問と不徹 めんJする解渾を唯一のもの打†りと.するに給田する。世親果して法の若布思想に対してかヽる固 定的にして且つ積極的な白からの線度一で持してゐたと解してよきや否や? 倶舎論上賛打思想に封†ろ世親の態度 て見やう。嬰沙諭はこの十二虞を彿所詮の巾、十二席数は最上勝なi。除の法門に非すといつてゐ 又十二廃を書記とへ与す差等その調子も倶合諭のこの鮎の調子と合致する。こ∼を今少L精し︿述べ の十二虞の説明下に螢見し得ると思ふ。則ち嘩沙のこの新に引詮する契経が全く同一であること、 第一の軌鮎に立つ場合、惧合諭のこの鮎と最も密接な関係あるものを、先引の婆沙諭第七十三巻 の全髄的調子といつたものからこの部分一で見直さんとする試みである。 り、他の一つはか∼る文書の意を局部的にのみ見ないで全鰻的に見ること.即ち世親の倶合諭著述 倶合諭著述の動機を想起して、大毘囁沙諭の何踵にこの間の関係を求めうるか?といふ粘からであ 技に於て吾人は大健次の如う二方面からこれを観察して見たいと思ふ。その観察鮎の一つは世親 る∼講談滞に信親し得ざる場合には、他の親鮎に立って之れを眺めなほさぎるを得ないであらう。 底さを世親から若し除かんとするならば白から他の方法を求めざるを得まい。殊にかく権威とせら 75 丁6 惧曾論上茸有思想に封すろ世親の態度 七六 る。其没明としで、十人界教は一朝法を癒すと錐も而も虞詭にして受持すること難く、五盈教は唯 略説にして了解すべき主難きに非ざれども、而も亦一切法を抗せす。即ち鑑は三寒眉を麓せざるが 故に。唯傭所説の十二感激は諸法を抵し蓋して、虞に非す、路に非す、是の故に此れを最上勝妙とな す、とかく言ってゐる。この説明に依れば十人界故に対して彿訣十二虚数の上勝の意味は全然方便 的に取られた標準に依るものである。大毘婆抄の綱要書を作らんとした世親がこの獣を看過する嘗 、ヽ、、1、、、、 はない。更に遡って一倍所引の契経の説く意にこの正理や光記の解する加、き意味はないことも注意 ヽヽヽ すべきであろが、更に彼が﹁若しも一切有を善く川監l−⋮・︵邁嘗に又は比較的辛く望息あり︶説かん ヽヽヽヽ と欲せば﹂圭一ijつた鮎に注意を要する。則ちこゝで正理や光記の解した捺に暇賓の列別を族格に意 味する程深意にこの激語を用ひたとのみ考へる必要はないと思はれるのでぁる。 第二の観斯はか∼る根本的な問題は局部的観察のみでは往々にして眞憲一竺攫取し得ぬ場合がある からである。併し具合健的調子から見るといつても容易なことでないから吾人は世親が倶合諭上に 先つ引用書目から考察すれは契経と大毘婆沙論は暫く論外として、最上の星空不すものは何んと 引用せる書目乃至学説に注目Lて全憶的調子の一般一で伺ひたいと思ふ。 ヽ いつても螢智諭の約三十六同であり、之れに次ぐものは品類足諭の約二十七同である。下つで施設 諭の十一回、法蕊足の三岡、識身集異門の各一同の順である。費智品類の両者は特に書名を記すも のと、本論乃至封法論又は根本阿毘達磨等の名で記すけれども、その内容が夫々蟄智品類に見出さ・ 77 るゝものなる場合をも加へる。その他の書名も二三ぁるが殆んど関越とす・0に足らない。さて世親 は之等の引用書に如何なる樺威を認めたであらうか、大憶に於て、螢智品類を本論乃至封法論と言 ってゐる斯からも之れ等に権威を認めたことは勿論であるが.しかし注意すべきことは常に必ずし もその何れにも絶射的権澄を認むる所までは行ってないで、往々不信の意を表する場合もあるーJと である。即ち世親が批評的立場に立ってゐるとせらる∼鮎でぁる。この斯に関しては木村教授も所 言明さるる所でぁるから殊更にこ∼に畢ぐる煩を省かう。次に畢詭として最も多く明瞭に部派名を 断って引用するものは云ふまでもなく紆部の約十八同である。稔伽師、曹喩師等之れに次ぐ。その 中屡々その説を聾説ならとし理に應すとするものは綻部の学説であらう。而しこれとてち参考とし ての意味に於て蕃説として詐取する以上に絶対的権威又は信戯を置いてゐるとはいへない。経部訣 に固執し.之れに依ってのみ、凡てを説明しま張せんとする場合の如きは公論む通じて殆んど見出 し難いからである。更に是等の串は丁喋前述の光賓等の請託滞家が絶じて世親の快食諭の鮮度を 許して〓ポなり、一部に偏するに非す云云、といった、その批評に該督する。 かく自ら本論といひ封法論と承認する折伏の諭部ですら絶対的樺謹を附興せす、これをあくまで 批評的に是を是とし、非なるものに不信を表して敢て慣らないこの世親の立場なり態度は是れを快 食諭上の局部に迄押し及ぼして見る必要が一のらうと思ふじ若しこのことが許されぺならば濁り諸 の賓有思想に世親がこの態度を取らなかったとする理由け見出せない。之に依って以上吾人の掲げ 惧含論上策有思想に封守ろ聴視の態度 78 個食論上耳有思想に封†ろ冊親の態度 七八 ヽヽヽヽヽヽ た世親の賓有思想に封寸旦二項の綜合的鮮度も、世親がこれを批評的に見、之れ一で許取し、よりよ ヽヽヽヽヽヽ しとする詭を採用したので、必ゃしも自ら固執す.∵ご積極的固定設として力説してゐるのではない とかく見るのが一番程昏へ与解繹であらうと思ふじ即ち前述嬰沙論が十二虚数一で最上膠なるものとす る方便的な麓度、乃至喝沙論評家の取った批評的な租方に立って、世親は他の諸問題同様、この芳 村思想にも射したと考へるを至蕾とすると思ふのでぁる。かく見る限♭に於てこの賓有思想に射す る態度からも、世親が快食論第二十丸谷定品の最后に、此論が根本阿毘達磨に依顕する旨一で述べた 、、、、 、 ヽ 1 、、、、 1 、 、 、 1 ヽ 、 ヽ 1 1 1 1 ヽ ヽ ヽ 揮いで頗文と長行とに於て、封法一で輝す一り態度として白から、 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ﹁迦張輔羅固の毘婆沙帥の阿毘建新一貨拭すること理よく成せりっ我れ多く彼れに依って封法を秤す。 1 、、、、、、 少しく旺量あるは我が過失とす。法の正理を列すること唯世食と如凍の大空弟子にのみ在ト。Lと越 してゐる告白を率直に承認することが出水ると関心ふ。 結論として今一應世親の快食諭に於ける諸法の賓有思想に封する態度を簡畢に述ぶる亨bば、彼 は毘婆沙師のま張するが如き諸法の賓有思想殊に三性質有のま張に射しては手痛く反射した上、正 理等から彼が唯現十二廃案有論者であるとかく鬼らるゝに至ったけれども、併し絞れ自身としてはー 決してしかく積極的に融通のきかない一定説を由執し力説せんとしたと卑Qベき詫のでヘナ、、より 書き設を詐取せんとしたので,従って十八界賓布の託とも矛盾を嘲つ必要もぢい・則一っあくまでも 是々非々的な態度を以て終始したと解すベL㌢するのである。薪る立場に世親が立ってゐたと解す ヽ ヽ ヽ ヽ ■\ lJ ヽヽヽヽ. れば始めて.先に、三和の椴質問過た於ては、射い掛・、い掛か卦㌫朴管とし誤らl今此に一切 右とは唯十二庭な、り云云といひて、而も彼が前者との㈲係につき何等の摺解も食油もしなかった理 由も了解が出凍ると思ふ。 以上、世親が諸法の筆力思想に御する窟度め大槽一で明かにし得たと思ムが、更に・何故に彼が斯る 牒度を取ろに至ったか?、ヌ紋が倶令諭←於てか∼る岱寧で取ったこと∼、後世此論が、数多い世親 の著書中に於てのみならす.部振係数時代一旦通じての名著とされ、且つ盛に研究されるに至った史的 斡賓との間に、何等かの㈲係がめり得たか否か等の問題は、他日の論及に琴⋮と∼・する。︵完︶ 荘︵こ 大正新修大蔵好打頁六三甲下、︵大正新修大成紹な以後正成ブ転記す︶。 ︵誓︶ ︵三︶ ︵八︶ 侃含十三奪六、L。 正裁41夷八一五、中。 惧含二七撃﹁J。 ︵ニ︶冠導惧告諭十三、六h︵以後保倉論の引用ほ便宜⊥弛雅謳冠導倶曾論に依ろ︶。 ︵三︶ 拝荊了英三九三、上、→。 倶合十三魯凶、㌔ ︵妄︶ 倶令四谷十四L ︵七︶ 正成41賓四年八、上、中。 ︵五︶ こゝに毘婆抄ミいつたのに大串沙論り略放でぁろぐ ︵六︶ 正蔵射首〓、J。 ︵九︶ 大日本俳歌全書阿児達麿惧令嬰解竺、頁二。 ︵三︶ ︵−︺︶ 正撃山空ハ五、一一六、一九〇、七九六等等。 ︵≡ 惧含忘六、h。 ︵一掬︶ 但合十四巷十一丸 ︵六︶棋令五粘十八h ︵ニリ︶ 惧曾二十巻二h ︵二ハ︶ 大兄婆沙論甘五†て笹∵几戒r貫七九六下。 二七︶ 侭今五笹十三乱 ︵一九︶ 倶令六懲十五h 倶令論⊥郵有作−小憩に封l,ろ世親の慰腹 SO 惧舎諭上賞有思想に封†ろ仰視り憑昆 ≡︶ 併合一命十五h︰l、‡冒dS互1Crb註ハy︰YPぎゴit−・P、sAbl一idll弓・1已ハ○いP↓y家l盲p芦 ︵三︶ この鮎光詑ほ、不−詐■話法本無今有有己還無知三世哉皆不議立東三佃菰不三成ふ凡−者、寧一切補講有馬法皆不−一成宰ミ 上賀二九、下。 ︵ニ火︶ 正成31東六六五、下。 認む。意味に於て=り方が明瞭でわろL懲謂の意にも近いから︰り讃カに従つ㌔正続如1頁三一、下。 ︵ニ五︶ 同 ︵三︶ 奮論十七、正戒盟京二五九、下、文意li同rでちろ。 ︵ニ川︶ 正赦41穴二九﹂申、下。 ︵ニu︶ 正成41頁七〇六、中。 ︵ニ九︶ 正成41ち三四、上。 朽敢頁用頁六三〇、下。 ︵ニ七︶ 正戴盟封九〇一、下。−−次に勝義空契終に雅阿十三、正夢二軍二十五経東九五、下参照。 ︵∴八︶ 正成幻聖二七八、中。 ︵至︶ 友の倶曾揮論わ吾人の必要ミ†る一部な特lニ貸嬰亡れ㍗蒔李、り機骨に探ぐ感寧・ろ次第でわろ。 本小論改ほ晋人三仲賓有思想研究の材料論り一部分でわろが、︰り研究な左すに野して荻損博士が御秘蔵の科 ︵≡︶ 正栽盟天六三四上、正翠論邦五十二懲。 ︹追記︺ 田 デュルケム畢次の研究方法について1 宗教現象の杜曾形態畢的説明 − 何社舎現象の特異性 連 寿 上位の現象は下位の現象によつて説明し得ないといふま張の下に、オーギスト.●コン・Pは彼の安 否暫単に於いて諸科学を憬統づけたが、後に至ってこの観念は、彼の租観彿蘭西の畢界 少くとも二偶の優秀なる果質を結んだ。その一は心理畢の分野に於いて見出される。意 存在と暇足することによつて埼紳現象を説明せんとするリガを中心とする畢派の接頭が て、この畢派の賓澄的研究が多大の成果を収めた結果、意識を生坤現象の副現象として 理畢者の心理挙が根耗から覆されたとも見ることができる。即ち、此度に心理畢は全く として宰り得るに至ったのである。・かくて、嘗てコントの暫畢を批評してA莞︷emOf・占賢○−iOi胃 ︵一︶ minl一班u−ri裟㌻巨itミとまで悪罵した♪ックスリー等の心理単記は、現代に於いて殆んどその重要性 を喪ふといふ奇観を呈するに至った。他の果貰は、これを赴曾畢の領域に於いて見るこ 宗敦現象の紙料形態学的説明 ・それは、赦曾的革質の燭自的性感哲ま疲して、全く薪らしき角度から政令現象を見ん さ1 S:三 宗教現象の︰肛倉形態畢的読明 八ニ ケム軌倉卒の出現でJJち。或る意味に於いては、デノケムのこの態度は、心理単に於ける革新運動 の影響によ一︺とも考へられるが、また他の意味に於いては.この新心理学と枚を分っことによつて 確立したと旦一日ひ得る。何故ならば、彼の意固は、偶人心理畢の軋食草に封する侵入,ぞ阻止するに あつたからである。即ち、或は観念カによつて模倣によつて軋曾を訣別せんとするフィエ、クルド ︵二︶ の心理畢振乱食草に射する彼の反抗は、賓にこのこと窒息映するのである。 デュルケムの根本思想は、政曾現象は猫自的性貿のものなるが故に他のノ軋曾的粥賓によつてし 説明し得られぬ、と言ふことに存する。何故ぢらば、融合的事賓は㌫薪綜合物でJりつて、その性 質は、それ一で構成する要素の有しないものであ一Qからである.。音別は銅と儲と鈴との合金である。 然しながら青銅の有する硬度は、銅・錫・鉛の何れもが射しへ㌧い性質でぁつて、これ等の鋸物の の結果たる青銅そのものゝ有する特性である。水の流動性及び螢養性は、その構成分たる水素の中 にも酸素の山・にも見出されない。只この二元素の結合によつて生じた合成惟の中に存するのみで る。また、生活細胞を形成するものは、水素姦素・災素・窒素等の諸原子でぁるが、細胞の有する 命を無生物たるこれ等の鋸物元素の何にも由雄せしめることはできない。今1の原理を政令単に適 用して見よう。 敢魯を構成する要素は、物と人でJりる。此庭主物とは、軋令に合冊された物質的対象物の一外−更 に、既に制定された法蝕・既に慣ゎされてゐる習俗・サ毎及び杢仰上山記念物等の如き先存の軋骨 83 動の所産をも含む。然しハ㌧がら、暇今−れ等の物が敢曾進化の上に或る種の束カ﹂で加へ従って進化 の速度及び方向を規定することがあるとするも、元凍物それ自髄は無力のものであるが故に、融合 の婁動を決定する原動力たラーとはできない。かくてこの憂動を決定する催件は、赴骨の他の要素 たる個人にしか、求め得られない様に考へられる。然るにこの場合我々は、政令が孤立的なる諸偶 人によつて形成され居るのでだくて、結合された諸個人に∵よつて組成されてゐるものであること 注意しなければへ仏らぬ。即ち、軌曾は薪らしい綜合物であつて、猫自的性栗を有ってゐ一Qのである。 従って敢曾を基惜として生する現象は、畢なる偶人を基健として生する現象と、臭った性質を有つ ことになるのである一し然らばこれ等の現象は、計骨の要素即ち部分た乙諸個人に所属せすして、 硬たる軋脅そのものに所属しなければならぬ筈であ乙。故に、生命の特質が生活髄を構成する鋸物 的諸要素に封して外在的でJ㌢0と等Lく、猫白的結合物た乙融合現象は、諸々の個人意識に封して 外在的のものとLて考へら戎LるのでJ山る・従って、偶人心意を緬究する心理畢と.敢含現象を封象 とする政令畢とは、各々その間城一望異にする・し勿論、配合的事賓も,その性質に於いては、心理畢 的事賓と撃っものでない。然しぢがら.・前者は後者のそれと異った基低音有つものであ∵り、後者の それと同一の環境に於いで進化せざラbので♪?/、また後者のそれと同一なる環境に依存せざるも のでJの・る。また、軋骨的きーi賓は絶べて集囲的思惟枝式君Lくは隻脚的祈初校式でJ︵りるから、ある種 の心叩的事欝であることに英存はへ与い。然しながら、集謝意識の諸状態は、用人意識の詩賦態と 宗敬現象り融合形駐車的祝明 S4 宗教現象の統合形態草的祝明 質的のものである、即ち集図表象は個人表象と種を異にするものである。 かくの如く見凍れば、集囲表象即ち政令的事嘗は、細心理畢的.動因によつて、換言すれば個人意 識の諸状態由ち偶人表象によつて、説明し得ないことは自ら明かでぁる。何故ならば、同一の圭能 をも客琴でも表明しない二種の表象が、同一原因に依存する誓がないからである。それ故に、集圏 の表象様式を理解するためには、社食そのものゝ性栗を考察しなければならぬ。洗骨がそれを通し て考へる諸々の象徴は、融合の状態の典右左に従って異なる。例へば、一の名剋動物から出て凍た と自ら考へてゐる政令は、氏族と呼ばれる特別なる集囲を形成してゐる。またこの動物に紳私的な る人間租先が置換へられてゐる政令は、氏族がその性質を鼻じたものである。もしまた或る敢曾が. 地方若しくは象族醐の上に更に他の紳を考へてゐるならば、それはこの政令の合成分たる地方的集 聞苦しくは家族的集囲が、自ら集中するまた畢一化する傾向を有するからである。故に、一の票数 ︵ニ.︶ 的婁廟の示す統一度は、その時期に社食が到達してゐる統一度に相應するのである。 拉︵こ T・Ii・lHニHl∼コ訂勺哲rn岩n♂Addr虚器−pnd謬Tie誘くⅠIl、TbO乳enti許PⅥp再訂已pO乱tiユ5ヨ● ︵ニ︶ Dur写こヨいRゐprへ罵nFtiOnこndiまduel−2∽2:巾pr訂nt邑On∽邑leetiYeS︵l訂言のdeロー今Fpすsi雲eetd命日︼Or巳 etp已︼OSつp己タ︼罠A●に採集されてぁる。 sOCiO㌻g首1ヱ〓第二版序文参照。 ㌔de n︼阜−00¢00︶参照。︰の論文lェ、死後公刊されtⅥOCiO︼つgie ︵ヱ︶ ﹃祉骨卒研究沫の規準−岳rgl謡de︼pヨ竺−Ode 86 ヽJ に 社食現象の説明方法 ︵一︶ 以上によつて、デュルケムが政令現象を如何なるものと考へてゐたかゞ大健わかるであらう。然ら ば、か∼る思想を根樵に有してゐた彼の政令畢は、そも如何なる目的一ぞ有するものであるか。 彼によればT祉曾畢は、諸々の制度・その教生・その機能を腐究する科撃と定義することができる﹂。 また﹁政曾挙の主要なる問題は、政治的・法律的.道徳的.経済的・宗教的制度、及び信念が如何にし ︵二︶ て成立したか、それ等は如何なる原因によつて出現したか、それ等は如何なる有用目的に應するか、 を尋究することに存する﹂のである。然るに彼は、集囲によつて創造される一切の信念及び一切の行 動方式を制度と呼んでゐるのでぁるから、我々は制度の意義を集囲表象即ち軋曾的事賓と解するこ とができる。然らば彼は、赴曾的革質の原因及び機能を、如何なる方法によつて決定せんとしたか。 彼は言ふ。融合は儲個人の畢なる集積ではなくて、諸個人の結合によつて作られたる一の組織で あり、それ固有の諸特質を有する特異なる質憶である。勿論個々の意識が輿へられてゐなければ、 集囲的打てる何物も生じないであらう。然しながら、軍に個々の意識が輿へられるといふ傭件のみで は充分でない。更にこれ等の個意識が結合し化合しなければならぬ。殊に或る種の様式に於いて化 合しなければヘサらぬ。政令山生命は賓にこの化合の結果であり、従って談合の生命を説明するもの はこの化合でJ叫る。個々の心は、互に変合し互に澄渡し互に合同す丁りことによつて、一の薪らしき 宗教現象の杜曾形態寮的祝明 宗教現象の社命形態隼的説明 八六 軋食生活ウ桝屋と見、徐々に我々の内に組織立てられたものと考へる方が、一骨合理的で今ウ︵︺ に於いて果して人類に先天的に具はる本能であーるかどうか、全然澄明されてゐへ仏い。却って、 組織の基礎・でなすものでなく、却ってその結果である。のみならす、結社牲そのものすら、その これ等の傾向が人間性に内在的のものでないことを数へる。故にこれ等の個人的戚情は決して集圃 婚姻、家族等を説明しようょするのは、右の如き理由によるのである。然しながら歴史は我々に、 宗教心、性的嫉妬、孝養心、親愛等の或る極少量を入間に内在的のものと考へ、それによつて宗教 ろの或る種の心理的状態をば、赴昏現象の決定傭件として選定するからであえて例へば、或る種の 彼等が結畢で原田と課題するため、比較的朋確且つ特殊なる然しながら事質それの結果であるとこ 然ぢば、多くり社食学者は何故にかゝム心理隼的方法の不完全に気附かぬ臥でJのるか。それは、 ーとになるであ∴う。 らう。故に、偶人心理準的現象を以って融合現象を直接説明せんとする打てらば、凍謬を敢てする 告ごる諸偶人より出獲する亨bば、集幽内に起る如何なる現象をも我々は理解することができぬであ なる偶人と全く異定ろ方法によつて思惟し・戚得し・行動するものである。故に、若しこの孤立的 原因は、二の一佃性そのものに求むべきであつて.構成畢位内に求むべきではない。集囲は・孤立的 る㌫種に威す早苗紳的佃性一で形成してゐる。故にこの賓髄内に生起する諸事賓を直接決癒する諸 賓鱒で生するのである。黒古にこの賓髄は、縦令精神的のものと言ひ得るにしても、然かも新たな $6 87 か︿て我々は、次の如き規準に到達する。日く、赴脅的尊貴の決定原因は、それに先行する敢含 ● 的諸事賓中に於いて求めなければならぬ、決して個人意識の諸状態中に求めてはならぬ。然るに前 述の事柄は、原因の決定にと等しく機能の決定にも通用し得る。何となれば、政令的事賓の機能は 祉曾的のものたる以外にないからである、換言すれば、政令的に有益なる教具を生するものたる以 外にないからである。勿論、政令的事賓が政令的有益㍍ると共に個人にも役立つことはある。けれ ども、か∼る好都合なる結果は、就曾的事賓存在の直接理由ではない。かぐて次の規準に達する。 日く、政令的事賓の機能は、それが何等かの政令的目的に射して支持する関係中に於いて常に求め られねばならね。 前述の如く、若し政令的客質の決定傭件が、この事賓に先行する政曾的事賓即ち結合事質そのも のにありとすれば、融合現象は、この結合の形態に應じて、敢曾の構成要素の綜合される様式に従 って異なるべき筈である。然るに、解剖畢的諸要素の配列さる∼様式に従って有機健の内的環境が 形成されると等しく.赴曾の構成中に入り永たる諸要素の結合によつてつくられる重態が、赴骨の 内的環境を形成するのであるから、何等かの重要性を有つ一切の赴曾過程の第∵の起源は、内的赴 骨環境の構造中に求められねばならない。然るに、最初に適べた通♭、赴曾環境を構我する二要素 の中、物的要素は政令進化の原動力を有たぬのであるから−我々は、赴曾現象の上に件用する人的 環境の属性を探さねばならぬ。然らば、か1る傭件に適合するものは何であるか。それは.赴曾の 宗教観象り社倉形恩学的説明 88 景教現象の統合形態草的説明 八八 容積と動的密度である。こヽに赦骨の容積とは、政令軍位の激即ち赴骨を構成す一〇個人教であり、 動的密度とは、精神的密度即ち集囲の集中度である。即ち動的密度とは、諸個人否な寧ろ諸個人群 が輯紳的客間によつて隔離さるゝならば何等の致果をも有ち得ない様な集囲の鈍物質的腰密度では ない、か∼る物質的緊密度が翠なる随伴現象に過ぎない様な、更に一般的には結果に過ぎない様な 精神的緊密度窒息味する。この動的密度は、同一容積に於いては、単なる商業的関係のみならすま た精神的㈲係一で互に保持する偶人教によつて決まる、換言すれば、互に給骨若しくは競寧をなすの みならすまた共同生活をなす個人故によつて決まる。何故ならば.純経済的関係は人々を内部的に 結合させるものでなく、従って我々は敢て同一集囲生活を螢主なくとも細管蒐績的な経済的関係を 結び得るからである。即ち∵互に国境によつて隔れたる諸民族間に商菜上の取引が行はれるからと て.それ故に国境の存在を否定するわけにはいかぬのである。然るに共同生活は.賓際其虞に協力 してゐろ個人教によつてしか影響を受けない。これ、一民族の動的密度を最もよく表明するものが、 軋曾的話環節の融合度である所以である。何故ならば、若し各々の部分的集囲が一の仝憶を形成し てゐるならば、即ち各々が互に他のそれと異った明瞭なる個性を表はしてゐるならば−それはこれ 等の部分的集囲の諸成員の活動が大健其虞に制限されてゐるためであ♭、若しまた之に反して、こ れ等の部分融合が全憶融合中に混入し若しくはせんとする傾向を有つならば、それは殻曾生活圏が それだけ凍げられたためである。 80 殻骨董填を集画進化の決定的原動力と見るこの見解は、頻る重要性を有するものである。何故な ら、著しこの見解を拒否するならば、軋含畢は終に如何なる因果関係も設定することができねから である。然しながら、畢に政令現象の決定原因が融合環境中に求められるばりではなく、政令現象 の機構即ち有用憺億も矢張り、この社食環境に開係せしめて測定されなけばならない。何故なら、 集閻存在の根本催件は政令環境であり、従って赴曾環境を殿田とする諸礎動中有益なるものは、こ こニ︶ の調塘の現状と髄係を有するからである。 デュルケムは、かくの如き説明方法の優劣性を.理論上あらゆる鮎より詳細に論じたのであるが、 然し単にそれだけでない。眉に彼は、この理論に則っで彼の経べての研究を遊行したのである。即 ち彼の最初の著述﹁政令分業論﹂より、彼の最後の大著﹁宗教生活の原形態﹂に至るまで、この憩 度は根本に於いて少Lも孝ってゐない。即ち敢骨現象の原因若しくは機能を.常に軋含環境に関連 せしめて説明してゐるのである.。勿論彼は、一の研究に於いて費見せる事項は、これを彼の著述に 於いて其佳麗用し事斬らしく述べなかったから、或は壊に到って彼の態度が獲ったと、皮相の批判 を加へる人があるかも知れない。然しながら、巌密に彼の所詮を検討するならば、この批難の誤↓ であることは容易に額かれるであらう。 魯にデュルナムばかりでない。デュルケムを盟主として﹁敢曾畢年報﹂に立罷ってゐる一派の畢者. 即ち彿蘭画軋官邸派の人々は.デュルケムの立てた右の根本方針に基いて彼等の研究を進めてゐるの 崇敬現象の赴曾形麒半的耽明 90 宗教現象の鍍曾形懲華的孜雨 九〇 である。マルセル・モース、ポール・フ†コソネ、フランスァ・スィミアン、セルスタソ●ブーグレ、ジョ ルジ・ダガ、モーリス・アルブワックス等の如きこの畢派の中堅を成してゐる学者の著述は、それが道 徳に関するものであれ、宗教に関するものでみれ、法律に関するものでJのれ、経済に関するものであ れ、何れもデュルケム的方法を厳密に墨守した結果であるから、政令環境によつて赴曾現象を説かん とするデュルケムのこの精神に特に留意するのでなければ、我々はそれ等の償億を充分に許償するこ ︵M︶ とができぬであらう。デュルケム派に於いて猶立自由なる態度を探ってゐると屡々許せられてゐる ブーグレの如きですら、その根本方針は何等デュルケムのそれから炊出してゐないのである。何とな れば、彼が﹁中等思想﹂﹁カスト制度﹂﹁分業﹂等についてなした研究は、これ等の赦曾的尊貴を、総べ 社食形態換言すれば赴合掌位の結合模式より説明したものでぁるのみならす、或る場合には、社食畢 ︵五︶ の目的を、単に祉曾形躾・その結果・その原因の研究に限るかの如き叙述をなしたからである。 デュルケムは敢曾環境の重要性を愈々痛 切に戚じた結果、後に至って社曾環境郎ち敢曾の基憶を特 に研究する特殊的社食畢即ち赴曾形態畢の必要と可能とをカ託した。而して、この放曾形態畢を包含 ︵六︶ したる彼の赴曾畢膿系の馨表が、﹁宗教生活の原形憩﹂の執筆中でぁつたことは、特に注目に偏する。 兎に角我々は、デュルケム的方法の特色を政令現象の敢含形態畢的詮明に於いて見出すのである が、また彼の方法の優越性一ど其鮎に認むるのであるが、か∼る研究方法が斎した致果を、此の派の 草書の特殊研究盲のものについて、具憶的に指摘しょう。勿論、この方法の慶越牲を充分に含怨す るためには、﹁赴曾分業論﹂以後公にされたるこの畢派の主要書邁を分析しなければならない。然し ながら、此庭では単に、この泥の宗教赴曾の部門に於いてのみ諭する積りである。然しながら、そ 述.へられぁる重要鮎の羅列lこ過ぎ兄い。 先づモースの研究から始める。 ︵珂︶ PrOニi二F p1−i︼OSOp己ecOコten一pO邑ne ︵五︶︰冒涜︼ふ”Qu√温ce que︼⋮l芸e㌻︼Ogie︶∼Ⅰ● enヲpncクp■−声 ︵〇 デュルケムが最後に絶食撃の憾系み論じtのは、﹃社食撃ミ諦社食科挙﹄寸JいふDe︼p 宗教現象の洗骨形悪隼的託明 d呂u︼e肋乳昌C袋に lこ於いて、以前の研究態度な襲へtミ論すろ人がぁるからで わろ。我々がこの塙わ帆草し主立たろ動機lェ、デュルケムの説明方法が前後な通じて攣り光かつ主ヾJいふ=ざな澄明 ミいふに、それほ、デュルケムは﹃宗教生活の原形怒﹄ 教吐泊り原形態﹄の執筆中か、で兄い与しても完成直後ミ推定†ろのでぁろ。.何故に我々がかゝる年代調べみ†ろか d弓S一誌∽OCi監sill冒訂urき︵−巴〇・︶の出版前に書かれたもの光ろ=享受準へてゐる。故に我々は、前記の論文が、ヨ邪 票2eut巳r灰de︼p■訂rn︼覆eu川皇に於いて︵p・∽臼e、第二篇の話章は、レギ●ブリユールのどⅦ冒netiOnSmen 執筆しわ論文でぁろ。この書は二九一〇年に初版がでてゐろ。然ろにデルユケムーェ三宗教生活の原形怒F認どme仇 mきざOdO ︵三︶ デュルケムの説明方法−‡、﹃社骨学研究法の規準﹄弟五草に於いて詳細に示されてゐる。余の援用L㍗ものは、モこに ︵ニ︶ ⅥOCiO︼〇内訂et乳空e謡害㌻︼つ∽−d呂S。宮︼==竺一Oded巳一こe:Ci苫︹窃。p.崇声 奥へた定義︵G㌻コ︿leヨ昌一︼Op盆ie中に共同執筆・し上ろ︶を採用Ltものでぁろ。 旺︵こ ﹃祉骨単研究法の規準﹄柑竺一版序文。椅ほ=の定義lミ一デュルケムが、彼の高弟たろフォコンネ及びモースが菰曾拳に ルケムの研究である。今費衷の年代の順序に従って ると思はれる二偶の研究に就いて此の鮎を明にしたい。そのlはモースの研究であり、その一はデュ れにしても荷ほ典へられた真数の制限を越えることはできぬから、余のか∼る目的に最も邁普でJの 91 9ご 宗教環奥の銀曾形厭攣的耽明 九二 †るこミにわつ㍗りでわろ∵別記論文−二於いてホ・し㍗憶糸寸姦んビ同じもりな.デュルケムーミ宗甘苧妄の傾城 lさ3。乞。gi。乙二琶︵︼つ⋮㌻訂各日tニ㌢J﹄なる論文に於いて、飯に叫九〇〇年、房大利社食草評論巨■i旨it已i⋮ この方法の連用例 其=モース︶ こi s。。i。︼。昔bに教卒してゐ・つ。宗骨畢研究弦の規準bの第二版がかの著名光る序文なのぜて出版されtのは、モ¢ 晃年でわる。 且 デュルケムは.一入九人年教ゎの﹁軋食草年報﹂第二発た於いて、赴食の基健を研究する特殊科挙 としての融合形箪警品重したが、このま張に基いてモースは、一九〇五年公刊の﹁政令単年 第九笹に於いて、F恥骨形態学の研究﹂なるサブ・クイトルを附した﹁エスキモー人の軋骨の季節的螢 ′一.︸ 化に㈲する研究﹂なる論文を公にした。 彼は先づその細論に於いて、自然環境の影せに過大の束要性・ど賦興するクッツェル議の 畢的方法に比して彼自らの探らんとすろ方法帥も政令形牒畢的説明方法が、如何に異なるも ろかを述べてゐ乙。次に彼は、エスキモー人の敢骨・2般的形態・即ち四季を通じて襲せぎる形態 を記述してゐ一り。次に彼は、この敢骨が克と冬とに於いて採る極端に興った二個の形態に べてゐる。 三キモー八の其の住居は天意である。この天幕は一7ェビタと呼ばれ、概ね馴鹿の皮を以って作ら れ、天上に穴がぢい。この火のないことは、アメリカ印度人のそれと異なるところである。 93 彼等がテソブを用ゐてゐるためで、煙を外に出すことの不必要に由凍してゐる。この中に、原朋と して狭義の家族帥も夫婦とその子供達が住む。この天幕の中に一個のランブと一個の床とが備えら れてゐる。然るに冬の彼等の住居は家である。この家の形は地方によつて可成ち異なるが、ま要部 分は大髄に於いて似てゐる。先づ長い家と呼ばれてゐるものは、三つの要素からできてゐる。それ は一本の廊下と歎箇のランブ毒を有った座席と、この座席の上に若干の小部屋を限定する仕切りと である。この長家は、大抵傾斜地を利用して建てられ、地面を掘って家の背面の土地が壁になるや ぅにしてある。この各々の小部屋には二組づ∼の家族が住み各家族は各タブソナを有ってゐる。家 族数は先づ六から十まで位である。然しこの家の外にカシムといふ大きな家がある。カシムはエス キ毒−語で↓私の集り場所﹂といふ意であるが∵これが普通の家と異なる鮎は二つある。それ・は、鼻 中に虎のあることゝ、仕引りがないことゝである。このカシ ′ 通ト、部落仝憬共有物である。却ちそこでは、部落仝憶を結合するための儀式が行はれるのである。 借てエスキ竜−人の夏の住居と各の住居とは、右の如く全く異なるものでぁるが、真に面白いの は、この雨季節に於ける住居の散布状態である。夏の天幕は、海岸の彼方此方に互に速く相隔って つくられる。之に反して冬の家は、互に接近して建てられ、そしてこれ等の家の集りは完全なる部 落を形成するのである。夏に於ける各天幕は互に孤立的で、.冬の家の集合は全然共同生活である。 従って、この二季に於ける彼等の精細状態は極端に臭ってゐる。 宗教現暮の漉曾形華隼的故痴 04 宗教現象の鍍曾形煎拳的耽明 九四 然らば如何なる原因が、かゝる二種の政令形態妄生するのであるか。この問題を解決することは 可成わ困難である−。普通には僻畢な詮明を輿へられてゐる。日く、多数家族が同居する冬の家は温度 る。香ぺ垂ろ丹真の宗教は宗教でないと言った方がよい。真の透井は、私的な家族的なものであつ 活その他に及ばす影響を見なければならぬ。三キモー人は、冬の宗教と夏の宗教と二種有ってゐ 然らば其の詭明は何虞に求むべきであるか。そのためには、先づこの二様の政令が彼等の宗教生 のである。これ等の事賓は、この種の家居が決して邁志の手段でないことをよく澄明する。 曖をとつた方が経済的であるにもらす︰彼等は高僧を厭はすわぎく油を買ってそれを然してゐる の或る部族ばこれを襲へることをしない。即ち森の近くに住んでゐて、家の上方に穿けて木を燃し いことである。第≡に、家の形を鼻へた方が好都合な場所に住んでゐるにも拘らず、エスキモー人 穿ってある。真に驚くべきことは、このイソディアンの種族が、三キモー人の家居の真似一ぎしない るが、四季を通じて天幕生活をしてゐる。然かもその天幕は.エスキモー人のと違って天井に穴を は確でない。第二に、或るアメリカ印度人は海岸に住むエスキモー人よhソヰb高緯度の地に住んでゐ 全であ・る。.何故ならば.第二に、エスキモー人が世界長寒の地に住んでゐるものであるといふこと て、単に寒気に封する防禦手段としか考へないものである。然しながら、か∼る説明は非常に不完 また日く、多数家族の集合は燃料の経済となると。畢発するにか∼る説明は、冬期の政令形態を以 を良く保有するための必要からである、即ち同一屋内に多数個人を牧容する結果は温度を高めると.。 ′ 95 て.出生とか死亡の場合の儀式だけである。生活は全く俗化し、魔術の如うも冶病の際のみに限ら れ、然かもそれは些細な事柄の如く考へられてゐる。然るに冬の生活が始まると、彼等は全く宗教 的威汲の中に入る。紳話や物語が子供等に傭へられる。極めて些細な事にまでも魔術師即ちアンダ ゴクが招かれる。僅の物急にでも、公共の儀式が必要とせられ、部落全部が出席する。冬の宗教は. ● 骨に強烈であるのみならす、全く桑園的のものである。それは祭りが共同で行はれると言ふ意味で なく、部落それ自らが共同感情を有っことを意味す.る。即ち多教個人が集まるといふ意味でなく、 集囲それ自身が祭りれするといふ意味に於いてゞある。祭りはカシムで行はれる。カシムは昔ヒこ の機能を果すためのものである。即ちそれは、公共の場所であつて、集囲の統一を具象するもので ある。此庭豆注意すべきことは、これ等の祭らには到る虞常に性慾的乱行が件はれることである。 而して此際は、各人相互に個性を解侵して仕舞ふ。夏季中.短絡に規定された家長樺の下に服従し てゐた各人は、冬に於いて、全く解放されて宗教生活の歓喜に酔ふのである。 のみならすこの二季の生活の反対ほ、集囲の思想、表象、即ちl言にして生せば集園の精細状態 に大影響を奥へる。即ち或る種族では、これ等の祭の撥席期間中、集囲の全員が二つの部類に分か たれて仕舞ふ。その一つは冬生れた者ばかり、他は夏生れた名ばかり.。そして何れの部類も、それ 特有の名群が輿へられ、何れも特有のクブーを有ち、権利と義務を石することになる。 エスキモー人の特有なる政令形嬢の影響は、単に宗教生活にだけ顕著なのではない。モースは、 宗教観︳の敵■形︳事的耽明 96 宗教観象り証舟形悪筆的洗明 九六 更に法律仕法及び財産状態についても、この見地から詳細な研究をしてゐる。のみならす、赴骨生 ︵二︶ 活そのものはモースの所謂全憶的政令的事象であるから、宗教、法律、造筍経済の各方面密閉連せ しめて見なければ完全な説明はできない。然しながら本稿に於ける我々の目的は、毒−スの説明を 知ることにあるのであるから、宗教生活だけを切り放して、彼の激論に急がう。 前述の如くエスキモー人は、全く異質的望一種の生寧で厳密に繰返し蕾んでゐる。然しこの事貰 は決してエスキモー人のみに特有なのではない。これと同じ生活形憩は、所謂北西文明なるもの一ぎ 有ってゐるアメリカ・インディアンの種族に於いて目撃できる。何は其地温帯.、熱帯の諸地方にも我 我は、この種の生活模式ノで指摘できるのである。だからこの事賓は、可成り普遍的な事賓である。 故にこれは、気候の影響によるものとは考へることができない。 かくてモースは結論して言ふ。道徳的、宗教的、法律的、等種々の形の下に表はれる社台生活は. 敢曾の物質的基膿に相應するものであつて、この基憶の異なるに連れて即ち敢曾の軍位敷、その密 度、その形式、その構成の如何によつて異なるものである。この侭定は.今迄に度々澄明された。 二ニ︶ 即ち既に我々は、刑法及び民法のそれぞれの進化が、社食の形巌畢的類型に如何に相應じたか、⊥ま ︵M︶ た、家族的、宗派的、政治的詩集園の統整度に應じ、個人ま義的信念が如何に強められ如何に窮め られたか、更にまた、低級なる諾部族の精細躾藤が、これ等部族の解剖畢的構造を如何に直接に反 ︵五︶ 映するか、等を知った。然しながら、これ等種々の法則の基礎をなした観察及び比較は,常に疑ひ タ7 の鎗地を有してゐた。何故なら、形感畢竹串茸の鼻化と同時にl観察者の束附かぬ他の鼻化が生す ることは可能であり.且っ研究の対象たる現象がそれに依存してゐるかも知れぬからである。然る にエスキモー人の赴骨は、之に反して、ベーコンが決定的賓頗と呼んだ稀有の例を、我々に提供し てゐる。この杜含に於いては、集囲の形騒が愛するその同じ瞬間に、宗教、法梓.道徳が慶するの である。この質唸は絶封的不孝性哲以て毎年繰返されるので凍るから、化単著の賓歯茎に於いて行 はれる貰瞼と同一の明瞭さ及び厳密さを有ってゐる.。故に今後我々は、この種の赴曾畢的方法に一 de=Oei蔓裟mOS・Es乳de喜rp邑Ogi:OCi巳e ︵六︶ 屏信をおくことができる。毛−スは、かくの如き自信を以てこの研究を費表したのでJのる。 旺︵一︶ 芦茅u捻いE邑suニes三i各日S邑sOnniかres 容eiO︼Og山qu空で2一−e l舛一p■望㌣−︼芦︶ ︵ニ︶ 芦茅u男厨Pi⋮−巾冒コ・句○−me胃㌢官2d:、賢岩g¢・︵巳Ann仇:OCiO−Ogique●彗邑︼e竪PT呂ニ ︼諾P︶の岩論参照。 ︵ヨ︶ PrぎeinこP︼pdi■isiOロdutr芸已買をこ轟i芦 ︵l︶ Pr写eぎいFe邑監♪liTJT●ChPp●柑−升 ︵五︶Pr君訂ユぎu班盲eq邑q亡eSどmes2−ぎ芽○山d乙邑旨亡0コ六1−An鼠∼邑告g官∼、→Om印ヨこ苫柏︶ ● ︵ポ︶ 我々が、宗教生活ご密接関係︰卜わる法律生活及び経済生活り部分なモースり叙述から除いモ言は、全く不日然互仕 打でぁる。伺ほこの社食の精細状態−二ついても、モースは詳亡く叙準してゐる。彼の決論ほ、それ等の全部に封Lて 冤されたもめでぁろ。草し=り論文に興味キ悉ぜらるゝ光ら、原論文全部の参照わ乞ふ。 宗敦現象り縫合形態学的託明 この方法の適用例 宗教現象の鍍曾形態学的枕明 ㈲ 其〓︵デュルケム︶ デュルケムは彼の最後の大著﹁票数生活の原形磋﹂に於いて、宗教の費生を敢骨そのもの∼性質よ ♭詮明し、宗教が如何に重要なる政曾的機能を有ってゐるかを澄明した。 一派の畢若に徒へば、宗教の起源は原始人の夢に封する錯螢によつて説明できる。即ち原始人は 然るにデュ〆グムは=れ専の夢説を批評しでそれは謀りであると言ふ。第一に.夢の矛盾は除bに の設明にあつたのである。 ♯になつた。かくて人間は.この偉大なる自然現象を設明せんと欲した。即ち宗致の起源は.自然 思議であ・hl一の恒久なる奇蹟であつた。其の結果人間は、自然を越人間的な精神的賓在と考へる することができる。自然は太古の人々に∵とつて、大なj驚異であて1大なる恐怖であ♭、一の不可 また或る汲の草書に徒へば、宗教の起源は、人間が自然に対して有った最初の粗念によつて設明 ち租先の窒に封する忠邦が先づ起タ、人類最初の祭壇が墳墓となつた。 新鹿とか、と起った理由である。然るに、穿魂が宿所を失ふのは死の際であるから、こゝに死者即 棲な欲望及び成惜を有ってゐるから、人間の生活に干渉し或は助け或は苫を輿へる。これ供物とか 若し内懐が死ねば宿所を失ふことになるから、自由に巷間を飛び遡る。然るにこの婁塊は生者と同 夢と現貰とを混同し、第二の我を仮定する。この第二の我は霊魂であつで、内懐に宿ってゐるが、 ○与 99 明白なことであるから、必ず単純な原始人でもそれ程信用しなかった誓である。更にまた、精祀と か婁魂とか死の固とかいふ観念を介在させて夢一で説いたといふ訣は正しくない。逆に、原始人が既 に霊魂とか死の団とかいふ観念を有ってゐた焉にか∼る夢を見たのだと解辞する方が自然である。 のみならす、若し宗教の起源を夢の錯受に鋳するならば.宗致は迷となり一の組織的妄想となって 仕舞ふ。然るに事賓に於いて宗教は、人類思想の一大憶系であつて、歴史上燦然たる光を放ってゐ ろものである。賓に人類は、苦滞多き人生の奮闘を績けるために、常に宗教からその精力一で汲み出 して たなら、どうして斯くも永い間存績することができたか。斯かる詮は、宗教の赴曾的横能を全然無 成するものである。更にまた、宗教的信仰は自然に射する驚異より始まると言ムが、これは事賓で あらうか。我々の目に映する自然は、畢調と思はれる程規則正しい。然るに賓一は決して人間に強 烈な威情を起させるものでない。のみならす、太古の人間は自然の魔力を成じたと言はれるが、こ れも誤すであつて、却って太古の人間は自然を支配し得ると考へてゐたやうである。何れにせよ宗 教の起源が自然の説明でなかったことは事賓である。何故なら、太古人の自然説明は誤ってゐたの であるから、かゝる宗教は、日常生括用何等の貢献をもしないものであるから.後世に永府する筈 がない。故にこの読もまた、宗教の敢曾的機能に着目せ㌻るものであり、従って正曹なる詭明とは ならぬ。 宗教観象の敵曾形態畢的観明 宗教現象り蔵曾形欝畢的枕画 一〇〇 かくの如く彼は.票数の書的機能に留意することによつて宗致の本質を明にせんとしたのであ る叱らば幸でちる。︵男にて︶。 ● 軍真の雷蓬彗に、筆者芸ユルケムに於け孟露草の って、彼がこの研究の結束引出し蛋越せる望も、若 は、或る意味に於いてデュ 結であると共に、デュルケム畢派の鹿べての研究の の美記念塔とも冒さるべきもので雪。我々はその惹 i血 】Ol 彿教典起の政治的背景 1羽 漢・丁 本音前怨第二波−ニ於て﹁彿陀時代の政治状撃ミ庖する論文の序説ごもいふべき部分のみみ描出亡たが、モの後止むわ得ね 諦 い事情のtゆ引繊いてその後介の拙稿な寄ぜ待なかつモ、ヾ1月諌肴諸氏に封Lて托く陳謝ぜなければ在ら互い。本黛はその 此固は現今の穿首官rに近い聴波︵Cpm冨︶城に其首府を置き・磯波河を境 に、本篇に於てほ先づ所謂十六大囲の舘城並に政治的襲凄む討究Lよう寸J息ふ。 積痛でぁろけれ共、編輯長の希望に鱒って、かく盤日な吹わ㍗のでわる。彿教典起の背 ﹁鷺伽︵A茸担︶ 界として西方の麿閲陀国と隣接して居たのである。大館此因は北方印度に於ける最も青い囲 で英名耕は既にAt訂コテ毒針︵く・浩・−†︶に記載せられ・之に依ると焉伽人が摩掲陀人等と共に 昔時知られて居た諸国民中最も駕連に任してゐて、婆鹿門文化に浴すること最も抄かった焉 の中心地た・山西北部の人々から蔑視せられてをつたらしい。此囲の起源に就いては、冒m言ぇ寧 −?内患a−C−1・芦︶に於て、変の紳冨d⋮がぎト註e壱の機嫌を苫ひ・基数怒を避ける焉に其 庵書から逃れて、﹁彼が其身髄︵A首︶・ど投来した﹂地方が爾凍A首の名を以て知られ,愛の紳 はその後A邑gP︵無身憶︶と呼ばれたといふ荒店無稽の侍詮が記されて々る。これよりも寧ろ 旨訂bF腎臣︵巴7.P≒ヨ・CF岩ヱに於て、Y昔tiの後裔の一人たる出鼓がその手卜巨二によつて 俳赦興起の政ホ的背景 10〇 怖秋興起の政治的背景 一〇二 得た茸et旦P︵己が妻と他の男との問に生れた子︶として、A蒜p、謬見P−国旨茸p、Sロmhp及び ヨ息−■Pと名くる五人の子を持ち、彼等玉子は各自束方に王国を建設し、其等の五王国に各自の名を 輿へたのであつて、A音PはA一.肇王国を創設し、その子孫が之を統治したと侍へられてをる方が、 多少史賓に近い様に想はれる。玄焚も亦其西域記第十に於ける憺披固の備に於で、之と同趣の侍詑 を掲げ、太古人類穴居の時一天女が蒼伽河︵G邑gp︶に遊んで墨に戚じて四子を生み、彼等各界れて 聴部州に王となう、都邑を建築したのであつて、此の鳴渡城は曹時の一首府でぁつたと記してをる。 始租A替玉以後は久しく此閲の燭立は維持せられ、彿陀時代を遡る事あま その閲力優勢であつたと見えで、本生育には此閏と摩掲陀囲とが覇権を頚ひ、相互に勝敗のあつた 事を樽へてをる︵・︸賢kP︼つ︻・p・3︼・︶。昔時摩掲陀固はなほ小菊観であつた焉、喬伽観に魔迫せら れて、一時その陶土を占領せられたらしい。ノ.己−−urP雷且山︵PJF.t阿kP︵一く︶p・当︼・︶には王合城︵R革 agPl−P︶一ピ以て焉伽囲の都となし・≡−聖賢P︵夢l︷.首コープC︼1.針望1P︶には驚伽王が伽耶︵宇 ヽ 笠︶の≦竿u・P乙Pといふ山に於て盛んに供犠を行ふたことを侍へてをるのは.正しくこの消息を 漏すものと謂ふべきであらう。併し斯様に優勢であつた驚伽尚も守Pr営d邑p王を最後としてその 猫立を失ふたらしい。写一11dC︼pDe﹃氏の研究の結果に徒へば、甲已−nl邑邑p王は摩喝陀国王に字号 者の子頻毘沙羅︵Biヨbis雪lp︶が生長 音yp︵Pl−r恩盲に二侍ふる只苫tr遥.民と同人︶を征服したけれ後畢 検復悌の畢を興して蒼伽圃に侵入し、冒pllm邑attp王を殺して、その首府鳴渡を占領し、彼の父王 の許するまで此の地に副王として駐在したといふ事である︵J・A・S・申、−芝♪p・琵・︶。併しなが ら、後に諭諾するであらうやうに、彿陀時代の歴史的事件を比較的忠賓に侍へてをる儲蘭侍に依る と、頻毘沙羅は十五歳の時彼の親父によつて港頂即位せしめられたのであるから︵夢h号巳訂P、ll・ 盟−P tr.すGeiger−p・−ご、如何に英雄的素餐に恵まれた頻毘抄雁といへども十五歳に達するま での少年時代に慧伽囲を征服するやうな大事業を遂行したとは考へられない。従って若し銘蘭侍 精確であるとすれば、彼が蒼伽固を討伐したのはその即位後のことでなければならぬ。果して然り とすれば、彼が父王の残するまで胎披城に副王として駐在したといふ事も事賓として怒容し難いと 儒教興起の政冶的一骨景 具したといふ喬伽の王は彼の事であつたかも知れない。寧邑弓k弓氏は此の蕎伽王を以て頻毘沙羅 所の内意k芦︶・をして鳴渡城に副王たら七めたとの事でぁるから.婆雁門G言昌を1pに餞貨を施 児沙羅︵崇mbi琶・P︶は彼が摩掲陀の王位に即いた後、その手阿閑世︵巴喜t琵ttu関都杢典に謂ふ 一 巳諦○岩乙dぎp.芦︶及び関都敦の侍詭︵出邑erい詳m邑−p已rp、∽StF邑rミ.き5・︶に依ると、・頻 事に敬しても俳陀成道後斎伽固に王彼を縛へた統治者の任してゐた事を知り得る。西薮侍︵旨Uk−1≡い 五首餞貨︵詳b首鼠の手管を施輿されてゐたといふ事であるが︵亭替i写n・−︻Ⅰ・p・−芦︶∵Jの記 利中月村耶所収のGh含m鼓l富まぎによると、傭陀時代の軍産門Gl一号muk訂は蒼伽の王から日々 ることなく、依然鳴渡を首府として副王が統治の任に雷ト、摩渇陀国に隷属してをつたらしい。 謂はねばならぬ。乍併驚伽固は頻毘沙羅王によつて征服せられた後と雄も、摩渇陀固に併合せら 】03 104 償救共起の政治的宴 一〇四 によつて征服せられた者と看催さんとしてをるが.︵訂cture⋮三訂Ancie−1tH6.すyO=−1詳−−竺石・ p.声︶、かの婆羅門が焉伽王から施奥軒享けた事は群文に随ふ限・り柄かに傭陀成這以後の事斉であ って、昔時頻毘沙羅は既に意伽を年足し.て新王合城にその首府を移して居たのであるから,寧ろ此 の蕎伽王を以て頻毘沙羅王の副王として磯波誠に駐在して居たと侍へられる阿周世に充て左方が妥 昔であると倍する。何前揖の両侍には阿閑世が副王に任せられて後、彼は磯波に於て奪掠を行ひ. 住民を苦めたと記されてをる。其具備は固より明確でなけれ共.綜傭以前に於ける阿聞世の暴連な 行動から推測すれば、あながち捏造の傍証として之を否定し去る事が出凍ないチフに想はれる。 この閏の宴席鳴渡は舌代に於ては巳已i已と辞せられ︵茅屋竃乍象曾︼C㌢聖ご<・芦︶、本生渾 に於ては訂㌻昏mp抑と呼ばれてをか︵lぎくIl・pp・芦旧軍︶。現今のB−一品首宅の西方約四哩距 ってをるCjpど品⋮が即ち之に相嘗することは一般筆者の是認する所である。唸波は恒河の沿 岸に位した焉、古代から商業上の・一中心地として有名であつて、本生育にはこの地から商人が商賓 の目的を以て金地固︵Suヨr琶bbumi︶I−この地は或単著によつて緬旬沿岸のP爵β及び己。u−日ei︼l であると考足せられ、他の畢者によつて馬水牛島を指示すると主張せられて、未だ単著の意見一致 せないが、私は峯ろ後説を取るーーへ航行したことが侍へられてをる︵J翠.急−p・芦︶。従ってこ の都市は漸次般盛宮林となト、彿陀時代には之が玉食城・合衛城・抄紙多︵S許e王憶賓蒲︵六e蓄mbi︶ 及び婆羅捺新︵冒諷や邑︶と共に印度の六大都市のlとして認められたのである︵DigF守n・−−−p・ 】0; 一声︶。か∼る都市が頻児沙雁王によつて占領せられ、その副王粧在の地となつたのでぁるから、由 G芦y叫とに相 って以て摩喝陀囲が頓に列国間に優勝の地歩を占める様になつたのは自然の勢と謂ふべきである 〓、摩娼陀︵芋蔓皇一三彿陀時代の摩掲陀本国は凡そ現今の・ワ旨1芦地方と望h賢の 嘗し.その境域は恒河を以て北方を限り、南lまC︼一Ctp害gpllrの高原に達する密林を以て囲まれ、 束は轄渡河.西はず一芦河を以て境としてをつたらしい。すでに述べたやうに、この国の東方には l・−声︶.その周囲三古由旬︵約二千三百哩︶ 憺渡河を距て.焉伽固が位してゐたのであるが、彿陀時代になると之が征服せられて摩掲陀の展観 となつ㌍箪畢.この観は八萬の市邑を包恭し︵ノ、i⋮yp あつたといはれてをる︵ぎm邑g已〒V≡鼓−−i︻一−告・︶。 摩掲陀観の甘府王は新嘗二城あつて、その鴛城はこiribb告︵梵Giriくr各︶といひ、玄奥は之を知 者粥原価羅︵lハu瞥gr苧−︶rlrp上茅宮城︶と呼び︵西域記第九︶、現今の寧蕗irの所謂五山に取囲まれた 盆地に和常する。新城は有名な王合城で.頻毘沙羅王によつて裔城を囲む≠Lh腎p山の北方の麓に 建設せられたのである。声−FさFぎtp︵巴→百草きCll・芦芦︶及びP一1r首pの侍ふる所に一よると、 摩淘陀観の第一王朝はくa2の子でJ罵紛岩d︼lpの父なる聾h乙邑rpによつて創設せられたといふ J≒ぎ己訂の父と同一.人である事に就い こLであるが、−訂コ卓コづスー.芦ごには磐城の痙設者を以てノ、喜自身に蹄してをる。︼掌乙r芦︷ぎの 名は梨倶吠陀に於て両度記載せられてをるけれ共、彼が ては何等博ふる研が㍍い︵房・くed芦ト・芦−Sいk・芦P︶。ブラーナに於てはJ宅診nd11Pの子S旨乙・ 係数興起の政治的背景 俳徴集起の政治的背景 一〇六 ブラーナに於ては、頻尾沙羅王は小龍の創めた王朝に属するものとして侍へられてをるが、傷前借 と宙露呈守︰Udヱ昌・B︼1乙d号︰呂u已ヲ:品守D訂已︻亨こSusu・宰啓て・六已計算写・ エノ軍丁旨C︵ナ寺島1P︶。大統史の所侍に徒ふと、摩鴻陀固の王系は左記の順序となつてをる。 此は正しい見解といふべきである︵学芸d弓−芦二︼訂ctl一r註−−望¢、pp・G↓1ご︰Ge官rいT−−e写乙1号苧 あつて、彼等はいづれも此鮎に関しては錫蘭倖詮が史的慣低を有するものと認定したのであるが、 に関する侍設の信用し難い事は、夙にバングルカル氏及びガイガ一成等によつて論語せられた所で る所から観ても、その侍詭が自家撞着に陥ってをる事は柄かである。ブラーナに於ける摩竣陀王朝 ナが彿陀と同時代のり与旨を以て同時代に活動した頻毘沙羅の属する王朝以前の出世としてを 王に至った事になつてをる︵≦誓P・こrbyWi︼s言−ぎl・iく・CF芦亭−讐丁⊥・︶。斯様にブラー あって、而も其後昌詳言眉盲汽笛喜dl一Pm岩及び茸註r旦旦二手竺経で傭陀と同時代の頻毘沙雁 次いで現はれた琴一の摩錫陀王朝は訂un螢︵小龍︶と名くる王によつて創められた同名の王朝で 時代直前まで粒績したと推定せねば㍍ら宍J・P㌣㍉ぎー・I如こ︶・芦︶。ブラーナによると此王朝に 王期は傭陀 後に述べろ接にり乙y。︷pは明かに彿陀と同時代の出世でぁるから、バールドごフトハ ︵巴Hよj旨︶を阿柴提の王位に即かしめた蹄断絶Lたといはれて亨。。若し果して然りとすれば、 標のぢい限り、其佳史賓として信用し難い。バール♪ドラト♪王系はー、乙ik;王が英子冒lキuF e﹂芸らぞ書Pに誓言賢dr蔓主家の歴代王名芸示して雪が此記銘は・他に狗宜し墓 106 107 では小龍︵Su等−息p︶が頻毘沙羅王より五代目の王たる駄冠迦︵崇邑ハP︶に次で摩渇陀団のま擢者と に於て王合城が小龍の時代 PH︻・l︶・・↑くi・︶。 なつたと記されて字心。後者の侍説の正Lい蒋は、ブl巴己邑ハぎく墓︼−u から王城としての資格を失ふた事が記されてをる串によつて列克される︵∽・F 蓋し此記事に依れば、小龍が王合城の極値時代すぢはち頻毘沙羅及び阿聞世帝王の時代以後に出世 した事は疑ひを容れない。而もヤコピ氏はブラーナが小龍の後一曾襲ふた王として侍へてをる肖巴守 ゴ1e ︼ハal︼宇乱trp Or望−ad−■Pb巴⋮︶−n︷→乙・、p●ド︶∵抄くとも摩 ≦−■苫と錫蘭侍に於て同じく小龍の耗嗣者として揚げられて・ぞる舛巴琶l打pとが同一人である事を 論語したのであるから︵ロ︼・J旨ebiい 鴻陀王朝の侍設に関する限り、ブラーナの記依の杜撰であつて、錫蘭博の比較的精確であろことが 愈々明白であると謂はねばぢらぬ。バングルカル氏が此銘蘭侍に於て小龍の前王宮夢kpに対して 特にH宗gPといふ名禰の加へられた鮎に着眼して、之はD計已昌が彼と多少異った家系に属した焉 小龍と呼ばれた彼の後蒐者と彼自身とを拓別せんとする意囲の表現であると考察し、日割sPkpはいふ 迄もなく、同じ王系の頻毘抄雁も大瀧王朝に属したのであつて∵小龍は本名でなく∵冗D訝計の 宰相であつて其の王位を奮ふた者が親族の一支況であつたから、か∼る族名が彼に輿へられたので あると推定した事は、あながち畢なる臆断として否認し去るべき見解ではあるまいと思ふ︵l≒tur窃− 弓∴デ⊥〓芦︶。併し氏が更に進んで頻毘沙羅王を以て此大瀧王朝の始祖であると論断した事は、一 面興味みる意見であるけれ共、容易に是認し得ない。氏はまづ頻毘沙羅王が巴利牽典に於て苧︼官 俳敢興起の政治的背景 10j 沸教輿恕の政冶的背景 一〇八 星mbis≡と呼ばれをる革質王立脚し千、Se与野はSen首邑と同義であつて、現に孔雀︵写喜阜 王家を倒して撃亡首王朝を創立した七1−等a−をrpもぎ暑註名けられ.而も彼は彼が取って代っ た孔雀王家の最後の王に属した搭軍であつた事賓から考察すると.頻毘沙雇王も亦彼以前の摩海防 国のま樺者に屈した購軍であつて、暇冷彼は賓際上そのま樺を横猿せ尤かったとしても、免Iニ角循 はそのま様に劃して弼立を宣言し.彼自身の王国を建設したと怒定せねばなぅないと推論し、さら に氏は巴利経集の.♪−ラーヤナ品に吠合離︵巴く邑−i︶がタ冒g邑−芝㌢空室i−︵摩渇陀の都︶と記され てをる鮎に注意して︵ぎt書官ぎp・−芦︶、摩渇陀固は元メール♪ドラ.トハ王家に守って統治せら m己t≒y−の意味に解した 許1肯pは氏の解した 彿陀出世の初期頻毘沙羅が駿者の勢力を恒河の彼方に駈逃して、自ら摩 れて居たのであるが.扱者族が偉人して摩鴻陀固を占領したから、扱者族の首府吠倉離が摩掲陀の 布と呼ばれたのであつて▼ 掲陀固を占領し.その雷城lこ君臨したのであると結論した。乍併、此場合の へ哲已yp声、は串t︼︸e 様に必ずしも或ま擢者に従属した将軍といふ意味に取らねば di鼓iO−−、の義を有するのであるから、巴利聖典の 方が多分尿意に曹ってをるだらう︵J・芦評madd篤いH訂G−Cri誌○︻試品芦撃a、p・−∞・︶、故に関都聖 典に於て彼は巴利語の警官に正しく和督する㌢音声といふ名のみを以て呼ばれてをる︵S.声 ヽ 申︶舛F<・l︶・︼0〇・︶。蓋し頻毘沙鹿王は事賓上購凍摩喝陀囲の印度統一を完成する基礎を確立したほ どの武勇な英まであつて、慶秀な兵力を有してゐたから、か∼る名を以て呼ばれたのであらう。丁 109 度彼と同時代の阿築堤国王波羅殊提︵梵Pr与三三巴て書き︶が勇猛でぁつた焉巴利垂典ではっ蔓㌻ 羊誉tl↑と呼ばれ、又大軍の所有者であつた焉梵語劇詩ではl、1・ul亨t芦享l㌻竺l芦と呼ばれたのと同 一轍であろ。次に氏は軍に巴利繹集に吠合鱒でブ一昔≒已i−±⋮ニニと註一してをるといふ理申で以て. 吠合離を首府とする扱者固が摩掲陀固一ど領有したと想像したが、触陀時代並にそれ以前にか∼る歴 史的事件のぁつたこと一で侍ふる詔樺が絶触⋮である上に、却って巴別の大般捏発振の文献に徒ふ限り 吠合離及び生抜者聯合駒は彿陀一い入滅に至ろまで燭立盲夜毎し、畢掲陀蜘と封立して一ゼリ二と考定 怖軟興起む政冶的背景 彿陀時代摩掲花園が多数の列国申その優勢一で以て薪然頭角一で現はし始めたのは、頻毘沙羅王が富 父の名が≡≡亨Jlであつたといふぎ⋮≡ニナ1民望馴串山研究費衷とに依って葦明し琴匂。 が十五成一り時そ■り親父によつて漆頂帥位せし9・りれっとい′㌦大紋史に於け一ヱ別掲一り記事と、その親 マl葺こ。而して頻比沙羅が.ハングル九ル氏り推定しん亭うに大瀧王朝の創立軍ごh与かつ霊草は、彼 Pツー董−主≡2\の意味に取Lねばへ†リハ㌧いとま張しハ二≠一・︵一⋮≡−す〓ぎニ■て一==ニ㌻㌧−、u−﹂− ゝる琴ピ施したのてあらう。故に≡−てl︶︰乙ニエ氏の如き﹂hこり,席端陀山都叫といふ表現を・ン妄、 が糾問世∫に征服せられて、吠食紅が摩掲陀困り︰都市とへろて層二か■し、吠令離l︰封して特にか た以後の準で賽ホして一でる・りであつて、多分緯筆力.ハーラーヤナ品′り成立した時、既に鉄嘗聯合図 れた﹁摩掲陀の和一といふ註.刀、正しいとすれば、此は吠令雛が偉観閲‡阿聞世によつて占領せ・一っれ せざる・ど得ぢいのである︵︼亘≡=・二l二二一、りに⋮l・︺二枚に≠ヤし巴利結集に於て吠合離に封して輿∵っ ● 11∂ 帝政興娃の孜膏的背許 裕な禿伽観一でその勢力範園としたか・・ヱ∫のる。巴利梓姥に倍ふる所による﹂と,驚伽図一で征服した結 果として、頻毘沙都王は八苦以上山都︰巳の支配権一㌧小町挺し、之等多数の都邑の監理者を招いて国事 を論じ教訓Jで輿へたといふことで∴る︵ノ一i−−章一こ二弓−りじ1∝○い芦ニlざ藁gp、ノ1・−・†−P︶。なほ又 同書には王が五百人の妃ノで右してゐたこと一で仲へて一でる︵芦二一ぎ董掌ノ.〓︻・︼・・㌫・︶。固よりこの歌 字は大数を示す場合巴利架典の仙川する桝であるから、之を粍碓ハ㌧ものとして受取ることは出水な いけれ共、‡は断えす新奇号異性ノピ求めてをつたと倦へられて一ビるから︵−訂cE−i〓こし詳u−.出ud≧︼p− 1一・Gヱ、依って以て†が吋h㌧り多数の如イで容れてむつたことが想像され得る。併しこれ等の‡兜中 富時の政治的方面に大影響ノで典へたものは.拘隆雄観‡摩詞薩羅の※女であつて.彼に次いで殉薩 閥王となつた絞期情︵巴−一≡11≡lニり‡妹に語る拘薩雅提葦︵−ハぎ1㌻︵一cYi︶、と︵J乏‘−hこ︶・宍戸︶、扱者 の‡女であつて、特に彿典に於て新著な阿閣也の生母とな ヒ・︼▲︰・い舛トⅠこ已rO・HiiI・︶。但し後者はその出身が茸提詞︵↓ide訂︶ 聯合図の首府吠食酢城・い統治者︵ご=㌃ った︵ヒ㌻aとであつた宣 放でぁつたから、彿典では∵般に昔捉希︵ィ㌢l﹁宣二、≡己︶と呼ばれ、商務将に於てのみく賢ノ■iと 名けられ︵ど︼ハ巨−巳訂e−.出ud≒三︶.G∽.︶、又時として㌢b︼l乙−・箪lと挿せられてをるが、この最後 の名は才−〓−21コr.といふ彼女の付出名と混同したものてあらうと想はれる︵笹∵ロ.出.パパ〓−−nぎ︶. ヒ〓−=CtC㌢︶。〓i/.てノ.ニニぎェcニ・Ty二三雲■〓宍∵写邑こr芝ごには茸提希を以て頻毘沙羅王の正妃 ︵冒−1賢ノ■i︶とLて侍へてをるが、惟ふに之は針提希が阿闘世王の生母であつた焉に生じた侍詮であ ユ】1 って、昔時の政治的閻係に立脚して考察すると、摩討拘薩羅の王女が正妃として迎へられたらしい。 それは兎も角も、かやうに頻毘沙羅王が拘薩雁圃といひ扱者聯合図といひ普時最も有力であった観 固の王女を己が兜として容れなことの出水た粘から考へても、摩渇陀固の政治的勢力が昔時の諸国 民によつて高く評慣せられてをつたことを知う得ると同時に、之等の結婚関係に依つで頻毘沙羅王 の政治的地位が益々葦固の度を加へたことは推測するに難くない。以上雨妃の外.今日その名の侍 e=訂謬r︼y寧1dd−1i賢、ゴ1つS訂す偶︼ へられてをるものは、者鴻羅︵S品.乙p︶を首府とした]妄乙計族の美はしい王女として生れ、後備政 教囲に入って卓越せふ比丘尼とへ仏つた︼ハーーCm勘である、︵−︸邑ms m︶●羊畠●n●−●︶。なほ公然王妃とはいひ難いけれども、兎に角頻毘沙雇の王子を設けた二婦人の名 Si賢r肋︶p・写︶、他の一人は吠合離第一の実はしい娼婦であ が侍へられてをる。その一人は慶藤尼︵月管主第一の美女といはれた蓮華︵才du白雪邑︶であつて、 阿嬰耶︵Ab訂yP︶王子を生み、︵冒︶Tbe って、王子毘摩羅・憶陳如︵≦m已守R。且邑ぎ︶を生み、晩年篤く傭陀に綜供した莱婆政利︵Ambap監︶ である︵≦nP¥−宣告卑⊇ggp<HHIニーご才︶ゴーe守et︼−re−︼こJ・GごT−1eSi旨記、マ一望・︶。 頻毘沙羅王の太子とLて文献に撤し得るものは、前掲の阿聞世・阿婆耶及び毘摩羅の三人の外に、 なほ 空軍已と出す㌻と︼挙巳pとの三人を合せて六人である。彼等六人の兄弟中.親父頻毘沙羅 王を就して、摩掲陀国の王位に即いた阿闊世を除いて、他は悉く出家を遂げたらしい。即ち曹時印 度第二い名将と謳はれ、頻毘沙凝‡の待撃となつた者嘩迦︵Jiノ註エの養育者として有名な阿噂耶 併軟典起の政治的背景 l】2 彿教典遇の政治的背景 ▲■■ 一一二 王子は、父王の逆殺せられた時憂苦のあまり出家して彿借となつたと侍へられ︵5−−p冒望F訂・≦粥唱 ゴー︻L−−ヨ∴才−Tbe守eこ1re−三︺・芦︶.Si㌻さtは青年期七達した時、阿閑世王によつて殺寄せら れやうとしたけれ共、彿陀の命を享けた大日乾速︵己已−抑−臼。gg邑ぎp︶に救はれて沸教々囲に入う、 その後阿羅渡果を獲て拘薩尿団に在留した時、阿閤世はなは刺客を派遣して彼を殺さしめやうとし たと侍へられ︵才−T−岩︼曾ethrel−︶p・望¢・︶、出家の動機に就いては明かに知ることは出水ないけれ 共、毘摩雇王子も亦吠合離に於て出家して阿雁湊果を獲、その生母葛婆政利を教化したことは疑ひ を容れない︵P00・︸TheBrethren︶p・告いT訂Si倉r∽︶pp・−父Y−︼・︶。以上の三人はいづも出家し となつたのであるが、関都致の侍読に依るとH已p及びl≡邑Fの二王子は彼等に反して閻邪教の沙 汁となったやうである。即ち彼撃一王子は阿閑世によつて迫害せられた焉、鳴渡から吠食離に逃れ て,彼等の母系の親父に普るC含訂王の許に避難したところが、Ce嘗p‡は飽くまで彼等を庇護 して、彼等を引渡すことを拒絶した焉、阿闊世は吠合離を攻めて彼の親父を戟死せしめた、かくて 彼等帝王子は摩河毘羅︵更訂11ぎirP︶の数回に走り、そこに難を避けたと侍へられてをる︵J.A.S.︼仙.− −雲丹7∽芦︶。これ等の侍設が大健に於て事貰を語るものとすれば、阿閑世はその親父を脅迫して 王位に即いたのであるが、なほ不安であつたから親父を就し一骨その地位を筆問にするため其の兄 弟をも殺害せんと企てたに蓮ひない。彼の兄弟がいづれも皆父王の逆殺せられた後備数若しくは閣 邪教に於て出家を遂げたのは、全く彼の迫害を免れる焉であつセ観るべきであらう。すでに一言L たやうに.只毘帝展王子と出家の原因のみは文献故知のため不明瞭であるが、併し彼が吠合離に於 て出家したところかム考へると.彼も討羅及び毘詞雇二兄弟と同じく阿閑世の殺害を免れるために ︵C守 其の生母の郷里たる吠合離にその身の安全を求めてゐたのであるが、阿聞世の攻略によつて吠合.離 が陥落した焉、更に偶数々圃に入って難を避けたのであると推定せざるを得ない。 巴利坪井では阿聞世が斯る逆悪を行ふた事智以て提婆連多︵せeヨd邑ヱの敢酸に給してをる −−雪品gpゴー︶00︶こ。勿論此は一面の事賓であるがヾ他面に於て彼が父王の位を嗣ぐ事に不安を威 人後逸境の故乱を鎮定tて蘇り凍るや、父王は非常に悦んで、彼に奥ふるに歌舞に秀でた踊子娘を らである。侍設に徒ふと、阿婆耶は幼少の除から父王に寵愛せられ︵P訪・∴コーeSisすs、p・芦︶、彼が成 じた焉であつたと想はれる。蓋し頻昆沙羅は阿閑世よりも他の王子殊に阿嬰耶を熱愛してをつたか 1】3 王の侍臣に妨げられて失敗に終った。併し父王は彼の要求と計割とを聞くや、 節叡興起の蹟應的背景 宴に逼ったけれ畢 父王を親して王国を獲得しょぅとの決心を固めしめたのである。斯て彼は劫.・竺携へて猛然と父王の 横合を輿へたに過ぎなかったであらう。兎に角か∼る内外の原因相律って、阿閤世をして在に断然 不平とが激発し、・憤恨の渦巻が狂持してをつたに違ひない。提婆連多の教唆は只其が決清奔洗する 鰻度に卒然たる事が出凍よう、・必ずや彼の心中には自己の地位に封する不安と父王の偏愛に対する 巴Hl−ヱ。若し此が事賓であケたとすれば∵性凍兇暴で野心満々たる阿閑世が何うして斯る父王の 以てしたばかりでなく−その上七日間彼に王国を授けたといふ事である︵D−−岩n−蔓dp9m㌢nどy ● 114 簡教典趨の政治的背景 一一四 直ちに王国を彼に諌輿したのであるが、彼は僻満足せす、其地位を確貫にするため、父王を餓死せ しめたのである︵くi−1日y仁−︵ノ1〓葺品gpくー叫︶∽−ヱ。銘蘭侍によると、此事件は彿陀入滅前人年頻毘 沙尾王即位後五十二年に起ったといふ事である︵写−−1聖⊇己玩P︼L−曽1芦︶。頻毘沙牒は十五歳の時登 極したのであるから、彼は六十六歳で殺した事となる。西戎侍には頻毘沙羅王が自分を殺す様な王 子を生んだ葦提希を其兜として容れるやうになった因縁に就いて小説的物語を掲げ︵Se−−iePerR已守 百日いTi訂Fロ≠−袋−p●試買︶、本生渾には其王子を阿聞世︵来生怨︶と呼ぶやうにぢつた因縁に就いて 掛詞的物語を侍へをるが︵JぎーHH、p−︶・−巴1占︶、此等は共に阿閤世王の逆罪を犯した奉賛に基いて 捏造した物語であつて−到底信用することは出水ない。阿隔世王は其親父を就した稜厳しい良心の 苛真にあひ、憂偶のあまり熱病に躍り、身心共に堪へ難い苦滞を受けたから.遂に待臣の勧めに随 P・00甲︶。然るにJac。bi氏は ふて、彼自ら彿陀を訪問して衷心の傍悔を告白し、彿陀の教化を破って技に慰安を見出した結果、 三貢に鯨依する接になつたのである︵J資・く・〓一・崇−−由こ冒g−−守−1・−︼ 此王の蹄彿の動機を以て単なる宗教政策と看催し、王の如き不倫な行焉を敢てした者が傭陀の敷設 に注意を沸ふ告がないといふ額断的見地に立って、玉の緒偶の真の動機は王が閣部数の統率者たる 鹿討毘羅の父系の叔父であつて而も関都敦の熱心な後援者たるC号kp・で攻草した名園邪教徒の同 情を失ふたから.彼等の法敵たる沸教徒に加糖せんと決心した所に在ったと主張したのである︵S・ 寧E.舛巴︷.Jロtr阜p.巴く.︶。乍併阿閑世王が扱者固歓征伐しょうと決心したのは彼の臨彿以後、 】】5 伸陀入滅直前の事であつて−巴利大般捏欒経の記述に徒へば、彿陀がその入滅少しく以前王倉城に 任せられた時、王は己が扱者討伐の決心に射する彿陀の諌言を知らんが鰯、その事粕雨作︵く芸S已→ 腎エに命じて彿陀を訪問せしめたといふ事であら、且傭陀がその後巴蓮弟邑︵Pい告−i・g勘m2現今の 竹芝a︶に赴かれた時、摩掲陀訂の二大臣雨作及び須尼托︵S邑d訂︶がこの地に於て扱者を妨ぐた め急いで要塞を築造してをつたといふ事であるから︵D佐一守n・ヒ二弓・記−票・︶、王の路傍が王の扱者 征服と全く無㈲係であつた事は柄かである。殊に彿典に侍ふる所に依れば、王は傭陀の同情溢る1 教化に浴して初めて眞の慰安を獲.衷心三貿に錆依したのであつて︵Dig−−芝l・Ⅰ−P●∼声︶、王が彿陀 入滅の凶報一旦開くや.喪心卒倒したほど舵愕と紀望と悲痛とに胸打たれと侍へられてをる研から推 察しても︵Ⅵ・l㌻乙yい写一−≡叫1㌻rPdd−1訂l︼︶フ冥芦︶、‡の鮨彿がヤコピ氏の想像したやうh与政策的動 様に基いた事ではなく、彿陀の滋法によつて初めて極度の煩悶が一掃せられた結果であ一心事は秋童 疑ひを拝む除地のない事と信する。梅悪の人が其罪悪軌が動機となつて純真な宗教信者︰となつた事 賢は、古今東西に其例決して乏しくハ与い。‡の入信も亦英一例に過ぎないと想ム。 頻毘沙羅王の正史拘薩羅提茸は王の産後間もなく悲哀のあまら世を去ったにも拘らず、阿閑世王 は前述したやうに正妃がその父から輿へられた迦戸に於ける一都市よりの歳入を樟領してをつたか ら.正妃の兄たる拘薩雅王政斯茫は憤慨して之を毅牧した。かくて阿開世王は軍を迦Pに進め、伯 甥戦場に初見えるに至ったが、血束旺盛にして猛烈勇悍は阿聞世‡は既に老衰の域に通せ伯る父に 仰教典起の政治的背景 118 彿教典也の政冶的背景 一〓ハ 対して最初再二適職連勝一ぞ積けたけれ共,波斯匿‡は敗軍を窄むて骨箱城に違った時、元阿闇世王 の役人で現に祓固持合に在って彿弟子と仁れる者小∴阿由世山軍隊の窮卦を何問して、荘に石森七 暗示を得て、正一りに大軍勢一で以て阿聞世軍■で攻撃Lハー結果、最後に大勝利一ぞ博L、阿聞世一で捕虜と する事が出凍わ㌧︶併し波斯匿は何問世が己の甥であ乙故一で以て同情り念を起Lて、彼一で生返せしの 化のみならす、その際王女ノ亭・一・声一で彼の妃として輿ふ一匂と同時に、係軍問題の中心とへ㌧つて 迦戸に於ける一都市の歳入一でも結婚わ贈物として王女に授けたゎで一のる。与二.〓ニー︼一●士己1ユニく● trごご若づづ−〓⋮−・﹁〓け詫−t・︶。斯て阿聞世†は戦敗したけれ其、それ.㌢却.って良絶と∵つて拘 ;嘗=は彼の眉に迫害せられハ﹂彼の兄弟達を庇護し 陸岸国王と結婚相関係一で結び、つ<の政治的勢力一曾〓軍備張し得る幸運l二澄まれ二・りでJのろ。 すでに陳べた九、うに.阿聞世む甜父に常ろ て、彼の引渡要求を拒絶した。蓋し竿‡⋮に取って阿閑世はそC愛すろ‡女≡一≡lE即ち茸堤希 の生んだ子ではあるけれ共、その変節にして彼の親父二ろ頻毘沙羅を試した逆悪行点王封して彼を 付んだ焉であらう。而して他方阿閉世に於ても己.か危険視する兄弟山味方とハ与り、巳に反抗的感度 を明示しわ“租父に封して憤琴り情一で燃ゃして一でつたに違ひ㍍い。且己.か地位を確保すろ焉にはその 親父を就することさへ離せ二かったはど政治的野心に充ちてゐた阿間世のことでんろいら、,ての父 王が焉伽一で征服して国威を費揚したやうに、己も恒河の彼方に雄飛して摩掲陀図・り螢寧で阻害せる 扱者圃一ざ討伐して、その領土を自然的境域た・Qヒ7−ラヤ山麓まで壊大しーふう土り熱望を抱いて一ぜ 117 ったことは想像するに難くない。こ∼に於て両国間の風雲は漸く急を告げるやうになつたのでぁる。 併し彿陀がその晩年摩濁陀観の宰相雨作に告げられたやうに、昔時扱者固はよく人の和を得て、彼 等聯合図民は嘗政治的にも道徳的にも宗教的にも法に邁ふた生活を螢んだ結果、繁柴を極むる富強 観となつてゐたか、ら、現状のまゝでは他国の勢力の侵入し得ろ隙がなかったのでぁつて、阿聞世町勇 武を以てしても正面から之を攻撃することが不可解であ♭︵D宣−守−−・liこ︺・ごいSp蔓y−一tt守−−・l−こ︶● 崇00.︶、却って摩掲陀固が扱者囲の・焉に脅かされてゐたことは,前掲の巴利大般捏柴経に磨渇陀の二 大臣が吠合離城から玉食城に到る要衝であつて.摩碍陀観の遽填たる恒河の南岸に位した巴蓮弗邑 に扱者の侵入を妨ぐ鍔要塞を急造してをつたと侍へられてをるこ.とに依って知る また聾者の著Sum邑g已甲Yi訂imiに依ると、恒河の附近に阿閣世王と験肴聯合図に属した有力な製 この地へ阿閑世王の水着が遅れた焉、慾深い梨 革毘︵Licc訂くi︶族とが各その年部を領有してをつた一由旬以上に亘る渾軒あつて.その捲から程遠 からぬところの山麓に貿玉疎があつたのであるが﹂ 車毘族は全部の茸玉を取去ったので、阿聞世王は憤怒に満ちて其の場所を去ったといふことである ︵寧C・ど召い誉賢キpC−P戻inぎddhi諷︼トldi芦ニ︶マ一箪lご。かゝろ博詭がそのま∼信用されない 一 ことは言ふまでもないことであるが、著しこれが摩喝陀の国境に於て何等かの権益に就いて阿閤世 王と梨車毘族との間に寄ひの生じたことを意味するものとすれば、扱者聯合図民がその権益を瑛大 する為に常に摩掲陀囲に対して進捏的態度を取ってゐたこと一ぞ暗示する針のよ謂ふべきである。こ 俳敦興払の政治的智恵 118 償秋輿適の政治的背恵 一一八 こに於て、阿閑世王は白幽の権利保持の目的を達する上に於ても、扱者聯合同を討伐する一大決心 を確立する必要に駈られたのであらう。出・︹・ト奉宅氏は阿閑世王の扱者討伐決心の政治的動機とし て、王の一兵呼兄弟たる阿婆耶が吠合離の娼婦奄婆政利の生んだ王子であつて、梨車毘族の血が流れ てをつたから、彼は非常に梨車毘族を好愛してをつた関係上、若し日増しに強大となる梨事毘族に 彼が加勢したならば、王は彼等と敵対することが困難となるだらうと考へたからであるといふ臆測 一竺挙げてをるが︵F圭声︵ご.≡・︶、私の知る範囲に於て阿婆耶王子の生母が奄婆彼利であつた といふのは西戎侍のみであつて︵RO己−≡こJ・OrP︼︶・Ghこ、前示したやうに長老侶並に長老尼偶に 於ては阿婆捕吏子の生母を以て優輝尼の美女蓮華であつたとし、塔婆政利は蛇摩雁といふ王子を生 んだと博へてをる。か∼る鮎に於て西藤侍よりも巴利月村耶の記藤が温かに信用し得ることは一■般 ′ 畢者の認むる所であるから,ロー氏の推測は既にその前提に於て精確を欠き、到底首肯することは 出来ぬ。但し吠合離の︵▲つ邑ハp王が阿閤世の迫害を受けた彼の兄弟達を庇護し援助したことが、両 者不和の一因となつたことは否定することの出凍ない事賓でぁらう。 阿間世は彿陀入滅の近いた頃やうやく扱者征討の一大決心′ど確立したけれ畢最初から軍勢を以 て正面攻撃を試みても勝算のないことを知り、先づ計略を用ゐて、かの聯合図の内部の統一和合を 破壊せんと企て、宰相雨作にその全責任を負はして扱者園内へ入らしめた。かくて雨作は阿筒世王 の殺害智幸うじて免れ恋ったと詐つで、吠合離城へ入込み、扱者国民が後に同情して保護と款待と 】19 を興へたにも拘らず、彼は陰険な虚偽と譲告とを弄して彼等聯合同民の鹿一を破壊することに努め. 漸卜三ケ年を経て完全にとり目的を達したから、彼は窃かに阿開世王にこⅥ趣を通じて、王をして 吠合離城に侵入せしめ、荘に阿閑世王は容易に扱者聯合図を征服することが出水たのである。この 顛末に関する詳細の記事はSllヨ乳g已守真宗i已に載せられてをるのであるが︵寧C・F葺い声C・pp・ ︼∽∽トヱ、如何なる程度まで之を信用し得べきかは固より疑問である。併しすでに三一口したやうに阿 こ 閑世王がその宰相雨作を俳陀の許へ派遣して、疎音討伐の決意を告げ、これに関する悌陀の琴盲を 乞はしめたところが、彿陀は該者族安泰の七催件を奉げ、彼等が之等の催件を保指する以上、彼等 恨破滅せられすして繁発すべきことを教示せられた時雨作は彼等が之等の傭件の一つを保持して ゐてさへ周られないのに、まして之等の七億件のすべてを保持してをるのであるから、摩渇陀王は HI、p・㌶−G・これに細管する漠辞典九・一〇枚表 外交政策に依って彼等の同盟を決裂せしむるにあらざれば、戟畢に依って彼等を征服することは出 水ないと答へたといふことであるが︵Digl亨m には高倉大臣の答辞中外交政策云々の言葉は欠けてをる︶.若し之が事賓とすれば、阿閑世王の雨作 の献策を容れて、先す扱者聯合図の同盟を破る政略を用ゐ、依って以てその統一を素した後.軍勢 を進めて吠合離城を攻略したことは史賓として認めて然るべきであらう。 阿閤世王の決着聯合図征服によつて、摩渇陀固は恒河の北方ヒマー一ンヤ山麓に至るまでその版固 を撰大し、頻毘沙羅王時代に比してその領域は約二倍となつた。けだし畢青の註渾に依ると、焉伽及 係数興細石政治的背景 】20 偶数興起の政治的背景 一二〇 び摩掲陀両国をあはせて≡首由旬に過ぎなかったが、阿閉世王時代に於ける摩渇陀合衆王国の全地 域は五首由旬に達したといふことであるからてSろ︵Su邑官≡i㌻旨こここ轟こー.eこ昌.bridge H訂百y Or−rl︵lip、l−pp﹂箆−∽・︶。か∼る大王固となつた摩喝陀の首府として、徒凍の王合城はあ まトに南方に逸するやうになつたから.阿陽世王を託して王位−こ即いたその子已せ箋b訂ddÅ已d草. il−︶の時代に至って︵已已lぎ眉箪−く︼−・︶.摩渇陀の首府は王合城から恒何の南岸に於ける.巴達弗城 ︵詳嘗号−・エ即ち花宮城︵︼ハ萱⋮1ト≡r叫こへ遼されたのである︵雰小gerこl旨賢董笹こnt芦巴iii・︶。 此団は有名な婆躍捺斯︵ヒ琵琶i現今の苧彗且を中心として、摩掲陀固の西 但し阿聞世‡の扱者征服以後の事件が彿陀滅後に屈することは言ふを須ゐない。 三、迦戸︵︼︷を︶ 方.拘薩雄図の南方に位してゐた。本生諸にこよると、此固の首府婆足掻斯は周囲十二由旬︵約入十 望芦t弓⋮垂−芦と同一人と観て は迦P国王として望昔r宣⊇の名が揚げられてをるが︵詳言註p冒巴l・巨iI−︼かー♪−や︶、彼は巴 四哩︶に達し、登壇域三宮由旬︵約二千一首哩︶に亘ったといふ串である︵J巴﹂・p﹂声︶。焚書t ヽ 利発典己a−︼暑さーd箪Stlt−芦に於て習弓賢王子として示されてをる ′ 然るべきであらう︵︼、︶i耶−1⋮・lドゥワ相法﹁皐︶。池戸王が宰弓已箪王家の宗組−ノl一■賢くー1の一支流で あつた串は冒首にも侍へてをる所であるから︵妻絹ワ︸<・∽・︶、迦戸王家が.芋蔓主家に展 した事は殆んど疑ひを容れぢいこ而して迦戸の一字邑芦王朝はヒ邑1買1已どといふ姓を有してを ったのである。之が此王家の姓であつて解殊一の王名でなかったことは、既に寧邑買k宅及びぎを 苧i巴=1pDeb両氏によつて諭澄せられた所であつて︵字邑弓−ハ弓こ鼓弓窃−p.芦︶、茅tmyaPr首P ︵く、↓ド︶及び茅h宣告註︵〓︶∝−鍔︶には一首の苧已1n−貿㌻−どに就いて記載せられ、本生譜には屡 々迦戸王父子に封して共に同じ声⊇hn邑邑Pの名が輿へられて字叉J芦≡ニーp.∽芦a告↓.彗ヱ。 仰本生諦によると、此王家は発提詞族の出身でぁつたらしい︵J芝●iく、p.芦︶。 十六大国中最初迦戸が最も優勢でぁつて、従って其首府婆鹿捺斯の繁柴は他の都 が金印度に於け一り首府であつた事さへいはれたのである︵J叫ニ‘−∫?誼〇.︶。律東大品〓●二●三 に於ても迦Pが賊力兵力共に充賓Lた大国であつた、その国王冒巴−m乙邑pは杓薩経国王望g−一iti に比して財坪も歳入も軍勢も戦車に於ても濃かに豊富であつたことが博へられてをる︵くiす苫﹂ご・ 算こニー・岩・︶。本生諦には迦戸と拘醗雁との問に交へられた戟頚に就いて歴々記載せられてをるが・ 僕敦共起の政治的背景 かりでなく.他G藷王国にもその勢力を及ばLたらLいっ本生諦には十六大固の∵だる南部の阿設 て己が如としたとか︵J芦ノーーp−−・畠ひ−G・︶侍へられてをる。併し迦戸王は曹に拘薩羅を征服したば 已Fがその軍勢によつて拘薩経国を占領してその国王を殺した上にその王牢雲ナレスへ奪ひ去っ 件の顛末に就いては前掲と梓減大品−〇二・四以下に詳説せられてをるー或は迦戸王甲声h2を を奪ひ、出家に擬装して逃れてゐたその国王gbitlを殺したとか︵J箪IHH:・串こーこの事 し、合術城に侵入して王を捕虜としたとか︵J巴﹂Ⅰ−、p・〓亘︶或は迦戸王穿hmad邑pは拘薩羅固 最初ほ迦戸が恒に勝利の地位を占めてゐたと見えて、或はベナレス王が大軍を率 121 1巴2 沸教興起の政治的背景 一二二 迦︵A撃k芦︶図の首府勺Ct菩が迦戸王国の都として記載せられてをるから︵J芦Ⅰ︸こ︺・ごご、勺旨︼i の統治者は迦P王の支配下に在ったと観ねばならぬ。何又ベナレス王試買Oi芦が拘薩薙・蒼伽及び 摩渇陀の諸王を臣服したと侍へられてをるから︵Jぎ∴ヂ︼︶p・巴ひ−G・︶、か1る文献に従ふ限り、一 宣旨毘l雪pは其 時迦戸が拘薩推を始めとして他の隣国一どその勢力範囲としたことは柄かである。 乍併、迦戸王国はかゝる優勝な政治的地位を久しく保ち得なかった。′迦戸観王 英名の示す迫ら極めて仁慈であつたが、其仁慈が却って親して、拘薩凝固王の焉に其葺圃を套はれ る至ったらしい。本生苛に依ると、の宰相の一人が不義を行ふた焉周外に追放せられて、拘薩荘園 に入り、英国王に採用せられて、迦P王が柔易であるから僅少の軍勢を以てその全土を征服するこ の可能なる趣を告げ、迦P王国の占領を勧めた庭が、最初狗薩羅王は之を疑ふてゐたけれ共、再三 計略を以て試みた結果その事貰なるを知り.鼓に迦戸討伐の決心をなし、軍を迦戸囲に向つて進め、 迦P王は優勢な兵力を有し乍ら.其仁慈の精神から千曳を交へる事に依って人民を傷音することを 厭ひ.何等封抗的線度を取らなかったから、彼は容易に迦戸王国を占領し待たといふ事である︵J抑t. 叫︶pl︸・柑の沌−ヱ。何ヌ本生苛には合街城ま.ヨ巨訂王が先きの場合と同じ理由で迦戸国王ヨ已Pに ょって追放せられた其宰相の勧告に従ふて迦ア園内に侵入し、前の場合と同じ′向等の抵抗を受け 阜畢な∵ ∴臨石占領t、︵JぎⅠⅠⅠ−p・−声︶、其他の拘薩羅王D旨賢一pも詳−訂Pも同様な道行 きで迦戸王国を征服しセと侍へられをる︵J賢・′Ⅰ︶p・︼∽こⅠ、pp・失丁ム・︶。固より斯る侍設はそのま ま信用することが出水ないとしても、之等の記錬の依って最初華々しく観カの進展を貰現Lた迦戸 王家も茅罫il⋮王以後は一樽して退嬰的となり、国力振はす、蓬に拘薩罪因王の虐に征服せら′ れるやうになつたことを知り得るのである。而して迦戸に封して決定的勝利を獲た拘薩雇王は前記 の︼ハ巴i︰Spであつたに違ひない。蓋し本生澤に於ては再三彼が﹁婆羅捺斯の占領者﹂︵出罵.首鼠gg已一C︶ と呼ばれてをるからである︵J箪HH、p・会∽いメp﹂−甲︶。上述によつて明かであるやうに、迦戸・拘 訊㌢m乙註p 簡敢興起の政治的背景 によつて其父王 D王g︼lE は殺され、其王国は奪はれた拘謹鹿王 王の後拙者として示されてをる諸王中の雲≦k軍−Pと≡Pk室胃トに鶴首することは疑ひのない 宮古岩氏の研究によると、之等の中ノ、i盗SenpJ≡Py邑1已dPとは憎ur甘pに於て守p訂乙已F 亡−昌n昆PyP︶S巴古書a↓ノ、訂琵−1ロ︶t己pyPb訂ddP及び字邑裟yp等の名が侍へられてをるが、浮翼7 依って澄明される。以上必要に應じて摘記した迦戸王以外に、本生育には迦戸王としてqgg罵き 一−三︶、迦戸王冒已−−2d注ぎが拘薩羅の美はしい王女と結婚したといふ文献や︵J勘t・Hl−ら告ごに 福に協調的統治鍾活を績けたといふ侍設や︵前掲の梓蕨大品一〇・二・土ハ以下及び本生渾三巷二l 思止った道徳的行男によつて、.王は戚激して彼にその父王の領有し美園土を返還し、爾後雨着は幸 子せig11冒11が.冒al一m邑a︷tPに封して復併し得る横倉に亡父王の遺言を想起して王を殺嘗する事を この事要は迦戸王 るが、併し南国は断えす千曳を交へて居たのではなく、時には和卒を保ち親交一ざ結んだのである 薩推南国は屡々戦場一ぎ闘う、最初には前者が勝利を待、後には後者が征服者の地位に立つ死ので 12:: 儒教典也の政冶的背景 −二甲 ′ ∵ ょり速くない時代に拘薩羅王国に併呑せられ、爾凍再び猶立国として現はれなかつセの 戸Ⅰ二?鱒謡・︶。故に最初十六大国中最も優勢の地位を占めてゐた迦戸ま囲も傭陀時代七遡ることめ てをると思ふかを尋ねられた嘩彼はこれ皇是してをる▼てに依って知るこよが出水る、︵bigh守 一 翼pに於て傭陀がどhi旨といふ囁羅門に封して、拘薩羅の汲斯医王は遡戸及び拘陸産を領有し の治世に入っても迦戸が依然として拘薩雁王観の一部をなしてやたこlは、巴利莞ハの、E−i亭 ける一邑の歳入を沐浴香水料として彼の女に居った事貫によつて推定す㌢とが出凍る. 逓したやうに摩討拘藤原王がその王女拘薩雁提奪を摩鞠陀国王頻毘沙罷に嫁せし句た際 匿の親父であつた摩河拘薩雁王の時代すでに迦戸が拘藤尾王国の一部を構成してをつゃ1と恨、前 拘藤森王時代の直前に起ったといふことが出水ろだらう。傭陀上岡時代に活動した拘匪 雪・く。=−乙iデ↓・D・IL・≡こr芦︶。更にこれを具層的に表現すれば、ぜi︸∝p王の迦戸占領は摩討 占領と沸教の興起との期間はあまり長くあり待なかったに達ひないとい′ぶである︵P。︼i許− 狗立王国としての迦戸の記憶が彿陀時代の人心になほ新たであつたので通るか▼ら、督 の間現に封してRa号邑−喜i氏は批較的正昔と看倣され得る解答々費表した。頂の意見に徒へば、 然らば、拘薩雇王六巴訂pが迦戸を征服して之を占領したのは何時頃のI︺とであつたうっか。こ れは首肯し得べき見解であらうと思ふ︵︻邑ure♂写▲宗−ご。 所であり.最後の空室桜宮は多分号音の学監甘と同一人で牒うっとのこ 12l 】26 諌言者ホセアの罪罰覿 ∴ n 要は、そのま1、紳ヤーブ∫が民イそフエ.ルと ラエルの罪−就骨悪−圃艮乃至融合の非−を批 わが子一ぜエデブトより呼び出したト。.我エフ †スラエルの幼かりL時準Jれを愛しぬ。.我 魔の過去一ざ追憶寸る委であつた。 判し.之に宣す一︺に死滅と亡国と㌢以てしてか ホセアの妻は不倫へb女であつた。あだし男′で 瞞んだ。悩みぬいた。その橘ふぃ中からー妻ゴ して彼らに食物セあたへたト■。︵︰一ノー−四︶ は軒ノでその肥よりJのげ−Jくるもりのごと′↓−に っなノピもて彼らをひけトリ。わがかれら一で待ふ メルの不倫のために悩む臓一け一で通して1ホ七ア とく﹂、又﹁無花畢り樹の始にむ†べ乙最先の果 欝に、﹁イスラユルを見ること荒野の葡萄のご Jピー城得したいであつたU いごとく﹂︵九ノ∵∵︶∵′、れはぃ﹂までにィ二つフエ ホセアにあつては、 妻の態使り争いま1イス・ノエルが紳ヤーデュに 一二五 である。プノルの夫雷セ†が求めてやまぬもの た紳ヤーデュの心一で如賓に知ることが出水たの 愛故にも宇乙二ホセアは、壷故にもだへ給ふ ルを愛したのでJのつた。 後官省ホセアの罪罰敲 懸を失つたホセアが過去のたのしい夢を追ふ 鰻戊であつた。 一ピ裁﹂蝮度は、そのま∼、氏イそフエγで裁く 対する態度でぁつトー。同時にホセアが妻ゴノル は、頑ヤーヴュがイそノ∴ルの不倫に悩む悩み Lたひその子までも産んだ。不幸ハu夫ホ七アは て抱けり。われ人にもちゐる索寸二はJり愛山 ライムに歩むことを教へ彼ら一ゲ衰が腕にのせ㌧ 西紀前七六〇年、アモスが議に寸脚してイス ● ら十年.その時起ったーいがホセアでめった。t ′ 1雲6 預言者ホセアの罪刑覇 はプメルの愛である。イそフエルの紳ヤーデュ が求めてやまぬものはイそフエルの愛である。 一つ心の愛である。︵六ノ六︶ けれど、ゴノルの心はホセアに、イそフエル の心はヤーブェに、締っては凍なかった。﹁なん ぢの愛情はあしたの雲のごとく、また、たゞち にきゆる露の如しL︵六ノ四︶とヤーダニの草書 者ホセアは嘆く。 第〓阜 罪 一二六 かくばか♭はかりがたきヤーブ∴の愛にもか かはらす、氏イそフエルの現状はどうであつた か。愛になやんで変に起ったヤーゲ∴の預言者 ホ七アが、愛のプリズムを通して見た民の現状 は、どうであつたか。 イモフエルの現状、それは淫行であつた。紳 ヤーブェの愛互選切った淫行であつた。イそフ エルはヤーゲ∴に対して貞操を守らゃして他人 のチビ産み︵五ノ七︶、淫行をなして紳一ピ離れた 愛のきづな故に、許し難き不貞の妻ゴメルを、 不義の子三人を産むまでも︵一ノ三−九、参照︶、 のであつた︵九ノこ。 ホセアは紳と民との関係一ピ.愛の倫理的概然 許したホbアの心は、又紳ヤーデュの心ででも あつた。愛されても愛に戦いんともせす、愛さ メシ ア思想を中心としたるイモフエ〝宗教文化史、 と観じた︵石橋智一正博士著 れれば愛されるほど注ぎから行くイそフエルで はあつたが、それでもヤーブェはイっ二フエルを 一入八−一九三、参照︶。この棟準一で以てイス 的特殊関係 恨むことは出来なかった1されど我はエデブト l、偶 像 第一節 罪の種類 第二項 宗数的汚行 しからば.ホセアが言■や淫行﹂の内容は如何。 と云■芸口菓で表現したのであつた。 の固一でいでてより以来なんぢの紳ヤーブェなり。 ラエルを批判した彼は、なべての一罪悪一で﹁洋行﹂ なんぢ我の外に紳一で知一?JとなL。我れの外に 救者なし。﹂︵〓ニノ四︶ 愛するものに裏切られそむかれてもなほ、愛 すろものの安否を束つかったのがホセアの心で あつた.ヤーブ⊥の心であつた。 12丁 転さかゆるにつれ培されゆく祭壇を眠って ︵一〇ノこ、ホセアは、 もろ/\のノアルに犠牲をさ∼げ離たる偶像 に香・ぞ焚き︵一一ノ二︶、その地の饅へ亘るがまゝ ﹁エアタイムは多くの祭壇を造りて非を犯す。 この祭拇はかれらが罪に陥る階とはなれ\り に偶像一で美しくし︵一〇ノ一︶、銀をもて己のた めに像を鎖その機巧にしたがひて偶像を作る ︵八ノ一一︶。﹂ と記してゐる。 四、拓 ︵二二ノ二︶こと一ど難じて、ホセアは、﹁エフライ ムは偶像にむすぴつらなれり﹂︵四ノー七︶と嘆 じてゐる。 叉.サマリヤの頓に封しては、﹁その噂は元本. さゝぐるものはこの頓に吻を接べしと言ふ︵一 の業にこすぎざるに.彼らは之につきて.犠牲を こゎuふ。此はその樹蔭の美しきによりてハ与り。 香一ぜ焚き橡樹楊樹果樹の下にてこのことをお ﹁彼らは山々の嶽にて犠雅一ピさ∼げ阿の上にて 又、部を難じた言尭としては次のやうへ㌧のが ある。 三ノ二︶。されど、その道れるは毀ちすてられ こ∼をもてなんぢらの女子は淫行一望仏しなん 叙・ど以て鋳.機巧にLたがひて作られたる工人 んが焉にせしにことならす。サーマリヤよ、なん らにむかひて燃ゆ︵八ノ四、五、︶﹂と極度の冊忍 姉かんいんをおこなへども刺せじ。其はなん ぢらの見好は姦淫をおこなふ。我ぢんぢらり むすめ躍如を二せども罰せす、なんぢらの兄 ぢの噌は忌みきらふペきものなり。我が怒かれ をしめしてゐる。 ぢらもみづから離れゆきて妓女とともに居り. 〓一七 ︵一一ノ二︶偶像一で作り偶像に犠鞭一ぜさ1げるこ 説くところ山﹁淫行﹂とは、﹁呼者に速かつてー・﹂ ニニ、︰川︶ 注解とともに献物をそなふればへ与わ。﹂︵四ノ 二、赴 廟 赴廟に関しては、ホセアは、イモフエルが己 が造まヤーブェを忘れてもろ′\の赴廟を建て ること一で歎じてゐる︵八ノ山四︶。 三、祭 儀 換言ポよセ7の罪罰組 1雲S 疎音着水セ7の罪罰覿 とであト′、﹁己が遣まを忠正てー・し︵八ノ.E︶も 一二八 戎ひは偶像、或ひは敢廟、戎ひは祭壇.或ひ 入∵′ト・の軌廟、多くの祭咄一ぜ造ト、叉山々は り斑 恕.等々に於て.犠牲■ぞさ∼げ香を焚いてぁ 第〓節 戎ひはアッシリアに戎ひはエデ.ソト 罪の壬世 い鮎に於て、﹁淫行﹂であろ。罪である。 に呼求むるも.共に、紳ヤーヴュに一つ心でな G∴﹂と′㌧ に犠牲一でさ∼げ、岡の上に香一で焚くことであ・0。 だし所々に仕ふ一心も、ヌ、あだかも狗ゐし野の 即ち、ヤーデュの民ぢるイスラエ〝が、呼名 破局のごとく、さては、智慧なくして愚なる鳩 G。tt訂itをしたふのを.ホセアは非難 或は己が造壬︵ヤーゲ・1︶を忘れて、 l訂⋮dni仇C︼−e 政払的淫行 したのであつた。 第二項 だし紳々に化へ、ヤーブェをかろんじてエアブ ホセアが非難するところの﹁汚行﹂に軍に丹ポ ホセアは.イそフエ〝がヤーブェを耽れてみ 敦上の淫行のみにとゞまらす.進んで、政治上 ト、アッシリア宣どの大開におもねるの一で二.淫 こS非難の対照はイ1二フエルで あ・つた。.柁わ﹂のま憶はイ7二フエルでぁつた。 勿論のこと 行Lとして難じた。 ︵外交上︶の淫行をも非難してゐるのでぁるり イそフエルが.ヤーブェをはなれて、無力柁 にも、或はアッシリアに、或はエデブトに媚を 貿る姿を︵一二ノこ彼ほ次のやうに諾いてゐろい ホセアの非難の対照であつた。 ﹁エフラノ・ムは智慧なくして愚なる偶の如し。 人間個醗S罪悪−個人窓−ではなくて、イそフ 彼らはエデブトにむかひて呼求めまたアジス エルと云ふ︰氏族、一献曾山罪恵1政令患1が、 リヤに往くっ﹂︵七ノ一一︶ たゞホセアは、このイモフエルといムー民族、 倫理的開係行アり﹂といふ.プリズムを通して見て、 彼は又、イそフエルのこの不貞な有様一?ひにく って、それは、ぁだかも燭ゐし野の砿馬のごと く、又、物を侠って唐人を得るが如きものであ ﹁淫行﹂と断じたのであつた。 一能骨の罪悪一で∴.細入の関係は変を催件とした ると︵八ノ九︶言ってゐる。 】つ9 けれど.ホセアは、﹁淫行﹂の薫憬として、た だに、イそフエル全憺をあげてゐる再みでなく、 更に詳論して、王︵七ノ五−七︶、吸爪︵九ノー 五︶、伶侶︵四ノ八︶をもあげてゐろいでJのる。 八ノ四、五。四ノ二二.一円。七ノ一。一二′ 一。等々。参照︶⊥ この郡 先人アモスと同楼。 ァモスとことぢる黙は、アモスが義を傭件と 罰 れんL﹁二ニノニハ︶と、ホセアが、不倫な妻に 義の嬰兄はなげくだかれ、その孝みたる好は剖 溺してわく宥桟を.蓬に新規するぁたはす﹁不 ゴメルが夫ホ七アの愛に報いんともせす、反 って夫の愛にあまへて、不倫な嶽にいよいよ耽 第二童 参照︶この政令悪を批判し非難した新である。 として︵イスラエル宗教史、山八八−山九三頁、 ァは、変を傾件とLた倫稚的鯛人い関係を規準 この敵骨琴ぜ批列し非難したの∴反して.ホセ 即ち、﹁富み且つ強き﹂融合、もしくは団氏をも、 した伶叩的細入の圃係一室標準として︵石橋博士 ﹁淫行しの真髄として難じてゐるので爪∵も。 著 イブ∵フエル宗教史∴Fq九−一五四頁参照︶ 全焼的に見た︵山讃l訂こ;〓∵としての∵乃至/.=lk 牧伯、 としてのイそフエ〝の罪悪が、ホセアい非難の 封照でぁつたばかりでなく、﹁富強なる﹂軋含も しくは﹁富強なるL簡民の罪、即ち草 付侶の罪悪も亦.非難の封照であつた。 ホセアの説いた罪−ノ、u芹もしくはGe汚︼軒︼7 邑の罪−敢骨意−は、その内容より、全便的に 二つに分けうると 見た統合︵乃至、国民︶の罪と﹁富強1こる﹂敢 骨︵乃至.国民︶の罪との 考へる。 その白 ー二九 ヤーヴュの日をみだらな心に待つイモフエル 第−節 が、しかし.重機の傾向としては、むしろ生 最后の宣告・で輿へた時は、同時に、彼が悔ゆる 態的に見た観民乃至赦骨の罪一軍説いたと見る方 こと一で知らぬイそフエル㌧ 紳ヤーブェの名に 於て亡びを宣した睦である。 が皆を得てゐろかと考へる︵二ノー−四。九 ノー〇。六ノ四、六。二ニノ四。五ノ七。九ノ 山。八ノ二。一〇ノー。八ノ一円。.二ソ二。 珠富来㌫七丁の非罰覿 用 捜首者ホセアの罪罰私 ︵九ノ七︶。その時、さばき の民にとつて、その日は、﹁刑罰の日﹂であり、 ﹁應報の日﹂である は民にのぞんで︵五ノこ.民は紳の網のために 囚 天垂の点りごとくに引堕てれるのである︵七ノ ー二︶。 第〓節 捕 火︵八ノー四︶と創︵七ノニハ︶とは﹁淫行﹂ の町々をおそつて亡しいその昔エデブトに捕囚 一三〇 の案疏も荒はて∼別棟とあざみとがその壇の上 王、牧伯.祭司、 を覆って︵一C/八︶哀れ靡姥と化し去る。 第四節 その由には、王︵山○ノ七。一〇ノー五︶.牧 Re邑まな亡び 伯︵七ノ一六︶、祭司︵四ノ六︶は普亡びる。 第五節 一般国民も勿論亡ぼられる︵四ノー四。五ノ 七。一〇ノ七。〓ニノ一六。︶。 アッシリアに捕へられて宿って汚桜たる物を食 れ、その串みたる嬬k剖かれん﹂と断じたホセ 裏切られた変改に﹁不義の嬰見はぢげくだか はされそ︵九ノ三︶。彼の地にてイそフエルは牛 ァは、ヤーブェに封する数々の淫行の應報とし て、イそフエルに、火と剣と捕囚とによる亡国 を叫ぶ丈ではまだあきたらなかった。 彼はイそフエルのひこばえをすら地に絶たん とした。生を得てゐるものも、生一ざフベきものも イヮ∵フエルの民であるかぎり、絶滅さるペきも れとなつてゐた時のやうに︵八ノ一三。九ノ≡。︶、 〇ノ二。八ノ六。︶、或ひはアッシリアに携へ行 のと叫んだ。︼㌢邑CSへ与亡びを説いたのであつた。 墟 〇′二︶、金野ど以て鋳た偶像は折棄てられ︵一 その時.ノ叉、準脆ノで極めた祭栖は打毀だれ︵一 第三節 度 馬のやうに酷使される。︵一〇ノニー︶。 かれ︵一〇ノ六︶、和みたくはへたもろ/1の貴 ﹁エフライムは産むことも孝むことも姫琴Jと もなかるペし。暇命かれら子等を育つるとも 我その子を喪ひて遣る人なきにいたらしめん。 九ノー一▼一二。 き器皿は掠め奪はれる︵二二ノ一五︶。 かくのごとくに淫毎の囲イそフエルは荒麿前 ︵茄ノ九︶.いばら.彼らの天幕に蔓り︵九ノ六︶. 琵欒とこしへにつきねがに思はれてゐろアベン 川 エフライムは撃れその根はかれて果一で結ぶま セアの罪悪軌の基調だと考へる。 て見た﹂国民︵乃至敢曾︶の亡び−これが、ホ ハ㌧亡び 石柿先虹菅 Cニl﹂已iこ︼Q−﹂旨rn一・〇コd≒婆iコ■︼P ︼望ノン. ︵㌻tli一 T≡三eニ一:l言コ一芸エ.−Jユ一身;声 Tr弓︼丁㌫.︰≡r〓一ュ.き≡一.ソliillハ・訂コ 一三一 イスラニル罵散文牝史によつ、ト。 二上∴り、拭・−1丁ぺ .︼.〓〓=雪=−つ︰lっ ︼ハ﹂㌻三⋮・ニ︰コ訂〓cニ育っ苧一こさ︵︼e.肌≧tつコープ温岩︼りntp 即ち大栗一山 でこり鮎lニついてに炎撃の欲ふろミ=ろl二・し㍗がつ㍗。 わけわ薄つこミに<−の私の企イ、及ぶき,ろでl‡互い。それ ゎけ二歩も先lニすゝむこごが出束ない。けftご臼らい・史料 背約の研究に∂u一〓已1︹己l⋮g︵史料わけ︺の問塩が片付か 古い文献を報描寸ュ・ろ研究に何でも苧つでわらうが、殊l= ざ一ク=ご邁でわろ。 ﹁メシア思想ちー=﹁心ヾし・したろイスラエル宗教文化史﹂に及け けいご、教わ一散へ導いてくjL㍗鮎に於てに石橋智信仰士著 −▲一こ訂コ二⋮芸ニN二︶ie ノ、〓一kつ訪 ㌢・tl︼ニハ望−邑e︰若∑:−・;己ニ≡r与葱賢雪l−こ勇L. ⋮一≡⋮∵r〓−㌻一票〓︼篭㌢ l妄■=・︼=ニe三三ごん二塁⋮′l⋮▲Lつi二乏1・㌢苦手才芸p・ 一一.i〒要−土∴貰ぎ−cニ≠一己=1弓hニ三く〇1号一ぎ義ユ・芋 =?=;3. ︵ソニニ︹C〓3二亡iO ものに次の四がわ一わ。. 背約め罪悪現についてものL㍗もののうち私の手に入つt 備考 じ。若し産むことあらば我その胎なる愛Lむ 貰を殺さん。九ノニハ。﹂ ホセアの説く罪の内容が、﹁ノ全髄として見た﹂ 国民乃至軌含の罪と﹁富強ハ一りる.■国民乃至融合の 罪とに分け得たやうに、彼の説く苅も亦同様に 分けうると考へる。即ち大健は、全能として見 た観比乃至敢骨の亡び一ざ説いてゐろけれど︵九 ノ七。亙ノ∵七ノー二。七ノー六。八ノ︰四。 入ノ一三。九ノ三。︰○ノ二むー■?こ〇∴㌧亡び を説くものには、九ノ︰∵一二し九ノニハ。等、 塵照︶.﹁富強なる.由比力至敢食山亡び空説いて ゐるケ所もめることは一のるのである。︵一〇/七. 一、Mu 一〇ノー五。七ノニハし四ノ六。等.参照︶ しかし、ホセアの光調は、そのと−亮毎∵う由 してのイでフエ〝の邦に劃する=ノ生玉 賓に示す如く、﹁全偲的に見たL同氏乃至敢禽と であつたと考へる。アモス同様、﹁全館として見 たL国民︵乃至敢骨︶の罪に射すろ﹁全髄とし 換言者ホセアの罪罰観 132 回 心の 問題 回 心 の 問 題 上 野 隆 誠 従来同心Cull12r仏iC−二即ち吾々の宗教信念聞鎗 現象に比し極めて相違せるものが観取せられる。 の法相については、紳撃的・心理的・住理的の三方 然し勿論同心は腐搾阿れに見るも吾々の心的 挿絵として∵㌘相磯、帥ち臼兜又は鴨心の状憲 を贋煉二義にこ分って諭主上−如︿狭義の阿心⋮⋮ に・りみ限らす廣く非宗数的現象︰⋮⋮密約乃至道 ・竺指す0であるから.山寒河心は単に再ポ敢経験 面から研究せられて凍た。別してコー氏が回心 青年期に至り幼少期に培に扁lた宗敵情据の開聾 如く心理的にも珪理的にも相皆解決せられたも メリカに於る宗教心理坪派の実績に見らる∼が に鮎検す一心時回心は宗致緯瞼として此等と興る 比すべきものを見る串が出来るが、これを些細 の種々和の中には心理上、智的道徳的磯醍にも する状能心⋮⋮∴山如さはホール、スターバノク等ア 徳的億醒粁般と同一成せられて水た。勿論回心 の∼桔でぁろ。然し回心を単に狭義の同心とし 心 肺葺閲螢等の経験とし.更にアンダヒル女 史が神秘緯瞼一曾五階段に分った中の第一段にこ れを見るならば、同じく中小数倍念の開螢と云ひ 殊に回心を坤宗特派−外宗の経験、偶数的に馨 従来の阿心諭一里繹臆し心理的に分析組織せる快 ︼・㌢=︵︼誌上の如きは同心の関する著作として が必要でぁる。 て青年期の特殊現象とせす、虞く宗教紅顔とし 特殊的拝廠なろ難が考へられる。従って吾々は て贋義に解すべきは今更云ふ迄もない所でぁる。 同心については非宗教的のものと混同せぎる串 ながらこれ等の現象の中にはかの青年期の特殊 Ⅰ︶C㌢毒ti功氏の﹁∴数的回心﹂−己客︶=1︵ぎ′づ こゝに述べんとするロマ大学数柁サンクテス . 133 るが︶且又集囲的な同心現象を取らす専ら個人 てブロ一7スタントについて諭せられたものであ 教徒の同心をま過とし︵徒凍の同心諭は主とし ロー†カトリックの本場だけに、氏はカトリック 著であり、文書人に敦ゆるもの極めて大である。 象と解辞さるペきものせなつて凍る︵三七頁︶勿 に封する適合﹂現象か、又は﹁生命の更新﹂現 的炭化に鯨せし所を見れば.回心とは単に﹁防額 心を生物の鼻化に類似せしめ.回心を以て有梯 か? ある、又回心を似て有機的舜化に給するが如き は生物畢的見地から見て極めて償伍あるもので 特にホールの努力に現れたる如く彼が回 個人の回心につ・いて、心理的に閲胡し回心の特 論青春期に件ふ倫理的宗数的舜化の如きは回心 の要素として青年期の一特徴を明にするもので 質を論じてゐるが、本論に於ては主として氏の 論述する所に従って同心の庶困型、過程につい て伺ふ事とする。 が回心の直接原因たる事についてはアメリカに 期、老衰等を教へる事が出家やう。殊に青春期 る原因として吾々は精神弼.諸種の疾病、青春 めんとする老のま張する所でぁるが㌧ 生理的原因はまとして積極的に回心の原因を求 を生理的原因と心理的頗因に分ける事が出水る。 期に限♭て生理的なものに求むる事が出水ない。 更に精所柄、諸種の疾病、老篭等が原因となる らるゝ特殊的過程であるから、その原因を青年 なく.成熟期に於ても果た又何れの時代にも見 意して青年期の同心を狭義に解した所以も首肯 せられる。即ち回心は翠に青年期に限るべきで るの不可は云ふ迄もh甘い。コー氏がこの鮎に留 あるが、これによつて同心の全般を伺はんとす 於る宗教心理聾者ホール、スクーパ一ツク、コ一 事あるも、か∼る回心は正常的回心と見る事は 先づ回心の原因について見るに、吾々はこれ 等が年齢に分けて研究した如く其間極めて著し 出水ないのであ・る。 もし同心が青年期のみの現象でもなく、又そ その主た きものが見られる。然し彼等の業蹟として畢げ らろ∼ものは、彼等が青春期に伴ふ倫理観の舜 の原因が外的な生理的なものに求むる事が出凍 〓ニ三 化、乃至道徳的宗教的樽機を示せる事でない 回心の間組 134 回心の問題 一三四 なければ、吾々はこれ一ぞ内的・心叩的なものに求 一種の不安煩悶の状騒が見らる∼が、此等心理 その中にも情的要素が常に先轟をなしてゐる事 に注意しぢければなら沿。 である。従って回心には的外にはその原因とし て智的要素、情的要素に分ける事が出凍るが、 して⋮︰既に賓現されたものとして現場れる咽 め∴豆ければハ㌧らぬ。先つ心理的陀閃については 上小安り状雇お結果として回心が⋮⋮:智的には 否定彼の確信としで情的には中和歓喜を健得 これを内外二様に分つ串が出凍やう。即ち心理 過程に刺戟とへ㌧る外的原因と刺軌を件はぬ内的 心狸作用とでぁる。第一外的原因については暗 示、諸種の内債的乃至道徳的苦賄が塞げられる。 暗示はまとして集圃的回心に見らる∼もので、 かのレバイパルに於る現象はその最も著しきも 第二に回心の型について見るに、徒氷河心の 型についてはスターバックの分類七見ゆる如く のである。︵氏は暗示′で集樹的なものに見す寧ろ 個人の経験について説明してゐるJ 実費的回心2︼⋮ぎ2−tと漸次的同心−−≡gl■e軋・ に同心過程の荷績︵突漸何れにせよ︶躾愚につ 又内債的・ ふ集矧的阿心に於るが如く.集囲的に著しき原 道徳苦痛も.例へば戦事後人心の荒廃疲弊に件 ≦に分ける事が出奔やう。然しか∼る分類は単 徳的要求の現れにより、要約すれば斬らしき心 する以前に、﹁性格の完全な鼻化,又は急激王道 如きも同心は急激受働的にして無意識突費的な として発たのものが示されてゐる。リユーノの 然し従水間心は失費的な所に特質ありと諭せ られ、その事例として史上ポーロの経験を始め に分たす同心は一の過程として漸次的なものと 考へられる。 いて分類したに過ぎないので、寧ろ青々は突漸 因となるものであるが、個々の経験についても 回心の原因たろ事は否む事は出来ない。第二同 心前には何人も外的配何によつて肉憶に異状を 呈す一心ものである。然るに或場合に於てはこれ 理傾向によつて﹂へ四七頁︶行はれてゐる事であ Lソーとしてこれに伴ふ催件を示してゐる。更にジ を見ない事がある。帥ち回心が内債に異状を呈、 る。詳言すれば吾々には常に智的にも情的にも ユ35 究すればする程,その然らざる所以が分る。云 いか?寧ろ吾人が失費的回心と耕するものを研 迄云ってゐるが、此等は多少誇張に過ぎはしな エームスの如きは真の同心形式は突発的牒♭と 信に入らんとする者には、その危梯直前己が過 示、信仰の心理と全然相違してゐる。更に芙蓉 的回心と挿する者について見るに、何人も特機 注意しなければならぬ。従って回心は貴明、.啓 なく、寧ろ回心は意識的な永績妖簸でぁる事に ゐるので、−これを意屈しないのは魂の暴風に掻 はれてゐる寧ざ否定出席ない。詳言すれば将に へこlp己tu已︵︰elltreO↓罵r讐声已enegy−、の置換の行 憂化のキザシ即ちジェームスの云へる 去の経験に封する不快、嫌焉の情が意識されて の直前 らである。︵同心が失費的打でりとま張さる∼に至 ふ迄もなく回心とは心理変化であるが、この舜 化を決定するものが常に意識反各であアり、且つ この意識反省が失費的たる事は極めて稀、殊に 意志の抵抗を安くる場合の如きは滑吏であるか ったのはフロイド、 †イヤー、・ジェームス等の き乱さる∼が焉であるパ従って回心に於ては意 ある。啓示の如きは紳の恩寵と解すべきもので に彼等が恩寓の高きを痛か上にも讃へんが点か し無意識突発的たアワと述べてゐるが、これは主 然るに古凍回心経顔者はこの意識過程を否定 心もオーガスチソのも失費でないと云へる。 明白になる。か∼る意味から吾々はポーロの回 掛質も理解され、更に意識と無意識との関係も れを認むれば無意識に基くとする失費的回心の 識が常に先行一ぜなしてゐる事を怒むべきで、こ 無意識研究に由蒸するが、氏は無意識説を認め てゐない。︶ 然るに由凍回心の失費型々主張する者は馨明 や啓示に於る心理過程と混同してゐる様に考へ られる。費明の如きは或は突如として現れるか も知れない。然し何人も訝明によりて人格上の 何人の自由ともならぬものである。又回心を信 又は回心経験を回想しこれを草するに嘗り、経 鍵化を受くる事はない。ヌ啓示に於て為同棲で 仰の感情と同一成してその実費一ざ説明せんとす 験昔時の心理過程を忘却してゐたが焉であると 〓ニ五 る者があるが、回心は一時的な信仰の状態では 回心 の間組 . 】36 てもこれと同然でみる。即ち同心は畢なぇ内的 一三六 広軌でなく、これが賓践さる∼所t回心の意気 回心の同夜 考へられる。なほこ∼に一言すべきは心理過程 るのである。 ヽ がぁるので、回心は行焉によつてこそ賓現され の忘却は何等病的現象ではなく吾人意識の〓状 以上の如く突馨的同心と挿するも.結局意識 鰭として認められてゐる事を知らねばならぬ。 明せんとするものに潜在意識設のある事哲記憶 しなければならぬ。勿論吾人は潜在意識設の如 が明白による。然るに二万更に同心の失費を説 馨し諸種の経験を意識に止めつ∼最後意志によ いのであろ。寧ろ回心とは腰瞼に射する意識に でなく、たゞ徒凍突発的に回心せりと押する者 潜在意識読も.異に同心の心理を明にせるもの ヽ 反各の賜なりとすれば回心の失費的でない所以 要之回心の実費を説明せん1しする無意識設も く種々の事象に触れ種々の閃き、内的直観を受 の経験を説明しこれを充さんとするぺのに過な ける事は否まれない。然しか∼る内的直観は回 知するに過ない。従って回心は其形式に於て失 心と同一成されないものと思ふ。何故ならば﹁自 らこれを鰻得する心理過程である。かの失費急 激と辞するものは翠にこれ等の繹俵の特質を愛 己を襲へる事は信すろ事と同lではなく、内な る閃きは賓際的な更新でない﹂︵八〇頁︶からで 充されない。骨て森林に大神秘家ルイスブルク から出費するが、か∼る打的直観だけで回心は なく回心の心理過程とは意識の僅積的舜化を指 すのであるが、これに閲しかのホールが回心の 心 理 程ぶを生物畢的に考究しこれを有機的炭化 de ∝過 i蒜 理過程について究めなければぢらぬ。云ふ迄も ある。詳言すればクワーチ⊥の業牽から見れば、 費的ではなぐ漸次的な一形式ハ与るのみで旬る。 かくして阿心は何れの・形式一で取るもー偶の心 直税は内的未現でありそれ白身完全号ものであ 理過程たる事が分るが吏に進んで吾人はこの心 るかも知れぬ。同心も勿論心理鮮掠として直観 数Ilt訪芸・〇r己ng に比較したるが如きは極めて債値あるものであ tOニーC≡つ宏ure OryOur クを訪れた一園の聖者に向つて彼は﹁Y011宅0 訂∝uC︼l。と括ったと樽へられてゐる。回心に於 1こ汀 る。又或者は〆−ウイソの進化説に應じて回心 的にものに求めぢければならぬ。換言すれば同 勲期には折々逆行的な回心が見らる∼が、これ 同心の如きは正に進歩発達的なものであ一〇。︵成 ヨ盲パに集注して衷現さる∼串を知らねばなら 更にこのカがユングの所謂吾人の心理錯綜C? 知情意等はこの心坪カの呉れる友現たるは勿論 を有機的諸現象と比較せんとする者も見らるゝ 心の心理過程は既に述べた如く内的原因に現れ が、これ等の比較は暫く惜き叉進化説に拘泥す たる回心妖鰻に見るペきものでぁる。奥の回心 る事なく、吾人は心理乃至有機的舜化を螢達的 とは意識の哀化と挿しながら、単なる舜化では に見る事が出水やう。即ち有機的舜化とは進化 なく寧ろ﹁意識の完全な顛倒によつて心理に新 した形式に封する﹁進歩﹂﹁停止﹂乃至﹁逆行﹂組織を輿へろ﹂ものでなければならぬ。この鮎 と考へられるが、此と同じく心理的舜化とは歴 に回心の本栗が見出されるのである。 然しこ∼に注意すべき事は吾人の心理問題で 虹的にも理論的にも進化せる現在の形式に封す る進歩乃至逆行の段階を示するものと考へられ ある。即ち吾々は此場合心理を動的に考へなけ る。この見地を以てすれば回心は進歩的なもの ればならぬ事である。詳言すれば吾人の意識に と逆行的なものとに分けられるし、又青年期の は心理カが原動力と捏アヮてゐる畢 即ち吾人の 等は赫的㍍ものと考へられる。︶ 然し以上の如く畢に同心の心理過程を有機的 ぬ。もし吾人の心理過程が以上の如きものとす 鼻化と比較し、その舜化を蓉連的なものとした 一三やらば同心の心理過程は何れ明である。即ち 、■ 所で、これによりて回心の心理過程が説明し遺 ある回心は軍に﹁Jポ敢の錯 〓ニ七 られたらするもの︶によるものもあらう。然し されるものではない。又既に回心の原因に於て 又あろ回心はごーー㌢ti−CCeE−−1c左の再生によト一。 論じた如くこの設は単に同心の外的原因につい 又ぁる同心はへへぎー︶Stぎtぎ.〇f.つu−ゴp︼つ首、、︵例へ 鋪綜の情的要素は遜らす観念的要素のみ代へ て立論さ一︺べきもので決して完全へ㌧ものではばな い。従って回心の心神過程は吏l二内部的・根本 回心の問題 138 回心¢同趨 前に意識全憶の顛倒と云ったのも此鮎に於てl 一三入 人の原本的なーib⋮dOの昇華にのみ回心の過程を 要が威せられて凍る。従ってもし回心の過程が 情的な心理カの置換にありとするならば、昇華 の原理から見て回心の過程が愛の修正、換言す れば愛の新経済にある畢が見られる。然るに吾 である。こ∼に吾人は昇華設Sub−im註⋮の必 止めす.此を向上進歩せしむる心理過程が必要 する傭件でぁる。即ち置換をして単なる置換に はない。こ∼に必要な問題はか∼る置換を決定 的な心理カの置換によつて説明しされるもので 然し回心の過程は単に宗教的封象に封する憤 奥の同心の時男は単に宗致的錯綜の再生や置換 る∼が、要之回心の心理過程とは宗教的封象に に見出されまい。寧ろ回心せる者が根本的に錯 向つて吾々の借的な心理カを覆推する所に見る 綜を受諾する所に回心の特質があるのである。 韓が出凍るのでJのる。 有明白になるであらう。 勿論この場合吾人は錯綜の受諾について、そ の情的なるか果た又智的ぢるかについて、回心 を情的回心・智的回心に分ける事が出水やう。 又事賓回心の中にはこれ等に細管するものを見 る事が出来る。特に智駒岡心の如きはブロテス タソトの考察を受けた者に見られ、又或者は智 的回心の可能を説いてゐるが、吾人は智的回心 と補するものに傭的要素の伴はないものはない と思ふ。何故ならば吾人の争議は常に信仰によ を包含した昇華でなければならない。更に昇華 は単に吾人の本能の浄化のみを指すのではな らて潤色されなければならぬからでぁる。然ら 見る者もあるが回心の過程は単にーibidOの昇準 ば如何にして宗敦の理論的知識が宗教信仰とす にのみ見るべきものではなく、廣く吾人の情操 るか。これは吾人が信仰の備的傾向をi=P−tニe eOmp−e芳βから受けてゐるが秀である。換言すれ 軍学‡言∵∵信仰を貰際化する所に回心の意 い。吾人はこれ一で動的に考へ昇準の過程には常 義︰エ乍′ ⊥いである。従って回心の過程に に道徳的要素の加はれる事、即ち道徳的直観に 於ては常に情的要素がまたる働を属す事が見ら ょト÷−昇華せられてゐる事を知らねばならない。 139 松 村 に簡るること。 ノ 雄 説話と民衆の赴曾生活の諸相との関係 武 MythO百yを読む ︵3︶ M呈lO︼Og勺OfA︼−Rge00 ことを避けること。 妹崎博士のJapaコeSe 頃者姉崎博士は.Hhe の第八冊の一部として.J名書琶早宮−−。−〇苛を 著はされた。︵他の一部は、JO−⋮C・句2rgu筈n氏 の〇1㌻芸当ytl−e︼つgy︶博士の目的は、その序言に注意を彿ふことを宣言して居られる。 博士の目的と貫首とは、この著作に於て、忠 賞に賓行せられてゐる。吾人は、日本の神話及 に徒へば.日本の神話及び民間説話の性質及び 種類に関する概観を鼻面月な請老に奥ふること び民間説話が.若干の範噂の中に偲明に分類せ は流動する生巧 思想−多くの時代の文化相が、 られてゐるのを見出す。更に絶えす推展し、若く に存してゐる。而して博士は、全篇を通して、 歴史的関係一ぞ指摘すること。 ︵1︶ 異なる説話の問に存す■る思想的若くは ︵2︶ 人類の心意に於けるヨ箋一〇−︶eeic竿t才iマ いかにこれ等の説話を変容せしめ若くは婁有け が、その宗教的信仰と不可分離の関係 てゐるかの明確な説明に逢着する。殊に彿敦及 び道教の思想信仰が、いかに日本民族のそれ等 と融合し、而してその融合がいかに日本の説話 を支配し若くはこれに反映したかの尊貴の指摘 にあるといふ理由の下に、講読諸に潜 時に、両者の関係の誓&汚−︼pどre.雨着 の鮮かな手腕は、博士を侯って始めて見られ得 在する宗教信仰の考察にカを注ぐと同 の何れが他の一に射してワ㌻→山号を有 るものであらう。 〓ニ九 するかに就いては、急速に噺真一宮下す 姉噂博士のJ“lp呂e袴巳ytどlOg﹃な積む 140 姉崎博士のJ葛aコe焉己u霹○︼Ogyな謹む 吾人厄、国民紳詩学としてのこの書の行方が、 一四〇 なかったなら、さう⊥た意固が看取せられると として居られる意岡−1畠し自分の観察が誤ら を流れ登る戚情思想ノぞ貪固的に浮び上らせよう してそれ等のウ冒di≡已を通して、日本説話の底 曲小説を顧み、また花暦.紋章′で拉し凍り、而 を示してゐる革質を指摘することを忘れてはへ仏 らぬ。博士は太だ多くの視角から、日本の詮話 を耗成して居られる。能狂言に趨き、叙情的戯 神話畢その他何であらうと 比較から云ふならば、即ち考察に著されてゐる は、拒む可らざる事案である。しかし盈の上の の思想感情生活が簡明に指示せられてゐろこと 語の各面に亘って、説話を醸生する酵母として m⋮tic 像の産物としての物語、人類生活に於けるR? ない。CO岩010gic已ヨyこ一Ⅵ、CO−⋮窒ni已︼eg昌dⅥ、想 勿論前者が全く閑却せられてゐると云ふのでは もの︶の考察に存するといふよりは、寧ろ説話 説話の螢生契機若くは原形︵若くは原形に近き も自分の解するところにして誤ってゐへ甘いなら 思ふ。出水るだけ詭許そのものは簡明に記述す 頁教の上から云ふならば.説話の螢達若くは慶 従妹の観民紳話畢−それが希臆潮話華燭逸 るといふ博士の宣言があるにも拘らず、そして i−1訂r邑から産れた物語、はた教訓的な物 の後代的敬遠若くは炭化の考察に存してゐる。 また紳諸富のものに於ては、この宣言が見事に 化の考察は、説話の螢生の考察よりも可打了り上 位にあると云はねばならぬ。これも博士の特に と愉快なる差異 寒行せちれてゐるに拘らす、これ上比して、光 意固せられたところであらう。日本説話の性質 ー 源氏や小野小町や在原業平に閲すろ物語が精々 場合には、いつも先づ著者の目的、万態論、ヨ 自分は、自分の尋問研究に関する書物を播く ある左は、何人にも首肯せられるからである。 長きに亘ってゐるといふ事賓の如き、若くは花 及び種類に節する概観を輿∵Qといふ目的を達 ヽヽ 暦の内容が頗る詳かに説かれてゐる事賓の一如き、 成するには、さうした行方がより句箋OurPb10で もしさうした意陶の存在を否定するならば、寧 ろ骨得し難いことになるであらう。 真に本書がカ鮎を置いたところは、1これ といふことを汲想して、然る後にその書一里讃み にならば、著者はかういふ夙に書くであらう﹂ 次を熟讃して、﹁這般の目的、方法論、目次の下 のであつた。 著な地位を輿へられてゐるでぁらうと辣想した じてゐる自分は、﹁‖本神話畢﹂に於て、より舶 はれて、後者は取り上げられてゐぢいであらう 第二に、本書には、多くのg≡l㌻leな説話と 始める。それは、或る研究問題に閲する著者と 自分との見解の類同と差異とを明確に意識し把 握せんがためである。博士のこの著に射しても、 同様の態度に出た。そして博士の見解に射して、 と像想してゐた。 多くの個人的文畢︵l−乙iノユニl−C︼−e︼ハu邑︶が.考 第三に、比族文畢︵ノ1Cll邑iきl⋮g︶と共に、 察の封象となつてゐる。自分は前者のみが取扱 共に、多くの一弓乙圭︶土−んニ⋮三つ望1ユ1が、考 多くの類同を見出すと共に、また多くの差異を 察の封象となつてゐる。これも自分の隷想では、 見出した。類同は述べる要がぢい。差異につき てはI 〓コロを農して、明敏達識なる博士の教示 ヽヽ 後者は、より少く探り入れられるであらうと思 つたことであつた。 あJでりその姿を見せてゐハ㌧い。豪商に作豆出た その所謂﹁赴食生活﹂ハ与ろものが、融合生活の 離的ぢ聞係に絶えす聴明な注意一で彿ってゐるが、 第四に、本書は、許諾と融合生活との不可分 国民生活及び思想が大切であると同時に、その 困となりまた果となる思想戚情等=まとして心 ︵時としてはまた質的︶に云ってよト以上の程度 等は、かうした研究に於て、それが皆然要求し 家族の相続法、血統の辿り方、敢曾的律法慣習 的方面にカ瓢一で置かれ、物的方面即ち生産形饅、 に大朝であると信じてゐる自分は、また民間の 一四一 得るだけの地位を奥へられてゐないやうに思は 姉崎博士のJi−1︶p−一語,∫土−e︼○的yわ稚む 説話民俗が、官府的なそれ等の母胎であると信 活及び思想も同じ程度に、若くは最的に云へば ヽヽ 下積みとなつて、鮎々として推移した民間的生 して居り、民間的な若くは口伯約小竹それ等が、 な、若くは文献的な説話民俗が考察りま憶をな 先つ第一に、本書に於ては、いはゆる○∋C㌻− ・を仰ぎたいと思ふ。. 141 142 れる。 姉噂博士りJ山一−喜雪∴眉三−〇︼C宅を認む 一四二 意識的に省略せられたかも知れぬ。 て、﹁国民神話畢﹂といふものその者に 以上の三つの場舟■りいづれでも無くし ろは、博士は、主として日本民放の精紳生活の 射する自分の見解が、除りに窮屈であ ︵・4︶ 上から説話・・1或は贋︿文型を考察してゐられ ろか、若くは全く誤ってゐたといふこ 従って本書を謹んで−自分が強く威じたとこ るらしいといふことであつた。そしてさうした といふやうな懸念一︰亡命んでゐろ。もしさうであ とも考へ得られるっ 度に華々しい成功をかち得てゐる。 ったら.自分は博士に射して妄評の罪を深謝し 意味に於ては、本官丘今まで甘て見なかった程 自分は、博士の見解と自分のそれとの差典を列 ト㌧くてにじらぬ。自分は、本書が、円本神話畢 の由究に於て、従妹放けでゐたところの組織的、 聾一ざ撒く。︵一九二八、十二、三︶・ 館系的考察に華々しい第一歩を着けたことを、 多くり請着たちと共に衷心から讃嘆し成謝して 馨したが、しかしこの列馨は、 察の至らぬところからの争睨云でJ︵りる ︵1︶一這般の差があると見たのは、自分の軌 かも知れぬ。 ︵2︶ かりに這般の差異が賓際に存してゐる としても.自分が博士の考察に於て、 布るべくして無かったと考へるところ は、博士の考方によれば、かうした研 究に於ては、有引を必要としないもの のみであるかも知れぬ。 ︵3︶ 椚恨りに、かうした研究に於て.有利を 倉上、或は目按とする読者の性質上. 必要としても、輿へられた;頁数の都 ノ 1 紹 サ ′妻−1−\\ヽノーー′l−t−妻ノーーlll−\lヽノヽ呈一 新 刊 − d宅∴Ru戻こn der ごウイルモットが云つ圭=ヾJがわる。その紳祓的傾向はデ ュルアランやメーテルリンクの文菰品に親・しむ人ほ弛れで も知つてゐる筈でぁる。事贅中世以後フランドルの地は確 著者ほ通俗化な主旨ご†ろ本書の第一編で、フラマン¢ かl=義教紳祓主訂の近代的樽向の先塊な先L㌔ 祓華、特にエックハルト、タケラー光ごのライン前掛主義 なLてゐろ。=のうちで殊に在日Lてを与㌣いのは痛逸所 理e ミみ rひ巨i胃F ロ叙準して、誓つて何人も試み元かつわ貴重七島緻右 諸所秘策︵就中ルスアルク及びその弟子︶り史的考察ご数 せi凸只已訂。nl冒ヨelt・Grundr訂、q−・仇七rlmg 哲駕r−︵︶冨r. ll已 Hd詔 Chr訂︷e品em2i已e● T㌃bing2n−岩彗● 近来、若い考古筆者の間に、カタコームの泰衡に封†る が元来フラマン的影響lこよろ=ざ空軍鱒してゐろ=ヾ\次 態度につき反動的の潮流がぁる。それは、嘗時の瑳境や歴 に所謂﹁日野OtiOn ECd=一口e﹂について相首謀い翠鱒今戸し 史性に重きな置いてそれな見イ、行か、ヱし†ろ態度でわろ。ゐろ=ミでぁろ。 ● 常時の信徒の生活状態等について、概括的知識な典へてゐ めか前に、昔時のローマl=於ける基督教徒の紙料ゐ粗描、 試みの光臨でぁつ㌔本書の著者はi撃わ地下の贅術lこ†ゝ 等についての有益冗校荘な、してゐろ。 に叉ト†ス、フアン、ケンベン 正薔にも大紳成東の地位な兵ふるこヾJl二努力・してゐる。更 者な紹介L、ルスブルクに封†ろ徒死の誤謬な一掃Lて、 増・St遥er博士り昌訂P︼tc訂i箕e訂GrPbeロぎnslモはそ第 の二編で圧先づフランスに於けるフラマン神路家り研究 る。そJく、その背景に基礎わ置いて、カタコムの垂術そ ては非常lニ良く癌められてゐる。︵青野︶ 積んでわく際l二、二三の疑問か鋏んだ鮎もぁるが大憧に於 ヨne邑○−1警声 ∵ ては本誌で産々述.へ㍗こミがわ・の。本書は中世の基軟調劇 カトリック宗教史宗ブナナイウティの人及び著作につい l︼mi蚤ici訊巳○日乱i薄く已e. ︵7ケンビス︶及びベテル 挿暮。先づ手頃の書でわらう。︵岸本︶ 巳ニe−︼諾∽. renOtlくe≡C芋 出uO−−pi已i、出r莞00F の時賃等に筆か進めてゐろ。盲五十頁鎗の本文、三十薫り 苧u第e日昌√出dmOロd一 Ⅰ岳m篭茸∈鑓r−∋m昌d功e〓e −10−i宅e≠訂−1琶00・ 介 フラマン人のテンペラメントの南極は紳さ性寸J肉感性だ 新 刊 紹 2 新 刊 紹 介 二 く。時代に迫︼甲し、墾他にこ適應†.へく軟骨か経督するりほ 数多の軟骨は新Jき周囲から取り遺されて、蓑へ倒れてゆ 容易な肇では互い。如何に・止て軟骨わ軽草して一夕′、可きか。 先義わ概申しr好評でわろ。著者はスコラ的神野傾向寸J並 祓主義わ特筆・して、カトリック紳鱒詑わ環件の見地から分 ったか。︰れは多くの牧師蓮軟骨行政未蓮が切に知らんヾ、 大都骨に成功イ︼ろ数多き軟骨は、賢際に如何在る方法わご んで、僧院的禁欲的掃締り採光ご建形ごに脚注・しノしぁる榊 析Lてゐろ。先づ僧院生活り仲界中描き出・して、次に十二 欲†・〃盛のものでわろ。そLて叉、最も胤ハ昧探与宗教統合 世妃の宗教的思索の本質一l⊥、紳に封了る耗信仰的形式から 紳性の分坤約諾敢への推移†わろざし、=り代東新・、Jこて 作神髄京わ些へてその演滝的トルバドゥル的色彩わ棉摘、し r、マルチルド、ゲルトルド蓮のベネディクト泥の碍逸女 シスムの四大傑物ミハイラーが稀誅L王クレールボナの聖 ヽヽヽ ベルナルドの押鹸的互紳必読む叙・し、次章ではヒルデサル 、しい過魔性か二が・し㍗ものでわろ。そLてそれ等は豊北の程 軟骨が揮び出されr。それほ都合の襲他の相に封亡て、著 骨について︰れわ調べt。そ、してその結果代衷的の十六の ︼紆袴雪ehの部員蓮lェ、アメサカの敷多の大都含め数多の軟 本書ほこう、し㍗間鱒慧妄言生写して取救って行かうミ 問塩り一つでわろ。 てゐろ。更に次茸では聖ゲィクール波の敬競わ仔細に譜り 最後ほ、明に軟骨ご耶†可き以上のものに亘つてゐる。我 腔に従つて配列され㍗。長和ほ最も並通のものにほどまり、 ナス、アシシの聖フランシス及びダンテミ共に中仲カトリ 聖テンセルムの神秘やわ紹介・し、三澤では、トマス、アキ 六章ではエクハルト以下の一環邁ドミニカン紳が家、七草で ゐろ。多岐に亙る材料わ容易に群めて、簡明に記述Lてゐ 見る事が出来る。 々は正にアメリカの大都骨に於ける軟骨の行き方の楯岡な する。著者及著者の司ろⅠ巳titu−00、許ei已雪d夢註g㌻u仏 はルイスアルクを研究・し、八草のゲルノンによつて終って t〃手腕ほ光かくl二非凡でぁろ。︵青野︶ 甘の環境に封†ろ過謄性如何のみに焦鮎わ置いて、現在の の問題わ閑却Lてゐろのもその一つでわる。併﹂、それ等 の組織経件のみに江口Lて、その中心み尤†軽螢者即ち人 ふ賃際肝要り問題に煉れ亘ゐ互いのもその一つ。又、散骨 軟骨そのものが、救命具り生活を何れ程牢してゐるかご云 もミエリ、本書には猶飽き足らね虔があろ。例へげ、致 ロ○亡g︼覇︶冒・i−呂−・ ±︼e︹ゴur︵−1㌻ニ1e C︸一2垂−−g︵ゴア・ 2e司Te︰・lハ,︼諾↓. 諸行無常先のほ祀園精舎の錦の音のみでは兄い。劇・しい婁 日に変化・して叩く。都合り中の凡てのもりに興亡起伏†ろ。 ほ大きい意義な持ってゐろ。︵岸本︶ の欠鮎ほ欠鮎写して、現在に生き㍗間呟み取破か?㌣水苔 近代文明の一つり特徴ほ都骨の膨張にわる。和食は日に 化の攻城の中lニわつて、軟骨も亦、幾攣運一世よ招かれ互い。 書 甥︵苧Hegeli呂i巴戸 H已der−H. lle巴tざ︵ざ冒tOn−︼¢法. 虎はカルカッタ大草の哲撃の軟柁でぁり、ヘーゲル及び ヘーゲルの影響りもヾJにぁる哲学的連動の研究及びその解 H山ckm写−句r巳lk PsヽC−10㌻g﹃e﹃Re︼igi昌 甥e司YOrF︼父芸. t︼1tJ S.H. IntrOdlleti〇−1tO ヽ−ノ ′−\′.\ 著者は先づ宗教の心理的研究にほ二様の困難わり与し、 託叫†ろ方法の多き事を解け宗教心埋草概論写してほ、︰ 〓季秋搾腺ゐ多様錯雑せろ賽、二多種多様り教宗教経験ね ︶ 彼lェこのd雪k p一1i10軍p訂rな把握するハトめに如何なるメト 揮わもつて自己り︼i訂司Orkなり亨してゐるりでわろが、 Lて宗教経験り間組併・しその説明法が従火の宗教心嘩撃書 ヽ−ノ ドロギーわ採用Ltか。﹁諸君lェ彼ごミもに考へゎけ在らわ。 云ひかへれば、生成†る彼の瓜想全能む漑祀ぜnけ叱らわ。 の二つの困難か救済†れけ足りろごの鈴墟から﹂宗敦種験 ︵ の問題な可及的に明に・し、二=れ等の間組り科挙的訣別法 ︵ わ拳ける。事に終止ぜろものゝ機でぁる。従って全編か通 捉ひも克く六ケ軟・しい仕事だ。﹂か・し ヘーゲルの全豹ふつかゆ。・しからざるLのは彼ゆ何物ちも これな避ける道l‡兄い。紹野概念のそゝり立つ城に至る王 知ら兄いのだ。− ィミ見ろ.へきものは尤いが、一向宗教心理研先に入らんご 中鱒管して遭憾克く羅列ぜられ、その間何等オーー■ヂナサテ 五編、十六章六育夫に近いものでぁるが、第一編に於ては †ろものゝ極めて便宜冗労作であらう亡者へられる。全編、 道はこれなおいて他写しだ。﹂彼にかくLてヘーゲルの構成 云ふまでも尤く、スターリングの劃時代的﹁ヘーゲルの ぁる解梓者ミ克つ㍗。 ざ旨nque方 二面から分析・し、.宗政経融の何物叱るやわ眈明L第三編l= 宗教心翠撃の蕾蓮方法わ宗教経験の意気、特質わ論じ第二 冒堅eyい 霜に於ては宗教経験の組織な民族的要素ご個人的要素り二 Ritc已eい 秘暦﹂なもつて始まり、グリーン及∬ヶァード兄弟へミ進 かる。以下、W巳︼a籍い んでわろが、︰れだけに相蕾の大冊の三分の一が著されて の説明法に準じて宗教情捜の硬連な少年期・青年期に分け 第五編宗教信仰り心理間鱒亨して、信仰 三 然Lその中にも著者ザ何虔迄も科拳的に公平lこ凡ての問題 勿論概論の性質上特に猫創的見解ミ見るべきものl‡ない。 に封†ろ傾向、紳の信仰、環感の信仰な寝け豆ゐる。 四霜所磨の問題 ○、冒it註一異常尤もの写して青年期の回心年翠けて眈明・してゐろ。第 等lこついて述べてぁるが、JかL W昇OnいS山r l︷eロr︸JOn巾mい芝uir訂莞ご︼芦邑訂nz訂い於 FO てr はd 宗教経験の費蓮につき薔然、異常りものに分け背水 出已d望まこ︰弓丁凋gpユ 字g・Heg&呂訂ロl∴㍗ご銘打つてわる。 氏ほ臼ら ■A 呂tuキ ︼・pt訂r t一一岩.p ]宰瞥Or︸ 寸1もわれ、氏の青草番号しての生汚はすでに終りに二近い。 介 この著に長き思想軽度の幕わ飾ろにふさわ・しき埜春わらL わて。︵靖谷︶ 新 刊 紹 4 四 一人でぁるが、其虔に著者の卓見が見られる。現代に於け 介 な取扱へろ努力が見られる。且つ各章後に論題な抱けて研 る宗教の微力‘工、一には近代赦骨の埴徳問題に鱗れる事が 新 刊 紹 究心わなご梯めて懇切なものがわろ。教本与して使ふlこ便 社骨事情な異にJ、道徳條件の同Cからざ へlで新教が 出来兄いからである。何故に。今日の宗教が1著者に従 甥e弓YOr打−−琵00. Or︼どddE岩・ て道徳にカを兵へる虞に、新Lい意味わ認め壌ミJてゐろ。 を並立亨Lゆ、道徳によつて宗教な正Lく・し、宗教lこよつ 匪†虔にぁる。=うL主見方から、著者lェ、宗教ミ蓮徳ご 爽宗教の道徳に射するカli、それわ歴史的相封性から引き る過去り時代の傍流をその儀に奉じてゐるからでわる。本 一 宜でぁろ。然・し琴冨を許さるゝならlで文献が余りに一り制限 研究も看過†.へきもので兄いヾ一息ふ。︵上野︶ され英米に出でない事でぁる。概論ミ耶†る限りは大陸り 出PC−ハざ声e已itie甲 巳c〓One−S.H. FOndOコこ汚00● ローgri日還e P−・已t︶JPm庄]甲 √きy Out O=訂pre紹nt Cl︼pO∽F re︼山giOnYので のぁ 管る 見。 な︵岸本︶ 試み・しもの。簡単に宗教思想界の混乱わ述.へて後、論理的 lニ可能光ろ立場は二つに†ぎ弟1即ち構成り宗教たる羅 ゴ1e ウィワァムス、カレッヂのプラツト教授は先lこは、≒Tbの 弓記㌔等な著は、して、宗教心理畢肴ゴ=して知られてゐる人 O︻H訂ligiOコu出e︼⋮er一モ占﹂訂穿已giO星9日乳? である。前者は古く邦詩があり後者は一九二〇年に出版さ ︼一等Cl一〇l点q Re︼直On・ 馬主義ミ理性の宗教たろ自由軟骨主義ヾしでぁる︰ミな暗示 Lてわろ。小鮒。︵靖谷︶ ︰ヨebubr︶舞eiごh︵しーd● D慧 Ci註i琶tiO−−宅籍d 宗敢にその存損の意味を有†るや三石ふ虞にぁる。基音数 時代は移つt。今日の間庖は、新L古文化の大殿堂の中lこ、 教り大殿堂に封†ろ、新Lき吾見の叫び空でぁつた。が、 ㍗かつt。それな仝饉的に把握︺て見㍗かつ㌣ハそ︺て又、 本書み書い㍗動機ミ・して、﹁私ほ沸教の掠合的観察が︺て見 的l二道取︺て、これな江湖に紹介Jよう写してゐる。彼li 今此の大股わ著はLて、生き㌣要の沸教わ歴史的に叉地理 れて、今日し斯単に宙与右写してゐる書でぁる。その人が 望e弓YOrk−︼詫∽. の多くの筆者l‡、或‘三共存共桑証含事業の方面に逃れ、或 出Ltかつ㍗からでぁる。﹂せこ芯ってゐる。されlて表皮の﹁彿 それが今日賞際に信ぜられ且生命キ持つてゐる眞の委な見 科挙寸J宗教の衝突が甘つて論ぜられた。それは古き基督 ぜ・しゆる事にょつて、宗教り意味か見出Lて行かうミ†る は道徳ごの結合に活路わ求め㌔著者もぺ道徳ミ相関連 6 敦の巡虎﹂ば、沸教それ白月の巡趨でぁるミ同時に、彼白 月の迩鵡でもぁる。印度に淵源Lt沸教は、印度洋わ越え、 ベンガル稽な過ぎ、支鮮海な渡り、海陸雨路より送lニアジ アの奥の日本lこ迄棋がつた。彼は再度に亘ろ東洋並行ねこ れご同じ順路に従って送行︺㍗。従つて此度に託され㍗宗 命わ持つものでぁる。 教事貰は盟元え座上の空想ミ逢って、どれだけか生き七生 畢的の細密さ寸1正確さミを以つて、彿教ゎ研究Jその教 Y已e已niま︼・乳tyヲ謡−、︼¢詮− t訂Rel直○宏巳諦・ よき讃物上るな失ほ互い。︵岸本︶ 舞a−︼−︼︶C. 評ien語呂d 深い教養ミ居い同情ミ新・しい見解ミ右有†る暗示的光ヱ ツセイである。︺か・しモの意味ミ目的寸Jわ塩む=ごli必ず 研究が直ちに底も異に†る全く未知の人に封Lて沸教か紹 lこ彿歌への知識の深きわ加へる辛が出欠ろ。併・しさ、つ;し㍗ 空の下lニ、沸教り世界に生息†る我々は、それに依って夏 機的進化の仮定な、解梓原理亨してで克く探索の原理ミL 経験及び行鈴与して解梓ぜん阜丁る態度でぁる。︺かも有 場‘‡汐苫’?吋h﹃乱○︼Ogぎ︼でぁる。即ち宗教現象な人間の 著者は宗教現象について深い興味なもち、モの有†る立 捜想Jて書かれてなる。 Lも容易でないJ、心理及び生理に闘†る充分寵ろ知識な 介†る楯以ご光るご考へ㍗ら聞達ひでぁる。生活環境わ具 わらうごいふのがこの書の出費払わ克Lてをる。︵埠谷︶ て採用﹂、墾牝ぜる或は変形ぜる人間性を探・し求やつるで 理lニ詳細わ棲めるのも、一つのゆき方でぁる。同じ東洋¢ に†ろ未知の宗教な理解†る秀にほ、その教理わ詮東†る 密冗科草子しての宗教撃な建設†る三言棲光試みが余り 斯草案故老の関心の封象草花つてゐ互いのは、それに充分 宗教現象の諸研究が頗る旺んになつて与・圭今日でも、厳 甥e⇒YOr好こ琵↓. ﹂ローe許ie−1C20rRe︼igiOn︰呂l已rOd莞t5.n. ROFrb害gF−訂象∽G亡y・ 事よりも歴史年辿る事よりも、先づその雰囲気わつくる魚 ♯わ感得†る事が大切でぁる。その象徴によりその儀鰻lこ ︳ 上り、其の他わわらゅる方法lこよつて、その底流か光†情 教わ理解︺得ろのでわろ。生き㍗宗牧羊しての俳教ゎ欧米 緒わ潤み、それな通Lて教理や歴史わ見てliCめてその宗 に紹介†ろ馬にl‡、此り心構へが大切でぁる。而もそれlミ の鮎な韮く︺て達憾なく、棲めて意味深与︰∼のである。殊 の理由がぁろ=ざな官軍して・も、至極漫lご耐へない。本 ニれ迄、割合に閑却された牛面でぁつ㍗。今此の零は、此 に阜在る宗教史家で兄く宗教心理学者てぁり哲筆者でぁる 書ほ敷少いかゝる企てり一つ与して望息ね惹いたが、不幸 に︺て渇わ曹・して央れろに足り元かつ㍗。 敬の中lこぁろ故に彿敢の仝慢を掴み得乃我々にミつても、 介 五 著者の一面が書中充分に活躍・して、生彩を添へてゐろ。彿 新 刊 紹 6 新 刊 紹 介 者者‘ェ宗教現象な圭与して心理拳︵徒写しで、そゆ他の諸 科学︶lニよって説明ぜんビ丁し、初ヰに宗教意戎の帝生な叙 ・してゐろが、そり見解はいさゝか地帯在ろわ免れ互い。五 牽から八輩へ亘ろ︰回心、祈り、神秘主轟、不死の諸問題 は相常用到先考袈ゎな亡てゐろが、それでら駁論の余地が び限界。宗教経験。その他。︵埠谷︶ 甥ew i−ニーーe∈巳ハi−1g・ W︼lざllつ乙−AID・ed崇ナユー一● 詳−igien TOユヘーー¢箪 著者の他の好著ご共に、大事1ごての囲¢試着の耶讃する もの。亡か・し、我等にはそりオ嵐換蛍のき伊きびLt論調 多い。・しか・し回心や耐群生哉l二於いて滞在意識の主宰†る 分野な従来の軒枕よりも磨く輿へ様寸J■してゐろのは示唆に に魅了されろ前に、著者り哲学的瑞軒が余りにも鼻につく。 iaま皇t訂i一己iエdupl dOe山まtb h訂○宅n 式ひほェプロテスタント的ミ云つてよいかも知 見地に立野㌧て、敢搾ほ虫上の宗教な第一に槍 一 ・してみろ。宗教ほ偶感、情緒、信念、合理化の四囲子から 一 片面的な 猫てわろ。孤猫で互い者lェ決︺て宗教的で兄い。斯う云ふ コe′s。︵一六、四七寮費雌︶ミ定義されてゐる。宗教ご托孤・ ︼屯On 宗飲み社命的蔀箕ミ†ろ見解ほ断乎写して拒否され、−占? 富む鮎でわらう。︵古野︶ TenllPnt−勺●R− 望−i−︹SJ−︶lJicP−ゴ1201義︶一●くe︼・︼● C買lbri︵lg巾已n才雪訟lくヲeきー誓声 、Tke崇i−・‡e 昌︵−it∽ H.≡○苫pl−ぎl I︶r︵芸でS三〇コーや 構成されゐろが、各々の調合¢爬合は時代ご地方一Jん成l二 T−1e gnつept Or訟11−の著者ti、今よた=り飴大なる労作なれ互い 者l二輿へんざしてなろ。・しかも昔々ほ、︰り多濃光ろ知弐 紳や界l二献.して、必要在ろ哲毎的知裁ごカ向ごぁそり研究 教の大部分でわつたが、進歩†るにこつれて大いに合理化さ れt。現代の世界に於て合理的な、或ひほカトサック的︵普 †ろに従つて異つてゐろ。未開時代では儀祀ヾJ情緒ビが宗 第一懸りみみ邁Lて云ひうろ、三ほ、紳撃的ご云ふより 日に比較†れば既に=の二宗教にl工衰退り免色がわろご述 遍的︶の二大宗教l‡基敬ミ併歓ミであろが、誓って衣りJ の信粕・しう.へき︰ご漸lしきもの光る︰ご適用先ろ=ヾJに充 もむLろ哲撃的のものである︰ご、心珂的考嫁l二も相薔の 分信和なおく︰ヾJが出来よう。 用意のわろ=ざ∵及び費生的lニ整理され下ろ多最の材料の 償使先ビでわらう。 材料ご方 べてゐる。 ヽヽ、ヽ ヽヽヽヽ 飼まt第二幕で著者ほ宗教ご教養、三帝で肉髄ミ輔韮. ヽヽヽヽ 四章で眞型ご批判の諸項な取扱つてゐろが特に興味か惹く − ものでほ塞い模l二思つ圭。︵青野︶ 屈日わ板取・しく大要のスケッチに換へろ。 主義。経験主義。剰余主義。蓋然性。科堕的智識の作質及 法。意識。感発ヾし知識。概念。我ミ票。人格。、侶依。合理 冒.it邑 7 Zie訂ローT︼1. ご川ipごち︼¢誌● 笠 信 太 郎 著 シュベンダラーの歴史主義的立場 栗東 同 文 舘 貴 亀惑ヾJ璧墟ごの準想わ脂つて、世外大戦直後のドイツ思 行 でわつて、批列的な人々に揮けられ㍗Lのでは互い。私り ﹁かり労作ほ、ご=までも行動的た人々に捧げられたもの 訂が締まづ㍗。 れてT西欧の招淳﹂のイデオロギーミメトドロギーミり棲 ㍗。・しか・し今や執仙ぜろ歓迎り手から冷い批判り手へミ移さ 彼らほ:り青臭い彗弓めい主コロ菓な繰準してほ踊りわがつ 著わ、忽ちに・して有頂天に・して亡よつた。﹁光li火力より﹂。 ろ指命一なほ翠し㍗=り大著ほ、わが囲lこおける束拝主我 ・しよう子してゐろ所謂敗北文化り、その最後の段階におけ 欧の浅薄﹂でぁつ圭。そ、して﹁今日地上において賂l=完成 想界年席稽・し㍗もりほ、オスワルト●シュベンダラーの﹁西 崇eGru茎品e−1der謬︼igi昌旦一i−c∽旦liP サブタイトルな㌢n邑貢ぎuSご呼んでゐろ。膿く原始 人の宗教哲単思想から筆年些し古代、中仙現代に至ろ迄の る。全七孝一六四穴の小鼎†でわろが、第一輩には哲塾孟 宗教平準思想の主流を僧鱒し∴嬰領りょい宗教繁華史でぁ 宗致ごの関係な論りし宗教抑‖蝉の立場な明に・し﹁宗教抑︰撃ヾJ は全然軒単でぁり、.宗教ではない。たゞ認識の封象ヾし・して 宗教がぁろのみ﹂ご去ってゐろ。琴一章に於ては未開人の 間1こ於ろ宗秋作に宗教哲畢わ論じ宗教に封†ろ衝動等に言 ネス..フラトーアリストテレスより中仰榊秘哲単に及び、 及L、第三寿より第七輩迄はギワシヤに於てはクセノファ を種てナットーの聖祖念にこ及んでゐろ。結‖誓糾い虹l︰現れ 近代に於てはデカルトに出刃カント・フィヒテ・ヘーゲル ・してゐるブミろの世外の形像でぁつて、人がその中で沈⋮心 仕事が元死目指・してゐろミ、ろは、人が現に二その中で生活 臼の紳鋭空止て、一=れを2き1ト2⋮smus︵㌢⋮〇S−−︵小es含︶ 抑・し寄ぜム批評に封・して=れが誤の有てろ唯一の答群でわ †ろ︰ごの出光ろ世非の酸系で‘ェなかつたのでぁろ。﹂1 たる紳軋み極細ぜろもりミ几らろゝが、円11王姥の葦に♯鶉猫 ︶ 三甲してゐろ。且つ︰の榊範の特質み、一唯一紳論的に﹂ ′し ら、㌔彿ほ叩論わ排斥丁る。﹁理論ごは教養ぁる者の宗教に ︶ て二永遠ね特質ご左J∵二擬人靭な排すろ。の三力衝から ︵′し ︶ 現卑してゐ一つ。何れl二ぜよ木部ほ極めてハンディ克宗教哲 こにlェ㍗ゞ †ぎわ。﹂﹁血か綿紳か、席灸か〓然か、政市か宗軟か、そ 諾々の文化、− 七 フ丁ウスト文化、アガローン文化、▼グス 舅−1一t∈・〇lSぎーー、−.︼aコだn=れが被り文化への標紺でわろ。 停もない。﹂︰ゝに被り歴史主我的立場の抹川がぁる。 ﹁われか=れか﹂がわ・ののみ。何らの正貨れ調 畢史より三石ふ串が山楽ろ。柄ほ著者にほ他lこミ≦㌢〒 いヾ品小ふ。︵上野︶ 介 旦−i一〇岩Pご㌻モの著わり試着ほ=れわ封網L丸けれlで光らな 新 刊 紹 β 新 刊 紹・介 文化、支非文牝、ヱデブト文化、− で同様のテン W各巳∽ の生活滞積には殆ん 即ち彼の世界像lェW妄已㌣の男bicF訂であつて いまや多くの現代人が多かれ少光かれ支配されてゐろミ 宅pt亡rではない。 ー 本 =ろの観念は文化成熟ぜりヾJの直観に他ならね。そ・してこ に想到写しめる。︺か・して、いよや西欧文化の前途に桟は の直観はおのづから古代文化における農高帝国没落の蓬倉 八 ミまれ、シュベンダラーは好適?叙述憩わ得た=ミを喜 ばねげ写りわ∵てり筆致の華厳ご緻細は、シュベンダラ1 の重態ご野醇ごな凌盈†るとりがわる。昨年度の出陳界l二 宗 J互い。︵埠谷︶ 可 著 おける最もでぐilrろ収蔑り一つに敦へる=ごね私は鰐拝 荘 費 †ルクスま我と宗数理諭 東京 東 社 思索的紳秘主義からバクニン風のアナキズムヘ、それか 方 るものほ︰の同じ運命では互いだらうか。=ゝに文化の曹 1.〓l00年にかけて 長段階の観念ヾ−ミもに、文化の同時代性の観念がぁる。か − らまたマルキシズムヘミ推移・して行つ㍗ら︺い著者の水苔 は西欧文化にニセいて、二〇〇〇年 くて、古代文化のケーザル時代に相應するものヾJ・して、彼 限つてゐる︶が現代思想寸J接成する請鮎から、その本質声 行 ︺か︺て、わが笠氏の批評カはシュベンダラーの何度な 窺ひ衣でそれミ.フロレタリア理想ミり封庇的尤背反な説明 宗教︵著者托=の語な純他力信仰の基数︵?︶ご乱宗寸Jl二 に於けろ意固な我等は珠め想見・し縛ろでわらう。 決っただらうか。彼は、歴史わ採って理論を克服・し待光か かわ考究J㍗ものでぁろ。︵青野︶ L、併ぜて現代人l‡宗教尤Lに如何に・して安心わ得て叩く 満了さろべき西欧のケーザル時代な珠見する。 ペ.ンダラーか決り刺し㌣↓彼の主張は、理論み歴史lニよつ つ㍗シュベンダヲーみ、動わミつて静ビ越え怨元かつ手ソエ 一 生分わ完成ぜLゆろもの、 鮎より、悉くモの粗へる標的を外れてゆく。﹂ミ.。そLて、 て克服L梓ざり・し鮎、既成な生成−こよつて克鱒し待ざり﹂ それケして完成ぜ・しむろ勿れ 鳴ミ問い㌔、しか亡・い、つ〓甲高い折から、干しかに刺−し ′ 濁り死ぁるのみ﹂。ミγったシュベンダラーの青葉なその悲 たほ†のシュベンダラーが﹁モれlこも拘らす、讃着の大部 分が最後の理解に注入れない。﹂ご云ってゐないだらう=ミ み、具・して笠氏は保証Lて下さろだらうか。 「 耐;妄㌃ ∴∵!∴‘ ̄ニヨー、 ト研⊥ミ!iま(j∴一二しじ拭1お− 1! ∫、’=一 ̄てい:上⊥ 昭和三卑十二月廿五日印刷 螢行所 著 者代琵者 宗 宗 教 教 崎 研 研 究 蜜 究 符 正 髭京昏団大草・票数撃研究堅持 姉 宗 山 究 譲 印 費 二 刷 行 治 倉 節 所 所 東京市和田衰糾慌昭二帯靴株式昏祀同文距 森 本 東京市沖田陰妊手町井四筏鞄 宮 研 雷雲二二七買苧電話紳盈缶蒜 敦 東京市前田臨真鯛保町二番地。株式合祀同文餌 印刷所 印刷者 管行者 間輯 昭和四年一月一口驚行 ▲▲▲▲▲▲▲▲■■_▲▲_▲」 ー ▲l▼ ▼  ̄ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼T▼▼▼m ■■一 卜製 奄蔓 許 不一 ■
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