松 村 武 雄 - 日本宗教学会

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民間停承の不合理的分子とその合理化重刑︶
松
村
武
雄
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民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶
蛇の進化L︵T︼︼e苧〇︼uこ○コ〇r〓1e冒Pg〇=︶の中で、
マンチェスクー畢渡の首領株であるところのジョージ・エリオット・スミス氏︵Oeつ︼■ge空i〇t苧itナ︶は、その著﹃題
の形相を紐歪することを意味する底のものも少くないからである。
理、矛盾には.さま′ぐ1の性質と様態とがあり、その中には、強いて之を合理化することは、却って事象の眞責
る。民間債承の研究に於ては、殊にさうであると云へる。なぜなら既に明かにした通りに、民間俸承が持つ不合
の強いものである。畢的研究の上からすると、この傾向は頗る大切であつて、同時に少なからす危険なものであ
紙じて拳徒なるものは、さ亨ん\の事象に勤して、何とか説明づけたり合理化したりしようと努める心的傾向
いふ問題である。
て見たいことは、﹃これ等の不合理的分子を合理化することは、いかなる範囲に於て畢的に許容せらるべきか﹄と
に於てそれ等の不合理的分子がいかにして委生し若くは存讃するかの因由の種々相を考へた。最後に自分が考へ
自分は第一節に於て、民間停承に含まる1不合理約分子の存在の様態とその様態の意義とを繹ね、更に第二節
ヽ疇■■
民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶
二
﹃人間の行動は主として理性に動かされると推測するのは.ありがちの迷誤である。日常生活の心理最も初歩の
探求すら.人類竺般に考へられてゐるほど優れて合理的な生物ではないといふ眞理を露呈させるに充分であ
強ひられてゐる。﹄
る。人は、その本能.個人的経験の諸情勢及びおのれが成長した融合の常套的習俗によつて、大部分の行動を
︵二〇︺
となしてゐる。かうした見解は、同じくマンチェスクー畢派に属するダブリュー・ジュー・バブリイ氏︵W.J.
冒rユの主張するところである。氏の多くの著書−1たとへば、芸陽の子﹄︵T︼leC監re≡;︼¢瞥ロ︶や、﹃呪術
及び宗教の起原﹄︵TheOr督。rぎgic呂d空igi昌︶などを紡いたものは、それが幾度となく繰り返して力説せら
れてゐるのを見出すであらう。
これ等の畢徒が強調するところは、或る程度に於ては決して間違ってゐない。自分としても、おとなし
し得るやうな気がする。人類の行動そのものが、必ずしも合理主義的な基礎を有するものではないといふこL・
それが本能や過去の経験や融合的習俗に強ひられて一発分辻凄の合はぬ道筋を取るものであるといふこと
る程度までは眞である。かくて、民衆が持つ習俗、信仰等に封して、軽率に合理的な解滞を加へるのは、
貿明な展業ではない。ドーソン氏は、﹃擬娩の風習﹄に於て、従来の畢徒が、この風習に勤して持ち出し
ゆる説明解樺を一々批判して、その成立の困難なことを明かにしたあとで・
で、本来.人間がよくやる﹁理屈はすれ﹂の産物であつたではなからうか﹄
﹃一鰹擬娩の風習は、﹁証明﹂を許容するものであらうか。説明したり合理化したりしようとするのは愚
︵二一︶
2∂4
といふ患をほのめかしてゐるのはレ自分たちのよろしく三者すべき鮎であらうα
文化民族も自然民族もーー後者は殊に璽その思考及び行動を、屡々合理性に背戻した本能や過去の経験に決
定せられてゐる。そこに習俗、信仰等の不合理、矛盾の無意識的な草生があり存頼がある。然るに一日盲れ等の
不合理、矛盾を意識するに至ると、之をその儀の形態に於て遜成する憩度に出るか、若くはこれに理窟をつけ筋
ヽヽ
路を正さうとするより頻繁な傾向を探る。かくて雷面の考察命題に即して云へば、民間債承が持つ不合理、矛盾
の或るものは、︵決して全部ではない。︶
㈱﹃人間的な﹄蕗敷からの自然の産果で、矛盾してゐることそのことが本態であるもの。
㈲ 同じく、﹃人間的空合理化の要求の下に、本然の矛盾的形相を失つて一合理的な外皮を着せられてゐるも
の。
である。
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かうした分子と畢的合理化との関係は、どう考ふべきであらうか。先づ第一に、刃は、畢的合理化の限界外で
ある。矛盾してゐることが本然の姿であるものを、強いてその矛盾を撥無することによつて、矛盾を含まぬ姿に
挑め直さうとするのは、好んで事の眞柏に速離することになるだけである。這般の矛盾を生ぜしめた民族の本能
や過去の経験を検討することは、畢的に意義があるであらう。しかしさうしたものに決定せられて自ら生れた矛
盾、不合理に、畢徒が膠手に合理化の鱒手を伸ばすことは、論理の遊戯であつて、民間倖承の本然の姿への邁元
ではない。いな本然の要に封する放歪である。しかもわれ等畢徒は、往々にしてかうした性質の矛盾、不合理に
民間序承の不合理的分子ミそゃ合理化︵承前︶
忍ば
民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶
四
勤してまでも理路を立てようとしがちである。これは民間債承が持つ不合理に謝する認識の不足に他ならぬ。民
俗学の一構成折口信夫氏が、﹃古代研究﹄の民俗畢第一篇に於て、
︵二二︶
冨蓮といふ語が、此頃好ましい周語例を持って禿た様に思ひます。私は、理窟に合せると言ふ若干の不自然を
根本的に待った語として使って居る。﹄
と云はれたのも、恐らくかうした場合の合理化の弊を衝いたものと信ずる。更にまた、ドーリン氏が、
﹃人類には、おのれの信するところのものを合理化しょうとする頻繁な傾向が存してゐる。人はおのれが習慣的
とを、自分自身並びに他人に納得させようと常に試みてゐる。予の考ふるところでは、民俗聾者た
に属してゐるさま′ぐ・の不合理な行動を説明し去つて、それ等の行動が合理主義的基礎を有してゐるといふこ
エスノロジスト
のもろ′1の事賢が、繰り返し繰り返し這般の観念を裏切るに拘らず。﹄
なるものは、根本的に合理的論理的であるといふ虚偽の畷説を作り上げてゐるやうに思はれる。−1日常経験
︵二三︶
と云つた言葉は、這般の不自然な合理化を目して畢的精密と誤認する者に封する辛辣堅二十棒でなくてはならぬ。
間と合理化との牌係は、頗る曲折に富むやうに思はれる。㈲は民間停承の生みの親自身がその中に矛盾を意識
した時に、自ら之を合理化した場合であることー先に運べた通りであるが、さうした場合の合理化は、合理化者
自身を満足させることだけで充分であり、従って這般の自己満足的解繹は、該矛盾をその一部とする民間倖承そ
れ自身の眞資性に背いた合理的表面を有する。それにも拘らずわれ等畢徒の前に現れた姿に劇ては.兎に角筋の
通つた民間債承としてである。
2∂β
†がた
かうなると、民間債承の不合理的分子の合理化といふことが、頗る菱妙な閲係に立たせられることに気がつか
ぎるを得ない。自分は、自分の意味する﹃合理化﹄を定義して、矛盾をつきとめて本然の形相に遷すこと1なし
た。しかし考へてこ1に至ると、矛盾を含まない形相が引き歪められた形相で、矛盾を含む形相こそ本然の形相
.し
であるといふ場合が、屡々あり得ることを見出す。さうしたならば、叫も亦自分の意味する合理化の噂外に落ち
といふことに存するのは常然である
るかのやうに見える。しかしさう窮屈に考へるべきではなからう。﹃合理化﹄が﹃矛盾をつきとめて本然の姿に遷
すこと﹄であるとしても、その第一義とするところは、可“本然の穿に遠す﹄
以上、㈲を合理化の限界内に於ても、敢て差支へはないとしたい。但し合理化の限界をそこまで塘大すると、合
理化といふ男尊が、容易ならぬ困雑事となることを覚悟しなくてはならぬ。なぜなら表面的にせよ、何等の矛盾を
ビジプル
タンジプル
含まない、筋路の通った或る民間停承に関して、その奥に潜む矛盾を看破しなくてはならぬといふ責務までも背
翼はされるからである。言葉を摸へて云へば、可見的な、可鯛的な形態に於ける民俗そのものとしては、何等の
形式及び内容的な矛盾撞着を見出すことが出来ず、従って本署に木原的な、信茸らしい民俗として通るものでも
その或るものは.これを産み出す心的素因に不合理なところを含んでゐる場合があり、そしてその不合理なとこ
ろこそ、その民俗の本質的な部分であるとして、どうしてもそこまで突きとめなくてはならぬといふことになる
それを産む心理の反映そのま1ではなく、人間性の一面である理屈化によつて整序せられたものであるといふ意
味で、本然の姿を遠ぎかつて居り、それを産む心理こそ、たとへそれが理屈にはづれてゐても、木原的、第一義
的なものであるからである。
民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︺
五
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民間停殊の不合理的分子ミその合理化︵承前︺
これは本営牢固雑な蓮元である。しかし同時に大きな興味と償値とを有する速元である。畢的には、この合理
−
文化民族と自然民族との思考の相違に因する﹃外から見た不合理﹄が、
化 − 理屈に合はせた外衣を刻ねのけて、その奥なる理屈はすれの本鰹を見届けるといふ意味の合理化こそ、太
だ願はしいものでなくてはならぬ。
哲訂inとしての民間偉承の不合理
﹃内から見た合理﹄に還元せらるべきこと、そしてそれが拳的に許容せらるべきことは、全く云ふまでもない。
民間俸承に於ける不合理的分子の合理化と云へば、殆んどこれが全部であるかのやうな感じを輿へる程、この種
の合理化は、畢界にボブユラーになつてゐる。しかし﹃外から見た不合理﹄を﹃内から見た合理﹄に邁元すると
いふことには.畢徒の陥り易い若干の昆が伴つてゐることを忘れてはならぬ。
プロセス
としての合理即ち本然の意喋に遷すといふ過程と、這般の速元として提出された解答と
第︼に、﹃合理化﹄といふ過程と合理化としての解答との混同が生起しがちである。或る民間債承に於ける許訂㌻
としての不合理を哲iコ
は、別個の二物であり得る。或る民間債承を産み出した民衆の心理に基き・・、−ハートランド氏の言葉を用ふるな
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ら、﹁黒く考へること﹄によつて、該民間停承に或る解繹を下し、以てそこに存する見かけの不合理を合理化した
といふとことが、必ずしもその解繹の妥雷を保記するものではないことは、訣りきつたことであるにも拘らず、﹃黒
く考へること﹄と﹃筋路が通るやうにすること﹄とに熱意する蝕り、この二つの條件に該昔してゐるといふこと
が、直ちに自己の輿へた解繹の客顆的安富に封する澄券になるかのやうに思ひ込み、而して這般の思ひ込みが、
その他に若干の已t呂注記な解滞もあり得ることに気を配る拳的周到を阻止する。これは確かに一の恐るべき鳥
2∂∂
でなくてはならぬ。貯pOSedChi︼dT竃eの説話の一としてのロムルス及びレムスの羅馬借詮に於て、この二見が
急タタ
なもの、従って恐るべき鵡として水に
河に棄てられたモーチフを、フーザ一博士は、生見の血統の正否を試すための邑er・〇r㌢の民俗によつて合理
︵二田︶ 化してゐる。しかしこの二見は隼生見であり、而して襲生見はpbコOrm已
︵二五︶ 捨て去る習俗が.多くの自然民族の間に存するといふ事案も、同じ程度にこのモーチフを合理化するではないか。
第二に、民間俸承の形相の類同と民間停承の奇生国の賛同との閲係に於て、一つの昆がある。前者の頑同は、
必ずしも後者の賛同を意味しないこと勿論であるが、吾人は椅々もすれば、両者の関係について悲しむべき錯覚
に碇はれる。かくて﹃外から見た不合理﹄を﹃内から見た合理﹄に還元し得たといふことだけに安易に満足する
と、﹃内なる合理﹄がAである場合にBを持ち出して平気でゐるといふ畢的粗漏に堕する憂があることを忘れては
ならぬ。豊玉姫が、その戒めを破った夫君彦火々出見命に八尋鯉に発じてゐる要を見られたのを怒ぢ恨んで、海
㈱ 多くの民族に於て、出産は一の鞍重な呪禁であるといふ習俗。
陸の通路を紹って蘇り去ったといふ語根は、
タブー
によつても合理化せられ得ると同時に、
タブ1
㈲ 外婚に於ては、妻の崇拝する紳は、夫のそれと異なり、従って妻がおのれの紳−竺祭る場合は、夫にとつ
て.呪禁である。
といふことによつても、ひとしく合理化せられる。単なる合理化といふことを目的とするのではなくて、この民
間債承を産み出した心理を通して合理化することを要求せられてゐるからは、問題はさう簡単でない。この粘に
民間儒承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶
七
民間債承の不合理的分子ざその合理化︵承前︶
細心の注意を梯はぬと.不自然な合理化となる。
﹃再解繹﹄の必要さに気づくことを畢徒に困難ならしめるからであーる。先に挙げたロムルス及びレムスの詮話
に﹃再解繹﹄−・−木原的意義への復蹄を強ゆると同時に、なまじひに表面的にでも理路を通じたことのために、
きの石である。なぜならさうした﹃自己解繹﹄は、民間偉承の木原的意義の曲歪であるといふ意味に於て、畢徒
摸言すれば、畢徒に克って、合理化の先手をうつ。而して這般の合理化が、畢徒にとつて大きな迷惑であり、蹟
ちの思考の許容するところに従って整序のための﹃自己解繹﹄を施すことによつて、そこに一敗の理路を通する
てゐた民間樽承が.融合集国憲識及び文化形相の欒遷のために不合理に感ぜられるやうになると、民衆は自分た
せられるに発って、民間樽承を持つ民衆自身によつて気づかれ合理化せられる。発生の営初に於ては筋路の通っ
合理それ自身が顕在的であれば、まだ始末がい1。しかし矛盾−不合理は、屡々畢徒によつて注目せられ合理化
ところで矛盾、不合理を生ぜしめた潜在的な時間的若くは室間的素因が擾雉錯綜してゐるとしてもー矛盾、不
その本然の姿に還元することに努めなくてはならぬ。
たちは、自分たちがなし得る限りに於て、それ等を馨見することによつて、民間停承に於ける矛盾を撥無して、
の素因を看破し別決することは、決して生優しい食草でない場合が、屡々あり得る。しかし畢的に云へば、自分
ぅした矛盾を産み出したもろくの素因は、時として太だしく微妙であり綜錯してゐるであらう?従ってそれ等
客間的関係及び時間的関係によつて生起した民間停承の上の矛盾も.決して見のがさるべきものではない。さ
八
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再び例に採るなら、多くの畢徒は.この羅馬博説に関して、レア・シルゲィアといふ女人が生んだ二見が水に流さ
れたこと及び狼に乳育せられたことに合#化的解梓を加へただけに留って、二見を流すやうにしたものが、生母
︵二七︶ レムスの都市建設の異相であらうと思ふ。しかも多くの畢徒が這般の意味を見通したのは、先手をうつた民衆自
自らなる集合肝となつて、途には一個の釆落をなす。これは隠れたる文化史的事案であ少、而してロムルス及び
as首111であり、従って罪を犯したもの、おのが任土に居にくいもの、その他さま′ぐ1の事情の下にある人々の、
して放棄せられ、大きな渦なるが故に、彼等の居るところは一の呪禁地であり、呪禁地なるが故に、そこは一の
合があり得ることを忘れてはならぬ。ロムルスとレムスとは埜生見である。而して襲生見なるが故に大きな繭と
の通った話である。しかしそれだからと云って、それが後代の解輝で無いと思ひ込むのは、畢徒の手落となる場
である。都市建設の事件に閲しても亦さうである。選吏れたる英雄が這般の大業を翁すといふことは、立派に筋
︵二六︶
して之に始末をつけるのは、≡已−・i宅c邑sOCiet︸にあつては、生降の伯叔父の任であるのが常であつたといふこと
或る習俗を忘れてからの合理化の結果であらう。或る習俗とは、畢生鬼の生誕を一の大きな涌として恐怖し.而
ゐたので、レア・シルゲィアが生んだ二見の、成長後の復仇を憂催して、彼等む河に流したと。しかしこれは民衆が
くて、後代の合理化の産物である。説話は云ふ。レア・シルダイアの父で、、トルの弟アムルスが兄の領土を奪って
それ等が筋路が通つてゐて、何等の説明をも要しないからである。しかしその筋路は、問題の説話の本然ではな
の叔父アマルスであること、及び二見が都市建設を企てたことに勤しては、全く紹歎してゐる。船歌の理由は、
2∂J
身の合理化に心眼を眩き亡れたからである。吾人は、民間停承の多くが、それ等を持つ民衆自身の不正常な合理
民間停承の不合理的分子ビその合由正︵謡前︶
九
民間債承の不合理的分子ごその合理他宗前︶
一〇
化によつて、外から見えるものとしての矛盾を撥撫せられてゐることを考へて、一應は筋の通つたところにも茶
から見た不合理﹄を探知し.而してこれを﹃内から見た合理﹄に邁元すべきである。
最後に、およそ比較封照の上で見出される民間債承上の矛盾は、部分的に於てのみ、畢的に
れることを忘航てはならぬ。柏撞着する民間債承的登種に於て、言正しとし他を正しからず
することが、すべての場合に書写はあるとは、決して云ひ難い。どちらも正しいとし、一託
正普な行方である場合が頗る多い。かうした場合に、強いて矛盾を無くすることによつて合
合理化の乱用であり、畢的に許し難いことである。この意味に於て一項儒南方熊楠氏が、﹃
故に、
還流しが木を出す膏慣其飽か1ること、六つかしき古博多し。全く記録には少しも無く、老人に聞置くの外な
し。其老人何れも正しき先例を知悉せるに非ざれば、老人同士異詮も多くあり。日本紀竺昔
記に、どちらが正しく、どちらが勝ったか分らぬやうにー魂の囲の榛と秦の囲の條に、記事
如く、此等は撃方とも一読とし.控へ置くの外無し。乃ち撃方共個々に正しと見たる詭也。
凡て古代の事や田舎の事は、一説を正、一説を育とすべきに非す。同じ紳にて、一地方の
ひ、他方では蛇に殺されたと云ふ賛多し。此は同名の異紳、一は長生し、一は殺されたか、
もー﹁酔い
紳殺されしを、後世同名としりて同紳と見たりするの外無し。又他の紳の倖を誰り俸へたる
2ββ
︵二八︶
ぼとて共俸全く虚偽と云ふべからず。乃ち其細長生したる外に、他の紳が蛇に殺されたる也。﹄
と云はれたことが胸に泌みる。︵但し矛盾の撥無と矛盾の登生国の検出とは、自ら別問題である。一を正.他を香
とすることによつて、矛盾を滑滅させることが、畢的に正常で無い場合でも、さうした矛盾がいかにして菅生し
たかを究明することは、畢的に許される肝要事でなくてはならぬ。︶
如上の考察によつて、民間債承に於ける不合理の合理化が、畢的に許容せられることには、自ら限界があるこ
と、及びその限界はいかなるところに存するかといふことが、略々明かになつたであらう。自分峰這般の限界を
著
明膝に把握することが民間債承の究明の上に、頗る重要であること信するが故に、この小論考をものしたのであ
るが、生来の鈍根と時間の制限とのためにその考ふるところが少なからぬ映隕を持ってゐることを恐れてゐる。
逐語の畢徒の垂敦を待つや切である。
︵喜︶ G・声S−旨ll−Tlle苧○︼utH言○=l−2冒品On、p:A
︵三︶ ﹂ヂR D芸等コ︶T−1e2告⋮〇︻C〇u召de−p・Sリ
︵三︺ 折口信夫氏著﹃古代研究﹄民俗撃第一篇第二一六頁。
︵二三︶ ゴロ考SOn−Op.Ci︷一−p・∞可・
T邑冒一e阜召一﹂l・p・鼓P
︵二五︶ J一声lIPr葺丁訂21tOrtb2司eP克n︼叫TまぶCl−Pp﹂−・
︵二田︶ J.G.守P諾r−句○宇どre int訂○︼d
︵美︶ A﹂Ⅰ.内rPppe一The許⋮ence。↓苦手訂re−p・望石・
︵云︶ 只rPppe−Op・白︷・−p・望可・
︵云︶ ﹃郷土研究h第二巷第五舵第三〇〇、三〇一貫。
民間博承の不合理約分子モモの合理元︵承前︶
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確証観念の社食撃的概念
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−
特にマクス・ウエーバーを中心として
確認観念の社曾学的概念
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一
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一二
文化祀曾畢就中宗教融合畢上、宗教が融合に封して輿へた特殊的な影響を論攻する事が斯拳の重要部門の研究
課題を構成してゐるのであるが、宗教が融曾に封する此聯繋を攻明する場合に﹁曜泣観念﹂宮註︼r≡Jg惑d呂keが其
重要テーマの一として問題せられ得る。事賓、マクス・ウェーバーは此確定栽念を以って宗教政令畢上の重要な一
テーマとし、宗教が融合生活に輿へた文化的意義を確定観念によつて赦曾畢的に汲み出さうと熱意した事は、彼
と言つてゐる彼の言葉によつても大館乍ら其滑息を理解し得る。﹁確詮観
の大著冨邪教敢禽畢論叢﹄中で﹁吾々の考察にとつて根本的なる確詮観念﹂︵空FH﹂一1告r.Ges21︼邑訂Au要Ne警岩︼紆・
ligぎ講。鞋鼠e・Ⅰ・ドAuコ﹂琵・:翠︶
念﹂として言はゞ宗教赦曾畢的には必ず先づウェーバーの畢間的貢献を想起する位である。佃で私は本稿ではウェ
ーバーに掘って説かれた此確詮概念に就いて論考しょうと思ふ。
ウエーバーの﹃宗教祀曾畢論叢短竺巻に於ける﹁新教倫理と貸本主義精神﹂なる第一論章の目的はそもく何に
あつたか。それは彼が﹁近世資本主義精神を構成したる要因の一が.そは畢に近世資本主義精紳の構成に蓼輿し
2β4
た斗りではなく、従って又近世文化の構成要因でもあつたのであるが、それは職業観念の基礎に於ける合理的虚
TLebe邑已−1≦gである。而して此合理的鬼世たるや葦は基督数的精進の精紳de−・宕訂tdつrCFri邑ic訂n
︵声∽﹂・Ⅵ・望豊と論結してゐるところに之を良く理
信仰観念から特融し来った事を導き出さうとする鮎に彼は細ら研究の親野を向けた。︵ヨ∴p−・S・琴︺近世人が現
題とした。而して近世人の此現賓的虚世生活に於ける合理的精進性の心理的衝動は、もと素、根源的には新教の
の斯る心理的衝動はそもく如何なるところから淵源し由来したものであらうかを曜定する事をウヱ㌧ハーは問
て全精力を傾注せしめるところの心理的衝動が汲めども惹きざるすがたに於て充ち満ちてゐるが、然らば近世人
生活にある方向を指標し、而して近代人をして此輿へられたる方向へ向つて合理的に精進せしめ、此方向へ向つ
解し得る。近世人の祀骨盤活或は鬼世生活を淡く其内面性について之を探究すると、其鬼には.この現葦的虞世
Aみ薄から誕生したる事を太論章は論破すべきであつた。﹂
世︵︼訂邑i︵室︼e
ββ∂
確諾観念の祀倉撃的概念
宗教的基礎﹂の節︵声S﹂・∽・澄・!衰︺・りが之に苦るのである。
ゐたか、又如何に宗教的動機付けを以って誕生し来ったかを論破せんと企だて1ゐる。即ち彼の﹁現質的精進の
たないかの如く想像し得られる、併しウヱrバーは近世人の現資的・合理的・精進性が如何に宗教的要因を持って
てゐる。中性的精進性に封立する近世的精進の此現宴的精進力は一見宗教的に何等の規定付け或は動機付けを持
した﹁禎岸的精進﹂、﹁修道院的精準二︼㌃”嘉Se⊇主︼亭eAs訂se二一ie竜一︷宣算コel乙eAs︼ハeseこ山e吉夢c訂読訂芳に封立さし
A㌢seと稀んでゐる、而して彼は、之をかの中世に於て現葦生活を嫌廟し逃避して彼岸を熱望し
葦的生活に封して全力を傾注して而も合理的・精進的に之を蕾む虚世の仕方、之を﹁現葦的精進﹂︵︼ieiココer莞≡ぎe
ヽ
隠語耽念の絶食単相概念
︼匹
夫れ中也の所謂伶院的生活、牧歌的生活の方法は特に現資的生活を専らとするが如き倫理的組織をとらなかつ
た.宗教的意義に向つてのみ方法的生活が専心せられた、宗教的精進が温けれぼ強い程日常生活或は現賢生活は
避けられ嫌厭された、現葦的道徳性を克服し又之を犠牲にLて迄も特殊な宗教的・神聖生活が想定された。餌ち
解脱我と政曾生活観との間には顛薯な隔離と不調和とがあり、宗教的精進生活と現葦的精進生活との間には高い
越ゆべからざる堤防が築かれて、斯くして所謂特殊な﹁世外の精神的貴族﹂なる赦曾階級が現れてゐた。然るに斯
る彼岸的精進が菱じて現質的精進が之に特化し来った。此事は中世から近世への道程中一大文化的発動の基礎的
菱革であらねぼならぬ。而してかく現葦的精進へと條件付け、現賢的鬼世生活を方法的・合理主義的に組織化し
た心理的精進カの衝動が新教の宗教的要因から動機せしめられてゐる事を浮出的に注目したのがウェーバーであ
る。佃で中世的精連に封立する近世的なる此現葦的精進の宗教的基礎の分析に向つて行かねばならぬ。
現葦的精進の宗教的基礎を論攻する場合にウエーバーが其最も根本的要因の一として寧訳したものが本論稿で
論攻せんとする﹁確証観念﹂である。彼の言に括ると略記観念とは﹁宗教的信仰を現賓界の職業生活に於て曜澄せ
んとする必然的概念﹂der雰d21keder冒すeコd直乱tder謬蚤ざruコgd包G︼呂be・−エコl焉l︷︼ic訂n謬ru空ebeコ・︵
Abt・Wir官許きund
G藩ll殆どP一
∽・−芦︶或は他の債鬼では﹁督業生活に於て紳の召勅を方法的に掟証せんとする観念﹂derのed冒kederme︷ざ。d訂訂ロ
ー誉u宇芸旨−uコg in Er男rbsleb2コ・︵一宕ber・Grundr訂der筆岩㌻︼穿OnO⋮㌻甲
を指すのであつて、賓に彼は此確定概念に凍って宗教的信仰が政令的生活に勤して輿へた意味聯開を意明し又之
を因果的に説明せんとした謂はゞ一の鍵の如き役割を膵澄観念に地位付けたのであるっ彼は降澄漑念を﹁宗教的
ββ∂
信仰と現葦的道徳性との結合の囲式﹂dieserGed呂ke已s警en一pderくer㌻宣ぎggn
G−Pt旨en。ndSi己ic−−k。it・
Ⅰ・㌢︼翠︶と理解してゐる。而して此碇詮観念が凍って以って意識忙来由する淵源に就いて辿ると、ウェーバーに
確詮栽念の社食畢的概念
は﹁恩寵改定詭﹂の宗教的敦條が強く信奉された。凡そ人間の現葦生活には必然的に之に随伴するところの、原罪
宗教改革、特にカルギン教派に於てはポウP、アウダスティヌスを経てカルギンに操って説かれた﹁運命説﹂或
︶
2t
.
的・虞世生活へ必然的に衝動した所以を論考しょうと思ふ。
たかの所以を説き、斯くして私は現葦的精進カの一要因としての確証観念が近世人の意識を駆って合理的・経済
る。佃で私の論述は先づ新教に於ける恩寵改定論の敦條からして如何にして確詮観念が信者の意識に湧起し来っ
て持つ意義を論述するに常つては先づ恩寵改定詮なる宗教的敦焼から出費しなければならぬ事を知ったのであ
結合の固式として確定観念が位置する宗教融曾畢的地位を了解し得ると共に、此略記栽念が現葦的精進カに封し
於て如上のウエーバーの思想からして宗教が祀曾に射する聯閥に就き宗教と赦曾、宗教的信仰と現葦的生活との
々は最も重要なる形醍としての恩寵改定説から出費しなけれぼならぬ。﹂︵声∽﹂・ニ準︶と堅エロしてゐる。弦に
恩寵改定詭と之が現葦界の日常生活に勤して持つ意義とに滑ふて純文化的に攻明せらるべきものである、佃で青
は現葦世界の方法的道徳性を研究するに苦り心理畢的出費鮎として見得られるのであるが.此催記載念は正しく
出費し之から湧出し来ったところの概念であると言ふ。ウェーバーは﹁吾々の考察にとつて根本的なる此確認観念
凍れば、それはあの最格なる﹁運命詭﹂、﹁恩寵改定詭﹂の敦條d試U。gコ︼pderワ註乳npti〇n、dieG。。d。−︼考鞋l。hr。・に
β♂7
確認観念の社食撃的概念
一大
に因る根本的な制限があえ∴而して此根本的制限から完全に自由となり得る事が宗教的望みとして此鬼に
信仰の観念が起り来る。人間の精霊の碗両と讃命の無限とが信仰観念の内容として欲求され、而して之等
念の内容が欽漕の形式に撼って澤成せられる。今カルギン教派に在っては政府親に就き恩寵改定詮の信仰
く教徒の意識女支配してゐた、即ち人間が救済せられると否とは紳の稽謝意志によつて決定せられ改定せ
ゐる運命であるとの決定論≡destinat山。邑e︷er⋮iコぎusの信仰が強くも鼓舞されてゐた。而して今人間の精霊の天
福と其寿命の無限との願望が人間の自己の自力的行男就中自己完成の人格行男に因つて解脱し得られるも
なく、専ら之は紳の恩寵而も紳の滝野意志の自由な改定的決定であり運命でありー誰人が枚潜され誰人は
れ得ないとの選定の権能が紳の紹封意志た在るとすれば一倍者には恩寵の選びに掬して如何なる意識状麿
来るであらうか。
恩寵改定説を厳格にも信奉する信者には斯くして必然に﹁そもく私は紳に選ばれてあるか。﹂字ic:enコer守
蔓ニR∽・Ⅰ・ニ声︶との疑問、疑つて甚だ不安心な意識が恒に昂揚し来る。救済の恩寵が紳の樺能に在り従っ
て彼岸への門戸の鍵が紳の御事に在る事は政埼の恩寵を切に熱望してゐるカルギン教徒の意識に政商恕上
安な意識が起り禿たるのは雷然の心理過程であらう。併し此不買疑惑、悲哀の心理上の悶は信徒をして白
断念に導き入れない、眞に政潜を熱望する宗教的摘心を熱烈にいだいてゐた常時の信者は反って進んで紳
良
一
が自己に勤して改定され決定されてあることをば檻記せんとする強い意識が奮起し来たのである。而して
が紳に選ばれてゐるといふ意識状悪を確定し得る﹂die冒︷塾b弓訂it計○コをl旨des矯めには如何なる方策を探
βββ
るべきやの問題が継いで起る﹁如何なる方法に撼って紳の救済の選びに入ってゐる事の曜賓さを私は求め
確認観念の社食撃的概念
財貨の享楽に献身する事は救済への道を危険にするのみならず救済を不可能とする象徴と見撤し得る、侶
る。勿論、現葦界は﹁罪の土彗﹂Ge訝derS夏eにして罪悪的俗塵に満ち充てる、償値なきものの定存場であるー
凡そ全鰹としての現資世界は宗教的にこそ精進的に償値があると理解し得る、現賓界こそm覇PperditiOコi∽であ
に彼等鱒宗教的澗心と調和し難い現資的世界の日常的生活、融合約諾生活への精進を要請したか。短的竺
カルギン教派に在っては現寮生活に向つて積極的に精進する事に於て紳の恩寵を確定せんとする。然らば
調和し難い矛盾があるが焉めに、従って又世間的関心に強く執着する事は宗教的信仰に惇理するが故に。
見信仰的理由に反してゐるが如く理解せられる、と云ふのは一般的に載ると宗教的関心と俗世間的関心と
生活に謝して溶剤たる生活意識を以って専心精進する事に於て恩寵の確証を獲得せんとしたのである。此
はない、つまり諸々なる宗教的精進に於て紳の恩寵を澄明せんとは少しも念願しなかつた。彼等は俗界の
済的恩寵を折りと悔悟とに於て緩経せんとし或.鱒宗教的儀緒或は奉仕に於て紳の恩寵を確証せんと精達したので
論攻しょう。彼等に在っては総記の手段或は方法として現葦的生活が要請せられたのである。即ち彼等は
然らば命進んでカルギン教徒は此確証親念の衝動によつて如何なる確澄の手段或は方法を要請したかの
って起り来たる心理過程の様相である。
に記しょうとする意識過程が生れる。これウエーバーが説くところの、カルギン教徒に於て曜詮概念が凍
か﹂el−d弓iekannicFdie軍学急ぎ義乱cす焉rden二R■S・l・∽﹂声︶即ち何等かの方法に凍って紳の選びを碇賓
ββ9
確証観念の癒合畢的概念
世界に於ける諸の欲求は神聖なる宗教的欲求の展めには之を断念すべきである。此中世的親方は一方に於て正し
い。併し乍ら他方の親方からは此世界が罪の土襲であれぽこそ紳の柴光の褒めに此世界の裡に全力を以って精進
的に突入して此世界の醜塵、罪悪と闘争し之を紳の焉めに克服すべき一現場であり得よう。従って又此現葦界こ
そ恩寵確詮の最高課題となり得るのである。況んや此世界は紳の創造である。現葦にこそたとへ罪業の満てる現
場であるとしてもが.紳の全能カは現賓界の中に尚も作用してゐる。が故に、此世界の現草生活こそ合理的・組
織的行偏によつて紳の粟光を檜大すべく精進し進んでは紳の恩寵を確諾する焉めには唯一の作業場たり得る。選
ばれてゐるといふ恩寵の意識状態をば確定し、且つ選ばれてゐるとの恩寵の意識状態を強く経緯せしめる食めに
は現責的日々生活こそ唯一の最高課題であり得る。斯る理由で、清教就中カルギン教派に在っては積極的にも現
生活の鬼他生活を碇澄封象として採用する。特に彼等は経済的・職業概念或は葦業的・従業概念に就いて確澄の
意識を強くした。﹁疑雲と不安とを沸ひ、碇澄の自己の意識を曜資にする馬めに、其最膠道として、止むなき職
従業r邑蓋謬ru許rbeitが厳命される。此止むなき職業従業これのみが宗教的疑惑を除き恩寵状態の確害さを輿
へる。﹂︵R.S﹂・S・−宗−−声︶夫れ﹁職業﹂宮邑は紳に召されるところの紳の﹁召勅﹂die謬ru2コg2mコei−であ
る、職業に従業する事は紳の政潜に召される赦業即ち天職空費e碧aH、eぎt邑c已−身である。富の享楽、欲望の
ま1に従ふ富の蓄積、統制なき我億なる感情の激賛、性的本絹の無禁慾、磨ふしたものは絶て紳の救済を妨害す
る。之に反して、只だ、人間の現象的勢力、本能、感情、之等を合理的法則或は合理的秩序の下に克服し制意す
る事は神意に叶ふところであり、就中、紳の召勒、即ち職業、経営−1合理的に組織され、倫理的且つ合法的に
蕾む経済は紳意に叶ふところのものである。且つ之等の欺績たる経済的利得は紳が敬虔なる信者の合理的・精進
確詮親念の政令学的概念
合畢的概念に於て着眼されてゐたであらうかを参考の雷めに述し、其二に、侍、本節で催詮観念が現茸的精進性
眉にする馬めに倍左の論述を試み度い。英一はウエーバー以外の敢曾筆者或は経碑聾者によつても催謹観念が融
併し本稿は確定載念に関する融合畢的概念を論攻するを目的とする。佃で斬る意味での確澄栽念の概念を信明
する此聯繋を草間的問題とする時に膵詮概念に閲して融合拳的研究が論考せられ得ると思ふ。
が甚だ注目に償する契機的一要因であつた事を察知し得るであらう。弦に於て吾々は確証概念が政曾的生活に謝
精進する経済倫理を衝動したる事、磨ふした、宗教と敢曾との特殊的にして密接なる意味鞠聯に就いて確証観念
的に合理的・精進的に征服せんとしたる事、就中経済生活に謝して之を合理的・組織的方法によつて淫行せんと
関心此二の相互に相接撃し相惇及する世界観を調和したる事、香超現賢的目的の意轟に因つて現賓的慮世を偲値
g邑声の焉めに現苦界に於ける虚世生活を最高唯一の作業課題として要請したる事、従って宗教的関心と現資的
以上甚だ概述ではあるが之に嬢って、掟静観念が﹁恩寵の確証﹂dieGロ已enge司賢eit、Ceri邑○邑iti∽・p。rSe責邑ia。
︵W.G.S.望遠●︶
於ける精進的虚世に在っては合理的・且つ合法的に獲得されたる富は恩寵状憩を確証する象徴物と見倣される。
象徴であると之を理解する。﹁カルギン教、バプティスト波、メンノー漉、敬鹿渡、メソディスト渡等の新教諸
的・従業に勤して輿へた恩賞であると之を概念し、従って叉此経済的利得は紳の恩寵に召されてゐる事の礎澄の
ク7J
確認親念の融合畢的概念
二〇
に封する意義を論述した牌係上、之が外延的確域を薩足する鳥めに清教に於ける現葦的精進性は只だ唯一に確定
数念のみによつて其要因が説き得られるものであらうか否かを論述し度い。次節に於ては先づ確証親念に閲する
文献に就いて若干を掲げやう。
′..■lヽ
︶
3
宗教が政曾、経済に謝する精神的聯閲を根本的に意明し文化の精神的構成要因を根本的に理解せんとする最近
二十世紀以来の鹿骨拳的傾向に於て之が一の中心理論を﹁恩寵改定詮﹂﹁確記載念﹂﹁現葦的精進﹂に置いて試論し
ょぅとする知的選良藍単にウェーバーのみに限らない、特にゾムバルトの如きはウェーバーと同様否ウェーバーに
ょって暗示され、確証概念を以って西洋資本主義精紳の根源的構成要因と見撤す理論を構想してゐる。今私の知
れる僅少な文献に就いても特に注目に償するものを参考の偲めに示すと。
既に英国のJ−ネーは、カルギン教徒に於ける現葦的精進或は倫理的善行が救済を獲得する手段として要請せ
られてゐるのではない、即ち現葦的功徳、修行、精進が解脱を達成する薦めに採用せられてゐるものではない−
彼等の現賛的精進はつまり紳の恩寵に選ぼれてゐることをば確託せんが馬めの必須的條件として衝動せしめられ
たものである事を明言してゐる。
﹁善行は救済に達すろ手段ではなく、救済が獲得されてゐろミいふ確証ppr00rtFats已邑iつnF岩beeロM三軋ned亨して
要請されろ。﹂︵声ⅠⅠ・T芸neY謬︼igi。n2乙t訂R訂OrC鼠邑訂m・君d.ヒ警岩.p﹂声︶
マールプルヒ大草の紳拳的経済史家であるゲンスユは其大著﹃福音的経済倫理﹄に於て新教と経潜倫理との密接
β7β
な賄係を仔細に攻究してゐるが、彼も亦此場合に確記載念の重要なる事を見過ってゐない。
確諾観念の武舎畢的概念
教﹂がルヅテル教派や加持力教派と異って醒詮観念に強く支配されてゐた事を指摘する。
be軋詳主
宗教政令聾者トロヱルチの確許観念に関する叙述に移らう。彼も亦カルギン敦園や敬虔旗教団などの﹁精進的新
茸望息識に達すろ。﹂︵〇・S夢︼gen・Re扇ぎund一言︷各a戸−十円空n・≦eユe︼j・SONiO︼.00.JPh軍−害〇.s.∽2−∽芦︶
ち紳が指今し上磯業でぁろ。斯くLて信徒は現茸界を克服すべく培準し、其効業の成績によつて彼等は求めんミす﹁恩寵確
監c=ロ軋nerlJeb宍道2一1ruコg、・⋮⋮而Lて紳の発光を埼大すべく指令された作業場席li教徒l=寸Jつては﹁紳の召勅﹂謬ru?即
すろ。凡そ紳の柴光ね樹大■ぜんヾJ奉仕すろ教徒のあの虚世生活に於て紳の選は確諾ぜられろ。dieもー・w賀u鼠h
恒に意識すろ事は彼等は耐ゑ忍び待ざる亨−ろでぁろ、偽で信徒は紳の恩寵lこ選ばれてゐろ寸Jの認識微積わ確定ぜんミ熱心
入ろ事が出苑ろや否やの救済可能の一般問題な否定ぜざろわ待ない。併L紳に救はれろ事が絹封的に不碗賓でぁろミの事な
紹封的なる自由意志によつて決定ぜられろミの恩寵壊定説を中心信仰写して信草してゐろ結果写して、彼等は先づ紳の圃l=
って之ね包括L、以つてカルギン教徒の精進的構紳が輯向﹂来った所以な論破すろ事は困難でぁる。彼等は紳の恩寵は紳の
カルギン致涯にこ在っては事情が甚だ複雑でぁろ。従って彼等に於けろ宗教王政骨ミの関係の濁特なろ構造を英一、一に亘
ズエーゲンも亦概要的ではあるが明確にも確証観念を説明してゐる。
納L、叉之な倫理的確証の保証写して理解する。﹂︵G.一書︻鼻音∵軍⊇nge︼i拷訂Wiユ胃訂君史已k.−¢芦P㌶○−聖戸︶
野−beit・而﹂て此熱誠なろ、紳の召勅へ向つての道徳的・確諾作業上ろ職業従業の結果物ほ紳の貯物言して感謝Lて之を受
lこ、紳の召勅帥ち天職に忠順ミ節操ミを以つて之lニ精準し立に恩寵の確茸さを確詑ぜんミすろ。宮
操ごlニよつて紳の恩寵に選定ぜられてゐろ事を確諾すろ、何ミ光れば誰人も紳の救済に選ばれてゐるミの慮信わ持たない故
﹁最後に、恩寵壊定説がカルギン教徒の倫理的精進の要因写して重要克意義を持つ。恩寵漁定説を信奉すろ信徒は忠噸ミ節
2ク3
確証萩念の社食畢的概念
二二
ペルーフス・テール
ミ考へてゐろ。全力わ傾注Lて職業従業l=
﹁之等の精進的新教渡lこ在っては職業を確認の手段d2r謬r−一ごl∽呂t邑d2r哲悪どu−︼gミ考へ、又熱心に職業遂行する
ペルーフス・アルバ,つト 事を恩寵状態の認識徴標die軋迂ge芽ru詳r2︼ど長已s苧訂ロntl−訂eic訂n
精進する彼等の理念は、紳の召勅的秩序lニ徒事†ろ精進ほミも角紳意lこ叶ふものでわろミの紳の召勅目的革帯び付いてゐ
ろ。一切の労働封象物から感情並lこ享欒な精神的に分離すろ事.彼岸に於て蓮ぜられる、従って死に到ろ迄従業な替ま,しめ
ろ、あの恩寵目的へ向つての止むな与・従業繋張、現賓界lニ於けろ一切の事象、物象を単に合目的性の手段の下に克服†ろ事、
乱費、怠惰等の衝動を印度する食めに方法的・労働訓練を化す事、労働制釜を宗教園億並に公金の食めに寄附すろ事、磨ふL
否ものは、英一、一lこ就いて托各種各様の基礎を持ってゐろけれごも、併、し他方にこほ共同的要因を得びてゐるミ、ろの、精
進的新教渡の根本主義でぁり、又理想であろ。﹂声ゴ02−t籍F崇2SO針コ2F2nderc訂宣ichenヨぷ訂n己已芽uppen・
G現pm.哲FiP︼.∽.AuP︼警声仇.芝¢−莞声︶
N弓pロg
de∽
]P芸三hrungsgedpコ訂n∽
従業精進を惹起亨しめ㌣。﹂
而して此精進的新教次の経済倫理はこれが由つて以って来る源は稀静観念に在る事を彼は強張する。例へば、
﹁カルヰン渡l‡確認親念の強いカによつて uロter dのm
︵S〇説已−ehren●∽.誤q.︶
命題いでマクス・セラーに於ける確証観念を掲げよう。
カルギンはルツテルに比Lて従業観念並lこ職業親念をより強く主張−し告。カルギンは生活意欲ミか事奨欲望ミかに促され
て替利を花す事を厳禁L㍗、菅茸は彼は加持力教派やルソテルの主張よりもより戯亡く享柴を、たミへそれが最も高尚な仕
方で味はれようミも、固く禁止、し㌣の・でぁろ。具だ紳の柴啓示此土に埼大ぜんJJすろ欲動にこよつて、従つて他の如何なる欲
︵害PM
望の下に静まれよう†TLごしかく無制限ミは光り待ない†こーろの、ぁの無限に皆利を追及すろ従業に於て、信者が紳に選ばれ
てゐろミの現書的徴標モーしての﹁確認﹂空室夢rungを説い上長初の人は彼カルギンでわつ圭。﹂
㌻:⊥しL一
捏
Sche︼er●C訂i浄ntlり
≡〟
l
lmd手取e︼−衿訂P声l計冒b、遠望■Ⅵ.−−○し
最後に私はゾムバルトの思想に就いて観よう。彼は﹃近世資本主義﹄研究の特殊研究として識者の間に多大の問
題を喚起したあの好著﹃猶大人と経済生活﹄の中、第十一章に﹁猶大数が経済生活に封する意義﹂と超して、宗教と
経済との関係を攻明したのであるが彼は態々其帯川節堅.確定概念﹂と返して之を詳細に論じてゐる。
und
die
Wirt乳訂君−eben●ドAuP−悪声m.宗−し
b?
﹁此世lこ於けろ繹潜的繁柴は、神意一l−叶ふ㍗生活を螢んでゐろミ=ろの徴横言して考へられろ計りで光く、彼岸lニ於ても
Judell
亦必やや紳の貰諌を受′、ろに疑の兄いご=ろのもの写して考へられろ。此世の幸福は敬虔なる眞の信仰を確託する乳cF
弓夢renものでぁるミ正㌻しノ1是認すろ。︼つヂSOmb罵t●せie
鈴彼は本章の最後の節、﹁猶大数と清敦﹂の中で左の細く述べる。
﹁私は本金葦り研究をウエーバーが研究L圭清敢の根本観念ミの比較の食めに賽、したのでぁる。併L此比較lこ於て猶大欲
ヾ1清致ミは事茸全く二致﹂なけれげ光らわミ思ふ、特に優カなろ宗教的園心、確謹観念、合理的虞世、現箕的精進、宗教的
確証載念の政令畢的概念
バーの拳的貢献を認めてゐる。︵ぎzi已・S・讃P、Chr・G・苧穿︼bb・㌍ニー︶就中ゾム.ハルーの如きは﹃猶大人と経済生
難い。トロヱルチやセラー等も碍詮観念に出費して近世社曾文化、近世資本主義精細の構成要因を論攻したウエー
政曾、経済との聯閲を攻明するに雷って、之を畢間的に浮出したものは賓にウエーバーの貢献であつた事は否み
ても柏常に着目されてゐる事を察知するに難くない。併し乍ら確記載念を、特に政曾畢上或は経済畢上、宗教と
以上は若干の例示に過ぎないがウエーバーに腐って説かれた障静観念の概念が他の政令畢者や経経聾者によつ
観念ご獲得関心寸Jの結合等に於て全く一致する。﹂︵Jude−1∽.諾柏.︶
汐丘
確翠観念の鹿骨畢的概念
活﹄の﹁序文﹂に次の如く運ぶるところがある。
﹁私が拙彗近世資本主義完根本的に新訂ぜん写し㍗時lこ偶然にも猶大人の問題に研究を進め㌔共時に私は﹁資本主義結
締﹂の塘源にこ就き之が坑道をより深く堀り行かうミ考へた。マクス・ウユーバーの清敬ミ資本主義ミの聯閣を請むに及んで、
私は必然的に、宗教が裡瀞生活にこ及ぼす影響を従来よりもより以上lこ迫草しなければならないミ考へ、此場合に=先づ私は猶
大人の問題−こ北攣し圭のでぁろ。何ミなればウエーバーの拳琵lニ充分光ろ証明を輿へろ事ミ光ろのでぁるが、資本主義精神
㌃から。﹂︵Judeコ.くOr声く.︶
の構成に封上し持つ、清数の教健の事耳的有意義ミ想はれる、あの一切の要因は、猶大数の宗教的観念固からも引手出され
尊ウエーバーが近世の新搾済精紳が新教の宗教的構成要因を持つてゐる事を蓉衰亡上長初の論文は一九〇四、五年でぁる、
芦Weber・崇eprOt冬空1山ku已derもe誓deⅥ月旦邑㌢奉T●こ●︵Die謬ru監eede∽設計et訂訂n亨Ote訝nti冒u
−Archi■nSO邑声u・∽。鞋p・回国・芦−情宣・l︼・回国Ⅰ・冒−冨・グムバルトーミ此論文に墟って大に暗示毎うけ、
又之が趣旨に賛草し、一九一一年に﹃猶大人ミ群滑生活﹄を琴し上のであろ。
而してゾムバルトがウエーバーから受けた畢間的暗示或は影響の根本的なるものは何であつたであらうかーそ
′一l11
れは言ふ迄五左く精進的清教に於ける聴許概念であつた事峰前に揚げた詩文にても知られる事と思ふ。
︶
4
現算的精進性を恩寵改定詮なる宗教的教條に出費して之を心理的に分析すると礁詮思惟が甚だ枢要な契機的要
因に地位してゐる事は既に説いた。併し乍ら此鬼に注意すべきは恩寵改定詮と現質的精進性との因果的聯閲の意
明は只だ唯一に掟詮漑念のみに擦って可能であるか、或は又その外にも契機的要因があるかの問題に就いて論考
β彷
しょぅ。何となれば此間題提示は梶野観念の謂はゞ外延的範域を決定する論理的指固ともなるであらうから。
此間題に入る前に現葦的精進性に就いて制限を加へ度い。現貰的精進性と言はば絶て宗教的に動機付けられた
ところの意厨から衝動された、政曾的生活の各方面をば含む現貰的精進を指すのであるが、之に各種の精進を分
類する事が出来る。眞宗に於ける俗語門の教義に意蘭する現賓的精進も或は法華宗に於ける現資的精進も怯に敢
曾畢的には研究すべき現葦的精進の或る種と轡言し得る。或は又回々教に於けるウェーバーの言責に薄れば﹁戦
争的精進﹂diた苧ie笥巴ハe詔も現案的精進の一種と断定し得る、特に此精進は恩寵改定詭に源流する現葦的精進な
れば基替歌に於ける現葦的精進と共に赦曾畢的攻明を等しくすべきであるが、併し基督敦に於ける現賓的精進は、
回々教の戟軍的精進と其活動範域を異にして、主として経済的精進を主要範域となしてゐる。此虚では之等価
数、回々故に於ける現琶的精進の祀禽畢的概念範域に就いては述べない。此鬼では新教に於ける現賓的・経済的・
精進に就いて範域を限定する。
斯くして今新教に於ける現葦的・経済的精進性を論考するのであるが、此場合宗教的敦條としては恩寵改定詮
が出覆の大前提となつてゐる事は否み難い特色である。然るに精進的進数に於ける経臍的精進は只だ唯一に綻琵
概念に意圃されてのみ惹起され来る現象であらうか、或は他に此宗教的信経と経靖的精進との間に介在する契機
的要因があり得るであらうかを考案して行かう。
心理畢的に分析すれぽ恩寵改定諌を信奉する信者の信仰意識には二の状憩が意識せられる。其第一の状鯛心は
﹁自分は紳の恩寵に選ばれてゐるや否や。﹂との疑惑従って不安な意識状態が醸される事であり.其第二の状暦は
確認親念¢証骨学的概念
卯
確証親念の祉曾学的概念
斬 る不安な状態とは異つて﹁自分は紳に選ぼれてゐる。﹂と礁信する宗教意識の状憩である。前者の如き宗教的意
識は既述した通りの確詮親念を必然的に湧起せしめるのであるが、後者の宗教的意識は次に詮︿が如き心理過程
ところの此宗教的意識状態忙在っては、﹁自分が紳に選ばれてゐ
を惹起して現葦的精進に向ふのである。恩寵改定設に勤して信者は之から﹁自分は紳に選ぼれてゐると経信す
る。﹂Sicざ苧宅急已t2b已ten・︵声∽こ・P]岩申︶
るか、否か。﹂と言ふが如き疑惑的な宗教意識に状態するのは、そは、未だ信仰の足らない必然的結果として悪魔
の誘惑に堕落したものであり、従って、そは、つまり、紳の恩寵が完全に輿へられてゎない結果に外ならないと
して、宗教的疑惑の意識状憩にある信仰態度を拒斥するのである。即ち第二の信仰意識状態に於ては最初から紳
の選が不降賓であるとの事から来る疑惑従つて不安などは之を意識してゐない、信者等は最初から紳に選ばれて
ゐるところの所謂﹁精神的貴族﹂diegeistigeArist。kr註eであると概念するのである。今、紳に選ばれてゐる此精
神的貴族の概念並に経信が然らば現草生活に謝して如何なる態度を赦果したであらうかを問題とする。彼等は思
へらく、紳の選民たる青々は一の高き使命を輿へられてゐる。吾々は他の異信徒と厳然と区域せられてゐるべき
であるところの目に見えざる精神的貴族階級であるが故に、選民は輿へられたる使命、即ち静の焚えを此土に顕
現すべき使命を完ふすべきであり、斯くして選民は選民としての神意に叶ふべき使命即ち義務を完ふして選民な
らざる異信徒と厳然と異る資格を蓉挿すべきであると。斯く思惟する動機付けに基因して全緒の精進カを蓉挿し
ペルーフ
て彼等は現賓生活に於て紳の柴えを檜大せんとするのである、就中紳の召勅たる職業、葦業に精進し専ら螢某社
業に於て偉大なる教具1ト従ってそは紳の禁光を此土に穎現し檜大する事であるーー⊥誓遂げんが馬めに不断の従
β7β
業に専心し精進するのである。前者の確証観念に在っては紳の恩恵に選ばれてゐるとの自己曜信がない、侶で紳
に選ばれてゐるとの恩寵曜詮を獲得せんが虜めに、疑惑と不安との宗教的意識が信者を駆って、職業従業の止む
なき精進が最勝遣として蕨命される、止むなき職業従業のみが宗教的疑雲を排ひ紳の恩寵の催学豊息諾す左唯一
の膠道とする。之に反して選民たりとの精神的貴族の観念に在っては紳の恩寵に向つては何等の疑惑をさしはさ
まない事を信者の義務と固く概念し、而して選民は選民としての高き使命を顕彰する矯めに尊大さを以って職業
従業に精進する。
ラウフヱヱンブルガーほ現質的精進の宗教的基礎に於けろ確認観念ミ椅紳的貴族なろ観念から来㍗ろ義務観念或は使命観
念ミを厳格に厩蒜警してゐる。而Lてウエーバーが現質的精進を圭写して確謹観念から説明︺意明ぜん写して英国及び新大陸
lこ付き之な事例︺㌣lこ封,して、ラウフヱンブルガーほ欧大陸に付きてもウエーバーの研究が安富、し縛ろや菅やを研究せんヾ1
Ar各日づ⊇rmO且已声u●SO針す芦=記﹂篭PⅥ●望云−由巴.︶
︹芦訂u・
意固︺、之が食めに彼lミニルサス、就中ミュールハウゼンの清教徒が近世に於一/し資本主義的賓業従業に鰭進Lた、あの現質
−
的精進性をウエーバーの理論に準墟lして精零し上席黒を費衷・した。︰れ﹁ヱルサスに於ける宗教ミ渾滑jなろ論文
才コbur讐r.Rユigi〇n亡nd一ヨユ考訂コ山−−∵塁打率
ウフエソブルガーlこ墟れば、、、、ユールハウゼンのカルギン教徒の資本主義的精進性についてほウヱーバーが本来主演Lてゐ
主砲諾観念なろ宗教的基因は之に妥嘗ぜす、むLろウエーバーが副次的lこ要撃したゝチ=ろのぁの精細的貴族なる宗教的自制
日く﹁彼等新教徒は全力な悉﹂て職業生活に向つて積極的に精進†る、而Lて之が目的は其構造的結果に於て前
観念から爽上る使命観念が該地の彼等の資本主義的精進性の宗教的基因ね構成・してゐ上のでぁろミ断定すろのでぁろ。︵s.
∽柏柏1∽㌍−︶
の恩寵に選げれてゐる=ヾしの確謹をげ管見ぜんミすろのではない、む・しろ彼等は紳の柴光を此土に顔現すべ三晶き佗争で現
茸界に通行■し得.へ与=ヾ﹂をば確定ぜんが食めでぁろ。此意味で彼等は現茸的生活に向つて多大の精進ヾJ努力ミを志す。之れ
確認観念の放含学的概念
でぁる。ラ
β7タ
確詮叔念の社食撃的概念
確認思惟に勝る革も劣らざろ隠さで現茸的生活に作用するのである。﹂︵s.∽鍔︶ミ
却詮ウェーバーの説く清敦の現質的精進性の宗教的基礎には恩寵改定論なる信條に勤して信
ゼルナスト・コンゝ・P●−レ 厳格に信徒する場合の宗教的意識状態と∵信者が自制的に選ばれてゐると確信する場合の宗教的意識状態と
に應じて、選びの不梶葦従って不安から因由する確証観念と、精紳的貴族と想定するところ
命観念或は渇き義務観念とがある。只だ夫れ其何れの観念から現葦的・経済的精進が衝動せ
ペルーフ 信者は経済的精進即ち紳の召勅に精進する現葦的行男を代償として救漕が獲得さ
解脱は人間の自力的行男による自己完成を以って獲得し得られるものではない、故鱒は純ら
に上る選である、と信念する鮎は確証概念に於ても義務観念に在っても異るところはない。
親念の何れもが原罪親に基礎するあの恩寵改定訣の敦説に淵源して洗出して来る宗教的意固
勿論現賛的精進者の彼等の宗教意識には両親念が終始巌杏に現葦的には区域せられてゐない
両概念が混蝕し、或は何れかが優位的に作用する場合が甚だ多い。併し乍ら分析的立場から
理的、概念的には張番に区別して論定すべきである。而して其何れが現箕的精紳に封して重
ぅかば、ウェーバーに於ては、彼は、票数鹿骨畢論叢旨の各鬼に精進的新教の1精神的貴族﹂なる文字を使用
し、或は義務観念の意義を論述し、特に其﹁緒言﹂中には代表的に、構造的魔性の形成的要
したる倫理的なる﹁義務概念﹂宗cht喜1き義である−と述べてはゐるが、併し最初に述べた如く、1吾々の考察
にとつて根本的なる確謹観念﹂と断定し、或は他の債鬼で、彼は、人間の虞世行男を組織化
β飲)
る心理的衝動は宗教的信仰に碇泊し之から動機付けられた各種の宗教的意園に因つて湧き出で1来るのであるけ
れども之等各種の宗教的意囲の中でも精進的カルギン教派に於けるところの恩寵改定説に出癒する掟記載念を以
って其最も膠れた心理的衝動を蕾んだものである、と認めてゐる。︵声S﹂・Ⅵ・−芦︶テンニィースも亦ウエーバーの
ヽ
確認親念の社食畢的概念
主要問題とする時に、鹿骨畢的には﹁現葦的精進﹂が之の重要な研究課題として取り扱はれる。﹁修道院的精進﹂
畢は赦曾が宗教に封する文化的聯閲を攻明せんと企固したものと親得る。今宗教が融合に謝する文化的聯繋を
て宗教が祀曾に射する文化的聯踊を意明する事を直接の研究課題としてゐると載れば、ト・ロヱルチの宗教鹿骨
場合との二部門に宗教鹿骨畢の封象課題を厳格に区域する事が必要である。ウェーバーの宗教敢曾拳は主とし
明を要する、即ち宗教が融曾に封する文化的聯閲を攻明する場合と融合が宗教に封する文化的聯牌を攻明する
は現今の赦曾畢界に於ても優カな地歩を占めてゐる。併し宗教の祀曾拳研究封象に関する此見解に就いては説
︵附記︶。宗教の政曾畢的研究の主要な研究封象は宗教と赦曾との文化的聯閲を攻明するところに在る、・との見解
思ふ。︵完︶
合に封して輿へる文化的意明の鹿骨学的論考を試みる場合には先づ膵詮観念に着眼し之に出費すべきであらうと
精神的貴族に於ける義務観念を重税してゐる者もあるが、之は特殊の場合であつて、一般的に載れぼ、宗教が融
deutuコgder謬︼igiOロ2n・−才bm〇ごersJa一1rb・芦J已︼rg●だ章PⅦ・−乃1−可・芦︶ラウフヱンプルガーの如く曜澄観念よりも
宗教敢曾畢を批判するに雷つても﹁精神的貴族﹂の観念よりも﹁碇澄観念﹂を重税してゐる。︵﹃・Tぎ1ies・只u−tu計・
2∂J
確定観念り紐合筆的概念
の如きは敢曾畢的研究の課題とはなり鴇はぬ、何となれぼ修道院的精進は直接には現葦的生活と寮接な結びつ
きを持たないといふ意味に於て。之に反してー現賽的精進は.宗教的に意国にされた或は之に動機付けられた
人間行馬が必須的に現葦生活に直接結び付いてゐるし、叉斯る結び付きに因つてこそ人間の現箕的生活の文化
的現象の発動忙勤して或る種の要因的衝動を根本的に輿へるといふ意味に於て、此現賓的精進性は宗教政令拳
上に重要な論考の課題となるものである。ウエーバーに於ては斯る意味に於て此﹁現葦的精進﹂が宗教敵曾畢
上の研究課題となつてゐる。而して此現資的精進を直接宗教敢曾拳上の研究テーマとする場合、そもく現貴
的精進が如何なる宗教的基礎を持ち或は如何なる宗教的意固から動因せしめられたかを論攻する事が、現葦的
精進の融合的畢論考の場合には最初の且つ必須的な周題として要請せられる。本論稿の目的は現葦的精進の敢
曾畢的論考のこの要請に應じ又これに結び付く旛めに縫定職念の融曾畢的概念を論述したものである。
︵昭和六年七月三十一日︶
β占一之
石
﹃生﹄に関する青年ヘーゲルとヘルグリン
の思想の連関
∴
﹁生﹂lこ閲すろ青年ヘーゲルミヘルダリンの思想の連関
津
照
璽
宗教的なのである。ロマンテイクの人々はその至奥の特質忙於て紳秘的である。自然と人間との融合を期するが、
て朝望するのではないが、その眞葦相に於て経験せられる宇宙感人生感こそが如何なる形で意識せられるにせよ
めて、常に生命の祓奥に私む宇宙の謎を詩の形に於て開明したのである。彼等は殊更らに宗教を究極の生活とし
併しこの期の奔放不裔の情熱と直感と天才とは、生の意味と内容とに、吏らに生全鰹に斬らしい意味を覆現せし
ロマンティケルの人々も、決してその生の思粟感知の内容を理性的哲畢的な鰹系の組織には潜らさなかつた。︵1︶
といつてよい。特異の生活情調を表明するものでその特質を平明な概念によつて捉へることは出来ない。そして
ロマンテイクの特質は二言にしていへば.哲畢的思索の内容を詩の形に於て表してゐることをその表徴とする
であつた。所謂﹁時代﹂の蕾現とともにこのことは思想史上重大成されなければならぬ。
生活の直接の相に於て経験し味到する態度を誕生せしめたものは二般に濁逸に於ては、ロマンテイクの﹁時代﹂
宗教を紳の問題として考察して禿た近世中期までの腰度に封して、宗教を宗教た於て、換言すれば宗教を人間
欣縛
﹁生﹂lこ閲すろ青年ヘーゲルヾJヘルダリンの思想の連関
三二
自然に封する態度は啓蒙期の如くでない、時代史的にいへばその克服にロマンテイクの特質がある。寧ろ啓蒙胡
以降の表面的合理主義或は悟性主義を端的に厭って.直下に生に沈潜せんとし、そして彼等はこの特質を確知し.
︵2︶
生き通すといふこと貯直ちに宗教であると考へて、ハルトマンにして謬なくば屋上に屋をかさねる紳には箱心を
もたなかつたとさへいひ得る。このことはデイルタイが﹁紳秘的汎神論﹂として叙べる通りである。
悟性主義の啓蒙拘傾向に財政するこのロマンテイクの動向は、十八世紀の八十年代以降に時を同うして起った
濁逸観念論とその傾向を同じうするものである。濁逸概念論が思緋と思惟による鰹系忙於て追究したものをロマ
ンティケルは直裁に﹁生﹂の裡に求めた。所謂る理念の葦相を生の裡に凝成したのである。
ことにこのロマンテイクの宗教的傾向、漢言すれば生を辿る紳秘的汎細論的傾向をもつ人を濁逸概念論の人々
の中に求めるならば、極めて形の襲った仕方ではあるがヘーゲルとシュライエルマツハーである。併しこの稿の性
質から、こ1ではロマンティケルとヘーゲルの関係に解れておくにlヒめる。ロマンティケルの一つの特質はハル
トマンがいふやうに.そのあまりに偉大無遽の欲望を悟れるがために.到底行き惑し得ない悩みと悲劇とをかも
すにある。ヘルダ”′ンが後に運べるやぅに亦この悲劇の邁命を迫った。カツシーラーが指摘するやうに諒と現茸
の荊離から起る悲劇である。︵。︶こ1にハイムの所謂ロマンテイクの限界がある。そのまl▲では恐らく絢爛の華に
終ったかも知れぬロマンテイクに組織の結賓を労らしたものはヘーゲルであつた。美的に構想せられた論理を.
物理、倫理を、摸言すればロマンテイクの詩と生活をその畢的契機として凡てこれをとり入れながら、彼は速に
理性の革能を信練としてこれを宇宙的な組織につけた。この意味でロマンテイクはヘーゲルに於て限界を劃し、
上汐4
更らにヘーゲルに於て復活してゐるといひうる。︵。︶
︵1︶ た寸Jへけヘルダリンの如与思索の組織的構想はたLかにもつてゐ㍗が、今は全般の傾向与して考へろ。
Ju讐コdge汚b
ld2已山s⋮−Ⅵ−ナ︵In・こどgO♂虎d・↓‡︶S.会ぃ
︵2︶ Ⅰ㌻ユn︼昌コ一軍−崇eヨ︼i︼○芸p一1iedesdeu︷邑−eコlde已訂−喜S−芽rliコ、−器J元・−∽S、Di−tbつヨW●、Die
deut袴be
lIeg㌫いGe準mme︼︷e Se冒irten lY−せeユiコーー悪声∴㌣食眉−崇r.
︵3︶ ︸IPrtl巨nn、Op・Cit.︶∽・−写りーC繋ぎr、声こt望der︼iコuコd
︵4︶ ヨ董⋮︶R・﹀ゥie冒m岩t訂訂許ぎ︼2−ひAufl■−汐r−∫−琵00、Ⅵ・諾R
〓
ヘルグリンはロマンティケルの正統からみれば、一つの異流で、テイクやシュレーゲル及びノブリス等の正統
派ロマンティケルの仲間からは経れて、彼が概念的にギザシヤ主義を強調したこと\下に述べるやうに実に閲
する病的尖鎗な憧憬と、特に彼の人生に射する眞贅な身を挺して打つかつてゆく腰度傾向に於て彼等と異なるの
である。︵1︶ロマンテイクに射するヘーゲルの閲係は上にふれた通りで、従って彼等を正統ロマンテイクの雰囲気
の中で論じるわけにはゆかぬけれども、彼等の思想はこれを温床として多く培はれてゐる。
先づ彼等の交渉について述べやう。ヘーゲルがチエビンゲンの細筆校に入つたのは一七八八年の秋である。同
じ年に同年のヘルグリンも人草してゐるが彼等の交渉の始まつたことは一七九〇︵或は九一︶年以後で.彼等が
同室の友となり、ギリシャ主義の愛好と、同じ哲畢的傾向によつて結ばれる。?︶
年少ヘーゲルの性格に就ては、ヘルグリンが一七九七年にノイフェルに寄せた手紙によつて語らせよう。﹁ヘー
ゲルとの交遊は私にとつて非常に気持よい。私はあの静かな理知的な男を愛する。何故ならどんな場合に人は自
﹁生﹂に閲すろ青手ヘーゲルミヘルダリンの思想の連閲
美好∂
﹁生﹂lこ閲†る青年ヘーゲルヾ1ヘルグリンの思想の連流
三四
己と世界とを考へるかといふことをはつきり知らない場合に彼のやうな男はこのことをはつきりさせてくれるか
ら⋮︰﹂と。︵。︶年若きヘーゲルはすでにロマンテイクの一般的特質に反して深き洞察力をもつて事件を一般的な
ものとして考へ、主観的に歪曲することなく、事の次第、有り様を冷静に、そして研究的な角度から戟ようとし
てゎた。デイルタイが言ふやうに厳格中正な家庭に育った年若きヘーゲルはその昔初から啓蒙主義的葦用主義的
素質を持って極めてフランクに公平に日常の生活を観察して居った。︵。︶このことはヘーゲルの青年時代即ち彼の
十八鹿頃から三十重剛後にかけての彼の紳畢研究に関する手記が如茸に物語ってゐる。国民宗教の取扱ひに於て
は宗教が国家のために高唱せられ、イエス停に於ては道徳的権化としてのナザレ人イエスがやはり祀曾的道徳的
に説かれてゐる。この融曾的占いふこともグロックナーが指摘するやうに、フィヒテと封比してフィヒテが自我の
ための哲畢的思栗をするに勤し、彼は世界のために世界を論究してゐる。そしてこの論究からこそ彼が成しとげ
たやうな人格からあの稚封的存在への高揚が可能となるのであらう。︵5︶
ヘルグリンは紳畢校へ入聾した篭初から内面的には紳拳的興味からははるかにかけはなれてゐた。彼は只一つ
の愛向に生きて居った。即ちそれは古代ギリシャへの愛であつた。但しこの古代への愛は彼に於ては近代ギリシ
ャを通し、彼の苗代に射する悪度は、はるかなる通じ得ぬ愛人を思ひこがれる憧憬をもつて愛して居つた。彼の
愛の内容はあのギリシャの美しい調和された、それ自らのうちに静止してゐる人間性の全鮭であつた。しかもこ
の物静かな和やかな愛の楽園は現賓には失はれてゐる。彼はこのギリ、ンヤの愛の幻を心破れた不調和なむしろ病
ヽ 的な気持ちで追つたのである。ヘルグリンの詩作の情熱は彼の心中に解る和らぐことのない矛盾に刺乾せられて
βββ
沸騰した。けれどもその情熱は間もなく彼自身を亡ぼし∵豊かな春秋と愛すべき気韻を蝕んで灰燵にうづめてし
まつた。グロツクナーはヘーゲルが彼をゲーテのヴエルテルに倣って叙べてゐることを讃してゐる。︵。J
併しヘルダウンのこのギリシャ主義に封する狂熟的な詩情が、ヘーゲルの苗代ギリシャへの傾倒を︵以前から
もつてゐたものを︶決定的にカサけた。ヘーゲルは感傷の蕗さと優柔とを厭ったが、ヘルダウンのこの傾向や節
﹁生﹂に閲すろ青年ヘーゲルミヘルダリンの思想の連閲
なるものにぬりつけられた感傷的神秘的といふのがその特質である。これらのことはヘーゲルに於ては低調子で
る一︶ ヘルグリンの表現は古代と近世の性格的混清である。近代の感傷の蕗さに古代の荘厳が接ぎ合はされ、崇高
はヘルグリンが全ての情熱をあげて謳つた完全な実の静けさ崇高さに謝して一徹には調和しがたい色調が出てゐ
的な世界との封立が叙せられ、且つ讐喩的ではあるが意識的に前者に味方してゐる。併し彼の作詩の内容に於て
詩作を試みてゐる。その内容についてみるとヘーゲルにおいてもギリシャ的異教的な世界と、キリスト教的近代
ゲンの紳拳校昔時から推敲してゐたのであるが、ヘーゲルも亦未完成ではあつたがこの友の作風に倣って渾山の
に彼は碇へられた。そしてヘーゲルは自ら詩作を試みるやうにまでなつた。ヘルグリンは亡べリオンをテユビン
神秘的悲劇的詠嘆が彼の健葦な惰性的性格の中に植えつけられ、蓮にヘルグリンが押し流された感情の氾濫の中
して行った。かくてヘーゲルの詩情は段々に和やかに静かに灼熱して行き.ヘルグリンの詩ヒべ叩■オンのうちの
情を汎濫させるものとして必要であつた。そして段々にこの友の詩的神秘的な、恍惚的感傷的な特質は彼に浸透
た。全て理性に立脚する冷静なヘーゲルの方からいへぼ、この感覚と幻想の狂熱的なカは乾燥した地に生きた感
するところない憧憬や偏向的な滅裂さにも係らず、彼のこの傾向に於ける内容やその封象から彼に親しんで行っ
悪貯
﹁生﹂に賄する青年ヘーゲル三ルグリンの思想の連勝
三六
はあるが、すべて階音の共鳴に調和されてゐる。ヘーゲルのこの風格は後になるきで揃いた。一七
にべルソから常時フランクフルトルに住んでゐ雲ルグリンへ逸った詩の中に右の調子は極めて強く
る。それはエリュジスの女神を謳つた聖歌で、美しき信仰の授落を歌ふ悲曲で・啓蒙主義的章句に
して書かれたものである。こ1でヘーゲルに於ては﹁一にして全﹂なる理想の具鰹化がギリシャの自然宗教ゐ細
の姿に於てあらはれる。︵7︶ヘルグリンの紳祓的汎神論的傾向がどの程度にヘーゲルに影響したかは資料的に判然
しないが、その内容の交渉には極めて深いものがあるやうである。
前にもふれたやうにヘーゲルの啓蒙主義的傾向及び素質は庖めて著しいが、決してこれを無條件
たのではない。彼の廣さはすべての事象に勤して寛大公平な載察を下してゐた。既に彼がスタット
ナジウムで親んでゐたギリシャ主義への傾倒は、カント主義啓蒙主義の無味乾燥な悟性尊重を克服
これに勤してヘルグリンのギリシャ主義尊重は極端であ少、彼の密癖はギリシャ主義とドイツ及び
政ふべからざる相剋の姿に封立させた。︵8︶勿論こ1から湧くあの悲劇的な情熱が彼の美しい詩章を醸辞したので
はあるが、其反面に生活の現茸を回避し打ちこはさんとしつ⊥あつた。
スタットガルトの同窓で更にフランクフルトでは同じ町に住んでゐた彼等はーエサユジスの詩は
励
ーゲルにあてて、この土地の家庭教師の就職の悠憑の手紙の返事であつた。それからヘーゲルは彼
のゴーゴルの許に行つ駕︵此間の内面的交渉はグロックナーがよく停へてゐる︵エーヘルグリンのイエナへの移
特によつて別れたが、こ1ではヘルダサンは更らに、ヘーゲルがその後龍として自らゆるしたフィヒテの哲拳を
後に紹介し、彼とともにこの哲畢に共鳴した。
せられる。
︵1︶ 憲︼・ⅠⅠ臼苫−声−。P・Cit・−S﹂小−∽小さ雪舟−d。﹂雰ge二旨d乱neNeit︸訂官ぎー箆可︸琵uP−S.彗.
倍はハイム︵上謁︶やウインデルバンド⊇、indelb§d−Wこり巴udien﹀T︵家︻︼genこ琵︼∵淳ナ︼J亡ber守iedricF
ぷ
。。d乳−1G秀一−iclハ︸∽・ほ∽。♪謬sOココd㌘磨−・Ⅵ・崇さ・がヘルダリンを浪捜的に汲ふに野して最近の研究は彼ね眞資ね思索
声
家写し孟口畢的に破ってゐろ方面が多分にぁるやうである。ご1へば=の稿でふれろカツシーラーやポエム︵崇Fn︼−W・−
ⅠⅠ彗2r︼iコ㌔ub身⊇−冒l︹−望︶、‡︵−器○︶︶は何れも菅畢的に取扱ひ、︰ミトポエムり大股1ヘルダリンしの第二笹の
ー∽○、−窒の叙述の如き︶
如きは未だ構護ぜねが文献的哲畢的に=の傾向を決定づけるやうである。︵㍗ミへばヘーゲルミの閲係に於ても
伺ほ最近の諸文献についてはハイム、デイルタイ、ポエム何れも巻末に詳・しい文献表をぁげてゐる。更l=芽○︼巨an.A.−
﹁生﹂lこ閲すろ青年ヘーゲルぜヘルダリンの思想の連廟
︵4︶ 望一事eヨOp・Cit●、S●買
︵3︶ GlOc訂2rこⅠ・−冒2ge︼︸望・−、Stpttgartこ琵¢、S.柏声
︼▲eipこー¢諾、−OAurl●︼S.岩○−竃.
︵q一︶常時彼等の住む思想的鹿骨的環境については、壱・DiIl首−Op・Ci−・−︰畢td?こ旨ニgebロisundDie字ぎng−
崇eg2genヨrtすこ訂geder彗−d2ユinlitぎt長打D2u訂c訂5e−−丸字訂cFirIこE−2こ這−H2∽をも参照
H監eユ㌻
ヘーゲルに於て組織せられる。そして彼に於てロマンテイクの狂鹿はギリシャの理想のやうな静かな調和に滞ら
せられる未組織の眞理はーシラーとヘーゲルのかけはしとしてーやがて性格的に理性的多面性をもつてゐる
ヘルグリン望還の。マンティケルが大抵そうであるやうに潔癖な一面性の人であつた。その人によつて感知
劇汐
﹁生﹂に閲すろ青年ヘーゲルミヘルダリンの思想の連関
︵5︶ 拙稿﹁ヘーゲル青年時代の宗教研究﹂︵理想廿二凍へーゲγ復興﹂︶参照。
GlOCkn2r−Op●&こS●崇−●
︵6︶ G︼OCぎer︸っp誓P
︵7︶ くgl・冒s2nぎ1コN−戸ヲiedr訂tニ訂ge︼sFebeコ︼宮r.こS皐∽.完︹
︵9︶ ⊇Oe打完r・−〇p●Ci︷..∽.誓↓わ
︵8︶ Di≡号y〇p・Cit︸Ⅵ﹂ムー監PIIp苫−こⅠ濾e11md乳コeNei−︸っp.Ci︷.︸S●彗
三
三八
友情的思想的に深い交渉のあつた彼等が、併し算際直接に思想的にどちらからどちらへどれだけの影響をした
かといふことは明かでない。デイルタイの﹁ヘーゲルの青年時代﹂にも詳かでないし、ハイムもその資料の欠徐
を訴へてゐる。︵1︶併しこ1で最も重要なことは思想的内面的問題で、彼等の思想の内容を交互に影響しあつた共
通の思想傾向である。その交渉はヘルダウンがノイフエルに於ける友情の圃係ではなく彼等の書翰に於てみられ
る棲に思想的である。︵ヱその共通の思想的素地とはデイルタイによつて偉へられるやうに神秘的汎神論的傾向
で、﹁生﹂を凝祓し﹁生﹂の深さに最も深きものを認め、そして﹁生﹂の外に﹁生﹂はないとしたところである。︵3︶蓋
しいはれるやうに一は﹁鰹験と詩﹂他は﹁腔駿と官尊﹂として、生の鰹験の仕方の相違或は思想の結果からの相
違として両者を規定し得るであろう。ヘルグリンは後に述べるやうに、生を個人に於て醍験し、そしてその結果
は悲劇的な詩作となつたのであるが、ヘーゲルはこれを人間性一般に於て、﹁理性の大道﹂に於て人間性が味ひ
β脚
ベき深きもの最後のものを観察した。ヘーゲルの生の鰹験は.特殊の形腰に於ける個人の昭験ではなく、生一般
を生きたものとして観察した。︵このことは後の彼の鰐系に於て現象拳と世界史の相関々係に於て更らにきわやか
である。︶但しこの詩人として及び哲尊者としての徴表的な相違は、彼等の思想の結果に於て見られるものであつ
﹁生﹂lこ閲†る青年へグールミヘルグリンの思想の連関
ー
それを反省によつて見出すのであるがーーたとへばヘーゲル
は相射的な目的の設定或は目的への努力から、他の相野的な目的に一駒一駒に連繋するのであるが、ヘルグリン
ゐる。この限られた目的が澤成せられた時に、次に起る新らしき要求の前に安息がある筈である。即ち一般の生
をよろこぶのであるが、その目的は雷面の問題としては限られて居り、従ってこれに謝する要求努力も限られて
生きぬき戟ひぬかねばならなかつた。感情或は意志に従つて人は一般に目的を設定して手段を行使し、その完成
は、ヘルグリンにとつては無駄なことで、有限の存在としての人間に賭せられたこの悲劇は併設自身で最後まで
考へる様に個人的存在の考へから世界精神の思想に着眼することによつて、この調和を求めるといふやうな仕方
て全﹂を具現するこの生の凍結が破れたとき
き呪ひが展開する。これが彼の亡べワオンの詩に流れる根本の底流である。つこそして彼の望んでやまぬ﹁.一にし
の代りに事件の杓子定規的な垂漠な経過にうつるなら、そこに世俗の日常を暗くする、打ちこへがたき悲しむべ
包蔵して一瞬の焦鮎にこつた時に、その最高潮に遷する。そしてこの一切を包括する生の高潮の頂粘がすぎてそ
先づヘルグリンについて述べよう。詩人の叙情的な宇宙感、世界意識は、生の全内容が苦奥の奔駿をその裡に
のは最も生的なものを愛する﹂と考へた。︵J︵この鮎に於てヘルグリンは他のロマンティケルと異なつてゐる。︶
て、常初はヘルダーリンに於ても思栗と辞、或は生と思惟は詭離するものではなく、﹁最も強きものを思惟する
溺甘
﹁生﹂に関する青年へゲールミヘルダサンの思想の連蹄
の場合は左様ではない。要求から要求が重畳し、目的から目的が重曹する。常に感情の優柔低迷に終始して、い
はゞ感情の振子のやうに彼の生は動くのである。ハルーマンがロマンティケルについていふ様に、彼も亦葦現出
死ぬ過大な欲求を持て飴したのであつた。︵6︶そして途に彼は平均のとれた普通人の生を、運命をあこがれ、しか
も常にこれに止任することが出来なかつたのである。彼のいふ﹁枯死せるもの﹂の生活は報酬と勤労にょつて生
きつづけてゐる。そこには苦楽の均衝があるが、生の眞柏を求めるヘルグリンの胸中では却っていぼらの尖は常
に眠らなかつた。有限なる現葦を直成し、その裡に於てのみ生命の眞相、調和即ち﹁一にして全﹂なる具位相を
みんとする彼の目固は、かくして蓮に感情のやむことなき軌拓と運命的な幻想とへその方向をとるのである。︵7︶
有限な現葦の生活の裡に於て調和の具現することに失敗して、感情と幻想の方向へ樽じたヘルグリンは、併し
ここで新しく豊かな生そのものの意味を碇へた。詩の囲に於ては人間の努力は一つの目的とこれに膠する葦現の
配慮に心を労しない。詩作に心を砕けば砕く程、そこに心は凝つて現箕的な苦楽の封立は影を趣める。こ1には
只畢純なリズムがあるのみである。こ1には苦楽や悲喜の質的封立の交錯しない生の動きそのものが現在するの
である。こ1に生命が客栽化せられ、﹁運命﹂の階律が現茸の問題としての纏綿をはなれて和やかに交響するので
ある。詩人は悲しみや喜びを現賓的な質的なものとして感じはしない。事件を形成する上に必然的な楔機として
雨着を同等に取扱ふ。事件にからまる悲喜の諸相は直接詩人の心に断讃するものではなくて、純粋に客載的に取
扱はれる。そこでヘルグリンは生にぉける︵苦粟悲喜の︶封立的なものを、ヘーゲルのやうに思惟による媒介に
ょって止揚することをまたすして、直接に肯定し得るとするのである。︵何となれぼ彼はこの封立を詩に於て客載
29β
的に同等親し得るから。︶心の悲しみと喜びを.自然と自我のうち、或はその連絡によつて成立する生の裡で、長
も眞賛で深い葦在と考へたロマンティケル・ヘルグサンは、人間の悲しみとして輿へられる草生活の生の相から.
詩の固へ入って、悲しみの資質を詩化することによつて、これを客栽化することによつて、生の客漑的均囁即ち
生の運命として静親し得るが如く、生の調和を猪得する。かくて彼の生の問題が美の調和に於て考へられる所以
が明かとなろう。ハエ︵但し彼の実の概念は論理的に構成せられたものではなく、経書蟻的なものでもない。いはゞ
﹁美的作岡﹂である。︶ハイムがいふやうにこの美的な或は詩的な調和とは、彼の愛するギリシャのあの静かな調和
の内容を最も近代的な形式、近代の病的な意識に盛ったのである。ハエ
自然と自我の存在の諸相を心性忙於ける悲しみの現葦に歴搾して、これを辞の構想の裡に客教化し.人間性の
運命として静観し得る調和にもたらされ、その静戟の美的作用に於て生そのもの1調和が感得せられる生のリズ
ム、世界生起の内面的なリズムに於て、すべての存在の最高の解決.高調が獲得せられた。︵彼に於て悲しみの最
後的慮理は宇宙論の解決であるから。︶
併しこ1に更らに根本的な現賓に閲する問題が起る。諸における美的作用に於て生を諦観し∵調和の要に於て
堀へるといふことは、現茸の箕生活と同じでないことは論をまたぬ。世界の調和が人類に倖へられるところの詩
の構想は、個人的制限的なもので、一般の現寛を規定する力をもたない。詩人は経験的に制限せられた人間の存
在界を碇賓な調和の場所として保諾することは出来ない。こ1に存在の現葦性に閲する二重性がある。詩的構想
に於て、詩の美的作用に於て獲得せられる資質の現資に悩まされることなき静かなる調和、生のリズムとこれを
﹁生﹂に閲する青年ヘーゲルミヘルグリンの思想の連臨
調
﹁生﹂に閲すろ青年ヘーゲル寸こルグリンの思想の連圃
四二
感得する詩人の一般的な人間的な存在としての現賓の人生との重複がある。そして詩に於ける調和の感得は、詩
人にとつて彼の一般的な現質的存在に勤しては極めて個別的なものである。︵1。︶彼は生涯を通じて、この諦離に富
面し、詩的感歎の高潮の瞬間に於てもこの矛盾は消失しないと考へる。現賓の事相から諸に逃避した彼は.再び
この両者を現寛の場所に於て感じなければならなかつた。そこで詩の固から現資の世界に違って考へてみる。一
度宇宙の秘密に重し得たものは、世の常の世間的現賓如ち願望行焉欲求等の現資性の裡に於て、自己といふのを
保証することは出来ない。
それが眞に自分であるといふ自分といふものはない。そして遂に現箕の自己牢苧竺常に過ぎ去り行くさ1や
かな光、或は弦楽における一つの吾だと考へなければならなかつた。これが彼が人生に於ける悲しみと喜びの封
立から辞の閲を飛遡して再び現葦にかへって生の問題を解決した解答であつた。
こ1で注意すべきことは彼は更らに紳に射する恐らく再三の矛盾をかもす問題に営面しなかつたことである。
彼は紳に頼らなかつた。何故なら運命の支配下にある有限の人間が、運命に拘束されぬものからの恩啓を蒙ると
いふことは無駄だからである。彼に於ては生が紳であり、紳に求むべきものを彼は心に於て鬼理しやうとする。
こ1から宗教の問題、とくにロマンテイクに於ける啓蒙的人間主義的傾向に立脚した汎神論の問題︵時代史的に
も思想の問題としても︶出て来るが今これを省略する。︵11︶
更にヘルグリンにおける具鰹的な矛盾は上の問題から必然に出る問題であるが.詩人の世界、即ち個人的な構
想の世界と、歴史的政治的事茸との乱立である。垂術や思惟或は人間の性格は意識のない自然と結着に於て調和
29塵
しないものではない。自然は彼にあつてはその力と刺故によつて、或は人間の精細と心臓には自然が住んでゐる
が如くに人間の意識を王事するとみるのであるが、この閲係を歴史に於て、国家形悪に於て論及することば彼に
於て充分だとは思はれない。
フランス革命に刺乾せられて常時濁逸に於ても若き思想家は政治問題赦曾問題を論策し、ヘルグリン及びヘー
ゲルもこの思想運動に園輿するが、その思想的影響及び結葦はヘーゲルに於て偉大である。︵讐彼は生の問題を後
に述べるやうに事案としても.又彼の思想の結果からみても、とくに客我的精神の茸現としての歴史、観家に蘇
結せしめ、思索年次的には大醍一八〇〇年前後にこの思想が熱して後の彼の精神の現象拳や論理畢の基底を縫立
するのである。′、13︶
Gl〇C︼ハI1年、。p・Ci︷・−m・彗望∵こミにアイルタイの﹁健勝ミ詩﹂及びカツシーラーり﹁ヘ
﹁生﹂l二脚†る青年へゲールミヘルグリンの思想の連関
念論﹂ミを封照†る=ヾ﹂によつて閉経がlミつきりすろミ考へた。
P誌声、烏∽、念可、
精神﹂や﹁憶系に閲すろ断片﹂がみられなけれ1でならね。憲︼・せietbeヨ。ごit・、Ⅵ・芦︼彗声ム?もユ各n訂undD訂ぎコg−
の痛のやうな場合1こは、特に後の時代をミリ、ヘルグリンのヒベリオン、エンぺドクレス及びヘーゲルり﹁キリスト教の
ホンブルグに住んだ時代も入れて。︵前の時代では同じ環境寸J傾向が考へられぁが、濁立Lた相互の思想の連関なみる=
ルは一七九七−八〇〇年まで、ヘルダリンは一七九五−九八年まで。但Lヘルダウンの塩合lェゴンタルト家から去って、
伺ほ彼等の交渉lェ、チエビンゲンの畢生時代ゴブランクフルト時代ヾJlこ分けて考へられろ。︵フランクフルトではヘーゲ
Cit●−S.誤00.
︵−︶崇︼t訂さOp▼eit・㌔=≒・d?、苧︼ebnisu⊇︼︰ロ訂︼きng、っp・Ci√Ⅵ・裟夕貴つ、畠00、Hp¥︼、声−ヵ○⋮象汚訂哲ぎle−っp.
β9∂
﹁生﹂に厨する青年へグールミルダリンの思想の連閲
︵柏︺磨︼・雷sen訂aロブOp.Ci︷.、∽.ヨ声
︵彗﹁ロ≡一一2ミuge一−首c−1iel一1e苧gd∽こ・∽∞こ巻こ畢d?盲︼ebコ訂uコd冒ぎn≡屋畢
︵古家irer這・Ci︷・こ、≡−1dO﹂Ⅰ、︵訂どgO芸d・声−芸︶S.芦
︵8Di−︷首−空ebni⋮ロd芽ぎ董S・蔓宰C乳re︼・,Opこご・主、S.烏.
︵の︶芽1・tn占nn−芦−〇pCit−S.−芦
︵ヾ︶壱H喜a冒毒ei︷、⋮−言蔓声盲ge−und軋ne買−S・雪盲音毒Cit.こ∵た壁
Geist彗is箱男l邑こ邑leこ謡の︶H戸ナS.望︹
︵∞︶くgl・寧三㌔D2r巴−2蒼S首琶graヨderd2u算Ide已i聖書こn︰D2u︷邑e童e写宣言r巳︷er
憂・せ誉eY空eb−1訂u・Dic−11un禦Op・Ci︷・︶C乳rer︶Op.cご.
︵β芦・l毒Ci−・㌫・望ご等盲ヨ芽g2−邑乱n2Neil・⋮ヾ・倍以上のヒベサナンの椒括は
Cit・読∽詔h、C乳1・2︸・︸Op・CiトナS.串
冒毒Cit・壱喜Dil︷h2y盲g2暑算FleII2ge︼⋮・Cl−・ふ・貢−学よ01ぎbn山⋮dglun叫毒Cit.
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︵−○︶憂宰首盲eトコ訂und宣un⋮やeil・盲g監ie茸edO筈芸長音−盲盲邑邑eSc貫Op●
︵=︶苧言喜享Op・Ci−・、S﹂∽芸芸賢毒C三宣賞⋮凛義軍︼・古家訂昔日prOg−・.
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〇p・CF、S・望彗√当会.
︵−βく箪出告−1︼壷ぎー勺−■雪⋮這・盲・−S・芸♪C乳rer這・Ci︷・、:声
ヱ汐β
四
早く既に。−ゼンクランツが指摘しデイルタイが提唱するやうに.ヘーゲルの青年時の研究思索の髄慶は拳的
醍系を追求するといふよりは、具鰹的普遍的なる宇宙的原理の探究にあつたと考へられる。︵1︶このために若きヘ
﹁生﹂−こ謝すろ青年へグール寸Jヘルダリンり思想の連園
中に於て、揆言ナれば全鰹との関係に於て在りー且つ理解されなければならぬといふにある。この
もしない。従って生の特質は生の多様の存在をゆるすけれどもーその多様を形成する部分の鹿脛は
生とは彼に於ては部分の全醍に封する閲係であ少、生に於ては全鰹なくしては部分は存在もしなけ
常時彼の園心の中心命題は﹁生﹂である。彼はすべての箕在の特質卑生﹂の概念によつて規定し
一七九七年フランクフルトへ来てキリスト教の理解を深くした頃から、彼の傾向は決定的にあらはれてゐる。︵ヱ
に寄せたエリユジスの詩には極めてこの傾向が著しく、石丸六年秋にべルンからスタットガルトへ
から一八〇〇年にかけてゞあ少、彼の﹁イエスの生嘩﹂を書き上げ・た直後から始まる。一七九六
侯つて彼をこ1に騙ったのは自然のことであらう。ヘーゲルが新らしい汎神論的傾向へ轄向したのけ〓七九五年
紳秘的汎紳論的傾向の渦中にあつて彼の性来の神秘的形而上的傾向が、爾前の彼の宗教乃至歴史に
然と人間の融合の相の下に具鰹的葦在を把握しやうとするロマンテイクの特質と、昔時︵一七九〇年代︶新興の
間題の焦鮎が﹁生﹂となり﹁愛﹂となり﹁運命﹂となつて現れる。啓蒙期の合理的貴用主義的傾向
普遍的に表象形式に於て形成する宗教とであつた。そしてこれ等の問題が彼の﹁鰹駿﹂に於て思索
ーゲルの醍駿の心奥を碇へたものは精細の委動としての歴史と、歴史に現象する精神がその本質か
親好
﹁生﹂に閲†ろ青年へゲールミヘルグリンの思想の連関
四六
統一に於て軌識せられた全鰹としての生の根本概念から、生を基底として常時の彼の統一分離封立等の思想が考
へられなければならぬ。現案を組讃しやうとするこの根本概念は、従って具性的な意識が閲兵するといふ使件の
下に範噂である。併し先験哲畢に於けるが如き悟性の範噂ではない。ヘーゲル自身の鰹駿と歴史的省察の基礎の
上に立って特異の探味をもつ。そして事案昔時宗教史的研究に従ってゐた彼は、これによつて宗教史を理解し、同
時に亦宗教史的事案殊にキリスト教のそれが彼の形而上単に深い園係をもつたのである。この範噂の深化に於て
意識の情緒の状態が関係するといふ彼の考へは、シェリング其他濁逸親念論者中に於て轟きヘーゲルの思想のも
つ特徴であつて、こ1にロマンティケルとしてのヘルグリンとの思想上の相似連絡がある。︵ヱ彼は聖歌や紳秘家
運の昔に親しむことによつて全鰹的統一に封する憧れをよび醒し、生に於ける分離を悲しみと感じ、封立をその
封立のもつ愁ひとみた。分離に於て不幸が現れその分離の滑失によつて幸福が来る。かくして彼は論理的超紹的
な関係を主観の乃至情緒の裡に還元して、その内面の闊係とする。従って生に於ては概念的閲係は心の状態と共
感し、彼の思惟はすべて意識に於て範噂と心の状怒との織り合はさつた関係にあるといふことになる。これが彼
の思惟の概念︵後の思好哲畢︶の特質であるが、こ1から同時に歴史の鰹駿と組織の問題が出て束よう。歴史︵こ
とにこ1では宗教史︶に於ても同様に統一は常に分離から成立する。そして分離とは悲しみであつた。歴史に於
ても同様に限界と封立の意識は、それ等を克服する條件乃至契機としての悲しみに於て、その︵歴史の︶全鰹を訝
らすのである。このやうにして彼はすべて心の括舞董の裡に於て世界と歴史とを組織しやうとする︵ユ
こ1で留意すべきはヘルグリンとの関係である。彼はヒペリオンの第一巻を一七九七年に出してゐるが、ヘー
29β
ゲルがフランクフルトに果たのも同年で、且つそれより以前に彼等の間にヘーゲルの右の思想に閲する手紙の報
告がないかぎりヘルグリンはヘーゲルの新らしい思想には未知であつたに蓮ひない。︵5︶併しこの書にあらはれる
ヘルグリンの思想はヘーゲルの考へと極めてよく似て.汎神論的な思想を含蓄してゐる。ヘルグリンは詩人とし
﹁生﹂に閲すろ青年ヘーゲルミヘルダリンの思想の達観
形式として精神の特質をなすものと考へられる。
の水質である。従って生の場合に醍駿といふことを切り離して考へれば、生の統一がもつ閲係は、論理的関係の
られると同様に、生の側からこれをいへば、一つの統一に於てある一つの多様の綜合といふ有機的閲係は、精細
る。︵6︶こ1から生と精細の興味ある関係が考へられやう。あたかも精細の本質が個々の精神の関係に於て鰹験せ
ある。この無限なる生の練醍に於て個々の生乃至有機的組織を綜合する生きた、厳密には生かす法則が精神であ
一であるから。この生きた統一と結合してある各の部分は有機的部分であり、その全醍は生の無限なる綿鰹で
ょれば無限なる生は精細である。何となれば精神は多様がその中に包括せられ、その中で形成せられる生きた統
封立との関係であり、その統一の相に於ては唯一の分離の組織されたるもの、蹄一されてある全醍である。彼に
更らにヘーゲルの生の意味と内容とに就いて吟味しやう。彼は生の直親から出費する。生とは無限なる多様と
両者は主張の一面に於て極めてよく似て居るものであるが直接一方からの影響とは考へられぬ。
的な統一、封立.分離の関係は悲しみと聖悦とに於ける情緒的生の一面に於て虞理されてゐる。これ等の事情で
立の要室ホし、その弾力ある生の場所に於て生は悲しみのカを契機として美と愛に高揚する。彼に於ても亦論理
て生の意味と美とに徹しやうとし、愛と実に於て多様の統一を設定してゐる。そして現箕の生は個々人の相互封
299
﹁生﹂−こ閲する青年ヘーゲルミヘルダリンの思想の連関
四八
述べ来ったやうにヘーゲルに於て生とは具饅的園係に於てある全倦的普遍的統一の現葦である。従つてそこか
らすべての現象が系列づけられる筈である。普遍者としての生はその内に於て︵賓はその経過に於て︶自己規定
をしなければならぬ︵こ1で人は彼の現象拳と論理畢の最初の虞を思ってみればよい︶。たとへば自然に就て考へ
てみやう。自然は生の定立である。自然はそれ自身が全鰹的生なのではない。生の中に於て反省によつて定立し
結着せられた生である。即ち無限なる生は生あるものに於てその表現と表示をもつのである。そこに生の有機的
全鰹があり、全醍的生の︵その他にはありやうのない︶現葦の経過があるのである。︵何となれば生は生あるもの
の無限に於てあるから︶。
このやうな事情から更に無限なる生の一部分としての生あるものは他の部分から瞑別せられ、その生あるもの
は一つのまとまつたもので、そこには多数性の分離は並立的には除外されてある。こ1から個別性の概念が出る。
個別性に於ては無限の多様即ち生の中に於て定立せられ、決定せられたるもの1封立及び結合は、その中に包括
せられ結合せられる。個別的なな生としての人間は彼以外の他の生と分離する、そして生の全鰹は.その現苦に
於て分醒されてあるといふ事情によつて、この人間はある部分として、他のものは他の部分としてーそれ▲rl全
館としての生である?従って人間は全館の生の一つの表現である。
この無限なる生は併し思惟によつて完全な認識に訝らせられない。思惟による認識は主客の封立をうち超へる
ことは出来ないから、無限の生を組織するわけにはゆかぬ。併設は無限の生は有限の生から無限の生へ生自身が
高揚することによつて碇へられる。
3の
の最高の形式であつた。個別と普遍の統一、封立的なるもの1調和が宗教の特質である。有限的なものから無限
﹁生﹂lこ閲すろ青年ヘーゲルミヘルグリンの思想の連謝
る。そしてこの無限の多様性無限の封立無限の関係に於て、生はこれに生を吹きこんで部分が直ちに全鰹をあら
中に部分と封立のない統一としての存在として、他はその統一の無限の分離の可能性の下にあるといふことであ
性の力の限界を見究めて宗教によつた。そして生は生あるものとしての存在に就て二様に考へられる。一はその
、このやうにして若きヘーゲルが生の概念に於て求めたものは統一性と全醍性であり、その獲得の手段として悟
る。眞の道徳は愛であると彼はいつた。︵S︶
賓現である。そこではカントの道徳論に於けるが如き義務と傾向乃至命令と服従といふが如き封立は止揚せられ
於て生は自己の二重化︵閲係に於て︶及び自己自身の統一を見出す。そして愛は生の意識であると同様に道徳の
係であり、生あるものと生あるものとの感情である。従って愛に於て生そのものが見出され、意識せられ、愛に
問題を解決する力が愛である。愛忙於てすべての分離と制限せられた関係とは解潤する。愛とは生あるもの1関
としての個別は賓は運命に於ける調和の途上の一瓢に外ならぬ。三この運命に於ける.従って生に於ける調和の
関流通する生の関係であり.生全鰹の、時間的関連に於ても同時的相園に於ても流動的統一である。生あるもの
ち無限なる有限者に葦現せられた理性である。従って生と同様にこれを略したり制限したり出来ない。運命は相
更らに生の特質に園して愛と運命とが考へられる。運命は現葦の生の限界内にあつて、凡ての生あるもの、即
封立の調和がある。無限の全醍とは生の無限の線鰹である。そこに即ち生の純粋形式として宗教がある。︵6︶
的なるものへ費展することは只軍なる反省の産物である。有限の生から無限の生へ高まりゆくことに宗教があり
釦ヱ
﹁生﹂−こ騙†ろ青年ヘーゲルミヘルグリンの思想の連関
五〇
わす関係としてその立場をいひ表す。デイルタイはこ1にヘーゲル曹草の根本思想が語られてゐると詭く。︵ヱ
更に既に述べたやうにヘーゲルが生に於て分離、対立、閲係を説くが如き、或は生あるものに於て無限の有限
をみる如き.生はその牽現の場靡について語られなければならない。個別鰹が来襲展の状腰、分離されたもの1
状悪からその統一を形成するために、その道程が語られなければならない。このために彼は蓉展を生の特質と考
へる。そして愛に於て豪展の動きを考へ、紳の囲に於けるすべての生ける牌係は生の蓉展から特質づけ、そこに
蓉展の結着を見るのである。︵何となれば紳の国宝息識の中に、生の此岸の内に於て考へるから︶。この零展の考へ
から生の覆動する全領域の問題が出て来る。彼はこれを世界の線鰹におく。勿論併しこれは生に於て‡観として
の愛に於て表れなければならぬ故に、︵歴史に於ては人類の意識、理性に於て、︶現資の拇鰹を充足してゆくその蓉
展の経過昼前に述べたやうに宗教に於て経験せられ、宗教史に於て昧到されなければならぬ。そして生の帝展の
仕方は、たとへば生の統一性全鰹性を形成する分離、封立、騒係といふが如き事情やー愛に於ける生の二重化、
封立の調和の考へは既に充分に妨記法の特質を示して居る。そして彼の生の概念に盛られる思想の内容はー彼の
精細の現象拳の未組織の型として極めて彼の腔系にとつて重要なものであるが.生に於ける蓉展の思想の論究と
その客観化としての世界史や道徳国家等に牌する閲係を瞼討することば別の稿に譲らなければならぬ。
以上によつて極めて素描的に青年時代のヘーゲルとヘルグリンの思想を粘壊して見た。彼等は何れも啓蒙的合
理主義的態度、ことにカントから脱却して、神秘的汎神論的傾向に立ち、人間と自然との交流をその統一の相の
下に碇へやうとしてゐる。そして何れも曹畢的な醍系を要求して、宇宙一切を包括する一にして全なる紹封者を
ヲ0β
求めたと考へられる。︵1。︶このためには上にもふれたやうに、ヘーゲルのス00年代までの腔系的思想の基調を
﹁生﹂に閲すろ青年ヘーゲルミヘルグリンの思想の連関
世界の鴇麓に於て考へられないから、歴史の問題が出て禿てゐないっ︵彼も亦融曾的問題にはふれてゐるが。侍ほ
の団への︵ヘーゲルに於て望息識を通じての︶連絡がつかず一社って成立的要素を含まないしー封立の媒介調和が
てのみ考へてゐる。そこで客栽的なるものとの連絡がつかない。彼の汎神論に於ても所謂垂
味に碇へないで畢濁な濁立なものとして捉へ・そこに生の具麓性をみる彼は、従って生をす
詩的感情は瞬間の裡に於てこの最も探きもの最も生あるものを捉へると考へる。個別をヘー
個別的な存在に特有な型憩の中に於てのみ具鰹的で・その中に於て悲しみと柴とを包括する生の全内容がありl
ないし、ヘーゲルの様に思耕に於ても考へてゐない。存在の緒鰹を種々な契機に分割し得る
ぉいて、詩人的悪度から所謂自然に封する知覚として感じ、フィヒテヤシエリングの様にこ
て内在的傾向をとる。ヘルグリンのこの傾向は従つて生あるものとしての現葦の個別を各々
扱ひの悪度が異なる。ヘルグリンが観察し鰹験する生とは個人の生であり、生活の深化とい
で悟性による田蒜の越権を却けて宗教的特質による葦践と鰹駿の裡に於て取扱はれてゐるにか1わらず、生の取
からみて︶可能ならしめた根本命題としての生の問題に閲しては−等しくこ1に於て流言全鰹とを求めーここ
家的態度といふ。然るにヘーゲルに於ては醍系は精紳に於て組織されんとする。︵11︶更らにこれ等の醍系を︵結果
なす汎神論的傾向は極めてヘルグリンの﹁一エンべドクレス﹂﹁ヒペリオン﹂に盛られる汎
が多い。併しカツシーフーやポエムのいふ様にヘルグリンの鰹系の結着は美にあつた。デイ
∂αi
﹁生﹂に関する青年ヘーゲルヾJヘルダリンの思想の速断
五二
最近の研究、たとへばポエムの﹁ヘルグリン﹂第二巻︵一九三〇、上掲︶の如き積極的にこの間題を究明してゐ
るが、今はかくいつておく。︶この鮎に於て生の取扱ひがヘーゲルに勤して一面キエルケゴールに似てゐる。︵ほ︶従
って極めて個人的な生の取扱ひで、いはゞ窓のないモナドのやうな生の考方は外界との連絡がつかす、ヘーゲル
が客観的精神を国家に於てみることをうらやみ、自ら自己の生を蝕んだことにもなつてゐる。︵ほ︶これに謝してヘ
ーゲルの生の取扱ひの特質は二言にしていへば神秘的素地に立つ思耕的なものであるといふこと、宗教史を通じ
て歴史的醍験に於て考へられてゐるといふことであろう。
︵−︺ヵOSell打・・PnN一〇p・Ci︷・−S・冨こ○−−崇−t訂さJugendsel−ri君ココegelⅥ−〇P・Ci︷.−S●∽、声
︵柑︶くg︼・Dilこ−2y、Jug2nd汚h−i君nコege訂,Ⅵ.∽の一声
Di≡1eさ。p・eヂP一∽ざ︼乎−雷h︼−芽ge︼ニー一旦Ogi各eJu駕ロd邑lr誉n.
︵∽︶Diltl−e勺、〇p・C山t︶∽﹂∽りこ∽︹,Ca乳rel−Op−Ci√Ⅰ−S.誓↓.
Tiibi−1g2プ]毎3−∽・∽琵︹∽会蟹g.1こよろ。倫﹁理想﹂拙稿上端参照
︵eヘーゲルのこの時代の手記写しては生写して
︵の︶﹃〇h一、〇p・Cit・−00●望ヨ︰及び拙稿上掲
︵8﹂蒜−﹂きn︼こl藍erli−−−〇p・Ci︷こ己こ完・柑望♪D蔓1eさ〇p・Cit・−∽﹂きーd?−空ebコ訂un︹昌ic訂已ngちp.Ci√m.A−戸
︵ヾ︶﹂、g−・Di︼th2さっp・Ci︷・∵買箪−00買、甥Oh︼−Op.Citこ弊誌−ト
︵00︶⊆tl−eご。p・eit・−Ⅵ・誤こ宗こヾこ諾−ぎh1−Op.Cit.−彗軍司ぎ冒l−√諾l︹拙稿上謁一五八以下
︵¢︶Di≡12ヨOp・eit・−S・−念r.こ畠−甥つll︼●,Op.cit.、∽声
︹〓︶崇ぎl・もp・Ci︷・,∽・∽諾♪C乳rer;p■Ci︷.こ,望声望≡ley−〇p.Ci︷..S.諾こ声
︵−○︶磨︼・−冒hn︼−冒r巴t邑勺S宣e−1−pr〇gr弓、。p●eit・、S.∽諾♪∽芦−C軋rer.〇p.eデlnsb.Ⅰ.
︵−βCa乳−・eJ Op■Ci︷,−ざ∽.巴︹1−∽.柑Gり.
︵−β−基t訂l↓−Erlebコ訂亡コd望c︼ltung,P∽芦拙稿、﹁ヘーゲルヾJキュルケ.コールの封比﹂参照。︵理想第一九波︶
鋤
城
令
開
は別の機曾に譲る﹂と約したことでもあるから、今﹃宗
様な質疑もあり、且つ自分も註記の終りに﹁その考澄
於いて﹁蓮倫の道倫と改められた理由如何﹂と云った
結
﹁玲伽論記﹄の著者名に射する疑義
∴
本年四月発行の﹃東方畢報﹄東京第一珊併載の拙稿
並に此の機曾を利用して、彼の畢界に於ける功労を讃
教研究﹄の紙面を拝借して遁倫を遺倫と云ふべき理由
於いて、自分は唐代の畢界に活躍した唯識畢者の一人
したいと思ふのである。
﹁成唯識論を中心とせる席代諸家の阿頼耶詩論﹂中に
として道倫なる人を挙げ、且つその註記に﹁此鬼に遺
謹︵1︶
ぜられろ。
ニ
五三
て正常ごす.へ与であろビゼられてゐろ意趣が看取
の良謙修正の報導ミにこ依つて、ひそかlニ這倫な以
に氷って席数大師の﹃法華秀句﹄の文ご、興福寺
ご云ふ名稀が用ひられてゐろけれごも、五〇四頁
常盤博士著﹃併任の研究﹄に於いてl‡、終始透倫
﹃東方撃報﹄東京第一、玉東
倫と云ふのは、魂伽論記を書いた有名な遁倫のことで
ある。然るに遁倫と云ふのは恐らく誤俸であつて、正
しく道倫と云ふべきであらうと云ふ新設が常盤博士に
よつて唱へられた。爾後自分は古書首線を検してゐる
間に、道倫と云ふのが正富であると云ふ論定を得た。
因つて遁倫と云ふ遺構を周ひすして道倫と記載したの
︵1︶
である﹂と述べて置いた。然るにその後、同畢の間忙
﹃輸伽論記﹄の著者名に封†ろ疑義
32∂
﹃輸伽論記﹄の著者名に射でろ疑義
五四
唐代に於ける総ての宗瀕拳旗に就いても一般にそを
う得て、唯識畢の殆んど正統.摸言すれぼ慈恩の先脳
した憾はあるが、殊に玄琴二戒を中心として活躍しを
たなしてゐるにも閲らす、或は又﹃瑞伽論﹄の研究者
壌伽敦系の人々、然かもそれが思想史上極めて重要と
なして、慈恩以後の第一人者とも云ふべき遁倫︵﹃併
く不明なのは疑問であるとして.最後に﹁斯くて初期
役割を演じてゐる人々に於てゞ二さへ、若し現たそ任
れのら
研究﹄には遁倫の兢を用ひてゐる︶も亦倦記の全
の人々の倖記を求めんとするならば、慈恩.園測.慧
沼等特定の僅少な人々の然かも庵めて不完全な記述の
を唯識拳者として三指五指中に屈せらるべき景法師、
︵1︶
新羅人なるが虜ならざるか﹂と述べ、而して下篇第八
除く他の多くの人々の俸記は、之を求めんとするも遁
文倫の郷貰、俸記の全く不明なるは、若想像を加へば
献の徹すべきなく、全く不明のま1放置せられてゐる
︵望︶
詮を聞き.想像の適中せるを喜べり﹂と説かれてゐる。
状態である。而して今此虞に問題となつてゐる﹁唸章
伽に
論来って﹁加藤精紳氏より、蓮倫が新羅人なりとの
記﹄の著者も.亦その類に漏れず.彼の俗姓、郷貰、
畢系、時代等、少なくとも後に関する一切の停記的記唐代を通じて新羅の畢伶が如何忙中囲に進出し.活
事は一向に不明であり、且つ之を明らめんとするも躍
、したかと云ふことはー質的にも量的にもー吾々の想
全くその依るべき資料を逸してゐる。此虞に於いて像
か以上のものであつたらしいっ今唯識拳上に限って倒
﹁彿性の研究﹄には、唐代に於ける新羅彿敦の盛況す
をる
運も、重罪三蔵三千の門徒、七十の達者中に於いて
定等が、揃ひも揃って新羅倫なることば経かに一種の
べ、玄弊門下の神足と構せられる園測、紳防等が新
更羅
に数名の屈指の上足中に加へられる園測、紳防、裁
の出身であること、並に元暁、義湘、順境.大賢等の
菩提流志三蔵や兼渾三蔵の渾場に侍し、定義大徳の一
畢匠の輩出に説き及び、而して慈恩の﹃碗伽略基﹄異
の彩で壕。或は園測、法軍票沼.法戒等と共に.
中に屡々引謹せられる景法師の訣が.玄弊三成の正恵
jごぴ
人となつて活動した大薦癌寺の膠荘も亦新羅出身の唯
言すれば量的にも多数の新羅偲が支那内地に入り込み
新羅檜が支那に入り込んでゐたであらうと思はれる。
られるのであるが、更に量的に考へても、葦に多くの
如何に新羅の尊信が優秀な成績をあげ得たかが首肯せ
す﹂と許してゐる。斯くの如く質的に考察して、昔時
の著者は﹁中華の率土往々にして此を得て眼目とな
畢詭は遠く支那の畢界に影響したとみへ、﹃三組遺事﹄
はなからうか。即ち同郷出身の新羅僧が既に昔時新羅
は明瞭ではないが、恐らく新羅の出身者でなかつたで
であり、他の一人なる西明寺三悪書法師も、文献上に
畢徒大琴帽寺大穂膠荘は∵既に述べた如く新羅の拳倫
滋之の地なる終南山登徳寺の東嶺上に別葬した在京の
して彿授記寺に示寂したとき、その舎利を法師が往昔
︹即断畑鮒謡架監㌔詣鴇謂Ⅵ︺齢八右歳に
然かも相互に連絡を有してゐたことを雄辞に物語って
それは質的にかゝる優秀な人物を出すには、その背後
僧房までは形成してゐなかつたにせよー︵或は常時すで
識聾者である。その他大賢の如きは、身自ら入唐した
に量的な支持があつたであらうと汲想せられるのみな
にか1る組織が存在してゐたかも知れないが︶兎に角
ゐるものである。かの園測が、高歳通天元年︹A−芦霊缶︶
らす、具鰹的に之を論諾することが出来るのである。
相互に連絡をはかり、統一を保ってゐた例証にならう
事資は明瞭でないけれども、海東に任しながら、その
即ち慈覚大師によつて遺された﹃入唐求法巡緒行記﹄
と思ふ。
時茸に多数の新羅僧が中歯の寺院に起居し.而してそ
るものが記載せられてゐるのであつて.この記事は常
に右諸姉の中、﹃宋高僧偉﹄中にその記事を有するもの
躍は、斯くの如く葦にめざましいものがあつたっ然る
以上はその一端であるが、新羅檜の支那に於ける活
︵3︶
を播くに、債鬼に﹁新羅僧房﹂或は﹁新羅謬語者﹂な
れら同国の出身者が相集って、寺中に新羅僧房なる
法賓博の下に肘
荘に閲−しては
は、僅に凰測法師竺人のみであ︹
る膀。
﹃璃伽論記﹄り著者名に封する疑義
ものを形成し、且つ通謬者迄も且廃してゐたこと、漢
327
﹃碗伽論記﹄の著者名に謝すろ疑義
五六
常盤博士著﹃偶性の研究﹄二四〇東
驚盤博士著﹃彿性の研究b五〇玉東
頁右上︶
・
三国迂事巻四︵緯蔵第武編乙二十三之三、三二九
三
道倫の停記は斯くの如く不明であるが、然し彼の著
︺然かもその記事たるや、唯識の隠聴、璃伽の
言なす
のみ。
盗聴を以てしてその人格を損することや大である。或
は又新羅の順境法師を侍するにあたつても、現身堕獄
の記事を以てするなど、等しく此の類に零するもので
ある。他の多くの聾者は之を侍してゐないのであるが
一常に支那人の手になつた僧偉は、よしそれが中華に
は
渾飯王経疏一巻
般若理鞄分疏一審
︵義夫繚︶
︵永超鐘︶
︵蔵俊銀︶
︵永超銀︶
維摩経料簡一巻
︵義天銀︶
金剛般若経略記一巻
金光明経略記一巻
︵義天銀︶
︵永超錬、蔵俊銀、法相法門銀︶
膠電経疏二巻
︵永超銀、戒俊録、養天銀、.法相
法門鐘︺
薬師本願経疏一巻
大般若経略記二番
活躍した人であつても、観外人の屏以を以て之を侍す 述は宰にも現存の諸目録中に記載せられてゐてその拳
ることの極めて稀であることは、高僧停を利用するも 殖を鶏ひうるのである。先づ経部に就いての彼の研究
の1常に感するところである。か1る駄に着眼すると
き、慈恩以後﹃漁伽諭﹄の研究者として第一人者とも
云ふべき塊伽論記﹄の著者に停記の映乏せる屏以を以
て、或は新羅人にあらざるかと想像せられた常盤博士
の考察は極めて雷然である。更に加藤精神講師は之を
新羅人なりと断定せられてゐる楼であるが、自分には
残念ながら未だその論証の御指示を賜ってゐないし、
積極的に新羅人と云ふべき材料も有してゐないので、
依然として郷貫は不明であると云ふより他なく、幸ひ
先輩各位の御指示を得たいと思ふのである。
凱汐
小阿覇陀経疏一巻
十一面経疏一巻
次に律部に関しては、
囚分律決開二審
次に論部に就いては.
癒伽論記二十四番
成唯識論賓決二審
︵義夫銀︺
︵永道銀、蔵俊録︶
︹永超銀︺
︵永超鐘、歳後銀、義天鐘、法相
法門鐘︶
︵義天鐘︶
述は、惜しい哉今は逸して侍らす唯﹃漁伽論記﹄一部の
みあつて現存してゐるのである。然し幸にも此の一部
の﹃漁伽論記﹄こそ、彼が精魂を打ち込んだ力作であ
り、彼の名をして千載の後までも登轢たらしめる名編
である。初唐に於ける﹃塊伽論﹄の研究は﹃唯識論﹄
の研究に次ぐ盛況を呈し、幾多の研究書が発表せられ
たが、之も亦多く逸して侍らす、現存せるものは僅か
に意思の﹃略纂﹄と今の﹃倫記﹄との二部のみである。
もつとも近年大正一切経刊行曾の手によつて、従来来
等であつて、此等の経論は何れも雷時の唯識聾者の間
研究の更科となつて上りうるものは右の二部にすぎな
ないからその内容を知るに由なく、現に吾々の机上に
援と耕せられた智周法師の﹃塊伽論疏﹄四十巻が朝鮮
に流行し、彼等が好んでその註疏を撰述したところの
い。然も﹃略纂﹄十六巻は、﹃魂伽﹄首巻の中、春希一
︵永道銀︶
ものであることは、慈恩、寮沼等の撰述録を作製する
より巻第六十六に亘れるもので、未だ終始に亘つて具
新撰大乗義幸五番
と一見にして明瞭である。右の如く遺倫の選述にか1
に註解し得たものとは云h得ない。之に反し﹃倫記﹄
より登見せられたとのことであるが、未だ上梓せられ
るものは、現存の目録に依つてさへ十五部五十四番の
二十四番は、廉く唐代の塊伽研究者の諸説を集成し、
五七
多きに達し、必ずや昔時の畢界に射して幾多の貢献を
﹃諭伽論記﹄の著者名に封すろ疑義
堂々首巻全部に亘って之を具詭し養し、葦に新車考笥
︵義天銀︶
其の他
329
なせしものと思はれるのである。然るに此等多数の撰
雑記九巻
\
﹃諭伽論記﹄の著者名に謝すろ疑義
五八
版ぜらろろ以前飯lこ研究
之は﹃彿性り研究bが出
者準一の好伴侶となり、燦たる挙動を拳界に遺して
適ゐ中竃はれセ名稀の相
違と・︹
る。常塞博士の﹃彿性の研究﹄中に、如何に﹃倫論ほ
﹄詣箭摘鳩︺今一つ蓮華疏録.中に現は、れ針掛か
が利用せられてゐるかば既述の如︿であるが、宇井相
博違とである。諸章疏銀中特に今の研究の資料となつ
士の近著﹃印度哲畢研究﹄撃ハにも亦盛んに之が活た
悶ところのものは、佐伯良講師が常盤博士へ報導せら
せられてゐる。遺倫が玄弊三戒直参の聾者でないこれ
とた﹁法相宗法門目録﹄中に於ける記事と、薬師寺の畢
並に直参の聾者ではないが、その生存年代の智周大兄
師橋本凝胤師の好意によつて借覧を許された富木の
等よりは以前であることの象想は、彼が如何なる人﹃
々東域偉燈目録﹄中に於ける名将の相違とである。然る
の拳詮を、その著書に蒐録したか車検することによに
つ今その論詮に這入るに先立つて、苑づ此虞に資料と
ゐる間に、又々誤字が経って多様の異本となつたもの
生じたらしい。而して此等両種の本が展韓倖寒されて
よりして、既に南都本と栂届本との両種の異本︵?︶を
りかその年代は不明であるが、兎に角相嘗に古い時代
てほゞ見告がつくのである。さて然らば如何なる茸な
料つた﹁束域偉燈鉄﹄の吟味をすることが必要である。
によつて、従来蓮倫と停へられたる名構に勤して疑元
義来この﹁束域偉燈録﹄なるものは、いつ時代の頃よ
を抱き.改めて之を道倫と云はんとするのであらうか
四
﹃魂伽論記﹄の著者名が.遁倫と云ふ文字を以て記載
せられ、﹁トンリン﹂と云はず﹁ト∴リン﹂と訓ぜと
ら思
れは
てれ
ゐる。現に上梓せられてゐる﹃東城偉燈録﹂な
ることは周知のことであり、これが一般の定説となる
つものは、日本彿教全書本にせよ大正戒経本にせよ、
てゐたのである。然るに之に勤して疑義を抱くに至典
っ籍の配列が一段姐になつてゐるが、元来この目録の
た屏以は、一には常盤博士の指示による博敦大師の原
著形は二段姐であつたらしい。その節以は、昨秋東京
330
域停館鉄﹄が二段組になつてゐたこと、並に現存せる一
られた鎌倉初期の筆葛忙か1る栂尾山高山寺本の﹃東
形式と内容とを有する富木は自分の知ってゐる限りに
式は最も斬らしい棲である。而してこれとほゞ同一の
本を校合せられた珍本であるけれども、その偉宥の形
と云はれてゐる細く、鸞宿上人が享保年間に諸種の異
段組の目録に於ける誤謬が、一一段組のものを一段絶と
於ては.近時比叡山麓に公開せられた比叡山文庫肝癌
帝大彿教育年曾館で開催せられた大蔵曾の席上陳列せ
した1めに生じたことが明瞭にわかること、此等の理
の寄木である。
ろの襲師寺の戒本は、まさしく二段組のものであり、
定することが出来る。而して今此鬼に資料となるとこ
めんがために後人が之を︼段姐にしたものであると断
を一段絶と改めたことによつて生じた誤謬を犯してゐ
るが之も一段阻のものであり、然かも、二段組のもの
の脚註にょれば﹁鎌倉初期寓高山寺戎本﹂となつてゐ
次に大正戒経本であるが、大正戒経本の原本は、そ
︵1︶
由によつて、もと′∼二段弧の目録を、見やすからし
然かも栂尾本を定本として南都本とも校合せられてゐ
ることの彿敦全書本と同一のところがあるけれども.
然し全麓として考察するとき、薬師寺の戎本と餞程相
ることがその奥書によつて知られる。奥書に云く、
先年以柵尾戒第二倖宮之本脛寛之了、今年更得別
大正蔵置所収め﹃東城博輝線﹄の原本l‡、その脚
註によれげ鎌倉初期の高山寺本ヾJなつてゐて一段
五九
った様に記憶、してゐろ。故に大正裁縫本ミ大蔵曾
出品本ミ異種のものでぁろかも知れないが、或は
初期の寛ご硲ぜられろ高山寺本は確か二役組でぁ
組lこぜられてゐるが、大歳曾lこ出品ぜられた鎌倉
︵1︶
通する鮎を有してゐる。
註
本重校正之別本之中以南都典本校補注云南本者是
也、今亦橋本常人前後既経三木最足男詮本署也.
正徳壬辰仲秋既望於城西書之、
次に彿教全書本も行誠師自ら
東城倖燈録二審古書也且此書冊古驚宿上人併校尤
﹁q一︶
得其旨可珍重也、
﹃輸伽論記﹄り著者名に射すろ疑義
33J
﹁璃伽論記﹄の著者名に射すろ疑義
記憶の訣かも知れない。現lニ今見ろ=阜が出来な
いから断言は出来ないけれども、自分は確かに二
段組であつ上様lこ恩lェれ、その内容ご大正威経本
ミ相邁鮎がわろので兄いかヾJ記憶︺てゐろ。
︵2︶ 儒教全書所収﹃東城博燈銀﹄複成
五
上述の如く﹃東城停燈録﹄三種の異本を校合合勘す
るに、三木共に各々その長短を具備してゐるけれども
葉師寺の戎本は形式内容共に他の二本に比較して古型
を保持し優越を示してゐるのである。今﹃塊伽諭記﹄
の著者名に就いて、此等の三木が如何なる名裕を停へ
−
邁倫珠
遁倫潔
−
−
這倫撰
甲
−
−
00
大股苦経略記二審
丙
甲
遁倫連
這倫述
00
○■
道倫述
乙
乙
−
辞飯王経疏一巻
丙
遁倫
遁倫
−道倫︵道の字の優に﹁遁南本﹂寸ゝ話す。︶
六〇
甲
−
−
00
繋師本願経疏一巻
丙
乙
十一面経疏一巻
道倫撰
−
00
甲
−
てゐるかむ検するに、即ち左の如き結果となる。
乙
00
遁倫挟
甲 − 薬師寺蔵需本
丙−1遁倫沸
−
道倫︵道の字の傍lこ﹁遁欺﹂ご註す。︶
00
漁伽論記二十四巻
丙
甲−・遭倫
0 0
− 道倫
乙
四分律決間二巻
乙 − 大正戒経本
丙F彿敬全書本
金剛般若経略記一巻︹謂誤射篭︺
00
甲‡道倫撰
丙−−邁倫課
乙11⊥遊倫撰
或は﹁倫法師記云﹂と云ひ、或は﹁倫師記云﹂と詮き
0 0
0 0
甲 − 道倫
或は﹁魂伽記云﹂と述べて之を利用して触るのである
とし、或は﹁道倫域伽記云﹂と暮して決して遁倫とは
︵2︶
が、時にはその著者名をもあげて、或は﹁道倫記云﹂
︵1︶
乙 − 道倫
丙1−⊥遁倫
新撰大乗義章五番
倫としてゐる。之に反して彿敦全書本は.遁倫詭を以
は一定の見識なきが如く、三個所遣倫と云ひ四個席題
右の如き七偶の探求に依って勘ふるに、大正戒経本に
経じて次の如く云はんと欲するかも知れない。即ち薬
たものであると首肯しうるのである。然るに論者或は
遁と誤り苦してより蓮倫の名群が使用せらる1に至つ
ほゞ道倫と云ふのを以て正常とすべく、中途道の字を
云ってゎないのである。此等の二偶の理由によつて.
て終始し、﹃四分律決間﹄二審の場合道倫とありしを、
師寺戒の﹃束域俸燈扱﹄も.或は又倖敦大師の著述の
三本共に倫法師ミのみ云ふ。
﹁遁歎﹂と私に改めてゐる程である。之に勤して薬師
道倫の撰述にか上るもののみならす、目録のほゞ全
我は道を以て遁の字の誤寓なりと主張せんとすと云ふ
ち道倫詮を主張する者が遁を以て課葛となすに例して
文字も要するに遁の字を遣と誤り書したものを以て定
醍竺且つて考察し、薬師寺本の善本なることが理解出
かも知れない。この主張は冷静に考へるとき既に一種
寺本は道倫詮を以て貫き、唯一個所﹃襲師本頗経疏﹄
来たなら、如上の記述のみを以てしても、従来遁倫と
の肇梓に堕してゐることを窺附であらうけれども、然
本とした1めに右の如き混乱を来したまで1ある、即
稿せられてゎた名碍に勤して充分に疑を投じうる理由
し彼としては無理から氾主張である。何とならば.両
の下に南都本には遁倫となつてゐたことを停へてゐる
となるのである。然るに第二の理由、即ち停教大師が
者の立論・は共に未だ他の主張を否定すべき積極的な茸
六一
徳一と論寧するに際して障鬼に﹃腐伽論記﹄を引用し、
﹃諭伽論記﹄の著者名lこ射する疑義
333
﹃輸伽論記﹄の著者名に野†ろ疑義
料を有してゐないからである。然るに此鬼に一般に遁
倫説が行なはれつ1あつた時に、何か膵茸なる材料を
得たものと見へその遁倫詭は之を謬詮なりと否定した
資料が存してゐる。即ちそれは古来富木によつて俸寄
せられてゐる﹃法相宗法門目線﹄である。﹃同目録﹄に
ょれば.昔時既に遁倫なる名稀が用ひられてゐた1め
巻尾に壌伽系統の畢者を列挙するにあたり、遁倫と云
ふ名搭を停へながらも、後方に来つて
道倫謂鮎譜
と述べて決定的に蓮倫訣の誤謬なることを指摘してゐ
る。
上の如き三偶の理由を考察し来るとき、必然的に﹃塊
伽論記﹄の著者名は蓮倫にあらずして道倫と云ふをこ
そ正富とすべく、道の字と蓮の字と極めて相似たるに
上少、筆者の誤によつて中途より蓮倫と耕せらる1に
至つたのでもあると断言し得るのである。
謹︵1︶ 法撃秀句中本二頁︵倍数大師全集第二︶
法華秀句中本六頁︵儒教大師全集第二︶
︵。″︶
六二
守護圃昇華下之上、二三頁︵倍数大師全集第一︶
︵六、七、九︶
334
彿陀の成道宣言と停道師派遣の詔勅
等
通
昭
品・大事系統の諸倖に於てこの時価陀が優改迦に謝し
の覚悟と施行の目的を写言したと偉へられてゐる。大
平
Ⅰ特にマハーブアスッに留意してーま
第三 成蓮の宣言
て言ったとする言葉は略一致してゐる。巴利尼村椰中
部聖求経Ar甘勺ar曾sal︼pと大品とは同一にして、大事・
︵三二︶
芸11息≡l
ゞPヨtぷ琶打習嵩まヨu打tO−
Ⅵ弓くe己dbarn・e三賞。p已乞っ、
許rabFib買翠r望ま︵︼O
己al一賢覧tu‡.詑の
斯に赴く途中、彿陀の威容異常なのに動かされた一外
︵三門︶
︵三−ニ︶ 享旨晋應gP︼奉00・¢
Ar肯眉弓−﹃醤np
︵三五︶
ぎbb夢11ib一−ロsPbbPまd且、訂m・弓〓i,
Ⅵ註b2岩d−︼pmm躍uang已ittつ
Sabba孝1JO t呂訂−︻k訂yのまn岩ttO−
六三
已︼Pm旨l一事首ニ㌢uddi、巾苫学⋮圭⋮・⋮
■■● na2e苫ar︼3ptt霹
甥pロ品PC雪苫a註kp山cit
meコpエd苫te
mad山sO nleコa去j註.
e訂㌢ニOke牒−己﹀uddl−〇
仇乱弘O
彿陀の成道宣言阜停道師振蓬の詔勅
芦de竃貯炭ローi蔓︼Oka旨︼言l
ⅥaypちPb冥藍官kぶ→uddise顎a亨
P訂m義一lこ︸
彿本行集経等は之と類似してぉる。
335
道優波迦︵ヨ鼠訂︶にその師・教義等を間はれて、自ら
彿陀が彿陀伽耶の菩提樹下より初轄法輪の薦婆羅捺
’’
A訂lづl︼i弓已l抑lOke−
1−巴t己≡2p息甘ugg已○●
Sade召訂s≡iづ︼Oka∽2茸︼
A訂m−Oke写u︷t弓与−
AhPm已P⊇h削︼Oke
pr首tOぎローbOdhi≡utt冒lぎ︼.
彿陀の成這宣言号俸遥師涯造り詔勅
ヨーハ○、−︼︼ll山Ⅵpmn︼副葬≡bud︵〓lJ
已蔓︺︸遥tt試冒一︼tt彗〇.
s註b−1巴O F已nibbut〇.
●一■■●
野d弘Omemena■i︷︼箋te.
巴呂nim箋m
pm.ユFdundub︼−i雲
dt一ar⋮Pe旨r2づprP責rtp句−豊卓匂
く彗l首P棚・召gPm︼篭蜜巳
g胃C︼−腎1i内乱nP召puraき
営一a≡⋮胃akk2召ppヨtt2︷uづ−
pFanhi an︼已PdudrPbll㌻ごi.︰:⋮●⋮⋮:
ロコdl一ab−−賢藁己l〇オ琵m=宰
p昔ak帥d訂rヨ紗
p込p苗就rp召k朝p苫曇︶
我は一切勝者、一切智者なり。
t讃Ⅰ・㌫d・已空−−e葛kajit芦
j吉me
ye
Jiコ釦已m抑dr猷b一︼Onti
蝿.黒岩−−可
︼Oke葛rati召邑yP乍⋮⋮・⋮⋮・
−一♪︺
クー卿d訂pp■e J㌻p hつ三i
︸e p差掛訝雪⋮旨k−5y鳥一
jニ封−−1e pPpP㌫ ︵lh誓︼≡押
t撃−1巴旨≡l亡p各日J≡O ti
我は一切膠着.一切知者なり。
我は一切智者にて潟愛を滅して離脱し、
一切諸法に染められず、
一切を捨て.潟愛を滅して離脱し.
自ら悟りて、何にか敦へられん。
一切諸法に染められず、
自ら悟りて、誰にか敦へられん。
我に等しき者は何人もなしり
我には師なし。
我に同じき者なし。
我は世に唯一人の発着なり。
我には師あるなし。
人天界に於て
六四
33β
我はこの世に阿羅漢なり。
無上等正魔に達したり。
我は世の中の阿羅漢なり。
我は世に無上の者なり。
我に及ぶ者なし。
我は最上の師なり。
我は唯一の等発着な少。
我に等しく膠着となる。
漏の滅壷に到遷したる者は
不死の鼓を鳴らさん。
盲となれる世界の中に
今迦戸城に行く。
法輪を韓ぜん虜に
我は悪法に打膠てり。
我に等しく膠着となる。
漏の滅轟に封建したる者は
法輪を棒ぜん。
この世にて未だ轄ぜられぎる、
不死の鼓を打たん。
我は婆羅捺斯に行かん。
寂静にして捏柴に遷したり。
我は悪法に膠てり。
然れば我は、優波迦よ、膠着なり。
一切欲愛好
於諸法中不染著
我巳降伏諸世間
是故名馬一切智
永睨一切愛網羅
成就具足種種智
彿本行集経三十三
一切智馬上
云何従人畢
能席他説諸紳通
︵三七︶
優波迦よ、此故に我は膠者なり。
︵三六︶
自然得解悟
亦復無等侶
四分律三十二
我亦無有師
彿陀の成道宣言寸J博通師派遣の詔勅
337
可畏嬢野得路行
手自軌持甘露襲
自得地戒見貧窮
自度彼岸親授溺
見衆幽瞑不慈悲
優陀我最膠⋮⋮
我睨一切結
世間皆冥盲
欲於波羅捺
話天及世人
我是世無昔
世間唯一彿
明盛不着在我心
祝彼迷人應教示
見有病人不興治
而不施他是非智
若不能抜非善人
得道勝他共分用
何怪得利自養育
得轟於諸漏
雷撃甘露鼓⋮⋮
樽無上法輪
無有輿我等
我鳥世間最
浩然常安穏
不能檜長利金他
我膠諸悪法
世間話悪法皆滅
鷹雷知我伏諸怨
幽冥衆生悉今暁
我今欲轄妙法輪
是故栴我濱彿陀
我在世間亦復爾
可安之虚己得安
我無右肺内自覚
撃管甘露鼓之門⋮︰
故至於彼婆羅捺
不鰯世間世屏汚
猶如分陀利在水
身心清浄得解脱
世間塵無臭等埜
一切天人世界中 唯我能降議席衆
我今堪受世間供
永嘉一切諸有漏
一切通底皆通達 屏可詮虞己澄智
天人中唯我濁合
故我構焉眞正奪
彿陀の成邁宣言ミ倦迂師派遣の詔勅
細大闇燈作光明
於此因縁亦不著
︵三八︶
︵三九︶
諸愛義解睨
自覚無上発
白魔誰稀師
普知成就力
無等無有膠
不着一切法
自在得成無上舎
彿亦如是作法光
︵田一︶
我行不由師自然通聖道
如来天人師
謂得諸漏壷
中阿合羅摩経。我最上最膠
一切智薦最 無累無併染
雷於波羅捺撃甘露法鼓
膠着如是有
五分律第十五
唯一無有等 能令世安穏
世節夫曾轄
樽無上法樽
︵円○︶
亦復宣示過去彿勅。雷今世間知法離⋮餞除一切結
優陀故我膠
是故我蔑膠
我音譜悪法
滅壷三界漏 確破諸悪法
我至波羅捺
之等は五分律が簡単なる外は、略く各停一致してゐる
欲趣波羅捺
今得成正餐
樽甘露法輪 是天人魔梵
堪虜天人師 身口意満足
衆許摩討帝経籍七。
故競演牟尼
併可不能持
虚世濁無侶 悟正等菩提 席最天人師
︵円田︶
我今無所師
不染亦不断 具一切智力 雷降魔羅軍
而して之等の内に高潮せられてゐる思想は一切知者と
無師鴻巣と迦戸にての轄法輪への途次なることである
知世間諸法
漢評価併行讃は之等の停承とは異って、詩人として
輪。常設世間未曾有詮。
降伏罪業故兢偲彿。⋮従波羅捺歯撃大法薇特大法
⋮如是了知及得漏毒。
而して一切知者と無師猿覚の言辞の内には深き自信と
高き自尊が充ち満ちてゐる。
世間屏應開農者
同一系統に属して之を抄略したものは有部律破伶事
︵田二︶
巻六である。
我今不従師受業 亦無比類同於我
の創作にょつて麗しく韻文を以て彿陀の尊厳と説法の
目的を語って、過去彿にまで説き及んでゐる。
而於諸法無俳書
既無有人類於我
︵四五し
唯我一人善詑暁一切通運追出世
成常葉捨詮解脱 自然覚悟不従師
巳定一切智力具
煩悩如祭家
人之屏應魔
答言我無師
撃甘露法鼓
伏以智慧創
挙世無魔者
無宗無師勝
以昔萱弘誓
無慢不存名
是故世併構
我今悉白魔
自悟甚探法
不満名義士
度藷未度者
亦不求利柴
名之償最膠
是故名正餐
待人所木得
沸併行讃轄法輪品第十五
所以自然魔一切 如来天人大導師
常詣波羅捺
扶潜苦衆生
雷財自供己
律戒ではないが、之と同一系統を示すものに、次の
我今巳具知
唯虜宣正法
首途其本願
︵円≡︶ 過去現在因果経巻第三
如きものがある。
我今巳超出一切衆生表
不染濁水泥
誓巣成於今
微妙深遠法
三毒五欲境 永断無飴習 如連花在水
降伏大力魔
六七
以清浄智慧
自悟八正道 無師無等侶
併陀の成道宣言豆倦道師派遣の詔勅
即
如燈照幽冥
疾病不救療
乗利於天下
穴中風自然
無心而自明
何名馬良腎
乃名大丈夫
穿地必得水
如来然慧燈
見迷不示路
臨危不磨溺
而樽正法輪
此管理自然
無請求欲情
執云善導師
量云勇健士
傍陀の成通宝言ミ倦道師涯遣の詔勅
螢犠必得火
亦同迦戸団
︵四六︶ 閤−一二︶
一切諸牟尼 成道必伽耶
︵西戎謬十五▲
大乗の彿博文献である梵文普曜綻ばこの場合に於ては
PP︼i︷aま∽t已・a︵lJeP︼写Ⅰ︼会ひ・e
原始的の巴利停をさして出でてゐない。
︵四七︶
Ac賢一10na已l莞訂計i†ⅥPdT㌢ヨe na5.d竃te−
ekO︸−︼PE・説︼l︼iⅥaコ︼buddll小計恥itibビ芝O ni−・乳rp■ph⋮:⋮
A訂m・e㌫rPF壱−Oke恥邑卸−1y−已琶nl・巨象t彗風︸
謬de息芭r品呂d訂r詫n畳i−−−e勺rPtipu厨巴阜●⋮⋮:
Jin師ざi m監弘釦j官署句e p︼・昔t掛獣rp遥オⅧpy巴叫︼︶
ji㌫m2官ち雷d−−巳・⋮ざteコ〇p義宅l︼○首・a訂召.
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く腎首鼠−づgP2笥2m gptま雲〓ハ乳iコ釦づpur叫プ
くざ誉a意l g萱︼笥冨己g已a召i内談iコ茸一pur苫−
㌢b計︼︼in現苫︼○−ハ観望−思量i苛eぎ豆乳uコdubbi∃●
ゴ貫首乳首g昌一︼笥aヨーg已品召i内乳in訓召pur首−
dl一弓mpC‰⊇召pTa召rt首罵−○灯e瑠・ppTp牙彗tぎ寧
六八
何ものも我に教師なし。
世無輿我等
我本無有師
韓法輪品第二十六之一
我に等しきものなし。
於法白熊魔
方康大荘騒擾第十一
我は寂静に任し
我に比肩する者なし。⋮⋮
人天秤乾蓮婆中に
我は無上の教師なり。
我はこの世にて阿羅漢なり。
我於世間
眞阿羅漢⋮⋮
雷度一切
無上導師
我展世間
無漏なる唯一の彿陀なり。⋮⋮謹清浄無痛
漏轟に遷したる者は
悪しき法は我に打膠れたり。
煩悩悪法
波除一切
等しく膠着なりと知るべきなり。最馬殊膠
それ故我は膠着なり。⋮⋮⋮
我今欲径波羅奈腰苑中
我径波羅奈
食諸富冥衆生作大光明
我虜正琴︰
波轟捺斯に行かん。
迦戸城に行きて
暗闇に歴せられたる世界の馬
等しきものなき光を造らん。
婆羅捺斯に行かん。
日的を間ひ、彿が之に無師濁魔の境地を説明するのは
威容安諦なのに驚いて、盲爆の如くその師・法・施行
虜盲冥衆生
極めて至富のこと1思はれる。多少の修飾はあるにせ
於鹿野苑中
聾を失へる世界の寓
撃甘露法鼓
迦戸城に行きて
不死の鼓を打ち鳴さん。
よ、古停が大鰐史的事茸に近いものであることは頒か
多くの彿停は優波迦︵Up巴且、普曜経では阿字婆︵貪.↓P︶
れる。但し遭遇した人物に勤しては巴利俸・彿併行讃等
韓屏未骨轄
因縁辞では者召kpgPkp、大事ではg欝5寄言訂、五分
婆擢捺斯に行かん。
この世にて嘗て樽ぜられたることなき
無上膠法轄
迦戸に行きて、
法輪を樽ぜん。
︵円八︶
に遭遇したことの外、何
而して之等の写言に於ては彿陀の優悟内容に謝する
等の異説がある。
律では優陀邦吉d首㍉彿本行集経では優婆伽摩音義書臼
律では優波考婆言与⊇羅産経では嘩陀一旨首㍉四分
︵四九︶
生として彿陀の面目躍如としてゐる。而して之等の言
確き自信と、倦遣に射する熱誠とが十分に伺はれ、生
類が最も古俸であつて、逐字的にもよく一致し、過
語思想は彿弟子に好まれ、又彿陀・彿敦を説明讃嘆する
︵五〇︶
に好箇の章句であつたと見へ、彿典の各虚に採用され
︵五二︶
十一、巴利尼何耶中部牧牛者経最後侭文、中阿含龍象
︵五一︶
てゐる。巴利檜一阿合川品二十三経、中阿含世間経二
而してこの説話に於て彿陀が迦戸への途次、何人か
六九
経の正発生人間の侮、同無常経の無稟第一柴、別澤雉
彿陀の成道宜言寸1博通師派遣の詔勅
に出曾ふのは雷然であり、其等の人が彿陀の成道後の
て、最旦日岡き軍淫を示してゐる。
行讃は之等に基いて更に思想的に文畢的に進展せしめ
去現在因果経・梵文普昭経類はこの系統を引き、彿併
この優汐迦への写言に於ては大品・大事及び四分律
等の章句の記述もない。彿本行経は全然記さない。
因縁諸には署召kP言已ハp
れてゐる。
この部分は漢詩普曜経梵天勧請品第二十三には削除さ
34J
七〇
弟子を四方に凍遺し、衆生を救済せしめんとした。こ
キ
阿合婆羅林経の汝実名彿陀・同婆膏婆踵・馬鳴著大荘厳
の時に雷って彿陀は彿弟子に向つて弘法の覚悟を宣言
彿陀の成邁宣言ミ修造師振替の詔勅
論経第六壷巌経羅摩、牧草に暇なき程である。
した。凡情を以て考へれば、迦昆藤城出家・迦戸への
彿陀は婆羅捺斯郊外の鹿野苑に於て初めて法轄を樽
ちて抱負と歓喜に躍ってゐたことであらう。この弘法
せんとして、得意滞面、宗教家としての希望に清ち満
唯一人の旋程に比して、今や六十の比丘を倦遺に浪遺
じて、惰陳如︵只呂且iコ苫︶等五比丘を教化し、頼いて
告勅は原始的のものは巴剰律戒大品と巴利尼何耶建部
第四、倦道師派遣の宣勅
城内の長者子耶舎︵ペ乳邑を初めとする五十鉄人を教
備品に存し、異謬彿本行集経は之と一致し、梵文大事
タ︻uttO㌔写J−b己k−ハl一日諾㌔pbbppps箪⋮
ye
連声rlpp乳et−i︸edi七甘
巳uk︷○㌔P蔓−b≡雷雲与−
ソIHll︼甲ヨ左l〓.1.亡ごり
雪喩霹は之を抄出する。
化して.出家荷造せしめ、之を教導した。かくて彿陀
︵五五︶
り斤 の敦圏は六十の阿羅漢を得た。弦に於て彿陀は之等臥
︵︰几n︶
己Pl−晋aggp︼・−︼︼−
罵︵芽b抑罵Cp⋮糾n−1Ⅵ抑■Tum︼1e p−
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34β
︵︼esethごb≡kkl−P莞︸dh冒︼ヨ冒l
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許nt㌣b已k雷Y昌、邑忌巴p守
b↓Phl巨C誓竃蔓p巳昇各戸
藁Pづ巴岩t卸db巴:︼︼aSSp
比丘等よ、我は人天の︼切の縛を解脱したり。
才巴・d訂r古山留卸召p乳荘篭邑−
rよpPp弓旨晋音詩動乱r雪占守
比丘等よ.我は人天の一切の縛を睨したり。
比丘等よ、汝等も亦人天の一切の縛を脱したりっ
︵︼l−pn⋮l競Ⅶp p団問巴抑;.
p詫i試箋邑−bbPエ珍琶ti
比丘等よ、汝等も人天の︼切の縛を脱したゎ。
比丘等よ、巡遊をなせ.大衆の幸福の男に。
大衆の安楽の璃に、世間の憤怒の褒に。
人天の利金の為に、華南の展に、安楽の為に。
同一叫割引二人して行く勿れ。
比丘等よ、始も善く.中も善く、終も善く.義あり、
汚れ少なき生を受けたる衆生もあり、法を聞かざるが
聞かぎる故に法に速去れり。
比丘等よ.汚れ少く見識ある生れの衆生もあり。法を
文あり、特に完く、渾密なる法を説け。発行を明かせ。
故に薗灯速去れり。
徴笥嘲法の借受者とならん。
彿陀の成道宣言ミ博通師振遭の詔勅
343
彿陀の成通宝言ミ偉遣帥泥道の詔勅
七二
彿本行集経教化兵賂品四十三上
汝諸比丘。岩音知我巳得好況。應於一切諸天人中汝等
︵五六︶
天及於世間
行行。翁令多人得利金故。薦令多入荷安楽故。慮世間
四分律三十二
我今一切解
天及於世間⋮
︵五五︶
汝等一切解
故。旗受彼故。常虜説法初中後書。其義微妙。具足無
須二人。又復比丘汝等若至他方衰落。焉於多人生憤怒
汝等人間遊行。勿二人共行。我今欲詔優留頼螺大格付 求富来利金及安楽故。若欲行至他方釆落。濁自得去不
詮法。
有部律破伶事六
爾時世尊貴諸芯翁。我今輿汝。於一切天人繋縛之中。 駄。汝等比丘。常設梵行。有諸衆生。小諸摩垢。薄於
相。
而得解脱。汝等各可随話語方。虜諸衆生作大利益。且 結使。語根成熟。恐畏不碓得聞正法。帥不碓得知於法
命汝等各各而径。
併営比丘。我従今日漸首移去行向優婁頻螺果落。詔兵
是故汝等比丘輩
節有多人苦未除
比丘我今度諸苦
欲向原螺来港屏
各各宜應濁自行
今須度其作憐怒
巳作自利復金他
勝村。而馬彼等説法敦故。爾時世吾郎詮侮言。
我今亦復従此移
豊
この内大事は簡略にして大品に全部は一致せすの、
み四
である。反って彿本行集経が大品によく一致する
行集経の原本は現存大事でなく、既に失はれた異本な
分律も亦大品に一致せず、韻文のみを保存し、巴
尼分は彿本行集経は大品によつたか、或ひは彿本
こ利
の部
︵五八︶︰⋮︰ 何邪恋部と同本の雉阿合三十九は極めて簡単に讃する
344
過去現在因果経四。
︵六一︶
を引くものであらうか。
︵六二︶
汝等己度苦
賭然清涼安
世に成ったと考へられる故に、恐くは彿併行讃の系統
のであらう。之の俸承に椅ヱ一致するものは次のもの 他に於てもよく彿併行讃に類似し、その影響の下に後
である。
︵五九︶ 衆許摩討帝経第八。
我従無量劫束勤行精進。乃於今日得成正餐。正偲一
切衆生解語緊縛。汝等今日悉於我鬼得間正法。漏壷 衆生沈愛欲 受苦可憐傷 郷等宜慈怒 諸方宣化度
解脱三明冬通常己具足。天上人間離其緊縛。可輿衆 彿本行経上パー叱汝等己度苦
瞭然清涼安 衆生沈愛欲
受苫可憐傷
郷等宜慈怒 諸方宣化度
生馬最福田。宜行慈懲慌線利発。所言未着。
而して五分律・普曜経諸本は弘法宣勅について何等
記してゐない。普喝経は大乗の彿偉と稽せられながら
之等に比すれぽ、彿併行讃は趣旨は同じであるが、
章句は全く異つて、簡潔、要を得てゐる。
堪受一切供 精紳を宣揚高潮し得べき磯曾である弘法宣勅を記述し
彿偉中最も大乗的な記述の一つであるべきー香、大乗
原作巳畢克
︵六C︶ 彿所行讃十六。
汝今巳襟度 死生河彼岸
久無数養育 ないのは、故意であるか、或ひは不注意の失念である
之等の弘法宣勅の内には自ら救はれ、他を政はとす
か、諒解に苦まざるを得ない。
衆生苦俄然
汝等各猫蓮 哀愁而硫受︹戒謬十六二一〇︺
各應於議団 度語末度者
︵六一︶
然し、共に自らは解脱したるを以て、迷へる者を政
はんとする慈悲心が現れてゐる。馬場の詩のこの部分 る愛他的な大乗的の熱烈な停道精細が燃へ、更に自ら
は之等古停に基いて、更に詩人の心情に融合されて、 の獲得した正餐への自信に充ち満ちてゐる。而して大
創作されたものであらう。過去現在因果綬四・彿本行 品にある如き宣勅章句に逝き写言を彿陀が彿弟子を停
七三
経十八は彿併行讃の其に甚しく類似する。この二経は 遣に涯遷するに雷って属したのは、恐︿十分な史的事
併陀の戊碧且言ミ博通師派遣の詔勅
3卓∂
彿陀の成遭宣言ミ博道師渡遣¢詔勅
賢と考へてよからう。
彿陀はかく宣して、自らは迦菓︵声乳箋pも兄弟を救
買旨ぎ義習︼︶〓︶柏
済せんために優婁頻蝶︵已⊇互一t卸︶の兵賂村︵S菖gぎM一︶
︵六四︶
七四
に向はうとした。若干の文献はこの時に雷って陛羅
CF呂dO
C舅ati⋮馴n諾p膏t雲a
︵芝野且が現れ、宣教を妨害したと偉へる。
宣軒貫首莞tuチふ衰
出已d’○︸乱Ⅵabbpp訝eE
Al≡1ktO⋮呂句宏2⋮uktO−
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競F−︼︼e−初音l名田ーmOEハ訂si.
呂1−tlつ、1−冒−∽pbbpp馴致−i
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pntpkP
p音impづ
t■pm翳i
eヨlづj釧n巴−i
niF芝O
3ぅ蛤
魔
汝は解脱せざるに解脱せりと思ふ。
されど何故解脱せりと思ふや?
魔 汝は人天の一切に縛さる。
汝は大なる綱に縛せらる。
我は人天の一切の縛を解脱せり。
沙門よ、汝は我より耽れ得じ。
汝は退き縛に縛されてあり。
彿
悪しき者よ、かくの如くなりと知れ。
死よ、汝は亡されたり。
まこと我にて退き綱は汝の心を挿せり。
それにて汝を挿すべし。
沙門よ、我を耽れ得じ。
五欲の群の世界にて
意識は第六なりと知られたり。
そこにて我は欲は離れたり。脱落したり。分離し
亦同語天人等有
七五
かくの如しと知れ。
汝為譜縛之所得
汐門汝不睨網羅
彿
魔
汐門よ、汝は我を睨れ得じ。
彿 我は人天の一切の縛を耽れたり。
我は大なる綱を脱したり。
死よ、汝は亡されたり。
魔 縛は宙にあつて満ち亙る。そは心を挿す。
我は此を以て汝を縛せん。
沙門よ、汝は我を睨れ得じ。
彿 色聾香味鱒は柴むべく、又意を柴ます。
而も我は慾より離れたり。
死よ、汝は我に亡されたり。
たり。悪しき者よ
死よ、汝は打亡されたり。
天及於世間
既被一切縄所撃
彿本行集経三十九
我巳脱一切
天及於世間
四分律三十二
汝亦眈一切
彿陀の成這宣言さ停道師派遣の詔勅
3塵ア
以是随逐汝
汝内有結締
一切繹得脱
我脱於諸繹
一切衆縛縛
汝楚諸縛縛
意識馬第六
汐門不得睨
心在於中行
我今己膠汝
天及於世間
沙門不得脆
天及於世間
我今悉己一切除
一脚色聾香味解
我此諸滞欧離身
我久己睨一切縛
降改悪魔波旬諾
此是五欲法染人
降汝波旬更何道
天人併有我悉無
併陀の成通電言ミ博道師渡遭の詔静
世間有五欲
我今得膠汝
己能解脱諸
三つの彿陀の弘法写言に於て、我々は次のことを結
第五、弘法三軍盲の史的言語的思想的考察
遺の眞精紳が躍如として伺はれる。
かくして弘法宣勅並びに摩羅への宣言には彿陀の停
ゐると思ふ。
詭話を出す文献の極めて少ないのは、之を真書きして
☆
常欲解脱於何人⋮︵散文︶⋮我於天上及人間
我於中無欲
︵六七︶ 衆許摩討帝経第八。
汝今白魔大緊縛
汝之罪魔不能破
汝解脱相非解脱 得此解脱非汐門
緊縛 乃至無拳雛祭縛
之は宣法妨害者の誘惑への断乎たる拒否・読取であ
らうっ彿陀が﹃自己の使命と自発とを自己の信者と敵と
︵六八︶
に宣した﹄堂々たる膠別の写言に外ならない。然しな
がら、之を直ちに史的事賓を考へることは王肯し薙い
この摩揮も非彿数的なるものの象徴化であつて、一種
る事に於て、彿教の立場を明示したのであらう。之の
の彿停作家の構想と考ふ可く、之を彿防が断然距香す
普
34β
統に属し、南書は巴利尼相補の諸経とも共通である。
語的によく一致し、後者は前者の系統を引くか同一系
であると言へる。而してこの間に於て大品と大事空言
ものが、彿併行讃・彿本行経及び普曜経類の蟹澤彿倖
る彿敦教義に影響され、進展した彿敦思想を加味した
帝経等であつて、之等に基きつ1も更に、既に牽遷した
のが初期の彿停−因縁謬・過去現在因果経・衆許摩討
大隈に於て、之等に基き簡略にし、又多少敷嬉したも
境に略⊥近く思はれ、修飾も少いものであつた。而して
が根本的原始的の苗停詮であつて、彿陀の言説乃至心
は系統を引くと思はれる四分律・五分律・俳本行集経
巴利尼何耶諸経及び梵文大事誓喩詳並びにその異謬又
通じて、彿樽思想・彿博文献史的には先づ巴利文大品
我々は宣法躊躇・宣法決意・停道草言・弘法宣法を
思想或ひは停道精細を伺ひ得るのである。我々は彿陀
思想的にはこの教偽の内によく彿陀乃至彿敦の偉道
文には到底扱ひ得ぬ併故、之を割愛することとする。
り、一般諸氏に興味少くして、且長大となり、この小論
立の晰究題目をなし、繁煩・考証的にして表解的にな
本資料である。然しながら、之の部分の研究は更に猫
多く.巴利語と彿敦梵語の比較研究には紹好無二の根
大事には巴剰文語経典がそのま1梵語にて現れること
於てよく逐字的に一致するに於て倫吏である。一般に
如く、大品−・一−二四と大事三・五九重由六六とに
の部分のみに止らず、ウィンディツシュが既に比較した
肝極めて多からう。殊にこの雨音の逐字的一致は前掲
て、畢譜・文の構造・文章論について曹明碑盆される
封照するならば、巴利語と沸教梵語の比較研究につい
大事の彿教梵語との各相雷重要語を揮密に丹念に比較
言語畢的にはこのよく一致符合する大品の巴利語と
彿本行集経はこの部分に於ては少くとも略々思茸に梵
の自らの自覚に謝する確信と衆生を慈愛する蝕りの燃
諭し得る。
文大事を澤出してゐるが、時に大品により近いことが
へるやうな愛他的な停道欲求を十分認めることが出来
七七
あつた。中に於て彿併行讃は文畢的に断然光ってゐる
悌陀の成道宣言与信道師派遣の詔勅
349
併陀の成道宣言ミ博潰師泥道の詔勅
る。之は葦に大乗的精神であつて、菊鹿的な小乗的る
な。
濁書的憩度・思想とは自ら異ってゐる。唯、之等の文
七八
︵彿生二四九七・二・三︶
献による限り、法の男に法を宣布する、法を永腐的附
に記倦
。本稿を草するに雷つて、windぎ訂bi¢声音pOSitiOn
承せしめる為に弘法するといふ貴大乗的な思想は伺d
は袋呂p−−牙邑uと共に、姉崎先生の勺Our宮ddbi乳紆冒a皿
れない。然しながら、之等の思想は原始的巴剰大品i
よnCbin篤と﹃現身彿と法身彿﹄とに碑会される靡多か
り大乗的な梵文曹確経に至る彿敦思想の進展・菱遷っ
過た。二十飴年前に属されて、かく立浪なるこの博士の
程を具象的に示し、之等の宣法思想はやがて大乗の業
弘蹟に勤し、深き尊敬を以て深謝する次第である。
法思想に凌達すべき立涜な大東的な萌芽であつた。殊
︹註︺一、詳亡くは、参照平等通晴着﹁梵文彿序文畢の研究﹂、
第四篇彿博研究方針l二六1一三八。
召︼■‡●∽−♪︼㌔ri仇、
竃⊇︼・1.−ご∴訂ndOヱー000000.声哲口胃t.Feヴ㌻試Y邑u
サぞ許n︼苫ttP−1詳葦p塵=・く●Treコ争1er︰冒誉訂邑kp
二、○︼denberg︰≦nagpづeさ呂abぎ臼ggp︼−忘・書言〓●p●
に停遣師漉遥の宣劫の如き、基督の十二使徒に射する
偉道の悲壮皇且貫聖フランシスが一度集り来った偉
道師を更に関数他に出委せしめるに雷つての告別の言
葉等と比較する時に、聯かの遜色なきのみか、その慈
it雪ist賀Åp・巴81i
pb11詳苫2︸l︵繰返Lて︶。
て説明すろ。然L、共に意味は不明であろ。己i︷r巴トpl・
三、賀買訂ri苫か彿音︵冒dd訂争○且ほ呂u・胃C訂r⋮苫lこ
愛、その従容安事たる落着いた態度に一段の力強さを
感ぜしめるもののあるのを感する。之等の聖旬は彿陀
七a。
なき後も恐らく永く彿陀の檜園に於て弟子等の間に感
四、四分律第三十二巻、大正威繹二十二巷七八六玉、列五、
激と法悦とを以て思ひ出され、語り合され、語り停へ
五、悌本行集霹、大正蔵経三・八〇五C、辰八、四八b、
六、五分符十五、大正裁縫二十二、一〇三C。張一、九〇a。
られ、彼等の難難なる偉遺に苦っては彼等を永く力強
く慰め勤し、彿教の宣揚に役立ったに相違ないのであ七、Ar篭m註酔夢眉﹂嘗ikぎ馴1山︼どぎtす雪監in笹.冒︼=言壷dF苫d?
、3∂0
Se−一a−・t︰lしe少︷Pナ脚づpS︷u・Aづad釦l︼P I.柏.
恥i罫Ⅰ︼ぎl p息beコPさーp︶1Pp官k観yp宅a試ヨ誉駕巴山.
八、根本説一切有部尾奈耶破借事巷第六、大正戒霹二四、一
ニーB
一讐参照平等邁昭、﹁梵文彿博文撃の研究﹂一〇三−一〇八
言、彿本行経降穿品大正蕨経四・七九A。戒七、一九a
J抑邑︻已.00ー
出√Hぎ已ds︰TFe
三ハ、過去現在因果経三、大正戎経三・六四二C
一九、普曙経商人奉麹品二二、大正戒経三、五二七八A
一入、訂ぎ冒n︰l﹂已i︷雲is︷宅㌘p・笠ごチータ呂○︼−2こ筈柏・
出uddh訂t呈rtrStOr山現p.空茶−どnd昌・
一七、句呂Sb巴︼︰The
一〇.埠阿含高峰品、大正戒樫二、六一入AB。良一、五九b。
云、方廣大荘厳経大梵天王勧請品二五、大正戎経三、六〇
九、埠阿倉掛請品、大正戒揮二・五九三B。炭一、三九a。
〓、併所行譲十四、大正政経四、二八B。
我昔無量劫修行
方能得聞生信解
一切諸法本性豊
夫待究蒐無生忽
不可説有読非有
於 我 衆 時謂 使 徒有 有 英
雄 如 生 怒本 以 諸 君君 国
垢是政 真野逮俳無無線
方廣大荘厳大梵天王勧請品二五︵大正戒寧ニ、六〇三A︶
於多劫中倶養併
常親諸法無生滅
韓今今昔是慣 自 著著徒
三A。
三、西戎語講和課寺本碗雅氏併所行話中七二1三。
三、CO慧︼l︰The出udd︸−宥≒i︷P珂l↓宗・ヨ︵p.︼諾・e︸○舛冒1d●
其斯知識
非有無非亦復然
国 衆 勤衆光 有 法 科 生 有 衆
三、普曜繹商人奉陛品二二︵大正戒経三、五二八A︶
過去諾彿
我於今者得究克
見請衆生晶生死
作俳名戟繹迦文
彼亦無有
汝於来世成正餐
故超大悲而度之
然燈如来授我記
或雷度特徴妙法
世間衆生有可度
梵王若死勧請我
今我所得方究覚
彼亦不念
書前世時
亦無毒命
衆生無命
授我此慧
乃轄法輪
来相勧請
以相勘助
乃解紳我。
不知是法及非法
計於此業
費 下我生併生 忽 限老法 生
彿陀の成這宣言ミ俸道師振遣の詔勅
錐於彼時己琵法
皆従因紙
億官干却
未曾速獲
得是法忽
無音我法
無限衆生
感動梵天
清浄正法
薇妙正法
衆梵使不 時亦如 不 而悉皆
二ニ、大般埋葬経、炭十、二二a
生一天 彼令定無是 可 輿無渇
3占∫
悌陀の成通宝言ミ偉道師派遣の詔勅
八〇
草津蒔博労
紳坤轟+由︵温−.芸風.印渇国対戸︼悪C・き′・
諦詩薇遊軍
平澤討禅血
p馨︼Tpぎ乱景品乱b芸−p亡bl︶の
童、写話者買ニーひ−ヌ苫︼・︼≒8
毒顛ヰ鳴声評
顎壷〓よ嗣3
咤河咄専謎
諭灘菩遠藤
諦繋藷諺露
沸幹蒲樹義
dh冒l≡○峯ldd−︼○彗−一︼已e己︹㌻ti︷○−
Ⅵ一lコ≡一↑ll dh己︼昌一己︼︶↓i己已el︼釧−1ubt乙dhpm
朝常格錬認
⋮噂ぢur︸已2−1竺1已pⅦ彗d孟.・・写−
等lハ野鼠nn冒こanPt望づ⋮童叉誤OkO
諾恥韮鳴軸
︵円熟M珂−ヤー軍書
弓eklハ訂岩j警告→欝h詳試t竺づ
l三he三∵まrp孟i官p蔓gamp
鞄菰慧空窃罷
高潔雄琴零封3
S已t琶︷p︶
︵冒Pナ≡且巴甲
P︶rt弓−dP乳d明知Stede︰欝−小
renOun鳥One√監t弓︵p・∽爪岳︺﹁信仰か捨てる﹂
ニ八.五分律十五、大正戒鮭二十二、七〇四A。張﹁九〇a
宅、四律分三十二、大正戒経二十二、七八七B.列五、七b。
く、投げ糞てろ﹂。
Chi−ders︰吋已i同ロg︼ぎせietiOn弓y・︵p・絵8は﹁貫ふ、解
。tO
字一glぎ望ctiOnar句lェSPddba⋮ミ共lニ熟語lこなり、
召ggp︸p・00∞でl‡。t〇詔コd
ニ六、ppmu男l
ptuppヨu許已l−1‡D§ids詳01denberg視試P罫・
多′\出づ。特に尼何部島部一、梵鋼裡
孟、彿溶暗l二於けろ六種外道・六十二見等︵阿含聖典等に
認薗沖叫窃啓詳 浮説詳音痴諒軸
s已tllpatlp冒pJa まc雪p lOke.
劉碧稲潟両幼紳 藩洋ヰ詩碑高言
r已it雪乳罵声舛舛く・可︵p−∽冨︶
づ阿dO b辞bb申5︸∽2︼l⋮乙芦ir・5.CiコtitO
︵亡︼弓≡○、まぎddhO巳薫pd訂雀p智ヨ蔓
讐口裏コti d訂rm巴せま≡alenp budd㌻叫芋
空lき握∴戸neこPd・ま■召叫瑠a d畠r′雇︼
害p富く琵tll再●平岩︶︼○巧
ワ・ひdur一己岩乱Ⅵ2−︼已e︼l−c㌻titO
dhar巨O P芭d︵−hO害ぷPdhe朝1−p寅吉ゼ
SrnOn︷u d訂rn︼巳せさ︼︼巴許ubuddba乍
ヽ
ロp腎首−つtep日ユ笥yPd品−alプ
二四、悌併行講十四、併本行経其他。
3∂2
蓋、同本S●呈p●ヨーーコ山、≠P
c♪
宗⊇tt旨p−−柑、p.〓ド
三六、四分律三十二、大正政経二二、七八七C、列五、七卜
完、説一切有部毘奈耶破慣事六、大正戒樫二四、一二六C。
三〇、訂r≡呂コ︰訂︼i︷pT賢彗P︶p■含○、︼00︸己已︼e、−害旭●
三七、彿本行集種梵天勧請品三三下、大正威経三、八〇五重
天、=の四旬は大事三二二二七、二にみり、蓮華響喩の次
辰八、五〇b
三、方贋大荘腰経大梵天王勧請品第二十五、大正政経三、六
〇五A
にぁろ次の四旬に相賞するか。
Ⅵad・ヨ打︷雪盲づCp写忍竃︷山−
pb−姜茸琶か詳言宏t巴芋
波迦︵亡p註耳︶の外異説多﹂。
三ニ、持寄の迦戸途次に出合へろ一外道の名l二ついてほ、優
三三、○︼deコbe︼・g︰.5n董a.re諷●己已−腎義gP∃l●lt p.00.
t琵m註占h臼蔓﹀亡pPkPこillO●
prp試︷雪苫膏pral︸叫Il已宰コーe−
昌、T−■e︻lClハner︰已鼻盲n−pヨ一身さ∃︼﹂●ワーコ♪ど乙On、
−000000.
寸J大事三・三二六、七ヾJにぁり。
害ab腎邑u寧∴鍔Pり.
呂〇p2npコ■巳首yate、
竹芝1草子r昇2づ箋︷h釦づar膏︼つ
e⊇Ⅰ叫こOkeコP︼ip甘m山、
i↓・∽戸
完、︰れに相嘗すろ巴利文は堵一阿含四、三大︵二者三九頁︶
A厨l︼tarpけ崇−ハ葦P
tO︸e−1pup已首p註
︷篭m註・a訂m︶
弓uづ告r芽ぷ了竃tF釧ヨ謡l−
npup已ipp抑m〓つkeコ叫∫
ヨ写−ロ旨邑t召pi且it与p已ヨ○
亡pa訂−J訂テ
tpⅥm射出uddFO−sn︼i.
四三、過去現在因果経巻第三、正戒三、六四三C。
Jnanロ巷raⅥi堅ゴb11望○、︼lup已官010︼ハ已h弓≡Pコ一,
訂︼itp5.St弓P︵訂P−Pコn.p.∽諾︶
四〇、五分律第十五、大正戒経二二、一〇四AR。
四四、泉許摩詞帝経第七、正成三、九五三お。
買、寺本娩邪氏西歳語詔邦謹彿所行讃中
八一
望.彿扉行讃相法輪品第十五、大正蔵経四、二九A。
四︼、中阿含羅歴程、大正戒経二、七七七b。灰七、七五a
本文の順序、巴利文ミ多少前後す。
竺、有部律破僧事怨六、大正戒経二四、一二七A
悌陀の成道宣言ご信連師派遣り詔勅
∂β3
彿陀の成適宜言ヾ1偉遁師渡遣の詔勅
八二
六三、彿本行繹十八、度習癖品、大正鹿経四、八〇B
竺、過去現在因果経四、大正蔵経三、六四六人
行讃に現れた俳停、一二五−三︼九。
経特注輪品第二十大之一、正戒三、六〇六A
四七、トeFprロ︰Ⅰ−巴it鼠洛雪aこ宗・のHa︼leこ害旭.方慶大荘厳
宍、普噸経梵天勧請品第二十三、正歳三、五二九A
ぎ鹿ga●︸●〓●嶋.︶
貿∴戸口邑ds︰The出己ddbis︷崇rtJ S︷Ori声p二g可● 歪、○−d昌berg︰≦m箋ヨtakP試pb雲.aggp︸●p.誓︵寅aア
歪、四分律三十二、大正戒経二十二、九七二Cl三A。列
五、一二弘
辰八、七四a
美.彿本行集経三十九、教化兵絡品、大正戒経三、八三六人
雲、衆許摩詞帝渾第八、大正赦経三、九五七ん
六人、姉噂正治教授﹃現貞併ミ法貞悌﹄五五月、
後記。本稿は第二墟併載﹃彿陀の初期博通生活に於け
︼諾︶−C︹SP層雲ttp崇k首こ卑諾−■︵言LI●p●這︶、雑阿
吾、A身uttrp誓罫苫Ⅰ・p一望同文Iti言tt料P〓只p.−琵・
含︵辰三.五二b︶
至、GOp巴akP︵C已a︶言l↑ニッ相当一雄阿含四七︵辰凶、七
空、正戒二、六四九C月、庚六、六九b。
三b︶
彗.天十一、cト竹野p.苫コaく●−P︵p.望?苫J
彗、参照姉崎正治教授l﹃法貞彿ミ現貞彿、﹄四五−由九。
読者諒之。
上の都合により分載し、別の題名を附したものである。
る三宣言文に就いて﹄に含まれるものであろが、編輯
畠、己p試竃gga1−Hこ●01del]berg︰≦np箋Te致.召︼.−.
−宗−︼票︶
p・望−箪S巳ヨut−pヨk昔a−ヤー.P﹁訝a︵壬l﹂.p.
重、四分律三十二、大正蔵経二十二、七九三ん
C−六A。
真、併本行集綬教化兵渡品四十三上、大正戒攣ニ、八三五
悪、有部律破僧事六、大正戒経廿四、一三。A。
天、雑阿含三九、辰四、二七。
否、併所行請十六、大正戎押四、二八
莞、衆許摩討帝経第八、大正蔵経三、九五七ん
≡、参照、平等通昭著﹃焚文彿博文撃の研究﹄、第四薦俳所
354
耕
也
あつたが、今から三十数年前、寺から分離したのであ
る。之はもとやはり束樫山にある繹宗天福寺の壇徒で
田
末期にある黒崎地方の奮切支升
菜園の崩壊
末期にあろ黒崎地方の曹切支丹
︵一︶
最高樺威著聞の葛藤に裁断を輿へる人はある可くもな
氏が一計を案じ、一方の部落の日繰を取上げてしまつ
せんとしたのであるが、一方の部落の者は此不法なる
八三
此外に、寺にも神政にも一切閲係なき者が三十六戸あ り上げられる前に、逸早く罵し取っておいたとかで、
に小数の眞宗の徒と神道の徒とがあるが、下黒崎には 年々の供養を覆せしめるに到つたのである。日操は取
此地方の膏キリシタンは、大部分表面滞宗を奉じ、他
虚置を快しとせず、右某氏への反感は遽に寺に謝する
物語る種々の事賓があらはれてゐる。
承するか香かは疑問である。現に制度や信仰の動拓を たと云ふ。之によつて南部落を一人の帳方の下に統一
ない。之等の青壮年が老年になれば.再び此風習を停
ゐたものは、殆どオラショも知らず、集合にも出席し い。然るに天福寺の世話方をして居る此村の有力者某
遷は、或は敗年着でも永く他地方に俸給生活などLて
守つて居るのは、今は少数の老人のみであつて、青年 り、何れも自説を固持して動かなかつたが、宗教上の
本誌七月境に其概要を述べたが、之等の停統を恩賞に 即ち、下黒崎の二人の帳方の間に、日操の不一致があ
黒崎地方奮キリシタンの制度・祭儀等については、 って、その分離が此宗門の制度の動拓を反映して居る。
3占∂
末期にこあろ黒崎地方の蕃切支丹
と、カト∴リク側では考へて居るのであつて、英日線の
保存と共に、此地方のキリシタン存碕の二要因である
間にも見られる事葦、この日練はコンチリサンの略の
とは考へられない。日操の不一致は下黒崎と永田との
との願望が内にあつて、そのために寺から離れたもの
ものと見る可きで、キリシタン濁自の信仰を完ふせん
れらの事情が日操の不一致を機として.表面に現れた
の貧しい財政と、之に同情する世話方とが存在し、そ
一方、か1る壇家によつて支持されなければならぬ寺
描を寺から課せられる事の無意義なるを思ふ暑があ少
タンの間に有名無膏の俳教徒として、年々幾何かの寅
此分離は偶然の出来事ではなくて、一部の奮キリシ
は早晩滅ぶべきものと考へ、之を維持する事の無意味
寺の財政忙謝する同情もあり、又奮キリシタンの信仰
の間に配布してゐる。氏の言ふ併を綜合すれば、天福
曹洞宗常用聖典なる小筋子を天福寺より購ひ、同信者
る事。即ち昭和五年夏、出津の番キリシタンY氏は.
ンの曖昧を祝せんとする企が、微かながらなされて居
する事にょつて、名目だけ彿敦を横棒する奮キリシタ
快く之に應じないと云ふ。その二は積極的に寺に蹄属
此轄宗希望者は外にもあるがl繭玉は僧侶に気余して
ら二重の頁塘を課せられる事を免れ得るからであつて
て居るものが二十歌声ある事。斯くすれば寺と紳融か
犬村藩下のキリシタンにして、寺を離れて神道を稀し
その一つは下黒崎及び永田では、眞宗を横棒せし番
八四
かくの如き不整は、キリシタンに於るカトリク敦の正
なるを感じて居るからである。出津では天福寺壇家の
げる事が出来る。
統的分子の減退と見なければならぬ。其減退はやがて
戸数、沓キリシタン葦戸歌の約牛、一声の夷澹は、従
今も此二つの組は存在してゐる。
宗国の末期を結果し、経商的事情によつて左右される
って約半減される事になつて居り、此校滑なる態度が
︵二︶
に至るもの、上の事件は正しく此意味に解す可きであ
Y氏の良心を苦しめるのである。侍Y氏の此彿寺支持
針
る。此鮮繹を裏書するものとして、命二つの事葦を拳
3∂∂
の背橡には氏によつて明確に意識されて屠ると否とに
は帳方三人、水方一人あつて、諸種の祭儀が守られて
叫汁ニ﹁内
屠り、幼鬼の洗橙は、多額の糞用がか1つてもなされ
て居るのに、大村薄に壊せし隣りの西樫山には、儀式
拘らす、﹁切支丹の復活﹂に記されて屠る、野中騒動の
影響があるであらうっ即ち、氏の養父は野中騒動に於
をつかさどる者一人もなく、キリシタンとしての根跡
︵ポ︶
ては庄屋側に立った人であり.其後三十年間、黒崎柑
くして驚いたと云ふ詰もある。今更カト∴リクになれさ
キリシタンであると告げた時、十何歳の末子が目を丸
男の結婚を機として子女を集めて.豪停の宗門が賓は
間もなく右の行為を見るのであるが、此外.数年前長
ばかりなのであるっ其家をついだY氏に、養父の葬透
て居るのも、制度の崩れて行く一つの澄嬢。其倖承の
﹁ぢい役﹂永田の久松氏が、一人で帳方と水方とを粂ぬ
って居らぬ。之等啓大村藩下請部落の奮キリシタンの
著さへ敷戸に過ぎず、帳方や水方との汲も殆どつなが
る事にのみ、キリシタンとしての名残をとゞめて居る
多い。更に三重田部落に行けば、出生鬼の沈鐘を授く
は洗祓にのみ留つて、﹁さはり﹂のある日も知らぬ者が
うもない氏の事情は野中騒動の記憶未だ披けやらぬ出
オラショの教の少い事、及び用語の韓詑の著しい事、
々長として、現世に於る権勢に生き、昨年春他界した
津の一般番キリシタンに託ての革質、本世紀に入つて
それらは、今此限りある紙面で運べる事を許されない
︵四︶
から三十年間に、黒崎教曾には少くとも約百五十名の
が、﹁天地始り﹂の物語と共に、俗信仰の介入を見る
︵六︶
成年受沈着が数へられるのに、出津致曾では、同期間
好材料でもあり、制度の崩壊と相侯ってカト∴リク教の
たけ
に其数六十三名にすぎないのである。
眞面目を遠ざかつて行く有様を面白く停へて居る。
海を越えて黒崎より海上八里、野母牛島蚊感材の岳
次にキリシタンを濃厚に保存して居る出津・黒崎を
拒るに従ひ、信仰の薄らいで行く有楼を各奮キリシタ
路に至れぽ、奮キリシタンはあるけれ共、帳方も水方
八五
ン部落忙就て眺めやう。蕃佐賀帯下にありし東樫山で
末期にぁろ黒崎地方の富商支丹
ろ
3β7
戸でも、三重神南端の畝刈の垣内部落には、歴とした
八六
も居ないで、八十戸の部落に只一つ、多分マリヤ琴晋
帳方及水方が存在し、束樫山と同程度の強いキリシタ
末期にぁろ黒崎地方の書初支丹
であらうと云はれる紳様を俸へて屠る外、オラショを
ン的色彩を保って居る。
ふ事、及び人口の檜加率が大きいと云ふ事箕に、キリ
する事とが、周囲何れの部落にもまさつて著しいと云
人にも少いらしい。只祀先の墓参りと、神政を大切に
種、施肥等の横合を逸し、家運褒に傾く者が多いと云
此宗門には労働に閲する制限が多すぎて、農家では播
侍徴を示して居るであらうか。上記出津部落のY氏は
以上の如き末期の宗圃は、経済生活に於て何等かの
末期信徒の経済生活
唱へる者もなく、仕事の﹁さはり﹂も流感も知らない
此神様は、おがみに行く可きものとの意識だけが村人
の間に樽へられて.之を資行する者は今生きて居る老
シタンの根跡を認めるのみである。岳路は八十戸もま
ふ。努動に閲する﹁さばり﹂のある日は甚だ多いので
︵七︶
とまつて居るから、キリシタン部落である事は、周囲
あるが、Y氏の言を環海的に肯定する人に未だ接せず
︵八︶
の人は大低知って居るが、同じ蚊焼付でもー長瀬部落八
一戸平均
その昔香を示す客観的材料を得る事も困経であるが、
蛋塘戸数
戸と隣村探頻の赤土部落十一戸とは、一般にキリシタ
額
試に昭和五年度黒崎村戸数割真塘嶺を宗教別に調べる
塘
一四、九六
皿
一四、七五
真塘叡
二八四
一二、五四
四二五
四、二四八、三〇
三六
︼九、三六
四五一、四〇
一三〇
dO
二、五一六、七四
ク 六、二六九七
負
ン部落とは認められてゐない。然るに此両部落民も血
Ⅵノ
別
と次の数字があらはれる。
教
ト
葛キリシタン
英
他
寺附掴狩り
寺に附かね
カ
宗
統を潮れぼ岳路やゼンチヨ谷と一つで、尋ねられて始
めてその事葦を意識にのぼす程度の人が、常の其部落
にさへ数人あるにすぎず、キリシタンは全く滑滅の要
である。俸承の神位も帳方・水方も有しないと云ふ事
が其直接の原因であると考へられる。戸数は優に十六
ぷ
.,一∫1.t−一.一.一言■r
シタンの経靖的優越を示す事葦がなければならぬ。数
且Y氏の言を肯定せんとならぼ、過去に於ける啓キリ
た南信者間に於ける一戸平均頁塘祝の近似を見て、倫
と云ふ心配はないと思ふのであるが、此表にあらはれ
村税の賦課が宗教の相違によつて不公平になつて居る
シタンより一人宛出すと云ふ配慮が行はれて屠って、
偏する事なきは勿論、役場の給仕に至る迄奮新両キリ
者が挙げられて居り、村合議貞の選出が甚しく一方に
黒崎柑は常に村長に奮キリシタン、助役にカー∴りク信
あるから、現在カー∴リク信者は、番犬村領よりも奮佐
りであり、佐賀藩は此信仰を保存したと考へ得るので
にキリシタンの復活なる事、浦川氏の著書が吻語る通
あらはれて居る。而して此地方のカト∴リク信者は一般
徒、それに富がや1集中されて居る事は、右の表にも
んだ者が、天福寺とは関係なく宗旨に表裏なき眞宗の
した事箕と照摩する事であり、其跡へ他柑から入り込
のみである。人口の少いのは、迫害の膚に五島に移住
の大部分は大村渚に属し、佐賀頗は殆ど傾斜面の畑地
口少く、従って富裕であつた事案がある。田地及山林
一五、四一 に大村諸に威せし部分は佐賀渚よりも土地廉く然も人
十年間に亘り右と同様の統計をとれば、それがあらは
賀領に多く、従ってその弧先の方が、貧乏であつたと
八七五
れるかも知れないが、元来隠れて屠る奮キリシタンな
の推定は許される。之を事賓に徹する事は、凝滞後入
計 三一、四八五、九一
れば、此種の調査は甚だ困嫌、且年々少数づゝではあ
りみだれて多少の移挿が行はれて居る関係上、正鮭を
合
︵四︶ るがカト∴リクに改宗する者があり、正確に右の統計を
期し難いが、現状のま1で村役勝に就て調べた結果に
︵八︶
とる事は殆ど不可能である。
よれば、奮キリシタンの戸数は、番犬村領ではカト∴リ
ク信者とほゞ同数であり、奮佐賀領では、三封四の割
そこで他の方面に、南信者の過去の貧富懸隔に閲す
る推定の材料を求めるならば.蕃幕時代大村藩の師領
合でカト∴リクが優勢である。
八七
であつた此地方は、所々に佐賀渚の所領鮎在し、一般
末期にあろ黒崎地方の曹切支丹
3∂9
末期にあろ蔑崎地方り藩切支丹
八八
之を要するに甚だ少い確かさに於てではあるが、樫
黒山は大正十二年第十一等であるが、其後常に中等以
税成績が悪かつたのであると、役場の吏員は語ってゐ
崎柑奮キリシタンの経済生活はカトリク敦に改宗し上
たを雉持して屠る。樫山の西は束に比し、跡地裕かな
者に較べてやゝ劣ると云ひ得るわけである。今後幾部
十落、以前は罷民が各氏としての自覚乏しく、其薦納
年か観察を題帝すべき問題である。
命奮キリシタンの経済能力の著しく劣って居る事る
蜜。薗他の譜部落について、其経済能力の貪弱を物語
は隣村lニ重村の戸数割納我成績にあらはれてゐる。此
る材料もあるが、之は教育の事と牌聯して、他日別に
柑は黒崎と異り奮キリシタン部落が明碇に陰劃されま
てとめる考である。之等より見て、カト∴リクに改宗す
全村一千二十月平均
九・七一
一七・〇〇
カトリク敦への蹄屈
居り、蕃佐賀餞なりし東壁山と畝刈の垣内とが其信る
仰と育とに閲らず、奮キリシタンを捨てる事と経済的
の最も濃厚なるもの、他は菌大村儲で西樫山及び三に
重向上する事とは、不離の閲係にあると云へる。
東樫山七十二戸平均
一五・六七
へてゐた富黒崎地方では一明冶以後のフランス宣教師
教を信ずる事が出来るやうになる、と膏幕時代語り俸
あらうか。七代後には黒船が凍て、大事を振って此宗
以上のやうな蔭うすき萄キリシタンの婿来は如何で
揖は、今は極めてかすかなキリシタン部落なる事前越
の通りである。今戸敷割寅塘額を昭和二・lニ・四のlニ
ケ年を通じて平均すれば次の如くなる。
西樫山育三十戸平均
一五・一〇
和
三粛田首二戸 平均
全村を十二匠に分ち、毎年懸賞にて納税を奨励して居 の活動を以て、祖先の此換言が葦現されたものとして.
るが、大正十二年以来東樫山が常に其成績最も下位に カトリク教に随喜蹄廃す可き筈と云ふのは、同数信者
在り、三重田が第七等と第十一等との間を従来し、西 の考へ方であるが、宣教の成績の甚だよく行って居る
3β∂
ばりもとの奮いキリシタンと、土地の人々は大ざつば
出津の方はよき手蔓を得られず、二人の敦倉見に就て
離郷等の事情の悠不確かなものは除いたのであるが、
る。黒崎敦曾の分は教曾内外の五人に尋ぬ、それでも
につかんで居る。然るに事賓は.最近の国勢調査の結
経めたのみで、入信前キリシタンであつたか否かに就
黒崎柑でも、信者は全村民の年分足らず、あとはやつ
果、カト∴リク信徒ニー空一五人.奮キリシタン一八二八
此両敦曾の結婚信者を合計すると、奮キリシタンよ
き、二三疑しいのが按分比例的に加算されて屠る。
村人の多くが此数字を見て不思議がるのは、カト∴リク
り五十七人、彿教徒より二十三人で、其比は一〇〇封
人、その比、約十と七二.﹃新教﹄の方が多いか﹂と、
の巧な制度による信者の自然替歌もあるからであら
四〇となる。今試に本村に於る蕃キリシタンと彿教徒
●
う。明治宣教以来の受沈着の教と質とを知る事は、カ
九︶、出津敦曾では之が十六人︵男九、女七︶と十一人
十一人︵男一六女二五︶、彿数億より十二人︵男三.女
世紀に入つて以来、黒崎敦曾では奮キリシタンより四
って結婚の篤の受沈着を探り出す事が出来た。其教本
理されたものが手に入らぬ。只僅かに敦曾の原簿によ
ヨ奄乳宗n卦︶ を集めれば可詣なのであるが、その整
受洗が現世妃に入って黒崎教曾に十数人、及び之に閲
播に大切な契機となつてゐるが、それ以外にも臨終の
族全部が受洗した例もあつて、結婚はカト∴リク教の偉
はない事を意味する。倍子女の結婚を機として、一家
でする彿教徒よりの改宗者に比し、少くこそあれ多く
キリシタンよりカト∴リク敦に改宗する者は、同じ目的
と一〇〇封三七となる。之等の数字は、結婚の偏に奮
ト∴リク敦曾の毎年の統計表 ︵P−・〇β︶eCtu芝at云 ︵一iO冨と
卦 の教、即ち一八二八と六九一を同様の比に携質する
︵男二﹁女八︶とになつてゐる。之は右の帳簿より、受
達して、遺言による遺族の受洗が稀に見受けられる。
︵四︶
洗日と結婚日との甚だ接近せる者の名を摘出し、柑の
同様の調べを炭坑地高島に就てすると、此三十年間
末期にぁろ黒崎地方り啓廟支丹
八九
古老に就て、結婚の男の受洗か否かをたづぬたのであ
∂♂J
る事がわかる。かくて奮キリシタンでも信仰上の要求
が、それでも結婚の焉ならば信者となる者が、稀にあ
く、土着の貧民なるカト∴リク教徒の影の薄い村である
にし、島の表に三菱の赦宅などあつて知識階級の者多
来者で英数甚だ多く、柑としては黒崎と大いに趣を異
約九十戸、奮キリシタン約五十戸、外は炭坑節係の外
教徒よりのもの五︵男三、女二︶。此村はカト∴リク信者
′
に於る奮キリシタンよりの受沈着五︵男四、女一︶彿
い村人の心理は故人の徳の反映とも見られる。又二十
て居る。敦の誇張はあらうと思ふが、誇張して停へ度
うが、数十寓の私財を此停道地で使ひ蓋したと云はれ
を設備するなど、事業を好む人であつたからでもあら
或は印刷機械を購ひ、或は自己の住居にメタンガス燈
恩人として、今も土地の人に深い印象を残してゐる。
し、山羊、豚を飼はしめ、貧困・病者を助けてくれた
方に来任した故ドロ司祭は、井戸を掘り、董鞄を修理
収獲を得たであらう事は、想像に難くない。最初宮地
九〇
からだけで、其停統の形式を捨て1、カトリクに節す
三年間伊王島地方を牧したデュラン司祭も、多額の金
末期lこぁる黒崎地方の奮切支丹
る者、近来甚だ少いと云ふ事ができる。
教者と運命を共にせん事を希って、邁々海の彼方より
迫害の危険未だ濃厚なるに、香寧ろ過去の壮烈なる殉
なる。其第一として博通者側に就て考へられる事は、
つ1ある奮キリシタンの行方を滑趣的に指示する事と
者を出したか。今こ1で其事情を省る事は、此動拓し
著が熱心である事に就ては、私自身が一年前ポーラン
げる事が出来るが、今は之を略し、一般に初期の偉遺
由が澤山ある。教師に閲する此種の賛例は外にも奉
あるが、此俳人司祭の人格に節し得ると考へられる理
優越の因は、其後の邦人司祭の努力にある事も碇かで
破衣をまとひ、信者に勤勉を華励した。伊王島信者の
を日本のカト∴リク敦の層に献げた人であり乍ら、身に
来朝した人々は、郷土にあつて出席上った信者の、生・
ドより始めて来朝のフランシスカンと長崎に於て生宿
然らば朋治の初め俸道開始の昔時何故に盛んに蹄敦
婚・病・死の事務に忙しい司祭と比べて、よりよき停道
3β2
を共にする事によつて、目撃しっ1ある事を記してお
く0
る仕事に、家業を省る事が出来ない程忙しくても、其
事を却て喜んで屠る其姿に、初期の教師補助者の停道
又日本人の中より選ぼれた博通の補助者も、永年陰 振りを偲ぶ事ができる。併は変るが生月柑で、或書手
忍潜伏して居た者が、信仰自由の曙光を見て立ち上り、リシタンの納戸紳の番役を受持って居る人が、報酬も
畢なる一介の百姓でなく、衆人に天来の肩書を俸へる 貰はすに、、いつも神様の仕事に追はれて屠ると不平を
カト∴リグ修道が此地方に於て効果を奉げ得た第二の
人として、直接デウスやマリアの為に働く事に、新鮮 こぼすのと好個の封照である。
な喜びを見出したであらう事は、浦川氏の切支丹の復
︵一〇︶
活を見ても、又地方古老の話を聞いても充分察せられ 理由は、被停道者側にある。七代後には信仰の自由が
る事である。現に男子にして七十何歳の昔年迄、濁身 得られるとの侍詭は、果して七代前から倦へられて充
を立て通し、司祭の片腕となつて働いて居る出津のⅣ たものか否か、慣に疑ふ飴地ありとするも、少く共か
た人々、︵其気持は、今も蕃キリシタンを訪問し.循等
氏や四十年問西樫山に留って俸道して居る七十八鹿の かる詮が流布するやうな、重苦しい気持に置かれて居
M濁身婦人に、目のあたり接して其態度を見、其話を
きく時此感を洗うするものである。明治初年の昔に返 の友とならんとして心をくだく者は、人の事でなく、
去られると聞いては、改宗後の信仰生活の難易など問
らすとも、永由た於て多数の奮キリシタンを改宗せし 自らの問題として葦感するのであるが︶、其重麿が取り
めて屠る他のM氏は、其父が奮キリシタン水方の候補
者に擬せられた人、其血を受けたか、うち見るところ 題にする暇なく、飛び付いたであらう。然し今は信仰
単なる漁夫として満足して居れさうにない、才も熟も 上青天白日の世、自分の宗旨をかくしはするもの1、
九一
ある人であるが、現に黒崎教曾の宿毛として、人を漁 それは、迫害をおそれ.生命の危険を感じての行霧で
末期にあろ黒崎地方の蕃廟支丹
3β∂
はなく、軍なる俸統的習慣として無反省に行ふのみ。
血を以て育て上げられた信仰は、只無暗に滑え失せて
りであるが、然し幾多の重量を以て購はれ、殉教者の
九二
此宗門をやめては、祖先に勤して申謬がた1ぬとの韓
しまふのでない事を物語る一面もある。以下三園の場
末期にぁろ黒崎地方の曹切支丹
護さへ識者の部に属する人からのみ聞き得る話、一般
合につき其事寛を述べる。
たけろ
民は隠す理由を考へた革もないらしいのである。一代
を表向きには出来ヰ㌫かと相談を持ちかける人の多い
資料を貸してくれる人々のうちに、何とかして此宗門
の信仰はなくても苦しまぬのである。私に心を許して
に生きて居る素朴民、未来の救を高調するカト∴リク流
見に苦しむ程、此地方の人々は過去を忘れ現在の世界
きで肯定せぬ人は少い。彼等は五六十聞手前から、持
の十五日には必ず参る人があると云ふ話を、感嘆詞づ
ちつれ立ち、窟には濱の青砂を入れた桶をかつぎ、月
に誓える俵石山の頂なる八幡神政迄、数人十数人、打
を知らぬ人はあつても、二里を距てた山路を、深堀柑
の人々に就てであるが、彼等の膏キリシタンである事
其第一円は深堀柑岳路部落
のは、カト∴リクに締る意のない詮墟である。迫害され
参の新しい草履に履きかへて恭々しく参詣すると、つ
︼奇絡部民の敬神
たればこそ柴えたキリシタン宗門、禁制の蓋が取り去
け加へる話し手もある。岳路の濱にも神政があるとき
︵﹁︶
られたら、霧散するのが、寧ろ自然、信者の博通心の
いて、蚊焼の本村で股を捨て、二十町の山道を、南隣
へだてた前の事はもう記憶がなく、研究者が資料の費
ゆるんで行くのも、香キリシタンがカト∴リクに蘇る必
りの入江迄上って下りて行って見ると、雷に折られた
た﹁三浪政﹂と、桂に彫られた﹁明治廿五年﹂云々の
右の鳥居が.こちらむきに建って屠る。正面に刻まれ
二本の松の大木を中心に、一かたまりの森があつて、
要を感ぜぬのと同じ環境的影響によると考へられる。
神道乃至俗信仰との融合
香キリシタンの信仰のうすれつ1ある事、上記の通
3β4
文字が目につく迄には、き1しにまさる手入れ振りを
心なので此岳路は有名である事は、かつて記した通り
まわされ、正面に鈴、左横に﹁三銭箱﹂と書いた箱が
石の洞も燈籠も骨相雷新しいもの、大きな〆縄が張り
が後に其意味が忘れられて、形だけを守るに至ったも
キリシタンなる事を詐らんが膚、つとめて行ひし行膚
かく知らざる紳や祖先を拝む事に熱心なのは、もと
である。
二つある︵富眞第一︶。於は二抱へに飴るもので、枯れ
のを考へられるが、それは又一面、日本人としての宗
︵七︶
た枝も倒れた幹︵富眞△印︶も其億残されて居るのは
教形式が、キリシタンとしての信仰に接木せられて、
きれいな青抄造に見出し乍ら何十歩かを歩いて居た。
神木なるが霧であり、根元に新しい辞が二つキチンと
えた事を聯想せしめ、宗教心理の機微を覗はしめる一
へ祭壇を作りし、ギリシャ人の中に、キリスト教が螢
静かに吹いて居る花と見る事が出来る。﹁知らぎる紳﹂
とて祭って屠るのが、キリシタンの紳だと云ふのであ
例であるが、此外にも、キリシタンの信仰が地方の俗
︵一﹁︶
揃へて置かれて居る。キリシタンらしい形跡は何虚に
る。網を干し終った村人が、十数人雑談して居る肝へ
信仰と融合し、土地に如した一種の宗教形式が整ふて
も見えないけれど、山手の某豪にこの虻の﹁御隈唐様﹂
行って、たづねても、誰を祭った神様かを知らぬ。神
行く例もある。それは黒崎にある枯松紳敢を固つてゞ
の神様と同じですかと、山を
山︵前記俵石山の遺構︶
ある。
下黒崎の漬から約二十分
かけてたづねるのは、神山の八幡楼を八幡様として拝
下黒崎の枯松神社
作場道を上りつめた併に、老松が二本あり、之を囲め
︵こ︶
ちらも要領を得なかつた。際して居るのでなくて、知
る面積二三段と魔しき密林と共に海上速く望む事がで
んで居るか香かを.知り度い心からでもあつたが、何
らないのが本雷であらうと思はれるやうな話し振り答
きる︵罵眞第二×印︶。林の中は少しくひらけて墓が十
九三
へ振りであつた。細山参りの外に今一つ、墓参りに熟
末期にわろ黒崎地方の奮切支丹
3β∂
九四
又日本で云ふと天子様のやうな人の墓であると詮明し
末耕にわろ黒崎地方砂瞥切支丹
数個あり.其一角、老栓の根元にあるものは、一段高
たりする。以て尊崇の程度を知る可きである。なほ枯
紳浦柑の大野まで、外面地方全般に亘り、奮キリシタ
崎・出津は勿論.南は東西両樫山及び畝刈より、北は
村人は之を枯松棟、又の名をサンジワン棲と云ひ、黒
奥深く、石地蔵が安置されてゐる。其形は髪を結ひ、
此井戸の水をのんで居たと云ひ倖へ、水の出る岩間の
の湧き出る屏があつて、ジワンは生前此石舟に住み、
二△印︶、其近くの谷に﹁マルバの井戸﹂と僻する清水
松緩の少し下方に﹁石舟﹂と云ふ小山があり︵焉眞第
ンの人人に取って大切なる信仰封象である。松は岳路
琴音、引いてはマリヤを思はせるもの、病重り恢復の
いしぶね
く石を積み、高さ一尺飴りの石の痢が其上に置かれて
のものに比し、一本は少しく大きく、他はや1細く、
見込がなくなれば、病人は此水を求めるのが常で、信
ゐる。松は二本共元気よく桑えつ1あるのであるが、
二抱へ近く及びそれ以上ある。夫等と墓との間には如
者は遠方からも汲みに来ると云ふ。
と云ふ殉教者を祀ったものでないかと思はれる。ジワ
マルチリヨの組の事など考へ合せると.古くジュアン
も彿教徒も居り、この墓地にはそれらの人々の新しい
の校本部落に公有されて居る。松本にはカト∴リク信徒
有樺は捨て1顧られないので、今では着地として山麓
枯松楼の墓地の樹を伐れば、腹が痛むと云はれ、併
何なる歴史的関係があるか詳かでないが﹁切支丹の復
︵一二︶
活﹂のジュアンの記事、並に﹁切支丹停道の興慶﹂の
ンは外囲宣教師で、海上を歩んで遠く滑え去ったと停
墓標も見受けられるが、奮キリシタン以外には植松横
︵〓ニ︶
へられてゐる事と、此地に墓のある事とは矛盾するが
を顧る者がない。
で、其献物には縦横六七寸の金属製の鳥井が十数個、弼
嵩眞第三は枯松様を其前方の樹上から見下したもの
そんなせんさくは、啓キリシタンの徒には不要なので
あつて、彼等の中の物識りは、之は
︵一四︶
.ハ・コンエソウロウと云ふ人の墓であると云ったり、
かうず曹︵一五︶
銅貨、蛾煉嗣用有刺域線の一片等があり、花立てには
取って枯松様にお頑をするが、之は﹁たのめたす︿る﹂
聯想せしめる品である。漁夫は船出の際、必ず鉢巻を
を始め一般地方人の信仰をあつめて屠る﹁紳崎稲荷﹂を
﹁ひさかき﹂の枝が挿されてゐる。二つの両が見えてゐ
と仰ったからであると、三人の人から別の横合に同じ
陰険記念の盃が二手敦個、珊瑚の一穫、国旗、流れ旗
るが、小さい方のは土製の粗末なもの、その両側には
軍事に関する所願と関係深きを思はしめる。出征中の
献げたのである。数多の退螢記念の盃と云ひ、此詞が
す︶が、濱崎氏は青島出征より無事凱旋した展に之を
三年八月、下出郷、濱崎清造﹂とある︵出津の津を逸
物語って居る。王位の嗣は石製で、其台石には﹁大正
と拙く刻まれ、其文句と共に、奉納者の教養の程度を
ら、見たかと聞けば、現場には行った事のない人であ
﹁ミナ﹂︵撼の事か︶の殻がある、と一青年が告げるか
生前住んで居た石舟にはジワン様の食べた貝の殻や
が物云ったやうにきこえても、現在漁民の疑はぬ話.
あの高い所に埋んだのである﹂との詭明は、恰も死人
く限り、怪我あやまちをさせぬと遺言なさつたのでl
埋めやうとしたが、わしが死んでも頼む者には目の届
00 ﹁明治三十七八年吉日、日露戟寧、西樫山文
出句征
中れ﹂
で軍
聞人
かさ
た。﹁ジワン棲の死骸は黒崎の後の谷に
軍人に、清洲の野で此崩壊があらはれたとか、某氏が
った。大岩が雑然と樽がり或は重なりあつて居て.岩
然し必ずしも軍事に限らないのであつて、奉納の旗
度の想像家でなければこ1に人が住んだとの詭を肯定
上に食べのこした品物を、ジワンの食ひ殻と考へる程
00〇
此紳様に或おうかがひを立てたら、戦場に行って不在
屋もどきの間隙もないではないが、恐らく鳶や烏が岩
に記された文字をたどつて大野郷の二三氏を訪ねると
しないであらうと思はれた。其他サンジワン様に謝す
ニナ
であつたとかも云はれてゐる。
朝鮮出漁の御感であると云ふ。珊瑚も海のもの、鳥居
る信仰に就て.往訪時接した事件を挙げると、昭和五
九五
は長崎港口に効験あらたかな紳榛として、海上生活者
末期にある黒崎地方の啓切支丹
●
3β7
璧の蓋を取少、備付のアルミニウムの杓で水を汲み出
に忙しい折柄、種々の質問を煩きがり乍らも、墓前の
影中の併を怪んで尋ねて禿た松本の農夫は、蜜豆播き
ける者は、花中此山奥に参ると云ふのである。罵眞撮
花には、遅く迄此の山上に燈火が見えたが、大願をか
日所願をこめて居たのであつた。同年十一月廿六日の
● 備中は、年に一度村にか1る芝居をよそに、此母は毎
詣したが、中畢校人草試験合格の御鎧であり.受験準
年四月二日一人の婦人が、袴をつけた息子を連れて参
に関係し始めた人、濱崎氏奉納の詞に﹁枯松神政﹂の
タンの信仰驚き正光氏方に寄寓してゐた頃、此枯松様
落、現在其内線の妻となつてゐる人の貴家、奮キリシ
タンには闊係がなかったが、明治の未数年許、松本部
語り﹂又は﹁×神様﹂の名で通って居る。もとキワシ
今では此種の占ひ乃至厄梯ひを本職とし、一般に﹁吻
あてる能力ありとして、次第に土地の人の心を集め、
取りを業として居たが、生重・死重の崇りなどを云ね
刻まれてゐる。△△氏は二二重柑の人で、頁柴や、なまこ
には皆施主の名の外に
九大
して手の泥せ落し.二三偶の盃の水をかへて、弄んで
文字を彫り込ませる事により、﹁紳祓﹂の名が始めて具
末期にぁる黒崎地方の雪間支丹
行く事を忘れなかつた拝む時の姿勢はやつばり、両手
平癒所願に関連して献げられたと云はれる今一つの石
あり、又墓地の入口、老木の根本には、一婦人の病気
の燈籠があるが、其一つは両と同じく濱崎氏の寄進で
此外書地に於て見受ける目星しきものとして、二基
っても、訪問者の前には伏目膠に話す人であつた。村
和の吉野だと答はあやふや、分豊富髭、形の威儀はあ
あると云ふ。東京の何鬼かと尋ねると、イヤ本敢は大
一方の室は祭紳専用、紳は坐王樺視で、東京に本赦が
△△氏を其宅に訪問すると二室より成る煤けた家、
鰹的に表はされた事になつてゐる。
の洞があり、其内面には﹁加藤萬歳梅守殿﹂と刻んで
人の中には氏の魔力は、.伴天連の法に繍係があると考
︵一六︶ の指を膝の上で組み合せたものであつた。
あり、牢家の一落武者の名であると云ふ。之等の献物
3ββ
象封仰倍のンタシリ辛く行てし化武神
可きものとして祀らしめた大神宮で、弁財天とは葦に
係ありと認めて之を浸収し、其代りに我国民の告崇す
の落武者であると云ったとて、其無知を笑ふ奮キリシ
七人の聖人の墓であつたと云ふ。七聖人の内容は不明
あか
へる者もあるが、又一面には氏がサンジワンとは平家
タンも屠る。
だけ
岳と呼ぼれる其山に登って見ても、土と石とが小高︿
は極めて最近の事案であるが、古くは東樫山なる﹁バ
盛りあげられてあるのみ、墓碑も見えず、参詣する場
であり、墓石峰崩れの際山の頂に移したと解するが、赤
かふやl スチャンの細山﹂が、多くのキリシタン信徒の信仰を
所とも認められない。赤岳は枯松と同様、海上遠望の
かく枯松神政の成立
集めて居た。之は三重柑の外敦着からは慾奴紳と綽名
きく山である。察するに弁財天又は七聖人の墓は﹁バ
︵三︶ 真理山のバスチャン棟
せられ.こ1の樹木を伐る者にも.やはり腹痛の謝罪
スチャンの紳山﹂と何等かの閲係があるか、又は全然
よくど
があると云ふのが其名の起りである。安攻三年浦上三
同じもので、やはり殉教者にからまる遺跡であつたの
︵一七し
番崩れの飴波で椿の木が伐られ、又其後黒崎敦曾建築
であらう。
の封象と見る可き箇所を求めて附近を探すものは、二
印せられた石はなく、参詣する人もない。しかし信仰
が﹂一本の幹を聾えさせてゐるのみ、俸詮の如き十字の
春00﹂︵三字不明︶と刻んであ少、周囲には大小とり
ゐる。内部正面に﹁大神宮﹂、犀の真に﹁安攻七庚○申
嗣があり、枯松援のよりは大きく古く且精巧にできて
は十数年前始めて附加されたもの、真にまはれぼ石の
今形の上で枯松様との比較を試るならば、堂と鳥居
材料として、其材木が買はれて行った此神山の森の跡
には、今は﹁一本松﹂とて、雷に打たれて立枯れの松
三丁とへだたぬ別の森の中に、さ1やかなる木の鳥居
まぜ五偶の鳥居があるだけで、枯松様の如き多種類の
︵一入︶
と、小堂とを見出す。村人に間へば之は右安政の崩れ
供物はないが、扉を開くと中には大神宮の御札の外に
九七
に際し、淀城の領主が、蕃来の弁財天をキリシタンに園
末期にあろ黒崎地方の曹切支丹
0
3♂タ
末期にみろ黒崎地方ゆ菖切支丹
書キリシタンの神社親
九八
前記の事葦より察す
三連発の薬鋏一組、文久永賛一個、域倹約用有刺威線 建て垣の角裁には﹁束樫山青年囲建之、昭和六年正月
︵四︶
の一片がある。詞の形は枯桧、此大神宮、岳路の三浪 八日﹂と記してあつた。
融、深堀の八幡鋼融皆大同小異で、キリシタンに関係
象であつて、カトリクの罪悪親と来世の政の要求とは
なき紳崎稲荷にある数十のものと同様であるが、供物 るに枯松様は此地方嘗キリシタンの現世的な所嶽の封
の種類はかくの如く此二敢のみに共通のものが多く.
しかも流れ旗と鳥居の外は、他鹿に其例を見ないので その何庭にも見出す事はできない。そして之に附輿せ
ある。大正四年費行の浦川氏﹁復活﹂の初版にも、同昭
られる形式は、細道のものであり、それも別に計量的
和二年版にも、バスチャンの神山の事は書いてあるが な意志が作用して居らぬ事は以上記述によつてもわか
枯松の記事は見苦らぬ。之は最近前記△△氏の関係す ると思ふ。寺のない黒崎柑にも紳赴は村政天満宮︵鴬眞
る事によつて形を整へたもので其繁柴は最近の事、バ 第二□印︶と、その外に相木神政と云ふのもあつて香
カト∴リク信徒に及ばぬ彼等も、此鮎に日本歯民として
スチャンの紳山が、森の伐採、椿の木片分配で形を失 キリシタンは参詣もすれば寄進もする。数に於て今は
って、其信仰が枯松に移りつ1あるのでないかとも考
を申し出で1も、 部落民が受付けない、それは、賽銭
共にその神政参拝拒否の展であると云つてゐる。蕃キ
出る事も、小峯校長がカト∴リク信者から出ない事も、
へられるが、一詮には三重柑の紳壬が此大神宮の司祀 の優越を自認し、此村の村長が代々奮キリシタンから
が﹁ぢい役﹂の収入になるからであると云ふ。
侍本年六月第三回往訪の際、再び右伐採跡の茂みの リシタンの此心理の成立には、奮新二つの原因が考へ
如く装ふ必要のあつた靡から、始めは心ならずも行つ
蔓l、
中に分け入って見ると、所謂一本松の傍に垣を因らし られる。奮き原因とは、潜伏中神政の事に熱心なるが
て.新に一本の若松を聖別しぅ一本松紳離﹂の榎木を
37(フ
充た、キリシタンの信仰を覆ひかぶせてしまつて、神
な洗鎧、葬式、及び労働に関する制限にのみ停承して
として謡喝しても意味の通じないオラショや.形式的
た英資行が、逢に、心にはあつても口に出さす、所り
堂読も耳にする。如何に愛化して行くかは清爽注目す
如きが成立するに至ったものと思はれる。最近枯於建
き演に、信仰が己成の神政に集らないで、枯松紳政の
とにからまる信仰の方が宗教的慾求を宿すにふさはし
加された神政参拝非不可戟よりも、組先殉教の愛と血
本誌七月鉱一二〇克
政を弄む事が、キリシタンとしての正しい、或は心須
浦川和三郎氏著﹁切支丹の復活﹂後篇八四七貫及び
3アJ
本世紀三十年間に於ろ十七歳以上の受洗者、出津
復活後篇四五真以下
を算へろ。本誌七月波﹁黒崎地方の蕾キリシタン﹂
註一〇参照
氏の直話。私‘ミ此外lこ﹁天地始り﹂の物語の倦承
︵一︶
べき問題である。
註
︵四︶
︵三︶
︵二︺
の要件なるかの如く解されるに至った事である。岳終
に於ても此事案は見られたのであつた。
然し果して然らば何故に此事が寺院に於ても起らな
かつたかと云ふ問題が残る。そして之には彿敦とキリ
スト教との歴史的閲係や諸政の影響もあるかも知れな
いが、もつと新しい原因、即ち明治以後の教育との関
係を見なけれぼならぬ。長崎喋下では度々紳祀問題に
の沈痛帳は地方別に三部六甜ヾJなつて居ろが、巽
散骨六十三名、黒崎散骨首四十六名、但黒崎教曾
居るが、カト∴リク敦が名目上の一紳に固執する宗教な
七月渋一二六真
中一升を放き、正確な事ほわから花い。
っき、教育富局とカト∴リク敦曾との問に紛擾を起して
る事を忘れた奮キリシタンは∵復活に立ちおくれた申
謬の一つを、神政問題に見出して、此思想的難問題の
園外に安住せんとするもの、その様子が土地の有識階
級の人々の言葉態度にあらはれて屠る。然し誤って附
末期にあろ黒崎地方の書面支丹
)
岡
一三二頁註︵一〇︶
九九
印ほ、毎月二回のバステヤンの親日ミ、各日曜日
七月兢一二六頁lニ記﹂圭久松老人の七十九偶の○
一三一頁
( /′ ̄−\
) \J
同
/′ ̄ヽ ′′ヽ
八 七 大 五 )
七月耽一一八東
複すろ時は印をつけてあろミ云ふ。
ミな除いナ∵もの。但之等ご﹁さはり﹂の日ミが重
末期にあろ黒崎地方の誓切支丹
)
)
復活前篇三〇三頁以下
新約聖書使徒行儒第十七草第二十三節
復活前篇三〇九頁
) \J ) \J \J )
ノヽ ・セニ ブく 五
︵長崎史談曾刊行︶三五七頁
士地の古老の話、右復活の記事ミ多少異ろ。
復晴前篇三〇六文
七月波一二七克
長崎名勝国槍
借の意
ウロウはポルトガル語c〇己訂すの由、俄悔聴間
等lニ、度々人名ざして用ひられてゐろ。コンエソ
うが、原意は忘れられ、オラショや﹁天地始り﹂
﹁ハツパ﹂はポルトガル語りppppの特認であら
姉崎博士著﹁切支丹博通の興嘘﹂二八四頁
( /〔ヽ/′、\ ′′ヽ /′\ ′【ヽ
\ノ し′
︵帝国畢士院補助によろ研究の一部、一九三一年六月記︶
37ク
高 三 三 二 言 九
/′ ̄ヽ ′ ̄ヽ ( / ̄、\
龍
山
章
眞
て彿敦思想等の異渡と相並べて破する以外、更に二・
二切定説集成﹄の儒教批評
+
一・一−−一三及び一囲∵−1二〇にも別出して特に論
彿教が印度思想中ユニークな立場に立てることは明
︵一︶
らかで、従って富時他畢派との封立も鮮明であつた破
としてゐる鮎によつて、確かに吠檀多経成立︵大鮭西紀
斥けつ1.又他方正統渡婆羅門敦の一元的唯心論を破
家の破邪が此の二浪に於てカを喝したことも大いに理
にも根強きものを有してゐたと思惟される。故に彿敦
考へらる。彿敦が、一方感覚的唯物論者なる順世渡第
を五世紀前年︶時代に畢派として勢力あり、且思想的
しっ1、その濁自なる諸法縁起の立場を歩みつゞけた
道は葦に別棟多きものであつた。従って顕正は常に由
破ある謬である。
邪を前提とし、龍樹の如きその最もよき例である。而さて之に勤して異教波の側からの彿教批評は如何と
して大乗論家運の外道破邪は、因中有果論たる教諭い
思ふ問題も大いに注意すべきものと思ふ。一は彿教思
想と因中元果論たる膠論思想とを代表として進めら想
れ中の錫粘を反省するの材料となし、一は若し誤解さ
てゐるのを常とする。教諭及び膠論は共に有力なるれ
畢居るならばその誤解され易き鮎を一屠開明するの一
一〇一
はか1る問題を主題として考察したる論作としては、
漉であつたらしく、例へば吠檀多経に於ける破斥方助
法ともなるであらう。然し寡聞なる私の知れる限りで
を見るに.二二一・一!一〇及び一丁・1一七に於い
﹁一切定説集成﹂の併歌批評
37β
﹁一切定説集成﹂の併殺批評
プレ・ブッサンのミュゼオン誌上に零表したる一文のみ
であると思ふ。射ち
一〇二
シャンカラ・ラーマーヌジャを
1、﹁吠梧多経、二・二・一八!三二﹂の諸鐙、︵雷・
d弓茸呈盲−ゴ︵]ぎ︷p警︷rP︶
批評として最も難解であ
物の彿教批評。︵ぞ登り冒挙p“l−r旨茎一冒nd昌da¥︶
吠梧多の畢匠によれるものが数多きに反して、他藩
こ・、∵−−■
5、クリシュナミシュラ﹁智慧の月の出﹂中の作中人
五節。︵芦︼賢2︼︵一三くed菖.︷pぎ︶
1、サダーナンダ﹁吠檀多精要﹂第一五二及第一五
る0
㌻召、Ⅵ弓尋ぎ.㌢芸1︼百日訂︶
3、マーダブ﹁一切撃沈集成﹂第二章彿敦渡。︵≠訂d・
Ⅵ邑gr已1コ︺此鬼に諾出せるものである。
り一、﹁一切定説集成﹂第四葦彿教渡。︵ぎrギS室−一望守
等諸家の註繹書。
めとするグッラバ・マドフグ・一lムパルカ・バースカラ
く已l紆冒u藍コ、孟○已挙i葺e d、毒↓訂le≡つllrc宝b︼・Pざlし初
p・
−一i宅e㌔︵己l乳昌コこl﹂茎二巴ll﹂害持ソ
此はマーダブの﹁一切畢派集成﹂第二章彿敦旗、及
び﹁一切定説集成﹂第国章彿教派を俳諾し附註したる
ものらしい。而も欧洲の戦渦の馬めベルギーは他の貴
重なるものと共に此のミュゼオンのストックを失つたの
で、種々芋を渇しても私は未だ此の論文を見るを得な
いのである。従って私は此種の論文は一も見ることを
得ず、未だ彿致を解すること極めて湧き私には重荷過
ヽヽ
ぎるとは知りつ1も、先づ右に述べた二者中のより古
き著作なる﹁一切定説集成﹂の第四葦の和讃を試みる
次第である。
よりのものは少なく、正理畢凍と彿敦困明との関係は
特別なるものなるが故に別として、教諭・壌伽・膠論等
本論に入る前に、異数よりの彿敦批評と目すべき教
程の資料を蓼げるのが傍利である。勿論全てをつくし
の諸派よりの批評を見ないのは遺憾である。各々の評
者の立場の相違によりて各々異る批評を得べきである
てゐる諾ではない。
A、吠梧多波の畢匠の著作。
374
として許し之に照して彿教の縁起説を無神論・破痍論
き資料を有するが、今その全部に亘ることは不可能で
づれも取出す程ではないと思ふ。大僅我々はかくの如
ヅスーグナ﹁種々なる道﹂の最初の数行の如き−⋮1い
となすが如くi一波よりの批評のみではそれが果し
あるから、先づ﹁一切定説集成﹂の箱四章を見るので
が故にi例へば吠博多凍は最高裁梵を常に既定概念
て偏見なるか正しき批評なるかの判別に苦しむからで
ある○
さて然らば﹁一切定説集成﹂とは如何なる著作であ
〓
ある。
B、者邪教の畢匠の著作。
︵︵︺11?
るか。先づその著者・成立年代等を考察するが順序で
6、ハリバドラ㍉六畢漉集﹂第四弓⊥一偏
已ュ一望一bp浮︷.哲ュきヨつ.器︶p・チエ︶︵喜弓ibF乙−一p︰ずチ︼甲
ある。然らずんば本書の歴史的償値が決定されえない
承認しがたい黙があるっ印度の尊者は本書をシャンカ
1・ぎ早雲︶とされてゐる。しかし引用その他よりそのま1
本書の著者は倖承にょればシャンカラ阿閤梨︵㌢−ハP・
から。
r蔓]叫芸≡⋮︼CIP竃︶
7、ラージヤシユーカラ﹁六畢派集﹂第六章、郎第一
三二=⊥四八偏。︵ヨj訃k一一≡こ貰妄鼓喜云⋮享蔓︶
いづれも僅かなる数個であるため、充分なる意味を
把握するに困しむ。
出版者ランガーチャールヤ︵芦声冒愚詠c−■鼠︶
も亦そ
8、作者不明﹁一切宗集成﹂中の﹁善逝宗。﹂︵TriT? ラ作と見倣して腫威付けやうとして居り、本書の校訂
=︵一〓≡S︼ユ.才一・ieⅥ,甥つ.完、マ l∞・望︶︵p=■ヨ⊥−−H旨・S邑g−・已1ろ
の序文に於てシャンカラ作なること論証せんとしてゐ
しやうと思ふ。
本書中にラーマーヌジャのことを記す故に早くも西紀
例へぼマ
る。今それを批判しっ1シャンカラ作なるや否やを検
一
一〇三
第十二世紀、或はそれ以後の作品である。
此等の外にも極短きものは二三あるが
﹁一切定説集成﹂の彿教批評
37う
カラの名が出で孟邑許e雲di︵聖、とありてシ十ンカラ作
先づ本書丁二一に於て一富木によれぼそこにシャン
論接がシ十ンカラ作を許さゞる時は捨てざるをえざる
権威ある書なるかは甚だ疑はしい。他のより有力なる
すものであるが、此書はタミール語で書かれ如何程の
一〇四
㌔aチ
﹁一切定説集成﹂の彿教批評
なることを疑はしむるも、此は他寄木によれば
底のものと思ふ。後に論ずる如く本書は西紀第十世紀
ヽヽ
訂r望扁石dita。とありて何等の妨なしとなす。此は積極的
−・−第十一世紀の作品なる故第八世紀のシ十ンカラ作
ーカ及び彿敦の章に於て本書から数偽を借用してゐる
第三、マーダ、ワの﹁一切畢波集成﹂がそのチャールプ
とはなしがたい。
詮嬢ではない。攻でその諾明に入る。
︵二︶
第一、註輝付の一幕本のコロフォンによれば、明らか
にシャンカラ作と示し、此の註繹の作者はシェーシャ・ゴ
ヽ
ギンダ︵禁溜G。㌢dp︶と呼ばれ彼はマヅスーダナ・サ
然のこと1考へてゐる。しかし此の註繹者は極めて遅
集成﹂がシャンカラ作なることは少しの無理もなく富
なるシャンカラ次の人なる故に、その話せし﹁一切定説
のであるか否か不明にして、例へぼ上例中の最後の偽
る。しかし此等はマーダヴが果して本書から借用した
albが同様に﹁一切畢漉集成﹂中にも引用されてゐ
二・七、四・二・四、及び四・一・一二C−d・i一三
ラスヴティー︵己已hllS巴al牢実現Yat叫︶の弟子にして熱心と説く。釦ち本書二・二四C−d・‘二五a−b、囲・
く西紀第十六世紀の人である。更に古き文献は、
は世親の﹁唯識二十項﹂第十二偏にして且﹁一切孝次
集成﹂では第三句は愛へられてゐる。故に此詭はシャン
第二、ギシュヌ次のマナプーラマームニ︵已名川まlP・
⋮ぎ1uコCはその著ブラマーナッティラットフ︵Ⅰ、r琶昔日→
カラ詭へ何等の寄輿をも虜さぬ。
は記述してゐぬ鮎を拳ぐるも.茸は古来からの畢放で
第四、本書がシャンカラより後に起りし拳派に就て
lti−是ぎ︶中に、本書をシャンカラ作として引用し、彼
の年代は大鰹西紀第十四世紀終・−・亡卜第十五世紀始めと
ハ三︶
されてゐる。校訂者が此を以て唯一の積極的論壕とな
37β
も全部挙げてゐる謬ではない。−・例へぼ文典次の如
きは漏れてゐるー,1故に論按とならぬ。
一三a−b
製作年代の最上限は書中に出づる他書名等によりて
限定される。先づ本書四・丁二C︼−J∵−−1
である。世親より後なることは明瞭である。更に本書
の一偏は世親の﹁唯識二十項﹂の第十二偏よりの引用
−責pnl写=♂邑−已﹁邑uごとありて、最高我をゴーギンダ
一二・九八C−d九九a−bは次の如くにして﹁バー
第五、本書一二・五囲侶前年に㌔a軋d馴−1呂d守gヨ㌻d干
と呼ぶ。此れはシャンカラの師がゴーギンダと呼ばれ、
ガブタ・プラーナ﹂の名を出す。
よktO、さdl一望巳=腎g乱c︻二ハrmnel−釧i召︵ldぎTa︼F勺r註
又一般に師は紳なりとの思想が存するからであると説
いてゐる.一應は尤もなるも、ゴーギンダは元来ゴー
pl−r賢e︵一恵冒tC︸1i数一㌧、
然らば此のバーガブタ・ブラーナの成立年代を見るの
㌢ibh蒜p召ta・切p丑碧tu
はインドラ紳の一名にして、その後バガザつド・ギ一夕
要がある。コールブルック、ビュルヌフ、ウイルソンは
ギヅド︵g3き牝牛の夢見者︶より来り、リグ・.ユダで
ー及マハーバーラタ中にも多く出で、又ブースデーヴ・
︵く〇padeヨ︶作といふ停詭を許して西紀
第十三世紀作となすも、此書は此頃には既に聖典成さ
︵四︶
クリ′シュナ つ、、訝ude尋kぷ琶︶がギシュヌ教に於て最高紳 ブーパデーブ
として認められし時附輿されし名である。故に殊更に
れ、マドフヴはマハーバーラタと同列成してゐる。故に
︵充︶
シ十ンカラの師と固定するの要はないであらう。
るも、少なくとも.ユダン夕波中シ†ンカラ漉に属する
ヌ・プラーナ中にありしプラーナの表を出すが、之は
の印度に関する記述︵一〇三〇頃作︶中に、昔時ギシュ
それ以前の作である。さてブルベールニー︵Alb聖uコ叫︶
人の作なることは認めうる。それは本書のゴダンク演
今日存する寄木のも打と全同である。故に一〇三0年
以上の如くシャンカラ作となす詮はその論嬢薄蕗な
説の説相より明らかである。然らば次に本書成立年代
迄に書かれしのみならず∵常時プラーナ中第五位とい
一〇五
を見る順序である。
〓切定説集成﹂の俳数批評
︶︹ノ\ノ\/\/\
377
一〇六
二世紀前年迄である。かくして上述の如く﹁一切定詮
﹁一切定説集成﹂の併談批評
1六︶ ふこと迄確定してゐる。而もパー甘クーによれば第八
集成﹂は西紀九〇〇1一一〇〇の間、餌第十−−十
一世紀の作品と推定され、第八世紀のシャンカラ作と
︵七︶
世紀前には非すと為す故に、バーガブタ・ブラーナの
成立は西紀八〇〇
なすを得ないこと1なる。しかし必ずや恐らくシャン
九〇〇の間である。かくして之
を知れる﹁一切定説集成﹂は西紀九〇〇以後のものと
カラ漉の何人かの作であらう。
−
推定され、大髄西紀第八世紀のシ†ンカラ作なること
三
以下に﹁一切定説集成﹂第四章彿教派の拙謬を掲げ、
は認めがたいこと1なる。
次に成立の最下限は如何。本書のゴダンクの部はラ
■へT−−e苧r詔・乱d︵言ぎ︷?Ⅵ岩g邑さ
他派よりの沸教批評の一例を示す次第である。底本は
ある。ラーマーヌジャ︹ヨ≡抑王子︶
三∴︼㌢=g腎智︶↓ご買︵一芸こ岩戸因に校訂は五種の寄木に
ーマーヌジャ旗には二言も腐れない鮎を注意すべきで
ンカラと並科さる1大註繹家にして若し本書が彼以後
ょりて展されし由にて、一腰は謹みうるものである。
㌢賢彗腎腎篭㌧、e︵].b﹃
の作品ならば媚れぎるを得ぬものである。然も之に鰭
猶﹁読﹂ぎヱぎ尋㌫︵︼試nt干m邑g邑一日、C已cut︷デー竃Pは
〇へ
れないのはラーマーメジャ以前の作品なることを裏
此の諾文作成には参照する横合を得なかつた。因に謬
はゴダンク派中シャ
書してゐる。ラーマーヌジャの年代は樽詭によれば西
第四葦彿数次
一中我流の敦詮
一切定説集成
文中傍線は評者の禰へる語なることを示す。
︵九︶
紀一〇一七1・−一一三七にして百二十歳の長詩を保つ
︵八︶
たとされてゐるが、之に就いての二三の聾者の研究も
存するが、いづれも第十一世妃後半−1第十二世紀前
︵一︶
︵始め総記︶さて彿教徒は粛叫晋行者たる阿筒
半に生存せし人物となす鮎は一致してゐる。故に彼に
型によつて説かれし宗をも、順他流の敦と同じく全く
L
濁れざる﹁⊥卯定説集成﹂は、成立最下限は西紀第十
37β
︵九︶
の既に生じたるものが生することとなる。
捨て去る。
シヤーストラ
︵ニ︶ 四つの理趣の区別によつて彿敦の敦読書は四種
一矧が有無より異るものとは合理に非す。
同一物が有にして無なる状鯛還起りえず。又同
あり。規準と邁應とによつてそれぞれに働きを矧号
︵一〇︶
故に四のいづれをも離れたる室こそ眞諦なりと
ケツデイ﹂シュニヤーナ ︵三︶ 発とは寛に智慧にして、内的機閲が考へらるる
立せらる。
バリヤーヤトプ
に非ず雪彼知る﹂と﹁後発る﹂とは同義語たるものと
︵〓︶
︵一ヒル
して用ひらる。
若し別ならば、其は拇指の如く、有生の個物より別に
生は有生の物より別なりや暦摩は論ぜらる。11
︵一C︶ ︵四︶ そこで彿敦の≡演には異論なく覚が存すとさ
、−′
スタルーバ
︵特に極微詮に就いて︶自明的に成立せるかの個
把握さるべきである。
︵三︶
れ、二流にのみ′外境が存すとされる。他の鮎では異論
あり.其は次の如し。
同時に六つと結合せる時は、極微には六分の性
︵
︵
物は極微に零するものにして、12極微の自性は膠論派
バラ†Iヌキ1
ゲイバーシカバーフヤールタ
︵五︶ かの分説漁は外境は現量所成であると言ひ、経
等に依りて言はるべきである。
7−カーラ
部漉は外境は魔の行相から推知さると言ふ。
︵二ニ︶
ケツデイ†1トラ
﹁二二︶
︵六︶ 瑞伽行渡は魔のみにして他は存せすと語る。中
あり。呵六つが同一鮎に在る時は、署塊は
︵
戦旗の論者は葦に寛も存せすと言ふ。
相微量のものとなる。
︵ノー︶
︵七︶ ︵中観波の敷設︶中親藩は、有に非す無に非す有
の畢優にょつて坐するや。担又浄化祭或は其等両者に
ー〇七
若し吠陀の畢優によるならば、如何なるシュー
\Iノサムスカーフ︵一五︶
クツトゲ
刃此等四のいづれをも離れたる眞諦を主張す。
よつて封忍や。否此の一切は不可である。
︵婆羅門性否定の詭︶婆羅門性等の覆生は、吠陀
︵一円︶
︵八︶ 無なるものは因によつて生することなし。兎角
︵一五︶
︵一望
無に非ず又利親細雨者より異れるものにも非すして矧
の如し。又若し有なるものの生起が許さるる時は、此
〓切定説集成﹂の沸教批評
37タ
﹁一切定説集成﹂の沸教批評
ドラも他の地方へ行きて、呵正しく吠陀を尊びし者
︵三︶
一〇八
自宗の確立と.同様に他宗の否認とを如何にし
て属すや。又卿等は反封者と論議せぎるは何故なるや。
︵
は、亦婆羅門性を獲得するであらう。
︵四︶
︵戒伽行波の教詭︶餐自醍は資に無慮分である。
︵一六︺
︵一大︶ 若し一切の浄化祭に牌係するならば、世に婆羅
門は見られえず。16何故なれば四十より成る浄化祭が
グラーフ†グラーハカ 笥吋顕倒せる見によつて、把握さるるものと把握
サムヰツティ
と認識作用と尾別あるが如く認めらる。
︶
婆羅門に規定されおるが故に。
思惟と思惟さるるものと思惟の結果等は智と見
71ナノヤーt−−■l∴ラ
第一義より払塵を自性とする一物が存するの
たる時に宣詭される。
︵五︶
︵一七︶ 又若し一渾化祭のみに関係するならば悉くの人
とに従って習述べらる。然し鼻緒は構成者の生じ
′/■\
︵一人︶ 17﹁生身個物も我も外境も存せす﹂。と考
が婆羅門となるであらう。
︶
︵六︶
ブイジェニヤーナ
み。而してその一性は外形の多様性の故には損ぜらる
へらるる時、知らるべきものが無に達する故に、意識
自身も亦葦に存せす。
ることなし。
︵七︶一人の婦人に於いて.遊行者と愛欲育と犬とは
︵一九︶ 以上中碗派による一切各組が論ぜられた。
以上沸教詮中中親藩の敦説。
︵一︶ かくの如く容論者たる中漑波によつて語られし
︵八︶
が如し。
それぞれ死屍なり愛人なり食物なりと三種灯分別する
室詮を、濁立叫謝を詭く璃伽行波は却って斥く。
は発といふ眞詠も亦同じく.一−匂ある。而してそれ以外
二、塊伽行波の敦誼
︵二︶ ︵中親藩への批評︶汝忙よつて一切零件が言はる
のもの、卿べ.甜生等の如きは汝によつて却けらるべき
プラ†1ナ
さてその少女は葦に一人であるが如く、我々に
る時、巻こそ汝の知識根壕である。それ故地との論議
である。
7デイカーラ
エルTlラムバナ・ワーディン
に於て汝の権威は生することなし。
3タ0
ある。﹁此物﹂といふ此等一切の存在も亦常に圃叫行相
より推知さる。
︵九︶ 覚は葦に剃郷的にして.その故に迷へる者等に
ょって三種に分別されるが、自ら輝やく眞諦を知れる
︵七︶
︵↓八︶
︵一︶
分説次の教諭
知は存しえない。故に我々には外境も存在する。
より少異あり。即ち外境の現量性を笥引、或鬼では
四
以上彿敦訣中経部漉の敷設。
たることなるが故に。
と矛盾なし。封境たることとは識に行相を輿へうる因
﹂功はl剃那性なりとも、我々には封填たること
者及び解脱を欲する者等によつては尊ぼる。
以上彿教課中唸伽行波の教詮。
三 経部渡の歌論
︵一︶ ︵塊伽行波への批評︶智めろ魂伽行渡忙よつて上
︵一七﹂ヰジュニ†−ナ・†−トラ
︵二︶ ︵経部瀕の敦証し経部次の教諭に於ては、音義等
比畳さるる尋。
に唯諸説が述べられた。然し知らるべきものなしには
の種々なる魔の行相によつて、常に外境は推知される。
︵二︶
︵分読流の教諭︶分詭渡の敦詭には経部瀕の敦説
︵三︶ 眼等︵五根︶は色等の五現に於て滅するものにし
が、賓にここに外境といふ塊として存在する。
7−カーラ
て、彼には他に第六根たる把握者は存することなし。
︵三︶
土塊は竜性に、壷は皿性に、皿は粉性に行く。
速くより森を見つつある人がその近くへ行き
前後なる規定にょつて集合されし幾千の極微
︵四︶ 六分の性を立てて汝による極微の排除は封じ
て、蔓や樹より外にはもはや何等の森・をも見ない。
グラーハカ
当然し此のlガ甜にても、若し外境なくば知は生ぜ訪
︵四︶
而して彼等は遂に極微性に矧り。
い筈である。
アーカーシヤ・ダーツ
︵五︶ 墨界は極微なりと我ス経部波︶によつて述べら
一〇九
に於ては凶彿敦畢涯の一致粘が存す。然し現象界に
︵彿敬一般の敦説とその批評︶自我に閲する決定
︵五︶
プラジュヤプティ
る。それは傾設のみにして、偽物とは考へられす。
ブヤープハーリカ・
バグールタ
Tl力∵−ラ
︵六︶一切の句義は剃那的であり、魔の行相の顆現で
﹁一切定説集成﹂の沸教批評
3βJ
各々自性となす。さて此盛に知を自性とするものを
して、魔の働きは二種と考へらる。即ち知と無知とを
︵六︶−︵七︶彿敦畢波は魔といふ眞諦の上に立つものに
する葡矧のl相違によつて相互に論零するのである。
に両耳・皮膚・両眼・否・鼻は五線︵原動力?︶である。
結合より、地等は生ず。此等は極微の堆積である。次
︵一望I︵一五︶ 熱性は火界のものにして、又冷性は風界
プルナ
のものである。此等の川界に属する色・香・味・勢力の
ある。
一一〇
知識根嬢として認む。之に反して根本無知を柏とせる
﹁一切定説集成﹂の悌教批評
他者は、無明を根本とし、正しからざる知識にして、
︵宗︶ 苦・足・宇・肛門等は五作用器閲として知られ、
サームグーイカ・チャイタヌヤ
†ナ 発は統帥的意識にして、意は器牌である。
ブラ†−ナトゲ
薙・魔・界の原生である。
︵一七︶
︵一人︶1︵一九︶
彿敦敦読書に規定されたる知識根壊は二
て五種なりと、賓に迷乱せる見によつて考へらる。
プラマーナ
有類より成る集鰹は.名・生・徳・葦・作の姿に
︵〇・人一〇︶一切の可見世界は有類より成る集鰹であ
る。一切の彿教畢派によれば、そこに五藷・十二魔・及
サムーハジュニ十−ナ び十八界が存す。濫の語義は集積にして、識・行・想及
種である。比畳性とは、相の知見によつて相を持つも
ある。又↓榔推察にして名・生・徳・資・作の姿にて五
リンガ
リンギン
サンタティ び受・色のそれぞれの来合を意味する。されば
メ識
ヵの
ル来
バ合
ナ 種と考へらる。一は推察を離れたる誤りなき現量知で
が讃慮と言はる。
アーサナー
のの知に濁嘗である。
︵二︶−︵三︶ 薫習の来合が行籍と言はる。又欒・苦を
自性とせる鬼︵鵬攣及び欲望昌性とせる矧が受意
四種の無知たるものは二知識根嬢によつて除か
︵二〇︶
ナー7
と言はる。次に名なるものが想藷にして.又物騒の乗
る。四種の無知が威せらるる時、根本無知が除かる。
︵三︶
合が色藷である。
︵三︶ 色の集積なる桂・瓶等は極微より造られしもの
脱は清揮にして差別なき餐なりと彿陀牟尼にょりて述
根本無明が除かれし時、清浄知の積集あり。解
である。不動性・色等は地矧に屈し、流動性は水界で
3∂β
である。汝の言ふ如き全知者には非ず。
脱への方法とを知れる人、彼こそ我々の構成たるもの
︵二讐 捨てらるべきと取らるべきとの眞経と.及び解
りては栢はれず、か1る紳は今却けらる。
イーシュプラ
よつて過度の稀讃を以て言はるる自在紳は、我々にょ
︵三︶ ︵正統派の自在紳・創造紳の否定︶又膠諭漉等に
を、柴を求むる者等は聞け。
て虚客の如く汚れなき、財の産出者なる、般若波羅密
有とに関係なき、内の二元︵謂.︶を除けるー無比にし
こぎとし、取と捨とを経れし竣伽より生じたる、無と
︵二ニ︶ 生・任・滅なる過失を捨離し、一切の住鬼を根
てなりや。苦し求めしならば彼は不完全であり、叉若
︵三︶
切創造者と言はるるや。
のみを造れぼよい。有限者なる彼に就て如何にして一
︵三〇︶
たりうるや。
らぼ、如何にして、かの前後矛盾せる文句が知識根操
︵二九︶
態度ではない。
虜であらう。切傷に盛を投入れることは善人遷の書き
︵二八︶
何にして正常へ向けうるや。
︵︼九︶
若し一切の歌論書が自在紳によつて造られしな
若し彼が法のみを篇さしむるならば、一致詮書
紳は目的を求めて世界を造りしや、又習叫すし
愚人の如く目的無しに汝の紳は何を韓するや。
抑画釧憩励活動が若し遊戯のためにあるなら
ば、小鬼の如く何を戯るるや。常に戯るる彼には苦こ
一一一
3β3
非法へも向けたのである。不雷に世間を為しっつ、如
︵二五︶ 速くを見るも又見ざるもよし、たゞ鹿はるる眞
し苛ぎりしならば何物をも造らざることとなる。
ぺられた。
諸を諦見せよ。若し畢に達成者が権威ならば我々は鷲
︵三二︶
ドー︰シL▼
を崇拝すべきであらう。
羊等の排泄物等を固く馬して何の益があるか。
賛に無関心こそ不善人に射する善人の遠雷な行
︵責︶ 此の囲に何人か蟻等の教を知れる人ありや。
︵三三︶
﹁一Ⅵ定説集成﹂の沸教批評
︵毒︶ 若し矧が﹂切創造者であるならば、彼は人.々l由
汝の語る紳の一切創造者性は葦にありえず。
蝕躍 軌
﹁一切定説集成﹂の偶数批評
一一二
言はるる聖耐勿釧慧押等と正法とが随行せらるべきであ
作男・紳箱・璃伽・重義に於て、分読流等の彿敬
そ葦に至富である。
︵四〇︶
る。吠陀の聖教中に言はるる璃伽等は不可である。
クリ†−・デーブター・ヨーガ・シューヌヤバグ
三四︶ 此の無知なる人間は自らの柴・苦に就て全く無
力となる。自在紳に強制されて天界へも地獄へも趣く
者は、苦悩の地獄に於て熱い赤い灼熱によつて葦に生
︵三五︶ 少しの快楽を求むる自在紳の感めに、生命ある
読流の六敬語終り。
順世旗・阿羅漢渡・中鶴漉・魂伽行波・経部涯・分
以上沸教詭申分説漉の敦詮。
語派は順次に成立する。彼等は賓に四派である。
命を引裂かれるとはー・
以上聖シャンカラ阿闊梨作一切拳漉定詮集成中彿
のである。
スブタントラ ︵責︶ 若し賜物を奥ふる能力あらば、自在者は殺婆羅
−′l︶
/1′\−′し
b−卑官を呈:空風=
b−︼PqPd弓.つざヨノー︷弓苧ゴ崇ヨ︼n削計主一∃1一し、
涯まで存†ろのみなろ故√、最後のコロフォンは
右の如くぁろのであろ。
此の話繹付の罵本ほ第八葦クマ一三フ・バッタ
オ亡i−︼
et琶p乳i箸旦t乙idPn−prPka官署2.mp甘
1′′−﹀′1′弓・−ノ1︶′∼′−1ノー、′/∼ノー︶√\ノ\ノ︵′\
g≡.u思−1︼已ll一lS已≡12コロ苫d箋︷kPl・u富p冒itPC=
邑ミ
毒J翼胃P訂s苫エヨa琶
iti恥r卦Ⅷロp壱重宝旨み包gOまnd守一卓説te率∃乳‖
コロフォンほ次の如lし。
字井伯寄﹁印度曹撃研究﹂第一、真一六七以下。
教教詮と名づけらるる第四章。
︵二︶
謹︵一︶
門等の行男に謝して天界を輿ふべく、蘇摩の供蟻者に
は地獄が在るべきだ。
︵毒︶ 又若し業に従って徳を輿ふる者ならば、悉くの
イーシ十
人が自在者となるであらう。施輿に於て自らの自在着
任に炊くる者にして、如何ぞ一切自在者と言はれうる
や。
︵天︶ かくして正理涜等によつて言はるる一切知自在
者は却けられた。それ故に捨てらるべきと取らるべき
とをのみ知れる彿陀牟尼が納受さるべきである。
︵三九︶︵結語︶那覇を弄すべし。彿陀風勢叫阿合中に
.筑94
l︸.×.
︵三︶ 辞意骨片三日 苧rl?Siddl−訓ぇ守琶首・已−ヂPrePee●
ひ︼.
︵四︶ 出h巳−dPrk弓、くa山苫P鼻−1J etC.1ndi己−出ditiつn︶p・
︵五︶ Wi−︼︷erコごN−Ge乳−己1tedeニ1︼d.Et︷er.こ.S.会ひ一
缶 ⅠI﹁∽.莞串
⊆一己1計ユーMl−・こbid・ワ芸−宕.後者にマドフブ︵ン.
D﹂︼写⊥彗∽︶以前少克くも二世紀に編成され㍗
ものi﹂考へてゐる。
︵〓︶
︵三︶
︵三︶
コロS望コ抑室︰1p汐dPSPコヨC〇l︶宗bb意一r墓Hlkヤ
眉巴l︼\
∞∽−︼■↓︶
前年ほ梵文中論、偽一・七・aミ同じ。︵P喜軋コーp●
以下本節中のアラビヤ数字の番波は校訂者の謀り
て付写しもりにこて、原典ヾ−の封偶の便宜上lしばら
く此なも出L圭次第であろ。
には四
り∵r望芸︶第一旬YOg禦一曾=苫geに、第
此偏.世親の唯識二十項第十二偽ミ一致す。︵TLや
乞−ワ
三旬dem已atをdem已詔に愛東すろのみ。
婆羅門性否定説ほチャールダーカの唱ふる併にL
Skt・S2LeⅦ,宅○−巴,p.uこ.︼?⊥詣︶
て、﹁一切撃濾集成︼第〓早参照。︵㌢巨d臥ral≡
︵一四︶
﹃Prql︼ll罵こbid▲p.望㌢
Sp診s訂1・p
の諸。再生族の生誕の時に行ふものに
く・A・S2iこ︼−○舛どd Hi誉rⅥ〇﹃Ⅰコdぎp.望A、 ︵孟︶
・して十二の祭式ぁり。ち.己㌣卒⊇・db弓n卒㌫告p
P堕呂叉Oaut呂︼Pムぎl・n一a・仇賢ra.∞.巽
第十二世紀前牛。声○誉、5竃u
甥響首長臼、−芝ヾ.S.諾.AD.︼○ひひ−〓彗.寸﹂す。
︵⊇︼arコ一p打叫rtiワ旨︼㌣
讃娼
カudd11ist宅Ot昂∵ヨ払腎tP
に非ず。此
and出uddhism−︵J討AS.
﹂5jぎptim馴︷冒
上か判然・し発いが、マーダブの﹁一切撃派集成﹂第
≦j試nP冒馴trPに∵上\
一〓ニ
の彼の語の理解が異教渡にほ賓に困難にこLて、単
︵一七︶
︼芝○︶吋●−望︶によりて知りえ㍗。
︼lOさ一軒P苫︶よりの引用でぁろ=ごを、]冒ussin−
此侶は法難の﹁量決定論﹂
紐終四分二
−
circ.−・〓芦WiIl︷er⋮itデlI汁S一会¢−第十一世
︸ぎgiter−封︻〃声∴琴p.会㌢
〇、ll乙iP づ.ほど・ド
︵犬し F巳・q已−2・−彗Ouこ㌻e〇〓訂謬︼覆2−こしi︵築き1・化
( /′ ̄ヽ
/′■ヽ
﹁一切定説集成﹂の彿致批評
三涯﹂次の二派ミは軽部派・分説派の二を指†。
されてゐ上らLい。此虞の三振ごは中漑渡な除く
二章lニ於いイ十も用ひられ、後代には一つの形式ご
iblゑikP−の四l二大別する習慣は何時から始められ
︵一六︶
十な数ふ。第十六偏り四十ヾJl‡此わ指す。
しノノ’ ) \−■
︵一C︶ 俳教を已巴ざ冒1i−ハコ、Y〇認c曾ごS賢t−・許ti訂−く抑・
九 /ヽ 七
一一切定説集成﹂の悌教批評
イ、ジュー一ヤーナ
に形而上撃帥賓在ざして 識 ち見上り、し=どが
伺はれろ。
︵一入︶ く賢︸芳恩訂 分課派帥ち普通風姿沙帥ヾJ解さろも
ので、大兄婆沙論を持つ派即ち有部を指Lてゐろ。
木村泰瞥、開講大赦経論部第十一巻、倶舎論解題、
頁一九を見よ。此注が賓有論者なり・し=ざは中論
錬り多く用ひられ㍗ヾ−は考へられね。︵︵冒u乳コー
月柄註より明かでぁり、=の﹁分試汲﹂なる名は
︼∴一括く2.b︼︼賞訂を分課涯ヾ1琴し㍗のは荻鹿﹁.彿
ヒ已h竃⋮P−ハp岩手 フ諾uこ∴一−C︹ご︶〓.ワほS−.コ.
一四八lこよろ。次l二之ヾ﹂分別耽溺︵くibぎ首讐監i−−︶
教討典﹂二二三・七六及び崗﹁柄課名義大集﹂五
ヾJほ別物でぁろが、分別説部兄ろものは正健のつ
か和もので、数年前本誌上に禾沼・木村両氏の静
表がみり■し後、決定祝わ見互い寸J思ふ。
︷J
へ一九︶一ハ雀−乙忘年生首竜◆ 音韻上何らかの遊戯がある
ヽ 〇
訪
養
護
教不通。各因田臓。遺骨荒渾。更間宗緒。因而季長。
諏
手簡の建国停説に射する一考察
﹁建国の俸読
念形辞語。便欲交兵。或有諌日。今何遜乎。因腹決
戦。未義兵鋒。宜蹄治兵。期而後集。於是過駕而返、
の建凶停説は支那の正史に現はれて
ゐないが、玄奨の﹃大騎西域記﹄と西戎に倖へる﹃子
各節其凶。校習戎馬。督励士卒。至期兵曹っ旗鼓相
手娼︵空一ま21︶
閲懸記巳・Y11〓﹂u1年bst学才﹄の中に見出す事が出来る。
望。旦日合戦。西主不利。因而逐北。途斬其肯。東
︵一︶
玄に超する﹃建観停詭﹄とは此の両者を指したものに
人。
宝粟膠。撫集亡観。遷都中地。:︰・・中略⋮⋮建国安
︵戸s︷呂p讃して
他ならぬ。先づ順序として両棲の物語を紹介しょう。
大悟西域記の第十二巻、掟薩日面
子在呪文始羅図。被抜目巳。無憂王怒護衛佐。遷其
昔者此観。虚賠無人。枇沙門天於此棲止。無憂王太
俸詭である。而して是等の俳典は西暦弟四世紀の初衷
なる形としては︶阿育王息境目因線経等に見ゆる彿教
と言ふのは、阿育王偉容二﹁阿育王経巻囚及び︵完全
此の最初に無愛︵Aでぎ阿育︶王の太子が扶日された
豪族。出雪山北。居荒谷門。遷人逐物。至此西界。
から第六世紀の初め頃までにすべて漢詩されてゐる。
地乳︶即ち千国の條には次の如く記載されてゐる。
推拳替豪っ舎立馬王。富是時也。束土椅子。豪謹流
中にも阿育王息境目因縁経は第二世紀の中葉すでに支
一一五
︵三︶
︵二︶
従。居此東界。群下勧進。又自稀王。歳月巳蹟。風
十的の建国儒誠に封†ろ一考察
3β7
︵四︶
一一大
原文と掛象しっ1謬出すべきであるが、蝕り良きに失
干閑の建国博詫に射する一考察
′
婁迦識忙よつて渾出されたと言ふ。姑らく此の詭を認
し、且すでにR。ek⊆l寺本両氏の横澤もあれぼ、弦に
苧専A・や・内Pなる王が出で牢⋮︰ある花その王妃は
︵一二︶
彿滅後二百三十四年を過ぎて印度︵厨yP・G且にD訂・
︵︼こ
めないとしても荷秦の太初六年︵諾−A・P︶曇摩羅提
はその畢なる抄謬を試み.重要なる鮎は特に原語を出
●
によつて稲澤された事は疑ひないから.此の俸説は可
すに止めよう。
︵五︶
成り古くより存してゐたと見撤すべきである。停ふる
ところに操れば、阿育王に一人の王子があつて法益
︵Dぎr︰︼︺PヨrdllPコP︶ と名付けた。その脱が甚だ美しく等
見目よき一王子を生んだ。それを卜者に占はしめた
︵六︶
山の中に住む拘那羅︵Kun巴P︶鳥に似てゐたゆえ又、拘
ところ⋮⋮﹃王の死に先んじて王たるべし﹄と構し
︵七︶
邪淫王子とも稀した。然るに異母の渾容へTi等号詳言tp︶
たので、王は妖み且つ恐れて⋮⋮粟てた。然るに地
︵八︶
︵Sp︶上に乳首︵穿・2訂︶が生じて死忙至らしめなかつ
夫人はその魔しい限に侶つて私せむ事を求めた。併し
法益が是れに應じなかつたので浮容は途に深く憾むに
へた。法益はその歯印を見て父勅であると信じ命の如
千人の子供・ぞ得む事を望み、九盲九十九人を有して.
Cl−ubん町≡午d字阜chen・pO︶と名付くるものがあつて、
と科せらる1楼忙なつ
たから野・写−︹skt・Rust冒且
︵〓ご︶
至った。偶ま法益が呪文始羅︵ぎ灯明鼠−且・ぞ始めに趣く
た。時に支那︵Rgy−︶の天子︵ヵje︶に大菩薩︵ぞ等
︵九︶
や、挿容は償って詔書を作り両眼を抜出するやうに停
く従った。後、異母の好策であつた事が遅れて、浮容
︵冒⋮・TFO?
千に一人を充たし得す、是れを多聞子
︵一C︶
は焚き殺され、又それに輿った大臣の椰舎
内耳Sras︶に所ったー多分子は有償なるSP・nuが棄て
︵Y月P︶も
罪せられたと言ふ。今.その大臣の一族が追放されて
られてゐるのを見、採り来って支那の王子と馬した。
支那の天子は彼れを撫育して成長せしめた。一日、
r
テ閲の西境に移り来ったとしてゐる。
次に西戎停の手鞠懸記を補いてみる。脹絡げエコ口へば
3ββ
ひ一般に﹃枇沙門天﹄と謬せられてゐるっ此の批沙門
ゐる。梵名をくai苫吉富∵即ち﹃く鼠ra嘉の子﹄と言
子に非らす﹄と罵られた。是れより憂愁の念を生じ、
天の名満と、唐代の記録に現れる﹃眈沙都督府﹄の枇
兄子等と進んでゐたが、口論の未﹃汝は支那天子の
⋮⋮遂に天子より一帯の兵を受け西方に国土を尋ね
5㌢とは密接な関係があると信する。併し未だその本
沙、﹃伏闇信﹄等の伏聞、従ってStenぎne召氏の所謂
︵l入︶
未を決定すべき資料を零見し得ないのを遺憾に思ふ。
b訝コ・廿顎ur︸乙.芝、芦念軒念00ー︵谷大歳本
北京赤字版によろ︶。
王博は西晋の光照元年︵∽嵩︶に安法欽が草し、王
大正政経、第五十巻、史博部二の一。
大唐内典鎮巷一。併・しそれ以前の経線lこ見出L得
経lェ染の天監十一年︹巴詣︶に愴伽埠羅が琴し㍗。
︵二︶
︵五︶
出三戒記集巷七に出づろ竺彿念の同経序には﹃秦
光いのは怪﹂むべきでぁろ。
︵四︶
︵三︶
︵一︶
︵一九︶
てチ閲の︵lJi・Y一−−︶地に、己e・浮弓至った。
︵一六︶
が、王に喜ばれずして七百人と共に或は東に或は西
此の頃また印度より望1︰基−弓A・9・苧の大臣竃で
︵一四︶
︵一五︶
に土地を求めてチ閲︵︸どょ︼e−1︶、琶河の上流の地に
来った。⋮⋮Y茎↑は王子S⋮uに使を出して﹃君
は王族にして我は臣下たり。領土を一にして、君よ
王たるべし我は大臣たらむ。かくして此の手酷︵ワ7
Tl一e=︶の沃地に建国せば恒久なるべし﹄と提言した。
是れによつて王子は従者と共に誓︼河の上流に趣い
連動六年歳在学卯﹄ミ見t中ろが、明かに大朝六年
︵一七︶
たが:⋮・領域に閲して意見の一致を放き途に戦端を
の謀りで光けれげ元ら拍。
陀晶埠﹄嘉す∩琴し此の渓梵の比葎正喜
因縁経には畢lこ﹃天眼﹄ミも名付くごぁろ。是れ
一一七
は、王博、王経の所説な以て補つ㌣。
︵七︶
ものでわ︻りう。
︵六︶因縁経によろ。王博は﹃津村﹄、王緯ほ﹃達磨晋
開いた。が多聞子と吉祥天女が峯中より現れて是れ
を制止した。⋮︰恵れより王子苧−≡が天子︵君等
︼言と馬り︶一?竃が大臣となつた。
此の中に﹃多聞子﹄と見ゆるは﹃多聞の息﹄とも諾す
べく温常、寺本氏の謬の如く﹃多聞天﹄と耕せられて
干阻の建国博謂にこ封†ろ一考察
3∂p
干聞の建囲序説に射すろ一考察
︵入︶ 王博にこ冒失羅叉﹄ミ言ひ王柁に﹃徴沙蓬起多﹄ミ
語lこ遷亭して苦Lくない寸品心ふ。
言ふ。後者を﹃徴沙云々﹄の誤り三︼ればかく梵
ミ
︵九︶ 困線種1こlェ﹁乾陀越園﹄寸J出.つ。併J王儒に﹃得
叉戸羅﹄、王裡にこ﹃徳叉戸羅﹄寸J見ゆろ故、便宜上
﹃阻又始羅bの名を探っておいた。︵㌻コ宴腎P
舞乳コi・Pの中間l二催する︰ミは申すまでもない。
名ヾJなつてゐろ。
≡︶ 回線経に徒ふ。玉梓では王子に法中授け主上坐り
︵三︶ ︼ぎck︼1≡こLP〇=ぎ≦一ごp.誓手緩声
寺本桃碓、干開園史、頁一六−二〇。
︹完︶
︵一入︶
一一八
K≡呂望ub⋮笠ハJ﹂戸ゝ.デー≡﹂こ∴こ誓
前文ミ矛盾すろ如きも原文に喝つ。
沙﹄には及んでゐない。私は後者殊にニ﹁咄沙bが
併・し苧⋮毒氏ほ﹃尉遽﹄に比写して﹃伏閻﹄﹁耽
十大︶に此の批沙が咄沙門天の名辞より起った様
故藤田博士は史撃難詰︵第三十六編第十渋、頁三
最も完全な音詩わ示してゐろヾ﹂信すろ。敢へイ、掲
げ㍗次第でぁろ。
︵完︶
に記され圭。が私ほ寧ろ後より咄沙門膚読が附骨
され否ものミ推定すろ。
こ、停詮の批判
荻上の偉詭を通管して容易に認め得るのは彿数的な
色採が濃厚なる事である。而してその要素は疑ひもな
く阿育王と批沙門天との二つであらう。尤も前掲の西
れに清いて﹃束土帝子﹄に子なき虜め枇沙門天に所っ
域記には眈沙門天に就いて多く述べてゐないが伶任そ
て得たのが﹃地乳﹄王子の如く記してゐるから私の言
p・用宗参照。
記も西戎倦も共に西方よりの移民右阿育王の大臣の一
第一に阿育王に関係せしめた鮎を考察したい。西域
ふところも自ら肯定出兼よう。
同一の文献であり乍ら巳・Yニー王佐ひ分けてゐろ
を一変,ものかJb知れね。
のは注意に償†ろ。或ひは此の異りが後世の宮人
見れは明かに渓郁でぁろ﹃干閻﹄の晋蒜でぁる。
原文。ヨg¥ユぎ・︸﹂︰1買主○与−霹↑
此の挿入は原文にほ出てゐ互い。
つ上のでぁろう。
出づ。恐らノ、︼〟〇Clユ1i〓氏にそれを以て此虞わ補
遁の如き﹃冶仲何年﹄の原文写し。申し後節には
︵三︶ 北京版の此虞にはlぎーユ1≡氏従って羽渓氏の謹
′ ̄ヽ ′ ̄ヽ
(
\_′ \J
\J
︵二ハ︶ 北京版にほ﹃下流﹄寸・克、乙す。lし茅つr寧︼︵︼dl一p、
こ㍉㌻乱臣駁
390
五 四 三
族であると言ふ。是れは慈恩偉巻五に
︵一︶
王之先祖餌無憂王之太子。在恒叉姶雄図。後彼遠出
雪山北。養牧逐水至此建都。
と俸へて恰も阿育三の太子その人の如く見徹してゐる
のとや1興るが、何づれにするも阿育王に何等かの因
︵二︶
縁を結ばむとしたのは全く同じ行き方である。君渓了
諸氏は是等の偉説を比較研究された唯一入着であると
記憶するが、氏も猶ほ阿育王との関係を重要視しない
までも明かに捨て去ってはおられない磋である。それ
は千国の建国を阿育王の時代に固守しておらる1事に
よつて窺ひ得る。問題は少し迂曲するが論じておく。
︵五︶
Db?苧キン・で六⋮↑は五十五年在位し、その第三十
︵〓・y=一︶
を建設し最初の子閲王
︵S≡1−・つ︻ュ年に王子苧nll生る⋮⋮王子S⋮一1は十九
歳に達してチ滑囲
となつた。是れ即ち彿戚後二百三十四年な
とある一文を冒c紆己〓氏の謬を通じて知り、﹃治世十三
︵〓⊥ざ︶
hリ︹
︵六︶
年﹄と誤って計算されたものである。併し西戎の原文
﹁七︶
には明かに阿育王の冒一十年﹄に苧nuが生れたと見
えてゐる。それは右の拙澤のみならす寺本氏の和謬
苧clユー≡氏の英諸によつて充分知り得るであらう。後、
︵苦しくぼ二二五年︶﹄と訂正された。と同時に寺本氏
氏はそれに気付いてか干潟の建国を﹃西紀前二二l明年
︵八︶
が彿滅三二四に建国されたと言ふ誼を根墟として、彿
氏は﹃阿育王の治世十三年に生れた∵芋蔓す一川rが干既を
建閲したのは彼れの十九歳の時であるから千国の建国
滅年代︵た苛]P︹・︶より摸算されたのを非難しておらる
1。勿論.椎茸性の多い阿育王年次を基準として数へ
は阿育王の治世三十一年に相雷する。而して⋮⋮王が
父王頻頭沙羅︵l詳dusぎ︶
た方がよいと思ふ。また事案上、彿滅何年と倉す建親
の任を継いだのは⋮︰西暦
紀元前二七二年であるから干渦の建国は西暦紀元前二
牛代は信じ難いのである。と言ふのは既に出した私の
︵三′︶
一一九
南澤を封照する事にょつて直ちに看取し得る如く、阿
四二年となる﹄と言はれた。是れは氏が、子園懸記の
︵門︶ 後節に
手簡の建周博訊に射でろ一考察
β9J
干関り建国儒説に射すろ一考察
一二〇
育王の出世年代も彿滅二百三十四年なれば、それより 観情に閲する記載のあるのは漸く後漢書に始まる。云
砂くも囲十八年以後なる千国の建国も同じく彿滅二百 ふまでもなく、前漢書の干周囲の條に﹃王治西城云々﹄
三十四年となつてゐる。以て西戎停に於ける紀年の一 と見ゆるが、それを渉車︵Yar訂nd︶ の俸に比すれぼ何
斑を知るに足るであらう。私は彿滅を基調とする年次 等、国情又は王統に就いて探るべきものを存しない。
たのに覆した。而して弦に注意すべきは既に
苧ckl−i−−
顧るに以上の吟味は千国の建観を阿育王に因縁付け
が建設されたとは到底、支持する事が出来ないと思ふ。
のみでなく総べてを信虞すべきでないと考へるが、一 是れによつて西暦前節三世妃中部ち阿育玉の頃に千野
際.阿育三の即位後囲十八年に千国が建国されたと停
へる詮を認めるとして、字井博士の研究成果に従ひ阿
育王の如位を西紀前二百七十一年、千国の建国を同二
︵一C︶
百二十四年とするも、果してその頃建観されたか否か 氏も給する如く千国に限らす西方諸国の彿教徒は好ん
甚だ疑はしい。想ふにそれには二つの理由を奉げ得る。 で自分の民族又は歴史の起源を印度に求め、殊に頻婆
先づ周囲の団々と比較してそれほど早く国家的な統制 沙蘇王か然らずんば阿育王の如き沸教外護の大王に関
を保つに至ったかどうか信ぜられないからである。漠 係を付け以て光粂としてゐる。従ってその民族の起源
代に於て支那に封抗し得た位の大国である旬奴、月氏、
及び歴史を調べるにはか1る色採を全く試ひ去らねば
烏孫でさへ事案上の国家統制は殆んど西暦前節二世紀 ならぬ。今.チ既の建国倖詭に於ても阿育王の太子若
を潮り得ない有様である。併しそれがあり得たと傾足 しくぼ王臣が西境に移住し来つたと言ふが如きは、後
しても直ちに第二の疑問に逢着する。即ち何故に西域 世内乱Eirから舛b。tgに至る所謂Gi︼git越の往来が
を努重した張宥の見聞に上らなかつた、そして史漢の 頻繁となつてゐる故、強ち古くから通じてゐなかつた
上に書き残されなかつたか。支那の記録に於てチ既の と羊張するものでないが、併し阿育王の大臣又は王子
∂9β
と限定するところに甚しく信頼性を失ふものと思ふ。
︵一一︶ ともかく或る民族それは確かイラン民族の一部が千国
かく批判し来って阿育王と枇汐門天の彿数的な紳成
分子を除き南俸の相一致する粘を求むれば、東西より
の西境に移り来った事を示すのに過ぎないであらう。 の移民が千国に於て衝突し東方の勝利に節して建国さ
第二に枇沙門天が停詭の中に色々と織込まれてゐる れたと言ふに止まるっ併し未解決のま1残されてゐる
が是れも信すべからざるはその紳祀的説話的なるによ のは、何故に西戎停は西方の阿育の王子を支那の王子
君渓氏は是れを次の如く僻梓しておらる1。﹃西域記
って一見すでに了解し得る。西域記に於ける記述は直 に遷してゐるか、と言ふ問題である。
接、建国停訣に関係してゐないが西戎停にあつて阿育
の王子を支那に遷したのも東西南軍の戟を中止したの に記する様に賓際は支那人が印度人を征服したのであ
も枇沙門天となつてゐる。是れは西方の阿育王子を東 るが、後、チ閲が印度の文化に浴し彿敦の流行するに
方の支那王子に仕立て上げる褒めに用ひられた一策の 従って、強いて阿育の太子を膠利着たる支那よりの移
ほか何物でもなく、叉後者の場合必ずしも枇沙門天の 住者の王として、此の観の最初の王は彿法の保護者印
めたのでなからうか﹄と。如何にも私も同様に考へな
︵一三︶
出現を待たすとも和解し得たのであ豆。由来、是れは 度の大王たる阿育王の太子であると言ふ様に俸訣を改
閃護天の一にして此方を守護する彿敬神である。それ
い事はない。現に西域記には﹃東土静子﹄と耕してゐ
︵一円︶
故、北方のチ既に於て崇拝せらる1に至ったのは葦と
二二︶
︵一五︶
に謂れのある事であるが、然かも停詮に掠れば建国よ る。是れをIiern︼か氏は回鴨の王子かと言ひ、新湊氏
旦一代の王を経て始めて彿敦が干既に職人されたと言 は周の時代.左横な王子があつたとも思へぬ等と.可
一ニー
かる必要はない。軽く東方より来った王子と見て置け
ふから、後世の附倉又は償托なる事は蔽へない事箕で 成り苦んでおらる1が、そんなに窮屈な限定をしてか
あらう。
千閏の建国博誠に封†ろ一考察
3タ3
干関り建周博認に対する一考察
一二二
ば差支へないであらう。と言ふのは西域記に﹃束土も
帝浮び束るは﹃質至と言ふ概念であらう。而して私
子﹄とするに踊らす、西戎停には阿育王の王子を一は
度次の如き歴史事案を見出す事によつて新しき解繹を
︵一︶
西域の彿教、貫二三五−二六〇、干閥建囲に閲す
大正蔵経、第五十巷、免停部二の一。
・し得ろ。
○羊l⋮lぎh
ミ稀イ︼らろゝ事によつても先づ主張
手腕の土俗語がイラン系統の言重でぁり
巳訂つr出uddh臼−p・哲︼、㌍持−
印度曹撃研究第二巻.彿滅年代論、真一〇七。
のされ㍗西域悌致ゐ研究﹄頁二四U。
宗教研究倉編﹃最近宗教研究思潮﹄の中に氏がも
干開園史、真二一。
注︵三︶蓼看。
氏ほ便宜上、恰も前節にわろ如く請出L告。一の
原文は此虞lニ﹃冶伽三十年﹄ミわろの一どカ〇ek〓︰l
ヒ穿こち出udd−−D▼P・ほ望・
補講ミLて許され㍗い。
原文は︼尉官︼・出○帥ち﹃王﹄亡兄つてゐろ。私の
bs︷呂・廿g︸u−・、■d︼.冨−己.余事.
同書、真二五九−六〇
ろ俸訊に拭て。
︵二︶
び支那王子と膚し再び西方に故地を求めしめてゐる得
・たものの様に感ずる。
その鮎に寧ろ甚蕗の興味を感するからである。尤もそ
れを阿育王の王子であつたとは想像しないが畢なる停
託としては餞り阻も持って廻った説明阜ないかと思
ふ。それには何等かの事資が伏在してゐるのでなから
ぅか。想ひ弦に至つて一屠、奇怪に感ずるのはその王
子が支那に向へられた動機である。前掲の如く支那の
天子は千人の子を得むとして九百九十九人を有し残る
一人として迎へたと記す。是れは阿育王が即位に際し
〓六︶ で位を寧ひ殺害したと言ふ異兄の数によく似てゐる。
が勿論多数を意味したのに過ぎぬであらう。それにし
ても何故にかく多くの王子を得むとしたか。畢に東方
)
)
の膠利者を西方の人物に韓摸する薦め考案されたもの
二 言 九
\J
とすれば何を苦んで多数の王子を得むとし又得てゎた
とまで言ひ及ぼす必要があらう。疑ひは正に此の鮎に
集められねばならぬと思ふ。此の場合.何人の脳裏に
3タ4
′′ ̄ヽ ′/′ヽ (
五 l!竺一 三
) \ノ \.ノ
/′ヽ
′、
)
( /′ ̄、\ /′ ̄ ̄ヽ
ワ諾可.崇dNP¥Ⅵ茎一≡邑訂王の第五年。
︵三︶ 訂︷言古g苫︼・−召︼■芦≡・会㌢Tしi訂つrぎ︵︼︵宇・↓
︵三︺ 西域の偶数、貢二五三。
Asi“√p﹂ほ︵膚−・ゝ・S﹂︼−−S遥−﹃已−■守甥u≡ber︶
る。想ふに解憂公主が烏孫の胡地に降らねばならぬ事
︵一︶
情になつたのは弦に零してゐたのであらう。而してそ
口元貴靡。次日商年男渉車王。次日大粟虜左大蒋。
翁蹄靡既立披肥王。後倫楚王解憂生三男南女。長男
如く記されてゐる。
翁蹄靡に重された。かくして前漢書の鳥系停には左の
︵二︶
の烏孫王は卑昨であつた。て琴陣死して後その弟なる
︵一四︶ 夢士≡一;一−ect㌻−Or A=t︰モー≡悪 才C⋮C⋮11.己
︵孟︶ 西域の彿教、真二四六。
︵一山ハ︶ 巳Mll︼P■呂訂P−C︼−.P
の記載
書見律、啓二。
三、漢書
死じ死時萬年在漢。渉車国人計欲自託於漢。又欲得
宣帝時烏孫公主小子萬年。渉車玉愛之。渉車重無子
車王愛之﹄とあつたが固より事賛と考へられぬ。其の
して渉車重と屠った事は疑ひないと思ふ。其魔には﹃其
是れに依って前出の﹃小子萬年﹄が烏孫公主の次男に
長女弟史悠亀弦王津賓妻。小女素光男若呼瑚侯妻。
烏孫心。如上普請萬年痛渉車王。漢許之。遣使着実
次に見ゆる如く漠及び烏挨両国の心を得むが褒め国人
試みに前漢書西域俸の渉車の條を播くに
売国蓬萬年。
有名な王細君に次いで烏孫に降嫁した楚王戊の孫、解
る最初の歴史事案である。弦に﹃烏孫公宅﹄とあるは
不自然もない。殊に前漢書の電撃囲の偉には烏孫の解
の外孫である。されば僅方の故国に禿てゐる事に何の
併し果して萬年が漢に在ったか。彼れはともかく漢
が政策的に迎へたのであらう。
憂公主を指してゐる。前漢書の諸侯表に従へば漢の高
牽公壬が鼓琴を畢ぼしめる潜め長女の弟史を漢の都に
と見ゆる。是れ支那の記録に於て渉車に閲し記載さる
祖の弟楚王交の孫がこの戊で、戊は景帝の三年︵−岩戸
逢ってゐたと言ふ記事がある。適確な典撞こそ見出し
一二三
C・︶反して課せられた。所謂典楚七観の乱に於てであ
子閻の建国倦説l二射でろ一考察
39β
干場の建圃倦諷に封†る一考察
一二四
而して漠は渉車の講ふま1に使者実売観を遇わし萬
得ないが寓年も同じく漢文化に接する鱒の京師に禿て 孫として入侍してゐたのであらう。
ゐたのであらう。また前漢書の烏孫停には親和意や任
昌が、萬年と殆んど時代を同ふすると覚ゆる﹃侍子﹄を年を奉して選らしめた。萬年は渉車に至って王位に郎
透り遷したと解す。是れは何人であつたか固より明瞭 いたのである。是れを漢書は前掲の如く単に﹃宣帝時﹄
でないが、また萬年の入侍してゐた事を推察する助け と記して明確なる年次を示してゐない。併しそれに積
である、先づ式師賂軍、李廣利が大宛︵勺qga⋮︺を征
常時か1る質子が諸国から集ってゐた事は明かな事賓
漠室にとつてみれば鰹のよい﹃質子﹄に他ならない。
渉車王遠。弄奉世寛光線大夫。是歳元康元年也。
大宛客。郎以便宜豪語団兵撃殺之。更東電昆弟子偏
殺漢使者。自立席王約諾固背漢。倉荷侯礪奉世僕達
寓年初立暴悪っ国人不詮。渉車王弟呼屠徽殺萬年並
となる。﹃侍子﹄は朝廷に入侍する子弟の意であるが、いて
伐して ︵︼亭−○−声Cし降した時、諸国は漠の威光を畏
れて子弟を入献した。漠はそれを﹃質﹄子と為したと と言ふ記述があるから砂くとも宣帝の即位︵諸声C・︶
Jr]マ︶早くも邦書、章節等の王が 考へられる。因みに此の記録によつて萬年が渉車に至
史記の大宛偉に出づる。更らに後漢書の光武本妃には より元康元年︵若戸C・︶までの問の出来事であつたと
建武二十一年︵ふmr
侍子を奉って禿たのを、未だ中歯が安定したばかりで った際、前王の弟、呼屠徴がゐた事を知るべきである。
懸記に立ち戻る時、その倖詮の骨子に於て相通するも
あるからとて、透り遅したと見ゆるっ従って前漠に於て 上述の如く渉車俸を分析し来って再び西戎停の干園
も西域に最も威令の行はれた貰帝の時代︵諾畠声Cし
小手を指したのに他ならぬのであらう。一度び支那の
に諸国から多くの質子が来てゐたであらう事は想像に のがある如くである。阿育膏な西方の王子とは烏孫の
妊くない。王子、寓年もか1る中の一人、殊に漢の外
β9♂
観を求めて去ったと言ふのは実売観の一行に護られて
てゐた事を示すものである。一萬の兵を得て西方に故
人を有してゎたとは要するに多くの質子を譜観よ射線
う。支那の天子が千人の王子を得むとして九百九十九
常時、賢はチ施の王弟をしてその囲を治めしめた。が
車王の繋が建武︵学課A・P︶の末年、チ威を併合した。
ると俄然、両者の閲係は錯綜する様になつた。初め渉
ない。砂くとも文献には現はれてゐない。が後漢に至
前漢時代に於てはチ渦は渉車と何の交渉も有してゐ
それには多少、両国の関係を論諾する心安があらう。
建国停詭の如く語り停へらる1に至ったものであると
渉車に行ったのであらう。而して東方の王子が国王と
王子に迎へられたのは﹃侍子﹄として来ったのであら
なり西方の族長が宰相となつたのは併設、萬年と呼屠
歳飴にして是れをも瘡し自分の部落を以て代らしめ
た。或に千席は名資ともに渉車の支配下となつたので
徴との関係で、呼屠徽が一時、萬年を奉戴したのであ
る0
都未なるものが先づ新し、次いで同じく休美覇なるも
ある。後、明帝の永卒三年︵≡A・P︶に及んでチ粛の
戒俸に俸へし倖詮は単に勿漠氏がSteiコ氏の報告等を
のが立って千席王となつた。休英覇はその在位年間に
併しかくの如き考察は囲を異にするに非ずやとの非
た事を認め得る。その後と雄も.紹封的に優勢な鯛家
も精しく出てゐるが、ともかく相互に呑併を繰り返し
︵三︶
掛酌して東西よりの移民が千国に於て衝突したと言ふ
渉車を屠り得なかつたが、被れに適いだ庚徳は.賢を
若しか1る比定にして大した嘗を失せぬとすれぼ西
事を示すに1ヒまらずして伶ほ一屠、渉車倖に倖ふる如
殺して遜に渉車を滅した。是等は後漢書の渉車備に最
難を免れぬであらう。私は是れに対して次の如き説明
を形成する蓬境を怠れてゐない彼等にとつては、常忙
︵四︶
き史茸を物語るものと思ふ。
を属し得る。餌ち渉車に於ける歴史事案が、チ園と密
同じ様な状腰が反復された。か1る過程に於て一方の
一二五
接なる閲係上、テ閲に職人されて何時しかテ施自らの
干閲の建国儒課lこ封†ま二考察
3タ7
干親の建国博詫に射する一考察
物語が他方に喩入さる1が如きは強ち有り得ない事で
もあるまい。それ故、私は渉車に於ける史贅が子閲に
移されて手間の建国停諒となつたものであると推定す
る。
以上を約言すれば、現存.千国の建国停詭は前渓の
時代に烏孫公王の小子萬年が渉車に至って王位に如い
だ歴史事葦を物語るものであると.見撤すにある。一
歩退いてか1る事貨そのものを示さないとしてもかく
の如き種の物語を根抵として構成された停訣なる事は
何人も認め得られよう。
︵一︶ 有名先見其の孫、名一ピ軍須磨ミ言つたが、普通本
文の如さ官紀を以て呼ばろ。前漢書烏孫儒参見。
り ミbi。に相雷lし﹃君島﹄の意なりミ言ふ︵東洋
︵二︶ 窟締靡の﹃磨﹄lミ軍須靡のそれ等ミ共にトルコ語
氏は
要一書雇彗宣一己さ
畢報第三巷、白鳥博士、大月氏考、真一七四︶
ぎ⋮l︵つ≡老
︵三︺ 西域の儒教、真二五一。
︵四︶ 休英覇な
デー望忘−p.∽余︶
r㌘⋮l︶三P︶に比定・し︵︼ハ一≡t2一筆乙軒、J.冥.ゝ.
藤田博士にTDCコ・亡冒〇た斑掌りれた︹史撃雑誌、
一二六
︵一九三一、六、五︶
第三十六涼第十朱、西域研究、軍一〇︶。併・し何れ
も遽lこ信ご難い。
39∂
僧兵と寺領庄園
国家の軍隊によつて観内の治安を維持しやうとして
ノ
︵二︶
亀
市
乱逆.己雷此時.国司若致備忘者.可罪科者、
れてゐたことが明かであるが、寺院に在りてもまた伶
と云ってゐる。これにょつて庄園には各々私兵が養は
ヽヽ
護してゐたのであるが、ほゞ奈良朝時代末期を以てこ
俵諭旨、執啓如件、
の軍国制度の崩壊の結果、庄園領主等はみづからのカ
兵・悪業等を擁して圧園を護ってゐた。私は本稿にお
ゐた前期王朝政府の軍国制度は、もとより寺領をも保
を以て己れを防衛し.それ′丹∼私兵を蓄えて武威を擁
さて僧兵出現の年代に関しては畢界未だ定説が存し
いてその一班を究明しやうと思ふ。
勤、以御教
せねばならなく■なつた。﹃兵戦記L保元元年七月八日の
條には、﹃今日戒人頭左中排雅致朝臣、参
ないが、﹃日本高僧停要文抄﹄に述ぶる所によれば、青
ヽヽヽヽヽ
書仰諸国司云、入道前太政大臣井左大臣、催庄園軍兵
︵一︶
石山大僧都たりし和上明詮が、仁明天皇の邁前により
ヽヽヽヽヽ
二ニ︶
飾り、東大・興扁・大安寺の雑職人強力者六十人を蟹
て檜綱に就任する由を停へ聞いたる悪伶等が、妬祓の
之由有其間、憶可令停止者、﹄とあり、次いで同月十七
日の綻には、
今日頭排奉 勅、仰下請幽司云、
し、各々兵杖を帯びて甚だしき狼籍に及んだとあるが、
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
宇治入道猶合催庄々軍兵由、有其間者、件庄園
この記録はその年代の粘から云ふも、僧兵研究上にお
一二七
井左大臣所領、怯令浸官.可令停止彼好濫朝家
暦兵ヾJ寺領庄胤
3タ9
僧兵ヾ−寺領庄園
いて最も注目すべきもの1一つであらう。この場合は
一二八
るが、そもく班臼農民は甚だ軽からざる租・庸・調
仁明天皇の崩御直後のことであるから、平安朝初期に の誅求を受けてゐたが、檜尼はすべてこれを免除され
属し、西暦紀元第九世紀なる八百四十八年頃である。 てゐた。従って貧困に喘ぎ諸国に浮浪せる農民は.私
右文中には﹃悪比丘﹄なるものが見えるが、それは即ちに僧侶となることによつて何等かの便宜手段を得んと
﹃悪檜﹄のことであつて、しかも昔時に在りては、伶 した。既に養老元年四月二十三日の詔は、頃青首姓法
兵のことを屡々悪伶と呼ばれてゐる。蓋し僧兵の構成 律に背達して、ほしいま1にその情に任せ、髪を勢少
要素が、浪人・あぶれ者・悪薫等々の伶衣を纏ったも 繋を覚りて鞭く道取を着け、貌は桑門に似て情は好盗
のだからである。一部の聾者は、右の記録は僧兵に関 を挟む.詐償の坐する所以、姦究これより起ると述べ
するものであるや否やにつき疑問を抱いてゐるやうで てゐる。紳鵠元年十月朔日の治部省の奏言には、貰お
陳明かならず、或は名は綱帳に存すれども.邁つて官
あるが、私はこれを以て、僧兵些関する記鉄のうち最 よび諸観偲尼の名籍を勘校するに、或は入道の原因披
も古きもの1一つであることを断定する。
僧兵は寺院が私カを以てみづからを防衛せんがため 籍に落つ、或は形貌願を誌せども、既に相苦らす、惣
︵四︶
や、鬼分を知らず、伏して天裁を聴かんと云つてゐる。
に設けられたものであるが、今その出現の原因につい て一千一首二十二人、格式に准畳して公駿を給ふべき
て見るに、先づ班田農民の窮乏と得度制度の頭像であ
る。農民窮乏の事茸については既に先進語草者によつ 天平貸字三年六月二十二日、元興寺数玄法師は秦言を
勿任、国内彼此共検勤遠本色者.﹄と奏してゐる。これ
︵五︶
て究明された所であり、また近き将来に公けにすべき 上って、﹃窺惟、私度借着、深詭彿夏作亡命、伏講須天下
拙著﹁寺領庄園の研究﹂︵日本寺院経済史論、第二巻︶に
おいて詳帝に論明すべき筈であるから此虚では省略す らによつて見れば、奈良時代における借尼得度の名籍
40ク
が甚だ薙乱であつたことを察知し得る。されば僧兵出
現の素地は、既に奈良時代に見られる。文拳博士辻善
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽヽヽヽヽ
衛也.伏以、語寺年分、及臨時得度者、一年之内、或
及二三百人也、就中年分以上皆是邪濫之輩也、又諸国
ヽ
百姓、追試佼邁税調者、私自落髪猥書法服、如此之撃、
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽ●ヽヽヽヽヽ
之助氏は、﹃僧兵の卵子とも見るべきものは、良源以前
積年漸多、天下人民、≡分之二、皆是禿首者也、此皆
ヽ
ヽ
ヽ
ヽヽヽヽ
よりあり、天平賓字八年、窓美押膠銑の時は、近江観
家書妻子、口嘆膿腹、形似沙門、心如屠鬼、況其尤甚
ヽ
檜沙蒲等及び錦部寺嵩園寺の檀越及び諾寺の奴等、官
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
、、、−、、、、、
︳
ヽ
◎◎
︳
ヽ
◎◎◎
ヽ
◎
ヽ
◎◎
ヽ
者、来演群盗、窺鏡銭貨.不畏天刑、不顧彿律、若囲
ヽ
軍を助けたる功により、天平紳護二年九月、其功を質
司依法勘乱、則霧合雲集、競馬暴逆、前年攻囲安塾守
◎◎◎
、、、、
ヽ
して物を賜ふといふ事がある。︵績紀︶是は愴兵といふ
藤原時善、劫略紀伊守橘公廉者、皆是濫悪之檜、虜其
ヽ
べき程のものでないかも知れねが、僧兵の粛穿ともい
魁師也、総使官符遅登.朝使緩行者、時善公廉皆薦魚
︵六︶
ひ得よう﹄と論じてゐる。
肉也、若無禁懲之制、恐諦防衛之方、伏望、諸信徒
有凶濫者、登時追捕、合返進度線戒牒.郎著俗服、返
降つて平安時代に至るや、か1る趨勢は他の祀曾諸
関係に怠けると同じく、更に一段と助長された。吾々
附本佼、又私度沙蒲、焉其凶嘉者、鮎著紺鋲、駈佗其
月二十八日に上表されたl二善清行の英文を指摘するの
と。即ちこれによれば、愴兵の多くは悪薫、強盗の類
身.︵下略︶
へ七︶
はそれに関して多くの史賓に接するが、延喜十四年四
みで十分であらう。その一節に日く、
庄簡を護ってゐたのも、恐らくはか1る種類のもので
であつたことが明かである。寺領庄周に巣喰ふてこの
右臣伏見.去延喜元年官符、己禁権貴之規錮山川、
あつたらうと思ふ。長寛元年七月十日には、延暦寺の
二講禁諸国悪恰濫悪、及宿衛舎人凶暴事、
勢家之侵奪田地、茸州郡之枚辣、除兆展之肇警
伶従および日吉の紳民等は、京中に乱入して出撃物を
一二九
吏冶易施、民居得安、但猶凶暴邪悪者、悪借輿宿
骨兵寸J寺舘庄園
ヽ
ヽ
4∂J
ヽ
ヽ
ヽ
︳
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
衛兵ミ寺領庄園
︵八︶
掠奪して居り、右大臣藤原宗思の日記なる﹃中右記﹄
一三〇
かくて政府は屡々令を下して僧兵の横行を停止せし
ヽ
太政官符
ヽ
ヽ
治部省
ヽ
︵一一︶
法式に遵ひ、多数の弟子等を率ゐることを禁断して、
一條天皇永延二年六月二日の太政官符は、僧綱凡侭が
ヽ
めやうとした。﹃中右記﹄長治元年十月二十六日の條に
ヽ
ヽヽヽヽtt
ヽ
ヽ
長治元年十月七日の條には、﹃近曾台嶺の衆中、有法棄
ヽ
ヽ
は、東大寺・興福寺・延暦寺・圏域寺等の借徒の兵使
ヽヽ ヽヽ ヽヽ
繹師者、東塔大衆伴僧任太寺都那師、而武勇過人、心
ヽヽヽ
ヽ
を諾することを厳に停止せしめたとあり、更に遡って
ヽ
好合戦、毎山上聞乱必以□、諸観末寺庄園皆以乗任、
ヽ
干〃
引率数十人武士ロコ、京都諸国朝夕往反、戎奪取人物、
ヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
或欲切人首、天下衆人莫不従此、公家□今不被禁制、
天之令然之秋欺、天下乱逆、呼嵯哀哉、武威之被世故
童子十人
應停止僧綱凡僧帝違法式.多率弟子童子事.
僧正各従伶六口
童子八人
無出詞之人、凡一両年諸寺大衆諸政細入穿以展、皆成濫
と悲憤の至情を漏してゐるが、これによれば、法葉辟
僧都各確信五口
童子六人
今定
師なる叡山の伶が、武勇人に過ぎて合戦を好み、議団
律師各従借用口
童子四人
国力所カ︹九︶ 逆、天下衆人背悉此突、□土乱逆天下騒動、無口詐欺、﹄
の末寺庄園を皆以て来任し、数十人の武士を率ゐて諸
凡伶各沙頭二人
たことを察するに難くない。彼等の前身の多くが土民
することを好んでゎたる.甚だしき悪真の頭目であつ
憤怒法、併率之従類、各二三十人、以多薦柴、以
有改定、何得過差、而今近年之間、蒼俸之肇.不
右投案内、伶綱凡倫弟子引率之教、載在絡條、非
ひと
国に横行し、人の資財を掠奪したり人の昏を切つたり
であつたであらうことは、式部大輔藤原敦光の意見書
ヽヽ
に、﹃諸国土民馬連課役、或将帥人威偲雷僧、横行部内、
少薦祉、志窮膵定、旨渉放逸、其尤甚者、好着奇
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽ︳︳ヽ
限、間挿短兵、恐輝威武、動敦乱闘、非唯忘皇憲
︵一〇︶
封指図務、﹄と云へるによつて明かである。
40β
知左右衛職、左右近府.左右投非違使先了、左大
之堅雪濠亦致彿法之療醗、佃可加奈邁之状、下
して、綾の落武者に駈立てられ、多くの人討たせ、又
﹃碧出家の身として遠人畜め物具奪取らん窒描
都に致し、平家の討伐を提議した。山門の大衆は圏域
︹一四︶
ゐる。治承四年には、圏域寺の大衆牒を山門および南
︵〓ニ︶
正五位下行左大史 背き神明にも放され奉りたるとぞ覚えし﹄と慨歎して
も恥辱なり。武重の虜にも瑞垣なり。されば冥慮にも
臣宣、奉勅、宜加柄議、依件定行者、省宜承知、 同士軍仕出して、数多の衆徒を失ふこと、伶徒の法に
依宣行之.不得遵越、符敦奉行、
正四位下行右大郷藤原朝臣
兼備中植介大春朝臣
二二︶
永延二年六月二日
と云って居るが、彼等はかくの如くにし∪屡々乱闘し、
寺よりの牒状を披見して、﹃こは如何に、富山の末寺で
似たりと、抑へて書く條.奇怪なり﹄とて返牒を透らな
政府の厳重なる禁制にも拘らず、益々僧兵の檜殖に資 ありながら、鳥の左右の遡の如く、又車の二つの輪に
したのである。
僧兵は屡々彼等相互間および武士と戦った。武士と かつたが、南都は直ちにこれに呼應した。︵その牒状は
の戦ひについては、王朝末期における軍記物語に煩雑 甚だ注目すべきものであるが、頁の都合により略す︶
な佗ど見えてゐる。平治の内乱に源義朝等が敗北して だがこのことは何を意味するか。それは寺院が僧兵と
落ち行く由を聞いた山門の偲徒等は、彼等を遺に擁し 補する強大なる武力を背景にして、−−1﹃王城鎮護﹄と
て襲撃し、その節持品を掠奪しやうとしたことさえも 窮しっL−⊥硬骨支配梯の一翼を掌握してゐたことを
ある。横河法師なる僧兵は、上下国正百人の軍勢を催 意味するものである。この戦ひは山門が加接しなかつ
して信用・義朝等の落つるを待ち伏せて討ち留めんと たために、伶徒側は平家の軍に打破られ、衆徒の肯を
︼三一
したのがそれである。平治物語の筆者はこれを許して、
斬らる1者二百鉄人、南都の堂舎府屋は一宇も残らず
僧兵ヾJ寺領庄園
僧兵ヾ1寺領庄園
︵一五︶
一三二
der
St旨t邑bstい乱e
blO戎e㌻∴くerein、SO−1dern
︵一七︶
F詳
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eine
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i−1reコWirkllロg許re訂uコPb−1ぎg︼g召n
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悉く焼沸はれ、﹃百錬抄﹄の筆者をして、﹃彿法之滅亡、 ゼーリングは共著﹃寺院法論﹄において、⋮⋮⋮⋮⋮
偏在此時、﹄と叫ぼしめ、また藤原発案をして、﹃七大寺
己下、悉壁灰僅之練、濱世馬民、彿法王法滅蓋了欺、
自昔天性之壁票、骨不惜身命、只欲不留遺恨之名、而
また参考とするに足るであらう。而して寺院へ封して
合この言棄は、吾が王朝寺院を解剖する上において.
温邑lic−−eコ訂tset注l≡dregelt.。と云つてゐるが、この場
去冬以後、取諸身極生涯之怨、嘗此時忽見我氏之破滅.
凡非言語之併及、非筆端之可記、余間此事、心神如屠、
以彼比之、敢不足男喩、恨遠璃愴者辣、凡彿寺堂舎雄
世、於今昔難期其時歎、仰天而泣、伏地而突、拭数行
山林之素懐、臨終正念之宿願、一期之大要也、淳菜之
業之程、来世又無憑欺、天下若有落居之世者、早可造
令然事、昔時之悲哀、甚於頚父母、懲生而逢此時.宿
如此之事、常悪道之時、頴破滅之期辣、誠是錐時運之
台之両寺者、度々遭其災、至テ南都之譜寺、未曾︹有︺
︵一︶︵一入︶
盛蜂起、以秦状付職事了、是可止遷都之由也、若無我
四年十月二十日の條によれば、﹃博聞、延暦寺檜徒、職
させ奉ったのは飴りにも著名であるが、﹃玉葉﹄の治承
鴨河の水と、埜六のさいと.山法師なり﹄との歎を漏
彼の英邁の帝をして、﹃朕の意の如くならざるものは、
僧兵を擁する寺院は屡々囲攻にも容唆しっ1あつた。
吻質的基礎を成す庄観そのものであるがーその結果、
かくの如き権勢を附具したのは、云ふまでもなくその
ヽヽヽヽヽ
之紅涙、推五内之丹心∵言而有鎗、記而無益、努力々
遷都を止めざれば山城・近江両国を押領すべしと、恰
滞日域、東大、輿扁、延暦.圏域、以之薦宗、而於天
孟と真鶴を叫ばしめたのである。併しながら、若し山
も内乱に類する言を以て奏状してゐる。彼等が如何に
許者、可押領山城・近江両国之由、成支度之由、﹄とて、
門がこれに呼應してゐたならば、恐らく平家の地位も
傍若無人であり、﹃観家内の国家﹄として.その擁する
〓六︶
にわかに後節し得ないものであつたであらうと思ふ。
40壬
寺文書に牧むる天吉元年七月の、同寺餞美濃園背部庄
そば賢に虎狼に等しき一大集囲だつたのである。東大
元の内乱においては、南都の高僧貴借等はひそかに情
兵備の堅固なりしかの状を察し得るであらう。彼の保
を左大臣側に通じ、満々たる政治的野心を抱いて僧兵
昔昔牒袈琵郡、伽郁宗平罫ぎ琴
の庄司佳人等が寺家政所へ致したる解文の一節には、
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
﹃方今王法彿法相埜.辟如車二輪鳥二翼、若其一間者、
を渡遺しやうとしたがため蓮にその節領を授官され
た。兵部脚平信範の日記なる﹃兵範記.買入事記ともい
量有彿法乎、﹄と殊膠なことを云ひつ1も、直ちに顧み
て、仰︺偽輿法之故、王法最盛也、﹄と我田引水のことを蓮
ふ︶には、
可浸官権大僧都尊重、横棒師千襲、大法師信
べて、国司の寺領収公の不雷を鳴らしてゐる。寺院が
同︹藤原︺朝臣思推量.奉軌、件尋奪等、同意左大
済的利金を檜進して呉れたがために過ぎない。故に若
王法を尊んだのは、とりもなほさす、己れの政令的経
︵二つ︶
葦、玄賓等所領事、
臣、敬遠悪僧由−己有其間、宜令淫官彼輩所領者、
しいさ1かなりとも寺院の利益を損傷するが如きこと
ヽヽヽ︳■t
国富承知之.
年八月の條に、﹃廿六日、興福寺大衆車春日紳民、集曾
へ牧訴するを常としてゐる。﹃百錬抄﹄堀河天皇寛治七
あらば、彼等は直ちに僧兵を総動員し.大聾して朝廷
︵一九︶ 左大史小網宿繭師経
︵中略︶
保元元年七月十一日
と公文を引照してゐる。
放光耀、自然鳴動、本官御笠山上、同時有光耀﹂広々、
劫聾院、捧鋒所木、随身鏡鈴、紳入所持之鏡.於葉上
武力を擁して寺院自身が恰も一つの囲豪なるかの如き
是依訴申近江守男豪朝臣陵礫紳民事也、︵中略︶廿七日.
事細心既にか︿の如く、寺院は恰兵と耕する強大なる
行動を採るに至った。彼等みづからは揚言して﹃俗界﹄
内大臣己下奉書杖座、被定近江守高階虜家胡臣罪名事、
︼三三
を追越してゐると云つてゐるが、何ぞ知らん、彼等こ
僧兵ミ寺領庄園
ヽ
40∂
ヽ
ヽ
︵二二︶
一三四
俵春日紳民訴申事欺、廿八日、内大臣己下垂入、被行
臣清思、申任大和守、清忠君、硫酸殿近臣也、殿下親
慣兵ミ寺領庄園
男家朝臣罪名事、除名配流土佐幽、又線座肇、或解却
へニー︺
見任、或頗鋼、大衆等蒙裁許蹄去、﹄とあるが如きは、
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
頑と、それに比例して強化したる寺院の濁立王国的地
互依存の関係に在ったのである。王朝政府の樺カの衰
解鰹とが偶然に合致したのではなくて、不可分雄の相
慶墟の中より生れ出でた。それは前者の成立と後者の
かくて僧兵は、前期王朝政府における国民皆兵制の
大興、拘留殿侍男共云て﹄と云って、囲司の管内検注を
ヽヽヽヽヽ
月八日の條には、﹃親隆来日、依大和図投法、南都衆都
︵二一ニ︶
額、止享検使、於検江者、肝不許也、不検住着、不可
国領、何講止投法乎、伶徒檜訟之、殿下日、至テ寺倍
止投庄、殿下不許之日、雑務江、於寺倍額者、不可虜
吏務、直殿侍男共数人、授荘園内田、安倍
元年九月二十五日の條には、﹃今春、除目下名、以源朝
扁寺側の者は箭に中つて死傷者を出した。﹃台記﹄天養
即ちその一例である。
位は、好むと好まざるとに拘らず、いやが上にも屠一
捷拝すべく伶兵が蜂起して居る。もとよりこの場合は
あらう。安和元年七月には、東大寺と興福寺は田地僅
こ1で後者の場合も僧兵の活動との交錯に閲心するで
前者に就いては別の横合に詳論する改定であるから、
たは其他のものより侵掠されたことを物語ってゐる。
念したが、そのことはまた反面において、他の寺院ま
さて寺院は各々力を志して他の庄園を侵掠するに専
られ、且つ件の庄園を寺家に付せらるべき由を奏閲し
所の使者を凌摸し、この罪によつて倍速を流罪に虞せ
を致し、大織冠大炊女末孫等を殺害し、また興福寺政
りにより山階寺領の坂田庄を知行してゐたる靡、濫悪
更に碁歴三年十二月には、前下野守倍速が伶粂玄の譲
い鮎があるために神経過敏になつてゐたのであらう。
国司の寺領侵犯のためではないが、伶徒が自己の背暗
ハニ四︶
分別輿倍額奥地領之故、伶徒英復訟英﹄績いて同年十
屠と寺院をして武備を充寅せしめたのである。
に一段餞のことに就いて相諭し、途に合戦に及び、興
亜裕
甚だよく経過を運ぶものであるが故に、こ1にこれを
た各所に敬を飛ばしてその不嘗を訴えた。その牒状は
寺家に付するが、倍速は過失はないと申して居るにょ
引照して語らしむるであらう。石清水八幡宮寺への牒
た。興福寺衆徒の要求に勤し.朝廷では、庄園は早く
り、早く記入を奉るべし。この泣入によつて併富の罪
石清水八幡宮寺衛
状左の如し。
興福寺大衆牒
科を行ふべしと仰せられた。こ1においてか、衆徒は
憤然として、上代よりこのかた、大衆の訴えに未だ記
本堂等発向云々、凡此事、山僧等成牒、道南都之靡領
京衆徒、一昨日焼沸多武峰坂下在家等了.命昨今盛儀
企てる風聞があつた。承安三年六月には、﹃或人云、南
言をなし、之等のことを訴ふるために大聾して上洛を
山階寺末寺庄園等五十鎗解析を起立せらるべしとかの
周明蜘煉之網焉、寧拘大鵬之遡、三塔蛎蟻之塘英、
今月五日相恨遅引、経歴書信不及返報、其理可燃、
戸相律之虞、天有南寛之鳥、地無子兼之軍.是以
修復宇治橋、衆院民於在在令鐘路、於手事各排門
進下之由、南北南都軽旬数日.因弦牒迭平等院、
牒、延暦寺任侶.去秋之間、始出新儀、従洛外可
欲早被供奉来月上旬聾向延暦寺状、
等、仇自公家、被召張本衆徒−申云、南京押取多武峰
豊堪群象之蹄、愛山門凶徒、徒永箱怖望.於南方
入を差出したる例はない、何ぞ嘘言すべけんやとか.
庄六ケ庄間.件事、何無其沙汰哉﹄といふ事件があつ
之蓉向、猶致押領七寺之庄園、屏蓮之策智探−祉
︵二五︶
たが、藤原発案はこれを許して、﹃自昔以降.南北大衆
□何者.公衆任例令相禦者、七寺之衆不可漸北、
ヽヽ︳ヽヽヽヽ
蜂起之中、莫膠自今度、只彿法之滅黍也、五濁之世、
君官軍不政令激闘者、本尊懸頸可迷諸国、我等燐
︵二六︶
ヽ︳ヽヽヽ
可懇々々﹄といつてゐる。同年十月には、山門の大衆
彼低傑雄可原兎、不誠悪魔者、寧保彿家哉、光是
ヽヽヽヽ︳ヽヽ︳ヽ
は数百人の僧兵を率いて七大寺領に乱入し、在家を焼
疎開蜂起之企、擬破烏合之陣、若有損絹貴方令逃
〓ニ五
沸ひ庄民を射殺した。興福寺は直ちに奏状を上り、ま
衛兵ミ寺領庄園
4β7
衛兵ミ寺領庄園
一三大
云、我宮寺者、黄衣之外不碍甲宵.莞好武勇不脂
︵二八︶
であらう。この七大寺額庄園の横領は他の記録にも現
去之筆者、不弛不侶可域止之由令牒迭之虚、返報
庭は甚だ横着であるが、併し僧兵は蔭に苦笑してゐた
、 、 、 ヽ
ヽ 、 、 、 ヽ 、 ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ ヽ
供奉、云々、是別儀嘘胡馬妄誕l夫身子起男力
し得ない事柄であつたに相違ない。
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ヽ
更に承安五年八月には、寺僧の領地事奪に起因し.
大衆が蜂起しやうとしたことがある。﹃玉葉﹄八月二十
、
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
云、昔時沙汰之趣如此.大衆禰怒、以禰宜痛撃、
半棄修僧都、被召大衆張本、倍又被召下手人、云
汰、癌宜商学被止敢務、又被召下手人、付西塔院
起偶感之由、有其間、側未出訴訟之前、通有御沙
皇怒、以件法師原.給竣非違使、而之間、大衆蜂
禰宜家、郎禰宜城取件法師原、美事由於法皇、法
之、禰宜奇人勢追立之、愛衆徒、以法師原、追捕
事於山門井紳入日吉及法膠寺等威、敢不去之、因
相論領地−鮎弱俵禰宜有理、追居住侭、伶叉寿
夏大事欺、事起、賀晶組繭蓑延暦寺侭輿、
近日、山門衆徒蜂起、未付実状於職事、然而事悪
ヽ
三日の條には次の如︿述べてある。
、
ヽ
はれてゐるのであるから、山門としては如何とも否定
焉、立横大樹之邪類、慈氏之現威甜菜、悉贋弗沙
之逆兵、男彿法想怨敵大望如此、誰不慣之、抑宮
寺検投出入之儀、無異武職、被甲之士前後固透、
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ヽヽヽヽ
持戟之兵左右屈従、責衣法師誤所莞也、就中今年
、 、
、 、 、 ヽ 、 、 ヽ 、 、
八月、彼房人等引率数百之枚滑、打入山嶋.観嶋
ヽ ︳
庄者、我寺別曾重役之肝勅施入、官者符之地、漁
庄内、燈沸在家七十飴宇、射伏住民数十許人、彼
︵省力。︶
遣使者同其罪也、然八幡大菩薩、恭祀二扉之廟、
基依護中宗之畢脊、チ今抑欝触発沙汰、至チ我寺
牒迭之日、令稀不好男之由、非敢他事、頓帽叡岳
之事、命尤承引者、窮角之思.証忘酬答欺.仇令
興璽寸木翫︶
勤賓状、牒蓮如件、衛□也、察之勿令口遁、故牒.
承安三年十月日
兵を擁して他寺の庄園を押領しながら、我寺は責衣を
纏えるものであつて、武男を好ますといふ延暦寺の恕
可被配流之由可読申、若衆裁許者、直可焼排彼蕗
季家、云々、
みを引、失をはなてぼ、かねて天ぼつもかうむるかと
おぢをの1き、大しやうの御出にこそ御ともを申、う
ちじにをもすべけれとて、あへてうつ立ものもなかり
︵二九︶
伶兵を擁する寺院が、その武力を悼んで如何に非道を
ければ﹄云々として、﹃いやしき土民の身﹄でありなが
られてゐたのである。尤も警察事務の如きは庄官に止
注目すべき活躍をなした。寺領庄園は僧兵によつて護
かやうに僧兵は、寺領庄蘭の防備乃至侵掠のために
仁平頃に、醍醐寺の寺領庄園から兵士を徹して三賓院
うであるっ﹃醍醐寺雑事記﹄巻第一には、王朝末期なる
如きことは決して一般的・曹遍的事柄ではなかつたや
ら、戦場に出たことを古記に書いてある。併しかくの
﹁三つ︶
敢てしてゐたかを察するに十分であらう。
って行使されてゐたが、軍陳的保護は常に武を練り弓
の守護を勤任せしめた記録がある。
五月河内庄
六月中爽庄
日
定
面
日
七月柏原庄
大野木 自七日八ケ日柏原庄下司
下司
自廿二日九ケ日曾硝下司
一、高藤宿直事
上寺領小野在家人毎夜二人勤之.
仲宿直自在古勤仕之、而中比無沙汰之間不動.
一三七
四月
矢を練磨せる看であらねばならなかつた。庄民の如き
正月牛県南庄
一、寺家宿直兵士事諾詣御鯛慣〒御時始
穏唸納器具に過ぎなかつたが故に、武重の遺に精進す
同庄
ー■−’ は、ひたすらなる農奴として寺院に隷属せる単なる租
ることが出来なかつた。それは兵農分離の雷然の蹄結
八月同庄九月曾繭庄十月同十言誼
三月牛原北庄
に外ならぬ。︵謹一︺もとより兵農分離とは云へ、この
鴇謂欝嗣竿継十二月詣聖需韻
二月同庄
時代は未だその成未明であつて兵農合一制の幾多の遺
制を存して居り、従って農民の中にも兵事に懲せられ
たものも必ずしも皆無ではたかつたであらう。鎌倉初
ヽヽヽヽヽ
胡ではあるが、承久乱の襟には、﹃こはそもいやしき土 ヽヽヽヽヽヽ︵ゆヵ︶
民の身として、十ぜんばうせうの君にむかひ奉り、め
僧兵王寺領庄毘
離婚
借兵王寺領庄園
仇大僧都御犀賽歴任先例興立、併合勤仕也、廿
︳ヽ
︼三人
ヽヽ
おいて注目さるべきである。而して一歩補って倫兵の
たが、飴程以前から行はれてゐたであらうことは、右
たものであり、これより発き妬くの間は停止されてゐ
これは仁平元年︵西暦一一五一年︶十月十三日に定め
大衆起て倉議す。山門は心替しっ。南都は束参らす。
は其後の経過について述べて日く、喜一井寺にては、又
よび南都へ透ったことは前に述べたが、﹃平家物語﹄に
あつたやうである。三井寺が平家討伐の牒状を山門お
構成を見るに、それは主として悪倫恵よび悪薫等々で
文によつて明かである。しかしてこの記録は、見方に
此事建ては悪かりけん。六波羅に押寄せて花村にせん
三番定之了、手樽仁平元年十月十三日也、
よつては兵農分離の反証として、農民が兵役に従事し
其儀ならば、老少二手に分て、老檜共は如意が嶺より
︵三一︶
てゐたかの如くにも見ゆるが、併し必らずしも左様で
璃手に向ふべし。足軽ども四五百人先立て.白川の在
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ
はない。先づ﹁寺家宿直兵士﹄とある兵士は、畢に寺家
家に火を懸け焼上ば、在京人六詑羅の武士﹁あはや事
かけく、暫支へて戟ん間に、大手は伊豆守を大将軍
出来たり﹂とて、髄向んずらん。其時岩坂、櫻井にひ
も花間のみしか勤仕せしめてゐるが如き少人数では一
にて、悪檜共、六波羅に押寄せ、風上に火かけ一捷も
に宿直して使丁としての役を勤めてゐたのであらう。
ヽヽ
何となれば、第二項の高裁宿直事には、僅か二人しか而
ヽヽ
旦緩急ある際には何等の役にも立たず、且つその人教
うで攻んに、などか太政入道出て討ぎるべき﹂とぞ。倉
ろでわらう。
lこおける、次の記録lニよつてその一塊な窮ふこミが出来
︵荘−︶僧兵が如何に頑強でぁつ︷トかは、平家軍ミ戟ひ、し際
なるものが僧兵戦に活躍してゐたことが明かである。
議しける、﹄と。これによつて見るに、悪侭・足軽︵寧一︶
︵三二︶
ヽヽヽ
自鰹が如何にその交替制を布いてゐるにしても.庄民
全鰹を徹せしにあらざることを拳託するのみならず、
兵事戦闘の立役者としては、寺院は夙に′1幾盲千人
に垂れる伶兵を養つてゐたからである。膏な寧ろ右の
ヽヽヽヽヽ
記録は、僧兵の挙達を助長したであらうといふ意味に
4JO
lで六十三、嘉穂く矢五節、され共大事の手ならねげ、所
ろ芝の上lニ物異腹捨て、鎧に立上ろ矢目を数へ十︰りけれ
﹁堂衆の中lこ、筒井の浄妙明芳は、褐の直垂に黒革威の
盛者て、五放甲の・緒な−しめ、黒漆の太刀な背き、二十四
打死、してんげり。浄妙房は這々持て、平等院の門の前な
差上ろ黒ほろの失責ひ、塗籠藤の弓lこ、好む白柄の大島
平わ、し圭はき、阿弼陀彿申て、奈良の方へぞ罷りけろ。b
々lこ失冶・して、首からげ浄衣着て、弓打切り杖に突き、
︵註二︶室町時代の記述にかゝる一書には、足軽光るものが
ミすろも、農民でなかつ主こごだけほ確なでぁる。
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ.ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
4ヱJ
一三九
現であり、同時に彼寺の物質的基礎たる庄園を格護す
かくて僧兵は、寺院の擁する全橙力の最も露骨な表
特lこ注意︺て置く。
Jてゐ主こざは、上号運ぶるが如くであろ。︰の=ミを
の時代に出来㍗もので光くて、既にニ′1王朝末期lこ出現
れらが併行也、﹄三石つてゐろ。だが、足軽なろ名目lミ:
︵ニー四︶
中洛外の諸政、諸寺、五山十剃、公家、門跡り滅亡はか
=ヾJlェ、膏記雪ごにもlしろさゞろ名目也、平家のかぷろ
ヽヽヽヽヽ
ミいふ事な=そめづら﹂きたやしl二申侍れ、此主びはC
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
めて出発上ろ足がるほ、超過こ圭ろ窓嘉なり。其故は洛
ヽ
曹記光.ヾJにも見た†、こり時代に始めて出奔㍗もりでわ
ヽヽヽヽヽ
ろごて、冨日より天下の乱ろゝ︰ヾJほ侍れご、足軽ミいふ
ヽヽ
度まで慣侶写しての職務にこ携はつてゐたかは姑く別問題
肉弾カを養ふこミが出爽㍗のでぁろ。彼等が如何光ろ程
勢を専一に修練、してゐ㍗れげ=そ、かくまでも頑強なろ
︰の記録によつて窺ひ知り得るが如く、僧兵は常に武
︵三一ニ︶
刀取副て、椿の上にぞ進んだろ。大昔蟹み揚て名のり
るは﹁臼爽ほ音lこも聞きつらむ、今は目にこも見給へ。
僧兵ミ寺領庄園
房﹂ミて、肩なつんご跳り越,↓∼てぞ戦ひけろ。一束法師
lェなlし。浄妙房が甲の手さきに手を置て、﹁惑う候浄妙
早憩在けり。填て後に戦ふが、行朽は狭﹂、側通べき様
生に乗固房阿閻梨慶芳が召使けろ一束法師ミ云ふ大力り
腰刀、偏へに死七んミぞ狂ける。
やうミ折れ、くヾ1抜け、河へざぷミ入lこけり。漁む所は
lこ嘗ろ敵が甲の鉢lニー陰にこ強う打嘗て、目貫の元よりち
に、敵は大勢なり、蜘蛛手、角縄、十文字、鯖艇返り、
水車、八方透さす切㍗りけり。矢庭に八人切ふぜ、九人
達て、長刀中より打折て捨てけり。其後太刀を抜て戦ふ
そ振舞上れ。長刀で向ふ敢五人薙ふぜ、六人に薔ろ敵lこ
て渡らねごも、浄妙房が心地には、︼健二候の大路ミ、
腺で銑にこ成り、橋の行桁なさら′1寸J澄渡ろ。人ほ恐れ
ろ。弓なばからミ投捨て、肢も解て捨てけり。つらりき
二人射殺Lて、十一人に手責ぜ上れげ.服lこ一つぞ残た
ミイ\二十四差上ろ矢を差詰引詰散々に射ろ。矢庭にこ十
ヽ ヽ ヽ、⑦ ヽ ヽ
人嘗千の兵ぞや。我ご思はむ人々は寄合や、見参ぜむ。﹂
軸軸ぶ勘乱れ軋・い。臥乳玖机上軋軌軌臥軌乳ヾいゃ
一、三㊦け
衛兵ミ寺領庄園
る上において.必要扱くべからざるものとなつた。私
は以上の論蓮によつて一之等のことを論定し得たと信
五六頁︺。
声許l−1iコg︶
一四〇
Kぎ︼l︹ロr采bt︶N莞ite
Au⊇ge︸出eユin︸
玉葉、啓三十五︵前掲本、四三七頁︶。
−父詣㌻m√や
︵一入︶
兵範記︵史料通覧本、第二螢、一一八1一一九及一二
︵一七︶
︵完︶
東大寺文書、三の三︵需本︶。
する。
兵範記︵史料通覧本.第二巻、一一六頁︶。
︵三︺
首錬抄第五︵新韓国史大系、第十一巻、四二頁︶。
︹引用註︺
︵一︶
同上書、l二四頁。
︵三︶
︵四︶
類衆三代格、巻三︵啓韓国史大系、第十二審、四八七頁︶。
辻善之助、日本悌敦史之研究、培篇、二〇頁。
叫¶¶ニ︻r駒
︵品︶
姐竺=田酌
日本紀格、後篇第五︵同上巻、一〇七頁︶。
台記、巻四︵史料大観本、一二九頁︶。
台記、巷四︵同上本、一二九卜三〇真︶。
玉葉、懲十二︵囲署刊行倉本、第一巻、二九八、二九
栗田冤、荘園考、八七!八八頁。
︵一〇︶
︵九︶
︵八︶
朝野群我、巷十六。
申右記︵前硯巷、三八四賀︶。
勘申︵日本経済大典、第一巷、三五六頁し。
中寿記︵史料邁寛本、第二巷、三八〇頁︶。
首錬抄、第七︵新輯囲史大系、第十一馨、七八東︶。
︵三︶
︵三e
二元︶
︵天︶
︵云︺
承久軍物語、巻第四︵新校群書類従、第十六巷、七五菜︶。
玉葉、巷十七︵同上書、四六八−四六九頁。︶
玉葉、巷十三︵圃書刊行倉本、第二窄、三〇九頁︶。
音簡難碁、巻一︵寓本︶。
九頁︶。
︵一一︶
午冶物語、窄之二︵有朋堂文庫本、二〇五頁︶。
⊆六︶
二貫参照︶。
︵二︶
日本高檜信委文抄、第三︵新韓国史大系、第廿一巻、
︵五︶
辻書之助、日本偶数史之研究、埼篇、二九頁。
固ごⅦニ¶弛
︵三︶
︵六︶
七五−・七六頁︶。
︵七︶
三善清行、意見十二箇條︵新棟辞書類従、第廿替、六
︵三︶
平家物語、巻第四︵岩波文庫本、上巻、一八三頁以下︶
八八−六八九頁︶。
︵三︶
官錬抄、第八︵新韓国忠犬系、乳十一巻、一〇二頁︶。
舶㌃︹一︹ニT酌
闇=︹町蔭洞
樵談冶要、︵群書類従、第十七斡、・二〇一頁︶。
同上、一九二1一九三東。
平家物語、巷四︵岩波文庫本、上巻、一八八頁︶。
大屋徳城、日本併教史の研究、第二巷、五三四頁、参照。
辻蕃之助、日本沸教史之研究、繚貸、三五菜、参照。
︵l四︶
玉葉、巻三十五︵国書刊行倉本、第二巷、四五五−−四
三ニ︶
二六︶
︵三︶
4ヱβ
心 身
相
勉
の
哲
学
木
秋
夫
輿し得るかビ問題とされてゐるのである。教授の眞意
佐
−−−G︹﹀︼d2−−焉軒r∴ヵObC訂○−■G。d㌔の感想
畢の展の畢として?−iは最早問題
心貞相克の菅単
料率的折究を拍車づける屏に存するのであらうが、古
て
ー
の把握が現代の把握に閲係づけられねぼならぬ
る危険があり.他方ではそれが飴りに強度な現代意識
︻四一
とされす、古代の祈究が何の礎度まで現代の祈究にの
寄虜に卑俗化する危険があり、此の二つの傾向を如何
のもの⊥研究 −
で輿へたステイトメントの一部である。そこでは苗於
代い
そては、一方では古代の研究が単に骨董趣味に堕す
以上はオリヂンベルグ教授が今春の科挙計劃化曾事
議は恐らく何人も拒み得ぬ原則であらう。然も賛際に
あゎ∴又研究せねばならぬ問題である。
を知るのである。﹁現代﹂は科拳的に祈究し得るもい
のて
では古代・−弦では意味を廉く.原始時代をも含め
果は書方法に依るよりも遠かに偉大なるものなるこ暗
と示を輿へるもので無くてはならぬ。根本的態度に於
あつて、今日に於いては、現代の研究が粛らす肝のっ
救て行かうとする態度は、吾人に勤して一つの辛辣な
ねばならぬといふ奮来の見地は二者しく誤れるもの代
での祈究を飽くまで現代の研究との閣聯に於いて取扱
時期に達してゐる現代を研究するには.苗代より始め
人文科畢は既に新しき方法を以て展開せねばならは
ぬ苗代の研究を慶除するといふよりも、寧ろー現代の
二
JJ7
嘗てコロムビア大草の講師であり、又ニューヨーク
一四二
に制御してその正鵠を得るべきかは極めて国雄な課題
に人類畢融合拳を講じたゴールデンワイサー氏は、現
心貞相冠の曹単
として横はる。此の課題を単に﹁程度問題﹂として詮
にオレゴン大草の思想文化講直の提督者として、氏の
同氏の従来の努力は主に北米インデアン、エスキモ
明し去るのは、膏に問題を未解決に放遺する事を意味
然らば問題は如何に解決さるべきか。解決の鑓は卑
ー語族の民族畢的研究に注がれてゎた。その研究を基
従来の著作に隠見しっ1あつた根本的立場を明瞭■な形
俗化の危険を避けつ1現代の眼を苗代に照準づけるに
礎として、他の多くのアメリカ民族聾者と共に、奮い
するばかりでなく、それを一屠の曖昧さの中に突落す
在る。一歩を進めて云へぼ卑俗的でない、即ち方法論
進化説を基礎とした人類拳に反射し、適度に停播諌を
で提示すべく、最近副題の如き小暮を世に間ふた。
的に正しい立場から、正しい融合科畢的立場から、封
取入れて来た事は、既に屡々宇野先生の紹介された如
所以であらう。
象を取扱ふにあると思はれる。
いては氏は偉播詭的説明の不可能を説き、﹁トーテミズ
然り、例之トーチミズ、、、に就
考察を進めるのは、しかし、今の問題でない。此虚で
ムなる観念、態度及び賓習の複合鰹は、初期心理に生
ー
は原始祀曾の軒究に穏健な態度と周到な用意とを忘れ
来的であり、従ってその特徴である﹂とする。︵ヱさう
くである亭⊥︶適度に
なかつた一両挙が、その永い畢的生活の成果を反省し
云った中庸を得た立場から氏の鎗い批判はスペ
正しき方法論の確立、その根嬢、その内容に就いて
現代との牌連を意識しっ1纏め上げた小難子を碇へ来
ー、フレイザー、ヴント、デュルケエム、レザイ=ブ
ンサ
って、如上の問題の重要性を指示すべき一指標としや
ルユール.フロイド等々に及び、夫々首肯するに足る結
果を示してゐる。
うと思ふ。
〓
ヱJ∂
スリル
そはその裏にひそむ氏の根本的立場と不可分の閲係に
備へてゐるのである。而して此の超自然重義の確論こ
説を用ひてゐるが此の理論は氏に於いて濁自の意味を
明や宗教呪術、未開心理の説明に﹁超自然主義﹂の拳
単なる折衷主義であるか。否、氏はトーテミズムの説
らう。これに就いては後に述べる。宗教と呪術とは時
の暗示は氏の所説の大腰から汲み取る事が出来るであ
分析のものと考へられてゐるものと思はれるが、多少
来る靡の説明は明かにされてゐないので、恐らく不可
つのである。︵。︶此の宗教的傑感の内容若し︿は依って
った時、初めてそこに本来の宗教なり呪術なりが成立
みでなく.その情緒方面に於いて﹁宗教的傍感﹂の加
立つものであるから、問題の近著を理解するには、先
に陸別されてはゐないが、宗教的慄感を伴はない呪術
然らばゴールデンワイザ一教授自身の立場は果して
づその内容せ明にしてをかなければならぬ。
静々か﹂の直接の基鰹を成すものである。これに就い
に氏の第一七葦は近著の中心である第五章﹁ロボットか
思想﹂と題して、その間題を明かにしてゐるので、殊
又第三部﹁初期人の漑念﹂第一七章を﹁初期の生活と
て﹁世界観としての超自然主義﹂なる一項目を設け、
と聾術、宗教及菰曾﹂第十〓阜﹁宗教と呪術﹂に於い
が客観的に眞なりとして受容れられ、人間の欲望がそ
想とが看取される。表面上のみ尤もらしい聯想や讐喩
之を更に分析すれば、心の本来的な働きー・一直親と峯
次に氏の両者に共通なものとしてのカの信仰であるが
内容は第一にアニミズム的信仰、第二に呪術的信仰、
く宗教や呪術の依って立つ世界戟であり、従ってその
ゴールデンワイザー氏の考へる超自然主義は斯の如
の領域が或穫の治病呪術等の場合に許されてゐる。︵〝︶
て見るに超自然主義は宗教呪術的世界観の根本に横は
の超自然界の中に投射され一人間の心理、敢曾、外形
氏はその王者﹁初期文化﹂の第二部﹁初期人の産業
る基本的観念であつて、宗教にも呪術にも共通のもの
も亦その中に投射される如き.之等超自然主義の根本
一四三
と考へられてゐるっ尤もそれが唯我念として存するの
心貞相克の菅撃
∫Jタ
心貞相起の菅畢
一四四
物の即座的解決である事を示してゐる。︵5︶超自然主義
る。けれども之等の心理は飽くまで直接の目的を追究
る事が出来、︵且之等は直ちに後の料畢に連るものであ
的特徴は、それが室想と、直観とによつて虜された事 らず、戦琴推理、概括、論理、常識、覆明等を認め
の特質が既に斯の如きである以上.理性的方面の委蓮
にとつてそれは寧ろ大きな障害とならざるを得ない。 し、従って賓際的である黙で、一般動物の遠慮と本質
来ない。之等の心理活動の中に﹁償令意識が、推理が
何となれば峯想は科挙にも必要であるが、その場合の 的に興らず、特に人間的な心理として取上げる事は出
峯想は飽くまでも客観的可定性と結合されてゐる鮎
又未開人の生産生活は時として集囲労働の形式を取
成果はそこから蓉生し得ない。
るにあらすして行ふに在る﹂、7︶のだから、草富な知的
みが次の世代に倖へられる。之等の活動の目的は、知
で、素朴的に信じられ受入れられる超自然主義の審想 生起するとも、それらは直に滑失し、客朔的な結果の
とは根本的に相違するのであるから。
さて斯かる世界磯は一方では.未開心理の全部を蔽
マケ・オヴ・ファクト
ふものでないのは勿論.自明の事物に関する心の働き
方と大きな封立を示してゐるものであり、他方では一
決して未開鹿骨にのみ限られた心理として止ってゐな ると些票、根本に於いてそれは個人的であり、物理
的環境への個人的な滞係が人の知的適應を進めるので
い。
従来の未開心理拳詭の多くは、日常生活に於ける一 ある。︵ヱ未開人の生産様式が一様であればあるだけー
時に生産に於ける未開人の心理を飴りに閑却し膠ちで そこには個人的努力の比較の磯曾が多く.その意味で
あつた想に、氏の所謂超自烈的世界観の方面のみが未 個人主義の費動が重要な意義を持って来るので、未開
開心理の凡てゞあるかの印象を輿へ易かつた。しかし 人に意外に著しい虞糞の意識も、そこに根源を有って
生産生活に於いては、未開菰曾でも、畢に知識のみな ゐる。︵ヱのみならず、未開祀曾の生産の中から聾術の
Jβ0
託生した事は、之亦個人主義の存在を裏書するもので
ゴールデンワイザ一教授の民族挙証の大脛を一見し
ある。即ち生産技術がある程度に完成した後に命ほ右 て明かであるやうに、超自然主義の理論こそは氏の季
返して要約すれぽ、未開放曾に於いては二つの大きな
の如き競寧心が働く結果として、塾術的意匠の考案が 語中最も特徴的な部分を形造ってゐるのである。今繰
生じて充たのである。︵1。︶
生産に於いては斯くの如く個人主義的色彩が濃厚で 心的傾向1産業的生活に関する心理と超自然主義1
原始融合に閲する斯かる見解を教節して、人類の歴
あるが、超自然的方面に於いては融合的色彩が著しい −との著しい封立、併存が見て取れるのである。
此の事は生産技術の偉蓮は個人主義的な家族を軍使と
して行はれるのに勤し、超自然主義の内容を成す神話 史を包括しやうとの意鼠は、一九二五年に明かにされ
接の蕾現であり、﹁初期文化﹂及夫以前の著作の中に用
等は、氏族等を畢位として行はれると云ふやうな事案 たものであるが、斯かる数術は葦は氏の根本拳詮の直
心貞相起の曹拳
三
屠明白に述べられるであらう。
氏の書は先づ著しく誓喩的なプロローグに初まる。
一四五
に苦痛が生じた。心は苦痛によつて思乗への道を奥へ
明な指導者となると共に濁自の道をも歩み始め、そこ
主義の赦曾性の問題は、﹁ロボットか細々か﹂の最後に
自一
然に屈してゐたが、やがて心が生じて一方生命の賓
結合は一厚情緒的に強化されるのである。氏の超自然 自然の中に生命が芽生え、生命は快楽を求めて母なる
のとなる。更にそこに儀錯行事が伴って来る場合は、
関係は、未開社食に於いては直に動かすべからざるも を一通り瞼討して見やうと思ふ。
られ易く、且つ如何なる種類にまれ、一旦仮定された たといふに過ぎない。以下﹁ロボットか細々か﹂の内容
化の諸相はそれを偉承する融合単位の機能として考へ ひられて禿た嗜欺の立場が一屠明確な姿を採って現れ
に基くと氏は見てゐる。︵11︶凡そ未開融合にあつては文
JβJ
られ空想が始まり、人が誕生した。心は云薩ふ天より
みならず、そこに蓮成された機械的解決も、或る限ら
れは部分的にすぎず、極め七範囲を限られてゐた。の
ー四大
下つた聖なる火であるⅠと云ったやうな事が神秘的
れた時間と客間との條件下に於いてのみ欲望の満足に
心貞相克め菅畢
な衣を被せて述べられてある。
範囲をより廉くする事を希ひ、その願望の解決は、機
役立つに過ぎなかつたゥ︵1。︶斯くして人が欲望の衛足の
心のそれ − を説明して両者の根本的差異を明かにし
械的邁應よりも一屠遠大且つ直接である辛が求められ
生産のそれと
一方からは科拳や論理が、他方からは萎術や遊戯が、
るに至ったのは雷然である。︵15J之に夢その他から得た
本論に入っては未開人の二様の哉−
零生する跡を探ね、両者の償値判断に入って後、敢曾
不思議の経験が加って﹁直栽の心が登場し﹂第二の世
工作による
鮎では生産と異らない。けれどもその素材たるものは
第二の世界−﹂超自然の世界も自然への適合である
界が誕生した。
の問題に解れ、最後に償値や理想を説明してゐる。
人が自然に雷面した時、先づ第一の問題−−t生の問
−
題が解決されねばならぬ。此の問題は生理的と心理的
と二の側面を有し、それに鷹じて産業
心であ少、心が模型となつた投射が、購性が、そこに
心によるのと、二様の解決が生
のと、超自然主義 ⋮
は見られるのである。
等二の適應形式の間の相違は、併しながら、両者が﹁経
一方はより自然的であり、他方はより心的である之
じる。︵崇工作人としての未開人が決して紳秘家でない
事、工作人と自然との関係は個人的である事、等は既
述した、個人的である故にそこでは心と自然とが鼻を
意し、呪者は避ける。経験に謝するに昔って、工作人
験﹂に封する鯛脚度に止めを刺す。経験を、工作人は荘
工作人による自然への機械的適腹の成功は、人と自
は何等の慣訣を設けず、成就を望むのみであるのに、
突合せて存在してゐる。︵l。︶
然との甜係に可成りの菱化を翳したとは云へ、勿論そ
‡βe
.
する。しかも倫ほ科挙人は畢克工作人と費明人との綜
行膚に無くして思考に、理解に存する。知的光明に存
度である。一方は菱見に向つて限を開き、他方は閲す。
合に過ぎない。その取扱ふ屏は抽象的には相違ないが
呪者は既定の侶詮を見て望み、只管信じやうとする腰
一方を試みの感度とすれぼ他方は指命の悪度である。
抽象的の反射は具醍的であつて決して主観的でない。
一方﹁心﹂からは垂術が、遊戯が誕生する。抑々工
生産に於いては、自然些云はゞ心の中に招ぜられ、斯
工作人からは豪明人が、更には科隼人が生じる。工
作人は具鰹的事物を取扱ふが、そこに個性を見別ける
飽くまで客観的である鮎に於いて、科挙人は心よりも
作人は自然を捕得たけれども同時に自然の手中に陥ち
のでなく普遍の一つを意識するのみである。然るに個
くて自然の姿を帯びた心は、途に自然を追越してそれ
濁創なき保守家となつて遂に自然に蹄一する傾向をと
々吻の猫自性が問題とされる時、直親的な﹁心﹂が、
自然の申し子である。何故ならば心の本質は論理的抽
る。然るに委明人は休みなき精紳の持主である。鎗い
宗教、塾術その他の峯想的創造形式に働くそれが.現
む支配する事を畢ぶ。超自然主義に於いては、反射に、
限を以て彼は載察し、覆明する。目を驚かす彼の蓉明
れて来る。垂術人も宗教人も幻を夢を直観を愛撫して
象性に在るのでなく、︵は︶直親に峯想に、その自由さに
は屡々呪者の奇蹟に比されるのも常然であるが.経験
そこに何の澄明も分析も求めない。分析は唯心白樫に
心は自然の中に投射され、それに心の要を帯びしめて
に謝する態度忙就いて見れば、彼は呪者よりも寧ろ工
就いて行はれるのみで、それは垂術人にあつては自我
存する故に。
作人に近いといふべきである。︵17︶のみならず賛明人の
の強調となつて現れるのである。詣︶心の本質が斯くの
以て自然を克服する。︵“︶
目ざすのは飽くまで賓際的の結果である。科挙人に到
如しとすれば創造と遊戯との関係も自ら明であらう。
一四七
って人は遂に賓際から解放される。彼の目途する併は
心月相悲の曹撃
Jβ3
心月相斑の菅撃
範噂に、直観の心は単語
−
一四入
内容に働くものである︵警
最後に超自然主義と赦曾とは如何に閲係するか。既
エクストラゲートイントロゲート
措辞分析畢は性格の二の型−−外向型と内向型とを
陸別する。工作の心と直観の心との原始以来の封立は
正に此の区分に該雷するのではあるまいか。而してデュ述の如く工作人と自然との関係は個人的であり、殊に
ヰーがその﹁経験と本性﹂にコントを引用して説いて 原始時代にあつては、工作心は孤濁の時に最もよく活
ゐる様に、外向型の窮極は白痴であり、内向型の極限 動するものである。然るに未開の超自然主義の場合に
は狂気であらう。工作人の自然への邁應が極限に遷し は先にも解れた如く、最初から赦曾が表面に乗出して
にすぎず、工作人の感する快感の如きも、単に個人的
た時は人がロボットと化した時で、直哉の心の一切の胃ゐる。凡そ敢曾が工作心に求める併はその具陳的結果
陰性、創造性は彼から失はれる。︵讐一方狂気とは畢に
れより聾する一切は敢曾共有物として傾向が著しく.
外界との闊達に於いて云はれるのみで、それ自鰹とし 問返として閑却されて了ふ。然るに宗教的傑感及びそ
ては何等劣ったものでない。垂寧ろ聖なるもの1原模
る。︵讐超自然主義の停承者が氏族なり部族なりである
型、否聖それ自鰹である心が、時間と客間との制約か その生きるのも柴えるのも敢曾の支持に真ふのであ
ら解放された要をそこに見るべきでは無からうか。
凡そ形式は工作心に膚し、内容は直戦の心に属する といふ事葦の此の鮎に関する重要催に就いては先に述
ものである。例を文法に採って云へば﹂アユルケエムはべてをいた。︵讐
ルデンワイザー氏にあつては本質的には全く異つた立
﹁宗教生活の原初形能﹂の中に範噂を祀曾から詮明した しかし敢曾︵制度としての︶と超自然主義とはゴー
が、︵桐Cすべて囁噂が自明の経験の世界を抱擁するもの
挙動であるのに謝して、政曾は工作心の適應の要であ
である事は、アメリカ、インディアンゐ言語を例として
場に委してゐる。屡々云ふ如く追白然主義は直観心の
説明してをいた通りである。︵讐即ち工作心は文法11
J以
り、︵㌘︶その中に寄生する言語科語、制度等は工作心の
る。︵巴我の自意識に就いても同様の作用が見られるの
ガ
完全なものとなり、直裁の心の働きは、すべての追白
工作心による自然への通牒は機械時代に入って金員
蓉明に係るものである。諸々の制度は、道徳的産業的 で、此の場合には自殺的超自然主義が考へられる。重
法的宗教的の執れにまれ人と祀曾との間の工作的適應
の結晶経として成長する。︵讐此の場合政令の語が清々
論であり、第二に心の稚射的優位の考方である。そこ
の思想を貫いて存する原理は第一に心と自然との二元
以上で大澄の紹介を了へた。ゴールデンワイザー氏
四
しかし﹁直観は跳る。幻影は自己を主張する﹂。︵讐
曖昧であるが、氏に在っては政曾は個人に先立って存 然主義は、超ロボットの膝下に窒息しやうとしてゐる。
在し.地縁、血縁等を基礎として自然硬生したもの
で︵讐その限りに於いてそれは工作心の発動と理解さ
れてゐると見てよいと思ふ。斯くて一日由来上つた融
合は.個人と封立する場合には一の自然的瑳境の如き
ものと考へられてゐるやうである。
個人と融合との関係に於いて工作心の零動は諸々の に云ふ心とは多分に情緒的に生命論的に考へられた茸
制度を壁むが、そこに直裁の心が発動した場合には鹿 在である。人類の歴史はその心と自然との相起の跡で
骨的な償値乃至理想が生ずる。之等は飽くまで心的の あり、究極は心の膠利に節すべきものと考へられてゐ
題は屡々首尾を浸する憾が多く、此の哲畢的小冊子は
ものであるから、之を融合的超自然主義と呼ぶ事が出 る。氏の横木的態度は飽くまで折衷主義である偏に問
来やう。︵側︶次に敢曾内の個人数個人の掬係にも直裁の
心が挙動する。自我が他我を意味するのは直戟と宴想 氏の自ら寅ふ併大なりと云ふサンタヤナの考へる様に
とによるので、その限りに於いてその認識もーの超自 科畢的といふよりは垂術的作品と呼ぼるべきであら
一四九
然主義であり、是を個人的超自然主義と呼ぷ事が出来 ぅ。氏のブF P−グは物心二元を巧に統一してゐるや
心月相剋の哲学
■一
心貞村越の曹畢
一五〇
ケに見えるが、その統一は詩的字句に粉飾された
に見
もせ
著べたが、それも心の神性から直接費生するもの
かけのものに過ぎない。
として晴々裡に理解されてゐるのではあるまいか。
氏の畢詮の中心を成す超自然主義の理論も、根本に
於いて此の卑俗的二元論を基礎とするものである民
。族の
聾者として尊敬すべきゴールデンワイザー氏の
みならす、人類の進歩の要因は、不可測の経験に
面試し
新普
しい
作は、全脛として吾人に漁期の衛足を輿へて
た際の直朝的心の飛躍に求められてゐる一方、超
然かつたの昼遺憾である。此の事は、併し乍ら、
呉自
れな
主義の著しい保守性が他方では強調されてゐる。
自門外の失敗として見られてよいであらうか。氏
単超
に専
然主義が進歩と同時に退嬰の作用を蕾むものとす
のれ
未ば
開心嘩畢詭の中心を成す未開超自然主義詮の情操
進歩を決定するのは他の何ものかでなければなら
。元我が不満足であるといふ事は、氏の挙証が部
すぬ
る二
未開放曾の生産藍珊する場合にも、その他の場合
もしか首肯され得ない事、更には、正しい方法に
分に
的に
氏の就曾への注目が著しく偏頗であるが、融合科
的討の重要な事を意味してゐるのではなからう
依畢
る瞼
認識の不足が全鰹を通じて不満足な結果を招いて
る初に述べ潅如く.未開−古代の研究が現代と
かゐ
。文
のではないか。然るに氏にあつては﹁心﹂の神性
偉に於いて鰯される事が要求されるとするならば
のの
牌連
統的考方が頭を現して進歩の概念を曖昧にしてゐ
。は一層肝要の問題となるであらう。
此る
の事
︵∽︶ib芦−p.きヾ.
︵8ibid.、pp.き︼ト
︵βibid.、pp.1芦柑声
ゴールデンワイザー氏が紳畢的臭味を殆ど有しない
謹事
︵−︶A・G。lden慧軒−・−謬r︼﹃Ci墓i邑ぎこ琵︼−pp.∽宇
望も霊異
︵柑︶ibid・−p・諾P
は喜ぶべきであるが、然かも最後の一線に於いて偉統
的な考方の蓉現を見るの鱒遺憾であ.る。聖の概念、氏
ib山d・−p・莞声
︵吾二bid−・pp一拍誌︹
の表現に従へば﹁宗教的傑感﹂の内容が不明な事は鬼︵e−︵J
Jββ
︵書二b芦こ学舎突︵;︶ib山d.、P.彗戸
︵〓︶此の鮎ほ;謬r︼句Ci墓i邑iOnご
では極めて暖味
lこされてゐろが二貞〇b。訂Or¢Ods、、葛﹂鴇発lこ於
て明瞭寸ノなつてゐる、R∵淋︵崇︶.
︵−柑︶ぎbOtSOrG一︶dⅥ−p﹂︼・︵−∽︶ibid・−p●−Ⅵ●
︵−缶︶蒙d・、pp・望汚 ︵−可︶ibi︵r−p.芦
︵−e ib己−p﹂00・︵−8ibid・−写−崇声
︵−βibid・、p・芦 ︵−¢︶ibid・、p●声
︵望︶ibid●−p・00P ︵誓︶ibid●−p・芦
邑ig訂戻∼−pp■−u、雷00戸etc●
︵琵︶声Durk訂iヨー﹃Orn︼屠 已hnlen︷P山re∽
︵貸︶醇乳首︹i墓iざtiOヨーp●霊〇.
︵裟︶cわ牲︵−−︶.
︵澄︶㌘bOtS雪GC︵訂−勺﹂声 ︵韻︶ibid.−p.−ぶ
︵彗︺c︻E弓︼﹃Ci墓iNa−iOコ、写.柑∽芸︰
︵誌︶才bO訂Or GOdⅦ−pp・−望洋
︵∽○︶対ObO訂○りGOdⅥ、p﹂詑・︵望︶ibid.−p﹂鍔
︵眉二冒そCi主計tiOn、pp一誌買
︵∽8ibid●、p﹂彗.︵㌶︶ibidこー∽00.
心貞相戴の菅撃
de
㌻エe
127
サンタヤナの一物質の王国﹄
淵
一五二
正
G・S岩tpy岩戸Tlle謬已mOr呂註er.どndOn−票岩トー1
サンタヤナのF物質の王国﹂
−
田
範
プラトーン流の葦在は超越的であつて、葦在に於け を檻諾することが出来る。何となればものには希臓曹
る人間性が直ぐさまに表象されなかつた。其意味に於 拳者の可能的完成が許され太ければものに本性を解挿
いてプラトーン賢在は想像の一年局に存在なるものは することは不可能であるから。存在せるものの賢在位
見られない。由来賢人は物質の中に理想を零見するの と超越せるものの理想性とは斯くして一つの観念に慣
ブラートン哲挙が歴史的核心たり得る所以はものの
に敏捷であつて一切は善の本質に依つて照らし出され 足付けられた。
たが、善の本質の作用を現象的に辿りて其の物質鰹を
鑑賞しつくすことが出来なかつた。ソクラテス派の戦 償値を物質的根抜から束てゐると主張する鮎にある。
念論も雷初は純粋に道徳的、精神的なものであつて、 それ以後の論詮の菅畢的吟味は別問題として、兎に角.
ヂアと同一になつてからである。アイヂアには物質は
斯畢の屏謂観念は根本的に理想であつて順次にものの 霊魂が眞の善を鰹得するのはアイヂアを鰹現しーアイ
完成を形式化しっ1進んでゆくものであつた。併し此
虞にカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、更に 映︿べからざるものである。プラトーン次が近世我念
はスピノザ、ロイスへの理論的葦在救の歴史的正統さ 論者よりも率直で知的なる鮎は、賛在は物質を有せざ
J三好
る限り、寧間、時間、人間.自然、環境等の中に現象
なる。アイヂア自らの穎現を可能づけて一方では完成
次の曖昧は動力因を形式上混同してはゎけないこと
う0
されないと断ずる鮎である。けれども襲化、分裂、存 の程度を異にせる他の事象を存在せしめることであら
在もないニルプアナに於ける如く、アィヂアの幸福が
天国にのみ在った事はプラトーン畢徒の滑極的.受身
的表現のためにプラーン史が相常に歪んでゐるためと である。即ち創造なる言語を壇ま1に二重層すること
気附かねばならん。彼等に於ける一つの曖昧は物質の は許されない。サンタヤナによれば物質因は吻質性の
本質をアイヂアそのものとした鮎にある。総ての形態 本質ではなくして寧ろ形式と共に存し、且つ部分的存
に件ひ存するものである。アイヂアはアイヂアが例記
を只に否定し轟くす事案は行はれない。如何に否定さ 在にして、條件に依って登化する内的環境的事象と常
れてゐるかと言ふ形態的流動を本質は取らねぼなら
ぬ。プラトーン拳徒にあつては、凡ての形悪を否定す し頼けるものの形相囲、及び目的因でのみあり得ても
ることに依って定義される物質の本質は純粋に不存在 それが生産的な全きカと言ふ謬にはゆかぬ。アイヂイ
であつた。なぜなら、形腰は何ものをも抽象的なもの は物的事案の合流に依って生ずる質、及び調和である
に負ふ事はないからである。物質は若し宇宙的慣性で あらゆるものの形式や作用がアイヂアをしてあらしめ
あつたら、命又宇宙的可能性であつたら、ものは具笹 ると云ふ事は軍に言語を曖昧にし、例澄を神秘化する
的物質を存在の可能性に夷ふ事になるであらう。礪っ 意園に他ならぬ。総てのアイヂアは常に而して等しく
てサンタヤナの賓在は只にアイヂアとしてゞは無く、 ものを吸引して澄生せしめるカがあるようであつて、
ものに於いては形式の撰揮と流動とを認定する事に依 アイヂアの創造的償値が何時も、如何なる方向、如何
一五三
ってものの生命、運動、特質的存在性が認識さる事と なる距離へも全部的に江出されてゐる楼であるが永遠
サンタヤナの﹃物質の三周﹄
Jβ9
サンタヤナの﹃物質の王国﹄
一五匪
本質には本質の剃那的存在性がある。−・此のスクリ
の形式は決して特殊事象の原因ではあり得ない。只ア ゆく永久の本質であつて、此のスクリーンの中でのみ
イヂアが斯くの如く認めらる1のは.約言せぼ、其れ
に於いてはそのもの自身の婁魂の如く見へるけれども
は物理的事費や、物理的力ではなくして、純粋に論理 ーンは時に於いては曖昧索漠たる宇宙の如く見へ、時
的本質であるからである。
物質問題でジェームスなどの惑つたのは一つは第一 此のスクリーン的範疇は論理的であり、一方詩的であ
恵になつて形相と質料とを語るけれども、自然主義者
質料の問題である。併し、カントに於いても自己が思 るため、自戯主義者には重要でない。自然主義者は特
惟することは一切経験に必然的随伴するものであつ
た。第一質料は此意味から推せば超越的自我であり、 の形相は寄せ集めであつて形相自らを作属的に表現し
文法的本質である。サンタヤナに於ける葦鰹の存在性 又破壊する。自然主義者の物質は存在し、現箕にて菱
本質、構成、精力等を有す。それは幾何畢的確質さの
は矢張り動的でなけれぼならぬ。而して彼の言ふ第一 化し.滋養、生殖、労働等で菱質するところの特殊な
質料はエッセンスであつてサブスタンスではない.。エ
ッセンス自鰹には可成的現象がない。人間の見るもの 如き形相を有するのみならず、倫且内的不定性を含め
は宣の場所、形相、精力で存在し、物質的構成に依っ
は現象のエッセンスではなくして、ものの場所、運動、
る特殊な存在本質で形成される。と云ふ理由は、其れ
局面、結果等であるため直戟に輿へられる本質は常に
感覚と言語に可成的に表現されるものでなけれぽなら て成長するからである。− 本質的特質は物質の生得
ぬ。従って第一質料は感度や言語の分類的帝噂であら 的不定性に基づき絶ての外的襲異性の願係で成長す
ねばならぬ。存在の流れは、知魔、慾情、決定的知力 る。即ち一度定義された幾何畢的確害さから異なり離
等に勤して茸に永遠のスクリーンを横切る一群の飛び れし存在する一種の幾何拳鮭である。
J30
決され、決定されたる場所的廣位と特性的強度は先行
る賓倍額現としては場所及び特性に於いて先行者に先
象と様相とは先行者を持たない。然し連績的に流出す
はゞ一種の無の自慢的存在であらうために賓鰹の各形
るのである。作用と葦鰹との紺係は所謂自己限定、云
通じて葦没的顕現、即ち現象態として建碑的に流出す
葦鰹の流れ、即ち物質があつて、物質は形象と様相を
って、唯、アクション、作用の場所である。その下に
形象の意義の他に現象そのものに介在する非葦醍的な
く廉く表現せしめるため此の貰鰹は現象を産む茸醍の
るク此の慣設に基づく作周は斯くの如き状態を徐々速
へ分類され各々の作用者の周囲で柏封的宇宙を形成す
賛憶は種々の状悪を通過する間に不平等に作問の領域
あらねばならない嘗鰹として認定されること忙なる。
的温度を加へ、その各部分は、お互ひに存在の焦鮎で
て取扱はる1ならば、それらの経験は思考に射して外
感覚作眉、記憶、又は希望のうちで経験が意義とし
明かされてゐない。逆に明かされてゐないのが、作用
者に比例する。先行者の発生は作用の中に求められ、
現象の根源ともなる。形象は連績的であり可測的であ
サンタヤナの物質は先づサブスタンス葦鰹に封する
それを草鞋中に期待することが科挙と垂術との根本精
るが形象の牽移する牽移自鰹は自然的不知不惑であ
の物質的動鰹を可能ならしむる屏以だとするのであ
紳であり、それを現象中に期待することが迷信である。
り、叉同一條件の蓉生に伴つて常に繰り返へされるも
一般的名蒋である。故に心的事案は宴鰹の表現である
嘗てサンタヤナはジェームスがその経験の統一に惑乱
のである。以上の諸機能と特性とを有する葦鰹を常遺
る。
せるのを見て失望せしめられた事があつたが此鹿では
物賓と呼ぶ。蓋し物質は峯術を計算し測定する中介着
ので、感情、想像、思考などの心的事害腋非物質であ
申すまでもなく.その失望をプラトーン思想に即して
であるとサンタヤナは言ふ。
一五五
禰はんとしてゐるが.それでも先行者の屈する貨鰹は
サンタヤナの﹃物質の王圃﹄
JβJ
サンタヤナの﹃物質の王国︼
一五六
動物的信仰の第一表現は、自己は作用に依って、衝 の出来ないものである。弦に於てサンタヤナの所謂物
慾望と概念の醸酵に勤して、その作用の特性は自然
動されるものであると信ずること、作用してゐるもの 質の王国は作用の領域を名づけるのである。
には何か可測的富源が構ってゐると信することである
ため、動物的信仰はあらゆる存在を信することが肯定 が之を決定し、その事象化を童境が決定するので、意識
され、更に叉精細的な存在に到遷する様に暗示される 的意志の所謂因果的カの考へは無い。サンタヤナに在
意味するのであり、愛慾を夢想するのは内にある性慾
唯一原理である。︵詳細は∽antp篭np哲ep︵icisIl−呂dAnり
i・
ては水を欲してゐるのは咽喉の燥渇してゐる徴候を
m已岩戸−箆∽・蓉照︶物質とは動物的信仰で認定され
た唯一の封象を呼ぶ名であつて、此の稀呼や記渋を動 が熟してゐることであつてその原因、結果は意志には
物的信仰の封象とすることは人間的経験の範囲内に於 不可祓である。意志は一種の心的現象であつて且つ物
てゞあるから人生は此の信仰に積られた作用過程と見 的な神聖な作用カである。而して物質の廣大な錯簸せ
たい。サンタヤナに於いては究極の意味に於いて人生 る流れがその組織を形式作り、その形式のために意志
は物質である。人間想像の絶え間なき種々相は物質の の意慾的、情熱的方面が規定される。故に意志の意慾、
流れが其の記披を通じて自我の中に這入つて来る形象 願望、撰繹、決心∵期待などは第二義的、綜合的、表
を指示するものであつて、物質が想像と照應一致する 現的、想像的.記憶的であり、詮まり意識の輿件であ
作用の領域内で自我は物的封象を認識し、その形象を る。意識的意志も一種の可能的現象、如ち欲侯である
指示する。此の物質的意味を離れては心的事葦として ため意志の本性は物質であり、支離滅裂であり、突蕾
の諸々の感情、知覚、慾求は単に本質の直観であつて 的驚異的である。いふところの意志自由は意志の諸侯
その太質たる自然界中の如何なる存在も指定すること 件が夜錐で高級であるため明白に掴めない場所であつ
J3β
茸な種々相に遭遇して生命の進路の方向を意志的に瑛
達するのは精神中にある物質の縫葦な習性が外部の堅
れども、此の盲目的物質主義が合理的動物の奪寮に到
戯望と戟念は物理的事象を有しなければならない。け
的慣性的流動をしてゐるのと同じ考へ方で、彼の一切
慣性の如くであつて、物質に生命あるのは吻質が重力
である。此の意味は物質の内的療理としての重力や、
呼ばれながら順次に流れが沈澱して存在を構成するの
の内的特性を決定し、生、死、教育.影響など色々に
情.興味等の一時的形象を通して物質が流れ.それら
て教へてゐる。歴史的人格.宗教戒律.人間生命の慾
悦し、理解することは精細自らの生命である。若し吾
べきである。而して借物質と精細の両方を知覚し、喜
示すかと尋ねるとき.精細は矢張り物質の作周と見る
るありようを速げるか、精神は如何なる場所的活動を
る事案などを精神は含んでゐない。只、措辞は如何な
問に配列せしめる原理や、精紳の存在に勤して先行す
在するに至った原因を決定する原理や、精細を時間審
る。精紳の根本的本性は戟察的知的である。清紳が存
由な表現をおこし、物質や本質−忙自由に批判し認識す
の原理である。従って清紳は所謂物質よりも造かに自
原理では無くして反射に喜悦、反省、叙述、信仰など
る。精紳の本性は無論物質の本性の様に存在や運動の
於ける随固な史的封建主義にして打破すべき思想であ
繹するので、自我の知識は此の作用を意識することで
人が此れを否定して精紳は物質への作用一般であると
て、其の作用の浄奮状髄貫通徳世界の要素、軍使とし
ある。自由意志は生命の流れが畢に暗中模索主義でな
吾人の哲拳や人生に勤して翠に物質の別名に過ぎない
主張するならば、精神は吾人が其れを認識する以前に
精細を其れ自らの存在又は原因に依る表象とするの
と云ふことになる。サンタヤナは此の矛盾を心理主義
い様に出来てゐることを知ることである。
は大なる誤りにして、物質の運動は物質の本性に辟へ
の偏見を指摘することに依って免れようとしてゐる。
一五七
せ、精神の活動は精細の本性に蘇へせと言ふは官尊に
サンタヤナの﹃物質の王国﹄
J33
▲
_J
摩滅する力をもつてゐる。太初に於いては措辞も根本
風車を週はして吾人の生活仕事を授けると共に寓象を
目に見へないが一種の力を有するもので帆を革まし、
精神と呼ばれたのは言語史上新しい事ではなく、風は
囲を鑑賞しなければならぬと言ふ。総ての物質的カが
ンタヤナはもつと素朴に根本的にデカルトの官尊的意
の相封性を主張する先験的概念論にまで費展した。サ
て了ひ.心理拳は文拳的なものになり、知識と事物と
切り出したものであるが、終には其れが肉鰹より離れ
の考ふる事であると提唱したのは近代心理拳の初めを
⊥アカルトが脳細胞の機構を詮き.婁魂の本質は細胞
義の本来の立前である。人本主義や文整復輿の本性は
自然人の信仰を傾足してそこより出費するのが人本主
って必然ならしめられてゐるのに気附くべきである。
が、その飛躍は物質界に抑留されるべく人本主義に依
ゐるからとの理由で意識の存在を否定するようになる
を知る前に封象を知り、封象に依つて方向附けられて
ものである。心理主義の排外気分は、意識が意識自ら
主義が政治上、詩心上の文化起源に基づいて出費した
に生産されるものであつて、過激にまで感傷する人本
れは新教主義、自由重義と共に排外的な内省人のうち
先験的碗念論は古代人や純粋自然主義者には無く、そ
る人本主義ヒューマニズムから成立するものである。
︼五八
に於いて風と同義語にして、一切作用、一切活動の原
科挙を文拳に解滑するにあつた。と云ふのは文挙が証
サンタヤナの﹃物質の王国b
理であつたであらう。彼の素朴な意味での精細は物質
明し暗示する無窮の経験は科挙的組織が含まれてゐる
的信條、吻質的記念なしには成立しなく、心理革も言
を慣足しなければならなく、歴史にしても地理や物質
った。言語、習俗、思想等の人類史の種々相も自然界
ために、論理や、紳畢よりも遥かに興味が高いからであ
的賓鰹を支持し、中介物を結び付けて連積的に又代表
的に人に感情を催さしむるもので、彼はそれを心てmy
C訂吻質界の精力貯戒屏、精力源泉、肉鰹的組織と作
用の中心、感情情慾思乗の組織器魔と稀してゐる。
由来心理重義波の多︿の考へ方は超勤を作らんとす
J34
自然を不可避的に主張する。此の立前を踏みはづすの
の中にあつて、又同園にあつて働いてゐる信頼すべき
り、進んでは物質主義である。ヒューマニストは人間
としてもヒューマニストの料率的組織は自然主義であ
の形而上拳から何らの戒めも宗教も受取ることはなく
識、科挙、商業、事務、外交等の生活はバークレー流
げて行った心理的懐疑主義で科挙的解脱ではない。常
詮はキリスト教物語りやキリスト教宇宙論から掘り下
にキリスト教の紳と想像した。即ちバークレー等の所
異は格別問題にならなく、物質になるものはさながら
は人格的概念論や軍手詭等、物質の概念的固式化に懲
寧ろさような甜の幻覚的新藤に耽り.日々の感能的行
語、行動、物質的人間無しには研究は創まらない。何
り過ぎるからである。
而上畢的カを形而上畢的に信仰する。その経験の可能
を通して現苦界に働く道徳カたる粘に於いて、超人間
アリストートルやプロチヌスの静的精神は紳の世界
事に中ぶらりな面妖不思議な希望をかけてゐるよりは
的奥件は無活動的概念又は感情の原質であつて自ら説
的ではあるが矢張り人間行膚の領域に内在し、物質的
バークレー・ライブニッ等の宗教心は只、ゐ式的な
明せす叉証明することの出来ない存在にして、たとへ
作用を蕾んで棲息するものである。故に彼等の精細中
被等の葦生活に物質的想像を結びつけてゐることが遠
心中にあつても心的事象ではない濁自的感覚の存在で
に介在して働いてゐるものは結局吻質王観への信仰で
ものであつてその概念論は全然宇宙的であつた。本質
あつた。勿論物質ではないがさりとて無意味ではなく
ある。バークレー、マールブランシユ、ライブニッなど
かにカ温く自然的なよろこびである。
只極めて秘密なものである。べークレー等は物質が動
が精紳をカとして考へる意蘭も、精神は物質の或る作
上は紳畢的であつて、物質への動物的信仰に勤し、形
くと言ふのは無神論の危険を胃かすもので、単に知覚
一五九
用に封する畢なる神話畢的名構で、そのカが詩的に鑑
サンタヤナの﹃物質の王国b
を働かす紳的作用が想定されるならば紳と物質との差
J∂∂
還.′蓮
でこみ上げた精細活動はサンタヤナに於いては全︿謂
封象を呑み込める自己意識を創足してそれを絶封にま
ものと云ふ超越的寮在はない。ヘーゲルの如く総ての
封象に意義が生れる。構って歴史そのもの、経験その
的活動領域、如ち物質作朋に然るべく制限されてその
外部的封象としての畢なる物質は存在ではない。心
にせよ、物質の王国外で思考する事は不可能である。
理拳的事賓も.たとへ一時的にせよ、連絡ある出来事
に於いても道徳的鹿骨相は諸物質関係の叙曲であり心
義の精細に結びつけることになる。茸際如何なる意味
に射する紳話畢的名将と認めるのは心理主義を八木主
の神話的単位で、紳はその普遍的カ.その物質的作用
と照應一致し、又人醍の作用的結果を保存するところ
ゐるものと解することはよい。人間精細は人鰹の活動
貸され、戟察者の興味や情緒と劇的に結び付けられて
叉此れに含まれてゐなければならぬと漁言する無窮永
蓄を以って言へば太初に於いて一切賛在は此れであ少
なけれぽならぬ。エセンスの王国とはサンタヤナの含
存在とその眞理性はエセンスよりその不滅性を借具し
センスはスピノザの賓醍に通ずるものにして、物質的
在、及び思考的存在である。但し此の考へられたるエッ
性は人間的彼自身であ′って、他の一切木質は類推的存
る不滅の賓在も心的要素が既に物質であるため、不滅
が靡き意味での科挙的、塾術的形象である。人間に於け
要素は物質で、此の物質が陣容の形式で活動すること
用を歴史的事葦、経験事葦と言はねばならない。心的
綜合しっ1物質牌係の中に作用してぁるものでその作
はさようなものではなく、意識的強度を保って菱化し
ぎなくなり、精細とは神秘的名稀になる。箕際の思惟
れらは全然現象化しない故に衷なる思考の封象名に過
純粋直観に、若し自然、日時、場所等が無くなれぼそ
一大〇
はれ無き事で.吾人は親念論者の内包を給査の要素の
遠のコーラン又はロゴスにして、其れは吾人には見る
サンタヤナの﹃物質の王国b
如く色採ってゐる続発の内的請願係、物質的に保存さ
ことは出来ないが、併し決して滑すことの出来ないイ
r
れてゐる諸機構を見失ふわけには行かかい。純粋情感、
J36
ンキで以って書かれたものである。︵若き竃−J・T訂
若㌻;=屠n2勺﹂諾∽・二二頁J
組織することは不可詣である。何となれば此の後援の
みが情感と直観に存在的連濁と史的秩序とを附輿する
心的特質である。心理埜で色々劇的感情直裁を思考す
的なることは経験する併に生ずる唯一の事件であり.
験を作男してゐるのに気附くべきで、詮まる併、物質
質的根嫁が種々に分離作用して、特殊な譜生命、諸経
ある。直親や情感が結合的作周を逢げる反面にその物
象であることが即ちその意味、意固、関心、馨屈辱で
立って作悶するものであつて、情感や直戦が物質的現
感.純粋直碗も、時日、場所、事象等の物質的根城に
畢で取り扱ふ一切は皆物質である。そして荷、純粋情
あらう。即ち、﹁諦梓情感.純粋直哉より離れて、心理
に至って宗教、及び聾術的美意識は、知識と眞理との
意の上を倫論的権威で統制せんとする程である。此虞
以上紳望にして権威あるものを物質に要請し、人間心
の人問的作用は通俗物質主義者が主張する物質よりも
の形式は物質主義よりも造かに以上物質的であつてそ
質作用の哲拳的反省と言はなければならぬ。殊に宗教
ラトン思想から現代観念論の汎神主義まで、何れも物
華南に平静に愉快に維持する内的宗教まで.更にはプ
の名のもとに物質的媒介、物質的催威で生命を崇高に
して、一個の石に脹を屈する原始宗教のそれより、紳
叡知の葦蟹は物質に封する数段より出発するものに
から。
﹂
る場合にも結局は生ける肉鰹の行動を迎るだけであつ
問に立ってその十全なる人間的調和を確立するもので
柳か重複する楼ではあるが次の言責は注意すべきで
て、その内鰹中に感情や直観の言葉が含まれてをり一
ある。
あるが滋lこほ其れな省いておいた︶
一六一
︵本書はそり姉妹篇﹁本質り王国﹂ヾ﹂併ぜて解説†べきで
道徳倫理の言葉も存在する。心理畢には心的葦鰹、心
的カ、心的機械−心的因果関係の如きものは無い。肉
鰹の吻質的後撃を捨象し去った道徳的言語から宇宙を
サンタヤナの﹃物質の王国﹄
ヱ37
◆
ヽ
忽 滑 谷
繹
博
士
の
教
史
忽滑谷博士の朝鮮膵教史な苛む
朝 鮮
∴
を
朝鮮牛島の文化は支那大陸の文化の影響を受けて、
読
む
柴
田
一六二
造
賢
は高勾腰より︵諾∽A・ロ︶之を受け、次第に全牛島に行
亘ることになつた。
性・付保持して居た事は認めなければならないと思ふ。
治的攣遷に特異性を持つ如く、宗教に於ても其の特異
る。然し、苗朝鮮、三国、新羅、高腰、李朝と其の攻
何に之と接解したであらうか。この獣について博士の
はあつたらしい。斯うした信仰の中に入った沸教は如
高匂腰族、韓族等其の人種の興るに従って多少の菱化
教であつた。勿論原始的多紳教と云つても之を扶飴族
朝鮮に沸教が停来する以前民間の信仰は原始的多紳
博士自身は特にこの鮎について論じては居られない。
論述は明でないが、沸教が盛吸着の中に努力を得て凌
其の興亡に特別の牽遷を辿ったと思はれない楼であ
博士は寧ろ只単に朝鮮に於ける膵遺壁衰の原因を述べ
屈した状怒は博士の論述に依って充分察せられる。然
句歴の沸教は新羅に移り.百済のそれは日本に充分の
やがて高句歴は滅亡し、百済は危機に遭遇した。高
長するものであらうか。
し沸教は只畢に支配階級のみの信仰忙依って覆属し成
やうとして屠られる。
朝鮮の蹄宗は支那と同じく教導に依って先行せられ
て居る。敦肇の便乗は三国時代に初まる。三園の中で
も高句麗最も早く︵∽記A・P︶秦王符竪よが受け、石頭
は之に次いで︵∞芝トr亡・︶別に晋より彿教を停へ、新羅
J3∂
果資を結んだ。かくして牛島の沸教は新羅の統一に依 智戒の玄風を唱へ、慧唱は馬組下の法を停来し、次第
忽滑谷博士の朝鮮繕教史ね謹む
宗が次第に興隆の途についた時に新羅の国運は頓に傾
き遂に西紀九三五年姿を牛島に浸したのである。
この時代に蹄宗が如何に一般に了解されて厨たかは
明ではない。傘島の彿敦はその教導の帝展にも拘らず
と流行とに支配せられて比較的順調な道を辿ったであ
一六三
紳行に次いで、道義、洪渉が南頓の宗を停へて西堂 らう事は博士のこの著に依って察せられる。
べられて居る。
れたのである。第二篇にはこの渾宗の倖来が詳細に述 信奉せられ、地より生え出づる憎みよりも、寧ろ職人
より一世紀牛に亘って南辟、北膵、五家七宗が俸来さ とは云へないであらうが、而も彿敦が薦攻者に依って
葉紳行が入唐して北宗渾を倖兼したのに始まる。これ を持って居た。沸教の滑長が一に国運と並行して居た
の年時は明でない。賛際に記録に明なのは八世紀の中 初めから現世利益の所感に終始し、国政と簿接な槻係
下の法嗣なるものが.先づ之を牛島に停へた。然しそ
朝鮮の辟宗はこの新羅の黄金時代に苦って四組遣信
〓
時代を出現した。
浄土の信仰等彿敦の蓉展は新羅の国威と共に其望東金 宗の如きも勢力未だ振はぎる状態であつた。そして辟
に通ずる囲測、憬輿、道琵、大賢等の如き者、叉西方 この時には五家七宗が悉く停来したのではなく、曹洞
彿教の興隆と共に憲超の如き西淀に求法する者、唯諸 膵遺愈々隆盛の域に向はんとしたのである。然しなほ
保護と信仰とに依って敦拳の花は燦然として輝いた。 いで停法し.法を聾し、各々王公高官の紆依を受けて
那のそれと殆ど区別せられないものであるが、国王の 下に行寂、渇仰宗の順之、葦敬の繹に重畳等巨星相次
後に元暁の疏繹、義湘の華厳、慈戒の律儀、之等は支 官の門に梵日、南泉の門下に遺允等、青原下の石霜門
って麗しい花を開いた。前に玄光の天台、風光の成案 に用ひられて王臣の蹄滞を受け、次いで馬租の高弟盟
J3α
忽滑谷博士の朝鮮躍敢史な讃む
一六四
居た様に述べられてあるが果して.牛島繹宗の停来者
た。繹門九山が完成したのも太祖の時であり、曹洞宗
の保護と助力とに依って繹宗も亦一段の豪展を途げ
の感化の重大なる事は否定すべきではない1っこの太祖
も同じ心を以つて之が修行に勉めたであらうか。事葦
諾繹師が化を布いたのもこの時である。囁揚山の萄展
博士は国王の信仰は一に現世利金の所頑に終始して
停法者は途に観民にはその眞情を理解されすに了つた
も、鳳林山の宗風蓉揚も共にこの時であつた。
然し高腰朝の崇彿は飴りに政治と密接になつた憾が
のであらうか。この鮎博士の明瞭なる御教示を切望す
る鬼である。
敦の信仰は依然として囲民の脳裏に勢力を占める。滞
新羅に績いて高腰が起る。廟堂の様子は異つても彿
頻せしめた。加ふるに契丹の入違もあり∵周歩粗雑と
仰が最も勢力を占め、彿事の繁輿は途に国家を危機に
制度も出来た。加ふるに所鵡彿敦、香彿教の所癖的信
ないでもない。定宗以後は観数的となり∵国師王師の
京も亦前代に引績いて曹洞宗、法眼宗等が新に停来せ
共に益々所薩に走り、有名なる高腰版の戒経の如きも、
三
られ、天台敦戦が一時牛島の勢力となつて後は、知調
詩宗のなせる契丹入冠撃退の所願であつた。
檜し、朝廷よりの奨励で用宗の数も次第に檜加し.途
の功徳があると信ぜられた。従って、寺院の収入は放
の所藤に従事し、弧線の提唱、講述さへ、亦現世利益
る可きものはあつたけれども.上下を通じて軍縮確災
る者、又民間に李茸玄の細活き碍を提唱する者など、見
宣宗の時には義天、敦雄の如き天台の敬啓を再興せ
命世の如き繹傑が牛島特有の繹を提唱して気焔を穆げ
やがて亦高腰の国運と共に彿教は一般民衆の土の中に
解滑して行った。
高腰一朝四五〇年間の歴史は彿敦の流行の歴史であ
り、亦同時に彿教堕落の歴史でもある。
高腰朝の彿敦信奉は第一に太祖の強き臨依より始ま
る。太祖が彿数を信奉した原因は明でない。然し遣誅
慮4∂
に沸教の本来の目的たる解脱の要求は次第に影を秘
め、法衣を纏ひながら武澄最るもの、俗人を欺瞞し
敦となし、野心の行の忽諸にすべからざる肝以を舟諭
した。叉念彿門を踵別して十種となし、繹と念彿の一致
介する事は無理であるけれども、彼の著書は牛島︵青
て責金を搾取するもの、清浄の法城に脂粉の香を溝へ を明にした。勿論これだけの叙述を以て彼の特徴を紹
るものなど一般の信仰は一途堕落の道を辿った。
廟堂に於ける僧侶の横暴、政治の案乱、図庫の窮乏 丘︶碍書の白眉として推賞せられて居る。
多くの宮廷に出入する繹客、数倍の堕落、弊風の中
等、高腰に於ける十一、二世紀は賓に日本の平安朝未
の鶴がある。我が眞言密教に眞の解脱門を忘れたる、 に濁り、薪然として饗え立った知訴の膵はこれよけ青
彼が沸教とし云へば国家鎮護現世利益の功徳を思ひた 丘に一大センセイシオンを惹起し、その一服たる曹渓
る、その凍る鬼は異るもその節する鬼は全く一つであ 山修渾祉の慧湛、混之、天英等は盛に清浄なる霹傑と
は僅に滞門の知訴が革の中より生えHで1、牛島の濁
至ったのである。
の承過を誘馨し、永︿青丘の碍宗界を指導して起つに
つた。我にはこの時、渾渾蓮の三宗が勃興した。彼に して一世を指導し、或は白蓮赦の天喝を、或は冴贋滞
自の繹を鼓吹したに過ぎなかった。
知訴の椚世は十二、三世妃の交であつた。恰も日本の 後に十川世紀に入つて指重なる梵偲が慧星の如く来
柴西、道元と時を同じくする鮎は殊に興味深い鮎であ つて高麗の膵界に一大刺戟を輿へ、曳くならすして中
るがそれにはふれない。彼の繹は圭峰宗密のそれと酷 国に締り、蹄依を一代に恐にした。然しその感化も己
似するものがある。彼は金剛経によりて得る鬼あり、 に惰性に引きづられて行く高麗の彿教界を如何ともす
季長者の撃贋論を推貸し、大慧の語録を以って彼の思 る事は出来なかつた。十四世紀意思王の時.闊改案乱
一六五
想を開演した。思想的には大乗鳳頓の教義を以って痛 し、加ふるに前代より累積したる奉俳の弊は到底之を
忽滑谷博士の朝鮮樺数史な譜む
74ヱ
忽滑谷博士の朝鮮繹教史な讃む
一大六
拾収すべくもなく、復丘の頑固利民の事業も普愚
組の
李清
成桂に席を譲ったのである。
行諌言も遂に落日を引留むるに術なく、排彿の気勢漸
日
く接頭し、儒拳の勃興と共に鄭道偉等は盛に排俳高
論鷹
をに代って起った李朝は賛に彿教に勤して冷たか
唱へた。その排彿論は韓退之以来宋備に到つて大
っ成
たせ
。第七重世祖を除いては朝鮮の歴史五首年は殆ど
られた排俳論に何等異る虞なきも、俳敦の現葦の
排弊
彿害
の歴史と云ってよい。従ってその中に任する滞宗
と、儒教の更生の勢と、彼が朝鮮の太祖李成種と
の結
みび
が濁り費展する由もなければ、革新の勢力となつ
たる事等に依って凍る可き時代に排彿を終始せし
ため
事た
も考へられない。諸多の敦宗と共に混じて蹄の眞
るは殊に注目すべき事である。
生命を忘れ、繹本来の立場からは可成歪められて其の
吾々はこの一途授落へと急ぐ高腰の彿致の道程
存に
在も
を保ったに過ぎなかつた。
亦慧勤の如き高潔の繹師を見逃す事は出来ない。朝
彼鮮
はの太祖李成種は倭冠撃退の功によりて人望を得
入元して指峯等常時の巨匠に巷じ、締りて法を遼
遂陽
に、
王位を獲得したる人、その信仰は武将に通有な現
平議、東海等に説き、槍厳、康松寺等に任した。
世彼
利の
金の単純なものであつた。彼は彿敦も儒教も握別
敦に耕新な鬼はないけれども、常時の思潮を導い
すて
る彿
必要を感じなかつた。只現賢の利金を得むが偏に
法の眞生命に醒めしめんとした鮎は認めなければ
ら経を刻し.寺剃を造脅した。彼の師は無拳白組
所な
り、
ない。
であつたがその滞的感化に到つては殆ど記すべきもの
ピ き
臣
是等の諸事葦にも拘らず時代は遂に高麗の存在
がを
な拒
い。然しそれでも太祖は敢へて排彿の拳に出づる
否し.彿教の排斥を唱へ、妖敦の積出と迷信の錯綜の
ことはなかつた。
中望何題は三十二王、四七五年を一期として朝鮮の
太第二重大宗は博畢、自責の心強く.迷信に依つ
反之
J42
力に従って事を成さうとする人であつた。︵三一四貞大
は馬攻豪としては注目に植するものである。殊に前代
力を減殺するに至ったっ又年中行事さへも改慶したの
の不統制を慮り、繹敬二宗の制度音造り、大いにその勢
鹿は太宗であらう︶従って儒教を興し、迷信、現世所
より隆昌を誇つて居た彿事、経行等を贋止したのは大
て現世利益︼ぜ得むより瓜、寧ろ理性に従ひ、自己の労
感に流れた彿数を排斥して、書雲親の菩.並に、議政
敬を排斥したのではなかつた。貝その統制の下に支配
英断と云ひ得るであらう。斯うした明宝の下に彿敦は
曹藻宗旛持宗合七十寺︵碍宗︶、天台疏字宗法事宗合
せられたと云ふに過ぎないのである。然しこれに乗じ
府の啓講に依りて寺剃の制限を痛感し、途に寺剃の教
川十三寺、準巌芸道門宗合血十三寺、藩恩宗二手六
て儒教からは感に排彿の気勢を挙げたものと思はれる
漸次その勢力を染がれたけれ共、決して世宗は全然彿
寺、中道宗紳印宗合三十寺、南山宗始輿宗各十寺、
のは無季の嗣、待遇巳和が諸山に任して玄風を振返し.
を制限して、
と定めた。三二三頁︶彿敦が政治的靡迫の下に萎縮し
大いに沸教擁護の責場に立ちて儀輩の攻撃に一失を報
醇平たる繹ではなく、心常身滅論、念彿門に左視せる
である。然しその渾は時代思潮にに右左せられ、屏謂
ひ、顕正諭を著して俵彿の蹄一までを力説したる事賓
初めたのはまづこ1に端を覆して居る。
︵:ゝで一寸注意†べきは元頑国師、曹藻龍の捷を守つて
俳l二段ご、篤孝の史賓わ戎,し㍗る悲劇的な生涯でぁろ。恐
のは元相国師一人でli稚かつ圭であらう。︶
らくかくの如く︰の政染ミ共に悲境lこ喝り、彿寺に投じ㍗
ものであつた。
一六七
世祖が彿教を信奉したるは信眉、守眉、畢悦等の助
世組について述る可き時になつた。
次に吾人は李朝五百年間を通じて唯一の崇彿王たる
偶数が愈々その伸々した安から歪められねばならな
い時に遭遇したのは一五世紀の世宗の代である。
世宗は諺文を創製し、天文測量機を製作し、儒者を
重じ.所謂文化事業を起した明宝であるだけに、彿敦
忽滑谷博士の朝鮮躍数史を蔑む
J43
成.並に王兄孝事大君の崇彿に関るものが多いが、亦
の再興を量りしも、彿教徒の堕落と、儲生の抗争に遭
第十四主明宗王の時王母文貞王府は法政として彿敦
一六八
第六圭端宗王、忠臣成三等を殺したる儀悔の情に起因
ひて、却って排彿の勢を檜大せしめ、彿敦の時の大立
忽滑谷博士の朝鮮膵教史を詔む
するものと見なければならぬ。世祖は諸経を書馬し、
物、普雨は配慮に命を終り、排彿の大勢は之を如何と
然し李朝の排彿は決して迫害ではなかつた楼であ
輩疏を印行し、譜経抗を鮮謬印行し、又太宗以来慶さ
は教へるに暇がない。然しその彿教信仰が必しも第一
る。金守温の如きは博士の著を通じて僅に一つ見出し
もする事は出来なかつた。
義的ではなくて、寧ろ現世安穏の所願に外ならなかつ
たる殉教者にして、而もそれは多くの殉教史に細く種
れたる諸種の彿事を再興する等、崇彿の眞情を表す行
たのは牛島通有の傾向であらうか。この時金時習の如
類のものとは大いに趣を異にして居る。又朝廷が浮沈
の境に立った秀吉の朝鮮征伐に於ては、清虚休静の如
き碍者と云ふよりは仙人風の彿致者も注目に値する
が、大勢としては世祖の後亦再び排彿の蜃目に遭った
き勤王の蹄師を出したのを見れば、彿教の排斥は国教
として、又は彿教保護の懸崖を自由放任、若しくは或
のである。
第九主審宗の度檜法制定.第十王成宗王の時代の彿
る得度の監督制の下に移したと云ふに過ぎないのでは
清虚休静の一門は滞的修養と報国轟忠の精細を以て
敦排斥、これ等は遂に寺剃を峯にし、城中に寺院の影
が故に珊けられる者もあつた。これより彿致の排斥は
特色となし、その滞的見地に於ては必しも純然たる第
あるまいか。
益々威を違うし、寺剃を慶して妓房となし、彿像彿具
一義に徹底したものとは云へないけれども、数宗を第
を浸せしめた。のみならず金守況の如く彿敦を信する
を毀ちて軍器を刺する等漸次排彿の煙火は深刻化して
二義門として念彿功徳を信じっ1も史繹の非道に精進
l
行ったっ
J44
ヽ
せるは、支那明代の躍宗と相照摩して首肯し得べく、 翠徹守初は之を代表して碍と教とを融合し、聖洋一敦
其の国事に奔走し、僧兵を率ひて日本軍に苦った鯛心度の宗風を宣揚し.その法務無用宗演は三教習合の敦旨
は、日本戟臨時代の武将の面影を偲ぶものがある。何 を説いて時代に投じ、妖偲の竣属、天主教の薄張等と
が清盛一浪をしてかくならしめたか、博士の論述には 共に森々彿敦はその勢力を失ひ、加ふるに迷信の混入
明でない様であるが、之が繹門の本義からは大いに外 と眞撃なる修行の欠乏とは繹宗をして翠に文畢の遊戯
護がある。吾々はこ1に罪月堂敬軒の俗事を却けて自
る。思想的には以上の如く費衰の道を辿ったとしても、
の彿敦を如何ともなし得ず今自の状態となつたのであ
れたものであり、静観一躍、詠月空清畢等の憤慨と坪 となし、多くの聾者の輩出にもか1わらず、途に既墜
ら高しとする所以を見る。
斯うした彿教徒の俗事への関心は遂に一方排彿の気 今日朝鮮の彿偲が融合的には非人乞食と同様の待遇を
の鮎李朝五首年を通じて最も博士の部数示を希望する
勢を和げると共に、侭徒は服役にょりて度牒を給せら 受けるに至った併以は何虞に求むべきであらうか。こ
る1制度を造り、朝鮮の躍宗は益々錐行雄修、彿教本
虚である。
以上の如く、博士の朝鮮渾敦史の論述は頼めて詳細
五
釆の目的から遠ざかつて行ったのである。
彿伶のか1る努力にも拘らず、第十九重顆宗の時代
には再び排斥の悲運に遭つた。対宗の排彿の様子は明
ではないが出家を禁じ、彿像、寺院を破毀した事は事 であり、豊富な引用文と博士濁特の名文とは或は誤解
案であらう。この時、虎能は抗表を蔓出したのである した鮎があるかも知れないけれども敢へて讃後の所感
一六九
博士は朝鮮の碍敦史を以上の如く川篇に分けて各篇
が、披は必しも繹敦に探き造詣があつたわけではなか を述べてこの一文を結ぶ事にしよう。
った。かくして彿教は徐々低地を流れる信仰となり、
忽滑谷博士の朝鮮稀教史を認む
∫壬5
忽滑谷博士の朝鮮繹教史を謹む
に概説を以って之が大網を運べ、各章を分ちて其の大
一七〇
博士の考慮を煩はし度いのである。
遜の言を許さる1ならば各章の全鰹としての統一は今
苦しい思惟の飛躍を試みざるを得なかつた。敢へて不
て占められ、その二早を統一的に理解する薦には可成
吾人の了解する虞に依ると.各節は大部分停記を以っ
讃し.之を撞けられたのであらうか。博士は偉記、或
を純辟として居られるが.博士は何を標準にして之を
畢思想史には純滞時代なる篇を置いて六組までの時代
準を何虚に求むべきであるかを知らないのである。繹
偏見等を批判して居られるが吾人は不幸にして渾の標
次に博士は躍の純粋とか、組遣の眞磁の得否、正見−
少し興った方法に依って試みらるべきではなかつたら
は行状、思想、及び接化の手段、京風︵この語は特に
呂を論じ、輩には節を分けて之を細説して居られるが
うか。
り混ぜて成り立って屠る現賛の過程の中から躍敦史を
からその純香、正否を批判して居られる様である。し
られる按であるが、主として其の人の著述、信仰思想
了解し難い︶などを述べて.それから其の人を批判せ
取出さる1には、吾等後車の偏には今少し親切な論述
かもなほ吾人はその躍教史が恰も日本歴史に於ける横
長い歴史の牽遥.多種多様な人間の蕾み.それを織
−里要求し度い。例へば第二篇の産道蔚輿の時代の如き
洪重なる此の著が、此等の鮎を注意して讃まれたな
山陽の如き役割を演じては居ないだらうかと気遥ふ着
らうか。.又第三篇.筍l明篇は共に十教章の影大な部分
らば、博士の詳細な研究と宏博な引用とに依って吾人
は政治史的には新羅の滅亡を朔とする必要はあつても
をなして居るが、各章間の連結、統一には可成りの努
の得る鬼は一二にして止まないものがあると思ふ。吾
である。
力を読者に要求して居る。この鮎渾壌思想史上下二審
人の此の著に依って第一に得た鬼を記すならば、朝鮮
繹敦史としては今少し︿時代を下るべきではなかった
と共に論述の手法の上から不怒な吾人の頭忙は今一歩
J4β
には具に宗教の為に生命を終始する所謂献身的信仰が
に次の様に述べて居られる。
直に宗教的な、修道院的な、叢林的な信仰が殆ど表面に
叉博士の詳細なる研究にも拘らず、知詭を除いては
ば、洞山既に逼りて眼昏く宇哉ひ、終焉の速からざ
吾麒に非ず、考証精解、吾志に非ず。退歩返照すれ
に於ける躍遣牽衰の原因を陳べんと欲す。博拳審問
先きに繹尊思想史を撰して支那に於ける辟遺衰退の
表れては居ない。博士の論述は老荘風的な隠遁着か、
るを自覚せざるを得ず。何の退ありてか、名を釣少
なく、現世利益の所頑的.シャーマン的信仰が勢力を
然らぎれば組曲となり、王師となつて一世に齢依含崇
利を漁するを事とせん。云云。
因由を明かにし、今また朝鮮繹敦史を編して、海東
を受けた人のみに限られて居る。民間的な地より生え
吾人は博士の繹畢唱道の頒に轟カされた宗教家とし
占めて居た事を知った事である。
出でた信仰は知詭に限られてゐる。而もそれは直ちに
ての尊い要に讃仰の言を捧げざるを得ないが、亦周時
に若き畢徒として再び反間せざるを得ない、﹁拳的な博
現世の利金に堕し去ってl生一本な宗教的態度とは思
へない。凡て中途にして妥協を試みる様な感のする宗
畢審問.考証精碇が果して名を釣り利を漁する事であ
らうか﹂と。︵三丁八・八︶
一七一
教家のみが列べられた標である。それは記述の材料が
多く高伶博など支那の偉灯録に模倣した表面的な記述
に掠る馬であらうか。吾人は今少しく内面的の土地の
中に混り込んで居る材料に依って朝鮮濁自の蹄挙が開
明せられたならば今少し蒙った朝鮮躍教史の年面が頚
はれるのではなからうかと思ふ。
博士はこの餞計な憶測に謝する伏線として、序の中
忽滑谷博士の朝鮮紺教史わ謹む
∫J7
﹁票数の史茸寸1嘩論﹂について
﹁宗教の史賓と理論﹂について
!宇野図重曹、宗教の史茸と理論1−
野
清
人
正しい畢的足跡が印されてゐる。こ1には著者の地味
古
︵前編︺宗教の形態ミ本質、宗教ミ科撃ミの封立、宗教学三不敬哲学、宗教民族学の興起、
完動現象学の︼形式、榊聖の意識ヾJその内容、宗教的情操の内容及び基礎、信念り心理学
的特徴、宗教に於けろ人格的態度、宗教的欲求の理論、宗教的集囲lこ於けろ感情、
︵後篇︺琵現職念の菅生、締甑塊ミ霜質、琵魂の種類ミ分化、不死の観念、非情粗食の費連、
宗教的儀祀ヾJそり憩膣、呪術の靡生、呪術行為の原型、苦行の意義、宗教の洗骨的表現
r宗教研究﹂叢書は既に赤松博士の﹃親近宗教畢設の
軒究﹄及び松村博士の一画請撃論考哲ぞ公刊して斯畢のにして耗賓な思菜が組織的に展開されてゐる。労作﹃宗
帝展に貢献するところ多大であつたと信ぜらるるが、 教民族畢﹄を必然生み出すべき胚種が見出される。近
更に今や初秋に入ると共に宇野助教授の冨茄敦の史賓 刊さるるときく待望の書﹃宗教拳﹄の骨子も恐らくこ1
と理論﹄なる好著を得たことは欣びて鎗りある。この に求めらるべきであらうとの簸感さえ受ける。且また
ではあるが、しかし自ら謙遜されて る者にとつて決して看過しえぎるものである。吾らは
書は著者が過去二十年に亙つて物された宗教畢上の諸 著者の辿られし思想上の経路はわが団の宗教拳を顧み
研究の⋮賢コ苛
宗教現象の科畢的研究に鎗意努力されしことに封して
ゐる如く軍なる断片的なものではなべして斯く卑壊さ 著者が嘗て京都に在って十数年問赤絵博士と協力して
れた姿では立派に倦系的である。こ1には著者の規則
Jお
は常に敬意を以て感謝してゐる着であるっ
味でのp堵っ︼5言ぎー2やs〇㌢l︵一gi彗e
に射して断えす批
れる様に思ふ。これはまた著者がシュミット拳涜の基本
判的であり懐疑的である理由が多少とも明謄に了解さ
扱はれてゐる。もちろん性質上宗教畢の主要聞返を網
的畢説に多くの魅力を感じっつも大鰹に於てはポアス
本書では概して前篇で宗教の理論が後篇で史賓が取
羅したとは云へないが、わが畢界では殆んど看却され
と相反しない。
によつて自説を開展せんとされてゐるかに見ゆること
を盟主とするアメリカ文化人類拳漉の透徹したる理解
をも誇
てきた宗教車上の根本的問題を取出して究明してゐる
ところ充分に宗教学綱要としてのr⋮をコd痘re
りうるものである。
類撃沈の停統的精神が、機能主義によるアメリカ心理
人主義を基経にして民族拳を究明してきたイギリス人
はその単なる複合と看倣されてゐるかに思はれる。個
の場合個人的宗教的悪度にカ鮎を置いて集囲的な宗教
1る見地の畢的重要性を強調してゐられる。しかもこ
態度そのものこそ宗教であるとの立場を執り.或はか
ーーー1㌧一種の機能主義に立脚して個人や集園の宗教的
富な資料篭現地研究者としての拳的濾過を経たーー1
片的に採用されたにすぎない。インドネシア緒係の塁
閲する研究は従来の宗教畢上の諸文献では辛うじて断
以て究明されたことは嘗てないと思ふ。霊魂や墨質に
って、この方面の問題がかくも畢的の厳寒さと創見を
度、呪術の賛生、呪術行濱の原型を取扱った譜章であ
重魂と蜃質、重魂の種類と分化、宗教的儀鰻とその態
﹃宗教民族拳﹄にも特用されてゐるが還魂観念の密生、
本書中で吾らの最も興味を惹くものはその一部は
畢の一波が、そしてまたギデインダス、ロスなどのア
によつて賓泣的な特色をみせてゐるし、生重と死墨、
著者は本書に於て・−吾らの見方に誤りがなければ
メリカ社食聾者の著者に輿へてゐる影響が相雷に大で
重魂と重質との関係もかくまで包括的に吟味されたこ
一七三
あることは否めない。著者が雷初から、ブトルウの意
﹁宗教の史茸ご理論﹂について
J49
﹁宗教の泉質ミ理論﹂について
とも砂い。
一七四
うけてゐる吾らとしては随所に托目すべき諾鮎を見出
呪術に関する従来の語草設は吾らには飴りにも多岐 し幾多の示嘩をうけるのであるが、今仔細に亘って紹
終りに、吾らは著者が沈潜してゐられる畢究生活を
であつて、問題の核心を仲々に捕捉しえない難問題で 介をなし得ないのは遺憾である。
あつたにも拘らず、著者がかく明解に系統立て1叙述
ら校正或は索引の作製を買って出て、而もこの仕事を
し説明されたことは周到なる多年の探求の結果による 出来るだけ妨げない様にとの沈慮からこの書の編輯か
ものと驚嘆の念を禁じえない。且また儀埠先行論︵著
者は宗教や呪術の費生に関して儀鎗の形式が先づ現は 鮮かに果された同人上野隆誠君の功樺に謝しても厚く
への注目は宗教現象の研究方
れ後に呪術宗教的な思想がこれに附加さるるとの見方 謝してきたい。
をかく呼んでゐられる︶
法としても頗る重要な問題を投げられてゐるのである
が、既に早くロバートソン・スミス等によつて提唱さ
れ而も英観人類拳派の諸聾者が恐らく彼等の融合畢的
立脚鮎の不備からして解決しえなかつたこの課題を今
後著者が如何にして究明されてゆくかは吾らが深甚な
る摘心を有するところである。薗また無意的で無意識
的な著者の表現の儀櫨なる観念は催かに著者の優秀な
る創見たるを失はないが、これに関しては多少の異論
も生じうるであらう。その他殊に親しく著者の指導を
∫∠沿
紹
ノlヽ′ぎl壬し.ノしノlヽノlさノl、ノ.、/、くノくノr/、′しー′lノ㌧ノし−
新 刊
サ
′■ヽ′l、i−宣し/−、ノ︵ノ㌧ノt/l′、ノ、.くノーl/ノ′、/−、ノ11くざJrll
大乗院寺社雑事記一
潮
書
房
本書が=り匁に如何に茸要であちかほ辻博士が刊行の趣旨
ハU
’一
日太傍歌の潤叢は南都、北嶺、野山。闊束の璽桝賀になつ上
に於て充分述べられてぁろ。
のは鎌倉以後でぁろ。,しかも研究の資料を典へるものほ野山
の古文書り外には興福寺な除いては壷〓こ︹ろものでぁろ。然
−してなL上沼勒lニ比﹂ては邁l二倍値も少く、速′\文化り中心
るlニ高野山の古文書は断片的であり、南都興福寺が北嶺に封
lこ大衆の彿飲lこ席を譲って行く様子を物誹ろ事が少い櫻でぁ
から隔絆されて居た食lこ、中世を通じて平安朝の俳敬が次第
い。それにこほ色々な理由があらう。然L、徒死只 暗黒時代ヾ﹂
くの記録が残され、加ふろlニ北嶺の延暦寺がその記録を失つ
る。輿稲守の古文書ほ上代の末期から徳川時代に到るよで多
日本歴史の上で中世程撃界の興味を曳いて居ろ時代lェな
Lイ、取られ光かつ主中世が、今や古代の燦然上ろ文化から近
ろ0
て居ろ喬、色々光意味lこ於て大明光ろ史料ミ見放されて居
代り文化への過渡期ブ丁して、民衆の中から新しい文化を建設
lした時代写して、更に云ふならげ、竜配階級が滅び去つて新
lしき民衆のカが之に代つ㍗、所謂ブロレクリヤ勃興の賓例を
乱を嗣後する約八十年に亘る詳細先日試でぁつて.大部分寄
就中大乗院寺社雑事記は中世にこ於て最も意味の深い應仁の
書修正の筆であろが、叉政党、経巻りものを加へろ三一首五
示す時代写して史牽界の興味の中心一ぎ化すに至ったヾ1見ろ事
が出来る。従って成ろ意味に於ては中世の研究豆普等現代撃
沸教の立場から云へば、中世はロハ迷信ミ念悌ご辟の舞室で
徒の;月番である三石つてもい1。
末に至ろ専守の日記な刊行、し上∵bのでぁろ。此の書は全部で
水苔にその弟一巻より弟九巷迄、賛徳二年から、基線二年
十九懸り彪天元記録でぁろ。
く暗中模索の讃を免れない。嵐lこ中陛の宗教史わ究明すろに
わ?㌔然、しその宗教的活動、日本宗教史に於けろ意義は全
は何よりも第一史料lこ依って地につい圭研究が望まh∵て居
の多種なろ、将lこ中梗の暗黒が=の書に依って開明ぜられろ
でわらうミ思ほれろ程多様尤記事を輯めて居ろ。中世の寺院
十二懸り預定であろが、その第一巻を見ても記事の詳細事件
三の研究者l二依つて用ひられ王政料も亦取扱ひ難い古文書り
る。然Lそれに射する史料ほ殆ご限られて居り、又特殊光二
の瑠賓形恵もそり要を暴露†るでわらう。寺院ミ農民ごの関
一七五
みでぁつ主。
新 刊 紹 介
■⊥
.㌧1うd
新 刊 紹
介
一七六
看過Lてゐろ粘ほ学的忠茸の不足を物語るものでぁろ。
すろ態度、換言すろ花らば制度的宗教を手準して個人宗教を
象をヾJり上げ、之を孟讐して宗教それ自億l=まで言草しやうヾJ
性、爾次的低調さな驚見丁ろのでぁろ。更l=既成敬周の諸事
係交渉も知り待ろでわらう。又詣械の行事の様子も知ろ事が
出衆る。叉大和を中心に生れた特殊な中世文明、能楽の盛行.
宗教塾衝の誕生、等も=り書lニ望富でぁろ。叉乱を逃れて南
都−こ貞を軍学㍗公卿竪琴して近漁寸J北国にかけての政治舞室
場よりぜろ本願寺教団史であ妄∵−1林謀箸﹁自然科挙ミ宗教﹂
与して、西田繁﹁本願寺敬園の階級性﹂−之は唯物史観の立
の由雄事も報告透られて居ろ。殊に社食経済方面の記事の多
たゞ本論文集ね﹁論文集与しての意味を保持写しむるもの
景に、して精密なのほ本記録り最も特徴ミサろ庭であろ。本書
はこれ等の粘に於て新・し主止場から中世な見ようミ†る者l=
生
閻
開
拓
赦
︹戸川︶
敢て反宗教闘争同盟準備骨の人々のみに止まらねでわらう。
以上り文献の必要を招来すろ=ごわ期待L希望すろ﹂もりは
あろこミは論な慎吾ないっ﹁やがて果敢なろ鼠挙り展開がより
ミまれ本論文集が反宗教麟争り現段階lニおける一の指針で
もりる。
反宗教劇争展開撃一′壷的記録ヾJして興味づけられるもので
れていろ。嵐渓蒼空朗の﹁理論的輯習より賓頗的脱字へ﹂は現
秋躍修二﹁宗教り唯物耕詮法的把握ミ反宗教国学﹂等が挙げら
永田廣志﹁宗教、観念論、唯物論﹂大雄健﹁カトリック教批判﹂
は是非推写し告い史料である。書物の鰻裁も斯う云ふ種類の
共
書物与しては相普lニ昔心されて居ろ。=の粘からもその衝l=
雷つて居る人の親切′で認めて置き度い。︵柴田︶
反宗教劇翠同盟準備骨編
反宗教開零の旗の下に
東京
現時流行りマルクス物、反宗教物ヾ二概に片附け事々こヾ−
ほ出来ない。少くヾ﹂も普閲lこ於て﹁反宗教慧巴り昂揚を且、
基督敦の特向とその原理
直に﹁反宗教園争﹂への賓虜的展開にまで導かれた今日、本書
はそのモニュメントでぁり、そりスタートを記念すろ一個の
ヽヽヽヽ 記録でぁろ意味に於てその慣値を有つ。は、
きに富
断つて
菅しが圃
者ぁ
ろ如く﹁この論文集に現l‡れた諾労作は、そり個々のもりに=
っいて言へば、決Lて皆がみ亨一号満足なもりでない。﹂殊l=
宗教学彼の側より見れげ、過多り認識不足、究明へり不﹁
忠め
茸まぐろ亡く進輯すろ現代社食り動与こほ﹁キリスト教の本
Jの
教
学
二十五年記念倉編
宗
紀
質り吟味な迫り﹂韓向を余儀耳くさぜろ。それには一ツの原束京帝国大草宗教畢講座
理があろのだら、フ㌔巳・l−キリスト教の轄向一で促でものな社
骨の動きに求めながらその韓向の原理を本質論にさぐろ事1二
要
東京
同文舘費行
の学界に於けろそれに後れてほゐない。研究業蹟に於ても先
我国一l−於て宗教撃が専門撃与して研究ぜられ上屋史lェ欧米
輩の努力ほ亦後学牢して一面同様の=寸Jを誇らLめる。昨年
は間鐙がぁりは﹂ないだらうか。ミは言へ著者の一貫﹂たろ
紳撃的宗教撃的思索ほ今日一部の暦をリード†ろに充分であ
併L聖書の考へ方lこ於いて、散骨の見方に二於いて、更にこキリ
り=の希lこほ本書lミ草し飴期以上の効草々有すろで凍らう。
が=れは史観の相違lこ属すろ。︵村上︶
新
生
堂
俊
敏
編
四休庵貞極上入金集
田
上中下
究者にごつては一つの道標でぁろ。︵石津︶
角
紳戸
十四年前lこ浅J㍗浄土宗近世の巨撃匠で、その述作lこlェ八十
四休庵負極上人は今上り二甘五十五年前に京都に生れ百七
編者費行
な︺の見本でぁろ。極めて撃史的lこ有意義でぁろミヾ㌻もに研
我国に於て如何な現状を展甲してゐろか、本書lェそのかけ値
専攻者の研究費表を中心に・した紀要でぁろ。右の歴史が現に
祝賀合その他の行事を催︺圭。本書はその際の拳骨lこ於ける
五月講座記念曾は我国に於けろ斯撃研究三十年の記念の撃曾
スト教そのものゝ把握に於いて問題の存すろものがあらう。
中 島 重 苛
東京
政曾的基督数と新しき紳の憶瞼
本書は著者がかつて費衰ぜられ㍗﹁紳ミ共同縫合﹂の姉妹
帯に相雷すろもので、新に二興らんミする鹿骨的宗教の前途を
指示ぜんミすろのでぁる。新政骨の建設寸Jキルスト教の使命
から証曾的基督教ミ新不滅論迄、仝十章に亙りて説かるゝ内
てその立場より従来のキリスト教の生花ろ教理l二薪㍗る解繹
容は﹁紳わ証曾的lこ共同癒合の優駿を通Lて新に慢験・し直L
一、浩港光ろ宗二組三代の著書のエックスわ抽き、寺院の法
緑部首五十余巷な馨げる=ヾJができろ。本金集に
ー七七
要l二宗門的意義を以て一般に及ばぜ﹂:Jノ
を下され告﹂もので、帥ち一の社食的基督教の饉系を樹立ぜ
でわらう。︵上野︶
介
んミすろのでぁる。著者燭自の論調は必ずや護者を祥釜すろ
新 刊 紹
Jβ3
新 刊 紹 介
貞わまかぜ、易わ以て宗教を髄験ぜろ=ミ
二、草花る畢究に非すlして十九慶び佳虞な夏へ、行雲流水に
田
杏
教
柑
論
ー七八
東京
第
︼
書房
︵戸川︶
知ろ=ざほ浄土宗な知る=ミでぁる﹂ミ云ひ得るでわらう。
宗
三、二組三代の規矩を以て同じき浄土教の分派光る西山及び
足芸を批判、し、自宗義の正統を間明する︰ミに息茸であつ
土
㌣こご
四、曲筆阿世な忌み、侃々諾々の説をなぜ、し=寸−
等の編輯理由の下lこ、現存すろ罵本筆記七十八部萱有余放ね
校正照今し上・中・下三者に輯め主ものでぁる。上巻には啓蒙
﹁一般杜曾人の最も深い情意生活の問題な解決すろ﹂事を標
中最初の﹁宗教生活ごに何か﹂が施軸でもぁり、分室も牛以上
撥腰よく彼の労作申白眉を馬†ミ稀ぜらろ第一陣儒法篇十二傍Lて宗教の凡有ろ問題を二〇〇真に纏め圭もの。仝八草の
部十七別亡弟二輯揮覇者十八部十八卦がなさめられ、中巻lこ
は第三輯解説常三十五部四十四股、下巻にほ第四輯動導篇九一ピ占めてゐて、他ほ人間的理解、自力ミ他力.感謝報恩等々
部十三那、第五輯雑書篇四部十五甜が集輯されてゐろ。
わ簡単lこ解秤Lてゐろ。
道徳の領域に就いて見るも﹁賓感的に﹂明瞭でぁる。帥ち夫等
巻頭にこは椎尾耕匡博士の序文が掲げられて負極上人の人ミ生物特lこ人間は目的的特に理想的存在でぁる事は峯術及び
なり及び思想を紹介,して鎗すミ=ろが光い。
−
讃歌的立場よりで尤了しに\−1
棲
ろ。此の世界中稽射的に全的に且つ質感的に憾験すろ所に宗
かゝろ我が国、宗教古典の復刻、及びその普及は、わが宗の債値の世界は所謂現茸の世界ミ同じく現茸的克存在であ
教への正Lき理解の焉
悲惨光ろ成長、彼の鷺心、彼の出家動機、そり他彼の生々−し
者の慣磯に賛すろもりであろから一概に排斥†ろのは﹁狭量﹂
界の設定ほ必−しも宗教に二必要で兄い。ミ同時に耐の存在は信
わて軍要な︰ミでぁろ。併致研究の立場から一つのセクト自教的世界ほ存在する。云はば宗教ほ蕃術や道徳の根であつ
健及びその流れの相を究めろミいふより、彼の人間㌢してのて、それらミ別lこ存在するものではない。従って超自然的世
い宗教経験、更には教義倦承方法ヾJ、して彼の虚法論の知手
でわらう。
は、宗教撃彼の究明封象ミ†べくふさは、しい本書の資料的で償
ぁろ。唯既成宗教は過去の不純分子を多分lこ保留﹂てゐる
ヽヽヽヽヽ
値であろ。
から赦舎人仝儒な吸引すろのは薪﹂い宗教で冤くては元らわ
﹁ゲーテを知るこごが人間ね知ろ=ミでわろ﹂光らば﹁貞極を
JO4
の整理癒集の方が重大でぁろ。勿論本書lこ於て著名の立場か
ら組織的方向がはつきり出てゐるが撃界の収獲与しては前者
宗教ば斯く個人的内密の問題でぁつて、その故に却つて現
在の社曾的時代lこ必要性を埠す。何故ならばそれは生活態度
ほ本書ヾJミもlこ新刊﹁宗教の史賓寸1理論﹂な精讃すろ=ミが繋
の意義がより重大である。因みに著者の従爽の立場について
著者の独伊ほ左翼宗、教諭の克服にこわろらーしく、その努力
要でぁる。︵石津︶
﹁古
記
事
論
記
論
究﹂
綱﹂︵第十八巻︶水 谷
清
名古屋 同り刊 行
二・〇〇
紳
神
田
同
文
堂
舘
舘
同
文
田
二・五〇
大井町 天
紳代篇第五 松岡静雄著
二・〇〇
堂
眞
究﹂御代篇第六︵高千穂時代し殻岡静雄著
大
新刊宗教関係書目︵朗閥和六.竺一一ゴ
﹁紀
記
﹁神社の経済生活﹂︵律令時代︶親宮評著
﹁紀
先
生
武
祀
郷
新
界
進
田
世
阪
一七九
大
宮崎小太郎諾
神
丸岡命着
本
遠藤友四郎著
二・〇〇
﹁超宗教閲儒論、天皇信仰﹂
工ニ○
﹁宗教々育lこ於ろ滑賓組合連動﹂
・八〇
﹁宗教々育lこ於けろお話の活用﹂
骨
を厳粛なら、しめ、安心囁を輿へる鮎で現代の敵情を救ふから。
岩波書店
作一流の態度は全巻に浸透・してよ′、現れてゐろ。︵佐木︶
は素朴的唯物論への批判の形で現れてゐろにすぎないが、著
教
宇 野 胤 空 著
宗
東京
績哲華道書第八編与しての最近刊。内容の紹介li東嶺の暇
すら兄いから別の備にこ岬づろ。刊行を普けれげよい。
新興科挙亨しての宗教撃の研究者lニごつて最も必要にJて
最も困難なこJJほよい概論の稀れ克=ミでぁる。挙が若い故
もぁろL、そり領域が極めて廣汎、研究方法の極めて多様lこ
もよろう。著者が極めて贋汎な斯撃の全領域な本書の如き小
著者もいほェれろやうに問題の結論ミいふよりは問題史の整
射で細羅Lてゐろ鮎に於て人は先、つ感歎一年簡んては耽らね。
の十∵りの問題探東lこ閲、して、斯牽の領域内の各部門が有機的
理結集に努力が沸lェれてゐろやうであり、従つて牌死の研究
lニ戯ぜられてゐろ鮎からユニークな意義をもつ。我国の斯撃
介
の現状に鑑みては組織へのオリエンティレンよりほ寧ろ問題
新 刊 紹
J∂占
新 刊 紹 介
紳
春
田
東
生
奥一雄諾
共
閣信仰茸話全集﹂
﹁悌敏
舘高愴名
﹁
の
著
研
全
一・〇〇
郷
一八〇
本
一九︵在家篇填︶
芝
京
京
日下無論著
三・五〇
究﹂
︵盈蹟篇中︶
東
洋
文
大東出版社
法
戒
都
平欒寺書店
方
書
舘
庫
凡
社
舘
社
院
都
高野山金剛寺
東
大束出版社
蓮生親善編
六・〇〇
十六
芝
田
凡
浄土教報社
平
三井晶史編
︵探玄記第三︶
紳
町
小石川
麹
︵第十七巷︶
一五〇
︵十七︶
平
町
麹
︵一道上人、傭西縄肺篇︶
︵第三巷︶
社
戒
秋
法
春
都
日本橋
京
︵横法一億︶
二・〇〇
七
十八
集﹂
院 ﹁浄土宗布教全書﹂
祉﹁昭和新基圃諸大蔵経﹂
閤
﹁沸教信仰茸話全集﹂
房
﹁弘 法 大 師 博﹂
﹁眞宗史
堂 ﹁善導大師及往生鵡讃の研究﹂ 上杉文秀著
リ
雄
書
オ
書
本
舎
﹁高滑名著 全集﹂
書﹂
集﹂
草
全
全
社
﹁前田志
﹁現代布教
望
凡
龍谷大草出版部
平
方
大
潮
大岡山書店
陽
平皿曹二譲
田
︵フォイエルバッハ︶
T00
﹁宗 教 の 本 質﹂
二・五〇
田
永槍卓介護
﹁仝諸宗教の本質﹂ ︵フォイエルバッハ︶
﹁政令制度の菅生ミ原始的信仰﹂
二・五〇
紳
辻善之助
小石川
長井眞琴著
・九〇
生﹂
﹁大乗院社寺雑事記﹂
﹁沸 教 ミ 人
神
︵法語上︶鷲尾順教編
水島芳評著
日本橋
敏著
香
大
﹁法句経 ヾJ 人 生﹂
小瀧 淳著
一・〇〇
細 田 カ
﹁国文束方併数量書﹂
﹁日蓮上人の御一生﹂
・五〇
石川騒
町
飯田艮博
都
常盤大走者
京
麹
︵第一巷︶
丁五〇
﹁彿説無量蓄経・聖行講話﹂噴鳥
﹁時 宗 々 典﹂
﹁儒教畢蘭係難詩論文分項目錬﹂
三・〇〇
﹁支那に於けろ彿歌ミ儒教道教﹂
J()β
﹁彿
ミ
小
丁八〇
瀧
細
田
淳著
沸教研究骨編
カ
オ
書
竹中勝男諾
田潮
紳
生
生
日曜世界祀
新
リ
房
閣
堂
堂
生
B二膠世界祉
町
厚
三・五〇
麹
ハエルウード著︶
人﹂
﹁沸教論文親日錬﹂
﹁祀骨科単ミ基督教﹂
T00
大阪市
旦蔵書一着
一・八〇
︻新語聖書註解ヨハヰ獣示銀﹂
高橋乙治者
大阪市
田
江澤譲肩諾
神
︵ディルタイ著︶
三・五〇
富永徳磨著
三・五〇
﹁聖書ミ 考 古 撃﹂
﹁.聖書耶麻停研究﹂
﹁文革復興ご宗教改革﹂
新
陽
春
田
二・〇〇
竹村清一著
細
キリスト者畢生運動出版部
吾妻束一巻
丁二〇
﹁エソクハルト及猫乙神秘主義﹂
﹁基督教ミ資本主義﹂
・八〇
︵三横、上野︶
社
edi︷■iO−1●︶
l↓、
出01︼︼bp
印度史を述べ、し書物は数多く各種のもりが出版されてゐ
る。併乍ら本書li草なろ歴史の記述でも克く亦宗教史を説い
の彿数の興隆より説き起、し景霜王朝lニ於けろ彿敬の衰退わ経
㌣ものでもない。その特徴ミす可きほ印度に二於けろ孔雀王朝
て毯多王朝の時代の大乗彿数あ確立ビ波羅門敢の復興に至り
その資料与してlミ費掘されL古鏡や古代の刻銘わ用ひ倍亦
・し間約五首年の印度の上代史を述べた所l二あろ。
宰董邑訂n袋、ヨ○−en︼﹃等外国債臣の記録等を参照写し更に園
無歴史甲園ミ云はれろ印度lニも全然歴史な記述ぜーし文献を敵
内の請託銀、文献等によつてその正確さな期・してゐる。元衆
いてゐろのではなく屡々種々の辞典その他の文献中に散見さ
れる。併乍らその草して正確在ろ尊貴か背かを決定†牒のは
容易光ろ事ではなく之lこ就ては著者自らも云へるが如く厳格
い。而てかゝろ方面lニ於ける著者のオ能は相普信轍する事が
な堂
ろ原典批判ね行った上でなくては安易に用ふ可きでけ∵兄
出兆よう。強ひて雛梨を探すミぜlで喝在日に進みつ1ぁろ印
ではない。従つて︼琵○年度出版の初版の再刊に過ぎね。本
度考古畢の研究の成果は一日ミ錐も昔日の発症を安んす可き
−八一
教文化の研究者にミつてほ極めて手際よくよヾ﹂められ㌣秦内
書はその鮎に於て幾分物足りね感がすろ。が偽印度上代の宗
t訂Ear−叫Hi告ryOrI−乙着
i工
pる︵
を㌢
失d
l‡ない。︵財部︶
Bhaコdarke﹁︵Sir・戸G・︶
介
A P22p i已C
新 刊 紹
JO7
新 刊 紹
介
BibニOgraPh訂BOudh百−e
一八二
︵財部︶
倫本書lェ之を第一巷ヾ1、し爾後引縛いて出版されろ由。
ロuddh訂a・ロOCu∃eコtのet↓﹁aくauXPO⊂r
一ボtude d⊂B︻已dhi望ゴe∽.
∽a
つ弓i♂−讐声
rかコ0くal訂コ.︻しe苫前de−−Pbbか↓urme︼.
9、aコdeuretdかcadeコCede一acrit茸ue︰
句ub︼i甘 苦宏−p dil・eCti2−de,訂M≡ 憎rY−1
邑こ
ハj
r ardぎEdOuard−
ロ
ゴe〓軋e≡元m粁r山e︰ウ︹C≡一︼︵ま?、宇ヨeヨ■
く〇一●−−−−弓is−︼岩戸
本書は一誌00年一月より翌年五月に至ろ間の各種の偶数研究
書訂dien
ではないが、その抹用Lてゐろ赦合筆的方法︵=
J訂u∽に績くのが本書であろ。著者はアカデミク
大いに費展Lてゆく︰ミは極めて望ま・しい。︵青野︶
噺lし難いが、高等宗教の諸課題に封・し=の種の研究法が今後
を強調、してゐろ。果、してごの勤まで著者が成功・してゐろかほ
研究﹂てゐろかを攻撃、して、自己の立脚地の正常であろ:ミ
ベ・テユルメルが如何に非科畢的な方法で原始キリスト教を
P鷲やど11訂COu︼2義e等のペンネームの下で追放され圭ア
献げられてゐろ︶に普らの興味は繋がつてゐろ。冒el︼riせe︼守
エミル・デュルケム、レビブリユル氏、アルアレ・ロアジ、氏に﹂
一人者写してのロバートノンスミス、サロモン・レイナク氏、
の書は﹁牛世紀来宗教史を革新、した諸聾者︺かもそれらの第
なe乳gか訂
昌告ireancie昌edudieuJ爪sus の親窺目で原始キ月スト
の論文著書を組論。原典、柄諸、型録、串典、語糞。言語学、
謹繹、彿敬史、博播。序説、教義、哲摩。戒律、儀虐。萄衝、 教の諸問題に一つの解決の鍵な奥へん写してゐろ著者の既刊
考古学、刻文。時事間超。なる八項目に分類配苦学しめ、且
その中り大部分のものにこは内容の批評.紹介をも加へてゐろ。
而、して在来外囲で出版され圭多くの者が殆ど日本語の研究
報告な除外Lてゐtのlこ封lして本書lこ於ては相雷日本語の研
には僅かにニー年餞、亦研究報普も相思拾ひ戎L圭ものもぁろ
究報告をのぜてゐろ。全謹言してほその雌株の範囲は年代的
が先づ主要光ろものほ大鮭載ぜてぁり兎に角悌致の研究者lこ
寸﹂つては相蕾便利尤rbのであろ。
殊に巻末に於けろ索引l王者者名ミ地理別ヾJの二者な附・して
あろが後者帥地理別のものは極めて大雑把に中豊。支那。印
度。印度支那。印度ネシア。イラン。日本。西戒ミ大別L㍗
に過ぎ光いが鏑木文参照の上に相雷光便宜わ輿へてゐる。
J(廼
− 〓argreaくe∽︵H︶
エaコdbOOk−OthO
寸﹂つて有黍なものがあろ。
ろ。︵財部︶
悌教垂術の研究者にごつて軟く可からざろ重賛な指導書であ
︰寸Jわり書与をLてぁろのは謙遜亡過ぎ圭態度での呂db賢一
le
こ・
角本書は著者が畢lニ同博物館の案内書上ろに過ぎねご
ScLニpt〓﹁e¢iコ妄e 鬼P
∽hawar Mus¢≡ゴ.
︼才一ふ焉d aitiつコ●C已cl−t∫−讐芦
der︶
deヨ〓仙∋ヨe〓巴=監コ↓ahz‖仁ber
d訂
reニg古のeコロedeutuコgde¢Na⊃Neのuコd
一コ
﹁eeuw︵G●≦︼l
Ⅰ﹀乳l芸≒:そば古代lニ於けろG巳ld訂rpの首都でぁつた。
従つて此の市lこ於けろ博物館の簡集品が古代の大乗悌教に関
係の深いもので殆ご占められてゐろのほ嘗然であり従って此
の研究者にミつて頗ろ常要なろ地位み占めてゐろ次第であ
踊りミ生命の統一、錯雑L上生活に於ける踊りの意義、リ
聾者写して令名あるリエウオランダ語からの諾。
D2r岩nlpe︼d認訂ib罷の第一巷、小股でほあろが宗教史
崇︷ineben−1讐芦
deのFestNugeP
新 刊 紹
介
且亦巻末の数葉の罵眞版ほ頗ろG呂d訂rp養衝の研究者に
相雷光働を遂行Lてゐろ。
も伺この解説によつて︵㌢獣戸賀工蟄術の理解ね樹上する上l=
めて其の効果わ馨げる事が欄凍るものでぁるが、未見の昔々
解説を血へてゐる。此の最後の解読ほ賓物の観察を待つて初
困繰謀等の説明をな︺、最後l二宮s訂ヨr博物館の陳列品の
敬重術上lこ於けろ重大光スエ特色、㍗ろ悌l昭の序説、帥本生談、
︵雰Org︶
一八三
生の間寛が濁逸の撃界に再び連頚・して釆㍗。寧ろ基礎づけ
出つーーロ、−¢墨.
﹁eb彗名hニ0苫Phi⋮コdPh警0∋e⊃〇一Og卓
Mi警h
列ミの宗教的意義完芸禦してゐろ。︵石津︶
初め霹1nd112・Pの歴史ね説きその車術lこ及び次いで印度彿
ズムり三様の展開、天上の踊、等の諸節に於て踊りミ祭式行
追試を加へられて刊行さh∵いものでぁる。
げらく紹版ヾJなつてゐ㍗のな今度︼㌻rgre誓eによつて村補
初めDトS葛。莞r・によつて編嘉され告が過多の需要の零し
本書は其の︼才落雪∃r博物館の秦内書ミ︹ての目的の下に
ろ○
の博物館が訂h。re等の博物館ヾJ共に初期印度大乗沸教襲衝
J(汐
新 刊 紹 介
ミいふよりに探求の相lこ於て、問題の設定ごいふよりは開成
本書はデイルタイの立場をハイデッガー及びフッサールの
の追求の否めた。
一入四
社食革命の不可避な汲濡寸し、社骨の認識の一般への渾滑ご
は.既成宗教内部にも迎合、折衷、反動等種々の反應を惹起
ヽヽヽ
如何にすれげ薪亡き耐撃的解樺を樹立J得るかの鮎に努力を
こた。﹂か−し迎合する者もそり多くは深く博詫に拘派・して、
集中亡、若くは博愛、平等、平和等り嘩想約言尉を自己陶酔
現象撃的立場に通ぜーしめやうミ†ろ閉局的取扱ひで、時間ミ
存在の封立から論を起・して、生の曹撃の論理的方向を現象単
的に捧難、して、現茸ミのノ閲聯を無税L主、然ろに著者は、宗
看の立場から著者は具鰻的な宗教々育によつて﹁世界心﹂を
食の認識lニー歩を進めたものミ稀︺てよい。
で却って人類に射すろ罪悪であろ、ミ見ろ鮎に於いては、社
説く事は幻想を以て茸際の状憩の改遁l二代用ぜんミすろもの
腫れては単に働情な夢lこすぎず、例之平和をそれ自謹言して
ミ軌を一lこするが、そ︰にいふ理想ヾJほ、現賓的克諸侯件を
サろ超同氏的光理想主義者の努力光りミすろ鮎は従来め立瘍
にごり.生の範疇ミ﹁存在﹂ミの内面的関連を究明︺やうミす
︵石津︶
教の政令的活動を目・して、友誼的な高貴な社食を建設せんミ
Of−¢讐■
る。同時に二つり畢派の思潮を歴史的組織的に故亡てゐろ。
Murch訂0コ.p︵空・︶
Psych010gy
宗教撃の費蓮は宗教それ白月の研究よりも、他の科挙の光
ヾJはその最なろものでわらう。ファツハマンにわらざろ限り、
に照明された結果に貴ふものが多い。中でも心理撃ミ社命螢
書を宗教々師、畢生に提供すろものでちろ。但﹂その方法り
堵ふ事を目標写し、斯かろ教育の指標丹毒教科書ざして此の
茸際は外囲の垂術、文筆ヾJの接鯛ミか、他の民族性の理解ヾ、
今日の如与送迎にこ昭吾Lミさへ思はれろ心理撃詫の一々に就
かの一方的な男法に限られてゐろ。︵佐木し
いて充分の知識を縛ろ事の録程困那でわろ昔々にミつては、
ない。︵村上︶
−しぎt
c−・賢?2誓e−1︼e−1・
ヽ
●
﹁eゆ○〓glコeSd⊂PO一ythかi¢∃eheニ宮古ue●
Picard︵C︼喜■−2且
構威によつて語られろ饗宴の如き水書はどれ丈賭lしいか分ら
Murpl一y︵A∴こ
md⊂CatiOコ才﹁WOュd・Mil左edコeの∽.
−悪声
ム伯
憎ロユs、−讐芦
︼九二二年その学位論文出pl︼訂㊥etロ訂rO払で名筆ぁるバ
リ大草のビカル教授の輝か﹂い近業で、﹁美術寸1宗教﹂叢書︵こ
Sc訂コCe
aコd
れは既lこアンリ・フォションの儒教美術ミアルディの黒人芙術
ミを刊草してゐろ︶の一で
畢の超蓄軍政骨的軌鮎が電雪崩されてゐろ=ご∼が第一に特
徴でぁり、挿蓋の鮮明で優美なのがま上その特色でぁろ。原
Of
始一神教、容儀、時代人の世昇叙等の究明に封﹂ても力強い
示唆が見出されろ。︵青野︶
SartOコ︵雰C−■ge︶
↓he 〓誉Ory
に相反射ぜる東西思想の封照ななぜろ著者は最後lこ彼の所謂
scienc巾
に基づけろ新文化=そ著
寧芸二苧旨空談︼︸−の立場を確立Lた。此の︼篇遥︼ど営訂讐
者の理想の世界であろ。
帥著者によれば︸1u巨岩ised
︵財部︶
その主義主張は兎も角も時流に投ぜろ試の一つでわらう。
Ti山bingenこ¢⋮芦
deのApOSte一00Pau一⊂¢
Schw乱−zer︵A−bel■t︶
口許My裟k
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der㌣eben・J鎗u・J害再訂u扁−−琵¢やG2・
原始基層数研究に貢献・し主著者の功績持今夏喋々すろまで
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もない。︹訂cEcEe
∫JJ
汚hichteder竹富l山ni胃訂コ﹃Or芳bungこ芝−.冤ごの個々の研究
史の鳥取を試み、︰の方面の研究者になくて光ら拍名著な世
雰︵き已○︼○軋eの影響を指摘・し主張,して居る所に著者り特殊の
〓≡一一aコ訂∃.
に迭つて居るが、更号又原始基督歓呼代におけろ終末思想
立場がぁろ。彼l二よろ寸1、イエスの仝思想ミ全行秀に=の世
2e弓Y01オー℃由︼.
著者によれげ現在り紋命ゐ智的中福豆全然正反射詣なイ︼ろ
われぼその間隔ほ縮少L得ろご。で著者lミ多年の間その瞞に
り、従って=ゝからイエスのメシヤ自費ヾJ倫理思想が理解さ
介
のであろ。もヾJ′1パウロの紳秘思想
キリストミ共に死
一入五
−
本書ほ、著者の=の立場をパウロの神秘思想lこ通用亡㌣も
れるミいふ。
新 刊 紹
にカ撞く日進月歩の文明ミ関連・して科撃の歴史ね跡付け同時
人間の養成に全力わつくLて来㍗。か︰ヱ止場よりーして明確
連絡を付け、更に此の南側の間にぁつて自然の媒介を務めろ
の Gpp にほつておけば益々埠大すろが其の両者に好意が の終末の期待ごメシヤ王国入りの期待lこよつて支配されて居
文化科撃ヾ1自然科学ミの二分野l二劃然ミ分れてゐろ。而て此
●
一入六
の宗教な
畢の的
討。l
、て最
で検
あろ
そi
、し
この間塩に野して、一九一〇年代の傾向
ほ、全き影響な認めろ=寸Jにぁつ㍗が、それよ可漸次パウロ
−
近の新約畢界におけろ最も興味あろ、そ、して最も国難な課題
て全くヘレニズム諸宗教り影響から離れて此なユダヤの終末
の猫劇的要素一㊥承認する傾向わミつて進み、遂に本書におい
lし、キリストミ共lこ生きるヾJいふ
の一つでぁろ。昔時のローマ世界におけろヘレニズム文化諸
私はヘレニズム諸宗教の影響を全く無成するこミli困難だ
思想から説明﹂やう軍†ろに至つ㍗のである。
宗教の紳祓的儀祓の研究が、諸文献諸費掘物によつて漸次明
瞭にこされろに従って、パウロの夫も、此等諾他り神秘宗教の
影響でぁろミされ上。ライッェンシュタインヤプセットの主張
ミ思ひ、従つて本書の新説には無候件に賛意を表すろこミは
●
の紳那思想の影響も亦見過され互い写した。要†ろに如何な
し1‘
が夫でぁろ。ダイスマンは此等の影響な認め、同時にユダヤ
⋮
記
書ミ、して斯畢関心者の一語を奨む。⊇一枝︶
報
手
人
出発ないが、本書は最近の傾向み知ろ秀lこは快くべからざる
彙
学
ノーーー1J\ノr書くノ\′\ノ\ノ
見
清
ろ鮎までヘレニズム諸宗教の影響を認めろかミいふのが間超
番 地
野
日丸にて六月二日後一時lこ基隆着、葦北に赴き曹妾腹舘に一
吉
− 青野氏は宇野助教授を助けて帝国撃士院がオランダ撃士院ミ共同編基†ろインドネシ
ヤ慣習法字糞の調査編某に菖つて居られろが今夏そのためl二学士院の命によつて妻帯者地
の賓地調査に出張ぜられ㍗。左はその手記でぁろ。− ︵編纂者︶
五月二九日夜行で神戸へ、三十日正午出帆の近海郵船の朝
JJβ
研究室に宮本助手を訪問L蒐集され㍗ろ蕃族¢土俗品lこ開、し
泊。翌朝室北帝大に幣原組長を訪れ上るも不在、土俗人種畢
一三四ミ云ふ:の赦は耕地り小舎に泊りがけで播種に赴いて
翌朝、川の彼方の高地に蕃鹿を望んだ。現森戸数二八、人口
の温泉も趣与がぁつ圭。ウライごほタイヤル謬で温泉の意。
に依頼、しておい圭ので夜ほ四名の代表的光蕃人が凍てくれ
ゐ㍗ので、行ってみ㌣ら殆んビ無人でぁつ㍗が、前夜警察官
て詳細なる説明に典り、移川教授にも紹介され、更に二−喝田、
日順を作製Lて頂い上のほ、愈々草地踏査空1えt後lニ泌々
圭。宇野先生のすゝめもあつて急いで用意︺て行?㌣喜入の
宮本、馬淵三君の御厚意lこよつて極めて要領よき蕃地蔵察り
ミ有難く感ご㌣。︰のプログラムによれげ紅頭喚のヤミ族を
で十二時近く皇でL主。島田巡査部長の通謀虚が鮮かだつた
慣習用語約祖官のカードに関する
己enti許atiつn
ワン、サイセットり代表的な寺社を頼日月の間に頑寮Lうろ
ヽ
○
七日は雨天、加ふろに温で鴇潤﹂た大気ほ全く新参者にミ
JJ∂
を無我無中
翌六日朝、本鳥人の輯を傭ってウライ放ね出費,し午后二時
ので大いに助つ㌣。
除いた他の六種族、タイヤル、アミ、ブヌン、ツオウ、バイ
のであろ。翌四日午前娩督府lニ原口統計官な訪ひ旗行の目的
を詳述Lて偶々衆望され−し蕃語研究の構成小川命義民にも紹
介され稽々なる指導なうけ、原口氏lニ同導︺て頂いて石川理
蕃課長に面禽・し前記のプログラムにて兢察−し圭き旨を述べて
に乗船。十一時出帆で翌朝五時牛に波高く波止場光き花蓮港
に着く。船では本年葦北大学の土俗単を出て既に二宮有線の
新店を経て蹄室了、理蕃課より到着Lてゐ㍗行程表を携えて
スオウ
直ちに一二時牛の蘇決行きの終列車に乗り八時頃到着L別府丸
速されろのは一両日を要すろりで、出来ろだけ多くの帯紐な
ゐ上のでぁつ㍗。其後数日間は全く同君の熱心なるコーチ通
事故な調査され㍗有能の民族聾者馬淵束一君ミ同船を約、して
手招を乞ふた。而Lて、︰の版行の裸足が各地方の役所に倦
ウライ故に赴く:ミlこ・し㍗。
一 に同伴されて新店までは乗合lこ、=1から峯車にてウ
りlこ行動lして、大いに助つ主=寸﹂を感謝Lなくてはならな
見草すろ=ミを目標写して、華北より最も近いタイヤル族の
六月四日午後、萎北帝大社食撃講師岡田謙君!今回の版
い
行中を通じての君の厚情に封、して余は眞lニ感謝の解を知らな
っては苦痛でぁる。午前に花蓮播磨を訪れて打合ぜを済ま
道播磨下の高山蕃人ほ人口二九四大、︵内タイヤル族八九六
一八七
暗いランプの煩も珍ら・しく、提灯をさげて浴、しに行つ上川繰 一名、ブヌン族二九八五し戸数ニー〇〇︵内タイヤルー一七
暮一里年の山道を辿って遅くウライ公設温泉に到着L圭。薄
ぁり死傷者わ出・し上∵こかで危険与して室車を断られ㌣ので薄﹂、午后より寺社に赴く=ミにすろ。最近の調査によれば花
ライ正に向ふ。中途、亀山よりさ与ほ連日の降雨にて山崩れ
Y−.
莞
報
六九、ブヌン一三三こで約牛敦は国語を解すろミ。馬淵君
リラウ
ミ同道㌔して市街より飴り浅く克い里漏赦な訪甲し頭目ゲアラ
一八八
十日は曇天で時々降雨。タバロン鑓の巡査振出併に赴き午
ードを整理す。六時牛のにこて三笠辟に向ひ、一撃甘の宅に宿
前中は幕政の粟刈前条を見て、午后派相席に壮丁を集めてカ
一端を知る︰ヾJ智乙圭。普らほ更l二進んで新城に赴く壌定で
蕃︶君によつて慣習用語に鱗れ本島人化ぜざろ博承的風習の
八日雨、熟蕃のうちでも最もよく古語な保存すミ云はれて
チトウナイ
ゐろ加稽苑部落に赴きて陳斗内老人一家ご通謀老兵樹南︵熟
て五時すぎlこ調査、夜は開化Lたる卑商社の勢力者達を濃紺
調査、それから馬蘭鮭の派出所にて同様に数名の番人により
ヌ外四名の蕃人及び蕃女ミ婚ぜろ邦人にょって二時過ぎまで
準の案内にて卑商社︵トトオル︶の公畢校数負室lこてスマーーア
ポ
アミヾJブヌンブ∴トニ九月まで探求を績けろ三石ふ翌朝馬淵君ヾJ
って蕃丁ショナバンよりブヌン族圃帝語長敬へて貫ふ。更に
ぁつ㍗が、中部アミ訴の樽威瑞穂公枚挙島中候福安氏の懲漕
lニ来て貰ってカード整理をなす。洋服のスマリアン君の巧み
決別Lて十一時年の列車で萎東に向ひ五時近くlこ到着・し考束
に従つて共に花蓮渚費三時の列車で陪布瑞穂辟lこ着J穿弱な
な日本語の理解にょりて微細先知まで問答lしえたのは愉快な
︰ヾJlニ†。
サワウ通謀者ムラオクラス外数名ミ集合庸に骨・して語重な抹
クポク
銀†。蹄途轟々鍍頭目坪井作太郎︵日本名︶の宅に行き㍗るも
クバラン
病臥申なり﹂な以て、明日の漁定を襲寛仁て加永苑社を間ふ
る。公設温泉に一泊L翌朝公準校に氏な訪れ圭。名通謀写し
.
祀︵ヒナン蕃のこを経て、バイヮン族に屠Lてゐるツアリセ
タル†ク
ン族の一代表大南赦にこ自働者を馳ぜて、荘大なろ集骨折に於
バラ●′
ホテルに宿り應JJ連絡をヾ、つておく。翌朝應わ訪問L松本規
ての氏を中心に・して、蕃人の教師及び単童を数名職旦室に集
敬承であつ圭。
り・カ
十三日午前八時松本戒単ヾJ同行・して、馬蹄.卑南及び呂家
引率して、同地の公撃校長を訪れ宿舎lこ通常なろ番人を寄ぜ
マタン 語ほ奇幣祀著のを中心にJたもの。四時牛の列車で馬太鞍lこ
めて貰つて多少ヾJも慣れてき圭アミ語をノートJて行つt。
キピ
られ主き旨を懇騒こて待つ。夜九時過ぎ蒙雨ね物ミもぜ†漁
オンサイ老人を始めご・して努力着手章を中心lニ﹂てカード整
て昌家出易の乙種巡査サリマナ君に通謀を−して糞つて昔縄目
理に四時牛まで浅婚、して締る。夜は同税単に蕃童心理に開す
師目外一名ミ通譲二名︵番人︶乗り十二時†ぎょで採集に従事
+ た胃勝一ピ麗々悪化ぜ・しめ、馬淵君は風邪にやられてか発熱√︶
す。:の時余に風土気候の劇攣により出費常時より書Lてゐ
課長に二言挨拶をーし十時五十分の列車で見送りな受けて出
十四日、日曜、懇篤なろ配慮lニ兵つt虚の庶務課長や警務
ろ考察をきく。
語調賓は一寸降惨てぁつ㌣。
臥床、こかも木賃宿に異ら乃茅屋で猛烈先雨年琴一イ一つゝの蕃
JJヰ
費、酷暑り中をりろい歩き振りにいさ、か取口Lつゝ夜花蓮
港に著さて宿泊。
十九日、朝二水を費﹂支線を辿って新高山への登山口ビ丁し
イ、ま㍗間喧の霧祉方面への道筋JJ・して知られてゐろ水裡坑lこ
フヨキルを経て蘇襖へ赴く。行程約六時閏年.途中断崖の脚
は手鰭芯ナしに二ほ入れないミ射手に﹂ない。電話で照曾・して某
のを失念Jてゐ圭ゝめ渡出所の若い巡査倣慢な態度で蕃祀lこ
蓬、し告が賓ほ改定よい1−ト一日連れろ︰寸1・呈郡役斬にこ通知すろ
下lニ海を眺め密林の山間な燵ひなご・して紹景を賞﹂,乙告が漸
十五日、曇天、午前七時皆の乗合自働車にて新城、大湯水、
/、開通L圭許りり道路ミて危険多L。夕刻葦北に着き久lし振
中草原な上つて行く時にlェ酷熱ミ空腹寸Jで卒倒、しそうだつ
ったら俄かに柔Lくなつて室童を周旋︺てくれた。︰れで砲
ランルン
神橋まで行って迎への巡査な待ち、伴はれて人倫祉l二赴く途
主。八月に叱れlで暑′\一﹂︼∼空気が乾煉すろから凌ぎよいそう
の免薄で岡田君に骨ひ三高での同窓中川君ミ遼遠■し㍗のも使
だが雨季での暑気は全くやりきれない。夜は何lニも出来ず
−しかつ上。翌日lェ渡労な見兼ilての岡田君のすゝめで休養ね
ミろ=ミに、し、各方面に通信をな、し、西部の番地探訪の準備
lミ番地の星夜にAnthO︼Op〇lOgie−・ドイツわ㍗
人間の本質の究明ミでも云つ㌣意味のも含めて・−の詰問庖
十七日、朝扁桃腺を填ぎ含噺倒な貫ひうけて八時牛の急行
を冗す。
で竹南に赴き、郡役所をれて交渉を滑まぜ、バスな待つ=ミ
て貰って巡査部長の通謀で調査、午後ほ肝心の通諸氏が公務
を思索Lてみ圭。翌日はブヌン族ランルン証頭目リヨンlこ来
で下山L上ので中止﹂て蕃祀探訪、粟鴇き、機械の賓況、子
ニ時間にJて南庄lこ行き、そ︰から輯を傭って大東河の演出
セット族南庄蕃︵メガサン、ガロワン、ワロ三社の︶の組頭目で
な多少ヾJもうろ=ミが出水㍗。夜はカードを取出Lて頭目や
供の遊戯等或は宗教観念を潜まぜ㍗日常行事についての知識
所まで。夜はひごい蚊に憾よされ乍ら張慶昌君を通謀lこサイ
果敢なろ風貌の持主エバス・アロクその他から風習その他語
蕃丁イッテキ・クナテンマ等を中心に亡て十一時には仕事を
薫り採録に従ひ、管熱の気味がぁつt∵ので十時位で打切つ
た。=の高い山地から見圭銀河の美Lさは印象l二深い。翌日
タツパン
二十一日、人倫祀を成案﹂圭後は最初の濠定では連邦正にこ
黒†。
向ふ筈であつたがひごい雨ご恐らく昨年の地霊の飴波で地崩
鳥人のミ殆ん.ヾJ速ほない生活様式を知り、約束・しておい吾靖
は午前中l二カードを整理■して.牛後手近の者達な見撃Lて本
の来ろを待って南庄へ。こゝでバスの閲係より二時間近く待
れが劇Lく途中の十字路が交通社細で暫く復啓再見込みが圭
ナてカバン
ゝ発いごのこごで、ツオウ族の典型lこ新高郡の楠子脚烏杜を
一八九
つ間を、本鳥人の廟前でのグロテスクな野外劇を興味凍く見
物・し㍗。竹南を六時牛にこ僚・して十噂過ぎに二水へ到着一泊。
褒
JJ∂
鶴
の溝鼠で山の寒気lこ打覚えながら徳文武にこ夕方到着、森曹部
一九〇
駕び・若い者人l二荷物を背負って貰って龍紳橋まで、そ=か
ワン族の焙適者土肥巡査及び公馨赤瀬川氏ミ共lニー夜を睾潜
の御厄介に光る。プヌン族の習俗に閑L造詣深き森氏、パイ
民族の夕ヾJ︺て過、し主。翌日ほ朝から土肥氏の通謀にて蕃語
ら董卓lこよつて郡坑まで行つ㌣が、水害の㍗め線路は無惨に
辛うごて河を渡って渡出所に出張−し、荷物の㌣め苦カわ傭っ
破壊されてゐろので如何ごも、し難く、ビール箱の空中列車で
研究。雨にて出費出乗ず滞在り
自働車にて屏東へ、汽車にて潮州へ、雨季り否め長い迂回を
二十六日、トクアンより番人の東籠にて下ろ︰ミニ里牛。
て黄って五哩牛を猛暑ミ圃ひつゝ上り上つてナマカバン正に
モナオ・ウサナイ、日本名楠本茂夫君は眼償をかけ主調経質
辿りついt。夜は少、しく蕃語をきくだけの職があつ圭。蕃丁
ワン語の一種威で理蕃政策に射すろ見識も卓越﹂上ろ人。十
な哲聾者泌み圭インテリで、今まで種々な聾者lこ致を垂れて
がよい。翌日は午前蕃鹿な見撃L、午後ミ夜ミな蕃語研究lこ
二時まで種々なろ蕃界夜話を拝渡す。翌日l王女頭目に、して巫
踏んでリキ叩′ヰ放り駐在所に入ろ。部長山野福太郎氏liパイ
充つ。風習に閲する相若芽ち入った話を聞き待圭のは一得で
女㌣るオブジュン・ジュブラン外数名を招いてカード整理を兎
光L豆欺頭まで自働車を馳ぜ、そこから迎への鴬籠で月影を
ぁろ。=ゝでも應壌に赴いた警察官蓮から務蔵事件を国縫L
、し、山野氏の通謀にて有益なる研究に成れる=ヾJが出先圭。
やつ主ミ得意でぁろ。日本語はそう巧みではないが仲々に感
ての賓話ないろI′\ミ耳にLた。
夕方蕃鹿を戒察−し、組頭臼の家lニて種々なろ券具頬を拝見
はカード整理。翌日造形美術lこ優秀なろ︰のパイワン族の主
、し、又服喪中の某家を訪れて儀踵に閲すろ知識を埠﹂圭。夜
二十三日、午前五時目前にこ聾立﹂てゐろ新高山も霧lこ集よ
いてガンナイフから垂車な利用、し溝鼠lニなりつゝ水裡坑に至
れたほの暗い中を荷物櫓ぎの番人ね伴って下山、七八哩を歩
ワン祀の製作物を見草すろ漢定ではぁつたが恰も日曜の否め
めにエ聾品製作所を設けて指導をなす線督府経替ごかのアマ
中止。二十八日朝ウキリキ赦を出費,して引返L、長髄lして重
る。待つ=ヾノー時間飴、屏束に向ふべく二水経由高雄で和換
商へ。同地を四五時間洩井氏の案内lニて見物L、更に夜速く
えて五時頓着。屏束は室滞でも最も気温高音部市であろ。山
魚分を漂、してゐろ。久・し振りに理髪・し街路を散策−してみろ。
陽ホテルには椰子樹多く、突如ざして柿雨訪れて商事lこ熱帯
七月一日葦北へ締り.博物館.薯貿局等な戒察し、幣原組長
嘉義へ。同地に休養の否め三泊−して鹿骨肝替林所等を見撃、し
二十四日朝、旗餞の自働車わ長嘩でしめてサンチモン鹿の
夜は汗が断えすにぢみ出て眠れなかつ㍗。
麓まで赴き、珍ら、しい豪雨の中を蕃人に駕塩で塘がれて全く を訪問L諸助援ざ曾見Lなご、して三泊、して四日の朝日丸にて
JJβ
鋳造へ。
キリスト教倫麺特lニ悪の取級ひの問題からアサガスチンの
その後研究骨が反宗教蓮働に封†る態度わ討論L、宗教畢の
道徳論に論究﹂、その形而上的意味を現代的に究明・し㍗。偽
九時散骨出席者八名
宗教単科懇談曾
七月四日︵金曜日︶午后六時
反宗教連動の賓状ミその批判
帝大山上御殿
憂
氏
畢的研究の領域からほ=れね除外−し、思想上の間塩ざして︰
糖中で自省﹂てみれば、兎に角猛暑中各地を馳け廻つた努力
効果が苦初の目的lこ添ひえない不備なものでぁつ㍗=ミに封
ーェ平素り自分亨してlェいさゝか満足ではぁつ上が、待てきた
東京帝国大挙の印度哲単科ヾ、梵文撃科寸Jは、特に本草の学
印度背畢梵文畢商科の併合
を姉崎先生及び宇野先生に深く御許びJなければならない。
Lてに主こ寸Jに性恨トろものがあろ。御期待わ裏切つ
=
ミミに決・し主。
れな圭
取扱
ふ=
●
生も畢生も殆んご同科の先生であり、畢生であるご云ふ風で
風から見ても甚だ共通鮎の多い似通つ圭斜であろ。従って先
照
久lしく海外留華中の龍大数按松井了隠氏が折よく符朝上京
津
ぜられ﹂を横言して松原剛氏の渡米の歓送迎合な尭ねて反宗
石
なつてゐるのでぁろ。今度諸種の事情を考慮こて、=の二単
ほ西戎語注撃げねげ光ら甲し、又内規写しては必虜課目l二も
て在京卒業生諸氏が多く、蛎崎教授は病魚の㌣め映席、石橋
教連動の理論賀状及びそり批判年号く。参骨軍二十四生写し
匡
九時牛散骨
の賛成意見を述べられたやうであつた。
松井氏は滞欧の感想より反宗教連動に謝する拳的立場から
多かつ㍗。
宇野、矢吹の諸先生け呈しめ今岡、相原、紳林等諸先輩の顔が
科は併合される=ごになつて、今そり認可を申請中でちろの
井
生−こミつては却って好都合だミ思ほれろ。ハ相葉記︶
火曜研究曾例骨
時日 七月三日火増員午後六時
場所一ツ橋撃士曾
櫻
研究費表 アウガスキンの道徳論
氏
昭和七年度の四月から爾科の併合が賓現されろであらう。畢
ある。それは少先くミも印哲の畢生である以上梵語巴利語叉
詩境 時
演所
JJ7
記i
昭和六年九月十五日印刷
者
三相︵中年︺金三、00︵迭
六甜︵一年︶金五、八〇︵迭
究
編
︵定償金萱囲︶
研
新第八巻●第五妨
教
輯
部
冶
行 併
東京存二坦大学幕政卒研究室内
宗
崎
正
研 究 費
山
章
刷
雄
舘
三田婿地
印
東京市細田協通辞保町一株式ざ糀同文館
森
本
東京市前田盛雄手打
宮
文
倉見希望の方は現倉
見の紹介に金五蹴也
を添へて螢行併へ御
申込の事
宗教研究費符節
糾一扁媚絹謂諾酪拇同
六鼎︵骨員︶金五、00︵迭
費行所
城
宗 教
表
者
昭和六徳丸月二十日潜行
編輯
者者完
金一、00︵迭・〇六︶
印刷併
印敬
重複
△宗教研究叢書第三者宇野必空着﹁宗教の史賓
ミ理論﹂を世に送ろ。現代宗教撃の一断面の
最もよき開陳であろご共に氏の学的立場な理
解すろには蓋・し第一の㌧の、成語右乞ふ。
△約束され㍗宗教撃講座記念合の紀要﹁宗教学
紀要﹂な完成・しゎ。現代我国の宗教撃の現状
はかけ汀写しlこ本書l=盛られてゐかミいつて
よい。研究的にも畢史的にも極めて重要な文
献でぁろ。倫編輯は皇軍して樹谷文雄氏の労
lこよろq
諸氏はじめ江湖の期待Jぞ乞ふ。︵T・Ⅰ︶
△さごにハーバードのムア教授の訃をき1今ま
㌣七月十二月スエーデンのナタン・ブエデル
ブローム大修正の逝去の報に接する。近刊の
欧文宗教単論集の執筆快諾者の中チャール
ス・エリオット嫡を加へて三氏の訃音に接了
ろ諾でぁろ。
吹渋lこ石橋博士の大骨正の聾的業緩lこ閲す
ろ論文存いたゞく筈でぁろ。
△本年も亦本誌は特輯鍍の計喜を進め、本五螢
ミ六巻ミの間の時機l二出す壕定で居ろ。骨員
刷行
所