現 代 恥 と 宗 教 貯 妨 崎 正 治 所謂る現代人には、﹁進歩﹂といふ観念が一種の病みつきになり、何事でも進歩する又すべきだ といふ事は自明の理の如く思はれてゐる。而して今日出たものは昨日のよ♭、明日出るものは今 日のよ・り進歩してゐる様に考へるのも、亦一種迷信的観念になつてゐる。勿論、新奇を好むは、 何れの代にも人情の常であ∵り、且つ質感内容の如何に国せす、有形尭形を問はす、薪に興った勢 力や薪に出た事物には、多くは新鮮の活気がふ∵り、その先に於て常務の事物に対して一種の優勢 を具へる。されば現代人が進歩を信じ、薪なものに足るのは、必しも薬理突飛とのみ退けるべき ではなからう。 然し、現代文化は新螢見新開拓に源を馨し、樽兢を破るといふ鮎に特色を費揮したもので、1遊 歩﹂といふ観念の如きも、貰はこの文化の進運から生まれ出た産物で、齢はまだ三宮年に浦佗な い。其に加へて、近代文化の所謂る芙端は、こ∼七人十年茶、アメⅥノカといふ新興国が之を代表 する事になゎ、 アメリカ人が所謂名西部地方その他新開拓の逸境生活に澄接して凍た気風が何で 現代的寸J宗教的 現代的ミ宗叡由 二 もかでも新宝尊ぶといふ熱情を以て進み、その刺激が寛拝までも及むで凍た。其上、日本には 特別に此の新奇の共鳴を歓迎する囚由が存してゐた。それは約して云はゞ二面除年の傲図に対 る反動であつた。徳川幕府が外東恐怖の謂に囲を鎖して、初宙年ばかりは殆ど完全に交通遮断 遊行したもの1、それに対する不備は、既に軍保頃に現はれ、極めて微少ながら外観禁書の一部 分を麒禁するに至った。つゞいて草木数十年に於ける蘭畢蘭方の流行ドな♭、終に開園の時代 及むだ。その間に於ける所謂る﹁舶来品﹂に対する好奇と歓迎とは、現代の新奇歓迎と似通っ のがあ㌔且つそれは極空し少数の物品に集中したから極めて強烈なもの一でぁつた。今日の所 る﹁国産奨励﹂も、一部分は百年以上に亙る﹁舶L管㌣歓迎の邁侍と哉ひつゝめる謬である。 即ち、近代文化が新開拓を基調としてゐるに加へて、日本では二重の恵晩での新奇歓迎が強 敢曾気風となつて今日に及むでゐる。その焉に所謂る﹁現代的﹂といふ事は、何でも彼でも新 ものにあるといふ感じが常に勢力室学フする。明治初年のコントやミル、十年代のキリスト教 それから一時の反動時代を経て彼の日本の思想界ほ、所謂る新思想の交番歓迎で、今日は何で 彼でも﹁浣攣でなくてはならす、﹁尖端﹂が即ち進歩だと考へて動いてゐる。功利孟義、自然 それから軍国重義、†ルクス重義の今日まで、その間に於ける畢認、傾向、人名で新奇を以て へられ花泉だけで㌻、可妾㊥垂心為のに篭らう。それが又薪事物、薪蓉明の灘迎で㍉イ﹂げ を現臥し、之に加へて経済上の急激へ与韓隊によつでト人心船山隆興奮し幅廃艦しご折義嘩に1麗確実三凋議ヨ ごつく着もあれば、感激する者もあら、所謂る新思想に酔ふ者と、之を呪唄する者とが互に頼政 螢する。その方向の如何に開せす、渦動状態、旋風状態が、現代人心の藤色にへ与つて務た。その 調は短気性急、そのしるしほ琴晋と閃光とスピード、見入間が夜る眠ることを忘れないだけが不 思議な位である。︵但し眠り得ない人間も大分あつて、その極は自ら永久の眠に入る工夫をカル 童チソや猫いらずに求める︶。 此の如き所謂る﹁現代﹂に、萎縮も頻化し、侍兢は衰へ行き、而して宗教もその存在を疑問とせ られるのは、自然の勢で、﹁票数研究﹂の編者が、此特輯戟の題目を撰むだのも、その動揺獲遷の 一面を表してゐる。然らば、その超目について考を螢表する者も、此の動揺に直面して、その上 に言論を進めるべきは勿論であるが、又同時に教務渦中を放して高塵からの達観を必要とする。 而して此が質に宗教観念の職務である。 人心は境遇に動かされる、思想は生串と経れ得す、理想は現賓と全然経線し得ぬ。此は今更云 ふ主じもハ与い程明瞭の率でぁるが、比率貰を看取すろだけでは問題の全部を重さない。境遇に縫 って動くにしても、心は境遇から出五必然又自然の産物で、その外に生命はないか。生活事賓は 現代的ヾJ宗教的 現代的ミ宗教的 四 重要であるが、思想理想は、生活から割出したゞけの産物であつて、それに対して生活そのもの を勒かすカはどこにも存在しないか。此が我々の第一問題であつて、此に封する解滞如何が目前 に生活膿度の差違ぉ嬢してゐるのみならす、舌秀人類の動きほ、此の解滞の左と右とに従妹する 波動であつた。語をかへて云へば、人間の文化といふのは、結局、人間が思想理想に依て自己の 生活を、個人的にも鹿骨的にも、形作らうと努力し奮闘した跡に外ならぬ。勿論、思想理想のみ が原動力であるのでなく、事情境遇との交渉が、その間に有力に働くが、両方面の閥係交渉が文 化として現れるのである。而してその何れが重要動力となつて人生を勒かすかといふ事は、全般 に一括決定せらるべき命題でなく、時代と敢骨と、階級と個人と、種々の配合によつて欒化し、 その欒化や鼻遷が、その時々に應じた文化の特色として現れるのでぁる。現代に於ては、開拓、 費見、費明が嬉々新事情新事物を産み出して、人心は殆ど應接に退なく、生活は此等の境遇尊物 に麿倒せられる。特に機械座業の螢達は、機械利用と産業組織と二重に人間一里脛倒して、之を好 むと好まざるとを悶はす、如何なる人も其の支配を脱し得へ仏い状感となつて凍た。即ち元は人間 自らが自らの利用厚生の焉に件り出した機械が人間の生活、心情、思想一切を支配する様になり、 人間は機械を利用しっゝ而かもその奴隷と打7り、叉産業組織に封しては個人は殆ど無力と打アり、 その摩迫を訴へつゝ、而かもどうする事も出家一、甘い有様になつて茶た。キリストホロの話しの如 ・ く、姶は該軋と思って常に荷なつた小鬼が互人に軋つて∴品据阻を安けるに空つ隼∨軍 ストイが幻に見た如く、艶妖の美人に引きつけられた幾多の遊治郎が、段々亘大になつ のベイルに引きすられて、如何ともし得や瞼地ド隋るとでもいふべき有様でゃつ。 文化は元来人間自らの作り出した勢力叉産物であるが、その文化の性質によつては一 の主人にもなれば叉奴隷にもなる。ギリシャ文化の如きは、その華の時代には、人間自 公たる白魔を以て又その質を奉げた一例でぁるが、ロマの帝政や印度の稀姓制度などは その奴隷になつた賓例であり、濁り現代だけの現象ではない。然し現代の機械文明は、 何れの文化にも越えて人間を奴隷とする文化である。其上、近代の生物畢に於ける進化 の創始悪たるダーヰソの考がどうであ・つたといふ問題如何に開せす、生物の生活を境 してのみ見る傾向が強く、此の生物観と産業組織とが相合して、人間を埼遇や組織の奴 見る外なきが如き威を樹長して今日に至った。されば、現代産業組織の軍ぞ見、その資 呪曝する軋曾革命論者で、その理想赴曾を現出するに非常手段を必要とする著すら、自 を整へ、又ま張を明にするに雷っては、﹁過程﹂といふ観念を中心とし、殆ど機械的必 が人間を支配するかの如く考へてゐる。﹁過程﹂は彼等の敢倉敷に於て一つのヒe宏e≡J乙︼⋮︼−Pで ぁって、普の宿命覿を別種に言ひ表したに外ならぬ。彼等自らの熱情如何に拘はらす、 司代的ヾJ宗教的 五 現代的ざ宗教的 も亦﹁過程﹂の手足であり奴隷でぁつて、やはり現代機械文明の一産物に外ならぬ革を澄明してゐ る。資本家がその組織の奴隷である如く、革命論者もやはーり現代文化の奴隷であつて、前者は現 ● 組織に満足してゐる代りに、後者は憤渡して呪敬するだけの達ひがある。﹁過程Lや組織を過信し てゐる翫は墜方同じで、ロハ後者は自らが奴隷となつてゐるに憤慨して、他をも奴隷にせんとする 此に於て現代文化の他の一特色が著しく現れる。それは本能性の爆螢といふ事で、つ上ユLリ人間自 着である。 ● 重の感情をも理想をら放棄せざる哲得ず、組織や過程の奴隷とへ仏つた人間が、他に活路を見つけ 得へ仏い虜に、最も腹鰭的へ号本能性で動くといふ現象に外ならぬ。スピード、騒音、閃光、濃彩の みへ仏らす、ダーム、 スポート、享欒、牲慾、何事でも人間の本館性が粗野に動く方面がガソリン と共に爆賛する。それが所謂る自然であり、大衆的であ∵り、叉現代的だと見られて、その勢力は 不可抗胡だと思はれる。此の如き印象、威想、又感激に蔽はれて、現代人は人間の他の方面を忘 れたもの∼如く、一面奴隷たる憤らと不浦とを心の底には貯へつ∼、各値としては現代謳歌を本 餞性の爆螢によつて費表しっ1ある。経済組織の瓢に放ては、現在Jで不満とし、別篠の政令組織 を夢みつ∼ある左端着でも、此態に於ては右端者と異へ与る事はない。彼等の陶寄主義、策戦方法、 乃至は彼等の所謂るブロレクリヤ薮術、貸本髄健保慶の螢表たらざるものはない。p†の奴隷ス ■■ニi ■■ ▼ ■〓 ■≡ バルクJの証邁健吾、それを現隠は女役弥に恕臥しこ壷牢㌣㌻しで繁㌫を準慧 此の如くにして﹁現代的﹂の誇りたる機械、組織、活勒、スピード、何れも人間の自主性を骨格 して、本餞牲の陶酔に宿れつ∼ある。その文化の行末はどこへ行き着くであらう。このまゝで ﹁進歩﹂して、何を成し遂げんとするのか。マルキシストの希望する敢骨革命が出家たとしても、 此の文化の特色に対しては何等の舜畢をも施し得ない、否、本能性の爆螢は一層激しくなるに蓮 ひない。すれば此文化の行末といふ問題は依然として残るのみならす、恐らく終に全人類生活の 燥螢破壊、動物性への還元が茶ないとは限らない。然し、此く云ふのも、只前途を悲観しての専 でない、何れの時代にも、新興の勢力、新奇の傾向は、成る程度まで偏した方に敬いて、どれだ けかほ極端に走る。薪境遇に虞する人間ほ、必やその新境地に対して、蕃につけ悪につけ誇大の 観念を抱いて、その勢に桑り出す。﹁現代﹂は、三宮年凍の近代文化が、此の百年以衆急故に新境 地を開いわル結果であるから、極端の誇張が現れるのは自然の勢であるが、今はその文化の煩悶が 既に現れ始め、十人世紀の奨天的進歩観に対して、此皇∼ではいけないのじやないかといム疑問 も出始め、而してそれが﹁現代Lの其端たろアメリカにも現れてゐるといふ事は最も注目すべき鮎 である。而してそれが単に保守的反動でなく、購凍の切開きといふ方に向ひ、且っ建設的の希望 を伴ってゐるのである。勿論、此の疑問はまだ解決の途に上ったのでなく、希望展望はまだ漠 現代的ミ宗教的 七 現代的ミ宗疲由 八 然でぁるにしても、単に﹁進歩﹂に陶酔しない要素の存在が重要事であつて、西洋と東洋との融合 といふ宿題もその中に食まれてゐると考へられる。 文化の未来といふ事は暫く別問題として、右の如き﹁現代的L特色に封して、﹁宗数的Lの主張払 はどこにあるか。多くの人は云ふ、現代文化の中で宗教の影は段々薄く打でりつ1あると、而して 現賓の世相は、如何にもその意見を確める様に見える。寺の建つ代りに近代的ビルデソ の中心に打アり、敦骨はシネマに侵略される等、一々数へるまでもない位で・曾ら。琴Qに他方には 叉十九世紀以凍、東西共に新京致の起ったものも少くなく、何れも相應の薪勢力を呈す らす、叉時々のタメイパルを別としても、カトリック数骨の進運は、こゝ三四有年前、 の始の頃には漁想し得なかったものがある。而してそれが畢に信仰の問題でなく、労働 食事菜の賓際の上に侮るべからざる勢力と打了りつ∼ある。現代文化、機械文明の前には霧散する かと思はれた﹁奮敦﹂は中々霧散しない。此が畢に時代錯誤として一蹴し得る現象であ それにしても、﹁現代的﹂と﹁宗教的﹂との衝突は除らに明白の革質である。但し、﹁ だとして捨て、考へないで済よせ畠べき事でなく、その衝突の内容意義を粗審して見な 事感の異相をつき留めることは出水まい。 先づ量−に、打と云ってむ、像経空前故にた証跡加でみ聖鹿琴薇佗蝕﹂と衝突ず㌫髄 は兼務に対する理想希望︵それは必しも死後渡世といふ事に限らす︶が、宗教信念の要素である、 此が﹁現代的﹂に容れられない。撃一には、紳意、改定日的、つヰでり何等かの意匠又 るのが宗教である、此が現代の機械的世界観と相容れない。第四には、人間の理性だけ 理性以外又は以上の信念智宗教は要求する、此が現代の理性、即ち合理ま義と相背く。 票数信念では、人間は何等かの一救又は解脱を要する、此が現代の架天的現賓観と衝突 右五っに分けて見るが、何れも互に聯絡した事で、従って、﹁現代的﹂と﹁宗数的﹂と 色々の方面はあ′つても、何れも相互開聯し、つま之姦の超越観と現代の現質観との衝 る。而して此背反は現代に限らす、何れの時代にも多少はあつた事で、又人間天性の中 る現賓と超越と二面の対立から起る事象であるが、現代文化の中では此背反が特に蔽著 に現れてゐる。 倍統とは過去の遺情勢カであるから、侍兢精細はどうしても保守であよ1現代の﹁進歩﹂精細と 相容れないのは自然の勢である。然し、現代には如何に進歩が盛であらうとも、人間が もののみで生活し得ない事は徐に関白であるのみぢらす、現代の新機運といへども、或 は薪を求め薪ふ作り出して進ひには連ないが、その波動がいつ皇でも同じ調子で進む事 現代的ミ宗教的 九 現代的ミ宗叡由 一〇 い。必ややどこかで多少とも安定又ほ静止の既饅に達する。否、現代の進歩々々、常に尖端を追 ふ中にも、人間は他面新都を求めてゐる。それは同府保守といふだけでなく、所謂る勒中静を求 める心であつて、此は如何にしても人間の脱し難い性向として、人生の字面をなしてゐる。人間 が眠一ざ忘れないと共に、動中静を求める。且つや如何に薪機運で動く時代にでも、人生の連繚と して生命の滑源に透る思ひ、生の囚七生する源流を汲む心は、どうしても抹殺し得ない。見所謂 る﹁進歩﹂の中に、一時その思が蔽はれることはめつても、滅亡はしない。例へば現代文化の壁に 伴って家族生活が稀薄にな、り、文子供が両親を罷れて育てられる共産的融合になつて、子が親を 思ふ心が昔の如くでない時代が凍る事があるとしても、その時には直接肉身の或の代りに何か親 の如く慕ふものが出挙0に達ひない。ソビエトの政令でレーニンの屍健をイコンの如くに成って ゐろのは何の焉めか。日本でいふ様な威光祭詳は衰へるとしても、科挙の世界には又科挙の風発 追敬が行はれてゐるでないか。細道家が報本反始を以て醐道の本鰹としてゐるのは、侍統回顧に 偏した片面の宗故に外ならぬが、然しそれは、形は如何に欒るとも、人間天性の消し得ない一面 である。ロハ問題は、侍統だけでは人間の進歩は得られないから、倍統を如何に活かして行くかと いふ勤にあるので、現代文化が目下の勢で一時侍統哲軽んじても、それは最終の断塞ではない。 ヌ宗教にほ停統のカが強くとも、それだけが票数ではなく、つまり永魔の生命を求める心が、岡 簡約には隠鎗椅称主ろて現れるので、宗教心の生計は鞍本庄準肝涯に濫左脳と先に・二悪憲 生命の聯絡を求める理想信念を要素とし、その聯絡の中に人間生命の意義を求める展望希求はど うしても滅しない。 常に時間として見ても、現在は永遠な過去と悠久の未凍との間の一連盛で、いくら貴重な現在 でも、刻々過去に入り、而して未来は清々現在と.なつて凍る。現在の中に退去の追憶なき者はわ仏 く、文末凍の預想の全く快けた人もない。それを打消して只現在だけに活きやうとすれば、刺邦 主義といふ様な心細い事になる。過去との聯絡、未殊に対する展望、それ等の内容がどうトム意 味を持ち、如何なるカになるかといふ事は、勿論千差萬別であるが、如何に現在に甚するにして も、此等の聯絡なしには生命の意義はなくなる。歴史の回顧とか、来世の希撃とかいふ如き事を ぬきにしても、幼時の思出が何かのカにへ与らぬ人はなく、只現在の剃郵満足と威じてゐると見え る性慾作用にも、既に未来の合書がある。人間は如何に現前の境遇に倒せられるにしても、それ 以上に三世に連なつた生命で活きてゐる。此根本事寒々認めす、刹那のみで満足すると主張して それが現代的だなどうぬぼれるのは、つ、まり現代陶酔の一軍饅に外ならぬ。その陶酔の醒める時 即ち何かの個統にすがるか、又は何かの理想希望を求める時で、その希求ほ、重箱か宗教か、又 若くは赴管理想の展望となつて凍る。それ等は一題の夢だといつても、人間の生活には夢も亦有 現代的吏宗教的 現代的ヾJ宗敦的 カな要素である。アロイド心理畢の云ふだけにしても、其だけのカである。 意匠軌と機械覿との衝突も亦近代に限らない、人間の宿題であるが、キリスト教の藤意詭明 殆ど法締約に明確にはつたのと、近代科畢の国展覿が欺畢的に定款なるかの覿を呈したのと、 つが特に激しく衝突した。加之、現代の政曾生活に組織が螢達して、個人は殆どその域餞にし られた如き生活を造り、所謂る意志の自由も頗る稀漕になつて禿た食、人生登髄に亙る意匠と 目的とかいふ観念は、必至必然の束縛に厘倒せられるに至った。先に述べた本能性の爆螢、奴 の荻逆といふ現象は、賓に此の如き赴骨組戚の摩迫の中に起る自然の反抗であり、荘に人間は 務の自由を童態的にま改しっ∼、而かも生活の目的なるもののありやなしやに迷ふてゐる。何等 かの形に於て紳意、天輿の目的を信じ、又本務の自由争同腹せんしJする宗教的世界観の使命は、 此に於て一段の重きを加へて寮た。現代の観念と相容れないからとて、一も二もなく宗教を排 する如きは、﹁現代﹂に対する迷信の結果に外ならす、此の如き﹁現代﹂に対してこそ宗教は 要を加へる。今後、何れの宗教が如何に融意又は人生の目的を解滞するにしても、現遇や組織 歴カに封抗Lて、醐意天命に信を措くのは、即ちその天命を塘任して立つ人間自らの宮殿を白魔 し壬萌する所以である。 理性と超理性との問題も、弥富衆の右畠であるが、乳化文化が科挙と産業組挽を重力とする ユ にぶ学者籠の生活とな㌔哩阻の曙琴曾過重するに至った。蔽かむ僚りに塔性と鮭駄と慧脛静 が重くなつて水たので、却て粗野な本懐の爆澄を蒸し、現代文化自らの中に破裂を起しっつあ る。但L、近代科畢のカで令室での一非合理を打破し、叉安値な超理性哲排斥した効能ほ、勿論大 切の拳でぁつて、合理主義が迷信を排除して今日の文化を産み出したのでぁるから、今後如何様 の舜蓬があらうとも、昔の非理性に締るべきではない。只現代文化の弊は、科挙にしても、産業 組織にしても、合理的でめれば、それで硯事終れりとして、終に人生全般に亙って具々倉知的組 織を整へようとしたに存する。此の名に本能の故逆を喚起したのは、つまりに Åは 間理性以外又 は以上の性能あるを無税したに因る。理性園外又は以上といふについては、解辞の詳細に入h待 へ与いが、本髄は明に理性以外であら、而して理想信仰に理性以上のカセ螢揮す一ヱ別に宗教がある。 理性に背くのでなくて理性を乗り越え、理性を無視すろのでへ.7÷虚位をも指導する、此に理想 信念のカがぁる。此鮎の解説はキッド︵主としてその哲ci已苧C㌻テロ︶に譲るが、浬優遇重と本 髄の1夜道とは、現代文化の難闇として自前の事賓である。此の難関を突破して、理性と木簡と各 各その位置を得されるのほ、過程性の信念にめり一、宗敦の重要使命は、賓に現代文化に封する盲 尺竿頭更に一歩空進める指導にある。それを如何なる崇敬が成遂げるか、今は問題として保留し ておく。 現代的ミ宗政由 現代的ミ宗教的 最後に救ひ又解脱といふ問題については、在家の罪業観念は措いて問ほすとしても、現代文化 の難関に彪Lて現代人は現に敦の出路を求めつつあるではないか。此の問題は、現代謳歌、現代 享楽の人、多数の人々には明に意識に上らないにしても、組織境遇の厘カに押されつゝ、而かも 噴火孔上に舞踏して居る如き所謂る現代人が、その境遇を意識し、其に封して人間としての自分 を馨見せんとする時、救ひ又は解放の要求が痛切になる時である。今はまだ多くの人には、問題 の靂在がはつき′りしてゐないだけの事で、現代の覿骨組織に不満な濱が、他の組織を企て、而し てやは・りその新組織のカで人間の畢攣曾潜らさうとする如、きは、結着古濱の手引をする旨着であ 一Q。此も病あ二Q事をすら意識しゎ甘いに放しては一歩を進めたものーと云ひ得るにしても、見常道の 療治に外ならぬ。物質量義、組織偏重、理性過信から出た現代文化の病に対して、又々唯物史観 組織萬能の治療法を施すのは、毒に毒を加へるもの、病を加へて病苦の白魔を促寸用をなさう が、病を治するカはない。﹁宗教的﹂の救は、つまゎ人間なしてその生命の本源に丑ナり緬らしめ、 根本からの救法を施さうとするもの、濁り現代の病だけでなく、人間金懸り病をっきとめるを要 する。此の治療がどこに現れるか、如何なる宗教が如何なる救を斎らすか、それは勿論問題でぁ る。然し、それが何かの形で現れなければ、現代の破綻は終に人間の破滅に走らう。之を防ぐも のが只理性や組織だけでない事は明で、今後の人類史も、その鮎に於ては過去の歴史と全然異な るものでは甘からうO ﹁現代的﹂と﹁宗数的﹂と、此の如く相背反する。それだから宗教はなくてよろしい、宗教は城 すると考へなのは軽薄な現代謳歌に過ぎない。現代も病に躍ってゐる、而して侍統宗教も亦別種 の病に悩むでゐる。然し﹁現代的﹂の病を除いて、而かも近代文化が築き上げた理性をも組攣ども 即ち科学でも産業をも、機械をも敢曾をも、琴り越えつ∼引上け、絶てを自家喪中の物として之 を指導するに足る﹁宗教的L理想、信念の威勒が一世を動かすや否や。人類の荘命は、此の一問に 係かつてゐるではないか。 現代的空茶歌曲 例数の瑳謹言﹁新鎌倉﹂の朗唱 儒教の螢達と﹁新鎌倉﹂の創唱 二 宮 本 一大 正 尊 軍に日本儒教研究者の群れのみとは云は這い、少くとも日本の宗教思想問題に関心するもの∴h ﹁藤倉期﹂がエ雲ク蜜豆して居ノりノ、こ、れを中軸と学レて、前後約七百年つ∼合せて千数百年の日 本文化が同樽して居ると見るに、異議を挟むものは少ないであらう。 日本宗教的目醒めは何と云ふても推古朝の塑徳太子の尋問・信念・政治轟菜に べきであるが、これは丁度西竿球の島唄幽なる大英奇観のそれに精々先立って 期を同じくするものと云ふてよいのである。オーガスチソが侍造の足跡を英国 五九八年でぁつて、日本ではその数年前に四天王寺の建立があり、また数年後 の十七條憲法が制定せられてをる。しかし日本がその国土民族に嘱目なる宗数 出すためには、爾後七百年を要して鎌倉に至らねばならなかつた。翰入・戚苧 調整の長き文化教養の訓練を要したのである。=れは文化の一般普及の歴史であるが、民族とし ては粗方遽墳の閑静であつた。随ってこれは同語同文同民族の意識の許藩でもぁつた。堅巌豪 意識が蒙古塾殊の外冠によらて表面意識に明瞭に上って雅たのもこの鎌倉期ではめるが、それ迄 に内面的に熟しっ∼あつた国民一般の精銅的覚醒が、全日本的とまでは云へなくとも少くも普遍 的になり、またそれを要求してきてをつたと云ふことは云へるでぁらう。貴族より平民と云ふこ とも出水、京阪よら国東へと云ふことにもならう。換言すれば、文化浸潤が東方へ及んで乗たの でぁる。 日本民族は明渾晴朗にして素朴的自然的な純情を有してをつたことは、萬乗集などに見らる∼ 所であるが、思索理論方面に於ては、別に組織憶系を有してをらなかったからして、この方面の 致養は多く大搾文化に負ふ所のものである。 彿致にせよ、輸入常初よりして主として鎮護国家・現世利益曽旨とし、また幽明鬼紳冥福の食 めであつたことは、その現質主義功利賓際ま義なることを諾して除りある。随って済世利民の昔 産道を椅紳とせる大乗数が常初よ♭受け入れられ、所謂純一大乗粕應の地となつたのであるが、 それも哲畢的思索の封象としてそれを受け濃いで費展せしめたと云ふのではなくして、印度・支 部の大陸に於て窮理非記せられたる大乗倍数背挙が、その賓際的通用地を日本の賓際主義の国土 に見出したと云ふペきものである。尤も諸大乗敦の箆棒諭に見らる∼かの無限に高揚する大乗苛 儒教の費連ミ﹁新鎌倉﹂の創嶋 沸教の費蓮ミ﹁新鎌倉﹂の創嶋 一八 薩精細の純粋性悠久性やロマンチックな面影は禰々見失はれてきた。菩薩が一般妥昏性を要求せ ねば止まなかったその理想精神の滞積費展一ぞ、文畢駒に表現して行ったかのオⅥノジナリティーが 殺がれてきた。その代らに現質的な賓際施設となつて現はれてきたのである。勿論そ弟も阿育王 の事業などに封すれば、その気晩に於てまたその規模に於て殆んど托すべくもないのであるが、 道路・橋梁・津舟・土木・開墾・放合・施薬院等の済世利民の賓際敢曾事業が、係数倍侶と云ふ普時の 一種の官公吏によつて遂行せられた。係数は皇室貴族を中心とする政治階級と結合して、所謂政 教一致の政策を賓現し、紳彿融合の習俗を馴馳した。事の暫畢・出々世間の数理は大乗傭敦の到 達茹であるが、日本係数は自らその思索の過程を辿るよりも、寧ろその到達鮎より出費した。そ こに日本沸教の特徴が存在するのである。理論思索の方面に於ては畢習整理にカを盈しっゝも、 何ほ覇創的な粘を欠くに係らす、宗教的髄協と云ふ鮎に至っては益々深められてきて、鎌倉朝に 来ってその結賓を見たのである。また致化の一般普及と云ふこともそれに随伴して賓現されて泰 た。東方幕府の新勢力の接頭はこれ空不して居る。勿論それ迄には奈良舌京より京都への移行期 倍数・弘法雨大師の新宗教開立の一時期を考へに入れねばなら萬が、全日本約数化と云ふ鮎より しては、鎌倉期の如くしかく大なるエポックを虜すものではなく、寧ろそれへの序曲と見るペき である。 鎌倉の宗教はこの恕、大地よ♭生へ出して居る。日本の土地及び歴史に臥して生れてきて居 る。かくてその螢生の原因過程に、巳に大陸文化に射して覇自の面目を保っペき健件を具備しで 居るのであるが、果して法然・双璧・琴平日蓮の諮塑に於てその両目が躍如としてをる。これ等 の講翌によらてこそ日本彿数ほ、翰人橋放撃習折衷の域を造かに超出し得たのでぁる。その生活 にその数理にその著作の言語に、特に日本倍数の濁自性を費渾して凍た。日本係数と云ふ名は単 に日本の国土に移植された異観の聾と云ふ意味でもなく、その聾がそのま∼今日迄樽へられたと 云ふのではないのでぁる。係数がその票数的面目を費揮し得たのは、日本の現賓重義に絶えられ たからであ丁り、そこに日本係数が産み出されたのである。弘法の密教や個数以下の台冠の組織に も巳に大陸偽故には求められぬものが閃めいてはをるが、その精華の結賓は鎌倉に求めねばなら ないのである。予が特に鎌倉期をエポックと名くるのは、か∼る思想的根接に基くのであつて、 この根抜こそ偶数を今日迄生かしめた原動力なのである。この事は鎌倉期とそれ以前との比較掬 係を論じても明かにされるが、それ以後今日に至る七百年の倍数敬遠と比較しても坂結されるの でぁる。日本係数は鎌倉以後如何なる螢達をなしたか、鎌倉期の諸空ほ夫々元轡宗励丁親師・開 成・開山・大師・躍師上人と崇められてをるが、果してそれ以後その昔甲気宇・信念・賓既に於て れに托すペき何人があるか。親師の精細一ピ自己に吸収し遷して自ら租師となつた人は果してない 俳致の敦重言﹁新鎌倉﹂の朗唱 彿飲の密造ミ新鎌倉﹂の朗唱 二〇 のである。日本偶数は弦に分宗分流分流せる故国の道を辿って数骨史とも云ふべき宗派史を構成 して凍たのである。そこに彿敦の費達史上前にをの比を見ぬ燭特生貝献をなしてをるのである。 まセ各宗の宗畢がしかく微細の鮎に亘りて研究されて夫々憶系を有するに至った。これは主とし て徳川期の隔檻せられたる太平の御代に於てのみその成熟を見たのであ∵り、荘に大燈その有終の 美をなしたのであるが、それがまた同時に行く所まで巳に行き着いたものと見徹される。鎌倉期 の意義はかくして係数を今日まで樽へた大法侍拝の偉動、及び散骨史・宗畢の螢達によりて、日 本係数をして濁自なる文化憶系を帝ばしむる素地を作った功蹟とによりて、その任務を完ふし化 ものと云ひ得るのである。よ︿七百年に亘り枝葉繁茂し開花結賓の歴史を有した事蹟を以って、 そこにその一段落を告げたものと見てよいのである。この一段落の内的健件と欧米の異質的文化 橡入の外的横線とが合して、抜に明治維新の時代に於ける傭数の受難と更生が起るのである。﹁新 鎌倉﹂と予が名くるもの∼黎明に接府するのである。 〓 翌徳太子が儒教をその人生貌の基となし、これを賓践生活の原理とせられた先例には、已に孔 雀王朝の阿育王や染の武帝等が奉げられるであらうが、よく﹁四壁之終坂、萬固之極宗﹂と謳歌せ られ佗所には、常時の世界文化の潮流に綽すと云ふ気強さが手樽ふてをると思ふ。自らは名もよ き愚禿と科し、北越騙東の野に深く偶の膏畢に沈潜し、簡易直裁な云倍の宗致を暁諭せられ陀と 見らるゝ親鸞上人すら﹁慶しき哉、西春月氏の蟄典・克夏日域の師滞に遇ひ難くして今週ふことを 待たト。開き難くして已に聞くことを得た♭﹂と述懐し、七剋生二団に撰び、そのー立教開宗のま 著に﹁文類﹂の名を破らしめて、その故に私なき空不してをる。親寧日ら別に珍らしき法門を弘む るに非す、師法然の敦の外憂に別に仔細なしと囁懐してをられる。そこには法の徹底普遍と文化 融通と人馬相績の交渉が見出されるのである。また日本傍数が燭自性を有してをると云ひつゝも それには皆時の世界文化の系列に加ほりつ∼あると云ふ気持ちが要求せらる∼のセある。固く一 筒竿箇の接待に身を持し北陸永年の幽谷に樺降せられたる道元繹師には、親想のそれに似通ふた る偶の暁丁が存し、また大陸の膵に通するものがめるが、日蓮上人の本門果上・専行妙法の故に は等しく端的なる貰既約立場が存しっ∼も、より濃厚にかの蒙古嬰永なる外的事情に汲脅された る観家の観念や、時流に抗等せんとする意気が表面意識に躍動してをる。随ってそれ吐け先人や 外国の影響よら免れたる猫自性一ぞ情意的にも強化せしめんとする傾きがある。それ女けまたより 日本的であると名付け得られぬことはない。日本係数は皆初から同家沸教と云はる∼位であるか ら勿論のことではあるが、常時は日本民族の国家的意識が全憶的に浮び上って家たのであつて、 親鷲の和讃などには塑徳太子を﹁和国の教室﹂−と呼んであり、外的なる新藤主義を排斥して無新藤 沸教の螢蓮ミ﹁新鎌倉Lの朗唱 儒教の設蓮ミ新鎌倉L¢朗唱 二二 にして卒成業成の倍の宗致を断然として吐露した親鸞にも﹁朝家の御題め国民の御ためL念傭申す べしなど云ふ消息がある位である。尤も圃恐が和国の教主と呼んだ空徳太子の精細に、已に日 観家の意識が強くあらはれてをることは、その隋との外交の態度にも現はれてをり、皇室中心 制度を確立せられた一′信内政方針にも示されてをる。かの隋書に云ふ﹁日出虔天子致書日没庭天子L や、日本紀にあ去﹁寛天皇敬白西皇帝﹂などに看取さる∼その気漑を由らねばならない。一面自ら 統率政教による逆化折伏の法戦に徒ひ、また心中本魔法門の憶現・法華色讃を叫んだ日蓮も、 の晩年は身延山奥の隙学曾以って終って居る夙に、親想がその晩年身は京洛に坂りつ∼も扶凰猫 瑚巷随に樽居せるに見れば、その封比が著しい。親鸞には、一度比叡の山を下ってからは、北 関東の中野の生活と、京洛内外の塵環に於ける障栖とを以って、その九〇年の長き生涯を終っ 居る。その一向に卒凡なる鮎は、かの摩討不可思講の新藤をも要とせなかったその自然法爾の と和衷嘉して居ると思はれる。 平安朝の偽敦が山の傍放であら、出家の係数であるべきに、却って名利開巻の巷でぁつた併 日本係数の特色が躍如としてをる。その琴人骨初よらして現世新鹿、鎮護国家のための官吏の 務を有して居ったので争わから、必ずしもそれを怪しむ必要はないのである。それでめるから 粋なる宗教的生活を欲するものは、山に於ても別任際栖するか、山を下るーふLリ外に道はないので あつた。事々無碍の膏畢を唱へた華厳の法蔵の如きは、田世間に対して﹁出々世間﹂の意義を詭い た。出々世間とは出世間の再認識である。出世問を以って宗教的更生或はゴングァージョンとす るならば、出々世間とは宗教の再評慣と云ふことである。この傾向は已に倍数や弘法の事績にも 看守され、また横川の源信などにも伺はれるが、それが法然・親鸞・日蓮に至りてそれが全く如賓 相應な寒行に移されたのである。法然こそその先頭を切った﹁元祖﹂でぁる。智慧第一の法然房が 巳に知者達の沙汰を饉れ、別に奥深きことを存知するを要せぬ易行の事についたのである。そこ に南都北嶺の畢坐沙汰の絶換算が示されてあるのでぁつて、ま化それ故にこそ法然の念偽運動が 自信に満ちて居り、随って政令を引きつけ得化のでぁる。新しき鎌倉期への煙火である。 大乗敦の諸鐙典が作られた動機は、矢張りこの出家や出世問の悌教をして﹁出々家﹂﹁出々出間﹂ たらしむる還源運動であつたのである。法華・推摩・勝窒の如き大乗経典より出費せる日本偶数は この鮎よりしても、已に賓践賓行を以ってその時微とするものでめト、在俗人生そのまゝの宗教 を旨とするものであることは、更に意味深きことである。大乗数は日本に於て賓蹟化し、日本生 活はこれによりて宗教的生活革命を超し遂げたと云ふてよい。それが﹁鎌倉期Lであつた。両て法 然の易行念彿はその第一線に立ったものである。念彿の一行一で専修する所に簡素があら力強さが ある。親鷺はその一行をも止揚して信の一念に極らしめた。一行はこれを報恩の後念相頴に移し 悌教の普遍言﹁新鎌倉﹂の朗唱 儒教の菅蓮ミ﹁新鎌倉しの創嶋 二日 た。梱待の制約を顛倒した所に本願力回向の無極の信を把握した。そこに益々出々世間の意義が 深められ、障ってその生活が却って肉食妻帯と云ふ在俗の生活に徹底するに至った。法の絶特有 カは人の絶待無力と封蹟的に深められた。もと﹁機法二種深信﹂と云ふて、暦の善導がその憶瞼を 表現したものであるが、更に賓際的に日常生活化されたかの威じがある。善導とは﹁偏依善導﹂と 云ふて、法然がその立教開宗するに雷りて唯事ら戯られたのでぁる。我々はそこに敦の漸次的開 展を見るであらう。親鸞の生活の如きは、人間の宗放としては本務自然の粕に還すてのものであ り、かの時頗の師明恵上人が﹁めるべきやう﹂の質践に過ぎないのであるが、他面これは破戒の生 活と見られぬことほなく、、また燕戒の生活とも名けらる。しかし無知の智・無行の行を説く大喪 彿致の精神から見れば、或はこれを無偶数の沸教と云ふてもよい。繹宗の如きは加須正法輝と辞 しっゝ、而も敦外別個・不立文字と云ふことはどう云ふことであるか。そこに相通やるものがあ ちはせぬか。本葦妙修の正博の偽法一望況き、傍観畢樽の法門を侍ふ早道元締師の坐頑なるものも 大魔辞令に現成せる衆生本凍成偽の憤達信念に示さるゝものであ丁り、智愚を撰ばざるものである ことに於て、等しく他の鎌倉の講師と相通するのである。普紛坐鰐儀や併進話等の目的はそこに ある。道元は入来し、他は外観へ行って居らぬ訪、その相異が著しいが、これ等の四翌が皆和語 を以つで直裁にその憶療を啓き下して居る如きは、全く時代のカである。聴に親鸞や日蓮の如き は、その弟子達に造った消息文がそのま∼その法門を敵いてをるなどは、大勢が已に自ら一膝舟 衆の宗教たらしむべく迫って居ったことを示してをる。日蓮の滑息の如きは力強き昔時の散文の 模範的のものとすべく、親想聖二帖和讃、帖外和讃の如きは詩の形をとつ托ものであるからして、 何れも文嘩的にも注意すべきものでめらう。しかし英文畢が丑書の英謬の影響を受けてをる巷、 日本文畢にほ注意されて居らない。 四師を通じて坂する所は皆な機敏の宗教でふT,、事行の敦である。簡易直裁なる無極の信念で ある。本腰法門の現成である。法然は平安末期に属するが、その思想及び生活は鎌倉期の方向を 指示するものである。個の徹底は普遍妥雷への道である。そこに彿致が人生中心の宗教であ丁り、 世界宗致であり得る契機も存する。更にまた﹁新鎌倉﹂へ達府夏生し行く契機も合れてをる。鎌倉 期の傍致はかくの如く道俗・貴腐・上下・脅愚・男女・老幼の外的なる種姓差別を葦ばす、また平 心造であり、中生業成の日常生活化がそのま旨となつてをるのであるからして、これこそ全く一 般大衆の宗教とも民衆の数とも云ひ得るであらう。予が特に鎌倉期の宗教は日本の大地から生ひ 立ったものであると前に述べた所以も技にある。随ってこれを以ってエポック・メィキングでろる と名けたのである。而てこの鎌倉のエポックを成熟せしめたる底流には、即察而奥の哲畢を健臆 せんと力めて凍た密致の影響、随ってその功蹟は見逃しては写らぬものである。念彿・題目に眞 悌敷の常連ミ.新鎌倉﹂の朗唱 冊数の安達も新政倉﹂の創嶋 言の影響がある。 これ等の事情を要約すれば、偽致はその成立の督初よb已に大衆・大桑・凡愚・在俗への韓向を はらんで居るのであるっ而てその輯向は常に前者の到達怨が後意の出費缶となつで居ることで ある。そこに進展があり超越があ㌻ヮ、同韓がめり新時代が生れるのである。﹁新鎌倉﹂の特何もこ の常道を外れるものではない。 三 日本観家が遣隋使・遣唐使として留畢生を大陸に透ったことは、明治政府が欧米に留畢生を渡 遺したものと同じく、世界文化の吸収に力めねば自らを養ひ待なかつたのである。 日本は由来礪別の文化を有してをらぬと云ふて、一頃ほ軟水人から甚だしく授戒せられたもめ であ′る。支那文化の一部分とさへ考へてをるものすらある。日清日露の戟寄に膠ったから武力に 濯いと注意したけれども、文化的にはこれを認めやうとする畢者は少なかった。尤も日本は彼等 の馨展慾の対象となるには国土が貧窮である事は事賓である。そこに日本文化の位置及び性質が ある。また日本人は模倣の同氏でぁると云はれる。これは主として明治以後、鱒本が彼等欧米の 科畢文明を輸入模倣するに汲々としてその金力を姦した黎賓を彼等は限のあたり知ってをるから である。何れにしても日本は古今を通じて世界文化の輸入にその時問と勢力の大部分を費Lたの は畢茸で風了ろ。前に三撃隋・唐高域・天竿南海があ∵り\後に欧米がぁる。隠者の結賓は洗倉の 時期であつた。後者に何が凍るべきか。 これは予に課せられたる専門畢よ♭しての特殊問題であると同時に、一人の の人生観よりして考へさせられてをる問題で今Q。而て予のこれに対しての答寛は﹁新鎌倉﹂の意 哉を考察し提唱すること∼なつたのである。そこには専門撃としては過去の畢の清算が考へられ また一撃徒の理想念蔚がその底意に潜められて居るのである。現代は過去の清 板挟みになつて亨。時禦しはないかと思ふ。スピードを以って東西が接近し合 世界人類が最後的一画に向ひつゝも、人種と教養との疎隔に妨げられて障撃ぞ のである。人濡としては大きくは白色有色の対立であり、教養としては東洋と る。しかし問題は何れかして進みつゝある。 人種の問題は細くは種準部準家琴個性の自然的対立まで深めて考へられ、これに 億の組織的人膚的の対立が蔀豊Jられて問題を複放にしてをる。教養としては歴史及び地理の距 離が原因して分流分癒してをるが、常にまた交淀融通の原理が同時に賓現され る。これ等が経緯となり世界及び世界文化が動きつ∼あるが、その交流の原動力は人頑としては 植民移民問題として現はれ、教養としては博学宣侍壷説馨真の形式をとつて示されて官0。 沸教の費遺言﹁新鎌倉Lり創嶋 僕救り費蓮ミ新鎌倉﹂の朗唱 二八 世界我等以後は特に世界は大西洋中心時代よ♭、太卒洋中心時代に移行しっゝあγりと、階数の 問に濠威せられまた貫首せられてをる。このことは已に速くは西欧の列強が東方改発にスタート せる時に始ってをるのでふ∵り、最近に於ては米観の日本開国政囁に刺戟せられたる明治維新の大 栗によつて幕を切っておとされ、日精日露の戦等に深められて行ったと見てよい。世界大戦は米 国の接頭と印度及び支那の覇立的白魔を促進せしめた鮎に於て、益々太申洋中心の意義を鮮明な らしめ、今や思想問題としてよらも革質具鰭的問題として、更に一歩を進め我等の嬰別に迫って 凍たのである。 たゞこの間題に就いては日本は支部印度に対して先頭を切す、また東洋に於ける濁立闊家とし て、先つ第一に弔賓上の成液を示した。この日本の立場は束函融合に先立って先つ東西の封艦強 化に役立つものでぁつて、そのユニイクな立場は全く世界歴史のエポックを作るものと認めてよ いであらう。これによつて少くとも日本は過去に於ける支那印度及び明治以後に於ける欧米の先 進諸国に、その蒙れる恩義山一分を酬ひ得たと云ふてよい。日本は重く膨群として押し寄せて水 北西力東漸の波涛を全身に浴びつ1も、その氾濫の鍋を防止したアジアの防波堤の如きものであ る○ 防波建と云ふことは潤わアンダーサクツソを童沫とせる欧米に対するのみでなく、大戦以煎は スラブ軍国の奇観主義がふγり、大戦後は尊慮各国の瓢化運動の放馳に腺さ㌫ゝに賢;蓼怒喜 ある。先きには篤固の太申洋への東方侵絡を目的とした帝国主義のそれであつたが、今度ほ政憧 革命連動政令階級闘等運動として、外魔によると云ふよぅも内部浸透崩壊カとして迫って㌢てお るのである。労農高閲としては、欧米の侵略に対して善彪してその生存を全うせる日本を巻込む ことを得るか否かは、その世界革命へのよき門出でありまた試金石でもめらう。乍然ら二分三分 されても、何れかの部分に血が通ふてをつて、遂には生きながらへ果すことの出家得る如き宏漠 たる露囲と、頸勒艦の切断によりて瞬時にして地方末梢肢簡の血智も枯潟せしめて死に至らしめ 得るかの如き日本と牽、全く同一範時におくごときことは、寧ろ無暴の拳と云ほねばならない。 尤もこの鮎アメリカナイズと云ふこと∼、労農化と云ふことは、南極に立っものであらう。無産 革命の主旨の如き、大鰻に於て所謂富者の数少く、同氏の大多故が貧しき階級に属する日本に於 ては、相雷の思想的共鳴はあり得ることであらう。乍然らその鍾存の蕾めには常に賓際的功利的 である日本が、時に思ひ切った過去の清算はするであらうが、たゞ思想的共鳴からして観を奉げ てその政策に委ねるなど云ふことは到底めら番這ことである。それは日本の観情であγり、古家よ ♭の歴史の示す所でもめる。 この鮎よりして口承島喚は文字迫¢歴虹的にも地理的にも東西南洋の波の接合する特異の位澄 儒教り敬遠ミ﹁知謀禽﹂り別喝 傍軟の費蓮ミ﹁新鎌倉﹂り朗唱 三〇 を占めで一どるのである。南アメリカナイズと弊履無産蓮勒との挟打ちによつでをる形である。欧 米の人はよく日本の武士道を云々するが、この訪日本は世界近世史上東西交流の問題に於ては、 全く悲壮なる義戦を膚けてをる武士の如きものである。その何れとも国情を異にする日本が、何 れによら多く近付くか、或は何れにも傾かすして中温を歩み得るか、これも﹁新鎌倉Lに課せられ たる課題である。 植民政策としてはアングロサクツンによりて世界はリードされておるものであγり、この瓢その 強腰を戚じてをるものは有色人種であり、立ち後れの日本の如きも随虞に苦酸一ピ嘗めてをるので ある。印度に於てその昔この問題が起ったのも、白色有色対抗に基因してをるのでふ∵り、辞令の 偽致がその昔初よ♭して嘩羅門のカスト重義に封しては、これを人道主義人名修養主義により止 揚し、人濯階政の差別に煩はされぬ一桑の造を説き、撰民の考など密生して見ることも出凍ぬ程 に、人本年等の地ならしをしてしまつた。そこには宗数的非澄として二同生d&糾の資格を先天 的に奪はれた第四階級m已rデぞも矛盾なく包容し得た。而て異種異族に普き萬観民の法として馨 達した。このことは西域月氏の教化運動に、また支那南北朝に於ける五胡十六固の輿替に著しく 日本に於てはその繚入の雷初よト√して、氏族級屈の弊一ざだめ和に導くために脅せられた如きはそ の一例である。永年洋中心の﹁新鎌倉Lに於ては、人種中等の問題は横合均等に先立って解決せら るべき問題であらう。 また労農無産蓬勒について思ひ合はされるのは、渾含やクリストの如き宗教的偉人は多く無産 であつたことである。唯クリストには三十幾歳の若さで殺したのでぁるから、人生の種々相を経 敬して守らないが、繹食は八十の高年迄生きたのでふ∵り、縫ってより廃位的である。その無我軌 や客観に見ゆる無所有の思想の如きは、自らを質蹟しその致囲にも賓行せられたものであり、そ の出家比丘の乞食生活そのものからして徹底的無産ま童であつたと云ひ得る。これが一切皆垂の 界雷法に費達してをるが、それには常に思想の無窮過昌雲虚声掛を現賓に止息せしむる賓践舶行 が表裏してをることを見逃しては互らない。帯食の数囲はたゞ出家のみのそれではなく、在家も 包容せられたのであアり、二重の故国をなしてをるから、その中温室議の立場からは、これを近代 無塵連動と比較し得ぬことはない。たゞ係数の客観はこれを中観とも云はるゝもので、その本旨 が中道舛忍法であることはよく記憶しておかねばならぬ。賓戌修養の個人道徳の如きは、今日の 近代経済的社曾運動として埜膏せる薬産室鶉の閑心でない。召それの無成であると云ふことにな れば、雨着の間にほ非常なる距りがあ去ことになる。尤もこれに就いても係数に於てすら個人完 成の小乗の修養と利他生成に出ずる大衆菩薩の修養の相異すら生じてをるのでぁるが、究真の問 題は両者を止揚して行く巾・造将帥にあるのである。それ故無産重義にせよ、その道徳教養の問題 悌秋の普選ミ﹁新鎌倉﹂の朗唱 沸教の硬蓮寸J﹁新鎌宮﹂ゆ朗嶋 三二 は曹面の関心でないと云ふのは、それを必要とせぬと云ふのでなく、唯瞥面の焦慮は一般に衣 食住を足らしむる溜めであり、或は衣食住の年産問題と云ふよトも寧ろその分配問題にありと云 ふのであるならば、両者の硯鮎に交錯こそあれ骨て矛盾背馳するわけではない。問題は手段にあ る。 彿致がその雷初よりして人本虔世を本とし、それに即せる如質軌の蓉達である、その根底にほ 感心と容想とが相互に畢健全放しっ∼相模相成の非詑法を螢適せしめてをるのである。色心不二 と云ひ、境脅互放とも云ひ、奪境不審人・奪人不奪境・人境倶奪・倶不審とも云ひ現はされてをる。 根本中の堺語法には立場の無限がある。たゞ特に客観弊語法ほ唯物史観の葬譜法と交渉すべき立 場にあるっこれまた﹁新鎌倉﹂賓現途上の重要なる一課題である。 四 日本は島唄観であつて由雄原産物に富まぬ国土である。今日多くこれを海外に仰ぎ、自らはこ れに加工する夙にまカを漱がねばならぬ国柄である。これは恰も文化に於てもその原質原型を他 に仰いできたことヽ粕應する。その加工と云ふ第二義的生産に就いては、賓に勤勉なる積極ま義 を取るものであるが、根本的には他にこれを仰いで生きると云ふ制約の下には、どうしても滑極 的受動性が基調をなしてをる。本質的にして根底的な生活方針の梓埼性が中々確立し発い原因が 潜んでおる。日本の思想に狗創的健系がないと云はる1けれども、事賓生活が他に依存して行か ねばならぬやうに逼迫してをるのでぁる。 更に日本は由建言奉げせぬ国柄と云はれてをる。これには一両言奉げなどしてをれぬと云ふ質 際的理由があるのでほないか。抽象的な思索に遊離してをられぬのでぁる。それよトソlb功利的賓 際生活を外れぬ寄算的直観が最も必要とせらる∼のである。そして場合々々に喜藤して邁化して 行かねばへ仏らぬのである。この臨機應舜の要術は、日本人の最も優れて一ざる鮎であらう。たゞそ れも上述の理由にて自主的なものでへ甘く受動的なものに堕する時は、表面シャーブであアり敏戚で ほぁるが底力がないと見えて凍る。これが過去に侮数倍数を中心として支部印度の文化に封した 時は今はさしおき、明治になつて欧米文化の採用に際してはどうでぁつたか。何れの固の文畢で も風習でも夫々粕應に観賞し味読してをることは驚嘆に催する。軍略戦闘衝撃理工畢にせよ、日 常生活の凰にせよ、スポーツにせよ、何れも相雷に成績を奉げてをる。たゞ要するにその程度が 前述の第二次的第二義的範囲を臆してをるか否かである。何れに本質的な自己創造的な底力が閃 めいて居るのであらうか。手際よくこなしてをるが何虞となく味が出てをらない。一時の攻勢と 手際は鮮かに見えるが長繚きはせぬ。整ってをるやう・に見えるが蒸拙の異質味がにじんで一ぎらぬ 勤勉であるがねばhノがないと云はれ、のろいやうだが決して怠けてをるのではないと云ふ執賓性 儒教の費蓮ミ﹁新鎌倉﹂の創嶋 沸教の費蓮ヾ1﹁新鎌倉Lの朗唱 が欠けてをる。 尖端的と云ふことも、日本人には充分その傾向が侍ってをる。日本民族は大燈南洋方 出北移し来ったもの、日本海を横断して大陸より東進し凍ったものが根幹をなして、原 合して馨達したものであらう。衣食住の日常生活様式に、思想情意の椅静坐活の表現に の面目を跡付け得るであらう。何れにしてもアジア民族のうち最も尖端を切って凍たも そこに活動性移動性に富んだ国民性をあらはしてをる。研がその尖端生活が島唄生活の に終って、アメリカ尊兄に至らす、シベリヤ経略に出です、南海攻略や大陸征服七成功 たのは過去の革質である。巳にそこに行き詰りの生活を起画せしめてをる。かくしてそ 動性と島唄的狭塩生活につき拝格矛盾を嘗めつ∼適化順應の訓練を蓬げて凍たものと考へてよ い。進取保守の南面に亘りて幾多の国民的悲劇を経験して凍てをる。その地理的狭塩原 の量的質的制約は、各自をして不自由に馴れしめ、少欲知足の簡素生活を道徳化せしめ 因縁と諦らめしむる。この鮎衣食住に亘♭て生活の簡易化を質行した傭数の最もよき移 であつたと云ふてよい。もとよら物欲を少なからしむるは精神的生活を淀︵且つ贋からしむる一 面を有するが、同時に思索の1持緯性を減退せしめ回顧展望の把捉創造力を鈍らしはしなかったか。 物質の映乏は密着せる生活の具牌性を訓練ト、功利賓際主義を生活化して凍た。武士道 そこに彿数的精細訓練が武士の生活を通して具憶化されたるもの∼一例である。 島唄の安住生活は戚情の尖鏡繊細の美を養ひ、陶土自然美のデリカシイは之を助長したが、鹿 の太さ弾力性流動性を失ふて、低御詠囁感傷に傾いた。末梢的尖端に走るのである。その持績は 畢調と汀アり、複雄を綜合し断席して伸び行くリズムになり難い鈷があ畠。長く外冠を知らずして 孤立隔経せる生活は、外囲との按鯛が畢賓に迫る具慣性を放くために、封内的には分裂対立抗零 するが、他に対しては萎縮し硬化する傾きがある。その道徳訓凍の単位が個人的で集図公共的鹿 雇に敏くる併あるは否めない。衣服が非活動的である主嵩ふこと、住居が小規模で夏向きである とも云はれてをる。これ等には一面その原始の風習を保ってをる薦めもあb、他面には封建中世 的生産消費の経済状態より近代機械工菜生産をまとする経済状態への移行の震幅が除ら大きく且 っ激甚である食め、種々の不調和が各方面に現出しておるのである。しかし大憶の傾向は美的垂 縮約戚受性の馨蓮に向つてをると認めらる∼。 更に日本は有名なる地震国火山国である。地震とは明瞭に大地基礎の不安定であるから、この 事は国民性に特薦性観賞性を稀薄ならしむることは多大である。大正の大地震は国民の生活に薗 は生々しき苦悩の経験である。しかしか∼る大地震は過去の歴史の知識が常識化してをるなら ば、日本に住む限上二四十年毎に何虔にか必す反覆して蟄ふものであると、鎮活知識に髄現され 沸教の費蓮ミ﹁新鎌倉﹂り創唱 悌秋¢螢蓬ヾJ﹁新鎌倉﹂り創鳴 てをる笠なのであるが、あの常時それ丈けの心掛けが惰ってをつた人は少なかったのであると思 ふ。徳川時代の惨害は古老は話して聞かしたであらうが、それは普噺であつて生活知識の圏内に 牧らへ甘かったのであらう。明治維新の理想的新居地震はそれを普噺の偉力位にしたのであらう。 凡てが御維新と云ふわけであつたと思ふ。地震の少ハ甘い英兼濁偶の文明輸入に専注はしたが、地 震観の日本に多くはそのま∼移植したと云ふ不用意も伴ふて居ったらうと思ふ。彼等に不必要な 非常装置のぅら、日本では肝要∵ものほ何かと工夫を売らす迄の鎗裕は生じてをらなかったらう と思ふ。 震災普時ある外観新聞がその社説に、日本はその近海に世界最深の深海を経へてをるのでふ∵り、 何時その全部がその奈落s底に瀬没L去らぬとも限らぬのである。随ってそれが大陸に安国なる 生活の足場を有せねばならねと云ふ意識を、如何に強く観民の賊真に潜在的に育んでをるかは分 らぬ、と云ふやうなことを論じてをつたのを魔えてをる。噺に日本一の富士山もー日一夜に出家 たと侍へるのであるから、それに匹敵する奈落の深澤が近海にめるのも客質である。日本がその 国土自然の無常観を常に味讃してをることは事賓でぁる。春夏秋冬の物の遮り浸りの日立ってを ることも戚傷的に訴ふる茹が多い。 ﹁ひ㍍ぷるに直く﹂と云ふのが日本の1国民性であると云はれてをる。その純情直情的な鮎を云ふ のである。理智のさかしらに対立せられ、時に儒偽の致を排する意味に用ゐらる。このことは日 本民族が思索を得意とする観民でないことを如管玉語ってをるものであるが、大乗係数が日本に 移植せられて鎌倉期の偶数を生み出したその直接原田もそのことに外ならぬことを見逃してはな らない。理智の分別を嫌ふのは、猫トノ躍宗のみでほなく、傭数の根本的立場であつたのである。 たゞ沸教は中道主義であるから、理智の分別を排除する必要はなく、たゞそれに捉はれなかった のである。高次な立場にあ♭登髄的立場にぁつたから、それを樽じ得る鎗地を有して居ったので 一のる。鎌倉期の諸師が期せずして分別簡繹を嫌ひ、自性唯心に陥り定散の息に迷ふ小智小分別を 排し、専行に着いたのは、一は大乗沸教の指針によつたものではあるが、その横根その時磯その 国土即ち日本の観民性にも基くのである。理智のさかしらは或は覚書精進の相ともな♭、奥淀き ことを沙汰し存知する畢生沙汰ともなるのである。これは自力の計ひとして、本威力廻向に随順 する信心報恩の生活を殺ふとせられ、修澄隔歴せる待悟作偶の修はこれ簡葦分別打7りとして嫌は れ、本澄妙修の現成が勧められるのである。また始発の理脅分別に封して、本門無作の覿心が絶 叫されたのである。﹁大かたなりぬべき尊はさてあるこそよけれ﹂と云ふ宣長の心地の如きは、寧 ろ﹁自然法爾﹂の風光そのものであらう。また﹁少さき智もて嘗の書き窓きは知難きわぎLへ与ど云ふ 現地は、かの款異妙などに盗ふれて字Q信仰に相通ふものである。倍数は寛洗二千五首年の歴史 席数の費蓬ミ新鎌倉﹂の創唱 儒教の普蓮ミ癖鎌倉﹂の朗唱 三八 を有するのであるから、各時代と環境によ♭て随分と爽珪物を添加して茶てをるが、その爽誰は また夫々の国土及び時代によトて、漸次隆替し淘汰され清算されて行くのである。しかしその純 粋なる杢憶的立場は、人本臼塵重義として、常に夫々の国民性を養育して泰花の■であ∵り、まヤル滞 黍も養育し行くことでめらう。 五 明治維新の大断屠地震は全く過去の清算であつて、新しき日本が生れたのである。日本人の質 際功利ま我がこれを断行せしめたの・である。酉力外冠の魔迫もあつたのであるが、自ら生きるた めその過去の喩入文化を放棄して、新しい文化を以って代らしめたものでぁる。温故知新とか新 嘗折衷など云ふことの除裕などなかったのである。尤もそれにほ新膏文化はたゞ薪奮の相異と云 ふのみでなく、特に自然科畢の如き異質文化が中心をなしてをるためである。この異質的文化の 対立は東洋画洋・精紳物質・手工機械・宗敦暫畢科畢等種々に考察せられるのでぁる。 徳川封建生活よらの放出がそのま潮であつたであらうが、排彿毀粋の如きもその清算のうちの 大なるものでぁつた。これは係数が常時の鹿骨生活のうち最も限につくほどその外形が大物であ った焉めもあつた。別に深く彿致と科畢との関係よら、近代生活に封する適否を考察して超され 佗程、思想的根凌があるのではなかつた。その維新の意味にほ、王政復古が目的でふγり、民凍固 有思想の蓉揮と云ふことが精神であつた。彿敦は徳川時代に宗畢を蓉逢せしめたが、巳に儒者・ 囲聾者・国史家・細道者浅からして昔時の主潮流より精々疎外され勝ちで押し出されんとした傾 向があつた。それが熟して維新には正面から峨を立て∼攻められた憩でぁる。しかし偽致各宗に は鎌倉普初にあつたやうな気力がなかった。維新の大業にたづさはつた滑侶も、王政復古を大業 と考へて居ったが、彿致の改新などはそれ程考へなかったらしい。日本沸教の馨達からは、かの 排傭毀祥は外形的に失ふたものは多大でるったが、倍数をしてその立場を反省せしめ、心あるも のを敦馨し法の虐め奮起せしむる逆縁となつた。明治維新の文化喩入が理工嘗の科挙を中心とし、 法率暫重文寧に亘ったものでぁつたが、宗教即ち基督敦が教へられてをらぬことは種々の理由が ある。この駄目本の基督致は終始一貫して自ら侍造宣侍のカによつて侵潤し凍ったものでぁる。 随ってその努力に酬ひられたものと云ふてよい。彿数社は一方排傭毀繹、他方基督致の洗布に潮 戟せられて覚醒運動にとりかゝつたのでぁるが、革質異質的な西洋科畢文化を主潮とせる薪時代 に邁應せざるを得昼かったのである。そこに大きなエポックがある。 かくて明治維新の一大浄化電動は偶数をして一面裔態改善の虜め新知識吸収の造に出でしめ、 他面その本家の面目に還らしめそれを白壁せしめた。明治政府が欧米へ留畢生を流通せねばなら なかったが、本願寺の如きは寧ろそれに先んする位にして有名の士を成案に派遣しまた留率せし 沸教の費重富﹁新鎌倉﹂の朗唱 儒教の費蓮ミ﹁新鎌倉Lり朗唱 四〇 めてをる。島地獣富師一行の洋行の如き、笠原新書・南條文雄南師の英国留畢はその著しき一例 である。各宗は宣に数畢振興・布教偽造の改善・赴食事菜への進出等に餞意努力するに至ったが、 本願寺が常に浣端を切った。それは特に先頭をねらつたのではないが、その宗風が近代生活に直 績するに適してをつた男めであらう。しかし各宗を馨ってそれに習ひそれを凌かんことを目榛と して今日に及んでをる。障って明治時代に眞宗の畢者多く、後につれて各宗に多く輩出してきて を 明治時代は凡て宗教を疎外したが、哲畢はこれを理性の畢として僻んだ。これが延ひて係数に も何かしら﹁膏畢﹂らしいものがあると云ふことになつて、大挙に於て印度膏単なる名のもとに講 せしむることになつた。最初の講師は原坦山師で大乗起信論を講じ、井上哲次郎博士などその最 初の聴講生であつたのであると云ふ。しかしこれが傭数にとりては再びその本務の面目を新時代 に費挿する緒となつたのである。爾凍沸教は印度背畢或は東洋哲畢なる名のもとに、東京帝国大 畢に於て講せられるやうになつたのである。一方各宗が各自その改善の途に上ったとすれば、他 方この大畢に於ける係数研究は明治維新の精神より生れ出でた新しき研究と考へてよい。それは 希畢研究と丼行する窮理非定跡立場である。随って﹁畢の立場﹂より超さる∼ものであると云へる。 西欧の偶数研究はそのもと列強の東方殖民改発に始るものであ♭、彼等の印度費見が東洋文化の 螢見と打アり、比較言語畢・比較宗致畢の起因をなすに至った。かくて巴利語・梵語・野猿諾の尻 典研究によらて新しき係数研究が起った。これを﹁欧米の偶数﹂と名付けてよい。多くは先つ巴利 語の備典によつたのであるが、係数は合理理性の敦ならとし、或は経験論的現象論をとくとし、 或は近代の科畢的立場と一致すとなし、或は心理畢約分祈に注意扇なした。次で近凍梵語・西戎・ 漠謬の研究よりして大乗偶数の眞岱が認められ、その哲畢及び論理心理方面が主として注意され 凍たから、更に済衆口本偽致が研究さる1に至れば、彿敦の宗教的億庇を知るに至るであろうが、 現今ではそれ程の畢者は西洋に居らない。 明治初期の偽数研究はこの欺光の係数研究の逆繚入で、一時は大いに幅をきかしたものである。 乍然西欧の斜畢的研究の方法論に刺戟されて立った村上専精博士の如きは、庶坦山・富谷覚書師 の後一で承けて大串に敷板をとられたのであるが、夙に便数の歴史研究を創喝し、大桑非併読諭に ょりて倍籍を剥奪せらるゝに及んでをる。またその自由討究の結果は﹁偶数統一論﹂の大作となつ て現はれた。博士は文字通♭既成沸教の各宗を打って一貫となし統一し待と考へられたものであ ろうが、それは明かに失敗であつ陀。王政維新の政治的大業と明治時代の帝国主義の影響からほ、 統一の考が適ったのも皆然かと思ふ。この鮎博士はその意気に於ては正に時代の子であつた。し かしその昇作は論述及組織に於て借款史上劃期的位置を占むるものとなつた。南健文雄博士や高 怖教の訝謹言﹁新鎌倉﹂り創嶋 彿夢の硬蓮ミ﹁新鎌倉Lの朗唱 彗一 梼原次郎博士の兜語研究や印暫研究は、西欧の畢風を吸入する主耳ふ常時一般の風潮に乗じたも のであつ化。偽数研究が帝国大挙へ入ら得たのは、抑々﹁暫畢﹂なるが虜めであつた。∵Jの鮎よらし ても後に井上薯次郎博士の束洋畢の唱導によ♭て育てられたことには所以あることである。井上 園丁博士は彿数活論争書き哲単一夕話や外道背畢を著し、更に哲畢館大挙を開設せられた。清澤 満之師が大畢に於てヘーゲル哲畢の研究をなし、次で傭侍阿合の研究をなしつ∼精細主義運動を 起された。絵本文三郎博士が皇佗膏畢研究と共に後には大乗係数の歴史的研究に進まれた。その 藤井宣正師の係数研究、高山樗牛博士の日蓮研究、柿崎博士の阿合研究・根本係数研究の如きは その著しき例である。今はこれらを列逢し詳述する折ではないが、たゞその昔初の因縁を逓ペ偶 数が﹁暫畢﹂として研究に着手され、漸次的螢逮を遂げてきた一面に嘲れ佗のである。かく彿数の 畢的研究は言語畢的・歴史的の基礎補助研究方法の進歩と共に、暫畢的・宗敦畢的の本格的研究 も漸次鮮明せらる∼に及んだのである。比較宗教革も比較言語畢と共に、印度発見に基因するも のと云ひ得らるゝが、日本に於ては井上習次郎博士の東洋暫畢・比較宗教畢なる講義に起均し、 更に姉崎博士によりて﹁宗教畢﹂の位置に高められたものである。研究の方法及び戒野がかくして 漸次確立して凍たのであるが、これが背光人の努力が積まれて今日に及んだのである。畢の研究 は同朋同行の共同労作が連絡する所にその眞償を螢揮するのであつて、これは﹁新鎌倉﹂の沸教研 ト 究の素地的制約である。予はこれ等の滑息に騙しては宗教学講座二十五年凝念骨組要に春 ﹁専門畢としての沸教畢﹂の一文に譲り、真に委しくは他の横合に待つ。 右を撃一再すれば、明治維新が沸教に輿へたものは排傭毀滞の剣戟でぁつたが、これに 去の爽雑の清算と、本華南自への遠路との両方面の運動が現れた。一は各宗の改善・宗畢 であり、他は畢的研究或は根本沸教学的研究である。帝国大串に於て常撃として開講せら 政所究、宗教畢の対象として研究せらる∼偽敦研究、及び欧米の偶数研究の如きは後者に威する。 各宗が経螢せる大畢の如きは、その現状よりすれば両者の中間を行ってをるのであるが、 究には巳に新香衝突が避け得られや、蔑多の波潤を巻き超してをる。偶数研究としては更 一切経・全書・叢書類の刊行出版と細評偶数の洗行とによわて、係数が一般大衆に開放 とは、これまた﹁新鎌倉﹂の沸教を諭すろに見逃すべからざる新開拓である。明治維新よ 十年を過ぎ、落款年にして国民の凡ては維新坦彼の敦養によるもの∼みとな♭、次代文化の育つ 地撃てのものが、弦に全く新しき新暦窒不すのでぁるから、沸教研究も新時代の模式をと ぢらぬわけである。大乗偶数なぇものは已に夫々の時代及環境に通應して螢達したもので が、今この明治維新以後の廟漸層に生ひ立たんとする新大乗沸教は、如何なる薪爽嫌旛を 費達するであらうか。予はこれを﹁薪銀倉﹂なる課題のもとに考察せんとする。その成熟 甥歌の費蓮ミ﹁新せ骨Lの劇場 儒教り費蓮㌔新鎌倉﹂の朗唱 団円 ge。e邑。巳の後に待つペきであるが、今はそのランドマークを印するのである。新鎌倉に対する 他の戒野印ち各宗の将衆及び宗撃の問題に就いては、開祖の立場と費邁敦囲との立場とが交 てをるのでぁるから、新時代に超するには宜しく服應改善の途に出づべきである。野し新鎌 の宗教的寄輿に重要なる契機を虜すべきである。この方の戒野に就いては吏らに考察を同ら き種々の問題がめる。 明治維新は過去東洋文化への反省及び止放であγり、日本文化史上垂前の大断暦を示すもの るが、世界大戦及び大正の大震英は欧米文化に対する反省と止揚とを接頭せしめたことは否 い。勿論これは日本にのみ限ることでなく、世界各国が直面してをるのである。労農露団の へ与どその昔しいものである。機械文明と精両文明との封此が、昨秋京都に開かれたる汎太 詰の固卓議題に上った如きは、現代日本には特に適切な問題であつた。1新鎌倉﹂の文化は日本民 族の創造すべきものとして、濁自約たJbのであろうが、それは鎌倉期の日本が世界と接嘲するこ と少くして過ぎ得た雷時の事情と今日とは全く臭ってをることは特に婆息せねばならぬ。こ 二冒本の問題が世界の問題であら、世界の問題が日本の問題であると云ふ領域に迄、問題を 化すべきであろう。 六 印度アリアン民族が北印度に移住し凍わ、リグ・デュダ替歌やケ.ご一ジャご壷壷を塵奉撃墜 葛尾門階級が中心となつてをる四姓の種姓望訂制度を根幹として赴骨生酋を,−ドした。しか しァクルプア・ブェダの所謂悪魔的呪端的崇拝の部分が、凡て原住民の影響に限るとはせられぬか ら、アリアン民族のうちにも已に暗黒面をも具へて居ったものと推察してよい。而て第二同移住 民との間には已に同種問の間寧が起ったと見らる∼から、その移住定住の歴史には翠に異種原住 民との闘季混和のみでなく、同種間のそれを見落し得ぬ。随って四姓の階級制度の討徐には、畢 ㍗てる自然的なる頑族問題のみならす、職業問題及び同等須磨向上剤巷の道徳問題等の人為的なる ものゝ交錯を見ねばならない。乍然大健に於てそれが有色≦r竃なる語が用ゐられてをる所に、 白色アリアン封有色原住民の自然封虻がその起源をなすと考へてよい。南阿に於てアメリカに於 てまた特にカリフすルニヤに於て、更にオーストレリヤにカナダに、白色有色の人種的対立の隆史 ほ晋に古いのである。四姓制の如きは、法津もその産み出す政曾事情の襲遮と共に内容意義が交 番するのである如く、クパニシ†、卜時代に凍りては已に自然的階級制の形式化の容疎が反省され てをる。氏より育ちの人膚道徳賓践の偉力が現はれかけて居る。そして洋食の批判にをれが極っ てをる。これに裁ては渾食が巳にアリアン民族の琴一同移住以後に生れてわナウ、その生長活動の 範囲が所謂嘩羅門文化の根凍地なるクル・パンチ丁−ラの北印度を精々外れてをる新興未申印度 沸教の常連寸J﹁新鎌倉Lり創唱 儒教の費蓮ミ.新鎌倉﹂の朗唱 匝六 に限られてをるから、その批列もをの生活事賓に起因すると云ふ見方は可髄である。戦寄は政曾 的主導力を軍産門の手より王族武力階故に移行せしめたであろうし、マタダ・コーナラ二大新興 勢力によ♭て代表さるゝ東方印度の経済的富有の後援による一般自由思想の勃興がまた興ってカ がある。東方が思想的に自由であアワ得たことは、政教一致の喝羅門文化がその主導力を失ふて、 政治的に王族が特に勢力を待、随って思想は開放せられたからと見てよい。桓武の藩都が舌京の 政教一致の弊む匡正して、政治を刷新する食めであつたが、思想も新しいものが活勒する天地が 開けたのである。倍数弘法の新宗がそれである。鎌倉幕府が武家新興勢力のもとに関東の鬼女地 に開けたことは、これまた鎌倉の廟宗活動の除地を大ならしめた如くである。 この東方の自由思想界は婆巌門の哲畢宗敦を批判する立場にふ∵り、その極端なるものには戚餐 的直接経験のみを異質とし、随って唯物ま養成魔的快柴重義をも主張して、凡ての樽統的なる もの推理観念論や人膚道徳の理想ま義に一向に反射するものを生じてをる。ギリシャに於けるソ フィストに類せる危沸の徒をも生じてをる。しかしこれ等のうちに現象竹r首Pk和声の直接経壌を飼 ぶ風と、認識の性質を考察せる風とが添ってをることは事賓である。蒋令は無師褐悟と耕せらる るが、その名辞が傭陀謬dd訂即ち発露者と云はる∼によりても明瞭するが如く、意識智慧の分 別ま老君であつたのである。即ち批列的立場をとられたのである。この批判的立場は中道軌とし て螢達するのであるが、帯食がその鹿蓮の最初に混べらlれ平bのは、賢帝監瓜教弥生直と檻除針 寄集的生活の二つの極端を離れてよく中道を行すると云ふ賓践的なものであつた。これはその最 初の説法である初縛法翰鮭に述べられてめるのであるが、之れは翠なる学説ではなく、全く繹食 の過去の深き生活憤験であることは侍記の指示する所であアり、生活経壌である以上は暫時の政令 生活の影響を認めねばならない。無師殉悟と云ふことは政令生活の影響がないのではないが、雷 時の批判的傾向が辞令に極ったのである。昔時の正統婆羅門思想自身のうちにも巳に反省が起っ てをつたが、政治的経済的には新興勢力として古き侍統に対立して造かに優勢を示した東方諸観 の環境に生ひ立った文化は、更に一丁り多く批判的であり清新の気に盗れてをつたのである。加之 雷時マガダ王国が購恋その統一の寄に向へる途上にぁつたので、金印度的の要請が動きかけてを ったものと推察される。それが歴史的革質として賓現したのは、アレキサ∴/ダー大帝の印度侵入 に誘蓉されて起ったマガダ帝国であ丁り、その世界的帝国はアソカ大王によりて貰現されたのであ る。歴史的なる傭陀は辞令でふ㍗り、歴史的なる天輪蟄王e野村r雪邑i臼はアツタ大王であぇ。偶発 . っ恋わ、次で阿育王がその法を政治的に賓行に移した。その大帝国の首府.ハークリブトラ現時の バトナ市ほ、洋食が晩年に訪れた頃は、マガダ王の阿開位によりて築城せられつゝあつたのでぁ る。マガダ固は辞令の修行・成造・行化・説法を通じて、行詰の賓要なる多くのものが起ったの 沸教の費重富﹁新鎌倉﹂の創唱 儒教り僚連ビ﹁新鎌倉﹂り創嶋 四八 であり、その国王頻婆婁塵が符合の敦囲に賓際的外形を購へしめた最初にして最大なる吸依着で ふγり外識者であつた。これが後に阿育王の世界的大帝国に費度し﹁法の団﹂一で賓現し平Jとには、 自然なる歴史の開展がある。修養努力教化の人馬の結賓であごる。世界的宗教となつた経過及その 要素に就いて、これを基督数のふーマ帝国に入れる厚遇と、その異同を比較することは甚だ重要 なることである。 侍統を批判すると云ふことは、燐語法的に考へればそれを止揚することであるが、繹告の中道 的感度にこれが看取される。批判は一般妥普なるものの要請である。澤食の比丘生活は婆鹿門四 期生活の第四期の再現であるが、その一生には四期が骨賓行されてある。しかし嬰應門文化−よLソ しては、その到着鮎なるものより出費したと見るペき、事後の繹食の生活及び数囲は、已に婆雁 門四期生活の再現ではなく、全く新しき方面への樽同でめり創造である。新しき立場のもとに生 れ、新しき意義を有して居るのである。そこにたゞ澄生過程の環境的説明以上のものがあるのを 見逃してはならない。それは新しき事貰歴史を内容とせる組織である。個の人格に慣現された全 健的立場でJ冨。そこに渾奪の無師燭悟の意義がある。繹告が無師猫悟を唱へらる∼席に、侍統 よりの開放があるが、同時にそこには法の普遍的題現がめる。この法の普遍的顕現は一般妥皆の 要諦となる。繹告はこの法を現成し説法せられたが、他方これによりてのみ成沸せられたのであ るから、法がその大師であるととで考はれを。をして滞奇がそ併淑女諾匪トぞ捗雛魅軒馳騒糎旺 のである。それを如是に任し、如是に来り、血是に去ると云ふ。異如随順であるから如衆知去 丁邑1議.已pと解せられる。傭陀或は勝者Jinpには批判的立場が明瞭に示され、如凍如去には塁髄 的立場が浮き出されてをる。一には始螢努力進取の克が盗れ、他には本畳本護本願の信随僻があ る。この二は係数螢蓮の重商を貫くものでぁゎ、藤倉の宗致を知るべき秘鍵であることを特記す る。このことに就いては予は﹁根本中の研究﹂にその大要を示疾してをつた。本選本門は日蓮に、 本詮は道元に、本願は法然親烹に極ってをる。而て本餐本地思想は密教を通じて日本思想の種々 の方面に影響してをる。 印度は寄算上の金印的統一国家を要求して居って、それが阿育王の﹁法﹂の統治による帝国に 賓現せられた。彿政経奥の初期のものは皆歴史彿陀及びその敦園を革質の背景とするものである が、後期のものの理解には滅後分裂せる敦囲、及び統.一骨陶の阿育王の畢躊及び理想を通じで見 ねばならぬのである。理想が事賓に賓現せられて行くものであるが、また事賓によりてそれが深 められるのである。理想と客質との関係は相互的であつて、その先行先導の問題は見方による。 大乗教の理想と阿育王の法帝国の事質との関係も同棲である。たゞ大乗敦にほ更に偽陀の露悟と 云ふ事貰がその根嬢に構ってをる。教理の費展には億態と賢戌とが常に放披となつてをるのでめ 儒教の費蓮ミ﹁新抒倉﹂り創鳴 儒教の硬逢ミ﹁薪鎌倉Lの創嶋 五〇 る。霹告の事蹟にはかの七歩誕生偽・阿私多仙の占相の言・成道白魔の軍盲・梵天勧請・五比丘 に射せられたる宣言及び韓法輪等に看取さるゝことは、拳賓の世界を極め一歩を超出しつゝ現賓 に廃せられた鮎である。如賓眞如に随ふて凍ら随ふて去られたとする。即ち眞理随順憶現着であ る。それ故に如賓々行者t已FP.k琶l川であり加算詭者t邑許忌d−であると云はる∼。辞令は超越蓮 源の二道に虚して無縫の庭中行を髄現せられたのである。この精細こそ彿敦を一貫してをるもの である。これを批判的智慧帥ち彿陀と耕するのであるから、成造の夜より捏葉の夕に至る二夜中 問、その説くもの一つとして般若後産密帥ち智慧ならぎるはなしと表現せられ、また二夜中問詮 くもの中道ならざるはなしと言はるゝのである。換言すれば、その一生は般若及び中道によつて 虔せられたと云ふのである。 その問題 辞令がよく問題を提供せられた時これに封せらる∼には、その問題を一向に否定し肯定せらる る一向記2訂計pづ竃k弓p竃概念語義問題の所在を分所細分して行く分別記まbす菅≠ 提出の動機と質問の濃度に偶々合れ得る不純性を看破淘汰する虐めに反問する場合p註puecF甲≠ 及び問題が解放の目的に契曹せすまた金なしと認めらる∼間題に就ては岡避獣殺の手段に出する 捨置記盲眉喜茸孝≠の四種に亘りて應答せられたと停へらる1。 辞食が婆羅門が梵天のロエり生れ他の種姓階故に射して先天的に優越せるものであ丁,、掟って たゞ唾液門凍に生を受けたるが故に、をれほ尊貴であTヮ宗教的温海であヶ有徳でぁると主張する を偏見であると見られた。随ってこれに封せらる1時は常に反問しっ∼問題の所在を分所して、 相手をして自らその非を悟らしむる方法をとられた。相手の抱ける命題の矛盾を曝露し それを自崩せしむるのである。欧米の畢者がよく辞令のこの論法をソクラテス的である は曹を得てをる。ソクラテスとソフィスト連中との闊係は、辞令と六師沙門囲のあるも によく類似してをる。ソクラテスも辞令もそのうちよら生れ出てたる蓮華の如きもので 方法が特に峯欝l首釣の論法として螢達するものであり、後には必適性峯の論法Pr蔓厨p忌k苫 として龍樹崇g且u亡p以後印度にては中敷撃沈宗dl−︶1昌ikplに、支部日本に於ては三論及び再 に特に成熟し凍ったものセある。而て偶数が批判重義に外ならぬことを立琴するもので争Q。 繹奇が﹁予は一向論者塑訂争準急diではなくして、分別論者≦︶l−昏邑押である﹂と言はれた と侍へて亨Qによれば、その分別主義なる意味には、分所して各々の法相に整理分類して行くも の、概念の心理的分所と云ふ方面も存するのであるが、その批判重義には語義概念成立 凄軽暖を白謹白知せしめ、金健的立場を費露せしむると云ふ鮎もあるのである。理智反 直観の南面が存する。分別智と無分別智の対立、意識と智との封立ともなる。たゞその に阿毘達磨の畢凪ぎ毒−≒1日ikp.として費達し、他方が般若中敷句且茸野呂it守・m登頂日ik勘と 係数の敬蓮ヾJ﹁新銀倉﹂の劇場 彿敬の費蓮ミ﹁新鎌倉﹂の朗唱 五二 して螢展したのである。渾告の立場は単に窮理丼謹にのみあつたのではなく、その目的は解脱で あり、その諒悟を他に侍へ他を解放せしめ同一解脱に任せんが焉であつた。即ち自利白魔のみで なく、利他魔他の慈悲救済に存したのであるから、その封他対敵骨の人事慈念の大昔捏心が欝應 哲学として重要である。荘に利他善行の頑徳が般若の眞智と対してその意義を螢揮してくる。こ れを般若の異質と方便と云ふ。大桑偶数はこの賓蹟行徳と窮理非澄の二端を敵通せしむる中道重 義を以ってその根本持前となすのである。華厳経の如きは賓にこの菩薩造の意義構紳の開顕・賓 現過程の考察に螢されたものでふ∵ヮ、この南端不二精神の髄現着こそ悌であると見る。菩提と捏 歴との一元を立澄し因果不二・法傭敵帥を語らんとする。予をして云はしむれば如何にかして ﹁根本中﹂を表現せんと力めたものである。 七 彿陀の詭を特徴付けるために三法印ti−計打訂ゼpが上げらるゝ。時に四法印とせらるゝ。法印は ヽヽ −許寧眉P−1pk瑠音声に雷るが、粕とし棲峨とする謂ひである。諸行無常・諸法無我・捏盤寂療の三 に徹せしむる。 であるが、諸行苦を加へることもある。無常は刹那生滅の理に極り、諸法無我は現象如賓の諦観 を可髄ならしむる。先入偏見の崩壊によトて、ふ∵りのま∼なる相Y邑・欝h巴空か 相対の根披を探って全燈的立場を浮き出さしめ、もの∼弾みに覚醒せしむる。現賓生成の革の見 成である。傭陀の立場がこの垂憶的立場を何とかして可髄ならしむる簸であつ笠jとは、患 ヂ二言一牒1掴項周一 贋作用に於ける認識圭髄や道徳行虜の責底着たる﹁我﹂の観念をも否定せしめてをる。凡ての意識 的なるもの∼相封性空不して、その根披をなす発射に悟入せしめんとするのである。無勢とは捏 磐である。無根披の枚壊、無制約の制約の示唆でぁる。凡ての名作造件の有名軍1k訂tPの事の封 断によらて、無塵∵彗nlハー一己ぎの理一曾関前せしむる。 認識論的にはこの重態的立場は現象の相関粕侯を明かにする。螢生と成立との不二空不す。こ れは縁起l息icc琶亡⋮pp㌢㌻の法則である。法を見るものは縁起を見る、縁起を見るものは傭を見、 dukk訂一㌢−三言ふことは現賓は相対的 備を見るものは縁起を見ると表現せられてをる。偽と縁起、それはたゞこの全健的立場とその具現 者との融印を示さんとするに外ならぬ。一切は苦仇Pbb竺r 制約に束縛せられてをると云ふことを示してをる。相対と絶対。部分と全焼・雑多と一・事と理・ 因果と超園果との関係は、概念名節としてはそれ自身夫々また和待のものであるが、その意味は 一は他の可能成立の根墟でぁる。無我の原理には肉健と精神・感覚と意識・意識と統壁・根本議 と絶射的なるもの等の対立が漁想されてをるのである。色・受・想・行・議の五麓は制約的でふ∵り不 自由であり苦でふγり、随って無我a−1蔓針であるとせらる∼。また五鹿骨客とも一切法容と親られ ・五三 た。現賓は相対制約によつて生成しっ∼あるものであるが、その緊縛女鹿するのはそれを外にし 係数の静蓮寸J﹁新鎌倉﹂の創嶋 沸教の置蓮ミ﹁新鎌倉﹂の創嶋 五四 て見るのではなく、その根披を知るにあるのである。それをそれと知る如賓知見t邑−Pt抑・d焉等号 でぁる。現象世界が因果の制約にて生成せるものであり、賓有存在の概念の邁周が なさるふきものである際、これを超園果の﹁我﹂に通用した我の賓在観には、背反 懐論的賓健我に封する無我諭の立場は、これを指示するものである。我の賓在・如 磐の醍在が、龍樹によりてその中観客の批判の対象となつてをることは、恰も過敏 対する批判常単に相通するものがある。峯の批判は矛盾曝露・背反揖摘そのもので が一旦把握さるゝ時には、巳にその峯は批判さる∼ものゝ列に身を堕し去ったものである。それ は常に捉へ得られぬものゝ仮設の名に過ぎないのである。峯の立場は立場なき立場 れを論理的な用語を以ってするならば、﹁自らの宗駄くるが故に﹂笥ぢr長茸劉巨富tと表現せ らるゝ。矛盾据摘によりて常に過誤dO棚pを随伴せしむるから、これをpr琵身邑k箋と云はる ゝが、予はこれ・哲﹁必過健筆或﹁必過客諭﹂の評語を充督したいと思ふ。三諭の 邪印顕要笑L、表現して亨篭随って漢語法の垂膿としてほ因縁・峯・侶・中が相即して考察せ られぬ際は、容が時に虚無n註t吉断見音訂d急dpと誤解せらるゝ。而てかく誤解して字匂 畢者も古今を通じて甚だ少くないのである。容の誤解者は不治邑d−一︶1pの病でぁるとし、或は病 は柴によりて癒ゆるが勇者は何にtふLソてか癒すると云はれてをる。水は火を滑すが、水そのもの が火となる時ほ何にー▲Lリて滑し止めるかとさヘ音はれて計る。よ陪亜は弥躯陣でみなからと恵ふ て、温を溝口に喫したならばどうであらうか。重病・悪執客・七地沈垂の兼などと名付けられ をり、菩薩の修造に雷って最も危険なる問題とされてをる。儲魔一紙など云ふ表現もある位で る0 この一切習垂が諸法貰相でふアり中濃であるとせらる1。諸法賓相にはdb罵m苧㌻k嘗官法の相が 曹てられてをるが、更にd訂r臼註法そのもの・法たること∼云ひ易へられt註≦唱?︼印材笥竃異 質の相・自爾の頼も充普せらる∼。それであるから漠謬の諸法賓粕は中々よい評語である。物心 一切の現象を法の初に還元する所に彿教本凍の立場があるのであるから、これは概念語義の 分所がそう細かでなかった偶数の初期よ、りして、漸次に薯畢的考察が濃厚になつた中期後期 じて一貫する鰻度精前号のである。倍数梵語の一己ハ讐pは巴利語の︼pkkb眉pに雷るが、法印● 法本・法本末などゝ詳し得る。換言すれば、沸教の版本棲峨と云ふことである。巴利の滑一部︵A・ 彗∴苧−富野bbe夢崇11腎笹YC−・Ⅰ・p・誌の︶あたりでは三法印として一切行は無常でふ∵り、苦でみ ゎ、無我であるとせらるゝが、中部︵芦芦∽ひm巴琵護k翼邑計二丈−Ⅰ・p・柑諾︶には一切行は無 常でふ∵り・一切法は無我であるとせられ、法句経せ訂mmpppd勘︵××M遥g雪品gO苦●誓ヾ−沌詔︶ も巳に無我に対してほ一切行とせす一切法と云ふてをる。漢詩では通常三法印と云へば、捏柴 沸教の費邁ミ﹁新鎌倉﹂の朗唱 沸教の費蓮ミ﹁新鎌倉﹂の創鳴 玉大 を入れて諸行無常・諸法無我・捏渠寂静とし、諸行苦を入れるならば四法印とする。而て大乗毒 草の如きは無常には一切行と云ふが、無我には有名行だけでは重し待ぬから一切法とすると、漸 次深耕に規定せられて凍るが、その精細は普初より一質せるものである。弟子達によりて渾食の 説法が問題分類をなされ、たま弟子達によりて研究激瑞もせられイし、本母・宗要m註k掛として 稀々の法相徳目が敦へられて凍たのであるが、そのiち最も根本的なる三つ或は四つが裸出せら れたのである。これによ♭て現賓・現象生成の法・捏襲来封の理想が考察されてをるのである。 龍樹はこれに射しで特に﹁諸法賓相﹂の一印を立てたのであるが、その精細は巳に無我の立場以凍 横溢してをつたものを的示したものである。予は更に理論的考察のみでなく、賓践道徳・宗教的 信仰に就いての種々の立場をも考に入れ、また︼臣旨膏の本義を汲んで、﹁版本中﹂の一印を提 唱し、以って精神と横堤・純粋と爽雑の二面に亘♭て傭散文化を研究するに、これを﹁版本中の 研究﹂と名付けて居る。その一部は宗敦畢講座紀念論集に馨姦した。 舌凍、根本範疇としては苦集滅道の四諦に停めて研究した例は一番多いのであるが、時には十 二縁起として、或は六度十歴とせられた。眞諦第一義諦及び俗諦世諦の二諦に纏められたことも 古今を通じてをる。近代の例を因一けに出すならば親梵蓮如の洗一竺汲める眞宗の聾者の如きは、こ れを彿法王法の眞俗二諦となし近代の国家観に適合せしめてをる。天台の智鼓は龍樹が因妹生法 の現茸につき重職中と観察せるに基いて三諦の語を創めその敦畢の根本電時としてをる。挙証の 法務は理事の二によつて考察せる畢着であり、その他本迩・始発本費の二門によつたものも多く、 議智一ざ分別することにより、或は智信・頑智・行信を対立せしめたものもある。自力他力・難行 易行・廻向不廻向・翌邁浄土によつたものもある。 沸教の者達の各時代に亘らて夫々の特徴が示されてあろが、そのうち彿陀の畳語及び賓践行化 が基本をなしてをる根本数囲・瀧樹に代表せしめらる∼大乗備致創唱時代・鳩摩腰仲野−m賢者⊇ の龍樹著作の翻謬及び容顔竜顔の天台三諭唱設時代・法液の賓初縁適所系相成時代・8本係数の 鎌倉時代を以って最も重要なるエポックを点すものと考へる。予が名けて偶数の全憧約立場とへ与 すものが、これ等の代表的なる各時代を貫いて夫々の畢者の髄駿によつて夫々に打ち出されてを ると考へる。而て過去のか∼る時代と粕呼應して、備致費連の全歴史に新しきエポックを形成す るものとして、明治以後を特徴付ける食めに、予は暫らく﹁新鎌倉﹂の名を創喝したのである。﹁新 鎌倉﹂のことは已に今春、宗教畢記念大骨の講喝.専門畢としての彿教導﹂のうちに嘲れたのであ るが、本誌の今回の企てに應じて弦にその意義を研究したのである。 濠定としては更に第八・九・一〇の三筋に於て、傭致がなした相手の畢派の批列と相手からの 批列との封蹟、及び批判真義としての偶数と宗教的信念情操、次で﹁新鎌倉Lの日本偶数と世界海 俳敦の蜃蓮ヾ1﹁新鎌倉﹂の創嶋 五八 儒教の螢蓮ミ﹁新鎌倉﹂の朗唱 外係数研究との闊係を諭するのであるが、舵撃ぜ越えており、ま巾ル以上にて大健その創唱の理由 意義を均したと思ふから之を割愛する。現時の日本は思想的の眺めとしては、古今東西に亘♭耕 多であり絢爛である。しかし身につくものは何であるか。そこに国民の横と努力とがある。﹁新鎌 倉﹂がせめて﹁飽の直刺す囲、夕日の日照る固﹂の名に相應Lき文化一で果して賓り得るか青かも 懸ってそこにぁる。 檜 谷 紳概念の聾遷と融合意識との閲連に就いて ∴ 文 塵 歴史解繹の種々相は、これを各々の歴史的時代の現賓在に録して、その必点の開展であ去と見 ることが出水る。その意暁に於いて、あらゆる時代はその時代特有の歴史解梓を有する。このこ とは範囲を宗教史の部門にのみ限った場合にも同じょうに言へる。そして、青々はすでに、様々 へuる解滞理論によつて設明配列されたる楼々打了る宗教史を見るのである。 例へば、末法の思想や堕罪の敷設に披供することによつて宗敦史の解粋が成卜立った時代もあ一 った。それと興味ある対照をなしてゐるのは、最近に至るまでの時代に於いて行はれてゐるとこ ろの、進化の思想によつて貫かれた宗教史の解渾である。更に進んでは、赴曾的文化的費展との 密接なる闊達に注意しっ∼宗教史の解渾配列を試みょうとすろ考へかたも生れてをる。その他、 現代の興味を中心として考へて見ても、或は国家意識を中心とした歴史解群があわ、或は個人意 識をまとして見る解滞があ∵り、或はまた、新興階級の立場からの宗教史解帝もある。そして今私 前職念の肇遵ミ鍍骨漉孤寸−の初速に競いて 耐概念の襲速ヾJ祀骨意識ミの間蓮に洗いて 六〇 が、紳の概念の慶蓬といムーつの視角から覗かうとするこの宗教史の断片は、赴食意識卸ちイデ オロギーとの由連を注意することによつて、現代的な意昧と邁應とを輿へてみようとする試み住 のである。 1 例へば、ワえ・民芸re竜訂巨r什h雲dGrOまbO、R裟giOぞ︼詑∽−1ェ、そのタイトルが既に示Lてゐるように、進化の法 則な宗教史にこ通用Lた宗教史でぁる。 。一例へば、写Aコ冨村ご冥誉呵り。へJ臼p昌eleRe覆昌こ¢きには才i︷FⅦ勺eCi已re許encニOt訂買ial岩d買喜〓i訂 0ご訂コ已iOn.、寸しいふ副題がぁろ。 環解L難∵、ごでに㍍いが、研究の敬遠はそのためlこ明かにこ阻害されてゐろ。 lぎ竹⊇コg d洩Cbr㌃tenlu己ご一望明いりi山内ロ︷∽tCruロ的 3 例へlで、わが国の紳邁研究者の殆んごす.へてか、=の見地ね離船すろこミの出光ない立場にある。この=寸 demCざF︷昌どmⅦこ00笛,その他。 4 空乳Ⅵ”ぎr京急icて︰訂雲︹bri告コt一呂−−冨山い内Pu貧コけer しかし此虚に一つの先決問題がある。それは、これまでの宗教史に於て紳のない宗教といふも のはなかったか、例へば、原始彿数は純粋なる無紳諭ではなかったかといふ問題である。この原 躯体敦の問題は、特に吾々にとつて緊要なる問題である。 吾々はキつ、尿顛彿敦に於ては、紳に封する人間の憐係についての表象が、極めて租自な姿を とつてゐたことを認めぢいこ上はできない。また、彿陀は必ずしも理論的に無紳論者であつたの ではハ仏くとも、紳を拒否しまたは無税したる、阿藤までも無細論的なる道徳的説法着であつたこ とを認めねばならない。また傭陀り放課によつて示される傭敦は、何虜までも賓践邁の敦に止よ ってゐること、たゞ反省されたる生活賓餞の造であることをも認めねばならぬ。それらの瓢から 沸教ほ票数であるか否かの問題さへもあつた。要するに沸教は救済の道密教へた薪に於てのみ宗 教的であつたに過ぎぬ。しかもその救済に細々ほ直接あづかるところはぢい。しかし、それらの ︶ 種々なる喪神諭的非宗教的な特異鮎がぁつたに拘らす、一大歴史的宗教としての偶数は、決して その時内に停止せす、充分に宗教的であbヽ有紳諭的でめり・、更にまた多神政的でもぁつ克∝ 神職念り奨惑王政骨窓裁ミの′閑適に就いて では、これは積々へ仏ろ名節の名稀である。﹁テオス、ゴグ・卜は一つの翠なる名前であつても、それ 合理でも今0。言葉の上では紳といふ名捕は一つの特殊な名耕であるけれども、語数的繹魔の上 従って、紳の概念をきめてか∼るといふことは、不必要な許りでなく、不可髄でもあり、また不 言ふまでもなく、この論文の前提として、紳の概念の舜り遮るものなることが置かれてめる。 上の=ヾJでぁろ。L 革質止にも充分にわりうるこ寸−でわろ。﹂﹁賀衣の思想が遠けられ乃至膏去れ一\ゐる写して、も/てれは思想上¢=ミ反省 に†やう光精細的連動が、後り歴史的聴展によつて漸次費草し㌣ゅでわろヾJ酵㌻る=ごほ、論理的に何等の本條埋も克く 幣㌔ろ意戻た於ける票数あ名に俵才芸︰つ光特色が繕わて稀滞でぁつ圭ミ、しても、そこから、㌫数的特色み鮮やかにわら でゐる。﹁宗教に於てに、草間に於けるご異づて、思想上の表現にむ・しろ末の事柄でわる。﹂﹁かりに原始俳歌に於てに戯 1 沖孝野由一教授の﹁賢在†ろもり写してり硝﹂︵﹁宗教撃論集﹂九七・・九九︺なる論文は=り問毯へ¢含蓄探 t▲ 紳概念の襲蓮ミ社食意舐ビり関連lこ就いて 六二 は凡ゆる可能なるものを掴み、その内容は時代と人間とのごとく極めて様々でぁる。従って肝要 ヽノ 打てことは、紳とは何を謂ふかといふことであ禦L紳とは何ぞやではない。何が紳と言はれるか、 ︶ ︵ るこの生活を理解しうるものとなすために引くところの説明用の歳なのでぁる。L従って、締約存 何が紳の地位に昇せられたかである。けだし﹁紳の理念は、先つ第一に、人間がこめ世界におけ l ﹁しかし人間的本質とは何等個々の個人に内在する抽象物ではない。その現賓においては人間的 威じる。宗教的本質、紳的本質を人間的本質に没入させたのはフォイエルメッハの仕事であつた。 しかし吾々は、この紳的存在の諸規定を主観的に人間的関係にまで還元するだけでは不充分を である。かくて時代ほ移り慶す、それと∼もに人間の紳もまた移り襲ってゆく。 細論者だとされてゐた。けれども十九世紀はスピノザを喪神論者の龍列から除外して了つたよう も無沖論者だと見倣されてゐた。また十七八世紀の頃にほ、スピノザも■また殆んど異口同音に無 なほ基督数的正統派によつて荷畢的に狭隆な限界の中に閉込められてゐる頃には、ブラニトーさへ ほ無神論だと見られてゐるものが、明白は有沖諭と考へられる。かくて例へば、紳といふ言葉が 従って次でJとが成♭立つ。去Rこはほ紳であつたものが、今日はもう紳ではなくな♭、今Rこ仏 存在者もまた欒易するのでぁる。 在者の絶ての規定は人間的存在者の規定であゎ、人間的存在者の舜易するがごとくに、この締約 ○■ ヽノ 本質は政令的阻係の線骨であろ川とする新しい隈勝野乱に£で昔々は温ま払ばならぬ。ぞして諦 の概念の移り鍵ちが、、赴骨意識即ちイデオマギーといかなる並行関連を有してをるか一ど見ようと するのである。 G富t岸d寛巴苫訂nbi−d巨g∴伊達謬ブーフィアラー﹁宗教習準史﹂五入二頁註 L 芽u雫b買F”くOr︼¢SunOqぎiib雫d岳W琵ロd雫︼紆−i乳昌−−∽芦軍 C“冒已雪いD監W篤−1d雫辞意首:已die 君改版︼〇七頁︶ 僻︶ベンダー¢完歌論は﹁黎ひJ付ミつたリッチル紳拳のフォイエルメツハ重義﹂ご首はれてわる。 ∩“マルクス﹁フォイエルメツハ論調﹂六︵佐野文夫諸 然らば、敢留意義の襲蓮のあとは如何に後付けられるか。 一般に文化段階の正確な限界は確定することが困難である。これは敢合意識の段階の限定にお いても同棲である。例へば、一つの政合意識が支配的でぁる場合にも、過去の型の敢曾意識は皇 だ長く残存してをる。夏にはまた、その支配的社食意識と並んで、新しい赴合意讃が次第に現は れて氷る。かくして、生活の合燈に亘って幾つもの赴含意議がつねに並立交錯して存する。 かくのごとき事象の研究のためには、吾々ほ抽象法を借りねばならない。それによつて、それ ぞれの型の融合意識の根本的傾向が明かになト、またそれらの型が歴史的に襲化してゆく相互閑 係の方向もわかり、かくて書々は、一見混沌として限界なき敢含意適の中に秩序をもたらすこと が出凍る。 紳概念の愛遮ミ鍍含意識ヾ﹂の蹄連に快いて 紳概念の攣連ミ蔵骨意識ヾ1の閥連に就いて 大田 かくして秩序付けられた政令意識の型の配列王は、立場の異るにつれて臭った分類がある。此 虞でほその各々の分類を論じてゐる場合ではないから、ガグダノブがその著﹁敢曾及び科畢の螢 尾形態﹂に於いて示せる四つのイデオロギーの型を採用することだけを述べておく。綽ち﹁原始 哉的イデオマギーの時代﹂とであ恕 ヽノ 的イデオロギーの時代﹂﹁権威的イデオⅤギーの時代﹂﹁個人ま義的イデオロギーの時代ヽ集囲ま l 版︺の序論こミにその第三葦参照。 ﹁山 A・宮山計日昌︰D訂E己増訂kぎl顎ぎ莞nd罵戸籍ご胃訂∋un払die弓訂n冬草蔓鵠∴林原璧赫﹁隷骨意識単機竃L改造 〓 種々の文化段階を下降的に配列して観客して見ると次の与フな事貰を薔見する。現代の文明赴 骨に於ては、政合意識の語形感が極めて豊富であつて、言語、義解、道徳、法律などの無数の要 素が政令過程の大部分を占めてぉり、生活の技術的経済的方面の素晴しい螢展に対して決して劣 らない重要さを有してをる。しかるに、次第に文化の段階を下降して行くにつれて、吐合過程の 中における社食意識の部分は次第に筋少し、その筋少の程度も技術的経済的方面のそれに比して 極めて急速である。従って社食意識の部分が経済的生活の部分に比して狭少なる地位を占めるこ ととなる。即ち人間は物を言ひ、考へ、許債することが段々と少く打了り、次第に本能的に行動す むこと推多く往左。をして、人筒と露語との証隆弥甘除草が計算に東欧な変軒蚤はしで寧㌢ 鬼に原始的政令意識の領域がある。 この原始的敢含意識の特徴は貧窮と混沌とである。言語、認識、重病、習慣などのイデオー ーの話形騒が、既に螢生し、多少は生長してはゐるが、未だ混沌として無定形の状態におかれ ぉる。何等の髄系がなく、統一ある原則がない。また後のイデオマギーの諸段階に比して極め 貧窮である。この段階に於ても沖は既に螢生してゐたか。 自然及び人間の中に、彼虞此度と蓉生する統一なき重なる生活の翠なる閃光。これは事件の れとともにたゞよひ、事件とともに過ぎゆき、また事件の無数なるがごとく無数でふ㍗り、何 永席せる個性を有せす、云はば畢なるショックの如きもの、畢なる戚激のごときもの。貧弱と 統一とを特赦とする原始的敢含意識のカウンターパートが此虞にある。而して、此虔に紳の概 の萌芽を云点することは出凍ても、その混沌貧窮不統一は、ここに轡のりと云ふに堪えぬ。 ▼ナの観念、更に進んでは所謂アニミズムが、この段階にある。 トーテムとして役立った動物が人間の惑拝した唯一最初の紳であつた。これは、生活を支配 る神秘的な非人格的なカの観念が外部に現れた象徴であつて、トーテムの背後にぁつて、同時 トーテムによつて象徴される欝在は、部族の習慣、情緒、思想行こどのカであら、それらの 醐概念の嬰濯ご放含意哉ミの閲連に就いて 謝概念の墾蓮ミ社食意趣ミの粛連lこ就いて 六六 識が個人にたれか∼り、その生活を支配する現写りカとなつてゐるのであつて、此虔にもすでに 紳の概念と政合意識との闊達がある。 勒物神より擬人紳への推移は、人間が自己の生産話力に於いて新しく成功を収めることを得て、 即ち人間が人間のカによるようになつて初めて行はれるものである。マルクスは、人間は外部の 自然に働きかがっ∼、同時に自分自らの本性を鍵化させると云ってをるが、それとともに人間は 自己を国縫する世界の表象をも舜化させるのであつて、此魔の場合に於ける物質的諸傭件の重任 殊に生産俄カの埼大は、自然に封する原始人の樺カの曙大を意醸し、且つ同時にまた必然に、自 然に対する人間の関係に関する表象に舜化があb、それが多少ともまた宗教的表象に於ける慶化 を斎らすのである。もつと具憶的に言へば、トーテム螢生の時代に於ては、人間は自己を動物と 区別せや対立せしめることをしなかった許りでなく、屡々の場合には、動物を自己よトノもカ優れ 簡優れたるものと認める傾向があつたが、それに対して、いまこの物質的諸條件の舜化がもたら すものは、人間が動物に射して抱き始めたところの人間の優越性の意識でぁつた。このときトー テミズムは必然的に解滑すべきものとなる。しかし、人間の宗教的表象のうちには、この動物填 ま義の深刻な痕跡がながく保存されてゐた。 この生産妖燈の襲化、それによつで斎らされる敢合意讃及び宗教的表象の鼻化は、もはや既に、 ∫′■毛針㍗敵 ご ー 庶好事化時代のそれに訝し芝畠㌻って蒜是い喜階温室義時代の長都警足若し㌫ てゐるのである。 三 前述のごとく、−トーテミズムの解健とともに宗致的封象の動物鰻重義が人間紳への過程をたど る。またこれが生産過程の鼻化によつてうしろ伸けられてゐることをも見た。即ち動物の馴化 ︵牧畜時代︶更に進んでは動物の使役︵農耕時代︶への建碑があつた。それとともに、政令意識もま 化原始文化時代を蝉脱して、所謂樺威重義的融合意識の時代に入るのである。この構成主義的敢 含意識の通則は何であるか。 此庭では、講壇のイデオロギーが既に一定の構造を宿し、一定の髄系をなしてをる。そして、 その共通の原則は﹁権威的原則﹂である。すべての赦合意識形態が構成の見地によつて貫かれてゐ る。即ちあらゆる領域に於いて、権力と服従、高きものと低きものとの対立が窟らされてをる。 かくしてこの時代の世界観は棒針て宗教的な形鰻をとつた。絶ての事象は、高くしてまた権力ぁ る締約なる原因の下に服従せしめられて観察された。あらゆる思考は﹁感成約因果性﹂によつて貫 かれた。例へば、この時代の道徳的規範は紳の命令として取扱はれた。票数があら柑′る文化の結 合着でぁつ花時代、紳があらゆる事象の照覧着であつた時代が此庭に展開してをる。そしてこれ 紳概念り襲漆ミ社食意識ヾしの関連l二就いて 請概念の環濠ミ武舎意識ミの閥蓮lこ就いて 六八 らの杜含意識を後付けてゐるこの時代の生産組織の段階は、同じく権威的な生産組織の段階であ つ佗。即ち、その初期に於では家長制的生産組織、その後妙に於ては封建的生産組織であつて、 この洗骨意識と生産組織との残屠は速く近代にまで及んでゐ佗。 家長制の生産組織はどうして権威的赴曾意識を蘭らしたか。この時代には共同労働の著しい規 模の凍大が起った。ことに政含意識の舜化と関係ある重要なる舜化は、預臓的組織労働と賃行雰 働との分離でぁつた。此虞に樺成約共同労働が成立した。即ち、組織するもの、指導するもの∼ 絶対的に必要な生産過程が生れたのであつた。而して、その組織者、措尊者の立場におかれたも のは、昏然、最も多量の経験を有せるもの、共同赴曾の最年長者、即ち家長であつた。 家長は努働を按配し、家族の管貝に仕事を示し、また生産を分配し、共同の貯庶物を管理し、 青年の教育を宰♭、すべての疑問、課解をとき、すべての衝突を解決した。彼は共同証曾の樺威 着であつた。人々は彼に服従し彼の経験に絶封の信頗をおいてゐた。而して、決して強制的要素 はなかったとしても、家長の権力は決して抗ふべからざるものであることを感じた。云はゞ本能 的に自働的に服従が行はれた。そして、租先への結合の威情がその背後にぁつた。祖先よりの一 切のものが家長において具現されてゐた。 この家長中心の社食意識生活はそのまゝ常時の宗教生活の型であつた。あらゆる政令意識が宗 数的であつた。人間の世界観のすペてが宗教によつて包括されてゐた。人間の重恩考に宗教が診 透してゐた。あらゆるものは紳蟄にして紳に属した。すべての技術、すべての人間的関係が、紳 によつて定められたものであつた。あらゆる知識が紳から出た。而して、紳は、社食の拇尊者組 織者に霊威をあたへて、此等のものを人々に賦つのであつた。 かくのごとき事憩は、歴史的必然の結果でもあつたが、また極めて重要なる社曾的邁應でもあ った。これは集囲或ひは種族の生きた紐帯であつた。貪億に協同的連絡を奥へ、その意識にも統 一と調和とをもたらした。此虞に代々の経験の結晶がめトノ、集積があつた。絶じて云へば、賓際 的及び理論的知識、法梓的及び道徳的観念のすペての統一する﹁紳の手﹂が必要であつた。そして このことが、自然及び外敵との固守を成功せしめるために極めて重要なことであつた。 これらの事情が紳の位相にもたらしたる一般的特徴は何であつたか。 輝かしく人間化せる紳の要の多くがこの時代に生起した。これが、動物の馴化と使役とが古い 殻含意識に斎らした舜化と、自然に代って現れた新しいカ、即ち人が人を支配するカの出現とに よつて生じたる新しい敢合意識のカタクーパートであることは言ふまでもない。 この赫々は、彼等の素朴なる宗教的意識に於て、集困苦くは種族の生ける現賓の指導者の役割 を演じた。また人間との問にはたゞ量的差違のみがあつて、質的差違は考へられてゐなかった。 紳概念の豊海ミ銃身恵哉寸・あ関連lこ就いて 請概念の建議ミ隷書意識ミの勝連に就いて 七〇 肉健を有たない存在にはなつてゐなかった。従って人間に必要なものが紳にもまた必要であつた。 食物も必要、棲家も必要でぁつた。そして戚謝のために、或は乞助のために、人間の言葉で話し かけることの出凍る紳でぁつた。 この紳は集囲の碧しあつた。種族の紳であつた。このことは個人主義的政令意識の未密生と関 ︶ 連するものであるが、このことからこの紳の重要なる二三の特質が生れてをるっ先づ第一には、 l その社食的集圏の公憤に関する紳であーつて、個人の霊魂に関する紳でないといふこも第二には、 この紳は外敵に対しては極めて惨酷な容赦を知らぬ翻であつたこと。撃一には、この紳のカは境 界によつて限られてゐたこと。囲を逐はれることは即ちこの紳を薩詳し或はこの紳の庇護学っけ る権利を失ふことであつた。従ってまた第四には、この時代の紳の概念は戦勝の影響によつて大 ∞ いなる螢展をとげることがあり、種族間の戦ひは屡々紳と紳との間の固守の形をとつた。 1.従つてこの時代の紳に人間相互の潰徐に何等容啄・しない。人研が紳lニ野して罪わおかす亡きにのみこれみ罰する。︺か もその事三剖やっけるゆは、個人ではなくてその種族の全悠である。 乱 丁ツシリアの君主ほ屈囲民の紳々を捕虜ごミもに自国の首都に持ち野⋮ミlこよつて自国の勢力をか圭め与つミJ㌔ バビ。ニア湧藷の叙述み頼めイ、みる。︵イザヤ書第由十六章一節以下︶ ま圭ヘブライの古き彗芸は、偉大琴わ紳ベル亨芸ミが征服者の宋音にのぜられて放逐される棲な描くこミによ 四 家長御時代の生産組織が、内容の複雑化と蒼息化とによつて卦雑談時代の生産駄維へとすゝ軒 とゝもに、赴含意識もまた家長潮時代の所謂﹁権威的原則﹂を益々複雑にし強国にしつ∼封建的 イデオⅤギーの形憩をとるのであるが、それと1もに、紳の概念もまた、その政令意識に並行関 連して次のごとき舜化学フける。 第一には、現質的封建政界とならんで、紳の階級性が明瞭に螢生した。竿耐、紳、最高紳−1 と想像的な封建組織の世界が成り立った。その中には、下位の赫々の代♭に重潜または墾一日者が おかれるよう打ごこともぁつたb従って第二には、前の時代には紳の人間的生活のために必要であ るとの考へで捧げてゐた供物が、いまや質物や租税の性質をとり始めた。また夢こには、細々の 支配圏が明瞭に芯別を生じて凍た。封建諸侯が敢曾に対して各々その支配圏を分割してをるよう に、赫々が互ひに世界に封する支配を分配してゐるのである。即ち人間の生活の種々な要素、種 々な部門が、各々の紳の支配領域と打アり、その領域の中に於ては、その癖が重商の指導者として 現はれてをる。 そして最後に、現賓の封建的意識と紳の世界の封建的意識との照應がいかに強くまた密接であ ったかを物語るものとして、国王と紳との交錯、国王紳権の思想が生れて凍た。即ち、この時代 に於ける蔑多の政令組織に於ては、童樺には何物か細轟なものが宿ってをると思はれてゐた。王 神祇念の襲遍寸﹂証曾意識ミの国連に就いて 紳概念り嬰速ヾJ社食意識ミの甑蓮に就いて 七二 には現代人には喫驚に鑑するような表現が奥へられ、重なるある種の紳カが紋を取ら囲んでゐ た。例へば、ヱデブーやノビ:−アの古い君主観では、王者の紳といふものがあつて、この紳は 政治の基本的椴定となつてゐ佗。ヱデブトやジグヤの君まは、大脇にもテオま紳の義︶なる稀我 を用ひた。またその反対に、﹁救済者L或は﹁救世主Lとしての紳の概念があり、極めて濃厚なる世 俗的君まの様相を輿へられてをつた。 この時代に於ては、静の地域性と排他性とは、却って益々強くなる許りであつた。この紳を感 押することは市民または国民の特権でぁつて、奴隷や国外者にほ許されなかった。従って、この 紳を有する宗教に決して侍造の精励のなかったことが容易に理解され、また選民の思想を産む危 険性を多分に存してゐた理由がある。 五 こゝで吾々は、細々の歴史が間断なき螢達の歴史であると許ら考へることの出家ないことに注 意しなければならない。細々の歴史はまた、絶えざる衰額、退歩、停止の記錬でもあつた。 例へば、権威的文化の蹄代に入ると∼もに、人間麓主義の紳が生起して動物潰重義の紳が泣落 したことは既に述べた通りであ・る。 また例へば、地域に園する紳は、種族の移住に随伴することが出家す、とり透されて忘れ去ら れた例が、牧畜時代にはよくあつた。そのとき、何とか新しい世界に順應することが出水なけれ ば﹁神々の死﹂はまぬがれがたい運命であつた。 かく地域に関する紳を忘れ去って、種族の移動が行はれる場合にほ、日毎の伴侶でふ∵り夜毎の 守護者であるところの日と月とが、いよいよ威厳ある前の要を鬼へられるのであるが、併しその 反対に、賓際生活の初茸なる交渉から、地神の宗教が天神の宗教よトもはるかに力強く打了り、天 神のうとんせられる例も少くない。けだしこの頑ほ、殴りに速く且っ高くして、崇祥の対象とし て切貰の威をあねへることが少いからである。 ヽノ l それと同じょぅ掟理由から、創造紳が没落するといふこともあぇ。けだし、この紳は干渉する ことなき紳、従って疎んすることの出家る紳であるからであィ怨 ︵9rpeロt什二9ヨp弓註烹謬︼igiOコーマーーご 1.中央大洋洲のアルンク放では、ストリーロ・1氏仰ぎ邑○司の報告によるミ、﹁アルト望フほ蕃紳である。= 人間を罰し・冗い。従って県人は=の紳なおそれす、新藤も犠牲も献げない。﹂ 主上印度紳話lニ於けろ梵天崇拝の中断の理由が、大史詩マハーバーラタの詩人lこよつて次のご寸Jく明白に説明されてねる ﹁人は破壊の紳シザな恐怖†ろが故に崇拝†る。支持すろ耐ブイシュヌね希望ないだくが故に崇拝†る。・しかるに創造の 紳アヲフマンを崇拝すろものは誰ぞ。けだ・し、その紳の兼は†でに具され終り余れlでなり。L︵HOp已長1日dぎ○−d冒d 甥葺−ワ︼−甲︶ 大 所概念の瑳遍ミ社食意識ミの掴蓮lこ就いて 紳概念り建立ミ鹿骨怠裁ミの蹄邁lこ就いて 七日 樺成約政令意識の時代から個人主義的敢骨意識の時代に入ると、此虞にもまた、紳の衰預があ つた。 個人主義的政曾意識の特徴は何か。これを規定するものは﹁個人主義的原則﹂である。飽から切 推された人間の﹁個性﹂、印ち他の全人類と全世界とに封立するものとしての人間の個性、それを 自他の利害の中心となし、努力の中心とハ仏し、、また思想の中心として考へる考へ方である。この 考へ方によると、個人的経済が燭立せる経済圭憧だと理解され、個人が歴史や知識や薮梼の創造 者だと考へられ、また個人の自由と義務とが法律や道徳の基礎でぁると考へられる。 併し現賓の歴史の上には、かくのごとき偶人童義約融合意識なるものは、その純粋の形態に於 ては勿論、純膵に近い形患に於ても、未だ骨って現れたことがなかった。いつも密接な有機的な 関係において結びついた他の融合意識との甚だしい混綺の状態に於いて現はれてをる。そこにこ の時代の研究の困難があら、吾々はたゞ、その混滑の中から、観念的個人ま義政曾なる一つの固 形を組立てるにすぎない。 観念的個人重義洗骨は、相互に覇宜した小商品生産者の敢骨である。交換制度の無組織牲と、 私有財産例の螢生がその樺色であつて、人間ほいまや、確成約組織着の支配力より自らを解放す ることは出蘇るが、そのかわてソにこの交換制度の無組織性は、生産者を経済的必然カの下に変ら し、自己とは弥立した市場的條件の形憩に於ける政令関係の抽象的な舟に人間を乾凰せしめる。 この経済的なカの必然性は、個々人にとつては、どうすることも出奔ないものであ丘1ユまた日 に見ることの出水ないもの、具健的わ仏つなが、りに於いて考へ得ないカ、従って、たゞ、全く打勝 ちがたい抽象的な法則性であるといふ以外には、何等の内容をももつてゐないものでぁる。 もつと具健的に言へばこうである。権威重義時代の沖空化された樽統的習慣にかわつて、この 交換制度の規範として法律と道徳・こが現れて凍たのであるが、しかし人間は、この法枠と道徳と を、その敢曾的賓践的関係の組織形撃としては理解せす、何かしら人間とは覇立に存在してをる もの ー ﹁純粋秩序﹂﹁絶対的正議﹂または﹁絶射的義務﹂などの表現として理解してをる。この時 ヽノ l 彼等の戚じるカのうごきは﹁抽象的因果牲﹂でゃり、そのカに対する彼等の賞度は﹁抽象的偶像柴 拝ま義﹂と呼ばれうるものであ㍍。 かくのごとき政合意識は必ずしも新しい宗数的形燈を生じ待ない。その代らに、この抽象的偶 の 像安井重義は、前代の宗教と同じく、ある高きものカあるものを仮定してをる。併しそれは生き た前々の要に於いてゞなく、非人間的なカの形に於いて考へられた。此虞に﹁人格紳の没落Lの 七五 可能性がある。たゞかくのごとき観念的な敢骨は未だ歴史上に一度も存在しなかったのである。 1.前端ホグダーノフ﹁洗骨意識単機論﹂︵改造版︶一八二頁、桑瑠。 紳概念り攣速ヾ1証合意識ミの闊達に就いて 闊概念の墾謹言泣面意識ミの閤蓮に就いて 七六 多 同上、二一九只、二二三男参照、﹁個人的光慾望に突進す鳥人間lェ、硬自貞の心の中で︻良心の蟹bにぷつつかり、そして ﹁法の存在﹄み思ひ出す。しかL彼lェ、=の良心の繋が彼自貞寸﹂放骨ミの関係の表現である︰ミみ理解してゐ兄い¢で、軌 範の中に個人的慾望み支配†るヨサ高きカ¢表現わ見るのでぁる。﹂ 七 この個人主義的赴曾意識は、一度は舌代文化の世界に於いて出現したのであるが、充分なる費 蓮をとげることなくして崩壊した。 舌代文化の世界が展開した生塵組織は、﹁贋々とLた市民生活の雰囲気の中で自由に尊慮して ︶ ︵ ゐた僅か教萬の市民の下に、権利を奪はれ踏みにじられた数十萬の﹁人間の道具﹂があつた﹂時代 であつた。印ら、﹁物を云ふ造兵﹂の使用による生産力の由大が変らした交換政令であつた。しか し崩壊の原因もまたそこに潜んでゐた。 支配階級の赴曾的機能が次第に生産を離れて滑費に傾いて凍た。それは﹁思想の洗練﹂ととも に﹁思想への自己耽溺﹂をもたらした。生産労働に直接役立つ技術的科挙へ た。舌代政令、ことにギリシャに於けるほど哲挙が人間の注意を惹いた時代はなかったが、この 哲畢は舌代文化没落のために遥々の性質を用意してゐた。除りに思耕的にすぎ、日常生活の典疲 から分推し、まだ事賓研究をその基礎とする努力が極めて不充分であつた。例へばブラト℡に於 紺 けるがごとく、幾何畢を何かの機械的な問題に應用することは発何畢の奇最を汚すといふよう 考へ方の時代であつた。イデオロゼーが生産から分乾したこと、これが舌代牡曾の没落、封建 生産組織への逆樽を早めた極めて有力な原因であつた。 すべて融合の崩壊期に際しては、壊放の濠戚が烈しく威せられ、新しい組織形態への探求が ってくる。しかるに今舌代赴骨の崩壊に際しては、科畢の領域の研究は生産との分離によつて へされてゐた。哲畢的思辞の著しい螢展も教養ある消費者の階級に限られてゐた。而して大衆 問に於ては、まだ封建的宗数的世界観が優勢であつた。此虞に封建的文化への逆樽があつたと もに、舌代敢曾の終末期に於ける世界的新宗敦出現の温床が用意されてゐた。 普遍的宗致の出現、それとともに普遍的紳の概念の生起、これは青々人類の宗教史における も注意すべき、立た興味深き出凍事であつた。 これほロー†大帝国の異常なる瑛大−こよつて一つの詭明が輿へられる。骨っては、一細論者ア クナトンによる驚くべき世界的宗教の突然なる提唱があつた。そのときにも、をの背後にはヱ ブト帝国の偉大なる坊或があつた。そして今キリスト教の世界的宗放としての出現躍進もま元 その背後にp−マの存在があつた。このことば、p−マ帝国内に於けるその他の諸宗教の問にも すでに同じような普遍的精神が動いて・でり、人類登健の紳1しいふ概念が開示されようとしてゐた 沖積念の稟議寸J社食意識寸Jの関連にこ就いて 耕概念の津速ミ社食意裁くの国連に就いて 七八 ことによつても雷墟づけられる。また同棲の理由によつて、アレキサンダー大王の齢少なかりし 大帝観にも、同じょうぢカが敬いてゐたのであつた。 しかしそれと同時に、普遍的宗敦の理想、普遍的紳の概念の出現ほーもう一つの説明として個 人主義的融合意識のうごきがあつたことを忘れることは出凍ない。けだし完全なる普遍化はつね に完全なる個人化と並行する。個人の紳こそ始めて普遍の紳であ∵ヮ、普遍なる宗教こそ始めて個 人の宗致である。 紳の倫理化の運動もこの時代の重大なる出家事であつた。これは、この個人主義的赴合意識の 時代に於ては、それ以前には侍統的習慣の形においてはたらいた規範カが、いまや道徳の形を獲 得したることを理解することによつて、簡単にして極めて徹底的な詭明が輿へられうる。 1.ガグダノブ﹁経済科拳概論﹂林房雄謀︵改選版︶〓ニ七頁。 テルツリアンがオブグンに膠ち、その膠利がオーダスチソによつて確賓にされて以水、個人主 ヽノ l 菜的赴合意識が﹁文法復興﹂の朝あけの舞婁に華々しく復活するまでに、約千年の﹁暗黒時代﹂がす ぎ去らねばならなかつ矩。 1.=の問に封建的横励的な甜の概念が極度皇で敬遠した=ミほ首ふまでも尭い。封建的文化の時代におけろ紳¢機 徴lミ飯に菜四節に於いて述べた。 復活せる個人主義的政令意儲の時代は、まづ帝業資本主義時代の形で現れた。この時代はまた 他の言菓で言へば、費見螢明の時代でもあつたし、舌代文化復興の時代でもあつたし、或はまた 異端と宗敦改革の時代でもあつた。そして此等の名稀を包括せる新興偶人ま義政含意識の傾向に 対して人本主義の名がめたへられた。 この人本主義は、外見的には、舌代の塾術作品や科畢や雷撃に関する輿疲の復活を特徴として をるが、しかしその内貰に於ては、新しいヨーロッパ敢曾がその個人ま義的世界観を健系化しょぅ とした最初の試みであつた。即ち、皆時に至ろまで生活に対して分つべからざる支配力を有して ゐた﹁締約なるもの﹂に対抗して﹁人間的なるものLを意識的に目標として掲げた躍動であつた。 この運動の中から多くの著名な異端者及び宗教改革者を出したといふことは、意味深いことで あつた。カL∵リサク教は封建組織に邁應した基督致であつた。従っていま封建組織の動拓に際し ては、もはや進歩的教養める人々を満足させ得なかった。大衆もまたこれに従った。しかるにそ の世界観は全然宗教的碍内に止まつてゐた。従って新しい赦含意讃への要求もまた宗教的掟求の 形に於いて現れた。この時代の多くの異端者の意義が此虞にある。殊王留意したいのは、彼等は 大抵経済的に進歩した地方から出てゐたことである。宗致改革者にとつても大膿に同棲である。 醐概念吟肇遜三虻骨意識ミの関連l二就いて 鋼板念の嬰謹ミ社食意識ミ¢関連に就いて 八〇 徒って宗教改革とは商業資本主義赴曾の勃興に際して宗教的外接をとつて現はれた経済的及び敵 骨的革命であつた。カト,ツク致骨によつて代表された政令意識に射する都市人、商工階級の勢 力の勃興であつたと見られる。 これらを通じて総説しうる傾向は、抽象的偶像崇拝主義の前に樺成的宗数的形鰻が次第にカを ヽ′ 失ひつゝあることであるが、更に商業資本主義時代から工業資本主義時代に推移するにつれて、 l 構成的宗教的形愚は愈々カを失って、個人ま義と抽象的偶像崇拝主義とが明確に、且つ璃創的矩 形愚をとつて現はれて雅たのである。 1 すべて文化上の革命的潮流は皆似た与つ克督展を†る。即ち、始めの問ほ、青い既成の形式み新しい内容を盛るために 意識草根論﹂林房雄詔︵改造版︶二六一貫︺ 利用†る。そして督展して行く−ニつれて、新しい猫別的彗よりよく自分に邁應し圭形式ね創造†る。︵射グダノブ﹁敢曾 即ち鹿骨意識一般について云へば、構成的イデオマギーは全然﹁遺物的存在﹂の性質を帯びてを るが、このことは宗故についてもまた同様でぁる。例へば、現代の最も宗教的な人でも、自己の 宗教的意識を完全に生かし、舌の標威ま義時代に於けるがごとく、生活のあらゆる部門を宗教的 見地から虜理して行くことは出凍ない。また彼等が、人間の精神の中の特殊的な、何物にも依存 しない領域として、宗教的意識の存在樟を擁護する場合、そのことは既に、彼等と錐も宗教的意 謙の限寧ぜ極めて狭′、温許せざむを待なくなつたこと針語ってを竜ので今Q。かくて、骨つでは 人間の貪思考全域構を要求してゐた宗敦は既に消滅して丁つて、この時代の宗致は全く造物的存 在であることを認めねばならない。 九 かくのごとき個人重義文化の中に於ける紳概念の塵遼が﹁人格神の没落﹂であることは既に言及 した。その没落をもう一度、近世背畢の中に澄明することによつてこの小論を給すねく思ふ。 ノブリスによると﹁宗致改革とゝもにキクヌー故国は終わをつげ、その時以凍、最早存在しな くなつた。﹂その時、諸国民間に生長したところの﹁近代的な考へ方﹂は、暫革ま詑は啓蒙思潮の名 で呼ばれてゐるが、しかしそれは、その根底に於ては宗教の嫌忌でふ∵り、この横忌は、雷然針路 ヽノ 果として、熱誠の封象たる一切のものに及び、峯想と感情、道徳と薮舘の愛、将来と過去とを異 堰扱ひにし⋮︰また紳を、畢者の一大感傷的戯曲の息堕な看客となす等の結果を惹起し枠。 榊概念の環海ミ社食丑裁ミの掬迎に戯いて 而してこの成情は、障密にま佗筋骨に、紳とその宗教とに暴威をふるつ詑。あるものは無細論 たるよりも、眞理との結合に於いて悪魔たることを好む。それが近世哲畢の戚僑であつた。 的考へ方の憶系の中には、必然的に、紳的樺成に対する反逆がある。虚償との結合に於いて天使 この言真の中には、ノブリスらしい直観的な洞見が豊かにもられてある。近世背畢、即ち近世 l 鯛概念の琴速ヾJ紋付意識ミの闊達に就いて 八二 であつた。また或るものは汎細論であつた。そしてまた或るものは所謂﹁近代有細論﹄の形で現れ た。しかし普々は﹁近代有畑諭﹂の名に迷ってはならなかった。彼等は潮といネ言葉を用ひてゎ た。しかし、彼等が研究の封象とした一切賓在の究極的原理をば、紳の名を以ってよび慣はして ゐたことに注意せねばならない。或は、彼等の紳の存在の形式ほ賓在位でぁつても、しかもそれ は、吾々が経験的意味に於いて賓在と呼ぶところのものと同一成され得ないことに注意しなけれ ばならない。或ほまた彼等が規則性の潤源としての醐を説くとき、そのとき紳はたゞ紳でぁると いふにすぎないものであることを警戒しなければならない。かくて書々はシェリングとゝもに次 のごとき結論に到達せざるを得ない。﹁近代の有紳諭の紳が、近代のすペての髄系に見るがごとく、 野純な純粋な存在者であト、しかも欝際は存在を欠く存在者にすぎない限りに於ては、人格神の 否定は科挙的試賞である。Lと。 三一入賀巷媚︶ ヽ′ かくて、新しい宗教背単に於ては、赫々はその隼きた人間的な要、全世界の首長よたは支配者 としての撃ぜ全たく失って了つた。即ち﹁人格前の没落﹂は完成したのであつ拓。 頁 鱒愕申すろか、成代ま圭紳なさ宗教への主韻がいか力仏ろ未来む約束されてゐろか、そり他称凍lこ残された問超ほ多い。 3.これからゐ世紀に於いて.愚鈍なる民衆の間にいつまで人格醐の造物的存在が存擁するか、内在ま㍗紳の思想がどん克 鼠 評訂ll⋮ロg︰Ueロk臼巳d巧浮訂i葺召ndeロG宣詳F岩髪ロge臼こ∽−嶋● 1.甥0宗家”望∞9r訂ten訂itea巧H焉つ勺J−諾タ︵プライデラ1﹁宗教哲畢鹿L伊達保実話 巾一 宗 教 ∴ と 陪 観 固 守 ∫ 仁 夫 こゝには宗教と階級間軍との関係全般に捗って考察する除裕はない。エンゲルスによれば、﹁ヨ 三度の大開辱とは、十六世初頭ドイツに始まる宗致改革がその一であγり、十七世紀中頃イギリ が本稿の意陶でぁる。 ヽ▲ノ と。この封建敢曾に射するブルジョアジーの謀敦固零とキリスト放との園係の一斑を考察するの −ワッバのブルジョアジーの封建制度に封する大開寧は三度の大決戦に於てその極鮎に達した﹂ l l スに起きた革命がその二であり、フランス大革命がその三でぁる。而して最後のフランス大革命 ....、. こそエンゲルスによれば、﹁宗教的仮面を全然捨て∼赤裸々なる政治的地盤で決戦されたる最初の 宗教ミ階級闘争 ヌー敦の重要性を見る必要がある。 ものであつた。﹂がそれ以前の二大固守は何れも宗教的扮装の許に行はれたものであサ輿。然らば何 が故に﹁宗教的扮装﹂を必要としたか。それを知る鰯には先づ中世封建融合に於ける宗教即ちキク の 閏 宗軟ミ曙親閲争 〓 ﹁古代に於ては、キリスト数的痙念が致禽の滑侶的垂莫の奇蹟樹皮並びに恩寵制度の中に赴曾 的に賓現されてゐた。頑音の絶対的個人主義と普遍主義とが一級骨組威の中に統制され、その中 にあつて各個人は、恩寵の掟に服従する事によケ、永遠に償値ある登魂の救ひにあづかることが 出凍た。然しそこには滑、東鹿を保護する権威とこの組織を内的に組み成してゐる敬重的要素、及 び世界萩序への服従と結合とを数へる族長約数訓とが個人重義を著しく制限してゐた。こゝから ﹁ノ 如何にして凡ゆる人間的関係牽列足する融合型的根本方針と理想とが心情に斎らされるかは未だ 充分詳細には明かにされ得なかったピ翌日の理想は未だこの世に於て、個人を貰いて普遍的に、 活を堅く敦骨に結びつけ、特に域悔告白の秘蹟によつて人の良心を常に支配し先のであつた∝而 の 要求し、更に重奥によつて入間永久の救済の鍵を在ると共に、それによつて現故に於ても人間生 それは絶対額謬なる致皇の標成を漸次に確立し、国家からの、叉国家を超越しての致曾の自由を 組織の隅々までもガーリチスムスの血脈が行き渡ったのでぁつた。先づ数骨各値として見る時、 の ′ヽ 理論の中にまでも知ってゐた事である。﹂中世の文化ほキリスト数的理念によつて統一され、社食 対して中世は勃然たる差異を有ってゐる。それは、中世がこの理想を賓戌に於てのみならす更に 内的に融合した統一ある文化を作り成すまでに到ってゐへ仏かったのである。然るに、﹁舌代致曾に d】 して叉聖職にある者は、中世封建赴骨を通じて靡く畢問の保辞着でふ∵り、開拓者であ♭、 教師であアり、国師であア,、又立法家でもあつた。 ﹁一般に、封建赴骨の経済的構造は次の形式で現はすことが出挙匂。技術の費蓮の低い小 生産を基礎として、小さいが、むしろ緊密な自然的経済︵自足︶組織−農業コムミュソが生じ た。コムミュソ的生産の領域には唯一人の組織者を要するから、そこに封建領壷の樺カが生れ 彼は、一部は生産組織者の役目と、一部は分配組織者の役目とを一緒に持ってゐた。より贋汎 軍事的協業の必要から、複雑な、然し不安定な君ま制が生じたが、その基礎となるものは、封 領謹が他の封建領主に対して制限附きの痙魔をすることであつた。軍事的封建組織がその時別 軍事的性質のために満たすことの出凍ないところの他の多くの敢骨的要求は、倍侶の一般的組 機龍によつて清されたが、之も亦生産の領域でなく分配の領域に於てゞあつた。同時に此等経 的及び組織的紐帯の南端を結びつける交換は、敢食生活に於て、限には見えないが必要な役目 ヽ/ 口 演じてゐた。Lかくて敦骨ば、封建領まと同一の資源に、農民の除剰労傲に立ち、互にそれを分割 してゐた。彼等はその任務を分ちながら共に封建敢骨壷支配し花のであるが、その間の勢力の 衡は軍動揺した。﹁若し、その国が琴外敵の攻畢を蒙る礎な歴史的傭件にある時には、平和的 債の機麓はその重要さを減じ、措カは軍事的組織者、即ち俗界の封建領主の手に琴甲され詑。⋮⋮: 宗教ミ階痩薗李 l−ノ 宗教ミ階級闘争 八大 然し中和的囲蔑の機能が戟辱の組成者の機俵より生活上重要になる場合には、僧侶の方が勝利を び 得た。L而してトレルチの所謂、東方禁琵邑ハi胃訂ntumは前者の傾向を示し、西欧訂ロd2許ird弓守 t2nは後者の状選を示してゐた。ロマ敦骨は賓に、﹁封建化されたる重商ヨーロッパを、その一切 の内部的我等にも拘らず、一大政治億に結合﹂した﹁封建制度の国際的大中心Lであり、﹁封建組織 nJ 0 ︵ − 修道院、 を紳塑なる後光を以て取り溶くものであつた。L従って、﹁俗界の封建制度が、各陶に於て、又験す ところなく攻撃せられ得る焉めには、先づその中心をなすこの宗教的組織が破壊されなければな ︶ らなかった。﹂新興ブルジョアジーの革命が宗教と舐れ得なかったのは督怨である。l 三 宗致改革の遠因をなした久しい間の帝擢と教皇権との寧ひ、散骨内部の改革的企陶 諸宗教合議、神秘思想等喜、氷河の如く進み凍った全ルネサンスの淀れ、文中世数曾に対する 著しい反抗運勒としての十二三世紀頃のフルデソセス、アルピグソセス派の活動等に就てほ暫く 置くも、近く十四世紀中頃英国にジョン・ウイクリフあ㍗ヮ、少しく遅れてドイツ、ボヘミアのジョ ン・ブスあり、十五世紀後竿にほイクリ一にナズナローラふ∵り、而も何れも事成らす、悲痛な挿話 と一部人心への戚化とを宛して大勢の中に滑滅し去ったに拘らす、十六世紀の初、ドイツの砂た る一客倍ルック一によつて鮎せられ克改革の燈火が、忽ち遼脱の火の如く藩閥に葦がゥ、効かし ∵ ′■ヽ 難い勢力となって現代にまで貫き及んだ併月は何虞にあるか。世界的主権者:教皇に対する反 抗が明瞭となつた結果、生命財産の保護皇茎に剣客された嘗の彼が、ドイツの一邁畢院 に保護されて安静の内にその童張を馨展せしめ得佗理由は何であらう。彼の初期の重要 ﹁ドイツのキブスト散発族に輿ふる書Lはその理由の一端を示してゐる。そこで彼は数曾の堕落、 重職者の腐敗を華じ、貴族等に対して著しい好意同情を示してゐる。彼等の権利、政治 に皇で諭が及んでゐる。然し勿論かう冨ふことは、ルックーの改革的動機がそこにめ♭ 目的がその男であつたといふのではない。彼の関心の中心鮎は飽くまで宗致でめり、最 的宗教に立脚して彼は散骨の腐敗を指摘し礼帰したのである。然し上述の如く緊密に封 血脈に流れ入ってゐた散骨を攻撃する時、それが単に精細的の反抗解放に止まらないで 反抗解放の運動と結び着いたのは常然でぁる。又この解放運動の成功する素地があつた ルック一に始まる宗教改革が前者の轍を踏まやしてよく成長し得たものと思ふ。然らば は如何にして作られてゐたか。彼が数曾反抗の聾を塞げる前年倣紀乃至一世紀の間に世 鼻樽を経虚してゐた。新しい草間の螢達、印刷術の澄明等が宗数改革的気運の布及に刺 ろ多きは言ふまでもないが、こ1では特に基礎的な融合の構成組織そのもの∼礎遍勒濱に注意し なければならぬ。 宗教ヾ︼腎銃猟争 宗敦モ降級師事 八八 簡単に要約すれば、その一つは君主政燈の再興である。新しく強大なる中央集権が封建国家か ら勃興し、その興起に伴って封建制度の勢力は織殺されて行っ克。をれには聖地回復の宗数的熱 情に出費し佗、あの十字軍の大淀征が甚大なる関係を有してゐる。そしてそれは欺湘に富を泣入 し、庶民を富ょし、都市を勃興さした。新世界の螢見が相胎ぎ、新しき交易の天地に彼等の資本 ほ増殖し、その商業資本の螢展は更に高利資本の著しい螢蓮を伴って資本の所謂原始的蓄積を金 々大ならしめた。﹁時代のこの鼻化し行く傭件の許に、人々の間にほ非常な政令的不安があつた。 彼等はその昔い職業の衰微に伴って職を離れ家を失ひ、新しい国民政府の苛故に憎み、資本家階 一■■ l 級の興起に苦惰を戚じた㌔即ち資本主義成立の竿の要素セるブⅤレタプア群の螢生が行はれつ ゝあつたの一である。﹁資本制生産の初演は、十四世紀及び十五世紀に於ても既に地中海沿岸の若 ある。﹂宗教改革は正にこの過程の唯中に立ってゐる。それを単に宗数的仮面をつけたブルジ†ア ∬. 干都市に、此虞彼虞に見られた。L然し﹁資本制時代が初めて開始されたのは十六世紀以恋の畢で ︵ ジーの課薮と見るは正しくない。その勒様には高く洗い宗教的意図のぁる串は充分認めなければ ならぬ。然し、この改革が一度世に現はれるや、勃興しっ∼みるブ〝ジ曹アジーの勢力と結びウ 〆 ′ 宗一=一 き、その勢力の曙進の鰯に利用され、終には宗教は寧ろ仮面の如き役割を持つに至った革も亦詠 め︷仏ければならない。 + 」−■「 匪 一例をドイツに見やう。昏時に於けるドイツの状巌は甚だ複嫌なるものがぁつた。﹁我々は帝国 の種々稜々なる身分階級、即ち領ま、貴族、高滑、都市貴族、市民、卒民及び農民と云ふが如き る大衆をなしてゐたことを知るのである。L而して﹁昔時の斯くも複雑な多種多接の階級が一九と ものが十六世紀初尭に於て多種多様なるあらゆる方向に交錯せる要求を持ってゐる極めて殊然た ロ なって更に大なる各値となることは、地方分樺ま哉や地方的及び州邦的珊立の故に、各州邦相互 間の工業的及び商業的疎隔の故に、又不十分なる交通の故に、殆んど重く不可能とされてゐたの である。斯種の塵囲化ほ宗教改革に於て革命的なる宗教的=政治的思想が︼般的に洋犬するに至 って甫めて漸く成立されたのである。此思想に賛意を表するものもあれば反対をしたものもある 層々凍多の身分階級は、言を侯つまでもなく、非常なる努力を彿ってしかも大憶に於てゞはある び革命的陣螢とに結成せしめたのである。Lこれら三大陣螢はそれぐ如何なろ要素を結合してゐ が、国民をば三大陣螢、即ちカゝエリック的或は反動的陣螢と、ルーテル沃市民的改革派の陣螢及 の■▲ ■ ︵ たか。第一のもの﹁即ち保守的カL二ブック派の陣螢には現状維持によつて利益を受けるあらゆる 要素、従って帝閲の権力、致標的諸侯及び一部の世俗的諸侯、富裕なる貴族、滑族、等に都市貴族 が集まり、市民的花穏健なるルーテル況的宗教改革の庶の周囲には反封況中の有産階級、下級貴 宗欲王将扱闘争 宗教ミ階級闘争 九〇 族の一囲、市民階故、拝に致骨財産の没収によつて裕頑にならむと念廃し且帝国からより大へ仏る 覇立を㍍す横骨哲握らむとしてゐた一部の世俗的諸侯さへもが集まつてゐ先のである。Lをして革 命的陣螢を結成したものは農民と卒民とであつた。 γックーが初めて致骨に反抗して立った時は、勿論彼はか∼る方向をとる寧を意閲しもせす、 珠如しもしなかったであらう。彼は敦合金蔑に対する反抗すら初めは志してゐなかった。散骨の 中にあつて、教権者に改革を要求し佗のであつた。それに射する反動的抑魔は彼をして益々反抗 改革の態度逐撃っせしめ佗。﹁ルーテルの力強き農民的性質は要を現はした曹座に於て最も猛烈に 乃 まさひことのみ念靡してゐたのでみ須。﹂斯くてルックーはこの寧乱の中に自己の立場の邁澤を要 曙族の樺カ、甘−マヘの従属、・カトu′ック致曾政活を打破し、致骨財産の没収によつて自らを富 れ佗のでぁる。前者は自分達がぁらゆる魔制者と清算をなす事の出奔る日が雅たと信じ、後者は 他方、温和涙である市民や大多数の下級貴族は之れに加揖し、諸侯速さへもが此潮流に巻き込ま 反抗するルータルの倣の中に、またキ,スト数的自由に関する彼の説教の中に敦乱への合圃を見 は落ちたのである、仝ドイツ国民は運動を起すに至った。一方に於て、農民連や平民蓮は借族に したのであつた。﹁然しながらこの最初の革命の情火は永く績かなかった。ルーテ〝が投付けた雷 吐露された。︰強硬な革命的精力︰か、カトニブック的正数に反射する徒凍の異端負債を代表して爆馨 6 1 l 求され、その社食的立場は自ら決定されて恋たのであつた。鎖し問題は最早ルックー一人の拘は る革ではなくなつた。鮫によつて劫火されたとは云へ、革命的波浪は彼自身をも捲き込んで狂奔 したのでぁつた。 但しドイツに於ては、下暦の所謂革命的陣螢の反抗は大鹿民戦等の如きを惹起した、けれども 暫くにして鎮厘され、中間的陣螢!勃興期ブルジョアジーを食む−の裔勢力との季ひもその 後久しい零乱に英ひされ、ドイツは二世紀問も欧洲諸国の政治的活動から取り残される如き結典 を蒸し、ブルジョアジー進出の気運も久しく阻止されるに至った。 イギリスに於てはその宗教改革によつて輿へられた直接的影響は更に著しいものがある。﹁民衆 に対する強行的収奪行程は、十六世紀に於ける宗教改革と、それに侍って行はれた寺領の絶大な 盗掠とに依って定くべき新潮故を輿へられた。宗致改革の常時、カト,ツク数骨は、イギリスに於 ける大なる土地部分の封建的所有者であつ佗。修道院その他に対する抑歴は、其虔に居住してゐ た人々をブロレクリア隊列に投げ込んだ。而して寺領そのものは、大抵みな王の強慾なる寵臣に 志輿されるか、又投機的な小作農業者や市民たちに棄て億で賓り飛ばされることになつた。此等 旭 ︵ β人々は嘗泰の世襲的な寺領小作者を一宿的に轟還して、彼等の経螢を大纏めに縫合してしまつ た。Lかくて所謂資本の本務的蓄積がなされると共にブロレタサア詳費生に多大な影響を及ばした 宗教ミ階痕面魂 宗教ミ停級由車 のであつた。又カルビンがゼネバに行った草改蓮勒の如き、この都市に封する附近の封建領主の 厘抑と、致曾の束縛とを絶って、こ∼に初期ブルジョア的繁農を盛んならしめた如きも、亦一の 直接的影響として見得やう。 五 次に、宗教改革が間接的に、精細的にブルジ可アジーの扇起に及ばした影響と見られるものに 兢て述べやう。 十八世紀に於ける偉大な指導者の一入であり、督時の政治界、科畢膏拳界に於て甚大な影響を 及ぼしたペソデヤミソ・フランクタンにとつて﹁然し、彼を光輝めらしめるそのあらゆる稀就の 中でも、最も著しいものは、彼が世界に於ける最初のブルジョアであつた事であ㌻り、⋮⋮:彼はそ 聞 の事業に於てブルジョアの原理を定め、生涯かけてそれを欝行したのであつた。﹂この典型的ブ〝 ジョアの﹁商人子弟への戒め﹂を例にとつて、マックス・クエー㌦−は資本主義精細なるものを冷 引用し、そこに資本重義精紳を見る。もとよ♭こ∼に示されたフランクタンの恩度ほ甚だ功利的 やる。 ︺ 川 である。誠賓は信用を欝らすが故に有数であり、几帳面も勤勉も節制も亦同棲に、引いてそれら は利殖の基となる。然しそれは、それを無成することが単に愚かなる行秀であるとさ拘るやうな ﹁重なる生活術Lであるのではなくて、一の特色みる﹁道徳﹂であ丁り、義務観念を伴ふものであ一号 それは決して我利的原則を弼功したものではなく、﹁この道徳の最高葦は、何よゎも、我僅野手な 事異を凡て却けた上で金を、滑々多くの金を獲得することであら、而もあらゆる幸頑的或は快契 約見地牽全然脱却して、それが純粋に自己目的として考へられてゐる。従ってそれは個人の幸福 とか利得とかには対立するあるものとして、常に全く超越的な又非合理的なものとして現はれて ゐる。人は人生を目的として曹利に騙係するので、螢剥が、人間の物質的生活要求の満足を果す ︶ 21 ′ 馬の手段として人間に結びついてゐるのではな叛。L然し何故にかゝる義務としての昏剥が存すべ きであもか。クエーノーはフランクタソの自叙侍中に引かれた歳言の言尭にその根捜を見出す。 それが正しい方法で行はれる限ら ー 近代経 即ち ﹁汝をの菜に巧なる入を見るか、斯かる人は王の前に立たん。﹂菜は畢なる、貞繋訂弓でなく ー ㈲ 占erちー職業であつても﹁天より課せられたるもの﹂﹁召命﹂といふ宗教的意義を有つ。− それは宗教的義務として立つので今○。﹁螢剤は 済組織の内部に於ては、出erちに堪餞なることの結果であゎ、叉その現はれである。そしてかゝ 5 る堪能こそフランクタンの道徳のアルファでありオJ才である事は、彼の著作の凡てを通じて例 ︵ 外なく示されてお♭、容易に理解し得るところである。﹂ フランクリ∴/に現はれた資本ま鶉精細のか1る宗教的基礎は背く別とするも、資本重義精油が 宗教ヾ﹂曙親轟争 宗教寸J階放脚争 九四 畢に革契約な自己満足の名の貨幣追求ではなくて、それが、ともぁれ螢利む一種の義務として威 じてゐる事は認めなければならないだらう。﹁螢利、即ち貨幣慾はそれ自慢では資本ま養的ではな い。それは度々戟寄盗賊等に菜現す沌からである。貨幣慾が資本ま義精細となる鰯めには、企業 獅 及び市民道徳と結合しなければならぬ。Lそしてそこに、畢なる物質的慾望充足の手段としてのみ でなく、一稀の義務戚を坐するであらう。然しそれに常に宗教的義務意識が倖ふとは勿論言ひ待 ない。殊に今日湖浦してゐる資本或哉精神の傾向はそれを否写する。けれども、資本主義の勃興 期にあたつて、か∼る宗教的根接が資本重義に働きかけてゐた事は遽に否定し難い。ウィットフォ ーグルは初期資本ま義の先騙者フランクリ′ンの上掲の﹁戒め﹂の引用に証してゐる、.﹁決してウエー バーが資本ま義の初期のこの禁欲的節約的特徴を認めた最初の着ではない。マルクスは彼より遠 か以前にこれを、而ももつと徹底的に認めた。筏はフランクリソの生活法則を初期資本ま義的経 ㈲ 所感備の必然的型式として認めてゐる。L然しこの初期資本ま義時代に絶対的性質のものとして支 配した﹁致雷衝動と貪慾﹂とを、翠にそれが衝動であり、本能であるに止まらしめす、それに宗 数的意義を附せしめるだけの宗数的支配が、少なくとも世の一部に行はれてゐた寧ほ認め得るの ではないか。﹁資本主義精細成立の初期に於ては、宗教的な義務意識がなければ螢利自髄が普く人 人の目的とぢる挙が出東克かったかも知れない。蓋し永い間の宗数的信健として営利は二の罪悪 とされてゐた。宗教的勢力の強かった近世の初めに於ては、宗教自健の好評が之を命するに非富 れば、進んで螢利を目的とする事は出水なかったかも知れない。又薪に道を開拓する者は常に萬 障を排する男気の源泉として、椎田たる信念を必要とする。かゝる信念は彼の人生観と結びつき 何れかの嘗遍的なものの許容を必要とする寧が多い。だから資本主義精神の初期に於ては、ど ぐ でも宗数的な、又人生観に基づく倫理的色彩が濃い。﹂ 大 資本主義の勃興に奥へられたか∼る宗数的意昧の影響、それはかの宗致改革によつて変らさわ たものであつた。ルックーほ善行によらゃして信仰による救ひを主張し、俗人と付侶との問の差別 を否定し、各人仲介を要せや紳に連なり得る事を信じた。所謂丑職者の優越嘩り否定は俗人の生 活の侶魔の高揚を澄映する。俗世を離れて宗教的生活をするといふ革き意療の﹁召命﹂は、各人奥 られた職を神輿のものとする﹁召命﹂に担った。借侶のみが重職なのでほなくて各人の職業が重な るものとなった。かくて職業に第一義的慣位が認められ、職務に励むべき深い根接が輿へられた のであ一Q。然し故に於ては輿へられた職業に骨んじて止まるといふ静的受動的感度以上には螢展 ■ J 椚− し︷掌っ詑。﹁ルック一に於ては⋮:職業は、人が紳命として受納し、それに甘んすべきものであ つ笹︶﹂﹁人がその癖菜によつて賓現し得る事でなく、その俄に止まつてゐながら現はし得る服従 票数ミ階級闘争 く 蓑亡雪 空 或はあきらめ﹂が彼の職業観であつ陀。そこで、一度は新しい階級の勃興に有利であつたルック ーの宗教改革が、やがて隷属を翼ひる宗致を斎らすことにもなつたのである。 然し、﹁〝−テルの失敗したところではカルダインが征服した。彼の数理は管轄の市民の最も大 鹿なるものに邁應するものであつた。彼の宿命論は、自由読寧の世界に於いては成功も破産も個 個人の活動乃至手腕によるものではなく、彼と覇立せる情勢によつて決せられるものでろるとい ふ奉賛の票数的表現でぁつ拓﹂と。然し勿論カ〝ダイソ自身に於ては、この宗教的表現は本凍の 意味での宗教的表現であアり、超越絶封的な、人の湾に存するのでなく、人がその男に存する至高 の紳の批判し推知すべからざる硫理に封する信仰であつた。而してこの号最なる紳の桑光の登場 の′焉に、各人は唯紳の道具となつて自己の﹁召命﹂即ち﹁職業﹂の為に献身しなければならぬ。信仰 を現位の取落の中に澄明するのである。然しこの職業は、ルック一に於けるが如く囁在るまゝに 甘んするといふのでなく、神輿の哉済をよりよく果し、軸の農光を髄ふ限ら螢揚し得るやうな、 紳の発光の為に存する敢食卓憶に対して出水る限り登し得るやうな、己が天分に應じた職業の選 揮が認められる。そして直接隣人への利金よりも、か∼る意味に於て敢曾仝鰻の虜といふことが 重要と打アり、資本重義的職菜の是認、自由統率的螢別の承認となつ先のである。そして凡ては紳 に肝属する、個人以上の、赴骨以上の紳の硫理に支配されるのであつた。螢別の結果は勿論自己 _ の物質的満足の焉に用ひられるべきではなかった。従って最正なる節制訓凍が革んせられた。統 合仝億に封する最も有能なるべき、自己の天分を最も螢揮し得べき職業の邁揮、その職業に於け る禁欲的精励、その結果として利潤は甚だ播殖し、而もその事契約私用は禁せられ、螢刺そのも 再生産へ、初期資本制の費展に大なる影響を及ばし のが目的とされ鶉務とされるやうなーーこの凍れを汲むフランクリソに於て先に鬼平如きー1資 本ま義持紳の建設に貢献し、利潤、蓄積− たのであつた。 而して、より現賓に資本主義社食の費展に大なる役割を演じたものは、この思想の侍統一曾起ぐ ピューリタニズムでぁつた。 七 \′ 卸 ノヽ ﹁カルダイイン派の内に、ブルジョアジーの一第二の大数乳はその固守理論を完成の形で見出し たのであつた。此の孜乱はイギリスに起きた。﹂それは即ちオリノー、クロムクエルに率ひられた ピューリタンの革命であつた。この﹁十七世紀の英国の革命の歴史は通例請合の立場からのみ書 かれてゐるので、卒民−1よ甲ち中産階級−−と観王との争闘の間に於ける人民大衆の状嬢に思ひ ︶ 及ぶ老は稀で今頃。﹂然し譲合の問題は表面の現はれであり、それを制約し動かしてゐた普時の鹿 宗教ミ階級闘争 骨組織、経済状態に留意しなければこの革命の異相は明かにならぬ。叉そこに宗教の力強い作用 31 宗致ミ階級曲事 九八 があつた。然しそれは、決して軍なる信僚の、畢諌止の寄ひであつたのではなく、融合の経済的 利害関係に深く浸潤したものであつた。 ﹁衰々は英国一里経済的進歩の卓越した先駆者と考へがちであト、やゝもすればその任済が趣く 近代に於て果されたことを忘れ易い。⋮⋮・シェークスビアやベーコン時代の英国は未だその経済 ヽノ 組織、赴曾状態に於て非常に中世的でふγり、未凍の生産の為に資本を蓄積するよ♭も、徒黍のま まへ与る消費本位の生活を鋳けるこ、とにより多くの輿暁を有ってゐた。﹂然し勿論一方に於て資本主 義への道は開かれつつあつた。この時に曹り、その方面に向つて、合致含を暫酵さす酵母の如き働 きをなしたものはピューリタニズムである。﹁ピュータクエズムは政令行動に関してそれ自身の規 準を有ってゐた。それは、一部は商人階談の明白な利嘗関係から、一部は紳の性質及び人間の運 命に裁てのその考へ方から凍てゐる。これらの規準は、英国敢魯に多量に残存してゐた封建制度 の諸要素にも、神授ま樺固家の政農にも、鏡く対立してゐた。この国家は秩序あり等級ある政令 を理想とし、その敢曾の各員ほ、剋観の抑歴と保護とにエつて、彼等に侍はる地位に甘んじてゐ るペきであつた。ピューリタニズムはこの封建的委棄をその影響によつて据ゎ崩し、この紳蕨な る同家を直接の攻撃によつて打た.ふし、最後に革命によつて勝利を得た商業文明への造を準備す ∽ る有罷なる勢力となつたのであつた㌔知新ビュー,クエズムはブルジョアジーの勃興に強い影響 ト を及ぼした。勿論ビi−ブタニズムがブルジョアジーの勃興すべき塵史的諸僚件を作り出し佗の ではない。然し新興ブルジョアジーがそこに﹁完成の形で闘事理諭﹂を見出す程の影響を典へたの である。そしてその結果変らされたものはその後益々伸長した。﹁クロムウェルが、最初は自らま 哀した一切の譲合的目的を、後にほ志に陵補し去り、ストラットフォードが国王に対して献策し たのと同棲な常備軍制度を確立して、傍若無人の専制的行為に出でたにも拘らず、又チャールス 二世の下にスチュアート王朝が復興され、ジェームス二世とメリー及び英夫オレンデのウイリア ム公が其王位を漉承したにも拘らず、中産階級は清致徒の革命によつて得た所のものを一として ︶ 糾 失はなかった。商人、銀行業者、製造業者、農業家等は着々と勢力を扶植し叛。﹂ 八 ブルジョアジーの勃興期にあたって宗致は薪加重要な勢力戚化を有ってゐた。それは、エンゲ ルスの所謂初期ブルジョアジーの裔勢力に対する二大寄闘に於て重大な役割を演じたのみならず その後にも久しい影響を残したのであつた。殊にイギリスに於ては、ブルジョアジーがその勢力 を撃っする上に宗敦のカは偉大であつた。﹁彼︵ブルジョアジー︶の宗教は、已に彼がその下に観王 及び領まと戦った凍峨を提供したものであつたが、彼は間もなく同じく此の宗教によつて卑へら れる手段を以て、彼の使って居る自然の下人の心情に働きかけ、彼等をして、不測の神慮によつ 宗教ミ階級計李 宗教ミ降級闘争 ︼00 て下されたる主人の命令に従順ならしめ得るものである事を馨見した⋮⋮・﹂又一方で、イギ,ス に起きた貴族の唯物論と理神論に対しても、﹁正にあのスチュアート家に対する我等に凍峨と軍隊 と漣供給した同じブ℡ブス々∴てエ泥が、依然として進歩的中流階級の主要陶寧カを輿へたのであ \ った。﹂ 一の法則のみが支配し得る。故に人類鹿骨も亦調和と中和との図、従って亦人間幸福の囲として ら世界も亦善だ。⋮:人類赴曾は世界の一部である。こ∼に於ては宇宙の他の部分に於けると同 紳︵又は自然︶の慈愛に対する信仰に立脚してゐる。紳は菩だ、そして紳が世界を創造したのだ加 る成化を有ってゐた。﹁一入四〇年代に至るまでの赴骨董義的思想は、凡て所謂而上畢的基礎即ち 宗教に封する嫌窓が湖満してゐる事は明かである。然し概括して、その初め、宗教は矢張り大な ブルジョアジーと対立するブロレクリアートの解放運勒に於てはどうであつたか。現在そこに 九 のでほない。イギリスに於ては殊にさうであつた。 る政治的地盤に於ける決戦が行ほれた。然し世界のブルジョアジーと宗教とが全く決別し去った ー第三の大数胤たるフランス革命に際して理論的旗峨を賦輿し、こ∼に宗教を捨て去って赤裸な 唯物論がフランスに移ってから、フランスに於ける教養ある新人達の心を捕へ、ブルジョアダ 用 のみ沖の欲したところだ。人も亦本来葦である。﹁人潤は人間に好意を持つ。﹂⋮⋮・疲は完成の如何 溺 ︵ なる高さにも逢し得る。彼は﹁完全になら得る﹂のだと。﹂のみならず、宗教自健の中からもブロレ クリアー一に好意を寄せる多くの運動が教生した。例へば、血醒いフランスに於ける引清く革命 同学の問にイギ,スに起ったウェスレーのメソジスト運動、キングスレ一等のキリスト教赴骨壷 議運勒、ブースの救世軍の活動等々。 然し簡単に票数主玄ひキリスト教と言っても、鼻輯し行く政令の中にそれん﹁1力強い影響を有 ったそれらの宗教の内容に於ては、赴曾の蒋憂に伴って叉多くの思想信仰上の鍵化を食んでゐ る。一例として貧と対する考へ方を見ても、中世に於ては寧ろ貧民は喜ばれ尊ばれた。貧者は紳 の友であり、貧者の所♭は効果の多いものとも信せられた。然るにカルビニズムよ♭ピューリタ ニズムに至っては、貧は人の性格の敵情であり、沖より呪はれた印とも考へられるに至った。然 るに例へばウェスレ一に於ては、﹁彼は貧民の救済については深い考へを持ってゐた。﹁彼等は怠け ′.ヽ 方を輿へる焉に活勒した1。﹂ るから貧乏なのである﹂とい悠事は、悪魔に等しき間違であると彼は断言した。彼は失業者に仕 釘 敢含の憂遮に徒ひ宗教も亦その中に多くの欒樽を経験した。現在宗教は放曾から深い反省を促 宗敦ミ階級■争 宗教ミ階疲面専 ー。 五九四−五頁 五九一東 一〇二 されてゐる。その反省と苦偶の中から、現在、又購凍の赴骨に射して果して宗教は如何なる形の 如何なるカを生み出すか 関エンゲルス、前謁 五九一文 ︵註︶川エンゲルス、空想的証倉皇毒ヾJ科畢的武宮主義、改造放版全集、一二巷 何エンゲルス、前趨 九一−九二束 ㈱TrOe︼宮∫G環p⊇me︼te哲l︼.︻.Ⅵ●−㌫丁占. 何TrOeltsc∫ibid● Ⅶ.−声 脚T1−Oe︼有hこb⋮d 匹は○買 九一束 五九〇東 mボブダノブ、脛済科畢概論、改造文庫 何がグダノフ、前端 ㈹エンゲルス、空想的祉骨主義−上端 二九三夫 ワ票P 七︼○京 11As已eヨ巳乳ie■巴良基i琶︷iOn 川︰ゝには中世西欧の封建制度ミ宗教主の蛍密先君令状想わ一撃し圭のみで、そのかくなつた理由に凍ては準へない。 .t 12マルクス、資本論、改達癒版、一巻ノ二 ヽ′ ︵ ︶ ︵ 二九三−二九四頁 13エンゲルス、ドイツ農民戦争、改造鍍全集、四巷 ︵ ︶ 17エンゲルス、前鶉 三〇一頁 1516エンゲルス、前端 三〇〇頁 14エンゲルス、前掲 ︵ ︶ ︶ヽ−−′ ︵ ︵︵ ︶ 呵†ルクス、資本論、二等ノ二 ′ll、 ノ■l、 ヽl■′ 19四年口胃dヨ皐 増訂51′l︼㌢ ′t.ヽ 七一五頁 p・鼓 三八七京 ヽl/ 飢民PH弓つber 、戌寧mme吉A已㌫短W讐買︼が︼i乳昌警告︼つgie−−・印∴ごf● G ./■l、 別Webぎ詳id− 弾∽ローー∽①. ヽ′ 資本量義椅紳、洗骨経潜倍系、一四巷 呵we訂r.ibid. c n S.の∽n ︵ ︶ .∽P 23Weber−ibidS■ ′.1ヽ ︵ 叫本使田絆男、 Ⅵ.↓可. 三八六真 呵芦ヨlt富e︼︶ ¢e汚b訂F︻のdel・誓言鼠ic訂n O甥e宗ebpコ一声柏ヨ. ︵ 26本位田、上抱 ︵ ′■lヽ ヽ..ノ 27W旨erこbid・ 五九一束 二五七東 ′し 281ハ.勺u︼l誓︷On 、已エロi喜a巳dC旦邑i冒﹂Ⅰ賀ヨr︷−T訂つ乾生謬鼓弓︼河舛l:○︼・p﹂ご● C ヽ■■′ 空想的庇倉皇義1上諷 ヽt■■′ ︵ 鱒エンゲルス、 前組 階級国学の史的密展、山川詔 立九二束 囲エンゲルス、 ヽJ ハイドマン、 ︵ ヽ.ノ 32T芸neヨ出雲gぎ呂dt訂崇胃○=首i邑isn一、p.柏芦 二五入−二五九兢 ︶ 33T芸neさibid・ワ誓ド ︵ 鎚ハイドマン、上端 ︶ ′.■.ヽ 四〇頁 ︶ 鶉エンゲルス、空想的放骨壷義・一上端 五九三!五九拘束 ︶ 36グムパルド、放曾主我及び鹿骨遅効、林諾 ヽ....ノ 即ステッド、キュハト教吐合愛息、賀川、竹中謹 三一問豪 ′■ヽヽ 君教ヾJ精液闘争 宗教銑鋼の標準ミ政令的宗敦哲学の任諺 中 宗教批判の標準と社食的宗教哲畢の任務 ∵ 島 ー〇四 宗教を批列するに科挙を以てするは課である。宗敦批判の標準としては第一に科挙的主智主義 を排斥せねばならぬ。勿論今日宗致が科挙上の確定明白なる結論に背馳することは許されぬ。斬 る宗教は迷信として排斥せられねばならぬ。此意味に於て科挙は宗教に封して滑極的なる一つの 批判標準とほなるものであつて、全然北朝標準たら得ないものとは言はれないのである。然し宗教 の本質の批判その積極的なる眞の批判棟準に至りては到底科挙の提供し得るものではない。此事 は科畢の認識方法ぢるものの本盛及びその限界を十分に省察すれば直に明となることである。科 畢は設侶偲的抽象的に概念と法則とを以て外界自然界︵人の心理及び敢食も科挙の封象となる限 タ、外界自然界の一部としてである︶を把握説明した人類をしてその生活目的を、よら有効に達成 せしめんとする所の生活用具でぁる。人生と貫在とには科挙を以て把超せられぎる部分が多分豆 存在する。科挙はたゞその一面的把握に過ぎないのでぁる。今日では人間の本性は十八世紀時代 の合理主義が考へたやうな主智的なものでなくて、生命的衝動的主意的なものであつて智はたゞ その生活機能の一部に過ぎないことが明と捏アりつ∼ある。宗教は本来外界自然界を概念的法則的 に詭明せんとする目的を有するものではなく、科畢とはその立脚の平面を異にして居るのである。 宗教が科挙を以て梓すべからぎる別の世界のものであるとするならば、世上唯物論の結論を以 て宗教を否定せんとするは、その唯物論が十人世紀式唯物論であるにせよ又はマルキシズムの耕 忍法的唯物論でぁるにせよ、ともにその的を誤って居るものと言はねばならぬ。唯物論が唯物論 として立ち難き濁断論であることは此虞に暫く措くとするも、その﹁科学的方法Lなるものを以て 賓在の全部を蔽ひ得るものなるかの如く考ふる所に、科学的方法白魔に対する無批判と無反省と が在り、宗教の立場が此と別の世界のものなることを知らざる無理解が存在する。 ま智主義が宗致を理解する所以でなく、科挙が宗致を批判する所以でないとしたならば、哲畢 も亦宗致を批列する所以でない。此事はヘーゲルに対して特に言はれねばならぬ。ヘーグ〝は哲 畢を以て絶封精神の最高の顕現とし、宗致を以て一段幼稚低級なるものの如く取攻ひ宗教の眞理 なるは常畢上の具現を合有する限らに於てであるとした。此は明に背畢上の葺智ま義の一思想であ って、票数を圭智主義的に取り扱へるものに外ならぬ。ヘーゲルの宗教論が宗致家宗教聾者に喜 ばれたる所以は、ヘーゲルの暫嘩そのものが一哉の組織紳畢の健系を属し既に宗教の具髄的億位 宗教批判の標準童紐面的宗教曹拳の任務 宗教批列の標準±証合的宗教哲畢の任務 内容前提的のものなるが故に外ならぬ。 一〇六 科挙以上の別の世界とは生命衝動と意思と目的の立場より観たる優位の世界である。帯革的方 法は設慣値的方法であ∵り、設備佐的把握である。同じことJピ生命衝動と意思と目的の立場から観 れば、全然趣を異にする僧侶の世界を成立せしむるのである。而して科畢そのものも亦斯の如き 生命衝動と意思と目的との所産として人生赴曾に於ける一つの償庇に外ならぬのである。 人生が億伍と不償位との相対界である所に票数の成立する基礎である。生死病老等の代表する 幸頑償僅と道徳を中核とする精神慣値との両者に裁て、人生が慣偲と不備偲との粕葛藤する相対 界であることが宗教の成立する基本要件である。﹁紳﹂とは宗教生活の公理であつて、科畢が否定 し得るものでもなく、又立言し得るものでもない。然し票数生活にとトては此の上明白な原理は 無いのであつて、宗教生活の全組織全構造が此基礎の上に建てられて居るのである。﹁軸﹂を信す ることに依りて慣伍不慣位の由封界を貫通して、債億の積極的勝利とその﹁保存﹂︵H¢彗ing. Re︼igぎⅦpFi−善−︶l−ie・宴er邑注⊇l謬ndi駕n・;芦甲声︶とを信することが出撃匂。此虔に安心立 命の基礎があゎ′、気呵感激の源があり、奮闘努力の根源がある。斯くして宗教は人一ピして、人 のあらゆる苦情と涙とを通しで、喜んで道徳的精進の途に邁進せしむる所のものである。 されば宗教の依りて立つ所は生命衝動と意思と目的の世界にあり、従ってその批判の棲準は主 智的ま鶉や科挙主義の片面的なものであつてはならす、何産道も人生的、情意約目的的でめらね ばならぬものである。即ち以上のことだけで言へば、宗教は人一でして、人生の苦情と涙とを通し て、喜んで道徳的精進に邁進せしむるカあるものだけ慣鑑ある宗致であり、然らぎるものは之に 反すといふことになる。 然し宗致批判は今や此童意重義の置場を通過して、仝一屠高次の社食約批判に迄到達せねばな らぬ時代となつて居る。上逓の生死病老の代表する幸福慣伍は比較的個人的のものであるが︵勿 論一民族一赴曾集囲の安危幸威等が宗教的信仰の構成要菜となる場合が無いではない。例へばモ ーセの出銭及の場合や、一民族が我等的勝敗にをの運命を賭する場合、又は一地方的赴曾集園が 共同の天麹地異に遭遇†る場合の如き︶道徳を中核とする精細償億の方は赴曾的に考へられねば ならぬものであつて︵敢禽哲畢的倫理畢建設の急啓︶斯の如き僧侶の保存を信することは敢骨的 儒催そのものの保存を信することである。而して通常宗教に於ては此敢骨的債億たる道徳億庇が 優越的構成要素を虜し、章痛憤伍は之に従属した一Q立場に於てその構成要素となつて居るもので ある。即ち正葦の煩慮に幸福の慣伍が必ず随伴すると信念せらる∼か、又は正喜の追求そのもの が此上なき清頑bl窪乳ne訟わサりと信仰せらる1かでぁる。故に宗致は政令的慣伍の不滅とその窮 極の勝利とを信じて、生死病老を通して、之に向つて男奮邁進せしむるものであるといふことに 宗教批判の標準ミ鷹合的宗教曹畢の任務 宗教批舛の標準ミ鍍曾的宗教哲畢の任務 ︼〇八 なり之を敢曾的に表現すれば、宗教は個人をして、生死病老を通して亨ルで己を棄て1放曾に奉 威せしむるものといふことになるのであつて、之を有効に濱さしむる宗教だけ高等な優秀な宗教 であり然らざるものほ之に反すと言はなければならぬことになる。 〓 宗教の本質を詭明し其批判の標準曾輿へんとする畢門が宗教背畢である。 宗教哲畢は痢撃とは区別せねばならぬ。紳畢は特定具憶の宗教的慣値内容の承認be訂日昌を 前提とし、之を拳闘駒形式に於て表現したものであつて、夫々の宗数的信仰に於ける1癖﹂を出費 卦として居る。 宗教哲学は人間の宗教経験に出費し、あらゆる宗教に共通してその本質、その成立の破壊、債 億判断の標準等を示すものでぁつて、具憶的僧伍内容成立以前の言はゞアブリオブの論定に在り ﹁軸﹂の信仰の依りて起る原理の説明に在る。 票数哲畢は主意的立脚他に立つ所のものでなくではならぬ。此意昧に於てカ∴/トの宗教哲学の 版本的立脚地は吾人の出費鮎であらねばならぬ。 然L、今や時代は鹿骨的宗教嘗畢︵融合背畢的宗教常畢の意︶の建設を要求して居るのであつて ヵ∴′トの個人重義形式ま義井藤史ま義等は十分の是正を受けなければならぬことは明である。 宗教を敢骨的に観たものとしては、†ルクスの宗教観に新境地打開の功績を否むことは猥凍な ︵試買舛・賢r Rriti打der H2ge−芳訂ロReeFt椙−・i−畠0冨訂琵琶珂・甥gE昆H い。然し宗教は換して†ルクスの考ふるが如く、政令に存する権力的搾収鯛係の苦清を麻痺させ るための民衆の阿片 ロ諾ヱではない。宗教は牒力関係が慶んだものではない。敢曾の根本特性たる人間の結合性が Re−igieu且 である。私はデュルケム等 産んだもの†ある。結合性育成の機能を有するものとして宗教の敢食性を明にしたものは、デュ ルケム ︵D弓kl軋m・F盆∴ヨ弓m2皿E訂m2nt已ケ認dO−p﹂コe 立場を今一層哲畢的に深めて、﹁政曾化せるカント哲畢Lの立場に顕すれば、新しき政曾的宗教薯 ︵岩n2.e功●雰 ヽヽヽヽ ︵5e許an阜雰乳−乳−ち邑eFre︶やマッキグァー︵害芳︼ 畢が建設せられるのではめるまひかと思ふものである。然し更に私は、テンニース mei舅−−昌≡ld宕se︼l乳訂き︶やフィアカント i焉r・t︼−eC音mml茸︶等が或は雰mein乳−P諦といひ或は9日呂un百と呼んで居る所の共同放含 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ なる観念を探って、宗教は共同敵骨を育成する機能を有するものと観るならば、票数の赴曾的機 能を今一骨明にすることが出奔ると思ふものである。 ヽヽヽヽヽヽ 共同政令は純粋に共同政曾細係のみから成立せす、標力関係関守臨係利用隣保等の非赴骨牌係 ヽヽヽヽヽヽ を含有するを通常とするが故に、宗致は此等の非赴骨関係の影響を受くることは昏然であるが、 此等の非赴骨関係が宗教を産むに非すして宗教は此等の基本に存在する共同敢骨関係の所産なる 軍歌批列の標準ヾし鑓骨的宗教曹畢の任務 宗教批列の標準軍政倉的宗軟膏畢の任務 ヽヽヽヽ ことを明にする必要がある。此には共同敵曾なる観念が最も邁督である。之を樟力関係の所産に 観るものに、武力的征服的確力関係的に観るものとして、グムブロタイツツ及びその系統の思想が あ㍗り、経済的階級支配的に観るもの一にマルクス及びその系統の思想がめる謬である。何れも敢魯 的に執る鮎に於て優越せるも権力謝係的に観る所に重大なる誤謬がある。 人類は生命衝動的ま意的本性を薄ら、その生命と生命とは互に准威し、吸引し結合して鼓曾を 作るものである。政令性が人類の本性である。此本性の馨露して成立する第一次的本務赴骨が即 ち共同杜曾である。共同赴曾は進化費展の途上に在る。進化澄展は償僅と不偏僅との相対的葛藤 を通して、漸次不偏値を克服して偶成の賓現せらるゝことである。此虞に共同政令に宗教の成立 する基礎がある。 原始鹿骨のトーテミズムも、父権敢曾p賢i買Fa−sOつieマの親党費拝もともに、斯の如くして その時代の共同社食の産んだものであつて、−トーテム痢にしても、威光としての人格神にしても 夫々の共同社食を表徴し具健化したやうなものであつて、その政令の所属偶人が此等の﹁紳﹂に自 亡を献げることば、その赦曾誓Q登鰭に白己を献げることに外ならなかったのである。種族移帝 と征服とに依りて国家が起源す一¢皇一日はれて居るが、国家が始まると∼もに、赴曾は血縁政令よ り地縁鹿骨lこと進み、同一土地に数多の言語風俗慣習等を異にする異種族が共任するやうになつ て、之を統制したものは征服階級の武力的確カであつた。宗教は前時代の祖先崇拝より一巡度し シ∼ テナタラ て、多軸数的民族宗敦に打でり、室樺者自らが﹁紳﹂の子孫代表者又は﹁紳﹂自健ならとせられ 政治が顕著となる︵原始時代よゎ此時代迄政治と宗教とは分化しないのではあるが︶。 此時代は政令の進化階段の第二期︵原始時代を第一期とし︶と観ることが出水、欺測の中世紀 日本の明治維新迄等をも贋く、此進化階段に属するものと観ることが出家る。此時代の宗教は中 世紀的封建赴曾に特有なる権力関係と闘等閑係とを反映して、殊に権力踊係との結合著しい。欧 洲中世紀のカータシズム及び日本の大乗偶数は此時代の宗教としての特殊相を具へて居る。此時 代の宗教を敢曾的に観察すれば、グムブ?ク!ツ系統の思想の説くが如く、宗教は武力的征服階 級が、被征服階級を畏怖懐尭する焉の手段の如く見える。即ち宗教は樺力踊係の産んだもの、階 級支配の用具の如く見える。然し宗教の本質は此場合に於ても同じく共崗敵禽の育成機能に在っ たものであつて、権力支配の用具たるのみに止るものでなかった所以は、少しく事態を精密に考 察すればすぐ舟ることである。︵本誌、昭和四年九月競所載、拙著﹁マルキシズムに射する宗敦の 立場L頭銀の拙稿﹁政令の進化階段とカトリシズム、ブロテスクソチズム、及びソーシァル・ク リスチャニチーL参照︶次で欧開の鹿骨が第三期国民的自由主義の時代に入るに及んでブロテス クソチズムが現るゝに至った。封建制屠れて民族が結成し国民的統一意識出現し、自由と公権と 宗教軟鋼の横準ミ鹿骨的宗教哲畢の任移 宗教批判の額準ヾ立食的宗教菅畢り任啓 〓二 を承認する立憲デモクラシーの国家が出現し、自由競寧ま義に立脚する商工業の隆盛に依♭、資 本主義の勃興を見るに至っては、中世紀のカトリシズムは新生命への桂楷とこそなれ最早何等の 敢禽的機能を有せざるものとなり了つたことは箇然である。此新時代を気呵し指導した宗教はブ Pテスクソチズムであつたのである︵上謁拙稿参照︶日本は明治の維新を以て丁度西洋の此進化階 段に入ったものと観ることが出琴Q。此時に於て沸教は既に遺低なくその中世紀的封建的特性が 批判せられたのであつて、殊にブ∇テスタソチズムの自我魔醒の意識、人格的自由の主張の前に は一溜りも無かつと言っても過言ではないのである。 然るに聾て時代の尖端を切ったブロスタソチズムそのものも、今や根耗的に批判せられねばな らなかったといふことは、矢張ら敢骨の進化の然らしむる所であつて、今や人類の赴曾が大慶時 期に入♭、国民的自由ま義の時代が暮を閉ぢて、観際的政令重義時代といふ新しき進化階段に厚 み入らんとして居るがためでぁる。 三 赴曾の進化を結合の播進達帯瞳の曙遊、二言にして言へば共同敢骨関係の螢達と解することは 今日赴曾準正義の思想の大髄に於て一致する所といふことが出乗る。結合が曙進し、連帯牲が樹 ヽヽヽヽヽヽヽヽ 進し、共同鉦曾関係が螢達すれば、闘軍関係ほ漸次em已註。nと化し、権力関係は機能の闊係と ゝヽヽゝ 化し、利用騙係は泉竜取除へと樽化するもので争′Q。 原始時代よ♭第二期中世紀的封建時代への進化も之で理解出家、第二期より箪二期国民的自由 主義時代への進化も之で理解出水るのである。吾人は今琴二期より第四期としての国際的赴曾主 義時代への進化をも之で理解出凍ると信するものである。 ヽヽヽヽ 共同政令の進化には物的基礎がある。人と人との結合には物的横線が必要である。此物的機縁 の第一次的ぢものは、外界自然界が人間に提供したそのま1のものである。山川河港気候風土等 是でぁる。此等の提供する足場の上に初めて人類は結合して政令を作ることが出奔る。然るに人 類にして苛も既に赴骨を作れば、社曾協力のカに依りて技術を産み、資本的鎗カを生じ自然を人 間の目的に應じて襲化せしめることが出来る。斯く加工せられ襲化せしめられたる外界自然界が 第二次的物的機縁と呼ばるべきものであつて、入間は自己の作ら出したる此第二次的物的横線に 乗じて更に赴骨化の道程を上進し、共同敢骨の費連を藩げることが出凍るものである。而して更 に共同放曾が螢達すれば一唐人類の自然支配力が樹加し、自然をし益々人間目的に邁應せしむる ことが出凍、斯くして更に共同政曾の螢連を見ることが出来るのである。 今国際的政令主義時代の到来を見るに、人類の交通権開の螢蓮は今や飛行横、飛行船、ラデオ テレブイジョソ等と打アりて、世界を打って一九として、一つの共同敢曾−!t訂i賢き註つn已g宇 宗教批判の標準寸1鹿骨的宗教菅畢の任務 宗敦批判の標準寸J癒合的宗教哲畢の任修 一一拘 冒l−音1とならしめやんば止まざるものがあり、民族国家の対立黄昏より轄じて、聯盟協力へ と向はしめやんば止まざるものがある。吐合主義の方は、産業革命に依り、機械工業と提こソて、 同一機械を中心として、多数の雰働者が、組織的協力協働するに至って、自由競零、自主燭立の′ 原理の及ばざる新原理を革むに至って居る。印ちブロレクリア階級を中心として共同敢骨が、自 由兢寧的固守関係を含む今迄の共同軋含より更に一骨進んだる連帯性の重岡社食へと進呈んとし て居るのである。たゞ、資本の私有樺が権力化して屠るが故に、現代に於ては此新しき共同政令 が資本的権力支配下に率まれて育ちつ∼あるといふ所に、此新政令の誕生が階激闘学的解放過程 を経過せざれば不可親といふことになつて居るのである。 されば人類の敢骨は今や国際化の傾向に依りて観際問の陶寄国債を突破し、敢含ま義化の傾向 に依♭て、資本主義的標力関係を突破し、今迄より′も一層廉く、一骨高い高次の共同赴骨を賓現 せんとして居るのである。ブロテスタンチズムは自由と中等とを立前とし、白ま濁五里向詞する 決して資本主義的権力を承認して居るものではない。然しその自由と中等と自由狗立とは著しく 個人主義的であつて、自由競寄主養の是認とh保つて居るのである。此鮎が既にブロテスタソチズ ムをして社食の新しき進化階段に対して適合せざるものたらしむる所以である。加之、ブⅥテス タソチズムは、此自由薪撃といふ同率嗣係が、産業革命以恋、資本的推力と無産労働者との間の 樺力観係に造樽化固定して居るにも拘らず、此散骨事貰に限を蔽うて、依然としで、自主猪立を 高調Lて、現在の軋骨組織の下では最早や貰現すべからざる希望を、宛もなほ賓現し得べきかの 如く、之を﹁紳﹂の信仰に結び付けて、労働者を鼓舞激励せんとして居る所に、その階級支配用具 化もあれば、又その阿片性もある謬である︵前掲拙稿︶ 政曾的宗教暫畢は宗教を人類の共同敢骨育成の機能を有するものにして、赴骨機能的に翫、而 してその政令機能的ぢる鮎に於て、宗教の乱骨的意義と低位とを見出すとヽもに、その億歯列漸 の棟準を見出し、共同敵曾の進展に依りて宗教も亦馨足せねばならぬものと覿んとするものであ る。而して政令駒宗教膏挙が宗教を赴曾機能的に観て、その存在の意義と根披とを別にすればす るほど、今や宗教改革⋮⋮第二の宗致改革⋮⋮の逝くべからざるを結論せしむるのである。 宗教批判の標準ヾ1敵伊的宗教哲畢の任拶 経 崇敬経験の二形追 宗 教 二 の 二 形 惑 主として宗教心の費蓮に就いてi 験 − 上 野 ︼一六 隆 誠 人問に於る宗教心の存在、票数に射する入間の慾求、端的に云へば崇敬絆廠の存在に封する論 語々明哲行ひ、教育と戚化によつてこの種歯を助長開花せしめ、所謂倦統的な既成宗故に封する 昔々の心理的慾求の永遠性を説明せんとするのが、従来米国宗教心埋草涙に於て研究せられて凍 た題目である。日ぐ少年期の宗教、日く青年期の宗教、口く青年期と宗数倍操、日く同心、日く その過程、日く成人の宗教等々のト∴じックは、英米宗敦心理学書をひもど︿者の等しく見逃すべ からざるものである。特に少青年期に於る宗教心の粕、分けても入信の心理過程、同心に就いて ︵一︶ は、米国畢派濁特の螢開法の結果に見らる∼が如く、スクーパックやコーの研究を始めとし、最 近現れたクラーク氏の﹁宗教魔醍の心理﹂等、その菜韓に於ては、光闊に於る宗数々膏運動と相侯 って極めて顕著なものを見る事が出奔る。 仙 先つ最初に吾々の斬って置かhはければなら小甘い事は、英米宗教心埋畢と云っても、それが一般 心理科畢を基礎とする限り、それは宗致現象の科学的研究でなければならない事である。又その 意晩に於て宗放心理畢は科畢の領域に止り、その抹外に出ては写らない事である。所でこの宗教 心理科撃と云ふ概念から徒恋の英米心理畢を見る場合、吾々は異存なしに彼等の研究業績をジャ スティファバする事が出凍るであらうか?彼等の説く宗教心の存在併にその費達は文句なしに承 特に青年期に於る特異現象とする同心は、現象として正しき革質を博 彼等の云ふが如く人牲はしかく宗教的であらうか? 彼等の信するが如く、吾々は然く容易に、青少年の内に宗教心を見出し叉 認する畢が出凍やぅか? へ得たであらうか? その開花を期待する事が出凍やうか? 又あまりにキリスト 此等は彼等宗教心埋草次の研究に親しむ者の奏しく賛する疑問であるが 端的に云へば、彼等は同心現象の取扱に於て除りに欒軌的でなからうか? 教的ではなからうか? この鮎に閲し最近英米心理畢派の業績一曾絶括的に紹介批評し、その畢的越権を難じ、畢的愚度の ︵二︶ 修正を迫ったクレソの浪識には何人も承服しなければならないであらう。 然し一概に英米心理畢況を辞し、これに封し如上の疑問やクレンの批評の螢せらるゝ事が許さ ︵三︶ れるとしても、彼等英米心理畢派凡てが、この誤謬に陥ってゐると断言するのは柿々覇断的でめ る。その意味に於て一概に英米心理学涙と耕しても、彼等畢的内に於る研究法の相違に注意すべ 宗教繹鎗の二形悪 宗教霞瞼り二形壇 一︼八 きは勿論の泰、殊に宗教心の費連、宗敦覚醒の心理等の問題の取扱に封しては、彼等畢派内に於 て種々の相違も一のり、叉種々舜遷し凍れろ事に注意しなければならない。通じて云へば上越すも が如く、彼等宗教心理畢派の研究が著しくキリスト教の影響と宗教々常連勒に鍋を受けてゐる事 に想到するのであるが、此鮎は宗教覚醒の心理の取扱に於て特に顕しい。そり意殊に於て彼等宗 教心理学派は教権に対する関係の厚薄によつて、便宜上保守派と進取涙の二次に分けて、両者を よく取捨選探する必要がある様に考へられるのである。 こゝに諭せんとする宗致経験の二形愚とは、上述する所の英米心理畢派に於て研究せられて釆 た青年期に於る宗教心の費達、宗教的魔醒︵入信︶の現象についての検討でぁるが、こ∼にその経 鱒空一分したのは、前者の経歯をまとして晩成宗教への入信の過程に射する心理的説明と考へ、 後者の経験はまとして、宗政教生理諭の上から宗数的魔醍の心理一般性を諭するものと考へ、果 して青々ほ両者の経験中、その何れを選ぶべきかを考へて見たいと思ふりでぁる。 p.誓∽1ほ声 ︹〓 白pr灯、T・芦e誓冥ビ。l。Oq句○へRα︼直言∽A書付en山ロg. ︹二︺ ヨ昌︸声㌘cgt謬言ぎ通謀旦ち︼遥Y ︹三︺ ib声ヤー○−声 〓 蘭逢するが如く、英米心理畢涙に於ては宗教心の開花、螢展を青春期の特殊現象と見催して薙 た。又米国宗教心理畢涙に於ては従来澄開法によつてこの時期の宗教経験を問ひ、且っその時期 を年齢別に示して凍た。 然らば英米宗教心埋草涙に於ては、この青年期の宗教経凄の蓉蓬を心理上、如何に詮明するの であらうか? 彼等は先つ青年期に於る宗教意識乃至経壌の螢蓮の前提として、見量の票数に対 する傾向や髄カの存在を論諾しなければならない。 近代科挙の馨蓮以前には、免責に於る宗教的能力や傾向は、正邪を告げる良心の考と共に乳量 に内在せるものと紳畢的に考へられてゐた。然しこ∼に云ふ宗教心埋草は、か∼る醐畢的立場と 選を異にし、又勿論この神学的立場を完全に放棄してゐる。従って書々は往時信仰せられてゐた、 ﹁見童に於る天闊﹂の如き契粗的な憶説を宗教心理畢の内に見る事はない。見童はたゞ諸種の威農 本健・反射運動等の心理・生理的反諸傾向からなる、端的に云へば、免責には﹁動物性﹂が宿るのみ ︵一︶ であると云ふのが、近代心理畢の立場でぁる。従って宗教心埋草に於て見童に宗教的傾向や碓カ を許すとしても、それは此等の心理生理的な諸傾向、帝に此等の傾向の分化蚤展の中に宗教的傾 向を澄見しなければならない。 又役務宗教心理畢に於ては、此等諸種の傾向から宗教に対する傾向が種々規定せられて蒸た。 宗教経験の二形盛 宗教綬験の二形態 一二〇 例へばあるものは諸種の本能が人間に内在する庸から、此等の本能に封立せしめて、宗教的本能 を仮定するものもあつた。︵此試は勿論科畢以前の試でふ∵り、既に批判に堪へざるものである︶又 あるものは、人間に於る遊戯・模倣・同僚・暗示等の非特殊的傾向と同じく、非特殊的な票数的僚 ︵二︶ 向を仮定した。又あるものほ、更に進んで人間の眞・善・美に射する内的傾向を観取して、此と刷 じく宗致に射する内的傾向を求めたりして凍たのである。 それは云ふ迄もなく、幼少期に最も早く現るる琴恐怖・ 然らば徒蒸の宗教心埋草は此等の諸傾向申その何れを宗教に対する最も有力な要素として、乳 量の内に見出して凍たのであらうか? 愛等の情的・情操に見て凍たのである。これは既にポ!ルドゥイン氏が﹁免責の尊敬・愛・信・頗・憑 依等の情緒は、現場の人々に対して螢せられるので、此等の情潜の内には、倫理的なものも、宗 教的なものも澄見せられる。この情緒が宗教的であらうが、倫理的であらうが、この情緒は根本 ︵三︶ 的のものセある﹂と云った如く、この情緒は見童に於る宗教傾向として見逃すべからざるもので ある。 然し、債務情操と云ってそれが幼少期に最も早く螢達するものにしても、昔々は先づ情緒・情 操の何れたろかを心理的に規定してをく必要がぁる。 前述するが如く、宗教に射する免責の諮傾向中、そのまなるものは、情緒情操でなければへ㌧ら ないと云ふ。然し情操と云っても、これを還元すれば一の主なる慣習に汀アり、習慣を還元すれば 本能になると云はれる。何故ならば本能は修飾せられて習慣を組織し、又習慣の最も重要なもの は情操であるからである。その意暁に於て情操とは﹁ある対象に向って活動せんとする本能的諸 傾向を組織統一したもの﹂で、換言すれば情換とは一の人格智形成象徴するものである。今愛・ 恰・敬の情操の形成さる∼過程について見るに、第一愛情がある封象に向って習慣的に喚起せら るゝ結果、愛と云ふ情操が形成せられ、木蘭的な怒がぁる対象に向つて習慣的に喚起せらるゝ結 果、情意の情操が形成せられ、自卑の本能が習慣的に喚起せらるゝ結果、尊敬の情操が形成せら れるので、此等の情操は、何れも一の慣習と耕する事が出凍やう。更に此等の情操は単に個々の 対象物や事物の稀頻を中心として形成さろ∼許トでなく、抽象的概念、例へば自由、正義、眞理 朗等を中心として形成せらる∼事は云ふ迄もない。 以上の如く情操を、ある対象との関係に於て、本能的傾向の不断に喚起せられた結果と見れば それは一の習慣であるが、然し情操は習慣と根本的に相違したものである。何故ならば、習慣は 情操に比し容易に形成せられ、又情操与りも容易に破痩せられる。叉多くの習慣は自働的に形成 せられ、その機能はまとして注意力の経済やその活用をまとしたものである。然るに情操とは上 述するが如く、吾々に封し倦僅ある対象物に封する吾々の威情や本能的傾向を根本的に組織統一 宗教経験の二形態 宗教#臓竺一形せ ︼二二 したもので、端的に云へば、情操とは人間の愛し恨み令敬するもので、又その意味に於て情操が 一の人格を象徴する事は前述した通すである。 以上の如く、情操はその始め幼少期の本能的藷傾向が組織統一せられて、又それが諸の債佐一で 封象として習慣的に形成せらる∼ものとすれば、それは既に幼少期より人格上宝たる傾向となつ て存在してゐる畢は云ふ迄もないが、又これが環境と教育とによつて屏々溝大深化せられ、青年 期に至らて人格上長も根本的な傾向となつて費達する革も明白な所である。宗教心理畢は、恰か − 如上の情操が既成宗敦︵紳・致剋・垂典・敦園・儀蕗等︶に対す もこの情操の螢展を重要成し、もし少年が宗教的環境の内に成育すれば、此情操は宗教的情操と なつて宗教覚醒の経扱が現る∼事 ︵日︶ る情操となつて尊慮し、且つこの情操によつて倫理的な内容が深化せられるⅠ所謂従衆の宗教 魔醒といふ宗教経験即ち入信の現象が現れると云ふのである。且つこの宗教経験の費連型式に裁 ては、それが漸次的とされたり急激的とされたりして、種々の形式が奉げられて凍たのでぁるが 勿論上述する所の宗教情操螢連の形式は漸次的な宗教経唸を室とするもので、かの急激的な劇的 なレバイ.ハル等の入信形式とは全然相異したものである。叉上述するが如く、情緒情操の螢達の 中に宗政情操の尊慮を見るとすれば、これに環境と致育とを配すれば、青年期に至りて宗教情操 は荻窪し∵宗教的入信の現象の現る∼事は自然の過程と考へられやぅ。 〓止舞臣漁師賢賢宕.呼軒巾整㌣監駁賢覧艶巌悩讐卜i葦、ノ・⋮ノ ︹二︺ 例へlてオットーり主唱するが如くに。 ︹三︺.雷己致n、哲ci已琶d浮Fi旨l ln︷2−℃邑註○コS、p●諾可● ︹四︺ 尋恩ぎA哲邑邑−ニ童訂与:三笠嘗声り琵一芸 三 、−蒜㌣∵↓∵宣づ牒讃 然し以上の如く漸次的な宗数倍操螢蓬の形式に射し、その形式上書々の注意を曳くものは、ス ターノックやジェームスの解する危機的な入信現象、即ち同心であらうヤ即ち入信の現琴■ピ上述 するが如く漸次的な螢珪に見す、寧ろ青年期に於る心理生理的な危機に作ふ痛烈な現象とし、そ の原因を云クーパックは﹁不完全威﹂﹁罪患戚﹂とし、ジェームズほ﹁努力﹂﹁自己屈服﹂に見、且つ この現象を青年期の特殊現象として論じてゐる鮎でぁる。 勿論上述するが如き吾々の情操の費連の中から宗敦魔醸を見る事は、人格発展の上から見れば 自然の過程の様に思はれるが、此説明は情操の費達を環境と教育とに録して、その費蓮を梓せん とするので、廉く宗教的慾求から聾する宗教螢醒の現象を説明するものとは云へない。又それは 既成宗教の内に成育する薯の人格的費連の中に宗教情操の優位を認めて、入信の過程を説明する ものと考へられるので、磨く青年の一般現象を説明してゐるものとは考へられぬ。寧ろ各年な脆 一二三 から見て、宗政党醒と云ひ入信の現象と云ひ、もしそれが青年期の現象しLすれば、上越寸るが如 宗教#劇の一一形厳 宗教津駿竺一形態 ︼二四 き淡々水の如き螢達ではなく、危機的な慾求から螢達するものとしなければならない。その意殊 に於て、吾々は此つ宗教的覚醒に至る過程たる宗数的慾求の起源について一應考察して見る必要 がある。 今この宗教的慾求の起源を心理・生理的に研究したラーソに由れば、宗数的慾求ほ人間の行動 に対する諸傾向と環境との不調和・錯綜にその起源があ♭、且つこの踵唸は一ほ青年期−1如ち 青年期に薪に現る∼所の行動の諸傾向が抑歴せられて緊張状慈が招凍する。此が危機的荘瞼とし て、宗教的慾求を誘導する。他は中老期1即ち行動の傾向の衰頚Abk−i・−ge−1によつて、宗教的 慾求が誘導すると云って、宗教的慾求を心理・生理的に説明して、宗教的慾求を青年期のみの魂 ︵一︶ 象とせす、贋く人生全面に亙ってその一般性を説明してゐるのであるが、このラーン氏の所説と 共に宗放心理畢上、この愁求の費生を委細に説明したものは、蓋しフラワーの心理銘綜詭であら ぅと思ふ。 フラワ官はまとLて宗教の螢生的要素、即ら人間の宗教的慾求の寮生を進化論的心理畢によつ て諭給し、その愁求の普通性︰永久性を詑明しやう11してゐる。即ち書々の心理的生命の馨展を 遡り求めて行けば、トロビズJ︵ゴOp訂m︶の支配した段階、反射運動の支配した段階、本能の支 配する段階が求められるのであるが、此等の密度の段階を検討して行く時には、トロピズムの破 塾の産物が反妹温勒の中に見られ、反射運動の破壊の産物が本簡約反動の中に見らるゝと云ふ隠 序となるのであるが、又此等の段階は何れも外界への適合の形式としては、不完全のむのとして 進展して水たのである。人間は現在、此等の心理的生命の発展過程中、本簡約段階にゐる事が考 へられるのであるが、又この本簡約傾向も外界への適合の形式としては、不適合の形式たる事が 護明せられてゐる。従ってこの本簡約反動は破壊せられて意慾の段階に進んで行くのであるが、 然し現在人間の行動は主として本能的反勒をまとするものと考へられる。 もし吾々の心理的生命の費展一で以上の如︿考へれば、吾々ほ吾々の祖先が本麓的行動によつて 環境に適合してゐた段階に遡る事が出挙Qのでぁるが、勿論此等の人間の本能的反動の中には、 その形式に於て何等票数的なるのを見る事ほ出家ない。然し上述するが如く、此等の木蘭的傾向 は外界への適合の形式としては、不適合のものであるから、その傾向の中には︵例へば二個以上 の本餞が剥哉さる∼場合︶種々の矛盾錯綜が鐘起して凍り、こ∼に此等の本能的傾向は破壊せら ︵二︶ れなければならない。そこには所謂人間の意識が現れて凍るのであるが、此本餞的反動の破壊 − そこに意識の黎明と宗教の起源があると云ふのである。 上述する所は本能的諸傾向が外界と調和過合せざる結果に現る∼所の意識教生の現象であるが 然しこの本能的傾向の破壊後に於ては、本館的語傾向と外界環境との調和は、勿論意識乃至想像 宗教経験の二形悪 宗教経験り二形破 一二大 の働によつて濡たれ、文書々の有機憶はこの働によつて中筋の状態を持っ事が出水るのである。 然るに此等の意識乃至想像を以って外界との錯綜が除去せられても、なほ環境の状態が依然とし て未知の状感に止り、これに暫し完全に適合する事が出水す、部分的な適合が質現されてゐる場 合がある。此時にも有機髄は同じく不安な状鰻に陥り、焉に一方心象や想像は環境のその状憩に 対して投影せられ、又この投影せられた心象や想像に対して反動が輿へられるのであるが、此反 動が環境の状態と現質的に適合しないものである限ト、この反動は完全な適合の形式ではない。 この反動、この適合の失敗、此が宗教的反動として最も重要なものである。即ちこの錯綜の霹唸 は、上述するが如き、単なる本能的傾向の破壊せられた時の宗教経験ではなく、寧ろをれは人間 意識教生後に於ける錯綜の経験である。その意味に於てこの定検は人間が自己のカを以て適合す べからざる﹁あるもの﹂を環境の内に認識した結果としなければならないっその﹁あるもの﹂とは、 由水宗教史上に於て宗教信仰の対象として﹁超人問的なもの﹂﹁紳﹂として容認せられて黎たのであ 、一二︶ ると云ふのであるっ要之宗数的要求の寮生は本簡約傾向の破壊!そこに意識の黎明と宗敦の起 源がある。意識の静坐後に於ても、外界との不調和・錯綜の経験がある。そこに人間はたへす適 合せんとする﹁あるもの﹂一で要求して、此を適合の形式とせんとするので、結局外界との錯綜の経 験から宗教的慾求が起ると云ふのが、フラワーの宗教的慾求に封する心理的詭明である。 もし以上の如く人間に於る宗敬称慾求が進化論的に又心理的に存在する畢が許さるゝ︷仏らば、 その理論はラーンの所説と共に又直に青年期に於る宗数的慾求の経陰に通用せられ、又それに って、スクーノックやジェームズ等の耕する危横的ぢ宗教壁醒の経陰が開明せられ、第−の形式 と異♭たる青年期に於る宗教覚醒の異相が理解せらるゝであらうと思ふ。 ︹こ 冒すScieロ嵩呂dtどこ紆−igi。uS巳Pワーご−−−↓・ ︹二︺ 言語rこ㌻ApprO邑tOt訂崇Ⅵeb。−。g句。へR軋山号ロ・pJT夢 四 云ふ迄もなく、青年期は心学生理上、金生命の一大鼻草期である。ブラツトが云ふが如く青 年期は1肉健上の諸のカが楼蘭的に馨達する事﹂1侍授された知力を完全に自己のもの一号る事﹂ ︵一︶ 1政令への適合﹂1物我よト自我への鬱屈﹂の四大特徴を塞げる事が出水るが、その中にも遺博さ れた諸の本能的傾向の成熟と螢建と、この成熟螢蓮の中に現る∼心理的反動とは、その最も著し い現象と考へなければならない。換言すれば、青年期はラーソの云ふが如く錯綜の可とせら 状態を特質とする事である。その意暁に於て青年期は心理生理上の所謂廃義の﹁同心﹂現象 期であると云へやう。 〓−七 反之少年期は青年期と選り、その行劾は芋として自己中心的であり、少年の反動的諸傾向と 宗教経験の〓形駁 宗教祥故竺−形迫 一二八 境とは一致し、その間に何等の錯綜は現れてゐない。ブラッ下が﹁少年はこの世界に小さい動物 として現れてくるので、教卒の聞、彼は心理的事物以下のものである。少年を動かす諸の勒機は 主として修飾されない、又抑制されない本餞である。又此等の本能は彼を勒かし彼の生命を支配 する。賓際吾々は少年に於ては、支配すべき如何なる自我も、如何なる﹁彼﹂も螢見する事は出来 ない。従って少年期に於る一大事菜は、少年が本懐や衝動の道具となると云ふよりも、寧ろその ︵二︶ ま人となるペき眞の﹁自我﹂を形成する事である﹂と云った如く、その行動はまとして心理以下 のものであり、叉その反動は主として環境によつて充足されて、環境と調和を持つと云ふべきも のでその傾向と環境との間には矛盾は現れてゐないのである。又少年自身この環境との調和によ って環境の内に﹁別異﹂のものを白魔せしめられると云ふ革もないのである。換言すれば、その傾 向と環境とほ、よく統制せられ調和せられてゐる打で、又少年自身環境との矛盾を白魔する迄に 成熟してゐないのである。 然るに青年期は上述するが如く、諸種の傾向の澄建と共に、幼少期の単なる反動的健カより識 別的確カの教生、馨達して行く事、即ち﹁反動的能力以上に識別力の超過して行く事﹂を特徴とす る。換言すれば、少年期の連合的段階より、反動的傾向と識別された環境との不均衝へ、即ち錯 J−︰ ∴ 二覿 綜の経厳の可とせらる∼妖感に進んで行くのがその特徴である。もし青年期のかヽる特徴を以つ ・︰ ですれぼ、ブラアーの宗洗蜃生託によつでb奉聴聴講儒廠と礪墟と併棚卸珠確把極把少率郷に増 ては宗教的経験は見られす、寧ろ本能的諸傾向の破壊せられ錯綜の経陰の現る∼青年期にある事 ∵ユYJ ほ云ふ迄もない所であらう。叉その意味に於て青年期の宗教的魔醒が第一の形式の宗教塵醒と異 ♭たる意味に於て問題とせられて来るのである。書々が第一の形式の宗教的覚醒と分ってスター ノックやジェームスの云ふ危機的な宗教魔醒一里挙げたのは、如上の意味からである。 既に述べた如く、此種の危機的経唸から督する宗教魔醒を論じたのは、スターバックとジェー ムスであらう。従って先づスターノックの記述した所の票数覚醒︵同心︶の形式について考察して みやう。スターバックは宗教覚醒の型を﹁罪から逃るゝ型﹂と﹁霊的光凝型Lの二に分ち後者の魔醒 については﹁この覚醒は、何れにしても、最も普遍的な青年期の常澄の経験である様に思はれ る。この経験には、より大なる生命に対する苦闘が包括せられ、且つこの程駿には屡々不安と吉 備が伴ってゐるが、まとして積極的な経験である。⋮︰勿論この後着の魔醒には、罪悪から透る る危機以前に於る成情と同一の戚情を伴ってゐるが、然し此場合に於ける戚借とは、新しい内観 ︵三︶ に到達し難いと云ふ中心革質に封し、畢に附随物に過ぎない﹂と云ひ、更にこの覚醒経験空一に 分ち︵一︶罪悪戚、︵二︶不完全の感情とし﹁もし書々が研究してゐる覚醒が代表的なものとすれば ︵円︶ 不完全の成情を伴った覚醒型は罪悪戚を伴った覚醒型よりも一般的である﹂と云って、青年期の 宗教経梯の二形態 宗教脛脾の二形態 宗教的覚醒の一般的原因を不完全の戚傍としてゐるのである。 今これをフラワーの錯綜説を似てすれば、この不完全の感情とは、即ち青年期の錯綜の経験 基くものであるが、詳言すれば錯綜の握扱から放して適合せんとする﹁あるもの﹂一ぞ追求す によつて将来せしめられた一の心理的情緒的状態であると云ふ事が出水る。スターバックは宗 的覚醒経験の材料をキリスト教徒の中に求めた焉、この経食の主なろ原因を罪悪戚に見たので るが、此にほ何等不思議はない。何故ならば、この程壌者が幼少期より、散骨教育等を受けて るものとすれば、その場合経唸者が錯綜に倖ふ情滴をキリスト教の罪悪成やその他キリスト数 理に注いで、その情緒を深めて行く事は自然で・のるからで今匂。従ってスターノックが分類 宗教魔醒の一般的原因は、青年期一般の不完全の成備に録する事が出水るので、又これがその 接的原固の如く考へられるのである。 然し以上の如き錯綜によりて清水せしめられた情緒的朕壊は、勿論何物かによつて解滑せら 心理上の中衛が同復されなければならない。もしこの状騒が解滑されない場合には、身心の破 を導く事となるのである。従ってもし此心的状態に暫し、より強烈な感情の中心となつて働く な心象が輿へられるならば、その情滞約款態にほ塵化が奥へられ、又その状態は解滑せられる であるが、そこに心理的特換が賓現せられ、心理上の中衛が同役せられて来るのであ空この 曜的博捜が即ち徒水宗数的堅醒、即ち﹁同心﹂とし丁、宗教的に幣敵ひた・・;ものゝ如く考へら れて家たのであるが、その心理的過程は結局、心理的活動に封し、その猫足すべき造が開かれて その活動が浦さる∼現象を指すのである。然るに徒凍この心理的活動を開き、又これを充すもの が、キリスト教的に﹁天からのカ﹂﹁重量の働﹂によるもの∼如く考へられて務たのでぁるが、此 は上述するが如く、環境・教育の結果と見るペきものである。 ︹註こ り邑、≠0芽︼i乳Ou∽9n乳○−−Sng−p﹂声 ︹孟二︺ ib⋮d.p﹂声 ︹註三︺ 望誓buc打・芦eワ笠10︼Og﹃er詳l藍On、p.∽P ︹ま四︺ i疇︶idニ︶.S︸−0000. 五 若し以上の如く、青年期の宗教螢醒現象が錯綜に伴ふ心理的情緒を解消する心痙現象であると すれば、その現象の特質は、コーの云ふが如く、︵一︶自我の根本的舜草、︵二︶この登草が自費的 二︶ のものと云ふよりも、他費的のものと考へらるゝ事、︵三︶生命・濃度の礎革、︵四︶自我の向上解 放、涛大等の四義に要約せらる∼であらうが、結局自我の解放、漬大と云ひ、それは備鮨的状態 の解滑せられて、心的特換の行はれた一の瑛大せられた意表就農に過ぎないのである。此経験が 宗教的と耕せられるのはその癖渚的親藩を解滑するものを、主として既成宗教的要素に求めて凍 宗教鮮卑の二形態 1 宗教経験の二形態 一三二 たが虜に、所謂宗数的覚醒、﹁入信L等と耕せられて茶たのでぁるが、もしこの情溝的状憩を解滑 するものを異にすれば、所謂非宗教的な覚醒、例へば澄明・螢見等の経瞼となつて現る∼事は、 随所に見らる∼現象である。 その意味に於て、青年期の宗教的魔醒の現象はその粕に於て、宗数的とも非宗数的とも考へら れるのであるが、今もしフラワーの云ふが如く、環境の内に知的に把握する事の出来ない状態が ︵二︶ 存在し、又この状態との関係に於て宗教的慾求の存在する事が、進化論的に諾明さる∼ならば、 この現象を宗数的経瞼と考へても、決して誤謬ではないと思ふ。又この説明の方が、徒務考へら れて恋た入信の現象と異った意簸で、宗教魔醒の一般性を理解する事が出凍ると思ふ。 以上吾々は青年期の宗致心螢達の過程につき、一を情操の蓉連の上から、環境と教育による漸 次的持ヱ臼然的螢達に見、他を危機的経験から費する宗教的経験に見て凍たのである。云ふ迄もな く、吾々は文化の費建と既成宗教の健全な螢蓮の上から、前者の宗教的費蓮を希望するものであ 砂くとも既成宗教への信腰地に堕ち、上下摩って混乱の怒涛に捲き込 る。然し晩成宗教の凋落と危機的︵u現代位相とは、前者の螢蓮を裏切ケ、寧ろ後者の経藤一ぞ助成 してゐるのではないか? 最 まれて居る今日、第一形式の宗教情操の費連を期するが如き事は、よし教育のカを侯つとするも 至詳の事業としなければならない。寧ろ第二の形式=そ、青年を動かす現琶劇ではないか? 後に二言しで置たい拳は、策二の危機弥経験教室としでし青年椛伊環無としで鹿で躯腔轢極ど駐 p﹂芦 この程験は決して青年期のみの現象でない事である。 ︹こ ︵訂こぎら百計︼Og﹃已二評lせOP ︹二︺ 勺・ヨ○司βAnA苫rOaCF︷Ot訂汐¥F已。g﹃。へ穿︼ig⋮○ヨ一幕一章、併にJ呂き憎首葛邑冒ここ喜−曽P参照 宗教軽傲の二形迫 宗教現象ミ経済現象ミの関係 宗教現象と経済現象との踊係 重甥㌻買i㌢g叫sme宗教畢詭に於け一っ一課題 吉 − 野 ︼三四 清 人 科挙は方法に立つ。賓澄科畢的異理の把握は優秀なる方法によらねばならない。しかし最も蕨 曇な科挙的方法と雄も、諸事賞によつて不断に修正し更新されなければ蓬ひには荒我とな♭峯虚 と化する。科畢的眞理は相対的でぁつて絶対的ではない。モンテスキュやコントの侍兢的威化を 受けて政令単に異に畢的基礎を輿へたフランス赴曾畢況の樹立者エミル・デュ〝ケムの﹁敢曾畢的 方法の規準﹂は、何にもまして、あらゆる膏畢に俸接しないこと及び客観的方法を用ふるにあつ た。彼の方法論は赴曾的事賓は事物であら且また事物として取扱はれぬばならぬト・Jの観念で主宰 p象u㌻︷m を一掃 されてゐる。あらゆる現象のぅちでも殊に複雑な政令現象を畢的研究の対象とするにほ、各人が 日常生活に於てなす如き皮相な因習的観察や一時的の印象から生れた鋸渡した し、すべての個人的サンチマソクリスムを脱却し、自然科挙者の如き冷静なる貰澄的精細︵袋prit せCS試r︶を以で赦骨現象に直面しこれを分析し分類し或ほ綜合しなければならない。それには、敢 琶りe警e−−2n籍赴禽現象でぁるが故に、宗敦現象も亦かくの如き祉曾畢 骨的専貰を客観的賓在と看倣して、これを拳櫛として併発す・仇にぁるとしに。しかるに、デュ麿ダ ムによれば、宗教現象は 的方法を用ひて探求さるペきであり且またこの鋭角からの研究が最も有効であると。かくして彼 はウィリアム・ジェームスの﹁宗政経駿の諸相﹂を観察することを排して、宗教を史的に輿へられた 外的串貰として研究したのである。 しかも宗教は政曾生活の最も深奥な頴現であるとはデュルケムに於ては牢固として抜く餞はぎ ろ確信であつた。彼は宗教とは何であるかに関して未だ科畢的概念を有しないと告白してゐる時 ︵一︶ に於ても、宗致は始瀕ではすべてに瑛充され、敢骨的なものは悉く宗数的であ∵り、この二つの語 は唱n昌﹃meであるとした。この畢位圭論文﹁分業論﹂︵一八九三︶で彼ほ殻令達帝に機械的と有 機的との二種あることを認め、前者は環簡的政令︵舌代社食︶に後者は組成的敢骨︵近代鹿骨︶に 特有であることを明かにした。しかして、高級諸政合の組織に関する研究を限臼りとしたこの著作 ︵二︶ では近代政曾では諸宗敦が著しく衰微する傾向あることを注目し、最後の労作﹁宗教生活の原初 形態﹂︵一九一二︶の結論では法律、道徳、科挙、技術等の諸文化が宗教的起戚であることを指摘 ︵三︶ して﹁殆んどすペての大赦骨制度は宗教から生れた﹂と云ひうると断じ隠。しかし乍ら経済的括 ︵田︶ 勒のみは未だ明白に宗教に連結しえない敢骨的活動の唯一の彩産でぁると附言Lた。勿論この場 宗教現象ミ経済現象ミの関係 宗教現象ミ経済現象ミの闊係 〓ニ六 合デュルケムは経済的償僅の観念と宗教的優位の軌念との間に何かの関係があることは瞥見して ゐたのであるが、これらの関係の性質については未だ事賓によつては研究しなかったのである。 従って備にチャクートソ=ヒルの如くデュルケム自身既に﹁敢曾単年報L第二禦一八九七−九八︶の 序言を執筆した暫時から、経済組織も亦宗教組織から派生したと確認したと看倣しうるにしても、 デュルケムが未だ賓澄しうる拳賓を把握しえないこの問題を保留してをくと記してゐる眞費なる 畢約態度を看過してはならないのである。けれどもヒルがこの問題に疑惑を抱く人々にはブグ涙 の印度のカスト研究ロ▼夢茎g︼仇、詳仏已芸r−eR蚤med認C琵ぎー苫∞は確葦を奥へると思ふと ︵五︶ 記してゐるのは多少とも興味深い。それにも拘らす、ブグレほ超脱では本質的に宗教的制度であ るカヌトのr蚤meが経済生活の諸部面に染色しぅる固有の色彩を注目してはゐても、如何にし て経済が宗致の母髄から派生したかの賓澄約諾掠をあげてはゐない。この問題に答へたのはマル セル・モスである。師にして叔父なるデュルケムの畢風を蒐いで一層賓澄的に諸政曾現象殊に宗敦 現象を掟求して、今日デュルケム畢徒の盟主として所謂ロか?乳○−Ogi芦0に立脚して清華を措けつ つあるモスその人でぁる。 ︵こ せel少苧訂i。n計t雲邑買i阜−盟声m二a.、ワ一缶−−声 ︵二︺ lbi㌢彼托まで、の者の琴一版の序言で、曾てに二次的克復甲しか茨亡兄かつた経済的機能が二世抱この方今や第、位 を彦娠てむる、iか草し、:ねに柵撃して箪蓼酢行政軸友貯纂枇鵬殊詐態聴餅離舞仁能率レで僻しこぐ料漉.∼で蝕轟陶 ︵Op●Cit●−ワⅠく・︶。 ︵三︶ ﹃Or︼空景h云首ent鼠rem d▲こpエ¢ 邑igieu箱−−望這−ワ雷㌢ ︵四︶ Ibid.−n.柑●デュルケム‘‡既lこ﹁鑓合車年報﹂を常刊する昔時から鍍含生活にこ於けろ宗教の役割な強調し、その故に宗 教証骨撃の部門な最重要成上王ゐであろ。年報第二巷序文︵四−玉東︶に揚げられてゐる所詮は彼の宗教奉祝な昧到 するためlこlェ不可妖でぁろ。 p●∞︶ ︵五︶ ¢●Ch邑旦2白き巳舎已¢苔eiO︸Ogiqned鎗邑igiOn払︵詳言ed云どOi・d▲叉de巴t答ぇ彗e邑駐eeemこ芦・態ゴー一望嶋− モスはデュルケム宗教学詮の蓉展に大いに協力したと思はれるし、且また彼自身の宗教赴曾畢 設ほ厳密に蒐集された資料の豊富と方法論的精錬とに於て、他方また恐らくデュルケムに於ても 潜勢的なものを展開して進むべき新なる方向を決定したことに於て、現今の宗教畢詭のうちでも 最も注目すべき所説である。しかし、こ∼ではその畢説の全豹を窺ふことは出凍ないので、主と して宗教現象と経済現象との闊達を叙し併せて彼が提唱してゐる仝健的赴合事賓の研究にも一言 したい。 最近のデュルケム畢況に於いて、経済赴骨撃と宗教政令畢との園連についての最も貴重な文献 は共に新輯﹁政令畢年報﹂の第一巷︵一九二三−二四︶及び二審︵一九二四−二五︶の若頭論文 宗教現象ミ経済現象ヾJの珊係 宗教現象ミ軽訝現象ミの関係 −三八 毘−呂g認ritニe訂en として掲げられたモスの﹁贈輿論L芦宅岩深山E箪i≡ニQ冒臼−増0呂e罵eF乱雲ede−麿F呂geと 竜ニュの﹁北並の儀頑的交換に関する攻究﹂R・民芸n訂rいR2註e岩訂¢2r−品 A手首完dll甥01・dとである。両論文ともに未開放曾の経済制度殊に贈輿=交換︵g5・2当訂nge−d昌・ 笠︼呂g2︶の機能的研究を試みたもので、この種の経済活動の基本的性質とこれを騙り立てゝゆく 背面のカを理解し更に経済現象と他の敢骨現象の諸部面・−−呪術・宗教・法律・技術・姻籍臨係等− との関係を把持することを主眼としたものである。モスの所謂﹁全健約款食事軍配t⋮Ce叫岩内芝き鴇 としての贈輿=交換及びこれに近似した現象の政令的機能を開明したものでぁる。か∼る経済的 制度の機能的研究の方法ほ英米覇の樺成ある多くの民族畢者や人類単著が最近大いに注目してゐ る黙で修めてゐる結果も頗る餞多であると共に将来に亙って益々費展することを預想せしめる。 恐らく今後原始経済の研究に指導的役割を演する方法であらうと思はれる。しかして、斯る諸政 二︶ 曾制度の機能的研究はフ丁−スの指示を侯つまでもなく、貰にデュルケム及び﹁吐合単年報﹂同人 の著作が先靂哲なし化ものであり、且また他の多くの民族畢や放骨畢の詳宇ヨrkeruとも多少と も親鮎を異にしてこれに卓越した理論的健系を輿へたところにモス等の覇自な寄輿と立場とが存 してゐる。 元水毛スによれば、現存の未開社食に於ても又は舌代敵骨に於ても徒凍の経済単著のよく云ふ 詐取隆酢に敬したむ砂藍寧ろ在駐しはかつ陪。護ら既髄のこれら陛飯能鉦鰹節や鹿挿でば、僻 間に布ほるゝ市場に於て畢なる財・写生産物の交換なるものは認め難い。先つ相互で交換し契 をすることを拘束されるのは個人ではなくて集合健であアり、契約に現はれてゐるのは道徳的 である。帥ちこの場合に集囲をなして対立し合ふのは氏族であ♭部族であり家族である。しか 彼等が交換するのは財・富・動産及び不動産、経済的に有用な事物とのみは限らない。それは もまして、應節・饗應・儀鹿・軍務・婦人・子供・舞踊・祝祭及び市である。加ふるにこれら ︵pr窃giOn︶と逆給伸︵2ロtr?pre賢ti。n︶とは贈物や進物をすると云ふ寧ろ任意的な形式で蕾まれ るが根本的には義務的拘束的で、それを果さないと公私の戦闘何かの制裁に訴へられるのであ これらの制度の最も純粋な型はオーストラリア土人や北アメリカ土人全般に於ける南支族︵pF苧 trie︶の同盟に認められる。こ∼では儀鹿・結婚・財産相緯・法律及び利益の関係・軍事及び滑制上 の位階等は悉く相補的で、一部族の他の竿身の協力を想定してゐる。また北米のトリソキト族 ハイダ族などのポトラッチ︵号−賢F︶の制度などはこれの比較的に進化した稀なものである。 この種の契約法のr蚤meであると共に経済的給付の膿系であるモスの所謂﹁全鰻的給付の億 系﹂唱00註巨鑓de切pre賢tiO巳訂已謡は極めて複推した現象であつて、これらの未開及び舌代の敢曾 を構成してゐる絶てがこ∼に混潰してゐるのである。これらの全盟的政令現象は宗数的・法制的・ 宗教現象寸J経済現象ミの闇係 ー、経済的 − 一四〇 これは製産と滑卓 ー”仏あらゆる雇類の制度を同時に表明し これらはまた同時に政治的及び家族的でぁる 宗教現象ミ経済現象ごの防備 及び道徳的 − との或は寧ろ給付と分配との特種形成を倍足してゐる でゐるのである。尚またこれらの事賓が到達する美的現象やこれらの制度が現はしてゐる形感畢 この論文はモスが久しく探求を磨けてゐる斬る贋汎な﹁仝憬的給甘の健系﹂の一断片としての 的現象をも。 ︵〓︶ 屠典を取扱ひ、主としてこの舌代社食に於ける交換の彩感と理由とを究明せんとしたものである。 即ち舌代型の諸政骨に於て、受取った贈物を義務的に返威する様にした法戌と利害関係との規準 は何であるか、或者が輿へ受贈者がこれに射し返しをする様にするその事物のうちには如何なる カが存してゐるかの題目を吟晩したものである。 資料の取扱ひ方としては最還した諸分野︵ポリネシア・メラネシア・北米インド人及び古代史の 諸法律等︶の類型による比較法を採ってゐる。しかし、か∼る給付の精細的機制のうちで最も重 要なのは受けた贈物を返さねばならないことにあるが、か∼る赴曾的拘束の道徳的宗数的理由は ポ,ネシアで明瞭に窺はれるとして特にこの地方を観察してゐる。 サモア諸島では、か∼る契約的進物は従蒸考へられてゐた如く結婚の場合のみに限られす、出 →∴ン・こ∵ こ∵∵ .川−軍営諒臣長.ご㌔ 生・割遼・疾病・妙齢・葬儀﹂通商等にも附醸 付し 随て し、 て所 、謂 灘ポ 謂ー ポラ ーヅ ラチ プの チ基 の本 基的 本表 的芸 尊聖 属∵ い即 灘ち 沌富 藩が典 輿へ㌢ 打あ 払. 驚梁 r空きEか駐監一 奉い膝敵及躍†ナの罫索と腔簸に濫赦すを賂鞍搬轟罷秋野森と昨春事攣jと敏感じで艦慧傭腰 た土人の○︼○幹、tO長Pなる財産の観念−殊に後者の1は非常に廉い意味で、マオブ、タヒチ、 トンガ等では固有の資産全部・交換される有ゆるものを含んでゐる。それは排他的に財琴護符・ 紋苧重なる席や偶像であアり、時としては侍承や呪術的祀秤や儀遵である。これはマレイ=ポリネ シア全般及び全太平洋に弘布してゐると信せらるる資産=護符の概念と接合す一Qものである。し かも、このトンガt冒ngpはマオリ人の法律及び宗教設では極めて人・氏準土地に密着してゐて、 †ナや呪術的宗教的及び精神的のカの妓介物である。しかして、このトンガほハクー一書帥ち精神 力或はスピリットを有しゐる。この♪クが贈輿された進物に対して邁澄をする義務を課するので ︵三︶ ある。 僻また仝髄的給付やポトラッチの制度を完全に知るには受けた進物に返虐するのみでなく、更 に進物をなすこと、これを受ける義移との二つを説明しなければならない。受ける義務に関して は容易に氏族・家族・組合・骨長・個人の関係に於て多数の事賓を見出しうる。奥へる義務も同棲 大切で輿へることを拒否し招待を無成するのは共に戦ひ皇旦するにも等しく又同盟や共同を拒絶 することになる。 か∼る政令的制度はまたメラネシアに於ても見出される。彿領ニューカレドニアのこの風習は 宗教現象ミ経済現象ミの関係 一四二 によつて明示されたし、ト・ロブリアソド諸島のそれに隣しては記述敢骨畢の最良の著 票数現象ミ経済現象ヾ﹂の静係 ︷誌Ⅰ︸−︼罵dt 述の一である野呂plillO雲打iのArg昌買訂つ︻tbe弓邑e⊇雷ei評−−諾和がある。マリノクスキが この書で特記してゐる部族の封内外の交換の一形態である内已p鰹系は極度に贋範囲でまた複雑 な制度である。それは内々で一時的な交換の形態ではなくて、却って、神話に根ざし背面には僧 ︵喜nter・乳諦を一定の期間に返すことから成立してゐる。これこそ具 承的法砕を有し呪術又ほ宗教的の儀鹿で国境されてゐる。そして主として内u㌻はeeremO−−ia−gき を輿へ、これに射し同値の ±lur−︼弓已dの 夢−i−−の諸族や 出○ロ翼○族に関する美事な記餞 に典型的な経済的・法制的・道徳的の合成制度であると共によた紳話的呪絹的及び宗教的の部面で も有してゐるのである。或はまた ー 交換される贈奥の傍系 a已t註eの健系は単にこれらの南海の諸民族のみに止らす、西北アメリカのイン に徹しても、交換された事物の票数的特質が明白である。 かゝる号1e ド人諸政曾のポ⊥rラ㍉チに於ても亦明瞭に検定される。このポトラつチ ‡−に謝してはモスはダガイと共同締究をしてゐたのであるが、後者はその学位論文﹁誓信﹄G・ D雲q−1J中家pirぎー¢持柏でガトラゥチの法制的方面︵契約としての︶を研究したが、この方面と劣 シ††ソ的である。 潤托滞納ばいぎ描か⋮賢滑落狼㌻臣駁駐 ︵d︶ らす重要な宗教的脛済的方面を強調したのはモスである。この制度は﹁仝憤的﹂の現象であつて、 単に法制的に止らす、宗教的醐 軒先や淋ケを代鼓した云はゞ化身てをの者針帯折檻簸飯無廟哀なし廠裏佗彼等恥棉盛に頒鹿鱒 てゐるから。ポトラッチほまた経済的でも政令形憩畢的の現象でもある。特に注目すべきはポト ラリチで交慢される事物ほ輿へ受け返す三つの義務を課する特種の功徳を有してゐることでぁる。 第一に輿へる義務・拘束がこの制度の本質である。財の分配であるポトラッチはまた軍事法制経済 宗教的のあらゆる意味を含めた﹁認知﹂の基本行虜である。次に受ける義務も劣らす拘束を有す る。屠輿としてのポLrラッチを拒否する樺利はない。最後に、返す義務はそれが全く破壊されて 了ふ性質のものを除いてはポしrラッチの絶てゞある。相應ずる返しをする義務は無上命法でぁる。 取扱はれた上述の資料は局限された人種畢上の諸領域によつて提供されたものであるが、かゝる 贈輿=交換の形憩はインド・ユpビアソの舌代文明や舌代支那にても瞥見しうる贋汎互制度で ある。 これを要するに、滑輿=交換の経済畢は従凍の畢界を主宰し膵であつた散文的な功利主義や重 商主義、合叩主義或は所謂自然経済の領域を去ることが如何に速いかを賓意する。吾らが種臍的 と呼んでゐる苅る活動は配合的活動である。未開放骨の土人蓮が物質的顧址を享受するために行 ふ生活のこの部面は嘩除の譜面面から全く孤立せしめることは出奔ない。経済的なものは断えす 不宗教的呪術的な観念によつて錯建化され、偉承的な盛型によつて潰せられ鹿骨組織及び一般文 宗教現象ミ緑野現象ごの閑緯 宗教褐象ミ経済現象どの臍係 化の諸蔓によつて襲形されてゐる。原始経済の性讐課違く還するにはそれ雪姦的L赴 貪象として考察しなければ誉ない。しかも、この原始経済はすペて未だ宗教的要雫 ゐる。即ち貨幣は未だ呪術力嘉し氏族或は個人と連結Lてゐる。幾多の霊的活動例へば市場 ︵五︶ は儀虐と押詰とに汚攣れてゐる。そしてこれらの活動は祭式・拘束・有効の特性品 と法規とにみちてゐるのである。この見地からして、経済慣偲の観念が豪的嘉であ 澄明して、デュルケムの預測を澄田たらしめうるのでゃら。 ノウスキイ博士の研究法ね躇琴し、驚く・へ与盛多の好結果ね修ゆてゐる。 ︵こぞmOnd冒∫茅き昌○邑雪ご訂誉Ne已Pnd旨三富−p・串プア−ス博士に=の学位謹文で; 於けろ殊に宗教的経済的法律的等の公憤的関係堅甲してゐる。 ︵二︶モスほ=の一形警・しての2賀冒罫=ニ官許邑eri叉嘲弄羞︶みも賛衰亡てゐる。これ姦族叉ほ姻戚奥歯め内恵た 呂呂彷盲r2nt診Ⅰ︶l監邑2ri三芳︵慧信廣諾﹁無邁璧認完成﹂−﹁犀族拳﹂謁毅彦鹿︶ ︵三︶更にモス法典基換きn−ieロd蜜還換亨れば人格の相互交警L克てゐろが7丁−スはか・呈辞托邑孟 be︼ierでほないミ去ふ︵lb弾ここ岳−芸︶。 ︵四︶ポトラッチの制度は勿論アメリカの人類学者が紹介圭も写雪が、そり書的償値並びにぎ圭プチ蒙ふ諾艮 族の組織や宗致ごの=れの漂窟申し去は蛋が甲してゐ易くモスで雪︵D責Op・Cヂp●−夢︶。 ︵五︶ 声試p壷−Op一eit..ワーざ で春トモー三の詠史はモス終末笠二甘及しへ保加りたを髄師艦健の一で鹿屋聡アア野趣邸餞頑鰯憂 ー の制度にカ駄を置いてゐる。この儀應的贈輿は翠碗にこ 換を吟味したもので、殊に唇pt−y〓eの︷蔓−乱丁−⊥祀祭に贈輿一ピなすことをア・ルゼリ及びカビリ でもこのアラビア語で呼びなしてゐる 行はれるのではなくて、公式の親祭の一時分として牡汲裡に行はる∼ものである。それは結鮪・出 生・剖感。入園等の儀式の時に行はれるgi亭2誓訂ngeでぁる。t冒壷aは親祭の一過程であつて式 畢に徒ふ。それはまた一定の材料を帯びて規定通りの上演を要求する。 この儀式は翌なるイそフムの降着が讃する所感によつて阻始される。居輿者は聴次に立って唐 物を置いて元の備に沈激して引返してくる。その間呼丁は彼等の具申に立ってゐる。そして笹粛 な大琴で供物を受取る毎にその寄進者と偉打とを公表する。例へば、﹁モホメソドの子アブドン・ア リは二㌢ヨウを寄進した﹂とか或は贈物が返しの場合には﹁嘗て一ドゥpを唸られ窄⋮⋮アリは 二ドゥ二rを寄進した﹂とか叫ぶ。かくの如くd2註。−−と↓翼tuti。−1は公衆の前で宣言され槍誰さ れる。従って、これらの法式のうちには宗教的要義に混じて異質の法制的要轟が今0。而もそこ には美的要勇も亦見出される。何となれば呼丁は屡々その琴不的技巧の故に選ばれた道化役七演 する一種の演出者でぁるからこの戒祭の行動の中には宗教的儀過と法制的行満と美的塵戯とが混 ヽヽヽヽヽヽヽ 落してゐるのである。野外でのこの骨合は同時に数曾・裁判所・劇場である。へ一C賢一弓註昌計r軒﹀ 宗教現象ヾJ霹滞現象ミの鳳係 宗教現象ミ経済現象ミの闊儀 一空ハ ぎll註。Fdedr。i訂eニ2巴註呂debie展。b−官tiOn、pβu家昌乳rぎ賢i葺こe象rこ蓋rか訂 leu︰㌻b壷p−e︼−COre占⋮○卓邑ぎ什軋⋮nmかme訂Ep㌔p・芦 しでゐる。贈典は所有の移行︵tr買切ぎde p。蛮Si且として働くが、同時に拘束の源泉︵讐r︹e そしてまたか、る儀虐的所作の結果に於ても経済的なもの・法制的なもの・宗教的打アもの 、、、、、ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽ dさb宮iC−−︶及び琴沌の原因︵c書籍debかn斧−i且でもある。法律的には、進物には返済すべき務 がある。そしてククチでは逆贈輿は歴奥より優秀でなければならない。進物の提供はよた宗 効果を有してゐる。それは祭式に於ける一つのepi監eであるから、頑挿の一部をなしてゐる。 それはbPrak晶ちマナ字フける有効な儀虐でぁる。それは成東の原因として働く。宗教的儀遼は 准多な功徳をもつてゐる。それは発巷を維持し富を製産し辛廟を獲得する。徒つで受けた貯輿 返済をしなければ農巷な失ふのである。かくの如き、ククサは伍って1擬設的暦奥に秘められた 高利的で不時へ与儀盛約交換﹂と定義しうる。しかしこの儀産的変換の形態は多少の菱和を政 アフリカに弘布してゐる制度である。 停またモニュによれば、典へ返される進廟は利益でぁると共に善行即ち道徳的なものである それは宗教的儀蕗としては紳磁力を動かすのである。筋輿は秘められたカ能によつて貯輿君自 に剰垂を典へる。それは不幸を避けて章扁を翳す。ククナとにこれを要するに1借用貸僻∴曾替 賢乱賢㌻こでみなqそれ虹○賢g鎧昌、伽藍監i影醗賢藍監・と意義し・㌢鱒髄卵弊ザ噛儒東壁−確守 を命じ輿論がこれを保迂する。それは敬慶に指揮され、自尊心によつて維持されてゐる。それは 宗教と法律とによつてゐる。それは儀鹿の威容を有してゐる。それは澄評の楼式と時期とであろ﹂ ︵九六頁︶l︶即ちククサは登髄的赦骨事賓の一であつ七、宗致現象もその一として相関的に観察さ るべきことを媛示してゐる。 吾らはこゝにモス及びモニュの論文によつて、貯輿=交換琴u鼻腔約款骨事貰に於て清する宗 教的要素の疫割を素描きしえたと思ふ。香らの今日呼んでゐる経済現象はこれらの未開放合音代 l−音02C害毒icu仇 である以 敢骨でほ宗教的法制的等を含めた全能的事貰である?未開放禽に於て人は畢なる経済的存在であ るのみでなくて宗教的怯梓的美的等の存在である。そしてまた人は 上にh喜0−・佗茸i彗肌である。これらの拳賓が宗教的であるとは、最密に宗教と云ふ意酸からも、 呪術上からもアニミズムからも且また弘布してゐる宗教的心意からもそうでぁる。この種の仝放 骨現象は諸制度の要素、宗教経済法律等に区別された制度の諸憶系以上のものである。政令的健 系の全健でぁる。香らは動的又は生理畢的の状厳に於て赴骨を観察しなければならぬっそしてモ スは全憶を考察することによつて始めて、政令の本贋、仝健の動き、生き化部面を認知するこし﹂ 出水るとして、か∼る敢曾生活の具燈的観察こそ新互革質を把握すろ手段を供給すると云ふじ彼 宗教現象ミ樫済現象ごの師係 崇敬現象ヾJ経済相象ミの関係 は登髄的社曾客質の研究こそ今日最も緊要にして効果多きものであると琴富してゐるのでぁる。 宗教現象が経済現象と密接に交錯してゐるのは竜ニュや毛スが指摘し光来開赴禽のみに止らな い。近代に於ても、キリスト数殊に新教と驚本重義の深い関係についてはトレルチ、マクス・ウエ ⋮ 斯る法塞が合衆固で通過 ノ一女に近くはT喜一弓yこ宴gぎ要一ニー乃空弓〇rつitplぎー−︼諾の等々の文献が示してゐる如く である。或は、例へば、元凍宗教的現象の現今のアメリカの禁酒法 した理由は複雑であるが、しかしアメリカのビュブタ一言ムがその主要仏要素であることは明瞭 である言が他国フランスのガγドオやシャンパニュの葡萄酒の製革で脅威する等の例務は改発に まことにモデュイがその畢位論文﹁オギュスト・コソトと経済畢﹂のノ好著で指摘してゐる如く、フ ︵一︶ 違がへ甘いであらうっ ︵二︶ ラソス赦昏畢派はコントによつて夢想され七三ニクな融合利率を樹立する代ゎ∴に、具億的で明瞭 1.いr卜Jト︰− な賓在を研究してその法則■で探求する各個の政令利率の祖健のみを認めた。これらの赴骨科畢は ﹁健系﹂一でなし、孤立した状態では存しない。従って一般融合型は特燕融合垂︵宗教社食畢繹溶融 骨畢等︶の王冠として綜倉としてのみ成立するとして、科畢の現況を以てしては特に部分蔽唐草 を専攻する=とによつて自己の題目Jで敢骨現象の鮭僚を吟味するユりもつと完全羊併有軋う息粧 の蟹阻へ≠綱要を凍った。斯くの如き尊称化心有ゆむ衛故に於肝↓か秤拳恥進歩兜躍如謙抑義政と願 って屡々必須である。しかし個別の敢倉科畢ほまた各個の窮訪を有する。これを禰ふには各請畢 は近接した科挙の獲得物を必要に應じて利用してゆかねばハせらない。これもまた優秀ハ仏方法であ る。しかしまたモスが提唱すろ如く、政令畢の諸部門特に洗骨生物畢を個別化せすして完全にし ︵三こ て畢慢的な政令事賓として研究する方法も今後大いに注目すべきものエビある。 吾らは融合現象としての票数を研究すろに雷っては断えす宗致現象の中にのみ園踏することを 慣まねばへ与らない。時としては尋問によつて決定された分界を超えなければ定らない。しかもか かろ畢約瑛充が最も密接に局限された諸研究を豊富にしうるのである。現貰の社食に於ては抽象 化された純然たる宗教現象も経済現象も法梓現象も存在しない。経済のうちに宗教が含まれてゐ る如く、宗教にも経済が含まれてゐる、′J唯一に経済現象のみが支配する如く信せられてる現代資 本重義赴曾に於ても、宗教現象と経済現象との関係について淀き政令学的考察を加へてゆくこと も亦宗教赦食草徒の意義ある試みでなければならない。この貴からしても︼−かC・買iC−品㌃己eによ ︵四﹂ 一四九 るモス、モニュ或はアルパク︵H崇ノノ一己且の現在及び今後の宗教畢的経済轟約諾研究は剖目す ペきものである。 ︵一︶ ︼㌻g︵1巳差duit−A亡警告︹C⋮te e二pnl︵i3Ce爪c0202i︷ll−巾こ講じ、ワu小∽−柏箪 宗教瑠象ヾ−経済現象ヾJの阿係 .二て、j 宗教現象寸J経済現象ミの親係 享∑こマほざ章良声 音らは﹁社命単年報﹂新輯第二懲で準へてゐるモスの鹿骨挙りd訂iれiOn始に闊†ろ新見解についてほ言草し互い。 この併給は㌢?e已−E︼鷲に閻了?もつミ詳細左記逓克∴、、しては甚だ訴分明十∵わな免れ塞い。香らは﹁二フンス畢渡り これらり研究ミぎー㌻毒草﹃iュh−ぎ=St⋮咋−︼しa己t⋮ニ︼−Tぎー1邑−1l等の患近の原始綬滞上の好芽ごJわ封鱒して 働白こや軍味わを問題な吟味しやう. 谷 定数意麓に放ける盛撃と音防除粧の庶立 長 川 如 是 近代社食の形笠が、今日のやうに完備†る以前に於てli、いか叱る都骨、いか光ろ村落に於ても、それを代表†る建業物 ミLて寺院の大伽藍がその中央に聾えてゐ㍗。わが京都、奈良li勿脊、ロンrン、メサ、p−▼等l‡今日なほjの形式か或 托その傍ね止めてゐろ。然J現代社食り薪ら余光形悪ほ、既にこれらの形式キ歴史的遺物わらLめ、萱本土義組織に伸ふ建 発鱒ざして寺院のそれに代らLめろlニ至つて、そこにわれく.は宗教的統制の崩壊を見失のであろが、然L寺院的生活の階 段的練成l‡、大伽藍の碓井困難にも拘らず、今伺ほその隋カか保ち、宗教文化比嘉軟的信仰の廃油ミ攻究捗lこ盆々そり光輝 を埠Lつ1ぁるかに祝えろ。それは寺院生活に嘉まれ圭経済的優茜の鶏物でぁるが、此小論l‡、宗教がかくの加古#藩的利 金を産む邁名について¢一考寮でぁる。 ∵ 票数は、自然界の勢力に対する畢純の崇敬又は畏怖の表現に過ぎなかった、最も原始的のそれ に於ても、その対象に幾分人格的の性質を輿へないものはなかったのであるが、それは宗教が自 然的対象を政令的対象に作♭かへたといふことである。そのことは同時に、宗教的関心は本木生 活の関心に外ならないことを示してゐるのであつて、宗教的意識は畢寛一定の敢曾的生活を條件 宗教意識に於けt呈錯訣㌢−寺院階級の成立 開 宗教意識に於けろ﹃錯謹言−寺院階級あ成立 一五二 とする特殊の意識妖媛でぁることの語族である。原始的宗教に於ける人格化は、超赴合駒存在を 敢合駒存在に引き入れる方法に過ぎないのであつて、自然現象は、それによつて一定の敵禽的統 制に協同すること∼なるのである。 その意欺から、宗数的意識と科挙的意識との問に共通鮎のめることが認められる。科挙的心意 は、その科畢的方法の安富であると錯誤的であるとを問ほす、とにかくそれは、自然現象を人間的 ー 多くの科挙者は、公式の享契を科畢の最終月的 統制の下に持ち森元さうとする意圃に︰外ならない。自然界における科畢的法則の螢見は、単に公式 を事欒する有閑的動機によつたものではなく とするやうな態度又は理論を示してゐるが・−公式の行動的効果こそ科挙の最終到達卦であらね ばならぬ。それはつまり、科挙的法則を、いひかへれば自然現象の必然性イピ、赴曾的意志に従属せ しめる人間的嬢度であつて、赴骨盤活の統制の限界を自然界にまで坊大せしめることであるが、宗 教は、その同じ意園が、まとして心理過程における安定妖饅を最終として活躍するものに外なら ない。無論、宗教も一定の意識鉄建である以上、それは意識の一般的性質からいつて、行動過程 を最終とするものであるに相違なく、殊に特定の行動過程の要求が特定の宗数的形式を成立せし めるものであるといふ鮎に於て、宗教的意識ほど心意の賓践的性質を暴乾せしめてゐるものはな 十ので⑯るが、▼然し、特に音頭それ白煙の形態としては、宗教はl定の心肝態度の成立に於て終局 へ、l﹂バ するものでしぞれが、慕教患琴㌣、鮭衝称、盈密触小栗碇韮祢唯意識か㌫飛騰健臨廃屋一っ礫男 要鮎である。宗致ほ叫方に於て、猛然たる行動的効果を教生せしめること、かの十字軍の歴史の やうな場合もあるが、他方には、一切の行動的効果を無税する、個人的意識そのものへの絶対的 琴空﹂ある場合もあつて、その何れにしても、行動的性質は、宗教的意識の性質からは、終に族 生的たるを免れない。宗教的心意の象徴的表現にる祭祀や儀嘘は、同時に宗教の行動的効果の象 徴化であるといふ意味から考へると、宗教的心意は、それ白煙、行勒過程の條件であるといふ分 ほないが、形憩づけられた宗教的意識それ自健は、鼻くその行動的効果から超越するところにそ の形態を保全せしめてゐるのである。最も原始的の宗教的意識に於ては、この超越性は甚だ不判 明であつたが、敬遠した宗教ほ、この‰に於て甚だ鮮明である。それは科挙に於ても、その螢達 したものほど、公式の超越性を進展せしめるのと似た現象であつて、人間的意識は、たとへ純然 たる行動僚件としてのそれでさへ、や∼もすれば、意識自髄を終局とする性質を獲得するもので あることを免れない。殺人の方法としての勧進か、この最も螢達したものに於て、﹁術﹂から ﹁迫﹂となり、つひに腕力の方法ではなく、・劫造的心意の構成であるといふやうな超越性をもつ 至るのもその一例であろ。 されば宗教に於ては、それが行動的効果に堕することをもつて宗教の寮僚であチとする見地が 宗教意識に於けろ﹃錯談㌢J寺院階級の成立 某社意故に於け主婦彗ミ寺院階級の成立 ︼玉均 一般に行はれてゐるが、然し、かゝる見地は、宗数的意識の上に立って、その意識内容から宗教 を規定するものであつて、それは宗数的意識そのものに件ふ錯覚の上に成立する見地である。純 粋科挙の研究者は、科挙的公式それ自債の超越性に立脚して、希畢から行動的効果を排除するに 至るが、宗敦家又は宗教研究者も亦それと同じ傾向である。 ぁらゆる宗敦は必ずその樽定の心意の唯一紹封性を固執する貼に於て錯誤的であるといふ外は ないが、然し宗教に於けるこの性質の錯誤は決して﹁票数的輿望の成立を妨げるものではない。 むろん錯誤の自意識は宗教的心意の統一を妨げるが、宗教的意識は、か∼る白魔の者達を抑制する 統制組織の所産であるから、一定の統制組織の成立する限㌔宗教的眞理は、それの構成一で妨げ る意識状態を鹿追するカをもつてゐるのである。知魔的列断の可餞な生活の範囲に於ては、錯誤 が知魔的に尊兄された場合には、それを魔迫する統制組織そのものは却って打ち破られるが、宗 教的意識の場合は、その意識自健が、知魔的判断の可能な範囲一で超へて進んで行くものであるた めに、常にさういふ破滅から免れることが出家る。 質はわれ′1がある宗数的異撃ぜ錯誤的といふのは、その宗数的意識に対する枇列からではな く、錯誤的威魔が宗教的統制に於て﹁眞理﹂として成立してゐるといふ事賓に依ってゐるのであ る。それはr錯誤Jの赴骨的月経牲︷もいふべ′う牒のであ亮。詳しぺ云へば、一宗華劇恩領尭い一義トL.㍗㌢㌍針紅 の敬啓的緻敬礼揉に於ける生落慶藍の旋一で貌を推Vを転妙を併とゝ麗産暮芸稽磯邁穏礪備傾接磁 るものでないために、意識内容が、知魔的に錯誤であることは篭も﹁泉理﹂に矛盾を生せしめない のである。科学的異理でも、それが直接行動過程に交渉しないものである限り、錯誤は竜もその ﹁眞理﹂の成立を妨げない。一切の科挙的眞理は暫定的でぁるといふものさへある。翠なる意識内 容としての﹁眞埋﹂は、いかに極端な錯誤をもつても成立する。例へば、F今後は決して冬は乗な い﹂といふやうな信仰も、十一月頃までは妃射的眞理として成立するに妨げないのであつて、十 二月以後に至ってそれが錯誤であることの馨見されるであらうといふことのために、十一月まで J 宗教意識に於ける﹁錯誤‡J寺院階級¢成立 一定の自然的傭件に過されたものが、一定の社食集囲ぉ嬢成せしめるのは、彼等の間に、その自 ∼のである。 ば、いかなる錯誤的意識でもい1のであつて、極端にいへば、どんな意識でも又は無意識でもい れは﹁兢こその事の要求でぁつて、﹁統一意識﹂の要求でさへない。兢⊥さへ持Jり蒸し得るなら に於ける統一意識の要求である。F絶封﹂に求められるものは﹁真理﹂ではなく、﹁続こであり、そ か∼る錯誤的戚魔に絶対的慣伍を附興するものは何であるかといへば、これは一定の牡曾集顔 等々の意識が、歴史的事賓の進行と没交渉に宗教的真理として成立するのは昔然である。 の眞理の成立が不能にへ†ろといふことはへ㌧い。﹁キリスト再生﹂﹁天国は近けり﹂﹁世界の建て直し﹂ J ノざ こ頚 宗教意義lこ於けろ還義軍■苛院階級の成立 一五六 然に対して一定の行動的又意識的反應を呈すろといふ聾賓の存するためであつて、その統一蹴落 なしには決して赦骨は成立しない。宗教は、その場合の意識的反應の一定形式であ一つて、敵禽形 態の心的頂子に外なら獲い。故に人間と娃も、人間以外の融合的生物に於けるが如く、統一が行 動的に成立して何の故障もない所には、全︿宗教を必要としないであらう。原鰭宗致は、赴骨が や∼分化的となち、行動的の、従って意識的の、分裂の生じた場合に、それを統一状鰻に引戻す 横倍をもつたものであらねばならぬ。それは近代の家族主義が、資本ま義的組織による家族形憩 の崩壊に應じて、それを家族的統一に引戻さんとする意識就巌を孝不するものであるのと似てゐ る。 〓 宗教はその意暁に於て∵特定の敢曾形態の所産であ■つて、対立する赴魯は必ずそれん﹁−各自別 個の宗敦をもち、統一された敢曾は必す共通の宗教をもつ。民族宗教は民族的対立の敵骨形俵に 伴って成立し、世界宗教は、民族的障壁と没交渉に、人類交通の螢達した所から産れたことは誰 れもいふ通りであ年︺されば家族本位の政曾形態では家族的宗教の螢生する道理であるが、純個人 ﹁鼻理﹂の個人把握といふが如き観念は全く宗数的意識の鋸簸であ 的宗教なるものは考へ得られない。宗教は放重に放骨的範時に規定されるもので、宗教意識成立 鏡に澄帝白燈の費展としての √ ゝ.−﹁ 左○ 一■ されば赴曾的範噂の襲化は、寧りに宗致の憂化を招き、社食的舜草は必ず宗教の壁革を件ふこ とも一般に認められてゐる所でぁる。原始票数は舌代国家の成立に於てより贋汎な民族宗教に進 化せしめられ、中位の国家的分裂は.遊園家的の人類交通を澄逢せしめたことによつて、世界宗 教の螢展を促し、それは吏らに民族観家の統一によつて、国家的に修正せしめられた。かくの如 ㌔舌代宗致が特殊の観衆の唯一性に立脚し、中世の宗致が、封建陶家を蒐服して、それに君臨 し、近代の票数が民族的国家形態に協同したのは、宗教が政令的統一の語形憩に伴ふものであ・Q ことを詮示するものであるが、変らに同一統合的範噂におけろ分裂状感が必然に票数約分裂を倖 ふといふことは一層その事情一で明かにするものである。我が日本は舌代国家の成立に伴って原始 宗教の函生産を試み、古事記に現はれてゐるやうな特殊の民族的信仰の形岱をもち得たが、その 国家の内部的分裂によつて、意族政治の費逮を促がすに至って、雷峠移入された外来宗放たる悌 敢が舌代的家族政治の意識的残骸たる原始的祖先致を清算する道具とされ、新興貴族階級による 政治的統制に協働するに至った。その同じ日本は、近代的民族観家として更生するに留って、新 一五七 興市民階級の統制への第一歩は、長族政治り統制組織に随伴する偶数の排撃となつて現はれ、そ れがために倍数以前の原始的宗故意識の後活が要求されヤル。 宗教意識に於けろ﹃錯誤lヲこ寺院階級の成立 宗教意誠に於けろ﹃僚訣きJ寺院階級め成立 一五八 如上の視角から宗教を定義すれば、﹁宗教とは敢曾駒統制に於ける意識︵錯誤的︶の統一である﹂ といはねばならぬ。 何故に﹁錯誤的﹂といふ括弧が右の定義に必要であるかについてはなほ三一口を要する。錯誤的ハ与 らぎ一皇息讃は必す行動過程に於ける心意の構成として、行動的に成立するといふことを傭件とす るものであるが、宗教的意識に限って、か1る健件を全く不必要とする。いひかへれば錯誤である ことが何の障持ともなら︷住いのみならす、恐らく錯誤的である間が、最も宗教的であり得るので ある。全く錯誤的でない場合ほ、必ず行動的に賓現されるために、宗教的心意の鹿賀を失はれで しまふのである。先験哲畢に於ける先験性が物琴的に嘗蔭されたら忽ち﹁先験的﹄牲琴ぞ喪ってし まふのと同じである。 そこから普然、錯覚の必要が認められねばならない。行動過程を料率的に把握することの不可 能な場合には必す錯誤的戚畳が成立するが、それは行動的衝動の必然性を意識の方面から示現し てゐるものである。普の航海者が危険な岬や岩礁等に対して原始漁の宗数的戚党を呼び寧まされ 、豪家仁− るといふのは、航海者がいかにしてもその岬を轟す切らねばへ与らぬ衝動一でもつために、それ一ゼ妨 げる﹁危険﹂ハ仏自然現象を、覿骨的生活の範時に持ち家して、これと妥協を試みるのでJのる。即ち 既にいつた如く、自然的封象を敢骨的対象に作り代へるのである。而してさうすることは航海者 が行聡恥に進展すむに施取扱婁打恵謙称鮭慶で転結とずれ広−を掩lぉ触ち﹁無感髄葎葡傾倒傭︼僧 あらねばならね。宗教に於ける錯誤の重要性はそれでめる。 宗教は意識形膿としては行勒過程から引き乾されるが、をの意識は本務統一の要求に基くもの である鮎に於て、それは結局l定の政令的行動の要求に外ならない。されば前にもいつた如く統 制の孝允は直ちに宗教の舜化をもち蒸すのであアり、従って一定の宗数的信仰をもつや否やといム ことは、一定の統制に服従するや否やといふこと∼同じ意味になるのである。﹁異教徒﹂といふこ とが重大なのは、彼れが信仰を塵にする入国であるためではなく、統制を呑定する人間であるた めである。 三 宗教を吐合的統制の意識として見れば、一般の統制組織の性質を宗教も有って居らねばならぬ。 いひかへれば、宗教的意識は嘗然組織化され、また制度化されねばならない。 この場合問題は、宗故意識があつて然る後に宗教観威があるのであらうか、又は組殿があつて 然る後に意識があるのであらうかといふことであるの 宗教的威螢は本来鹿骨的普遍性をもつものであるが、然し敵骨的感覚は、特に餞敏の威費をも つ少数人によつて先づ把握され、然る後に一般的とハ仏るものである。それは動物の辞に於て、撃 宗教意識に於けろr錯故︼ミ寺院階級の成立 1.硝邁﹄ 宗教意識に於ける﹃錯誤冒寺院階級り成立 一六〇 戒すべき音響や臭気やが公許によつて一揆に成愛されるものではなく、先つ少数の敏感な動物 ょって成魔され、その少数動物の反應的行動のために直ちに全詳に同じ威魔を生するのである いふ事情に似てゐる。宗教的戚螢は、先づ統制に於て蒋導的地位をもつ資格の今Q天才の感度と して現はれ、然る後に赴曾的性質をもつに至るもので、それが天才に現はれた時には、極めて 殊的の個性的の外貌をもつものである。而して宗教はこの天才を宗姐として組織化され、湖度 されるといふ順序をとる。 されば、宗致は意識が先きに在って、組織が後に起るといふことに間違ひないのであるが、 し更らに、その少数者に現はれた意識を決定するものが何でみるかを考へねば王らぬ。それは するに、その意識に先在する二足の統制組織であらねばへ†りぬ。宗教的天才の感覚は、後れ 存する敢骨の統制に関する成魔である外の何物でもあり得ないのほ、その敢骨的統制と矛盾す 宗教が成立すべき理由のないことによつて明瞭である。されば宗教的天才に現はれた特殊の意 は、一定の統制組織を健件として成立するものであつて、その意晩からは宗数的意識は、組織 提起するものであるといはねばならぬ。無論、特殊の宗致の組織は、一定の宗教的意識の成立 h 粒起するものであるが、然し、その組織も雷然、それを決定する健件として、一定の政令的統 躾燈ををつ沌⑳で凍るゾ敢骨飴統御圭矛盾す諸濡教組織の存在七億な.心一㌧誌鱒∵意識纂輪転賢針鼠猷臥 礁葡萄萄膨 宗教的統御組織を決定する條件としての社食的統制が如何なる性質のものであるかによつて、 票数の組織にも陰別を生することは普然で今○。原始的鹿骨妖賎に於ては、社食的統制はそのま ま宗教的統制の形式をとり、宗教的意識とほ別に政治的、法的、道徳的等の統制組織の意識をも っことは出水なかつたのであるが、それは赴曾的行動の組織が寧ろ生物畢的単純さをつゞけてゐ − 宗教的−意識による統制は充分効尭的で たので、行動的分裂は比較的微弱であつて、亡日日的のタブーが統制力をもつに充分であるといふ やうな状憩のためである。いひかへれば、錯誤的 あつたのである。 さういふ妖慈の打十り破られたのは、赴骨が生物畢的畢純性を失って、よb複推な花雄健として 蓉達したゝめであつたが、それは社食群の接俄による混成的敢骨の成立したことに因るのでぁ る。敢曾的統制に於てより有力の組織を必要とするに至ったのは、群の性質が、共通利寄による 統一といふやうな単純な過程でへ仏しに、互に赴骨的利寄を異にする対立的社食群の統一といふ複 雑な関係胱愚となつた1めである。政治的統御凰織は即ちこの対立諷係の食後教化した場合の統 制組織に外ならない。 四 宗教意識に於ける﹃錯誤㌢J寺院階級の成立 宗教意識に於けt主席訣﹄ミ寺院階級の成立 二ハニ 政治的統制は、所謂樺力服従の関係であるが故に、さういふ統制をもつ配合に於ては、赴骨的 協働の閑係を支配する意識過程としての宗教も自づから強制的支配組織に頗應することによつて その生存標を主童せねばならない。宗致はかくして政治的支配群の意識として特殊の形感を有さ しめられる。宗数的統制は、そこでは政治的支配に特有の鹿骨形愚に於て機能的となる。混成的 赴合印ち対立的政曾の支配者は軍事的征服群であるが、後れ等はやがて宗教的統制の把持者とな ♭、その首長は同時に宗数的首長たる地位を占める。 軍事的征服者は元凍宗教的首長たるに適する諮傭件を具備するもの′である。第一に古代的征服 者は一般に被征服者の問に神秘的崇敬の的となるものであり、殊に征服者の虜する鹿骨群の生活 が、被征服者のそれに対して異国的である程度の強いほど、征服者は被征服者にとつて紳私的の 存在となる。殊に舌代の征服事業は、竿ば紳秘的行動の威力に依威するものであつたが故に、軍 事的征服に基づく統制組織はそれ自健宗教的統制と協同すべき性琴ぜもつてゐるのである。殆ん どすペての場合、征服詳は直ちに被征服詳の創世記を縫承し、その紳諸に於ける創造者又は英雄 の子孫と打アり、彼征服蘇の偉兢的意識に願應することによつて、彼等に君臨する合法性を獲得す るのである。 麗筆好摩厭℃﹁ユ藩政湯前支配はかくして倖統的統制に食まするのであるが、然しその支配形式 は元来澄金時敢食滞藤敏支拝す訪韓髄姓践七飯説が痙に、肇jに庇立する宗教推於離悲嫌ばⅤ塵 然、政治的支配の別の形たるに過ぎない賓質をもつものとするのでぁる。宗教はたゞこの新らた な支配形式に一敦する組織としてのみ螢展する。 その最初の形式は、もちろん政治観家帥寺院といふ形膿をとる。政治的首長は一切の宗教的祭 祀及び儀澄の燭占的賓行者であ∵り、彼れは絶封者の子孫として、たゞ彼れだけが絶封者と交通す る自由をもち彼れを通じてのみ政令人の宗教的要求は充たされる。このことは、エジプト、東欧 中央アジヤの諸国、支那、日本等に於ける舌代社食に於ては全く公式通りに成立してゐたのであ った。 此の形媛に於ては、図家郎ち寺院はそれ自倍軍静的掠奪又は政治的輯奮による莫大な富の堆積 そのものに外ならなかったが、その富の消費はまとして宜大なろ宗教的建築物に向けられたのみ で、それが寺院的財囲としての狗立位は奥へられす、従って滑侶は未だ階級としての存在ではな かった。その互大な建造物は彼の寺院と挙り、それに相督する僧侶階級をもたすに、たゞ番人と しての倍侶をもつに過ぎなかった。雷時の富の蓄積は軍閏的、政治的、支配による椋奪によつた もので宗教的のそれは、これに此べてはいふに足る程のものもなかった。 舌代国家から寺院が分離したのは、政治的統制の方法が次第に分業的精密を加へ、政治的支配 宗教意識に於けろ﹁錯誤﹄ヾJ寺院階級の成立 宗故意議一﹂於け・名錯訣㌢J寺院曙放り成立 一大四 者の行動及び意識の形式が甚しく宗教的支配者のそれしし選る性質のものとなつたことにによるの である。同時に宗数的支配の形式も亦分業的に螢達し、宗数的文化は世俗的文化と典る形式をも って螢罷L、寺院階級は観衆階級に協同しっ∼、それと対立する地位牢もつに至った。 五 寺院の財園としての澄達はそこから始ょつたのである。開家即ち寺院の時代に於て、宗数的建 造物に向つて富の五大なる浪費が街はれたのは、統制の錯線的性質が、寺院建築といふ物贋的表 現をとつたものであつた。かくの如く莫大へ与財物及び努力の由螢が宗数的統制に於ける威力でな いのは、費達した社食統制の意識からは錯誤的と認めら・れねばならh甘い。勿論、今日に於ても、 建造物は統制組織に威力を輿へる目的をもつて盛に経螢されつゝあるが、然し舌代の寺院建築や 寺院に対する喜捨のやうに、それが直ちに統制組織に射し、因果閥係的に酬叩られるものとはさ れてゐへ与い。この鮎に於て、宗教的意識の鉛裸は、寺院的財甲孟盟富にす?1とによつて一定の 統制組織が支持されるといふ絶射的信仰を構成せしめたのであ一篭 宗教的意識の錯誤がか∼一心物質的方向をとるに至ったについては、二つの理由がぁる。一つは宗 教と原始的財産制度との閣係からでありノ、他の一つは寺院組織の階級化でぁる。 第一の理由即ち宗教と原始的財産制度との園係については、われ′1は正確な歴史的根披を有 還 ﹂ ってゐろとはいへないので、或は推定に汲㌢往いといふ繁還れ甘いであらうが、粧し,㌃咋は∴ 原始的政令の財産制度は概して共産制であつたといふ串貰1これは或る粘吏で塵史的に澄明さ れてゐるすiに基いた推定である。 宗教は社食的統制の意識であるが故に、原始的共産制に於ける、生活費料の生産と滑費との喪 同状患に於て何人山私有にも蹄屈しない生産物は、雷然に紳の所有であり、又ほ生産物日渡が神 格を輿へられたのである。さういふ観念がいかなる形で成立してゐたや否やは個々の敢骨につい て療討する外はへ㌧いが、少′さとも私有財産制の成立以後に生産物を党つ寺院に供へる習慣の残存 してゐる場合は、何程かの意味で共産制の存在を推測せしめるのである。文芸数的行事に饗宴を 仲ふ如きも生産物の共同の由螢の行はれてゐにことを想像せしめるものであるが、寺院に射する 菩捨はこれらの共産組織が、宗教的錯魔によつて種々ハ与る形式をとつて残存してゐるものである と認められる。 エジ.ワトの寺 寺院ほこの原蒐的衝動を利用することによつて、富の菩佑を草↓りに至ったのである。その最も 極端の例はエジナトに・空Q二殊にラムゼス三世がその治世の三十一年間に於ける、 院に対する莫大望常拾は有名であるり︵歴史家の一計算によればその総額は、黄金一頃、琴二噸、黄 銅±二項、貿石十鱒封度、同じく有高僚粒、都車望ハ十九、耕地盲金満ブロッ\果樹園五盲十 宗教意識lこ於けろ﹁錯誅㌢ゝ寺院階級り成立 宗教意識に於けろ﹁錯誤㌢寺院階級の成立 ︼六六 四日、船首七十八筆触隷軍二十三蕎余人、牛その他の家畜五十招請頸、家鴨六十八高給羽、魚 四十九萬除尾、果軍一百三十人高給顆、穀類五首七十四萬除袋、パン六百七十固萬除個、滑琴一 十五整ハ千鎗瓶、蓼清四十六璽ハ千除聾者密、油類三十六萬八千除準等々︶それらの馬鹿馬 鹿しい供物は、寺院財圏蓄積の組織的方法の螢達しない以前のそれで、寧ろ帝王の滑螢カを誇示 す一u方法、いひかへれば国家的努力の宣侍であつたが、それはやがて宗教的統胡意識の錯誤によ って組織的搾取の方法にまで螢達するのである。 宗教的錯魔が物質的方向をとるに雷って責任あろ第二の事情は寺院の階級化であるが、それは 寺院鐘括が宗教的統制の機能とは全く没交渉の方向にそれ自身を澄展せしめるので争・Q。 須のそれであるかの如き信仰を排ひ、全く宗数的意義を失った、若しくは始めから何ら宗教的意 的生活者のそれである、といふこよのために、敢骨は、その文化内容に対して恰も宗教的統制に必 活の向上に伴って生する人間的要求に基くそれであるが、その文化的内容を生活する集囲が宗数 全く勒甲で異にするもので、それは宗教的統制の要求に基いたものではなく、全く一般政令的生 として尊慮せしめること∼なるのは雷然である。而かもこの文化内容は、宗教的意識のそれとは こに後れらの経済的偵件に相恩する文化形態を生じ、倍侶階級を、特殊の生活態度亨bつ政曾群 寺院埜活着即ち僧侶が富の蓄積によつて赦曾的水準ナ㌻ヮは温か高級の生活を螢むに至れば、そ 4 宗教意義に於けろr錯訣﹂ヾJ寺院降旗の成立 味に於ける階級的優越は、その経済的利益によつて一定の文化形愚を成立せしめ、その優越を特 こ∼では償♭に、﹁lつの社曾集圏が他の社食集囲の犠牲に於て費展する構造﹂と解する。︶この意 か∼る信仰が成立することを得たのは寺院生活が階級的構成をとり得たゝめであるが、︵階級を 竃も宗教的信仰を喚び魔ますものではない。 伸であると思惟する一般の﹁信仰﹂である。寺院の階級化はか1る罪宗教的信仰の螢生を促すが、 を恰も宏批な寺院建築や、金色燦爛たる祭服と同じく宗教的心意としての鈴鹿の構成に必要の條 存在である。けれども彼れらの政令に高級め文化形態を教生せしめたものほ、これらの文化形藩 もない浪費的存在に過ぎないものであ㍗ヮ、本靡寺法主の類は、軍閥貴族と全く同一性質の寄生的 楽の現地を開拓するのである。これを政令的に列断すれば、バチカンは舌代の軍国々家と何の相違 仕によつて寺院組織一軍愕侶の階級的生活の財源とし、寺院の公共的性質一ざ全く没却した文化的享 化を支持することにはそれだけの意味さへもないのである。滑侶は、この一般からの無意妹の奉 のは、ある意味では宗教的心意の構成に加指するものであるともいへるが、寺院生活者の階政文 宗数的信仰をもつものが、寺院的建造物や宗数的祭祀及び儀頑やに現はれた話形憩を支持する ういふ倍侶的生活の支持一ざ宗教そのもの∼支辞であるかの如く考へる。 をも簿ってゐ吐い丈他形駄を、碁敵を堅渡すむ藍首敬慶の監岬軒軒もつて霊草き壷トご﹁㌣ 迅 宗教凍哉−こ於ける蒜訣㌢寺院階級の成立 二ハ八 碓つける債偲意識を、犠牲階級にまで植えつけるのである。寺院階級は、特にそれ自身が宗教的 教化の機関であるために、か∼る階級的特樺を充分に賓行し得るもので一のる。古家か1る性質の 階級組織として高度の螢蓮を遂げたものは、寺院と国家とがあるだけである。 寺院の上記の如き性質が、現在いかなる進化過程をとーりつ∼あろかは、本篇の目的以外の問題 であるが、それについて唯一言を附け加へるならば、寺院を基礎づけてゐた宗数的意識 寺院の階級的生活を可能ならしめてゐた赴骨組撥の段期の没落とに問題の鍵が琴.りれてゐること ▲ だけは確かである。 山 宗教形態の決定原因について 宇 野 固 空 祭司階級が民衆を抑贋搾取するための欺瞞、それから宗教が生れたといふ簡単な想定でも、そ こには宗教起源の客観的事情の説明がふくまれてゐないではない。世の赫々は人間の恐怖心から 造られたといふ舌句にも、その心理畢的起源諭の瀞芽がある。そしてこれらが啓示詭の多様な襲 化と相まつて、あろひは先験的にめるひは経験的な立場から、宗教の系統教生や個億螢生を詑い て、いはゆる宗致起源諭の複凍多様な畢詭の内容を螢展せしめたのであつたっ 形而上畢や認識論の立場から説かれた宗敦の起源の意暁は且らく別にして、宗教畢のうちに取 入れられたその歴史的心理的説明にも、創唱的宗教の輿麿をま限として、特殊の宗致傍系もしく は敦囲の成立と螢逮を考察したものもあゎ、現代の文明敢曾特にキリスト故国民のそれについて 個人的生活に於ける宗教的経験の螢生と教育とを取扱ったものもふくまれてゐる。しかしこれら はむしろ宗教の個燈教生に関する説明であつて、それは或る意味での宗教一般の根源をしめすも のではめるけれども、特殊の鰭系や個人的経給の寮生には、すでにその敢骨に存する民族的侍承 宗敢形態の決定厭由にこついて 宗教形態の決定鹿田について ︼七〇 や、票数的制度の影響を計算に入れなくてはならず、そこには宗教の人類に於ける螢生を根本的 に考察することが、また一つの問題として残ってゐる。 そこで一方では人類全燈の歴史に於ける宗数の始仮に開して、自然薯邦語、呪物岩井詭、トー テミズム読、もしくは呪術説など、種々の形に於ける仮設が提示され、神話畢、民族率、心理畢 及び鹿骨畢などの知識と理論によつて、その根嬢と説明とが輿へられたのであつた。ところでこ れらの人類教生の立場からする宗教起源諭は、歴史的な意味での宗教の螢生を考察すること一軍目 的とするのでぁるから、多少舌代の諸民族に於ける皮質や、考古畢的資料を利用する場合もあつ たけれども、最初の宗致形岱については、大部分は原始的宗教と想定された未開民族に於ける宗 数的生活の事賓によつたものである。しかもそれすらなほ直接にほ宗教の最初の教生をしめすと は限らないから、さらにこれらの民族畢的客質を適宜に取捨選躍し、それに心理的もしくは論理 的構想を加へて、宗敦の板源を推及したのである。それ故これらの起源詭は自ら賓鐙的な方法に ょると誇負してゐるにかゝはらす、その結果は奥へられた畢質そのものからよほど緩速いものと なつてゐるのであつて、ことに時代や場所の圃係から遊降した一種の概括的説明にすぎないもの が多い。すなはちそれは何時何蕗で宗致が教生したかをほとんど顧みないばかりでなく、それが 一際であるか多源であるかの問題にすら観れてゐない。しかも一般にはたゞ洗顔とどの民族に於 ても、乱じ原因と條件とから同じやた纂賢敵艦して転売健息機能怒勝機蟹惑 てゆくと想定するところに、いは冨畢系的な進化論による票数教生観が構成 る0 これに対して侍播説の立場からする宗教起源諭は、歴史的革質としての宗 係に於て考定し、諸民族に於ける宗教の一様な自費的進庇よトも、その霊的苦の∼侍薄によ つて、宗教が各民族に特準遠化敬遠をしめすことを見ようとする。そのうち パピpエア若しくはエジプト亨の文化に節するものもあるが、文化圏説や臨一讐於ては、む しろその多源的澄佳石−みと警と同時に、主としてそれの移動侍括によつて、諸民族に於ける宗 教形愚の建化が説明さるべきだといふ。もちろん現在の歴史や考古畢または の歴史主義を満足するだけの資料亨のたへるとはいへないが、従来の進化論 その起源についても霊についても、きはめて畢純怠埋的推測J差分にふくんでゐるのに封し て、いはゆる原始民族や未開の敢曾に、宗教の樽播による嘩け 化は と、 螢連が粕普 到るところに靖摘し得る革質として注意に伍するものである。 それでこんな立場から宗致の螢撃量る場合には、いは讐宗致の起源よりも に於けるそれの襲化蓉連が壷議題とh甘つて警。人類に於けろ宗教の始源といふことは、種 宗軟形態石決定原田−こついて 宗教形憾の決定膿はlこついて −七こ 種の憲政でなほ人々の関心の封象ではあるけれども、時庭を超越して宗教の根源哲考へたり、一 源とも多源ともつかすにその最初の段階を想定したりすることは、蕨密な科挙的方法によつては 望まれないことであり、文化史的考察としてはもはや重大へ与意療をもち待ない。からに宗教の発生 的根源を終局の問題とするにしても、具に欝静的な方法によるかぎりでは、まづ歴史的文献や民 族畢的資料が示す範囲に於て、諸民族に於ける票数形鰻の異同の細かい比較から、その地理的分 布と年代的韓化とを一そう明確にする必要がある。そしてこれが食めには文化圏詭やエジプト起 源説を襲用しハ仏いでも、文化の移動による票数の傍播セ、ひろく諸民族の間にみとめるべきであ つで、未開民族が多く井原史的な生活をもつてゐる粘から、その宗致の孤立的螢達を想定して、 それらがすべて同様な段階に於て進化するかのやうに考へてはならない。貰際未開民族の細密な 観察は、その多数が年代的にも種々の舜化を経過し、他の民族との痙鰯から宗数的にも相互に多 くの要素を受授してゐることを示すのであつて、舌代民族の宗致史的螢展の過程にも、他の民族 との相互の影響は、文献にあらはれてゐる以外によほど多い。それ故人電の移動と文化の接鯛に ょる博播を度外親して、宗教の費達やその形鰻の砕化を考察することは、現在の民族畢的知識か ・ユ た㌢h毘 ▲. 芸√ ﹁ト圭∵ト∴∴諾 .︰ .汁 かくして宗教の教生に園する簸密な文化史的考察零、ての濱思駒克板漆形鮭や海系的克澱賢二 らは許されないのであろ。 ∴ ∵一∴・・ 、、.−▼ 蓄 一 及哲ぐれらを吏堅芸乾生庭師の恥駄敏賑総てW聴慰に詮娠博蒜詫厩礁望遠嘩磯偲展萄囁欄頚 関係、及びその諸形態をみちぴく決定原因の考察に向つて進んだので争Q。もつともこれらを決 ︺。弓ヨ、﹂ 定する諸民族の心理的政令的その他の生活の鍵化は、或る意味で各日の形燈を寮生せしめる要因 とも考へられるし、宗教自髄の螢生原因とみとめられるものと、寄算上明確に囁別することは困 難である。それ放これまで宗致の起源として設かれたものが、欝は或る特殊な宗教的生活形式の 欽定要素にすぎなかったーク、通俗的に了解されたいはゆる敢骨科挙に於て、これに射する説明が 直ちに宗教一般の静坐原因であるかのやうに見なされることも、必ずしも不督な混乱とばかりほ いはれぢい粘があ去。しかし宗教の版本的澄生の事情は、その後の樽化の諮健件と必ゃしも同一 でなく、前者にほ生活媛度の心理的要素が重要な役割を演じてゐるのに対して、後者はむしろ外 部的な生活環境の問題に齢著する場合が多く、少くともこれらの外的條件の考察のみをもつて、 宗致の最初の寮生を設問し特化と考へてほぢらない。これがま化宗教起源諭の多くが、賓静的な 史質の欠陥にも鎗儀なくされてゞほめるが、歴々畢なる心理的若しくは論理的構想となり、さら に時虜を超越して、むしろ諸民族に共通な宗教の螢源を想定しょうとする理由でもある。 これに対して民族と時代による宗教の舜化を決定するものは、登鰹を通じて大差のない基本的 な心理的原因よりは、むしろそれの表現を支配する生活の環境や模式に求められる。したがつて 票数形懲り決定原因について 宗教形態の決定原因について 一七四 性質上それは外部的原因とか客観的條件といはれるものに偏するやうではあるが、種々の敢骨と 民族とを通じて、心理的には根本的な差異がみとめられないかぎり、票数形愚の舜化の根植がこ の方向から詮明されるのは蕾然である。そしてこれが宗教の踵括的な馨生成園の説明ではなく、 鼻腔的な諸宗致の形式の蓉生と意暁とを明かにする仕事である訪に於て、それだけ多く質謹的な 意義をもつのであつて、少くとも文化史的民族畢的な浣敦の考察としては、前者から区別してま つこの問題に向つて努力が集中されなくてはならない。 この意味で票数の諸形態を費生せしめる原因として、これまで第一に顧みられたのは民族性と いふことである。そしてその中には諸民族の人種的特徴すなはち髄質上の差異が相曹に力説され た。民族挙が人類畢に封する人稀撃として、特に諸人種の鰹質的特赦の研究一ぜ主眼とするかのや ぅに理解された範囲では、宗教の畠族畢的考察は、何よ・りもその人雇的基礎による舜化を見るに あると説かれたこともある。諸民族の文化がその人稀的集囲によつて異った特緻をしめし、その 健貿の差異に支配されることほないでほないけれども、精神文化ことに宗教現象のごときものが 直接にこれらの要素によつて舜化する関係は、事賓止宗教史的にあまりみとめられない。そこで それから民族思想による諸宗教の説明や r ≡:∵巨賢覧齢一 諸民族の宗教の差異は、直接にその人種的特徴によるよりも、それと開聯しての各民族の心理的 差異にもと.つくものと考へられ、 挺妨草体られ綾取しかし敬老胚よたこれ祈願旋解像舷や許怨恥瑳聴併躯他に琴誰雪還顔簾禰倒 宗教形態の決定原田について の方面の特性、或はむしろその欠陥を滑極的に指摘するだけのことである。もつともこの原始的 民族心理の或る段階の特微をしめすものだとしても、それは主として原始的な宗教の思惟や観念 的であアり、神秘的敵印をゆるす成慣的思惟が童となつてゐるといふのであるから、かゎ∴にこれ 心的械髄よりは主としてその思惟の方法にあるのでぁつて、それは近代的な論理に対して先論理 依然として畢なる費達段階の差異に綜せられてゐる。ことにいはゆる原始的心性の特赦は、他の 蔵々なる票数形態の寮生を解滞するものではなく、他の心理畢的説明に於けると同棲に、それは 的就曾に共通な傾向として滑識きれ、宗教一般の螢生を説明する原理として説かれてゐるので、 合にもいはゆる原始的心性は、各民族の心理的特性といふよりは、むしろ多数の未開民族や原始 それが登饅としての宗教の発生尿因でもあり、支持原理でもあるやうにいはれる。しかしこの場 ける近代的心性とはちがつた彼らの心理的械餞が、特殊の原始的な呪構宗教的現象の根抵と打でり もつともこの鮎については近年未開民族に於ける原始的心性の問題が強調され、文化民族に於 娘墟は輿へられてゐない。 各人裔を通じて顕著な差異は尊兄されす、夫れぐの宗教的観念や侍統の鼻化を説明するだけの たやうに、諸民族の心理称呼徽な牒ものを追窮して、その智港や僚怠の作用を比較した時には、 t 宗教形態り決淀原田について ︼七六 な論理や思惟は、放曾挙涙の人々からは個人的でなく集合的なものだといはれ、集合的な観念を 造り出すと同時に、或る程度までそれを基礎として動くのであごるから、その内容は各々の敢骨に 於て売れん∼濁時のものがあることも認められてゐる。しかしこの場合にも遜った赴曾や民族に 於ける集合的観念の内容については、未だかつて具髄的にその時微が考察されたことが︷仏く、か へって未開民選として共通な思惟の一般的形式の方が力説されてゐるのである。そしてそのいは ゆる集合的観念は、結局その内容に於て民族的侍承や一つの敢曾の侍統的観念といふことに締着 し、しかも特殊に内容の・馨生に関してはほとんど何らの説明も加へられてゎない。それ故未開放 骨に於けろ宗教的観念が、個人的な思惟や狗創よりも、集合的な観念であるところに、多少その 一般的特質が明かにされたとしても、それではなほ具億的な宗教観念の民族的皐化の説明にはな らないのでぁる。 それで若しこんな理論が、いはゆる民族性や民族心理による宗教形感の鼻化の認明の不足を禰 ふものがありとすれば、それはむしろ民族的侍承や穀倉的儒兢の重要さをかへりみて、これらの 要素が各自の宗数的特徴を決定する歴史的意味を承認した鮎にやら。しかもその侍統といひ侍承 といふのは、賓は単に観念や思想に関するものに止まらないで、現賓の宗教的行事や慣習として 侍へられ、敢曾的な威力をもつて人々の思惟と行動とぉ支配するものをもふくみ、さらに︼般の 喜二≡≡ 生瘡に放ける偉緻的隆乳の勢力をも鮭捺すむ毎秒で紅くで虹軋ら伝い。 一憶宗教の形経といふことを考へるのに、これまで多くの人はその覿念的要素、特に宗教的落 度の中心的対象となる紳憲観念の内容のみに注意して、往々宗教としての他の要素をかへりみな い傾向がある。これは西洋での樽統的な宗教観、ことにその主知的な見方に英されてゐるからで あるが、諸宗教の特叡智明かにするには、さらに宗教的惜億意識を決定する愁求とその目的観念 または理想の如何を見なくてはならない。また他方で現代の宗故に封する批判は、屡々その集観 的形式すぢはち敦園の組織や制度に関してのみ加へられる。それは宗致の政治的経済的機能を見 るには重要な契機ではあるけれども、これだけが宗敦の形棲のすべてゞめると考へてはならな い。近代的な宗教に個人的な信仰や思想がいちじるしくても、それの集園的組織がこれを結合し てゐると同様に、原始的な票数の報告は多くその公共的な形式にかぎられてはゐるが、反面にま たをの私的写生活を支配する宗致の存在をみとめなくてはならない。そしてこれらを全健として 見た宗教的集囲の組織は、近代的な任意約数園の原理をもつて翠一に理解することはできないの で、さらにそれは組織や制度として見た静的な形式よhソ・b、その動的な宗教的機能に注意すべき である。これは個人の宗教的観念に対する集園的な思想や教義の作周にもあらはれるが、特に直 接にその生活を支配するのは、その行動の規定若しくは儀虚としてゞふγり、近代の信仰すなはち 宗教形悪の決定原因について 宗教形態の決定原因について 一七八 重軌的経験を中心とする宗教でも、賓降それは儀盛や行動に具健化され、またこれに支持されて ゐる事賓を見のがしてはならない。この意味で盈的にも私的にも、儀建の形式とその横倉とは、 票数形態の要素として特に重要なものであつて、その取合内容や集園形式と∼もに、これを度外 成しては宗教の鼻化を論じることはできない。 そこでこれらを過食しての民族や時代による宗致を決定するものとして、心理的の要素よhソlb 外部的な傭件が多くかへちみられるのは雷魚である。民族挙が人種による宗教の差異を説く時に も、それは健質上の特徴といふこと∼同時に、賓際は−てり多くその地理的自然的環境を力説して 凍た。そして熱帯と極地に近いところと、大陸と島喚及び山地と沙漠など、諸民族がその任地に ょってその生活の詩形式を異にし、その宗教形燈の諸要素に特殊な螢展をしめすばかりでなく、 おそらく最初の費生までも同一でなかったことは、民族畢的事貰の比較によつても否定すること ができない。中でもそれが経済的生活の根本的形式を決定して、狩狼と漁業と採集と、また牧畜 と農耕との異った傾向と複雑な配合をもたらし、それがさらに特殊な宗数的観念や儀睦、ことに 後者の大多数の機曾を生みだしたことは、単に経済的儀虐についてばからではない。この意味で 一役に生産関係が宗教形麓を決意するといふ史的唯物論による説明は、それを螢生原因と混同し ないかぎりに於で、化しかに一面の事質を物語るものであTり、それが諸民族に同棲な進庇論的段 階を想定する駄を除きさへすれば、民族拳弥にも相普に骨董さるべき墓匿をふくをア警告 しかしこの鮎についての鹿骨科挙の説明は、そのいはゆる生産閲係といふうちに、畢に生産の 手段や凄式ばかりでなく、その分配と閲聯しての赴禽的階級の関係一ぞふくみ、それが特に宗教の 寮生や奨化を支配する鮎を重要成するものが多い。これに対して宗致の民族畢的考察は、地理的 環境と相ならんで多少その政令的環境の影撃ざもみとめるのであるが、この赦曾的環境といふの は極めて贋い意味に解すべきものであつて、それは民族的集圏の範囲と結合から、家族や民族の 組織、地方と国家との制度、及び周囲民族に対する人種的政治的関係にまで及んで、それが主任 る宗教的動機と儀虚及び集固形式に射する決定要素となることを見のがしてはならない。もちろ ん武力や富力による階故の封立は、その宗教の観念や制度を決定する一つの要素にはなるが、集 園内部のこれらの支配関係から宗教が尊重するやうに説くのは、往年の滑塔諒と同じく具億的な 事賓をかへ♭みない畢純な想定であり、ことにそれを階級の政治的経済的固守に蘇するのは、現 代的な観念の無理な普遍化であつて、諸民族の時代による複雑な宗教の襲化を説明し得るもので はない。賓際に於て赴曾的階故の根植には人種的関係がふくまれてゐる場合が多いが、そのほか 年齢、男女性、呪術その他の技碓や職業による種々の階級もあつて、これらは民族によつて直々 の形式と関係をもち、常に一楼な段階によつて滑長するのではなく、それが票数形態に及ばす彰 宗教形惑の決定原因について 宗敬形慈の決定原因lこついて 窄も、一概にこれを固式化して見るわけには行かない。 それにこれらの祀骨制度は多くは人種の移動や接偶によつて寮生侍播してゐるの 他の生活標式もまた同棲であるから、それにもとづく種々の宗教形態が、各自その たとしても、それの民族畢的研究には人種の移動と文化の僧籍を度外成することは して宗教的観念や儀頑自健が、人種の媒介をまたゃして異民族の問に侍播する革質 要素に於けると同棲に、いはゆる非歴史的な民族に於てすら賓澄されてゐるので、 於ける宗教の自費的な舜化のみを想定して、その民族性や自然的政令的環境のみか 徴を詭明し去ることほ無理である。たとひ未開民族の多くが比較的に孤立的な生活 の世界に於けるやうに異民族の文化の影響をうける横合が少なかったとしても、往 民族思想の内容として説かれる民族的侍承や敢骨的慣習の中には、嘗際は無意識に 入れた宗教的観念や儀蕗が多いことは事賓である。こ1に民族撃としても社食利率としても、そ れが科挙的であら文化史的でぁる托めには、自費的舜化や進化的段階の概念に固執 り多く具簡約に個々の民族の生活i章垣を見、文化の侍播がその宗致形琴で決定する事賓壱みと めるペき理由がある。 ∵ ヘーゲ ル右貰の廓畢 石 窟 智 こゝに、クリスト敦数理畢が最近、ドイツに於て辿り乗ったところを大要、一瞥Lたいと思ふ。 信 但し、その前、一應、数理畢と宗教学との立場の相違を碗らかにしておきたい。 宗教畢学包ものは、無論、前提無しで、抑も、宗教なるものが過去の歴史の上に於て、また 現在の賓生活に於て如打撃Qものであるかを掟求、開明するにある。が、クリスト致数理畢なぇ ものは、各自がークリスト致徒としての各自が、信すべき宗致︵クリスト致︶は如何なる内容 であるべきかを確定穿stel−enするにある。それゆゑこの畢問は前提無しではない。前提付きで ぁる。天啓の宗致としてのクリスト致哲前提とするのであるとは、数理聾者、カブターン教 身がその著﹁数理畢﹂Juliu山野夢n盲。gmptik・−苦りS.−−∽●に於て明言してをるところである。 それゆゑ、数理畢の研究態度と、宗敷革の研究鰻度とは、全然異る。それにも拘らす、数理 の研究内容は、宗教単にまで研究材料として有力の一つたることを失はないと考へる。と云 ヽヽヽヽ は、票数挙が、その研究対象を、宗教心の客観的なぁらはれ︵殊に、行男、行勒の上の︶に求める ヘーゲル右農の紳草 ヘーゲル右濃の滑車 ヽヽヽヽ −入二 と同時に、その宗数倍徒の主私的なおもわくにも求むべきであると考へるところからしてゞある。 数理畢は宗教畢に即しない。然し、数理畢は宗教畢にまでの貴重なるrp司ヨpすi已の一である と考へる。 その意味に於て、此に、数理畢のドイツに於ける最近展開のあとを一瞥したいと思ふ。 シュライエルマッヘル=ルネッサンスの叫びは、既に、ドイツ沖畢に久しい。ヘーゲル右蔦光るエ ルラングソ次に於てさへ、シュライエルマッヘルの影響著しいものあるを認める。 シュライエル†ッヘルが、特に強調したのは﹁紳への絶対所属﹂die胃≡ecl−tEnn官Ab冨ngi的kei什 召n雰ttの戚じであつた。即ち、宗致を目して、それは、自分が︵無限のもの1一部として︶紳 一 丁度、我々が自然と云ふ一般の連鎖のう に所属すると云ふことを戚じる感じであるとした鮎にある。﹁この絶封所属戚は如何なるクリスト 数的敬慶の戚敦のうちにも戎せられて居るのである ちに我々自身を見出す程度に、丁度、我々が宇宙の一部としての我々自身を宇宙の問に意識する 程度に﹂と後れ自身も︵その著Derc訂i邑ie訂G−茎訂︰dereFr覧・望⋮訂邑el岳er賢りT−−ei−∽00 サに︶遁ペてをる。自然と連鎖する自己と同じ様に、紳と連鎖する自己を見出さうとするのであ る。︵殊に、同著、三十五節︶さうした﹁醐への単純所属﹂を成すべきを強調して、後れの提唱は、 後れ自らむ彗て居る後に︵⋮.〇﹂.切ざ嶋・︶軋沖諒と阪た左た三歩†みむか修しー鮭際臥 所への所属を翠純、絶対に威すると云ふことは、有限の我々人間には不可能である。この憲政に ︵謬deロ辞訂りdie謬−igiOn 於て﹁誰もが宗教なるもの皇宏エに待つことは出凍ぬと云ふことは、何人にも容易に知♭得ると ころである。何となれば人は有限であ∵り、票数は無限であろから﹂と −ヨ¢.野望〇.︶彼自ら述べて居る。さうし佗人間にとつての宗教の最高潮は有限、無限の重き抱擁 時である。その曖聞こそ宗致が花と咲きめふ清閑時。dieh罫静空夢ederRel山gi声生ける宗教 の生命の生誕時dieGeF≒t賢nde賢00訂b昌digeロinderRe−質。nである。︵P∴P▲〇・−諾 ﹁その瞬間にこそ、我れ無限のカを威じ、無限の生命を威じて、正に、無限の心そのものでぁる﹂ ︵同上︶と説かれてをる。 この心境、自己のこの心境、この心境に入♭し自己の健勝をまとしてシュライエル†ッヘルは確 かに﹁膿験の細筆﹂字詳rロn嘗FeO−嵐eをま改したのであつた。 この健検、この心境を重じて彼れは一般クリスト敦の数理、倍條なぞも、たゞ、この心頃、値 螢を文せるに過ぎすと主張してをる。︵せe=Fri邑・聖書訂H・ゆーP︶ また、この憶臆の確固たるこそ、自己にとつて紳が確固たる所以であるとなし、確佗る自己の 一一へ三 僅槍に於て、醐を確と認めることが力強く記かれて・どる︵p・P〇・堺芦︶これ、正に、自己を邁 ヘーゲル有為の調整 ヘーグル右纂の紳拳 して紳一で知る所謂R賢訂cEu笛metF&0逆進法である。 逆進法を通して、紳は充分、自然化die甥註1邑i乱2rロng ︼八田 d念︵㌢tt盛され、碇らに理知的に把起 し了らんとする警pe言ぇ弓已i冒畠の域を臆し、各自の優駿と結び付いてカトリプク醐学風を完全 に股離するに至ったわけである。 但し、伸ば、各自の健廠を通して暁解し得る範囲に狭められんとする位置におかる1に至った。 この翫!こそ後ちのシュライエルマブヘル=ルネッサソヌに於けるドイツ最近の紳挙が問題の庶出 となすところであると考へる。近時、先つ、この鮎の論議をもつて起ったのが、 エルラングソ次の痢聾者苧l昌ger評lluleのホーアマソとフランクであつた。 即ち、醐を自己の慣験、味解の範囲内に狭め、主観の圏内にせばめん︵ヘヘノ1erk守語n−Jとするに 反対して、主観的な自己倍駿以外、さらに客観性を信仰封象に見出さんと力むるものがエルラン グソ況であつた。 そこで、先づ、第一に、エγラングソ振の南畢究は、シュライエルマサヘルが力強く提唱した﹁顧 へrの単純所属﹂を晩ふべき畢純法悦の主観的機敏を以て、畢に主観的へ仏る自己餞瞼と目せす、む しろ、客観的境地の革質○客灯ti霊r曽tb邑呂dな♭とするにぁつた。 その境地は、﹁賓き自己﹂のすぐさまの延長ではない、﹁奮き自己﹂のすぐさまの鱒験ではない。 その箋軋へは、たゞ、﹁新たなも臣已﹂としT兼腔に生転ぎゃら駁忙袈麓辟聖像磯職廃咽頭噸闇感−、ヨ遥遠 び生れ、新たに生れた自己を威するのである。その﹁新たなる自己﹂d監ロe莞IObその﹁新たに 生れること﹂die奄ieder唱buユが観過してならぬ問題なのである︵と主唱する。但し、シュライエ ルマプヘルとしもこの鮎は相常に説いてをつたと考へる。エルラングソ派のこの駄のま唱、このむ の訂正がどの鮎まで雷を得てをるかは問題である。紳畢者内にあつてもヘル†ソなぞはこの鮎の 不雷を認めて居る。︶ ﹁人、新たに鐘れすば藤の固を見ること髄はじL。新たに生れた新たなる自己が有つ境地は、沓き 自己の饅簸ではなくして、むしろ、香き自己と関係のない、達観とは別な客観的境地○暮kti霊r ≠tb邑岩dである。か∼る客観的境地は麿き自己、香き主観の任する境地ではない。客観者、紳 の任する境地である。云はゞ﹁紳の囲﹂でぁる。か1る客観的現地は自己、主観によつて招蒸さ れない、客観老、紳によつてのみ招凍されると詭く。 要するに、か∼る境地は抑も絶封者によつて招承諾rur琶Fenされ、たゞ絶封者によつて任せ らるべき客観的境地であつて、断じて自己主観の延長、自己主観のすぐさまの憶励ではないと云 ふのがエルラングソ派が信仰封象に客観性を付せんとしての第一の主張である。 第二、自己り鰭駿にさへ、かく、客観性ぉ力記したユルラングソ涙は、醐を自己の健陰、味解 ︵−ゲル有叢り所撃 ヘーゲル着発¢醐畢 一入大 の田内から遊離してこれが客観的展性を強調したことは云ふまでもない。ことに、痢を、客観的 な重なる廊として人間、主観と切り粧した。但し、この缶‡ま、 第三、この仮のクリスト観に題著でぁると考へる。 先きのシュライエルマプヘルはクブストを以て﹁宗致﹂の完全なる具備者と観た。無限着たる紳 への軍純所属を心すると云ふことは人間には不可能でぁる。が、たゞ、クリストに於て可髄であ P〇・Ⅰ・∽霊叫声︶と﹁事物 る。それは、後れ、クリストの完全来秋性へ察e巨Sぎdlie訂ぎーlk呂men訂it。︵S穿dQをシュライ エルマッヘルは有限性にこだはつて無限の紳を見得ぬものと俄すP へ.哲⋮n をその本然のすがたのま1にもどす救主としての後れのカ﹂へ盛e弓gdlie訂字︼紆−・kr註ことによ ると説いてをる。︵㌘∴P▲〇・ゆ諾・︶かゝるク,ストにこそ我々は﹁彼れに存する無限の紳﹂ 雰t訂ini−1m−、︵PPO●甲︵ゆ一芸・︶を認めざるを得す、そこに存する﹁自天啓﹂へへ許l訂打診nb琴巨聖 Fdie−b訂宝gem2i巳e訂諦mi什Chr訂訂をシュライエルマッヘルは力説したので ヽヽヽ をも信せざるを得ぬ。そして各自がその﹁クリストと相通やるいのちにまでとトいれらるペきLd忘 Au骨ロ〇m喜コ司erd2n あつ佗。︵a・2⊥〇・甲︵−○ご要するに、シュライエルマブヘルは、醐を以て﹁無限の存在﹂となし、 つ質貌t、以妊︰法押漱狙ゝ妙麗賢覧 ︵特に㌘=㌘▲〇・甲︵∽皿こ自己む亦、その無限の存在に所属すること空軍純に威するところに﹁宗 ∵﹂ 二㌣ ︼ r.∴ナ㌢︰∵.ト 敦﹂ぁゎとなし、而しで、その無限への単純所 触竜たるところにケリストぁらと吐し∴て軋放熱庸虹モ恥グダストー鴎モ無騰へ確乎績腐凛呼、.、∴j ヽヽヽ 典型﹂ざb監杏、原型qrbi−dたるそのク,ストと存在、香、いのちを共にすべきであると説い たのであつた。後れは自らが目する宗教の本質をクリストによせて論じ、己れの抱く宗致の理想 をクリストに印して詮いたのでぁつた。無限への所属を威すべき人間主観の戚じをク,ストによ せて謡いたのである。 反之、エルラングソ派は人間豊艶とは切♭離したところに、ク,ストの存在があると云ふこと を説かんと力めたのである。日く、信仰が問題とするクリストは、断じて歴史的人物としてのイ エス ミderE乳Ori乳訂J2⋮㌔とはちがふ。隆史のイエスは﹁過去の委﹂ei−1e句igl弓derづerg昌ge苧 ︼瓦tに過ぎぬ。それは既に、菜に過ぎ去り了つた。永遠に現在するのが、反之、信仰のクタスト である。信仰の心には、たゞ、箋iggegen畠r葺永遽に現在なクリストのみが優駿される。而して、 その永遠に現在するク,ストは過去の歴史のイエスではなくて、遊歴史的のクタス一声訂嘆乳亭 OF巨0訂r Chri諷宏でなければならぬ。さて、その遊歴史的なる恒に清くるク,スト、それは、婁 謬i&そのものである。登としてそれは有限なる人間主観と異る客観的無限者、客観的永邁者、耕 そのものでハuければならぬ。結局、信仰のクリストは、人間の主観、人間の歴史を超越し、室と 一入七 して、客観的にいつも現在すると云ふのがこのエルラングソ況のク,ストについての主張である。 ヘーゲル右菜の醐翠 ︿−ゲル有為の紳畢 1寛ur警訂巨 一入八 もとゐされての歴史が一般の歴史である以上、我々は こゝにもエルラングン涙が信仰を人間の主観、人間の健唸以外の客観界に基礎つけんとする努力 が見られる。 第四、さてかうしセ婁に 奮約よ日新約への一般歴史を充分なる批評的畢的に確かめた上、更に︰胃eilsge汚hieb訂昏t訂昌代 苧den地上に於ける塞の紳菜として、霊的にその眞諦を曾得すべきであると歴史家ホープマンは敷 を修得すべきを説いたのが教義畢者フラyクであ 設し、恒に信仰の心に現在する穿たるクリス一によつての﹁新たなる自己﹂に任して、客観的異質 たる三位一倍紳なぞに関する詳i訂弓PFr訂i訂ロ った。︵句r昌粁︰Ge00CEcどe亭・出ritikde=︼2莞r2nTbe。−鼠e弾誓−●平定ヱ 要するに、エルラングソ涙はシュライエルマッヘルが各自の宗数的髄歯を重んする除り翠なる人 間ま艶の信仰AntFr童0記已ri岩岳に椙らんとするを修正し、これに客観性を多く輿へ、以て、信 仰の確賓Gla各2n蔓司訂訂いtを得んと力めたのである。先つ、法愴の宗数的慣駿は人間主観の髄唸 ではなくして、客観的無限者の境地そのもの打了りとしてその客観的事賓性○暮ktiくer曽tbe訝nd を強調し、次ぎに、紳を客観的な窒とのみ主張せるほ勿論、夏らに、クリストをさへ過去の歴史 ︵人間主観を粧れての︶ の人間、イエスから切ら乾し、超人間的、遊歴史的の︵然し、人の心に永遠に現在する︶璽と傲 し、切ゎに、タグメト並びに紳の 肝奉告絆拳A賢琶鞋r㌢ご蒜を駈蒜畢鰹賢覧賢−主事慧▼席蔑頚鰯墜機頭領萄毒牒濁周 重たるのである。なほ、また、それは歴 る。但し、その日槙たる紳は人間ま軌を趨越したる穿賢婁たるべくして、而も、他面に於では ﹁新たに生れたる我れ﹂に永遠に現在する内在のG2i叫七 史を︵Hei︼鰯籍hieF打として︶些困霊r焉欝C−−2ロする雰訂什なのである。かくしてエルラングソ茨 の婁の宗教思想には、正に、吾人をしてヘーゲルのWe−tge訂tを偲ばしめるものがある。 而も、エルラングン仮の宗教論はシュライエルマッヘルの宗数億験詑を蟄ひながらも師、ヘーゲ ルが主張した︵群証の詭に立脚して、その宗教髄喩は人間ま観のわざに非すして、たゞ客観のGei乳 に起因する由を力説し、宗致を人間ま粗からひきはなしてG乱乳の客観界に確賓佗らしめんと力 むるところ、恰も、ヘーゲル左蔑が宗致を︵紆証の塵観界からひきはなつて望F訂riのの人間主観 に還元し婁さんと努力すると正反対である。ヘーゲル左賞は紳を薄めて唯だ人に、唯だ物に蹄せ しめんとし、エルラングソ茨は人を薄めて唯だ紳に、唯だGeistに蹄せしめんとする。エルラン グソ派の廟撃Jを、正に、ヘーゲル石英の宗教論と云ふペきであらう。 ヘーゲル春希の紳螢 円本古代宗教の研究に就いて 日本舌代宗教の研究に就いて 十 原 田 一九〇 敏 明 日本音代と云ふ範囲を如何に限定するかは、その折究封象によつても異なることであi∴一般 には奈良朝塑別若くは奈良朝をも食めてそれ以前を指すのであるが、窪に舌代日本人の宗教に いて云ふ場合には、先づ傭敦の影響を受けない以前、又仮令傭致は侍蒸して居てもその影響を けない妖膿若くはそれが徒凍の信仰の一方面としか考へられなかった頃までを指して置く。も よりそれは直に全然外部の影響を受けない時代と云ふのではなく、既に支部思想の多くに接簡 てをることも認めねばならないし、果して固有のものが如何なるものであつたか、又支那思想 影響によつて如何なる憂化を凍したかと云ふことは、これも舌代日本宗教に関する研究の一題 となる謬である。 古代を以てかく係数渡雄以前とすれば、その研究の範囲は鎗程限定され、殊にその資料とし の文献に於いて牒考古畢的遺物邁跡に於いでも極めて御限されて蘇るやでーぁ通が、償止弁潤滑野蔓牢㌣㌢踪 ほ眈に傭数偉寮以後と鑑も、称ほ併熟は直に一艦か僚肺に露際した静モ麗怒くご莞廃璽讐遠 飾された信仰行革にも、一度その外皮を除く時はその魔の面影を残すものもあり得るので、この 意簸では舌代宗致の研究と雄もその資料は温かに下って後世のものとされるものゝ内からもこれ を探ることが出凍る。殊に書々が今日手にし得る文献の如きは、その凡てが少︿とも中央の政令 では傭致隆盛に赴きかけた以後のものであつて、従ってその凡てがそのまゝ舌代日本人の宗致思 想を有るがま1に表はすものではないのである。 かくして資料は常に沸教や殊に支部思想の多くを混入してをることを濠思し、かゝる要素を剥 放して観察することが必要であるが、それらの要素の混入は宗教的反省の加はつたものほど甚し いので、従って日本書紀や音拳記の神代記事の如き、そこには却って多くの支那思想を習合して ︶ l ︵ をつて、日本人の思想としても、新しい又は進んだもので、それらは特殊階級の人々の待つ思想 ではあつても、決して日本人一般の持つ宗教信仰そのま∼ではない場合が多い。かくして眞の信 仰は、か∼る紳代記事の如きに於いてよりも、却ってをの外の場所、又はむしろ紀記の歌謡や高 菜の歌、或は祝詞や宣命の内に、如賓にその片々が物語られてをるのであるっ此の意味では高菜 集や風土記の如く、何等信仰を語る意固もなく、而も所々にその貰際の宗放生活に関して自然に 言ひ表はしたやうなものが、書々の研究には却って貴重な材料となるのである。日本書紀や古事 日本古代宗敦の研究lこ就いて 日本古代宗教の研究lこ就いて ︼九二 記の記事によつて、古代人の幼稚な想像を知る昔々は、一方高菜垂笹を通じて味讃した場合、そ こに始めて古代人の純な宗教生活の有♭のま∼の要を把握することが出凍るのである。 もとより一概に高菜と云ってもその製作の時代から云ふと非常な距離のぁる多くのものがあ ヽノ ーノ る。又作者その人の思想にも夫々違ったものがあ丁,、例へば山上憶良の如く未だ幼稚ながら沸教 ぴロ 的素養を持ち、これを詩歌に吟じてをるものもある。此の外にも多くの支那思想や傭敦思想の表 はれがあTり、殊にこれは時代を降るほどさうでめると云ふことが出水る。叉宣命や況詞の如きも 比較的肯い形式の思想一で多く求め至−とが出凍るが、これ蓋しか∼る儀祓に関することは多くの 場合何首的保守的であつて、新患を以て改慶することの少いのがその一般であるからである。併 しこれらにしても時代の要求に應じた蔓遊は固よりあり、殊に成詞の如きには支那風のものさへ 混じてをるのである。 川黒板膵芙氏﹁音紳邁に甜†る一考寮﹂︵明治聖徳記念拳骨起草琴二十四懲、併載し塾頭。 拘林音渓氏﹁萬某集に表ほれモの支郷思想﹂︵国語寸J国文撃所蔵︶、大屋徳城氏﹁萬稟集に現れたる老荘思想﹂︵妓故郷第二十五 沈併殺︶参照。 周給水暢串氏﹁萬菓異にこ阜†買価軟思想﹂︵国華院朝議第三十五奄九涙所載︶、有川武彦氏﹁彿致の影響より見たる高菜集以後 首今集に至る和歌﹂︵沸教研究第五啓一甥所哉︶参照。 二 かくしT吏能計排兜触発粋とすふ堤食に碇−先ず遜一にを併発伸男麗託鰯雁東嶺凛鱒畢憺鮫襟 の時代を明かにし、その後の舜蓬を知ると云ふことが最も必要で、書々に典へられたま∼の文献 は、仮令をれが中途で改作されるやうなことは無くしても、少くとも直接にはその製作の時代と その事情とに於ける思想より外に輿へるものでなく、それ以前の思想はこれに依ってそれを直接 に知ることは出水ない。 記餞の記すところを其のま∼認容することは極めて安易な方法ではあるが、それは多くの場合 事賓でないことを含んでをる。事賓がどれだけか曲げられてをる場合が多い。従って此の、文献 中に押し曲げられたまゝ盛ってある事賓を正しき原の形にまで還元して眺めることに依って、青 書は記鎖された以前の思想をも、或は膿げながらにしても、これを窺ふことが出奔るのである。 この鮎これまでの研究者にはや1もすると記録の内容を極めて安易に受取わ、それを以て思想の 史的費展車叙述するものがあるが、如何に辻啓を合はしても、さうした研究をやってをる内は、 それは畢問の退歩でなくても足踏以上のものではない。 辟且つ現今吾々に残されてをる資料は何れの時代にもー様に残されてをるものでなく、或は凡 てのことに関して、又は或る一事に関して同一の調子で書かれたものでもない。慣命記餞編纂以 前に、その材料となつた或る雇の文献が既に存してゐたとしても、それは凡ての事件に関して充 日本古代宗教の研究に就いて 一三壇j.− 日本古代宗教の研究に就いて ↓九四 分であつたのではなく、或る時代に詳かで他の時代に就いて粗略であることもあれば、文例へば 外交に関するもの∼み存する時代と紳戒に闊するもの∼み存する場合もある。甚しきに至っては 外交に閲するものが一時代に集められ油紙に関するものが他の時代に纏められて、一の編年的記 銀が出奔たのではないかと考へることも出郷る。 かくして例へば柴前垂仁南朝のみが醐就崇敬の盛んな時代であつた主苧ヰが如き、多少はさう した傾向を見ることも出凍ようが、それを以て他の場合がさうでないと積極的に否定することは 出凍ない。若しこれをしも記餞の示すところに徒ふ主苗ふならば、それは記健を過分に信頼する ものでぁつて、さういふ場合、書々の古代研究は単なる語句の解辞より外に出でられず、又それ 以上のことは無意娩のことにもなる。 ヽノ 又これもよく日にするところであるが、天武朝の記厳に宗教殊に醐祓に関する記事が多いため に、同朝を以て敬神の念の篤かった時代であるかの如く説く場合が今恕併しこれも天武朝及び 去るものゝ如く信す一品らであつて、かく積極的に否定することはもとより雷を得て とである。園ほ且つ吾々は日本書紀に就いては、その垢纂の方針並びに一、場合によつては、その ボ れを以て他の時代にはこれらの事晋がハ仏かったとするのは、これ文通分に記銀の内容が一貫し兢 その以後の日本書紀は、それ以前を少くともその所壊の資料の種類を異にする粘から見れば、こ l 聖者さへ決して終始一貫したものでは往いのではあるまいかとぉで考へるむので、殊に方舟噺以 下とそれ以前とはその趣を異にしてをるやうに恩ふ。 併し一般には績紀養老四年の記事に依って居♭、これに射して疑を拝むものは、かつて河村秀 根が﹁書紀集解﹂に論じた以上のものは無いやうである。而して養老四年誼を裏書するものとして ㈱ 拳げられる日本紀と風土記との関係も、場合によつては却って反射に日本紀が風土記よゎも以前 ヽノ ウu に成ったと云ふ鐙壊にさへな聖書々は今積極的にま張するだけの充分な研究も無く、従ってそ の自信も無いのであるが、一方日本紀と古事記とを比較して、日本紀の方が或ほ尿ではないかと 考へられる節もあるので、これらもその理由の一として、日本紀編纂が或は養老四年よらも更に ヽノ .4− 早い時代まで引上ぐべきものではないかとまで考へても兄畑。而して此の関係が、文献による舌 代研究、殊にその思想螢展の研究に及ばす結果は極めて大きいものである。 む 然るに此の書紀古事記の関係に就いては、一方に古事記偽書記さへあり、甚しきは古事記を以 ヽ 6ノ て平安朝初期の偶作であるとなすものがあ怒この異説に射して反駁営試みたものは多くほ見受 けない狛、併し多くの人々はこれに対して殆んど考慮を用ひないか、若くは全く獣殺してをる形 でぁる。吾々も亦た直に此の新奇な詑を受容するまでには至らないが、併し平安朝初期まで引下 げないまでも、その序文に見える和銅五年と云ふことに果して疑ふ一へき除地は無いかどうか。こ 日本古代宗教の研究lニ続いて 日本古代宗秋の研究にこ就いて 一九大 の盛夏に一考哲必要とすることではないかと思ふ。但し書紀の編纂の始めを天武朝まで引上げる 立場からすれば、強ち﹁養老四年といふ最後の年時ばかりから、古事記との関係を論じることは 出務まいと思ふ。﹂ 川これらに閲すろ箕例1‡枚挙に遣先い程でわろが、その一例与しては、三浦周行氏﹁文化史上土り見圭ろ日本書紀﹂︵重文茅 十奇策九北棟哉︺参照。 御恩横膵華氏﹁日本書紀古事記の編纂に就いて﹂︵東覿の米菓十巷第五凍併載︶七〇!七一束参照。 笹津田左右笥氏﹁古事記及日本書紀の研究﹂二九一頁以下蓼順。 ㈱別り磯骨に詳論了三ミゝL、その一端ほ拙稿﹁開閉紳話の構成軍訓々の追加Lハ宗教研究新第七笹第三北四波庸殻︶参照。 ㈲中澤孔明氏﹁古事記は促音か﹂ハ史撃雑誌璽二十五端第五紋所戟︶、同氏﹁古事記論﹂参照。 才r訂こ遥∽−p一缶−コ.︼.婁照。 ㈲安藤正次氏﹁青草記讐義−こついて﹂︵史草薙話第三十五編第九館所蔵︶、芦ぎ1昌ヨま○、野獣Ⅵur㌻吉1邑Ogi︰P苫臥き 三 かくして殊に思想史としては、少くとも記叙以前に関して年代的螢展の跡を見ることは極めて 困難である。これをその他の事件、政治的事件や外交的事件に於いては、その記餞以前の侍承に も比較的に史的事賓の年代的関係が把捉し易いのであるが、支部思想や係数思想の喩入の如く、 徒水のものと特に違ったもの∼鹿凍の如きは、これ亦佗比較的にその時代を知ることが出水る。 然るにこれに封しで民族信仰の如き、外部の影響によるの外、除り象化しない、而もそれら外部 の影響にも容易には襲化しが陀きものに過っては、償価記錬時化に放いで㌻∼、計りぞか醇整酵 典化も見すに博へられてをる。況して記領以前の革質に於いては殆んど時代的舜化もしない、若 くは認められないと云ってよい程で、これを年代的にその費展を説くのは、除りにも書々の如き 葬化の多い周囲の状況から受ける陸産を彼等の時代にまで嘗て筑めて考へ過ぎたものとも云へ る。かくて舌代日本人の思想信仰はすつと後世までも思った程甚しい欒化もなしに侍承され、又 同じ形に反覆しっ∼起って凍てもをるので、この意簸で、最近最も隆盛になつた民侍畢的、民俗 畢的な研究が直に青々の舌代日本人の思想信仰の研究に大きな寄輿をなすのである。 併しそれは外部の刺戟の少い、且つ反省の陰り加はらないやうな事柄に於いて殊にさうである が、外部からの刺戟に富み、反省の多量に加はるやうな事柄に於いては、強ち素材を外部よ♭取 らないでも、そこに比較的急速な舜化が現はれる。従ってそれらは仮令年代的な螢展を跡づける ことは不可能にしても、時代的螢蓮の相を見ることは出家るのである。 これを例へば、立国に閲する記事、創世に関する物語の如きは、支那思想の影響や又封外囲係 ︶ の事情によつて、比牧的に新しく螢生し、その後訂正埠禰されたやうな形跡さへ認めることが出 ︻一 ′\ 凍る。乃ち歴史は薪らしい時代が追加されると同時に、古く普の方へも追加されて行くものであ る。此の意味では或る時代を軸として二つに折畳むことにより新吉の賓際が明らかになるであら 日本古代宗教の研究lこ洗いて 日本古代宗教の研究に就いて 一九八 ぅ。かくて最も古いものは最も新しいものと云ふ珍現象を呈す一。が、事賓は恐らくその遽 る。而して古い方に追加されるものは、常に新しい方に追加される時代の反映であ㍗ク、そ 密接なる関係がぁる。 然らば何を規準にして折畳むか。此の鮎に就いては、事賓上困聾むしろ完全なことは不可阻 のことに属するが、極めて淘式的にいへば考へられることで、もとより今後の研究に侯つべ ので、技には唯その一例を畢げて見る。今人名から見て人名に1別﹂といふ字を付けたのは、一般 ヽノ には王子分封に始まるとするが、記戯によると日子坐王の凝、垂仁天皇の皇子に始まつて仲 ○− 皇皇子まで、極めて僅かの間に見ることが出水る。その鎮は除り見替らないやうに思ふ。然るに これを更に古いところでは、古事記に於いて国生みの段の島々の別名中にのみ澤山見え盲。 此の二の寧柄が嚢関係でないとしたら、南粘を重ね合せて歴史記頚の上に一の折目を附けるこ が出凍るかも知れぬ。これも畢に一例に過ぎす又もとより年代的にほどの鮎まで明らかとな か。何れにしてもその規準となるものを出凍るだけ多く見出し幾何かの折目をつけることによ て、舌代日本人の展の歴史革質と、反省の結果過去へ追加された部分との限界が接げながら描 出されること∼思ふ。但しこれは極めて図式的に云ふので、殊に後世の痕加訂正は何れの部分上 武いでも行はれるので1慣ゎにその限界が見えても、決してそれ以前には事貰なく、又それ以後 一要至空軍≡≡≡書=二■≡きニ㌻≡− Y の尊称は凡て食草箆であると云ふやうに隠然と区別旛準飯転併では往け。 か∼一つ見地から、古代史七最も古く皇で引延ばしセ薗串本紀が、決して謂ふ如く馬子の作では なく、最も新しい後代の偶作でぁるならば、日本書紀よらも古くまで引延ばLて一層整頓した形 を探ってをる古事記の物語の方が、仮令偽作ではないまでも、又仮令その筆銀としては古いにし ても、其の構成に於いては或は日本書紀よりも一暦新しいものではないかと、そこに一の疑を挟 むのも、強ち根墟の無いことではないかも知れぬ。 Ⅲ拙痛﹁開開紳請の構成寸J紳々の追加Lハ宗教研究新発七螢第三攻囲状併載︶参照。 仰天子の名ブてしてほ應紳、履伸、反正、更に下つて天啓の諾天皇に於いても見るが、天子の場合に時lこ別光恵味がぁるもら で、∼耳詑叉l‡謳既ミいふ意味があ・り、かゝろ場合にに多く古い形式に則る¢が普通でぁる。 四 これまで一般に宗教と云ふと直に細々がその中心となつて考へられ、従って宗教の研究が多く は細々の研究に終始した傾向があつだが、これは舌代日本人の宗教に関する研究に於いても同校 でぁつて、主として書紀古事記の紳代記事に記載せられた細々並びにそれに閻聯した宗教事賓に 就いて述べられてをる。 而してこれらの記事をそのま∼専賓と倍じて解辞する本居宣長始め徒凍の多くの国辱者の解辞 日本古代宗教の研究lこ就いて 日本舌代宗教の研究lこ就いて 二〇〇 ︶ は苦らく措いて、全琴︼れをeu訂莞をiOに解挿するものは、強ち新井白石のみではなh現今で でない。伺ほ且つ葬式に類似した儀式を行ふのは葬式以外にも種々の場合にあるのて従って葬 ︶ 卓見ではめつても、それが直に人間としての天照大敵の発と葬式とを物語るものであるかは確か 従って例へば新井白石が岩月膳の記事を以て死亡と葬式とを物語るものとするのは確かに一の ることは極めて普らないことである。 記餞の編纂者の時代の反映を多く希ってをるので、これを年代的に記餞された明らかな事賓とす が直に神代即ち速い有史以前の事穿とされるには陰りに薄窮な曹簸である。殊主物語の作者又は れ叉修飾された形で包含されてをる、畢なる虚構の託のみでないことは云ふまでもないが、それ も此の立場を採るものは決して少しとしない。もとより醐代の記事には多くの史賓が或は鼻容さ l て、線分され統一あるものとされ泥ものとすると、仮令史的革質を多量に包含するにしても、そ だけか舜容されて一の物語となbノ、か∼る物語の農個かゞ次の物語作者又は記銘の鹿碁者によつ もと′1紳代記事の如きは、断片的な事賓が物語作者によつて修飾され、場合によつてはどれ られたまでの或る時代には、か∼る儀式に類した葬式を行ってゐたと云ふことだけはいへる。 天照大醐の死亡を物語るとすることは精々早計に過ぎるので、唯だ少くともかゝる物語の作製せ 式に類似する主言ふことで直に死の事茸を物語るとすること、殊七現質に生存した人間としての ’− れを悉く敦賢と解し、殊にその年佗昨晩序針倍や告jと軋賠躯ぞを伊藤に竪琴G晩飯低撃憶豪 ︵ 時に弄誕無播なものとするのではない。一般にも神話を以て或は比喩であら写言であると解し、 ︶ 文一方には前代記事を以て全然一の醐話として解する方面がある。但しこれは固より神話を固 五 めて近い類似性がぁる。 脚次lこ歩けろ日蝕に国†る儀式もそれでぁるが、その他暮夜交代に餌するも¢、又Fit㌻ti昌や就任lニする儀式光ざlこも凄 関知井白石、﹁古史温﹂、﹁古史或問﹂寄金絹。 映を認めねばならないのである。 l 又儀式の起床を設明するものとするものゝある如〓、神代の記事に於いてもこれ考全然醐苗とし てのみ取扱ひー且っ或はこれを比喩寓言とし、又儀式の説明とするものがある。 ヽノ 例へば前の岩戸経の物語の如きも、素糞鳴禽を暴風雨の紳とし、﹁暴風雨退散して、天日再び揮 d一 ヽノ ける胱を記すもの打了り﹂と云ったh、又はこれを日蝕に関する儀式、殊に日蝕に関する呪術行虐 日本古代宗教の研究に銑いて かったと同じく、容界に就いても一向興味を引かなかったらしく、紳代史に於いても晴雨の挺化 ぇごことが出凍るが、併し素箋鳴令を暴風雨紳とする如きも、﹁我国の上代人は、天界の観客をしな を示すものともす恕もとよら他の諸民族に於いても、これに類似した天然醐話ほ少からす求め qV 日本青空芸の研究に洗いて ヽノ 二〇二 に限つて峯界の現象に閲係のあるものとは見られないのであき。かくして書々は畢守Q類似によ 塁牡紋などの天候に関する自然現象に掬係のあ、りげな記者は少しもないL。﹁故に素意鳴今の物語 与 って、その比較から渦されてはならない。 又岩β隠の行事を以て日蝕に関する呪術行点であるとするのもーの解繹としては傾遣に償す ヽノ ︽○ る。日蝕を患いdemOロの仕業と思ひ、雇々の呪術を似て其のde日昌を押しのけやうとすること は、多くの未開民族に普通な讃であるからJこれを以て岩月隙の物語を解滞し、そこに行はれる 行軍竺﹁すべてのものに生気を典へる呪術として見る﹂のであるが、もとよ♭﹁長鴨島をなか せたことも、宇安貞命が踊ったことも、神々がはしやいだことも﹂、それらが一の呪術行焉であり 又少くともその行焉に光祐的意味を食んだものと見ることは出凍るが、何故にそれが再び太陽の 現はれることを促すための呪鋳でなくてはならないのか。それは畢に他民族に於ける事穿からの 類推以上に、もつとこれを澄明する他の場合が無くては、強ちさう云ふことは、一の暗示ではあ っても確かなものではない。もとよりこれが﹁多くの来開民族に普通の話である﹂と云ふことは か、る解繹の主要なる根墟となるのであるが、併しか1る呪縮的意味を持った行鰯は、滴り日蝕 の時のみに限らす、例へば葬式の場合のdem昌を竣ふ意味で行はれるやうなことも、これ亦多 くの未開民族に普通の語であるから、﹂徒つで一方、岩戸匪の訂事を以て葬式教示すものでみなと 亨血鯨繹む祈常定せ転ぼ㌍ら払いことにじ左針擁に髄如﹁我蝕の上代尤は天界邸軸嶺蜃じ頓か甥 たらしい﹂ので、濁り岩β膝の物語に取って天界の現象に関係あるものとは見られないのである とも云へる。 糾例へば声冒p昇Abr怠del宣g訂de−○仁ニ2恥邑1貌︵−≡−警与旨寧−00ぶ参脾。 問例へげW・冒beユ等nS−旨ア訂el年戻On︷トeR2︼igぎ○=訂賢一i−β︵蕪華白雪こき一題薫二参照。 聞高水敏雄氏﹁比較紳話撃L一三一頁。 ㈱津田左右膏氏﹁紳代史の研究﹂一九二頁。 脚津田左右士∩氏﹁前端書﹂、一入八東、一八九頁。 仰坪田左右箸氏﹁前親書﹂、一九一天。 大 かく岩β陰の記事を日蝕と絵付けた㌔暴風雨と解するのは、除上にも天照大紳又は棄箋鴨宮 と云ふその名義に拘泥して居るのではないかと考へる。冒芸l︷≡er風の神話の言語的解輝からす れば、神々の名はその静々の性琴曾標示するもので、仮令言語としての意味は忘れられた後と雄 も、甫ほ根強く残されたものがあることになる。か∼る考方はギリシャの苦からあるが如く、我 国に於いても眈に早い時代から行はれYかくして天照大神を直に太陽そのものとし、素頚鳴禽の 名を﹁すさぶ﹂と解して荒ぶろ紳とし、これによつて後に至って暴風雨とまで絵付けられるべき秦 8▼本音代宗教の研究に就いて 日本古代宗教の研究に洗いて 地を作ったのである。 併しもと∼−天照大柳そのもの1本務の意味は、その﹁天質﹂といふ方がまであーつたのか。丼又 ﹁大神﹂といふ方に霊獣があつたのか。今六国史その他建言式、風土記、萬菓集あたゎに﹁天照﹂と いふ言真に関係したものを廉く蒐集してこれを観察し、且っ民族畢的な革質に照合する時、自ら 臣一 その本凍の意味がSuロG乱d窪ではなくして、これを直謬すればG−OriOuSGrePオG乱d虞ではな かったかと思はせられるのである。即ち自然現象説明の沖と云ふよらも、もつと古代日本人にと っで、その宗教信仰に深く根ざしたものであつたに相違ない。 素箋鳴令を以て暴風雨の紳とすることはA賢nや高木敏雄氏を始め今もさう解する人は少くな ヽヽ ノ ′ のであるが、それは地名停或の一粒であつで、事貰は却ってその反射であうたらうと考へちれ 自ら結付けて考へられねばならない。而して出書風土記は須佐の地名起原を須佐之男紳に托する 則から、此の場合も須佐と云ふのは山陰の地名に所々見るやうであるが、出貴国飯石郡須佐郷が 係する地名に、紳とか人とか、又はそれを意味する語を盗へることによつて出水ると云ムーの原 るが如く、須佐之男沖も、それは須佐紳と云ふのも同じことであつて、舌代の名が一般にその節 じところに建御雷紳ともあり、磋田毘古之男紳︵同上七ノ五三︶が同じところに狸田毘音紳ともあ い。併しこれもその名前の出家立ちから考へろと、恰かも建御富之男紳︵国史大系七ノ四七︶が同 l ろ。かくして寮費喝奇は﹁すさぶ﹂と解し暴風南沖とぎれるはどに疎放環象に隣し控物語で碇憶隠 して、もつと政治的民族的或は部族的の背景を待ったものと解する方が却って電雷のやうであ る。 これと同じやうなことは稲田姫に就いても云へる。これを沼田の人格化されたものとする考は ︶ ウ︳ 少くない。これとてもその親を稲田官主と解した訪も考へ合せ、且っ女の名が多く地名に女性蒋 示の語を添へて出奔る鮎から、農耕説明としての、沼田の人格化されセものと見ない方が却って 提督でぁらうと思ふ。即ち地名起原としては沼そのものに馨したにしても、人名適度としてはそ の地名から生じたものと云ふべきである。 併しこれも凡ての場合に就いて云ふのではなく、賓際に紳や人の名の言語的意味が、その性格 を示すやうになつて居る場合も少くない。妃ゞこれまで考へられたよりも一骨地名その他のもの に基くものが多く、かくてこ∼では一寸した安易な言語的解輝から陥る誤認の大きいことを指摘 しておけばよい。且つ名前の言語的意塊とその性質とその一致するやうなものは、概して現賓瞳 の少い、ePち人間性の少いもの■に多いとも云ふことが出凍るかと思ふ。 二〇五 印薫¢・A告n・Sbint。こheWPⅥ。〓訂ぎdこ芸−pp﹂岩⊥声高木敏雄氏﹁比較紳話畢﹂既出。芦欝t篭邑0−内乱 Sl︼ニュ苦手首肯JPp。n監袴こりぷp.∽∞寄金照。 日本舌代宗教の研究に就いて 日本古代宗教の研究に就いて の土居光知氏﹁文牽序説﹂六三賞、松村武雄氏﹁日本神話ざ民族文化﹂ハ紳語草論考併収︶一九四真等参照。 七 二〇六 これを要するに舌代研究はその直接の資料に乏しきため、そのもの自燈に解渾の出凍かねる 場合が少くない。か1る場合にこれを他地方他民族の事例に照してその説明を試みることば、そ れもーの方法ではあるが、併し緊なる一事賓の類似、又は片鱗の類似を以て、その仝髄の解滞を なすことは、多くの場合に紛ら意味の無いことである。殊に古代人と現存未開人とは既にをの敢 合駒状況を異にするのみならす、更にその本質的にも異質的なものと云はねばならないのであ る○ 併し信仰、習俗又は侍説の如きは、仮令倍持するこ主仏しにも、各地方各民族に於いて大使類 似の事象の猫自に教生することが少くないのであるから、それらとの比較研究から受ける示唆も 亦た決して少くない。但しそれは内に解浮出凍ない場合、外に借♭る第二段の方法であつて、従 って内部的研究の進歩に倖ひ、常にそれは再吟味を受けねばならないものである。かくして手管 ♭次第に近似の事賓を採集し、それを以て部分的説明をするといふことは、我が舌代日本人の思 想信仰研究にも屡々見ることであるが、殊七甚しきに至っては、翠なる単語的類似を蒐集し、そ れを以て思想停蹄の系統を論じ、ヌ更に民族移動の系統官設く場合がぁるが、.その結論の瞥否は 抑として一方温隷恥に整﹂馳隊の多いものと云ふぺきでぁらう。 最近我が団周囲の諸民族に騙する研究の進歩に伴ひ、これが我が舌代研究に助けをな 特に認むペきことであるが、これとても應々我が舌代研究のための研究に陥り、やゝも の焉めに却って誤った結論に至らないでもない。かくして例へば琉球のノ∇、朝鮮のム 更に北部アジヤ⊥般に見るシヤマン、これらのものが我が舌代日本人の信仰と密接なる ることは言ふまでも無いことでほあるが、併し人間の組先と現在の猿とを一緒にするこ であるが如く、古代日本人の信仰が直に現今のそれらではないと云ふだけの用意は必要 此の貼では更にそれらの宗教そのものとしての理解を深めて行くことによつて、単に 開係のみならす、心理的関係に於いて却って舌代宗教、殊に日本古代宗致の理解を助く なるのである。而してかゝる宗致の理解はもとより吾々自身の宗致を措いては、何等か その最も緊密な関係にある諸宗教を研究するにあぁので、此の意味でも周囲民族の諸宗 身の研究が、自ら青々の宗教の理解、殊に舌代宗教の理解に重要なる役目をするのであ を睾ぐればアイヌ人の如く、言語的にも民族的にも日本人とはその系統を異にし、文化 象想される程にもない民族であつても、その資料その他の関係によト、アイヌ入信仰そ ヽ′ l しての諒解が徹底することによつて仮令これを日本古代など∼は無圃係に研究されても、それ 日本古代宗教の研究lニ就いて 日本古代宗教の研究に就いて 二〇八 が香々の宗教一般の理解に対してさへ多くの暗示を輿へるものであるから、況してこれが古代宗 致の艶解の助となることは云ふょでもない。 mこの意味での貴重先安料写してli金田︼‡劇氏﹁アイヌの研究﹂¢如きがあゑ。 八 これは叉考古畢や土俗畢的の研究に就いても云へる。考古的又土俗的な研究は既に早くから好 事家の手で街はれてゐたが、併し専門家の事に移るに至ってもや∼もすれば⋮Pteul風の解繹に 陥り易い傾向がある。併しこれらの畢問が舌代研究に資するところは決して少くない。琴匂に考 古畢の対象たる遺物遺跡は腐蝕、破雫摩滅などによ♭、その範囲を制限せられ、土俗畢の対象 は鼻形、潤飾、混合、省略などによつて少からぬ痩藩を倖ふものであるために、これらのものが 舌代のものそのまゝで無いことは云ふまでもない。かくして遺物遺跡の如きは、少くとも古代人 の心理の説明に対しては、纏めて飛び石的な、而も必ずしも硬貨でない賓意的資料を提供するに 過ぎない。 土俗の多くのものも、嘗って或る時代には強い信仰生活の現はれであつたものが、仮令その信 仰の内容は沿えても又は信仰の形式は縫っても、その形骸を樽承や習俗の内に止めてをるので、 .・ . これが研究の、古代人の膚仰生活七知るに重要であうJとは勿論である∵償㌧舌代と現代との鱒 . 佗祢距喋曙光で翫るだけ、莞雅泰蒐偲の蘇報尭艦艶隆史偲併螢贋併太で森麓だ糠﹃感礫讃煽葛蛸 議 8本音代宗秋の研究に就いて るが、或は史料取扱の不充分のため、又は特殊の見解に囚はれるため、應々にして傾向の異なる 併し如何に心理畢的へ仏解澤に於いても、それは史的事賓を柾げることは断じて出釆ないのであ 代人の思想信仰の研究に於いては、この方面、殊に宗致心理畢的考察が行はれてゐない。 及ばぎるところを明らかにするものは心理畢的な考察である。然るにこれまでのところ、我が古 而して殊に宗教信仰の如く精神現象に就いては、この史的研究の補助となゎ、且つ史的研究の 秤に射する用意がなくてはならない。 してその方法論に於いて不充分な鮎のあることを敦想するか、若くは更に藤史以外の補助又は解 へ与どのそれと極めて安易に結び付けられるやうな場合が少くない。これ亦その結論の嘗香は別と かくして舌代日本人の習俗を直に現存の土俗的事賓に結び骨けないまでも、或は例へば中世期 ヽノ 小 史時代とでも云ふべきものを残すか、又は大きな飛躍の跡を見るのである。 の資料の関係からも非常に困難︷せJとであアり、これまで此の方面の著述も少くないが、多くは開 この意娩に於いて土俗の史的研究は古代人心理の研究にとつて重要なるものであトながら、そ に近いものを見出し、史上のそれに大なる慣鹿があることにもなるのである。 たる土俗的拳貫と舌代人の心理との距離は大で、従って此の粘では却って僻地からの資料に舌代 ヽ− 日本古代軍歌の研究にこ就いて ≡○ ∽ 異記を生するに至る。耕る解澤は、それが仮令現代的解渾であつても、古代人に園する知識の 足に倖ひ常に根底から崩壊し、絶えず改欒さるべき解蒋であつてはならない。 要するに古代人の心理の理解には常にその昔代人の心を心とするだけの用意が必要であ云1こ れには挽近の未開人心理の研究、民族心理畢的研究が密接な関係を持つこと云ふまでもない。 甲、れね例ぜば加藤咄堂氏の﹁民間借仰史﹂の如き、未だその綺潜1‡出光いがl恐らく=の鮎の困難があるミ息ふ︵宗教研究 新雪一巻批評参照︶式中山大郡民の近著﹁日本巫女史﹂の如きも、古代ミ褐今ミがその大部分を占めてわる。伶ほ巫女ミい ふ出来上った禦芸既に用意Jて、その範疇に入る材料み蒐集するミ云ふ以外に、その心理畢的考察が巫女研究に重要先 方面み光す。折口信夫氏の﹁古代研究L中の或ろものにも、已旨訂−ミg昌eli邑が混同されてむるやうでぁる。 拘城戸幡太郎氏﹁古代日本人¢世界観Lの如き、卓見ミ同時に叉史家の充分−こ承服出来ない多くのものをも戒Lてをる。 九 以上述べて水化種々の方面からの研究が夫々重要なる役目をするのであるが、何れにしても出 来るだけ直接に舌代日米人の資料によるべく、それによつて古代人の心理を正しく理解せねばな らない。 而して古代人の持つ沖話の如き、又は現存の民間停承の如き、もとよら架峯無誇の詭ではなく その内には古代人の票数を背景とした具髄的の信仰が物語られてをるにしても、それらは極めて 反省的な所産、又は文化的影響によつで鼻藩するものであぇために、仮令特殊人の思想的所産で 標柱患で軒V・ぐねは特殊の億種女物誌ケ、凍に新しい要義既多量lニ倭とれだ堀鹿推参い妄誼ぶご とも出来る。 かくして吾々ほ斯る神話や民間侍承に物語られる事柄以外に、更にその根底となる、而も原本 的な信仰がめることを汲想してよい。併しそれは畢なる紳話や民間侍承の解滞のみからは出て凍 ない。又紳を叙し宗致を述べるやうな文献などからは、却ってその異相を把捉し難い場合が少く ない。けだしそれらの文献侍承には應々にしてその作者又は侍承者の個性を混へ、又薪解繹を加 へて、その原本的要素一ぜ障没してをることがあるからである。 従って此の意味では、慣命古代人の残した文献によるにしても、それは出来るだけ思索的反省 の加はらないもの、従って宗教的記僚でへ甘いところに間々見出すことの出家る宗教的意味を持っ た記事乃至は文字を忠賓に研究することに依って、却って一層根本的な、場合によつては一層古 い形式の宗致の婁を費見することが出奔る。もとよりこれには幾多の他の畢問の補助なくしては 期せられないことであるが、殊にその舌代資料そのもの∼直接の理解と、古代人心理の正しき理 解とを必要とする。而してそれには言語文字によつて表現されてをる古代人の思想を知るに、舌 代言語の心理畢的理解が最も重要であることは勿論である。挽近此の方面の研究も漸く起♭つ1 あるが、併しそれも畢なる言葉の類比、周囲民族語との比較であつてはならない。 腋本音代宗敦¢研究に就いて 邦彊論納所牽におけろイエス 蒋置諭的瀞拳におけるイエス 二 三 枝 こ〓− 義 夫 スイスのカルダィソ涙の紳挙者カール・バルト舅弓−PユFによつて、初めて唱導された近代新 興紳撃たる﹁坪詮諭的紳畢﹂せiをktを蒜≠e乙鼠eは、十九世紀に於けるブロタスクソトの所謂 ﹁近代軸畢﹂に射する一種の反動紳畢の傾向を多分に待って居る。 周遊理想ま義暫畢の、文化と宗教との綜合一故に封する反動、即ちヘルダーJ・¢・Herderの ﹁人道化された基督数と基督致化された人道主義﹂に対して、文化の危機としての宗教をま萌し、 又リッチルA・星哲l一lの歴史研究に基づいた歴史重義に反封し、トレルチ声曽Odt胃Fの﹁人間、 文化、債低に関するめらゆる事物の組織的歴史化﹂に対して垂書の絶封ま哉を主張し、就中シュラ イエルマッヘル琶一−e訂r営e訂rの宗教を﹁施判紆依の感情﹂と心理的主観的に理解しやうとした心 理ま義に対して、最も激しく反対し、紳の客観的超越性を主張し、輿へられた、興奮な、そして 容貌絆往もの﹂換言すれば、蜜曹の中華ポや謳憩い抱灘超越的瓶紳の富来拒激す旛信仰控連発軋㌍ 目白ヒ甲unner は著書 妄∴ぶ芋蔓 膝信じて駆ら艦芸替馳取越飯能妾轟恒超飯報基潟掩憶蒜幾晩革邸思想に恕で瀾甥楼儲ご傑痛 の代表者の一人であつて、同時に票数哲畢着であるエミール・ブルソネル i乳ScE−und謬gFといふゴェーテのファクスーの語を引用し、 ﹁神秘と言菜﹂虻ie眉sti打2dd監ヨrt−−這・の屋の左頁に﹁成惜はすべてな云1名は響なり 煙なら﹂雰詳〓乳邑属茅me 右頁にルプチルの言葉、﹁言葉は萬物の原理なら﹂ゴrbu2e乳守igipiumrer冒を引用して、前 者の理想主義的観念に後者の宗教改革思想を対立させ、強く比較して居るが、こ∼に彼等の主張 の一般傾向が明瞭に示されてゐるといへる。 かく坪詮諭的鯛畢は、宗教改革思想の近代化であり、その近代的色調を伴った復興であるが の思想に最も直接的な影啓を輿へたのは、北欧の憂愁哲人ゾェーレン・キュルケゴールSぎn日e7 keg琶dl−00芸である。彼の憂欝な厭世的思想、彼の特殊な逆詭的思考様式は、彼等の最も根本 的な規範とされ、彼等は好んでキュルケゴールの▼含蓄ある、そして奇警な、特殊な用語を に踏事使用してゐる。ブルネル・エレルトWer莞r匡e注が云った、現在の﹁キュルケゴール・ルネプ サンス﹂は、この坪藩論的紳畢の領域に於て最も明瞭に表現されて居るといひ得る。 〓 梓澄論調聾者としての主なる代表者及びその主要著書は次の如くである。先づ第一に奉げら 欝旺論的所畢におけるイエス 繍証論的繍畢におけるイエス こ︼四 なければならないのは、建設者と耕さるべき前記カルダイン派のカール・パルーでぁつて、彼は最 初は牧師であつ化が、後ち大学数授となり、一九二九年ボン大串の正数授となつた。彼の著﹁Ⅴマ 書﹂DerRぎerbrie︹−巴扇∵岩垂声は彼の重要著書であるばかちでなく、輝藩論的紳単に関する最初 の著書である。甘マ書のパウロ紳単に彼の紳畢と同一傾向あるを費見し、こ∼から彼濁自の紳畢 的思想を以て甘マ書の註滞を試みたものである。彼の講演集﹁紳の言葉と紳畢﹂D慧召邑雰tt認 21ddieづheOl品ieこ交ざ﹂諾撃と﹁紳畢と数曾L崇e≠邑邑=已dieRi邑−eこ冠00・はその 要著書をなす。〝−テル淑のフリドリヅヒ・ゴーガルチンヲi乱rieb雰g弓訂nも亦その代表者の一 人でぁる。彼も最初はブy−メソにおける副牧師の地位にぁつたが、一九二七年エナ大挙の教師 となった。ま要著書には﹁宗教的決断L崇〇re︼僚紆E已驚訂id昌gこ畠−∵忘申声﹁健励、知識及び 弓⊇嚢ti。n 信仰﹂Erlebn訂−苧ke2−︷−1⋮訟亡己G︼岩bつこ諾−・﹁錯魔﹂l︼−鼓○莞n−−浩戸﹁金は三位一俵の醐を信 す﹂Ieh g㌻u訂買dend・・eieFi肇−雰ttこ誌P﹁紳畢的侍承と紳畢的労働﹂H訂Ol鼠邑1e 巨d tF邑品訂訂Arbeit∵蚕芦﹁信仰と泉質﹂望昌beロnd宅irk︼i各k2it−−諾00・等がある。票 畢者にして、一九二四年以琴7ゥリソヒ大挙の敦授となつたエミール・ブルソネルには、﹁紳秘と言 いP振渡御旨.巨r臣臣 葉﹂せ訂崇y乳klll乙d琵WO首−浩声﹁哲撃と啓示﹂冒i訂旦ie已ndO欝ロぎ⊇−︼g二変声﹁改革と浪 .1 ヽヽ 鼻演LR亀ロけヨ諷5.さ βゴーROロ箪ロt詳−ぷぷ●﹁仲介者LUeり =買i己e巧、 聾者から整蒜聾者とハろた、マールブルク丸撃取正弘賢㌻ルフトナTヤプ琵︷︶≡覧藍欝 には﹁イエスL訂星、−悪声∴がある。 この外周列恕すれば次の如きものなどを奉げ得やう。 l計Ilこ≡− 現在機関璧帥へへN卦e訂ロdenNei蔓、の庵輯にたづさわつてゐる巴u弓d穿5e竃nの冒t? je弓草−琵・説教集、詳ユ冒tF2声冒1rne頂n−警e−一et要t−警﹀﹂ヨ童deニllr −琵00.︰へ守i琴llenden臣tem一︸の主筆写rNのRのligi筈An㌫什語imm。der莞11哲鞋訂望弧、 け巾rYOヨePrmpbr訂訂F已訂Tこ諾の、−諾篭 三 ヽヽヽヽヽヽ 此等の人達の唱へる薪紳挙が1婦言論的醐畢﹂と解せられる理由は、彼等は等しく、神学はす ペて正︵Red2︶と反︵屠el−r2de︶の形式、即ち絆澄諭的形式によつて表現し得ると主張する庸に ある。彼等の旗本思想は普に此の方法によつて表現されなければならないのであるといふ メルトが既に述べて居る棲に、彼の根本組織はキュルケゴールの夫に由蒸したものでぁ ち、醐と人間との間の1矩り﹂貞賢n㌔キュルケゴールの言菓をかりていへば﹁紳は天上に汝は地 上に﹂へへ雰三乳iヨHiml宏−⋮ldd⋮−1r苧de㌔といふ、時間と永遽との﹁無限な質的相違﹂へぎ一 e︼ldli計rβ喜li翼竜e−旨邑瓦d。の対立の中に、換言すれば、か、る醐がかゝる人間に如何に圃 環詑論的紳畢におけるイエス 鐸証静的酔夢lこおけるイエス 二一大 係し、かゝる人間は、又、かゝる紳に如何に関係するかに、この甜畢の根本課題が構って居るの である。 ヽ 従って紳は、メルトによると﹁金地﹂︿官民A已3一、であ丁りヽ宗教敢食ま養老ヘルマン・クプチ ル詳冒昌nぎ誉rが飯に断言した様に、﹁癖ほ藤であり﹂ミ雰tオ訂什雰tt。、﹁見えぎるもの﹂へ卓† 胃 、 紳と全く連絡を経った世畢この雨着の、ゴーガルチンの言菓をか♭ていへば、﹁絶対的対立﹂ ミ中空。訂r雰ge巨t㌔ブルンネルの所謂﹁原始二元論﹂三qrd邑i昌宏。をま求する。この両者の封 諾、私と汝といふ二人格の翌の如く霊するが、而きれは或共通な人間的篭のによつて、 その根底において理解されるが如き、人間的彼我の対立ではなくして、人間の私と紳の汝との間 に、ブルソネルの﹁質的相違﹂三宅已i牙eせ裏話n㌔を持ち、﹁止換し得ざる定着された噂﹂・ぎ守 邑−−告罵笥e訂訂評F岩村e﹀妄待った飽い対立なのである。メルトの﹁こ∼と彼虞との間には超え ノ 一 得ざる死の一糸が引かれて居るLへ.qn欝er芳F邑b胃i乳乳00eFenFie⋮nddOrt已eH乱註n訂ge 唱nごが如き対立である。従って、こ∼から、あらゆる従来の暫畢・紳畢は否定されなければなら ない。紳は経射的超越で、人間の思絆の範囲外に存在し、又何等の方法を以つでしても、人陶﹂喜 世L 舞に称在す竺jとは聴衆なぃ。藤巷取扱触転荊権能に不囁能管率旋糎㌫噂噸礪鵬覇鰯礪頂囁周 或は憶陰による心理畢的把患によらうとしても、或は良心の働きによつても、如何なる手 によつても、そのことは不可能である。 こゝで私達が注意しなければならないのは、この場合の人間が、軍仏る眞理に射する観 ての人間でも、人類茅葉芽ei什でもなくして、個々のこの人閉、私であることである。﹁汝は人 である﹂岳。bi乳deり夢n㌔といひ得る人間を意赦して居ることである。我々は決して単なる 傍観者ではなくして、時代に生きて生命の苦闘に興る存在である。この理論的でない、質 朗に宗教問題に封する解答が輿へられなければならないのである。かゝる存在するものと 人間の賓践的方面を強調した併に、キェルケゴール並びにカール∴イムR罵−H軋mの思想的影 響を認めなければならないが、か∼る人間と紳との鋭い対立から、教義的紳畢とも異な♭、批判 的紳畢とも相違した新たな紳畢的解帝−そしてそれは何時に宗敦の本質の解明となるものが、 加えられたのである。 バルトによると、教義的藤挙が紳の超越性を説くことには、むしろ観念論的批列沖畢よ かに好戚を待たれるけれども、紳に対する人間の眉間を抑制して、只倍條・曾倍すること することは正常ではない。批判廊畢は人間が自己の個性・人格・自意識を屈施して落に軸 #荘論的臍畢におけるイエス 環梵論的清華におけるイエス 二︼八 とする限り、これは結局醐の否定に終る。従って残され死方法は只一つ、それはこの辞詮論約方 法によらなければならない。 蹄澄諭的御車は、それが用ひた絆定論とは、ヘーグ〝の蹄澄法の如く、正反から合が止揚され たのとは異なる。甜と人間との関係の表現に用ひられたものであつて、両者の対立を正反の形式 によつて示したものである。か1る正は、恐らくは形而上的前提を持ち、その反は、たゞ正を制 限したものに過ぎす、そして後に述べる礎に、合はこの正の内容を決定したものとして、この特 殊な蹄詮諭の内痙を鼻顔することが出挙心であらう。然しながら彼等によると、この鋭い封立の 中に、むしろ、宗致の本質が存在するのであつて、雨着の間に掘られた溝渠り虜に、人間は紳に ついて何等知り得ないし、従って紳の意志を付度し、此を賓現せしむることは出家ない。こゝに 両者間の認知は闘技的でぁるといふ重要な概念が生するのである。而して、この両者の開按的認 知を可能ならしむる方法は、只逆説的par已○国関係においてのみである。理性に反した逆説の形 賢■ 乗るのである。紳の意志表示を、この道読的関係におい 式においてのみ、我々は沖が人間に暫して語♭、人間が紳について語るものを表現することが出 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ おけるジンテーゼとなるのでJ㌢。そして紳畢上のあらゆる問題は、同時に宗教の基本的問題も 赤、この建武的膵係に應いて﹂ユ野上ごヱ㌫.読評ダ才チお∵ルソJ奴︰荏払軌紛糾隊野抑 ヽヽヽヽヽヽ 栽的天才は一博れもか1む連記推論鄭衷なじ℃應㌫卜巨儲把に塵聯畏晦囁酵極畷喝環喝噂嘩誹適題濁闇闇凋牒瀾瀾瀾題瀾 一 − 輝言論約思考であると。﹂ 反の思考であつて、こゝには只、合が蓮べられて る特殊な韓澄諭的形式によつて、彼等の紳挙が構成されて居ることから1群詮論約紳畢と耕する のである。メルトはいふ、﹁致鶉的思考は正 居る、だから、解こうもいへる、これは さて、かくの如き紳畢理論において、イエスは如何なる位置を要求するか。いふまでもなく、 それは紳の不可能なる自己啓示を可能ならしむる紳的存在である。ゴーガルチンの言稟をからて いへば、﹁紳は地上においては只我々の肉と血を待った人間としてのみ自己を啓示することが出凍 る﹂といふ、その眞賓なる﹁紳の言葉﹂ミ昏t︷袋W邑−が、貰際の人間となつたものである。メ ルトは、これを次の様に明瞭に述べた。﹁言糞は肉となつた⋮:F罪の支配する肉﹂となつた﹂へ、冒粛 弓Ortヨrdヨe訂ch⋮JS穿debe訂rr胃罫切望e訂Fミと。イエスは紳の﹁僕の要﹂へ東口ee芽g乳賢−で である。彼はあらゆる不可能なるものを盛った可能なるものであ あゎ、前の﹁仮装﹂へへHnk。gnぎ。で雪Q。こ1にも亦宗教の逆説的性質が合まれて屠る。即ち﹁キ ,スト自身が逆説︰㌢r乙。HOn る﹂。かゝる粘において、パウロの逆説的イエス観は、最も正しくその眞理を解決したものとして、 バルトに受け入れられた。前記のパルーの言尭を、我々は殆んどそのま1、バクpの言葉の中に こ︼九 見出し得るであらう。﹁彼は罪人の翁に罪人となつた﹂とメルトも亦云って居る。 噂詮静的紳畢におけるイ言 簿記鎗的紳轟−こおけるイエス こ二〇 かくの如きイエスの観察は、又次の如き考察を加えられなければならない。即ちこの内となっ たイエスの中に、我々は如何にして紳の言葉を見ることが出水るかといふことである。人間的な るものゝ中に、如何にして締約なるものを認知し得るか。メルトによると、それは決して理性に ょって蓉見されるものではない。むしろ理性七反する﹁連記的な﹂−曾r乱○軋−﹁信仰﹂嘉−au訂。に ょって信せられるのである。 この信仰も亦特別な内容を持ち、これは亦キュルケゴールの影響による。キェルケゴールの﹁あ れか、これか﹂岳n首ed苧Oder。の二重反省の形式が、彼によつて絶承されたのである。メルトに F諾rO、ニ、i己q貞eま乳、であアり、ゴーガル ょると、信仰はあれかこれかの﹁選揮﹂へ毒邑。であか、﹁胃陰﹂ミ宅品n訂、、であら、﹁垂虚の中へ の﹂﹁不確賓なるものの中への飛躍﹂去erSpr声長inu チンの適切望一己某をかりていへば﹁断乎決定﹂占n宮訂山d巨g−−であるが、此は叉同時に、﹁徒頗﹂ ミGeFOr夢巨︸、であγり﹁我々が決して成り・持ち・為し待ないもの、決して世界と人間とならないも のへの﹂屈服であるといふ。即ち信仰は、常に連記的であゎ、それ自身において辞詮諭を持っも のでぁる。メルトは、かかる反理性的な中性的な信仰を主張したが、これは中世のスコラ紳畢に おける最も道理性的な逆説的信仰﹁不合理なるが故に金は信やLQ諸dO−β已pp訂亡乙呂●といふ言 葉とその内容を等しくするので、メルトも亦好んでこの句を採用主張した。 かくして難語謹恥沖単によむとト砥磨ぼ沖にクレで機証左様にぼV尿蓮誼推定信仰によヴ℃、 紳の啓示としての紳の言真についてのみ語ろことが許される。そして、紳の言責は、琴富者・説 教者・或は空音の言葉において示されて居るけれども、此等に比して人間となつた前の言某とし ての逆説的なべエスにおいて、最も明瞭に示されて居るといふのが、絆澄論的甜畢、就中パル一 におけるイエス観である。 評定諭的藤畢は、それ自身において既に完成された紳畢ではない。むしろ絶えず成長螢展しっつ ある沖畢思想である。そしてこの紳畢が皇位としては、等しくあらゆる鮎において人間の厭世的 再訪訂 とも耕せられるけれども、詳細の鮎においては、馨展の相において若干の ヽヽヽヽ ﹁限度﹂へへGr2−1㌔信仰の﹁断乎決定﹂即ち﹁危機﹂へへ・野獣。を主張する粘から、これは又﹁危機紳畢﹂ ゴー邑︵乳e der 内容相違が示されて居ることはいふまでもない。 ルソテル涙のゴーガルテソはカルダィソ泥のバルトの思想をルッテル的に主張して、永遽なる紳 が、ナザレの歴史的人間イエスの時間の中に現はれたことを強調し、エミール・ブルンネルは、ゴ ーガルタソの影響を受けて、信仰による永遽と時間との﹁兢二﹂。日n訂it。を企て、イエスは両者 を統一した﹁仲介者﹂へ■呂tt耳、であると耕しセが、最も特色めるのは、歴史紳聾者より辞澄諭的 神学者となつたブルト†ンでぁる。 標記論的紳単におけろイエス 嬬正論的研畢におけるイエス 四 歴史沖学者としてのブγト†ソは、既に十年前にその終結を告げてゐる。唇音書の歴史的批判 研究における最新の研究方法としての﹁様式歴史的方法﹂苦rEge警Ecgie訂∴呂et−−Odeに於てなし た彼の卓越した功蹟は、一九二一年の﹁共観頑青書侍設の歴史﹂芽乳−icF訂derⅦ¥Op許c訂ロゴ守 d山什i。亡となつて示された。この新研究は本書の表題が明示してゐる様に、共観頑普書の個々の物 語が成長螢屈し.遂に現在の文献に固定するに至った迄の歴史を跡甘け、ここから史的イエスの明 白なる形相に封して精密な・る資料を提供したものである。然しここに示された頑青書物語の正健 は、歴史的な意味において極めて悲観的結論となつた。金物語の中、多くの蓋然性を以って史的イ ヽヽ エスにまで潮ら得るとしたのは、恐らく私の指摘し得る所によると、極めて僅少なイエスの言尭だ けに過ぎない。︵最も正確尤もの写して指摘し圭箇併S.ぷ認−茅野確不接が相中す一ごこ表面折節烏二草不明瞭 ︶ ざよ豪品川 仇・ぎぷ芦︶即ちブルト†ソによると↑ユダヤ的でも亦致囲的でもない、全く新たなも ヽヽ ヽヽ の特徴あるものの・宗、史的イエスの確賞な安室不すもので曽ゐかかるものは大部空量の中 に含まれ幕藩には殆んどなく︵私の指摘し得た所によると巡適者の辞と共になしたイエルサレム ヽ′ の入城だけが史的革質であらうと述べて居る。S・−冨︶E頑青書の大多数の物語は、多方面の材 粁を初代教頭の寒々なる樺偉によつで髪形しセも爪りであるといふのである。 、・■ ン㌧ 料▼仁恥娠軒敢解際兜酢船窓によ㌫隻数晦雲義解塵恕偏にこ蜃麗Ⅵ塵頗畷硝煙で礪嘲領喝プ∩〟 表攣 企てであることが示されたのであ⋮¢。かくしてブルト†ソほ次の如き歴史研究の結論哲経た雪我 ﹁ d巧唱nOpt訂訂n国Y昌ge已en︶−認印︶ 々は最早イエスの特質、人格、生産について何等知ることが出凍ない。彼の言真の只一つも構成 あるものとして示されることは出家ない﹂︵崇e宇野seF呂g S・00∽︶と耕したが、又﹁イエスの人格について我々の知り得るものは無に等しい﹂︵l謡き一票岩− 乙柏︶ と耕し、ここに史的イエスの、特にその人格の不可知論が、歴史的批判研究の結論として 示されたのである。ここでイエスの歴史的批判研究は約一世紀前その畢的誕生の際シュ!ブタス 声望r書簡によつて提示された、信仰のキリストのみが示されて歴史のイエスは不明瞭であると いふ結論に、再び近接し、恰も螺旋は丁度一同博して同一側の一段高所に到達したかの覿があ る。かくしてかくの如きイエスの歴史研究の結論にほ、見こつの進むべき方向のみが残されてゐ ヽヽヽヽlヽヽ るといへるであらう。一ほ、即ち歴史的批判研究の領域における、この不可知論の厳密なる検討 であつて、かつてシュ!ブタスの研究が吟味訂正された様に、又ここにも同様の吟暁の金地があ るかどうかの問題への進展でJ筈、他の一は、歴史的不可知論の訃紗鮒争による薪解樺への進展 であらう。ブルトマソの選んだ方法は常に後者の路でぁつて、この方法の為に、最も適切な紳撃 ここ三 として適用されたのが、締語諭的頑畢なのである。かくして歴史的批判研究と組識紳畢の調和の 癖証論的離畢におけるイエス 薄激論的加重たこおけるイエス 試みとして公にされたものが前記の﹁イエス﹂である。 ブルト†ソの思想において重要鮎をなして居るのは、倒此等の紳畢における枚本思想で 機皇息嫁する﹁決断﹂岳n訂。訂山d。札、︵毘−eぎ︶の思想である。彼は先ウメルーが只信仰の封象と なるべき紳の存在品数賢n軋−から出費し、この醐に対立て占厨苫監er。するものとしての人間の 存在貞。邑l−i。訂づ家斉n㌔を重森したに反して一人間の存在から出費し、入間の存在を1此 靂貞i。りーーと現在へ妻彗の、常に決定をその中に食んで居る瞬間妄1gen苧k。によつて動いて 居る﹂具億的生活の中に見やうとしたものであつて、かかる人間の存在から彼の紳挙が出 ここから﹁紳について物語ることの意義Lを見出したので今0。︵へ・尋㌢訂口琴n訂t包、ヨn苧t什2 r各n可、∴亭邑鼠鼓岩屋窒er∵石監︶。即ちかかる﹁生活の現賓性﹂へ・ヨr買eF訂itd認訂訂乾の中 に存在する人間が如何に紳に隣保するか。かかる紳の前に置かれて、人間は如何なる﹁決 なさねばならないか。 メルーはかかる情況を、明かに我等にかつて停へたものとして.♪クーを鬼、ま化′サテルを見た が、ブルーマソは、このことを質にイエスの設敦占0訂c訂弓の中に見え出したのである。 ブルーマソはこの書の胃頭において、既に引用した様に史的研究によるイエスの、樽に 監終聴解雰l靡笹懇†薯賢答警醒潜琵濫鳩伽藍匿 ヰい鼎矧榔矧掛軸矧攣儲≠豊洲鰯磯雄鳶瑚制適職判創盛頓鱒ペジ彗嶺嘩構礪事項嘩嶺濁韻嘩項一肇項領一眉磯∴ だけに過ぎない︵仇・−考︶ことを明かにしてゐることは、イエスの人格にのみキリスト教の中心を置 n。nつp−︶呂in買ti・といふ根本思想と歴史的人格の不可知と いたキュルケゴールのイエス観に反対するものではぁるが、又蹄澄諭的鯛単における﹁有限なるも のは無限なるもの・ぜ含ます﹂ぎぎm の調和を示したものである。かかる根本思想からブルト†ソはイエスの人格を、その敷設から分 皇且べた。この碑の支配の到 離し、前者について全く沈激し、只後者の思想内容のみを明にした。ブルトマンによると、 イエ スは先つ第一に﹁紳の支配の到凍﹂へ貞。mme−1derG。t註−err邑−P弓 凍とは、決して徒凍考へられた楼な琴匂べき状琴豊息醸しないで、紳の列決的な恐るべき行湾を G︵︸t乾− ge計l︼t一︸ことを宣べたのでめ ﹁紳の意志﹂へ・﹂≡︼e 意味するのである。人間が常に﹁紳の前に置かれてゐる﹂へへ吉r苧tt って、このことは更に第二の宣致内容たる、人間に対して要求した に開聯する。即ち前の前で、紳の意志の要求の前で人間の﹁決断﹂が行、ほれ、これを具億的動機 の中で把捉する所に人間存在の意義があるのである。 かくて紳は、イエスにとつては人間を具健的現賓の中で決定するカへ責琵琶、であTり、信仰と 二二五 m乙GCt訂肪甥巴le。 は人間が各自の賓現の中で紳の活動を獲得することに他ならない。而もこの紳の活動の獲得たる 信仰は、その本質に徒へば自らの中に即ち﹁紳の逮隔と前の近接﹂へへGO誉ひ句e言e 請託論的紳重たこおけろイエス 滞鑑論的神学におけろイエス 二二六 といふ﹁逆戎﹂へ竜弓乱。軋e−−を合むから、イエスは第三に、信仰によつてこの違い清水的な紳が同 ヽヽヽ 時に、否、速い搭乗的な紳であるが故にへへi−1dem。それは又近い現在の紳であるといふ連記を獲得 することを宣べたのである。そしてこのことは、紳の意志に射する身勝手を放棄し全き﹁従順﹂ ミGeFOrmPm﹀−によつて賓現されるのであるとした。 以上の三鮎がイエスの思想である。イエスほこの三つの宣教によつて、人間の地上における位 置を知らせたのであるといふ。ここで我々は群澄諭的神学において考察されたイエスの歴史的解 帝とは如何なるものであるかを、ここに最も明瞭に示されたといへやう。 五 以上において、我々は蹄歪諭的紳単におけるイエス軌の大綱を観察した。ここに私は二つのイ エス観の存在を見ることが出家るかと思ふ。 一は純紳単著連によつて主張された、人間となつた前の言葉としてのイエスの親方であ丁り、他 は、歴史紳撃との調和において見出さうとしたイエス観の夫である。前者は、純粋に紳畢的思群 的考察であり、後者は歴史的可能を前提とした歴史的考察である。即ち、前者ほ我々の信仰の封 ・・ メ〆■トに逼る道′司歴史は生命に野心茫 象者として取られ佗イエスであ∵り、後者は我々の信仰の異質なる布告者として取られたイエスで ■l巨 確空室芸蓋墓前防塵無警で森蒜巨トト儲嚢に華しでⅥ腰磨踊奉養腔猿払ヂ脛L極で墜嘩憧感礎′り実ヨ にイエスの隆史的考察を放棄することは毀凍なかった。私はむしろ後者の正しい理 戚を持つものではあるが、彼の侍へたイエスの思想内容が、正しい異質の歴史的イ 容を博へたものであるか否かの問題に射しては、充分に疑はねばならないと思ふ。 ここでは史的不可知論と拝経論的紳率との不自然な結合によつて示された、歪めら 菜現されて屠るものと考へる。 樗通論釣紳単におけろイエス 神政開成解決の清算期 神政問題解決の清算期 藤 二二八 玄 智 復舌畢涙の思想が幕末維新の前に於て、早く沸教と儒教とを向ふに過はして挑戦 古神道、即ち艦がては事賓上燭立すべき純調造の虐めに、萬丈の気焔を吐いて燭立 下地を浩ちて居ったが、遂に明治の維新主仏り、高車神武天皇の普に復へぇこゝに が賓現された溜め、今日の神政信仰即ち神政前進は、一時団歌の形を探トノ、後発 有給年茶飯に日本文化の須要因子主仏つてをつた係数を全然度外成する謬には行か 更に一箱の妥協が紳偶の問に成立し、其結果所謂大数院時代ぢるものを明治の初年 場所は彿致寺院である樹上寺、拝む封象は備像紋㌢の神代の細々、御供物ほ精進料 山海鳥魚の肉、神官、倍侶相嫌って共に衣冠に身を生めて、昨日迄は固頂紫衣、念 に琴で持って拍手、大般若讃詞の音は中臣祓祭文の朗読と云ふことにへろては、如 紳傭の調和、百バーセントのグロ、滑稽味に富んだ紳偶の妥協が成立したものだと 萬。この精神的苦痛王堪へ発心て、兜づ初l︰逃げを打ったのが眞宗で、笈に神佑の妥協的調和が 緻鳳をして温に明治十七年乱造に軋、紳傲の請醒が炎諒に粧黎上つT華で→頑能頑遊廓鹿盛泰盛 督敦と云ふ様な票数と同一列に置く事の不利益が洞見されて、遂に今日の神社非宗教と 雷局が探ってをる制度が成立し、明治廿二年には憲法が出奔て、偽筆姦の如き既成宗教 て一定の候件を附した上で、倍数の自由が許され、神政紳道は全く彿琴一致の如き既成 の安登地帯に避難させられて仕舞ったこと∼なつて、こゝに神政封宗教問題は一光つけりが附い た様に見えたのであつた。而も事賓は中々さう甘く問屋でおろさないので、神政塵芥と 事と既成宗教との小せり合は、中々止まなかったのである。その後各地に起った既成宗 敬事件なるものがこれを能く否明して一ぜる。明治大正以凍我が国の文化は、何と云っ 進歩であつて、役務の楼な男故老の説明や理由では、最早や神政封宗教問題の解繹が附 って凍たのである。愛に奮い問題が新しい形で又再び接頭して凍たのが、今日の紳敵対 題である。 従来は神政信仰が宗教でないと云ふ聾を詭明して、日く経典が無いではないか、日く開 宗祖教祖が無いではないか、日く造物草で立てないではないか、日く五穀豊饅、高氏豊 ま鶉でほへ付いか、日くその祭る紳舐は皆史上存在の人物で、ゴッドや滞陀、大日の様 二二九 彿ではない。日く何、日く何と敦へ凍って以て醐政信仰紳赴細道皇姦圏外に置かんとし 紳正閏題解決の清算期 鱒武田惑解決¢清‡期 二三〇 た説明は、遺憾ながら何れも骨紳政調道をして具に宗致で無いと云ふことを、識者をして首肯せ しむるに足る説明にはならなくなつた。それは或は醐政調造香して、償基二数の如き世界的宗教、 即ち個人的宗教と罷別する一二の聴教雪Jゝに指摘し得るかも知れないが、何等の意味に於て も、紳政所造が宗教で無いと云ふ澄嬢にはならないと云ふ位の事は、宗教畢の一端でも畢んだ今 日の人々は、容易く軌壊し得る怨でぁることが次第に分りかけて凍た。 惟ふにこれは全く東西に於ける宗致畢研究の成果であつて、新酒を舌瓶に盛らんとしても、そ れほ到底駄目な事は云ふ迄もない。そこで論鋒舘く、今日では、若し神政神道が宗放で無いなら ば、宜くその無い賓を示して貰ひたい、神政に於けるかう云ふ行事も宗教圏内に属するものであ るでは無いか、あ∼云ふ儀式も宗致の範囲内のものでは無いか、若し紳赴両道が何等の意昧でも 宗教で無いならば、どうかさう云ふ宗教圏内の事項は、神政から奇麗薩張取り除いて貰ひたい。さ ぅして跡敢が何等の意味でも宗教で無いと云ふ賓を示して貰ひ度いと云ふ議盃示、一方では喧苫 を極めて凍てをるのである。而も今日宗教畢が燭ト′基督致ばかりで無く、同々改も係数もザラッ シュトラ改も、婆渥門数も者邪教も支那の道教も購又希腺、羅馬、挨及、パピロニヤの舌代宗教 も、或は又南洋、亜弗利加の自然民族の宗教も、何れも管宗致圏内の産物であると認めてをる立 場からは、どうしても古今日本の紳政信仰、紳政所道のみが宗教で無いと云ふ詮胡は成りたくな く払つで恕で計るのである。叉かぐ温晋を駐めT各とぼけた麓に、絆敵陣鼓舞蒜放で雄藩ず瀬が 神政神道そのもの∼溺めに計って、利益であるのかどうか、そこは甚だ疑問とされて凍た。 明治廿年前彼の日本の聾者の中には、さうする方が紳政押遣の眉に利益だと心底思ひ詰めてを 開放間窺解決の清算期 不徹底へ与るものがあつた所は、之を改良して精緻透徹の設明、解繹を以て、これに代へなければ 宗教畢の鏡利なメスに由つて、分析解剖して、神政細道の本性異相を明瞭にし、後家その説明の た。そこで徒凍斯問題解繹の説明にして曖昧模糊たる鮎のあつた併は進歩した今日の拳闘、特に ぅんと云はなくなつた程、日本の文化研究は長足の進歩をし、人々の串間は向上して凍て仕舞っ 換言すれば、明治廿年頃の人々の探った神政封宗教の問題み解繹では現代の人々は敵味方ともに た。何等かその解繹の局面打開をせなければならないと云ふ危期に直面して凍てをるのでぁる。 が神道界にも見えて凍てをる。要するに沖敵前造の解繹は既往の健では、全く行き詰って仕舞っ 神政細道は自然消滅となり、その自然死滅と行7りはせぬか、こ∼らが大分塞じられる様な雲行 に紳政所温から宗教の性質のあるものを剥ぎ耽って行くと、彼の七窺を登って混沌の死んだ様に らつきヤう ると、いつの間にか神政細道存在の立場そのr已若−−dぷtreが無くト甘心。辣韮の皮むき然と、次第 出して凍た。紳赴から宗致性のあるものを次第々々に取り去って仕舞ひ、かやうにして下手をや った薯もあつた。而も革質さうであるかどうか、今Hでは細道界の具限の士はこゝに日を付け ● 紳正閏痙廃決の清算期 二三二 ならない。換言すれば、神政封宗教問題は、今やその清算期に差し迫ってをると謂はなければな らない。但し此事をやるに雷っては、異に聾者的良心に訴へ、拳闘的良心の命する併に従って決 行せねばならハ甘い。徒に一宗一茨の宗派見に堕したら、権勢の鹿追に辟易したりして、首鼠南端 を持する如き濃度であつてはならない。而も又融敵前信仰は、その残繹を洗除して直にその醐鹿 の心底深く響いで凍るさ∼やきの孝である。 ん事を、是れ元凍国境なしと云はる∼拳闘研究者が、亦国家の一員として構成し凍る粘で、自己 と道破したのほこ∼だと思ふ。翼くぼ、期間題解決の清算期に方り、国家盲年の大計を馨らぎら にも亦和魂漢才、否和魂洋才の必要を叫ばざるを得ぬのである。古人が浅才讃萬巷、倭魂最要豊 その肝心要な所を逸して仕舞ふ恐れがあるのである。そこは大に注意を要すろ所だと思ふ。こゝ かなわ 紳赴細道の研究に外ならない事になり、それも同日八目で一部は正しい結果に到達するにしても やってをるとすれば、さう云ふ研究は外国人の研究と同棲、外国人の限鏡で見た日本の開放信仰 若しさうでないと、その研究はたとひ日本人の手に成ったものでぁつても、根が潜心、西洋心で 矢張日本人たる民族精細の虜を以て之れを照して見ねば、その本皆の所は分からないのである。 ならないから、異に之れを理解しやうとすれば、或ほ漠意、或は西洋魂のみでは到底駄目である からミろ 中核を指せば、そこには日本の民族固有の精細が、今日伺ほ生きて宿ってをることを見逃しては → 日本宗教史に於ける基督教の地位 比 屋 根 安 定 =れは壌富者イザヤlこよりて云lェれ上る言の成就ぜん超克り。日く、﹁ゼナロンの地、ナフタサの地、海の違.ヨルダンの 彼方、異邦人ガリラヤ、暗に坐†る艮は、大なる光む見、死の地ヾ、死の竜ミに坐†ろ者に、光のlごれり﹂。▼メイ福音書某日 予が以下詑†ろ寸Jころに、僻見ミ濁斯かも知れない。匡Lて正風を樹づるものを、先輩童後世せ二トニ供㍗う。ま圭同展が太 章。 だ鹿汎でぁるから、予l二軍〃に鳥耽問を展げて、要鮎な指顕しっつ、その故述を甚だ約し告い。 基督敦は、畢に頭脳の宗数を以て終らす、有形はた無形に賓現せざれば已まない。﹁天国は一粒 の芥種のごとし。人これを取りてその畑に播くときは、萬の雇よりも少けれど、育ちては、他の 野菜よりも大く、樹鼻声サりて峯の鳥きたら、その枝に宿るほどなら﹂。天観の廟昔の芥種は、わが 倭島根に播かれて、如何に樹枝を張す、如何なる聾を吹かせ、異質を結ばんとするか。先つ問題 を、ここから起さう。 基督数の侍凍というても、賓ほ三時代ある.初代は、﹁積日本紀﹂垂武天皇記の、﹁天平八年︵略︶ 改新一人凍朝、︵略︶貴人皇甫東胡、改新人李密馨等授位布羞﹂の備にして、同年は耶蘇暦七盲升 日本宗教史にこ於け一の遺骨歓の地位 日本宗教史に於ける革せ軟の地位 こ三田 六年に曹るから、賓に千二百年商である。然るにネストブタス遺弟の濃数倍の影響に就いては、 二三道塗の臆測あるのみで、異相は列然しない。中代は、わが天文十八年即ち耶蘇暦千五首四十 九年、両班牙困ナプル公子ナビエルが、耶蘇曾侍敦滑として虜見島に上陸した時に始ま♭、畢は 約三宮八十年前に屈した。第二同の布数は、天正十五年即ち侍衆以凍三十八年にして倖天遭遇政 令に遭ひ、その後五十一年の寛永十五年天草一揆年足を境として、妨醸博士謂ふところの潜伏時 代に入った。終代の倍数は、ブアブスクソト致の初将にして、現に凡そ七十年前として耕せられ 現今行はれる所謂紳の国運勒は、その記念博造でもある。乎は以下、第二同の織豊時代の僧衣と 第二両の藩未或は明治初案の侍凍とを併せ考へ、先.つ新政の文化的方面、或は政義とは直接踊せ ざる方面から説き起さう。 席田信長は、基督故に接観せる最初の代表的政治家にして、オルガンチノその他とも面接し た。石原が南蟹の異宗門に好意を寄せた謬は、外務の薪宗致を利用して、北嶺や石山の荒法師を とは、彼のプロフィルである。然しこ 成歴せんが鰯でもあらうが、一面まだ伴天連たちが舶載した海外異域の殿上品を歓迎した虜であ った。珍奇な土産を眺めて、﹁信長公、御成約めならす﹂ の後奇趣味は、安土城の武人たちのみならや、堺、博多、長崎の海港人が早く抱いたところ、昔 、 ∴ ∵ ト ∵1 1∵二・ J︰∵︰ 時の碁督勃は、.その宗教思想と頻双んで或は々れに虜んじて∵滴登紅海潤芥河思慮層々浄はぎ=妻7転塾 た。除塵驚喪俸芳直読蔑町堆∼た聡聴塩V飯能蟄僚塞孤審蜃駁覗癖じ徳罷燈葡破簾葦暦靡嘩媚琴 日本宗教史に於け・0基督軟の地位 二三五 基督数が侍へた文化の中、その慣値大なる一は、澤備であらう。日本侍詭は、信長が基督数曾 が多く認められる。 プーチスタント宣数師の占めた覿がある。明治初期に謂ふところの開化lこは、基督散文化の支恢 碍葺のマテオ・リチ、湯著望のアダム・シャアルの如き講究生の地位は、近世日本にあアワては寧ろ か、明治時代に入るや功演をブⅤテスクソト宣致師に護れるが如くである。明末清初に於ける利 我等は謝せねばならぬ。但し、加樟力教父は、その文化的使命ノで既に隷登時代において果した渇 に飲水文化中の健全なるものを併せ侍へ、明治文化史において啓蒙遅効的使命を具した●︺とに、 ると断じた。予はその所論に輿みしないが、明治初期のブロテスタソよ且教師が、基督敦ととも せられない。骨て厨川白村民は﹁悪魔の票数﹂を草して、基督敦宣教師が欧米資本主義の手足であ 諾濱開化文化史の如きが漉せられると、ブラクソやヘボン諸姉の侍へた立米刹那文化の貢献は逸 大なるは、明治事物避原に関する諸苧、明治護研署の芸に、一一警られる。例へば、 へのノスタルジヤに、正しく投じたと云へやう。明治初期の文化にブロタスクソト宣教師の功績 基督敦は党つ外面的には、震旦や天竺の文化に長年飽満した日本人が別に新しく夢みた外恋文化 膏は皆時の基督致そのものが、紅毛不可思議囲一ぞ見せろ極秘の遠眼鏡であつた。即ち織豊時代の 彗 、 日本宗教史に於け岬ハ基骨教G■地位 二三大 のため方五十町の薬草園を寄進したと記し、また難病の衆が南撃沈の外療を受けるため姦智数骨 に賽した、と博へる。治療は直ちに救済事発と開聯し、弘治二年アルノイグが豊後府内に病院を 建てたのは、この種の設備の最初らしく、後っづいて諸所に病院が設けられ、殊に煽病研が多仁 慶長中東には大阪のみに四個所あ♭、四百人脊収容したといふ。明治の初期、西洋塔衝いまだ盛 ならず、救済事業の乏しかった頃は、ブロブスクソト宣教師のこの方面に於ける功績を畢げねば ならぬ。就中、ヘボンは、初め療病所を醐奈川に設け、後これを横濱に移し、明治十一年まで稔 績した。彼が名優澤村田之助の手足を切断するや、﹁ヘボンさんでも草津の湯でもLの俣謡が起り 岸田吟香は彼から調剤を畢び、精埼氷室成って致富した。その後、各地に起れる病気治療、貧民 救済その他の敢食事菜には、初め基督政界より起って、のち他に及べるもの、妙しとせぬ。 次ぎに薪歯南致宣教師の倦へた文化の中、特に畢ぐべきは活版印刷であらう。日本に活版印刷 術の最初に樽はれるは、天正十八年にワリニヤニの夢二同の凍朝を待ってであり、扇博は三年後 の慶長之役を経ての朝鮮系統である。耶蘇曾士が天正十九年から慶長十年まで十五年問に於ける 刊行物は、先にサトウ卿の探訪と解題とによりて、詳密である。この種の印刷彿・は、Fコソテムブ 眉を刊宥し∵期せゃして我が邑..・こ、■..、㌻ゝ鼠 ッ・ムソヂ﹂や﹁ドチリナ・キリシタン﹂の如き宗門書類を披に刻んだのみならす、﹁中家物語﹂や r伊骨保吻轟この如き文畢の紹介或は劉別一ぎ生み、さらに たrゝト.′ ァ ㌣誉連′ 貞一 議饗上に紅寄興すろに至ったαこ揉と準穂ぜ藁文様漉Ⅴ堀横磯欒禰力熊葦華瑠璃戚箋韻噸磯城頂Jで牒。一づ電濁ぶ も亦、多く徹せらる。慶應三年、ヘボンは和英瀞書を編んだが、常時わが国は未だ印鰍筋が不倫 なるため、これを上海に送って開披せしめ、次いで印刷機械を横濱に移して、布教書類を刊行し た。さらに後代に入っても、基督数雑誌﹁六合雑誌﹂や、基督数的色彩の著しき﹁女畢雑誌﹂や﹁観 民之友﹂は一種清新ハ仏る雑誌として、江湖に歓迎された。恨りに日本印刷史を聾するへ仏ら、基督 数のこの方面に於けろ寄輿は、蒐要なる輩な属すであらう。西洋書聖の如き、速くはワリニヤニ の設立せ一り安土畢校の開校式に織田信長が臨ふ、生徒の一人なる日向国都於郡の領主伊東義金の 子ジエロムが西洋青票を奏するを聞き、頗る輿娩ノで威じたと侍へられるが、近くは東京朝日新聞 の謁ぐる山田耕作氏の回顧談に撤しても、明治廿年前後に於ける所謂唱歌では、讃美歌が最も清 新雅醇の調一で帯びてゎた。その他の西洋文化の僧衣と基督放との交渉に就いては、一一これ一箪挙 げるの煩に堪へない。予が幼時に見た築地居留地の儲絶と、頃日欣び見る南攣屏風とは、梼陶と 世相とが甚だ異なるにせよ、複渇して同上に現れるものは貰に基督数的好風景である。 基督数の勢力を、信徒の頸数に徹することは素より誤算であるが、而もその大勢を推するに足 りやう。天正十年にワリニヤニが印度へ携へた統計に披ると、日本信徒の紙数は十五萬人に達し これは博敬以後三十年・り調査でぁる。仮りに日本雁史一で修したムルドクに倣うて、織豊時代の組 冒亦宗教史に於けろ韮骨秋の地せ 日本宗教史lこ於けろ基督敦り地位 二三八 人口を二千前人と算するなら、三十年後の敦勢としては寧ろ盛況と云へやう。その盛大を敦し究 理由は一一歎へ難いが、その重要なるーは後にありては、耶蘇曾の厳格にして克己的なる修行と コムパニヤと白岡するほどの軍隊的組織との放であつた。伴天連は、これがため高井に忍苦して 侍遺し、その武士道的行状が戟観時代の武士来賓に應せること、恰も曾て醍宗が鎌倉武士の生活 に適したるが如くでなかったか。我に於けるま要なる理由の一は、戦国時代と耕する敢骨的恐怖 時代に降した焉でぁつた。一揆さわぎ、疫病蔓り、飢償おこり、.迷信ったはる昔時に、新に基督 敦が倍はつて、僅に三十年後に十五萬人を集め得たのは、自然の勢である。ナビエルを初めとし て、倖天遭が馨って備敢悍侶の堕落を罵♭、また傭滑みづから姦智数に樽宗した事も亦、常時の 偶数が振はぎりしを示す位相である。一方また、ブアブスクソトは侍凍して七十年、信徒は僅に 十商人除を算するに過ぎないが、然しその一般的成化に至っては、織豊時代の加特カを造に凌駕 するであらう。殊に所謂欧化主我の盛ならし時代には、数年ならゃして日本も基督敢闘に化し、 帝国講曾の開院式には先づ豊富を朗読して飴むべし、と眞顔にま重する著すら出でた。明治の初 期から中東に亘らて、一時的また舜態的にせよ、基督致が一代を風靡する観一でロ立せしめたものは 我に申ヱLは明治維新を横線として起れる嘗弊一掃の大勢であつた。謂ふところの開化の気運が 欧米文化を求むると共に、基督敢をも併せ毒ペるこ一▼と﹂株屋辟柁の基監藩滑海t浄紗娠添賢臣臥駁駁r た仇敵降に糖璧甘纂督敦蟹蟄濫V薗鰐史偲蟹傾援軍茹だ魔駁健■欄に惑櫨應偶に∵墜でザ頭韻硝嘩頚 妻惑 くの意味において啓象的文明の使徒たる観があつた。尤も彼等の億授せる文化は、加特力的よ♭ はブロ一アスクソト的が多く、中央歓羅已よりもア㌃ロケクソソ系統が強く、而も英苫利凰より も立米利加風がさらに濃かった。亜米利加は僅に太卒洋を駐つるの近きにあ♭、その植民地的の 清新なる思潮は、奮習を一掃せんと試みた新興日本にとり、甚だ快く通したからである。予は、 明治初期から中期に亘ってブロテスタソトが盛況を呈した理由の一を、その時代粕においては弦 に認める。 予は眈に、織豊時代と明治時代前竿との侍家督初に於ける基督致の文化的貢殿の一二一ぞ紹介し さらに普代日本の世相と斯致との交渉に就いて、概観した。績いて侍凍再度の基督数の教義を述 べねばぢらぬが、それは加特カとブロテスタソトとの相違を除けば、殆ど異なるところを認めな い。侍へていふ南蟹寺のカテキスタ梅魔の作﹁破堤宇子﹂を閲すれば、粧ひそれが破耶書であるに せよ、新改の政義を約して侍へて謬らざるに、今日のブロテスタソトと蝶も頭目するであらう。 予は、改めて日本に再度も博はつた基督致の教義を叙する要を見ない。寧ろ、基督数が日本在家 の宗致思想に、如何へ仏る影響一ぎ輿へたかに、限を椅じょう。 織豊時代の基密教は、初めから他宗教を邪宗親し、これを折伏せんと試みた。第一は、その紳 日本宗教史に於けろ基骨教の地位 日本宗教史に於けろ基督故の地低 二四〇 軌に於てである。他宗教が多神教を樹っるに封し、基督致が唯一醐致を奉じ、既にこの鮎に於て 氷泉相容れざりしは、詞を侯たない。また 新教が、その紳の倫理的正義を強′∼唱へた事も亦、特 に珍らしくぢい。寧ろ日本宗教史から注目すべきは、苫利支丹宗門が紳彿のユタヘメリズムを非 耕した鮎であらう。即ち、﹁日本の諸神話傍といふは、その昔みな人間なトノ。伊勢太神宮は伊邪邦 岐、伊邪郡美が子、出雲の図の釣りあまの予仏り。八幡大菩薩といふも、應紳天草Jれ人間な り﹂、人が化して紳彿と成れる者は衆生哲救ふ一で得ない、﹁デクスと申すは、天地開閉の彿なり﹂、こ の永遠的賓在なるデクスのみ、人類を救済し得る、といふ紳観である。第一一は、罪悪の解将に就 いてである。両道には、原始甲のるひは種族的要素が多く、罪悪とは心の不浄よりも身の不浄の 謂にして、救済は頑祓から多く放せやと思へたから、基替歌は論鋒一宮細道に向けなかったっ罪志 の解滞に就いて概約すると、基督致ほま意諭の立場にぁり、彿数は先つま知諭の傾向にぁる、と 云へやう。即ち基督放では、人は窓な惑と知りながら、我執して罪悪を犯すと去Åが、彿敦はこ れに反して、人は窓の窓なることを知らぬ餐明の故に、罪悪七敢てするといふ。前者は、罪悪の 起原告意志に於て認め、人は我執するから己密殺して紳に救はれねば︷与らぬと説き、後者は、人 は無明に迷ふから大悟して解脱せねば︷サらぬと致へる。予は思ふに、基替歌が倫理的に打でり、最 終になるが偏狭にもなり、これに射して、沸教が嘗畢約にな沌﹂寛夢㌫打落終那汝′匿r は、ごlふを町蒋審議の放下みらう。屁墟義隆放推泰聴思想と撃γ控囁飯髄劇臆幅元誓義範嘩一 貫せるま知論.と戦うて、葺意論の罪悪観を樹てんが男であつた¢試みに希膿文畢だけを閲して も、ホメ。スよりユタ,ビデスに至るまで、その罪悪諭は何れも主知的にして、主意的でなか ■㌧鷹j った。その他にも、沸教の輪廻詭、方便諭、特に祓宗の虚無詭の如きは、倖天遵が進ん しところである。彼等の諭抜も亦、傭致から改宗せる倍侶に就いて森閑し、オルガンチ は日本人のイルマンと共に京都に赴き、一蓬俗借から毎日﹁法華経﹂の講義を聴くこと れを葡萄牙語にて銀した。彿耶宗論の如きも屡おこなはれ、フ三ズと法華滑朝山日乗と の如きは、織田信長がその檀場に軽へただけに顕著なる宗論である。然し教義の方面で 連にとり沸教を理解し難きもの多く、綻ひ論戦しても水掛け論に終った場合も砂なくな て常時の基督敦は、寧ろ彿数倍侶の賓践的窮鮎を衝くに、寧ろカを須ひた。試みに、彿 註すべき筈の日本文書に、謂ふところの盲利支丹が昔時の彿滑を蔑んで、﹁日本の出家 の風俗に蓮ひ、檀那を請ひ、名利に耽り、重欲を槙へ、慈悲なく、愕貪にして︵略︶、出家に似合 はぬ公事好きし、茶の湯、数奇、連歌、或は乱舞、鞠、楊弓、花、酒盛、無益のこと、 くして、彿法を問へば、俗人にはるか劣れり﹂と難じた。沸教側は、基督数側の論鋒が 二日︼ に向ふならば、これに應酬し待たであらうし、時に論敵の凡を奪うて相手の喉頭に迫る 日本宗教史lこ於ける基督敦ゐ地位 日本宗教史に於ける基督教の地位 二竺一 不可能でなかったが、その賓生活への攻撃には群成し難かりし者もゐたであらう。然るに基督敦 側が、最初から偶数側に哉を挑んだのに反し、偶数側は異宗の侍凍に慣れてゐた鰯、初めは全く 異数の其督敦を天竺宗と呼んで、鎌倉偶数の十二宗の上に一宗が薪に加はった位に謬り考へた。 基督数が異を列つに忙しく、係数が同を容れて寛なる傾向は、ここにも看取されやう。縫って或 る畢言滑は、大日如凍とデクスとが同一彿であると早合鮎し、或る天台倍は、苫利支丹は権大乗 かと思う佗が、賓大衆らしいと呟いたと侍へらる。然るに基督敦の異相が判然するや、日蓮宗や 一向宗を先頭として、盲利支丹は洋食の正宗以外の邪宗門でぁるといふ、破邪析伏が起って凍た。 明治時代基督数界では、加持カは超然として、ブロテスタソトのみ論戦に出でた、或は除儀な く論敵を迎へた。票数思想に関する方面では、石川舜台、井上漑了、大内青暫、島地獣富その他 にも頗る多数の悌滑が破耶運動に力めたが、今日から腐ると基督致の教義を冷静に批列するより も、寧ろ先に排傭毀辟の法難に遭うた係数側の限には、欧化主義の順風に帆を張った基督敦が一溶 千里の如くに見えた焉の、反感の方が強くなかったか。倍数や細道の側からも攻拳が出たが、こ れも亦、基督故に射する理論上よりも威借上の反撥が、寧ろ強かった。偏狭にして健耳に入り易 ∵∴キ∴=圭一 Urきご、昔み;㌧∼−、ノ,∵ い固辞ま義が、基替歌を敵視する論者を蓋へる覿すらぁつた。織豊時代の基督敦が、自ら進んで 欄款の劇義沖椴贋の複層逐蓼じセ沖霊凍ル∵瑚渦潮瑚㊦昔替歌は、㌔や方面訳注殆才漣串的▲態度=旨ぎ′義臣 に牡でへ=かかった。その重ヘサQ津打は、基督敦伽には、遅れて来甘といふ新富放の遠慮も和トご︼ の種の諭寧が概ね水掛け論に絡♭、督して功の甚だ診きを知り、耕伏よりも題正の方が積極的に 効果おほきを知った男でもあるが、昔時の基督敦″で奉じた宕は概ね青年が、洋畢を求めた人人に して、倍数に就いて多く譲らざりし虜である。然し明治も中期に入ると、基督汲も大略その思想 的地位を確立して、進んで論陣を張った。その重なる論敵は、慶應義塾内の一派の唱へる功利説 と、東京帝大内の一派の説く不可知論とである。織豊時代の茶督敢が、早くから頑健二敦を相手 に進堅したのに托し、明治時代の斯敢は、時に彿敦が復興した焉でもあらう、他宗教を批評する ことを慣んだ。 基督致の思想的影啓は、取扱せるが如くである。磨いて予は、基密教と直接した他の方面一ぞ考 へたい。数はその説く人によりて奪しといふ諺があるが、前後二度の倍数において、その外簡宣 教師に人格者の砂からざーりし事は、期故に於ても日本に封しても、共に頗る大慶であつた。殊に 加持カの師父の問には、忽苦克己して布致せしもの多く、ナビエルほ積雪の山陽道を裸足のま∼ 走−り、トルソスは山Hの六年間を、塵麹も肉も味はす、米のみを食した。斯かる忍苦は、耶蘇曾 士が課するところの婁魂之修行に類するから、これを明治初期のブて丁′スタントに求むるは酷で あらう。然し彼等にしても、明治初年に日本に赴くことば、ヘンリイ・マルチンが印度に入る肛馨 日本宗教史に於ける基督敢の地位 日本宗教史に於ける基替歌り地位 二四四 と、大差なき危険であつた。徳川時代に領国の禁を犯して、シドチが潜入するや、新井白石はこ れに訊問した結果、﹁彼観の人我国に凍り法をひろめ候事は、我国牢フばひL⊂Lソ候謀の由、相聞え 侯︵略︶。其敦の本意井其地勢等をかんがへ候に、謀賂の一寄はゆめゆめあるまじき事と存せられ 候事﹂と裁断した。これは、基督数が日本征略のために侍蒸したと倣す長年の俗信を、根低から 顛覆せんとする白石の卓見である。白石は、シドチその人の口から、身命を賭して侍敦のために 凍るとの悲壮打了る告白を耳にして、伴天達の不惜身命の熱心に封し、尊敬と哀憐とを混じて威じ た。白石が所謂謀略を否定した動機は、その引見せるシドチの熱心に打たれた焉であらう。日本 人は、発航を意とせざーりし鑑眞和甫を、また渡羅門修正書捏と林邑偲悌哲とを、今度は速水の宣 故師において見出したといへやう。 基替歌倫理の赴骨に及ばせる威化は、甚だ靡く且深かった。織豊時代の師父たちは、一夫一方た るべきを説いて狂人と罵られ、また堕胎を戎むるに力めた。男女の貞潜、家庭の璽化、鹿骨の帝 風の如きも、三百徐年前の基督敦界が懸命に唱へたところである。女人の罪障を鋭く説いた偽敢 は、どれほど一夫一婦を主張し、男子の点常を詮くに強かったか。妻妾の制度を是謎し、蔑め七 去を許した儒教は、男に寛にし.て女に酷であるから、矯風運動を新教に求めがたい。最近、大審 院の列故に、甥子にも貞操を求めたと掃くが、甥子や眉堤の掬うは﹂償圭汁準瀧悠では瀬せ塞野き.声巨賢汀だ㌫ 政界の喜張のみに堤かった。よに碧廊禁應ゝ蕗姑靡止町如きむ髄最初碇基磯兼礎が光壌磨囁隠¥ 長年のあひだ嘲笑されたが、次第に大勢ノ曾作り、神酒を載き般若湯を飲んだ人々も此に和して共 に禁酒運動を起すに至った。或は非戦論、中和運動、国際協調の如きも、基督敦がその主張を元 凍抱くのみならす、軟水の敦界と按囁繁き虜もあり、国家至上諭の罵言を浴びながらま窮し漬け た男、今日では此稽の所論が一般の常識にすら化してゐる。基督敦倫理の普及には散骨も輿かつ て功あるが、所謂ミッショソ・スククルの糞陶も大いに認めねばならぬ。此種の諸畢校は、明治初 期から中英に亘っての屈指の洋拳研究所にして、欧化主義の栢潮に乗じて活気に富み近代西洋の 自由まだ進歩的教育が直接に注入され化馬、一時は官立畢校と封時して一散観をなせる貌を呈し た。宣教師ブラウンが横濱に私畢校を起したのは明治五年であ♭、次いでブロテスタソト各派の 教育機関が双び立ち、同志軋が大草設立案を天下に公けにしたのは、貰に明治廿一年の早きであ る。宣教師ではなかったが、他の畢校に詩学を以て招かれ、而も基督数的訓育を施し、落にその 門下から多くの基督数的人材を出したものに、熊本洋畢校に於るジエエ.ソズ大尉札幌愚挙校に於 けるクラアクの教頭の如きがあぇ。本邦の女子教育に至ってほ、全く基督敦がその先鞭を付けた といふも過言で打て、、共立女孝枝は四年に立ち、七年には神戸女単院の設立を見た。明治の未 発に於てすら、女手の高等教育は多′1去密教主義の畢校に設けられ、最初の女子大畢を創設した 日本宗教史l二於けヱ基督軟い地位 日本宗教史に於ける基督致の地位 二四六 成瀬仁叔氏は骨て新潟数曾の彼師たトし人である。織豊時代に、安土や豊後好内や長崎や天草に 設けられた畢校は、破却されたが再び新時代一で迎へて復活せし事、宛もその改組山如くである。 基督致倫理の政曾化は、現今謂ふところの■赴曾蓮勒家の間に基督数の出身が意外に多き事賓に も亦、徹せられやう。現今の敢曾運勒の中、最も親藩なるものは敵骨董義であらう。日本の社食 主義歴史から、基督教徒あるひは其督教徒た・りし者を除去しえへ仏い。敢骨主義研究曾が初めて創 立したのは明治升︼年で、ユニ一7リアソ協骨にて開かれ、骨員の通年教は基督教徒であ∵り、稜に 敢含ま養老が分裂した所以ほ、一方は基督教徒でぁるのに、他方の幸徳秋水や堺枯川セちが唯物 論者である焉、饗方の人生観が氷炭相容れざりしに基いた。基密教界より出でて、敢骨董義のバ ブブスマを再び受けたものは、貰に多数である。片山潜氏、は初め細田三崎町にキングスレイ館 を建て∼、その名耕の如く基督数赴曾重義を寒行しょぅと企て、大杉党氏は、本郷敦骨にて海老 名牧師からバブテスマを領した。安部磯雄氏が周山敦禽の牧師にーりし時代は昔語りに近いが、一 書前デモクラシイを宣博した頃の吉野作造氏は本郷致曾に、大山郁夫氏は九段散骨に廃その姿を 現し、森戸辰男氏は富士見町敦曾の熱心なる魯員であつた。予は、僅に例一ざ蓼げたに過ぎないが 今日の無産煮や雰働遅効の幹部の間に、骨て基瞥敦骨に出入せし者を托すなら、恐らく改想以上 に移しいであらう。敢骨運動の或る系統のみを奉げても、既に基督敦の影響の著しきを怒めねば ならね。 予は以上、天文十八年以凍凡主二百八十年間の日本基督史を閲して、その日本に及せる影響を 鳥轍淘的に覗き、僅に要瓢だけを釆揮したに過ぎないが、以て大健その占むる均位を推測した。 そして予は、欺羅巴に於ける基密教の侍黍と、日本に於けるそれとを封照して、一題の戚寧甘き を得ない。欺履巴における新教の博凍は、希膿と雁馬とを除けば、重に未開の攣地に企てられ た。基督敦が侍はつた昔時のチエクトソ、でフグ、ケル\ダルマソの諸民族には、文化の特に 見るべきもの無く、膏畢的思索はおろか、物質的文明すら乏しかつた。然るに日本はこれと異な ち、景教滑が整式備に謁した頃ですら、既に寧菓の都は咲く花の旬ふごと︿今猛りなる時代でめ った。ナビエルが訪れた時は、足利末期の戦国時代であつたにせよ、五山席滑が先手畢イで舶載し 徳川時代の倍率興隆の源流を開いた時代であつた。ブロ一アスクソト基督敦が弘法し陀時代は、賓 に二千五百年凍凱日本文化り費蓬せる彼を襲ひ、常時わが邦の状況が、基督数初侍常時の欧羅巴 のそれと同日の談に非ざるは、撃呂を供たぬであらう。そして薪凍の基督敦が、永年の傍流古き 日本に入りて、思想的にも貰際的にも幾多の記念すべき業績を残せし事は、晩飯せる通りである。 そして日本は、一般宗教史から見て、最も特異なる団である。思ふに、日本が宗教史上世界に て特異の地位を占ひること、舌代の深馬や亜産山撃ぞ速く凌駕するのであるまいか。殆ど凡ての 日本宗教史に於けろ遺骨歓の地位 8本義敢史に於ける基背教の地俊 二四八 歴史的既成宗教が日東観に出開帳して、日本は最も宗教史的意味における不可思議固である。既 に儒教は千六有年前に侍蒸し、偽敦は千四百年前に弘法し、基督敦の侍はらし時期は、上鼓せる が如′、である。さらに舌代に、細道の行はれしを思ふとき、誠に大日本は諦観なりとの准后親房 卿の宣言を、さらに贋く且新しい意味において我等は薄まざるを得ない。物資に甚だ乏しき日本 は、宗教において最も富めろ沃土にして、天は日本に何らかの使命を托したるに非すや、とも思 はれる。さらに日本は、諸宗教を多く迎へたのみへ与らす、これを抜取し洞化して自らを養ひ肥や し、藩に新しきもの哲創造さへ敢てした。彿数史を接するに、南都六宗は鏡取に留まつたが、北 京の二宗、次いで鎌倉時代の各宗宣揚に至ると、震旦は勿論、本土の天竺をすら凌ぐ盛観を呈し た。儒教に就いて見るも、徳川時代の儒林には、舌畢、朱子畢、陽明挙が競うて門βを張った。 東海の稜土も亦、法線ふかき備観であり、束夷の耶馬毒盲中華を越えた。日本人が諸宗故に接した のは、地理的環境に過ぎぬであらうが、その硫取は、積極的の精細的感度に出でねば得られす、 さらに創造に至らては、以上の地理と鰻度との二健伸に加ふるに、血涙の健検に基ける併記法を 侯たぎれば、到底克くし得ない。 都って思ふ。宗教は、入間塵活の最も根本的な表現であるから、決して固定しない。宗教意識 は進化し敏速するから、宗教史が存する。さらば票数の生命を成長させるために、l諸宗敦碇衷異き賢覧魁藍 亡の幾を換るものは、何でぁるか。予は、これダニ方面から模軋し甘い。撃諒、蒜蓉警宗 裡に働くところの不可見者の御手である。筍くも宗教の歴史的費蓮に注意する着から見ると、こ の世界は至上者の親しく経螢するところである。宗教史上、偶然と見ゆる事でも、紳わざであアり 傍線でふγり、範理である。ご′ルが亡びてヤアヱが興ったのも、オニッムボス山の神砥が七丘の へ遷幸し佗のも、中国に流通せる景教が碑とともに沙塵に没したのも、世界宗教史上の千鼻萬化は 永い限から観すると、デガナ・コメデアの筋薔としか思へない。第二に、人類の正常なる宗教的 要求に應じて、これを満たす宗教のみが永績する。適者生存の法則は、宗教界において頗る容赦 なく最も露骨に行はれてゐる。〓ポ故に債億判断を下して、その興るか滅びるかといふ最後の判 決を漸するものは、その宗数に対する外在着でなくして、賓はその宗教の裡に内在せる着であ る。斯くして、世界を経塵する徒者の諸宗教に対する硫理と、普遍的宗教要求を抱く人類の各宗 教に應す一Q廃置と、これら両方面を表象するものが、宗教史である。世界の進展は百目滅法でな く、首尾一貫せる目的をさして進み、最も自然重曹なる審判が各宗教に対して絶えず行はれる。 随って宗致史は、翠に過去の宗数的事賓に関する記述のみに留まらす、さらに丼凍の宗教を列断 する材料を提出してゐる。宗教への慣低利断は、票数哲学の取故ふ題目であらうが、その判断を 二四九 下す排その費耕を供へるものほ宗教史でなければならぬ。予はこの論文の胃頭において、基督敦 日本宗教史にこ於けろ基督敦め地位 日本宗教史lこ於ける基骨敏の地位 二五〇 が翠に頸偶の宗教を以て終らす、有形はた無形に賞現せざれば已まト︰こ、と述べた。基督敦が、 過去臨有年の日本にもいて如何なる菜蹄を奉げて衆たか、予はその観察せし要鮎を指摘したつも りである。予は、夜郎自大の談藍月はうとしない。唯、日本の宗教史に於ける基督数の地位を、 僅に垣間見んと欲したまでゝぁる。予は既往に占めた地位を些か考へたが、その正に蒋凍に占む べき地位に就いては、何人と雄もこれを預言する事を許されない。 骨て、バブテス†のヨでネが獄に繋がれるや、基督の焉せし業を聞き、弟子たちを遺して、﹁凍 るペき老は汝なるか。或は他に待つべきか﹂と訊ねしめた。基督はこれに答へて、﹁行きて、汝ら が見聞する所を、ヨでネに告げよ。盲人は見、故老はあゆみ、療病人は清められ、聾者はきゝ、 死人は赴へらせられ、貧しき者は福音を聞かせらる。凡そ我に貴かぬ者ほ牽頑な♭﹂と言はしめ た。また基督は、故郷ナザレの食堂にて預言者イザヤの書を播いて、﹁まの御霊われに在す。これ 我に油を注ぎて、貧しき者に琴軍望且ペしめ、我を遺して、囚人に赦を得ることゝ、百人に見ゆ る専とを告げしめ、腰へらるゝ者を放ちて自由を典へしめ、真の喜ばしき年皇旦侍へしめ給ふな ♭﹂の傭を讃一み、食堂に居る者はみな基督に目を注いだ。その時、基督は、﹁この空書は、今日な んぢらの耳に成就したら﹂と述べた。予は、基督の言葉官−ゝに抹鎖して、紋をして日本宗教史 仙 誉ぷ こ﹂一 り㍉ ★∵ に向うて自ら誇らしめで、この小文の結論とする。 野 木 リグィエト・ロンヤに於ける反宗教運動の進展 茂 成 一 ツゲ三卜政府の反宗致政策、ウシヤ共産蔑の反宗教ブロパガンダ、ツゲィエト大衆の無紳運動 等凡てこれ等圧宗教的敢骨蓮勒が、∇シヤ革命の前後に亘って如何に理論的に準備され、また如 何に嘗成約に効畢であげヤルか、またこの反宗教運動が購凍如何なる方南に進展するの可能性を有 つか、それ等をロシヤ敢骨一般の推移と相関聯せしめて考察を下して見やうと思ふ。 さて、ワシヤに於ける反宗教的運動の発展経過を腐るに、大想に於て五つの蒐起的段階を撃し 進んで凍てゐることが窺はれる、卯も草堂刑期の反宗教蓬劾準備時代、それからポリシエディキ政 治革命期の反宗教政策賓施時代、国内戦常時︵所謂戦時共産主義時代︶の非組織運動時代、新経 済政策賞施期の組職化運動時代、及び最後に、政含ま義的建設期の組織大衆運動時代に大別する ことができる。以下各期別に反語致蓮勒の進展を研究することにする。 −革命前期の反宗教遅効準備時代 この時代は更に一九〇五年前後の革命期と之に引き清いた永い反動期とに分けられる。一九〇 ブダイエト・ロシヤに於けろ反宗教運動の進展 + ソ〟ソィエー︰・ロシヤに於けろ反宗教連動の進展 二五二 五年の革命前期にはがタンぷ1キ薫はまだ潜行的に政治革命を準備しっ∼あつたので、普時の反 宗教ブ℡パガンダは殆んど地下的アジテーションに限られた極めて微力なものであつた。それが 革命期に及んで漸く公然と賓施され得る様になつてきた。そこで反宗教的内容を有った出版物も 此の頃漸く現はれはじめた。それ等の中にはモスーの﹁宗教的脛物﹂だの、ペーペルの﹁基督数 と敢曾ま義﹂、フォイエルメッ♪の﹁基督数の起源﹂それからラフ丁γグのパンフレットなども混って ゐた。それから反宗教的諷刺重なども常時の浸童雑誌にポッポッ散見される様になつてき佗。こ の頃ポリシユダィキの反宗教プロパガンダは段々と深刻化し、階級化されたものになつてきた。け れど濃としてはこの頃にはまだ特別な反宗教的出版物などを出してゐなかった。併しカタゥキー、 ペーペル、バンネクーク等の宗教理論に対してはポリシユタィキ側は忌悍なき排蟄を加へ、薫の反 宗教的感度を鮮明にした。レーニンは﹁赴含ま義と宗教﹂︵一九〇五年︶の中で﹁赴骨董義的ブロ レクリアート義にとつては、宗教は竜も私事ではない⋮⋮⋮⋮⋮・薫は宗教的信仰の形愚の中に現は れた無自費、無智、迷蒙に封し無関心でゐることはできないし、また無関心であつてはならない ⋮⋮享:︰精神的蹄寄は篭も私事では筏′、、悪食鰹の、ブロレタブヤ仝健の問題なのである。﹂と云 つてゐる。 一九〇末年革命に引き鋳いた反動蹄代には敷骨側も負けずに に暫し譜リシュウィキ蔦の酬卦即フラクションは盤んに数鮮に督する巌巌染野禦や李把町を振と確嘩 にレーニンは紋上で強硬な宗救護論を掬はしてゐた。彼ほ﹁宗教に対する労働者濱の感度に就てL ︵一九〇八年︶の中で﹁宗教は民衆のための阿片でぁる写・一といふこのマルクスの原則は宗教問題 に於けるマルキシズムの各港界観の主要数である。マルキシズムは常に現代の凡ての宗教及び飲 食、ありとめらゆる宗教園健を、労働階級の搾放と魔酵との擁護に劫むるブルデヨア的反動機関と 見撤す﹂と鳴成して反宗教運動の封象そのものを明瞭にした。また同じ論文の中で﹁マルキシス トは宗教と固守し待なければならない。之れがためには大衆のもつ信仰及び宗教の起源を唯物論 的に説明する必要がある・⋮⋮⋮⋮・宗教との関学を抽象的イデオロギー説教に限ってはいけない、 闘零をその様な説教へ導いてはならない、之の間季を階級的運動の具髄的賓践と闊聯させろこと が必要でぁる﹂とも云って尿宗教載閣員に指針を授けてぉる。一九〇九年には更に﹁階級並びに 某の、宗教と政令に対する関係﹂を書いて問尋の目的及び方法を一層明かにした。この様にして 賓践の焉めに必要な宗教理論そのものは漸く基礎的に固まつてきた。之を要するに帝政政府の反 動政策と致命勢力の伸張とを特徴ょする昔時の政令状態にあつては、反宗数的運動にとつては賓 践の徐地がハ甘かったので勢ひ理論的方面だけが費展して行ったのである。尤も夕べラリズムの反 宗教的活動はワシヤ・インテリグソツィヤの問に於て以前からあつたが併しそれ等は甚だ不徹底の ツゲィエト・ロシヤに於ける反宗教運動の進展 喜一1或遥 ノダィエト・ロシヤに於ける反宗教運動の進展 馨の誓地 もので号且つツゲィ言草露の反宗教遅効とは何等線のないもので なかった。 ニポリシェウィキ政治革命期に於ける宗教政策 政治革命期に於けるポリシェウィキ政府の票数豊は政令に射する 成るや菅に﹁土地所有標麿東に関する布告﹂芸布して︵享七芋盲八日︶修道院及び ︵溢︶ 若し 嘉暮雲警で葦地区委員曾及び地彗ダイエトの冨に移した。次いで空 年亘十言には﹁馨と観衆との分離並びに畢楼と書との露に警る書﹂を て書晶家からま墓誓書芸茎に姦して散骨の有つ特警悉く剥奪してし ︵詮︶ 布告全文 ︼、軟骨は国家から分離される。 ニ、共和国の領域内に於てに、良心¢自由を鹿抒又蓋→る⋮⋮責 の地方的法芽室規則妄布姦止されtOQ 三、市民の何人も、如何宣璽苦よ∵し、又苦くてもょい。如何誉 し王切の制限は撒腰される。 市民毎宗芸所男び諾屈に写ろわらゆる鵜示ほ⊥棚ゐ公文雷から排警れlわ。 四、†へ芸豊胸、及び他の公立的、書的法行欝凡ての宗教的俵虚 五、宗教的骨相の空風の茸行は、それ等が公安室口廿す、ソrまト弁秘跡許計の乱調か酸草し払い肢中堅賢匪聖霊 方官蓮ほそれ等の場合、公共の安寧秩序を保護するためlニー切の必要手段み探る職制み有すろ。 六、何人も自己の宗教観故に、市民写しての自己の義務の履行から免かれろ=ミに出光ない。市民的義務の二形式を他の 形式に定き代へろ健件の下に=の規定から免れんミ†る場合にl‡一々人民裁判所り許可み得稚ければ光ら互い。 七、宗教的琶約は撤腰される。必零なる埠合にに、たゞ廃藩光る約束がなされる。 八、婚姻、出生等の登録ほ民事甘苦即ち塘通出生登記所に依つてのみ符はれる。 市民は個人の資格に於て叱れば宗教な敢へてもよいL、数へられてもよい。 九、畢校l‡軟骨より分隊される。︼般教育課目を授くる国立、公立、私立の畢枚に於てlミ宗教的信仰の教育lミ許されセい。 一〇、†べての敢骨及び宗敬圏鰻l‡、私的国領及び組合に闇†る一般法現にこ服従†る、草して国家、地方自治領及び自冶屑 櫻からの如何光ろ特種又は支出金なも受けろこミは出来克い。 一一、致命叉に宗教園魔の圭めめ開削的寄附又は賦課lェ、、、れ等の闇値が漸髄為に射する強制叉注席罰ミ共に禁止される。 一二、如何光る敬含も完敢饉篭も財産所有の概利わ有たない。教倉皇不敬圏鰭ミほ法人の楢利を有た互い。 〓ニ、露国内−こ存在†る散骨及び宗教囲燈り一切の財産は、人民の財産セして官膏される。特に紳仕への目的に指定された ろ建物及び物品l王、中央又は地方官怒り特別規定に依り、雷該宗教囲鰭の無償使用に供され−わ。 績いて同年七月十九日には、ノブィエー・Ⅵジャ憲法を制定して右の趣旨を一層徹底せしめた。 同軍法第十三健にはF勤労者の虜めに良心の奥の自由を保澄する目的から致骨は国家から、畢校 ほ敦骨から分錐される、而して全市民のために、宗教的及び反宗教的貰侍の自由が承認される。﹂ と規定され、飼ほ第六開催は﹁滑侶並びに軟骨勤務者、票儀施行者は選凍標及び破避寒権を有せ γダイエLr・ロシヤに於けろ反宗教逆動の進展 ソダイエト・ロシヤlこ於けち反宗教連動の進展 二五六 や。﹂なる規定を設けて数曾関係考等の選馨資格一ぎも完全に剥奪してしまつた。之の様にして致骨 に封する碍腰は徹底的なものであつて、従承正教曾が有ってゐ克絶大の椿カを悉く奪取すること に成功した。そこで、さもなくてさへ反革命約でぁつた敦骨及び宗教囲健は摩って反革命戦鹿に 念卸する様になつた。是に於てツゲ4エ†機関は、好機逸すペからすとして、革命掘護の見地か ら、反革命的行勒に出た多くの散骨を悉く閉鎖し、反革命に加糖した散骨関係者を容赦なく虜断 した。かくてソダイエト政令の反宗教運動は急速なテンポを以て進展して行く楼になつた。この 様にして散骨は完全に手足をもぎ取られてしまつたが、残存せる滑侶階級や宗敦園健並びに大衆 の宗教的信仰そのものは、かゝる繹魔のみでは到底撲滅すべくもない。寧ろ輝厘が強ければそれ だけ大きな反動を招蒸する虞さへある。是に於て憲法第十三傭は、倍数の自由を完全に保存しな がら、宗教的及び反宗教的宣樽の自由をも亦承認して清水の反宗教哉に唯一の期待をかけてゐる 理由がはじめて理解出水る。 さて、革命直後の政令状旗は、階放的諸勢力が交錯、紛糾を極め、イデオpギ一戦線もまた慮 度の混乱状況を呈し、反動思想と宗数的1デオpギーとの結束による反ソダイエト反革命的気分 が到る虞に横溢し、之等に封抗して起った反宗教的要素は革命努力と相提携して、若きツゲィエ ト擁護のために必死的闘争を磨けでゐ佗。かくて昔時の反宗教運動は政治的色彩の尤も濃厚蒋時 蔓蔓際臣監 代千あつたq 三 臨内戦昔時の非組織運動時代 之の時代は政治革命期に引き清いた反革命運動の尤も焼烈を極めた時期であつて、敦曾分子及 びあらゆる宗教国債は、啓イン一′リグソツ一ヤ及び信仰大衆を煽動して、大寒して反革命戦線に 投じ、鏡意、宗教擁護に努めた。かゝる反ソダイエ十運動の脅威は勢ひノブィエー政曾の反宗教 反宗教戦線にあつて活動せる戦闘員は、共産薫煽勒宣侍部の宣侍員、夫等の指導下に 熱一で昂進させすにはおかなかった。そこで反宗教的運動はめぎましい勢で漬大して行った。昔時 アギ一丁ツデール 産軍貝、雰働組人曾貝、赤軍兵士、青年共産糞員等を主燈とするもので各地のァギーアリブール及び アギトブソクト、エ場肇貝曾、ヤチェイカ等を中心にして清澄した。けれどこの時代の反宗教運動 を概観するに極めて執古布ってはゐたが、仝健としての統制を吹いた極めて非組辣的な地方分散 的な行動をとつたものが多かった。随って昔時の反宗教宣侍の如きも多くは拐動的なものでそこ にほ何等計蓋性さへ認められなかった。蓋し常時はまだ革命創業時代であつて、ツゲィエト政府 をはじめブダイヱト社食は革命擁護そのものに狂奔して未だ文化戦歳に十分なる考慮を沸ふ暇を 有たなかったからだ。そこで一九一九年三月に開かれた英産業第八同大曾は、所謂﹁英産業プロ 二五七 グラム﹂を決議して、之の混沌たる反宗数連動にも確乎とした方針を示すことになつた。これが ブダイエト・ロシヤに於ける反宗教運動の進展 ーヒ −↑ ブダイエト・ワシヤに於ける反宗教連動の進展 二五八 郎ち有名なブⅤグラム第十三健であつて、﹁薫は、前きにゐ布された散骨を国家から、畢校を敦脅 から分離する布告だけでは満足しない⋮⋮⋮⋮塵は大衆の一切の敢曾的・経済的行動に於ける計 毒性と白魔の賓現のみが、諸々の宗教的偏見の完全な死滅を斎すであらうといふ信念に依って荷 導される。煮は、動静老犬衆を宗教的偏見からの賓際的解放に協力しっ∼、また尤も贋汎な科畢 的・啓蒙的並びに反宗教的宣侍を組織化しっ1、搾取階級と宗教宣侍国債との問の結合智完全に 破壊することに向つて邁進する。之の場合信仰者の戚情を辱かしめないための注意が肝要でぁる。 蓋しかゝる侮辱は、宗教的狂信を強化するばからだから。﹂といふやうに宗教戦娘に封すろ薫の感 度を尤も明瞭に表示してゐる。それと同時にこれは皆時の反宗教運動の政情を別決したものであ った。かくて一九ニー年の国内戦の終焙を二鴇機として反宗教戦線も亦漸く陣容の建て直しに取 新経済政策賓施期に於ける反宗教運動の組織化時代 りかゝるやうになつた。 四 この期の特徴は、所謂新脛藩政策の賓施にぁる。ブダイエト政府は経済力復活のために戦時共 産ま義から一歩後退をして、一定限度の私有財産を認めまた国内商業を復活して市場取引を許す ∵ /︰・∴.∴ ⊥.. ことにしたので、農村も漸︿経済的に蘇生し、都骨の中小工場も再び蓮樽を開始し、市場も亦漸 ︵活気を呈してきた。かくて世相は再び昔の儀厳にたち返ってうたかの如くに見えた′︶かくて反..、.・一:−鼓 1. 蚤聖霊讐㌻㌻肯反各の時準が断く珠褒し腔む、之れふ軍偲億−雄健庶慧鰯鶴I〓湖臨肇相磯張顔頂 きた阿寄手段が如何にも皮相な、エビソート的なものに宿ら夙かったことに気がついけ、例へば ﹁ユムソモール降誕祭﹂とか﹁コムソモール復活祭﹂と云った反宗教的クーニプァルを催して喜んで ゐたら、宗教囲健の反革命的行動に題鈎する致食間鎖の如き行政虜分に満足したヶする傾きがあ ったのが如何にも馬鹿らしくなつてきた。そこでこの期に入った頃からして反宗敦蓮勒に漸く計 婁的な、深晩のある、をして組織だつた運動に重り始めた。それと同時に戦闘員の養成、宣侍方 法の研究、宗致史研究、自然科畢研究などを一屏必要とする様になつてき佗。この逮の事情は一 九二二年に雑誌﹁†ルキシズムの遊の下にL夢二故に書いた心−エソの論文﹁戦闘的唯物論の定 義に裁て﹂の後年部が尤もよく裏書きをしてゐる、即ち﹁⋮⋮⋮:無細論のための不境不屈の宣倦 を展開し無細論のための不珪不屈の闘寧を行ひ以て政府機関を援助し、改善し、激励することは 最大緊急事である⋮⋮・⋮現代赴禽塁憶に呪はれて、精紳的暗黒、無智、偏見に堕されてゐる数盲 萬の民衆︵殊に農民と小手工業老︶を唯々一本調子に、純粋のマルクス孟鶉的啓蒙によつて此暗 黒から救ひ出すことが出水ると考へるとすれば、それはマルクスま養老の隋♭得る最大且っ最患 の誤謬に属する。吾々はあらゆる種類の喪神諭の宣博樹料一三人衆の手に渡さねばならぬ。種々の 生活領域からの革質を以て彼等に嚢細論を致へねばならぬ。昔々は種々の手段を以て彼等に接近 ブダイエー・ロシヤに於ける反宗教連動の進展 ツゲ.呈ト・ロシヤに於ける反宗教連動の進展 二六〇 して彼等の典暁を喚起し、彼等を宗教的昏酔から日ざめしめ、あ♭とめらゆる方面から、又あち とあらゆる方法を以て彼等を覚醒させねばなら甲⋮・ ⋮氏⋮ ⊥b︶ ︵⋮ 佐野 繹よ さて新経済政策賓施以凍私有財産が認められ、市場が復活し、商取引が自由に行はれる橡に在 った結果間もなく都市ではネッブマン農村ではクラークと云ふ様な有産階級が俄かに接頭し始め イ し正数食もまたツゲィエト承認、ソガール復活と云った様に組織及び方法をかへて蘇生を計量し 始めた。特に暮民話なセク†園健は共産ま義を棲撰したりして大衆に接親し凍ったので反宗 仙 教職巌は到底これまでの様に薄弱な陣容では対抗することが殉難になつてきだ。特に統一した統 制システムを欠いた組織的に薄弱なものであつたこと、又ワシヤ反宗教運動が如何にも無経験な ために、豊富な試凍を経た宗致運動に対して遜色のあつたこと、及びイデオ℡ギ一戦線に活躍㌦ す る訓放された戦闘員が不足勝だつたことは常時の反宗教戦線の投はなかったま要原因であつた。 随って都市のやうなソダイエー樺カの確立した、そして共産煮地盤の強固な、而も労働大衆の組 織化されたところでは反宗敦運動も比較的容易であつたが、全然之と相反した傾件の下にめa農 r臣 村に於ける反宗教運動は之れまで一向に振はなかつ詑。そこでツゲィモr攻庶が農村経準の淑輿、㌻Lを旨 に各カを峯げはじめた時機には反宗教澄動も亦勢ひ降立を換へて進ま払濫往ら往かケに。株に無 単にして、頑迷な宗教的偏見に捉はれた農村へ、新しいソダイエト建設問題や、農村経済の集約 化、電化、協同組合化等の諸問題を持ち込むためには、何よりも先つ農村を策源地LJする宗教園 澄ぉ嬢滅し、農民の宗教的愚蒙を克施しなければならなかった。かくて之等幾多の試練を経た反 宗致連動は今や科挙約に基礎づけられた統制システムを有って一大組織化運動の舜化すペき機運 に向つてきた。 かくて一九二五年四月には﹁ブダイエー聯邦戦闘的無細論者同盟﹂の名を以て有名な一大組織囲 髄がモスクプアに創立された。之の歯髄は元凍、モスクグア英産業委員骨で螢行してゐた反宗教 新聞﹁べズポジニック﹂︵﹁喪神論者﹂︶の講讃者に依って結成されたものでブハーグソ、ヤロそファ スキー、 スクブォルツ†フス 、テバーノフ等の反宗教戦旗の闘士を中心にして生れたものであつ た。之れは共産真の一般指導下にあつて専ら反宗数量侍に徒事する外に反宗数量侍員の訓練、反 票数出版物の刊行などを目的とする組織囲嘘であつた。︹特別出版部﹁べズポジニック﹂を有し週刊 新聞﹁べズポジニック﹂と月刊難詰﹁アンチレリギオズニッタ﹂︵﹁反宗教運動着﹂︶とを定期刊行する 外に一切の反宗教関係の出版に徒事してゐる︺ 一たび中央にか∼る組織圏髄が創立されるや、間もなく之の裔の組織運動は尤も急速写7ソポ ツゲーエト・ロシヤに於けろ反宗教連動の進展 ツゲィエト・ロシヤに於ける反宗教連動の進展 二大二 を以て各地方に侍冷し、璽一九二六年貢には飼盟骨員数が十一高四千八百名を超過し、 九二七年には四十萬に増加した。機関紙の螢行部数もー九二六年の始め頃は既に二十萬 した。之の組織囲髄にほ多数の聾者、赴食道動著をはじめ、発願的螢農大尭が繚々垂加 科畢的統制力をもつ完組織運勒化したイデオロギー哉兼を展開し得る様になった。同時 妄に於ては、票数の科畢的研究を進め、革命以凍の経験資料を蒐集−研究して、機宜に通した 運動方法を講究し、岡ほ優れたる戦闘員の訓練に努める様になつたので、之れまでの反 は公然面目を一新した勝算ある持久哉に入ったかの翫を呈してきた。 この頃三クブアの共産アカデミー内に、新しく宗教史研究委員脅が特設され、取り敢へす1宗 教の起源し義教赴骨畢﹂、﹁基督数の遊撃、﹁現代諸宗沃﹂、1適宜諸民族の宗数的信仰と儀攣など の研究に着手した。それからまた、モスクプア警固立大草の文科には特に1反票数部﹂が設け られ、ソダイエト聯邦戦闘的喪神論者同盟諸機関の指導幹部、労働組合諸機関の幹部員 部の監督者、及び前記共産アカデミー宗教史研究委員魯の研究員等の養成J昌的とした教育が賓 施される様になつた。 ツゲィユト社食はか∼る情勢の下に、年一年−義務的に復興し凍トノ、一九二八年に入った頃は、 既に戟前の朕感にまで盛り返す=とができ死ので、√愈々次の紅曾ま義的建設時代へ向つ﹁て暴準汀 る可簡性をもつやうドなった。併しれ、る落野師酔屡耽薬に濫套腔反葡璧題肇力 の反革命要因の喝化とが経れてゐた、そしてそれ等反革命要素は互に相提携して 琶勢力の城田を業し、反ソゲィ言障螢を展開する横倉を狙ってゐた。 五 配合ま義的建設期の組織大衆運動時代 新経済政策質施以来の経済力の伸展に倖ひツゲ11エー政府は一九二八年の秋に及び尤大な産業 yダイエト・ロシヤに於ける反宗教運動の進展 エレメントの狂心的な反抗を招来し平と同時に、彼等は数曾其他の宗教国債の イデオーギ一戦線に於ける進出を計った。所謂宗教十字軍の策動も亦、欧米宗教 ダイエー的反動の現はれに外へはらない。丁度この時代に於けるロジャ反宗教運 及ばしたであらうか。資本家的エレメントに封するか∼る致骨董義的攻勢移樽は、国内の搾取的 もまた、最後的金力を謹げて應戦の奉に出た。それと同時に反動的世界も亦、ソ かる進出に封抗すペく策動する様になった。さてこれ等一般情勢はロジャ宗致戦 なつて反資本主義戟凝を張り、正に親攻撃の偉観を呈した。か1る猪突的襲撃に驚いた反動戟腺 五ケ年計革質樹立し、ツゲィエト経済の飛躍的工業化と放骨董義要因の強化とを 大規模の敢骨董鶉的建設事業に着手した、それと同時に、文化戦線に於ても、経 遅れまいとして、夫々花大な計量目標を定めて、一大躍進を期し、ブダイエト赴 ■ ノブィエト・ロシヤに於けろ反宗教連動¢進展 二六四 ペたやうに、漸次組織化した大衆運動に樽向しつ∼あつた。即ち組織だった統制の下に、残存せ る宗教勢力の撲滅と、信仰大衆の迷蒙克服とを目標に、間断なき闘争が行はれつゝあつた。而し て今日の散骨閉鎖、梵鐘の藤波し、致骨建物の文化的、赴骨的有用物への特用、滑侶の謳逐等の 寺院清算運動も亦決して普のやうな強制慶分的な、または執謹せる群衆の盲動に依るのでなくて、 塵醸せる多度大衆自身の鼻面目な要求に基くものであつて、それはまた決して従前のやうな前騙 的戦闘無細論者のみに依る特殊的運動の域を全然臆したものであつた。換言すれば今や将にpシ ヤ反宗教運動は畳から質への樽換期にあるものと考へられる。而も之等大衆運動の中心指導勢力 たるべき前記無闇論者同盟の発展はまたすばらしい勢で準ノゆ、昨年の六月開かれた第二同大食管 時は、その魯員数は二百萬と稀へられたものが本年の春頃には約三宮五十萬に埼加し、機関紙﹁べ ズポーズニック﹂の螢行部数は三十五高から四十萬に達した、其の外反宗教的出版部教の如きも 亦一九二七年頃の殆んど約六倍に播加してゐる。︵数字は一九三〇年﹁マルキシズムの旗の下にL第 五戟所載たる、オレシチュークの﹁反宗教戦線に就て﹂による︶。その外最近特に注目さるべき傾向 は、反語教職親に於ける科聾者の進出であつて、本年三月二十二名のツゲィエー天文畢者が連名 要覧・ で題馬法王に公開状をつきつけた事賓に依っても、また最近の反宗数的出版物が著しく科挙的な ものに打てゾウゝある傾向に依っても窺はれる。僻ほ哲革分野に於てもま詑反虜及勃激浪への海野t\∵ が著しく日立って凍た、最温、馳許的†ル午㌢スト弊葦論蒸髄靡鮮い額ずで塵宗頒朝顔▼欄娼 ペき件を決議をしてゐるし、最近まで比較的淋しかった准誌﹁マルキシズムの旋の中に﹂にも 給 諭 フ・オレジチエーク、エヌ・カーレフ等の反宗数論文が毎我載せられてゐるのでも解る。 大 これを要するに、ツゲィエト政曾の最後の目的は政令主義的建設にめるのであつて、これが には、もとより赴骨経済の計遷化、政令化が其の基調をなすものではあるが、之の敢含ま義的 設のための重要な榛杵の役割を演すべきものはまた、新興科挙と覚醒せる労農大衆の創造力と なければならぬ。縫って科単に封立する宗教観念の徹底的な征服と、労農大衆の宗数的愚蒙の 後的克服とは、ノブィエト赴骨建設にとつての先払問題でなければならない。これ即ちソダイ 赴曾に於ける反宗教的赴曾事賓の存在理由であ♭、星夜この政令現象が常に、ブダイエト赴曾 構の舜移と不即不離な関係を有って進展しっ1ある所以でもある。而して蕾敢骨の宗数的道徳を 枚底より覆さんとするこの赴骨運動は、必ずやまた、ツゲィエー政令の要求する新しき道徳的 範を形成するま要動因でなければならない誓だ。反宗数的な無醐的道徳規範こそは嘗に労働者 び農民の道徳であつて、それはどこまでも勤労者の幸廟を基調とし、努働階級の利益を擁護す ものでなくてはならない。かゝる見地からする反宗数運動の研究はまた極めで慣僅の多いま化 ソダイエト・ロシヤに於ける反宗教連動¢進展 ブダイエト・ロシヤに於け︷〃反宗教連動の選良 痍の深い問題であらう。 二大六 要するに記述極めて概略に失し特に一々の具億的例迂を省いたために極めて概念的なものにな ってしまつた憾みがめるがツゲィエト政曾に於ける反宗数的鹿骨革質の大髄の推移だけは説いた っもりである。甫ほ反宗教運勒の各モノソトに裁ての特殊研究ほ更に稿を改めて書き化いと思っ てゐる。 侍ほ起稿に方hノロシヤ文字の使用を淘輯着から制限されたため、文献の摘記を省絡してしまつ たことをお断りする。たゞ拙稿超草に降し直接参考したもの∼中重要な著書論文だけを左に摘記 する。 レー一; ﹁紋付主義ぎ宗教﹂一五〇五年論文 同 ﹁労働者基¢宗教にこ封†諸態度について﹂一九〇八年論文 同 ﹁階級及び認の宗教ミ軟骨にこ封†る関係﹂一九〇九車論文 − 六八東 同 ﹁戦闘的唯物論の意義について﹂一九二二年マルキシズムの凍り下に、軍二弦 ヤロスラフスキー﹁反宗教プロパガンダ﹂ツゲィエト大官科字典第三巷六〇 二〇五東 †∵、÷/ 同 ﹁ツゲィエト囁邦戦闘的無細論者同盟第二回大骨に於ける演説﹂プラウダ統一九二九年六月十二日所載 ブハーサン ﹁史的唯物論﹂一九ニー年収一九一− 同 ﹁戦駁的アライズムり大聖連動化﹂プラウダ統一九三〇年一月十五日所載論文 国 1建設期ミ反宗教的圃幸﹂プラウダ紙−九二九年六月十二日、無静岡風発二回大骨に於け宣濱耽 .↑㌢人Lン⊥−㌢軋転一 1現代労働運動−こ於ける教骨﹂†ルキシズムの旗の下に、完二五年第四放 1反宗教戦線lこ放て﹂マルキシズムの旗の下に、一九三〇年茅五班 ルッ針lル ﹁アティズム﹂ノダまト大計秤謡撫撃二態七草〓ドードぷ感元亮 エフ●すレシチューク エム・ルビンシュティン ダニ・エンゲリフごリドーソダイエト・ロシヤの蛸家組鍛、脚線ブダイエ基質法令翠二九ニ○年、滴鱒、﹁自由盲シヤL整版部 ¢二ごリアス・エフ・ヘッカアーロシヤに於ける宗教の洩疲﹂一九二七年l高津氏謬−大東出版無一九三〇年︶ アブィエト●ロシヤに於けろ皮需故潤勅り超過 回 現代回教の食薫 現 代 数 の 危 磯 赤 松 智 二六人 城 近来﹁同数の復興﹂がその﹁改革Lに依って促進されて、荘に特に﹁同数の近代主義﹂とも線稿せら れる浬勒が起ったことほ、既に知られた爵著な革質である。然るに多くの改革殊に近代化 ほ屡々戎種の危機を倖ふものであつて、同数にも亦それが認められることは、深く注意す 代の一宗教問題であると思ふ。今詳らかにはその危機は種々の方南から窺はれるであらう て、ク。−マー卿がその名著﹁近代攻及﹂の中に大臆にも﹁改革された同数はもはや同数ではなく して全く他のものであるLと云った有名な評語の如き、貰にその危機の重大性を代表的に直言し たものである主嵩はれてゐる。しかしこの批評は果して現代にそのま∼是認されるであらうか。 ク。−†−は元寮﹁同数は改革されることができない﹂と前提してゐるけれども、これを長い同 数の歴史に顧みても、斯敦に改革と費展の能力があることは拒まれないのみならや、これ 回教国の賞状に欲しても、或る方面にその革新は既に賞現されてゐるのであるから、この いでの卿の評言は必ずしも妥曹で叔ないj云は蒐財凱濾お洛漣.針紺智弘か軋針払紆紆野 如件に行隠ねて賢か、恵隠を転に基ぐ際漁礁靡し匝感盛と瀾礫暮二師に唱嘩Ⅵ濯韻儀項類廃儲準・ ペたことがあるから、宣には歌て省略するが、最近にはドイツの同数単音バルト†ンもその著 ﹁同数の危機﹂︵崇e日計imd金Ⅰ巴昌﹂¢誌︶に於いて、またか∼る問題を論述し、略々同様の見 解を掲げてゐる。然らばさきにクワ−マー卿の云ったやうに、かくの如く改革された同数は貰は もはや同数ではないのであらうか。或はまた反封にそれは賓際に僻ほ同数徒としての権利を正雷 にもつてゐるのであらうか。私ほ弦に先.つ♪ルーマソと共にその近代主義に倖ふ所謂同数の危機 に就いて二三の考察を試みて見よう。 知らるゝ如く、如何なる成立宗教の歴史にもかの正統涙と進歩況若くは侍統主義と改革ま我と の封立があつて、同数に於いても亦か∼る対立をその初期の歴史にまで窺ふことができろが、今 現代の同数徒の中にも賓に同様の趣が見出されるのでぁる。即ち♪ルトマンも云ふやうに、溌多 の同数近代主義者は塞く自らを善良なる同数徒と信じてゐるのみならや、彼等に対立する普通の 同数徒と妊も、必ずしも彼等を全く敦囲以外に排斥しやうとはしてゐない。尤も古い侍統を固守 する正統派は今日も僻ほ大多数を占めて敦内に勢力を張り、改革の思想と運動をば正統同数への 不信として難じてはゐるけれども、しかしその批発はかのク,スト致の異況の問に於けるほど必 ずしも重大でほ︷仏く深剥でもないのであつて、この茄に就いては骨てゴールドチーヘルが明瞭に 現代回教の危機 現代回数¢危療 バーチタラ,ス▲ス 二七〇 指摘し克やうに、同数は寧ろ正雷に﹁個別ま義L脅許し、その数風は朝一よらも却て分立を認むる ムスり・lム に傾いてゐる。されば布くも自ら同数徒と確信して、アラーへの信仰密告白する薯は、その宗派 と畢況の如何を問はす、何れも骨同数徒と呼ばれてゐるのであつて、従って近代主義的改革者も 亦、同様に金岡敦内に認容され、等しくこれを回教徒と耕することを敢て妨げられなかった。薗 ほまたその有力な改革者蓮は多くは上流の地位ノ曾占め、或者はその信仰も甚だ堅固であつで、自 らは数囲以外に出ることを欲しなかったから、敦囲も亦た環ゐて彼等を轟然顕斥しやうとはしな かったのである。 そこで同数の近代的改革は必ずしもクp−マーの云ふ如き意味に於いての由致其者の否定では ないから、それはまた直ちに新教の危機をもたらす所以ではなく、却てそれは儀死の同数に新し い解繹と生命と活動とを輿へる多望仏企固として迎へられねばならぬでもめらう。然るに荘に荷 ほ注意すべきは、その改革の主張と従来の正統又は倍統制度ししの間には賓ほ大い誓・Q距離があつ て、その妥協調和は少なくとも表面上困難であるやうに見えることでぁる。尤も前述せる如く新 嘗異涙の封立は成る程度に於いて認容されるとしても、今この国対は殊に現代の同数に取って甚 だしいと爵はれる辟歩の事情が読クでゐ名川\.潰れば荘箪若ん準野多数匡 暗証吋にもこれを奥野打株数と遮断左怒ら膿Vを掩と容易に諏和じ嫌糎畢哉滅遮把盛凄頸窃遁同 数徒と補しても質際にはもはや異数徒であつて、従ってこの意味に於いてはかのクワ−マーの評 語が或は適中してゐるとも考へられるであらう。岡又この対立をばバルトマンの試みたやうに、 曹らくこれをかの宗敦改革に依る基替歌の薪奮両派の分立に比較して観て、これを亦た回教徒の ー 分裂と見催しても、その新改畢派の主張は少なくとも正統派に対しては危険であるから、それこ そ正に同数の危機であるとも云はねばなるまい。然らば荘に謂ふ特殊の事情とは何であるか これをよく理解することは賓はやがてその危機の問題を邁蕾に解く輝であると思ふ。 い へ.、ぺu パて ー云 ソへ ナば ル、 、所 レ謂 リ個 ジ人 ョ的 ン宗教としてよりも寧ろ インスチ 凡そ同数は今かゎにジェームスの用語例を以 チユーショナル、レリジョン 的宗教としてより多く馨達し、弦に明かに新政の一時性があつた。蓋し丁γトマンも云ったや ぅに世界の大宗致の中で恐らく同数ほどその敦徒及び致囲の全生活と制度とをその微細な鮎に至 るまで一貫して支配し拘束したものは少ないであらう。それは既に知らるゝ如く同数は貫にその 初期から一国家の形鮭を取ら、然もこの歌囲と国家との合一はかのカリフ制度に於いて見られる やうに現代までも存嬉したから、従ってその国家法律政治など通じてその制度文物は全くその宗 イスラーム 放と離る可らざる関係にあつた。そこで現に同数と云ふ言尭は勿論濃豪な二宗教を表示する 同時にまたその文化をも意味し、かくて革質上歴史的倦統に基く同数とはかくの如き宗教と文化 現代回教の危機 現代回敢の危療 二七二 との全般的結合統一に外ならなかったのである。清文この回数文化の最盛陪は云ふまでもぢく 世紀にあつて、近世の同数は唯だその後影を引てゐるに過ぎないから、結局制約度同数はまと て中世的同数文明の産物であると共に、この文明も亦その宗教に依って畢化され、或る意昧に いて恰もタブー視されてゐたのである。同数とその文化とに特有な一事情が弦にあつた。 然るに近凍の同数改革者は賓にこのクブー制度に観れてそれを犯し、或は全くこれを排来し ぅと努めてゐるのであつて、最近かのトルコの改革が所謂﹁歴史的同数﹂を斥けんとして、着 れを賓行しっゝあるが如き正にその一適例であらう。さればそれは勿論中性的同数文明従って た侍統駒岡数制度の破棄であるが、今前述せる如き同数に特殊な事情に凝れば、それはやがて た重岡致の否定をさへも意味し、客観的にはそこに重大なる危機が孝まれてゐるやうに見える である。しかしこの場合に書々が最も留意しなければならぬことほ、その文明や制度が固より 数々圏を構成する要義ではあつたけれども、決して同数其者の本質又は核心ではなくして、そ は﹁時代史的﹂特に中世紀的産物としてこれに附加されたものに外ならぬと云ふ事賓でぁる。 故にその改革若くは破棄をばそのま∼挙りに純粋に宗致としての同数の否定と同一成するのは、 少なくとも速断の嫌を免れ得ないのであつて、回数に特有な宗教的精神は賓はその文明や制度 背後に別に本賓的に癌うでゐるのである。而して同数の近代ま養老蓮は却て か\る版本の宗教的1ぎ し要覧︻ 棒抑をこを堅く護持しやうとしてみふのであつで、を辟〓≡の倒濁蜃魂に肇慄で周£芳竺∴三 デイソは、その国家的改革運動の綱領として、﹁トルコ化﹂及び﹁近代化﹂と相並んで別に﹁向教化﹂ ﹁近代トルコの文化運動﹂の著者としてトルコに於ける近代主義の尊慮を簡明に叙逓したムヒア イスうIムラシユ▼タ の棟語を揚げて、その新しいトルコ文化を双肩に荷ふ者は正に﹁近代化せる同数的トルコ重義﹂ ウルイスラーム でなければならねと主張Lてゐる。然るに今この同数化とは積極的には根本同数の正意に復るこ とであγり、更に滑凄的には特にかの歴史的に構成された現今の形憩に於いての同数を飽くまで拝 繚せんとする正統派の克服を意映してゐたのである。さうして僻ほムヒッデインに依れば、他の ールコの/同数近代ま義者が宗教問題に射する感度もこれと同棲であつて、即ちそれは全く﹁歴史 的同数の排斥と根本同数への復古﹂に外ならなかった。そこで彼等の同数改革運動が賓にか∼る 意味に於いての同数教化の標語を濁ぐる限り、をれはやがて青々にかのブてアスクソトの宗教改 革を想ひ起させるのであつて、そこに純粋の宗数的精細が淀れてゐろことは宅も疑を容れ甘いの である。 しかしこれは曹にトルコのみに限らす、要はこれより先き既に有名なデュマール・エッデイーソ・ 7フガーニーやムハメット・アブヅ一等に依って提唱された印度と瑛及との改革運動も、亦たそれ 現代回教の危鐘 現代回教の危機 二七四 と略々同様の趣を示してゐる。尤も此等の運動は貰際には多少その傾向を異にしてゐるけども、し かし何れも根本同数の立場に在って、その本質的宗敦精細をば時代史的に制約された固頓にして 煩憶な制度の拘束から解き推して浄化しやうとする意陶に於いては、鼻くその締趣を一にしてゐ るのである。されば鹿じて同数の近代主義的改革はたとひ正統派とは両立す可らざるものではあ っても、その改革者が自ら同数の版本精油に任し且つこれを飼揚せんと欲する限り、彼等は固よ ら回教徒であるのみならす、かの中世紀的同数の近代的革新と螢展とのためには、その改革蓮勒 は賓に必然の要求と過程とである主事はねばならぬ。但しそれは勿論正統同数には危横を清爽す るであらうが、しかしそれは賓に中世的同数制度文明の没落に過ぎす、然も現代に於いてはそれ は常食凍るべき運命でなければならなかったのである。一般に宗教史は書々に古家幾多の宗教が 常にかくの如き危機の試凍を通して螢展したことを敢えてゐるが、現代の同数も今やその難開を 透過し始めたのであつて、従ってそれは寧ろ喜ぶべき首途に在るのではないであらうか。 私は同数聾者ベッカーが曾て印度の著名ぢ近代的同数改革主義者ブクシュに就いて云った或る りベラル.プロテスタント 言葉を敢てそのまゝ荘に引用して置きたい。﹁人はかくの如き改革者をば或はもほや同数徒ではな ∴﹂. より或る個人 . 、 ⊥ ∵、一.し に晩成れ、 いと非難するでもあらう。しかし自由新教徒も飼ほ一基督教徒であると同棲の意味に於いて、彼 ∴:.、J も亦た一同教徒でぁる。尤も同数の近代化はこの場合固 ∈トト㌻ふ 嘗せすまたしないでもあらう。一都り燕が蘇てもま甘乱とは広ら紅い。しかしかL鎧儀磨恥感触 徒の蓉展能力は質に注意に伍するのであつて、誰か近代新教派の馨展をかのトーマま∵アクィナス の時代に否ルッテルの時代に於いてさへ預知することができたであらうか﹂︵l巴a−巳、∽.監.S﹂¢ 00一等−︶と。今この言葉が燭♭印度のブクシュに関するのみでないことは勿論であらう。但し等 しく弦に同数の近代的改革運動と解しても、さきにもl言せる如く、夫々多少その傾向を異にし 例へばムハメッー・アブヅーと浅及の﹁マナールL系に属する者並びにトルコの所謂﹁改革派﹂はこれ を基督致に対比すれば、事賓上殆ど新教の音数合流に類し、従って散骨には息賓であるが、他方 同じくトルコの﹁国家ま養老﹂や最も近代的ハ仏印度の或る回教徒連は寧ろ自由新教徒に似て、散骨 とはもはや親密な関係をもつてゐない。しかしこの自由新致徒もその多数はベッカーも云ふ如く 自らは僻ほ基督数社と信じてゐるやうに、その同数の罪数禽的改革者も亦同様に一の同数徒であ り、また正常にかく呼ぶことができるであらう。尤もそれは綬等が少なくとも同数の哀感的信仰 を護持する限りに於てゞあるが、今か∼る自由な必すしも在寮の散骨に従属しない意晩に於いて の謂はゞ宗教的個人主義は、賓は却てその宗教をして異に普遍的即ち公数的︵c旨○︼ic︶たらしめ る所以でもJのると考へられるのである。 岡ほアラビアに於いても夙に厳格な復古準亡して知らる1かのァ♪−ピ泥が所謂﹁同数の由敦 現代回教の危機 ←瀾 .叫 ゝ † 現代回教り危機 二七六 従﹂字して、薪致の本題に立ち復るべきこと哲高調し且っ苦行した鮎に就いて、他国の改革連動 の覚醒に貢献し佗こト﹂ら鼓に注意されぬばぢらぬ。尤もこの泥は本来は近代化的革新に反射であ るけれどもト挨及の改革運動はこの放と精神上似通ふてゐて、何れも温い宗教的戚情を共通にも ってゐる︵。それで現にこの派の頭骨イブン・ナウドが一九二四年に殆ど登アラビアの統一に成功 したことは、挨及其他の改革者達に依って深く歓ばれたと侍へられてゐる。然もこのナウドに依 って率ゐられる今日のアラビア同数徒にも質際にはまた漸次に或る近代化的傾向が起って雅たや ぅであつて、回教国としての.ヘルシアにも亦だ同様の傾向が窺はれるのである。 さて現今のトルコ哲始めとして近東の同数諸国の政府嘗局者或は虐政者達が亦た骨上述せる如 き改革的精神の下に動いてゐるとは俄かに断言できないが、しかし常に鼻輯する個々の政治常勝 老の如何よりも更に重大へ仏間題は、賓際にその多数の国民殊に青壮年の大衆が思想上今泉して如 何小一る現状にあるかと云ユニとであらう。勿論これもー概には断定し得ないであらうが、少なく ーこも彼等の中の有力者や知識階穀が著しく近代化しっ∼あることは事ふ可らぎる革質でぁつて、 セキユラー 然もこの場合近代化とは云ふ去でもなく現代の特に世俗的ハ与西洋文明に影響されて、即ち﹁西洋 化﹂ヌは﹁欧化﹂することに外ならぬ。而してその勢は全′、梵くべきものがある。然らばこの邁勢 は今日その青壮年者の同数信仰上に如仲ハ富治晃をもたらしでかるであらうか。妄亡して蓋∼ ばそれは頗る悲観的であつて、同数の其の危機は賓に玄に存するやうに思はれる。 さきに書々はタワーヤーの﹁改革された同数﹂に対する痛言を必ずしも重く承認し得なかったけ れども、しかし彼がそれと共に説いた所謂﹁欧化された瑛及人﹂の胱鰻とその批評とには、流石に 傾聴すべき節があるから、次にそれを魔ふて見よう。蓋しこれは恐らくか、る問題を最初に切論 したものゝ一つであるのみならや■、今日に於いてもそれは適確な見解であらうと私は倍じてゐる からである。 タワー†−に依れば:欧化された挨及人はその晴朗上漸次挨及人ではなくなつた、轟々駿猟人 とならうとしてゐる。しかし浅及の政令は今や勒拓の状態にあるから、彼等は玄に於いて同数を 耽れた回教徒︵計・2忌計−−訂d茅s−呂S︶となると同時に骨簡のない欧測人と行アりつゝある。それで TIり▲ かくの如き欧化挨及人は名義上は多くの場合に同数徒ではあるが、事賓上は一般に不可知論老 ︵Agmc賢︶であつて、彼等とアズパル大畢︵正統同数紳聾者の牙城︶の教師との距祉は、その教師 と欺洲人との距維のやうに甚だ大であり、賓際は後者よりも前者が或ほ一骨大きいかも知れな い。蓋し思慮ある欧洲八はその教師をば多くの尊重すべきものをもつてゐる古い信仰の代表者と して認めるのみハ仏らす、たとひ彼の宗教は基督放ではなくとも、彼は貰に宗数的であるから、ま 現代回教の危療 現代回教ゐ危機 二七八 た彼に同成し得るのである。然るに欧化挨及人はこれに反してその癒す上トノの近代知識を誇♭つ ノ ー つその教師を蔑視し、彼を放曾的に見棄てられた着となし、政治上の目的のためには時々筏を容 れて利用するけれども、決して尊敬を沸ってゐない。これは全く欺測の教育を受けて束ね若い塊 及人がその同数を失ひ、若くは斯敦の優れた要義を棄てたことに基くのであつて、彼等は賓にそ の紳の信仰の本披から漂然として自らを切卜離したのである。然も彼等はかくその同数を失ひな がら、他方基督数に近づくことも頗る稀であつて、賓際に塊及の教育ぁる階級にほ基替歌への改 宗者の事例はない。そこで彼等はもはや奥の同数徒ではないばかりでなく、基督数に対してはか の歓洲致育を受けない肯い正統同数徒よりも却て一層不寛容な場合すらもあつて、屡々基督致徒 を甚しく憎悪してゐる。されば欧州文明は浅及に於いて賓に一の宗教を破壊し、然もそれに代る べき他の宗教を輿へず、従って彼等瑛及の自由思想家は恰も粧も水先室内もなしに荒海へ船出し て徒らに漂うてゐるやうな着であつて、その過去の歴史もまた現在の集園も彼等の上にはもはや 効果める何等の精神的統制を奥へない。彼等は往々宗教の本義を最も合理的な改革に反対するも のと同一成し、か∼る結果に導く恐れがある或る特殊の宗教を晩潤して以て、全て宗教其老を排 斥せんとする傾向にある。かくてその宗教的信健から全然旺れ去った時に、鎗等に残る制限は唯 シ一′カル、セルフ●インチレスト だ冷嘲的な自利の外には何物もなく、彼等の動く散骨も厳粛に不忠質せ欺瞞とを育めるこ上尾鱒 ㌣㌣軒㌢£︼ い。鎗も彼等はその祖先の倍條をかく見捨てながら、臥藤の一瞥をもそれに輿∼伝い仇み怒張肇 却てこれを嘲笑してゐるのである︵rf・Cr音er−景Oder−1出gy冨1づ○−●甲pp・琵00−諾柑︶。 これは賓は既に二十数年前にクワー⊥÷−の指摘した﹁㍍卸﹂の一異相であるが、私が骨てそ の地方で少しく見聞した所に依っても、それはまた同棲でぁつて、寧ろ現在は益々その傾向が甚 だしいやうに見える。而してこれは決して唯だ挨及のみには限らず、今日の若きトルコの現状も 亦、殆ど同一徹であつて、或はそれは一層極塩に流れてゐぢいかとも思はれる。最近にむY・平 C・Aの一幹部であるヤシユーズは﹁同数青年の勒鴇﹂を述べた中に、童としで西欧の文書に依る彼 等青年の西洋化の結果を概括して、それは同数的でもなくまた基督数でもなく、貪健とLては唯 だ組織がない軽率な一の不可知論に終ると云って、クワ−マーの言葉を裏書し、額ほ語を清いて 次の如く述べてゐる。この事賓は更に回数青年の精細を種々の世俗的な西洋思想を以て充たすこ とが、決して基督敦へ一吋でも近づく所以ではないと云ふ寄算の一乗認に導かねばならぬ。またか かる琴き同数徒の世俗的見解の増大は賓に裔凍の金岡敦の統一と全世界の同数徒の同胞ま義との 〓七九 ︵呂0聯lem宅0監Orぎ白pヨ冬す買〇tt、 公撃ざ驚くべきほど奪ひ去った。かくて今日の若きトルコ人と瑛及人とが偏に西洋の生活法へ隠 向するのは正に一新時代の黎明を告ぐるものであると pp●霊−苫︶。 現代回教の危機 現代回教の危■ 二八0 しかしこの黎明は快晴よりも荒天を汲示し、同数に放ては危機を意味する。そこで現在それへ の封発として斯敦の外部からも種々の方途が提唱されてゐるが、私はもはやそれに就いて詳述す る除格はない。唯だしかしさきに所謂不可知論的な一部のd?ロOS−em訂d買軋emと既述せる如き 近代主義的︷与re冒莞dI計mのま張者とは勿論区別すべきのみならす、今岡敦の眞の危機性は 賓に前者に榛はる所以を理解し、然もこの危機を透過し解決する最善の途は、全く後者の揖草稿 紳に依って進む外にはないと云ふに止め与フ。ベッカーは骨て基督敦宣教師に警告して、﹁同数は 基督敦化されるよりも前に寧ろ幾度が近代化されるであらう﹂と云ひ、♪〝ト†ソもこれに同意 してゐるが、私は僻ほこれに附け加へてそれは決して重く基督教化されす、ま托その近代化は直 ちに俗化︵芳u−弓i邑i。−−︶と混同されてはならぬことを注意したいのでぁる。その昔アラーはモハ メットを通じてその信者に﹁紳の温に就いて戦へ﹂と啓示した︵コーラン第二章二四五箇︶。これは デハート 云ふまでもなく元は調整職掌の一標語であつたが、現代の薪同数徒は今や礪ってその民族内の俗 イン▲ここミサシす1ン 化せる不信者に封してこの成語を掲げ、以七彼等への謂はゞ﹁内部構造﹂の空戦に由ってこそ精進 すべきであらう。しかしまた同数の危様にもたらされたかくの如き種々打問題は、今日殆どその 形式を同じくして要は近く我観Ⅵ致界にあることをも、書々は鼓に切貰に反省しなければならね と思ふのである。 ∼ 韓形期に於ける宗教概念の変革 石 津 原 璽 ∴ 生成と飽和と崩壊と。歴史は恒に蓮頗的、しかも異質的な段程を放る。ある時ある 現賓性と合理性と、従ってその存在の必然性を誇った事象は、他の時所に於ては、 られた殻であつて、曹面の時所にある事象の現賓性と必然性を支持する史的要因に 等のことほ今夏らに古典や現代の背畢的思索に徴検するまでもない。 宗教の鍵澄も亦嘗琴−の歴史の運行の裡に運命づけられる。何となれば宗敦のあ∵りかは歴史の 外にあるのでは︷仏いから。たとへ出世問の法と姓も、彼岸の沖の固と維も、それは常に人間の側 にあり、亙らに文化面にあるといひ得るであろう。このことは既に前世紀の中頃に ハが暴露した。仮令最近燭逸の新教紳単に於て反主観主義反人間主義の理論や運動 それは倍数の範囲に於ける宗教機構を説くもので、宗教的対象の超絶的貰在を説く 所詮は人間の政令的現境脅迫しての要望であり願求であ㌻り思ひなしに外ならぬ。 鴨形動に於けろ来秋概念の整革 陣形苅に於ける完秋概念の導畢 二八二 といつて、或合理的な政令機構の下に於て宗教が解消否定されると言ふことほ早計である。此の ことに裁ては後にふれるとして、此虜でほ宗教は敢骨の、従って人間と自然の交流によつて成立 する歴史の中のものであるといふ拳を辞示すればよい。 それでは歴史の現段階に於て宗教は如何なる械麓と型建とを持つべきであるか。此のことは歴 史の金牌性に於て、過去との必然と現貫に於ける相互関係とによつて捉へられねばならぬ。此の 場合に、歴史を統御すa史観の原理が緊急な問題となる。 歴史、従って現貰の全憶に於て、全鰻的な立場から個別の革質にその必然の座を輿へたものは 言ふまでもなく、近世以降に於てヘーゲルとマルクスがある。ヘーゲルに於ては全世界史の運動 のま憶は紳であつて、紳の倣界支配といふことは後に於て宗数的信俵でJのつた。そして三位一億 の間道が法外に重大性を持たせられた。且つ費展の各段階に於ける民族生活の諸相が、如何に紳 によつてその社食生活を統制されてゐるかといふ事によつて、その政令の構造が絆定法的に把握 せられた。このことは既に﹁宗致の概念﹂に於て国家と宗教との聯絡が説かれ、彼の宗放免に於 ては到ろ靂でみられるのでぁる。彼が歴史暫畢に於て一定の宗致の下に於てのみ国家的秩序の一 定の型窟が存在し得る云々と言ふに欲しても、後による世界史の横棒はその原理に於ても各段程 の史賓に於ても紳乃至宗教が社食生活の基底と克つてゐた。︵層尿号宗教汲が習滑津黒潮汀︵匪臣駐 コペルニクス的に樽回したものは十九世紀 時にを解挿さ咋㌫妨。㌣野牛ンズふに於てむ左横甘み・転がα︶歴鹿に朔棄㌫かノ空包僻稽恕爪勿 ーガスチンからヘルダーに至る解渾がさうなのだが︶ 中期以降のマルクス・エンゲルス等の所謂史的唯物論である。歴史運行の根本的動因を物質の生 産関係に於てみる此の理論は宗致曽如何に観るか。 現代機械文明の特質は物を生産に於てみる。政令性に於てみる。或は政合意誠に於てみる。帥 今の樽形期に於て、宗教は歴史或は現賓の全面に於て如何なる意義と役割一で持つかを尋ねる焉に は、∴−グルの前に立つよりも、史的唯物論の所論を吟味することが捷径であらう。 それでは史的唯物論は宗教をどう考へるか。 〓 宗教はイデオⅤギーである。イデオロギーほ歴史・社食の関係事情の反映として、この現質的 基礎から浮び上る雲間に外ならぬ。現賓の政令的或は政治的関係全般に亘って、レアールに之を 規定してゐるものは生産関係である。然るに歴史の過程に於ける此の関係の盲目的不合理、階級 的矛盾は現在的苦痛を醸した。勿論時代の異るにつれて、此の閥係の不合理性及び現在約款曾的 苦痛も種々に異る。現賓に於ける此の事情を反映するものがイデオロギーとしての宗教である。 その源初的なるものから蓉展段階に於けるもの∼過ての型登は、地上の標力園係及び之に倖ふ決 噂形期にこ於けろ宗教概念の襲革 陣形期に於ける宗教概念り幾羊 二八四 定的な現在的苦痛を反映したものに外ならぬ。したがつて地上に於て現賓なる生産滞係 に、言ひ吏へれば政令騙係が完全となる事によつて、宗教は現賓の沃野の中に解滑する 教否定は理論的否定ではない。合理的な赴骨関係を搭乗せしめることによつて、必然的 に解滑するのである。史的唯物論の宗教否定の理論はかく考へる。 シュトラクスのいふ凛にフォイエルメッ㌫既に十九世紀の導火として宗教を自然と人 界へ還元した。票数とは現賓の彼岸にある紳の王国ではない。賓は人間の要求と想像に 世界の幻想的投影である。 人間の自然に対する依存性、この依存性に剥戟される威情は自然の作用と支配に驚嘆 と想像によつて自然に魂を入れてこれを嫁入化し、更に自然のもつ不可抗の勢力に対し れを神化し超人開化する。この想像に人間の﹁要求﹂が加はつて宗敦が形成される。幸 る願望要求は自然の経過とは姦しない。そこで願望要求賓現の方法は自然を人間化神化 像を背景として、その不可抗の紳−賓は自然に対して所謂紳意を得るために奉仕的所願的感度 にnアク、こ、に宗教の諸種の儀惑が寮生する。一方想像と要求は無制約的に自然の内外に出でゝ ∵∴. /▲∴ r∵・r一.い.\ドト∴r㌻ト :︸−トlilトト.■ ﹁全能﹂に於てその紆結を見る。とこに細胞の規定が出来る。けれどもこれは理性と自 ウで無定酸不可舵なるは論をまたぬ。 フォイ‡ルてハはいふ。﹁巻物池本蜃璧隼陛錐密室聴牌旋転排1ニし“康餓顔本題蜃鴎畑醸環嘩竃蓋瑠当町 ■ 別された人間的本質とし、更に人阻的本質を人間から蔭別された非人間的本質とする。これが紳 の本質であり宗数の本質である。そしてこれが人間本項の非悪意的過程である。Lかくて牧は宗教 の本質を人間の想像と幡に要求の壷に還元した。従って紳とは想像の裡で満足せられた人間の車 叫 両ならん与る働であつて、紳とい壷在的だと想象せられ芸在へ樽嫁し荒問の芸に告 らぬ。従って紳とほ一般に人間の要求願望を課し新原する対象であるが、賓はそれが人間の婁で あつてみれば、これに所願しても仕方がへ甘い。矢張す自然と人間の限界内で虜理しなければ∼ なら ぬ。そこで紳は不必要とへサ0。 フォイエルノッハは宗教を顛倒した人間意識と考へた。宗教を顛倒した世界意識と考へるのが 一般に史的唯物論の立場である。宗教を人間の要求と想像といふ人間的根砥に還元したことは、 彼自身が要求する如く、ヘーゲルとの対比に於て列断する限♭に於て正しい。併し彼のいふ人間 或は人間的本層は抽象的である。積層Lししての人間は現賓のものではへ甘い。抽象的な普遍概念で ぁる。現賓の人間は戚性的な賓践的な活動に於て捉へられなければハ与らない。こゝから人間が種 馬的存在でなく政令的存在なることが明かに琴J。感性的括勒、質践に於ける人間は、敢骨的戚 係に於てのふ賓際に存在する。人間的本質とはその現賓に於ては敢骨髄係の絶佳でぁる一三ルク 噂形期に於ける宗致概念の努草 轄形期にこ於ける宗秋根念の慶事 こ八大 スがいふ。そしてこの人問本質の展開する現賓の簸壷が歴史である。従って人間の畢はフォイエ ルメッハのいふ人類畢ではなく歴史の畢であり、それあ云のみである。 こゝから﹁顛倒した人間意識﹂から﹁願倒した世界意識﹂への脈絡、宗敦否定の井澄法的経過 が明かとなる。超人間的非科畢的に彼岸の賓在と考へられた宗教は、人間的本質に還元され、更 にこれが政令的関係に合理化され解滑される。そして宗教とは顛倒した世界の意識に於ける反映 だと考へられるのである。そこで彼岸的なるものから人間的赴曾的に是正された宗教から、今度 はその矛盾を成立せしめた鹿骨が是正されなければならぬことになる。こ∼に歴史に於ける陶零 的鯛記法的理論が始まる。 史的唯物論の宗致否定の理論を要約した。宗教の社食騙係への還元といふことほ賓詮蒋 法として正しい。赴骨開侃を規定する根耗的代表的なものが生産力であるといふ考、及 ら出て凍る結論に就ては暫くおき、宗致の赦骨的還元とその解滑否定について考へてみ 史的唯物論に於ける宗教の社食的還元といふことは、併置法的意暁に於ても賓際の取扱 . 11\■ 材方面に於ても、現質せ超絶した﹁紳の王国﹂として彼岸的に取扱はれてゐる。次には 的に、甚だしきは欝な名世界軌としで取扱はれてゐる。 認証を現聾の腋史性に於て、敢伊鳳凰に於て考へ・匂といふことは正しいひ能し宗求針右打如′ 考へて、それが現賓の素地に於て幻影でぁるといふことによつて、宗教全般を否定することは早 急に失してゐる。勿論取扱の対象となるものは現賓の、歴史性をもつ宗教でなければならぬ。史 的唯物論の立場からは宗敬一般、宗敦の本質といふことは二義的派生的抽象的である。書等のい ふ、或はわれ等に現賓なる宗教はそんなものではない。宗教を右の様に解辞し否定することこそ、 その取扱は概念的抽象的で現賓に、少くともわれ等の現賓に印してゐない。 史附唯物論の照明する仕方は正しい。しかし照明されたものは少くとも現代に於て間違ってゐ る。こゝに宗教概念修正の要がある。殊に同等的な栢形期に於てその修正が必要である。 ヘーゲルがいふやうに思想史が歴史の典型的代表といふならば、思想史の範囲に於てみても、 一般十八世紀後年にかけて宗教の解滞は中世以降の神学的残浮から未だ脱却してゐない。このこ とはダントとかヘーゲルとが典型的な代表者について一々その所論を検討する迄もない。史的唯 物論の側からはその変質的確質さを別としても、最も明快に反覆されてゐる。 常時の宗故に対する考へは如何にも彼岸的である。﹁紳の固﹂が現賓と連絡する鮎は精々三位一 壊に於ける、紳の愛によつて濁り子イエスを遺したといふ程度のものである。然もこれは細から の恩寵であると考へられる。﹁人が頑を造るので紳が人を造るのではない﹂といふフォイエルメッ 持形期に於けろ宗教概念の幾革 樽形期に於ける宗教概念り増孝 ー 二八八 しかもフォイエルメブ の提唱はこのやうな事情にぁる昔時として、エンゲルスがいふ楼にクド/\しく説明されること が必要でJのつた。併し現代に於ては宗敦が人間の血にあるといふこと ♪等のいふ形而上的世界観的な醐の固を、人間の側におくといふよぅは、宗教的機能として、宗 教の重心を人間の側におくといふことは、よくわかつてゐる。従って超絶的な沖の固が賃は人間 の側にあるといふことも、今夏らしくいふことは現代にとつて無意味に近い。 史的唯物論の宗教の考へ方は一般に昔時の事情及び彼の囲の事情として止むを得ぬことでぁら ぅが、本質的に主知的に失してゐる。科挙に対立した形而上的幻想と考へられ、合理的なるもの に対立した不合理︵非合理では小甘い︶と考へられて、科畢的世界観と封立した、歴史的にはこれ に先行した世界観である、従って蜜Tによつて克服されなければならぬ、眞理の彼岸が克服され た時に此岸の眞理が建てられると考へられる。この鮎に於ていふ併の宗教とは紳畢的であつて宗 教的ではぢく、フォイエルメッ∴と規を一にする。 宗教意識に於ても、意識を稟疲の事貰が状愚として機能としてあらはれる場所として取扱はれ ない。現賓の生活に於て意識が場所としての閲兵をもつといふことは、宗故にかぎらサー般に史 的唯物論清水の問題ではなからかと考へる。−意識の開門は直ちに寧ろ眉知的に渡♭披けて、 ﹁富強とは澄諌せもれ光背鑑でやる。人隈個質在はその漢音的生活適者汗浄通じ野追慕改姓敵襲は.藁紅配転 冬想晩怒徴認晦怒沖伊取払糠糠に膀怒ら軋駄をしで策臆地上控杵鷹墟種族加騒肇礫義舗鰯旬l覇頚 る造量の敢曾掬係権力騙係の反映であると考へられて、宗教意識に於て宗数的事欝が如何なる 状愚と機能に於てあるかといふことは問題とされない。 宗窒息識に於ても左横であるが、制度としての宗教を見る場合に於ても宗敦機構は所謂政界の 二重化の事賓に於て、唯それのみに於て見られ、票数に関する諸制度儀鰻は蔵然と紳の囲の機構 に於て考へられ、同じく現賞の外部カの偉力踊係を反映するとされる。 史的唯物論の宗致はこの様に凡て彼岸に於て統制され、その機構が主知的に考へられる。苛く も宗教である限♭、現質的賓在的なるものの反映として二重化的な、幻想的なものとして国式的 に現穿から区別される。 宗致が超現賓なものと考へられ、︵一般の文隼田に於て機能として考へられる場合をいふ。宗教 意識の機構に於ける対象として考へた場合をいふのではない。︶キリスト教紳畢的な唯一紳の主宰 \/、j する世界或は駄界覿が宗教と考へる限りこのことは正しい。そして人間の現賓的へ仏赴骨関係に還 元解滑されることもその立場として雷然である。 四 併し現代に於て史的唯物論の立場からすれば現代の碕形期に於て現賓の根幹に印する宗教はな 陣形期に於けろ宗教概念の肇革 印形期に於けろ宗軟概念り坦革 ︳ 二九〇 いものであらうか。あるとすれぼ過去の、辞語法約にいへば不合理な井貫在的な宗数の概念は塵 草されなければならぬ。 以上の宗教否定の理論は鼠なる自然薪畢的取扱として見る場合に譲々の敏防がめる。併し之を 詳記法的過程としてその大綱を見るならば皆然の緬結である。かつて歴史のある段階に於て揮語 法的意暁に於ける合理性と賓在位を誇ったその雷時の宗致は、今や峯中の安閑として先つ詳記法 的意晩に於て合理性質在位を否定される時が凍た。史的唯物論の宗教の否定は平面的に一般自然 科畢的な固定的材料として取扱はれるのではない。非語法的尊慮の段階に於て取扱はれることに 党づ留意しなければならぬ。−−1そして一般の常識と科畢に於て既成宗教はその赴骨的横能を絡 へて既に老ゆとの翠が高い。解語法的自愛なきものと雄も既に併設法的樽向を表すものとも考へ られる ー。 然らば歴史の現段階に於て、非語法的意療の特形期に於ける現賓性合理性に級抵を云く宗教と はどんなものか。史的唯物論の立場からすれば、こ∼で宗教は階級性に於て捉へられなければな らぬ。何となれば歴史の現段階に於ては階段の対立とその投棄が特贋をなすから。資本主義政令 に於ける宗教は既に彼岸の不合理ぢものとして界雷法的意殊に於て否定したから。 史的唯物論の所謂世界の二窒化の革質に於ては、宗致の肢柾が﹂敢合駒矛盾及び之か追凍箔賢覧臣駁臣r + 清からの幻計的な許賢汲直の阿片として考へられ一報野郎泰鹿礫鹿控偲東低項類l監瀾季毎期頗璃 勒の邁の方向に於て考へられる。したがって宗教が政令的進化の障害として考へられる。此の故 に﹁宗致は私事﹂でほない。史的唯物論の構想と宗教に対する固定的な考から︵論者から言へば それが具億的なのであらうが、時間的客間的に極めて葬具煙的な抽象的な議論でぁる。十九世紀 のキ,スト敦唯一細論が何時までも存在してはゐない。︶すればその所謂宗教重十九世紀のキク ヌー数唯一紳諭、ギリシャ正数!−は貸賃的に解滑するはづである。 我々は今現代の宗教に就て考へてみよう。 史的唯物論の暴露をまつまでもなく、既成宗致の非現貰牲については今種々の言を避けてー1 博形期に於ける宗教に就て考へてみる。 史的唯物論の側からは此の諭は抽象的既成的な所論としてなじられるかもしれぬが、科挙として の樺限に於て 一 史的唯物論の定式にしたがへば現代の樽形期の特贋としては階級間季が拳げられる。したがつ て帝形期の宗教は階級間零に於て考へられなければならぬ。勿静此の場合の宗教といふ概念はさ きの解消否定さるべき宗放とはその概念の内容規定を具にする。規賓の根幹に即する宗教、世界 の二重化に於て見られるものでないところの宗致、したがって地上の政令機構と相反せぬ機構及 び機髄を祷っ宗教が考へられ甘ければならない。したがって此の憩に於ては賓詮約方向を失ふか 噂形期にこ於けろ宗教概念の蔓草 樽形斯に於ける宗教触念の饗革 二九二 も知らぬが、桟橋としての宗教といふよらは、棟健としての宗教、換言すれば宗教的特贋といふ鮎 に諭の重鮎がおかれる。併し内容についで言へば賓澄ま義的立場或は賓用主義的立場に於ける所 謂﹁代用宗致﹂が考へられる。一倍にキリスト教唯一紳畢的残辞に拘泥する西洋の宗教思想は、 一度この貫澄主義或は賓用主義的な立場に於ける喪神諭的或は人道的宗教に引きもどされて考へ なほされなければならねのであろうが、兎も角、この素地に立って宗教といふものを軌なほして みる必要でぁる。 †ルクスの商品の斉物狂的性質及びその秘密に於ていふ、人間労働の融合的隆盛哲多働生産物 の封象的性質に見誤れる資本ま素敵合於ける商品型憩になぞらへて、この政令の宗致をブロテス タソトや理神論によつて代表させることゝは別に、近代京敦思潮の時化は右の要求へのかけはし であつた。デカルトに於て自我は絶ての碓賓性の放抜であつた。紳の質在は自我から演経せられ る。併しこの演繹も人間理性の越権とあつて、黎明期に次ぐ壁列重義時代に於ては之が否定せら れ、そしてその亜流は、たとへばファイヒンガーの所謂﹁虚梼の哲畢﹂として世界㌢フィクチオン に於て考へるやうになつた。勿論観念的なものであるが、こ∼に於て人間だけの世界が確立し、 宗教は人間の横碓として或は有用性として考へられることになる。此の考を推してゆけばジンメ 〆のやうに封象としでの世界の概念に関痍なく、溝敦の板金を完金工ま規め如袈浪材料漣鉦鼓訂㌢酪瞥駐−一 脆泰阜︺。憲政とは心のリズムでみ♭膠色で飯石E聴眩惑ふ取 ≡完≡完け題濁鞠惑 かくてコーヘソや殊にナトルブ、グールランドに就て邁ペることをさけるが、軌念諭的方面か ら宗致は、殿密に言へば宗教の確賓性の問題は人間の側に取ら庚された。そして此の意識に於け るフィクチオン或は心理的事貰に就て宗教をみる場合には、嘗然その中に於て宗致の特質をなす ﹁めやす﹂が考へられなければならなくなつてくる。そこでダイソデルバンドやーレルチ、オ⋮ノト ーが塑の概念をもつてき佗。併L十九世紀観念論の宗教論は人間の側に宗致を取♭もどしたが、 宗教宮本質或は奥理に於てま窮しょうとする限り、怒議論的誤謬は別として︵究極の問題として は宗教的アブリオリの例︶人間文化の面に於ける宗致の役割を極端に限定し、その機能に於て極 めて偏椅なものとした。此のことは文化の分化費展の焉に宗扱が清算されつ∼あるもので、哲畢 的意味に於てもやがて解約さるべきものであると、一部論者から言はれても仕方はない。 既にテイクッヒは此の問に廃して、之等のせま苦しい宗致概念の蒐服を、観念論的立場から主 張してゐる。更に賓謹ま鶉的な立場からはコントやミルをまつまでもなく、宗教を敢曾の現欝面 文化面に於て究めようとし、史的唯物論も究明の方法として此の立場をとる。極めて略述でほあ こ九三 ろが宗教に関する主張は、今や成立宗教したがって紳畢的残浮から完全に股証しょうとし、そし て新しき宗教型爆の前に弾力的に留まつてゐるかに見える。 糟形期にこ於ける宗教概念の塾革 陣形期に於ける宗教概念り療革 五 こ九四 然らば現代の棒形期に於て宗致は如何なる横棒を持つべきであるか。我々は上述の思潮と既成 宗数の歴史的非現質性とから、所謂代用宗教の機能と型患とを漁想する。さきにもふれた様に、 歴史の樽形期に於て現代の特質を階級間零におくならば、階級闊寧に於ける宗教的特質が説かれ なければならない。同時に又晩成宗致から掬ひとられる現代の宗教的楷盛をも見のがしてはなら ぬ。そこで問題の重やぞ歴史の現賓に於ける宗数的特質といふことにおいて、人生政令の重商に わ佗って、単に蒋形期を劃する階級関守に於てのみならす、他の過ての敢曾的人間的勒向から之 を紺ひとらうとする。現代文化の面に於ては、政令の尊慮と逆の方向をとる宗教、たとへば史的 唯物論のいふ宗教の如きは、これを捨置して、敢禽の賓際的進化と矛盾なく相即する宗教横棒を 考へねばならぬ。 即今の宗数的特質とは何か。眈に紳畢約数魯的或は理論的なる宗致の特質は、現代に於ては現 賓性をもたぬ。 今我々は宗数的特質の﹁さぐ♭﹂として現賓といふ問題を考へてみる。現賓性といふことはア .−1: リスーテレスの運動の概念に於て可倦性に対して考へられ、ヘーゲルに於ても精神を基礎として ′こ の可飾既に対するものとしで、歴史として﹁在ったもの﹂﹁在るもの﹂として考へられた。そtて 町敵性から現賽性への客泳が﹁寛恕﹂とし丁託か掩㌫。傑し挙併確髄健鱒礪薫∼塵予感恕ヰ塵煽 . 、二一 向は何れも螢生的である。これに対して我々は可能と現賓とを同一の場所に於で考へる。従って経 験に対する白魔と照明の浅淀の差としてこれ等を考へ度い。此の虜には我々の経験を、その賓相 の方向に於て追求し深化すればよい。︵これは傭敦賓細論を背蕊とすることを始めに言っておく。 そのために茫漠の所論が銅銭する簡もあらうから。これに就ては既に一再ならす詳論してある。︶ 現賓とは経歯の雷梱に於てあるもの∼相である。我に対立したものに現賓性はない。対立して あるものとは、根本的に経験的な、従って現賓なるものから派生した、二義的な反省的立場であ り、観念的産物である。経験に於て、曜経験に於てその裡に具現するものが現質なのである。経 験をはなれ、現賓壱はなれて何物もない。例をひくならば現賓の世界とは領に克った物の像の世 界である。我々の荘唸は、従って現賓は如何なる場合に於てもこの像の世界を出ることは出水な い。出ると考へるのは思健的反省でふγり、これもまたその雷袖に於て、経験として現質として像 の世界へ遠へる。傲の世界でぁるから現質なのである。これが根本的へ仏具髄的な現貰である。 反省的にいへばこの最も根本的な相に於てないところの現賓といふものはあアワ待ない。凡ての ものは現質でふ∵り或は現賓であつたものである。併し一般に我々の経陰に於ては、ものをこの最 こ九五 も根本的な現賓の粕に於て経喧してゐない。或は最も根本的な相の下に経臆してゐながらこれを 噂形期に於ける宗教概念の幾革 疇形期に於けろ宗教概念の漆草 二九六 日発してゐない。虞に映った像を、像のすがたに於て白魔、照明してゐない。現賓相に於て受取 ってゐない。像の世界を超絶的な質在を考へたり、自我に対立し氾百億と考へたらしてゐる。現 賞を、あるが磋なるすがたに於て見ないで、賓はこれを顛例の相に於てみてゐる。このやうな意 味の現賓に対して、鼻といふやうな標準をもつてはかることは出来ない。これは思沸的立場であ って、根本的、経験的なるものから派生したものである。現賓とは経験の普相に於てあつたもの をいふものではない。それは現賓の産物でぁる。こ1に動的立場がある。 現賓とは行又は賓戌の皆瀬に於て欝現するものであ∵ク、その限♭に於て凡てを包宿するもので あるが、︵何となれば、これなくしては披るべき何物もないから、︶一般にはこの現賓の普相をその あるがま∼の相に於て捉へてゐない。経験せられた、現青から派生した二義的な産物について、 思惟し執着して、事の賓相を顛倒さす。従ってこの現賓の雷相を捉へるためには、賓践に於て修 造と白魔を必要とする。 この立場は畢なる観念論でも賓在諭でもない。その綜合である。自然と人間の開異に於て成立 する賓在的な歴史の立場でぁる。併し過去と未水とを連繋する連績としてあるのではない。それ 等哲統制する白ま的なものでぁる。 現富をかく考へる=ヱは、部分的だとしでもへ﹂ゲルの史貌に於け声直夢先現賓的葦涛浄︰紅海妻一い≡巨臣臣賢k■ 野師現寄に於て歴史を理解する立場を簸じ、卦象的晃年の入隊思惟による把擾は、肇に髄鹿鹿疫 るものによるものでなく、賓成約活動の媒介によるとするマルクスの考、即ち唯物押澄隠の螢展 過程とも印する。勿論その構想と賓践の方向が、一は普面の現賓の観照自費によつて、現膏が現 賓として可能たるべき観念的修道であ㌻ク、他は客観に於ける歴史の、或は史賓の段階を追って、 客軌としての歴史或は政令の舜草である。歴史の現賓性を追求する鰭度ではあるが、後者は客観 に於て追求し、前者は歴史的存在の観念的照明によつて、畢の賓相を掴まんとする。 現賓をめるがま∼なる要に於て白魔し把握する賓規約修道こそ、樽形期に於ける宗教ではなか らうか。現賓のあるがま∼なる姿とは賓践に於て対立を揚棄して幻想的願倒を寛服するにある。 そして賓践に於てヘーゲルの宗故に於て所謂﹁現賓との融合﹂を獲得し、反射し抗零する現賓の 諸相を綜合して、仝健に於て特殊なるものの統一肯定されてある妖患、宗敦の妖患を賓現するの である。 このことは史的唯物論に於ける理論的認識と賓践との一敦、現賓の科挙的把握と背騙するもの ではない。勿論この鮎は政令的なるものの表面に個人的なるものが表はれて凍るジンメル風の考 へに近いかも知れぬ。併しエンゲルスも歴史経過に於ける意識的目的の意義を認めた。史的唯物 論に於ても、上部構造下部構造の従属関係以上に、その交互関係も承認されてゐる。勿論こゝに 蒋形期に於ける宗教概念り襲草 特形期にこ於ける宗教概念の費草 問題が私むことは像想される。 輪形期の宗教はこ∼に見出されなければならぬのではなからうか。こ∼に於て再び宗教は生活 の全般に亙って、歴史の全般にわたつて意義と役割をもつこととなる。中世を支配してゐたイデ ォ。ギーよしての宗教は、こ∼に於て再びその新装争Jらして現賓に於て、従って宗教として帯 革の裡に、赴骨機構全般の中に生活を支配するとも考へられる。書等はカント亜流の要請する論 理的或は心理的な宗教の特殊領域、嘗草道徳に対立した領域の想定に就ては再び閲読すまい。 、 ヽ 勿論以上の所論は多くの理論的未決の問題を合むであろうが、今は只問題として提示すればよ ○ ゝ − 後 記i 円 △現代宗教批列お世に返る。=の時期に於て、=の内容を待㌣こミを、 策‡ われらは忍者ミミもに甚〃トよそ、び失い。現代社食の諸原に於ける、 宗教に謝すろ着眼批評た︼薪時期を劃する=ミを期†。内容の短評は 呵 文 富こ竺 大乱、 一こ十巳 印 刷 館 憎 薇 許 不 ︶ ‡京市神田訂敦河苺下 犠替口座東東〓ニ五 ⋮相同 乗数研究強行併 着 質明なろ讃者に譲って、今=ゝでli識さない。味讃右乞ふ。 置免 所 月 変 行 縫 印 △夢初の計婁からは柑潤色され主君具ミ克つ吾が、そのたゆに却って特 澤Ⅰ 和 五 年 十 刷 色のあるもの亡兄つ㍗。研究機勝報誌の特輯写しては=の程度以上に 渡手先ものは望んでliならわ。 俳牧園係の論文li今度の企剥lこ於ても、重大な役割みもつべ与・でぁ でぁつ圭。われらの意のわつたミ、ろを翠しておく。 り、その計喜む進め吾が、注憾ながら僅かに宮本氏の論祝を待圭のみ △毎兢に於て左横でち・烏が、特にこの時輯張編輯に園Jてに、計韮の普 動から事瀞の細未にい㍗ろ迄、上野、埼谷、青野、三枝諸氏の労にま 石 ?もの極めて多い。ミ共に周文館の服部洩一二郎氏の斡旋患カをあげ る。ミもそLる︺て附†。− 昭
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