節究 - 日本宗教学会

節究
木村泰資教授
新第七巷第四境
授 敦 貿 泰 村 木 絞
l
木
村
部振彿教に於ける分別上座部の地位とその宗義
の定め方
故
泰
賢
=の論文に1政教接が去ろ五月十盲、宗教争論座記念官主催の記念宗教聾大骨に=於′\安来され㌣あで、拳的尤
ものご︰してl工、教授最後のものでぁる。
部況沸教の研究は、教授が晩年に於て、殆んビ全力か傾倒されモ1いはれイ1ゐろ。=の⋮スクリブ1ほ、勿論=れ
丈で立汲正論文でわろが、併J草し教授白月が費表される堤合にほ、或ほ未だ手を入れられろのでぁつtかも知れnが.
徴表時間が超時間l=限定されてゐ㍗右の拳骨のtわに書かれtものである上−こ、教授の阿毘蓮磨論垂ら研究−二於ける
今は如何ミも仕方が互い。
∵
殊lニその第二編キ二軍一編の三軍ぜ知る=ミl=よつて多少に頑l工るゝでわらう。︵鱒鱒草しるす︶
分派竺般の考察が壌想されてゐ・芸で、或ほ雛解克鮎もわら、ユノ思ふが、その鮎に、
Jクク
都濃儒教lこ於ける分別上座部の地位モモゐ宗義の定めガ
は相互にいかなる交渉と関係とを持ちながら、その登へる形にまで進展したかの経
.近時、彿致研究の進捗に伴ひて、部派倣故に封する考察も亦、盛なるに到った。乍併、各部泥
やノu
部涯彿放た於ける分別上座部の地位モモの宗義の定め方
未だ判明ならぎるものが砂くはない。
蓋し、各部次の博へる部派系固守Qものは、何れも真の歴史的系統を京すものではなく、寧ろ
各部派が系固上最も高き且っ古き地位を占むることを誇示するの意固が強く作用した結果と
案出されたものであるからである。殊に徒凍、部族洗出の次第を明にする唯一の詮であるか
くに考へられ凍った異部宗翰諭の如きは、その最も甚しきものでぁる。之は全く設一切有部
成空荷むるの手段として編成されたものなることは、少しく批判的に之を研究する人の何人
易に気附き得べきめで所る。加ふるに、之ほ私が他の場所で屡々論じた所であるが、各部派
脚地へ㌧るものは、決して初めより確定したものではなく、長の年月を経る中に、各々の間
りの螢連鼻蓬ぁり、而もその費蓮嘩蓮に際して、各部涯の問に相互に反撥もあれば交渉もあ
︵A.P
影響もあらて、次第に燭自の方向に大成したものであることは、零ふべからざる串賓である
部宗輸論に紹介された各部派の宗鶉軌の如きは、私見を以てすれば、恐らく大毘墳沙諭
持=三以後に於ける固執せる部派的克見を紹介したもので、断じて各部疾の宗議は初よト∫ののや
ぅ打了ものではなかった。従って異に部派偶数の費遷を研究せんが虐めには、侍統詮は勿論
史料として参照しっゝも、必ゃしも侍統詭に拘泥することなく、寧ろ各部派各自の立脚地を
すると同時に、各派相互の間に於ける思想的関係一ぞ尋ね、以てその連絡と開展との次第を
2α)
るの必要がある。勿論、貰際をいへばこはかならに困難な事業であるけれども、ともか
︵観念論的立脚地︶
布部又は確乎部系の諸派︵賓在諭的立脚地︶
都農儒教−こ於ける分別上座部¢地位モモ望不義の定め方
も、その宗義は楓本七論による限り比較的素朴で月珂耶︵竺蔓・︶及び律以上に出づると思はる
蓋し、南侍の所謂分別上座部なるものも、今の形に整ふまでには種々
方上座部の宗義、殊上その七諭に表はる∼ものはや∼之に近いものであるまいかと思ふ。
も、之は勿論、信用し得ざる所であるが、私を似て見るにー勿論制限附
か∼るの軒この先決闘怯であらねば凍ら閃。長都宗翰論は所謂、雪山部を学之に擬したけれ・ど
である。従って部派偶数を研究するには、先づこの根本上座部のいかな
根本上座部
︷大衆部系の諸派
ゐるものである。即ち
一をこ∼で追随することは困難であるけれども、私は極めて大雑把に、之・芸の如くに観察して
所で、然らば右の見地よbして部派偶数はいかなる順序で費達したかといふに、勿論、その一
〓
数研究の方針としては、思をこの鮎に致さねばならぬことだけは、飽く皇で単著の忍め
ぬ所と思ふ。
劇け
部振儒教に於ける分別上座部の地位寸Jその宗義の定め方
四
ゝ特殊的意見なるものは極めて砂いからである。即ち七論に表はる∼紳畢的意見も種々の法養を
整理し分類し解辞する上に於ては経詑以上に額璃的なるものとなってゐるけれども、その宗義内
容となれば布部の三世賓有諭の如き、博子部の有我諭の如き乃至大衆部の侭名論の如き、特殊的
︼ind名声寧○の詑などを参照して種々の方面よりその法相論を見ることであ・る。
.究
2(ほ
bFidF阿m品管︶の宗義を経めることで、更に少しくだけてはゐるけれどる之に
積極的方法とは七論中諭事︵K邑l首註−1u︶の一を除いて他の六論と丼びに無持邁論︵P鼠撃て
と消極的方法との南面あり、而も雨着粕侯って初めて完全に近い宗哉が得られやうと思ふ。
然らばこの南方上座部の立場をいかにして、決定的に定むべきかといふに、之には積極的方法
三
を試みた成積が一つも衷はれてゐないことである。
ふまでもない所である。たゞ怪むのは私の知れる限りこの見地よゎしたる南方分別部に関する研
沸教の研究には、何より先にともかく南方涙の確定的数理を定むるの必要あることも亦改めて言
同時に亦諸部泥中に於てその最も古い立場を代表するものと見てゐるものである。従って亦部派
圭一白ひ得べしと思ふのである。この意味に於て、私は南方の分別上座部は諸部泥中の随一なると
意見の著しく表はる∼ものなく、経詭にぁる法相を而も表面的に解辞し整理したものに外ならね
ノ
消極的方法は諭事︵舛邑・冒註︼岩︶
を利用して南方上座部派の非とする主張を調べて、その耗
この意晩に於て私は、率直に云へで分別上座部の宗義を定むる.の第一催件は先づ諭事によーり
に定むる方法が有せぬことになるからである。
で、更に進んで、その立場より或る種の理論を生み出すか否かといふことになれば、之を制限的
方法であらねばならぬ。然らぎれば、他の諭書によりておぼつかなくも本派の立場を想定した.所
凄定むる上に於て絶射的に必要な材料であると同時に、諭事を利用することは亦絶射的に必要な
其中は表はる∼題目だけを整理してもせ派な数理諭を組織し符ペき鮎に於て、分別上座部の数理
なるからである。而も諭事はこの中に部派偶数間に取扱はれた種々の重要数理を論じてゐるので
によりてこの派の許さぬ数理を知ト、之よりその裏面に捗りて、本派の■積極詭を知り得ることに
界を定めんとしたものであるから、たとひそこには、自派の積極的意見を提出せぬとしても、之
ては、異論を挟むべき除地があるとしても、ともかく分別上座部は之によりて他派と白沢との限
極的宗鶉の限界を定むることである。蓋し諭事は何時頃、何虞で製作されたものであるかに関し
盈ほ
てその非とする数理を定め、然るに後にこめ積極詮を詞ぶべきもので、而もその積極論なるもの
は、毘崩伽論︵5b一1p厨エを中心として、之にミ.リンダ王閉経などを塵照することによつて、大
憶の見普を得べきものと確信してゐるのである。
部振儒教た於ける分別上座部の地位≡ての完哉の定めカ
五
部振彿故に於ける分別上座部の地位ミその宗葛の宜元方
六
れ私は ー一見すれば斯畢の専門家、には分り切ったやう写1とで、而も未だ何人も試みざる研
究法一でこゝに提唱する所以である。
20塵
して訪部派の特色を見んとしたるに封七て、一暦畢術的に意義のぁることであらねばなちぬ
し特色あぇ諸部派の吏張に射して、基本的棟準を見め待る斯に於て、宗輸論が有部宗轟を棲
瑳健託たると同時に、或る意味からすれば申凡なる訟とだえごナとは言ふまでもない所であ
かくして得られたる結果は典へられた一q尼何耶以上に多く出する所なき、或る意酸からすれば
′
梨倶吠陀に於ける﹁殖示可避﹂観
・・−・故木村泰資先生の霊前に捧ぐ
福
島
直
四
郎
難いものがある。何となれば一方に於丁リグ・デューダ讃歌全憬の性質及目的がかゝる問僅と密
中に佳死に関する深刻な考察が乏しくとも、之を以て直に上古印度の膏畢思想界の合致を推断し
支配下に天界の歓楽を享受する事を願ってゐる︵特に両州・〓∽・γご参照︶。然しリグ.・デューダ
る。一般には死に封する恐怖、長寿の希求を述べ、現世に於て幸福な生産を終った後はヤマ王の
只・−琶︵学則⊇呈tp︶の如き哲畢的名篇は存す一〇が、之等は常第十巻に属する比較的新しい蕗歌であ
ーダにも、抑.ぷ空l芸p邑︶.舛.芦00ご5ぎk弓m且−H●冨︵Puru瑠崇︻エ︶H﹂巴︵字音p註︶−
リグ・デューダは死及死後の存在に閲すろ深刻な帝都的思索一で多く介んでゐない。勿論リグ・
悪道
接な関係一でもたなかった事を考慮に入れる必要がぁり、他方に於てこの欠格はある程度までアク
ルア・デューダによつて補足されてゐるからである。・然し弦では問題を出水るだけ局限tて、人間
が#瞼的に締約し得る一兵理たる﹁死不可避﹂﹁生者必滅﹂の軌念が、リグ・グェーダに於て如何に
梨倶吠陀に於けろ﹁苑不可避﹂毅
七
梨倶吠陀l二於ける﹁死不可避﹂叔
表されてゐるかを瞥見したいと思ふ。
÷
y旨封。風写.rくepiぎ与pPreyrlre旨j告ぎ昔paこ−箋買≡阜こ\
擁・−Pご昌⋮Ogぎmpr邑昌⋮i邑⋮意g買yぎ萱b−−点く=こ
人間は落に死の緊縛を脱する串が出凍ない。
夏山舛・−芦ご︶と暫撃砕人は謳ったが、ヤ=ゴm芦︶が最初の死者として共進を拓いて以凍
その時︵=重富の太初に於て︶死もなかりき、不死牒なから畠﹂︵2喜ur邑阜㌢−1芦
デューダ詩句の間に見出す事にある。
′ す如く他の印欧話語にも其類例を見る事が出水る。然し吾人の問題は寧死
れは銅品度に限らす、買邑又=−喜享弓巨・−旦︵<*︼音︶毎号‡苦ち且の扇
し、巳−一室ぎ竿2与苫こ2首二−−亡20邑i㌔せ聴牲とする紳︵d⋮︶に対して1人﹂を意眈する。但しこ
すト、人=喜一βmri盲−与妄言旦誉語根か畠で、1死すべきものLへ毒邑訂妄意映
勿論この観念を最簡虚に説明するものは、m弓鼻白長与と云ふ畢語である。\E弓−Erl死
八
︵ヤマは我等の焉に︹死の︺造を見出せし最初の老なり。この領域は奪遺せらるペきに
ぁらす。我等の父親の赴きし虞王、兄孫も亦各自の路を辿ヱし赴く。︶
†マの邁︵Ⅰ・芦
β0β
.
ヽ
のed・ノ、・SeFr監er
ur∽−︶r・GCttheitde:邑・Y昌芦l︸・岩盤照︶故に葬蓬のあった時、死が画その邁を
梨倶吠陀に於ける﹁死不可避﹂観
pr邑1∋一mO
m弓マ引1−獣l苫ナpr童ギpづr已F誓10︼ekさm et蔓一
輝く●舛●−野人rde扁bl一y阜kpm弓rnざこ阜官1m−一且錯乱k芦m2月t已かー1到一首七三
次に引用する一句は甚難解である。
ーの子ヤ†王を祭具を以って培崇せよ。︶
︵應死者中最初に死せる者、かの世界に最初に赴きし老.人間の召集者、ディアスァク
・さ虔Y㌢F乳g冒⋮1こ邑n暮y買巴Fr昔≡⋮息到牒Pづ訂ミ
Aづ●舛七Ⅰ︻︻・00・−㌘3m茎−引rp
ヤマが死の先例を開いた拳は次の辞句によつて最も明瞭である。
p●冨−冨−C㌢−1d︰崇e旨ind・H已ten・巨d出鎗芝t喜囁乳br賢dlep・−岩垂照。
てゐる。内岩加●S●ご●−讐こ且dy担ppdpl−1iy竜Pyit⊇lいR−ヂH訂t−=欝F崇ng空家百壷
迭後のぎti打弓日昌
︵爾等は死の足跡を滑しっ∼、更に長寿を得て速水れるが故に。︶賓際内岩恥・坪は葬
舛●−00●柏註︰mrマ○すp乱己FyOpぢ呂tOy乱piすdr糾g︼一首Pp.y与prPt竿コ已ヒ.d邑h到nぷ\
迫って締って凍るのを恐れる。
Die
βク7
梨倶吠陀に於けろ﹁死不可逢し載
b首民七註Fy鼠P2pk叫乍く旨r乳Epr官−iこ、−−Eaニ2≦E−︶r邑斉iこ\
︵︹ヤ†ほ︺赫々の虐に盲己の︺死を選べ♭、後裔︵人間︶の焉に不死を選ばざりき。︹所
々は︺聖茸ブリ♪スバティをして祭祀せしめたり。ヤマは︹人間の焉に︺愛す
を棄てたら。︶
Aく・Hく呂Ⅰ・P亡に従って詳解する方が邁に容易であるが、今はリグ・ブ。−ダの椎
威を重んじて之に依つた。e︰e︻声く・H・−ドーいA≠−声Cit・。︰言−眉註ry忠臣Ptl了
亡u訂r菩・僻−J已一己㌍︰亡訂rdiの苧itik︷︼蔑穿くedp・寮監袋p・畠﹂き○︼de−1訂rgRく.・
要。ニⅠ・冒−E参照。オルデンベルヒの如く﹁︹創造主︺は細々の焉に儲を選べり﹂
と解する革も勿論できる。若しこの解群が正しいならば醐も亦初に於て昌弓官
許
なかったが祭祀のカで不死を得た事になる。ブラーフマナに於てはかゝる考も
珍しい串ではない。例へば、
こ芦−・ド一拍︰2r官亡⋮阿品red号副腎与︵管玉太初に於て神々は星卓∴号
︵太初に於て神々も
G琴−−・d∴−1d●ヨ㌢邑itニー.
き。︶TS・≦H・Pドごy旨笹邑mPl雇y帥。葺かde古式reぎn
亦質に人間の如く然れり。︶僻監1elJきー=ブどeエ已ぎ⋮r
−畠持参照。
2(冶
警ば人間もこの嘗於て不死姦られるか去ふ問塩が菅。−芦くーⅠⅠ・・畢臼︰脚
馬首昌宏巨岩=巨意二己1ぎ督旨ェyCtいr邑計m乙e碧\︵我等はツーヱ酒を飲めり、
而して不死となれゎ。我等は芸に膚せ♭、・而して神々呈出せ乞︶然しこ
マ酒の効験を誇張したもので、畢酪酎裡に軽食した死後の理想である。只
のみ人間は不死を得る。現世に於ては音義の寿が理想であつた。詩人は常
を巽ってゐる、例へばRく㌧T・芦¢︰
瞥ぎ三日21瞥乙0訂de畠y已r⋮乳象三宅撃Ft21邑巨、
plltrぎy旨⋮iどOb−−弓邑im勘巳㌢d−−y宗l致嘗yurg邑与\\
︵赫々よ、首歳をして前途にあらめよ、爾等が我等の肉燈を老衰せしむる迄に、また
男子が父となる迄に。中途に於て我等り寄を省する勿れ。︶餌芦edO−1苧家t−1く邑O
一皿deHm﹁イ・2者已亡●可■参照。
一一
百歳の蕃は賓にこの世に於ける不死である。訂・H・−・P‡1dl−1芦illld盲llCェ;どr
邑ぎを已二冒乙昌盲−β書邑Pmぢ讐・盲旨m
︵無限無窮の不死は賓に有年の期間に等し。︶
現世に富貴の専き今フする者は死後不死を得る事疑へこ。
梨倶吠陀に於ける﹁死不可避L載
梨倶吠陀に於ける﹁死不可避﹂親
訝杵ふ.P00︰邑−M↑箋⋮富−i−くiニ・芸・︶ミ;︼l昔︼訂ijぎti笹1−㌢′it■乙昌㌻ヨ
占.n註︵次に盲歳又はそれ以上生くる者はかの不死を待。︶
弾ト音i︰こ訂d邑rinedu買ri評ep・芦01de亡訂rg︰せiの謬ligぎd偏つedpp・
m.1マ各Pnd一1P召註it箋巨岩弓与sm乳\
ヤマの道は絶射である。それ放この鮎に於て人間は長官・b呂d−⋮﹁死に属する者﹂である。
Rく.づiIHJP柏柏︰ye2.dd11i
pr芸‡;首jぎ籍tiret呂ミ、
eすd
bl一等乳
m寺島巳1d11与\
︵アーデイトヤよ、我等は箕に死を免れざる人間なら。我等の寺を長からしめよ︹我等
が長く︺生き得んが虐に。︶
d宅診imp臣u:意こ皇−em
ブルーテグスとクルアシーとのあはれにも美しい封話は次の
H.器.︼00︰itit召l
ブこ、汝の子孫をして祭具を以って紳々を祭らしめよ。汝も亦天界に於て草葉するを
pr告訂de忌n︼一Pま甘y昏ti笥弓gP三ノ、書風2.d鳥獣ヾ\
︵之等の紳は汝にかく云ふ、汝は未だ死を免れぎる着なり。jダーの子よ︵1−ブルーラ
得む。︶ブルーテグスも天女との撥一ぎ遂げる焉には先づ肉身を棄てねばならぬ。
払留舛.P∽.ヲ夢ヨ号一rde喜を弓it−itt一喜eく≡弓1:n書乳㌢rI芦・b︼−邑雪盲.
見旧
諷ど二訂m昔Pb−奇b−−⋮嘗き訂l喜=1琶p芳言P許岩⋮−12賢r怠mrぎ藍、 ●
禦倶吠柁に於ける﹁死不可避L叔
二
一三
高きも崩しきも、富めるも貧しきも竺様に死を同邁する事ほ出水ぢい。
に苫群にして不死性なる郁々生せ㌔︶
Rく・舛・声ひ已︰昏≡e忌21ヱ督−−Pムー1象岩音邑う与︵彼女︵=Adl−着後
㌢苛nb呂旨声に対して軸は岩音b邑huである。
一 ︵何となればこの世界は死に緊縛せられたるに似たり。︶
房・Ⅰ・P.PA︰m昔亡S已β苫ニ喜一︼叫P苫ニOk旨
︵ヤ†は死を免れざる着金てに対してま宰樺を確保す。︶
参照TS・≠−・≡︰苫邑邑m曹b邑1弓PS艮官−苫p聖書⋮p弓音声
者はその肉身を素腹して不死となるペしと。︶
汝これを︵肉身︶汝の配管として取る時、或は知識によう或は洋行により不死たら得る
か七が檻曹たるべしやと。赫々は云へり、爾後何人も肉身を具して不死たるペ
︵死は赫々に云へ㌔かくの如くしてはあらゆる人間は不死となるべし、然らば何物
く帥k弓m名節岩戸
y賢くptヨm旨mbb曹≡邑風蔓pま宣yp賢r忠臣号藍yOJ与藍き
クJ∫
●
梨倶吠陀にぬけキ死不可避L観
▲
一四
︵たとヘ音のいのちあトとも前の意に反きて生くる能は㌢かくて彼は︵我はこ侶件
題に直面し、徹底的な詔故に向つて邁進したのはク.ごシャドに於てでぁる。然しこれ等の各
21月
多く生死の問膚に観れてゐるが、容想的要素を多分に食み、論理的兢﹁を軟いてゐる。生死の問
アク〝ヴ・デューダ、ヤデュル・デューク、ブラーフマナに於ては、リグ・ブェーダに於けるよりも
と別れたり。︶
こ−ろ▲ヾ︼も
︷已訂y且脚≦.さ.薫訂\\
R<∵舛・㌶・¢=lpdeY阿冒.2註∃pt蟹日雀訂ぎ副書lエ号註\
人力により神意に反して死を回避する事は出水ない。
く乱⋮已tFeG。p巨岩邑l巨牒pp・声参照。
アグルヴ・デュークは盲愛種の死︵1−−号雪pekp腎ぎー且を殻く。聖書m㌢ldゴ1eAt−1革卓・
死によつて蔽ほれた歩、即俄によつて。何となれば死は俄なればな♭。︶死は多様である
鼠dP瞥巨lypy抑嘗臣y糾Fim号u宍賓に太初に於てほこ∼に何物もありぎりき。宇宙は
俄は死の一因である、許H.≡.−︰llをe︼−p河芸−夢見r中堅こ︼−古壷l芦iく臣巨首さE
︵赫々は儀のみを以って人を殺すものにあらす。食足れる者にも亦諸々一の死は近づ⊥
宅・舛・−−↓・−pbn≡⋮、d毛息二童乙訂巨idノ已h己rd・du⋮監i官1pp牒邑喜・ti日章⋮ご
ヽ
典について詳論するのは本文の範囲を起ゑる事に誉。それよhソ‘b、夏至若に生者必滅の
警サンスクリッ品有尊琵毒法によつて謳つ雷の︰㌫貰憂いから、思ひつくま∼に教
例を奉げて見る。
匡藁葺ld乳釘I1.彗︰
j盲導こ−ニFruくC⋮号1rd−−r−1三三呂m⋮暮雪Cミ
﹁
t畠E巴芦−室己1賢箋、旨e−1︰室F㌢citum︰邑−鼓ミ
︵何去れば生者の死は必然な♭、死者の生も亦必警わ。故に汝は同讐べからぎる事妄
して悲むペからす。︶=l賢壱乱・旨乱⋮・監∴に︵≡已−r⋮の付りにー一言︶誉−阜
tぎーied■ゴ旨慧⊆−甥戸山堕呂−︹Ⅰ︰く宮家m苫巨声寧
これについて想起するのはぎd音n⋮t旦h㌢⋮=︵c=㌢三書名どtdCk邑正
吉−−etm−d睾redO乱2nrぎ阜訂iden−⋮、p・−↓︶である。
梨倶吠陀に於けそ死不可避﹂観
︵賓去れ宮人間の死は必然なりと知るべし。生者に射して喜ぶ勿れ、叉死者に封して悲む
t岩鼻・首m眉を巨軋ぎ⋮書p阜邑12邑ぎサミt㌘
をー昌監督どmbI敦賀臣民臼−巴eくPg邑−註\
喜一⋮芦i.−日昌−−讐苫dllruく昌琶p琶iti喜nI蔓●首−−ご与・苫喜㌢−1:左cdい ●
βJ3
梨倶吠陀に於ける﹁死不可蓮﹂観
一大
勿れ。生物は忽然として凍り、勿然として去る。故に貴君は生者と死者とを達観す。︶
C已呂d Die已七山nd・T乱打11・und出金t邑21笥g各r賢0訂p・︼可サーひ参照。
g巴−t雪盲m
i−12︼一罫−を与\
宣已−馴b︼−宅.p訂H・G−怠︵宮11t︼i−1gk H−乙・S勺1彗230︶︰
Pく臥31㌢−1id−−21P酔夢rさir
弓p甘芦b︼一号i−−y弓t訂≦i琶富官ne︼−pま︷︼y邑の\\
︵人骨この世に於て死すべきは必然な♭。必然の事に対して悲嘆する事なし。︶
ブ↓已l旨−1●舛lく︼諾−︵冒︼1tl・〇p・註・当〇・G¢〓︶︰
芦rく邑こハ叫ぎilまー︼副審−−t2㌻j封t尾篭ヨ弓眉己i−d一≡一書一一1\
p腎腎pどil〓︼Okeぎーil−夢d掛邑一ぎar息邑g§一弓一\\
︵すべて作られしものは蓬に破壊され、生れし老の死は必然ぢり。この世に於ては、動物も
不動物も決して永存せす。︶
≡已一抑b︼−・舛Ⅰく・念−e訂・−Rぎ羊.乱・謬−各﹂l・只事∵岩︼乙・〇享・・H・ご・−・ごっtっ・︵要一−こ●〇マCF
当○●雷畠︶竜呂tr斧−一・ed・Her邑︼宍道HI﹂彗︵=ⅠIOp=乙・Ⅰ︻・−雲︶﹂ハ墓−賢H●柑○乙当已こ
夢コd︼ハ瑚童ぎ試−1ie2苫すpp訂n釧n試す笹muee︼一r芦葛サ\
箪㌢でg帥まp空でgぎ罫ヨ罵昔鉾.nt2巨つ2一号ぎm\\
鼠は
ヽ
l︶・−芦
︵﹁常老骨亜、高者亦堕、合食有離、生者有死。L法朝露︶塵照已d巨.弓≒gped●tib●芦田岳kl︼
Iく●㌶︰
︸・持タロく甘ペニY彗こ書こ票Ⅵ試已一ぎIlI・p・−琵こぶ字鼓七Pk・ed・H已・dy
l±ぎp乙払ped・冒すぎー・iく・ヨー已・哲︼計gd
筆i−y&C︼1⋮乞y兵還声望i−乳e蔓己賢ub−−羊5≡ヒ\
2−邑kr・己1息ヽ届ylこ≡こu芦2苫○ニく鼻声m昌−ミ
︵機意生者必滅、合着常離︶
併催敢文革中から諸行無常に関する章句を奉げれば殆んど際限がない。
βJβ
G・〓・l⋮参照寧邑ユ1罵iヨti瞥邑訂ed・PEc−−字●悪−乙●宕−巳−gぎ一声
﹁ほかならぬこの君のみの逝くなれば、︵y己it登箋i≦巳≡琶日b−1雪e≡−呂l
梨倶吠陀に於けろ﹁死不可避r載
わが高なきを人なとがめそL。︵uce㌢裟r昌dぎ1㌣yukt昌m已−葛.弓ib訂云∵巨岩阜嵩藍墓●○−︶●賢
y詮ypk薫きiこ
しの造物まよ。︵dF賢廿粁ilF巨富誌.tく葛餅g旨字音打与ぎt邑rg1−号l嘗廿︶﹂崇︼1戸H−乙・S−責●競訂・
はす授け導く人︵p弓Op許腎2i−・邑す︶一世の師表、稀有の英傑の、齢もなんぞかくは点き、あヽ愚
﹁畢びの容儀き人︵訂tr告阜︶、苦行の徳の虞き人、もの背紋とたのむ人、行浮く思慮深く、厭
死は不可避と悟っても悲しいのは人情でぁる。
.
梨倶吠陀に於ける﹁死不可避﹂叔
甥〇.父ご戸
田Ptヨ到Y已・GO−r●ⅠⅠ●∞P︼00︰
ざをrudP︷鼠つPぎyP已−−抑m⋮一意与づl一n与\
琴丘首et等号n与k乳敢己出⋮畏ぎ籍m≡讐呈苫\\
︵瀧つ瀬と流す涙のかひしぁれば、零をかぎ♭に焚かざらめやも。︶
追記、先生な追悼了0に芹の感想文わ以つて†ろー‡余の本意にわらす、恰竺文を操つて京樽の誠を致†ヾ壷、期日切迫
Lて意な鼓さざる所草し、梵文の邦謀−‡たゞ通譲な易がら・しめんが秀のみ、故に慨常に原文み並詑ぜり。吠陀語わア
クセントは印刷上の困難一で慮りて之み省けり。
英館英くぼ堰けよ。
︵昭和五・六・二〇記︶
βJβ
木村泰賢者の追懐
妨
崎
無常迅速とはいひながら、木村奉賛君が優に先って逝かれるとは、
木村泰賢君の追懐
正
治
るかとは思ったが、どうしても﹁資性漁厚﹂とは云へへ与かったので、此の如く諦みかへ、而し
れを開いたら失笑する事と思ひ、その場で﹁剛毅潤蓮﹂と換へて葡むだ。組長の旨を矯めるにも
に﹁君資性温厚﹂云々とあつたが、どうも木村君を形容するに不適曹だと考へた、木村君自らが
葬儀に、小野塚組長の弔鮮を代讃した場合、式場に行ってから、その文章を読むで見ると、文中
へてゐた事を中越ペで見やう。それについて一つお断り又お詫をする事がぁる。先月徳井寺†の
に先つ二日前にも談論して、その研究問題について考を交換Lてゐた事、中葉木村君について考
此の追懐には、敢て木村看の徳を讃へる秀でなく、又その批評をするのでもない。現に君の死
木村君の死後にその追懐を述べるとは、如何にしても存外であるが、今はそれが事斉である。
梼好の婿棟には憎まされた位の事も交へてくれると考へてゐた。をれに、こちらが生き残って、
こちらが先に死んで、その記念か何かで水村君が痛快な評論をしてくれるだらう、中には下手の
βノア
大村泰賢者の追懐
に組長に事後承諾を求めた女第である。
木村君の性質が潤蓮でぁつた通♭、をの思想は明快、而してそれにしつかbした拳闘的素養を
鼻へ、研究と思想と共に、いかにも潤連無碍であつた。木村君は畢着で又思想家であつた。
単著としての研究の成績については、今一々之を列塞するには及ばないが、材料を集めるにも、
常に限界の弘く、着眼の明敏なるものがあつた。而してその材料や論鮎を纏めては、之を思想で
陶冶し整理するに、如何にも明快であつた事は、その言論のきぴ/\した句調に能く現れてゐた。
此の如くにして整へた思想を又現寮生活と聯給して、畢問を活かして行くといふ鮎に於ては、そ
の潤蓮の性格と、明敏の判断が、如何にも活きくしてゐた、此の如き意味で、君は思想家でゐ
︰つた。
此の如き性格、此の如き思想は、君の所謂る新大乗運動の意味であらカであつた。然らばその
思想生活が具にその人の生命と打アり血と打了り、文政曾の活運動に携はつたかといへば、そこには
まだ距離があつた。君は思想家ではぁつたが、まだ宗教家又は貰行家ではなかった。
燭♭距離があつたゞけでなく、恐らく此の如き意味での眞の宗教家、大乗梼紳の行者になる性
たと思ふ。熱情が映乏したといふのではないが、その熱は寧ろ研究に注がれ又思想の整理に注が
格は君の長虞ではなかったかと思ふ。即ち君の性格が信仰の熱に富むだとは云ひ難い方面があつ
(
2J∂
れた。もつと長生したらそれが質行に進むだや否や疑問を残して︵恐らく自分自らにとつて︶逝
ヽ ’J O
しlT一
妙有の憧れはあつた、然しその前程としての眞室の稀切へ仏健駿があつたとは見えない。﹁新大乗
運動﹂にはその開租の資格を述べてあるが、それは思想としての要素がまで、それに要する性格
や修養紫紺といふ要素は奉げてない。新大索道勒の開祖導師といふ理想が念頭に努発としたこせ
があるかも知れねが、あつてもそれはブラトニックのものであつたと思へる。
君は一生の結論は結ばす王立ったが、.然しその生命が十年二十年延びても君の針路は在凍と大
もた座勒なしに進むだかと思へる。暇命ひ又君が長生して終に新大乗運動の行者となり待たとし
ても、それは今考へても詮なき畢で、君の現賓の一生は五十年で終を告げたのであるから今まで
の一生の人として君を同風すれば、君はやはり畢着であり思想家であつたのである。
一
革老としての木村君ほ賓に地盤の弘く且つしっかゎした人で、六涯哲塾から原始沸教、それか
ら部涯彿故に歩を進めて凍た態度は賓に着々歩趨を踏みしめて進むだ賽山家の趣がある。而して
思想家としての限界は一歩一歩高きに登ると共に限界が澗く㍗アり、脚下の瞼難はその鰯に忘れら
れ、金々男を鼓して高きに登った慨があつた。然し脚元についての注意は又益々密になつて、そ
の最後に徒事しっ∼あつた部派偶数の研究は賓に千年の剃錬を拓く心祷で進むでゐたらしい。今
水村♯贅君の追懐
2Jク
東棟蕃茨君今池愴
二二
ざでりの彿政孝牙が単に小義甘しで放してゐた部派彿数の研究㌔君にとつては畢に小薬でなく、
︸1 火薬だ蕃・預備でみ軋.Y又滑撞ぬ皆済であつた庁しい.。
虚空琴曲で珊叶は、等考望ハ狩哲塔研究は賓に馬返であづた。とれから森の中にも分け入り、岩
舟悸較ぷサゝが′隼?ゝ■部涯彿致の東食首に埠㌢?ゝあ・つた、商して君の限界は既に入合日の大乗
に進みづ∼あつ・たラ暇命竺﹁堂の巾に等螢臥剣峯には連せすとも、八合口∵までは足を踏ませたか
ったd
然し君吋洛南に.は十登仙家の喪物とする階上を撃け見で、それに気の急ぐといふ危険一で持した
の.や筏がふうかへ、十葦は漸騰抄明敏なのに乗じで研究に.も思想にも、常に前途を見透しすぎて、時
。なからうか
にぽ妙掛埜獲め過、貢の・でなか.らラか・。争の鰯に身心共に除りに之を使ひすぎたので
身俄も塊失禁芸た率誓を−の襲㌢を頼む心が常に、不幸の死を招いだのでないかと暗まれる。
錦七、汁者の畢閃、ど懸想と璧衰竺鹿渡で絡&もの至サい。感承埼むあれば、又購禿の螢連も
珪期.し得告・部派係数か射落軒で大東の阻展があつた様に、木村琴の新大乗も亦、つゞぐ生命が
あ寧lj:邁鱒撃い!与
220
改元.村教授の構成力
ー
放水村救援ら績戌カ
命を輿へたる、.斯倖第一人者の稀あ.カ。
常
盤
大
足
を典へて、現代堕罪の朋味七喚起せる∵借謬以東痛んど高閣に束ねられたりともいふぺき阿見澤磨沸
綴任し∵六振哲轟の廟究を大成して・∵往々泰西摩界の上に出でたる▲、原始彿俄に射し、滴らしき形式lと内容と
顔の一座有終へたりっ敢て長しといふべかちす.、而もその業績に於て制日せしむぺきもの、頗多し。大森経を
君は印度哲皐界に於骨る一大悪鬼なぇ数十里に且る光管見中天に遺しっ㌔突如として教壇十九年行年
の後に業積の一端に梱れて見たい。
一で代来して十君の霞前に捧げた一片の兼併に、その翰廓を揃いてぁるから、先づ之を奉げて、そ
たものゝ、到底政柄に立っ挙が出水なんだ。白身砂啓に封する過憶は、葬儀の常田、印度哲畢科
度菅単調々簡任王寺居る自分は、.何ともいへ垂鹿愁の備に鍋され、/その週間の如きは、出校はし
繰返上浦惜裳悼の金工堪へぬ。知るも、知ちぬ鳶痛惜し哀悼せぬは無いが、分けても同じく印
この二三年凍、傭徽畢界の大文物一ヤ失ふ事、賓に多い中に於て、更に君を失ったのは、繰返し
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放水村数授¢払成カ
ニ四
君は昨年薮く眼を病みつ.1ありし際、其々たる悪性と、最愛の長子とを・同月同日同時に失へり。この人蛮の
老病死に直面しっ1、婆婆論の国謬に奮闘せる君は、此時既に九腸寸断せしならん。しの忙はしく−この悲し
むべく、而も長からざる一生に於ける君の眞室妙有的活動は.一として解脱への道ならざるはなし。唯惜しむ
べきは、常にロにせる組織彿教拳に謝して、遂に指を染むるの飴年なかりし事なりっ
畢界の鰯に痛惜何ぞ域へん。蕪酢を陳して、故木村奉賛君の墨に告ぐ。
〓
最近種々の苦に直面した君は、之を解脱せんが食に、到底他の想像し得られぬ程の内的経験を
積んで居られたに相違ない.。而も之が鰯に、その固満なる人格は、轟々磨かれ、情調の上に一層
の潤ひを帯ぶるに至り、次第に宗教的色彩一で濃厚ハサらしむる楼にな㌔普通の人には、或は君自
身にすらも、卒常の君であつたら、迷信として顧みぎるべき簿項の車にも、宗教的な深き根底あ
る串を味ふ様にまでなつた。最後の業鮨といふべき﹁本願思想の開展﹂打了る論文は、君の最近の思
エラ念
く同情あり。斯くて君の周囲常に人あ少、君の左右常に事あり。君の最も悲しめるは、時間の乏しきにあり。
阿厄の閏に身を起せる君は.先輩に厚く.森に後輩に勤して、畢術の指導を頒す外に、所謂かゆき肝に事の届
り.男気の逆る肝単に啓訝の人たるを得す、絶えず思想界の趨勢に留意して時に街頭に立って獅子吼せり。
君は意見ある拳者にして、筆力に加ふるに梯カを以てし、智カに加ふるに情熱を以てし・倍熱のある節男束珪
明噺にして情味洗き筆致を以てし、意到り筆随へり。
ガの長併は、乱麻の如き教義を整理して.之に清新なる鰹系を奥ふる組織力にあ少。而して之を委表するに一
り
想傾向を知らしむる屈強の資料であ・り、且つ中生ロにせる組織偶数畢の一断片とも見る事が出凍
故木材教授の構成力
その中にあろ妖艶を指摘し、不十分を精錬して、二盾の農はしいものに作卜上げる時に、君は始
君の開拓した跡を、そのま∼に追随するだけでは、一時は満足しても、結局は満足せぬだらう。
き鮎の多々一のる串は認めて居る。然し大館の構造に於ては、大なる自信があつた。君の性質は、
の土地を、大マカに掘りかへして行く。勿論自分でも、其中に種々の政情があら、補正を加ふペ
君は元水準界の凍振トを似て自任して居た。云々の方向へドン′く開拓の歩を進めて、千載荒蕪
が出凍るであらう。而して之を止揚すべき作物が出凍れば、君は必ず地下に破顔するに相違ない。
言はねばならぬ。その畢界に昇へた刺激は、必す長く結くであらうから、これを止揚すべき研究
君が自任してあ㍗りし沸教一ぞ現代に活かす一事は、この一袋だけでも頗るその任務一ピ鼓したものと
き屈強の論文で、そのヰに見ちれる自信と雄梓と情熱とは、賓に畢界の甚大な輿眈を喚起した。
意鶉を費揮するに力め、頗る抽の廃った労作である。これ、君の組織力と拳凰と・ピ代表せしむペ
一方には駿連史的見地に立って、大乗沸教理想に一種の系統を輿へ、他方にはその温穂的文化的
経との関係や、その成立の時代や、政令理想・ぞ彷彿せしむるものがある。これに着脱した君は、
菩薩に特殊の本願があら、その中に活きた大乗柿紳が充溢して居ると共に、本願の種々相に、他
るものでぁる。元水本願ぢるものは、賓に菩薩偶数の基調を点す重要性を帯ぶるもので、特殊の
β凰ヲ
故木村軟投の構成力
二六
めてよき後扱者を得たと考ふるに初速ない。奥療と問庖とを輿ふるのが、君の長所であつた1君
の輿へた問題に、多少礪れて見るのは、此際君に対する追憶に相應すると恩ふ。
三
こ竺柴は、暫畢界の東洋アーベントに於て講演せるものを、更に一段の研磨を加へ亨、
.・1
公論﹂に教表したものでぁる。東洋アーベントには、自分も出席し三人であるが、古き経典に
薪らしい壁命を輿へた鮎に於て、他の心を動かした。然し率直に大僅から冨ふと、本願の取扱に
於て、昏初より三相の憬定があると言ひ.たい。第一は、本願の数は次第に六の.倍数を以て準鳶†
ものであるといふ暇定である。撃一は、般若系と往生系とが互に競って加上したといふ侶定があこ
る。第三は、是等兢寧加上と見らる∼一群々正系として、これに洩rLたものを傍系とする椴定で
ある。つま㌔この論文の組織は、是等三偶の仮定の上に生かれたものでぁるから、この僻定がモ■
許さるゝ時は、畢界の承認を待や㌻が、然しいづれも重大な問塩でぁるから、之を許容せ犯人に
は、疑問醇出のものとなるを免れない。概評すると、この論文ほ、先つ一個の企麟々妾出して、
こり金岡の下に材料■ぎ蒐集したのである。活き′1したカぁる構造を焉せろ鮎に於ては、何人の
追随・でも許さぬ朗で、君の行き方は、所謂六紅を註辞去号三方法であ一〇。たしかに有力㍍二の
う方で、興味と問題とを輿へた鮎に於ては、無上の好果を奉げたと言ってよい。然し之を畢的の
だ4
\
むのどするにづきては.、、滑規多む精練を要しはす皇い、か、と息ふ。
本悪感若隼㌣苛酷馨しだ与いぶ鮎に琴しば、、−恐らぐは何人も異論ほみ訂よい?首藤か敷金
隠本生ぼ於や熟し■佗串を遥握芯唱導しっ.ゝゝ威る乱分璧耳殊に本生の著眼に敬意を鼓する。本生
放水村数疫の線条
よ扁おして▼も∵之七般若系に尽せしむを啓由が升らぬ。∴J′の阻は、1無量書取﹂や﹁文殊浄土攣や
威風軽旨貸い、でご・一七で願中斗㌔特に士義教別恥じ、浄土の荘偉から十八願を見たのは
起る・ヱJれを傍系どア薮蕃輿肝附けで仕舞ふのでば、′轟的降潜むしで落ち付かない。
十廊曙﹁無巷等し■の四十八腐の後往′肇ペを斯け放で、女六町虐政なら氾鮎に於て二壷の疑問が
ら好鮎汀於てヾまた﹁犬晶竺二十願の後頓る.ペ.阜郡−に於で、土重町疑問がみ\臥楼に1文殊﹂の
願が夢軒誓文殊揖豆もヤ嘩が疎炉ヰ艶師㌧、に配せい巌が李α。﹁勝貞﹂の十大厩には、六の倍数
師し㌧どみ究球肝退聖璧元﹁蒜・以上−畔併発歓要す彗﹁踏襲い亡ば十二願がみ㌔﹁勝塵﹂には、十
呪府管舷現象ど桂生来どの垂線噺徽取乱像何題や↓澄粟㌧膠撃との陥係問題や、﹁文殊﹂と﹁斐
くへ・ぷ厨犬後と噺貰すむ評にも行ぐ牽い空軍にべ般若﹂r−ご附する二単打けでむ、既に例題がある。
口旗廣ハ品皇室扮前後はヾ容易に淡せ・られ近称鬼平み年か=ら、哀願の故によつて、一些町疑問な
若㌧¢生に於も誉堅ガ温点だ↓示品㌧教場で薫初の打の・どす今のは、研究の除地があ告又、﹁小
よ髄犬琴へ政特同に、、し疲暮思想喧叙訪左ペからざ古事打、∵今夏に之を首ふの要がない。然し
ク2ご
放水村教授の績鹿力
二八
﹁染師経﹂と共に、蓋、往生系に威せしむるが至曹であらう。之を特に般若系としたのは、1年等螢
撃の二十四願を以て、之に加上したものと鬼んとした斯から凍たものに外ならぬ。
また﹁軸足毒痙﹂の岡本典繹の中に於て三十六願が必要な焉に、彼の時代の評を古き形とし、又
四十八願を最後とせんが焉に、肯き繹を始外患想とする上にも、触⋮理が見られる。二十阿、三十
六、四十人は、岡本異渾の開合の相違である。是等の中に、般若系との間の折衝から死去加上の
企囲がぁろと見るは如何であらう。その計書的陶集に入らぬ研から、唐謬三十六願につきては、
㌻から四十八厳に進むる途中に、従妹の慣例的約束藍心れて、四十六
無量毒の二十四原、何十八願を根幹として、是等の中に六の倍数加上一宮妾出したのでぁらう。こ
君の傍系託の起るのは、これによるのである。君の正系なるものは、蓋、般若の六願、三十廟、
比して居るから、曹然﹁無慮毒痙﹂の廿四顧乃至四十八願を預想するものとせねばならぬ。
説明がついたとしてヰ﹁文殊経﹂に至っては困る。この経の中にほ、その潜幸品珊陀彿割に封
いていへば、﹁薬師経﹂一ざ以て﹁阿閻経﹂を改造したものと見るのでぁるから、これは先づ一應
歎で満足した結果でぁるまいか﹂と言って居る。ヌ、﹁文殊師利伸土俵津軽﹂と、1薬師経﹂とにつ
﹁編輯者は、三十六厨
偶々漢辞さるゝの運命.逢ふたものに相違がない﹂といひ、梵文無量寄経の四十六原につきては、
J
﹁本廟の欺及その性贋からして、疑もなく四十八願設の前に成立した原典が、長く保存されて、
▲ヽ
ヱガ
れによつて﹁略ば同じ思潮に属する諸霹典﹂と制限を附して、之孟系とし、他を悉く傍
たのでぁる。捏盤や勝星は、傍系の中に属せし空しも可いだらうが、文殊を往生系以外
由が分らぬ。本願加上詭は、文殊の一握だけに於ても、撰かざるを待ぬ。自分の見所を
ば、是等詩経は、恐らくは左の如き順序・で以て開展したものでぁらうから、本願の教
0
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q] 4 ウリ
486
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大品−
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の前後を判断する標準とし、ヌ、般若系を往生系の折衝によつて屠々加上したものと見
捏アりの困難な問題を倖ふと言は
1小品
1阿閑
組織は困凝である。映陥を指摘するは容易であTる。以上の如くに言へばとて、自分は、この・論
文の侶僅に盲目なものでは無い。
四
この論文に於ける長所は、本願を以て浄土建設の園集とし、本願思想の開展は、要するに
的国家観の螢逮に外ならぬと見て、詩経に於ける本願の意義を開拓して、これを賓生層に即
めた、造億的文化的宗教的意義の上にぁる。申明にして蛮術塊を含んだ筆敦により、諸鐙の
放水村数按の嬢成カ
放水村数按の構成力
三〇
を縦横に解剖して凍って、或はオルデンベルグ教授を引き、・或はラーマーヌジャ派の二派を引き、
或は大日加水中心の大慶茶席に開設し、或は絶封他力敦に開展すべき理由に説き至り、さては又
阿育王の法王思想から、我が聖武帝の法界稼超的政道軌に論及し、而もまた人種平等や、階級撤
靡やより、交通設備、下水設備にまで舌及するといふ様に、到れり亜せりの脂力筆力の活躍は、
賓に君の書斎と術萌とを億ぬるの長所を示して居る。彼が如き羅列的本願を、斯くまでに現代化
し得る手腕は、他に求め得られない。こ∼に君の猶撞の舞婁があγり、こ∼に畢徒の驚喜がある。
′ 君が始終口にする眞容妙有は、翠なる峯理容諭で無くして、この本願中に見らる∼如き最高の浄
土ぉこの世に建設したい希望を吐露したものと見る挙が出奔る。即ち眞容妙有の好模本を、本願
思想に見出し、これを横線として、自分の渾偶因土の理想を語ったものである。この論文は、君
の博畢を語るが、その博畢は所謂天の博畢でなくて、悉く地に接しての博畢であつて、正に君の
活きた単著としての結論と見得るまでの成培をあらはして居る。論文の終りに、何程か通俗化し
た旨を断はつて居るが、そは謙遜の意味をもこめて居るのでぁつて、君はこれに対して頗る誇り
を威じ、其後文化的解辞の誼を能く繰り返したのであつた。如何に本願を現代化するに注意した
\
かの一端を、今更ながらこ∼に一言観れて見る。先つその道徳的意義を陶揚せる中に於ては、本
願中に現はれた浄土に、道徳的秩序の完備を見るとて、これについ
βガ
▲
的道徳的交渉あ云三とを見、ヌ、一々の浄土に王名排斥の上の法王政治になつて居ることを見、
而して将士に於ける国民相互の関係l二ついては、悉皆金色の厳に人種平等集を見、天人喪差別の
厳に階叔撤廠塞を見、衣食住自然成就の厳に、経済不安除去妾を見、異端なからしめんの願に、
思想統一実を見るといふ行き方である。.又、文化的意義を牌揚せる中に於ては、地中や金地の願
に交通設備集を見、光明無量の厳に、燈火設備尭を見、八功徳水の厳に、上水設備集を見、大小
便なからしめんの願に、下水設備塞を見、五通の厳に通信機閲集を見るといふ状藤である。一見
した時には、頗る突飛と恩はれ、蔑分か滑稽をも戚じた事であつたが、然しこれは君が賓敢曾に
射する注文を、本願に託して語ったものに外ならぬと考へ直すに至って、その中に妙味を掬すろ
放水村数按の構成力
の要がある。俄悔の必要なしとするも、本願を素直に信愛するを必要とするとて、飽くまで絶対
除五逆誹訝正法の文句に関して、至心懐悔によつてこれを通過すべしとするも、俄悔に精進する
の二派を奉げて、之を一般的浄土教と、絶封他力敦とに封比し、而して無量書経の第十人願の唯
その宗数的意義を間揚せる中に於て、他力宗教のラーマーヌジャ振の中から開けた猿仔︷猫仔
賓現化に努力すべきは、本願を信するもの∼義務である﹂といふにある。
でぁるから、之を再び現賓生活に戻して、之を解辞するの必要が一のると同時に、更に進んでその
様になつたのである。君の意ぺ要するに、﹁現賓生活に射する理想を投影したのが、渾土の思想
.
動沙
放水村教授の構成力
︼
三二
無催件の救済が本願の主意でない事をま張して居るが、本願の岱伍が他力的にある事を強調して
居る所に、君の最近の心境が自然に語られて居る様に思ふ。又、俳改革的立場車間揚せる中に於
ては、本願の趣旨は一乗にあγり、従って浄土の衆生は悉く菩薩たるべきを締過とするとて、こ∼
に上求と下化との関係に於て二種の回向を持ち出し、最後に不住軽重を以て本願の結論とすべき
に推し進めて居る。君の没我的修養後に凍る賓生活は、恐らくは﹁悲華経﹂の四法怠堕にあらゃ
して、四法精進で、これが君の目標であつたらう。
五
君の行き方の一は不要の材料を捨てるといふにあつた。捨てねば明快な組織が得られぬからで
ある。捨てゝ捨て∼、最後に残した資料を、妾出したる横国の上に鮎綴するから、その資料が斬
らしい味とカとを得て、賓に光彩を放つ。こ∼に古き偶数が斬らしく行アり、現代化して凍ろ。君
の得意の舞婁は、こ∼にある。開拓の功績は、君の専有であつた。忌惇なく言へば、君の論文殊
に﹁本願思想の開展﹂は、車術昧の溢る∼ものであつて、論理的のもので無い。理論的に組み立
てられた形式を取って居るが、内容は東洋痍の猛るゝ宗教的塾術的作品であるL三吉ひたい。この
中に盛られた票数炊が大に畢徒をひきつけたので一のる。之一ぞ解剖する時は、疑問百出するが、斯
の如き萎縮的作品は、解剖せすして、このま∼として昧ふ所に、力強いものを威受するのでぁるっ
まヲり
木村博士と耶舌芙須
大村博士ヾJ耶首実薪
金
倉
固
席
﹁本書はもと著者が大串院在畢中の致究の結果を整理Lせられた物に他ならないから、自ら﹁幾
如くである。其の鰯には無論﹁出水得る限り内外畢者の研究の成横を塵照﹂せられたで
さて﹁六況﹂の彗一口にも断られし如く、博士の備緻の一は﹁達意的に講究する﹂に
典の位置を占むると焉すも、敢て溢英之言では無いと信する。
を啓蒙した功伐は、柄として看過し得ない。此の瓢我が印度暫畢研究史上に於て、該書
て之に歴史的な意義すらも附興するであらう。殊に此の書が印度哲畢に閲し、畢界及び
満足が畢術の進歩に立脚する際には、該著が種々の粘から此の進歩を刺戟した事に鑑み
我々が螢見しても、必しも直に博士の功業に職瑳を輿ふるものとは速断し得ない。否寧
算すれば此の書の初版は十五年前に剖夙に付せられてゐるから、備に今日此の中に幾何
は、博士の功績を讃嘆し化多数の弔新中、特に歎阿該菩が呼耕せられたことからも明で
末村博士の数あ畠挙動中﹁六況哲畢﹂が其の王座の一を占有すると世人に認められて
ク3J
木村博士亡耶古美音
三四
多の映鮎あるペし﹂とせられし革も、必しも儀虐的な謙譲の訴のみでは無かったであらう。惟ふ
に六涯哲畢を概観するが如きは、印度暫畢に没頭せる畢匠が凡そ畢生研鐙の成果として世に問ふ
性質の著述では無いか。各派が一千年乃至二千年に近い畢事史を有し、唯だ其の一派を攻究する
に年生を献ぐるも伺足らすと考へられる各派を︹試にガルべ教授の教諭に於ける研究を思へ︺大
串卒業後数年間に全部研尋し、一著作として判別するが如きは一種の畢術的冒険といふ可きであ
らう。従って其の中に幾多の破綻を生することも自明の理である。言ふ迄も無く、それは単に研
究者り組織的頭脳に左右せられる問題では無く、組織以前に隷想せられる資料研審上の時間的制
約を曹然安く可き性質の研究であるからである。然も木村博士が斯くの如き困難を敢然排除し、
対質料観上単著の本質哲も問はる可き冒険を突破し、良く﹁六涯哲畢﹂を大成せられし男気は、
博士の如き天才を待って始て可能の事でなければならない。併し如是幾分の無理を推して此の書
を成されし事情を翻って考ふれば、それは又時代の要求であつたとも言はれ得る。﹁六派哲畢L以
前に出版せられた所謂外道哲畢の概観書としては、井上㈲了博士の﹁外道哲畢﹂︵明治井年︶や、
翌年印度宗教史の一部分として論及出版せられた柿崎博士の﹁印度宗教史考﹂等が軟へられるで
ぁらうが、之等の著書に比して凡二十年以後に至る期畢研究の概状を一般に侍ふる物として、博
士の1二鳩卓畢﹂ほ出色の大作であ♭、且っ其の出版は極めて時宜を得たる物と言ひ得る。昔時
β3β
本書が洛陽の市僧を高からしめ博士自ら﹁意外の歓迎﹂に驚かれたことも、如是事
れゝば曹然の結果であつたらう。斯く時代の要求を達観するに敏なられしことは博
良く時世に順應せられし患度は博士卒去の直前まで偲然と指摘し得る所である。
木村博士ミ耶育英寮
くの如き方面の畢者と皆時認められてゐたと言よことも一の理由と成って、我が印
ブワァムシア、更に梵文革、吠陀年代論等の研究を螢表して、畢界の耳目を聾勒し
の論文がふ∵り、稜期の名著﹁印度人紳観念の者達﹂として結貫すべき胚種をなし
に関して必しも無関心で無かったことを表してゐるが、始はまとして者邪教それに
脈相通ずる物が存する。耶毅にほ蚤く﹁印度背畢に於る紳観念﹂︵明治十年哲寧日報第九黎所載︶
純然たる科単著の立場を守㌔未だ嘗て通俗書の如き物を殆ど︼部も出版してゐぢい
研究部門が多岐に捗り、又多少意味は異るが互に先壌者として活躍せられし鮎に於
が尋問の研究を費表せられるに蕾っても、伺﹁通俗書たる﹂ことを期せられしに反
しことは、今日萬人の等しく訟軋る所である。倉は木村博士とは畢風も著しく異♭、︵例せば博士
が康鰯な印度畢海に棉して、殆ど其の所有る部門に先駆者として活動し、基本的な
てボン大畢の耶舌英数授︵IHeコ毒ごこ邑bi︶と博士の関係を一言して追悼の意を表したい。耶窟
木村博士の宏業を侍ふるにほ他に多く邁皆の人がぁると思ふから、予は﹁六派哲
β33
木村博士ミ耶首天爵
三六
期に於て、耶窟は殆ど顧慮せられてゐない。試に木村博士の﹁六派哲畢﹂を播閲すると、若
の見落しが無ければ、耶裔の名は教諭を諭せられる下に一、二同︵一四七、一七四頁︶引照せら
ヽヽヽ れてゐるに止る。然もそれは論及の燈裁から見て恐らく所謂孫引きであアり、又各
られた引用書の﹁証﹂記には、一同も耶易の名を蓉見し待ない。翻って耶倉が印度膏畢の研
断然一新時期を劃せしめた米国東洋協骨雑誌所載の﹁暫畢経典の年代﹂諭の出版時日を勘へ
それは明治四十三年である。耶窟の斯論は固よ♭今日では修正せらる可き諸斯を合んでゐる
従来単なる想像的立論に止ってゐた所謂六顕哲畢の経典成立に騙し、如何に之を科挙的に根
くべきかに就いて、一の方向指示を奥へた極めて重大な業蹟である。其の重要性は、蕩の論
表以後六仮の経典乃至畢派の成立に関して論及する老は、賛否の如何に係らす、一度は此の
に触れざるを得ぎる程であ♭、又革質誰もが必す之に開設し、之を出費鮎として論じてゐる
るに今木村博士の﹁六派哲畢﹂の出版を見ると、耶窟の斯論費表に遅れること五ケ年なるに
はらす、其の中に於て一箇所も之に論じ及ばれ無かったことは、讃者をして頗る奇異の戚を
しめすには措かない。之は塁に塞げた理由の外に、我が印度畢の黎明期が其の組織の範例を
として狗逸仙の﹁一般哲畢史﹂や馬易の研究、特に今の場合その﹁六派暫畢﹂に求めた眉で
らう叉木村博士の性格が其の畢夙に反映し、大綱を掴むに急にして、細則を捨て、腐られ無
ク∂き
た鰯でもめらう。之は博士論断の資料に大倍須要な畢行本は網羅せられてゐても、定期刊行物等
に螢表せられた重要な文献が多く逸せられてゐることからも知られる、併し所論の内容は必しも
漫の大少に依て鼎の軽重を問はる可き性質の物では無いから、耶窟の該論文を看過せられし如き
は、今日から考へても僻多少の遺憾が残らないでは無い。予が特に斯く言ふ所以は﹁出凍得る限
り内外尊者の研究の成績を参照﹂せられし中に、若し米国案洋協令妹誌に五年前螢表せられてゐ
た印度学研究の此の蔽薯な紀念塔が見落されてゐなかったならば、博士の﹁六派哲畢﹂の少くと
も畢派経典の
へしめたであらうといふことである。
博士は其の畢蹟から推して見ると﹁六派哲畢﹂を一樽期として、以後は彿敦の研究に向はれし
ものゝ如くである。併し必しも﹁六派﹂を全く放棄せられたのでは無く、後に至っても﹁教諭派
一
に於旦二徳の意義﹂を宗教研究琴一故に螢表せられ、更に最近には﹁稔伽終に及ばせる偶数の彰
響﹂︵大正十五年十月﹁思想﹂特輯戟=昭和五年﹁宗致畢論集﹂︶を世に問はれた。後者は恐らく博士
の六涯哲単に関する最後の研究で一のる。乃・で今此の諭を探って見ると、流石に此虞では上述耶蕩
の論文にも観れられ︵思想七七頁︶一大派哲畢﹂の足らざる所を禰はんと努めてゐられる。又﹁教
諭−稔伽思想の原形を沸教より肯しと考へて、迄に偶数は直接稔伽紅からで無いとしても、少く
木村博士号耶音芙爵
235
木村博士ミ耶古美音
三八
論し化際の言明によりても明である﹂星亨フてゐられる。博士が耶劣を訪問せられた時期は、略
ば大正十年前後かと思ふが、それは彼の﹁阿毘温磨の研究﹂の原稿を龍勒に於て整理せられし後
﹁かと想.像せられる。何れにもせよぎソは見畢的放行の程度で、長期の在留では無く、其庭で特に
或問塩を研錆せられたのではなからう。此の穿は其の後予が一年有年除ガンに於て殆ど隔日耶窟
に師承せるに開はらす、談一度も木村博士に切れられざれしことや、其の期間中僅に象の後任キ
ルフル教授が﹁木村氏は愉快な人物だ﹂の意を一同表詮せし事が博士に閲して予の聴き持し風聞
の殆ど全部なる
耶劣の議論も事真如何なる程度に行はれしや予は明に之を知らない。さて上引文中博士が援引せ
られた月沈原科畢協骨々報に、耶倉の論文が上梓せられたのは、明治二十九年に相督する。此の
論の要旨は、先づ始にガルペ氏制澤の﹁怜俵異質義月光﹂の序文を批評したもので、諭旨を八項
β3β
︵Die穿dlrietenderR・G声d・W訂㌣旭2G賢㌢ge−−︶字P⊥1ぎKl読汚−父岩]Re詩−︶私自身氏と詩
其の文に﹁近い所ではボンのヤコービ徽授もこの意見に傾いてゐろことは、文献上からしても
ナー、テーゼンドララーラ・ミトラに相次いで耶青菜窟も其の一人として馨げてゐられる。即ち
するものであるといふのは、近代に於る印度思想研究家の好んで主張した所である﹂とし、セー
もその先蕪思想から脱化したもので、稔伽経と沸教との間に類似鮎あるは、偶々右の澄明を提供
′
に争りそれに射し七項の反対意見と一項の賛成意見が並べてある。次いで倣敦の十二縁起がマハ
トブハーワァクに説かれた一種の教諭思想よト凍れることを諭吉せんと試られたものである。斯
くの如きは耶窟狗自の見鮎では無く、又偶数に対する蕩の造詣を提示する代表的な論文とも予は
考へないが、ともあれ、原始偶数の思想が所謂教諭幹伽の古形から影響を受けたといふ立論は、
現形の稔伽経が彿敷からの影響を合ひといふま張とは、夫々の成立年代一宮考慮に入れゝば、更に
矛盾する物で無いことは明白である。木村博士の所論は、高野に於て﹁参考書の鉄乏に苦みなが
ら、恵率に筆を﹂とられた点か、此の速の行文ど考察とは何となく十分に行き届いてゐないやう
に威せられる。
昨年耶劣はブロイセソ畢士院骨報に於て﹁原始稔伽設に就て﹂の一論文を費表せられたが、其
の内容には大村博士の前記の論文と交渉する所もあり、興味も多いから、次に此の鮎を略述して
見る。耶蕩の言ふ所では﹁我々にも、文一千年以前以凍印度人自身にも、ヨーガの根本作品とせ
られj物はバクソデヤリのヨーガスーツワァであり、それはヨーガブハーシュヤと共にバークン
デヤーフム・ヨーガシアースッワァムと耕せられてゐる物である。併し此の中では既に漁伽と教諭
とが完全に融合し、其の焉にヨーガシアースッワァは章後の題目に自身セナームクフヤプワァケ
チャナムと挿す左程に成ってゐる。それは教諭経の註梓家が、経をサームタフヤプワァプチナス
水村博士ミ耶青菜者
大村博士ミ耶有美薪
−ツワアと呼ぶのに等しい。その結果後世ではバクンデヤリのヨーガ詭を
四〇
嬰臥く萱壱S号kざp5
と耕し本務の何位望ri晋罵声尋S・から差別する。故に、人は.♪クンデヤリのヨーガシアースッワ
ァを教諭設の枠に入れられた.ヨーガだと考へる。言はゞ教諭の玲伽部門とする。斯かる見解に対
して次の如き革質が注意せられねばならない。即ちバクソデヤトは教諭教義を組織的に費逢せし
めたのでは無く、却ってそれを汲想し、ガルべが巧に衷詮した如く、喩伽に関する一切賓修の基
礎とする単に依って之女是認した着であるといふことである。原始稔伽詭は褐立のものであトノ、
教諭思想に掠る教義の詭明から全く区別せらる可きものである。稔伽の賓践に圃する一切、即ち
漁伽支クワイヤーヨーガ、及びそれより要諦せられる紳の崇斉に一りつては、此の串は直に明打で
ぁる
でゐたといふ挙が想像せられる。之を一々讃明するのが、本研究の自的であるL︵五入二−五入三
雄
無く理論の部門にも教諭教義と相容れ難き根本教義−教諭教義として論語し難き根本致義を食ん
言はれてゐる。故に、原始稔伽設では、単に賓蹟の部門のみが教諭に改造な事項であつた計りで
と言ってゐる。マハーブハー;クでも教諭と玲伽は同等の権利あ・れー言はゞ相括抗する暫撃と
って、稔伽は教諭と併耶せられてゐる。即ちカイトイルヤはF哲拳は教諭稔伽順位派の三を合む﹂
に億する一の宮畢薦系の内容としては、十分では無い。然も欝際暫畢傍系が始て敷へられるに普
′
頁︶とし、先づ之に関する資料諭をハ仏し、次に原始喩伽詭の二三の理論的根本観念に就いて論じ、
更に貰践的喩伽と原始喩伽の形而上撃とを論じて居られる。此の論文は耶蕩の他の−優秀へ与る論文
木村博士ミ耶有美募
屡々用ゐられ且っ玲伽疏一ノ一七に於て倶合諭に於る如く己一つgヂと結合して用ゐられてゐる二
諭二ノ二七ではヨ買p00訂rPは巴芸才コeつえ琶己一つgふであるが、稔伽経に於ても巳已一−﹃1一pは
をd扁pと同義語であるとしてゐるし、又沸教では識の封象をぎ︼−b書Pといふ術語で表し倶合
更に第二のクレージアなろd弓登を係数徒は多くpr註g訂と補するが稔伽疏二ノ八では此の語
し、p5.キ甲の説明に於て倶合諭中り四のま苫TyPyPと精確に一致する事が覆せられると注意し、
派に於て由憶を定義するに際して琶mpr昌○嘗の語を用ゐる両派以外でほ甚だ稀な用法であると
るが、先づ喩伽経及び稔伽疏に於る語法と有部の語法とが数々一致することを指摘し、例せば両
が如何に大であるかを澄明せんと努めてゐられる。即ち、之は前篇でも其の都度注意せられてゐ
最後に彿敦よりの影響を説く焉に特に一節を設.け、バクソデヤリが詭一切石部殊に世親に負ふ研
︷uる畢派の影響を受納して成立せしか、殊に者邪教の影響が如何に及びたるか等を力説したる後、
唯だ問題の関係する鮎に就いて〓与すれば、耶象は所謂ヨーガシアースッワァが如何に他の種々
して自ら畏敬はの念を禁じ難いものであるが、今此虞に之一ぜ一々紹介批評すべき場合では無い。
に於るが如く、貫凍群籍のもので、其の論旨に賛すると否とを問す、八十老窟の畢殖と狙勉に対
念ヲ9
木村博士亡耶青菜者
四二
ヽ と等を指摘してゐられる。更に窟は此の卦から出費して次の如く諭せられる。﹁他畢派の経に於て
は之と類似の事象は存しない。故に之はバクソデヤリ及び其の畢徒が世襲から剰踊したか若くは
其の逆であるかゞ問題と成る。而て此の際世親から剖解したことに何等疑は存しない。如何−虻
れば沸教の塾訂⋮呂・当会計は呑知的及び道徳的な一切の意識内容を、強ひて阜組織に分析せt折
るに至らしめた。嬰羅門暫畢には、比婆沙師−有部諭師に依て立てられし膏単に比肩する等侶な
●
るものは無論存せす、僅に類似するものすらも存せなかった。かるが故にバクソデヤク及び其の
徒は彼等の必要とするものを有部萩中に螢見したのである﹂と、稔伽派が其の.数理を傭敦よ♭借
用せし串を明白に断言してゐられる。煮いて倉は此の卦を他の方面から傍記し、進んで教諭に革
くバクソデヤリのn訂d鼻息宣ざ2琴ご首杏註といム訣は、本亦の稔伽故でも無く、叉其め
表現形式から考へて古き異質なる教諭設とも異り、・沸教の償型に従って構成せられしものならん
論の根本美音官学邑p里争訂ry?邑竿を激怒するが、此の過去牒兼務も無に非すして有な
りといふ因中有果諭は、三世賓有をま張する
漁師の詭空々列馨し、且つ之を確攣三馬に、之に封應する稔伽派の庭草ピそれぞれ引無して
ゐれる。
gjり
と言ひ。更に﹁剃邦﹂に関する彿数と稔伽況の託との閻係を論じ、最後に﹁樽瑳﹂由に入り、政
■
執って木村博士の﹁稔伽経に及ばせる沸教の影響﹂を見ると、此庭で予は窟と博士の所論を詳
細に捗って兇校論評するを好まないし、又其の除白も無いが、自然の結果として、博士は深澤所
侍の冷凍をまとして諭せられ、蕩は専ら梵文資料に破って立論せられし鮎に、両氏の特色は顕著
なんぴ−−
に現れてゐる。現今のヨーガシアースッワァが偶数特に阿毘達磨偶数から影響せられたといふ結
論は、両氏が共に一致してま張せられる所であ丁り、且つ此の鮎は何人が研究しでも、若し今日使
用し得る資料を公卒に取扱ふなれば、曹然の結果を成すペき鮎と考へられる。唯だ特に典痍ある
一致は、両氏が嬰沙及び倶合から法救妙音世友魔天の四裔師の寧竺々翻詳して列馨し、所論の
根撼とせられし鮎でぁる。博士は稔伽泥の思想が沸教の影響した貼は多くの人が述べてゐるが、
稔伽泥が傭赦の影響を受けたといふ意見をま張した人は未だ多く見出されぬとし﹁是等の説に賛
成し得ぬ﹂と諭せられてゐるが、之は前述の如く若し問題空一に裁別して考ふるならば、自ら解
ヽ
答に導く可う課題でケQと信する。而て愛に予が一言明にして置き度い鮎は、上記の所説から見
て、耶窟が決して現今のヨーガシアースッワァを偶数より影響せられぎる物と見ざるのみならす
却って多大の支配を受けたとせられる鮎でぁる。大村博士の論文では、此の卦が明にせられてゐ
ないし、却って窟は﹁偶数は直接稔伽経でないとしても少くもその先騙思想から脱化したもので
ヽヽヽヽヽヽ
稔伽軽と沸教との問に類似鮎あるは偶々右の澄明を提供するものである﹂となす代表者の一人と
大村博士阜耶古突爵
熟り
木村博士ミ耶青菜貧
四四
せられてゐを程である。然し串賓耶窟は既に肯く上引米国東洋畢鞍の中にも明にバクンデヤリが
偶数から影響せられたと断言してゐる。而て此の鮎は今回のブロイセソ畢報に於て一層椎茸王室
張せられ且つそれに封する根接が附興せられた謬である。如⋮諭耶窟の今岡の論文は木村博士の所
論以後であ∵ヮ、従って窟が古く之に論及したのを博士が無視せられたとしても、予は決して之一で
雑すべき程度の重要事項と考へる着では無いが、唯だ木村博士の所論の如きは長逝後に於ても荷
我が畢界を感化するカが成大であると信するから、此の横倉に最近の所説に従って耶易の眉に諌
め誤解の生せさらむこと一で希念するに止る。巷間侍ふる所に依れば、博士はがソに於て、此の問
題に関して耶劣と論戦せられ、大に爵を楼せられたといふ。具備は不明だが、若し今岡の窟の論
旨が多少にても博士の論破に負ふ所あゎとせば、吾人の輿眈ほ鮮しとしない。
最後に耶蕩も其の著を重要定研究として援引してゐられるスチャメッキ一教授と木村博士の関
係の一端を附言して此の小論を終り度い。既述の如く、博士は玲伽に関する最近の論文に於て、
喩伽派が沸教の影響を受けたとま亜する畢者ほ、徒凍極めて寧でぁるとし、殊に稔伽派が布部か
ら影響せられし鮎をカ詭せられ﹁特に三世賓諭に就いていふならば1この間題が未だ何人も諭せ
ぬ所であるけれども﹂と迄言うてゐられる。然るに博士の所論に先んすること三年、スチャメッキ
一教授は其の著﹁偶数の中心観念﹂で此の粘に簡れ、倍俵稔伽と沸教との交渉を種々に論究し、
2Jβ
其の結論として﹁後期では説一切石部の諭師は疑も無く帰任喩伽詭の構成に多大の影響を輿へた﹂
るであらう。吾人は敢て洋の東西を離れて所詮の前壊に一二年の蓬庭があつても、左程重大視す
得て成立したとすれば、博士の主張は﹁何人も諭せぬ﹂前人未踏の境地を開拓せられしことに成
ある﹂と附記してゐる。此虞に言ふ木村教授ほ勿論木村博士で、若しス氏の結論が博士の支持を
た。そしてブーケソ氏の侍ふる所では、日本の木村教授も殉立に同一の結論に達したとのことで
すを許さない。⋮⋮・・⋮⋮・・ブーケソ教授は此の問題に関する氏の研究一ど手葛のま∼予に貸典せられ
セ託との間に於ける類似鮎は厘倒的に多数である。従って阿毘達磨の研究者をして、此の粘着過
と述べてゐる。而て臭味ぁることに、其の脚注に﹁彿致と帰任稔伽特に稔伽経及び其の兢に現れ
鳥は
るに替るとは考へないが、東西の大家が期せずして同一結論に到達せられし所に、成典の深いも
のがぁるではないか。
木村博士と耶青菜倉とは、共に予の師事した先生である。博士は予の大挙在卒中に海外へ留畢
せられ、締朝せられて間も無く予は東京を離れ、其の後遺域にも直接示教を仰ぐ横合を得なかつ
ヽヽヽ
た。従って個人的戚化は寧ろ耶窟に負ふ所が比較的大である。併し所謂﹁印度膏畢史概説﹂の手
木村博士キ耶青菜音
ほどきを受けたのは正しく木村先生であ∵り、それ以後も間接には先生の畢風に刺戟せれた鮎が深
ヽ
大村博士ミ耶甘美幕
讐ハ
大である。今﹁木村先生の畢風に関する﹂所戚を編輯者に求められ、筆に任せて素懐の一億を審
き連ねた或は筆端誤って先生の畢風を賞揚する意に反する鮎に観れたるもの無きやを畏れる。雑
然、所論の封象とせる﹁六顕哲畢﹂は、既に言へるが如く、我が印度畢研究史の古典であ丁り、之
に多少の囁庇ありとするも決して先生の偉大を現する憶のものでは無い。先生易筆の後畢界を展
望し、今夏に﹁互屋地に隕つ﹂の戚深きものがある。殊に耶湯が入十の老齢今日何重環として斯
0
く優秀なる研究を陸橋費表し、畢徒を稗金せられるに比較し、先生の早世は無限の痛惜に耐えハふ
しヽ
︵六月一日先生逝去り後藤十六日、仙妻に於て草す︶
β4皇
私の接髄した木村泰賢君
私の接牌、し七大村春賢君
鈴
木
宗
忠
,
り、助教授となつた。外面から見ると君の単著としての生活は、坦々たるものであつたが、内面
る。君は明治四十二年大草を優等で卒業せられ・、由もなく特選給費生となつ化。次いで講師とな
を引いて、堂々と論じてあつたやうに記憶する。君の畢風は、既にこの時にも現れて居たのでぁ
ぅに思ふが、文献の上から、コツくやると云ふ風でなく、思想を中心とし、カントの暫畢な㌢
で、私はその中に在るドイツ語の誤を正してやつたことなどがある。蒐は稔伽の研究であつたや
しくなつたやうに思ふ。その頃であらう、君が卒業論文を書かれたときに、私に見せてくれたの
られた頗檀寮へは、宇井君との関係から、私は屡々出入して居たが、その焉に、君とも可なり親
じたのか、又は宇井伯寺君に依って起ったのか、はつ1ビLリした記憶はない。其後君の止宿して居
と記憶するから、多分明治三十九年か四十年のことであつたらう。それが早軌悪書君を介して生
らぬとは、何と云ふ悲しいことであらうか。私が君と相識るやうになつたのは、私の大畢在畢中
宗教研究が木村君の薦めに追悼扶を出し、君の畢友の一人として、私もこれに筆を執らねばな
β4β
私の楳偶L王水柑泰賢君
又ら
煩う
悶し
も、
あつたのであらう。
に立ち入って見たならば、色々苦心したことでもあ
この間十年、君と私とは、相普に親しくして居たと思ふが、内面的に接触しては居なかつ
第一、畢問に封する態度が蓮ふ。君は草間に対して自信に満ち′1て居た、寧ろ楽天的である。
或は内心はそうでなかったかも知れぬが、友人からはそう云ふ夙に思はれた。然るに私は大
観論者である。畢生時代に、既に哲畢に信仰を失って居たのみならす、持前科挙にも、希望
なぐことが出水なかった。ポシチダイストでぁつた。心理畢を修めようと思った。それが或
−
縁で、梵語を畢び、遂に宗教畢科を出た。梵語を畢び、沸教を研究でもしようとするものは
路印度膏畢へ行くべきであるが、私ほ檜ほ膏畢をやらうと云ふ気もあり、場合に依っては、赴曾
畢へでも飛び出さうと云ヰ軍嬰気があつたから、宗教単に足を止めたのである。けれども宗
に落ち着くことは出水なかった。尤も大正になつて、ドイツ西南華族を知㌔漸く暫畢に希望
光を認め、宗教青草に多少安住の境地を拓いたが、それでも到底木村君のやうな元気はなか
た。これが私の君と内面的に接嘲し得られなかった第一の事情であつたらうと思ふe第二に、申
開の方向が蓮ふ。君は専ら外道哲学を研究し、私は初の中は彿数を研究した。そして相接鯛
のは梵語である。けれども梵語畢習に封する壌度が蓮ふ。君は何産までも思想が中心で、語
しての梵語には、大した興味はない。私は思想に失望して、梵語に逃路を求めたやうな形で
息拍
ったから、一時は純粋に梵語畢者とならうと云ふ気持も動いたことがあつた℃何時であつたか、
木村君上このことで、少しは鶉冷めいた談話をしたことがあつたやうに記憶する。
私の姥蜘L主元村泰貴君
は研究が既に外の方へ向つて居たので、除卜好まだいやうでもあつたから、此畢は貰現しなかつ
ったからである。高桶先生にも話し、木村宕にも許しセ。先生は賛成せられたが、木村君は共時
と考へたこともある。これは印度膏畢界の焉めにも、木村君の虐めにも、尊いことであらうと思
木村君が訂正すべきものがあるとしたならば、これを再版以後に於て、訂正されるやうにしよう
一
て、同単二三者骨合し、著者木村君にも出て茸ひ、座談批評骨と云ふやうなものを開き、其結果
れば、該者t就いて批評の筆を執った記憶もない。﹁印度六派哲畢﹂が出たときに、宇井君と話し
な風であつた。如何いふ謬でぁつたか、其後このことに就き、木村君に直接注意した記憶もなけ
った。先生は笑って居たやうであつたが、苫田君はそんな区別が出水るかと言って、不思議さう
・此云ふことはないが、木村君責任の部分に就いては、同君の拳闘の食めに、大に申分があると言
ときに、苫田君と先生宅で落合ったことがある。其際に私ほ該著の先生責任の部分に就いては彼
たが、同君は叉木村君とも親しかった。木村君が高柄先生七共著で、﹁印度背畢崇敬卑﹂を出した
た。それは字非君を通じてゞふツり、苫田君を通じてゞあつた。故富田修夫君は、私の親友であつ
かやうな謬で、木村君と私は、内面的直接には接嘲しなかつたが、間接には多少の接触があつ
β47
私の珪崩・し右h木村奉賛君
五〇
たと記憶する。君と私との間接的接鯛は、こんなことで、私が君の鰯にいらぬ心配をして居る間
に畢者としての君の名望は垂ら、蓬に大家となり、押しも押されもせぬ印度哲畢界の権威となつ
てしまつた。かくしての君と私との交友十年は過ぎた。
△
大正も空ハ年を過ぎてからは、木村君と私との閲係も襲って泰た。君の草間に射する自信の程
は、前にも埠して更に強くなつたであらうが、其研究の範囲は次第に襲って衆た。外道哲畢から
一
︳
沸教になつた。私もドイツ西南畢次の膏畢に希望をつないでから、暫くはカーントの宗教膏畢など
を研究したが、此間に沸教研究に立ち戻らうとする心持は、可打アり動いて居た。こゝに君と私と
の内面的接鯛が始まるのである。徒亦は、草間に射する自信の鮎に於ても、その研究範囲に於て
も、君と私とは、内面的には、殆ど関係はないと云っても可いのであるが、今は事情が摩って亦
た。固より拳問に射する自信に関しては、私ほ到底君の足許にも寄れないのであるが、研究範囲
の鮎では大分接近して凍たのである。
けれども偶数の根本義に関しては、君と私との問には、非常に懸隔がぁつた。私は沸教の根本
義は徹底した理想ま義であると見て居た。今も狙ほ大憶に於てさやうに見て居る。カントが西洋
の思想界に於てハ与した事業を、傭陀は印度の思想界に於て、よ・り徹底的に壮途げたと見るのであ
2J∂
ろ。木村君は、どうもそうではないやうに思はれる。君は、根本義に於ては、沸教ほクバニシャ
ツトを櫨承したものと見て居るやうである。尤も君も私と面接して話した朗では、偶数は心CittO
見川
私の楼牌L七大村泰貴君
にかゝることがあるので、私は宇井君とも話をし、高楠先生とも相談して、原稿を一讃し︰思ふ
木村君が傭敢研究の最初の業槙として、﹁阿毘達磨諭の研究﹂を出さうとしたとき、何となく先
就いてほ、日本の印度暫畢界、偶数畢界の虐めに、蔭ながら心配して凍た一人である。
ては苦むだけである。然し自身にはこれと云ふ程の仕事はしないけれども、私は木村君の畢問に
者の批判を備っ所までには到らない。.二六時中、傭数研究に閲し、彼を考へては憎み、此を早㌢
講義に述べた♭、時々小論文を書く位の程度に止まつて居る。まだ纏まつた著述として、此道草
る。どん′1立派な業績を寒けて居られる。私も多少は研究して居るつもりでぁるけれども、唯
決して私はそんな不遜な考を持って居るものではない。君は彿敢畢者として日本畢界の権威であ
かやうに云ふと、人は私が彿致畢者としての君と同等の位置を要求して居ると思ふかも知れぬ
るまでには、可捏アりの距離がぁつたやうに思ふ。
して、近頃は除程襲って水化やうだし、私も大に動揺して凍たけれども、どうもビックリと合す
形而上畢的賓在諭ではなかったかと思ふ。それは具如に対する考一管見ても到る。君もこの鮎に関
を中心とするものであると云ふし、又書物に書いても居る。然し君の悌致軌の基調をなすものは
′
私の津野し㍗水村秦賢君
五二
仔細を述べて、私とは同年同月同日生と云ふ不思議な実線を有する親友長井眞琴君に致し、.同君
をして、同君の個人的意見として、昔時在外研究中の木村君に侍へて頂いたことがぁる。この間
の滑息は、該書の﹁公刊に際して追記﹂を見れば、多少は判るのでぁる。幾年かの後に、木村君
とこのことを話して、大に笑ったことのあるのを、今狩ほ昨の如くに壁ゆるのでぁる。
私は前に﹁印度六派哲畢﹂のことを述べたときにも、字井君を引合に出し、今又﹁阿児達磨諭
の研究﹂にも、同君を引合に出した。字井君は迷惑を成するかも知れぬけれども、序に少し述べ
さして頂き佗い。木村君と字井君とは、誠に日本の印度暫畢界の双璧でぁる。木村君のやり方に
ほた は、天馬垂を行くの概があるが、宇井君には水も洩らさぬ周到さがある。木村君は傍で見て
︰とはら′∼するやうな危ない所はあるが、然し人をして春風に浴せしめるの戚がする。字井君は
何廃を捜しても嘘を蓉見することは出家ないが、聞いて居ては、何となく摩しっけられるやうな
束づょりさがある。私は固より悌敦畢者としての品格に於ては、両君の足許にも寄♭附けないも
のではあるが、両君の畢問、特に其偶数研究を理解する鮎に於ては、さ程に人後には落ちないつ
もりである∵﹂んなことを云ふと、定中の木村君も定めて微苦笑して居られるだらうが、夜も様
に眠れないで勉強ばか♭して居られる字井君の耳に開へると、亦同様な結果を生するでもあらう
許は前へ戻る。﹁阿見達磨諭の研究﹂は、木村君自身としては、太した骨を折ったものではない
黒沼
と言はれたが、同君の研究としては、誠に無難なものであ∵り、創見に満ちたものでらる。私は該
私の連綿L㍗木村奉賛君
れ程でもないが、多くの方面に関係するのは、一は私の従事する宗教畢の性質にも因るのであろ
降参した。然し私の側から蹄逢すると、しかく腋はれるやうに、事賓は後にも逓ペろやうに、そ
に赴骨単にも気がある。こんなことでは何も出凍なくなるではないか。Lこの謹告には、私も全く
まで手を延して居る。草間としては、東洋の係数をやるかと思へば、西洋の曹畢もやり、おまけ
た。﹁一億君は近世語としては英狗俳をやら、青い語としては、梵語、巴利語、それに希臓語に
仕事が多いので、其畢習に取り掛ることは決し兼ねると云ひ、そこを切つかけに私に逆襲して凍
としても大に注意して居るが、・第一の鮎に関しては、西裁語の必要は無論認めて居るけれども、
・・その畢問が非常に妨げられることを警告したものであ・る。君はこれに封して、第二の鮎は、自身
待たではないかなど∼も述べた。二は君が除りに世間の人気があるから、これに注意しないと、
あることを説き、現に該書に在る﹁施設足諭の考澄﹂の如きも、その智識があれば、邁に便宜を
憶して居る。一は君に両親語の畢習を勧めたことである。今後の沸教研究には、商務語が必要で
ったと思ふ。何を云って寄越したか、その委細のことは忘れたが、二つのことだけは、今でも記
色々と君に云って寄越しセ。草間上のことで、私が直接に君と接触したのは、これが始めてゞあ
書を携へて、大正十一年末海外研究の途に上ったが、船の中で之を謹み、目的地に着いてから、
25J
私の接腕tし七大村寮費君
五日
それは宗教哲畢として、哲孝一般に関係し、宗教史として、沸教にも関係し、基督故にも関係す
る。私が梵語や巴利語を畢び、希臓語までかぢるのは、それが薦めである。宗教畢は又宗教政曾
畢など∼して、政令嬰にも関係する。こんな評で、私は色々行方面に手を出し過ぎて居ると思は
れるのでぁるが、然し事賓としては、.それ程では決してない。私の特に関心を有し、カを注いで
居るのは、係数と敢曾哲畢である。そしてこの二も、別のことでほなくして、私の思想僚系に於
ては、全く一となつて居るつもりである。昨年十月政令拳骨大骨に於て、私成﹁政令理想として
の菩薩思想﹂と過して一場の講演暫したことがあるが、それは大まかではあるが、私の計喜の素
描でぁる。木村宕も近年偶数の立場から政令思想を批判して居たやうであつたが、行き方は興る
にしても、英日指す所は、私と同じことを考ハて居たのではへ甘かった一らうか。
△
大正十三年蹄朝後に、私は君の﹁原始偶数思想諭﹂な貰った。君が六派背邸の研究七了へて彿
致研究に移ったのは、可打アり前のことであつたが、共成果を纏めたのは本書が始めてゞある。尤
も君の沸教研究は、原始沸教と同時と小乗偶数にも手を着けた。否寧ろ適皆に云へば君の沸教研
究は、小乗彿敷から始めたのであらう。君は夙に倶合諭を研究し、これに関して講義もしたし共
和謬も完成した。偶数研究は、古い研究では大抵倶合諭から始めたものであるが、新しい研究で
β.クβ
も、矢張り同様の造を取らねばならぬと思ふ。小乗俳数の研究は無論のこと、原始彿致研究でも
そうであるが、大乗沸教研究でも同様に倶合諭から這入ることが必要でぁる。このことは常に私
が後進に説く所であ・るが、私自身にも成るべくそう云ふ夙にして居るつもりでぁる。木村君にこ
の用意とこの素養とがあつたればこそ、君の原始沸教研究が一段の光輝を添へたわけであると思
ふ。君の﹁原始沸教思想諭﹂は君も云って居る如く、妨帖先生の研究に負ふ研が多く、又其結果
に於ても先生と同一方向を取って居るやうでぁるが、然し君の研究に一段の優れた所のあるの
は、一は倶合諭に関する君の素養に基くのでぁらうと考へる。林崎先生が原始偶数研究の歴史に
多大の功績を残したことは何人も認める所であるが、同様に君の功績も亦認めなければならぬ。
木村君の小乗研究、阿毘達磨の研究は、君の沸教研究では、最初に着手せられたものであらう
と思ふが、それと同時に、確にそれは最後までも徒事せられたものであつた。六涯哲畢の研究は
君は一光づ切り上げたやうである。原始沸教の研窄ぺ亦同様であつたと云つてよからう。然し
阿見達磨の研究に至っては、君はなかrl切り上げることはしなかった。このことは君が逝去の
数日前、宗教畢大骨の講演に於て、部派件数の教義の定め方は、カターゲッツを標準にしぃ㌧けれ
ばならぬとはま張したのでも判るのである。賓に君は阿見達磨の研究に終始した。尤も此間に在
って、大乗沸教の研究には、君は可なり・に歩を進められたやうである。殊に大乗経典は、色々と
私の接細・し十大村泰賢君
三好3
私の接畑Lた大村春野君
五六
研究せられたやうに思はれる。けれども君町彿敦研究の中心は、小乗沸教、部族偶数、阿毘達磨
偶数であつたと云つてよからう。これは勿論研究封象の性質にむ基くのであつたらうが、一は君
′・
の研升目的にも困るのでは甘からうか。
木村君の偶数研究
を組織することであつた、組持沸教畢を雑役すろことであつた。このことは君の書物にも現はれ
君の談話にも現はれた。君と私との関係から云ふと、私は君との往復信書に於て、度々これを閃
.−
塩にした ものである。このことは確に君の研究をして熟あらしめた所以であつたと思ふ。君が世
間一敗に入来があ㌔彿敦界にもてはやされたのは、固より君の玲囁玉の如き人格と豊富な畢殖
′′
とに基いたのであるけれども、ヌーにはこ打率飼の傾向に困ったのでほなからうか。この傾向は、
或を億塊に於ては、君の畢問の長所ではあるけれども、私は君の草間の食めに、蔭ながら危倶の
念を抱いて居たのである。↑′/
私は﹁原始彿数思想諭﹂を蕎過して、君に.その威想巻舌き逢った。常時私ほ畢問諭に傾倒して
居たので、彿政所究l二間しでは、唯計喜のみを於いて居たのであるが、然し多少その目鼻の附い
た
./
′ 二に亜きて居た。一は沸教の根本義に開すむ牒の▼で、君はこれを多少賓在諭的形上畢的に見
β∂婁
′
/
るが、私は全然理想ま義と解する。従って君は大健に於て、原始彿数はクバエンヤソトを撥
小乗彿数も、大乗彿敢も、根本義に於ては、二貫したもの∼存すると見て居るやうである。然し
私の接鵬L東泉村春賀君
− 教習拳は、哲畢の一部門でぁつて、暫聾者の研究して居る所である。軸畢老も徒凍の組織細筆ピ
′
る。勿論宗致哲垂は、其粗野を尋ねると、義教哲畢から出たものでぁる。けれども今日では
とは同一では雪いぺ西洋の串界に類例を求め宣と、君のは組織醐畢であり、私のは宗教哲畢
沸教研究と君の所謂組織沸教畢とは接嘲するのである。然し君の組織沸教撃と私の大乗沸教
考へるのでぁる。技にぢつて沸教戯究は究虜的なものとなると胤は考へるのでぁるが、技に
哲孝史として偶数哲畢史を研究する上に、一沸教哲垂、樽に大乗偶数哲学ざ宗教哲畢の億系
偶数七基礎にして宗教畢を建設する所まで行かねばならぬ。次に宗教哲畢の上から見ると、
教学の上から見ると、先つ宗教史として俳敦史を研究するのでぁるが、単にこれに止まらな
織偶数畢に接偶する卦はある。私は宗教学及び宗教膏畢の上から彿敦研究をなすものである
+ 畢を建てようとする。私は■宣には賛成することは出水ない。尤も私の彿敦研究も、君の所謂組
′
君は基督敬神畢に倣って、沸教紳畢を建てようとする、即ち基督教組臓醐畢に倣って、組織
更に大乗傭敦は小乗沸教を樽換したものと見るのである。二は沸教研究の目的に閲するもの
私はこれには反射する。原始沸教は、クバニシャツトを換博し、小乗沸教は原始沸教を特換
21道
私の疲甲し㍗木村奉賛君
五八
宗敦哲撃として建てようとして居る。尤も事賓に於ては、徒寒山ま∼の組織紳畢も存するが、そ
れは奥の意暁の畢問としての存在樺を有するや否やほ疑問でぁると云はねばならね。木村君
督敦の組織紳畢を讃み、それ一ぎ大に珍重がって、係数畢もさう云ふ風に組織しなければな
言って居たが、私はそれは時勢後れの意見であつたと思ふ。我が国の帝国大草に於ても、初
科大挙を置くときに、西洋と同様に、紳革も入れようと云ふ着古あつたとのことでぁるが、
は行はれることなく、偶数研究は、一方に於て、印度哲畢として存在し、他方に於て、︰ふ
して有償することになったのでぁる。勿論これには我観の帝国大草が、紳畢を除去したフラ
の制度に基いたと云ふこともあるであらうが、拳闘論の上から考へても、正しいことである
サる。然るに今日の静観大草に於て、印度哲単科の中で、基督数紳畢に類例するやうな係数
を研究しょぅとするのは甚だ襲なこと∼思ふのである。
かやうに沸教研究に関しては私は君と意見を異にして居たが、これは君は印度暫畢の立場に
ち、私は宗教畢の立場に立つと云ム立場の相違にも由るのであらう。然し私は君と意見を異
るからと云って、それが虐めに俳敦研究に射す笥君の努力と業績とを少しも低く見る如きこ
ない。君の沸教単音としての位置は放として盤石にも等しいものがある。但だ私は今の私の
した木村君を措くに普って、自己の胸臆を隠す併なく鼓陳して君を偲ぶのよすがとするので
2∬
巴利論戒の研究に就いて
長
井
眞
木村博士の死は我が印度畢界や彿散々囲にごりて一大楓失でわ・の、同君が賂東大成dんミ︺つゝぁり、し阿昆虫︵論︶
の研究もその中途にJて止ケし︰ミも=の上も克く迂憾lこ存すろ次第でぁる、巴利詮蔵の方面から同君の夢術上の
功按わ偲びて=の一小文を躯前に捧げる。
琴
我が畢界に於ては巴利三波中経梓の二蕨は過去二十有年に亘って先度同僚によつて殆んど開拓
し亜されたといつても過言でなからう。されど諭充に至ってはその研究が木村博士の死によつて
二、≦・bll邑gp
一、芦㌢m匡首ni
︵SPm呂t甚計註i訂︶
三、陀兜迦他
二、毘崩伽
一、法借伽
︵書見梓毘婆沙︶
一、人施設諭
二、界説諭
四、分別諭
三、法教諭
︵印度傭敢文畢史︶
三、D︼︼誓uk邑l㌢
六、逼伽羅扮邪推
巴利昔蔵の研究に就いて
四、句ugg已葛PP㌢tti
る、即ち
一時中止されてしまつたことは残念である。巴利諭蔵︵Abhidll昌m冒piすkp︶は次の七諭より成
かβ7
五、只邑h晋註︼⋮
四、耶摩迦
七、迦地政倫
五、螢趣諭
六、聾封諭
七、諭
巴利諺蔵の研究に就いて
六、YPmpkp
五、鉢・叉
事
七、︸︶風音ぎP
の七諭である。此等七諭の巴利原典は巴制空典協曾︵訝︼iTe注ぎiety︶の事業の一部として校訂
出版された。次のやうな順序で、
せ訂日日琵§撃nl
句ug習−pp鼓ぎtti
Ar−10︼d C・TPylOr 一八九四年︵明治二十七牛Y一入九五年︵明冶二十八年︶
E.R.G昌ロer邑ne
Ed召弓d︰買已ler
Ricll弓dせ︷弓ri切
一八九二年︵明治二十五年︶
一八八五年︵明治十八年︶
一八八三年︵明冶十六年︶
︵西暦紀元︶
せ’ptど貯p多抑
已声R︼一y00DP5.ds 一九〇四年︵明治三十七牛︶
︵校訂者︶
KptF抑くpttl岩
一九〇六年︵明治三十九年︶−一九二三年︵大正十二年︶
︵原 典︶
つib訂阜習
已rm
一九︼一年︵明治四十四年︶トニ九一三年︵大正二年︶
R首00せP5.ds
増Pt什F騨np
買r仏Rl−篭DP5.計
Ypmp打p
かく論薮原典の校訂出版に就いてはリスブギズ夫人の功橿偉大なるものがある、何ほ夫人は
P畳訂nP及びPl・gg一号詳ttiの註滞をも他と共に校訂出版してゐる。研究的都澤事業としては
2占β
リスデギス夫人によつて︼ハ邑・孝註hゴのへP¢i妄Orつ○已rOくe尋、と望・琶呂宣誓意登liのへAP云−1i乳
ペきものには、
︵原 典︶
巴制論蔵¢研究に就いて
づ.Hrenckner
害rP
︵西暦紀元︶
一九二〇年︵大正九年︶−1九三年︵大正十年︶
一八八〇年︵明治十三年︶
R︼一篭DP5.d∽
我国に於ては、高桶先生は一九〇五年︵明治三十人年︶巴制空典協骨の紀要に於てへ○−ニーーeAb宇
がもはや出版されたるや否や。
ユって貞一つH㌔ヒ・〇1冒rity、として英謬せられ、属官−邑i−○打pは久しく之が鋼帯事業に徒事したる
句・¢雷哲’r註er一部を燭辞し、訂11訂句inO七生部を彿辞す。≦00lldd︼一i・m品gpはP●試岩l一gゴn
聖書︵SBE︶の第三十五巷と第三十六巷との二衝に収められ、旦笠旨鼓︼○訂師の猶詳あら、又、
呂−i−1d蔓邑−○は故りそ7ギス教授によつて英辞されて貞1!タ1e邑○宏○︻舞ing呂−indp、は東方
︹遺尿皇室出版の52dd−一i・巨品gpもあト︺
﹂コ2ddbitmP的雪
︹追尾皇室出版の已i已占邑h封もぁり︺
已i−i己pp邑︼−○
︵校訂者︶
によつて冒ggiLM一七P崇註iの卓1㌣甲乙1dcr︵ぎ萱巨ere∴かある。飼は諭蔵外にぁつて諭寂に属す
呂昌2−−er−︺埼C︼−Cl邑邑Et−1−i窃︵C旨ぢ冨di音︸CrS一声訂Or芦en呂ell旦とがあり、笥y郵l已i−Ck芦
忠相
巴利論蔵の研究に就いて
dF乾2芦E︷cr已ureC︻已1C
六二
Sllr急告く鼓i亡乳﹁説一切有部の阿毘曇文単に就きてLを公にして蓉智諭、
六足諭︵集典門足静・法澄足諭・施設足諭・誠身足諭・品類足諭・界身足諭︶等の改一切布部波の論蕨
に就いて委曲論説され、更に臥年皇立亜細亜協曾の紀要に於て、別諭として右の有部七論と巴利
七諭との関係に就いて略説せられたりといふ、この別諭は金未だ之を笥むの横合を得ない。大正
二年︵西紀一九一三年︶十二月より大正三年八月に亘って、椎尾博士は﹁六足諭の教達﹂といふを
﹁宗教界﹂に公にされ、布部七論を已利七諭に擬するよhソヰb、阿育王時代に成立した六已F晋註−1u
と本論との関係を論じ、更に
を除いてそれ以前に成立してゐた六諭と六足とを比較する方が更に近いと述べられ、巴利六諭の■
成立や、集典門足論の成立を論述するに雷ってH︸−1gg已遥邑Pヒ巨i
巴利許厨iti経との関係を論じ、法鹿足諭の成立や、これと舎利弗阿毘曇との関係を論じ、更に
舎利弗阿毘曇は巴利六諭︵七諭中R邑−ぎ註huを除ける︶一ピ打って一囲とせるものなるべしと論
じ、初めて南北両論の関係が明瞭にされた博士の穿を多とすべきである。
木村博士は大正十一年十一月﹁阿見達磨諭の研究﹂を公にした、同書は印刷の附せられる時、余
は宮坂文率土と共に校正の任に督ったことであつたが、この研究は大正八年より大正九年共闘留
畢中に弾めたもの
であらうと思はれる。博士は大正十一年夏蹄朝して、推尾博士の六足諭の研究を見たいが手に入
三好〃
らないかと余に相談を持ちかけられたので余は小野玄妙君を煩して、同論文所載の﹁宗教界﹂︵四
斬︶を手に入れて木村宕に提供したことであつた、同書の七十四、七十五頁にある﹁印刷に際して
居られた、これは過去七八年間の研究結果と考へられる。
巴利静寂の研究lこ就いて
くi笠ddl−i.
]2怒号ぢ鼓㌢t︻山
六三
との関
けて講じてゐられたやぅでJのるが、阿毘達磨を研究するに就いてその資料を次のやうに整画して
戒の研究に数歩を進めたものであると思ふ。その後同君は帝国大草に於て阿毘達磨哲学を毎年療
係に就いてあれだけ詳細な比較研究を遂げられた鮎は大いに多とすべきであつて、これは巴利諭
然し木村君は猫立に研究を進めながら舎利弗阿毘曇論とくibF邑g∼1及び
に公にされし稚児博士のかの有益な論文が木村君に知られてゐなかったことが残念に思はれる。
戟とハ与つて⋮・⋮﹂とぁる一ぜ見るにつけても、金のかやうだ拙い小論文の蓉表される五、六年以前
漢詳解腹道諭との関係の如きほ、たとへ直接の助にはへ仏らなかったとした所で、少くも多大の刹
見え、同書の七十一頁に﹁殊に畢友長井文畢士の駿東した、巴別の清浄追給︵くi㌢dd−1i圭品g芦︶と
≡盛pとの比較研究を公にした。この小論文が南北諭部の関係に就いて暗示するところぁつたL
金が大正八年膏畢准誌に、同年︵西紀一九一九年︶巴利聖典協曾の紀要に解脱温諭と
究論文を作成するに雷って、除程の努が省けてしかもモット大なろ結果が得られたことヽ信する。
追記﹂はその結果である。木村君はその留学以前に推尾博士の論文を読んで居ったならばこの研
三好J
何 先
1 南
書
方
所
巴利冷蔵の研究lこ就いて
願
所
侍
侍
己已新二岩d C乙lP・甥idd︵彗
七 種
部
︵
二
︶
﹂コ讐dd11i−ゴ品gp
Y已ゴpkP
P長g已遥p試已ti
.≦bl一邑gp
P息ぎmb︼−id副・m品gp
(六)(四)(二)
本 諭
D︼−写︼ヨ琵琶g2已
せ︼一賢一l粁pt︼一関
勺pぎh巴︼p
K邑ll芦lくPttlll一
本 論 七
種
先 駆 書︵?︶
Ⅱ 布
︶
三 望昌m−ピ民声忍乙一2
︵
≡−1d蔓寧p
M 集成又は綱要昏
(七)(五)(三)(一)
集異門足諭一
262
(b)
(一)(b)(8)
費 品 界 識 施 法
類 身 身 設 麓
︵
諭
論
諭
諭
阿毘達磨倶合諭
論
順正理論、顔宗論
Ⅲ 其他北
賓
舎利弗阿見曇論
成
立世阿尾登論
巴利繭戴の研究に就いて
放
道
︰石戸F抑<監︷声
解
(六)(四)(二)
三爾底部諭
コ 法勝作阿毘垂心論、補阿見曇心諭経、阿毘童心論
論︵宮入軽度論︶
第二期︵?︶
諭一初期
ソ
足 足 足 足 足
一
大毘嬰沙諭
︵
︶
集成及び綱要書
(七)(六)(五)(四)(三)(二)
(五)(三)(一)
諭
2β3
巴利論敵の研究に就いて
六六
には非常に興味を持ち、協同して青んで見ようと折々促されたこ
︵以上木村博士よ旦不された刷物に墟る︶
木村博士は52dd宇m品gp
ともあつた。昭和二年七月十四日錫蘭出百計喜du名声人はる甥yぎ註lO︼ハP師より金に書を寄せて≦芋
d≧1Tm品gPに∴≡−pmmPp巴2なるもの∼ゴk掛︵註梓︶あることを知らせたれば、其昔時同師の研
究を助けつ∼ありし松本徳明君に該証梓を一部求めて造るべき哲依願せしが、瘍蘭にては手に入
らすとのことでぁれば遂に佐野甚之助氏を頻し緬句ラングーンなる正金銀行支店絵本某氏土も寄
贈されること∼打†り、昭和三年九月十一日金の手に入ったのでぁる。この寄寓P弓呂乏t︼一守ヨ風音さ
と辞し二冊より成る緬句文字の立派な印刷本なるが、金の証文通り二部︵四冊︶手に入ったので其
後間もなく一部を木村君に進呈したところ大岸喜んで、いつか譲んで欲しいといふことであつた
が、蓬に右の二つの希望の執れをも果し待なかつだことは何としても残念である。金は後日之れ
を研究して君が霊前に捧げたいと思ってゐる。
又君は阿毘達磨哲畢を大成せん秀には巴利七諭の和謬を試みょうと公国してゐたのでぁつた
が、何につけても君の死は情まれてならぬ。︵昭和五空ハ月二十五日︶
エ好4
木村泰賢者の尭環
宇
井
大村君の急逝は異に青天の霹靂であつた。報を開くもの何人も之一ピ倍せす、信せざる・で得ゃし
て何且つ之を疑ふの蹴破であつた。疑うて否定し得むことを望むだにも拘らず、今や既に遺され
た肉身もなく、而も将に第一の月忌に近づかむとしつ∼ある。同門であり同率であつた予が未だ.
骨て思ひだもしなかったか∼る文を草して君の英霊に餞けせねばならぬ.とほ何たる悲痛事でぁら
う。君の葬儀の末席を汚して、一畢究としては殆ど例なか一心べき彼の盛大荘厳な法式に打たれて
は、今更に君が生前に於ける活動事業交友知己の如何に廉く且っ深く、而も感化知遇の強大であ
ったかを想見して、・坐ろに天の期人を奪ふの無情に敢て訴うるを禁じ待へ仏い。
革し潜ほざに生前諸方面に清潔々地の活動を左しtに草して、托土未だ乾かざる今日、英美蹟の凡てわ誇り梓む−王朝底望
まれ伸そ.、ミで兄いてわら、つ。鱒し君の先輩知友liそれさ・−の方面に於て漸次君の眞何の一端づゝわ明1ニぜらるゝでわらう。
就中、君が生前に於て最も鯛係深かつ圭雑誌宗教研究が特に君の草間の方面lこ申して追悼被わ申し、先輩師友井に門下が揃
うて君の嬢わ慰めむミ†るのlェ、拳薪ミJての君の面目を偲ばLめ其撃兼の眞慣を明に†ろもの写して恐らく君が在天の‡
も餃集わ書lてるゝでわらうL、予も亦深く同講の同人諸君子の風情に感謝Jて止ま持切でわる。明治凶十二年東京奇蹟大草
木村泰貴君の巣庶
2βj
木村泰脛君の染昧
︳
大入
文科大串の印度哲学科ふ出でゝより同C方面に歩を遭わつゝちつ圭唯一人言しての予が謹むで本放執筆各位の御厚情に感泣
方に於てはよt暮むで光†べき=ミでぁる。
感謝†るのでわるから、従ってかゝる深い関係にぁる予が今立に君の紫綬lニついて語らむは一方に於ては不普でわらうが他
木村君の拳闘的業蹟は之を二方面に分って見るのが便宜である。第一は印度諸暫畢の方面と第
二は偶数の方面とである。木村君の研究の進み方から見ても、天借すに狩除命を以てしたならば
恐らく更に新な方向を取ることにも、なつたであらうが、然し生前になした虞では第一から第二に
進む方向を取って居った。但し君は既に東京帝飼犬単に入る以前に曹洞宗大草の全科を卒へて居
ったのであり沸教一般については素養的の知識は十分であつたから、その鮎を考慮に入る∼とき
は沸教から沸教以外の諸哲畢派に及び再び偶数に遣ったことになるともい・へる。それにも拘らす
君を専門的の聾者として見る場合には右の如く第一から第二に進むだと見るペきでぁる。それが
成果として第一の方面に於て印度暫畢尭数史印度六派哲畢の二著が出され第二の方面に於て原始
沸教思想静阿毘達磨之研究の二著が造られた。勿論此外にも狩多く存するのであるが、撮まつた
ものとして両方面を代表するものはこれ等四書であらう。
印度哲畢宗致史及び印度六派背畢は此方面に於ける我国最初の書といふべきである。これより
以前に於ても印度哲畢又は外造営畢として研究もせられ著述も公にせられて居ったが、然しこれ
等は一方に於ては多くは漢詩備典に侍へらるゝ材料のみによりて寝めたものもあり、他方に於て
2βヴ
は同時に西欧単著の研究成果も採用せられたもりもあら、何れにも細管に努力の痕は之・竺認め得
木村赤紫君の紫踵
しないで始終し侍らる∼など何人にあつても到底望去れ得ることでないから、本書の或詭が改鼻
の如き歴史的のことが明確でない囲の思想の研究に於ては一度結論した設が何時までも訂正を要
現今としては改訂を要すべき鮎も決して絶無とはいへない。勿論遽き舌代のことを論じ而も印度
水苔の曳張する詮にゐトても、著者自身が後年しば′﹂畢虻意早で述べたことに衷はるゝが如く
鼻を要することにぢるのが蓋し必然であ∵り、それだけ見解が螢達したことを示すものであるから
然し畢術的に常に研究を怠らないものにとつては、数年前に公表した意見も共棲の進歩の鰯に改
に射しても一般単著に封して逐多大の指導と貫献とをなした功績は没すペからざるものである。
である。従って本書は我国に於ける印度哲畢研究に対して一新生面を開いたといふべく、専門畢者
.
猟し、従妹我国に於けるものとは全く選を異にした方針によつて目新しい史的叙述を試みたもの
程であるから、西洋に於ける印度研究の成果は勿論必要な程度に採用せられ、而も梵語原典を渉
の紹介批評の中にもいはれて居った如く、書中の或部分は西洋畢者の詭によつて述べられて居る
糊士の共著とせられで居るにも見らる∼如く、大儀のブラソは高嫡博土であつたらう。出版昔時
らるゝ。かゝる傾向の時代を永けて公にせられたのが先つ印度曹畢宗教史であつた。此書は高桶
るも、之を専門的に見れば、紛らく其曹時としても十分なものとはいへなかつたであらうと考へ
2♂7
木村秦貴君の兼蚊
七〇
を草するのみではない。▲且つ各派の畢詭の理解に於ても年と共に深遠と捏7り不断の進歩のあつた
に関しては殆ど氷泉相容れない鮎も認めらる∼から、本書の著者自身も稜には必ずしも右の順序
くなく、特に西欧畢者と印度本土の畢老との間では著しき典故をなし、屈も畢派の成立年代など
にも鼻勒を凍たすものであ丁ワ、西洋にありて打同一寧者の意見も醇々舜化す乙こと決して珍らし
って各派の畢詭が各の本典を基として述べられて居る。年代論は新材料の発見によつて畢者の故
ーヤ派ブイシューシカ沢.エー〆−ンク派となと、かくなるべき年代的諭披も示され、此順序に従
のである。六派の順序について著者としての意見はミーマーソナー淀サーソキヤ派ヨーガ派ニヤ
によつて徒死の邦人の未到地に入って自由に組織した新に於て能く著者の手腕の現はれて居るも
増して更に靡く新な方面を示し、普時の事情として出水得る限りの材料を蒐集し、嘱特の組織力
印度六涯哲畢は右に.次いで公にせられた著であって既に恩賜壇盲得た程の名著である。前著に
に動かされた一般印度背畢界の進歩とを示す鮎に本番の歴史的意義が認め得らる∼。
もその進歩は一は著者木村君の努力に負うて居るのでぁるかム、木村君自身の研究の進歩とそ往
他方に於てはそれだけ我国に於ける印度哲学研究の進歩したことを物語って居るこLしになる。
を要すればとて、必やしも末書の職位と功績とを減殺することにはならぬのでぁるが、それは叉
′
こと一ぞ表はして居るから、本書が必すしも著者の最後の定寧で保有しで居るのではない。若し夫
β.;β
一
れ此動に留意するを怠って木村君の研究成果の定説の凡てが此書に存すとして此書の詑をⅥみ珠
るものぁらば、明にこれ畢者としての木村君に射すろ非感でふ∵り、君自身としても遭撼であるに
相違ない。故に水村君の最後の意見としては大思想エソサイクワペデア中背畢第二冊に公にせら
れた印度暫率に於て見るべきである。然しこれとて宕の如き進歩螢蓮の著しい畢者にあ♭ては其
最後の意見と認めらる∼ことに満足するや否やは疑問でぁるとも考へらるゝが、然し既に棺を推
ぅた今日に於ては止むを得ぬ鮎であらう。木村君の一錠涯も人類凡てが有する運命に洩る∼こと
h甘く全く歴史上の一波潤だるを失はぬのでぁる。
−以上の二富を通じての菜蹟の一端一ざ考へて見る。廉く印度哲畢界一般からいへば、木村君は恐
らく奥の開拓者英人であると推さるべきではなからうが、然し二審の示す薪方南に関しては之一ぞ
開拓者として推賞するも決して不普ではないと思ふ。明治時代の中頃までは印度常牢として傲敦
を指すに外ならなかった。偶数の典籍の中にほ偶数外の諸派の詑が著しく引用せられ叙述せられ
又は群駁せられ時には僅へ与がらもか、る諸派Ⅵ何れにかのみ属する覇立の書も存しまた沸教の典
籍と耕しながら諸派の何れかの問題のみ・で故へる事も倍はつて居るが、これ等は凡て所謂外道哲
畢の名辞の下に扱はれ、以て印度哲畢は偶数に外ならへ仏い意味を衷はして居たのである。然るに
水村♯緊力め童顔
明治後竿期の初頃からは却って所謂外道哲挙が漸次印度膏撃とせられむとする機運と打アり、この
F
森震君完庶
ヽ
︳
′
凄二
印度暫畢が沸教と粕射するが如く見らる∼傾向となって凍た。か∼ろ機運傾向に確然たる準接を
輿へたのが前記の二審である。英名群が明に示して居る如く、印度暫畢は即ち沸教以外の諸畢泥
を指すこと∼ぢり、而も所諷外道哲撃とは全く内容を新王するものを意昧したのでぁる。従妹の
外道哲畢はいはゞ係数の優越性を示すが眉の資料として利用せられて居ったものであら、而も畢
改の具理性如何は殆ど憫題とせられて居なかった。従って又理解に困難であり材料の散在して居
ろ場合にはこれが研究は忽諸に附せられて居った。此の如き外道哲畢が漸次拳闘的に扱はれ研究
として畢ばる∼に至らむとした頃が即ち其名辞を印度哲撃と改むとする頃†あつたのである。故
に前記の二番は以前の外道哲単に封して畢問的研究を向けて確賓に印度哲畢となし、其外形内容
を新なるものとなし、以て之をして沸教の焉りものたる域を蝉脱して狗立の研究領域たらしめた
のである。常雄印度暫畢は一科の覇立の畢的研究となつたのであるから、其功輯や没すべからぎ
るものでぁる。然しながら翻って之軒考察するに、印度暫畢守らものが沸教と粕封し又は相並び
て存し、全く彿敢以外のものを指すとなすのは頗る奇である。外道哲撃と呼ぶならばともかく既
に細度暫畢と名づイる以上、少くとも印度偶数がそれ以外として湘立ち得べき所以のあるべき理
はない。支那王於て螢逢した支部傭敦及び日本にあつて芽ざした日本偶数も全く印度件数の延長
に過ぎないとも認め得らる∼鮎があるから、支那傭数日木偶敦を放線として以て一般の沸教は之
一〃
薪
を印度膏畢と粕射すとなすべしとする理想り下に印度彿敦・でもその一般の係数中に入れて印
水村春賢君¢業績
となした。此考の趣意には掬すべきものぁるを窄まむとすろのではないが、言や必ずしも正曹
乗阿合の顔究を以て浅薄卑近の域を臆しない.となし、須らく大乗高速の哲理を研究せねば軋ら氾
畢を直に外造営撃と見偵して其研究者を目して邪道にぁり又は迂愚である.となしたのみならす小
の畢者にしても殆ど阿合を迫讃した如き人は写かったのである。古い借款専門単著は菅に印
と見催して居った。か∼る考は有数一なろ係数濡泥の数列詭に痴はれた鮎の多いものであゎ、特志
の沸教畢濱ほ阿合を以で所謂小乗致の所依の経典とし其説く所卑近なる随機記法のものに過
を資料とし渓評阿合梓に塵照して原始彿致を組織立てたものであつて、苦心の大作でぁる。徒
原始彿敦思想論は四書の中では最も多く人々に蔑まれた書である。主として巴利語の経律二
その中の一部門を精細に撮めたものに外ならぬのである。
故にか∼る粘からいへば原始沸教思想論及び阿地建磨之研究も曹然印度膏率の研究と行了ワ、而て
ことは恐らく何人にも異存なかる.ペく、木村君の著書に於ても既に此意見は明確に表はれて居る
が印度哲学の中に合まるペきものであら、かくして初めて印度暫畢の内容が充賞すべきものな
中に入れ、支那日本の偶数を印度沸教の延長螢連と認め得るのでぁる。如何に少くとも印度沸
畢以外と見倣寸とせば、同じ強さ、否、より以上の強さある理由によつて係数一ど凡て印度哲
β7J
大村赤紫君の集鎮
はないであら,
七四
となるや巴利紅梓に射する阿合梓の見方は全く一舜し、其中に合まる敷設の眞趣意は所謂小乗大
桑として封立す一Qもの以前の根庶的係数であると認めらる∼に至った。爾凍巴別語紅坪井に漢詩
阿合梓の研究宕の間に白から二符の極端な似和が衷はれて居る如くである。︼は巴利語を圭とt
て其紅梓に衷はる∼説を各自狗立に解辞して囁沙諭快食諭の法相を殆で参照しないかの如き鮭度
と他は渓繹を基として共中の設を全く小襲儒教的に解辞して阿合が悉く嬰沙諭倶合諭の直接の前
提なるかの如く見る傾向とである。前者は基理解が奔放自在に葬って後世の偶数との史的連絡車
放き、後者は臥定守墨に過ぎて阿合紅説の眞意義を教揮し待ない遺憾がぁる。悌政一般として見
一〇に傭敦の研究をなすに寧ヱし係数登鰹の綱格を顧みへ仏いのは恐らく時に危険をも伴うペく、之
に反して従妹の規準にのみ拘泥せば畢的研究の域には入るを得ぬ?然ネに大村君の原始傭敦∬想
諭は此所極端を陳れて、規準鋼格に従ふべき方面に於てはよく之に徒ひ、而も同時に他方に於て
は阿含経語の薪なる組織を企てたのである。倶合諭に掠る小薬数理の知識を傾けて阿合の数理を
屈め之に鞍刺たる生気を吹入れて傭敦史上に躍動せしめむとしたのである。此鮎が君の後の研究
の端緒若くは源泉をなして居る。然し阿合の侍ふる研が、従妹考へられたが如くに、・果Lて俳陀
の金月直視其僅であるか否やは蓋し大問題であつて、木村君自身も既に本書費衷以後に於て鹿野m
については必ずしも本書英俊の意見ではなかった。従って君の見解が著しく進歩した静接が−・∼ゝ∵幻
水村暴発君の光掠
l
本書はいはゞそれの概要基礎であるともいふペく、これに肉をつけ建琴毒さひとt七のが傭
じて取扱った鮎に於ては本書は憶に出色の文字である。而も木村君の後の研究の進みから見
へるであらう。勿論後世に名哲成す如き畢者は廣く之を忠賓に研究したに粕温ないから、中
都心倶合二諭の関係一軍稽へた人もゐ㌔其他立派な研究を遺した畢者もあるが虚密な研究法
専門家によつても高閣に萎せられ、必要なる箇所は註群の引用によつて知るに過ぎなかった
率習であり潮解よりは寧ろ記憶であつたといふペく、従って倶合諭の基となつた婆沙諭の如
従来としては倶合諭の研究は係数密着一般の行うた併であるが、忌偉なくいへば研究よ.りは寧ろ
ないものでぁるが、然し単著としての研究より見れば、却って趣味津々たる
の結晶でかる。本書の扱うて居る資料は之を阿合と比較す弟ば、如何にも興味索然たらざる
のとを研究し更に阿毘曇心雄心婆沙倶合の関係を畢問的に明にしたものであつて、壷の畢的
と〃てる基礎井に端緒を明にしたのに次いで本書は進むで巴別語諒減と漢語の小乗論寂の初
阿毘達磨之研究は木村君の畢位論文で一のる。前書が阿合の歓談を組織しながら阿拙速磨
るものでぁると結論せらる∼ことになるであらう。
にも表はれて居るのであるが、若し其意見に準じていへば、本書の容めた儲は結局阿合の沸
_
水村泰賢君の梁蹟
七六
心理論の研究である。心理諭の研究は君の最後まで携行せられて居たものでぁつて恐らく既に琴
まつたのであらう。
塊に且つ機械的に説明せられて居るものであるが、元凍から此の如きものでぁつた所以ほなくナ
むしろ宗教的賓践的の深い内省に基き幾多の費達組織を経たものであらうと考へらる∼から、必
すや君の研究に此鮎が明確にせられて居るでぁらう。不幸にして共成臭が公にせらる∼に至らす
して遺稿の形となつたのでぁるから、目下としては適確に其全健の内容を知悉すろ由もない。唯
今までに雑誌に馨表せられた所によつて全般を瑞摩する.のみに留まる。若し之をも寝めて本書と
合せて見るを得るに至らば、疑もなく偶数研究に薪方面を打開するものであらう。
以上の如く研究の方面が進むとすれば曹然大乗沸教の研究に進まねばならね。木村君も既に諸
所の講義に大乗経典井に其思想に関する問題を講じて居たし、其一端は﹁世界思潮﹂の.﹁印度彿敢
思潮﹂にも示されて居る。蓋し彿致の研究として最も重きを置かれ又最も興眈あるものとしては
大乗彿致の研究である。然し通常大乗偶数の研究としては龍樹掟無着世親護法精耕の学説を見て
数理上の蓉蓮を考へるのがまであつて、此等諸諭師の操って立った経典については全く腐る研が
なかった。之については勿論恕せらるペき鮎が多分に存するのであるが、然し畢的研究としての
不足秋晴の存することは掩ふべからざるものである。明治時代の中頃までは傭教書一般に経典は
27塵
彿陀の記法の記簸であつて、たとひ各個経典に出現の前後があつたにしてもそれは種々なる事情
に基くに外なLぬと見撤して居ったb既に併読の記銘であるとすれば、彿陀の上に思想費連など
のあるべき理なく、従って各経の思想上の相違深浅は彿陀の随機設化の方便に依るに過ぎねと解
する外はない。然らば即ち経典が研究の封象になる所以はあり得ないから、此方両の研究は骨て
試みられたことがなかったのである。然るに明治時代の中頃以後にはさしもの経典併読諭も其根
抵が動揺し遂には傭詭の経典なしとまで論断せらるゝに至った。弦に於てか摩典に対する研究が
切要守−と∼なつたのであるが、現今に於ても滑未だ此方両の成錬に見竜べきものがない。然し
布くも現今偶数を歴史的に研究せむとせば先づ以て経典に衷はる∼思想を考察せねばなら
村君の印度沸教思潮には此鮎に重きを置いて述べられて居る。印度彿敦を扱った㌃のとして此鮎
を内容的に論述した.のは恐らくこれが最初のもの∼∵といへるであらう。其他大乗彿致の種々な
一
る思想に封する君の潜心は﹁解脱への道﹂井に﹁真峯より妙有へ﹂の二著の中にも現はれて居る。
一
大畢の菜を卒へてから約二十年の後流星の如ぐに去った木村君の畢老的生活の光芭が以上の如
き業蹟として過されて居るのでぁる。君の常に傾注したかの棍倫の精力が更に栂席して音稀にト
でも及むだならば菅に前記の業蹟に倍大するものがあつたに相違月いのみならす、今や済に凡て
が脚熟期に入らむとして居ったのであるから今後の菜蹟は其賓に於て一骨重き
水村泰貴君野菜蹟
β7β
..、り
ヽ●−
1.1、−
七八
・
−∵∴・、誉∵∵
l
大村奉賀君の美味
があつたであらう。然るに其過渡の時期に於て古家の定命を最後とし熟知㌢して震域に入㌻ざ㌃
.
︽上一 あつて之に通暁するだに多大の時間を要し、之を破って進まむは容易甘一.㌻†は甘い。然し之を
全く顧みない場合にはや∼もすれば豊の教理を素す−しざもな遠敷の芸警見失ふこと
ぁら得るし、さればとて之に従ふのみでは思想費展の生気に観る﹂ことになむす従つで沸教の特
賓精華を明にすることにならぬ。これが中庸を得て進れことは困難の事業に属す㌢然るに木杜
若の取った態度はよく票の型に通じながらも決して之妄縛せらるトことで現代最新の研究
法を適用して爬羅別挟以て花大雑然たるものを整然たる債系に建直㌻むとしたもので、旺盛な
る努力誠に後進に範を垂るといふべきである。君の多年薫育した門下に恐らく之に則って君の焉
すべくして点すを得ぎらし事業を完成しで君の措導を應うるこLに払㌃であをフ
君の手によつてなし遂げられしを希うて止まぬのは蓋し決して私情の
ては何人と錐完全無駄たり待ざるは自然の理でぁるから、君の取った方法態度に於ても必ずしい
理想的に最輩なものとはいへないであらうが、然し確に傑出したものでふγり其成果業法も驚嘆に
償するものなること何人も首肯するであらう。而も死は一切を浄化する。些少の決別錯誤の指摘
は今や君の婁の安位を妨げない。君が在天の婁の永久に幹安な㌃むことを念じて止まね。
β78
ない.、先批の偉大さは.増に如上の両帝を兼山備へて
れは統甘に北里む相加してゎない妄︰∵︰た云にねばなら
ろ。兄畑を畔に稚希の人の如く証する滞もめーリが、こ
強記の人であり、後備によるは火軌的批評の人であ
傾くのが僻地隼件のわきカであー㌔前澤をとるは博髄
訓前約考紆と机締約考矩とり申.モの何れか∵〃に
いて、先頃は﹁印度山ハ漁師嵐ご正於て.次の如き圭麗を
印腰部挙史上の︰火難問であ−るのであるが、これにつ
等の何れに求むべきであらっか∵・1この問揖は既に
れるのであるが.然らば.膵鬼瀬の超脱系統と、これ
−門脈との∴大派に火刑され.犯に多くの分派に鮒別さ
聖典とすろ正統婆羅門派と.沸教宥邪教の如き非婆榔
抑・、印捜‖小憩は.吠陀・発揮・里ぷ非を根本軒化の
﹁印度六振替申Lに於ける一功績
㍍られた動にあつたからであるっ従って.先机の著非
なしてゐる、.
龍
は凡て一時的鷺叔非として成されるのではなくして、
ば六瀬は配に二系統に分れるこ土になるり状桁多系
山.若し教生的見地上Il木系末孫の隅別を北つるなら
謹上して揮き親けり力ものであるJ†.一例上して.名
差ミー∴、−ンサI系とであ−るー.⋮︰ミー∵1ンサー
先批の後に氷る昔の卜にも、永遽の批命を和する指柄
蔀扉は︰ハ派曹攣⋮に於けh<.豚箱派の系統に脱すろ兄畑
系とは梵洒に裁く祭式隼の系統に崩する派でミーマ
七九
ーンサー派を水系塗し膵論派と証鞘派とむ末系とす
の創見を述べて.その畔的英紙の一職を似びたいと思
、J
ヽ 、′
﹁用便穴演習中Ll:於〓・わ∵明紀
Jクう
ー的思測にょりて敵覆されたと㍍ずぺき理由がある
吾人の研究によれば勝諭派もj−三部派もミーマーンサ
る。こり郡は未だ何人も指摘せぬ仰であるけれども
は野に附する孝へカの尉l附から来たものでぁる。坪を
と膵論派とは、野の常圧無常に就て論争したが、これ
を多大に含んでわ芯のであろ。更にミーマーンサー派
胚とし、昇天を説き.把摘的方面に於ても準羅門思想
八C
から机てその来系と見ても止しいと恨ふのである。1叶
概念と排する場合には、その他念の起混に就ては、説
﹁印度六藩哲雄Lド於l†ろー功持
〓九fi﹂
るから、却って雨滴の閻係の深きむ滞するものであ
を異にするとしても、これむ常化とする瓢は川一であ・
に求められたのであつて、斯非の構成芥グス〆・フタい
亦、訂黒埜ハ派抒牢叫以後に‖版されたその蔀¶印度打
醸伽派・吠柄多涌として居り−むにストラウ
論派・証印派︰、−︰、−ンサー訣とし、一つを軟論派・
る.故に㍍くはドイセンはパ派む∴介して、︰つを膵
ぴ
上.ミーヾ−ンサー派の成立は待仰であるにしても.
す、その藩の偶仙度乃賛弼り等をも考案すべきである以
一派の混純を雄めるには眉にその隼説によるのみなら
かくの如く、両派の榊に探き拙係があり、∬つ凡て
ンサー派と同いでれ∴匂と鞘・∵=してわるのでぁり㌔
批に於ては防腐派は天腎ハ邪教に宜脚す︼心眼りミーマー
即派とに合致すると※張し、ヤコービでさへ㌫数的串
﹂﹁
︵
的弼りから†ればミーマーンサー派は寧ろ膠腸液と正
量
撃史.︻に於て、むJこれ等の諭沼にょつて、我々は、膵論
派は吠陀の基縫を軍帽にする凋めに形而上堪む補った
ミーてーンサーM小憩を代表してわると考へなければな
らない。.盲主張してわるのであるが、これは刷らかに
先蛮の所説む封聾するものである.
勿論膵論派隼説わ内#から眺めれば、ぺ佃端がその
小心であつて、これ等は自然抒隼に範きを逝いてわる
のであるから、この鮎のみを融謝すれば.非輩羅門思
想と深き槻係む宥するのであるが、それはこの派の一
部であつて、派全旧からすれば、その他に、状陀を泣
Jクヴ
即ち兄畑は膵論派の木湘む、焼きミーマーンサ﹁系
′.ヽ
・ムふか軸・てハ芯准的たもハではたくして、何海女でも廣
汚職Ⅳと溌ヰ射撃七にトろて印捜隼一般を酎股上して
その起源は退く碓井にめり、然・㍉、ホシ痛接緋虎て・ノ
ものであるが故に.この焼きミー∵1ンサ・・素字下京
一●
︵貢ご≡一
才︼■一二与ごl〓三三・乙︹︼㌣㌻2三三●︶−託てこ−﹂声
〓﹂H≡∴.ソぎ︼号墓u−乙ノ.︰l㌢′ニハ︰1
−..ヱ弓︼才ご乙㌻l︼C−一≡C苫与ざl花︺︼T.︼ぎ
l宣︼つ三三手︼∴√︼買いーS∴い声
︼▼.〓二‡こ∵ン一︼竿≡L〓仁〇註︵±cごっニミ
−︰一に〓、︼..化ム.
丁.Tざ望づ一︰−:′lぎ−.Jr︸C=已ぎ〓一二一号lそ−
〓・hれた≠が兢軸され得るのであるJ
可∵T
′.−.
′lヽ
一一.
一︺
とし.膵論をその来系′−すべきでか一っ∵、二い誠はn
も沸教に於ける焼始彿教士石高︰パ上の仙に存†り閻係
の如く比られるのであり付Jこの≠を始めて※張せらが
たの圧−円に北里の串旭でか巧十﹂はねげた・りた︰・、
.小
これ仕損に北里の︼英綽に過ぎたいいド㌢・りか
祁圧精細たる穿睡と11三協を失はぎりり論野ナγ⋮パ︰付Lし
′.∴仁山
て、一札雑然たる各派を紙人‖昭理し∵一人糾招招嘉し■
なしてわるのであえ■.
勿論.一帖仰究の准机︰り現れか﹁りナ・が丹∵
い.
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∵ト
いー︰り
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正を要†べき揮も溜如・りノー︰り一
二か
‖/
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打撃の揺統畔持たりり付⋮畔ん右Iト情か・りソ∴小けl上〓かJ得
し.公
ない串でihつて.兄車もリイ〃脚lた卜尤分に誹れ・.︰か.ト
邦節八倣のけ文に於て∵板木的にけ㌢︰Jiれたい
︰冨せられて居る。こかは余く先皇山里的良心力搬J∵で
雄瑚に語るものでれつて、−・同町に北井⋮相見悪化ほ.
パ派を捨て∼小蒲に入り.小成Jイ美つ∵一差牒に移?Jム
1用便霊山砦ハlrl二隼ソ∵巧什︰
J〃7
先
木村先生む憶ふ
村
生
を
憶
′
・一
▲.′■一
をして英れ﹂との詔の前隼は、よく北埴‖らを班⋮れる
‖分は大雄へ人興すると英に放水村先隼の教をうけ
の川端署でぁり、搾⋮宣布であり、創業の功労希である。
ものであると川心ふ。即ち先批は我国に於ける印度押挙
卒業前より先坐の海外留埴土〓分‖らの入館埴活との
貧、一時その閂呟に托す.ることが‖米なんだが、犯坐
としてその指導をうけ.肱ねて刑事として那究宝に舶
は、その啓蒙運動の伸離に証ちて亜弼雄々しくも健闘
の存在が未だ殆んど謎められざりし畔別に遭へる先壁
‖本の鉾井、沈んや︰般酢命に於ては、その撃として
は障潤され、〓分も除推してから満二年冊大輩院雄牛
する手助けをなしたる荷なれば、恩棚たろ先牝に射し.
削ぎ新き得たことは.介部とは∴・.=ひ得ぬとしても、大
を研けたのであるから、新鮮が沌にかくその現状まで
その挙凪の批評なぞいふ大それたことは〓魂ぬ。黙れ
共公私北ハに也々の御1泄潤む菅つたこきで川心ふ畔、小爪教
﹁惟
としての先亜の功紺は、永く印捜澤隼研究史の第一頁
てもい1。この意味に於て‖本に於けろ斯隼の閲輔希
勅命的進〓に至っては、全く先頃のカの致す併と断じ
研究の追悼批に何か押かねげ・江らぬ兼務を惑する部
。分
之之一ど北胱のカに鋸†ることが川瀬やう。慄にその
先牝が牝繭‖桶のはに自分躇に言はれた皿⋮−
れ⋮小川づるま1に感想めいた左の一文を物する併以で
ある。
は旗振りである。君等は俺の切り聞いた道の地ならを
し純るものとして推賞し得ると思ふり稚に越ぶるが如
〟情
るに、兄坐‖らも然りと謙遜されたるにも拘らず、先
なろ
く、・光亜がこの鞘堂他所剃のために、後々までも臼
分搾登仙濫措を柁し得たのである。然し横って考ふ
自身に棋累と招き、帆11肌なる研究枠聞を不木琴.㌦−︺畔
牛は断然昭なる搾蕃新たろのみでけなかつた。荒蕪
までも、如何にぢく懲ひ取られたか、即ち之が偶に抑
へる繊抑の大なることに考を致す畔、殊にその功硫他
にの閲妬希たるのみではなかつた。肝椚﹁旗振り﹂たる
れ花る坪珊地均しも亦同時に北里の平に依ってわはれ
りみではなかつた。之を碓氷の堪常に托するモ朋一言さ
特袋連動祈として.先矩をかくの如′、隼界に燭顆せ
たるもの決して砂少ではない︶帝寧ろその称糊的折究
封する感激の含は披く搾まり︰〃くわけである︶
しめし因子は押々あらうJ畔勢が然らしめし加も考へ
がいふまでもなく、北里の小心里命であつて.之に比
ねばならぬこと勿冶であるが、何というても北里がか
すろ畔腎蒙運動こそ増をいへげ、この竹光咋前の能涯
かる運動に射する最もょき天分を多分に有せることは
にすぎぬものであつた。而してその研究上に於て叔も
その最も人なるものであると㍍する。餌ち第一に北里
糾忠とする併は.何人も認めるであらっ如く∵学的組
は斬ろ瀾運なる牲捕の持※であり、第二にはその野蛮
の化方が、‖にしても肇にしても断ろ平易であって摘
、の鮎であつて、このカ而に閲しては何人の追随も許
が、此亜はりしを天分としlし州付かに有したろ上に、彪天
彙運動滞に咽りては、必須軟くべからぎ︸匂ものであい心
通が何人にも理鮒し得られたナーiである.この二者揉澤
逝かれたることは、偶令搾骨の喝破せる千古の推理亜
り城北に大なる刑待をかけつ1ありし帖、忽然として
やその研究の安城に全力を槻例t、準非又等しく珊そ
繊の大器に徐く搾まけ氷れる堺耕の領料を埋りて.†
さぬものがあった。而も齢ひ、知命に運して.その机
吋たりに耶閃他に沌る邪教を拙くに蕾りても、その即
的にも亦努めて然かせしめたれば/労ぺ益Tその持仏
∵■
軒必滅の︰井例なりLJ籠いへ、そは依りにも博士しき
.′
.ヽ●こ
をば遺憾なく襟押し得て.蓬に弛里旺I:遇の如き不lリ
木材先生む佗ふ
Jクク
木村先生わ憶ふ
八四
がh幾度び思ふも.先損のこの蛙の死は鮮賂の一大榔
れ得ぬものであつた・か。傲抑は港に瓜晰たるに止まる
上し十年ならすとも僅か三年の歳月が獅ほ先頃に恵ま
する求献比今に倍加したでわらうことに思ひを致す畔
数段の光彩を放ちたるべく、惹いて先批の斯嬰児に射
完成の欝であつた大蛇婆沙論の研究を伐って、︼段香
定評ありしその郡浜沸教の研究の如津も、弦三年後に
に.先生の批活比文字油りに寧日なき多忙さであつ
符すにか、請方面から彿絨に際稲に先取を焔はすが偶
的な取安なる一面を知らずしてか.或は如甘て止むを
の搾蒙邸者としての一耐を知るのみにして、その学究
れる。然るにも血らす先批の名を知る者の多くは、そ
吋なりに現はれてわることは、周知のミーーであると思は
印度哲邸彿教拳の全面に冗り、その研究の成果も既に
さて先批の研究正、鞘り部派沸教や婆沙に止まらす
の心情が先症の脳裏に去来せることが充分に察知せら
耶.一大恨耶であつた。何が〓寧日分を、かくもくど
た。大正十二三年頃であつたと思ふじ常時自分と共に
耶例である.傲晰つくわけではないが、若し犬れ先小
くどしく助郷つかせるか、咋非毘準抄の研究に新車の
研究室の副手であつた駒渾大争の探勝轟舜東が.ある
れるわけで、即ちこの自分の態痴は同畔に先独自身の
頃.先損は自分に之が研究の意気込を洩して日く.﹁こ
‖暇‖その頃代・々水にあつた御宅を肪ねた畔、先生の
に節すに、由ほ十年の命帝を以てしたらんには、先頃
の研究に㈲して自分は之を雑損の大串業と縦倍†る。
三男寮三邪
締め切れぬ慨きで断つたと脈抗し御るからである。
それで今や之に射して金柑抑を打込みつ1ある﹂と。
﹁イヤになつちまふな丁−I今‖は之で二十三人日だ
の邸は必ずや完璧の域に汚したであらうっ殊に燭妙の
この語に依って、臼分には弦一年川北牝がこの一郎−ど
ヨ﹂と。先批の多忙さば、この串柿なる︼諏忙もょく
まだ小輩牡時代−−が叫ぶ梧に日く、
げ恐らく夢踊にも忘れ得なかつたであらうこと、従っ
衣はれてゐるではないか、か1る多忙さの馬に先生は
−
て又棒終に苗って﹁せめてこの研究だけはLの心拘り
gα)
りあるが、さればとて面骨謝紹などいふ戯館は先flミの
来ってねた方針をげ、其後も亦依然として塘吏しなか
らく先生は十年前に於ても既に数年附そのま1に執り
如何に自らの研究に大なる支障を見たかは賞するに依 る和に拳外の術計付﹂鮫の名士となつてねたのに/恐
性柿として川楽なかつた。かくて傲構なく面何の上,
時でさへ.先生は一腰多忙なればとの群山で断る位が
‖ら洩らされたる如く.その肺質上最も掲らされてゎ
高野山大殊に教鞭を執られることとなつたのは、先生
先カに不純なろ利Ⅲ冗件の‖的ありと充分気附きたる ったのではなからうか。尤も三川年前より暴中林暇中
㈱の川であつて.何幽くまでも断り通すことも亦不
能であつたらしい。大正十二年の冬、吾人の郷里の基 た肉腫的の崩さと、色々無理な往文を持ち込む訪問者
材季大串謙抑を依願されたる頃、入館亜清の寸暇を郎 から尖むろ鞘紳助由蛸しさとを、一歩に逝くる上兼の
灘であり糾るのみで、れ求小殊に就休前後の埋合せ的
て上須せる自分に翻って臼く﹁俺は多忙でやり切れな 災であつたには迎ひないが、そのmだけ隠避して上磯
いから一切の招職は二捉まで噺る。然し︰二融さる1に
0 鶉なけれども.多忙兆胱を殺すとさへ︰冨ひたい錯セあ
ったのであらう。然甘忙殺であるーIこの熟字にその
先批の批所は自然﹁忙徴﹂の一語で献されること1な
に承結して丁ふ﹂と。邦雄はこの綱手でぁつたから.
教法さして絨じなかった模梢である。よし又代々木時
らっと思はれるが、然㍍にも執らヰ、北後も訪問客の
みたい一念が断る有力に先批の心を動かした結兆であ
芥の耕しさから幾分でも離れて.静かに研究にいそし
如きも.恐らくか1る糾問
郊外に居を移されたことの
及んでは敢へて請帯孔明を気取るわけではないが一途 多忙さは,想像の外であつた。又共明光隼は高非戸の
る。尤も先胱にもご郁忙腰ずる稗度に依つて鳩骨Mなる
水村弗批を億ふ
昨今の就航些二新を五搬七錮と靖めても.栂ほ此らざ
八五
ではあるが千里の油気捜しとせすして沌々高非戸を肪
亜純銀式が雑持された帖代もあつたであらっけれども 代より幾分客瓜は経えたりとしても.大袈裟な需ひ様
0
j妙J
改造の行はれざる限り.一牝泥を通じて兜かれ得ぬ運
た。蜜†るに先牝の多忙さは、その耐粥き性格に全き
れば.その多忙さからは依然として軟はれ得なかつ
れ、後に悔と指すが如き革も一再ではなかつたらしけ
迭ひうかくとその要求む従前にも柑して容易に受容
ね来る訪問客の.熱意に射して、うつかり借放心を起し
ない.佃に聴かはしき攻節である。
か1る助手を浦川するに止る維祈的僚桁に悪女れてゎ
である.然るにH今我帥傘非殊に文科方面に於ては.
を助力すべき通常なる研究助平の必要が大いにあるの
の兢倉に於ては殊犯.細かしき論集的研究に於いてヱ
常は一般にそうであるが、殊に敢命的に多忙たろ死中
さるべき郡であらうと思ふJ元来北里の如き肺系組織
水村光牝わ憶ふ
命であつたのであらう。
と1もなつた。私自身も亦たこの批難む一蹴し去らう
しき詮策的軒先把於て放くる併ありとの批難を招くこ
鮮やかなものであつた。然るに︼面之が頒に往々細か
究郡奴富ばビシく片附け行けるその鵬の冴えは据に
に於いて.優秀なる碓カた躁げて.組織的に諸々の研
がら先弛がこの乏しき呼㈹に於て没頭せられたる研究
上大なら時仙的場蛛と排ふ結果をも椚兼した。然しな
を廣く槌せることもなつたが.又他面之に依って研究
かに純畢なることである。而もこの稚の数字の1−三香は
と枚j−三刷との願締なる凧合とが−他の学者に比して退
上の特別なる努力と、校正者の側に於ける難読の併稿
の準肇には難く稗であるから、之を机版†るには柄宰
である。一便その折硫む平にせる背は何人と挑も、そ
が運筆すぎる秘躇肇であるが馬であると椎借†る次第
りであるが.これ明かに鬼根の経きなぐる晰稲の文字
校正を助けたる錐轍上特にその揮由を悉知し居れる梢
りの如淳は.n分がその苛.パ派曹拳﹂鳩版の堀人=その
とりわけ先頃の署逓に衷はるる引用帝句の故宰の誤
とする者ではないが、斯くの如きは塊状の捗れたる学
やl−㈹上の腐逓伝於て断る節大なる伯を和するものであ
かくて先生はその掌新的一面に依って一癌盛名
問的性系に於ての環積として.その多忙さ忙免じて許
ク♂3
二、斯鉾研究法の摘︰ポ
左の如き明日となりはせぬかと思ふひ
らにまで‡なる取合とたすの暇はなし.自然こは師
●
究助手の手と倹たねばならぬ粥どもである.努々苦し
三∵斯堪の軒先範例の提示
るの虻.先生自らは前に首へる如く多忙なれば.それ
夫れか1る助平と先取にして有ち得たらんには.モの
川.斯準研究に放ける聞出の肝在及びその研究雫料
一、斯邸の︼般椎念の碑ポ
畢問的英機は恐らく現在に倍加も倍倍加もしたであら
き名塞傭はる鶉新を維洲的に催過する道が.‖木の準
にせるだけでも〓冊にして血生らなかつた。免状の如
恵まれざろ現在の柚佗に嗟嗅せられた耶は、自分の耳
て、両面の要求を繍し得るからであらう。伊都特種講
隼状と数行するの傍ら、堪希としての葉招をものし得
にカ鮎を芯いてわるやに思はれるが、こは之に依って
以上川明日のうち.大坪教授の大部分は持に節三頓
の摘示
●● 界.乃至は敢打開案忙於ても何等かの方法で聞けても
義が,この貿である.次いで第一項、第二明にー舶して
う.先苦らもこの鮎に閲して、か1る経済的傲裕を
ょかりさうなものであろ。然すればそれが又その隼非
円顛が之に稚苗するやうである。然るに姉川哨は、理
一般に努力が現されてゐるが、純一明は概放物の講義
追想の細川づるま1忙丑まで諏き擁って塞た吾人は
動的にいへば一般講兼小に之を講兼すべきであるにも
力東新令豊の過少肴淫の精巣を招魂するであらうの
傲後k教育者としての北里より受けたる‖分の少しく
拘らず.増瞭的には此明が多く軟け膵である。‖介〓
が之に常り、第二噸殊に倭料の取扱法に倒しては.派
述べて.この追悼文と終けたいと思ふ.之を述べるに
功乏しき路験∫・り†−心も.こは緋中華嫌の邪に脱する
にと思はすも亦愚痴つきたくなる︶
っいて先づ大群教授の職掌を常緑的に分新して赴くこ
ことが知れるが、殊に抑究の令純川に︰JLつて之を拍示
八卜︼
とが便宜であらう。かくて之と分類して見るに、几モ
木村先生か憺ふ
盈ガ
水村先生を健ふ
.′■ノ
..ヽlヽ
ついては、先生の冷却玉の如き人栴の併有新たりし一
正に先生が大坪教授として駁も油作であつたことに
せんとするが如きは殆んど不可能の耶でもあるから、 はねばならぬ。
之も亦像倫なき串ではある。かくて多くの韻合、高々
邸蛮の各個人個人について、その興味の肝花に従って
之を私的に指導するに止める都となるのである。然る 事がその範要なる因子たけしことも亦見通し村ぬ串貰
に先蛮は特にこの勤に留志して、雄飛中‖来得るだけ であらう。何人と維も一斑び光批の粥咳に指したる肴
多く之に媚るることば、既に手に入りて見祁なもので は、等しく常師舵を設けぬその人となりに.一見有年
一印象は、先症に接する度軟の取なる侮に.期が上に
あつた。由来研究上関心の肝在を加古ことは、その五 の知己先鞭に池ふの感を抱いたであらう。而もその節
大なる躯︼少なれば!池誹鉾牝が之に依りて徐せらる
家庭の人としても炎症は即却的の犬であり、父であつ
ことは滋し抄少ならぎるもののあつたことは、弦に之 も強まりわくのであつたりほのかに聞くが如くんば、
を断肯して輝からぬ。この意味に於いて.葡し先蛮の
如きは大準教授として最も油任なる仁であつたと首ひ たとの輩である。誠にさもありぬべき輩であるが、要
得るであらう。尤もこの新に胸しても先損は軍なる腎 之.色々の鮎に於て膠れたる先蛮が、殊にその人楷の
人格は如何隠して完成されたかー二訂にして之む音へ
何人も之を首静するに躊躇せぬであらう。斯る無締の
鎧的掌者なるが故に然りと断するものもあらうやも知 閻轡亡・天衣無縫さに於て、苗代に範稀なること隼
れねど、大串軟投は一個の教育者でも軋る限♭.之を
鋏きては.その職発を充分発し得たりとはいひ得ぬと
偲ふ。沈んや先蛮は節三項の職責むも果さんが偏に、 ば、先胱の居常力説すろ火薬華献道の舞捜に由来する
る拳究たりしと岡畔に、彿道の軒粗布であつた。
常に新しき研究を以て、その範例に充て、更に之を拳 のである。この忠蛛に於て、生壁は彿教軒先の膠れた
界に問うて店るに於て.殊にその批搬は見常並ひとい
加4
■
い
申
風
のもこの太刀夙によつたのである.しかし火上他の牌
太
打分は故木村先拒の門下の一人であるが故に先取の
へはよほどの用意と白粥と膳カとのあるものでなけれ
線 の
拳風について云々するは一つには遠慮すべきであり、
ば川楽ぬ伊である。されば先症もこの濃度を似る馬め
群
︼つにはおこがましくもあると感じたので、僧は宗教
には内に細心のm詑む忘れられなかつたようである.
龍
研究船削委瓦から何か難けとの御趣旨があつたけれど
しかしてこの鮎ではしばく自分話手をも誠められ
萬
も歎して答ヘザに居た・のである、然るに訊ねて失の催
たものである。愕て自分は先亜の命女受け恥部宗輪論
り僅か三ケ月程の刷に全部を郡きあげねばならなかつ
促に骨ひ止むなく一首梅めて抽象的に感想の一端を運
先取の邸嵐の敵陣徴とナる肝の一つは樽めて線の太
たからではあるが.自分紘一切下非きをせずに初から
固辞及その節詑の下どしらへむしたことがある.固ょ
い男性的な併にあつたと恕ふ.常に火丈夫の忠兢と見
原綿にしてこれを北批の校糊に供したのである。その
べさしていたゞきます。
終と腑カとを以て三尺の名刀を犬上概に振りかざして
畔先亜は自分の草案のあまりに祉選なのを見て何故に
然るかを尋ねられた、自分は葦砧なしに詐きなぐつた
進み行くの概があつた。先取が大衆の喘釆む受けられ
たのもこの男らしい犀にあつたのであり.銅球煩雑
のであると答へた併、大忙叱頃せられ上.初隼祈の身上
●レ
.′﹂ノ
●.ヽ
なる印度抒劉沸教傘の乱績む樅構に切開いて行かれた
級の火い畢嵐
l
9の
してか1る机鋸不往意なるこ上代甚けしからむ.‖分
分にとりてはあまりに切粥で到底雅にし即そうにない
に種々ぼ想も浮ぶが.何れも突如上して師を失ったn
九つ
l︰t・hは一寸しゎ謂浦k朗吏れても必ず原机た作り黙ろ
からこれで直めておきますJ
紹の来い丹∴凪
綾誹をする似である、然るに今や新竹に向つて一つに
は止証を謂ひlつには愕蒙に賛せんとすろ摘繹繊維の
原税む市塙たしに抑きなぐるとは甚其の蕊を郎ず﹂′1
H際先蛮の蔀押は勿論その講諏にしても講演にして
も之を衣而より見る畔は頼めて大脈に雄々しい揖度を
︰“して居らる1が.そのそこに至る迄には抽めて細心
の汁怠を輔ひ腹の中でねりにねつて然る後衣はされた
ものである。しかし犬上椚の構へは小手以下に傷を空
け易いといふ輿揮を持つの約束に洩れす,先批も畔に
は小手や肺に多少の召侮をせられたことはあつたよう
である.これは釧ならぬ身の致カなき坪でぁり、これ
▲疋以て先里の膳促音批耕しさるべきではない。饗すり∼
に先批はどこ造も太刀を持って克つ以上は明らしく犬
上壇に振りかざし毎け、しかしその桃へをとる岱ゎに
は内に常に充分の練磨と用意と兜情とを持てといふが
光亜の熔凪の一つの火なる特徴であつたと思ふ。折他
e†フ(
木
村
教
授
の
思
ひ
池
川
澄
蓮
私は鉾机時代から、あ島㌣り人を紡問しなかつたの
で教授が説まれた弓−F物の如何なる頁にも炸革の粉の
時分
のことに及んだのである。教授は森川町の栴椚寂にわ
†咋の川‖元私が教授を訪ねた帖.韻偶く邸里時代
毎に耶念に拭ふたことを放えてわる。
放水柑教授の私的批浦をあまり多く知らないー併し見
私川されない併はなく。私など教授に貸した評物阜貝
の見て知ってわる教授を思ひ〓すま1に斯片的に記し
て見やっ.
教授は縛に閲満た人柿の併石歌で.誰に射しても愛
屈をはいて通ってゎられたが、私は今でも共時分の教
始タップリであつた。上下の隔がなかつたっ兎角こ山
られ.大坪へは近かつた燭め・、多くは制限で板付け葦
柵の人は家庭で威張ろものでぁるが.教授には毛離そ
蓮に枇付け帯旭など知つてる者は少なからケなど1い
んなことはなく、内も外も全く同じであつた。教授招
はを〓に見るやうであるといふたら。教授は今の邸小
又無根苅で私などハラくするやうなことを.‖上の
︰常す.ご・上むきといはれるので、ドノ化高柚炎碑に注
人に射していはれるのむよく聞いたものであるが、教
ふてわられた。非頃敬招は雅語の畔州にEなどと奇
授の人徳は誰もこ・れを停めたかつた。
教授は火の愛煙家でⅢ前は炸筒井手に刻緋葦を〓ひ
意されたか知らないが、教招は里親で訂正しやうとも
て臥ながら祁見してゎられたものでかつたごてれでこ
非れたかつたやうだつたといふたら.今でも獅ほ共通
木材秋授り心ひ川
抄7
水村教授の心ひ出
九二
り葡諦してゐるといふて大に笑ってわちれたひ此畔な 一人ふみとゞまつて最稚まで彿牧の北魂から耶はねば
今やなし賢に感慨無北であ∼UtJ
地⋮“で私は非物む失つた弱め.よく教授の邦物を借
気だった人=
批なる.たゞ′1驚欺の外なかつたのであろっあの元
ど大に純がはづんで、終にそばにわられた奥さんは鵬 ならないと、いはれたのを.よく聞いたが。兆志気の
を克たれた程、教授は快渦な人であつた。
教授は自分の押物でも誰の薄物でも.諌めば必らす
其番物に鉛筆でもベンでも平常り次姉に意見ヤ見川し
であるひ私がこれを此頃隼批球に補したら.成ろ準情
ば、教授がHむ通した持物がドレ丈けあるか一日酔然
で切つたものでたく.ド.で破られたものであつた。こ
死た往復輩邦の隼而もめつたが.それが朝〃やナイフ
とがある。また畔に烏‖州埴院同窓曾の問曾む通知して
を記されたもので、今帝大の研究室へ打て調べて見れ 覧したが、邦物の川から往々新しい水井む旭川したこ
など.あれはみんな木村先批でしたかといふて∵基数
教授の挙用に於てもこれを見るのである。秋授に﹁ウ
れは教授の件質が大ザツ.ハであつたことを語るもので
こういふ俗に﹁あかるい﹂粥頃消な人は.よし彿教を
パ11シャリト﹂の棚繹や鵜合婆沙の囲繹があることは周
の形しいのに希いてわた柑である。
研究してゐても、それは面白いからで.揺仰からでは
ないものであるが、教授は熱烈な㍍仰の併有着であつ 知の邦雄であるが、私などあの作胃でよくこんな細か
た。昨年敢愛の令息を失はれて以来といふものは特に いこ七をされたものだとば心してわる柑でっ火醗教授
日立って見えた。教授は据に彿教の薄儀で非研究は上 の草紙は火きく﹁つかむ﹂といふか.運搬されたといふ
背捉を求め。それが下化衆牝となつて常に世人を導い か、此鮎は常人の企て及ぶことの〓兼なかつた併でり
たやうであるがり眼光親常に徹すといふどころでなく
てゎたのである。近頃マルキシズムの接尾を見て自分 新しい戯評でも何でも押入されたやうに、紬珊はあつ
もこれと研究し.泄が誹って此主我に従ふとも.自分
ワわ.9
敢捜は成る遭物を手にすれば調む前に既に其内容を知
城隅紡だとか、春火奪取だ差か、一々それが㍊してあ
ある。私印は輪神々々といふてからかつたものである
教授が‖露間準に宥沌準として従︰申された岬のことで
ある。如何に数撞か供血に小心門であつたかむ詔右側は
百年二川咋もがいてもートナせ址許にも及ばないので
の牝命は如きに過ぎたものであー匂が.非結基は私など
であるから、揮潤鬼に・姫路で.はに撰者として五十年
か1る天才で而も一寸の光陰な情むで他項一∵れたの
私は是非此記念すべき郡物む見元いLL食掛してわる。
部文雄諏は骨て此邦と構飴したといふことであるから
のである。こ1にも教授の性柿が或はれると⋮†㌦。阿
奥さんが少しも知つてむられなかつたには破く堆いた
職印に打った畔.思ひ目して奥さんに尋ねて見たが.
聞き裾なかつたことを柁念に川小ってゐる。此頃評拘の
こに煎らず。それを教授から見せて帯ひ非借畔の諦む
ら.メックに訪問しないので、訪問してもツイ誹がそ
り匂とのことである。一度私はそれを見たいと川棚ひなが
が..教授は﹁レクラム﹂の﹁シ′rクスピーヤ﹂と外に猫
これは恩賜の時計や恩賜の賞牌と北ハに永く丞相読の豪
ってわたかと偲はれる程であつた。
ほ一冊間数語の習物と即裕とをd。‖製に入れて従捕し.
蜜とすべきものではなからりか 。
稚か地相抑雨の小にあつて.こんなことが‖来るであ
を白山に離みこなす架けのカを得られたことである。
られたがーそれよりも火きな版独は此従姉小に燭逸非
わられた七いふこト′︰である。靴授は判旋稚鋤八等にな
うが頓諮する併なく、両胸へでも膿む抑えて勉剋して
暇あるとき.膜にさげた例が前に来やうが.拭にあら
_r
木和歌津の恩ひ川
らうかて川もこれ芳の祁物に感想は勿論何月何‖遼槻
l
オフク
板木杵暴圧ハ先町・ビ惚∴
故木村寮費先生㌢偲㌧パ
1−
■﹁.・l
−
・けト
ヘけ一●−
か.′︰〝・こにはホ脱訓のf−∼賞の汚くカ・′−数ある経験に制
約せられたろ我等の理想圭糾するもの上の館定せるあ
■無八≠い拭モ粧・りんー′一欲†−りもわは〓・り神川浸†−⊥﹂エ
はろ1が、この人tはnも不測の大洋に臨むご七キも
り∼調和的闘雄を忍∬すろ槽虔が牛じやう。その認許の
限外を不飽州の衿︰げ・て〓らの即想L..の何れかにおく平
ハであろっ
葦常のいのちii併発に㌔、り・ニーほれるしかもその軒
先たるや山〓一基の分析計兢的たるもの〓上に〓で村 によりて、また無限の差陣をたす各々人々の肝謂態度
るや。邦雄鹿央の米桝照捕の限外を畦え得ろや。しか い含の抑娘をも坐するこ七になろであらう。そこには
る程度のものでからうかJ吊l咋にか1ろ不漁測の現踏
ちに掛してその晰究なるもの1弾くカは巣して如何な
倉々面接しっ1あるものと†る際−か1る瑚捏のいの
撃抒の研究にもかくして無限のす析が常に随伴してお
う.自鑓すると香とは各自椚分る1ことであらうが一
を知りていのちの被さを知らぬものもあることであら
がつた人の試みも生れることであろらし、尺寸の計鼎
も現撚はこれ遥々の過去を革み不測たろ未来の粍淵に 大雄む傷けん上して却って迭には〓らを択ふ。思ひ上
む眼力あー匂自らの経験にょhりて制限せられておる理想
寸進尺歩の研究に駆れたりと︰ギごしもその人に不測
たるものによりて捕‖し机輸し、これを施政ハ圧髄たろるこ七は不安れぬであ・らう。
ことは葉して我符に許されたる龍三1iなものであらう
g/β
はぬ張燥の蝕悩を生み.自らの邸恐が如群の柵に異常
すべき法が〓らと隔絶し来るや、椚清いて吐これに隣
常にそのは根を満喫せるものではない串がある。院腑
滋き畔代の失職を打くかの如き一世の指導希必ずしも
上潮化し去ろ古危析が成せられてむろJ反ソし、照畑想を
八鳳に和侵してnにいのちい不可思認を忘れ行く椚板場
に存すろのであ︼㌔しかし史たモこには川畔にけ析計
妃逃がすは非でかり∵Mもモ軋−非は兄迩が丁・∴、剰
ろ1恩廟高柿先生を有せられ.同畔にその撃損む甘讃
に於て江借にhにはその火hイモ忍めて郡毎に引証てら
兄︼?たらげ銀時計・恩賜歌・留箪・斡枕・教授と常龍山門
が史た先生が常に晰鼠に帆を上げて.世俗的にこれを
昔を作つて来られたかを語るものであるっ而してこれ
わ小∴職に骨︰って常に新しキ世粘か由造し交友知己盃嘘
失∴た土兄−∼のであ︼皇ノモれほ先里が如何に準界軟終
あ■ろ空い.而もその多くは現代綿敢牲ほその指導昔七
定に今.我か木折本網棚上りJもを頼まれものは蓋し
し∴けご∵り即臣Lす︰㌧野÷W、に・でろヤか・hう㌃、
せすして違って自らの計ひt−肩部がばぜられ〓すに到
し人情を敬茄すろ隼雄と尺取とを一般他聞に易々とし
〃いハ㍉わ終‡に笑草し護椚†ち蚊而・︰存す︼∵−王
りては.やかて他む退くー?﹂七に上りて臼らを圭てん
こ飽ち禅られ、かくて名門ともに我が閏印度哲嬰伽敢
ぜしめ.壬たか1る印象と輿へておられたが勇めであ
とし、或は桝駕に依らんとする外的な計ひ、鎚大明糾
有限なる‖々の現業とたし縛ろものは心は安く、不
らう.而してこれが大醗我が閑職代の隼界倣外の野で
準外の水準と鳩さる1ものであると多くの人をして㍍
測の現だをその齢駿に謹得創作せんとするものはその
九五
年人隼の第一咋であつたっ第二咋〓には海外に去られ
予は先根に東大の教椚に於て敢を受けたのは火jl正七
ありmであると考へて上いであらっ。
故人料率腎死恥か偲ふ
れかの如に晒し去るのが人里い精たのであろ−ノ
てべ
而も
そ部
の何
の何れをも㌫合せ人と†
くに
しは郡
意気を人里に悠ぜしむるもわが多い。理想として皿そ
の粉飾の誘惑が心鵬を磁ひ粟るに到ろのである。
ウり
放水村な禦死生な偲ぶ
し
その後は字非爪誹先情が代って裡む眠られた。攻で障 る。﹁阿㍑消磨論押の析究﹂は埜位論文であ・るが大借じ
朝せられた畔には予棒大隼陽布類勇一隼〓であつた。 利論評と淡謂論評との比校研究が骨子をなし、それに
たものである。我が囲に於ては推ほ博士の研究が行し
次で予は発火証十二隼基摘に婁有∴昨年裾型迫在外古ハ大毘坊津論及び損弁論に就いての新見解−生摘人せられ
ケ咋にHっておるので紋㌫に於て則しく敢む受けた刷
㌍もあ・るL′︰川舟はる1が純〃有線なる周州でれ・”㌔
問は誠に粗かつたのであろり邦⋮し烏牛霊武闘は殆んどておるのであり、リス・プビズ天人.プサン博士の影
最掩の御研究差見ゆる﹁阿㍑珪麿の世牲親心理親﹂を
除いては殆んど〓履これており鳥ので常習歓通じて数を 用土の常習は全く用土∵浦の飢抽による問特のもの
彼つた串これ烹た大なるものがあろじその﹁印度抒隼 で・始る邦は∵ナが上にその影媚したと思はる1人々む
士の親日性は後期の満雄になれげなる稚その捜小イ︼略し
崇敬叫︼は高柚博士との共菅であろし、箪ろ高輪博士 特に上ぐること∼決してオ析せぬのである。而して博
の紺摘にょるものかょ托せらる1。そり﹁六諦軒堪﹂は
恩賜恍であり満悦の紙惜を高からしめたものであるが てくるのである。隣って予の考によれば博士が撃界に
彿教の研究と阿毘邁桝の研究とを楯めらる1こたが必
大酔ドイセン岬土によりて組織せられた鮎が多いとも †バネ朽の他出をハめらる1購めにはどうしても邦派
のと思はれりU、・次で﹁原始珊敬川小却論﹂は姉崎先批の根
本沸教、りス・ヂビズ天人の⋮仙漕が多かつ免特化と忠要であつたのであるた〓舶ふ、この那これが門現これす
むに岬士には﹁解脱の道﹂﹁苑巫と妙有﹂の二溝があ
惜しいのである。
ふ。椰派沸教に拭いての櫛究、損曾の研究は相澤大成 に申造にして鮎れられたのは堪界の鳩めかへすん∼も
托のうちに収められておろが−前骨は†払九大敬司
後肴は荻原雲東北情との北ハ名のもとに〓されておる
が、大棺は先頃の労作によつてお一心ものし﹂推察せらり
れ掲苓と妙右の方はどうもそうは︰.けかぬが.研脱の道
クJ〟
●
ルカは砕か十群︵で︶も川たと自ら最近何かの折に勤し
く鈍らされた程前替界に琉わしておるものなのであ
澤井tしてH研登・ぺ⋮心小︰い山二面に・∵・椰膵の滝に遭姐
せらズlておつた宮、つに日付ふJ
である。而してこれらにこそ泥乱せる思想非は一道の
究の∵部七影表したれの.㍉しあ・ろか、特に伸上とプサン
扶政・競受・暁慢論の紆罪﹂は犬借手の大比婆沙諭研
†は鋸朝Jl後約めて隼非に澤よせりり﹁誓喩抒・大恕
理想と鮮決む求めたものと考へられ.博士の名撃を滋
博士の謹直批許㌢.締り込んだものである。博士く
によ
●
ふ追随肴の群を伸つた大きた動機をなしておるこ⊥∵
車両にその論鮎と論・.荷L′痘叫恥容して批評Lて下さつた
ろ。何れも博士の梯数の研究と砕放とむ撼られたもの
川小ふ.博士の御逝去を悼むもの1うちには博士の新郎
帖は措く雄の法悦▲疋嶋∴たこ七がむつた.車へでこの度
炬む論ヰん上せられり∼︰l!−Iもこれむ礫仰山∴虻の附毘ほ
の両面に⋮昆りて味詭し随って両面より博上の急逝む悼
博士の泄にあらる1や隼恥敢仲村れに於∵−も一代の
桁L根㍍し.混沌彿教の品邦に射られたろ不足を研ふ
丹心教墾講座㍊念論文隼に軌無した舟板未申の研究﹂は特
軋見であり.名野も帰しかつた。申してその薄かり∼∼
てカ≠楷苅十抽撲弼詔押入乗回昆迅麿毘埠汐をも包誠
むものもある串とm心ふがこの大衆に弦は通硲的に詐へ
や仲を喋げて伸まぬものはないのである。等しくこれ
せLむ∵り阿比津臍の根本武を究明したのであリヤごナは
に﹁根本申ハ穴場L﹂阿㍑珪熔の本華−の∵和む紬〓して
岬土の堪と捜との黙らしむる排でかる。しかし予が長
根本申より根本彿敢を瀧定せる串に於て姉崎博士、宰
・
h.れた∴劇によろ影挫のカが寧ろ多いのではたいかも
き研摩を終りて鋸明し旋盤と研究畳む同じうした最近
井r!宇土の根本沸教い軒先忙嫡摘たる刷梯をれしておる
小甘航したちわであるか.その論旨は睡土が阿−毘珪磨一
二咋榊に於ては、兇根lミ御令息の御l病臥攻で御逝よま
九七
ハでふ‡い∵軋に根来申印モ皿成定するこ十によりて彿
牧水村秦野発生わ醇ふ
む御自身り御恨扶Ⅶにて内外多輝の途を飾れており㌧
考へしむる怖がないでもない。
ごノ.フ
而もそれが同町に阿毘遁磨の根本光に翻ろこ七にょつ
の精抑をカ法論を晩にして捉へんとしたものであるゥ
備仙北功を捌かして以って村上弥捕博士の沸教統一論
教鉾の統︰的なろもの机絨的なるもの或は予の云ふ全
ろから北ハ油の研があつた庖で別に不思講の邦はなく却.
のでなからうか。尤も終車同じ火隼に揺られたのであ
人綱冶的とか適意的とか云ふ鹿に一触の共通野がある
■頂姉沸教忠恕忽﹂を諏んだ膵感じたのであるが.その
れはゃ︰人の成心じであらうか。この印魚住予が滞って
放水打蓉発光生か偲ぷ
て木村博士の阿毘蓮磨諭を批評するこ圭にもなつたゎ
って骨⋮然のことではあるが南光里には随分興った件柿
通すろものがあつたのであると見るのが著し穏常の宰
の野市者であられつ1もその研究力法の上に何等か相
ヽltヽヽヽl
である。
正したのは十〃十二〓であつたのであるが、同月肝.
であらうっ
然るに右の論文を完成したのは昨夏であり初搾を搾
‖には村上先坐の御逝去があり、木村北里にはまた記
や咋を舶てすして親愛なろ両北里■イ美・t〝たことは†に
くことは予の根心よけの願望膏あつたのであるが、人−
ある。柄先叛から印刷せられたものを見て批評して頂
机上に速球せられぬうちにこれまた追逝せられたので
を偲ぶよすがの詣であろノ昭和丑年五月十五∩博士追
のであ.ろ−土語られた先隼の・だ凪な御言葉も今は先頃
−常に†は訪朝の先頂に宜って旗振りの役を摘むるも
も人里尋常の計鼎や扱測の道を超過するものである.
て必しも結増するとは限らぬ。誠に大才の〓現も漫共
火才は願ふて必すしも氷るものでなく.英才は弄っ
とつては誠に︰宜の思ひ〓とたつてしまつたのでぁ
伸抒の雁㍊す︺
念論文免が〓馳せられて繭三円由来だ我等山般前者の
る。
木村北根の常北を読むキ不日小過lこも何鹿かに予はけ
巨尤亜あや打方に似油ふておろ塊があるほにり†でかこ
木村奉賛先生略侍
坐れ、幼名を木村二蔵王申された.里家は圧家を勤め
町の朝岡符準陽に人草された.偶・、常時院長忽滑谷快天
侶の教育横側たる小等院に人られ,進んで来場蹴赤芽
先亜は明治十川年八月十︰‖⋮右手螺岩手耶〓戯村に 明治甘五年閃月郷里の大川小堺校を巫へ、曹洞宗冊
られた柑であつたし、父常はr・lら†伏等に誤審を教へ
られたと云ふ。不車中冊せられてから、幼い数人の手 北里の洋服弟用韮瀧に北ハ鳴されたのが崩となつて、隼
等部の五年に細入され.準年止らゃしてこ1を卒果さ
代を擁して家計椚州難であつたらしく、北里は速に椚 院を追はれたが、すlけぬ先の先批は匪ちに青山準院中
屈へ準公に川られたと去ふことであ・る、
ある。明治朴∴咋川〃である。直ちに曹嗣小ポ大準に入
然し北牝のー他肌は予供の畔既にほの見えたらしく、 れた。先亜の中野堺楳秘薬溌賂はこ1で得られた詳で
浦=洞岩場華往峨基仰が引取ってお弟子にされた。西
人坤の選科根上して人準を抑刃された。この期英語拠
村大冊氏に依れば、カ丈は犯情を加栗太兼寺にやつて られ、明治肛パ昨七〃巫発と共に、死罪帝国大坪文科
鮮明を臆尭こせたい席誓であつ・㍍が.何しろあの野だ
.し
し
明拾肝七隼正月.相補二等新婚¢として召集され.
るっ
の教師竹甘して坤蕎のネ岨た借はれたと云ふことであ
l︰∵も.・′てれは無埋からぬこ
から断食された差ぶはれてんるJカ丈か先隼の今‖を
野想ガも〓粟なカ、つたL
七e才.ツリ.
七け#賢聖≠叫博
クJ.う
木村春児先批略称
第八価翻に光ftされて、朴八年十〃這節三野鹿病院に
勤務され侮輌兢の和雄に部首れた。先批の碗逸語はこ
一︹︶C
の頃上り基腱づけられてわったのであらう。
大証元年九月東邦帝闘犬輩文科大隼の講師に拝命さ
の従姉小に修得されたものと云はれてゐるり戦後の論 れたのであるが、これょり以前己に駒渾火殊に於いて
人証三年十月印腱密践宗教史を始めて著され、同囲
功行革には動八葦自色桐飛車並に一時金として金堂市 誹鶉をさかてわたやうである。
丸十閏を授けられた。先射は常時かなり邸登に乏しか
った筈である。然るにこの下賜企を郷盟の寺に法って、咋引き覇いてパ派作拳の大音を常に問はれた。帝団学
帥であつて、従って死損の挙界に於ける地位を肺保の
その山門を逸らせたと云ふが如き、先頃人柿の一面を 士院恩賜賞を授けられた。これ等は裁板が畢非への初
捕るものでぁる。
大正六年十一月助教授に作ぜ仁、れた。
節一妙と云ふぺきであらう。
科犬邸を卒業された。印度紆堕の鈴三岡率先になる評
大正八年七‖印捜曹解析先のため、繍ニケ年閃英国
凱旋後補び伸助大坪にかへhリ、明治拘十二年七月文
である。推挙小仙琵の二高に於いて高等挙校卒葉陰通
訳敬に合柿されたので、卒業の呼文率土の耶城む得ら に留拳を命ぜられ、同年十月大戦終結して傲座まだお
れ、加之常岬の最大の名標とされた併御恩順の銀時計 さか岩ぬ欺洲に向つて〓覆されたのであるじ英拘にあ
り、紋を恥転†と北ハに、従来の盛薪を堆即されたこと
を授けられたのである。先損の准拳巾は井上、村上、 られてはリス.デイ.ツ女火やスナード教授等と交は
高輪、姉崎新博士の指導を受けられた。
随分英語k土澤されたと椰められ、先根は日本で英語
明治囲十三年一月より囲十先年八月迄、特薄給典亜 と思ふ。戎畔女史から、ミスター水村は一年止らすで
として、印踵常襲︵印度に於けゑ背振鍵の役津︶を堺
攻されることになつた。先埴の拳徒としての生活はこ の地盤をしたことがある七答へられて、女史からそれ
乳膵
で英緋の先蛮が日米たかとひやかされたとの泡和もあ
る○
れだけに又先机の人としての︼耐を翻るものである。
果然洛陽の緋侶を高からしめたものがあ・つた。
今の府下高井戸町松庵の先牝和浩の新邸に移られたけ
昭和二年末永年托みなれた代々木山谷の節電上り、
迎んで拳界の泰斗を胡はれた1推人も恐らくそうであ
﹁松庵﹂土石ふ名が大場に先批の御誠に召した援であつ
繍剃忙至って吏忙山ハケ月の妊別を許吋され、火擁に
らっ様に,先批のニケ咋準の遊歩は、火いに清怖せん
た。臼ら松鵬守椛職と云はれたこともある。然るに此
最も心をいためしめたものであつた。
頃ふとし程風邪から御良男が床に新かれたの旺先批の
とするための雌伏畔代であつたのである。
大正十一年元月齢胡、酌ちに印度哲貌痴二溝座の楷
作む命ぜられた。この年十一月和名なる阿昆尊顔給の
へ﹂た公にされた。之比やがて先嗅が折柄的に現代思潮
昭利明年求〃﹁解脱への道﹂の姉妹鋼﹁間接より妙有
あり.弗相即忠の壇上である。静められて文拳博士の
に呼びかけ.沸教の現代的僻轡〝︼別にせん′.する川恵
研究を世に川された。全く先人茨踏の鬼女地の糊抑で
邸化を授けられた。宜なるかな、先取の名野郎に囁ま
を・浴すものL㌧ムふぺきである。先批が准基小.小野捕
に及ぶヤーお∴人は狩って彿敵背年骨の運動に依って.
一郎教授と付され、識桐く東京帝大沸教昔年骨のこと
一滴塵折揮を命ぜられた。この≡月.村上、前‖の二
−
︵
−
一ヽ′.▲
先牝じ帝大に春暁するた共に、伸校勘澤にも講兼を
語るものである.
これ準は先叛の鰐た︸り揮調一挙究で杜なかつ空しとを
その理恕の侶現に鵡カせんと暫はれたと捌いてわる。
水村*駅北蛇略称
て之を淋化せしめんとする試であ・つたとも云へる。そ
頃の沸教修道姶であり、僻敦倫鞘に近代的忠炎を附し
人証十二︰隼︰ニ月﹁解脱への道Lむ‖された。これは先
伸土が大邸を剋かれたのである。
火北十∴年誉月軟投に作ぜられ、榊畔に印度野拳拍
しきものがわつた。
▲▼
βJア
水村■†先輿‘鳥
積けられ.大正十川中頃上り日日の日本女子大場校に
とであつた。
︼○∴
於いて♭沸教官邸を議ぜられた。‡とヨへば従来キリ本年帝耶眼病も快方に向ひ、新準年上り議鶉にも大
スト教的色彩と見られてわた何棟に、あれだけの脚い
数に執心され、北里自らも縛び阿毘蓮離彿教の耶究に
的ガ両誌盲つくられたと云ふことは、弗燕忙して始全
め力と噸倒せんともらされたほどであつた。我が印野
て成し柑たことであも。偉大な跡と云ふべきである村
。忙於いても久しく溝鼠が鱒れる収に見えた。
叉晦年事休暇のニケ月高野山大殊に教授として譲葉 然るに鳴呼、
されると共忙、溝破憂さけて無比先埴由らの匂単に努先〃十山ハ〓午前三畔.突如としてに光一ごれた.ノ隼井
められたのである。この影響も亦必ずや大なるもの敢
が外に於ける絹代絶大たるものがある。
大本山総持寺莱畔に葬りまつる.
︵∬、古ハ、∴0ノ
苗穂棒先悪骨世#腔押厩大利椅と申す。
られ、今回擁旨を以て従叫化に叙せらろ︶法統を.
あらう。先他の行く瓜必ず何物かと翳し何物かを逝さ昨秋満都W二等に叙せられ.本年二〃動l叫笹を授け
れたのであも。
蚊近大米酢上り日収された帥禅準婆論二怨は先亜に
非ナんば何人もなし難い偶数車外真の耽鞋である。
先批としては八租乃至十怨としても完成される意属込
であられた。
琳るに昨年始めより誼く腺を弘はれ、畢者として澱
も大きな打撃であるところへ.その年初秋宴の卸長
男と弼梯以上に革装に亜された雅称を阿‖何時に失は
れた。兼の御薮は■悲猫の媒めまつる術もないこ
乱柑
義
脱への道﹂と、﹁席纏より妙宥へ﹂の内容を成してゐる
故木村泰螢教授の著作日録及びその解説
ーはしがき
︶
著戦目鍬の秤きカにも様々なカ法があらうと思ふが 請給文の礎衣年月が.容易に制肌しなかつたことはこ
︵
︵
︵
帥他称に澄表されたるもの.三韮なる棚繹といふ凪に分
︶
一昨は此の方法を断念して、一※たる米洒、二請雑
︶
私が、枚数授の猫背日蝕む、凄く様にとの交渉を受け の計亜にとつて最も捕手であつた。
た畔以来の布璧は、日米御るだけ多く先生1′、その得
た材料を硬衣年月晰に列記して.以て、教授のいはゞ
にとつても依りに無念−味なものとなることを恐れたの
誹資に於ける批清、伽ち耕作生活のカ而を明かにする 良してヨFいて見やうかと思ったが、その紙製は私自身
一助たらしめたいといふにあつた。
が併し、此の膠純な計鵡を推現する摘めにも、叉、 で、甚だ不完粂であぇが、初めの改定油り年代晰に列
衣されてゐる㈱係上.その材料の光弘が捲だ容易でな
の機骨に−梯々のカ面にてその労作なり意見なりを戦
の依頼であつたが.然し圭要なる井部の唯一つの簡埴
精しい外昨日の内容紳介を附すべしとは、舶群新から
次に、此の日蝕む作処するに際して、山楽御る丈、
梯々の囲雛を免れなかつた。先づ第一に、教授は様々 記するカ針を取った次節である。
い上.是郡の微衷年月竜扮する丈でも、吋なりの骨で
10言
あつた。殊に最も憫既に判明し御るつもりでゎた、﹁解な内容湘介でさえ、私のやうな不文の常には、二三n
放水村弁取扱控の普作目錦及びモの解枕
βJ〟
放水相姦賢軟投の耕什〓級及びその雛蹟
は俺にか1る。のみたらす、此の小の小論文でも、非
一口川
モル魁‖を推へられたものもあるので.成敗−・dじもの
が弧改してゐ乍ら.何等の断りもなき城合も多からう
糾介するとなれば.今一度離み配さなければ.記憶の
件りたいとは、私の希望して巳まない肝である。
の下、元敦と姓止とを仰いで.後、更にけ尤全なものを
∫l下、敬来年月¢下に︵抽︶ごわろlェ、椋lニ搬詣に・して甜書
溢
に非ざるわか†。駒、飢刊発端にり・〝初版り封救み附ぜり。
摩
って梗利ご恩つtので、之ね一紙・して鼎彼l二附・し小ト。
竹
耗
叉、欧文l王、敢行りqが明で兄い⊥.鈍吟ヽむいたカが比
〓
大正三、二−四
川プラトーンL︹け.ハ∴シャリト
こ托.ソィヒテの死後丁度H隼‖に折る大j仁三隼の
である。教授が火鉢院に於て特選紛発となられた時
部分であらう.教授が鉾非に最初に蓉衷された券件の
▲しろ手許に無物が揃って無い上、斡載される際、特に一に崩する。本文は東西思劫火上の頻似草加す享百 鯛
鮮ゐ上.轍載されたものも二三にして止らないが.何
あらうし、第三、結論文小には川舵者又は鍼酎密の丁 にあつたと聞くが、恐らくこれもその折究紙其の一小
は全然不例たものもあるし、節二、勿論多くの脱漏も の研究揖‖は二.印度に於ける純正軒塾の牽蓮﹂といふ
する細論文小、日伊、哉裁年月の不能定のものや.或
帖の下に〓水上ったものである結巣、恭一に以下列記 二〃∴十王〓.帝大の作鉾命例骨に於ける講演の附縞
佃、放め御斯けして出き使いことは.Ⅲ下の如き串
に迎べて.此の発をふせぎたいと恕ふ。
攫を寂し得る方面を、特にその著作に就いて.㈹研
−
仰の兇他に上り、主として教授が瑳に射せられるその
担.私が、過去約十年糊逝く、教授に榔祁してわた
とは今は不可能である。
るから.其の嶋は勿論ない。従って此の希具に添ふこ
例瞭でないものも吋なり多い。而も押l−1は切迫してわ
に入らないものもあり、手許にあるものと挑も、いざ と思ふことである。此等不山北備の卦は.大力の御摘偶
前に準他に弧安なるものが多い上.小には未だ私のず
●
的としながらも.印度思劫に.狐特の深みと特異性の
あることむ戻さんとする悪戯に繍ちてゐることむ看過
史。二、六波野鋒史。三.印度彿教史。川.印度教食
邁史。五.印度純正哲燐火に分ち.水井は増にその第
下請葡の取離思想となるものを取扱ひ、以て内容的に
一銅である。従って常然.水音の目的は.主として以
して、特に忠盛探いものと思ふから.その綱目丈を黎
全組絨の絶倫たらしめんとせられた肝にあつたと思慮
し得ない。且つ教授の研究態度の日置鮎を戻すものと
げておかう。一、緒言。二.︵南猫の︶外的妬似。三、
れること、これである。
上古火の傘考簿として、妨一に絹を加すべきものであ
に貢献したことも.それ丈祐大であつた。今村、印度
いはゞ欝蒙時代たるを弛れなかつたので、木藤が革非
博士の﹁印度宗教史考﹂雄二三種を喋げ得るに過ぎず.
たるもので、低かに非上皿丁博士の﹁外道軒隼﹂、帥崎
本譜が世に似た時、印度輩方面の研究は.誠に淑婁
某夜撫先の方法。州.丼在の柵。五.鍵在の現象。六.
︵調川釣元一糾⋮只︶
東京粥平川版血
人生観上の新似鮎。七.両替頼似の心理的理山。
教授年三十川。
閏印伴野挙宗教虹
大正三、⋮○
サケベー′
高楠博士との共著である。本啓の内容は.梨仇吠陀
時代より始ま少、梵沓、奥義碁を経て、托井時代に
る。教授が、彼の過大の志望の咋ばを超せられたのみ
入−トラ
及ぷ印授上古の思想を静雄史的に述べ、最後に、奥義
で、長逝せられたのは、堺界の鳩め.袖に惜しむべき
ブラフ†ナ.ウパー︻シャツト
脊の終期に於ける歩洩の開通が述べられてわる。此れ
西中出版祉
である。
火i−三即、五
︵動列六五〇封︶
一C五
印度好餌宗教史に次ぎ、女字通り矢継ぎ早に、今度
囲印捜山ハ瀬野準
丈の粘から見れば、畳解には.袈揖を、印肢上ホ代正
統政雄門思想史とでヰ御すべき絨であるが、これを前
記の如くされたのには他の郡山がある。壱の序文k由
れば、公印度思劫火を五m、即ち.1、印度粁嘩︷ぷ数
枚水村春畢軟投の昔佃‖適及びそり解説
2クJ
放木材非舵軟投の新作‖録及びそり鮒敵
比動力セ公衣されたのが.本非である。これに盛る研
究の成典が泰西のそれに射して、多くの特色を瑳印し
たことは云ふ士でもないが、又、他の一面に於て.彿
繹を許し御るか
人証五、三
⋮〇六
試飲耕究、衝、一ノ山
川お代思想の研究に於て.如何なる迄.新鮒
囲軟論の三松諭
完教研究、弥.一ノ∴
印度六派斬疎小の数鉛解凍の部門を漁憩し.その他
大正五、六
に上りて.史的恨光の下に机純化し酔系化された山ハ波
らざるを祁はんとして論述せられたものであつて、こ
教教相わ蠍鮮にも著しき諜献を持つものであり.これ
野謳の一つ一つが一語.その大綱を把得せしめらるる。
哲
押
仰
野
雑
■.■■−二
賢
誌
批作軒轡、“ハ
は.火止山ハ年十二月版以後の山ハ波打拳の投後に附鉄と
大正五、六
▲杢菅が.邸士院普をかち創るに至ったことも.溢し敢
然であつたらう。それにも係らす、教授は、決してこ して収められてわる。
意崩凝蓮の経過一班
火i−ミ六、六−七
何体歌碑脱主我の特徴
大正七、三
明囲澤阿毘蓮磨政令給ハ原本、玄炎詳︶
舶‰鞍刊佃一揮珊
作は.波遽楳雄拳士が耽に螢たられたことは、教授の
躾臨霊水畑土との共評である。此の非き下し等の労
人究・一〇︵紙︶
択
何桁如彿敦を鋸新改として.印度に於けろ主
れに猫足せられてゎたのではない。山ハ波野塾研究の㍍ 仰天下︼に走らん
成は.‖分の訳托であるから.都連と共に配に火いに
やら血ばならぬとは.吾々のこのカ而を輩ぷー一門下批に
始終謙られてゎたことであり.彼の﹁塊伽捉に於ける
沸教の影響﹂は.教授のこの念鰍の一成英である。教
授が突然長逝されたに際し.斯堪外に、教授の恵のあ
りし鹿を帖に報じたいと‖心ふ。
勿論.今日では、六派も部分的ほは.非騎に勝れた
研究が凝求されてゐるけれども.やはり全腹としてⅥ
参考書となれば、水沓碗純増上の搬がある。
りりq ∼・■■■′
授が最も骨を折られたものの山つであるとは.牝前座
柑倹って.斯狸簡朗に鮎澤づけられるには.常時.教
及びあの粧酢な文む、荻原博士の捕幣な音皿⋮拳併邦と
序女に由つて知らる1が.懇切な解出、科段の切り方.
考へら.る1払起動の鮮邦に就てゞある。教授が思想倫
に彿陀の根本思却む衣すものとして件へられ.且亦.
革界の邪禦であつた。其の小、混も珪恵すべきは.特
帰納又は根本彿教軒先が急に活気を里して兼たことは
らる1併と恕ふ。此の思想論が公けにせられてから.
の梓文に於て扱劫された通り、縁起軌に糾する縄々購
ヱ苦くに語られた肝である。
︶
部派俳教針先に就いて、ホ兼より最も節粟戯されて
に反駁的意見た焚来されたのは、邦人の刺辻教授であ
表され.更に糾いて判然と名指して、水頼政授の解将
った水場からの解群が、亦沼.宇亦両独授に由りて登
ゎた本給を、三共詳封放して礪鐸され、更に田仲論部
った。丁度私は常畔.印新研究室の副手をしてゎた畔
脾臓文庫刊わ伊
小の斯堺研究の雄.論叫︰㌘t試召きu︶を封服しっ1批
であつたので.和辻教授の説が雑誌﹁m心懲Lに戦友せら
大正十、三︵榊︶
評的砧が轡己れてわる。相.これには干犯龍抑教授と
ろ1や韓や、匪ちにヱを購詔し.木村教授が研究累に
′l
川畑滞典部小爪輪諭ハ原本、茸批評︶
の共莱な・る.﹁紙亜虹分流史考﹂が来光縞ながら肘鉄と
いですネ⋮⋮﹂といつて之を示した併、教授は例の快
ったが11.﹁先批.この紋起動の考へ力も、非常に研一′l
来られるを待って1今考へると甚だ無純な腔度であ
︵
囲午出版乱
して最後に加へられてわることを見逃してはならぬ。
‖原始沸教偲憩諭 ハ菊州、四六六M︶
︶
大正十一、四
前な利子で﹁ドーレ﹂として、忽ちに一簡しuって、﹁両
日いネ⋮・ごと︰∵︰はれたことを記憶する。その時l教
数搾の如何なろ揖懲閃揖に射しても.少くも自分に
ヽヽヽ■▼
充分御心の行く撃つきとめねばやまぬと云ふ研究悪
授の感度には、山新の蛸りもなく、平静池りであつた。
一〇七
峻が.最も朋睨に現れてわるのは、蓋し水郷に於て宥
放水村春野軟投の楕作仁l錬及びその解耽
牧水村奪取散蝮の常作目鑓及びその解説
一位.彿階の根本立脚他室がナものとして.而も且つ
多くの野人.変相耶の思索と鰹放とを油して逝されて
束た縁起搬の如きが、灼梓川に於ける︼個人の︼面的
解繹のみで、凡てを麗し射るものではない。多ぐの邸
者の葵叫日なる研究成典を待つものなりと教授が考へ
られてわたことは.本思想鎗の序女を引く迄もある±
︶
一〇八
丙午出版鉦・
大正十l、八︵♯︶.ウメニシ†ツー金華第二
翁州三∴四頁︶
火正十﹁十︰
13阿地建鷹合の研究
l
捕しくは、﹁阿児澤麿縁戚魔の経過に閲する研究.
・−
特に主なる血五経の鎗啓に就いて﹂といふ。
水沓は新制伎の壌位請求論文政和のものである。彿敢
はそが難解なる故を以て.二には址も亦.舷大なる併
の細説藤ともいふぺき所謂る小兼阿鎚建肺論は.1に
沸教に放ける洪超概の隠rといふ鎗文妊.かくして
快な舷迎であらう。あの難解なるのみならす.無味な
読んで、経れしも郊一に強く感することは、教授の稚
者の興味を喧甘しものとして.蕊鏡も深い。此の醇と
は、此のカ所に射する喋術側研究の新橋邁を超し.尊
久しく我が喋非から留られなかつたものである。本荘
以を以て、lニには、小乗頼磨と指せらる1併以を以て
起敲の理解への企てどあつた。原始俳敦思想鎗は.命.
此の外にも多くの研究さるべき間組と含んでわる。本
番は.姉崎博士の﹁松木仇敵しと共に.その折慈度と
る法制lを取扱はる1に係らす.全く肩もこらす.一丸
その成典に於て既着なる償値髪ポしてゐる以外に.斯
瑳研究者に多くの丑P口篭を抽げて此を刺戟した
筍くも臼分の掌位論文たる程のもの1快陥と度て門下
これに就きて、特に私の丸く感じたことは.教授が
に読破し得るが如き論述の手際は.又、特別である。
志味に於ても亦、その占むぺき塾界の地位は揃い.
呵マーソーサークヤ、ウ・ハ一一シ・クト︵五︶・マ
−ソーサーク†詮繋ガウダ.ハーグ撲︶附跡地
■l
︵原邦文︶
拗
以上の紡研究の成典と麗し総合して、より正しき隷
い。後.宗教研究新曲ノ一1三に要された.﹁原始
▲_
生たる私共に示して、研究そのもの1完成を期せられ
た一事である。教授の筏に射する至純の態度を掘すと
同時把.その襟度の甚だ廉かりしを示ナものやある。
大正十、十二︵鵬︶
呵解脱への遣
︵
大証十三、三
︵円六川、寧l七吾
甲
千
沸教を吾人のn常盤蛮に生かして行かんとの倉敷
を以て、これまで稜々の雑誌に.稜々の置目を捉へて
論述されたもの1放免である。︵勿沓.東雲にして初
めて覆表されたものもあるが︶。従って、一般向きであ
㌃と・その序文には断ってあるが・然し笹術的に償値
週
報
高いものも多い。
庭
報
が、元上り不破定でわる。
一.批命の本所と人生の意義
諭
︵改癒す︶
脱
l﹁解
︵誹
沢︶
三.所の穣束とその哲掌他意義
︵新修逸†︶
一〇九
川、自力土光と他力主我
︵中央公論−︶
い。出せわ馳Ltの︷王、出版悲の詑優に依ったものでわる
いから、特に=れを列謳・して、大方の御相承り使に倶・しわ
モの内容わ戊†経論文¢机披.年月厄も不明瞭叱りが多
破天克であらう。
この書物が、事斑上、︼拭何千邦も承れた上、焔励
束
革 まで出てわることは.蓋し柳教腑係の書物としては、
束廃退報︵攫風介疲刊︶
ゥパニシャツ一女橋井凹
14カータカ・ウ.ハ一岬シャウト︵二七︶は僻見ハ原梵文︶
︶
︵
即席地価教.石火乗沸教へ
大正十﹁十二
16大乗彿敦に就いて ・l
tl■■′
︶
大正十∴、二
帯
週
サパニシャウト桑津罪八
藷
洋
黎
磨
ヶパニシ†ツト金構弟七
︵マイトサ仙の侍へたる奥義︶へ脱梵丈︶
大正十二、六︵榊︶
雅
東
家
哲
●一■tl、
大正十二、二!圭一
17因蝕の分類とその顎建の経過
ヽ■ノ
llヽ
大正十二、正
大正十∴、四
呵沸教に於ける集覿と意志自由に就いて
霹 の 諮
ヽ−■′′
一▲■1−
畑マイトラーヤナ・ウ.ハニシ†リトハ七三︶
︶
●′l1−
21ス.ハーラ・ウ.ハ一lシちト
大正十二、七︵榊︶
︵良兄の典範、肘解姐、原梵文︶
放水村♯農教授の著作白線及びモの静観
社
盟
枕木村♯僅秋授の著作‖鑓及びその餅耽
五、節約沸教を推知としての主意諭の静建
︵中火公論︶
︵新徴表︶
︵竹駒宗講義織り・︶
︵新教誠︶
︵大正十二、四の軒串雑誌︶.
“ハ、彿教に於ける発動と忠志の自由
七.沸陀の道恕勅
八、大乗的輔紳
九.沸教の典如樅
十.現代の宗教的要求と新大兼併教ハ新時代工
︵中央公益†︶
︵火正公論T︶
十二.規班主飛と新大兼運動
︵女 作γ︶
十一、彿数思想と現代の批活
十三、生活の根本的基礎
︵大 槻?︶
︵女性、大正十三咋先月︶
十凹、災害と其の道場的忠盛
十五.運命と自由
帥
大正十三、正
規代彿敬一
︶ 28仰の排裁とその折邸的忠鶉︵解脱への遣併収︶
︵
︶ 24彿 教 将
︵
現代馴致ノ三
宗教研究、加二ノ二
宗散研究、新一ノー
大正十三、七
︶ 幻支那沸教革傭︵威山根り︶
︵
大正十二﹁九
叫佐川介石氏の融擦寄教諭
︵
︶
︵
火正十四、一
一一〇
現代彿放ノ十
宗教研究、新二ノー
27沸教に於ける心理諭硬球の火軌
大正十掴、二
人正十川、lニ
束末朝=新開
哲
隼
†
雄藩﹁私怨﹂沸教必恕研究批
祉
雄 藷
詫欧研究、新二ノー
30沸教心理論に於ける心作用分類の凝蓮
大正十四、二
︹佐野甚之助氏許婚﹁コーラLに血讐﹁ム批評︺
即印度の使命
呵宗教の本質と彿敦
︵
︵
l
︶
′■■■ヽ
大正1ミ十囲、七−八
叫沸教の瑚想と道撼︵上、下︶
︵
︶
高野山時報
叩
宗教研究、新二ノ五
現代沸教、十七r十八
大正十囲、八
大正十凹、九−十
甲沸教の人蛮概
犯沸教と人壁間監
︵
︶
︵
︶
大正十四.十
肌分別鎗者と部派の肝属に就いて
︵
大正十五、十
鋼廠伽鯉に於ける俳教の影響︵示教準論拠所収︶
大正十五、七
呵沸教研究の大方針︵胤空より妙有へ併収︶
︵
︶
︵
qq
′■′′ll′
︶
︵
宗教材究、四ノ山−二
祈節約彿教に於ける払起縦の開展
昭利二、一−正
木詮に就きては、前‖原如沸教忠恕滴下に於て職れ
ておいたが.﹁特に赤沼.牛丼.和辻請教授の説を讃み
︵ 二.
= ■.一
て﹂といふ爪し背きが附されてわる。上・巾・下の三
︶..︶ 如上り成り、上組は、﹁近時の挽起動とその得失﹂.中細
敬
雄
教
協
㈲
想
骨
︶ は﹁級起動の取水粕副﹂、作舶は﹁唯心級起上り輪廻線
赴に﹂である。
現代俳軟、川一
=ほ、損始彿敬思想施の昭利∴咋十月竹祁以下り版に附
蝕寸−Lて収めらる。
︶
.鱒帝大に於ける島地摘−iと私
︵
昭利二.九
彿
宗教研究、新川ノー
昭利二、十
昭利︰﹁十
鍋支那沸教史損の㍍成に際して
︶
︵
仰沸教聖典の見力
︶
、l
大
沸
〓心
叫彿 陀︵原著、オルデンベルヒ︶於日管雑氏英藷
昭和三、二
昭利三、閉
叫多無情⋮小憩とその敦骨史的骨於
′111ヽ
放水村感覚教授の著作‖練炭びその折説
ll
\一′
購似りと政所
l
︵
昭利三、高ハ
沸教文北、一ノ凹
邦寵飢囲ハ創刊舵︶
宰相法輪共芽
昭利三.十■
机
組
脚
仲秋文化、二ノ五
囲
昭利三、十−十一口木宗教大証緬詭十九懇
四大兼捏製経︵上ヾ︶
昭利三、十
世新しき彿歓迎動と思動的常数の貧弘
︶
1.
︵
購胤念と杏布と創造の紳士
昭利三、十二
亜大乗桃敦の特質と‖水沸教
昭利三、十山
1.
ポ推進の原則とその道程︵瓢空より妙在所収︶
l1.
︶
︵
須波、仲井思潮
本論文は﹁典察より妙和へ﹂併収であるが.目し、﹁彿
押印度沸教思潮
教‖心怨榊旭の小瀧﹂と改題されてゐる。
昭利三、七−E四
本論文は新刊、﹁印度軒鍵・沸教思想史﹂申に印度沸
教恕憩史と改名されて収めらる1。数理的菟建開展に
純郵をおきて叙述せられ、教授の帝袈された唯一の全
印皮沸教史である。−niし、粂てよりの教授の恵㈲から
一一−
β27
︶
放木材♯庶政掩わ漕作〓鰻及びその解洗
いへば.苑に足れっ邑訂に過ぎぬ。
嶋利囚、山
弧
誹宗教のネ環と沸教ハ虚空上り妙有へL併収︶
′l
収︶
昭利四、l一
組
用
洗
脚
体救文化、三ノ⊥ハ
叫沸教思想とその文化史的離郷︵虚空1り妙材へ﹂傭 ▲一︳ttヽ
昭和四、二
甲
︵四六列、四三〇封︶
昭和囲、五
手
︶ 桝彿教思想の開展と禅的考繋﹁れ空より妙有へL所収
︶ ㍊苑垂上り妙有へ
一
子
園
申
軋
閲
弧
人
道
祉
華
道.¶t山
新菅表
碓
細
囲
沸教文北、三ノ六
弧
●l
一一二
大正E十五、七
一、沸教研究のカ法とその方針
二.彿敦思想の帖質
昭利三.十二
三、俳救思想開展の小股
l−q.沸教思想の開腹と廊的考察
昭利l四、三
昭和凹、二
五.彿教思想の文化史的解#
昭和二、一
昭利四、l
﹁解脱への道﹂以後に、諸雄誌等に奇説されたものの
六.常住道の代衷的聖典としての法華緩
両㌧特に併珊る火兼滞権道に掬するものを収録せられ七、宗教の太顔と沸教
たもので.いはゞ前#の姉妹篇に相恩する。これ亦.
九.道徳の恵鶉
八.人牝の志飛
隼彿的倒他に於て﹁解脱への道に﹂劣らす、殊に﹁沸教
研究の新しき方向へ﹂といふ虐味に於て.雄蕊さるべ
的.宗教的意義に胱て
十一、本願思想の開城としての道徳的.文化
きものである。これに至って、教授平静の持論であつ十.攻道の意想
た沸教の民衆化㌧琵化の一端が、位も脇付に紙背に
鴎勤してわるを感ぜしめらる1。
︵金子開祖を横線亡
昭和三、三 巾、央 公 論
昭利三、十l
十∴.粒食と押在と批成の浄土
して︶
軋
これも亦、﹁解脱への道﹂と陶機の祁蛸の下に.その
内容を列鍵する。
鰯
▲
十三、現蜜と浄土
7
十囲.修養の折則とその道程
昭利四、三
昭利四、五
?
昭利二、
十五.批活の畢純化と内省化
⋮⋮ハ.夢と北∫l任
ヽノ
世親安心問題とその批判
昭和四、五
鱒金手大桑比の駅間に答ふ︵一−四︶
︶
︵
わ
か
つ
週
報
き
長
彿敏文牝二ノ五
家
秋
和
軸
恕
春
I−
風
数
外
歌
文
彿
中
本文以下金子氏との小外‖報紙上の問答は..教授が
両眼を損はれて、聯榔から.謹啓を全く禁じられ紳系
外
口
揃に傭まされ乍ら、正大女史の助けを得て.ものせら
l■/
れたものである。
中
邪念手氏の﹁彿軟鉄の方法に就いて﹂を説みて、
︵
私の旗揚を越ぷ﹂・・九︶
昭利四、
五
大東出版社
押韻絆阿比建磨人見婆沙論一︵兄貴部七︶
1.
昭和四、十
教授が大正十末年壇上り二三の葉と企てられてわ
放水村凝陀赦掩ゆ若作‖銀及びモの桝枕
た.嬰沙の組総的軒先の、いはゞ地ならしとしての蝕
繹串光は.大東川版就の計蓋忙由つて、愈々本舞案に
入った。而も.非葡な興味を以て終に若手されんとす
るに僅かに光って、勇泰一氏の病盲れるあり、引い
て教授‖身の鵬扶.それに紳系純友ども加はりて.一
帖に人批苦を背賞はれたのであつた。耐も飽くまで.
準的鰯並を捨てす孜々として努力されたことは、側近
者の等しく今佃.感銘する靡である。何ぞ計らん、九
拳
彿敏文北.三ノ八
昭利五、一エンサイクロ二へデイヤ哲幾立
哲
喘利囲、十︰
‖放撒㍗卓同時に盛蠍を失はれて、*細評が、その配念
︶
戟とたらんとは。
度
.班軋念とその釧秘カ
′■一lヽ
59印
︺
︵
こは.狼も簡明にして.且つ好個の印度哲畢軌詮で
糟責新聞宗教■
ある。新刊.﹁印塵密談・沸教忠恕史﹂併収、
昭和五、五
00新宗教の取るぺき形位
︶
︵
一一三
盟
放水村郡安軟投の耕作日銀及びその解離
ヽ′
別離派彿故に於ける分別上雅邦の地位と、そ
︵
の宗栽の定めカ︵本批併載︶
大来出版批
準抄の研究に技研されつ1、憤に思ひを南博鹿部に
昭利五、七
鱒関澤阿腿球磨大腸埜沙論二︵化生部八︶
致されてねた一つの敦れである。
′.■l
︶
﹁慣らくの保襲撃⋮:﹂と側近祈の勅音にも耳をかさ
す、琳界と教界とに壷される凡ての俄暇をあげて、漸
く木谷の誰椰を終り.節⋮ニ巷に正にか1らんとして、
︳
突如逝去された。草年正に五十。こは校証1三を待つばか
叩
T−
りとなつてわたのに.その奇刊も比ゃして行かれたの
も、械り情しい。
押印度肝塵丁仲秋思想史
l
昭利五、七新刊
︼つ柑ひ●
一二川
T︵毒一択一㌢ユノ・0︼こHつ.¢
に於ける拉後のものとして凝表せらる1ことになつた
のである。
′l1.
侶ヲi≡i−r■勺b亡己妄芦
︶
︶
︼汚リ
郁ソ㌻r︰l︼ごづ∴コ︼ヲキdF㌃巳
一3ニ.
モ
、、
ノ・こ.叫、Ⅵつ.︼−ド
ノ・こ一.−−HP一.
壬︼.ヂ∴㌢.P
C⋮−briニ芋︼T≒≡l・一︼t.11r・つrCごり・
鵬Tbe]Pt:−rノ、いl象ll墓≡才苫㌻≡l︼−巾
︼詫ソ
モ
郁Sぎご・つrP−dd訂≡i=︼J・烹三戸′・・㌻p︰5.
︵
︶
/ll
︶
′一tlヽ
析ノづCヨeコざ冒dd一一P√︼︰′・勺.
′ll’
︶
1つn芦
.′r〓d訂trヨP打○㌻.
三、Jのとがき
太恕は、政道相同から印度思想全備の手頃な凄考詐以上着古日蝕を油して見たとき何人も第一に用心ずる
の無いことをしきりに閃かされ、教授も亦、その〓こ
版とは、・この印度哲隼及び沸教偲脚力而の隼的不毛の
に就いて考へてもわられたので、エソサイクーペデ野
イの開拓肴として、教授が敢も勇敢に、痛快に聯ひ.
ヤ併収の、印度打壊と、岩波帖非思潮の印度沸教史進
と取せられし痕跡の脈然たるもの1あることであら
それに他の一揃文を附して、木揖名の下に教授の意う
志︶教授は雁て﹁僕は開拓者として、三川尺の併まで
霊妙
高楠博士に澱も忠斑なる既報者として木村教授のあり
がト一群却を既報せられたのである。計盛者としての
勿論、決して三川尺に止ってのみ居られたのではない
あつたが.全く遺憾なき迄にその間挿肴としての
り下げるんだネ⋮︰﹂と笑ひ乍ら語ら九たことが度々
荒超しをして行くのだから.後のものは、もつと深く掘
ー
を立て1結論を明かにするといふ封に弧心が置かれや
れた併であつたと思ふ。か1る態度からは、勢ひ大網
である。此の憩度は、教授の他の塊介にも、常に取ら
たからである⋮⋮Lと、述べられてわるによつて明か
て思想の燭光を背し.論述に窮周を感することを恐れ
⋮⋮これ種々の成語を参考することに上りて⋮⋮却っ
全く座右より斥け.謀ら粧典のみを材料として敦論⋮
従って凡ての材料は、その組織の夫々の骨軌みとして
うし.杜逓が肝珊邁志的になるは、n然の軟である。
し串を.争界は永遽に.鮎融せねばならぬと思ふ。
節二に.若しこれむ叙述の仕方に就て見るときは、
そこに木村教授の燭特の横切が屁蘭される。
ろ⋮⋮﹂とも云はれたα教授臼身も亦→宮の通り雄行
はないとて﹁論文を補くときは、成るべく材料た捨て
材料を蒐坐し並列することは、必ずしも背き静究法で
︵股見ではない︶むつけて⋮︰・Lと洋悪された。従って
ヱれを論究しやうとするには、北づ問揖全肺の見遺し
たら文帝がうまくなるかと、天抑傘りしやうとしたこ
づくてネ.高輪先蛮にょく往悪されたものだ。何うし
心の潜んでわたことを忘れてはならぬ。﹁僕も文群がま
明快な冷遇の基面には、表現方法に棚する拗れざる苦
授の如きカ耽を結って始めて斉し和んも.教授のあの
ルガニックの感じを輿へるに至る。葦し斯の如きは、教
ビビッドに蛮かされてmひられ.給金醗が何んなるオ
されたことは.原始㈱致思想論の序文に、﹁参考経と
とすらあるよLとは教授が私の不文を臆されたときの
教授は、吾々に打つてー始終.若し一問題に謝して
なるべきもの1、少くも光なるものは概ね油謝したが
一▲一−
−
−7J
越懐であつた。後準の鵜に留意す.へ汁一卦であらう。
一
車併鋼−木非と勉紘する忙際してけ、基準の参考押を
放水村毒賢秋招の晋作日銀及びモの.解枕
且亨J
残されtその面影
痍 さ れ た そ の 面 影
正
木
春
枝
門下生として十年近くも脱しく先生の‖常蛮括に接してゎた沢木春枝女史の追憶談に基づ
弊て異安心間取に㈱して、互に細論耕した柵手がそ
離された。
るやうなことは決←て無く、男めて長肝を指摘して推
伊を稚く洞見き乍らも.他人の前では人の無併を述べ
・−井
をつけす、冊一様に愛撫された。そして各人の道断如
人がわたけれどもー非の隅に何等好悪濃淡の分け隔て
った。従って門下に集ったものの中には種々雑多の人
み、何人からも粕封の掃頗を繋ぎ得る性柿の持主であ
先批は鶉合せ芥むと言つた凰に秘めて包容性に富
△△性柿・ムエ
特に切群なものがある︶
たが、今の塊合にこれを似めて見れば、その気持には
先鮎の性柿や趣蛛の一喝と断片的に枇ふことにする。︵坂本幸男︶
人蛮がはかないものである.とは常に躍験させられ
ヽ︳▲▼’
てわることではあるが、今度先生の死に匪面した呼ほ
ど.そのはかなさ.その悲しさを泌々味はつたことは
ない。﹁衆蛮を粧せんがための故に.方便して裡輿を現
す﹂とは彿陀の大慈悲セあらうけれども、我々凡下に
取っては.それが却って恨めしい。
今になつて見ると.先山の生前のことどとが限りな
く懐しく.慕はしくなつて来て、一諏一句にもそれぞ
れの意義があつたやうに思はれる。甘て、彿陀が阿蘇
に向つて﹁阿♯上、両件るや不や﹂と糊はれたことが、
彼の那渡彿故に於て説法であるか、不かの論議となつ
鳥持
のために或る一浪の人々から排斥されやうとしてわる いや
﹁香﹂と断ることの出来ない性分で、時には無鎚とは知
ことを細いて先批は如盤に﹁そのために細事方む排斥 りつ1も組まれるま1に執筆もし.講演もし、亦﹂出か
せんとするやうなことがあるならば∵日分は催令、放 けたり引見されたりした。それがために先鎮の生括は
死を早からしめた原因の一ともなつたやうに思はれ
線の一人になつても椅み止士つて相手と擁護†る﹂と 傲りにも多忙に過ぎ.繁雑に過ぎてそれが絶て炎症の
斬首された。この攫は﹁拳問は拳問として、思想は
思想として、相反駁もし、融資もやるけれども、それ る。斯ることもあらんかと心私かに案じる肴は﹁もつ
1して尋ねて来る人を無下に断るには忍びない﹂とて
常に如何なる人に勤しても気持よく應抱きれ.相手を
ヽヽヽ
度勤わたこともあつたけれども、その都度﹁折角.あ
は決して個人攻撃であつてはならぬ﹂といふ先批の持 と、ビヂネスライクに.耐骨日を定めては・J⋮﹂と粧
論に塞くもので、何時.如何なる襲Hにあつてもこの
凪壌を踏み外したことのない先蛮は埜界に、忠恕界に.
宗教界に、︼大センセーションを引き起しながら.果
の面倒を見たり、一般の人々を粥零する上りも、もつ
となど、寧ろ成ろ痛快さを感する槻で.その包容力の
向に足寄のことを廠ない人も無きにしもあらすと思は
くして一門弟のために、人のために.常忙而例を見.
れるが、炎亜は葦膝強無報の允槌からして己れを察し
残され㍗モの曹彰
ところもあつた。従って、轍まれることに封しては
ー︼七
に磯んでもない珍客もあつて、成る時−こんなことも
親さがあつたけれども反而忙於て、人一倍人僻に脆い 指導をされた。面白いことにはその面曾人の中kは時
又.正栽の概念に於ては何人と搬もー歩も積らざる
如何に頗大無法であつたかを親ひ知ることが尖る。
む鯛らせながら耶仰の開展を静かに洞察されてゎたこ と自己の邸を完成せしめることが肝要であるとして一
ら常然の鷺であるかとばかり肺僻し張然として煙草
ては問虹の渦中に容き込まれながらもーそれはさなが 繊足させて郎らしめた。多くの拳者薙の中には、門鶉
ヽ
息持
ヽヽヽ
一一入
てわられたのみならず、唯の一瞬時でも不快の念を踊
痍され㍗その面影
あつた。一人の托鉢恰が乞食にやつて来たが、その邸
したことを酷く悔もし∵恍もされた。然しそれは析終
ヒr
動がどうも不解なので﹁批冊は何宗か﹂と尋ねると、﹁曹
彿陀が到る脇に大きな凪跡せ仰せられたやう忙塊根
接してわないとわからない程、細めて微妙な動き方で
洞宗です﹂と答へた。﹁本山は何幽にあるか﹂と問ふと
﹁京都だ﹂と答へたので馳朝は過小した。更に、﹁押師は ある。
郁適者でゎられるか﹂Iその嘩既に遷化されて居た
と言ったので、忽ち、化の皮は剃れた。併し、その不
にはわられない魅力があつた。それは一椰の人格的魅
来た砕、それ程、先生忙は何人と雄も引きつけられす
のであるが ー と尋ねもと、﹁大塊釦丈夫で居られる﹂ の行く幽にも亦必ず多くの肝鞘フアン﹂なるものが‖
徳と黄めつ1も布施供雀をされ、笑ひ乍らその乞企を
力ともいふぺきものであらうが、先生は常に、そうし
たものが相手の気持ちを水郷しはしないかと心配せら
踵したのであつた。
先壁は、叉、絶えず西鶴し、反省して修行忙精進し
両、不快を感じることも亦人並み以上に強かつたにも
先生のこの悪政には少しも覚りはなかつた。同時に︼
克された。それは個食相手がどんなものであらうとも
で一寸した好蕊にも、心からの感謝と、尊びの念とに
原因の一つであらう。臨終の批洩で先生は弾む搬げて
もあらうけれども、愛息泰一氏の死がその最も主なる
ことの〓兼ぬ大きな邪推である。それには色々の節囲
れたが同畔に叉落しく宗教的になられたことも見逃す
晩年の先生は思想的にも.人柄的にも聞熟して来ら
れてわた程細心の沌恵も沸って居られた。
勅らず、努めてこれを翫に表はさないやうに心を制し
泣いた。﹁︰⋮・蛮きてゎたかつたらうに、あんなに執著
てゎられた。先亜は非珊に感倣件の就い方であつたの
てわられたやうであつた。たまに現れることがあつて
してゎたもの牢⋮:.可愛却に⋮⋮、まあ、い1く
■▼l︳▼
も、それは僅かの一瞬糊で.次の剃郷には既に同夜し
2封
ゾuつイル
何時であつたか、新聞に﹁巴珊の楯融﹂と人語な腐食
の〓た畔セあつた.﹁先生の械叡はガンダ!フの彿件の
い1上−早く彿様になつて−直ぐに叉生れて寧山七上
⋮︰﹂とその死ホと抱いて滞然たる沢の中に静かに日
△△趣味△△
なーもつと聖なる耶腋そのもの1やうであつた。
た表情はあの発しい税よりも.何よりも、もつと崇高
た横顔の線の糞tさとであつたが死の昨後に感じられ
線で素描きされた切るい凱と.純米洋式にはつきりし
に食ったもの1塊口同藩に語る第一印象は、あの太い
やうで†﹂・と言って先生を蒋ばしたものである。先批
霊β5
の中で繋心緩を績稽せられた。以来、拳一氏の単に
︳▼︳▼
就いては歎してたゞの一首も口にされたことはなかつ
■▼ヽ
た、のみならず時に一夫人が.愚痴をこぼされること
があつても静かに制⊥てこれに賜れられなかつたが、
そかだけに先生の心中には堪え雅き大きな悲しみと苫
稲とがあつたに相違ない。それが機て先生をして著し
く宗教的に樽凍させて行ったのであらう。
先生は何れかといへば無趣味に近い方であつた。若
であつても身には額装と撫ふてねるではないか。とは
む弘く制止された。憫令相手は蒼であつても.門弟
先般の腹励を揃へるやうに命じた。然し.先柁はこれ
また士それ吟基氏の教へ子であつたので、某氏鱒早速
かと思ふ,一束耶ってトーキーを職に行かれたことが
はなかつた。たゞ︼呼−−椛か復興祭のときであつた
たものだそうであつたがそれも最近は殆ど行ったこと
たらしく、シネマも津村巾は一週糊に一度は必ず祝い
近年は少しもされなかつた。芝居も本来は好きであつ
い唄はピンポンの世事であつたと自他ぎれてゎたが、
鬼亜のその時の心持である。この一寸した袋串に上
った。
山九
あつたがそのときなどは無件に歓んでゎられた碓であ
△△
糧されtそり吋彰
︼
っlて皇麺に締依する弛張の敬虔な遭度が凱はれる。
ヽ 椚待されて行った際、笑内役に一若付が山て来た、た
ヽヽヽ
些細なことではあつたが、或る呼某氏と共に其守に
●
/
一二〇
を言って居られた梓、それ群茶と煙草は先批に取って
凛され王さみ薗彰
卦だけは下手の横好きとやらでよく閉まれたがそれ
寄附せられることがあると、まるで赤ん坊が玩具を貰
呼号畔も推し郷い無上の哨好晶であつた。時に炸草を
も毅近は食後とか或は気分轍寄のために、たつた一
ヽヽヽ
人で、.ト先般の音楽を借りて音へばセルフで−卜並
った仰のやうに無性に半ばれたものである。
■,
べてわた位のもので.寄ら串間に糀赦せられた。先生
・哺好品はお藁と榔草とで∵酒は飲れなかった。先生
濃い漉い、緑茶に咽喉を帰らして、梼めて快漬に談笑
先批は死の数時間前迄、あの好きな煙草をくゆらし
△△
の粉寄み茶碗といへば斑に有名な収、偉大なもので、
もされ、叉勉弛もされてゎたものを。
の趣味はと云へばたゞ勉湿そのものであつた。
その大きな湯茶みで開陳なくお茶を飲まれたものであ
固の燃革を吸つてみたい﹂との念願を起されたとか笑
甘て先択は若い頃﹁功成り、名簸げた峨には月に三十
平米.あの揃快た薬傑笑ひを托して、﹁や一失敬﹂とか
の苦痛もなく大往生を邁げられた、その有様は恰も、
﹁アーγ−Lと〓啓三野、職的に和製鮭を訟いlし、何等
床に就かれてから間もなく午前三畔といふに突然、
って居られたが一食近はそれ以上に煙草を吸って摺ら
貰って、さつさと研究室から師つて行かれる時の梯子
る。煙草はスターと軟鹿を一月に空ハ個も吸はれた。
れたからこの木船は見事匿成就されたわけである。茶
そのま1なのは僚りにも飽気無く.飽りにも洒脱た先
茨愁.の源を溌ふ。
−宰六、;・朝月層uに卜
般らしい拉経であつたが.それも亦.今㌍.輔へ欺い
はリウマチに恐いし、煙草は心臓に脊があるからとて
よく荘志する新もあつたが、﹁自分に茶と榔草を詳する
ことは死の琵併よりも苦痛である﹂とか、﹁肥りたこの
隈を靡押したら何が残るだらう。恐らく煙草の炸と茶
の滋味だけで後には何にもないだらうね﹂など1冗談
β∂〝
原
開聞神話の構成と細々の二道加︵下︶
八
田
敏
明′
∬7
でぁるが、今此の疑問とせらる∼添加の部分を切り隠して、その残りの部分を以て一書の他打線
複雑なるものでみ\き一には或る意味に於いて添加されたる部分がぁると云ふ疑問を生じたの
以上述べたるところに依って、書々は開閉に関する諸備中、辟に古事記並びに書紀本文の傾が
、畢 猫 地 海 未 上  ̄生 葦
l書 R
事己
乱
久 ヰ
本
之
文
響
集
天
地
勧 列 苛
之.岸
菅 地 書
之 天 弟
時 地
成
書
天
第
地
四
日 時 天 算
天
勧
地
茅 六
制
書
浮
開
湘
稚
ヰ
而
響・
●一■
之
浮
圃
た種々の形ではないかと思はせられるのでみる。
響 稚 音 第
猫
次 古
如
浮
隅■縛循の♯成一−清々¢迫山宍下︶
珂 書
侍と対比して見ると、仝憶として少なからや似筆舌盛が明かにされ、︰同じ物語の瑳化して生じ
●
之 如
閣 下
戚 物 輩
Jl
郡
之
漣 阿
所 斯
因
袖
時 多
射
謄
河
陀
用
ー
故
便
牝
囲
常
立
悠
披
可
実
華
北
生
之
紳
水狛
一 天 也 魚
輩
牙
紳
、寺
牙
彦
果
草
状 中 子
鱒
其
中
自
有
之
之
浮
状 虚 −
貌 中 物
離
問剛剛括の構成草餅々の追加︵下︶
その対照の結果は大憶㈲表の如くなるが、凡ての物語に共通な箭書を示せば、
︵l︶天地和‡のこミ。
︵二いその状態の形容。
︵三︶その内lニー物生するこご。
︵四︶その一物の形容。
︵五︶それが耕せ化する︰ご。
在
於
牙 渋 生 国 之 状 生 干
彦 可 之 此 抽 如 物 時
果 実 所 有 出 葦
国
尊 華
中
牝 也 牙
而
凍
蕩
寄班
国
常
立
有
紳
人
寄戟
囲
常
立
倶
生
之
舵
圃
常
便 生 如
共
牝
中
豪
無
生
斬
物
係
寄
中 牙
先
人
勧
舵
困 於 著
有
天
此
物
草
化
.1∠
所
号
酋
田 於 著
此 空 浮
常
化 ▲中 背
立
紳
〓三
冴β
雨
備 宇
生
有
物
生
一
︵六︶そり紳の名。
となる。
此の内、︵一︶に就いて見るに、多くは﹁天地初刊﹂又はこれに赦するもので、極めて支那の思
想若くは文章に類似して居るに拘らす、書紀第二の一書に於いて欄、﹁古囲稚地雅之時Lとふγり、
開聞調話の構成竜紳々の追加︵下︶
が複雑であるのではなくして、書紀一書の諸説の侍へると−しろ以上に、或る特別のものが添加さ
して、その構造の一府扱痩なるものであもと云ったが、その複雑であると云ふのは、物
かくして書々はさきに、古事記所載の物語と書紀本文記載の物語とは、書紀一客の諸
紀の他の毒の何れの博と錐ども、たゞ多少の炭化を生じ、澗飾を加へたものに過ぎゃして、・そ
一
の物語構成の上からは矢張り同一系統のものと見ることが出水るやうに思ふ。
が、
ならす、使用する言葉まで非常に類似してをる。かくて雨着は更にその記銀のもとゝなつたもの
軸を共に1可美葦牙善男軸﹂とすること、これら一ピ共通にしてをり、両説話は単に、その内容のみ
侍は﹁囲稚﹂と云ふのみならす、﹁浮膏﹂七云ょこと、﹁如葦牙之抽出﹂と云ふこと、而して化生の
古事記に於ける﹁国稚﹂主石ふ考と共に、特に別其の威を輿へるのである。然るに果せる哉。爾
g79
剛■謝括¢構成ミ榊々の追加︵下︶
れて居ると云ふことになる。
〓一因
即ち知る。古事記に於いては書紀第四の一書第二項のやうな物語が、何時かの陽合に添加され
て、精々統一めるものに整理されたものである。もとト2Jれに㈲して古事記の編者が自ら添加
ヽ
したか、又は海老以前に添加されたかは明かに言ふことは出奔ないが、屈し又こ∼に古事記を以
一J㌧
て、.編纂昔時の諸説を参酌し統合して出水たものとするならば、.或ひは凝着の湾の現はれたもの
と云ふことも出奔よう。而して青々は後にも述べるやうに、古事記はむしろ7てⅥ昔時の諾伸一ざ統
合して、一の組織あ名物語としたものではないかと考へるのでぁる。
これは又番紀に於いても、物語の構成の上から、.巻頭の文句はむしろ鎗計な部分と云ふことが
出水、拓かもその文章の成立が支那の文献に基づいて居♭、他の部分と全くその趣々異にして居
ろ粘から、少くともその思想並びに文句は添加されたものと見る方が、却って提督ではないかと
思ふ。伺且つ、その添加も撰者以前、書紀以前ではないではないかと考へるの
九、醐.々の追加
日本音紀が、﹁紳代巷に取って殊に典故の多いのは、諸氏族の間に所侍を典にしたものが存し
た﹂と考へることも出水るが、里併し濁り異民族間の所侍としなくても、同一氏族の周は二浪り以
上の何がある場合もぁら得るし、而してその場合、それらの間には教生の時代を異にした場合も
別
/
/ ̄
あるやうに考へられる。即ち畢に準面的の諸相のふでなく、更に立健的の諸相が同一平面に堆積
して投影したものとも見るべき鮎があるのではへ甘からうか。
而してさきに鋳げたやうに、古事記及び昏米本文の巻帝の一部を削除して他の一番の侍と対比
するとき、夫々の侍承の間には散り甚しい差別がない。併し開閉の最初に出現する紳の如きは夫
..上﹁
々の資料に従って多少の差典があり、例へば書紀本文、第一、第四の一項、第五、.及び第六の二
項の如き諸一書では問常立食となつてをるのに封して、琴一、琴この
美華牙定昇食を置き、第六の∴一書竺項では更に天常立合を初めに添加してをる。而して璃卜第
四の一昔の二項に於いては舌串記の如く天御中ま頑としてをる。
これち夫々の典侍は単に典つた侍と云ふ以上に、.それら諸典侍の間には、一は他と全然異るの
ではなくして、寧ろ一心他の侍に更に添加され花園係にあると云ってよい。一たヾ殉り第四のこ音.
第二項の侍では、天御中ま始め三和の物語が極めて簡単であるために﹂・他の赫々との関係が明か
一
でないが、併しこれを古事記の停ふるところに依ると、文明かに更に添加されたと云ふ関係が■、
ここにも見られ古やうに思ふ。殊に古事記の此の場所が物語構成に曹って更に追加された打ので
あらうと云ふことは、既に前にもこれを述べたのである。
ユニ五
もと′∼赫々に牌する侍承は、その氏族を遥にするに従って自ら多少の差異がぁら得る町であ
閂欄洲括の構成ミ耕々の追加︵下︶
β∂よ
.
隕隅所話の構成草餅々の追加︵下︶
一︶一六
るが、それらの氏族の政令醜係殊に政治関係によつて、一の統一ある物語と構成されるのが一般
であるが、これは又同一氏族に於いても、その赫々に関する観念の庭蓮に件つ千種々の軌語が生
れるのであるが、これも一方には単なる違つ花物語として侍承される以上に一の統一ある物語と
Lて構成せられて凍る。此の場合、古い物語に現はれた古い細々は、或は従妹の意味と役目とを
持たす、異った役目を演するに到るのが自然である。
かくして書紀本久の如き主宰の紳としての固常立食が、そのもとの役目を失って天常立食や天
御中主軸に、その地位を譲らねばならなくなるのである。而してこれは人間思想の蓉展に伴って
逐次に添加され、添加されるに従って種々の典侍が生じたものと考へられるが、′併しこれを古事
︰記に就いて見るとき、古事記はか∼る意簸でそれまで除♭統一なく蓉生した種々の典侍の絶てを
綜合して、lの統一ある醐話憶系に構成したものと見ることが出水るのでぁる。これは次に示す
陶表を見ることに依って一盾明かに理解することが出水るであらう。
郎2
じで天常立食があ丘㌔而してそれは大地に成ら出づるに非す特に﹁峯中L王生成すlるも打と早か
.∴一−I
卜した場合の大地の紳で雪。それが天若くは容と相対立した宇宙観に於いt瞥固常立食に蘭
囲常立食の本務の要は、決して天と封立し天と並存した意簸での大地の軸ではなく、大地を圭
五耕一ざ特に﹁別天紳﹂として別置してをる鮎などに依って、これを知る−・㌻が出水る。
切、第五及び第六の諸一事に同じく観常立食を第一とする鮎、古事記に於車て天之常立紳以前の
語の構成時代に、一般に最も有力なる物語形式であつたことは、書紀本文のみ灯らす、第一、第
観常立奇々最初に生成した紳であるとすることは、書紀や古事記の編纂時代、少くともその物
が3
開聞神話の構成ミ前々の追加︵下︶
如きも、仮令観常並食を第一軸とはするが、そこに天地を包合した意味での宇宙観がなかったと
た固之常虻潮と∵全くそ欄内容を異にする㌃のであると厳密に言ふのす軋ない。既に書紀本文の
ので㌢∵むト√㌢れは書紀本文に阜を固常立替が、ノ古事記に見与、天之乱立紳に封立し
も.
、 ̄\
印間醐拝の♯成ミ前々の迫面︵下︶
云ふことは出水ない。
p
此の貼に就いて日本紀私記では、﹁公望私記日、集吉事記蕗五紳下些で此五柱前者別
賂則古事記者、惣別一夫地初分之後化生之紳l也。故野鼠天原所為細密載乏也。今此書者、報初取二地
上之伸治下着也。故不奉天紳在高天原一着冠。巨jのと云ってあるが、併しそれは単なる地上の紳
ではないァ又認に、固常立食本務の婁である大地の押その倭の役目でもない。既に書紀
の物語では、団常立食は天地ま宰の紳として、﹁天地之中﹂︵書紀本文︶又は﹁虚中L︵第一の一書︶に
生成した紳とされるのでぁる。然るにこれが古事記の如き物語に拭放されて凍ると、単
耕となつて、天に射する地の紳とされながら、それさへ除♭重要でないものとなつて一
る0
川 武田祐膏氏、﹁紳モ耕を集る者亡の文拳﹂三〇。
拘 梓日本鉛、圃虫大系、七ノ五七五。
ー○
天常立食と可美葦芳彦男尊量の関係は、第六の一書の第一項主音事記の文とに於い、ては1そ針
先後を異にするが、共にそれは観常立食た射して生する二の方向と云ふべく、その
奇と云ふは、その名の示す通ら葦芽の如く国土若くは宇宙の生成する過程を醐化し
朗ヰ
ペく、可美は美辞にして産も鼻も食も背これ葦芽を人格化した一種の令解であ・つて、紳の内容を
示すものは唯だ﹁輩方﹂ある阻みである。此の意晩では必然的に可美輩芳彦男尊が囲常立食上り
ー■
も後に生じた構想で、従って可美葦嘉景は常に固笠寺に先き雇って.現はれるのでぁる∴1
天常並奇といふのは、云ふまでもなく固常宣告に亜対立するものであるが、もーてl∴1れは﹁葦
∵
芽の豊中に生する現象を客中に移して﹂前の起原を詭明せんと七たので、そして此の思息は又醐
∴
名に現はれ、固常立食の観を天にとらかへて天常立食とた
も観に対して、それと天と対立並存したものとしなくてもよく、単に.﹁峯中﹂主食成するもⅥ上
しての必然の特化である。即ち第六の一書に於いて二の詭が拉び拳げられてをるのは、﹂何者が必
らゃしも相対立するものでなべして、別々に二通りの物語があつたと云ふこと控不す亘のと見る
ことも出凍る。然るにこれを古事記に徹する時には、古事記は凡ての赫々の間に一
を行ったと見られるので、この雨着の間に明かに天上観との対立並存の意暁が表はれて官∴金
一
って第六の一
れてあjものと考へることも出水る。
次に天御中主副は書紀第四の一書第二項並びに古事記に見える如く、常に高量産婁紳、紳量産−
登醐と共に一のtr已をなして現はれるのであるが、それがこれより以後に書鹿及び古事記の諸
綱縄計時の構成ミ醐‘の浪加︵下︶
ノ′ j好∂
一
ヽ
開■調布申♯成ミ前々の追加︵下︶
●
l
■
一三〇
所に現はれる場合には、常に此のtri乙の形式を採ってゐない。殊王天御中ま醐は物語の上に全
く現はれ賓て、主として拘り高量産電飾が後々の物語に重要なる位置を占めてをるのである。
これに就いて津田左右苫氏は﹂﹁此の紳が晩出の紳であ・つて、最初に作られた紳の系譜には勿論
可なト彼の潤色を経てゐる系譜の諸本tも載ってゎなかったので、書紀の多くの一書が即ちそれ
であり、巻首の本文もまた其の詑を博へてゐるのであるが、後になつて何人かの頭の中に此の紳
が生まれ、赫の系譜の一二の異本に書き添へられたのが﹂古事記及び書紀のlつの一書となつて
今日に逼ってゐるものであ牒。又物語の記されてゐる萬常に於いても、其の最初の形に於いては
此の紳.は無かつたのであるが、後に侍はつた多くの異本には、かういふ紳の生まれセ後になつで
補はれた話が記されてゐたので、書紀の本文にも古事記及び書紀の多くの一書と同じく、それが
樽へられてゐるのでぁる。L印と説明してをられ㌃。此の茹だけでも、此の三朝の物語が一読に席
く可美葦牙定男強、天常立食乃至は固常立合の物語と、除程別種の系統に属するものであること
を思はせるので、而かもこれは可美輩牙彦舅食若くは天常立食が、陶常立食の物語の延長として
追加されたのに封して、決してその物語の更に延長されたのではなく、これは既にも述べたる如
.刃
く、別の物語であ∵り、それが古事記にあつては重複して一の物語に統一綜合されたものと見るべ
きである。
怠§〟
′
而してその最初の形に於いては生成カの紳化である産靂の信仰であつたのが、記儀の中には、
円陣前行り♯成軍閥々の追加︵下︶
以上述べたるところに依㌔知ちれや琴∴.㌧日本所帯に於ける開儲詮は、その統﹂ある鮎及び
囲津田左右笥氏丁耕代史の研罪﹂三八−三九。
り︰津田敬武氏丁耕代史ミ宗教思想¢蜃蓮﹂六五。
や古事記や音簿拾温よりも却って温かに新しいものであると云ふことが出水る。
加が、逐次彼の時代からの添加であるとするならば、此の粘からも蕉事紀の巻頭の記事が、書紀
はあるにしても、この和も亦た一種の追加でぁると云ふことが出来るので、若しか1る細々の追
して、天成天譲日天狭霧固輝月岡狭霧専と云ふ軸を奉げてをる。赫々の組織に於いて多少の差違
糧承されてをるのである。然るに更に嘗事紀に於いては古事記に天御中ま紳を第一紳とするに射
命ほ且つ音詩拾遺に於いては、此の豪已に津速産室和が追加され、これは青草紀に於いても
き、後世編纂の記藤には、此らの観念が一屠明確に現はれて努みである。
その後の部分の記藤の中には却って現はれて凍ない。そして却って音譜拾遺とか背事紀と云ふ如
を中心とするtri邑に組織されたのは、除程進んだ細々の健系であつて、従ってさういふものは
ま立った細々の裁として、又は醐蒲伎軸漏美の紳としての役目を演じたので、それが天御中ま紳
2β7
開聞調括の#成モ前々の追加︵下︶
;三
視維なる鮎では、古事記∬書紀本文に優り、書紀の本文は諸妄に慶つ七㌢る。而して書紀や草
丈は古事記と同棲に、先代の琶詐を輯鎖したもので、諸一書は更に内容を異にするも町を採叙し
たものゝ守っに解するものもあるが、吾々は寧ろ書紀本文を以て諸一書の所詮を統合組織したも
のであトうと考へるもので、此の鮎では古事記の文は書紀の本文よトソすb東平﹁暦綜合され組威さ
れたものであらうと思ふのでゐ寸書併しこれを以て直ちに古事記編纂の年代に疑を挟心ことは出
−
・・
凍ないが、.∽たゞ少くとも開閉詮に関する古事記の文の内容は書紀の薄青所詮の内容を前提する
ことなくしては不可能では月かったかと思ふ。
−
又細々に就いて見るに、殊に古事記の知べ組総立てられたものに於いては、或る部牙から以前
は、古いとされるもの程、却って新しいぅのであるといふ珍現象を見るが、併しこれが多くの伸
耽時代の歴史に普通の現象でぁるL云ふことが出水う
一
は今直にこれ−ニ徒ふこミわ控へるが、少くナ丁も本論文の園係†る首席でlミ香紀の丈が古事記のそれよりも以前にあつ圭
もの亡者へ㍗いのでぁろ。倫ほ此の鮎は他の箇所でも見る=ミが出光るから、古事馳ミ専紀の託銀の問題に申してほ別
に纏めて論じ㍗い。
創婚
■・■′
日中澤見明氏﹁古事把論﹂には甘事馳を以て平安朝期の偶作軍断じて居もれろが、偲めて卓見に満ちた坪託が
﹂
い
′
ノ
ヨ
二
ハ
ネ猷示錬の
理解へ
富
森
末
次
貴の奴は、貴族仰の奔移逝預の秋風を刷新するに充分
なるものがあつた。郎も上の好む併下之よりも拝しの
兇暴性む澄はして、紀元古ハ八隼.㌔仰界はこ1に位火た
を得て、大に振興するに至った。さうしてトラヤヌス
へられたるストア道梅の部憩は.既に免件の背覇に勢
ト;ス︵毒詔︶、マルクス・丁ウレりウス︿蒜針︶
人範圭溝に基いた法紺の制定、購入及び奴融の人碓せ
椰憩は、その賢現を見るに至った。即ち︰ハト丁野邸の
tて既に玉村正常人、狩人は王者たるのプラトーンの
光雲りしアサグスッス︵l給餌語根︶の耶漕−その
叫︶の帝位に懲
の代に繁り、帝脚の賠焚はカにその儀に超した。そう
が、やがて.劇痛ウェスバシアスス︵揖
ると北ハに・帝蜘は捕び隼利・醗梵を糾て、その降〓Hの
笹和紀に入った.:の血日放の問にm命祈の訝はあ
吊ハネ鱒邦銀ゆ珊解へ
二∴∴
純、公証たる政治.粗方n治の鵬程など∵馴化に見る
つたかなれど一拍カ〓身のソラヰりス家塵前の謝腋餌
l
畢菓聖卯〓l埋禦還首囲雪帝細は﹂畔乱れんとした
るヤーユリウス・カエサルに〓労してゐた血脈
経箪
えハドリア芸≡か︶の琵姦て、アン
︵は
叫隼
る怒術蒙を失ふなりJといふ稚叫と共に目迎するに至
それは舘攻ロマの文化が、耕忙その光輝ある第
別地の
郡二
で.
方に併称政雄刑の正風に毒せられすに、その
隆盛に入らんとしてわた畔代である。即ちネロ
そ保の
搾が
朴を
持し郎たPマ在水の敦揮の炎風.また新に椚
ヨハネ欺議級の報はれた畔代︵紀元九〇−九先年︶
ご∂7
ヨハネ就示鎧の理解へ
一三門
▼†1.〃〃ト
クエヤの鳥に至る迄.睦織として到る肝に恥骨興り、
完備せる道路、規模宏大なる水道、彪大なる園戯墟.
′’︳〃ケト
見〓さる1橋梁・人道・水賂の三屈より成る水道の
監のものな
′\′■
﹁ノド
‘’山T■.1ノ
﹂し・′U
れども.常時の水道※串の規模宏火なりしを侭ばしめ
場の如何に宏批菅藁なけしかを伸ばしめる︶正にサ〓
劇場.何れも溝共を壷してわた而−面影を柁してわるばか
り一
る。帥ちこの水道の如きは、∴十五郎の速断上り泉と
各一
四︶の如きは.何れもその蹄形を今‖毒完全に保存
二択
ヨルダン河の粟.アラビ7の抄漠忙逝きゲラザに見川
晶め1しわ晶及瑠齢幣聖︰︶り如きは−常時の浴
せしめてわる程に、建策戦術の池井車ポしてわるゥ
さる1敲棚は何を物語るか。町の南北を黒く年哩のポ
だゲルマニ胡塊の城壁から.翻はサハラの砂漠に至ろ
られたものではない。北はライン・ドナウ耐河を繋い 次前の粍廊、その中央には公人なる神殿、赫北二偶の
而してこのPマ建築物の黄金時代は、畢忙帝都に限
馨砕︵餉蝉︶−ハド与ヌスの奨非の聖断︵琵紳輔
た。また彼の幾多鴻巣を浮彫像となせる白色大坪石の 運びしといふ。また今口笛耐難のバースにその隙跡
地中海滑伴世界に於けるあらゆる建築物に著してわ
公骨盤に至甘ては.その肛よなる革に於て、貰に常時
極めたる公命紫をロマに建水した。殊にトラヤヌスの 遺跡︵踊冊㌫綜︶の如きは、前畔代︵
7一一ソ人
ネルワ︵仙綺︶またトラヤヌスらは、各毒炎の韮を
と耶せられて㍍るのはーその仙氾跡である。更に被及び磁の廃城の如きはそわ二である.俳凶の南部、ニムに
るの嘉大なる闊戯功を都に雄正した。今‖コルシアム その日膀のい部を戎して、土人の村絆を岬脱して閻戯
る耶膵を記念するが偶に、無慮五舐の搬衆を収解し狩 酵併に隠州†ことが川粟た.今‖北アフリカの荒野に
.ハシザカ
るものがあつた。北づウェスパシγヌスは、その赫々た華美なる浴場.灰刑たる劇場、肝臓なる諸事党など、
むに物解約な文化の方打に於ては・一婦光坪炸然た
ろに溌つた。
革が‖衆なかつた鞘攻が、明求償童癌而の下に行はる まで、兼はユウフラテ・アラビヤの鳩から.西はプリ
■11
●
.
■
救衆数千人に射する廉価と追さ五甘択幅宵八十択のタ
この時代の都竹入であつたっ従ってその椰憩境を描く
常備は骨⋮時の文化室鶉を帝定してわたがらも.彼も亦
れがヨハネ教示蝕の準刀、れた時代の文化なのである。
ンクと有せる腫擬舟介戦場の追跡がある。僻陣の地方
にしても、牧流牧牛に戯れ牧歌聞ゆといつたやうな‖
りではなく、城外には廉大なる佃形故技場と相隣して
城邑に於ても、斯くの如き宏大にして華美なる設備を
r9∼りは
ナ・ワ一丁▲丁7
有してわたのである。常時のロマ文化の雄大批腰なる
の如き純金﹂の都であつた.
こ
閲亜活に非すしてー﹁石垣は椚玉﹂.﹁大路は落胤る破璃
こと、たゞ驚嘆の外はない。
これらの多くは団塊或は捕蚊にょつて建立せられた
てわた。さうしてホ典薬術の粗品を楼批氾によりて一般
リシアの婆術を校撤して拭際に清川するの手腕−仁和し
整の方面に宥してゎなかつたけれども.植野は宮代ギ
してわる。ロマ人はギⅤシア人の如く、天才を拳術文
公共の雄築物の偶に蕃輸した。誠にょく時代心を反映
た。いマ伸攻の文化、その節二別の隆盛、それは衣両
槻察しても.彼の斯かる職察の無理からぬものがあつ
を預言するに至ったか。然り、そこには耶に文化的に
光の枇紀始めに於て、何の見る騰があつて、その壊滅
かりその隆盛の㈹紀米ならば未だしものこと、その発
は、何を常に拗ねてか、その滅亡を地叫するに巽つた
斯かる1.マ文化の城代に批れて、我が歎︰ポ鉢の莱肴
化するの嵩を和してゎたのであつた。而してこれらの
極めて華やかなりしも.その内而には魂多の弱斬を也
ものであるが.また幾多の個人薦志蒙がぁて、洗うて
古代撚術を以て邪魔に装飾せられたる公共建築物を中
躾してわた.
・7J
一一■一一・L
抑もγレキサンプル大王の根征に‖菟して、伸攻P
心として.ギリシγ時代から地中海約辟の世界に特有
フェス巧・人
なりし和雄本佗の亜清が努まれたっ公命堂・劇魂・骨
東食・浴場を中心とした都命牝活が透られてわた。こ
ヨハネ漑ホ建の蝿解へ
ヱ∂JJ
コ∵み敷か録む鱒併へ
マにょつて完成せられた肝瀾ギリシ7・ロマたる文化
●
■●一●−
−・・■′
それ以前より.セム純妹の∵・ソふ人に上つてγジγ大
の攻偉が朋机して.帝国主筆が打はれるに至ったのは
ける丸印の膵利でもあつた。ギリシ7在来の都市本位
が.然しまたそれは文化的に考察しlし.多くの斬に於
人︵畏.指㍍︶が︰㌫鍾だ竿先弼三∴芋人
ものはなかつたが.夙くも紀元前大槻紀頃.ギリシア
心を助長ヤしめる小西H※満であつて、墨壷の甚しい
樟に打はろ1に至った通商圭光比.未だ各個人の企業
は、袈面東洋に糾する西洋の最初の勝利を如して㍍る 腔の西浦に、同種据ゎソニニキγ人によつて地中滑沼
その一である。さうしてそれにょつて火力の都制※莱.
その頂庭の奔移の野鼠が西カに喩入せられた。この弊 を凌配せんとした叫から.奴脳膜mによる二柁の躇黒
らる1に至った串は誠に述べた。更に如件の勝利を恵
通商がわはれ告∵旧して正状紀に及び..ヘルシア帝国
根佗川に代ゎらで、煩慮位〓によろ一純の茨木㌫基的
風仕ロマ帝政節∴期の隆盛に入って以来、大に蛤正せ 牛命がわほりわ∼に※りたっ郎兼ギリシγ粧弊には.横
昧して居たものは.その請宗教のロマの天下に流行し
た耶である。郎しこの輔抑的水澤の勝利は、形式鵬な が勃興して農業を帝囲化すろに封りりや、弦に大地王〓
ギリシ アは鞘節によつて蓮にべルシγを撃退するこ
るロマ在来の組数ヤ、刊約なギリシアの哲準が輿へ得 瑚の檻粘かjたし.晰く甜根を紹1泄に遺すに蛮ったり
たかった韮的揖邦む輿へて、人心の刷新に発する節が
が烈折下小打れ
丁・ロマ文化に対して致命的な審毒を典へたもの妊.
なかつた。然し乍らこれら東洋の勝利の小で、ギVシ
のも.率先するにこの束件の宗教の勝利の一に他なら
烈し被も亦幻蝕政情にトニ1,火ル梢の耕作紘をカル吏イ
代観たろ轟い王ル■∵′︰∴:聖撃糾すろこ・∴い〓武たが、
ーー∼Iじくいマは二︰川の耶柁によつて趨にソエニアキの和
その土地詔本圭舐を声リシア仰非に成人すろに封った
多かつた。キリスト教がいマ帝始祖征服するに至った 上をた.しそのに∵ジ∵.にはてゎた
告に九拝の油愉‡兼であつた。机し紀元前十W紀或は
ユれ
ソ㌻雪
︼ざ一訂
ジより歩んだ。そわ.ヘー︰ケ文化の始糾マ.コの清瀾なる
に歪つた。而して〓※の民でありながらこの奴詣と等
しき暖地に封薄昌る串を朕ふ肴は∵喝方か相聞無活を
罪て.締付に‖づるに︸告つた。而も筋骨には既に多く
農お革を榔絆して勉鎚したるは押上しとすちも.耕作
に叔就を触⋮故に梗mする祁−む翠ぶことにより.隼時に
の火竹折肴が抑がつてわた。阜⋮蹄比これらの下林遊民山
裁物・葡萄椚・肉呼をJュてし、慰むるに那都筑軍や血脈
みならす、.コール、プリクエア.イスパー︰アその他の
ふっこの机ll拡の犬耕地併有の凪は、やがてイクリヤの
は.僅かに六人の大地圭にょつて耕作されて㍍たとい
Uの岬.カルセイジを都とするロマのT∴/リカ州の隼
集む施したけネルワ、トラヤヌスの如きは、貧しき自
でかつた。従って燕帝政その復興のために種々なろ収
物の減退は、帝国の第一州として誠に東通すべきもの
に、耗茄的勢力の減退聖水したっ殊にイタリアの良種
めるのみであつた。斯くの如くにして地力にまた椰骨
ヨハネ部示鱗¢理解へ
純の小作人︵2︰−︰︺⋮︶となり、奴隷の境地に引沸される
、机先相架の土地の揮宥摘と耕作のn山と小官失望し、︰
や土地訳本王先の隆興,孟ハに、幾多の〓※農民が≠−い
〓二七
斯くの如くにしてぃγは、配招にはソエー︰キヤ人上
ろ叫が〓来なかつたり
正代的農相振仙ハ攻究も、迩に應離の火勢モ如何ともす
謂せら、れ、また多くの和は■日出を得云に至ったが、て
今只管自※の農代の鋸輿を附つた。黙し乍らこれらの
多年準利の挿椚により奴避の故減じ、その持遇法は攻 得たる票企むまた貧しせ市民の子供の支給に篤て.以
固より帝国繁盈の第二則、殊にモの後準に於ては、 主の農民に低利にて斉木む代興し.その枇利によつて
綿州にもわはる1にぷ上ったり
の跡を経って、小数の大地韮の‖覿を促した。既にネ き闘士の試介む以てしたが.愈々その数む倣晒せし
するに至った。加之ならず.漸次自重狐或の農民がそ
特有の鍔托剛雌の葉風は艇少、奔仔迎鵬の怒鼠む壁掛 不祥分子によつて暴動の起らん⋮1iを恐れて.拾するに
はMを耕し、郡ある時には㌍団の偶に身む挺したロマ
〇fJ
とを知らぬ廷吏道無心を尤元したり而も前記の串情に
ヨハ・外勤ホ鍬り理解へ
り、闘技にはギリシア人姦して、東洋︵附附㌫珊沌
ょり、茶葉の衰退.山城入の減少を来すや.摘民の義
は愈々敵将して∵閲読の危機む準むに至った。
︶の通商よ率流木※率土地葦木王求む讐茹
7ト一ピ
指†
によつて.日航の箭を弥得したが、またそれによつて
虚聞の疲舛、宛先の乗徴.延いては朗騨歳入の減翫に
民の減退.動地なる自主の農労民の減少.それに仰ふ
囲は.腿滴に於ける資本韮舐の椛毎による健全なる市
ど、数へ来れば多々あるであらうが、その苅嬰なる析
とりマ川和の粥勇春公の捕釧の腱離とを見るに至るな
の焔に什ふろ俗吏肺炎か櫓加して、団民の烈椚の批珊
ょつlし、瞞要なる閥務にも、訳異なる障役にも.金地
て止らす、漸次好多の他民族に小川艮梯を抽張する即に
す﹂と︰︰貢はれた世外の大凶、また政治のりマである.り
略二︰1−胱紀の後であつた。何様﹁けマは一‖にして興ら
た。それは我が軟ホ鍬の諌肴が滅亡を噂︰・‖してより、
紀の内乱分裂の怒枚の後.ロマは迭に滅亡するに至っ
イタリアを侵かすにかったりさうして川一C隼、二世
七隼.二世紀を抒て後舟び、北カのゲル︰=−檀族は.
ルクス・7ウレリウスの井攻の叩産もたく.途に一山ハ
ごつして﹁敬虔なろ﹂アント1︻ウス、ストアの製肴マ
ドリ7′メスの代に於て、夙くも衷兆を示すに至ったり
斯くの如くにして帝幽は、その際撼の樅致なりしハ
あつた。不.抑も帝帥非番が汗水韮鶉の上に北つてわ
その滅亡するにしても亦‖ありし我といふぺきである
滅亡するに至つたのである。固より滅亡の囲は一にし
た。Pマはその枇統折民に白山を興へ、配付の.秩序の
緊焚の時代を氷らしたが、その日博は必ずしも高瀬な
たその密移に軒して.かたり賦烈な炊煙を見せてゎー∼
我かヨハネの欺ホ鍬は、この・l∵の通商貸元女鹿吏
三
ー?ものではなかつた.平和によつて通摘の隆興を促
それは第十八輩にあ︰雲ビけン︵謂︶滅亡の歌である
維持に功め一弘に未曾有の大平利を狩らして異常なる
し.それにょつて囲匪麗人の析糾を園り、以て飽くこ
ガイご
彼亡渾な行ひ被ミ僻に替り㍗ろ地の王tちに、
列lェ時の問に氷れり﹂ミ富ほん。
故、大耽る都.繋附光ろ都バビロンよ、決り補
難を怖れ、泣に克ちて﹁鍋聾耽る我、親許にろ
その祈によりて海に舶わ有てろ人々の冨わ待た
てr繊弱じ布ろ哉、繊古布ろ硫、=の火なろ郡.
彼等皇㍗塵をおのが常に破りて托さ恕Lみ叫び
の大なろ祁lニ比ぶべき﹂草笛にん。
ロンの焼かろろ頼む見て叫び、﹁何れの都か、︰
地の帝人、彼が角に挽き悲・しまん、今より牲.
一り祁、かく帖の問にこ荒原lでんざに﹂エ声ほん。
﹂ノ
2f.フ
ヰ及び湛l二より′・、奴括み偶†常温に就ち、バビ
その筋品わ罰ふ強電けれlでなり。そり商品ほな
犬よ、兜従・位彿・鱒甘鶉よ、=り耶ドつきて
その場かるゝ使わ見て泣古.かつ欺き、一′い苦
奴・駅前・瓢殊・和布・紫色・端・緋色及び各
董べ、柳津等の娼に之む解き給ひ㍗れば光り。
ー:
一・■.し
い。それとも基軒数此を奨励するが栗に、畢なる気体
ロマの滅亡を雑叫してわるのに止ってわるかも知れな
でなくして、叩なる⋮那数的動機に基いて、瀧憤の倣り
べ来りたるが如き、その文明の文化的批評に基くもの
といふ問駐である。彼のロマ滅亡給は.我らが庇に述
ふ結論に到新したるは.控仰家としての誰見に上るか
たゞ弦に問揖とすべきは、著者がロマ滅亡すべしとい
義、その脊件の捏沼む詞lふものである郎は明かである
これによつて見ても、歎示錬の兼務は、りマの地織主
校の香木lまt象牙の各械の許、何粟きホ、眞
蝕・銑・せ市布ピの各校り碁、よ㍗肉縫・奇利・
菅・脊納・孔菅・葡萄酒・オリブ紬・許扮・穿・
牛・串・鵬・堆・奴隷帥ち胱捕光り。
=れらり物一で禰ひ、バビロンに由り′、富む柑t
一わ而人らは、その昔雛わ怖れて浪に立ち、沈子
悲みて富江ん、﹁縄苓叱る硯、鶏部Ⅷろ故、知和
可ハネ就︰耶銀の職餅へ
申して凡ての贈超、†べて淋中P㍗・心人々、舟
に荒涼けんミ圧﹂。
飾り㍗る大在ろ湘、斯げかり大なろ冨の時の何
一J紫也ご紡ごむ替、企・饗れ・眞珠なもて月な
′
めのために輯亡里嘩∵=してゐるのであらうか。彼はU
糾しては、﹁皆誓昔には∵稚かくれたるマナ︵硬恥︶
を食する城敢祭典の付宜嬬に列せん串む帝ふ信徒あ㍍に
一 ﹂﹁ヽ.ノ
ー㍑ト.√し
マの減亡の三相の折目の第一に、﹁そは汝の揃人は柏の
モ興へん﹂と約米せられたるが如●ぎ、また・米用の北‖に
コハネ景縞繰り和解へ
火な妥と増たればたり﹂︵ト︰埼二附︶与ってわる
は交通の要路を経れて過去の名のみに倶きし山都サル
ありては鄭攻不⋮洛の耕.されど文肌用化の世とたりて
が、モれは経世家なる放であらっか、それ上も昭なる
〓
㌍泄読なる肝以に非くものであらうかっ
や肯二﹂ふ天上わ章り︰︵トの㍍ぁるばかりでた′\そ
プ︰︵の数曾に糾しては、﹁汝は畑′、−石ル”かれど.死にた
その耽読のげ銅とたす七つの致命に宛てたる手紙の内
の榔に愕てルプア※クレサスがりでの#小を誇った畔、
欺ホ許ヨハネは⋮里なろ夢幻損州⋮家でなかつた箪は、
容が最もよく十し牽パしてわろ。その夢幻的なる表現の
来らん﹂の︰︰︰〓あるが如き、また有名なる地震柏仙Wとし
ペルシャのク∴二∴㍗規則せざりしカir−iよりの布製によ
翫、何れも外政曾の特門、モの秋曾の所在する恥命の
て用尺便々口外に〓づるの堂あるヒラプルヒアの致命
裏に、著者は一通りたらぬ工夫む成してわる。その手
他力色ヤ膳史に誠に安鍔なるものであつて、非常が如
に糾しては、﹁膵訂得・・り希は叫び外に〓でざるべし﹂の
前川六隼、同のほH
り七附浴せしめた二二孟
且
C年頃シリγ†lニよつて反
何にょく各地の地力也に精油し/典故曾の本覿や粥都
約束の∴..■.あるが如き.更に温故町として聞え、捕緬な
舐の東女は囚よりのこと、モの‖離に拘げられたる天
む洞察して居たかを流して居る。例へば.両尤の匪刀
る舶業持として安協の地相也なきラオブキアの救命に
視︶ぁるに讐て、﹁訳し=藍警手は、盗人の如く我
を以て天下を斬ったロマの綽悍肘の肝布地ベルガモ山
対しては、かの有名なる﹁敷きにも非す、冷かにも非
上のキリストの幻像、また結盆憂なす約束の賜物の柵
救命に対しては、﹁輌尤の利き朗を持つ﹂なる天上のキ
u′スト肇ほ琉鱒弼げ.そこに偶他に献げられたす
ろ.牝
た敷
ゞ微温が故に、我汝を我か‖より吐〓さん﹂の
2・J.J
首あるが如き.何れも磁蟻の支配を受けたる軟骨の効
賀し得るが如きものではたいり而も彼が帝囲の運命に
の断案を下すに至った動機は、決して政治家のそれで
の歩劇的墓教豪セはない。然し乍ら教示者がロマ滅亡
斯くの如くに著者は巾かの他聞通セあえ。尋常一段
備にも.山門を輿へたくて扶なら山.ヰたロマ朋lへL火
りでたく.凱﹂バ菅の里見して居たγジγ州の足下り串
ては叶掟ぬ.我らはりマ大帝囲の規模を椎槻すろばか
その内なる道義心む喚起した串㈹が.枇の手近にたく
親して、大洞察盈焔し柑たものは.その−勺邦の小爪教的
はない。また文例評論家のそれでもない.著者はギボ
と叫での大局より油捌するばかりでた′、、コハ・†山伏ん
肝を暴述するもので、溝新が地方賀状に柵通して居る
ンでもなければまたムソり一−でもない.邦書新でかる
で㍍た特殊た時代の脛史にもー服と差・し向けなくては
道義心の構烈なるに基因して居るばかりでなく.・慧た
帯状蒙である︶従ってその断案は深い宗教的道垂心に
ならぬ。撚らざれげ骨片比何故に無謀にもりマ大帝囲
眼純串越の例は枚黎に過がない。
〓拝しての現世批判である。正光の紳の紙粉王械に立
滅亡を叫ぶに空ったかが解らないであらっ。
ク′占
脚しての文例評侶である。この道徳的紳に附する雑掛
四
我らは先に郡郁 払ぃ‖現した畔代の腫史を叙†ろに
に限り・は、蛙胱家たるの識見を有し得たとしても、
女たヨハネは例へその生息して㍍たロマのアジア州
︵岨㌫︶である。ヨハネの激㌫麗は孟肛暴なる烏帝
史上に明かなる坪でぁる.それはドミ壬′スス皇帝
郡山した上運べた。然し乍らそこに例外のあつた串は
骨⋮つて、ウェスパシ∵メス以水、例邪書にが相次いで
閲英日 政治家である。刑場我らが今日有して屠るが
一明一
の咄年忙現れたのでわる。従って郡“鍬の川現は.こ
ヨハネ期示録の職飾へ
如き世非文化火の刊滅を以て、ロマ大帝凶の運命を洞
その解剖なのである。馴の刑詞なのである。
彼の用言したちものは、ロマの滅亡にあらゃして腎は
的㍍仰の前にーロマ帝切の存在もないのである。不.
▲▼
ヨハネ獣示銀め理解へ
の皇帝の狂暴性と閲係があるのである。
一四二
に十二年毎しく過して居る時に、チッスの天折に遭ひ
ドミチアヌスの無謀なる政策、それは善かれ悪かれ不用意の中に突如皇帝の位に登ったのである。さらぬ
至難の業であつた。
我が獣示鉄の出現を促したのであつたが、我らはこゝ だに証しい元老院の上に君臨して.支配して行く事は
に一應不幸なる皇帝の焉に、彼がこ1に至りたるにつ
き梓明しなくてはならぬ。抑もフラヰウス家なるもの 而も彼は皇帝として、フラヰウス家の名を辱めまい
は、門閥飴りに香はしくなかつた。僅に騎士の階級にとて、常初は誠に努力したるものであつた。膏、彼の
属し、その租先はポンペイウス賂軍に従って一石卒長失政の大なる原因は、この難局に虚して余りに勉強し
に過ぎなかつた。ウェスパシアヌスの代となりて、元たる蕃であつた。彼はライン・ドナウ繭河をつなぐゲ
老院議官の階級に昇進したるも、薗草葉に手を出してルマニの固唾やブリダニヤの北境に城塞を造って、国
貴族の風上におかれぬものと思はれた。従って門閥を防の安全を囲った。また都に於ては、ネロの大火の際
尊ぶロマの貴族の問にあつては、誠に不評判なるものに焼失したる建築物を裔建した。更にロマ停乗の古式
であつた。彼らはたゞ強豪ウェスパシアヌスの赫々たや国教の復興に努力した。彼は私行や信念に於ては必
る武功の前に、その絶大なる威力の下に∵屏息したるずしも道徳家でもなければ宗教家でもなかつた。・否、
に於ては保守的また清教徒的な改革家であつた。即ち
に止って居る。それでも陰謀なきにしも非ずであつたそれに大に反するものがあつたであらうが、その政策
その後昆に登ったその子チッス︵票酎︶は軍功あ上
めたりした。然し乍ら彼が貴族の陰謀を催る1の飴
に教養もあつて、大にロマの貴族の蘭足を得た。然る裁
に判・行政の公正を期し、劇琴神殿の風儀の改善に努
その弟ドミチアヌスは、武動に於ても教養に於ても.
有馬なる兄にその横倉を凡て奪はれて、不平惧憶の中 hソ、飴りに紳経過敏となり、聯かにても疑のか1る貴
.?j(ノ
族あらぽ、その財産を淫仮し、流刑に虚し、また死刑ダヤ濁立軍のガラリヤ総督として、勧を執って立ちた
君寵を恭ふしては.そのユダヤ戦寧記に於て、皇帝を
ノシ†
に塵するに至っては、をこに事情の止むを得ざるものる身でありながら、その降伏の後ウェスパシアヌスの
があつたとしても.決して菩君と呼ぶ事が出来ない。
殊に後年その毒手がその血縁にまで及ぶに至っては、 ユダヤ民族の期待して居た赦童であるとまで謳歌して
鋒を愛へ、ユダヤ古事記に於て、へ
兇暴の沙汰といはなくてはならぬ。餌ち彼の従弟サビ居ながら、ドミチアヌスの朝に生き延びては、その筆
ヌスは、その執教官として選ばれる1の日、俸令が粗
ドミチアヌスの狂暴はさる事ながら、それは主とし
五
忽にも執政官と呼ばすして皇帝と言ひ誤りたる単なる ドミチアヌスを諷刺するもの1如くで畢つた。
理由の下に、死刑に威せられた。又他の従弟クレメン
にほユダヤ教掃俵Lたろ不敬魔の馬堀りご、更に試ね渇すも
ズは、その執教官中に堅葛怠りたる理由の下に︵﹂
るものぁり、但Lその眞囚ほ彼の二子ね皇帝の世嗣王事し圭
がネロであれドミチアヌスであれ.地方の州内に於て
響は直に地方行攻に及ぶものではなかつた。否、皇帝
のほひそかにこキサスト散在信じ㍗ろが秀光りミ、歩て
く首
ミ都
もま
彼た貴族間に限られた事件であつて、その悪影
の妻ドミシラほ後年キリスト教徒亡兄り、し︰ミ、遺跡の註す
恕瞥㌶謂S摘︶同じ︿虎刑された。その他彼の
忌諸に解れてその暴虐の犠牲となりたる貴族は枚蓼には到底共和観の下には見出す事の出来ない自治の自由
の政策が、帝国の到る庭に生存して居た或種の民族に、
逗がない。斯くの如くにしてロマの貴族間に、一の恐を楽しむ事が出来た。然し乍らこ1に彼が採りたる一
怖時代が出現した。こ1に於てか彼のユヱナリスの辛
宗教政箕であつた。
辣なる諷刺、︺タキッスの帝政の堕落、共和の理想を特
叫殊なる直接影響を輿へて居た。それは彼が探りたる
んだロマ史︵譜㌫鋸景㌶韻酢醇鎧即︶が出た
一四三
わけであつた。ユダヤの史家ヨセフスさへも、自らユ既に運べたるが如くドミチアヌスは.武功も教養も門
ヨハネ琴芥鐘¢理解へ
β室7
ヨハネ厭示錬の理解へ
間もなくして位に登り、その王位擁港の必蜜より、告
一朗闘
︶、夙くも新警=マと説を通じたばかりでなくーユ
吐
式の復興と胡散の恢祝とを掛った。以て削接に自己王 リサス家とは国籍からぬものがあり、赦骨的には不
”︶ヵエサルの時より、その民族の特有なる習慣に封
位の笹腋を相良せしめんとした。取にこの日他の悠に 人気なりし彼らも︵Ⅷ机肝禦描鮎囲Ⅶ㍍肌㌍甜摘
彼が大町利mするに至ったものは、蔑飾付㌦挿教であつ
た。既にウェスパシアヌスもチッスも抑として祭られ して、多くの特典む粟って兼たのであつた。固より.六
て居た。彼は良らは糾としての僚厳に人に放くる併あ 六−七〇年に彼らがロマに叛きて紺亡ぶるに至るや.
りとしても、フラヰけス家に封†る烏伸㍍邦倣を墟に その抑讐火蓋鍔レ飢㌶謂柑り㍉縦断い︶・そ
する耶によつて、榊接に自己を御堂となす事が‖水た れに献じ来りし奉納金は、今やリマのユビテル・キヤ
か㌧る攻究は門閥む食びながらも元就良妻仙なロマの ビトリヌスの抑厳に納むる革となり、また信徒を鵜邦
ス.ハシアススもチッスも、被らに卸して純めて先春の
貴族忙とつては、反感こそ唆れ、何の劾膿もなかつた 人冊に作ることを禁ぜらる1に至ったひ然し乍らウェ
であらうが、Pマ帝政の諷刺と繁焚とをわけなく有雅
がる地方民衆忙とつては、かなり効果があつたっそこ 悪度をとり・、エルサレム以外の土地にありては、倍数
で彼は自己の金銀の倣む、リマのキヤビトリウムの丘 の針山を許され、†までの特典を充分に保持すること
の釧々の級の巾に建てた。また常に抑の名に於て勅令 が‖水た。然る.忙†やトミチアメスの新攻先の貧に.
りでなく、最早烏仰の像の前に帯を焚くの代りに、塵
を食するなどの串をした。而してこの攻災の満に、帝 彼らは成に今迄よりも苛酷に柵金を搾取せられたばか
帥各地に於て拡積悪膨櫛を栄つたものは.唯紳致む率
二至った。殊に於てか、既に述べたるが細く、ヨ
火前
ふに
肺の偏にエホ.ハの抑に射する新府を以て†るの自由を
紀元
するユダヤ人とキⅤスト教徒とであつた。
抑もユダヤ人は.マツカビオスの典けし昔より︵
β・Jβ
■
セ7スの歴史に、論調の豊史があつたわけである。ま
た.ハラク・エ.ヅラの雨欺示扱が、ヨハネのそれと時代
が栄るべか♭し絹繕を、彼らの榊にてまた不入監なり
しキりスト教徒に榔嫁し村たのであらっ。それは兎も
りとするとも、ドミチアヌスの関数祝典・烏蹄肘糾邦振
を同じうして現はれ、ユダヤ人の立場からして終末忠 角もとして、例へ基軒数が常時飯に仲人川知の㌫教な
恕を高謝するに至ったわけであつた。
然らば同じく唯釧軟を串するキりスト教徒は如何か 興の改発が、如何抑帝朗の各州に一班に裾はれるに至
刷上けそこに姐法に依る金団的な地番があつたわけで ったか明かでない。抑も笛帖は、地力自治の大に行は
は決してない。若し地帯を尖りたりとするならば、そ れた時代である
融骨に知られてゎなかつた。これ二11W紀の始めに史家
なる狐典の宗教の存在は.来窄極めて叩耶には、一般
セフスの前非記や.ハヅク・エゾラの欺︰が鍬の語調に徹
きものがない。たヾ︼二常時の脈史家の常と、前記ヨ
何程全開的に行はれたものであらうか、史料の徹すぺ
れは主としてユダヤ教の一味としてであらう。基侭教 猫柳の如何に係かる。ユダヤ教徒の迫署にしても、如
クキウスがネロ負荷の暴虐の︼例として.そのキりス
の郎構の下にあつた耶を察するのみである。然らば獣
ト教徒鹿奴姉仲を叙するに常って、その何者たるかに して、ド、・Jチアヌスり治下.ユダヤ人が槻めて不愉快
就いて.摘めて皮相的また不jl三樅なる舵明を鮮みてゐ
一囲五
︵椚く︶
に舐大㈲係を有する根城串柿でなくてはならぬ。
スト教徒の状態は如何。これこそは我が猷永蝕の〓現
るわけである。而して笛のネロ息帝に至りては、恐ら 示者ヨハネの住んでわたけマの7ジ丁州に於けるキリ
くはキuこ︵ト教徒の何者たるかを光分忙了解せすして
たゞその後ポビγの勒むるが価忙、ユダヤ人の代りに
犠牲に伏したるものであらう。但し常時ポピ丁はユダ
ヤ教に抑依して居て、軌令的に不人気なりしユダヤ人
ヨハネ黙示録の坤餅へ
かブ〃
カントが宗教に射する態度
田
−−⊥粁Fn邑昌b邑−,寧、吊昌訂Re一班菖、哲r−ぎー琵¢・−
成
意
日J
P
である。併しながら宗教的憶諭自らが已.邪教哲拳ではな
の宗教論の根本膀即セあるとは既に∴.〓ひ古された命題
ふやうな使道にあつて、カントの野草と宗教との聞に
氷る。哲堪は宗教からの訳異なる泳入を珪験するとい
であつて、常に臼身の斬泉から牝命む板取ることが‖
のである。それで巾邪教は哲隼を婁求しなくともよいの
いことからカントの宗教哲斡ではなしに﹁カントの㌫
椚樽的な踊係を設けんとする試みも亦やはり、相互祁
﹁油紙の完成として抑が梁諦せられる﹂ことがカント
教﹂は如何なるものであつたらふかを問題とすること
州的である。
感哨﹂を受けて宗教的醍験も此の傾城にあるとするか
彼はプレンクノ、フッセル.シェフ一に於ける﹁滑内的
︵は︶⋮E.−p¢−;.
︵空︶
も可確であらう。此の試みは政道ヘルマン・シュヤー
︵1J
レンバハに依つてなされてねる。
︵︼︶ヨ打臼■n.Sつ才一巳3訂ユー︰R雲−Ⅵ 才︼填On 冒r一㌻
︼喝lO可S.︼uP
非常に雌少であらっから、橙敬一般を問題とするこ止
カントに於て此の丹ポ数的修験を見川さんとする望みは
に謝する新しい滋巷を吸ふことで扶なくて迎に宗教の
から唯辛うじてその芥を埜み得るであらう。カントの
彼に依れば背拳史にとつては、カント野邸から宗教
探く理解すると云ふ耶
︵ひ一
補助にょつてカント常閏∵
搾き譲脊は彼の請弄の中主こにも此幽にも彼の全忠常
一円七
が問題となつてわることを初めからカ祝しやうとする
カントが宗教に封†る態度
JJJ
u﹁:ヽ
押隼の入部分が本柁的には、ば偶の支配域を制限しそ
−中城情む敵蹴したこし√▼はたしかに掃出である。彼の
の常北に殆んど無比にして衣朴な備騎を兄‖すJカ・′
作〓が鵜抽的に脛系へ入つて来たゎ仕れ﹁い批判を1見て
仲川に基躍附けることは全然緋圧せられてわろ。感情
館敬﹂が第二次的地仇に隼するりけれども泊地をば情
ら何等悠情仲川上は刷怖がたいJ唯﹁道徳扶に掛†︼ん
.〓r′
こ車嘩冬ウ﹂し﹂を常に用制すべ中点ぶをれってわる。
初め十する.しかしこれも柁にたつて畔氾加的にたこ
カントか⋮パ秋lニ封†ろ患度
排し感情の此の肘謹の椙定圧宮阪の〓Jの成心情作Ⅲの
れたい一であつて最初の附系計諏にはキへられてわたか
昭簡は無限性の借駿でかつ∵二れは形而上墾的備醇化
仰り1t時によつて別にせんL一した、、そして彼によれば阿山吉川
シ∴、−レ︰/パ八川⋮ヵントのば情備駿を㍑高の感情
︹ン︶ニ乙こ笹一1、・
つ打J
■I.
特に井桁に人なろカでぁろ︶カノトにはば帖の否定⊥−
耶ふにほ〓Jの内部山多くのカが必嬰とユぐれてわて.
此の成岬情仲川と反惑情仲川七いふ二つの砕放からカン
ト常隼の彰ほ性が︰は〓リ?カント車捕れるば捕の︰捕れ
ハ充分れーん桁人は迭ひに形而上的惑情附馳を︰カに≠
′一
それを也、︰∼た︰小欲的鼎馳を他方に.小すやうにたった。
げそれを越へて㌫数的附檎に近づいたものであ︰?三■
を.浴してわる。鬼介たり吾パ敢附駿は苗∵批判に述べ・h
ハ︹︰︶ニーLこ丁∴︰﹁ ・こニ・∴.、r〓.
第︼批判は何等ば情論▲ピ含ます、感情と認識とはカ
れてぁるとして此の耶臓への成ろ蓮揮む唯骨火的たそし
がそこに救へられてわりり,.仰しりての拭砧は二次的で中
る畔に比‖されるっ餌ち.此山川冊伶カL﹂その削り︵︰⋮こハ
土は悪性カに酎†る阿川小︰⋮としての侶吊高忙槻して語られ
て形而上隼的な侶パ高齢駈も亦常に射ってわり㌔ソてぃこ
ントに従へば川里叶抑圧附梯がたい。拾二批判では解か
﹂
るっ﹁道徳的根源瑚忠.一代カントでに定∴・・︰的命令であり㌔
北‖絶に超悠斑的・丘もハに闘すろ純忠が〃れし∵り山一りわ
に悪情伸〓に一地位が輿一∵られ.特柁なり雪道徳感情
此は﹁理件の串倶﹂上して東山、に向ハ∵hかろのでありりか
JJウ
であ∼U.此の軋念かあ、lノゆろ侶パ㍍附犠の桃源に梢はつ
てわ︰心肺が先験曹粗γ催糸車∴いパ車⋮む晰序附け1・り理論の
、■l′
小心である。
二︺︶ib㌣S.巳.
拾三批判のかの動的”㍍高山請例は想像力に上ウて自
然から表象されたものではなくてその王婁な例ホは紳
︵■・︺
の川パ高怖に就てである。
三批判も後には川⋮縞備伐と道鱒三三致せしめて、﹁裡
際自然の相川高に封すろ感情は道徳に似た感情をそれに
結合することたしにu考へられれっLそして此の叫は川パ
鍔開放の駅初からの最独訳ではなくてカントに⊥つて
︹ドノ■■
︰ムふ三1−押の上に北つ軒の追加的道徳化である∩かくて
は道徳も高い群皮で江川糾絹なものとして催放されると
シハマーレンパハはカントに於て消徳扶に糾する行敬
ゐる.しかも道徳扶ほ常にその第一の意味に於て全く
は門的にも目許⋮耶騎一般の惑郁に賊すこ上を※張して
﹁道徳拭に附すろ尊敬﹂り此の普敬の伏岬情は批判的倫
﹁聖なるもの﹂の賓郁であるL′︹て此鹿にカントの﹁曾
ハり︶⋮〓こS.巴−ひぃ・
理斡にては道他の徹城に射してのみ∴;︰はれるのであつ
敬の道はば帖﹂が小爪救的であろこ上〓肌であろ上すろぅ
から批すろでもあらうし叉分散感とも近似してはわる
感情は経えりむ州、.粧肛わ人さ、映さ.瓢翫の経穴軒等
の戊抗によつて両摘に起るものが㍑兢Lであろ上すリリ
婁浩であらうかどっか。成柑﹁我々の凡俗なろ㈹心へ
併しシュマーレンバハが‖明上して∬す断のものが
︵リ︶
て、閏なる仰向性とか愛とか恐怖とか苦くは渥−哨火
でわ・らうが道徳的なるもの以外に向ふのでぁる。第三
ことに於て聖俗を小爪救の職崎とすることから如何にも
ハSいi己こr壬.︵C︰㌻㌣笹三・
批判のみならす第二批判に於ても此の如く道触伴わ柑が
それが小邪教的であるかのやうに見えるであらふいけれ
山等に伏て圧決して此の感情は惹起されない。祈異の
廿⋮が語られてゐるりれ名な﹁弟務、汝川小高にして仲人
どもカントの併刑﹁抑異なろれいナーほ泄徳的桝明に於
■
r▲′
.
1■﹁し
なろ名L上して.或ほ〓閃く大牢と消徳律に槻しても節
カントかぃパ故に封†ろ悠柁
JJ.フ
カントが宗故に軒†ろば皮
一光り
ての一け許されらのであつて氾は蔭が聖なるものの紘でみ比‖されるとしてオリトー の﹁ミステリ∴リム﹂に及び、
あるに他ならない。﹁意志を道徳法に充分適應せしめる﹁余︿他のもの﹂に於て榊一惑情をu川てわるっしかも無
ことは抑聖であることであけ一、一つの完成であつて、限なるものの崇骨川感情は宗教のみならす形而上挙の本
周岬兜世非の理性的木質がその牝仔の如何なる時に於て門的安東であるが此の﹁全く他のもの﹂としての﹁訓梯
もそれとなる発紡がない﹂仰の肝離此土に於ては望め 川rに於て崇高備頗の動的方面−仁兄て軟隼的畏縞件の
て置くべきものと⋮心ふ。叉宗教的崇高棺放と美的のそ
りポ敬服埴を瞳別せしめる。此の彼の俳論は充分留意し
︵川︺
ぬものその故に肉備死後に於てそれの完成を刺する永 見られり雪不可測性﹂を中心とする形而上隼的股放から
里の思想となり、柳は唯此の道徳的完成の馬の要1描で
あるにすぎない。
純揮に、すべての利得から奪はれた道徳紘の無際限 れとの撞別を彼は⋮小編鰹槍の槻増枠と非理円陣に於て
に高い評償には特殊なる或物が存在丁匂。道徳法に屈 見るが同的に形而上挙的酷拍にも充分なる瑚雄性がな
︵ご︶山己.−S.コ.
シュマーレン.ハハもカントの宗教的特質を先づ定言
ハ︼○︶j已●、Ⅵ●笥●
i∬n
する常敬の感情は拙姓な惑帖であり、燭得の柿嶽の感 いことも述べてゐる。
情セあつて、すべての普通の感情から特に蹄別されて
・ゐる。思排他即位にとつては探求し雅いものであり也
感錐的確カの深遠なる探みとして第二庇判が語る仰の 的命令に於て見る。しかし稚も明∵=するやうに・要求−
ものであつて、唯、遣触法に随ふことによつてのみ我 命令及び恥経とはカントの心胸そのものをカ張く感動
我に於て見川されるのである。即ち第二批判に於て﹁抑せしむる.全く特殊な遣他の内容であつて、カントが
秘なるもの﹂として示されるがシュマーレンバハは此 道徳法の無制約性、非制約性に卸して見〓した名前で
︵ほ︶
の﹁抑秘なるもの﹂こそ苑蟹の宗教的只高感情に於てのあり、箪昔命令も黙である。此のカント箪冨命令を多
J〃
くの脛史的紡宗教に就て明推せんとして槻はモの最も
桶鳩なる例としてカルヴイン古⊥義を例舵としてぉる。
その他カトリリクもゼスイリーも然−りとする。﹁ルター
では勿論その宗教の中心技恩剋の醍故にあつたけれど
もしかも獅紳の命令の誤報の蒐悟あつて後に恩庖にも
へ〓ノ
興りうるのである﹂と。更に、蒋約の桝太政に就ては
モの紳は椚なる命令にょつて全肺牲を創造すること、
や1セの十捕等。々J
・・ハ︼柑︶亨︼.ずご.︵︼︰J︶苧一.一∽●りい.
両を出て、道徳としての道徳に仕初から附鵬してわな
いっ即ちカントは追紙的足首命令に於て宗教の表徴
ハ皆己JOl︶を鬼‖したのである上。並の謂にょればl
一へり乏、h宏ぎ三U2︼nel・ヨユ︸−d認珂巳童邑乳曽Tn︼勺簑7
亡読Ⅵ誓乳紆F乙宣守OE−・︼−臣2︼−軋t−−甲bbgd圧鼠g罵声
○烏こbd.−可F
−㍗研窄ぎ.頒↓ヨどl。望まニnt−︵ib・一・−Ⅵ∴↓・リ
カントも道捜的完成の要諦としてのみ紳む見たので
はないことは﹁緋の存爪は匿揉︵或は川接︶に轢駿に典
はなくて胱史た門示の敬への上に基礎付けられる。﹂そ
へ川︶
へられねばたらぬLと説くことから不十分乍ら知られ
﹁いノ
るでわらう三景敬は駆なる理性から導き川されるので
を見た。シ∴、−レンバハも故にカントの︰ポ教職は
してしかも此の小爪教は人例の道徳性にその本何首置い
既に我々はカントの丹パ軟が道徳的編成に崩すること
﹁道徳的﹂であるといふこー仁は勿論軍ふぺきでなく.又
常雄は彼の道徳‡我が本質上全く宗教町となつてから
睾ふことが川水ないと︰ム、∵﹁併し﹂L′如は稚けて﹁こわ
然的氾椿油束痙の概念を放くか或は道徳的牝清行栗の
門を紅かないのであると主張する。即ち﹁異教は組自
てわることそしてその篤めに異教は道徳わ申にその赤
■‖﹂
後の祁である﹂と。そして、カントの道徳主我は第一
へ17ノ
に軍︰パ命令によつてモの小ポ敬恍を獲たのであつて、こ 思劫以外のものを、漢音すれば宗教の非本質的なもの
れが彼のハ・加数的⋮小高肺臓に狼‖の可碓を輿へたのであを宗教であると施仙すかの何れかである。しと。斯る俳
︼光一
ると。そしてしかも此の⋮ポ敬的用悪例備験はその動的偶 論からすればカントの宗教が遺徳を以て*餌とするの
力ントが課徴lこ封†る膿痩
Jlう
カ︰・・かり︰ハ机に劉寸一工憶捜
一九二
l︰典へ㍉れhリにしてもすべてC我々の基務に射する幣
﹂・∵︰︰伸はト㌧∴チれ〟い仙キかの形に於て我々の粁駈
るもの﹂抹消穂的であつて川畔に理性の酎免であり内
的に一の抑密糾ち﹁翫たろものしに打尖る・J此の﹁聖な
に於てそれ葦の内的佐田の背後を持説するな・hげ必然
カントはそり㌫敬胤申、㌫故に柵すろあらゆろ信仰
..〃侶⋮日出的立江末ネ一項い∵パり、右左の内な一石道徳性の 一■●一
的に門柁的使用七しては十分詔識せられ縛ろが理論的
′∵ふ.ワリからiri㍍心性清〓外に︰パ敢小沼の在れはない箭で
︰刷造汁†■れ∵∵一\けり乍れ︰か良心の優形であるに外のも
佗川としては秘絨た或物であると述べてわろっ更にカ
ントは親日然的と︰亨ごL上は道徳的L∴ム∴こ上であつ
︵lト︶
l′てけ・い∴てhJ・・∵7−レンパハは此の良心の定エー.︰
︰ノ・ハ・ト山小石八㍍酔棋、〃象徴L㌧して貼ろけれども良
﹁
′り・
﹁けし
l㌧異なる紳秘Lち‖然的から兢て聖坪論にすぎたい∴−
る。
ハJ
︵︼e
T.︼じP
l言Sll㌻ユニ■㌻kuニご:︼∴:〓・.′ごり告ごぎ
に⊂ノ羊こl≡︰L′±l︶r︵・F⋮Fr
かやうに施米ればシ⊥∵−レンバハがlヵントの︰邪教
彼も︰ムふ如く.カルウインの小邪教催験はルクーのそ
うか。
をカルげインのそれに化すろことも張して安浩であら
一−●・
;︶丁.㌍ウー㌍才
徳法の丹拓轟性は紳の崇高性であろJl外ではたいのであ
カントでは道はの川こそ紳の囲 でぁつたのでぁる。道
ヽヽヽヽヽヽヽ
十∴㌻∴紳∴りでたいこL・︰か・hも父更に丹小数山耐
∴軋・.=市有れ∴∴㍍㌍蘭﹂より∵一号導き川ごれろもので
; \∴・.バ・
.りも︰∵
l−−J
〃一被はヵントに於てー肛㌍な∵∵㍉のl−﹁抑秘たる
り・・″・r︰謀り山ヤリセ㌻7″J此守山川詔がカントの請署
り小lこり巨Jれ∵わ︰′り壬に加⋮ふでかるが、その意味が小爪
㌧∴﹁一トれたも山か∵・㌧方む分別して兄わばたらな ●−−−′
︰い㌧︼ハニーr・rでソ㌻こlこ′㌻ご≡〓∵.〓き仁〓ぎ皐
﹁言 ざ山︸
山∵ ;戸 才一・︵・ご ︵㌻−・︼㌧r一︶ご︰ニ〓r−キ鼠ニーL;竿−≡i〓.
JJJノ
L
れとは、かクーの小ポ教酷験の最ト︰吊頂に於ては、心に脚ども省は雨龍注仙∴折衝頭にあい?寺ぎない∴“救の
ふこL﹂に榊異がめる。そして更に﹁カントの婦ハ小心救
退く経れてわて紳からは決して別らぬ述カにか︰りししい
異門的に見えリリであらう〟㌦粥木倶的に考へて両署が道
と人との欄係として兄、︰小憩はそのi3め一見道徳とは
へ.ヵントが丹パ救は入射人山道はかh粘つて超越的柳
上郡
追は
法に認め、りれ︰∵Lい∴こ十.によつて、たと
L兵の亜種伯山敦に入ると説くに止し.意識け
≠は常
に
⊥∵勺ル︰りィンの︰パ敢li讃駿の近似怖は次の1iにあり∼即ち
徳旺kょつて∵苦されてわろこL′一を見落してはなら
い。班亮にカントの︰パ救的協験とは臨に椎の俳論から
かG理離すぺ津こ王を仁h舶丁りのも裁詣ではあウリま
︵町揖むカントい最も内たるそして馬に︰パ歌仙なろ皿験
爪べろ鳩めに知識を山城せねばならなかつた﹂といふ
シ⊥マーしン.ハハがりントのれ名なる﹁㍍仰に鳩坪を
†左=くカントの誹菅仲である.しかもその誹瀧を通し
カントの酷場内に人・り得るか。−バふヰ芯ニゎなく稚もな
本分とはすろのであらっけれギも.されば何を流して
てカント〓身の間鴨内容年目から見て如くことをその
鬼はカントであつてカントり丹心敢和雄ではない。従っ
を近似せしめたのではあり∼セいか.勿論被い仰冶の封
︵〟∵
それが道徳に孤滑ろことは明セあつて、カントにあつ
㍑榊酵宏に於てもI.の最徳的心術のれ丁りの▲で見た。
‡河かモ求めてÅ・小欲はパは上里門ではたい。カント
められてわるりれギも.しかもり∵れは道徳が他に附し
カントかぷ勃に封ヾ・り悪用
徳とほ堪糊や藁勅に射し∵−は異つ・冥輿望王〓めるけれ
︼五。﹂
諦的り持と翻せられろものであろひ伽た小欲それ‖身
∵〓†ろ燭宜性から減車した山一∵かろが故に︰パ収差道 然し醐沌ぶい消はわ鳴けりでれ托かだかも︰パ動的には俗
㌫ご
てに丹パ敢が期宜の領域む右つこL∴りてれり那骨征圧謎
帥の不可測の偲龍に於て他力カントは妃︰∵︰的命令の動 め。シ⊥マーレンパハのカントの小山放縦彰でい林木門
二三
的相似の弱めにカルケイン的宗教開通主力ントのそれ
他に於∵∴・小難的故徴む脱輪しゎーと。壌して然らば
∵〃カルヴーン†華革は無根に速く、維封に川パ高なろ
Jノア
カントが宗教lニ封†ろ隠遁
一五囲
は之に対しては卑俗的とJeへ呼ばれろであらっ肝ゐ押
一人ではある・空いか。唯併し従来カントの㌫教軒殊に
串もあろであウリ。シ三、−レンパハもか1り小姓他の
の内にもーの氾触が持するであらっり此の宗教的道徳 めに比あたりに〓dの反省に忠にしてカントかL比叡る
通の道徳打璃とは全然異門的である。故に両祈は必し
も一致せ・ずして普通の道徳的善も再・パ教的には悪と就
さて
へのみ諭ぜられたに反しその㌫敬陀駐そのものに着
も施伸されろで・・釣らうっカントが人仰の灘務のすべ眼
てした鮎等には我々は十分の敬意を沸ふものである■り
糾の命令として認識されない前のそれと全然異質的L′一
の問揖としlし課せられ〃るのではめる史いか。嬰説と
あらっかに駅てにシJ、−レンパハの抑揚も渥び我々
を紳の命骨と組織す一句帖にその兼務のすべてがもしも果してカントは苑正なる意味でい小爪歓鰐験に隼き・告で
なるならばそれは宗教的と云へるであらうし.かくし
てこそカントに於ても道徳とは異つた柳人踊係的宗教 してのカントの丹那教諭上より推論する併では彼は曲解
い。併し乍らその人梢上から見てそこにシ∴∵−レン
が認められるであらう。カント自身幼少よりの家庭の された信仰に里きてわるもの′一しか紙質せられ、り∼な
宗教的気分によつて苑の宗教的信仰む処てゎたと推北
るかもしれない。しかもその酷験それ自身に闘しては
することが可碓セあつても彼の爪〓〓口腔からはそれがバハの論ずろ如津丹ポ教酔懸新としてのカントが見られ
飽くまでも遺徳lこ椒振を有ったものであることよけ以
我々の別建部以外にあるものと考へられるのであえ。
ハけ︰い︶︼チ二望−・Llきr︼り︰斉uざざ︼.︼︰−ヱ宅Ab︰パ・J〓︼lt.
ハl〇︼︶ibテ︼㍑.︵浮︶iEこS●︼lっっ.
外には聞かないのである。であるからこモカン.トと榊
じ道徳なき隠然束例の宗教を迷倍として排斥したので
あつたっ然し乍ら史に考へるならば∵我々自身の苑C
宗教憶級をそのま1カントり宗教的叙述に反映せしめ
て.カントをして語らしめる恥も吋確である。この偶
JJβ
妹崎博士の切支丹研究第一期の完成
かりゎたのでは.‖水火の牛ば比無即鮮に終る。岨利
支ルと云へば天帯川郎を思ひ、島附の乱を聯想してば
を除外して、其の苑机は究め得られないであらう。切
文化史は.蔽招糊描之に影畔む及ぼせる切支ル宗門火
はない。香おそらく近状以降の‖本牧漁火、思想史、
切支ル史む無親してH水の宗教史が成立するもので
を示し、ハJL敢n−−iの足跡.九州、悲歌、舶来止勿論、仙
田八十川人、何桁河七十人−敢行虫高八十と云ふ数字
耶献令の仰天赴、伊留繍鮮併てH二十六人、紳解牝二
れに於ける統計は.円本全組を油じて㍍祉軟約⋮ニ十苗
田中納言秀倍などの史上署名の人物あり、慶長八咋現
豊臣畔代になつて小西行長−黒〓孝高.蒲姓氏郷、織
もあり.鎖西で大友大村右偶の千振は申†までもなく
er−ハi一・i巴︼it呂崇訂i21S・−
来期から緋豊崎代及び徳川初期にかけて、軟治上皇た
暮.印畔、後には北海道にまで及んだ。まさに‖本金
t訂呂isぎq
思想上如何に切支ルの影研が甚火であつたか。大名の
土を風脚せんとする勢だつたと云へる。其上夙くも耶
A・Pm8rd巴lCe︷e
削にだけでも数十人の爪祉む目し、北内には摘出飛抑
群骨は印刷物の刊行に新手し、数理押、修養邦語隼昔
−
守父子、結城山城守.浦臨大外配、内藤飛抑守、洗踵
など、緋情事蛇は邦ずで印刻し、俳謂栴檀文隼たる∴
♪∴Jケーリン
こそ受けなかつたが熱心な求道朴たりし利‖伊賀守椎
時代を期してわa。旭川邪肘の琳吊遇によつて切支抑は
“五五
叛たど、址利純〓畔代にかけて小鳩政界で縞粗せろ昔
姉噂博士り朝堂外研究部︼期の琵成
JJ∫J
姉†博士の切支丹痛欠如二納毎な這
山五六
裏面の政治岨呼点から影を潜めたが、これほどの大勢 戌は僅脊の無圃心ゆゑと云ひ、戒ほ昔料の不払と云は
外に求めれば非批必ずしも雌少でたい。たゞ非の多く
本邦側忙資料文献を求め得ぬとしても、平にヱむ府
力であ・つたものが、本邦史上に人なり小なり足跡モ柁れ∫つが、いづれにせよ、隼外の根雅た力しを火はぬ.
さざろ筈は無い。この他跡を刷朋し、史既を柵樅にす
るは.本邦宗教史な㌫成する併以であり、また川史と
易でなく、史隼の旧識を傭氾りりに誹隼の力む損てせね
て躍.葡、西、伊等話語を以て苦かれーその精説は容
精細ならしむろ併以であり、従って史宣及び丹小数隼片u竹⋮時米朝せろ㍑教師の木帥へ通ぃせる非柘で,従っ
の使命でなければたらぬり
而−りも隼抒は什て切支ルの史持に靭心しなかつた。わ
知識七宥するに過ぎす、よくて押水‖*西放火を避ん
になしたるものなれば、之を蒐ゎればおそらく鳥人の
紀中華に托る約H年並くの瑚㈹に符小江軟仰が川心ひ/、
づかに徳川別に於けろ反切支ル雨滴弾を癒して小説的 はなら机。和も井の通信は、十六世紀準ばから十七世
で不柿鵬な概念を得てわるに過ぎなかつた.勿論これ
が組べて準備の邪たと比云へないだらう。徳川幕府の 故に登るべく、面も其の多くは艮文でかろ。之を人と
類題攻先の織抑七なつて切支丹瞞係の抑斬は多く煤き 年代たにょつて鞘埋して、非㈹に一Ⅱせろ串件の脈鮪
昔−洋・£工んで長大息の喫なきを郡や、村上正次邸帝王
棄てられて影を即めす、つひに邦諏巾に切支竹即発の を硯ふだけでも一朝の韮ではなく.これが研究に志す
流料を輩姐し得られ山が.その上な柳川であるには迎
業行はれ、ご競生−︵.−I弓ざCす1.毒ハ▲諸家の‖本非情教
仰し寮西に於ては夙正此の油㍍を賃料上して謳史の
を滞川替表されたを以て始て非の糾を得たに過ぎ玖1.
ひない。だから近年各地に於ける切文ル遣物の蔑見と が熊川溝音及び長崎逓井に於て北の初期の通信の一部
共に速かに切支丹研究餓が陀墟になつては氷たが.多
くは好奇的乃至趣味的で、従って隋片帆たるを免れす
未だ隼的机織的卯究に旭るべ拝ものが無かつたのだJ
J脚
支升佗火の指針となすべ津ものありとせば、恐らく
遭するに止るものと云へる。水邦史読が班って以て切
福甘の−匪捨按配の†の介人せ︰匂俺地の少いだけ最も㍍
基本とした舶咋昭の叙述は、諏過に興味は無くとも.
策にか1れば.記粥摘も棉鵜、加ふるに耶群骨年制を
だが.たゞ良後のつ毒訂に至っては、比較的近代の鋸
るを免れず、寧ろ︹F告ノ・〇訂の抑勲ひたるを採るぺき
にG辰治t緬︵﹁〓木簡敬虹﹂樹木︶ほ娘も杜撰不正肺た
編せる‖本史だから其の完璧は期すべきでは克く.殊
一心。⋮J−1に之−ゑ加数史とのみ施す.#邦弼囲時代史とし
り取水史料たる叩輔の軸八〓よりも鵬縦だと言ひ糾♭れ
れた報八‖も此の‖木記に於ては訂正されたる怖併もあ
い悪するに止るものはあるまい。伽も苔喘l⊂於て換ら
少免れ得すとしても.史刊としてこれ山上栴鮒樅雀.
せる浦記録であるから.外人としての親祭の滞りは多
焼宣教師弥の棚骨む基礎として.〓ら筆を執って偏越
ゎた新.それが晩年長崎に退いて、日日の旛及び岡
謁し.八八抽火甘と従来して、中央練罷の政情に通じて
畔布翻して‡上して近誰に清作し∵信長にも親しく而
れも式料に偲祇な貼年忙の叙述で.然もヲ主は非常
ぎ愚を以て其の第一としなければなるまい。たゞ惜
て見ても.亦非何他少くないゥ純々苑傘な記越と鈍く
火は非の代表的なものと糾してょい。もL′⋮より外人が
しい串に非の鮎越は豊mの来期閥ケ捕役此前に雅を起
ために小瀧じみてわる碓氷の吾邦恥帥史は、この在朝
れ或は非の一部む評き挫へられるに至るであらう。
までに終り、]五九八咋︵曙良三年︶から始ま云こ首肯
怖しむらくは、F−■〇i肌の記述が一正七八牛︵天正六年︶
刑に於けるシ†ビエルの淡水から析長の食感朔に至る
二九七
の‖本歌抒史に非鳩連綿−得ないミ一都∵即ち憬は時代の
妹噂博士り朝土井両虎東二期・り小几成
までの㌫‖弘布史は、殆んど完食止なつたと云へるりこ
版されるに及んで、‖本切支付火の前桝.即ち止利水
革稲が荊泡の米作隼者汐ぎユーPヨヨer榔忙よつて狐縄目
併し抽悲P倉どis勺rOi仙のごヨ告㌢d︵こ鼠0=の外人の界面‖な見聞記にょつて.或は薪水斬首加へら
したれば、それ‖前約中世紀の例の記述を純いてわり㌔
J2J
妨昭博土り切支丹研究罪山勘の︰甚戒
闘眺な記録を触く耶であるり併しこれは同じPg訂の
切支升排先の先鞭をつけhれたり而して今女たこ1に
の。呂訂0許d倉まngt・払ぃリー邑て肋J名賀P㌃ごとC−1邑雪つi初鰐誉の俳究嘘衣に推する、証︰人はたゞ拳界のために緋
の併記とを以て改称睦まで補ひ鋸べく、さすれば先慶
づの倉林ボナる指はぎるを知るのみ。たゞ此度は群排の
大股に於て、之を外朗仰の修史に求むれば吾邦切支刊
外毎によらす、鮮士院紀姉別研上して同院の刊行配付
したるもの、従って一般流さい。=子の手に渡らざるを憾み
史は非の敢咄より終末までの比較的正統な記述を得ら
拝も※として英文を以て邦かか、沸文或は経机文の苗
れるわけである。もとより之む非の根本資料たゑ八と
教するが、もとく純然たる研究殻表替で、その記す
師の年報と比較出入=して≠ハさに苑謹む鮎検するは.史
併もあ・り、一駅識者の興味的語物に非ざるは勿論で.
家の笛然岱すべき作務には相違ないが、これは寧ろ吾
ランシスコ・シービエルの此兄揖泥水上り一八七三牢
持論についで年表り一五囲九年′天文十八隼︶即ちフ
布適からざるもまた多く憾みとするには世心まいか。
邦史家の切文相史跡究としては第二勅の什革に巌すた
るゞ隼徒の押架又は離れに必須とすべきのみ、その流
その特一期の什郡としてlま、如上の外囲例の踵史−疋
*邦史葡地鑑井他郁々称号−Fと比較考托して、事件及び
躍掲字細りの地名人宥む描合推定して.以て切支押︰小
︵例沼パ隼︶即ち浦上仏経の放免鋸川に裏るまでの切支
門通史を完成する耶にあら拉ばたらぬ。今吾人はこの
大都其の先髄たり開拓者たるものを始めて姉析博士丹
の興亡の紺米を隼反別にしてい〓瞭然たらしめてある
て添へてあるも便利でぁるり
近業 壬ぎ8乙Se:三訂︼ぎ弓:r苧i㌢Pnソ寮・之に長崎奪わ及び宗門批め役の列名及び任期を敦にし
こコぅ に見るのである∂
五九年︵永掠二隼ソ中日に於けろ∵﹁坤の殉教より始ま
博士は曾て﹁切支丹㌫門の追宰と潜伏﹂及び﹁切支 ついで追宰及び殉教串件の牢渠に移り、これは∴二五
丹焚制の終末﹂なる二名潜む公表して−、隼的系統的な
J霊!
立たに順穐を宛てたら空く課諸に附−仝りこれは文す通
1ンガrノ1りン
り.一七一川年︹正恕川年︶磋膵に於て浩人件大連ジョ
ワンニ・シドッチ︵○⋮C2≡iS己C芦西洋紙mに併潤ヨ
を宛てなけれげならぬ。またJ−二ハ晋ほ人口に肺炎した地
リサンガと翫んで≡苗︵河内捕北河内群住道村の大†︶
ワン・シP−テ︶の逮捕に至るまでの年代㍊である。
引とたつてわろ∵博士が常々苦心になるものは.おそ
人名紫引、Cほ渡来外人名東引、pは三−i仲及び串物嘉
これをクレ.クリ.コリた凋んでわては常〓比告がつ
算㍗又はつlユ或は︹乙たどと評かれてわる地名で
と苛骨の逢ってわるものもある︶例へば肥前大村俄の
名でも今の粕川には戦ってわないものもあり、北〓と今
らく此の京別の人とMとであらう。耶離曾年報に現れ
二ぺナウ
かぬが.漸く⋮心果してコl・Hリと萬み.椰の字を考へつ
次の紫引は囲に介ち.Aは‖木地名累引、れは日本
た‖木の地名人名は総べて新都牙式の錐塙享セ、而も
一.り
わた紺小満だと測定するに比棚常骨が折れる。︵∵・∴直し
之を架被絆耶耶川の下流域で昔は耶王呼び刷らされて
∧山†・.!lりがほ
音の樽灘や邪幻の振りなどで鋸諒と泣くたつてわるも に くとしても.肥前には椰なる地名け現布の地相にないつ
のも少くないっそれが冒㌢や⊆邑3・e︰ぃたどの‖ホ
.基軒数史になると、更に之む彿繍西式の払拭字撞りに
1.一ヽ一
と判じ糾たとしても.それが叩菅︵昔はカソカと準備
都き配し∵川も葡萄牙の形式も隼ば柁してゐ︼心ので、ても、之をコカ土語んでは無論関根にならぬがコーカ
いよ︿曖昧になつて来るけこれが‖木の批准の地名
す︶木酢定されるまでには刷新の考慮が安るのである。
斯かる肝れ不明の地名のうち.最も庶物上されたは
人名の執れに常るかを肺定するは.決して一欄∴クわ
菜でない。例へば.甲声はヨ≦ぎ汀声は苧J〇L√︰.
㌘−乙0リ・25P
抑帯紙嬰な地で、溢外の仲井には々〓て来ろ地顔では
である.校長元利にかけて切堂外伴道上
葡粛戎紐甘ではドが僚計に=山人ってわるっさればL上し.
Nはすべて除外して昏評すれば正しいかと云ふと、必
あるが、その肝在は不例:lで、天草の水波とすれば㍊串の
・L.レ
︼ ■−Jノ
ずしもこうでない。ぎーgPとあるをサガと狂・僻し.佐用
姉噂博士の例文升研究節二別の完成
J2.】
が.この︼りこコ︵﹂古賀Pが別の借扉正はヨ︼nd〇︶・旨P又は
崎伸土も椚くほ締めて不糊に付Jeれてわた腔であつた
内容L.血迎し、他にこれと云ふ机締りの地名もなし仙
如ち上井火炊頂利勝である串などは.人名考紀の序芯
血追邦の︰ボナ如く尾張大約諾北沢ではなくて、大炊躍
ち砲車院全景であり、賂弼家光の叔父○己冨0が、鮮
言㌻澤木‖木哨教血に㍊す如く寂印ではなく∵柴院即
ヤくいん
コー︰lニ=ぎーPとあるを替地して、人附肥前藤津抑鵜野柑
に過ぎぬ。史上⋮署名な人物ならば、経机字叩きが曙曝
山人ハ︹︶
の不動山と魚想豆つけ、ヱを締めろ1蕎には㍍々肥前の
でも.前後の㍊串の内容から判断してそれ王推豆する
姉昭博巨の切支丹研究第一期り完成
摘まで〓張して不動山を代地に椚弗し.その地勢が供
串も〓朱ようが、然らざる者は之を求むるに群宮を渉
やったもので.欒しみであらっが、釣りあてるまでの
てヰた拭かねばならぬ。火拇に鱒州を泣べて酌むする
ン﹂恕邦籍の㍊録に求め得べくもわらす.結局あきらめ
猟せわばなら証lJ析〓紐の武士や庶民の名に至っては
記の示す肝と打合する一旦門推して迭に一1責一へ▼壱一一P即ち
・不動川なる串を躍認されたしL.ムふJ化か一地名に就て
1.上−●
い此の鞘心と努力とをM心へば.他は推して欠‖るべしで
オ〓・りエ
あらっJ Or邑︼⊃が下以汀︵押巾︶、・㌻リ・つ≡が登米︵雌前︶
l一h一一・.“
宇︼︼CllP−.が烏姐︵汀P洩市︶などと汁■まるまでには、博
地ル‖は︼.︰象山にもCh邑≡■㌃にも随伴にあり.之を一
上はほんの一例に過ぎぬゥ斯かろ椰鮮な錐蟻宰相りの
は賂火の研究の唯一の指針、﹁咤の最﹂であるJ歩哨史
来の切支丹吏彿究の節∵期錯節であり.推進にとつて
要るに此の家宣︰1コ牒〓だ.博士にとつては従
世=分圧大柄でないっ
一拍奔考紀した純水が、この∩木地名東引かと思へば
憲の‖ホ非悍欲火柿光もこれによつて非の綴港を訂㌧﹂1三
士の朋敏なる離脱も多少柁れた串に近ひない∵州も11
本邦が如何に博士の常々心血の絹張に成るものである
され、賂楽の指針となる邪、また︰ヤ小を待たぬ。たゞ本
邦の肘鉄砲脚の一〓もりく畢表されん邦を希望する。
かを推定するに斯くないであらう.
人名に就ても伺ばな串が︰ムへろっ秀吉の壁睦がJ写
Jヱi
﹁
彿
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﹂ ク
ー
の
、・
・−ノ
研
究.∴に
就
て
男
の粧遇を明にせんしLし㍗ワリ﹁彿性の研究Lの公刊された
本
彿畔﹂とは何ぞや山問題は.人関根前の根*秋根に
こと・にー前に畔構む郡たものでわ乙L∴回畔に父、意義
の稚いものがぁるとい往なけれげたら択。
て.成る悪聴かLすれば.山水の押準肴ヤ⋮ポ教家は
、.山川揖む姉決せんが鳩めに.心血を往いだ上も軋る
も八︰⋮然いに塵化したければならないからである。瑚今
禦もソγ圧.畔化し′両に遷流すリリから.従ってそい内容
零む規小机†りりもの㍑酢史的粥情や文化的背影等でかり
ル品誹・㌍サー†Lも一致して㍍たい。何となれば.その内
起り.支郷に焚え、〓本に来りて、その慄然たる英斑
礎として糊最したものであろけむに進んでは、和睦に
成道‖抱の彿鞋の順法輪も、糟﹂拙べてこれ彿牲む基
性問題の酢郡で中り、又、成道Ⅲ前の開館の躍如も、
に坐してい比明日.等≠堤む成ゼられたのは、此の彿
金剛蛮性
ぺり勺︰邦の人々の問に、小ポ教を補足せんとする運判が
を紙んだ梯教も、仰詮は、此の仲代の論究の成果に外
抑も押煙が、泥追跡河の惰り、書堤樹下
起って㍍︰りけれども、これも榔諦、従来のパオ一興に満
た、りJ・こ。従って此の休作問題を小心上して企沸教を
二ノか川東︰リ︶併し、側li作り〝おもの∼内容とたると、 ●−
足rh?﹂上の〓兼たい人々が新し車内容を創n川ごん
机離し、備系附けー∼ことが川東ると川帖に、こり彿性
′一
● ヽ●
▲
⋮・恕発根再紹絡む辿るこ∫は.それが直ちに彿教思想
⊥ヰ︰力労力の一摺椚とも兄ろことが〓魂よう。
此の畔に浩つて、柵桃問題を捉へて、そが⋮小悪魔展
.
仲り㌧ト一\
Jエフ
のされたものと云ふことが〓衆やう.待て又、或に古
て用土多年の兼帯を傾倒されて一柿の彿故思想史をも
て懸想澄雄の揮過を明にされたことは、或る意味に於
研究溌料の取扱に於ても、常に経典威光に留意し、以
史む描くことにたる。この瓢に新幌せられた博士は.
現存すろものが由.吋なりにあり、而もその船越の棺
の如きも、後亜大部分散伏して惇はらないとは云へ、
活範を呈するに至った。従って彿佐用庖に閲する文献
すること雲霞の如く.淡々論陣七猥つて準場は著しく
の囲、新柄繭押㈱教の彿欠などがあつて、隼曹の排〓
じて、その発展の最高潮た超した時代であり、且つそ
〓ハニ
来此の種の研究に未だ嘗て見られたい新しさと、肇的
裁たるや、御に人−︶帥に入りて時には人をして問題の
﹁彿性の研究﹂に就て
椚櫨と散見目すことが川来ろ。
で.支那忙来りて竺道亜の胴拉成彿籠に始まり、山ハ胡
鉦、並に醸伽・彿性・彿抽紙箱の試論を粕塞し、次い
兼捏繋津を〓機動として、般若・準備・膵婁・躇伽の請
のに就いては、之む省略し、直ちに火薬拝外、殊に火
教上り郡派彿故に繁る問の彿性の先駆思想辱め如きも
して取扱ひの都岡を勉めて制限して居ろ。釦ち肘始沸
願汎に亙る媚ひがあ・るので、井新枕此の繁を避けんと
持を匂往†声ものであろから、㈹寸もすれば、像甘に
て徳川末期の唯識の英雄に至る︰†年間の※なる彿性
の論雅に筆を心して、∵論の賞摺.天台の悪心等を控
献すろ排が多い。次で‖本に来I︶て仕、棟数と旭一と
も常心された邪であり、従って亦、モれだけ隼界に弄
し〓て訴肴をして了解し易からしめたのは、博士の最
し、机梢して、問揖の櫛在とその進購のカ向とを埼ポ
雑然として縄めて排附たり匂体位論評を思燕l的に囁理
その該博なろ椚識は、解離たる論理と机ひ待って紛然
の専門家として、数年来.此の方面の碓究に亜挿され
坪在とさへ見失なはしむる程であるっ博士は支榔仲教
を揮て椚硝忙至る其の冊の講隼陀の体位混を郡究的に
説に論及して㍍る。
前運の如く、彿性聞損は、見カによつては、彿敦金
論適して居る。蓋しこの時代は、沸教思想魔珪史を通
了エJノ
而してその内容たるや主として一兼酎三乗、ePち、
て経論を終り.本論よ嗣の印度に於ける彿陣問題中第
に此の思戯︵堆尭無性︶は、彿桂岡魁の暗礁にしtし、∴
理想の北域からすれば、一切衆蛮はあくまで悉右彿
小心とする後川品との⋮二段に分けて群論してわる。
したのであるから、之れだけでは︼隅提の思想を引き
起す迄には至らなかつた。それが何故に本澤に凍って
間恕の所在より始め.印度†支那・‖木に於ける新説
ものは撚転苗畦の救命の状勢である。即ち形式と件統
一六三
とで囲めた煩針lな抑伊に証て織れる部派彿教にあきた
﹁体位の研究Lに釈て
そ樅謝し、性㌫と耕景及び両㌫の1・−I娘最知を紡論とし
初めに、彿性に脱する一乗三乗輌系の思想、並にモ俄
のかに問蹴となるに至ったか。この解決の鍵を掘れる
以下その説究の内容を概観すること1しよう。先づ
ない。
論述された伸上の隼的労力に対しては敬服せざるを者
捌とか五逆非・犯戒・不信呼は既に彿階時代にも存在
すれ
三十年∴ハ官員に捗る人文革をあくまで研究的㈹脚僅
でば現.1−間‡満都を意味するものであり、又.斯華根
つたのであろ。が然しこの二間捉は之を言語魯的正価
彿牲関根申より、よくその中心髄揖を捉へて、三葡、
ないもの、釦ち一問捉ハTをPl己F︶の思想を情するに至
同時に叉、彿極論の核心をなすものセある。汎頑なる
の埠鬼無件の聞損は賢に体位論評の興味の中心たるわ
とけには付かない。殊に於て別腫舷梯することの川水
しめたりといふも不吋なし﹂と序文打越べた如く、り
此、誹那正紘の輩等があつて必ずしも悉皆成価といふ
こに問題の探呼亡を加へ以て純く彿件の忠義を曹押題
せに照して考へる畔仕、晰薄根新あり、五逆非の従あ
して同相し、これむ‡抱として幾多の推測を損じ、性
こでなければならないけれども、これを瑚班の葦際問
鯛に亙れる彿件の研究は.王として準克無件を小机と
碇即ち無性有情の論究に外ならないJ蓋し教昔が﹁賢
一株か五怖かの論評にして、更にこれを克許せば一一
問群に於ては、大股押聖経の彿畔枇を加東触‖⋮を小心
としての前ぺ‖⋮と、墾付、発行の小二‖⋮と、迦♯‖⋮を
J37
我人榊小沼に如してその指導帰理を興へるものに附す
らすして.瑚裡の苫悔む政消すろと同町に女、直紹我
たるから、此のオ情を除去せん空して二つのカ拭が賀
のみならす又、新人兼運動の証壕にも抑反することに
棚のもの上ごれたけれども、それでは彿陀の根*描紳
一古ハ川
ろ弧き要求が起り.これを満址せんとして起ったのが
川これるに至った。即ち第一は畔川的鮮決力法であり
﹁休作の弼究﹂に釈/し
仰誹人束仰教であろ。が併しこれは珊はば、一柿の〓
たらぬJ拡に於て大成非欄諦の群が必然に起って死
邦武の仲維を昭すろものからすれげ、城端であんオlば
如来の人悲を純︹︰せろものであらけれども既に隼善根
正比後世に薫根を撫ぜしむるといふものにして、之は
宮山の一聞損と挑も.如来の人悲に糾るが故に、靴批
巾⋮小憩家にょって起された新し汁一︰パ救運動であらだけ第∴姓墨冊的のそれである。畔糊的解決力法とは、断
ろり然し新人兼行の宜場かrJすれば、火薬非彿課せ旧
門数に於けろハ陀経との闘偉に就いて考究す︸∼必要は
たのでかるが、駐にこれを外部との交渉.例へば時頼
由−之性※として彿歌内に聞損偲剰興起の附囚を求め
は、菅常の解膵であるが誠に署恨L−■いはjlばなら出ノ
て、蓬に︰附捉の形式を取って拍現したもCであろ土
ろm準︰木腔は特にこの石棺む糾此して㍍︰七七刷往つ
ろが.これが本紙になろといカ敢非内に放けろ榔職な
てZれを敏郎わ二果と破斥したぃが股需や縦枠等であ
場にして、既に後世の冗不定・理柵性行彿性・葉作問 伊
一問損なりやポやな規定†ろこ土になるとは本紐の正
王なる、たゞそれが和布に親和するか蕎かは、やがて
性を理腔と見る限り、その骨⋮然の紺地として恋着彿性
構︰兼摂であり.中道・十∴何級等である。かく、彿
内外・右裾無渥・借無常を超越せろ不断のものであり.
第∵頂の肝誹.墨刷的軒決方法であるJ即ち沸性とに
理論的根碩を輿へんし﹂して酔過的直理酷を謎めたのが
旺雛二段の概︰け‖⋮等の諏ごあ▼るが.一新進んでこれに
ふ乙小英紙こそは彿陀の苑北山を失・∵鳥ものであ・る′■打
しとたる‖十戒仰の可能牲を認あわことにたろ。こか
たからうか、かくて雛﹂段に於てけ、一周捉圧永末通
性キい問題の起源をたすものがん︰交れて㍍ろ...
殊に無頼魁恋を岡肋すろ巨に於てほ扱くべからざる文
鞄想して.巧に之を論究し、五性の文純、堆発無性に
併成柿酢.戚伽論の英知等の明日に分って㍍る。本性
人性を主張すろかの関根にして∵勝て本石新譜両家を
染が如何にして渾となるかの曹準上の根本問題にも偶
七某日した鮎に於て.彿桃研冤仁兄超すこL”の〓水な
死場からすれ比浩然の餌結として悉右彿性とな少.後
定圧界如む揮紬々とする無渥椚の種子と見る。前軒の
﹁仲代山糊冤Lに鱒\
禁則骨よりすれば,理性揉必然に相性を作ふに反して
写にとつては来面上、依甘にナ宕一引㌦両せぎろも五代放
此射旭﹂の揃却の如きもその根本に折れば以上の二つ
のりでれと剛じ′、納めて肌究たるものがあり、∬つ哺
経識
常よけすれば即件た︰〃怖は各州たることーなる。博
ぁり︺が醸伽.論が伸性論押に於てけつ地祀に恰も捏璽錐
埼困窮‖下に於ては腐伽品等の仰作況が討放されて 滞の北場からすれば無情石帖を是訳することになる。
いい文献である。
於てー又、斯薫根の閻鎚外に隼㍑不服捏渠の大悲聞損 hルろ.︰兼寮旺之を〓して掃如を直に種子とし、三乗
たろことは†犯叫新しくいふ迄もないことであるが、 れる埴嬰なものであ・ろ。粍如肝艶々の糀手は賢に三城
柁に潜適した哺識寵の五性各別諏の起断となつた卦に に搾りて︰兼封﹁.兼寵の論郷の小心題目をなすもので
に於ける.唯心思想の埜遁を知る上に於て加弛の葦料
∬楯牲と∴柵榊揖とを糾介して㍍る。蓋し水路が川度 批するに里った。欠こは押から如何にして染を隼じ.
削むなす.川兼涙や二過不に純を探り.更に撞伽鮭の
厳・膵稟総称の※なる人魂経典に就て、嗣振⋮小憩の北往輔酢及び∵門肝戚柿酢蛇欄塵の先天性を認めるか待
して本澤を講究的に討険して㍍る。次に.大胎動・華
地化をれす︰わものであるが、常滑仕種に此の斬に留点附する五番問答.無性のパ椰机状、本性化柿酢及び督
を早める鮎に於て.沸性論⋮心想史上.極めて姉射たリリ
斯く本据が絶世彿性晶帯の闘心肝⋮郵とたれ︰リ∬問献
題である。茸希は後世ぶぷの仲⋮断となるぺき訪問揖を
J2JJ
﹁彿件の研究Lに就て
㍗紺換れる宜功より光たに過ぎ・㍍い。
一宍六
告粛して哺誠家む攻愕すれば.豊沼は能据中速悪日論
次に泄耽り彿畔論は既にその名山試せろが如く彿杵 吏新してヱをk履して‡に和讃らす。著者は此の糊の
む主題として論じたものだけに榔めてよく盤ふて居り 潜血を、批伏せる文献巾より・.トフ、蒐某して、その輪
その思想内容は無著の琉伽を描いだ肝多きも亦加水礪 揮を捕現し.以てその※張を桝〓にせり。之は要する
一乗−斯謂附粥澗の射光にして.其の論評−頗る劇甚
弟如の北醜からしてあくまで一束説セ※張したの旺、 に兼松附い件∴ニ来航出勤一乗苑群、純忠一発、期了
その持仏とすろ肝であぇJ
た摘めたけれども.後、駅帝大醐の約化の︸九代紋を‖
して、之に一段落む八=げしめたのは莱櫛の手腕であ
次に成唯識諭に胤して比※上して、*有.新滞、新
開合性種子訟な論じ攻で絢底せる五性各別説−疋旧軍し
り小。
最後に、‖本に於ける彿件論調は印度∫l粟の付紙を
た、僻地諭を糾介して印度鵠を終ってわるゥ
第二の支那篇枕.道蛮の関根成沸謝に扮する利勝、
法跡、懇親等の反封説に始り古ハ欄の十一読の椀種勒を承紹したのみで別招新しき問題はないけれども非の論
逃拉、次いで椚の渾影専怨速が理心沸性批に光ってパ 評の例烈さと探離さとに於ては恐らく三関を通じてこ
はその撞もたりじもので.ある。然るに徳一の文献が放伐
れに及ぶものはたからう。餌ち徳一掛膵数の諭雑作復
の北尉となれる岡澤荘戯等の二面批を切にし..次に新
して榔らないのは柁念であるが常新は相手の件数の著
.楽の終紋む擬棚せるを挑め.天否の二面彿他説北にそ
鮮守の青麗の五稀彿性説を論述して折る。玄柴、一腰.
末位説に槻する新謂彿敢を緋介するや、韮洞先づ光っ 述申に引mされて居るものを蒐処して、以て、徳一の
♭
て、此を破し副審、これに腰賎し、我費は更に訓轟を 忠想を隅明し.よく両者の論仰の跡を記述せり。次に
破婚せひ。更に亦、意思の後、法栗は一乗彿性究鬼詮 ⋮二諭の査収の大乗三論大損抄、宗の“東棟性先発妙に
J.】0
就て、その体位純を比、配に悪心の一乗要訣.親閲の
﹁挑性の印篭㌧ト純イ、
い.︰兼家の彿件謝が仰作問軍〆由り撒ふ上lこ於て、
−竿旦硬訳されんことを樺外のために念願してやま払
らうけれども、墨常は.今後∵藩骨が此のカ而の研究
晰ってわるから束縛小にそれを論じないぃが常然であ
れに射して、伐りに戯机に亙るを〓て除く去乍︰:︰た
それが論及されて㍍ないととである、出し∵菅瀞圧そ
締めて誼更なる稚〓を潰することは、今更事新しく云
隣をなし托L.由はれろからー特にその必要を感する次
を諭する際、﹁埠壬品等するだも猶−醗邦鞋得れど.
一囲混む毀すも研押あるなし﹂とあるは.大毘弊沙論
耶二︰十五窃の斯薄根む諭する鳩に、﹁糊ふ、如滞人を殺
を伸す脱却た墨†ろは脆く斯澤人は非らす﹂ゝあるの
叫古ハ七
文に推敲な普ために兼備に対して節の粗たるを謝す。
木材教授の訃に遇ひ長陽の撤み、且つは茸燥の文、
それは節約沸教及び雄藩沸教の雌株槻北びに二輝戒の 知られ糾る。
の藻場から見て多少物足けなさをばじたいでもない。 と“致すろ等北ハの冊にかなり補招な閥怖があることが
欲むいふことが許さる1ならば、これを仰陣問題全輪
氷け此の絨のものに化して滝かに優れてぉる。鎚いて †上蛸卵を邦すると回れが罪詭きや⋮⋮射るか蓑の課
ては溌料の鮎に於ても、亦.議論の迎びカに於ても碓
木澤は五性掛]性、特に無性右情思想の冶究に閻し
於て∵共に沌優なるものである。
哺講説の彿桃細が新しく一発宏のそれに近づいた恥に 第である。例へば、人捏奨梓池発〓⋮に噺滞糾新のこと
居ないものを多く引mせる鮎に於て.又五緋姓玄論は
る。一乗粟決は彿性論誹に闘する文献にして瑚存して 僅り托Hされない柁であり、≠つ叉.大橋掬性批の北
準膳宗種極致紗基桝の大軍几種埜基軸等を槍対して㍍ ふ必輩はたい、たゞ、邪紙価敦のそれに至っては市来
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大乗仲蛮への歩−〝
大 束
彿
教
へ
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歩
み
虎‖
1.=一1U.一﹁竺⊇kご苧乙訂二二二三ゝl己≡−・︰l罫■三木=h・二の〓故に放い/一
1.リ.︼
声−﹁
し〓.ノ
辛的に〓板LたリリギIの飢も木謹でれろL∴いふ.故に・木
大行大川日数捏鉦木人拙氏托今来㍍ンドンから、大乗北=は莱希のソ㌻㌃一三打たる︼∵つレ・二=㌘l二ゴ乙ユニ至の
の醗裁を几ふ︰んもいでぁろ︶
結世申の笹神ぺ真二抒典、入相伽経に陶する研究を上 作流を娼すもハでにあリリが.火筒正に経典研究上して
樟サ、hれ㌣.−・き・㌘こ三二仁㌻巳㌢h告2S写㌔と超す
水北=を成す∵伸吊の小、第一構二描は∵革帯が絹許す
る︼Pを彗こ己き紆l
ーウ.乱はこ∼l二先づ木部の内容の概搬を鮒介し、攻に
∬骨の構肘捜.研究力法等を考狂し.終りに木澤が彿政
したろもの.箱∴仰山は全然誹らしき縞である。
神仙上に先に作表したろものを腫正
隼.性に〃すりわ雌命を見せうと思・㌦。
木∬の製仲動機は、﹁竹材l︸こ︼︼Z昌2d−≡⋮の第二鞘を
サリーを載せ一基引を附すリU。莱軒の序言によれば、
閃輩、托典の内部的酬備に槻†る吟咋.第五番、入揮
成繹・梵本の比較研究、第三輩、本文同異の例示、第
る。持一軒、粥謂及び西城謂、節∴草.沌鐸三木.西
ふ巨︰に∵紀⊥り戊け、附鍬として梵・挑・其の〆り 第二吊ほ﹁人相伽持研究序論﹂であり、七草より成
準備Lつつわ与川に、その節一郎申に素描されセ‖上
‖本に於けろ本鉦の研究.第七草.本鮫肌∴‖輪.擢婆
伽紙上支W群小パい親北︰堤通磨、第パ串.通磨上l経堂邪
ので、此の捏を特別に研究し那
に.人拐伽錐に刷†ろ加=識と調骨が有†る方がい1し‘
当へ十r†隼︰=.〓だ
J.;●J
郡た劾崩品﹂芦占己一lで壱号︶英謂り第一箱は第二・埴
≡mへの道柑であり㌧概説であるJ
拘った︰小西容王右す、、
r
l
川じく種々に分岐されうるであらう。而して事西のゆ
嬰一箱軽部者が拉も村法とす名論〓ヤあり、従って 火束彿敢粍外の軒先法は.彿故の他の鶴城の射究と
最も力む仰けた場併であると考へられるヱ.入躇侮l拍L′一
敢隼希が現に大乗経典の研究を辣︰とすべき時機に到
増しっつ、納力仰敢に於いて貧したろが如き充分な手
群沸教の教理Lと超し、〓部に分られる。
第一部 群小に間組これし※異⋮小憩の考察.十二︰両小。
腕を礎細しえないのは何故であらっか。柵ふに.大乗
カを要†るといふ推仰を外にして、私は人酔二つの理
第l寵佃 欄数的粋験の椚的内容.囲輩。
第二藤 澤辟のf量三浦た︰付狙.し直早り
由を考へうり㌔一つは文雄的に見て衣瑚形式む特異乃
繹典の研究には沌謂・西城謂を滴祓すべ沖■充分な語華
第ご舘薩井蔀にょれば.﹁人相伽綽は持に郷悌故にの
王命異でぁる猷.︼つは偲想的に見て刑γ撤妙な東洋
第二部㈹ 彿敬的粍放の心理輩、八直情。
み脱するものではなく.又火兼の共石財産である.故に
⋮小憩の1扇動を説く瓢、である。此ゎために.火兼醸典
苗から離れて粁究せられる畔、紙小に現はるる必しも
詮仝ぎ:㌫ゴ︶、第二帝.舛収鵡富=忘︼声㌧第三辟、仰
群れを形状聖∵.一ととなつたわけである。帯〓小.唯心
しろ抑記されるべきでぁるり﹂.け吾二.1t︺故に節三mの
∵りカ向はいはば机堺的であり.第二の井向はいにば
∵り人によつていみ鍋されうるト一いふ維仰を持つ小節
係を持つべ狩であろ⋮−・と北ハに、第二に放き徹智を有
されねばなら氾・・!こり考㍑は勿論印峨文堺一般に樹
いに
研究
甜に崩せざろ毘つかの純安打る川心朝心が、償令簡購
もは、情∴に文堪史的に充分なる研削・考純が通
∴身諏、帯川諏.如宥.第五輩、他の小揖‖.一、︰
高批的であり㌔机堪灼に∵てしこ世親的にJこれこ︰て
一一ヽ L
い ■
﹂′ノ
t︳ヽヽ︳ヽl︳ヽヽ、
碩∵∵在無川舟尤∵﹂∴∵沌輔賓、川.川抑、在.企
ぺ凍叩金へり歩け
Jユ1
大乗俳薮へわ歩′〃
∵七一−
しかし此の∴つの井向に.か′、の.州く哩期これうÅ
ヤう︰−斯ろ消刊は咄人の損の如くにち捏がたいゥ異に
的〓嵩の樟弊の最も賞訳すべ汁∴清純てれろ上もいヘ
大兼紆典の師究に軟くべからぎ︰り御究十〃法である一渥カハ前に沈むH†軒Hち㌣に※に〃†ろ.或は牛津
もりであ・らうか。均∵=すれば科隼的であつて川畑に︰m
締めて少た∴て大女にり亘附糾され云.へき尻珠であろ.
1
ヽ■﹂
孤的であることはありえたいであらっか。怖ふに此わ
ヽ︳▼−ヽl
場合の直観的土は、いはば眼光跳背に徹すろ庇の充分
’ヽヽlヽヽlヽヽ︳▼l
なる訴みこなしー£心粧すること圧骨⋮烈であり㌔故にか然らば鈴木氏の弛みしカ向は如何たろものであゃリ
かる茂みこなすカは何によつて坐すやかを考ふろ畔、 か、私が先に掲げた科雄的にそして出和的にとい声標
∴適ぶべきこ・り﹂に、品ほここに此い北︰の永常としての
それが封象たる捏外に闘する完分なろ椚油に基くこー⊂語と如何に闘橋†んであらうか﹀これを考∴ろ前に一
が宕取きれやう・−従って此の場合の両親的前非力は.
︰草耕を考ふりわの一っで、別に仙点かろわけでにない、
比此れであーらうと忠ふ?茄資長此の問魁に気付いては
たる考捉壱誘致す一心かり必ずや木紆析究の最初の問題
かかる多様たろ⋮箭仰の北ハ存は、拝典弘的に見ろ畔如何
人相伽経い㍑の合む⋮心想托柏︰禦﹂多種宥和似であるじ
全部とは言ひえざるも、その尭分比椚質的偉討の結果
L﹂して自ら典へられるものである・︶先づ科準的に、そ
して〓ら匪勘的となりうる、とぢへるべきである。
だかしかし反射の場<=もありうり小ウ例へば詩人キー
ッがギリシャ誹む諏ますともギリシ†粘紳を把鋸し・X
て、﹁ギリシャ詩鶉の凪﹂を歌ひえた如く、優れた摂佃ゐ
〓るが.〓ら酢決すべ汁−骨⋮而の課題として取扱はうと
を射する人が大兼彿教耕抑を微妙た拝外の石川に抑へ はしない二おH︶三て又海謂・西城甲梵木の比
ることは苑に可佗である。被は魂と以て誹む。駐も直 杭析だ於いても.特に㌫む設けて讐てわる︵監
接的に椰解するウニ沈毅逸親念諭が刑兄かな彿腑西的砿下︶が一大推論であつて充分に解剖的ではない。木挫 川
の成就に就いては藩邸分が﹁機楯的に結合されたこと
次に英文で耶かれたろ針に於いて.土︰r、ひたいJ
ち最初の耀聾耶玉勘胡晶及び最松の陀跡地・掲現の二
就いては述べられてわない。又県木のみ紋く三‖−I‖.即
此尊の誹梯の忠恕が他の大乗絞王如何に閻僻するかに
え丑︰にすぎたかつた。﹂二九封︶と考へてゐる。しかし
よ要融合を釈放ふ数個の斜光の叙述は、異に新都の鑓
封りー故に﹁最初に鉦が組雛された順には、大兵併故の
たのであやー ︵⋮㌘⋮︶−串物の加増抑蒜僻は・ぷ
む述べ、−−その撒に北︰捉輩磨は本給む憩可に附興し
或は〓J︰北伐︰︰曽監山rぎ㌻りを節約一端して高調する凱
規定t︵肋㍍ニ次い完黙が内的兜警1・怠−1登i︶
る。先づ本粋が請火兼距典申にハむる化道を内容的に
りたる中郡一部は﹁錐申に悶説これし※梁川芯rを述べ
経と抑彿敬の教理しこ告骨滞の萌桝〓でわる。二面上
先づ第一のカ両−ピ見る。木晋の帝∴篇なる﹁入彷伽
=仰が、柁別の附加たることは刷らかであるが、此れに
分別を榔れたろ無分別椚︰1一ぎi打与忘賢一︶によるべく.
は州立榊に有標的闘係なきことに卜ろて示され﹂ハ∵ハ
㌢孟刷︵粘封︶も、穿に丈笠的ではない、此
︵上紙Y次いで加⋮隼︰E意吉の嘉孟きハト臣︶
笹云︶戒㌫叔−恒河沙の整喩
であ之.・、︵持二︰伸吊の椚柁的力両た拙封するけ︶北︰醇が本鉦
を凍〓する。帯二ぷ〓半たして井蛙の知的方面の説明
其捏警莞義く
等の凱より見て,木津の非常が水文の料熔的瞼前のカ
向にカを症してわるとは冨ひがたいーU従って私が先に
考へた第一の粍件む光すとに考へられぬ。だがしかし
水井の僧帖がモの故に滅す㍍といふのでlまない。練興
申に説かれし如牢内的機酢に摘〓・ろためにほ二種の刊
−一
●
︻・
刊誠の二柿、川、∴挿の搬鶉此を裁き、︷叩いで純∵附
先づ分辟的に望を弛め.∵五扶∴∵諒町∵〓杵∴∴
研死の﹁般的考察から見る畔.目上の如′∼考ふること
大発作改へり歩一〃
む先に語る、捌ちそれは先づ﹁歌祈の撒智に於いて、L
然らば本邦わ椚他は何題に存するか。私は先づ結論
的準備む畢丁り㌔餌≠論理的と心理的とである.故に
J.フ.ウ
が可提セあえといふにすぎない。
ヽ
大兼併敢への歩み
に欒u嘗︰−︶の糊警人る二︰拡
︶二−唯心訣・
F
∴.戒識・心・誠・意・忠誠・等の硝絹の祝肌、誉、唯
一し..
■
ありとすれば・−1笹本駁論であり詔誠論ではない。黙
ろに酢総記は認識論仙である。﹂∴八〇︰八
月上略適した如く、鈴木氏は深き根神む望し耗外の
棉紳を把握しえた。私は東洋忠恕を闘拓すべき賢者と
心説.川、誠一の耶系の牽旭、五、描の三村、古ハ、八誠
の仲川.七.悪の仲川、八、神霊の日畳。第三部は﹁苗
して、氏を推すに蟻川しないものである。
l一
Ⅴ
塵の批清と毎笹Jを取扱ひ、折柁的方面を運べる。山
上此等の紋別に於いて署肴の深・普棚雛と挽き腫徹カと
世外の沸教折究非に謝して未婚の有する蛇足である。
最も注意すべきナ邦−む私は投後へ廻した。夫は現今
第三識は先きに述べし如く.特に押に刷せざる細々
鈴木氏が東洋人として東洋阻却を朝鮮し∵英文に上
が隣席に閃くと見る。
なる爪安思想む取〓して芳賀したるもので.その全股
︵虻㌍︶・本文の英評にょつて搾外日身の菅原室小
新は北づ*雑巾に於ける唯心説に闘する伽椚を引刑し
係ある唯心就ヾぎn一脚t鼠∵好餌何にl托披ふかを見る。⋮骨
に対して.鈴木氏は愉快なる此の一昔をuて珊ゆるこ
豊かな碇覿カとを射して進みくる彼等練洲の彿敢壌常
既に大罪彿教の牙城に逼りつつある。充分な語嬰カと
ン.レギ、チ∴ルパスキー氏呼吸湘彿政雄貼の憤毘は
を止ることは不吋碓なる故忙㌧ここには唯識打製に刷
って野衣しうることは既に稀なる才能である.ブッサ
し一
次恥部諾す品雷管︵長竿心と阿甜
近刊の由である。
火薬彿敬への歩みー
べき進路であ力.叉私n身の小さい嗣ひでもある。
これが他界の彿敬麟界む進む
椰誠と我との捕別室那し、唯心の紀例を経故に依って
とが‖粟た。更にH彗叫こ11才n︼ど︰挙ぎーの節二郎も
なし︵長竿放後に紙警加へてわる。そか巾に唯
心と唯誠︵u山jFplぎ筈且との鵬別む説く動はけl伏であ
る︵虹粘︶=人相伽維中の抒隼−尭しかかるものが
潮
.1.齢
■
新 刊
紹
サ一
l−′t・l//l一t’■i.﹂■ノ//l′////−1一■ヽ一−、■−/ ′︸t−1●
ロ﹁Ouコ︵ナ甲︶2−d=a﹁く○宰︵¢−ざ︶
↓heNpど毒ぎ○∽¢Of﹁監gす戸
T≧乙〇コこ℡培.
近冊に於ける宗秋批判り傭史わ迎い〃に、耕一期l王環十八世
∵号坪菊川脚想家の﹁小描穀ヾJほ敬仲人り意洗的詐欺でわ・ご、節∴
mほ苅十九世紀合理生痢粛¢﹁宗散l‡個人り自己≠輪に・して
敏行に依り克服さる呵き迷妄でわるLミの枇粥でわつt。第
澄ポ孜を詐欺.或ほ込妄写して糞朴lニ舷斥・し去る郡代不可能
三期中現代に於てほ、聖す耽歴史的人積年的軒先り船具、最
事左り、宗教の珊彊作ti賞旺的lこ承認ぜぎムわ仲兄く克つ㍗。
而・りに城代の宗教批卯ほ余りlニ触風力でわり、串ろ現代人lェ
殆んご⋮ポ赦lこ触胸心でわも。ポの如く考嫁、して背粥lェ.一朝
に於て†ルキシズムの呆救批判¢董朴性ね却けるせ典ド、宗
て平l”簡寵に叙述・して居る。本市l‡、宗軟11人間の本性㊥自
悠¶正糖化表魂でわる訴む闊別・し、以て現代の帯㌍枇珂の機
準ふ戚癒豆ん写して焙るものでわろが、典著iほ∴氏ミもに、
熱心叱クエーがー教徒でわるだけに、企算む鶏Cて精分暮秋
に於て﹁必華な場令lニ絨いてn己の信仰的立場む隠嘩しJぅ
的臭味む有†る吼lェ甲はれ布い。鱒し此り淋に鱒してほ序文
兎まれ本‡の林野甘、従兆の宗歓心礫争搭が多く回心詭石
ごほ払liない﹂ミ隣って周ろ。
︵J
l■
釧酔生義金右小心寸﹂・して、異常な宗敢締撒むま咄亡ぜるに旋
るご恩lIれる。
︵宮崎発鰯︶
︺て、一般的光正常な推●をりみ取扱って屠る鮎に見出t樽
Eぎtritt計∽Chユ乳○コtu∋∽iコ・d紆W乱t●
C一a¢等コつ苫lt︼1弓︶
peth㍑・.−中巻−−父︸p
兼甘敬が如何に・してP−†・ギーシヤl胱外を寵廠・し、仲井
耽り草し・÷研究官批判を熟ま︺本書lこ於て其の一嗜む挑んミ
味稚く箱稀尊かに叙準しゎ腋始逓寵致血でわろ。1i明に・して
的邦邦に進出L㍗かな、椚隼的批明研究の結果ド茶づいて興
∵セ三
登鮎む正確に化学し㍗膿瘍は縞嘗叫の個胴でわろ。︵三棟︶
、し.\捕る。木蘭lこ放て著者ほ心積特約骨法わ抹川†ぁが、従
ヽ・一−
狐の水団都議放心謬の功独屯反屑†ろ耶な忘れ・てー‡併存
い。前紘十こ溝lこ分けて、軒先¢口約及び小〃沈む姉ゆ、﹁宗敢
の木座L﹁信仰り嬰丑﹂﹁能筆班押、復行.卵彊、嬢感じ等
介
■
宗教に於ける雅電光トビ’すに沸いて、可及的にこ術計ケ避け
新 刊 椚
●
眉 刊 机
介
Ta叶○仲芦こr・SF芦乙︶
一し叫
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㍗石7・㌫㌢抑留∵一∵りγン︶り叫に於てに、彿ほ受毅・こ群
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一ぎ︽・㌃望︷〓.⋮乙⋮⋮∑lニ・=〓⋮一刀⊃〓hつ考己
ン警=・︿・リ・こ.二1=一字ユ〇−らー⋮r
﹂.訂Raコge
O︷SOC⋮a一一ゴeOry・
㌻コlLが汁かごつてわろり′折箱︶
√.\の諜紺をーー∈F∴町俸へ、比堰歳費坪新ご・しての面目わ
一㌢rL−かパさ、ま㍗隼満≡し′・、の業拾l二ついイ、に、紳撃新王
カレ十﹁∵Jり・ハ・オ︰〃スソナー﹁の一里軋り阿想Lむノく2tF?
わかつトト。﹁川けひ‖:﹂存〓≒F乙が叩わヾしり↓マンチスター・
∵‖てJりつトが、伸行湘ノ\=いノモ日ソデル・ポリウムがー1叩米
・ハ十E決り骨⋮齢で失い父りLごに録つtのに一昨々隼の十
ご∴ム∴∵㍗
ヽ〃。
歌川・て・わつ一\、それ′で里什りろ−︶りヾしL/し‖山耽−〃m心想のう
∵.つに二分けろ=、、しが情死・小。帥−り新作約聖油=、仰敬、比較宗
肌⋮lこわつ㍗。彼q、損跡わ川Lt津川り相野は火仰而に分つて
のk射てJJつ一一\捏の川い往ご・してり㌍名にそりサーヴューり
∴伊丹﹁往ご︰しl\りり∴∴卜り・ン・カ1へン々−に、むLスモ
・∴り再・小てJり■つ∵∵
.コ﹂eCOコqueStOfT訂忘盲byぎeコ許トコ
・
lハ㌫︰1コー、ヒ1√︼二〓じ・
腔は文明が人榊の思想ぺJ帰路に封・して作川らく臣幣の結県
︰豆右‖几怖l=よれlて、文明り機械化が常々の日脚想感情に放
、、−⋮てり⋮は想ビむ互ぜるγムピシコンに㍍んだ仰究でわろ。
け・し上作川りわミほ恍に加・しく来れ/しゐろ。例へけ、=常黒
沼に於けろ心肝に次郡に位瞼化・し.\〃′、。モ江川暗の申て毎
=歩みつけてゐろ階段む昇一力の一ミ〓十でわろ。考へ姉やハ・相
澤†ろ。
忠恕の辿化でわろ。情理の泡盛でわl小り仙人ら滅亡∵わ・り。
膵l眈lェ恍l=決ぜん写してゐ一㌔華甲り仙人ほLう†つかり死
んでLょつ㍗。抑人l三文明化†一・の根絶り人相でわ一㌔仲購西
︵粕谷︶
ほ機械化†・0根絶り拘民でわろり新調にそり結言に於てこう
鱒御して■けろ。
〓erす﹁d︵C・H・︶
LOSePh ms1−iコCarpeコt乎
〇ら己こっ隻.
鍔故人ざLてのエストリン︰ガー﹂ンクーに、一つの特異
光ろ地位に就つ一ヽゐt。一てり右lェ必†・しL一拍基軒数祉め申
に昭博ぜられてにゐ尤かつrか、担が一字り拍祝的地仰にJJづ
J.?
人1造り札付撃に一てり研究の抱囲・肘放り問描より枯木原理
牛沼に於けろ習惜わ研究†るに−つ人用里・民族隼・人文地理撃
馴常に急でわつ小卜告め人用尤びそり地理的研究㌔ご∵余り問
偶人が塊囲l二従ふこミ帥榊り沈州寸J比て朴骨のは川に従−∵J
論両人相律に近いむのざし一\わけ=れに対・して針作り本管に
ン簿の札付心理的硯叩ヤデュルケームの埼糊来用紙等な進化
及びモり木許密の問題みやか与し′、論りし一一・、モり叫■糾〓
法か
のら一てり繚辻ミ相浦ルーサヘ.一、そい一郎謂にl三∬ルr再−
的用
桝先
て人類の現場の槻係を蛸盤・\北ハ上に人〓・人絹・文化等の馴
斑JJ宰㌧布かつ㍗が本邦に於一\ほ邦︰鮎地理ご址曾分化に於
係に桃て先づ物理的史境が人粕の偶人並lニ針曾的旺浦に如何
ムキッドわ軸わ純分む小心ミ†る札非む述べてゐる紙骨の本
考へて宗教信仰が統骨推化の機構に於て賃登でわるミ措論†
略の研究に心群雄的lこ接合行拗り科牢写して解膵ぜんぎてして
質の純別にli鉦曾的刊刷阻係り明白左横能的鼎放でわろ紬曹
に彩誹な及ば†かミ去ふ聞損より地球⊥り人‖り分布及び人
やう死文明地的なカ法ミグーウインい一?−先項塊寸J追伸み考
宗故に射・してlェロバートソンス、、、ス・デュルケームのやう
ゐろ。
琉の移動に耗ての研究ご在り、=れに封、し.\はビュツタルり
へろもりミの∵つの傾向を令ぜtやう互調炸Ⅹ化地理伊仙耕
布けパ赦の紋付的解諸に詔成L、未聞人り幻想的臓祀に封†る
先む藻張L.人棚ミ姻家の問現に於てL︰りカ法によつて人
輔わ詮†ろ時伯東人軍学亨しくの吟味ヤ、人相分兢り根摘む
てほ宗教的行弗の原函■け絆几・し耳鼻昭的の邦雄を分析†ろ=
信仰一で正伸⋮に意味づけろ仰山がわやよつてゐても、科隼ご・し
ミによつて可能でわろ=ざ年認わて、デュルケ一人式耽幹雄
アールス・シュタインクール・バスチアン:フツエル等の文化
て㌫秋ミ呪娠・マナり租念・俄細から投影されて生りしt紳の軋
尤†昔措魂的研究わ姶†るより叔も描く雄弧・しゎ鮎ll、ラツ
克典ドよるヾJ主張†るサプライ・グレ.コ=′−÷クドゥガルの
念わ舐明、L、雅邦・荻硝・秘祁の紬骨的解謂わ在†り次にlェ宗
虹的几他に椚ゃして、文化の薄黒ほそり根城lニ梢l王る人欄り
反射や、物椰的重唱わ珊火ご†ろ。がγズり基張よりほ人械
∵七正
≠誹‘l焼く也々の顆誹・小杉J、扱って肌ろに比、して稔りに簡
ゐ・力e
Ⅵ∴緑でに丑曾問洞l二卜悶倖わろjl︰付紙刷の瑚課・⋮克∴へ.ヽ
一ヽへ⋮仁一ヽゐ・U。
椎に拭イ、の誹課む過.へ耽ハ他文化・鶉湘・敬市わ賎糊的行動写し
歌仙法律ご池徳・非ご粥川憲政の就付統制等描敢ヾし追放の脚
か認めてゐろ。文人〓り移胸を碓両して祁宰・絹業・摘
の梢戊li明かで化′、ぎTb文化の差異によつて人相哲分け得る
こ寸J
ラーの基鍼†る文化の仲摘む雄蕊L一\ゐろ。
艮・京劇に於けろ梓川毒血かl=†ネ際lこ一b止り.ハーズヤウイニー
雛∴舶人間性ビ雉囲桁弗に於てほ人用巧喚囲隼構わ心理的
介
に分析・して人間性み吼雅や脱始兆閣より研究︵、弛んで軋命
朝 刊 弟
.プ
介
一七六
菅構わ・して斯界の構成rらしめた山世作て山∴∵r。本部托基
新 刊 紹
線二十咋閃の耕新の芳斬叱る研究の結晶でわろ。従来猫嘗の
︵朽浦偲吊︶
単に細別Lてわ一〃りは物足り兄いが、共現に示†如く長くつ
ヽ O
訂コ訂コ
邑啓ほ
0勿コ
論、昔代射力小ポ貌収lニ弟眼†ろ弟、及びプロアスク一秋
/し購一石郡てわろ。覇者のれ二菅li川皮伊酌の文化の研究家lニ
め・hれノし朋.ヽ、前述の粥欄L一九二八隼に第押収の上伸示鳳
られてに居一石が、北︰の川北lェ†=依然ヾJLて坪井の泣沈ご認
櫛光広蝮にl工、山部より介りlこ保守的でわろヾ﹂の非難が典へ
・h・耽ろ櫻黒耽紋付隼課の山脈わ解り上lニ几られろゅがうれL
﹂acksOコ︵A.く.号≡㌻2≠︶
NO︼da巴rぎ一Stud訂s■
献、、J左■力でわ・hう。
︵宮崎発瑚︶
の頂もjl三顧耽ろ概略・で坤にん亡㍊†粛に取ってM射通の轟考文
′▲ ■■
り昌∴才l・k−︼謹・〟.
■r ・●
aコdくariOuS∋0コOgraPhs・
Ofthゆ迂0捏0サC已■
r壷ど一二≒㌍
のてん・わか卵粗忽の永久り邪推に判†ろ謂科軒並に哲即、解
単杢打払、川小憩、人㍍推瞼﹂の蟻詭の波紋ご・して几られろ
↓訂Rea芳y
JOコeS︵ノイ、●べull三・∵
舐猫にコロンビア火畢の印柁仰鞘㍍り孜招で昔代伊出文化
研究の戯高椚賊でわぁが、井部に氏の生鮮†る、コ大雄印度
伊閣箭引姉十三喘ごJて、氏日月の伊馳の宗訳に脚†る綾博
左研究の成典わ憫裾lニ紺め上げt着でわネや内容∬三縞に分
拉、節一菊ほ伊搾lり宗秋の概括的考転て、匪lニー九〇三井滝
文で浄衣されて狐〓葉ず克文献ご九つ′・、爪㍗Lり・で神棚・し′、 探り入れ㍗ものでわるが、肝脳の露勒の弊批より祝いて野辻
のア
最も耶婁叱ろ磁腔のわるもりむ明にぜん寸−†ろのでわ
の跡か辿り、其の古代註釈如上の竹雄か論淀・し、批叫把
′特ロ
禦㍍
哉の種々なろ部門にそれ‖割いつの完成む形成ぜんJl
スター殻の秋椰依織踊史耶に批・して嬰鮎む柿鵜に叙沌ろ
︺。て
傾、
向か祈りてゐる。菅祈ゆ鈍間に真の滞積の部門の最
・〃。罪二漉ほ′ロアスター敢の‖山芯訳の教理の特殊†
研ふ究
て︷半揖、人生の汎の職斯わ典へ縛ろヾJいふ=ヾンギ那ちんミ†
・りにわろ。そ・していカ稚苗的智潔のカ壮ヾJ都英l︰、他ガ試飲
綻的結論が再び躯故に小ポ軟¢正㍗−○封泉−糾へのその態度に於
押絵ド就て述べてゐふ。
でわろ。著布にilT八九八年出版の﹁古代伊那の稚甘着、ブ
ロアスク∴I﹂耽・ハ非常がわつて、現存の凡l少ろ姐料の棉舞た
第三節︷i′ロアスターの件紀ド抑†ろ輔々の研究論文の鵜録
松村に依りて′Uγス々−り仲紀ね完成・して肘ろが、之れが
J・メ
L_
然・してそり緑紡に、宗教の踪合が芋損亡楠糾ミに脚†ろ現
代の智誠に於て求められ〓lで光ら乃畔lニ判ってゐろ寸Jいふこ
︵戚日払門︶
︵三枝︶
カレヂで哲隼り溝菰も・し㍗。そLて内から眺めれば眺や〃ほ
ざ㌫放き∵〃トりに封・して緑懐的lこ㍍・l−ぎゃ町得なかつ㍗。
↓he
New
一卜し■じ
ハ竹谷︶
料金溝ほ、犯人嵩借ぺ邦新円朱り≠恭に丁・∴石丸に備へ捏在
必︰親株仲三・ろ準ほ甘か情†.わ。ihjろに郷架ゆカトりツク廿
西欧文物の出納押餅に埠\.或耶煙りカトリックり知漉む
・ソ買、Y三・汀−一指軍
Cat訂一首ロic︷訂コary■
そり鮎に於てに右潤もよ㍗りっの需哺ら・し・ぐむ材†ろ。
イ、ト㌫故郷に吟\も、好手し⋮÷惟作り一ってわらnげ在らn。
㍗。小紙の与一に耐n∵Jいふこミに、現代でに智賢明に於
幣相浦﹂が軌十満都お畔l顕し上棟以もその叙池のカ性でみつ
本昔均一大特準り;lェ、そり叙述の骨法にわあ。﹁西洋官
絆†.へきほごり憫・しい丑.地l王布い。
・し・ヽむろどころの﹁唯納品り勝利Lでわつt。約嘗†れは期
P
・純む抱けろLりゝづnりごヾJく、既に陳腐元らんミ
㌫a
数u
的値
⋮只の火論事曾拭いて退に到達ぜろLりlェ、︰れもよ㍗現代の
の起源についてよ.づ憾親王怜附ご存むけトト。そ・して宍Ⅴ有線
新川‖ほかくり如き心痛か群像ゼろもりゝつnの如く、宗教
ミいふだりでー、籠布の興味わそ、ろてわらう
ごから此詳の掴鶉む統一†一わ必然性がわり几かゝる統丁こそ 木部ほかくり如き心境の建化な絆鱒した新着の・、串牡の即発
人在のゴールむ形成†・り︰ごでわろ。
d訂田ゆkeニ⊇コgdes
K︵ぎ∋e二ノ′√r−E︻︵訂⋮・g・︶
Rαヨer叫Llコd
一uP
㌢官を︼Rき︼票︶∽・
興味描い率く?担‖む取扱つて正志二一.i乱㌢一l封印り﹁新
約聖帯研架叢刊Lの邦十七鮎。
∩−て耶七草む評論・しパウロり人件誠に如王わ似竺押む加
,↓㌧:ゝからバウいり阿心り槻原的押出む究めんざL㍗絨め
耕・し一\捕ろりんよい。
て償代わろモノグラフィー。十丸山にわーつて阻孫文削ね剖
McCabe︵舞湾pF︶
︼い邑On−−語草
↓hOS︷OryOfReニgiOuSCOコtrOくe﹁∽y・
昔右ほ、こり彗む作り⊥けt小よてに︰ニ十jlミの準用糾問れ・L
介
?rごいふ。祇に十∴隼∩・囲侶院て旺甲しr。カトりり〃′0
新 川 勘
。
お
新 刊 紹
介
一七人
トリック純清﹂の弊が叫けれ一く.に発つ㍗秋lニ際Lて、本橋圧
誠lニ時究を得㍗好日収で研究構や信者は勿ふ、西欧文物lこ親
かつt。馬めに手頃在カトリック封諮の存咋し光かつ上郡ほ
特に摘められト新著り上梓わ紺㍗姉ほ、かの秋わ祁ふlニ充分
飾ろ追鹿部でわつ圭。今宵料金祁の拐凝郡過の主導lニ依可一
みむ持つ人々の巷蒼にlェ必†典補†可き一部ゴこ零ふ可︸でわ
︵宮崎釆瑚︶
らう。
に瑚へね析でわる。
備的研究でわる。同士、化成、政治、押掛状脳、祉抒↓風俗
弛ぺネヂクト教場lこ鳳・して居る群薪の宗教特にその間迂報
M訂乳0コ雪ぎ
邦仲、情新生清、非力トリック的講宗教若くほ信仰常山等lニ
A乳bβ尋︼や建●
クの止せから指導的解耽み典へん写して爪ろ背光ぁが、碕異
封†る概略の知識わ典へ、様々の間組に野して正統カトサッ
叩†ろ組僧油化探求でわつて、その最後の目的ほけ本のカト
L眉aコ・
Ku−tureコーRe−i吼0コeコuコd
01一ヨ︵日石m冨︶い
でわつて、非門家ほ勿論、カトリックに㈱心を邦つ弟の事び
本朝li軒畢倫埋御車軟嘲儀織な始め架彿仰怖避奴等に繁る
迄、時代的lこも地嘲的lこも應汎叱範園に渡って項目わ漉け、
直観簡麗々眈吻ふ奥へて腐る。教職姐僻造血わ概軌†る以外
lこ、指紋女化痕lこ於けるカトリックの帯典む参考†るに斬る
教ド鵬†ろ詣でも韮嬰光る項日ほ、弧γて之を無紋†るの頑
u・ツク敬僻遺の報労を直接或は間接に枕明ぜんミ†るにわ
便利でわる。本部ほ食性写してカl﹁Ⅵワックの購史及び現勢に
のli、和代の光電光問蛇、例之、批骨主税八鹿主観農免利他
る。此の取りlニ於てほ本場は日本lこ於けるカLr爛ブック秋の博
迷lこ固執†る耶布く公平lこ耽明して煉る。妹小江日に僧†る
等に封・してL相昔光項目を設け、可成り公正に懇切光耽明を
モれlこ於てl工併椚﹁硝賞在る円本研究者﹂を案内ミ・してゐる。
めlニ現代わ理崩tゑから﹂わる助けご光るのでぁるが著者l‡
仰・し乍ら本職の中核でわる併の現代の文化状態や宗秋郡値毎
通報告立札盲こぞが川氷る。雁史的概軋な述べるとはjの強
の耶兼は頗る帽撫で、甚だけに叉碓‘の批評九.免れ特互いが、
得るかに無心先細心を持つ綱者の怠樹が靴はれる。元来此種
叔膿ほそれに綱†も稚ヤ光る著述み銀塊ぜ†るヤう叱:ざほ
加へ、且つ非導に封†るカトリックの立場む明確にLて居る
兎L角もⅧ宮守材料わ鮮明化甘像漁や挿癒亭輔衝心血■な加
日本に封†る永き軌終猫でぁつtり或tミn本の血を請けお人
招く稀でわり.よ﹂て白月の親株等lこほ由ら†に先づ弟︼に
蒋でわつて、カトサックの信仰が如何lニLて瑚代人わ教導﹂
へて懇切lこ耽明L乍ら之わー祁lこ糾め上け㍗舶者の努ほ感謝
ガ
され元けれlで≠ら布い。近時漸く研兇的に七倍知的たt﹁カ
人ごの口鴻の或ll丈撚の変温わ源写してぁる鮎などは柵借珪
患†べ与併でわる。併L現日本の文化的亨して宗秋的賦麒た
︵成‖誠門︶
Schwarz︵一計r⊇Pnn︶⋮
P巴]昏軋¢ヨu¢+︼労已ど一指S
00き JOコ¢蚤¢く0コ↓hOiのヨu¢uコd
l︰スチークーニ封†る偏見、それl工﹁Hか閉るL︵目安許︶
係†ろミ述べてゐ・わ。人ほ此の感情に於て無限性にょつて充
閻係†るのでli克くて糠めて明晰耽ろ感情、紺跡的感情ミ関
れば卑俗在偏見でわつて、ミスチークは決仁てこんな感情き
つ㍗感情、暗き、停めか1つt概念等でぁろ。之ほ著猫に上
いふ青葉¢食味から巾米†るものでわつて、肺き、搭のかゝ
断†る駄々尤鳩給濃見む余憤的に掛合統一†るやう光努力ほ
横江れくゐ布い。
O琶芹a㌢
S各○−H︵Hein計F︶い
ErO¢uコd
H臣¢︵絆E−もー箆P
こミを感知†る。、・、スチークり鵬†る紹に・して明耽古根念ほ
lェ布くイ、此の統一が各r−り偲験に於て勧ヰて生成†るミ
無馳士の、典えられt統一が現l王れるごいつtやう布Lので
溢†あ有駆耽ろ耽を循瞼†るりでわろ。評者ヰれ止、有限ミ
崇Op−旨2.誇訂Fぎe亡已die巳e訂iロSF詫
d窃CF計.訂Pど巨.
昨年の七月七日内患巾賢日d巧0曹罵の緋
巳作be・0弓ぎ毘1
此り闇椴り解抒に役丑ちそLてブロチン、エツクハルト若く
tlフィヒテ等に於けろ如く人問心肺の食も輝い創遣に雌・して
決年率写しtもので、守OS−pど○邑岸
巳旨i日田日露d8日lr抗.訂已β日柄.此のエロス電力サメスは西
ブロチンのぁの飽く抑ける概念の甘華が彼の桝らか光感柵
鰍でli愛の二大椰でわる。プラト一〓アクラブが形成せられお
⇒d紆邑ik
ゐろ。
モもモもの初めliアサス上丁レス¢形而上邸の
にわるミ述べ、此ごクリスー・軟的愛ミか比轢ぜん旦†る椎値
骨段か指示†る遣l‡﹁‖を閉るLミいふ鱗戌の泣でぁつわ。ギ
†れげ輔束をそこに一致管しめそ・して充ひに拓別ぜんミ†ウ
るシヤローヤのミスチークミ押されヰゐるもの欄、か、る方
背走†争−ヾ−によつてかの無醜性の腫験へ到連ぜん草†る併
のでわる。例へば謳菅的パウロ的クサスト秋の変、アサグス途帥ち感覚の†べての知覚から退き、悟性の†.へての概念わ
チ’ス、ダンテ、パスカルに於ける愛等に弼Jて。帖lこカリ
介
︵成H誠内︶
一七九
に耽る、抑の無限在る布衣の坤に人問寂弛む粕†りでわる。
タスに脚†ろ最後の雷光はダンテの肺の搬袖に北つで述べら¢もげでわあ。モう・して人li紳へミ沌入Lて行く。人間が紳
れてゐ一わ。
新 刊 招
筒
鋸
介
′■
:ヽ−ノ
1.′
つノし署欄の寛張にほ此ちに代ユ心わ来L㍑圧、∴ノ、∴・り︰諭旨.h
ネ博打相成守ろ叩巾.守﹁ドリいてに詣†べヽ、鋸が与′、・りり.鑓
堂々、特にイエス博桝光り屈把む詳細に㍊介イ︶ろ併の箱型的
紳モけ︰状七こ、輿へゥル㍗触尻ご√︶/し眺・卯ニ
ウが此昔脚
、、こハサー〃に紳バ〃人間に於ノし穴城でろ、心に於け一〃桝の誕生
相克り漣八川てわ∴∵一∴鼎︰㍗叫に㍍ろ=ごて・わ・わ。何がドーツ
︵∴収︶
Lの写して、:の研誹l‡抹剖さろ.∵二\わ一小。誹夏井流鴨て
−K
脊りの元首−良雄l二芝Lい我岡斯枠用小弟に宥筑邦⋮M英一で彗■−
大
な以て収入伸ヾ.1でろ、叫ツ車中駅的に内祈†一〃新lニごつ′し紳は何
わり経常の琵も純朝でわろ。
無鍾階級ししハパ放
高相正㍊許
で互い。
ノ
1.ツナわ嘲ったものミLて、乍改わて九九ほ寸=軍手純忠並
歌皿想非の井〓な和占Lt一〇ツルキシズ∴ミけボ秋ごの問題り
本邦lェ†でに畔隼川行吟Lりにki†ろが、ル咋⊥隼靭の宗
洪諒
等衷貌の封貌でにハハい。意志の友拙者でに互い、内的lニ批古
ム描榊性でわ・0。此りドイツミス≠−グで廿新l‡フィ竺アミ
文川堂狂行
︹成川悪日︶
批ハド ヱ.≡つづp一一㌻d誌1..=gつ旦一つニウ。ミ岬︰で小の棚lニ於けろ
−
紳の棚む運べんミ†l小のでわ一㌔
同部長ハパ謂諦
↓エスは紳か人か
一 基斬論の諸問規
祝辞
菅猫は〃新な掲洩り﹁数鵜虹﹂り著弟で本パ昆二言ル∵即隼ア
本溝川守⋮津氏の乍よでlこ物し㍗宗秋l二悶†一之亜文Jけ鳩め告
ものだご心ふ。従って招糸的には整ってlェゐ互い。獄中の感
メリカに於て尤・し㍗講成の甜諾てわふ。=、で菅新にイエス
張りいふ畑く笹光ろ人間でL尤く﹁押通人の軽給わ●朗・,∼㍗l汀
む博批的別状か否定†ろ人通りいふ抑く糾でも、久‖両和学
‖仙想lこほ蹄ビ一ヽ不整朝雄ほない。骨茄に桑門の出でわる。守
品綾lニーユ創作もわる。・しか・しそ拉・−,十八りぷ文む川′∼新京ゐ
の芳鱒亨して膏定苛む叶嘘・し近伸吟埴史的研究ね絆詮・し﹁脛
の晶掲に此れて.幣くは宗教果ご、しての代講もお′、り上が、
想がわり、景孜抹小火り批卯がわり、噴鳥研り糊おろ・しがわり、
虹的知識ミ北軍日月り信仰ミの都合、し㍗Lり﹂︵ニー五封︶に
シズムの桶祈に沌き邁謂む有†曽、三苧Tち、も克く、=り
今や祉骨迅勧米ヾ﹂・しての抑廊lェ†でに・冗がい。完漱ごてルキ
呵汀わ飼有L純比瑞∩冗・〃人格常﹂︵二二八扶︶でわ・心・こ・し、そ
ょって初めて正Lいイエス削が得られ・:J井兢L㍗。然・し聖
朋
覗り推史研究lこ封†ろ悪此、管阿り取扱抹、賛料ブてしてヨハ
火∵凪二闇刊行
︵村谷︶
論戦のトップかきるに肝油の人わ持主りご音liれば在ら乃。
三濁参玄対審
左現職組と宗教
東京
その高津氏の﹁純弗肝級ざ宗教﹂に引きつゞいて、二つの
﹁▼ルキシズム寸J宗教L物が同じ酒店から刊行され㍗。その一
つでぁる。
ヽヽ
墨壷網きいふ人の味l‡、首はば過去の叫外の持ち味そのも
のでわる。非常に耽lりしにくいのでわろが、薪・しい銃さミさ
びのぁるセンチメンタリズムごが醸・し招†味でぁる。従って
その物†ぁご=ろのLりも、埋に於て宗教む拒否Lつ、、偶
に於て宗教む抜け切ら互いご=ろの、ほが叩いよう在、克つ
か・しいよう光嫁が㍗ゞlつてゐる。
そう云ふ味わもつて帯かれ王︰の﹁先祖職場ご宗教Lの水府
にl‡、必然的に不徹底がわろ。矛柑がうらぎる。たゞ惰咋も
東京
火凪閤刊行
のに糞つてlェ重文粥耽るか光Jlいほざるな作ない。︵甘谷︶
巾外日朝東京支局舶
介
マルキシズムと㌫教
新 刊 椚
駒欄の﹁触鹿階級ご宗教﹂及び﹁光間耶般寸J宗秋﹂ごに繊い
む述盲︰ご十九昔.それに﹁マルキシズムご宗秋作識骨︼の附
て.‖一雄措から川tもりでわろ。叩か執るLの十四氏、組
録む加へ㍗もの。
軍備ほ†ルキス・ぃり中幣論客む光子し、配†るlこ宗軟斡徒
の加免その他を1・つて・してわ一りが、その哺‖の大郡分ほ申外
日報に上椛され㍗1・のわ桝めわものでわつて、︰のぎ−t=の桶向
における覇自の地化、=ミに最近の叫外が演じ光つt異軟の
の大冊ほ即ち鼎近の叫外=軸の傾向でわろ。叫外=軸の晩故
役制ミ清和ミは、故に評論†ろわけにほ行か互いが、そのヱ
ツセンスね桝め圭ものでわろ本市li、桁近に於ける宗教−問題
新化発憤行
︵竹谷︰・
の紺趨右知る十∵りに、殆ん.Jし披いてほ在ら乃ものごいへよう。
経過尊大菅
街約文やのユートビヤ思想
東京
か邦秋ほ中−時の−−−に於てもイノチの壕代地、職淑l椰への憧惟
でわるごいび得る。萄約常に現lェれたイスラエルり宗教にむ
木溝ほイスラエル文革の榔虹的浄経り戦げに従つてユダヤ
その痕跡む混作に餓・して捕ろ。・
のユートビヤ恩想に於て、ヤーゴスト、エUヒストの史料む
時族の洗骨的職憶を血的に抑き上けたt.のでわる。上代文中
Jク
新 刊 紹
介
価恥明瞭に取扱ひ、上代民族の祉骨的愉快を箪擁・し、換言猫交
拳のユートビヤ思想ふ三期に分割・し、その確固を軌舞・し、延
祉
一入二
マルクスの愛婿ポール・ラ7丁ル〆の原群む滞︺た
もり。カール・†ル〃スの歴史的方法、正菰の軌念、観念
内容
﹁花
﹁
﹁同
﹁同
版
㌻七〇
本
本
郷
︵溝
芝
郷
紳
下
枕︶
下
谷
桝
早川孝太郎著
︵サパニシヤト︶
︵アゴスタ樫︶
︵死光二り沓︶
先
E
同
大
進
文
風
高橋願次郎崩
谷
払
開
方
鮭
此
竹
閻
音 院
書 院
大東出版社
東
田
吹
︵後併︶
︵ウバニシヤト︶︵前輯︶
二・五〇
大正〓塑押判事
︵織給疏部・一︶
・九〇
中外日報来先安周腐
七・八〇
塊﹂ 東京帝大宗教梯講座紀余命麗
九三二封
﹂
上﹂
﹁他 外聖典金塊L
上﹂
外型此ハ企弘﹂
﹁隅文粟力俳教輩筍﹂
﹁彿租借仰料〓竺全弘﹂ ︵社家嫡上︶
﹁大正新修大蔽揮﹂
﹁†ルキシズムご宗畝L
菊
詮
の槌源に肺†る研究、正彼の粒食の起源、尊の軋愈り趨
憩
撃
びて郭示文筆のユートビヤ恩憩から符備ド央l‡れわユートビ
郡
駁
源、報の軋念の超源古雅化、紳に封†ろ信仰坤の内容か
らなる。
ひ等lニ於て脊†べき鮎わり、特に橡首的紳法文畢、祭司文学
町
館
﹁宗
ヤ思想によで及んで侶る力作でぁる。鶉小微細な資料の取扱
出・し近代経済紙骨ミの比較にょつ′\よりよさ理解を蘭†べく
の項にモの斬多いが、▼ルクス、ラスキン、河上飛等わ引き
努力Lて居るのに本鶉り特徴がわる。弟骨歌思潮遊洒中の一
部写し′上般譲者吟理解な深めろドl‡好き晋でわる。︵三社︶
佐野勝也替
−新刊宗教舶体臭削岩葺稲㍍T
﹁カントの宗教論L
靭
崩、善慮麺宙勝利、及び地上の糾¢脚、第四綿、奉仕ミ
内容 第一縞、横木♯、第二錮、尊恋洒脱埋の申抑、第三
低率仕等々。
四大版 三〇七東 二・〇〇
﹁宗教 々有機論﹂ 大村桂航管
内書 節一事、宗教々育り過去及び現准より社食lニ於ろ宗
菜
教■育造.十二率から組織ぜられてゐ・〇。宗教々育の叫
ばるゝ今日、注目†.へき常速。
萩戯膵&評
四六版二田七〇其二・五〇市外下β塚北
﹁正瀧、書、震.紳¢唯物鼻血L
﹁新井石井金槌L
芝
M
︵四︶︵科嬰訪娘婿︶︵二︶
﹁耕桑聖者光明大系無量光背L
刊
行
二・〇〇小石川ミサヤりひかり祉
へ日 蓮 縞︶
芝
︵基個数錮︶︵軟派邦こ
谷
平
水
耶
同
香
且
凡
林
葺
刊
﹁日本心憩聯中丸料L
敏
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印刷所
螢行者
印刷者
右代表脊
編職者
昭和五年七月十一日費行
昭和五年七月五日印刷
費符節
常襲併