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本蕃は東京帝国大串宗教皐諦慮創設二十五年記念倉の諸事糞の紀要であるが、殊に記念宗教尊大食に放ける記
−念請演‘研究費表等をその中心記事とした。従って此度に鮎措されてあるものは、宗教嬰講座創設二十五年記念
倉の単なる記録で腋なく.茸に誕生以釆二十五年の我が国宗教皐の若々しき宰相の全貌であると言ふことが出来
る○
第一編は、記念講演l研究蟄表、及び祝郎の一部に五って、その重文を載録せるものであつてl本書の約七分
せ
出
版
■
委
原宿は雑誌﹁宗教研究﹂の木村寮費教授追悼眈に掲赦したものである。ともに諒とされたい。
が
昭和六年七月
し
員
放
研究空家者の中で岸本英夫氏は宗教番犬命直後渡米留堕せるためその原稿を得られなかった。故木村寮費氏の
研究蟄義春各位がその研究に封する嬰的慎重の結果であつたことをもつて諒とされたい。
侍ほ、本紀宴の蓉行が記念宗教堕大倉以釆一年有飴の年月を要したことをお断りし耳ければならぬが.これは
記して、全部の七分の一を占むるに止めた。
第二鰯は、宗教畢講座創堅王立年記念倉の諸事業に関する要項を載録したものであるが、能ふかぎり簡単に
この一編にtりて存する。
の六を占め、嶺日を摘ぐること四十二、我が国宗教畢の一流畢徒を此虎に網証してをる。水雷の存在債悔も全く
_
弟
篇
記
A
講
揖
宗教拳講座二十五年の想出
柿
崎
正
治
四年せ紀の年月も・単に時間の軽過として回顧すれば・眞に昨日の息がある。然しその間に担つたせ界の欒博
から−文化の間留−串界の拭蓬趨勢など・その外に自分一例の身の上を考へて見れば、誠に多事で且つ意義の深
いものがある。時間はそれ自身は垂戚の方式であると仮に容しても、それを充たす人事の‡質には、生命の波が
躍動して、そQ生命の経過としての年月は活きた流れといふべきである。
本蔓に、宗教串訴座が制度として設けられたのは明治拙八年で、即ち今から廿五年前であるがーそこに至るま
での挺巌には若干の曲折もあつたu我大串の初期には、明治維新以奔の気風が中々盛で.所謂る文明開化の見で
宗教なとは吹き沸はれた如く、文末洋の古風は絶て琶弊として顧みられなかつたりそれに封して多少とも芯典研
究を復活したのは.明治十年代の総長加雅弘之先生で、先づ古典科として和洋夢の辞習を復活し、吹で印度管掌と
いふ名目で悌教ヒ関する諦轟を始める様にせられた。即ち印度哲墜語義の最初の揺任者は腐坦山師であつた。そ
れにりゞいて井上哲次郎先生が東洋哲墜を請義せられたが、明治廿三年常堅から辞朝して軟投となられてから、
三
﹁東洋哲学比較宗教﹂といふ掛目としての誹義がつゞいた。此は西洋の拳界で、ビュルヌフ等の刺俄によつて
乗数串講座二十五年の粗目
宗教拳講座二十五年の海山
四
霹祭典ク、その重箪部分が印度の宗教にあつた為に・宗教の研警猫豊リス姦に留めサ、畢拝の宗警
比較するといふ拳凪が盛であつた、その影蛮と見るべきであらう。療に私が在畢前後数年問の束洋
印度が主であつたので、印度拳が聖地較宗教であるかの軌があり、村壷精霊の俳教義義右併むで、
■ 生の問に刺戟を輿へ、その方に志す青も段々出奔て釆た。然しlその頃より前にもー昔時の文科大畢で、宗教の
研究を如何にすべきかといふ事が段々考慮に上少、その専門家を養成してはどう、かとの譲も非公
といふ亭でーその儀締着としては大西就君が有力であーつたとの苓である。然しそれは色々の支障
す、後大西君が京都大拳の方から外国留畢に出る時−迭別の席上、元の拳長外山先生が、﹁放で大西君に封する自
分の借金を他人に辞して貰った様なものだ﹂と明言せられた。
そこで宗教の研究が如何になされるべきか、叉その畢名を如何にすべせかといふ鮎は問題のまゝ
巧.その方面の単著を養成せうとの議は栂接してゐたといふ事であるり私が明治廿九年哲蓼科を卒発して大草院
に入るに雷つて研究題目を定めるについても、同様わ問題が出、宗教習拳といふのは大分方面が蓬
といふ名車公に唱へるのはまだ疑があるといふので、研究題目は﹁宗教の蟄達﹂といふことに七軒
といふ題名には、大分仮定設定のあつたことで、即ち宗教を直に天授紳膵とするのでなく、叉︼定
して見るのでなく、匿史的にも心理的にも蟹連のあるもの、他の人事或は文化現象と同様に、進化
べきものといふ意味であつた。但し、此以前にも宗教撃といふ名桁は世間になかつたのではなく、
哲皐館で宗教拳といふ辞義を陪き.、一粒の宗教蛤論といふ様な扮菜をして居られた。文名目は何といつたか、ユ
−二てサヤ.ソの先進畢院で岸本髄武夫君が宗教嘗といふべき講義をしてゐた事もある。
そこで日分としては、如何なる研究にしても、叉汎く一般に宗教に亙るにしても、基本又は中心の丑固なもの
を弊すると考へ︵此には大西君の勧詮が興って力ある︶、︼股の注意と共に中心を沸教に督きーその彿身駁にキク
スト敦のキリスよ蘭を参照するに勉め、而して一般にほ宗教といふ取念のつかまへ虎の襲連に望息して進むだ。
かくて卒業後二年.文科大草で宗教拳の講義を開くに雷つては、その緒論として、宗教といふ取念のつかまへ虎
を五段の焚速としてー一年の問に講述した。即ち年来の階層であつた宗教拳といふ名辞が、兎に角公に大拳でも
.
用ひる様になつた浮で、講座の設立に克つこと七年であつた。続いて明治升二年功轟身命ぜられた時にも、宗敦
皐研究といふ事で、同じ名稲はそれと同時に抵本文三郎君が京都の方からの留笹沢追にも用ひられた。而して松
本君の蹄朝は自分より先であつたが、京都の文科大拳が開けたのは数年後の事であつた。東京の方では、自分の
膵朝後、壌算の関係や何かで、一時諦師となタ、文一年間講座なしの教授でるて、講座の出奔たのは掃朝後二年、
明治肝八年であつた。
さて講座開設と共に先づ講じ挺宗教拳聖和は、先に大挙院研究中に試み、大西君の勧めで早稲田専門畢校の紡
毛録に登載し、それを改訂して輿放した概論の濃系で、心理、倫理、吐合の三方而を主にした。時にその少し前
、 にゼームスの﹁宗教経験﹂やスターバクの﹁宗教心理﹂が出て、その刺戦が大きかつたので、心理としての宗教 、
革質を講ずるには、材料や問題綻多かつたが、その他は貧弱で、倫理方面には、沸教の道徳親とキリスト教の教
理観念を照合し、祀禽的には敦昏的満動と人難拳的材料とを参照した。その後概論には多少違った組紺倦系を試
宗教塾訴挺二十五年の想出
五
乗数奉辞庫二十五年の恵山
六
みたこともあるが.多くは成功しなかつた。此を今の畢界の進歩.後進諸君の概論が的確な醒系を具へてるるの
に比べて回顧して見ると.賛に噺悦を覚える。
静養の内容と暫く牡れて、講座措任についての覚悟について一言する。自分の考では、十つの串間について大
串が請座を設けるのは、その事開について、例へて官はば一つの参謀本部又は軍令部を設けるのでなくて、一つ
の気象基を設けるといふべきである。従って諦
叉その啓開が研究する事柄にウいて、指揮し命令すべきものでない。従って一つの講座数中心として一参政を作
るといふ様なやり方は、最も不昔である。気象姦としては.その串間の世界に於ける趨勢や進歩を観測するは勿
論、叉その串間の取扱ってゐる事柄それ白身の活きた蓬動傾向を観察し登録し、叉現在我国だけでなく、世界に
亙り古今に通じての観察研究をするのが義務であると息ふ。但しその中でも、時に應じて特殊の方面に研究を集
中するといふ亭は、救と力の限ある檜任着としては巳むを得ない帯であるが、全憤として云はゞ全般の駅測を日
醇とすべきである。
轟盤の蝕揚と共に∵串間の性質についても.概念や方法を規定して固守す牒のが串間の熊手だとは考へない。
勿論﹂専門の拳科として、.範囲輸廊を局限することは必要であわ.従つてその昔質に應じての概念や方法にも自
ら限界はある詳であるっ然し総ての人文科拳に専門分科はむつても、轄着人間人生を研究するのが目的であつて、
東簸て道徳、事術など、各員方面を異にするもの1、何れも人間の天性と生消との上に於ては潮締の断つべから
ざるものがあ少、専門といふのは、つまり人間を多少異なる角度から取察する見地の別に外ならぬ。其故に研究
の上で範囲を限定しても、そこには常に人生全鰹と聯給する融通があるペく、限定の馬に人生を断片的に見撤し、
串間の分科を縄張範囲の様にする偏見に陥らぬことが必要と信ずる。科挙は材料と親祭鮎と方法に於ては専門的
であつても.人生といふ大日樟を見失はぬ様に警戒を聾する。而して一科の専門範囲で出奔上った概念でも、常
に人生の享賓と参照して、概念を訂正し叉発育携張するの餞裕ある濃度た必要とすろ。
講庭並に蓼問の性質について、右に述べたのと速ふ考が世に存在してゐる軍は、高森知してゐるが二重に角.
自分は始から此の考を以て宗教拳講座軒措任して今日に至ったので、今日でも此の考を訂正する必婆を認めない。
従って自分の研究に於ても、叉畢生の掃導に於ても、常に此の考を廠用し、苦行して釆たつもりであり、草は指
導といふ官業さへ、多少不適昔かと思ふ位で、指示すことはしても指固をした寄はない。平生の研究や演習に於
ても、卒業論文額臼の現先についても、出来るだけ畢生各自の自著を誘脅するを目的とし、問題をサゼストし、
材料や方面について相談に興ることはするが、こちらから指固し、指定することは原則としてしない。即ち卒兼
論文に於ても、畢生自身のエ夫を待ち、自ら問題を案出させ.而してそれについて批判し叉協議するを方針とし
て釆た。何れの研究に於ても.自分で問題を輔へることが、畢間の第一着であ少、サゼスションはどこから得る
にしても、論題の要鮎雇員を自分で練少上げるのが、研究の要契であると考へる。教員は之が誘琴批評、
をしても、指定し美園をして一定の規模に入れるのはよくないと信ずる。講座が参謀本部でな・いといつたのは此
意味であ少、文革沢を作るといふ様な見地に反封するのも.同じ見地から出ることである。
此の如き考であるから、・今まで二十五年の間、百数十人の卒巣生は、その牢貴誌女に於ても、爾後の研究に於
宗教畢講座二十五年の想凹
七
乗数啓訴鴎二十末年の想出
入
ても、可なり多方面で各々その能を蟄拝してゐるのを見て、自分の恰とし誇とする。然し方面は違ひ方法や材料
も大に異なつても、聯紡は失はない様にしてほしいといふ事は常に心がけて釆た。此等の苛が遼く理想通りに行
かない鮎は勿論少なからすあるが、白身としては此の見地と目擦とは、之を見失はない様に勉め、講座姶任と自
分の研究の上に於て﹁汎く人生を、而して宗教の角度から﹂といふ考を茸現するを目的にして今日に及むだ次第
である。
眉分の考では、草間の拇蟄鮎叉基本として必要なことは、概念や方法論よ少も、研究の目標と着眼鮎とにあ
る。而して宗教の研究が日韓とする所は、人間がどうして、叉どの様なエ合で超世の理想に動かされ.又その信
仰に活きて行くかといふ︼事に集中し得るやに思ふ。而して理想といひ信仰といふも、その様悪や内容は必して
一定不簗でなく、人生に於ける宗教の襲速、蓉達、叉生気活動は、つまり超世理想を欣求した跡であゎ、それを
諸種の端緒から蟄見し、所縁に求め、生汚の事情に聯結して、Zを生活の原動力︵敢て指導原理などとは云はぬ︶
とする様じ試みて発た脛過である。此の如く生きた生命の電動を目槙として、その動き方の耽腰や襲遽について.
︸ 手篭の駁撃材料の蒐集と共に、その間に幾分でも理路を尋ね、秩序を立てるのが宗教畢の着眼鮎だと見る。そ
れ故に宗教拳といつて、別に抽象な理法を規則の如く定めるとか、榛準規範を定めて指導するといふ様な串間た
ることを必然としない。
たことで、宗教拳と宗教史と二つを合せたといふよりも、二つの名稀に含む研究は、硬質分醸すべからざるもの
と信じた鳥である。つま少汎い意味での宗教史は宗教拳の資質であ少、宗教畢は宗教史の整理だと概括し得や
ぅ。些毒の関係については偽ほ少し最後に憐れるが、二者互に照合し、補充すべき不鮭の聯錆に立つて ゐる
考へる。但し、その何れにしても、又その特殊の部門について専門の研究を要七各々専門家のあるべきことは
勿論の次第である。
此の見地は、二十五年に亙って大隈同じであるが、その間にも自分の興味として、主要問題として研究し
とには、多少の襲遽がある。即ち講痙に先っての開講から数年間は∴示教畢の輪廓を葺く為に概論の整理を主と
宗教畢講座二十五年の想出
弱鮎のあるを自覚してゐる。然し自分としては、宗教的理想が、文化の運動を左右する内容麗力を見失はない棟
二三年つゞけたキリスト教史や現在一段の成るを告げつ1あるキリシタン俸道兜などに於ては、自分自らにも此
から、それから出敬する研究は、場合によつては文化史一般に吸収せられる廣のあることを目覚してゐる。先年
までの着眼鮎は、此の内容といふも茎に浮動するものでなく、文化の潮流と闘聯するものといふ方に傾いてゐる
いふ方に傾注して、今日に至った。此の問題は、宗教理想の内容や満力といふ宗教それ白身の問題を含むが、今
問題は、人間文化の欒遽の上に、京数的信仰文理想が如何なる働をするか、宗教とl般文化との相耳関係如何と
かゎ∴十飴年前外山先生の講義から知つたキγドの﹁理想の感動﹂といふ畢詮が思想の中に復汚して釆た。そこ
然るに千冗百七、八年、カーン研究員としての世界放行中.痛切に現代文化の性質と蓬命といふ問題にぶつゝ
名稀も此の見地から出た考である。
力を注いだ∪ウパニシャドやギークーと共に、パーサ俳典の研究はその方針から出た事であ少、根本俳敦といふ
した。然しその間にでも一大西君の勧詮に基いて、基礎からしつか少といふ着眼によつ高教の顔泉といふ方に
.
宗教串訴座二十五年の想山
一〇
に努力はしてるる。要するに此方面の研究は、三十年前に、サバチエが、その﹁宗教哲峯﹂に註して﹁心理と匿
史との基本に立って﹂と記してゐる着眼鮎宅消きた文化の運動趨勢の上で研究したいといふ精神にある。
但し此の研究中には伺ほ一つ重大な問題を含蓄してゐる。それは一言で云はゞ人格といふ事にある。圃醍生活
の手篭又文化の一浩カとしての宗教は、社台の趨勢運動と共に動き、宗教は社食を動かすと共に一文社命に動か
される、
1般に見ても、人物のカは必ゃしも社命的趨勢の結果や産物でない。特に宗教的人格に於ては、その信仰理想が、
或は耐寒の啓示として、或は剋世の理想、不思議の信仰、天輿の使命として、場合に依つては敢魯的趨勢と飛び
敗れ、或は之に反封した方向に表れて力を得ることが少なからすある。叉此の如き人格を組と仰ぐ信者の信念に
っいて見ても、その人格が規驚を超越した所に瀧があり力があるとして、此の如き人格に敬する尊信膵伏が強い
感化を及ぼす鮎も少くない。此等の場合にも∵歴史家や社食単著は、それを敢含の大勢とか、時代の影響とかと
して詮明もしやう.叉その詮明には粕旛に眞理もあらう。それにしても、同じ時勢の裏に生活しながら、その同
輩幾百千萬人の中に、特別の人格が特殊の信念を抱き、超世の力を蟄挿するといふこどは、一簡原辻的覇嘗であ
って、単に時勢の産物として全部を片附けてしまふことの出奔ないものがある。且つ宗教的人格がその信念理想
を蜃揚する場合、その自覚に於ては、天輿の啓示とか、預言に臆するとか、又末釆萬年を支曝するとかいふ信念
に終え立つ辛がその力であつて、その剋世的確倍が特色になるのであるから、此を外部の事情等の産物として詮
明し去ることは.その人の自覚を無税する詩で、その信念の力を迎合する所以の這でない。兎に角、宗教の研究
に於て、人格の鰐動を環境によつて翫壊し解繹することも必要であるが、叉人格の生命を一つの原造的専茸、根
本的の力として認めることも必要で、宗教畢の研究には、常に此の二方面の聯祐や反應に着日すべきである。
此の如き意味に於て、自分の研究は、先づ、繹食の人格と、それに封する併徒の信仰に始ま少、聖徳太子、俸
敬大師、日蓮上人からアシジのフランシスなどに及むで今日に至少、今後倫着眼してゐる事もある。それと同時
に畢生達の研究に於ても、此の方面の着眼を奨励したことも多い。宗教のみならず、文化全般に亙っても、人格
のカといふ事は、今後とも研究の重要項目として一骨の豊富を加へやう。人格のカは革に仰性の問題でなく、云
はゞ世界魂の具性的表現である。而して此の方面と一般の趨勢との研究が弘く深く聯綿融合し得る様になつた
●
時、宗教歩も宗教史も新生面を開く時が来ると信する。
さぺ此までは、自分の着眼鮎を中心にして二十末年の経過を略叙して奔たが、最後に少しく義挙界の運動に
開聯して所見を極めて短く述べて見やう。
十九世紀後年に於ける宗教拳は、所謂る言語勢浜と人鞠堕疲との封立を一特色としてゐたが、その末瀾に心理
的研究が起り始めて、爾後その範囲内でも亦層々の方面の蟄蓮があつたや哲畢の上で所謂る論珊輩派を以て自ら
任する人々は、宗教の心理的研究を柄して心理主義だとか、心珊畢鱒ノとか名をつけろが、そういふ畢放といふ
様な考は、結琴着眼鮎の異同であ少、瓦に封抗すべきでなく、互に補ふべきだと考へる。心理的研究と併むで
注目すべきは政令畢的又は民族皐的研究と、文一般に隆史的研究であつて、現在では
探さを加へて来た。
景教拳許座二十五年の想Ⅲ
票数挙講座二十五年の想出
一二
右に述べた四つの蔚限鮎叉研究方法は、在来の宗教研究、即ち一宗教の範囲で自家の宗義や京染を研究する方
面︵所謂る宗教哲皐もそれ以外に出てゐない︶になかつた事であるから、畢界の新開拓として注意を惹いたので
ある。従って宗教単に於ても此等の着眼研究が重姿で、叉それで宗教塾生部を毒したといふ如き感あらしめたの
も、理由のある事である。然し在来の宗義宗史研究も、新畢風の影響で、よほど客晩酌、即ち隆史的批評的にな
って釆ねのは、締著の寄嘗で、キリスト教と俳敬とに於て、特に新着限の研究が行はれ∵それが積年集めて釆た
材料を活用して、結果の著しいものがある。従つて宗義の研究や所謂る宗教哲峯に於ても、単に概念竪蝕の皐と
しては不満を感じ、客覿的の材料鮭変事茸をも、解繹思辣の内容に加へる傾向は重要な一勢力である。その方面
の着眼と研究とが倫ほ進めば、所謂る論理拳沢と心理畢波との封立といふ如き寄悪は、一骨高い総合的見地の中
に融合すべきもの、叉する日があると信ずる9
此等諸方面の研究が、宗教史︵各偶特殊なり叉一般の︶と分離すべからざる革も、諸方面の進歩と共に明にな
bヽ此亦十九世紀以来の大勢といふべく、最近二三十年間に於けるその方面の書物だけでも可な少多く出た。而
してその結果は、何れも宗教信仰の生命が、諸の時代や諸の民族の間に如何に成長し、又は如何に盛衰の蓬を痙
湧かといふ貰相を益々活き′1と示し得るに至った。此等蜂皆宗教墾の内容を豊富にし、延いて巧現在並に将
来に亙る宗教の趨勢を軌察する光明となりつ1ある。宗教皐といひ宗教史といひ.名稲と鰐裁は異なつても、宗
教に現れた人顆の満生命を把握し叉清規して、我等の精紳的生命を富ます上に於ては.分離し碍ない畢の両輪で
ある。将来の宗教皐は、一隊此の抱合に進むこと1信する。
顧れば、二十末年の諦塵措任で自分のなした事は、自分ながら不満㌢感ずる事が多く.而してその感は恐らく
自分自らが最も能く知つてゐる。然し叉、直接には指導感化を受けた師匠、世界拳界の先輩に封し
れ等の教を後進の人言幾分かでも停達し簡た事、後進の人々が、各々自己の途を関取して進みつゝ
等を思へば、.感謝と共に欺菩の情に溢れ、繹食が成道の始に三世諸俳同一成邁といふ悦を醍験せられた心持の幾
分かを味ひ得るやに覚える。人生の拷相は時と共に担適する、その間に現れ動く社命的潮流や人格
様でない。然し、人間が、自己生命の滋を探少雷て1此と結び附かうとし、そこに好托と共に蹄趣を求める心が
失せない限少、何等かの形文意昧での理想信仰が人の心に動く限わ∴此の如き宗教信仰の賓相を探
究は、過去と現在と未来とに亙った意味があ少、叉研究すべき問題の寮きる時はなからう。
宗教既読嬢二十五年の想田
第
研
篇
究
B
費
表
朝 鮮
の
聖
樹
赤
∴松
智
城
現在の朝鮮全道に五って、贋い意味で神聖成されてゐる樹木に就いて、今立には特や宗教民俗誌的な二三の観
察と調査とを簡単に述べて見たい。組じて横木は知らるる如く朝鮮の民族生活上甚だ重要なるものであつて、殊
に変額は現今も伺ほ朝鮮民間の信仰と儀絶との上に重大た二の役割をもつてゐるから、吾々は琴l︸朝鮮膏薬のl
民俗信仰に接し得ると共に.宗教畢上では所謂ぎー邑邑旨玩の︼顆をそこに最も明かに取ることができるのであ
る。
大正八年朝鮮総督料金行の﹁朝鮮亘樹老樹名木誌﹂の中にも特に﹁所木﹂と云ふl部類が掲げられてゐかが、
これは恐らく現に﹁鬼軸木﹂又は﹁昔祀木﹂と諭科するものから命名されたので透らう。それで今野らくその名
ヽヽ︳ 木誌に伐て見るに、その所木の地政は九盲四十有飴であつて、これをその樹種より云へばけやきを最多として吹
︳ヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽ
はえのき、やちだも︵楠︶.いてふ、えんじゆ、あかまつ、の階位で、その他は甚だ少ない。しかし故に摘出され
た所謂紳木のみが決して朝鮮の聖樹の全部ではなくして、それ以外にも庶く紳監視されてゐる樹木はまた頼る多
空尉
いことを吾々は先づ注意しなければならぬ。蓋しその名木誌にも上記の紳木の外に更に僻ほ﹁名木﹂﹁堂山木﹂﹁亭
朝鮮 の
勒鯵の
聖粛
一入
千木﹂などの分目を皐げて、これに廃する多数の樹木努類別してゐるが、今此等に就いて第−に留意すべきは、
故にたゞ名木として掲げられたものの中にも貰は明かに蛍樹と認むべきものが少なくないことである。それは所
謂名木に関する﹁故寧停詮﹂としてそこに簡単に記載された調査を見ると、それには後段に路ぶる如き聖なる特
ヽ︳ヽヽヽヽヽヽ
徴をも℡でるる樹木を見出し得るからであつて、かくしてその名木に就いて私の再調する所に依れば、その中に
じゆ、えのき、あかまつの順位で、その他には甚だ少ない。
は貰に二百に連せんとする変樹を敦へることができる。而してその樹範から見た多寡は、けやき、いてふ、えん
ヽヽヽヽヽヽヽヽ︳
次には﹁堂山木﹂に就いても略戊同様であつて、絶じてこの名を以て呼ばれる樹木には賢際にはまた後述する
やうな特徴を有する聖樹として、普通の他の樹木からは慣別Lて尊重されてゐるものが多い。今かの名木誌に摘
ヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽ
出された豊山木は絶、教育五十有飴であつて、その樹橿はやはりけやきに最も多く、次ではえの邑、あかまつの順
位で、その他は激減してるる。
第三には特に﹁孝子木﹂と通綱される一類の樹木があるが.それは文字過少に所謂革子の側にある木でもある
のみならず、その樹下は度々里民の集包的饗宴︵e望邑On許邑︶と供儀︵○穿rどg芦d罠ユ哲e︶との揚朗とな
︳ヽ︳
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽ
ってゐて、従ってその樹木も敬重され、濫りにこれを伐採し傷害することを禁ぜられてるるものが少なくない。
ヽヽヽ
而してその樹種も名木誌に依ればけやきに最も多く、次であかまつ、やちだも、やなぎ炉、いてふの悼位となつ
てゐる。それで︼般に聖樹はその樹撞から取れば明かにけやき︵枕︶が最高位を占め、全くその字義にふさはし
い鬼神木としての特色をもつてゐるが、倫ほその樹拉上別に聖なる威力があると信ぜられてゐるものの中には、
ヽ︳
支那に於けると同様に椀樹があつて、殊にその東棟は敬重されてゐるやうであ少−またかの巫に於いても最も専
ヽヽヽ
重される木はけやきであると云はれてゐるタ
さて主として名木誌に基き更にこれを再調して親祭した朝鮮の聖樹の一班は略凍上述の如くであるが、しかし
その名木誌には伺ほ調査未完の所もあ少、且つ後にも述べるやうに、朝鮮にもまた必ずしも潮謂宜梯老樹名木な
らすして然も絆著な程々の聖樹があるから.従って全偲としての里村の敷は固より前掲の数字を造かに超えるこ
とは事賃である。然らば今夫等の聖樹はたとひ前述の如く如何なる名稲を以て各軸方に於いて呼ばれやうとも、
それは賃際に朝鮮民間の信仰と儀線上果して如何なる紳変な特質をもつてゐるか。香如何様にそれには変なる特
徴が賦興されてゐるか。その主要なるものを先づ下に摘記して見やう。
一、年々その枝葉の蟄生や繁茂の仕方と良否などに伐て拉々の蕾凶嗣稿を卜する方便となる木があつて、か1
る樹木は即ち紳占︵diま邑i旨︶の鳥めに締盟祝されてゐるものである。
二、その枝葉を伐採し又は樹幹を侵害し、或は濫にこれに解れることを禁ぜられ、若しこれを侵せば災妖があ
ると信ぜられてゐる樹木が甚だ多いご︼れは云ふまでもなくtpbO邑t記法であつて、蝕ちそれはタブーの首
位としての梁樹である。
三、毎年定期的に例へば春秋に︼定の祭事をこれに行ふ樹木があつて、著しこれを怠れば災禍があると信ぜら
れてゐる。或は不定期に座員特に願主の依頼に伐て巫がこれに巫祭を行ふこともあ少、また或る狸樹例へば城
良木に封しては、多くの人員が必ず一定の呪法的宗教的行軍をその前に行ふ習俗があーる。
朝鮮の 聖樹
朝鮮 の二豊飼
四、或る樹木は特殊の紳威紳零若くは紳怪の任所として畏敬され又は忌剋される。
五l昔は官憲から特に官醇を賠興された樹木があつた。
六、特定の空所や嗣堂の側にあつて、これに附属してゐるものとして紳聖成される樹木がある。
七、その樹陰を邑民の合宴と供犠の揚所とするから現に敬重される横木があつて、それ昼前述の串千木以外に
も少なくない。
今上掲の各項目は固より交錯した分類であつて、乃ち一の盈梯に如上の種々の特徴を併有してゐるものもある
ことは勿論である。而して此等の艶樹に勤して殆ど共通した最も蹄著な且つ興味深い行事は、軍にこれに諸毎の
簡約厄除珠防禁紬等を結びかけ或はこれに供犠をさ1げる民俗であつて、然もか1る行事の動横は要するにあら
ゆる意味に於いての除災招稀に外ならないのである。
さて第二には此等の聖樹をば特に碑名を附して呼ぷ場合がまた甚だ多いことを注意しなければならぬ。それで
三、府君︵付根︶木、
四、大監木、
五、巫木、
この紳名上から見た聖樹の重なる珪耕を拳ぐれば次の如きものがある。
一、城陸木、 二、山神木、
此等に就いての詳詮は故には省略しなければならぬが.たゞ上記の各紳木の中では殊に城陸木と爽では山挿木
が常に最も強い紳聖感の封象となつてゐるやうである。伺ほ巫木とは特に朝鮮に於いては私が主として巫堂や巫
家の側にある特定の聖構をかく名けたのであつて、それは恰もかのシベリアに於ける潮謂哲ぎ宗旨昌bp已Rコに相應
ナる空輸の一軒と見撤すべき事由があるからである。但し巫は固より琶ちに紳璽瓦ハ着ではないから.かゝる巫赤
をば今上述の分日の中に認めるのは穏雷ではないかも知れない。しかし苑と霧堂とは容易に
.ケサトサツへ してやがて紳的なものでもあるから、その巫木をばかくこの部斯の中に故へることもそれは必ずしも不雷ではな
いであらう。
第三には受粉の形鋭から警、謂誓その形態上の分類㌢試みると、一−老大木、二・崎木曲木︵er各dl漫
遊木︵旨ge打eど吏岩︼紆22︶︵託︶二二、叢木、四−棟木t五−相生木二ハー陰木等が怒げられると思ふ。故にもそ
の一々の詮明逢するが、吾桑後に掲げた陰木と皆の樹幹か若くは槙元に女陰状︵邑ユ▲旨m︶の穴が大きく
缶
R
ぎてゐる老木で雪て、殊に樽見の所警これに行ふものが多品殊の樹を暫らく私がかく名けた
gざじ諷驚n邑邑tこ∽●J巳−童PHt”
︵註︶声J買首二宮二野呂m≡enW弓邑n邑10ぎ邑d旨ぎi琶−邑已芦ぎ告さぎ巳⋮乳ぎkl邑e∃d
●J已−串¢.串ご
苧笥○きざ三男磨ekeIま︰11ぎー与︻訂1・宣gi2J⋮きir山seJ2nノ1寮き︼︸nl昌i蚤︰要言空軒
冒き冒亡ヨg2訂︼−r訂芝5m琵二重声ゝg−才穿家ig⋮善一一i芸邑呈−芦−芦−−P=コ汁
盈樹
路畏朝鮮の還とその諒との関係漂にそれと耶蘇教徒との現在の関係に就い
者の関係は改めて云ふ姜もなく最も親密であつて、例へば諾背旗蒜慧山梁
行ふてゐる。されば聖樹は多く雷信仰の封象でもあつて∵ての儀讐も薯に霊
朝鮮の
朝鮮の二茎樹
二こ
の如きはその一通例であらう。然るに耶蘇教徒とい防係は貰に五に反日排斥の状態にあつて、例へば或る村落の
うた賛状む私も目撃してゐる。然もその盈樹は倒されてもその褒めに必ずしもその信仰は撲滅されないのであつ
大城陸木が曾て耶蘇教徒に伐て伐り倒された蔑めに、今も倫ほ附近の多数の男民は同数徒に反感をもつてゐるや
て、現に一たび倒された空相の躍れた枚祇から後に新しく訴え出た若木に封して、選民は今も厚い信仰と儀絶と
を相横してるるやうな皮肉な常例さへもある。勿論低級な俗信は如何なるものでも通常に改められねばならない
が.しかしその揚合にも亦た過ぎたる扶倫ほ及ばざるが如き誘を招かぬ用意が肝要であつて.私はこれを特にわ
、
が朝鮮に於いて痛感するのである。
最後に何ほ上述の聖樹に関する宗教箪上の捜括的意味や殊に朝鮮の賓例と他民族に於ける同類の葛茸とを比較
しての宗教史的考察などに就いても、故には全て省略に附することをJとわつて置く。
I
露由最近の宗教改発
相
原一郎
介
昨年四月モスコ一に開かれた第十四回生蕗ソビエット大倉に於て霹西竃共和国憲法第四條釦う﹁信教の自由及
両家と数台との分離﹂等に押して規定した條項が襲吏され、叉同月八日全戸シヤ中央執行肇貝合議長カリ・・エ
ソ外二名の名を以て.宗教観恨に関する法律の蟄布を見た。一九一八年の革命憲法及び﹁国家及拳校と軟骨の分
離﹂に関する根本法の制定以来、丁度十二年にして潰された此変更は、幕閣宗教政策の第二親を劃するものであ
る○
第一期の宗教政策は消極と横磯との両方面を有した、消極的方面は帝政時代に於ける国家と数台との関係の清
算、即ち主としてオルソドックス国教脅に加へられたものであり.横樋的方面は反宗教宣熔の自由である。革命
政府成立以後謬園正教倉が導めた度耗及び憲法に依り保障された反宗教宜倦の所動は共に世餌周知の事である。
さて共和同意法袈由條は始め、
二三
﹁努働民衆三選ノ良心ノ自由ヲ保障スルタメ国家一致倉並二畢校一致合一ヲ分野ソ、叉宗教的及反宗教的宜偉ノ
自由ヲ全人民工認ム﹂とあつた。
霹園最近の宗教改廃
蕗四股近の宗教政策
此の申最後の項日を﹁信教及ビ反宗教宣倖ノ自由ヲ人民二認ム﹂と改正した。
倍数の白山といふ文句はPシヤ革命の﹁スローガン﹂の一で他の﹁戟串の廃止﹂、﹁国家生活の平和的建設﹂.﹁労
働民衆に封する土地の交附﹂、﹁言論出版の自由﹂.﹁世界の七分ノlの土地に共産主義の建㌫﹂時のスP−ガンと
ともに、欝帝国の住民の心む奪って共味方となし、殊に勤勉にして質暦なる生活と平和主議を串する、しかも懲
帝政時代には常に迫零された千五首萬人のセクタ∴/トの支持をうけ.民衆をしてより好きより明るい終末に封す
る希望を抱いて新政府を短く信任させ、革命後引渋いた数年問の内乱餞鮭及び配分組絃の板木的蟹串に伴った混
乱と不安とによく堪へさせたのであつた。
﹁信教の自由﹂望止態的近代囲家が封宗教関係を規定する原則の一である。併し乍ら﹁倍数の自由﹂の範幽及び
内容は客軌的に確発したものでなく、闊に依って典範固程度を異にする。上述の如く﹁ソ﹂政府は革命に掲げた
﹁スローガン﹂の手前之を憲法の中に入れたのである。元来敵命主義の主張は、民衆を融合的連帯以外、一切の瑞
絆から解放し、桐性の完全な自由を保障する寄を以て理想とするものであると思ふのでぁるが、
治は本来マルキシズムであり、﹁宗教は民衆の7へン也﹂との信條の上にたつて居る。宗教信仰そのものが唯物変
貌に即する科串的統合主義と和いれないのみならず、既成宗教は搾取階級の塊脇と堕し.一般民衆を奴隷化する
方便となつたものであるとする。殊にレーニンは革に晩成宗教祀曾のみならす人心の内奥に存する宗教性そのも
のをも否定し態む苛を止めなかつた。宗教的迷信を打破し、民衆を精帥的に解放するを要すといふ事が、新政府
宗教政策の根本であるが、最初はそれが僅かに憲法苦節州債に﹁宗教的及反宗教的宜停の自由を並び認め﹂て、
少しく其鉾先を現はしたのみであつた。而して鱒宗教的運動に就ては共席貫綱間中に於て、反宗教運動は料皐的
宜停及解禁に依るの外、暴力を用ゐて妄に民衆の反感を貿ふべからざるを戒め、叉農の決議に於ても村落に於け
る節度なき反宗教運動が、却て所期の目的に反するものである事を戒めて居た。
然るにも係らず、共産賞の反宗教運動は或は﹁無紳協倉﹂の組轍とな少、或は軟骨及セクタソトには十八才以
下の男女に殆と宗教教育を許さゞるに係らす、反宗教宣俸は自由であるといふ有様であるから、セクタソトは墟
′
々憲法第四催に於ける信教の自由を楯にとりて、其不雷を中央政府に抗議し文数朗した。その結果軟骨は不平の
搭醸する集合所となつた事は想像するにかたくない。か,る事情が蓮にPシヤ政府をして一歩をす1め、宗教壊
滅の旗轍を一暦鮮明ならしめた改正をほどこさしめた。
さて宗教椚宜倖の自由が単に﹁信教の白山﹂とかへられたが、此﹁信教の白山﹂をソピエッ一法制は如何に僻
辞するかといふ寄は英司法人民委員倉が竣表した解繹に伐て略説卸する事ができる。英一郡む引川すると、﹃一般
に理解される所によれば宗教の白山とは理論上良心の白山と儀式の自由とを含んで居る。プルジョ7蓼者は﹁良
心の自由﹂は次の仲條を国民に認める軍に依り完全に保障されるといふ。
a、宗教選摺の自由、従て新教魂樹立の白山。
b、恐衰の日出、儀式執行の白山と説教の日由を含む。
¢、私械及び公椎の行使が信仰の如何に閲しない軍。
d、無宗教の白山。
露園長近の宗教東京
霹団長近の乗数政党
同様に数台の自由は左の三要素から成る。
l宗教観憶新設の自由。
b、数台の組練及び管理の自由。
¢、違法の目的を有せざる現存宗教観醍はすべて法律の前に平等なる事。
我が倭制望芸なる良心の一自由を規定してゐるが、それは客取的意味に於いて存ぜず、主親的意味に於てゞあ
る﹁即ソビエット政府は国民が如何なるものを信じても又いかなるものを信ぜざるも妨げない。但英行焦が法律
及び他の観民の利益に違反する場合は此限でない﹄云々。
此解繹にょれば、寮法の新規定における﹁倍数自由﹂とは単に儀式及び詮数のみの謂で.印刷物に依る宣倖は
勿論、其他の宗教的活動は一切認められない。僻も儀式の執行に関心ても蔽格な法律が新に蟄布された。
六十八偉から成ゑ示教国債に関する新法律は、一九一八二・二三の同家及拳校と敦合弁離に関する板木法に淵
渡し、其施行細則及其後の法令が過渡期の規定にして、現時の要求に不適なる故、之に代らしめんとするため制
定されたものと見える。其内容の主なる鮎をあげる。
弟︼に一九一八年の根本法は凡ゆる名群の宗教祭祀連合に適用さるべきを定め、以て萄施行迭が通用範園を詳
細に定めたるも億且適用されぬものあるべきを防ぎ、人員の多少をとはす筍くも圃麓又は集囲を組擁する宗教的
癒合は凡て登記するに非ざれば何等の活動をなし得ない事としー且宗教園位、国情員及喪各種機関の樟成人員を
届出づるの義務があるとする。
園膿の執行横闊の人員中個々の者を忌避するの権を留保し.叉許可を得て開かれた宗教大骨に其執行横閲の名
簿と共に大倉の賀料投出−1の義務を負はしめ、各方面より圏惜を監督するの途を開き、叉祭祀財産α管理及使用に
開戦する契約は之を締結するを得るも同契約は商巣的又はエ柴的目的を内容とするを得ざる戊のとし、契約の目
的を祭祀上の必要上最少限度たらしめ英経済的勢力を奪ひ、又何人も一つ以上の圃饅に所属することを禁じ、且
牧師の消動慣城を限定し、圃濃の満動を局部的たらしむると共に其取締を便にし、叉宗教的財産を宗教的要求の
満足以外の目的に任用する軍を禁じ、命員に封し物質的援助をなし辟蒙、教育−慈善事業を行ひ叉祭祀に必要な
らざる専籍を保管することを禁じ、園閻の活動を純然たゑ示教的にして且消極的のものとなし、最後に致命其他
の鰻丼堂は国家又は公共の為に必要なる時は何時にても閉鎖し得ペきものとし、好ましからぬ圏醍の活動を何時
● にても停止するを得る事とした。
以上は其要鮎にすぎない。之を詳詮せす只、テマショウ氏がワシヤの﹁国家と宗教﹂を述べたる文章の結語を
引用せん。日く﹁ソ﹂ロシヤには国家の庇護する一の宗教あり、之に封し一切爾詮の宗教は、せいぜい、認容され
るのみ、併し或鮎にありては直接的に迫害されるものであると。
過激派共産主義は宗教なりとは〆ルサッヒ、フェリッブ・ミュラー.及テマショウ氏等の断ずる所也。然らば、
ソザイツの宗教を否定し、代ふろに現世的利笈のいはゆるデースザイツの宗教を以てし、世界
申せに於てマホメヤ▲ト教が先手にコーラン、右手に創を提げて全欧洲基密教幽を震撼したやう王今此新宗教国
家はあらゆるイェ
の宗教に挑戦して居るものであるまいか。
感固最近の宗教或癒
宗教現条における病的なもの
宗教現象に於けろ病的なもの
吉
野
ニ八
清
人
その時朔を主としてフランスに於ける神秘主義の精紳病鹿的研究にまで執るとすれ
,
一正確な著述や諸倦記による記録の仔細な研究に
名な紳秘豪の紳的莞を分析し、彼種では愛の有機的感情は完全に快けてゐる、彼等揉大想像者︵雪S計im各日冒
障害と同一硯され、しかもこの同一硯が既に証明されたかの如くに取扱はれてゐろのは遺憾であつた。デュマが
費見したことは偉大なる貢献ではあつた。しかし乍ら、リボの著作のうちにても紳秘的状想は度々ある拉の心的
よつて彼の先拳によつては箪なる異常な逮素粛として看過されてゐた宗教者の内的生柄の中に豊鰯なる猫創性を
際は内密 ︵旨re功peCti昌︶を避け、宗教者−特に紳秘衆の
サボの如き料率的客駁的方法を用ひて宗教現象を出来うるだけその全慣に立って蔽察した有能な心理単著が一
たものであつた。
ヒステリに持しうるものであつたし宗教とは紳粁疾患曾訂0且の特稜の場合で、偶人的又は集合的の狂急に似
シャル三畢次にても∵宗教の閑組は単なる錯覚着であ少l忘我晩魂者は紳挺疾患者であ㌣・また紳的要の激情は
ばーーでは、宗教現象は多少とも程度を典にして紳踵病東の映陥と同一硯されてゐたと断するも過言ではない。
現代宗教心理串の餞喘−
t
tif且であつて猪党者︵深戸讐完l且ではないことを葦謹し.りし、師リボの見解を修正した如き隼︼の一例である。更
にシャルコの愛弟子ジャネがキリスト教聖者の心的状態をヒステリ患者のそれと封配して、最近の著作に至るほ
ど両帝を同一硯しえざることを力詮してゐるのもその後の斯塾研究の正しき針路を物語るものである。
その後・トボを相星したと思はる1が窄料に於てはブロテスタソトを主に托川tたジェムズが﹃宗教紙験の諸
相﹄で、紳秘約諾教授験の暫革的詮明を不充分とし、聖者の紳秘鱒除は彼を高揚せしめるが﹂狂敗者の紳秘室義
は彼自らを衷威せしめることを指摘した︶
か1る傾向はドラクロアに於て繚も明快に看取される。彼は病的完敗現象に関しても深い理解と洞察とを弔し
大紳秘家は殆んどすべての例外的な心的生理的組緯を石する希t烙印づけらるゝ紳繹病糾的映隋を免れないこと
を認めはしてもー彼等には生の創造的威力、構成的論理、茂際的拭売捌ち三日には天霊︷敬一艮が布寧しこれこ
そその本質であると主唱する。天稟たき退化布・型的砦萩的威力なき締結病者。敬虔篭ろ近隣者によつて無税さ
れた粘所柄東でれろ低級なる紳秘豪や郡二流言模倣呵紳秘豪は触りにも多い。湘なりり止宿の形思を見出しこれを
信仰花したろ創造者黎明肴の大紳秘豪はすつと稀である。彼等は円らの生理的心理的弟鮎を物ともせすして、豊
田な創造的鈍化の布仕する。神秘主義の砦義は彼等にこそ問ふべきものであると。個人的宗教経験を構成するも
が統制してゐることに力鮎を督いて
のを何にもよして感情となし教義や犠祀の役割を比較的に看即したジェムズと興って、特に政義による恕鹸の推
帯を重要祓したドラクロアが偉大なる宗教者には通観したi−−te碧ct邑i2e
るるのも注目すべきである。また彼が提唱する全く肉感性を剥がれた紳秘壕の所感的状態.魂の紳への合︼の耽
宗教現象における柄的なもの
宗教洩象における病的なもの
三〇
惣は彼の感化を醸る受け七ゐるバリュズィの聖フアン・デ・ラ・クルスの紳秘経験の研究に明瞭に詳述さ
るところである。
斯くの如く、固有の心理畢者は宗教現象殊にその最も深い紳秘的現象の巾に食まれてゐる病的なもの︵mO邑d︶
の存在を超まないが、決して宗教現象療病的現象そのものとは宕倣さないやうになつてゐる。これに封し
の精紳病理皐者の見解は如何と云ふに、構成ある諸家は例へばエスナル︵A・Hem邑;袋顎CF。琵eニ庄ぎT
ti訂eニこ:○−i♪−品eと共に、紳秘豪には病的な場合の頗る多いことを承認しっ1も.﹁これらの手篭からし
て紳秘的思考が単なる疾病の一形態にすぎぬと結論するのは不正確であり叉甚だしく誇張するものである
定するであらうじ或は、⋮ヤル︵声呂笥rd甘夏1ヱ増設竜=ニeニrO邑袋menぎ研こ品∞︶の如きも、病理的
紳秘経験が存在してゐ竜にしても・それはあらゆる紳秘経験が異常であるとの謂にはならぬとして沓日の
見地の非を告白してゐる。吾らはまたレネル・ラパスチソ夢Hぎ¢訂igl㌣F芸旨①の如き高名なる病理畢者も
赤かlる見地に立脚してゐることを知ってゐる。クルボン9弓b。nも既に病的意識が宗教的紳秘的意識のすべ
てを占むるに非ざることをある誌上で強調し宅他方、フランス社命拳沢の見地を徹底せしめても.宗教感情は
決して病理的な偶蟄事ではなくして、普通心理拳の桝輿に應じて著しくも社台的紐帯女緊めるものである
しかし、かく殆んど決定的とみゆる敢近の宗教心理に占むる病的なもの1限定された地位を反封に著しく瑛大
せんとするものに、元釆はシャルコに聾したアロイド笹沢がある。これはある宗教の黎展に納経病のそれ
て比較さるべき心理的蟄生を見出す。この笹沢の宗教現象に関する精紳分析的方法及び諸文献を詳細に叙
いが、概観的には可成り非掛率的であると云へる。仮にリビド詮が生物科嬰として客観由に考へられた心理拳の
唯一紆基底たりうるとしてもこの立脚稚からの鶴多た宗教現象究明の寄輿は期待し難い。しかし、この笹沢の影
などは性本能
響を多少とも豪つた語草者の所詮には傾恕すべきものが抄くない。エソクのぞヨe邑Onやブロイラーの邑i岩Q
の諸詮。
僻またデソマルクのシュウ︵芦切・浮ど票Re︼igiOロ賀dmO象dm邑已旨訂仇−出口箋sFtrこ昌一こ
㌦、食慾と等しく宗教生活を原始的本能.傾向と宕倣して、これが精所柄に於ては突如として劇列だ畿すること絹
者の密接な相互関係を示唆してゐる.
c宣。t首1葺窟と、邑1i邑1ヨiqtlGとの心的気質の分那.ブ
吾らは今後に於ても、資料としても或はまた方法としても宗数現象の心理塾的研究に精神柄珊塾的立撃γ垂姿
成してゆかねば点らない。例へば、クレッチマーの
ロイラ﹂及びベルグソン及びミンコクスキの影響に立つミンコウスキの邑i︰岩音賢①の研究、デュルケム及び
ベルグソソの両詮を巧妙に特化したブロソデルの﹁病的溝識﹂のそれ、或性三プレ塾涙の想偲の病理たる神話狂
lpr堅it軋、⊥牢失ってゐろのではなく、普
︵m苫Om邑e︶の研究等ミしかしてまた、多幸なろ新分野を開拓せるこれらの研究ほ何れも、その封象とする
精紳的病者は大部分は決して完全に葦在の感覚三芳コ∽d≠r置こenⅥde
通者とは多少とも興ってではあつても資産と接燭してゐることに浩自してゐるのも有用である︺︵先︶
宗教現象における病的なもの
乗数々育の目的に鑑みて其の聖行如何を恕ふ
本
宗教々育の目的に鑑みて其の要衝如何を想ふ
藤
三二
一.雄
今日我国に唱へられてゐる宗教教育は、不幸にして未だ認むるに足る畢的粗雑も成して祈らず、奮わの黒
入って居ると云ふ寄が出来ない。立準な苧こ成るの具賢規あるの日は抑々何科の寄であらうか。慨ふに、宗
教育は∵宗教的訓育と、宗教の教授とに、分けて考へられるが、此度では前者の意味、後者は其の補助に過
而して其の日的虹、既に知らる1迫少発づ畢生を中心に、次第に一粒社脅人にも、療数的訓育を施し、陶冶の貰
を奉げ、国民各自が人格建設の根本動力としての宗教的信念宅人々の精神に刻み、常に殺虫心を抱いて、絶
ず己が生命の浄化に望息する底の人物を蕃成し、能ふべくんば、信仰生汚にも入らしめむ.とするに外奉らぬ。
随って、之が徹底を期する鳥には、宗教の教授も悠なければなるまい。
在寮、我国の訓育は、修身料に於て徳目を授け、之と共に嘗践−鑑も勧め、以て、主として訓育む計り、陶冶㌢−
、行はんとはしたが、暦践の方面は、兎角に巧くゆかなかつた。殊に、箪校l二開流ない︵畢整式らぬもの、塾絞を卒
ったもの︶ 社命人一般の精紳方面は、全くの放任主義で今日に及んだ。只事に、忠孝の思想は、可なり能く徹底
し、日清日露の二役には、此の心を抱いて天晴敵を制した、と云ふべきであらう。共後せ昇天戟には、幸
正利を博し、五大強固たる実名の下に、物質文明は次第に繁盛に赴き、其の方面大麓に於ての成功はしたが、国
民精紳の取扱を忽にした結果と云ふべきであらう、不知不識の問、不撒底なる科挙萬能主義に隋入少、彼の俳国
の大数育家Alf邑冒邑−ねひがF.旨乱gn巨el−t呂pOi已d①5忘H訂tiOn己.︵一入九二︶を著比し、渇仰戦役彼の併
図改革策㌻諭すると共に、常時の科鍵萬能章革を試しめた︵1︺.夫と殆ど〓一状恐が、今日の我国にも出現して
居るかの感がある。典虚で今迄深く心付かなかつた国民一般の粍紳霧に、何とはなし一日ひ難い一粒の不足を感
じて釆たと云へる。釦、宗教的信念の快乏、と云へやう。
惟ふに、今迄の蓼校に於ける訓育上唯︼の接桝たる修身料は、夫を取扱ふべき人物を一般に殆ど現先せず、只教
科書を中心としての徳目譲列的詮話とも日ふべき方法のみに升を注ぎ、賛践の方を放りにも顧みさせなかつたの
で、話を開く生徒が、徳目の記憶はするが、耳行は中々に伴は・ず、況んや前記の箪校に関係なき人々の持前修葺
は一億更不可能であつた。故に、国家の大葬に際しては、忠考一本の血を湧かせ、肉な踊らせても、平穏無頚の
折になると、人々多くは心の皆揚が定まられ、本能の命すろ饉、慾望の欲すりハ逗に従ってー私情に走少、自利に
捕へられ、和もすれば其の際限を知らなかつたのが、今日迄の飛国民中、放て大部分とは申したくないが、相嘗
大多数の有様、其の正直勤勉は、自己の悠の夫ではなかつたか。世良に於て、先づ小摘民に、次いでは、祀曾人
一般に、徳義嘗行の力を葦ふの必要を、留意しなければならなくなつた。日く忠恕手短、円く教化紐動︰H等々。
知行合一、言行一致、電鋳窮行、執れも鷲規の段になると、難中之雑無過斯︵包︺でl只宗教的信念の力のみが、
之を能くする、と日へる。此虚に嘗然頚を痙げたのが、宗教教育の間宙であつたと思はれる。釦ち宗教を、今迄
宗教々育の目的に鑑みて其の顎行如何を想ふ
乗数々育の目的に鐙みT其の貴行如何を想ふ
三伯
の如きー一つの信仰箇條の轟守に動かぬ檜侶、信仰形式の器に過ぎぬ宗圏等の中にのみ莞せす、須く、革校数育
社命教化の上にも、之を取入れて、訓育の助、陶冶の郁と倍なければならぬ、と云ふ主張が起つた、と見てよか
らう。人に依っては、熱烈なる信仰が起らなければ宗教の償はないと云ふ理由で、此の聞置た否定する。けれど
も之は些か見常蓬ではあるまいか。前述の目的も亦、夫では無い筈。即ち教育希は、宗教家の代理となるべきで
はなく、国民全部が、宗教箪者或は宗教信者に成らたくとも、約て差支はない。革校は和庭迄も.宗教の宣侍所
であつてはならぬ。只、曹から悌へられてゐる、精紳的偉人の、智情意田浦にして、琵はしかつた大人格を範と
するに異議ある人は、恐らく一人も無いであらう。然れば、絶えず力を訟して、斯る人格者たらしめんとする、
一運動としての宗教教育でなければならぬ。その結果、信仰に入る人も生するであらう。此の目的に勤してに、
宗教的訓育の外に、宗教への正しい理解を輿へろ必妥があるから、特に蓼校に於ては、何等かの.方法に伏ろ完敬
の教授も、・問題とならねばならぬ。釦ち目下の懸案となつて尻る、各教科日の問に、可成的多ぐの宗教的題材を
入れ宗教上の智識を授け、信念吏誘畿せしめ、追究の指導を輿へる方法と、今一つは、蹟る深間税されては居る
が、宗教垂料の設置である。もし、国民に宗教的訓育を施すのみならば、猫立せる宗教単科は不要である、と諭
するにも、確に一両の眞型はある。けれども、徹底的の訓育には、智識として正確な理解を婚させ、信仰の低値
lをも知らしめ、時に愚な迷信を避けしめる苛も、勢ひ必要となつて郊る以上、此間越も無碍に見粟てる等は出奔
ぬ。知は行の瀬、理解こそ興味の本ではないか。
首t昏日訂逝いて七十飴年、琶詮主義が、入管の進歩に連れて益々必要となつて来た今日、故に無批判に
何物かを信じ、盲目的の信仰を抱く苓は、極力避けしめなければならぬ。須く厳正なる債億批判、認識的考察を
督然の要求と見なければならぬ。而も料率隆盛の年回に、理を雛えず、利に迷ふ虎.邪教迷信の容易に蓑へぬの
は、国民精紳の指導上、何等かの紋陥があると見なければならぬ。即ち信念を萎はぬ人の心は、慾情の前には、飴
わにも脆いものであらう。但.邪教迷信の害は、図法官憲の力が能く之を御する、と諭する畢徒もあるが、法の
裁きを待たすして、正邪を知るこそ、重富の事であらう。然らば、一般に智哉を輿ふる方瀧は、笹的教授の外に
無いではなからうか。而も亦、他科の間に於ける宗教的題材加入、若しくは、其の科を通じての宗教教授は、正
に一つの適法であ少.益々研究されなければならぬが、他科には夫々の目的があり、猫特の過程あるが故に、宗
票数々育の目的に鑑みて其の慣行如何を想ふ
の大意を知nソ信念をも養ひ、能ふべくんば信仰にも入らしめるのは、正に一の方法であらう。斯′、する時は、却
び、各宗の共通鮎を捕へて教授し、北ハ間能ふ限り.宗教的儀縫及形式方面にも接解せしめ、不知不識の問、敦埋
期、或は.高等小串校挙党迄に、国内の宗教一通りの教授を経り、中等畢校の筏周に於て、初歩の宗教拳概論に及
に論ぜられて居る、先づ童話に始り、宗教的偉人の俸記に及んで、其の問に宗教上の智識を授け
けなければならぬから、曾て猫逸に行はれて好成績を奉げたと停へられ︵3︶、日下我国にても、期せずして一部
る中心単科上して掲立したものが、認められなければなるまい。但小峯校及中等峯校の初期に於ては、平易に授
ると、之のみにては、宗教教育の織成は期待し得られぬ。如何にも、各方面の宗教教授、訓練を、担めて儀一す
之を説くは常に怠り防となり易い。
教科は常に其の科に封しては従属的位皆にある。且吾人の醒鹸を以て顧るに、常任心に之を暫くも、他科の問に
■
禁教々宵の口的に任みて基の黒行如何を恕ふ
三六
って信仰モ得てた人までも、夫を枇呟される怖がある、と否定する人もあるが、行はなかったなら、如何なろ結
果が生するであらう。
人も知る我国の宗教情勢は、矢吹博士の所謂、宗教の帰聡何畳の翫があろから﹂研へ宗派の分割はあつても、
唯l冊の聖典に依りて、信仰の接鹿が定まる、諸外国の宗教教育とは、全く興った甚しい悶雉㌧ハ怨ずるであらう
し、相雷以上の矛盾撞着も亦免れぬであらう。然しながら、夫を恐れて、必要な撃〟虚するは、寄鼓の牽生を恨
んで植樹を拒むの笑を招かう。此虎に於て、之が驚行には、我鴎のみが窮する、狽特の方法を考集しなければな
らぬ。従って欧米諸国の例や.夫に関する雑誌書壇︵4︶は、宗教的訓育の参考にはなるとしても、我国の範とす
る寄は出来ぬ。我国宗教教育上の一大難関は、此虎に存する。
殊に一大努力を要するは、宗教教授と宗教的訓育との連結統一、及び陶冶への適用如何の問題である。既に成
人した専間峯校の生徒の監督主示教箪校卒巣者に托すれば、宗教的訓育や陶冶モ計り得る、と考へる者ありとす
れば、飴りにも単純と考へねばならぬ。頒く幼少の問よ少、怠らす教導し、華致し、敢て怠つてはたらぬ。宗教
教授、宗教的訓育、執れも小畢校に始まり、遅くも中等教育後期迄の、同心年齢を中心とした時代に、蓼校が中
心となり家庭配合が一致協力して、是非とも行はなければならぬ。此の閑に軽けられたものこそ二生不抜に、
人々の胸中に生きるであらう。斯くて、眞両日な、畏倒味のある、常に白・ト敬へて止まぬ人物と成1−得たならば、
其の外何の婆求があらう。但何程教へても受け容れぬ、化し雛い戎迷な考究干のある蔀は、到底免れ得ぬであら
う。併陀にも拉婆の難あ少、大聖孔子亦、宰予の欺.原護の恨がある。司馬規公は、若干不敬父三通訓導不腋師
之惰、父教師厳南無外、草間不成子之罪と喝破せられたが、至言と云はねばならぬ。
過去の宗教史上に見出される、軽々の弊害は、到底覆ひ隠せるものではない。A冨ヨ望ncIPi巧
の﹃言缶詰二島
R象g⋮昌の如き宗教の見方も、葡手を挙げて賛成はするが、之を以て二示教を否定する寄は出爽ぬ。故に宗教は
不用と断定する人は、些か早計に失するの輝はないか。誓へば、粗に滋養が無いと云って、米も同時に捨てるの
薪。人生必須の米も粗と共に食したならば、忽ち胃病に悩むであらう。と同じく之に嘗のあるは、取扱方に何等
かの誤があつたと見るペきであらう。迷信邪教で害毒を流さぬ限り、宗教有事論隼蓋し供しまねばならぬ。害
は宰、横位は慣値、自ら分明にする虚に.串間の働が認められやう。前記禦邑賢の望富C︼馬e村に見る、凄じい
弗の国電米利加にも、﹁最近益々宗教書の奇行を増し,八百塩に近い小説をも凌がんとする勢であり、どロdOn
つ訂2誌のAg2qg音nには、日、て聖書の名句を掲げて、職を失って心に痛手を措ふ人々を慰めてゐる。﹂と新
聞子甘︶の語るのは、如何なる意味を持つであらうか。此度に人間の内心にー必然的に潜んで居る宗教心の現れ
があり、やがて夫が理性、認識の要求となるのではないか。虚が前述以外にも、宗教無用論は隙く耳にする。又
﹁衣食に等軟くものに、何の宗教ぞ。我等に先づバンを輿へよ、職を授けよ。﹂の叫びも切嘗なる聾でなければなら
ぬ。然しながら之は、宗教た知らざる者の吸故に過ぎぬ。か1ろ人々をして、能く其の展償を知らしめたならば
恐らく之を菩ばぬもの虻あるまい。生命の意義を知りて生きん人生は、酔生夢死の裏に終る夫と一散りにも大な
と云ふではないか。然らば、之なくして活き縛る蔓を主張する人々の
る相遷がある。宗教の破壊に力︰狂ぐ軍国の将来は、果して柴戟の濠想があらうか。宗教と教育を分離しキ彿因も
最近次第に.基接偶に相きつ1ある︵−7︶
琴数々習の〓的に鑑みて其の雄和如何を想ふ
宗教々育の目的に鎧みて其の智行如何を想ふ
三人
巳冒e−⋮giOロdニ、弓邑rを現はして、十年前︵一九二一︶既に新しい曹畢が将来の宗教に
論壕は、果して、何鹿追確定的のものであらうか。何を日梗として、然叫ぶのであらうか。
J巫n試買iO G昂呂が
代る、と吸語した︵8︶からとて、敢て怒る1には足らぬ。曾てH乳b已が其の晩年殊に宗教教習を力説し、今叉
Rei已呂−d害①ぎ訂がD遠島ま詳邑On穿乱R象giOnの中に於て、道徳の補助として宗教が有用である︵¢︶、と説
いたからとて、濾に喜ぶにも嘗らぬ。宗教なく、道徳行はれぬ、砂漠のやうな人生に、如何にして、生の眞債が
見出されやう。何者の力を以てしても、生命浄化邁動としての宗教は、香定せらるべきではあるまい。人間性に
必然担少来る宗教心は、人間のカで如何にもする能はぎるものでなければならぬ。
さり乍らせ宮⊇ヨiヨ力説され、唯物主義勢を得、寅罵軋芦提唱せられ、社命主義頭を注げて以来、近代人の人
年取宗教取は、著しく挙って発た。在釆の宗教は、一に既成品扱ひにして、著しく軽視し、従つ三示教教育に鮭
用する事を香定する人も、少なくないが、現在に於て充分の活動性を有し、侍も蟄展の徐カあるものは、人心教
化の方便として飽く迄利用すべきであらう。ヨ蟄邑の言であつたか、﹁萬物の内に秘められたる永劫の理法﹂を認
致し得るものであるならば、二千五首年昔に述べられた、盲聖賢の教訓が、今備蓄等の心を支配してゐるでは無
からうか。
最後に、此の教育に関係する人物に裁て一言しなければならぬ。抑々宗教教育たる.他の畢的智識を授けるの
と臭って、教授者と枚数授者の心婁の接解が、不可詮微妙の間に行はれなければ、其の効果たる、私をして日は
しめるなら.せめて雨着の執れかゞ宗教的天才でない限少、絶封的不可致、と敢て極論して悍らぬ。殊に我国の
如き宗教状態の下に於ては、只人格の力のみ能く、矛屑撞着の鮎を禰ひ得ると考へられる。如何なる名案も巧妙
なる細目も、人物なくしては、基しくなつてしまはねばなるまい。叉眞に人を教化する良き手段方法も、かゝる
人の手を待たねば、案じ出されぬであらう。最近高橋情炎郎先生が、之に就ての人物論を、遠くから鼓吹して居
られたと伺ったが、心あらむ者の、等しく志す虎でなければならぬ。国家にして此の教育に着手せんか、先づ第
一に、教育者蚕成機関に一大改革を行ひ、教育界の人物憂成に、専ら腐心しないならば、此の間藤の解決は、到
底望み得られぬであらう。只、敬虔心探き、宗教への理解ある、信念探き、能ふべくんば信仰ある人物ならば宗
教教育絶ての方法其物でなければならぬ。苛も図表の文教に草餅る人は、此虚に心眼か見開かねばなるまい。大
科皐者芽まOnは、紳と云ふ官を口にする度に、必ず猷結し、一生不犯不染、清浄無拓なる生活裏に、科皐研究
の大生涯を終え、死の最後、枕頭に侍した人々に、驚くべき遺言をば痍した︵10︶と倦へられるが、斯る大人格者
ヲ許mig訂itを力詮して止まなかつたと聞く。即ち敬虔、信心、
のせめて幾十分の一の人格カが、一人の教育者に具はつて居たならば、宗教教育の難局は、間ふを要せぬでぁら
う。宗教論に令名あるm昏−ei角巨CF籍は常に
敬神の念、大自然の有する﹁眞なるもの﹂を、敬ひ尊ぶ心に満ちてこそ、眞理なる無限の力を、追及して止まぬ
人物と成り得るであらう。眞理に向つての生命の用動のない人物には、文化の創造も行ひ得ぬであらうし、紳聖
なる認識も為し難いであらう。栗はしき道徳の苦規も、章術への進展も、到底見出し得ぬであらう。重ねて云ふ
国家著し、宗教教育の鸞現を期するならば、如上の人物賛成に、千寓無限の努力を遺し、斯てて養ひ得た人物に
三九
依カて、エ夫考案せしめなければならぬ。之なくして論議評辞に時間を宴賛しても、苦行、成功、二つ乍ら希ふ
宗教々青の目的に腔みて其の慨行如何を想ふ
宗教々宵の口的に鑑みて其の寒行如何を想ふ
は不可罷である。
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JO邑Of昏eH琶ig山0房]監G邑iきゝ玩邑邑○ロい出ゐ.i乳○召出旨邑6.n●各●
渡逢瀬旭氏談.
慮禿親鸞作.正信念俳謁、第四四句。
ヒ守乱由邑−1紆⋮巳出豆乳習em昏︷呂冒i邑de↓ue当註○邑勺●︸一・−−芸.
前述、杜曾及家庭に於ける宗教々育に裁て。祀骨に於ける方法は、新聞、雑誌、手絡等に依るものと、一般宗故家の活扉、
寺院、公合壁の利用による講琴訴減食、日曜拳校、又衣畢校の設置、等と見るぺきも、家庭に於けるものは、朝夕の所蒋
宥恕、葬鐙、寺院、散骨への同伴、等の外∴定した方法は考へられぬ。何も之さへも、今日如何にして各家に混和せしむぺ
きかは、困難な問題であつて﹂まきかに官権を以て先制せしめる革も出来ぬ。況んや上述以外の宗教的訓練、智論の教授辱
をなし得る家庭が、全軍を怨じて何程存在するであらうか。甚だ心許ない次第である。故に今日としては、掌紋に於けるも
のが先決間超で、之が徹底さへすれば、家庭も、社食も、自ら成ると云ふもの。然れども、其の饗現は、畢校に於て其の敦
育を受けた人が親となる頃、即ち今日に頼めても、三十年放でなければ、寵現は見られぬ。して見ると、今日の問題では到
底あり得ない。祀含の方面も亦、其の頃でなければ大した事は出来ぬと見なければなるまい。
4 3 包 1
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スル。
︵5︶ 幼稚園ノ宗教々育ハ若シ行フトシテモ義務教育デモナク又都合地ノミノ関原デ丁ルカヲ、一般論カラハ避ケルコト、
′ヽ ′「 ( (
文京日日新肘
昭和五年二月三日、欝入貢、村尾昇二氏祀遽。
景教々育の目的に鑑みて其の智行如何を想ふ
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R.崇各邑F” をC才i︼i田島声甥訂d出訂E乳0日●p−琵戸 牡チ此隻7バ明言シタクナイ。但、之夕知ル人︵少ナク無イカ’、知テントスル人ノ耳目二自’飼知スルラーヂア
J.声G占孝三ー巳冒e∈gどndO−.芸n.りp●M墨−
幡屋龍書氏談。
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信心に於ける怖れと憧れ
濱
田
本
悠
Ot£に依れば、書的に出て来る﹁ヤーグェーの怒り﹂、叉新約に﹁紳の怒﹂として
信心に於ける怖れと憧れ
ルドルフ.オッーー︵R已○︼f
出て来る者は.何等道徳的件質の着ではなく、それは、秘められた自然力の炎え上るが如く、云はゞ葛へられた
電衆力のやうに我出する、不可測、専断な勢力である。しかもそれは、﹁聖なる者﹂の極めて自然な表現であ少
それに不可妖の要素である。しかも叉そこには、オットーの所謂、紳的な︵3§−ぎ且﹁恐怖すべき者﹂︵計三等
き邑き︶が人間的な心情︵訂¢em︷it︶に依って杷捏せられ、表現せられて居る。斯やうに見る時に、この激越
な、しかも適切な封應語﹁紳の怒﹂は、倫其債値を失はず、宗教感情を云ひ現すに避け難き着であり、苗木基替
歌が.甲Jの﹁紳の怒﹂に裁て詮く所があつたのも雷然である、と述べて居る︵乎D監一H襲撃甲ぎNご。
今立には、﹁紳の琴﹂の思想がー紳畢史上にどう蓉展したかを尋ねるのでは封ブヽ寧ろそれが基客数的信心の
彗どのやうに凍ったかを管見しやうと息ふのである。
大軽から見て、基欝、斯やうに怒易く、憤慈性の紳丁ヴェーを克服し、止揚し.之と瑚解して、親和的な
憧燥的な﹁父なる紳﹂となしたかのやうである。然し之が食めには、基督と堆随分に過大な犠牲を挑ひ、身命を
l
十字架■の紳蜃に供犠せねばならなかった。﹁グッセ▼ネの所ヱに於いては.彼は父なる紳の意志の前に打賓へ
て云ふた・﹁されど父よ、おん身の意志のま1になし王へ﹂と。そこには伺紳の専断︵Wi−1k守︶が畦倒的に迫って
居る0更に叉ゴルガタの夕の彼が最後の祈りこそー誠に絶望的であ少、彼は感傷的に﹁主J、書れを見掃て玉ふ
か﹂と訴へたJエスは、恐怖に充てる、呪訴的叫喚を以つて死途に着いた。そこには不可解な紳の意志に封する
l
葛藤があlり、悶えがあ虻挽きがあると・オットー次のハイラー教授︵買邑OFH邑eJDi昌︰d家臣邑芸○害・
ぎ点、四声︶は云ふ。斯くして基督は、最後の臨終に至ろ迄、父なる紳との親和開係を果し得なかったかに見え、
父なる紳はなかくに其厳めしき暴堅の手を攻めなかつたかに見える。そこには伺脅威的な官今昔邑邑ttO︶
﹁前の怒﹂か、充分に基督自身の心情に依って慣放されて居る。
併し後せの基督信者は、寧ろこ1の、紳の最後的な怒りの内に、偉大な感激を受入れた。此の﹁紳の怒﹂の内
にこそ﹁紳の正義﹂は蘇れて居るのである。﹁紳の怒は紳の正義の辟示である﹂と、使徒ポー蒜懐胎した︵嶽
馬専一二八︶。更に進んで馬犬侍の記者は、﹁紳の正義の褒めに悩むもの土柏祉妄肯定した︵二、一〇︶。ヨハネ
が云ふやうに﹁光は暗きに照る﹂︵ヨハネ竺、五︶。エスが最後の悩みの暗さに於等こそ、紳の意志は光とし
て顛はれて居るのである。コ憫みーそれは光であり帥である﹂︵D邑胃訂屠−i首HHIこぶ、﹁受難.それ望毒
ヽヽヽヽ を完成へ運ぶ駿足のけだものである﹂と云ふ︵巨ゴーー中︶尊者エヅカーーの性腺に至っては、悩みは巳に怖れ
は云ふ。﹁基督の受難に就て考ふべきこと三あり、一tは彼の受けた激しき背痛、
の熊虔でない。紳の怒は寧ろ憤れの封象でぁった。更に北欧ノーウィッチの紳秘家ジュリてソ夫人︵碧F与
J已iぎ亀旨w〓l−+芸葦︶
信心に於ける怖れと憧れ
■−
信心に於ける怖れと憧れ
四閂
二には敢てそれを忍受せしめた愛と.そして三には喜んで之を受けた彼の恰斐と幸稀とである﹂と︵Ⅰ壱−哲udiO鴎
︵−声
︼篭㊥︶も亦法悦の紳秘家であつた。﹁苦難を忍べ、不快に
○︻字音F試甘tiきー¢N−、p●景︶。そこには﹁紳の怒﹂は愛の啓示であ少、政事の記牧となつて居る。彼女に先行
した同園のウォルター・ヒルトン︵W已訂︻同等○ロ+
耐へ上、血の無償値のもの1後ろに、此の噂と無定形の悪の背後には、エスの愉悦が降されて透るのだ﹂
−
乍票︶ と告白して居る。此等の紳秘豪速は、﹁紳の怒﹂の深度に、斯くて、紳の正義と、愛とそして悦楽とを見
出して歓喜し陶酔して居る。﹁紳の怒は怖れではない.崇拝である﹂匂已i旨︶憧れである。﹁紳の怒﹂は宛らに魅
カとなつて居る。南欧で聖者フランシスや、寧文マルガレーク・エーブナー︵富岳喜旨こ旨き︼謡丁︼試ご達に
取っては、信心の封境は.唯一つエスが受難のシンボルたる十字架であつたが、彼等は之に向ふ時.之ををろが
み、此の前に伏する時、絶えず制し経い苦痛や怖れが身に迫ったことを告白して居る1彼等は共に肉華上に一種
の危専を感じた。彼等は直々にエスが五つの傷をさへ身に受けたと稲して居る。併し彼等に取ってはその儀は陶
酔︵WきnO︶である。この偉大な、赫々しき恐怖が迫る時は.マルガレークは身動きをさへなし得なかつたが、
しかも同時に其身痛は.偉大な喜びと、恩寵の溢れとして受取られた。﹁騒き.偉大な、甘き恩恵の感じは、寄れ
lを充し、吾が五倍に貫通し空と彼女は督白して居る︵D邑を0岩音芹巧・つ・S・−展−畠︶。それは伺.オッーー
の所謂﹁秘められた自然力の炎え上少、苔へられた電気力の流出するやうな.不可測、専断な勢力である﹂やう
な、﹁紳の怒﹂の根本性状を共まゝに失はないで居る。
基督の聖者達は、紳の怒り■を其ま1に、エスの悩みを其ま1に、心の痛みを其ま1に、聖なる痛みとし、法悦の
悔みとし、憧れの怒として居る。そこには信心に於ける怖れの克服がある、香怖れの透徹がある。
悩みのま1に洪悦の甘味を汲ふて居る。そこには怖れと憧れとの紳秘的な調和がある︵憂.D定H軋lige−芦畠︶。
紳の怒励への怖れを突破した者はそれ自身紳である。怖れなき信心はそれ自身紳とlなる心境である。前の怒
に徹した者の前には紳自身と雌も怖れを抱くであろう。﹁先きに我が鎚少たる軍今我に槌る。先き
たる者.今は我を求む。先に我が逃れたる考今は我れを逃る﹂と云ふニッカートの心境︵安静−Obe日deu.芦tO宴・
男声匝3は、怖れの完全なる寛服であ少、紳をも吾支配下に昏く優越の感じであ少↓勝利の凱歌である。叉吾
れ紳を見出すのではない、﹁汝が甘き悦無我れを見出し.汝が心根の願望我を張ひ、汝が炎ゆる愛情我れを縛少、
汝が爽かなる眞理我を固く持ち、汝が狂烈の愛情我れを保つ﹂と云ふマルガレークが、邑○占邑epの心境に於
ては、■︵七邑註0苫賢eJメS・−畠誇︶宛ら紳人の任官轄倒がある。我れが紳に結び附くのではなく、紳我に
結附くのである。我れが紳に忠誠であるのではなく、紳我に忠誠なる﹁紳の忠節﹂の信心である。
家達は、怖れなき信仰、憧れの信心を紳と妄る陶酔に迄持って行った。そこには信心の偉大な持向
而もそこには、紳が宛ら我に仕へて居るのである。
信心鰭駿の内には、二つの自我が封立して居る。信心の内なる﹁我れ﹂と﹁汝﹂︵紳的なるもの︶とである︵壱●
ぎeF−R意iO巳竃CFO−各−S・彗芦︶0而して、信心に於る﹁怖れ﹂は、﹁汝﹂の僕位に於て起る心的畿作であ旦
信心に於る﹁憬れ﹂の感情は、﹁我れ﹂の凌駕に於て起る心的態度である。而して信心に於て、巳
四五
﹁汝﹂の封立が止揚せられ、怖れと憤れの感情が解滑する所に・寂滅の境地があタ、捏菓の世界が
信心に於ける怖れと憧れ
紳転に於ける死の起原と罪の意識
耕話に放けろ死の起鹿七罪の意識
原
四六
田.敏
明
﹁人間本来不滅であると信する未開人でさへ、仮令死を以て.説明としては、漁期せず、不自然の出来碧である
といふやうにしても、専驚に於いて、人間がよく死ぬると云ふことは認めざるを得ない。従
滅の欲求と死滅の欝際とを調和するために種々と骨折ってをる。而して彼等の思考の結果は、死の超原を詮岬す
る種々の紳話となつて現れてをる。多くの場合、斯る紳話は素朴幼稚ではあるが、果敢ない人生の此の南畝に封
する早い企として.丈自ら一の横倍を待ったものである。﹂
斯くして多くの紳話に見るやうな、人顆の不滅と月の盈巌、蛇の晩皮、又は石の不襲などに給付けた物語は、
︼の漠然たる原始的哲畢の所産で、即ち一隊車道の下では、人は恰かも月の如く蛇の如く石の如く不滅であ少、
叉月の場合の如く人は死んでから三日後には叉死から延って、死滅と復蒲とむ永遠に繰返すものとする。
これは人間の要求で従って紳の恩召しであつたが、而も寄驚、人顆に死の耽れ難いのは、或は人間創造の時の
紳の使の怠慢、忘却、共他の理由にょつて、紳の思召の表れなかつた鳥であるとする。
これらの物語の内容は、フレーザーなどの云ふ月型、蛇型、バナ、型であつても、要するにその死の起原に帥
する物語の基調は.軸の手蓬ひ、思ひ蓮ひ、及びその使者の怠慢、悪意.又は無常に上る使命の手蓬ひであると
云ってよい。
そこには.人間の意志の働が全然無く、凡ては紳や殊に他の動物の所為の結果として.死と云ふ約定人類が蒙
うに至るとするのセある。併し仮令動物の所為にしても、その使命には紳の意志があ少、人類に封する紳の眈締
が、■誤って停へられ、却って反封の親を来したものである。
叉バナ、型の物語の如く、人間が石を捨て1バナ、を選んだとする場合.因よりこれは人間の自由なる選提に
基くのであるが.併しそれが死の蓬命の原因とされるのには、そこに紳の意志、即ち紳の祝福と眈ひとが存して
を少、人薪がこれを知らずして其の選提を過ったところに、死を運命附けらるべき罪があるとするのである。
前述の二饉の形式、即ち使者の過誤、及び人間の過誤の何れに於いても、さの過の為に紳の呪ひが人間に患く
結果しノ虜の原因となつたと云ふ鮎を指摘したのであるが.斯く死の原因が、何等か罪に相督するものと.それ
に依る前の眈ひの悪く賛現するのにあることは、他の例に就いても同様で、寧ろ此の鮎が、死の起原に関する所
属の基調とも見るべきであらう。即ちそれは先づ前に封する不堪帳と、紳の呪ひとであると云ふことが出来る。
併し、紳の意志は人間に射して常に悪く表れるものとはされない。何等かの意味で、前の意志の悪く現れるや
うにする基凶が無くてはならない。さきに述べた前の使ひの過誤や人間の選持の過誤もそれであるが.人間が患
獣をするとか、紳を欺ぺとか、不従順であるとか、叉その禁を破るとか、それらによつて或は紳が悪く呪ふとか
又は軸の寒い呪ひが賛現するとするのである。
辞詰に於ける死の赴厩と非の意識
神話に於ける死の海原と罪の意鼓
四八
これは︵−!7ソドの概括するところを見ても、要するに紳への道ひで、叉逆ふことが無いにしても、紳の呪
ひ.その使者の過や怠悼、或ひは叉仮令確然と紳が壊れてゐなくても,何かの失覚過誤に基くとする。
これら種々の罪又は耐、過などが原因をなして、本来不滅であつた人事が死滅せざるを得な小遽杏となつたと
するのであるが、そこでこの罪又は酌、過といふ耽念は果して如何なるものであるか。その瓢の詳細は他に譲っ
て︵宗教研究新第四番五披及び斬罪六番四兢参照︶、こ1ではそれらが、苗代人未開人の心理には未だ充分に分
化しない状厳にあると云ふことだけを指摘しておく。
﹁以上、古代人未開人の死の聖賢偏する物語は、凡て死は自然界に必須なるものでなく、・唯だ死は純粋に一の
失策、誰かの犯罪に起因し、且つ斯る失態又は犯罪が無かつたら.吾々は皆車柘に生活し、且つ不滅であつたと
云ふ信仰を包含してをる。斯くしてこれらの物語は、未開人が今日も傭ほ、凡て人間は本来不滅で死は兇術の結
果に外なら訪いと信じてをるのと同じ考を衰はしてをるのである。要するに今日の未開人の死に封する患度を見
ても、叉造かにその昔の、その起因に関する考を見ても.▼未開人は、死を以て、自然的且つ必然的なことゝ考へ
ることは出来すして、それは自然界の法則を特に轟き乱したものとせざるを得ないのである。﹂・
この他、人間が何かの動物に欺かれて、自ら耐を瀞すと云ふ物語の形式があ渇。此の場合は特に紳の呪ひでも
なければ、人間の不従順でもないことが少くない。併しそこに現れる動物なるものは、人間と共同する鮎、又は
●
括抗する茹で、人間の生活に極めて重要な意味を持つものである。特に紳秘的性能を持つものと考へられる適合
が多い。
●
斯る特殊の動物がl種の呪力を認められる時,そこに特定の紳が無くても、その呪力の及ぶところに原始的形
式の罪按といふ意味が伴ふものであることは、罪の取念内容を明かにすることにょつて判るのであるが、斯る恵
の力の働が、・常に軸の恩籠に封して括抗する作用をなすので、斯る動物に約されて或は誘惑されて、紳への罪を
犯すに至る場合がある。背約聖善に於ける創世記の物語、即ち人類の始組アダムーエ.ハが蛇に誘惑されて紳の禁
するところを犯したことが、人間の死の基となったといふのは.その適例である。
斯くして、死の起原に関する諸説話に於いて、その凡てのものに共通に、而もそれら物語の骨子となつてをる
ものは、或る人の失策又は犯罪が原因となつて死が生じたとすることである。
こ1に失策又は犯罪といふのもー単に俗社台に於けるそれでは無くして、特に紳の命する錠に背くやうな失策
であ少、犯罪であ少、従ってその結果たる死も亦たその紳の輿へろところ、一毯の両前としての死である。而し
てこの失粟や犯罪は吾々の倫理的取念を以てすれば、その動横よりして全く相違してをるにも拘らず、その宗教
的信仰に於いては︵殊に未開人に於いては最も簡単明瞭に見ることが出来る如く︶.失策といふも、犯罪といふも
革に人間の有意的行名でもなく、叉単なる偶強的の事件でもなく、それら凡ての現象までが、苧︺れ或る紳の、
殊に悪い紳性の及ぼせる影響であるとする。かくして失策と姥も、紳、殊に書い紳性に封する犯罪であ少、従っ
て罪としての刑罰を受けるとするのである。
而してその犯罪又は央発も、直接個々の人間のなした行偽でなくして、既にその組先に於いて、或る人の犯し
田九
た行鳥が原因となつて.それ以後の人類が凡てその原罪に封する刑罰として死を受けるとするのであるが∵−ゝ
砂絵に於ける死の起癒と罪の意弘
五〇
紳籠に於ける死の池原と罪の音読
に開襟とすべきは斯る罪を如何なる人が犯したかといふこと、並びに斯る人の犯した罪が何故にそ
てに報いられるかといふことである。
如何なる人が罪を犯すかといふ鮎に就いては、一般に敵先、而も人類最初の組発とされる莞最多
殊人、例へば酋長、司祭又は王者といふ如きものとされる場合が多い。
先づ組先、殊に人類最初の組先に就いて云へばー斯る詮話を持つ古代人若くは未開人に於いては
活してむる周囲の人々のみが、自分たちの社命の成員ではなかつたのである。彼等の精紳生巧殊に
信仰に於いては、濁り直接に接偶する周囲の人々のみならす、凡て生けるも死せるも、叉現在周囲
も、人と官はれるあらゆるものを以て、自分たちと同じく人顆であると考︵、そこに或る意味でのソリグソテー
の関係があると黄熟するので、これは特に、例へば家族的紅愈の如きに於いては、その軌克と子孫
としてのソリグりデーがあ少、子孫は礪り自らの存在を保つのみならず、善悪共に、組兜よりの連
は報いとして開聯したものと考へるのである。
斯くしてー人屑は、殊にその最初の組先の行儀の結果としての凡ての報いを背負ってをるものと
先の罪が,単にその組先一個の罪として終らず、その組先より分れ出でたとするあらゆる人類が、祀先の罪に連
坐して罰を被るので、これは叉換言すれば、人顆といふ壷の祉薗が−その内の主なるもの、即ち最初の組先の
犯した罰が、単にその人一仰の罪に非すして、それによつて代表される人狩生憬といふ圃皆の犯せ
その閣世の全成員が何々別々に非すして、囲醍として嗣を受けるのである。
併し叉一方、最初人間は、凡て不滅であつたのが、或る時代す・︶に至って、人間が、或は紳の誼を破ったり、
又は呪的な作用に影響されて、鍋の基を開き、烏に、それ以後、人間が不滅と云ふ件能を喪失したと云ふやうに
考へる場合がある。
今、その一例を畢ぐれば、書紀の一書に見える磐長媛、木華喚耶媛の物語であるが、磐石の如く常世なるべき
天孫の後裔の命が木の花の落るが如くなつた。又l詮としてこれが世人短命の基であるとする。
この例に見えるところは、人幣最初の組先としてのアダム、エ.ハの犯した原非とー精々その鯵を異にする。王
者の一人、若くは王者の組先の或る一人の過ちが基となつて、それ以来、その子孫が短命となつたといふ吻語で
あつて、物語そのものとしては、王墓の組先の物語であり、従って王者たる人の命に就いての物語であるが、そ
れが直ちに人顆金牌の短命の経ともされるに至る。
田上少、物語の黎近から言へば、その一詮の方が彼の蟄展であらうが、併し又一方.斯る王者と云ふやうな特
殊の人々の物語となつてをるのは、そこにその物語の構成された時代の、王者中心の社食組披の一間が反映して
をるものと見るペきであらう。
殊に詳記や古事記などの記録の背景をなして居る人々の持つ、その社食といふ意識には、箪に二股に、人■と
云ふ以上に、その政令に特殊の階級にある人々を中心として、特にそれらのものにとつての吐合であるために、
斯る人々が直ちにその蹄代の社食垂腔を代表するもので、それらの人々を除いては.既にその敢昏の何物もない
と云ふことも出来るのである。かくして斯る特殊の人々は、単に偶々の存在と云ふ以上に、その政令全慣を表示
紳恰に於ける死の起庶と押の君融
押詰に於ける死の超原と罪の意誠
要
するもの、代表すもの、更にその虹雪のものとさヘ音ふことが出来る。こ1に於いてか、斯る物語が直ちに、
人類殊にその社台垂直のものに、特殊の闊係を持つ所以があるのである。
これを要するにー紳諸に表れた死の超原に就いては、それは、何等かの意味に於いて、紳に封す
而も単に偶力人の罪に非ず、圏嘘としての罪であ少、殊にその代表者、例へば組先の犯した罪であ
ある︵。此の揚今田よえ組先と云ふは必ずしも血族的覿先のみを云ふのではない。︶
彿陀時代に於けろ十種教団に就いて
羽
漢
丁
諦
巴利均一部︵Aか習誉苧註首且第三巻進具晶︵qpぎ眉乳苧.づ品g与には、悌陀時代に存在したものとして十毎の
宗教国際の名が奉げられてゐるが︵ぎ:HH︼pp・誓言・︶、その中には他の併散文献に全く見懲ら潅い特異の名和
を有するものが敦廃合まれてるる。それで今その特異な名柄を以て指示せられてゐる敦圏の何ものたるか
すると同時に、これ等十転の敦圏が何故全く他にその例を見ない二群として故に列拳せられたのであるか
︵とi遥kp︶
してみようと思ふ。先づその敵国の名辞を原典に掲げられてゐる順次に従うて列記しょう。
︵一︶ アーヂーヴカ
︵二︶ニガヌ∴トハ︵ヨg長官ヱ
︵三︶ ムメダ・サーブカ︵試月す臥■p訂︶
︵四︶ ヂャテイラカ︵J量−已芦︶
︵五︶ パリッバーヂャカ︵吋鼠bb首ぎ︶
︵六︶ マーガメディカ︵岩田ga凰芹且
肺陀時代に於ける十番数圏に就いて
彿陀時代に於ける十棟数淘に就いて
︵七︶ テダメテイカ︵岩計巷ぎ︶
︵八︶ アヰルッドハカ︵Aまr已臣戸村凰
︵九︶ ゴークマカ︵¢Otpmp打p︶
︵一〇︶ デブrハムミカ︵D笥已Fpmm詩風
この十粒軟風の表を初めて拳界に紹介したものはリス・デヰズ︵Rざ払Daゴ.阜︶氏であるが
︵崇已○望妥○ニ訂
穿d巴き∴冨已︼・写N望−N︶、その詮明に至って全然不明として打棄てたものもあ少、仮令解繹を施したものでも
承認し難い所が妙くない。その他巴利均一部重陽を親許したニケーナチィロカ︵孝苫象−¢打p︶師もその中の教壇
に射して琵繹を試みたが、是れ亦首肯し趣い狗斯が含まれてゐる。以下前掲の順序に従うて、その一々に就いて
成るべく簡単に卑見を開陳しょう。
︵l︶アーヂゾカ。之は疑もなく併陀と同時代に荊勤した所謂六師外道の一人たる末伽梨堰合薙︵試p霹已i¢宝㌣
F︶ によつて統率せられた所謂邪命外道の教圃である。
︵〓︶一lガメトハ。これ亦明かに六師外道中の挿々たる一人尾乾千若捷子︵屠a巷p
︵J2.m£敦の中興者にして大成者たる摩河鹿疲︵罫家島凰の率ゐた尾乾子救国である。
︵三︶ムメグ・サーブカ。之に就いて併晋︵出已dど温点貰︶は何等の琵槽をも輿へないで、尾乾子と同一視し、リ
ス・デヰヅ氏もこれに従うて多分同部教の或特殊な分派であらうと説明したが、何等の板竣をも示さなかつた。
大醍∴芋蔓号乱鼠どとは﹁剃髪者の弟子﹂といふ意味である。マックス・ミュ!フー︷巴F舛己巨且氏はその
I.Jの名輔の起滋を説
客層官学名賀官d英辞の序文に於て筐菖官許計点て沸教比丘を指すものと猫断して、﹁この優政局汐土は或意
味に於て併伶であつて、しかも婆羅門教に息茸であつた人の著作であると想像せなくては
明することが出来ない。﹂と論じたが、併し婆蝕門聖典で彿檜がムメダカと呼ばれセ例は絶えてなく、只巴利聖典
ひ燕集︵浮穿・旦賢p、p,芦︶に於て一度併陀が草薙門檜のフッギカ・ブハーラドグーヂャー︵Agg蒜蓼︼器臥r乳恵官︶
にエつてムメダカと呼ばれたことがあるけれ共、彼は俳陀に限らサー般の汐門をムメダカと呼ぶ習慣を持ってる
たのである。言ふまでもなく、沙門とは婆羅門の停統的教権に反抗して、全く自由の立場から眞理討究を試みた
者の名碑であつて、彿陀出世を遡ること約一首年頃から漸く出現し始めたものである。彼等は梵行者︵醇邑F旨乱・
︵D訂mmpppda−寧ご
許︶として猫身生活を営み、比丘︵穿厨邑として他人に食を乞ふて生活し、ムメダカとして剃髪して、結髪す
る正統婆森門と自らとを直別したのである。彿陀が﹁別宴することに依って抄門たらす。﹂
といはれた折から軌ても、婆隷門数に反抗した沙門は墳剃髪してゐたことは疑を容れない。併しか1る反抗的掃
紳を外形に表示するといふやうなことは一時に多くの人々が敢行したことではなく.何人かが其の先駐者にたつ
たと脱ねばならぬ。惟ふに此の先臨者はムメダカ倭汲尼沙土に現はれてゐるサトヤ〆−ハ・ケ︵−ラrダーヂ†
■
−︵評官爵訂宮野を昔︶であつたらしい。彼に依って詮かれたと考
は、草薙門教の階級制度に封して反抗意思が表示せられ、吠陀の教権を否認して四吠陀を以て低級智︵Apa争
皇富︶とし、不壊L︵A首賢︶の梵里牒験することが高級智︵官学.象苫.︶で一ぁるとし、皇た婆簸門数の祭式供犠を
排度して、斯る行持に従事するもわは老死に陥れ下界に入ると富男、な凄また繋行を棄て1蹄定を修することに
伸陀時代に放け一〇十穏敦軒に就いて
囁陀時代に於ける十積数閣に就いて
五六
依って、梵我蒜の境に達することが詮かれてゐる。内心かくの如く婆泳門数に反抗した彼は、外形に於ても亦
その精細を蟄揚せんがために初めて剃髪したのであらう。而してこれが先づ彼の静子によつて模倣せられ、更に
表の抄門の風習となつたのであるが、剃髪の本家がこの歌沢であつた鳥、この歌沢のみが攣別宴者の弟子﹂と
いふ名粥を得たのであらうと思ふ。故に旨弓甘・彗、旨は反吠陀主義に立脚した優波虎抄土沢の一散汲であつた
に造ひない。
︵四︶ヂサティラカ。これは正統婆蕗門沢に属する結髪比丘であつて.その名はガウクマ︵辞已賀p︶法典三.三
四に現はれてゐる。巴利軽集︵S邑冨ip賢且のセラ︵S巴p︶脛には俳陀時代にケニヤ︵内邑鼠と名づくる結髪比
丘の活動したことが倖へられてゐるが、内2官といふ名は訂npと甘との結合したものであつて、︼昌呂と
は疑問代名詞肘。の具格﹁何ものによつて﹂といふ義であ少、之に官といふ所有を示す添附語が結合したのであ
てゐるが、その中の一人たるアヂク︵Aji−且が彿陀に封して﹁何ものに依りて世界は薇はる1や、何ものに依少
てそれは坪かざるや。﹂と尋ねてゐる。並に普然聯想されるものは穿n⋮p邑噂邑であつて、.之は開巻努頭打筐
といふ疑問代名詞を以て始まつてゐるから、この名を得たのである。故に穿亭up邑凰は多分結髪比丘たる
して、梵の茸在を認め、しかも反吠陀主義に立脚したムメダカ派が思︵Q賢冒︶によつて我︵とlm且を知り得ると
内乱竃によつて説かれたものであらうと考へられる。果して此の優波尼沙土の敦詮は飽くまで吠陀主義を固執
●
宴比丘たる・Tブリ︵琴丘の弟子十六人の名が列畢せられ、彼等は皆結髪を有し欺寧鼻けてゐたと記され
るから∵野口官は﹁何ものにょりて﹂といふ疑問を有する者といふ意味となる。ところで、巴利経集−且には結
ヽ
主張したのに封抗して、その不可知性を力説し.非認識の認識によつて捏簸せらるべきものであることが鼓吹せ
られてゐる。
︵吾バサッ.ハーヂャカ。これは言ふまでもなく遊行着であつて、ダーシシユトハ法挺︵£息旨こ旨き一息答ぇ
第十筆にバサッバーヂャカは剃髪して、布片岩しくは玲羊の皮若しくは牛によ︵一て引抜かれた草を以て身を覆ひ
地上に眠るべきものと規定されてゐる。故にこれは同じく抄門であつても、裸形の苦行者と区別されるべきもの
.である。
︵六︶†−ガメディカ。琵によると一本には▼−ガメディヤと停へられてゐるとのことであるが、特に注意する
必要がある。サス・デヰズ氏は現在では之は全く判らないといひ、ニャーナチィロガ師は察官穿ス宰竜旨旨︶
は謬乙ひ︵歌を詫ふ帝人︶の意味があるから、之は王侯の宮廷に放てその功菜を歌に作って詫ふ職集約唱歌帝人
であると註精したが.これでは何等宗教的意味がないから、この蕩合通常な見解とはいはれない。こ▲に所謂マ
ーガメディヤは巴利中部︵試邑E巨丁2.試琶∴苫−■ナp■雪ご及び軽集︵S邑㌘日常tp、p﹂声︶
同名の遊行者七指してゐるやうに思はれる。彼は彿陀に己が娘を提供して、婦人計t推賞して貿石であるといひ、
これは只水と械物とに浦されたものに過ぎないとして、彼の女に憐れることさへも欲せられなかつた帥陀を放境
地者︵望を邑2極端な感覚抑制者の義︶と叫んで署つたのである.之に依って取ると、彼は進行者であつたけれ共
︼般の沙門の固守した礪身生活に反封したものであることは疑を容れない。之に就いて想ひ起されるものは、ダ
ーヂ†サネヤ︵つ盈蓋呂e箋︶沢の思想を樽へたイーシャ倭政局沙土︵−マup邑等d︶である。この倭波尼沙土に於
例陀時代に於ける十積数圃に就いて
働陀時代に於け五十積数割に就いて
玉八
て披、吹陀の祭式供犠や婆羅門の人生四開設中の重要な結藤生汚に反封したムメ㌢カ沢に封抗するものと
得る銃小アイ三−の嗣子が頻々と表はされてるる。例せば﹁無智を崇拝するものは盲目の世界に入る。智に於
て戯棄する者はそれ以上の闇黒に堕つ。されど智と無智と之等儒者を知る者は、無智によりて死を制御し
よりて不死を獲得す。﹂︵九1〓節︶と詮かれてるる。鼓に詞ふところの無智とはムメダカ沢の見解に随うて
●●
結婚生活に入るこせ及意味し、倒とはアーー;を認めることを意味tてゐるのであるから∵︼の沢は不滅を肉
恒胡と偏紳的と七分ち.肉恨的不滅は結婚生活によつて子孫を設け、人垣盈永視きすことに依ってのみ琶現され、
ヽ,
禰紳l的不滅嘗−こ盲謎めることに依つて獲倒されると取たのであって、飽くまで結婚生活の必要を強調し
先のである。而して此の領は朋陀と同時代のマーガメディヤtユつて代表せられでるたから、その名を以て此の
沢を示したのであちうと考へられる。
︵七︶チダヌテイカ。これ峰歴翠の法典︵駕篭き河口竜・︶に初めて現はれてゐる名禰であつて、常に三婆竃盲
兼にtて持ち、由つて以て身口意の三条を制御することを表徴した一統である。故にこれは厳粛た道徳的生活を
せ胤ガ婁儲門比丘の名辞であつて、走れ亦・嘉の苦行者と置別さるべきものである。■
︵A︶了¥ルッTハカ。これに封してリス・ヂヰズ氏は只か▲る名和隼︼ゝ以外他に偲は≠てゐない七首ひ、何等
の登で癒さず、ま空イ﹁ナチィ芸師は単に<昌乳写妄胃巧︵閉威されたる者︶といふ辞を典へたのみで、他に
何等の意見も加へてゐない。先づこの字義を検討してみると、香定を示す.を除いた墓どは鼻息晋已と同義
藩やもっ七、﹁敵意≒容心﹂などの意味老有してぁるから、きい邑声音は﹁敵意なきもの﹂﹁専心なきも
本木﹁乗はしと﹁愛らしとといふ意塊の旅客嗣であるが、併し之を普念と漢詩し.ても敢て不嘗とはいへない。併
屠巷ハ師外層の一人たる散若耶耽羅梨子︵野暑蔓こ宣長琶・p島中︶の鈴子にスッビヤと名くる者のあつたことを停
へてゐる扇已旨各︵・書評m貞已pヨ獣阜H・宗︶。且又阿輪迦王のバラーパル洞粛創文の儒三にに同じくスッ
﹁
れるものは、長阿舎弟十個梵動経に﹁専念﹂と属されてゐる言垂に相雷する思利膚の晋鼠官であるっスッビヤは
登場っこせ㌧なる。果して然サとすれば∵︼の消極的意味を持つ昔東を鎮彪的芯儲換しセ官■業として泡偲せら
●
鞠陀時代に於けも十隅敦脚に就いて
.
五九
■
.〇
際、劇惹耶Ⅵ弟子の式部舟は彼等商人に随うてま少、傲董耶の教属せ瓦解に頻七たので患るが、その弟子スッゼ
れるからである。但しもと徽惹耶の二大弟子であつた舎利弗と日峰連とがその師を棄て1併陀の救国へ時人した
神生ホに基小て.渦極的に虻アヰルッドハカと名づけられ、層極俄にはスッビヤと呼ぜれたのであらうと考へら
こ上庖く、従って他上野ふことなく、専ら修定を寄として、心の寂静平和を期⊥旅烏、その故意なく膚心.なき精
鑓唱⊥て、尊讐他讐化学業果及び死後に関する有・蟹亦有感母非有非無の諸問題に勤して何等の断案を下す
を開組とする教祖t他凝らないと宿する。藍し敢惹耶は認識批判の立錫と拝所修養の立場とに基いて倒備中止を
う七思ふ。怒ら牒J滋王朝謂スッビヤ虻如何なる軟風を指示し潅のであらうかといふに、之は何う七ても徽惹耶
てぁるやで㊦るかゃ、ぶ軍二倒文の溺食t於1も失張ヱを受施者の名柄庵志したものと看撤すのが正常であら
太る。伺℃.ハ一了パル罰方劇文の他の二には共に明かに施興せちれた者の名がア1.−ジー〆カ︵]腎首︶と思され
軍上層してゐるで併しこの場合之を形容詞七取ては、阿散逸王がこの洞清を克典し液相手の名履快くこと▲
ゼヤと小ふ名欄が屈はれてるる。或選者琴Jの場合のスッゼヤを文法上満確に形容詞と咽て取そ﹁乗場し小網
.
伸陀時代に於ける十積数閏に就いて
六〇
ヤが之を再興した鳥、後世彼の名を以てその数詞を呼ぷ?うになつたのであるかも知れない1それは兎も角も阿
稔迦王の即位より約牛世紀以前印度に於て散惹耶の教詮が或沙門現によつて栂乗せられてゐたことは疑を容れな
大王の印度遠征軍に随うて東方に行き、印度
い所である。何となれば苗代希陰に於てこの散惹耶の思想と全く符節を合する如き否定的批判哲皐を説いたエリ
ス︵出家︶のビルp−ソ︵音rrOFn︶はアレキサンダー︵ヒ宗旨d①r︶
のギムノソフィスト︵G﹃ヨロ宕0官許︶−−苗代の希脇人が印度の抄門婆姓門を呼ぶに用ゐ慣れた名柄セある∼
から哲畢を畢んで来たといふ曜貰な記録が停へられてゐるからである︵営品昏毯訂e邑宕−一郎芦︶.故にこの丁
ヰルッrハカを以て散惹耶の救国庵指すものと考定しても、さほど根援のない覇断とは謂はれないだらう。
︵九︶ゴークマカ。サス・デヰズ氏はZが沸教教園を建設した沙門標豊と臭った他の繹迦族の或者の弟子・を意味
㌻るといひ、それに相督する唯一の知られた人物として鑓婆違多︵D笥乳量且を畢げ、草し然らすとせば雀畳姓
に展して比丘軟風を有してるた或婆簸門を指示するに蓬ひないと論じたが、か1る人物は全く知られないと結ん
の主人公
穿eikOt監
はこの優波尼沙土︵ナ一千−−︶に於ても
だ。今この韻合∵後の見解の愛雷であることは疑を容れない所であつて、しかも之に相督する人物が明かに文
献に見吊され得るのである。即ち内p嘗卓邑唱d
との問答
ぎi註意諷g旨2巨︵呂ニーー00・︶に於てもつ首唱雪喜郎ち宝鞋pFトl眉iの子であつて、ゴークマ家に屠す
ろものであることが記されてゐる。故に慣令この便政局沙土はナチケクスと死所ヤマ︵眉官Y旨lp︶
を録したものであつて、その記述は一見紳秘的小詮的であるけれ共、ナチケクスは確かに造史的人物であつて、
その父ウッダーラカ・丁−ルニの創設した抄門圃の指導者となつてゐたに達ひない。而してこの便波尼沙土が併
陀以前若しくは同時代の成立に係るものであることは夙にオルデンペルヒ氏の力詮した所であつて︵閂・〇−d胃
訂rgいDiO訂FOd馬︻官ni臣邑eロ巨d旨旨f詳gOd袋田已旨i冒き印諾㌣N雷︰NU試¢・、舛∫ヮ雪辱︶この優波
尼沙士の本文と原始併典のそれとの聞には到底偶然の一致と思はれない同一の思想及び言詮が見出されるのであ
る︵﹁宗教研究﹂新第三巻第六競所載の拙稿﹁併陀時代の有醐論﹂六二頁参照。シ9㌢8邑i①rい同書Fp村p一首邑官d,J・
A・−宰芦−−¢N伊p.望↓・︶。故に故に所謂ゴークマカとはナチケクスによつて統率せられた抄門圏を指示するもの
と看て正鵠を失はないであらう。而してこの教派が前述したムメダカと同じく反吠陀主義に立脚して、専ら﹁こ
れ如ち彼な少。﹂といふ標語の下にアートマンの醍認を主張したことは、カー︵優波尼沙土の所詮に依って柄かに
知ることが揮釆る。
︵−0︶デブドハムミカ。一一lヤーナチ.ィロカ師は之を﹁紳の蹄作者︵¢Otすge訂n且﹂と諾したが、蓋し雷を得
てゐるだらう。然らば如何なる紳を意味するか上いふに、.或は帝繹︵野村村P︶即ち困陀羅︵Hnd⊇︶若しくは産婆
︵苧・︶などを指すとも看られ得るけれ共、併陀隠代最も盛んに信仰せられた紳は梵天︵官許乱︶即ち自在天
︵Ⅰ彗旨こ官冒︶であつたことは原始俳典の俸ふる所に依つて明瞭であるから、並に所謂デブr・ハムミカは梵天
若しくは白在天の信者を指すものと考定して然るべきであらう。
最後に以上の十概数次が如何なる理由で、故に一群として列挙せられたのであるかといふ問題に就いて考察し
ょう。ごの十毎の教派を通覧して先づ気付くことはlこの中に彿陀時代反道徳的反宗教的思想を鼓吹した抄門、
即ち所謂六師外道中、唯物論感覚論快斐論を主張した阿菅多麹合歓婆羅︵と冨こ野暮訂mb已p︶、﹂見多少精紆的
怖陀時代に於ける十帝政掬に就いて
働陀時代に於ける十積数囲に放いて
六ニ
‡租を訂めたやうに忍ばれるが、捨掛隠者占師旺思想弥生活肺肝虔を執つた防浮階迦栴那︵芝訂,許計昔風
及び山河の唐行に就いて訂繰を詠めない恥鎗論自教師に立恥じで、温飯帆象数的行持の無効を力改した官許瓢迦
葉音皆宮内各層︶たどの率打た汐甘訂の各が各かれて毀誉︼とであサて、その何れもが道徳弥宗教附立掛か
軋馳て鬼に舟歌蓼なものばか夢.で野草︶とせむ聖しかもこ⑳一群の名糾の現はれてるる経文を見ると.之等
ぬ何れの教徒にしても殺生・愉盗・邪格・妄訝・飲酒Q五亭若犯ぜば、その発に従うて地獄へ行くといふことが
執へられてる石のであるからー妙ぐとも之等の教徒は宗教的摘心を持って溝徳的生活を蕾んでゐたものであ争︼
とが知られお。両して最初に邪命外遭が奉げられ、最後に邑在天外道が密かれてるる折から取ると、最も陵愈葱
量的宗教的生活を普んだものから順次にその程鹿の弛捜したも由を列ねたやうに考へられる。
−≠
垂ナるlここの十理数諷は開陀時代宗教的信仰に生き道徳的琶践に努めた教徒を悉く網蝕したものであるといふ
ことが出奔る。︵完結︶
⊥
人間性の限界外の宗教
久
松
眞
︼
凡そ、宗教の串間の成立に必然なる阻水腹定は、宗教意故に於ける直接所輿であhごます。もしも∵︼の直接所
興がござ♭主せなんだならば−宗乱暴は厳密にはその原本的封象を失ふことになるでありませう。然るに、宗秋
草は従奔、この重要なる直線所輿む閑却して居るやうに思はれます。や1もすればー近世の宗教哲塾が宗教の串
間としでは宗教的円容の基味なるものとなれ.経験的宗教草が宗教的意味統一を快く雑然転る材料の蒐集となり
勝ち†あ少ますのは∵︼れが鳥で腋あ少ますぇいか。
私が故に宗教意詠に於ける直接新興と降しよするもひは.控除的宗教皐が蒐集致し皇する経験的材料でも・そ
れから膵軒数しまする経験概念でもなく・叉、宗教哲啓に於て崖道過しますやうな形而上拳的貰濃や、倍値の理
念といふやうなものでもなくして生き在京秋黄識に於てのみ特に現はれよする具慣的なる翠識内容そのもので
あります。経験的宗教尊からは、それも控駿的宗教塾の取扱ふ宗教の経験的材料であると考へられるかも知れま
せぬが.これは決してさういふものでは虻くして、むしろ却って、その経験的材料をして特に宗教的たらしめる
先騒的なるものであり孟す。先験附とは申しまするが、これは宗教薯生拳に於ける如き時間的のものでないのは
人間性の限界外の乗数
人間性の限界外の宗致
大西
もとよりのこと、先験野草に於ける鼠なる先験形式といふやうなものでもなくして、凡ての宗教現象の生きた壌
祇とな少.これなくしては宗教現象は成立し得ないところのものであ少ます。随って、これは単著が草間的立場
から梼成したやうな単なる概念ではありませぬ。併し叉、さういふことは、宗教の経験的材料から締約的に始め
て知られることではないか、と反間されるかも知れませぬが、これ旺膵納的に知られるのでも、涜韓的推理によ
って知られるQでもなくして、生きた宗教的意故に於て直接に知られるのであります.。直接に知られるといふこ
とは私の内に放ける宗教的意識の目覚めそのことであ少ます。併し愉更に、然らばその意識の目覚めむいかにし
て宗教的といひ得るか、といふ疑問が提起されるでありませう。この疑問に封して私は、私の意放生麓に於ける
、
モの烹隷の準離性と同顆牽引性とを以て答へようと思ふのであ少ます。遊離性と申しまするのはーその意識に含
まる1異質的明記性であ少ます。これはその意識の目覚めと同時に成立する直接知であ少まして、他の黄放と反
省的・に比較して始めて成立するものではあ少ませ申。むしろこれは反省的比較可能の根本條件となるものであ歩
ます。この遊離性こそ.その意識に封して何等か特殊なる名辞の附輿を要求し得る正常なる構利を保有するもの
であります。この正常なる櫻利によつて附興されて居ない名椚は必然性のない単に便宜上のものに過ぎない。併
し.この遊離性のみでは・.世界に於ける雑多なる現象の何れが、その意識を収載とする現象であるかは明かにな
ヰないであり・ませう。これが明かになるのは、その意鼓の同類牽引性にょつてゞあります。同常襲引性とは、そ
の意識に同類なるものだけを.その意鼓が反省によらすして直ちに自分の内へ引込んで熔融することをいふので
あり・ます。名碑だけ同じ名割にて呼ばれ、或は表面同薪の如き形思を具し、或は異薪を混合して居少まするやう
な場合でも、それを熔き分けて純粋なる同類のみを冶出する娃櫛比この同類牽引性であhこます。経験科単に於け
る材料蒐集の可能隼︶の同顆孝弘性に基づか払ばなりませぬ。黙らざれば.蒐焦されたる材料は根砥のない畢恵
る便宜的か、高々何等か仮設的なものに過ぎないことになるでありませう
私は、私のこの意故に基きその港離性と同類牽引性とにょつて成立する一群七封して宗教といふ名稀を附興し
ょうと思ふ。この名榊の附け方は、哲皐的息耕の李鵬の︼階梯に附ける附ける方でもなく、叉、外界の控飴的事
象の単に特殊なるむのに附ける附け方でもなくして、もしもそれ等に附けられたる名稲が厳密に附けられたもの
でなければならぬならば、必然にそれにょらねばならぬところの根本的な附け方であります。然らば私が今、宗
教といふ名稿を附けようと致しまする一群の根砥となる意識の直接所輿はいかなるものであ少皇せうか。
鼓で私は、か1る宗教意論の直接所典に於きましては、宗教が人間の限界外であるといふことを述べて見たい
と思ふのであります。宗教が人間の限界外であるといふやうなことは、嘗然過ぎる程雷然なことで今更事斬らし
く述べるまでもないことであると息れもしませうし、叉、反封にそのやうなことはあり樽ないことであるど思は
れもするであ少ませう。嘗然なことであるといふ考は、宗教は超人間的生活であるとか、赴現音的生酒であると
かいふ周知の考に基くものであ少ませう。併し、同じく宗教は超人問的生汚であるといつても、それに到達する
手繰、それを把捉する方法によつては、それに食まれる意味内容が非常に異って来るであ努ませう。私は、宗教
に於ては、それの把捉が直接であるといふこと、即ち、それは宗教意詠の直接所輿であるといふことを特にいひ
大玉
たいのであります。随ってこれは、習畢的思耕の封象でもなければ、密瞼的締約の結果でもない。哲畢的思殊に
人間性の限界外の素数
人間性の限界外の宗教
六大
於ではV何が屯人間的であり得るか、起人間的とはゎかなをものでなければならぬかを思耕し、その結果到達し
たるも抄を既に私人阻的であるとし、宗教が泡人阻的生活であるたらばそれ以外の何ものであつてもならないと
ずをのであります。叉、紆股料亭に於ききしては、宗教が隠人間的であるといふことは、多くの経験的材料から
闊約法によつて頼隠て縛ら払る概念であ少よず。宗教に於きましては、超人問的といふことは、かやうに、直接
肝輿であ打ます石から、何が私人間吋であり得首かといふやうなことは閉路にならなぃのでありまするし、叉、
宗教斎藤のす党掛に上つて直ちに意鼓されをのでありますから、脛殴的材料の反省とか路納とかを要しないので
一
ありますか併し、紆人乳軋といふことが、宗教に於きましては直接所輿であるとしましても.その直接析輿に於
ける証人間的といふこ・とはいかなることであ少ませうか。それは人間性の限界を越えて居るといふことであり皇
す。この掛合に人間性といふことばー現在自己として私が意鼓して居るものであゃます。この日己の存在並に債
好打階数恥香定年人陽性の阻界の日野でありまてこの限界を越える時、人間性の限界外であるといふ意致が
直ちに生捜する伊でありますα人間性の限界の首常の超らぬ人、或は時代には宗教の起る因素がありませぬ。近
世は人乳性の乱発に基づ仇て経てられた時代であ少ます。随ウて、凡てを人間化しょうとするのであります。取
念輸的管掌は.この人阻他の哲許であれ£す。この哲鼻に於ては、人乳性の阻界外の宗教といふやうなことは応
募寧︼とであ努ませう。併しな掛ら.それがために宗教意鼓の直接所輿が歪められ、宗教の正しい理解が妨げら
れを︼と旺移し㌢︼とであり曳す。宗教の正しい瞥件のためには.宗教意故に於ける直接所興がそのま1に見ら
れねはな少ま甘馳。往々あるやうに.酔政道徳町費静であるとか、紳は人間要求の反映に過ぎぬとかいふ考牲宗
教の直接所共に反する考で悲哀。もしも、群が道徳の要請であっ池少、人間罫恋の反映であつた伊
ば.宗教正人間世の限界再訂ものとなり終るであれ忠せうがご亦款黄熟に放てはぃ却づで打席が紳の要諦であ少・
人間が紳の要求の反映で琴豊吉写壷元嘩︼ゝに、人間中心の世界とば臭った特殊怒る世界み存在を
まぜぬ。併Lなほ琴宗教生絡も人間生活似一様相に外ならぬから、人間性の限界酎であると考へるものもある
であ打ませうがーこれ捻い人間意識の封象は人間意詠の封象であるが故に人間的であらねばならぬ
♯に、生帝或峰意敵の意味内容塾見ぬ偏見といはねばなダませ準じ
勿窄ごの問題につ蕾£してば.1履横軸に拉致せ払ばたらぬのであ軋まするが−時間の榔阻もあることであ
打ま静か年令打は見幅廊を述べ甚だ曙で満足せ払ばな身重せ払。︵曙和五年五月ナ仔︶
人間性の阪井外の宋故
人締約頂花と琵教の本㍍
人格的賓在ミ宗教の本質
一宗教と指葛二原理
帆
定
六八
理
︼
郎
宗教は生活の指導原理だ。けれど凡ての生消指導原理は必ずしも宗教ではない。琴し批舘改造論者が榛大なる
統合理想を懐き、白熱的た怖挽を以て之を支持し、犠牲的結納を以て苦難に耐へ、之が驚親の努力にいそしむ。
そは或る指導原理の下に智情意の統一された全人的生消味なるが故に、之を宗教だと見る者がある。なるほど、
宗教は轡情意の働きが調和され統一された全人的生活に相違ない。けれど.只それだけで、宗教の本質を遷した
ものだといふならば、宗教は極めて既汎なものとな少、只生活理想又は生清信條−ヤ保持し、それに指導された生
活をすることは凡てそれ宗教となる。
快聖の追及に没頭せる者、熱愛に生命を惜してゐる者、金偶に浮身を聾してゐる者、或は更に自己の職糞に畢
生を捧げて奮進する者.貸それ宗教信者といふペきであらうか。なるほど、彼等の態度は宗教的だ。その白熱的
な渇仰や没頭は宗教に頼政する。故に椅愛宗、拝金宗などの青葉がある。尤も、穆愛や享柴への熱中は一時的の
執心で.浮薄なうつ男気の致す虚、時間的な狂勲はあつても、恒常の熱誠を生涯持続するほどのものでなければ、
宗教とは云へないと榊解する者があるかも知れぬ。では、一時的昂奮構想における智情意の釈二亡れた全人的活
躍は宗教にあらずと見た虚で、多くの人々が畢生の職業に熱中せる有様はどうであらう。そ牲宗教的であり二示
教といふべきであらうか。けれどそれでも宗教の貰質を韮さないと思はれる。
恒常的な生活の指導原理をもつといふことは、宗教的には相違ないが、そは宗教の特異貼を必しも持つもので
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
はない。宗教の特異鮎とは即ち宇宙的持紳との交渉から抽出された生活の指導原理をもつことではないか。宇宙
的精紳が何であるか、又存在するか香かは別問題として、この特殊な限界を附してのみ、生前の指導原理牲宗教
、
となりうるのである。単なる生活の指導原理をもつことは、之を宗教的とは云ひうるも、眞の宗教とは云へない、
宗教と精紳修輩
そは躍鋸宗教に外ならぬ。
二
人指柏里在しし宗教の本坑
察される勘合、そは何重か現葦の悩みを取去らんがために.耶想的な授助を求めた少、物質的行詰りに封して精紳
宗教心現勢希フラワアの行詰り詮︵ヨ岳tr註。ロt訂○きほかりでたく、一班、宗教がその心理的牽現の動横から考
も、或は少くとも、之を不問に附しても、偽それは宗教生清であると見る者が少くない。
人格の向上攣展を空軍上かちうるとすれば、たとひその宇宙精油や紳的封象の形而上的賛在位は否定されようと
面の芋患を免がれ、罪障から究められ、窮境から救ひ出され、或は灘㍍を勇敢に切抜け、又は理想生活に幕進しー
合がある。現代の心理畢では.一般の宗教信者が.さうした宇宿精紳又は紳的賛在と交渉して、それによつて雷
されば、宇宙精紳又は紳的た或者を封象とする場合のみが宗教であると恨定して、翻そこに眞の宗教でたい場
、
人格的暦衣と宗教の本質
七〇
的打開の方法を贋けたり、人間的手段の鞋せ果てた略、超人間的又は起日然的救済の方法を求めるものであると
いふことに師窮する。料率や常識的及手段方便の一切を麗しても、常田の難局を切披けることができない場合、
又は吾等人間のカを以て何とも制御することのできない遇命の敵襲や不時の災難に出遼つた少、自分の力でどう
することもできない罪の誘惑に引きずり込まれた少、或は永琵の謎である死に直面して、命数以上の雀倫を潮求
したりするやうな場合に、消極的にか、積極的にか、とにかくに、吾等に満足を輿へてくれる何物かがあり、そ
れとの焚渉によつて心の平和をえ、勇気付けられて、活路を見出すことのできるやうにてしてくれるものは、即
ち宗教であると見る。
冒しい時の紳撰雀。水に溺れてかる者はたとひ藁居であつても、浮んでゐるものに凝らうとする。生命の要求
が雇軌を澄み出したの潔。宗教はその効用性の故に、存在を保つ。超人的な精神的援助たる機能の存する虎、そ
こ七宗漱があるJさうした授風を輿へるもの、典へると信じられるものである紳悌の存在や琶雀蜂は、問題でな
いごさうtた傭紳的援側を輿へる紳併は人間理想の投影であるかも知れない。基想の所産であるかれも知れない。
けれどそれが泡人的抱能を営℃とすれば、そこに宗教あ少と云はねばならぬと。そは篭際主義的な立場でもある
だが、さうし准将前約溝助を以て宗教の本質を癒したものと見るならば、凡ての精神修養や魔傭の貰行も宗教
′′ノ、
上いはねば尤らぬ。魔術のことは故に略し.誠に藤田式の深呼吸法における考案のことを引例する。搾呼吸によ
る健簾Q碑進は物質科拳の事柄であるが、深呼吸中、﹃健炭﹄といつたやうな考案を陶において嘗修す弟ば、一骨
ー.▼
・
−
摂庶の増進美濃立つと。これは精神朋援助である。この﹃健堅たる言葉を眉併﹄な皇量と督換へてセも
し扇偶もが届駿﹄と同磯に常事者の要求の投影であるならば、その心理的構造に攣りはない。私は膵の修養
鳴この儲の満締約援助をうる方法ではないかと疑ふ。彼等は紳件の琶在を信じない。月日我勾縛甜開悟とか悟道
とか小ふことのために修行する。彼等は併痘痕衰すそ︼ともあらう。けれどそ≠は併の琶在を信するからではな
く、方便に矧ぎない。紳怖が満紳修農又は浄罪滅悪の方便である儀合.藩瀾式探呼吸における﹃健彗なる眉簑
上岡儲.心理的傾城働たるt外ならぬで虻儀いか通それが方便である以上、紳併がなくても、濁紳修養や浄罪蘭
層が可能である場合、侶それ峰宗教であると云はねばならサ.吾等は最初に宇宙精紳又は耐的封象を必要とすと
云ひながち∵それたくても宗教ザ成湿つ上いふ眉儀撞着t降る。
加之、菅適の宗教生痛において﹃儲の頭も信心からもとはいひながら、麟の頭が虞に取育種でなく.只の崩骨
人格的‡在と宗教の本質
、七一
アップ’フナシグ
見ても、そは吾々に精紳的昂 揚を輿へなくな少はしない。けれど、宗教の封象が基想の所産で、茸在でない
あつて、宗教としてゞはないと私は思ふ。︿ムレットやファウストは想像の所産で.あり、フィクショソであると
想化されたもので、薬術と英美精紳的援助たる職分を永久に失ふものでないといふ。だがそれは蛮術としてゞ
サソクヤナは宗敬を庵人間理恵の潮層化であると見.デュウイー望邪教は社食経験が感情と想傾と羊よつて理
はあ診えないカ
に退官ないと分った時、それは最早宗教として、取音標としての拭能を営まなくなる。されば宇宙精細又は紳朝
ヽヽヽヽヽ
封象が、形而上的に私人間的な琶在であると信じられる場合に限り.それ峰宗教なのではないか。磯部の故に宗
ヽヽヽヽヽ
教と怒るのではなく、儀衣の故に宗教的続能を営むのであるとすれば.宗教は単なる輔紳朝援助や修輩の方便で
▲■
人格的梵在と乗数の本質
七二
といふことになれば、その瞬間、よし萎術的機能は失はないにしても、信仰としての横能は滑滅する。これ婁術
宗教と倫理運動
と宗教との差異鄭ではあるまいか。
三
されば宗教は単なる精紳的援助ではなく、宗教的封象︵紳帥︶の貰在位から来る秦的援助であると見ても、更に
之に封して反駁を加へ、無紳的宗教を構へる新人道主義の一波がある。その一人であるリイスはいふ?官記料嬰
の上から、宇宙精紳又は紳の存在は澄明不可能だ。そは心理的に人間の願望が産出したもの、解約想像の創作に
外ならぬ。従来の宗教は、思耕的に紳の形而上畢的存在室苦したけれども、さうした華在は人顆文化にと少て
は全く無意味で、吾等は人間の文化に適切な債値あるもの1み㌢尊敬崇拝すればよいと。かくて彼等は無紳的人
道の崇拝を以て宗教なりと主張する。彼等は軟骨むもち.踵拝を捧げ、詮教を開く。その鮎は普通の倫理道徳と
異る。けれどそは末梢的な相違であつて、紳なき人造の崇拝は宗教といふよりは寧ろ倫理の一毎と見るべきでは
ないか。
此汲の一人なるへイドソ牲宗教老定義していふ﹃そは、満足なる生病理想に包含されたる虎の.紅合的に是認
されたる債値をば琶現せんとする努力における忠節と共働活動である﹄と。約言すれば、宗教は生活理想に含ま
れたる社台債値の菅現に封する息節と努力だといふことになる。もしさうだとすれば.宗軌と道徳と何の差別が
あるか。倫理の求める道徳生活も﹃満足なる生活理想に含まれたる社台債値の琶現に封する忠節と努力﹄だと定
轟してl向美文へないではないか。
彼等は賛詮科畢を楯にとつて、一切の形而上拳的思索を斥け.一に人道の興味に集中する。けれど,人間生満
は一倍、人弊社倉の上に依接すると同時に、自然界に基礎づけられてゐることは勿論で、自然界は限に見える塩
チクエイク
辛宙ばかりでなく、人智を剋越せる宇宙の眼に見えない部分をも包含してゐることを忘れてはならぬ。吾等は人
問界の宰相をば、人間的.杜倉的な方便や技術㌢以て取扱ってゐるやうに、全宇宙に封しても、この人問的なテ
クニイクの有効性を認めうべきではあるまいか。とにかくに、吾等が人間生活を向上させてゆく上において、仝
.宇宙と正しい関係に立つといふことは、畢に人間中心的な社命技術を社命現象にのみ限るのでなく.全宇宙との
関係にも之を締用することであり、全宇宙との敢命的関係を立てんとする努力の中に吾等は宗教を謡わ、それに
ヽヽヽ
よつてこそ、最も充賛した、最も豊富なる人生が創造されてゆくのではあるまいか。
カント粥弓あらゆる義務を紳の命令として認めることが宗教だ﹄といつたのは間遠で、それは宗教的な倫理で
はあるが、宗教ではない。宗教はブライトマ
宗教と哲二撃と
の境
れ、社命倍偏の保存と増殖とにおいて、紳と共似せんとする意志によつて支配されてゐるものと見るべきではあ
るまいか。
四
宗教は吾々人間が超人問的字薄絹紳と人格的関係を立てんとする努力であると見る見解では、超人的宇宙精紳
︵紳又は俳︶こそ、宗教をば箪なる生荊原理や、捕紳修養や、倫理運動か一h区別させる特異鮎となる︺然らば超
人問的草笛描画とはどんなものであるか、先様なものが存在するかといふ板木問題に解れざるをえない。それは
人格的賃衣と宗教の本質
人格的篭克と宗教の本質
七四
宇宙の本質を物力と見るか、或は生命と見るかによつて解決の緒口をうるのであるが、今日の童詮料亭では、何
れとも決定的な判断は下せない。今日の科挙着で、宇宙は物質から成立ってゐるといふ者は最早あるまい。必ず
や電気の如き力の働きだといふであらう。叉生命はかうした物力の菱形と見る者もあ少、或はダムソソの如く、
生命は到底エレクツロンに還元することのできない梶原的現象だといふ料率者もある。ベアグソソのエラングヒ
クルにおいては、生命こそ根元的なもので、物質は生命の糟粕に過ぎないと見る。
ー
何れにしても、根元の問題は未解決とし、現宇宙が単なる物質や物力でなく、生命の現象を加へたものである
といふことに異議はあるまい。串宙の物力的方面は重力則や化合則や電磁気の法則壱以て取扱ふことができる。
従ってそれは壊械的に反復自在で、法則的に秩序立てられたものであると見る傾向を促がす。虚が、生命の現象
は一同的で、反復不可能、従って一般化し法則化することが困難であ少、そこに多分に不合理な要素を食んでゐ
る。生命は成長を意味し、成長はあるべきもののあらざることを意味するが故に、それ自身の内に矛盾不合理を
包擁してゐる。
かく物的現象と生命現象とが混活して存在してゐる現宇宙において、吾等が宇宙に激して粗括的な判断を下す
ヽヽ
ヽヽ 場今之を︼偶の磯城と見るべきか、或は生命と見るべきか、吾等の認識はスッサイダナが云ってゐるやうに、
この二途に辞する。之を生命を見るは人間的顆推に外ならぬと離するものがあるけれど、之を機械と見ることも
全く人間的類推から離れたものではない。そは人間が自ら工夫した揆械を取扱ってゐる経験の言葉に改辞したも
のに外ならぬからだ。
へエゲルは宇宙を生命過程と見たけれど.それは本質的に理性と見る鮎において生命訊を裏切った。全く合理
的なものは反復的、横械的で、生命現象ではありえないからだ。叉ショオペンハワァは之中音目的意志と
一種の生命戟であるけれど、それは或種の典型即ちイデエを反復するものであるから、其の生命ではない
ヽヽヽヽヽヽヽ
宇宙をば践械と見、又は生命と見る、そ牲論理的必然性に基づくものではなく、↓撞の認識的慣値評債
ッセルは﹁我が信仰﹂の中に、﹃債値を創造する肴は吾等であ少、債値を附興する者は吾等の欲求である
.
の支配圏内において吾等は王者だじ故にもし吾等が自然の前に脆辞するならば、そは吾等の王権払胃漬す
、
だ﹄といふ。吾等が債値創造の王者たることに異論はない。けれど慣値評慣の結果として.吾等が自然の前に辞
抗すること収−決して吾等の王権を胃讃するものではない。そは吾等の自由だ。
壷、.野草者は理智的に宇田を評債し、宗教僧者は情意的に評慣する.そこに習畢と宗教との辟著な置別がある。
ストイックの笹者達が宇宙の本質を完全な理性と見、法則と感じ、之に従って生活することを人生の目的
ダ丁−マ のは、宗教的であるよりは寧ろ哲箪的だ。飾敦においても、宇宙の本質を法となし、非人格的な驚在と見る鮎
において嬢宗教でなくー哲蓼の範囲に属する。けれどダフーマと一概になサ、ダアーマと共に生くろとい
き情意の腰度は、やがて法身俳として之を人格的に見る宗教信者の悪度に痩近せるものといふべきだ。
宇宙の賛在を法と見−理性と見るは、一理の撥械観だ、締紳的機械硯だ。そは哲畢に屠する。宗教信者は宇宙
の茸在を単に生命と見るばかりでなく、之を人格的生命と見る。宗教は宇宙に封する酸い全人的な生酒味
い全人的腰度は宇田の本質を理性として、椒械として直覚するよりは、生命として、人格的寛在として直
人椅的賃在と宗教の本質
人格的囁在と宗教の本質
七六
人格的菅在とは智情意を以て互に感應し、樵答する生命といふ意味に外なちぬ。之を宇宙線紳と云ひ、紳俳とい
ひ、又はその他の名を以て呼ぶも妨げない。只それが人格的生命であつて、吾等と粟的交渉を黒ち、同情同感の
間柄に入ることができる葦在であると信ずる場合にのみ.宗教は成立つ。もしそれ、さうした襟在は存在せす・
宇宙の本閻は冷徹な理智であり、放であつて、書等は只それに従って生汚しうるだけだといふならば、それは即
ち哲畢の確立ではあるが、宗教の否定に外ならぬ。これをしち宗教と見るは、所詮、哲撃と宗教とを混同するも
のだ。
所謂心蛋研究に射する宗教学的批列
禰・永
蔑・助
今日世界各国に於てl部単著の問に熱心に試みられつ1ある所謂心怒研究は︵心璽研究とい.ふ語の使用を欲し
ない人もあるでせうから今所謂と云ふ︶多くの人々によつて非難せられ.或は其の研究は畢元日然に関する研究
若く佗左様に7レッジせられた現
であつて宗教に関係なしと考へろ拳希もあるのであるが、吾々望亦敢拳的見地から之を惧重に考賀するの
ありと考へるのである。吾々の普通の経験を抱えたm首亘⋮m已謬昌。menp
象の研究をたゞ感情的に排斥するは猫断と嗣すべきである。叉之に関する問題壱閑却無税するは、眞理の
生命とする畢従の態度としては飴りに不徹底若くは冷淡であると云はなければならぬ。共れ故吾々は徒ら
問題に接偏するを避けることなく、心無研究者の報告真還するにせよ、桁た肯定するにせよ、蓼者的推量
へた研究州態度を以つて之に封するを至常と考へるのである。
諸君の知られる如く歓謝巴に於ける心霧研究協宍S。Ciety許諾笥Fic巴Res芭CF略してS吋Rと云︶は、西紀
一八八二年に英閥に創設せられた。本協昏の為に力を添えた人々は.料撰者としてはサー●ウイリアム●クルック
ス︵木協命の命題となつた人︶サー・ウイリアム・パレット︵同上︶あ旦サー・ヂェー●トムソンあ少・サー●オリグァ
所謂心試研究に封する宗教量的批判
所謂心‡軒先に封ナる宗教異的批判
七八
−・せッヂ︵同上︶等があ少、菅畢者及び文革者としては、本協魯の禽長となつた人で、其の倫理畢詮は我が国語に
辞せられてゐるへソリー・シヂクイック、以前の絶望大臣で本協昏の愈長となつたエー・ヂェー・.ハルアォア、同
じく合長となつたアンドリュー.ラング及びエフ・ダブルユー・エィチ・マイヤース等があつた。隣国及び猫逸に於
けろ本協倉の命畠中には卓越した生理聾者として知られるワシェ一教授がある。矢張わ本協昏の昏長であつた人
である。共の他ラヂウムの畿見者の一人たるキュリー夫人あ少、ベルグソン教授︵同上︶あ少:ヘルンハイムあり、
ジャネーあ少、リボー及びヘルツ教授等があつた。米国に於ては亡くなつたウィリアム・ジェームス教授が矢張
少本協禽の脅長であつた。ヒスーツブ博士、ピッケリン〆及びポーデイツチ教授等と共に本研究に最も深い興味
を有してゐたことも諸君の知られる所だらうと思ふ。
本協倉の創設に興った人々は、次のことに就いての確信を有ってゐたのである。即ち多くの人々のイリュージ
ョン若くやアィセブションとするもの1中には.従来の料率にょつて認められなかつた重要な葛篭が色空混在しー
の範囲の研究とが心襲研究の重要なる題目を為してゐるので
若しもそれが畢ふべからざるまでに成立した療には、非常な重要性及び興味を有するものとなる登らうと考へた。
而して︸−冒冒pe室邑茸の研究とどm旨許邑ty
とか
象且2.ロ甲rOd等によつて物鰹を蟹見すること、秦荘を通じて得た諸棄
ある。本協愈の研究の問題は臍大の範囲に五つて居るのであるが、今便宜の蔑め本協倉に於て研究せられた事貰
−
を大ぎつばに分ければ、物理的及び心審的の二つとすることが出奔る。前者はテーブル、椅子、人醍等のー邑t冒
ti。n或はl冒巴註。ロとか、ゴ
ある0而して後者には聾欝邑訂q
からの鳶−腐乱m窯蔓隕等が入るのである。其の文献は本協合の。守護邑bg㌔及び責竃npl;を始め汗牛充棟
も菅ならすあることは、之に関する豊富な書籍解題を一見しても解かる所で、各図共に夫々の横閑娃誌を出して
居ること等改めて言ふまでもあるまい。
私はお許しを得て故に私個人に関することを少しく叙述したいと思ふ。私自身が此の厄介な間題によつて捉へ
られ迷囲の中にさ迷ひ入ったのは、前に述べた如く多くの酉洋人がやるからといふ単純な疲由からではなく、萱
t自分白身の内心から安められて逝け難いものがあつたからである。而してそれは容易に解き難い厄介な問題と
して二十騎年飛語かに悩まされて今日に至って居るのである。それで先般︵大正二年末︶欧米に遊んだ時有名なギ
ルバート・マレー氏、サー.ウィリアム・パレット氏、ドクター・ヒスロッブ氏等に面合して此の問題に就いて議論
を試み、叉.ハ.ソゴー、ビーター、バクスチル専有名なミディアムをも訪ねて幾十同となく自ら嘗鹸をも重ねて見
たので屠る。彼のヒューマニズムを書いて日本に知られてゐるドクター・シラー氏はお存じの如く心婁研究協禽
倉長などをもした人であるが、私が同氏をオックスフォードに訪ねて斯の問題に関して氏の所信を叩いた時、氏
が私に直接語った話は次の如くである。シヂウィック氏は多年倫理畢を研究して見たが人間の死後の存続を許さ
なければ十分に道徳を詮くことがどうしてもrH釆ない。そこで心襲研究に深い興味を有するに至ったと彼自ら話
ぎmぎpe諾○邑昔及び死後の生活に
されたといふことであつた。スウェーデソポルダ及びフエヒネル等の著述を読んで私の常に憶ひ超すは此のシヂ
ウィッ・クの言である。
上に言ふ所の心霊現象に関する研究の範囲は極めて贋大であるが、殊に
所謂心芸所究に対する宗教革的批判
揮謂心憲研究に射する宗教塾的批判
八〇
閲する其の研究搬骨は比較的輿眈深いものと忠はれる.薔々.に果して北ハり研究用菅を‖じ柑︰Uや否や、若し其の
研究が成り立ち得るとしたならば、自然料既約見地より見て興味あるばかりでなく、叉道程霊叫幣箪等の上より
考察するに.此の問題の研究が人生に影響する桝極めて大なることを認めなければならぬっ殊に今.日唯拘史観を孟
唱し、若くは其の腎夢に本づいて北ハ産インターナシーナルをm遺しっ1ある人々は、問よ−1上述の閃剋を眼小に
置いては居らない。其れ放心繁閑題む重んじる人々は、今日り賢隙間題に闘僻しても亦之−.つ考究すろわ興味が決
して少くないであらううと考へるのである。
本論の中心問題として故に私の特別に力設せんと欲するは、北ハの口杢聖渠稟議としての︶研究ぺ娯上に及ぼす
関係である。︼≒J呂pe−・書巳iキに附する問題が、論者の弊求するが如く隼狛的に雛決し得られろとしたならば、紳
遣に於て測光の環若くは偉人の繋之”パ賀すること、即ち細道の不滅阻須くは北ハの学相貌机釈義に闘しても亦、蓼
術上新たに考察すろを要すべき粍多の聞出の伏在することモ認めなければならないのである。
紳憑砦くは軸寄りのことは草く1ri典にあらはれ、紳功農后の墨には殊に明瞭に其の近しき型式を記述してあ
。
其の他荒現及び
るくはすた♯ま
の
こ
と
、
柵
荒
H生、
魂令
魂﹁
闘す
る記
軍を
和と
して
たま紳
岩 高、紳助の斜に関す
ること甚だ多く、後世に及んでも﹃細異例﹄﹃鬼紳叫論﹄﹃寅・ギ物語﹄殊に﹃牛m篤胤発情﹄第三毛筆r−兄れば非の
類例の甚だ多いに驚くのでぉる。北ハ等の材料小如何はしきものは勿論︰バ釈及び宜ハの椎史に糾すろ購い智識左石す
ろ詫教担荊等が之を整理修正すろ必婁あるであらうが、基の中には又小繋研究家に放って出い誼な室料として多大
の興味を以て考娯せらるべきものが少くないと思托れる。
欧米諸国に於て行はれる心襲研究の結果は、愛想心埋の研究に引立した∵御託孜運動た偶怨するに至った。ス
ビリチュアリストの聯盟紺紐及びスピリチュアル・チャーチを中心として各慶に行はれる心患的教義の立体等に
於て之−イ見るのであろ、基督教徒中之を排斥する新は少くないのであろが、吾々に収っては謀取払的に興昧を惑
ぜざるを符ない鮎である。而して北の海外に於ける新現象に闘する粟整は、紳道の艦む的信仰に関する研究と蓼
術上最も覿祭なろ関係を有することを吾々は認めろのである。
把き、m乳e計li邑iOn及び青色をした鏡の一翼t註旨
首鼠tpFへきgr鼠l﹃については々吾放し.其の小四郡の所
を孤、ブリストル市に近いバり・スに於て虚々di一■il巨.粥・rUd
私は嘗て外観に在った際l前に述べたこと以外に伶故に於てdi真打象c又なまめかしき鋸人の流暢たる彿話︶を
の華験を行ひ、カーディフ市に於てヴデーソクム氏と
謂e旨pを得ることに成功し.日本に掃って後も色々の種別の取り寄せ、糾ぬけ等に就き駕扮して見たことがある
併ながら此箪は凡て罪正であり、吾々は之を信じてよいかどうかと云ふことに就いての議論は、尚ほ一階研究を
訊ねた後でなければ公にすること中日朱ないのである。兎に拘此の鍾の研究には従妹意識的及び無常直識n勺に行は
誓R
の曾長就任朗読に放て述べたやうに、奈々も亦北ハの研究に
れるフロードも多く、従つて迷信鼓吹の結果に陥ろ危険も大ご山ろか・し、極めて閏正に考究すべきは言ふまでも
あるまい。囲ち常て7ソドリ﹁︰−・ラング氏が
盈‖︰来す乙こ・こは‖来ないゥ併ながら北ハの㌣飴の
際しては利か・h如何なろ見解も信念も臆詮も持つべきではなからうと〓心ふり而してた々はた∫研究の胱膜たる原
野を認めろだけであろ。吾々は固より軽々しく邑eg已冒t∽
紡普茶定するl二十分なる理由を得ないで問題として之を石する限り、箪着た芦者は之が研究を鴇祝すべきか重
所謂心無研究に射する宗教革的批判
所謂心雲研究に封する宗教串的批判
嘗であらうと考へるのである。
我が国に於ては最近に璽乱心裏料皐協倉が創設せられ、芝垣埋田本姉町に其の寄詭所を皆き、着々其の
歩武を進め七ゐるは注意盲要すべきである。外囲に於仇る心垂研究協合は上述の如く一八八二年始めて英
設せられ後其の他の諸国にも抱少、其の研究の結果はテレパシー其の他に関して大に見るべき.成績を盛げてはゐ
術的に正しい批判を之に輿へるやうに努力せられることを私は巽聾するのである。︵尭︶
し、たゞ之を一概に蕊倒し去らす今少し眞面目に研究的態度を以て之に射し、賀香何れにせよ率先して何
元来西洋よりも宗教に跨い因縁を有つて居る。されば日本の単著も上乗述べた此の世界的な人間共通の問
も察界に近づいてゐ・る﹂と或る外国人は批評して居る。世界現存の重なる宗教は執れも亜細亜かで起り
期せなければなるまい七思ふ。嘗て倫敦タイムス紙上に於て﹁東洋人は不可思譲なる方法に於て寧ろ西洋
料にのみ限るべきではなからう。廉く古今に亘って東洋人の有する豊富なゑ示教寂静をも材料として其の
究の行はれることが必宴であらうと考へるのである。其の為には此の問題の研究は今後は濁り欧米人の有
るが、全堤として見れば未だ吾々を十分満足せしめるに足らないのである。今後に於て益々其の擢琶精細
■l
r天啓﹂の宗教寧的考察
●
石
橋、智
信
一▼●
私の研究費表題月は云天啓の宗教皐的芸⋮いふのにあ呈す。この研究警宣殆どプログラム的に軒し
のべますことを御容し厨ひたいと存じます。
﹁天啓﹂−これはどく御信仰的な.難有味たつぷりな題目と存じます。が、かうした題目を促へ来った所以は
反って難有味たつぷりな、宗教味たつぷりなところを封象としで、それを︵然し、研究としては︶あくまで冷静
q已−ei−と
にーどこまでも畢的に研究したい考へからでありますご示教味たつぷりな宗教峯の研究をかねがね念願と致して
居るところからであ歩ます。
示される﹃紳の御心﹄の内容は.要するに、祓Hei︻と約ひ
さも
さて.﹃天啓﹄を信ずる人の、その信念は、要するに﹃紳の意志表示﹄を信ずる信念かと考へます。
そして、表示される紳の意志内容−
にあると見られませう。
﹁天啓﹂の宗教拳的考察
さて、此に、その繭と耐ひとに閲する紳の意志表示H軋訂完済昏象讐ngの信念を、弘く一般の宗教に、また、
i
寸
●
﹁天啓﹂の宗致拳的考察
速くその起掠に鯛ってたづね求めたいと存じます。一
まづ、起源から求めてゆきます。
八田・
﹃紳の意志琴戸竿・これは、無論、人の心に﹃紳﹄と云ふ信念が生じてからの問題であり主㌔
ところで、人には初めから﹃紳﹄といふ信念があつたものとは無論、思へません。ヨ坤﹄に小ホ放射象が偶人格的
ヽヽ
、、
、、
、、
に信じられてからのこと、その前には人格的ではあるが、偶人格的には考へられては居らぬ信仰封象−例へば
ヽヽ
ヽヽ
ぬしの信仰としては、例へば、あちらの他のもぬし、こちらの他のもぬしーあちらの山のも亦たぬし、こちら
ぬしが信じられてをつたばかり。
ヽヽ
ヽヽ
の山のも亦た、ぬし、悉く、ぬしと云ふだけであつて、別に、個別に、佃的に考へられて居ないわけであります。
、︳ヽ
これらのぬしは、例へば、大国主命、天御中主食.事代主命と云ふやうに個別に、紳と考へられて居るものとは
ヽヽ
ちがうと息ひます。紳は個別に、個的に、′然し、ぬしはまだ紳の如く偶的に、偶人格的に考へられては居ら、ず、
ただ漠然と人格的に考へられて居るにすぎないと思ひます。
ところが多くの信仰封象のうちには、紳の如く何人格的に考へられて居らぬのは無論のこと.ぬしの如く漠然
人格的にさへ考へられて居らぬ信仰封象例へば﹁紳山﹂だとか﹁掛軸木﹂だとかいふ拉如あものもあります。こ
れらは人格的でもなく、意志的でもない信仰封象だと考へ・ます。
さて、そうLた信念の封象、即ち、一向、人格的でもなく.さらに、意志的でもないそのものについて、その
ものの意志表示そのものの﹁天啓﹂についての信念を求め得よせうか。総じて﹁天野﹂信仰の起瀕をJんな程像
の信念のうちにも求め出し得ませうか。
意志的でもないものの意志琴不、意志的でもないものの﹁天啓﹂なぞと云ふ信念が有り得ろのでせうか。有る
﹀︶同in竜一弓mロ遥t
i昆ge訂imin
m乳n芋幹官㌧れ なぞとドイ
のです。大にあるのです ー 宗教事苦をあたつて見ますと。例へばTむしのしらせ﹂と云ふ様に。
ヽヽ
﹁むしのしらせ﹂のむし。なにも意志的でもなく、人格的でもない。が、しらせ∫意志表示が立淡に信じられ
て居るのです。﹁むしのしらせ﹂⋮⋮ドイツ語では?
ヅ人も申す様です。﹁むしのしらせ﹂の信念はドイツ人のうちにもあとを蔽っては居らぬ棟です。
﹁むし﹂なぞは然し幾分、人格ぢみて居ます。然し﹁さいさき﹂の信念なぞ、どこにどう人格的なものがひそむ
のやら、どこにどう云ふ意志の7ゼソシーが存す/るのやら一向、さだかでありません。而も、そこには立派に意
志表示が存するのです。存しすぎて﹁さいさき﹂乃至﹁むしのしらせ﹂なぞ気にされすぎるほどではないでしょ
うか。﹁二度あること些二度ある﹂とか二.三度日の正直﹂た青凶禍福のあらはれなぞが信じられて居るのではな
いでしようか。
、、、
要するに、天啓信念の第一歩は﹁さいさき﹂の様な﹁しるし﹂哲icFO−1についての信念であると思ひます。
ヽ︳ヽ
訂icFβしるしのうちでも、最も素朴なものは、︵全然.意志ありとなぞ考へ得ない︶﹃栢物のしるし﹄巧ぎnN−
n音inpであらう。︵例へば.それがしの捕物が返り咲きをすれば、その年は凶年であるとのしるしであると云ふ
﹁天啓﹂の宗教軍的苛霹
信念の様な︶
﹁天啓﹂の宗教畢的考察
次ぎには、︵植物に比べてはや1重詣であると考へられないわけでもない︶﹃動物のしるし﹄弓訂岩miロp殊に生
しるしの第二歩は、自然のしるしを邑ifi¢i已に解するもの又は自然のしるしを技巧を︼らして組拉立て︵陰
自然美不思議な現象を白
ヽヽヽ 誕のしるし雰b邑琶mina例へば、いたちが遣をきると三年いきぬと云ふいのちのq日露lのHe誉er好評爪音冒g
しるしの第一歩はかくの如く最も意志的でないもの。︵返り喚きとか、遠吠えとか︶
の信仰。或は.犬の遠吠え、点呼き等。
ヽヽヽ
ヽヽヽ、、、
ヽヽヽ
然なみにしるしと解するもの。
陽道の如く︶一寸拳間ででもあ畠かの如くさへなつてをる所謂Ominp打宕deの苅であらう。
夢鼠○習・
例へば、﹁一宮士、二軍三茄子﹂の様な夢判断二冒呂巨d邑白粥又は、彗星現はるれば云々と云ふ様な星占穿宇
d邑巨gA諷岩訂giO︵又は星占書きHO呂COp︶殊に、求めに鮭じての数占¢gm旨iQ方角見、人相見
、、、、、、
しるしの第三歩は、邑琵d已に、しるしを作り出してそれを解くもの、普通、W臣彗電邑うらなひどとと云
〇m芹手相見 2irO巨象打なぞはこの斯と存じます。
ヽヽヽ
つてをるのは主としてこの顆と存じます。例へば、八卦、亀ト、或はアッシリアなぞの・Hさ彗CFpβ︵羊の肝臓を
焼いてそのひだで占ふもの︶穿UFeヨ旨屋慧i︵皿に水を張りーそれに油をおとし、その油の型で占ふもの︶或は
叉、!フンブ占R寛ぎ腐邑墨色判断昏pp邑邑○なぞの顛はこれに廃するものと考へます。
かうしたしるし家臣昏についての信念が、天啓信仰乃至H邑⋮箆邑胃gの第一歩であらうかと考へま
す。
ところで
度の御つげー御しらせ乃至天啓信仰かと考へます0むしのしらせ、ぬしの御つげ、稲荷おろし、死人に事間ふこ
と穿訂毒邑芹夢の御つげ、夢枕にたつこと、せ竜e−g茸巧の御しらせ等のたぐひがそれ。
次ぎには、いよいよ、紳の意志琴不、書凶に関する穿i一等籍霞Fdi粥旨gの信念。
先づハ・御所託・御託軍○落首岩F−その折芸身の振りに封する御さとし、昔凶約編についての御しら
せ
それについではー持頼的な将来永劫の鮪をga害te¢する﹂苫旨ei琶ng紳明の御契ひー御紳勅−︵類似Q・ものと
しては本廟思想︶等、等。
きも
そこに理由もなく、立論もなく、絶封無保件にH軋蒜が盲信されたあとをうけて、祓を批判する宏l賢昏巧
︵=﹁橡富者﹂︶のH邑蒙詩が所謂﹁預言﹂W已−r箪笥吊なるものでありませう。−−−繭如何に関する紳意
表示︵穿訂召首dig毒乳︶ほその批判者︵預言者︶を通じてー寧ろ、冒邑毒詳d官長となって表はれてをり
ます。
入七
が一連には、所謂、かぎりなきいのちの﹁よろニーぴ﹂賢−の﹁おとづれ﹂く邑il−d宮口gとなつて表はれたの
﹁天界﹂の宗教畢的考察
ヽ
ヽ
︳
です。
﹁天辟﹂の宗教轟的考察
其後、教組の宗教は既成化され、彗、敦芸﹁紳意雲﹂Hei−邑管d昔g苧盗められて﹁完﹂と既
成せられ、叉、﹁柿の葉の雲﹂竺習身の示現﹂警邑en訂r貞G妄の致警既成せ・われょした。
かくし蒜意琴示寧賢莞を監ig貞の信念ほ天膵の書−蚕の人、紳の白天辟なぞと芸化されて、此に、
︵以上は、ほんのブロタラ品に研究慧を簑したに誓ません。慧蒜は苧公けに致し享﹃霊草慧﹄怠
所謂﹁天啓﹂○旨す長の教理と既成化されたものと考へるのであります。
欝二戟あ方に譲りたいと存じます︶
天 台
二
賓
相
論
々
故
石
津
照
璽
天台思想の中心はいふまでもなく琶相論で、固轍三諦といひ一念三千といふのは、驚相の怒験を一は心理的修
道的に、他はその経験に於てあるもののあり方をいつたものに外ならぬ。天台はものの長和を説くといふよ少
は.寧ろその眞賓なる相を経験し自覚する仕方を教へる。そしてそのことがそⅥまゝものの眞相を説くことにな
るのである。従ってその説くところは常に貌心観念の立場であつて、徒らに世界祝事宵観の眞を逐ふものではな
い。諸法嘗相とは祝心における、いひ換へれば経験によつて規持する行的立揚である。これを忘れてそのいふ所
をきけば所謂破れ固頓滅多大束といふ一般の汎細論的誤謬に陥る。天台の立場は酔生し夢死して喘ぐ六道の素朴
的立場ではなく、児排乃至料率的反省による分別の立場
もで
ない。根本的に結放をその党相に於て自覚し訊照す
る立場であつて、ものが繹翰の外にそのものとしてあるかの如くに考へて、これを執斉し作爵する迷妄を統制す
るのである。
〓
天台甥相箭々放
天☆焚相節々放
九〇
俳敬一般の判繹に従へば︵天台による︶、小乗の立場は外道のやうに外物そのものの素朴的貰在性をみとめな
い。すべてのものを因総研成山法とみる。併し因縁の法は経験の外に賛在するものと考へる謂ば物理的な考方
で、経験といふものに関する省察がまだ出てゐない。これが所謂析法観であるが、大乗は醍法幻化の軌をなす。
我々のみる世界はすべて我々の経験の裡にあ久我Aと関係するかぎりのものは物そのものではなくて、それが
経験に於てある相であるとみる。
天台も亦この経験を反省する立場から出費する。
先づ一人の人に就いて考へてみやう。日常の経験に於て、ある時はありのすさびに憎かったものが、そのなき
今は擬しかつたむする。しかも一
上屋を重ねてゆき・遂に人の世の逼迫に迫はれ三界の火宅をかこつのである。併し静かにこれを反省してみれ
ば、その憎い相手−樹しい相手はその人そのものではない。我々の心の裡にある婁をその人に為象して、憎いと
ころの相l手或は繊しいところの相手を、その人そのものであるかに妄想するのである〇
、﹂ のが同じであり、しかも立揚を異にすることによつて、二つの封象を創つてゐることを考へれば直ちに明
とである。我々が日常素朴的に賓在するかの如く考へてゐるものは、贅は吾タの経験に於てある相に外ならぬ。
我々は我々の経験から端正した物そのものといふものを経験し得ない。
天台はすペての洪は見仮息仮であるといつた。ものはすべて思惟され或は執着されてある欺悪.即ち意識され
てある仮象だとみる。謂はゞものを先づ経験内鹿論的立場に於てみるのである。このことは天台の用ひる鏡の撃
へによつてご暦明かとならう。
我々の控験するせ界蜂鏡ヒうつろ燥の世界である。鏡の像は外物そのものではない○像を為す外物その
ぁるであらうが、像の世界に於て外物そのものを捉へることは出来ない。像禁鏡の為す能作劇ち明でもな
鏡の明は明のみとしてはあり得ない。・・∫とくに意識作用に於て左様である。意識は常に何かに閲す
る。そこに控除がある・1I−。我々の控除するものは外物自憬ではない。同時に亦心理作用のみでもない。これ等
によつて在るところの意識に於ける物の和である。これが天ムnの物に関する省察であ少、経験についての反省で
ぁる。小乗の立場に於て因縁の賓法によつて成立すると考へられた物は、大乗殊に今の場合天台に於ては
経験の裡に於て考へられワ。。我々が口常考へる物そのものの素朴的賓在性はもとより、因縁の改も亦経
● ては現在するものではない。,少くとも我々が云篤し柑ないものであるとみる。即ち観念に相督する人とか牛とか
いふものも、因縁の茸法も鏡の像のやうな恨象であるとみる。これが天台の所謂名驚共仮の立場である。
三
然らばこの経験に於てあるものと賛粕とはどう関係するか。先づ華南の意味を明かにし虎後に諸法賓相
を述べやう。
膏蘭とはものの尾鷲なる相であるが、賛相といふ言葉の示す意味は名詞的なものといふよりは、寧ろ在
の副詞的なあり方聖亦すものである。根本的に経験に始終する天台の立場からも直ちに明かなやうに−驚相は檻
翰をはなれて別にあるのではない。我々に封立する外物日醍や、物我を超絶してこれをあらしめる木津と
天台罪柑論ふ攻
九一
天台頓相静々攻
九こ
うなものではない。これ等は根本的経験的なるものからかけはなれた観念的産物である。そんなら控除に於てあ
るものの如何なる相が賓相であるか。二言にしていへばものの経験に於て、その澄験の具標的な首相が嘗相であ
る。経験に於てあるが・ま1なるものの相が青桐である。
最も根本的なものは経験の具標的な首相であつて、これこそ眞に如賛で且つすべてを包指す告具倦的な軽験
の普相をはなれて、ものを云馬するのは経験に於ける二義的立場である。摂験をはなれて何物もない。法界の外
に別に法界があるのではない。それでは経験の督相に於てあるものの相とはどんなものであるか。我々の経験す
るものの相は鏡にうつろ像のやうなものであろ。我々の経験は如何なる場合もこの像の世界取出でない。すべて
のものがこの世界の裡にあるのである。そしてこの像のあるがま1なる相がものの鷺相である。従って反省的に
いへば凡ての摂験は像の世界の経験で、像の世界の経験であるから貰相である。これがものの経験の根本的具標
的な雷相である。すべてのものはこれを外にして吐あり得ない。そしてこの相こそ根本的な茸相である。
反省的に云へば、この最も根本的な相に於てないところのものはあり得ない。従ってすべてのものが茸相であ
るが、一般に我々の経験に於ては、ものをこの最も根本的な相の下に経験してゐない。換言すれば.最も根本的
な姿の下に経験してゐながら、これを自覚してゐない。鏡に克ったものの像をそのま1の像の相に於てみてゐな
い。その像の相を外物そのものであるかの如ぐ謬り信じて粒々に執着し、偏見偏愛をかもす。ありのすさびに憎
い人がそのなき後に繚しい人となる。その憎い人や慰しい人は、賛は経験の常相に於てある相であつて、人その
ものではない。それは鏡C像のやうに、幻化のやうな恨相の世界に在ものであると自覚せすに.憎い人撤しい人
が意諭の外に賃在するかに考へて思惟執着の二次的重沓をかもす。これは経験の首相即ち鏡についていへば、も
へ
のが像に於てある相を、そのあるがま1なるすがたに於てみす、防手にものをみる自我をたて、従ってその封象
を︼れに封立して考へる謬見にもとづく。本来の控除の異相を、m心惟や執清によつて基中の楼閣に築き上げるの
,ノ
である。これが日常我々の経験する虚妄掛倒の相である。見惑思惑として示されるものがこの間の琴精を語る。
天台の貰相とはこのやうな意味で、根本的に経験に始終する立揚であり、軌心の立場であ.る。眞といふやうな
榛準を攻め立てるのは思耕的立場であ少、取念的戯論であつて、ものの眞和には遠い。根本的に経験的な立韻に
於て最も根本的なものは艇験の普相である。経験において在るものの状悪である。挺駿されてしまつた産物につ
いていふのではない。この立場に於て経験するといふ膏践の首相担税本的で包括的なものはない。軽駿の首相に
於て在るものの、あるがま1なる婁といふが、この場合あるが僅にないものはない。あるがま1にないといふ
のは、眈にあるがま1といふ恕準を二義的なるものに求めて.この雷榊■を経験された産物として、これを批判す
るからであつて、根本的に経験的な立場ではない。この立韻はすべて思惟的引立ヤ却ける。天台は不可思誌とい
った。すべてのものは控除に於て在る。経験の常祁に於て在るものはーすべてもののあろが僅なる相である。こ
の意味で諸法寛相といふ。
田
賛相とはこのやうに根本経験的にものの粕を捉へるのであるが、我々の日常の経験に於てはーものむその驚相
に於て、即ち経験の首相に於てとらへてゐるといふ自覚覿酸が伴ってゐない。先験的にすべての経験は賓相の鮭
天台簡招静々故
天台賃相論ふ放
丸田
放であるが、自覚的観照的に貰朝が経験せられてゐない。この経験の仕方を致へるものが駁心の立場である。こ
のために心理的修道的に圃融三許によつて、ものの貰椚において在る経験が詮かれる。
先験的にすべての経験に内在的な賓相は何如にして自覚的な立場にもたらせられるかり
我々は日常ものの茸相を規賛に自覚的にだ験してゐない。ものを葦在的に考へ、封立的に考へ、規定的にみて
ゐる。これは具醍的な経験の首相をそのあるがま1に捉へないで、二義的に経験せられた庶物について思惟し執
着してゐるからである。根本的た首相にかへるためにはこれを捨てなければならぬ。玲てるといふよりは観念に
よつて淳化するのである。このやう窒息味でものの鷺相を囲融三評のありやう、あり方においていひ表はす。図
融三諦とは経験に於てあるものの在り方の規定的封立のない相即ち賢租を示んのである。
天台の立場は単なる覿念論でも賛在論でもない。経験に於てあるものの柏を観る立場である。銭の像に関する
立場である。意識に於て在るものの在n方をみる立場であつて、鏡にうつろ像は外物自照でも鏡の明でもないや
うに、経験に於て在るものの姿はl封象そのものでも心理作用でもない。従って園融三絆一心三親といふものも
封象につていつたものでも心理作用についていつたものでもない。これ等の綜合の上に成立する、そしてこれ等
とは別な︵これ等は経験の反省にょつて出て来るのであるが︶経験の首相に於てあるもののあゎやうを示すりで
ある。
概観三諦とは基腹中各許の融即の榊であつてl経験の雷相を作鳥し、執着して物を封立的にみる主軌の偏見の
ない状態に於てあるものの相をいひ表す。先づ我々日常の経験に於ては、時と虚と人とを異にして.そのみると
ころは周じものに就いても同様でない。鏡に克つセ像は苦物そのものではなく、為し出された像も鏡の商の明
暗濃淡にょつて泣言異なる。従って我々の経験に於てあるものの姿は、その確貰性についていへば、その準操と
いふものがなく幻のやうなものである。この意味で垂である。併し基といふ意味は、基を主張する限り基ではな
い。界取を徹底すれば客観に止まることは出来ない。且つ我々の経験に於て確茸性のないものも.現茸の事賃と
してはそれを許さなければならぬ。鬼の角とか穐の毛といふ敬念とは異なる。これと大衆化他の理想から仮敬の
立場が出て来る。併しこの仮の立場は、基に封して立法といふやうに基に封正し、規定的なものである。そこで
この重版の二律を綜合する中道の立場が出て来る。こ1では基仮二律におけるやう.は相反的事情は融和相即し
.
て、何等の規定も封立もない。規定や封立のない状態によつて示される相は、経験に於て経験されたものに封す
る主親の二攻的た重沓のない相、即ち経験の常相に於て在るものの茸相である。この意味で中道は膏相のありや
うを示サものである。固融三紆といふのは中道な基仮二律を綜合してぁる相を韓詮論的な事情によつて取念的に
婁へたに外ならぬ。中道の相は基の相であるとともに仮及び亦中道のすがたである。
五
一念三千といふことは天台叡心に於て、+境十乗の税法の中心となるものであるが、これも亦貰相において在
るものの在りやうを示すに外ならぬ。経験の首相に於てあるもの即ちものの賢相は、外物でも心理作用でもない
が、鏡の像の相には鏡の面の状態が終ゎこまれてゐるやるに、経験に於て経験せられて在ろも.のも主耽の状態が
影響する。この主観の状悪が明鏡の如く止水のやうな状態にあれば、こ1に在るものの姿は.あるがま1なる茸
天台思相諸々攻
天台栗瑠諭々故
九六
相の婁に於て自覚される。この封立規定の状態に於てない経験の状琴乞いひ表すものが固攣二許であることは既
に述べた。そして封立規定といふものが、主観に基く偏見であるといふ限りに於て宰相の心理的詮明であるとも
いひ絡む。
この意味でいひ得るならば固融三許掟、和々ものの敵方を数へるが、一念三千ヒ賓相に於てあるもののあわ方
を記述するのである。
三千とは十如是十法界二面間の法敦によつて、ものの賓粕をいひ表すのであるが二毒の法比法則とか範噂と
かいふよりはー寧ろ置殴の首相に於てあるもののあり方といふ意味が強いと考へられる。︵こゝからあり方の法則
性といふことは出て凍るであらうが︶。貧相論の立場からは、ものを牽生的にみないで相互関係の相に於ていひ表
す。むち先づ十如是に於てものの安和をいひ表すのであるが、慣性和云々のものは外物の展性でもなければ、主
叡に於る範噂でもない。経験の常和に於てあるものの日商なるあゎ方である二二世問も亦相互的俵に於ていひ表
はされるものの在り方に就いて、いはばその関係項を代表的にいつたものと考へてよい。
十法界の法といひ法界といひー繹験計耽れて別にあるのではない。摂験の常粕に放てあるものを凡て放とい
ひ∵︼の範囲を法界といふ。鏡の像の世界即ち経験の雷神.意鼓の場所をいふのである。従って十界の各々も怒
顔の外なる賛在ではない。経験に於てある状態でなる。
貰相の経験はものの固敬三詐に於てある婁であつたJ固観三諦に於けるものの相とは、三千論に於てはこの十
界の五長の駅腰に於てある村によつていひ衷はされる。天台の玄義や止取の文を引くまでもないが、十界の内六
道は仮、啓開線覚は基.菩薩は仮.彿は中を代表する.十界の中何れかの一つの状態に於てあちものの峯は、他
のそれム∼のに封立し、心理的にみれば、像をうつす意識の面に作儀偏見がある∵従って為された像のあり方は
嘗相ではな小。この意味で同軸三諦と同じ事情で十界五具において在るものの姿が賞相である。十界五具といふ
ことは.三千論の中心で、これなくして些二千の横棒もものの賛相を倖へることにはならはい。日蓮も三千の中
心は十界の五具にあるといつた。しかL十界といひ五具といひ、決して素朴蜜在論的にいふのではない。解除内
在的な立弟であることに注意しなければならぬ。ところでこれ等の法敦は別々にあるのではない。これ等が綜合
して賛相の経験宅或は某鹸に於て在る賓相をいひ表す。十如是のあり方の上に三世聞のあ少方があるのではな
い。賛相の欺悪は十如三世問盲法界が融合していひ表はされるあり方.即ちこれ等の法政を相乗して三千に於て
いひ表はされる。
かくて書陰の首相に於てあるもの、即ち鮭験される程のもの些二千によつてその茸相を倖へられる。
これが叔心の立揚に於ける天台の思想である。この立揚を苦現し自覚する仕方が止親の修道である。
︵心を語法囁相の活無芸として根本天台の思想を解持した。天台が法門偶数といはれることが正しいならばかく鰐繹するこ
とも正Lいと息はれる。筆者にとつてか1る静放は新らしいものではないが粁来賓科的にも検索してまとめてみたい希望
ものをおいてこの超日を選んだ理由である。叱正を腸はれば率これに過ぎたるはない。︶
のために専攻の先箪に批評垂訓を仰ぎたいと思ってこの城食をかサた。昨年拳骨の節か▲げた周日に関する街
天骨栗相論々故
某督敦k於ける蘇慾主義の起源
基督敦に於ける禁慾主義の起源
7サー一
九八
図
書
手リス一致史上、古代数台又は初知力ト∴リスムスと呼ばれる時代に於て禁慾主義が盛とな少、修道院生汚がキ
リス一致徒の理想とされた事は誰しも否めない苓驚である。然し其の禁慾主義は何虎に其の端緒を蕾したのかと
云ふ事に裁ては問題がある。或人達は夫れは既にイエスに於てあつたと云ふ。又ある人達はイエスに於ては無か
ったが、ヘレ一lズム又は古代米葉の文化の影響にょったもので、其の意味では夫れはキリスト教のギリシャ化の
結果であると云ふ。
然し斯かる問題が提出されて来るのは、禁慾主義と云ふ言葉がl見、簡単明瞭な棟で∵琶は其の内容その意味
が榎雅して居力多種多様であるとあると云ふ手篭に人々が注意しないからである。
抑ぺ賛慾と云ふ言葉はキュックスやストアの哲畢着から由来してゐて.其の始めに於ては.軍人やスポーツ
マンが肉憬や意志を練るのとよく似た方法で徳育の練磨を励む事を意味したのである。然し此の言葉はクレメソ
トやオりゲネスや或は彼らより以前のグノスチスーの間では其の意味が凍げられて、此世との関係を断ち切少、
紳によつて清められた聖なる生活に入る薦めに自然的衝動や要求を殺す事となつた。其虚からして此の言葉の意
味は更に襲展して亜には、尋常普通の道徳的自制の範囲を越えて異常な仕方で自然的生活を抑塵し粉砕する事と
なつたのである。斯の如くして同じく禁慾と呼ばれる同じ行鳥の動轢、目的.立場、程度並びに其の結果はいろい
ろに臭ってるるし叉異る事が出来るのであるが、兎に角、一度何らかの形で禁慾が起ると、一方では夫れは益々
増長して極端と過度とに走少占分以外の禁慾的動横をも艶め之を自分に混じ合せる傾向がかる。而も他方では其
の禁慾を基礎付ける食めに、何らかの形で形而上畢的、宗教的根接が必ず求められ七来る。然し之とは反封に、
宗教心や宗教思想が深ま少、泡越界を唯−の眞理として唯だ夫れをのみ追ひ求めんとする所では、おのづから此
■・
せと文化とに封する否定的思度が生じて来る。而して夫れは自分のまわりに存するあらゆる形の禁慾主義を自分
の中に取少入れつ1、益々禁慾的風潮を高めて行くものである。苗代末葉に於て、一方では一般世人の宗教心が
深められ、他方では古代末葉、及び其の苗代末葉の世界を背景として浮き上った苗代キリスー軟骨が禁慾主義を
其の一般的特長とした事貰は此の理由によつて詮明がつくのである。
然らば、舌代数台に於てキリス一致の禁慾主義が如何にして起つたのであるか!
先づイエスの宿昔には厳密な意味での禁慾思想はない。イエスは紳の閥が間もなく来ると信じて、ひたすら倫
理的宗教的生活の必要のみを詮いた飴り、此世の事柄に就ては、唯だ紳にまかせて無慾惜淡であれよと極めて簡
単に片附けてぁる。然し他方ではイエスの思想の背景をなしてゐるユダヤの天地創造の信仰を顧慮すれば、明か
になる様に、イエスが此世を有少のま1に喜ぶ軍を少しも排斥してゐない。イエスと原始キリスト教徒とが抱い
九九
た、あの将に葬らんとする理想の奇蹟的貰現の信仰は、暫くすれば無くなるであらう桝のはかない此世を軽んぜ
基督教lh於ける兼慾主義の起源
北蒜︰故に放ける縄蒜芸義の起源
一〇〇
しめるには興って力はあつたが、然し夫れは此世と肉とを否定すると云ふ惹帰に於てゞにた′、して、や
なく出え失せるものに封すろ冷淡とか無関心とかと云、宗心昧に於てゞある。・宍れ故に・?、我々が禁欲主義と云ふ
軍をば、此世と阿既と自然とを烹論的に否定する寄と解すれば、イエス及び原始キリスト教揖の黒鳥は林
くして、轟端に起世界的なもののみを目指す結果、壇上の寄を忘れる英姓主義とも云ふべきも〃であろ。
肉倦と自然とを水質的に悪と見て、之を斥け抑へ殺す所の本営の禁慾主義が起ったのは、紳秘思想や、購
汎紳論が原始教昏に這入つてからの寄である。従って此の恵昧からして、祭慾主義を共の特長とすろ倍道
は、哲拳的生活と名付けてもよいのである。尤も其の修道院生活をつくり則す糸口は既にイエスの忠恕の
出す舶弓−が出挙Q。夫れはイエスの福音固有の倫理的厳粛主義である。即ち法律とか強制とかと云ふ外からの郎迫
によらすして、唯だ唯だ純粋に良心の鞋に従って歩まんとする内心の道徳は、罫純な祀歯銅係の中に於て
行可能である。従って内心の道徳を厳格に行ふ馬めには、生酒の範囲を小さく叉簡⋮叫なものに限定する
る。かくて原始キリス一散従圏嘘が一軍第に膨脹し釆少、夫れと共に益々榎雑な配命由鱒り骨に這入って
飴儀なくされると共に、信者達は成る可く基の大きい複雑な敢昏生活から逃れて、純粋に内心の遣寝薪密
ぅ様な小さい特別なグループをつくる必要に迫られた。之がキリスト教に於ける修道院生活の如々の端緒
勿琴︼の寄は本雷の意味での禁愁ではなくして、唯だ生活の較檻化に伴ふ危険と紛糾と首題けようとすろ
計らないが、夫れが其打特別のグループの間で遽には本営の意味での禁慾に欒化し易い寄は云ふ蓬もない
いづれにしてもイエスの思想には厳斌な意味での禁慾主義は存しなかつた。然し基山イエスの率音が叉
の禁慾主義と極めて結び付き易い性質又は傾向を持ってゐる苺も事賛である。
先づ第一に、イエスの倫理思想が自己犠牲と云ふ事と、道徳訓の唆最な寄とを根本特長とした焦め、反対に、
絶て峻厳な事、自己否定的な事、内至は自然に逆むく事その事がイエスの命する紳への奉仕と考へられろ様にな
った。抑々イエスゐ栢晋の道徳に於ける自己犠牲や自己否定には、紳への愛と.Åへの愛と云ふ︼定の積極的目
的が輿へられてゐる。イエスに於ける自己犠牲は紳と交少、紳の子とな斗或は兄爵麿を他人に示さんが雷めで
●あつた。然し今、此虔では、其の自己犠牲又は自己否定それ自身が目的とされ.書き発と考へられる様になりノ、
而して斯かる行悠はー自然的感情に泣き、驚行が困耗であればある程、益々横幅あるものとして尊ばれる笥とな
るのである。
斯の如くして︼方ではイエスの内なる良心道徳が外なる行為の多少とか功徳とかを詮く低い道徳の水平扱に堕
し来ると、其の道徳思想は叉、自然的なものを罪と考へて之を軽蔑し無税する思想や、世の終りに於ける賞罰應
報の思想と結び付いて、此虎に肉慾禁断や自己を管めさいなむ零が、襲魂の敦ひの盗めに文政彼の審判から逃れ
る鳥めに必要な菩菜と考へられて釆た。之は後にとく童貞生持と並んでキリスト教の禁慾主義に於ける改も特長
ある、而して叉漁も普通にとられる道程である。
尤も斯かる禁慾主我は純粋の否定乃至倫理的無目的から生するのである限少、乗れは一定の碑林的目的を持っ
た所のキリスト教倫理の根本原理と矛盾しないかと云ふ疑問が出るに達ひない。成る捏、此の疑問はt鮭尤もで
一〇l
あるが、他方から見れば、斯かる禁慾主義と堆も、意志と熱情とを塵、常に緊張せしめる軍なくしては不可能であ
其常数に於ける雄蒜心主義の起淳
基督敦k於ける禁慾主義の起源
一〇二
る故に、此の禁慾主義は、若し夫れが無事宙論とか其の他の如何なる一定の思想堤系の上にも立たないで、唯だ
意志を極力緊張せしめて以って終末取的、事稲論的目的にのみ向つて動く問は、常に、或は少くども度々、キリ
スト教の思想傾向を最も破く劉戟する手段となり得るのである。斯くて此の消極的否定的傾向を持つ禁慾主義は
積極的目的を持つキリスー教の倫理思想と全く無原則的に結び付く事が出奔、事情の異るに従つ.てヰ∴リスー教の
根本原理を或時は妨零した少或時は助長したp−或時は反封した少或時は賛成したゎ.七つ1、禁慾主義のあらゆ
る形式と程度とを展開した。
禁慾主義の他の起瀬は、薫散的及び意志的二元論である。之は東方に於ける所謂グノスチシズムと呼ばれる宗
教運動から起少、西方に於ては、再興したブラーユズムとビタゴリアニズム及び中期ス一丁と結び付いて蓉達し
た所のものである。此虎では肉醍と精銅との矛眉、感覚と物質とへの戟ひが詮かれた。パウロの襲と肉との敦へ
の中には蘭に斯かる思想が這入り込んで居少、従って彼の救済睨も共の思想によつて影響きれてゐる。即ち救済
とは終に葬らんとする紳の囲に入れられる事のみでなく七て、肉を克服する事でもある。然しパウロは共磨から
直ちに禁慾思想を引き出しはしなかつた。肉の罪なる事はパウロに於ては、人間の墜落によつて即ち意志によつ
て制約されてぁる。いづれにしても斯かるグノスチシズムの思潮の風摩した結果として、紳秘的恍惚的興奮を誘
ふ食めQ技術が導き入れられて禿た事は疑へないのである。
此の宗教的思排と並んで次ぎに禁慾主義を起す原因となつたのは、苗代末葉の叫般的宗教的動終にょつて復活
せしめられたタブーの取念或は悪嚢の信仰である。人々は、何虎に於ても、危険な精癒が飛びまわつてゐる故に
夫れらの精集に解れない様に散々兢々として憲震をよけたり潔めた少した。而して其の際に用ひられた頚戎七か
沐浴とか断食とか紋ひとかの方法は次第に禁慾の形をとつて釆た。尤も此虚では此らの方法は、危険をおそれて
やらないのでなくやゎすぎて反つて禁慾となるのである。而してそこで感覚的なものや隠世的なものを抑堕し
節制する理由としては、物質と悪疫と、或は異邦とサタンとが同l祝されて来るのである。
斯の如き一般の宗教心の動きや前述の思搾的二元論の背後には等しく叉、禁慾主義を起す有力な一般的原臼と
して、苗代末葉に於ける文化の爛熟と云ふ現象を奉げねばならぬ。一笹.如何なる時代に於ても、文化が絶頂に
達して行詰少、文化の生命力が使ひつくされて、人間が其の文化じ封して不満の感情を抱き、夫れを超越せんと
ヽヽ
して何がしら新しいものた求めんとする時には.えてして禁慾主義が出現し、共の求められて虻る新しいものと
して歓迎され易いものである。苗代末葉の文化も其の例に洩れなかつた。然し之は唯だ文化が鹿島えたり、文
化カが汲みつくされたりした結果、人間が文化に倦み疲れた食めに起る現象であつて、之は本雷の意味での禁慾
主義ではない。唯だ禁慾主義を生んだ少、受け入れたりするに都合よい背景となるのである。
最後に我々は禁慾主義の興味ある原因として苗代末葉に大きい力を振った童貞の理想を忘れてはならぬ。之は
性的生招を支配する不可思議な法則よ少して起る性慾衝動の疲労と困感、換言すれば生汚力の紳軽病的衰弱と云
ふ事に原因する。P−マの鼻帝時代に非常に拭った重点の生病は単なる虻倉的理由や単なる思想的理由からして
は詮明しつくされないのである。即ち夫れは撥愛至上主義的生汚に封抗して之を征服せん食めに、最重に性慾を
一〇三
押堕した少、或は宗教感情の興奮によつて称愛感情を満足させた♪、或は叉宗教感情を観める事にょつて性的要
基奇数に於ける費慾主義の起源
蔑骨故に於ける禁慾主義の起領
一〇四
求モ弱めたりすると云ふ理由だけでは詮明がつかない。其の背後に鱒紳控蓑顔的文明病とも云ふべきものが杭つ
てゐて、此の文明病が宗教にょって嘗され叉潔められん寄を求めて来島のである。いづれにしても童貞の理想が
這入って来ると、禁慾主義の門戸が一般に廣く開放されて、粒言の黎慾的修行の方法がはびこつたのであつた。
以上述べた様な種々なる事柄が古代散骨に於て一緒に混じ合って此虎にキリスト教の禁慾主養が出来上ったの
である。然し斯の如く種々の流れの合流としてのキリスト教の禁慾主義は何の統一も特長もない単なる寄せ集め
の如きものではなくして、何虎進もキリスト教的禁慾主義として一つの猫立した姿を持ったものである。
既に述べた様に、イエスの締膏とパウロの教へとは禁慾思想ではなくして、自然的存在む其のま1重んじない
でー唯だ最小限虔に於てのみ認めると云ふ方向をとつた。然し此の寄は直ちに此世と感覚と〓然とを水質的に叉
形而上畢的に藩又は紳に撤するものと見る事を意味しなかつた。夫れはグノスチシズムとの戟ひに於て軟骨が薯
約聖書と其の世界観を楯にとつた事を見ても明かであらう。叉、数台が次第に蹟張して此世を承認しなければな
らなくなると、軟骨は此せの秩序をば本質に於ては紳から出たものと見る様になつた理由も此虚からして解るの
である。然し此世を承認すると云っても、其の東認の程度が一般に不確かである。而して其の場合、散骨は何と
しても此世の慣億を其のま1取上げ、此世に積極的興味を持つ寄はゆるされない。黄塵で数台は、最小限度と云
ふ方向をとつたのであるが、然し此世の哀認を最小限度に下げる寄は全き否定に陥り易いのである。而も其の上
に前述の稜々なる禁慾主義の流れが手樽って此の傾向を益々汲めたのである。
かくて苗代軟骨の教父達が此世に封する悪度を見ると、成る程省一様に禁慾的ではあるが、其の根本思想は極
めて.不安定な様に見える。然し夫れは、其の禁慾主義が此世を最小限度に於て承認しなければならないにも拘ら
す其の程度が不確かであるので.或時は本営に完全な意味での禁慾とな少、或時は貰際の事情に鮭じて極めて融
通のきく、従って中途年端な禁慾となつたのである。苗代軟骨の倫理が二重の道徐を共の板木原理としたのは此
−虎に由発するのである。然し之は本常の禁慾主義の理想が不徹底となったりー、弛疾したりしたのでなくして、寧
ろ禁慾重義そのもの1中に斯如き動柿のある著その事がキリスト教の禁慾主義の特長なのである。此の事は茸は
叉キリスト教の本質に於ける二貰の方向.換言すれば、此世の秩序の中に於て紳の菩を認める
越えて紳と交ると云ふ宗教の最後の目的をひたすら求める超越取との二重の方向に相常するのである。
之を要するに、キリスト教に於ける禁慾主義はイエスの拓書からの直接の牽展でも亦ヘレニズムからの直接の
零展で沌ない。現今喜ばれる析のあの匿史壱合理化する一級的或は一直線的蟄展詮は此虎では不可能である。
今道連べて発た虚によつて明かに左るであらう様に、キリスト教の禁慾主義は古代米葉に於けるあらゆる禁慾主
であつて、北ハ虚では転々なる方向が矛盾したり乳轢したりする等比まぬかれない。Jt−ればと云
義の流れが注ぎ込んだ貯水池の如きものである。而して夫れはハルナックの言葉をかりて云へば確かに9mple・
H∈Op苫ritO召m
って我々は夫れが研一なく特長なき従らなる混合、又は疲れ嚢へて死滅し行く時代に度々見受けられる桝謂混合
現象と見る事はH釆ない。夫れは寧ろ古き材料を身麓として新しき生物をつくり出し行くlの生ける精紳の創造
的営みとして叉矛盾の中に動く統一としてZを見るべきであらう。
基督故に於ける禁慾主義の起源
本邦生窮布衣の事貸
本邦生嗣存在の事箕
加
藤
一〇六
立
智
苗代の希晩人、麓鳥人などの宗教意鼓と酷似して、日本の様に英雄偉人に紳の光を見て人間崇葬の多く
をる囲に於て、不思議にも此等の人間紳を.生きてをる中から両社を建て1祭祀した生嗣の菅例が無いと、内外
クモ
の尊者間に云はれてをつたのは、つひ此頃迄のことであつた。然るに私は之れに不凛を抱いて、之を或は
▲
考へ或は茸地鰐杢に敬し、途に匿史的に確賛だと思はれる本邦生嗣の貰例を衝き止めた扱が、今ではざつ
十にも上ってをると息ふ。今一成此に之を例記することは時間が許さないが、例之岡田寒泉︵一七四〇生−一八
〓ハ死二八一〇生開成立、常陸筑波部鹿島村下小目︶、悪幣一八三八生⊥八九l死二八七六速江磐完
’■ 於保村一八七六生開成立一八九二改築︶松方正義︵一八三五生−一九二四死、一九一九生嗣成立、大分解砲山公園
日限紳敢境内︶岩倉具現︵一八二五生1一入八三死.一八七六生同成立.宮城解名取郡増田町︶、松本滋訪︵日下生
’’へ 存、一九二三生開成立、石川解美能郡尾添村︶の如きー官吏として盛名のあつた人で、人民は途に英人格を通し
て紳格の光を認めて、此に英人間崇拝の結畢生詞を達て1之を祀るに至ったのである。而して之等は他人から
オホナ▲ナ 生嗣にされた貰例であるが、叉苗代の大己貴所の停訟に基づいて、山崎闇斎︵〓ハー八生−〓ハ八二死、〓ハ七
一生嗣成立、京都の自邸内垂加粟杜︶、松木春彦︵八六二生−九四四死、九二三生嗣成立、伊勢度合部尾部︶其他
松平定絵︵一七五八生−一入二九死、︼七九七生嗣成立、奥州白河城内、及び一八一七頃に、江戸築地浴息囲の
生嗣成立︶が自己自ら己と生祀するに至つた生嗣は、その宗教意詠が、宗教畢上白然秋期に属するものと、文明
、
教瀾に属するものとの相透はあつても、何れも皆紳人同格数的意鼓の下に、自ら自分の重岡を建てたのである。︰
以上は主として、官吏畢者と云ふ如釘人々の生嗣であるが、此に徳川時代の平民技術豪金井繁之丞︵一七五四
︵タガ︼
生−一八二九死、l七八七生開成立、下野足利市外三田村︶の生嗣があることも、見逃してはならない。彼は足
イトブッキナナゴコレ
利Q絹較物の天才であつた食め、徒勢食崇の的とな少、生前速に紳格化されて、生詞を建てられ横軸として祀ら
れるに至った。尚もうーつ附け加へて置くが、それは紳併混清の盛な時代に出奔た紀伊固伊都郡富貴村の名迫伊
●
一ヅ
光︵l六四八生−一七三〇死︶の生嗣名迫明細一である。此生嗣は一七二四年伊光七十七歳の時に出来たのであるが、
雷時同村は高野山金剛峯寺の勢力配下であつた食め、伊光の生嗣が出来た時、高野山は地蔵宜の像を下附して、伊
終に日本では、歴代の天皇は明津紳に在すのであるが、明治天皇の生嗣は既に長野顆上伊那郡小野村︵一八九
光生詞の本地俳即ち其御前憬として祀らせてをつた事貰は、見れ叉昭和末年四月私の賛城田査した結果である。
’キッ
四生開成立︶宮城解石巻港︵一八七六生嗣成立︶の二桐所に存して居ったことを、私は既に世間に紹介して督いた
が、更に私は昭和五年凹月十二日生嗣賛養の途上、駅島市草津町に於て、故小泉甚右街門氏が明治廿年︵一八八
七︶に明治昭憲両陛下合祀の一生嗣を建て1居たことを、嘗他に承知した、以上の事例は簡単乍ら口本の生嗣存
在を立記して飴あると恩ふ。
本邦生痢存在の撼t
文殊普賢二等薩の研究
文殊普賢二菩薩の研究
加
一〇八
藤・碍
紳
大乗経典には、繹尊の教化を神位して四衆を指導した大弟子の中に、殊に菩薩と柄する大路子が
此の菩薩なる者は、小乗経典には輌勒の外に全く存在せすして、革に大乗経典にのみ所躇して、其
解すべからざるものである。随て古来或は之を全然架基的の人物なりとしバ或は併弟子中の少年な
悌在世の便婆塞な少とし。或は繹尊の大定大智等の功徳を象徴せしものとし。或打法花鰹に依て﹁
秘菩撃の聖者と為す等。異詮紛紛として未だ蹄著する所はないのである。而して是等の諸詮は何れ
の根撮ありて一概に否定し去ることを得ないのである。然れども予は此の中に於て最後の﹁外税拳
の詮を以て最も原始的にして、叉濃も眞相に近き倖詮ならんと思ふのである。然らば併鈴子中の何
を似て文殊普賢と名づけたのであるかと云ふに、若し之を大迦菓波や阿緋等の内秘と観るときは、
だ困難であるが、若し之を舎利弗、日暁連二尊者の内秘と耽るときは、大に共の理由あるを認め得
但し予の研究の基礎は現今の一般彿教畢者と大に其の趣きた異にしてゐるので故に少しく説明して
る。予の研究に依ると大乗脚数は.元来大衆部所俸の菩薩戒の猫立したものであ少、叉上座、大衆二部分裂の環
囚は其の瀕を速く俳在世の諸大弟子問に於ける、相互の性格思想の相異れる所に蟄せしものと信するのである。
而して併弟子問に於ける最も相異れる性格思想の持主と取るペき希を、予は大迦菓波、封舎利弗日蓮の二大系統
であると認むるものである。蓋し大迦葉波は預陀第一と稀せられ、其の性格は秘めて重厚厳格であ石∴主として戒
律を重んじ、成るべく常散的に併敦を賛修せんとせし傾きが強かつたやうである旬随て説法教化の如.牒は其の長
所ではなかつたので、時に或は﹁極愚極鈍﹂と罵倒せられたこともある位であつた。︵有部品奈耶難事第三十一等参照︶
之に反して舎利弗は智慧第一と辞せられ、共の才明叡智は、時に或は﹁慢心者﹂とまで誕ひられた経であつて、
寄ら重きを般若に雷き、常に探く堅三昧に任してゐたと云ふことである。又舎利弗の無二の盟友であつた目時連
は紳通第一と稲せられ、其の性格は最も豪爽放胎で、共の言動は頗る紳怪を極め、主として繹定を詔んじ何塾も
冥想的に贋く俳教を瓢修せんとする傾きが強かつた。随て時に或は﹁大妄語者﹂を以て記せられたほどであつた
︵有部局奈耶箪十等参照︶然るに此の如く五に相反せる大筋子問の二大恩納も、俳在世に於ては怖陀の大人格に包容
せられてゐたから、元より一味乳水にして其の問に毒も打輸する所はなかつたのであるが、繹尊入滅の後に至り
て速に上座大衆の二大部派に分裂したものと取るのである。予の此の貌鮎に立脚して、彼の大乗経典の上に荊躇
せる文殊普賢の二菩薩は、後世大衆部の徒が舎利弗日蓮をモデルとして之を理想化したものならんと推定するの
である。其の理由としては
第︼、文殊の大智慧は、舎利弗の智慧第一に粕常してゐる。併在世の大弟子中、智慧第一は舎利弗な少しこと
詩経論の所詮全く一致して居る。然も俳人滅の直前に於ても.佃、舎利弗以上大智慧の弘子はなかったのである。
文殊華里二書経の研究
文殊讐軍毒陸の研究
︼一〇
故に櫓含三十六にも﹁我昔筋子あ少食利弗と名づく智慧の中に於て最も第一な歩き﹂と舎利弗の智慧を推和して
ゐられるのである。
琴一、文殊皇別法王子の名稀は、舎利弗にあらざれば雷らず。文殊法王子の名稀に就ては剤渓師二義を以て撰
しコ、法王子の中に於て徳、文殊を推て二、詩経の中に於て文殊を以て衆首とす﹂とあれども、元来、法主
子の稀呼は単に﹁法王の子﹂と云ふだけの意味にあらすして.賓は﹁珪王の皇太子﹂を意味するのである。而し
て併在せにて於い繹専の太子、即ち第二の併と公認せられて居た者は舎利弗であつた。.均含二十四に縛輪藍玉名
一の長子を以て舎利弗に擬し﹁汝も今長の如し、我長子として滋頂を受くるに隣少て而も未だ港頂せざれども︵巳
に︶儀法に任せり﹂と詮きたまへるが如き、又雑食二十三に大阿育王が、舎利弗の塔を供養せし時、優波堀多が
﹁是れ琴一の法王なり︵併に︶随て法輪を博ず﹂と答へしを以ても知るべきである。
第三l文殊を開の師な少と辞せしことは、併弟子中、舎利弗日蓮以外に和宮すべきものなし。放鉢檻に﹁併は
本、文殊の教化する所、功徳を作して︵繹尊皇成併せしむ。何を以ての故に俳の前に在り七成併せざ少しやの疑
問に封して、文殊は深く菩棍に入り廉く衆生を化するが故に未だ道を取らす﹂と答へ玉ひしが如き。叉出曜攣一
十に﹁我既に師保なしとは、五暑逝の後に嘗に比丘あるべし、稗へて文殊師利は繹迦文の師と言ふ。彼の狗濠を
除かんと欲するが故に我既に師保なしと詮く﹂とあるが如き、文殊を以て秤昏の師な少と言ふ倖詮のありしこと
■
を詮するに足るのであるが、之を俳誌世の大弟子中に求むるに舎利弗日蓮の二尊を以て樺合着の師な少と誹誘せ
し外道ありし外、他に之に類似するものあるを見ない。婆沙第首四十三、百九十−に﹁謂く外道恒に俳を辞して
白く、沙門喬答摩は郎波蔭抄︵舎利弗︶倶履多︵日蓮︶を摘受するが故に夜は従って法を受け董は他の為に詮く﹂と
あるを以て之を推知し得るのである。
第四、文殊の内密たる般若皆基の思想は、舎利弗の常に璽二味に任してゐたと云ふ経文に吻合す。均含四十一
に、﹁爾の時に併、舎利弗に告げて白く、汝今諸棍清浄にして鞍貌人と兵力あ少。汝今何の三昧に遊ぶやと。舎利
弗、陽に白して貫く、唯然少世昏、我恒に客三昧に遊ぶと。併、舎利弗に告げて言く芋哉尊哉、舎利弗.乃能く基
三昧に造ぷ。然る所以は諸の基三味を最も第一とす﹂と詮き、叉婆沙百四に、﹁間ふ何故に俳、基三摩地は見れ上
座の任虔と挽き玉ふや。答ふ上座は多く此の基定に任するが故な少。乃至、舎利子は見れ第三功徳の上底な少、
亦多く基定に任す﹂と云ふが如き、舎利弗と般若常客の思想と契合す所あるを知るべきである。随て如聖二昧経、
大賞積紅百五等に在る、文殊、利剣を執て樺舎に迫るの説話も.若し之を舎利弗の大基智創より来れる一雨塑と
粧るlこあらざれば.到底之を解することを得ないであらう。
第五、普資の大行は日蓮の神通力に依るにあらざれば之を賃修することを得ないのである。普賢の内証は具に
華厳経に説くと堆も、炭汎にして約言し難く.之を文殊の内澄に比するに研か捕捉しがたいやうであるが、且く
其の名辞より之を見れば資首の繹に﹁徳法界に周きが故に普と云ひ、善浄に帳するが故に賢と云ふ﹂とあり。叉
尊無長の繹に﹁普は是れ遁一切虚の義、賓は見れ最妙尊の義﹂と云ふを以て之を推すに、普賓の特色は十方世界
00
00
に夙過して最妙寺の修行を為すに在りて、文殊の甚探に封して普賢は廣大と云ふべきである。故に葦厳に謂ふ所
の普賢の十大額も亦此の庚大の意味を以て解持すべきである。射ち敬密語俳と云ひ、稗讃如来と云ひ、廣修供養
文殊普発二菩薩の研究
サ︰殊菅異二菩薩の那究
二二
と云ふが如き、何れも単に此の︼三千天千世界の教主たる繹偉のみに封する敬建、碗蓋、・供養にあらずして.普
く十方世界の併土に往話して、床く無遼の諸俳如来最盛し鵜暮せんと誓煽するのでサ凍っ祭昌十方世界に建
−
来して諸悌を碑讃し供養することは元より融通の力に依るにあらぎれば不可能の軍であ高から、l若し丑の寧き入
物を励弟子の中に求めんとせば融通第一の日蓮を措いては他に存しないのである。・
第六、文殊に喪心し菅賢に詮果す︵華厳脛︶と云ふことは、合判弗日蓮の後準を指導せし事跡に酷似して居るつ
中食七には﹁舎利子鹿丘の諸の発行者を生ず曽︶とは猫生母の如く、日蓮比丘の諸の梵行者を長委すろことは奇
書母の如し﹂と云ひ、野合十九に﹁合判弗比丘は衆生の父母な少、生じ巳れるを長委して大ならLむろ者絵日蓮
比丘なり﹂と云ふに一致するのである。
節七,文殊の師子庭に坐し、普賢の香象塵に坐することは、舎利弗日蓮の絞淫桑琴時の所入の三味に符合す。
婆沙百六十二に﹁舎利弗、般浬盤の時に獅子奮迅等至に入少、日蓮、股淫楽の噂に香象嚇坤等至に入る﹂と参少
叉埼合十八にも﹁舎利弗、般浬嬰の時に獅子奮迅三味に入る﹂と設けり。是を以て或は単に偶合なりノと一笑に付し
去る者あらんも、予は二筑所入の三昧は、己に有部の諭戒にも停はれのこと前述の如くなれば、大衆部の末社にも
亦其の倖承ありて、二帝人城常時の三味を象徴して、文殊普賢に配するに獅子撃と香毅産を以てしたのではない
かと思ふ。
賂少に臨みて一二の硬間に答て置く。有人日く普賢には延命法ありて、目連の打たれて急死せLと葡聾せすとっ
然れども埼含十八等に依れば日蓮は入城の時に臨んで﹁我れ四所足を修習せしが故に仕事癒致せんと欲すーれば亦
得べしと錐も、今日世幸久しからすして常に般淫桑を取るべし、我れせ告の放漫奥と取るを見るに忍びす。我今
般提琴疋取らんと欲す﹂と告白せしと云ふを以て之キ取れば、目迎は己に留拾寿行に白布を得.て居たのであるか
ら日蓮を以て延命法に全然淡交渉な少とも云ふことは出来ないのである。
又日く、文殊般若等の諸粧に文殊と舎利弗との問答あり。是れ、竜に文殊を愴利宛わ理想化なりとする本研究
を裏切るものにあらすやと。答て日く焚嗣控等には鹿渡郵併と繹迦牟尼併との問答ありと雉も、最速和解は繹迦
併の理想化な少と云ふを妨げざるが如く、生身の舎利弗と法身の文殊とを封立せしめたこ七も亦足れ経典作者の
一書巧とも見るべきではあるまいか。以上は略して予の研究の結果−雲報告したのであるが.委しくは﹁大正大鰐
畢報﹂海六故以下へ連戟する濠定である。︵完︶
支持芋異二苛鎧の研究
畳生心理畢よサ見たる宗教灸の問題
螢生心理学よう見たろ宗教史の問題
城
戸
幡
太
郎
宗教の心理畢的考察は、これ室一つの方法に置別して考察することができる。一つ峰宗教の記述心理畢的考察
或は宗教意散の現象皐的考察であ少、他牲宗敦の菅生心理堅的考察或牲宗教生活の歴史堅的考察である。宗教の
ヽヽヽ
記述心理墜的考察に於ては自己の経験に於て宗教的なるものを意識することであつて、それが自己の経験に基く
限少、か﹂る方法によつて意識された宗教的なるもの1本質は一般に宗教を理解するための壕定概念或は鍵であ
って、これなくしては考察をす1めることができないのである。しかしこの概念は他の種々なる宗教経験音痴解
してゆくことによつて認容され得る概念であつて、決して先験的に愛嘗し得るが如き概念、ではない。即ち吾々が
ヽヽヽヽヽ
ヽヽ
一般に無駄を虎理してゆく研究の立場は、絶えず新しき立場を蓉見してゆく方法の豪展である。か1る研究の立
場については既に﹁現代と宗教の問題﹂として﹁宗教研究﹂新第七巻第二故に蟄表してあるから∵ゝで詳しく述
ヽヽヽヽ
lベないことにする。要するに宗教意論とは現葺には存在しないが.現賛の存在たらしむることのできる貰現の可
ヽヽ 能性を信することであつて、一般に宗教の封象として考へられてゐる紳といふ概念の如きも要するにか1る可能
ヽヽ
性の認容︵巨宮︶を示した一つの意味に過ぎないのである。如何なるものを筆硯の可能性として認容するか
ヽ︳
︳︳
にょつて宗教の性質は臭ってくる。そしてか1る可能性を規攫の存在となす方法が宗教的行儀即ち儀慮︵内己冨︶
であつて、か1る儀絶を行ふものが宗教的閻惜即ち敢闘である。故に宗教の封象としての可能性の認容は偶人の
︳ヽヽヽ’ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
主親的慌力む超越し、宗教の方法としての敬圏の儀紐は偶人の箪猫的行鵠を超越んてゐねばならぬ。故に宗教は
珊論的にも琶躁的にも偶人を超越したもの1襟視力の認容であるといふことができる。そしてか1る嘗視力が如
何なるものとして認容され、従ってまた如何なる方法によつて驚現されたかを考察することが宗教史の問題であ
り、それを研究する方法としては蟄生心理畢の方法を疲らねばならぬわである。
萄生心理畢の方法には較々なる見方があるが、田舟はこれを次の如くに考へる。即ち一個わ生物が刺戟に封し
て反騰をなす時、同一刺戟の反覆が反鮭の形思を欒化し、又は刺戟の欒化に應じて反鯨の形悪に欒化を生じ、而
もその奨化が一定の固執性︵勺eT詔邑註On︶或は習性︵H賢t戻︶を衣はす組扱︵Org邑s註On︶を形城するに至る
ヽヽ
ことを一般に哉生と椚し、か1ろ竣生を刺戟と反應との関係から考察するものを牽生心理畢と稲するものである。
ヽヽ
ヽヽ
▼ヽ
今これを彿歓心理拳の言葉で衣はしてみると、生物即ち人間は踵子を成する存在で、この種子は外界の刺戟にょ
って禁句され柴典を生する異熱である。そして俳敬ではかゝる菜を人間常の原因であると考へ、これより解除し
て俳性を得ることを目的とし、その方法を種々に考へるのであるが.か1る修糞の方法は人間の宗教的行成でお
ヽヽヽヽ︳
って.それを心理畢的方法であるとすれば、か1る方法こそ教育心理畢とか産業心理拳とか糾せられるものと同
様に宗教心理畢と糾すペきものである。少くとも篭生心瓢箪の立場から見た宗教心理畢は際用心別拳或は檻践心
珊畢の一郎に過ぎないのである。而して應灯心即興には人間精紳を取扱ふ一定の口約がなければならぬ。宗教心
腐生心理拳より見た.る宗故たの問題
塗生心理拳よ里見たる宗教史の問題
二大
坪革は宗教を目的として人閑精油の教生を研究するものである。そして研究恕が口約とする宗教の意義は宗教意
識の現象箪的考察にょって柑たる立場に基くものであつて、その立場の刑法にょつて“〟法は興ってくるのである。
基数心理夢は基潜の立韻から、俳歓心鱒蓼ほ沸教の立場から考察された特雛の宗教心華畢である。故にもし宗教
J
的なるものを偶人を敵地した賀視力の認容であると考へる牢bば、これに基いて宗教の牽生心理嬰的考察をなす
場合には、宗教生病者或蜂宗数的行雷者宅二つの條件から考察して彼等の生踊形憩に於ける宗数的性格の特殊
ヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ■
性を理解せねばならぬ。そしてその二つの條件といふのは、一は般等の客取約條件であり、他ほ主観的條件であ
ヽヽヽヽ
る。希釈的傑件とほ宗教的意識に於て超個人的力を認容せしめた彼等の生所傑作であり、主観的倣件とはか1る
ヽ︳tヽ
ヽヽヽヽ 力を認容する彼等の意識健件であ.る。従ってか1る燥件によつて認容されたものは紳であつても併であつても、
それらは少くとも蟄生心理拳の立場から見れば、宗教的生前者の行動によ・つて表現された彼等の意識形態或は観
念形怒又は思想形態に過ぎたいのである。偶人を超越して存在する力と考へられたものは蟄生心珊堪的に見れば
何人を超越しては存在し得ない偶人の意致形悪に過ぎないのである。
然らば如何にしてか1る烹識形悪は形成され、また形成せしむることがで号るか。この間題を研究するのが蟄
生心理蓼の方法である0その方法としては先づ彼等の生帝保件としての刺墳概念を明かにせねばならぬ。そして
ヽヽヽヽ
かゝる保件は刺戟として鷲際に使用することのできる存在でなければならぬ。吾々はかゝる存在として自然と人
ヽヽヽヽ 問と文化との三つの存在を区別して刺戦債件とすることができる。そしてかゝる意味での文化とは、人間の思想
ヽヽ 形態が自然を殊介或は手段として表現された事物である。故に自然と人間と文化とはその存在の仕方から見れば
ヽヽ
ヽヽ
ヽヽ
ヽヽ
自然的物質と人間的労働と文化的生産とであり、この三つの條件によつ宗教生活者の行偽モ規定して考へねばな
ヽヽ
ヽ︳ヽ
らぬ。白黙約物質に封する生活者の原始的宗教恵良は一般に光力として認容きれ、人間的草拗に封する腰度は一
般に君主として認容され、文化的生産に封する悪疫はタブー或は戒律として認容される。そしてか1る原始的認
ヽヽ
容の内容が欒化する條件は生活傑件と烹識健件との関係であつて客観的賓説の可能性を信する主観の認容が現蜜
に彼等の生満催件によつて姦切られた時、始めて彼等は彼等の認容を軍化せねばならぬやうになるのである。兇
力思想の窮境は光力の信仰によつて彼等の生活的要求が裏切られたためである。君主に封する組封の信韻が彼等
鞄坐心理摂一人り見た■か小.小数史の問題
ヽヽ
せしむることが必吏なのである。人肌は彼等の生爵偲件の正しき認適によつて始めて彼等の認容㌢碓め信ずるこ
故に竣生心印箪の方法は人冊の表現的俵件㌃・挺零せしむるーだめにその客観的燥件を凡ゆる方而から援騎的に認識
の暦駿によつて吾々の認谷が吾々の生満モ姦切るものであるか何うかを瑞賢に暴辞することができるのである。
ヽヽ
軍記するためには生粥俵件を凡ゆる方面から碍璃に筏瞼することが必要である。吾々は吾々の生活像件について
ヽヽ
る苛のできるためには町に彼等の認容がその生活保件によつて軍記されねばならぬのである。そしてその認容な
する時には恒にかゝる反抗と追啓との関係が生する。そしてか1る開成によつて新し軍認容が囁い認容を克服す
って衣はれ、反抗は恒にそれに封する、迫撃を件ふのである。一定の認容が否定されて新しき認容が成立せんと
ヽヽ
なければな㌧なくなるのである。そして認容の欒化は先づ意識形悪としては慣疑として表現され、終に反抗とな
ヽヽ
のタブーや戒律に封する範封の服従が彼等の生活的要求を裏切る時、紋等はその絶封稗力に封する認容を欒化し
の生活的要求を裏切る時.彼等は君主の絶封支配械に封する認容を撃化しなければならなくなるのである。彼事
.
死生心鱒畢より見た−三郎敦史の問題
とができるのである。
帥歓心即興の問題は人m生新の正しき認識であつた。しかしその結果は人榊生前を異なる.生老病死の菩と考へ
たため、これらより仰配する方法としては繋の原l月である意慾を滅却して〓然に還らねばならなかつた︺彼等の
生餌には奴隷としての洗骨箸の茫鹸を炊いでゐた。彼等の俳教は支配階級乃至インテリゲソチャにょつて考へら
れた宗教であつた。しかし現代の印度人は英国人に封する被支配階級の民族として労働に菩んでゐる。彼等の人
間生餌に封する眞諦は今や襲革されねばならぬ椒遇に相過してゐる。ガンヂーですら彼等の生所管が彼等の挺済
生活にあるといふことを悟つてきたのである。そして彼等の滑槌的無抵抗主義の認容性彼等の生荊を姦切るもの
であるといふことを覚ったのである。俳敦はやはり日本人にょつてゞはなく、印度人によつで革命されねばなら
ぬ運命を持ってゐたのであらう。そして彼等をしてかくせしめたものは持迦の説法ではなく,彼等が現華に経験
した彼等の生活催件であつた。紳が人間を造ったのではなく、人間が紳を遭ったのであるといふ命題は、現代に
於ては宗教が生餌を規定するのではなく生餌が宗教を規定するのであるといふ命題に移して見ることができる。
ヽ︳
tヽヽヽ 費生心理畢より見たる宗教兜の問題とは、要するに宗教の生餌欝打法による宗教革命、従ってまた統合革命の問
題である。
備考
黒任教成立素因之−也−1
神社宗教閲係事項一二
−
黒
佳
鼠
武
文久二年宗息紳紐鎮座於京都市上京要田町紳諾譜詔那銅銭票請謁雫新妻内天照皇大紳宮璧
天照大紳等親室孝也成童自立底面之志金手青年覚悟知崇於心不行於身則以禽紳莫
英諸宗蛸講議席惟教組宗息之人格孟日進月歩覧月人倫愈篤感化弘苧世蓑後経過十数年事以陶奏
宗息天性正直藩仁深信
天照大紳天秤地祇組先衰批而従容供死実然心東銀静黙然清明也以念
軍反求正心跡諸藩断然不行之如一日英文化九年之秋悲父母之死得疾文化十一年一月十九日軍師以食寿限心
死而自誓可馬前以救済世人鳥永訣葬
悲父母Z死傷心罷帝而眈不能橙焉父母膵幽後正二年殊不料所以苦父母之邁鰹反重不孝之罪共鳴吼亦不蔑乎如今則
天照大紳世相天地生々之棄械真宗
天照大雨陽気撤干肋間恍惚春陽発心友照朗透徹陽戴生々蕩鬼
以無有可雄之這而只有一呼吸之聞宜萎心焉耳乃従心揖之特化玩味見聞感情天恩而湧熱感謝之至情起焉惜貞
遽不死迫日之回復英三月十九日沐浴斎戒拝
名状渾然一興紳也直愛護異両横年之病治夫十一月十一日冬至之且吏挿
二九
紳徳定日常之規蔑七簡保而少時之立志漸成美明治維新国家多事敢倉卒相亦多端也集圏活動輿国民的活動一
紳醒乗数踏森恵元一ニ
神社宗教関係事項一二
一二〇
両社合国家不離之軍相輿宗教笥相共黎動流行両帝原焉黒任敬之棍基亦随両前戒英明泊十八年宗忠紳敢率直於備耐
天裁而又以可見現今神社司宰在於鎮位教職寄之範国英笥藍紳鞍講釈蹄係事項也而塾梓
図御津郡今村大字上中野誕生地是所以率由子太政官品轍鮒新語諾郁哩迂之霞輿宗忠人格達成墓情国家允
可之寄情共倶其原由布干
正合致千信仰之道徳的方南以食害曾之研究問題英抑惟紳之消政紘一致信仰道徳之旨深厚也一新内外節子皇化以降
主定国家ヱ典患人道之乾式而教化具備焉人克遵奉天賦修習串間抜垂略勒桑折尊貴権利確守義頴可以縄通輿禽両雄
立脚性是別人格蒋動之道真然有人晶之別不菅有男女老幼自然之差而己則如身鰭之焼香教習Z高下見開之大小贋狭
経歴之有無長短亦蜜存所以使人因努力吏其所改共晶上着而千差寓別也乃可見偶人之素案信仰也帝不覇褐立位之自
立自存他日本関闘以来慮存悪道徳他者淵源胚胎干信仰而来由明故英法他者関野E−−以次序成立価叉囲依子道徳或籠
道徳
法律
之範式央食草間探究之格法所施千欒萬化欒化無方地誌之則
信仰
也相互叉交互鵜考重恩葉書心伸張畿展而敬軍人成就孝夫索又可不忠哉
故
木
部振傍敦に発ける紫朗上座部の地僅ミその
宗義の定め方
∴
村
泰
賢
近時、併敦研究の進捗に伴ひて、部沃係数に封する考察も亦.盛なるに到った。乍併.各部派は相互にいかな
る交渉と関係とを持ちながら、その塾へる形にまで進展したかの経過となれば、未だ判明ならざるものが抄くは
ない。
蓋し、各部次の停へる部沃素岡なるものは、何れも展の歴史的系統を示すものではなく、寧ろ各部次が系園上
最も高き且つ宕き地位を占むること◆〆誇示するの意励が鋭く作用した結果として案出されたものであるからであ
る。殊に従来、郡汲流出の次第を明にする唯一の琵であるかの如くに考へられ来った異論宗輪論の如きは、その
汲も甚しきものである。之は全く詮一切有瑠の槽戚を恵むるの手段として編成きれたものなることは、少しく批
判的に之を研究する人の何人も容易に気附き得べき研である。加ふるに、之は私が他の場所で歴々論じた所であ
一ニ﹂
るが、各部波の立脚地なるものは、決して初めより確定したものではなく、長の年月を経る中に、各々の問にか
印綬僻致に於ける分別上座郡わ地位とその宗葦の定め方
市況悌政に於ける分別上座部の地位とモの宋義の定め方
一二こ
な凱の蟄連欒遽あー∴而もその牽蓬髪遽に際して、各部沢の問に相互に反撥もあれば交渉もあぺ影響もめりて、
次第に親日の方向に大成したものであることは.寧ふべからざる事賛である。異部宗輪諭に紹介された各部次の
宗義戦の如きは・私見を以てすればー怒らく大鹿婆沙論︵A・P監︶以後に於ける固熟せる部沢的意見を紹介し
たもので−断じて各部沢の宗義は初よりあのやうなものではなかつた。従って眞に部沢俳敦の瞥蓮を研究せんが
蕾には・偉要は勿論姦の荒として参照しっゝも、必ずしも偉観的に拘泥す急ことそ、寧ろ各部波各自
の立脚地を明にすると同時に、各沢相互の問に於ける思想的関係皇呼ね、以てその連紡と開展との次第を明にす
るの必要がある。勿論l琶際をいへばこはかなりに閣難な寧菜であるけれども.ともかく部沢併敬研究の方針と
しては、息をこの鮎に致さねばならぬことだけは、飽くまで聾者の認めねばならぬ所と思ふ。
〓
所で、然らば右の見地よりして部浜併教はいかなる順序で蟄達したかといふに、勿論、その一々を︼ゝで追随
︵観念論的立脚地︶
︵寛在論的立脚地︶
することは困難であるけれども、私は極めて大雑把に、えを次の如くに観察してゐるものである。即ち
叫大有部衆又部は系墳の子語部族系の諸涯
根本上座部
である。従つて部繰俳敦を研究するには、党づこの板木上座部のいかなるものなるかを明にしてかゝるの
党決問題であらねばならぬ。異部宗輪論は所謂、雪山部を以て之に擬したけれども、之は勿論、信用し得
であるが、私を以て見るに1−勿論制限附であるけれどもーー南方上座部の宗撃殊にその七論に宋はるゝもの
はや1之に近いものであるまいかと思ふ。
である。
の両面あり、而も両者相供って初めて完全に近い宗義が得られやうと思ふ。
積極的方法とは七論中論事︵欝t㌫⊇古色のiを除いて他の六論と井びに無碍蚤論
筑波沸教に於ける分別上座部の地位とその宋義の定め方
宗義を唇めることで、更に少しくだけてはゐるけれども之にミリソダ三間経∴買−監首邑・。の詮などを参照して
︵謬t⋮夢邑Fid罫m虎gp︶の
然らばこの南方上座部の立場をいかにして、決定的に定むペきかといふに、之には鎮極的方法と消極的方法と
三
怪むのは私の知れる限りこの見地よりしたる南方分別部に関する研究を試みた成績が一つも家はれてゐないこと
は、何はり先にともかく南方波の確定的教理を定むるの必要あることも亦改めて言ふまでもない所である。たゞ
と同時に亦簡部沢中に於てその食も古い立場を代来するものと見てゐるものである。従って亦部沢件数の研究に
たものに外ならぬと言ひ得べしと恩ふのである。この意味に於て、私は南方の分別上座部は諸部浜中の随一なる
至大衆部の恨名論の如き、特殊的意見の著しく衣はる1ものなく.挺詮にある法相を而も表面的に解繹し整理し
一項的なるものとなつてゐるけれども、その宗轟内容となれば有部の三世賓有論の如き、墳子部の有我論の如き乃
趣いからである。即ち七論に表はる1紳拳的意見も種々の法義を整理し分類し解辞する上に於ては経詮以上に焼
根本七徐にょる限n比較的素朴で尼珂耶︵甥芹ざp︶及び律以上に出づると思はる1特殊的意見なるものは極めて
蓋し、南件の所謂分別上座部なるものも、今の形に整ふまでには超々の髪遽を艇てぁるけれども、その宗義は
、、
部況傍故に於ける分別上座部の地位とその要撃“定め方
軽々の方面よりその法相論を見ることである。
、
消極的方法は諭寄︵雷tF雪l邑lBを利用して南方上軽部波の非とする主張を調べて、その積極的宗義の限界を
定むることである。蓋し論事は何時頃、何虚で製作されたものであるかに関しては、異論聖挟むべき故地がある
としても、ともかく分別上痘部は之にょりて他流と白沢との限界を定めんとしたものであるがら、たとひそこに
は、白波の横板的意見む鍵出せぬとしても、之によりてこの次の許さぬ教理を知久之より′むの裏面に渉少て、
本流の輯極詮を知り得ることになるからである。而も論事はこの中に部波併教問に取扱はれた粒々の重要数理を
論じてゐるので共中に衣はる1題目だけを婁理しても立沢た数理論を組絞し得べき瓢に於て︰分別上座部の教理
を定むる上に於て絶封的に必要な材料であると同時に、論革む利用することは亦絶封的に必要な方法であらねば
ならぬ。黙らざれば、他の論害にょりてぉぼつかなくも木沢の宣揚を想定した所で.更に進んで、その立場より
或る恕の珊論を生み出すか香かといふことになれば、之を制限的に定むる方法が存せぬことになるからである。
この意味に於て私は、率直に云へば、分別上底部の完義を定むるの第一傑件は先づ論事にょセてその非とする
教理を定め、然る後にこの積極詮を調ぶべきもので、而もその積極詮なるものは、盈嗣伽論︵≦bぎ一gp︶を中心と
して、之にミリソダ王閉経などを象照することによつて、大麓の見雷を得べきむのと隠信してゐるのである。
・かくして得られたる結果は輿へられたる尼村耶以上に多く田づる所なき、或る意好からすれば穏健詮たると同
時に、或る意味からすれば平凡なる詮となることは言ふまでもない所である。併し特色ある諸部波の主張に封し
て、基本的標準を定め鉛る鮎に於て、宗輪論が布部宗義を棟準として諸都政の特色を見んとしたるに封して、−
骨笹締約に意義のあることであらぬばならぬ。これ私が−−一見すれば斯峯の専門家には分り切つたやうなこと
で、而も未だ何人も試みざる研究方法をJゝに提唱する所以である。
帯状鱒警於ける分別卜︰座部の地位とその宗義の定め方
反抗鬼︵∼︶イエス
丸
基督致起滋の唯物史観的考察に就ての反省ii
反抗兄︵?︶イエス
一
,
川
亡
夫
−
丁
に乗って見直し二方パウエルが聖書の批判と共に基督教が過去に負ひ周囲に取巻かれてゐたユ
・チエービンゲソ波が聖書の厳格な極端に過ぎる批判を行ひ、シュ!フクスがイエスの生浬をかゝる新しい潮流
よし積極的にイエスを抹殺しない・までも、イエスなる人物の存否に就て顧慮を沸はないなら
いて碓鷺な報告を有する原始教固から田聾しなければならぬ。
い。﹂︵カクッキイ、基督数の成立、岩波文庫二〇買、基督敦の起淑.英詩三二六頁参照︶といふ立韻に立って、
新たな構成物が如何にして出来上るに至ったかを究明するといふ任務以外には、他の何れの任
これらの諸要素が相互に作用しあひ、解醍しっ1ある化合物や新に出来上りつゝある化合物やの喝沌の中から.
した時代との関係に於て見−二==してを少、その時代に関しては我々は充分に盤督を受けてゐるり歴史家は、如何に
い意義しか持たない。我々の持つ′てゐる彼に関する報昔は不確鸞である。然し・享我々は基督敦を.それが成立
﹁巷敦を世界史的現象として解苧ること雲の任頴と認ある歴史家にとつては−イエス訂る人物は比紋的軽
†
ギリシて.ロマ的要素に封する研究を世に一※・して後の前世紀の末頃、新興稗革の誇私有ち.且宗教秀光の傾向を
和するマルキシスーが、か1る析究を机輩鮎として〓豪勢兢申のものとしたのは常然である。イエスの外用的史
料は貧弱である。内部的史料は上述の如く擁備にたで片隅へ糾しやられた。史的正確を欲するものには原始敢闘
から揖輿するが最も常を得た葦であつた。
然し.外部史料に奨化はないにしても、勺如兜料の討捨は大に妙た進めてゐろ。﹁新約聖評の巾で、チエービン
ゲン沢が非樵史的なもの訳しくは慣逃せられたものL′一して斥けてゐろものはすべて、科準にとつては確定的に問
題になり柑ないものと廿撤し得る﹂;ンゲルス、原始基軒数史ポ、⋮れ波文相一七貞︶と言っては済まなくなつて
ゐる。勿論請い史料でかる以上、紀榊碓盗作た保・肯し難い弗は敢てこのイエスの帖にのみ限ったことではない。
そこで私は、こ1ではーー制限された軒数の篤にー1唯イエスだけに就いて者察しやう。原琉歌閻に閥しては
後の柁倉に謀って−−−−㍉
一つの封象をカウツキーの﹁基督教の起源﹂の巾にとらう。彼注史料を討掠し、イエス史料の貧弱なるを述べ
彼は酢曾的
党づm一に駄げるのはり芹㌘︰である。
てはゐるが、然し兎に角イエス白身をもー旺問題にしてゐる。竿bば如何にイエスを見てゐるか?
反抗兄、郡命家としてのイエスを見てゐる。−i如何なろ根披から?
﹁罪人を招かんとて氷る﹂といふ郡である。又ソ︻ニ○雲=ILk−㌔声︵これはt−訳料である。iI竿n2C打−ぞ象旨=1乙
若d5Jes一一︶。メシアの到来は暴力と結びつけGれりU。ロマ覇州の覆滅は哉戟やの熱狂に期待される.︵英澤p・父㌫︶
別にょろ反抗! それがイエスの宣柑であつた.ニjtから最後にイエスが深・揖あるクー.−丁クーの吾行にとりか1
反抗兄ハ?︶イエス
反抗兄︹?︶イエス
一二八
って速にユダの婁切少にょり稲はれたと云ふ。即ち、:サレム御殿円にイ芸の揚超した随動︵旨︼−−■・﹃
室こぎ払−”H計−ぎ〇にょつて民心の支特を認め、最後の闘争への支度として弟子達に戟ひの用意として武器を
求め︵詩的N苧邑、而も遽にオリブ山に於て逮捕された等︵芳−倉乳∵上等=讐訂f・Ⅵ冒ぎ00ご。
こ1には先づカウツキイが探って以て論接とした右の記事それ自身に裁て考察しやう。カウツキイの晋ふが如
くんば、イエスは愈々の場合に際して鈴子達に武器を求め、而も二振の創で満足した。イエスは︵カウツキイに
・j
よれば︶紳の子でもなく魔勧着でもない、が然し組締着として代表的闘士として中々優れた人間であつた︵p・び
諾︶。が要するに人間である。その人力以上は有たない彼が、如何に紳殴に於ける思ひ切った行儀にょつて人心の
支持を確かめたからと言って、愈々立つに際しか1る僅かの武器で満足出来たか。それは探鮭あるクーデターの
苦行者イエスとして飴りにも現賃の認知不足ではないか。叉オ,ブ山義足地とした塾の重安さも︵p・岩代・参
照︶カウグキイの引用するヨセフスの記事と封象してみて、イエスの従へた比較にならぬ少人数は、この地の利
を利用するに却って滑稽の感さへ超さすではないか。叉ユ▲ダの裏切がクーヂクーを前提しなければ理解し
いふ事は常を得ぬ︵この反駁は略す︶妥最後に、イエスがクーデクーを企てなかつたとすれば、逮捕の際武力に
反抗したイエスが捕へられて、武力を振ったペテロが捕へられず、而もペテロは後に穿きの庭にしのび込ん
たといふやうな請は矛盾に過ぎて貰に滑稽だといふのであるが、イエスを捕へる動機の詮索は別として、イ
がその際武力に反抗したといふ苓は、最も原資料であるマコ停の記事と他のことを比較してみれば、カサツ
の如き研究悪疫をとるものにとつては雷然保留すべき事である。叉ペテロが如何に行動したといふ等を、こ
場合に限ってヨハネ偉から引用する必要がどこにあるか。こんな資料の取捨をして矛盾を大きくする必要は少し
もない。−それから、イエスの逮捕後弟子達は逃げた。逃げ・たのはよいとしてもか1るクーブターの嘗行者の
腹心としての彼等は果してその後如何なる悪疫に揖たか。イエスが時来れ少と見て愈†立った−−とカウツキイ
の云ふ ー 程強い支持を輿へた民衆に封して弟子達は如何に働き懸けたか。彼等は如斯首領の股肱たるべきやう
な行動は少しも示してゐない。そこで簡単に、寄蜜カウツキイの言ふが如くば、イエスは琶に択りにならぬ、自
己の尿意を理解しないーi彼の言ふのとは別の意味でこの事は認められるけれどもーー∴反抗的執情のない少数
反抗兄︵−︶イエス
められる︵詳細の批評は略す︶。
それは寵に飴りにも
カウツキイがイエスをドシキホーテと見たならそれでよい。然し彼は一
める司の物語︵岸−ぎハ=巨財−声試世呂二重丸︶等、イエスが少なくとも貧者に特別の好意を示してゐた寄は認
ス白身に就ても考へ得る事である。即ちルカ俸に於ける山上の垂訓︵ぎl已、ラザPの話︵F打−ぎ〇、或る富
叉カクッキイは階級的憎悪に放ていふ。それは主として原始敦圏に就て言はれてゐるのであるが、これはイエ
るならばっイエスが単に所謂社命革命の企陶着でなかつた寄は明かである。
前に掃って、先に畢げた罪人云々の記事も反抗の火を燃やしに奔たといふ記事も、少しくその近くの文字を見
方でイエスを憧れた闘士、オルガナイザーとしてゐるではないか。か1る矛眉した立論が許し柑やうか?
惨めなドンキホーテではなかったか‖
−−そんて常時の強い勢力に封してクLhクーを密行せんとしたのである。如斯イエス!
の弟子達を連れて,僅かの武装に満足して、そして直ぐ後にはきれいにイエスを茸った民衆の支持を確信して、
,
炭坑宍∼Yェス
山∵−○
これらに就ては、それらの言葉を恵めると同程度に於て他の多くの究黙の記瑚を省みたけれ.︰望は・hない。︵例へ
ば、基軒数研究五巷二批、恵‖氏の論文参照︶
結局イエスは、カウツキイの言ふが如き耶級的憎悪に燃えた酢命的反抗兄.革命衰で比なくて∴義家で比な
かつたか。イエスの起した運動は、現代の言葉で解されるやうな軋令室琴比圧墾圧お前運動でほなく、叉そ
時に捗って璧企てられた白粥メシ7の政柄的反抗運動−規整にする1カウツ阜イの催すろやうにー一週射
ではなくして、遠かに骨川い悲昧で宗教沌動であつた。戒程イエスは反抗した。革命た企園したじ然しモれ
背後に常に紳がありー紳の閥があつての邦でありわ。共荷主童に立つ物質的率締、それが基礎拙論たなつて
憎患を燃やし、武器にょる政橙の奪取を試みたので托決してたい。逆に、彼の宗教的想戊こそ、永遠の丹高
の観への怖憬こそ、不義に宵む前者への憎悪ともなり、共琵的な方面への指先とも︵IL=ぎーぎー00冬草︶
なつたのである○ハルナックの難する如く、﹁宗教⋮⋮の熔史は∴叫に只被ひ乃至比化粧に摘ぎない、何れ
を問はすその背後に軽折史が撲ってゐて、これのみが眞吾であり.原動力である⋮⋮と断定する﹂ことにほ遽に
同意し難い釜軒数の本質︶。宗教・虹箪に被ひでなく化粧でたく、一てれR身一つの力であ少、倍従の軋命的悪疫、
物慣的生前にも影晒するっ
凄するにイエスはカウツキイの云ふが如き反抗見ではない。宗教家であつた。然し宗教家として鷲に勇敢
抗見であり、倍大な革命家であつた郡は認めなければならない。而して常時ユダヤの宗教は緊密に政治と結
てゐた。宗教家は大惰に於て上流附級乃至はそれに次ぐもの、それに附腿するものであつた。従ってイエス
って試みられ牽宗教の革命は、必然的にその随従者を低きものに得∵−1に階級的闘辞ともならざるを得なかっ
た。単に現世にのみ目的を有つ﹁救ひ﹂の遅効ではなく米世に目的を有つ﹁救ひ﹂の運動ではあつたが.現世に
於ナ二の被腰迫階級解放運動としての形をとらねはならなかつた。イエスの高い透徹し
に配合生産機構との聯閲に於て指示する寄は難いが、然しそれが蟄露し、一の配合的の
時、既にその封者が常時の経済、政治組絞と緊密に結びついた宗教制度であつたことだ
碍賃的制約、決零墨けなげればならなかつた事を指一ホしてはゐまいか0−然し、こめ問題の詳細な論符はこ
の小柄の蕃し得るところではない。
反抗見︵∼︺イエス
宗教的紳秘家に於ける教義の問題
宗教的前秘家に於ける教義の問題
檜
一三こ
谷・文
宗教的紳秘主義は、その本来の傾向のうちに、宗教の理性的なるもの、停承的な
でをる。自己の内詮に最高の権威む主張して、理性の規律するところのものに第一
のである。宗教的紳秘豪の信仰はつねに自己の経験を通じて得たる信仰であると主
宗教的紳秘主義に開.するかくの如き見解は、決して誤てる見解ではない。従って、宗教的倖統や信條や紳輿な
どは、普通には非紳秘主義的または反紳秘主義的のものと考へられてをる。しかし
教的紳秘宝琶於けるこれらのものー!約言して教義的要素−の妖除を想定することは正鵠を得たものでほな
い。即ち、宗教的神秘主義はこの教義的要素と全然撃羞⋮関係に存するものではな
を企てるとともに、宗教的紳秘主義におけるそれらの要素の影響、それらの要素が
についても言及したいと思ふ。
宗教的紳秘豪は、自己の紳の、または自己の信仰の創始的な経験者である。従って、彼等の
容は﹁未だ曾って陸にも終にもあらざりし﹂新しい光に充ちてをる。しかし﹁新しい光に充
必ずし庵、直ちに現茸に﹁新しいこと﹂を意味してはゐない。むしろ却って、宗教的紳秘豪に於ける﹁新しき光に
充てる﹂ものは、多くは、侍統的の眞理であ少、停統的の信仰であることを例としてをる.その意味において、ホ
従って、宗教的紳秘家を目して、反歴史主義者となし、また宗教的無政府主義者となすことは、必ずしも.過
*HO註⋮ロgい増訂巳霞ロiロgOfQ已F貞一冒学∴謬号数enee−−¢−タせ﹁監声
ってゐないと息ふ。
丁キング教授が﹁神秘家は省き眞迦の創始的知得者︵家gど已村雲erOf邑tm首であかと言つた言要は間違
−
去の宗教的紳秘主義の歴史の支持せざるところである。却って、過去の多くの宗教的紳秘家の盛記はーたとへ停
統に固執する人々の無理解による異端硯を受けたことはあつたとしても、結局は、息茸なる既成宗教の子であつ
たことを明示してをるようである。古き聖経や古き信仰の神秘はつねに彼等にとつての支捧鮎であつた。エクス
タシーの境地の成就に於いて、大きな役割を演じたのは、度々この省き信仰、古き翌畦の象徴であつた。殊に、
基せ敬紳秘豪の大部分が、確賛に紳の子キリストの信仰に定着してゐたことは、いかなる宗教的紳秘主義の研究
者も認めるところである。
劇ち吾々は、宗教的耐秘主義の高級なる形式が殆んどすべて自己の属する宗教の教義的要素に封して多くのも
のを負ってをることを無税することは出来ない。而してこの形式は、生きられたるものと考へられたるものとの
永久なる交互作用として現はれてをる。即ち、経験と平行して常に智的要素が存在するといふ形式である。そし
て、この智的婆素は回想と解持とによつて解放簗結論するのみたらず、段妙なるうごきのうちに経験を替草する
乗数的紳秘家に於ける教義の問題
無数的紳秘家に於ける教義の問題
ものであることに注意したい。
の意味に於いて﹁純粋な経験といふものは存在しない﹂といつたジョーソスの言葉を肯かねばならない。いかな
例へば吾々は、時代の流行概念に・.また比停統的形式によつて影響され・たい控除−を考へることは出来ない。そ
●
々は、断じて無いと解答すべきであると思ふ。
*出u訂芦JOロ忠“St已i認in嵩まi邑冒︼igi昌−−芸ぎ㌻壇畠㌢
‡昏の”ゴ布野弓C宗0ご訂き昌邑Re焉EiOロ㌦−ibざユJe弓軋−J旨旨Jl−−苫∽●lラ告㍗
増邑ご月FO H訂︼弦○∈Cen乱昌昌宗♂−¢曽、7忠Pをも蓼Ⅲされたし。
魯このコーの言菜に就ては
味に於て、特に瞑別された純粋に紳秘的た眞鍬獲得の方法または信仰把持の遣が∵い.るかといふことになると.吾
**
るのであつて、碑銘的経験から紳拳的信仰キ抽出するわではない﹂と言ふべきものであらう。従って、厳密な意
反省的分析とによつて、自己の宗教的確信㌢獲得するのである。神秘家は彼の面革的信仰を紳秘的茫験に持参す
来る。⋮⋮⋮:紳秘豪は、彼の神秘的ならざる隣人がなすと同じようにして、釦ち習慣的になつた倍統と敦旋と
の論文で言ってを0ように、﹁つまり、紳秘的啓示は、これを追つて、紳秘豪白身の形式的状態に至ることが出
の教義的要素から全然喝立無関係に存在してをものではない。此虚のところは.コーがヒッバート、ジャーナル
も、保守的に受椚されたる教義的形式の革なる沈澱物であると言はんとするものではないが、しかし明かに、そ
ねに存在するのである。書々は決して、宗教的紳秘家の経験そのものが、その最探にして最純なる部分に於いて
る何人的経験に於いても、多少とも侍統的形式の影響を有し、多少とも他から受けいれた智的梼威物が、必ずつ
*
この意味に於いて、ホッキング教授が.望−ムスその他の紳秘主義研究者や.一般の宗教的紳秘豪が、紳秘
* 的智識と概念的智識とを敵封的封立の関係に置くことはそもそもの誤りである、と主張してをる青葉が極めて暗
示的に思はれる。
*H再詳g︰↓訂琵琶in的象∴き旦許ぎ臼監=盃β食望眉甘iオ吋琶どど寧︵買ロd−声孤=乱−−¢−タワ定︶
即ち、宗教的神秘主義なるものは.或る程度まで、既成の信仰形式に立脚するものであること、成就した倖統
の影響を晩し得ざるものであることを結論することが出来るように思ふ。過去の偉大なる宗教的紳秘家の生消の
あとを検するも.生活と思想.控験と教諭との交互作用によりて.錯雑した位相を呈してをるのであつて、その
錯雑せる位相なるものが.紳秘饉験そのものの﹁特種の諸相﹂によるとともに、種々なる侍統の軌道に滑ひ、様々
なる観念の指針に椚導荊色されてゐうJとは、疑がふべからぎるところである。例へば、関数の紳秘主義はヨー
ガとサンクヤとの綜八=の上に成就し、基弊政の紳秘卓論はユダヤ的繹験とギリシャ的思索との結合に於い.て出聾
してをるものであつて、その執れに適する紳秘家も.各々その思想慣系にしたがひ、その侍統の軌道をふんで、
﹁忘我が描出する賓力と忘我がもたらす心理的形恵との交流内で﹂自己の特質を選持してを心ことを蟄見できる
かくのどとき宗教的紳秘宝轟の研究が・控験的何人的印象と倖統的教義的形悪との問における不可避的和瓦踊
係に封しての充分なる関心留意のもとに速げらるべき研究であることは、常然の結論であらねばならないのであ
るが、現在の宗教的紳秘主義の研究はどうであるか。骨ってはl直接的個人的経験の事柄に闘する詑験が、紳拳
的概念や教義信條や蟻酸法式の研究に拡倒されて、殆んど重たく研究者の看過するところとなユてゐた時代もあ
宗教的帥秘家に於けーリ教義の間組
景教的帥秘家に於ける教義の問題
三大
つた。それに封して、現在に於ては、重たく反封の極端が行はれつ1あるかに観取せられる。例へば、フォン.
★
ヒューゲル氏も、その名著﹁宗教に於ける紳秘的要素﹂の第二巻に於いて∵︼の極端なる教義的要素の無
●
** 摘し、マレシャル氏は・その著﹁神秘家の心理に関する研究﹂において、教義的要素の重要轡完ぺきことを詮
いてをる。
*タ■8H厨eご増訂試宣i﹁已︼望em邑亀謬−宣旨二邑・声︵−篭∞︶p・讐甲
彗∴買胃曾訂き二等已i畠in昏○勺唱Qど︼重言=許E旦ぎ︵ぎ二ぎ昏﹂才旨乱−芳書こノ巴声
次に、以上の抽象的詮明をもつと具鰹的に説明するために、基督敦紳秘主義が如何なる特色に於いて基
偉東的教義的要素の鶉尊者色をうけてをるかを一二例示して見ようと思ふ。
基啓敦前秘主義の最も著しい性質モなすものは歌書である。堅骨をうたはぬ基督敦紳秘家はない。﹁わ
★ しひはよろこびの海原におよぐ﹂。それが基督教紳秘家の共通なる綬胞である。
■弓FO試ぎ卑O一望mp−e腎u一●
しかるにこ.の歌書は、基督教徒の仝宗教生活を貫ぬく泡自然的恩寵の取念によるところ多く、而して、この超
自然的恩寵は木簡論的性質のものであつて、決して単なる直接経験の事柄ではない。↓父における心臓な
よ.ぞ永遠なる天国の歓喜は湧く。こは聖パウロの言へるかごとく、限いまだ見す、耳いまだ開かず、人の心いま
甘 だ思はぎりし歓喜である。﹂とべーメは書き遺した。しかし∵−の超自然的恩寵が単なる直凄経験の封象とな少
得ないと官ふことは、必ずしも恩寵が経験的封象となり得票といふ意味ではない。・ベーメは書き続けて
うに育つでをる。﹁しかし、若し叉この地上に於いて、イエス・キリストなる泉より出づる翌塞に光確さるれば、
**
かくの如き歓喜は心臓に昇少、血管にみなぎ旦且り、全身はふるひ、精紳は恰も聖三位一倍の中にあるがどとく
に勝ち柴へる。﹂これをカソリックの言ひ方で言ふならば、功業となるべき行儀の超自然的啓示ぬ、道徳的菩を追
●
求する人間の自由意志の努力に封して輿へる紳の力ある援助と別個のものでないといふ関係と等しい。而して前
者は直接に紹股的順序に現はすことはできないが、後者は必ず経験的頓序に於いて行はれる。そこで、この超自
然的恩寵が心理的経験の封象となるのであるが、しかし、かくのどとき恩寵の全濃を純粋に経験的前件によつて
のみ解繹し、純粋なろ膵納によつてのみ恩寵の作用を論証せんとする心理単著があるならば、彼は甚だしい料率
的襲天主義春であるといはねばならぬ。純粋に自然的に来る宗教的行儀と、本懐論的親念によつて鬼自然化され
また、﹁嚢の上昇の最後としての紆結の敢詮を、基督敢紳秘家の全てが断然拒否する﹂ことも、基督敬神秘主義
*征矢野弄べーメ﹁黎明﹂解三幸。
たるものの下に来る宗教的行儀との問には、看過すべからざる相異が厳存する。
★
の最も著しい特色の一つであるが、このこともまた、教義と経験に閲すろ本論の主張を証明する事例である。
*一︼已巾富i−1こき温鼓.胃−︼芝−︸7岩戸
基督敢神秘主義に於ては、忘我の境地への到達毒結果が彼等にもたらすものは.常に光耀または啓示の確信で
一三七
﹁基督敦の紳秘家.は心を宴応に
ある。彼等の紳秘なろ嚢の旗は、いつも紳との直接なる融合を日精してをる。而も.この紳との融合なろ最高形
式は、彼等を滑極的生活態度へと導くことなく、つねに積極的行動へと背けるり
宗教的紳秘家に於ける敦.︰覇の問題
紳数的神秘家に於ける政義の閉園
三八
し叉充饗しようとして矛眉した努力をするっ即ち紳の深遠に自らを沈めl同時に鮭史的姿の.キり
顕しようとする。更に言へば、自分を忘れようとしながら、同時に自分の罪探いことを意識しょうとし、
な恩寵に身を委せながら能動的な変の命令に従はうとしたり、或は自分だけの精締約享腰丈ひたりながら
鴇 を負ふたキリスーを奉じょうとする。Lと言ったコー氏の音盤も充分にその間の拘息を語ってをるご1の基督数の
紳秘家の傾向は彿敢紳秘家のそれなどと極めて封既約なものであるが、これは何虚から釆たものであるか
二紆∵夢二官許厨q㌔寧意i声
循環には、﹁キリストは決してこれらの人々の語るような偶偶には到達しなかつ冤﹂と警督したクウラ
繋がこれを説明するであらう。そうしたm仙想が、韮督敢帥秘主義に於てはー常に神秘家の奔放をしめくくる手綱
となつてゐたのである。即ち、基酵敢紳秘主義のこの特質を替聾し来れるものは、主として、基督致その
教義倖統であつたことを知ることが〓来るのである。
ヘーゲル哲学に於る宗教の地位
ヘーゲル新車に於る宗教の地位
松
原
てゐはしなかつたか。椙りにエルドマンの僻繹をとらたいとしても、我等は只其々﹁習畢史﹂に於いて詮かれし
ルの思轡灯・理僻し得たいのである。︵詰三︶而も軍界一般は従前放りにも、か1るヘーゲル解繹に依って腫倒され
ればならないのへ∴彼の潤稗史に於けろヘーゲル耶塾に封する叙述翫見るに、我等は遺憾ながら川j瞭に、ヘーゲ
それだから我簿ほ何よりも先づ、エルトマンのヘーゲル解碍が果して是認さるべきか香かを、吟味しておかなけ
此のやうにヘーゲルのm心想を凱富のは、エドワード・エルドマン流の親方に起因してゐる牒のではなからうか。
抱いて居たといふのは、如何にしても考へられない。私の疑問は先づ此虎より田儀する。
彼を以て故も探き紳秘豪となし、信仰に燃ゆる敬虔の人と言ってゐる。︵撃一︶そう言ふ彼が漫然かやうな見解を
に之た放するに、常時彼の闘心を支配してゐたものは宗教上の問題であつた。︵弘一︶叉、ゲオルグ・ラーソンは
ゐた。斯くて、此の両者り聞に橋備的筒別や段階の相異が存するやに考へられてゐる。然るに彼の青年親の作物
に解されてゐた。概念を以って媒介となす抑=興が北高の桝に在少、宗教は盟に衣魚的方法に過ぎないと親られて
ヘーゲルの思想にあつては勿論、照準を以つて至上のものとなし、宗教を英次ぎに任するものであるといふ風
■
ヘーゲル菅拳に放る宗斧の地位
一四〇
へlゲルをのみ、知ってゐないであらうか。かくては速にヘーゲル曹畢の核心を掴む事は出来ないであらう。極
めて明かな亭ではあるが、ヘーゲルを知らんとせばーヘーゲルの監ハに解れるLり他に邁はない。
我国に於いては、ヘーゲルに関する文献は極めて英数に乏しいやうである。而も之を諌めば理解に困難であつ
てー何が詮かれてあるかすら摘めない。例へばヘーゲル用語法として有名な、苧乳cFf苧乱OF苧gd・f苧賢F
なる語をば、
巨,乳eF ︵即自的、自祝的︶
ぎi臣︵封自的、自封的︶
旨一吉d・f守・乱臣︵即日且封自的、白守的︶
たど1詩されてゐるが・之でヘーゲルの眞意は果して停へられたものであらうか、と私は息ふ。斯くの如くば.
叙述が如何に詳細を極むるとも、詮のなきことではあるまいか。
ウヰンデル・ハンドは﹁苗代哲拳整や﹁近世哲琴芝或は﹁哲畢変数科書﹂といふが如き、数多の哲畢変に閲
する著述を物した。只々其量的方面からばかりでなく、思想の理解か皇ろても、亘大な哲畢史家であつ喪。彼
の名著ヘゴ巴鼓βごに貞ne壱芦品de聾H訂ge−ぎ紆星㌔なる一章がある。之に於いて然らば、何か彼のヘーゲル
解繹の親日斬新なものを示して居るだあらうか。此所に於いても依然、ヘーゲルをば汎論盟主義となしてゐる。
そしてカントを見るに、フリースなどの心理的取方よりも、ヘーゲルの隙史的解繹の優れる零封詮くのである。
斯かる意味に於いてのみ、﹁ヘーゲルに因れ﹂と言ってゐるに過ぎない。かくてはヘーゲルは只、カント解繹に脚
ヽヽヽ
する方法上の道具に供されしのみであつて、ヘーゲル哲畢の猫自性は侍らるべくもない。︵託四︶更にリッカート
に至つては、ヘーゲルの理解甚だ乏しきを自ら蟄表してゐる。それを我等は彼の政消論に於いて見出し得るであ
らう。︵鼓五︶夫に於いて彼は徹頭徹属、カント流の考へ方を以ってヘーゲルを解辞してゐる。ヘーゲルは只々ヘ
ーゲルの考へを以って解さるべきである。我等はカントに就くか、ヘーゲルの考へ方を縁るか、二者英一を選ぶ
外はない。
ウヰソデル.ハンドもヘーゲルの文章を以って詰屈難解だと極論してゐる。のみならず彼の文麓は種々な非難を
受けて釆た。それにも拘らす私は彼を以って、非常に文韓豊かな人であつたと思ふ。稀に見る名文家であつたと
すら孝へる。マルクスが何故後世にあれ程まで感化を及ぼしたかと青ふに、彼の巧みな文章表現のカが、青年を
動かしたやうに思はれる。か1るマルクスの表現は、寧ろヘーゲルのスタイルから影響をー受けなかつたであらう
かと、私は故に雨着の表現上の探い関係を見逃す詩には行かない。
ヘーゲルの思想は重たく猟自固有なものであつた。他の何人の追従をも許さない卓竣なものであつた。訂も萬
象の絶ての問題に亙って、一貫した原理と方法とを以って貫き、一つくに封して其異相と本質とを把握せねば
止まなかつた。そして之を一重醍、一醍系に積め上げるのであつた。若し哲畢を以て原理の畢と言ひ得べくぼ、
彼の哲畢程完全に英名に債するものは他に見出されない。従って最も亜然たる組絞を有する鰹系豪であつた。私
は彼の哲畢倦系を想ふ毎に、荘厳雄大並びなき伊大利に於るミラノの大殿堂を思はぎるを得ない。
彼の言葉、彼の用語は悉く、此の慣系を背景として用ひられてゐる。片言牛句と雉、彼の全倦系を披きにして
ヘーゲル野草に於る素数の地位
ヘーゲル軒章に於る宗教の地位
一四こ
に考へられない。此の雄掟何れの椚準井に就いても、勿論.∵=はれる所であるが、彼程モの甚だしいものはない。
惜系与川諭とい川に斯く技㍍再⋮⋮なろ右横的闘係たなす却、殆ど仙l二新例を見ない。それだから苧巴cFをば即日
的.㍍どゝ、畔混沌的に桔棉的に鋸錐して溝兄する如き人は、遂にヘーゲルの習革にとつては無線の衆生と言はな
けれはた・hない。征石門堕に於いてはどgikや、臼2腎ffやG乱払tやは、唐彼特有の意味がある。含蓄がある。
普通川ひ−1、れてゐる山と〓じ内容や意味たと考へて彼の忠恕に接するならば、途に彼の野草は偲解されないで経
るであ・hう。
彼にあつては、どg芹とは勿論m荘已−Ogikではない。ラーリンは召誌どgi邑○がF各enやT邑や出Fndl白痴
なものである。昏灯
なものである。今一つ
たど1興ってゐろものと〓心ってはならぬり﹂︵舘六︺と︰盲つて店るが、私も揖躇なく此の意見に同ずるものである。
紋の雷ふG丸︰仇什も亦従って、田定不動なものではない。−ebeロdig
穿山乳の折衷た情欲として忘れてならぬのは、犬が己れ白身より出で1.叉己れ自身に障って行く虎に、他に見
られない明色が存する。赴は彼の軒畢の何れの部分を取ても、容易に畿見されるであらう。︵証七︶而もヘーゲル
に依れば﹁圧そ人mの精紳は、敢内面に於いて分つべきものではない。五ひに矛盾撞着する二毯のものが成立す
るやうな、分経机のものではない。﹂︵註八︶上官ふのである。
斯様に取る被に於いて∴一ポ敢が如何なる地位を宥するかは、略々想像されるではあるまいか。誠に故にあつて
は、約判読敢と紅封幣準との統一に於いて、絶封精細の暦在が完成されるのである。宗教と哲峯とは一つに結合
されなければなら氾。もとく常塾の内容.その必姿と関心とは、宗教と全く共通なものであつて、紳と其詮明
さきに精紳は絶えす展開を続け、己れ白身に締って行くと言った。
の外には出でないのである。曹畢は嘗際自ら穿き乳首邑である。宗教も哲拳も共に夫々問有なる方法に於いて
G象eむie邑だと従は見たのである。︵託九︶
而も亦精紳は絶て有限的拒式を否定することに依ってのみ、精紳たのである。精紳が斯く自らに就いて有るが僅
に知るてふ却は、精紳の絶封典惜なる姿なのである。
そして宗故の概念が自らに掃って行く虚が完全なる宗教なのである。詳しく言へば、共絶封的理念が、精紳と
しての紳が其眞理本質に従って、又その膵示に従って封象を意識する所に、完全なる宗教がある。︵註一〇︶
それだから完故の立場は釦ち、本質が絶ての内容をば白己のうちに有するやうな立場である.。哲蓼が自覚の行
であると共に、宗教も亦∩覚の行である。苦識の斯様な憩度はそれ故に、濃密絶封の立場である。だから精紳の
珊念である。紀射精紳のil党に外ならない。夫はいと高き理念にあつては、単なる人間の嘩閲ではなくして、絶
封的川念の故高規定なのである。︵託一一︶
﹁我埠が地上の限りある純界から、遠く離れて山の頂に登って客を眺め、速かに有限界豪眺めるやうに、人間が
宗教に於いて心眼︷仁開き、窮屈な地上世界から超越して、絶て並等を流れ行く姿と考へるのである。斯かる光は
純理完敗に於てのみ、満足と愛と光l一﹂於て、その影、その差別などをば永遠の平安と化するのである。宗教は人
闇の旬識ハ慢りの岱ではなく、寧ろ面の食通と紳黒光とた明かにせんとする扱高日柄のために、存するのである。﹂
とn語を聞くに及んで、彼C卯=塾にあつて如何に完数が便器付けられてゐろかを知るべきである。
今私はクローナなどの解特にこらつて、ヘーゲルの錯記法をば柱合印的悍質なり主、必ずLも解しやうとは思
ヘーゲル哲輿に於る宗致の地位
ヘーゲル菅単に於ける宗教の地位
一円四
はない。併し、形式論理的鱒揮を敢七しやうと富ふ従前の考へは、如何にしても克服しやうと恩ふ。若し今、修
辞畢的表現を用ひるやうに許されるならば、ヘーゲルの腎拳はぎll温血宏ではなぐてい鴫ぎ︼せ邑訂孟と言は
れないであらうか。若し斯く解するならば、彼の思想に於ける宗教の位置は、自ら開明されるであらう。私の解
繹が悉く承認されないまでも、エルrマン托の解搾に安んじてゐた人々に、反省を求める因縁とならば事ひであ
る。
︵竺︶責−匡三宝言古≡首鼻骨巳年眉普ら妄:宣言義挙邑ぎ芦芸en.星p乳町l邑官許−¢N−
︵撃こ¢巾貞一島屋つ星i・穿的爵謬gri苛d2り家督n●遅−〇・冒1i邑昇空軍訂官gこ冨㌣
︵堅ニ︶ 巨竜d苧ど呂n−¢ヨdをd巧¢焉F叫象○計謬山−畠8冨.寧已貯−00きP諾−芦
︵談四︶ W旨eFWind已甘d−冒賢象琶−㌘邑二〓監.岩b風呂.−芝P
︵註五︶ 眉i弓i計2e粁已、︻ぎこ匡訂tざFO対象昏巴uW甘邑−⊇−せiO∽賢訂邑♪穿∋P:彗薄
︵註六︶ 戸ビ覇0日、p、p、〇.
︵鞋七︶ Hの乳−謬笥彗d母野厨iβ吋g〇.せ旨.望.冨−P宗戸鴫.ざ
︵註八︶ ibi㌢P彗●
︵鼓九︶ i荘d●P這声
︵註一〇︶ ibid●P−警二戸
︹鼓一一︶ Ri旨弓d汚3ロ電、く0ロ内p已b⋮∞唇eg阜空.芦岩Eヨge巳、−¢坪r
新人国橙Eしての山の外者
松
村
武
雄
自分の考察の封象は、低い文化階骨に於ける統合集国の宗教生満の或る一両である。かうした階暦に於
教は、云ふまでもなく多神教若くは多嚢敦である。彼等の生活は、天界、基界に於ける紳若く圧精簸の崇
ての邑邑邑邑腎n、大地にあつて霊g象邑訂の生成その他を司る紳若くは精藻の崇葬としてのteりre註已r註−
giO。、粗悪や訂昏等の崇拝としてのどm冒r監gぎ︵かかる揚合k、かうした用語が許されるなら︶の混融交錯によ
って支配せられてゐる。
これ等の宗教が、低い文化階皆の民衆の生活を支配する力は.決して同一ではない。︷e牒E已邑gi2の支配
力は邑富民已む嘗ロのそれに膠少、Fllm呂邑号nの支配力は、更に︷ヨ註已邑嘗nのそれに勝ってゐる
と考へる。なぜならぎm呂邑gi。nは.民衆の膏際生荊に最も切苦寒接な交渉を有してゐるからである。
F。m旨religiOnに於ける崇辞の封象は、さまざまであるが、大別して二期となすことがⅢ来る。一は内部畿生
トー’▲ 的なものであり、他は外部蟹生的たものである。前者は自己祀命集圏に於ける族霧や爪先の霧や任土の訂r官等
ヽ..L√uの であ少、後者は自己集圏より瞑別せられた他の社命集囲の人間である。いはゆる外者である.
紳入国髄としての山の外者
帝人閏畦としての山の外看
一円大
β
佐い文化階隊に於ては、異なる祀昏集閣の成員は外者として、大きな勢能や呪力の持溝と楓へられた。蓋し、
邑邑i邑pe邑eは、﹃知られざるもの﹄﹃慣れざるもの﹄に常に強い勢能呪力ハリ内在を想小山し一雨して﹃外者﹄
は射ち﹃知られざるもの﹄﹃慣れざるもの﹄の尤なるlつであつたからであワ㌔這般の消息は二小・㌢昏mmOの
担訂○︼虐こ声句01已Or。や︵1︶、声We乳erm琴詩の夢eO愚in呂dD3首5邑e=訂芳一a=d簑や︵2︶声
昏買百の芦○冒苫i。R。塩︵3︶等を播く者の容易に看取するところであらう。而して輿たる配付集囲の成員即
ち外者に内存すると倍ぜられた勢能や呪力は、あらゆる他の勢能や呪力と同じやうに、二面的に駁ぜられた。一
は悪しき作用をたすものとしてであり、他は善き作用をなすものとしてである。かくて低い文化階皆の民衆は、
ヽヽ
ヽヽ
外者に射して、恐るべき邪褒としてこれから厭離せんとする心持と∵豊鱗化、邪力駆逐の可能者として、之を迎へ
て、自己祀骨盤圏の生活をより普くしより安固にせんとする心持とを併せ有してゐた。
ここで問題軒狭くする。外肴のうちでいかなる外者が最も這般の勢能や呪力に富んでゐるとされたか。答は簡
単である。外者に於ける勢能や呪力の観念の牽生が、﹃知られざるもの﹄﹃慣れざるもの﹄への民衆の感情を因素
としてゐる以上、最も温く且つ多量に這般の勢能や呪力む円存させてゐると信ぜられるものは、一般の虻昏薬園
からかけ離れた地域に生活してぁろ外帝でなくてはならぬ。かくして村里からかけ駈れた山間にi邑已已琵。を
造ってゐる山人たちは、最も大きな勢能呪力の持主として、村遥の民衆の強い闊心の封象となる。山人はその任
地の関係上村選の民衆から限く切り離されてゐるばかりでなく、その経済生野卜於ける生産形思の相違に於て、
はたその服装の相違に於て、はた環境の相違から来る内性行動の相違に於て、里人の日から見ると、﹃慣れざるも
の冨尤なるものである。かくして山人たちは・畢人即ち一般の吐合集圏の成員たちにとつて最卜著しい外着で
あり、而して外人は勢能呪力の持主と考へられるが常である故に、山人は里人によつて一の紳人囲醍と覿ぜられ
るやうになる。
先に云ったやうに、外者が持つ力はこ一面的に親ぜられる。山人に関してもさうであつた。従って山人が、里人
の宗教生荊を支配する様怨も二面的である。釦ち運人は、一面に於ておのれたちの任地と山との間に於て、さま
シヤグジノ ざまの宗教的驚修を行うて.山人の悪しき力の侵入から自己を守らんとする。石紳崇辞の或ろ形相の如きは、そ
の現れの一つである。同時に他面に於ては、山人に内在すろ勢能呪力によりかかつて、自己の配合集国の生活を
ヽヽ
ヽヽ
より尊くしより牢固にしようとする。この意味に於て山人は、屋人のFβ巨nr①ligiOnに於ける大きな品①宍yと
して、村落の生活に太だ重要な働き付けをなす。
自分は今日の講演に於ては、紳入園鰐としての山の外者の男人の宗教生病への働きかけの書き方而だけを、一
二の茸例にょつて指示することに満足しなくてはならぬ。それ以上のことは、時間が許さぬからである。
先づ我が国の土俗宗致を顧みることにする。
我が国の民聞には、確かに紳人㈲醍としての山人の信仰が芯くから存してゐた。彼等は平素山間に配合集圏を
なして生活してゐた。そして毎咋霜月に冬祭を行ふべく毘へ降って氷るのを常とした。自分の畢友で.天才的な
■二て,′叫・ 民俗革者、折口信夫氏が究明されたところに従うと、山人たちが霜月に人男に降って来るのは.績魂のためであ
った。冬祭は即ち鎮魂式であつた・U山人たちは、理に形づくられてゐる敢曾集囲のために、山の紳の賓格に於て
紳入国擢としての山の外者
帝人圏詮としての山の外者
一四八
山の紳に扮して宗教的な舞輌を行ひ、また目出度い呪詞を以て塵の家々を、盟の人々を純絹した。そしてその舞
踊と呪詞にこもる紳秘的な勢能によつて、男に蔓ろ邪態な精華が鎮め挺へられ.冬が柑じて若布とたると信ぜら
れた。苗代日本の文献たとへばl盲寄託、日本紀−萬草集等を播いたものは、肝郡紗ヤ黙か剛冊が如く﹃市﹄とい
†−ナ=ツト ふものが多く存してゐたことを知る。これ等の市は、決して革なる物蛮交換の市場で凋なかつた。慧一的に云へ
牛的
ヨ邦
一踊
〓を行ふ許めの撃ひ、﹃市﹄
ば、里人のために晋軍政並びに悪事秩をなすべく塵に降った山人たちが、宗教
ものであつたり﹃市﹄と呼ばれる為所が、第一に多くは山に近く位し、琴一に常に流れを捉えて居り、第三に常
に、﹃悔石棺市の八十の巷に立ちならし、結びし紐を解かまく惜しも﹄とあるやうに.一粒の色町的色調を呈してゐ
たのは、これがためである。山に近いのは、紳入国附が山から降つて来る便宜のためであ少、流れを拉えてゐる
のは、山人が宗教的茸修を始めるに先って、身を停める必要の然らしむるところであh∴市が色町的色調を呈し
てゐたのは、市が祭の揚であ少、而して苗代日本にあつては、祭にあづかる巫女の多くが、一面に於て遊女であ
ったからである。
紳人離礁としての山人は、鎮魂をするための要具として杖を携へて釆た。その放で理の地面をつくと・土地の
邪悪な精察を抑へることが出来ると信ぜられた。古く我が観で行はれた卯枚.卯槌の宗教的賓修が生れ出た斑胎
は、賓にここに存してゐる。かうした呪力を内存させた山人の枚は、往々にして根がついてゐるままのものであ
?た。細入としての山人は、里人の政令生満を安定ならしめるための宗教的驚修を済したあとで、その枚を地面に
突き挿して山へと掃って行った。そして里人は、その枚が板づいて芽を出し妾を繁らすか否かによつて、おのれ
たちの生活上に於ける書凶を卜するよすがとなしたのであつた。一夜松とか杖立とかいふ我が図に太だポピュラ
ーリボエチカル
ーな詮話は、決して単なる和語詩的・た想像の産物ではなくて、かうした嘗際の宗教文化的寧琶をその背景に有し
てるたのである。︵4︶
古い時代のイスラエル人の宗教生活にも、かうした宗教的現象が隠見してゐる。﹃撒母耳前書﹄第九輩に、
ヨ菅イスラエルに於ては、人紳に間はんとて行く時は、いざ発見者に行かんと云へり。そは今の琴富者は、昔
l は発見者と呼ばれたればな少。﹄︰5︶
とあるが、石棒博士の示教によると、本来は先見者と琴富者とは、度々拉族的に別物であり、後者の中にはアイ
リスティア人の出が多かつた。そして彼等は、一の帥人国縫として、高地に住み、彼等に特有な呪術宗教的舞踊
を有し、而してイスラエル人のために、その任地を降って預言の事に貰った形跡が終然としてゐる。﹃粍母耳前
書﹄第十章に、サミュエルがサウルに封って、
﹃⋮⋮汝紳のギベアに至らん。そこにべリシテ人の代官あり一。汝かしこに行きて邑に入るとき、一群の琴富者
の穿と我と笛と琴を前に執らせて撃富しっつ、高岡を降るに逢はん。﹄︵6︶
とある如きは、這般の消息を停へてゐると思ふ。
竃き世の希隠に於ても、これと著しく同似した民俗信仰が存してゐた。自分はその一例として■ヘラクレスにま
つはろ認諾や完敗現象料疲って見よう。ヘラクレスは、芯此ハ的に有名な棍棒窄持ってゐる。彼はー一の棍棒によつ
て多くの怪物主賎して愕業を樹て1ゐる。そしてそのために彼は、希臨の澱も偉大な英雄として艶質せられた。
紳人間燈としての山の外者
納入軒駿としての山の外賓
一五〇
●●
しかし自分たちは、かうしたローマンスに目を院主されて掟ならぬ。ヘラクレスの棒は、決しでペオウルフや7
†ジョレりジャス
−サー王などの箕劇と楽を同じうするものではない。英雄むして英雄たらしめる単なる衣道具ではなかつた。そ
れは牽生的には呪術宗教的な意味を持った一仰の監物であつた。
Aゴ乳已已icFeロ訂軋kOnd宅︵㌢i罵Esc︼1en仁ndR訣mis各昌出号−
を持ち、右の手に大きな改宗くは棒を持つ姿に表象せられてゐた。それは○責b票打
停詮の主人公として英雄化しない以前のヘラクレスは、一偶の蒜還のダイモン﹄でぁった。そして左の手にコ
ルメコービア︵QO⊇u8.首︶
の辞i焉E岩訂吋︼琵昏︵7︶及びW.1Ⅰ.封○警訂rの
臣○−虐曾︵$︶に収めた、緋典の盲い青銅貸の田に刻まれた像を見ると、明かに窺ひ知られる。
コルメコービアはーその語が示す通りに﹃豊鰯の角精﹄である。書きもの覇はしきものが、無限にその中から
溢れ出ると信ぜられた空路である。それと同様に右手の棒も、本葬は決して猛獣怪蛇を叩きのめす武器ではなく
て、一個
じやうに、ものを豊燐化すろ勢能が潜んでゐると信ぜられた。︵9︶
それならば英雄以前の、ダイモンとしてのヘラクレスは、何故に這般の生成豊燐の具を持ってゐたか。それは
と呼ばれる山人たちが位
彼が本来一個の紳人としての山人であつたからである。開化したへラスの人々の日からは鬼が住むとも考へられ
た僻地のフリギ7に、イダ︵Hdp︶といふ山があつて、そこに古くダクテル︵DPぎーCi︶
ネウハチ んでゐた.塁の人たちは、彼等を一踵の剋自然的存在と考へてゐたが、賓は彼等は一の紳人圏醍で、大鼓と鏡鍍
との菅にあはせて行ふ呪術宗教的な舞繁を有してゐた.︵ュ0︺そして時に山を降って、里人のためにさうした舞楽
を行ふことによつて、彼等の生活の安寧化を計ってやつた。男Ⅶ人たちは、這般の宗教的資修によつて、村々か
ら邪黍が退散し、穀物の嘗のりが豊かにされると信じたのであつた。
ヘラクレスは、賓にこの紳入国麓としてのダクチルの一人であつた。彼が登院化の具としてのコルヌコービ丁
と枚若くは持とを持ってゐるのは、これがためである。○竜EOH苫プは、へ一フクレ針及びその棒を設へて、
、︷
恵まれたる者よ、ありとある病の呪解をなし、
悪運を騒逐し.汝が手に汝が樹枝を振り動かし.
呪力ある棒もて、騒がしき邪靂を追ひ執へかし。
と歌ってゐる。︵ュ1︶彼の棒若くは枚は、かくして邪襲を騒透し、魂を鎮める眈具の代表的なものであつた。彼が
﹃アレクシカコス﹄︵A−0乱臣町且といふ稲呼を輿へられてゐるのもこれがためである。﹃アレクシカコス﹄は﹃邪寒
からの防禦者﹄の義にほかならぬ。︵m︶
かくてヘラクレスは、山人の一人として棟茂樹から裂き取ったクラドスーi豊儀を蔑み邪婁を沸ふ棒若くは枚
を携へて、村男に現れては、アレクシカコスの役目をつとめ・た。これが英放としてのヘラクレスが諸地を巡遊し
て偉大な棍棒で有害な怪物を退治するといふ倖詮の原型である。そして彼は、山人として、わが国の山人のやう
に、登鱒を嘉む枚を、人望の地面に突き刺して行く。そしてそれが棍づいて芽を出すと、塁の人東ちが豊作の濠
一五︼
ここにも/わが国の紳人圏倦としての山人のパラレルが看取せられる。
兆としてこれを相慶したことは、紀元二せ紀の希晩の大旗行家バウサニアスの﹃希晩記﹄︵寧邑数百こざ卦g邑孤︶の
記述によつて略貞察知せられる。品︶
跡人国政としての山の外者
紳人屈撞としての山の外専
一五二
低い文化階啓に於ける民衆の宗教生活は、単に邑邑已邑giOnやす透t旨1.邑gi8 の方面から眺めただけ
ヽヽ
では、該生活の葺相に徹することは出来難い。彼等により緊密切賛な関係を持つぎ呂壱意首に細心の注意を
、
沸はなくてはならぬ。而して彗訴敦の一構成要素としての外者殊に山の外者の働きかけの如きは、従来太だ閑却
せられてゐるに拘らす、低い文化階愴の民衆の生汚には、甚だ大きな関輿を持ってゐること肇賃悟しなくてはなら
ぬ。我が国に於ては殊にさうである。村落的統合薬園の配合生活は、我が国に於ては殊に強く外者の勢能呪力の
軌念信仰に支配されて来てゐる。この意味に於て国民宗教としての紳道の如きも、ただ上官建築としての在来の
形相だけを眺めてゐるべきではない。上骨建築がよつて立つとこ∂の下積の民間的、土俗的宗紋を仔細に検討す
ることによつて、始めて上官嬉築の機構の屁相が明かになつて来る。自分はさうした下積として、各個り氏族の
宗教や紳話の研究と共に、外者殊に山の外者の働きかけの研究が.もつと熱心に行はれるべきであると思ふ。
︵註︶ ︵1︶声﹂ト亭旨me−出︷FO−Og勺︼5.句○−E3,眉卓ⅠⅠⅠ●
︵3︶申︵ぎまOY芦e試﹃邑e対象♪p●巴∵声
︵2︶崗W邑雫日弓風声09灯F旨d宮邑眉目e已0ごFO試○邑Ide紀、召1.ト冨00声
︵5︶Ⅰ.許巨岩e−︸−H●や.
︵4︶折口信夫氏﹁古代研究﹂民俗拳鴬癒〓及びr民俗琴芝生三春鱒二披﹃山の蒋月琴ご聖篭
︵6︶Ⅰ・辞岩岩邑.舛.P
︵7︶○焉許諾河−G計e許さ○吋訂眉↓早戸p.N㌣
︵9︶J●声出F鼠貰−∴⊇昏計−等.芸研.岩戸
︵ヱW・H・謬邑雫−A房畏F−i邑反∴F諷酵呂d再︵璽訂監許訂n百dRぎ身許声農芸邑鼠ダ出訂邑垂
撃璧彗
D宣On邑rニ盛Anli鼠1仇・肌g題名警−き已眉声−嘗ieらトel盲熱唱
ハ1U︶︵イ︶W・m邑F−q乳c︰1日きn2弓⊥︶⋮iO竃首盲箋邑Ogミnd穿痘属官こ夢茸ぎ¢岩音−看官已e嶋
︵こ冒皆訂ぷet申年iO
︹11︶○巧号eH旬mn−舛lI.−サ
︵t9︶皐﹂巨肇∴門門誓ヨ.ゴ汽]戸
︵13︶㌢房邑乾−H邑P丸畠誓ri鼠孔明こ巨芦
押入闇路としての山の神背
マルキシズム対シキシマノ・、、チ
マルキシズム封シキンマノミチ
としてのマルキシズムに学術的批判を加ふ−−!
田
胸
毒
一義術的人生宗教としてのシキシマノミチの倍に立つて電i音義r邑N
蓑
▼ルクスは﹃ヘーゲル法律哲蓼批判﹄の序文中に如下いつてゐる。
買宗教的批判の基礎は.人闘が宗教を作るので宗教が人肌を作るのではない、といふことである。⋮・・人間と
いつても、それは決して抽象的な、この世界の外に躍ってゐるものではない。人間、それはこの人間の世
とであり、国家であり、配合である。、﹂の閲琴この配合が宗教といふ置倒した世界責識計搾り出す,といふの
は、その観衆祀命が一つの鋲倒した世界だからである。﹄︵1︶
﹃宗教的背離竺方では現性的苦難の表現であり、他方ではまたこの現驚的苦難に封する抗議である0宗敢は抑
座せられたる生き物の嘆息であり、また無情なる世界の感情、いはゞ純紳なき耽懲の箱紳であるじ宗教は
、
阿片である。﹄︵9︶
マルクスはフォイエルバッハに惧つて﹃人間が宗教を作る﹄といふ、その﹃作る﹄といふ場合にmp計n或は
p邑象慧ロといふ語を用ひてゐる。こゝに彼の合理主義的唯物論の思想法が明示されてゐる。それは人間の情意
的、仝生命的勢求の必然的売物たろ宗教を人間理智の属省的打算的の作為英日物なるかに弼断したのである。マ
ルクスはこの合理主義をヘーゲルから相承したのであつた。この軒に於いて、ヘーゲル哲笹を﹃合理的紳秘主義﹄
アンス■ポ’ジイ
チオゴミイ
と許して排撃し、﹃紳畢の秘密を解くものは人間箪であり、人類の鮭史が両統記である。﹄と喝破したフォイエ
ルバッハは、物理塾生即興に別して心理箪の弼白の見地任粉を自覚し、宗教の心理的基礎を人間の思考や理性に
¶ではなく、感帖、兼慾.想像にありとし、またその統合的基礎を制度に固定した散骨や儀紐にではなくて、職愛
友情、圏閻心に基く家族、種族、民族、人狛生荊そのものに求めたので、︵3︶これはウィルヘルム・ヴソトの民
族心理畢的研究の先騒をなしたものと見ろことが日米る。このフォイエルバッハに比較すれば、マルクスには心
珊箪がないので、宗教の理解そのものが根本的に誤ってゐる。
前記マルクスの人附的完数桝特に閏聯して﹂エンゲルスの﹃若し宗教が紳なくして春立し終るならば、錬金術
も賢者の石なくして存立し得よう﹄︵4︶といふ語を顧みるに、これ偶々彼等の基解散に封すろ滑極的偏執を普白
したもので、宗教一眼と基骨教とを混同したのである。﹃紳のない宗教﹄は束搾では少しも珍しいものではない。
開幕は既に紀元前五世紀に外的﹃救折希﹄団eき旨geりとしての宇田創造紳、即ち印度の梵天を否定し、内的﹃解
脱﹄の人生的註数の絹を問いたのであつた。こ1に仰敬の鰐蛤の心理挙があるので、それは二十世紀の物理撃が
﹁賢者の石﹄−〝‖痩せすして鍬余日の理恕を現苦化するに至ったことと思ひ合せらるべきである。眞の紳とほ俗倍仰
に於けぃり超絶的創措帥ではない?基斬も﹃緬の観は掛れて来るものに非すー比に硯よ墟に租よと人の言ふべき者
に非す、天和の開化硝習い稟定杢り﹄㍗ことふつた。ダントが司人は自ら救へ!﹄﹃帥の理念もまた攣った、扁は
マルキシズム封シキンマノ、、、ナ
マルキシズム封シキシマノ、、、チ
外的威力から内的醍除となつた。寄︶といつたのは、酉歓人としては珍しい言葉である∪
こ1に 明治天皇の御製
寄道述懐
白雲のよそに求むな世の人のまことの道ぞしきしまのみち︵明治三七年︶
皆本貿の輩術的人生宗教の原理を示させ給うたものであつて、古来の押詰宗教に於ける外的救済希、美智
ヽヽヽヽヽ
拳的親念としての本鰹資慣展如ぽ梢といふ如きものを指して﹃山笠のよそに﹄人生の原即を求むるものと
、、ヽヽヽヽヽヽヽヽ
人生の原理はあく吾人生そのもののうちに求むべしと敦へさせ・上れたのである。更にこの甲じ精神は
道
千早ぶる紳のひらきし道とまたひらくは人のちからなりけり︵同三六年︶
をりにふれて
ひと錆をふみて息へばちはやぶる和代の遣もとほからぬかな︵伺望一年︶
紳 舐
日に見えぬ紳にむかひてはぢざろは人の心のまことなりけゎ′︵−=〓閏○年︶・
等の御製の上に仰がる1のであつて二二井甲之氏は﹃明治天皇彿猥研究﹄申に如左いはれてゐえて
﹃紳とは﹁白に見えぬ紳﹂であつて、この﹁かみの直に翌﹂のは﹁人の心のきと﹂であ■ろCHに見えぬとは常盤
的封象のみに限局せられずしてーまたし宗つて署的論謁⋮憲にのみ眼留られぬとこ一芸、内心に妹はる
マルキシズム封.キンマノ、、、チ
ヽヽヽヽ︳
﹃掛倒した
完﹄C二翔嵩
また次にマルクスが﹃宗敦は民衆の阿片である﹄といつたのは、常時の堕落故合を指していったので、大京敢
別に進んで吟味批判せらるべきである。それは後に解れる。
問題ではJはい、人がそのために我が身命考輝つべき何等かの引致・た有すろか否かである。その封択の内春情伍は
の同じ心理の一興現に外たらぬ。そこに彼の宗教があつたのであろ。宗教の本質は所謂紬俳や地は極欒の机念の
と∵︺の都窪から封照強化的に促さるる﹃永久生命の希求﹄の心址である。マルクスの﹃翫本論﹄著述動描もこ
仰の超民族的、超時代的の普遍必然的、根源的の塗生原因は、人類に平等なる自然必然の運命−
る覇葦である。祀分納屋史的諸燥件が宗教的信仰の内容に重大−昼皐影凄む由ふることは明日であるが、宗教的信
雉も.債誌に於けろ宗教を持たぬものは一つもないといふことは﹂今日土俗箪、民疲心鱒革的研究の擢詮してゐ
世界㌫識﹄としてのー一転その祀昏的恕生杭仰がなかるべきである。然るに如何に幼稚告放なる未開日蝕民損と
人相白鷺の白山.ヤ等配付であつたとしてゐるのであるから、か1る原始〓然民族の鉦今には完敢−
倒した世界意地﹄が嘉数であるといふ。然るに彼はその未来北ハ産配曾の原型たる原始共搾軋倉を呵級的封立たき
次にマルクスは図豪祀禽を以て人間が人閲性を失った﹃掛倒した世界﹄なりとし.その必然的反映としての﹃鮎
とともに、ケの険難の陸路をたどりつ1﹁いつくしみ﹂の人道世界至上人相世界へと流れそlぎつゝある。﹄︹7︶
て解除を求めようとすろ諸宗紋に封して.人生宗数人問宗紋の班長はわが口本に、建園以来日立凶豪口本の開屁
ヽヽヽヽヽ
としての国盟生命である、一﹄﹃紳仰を人間世界以外よりの救済者又は救折意志として、この外物の鹿川威力によつ
る永久の生命であり不可訟の感激であり綜合的鰐験である。紳とは剋偶人意志であり、史的無窮関根の目立現任
ヽ
マルキシズム封シキシマノミチ
︼五八
の偉大なる開組の小一ポ敢的醗騎の軸檻を全く無税したものである。凡そ堅洛散骨軽宗教の本質に反したものはない
それこそ大霜数の間組が香おしたそのものである。基督が常時の柿力看官肴の.﹃慣尊﹄を痛烈なる青葉む以て批
然しながら宗教にも迷信と眞信とがあることを思はねばならぬ。従来の宗教畢は迷信も眞信も供養の宗教現象
といつた河上嚢氏の如きマルキストも亦.﹃宗教を充分に持ってゐる﹄のである。
ぶに﹃聖者﹄︵13︶の語を以てし﹃私は今たとひ火にあぶられるとも、その畢的所信を曲げがたく感lじてゐる﹄一︵ュヰ︶
ルクス、エンゲルス、この冒ルクスの箪誼は正しきが故に全能である﹄︵通︶と盲信したレニン、また彼等を呼
﹃こ1に人斯統合の絹史は終りを告げる﹄︵10︶と換言しl﹃人類の必然の固より自由の図への飛躍﹄︵ュ1︶を信じたマ
といひつゝ、未来に基礎敬わ机上天国、千年王国の敢禽畢的表現に外ならぬところの共産主義紅命の幻を描き、
かくして﹃科笹的﹄を捺棒し﹃唯物論﹄を誇補し.﹃従来のあらゆる社食の歴史は階級尚寧の歴史である﹄︵ヱ
っては、宗教は﹃猶に小判﹄であつたのである。
柁衆の阿片である﹄といふ命題が迫川せられ得るか。宗教の本質と食も還きものを以て宗教と見たマルクスにと
伏的態度に出で、親鸞が全くネも無き民の生活に後入して正史に跡をも留めなかつた如き車賓の何庭に、﹃宗教は
たことを思うても見よ。我が道元が北條氏の懇請を退けて北越の適地に隠棲し、日蓮扶進んで北條氏に封して折
求め碍たところCものが、印接のかの四姓の階級差別を打破せんとする︼切衆生悉有榊性常軌成榊遣の教であつ
としてその悲痛なる生を終ったことは、稔りも著明なる寄麿ではないか。また繹魯が鴎主たるべき地華忙榔って
判し、冒帝の紳の図に入ろよりは路駄の針の孔を穿るは却て易し﹄︵8︶といふ如き言葉を嬉し、黎tき人々の友
、
として無差別に取扱って釆たのであるが、これは文化科撃としての宗教畢として致命的の誤謬を侵したのである
私は究極に於いて、迷信魔術と眞宗教との僧値批判の基準を明かにせぎる宗教畢は斯畢の最も重大なる本質的任
務を邁志したものであると断言したい。
宗敢の本質は生命の本質である。生命は﹃かよひ﹄﹃つながり﹄であ少、﹃聯輯﹄﹃結合﹄であ少、﹃調和﹄﹃統一﹄
の生域的過程である。故に眞の宗教は人間の、この生命さながらの白覚に基く思想感情意志及び行岳に於ける全
人生・牟宇宙的調和統一の要求具現であらねばならぬ。
明治天皇御製
郡
さしなみの.とな少にかよふ道ならむ恥の竹のひまのみゆるは︵明治三九年︶
紳舐
めにみえぬかみの心に通ふこそひとの心のまことなりけれ︵同四一年︶
月前言志
わが心いたらぬくまのなくもがなこの世をてらす月のごとくに﹁同閃二年︶
和紙
わがこ1ろおよばぬ閣のはてまでもよるひる紳はまもりますらむ︵同三六年︶
かくして人相い思想に於けろ調和統一の.嬰求具現は畢術であり、感情に於けるそれは垂術であ少、意京に於け
マルキシズム封シキシマノミチ
マルキシズム封シキシマノミナ
︼・六〇
るそれ東進徳であり、市島に放けるそれは政冶であるが、宗教はそれら一切の内的前垂隊であり、モーの髭合的破
折的の統一威力であるからして、人類の文化的活動、匿兜配合生活と離れては成立せずま允無意義無償億である
ヽヽ
この餌に於いてウインデルノIソトが﹃聖は包縫的存在とtて麓験せられたる眞審美の税紀宝誠であろ﹄︵申︶とい
ひつゝ、それは﹃鮭取軽曾的形象として具現する﹄︵㍍︶といつたことが駁みらる1のである。
それ政談借と昇倍とを批判すろに常っては、我々は時代文化の胡約を考慮しっ1、払締約.薬餌的.道徳的及
ges駕n裟肇雰g琵琶i各村ei什
と窺足した﹃軌象的人閑静拗﹄賢T
と呼び﹂それに封して仰々の商品の償精をそ
﹃託鰐﹄枇念は除去せられつ1ある。かく
かゝろ舘世紀の一理論を絶封不欒の唯一直理なりとする鮪に於いて.それは﹃闘麺的轄系﹄である、所造雨厩㌫
してこのマルキシズムは、それがその械械的唯物論の標桔を以てして拍上天国を描くことの不合理を揉省ギザ、
は﹃現象﹄から机督すべきで、今口にあつては自然糾箪に於いてさへ
ヽヽ
の﹃反封物﹄たる﹃現象﹄群数旨眉gのnと考へた如き、形而上嬰的方法に導かれてぁるものである。︵17︶﹃料堪h
Tp質me家宣許eA古畳を﹃債値形成電解﹄w①旨ild臣d①浮計tP巳
ヽヽ
の主著﹃嚢本論bは一枝白身﹃基幻的封象性b
ヽヽヽ
円容がその根本的仮定たる桐協義売約自由平箪抱かららして原誹的に十八世紀の合理主量的柊訟思軌である。猥
今右の見地より一つの宗教的信仰としてのマルキシズムを見るならば−発づ第こ、マルキシズムはその箪設
禽的巽献を人類史に寄興したことを明かに認めしめらる1のである。
通用する時、我々は悌数並に畠膏戟が其他の緒宗教に比して確かに放も高き探き文化的試慣伍を訳現し、に配紅
び政治的規範を和樹的基準として飼々の宗教の信仰内容を吟塊すればよいのである。この見地を過去の大小︰が故に
−
非射撃的揖断である。第二に、マルキシズムはかの人封史上左前㍊後ともいふべきロシア革命の繹験を以てして
もー人の偉大なる詩人を生み出すことは州釆なかつた。人闇精神生活の弼白僧侶と戒厳とを無税H沼丁る唯物論
の支配するところに偉大なる詩人の生れざることは必定である.ヴシトは﹃そ九故肯人生の昭島で.はたくて、そ
の表現が整術の任務である﹄︵18︶といつた。所謂ブロレクり7薫術なるものは﹃禎焉﹄であり﹃華り物﹄であろ。
印三にーマルキシズムの道徳琵も璧柑なる功利主讐あり・差その情拍は﹃監﹄を知らぬ琵怨恨h最
悪﹄であり、また殊に宗教的信仰に不可軌の﹃拗悔﹄の帖拉を快いてゐる。靖国に、その癖級悶軍と無撞着絹滋
の翠論♪智行とは、現寵に於いては.その日山千箪組鼻の約束とは正枝封の組封恕細政清を特典することにロシ
アの現状が葦詑してゐる。
ゲーテは﹃立法者にせよ、革命家にせよ、平等と白山とを併せ約束するものは、基想豪に非ざれば詐償軸であ
るL一といつた。マルキシズムは容想雫の迷信でないならば、詐愕摘の手品であり、宗教的信仰の研展暗に現れた
ゾムバルト、シュベンダラー、r・マンの所謂﹃宗教の代用物﹄どーigどg⊇已Nである。
明清天真の御製、完政的信仰さながら蝮塁術酌表
今こそさ︼との宗教の投宿賓現せらるべき時である。我々口本人はか1る新時代の宗紋を、畏くも東田文化を
綜︵‖琉lせろ三千年の日本鮭史を御大身に基現せさせられし
現冒キシマノミチ﹄のうへに見出すのである。
ヴソトは﹃哲嬰鴨系﹄の故後に﹃贅術﹄を論じて﹃道徳宗教的珊念の軒質的形式が、観念媒介の迂路を経て始
わて到達せんとするもの、そは焚的直観のうちに賓人生の不可杭威力を以て内在す﹄︵鍋︺といつ●たlっ﹃シキシマノ
マルキシズム封シキシマノミチ
†ルキシズム封シキシ†ノミチ
〓ハニ
ミチ﹄とはか1る意味に於ける贅術人的生宗教であ少.それ故にまたさながらに冒つりどと﹄即ち政治の原理
である。﹃紳ながらの道﹄とはこの詞である。
をりにふれて
おもふこと思ふがよ1にいひてみむ歌のしらべになりもならすも︵明治囲末年︶
歌
天地もうごかすといふことのはのまことの道は誰かしるらむ︵同州○年︶
ことのはのき︼とのみちを月花のもてあそぴとは思はぎらなむ︵伺︶
歌
ひとりつむ首の菓革のなかりせばなに1心をなぐさめてよし︵同三八年︶
をりにふれて
さまん\のせのたのしみも嘗の菓の道のうへにはたつものぞなき︵同四三年︶
詞
きlしるはいつの世ならむ敷島のやまと詞の高きしらべを︵同︶
寄道述懐
自室のよそに求むた世の人のまことの道ぞしきしよの道︵H三七年︶
寄道観
千早ぶる紳のひらきし敷島の道はさかえむ萬代までに︵坦二五年︶
遣
千早ぶる紳わひらきし道をまたひらくは人のちからなりけり︵川三六年︶
述懐多
ひらくれば閃くるま1にいにしへにかはるおもひもある世なりけり︵同凹二年︶
,.折にふれて
開くベ車道はひらきてかみつ代の図のすがたを忘れざらなむ︵阿川五年︶
困のためあたなす仇はくだくともいつくしむべき零な忘れぞ︵同三七年︶
折にふれて
おのづか・h化のこ1ろも脾くまで誠の道むふめや閥民︵同三八年︶
出弊非一
さま′〃\り払のこゑにもしられけり一いきとしいける物のおもひは︵H川四年︶
マルキ∴一ズム封シキンマノミチ
マル1Tリズム封シキンマノミチ
聖
千萬の民と共にもたのしむにます聖はあらしとぞぉもふ︵〓l!q三年︶
まつ芝﹂とたゞしき闘といはれなむもののつかさよちから揖して︵同三七隼︶
山のおく島の吐てまで持ねみむ世にしられざa人もありや一夫〓︶
折にふれて
きくたびにゆかしきものはまつりどと正しキーHの姿たり/けり︹〓l−り三咋︶
由・持八
一満誉嘉川
かみいぜの仰勢の甘㍍を辞みての後こそきかめ弾まつりどと︵H三九年︶
−し
一偏叩.リ,
−・− ●
● 一一l
はるかl二もあふがね〓なしわが関のしづめとたてる伊勢のかみ損︵同三六年︶
L‖.■了−.、
一﹂州︰がけ
わが国は紳のすゑない紳祭る皆の手ぶり忘るなよゆめ︵阿川三咋︶
とこしへに園たもります天地の帥のまつりをおろそかにすな︵同︶
述は
干潟の只の力たあつめなばいかた乙菓も伐らむとぞ思ふ︵日出一年︶
井上石澤著
三井叩之輩
﹃狗鐸の忠恕文化とマルクス・レ王ン主我﹄
﹃貌穂大子研究﹄
﹃引治大畠御貧㍍冤﹄
︵鼓︶.本桐仝把の泣東女癒
茄E約諾黎
︵包︶p.丸.〇.笹∴㌫戸
︹1︶A戻d︹m巳t︹rpr訂Fn舅にさ一試だ弓H・E義e︰∽IP︶Ⅵ一誌㌣
︵3︺声J︻邑︰Hbdまg戸鍔一汁宍gⅥ・昌¢芦
︹4︶句.日華︼s︰Pu㌢igヨ嘉島罠g耶∴挙
︵5︶路可鱒節十七章節二十印節二十一節
﹃叫拍天n︹杓技研究﹄一六京一七貫
︵6︶一ぺ.弓und誉Si旨㌫cどu邑︵テe邑lm︼ic訂W皇−S.畠00.
︵8︶馬東伯節十九革欝二門印
︵7︶三井巾之著
︵10︶拘﹁巴訂扁︰N訂二戸i詩ぎぎE邑けC−−αkO買コ⋮つ、グーLノJ.
︵9︶試焉甲Eポ¢訂︰COmml象肌汁彊昌“巧象p:P
︵11︶戸出ヨ鍋軋Ⅵ︰イOn計りt.t︵一号=琵一ゴ苧n罵C㌢コ、S.ぴP
︵12︶ レニン君、瓜鑓・猷非共謀﹃マルクス・エンゲルス・マルクチ芋準﹄七餌豆
︵H︺河上・宮川北ハ諜﹃丑本論﹄節一作餌一分柑、郡蒜への序昔∴嵩
︵14︶河上節苛﹃揮折由大網﹄序Fq罠
︵u︶ウインデルバント背、祷由英雄詔﹃プレルーダイエン﹄下怨l門奈六苅
⊥Ⅵシキンマノミチ
︵17︺hハ.ソ㌻rM︰け誘因量it已︵HH堵害毒2geけ昌T3E羞e︼s︺−S・研i.㍗
︵H︶同上田丸六京
マ恥ヤシ﹂へ
マルキシズ・∴パシキ■シマノヾチ
︵18︶W●弓u−乙−︰ザ旨m計r〓−川︼つ叫0与川e∑巳−Ⅵ.㌫︼.
呂e已rik d?巳呂︰Z弓芽一・Cぎ㌻じO d窃S︵Ni已iヒゴ声
︵∽︺Tg−・一1・Ⅵ︵臼b邑︰D﹁一r首一et弓︰s告Ⅵ。注ぎ戻−○首鼠er︰ワel頭eユ巨−昌d賢い已い・2き
︵餌︶弓∵毛呂dt︰S宣︵営︷︼︹1りE訂1当好日声−Ⅵ●持声
専門牢としての悌敦寧
宮、本
正
こ、﹁寺門串としての俳教墜﹂なる題目の下に研究の一部を我表したいと存じます。
尊
先づ第一に専門拳としての俳教嬰と云ふことを特に本日捷唱致します理由を申上げます。これに就いては私は
﹁此絞研究法と組織的俳教﹂と云ふ問鴇の締結を大世鼓に申上げるやうな具合になつて居ります。今はその論述
の過程の委細と虚に轟すことは出来ませぬが、幾分な少1も.それに崩れつ1論をす1めたいと息ひます。
私のこの演題に就いて計らすも思ひ合はされることは、昨日大命第−日に劇暗合長が﹁二十五年の想出﹂を語
られょしたその御蹄のうちに、明治三十−年長勒に出版せられた研究に﹁比較宗教墜﹂と銘打つてその傍らに小
さく、﹁一名宗教畢概論﹂と但し書きを癒しておいた。しかしその小さかつた﹁宗教畢﹂が今や本格になりすま
してきて今日の大倉迄開けてきた云々とあつたことであります。最初宗教墜と呼ぶことの何となく相臆しくなく
寧ろ、比較宗教堅と超するの通常な少しこと、而鳥今日に於ては比較宗教拳と名けんには却って専門拳として落
付かぬ所以のものも、共に充分の理由があると思はれるのであります。そこに明治大正昭和への文運進歩の水準
が高められ、﹁人﹂の排しの成果が積よれて釆たのである。その研究方法に於てもその研究封象に就いても、範囲
蒋門拳としての件数拳
専門串としての俳敦単
一六八
㊥明確さが漸次増し来り、それ自らの分野が定って、﹁撃と名けらる1に相應しき内容を穆る迄に生長を速げて
水たことむ意味するのであると思ひます。
就きまして﹁仲秋皐﹂のことでありますが、乏も畔日の﹁想出﹂のうちにありましたやうに1﹁印度哲拳﹂の看
板のもとで棄出して現在に至っておることは、明治大正昭和の藍艶的苛性であります。このことの千飴曲
く箱師の職にあり講座を創設せられた故村上専精博士の常に洩らしておられたことを記憶しておるのであ
が、これとても結局は﹁畢﹂それ自身の進歩哉蓮に侯つより外はないのであると布じます。私の今日の縛
教畢講座紀念大命なるに因んで沸教輿論庄の可能に幾分観れてをる心算であります。印度哲撃としての俳
可なり古くよわ大草では開講せられたのであるが、井上哲女郎博士が﹁比較宗教及東洋哲拳﹂なる題目に
せられたことが、今旦宗野拳の撞き萌芽を為せると共にそれがまた東洋哲単一般而て沸教拳もそれに伐少
に開萄の逸に進んだことを考へると、澤速なる事理も精密なる拳の組較も﹁人﹂の努力による漸静的準達
カであることを痛切に感する次第であります。
今私が件数と云はすして沸教畢と意訟的にはつきりと云ひ出してくることは、矢張りそれ自らの立場と
傘関的立揚と云ふものを稲−明瞭に意諭して発たことを表示してをるのであります。研究の方法と封象とに就い
てそれの狗臼な立場と眼界範囲を明瞭に施設するのであります。この施設と云ふ語は沸教でよく用ふる語
設と云ふてもよい。pエ茸江の梵語に相雷するのであるが.今これを設定としてもよろしく想定すると云ふても
よいと思ひ象す。
二、由来、比較研究方法と云ふものは、常に異質的文化か接崩し交凍ナる韻合に先づ行はる1唯一の方法と考
へられます。これはかの比較言語拳とか比較宗教蓼とか云ふものが、西欧人の印度費見或は印度侵略庶くは東洋
蓑見と云ふことの、嘗に偉大なる世界人類的産物そのものであるに徹しても明かでありよす。西欧人の殖民政策
或は東洋侵略にょつて門戸が開かれ、その彼等が到達せる文化そのものから新しく出番せんとした我が明治維新
以後の文化を代表する帝国大草が先づ梵文拳や比較言語拳︵博青草︶が開設され、俳教も印度哲畢の名の下に開
講したと云ふ事情は、如何に我が拳界が息賓に西欧のそれに追随し模倣して釆たものであるかを加賀に語つて居
るのであります。梵語、梵文革、印度曹畢が故南條博士特に高楠博士の力に倹つたものが多大であつたが皐発こ
れ西欧の文化研究の輸入と云ふ一形式であつたのであゎます。この鮎に於で私が特に﹁俳敬啓﹂の立場を主張す
るに立ち至った所に、古来の停統的彿教研究の精神を翠の立場に引上げんとする念願が幾分潜んでをるのであり
ます。乍然それも巳に靡き比較研究精紳の素地に於て営まれるものであることは決して叉汲却してはならない重
要鮎であると思ひます。
この比較研究注が今申し上げた異質文化接燭の初期の研究方法であることは、それは常に啓蒙期と相伴ふてを
るものであることは見逃せ紅い。この啓蒙旨壁ぎロgと相伴ふことは手近くは我が明治文化の費達に於てよく
見得ることである。
三今この鮎を更に明瞭ならしむる鳥めに、例を特に沸教文化費連史上に於て取りむすならば、それは先づ支
二ハ九
部に於ける彿教移植に就いてゞあり・ます。支部彿散見上先づ第一に拳ぐペきエポック、メ4主∴ニケた時親と申し
専門拳としての例数単
専門串としての併政事
ますならば西紀草世紀の初頭に支部に活躍せる鳩摩簸什内巨腎奇p
一七〇
の戚蕗時代であ少ます。それ迄は沸教は
特に般若経と云ふ否定の原理を力詮した経典が中心であつてそれが老荘の無の思想との比較研究により了解せら
れ、特に老荘の畢の概念名節を常て1義を格すと云ふ風であ少ました。そしてこれを﹁格義﹂の風と名付け昔時
の流行であつたと息はれます。而てこの格義の見なるものこそ明瞭にその常時の啓蒙方法であわ、比餃研究法で
あつたのであ少ます。
乍然、羅什の入支は何を支部に潜らし、その所課は如何なる寄輿を常時の草界になしたでありませうか。龍横
雲各骨呂捜婆D雪pの恭敬中道に関する著作、成苦論−法華経摩浄土の大乗経典等である。而て彼の位督をし
て然く不朽ならしめた根本原因は﹁龍樹の畢﹂を移植した蔑めに外ならないのであ少まサ。而もその時代を梅毒
の比較研究時代上り剋躍せしめた根嬢はその基点想であつたのであ少ます。私はそれが特にエポック、メィキン
グの原因であつたことを強調するためにそれはとりもなほさす基覿と云ふ排詮法であつたと現代に流行してをる
用語を生で採用いたします。
この裏取は否定の原理であゎますが、かの論理畢におきまして全輪香定と横充昏萱iβとの闊係に見ても
明かである如く、この査柄否定命題に昔るべき一切法益m雪邑F罵日乱甘首騨と云ふ立韻が羅什門下に理解さる1
に至ったとするならば、やがて随伴し来ることは比較的研究と云ふ梅毒の立現よ少離晩せる空位的立場の費露と
云ふことになるのは普然であつたのであります。而てそれが思想が迫る唯一の道行きであると息ひますが、これ
を唯一涙道些一無く亦三無しなどゝ表凍してもよいかと存じます。換官しますれば容赦と云ふ幹詮法がその全き
粕に於て稔入されたのは薙什にょるのでありますから.並に毅然たる沸教研究に就いての一新紀元が支部に於て
開かれたのであつて、沸教は異国に俸通せる黎達見に於て、故に普然なる開展を途げたのであります。・
この事琶比痛言の方面から論ずることが出来るのでありますが、今は問題の椿事に就いて述べる事に致
先づ啓蒙的な比較研究たる格義が、どうも面白くない、本筋のものでないと云ふ要が羅什の門下から蟄せ
立ち至ったのであります。それは羅什の弟子なる伶叡が﹁鹿摩羅詰捷密轟疏序﹄に於て﹁薫風東屋し、法
ヽヽヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ たるより巳釆、請を日ふと堆も辟た梅毒は迂にして本に帝く。六家偏にして性基の宗に邑−1せす﹂と道破してをる
によつても明かである。これはこの持ち寄り的な嘗時の比較研究諸家の格義の域を放して本格の相姦見す
至ったからであつてーこの草などがやがて後には関内什孝山門義と呼ばる1滋泉なのであhこます。阻ち三論の正
覿非盃法がそれであhごます。他方また天台の智頗が特に法華と中智二論とに基いてその狗特なる中道囲軸の立場
を明かにしたのであ少、その何れもが羅什の椚諸に基いてをります。私の考によ少ますれば一にこれ﹁龍
作﹂の研究の産物と存じます。天台宗には金口相承の外に今師相承が説かる1所以は全くその秋草の龍樹に網漁
することを表示してをるものであります。またかの﹁文師用心一俵持論﹂と云ひ、或は﹃統組﹄
慧文の大攣二智一心中得の文と中論三諦偽との情人も.更に﹃績高倍倖﹄に停ふるが如きかの﹁一心具萬行﹂の憲
思の濁悟も、尊貴するに龍樹の著書を通じての慣鹸の蟄藩縛入であつたことを語るに過ぎないのであ少ま
羅什の位督の重要さが益々加って来るわけであhてます。何れにしましても致に三論とか天台とか云ふ全憬的立場
を把挺し巳詮慣験せる畢者を出したことは事‡であ少、これは支部日本の大乗俳教蟄達の源泉を為すので
専門皐としての悌政事
専門畢としての借款畢
︼七二
す。故に先づそれ迄の蓼の研究と全鰻的立場とが組拉的に融通された寄は認めねばならぬのであ少ます。
要之、什畢門巷と云ひ二三論山門義と云ひ天台の蟄捧と云ひ、何れもその板抜は、龍樹の申覿舞記法が支部に
移植蟹挿されたに基くものであることは大鰐明かであると存じます。而て私の特に鼓に述べんと欲する所はー上
乗云ふて釆た全髄的立革隠、たゞこの茎取締定法によ少てのみ可能であつて、それが喝際に意識せらる▲や、自
らこれが新しいエポックを形成する根本的條件となると云ふのであ少ます。そしてこれが最もよい手本をJの薙
什時代に見るのであつて、文化史的には茸に重要な一.餉をなすものであ少ます。
四、更にか⊥るエポック、メイキングとその根本的原因との関係に就いては、印度に於て大乗教の興起と龍樹
の出現と云ふ匿史的専管に依つて論詮することが出奔∵︼れを更に匿史的に潮瀕して、俳陀成道の因果を考察す
ることによつて可能であ少ます。乍琴︼れは只今述べてをることは出来ませぬ。
日本に寧きましては鎌倉時代がこれに相督し.それ以前は梅毒時代と云ふよ少も寧ろ帝人移植時代と云ふペき
であらうと思ひまデひ少くとも格義とか比較研究が可能ならんが焦めには、自分の方にも何等がの文化が形態を
焦して凍らねばならぬ。思想文化がそれ迄の形態を具へてをらなかつた督初の日本に於ては、沸教がそこに生ひ
立ちそれ自らの全慣的立場を意識する城に到達するには、随分と長い時間を費さねばならなかつたし、輸入移植
模倣畢習風索醍臨と先人の食い多くの捨石が試みられねばならなかつた事は雷然のこ七であゎます。
私は大略この比較研究と金牌的立場と云ふことに就いて、俳陀時代、龍樹時代、羅什以後、法戒時代、鎌倉時
代〆・特に劃期的時代の例と奉げ∵−の時代が公に私の云ふ全標的立揚とか新しき立揚とか文化の新展望とかゞ、
克明に表示せらる1に相藤しき時代なることを申述べたのであゎます。そして今日私が﹁専門畢としての彿秋草﹂
と云ふことを捷唱致します所以のものも.明治維新以後の新しき日本文化のうちに徐員に成熟しか1つて釆た俳
教研究も、漸くそれ自らの全憬的立場を意識しかけて来てをることを諸君に昔げたいのであhてます.私が猫歩こ
のことを強調しましても.それは十全なる成熟でないのは明かであhごますが、曙光たきぎしむる丈けの力にはな
ると存じてを少ます。長のエポック、メィキングは更に世紀電呂邑i胃uの後に﹁新鎌倉﹂として到来するであ
らうと申上げるのであ少ます。たゞ私はその新鎌倉出現を意識的に期待し、その賛現への努力の一石を故に投じ
たいと息ひます。宗教挙が更に五十年紀念を迎へることを戯崎倉長か迎ひ望んでをられましたが、私は﹁新鎌倉
の名の下にそれを期待致したいと存じょす。
私は﹁沸教墜﹂と云ふ所にその研究方法としては補助的串間の意義をも認め、音蕾慧毒垂宗教夫々の意義を
包含させたいと存じますが、今日に於ては阿含の研究丈けが根本沸教を会規せしむるに足るものでなく、龍樹の
研究だけがそれであるとも云ひ得ぬ事を認めます。まして.や支部甘木の或る一笹沢や一時期の研究がそれである
とは申されぬのであ少ます。尤もこれも比較的の話であ㌢ますが、今道中上げましたエポック、メイキングの原
因をなした時代の経論皐詮の研究は、より直裁に私の申上げる﹁仝堤的立場﹂を把捏するに役立つと存じます。
﹁撃一としては何れの小さい一塊画を捉へた研究にしても告いのでありますし、それが綜合統一の活用は必ずし
も一人の単著や組師の功に蹄せられなくてもよいのであ㌣そこに同朋同行の﹁共同努作﹂の意義が﹁拳の態度﹂
によつて深められて釆てをるのであ少、新鎌倉の出現に封してこれは可な少必然の基礎着色でなくてはならぬと
専門皐としての沸教串
専門事としての儒教事
一芸
存じます。それ丈け分流宗執の我執が窮められて、や1開襟になるのは研究者やその昔後の人々の人間的繋縛に
よる煩悩障或は我執の蛾烈を極めることが濁合にょ少てある位なものであhごますが∵Jれとても﹁畢の立翠妄辰
に理解せぬからのことであゎてますからー結局さう云ふ人言傾向は﹁新鎌倉﹂への建設者で賢いと云ふだ
ゎます。
五、件数畢がそれ自身の全憬的立場を見出すことに就きましては、従来日本人の血肉となつてをつた思
が、明治維新と云ふ断静的地震によつ三時切断された鮎を決して忘れてはならないのであります。由飛地
鍛へられて釆た国民ではあるが、その薦め思想的にも生活的にも持横性が甚だ届いと云ふことは否み難い
hごます。明治の断静にょ少て一時切断せられたものが次いで反撥・啓琴比較・拳習期を軽て蘇生しっゝあるので
ありますが、そこには倖統と云ふ古いものをいのちに通はせつよも、西欧文化の新しき血を硬けた固の土
行くのでありますから、即ち、新しき国民の懐と頭とにょって生長するのであゎますから、共所には如何
も﹁新鎌倉﹂の出現は鎌倉の焼き直しや嘗腰椎持では孝が収まらないのであゎます。新しき滞日な立遥を
もわであらうと思ひます。猿轡親亨道元・日蓮緒先達の出現迄には、せいぜいゆ1しき南都北嶺の畢生達の新
しい研究が疎まれねばならぬのであります。そしてこれが﹁畢﹂の﹁漸敦﹂としての効果なので非常に重
hごます。
専門串と辞し得るには夫々特殊な研究封象と方法とが規定されねばならぬのであゎますが、今は一貫す
原理と封象と態度との示唆に止めたいと存じます。私はこれに就いて繹合成這の内容を﹁板木正撃と設定し.
これに封すゑ止琴を﹁銀水申﹂の立豪と名付けてをります。その研究の一部は﹃宗敦碧伽藍l−−に発表しておき
ましたが、今致で全憶的立損と糾し塞ったものはこれを根本小の立場と云ひ挽へてもよろしいりであり主㌔
﹁専門革として仰歌聖と云ふ箪的腔先の立場からは、来米山持愁学三三必要はたいか知れませぬが、杢班的
立場を意識する際には自らモの匪に潜む机心が呼びかけてくろのでありよすJまわ私は特に彿琴でれ〓身の立避
とか今慣仙立以と云ふてむりきすが.そこには決して環境親野の拭・⋮へ†鹿毛芯たいのでは㌦て、この意味に於
ては絶えざる揮豪と比較C削瑞半、び厘新が随作して﹂ンリのでありハ雷圧たれてこらたいのであり‡すd
市門撃としての僚故塁
︵昭和五、五、十一︶
てをろのでありエ÷が、ド特にこれが﹁∴隼〓﹂への完“いい∵〃衰八次しっ1きりものでJウり・と︰︰ェて居ります。
増ふてくれた﹁や協的∴几ヨとヤ瑞通い崇告本⋮・心き、扶Lて王.ハニで声り三,▼これヾ∵ノ、H∴什■いレ莞‖爵伏し
以上仰⋮吊に巾述べたしたが、柑鱗七化転入J、・︰烹亡来∴小字二l竹∴ヰ一∵
と∴=∵誌描つ草差話芸の研究が
’
金剛頂経の成立年代
金剛頂二経の成立年代
十
中
一七大
条剛田澤は御承知の如く大日経と相並んで望呂密教の二つC代衣的な兜典の︼となつて㍍”りものであつて、そ
−●
の梵本は総じて十前侶十八愈より成る経典であつたと言はれて屈ります。私は之を同和欝の十▼八部の繹典の猥戚
と増へ従って大鰐芳紀などと同様に之至純の芸事と見放し.且つ斯の一群の把典は決しで一人の平に成つたも
のでもなぐ亦必ずしも同一の時代に出来たものでもないと信じて居るのであるが、今立では租拍的に共の成立年
代を概論するに止め、著し時間の飴裕があらば併せて常澄の作者に附する愚見の一端を述べろことにしたいと思
ひます。
こ
去来怒敬畢徒の問には餞塔相承と糾する解釈詮が一めつてー十萬頂十八禽の金剛頂控は龍竪壷が南大の費堵を
閃いて金剛薩埼から和侍したものと信ぜられて屠るがー私の見る所によれば、この置此ハは耗もなく世親菩薩以後
に至つて成立したものと言はなければならない。何故たれば斯の経典の立脚せる榎本教理は主として世親一波の
鷹詮を鳴承してゐるからである。
莞づ第一に命剛頂経は世親に楳て大成せられたろ招耶綾超の改印保と絹放して居る。
郡二には両親脚数の皆峯思想に封して世敷革漉の〓品邑とばれりり妙有−思想託委遺し之ン痕重要親して居ろ。
第三に壮観は人法二基の親智に株て紆はれる貰如を指して仰性と呼び之た如来成、自性軍陣心、眞性、清持法
界、如死性.法身、法界、琵身とも呼んで居るが、金刷頂鞋は期の世親わ棉性諭た北ハ醍套週Lてゐるのである。
㍍叫に令閏和紀は無著世親一派の翻身論即ち自性、受用、婁化の∴身詮を托用して居る。
招五に指摘せなければなら氾瓢は金捌房謹に詮く摺の五智㍊想であつて.一しれ虻無著せ覿の四智設の延長或は
択充であぁことは疑を容れない。
佃ほ併行論の方面に於ても金剛頂琵は十地.十波羅蜜、金剛咤定、等の敦讐忙世親箪準計ら柔け抱いで居るの
である。
是等の鶉蜜によつて考へるならば、令剛頂澄は叩かに世親菩薩以筏に出来たものと見倣して差支なからうと思
ひます。
三
更に一歩を進めて諭するならば、斯の軍典は親尭菩薩の﹁僻地経論﹂述作の常時にも未だ成立して店らなかつ
一七七
たものであつて、恐らく西暦坑七世紀の中葉以後に至つて〓水上ったものと推測しなければな・.りない。私は斯の
如き推定㌢一下すに常って故に三脚の郡山を畢げることが出来る。
金剛頂紐の成立年代
金剛頂穣の威光年代
一七凡
その第一は令剛頂紅に於て一切如米の本質と考二切緒仰の籠性と稲する五智‖心想の醇史である。所謂五智と
は如来五和別或は五和如来智と捕するものであつて、普通にはぺ相識恕、平等性Ⅲ‖.妙閻娯管成所作智、法外
慣性智として知られ、時としてほ十剛三昧智、欄艮印瀧頂智.清雄拝吊彗掲出妙豊亀l、如郵ほ牲祁の名を輿へら
れ、就中、法非慢性型は或は罪加法非望或は泣付ほ界㌍︰既往清挿竹=〓漬け扶碁性眉或は⋮坤に法界智とも呼ばれ且
つ前四智の水琴と考へられて居ろものであろC私ほ斯の五窄〓心恕の起緑と比撤すべきか㌘孟棄の著告即ち拉大
乗論や姫位縫論︵この大乗舵腋論の作常に放いてほ異論もあろが今は暫く無常の辞書と見放して置く︶などの巾
に初めて叩かに認めろことが出水ワリ。
惟ふに無骨の無漏法界、沼津法外、清澤如、法身、炭如、如埜絨.罪法界などと呼んで居るものは五智の中の
法界惰性智に荊苦し更に猪仰の智として詮明誓り鏡恕.平等智、用賀..作邦閏は前述のト八川鑓別等の四智に外な
らない。而して世親門下の澤法菩薩等の﹁戒聴講論∵那十巻に右∴清持法号茂ぺ血管を祀持して抜身の嘉通性と
呼び、方等部の﹁彿地鮭﹂に之鞋大盤他の五鍾放と名けて居るのはjEしく五菅詮の先払㌣成すものであらうと私
は考へるのである。然るに法身の五法或は・一へ覚他の末法なるものは何れも琵如の理籠と川根の俳壇とを並べ撃げ
た理智介諭の末法であつて、未た令脚頂控の如く五訟の放てに想い名を輿へ之を総括して五柾如来智と椚する患
でには至つて居らない。かの玄非三成の師部せし戒㌍論価とHじく謹法門下の一人たろ覿光菩薩が共著﹁仰地経
論﹂第三懸以下に詳詮する大兜地の末法もまた﹁成嘩識盃﹂や﹁僻地鑑﹂の場合と全く同株である。故に親光の
俳地経論述作常時︵恐らく節七世紀の前年︶に於ても厳密な意味の公判思想は成立して甲bず滝つて斯の五智を
設ける金剛頂経其物も未だ存在してゐなかったであらうと考へるのである。
の記述に依れば、金剛頂十八合の鮭
次に金剛頂檻の完成は第七世紀の中葉以後︵恐らく其の後年期︶に在りと主張する第二の理由として西萩の所
倖を参照する必要があると思ふ。この経の停播に関する智友︵J駁腎寧日言⊇︶
が初めて西北印度のサホール即ち現今のラホール地方に規はれたのは密教の篤信者として有名な島牧郵国の困陀
羅歩底王︵ど争pb訂ti︶の時であつた。王は此の脛を播いて見たが共意味がさつばり判らなかつたので摩刺婆固か
らククラ︵不急弓p︶と云ふ密教の阿閏梨を招いて説明を請ふた。ところが其のククラ阿圃梨も未だ曾て十八命の
金剛頂軽を見たことがなかつたので、容易に経文の意義を了解することが出奔ず速に金剛薩確の指示を得て始め
て之を知るに至ったとのことである。息ふに専門の阿閣梨ですら未だ骨て見孝︼とがなかつたと云ふことは、斯
の経典の成立後多くの歳月を経過してゐなかつたと云ふ革賃を暗示するものと言はなければならない。而して島
牧郵図の因陀薙歩底は第七世紀の後年に出でた王であると言はれて居るのであるから、この西成の桝俸に基いて
−
六九五年膵唐︶と同時代の入竺求法檜無行が印度から
考察する金剛頂経の成立年代は前述の五智思想の歴狙から推測したものと大醍符合するのである。
次に第三の郡由は義浮三蔵︵西暦六七一年支部出畿
唐に寄せた審の一節に近着新有荘官教法と言って居る等質である。これは勿論直接に金剛頂経基物の成立年代を
指示するものではないが、西暦六四五年に膵唐した玄弊lニ戒が眞言密教の興起に関して少しも言及して居らない
寄驚並びに密教東漸の庭兜と相待つて前述の所論を間接に抒掠立てる一材料である。
私は以上三偶の理由に基いて金剛頂経の成立を第七世紀の巾集以後特に其の後牛とするのであるが、一方に於
金剛頂顔の成立年代
金剛頂鶉の成立隼代
一八〇
て金瞞頂絆十八分の布衣を否定せんとすろ者︹故大村西琵氏の﹁密教恵達空第三奄︶もあ.るから.金剛智三成
や不室二絨C時代には眈に十八愈の紅の成立してゐたと云ふ笥賢に就いて次に二言して皿旧事寿いと忠ふ。
田
私の見ろ所によれば十八愈の金剛頂檻は遅くとも第七雅紀の終には既に集大成せられてゐたものと言はなけれ
ばならない。今その野山として三つの朝雲を指摘することができる。
第一は梵本俸雑の賀宴である。十八愈の金刹頂諾は不辛にして其の全課を見るに至ちなかったけれとも、唐の
天宵五年/七聖ハ年︶に不挙二戒が之を支部へ倍来したことは、彼が臨終に竹ぢて代宗皇帝に奉った上表文を初め
其弟子倍飛錫.俗野丁週漫及び抜邸などの鎌述した碑文、行状記−影票、等に放して明かであつて、就中、不在
白身の臨終の青葉は最も信憑するに足るものと見倒さなければならない。釦ち彼は天竺から得て米た何の余別恵
投伽十寓頒、諸細の畢言及び経論等五千飴笛頚を悉く翻課して聯か園思に乾ひたいと張って居たが、その訊問の
未だ成就せざるに前立って忽ちに生涯の終に臨んだのは甚だ姥念であると言って居るのである。吾々は斯の言−乞
疑ふことは〓釆ない。不璽二萩がその師金剛智の口撃.㌣記録したものと粥す互恵剛頂玲伽秘密心地法門義訣﹂に
依れば、金剛智もまた釆臍の際に十八脅十常頒の金剛頂脛を携へて結に乗ったのであるが、途中風波の灘に追う
て斯の十萬頒の浜本は無智なる水夫のために他の貨物と共に洛中に㍑ぜられ、僅かに略本の﹁令頂稔伽略出念説
経﹂だけを無亮に賂来することが出来たとのことである。か望.率い軌撃退誌請著者大村四揖氏は十八昏の経の存
在を否定せんとする立場から之を荒唐無稽の談として一笑に附して居るけれども、金剛智が三十一武の暗色−jち西
麿七盲一年に中天竺から南天竺へ赴いて金剛頂経基他の経論や五部濯頂等の秘密儀軌を七年間峯召したと
録︵呂向のT故金剛智三蔵行記﹂一巻︶及び不基再天の目的たどを考へ合はすならば、必ずしも巌構の設託として斥
けることは出来ないであらう。
第二は金剛頂十八禽の名稲及び各脅の梗概を記述せる詳著即ち不基詳の﹁金側頂魚伽控十八倉持障﹂一
不壷撰述の﹁陀款尼門諸部要目﹂一巻の存在する事蜜である。この二事の中前者は酎詩宗に非ずして不在
であるとも考へられるのであるが、何れにしても斯かる摘要者は既存の十八禽の経此ハに採って述作せら
ど見倣さなければ.ならない。惟ふに﹁密教萄達誌﹂の著者の如く之真単に金剛頂経編苺の預定目録に過ぎないも
のと詮くのは十八昏の粧の存在を否定せんとする党人主の偏見に基く陪詮たるを免れないであらう。
次に金剛頂経十八昏の存在を立許する第三の等質は金剛智、不客などの詩経である。今試みに是等の人
出した経典と.﹁十八食指蹄﹂の説明とを封照して考へるならば、唐の開元十一年︵西暦七二三年︶に金剛智の漠詳
した﹁余剛頂稔伽中略揖念訴経﹂開巻を初めとして不基繹﹁金剛頂一切如来眞鷲棒大薬現詮大数五経﹂三
栗詩﹁諸梯短界特質寵繹﹂三春などは明かに靭昏四大品の申の金剛界大愛慕迩晶の輿琵であり、不客詩の
敦王把及び二懇の敢王経に撃して三十巻の致王経と嗣する施設誰﹁俳詠一切如来眞賀擁大乗現詮三味大数
和食四大品全課である。また金剛智詰﹁金剛頂稔伽址趣般若翠一一巻、不察諾﹁大聖金剛不室匡彗二摩耶
波簸蜜多理趣晶﹂一怨、詑謹詩﹁併設返照砦絞羅蟹欝﹂一筆法賢謬﹁怖説法上松本大聖金剛不寧二摩耶大
腔﹂七巻、更に初って書付議誌評義和般股莞羅培鮭﹂一巻などは堅ハ昏の新本異謬として夢ぐべきもので
金剛頂迦の成立年代
一入二
金剛頂軽の成立年代
て、次に第八分の抄詩と見倣すべきものには不基詩の﹁大柴金剛薩撞修行成流儀軌﹂一巻と﹁金剛頂肪初
略出大聖金剛薩挿念諦儀軌﹂一巻と﹁金剛頂初稔伽普賢菩薩念訴法経﹂一巻とがありー更に節十東食の詩
ては︵時代は降るけれども︶施護澤﹁一切如来金剛三条最上秘密大敬三控﹂七巻がある。伺ほ是等の外にも、十八
愈の中の何れに廃するかは明かでないが、経輿の前述着自ら十八昏十高明の中から略出したと糾するもの
は之に壊つて作ったと見倣すべきものが数十部現存してゐる。−例を馨ぐれば、不基詳の﹁金剛頂稔伽金剛蔭唾
五秘密修行念諦儀軌﹂一筆﹁金剛頂稔伽降三世成就極探密門﹂一撃﹁金剛頂蓮華部心念詫犠軌﹂一筆金剛
詩の﹁金剛頂捻伽和白在王如来修行牲﹂一宅などが軋ちそれである。
以上遊ぶる所の梵本俸郊の笥葦と摘要苦存在の寄茸と詩経史上望瑚賛とを綜合して考へるならば、十八
頒の金剛頂経は遅くとも第七世紀の終には既に成立してゐたものと富はなければならないので警句。
五
金剛頂紅の成立年代に関する極めて総括的な論述は暫らく上述の程度に止めて皆いて、最後にこの経典
について三石したいと思ふ。﹁密教簡達誌﹂の著者は﹁文殊千鉢撃の序文に操って金剛智の本帥は寅覚阿
呼ぶ人であると考へ、更にこの推測を根接として箕覚阿閣梨を金剛頂脛の作者に擬し彼を金剛頂宗の鼻組
して居るのであるが、千鉢経の序文は大村氏の考ふるが如く明瞭的確な唯〓讐一の琵徴とし七信用するに
き史料でない。また設ひ寅寛が金剛智の本師であつたとしても、其の故を以て直ちに彼を金剛頂怒の作者
すのは早計である。私は上に述べた金剛頂経の敦系と五智思想成立の隆史と経典俸浮の専管とに徹して、
典はせ親政後金剛智以前恐らく第七世紀の後年に主として世親一波の教説を織承する者の手に成つたものと考へ
るのであるが、果して何人が之を前述したかと云ふことは、他の多くの経典の場合と同じく、少なくとも現在の
ところでは詳かでないと晋はぎるを樽ないのである。
以上の論述に於て詮明を省略した鮎は先年豊一口宗京都大畢費行の﹁密宗畢報﹂に牽表した左記の拙論を参照し
︵密宗畢報一二五−︼ニ九鮭︶
︵何誌五〇鯵C
﹁千甘千鉢豊島利惣の序に裁て﹂ ︵同誌五四畿︶
﹁金︻頂京と世親皐渡との同体﹂
金剛頂無の成立年代
﹁龍智と金■智との師弟膵併﹂
檜
て頂きたい。
何 岡林
宗教的情操の賠形七
宗数的情操の諸形態
∴
西
澤
一入四
超
應
ここに形態と云ふ青葉を用ひて居りますが、形感心埋草に於て、用ひて居る形態とは、概念の意
\
て、多少相違するところがあ少ます。ここでは状態とか、態様とか、形相とか云ふ意味に了承して
従来宗教心埋草に於て、取扱つて居る宗教経験の研究には、宗教意静が明確な観念として現はれた易合や、顧
著な感情として示された莞口宅多く考究いたして居少ました。.従って貌念の性質をー論理的に推考した少、感
情の内容を、仔細に考察したりして居りました。
然るに、宗教意鼓の内容に裁て、更に深く、考察してみますると、斯くの如き・明らかな軌念や
占れの態度に、表現するに至るまでの、心意過程について、研究すべき多くのものがあります。即
的腰虔に、直接嘉しくは間接に、影響を輿へ、我々の行儀を制約して居う多様の心意的要因が存在
す。
長れ等の方面の研究の一部として、宗教感情の中、宗教的借換に就いて、画形に基づきー祝祭の
るつも少であわこます。
〓
宗教的情操の特質としては、︵イ︶自己の力が有限なることを自ら意識すること。︵こ自己の力よ少も、更に優
越して居る無限の力が、資在して居ることを信ずること。︵ハ︶此の賛在して居る無限のカは、自ら作用し、叉自
己の生満と.常に密接なる関係を、有して居るものと、信ずること等であります。
此の無限の力を有£茹捜瞥在に射する信仰が、民族的に、社台的にー表現せられた場合につき.膝史を辿って、
綜合して見ると、︵イ︶具象的には、日月、星辰、天地、山川、草木.動物、人類等、自然界に於けるあらゆる事
象が、包括せられて居ります⊃︵P︶抽象的には.紳、俳、誠、力、絶封、無限、自然、天命、宿命、運命、早宮.
展理、展如、茸在、根本悪理、紳秘的勢力、統一的詮撮、究寛的資在等の表象が用ひられて居ります。
宗教的情操を、仔細に吟味して見ますると、︵イ︶信仰の封象に封して、多分に主
斯くの如き、茸在に関する概念が、常に信仰の封象として、取り扱はれて居ります。
三
﹁宗教的情操の樗成様式
鮎をおいて居る場合があります。其の時には、諌芙の感とか、或は、含崇の念とか、或は、畏敬の情とか云ふ情
一八五一
操にな・つてまゐります。︵こ・之れに反し、自己の心情に、重心を置く場合があります。其の時には、感謝の念と
霊的情操の常形態
宗教的情操の諸形態
第−聞 宗教的借換の構成
自己の心晴
一八大
か、俄悔の念とか、渇仰の念とか云ふ情操の種類に克ってまいります。
斯く直別は致しますもの1、賛際に宗教的情操として、具債的に経
験せらる1場合には、純一無雑、絶封膵依の心情として′憬験せらる
1のであります。そこに信仰の対象も無ければ、自己の心情の封立も
無いのであります。︵第一固参照︶
更に、是れ等の宗教的博捜が、具標的に経験せらる1韻合に就て考
へてみますると、︵イ︶感情が強く現れた少、弱く現れたりする等があ
ります。︵こ叉信仰の封象に関する概念の内容が、正確なる揚合と、
自己の忙偶一
不明瞭なる場合とあ信仰の封象
ります。︵〇叉宗教経験を自ら意識する態度が、深くて儀い場合
と、浅くて弱い場合とあります。以上三つの條件の結合状悪に
よつて、宗教的博捜の形相は、異ってまいります。
的借換が、憩く現れて居ると致しますれば、第二園の如くな少
ます。かくして、條件の連繋の如何によ少、各様の態様が生じ
例へば僧仰の封象に封する尊崇の念が著しいといたします。
哀に自己の心情に於て、信頼の感とか、辞任の情とか云ふ宗教
怪貰の換情約数宗
自己の心情について、考察して見ますると、︵イ︶信仰の封象を.自己の内心に向つ
て参り、信仰状態について千磨萬様の経験の諸相が、表現せられる次第であります。︵琴一晩参照︶
〓・自己心情の構成株式
帝
更に固形の内部を、各方面より、考察する事が出奔ますが
計るものは、.理想的の形式と.云ってよいと思ひます。
て、多くは多角形、菊鹿形となつて有ります。従って図形と
醍的に観察して見ますると、固形になるものは、稀有であつ
石釆の宗教家、偉人等にょりて、誓れた信仰状態を、具
を示すものであります。
なります。其の固形の大さの大小は、内容の包括慶、充賛虔
心内に於て、各方向に、同等の豪産を鳥した場合は、固形と
事とにょりて、錆言の形状を生じて参hごます。︵第三園参照︶
更に、偶人の素質と、環境の状悪と、有意的努力、又は惨
活動であると云ふ鮎で、唯心的信仰の鍵盤となって参ります
なり、他は他力信仰の新芽ともなります。共に自己意鼓内の
て求むる場合と.︵こ信仰の封象を.自己の外心に向つて、渇仰する場合とあります。一つは自力信仰の要因とも
第三聞 自己心情構成の横断面
快
不快
試みにダントの分類にょる.快、不快、興奮、沈静、緊張、弛綬の方面より分解考察する寧も出来よせう。其の
宗教的情操の諸形態
宗数的情操の話形蓮
第田園 自己心情構成の縦断面
一八八
他、情操の性質より分析して見るも.一つの考察の仕方と考へます。
こゝでは、一例として感情の三方向の形式を取りて、考へて見る
寄に致しょした。
佃、宗教的情操の内容の充賃を、眞、善、実等の債値批判よ少.
取察して行くと、そこに宗教的情操の深さと、内賓とを、囲式によ
りて、表現する事が出来ます。︵第四囲参照︶
嘗際に固形に近い形式で、内容の充賀した、宗教的情操の具惜的
経験は、法悦の状態であり、法味に飽満する恍惚状態であります。
そこには、形式も無い、園形も無い、金一の統磨であります。従来
の研究に於て、信仰の極地は、等態であるとして、取少扱はれて釆
ょしたのも.此の連の心情を観察したものであゎます。
私共は結果の等放であると云ふ苓よりも、そこに到達する心意過程を、研究の封象とせんとするのであります。
三、偶人信仰と民族意識及び社台意識の構成。︵イ︶×軸ABODE⋮⋮等夫々は、個人が出生し、成長し、装達
したる吐合の宗教意攣若しくは其の時代に於ける宗教意識と示すものと致します。︵こY軸ⅠⅡⅢ⋮⋮等各々
は.家、氏族、民族等に規はる1偉統的宗教意識、若しくは、特殊の宗教意散を示すものと致します。
個人信仰は、常に両軸の交叉する鮎に位置し、両軸の中、狙い力を輿ふる方向に、移動して参ります。︵第五
㌧
族
倉
註
l
鮭●竃■
E
鶉玉岬 個人信仰と民族意諭及び
社食意払の構成
丘l
D
G
8
入
ヽ/
禁教的情操の諸形態
囲参照︶
試みに、具恒約手象について、考察して見ます。
如何なる偉大な宗教家でも、又は信仰を得た人でも、其の人々が生
た祀倉の宗教意敵−時代の宗教意故キ直琴若しくは間接に、影響
を受けて居ないものはありません。文豪なり、氏な少、民族なりに
って居ります宗教的風俗、習慣等の感化牢多少でも受けて居る苓を
承認せざるを得ません。殊に幼少時代に於ては、足れ等の力は偉大
る影響を、偶人の信仰に輿へて居ります。私共が盲人の俸記なり、
叙停等に裁て、取察して行くと、明らかに知らる1現象であ少ます。
されば偶人の信仰状恕を、研究いたして見ましても、宗教意諭の
琶の耽腰を、考究し毒したと云ふ事は出釆ません。宗教界の偉人を
て、偉人たらしめた、社台に於ける宗教意敢、及び民族に於ける宗
識を考慮に入れ.其の慣値の重要度を、含量しなければならⅥ場合が
多いと信じます。殊に宗教の如き、感情、情緒を、主賓の要因とす
例へば日本人に隼日本に停はれる僅統的拝所があ少、風俗、習慣、俵縫があ少ます。それを宗教意詠の中に
現象に於ては、極めて大切なる事柄でありますり
皿
乗数的情操の諸形煎
一九〇
∵ 加味し、添加し、調和し、融合して居h三ます。のみならす.其の時代や、其の社台に於ける主要なる思潮が、宗
教意論に、影響を輿へて、日本濁特のものと恩はれる様な、宗教意識の特質が、歴史上に現れて居ります。
之れ等の外囲的債件に基づく.宗教意諭の襲速、義連、分化は、宗教改革や、新宗教の勃興に、密接なる関係
を持って居る場合があるし、重要なる原動力となつて居る場合があります。
此の種の打究は・従来比較的研究の連れ勝ちであつた社食意琴民族意鼓の研究が、牽達するにつれて、開拓
せらるべき、重要なる方面であると信じます。何れ他の校合に於て、顔を改めて、批判を仰ぎ廉いと、考へて居
る次第であります。
四
第五固に於て、閻の中心は、偶人が生れながら有して居ると、.思はれる性質を示します。恐らくは人類が、こ
の世の中に、人類として生活し始めた時よりー若しくはそれ以前よ少、稚魚して居る生命放と致します。次に中
心より周囲に向ふ失放線は、個人意故に於ける豪速の程度宅示すものと致します。宗教意識の機能が、各方面
に封し平等に蟄達しますれば、固形とな少、電建が一方に偏すれば、各撞の、多角形を生じて参ります。
■′
乙囲は信仰の封象とし、甲圃は偶人の信仰状態と致しますると、次の如き種々の場合が∵想起せられます。
︵イ︶乙図即ち信仰の封象に就て、其の本質、横能.形腰等を考究しますれば、宗教哲畢的研究の一部となりま
す。︵こ甲間即ち信仰を有する人の性質、横能、蟄達に裁て、偶人的宗教経験を、主として軌条すれば、宗教心
埋草的研究の一部となります。
︵〇甲固、乙圃両者の関係が、如何なる環境、即ち民族、祀倉の中に、蟹生、蟹達、進化したるものかと云ふ
事に就いて、考察すれば、宗教意識の氏族心理廣的、社食心鱒嬰的研究の一部となります。
︵ニ︶甲凹が乙固の中に、挿せられますと、純粋他力的信仰の研究となります。
︵ホ︶乙閥が叩園の中に、田柄せられてしまふか、或は乙同は叩園の反映であると考へますると、純粋自力的信
.・仰の研究とな・り、、蒜す。
︵へし乙閥の一部と、甲園の一部とが、或る部分に於て、相互連結を致すと、考へますと、特殊的信仰の研究と
なゎます。︵ト︶甲園、乙園を含む園蛙は、個人信仰を具鰭的に表現したものと致します。其の長さなク、大さな
hは、偶人信仰の内容を、具象化したものと浸します。
此の聞粍が、配合意識と民族誌識との交叉訂に、位置する寄に裁て、二つの見解があります。即ち
何個入信仰は、石臼的、有意約に自ら任官したものであると、考へる見解がありますっ伸銅入信仰は、夫れ自
ら一定の目的を持たす、明らかに意識せず、直接所輿のものと、考へる見解があります之れ等は従来.宗教哲単
に於て、度々論議せられたところの問題であります。
︵チ︶妨た悶に於て、姐注がⅩ軸上を、右方に動き、Y朝上宅上方に伸びるに従つ・て、偶人信仰の進歩蟹展を.
示すものと致します。従って岡上に於ける、固庄の位置は、個人信仰が、統合現象として.現はる1位置を、
すものであり・えす。宗教意識が宗教史上に現はれ、宗教意識が祀脅現象として一社合畢や、祉合心鉦畢や、民族
宗教的倍揉の新形態
宗教的倍操の爵形感
心理畢の方面より、研究せらる1に至る所以でありまナ。
︵リ︶偶人信仰が、環境意識によりて・自己の位皆を移動して参る、心意過程に放ては、各組の状態があります
が、之れは他の横合に於て、考察する事に致します。
︵メ︶何人信仰が、自ら意識するか、若しくは、明らかに意識する寄無くして、個人信仰の位暫宅移動して参
る場合に裁て、軌祭の歩を、進めて見たいと思ひ皇す。
玉
鋼人信仰が、自己の位置を縛換する揚合に、明らかな動因となつて居ろものは、知識の進歩と、感情の敢牽と、
意志の鍛路等が、主要なるものであります。それに宗教的素質の個人的差異や、宗教的教委の精準怖怠等が
力強く働いて居る揚合が、多いのであります。
是れ等の方面に踊する研究は、徒釆の宗教心鱒畢に於てヾ時々菅表せられて居りますから∵︼こでは、省略致
して晋きます。
徒釆取り放って居り主\宗教控胞の中でー明らかた意恐から、意態の強度が、漸次弱まつて行く、心意過程
について、観察致して見ます。即ち異常なる刺戟にあひ、特毯の事象が起った悠めに、恐怖とか、悲哀とか、感
艶とか云ふ情緒が、昂進し、突空して、偶人信仰の縛換を発たす場合があh三ます。
斯くの如き原因によつて経る宗教耗験は、一時的に、強烈なる形に於て、現はれて参りますが、他に同等、著
第大風 宗教的情操の成立
〟
宗教的棒線の諸形態
しくは同等以上の動因が起りますと、更に宗教意識の持換を発たし
て参ります。従って此の種の宗教怒験は、持授性に乏しい、一時的
現象に過ぎない湯合が、多いのであn・ます。
第六固に於て、Ⅹ軸は宗教感情の特損時間を示し、Y軸は宗教感
情の強度を示すものと致します。宗教感輯が、最初に規はれた易合
には、其の強度は、騒いのでありますが、二回、三回と、繰返され
るに従って、段々強度を減じて参ります。途には宗教感情が、著し
く日立た無くな少、それに持績時間は、漸次に長くなつて参りま
す。
〓別を憂げますと、始めて信仰を獲得した時の喜びは、非常に弘
く、感激に充ちて居りますが、この状患を繰返して居り左すと、示
次に感激性を減じて参ります。然しそれと同時に、ぼんやりながら
こゝに存するわけであります。孔子の所謂﹁心の欲する所に従へども、矩を競えす﹂と云ふ語も・
的態度を、規定する強き力を持って居ります。されば古米の宗教に於て、宗教的儀撃轟重し・損制
斯くして、成立せる宗教的情操は、零行力張く・持続性に富み、而も自ら明らかに、意識する寄
も、一粒の敬虔の念を、生起して参ります。斯くして宗教感情は、宗教的情貨の形式となります。
Jき.÷
票数盛時の強度
宗教威晴の持頗時間
崇敬的情操の諸形態
一九四
いて居ります。請人が耗行、苦行等の宗教的修琴“精進を致したのも、同一の理に従って居るものであります。
斯くの如き宗教的情操が、生じて参hごますと.自ら明らかに意識するこ・と無しに、偶人信仰は、環境意識に於
ける自己の位皆を、特換して参ります。かくして、現はるゝ宗教的態度は.自信力も弘ノ\偉大なる菓庄を示す
漸ころの、宗教粁陰となつて参ります。
大
是れ等宗教的情操として取り扱われて居るものを、分如して見ますれば、次の如き種類があり写す。即ち
︵イ︶宗教情操の中、教理を悟り、智慧和解に、多く傾いて居りますものは、眞偶の感、正否の感、公正の感、
合致の感、合一の感、融合の念、矛盾の感、疑惑の感、不安の念、無細心の情等の種類であります。
︵こ宗教的情抜の中、情緒的要素を多く含むものは、畏敬の念、恐怖の情、寂蓼の感、愛着の情、敬慕の念.
煎悲の感、俄悔の惜、同情の念、尊信の感、感應の感等の板類であります。
︵ハ︶宗教的借換の中、信行に畢きを於て居りますものは、法悦の感.安心の情、慰安の念、蹄命の念、報恩の
感.感謝の念.精進の感、自重の感、服従の念、随順の情等の稀顛であります。
斯く宗教的情操の名稲は、ここに姓列しましたが.是れ等個々の情操が、賛際に、具鴨的に、経験せらる1心
意過程に就て、考察して見ますると、各三示教的情操は、
なるものがあり一ます。是れ等も、更に考究する横倍あるものと、信じて居る衆節であnごます。︵完︶
Hei−iger
大
律法以前の律法ilむしろ民族的
、畠
KanOn思想の完成ヾ︼Ta︼ヨtldの成立
−申法以前の法︵所謂口倖としての法︶
a、固組時代︵di①P旨i琶CFe巳eit︶
−
En︷賢Fl還d認丁已m已軒∽∴丁参照︶
イスラ.エル苗代に於てすでに戒壇の律法の存在を見る。書かれざる律法
習慣とでも言ふべきものを見るのである。︵弾句呂貯︰崇O
Eはアブラハムを﹁紳の言に順ひ紳の職守と紳の誠命と紳の憲法と紳の律法を守った者﹂とさ∼記してゐ篭
︵創二大ノ五︶
Jが倖ふるところの、ヤコブがその父の死に際し七日笑いたといふ物語︵創■皿○ノlO︶はー我々に.後代の七
日問の忌中の規定を想浮ばせる。叉、国組時代の民が行く虎行く虚に祭壇を築き、その上に種々の供物をそなへ
たと言ふ記寄︵創十ニノ八、二十二ノ十三、二十八ノ十八、三十五ノ十讐は.後代の種々の宗教儀式の規定を想起せし
める。
無論これらのものは律法として布衣してゐたのではない。成文の律法以前の律法。謂はば.口づてに侍へられ
目ei−ig宅嗣賀On思想の完成とぎ︼nl已の成立
一=﹂ご三享⋮︰=さ三∑≡=ニ∴﹂.≡ ヵイスラエル蒼古き警空べきであえて ム.留置
窟時代
一九六
ァモスば・富毎に礎牲虞へ⋮日ごとに什享げ、警蓋ノ四、・五︶精祭或た菜箸ゝげ
イ一
。−−√..■﹁一 ぎe言昔時代の窟華よ菩の不成文律法の痕跡を慮る。
戯れ仁。賢の肥た
彦津貢モス
肥えたる辟の感謝蒼すこと︵デ二十二、二十三︶善してゐる。
願還をたし︵四ノ四、.五︶括祭或は菜祭をさゝげ
の属を′鱒望嘉をかへ豊不栗警悉蓋も平然と口倍の稗貫てゐる民のこの撃−・
ニ
﹁我ば放らの節讐悪みかつ雷喜の琴琶汝・−義に警は素毒るとも我蓋
.. ィスーアユルはかくまでに口侍としての律苦った。併したゞ形式だけ毒葺た.。かくの如ざ形式偏重
芸め芸をられなかつた。
き不信の蒼宴つた。︵右横智信博士著イスラエル宗教文化史雲去義︶
申命記潜ば奮′石雷士の雷如くー﹁誓者の牽ひ善として竪琴蔓とし■芸
る膚の感謝祭挙れ吾妻散華芦鷲汝らの琴の晋挙れ轟か と﹂。︵五∠亨二十二、ニ三︶ その轡ホゼア︵五ノ六、六ノ六︶もエザヤ︵一ノ十丁十五︶も共に、口倍としての雷の蓄著し、且つ・ ァモスと同塵曹形式的崖の律法のみ章誓︵ホゼア︶紳の撃ヤ︶とを斬ることな
題以後の法︵所謂紳管しての法︶
で君﹂。︵イスラエル宗蒼三三富︶
≠⊥・君命記法が夢れるに及んで妄言要塞はーこれを紳法蓋め
てLまつた○
か夢顔窟誉が故に︵申凹ノ八︶要し毒べきで芸ノ二︶イただ慧誓てこれ
周感度するのではなか仁うか。
かくの如き法の甜法化の軍歩曹約寄金鱈に警主張せられる時に、拙囚後時代萱scFe芸所
掌1とを得−汝らり発組の紳ヤーダニの汝らに賜ふ地にい芸警
.●、
ル宗教莞1墨照︶D是之に同じ︵実ノ六毒 草るに・㌃ぎ垂巾警誓書しくも警が如き事は許さず・た萱草 卓の人に教へ雷雲警於て軌三にしてゐるも︵イスラ嘉史軍至○参照︶
あろ故にその三三句の取拾誓童至ふ葺ぎー−の
壷竿貫
彦害さん−顧・そ筈=チ..
碧者の嘉を紳の雷撃毒へるようになつた柑何も亦垂筆書役割萱ものと考へる。
屠孝曹蒼は署
三紳の嘉としての誓者の
宴如く︵二︶、紳贋想はぎ只息彗の警したものと考へる。しかし・その外に、
紳の貢ぎ警、かくの真栗真に重して砧を下すまじ、必
一席それは、亡団と窟とで
ある、と叫んだ。しかし∵罪に磨れる誓、賢者の言警紳の聾
邑の成立
思想の完成よ2
一言−昔年只警○ロ忠恕の完成とべ邑m己の域立
車間かなかった。
五九七年ユダは遂にパピPニアの大王ぎぎkk邑1・eN琵巧にょつて倒された。しかし未だ都エルサレムは路れら
れす、紳殿も昔なからの伴を止めてゐた。民は未だ醒めなかった。紳都の存するかぎり、紳殿の存するかぎ少、
イスラエルは再び起ったと信じてゐた。未だ竣富者望阜葉の中に厳左繭の整を聞くことが出来なかつた。
悔なき民に最後の日が来た。大王の一年有年にわたる二度のエルサレム包陶により、民は、紳殿も紳都も失つ
てしまつた。時に東八六年。預言者の言葉が悲しくも貰歳したのであつた・Uかたくなな、硫れろ民も、この事蜜
をまのあたりするに及んで、預言者の言葉を認めざるを得なかつた。﹁いざ、我等、如何なる言葉のヤーグェよ
り出づるかた豊かん﹂﹁エゼキエル三三ノ三〇︶と預言者のもとに赴いた。かつては﹁汝往きてユダの地に逃れ彼
虚にて預言して汝の食物を待よ﹂︵7モス七ノ十二︶と嘲笑された預言者も、図亡びてはじめて、ヤーグェの濠富
者として認められたのであつた。かくの如くして迭に.預言者の言斐は紳の言葉と信じられるに空つたし
■
であると考へる。
聖典の完成
紳の言責と認めたか否かと言ふ鮎である。︶とを母胎として蟹生し、エズラの蕾約寮編麗を以て完成したのであ
・の言葉を叫ぶ看たる白覚は有ってゐた。こ1で問題としてゐるのは、預言者の自覚にあらずして.民衆がそれを
如上、聖典思想は、紳法思想と神宮思想︵預言者の言葉を紳の言蛮とする思想き勿論預言者自身は自分が紳
四
この、預言者の言葉を紳の言草とする思想、これも亦、聖典思想畿生に閲し、不問に附するを柑ぬ重要な要素
■
った。
.た。,−・竺ソチ†笹鱒詩的弼立を奪はれ、ふるさと−を失
し=ノ∴、唯一つ∴祭壇㌻√⊥・∴1至ノエル㌣ネ∴的中心−−をも亦失ってし皇つた。
パピロニヤの捕れはイスラエ∴∴∵訂に壬.璃鱒け
った。エルサレム紳戯の購両
′∴帥∴∴ふった ぃ ∵り心L痛む索むといへども︹ヱレミヤ二九ノ
∵し.犠牲::,∴.箪軍ヾエ﹂弛も持十キー芸四民的集魚∴より細っ名を請え
神殿を失って、民はいづこ∴州た筈べ号
十こ、綴れたりり識に狩れL
んにも、その日由を得・hれなコ㌧。捕れのイスラ∴∵ルにとつては、たゞ安息日雲Yりー紳ののりキ揮のことば
lご・Lりハ︺訂琶n︷賢l−C憲c訂︵釘告と票机
に息なることのみが可能で葦∵だ.﹁﹂M・苦芳村︰芽▲キ一≡指打こじ≡一ノ∵三宗旨喜−1.S.P参照︶
き叫rと帝わ︹
﹁・・−:し∴ん、︰し翌魚ノト.崇基神殿再建に封す′り今こ、ラエルの
かくの如き寄附より、紳ハ一↓・基∵、∵∵︰い炭窯享ユ.i聖二
筆削ち簡約編纂の掩轟か樟r・ふ1ト﹂ノ∼・ノ・
熱血=茹、エズラの脛起L∵・圧∵﹂﹁.︰∴ ∵′二
出端築C∵...∵ニーやた∪仲蒜既に∵l莞?旨t害hi
ー訂≡r什︹㌻tt詔と考∵りれてゐた 。
∴㍗封牲L﹁壷・州〓準
?︼とであるりここに貼て紳法、
.∵ニ二てぎニ∵一ノ
かくしてlイスラエル全=通、㌫砧∵音1;ラモしこ
邑−。︵訂賢はd彗︹訂ユニ⋮に︰彙︵\卜れ・♪
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王正否一ノ,
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にまれ.刊誹すろ二
貫叩 ∴こ㌻1誓 ∵夙†一
一打に“g巧打∴⋮〓芯心三■ル甑−二 ≡≡G山 ∴現㌧︰
出鼓己ger野n8思想の完成とぎ︼日已の成立
二〇Q
聖典ほ完成した。同時に、聖典の一言牛旬の取捨増減も許されなかつ驚
けれど国民生活の襲化は、それにともなふ新しい規範を要求した。こ1に於てか所謂ふみの聾者等p訂旨の
輩出となつたのである。主としてレビ人及檜侶が﹁ふみの単著﹂であつ焉一般にユズラを以て
ゐる︵芸ラ七ノ=︸∴冒邑=H詳こP廷臣∈gde=已m已班・芦Str邑︰穿一丸ぎBg訂丁已邑邑巨一・罵F
渾?参照︶。
﹁ふみの尊者﹂が主限としたものは聖典の註解であつた。
其後所謂Wi賢Fd三宮邑且現れて先人の詮を停へた。所謂2旨及謬習dpゼの問に豊し雷
であつたひ
最後に所謂ぎOr旨︵屠毒各員︶出で1蟹邑の結集度るに至った。常時ユダヤ人讐リヤに於てもパピ
三ヤに於ても迫害に適った。その結果、今まで語り偉へられた聖典の註解を更に後代に語り栂
危険姦ぜしめらるるに至った。途にd監斉bま計ふ評注勇二聖典以外呈にするを得すとの禁︶が破られ
た。こ1に於て、冨旨丁昌首旨邑m−と語り偉へられ舞聖典の査証解が、誓書きしるされたのであつ
句象︰宗旨夏磨d℡月邑巨声
苧象⋮穿︼各点in声r邑邑賀dr莞F
2邑巧︰賢Oni邑邑A首温
た。↓已邑はかくの如くして成立したのである。
暮雪石橋博士著イスラ;宗変化史
望旨打︰ぎFudprObeP
最近教育学読と宗教々育
大
村
桂
巌
私の研究費表題日は、﹁最近教育畢詮と宗教々膏﹂といふのであ少ますが、研究費衣など1申す程のものでは勿
論ありませぬが、我国の将来の教育殊に宗教々育に関心を有ちつ\而かも欧米の最近の教育輿詮から見て宗教
員育は如何なる任官にあるか、叉宗教々育に封する最近の教育畢者の腰度如何といふやうな方面を見やうとした
のであ少まで今便宜の馬に別紙印刷の参考附表に依少て其大惜を御承知覇ひたいと思ひます。この附家計療疏
して下さると其等の諸辟汲の人々が宗教々育えは教育上に於ける宗教的訓練を如何に見て居るか一文宗教の教育
上に於ける位置の襲遽がどうなつて居るか、教育畢詮の奨過と共に宗教々育の位雷は動いて居るかどうかといふ
ことが大方は御了解下ださること1思ひます。
L、何人約数膏単沢
︵ヱ個人主義的冒窟e甲声︵一般的宗教詮︶︵出l−昌内e﹃及G邑i露等同様︶
蓼
間
′う・
道 徳
︵b︶桐性的H。旨二六種興味詮︶⋮⋮経偲巨膵臓的・⊥琴芙的⋮同情的⋮杜含的⋮宗教的
最近教育単記と宗教4育
最近教育撃記と宗教々育
祀命約数育箪派
︵乱し紅粉的流俗的若登呂n︵十冨数膿振説︶
︵b︶誓約衰的筐eier−邑♀︵四租生前森?⋮:知識的︰藍目的⋮宗教々禽的:由豪的
︵C︶理論的先験的家○−・ニ閂特許志し︰︰︰杓苧⋮誓柚︰⋮・迫撃⋮∴㌫
人格的謝育嬰派
ウ︼
OU
要︷ニE範粘帥生所詮︶⋮︰質問⋮⋮垂術⋮︰・道徳⋮⋮宗教
舛e乳三間超僚船陶冶詮︶⋮・知的︰⋮喪的⋮︰・倫理的⋮⋮∴姦的
4.新カント塑沢︵西南︶
ヨ11de−訂1三四転借情設︶■:こ喪謁垂⋮美的⋮倫理的︵蕃︶⋮宗教的︵聖︶
巨c訂ユつ芦乙已訂ndニ同ご
CO︼−11︵同上︶⋮⋮⋮畢⋮・芙⋮⋮華†⋮蟄
& 文化教育野沢
︵六拉陶冶芸撃⋮︰慧糾的︰垂術的⋮人前的鱒鱒甲∴豪的⋮耗臍的︰・政治的
嘗ng宅︵六転生措型式哲諾的︰・⋮想像的⋮祀命的享宗教的⋮詐姉的⋮椎力的
内雫胃Fel邑乱−︼e巧
︵六餌心的農匪説︶︰⋮⋮⋮⋮⋮⋮︰︰⋮⋮⋮︵反配合的⋮超空車︹心的悪疫︺
8.現象畢浜
Sc邑宅︵閏範将帥憤情誼︶︰︰︰艮ノ認識デ霊的︰⋮正︵不正︶・こ︰・警非望︶
巳奮︵七種十花餅蛾設†⋮科攣;⋮軍用⋮︰追撃⋮∴示琴⋮︰祀争⋮︰同率:⋮腔折
1
思ひます。
=∵∴一三∴割紅㌧.㌫数寺−竃
てJ山一山
∴
シエラーとリット、以上是等の人々に就て輔めて代誓1ケ∵∵∴∵∵憲、リ∵が里苧しγ元のモょぎ告いと
南猫逸勢派のコーンを以て代表せしめ言ノ∴山ふりけ・㌧ヤ1︰拉や宰混と,▲二一∴八人プラノ,Jl誓蒜涙では
ち彼はマルブルヒ軍派三人でオけれど今卜畔丹的か五庵亮∵ト‡・八一∵ト入シ巨−から、新カンー・揖克としては西
ヶッセラー、新カント塾振ではヨ!ナス・コーン、勿論擁カノー撃振と言へばナトルプもさうてありますが、即
る考ではありませ由っ叫=で響憲?もC∼竹宅γ[て一統曾約数市草㍍でにナトルフ∵人楕的離育草漉では
畢の関税であるから禦宕拭ったのでありますコ粧し、今日は帖mがあり三晶からこゝに隼げた爪∵基部㍍嘉す
義的教育思想は要するにルヅソーの机遁の植付物もないからルソソー←童︰︰†∴・ルバルトは何二−=ても近代数奇
ーやヘルパルーの如き飴り故近ではないものをも奉げましたが・之は例へばエレン・ケ・1やケルリリトの偶人主
す。併しさうなると長くなりますか・・・J時間の開係上.座主なもの丈けにしまLたのです?さうして裁に揉蒜ッソ
党づ最初に畢浜の分鋸のことに放て古したいと思ひますい基は比分郡は松久㌍でありまし
まだ他にも幾等もあらうと⋮心ひます。研へばプラグマチズム三沢の如きも入れなければな
故に此衣で犬潤もう御推苧三ること1は存じますが一山L訂/冒完黙王け克明して療かう七思ひ主ブe
J
最近教育拳許と宗教々育
こ〇四
尭づ社命的教育畢波の代表者としてのナナルブ︵−∞遼遠Nβですが、氏の畢詮は氏の著警乳首監品Og諸に於
て窺ふことが出来る。教育は狭義には意志陶冶であるが、廣義には知育、糞育及び宗教鬼育を含むといひ、宗教
を宗浜的萄宗教的には見す、﹁紳なき宗教﹂とまで育ては居るが一塩のロゴス的紳を認め、宗教世界を肯定し、教
育に於ける宗教の効力を認め、宗教は道徳に新内容を輿へないが新たなる力を輿へるとて宗教員官吏二段階とし
第一期朴素的宗教、第二期宗教的概念の費表、第三斯宗教の自律的批判及び最後の確定換言すれば宗教む理念の
諷詠とするを要すといふにあるのであhてます。
︶の如きも、宗教、道徳、拳闘、蛮術を包括する人格陶冶を
人格的故習嬰多感︶
叉ケッセーアー︵忘ヨー
︶は、ミ
琶質的方面とあるが、其の後者に於て宗教史材の必要なることを説き.彼れの文化畢校案には四毯の文化部ち科
和的陶冶即ち知的、倫理的、契約及び宗教的の真賦を摘草することが教育の目的である。陶冶には形式的方面と
ソヘソ大串の教授でありますが、教育の目的は偏してはいけない。精紳全部の陶冶でなければ及ちぬ。人格の調
芸どー告呂︻R已○−f穿0訂監芦i−○旨pFie・︶︵中島年次郎兵書
して行はなければならぬと育て居る。︵5室邑=許胃電首倉ie−−On野内2nぎ品d電︼送d遥鼠打delF詳er昏内nPbe苧
最終日的とする人格的教育畢が成立しなければならぬ。教授は知的陶冶を避け美的、宗教的、倫理的陶冶と結合
育を必要税せることは明である。プッチ︵−∞票1・
道徳、整術及び宗教を精紳生汚の四方向として居る。此思想の系統を引いた人格的教育拳詮であるから、宗教々
容し満濃なる創迫力に伐て新たなる人生㌃迫り出さうとし、宗教的態度を以て精紳生活認識の中心とし、啓開、
次に人格的教育畢沢は青ふまでもなくオイケンの新理想主義詮に基いた拳詮で、オイケンは主観と世界とを包
一
︵謡良品鼻k
墜、道徳、萎術及び宗教を奉げ、人類が自然以上に樹立した持紳的目的即ちこの四境.の文化に伐て世界の自然的
欧米教育史参照︶
本質を征服し脚明するには精紳生荊其れ白身を目的として進まねばならぬと育て居るのであります︶
邑句Fi−害官許罫こぎ邑厨e︶︵入澤文革博士著
次に西南狽乙笹沢では、前の衣に奉げて居るダイソデルバンーやヮッケルJは別−ニ教育畢詮としては何も育て
居らない。ヨーナス・コーンが其等の畢詮からして教育上の意見を述べて居る。私は勿論慣隠常墜より出
慣位の創造を理想として居る教育の目的は鮭史的文化社命の成員を作るにありとし、共には偶人の自律が
必要だとして、形式陶冶を重んじ、知隷よりも儲カだと育ひ、自由と痘徳性の陶冶を高調し、自他及び鯛
係から統一の紳秘を褒詞し、宗教的感情の陶冶を必要とし﹁世界信仰﹂の語を用ひて、宗教員育を重税し
武は但だ宗沢的宗教を疎んじ宗教も生荊闘争の渦中に隔て宗政争をするやうになると不完全なものとなる
立宗教を排斥して居る。併し眞の宗教ありやの間に封して.ありと答へて居る。純粋に人格的敬虔といふ上から
見れば﹁有る﹂、即ちゲーテの偉大なる宗教的碍除の意義は故に存すると言って居るのであります。彼の
ル.ハントの虫の息想は異音突の三調和の状態にあるといふのであるが、此考方は明噺では透るが、少し検械的の
棟がある。聖が冷やかなものとなり、或は基なものになつてしまふ恐れがある。共に封してコーンの思想
新カント孝次現数育祝、及、伏見猛測鹿垂
とまで育て飴程宗教に勲が籠もつて奔て居ると思ひます。而して氏は宗教鬼育は家庭で行った方が健全だ
居ります。︵¢e訂td巧Er乳鉢巨g.鱒夢e象Od巧崇已賢i打︶︵幹部謙造氏寺
’ナス・コーyの哲拳と教†串参照︶
最近教育畢痘と宗教々育
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学監等量温二王∴云
′⋮こ笠正数書∵∵・
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して苧㌔托の文 化橙情∴㌍∴㌧ご∵諾苦﹂㍉宗‡葺−卜詳しく‖⋮て︰仁︰る。ヱ氏の心理揮究は
ト上製∴←で恒荘二軍喜∴聖・距育︵J目的仁∴乾の〃㍍人苦1ニ哲J。
邑J琶与yC賢−㌢∴トトJトトト
申して北妄統tキラハ㌢倫理沼−十仁一トシ∴・jlH巧il警こ・姦∴乱雲文化の理解㌘簑李、畏の王化
重心表の璧㌍の荒∵重宝のと兄て誓雪・∵−イ霊の寒圭∴霊㌫と形式陶冶とを宜んずると共に藷宵
て:rlいルル代㌔ハ叩い.い畑を善し整目上嵩酌眉椚⋮偵れ遠地性真相禁﹂研このであり註
ほ常に宗数的錆帝rilシバ∵∴訂たされりエ帖⋮㌫あ1
る斗蒜∵ヤほ針葉−伏心の仝解放び心付彙生餌√墾十ち憲扶に向け、ら
れろからであるとデ∼.
す。絶封償他に射すろ粁憬が存して判り〃て矩岬竹巌狛が礼ぢせられろとて、詫教む放筏の辟高の償情iして量る
︶は行=てにユ責教育及び作業靴蕎の主張嘉として我国にも有名にな↓た
のであります0︵前掲の他G宅急ユリqレぎ一三e一一宇︷雲叫琵琶l塾e⋮n≡r嘉hlニ誉潟政宗匡氏著デイルぞ1蒜挙と
文化教育密葬距︶
ケルシェンシ⊥ダイナー︵琶﹁
ぎne訂mの教育局長でぁつた川莞ハ鯉スノラニ〃−÷・鶴し七今日では文化敬吾畢沢の∵㍉三てで!いのであろ
が、見れ亦吾が数々管主・﹂−オ㌧窟粟tモ居∵.∴.‖.い率し不した晶ニ㌧㌫nヱ㌧
次に現象串派に於て禁挙り誌上讐℃てけ︰1りJlク
・ス︰⋮ラ∴箪=琵︶とテオドル・、ソ、王蔓し
とせあります。共にフッヤー一、ノC現象塑よ=揖苧レて巨∵を数常に鱈∵′㌧居る。尤も覇者はオイケ∴に私由し又
J∴
届るので法る。氏は椚億に投鵜を附け.
たディルクイの琴訟に軋持組卜で居ろが、今日11∵毎・ヒ争分に扁1
快不快が最下.生活債億如ち健康等の生理上の債値が中位で、其上に精紳慣値を皆き.美、正︵不正︶、虞の認識及
び聖︵非望︶として其宗教償値を最上として居る。陶冶の理想目的を如此考へて居るのであります。ワッtは同じ
増野倉昌遥声
及
HndiYidum5d
Ge蓋i己各島︶︵村上
く宗教を慣値の上位に皆き、宗教は国家及び統合と異り高き賓在の全部に関係するものとして居るのであ少ます。
︵せ訂g虚①弓賢igOI塵唱der宗d品Ogi村ul乙iFr∼
共著yツトの文化哲嬰と教育拳及び入澤博士著現象喫的軟膏思想の研究蓼叔︶
・以上の如く何づれの笹沢何づれの単著に於ても.教育、陶冶の上に於て宗教的訓練の必要を認め而かも其多く
は共に衆高の地位を輿へて居るのであります。故に教育の箪設が如何に襲過しても宗教々育は依然として教育の
働の上に其位雷を保持して居るのみならず.寧ろ比較的優越なる位皆を占めて構ることが解るのであ少ます。私
が今日中上げやうとした主要鮎はこの宗教々育の教育棟東上の代置が現代に於て少しも勤活して居ない、寧ろ益
々重要成せられつ1あるといふことを明にしたいといふことにあるのでありま了。鼓で唯だl言注意して皆きた
いと思ひますことは、如上の語草者の宗教瓢が.宗派的成立的宗教でなく.一般的であり、内在的汎神的傾向を有
って発たといふ郭であります。之は教育畢上叉宗教々育上等関税することは出来ないと思ひます。叉た同時に共
の宗教思想は飴程韮洋風になつて釆たといふことであ少ます。
見れ亦た吾人日本人には多大の関心事であるのであ少ます。文化教育畢波でも現象笹沢でも段々東洋風の思想
に傾いて居る。東洋の思想と似て居るのであゎます。俳教の普迫に用ゐる語の﹁本覚の眞心﹂といふやうな考と飴
.二〇七
程似て非た。本覚は始発及び不党に封し其れ以上のもので、異心とは匡宴二心以上のものである。ナトルブの衝
最荘教育革祝と宗教ヰ青
帝近数奇虚説と宗教々宵
ニ〇八
動意志、理性意志の三階段の考方やワットなどが自然料率論及棟能論の上に構造論皇止て1朱て﹁本質直観的抽
象﹂の語を凰るて居る如き後程共通部がある。コーンの神秘の考もか1る意味が含・まれて居ると息ふ。我国の紳
道の紳みながら晋上げせぬの道とか.みことの邁即ち命の邁や、息の道などもか1る境地に醍達しなければ本音
と接癒して木七居ると息ふのであ力ます。時間が釆ましたから私は此位で失拉致します。︵鮭︶
ぬのであ少おす。之は東洋風の考方だと思ふのであります。要するに現代の教育拳詮はかくして益鳥宗教的活動
しなければいけない。宗教々育は特に如此、純粋畦臨の思想、本質直観の思想を加味して考へて釆なければなら
拳や形態的心理墾等をも参照しなければいけないと思ひます。現代の教育峯や心理拳は如此、全的な考方を採用
には了解出来ないと恩ひます。第七識以下の活動では解らぬ。故に心理革も従来の心理草丈けでなく、了解心理
−
史的イエス再現の可能ミ方法
三.枝
義
夫
この課題を監史哲畢の領域内において取扱ふことを今はしない。専ら賓料の換討を中心とし、輿へられた褒料
によつて史的イエスの再現は果して可能であるか、叉如何なる方法にょつてなさるべきであるかについて観察し
たい。何となれば.この間腐は斯畢における挽近の重要課題として論議されて居るから.私も此に一膝の考察を
施すことは意義ないことではないと信ずるからである。
史的イエス再現の可能性を前提として論ぜられた結論として大別すれば二つある。↓は賓料検討の結果、イエ
スの史的存在を否定するの結論とたり、他は、その骨定である。二者はその結論において両極端を示すものでは
あるが、何れも典へられた資料によつて、イエスの歴史的存在を骨足し、或は否定し得るとなす所において、何
れもその可能性を前捷として居るものである。
︵ヒ邑旨こ冒望凰や、俳のポール・ル
かく同一前提から出費した二者の結論が、かくの如く相法するのは、方法の相違に依存するい
ブルーノー・パウエル︵厨2ロ0謬壱︶に初・まり.猫のアウテル・ドレフス
イ●クシュウ︵旬日己−ど已かQ20FO已︶等によつて主張された史的存在の否定は、次の如き方法と論嬢に立脚する。
た的イエス再現の可髄と方法
史的イエス再現の可熊と方法
一、一般箆史書の中にイエスの賓料は全く存在しないこと。
二、キリスト教投石の文献パウロ音翰の中にはイエスは紳の子キリストとして考へられ、イエスの人間性は述
べられて居ない。
三、謁青書に至るとイエスの帥性を基調として、その行惑.敦詮を典標的に示し歴史的常在のやうに記して居
る8
此等の事苦から、イエスの歴史的存在を否定して、神話的仮客人物とする結論を導き出した。
この所論は、碍青春の記録を輿へられたま1に受入れ、此の最も重要な記録を資料として、何等検討吟味する
の方法に出でない鳥である。栢青書における超人問的面詰的捕焉から、その背後に蛙史的人格は預想し得す、バ
ウpにおける紳詩的架基物語の具像化牽展の叙述であるとし、更にこの超人問的存在者が監史的驚在であつたな
ら、一般鮭史書が沈歎して居るのは理解し給すとなす。この方法は明かに碍青書の無批判的前提から出彗したも
のであつて、むしろ宗教信念は.逆に信仰封象者を累進的に耐詩的に修飾しやうとする心理蝶能を持つことを無
税し.更にイエスの運動の特殊性を考察し、此とl般歴史家との関係を検討するの努を省いて居る。
第二は、この否定論に刺戟され、常にこれに新たな論嬢を輿ふるかに見ゆる歴史的批判的研究方法︵bi諷胃i邑・
Eti胃訂穿旨已&である。資料として福音書の唯一的存在を承認し、就中共脱稿青書の資料的慣値た強調し、共
級綿雪事の文献的要素、即ちlその構成資料を分析して、マルコとQとの二資料をその構成要素となす二資料詮
︵N象■q邑2声彗i&を完成して.原本的資料の抽出に成功し、この原本的資料を基本として容易に史的イエ
スを再現し得るとなす方法をとつた。この代表をホルツマンへ出∵岩●HO−︻旨己5︶の共親表︵訂冒ぎeF
訃邑L賢E乳ど戸出許︼乱t巨ginむ匿穿gづ盛訂m邑こ00∞㌣−∞芦∝・岩諾︶に求めることが出来る。
d再訂︷?
然しながら果して典へられた文献が、直ちに史的イエス再現の可能を決定するか。資料の持つ可能性は更に詳
細厳密な検討を必要とするは論を侠たない。こ1から賓料の特質.常澄歴史過程との開聯を考察して、その資料
的債値の問題を考究しやうとする傾向が今世紀以降勃興したことは常然であり、その鮎において枕近マルチン・
ディベリウス︵巳打邑F]望b註∈︶.ルドルフ・ブルーマン︵R已。−︻HF−tm冒n︶によつて提唱された様式墜史的研究
方法︵句○冒g窯l−i¢gie訂罫tF已e︶の慣値を承認しなければならない。
即ちこの方法によつて、唯一の資料たる稿青書の文献的特質が鮮明にされ、これは厳密な意味での偉記ではな
くして、宗教的記録であつて、断片的な物語群の集成であり.この個々の物語群は敵国の信仰、即ち穴馬ygmp
を基礎にして史的イエスの事鎮と敷設が顧みられ、かくして構成された個々の断片的物語は故国の程々なる横能
に應じて欒化蓉屈し、此等は最後に統一されて琴青首文献に固定されるに至ったと説く。
こゝでは前時代の研究域果たる二賓料設を更に洩って、その文献内容の物語の、文献に固定されるに至る迄の
生成蟄展の適捜を検討したものである。然しこ1では特に敦圏の教義を基本にして描成された物語と見るから、
その物語には極めて多くの教圃的特色を黎見し、敢園教義とイエスの信念との峻別を問題とする瞑サ両者の厳
密な判別は困難となり.同時にユダヤ教的思想とイエス思想との判別も正確には不可能となり、従って敦閻約数
義信仰、ユダヤ教的思想と全く峻別して抽出されたイエス猫自の思想・行偽によつては史的イエスの、特に行儀
史的イエス再現の可能と方法
史的イエス再現の可能と方法
三こ
は再現し帰すとの結論に到達した︵匿tm琶・DiO望畠CF貞d琵琶阜i胡CF昏E三ge旨−−琵︸琵だ訂一ぞ
一望−巴蔓この史的イエスの不可知論は、イエスに封する関心を持つ限少、駐由由の領域から組轍顧畢の領域
への樽向を方向付けるものとならぎるを得ない。ベルトラム︵¢・野tr冒︶の盤史研究方法の結論が、結局信仰
によつて生命付けられなければならないことを示し︵穿2m穿tmen⋮nd訂旨i邑1e彗hき一品00︶此の韓向を
具恨的に示したのがブルトマンの﹁イエス﹂︵1e⋮ニ諒︶である。こ1では彼は明瞭な哲詳論的紳禦茅l臣買F¢
声eO蜃£の一人となって、歴史研究の不可知論を現代組技師嬰のl領域の中に生かさうと試みて居る。
様式竪史的方法の基本原理について我等は何等疑問を投出すべきものではない。むしろ前世紀に.おける文献的
研究、或は斯単に最も多くの買献をなした宗教史畢的方法︵R21igi昌品e註cgi已忘]買e−邑8︶を更に正常に菟展
せしめたものとして、その着眼、方法に異議あるものではない。然しその方法の運用、運用の結果として
を著しく懐疑的に格入れたことについては大いに難ずペき鮎を認める。史的イエスの不可知論は、たとヘ
ケゴール︵苧eロ︼霊灯片eg邑d︶の墜兜の菅在は現賓生活に溶けて初めて可能であり、思考におけるキリストは単
なる影像であるが、キリストと共なる感じによつて現資的な力を受けるといふ見界に従って、塵取拳の領
組紙面畢の領域内においてイエスの現賛的力を復顔せしめたけれども、歴史畢的には、明かに一塩の基督
に堕したものである。敦圏の教義儀縫のキリスト教的ケリグマを基本にしてイエスを追憶し∵−﹂から個々の物
語が構成されたとする様式隆史的方法と、散開信仰儀祀を基本にして無より、或は紳話的架客人物より賀
語を創作したとする近代基督抹殺論とは、そのH蟄において極めて近接して居ることを認めざるを縛ない。かゝ
る出費の近接が、結論において等しく蛙史的基督の抹殺に到達したことは怪しむに足らない。
従って私は第一に、この様式歴史的研究方法の陥り易き
って停へられたイエスの物語が統一構成される以前の経過について考察し.此を或程度まで強調して督くことを
必要であると提言する。
即ち教組の教義的興味のもとに生前のイエスを追憶する以前に、イエスの死の直後、未だ教国数義が熱さない
蘭に、純粋にイエスの人格的影響によつて、生前のイエスを追想し、此が侍承されたと見ることは、心理畢的に
見ても.他の諸宗教の同一場合と比較しても可能であるし、賛際に具標的にさうした物語を抽出することは、勿
論困難ではあるが、決して不可能ではない。地上的人格的イエスを俸ふる二三の物語︵マル三ニ・三−ニ二l〇・
一〇−二二六︰三E・五〇︶の存在は、イエスをメシヤとする救国教義と矛眉して居るにも拘はらず、少くとも
マルコに至るまで璃承されて行ったことに、教義によらず、人間的人格の影響によつて物語られたイエス物語の
存在を明示するものであらう。メシヤ教義によつて統一された金物語を一貫して、イエスのメシヤ自覚は、二三
のイエスの言葉と稲せられるもの︵これは極めて敵国的色彩モ持って居る︶を省いて極めて不明瞭のま1に壊さ
れて居る貰情を如何に見るか。
第二に様式歴史的方法の運用に於ける懐疑的結果について私達は充分警戒するの要がある.即ちユダヤ的思想
或は教諷的思想と共通してイエス思想を把瞳することは、葦際において不雷ではないことである。イエスは時代
精紳の中に生き、彼の精紳鳩承者が教園なのであるから。然し鼻腔的物語の中に、このことを決定することは困
史的イエス再現乃可槌と方法
史的イエス再現の可能と方法
二閂
難な問題である。厳密に、息嘗に、此を苦行すれば特色あるイエスの姿は貧弱なものとなをであらう。如何なる
歴史と柾も.かゝる厳密元方法によつて、その賓料検討を加ふるならば.不可知論とならざるを絡まい。明瞭に
敦風教義、ユダヤ教思想と判定さるべき部分は此を省略することは勿論であるが、何れとも判定し難い或部分は
此を有効に賓料として用ひて何等差支へないとm心ふ。そして二千年前の睦史的人格について、異数ともいふべき
ほど豊富に残された賀料を、私達は出来得る限り挙用することを心拭くべきだと思ふ。
史的イエス再現の可能は、かくの如く共祝福青書の適切な研究方法によつて達成されると信ずるが、編著寄の
資料的償髄は、更に次の二鮎において確められる。
﹁福音書は、常時のパレスティナの地理的関係、社食的文化的状況を倍へて居ることを確嘗に指摘L得るこ
と。この鮎においてブルーノー・パウエル、アルペルー・カルトッフ︵ヒbe鼻声賢F03が、ローマ本国の配合文化
を反映して居るといふ主張は否定される。
哲邑tim白星の問題は、最近の
︵WeヒF。u軍︶は、マルコもQもアラマイ思をギリシャ諸にした
二.栢青書の言語は著しく7ラマイ語の色彩を持って居る。この新約における
課題として論究されて居るが、ウエルハウゼン
ものを基礎として記したものであることを明にした︵出i已eitt磨indiO国書g鳥昏こ冨やー≡J。
以上によつて史的イエス再現は、共取嘩青書の物語生成費展の跡を細密に辿る方法によつて可能であると信ず
る。その方放の我等に最も近いのは様式歴史的方法であつて、それの正督な蓮用によつてや1もすれば格少易い
否定詮の危険より正しく蓮れることが出来得ると信する.
邪 悪
の■問
題
櫻
井
人は生くる生命の永速を求める。この生命を維持し、この生命の永遠ならん事を希ふ。而してこの生命Q雛持
を困難ならしむるものがあ少、永壌ならざるを知る時.この欲求は︼静職烈となる。そこに信仰の冊界は魂はれ
る○
この生命の.推持を困難なムしめ.生命の永遠を痘むふの、これ吾人の欲求に反する.反併催なるものにし写︼
れと邪慈と呼ぶ。邪悪は自ら二種類に直別される。一は道徳的邪悪であり他は自然的邪悪である。前者は所粥押
藩にして、後者は疾巧不幸、地宴、火災、洪水等凡ゆる反横倍なるものである。吾人は日常経験に放て絶えず
道徳的邪悪を自覚してなやみ、絶えす抱る天欒地異に自然的邪悪む経験する。吾人の兼敏に邪悪と映するところ
のもの紳にも亦同様に映する。帥と吾人の道徳意論とが誤少たき関係に在る限蘭書人に邪恵と映するもの亦紳に
も邪惑と映する昔である。然らば和も亦吾人と同様一切の邪悪と闘い授けてゐるものであるか、乃至醐は邪惑と
利用してゐるのであをか。醐が邪惑と封宜して闘い続けてゐると見るば二元論的見方である。若し亦和が邪悪と
五
利用してるるものとナれば.その邪悪は紳が創造したものであるか、或は他にその池波を有つものであるか。室
邪癖?何凰
■
三大
レL
に紳が勤書つゞけてゐるものとなすべきかどうか。紳が邪悪を是認してるるものとして直
t存むもの日身とに窮して、苦の莞底は恰も疾病のうちに芸がなほ働きつ岸てゐる如く・邪悪ゐ中
ばー紳は邪惑の存在とょしと認めてゐると解さねばならない。シェリングの如く前を賛在の根元恵すものと.
全能なる静が手と扶いて邪悪の襲おと見て居るばか少でなく.進んでその邪藩の働く力を輿へてるる4するなら
用によ中生じたもQとしても.邪悪の勤くその中に紳は伺ほ邪悪の働く力を輿へてるると見なければなるまい。
人間白も金吾ところのもので、邪悪存在の‡任は前になくして人間に負はされる。併し邪悪が人間自由意
た。かく遺徳的邪悪は人間自由意志の乱用から生じたとする。従って邪慈は直接紳の造るところのもので
星警葺主語芸かつた。併し自由を有する人間は紳の菩ぷ尊を選ばすして邪悪㌢一遇んだ。邪悪はかくして
は執払人間に自由意志と輿へた。人間はその自由意志最用した。邪悪老衰んでーれに走った。紳は人間の
狂癒的邪憩の鶴瀬に押してはモれが人間の自由意志の乱用によつて生じたとなす詑明がある。それによ
ち為されも。即ち邪慈の隠語の問題並びにその存在の意義の問題とである。
に竪琴聖霊;慈雨するか。盲寧−の問題に開し幾多の解答は試みられた。而して主としてその蝉答竺一方両か
震韓と督y岡攣となる。重尊重高、重曹全能にして創造者たる紳が此世界に君臨し、統御すると云ふ信仰は如何
惑の存在何ら♯開ではない。然るに自然弾かち進んで人格的唯一醐を革するに至って紳と邪悪との関係は
幾多の稗義、紳格の存在を謎め.そこに各よ衛央争闘があ旦尊に反する悪.窓に反する尊あ少となさば、邪
雪空望義金俄竺人格的帥の信仰に立ってこの邪憩の存在を如何に取扱ふべきかが一つの難問田である。
義一二の職■
1
問題に進むには散りに早い。
猫徳的邪患の払渡は人間自由意志の乱用と云ふ事で改雨し縛るとしても、自然的邪悪を︼れと同様に改喝する
事は出来ない。自然的邪惑は人間の自由意志と何ら直接朗係してゐない。自怨的邪轟比自由意志を以て如何とも
なし樽ない♭のである。或る人員は自然的邪患と道徳的邪惑との聞に因果関係あ少となして改明と試みる。此せ
、
の自然的邪患は道徳的邪惑の結果として現はれる。社食的邪感吟その直接に現はれたもの.自然的邪藩はその間
・接に規はれたものと云ふ。未開民族はその民族に疾病、不幸の起る時、その起因を何人か或る部族員が罪む犯し.
部族紳の怒少を穿つた▲めだと解した。併しそこにも疑問が生じて釆た。部族にしろ個人に←ろ自然的邪寒が道
徳的邪惑の結果として起るものならば、罪なき偶人に何故不幸は奔るか。原因なくして措果のみ噂−む得るか。
さプはこゝに疑問を抱いて.昔時の思想−日銭的邪憩.が道徳的邪悪の結果となす一に反抗した。而して彼ゐ
達した結論は、不幸が罪の結果として生するものでなく、一撞申試練として来るものであると云ふ亭であつた。
科畢の進歩は一暦明確に彼の結論の正常を支持した。地寮は如何にして起るか、疾病が如何にして起るかなど凡
百の自然的邪悪の原因は科草的に詮明されて釆た。道徳的邪患に或は関係あるやも知れないが、直接その結果と
して自然的邪藩は起らない。尤も一部の信仰となつてみる苛は云ふまでもない。
道徳的邪患が自由意志乱用の結果として起少、道徳的邪悪あるにょって自然的邪慈が生すると云ふ放明に漉足
し得る限り更に解縛儲明霞みるの必要はない。また自然的邪患が道徳的邪憩の結果として生するものとしても
ニー七
鳶宣竃 道徳的邪悪が自由意志乱用の結果であると云ふ苓が吾人に満足し得る説明であるか香か。垂能なる紳が邪藩と邁
邪姦の問題
邪逼の問題
二一入
ぶ自由意志を何故輿へたか。これを輿へた鮎に於て前に受任はないと云ひ得ない。また自由意志を輿へられた人
間がこれを用ゐて邪悪を選び、善を選ばなかつたと云ふならば.そこに既に事と邪恵と嬰一つながら存在したと
認め得る。その邪憩は如何にして存在したか。紳と封宜して存在したものであるが,罫と井んで紳の洩ったとこ
ろのものであるか。紳と封立的に存在したものとする事は一紳論的立場に於て許し樽㌢る与−乃でぁゎ、手と拝
一/
んで紳が造ったとすれば、何故に、またどうしてゞあるかと尋ねなければならない。.尤もこれに二毯の説明が忠
されてゐる。その一つは紳の全能に制限あ少となしての詮明である。面会能なりと雉も過去計t華ゃる苓は出奔な
い。全能とは一切の軍を点し得る能力と云ふべきではない。紳にもその中に制限む有つ。この制限を破る軍は醐
自身の破壊である。だか㌻紳は人間に自由意志を典へた以上たゞ着のみを選む棟美し邪憩に向ひ樽ない様にする
苓は不可能である。それが不可能だからとて紳の全能を儲けるものではないと云ふ詮咽である。モの二つは紳が
全能着であり乍ら倫ほその存在を許す所以巧邪惑が存在に僻する丈けの横位があるためであると云ふ改明であ
一る。併しこの説明は邪恵の起汝を詮明するものにあらすして、邪惑存在の意義を詮明するものである。ライブ一l
ヽ
ックにしろ、ワイス、ガロウェ一等にしろ邪恵存在の必要鞋認める人員は邪悪が最適倭の皇と敷とを以て在る事
を前提としてゐる如くであるが、それが果して最適度の教室であるか如何は吟味の必要がある。吾人の経験する
以下の邪惑が酔って幸碍を均すものであゎ、人格を陶冶するものであるかも知れない。何れにしてもこれらの人
員の云ふ様に邪恵で暦高き着に進むための手段であ少、快調を生ずるための高音であゎ、調味料であるにして
も、それが布衣するに至った過漫を説明するものではない。
善感の封立は自然紳の段階になく、支配者としての紳ミ英椎を崇辞する段階に及んでその傾向が規はれ、決
定的に善が確認さる1に及んで惑は出現して釆た。然らば薯の決定は如何にしてなされ花か、勿論尊ならざるも
′ の、善以外に存するもの禿ぐ邪悪な少と云ふ事は出来ない、併し善の決定が如何に鳥されたかじ邪悪の牽生如何
を窺ふ苛が出来る。吾人は吾人の軽験の絶封なるものモ見る。直接経験するもの以外に他の存在を認めない態度
が規はれる。こ1に邪惑の根滋が潜んでゐる。零もなく恵もない塵代は賃に黄金時代である。エデンの囲である。
併し一度尊なるものを認諭してこれと直接関係を結ぶ様になるとその関係は絶封であつて.今まで普だと認めた
−曹と明瞭に考へないながらⅠとし転封無上の慣値あるも
ものであつても、条あるものだと認めたものであつても凡てこれを屑値なきもの、香邪患なるものとなす。着を
知らす﹂惑を知らない間に於てすら倫ほこれを善
のとなす。而かもそれ以外の存在は凡て普ならざるもの.横位なきもの.むしろ有害なる邪悪なりとなす。今候
りに吾人が生あるをのみ知って死あるを知らなかつたならば、恐らく生命の永存を求めす.生命維持に力となる
ものを求め、これに屑値を附しはしない。生命を断つ力も、維持する力同様債伍あるものとしてこれを求めるに
間違ない。生と死との国別を知った吾人貞問は一に生命維持に力となるものを横倍あ少とし、背として求める。■
従って生命維持に綬立たぬもの、生命を断つカあるものは一切邪悪であ畠。併し善意無差別の段階があつた。生
死無差別の時嗣があつた。この段階この時期に於て吾人の経験ナるところは必ずしも生命推持に力あるものばか
りではない。苧なるものlみではない。尊にも惑にも向ふのである。生命推持力にまた生命を断つものにも同ふ。
問題
二一九.
而かも惑なるもの.生命を断つものとの関係に於て、その脚係は絶封であつて.他を容れない.のみならザ直接
邪慈 の
二ニ0
邪悪の二間趨
経験するもの以外のものを邪慈となす。然し生命の債値を認めた。生命の存績を求めた。生命
のを求めた。そして吾人には一定の目的が確立した。尊と悪とも確立した。エホバと借であつ
なく、イブと封して邪悪は生れた。邪悪はエホバの中に見出されず.アダムにも見出し樽ない。イブにも見出し
得ない。丁ダムとイブとの交渉関係の中に生れ出でた。かく飼人精細内には邪惑なく、只敢含
は生れるのである。
吾人は紳の中に善悪豆想定しない。紳を絶封精神と見る。そこには蓉なく.恵もない。而かも尊慈と超越した
ものである。勿論全き筆史雪てもい1。前の主宰する地獄はない。紳の固は全き雫尊慈を抱えた世界である。
吾人の掃紳生活は無道徳より道徳に、市道徳より泡道徳へと進む。吾人の生存そのものは道徳生活であ♪.専と
惑との間を往復してゐる生活であろ。そこにある邪惑は私道徳の世界へと進路を拓いて呉れる
かくて邪悪は吾人の目的に反する一切のものであり・吾人の目的の髪化する暗また蒙るとこ
吾人は邪悪と紳の中に見す、また人の自由意志にも見ないのである。
日本鬼童の宗教意識の研究
言
l翠定見董群に於ける基本研究の︼部−
弟−序
脚
克
之
一、本研究の由井。*研究は姉崎博士の御椎茸により帝国串士院研免責神助写に・昭和四年三月から開始し
たもので、ここに智表す皐所は﹁日本兄丑の宗教意論の研匡と害する系統的研究の一小
ニ、本研究計肘及び控。嘉究は母慣研東の金持誓書にし、研究の方針及び組織を確立
一定の羞丁点て選定した基本兄童静から得た研究結果の一部分であつてー.モの中に豊の宗教意論の邑FO
鼻出し.簡捷Q嘉的研究野革具と彼此封照し、その間空翠更又は錆董真正して、全研究の結重富批写る
ためのものである〇
三、本研究の限界。第一に本研究は卑慣研究七進展させるための準備研究言る○竺に
中.領空の.個人芸に闊ナ畠方面の中、自然襲痙に鼻するも居中で、豊の豪意慧嫌悪雷押す
るものだけである。・第三に基本兄童群中−正常見の中、畢齢期に帥する方面だけである。
日本鬼童の素数濾︳の軒先
日本見童の宗教‡︳の研究
ここ二
四−♯軒先の方沃。本研究の掟つた方法比、医史的停統がないため、仮に生柄法と命名する。これは二定期閣
議定見‡群上寝食を共にし.長期にゎた少、系統的・具象的に研究する方法である。その骨子は直接口頭問答苧
傍詮調査法●梅林法等であるけれども、単なる是等の綜合ではない。餌ちその間に・従来の緒研究の忽にした所
の非定形的研究娘を十分に蒋動せしめ得る飴裕をもつ所の有税的に結合された全一的方法である。
五・本研究面封︳。七蔵乃重十五歳の兄ま一九二名.男兄l二〇名、女兄七二名であろ。生満期聞は三過日。
給
辞
貌
生帝組分単位五組。年齢算法は学年︼歳式︵誕生日と中心とする前後申年宛を油一年と計琴丁る方式︶による。
謝
登−本
▲
一、紳悌の有巧有紳絵は兄喜の普遍型であゑ九五%︶。有紳論の内容は年少男女兄及び年長女児では簡単で
あるが、年長昇見では租よの型に分れてゐる。無所論は家庭の戦業と特に関係があ少.兄丑にあつては耗惑給と
共に少い。
二−紳俳のせ及び生成。兄書は世を以て紳併を定義すること困難であ少、多くは相・用又は生成を以て定義す
る。紳悌兵憤改な鬼重の督温型であつて︵九四・八%︶、同情論は煉る少い。異性詮は紳併の階級的寡兵粗金に基
づくことが多い。兄童は紳伸を偶像組せす、その紳秘力を信する︵九八・一%︶。紳は多く抱人格者として認めら
れるが.悌は多くよカ人間的のものと見られ、ここに階級扱念が現れる。年少兄は具恨的特殊紳併を以て紳併と
するが、・年長兄は一般性を以て紳彿を詮かうとする。紳併の生成に関しては、超人格的超克詮よりも人格的起
詮が優勢である。
三、紳彿の相。無事詮は十三読後の普遍型であり︵六閃・七空、有事詮は年少兄及び女兄の普通埋である︵二
九.四%︶。有事詮では、形態的誰明は常に性質的詮明に便少、形憩椚詮明の多くは人間的L説かれる。無事及び
有事を軸併の生成の前後に交替に用ひろ所の舜惑型も少しある。兄まは旨tFOpOEO旦邑といはれるがーこれ
は十三歳後の年長兄には適用されない。
四、紳併の所在。内在詮に封すろ外在詮︵紳七九・三年俸八〇%︶−遍在詮に射する局在設︵紳八一●六%、彿
八六・七%︶、観念型又は思考型に封すろ感覚型は、兄童の普遍型といふべきである。
五、紳俳の用。意悲詑︵守誇菅救済者等と見る︶と刑政詮︵行残照鑑肴・應報行使者等と見る︶とは共に傍勢であ
るが、前者は特に併に封して及び年長兄・女兄に多く︵紳五末%−併六二孟%︶.後者は特に紳に封して及び年少
見.男妃に多い︵紳閤三・六%、伸二九・七%︶。
六、紳併の異同。紳彿異醍詮は見衰の普遍型たること前述の如くであるが、異確たる印由に至って巧紳沸そ
のものの芳異を以て詑かれることが多く︵七五・三%︶、就中、醍及び生成の挙箪以てする者が普通であつて︵六
信仰及び紐辞敬
〇・九%︶、閉塞又は用−r戌てする希も少しくある。
B
二∵鱒仰の信否。兄童は悉く紳俳を信ずる。併しそれは覚醒によらす、成人・習俗の俸へる所の反綬に過ぎな
日本先安の宗教意識の研究
い。
日本兄嚢の宗教窓読の研究
二、信仰表現の形式及び紐辞の有無。兄童はRi邑i乳である。併しそれは全く習俗・俸承に支配されてゐる。
三.信仰及び祀辞の動轢又は理由。これには末型ある。第一に希求型が最も多く︵三六%︶、第二に讃美型がき
︵一六・八%︶、第三に感謝その他の道徳的動横による道徳型がき︵一四・凹%︶.第四に恐怖型は少く︵二・四%︶、第五
に希求型と道徳型との問に彷捜する移行型の兄童の隣る多いのを見る︵二八・八%︶。希求型の中、物的動椒は拝
辞的動横にlニ催する。
四、信仰及び踵辞の精軸内容。希求型は兄重の普遍型であ少︵七六・九%︶、情境型及び摸倣型は少いが、併し
前者は十三読後に多く、後者は習俗型である。
五、信仰及び産弄の自覚的致具。これを詑く者は詮かない者の阿分の一しかない。説く者を見るに、身麓約数
果を奉げる者最も多く︵三四・六%︶、精紳的及び敢愈的の教具豪轟げる者もある。斯る効果の大部分は迷信的・寄壌
人生及び蓬命敬
的であつて、或る一地方︵関東北部山地︶から選出した晃童に特に多かつた。
C
一、人間の生成。これには進化的生物畢詮︵三九・四%︶と紳の創成に節する習拳詮︵六〇・六%︶とが封立してゐ
るが∵紳とは漠然たる超人格的存在亘指すものの如くである。
t二、人生の目的及び使命。兇重の見た人生の目的及び使命は倫理的であつて、年少兄は忠君愛鴎を詮くが.十
︼歳後には影を没し、自己完成と配合的・人類的奉仕との二終に向つて分化する。ここに現紋倉の反映がある。
三.蓬命の有無及びその存在理由。蓮命存在骨定は兄童の普遍型であつて︵五八・三%︶、存在の理由に関して
具示教詮が最も多く︵六〇%︶、蓬命は囚果應報の嘗現のために存すると見てぁる。倫理琴︶れに次ぎ︵三〇%︶、
敢倉詮は少い︵lO%︶。
四、蓬命の支配者。超人問詮が普遍型であつて︵五九・三%︶、自力詮これに次ぎ︵二五・九%︶、軸人参輿詮及
未来及び襲魂取
び自然詮等も少しく存する。
D
一、死の意義。兄童は死に就いて考察してゐない。死は見重にとつて宗教的ではなく自然的︵八丁八%︶であ
って、換能又は形思の襲化を以て解かうとする。横能的襲化を以てする中には肉標的棄化を以てする者が普通で
ある〇
二、死後の取念。最初年少兄は原始的感覚型であるが,自然科単に強く影響された者は科畢的身心滅亡遡とな
p、宗教思想に強く影響された者は宗教的婁魂残存型となる。最後者は見童の普遍型であつて︵六八・t一%︶、単
なる笹内分離と、輪廻・縛生・勝報等を詮くものとを含む。
三、感魂の叔念。宗教的要魂残存の概念は兄童に普遍であるが.その中には固有の嚢魂不滅詮︵七凹.二%︶
と、褒魂帝命詮︵二吾八%︶とがあつて、前者は醇生・化成を詮き、後者は霊魂は肉笹よりも長生であるが、賠
報を受けた後は死域することを詮く。
二二五
四、因果勝報。兇韮は因果勝報計一信ずる︵八六%︶。鮭報到来の時横は多くは生前であるが︵五一・四%︶.死後
日本兄宜の宗教意敲の研究
日本兄童の宗教意故の軒先
二二六
︵二七%︶及び生死を貫く不断詮をもつ呑も少くない︵二響四壁。勝報の主動力は亭として人間以外にあり︵七
〇●七%︶、特に紳併にある︵五八・三空。際報の目的は草として報役にある︵丸字二%︶。
五、地獄及び椒斐。是等の存在に関しては肯定・否定略⊥相同じい︵雪一・九%封聖ハ・一%︶。骨定着は主とし
て是等を現人間生活にあるとする合理詮をとり︵充八・八空、僅少の別世界を恨定する想像誰︵二九孟空及び天
文地皐的に詮く科担詮がある︵二・七%︶。想像詮のいふ是等の状相は紳詩的・停承的である。地獄及び棋聖は
宇宙及び本醍敬
改普のためでなく、報復のために存する。否定者は是等を想像的所産とする。
E
一、宇宙の生成。生成を否定する常襲詮が最も多く︵七七・八%︶、R旦昌の皇軍詮による料畢詮が次に位する
︵二二●二空。創成者に関しては、紳に璧タる他生詮が政も多く︵囲三去警、白生詮は少い︵一七・二%︶。
二−宇宙の本鰹J日月の運行、四季の循環、重夜の別等が一定の法則に従ふのは.原動力が宇宙に内存するか
らであつて︵二五%︶,本醍が存するからではないとすー一ハ︵七五%︶。併しこれは人格化された具醍的本倦の否定で
あつて、法則の原動力の否定ではない。
三、本恒と紳併。本鰹存在肯定者は、本鰹を紳又は萬有引力︵料率詮の誤信ではあるが︶とす.る。而して宇宙が
自然現象取
紳を生じたのではたく、紳が宇宙を生じたのである。然るに、宇田の杢醍を紳とする者にあつては、紳が紳を造
ることとなるので、是等は多紳教から一所敬への移行型を示す詩である。
F
一、太陽。太陽から生起される感情の種類から見て、兄童には三型ある。倫理的感晴型︵感謝を基調とする︶改
も多く︵六五・六%︶.有機的感情型︵快不快を基調とする︶これに次ぎ︵二八・一%︶、美的感情型は少い︵六・三%︶。
太陽は天鴨硯されろが︵六〇・末%︶、紳性成される傾もある︵三凹・二%し。太陽を磯弄すろ者は、しない者に三倍
する︵七六・二%封二三−八%︶。超祥の動撥としては、生の支持者に封すツぐ感謝が主であり︵五三・掴%︶.しない
のは天隈なるが故である。
二、月。太陽は感謝の封象であるが、月は美的封貌であつて、月に封する感情型には、実的感棒型が最も多く.
︵五八・三%︶、倫理的及び有横的の感構型これに次ぐ。月も亦天性又は紳性祓される︵六〇孝と三二・五%︶。祀弄
者は、しない者と同率であるが、祀祥の理由は美的感動にある。
三、暗・火及び銃撃。曙は恐怖︵七帽・三%︶又は寂蓼︵二〇%︶の感を輿へ、それ∩包兢する妖怪の想像は超人閥
的存在の蟹生を助ける。錦鞋は寂蓼の感︵八〇・五%︶を生起する。火はH邑,¢・S・等のいふが如くに原始的感
情を生起することはなく、紅曾的に却って火災の瞥戒心を起させる。
四、死屍及び墳某。人間の死屍は同情を生起するが︵八〇%︶、動物の死屍は他方に汚拉の感を生起する︵川六・
四%︶。故に宗教教育に於て動物郡を人間界に代mすること、特に何れの揚︿・﹂にも死屍を目撃させて後口の美的基
想を破壊することは考ふペきである。墳基揉寂蓼・恐怖、時に同情を生起する。惟ふに、太陽・月・暗・銃餐・墳其の
如きは、宗教米麹の白然数的側再を構成するに有力なるものの如く、見童の宗教意識の琵の小枝は、成人の侍へ
る柿餅睨念からよりも、却ってこの方固から摘蒸されることが多いやうである。
日本兇意の票数意識の研究
迷信及び妖怪敬
日本宛丑の宗教意執の研究
G
一、神秘力。護符の紳秘力は殆ど転封に兄童に信ぜられてゐゑ九〇%︶。而してそれは身関守護や疾病・怪我
の身代少として現れる。禁厭は治療上に感覚的奇蹟を示すために信ぜられてゐる。辻占及びト笠の預言性は、多
数の兄童に否定される︵八〇%及び五七・一%︶。夢占の竣言性に就いては、信香相牛する。
二、書凶。干支及び丙午は多く否定され、日の曹凶は肯定・否定相年するが、鬼門の迷信は牢固であつて︵六
三●六%︶、未だ料率思想の侵入を許さない。厄年は、︰雷王の前途に生きる兄童には問題でない。
三、俗信。見童の見た紳併は浜然たる超人格的存在の人格化であつて、特殊前掛ではない。故に地蔵尊・薬師
を知らず.私書・積荷・大黒天には稗モ観みがあるが、多くは誤って知悉されてぁる。
四、妖怪取。幽褒・疫病紳・悪魔の存在は否定されてゐる︵六三・七%、八〇%、八〇%︶。併し動物妖怪の客叔
的存在は多数に信ぜられ︵五甲六%︶、彼等が人を化かす理由に就いては、掠奪設最も多く︵五〇%︶.悪叙説こ
れに次ぎ︵二五%︶、自己防衛及び怨恨読もある。妖怪の肯定は、宗教意諭の自然数的側面及び私人間的存在肯定
附
言
の牽生にとつて軽現すべからざるものであることが考へられる。
第三
⊥、研究法の註繹。前に研究法を述べる際に、従来の研究法は非定形的研究限の活動を忽にしてるると言った
のはー従爽の研究は唯−その主として採った︼二の定形的方法を以て研究封象に直接し、直にその結果から結論
を導いたことを持す。斯くする結果は.若干の衣規を以て嘗て一両識もない研究封象を解持しょうとするの大陪
さとな少、全人格の蓉露たる心的現象を眞に解辞することが出奔なくなる。吾人尤その人の顔を見ず、その人の
人となりを知らず、唯−著書や放邁によつてその人を解する場合と、その人格を知悉し、その面貌に直接し、其
等から来る非定形的印象を背景として常面の研究事項を進める場合とは、結論の上に大なる差異を来すことを忘
に於て、崇ffdi磨
がその﹁宗教哲畢﹂の第三章なる﹁心理畢的宗教哲拳﹂に於て
れてはならない。昏eは芦○謬yeFO︼OgyOfR象giOn・のpp・宗,宏・に於て、叉近く与0ロは穿ee已﹂訂−i明iOu中
甘y¢邑。苧のpp・箪鍔
探った所の研究法を不思議な方法として取扱ってゐるが、これは吾人のここにいふ非定形的所動眼の帝勤を以て
寧茎家長 がその研究法としてゐるのであつて、彼の深い洞察と、豊富た詰寄とを背景として働いてゐる所の軌
条である。
二、見童の宗教茸識の蟄達に就いて。吾人は本研究を進めながら、次の如き疑問を懐くに至った。これは母醍
たる全研究の完成の際に断定を下すつもりであるから、ここには疑問として問題を投じて皆きたいと息ふ。それ
は、兄童の宗教意識の蟄連にとつて、従来多くの畢者が信じ、宗教教育家の如きはそれを基礎として賛行を進め
てゐたほどであるが、社食や成人の停へる紳俳の観念∵宗教上の知識、既成宗教の労らす知識が、主として宗敬
意致の蟄達吉助けるとの考である。これに封して吾人は疑を叔まざるを得なくなつた。勿論、近時の多くの拳者
の詮くが如くに、社命や榛東の兄重の宗教意識の上に及ぼす影響は大きいであらう。併し共等控或る時期の兄重
に封しては思ふほど有力ではない。兇童の宗教意識は.一方に寧ろ宗教的範囲の外にあるかの如くに思はれる所
日本兄漬の票数志筑の研究
日本H・・琉の㍍談志試の打究
二ニ○
の、父母に封して信輯し、∩已の欲望の蓬行や保革ハH㌫、理想の人的に私淑して自己の行鶏を統制し、群聞出
祈に放て岱見失肘石岡n㌣得、笹し、H︰‖け、閏畢L一倍冊してぁり諒の心的現象の恐建によつてその中板が牽達する。
他方に妖頼、晴や錆乾や招前の如き∩然抗鉄、及び特に迷信によつ三示敷的となつてゆく。この二面の牽建が主
である。成人や酌命の倖永井咋塾的宗畝の知識的侍持雪見死に於ては、未だ是等の共成的畿達の方面と聯締せ
ず、恰も大地と云ふ基底の農斉に昨杭た打込んだ如1に、閏片的・何々的に浮いて受蟹亡れてゐるに、過ぎない。
ヽ
而して是等の基底と俸杭と、及び韓杭相互は、若し成人ヤ研究者等が見韮に攣︿の宗致上の質問を敬して彼を思
考させることがないならば、石碑的にl聯精しないであらう。然るに琶烹〓閏を空し又は地の利故にょつて見童が
宗教問題に就いて忠君させられるときは・桔入された鱒八い・H最的宗教明誠は∴ヰ㌍附に豊北白らの上に篭達
してゆく信招や操舵や紳秘に刺戟された基底−ご聯申してゆく∴うである。斯ろ聯<=の見込があるのは、約十三歳
封許とすべきであらう。ここに於て吾人に.兄兼の完敗棄識.苔、寧ろ人間の布せる宗教性の蟄達には、第一に、
成人の停へ︸ハ多少系統的に紳申し開すろ知識の㌍受箪よ力ち、宗教とはその起誠に於て別たれてはゐるが、兄童
の準際生活に於ては、寧ろ虎拍や迷信や妖怪や自然の奥へ岬ハ感紡が大切であること.第二に、宗教上の問題に就
いて内省し考症等′ろ利根た輿へ争.主が肝栗であると‖心ふJ遣信や呪術が刺鵜とたつて宗教意識を生起するとい
ふことに関して、その湧起された宗整︰心語法良の合川前のものであろか、そ㌔と史璧信笹矢張り迷信であるか、
若し′\は卜者持前者に移行し得るかに就いて吟.晃繋の金箱紳蟄建の問怒として解決を下し得ると思ふが、ここ
に諭する問題外である。二元︶
、
彿身論に放ける法身説ミ報身説
∴
鈴
木
宗
忠
併身論は、多くの関数嬰者に依つて、併陀叔と同一現せられるやうに思はれる。けれども私は、この二の思想
は、殿密に云ふと、砿別して見るの必要があると考へる。併陀戟は意味が甚だ漠然として居り、従ってその範園
も可なり舞いと恩ふのであるが、併身論はこれに比較すると、意味も精々確定し一錠ってその範囲も甚だ狭いや
\
うに考へる。如何してそう考へるかと云ふに、彿陀故に沸教興趣の初めから存在したのであ㌃が、併身論はそれ
を基礎にして、或る時期に致生したものであると息ふからである。換言すれば.伸身論が起る前に、その前借秘
として、俳陀取は多くの階段を挺たやうに考へるのである。私はこれをざつと四期に分けて見ることにしたい。
第一.教組の宗教醍陰に於ては、併陀は確にその宗教理想であつた。背のなくなつた耽恐が捏欒であり、この
浬欒に入ったものが彿陀である。何故なれば、彿陀とは智者.兇者の意味であるが、その智慧とか菩捜とか云ふ
のは、理論的たもの.でなく・驚践的なものであるが故に、智者とか党者とか云ふのは、苛のない状態を時給した
二三一
ものに外ならないからである。従ってそれ牲宗教としての悌教の理想であるから、濁り教組の貿現したものであ
僑身諭k於ける法身記と報身散
■身鶴に於けも注身説と朝身讃
二三こ
るに止まらないで、常人の共に茸現すべき平等の理想であるq故にこの韻合に於ては、併陀は決して歴史上の教
臥そのものを指して居たのではないのである。
亭l、この理想は、かやうに茶人の平等に資現すべきもQではあるが・然し弟子の側から見ると、事‡に於て
は・これな繁現したものは、報わ教組のみである。従って弟子に取っては、併陀は教組と同一である
よい○故にこの場合に放ては、併陀は最早や茶人の共に貰現すべき理想ではなくして、唯一、人の師
ある。然し師主としての併柁は一秋乳であると云っても.静子建の宗軌意故に於ては.定見上の教組そのもので
は.なく、眈にモの間に多少丑息化せられ、字井氏も云ったやうに、詞は三股化せられて居るのである︵印度哲
畢研究第四、﹁阿含に現はれた働由撼巴︶戎軌の宗敦憬験に於てはl併陀は茶人平等の理想で、同はゞ不定なもの
であるが、弟子達の宗教意iから見ると.モれは師主として仰守教組で、確定した一人である。
第三−然し静子の仰から見た師主としての併陀も、教組の在世と減後とでは、その性質に相痙がある。在せの
時に於てはー弘子峰軟払の偉大な人格に包容せられて・何等の不満も感じなかつたのであらうが二且
ると、′在♭し教組を渇憶して、これに絶大た慰安を静めながらも.その宗教意敵には、自ら軟格の生するのを免
れなかったであらうと息はれる。.この快格は時を経るに連れて、次第に大とな少、彼等は何時しか逝きし敬阻に
代るべき具瞥的な理想的併持と虐めるに室つたのではなからうか。私はこゝに現れて木たのが、終末
あると考へる。既に現‡の教組を基鮎として、その挿木に併陀が濯るとすれば、亦その過去にも.併陀が在った
に速ひないと考へるに室るのは嘗然のことであらう。これが過去併の思想であると息ふ。かくして三
想が現れて奔たのであらう。この思想は、勿論原始俳敦時代に起つたものであるが.小乗関数時代にはー可な少
に庚く行はれたのであらうと息はれる。この思想に於ては、三せを租ずると、拷仲卸ち多併を認めるのであるが.
然し現在の併陀としては.唯教組一人のみを認めるのである。即ち現在一件の思想である。
第甲然るに暗が経過するに連れて、現在にも、過去や将来と同様に.多くの併柁と認める思想が現れて木た。
所謂十方誇俳の思想がそれである。十方とは、上下四維に、更に周推の中間に四所を加へるので、凡てゞ十方と
なるのである。この十の方虎の︼昌、併陀が存在すると考へるのが、十方諸励の思想である
云ふのは、何も十に限った辞ではなく、何虎にも悌陀は布衣すると云ふ意味である。轟間的に云へば十方諸俳で
あるが、時間的に云へば、三世諸併である。故に十方緒併の思想は、自ら三世十方︼切諸俳の温想となるのであ
る。俳陀叔もこ1まで来ると、初めに教組の宗教世陰に於て、萬人平等の理想とせられたものと全く同lである
と云はなければならぬ。さて現在に多俳を認めろ十方誇彿の思想は、何時頃起って来たかと云ふに、既に小乗俳
教時代に於ても・その進歩派と糾せられる大衆部の中には、この思想は、多少存在したやうに思はれるが、大乗
俳教時代の初期には、これは殆ど一般的の潮流となつたやうに見える。このこと吐.それが大乗関数に於ては、
畢腋脛の最も古い部分に在するのみでなく、大乗経典の最も早いものと考へられる般若脛の古い部分にも存する
のを見ても明である。
〓
二三三
以上に述べたやうに、私の考では、併陀視は併教初牽の時から、大乗沸教の興起に至るまでに、凡そ四階段を
僻身論に於ける法身託と報身誼
二三国
俳身論に掛ける法身託と報身敬
経たと思ふのであるが、彿身論は、この最後の時期になって、始めて興つて充たやうに考へる
の大乗経典にも存するのであるが、これを楳めて、俳身論の形に整へたのは、龍樹であらう。
智慶徐にこれを述べて居る。彼の併身論は二日に云へば、二身詮である。然し彼の二身詮は、
る如くに・生良二身説のみではない。生法二身論石外に、今一つの二身詮がある。それは法化
の二伸の二身詮は、名前は等しく二身詮であるが、その内容は根本的に異って居る。
先づ生琴一身説から述べるとーそれ吟俳身には生身法身の二珪があるが、直の併は生身では
あると云ふのである。この思想は、蕪辞竺阿含の序分に在る繹師出世詩壇短、肉世錐逝法身在
句に現れた思想などから、漸次に部沢の進歩思想を経て、開展したと息はれる般若経の思想を
からうかと考へる。般若経には,その最も古い形のものに、二個所までも、この思想が現れて店る。一は貰兼功
徳品の文であぇ他は法上品の文である。生身は大智度論で云ふと、父母生身を略したものに蓬
父母生身の空茶、匡t首t号音詳苫であるとすれば、生身は望月孟家宅となるべきである。般若紅では、
ヽ
監臥yÅ有身︶、R君臣yp︵色身︶と云って居る。何れにしても、それは肉倍の併、肉身の併であつて、教組の現
身を指したものである。けれどもこれは其の併陀ではない、眞の併陀は法身DFヨ畳官である。蕗身は般若経
・に於てもー大智度徐に於ても、結局は基である。この基は或は諸洪‡相DF邑rと云はれ、或は眞如丁巨象
と云はれるが、それは箕在ではなくして、般若であ少、書換であ彗理想である。つヰごりそれ
現せられた宗教としての俳秋の理想である。
然るに法化二身詮は∵︶れに反して、理想から現荒に向ふもので.それは詞はビ向下的併身論である。それは理
以上に述べた龍樹の生法二身詮は、現箕から理想へ向ふものであるが故に、これは謂はゞ向下的併身論である。
﹁
想である洪身が、衆生救済の食めに、椎化して教祖となつたと云ふのである。、生琴一身詮に於ては、生身併が其
の併陀と見えるのは、吾々の僻から起る迷に因るのであるが、法化二身故に於ては.化身防が俳陀として存在す
るのは、彿陀の例の方便に基くのである。生身悌如法身併となるには、進んで行くことが必要であるがl化身併
は居ながらにして既に法身併を濠想する。換言すれば、法身が権化して化身となつたのである。生法二身設は、
龍櫛邪股嘉癒に基いて握めた併身論であることは、私の前に述べた所であるが.法化二身詮は、これに封心て、
法華経に基いて損めたものではなからうかと考へる。法華革等量品の彿陀は、確に久壌賛成の法身併が、衆生救
済の鳥めに、教組として現れた應化併である。法化二身詮に於ても、法身の梵語は.生法二身詮に於けると等し
く、無論⊥ぎヨ已試琶であらう。然し化身の梵語は、それ程に確ではないが、悉らくは当ヨ帥唱晋であらう。
かやうに龍樹には、二種の二身詮が並び存することは寧賃であるが、その何れが彼の眞意であつたかと云ふ鮎
になると、賃料の上からは.これを決定することは困難であらう。然し何れにしても、彼の併身論が、法身詮を
中心としたものであることは疑はれない。今これを基鮎として萄へると、彼はこの旗身思想に到達する食めにt
先づ般若経に基いて、生身思想から出費したのであらうと息はれるが、一旦法身思想上到達すると.最早生身思
想は、その必要がなくなる。そこでこれを捨てると共に、彼は更に法身思想から進んで.法華麗に基きー化身思
想に到達したのであらう。かやうに思想蟄展の上から見ると、龍樹の俳身論は、初めは生法二身詮であつたもの
働身静に掛ける法身我と報身誼
伸身諭に於ける法身託と報身改
二三六
が、後には法化二身詮となつたものではなからうか。少くとも彼の以後に於ては、生琴一身詮腋最早なくなタ・
猫り法化二身詮のみが行はれたのではなからうかと息はれる。私の考では∵︼1に報身思想の起る機捷が存する。
三
従来報身の梵語は、一般に評臣どg㌣霹苫であらうと考へられて居たが、大谷大串の西尾京姓氏が三身の原
語に就いて研究せられ、その結果を﹁宗教研究﹂︵新第六巻第三兢︶並に﹁大谷串報﹂︵第十一巻第三競︶に出して居
る。氏の云ふことには、首肯し経い鮎も多く存するが、然し報身の梵語は、5p詳苧許苫であ少謬邑亭竜−・貯首−
の詩語は受用身であると云ふ主張には.私も語義の上から見て賀成する。私はこのことを基鮎として、色々と研
究して見たが、報身思想が併身論の由に取り入れられ、如何にして二身説から三身誼が生するに至ったかと云ふ
経過に関しては、資料の上からは、これを喝にすることは出来なかつた。然しこの軒を何とか説明しないと∵後
の三身詮に移ることが困難であるから、私はこ1に一の臆測を提出する。
5p騨F・許竃と云ふ語は、・−轟然ではあるが、その思想も共に.−華厳鍵の中に出て居るが、それが果して最
も古いものであるか如何かは明でない。然し私はこの思想が現れてから.彿身論に取打入れられるまでには・凡
そ三時期を経過したのではなからうかと考へる。仮にこれを生身時代、化身時代、報身時代と名ける。私はこれ
を説明する鳥めに、報身に二極耕を分けて見るのである。一は菓報身内弓日鼠p鱒・試盲であ少、他は、行報身
﹁し
せ乱臣露骨古.plF・試琶■である。前者は華厳靡に出て居る。後者に就いては.私はその用語例毒見することは
出来ないが、然し何れかに存したらうと考へる。
業報身と云ふのは、尊慈の巣に依って受けた果報身のことであるから、元来は衆生身のことを云ったも
や。故にこれを併陀にあてはめると、それは生身若くは色身に外ならぬ。即ち現茸の教組を指したもので
この鮎から見て、私は報身がか1る意味に用ひられた時代を生身時代と辞する。然らば何故に生身若くは色身と
云ふ語を捨て1、故意に報身と云ふやうな語を用ひたかと云ふに、教組の入滅七封する弟子達の心持を哀したも
のであると息ふ。弟子達から見ると∵教組は成註して併陀とな少、一切の苦を解除した。その意味に於て
は水蜜盲しては.法身併である。然し現れた所から云へば、教組も肉身を持つて居る。この肉身は吾員の場合に
於けると等しく、貴報に依って受けたものであるから、その意味に於て、教組は報身併である。従って教
吾々と等しく、死の存することは嘗然である。故にこの盛合に於ては、報身思想に二の意味があることを
ばならぬ。即ち一方に於て、弘子達は教組の入滅を悲むと共に、他方に於ては、それは莫報であるから止
ないと.自ら静め、自ら慰めるのである。
次に私は行報身と云ふことで、化身時代と報身時代とを詮明しょうと息ふ。果である報身の因がせ開業
とすれば、その戯身は、既に述べたヰうに、菓報身であるが、その因が出せ閉業、即ち事故行であかとす
それは行報身である。この場合に於ては、本地の併陀ほ法身で、不動なものであるが∵この法身が菩捷行
て動き出た所が報身であるから、それは化身である。失張少それは現茸の教組を指して居るのでぁる。こ
ら見て、私は報身がか1る意味に用ひられた時代を化身時代と辞す告生身時代の報身思想は、併身論で云へば.
生法一斉詮の時代に相施し、化身時代の報身思想は、法化二身詮の時代に相臆すると考へる。
偶身鯵に於けろ法身況と報身記
●身‡に於けi洗身我と報身祝
二三八
けれどもこの二時代に於ては、報身思想は.未だ併身論の中へは散歩入れられなかった。勿論化身時代の報身
・・−
思想は、生身時代に比較すると二特化を示して居る。然し果報の因となる書換行は、生身時代のせ
く、併陀身の行莫である。その行菜に報官れて、現れ嘉たものが報身併冨る。.これが更に一歩姦める
と、規化の報身俳は、俳陀自身の行菜の結果ではなくして、その封轢の行業に報ひられて現れて来
それが眞の意味の報身併であると考へる。私はこの時代を名けて、報身時代と辞する。
化身併である敦阻は、その封韓として、筆問を有する。婁閑は偶然の闊係に依つて、凡夫が化身
の弟子となったまで1あつて、決して自己の菩提巧●違って、そこに・化身併を特殊したわけではない。化身俳の
現れて木たのは、その封拭の行業に報ひられた結果ではなく.箆身併としての併陀が、衆生救済の膠方便、即ち
自己の菩捷行の結果に依るのである。然るに直の意味に於ける報身併は、その封機として、菩薩を
は和めは牡軌の出家以後成迂以前のことを云ったものであるがー後にはその出家以前も.又囲ってはその前生ま
でも含むやうにな少、終には大乗併教時代になると、修行者の理想となつたものである。修行者の
菩聾は、報身併に封して必然的な関係を有するので、決して草間の化身併に封する如きものではな
は何れも皆成る程電の菩捷行を積み、それに依って報身俳む絡爽するのである。報身併は叉この菩
報ひられた結果として現れて凍るのである。故に報身俳も、化身併の一種には蓮ひないが、二者空
別が存する。竺、化身併は普通には規茸の教組を指したもので、少くとも初めは軟聖人に限られて
.
哲 に息はれる。然もに報身併は理想の併陀で、多く存するのである。琴一、化身俳は稜土に現れ
すろが一昭・サ伸は常に薄土を有しー草障シ⊥封帯と†る.然らば報身思想J現れたのは、如何なる動攣遠くかと
云ふに∵話者に法ると∵一れに、に∴の意図があつたやうに思はれるり︰け︰蕾時の天来翻訳に於て、蒜的謝流
とたつたと思はれる撃沈全書闘い思加・言説明し●へうとするが広めである。二・三国帯準宝器理想として確定した
ーこ思はれる菩薩思想を︰に、凡夫とH比して解明しょうとした盗めである。
日
報身忠恕た柚身論お申に取り入れ、法液化の芋斗託た立てたのは,世親であると考へる。勿論龍噛も報身思想
を知って㍍たには泣ひたいが、これをその併身箭に取り入、−二言lミ思はれないり彼の仰望刷に.眈に述べ、花やう
に、抜身を中心とする二身設であるっ尤も隼非にに摂ると︵印度普箪研究㌫闇、﹁寵揖の汰身説い︶、彼の抜身思想に
は,理法カと軍法身との二痙翫がある。故に開振合眞説か㍉兄七と、彼の法相誼は唯法普心懲りみを含むのであ
︰一rて
るが、問尻令粧設から見ると.それは報身児想㌧d.むことに︶・去と云ふつであるゥ然し私はか1る考へ方には‡
し−
成すること揉出来ぬ。私の考に杭ると一駅捕の法身m心想は、奴に述べたやうに,描某徳望−れと等しく.その棋
杢.托に於イJは、何革までも.智法身であ少、理想であ一・りと︰〓・ずろ。
さて靴旭わ二身説から、如何なる恕過を総て、≠親ハ三身詮にたつた・叫∵こぞご、吾々はせ統の上からこれ逐
−
●
二.†−
︳
跡付けモ︼とは桐難であるが、世恵たたつて三身詮の伴走したこと誓誓言ないじせ親は÷再⋮トエ.金剛椴岩波姓
薔繹論﹂苦捉流安謂巻上︵往一ハ、二五尤︺に、
彿H二■柾。い常汝身俳。二清朝怖。三者化彿︶
備身諭に於ける法身寧1∴≠身パ甚
併身箭に於ける法身託と報身改
二田〇
と云ひー叉﹁妙法薄畢軽便波抱合﹂菩鍵流文語森下︵往六、六囲左︶に併竺二輪菩提を示現すとし、
一着化併。二者報併。三法併。
と云って居る。これで見ても、世親が報身思想を法化二身詮の中に入れて、港報化三身詮を立てたことは
る。故にこの俳身論は、報身中心の三身設である。従ってこれは法身詮に射して、報身詮と窮することが
この場合に於て、報身の原語は5p詳苧訂竃であ少、法身はD訂冒静電.p、化身は写m卯Iゴ甘ざpであつたらう。
眞締繹の金光明撃一身品︵黄六二ハ六右︶には、三身を法身、膵身.化身と云って居るけれどもーその璧還、前
の二論と同lであつたらうと思はれる。何故なれば、謄と報とは、踪報とも熟字するので、その意味が相通する
からである。従って報身と鯨身上は、全く同一となるわけである。
従来の併敷革者は、三身の詩語には二電あつて、その思想も興って展ると考へる。即ち一は法報嘩二身で
二は法隙化三身である。法報撃二身詮は、眞如を理と智との二に分ち、理は法身、智は報身とする、慧速
展合應誼︵大乗毒筆︶である。これに反して法應化三身設は、眞如はこれをそのまゝに不分になし皆き.その斬現
の方を二となし、勝れた化身を鮭身とし、劣った化身を化身とする所謂開鮭合眞詮で
には、直に賛成すろことは出来ない。成程三身の原語には、大鰐二種葱五ったやうに思はれ濁が、その普
ひられたものは、夢胃m詩董.p−≦p欝p試写挙m首互鉢yaである。そしてこれを初めて鞍諾したときには、法身、
義身−化身としたのであらう。菩提流支の余剛般砦論や法苺論の詩語が即ちそれで.而かもそれは最も正しい詩
語であつたと考へる。眞諦はこれを法身、應身、化身に奨へたと思はれるが∵︼れも張ち不常でほなかつ
この二評語は、その語に於ては異るが、その思想に於ては、全く同一である。即ち第二身及び第三身は.共に化
身である。そして第一の法身は眞如であるが、それは龍椒の鶉合に於けるが如く、理ではなくして、智であ少、
菩塊である﹂それは膏在ではなくして.理想である。然し菩提流支は十地経論︵暑九、一三右しに於ては、明に三
身をば法考報身.鮭身と詳して居る。これも語としては、張ち不常ではないと考へ
は謄化とも熟字するので、化身をば應身と云つても、その意味は相通するからである。そしてその思想内容も、
前と同一であつて、法身は理ではなくして智である。従ってそれは開眞合應詮ではなく、何度までも所謂関應合
眞詑である。起倍論も、十地経論と全く等しく、三身に封して法報應の詩語を用ふると共に、その思想内容も、
失張わ開膣合異説である。因に二言するが、私が詩語の上から、起信論は眞諦系統のものでなく、苦捉流支系統
のものであると主張することは、これが篤めに、益々力を添へかのである。
五
然らば三身に封して、法報旛の詩語を用ひ、その思想内容として開眞合艦詮を主張したものはなかつたかと云
ふに、それは支部に於ては存在したのは無論のこと、印度に於ても、亦存在したのである。支部に於ては、法相
p、
宗等の思想がそれであり、印度に於ては、唯識系統の思想がそれである。無着の隋大乗論に三身を詮いて居るの
が、所謂開展合應詮の起って来る模本ではないかと考へる。その最も古い詔︵西紀聖二︶である梯陀崩多の特大
乗論︵来九、七四左︶には、三身を眞身、報身、際身と云って居るが、その原本は確に眞詐や玄奨のものヶ同一で、
この二詩は共に自性身.受用身.里化身と云って居るから一、その梵語は、前に述べたDF賀mP許竃−≦p詳pk董l
併身許に於ける法身託と報身記
焼身諒に掛ける法身託と報身許
∴仰H.
ヨ冒首茸Pではなくして、茸邑1雲.鼓レ・p−ぎ巨資菅野蔓∴を象百恵官でれつたt∵三い砿・ト七っJ嬰言れは
三身の梵語−1に二郎翫ある申の他の表であると考へるeこの申で▼欒化身はm告完訳葦し
らー前の三身の場︵〓と同妄ある。故に今1⊥で特に論ずろ程のことはない︺こゝで明哲王い﹂∴は、受用身と
自性身とである。
n性身はー叉他の場所では、法身とも云って居るから.二者は同一内海でノわづた一L址ひないン何れの諸本丘て
も−それ竺切放の自在に綺すろ依止となるものであるから∵法推であり、誓萎Qご㌧れ︰H毘如で托あるが.
智慧としての躍如ではなくして.珊としての眞如である.理想ではなくして、賢在である.二束藍叫に述べた闇
鮭合罷詮に比較すると、確に法身の概念は根本的∴建化して屠る。彼は智慧でJ∴㌧∴ひ、舵・に法性であろ∴蛇は
理想であつたが、此は寧杭である。
次に受用身に就いて考へるとー受用は宴褒受用の意味であるから、それに法性を密如した謹帰示−指したもの■∵
あらう。この譜俳は浄土を持って早品が、その特色であぇと肇へられる1一舛琴lの仙身は、叩に机字−ん鮎・∵り
云へば、智であろが、然し棒大乗諭では、この鮎は明何
でれ
なか
いと
。云へば、閲覧‖祈年〃如′トに、ニの嘩け
は、寧ろ化身﹁近いものではないかとm心はれる。
棒大乗論の思想を柁承したと考へ・トれる後の成唯識論︵琴丁讐では、法身と髪化身とに就いてに.大惜建りは
ないと云ってよいが、受用身に就いては、これを二田となし、一を〓受用身⋮︰主れは苦学家宅・茸︰.では
なからうかと思ふが!と云ひ・他を他受用身!これは冒夢ぎ古宇ざpではなからう・打・と考へるポーーと
ノ.し
云って居る。他受用身は所謂勝鯨身で、閲艦合眞詮に於ける化身の一塩であるが,白受用身は確に日受法楽の智
慧である。故にこの思想を撤底させて、他受用身を應身となし.自受用身のみを報身とすると、建身は郡、報身
は智となる開眞合應の三身諒となるわけである。
六
以上で報身を中心とする二踵の三身詮に就いて大略論述したが、こゝに注意すべきは、この二痙望嘉詮に於
ける世親の位督である。そこで最後にこのことを論じて、この講演を経ることにする。
眈に述べたやうに、開鮭合長の三身詮は、世親に依って確定せられたものであるが、それと共に、せ親は叉開
展合鮭の三身設にも、大に関係する研がある。閲歴合典故は報身を化身と丁るのが、その特色であるが、その根
底にはー法身を智慧とし、理想とする思想が存在すると考へる。それは裾奔誓心愁であると云ふことが出来る。
これに封して開眞合應詮は、結局報身を智慧とするものであるが、その棍既には、法身を理とし、賓在宣する思
想が存在すると考へる。それは唯故思想である。世親には確にこの二の思想がある。
従奔の併敦単著の考では、世軌は唯識思想の完成者であるとせられ、この方爾ばかりを重く見て、彼が如来銭
思想に関係あることは、飴りに顧みられない傾向がある。然し賞賛に於ては、舵は如来成思想を開設し、鵬識思
想よりはl寧ろこの方が彼の眞意ではなかったかと思はれる程である。箪に世親のみでなく、無若も禰勒も大に
これに開係があつたやうに思はれる。世親には如来成思想を詮いた伸性論があるのみでなく、柿論繹にも、これ
二讐一
ゑ柵じて㍍る。無着にはこれと云ふ提の明た著述はないが、沃諸に一乗究孝男咋論と云ふものがあるも、−れはま
俳身論に於ける法身託と報身祝
傭身許に於ける法身託と報身設
二門四
部では著者不叩となつて屠るが、西域の侍詮では、朗は抽勒、繹は無苗となって侶ワリ。価⋮論これに就
すベヰ鮎はわるが、相薔のm山疲あると考へる。そうして見ると、如⋮請にも如来祓思想があつか︰わけになる。加
水寧品詮する大乗茫鮫経論は、普通には無前書鹿追となつて居るが、これ持尭誓一論持したやうに、期代
勒、繹は世知でぁる。そうすると弼軌にも由来絨思想があつたことになるり笹にそれ再みではない。北=通に托摘
勒の論無恥は、唯誠忠想を詮いたものと云はれるが、能く調べて見ると、これにも如本城恩恵ほある。か
考へると、弼軌、無籍、世親には、唯識思如と共に、如来成思想も存したと云はなけれはなら択。
前にも云つたやうに、唯識忠恕は法性の理を中心とする葦ホ論であり、如来祓思想は坑加わ鯛量警旦妻板
忽主義である。果してそうであろならば、三者に全く正使封の軋想とも云ふべきものであろがー
二思想がー同時に同一人に布衣したとは考へられない。然し印篭に於ては、弼勒.無前.世親に∵1のことが布
衣するとすれば、それは如何に解澤せらるべき㍉のであらうか。この間題の解決は昭り∵−.身設の聯明に吏するの
みでなく、更に大乗仰敬抑‖塾仝醍の研究に至大の光明を輿へろものであると考へろ。故に私は仰望咽に
熟な攻究の結末として、敢へてこの大問題扇−仰数箪兇に提別して置′、のである。
昭和五年五月十一日講演、同七月三村草案訂正︶
奈良靭三論宗衰田老
一倍米初期本誌の隆〓と有誓なる搭乗
寺
崎
佐
一
我国に於ける宗派彿数倖凍の喘宍たる三論︷ポは∴.㌣〓二﹁工二咋骨⋮見附滋滋の裾門を以て、その賃一倍とす↓Uこ
とは凝然大穂と共に吾人の是認せんとする桝である、∪こ桂根が同年文詔示羞けて早天に摘を折ろに、その師憲群
大師セ‖戒の先例に撤ひ、薄衣を窮けて二論・/講じたること、︵l︶托大化二年その所持克典譲の一堂に常時の箪匠
を黒めて三論の奥旨を講じ.以て本誌の溝撃了湧きたること、︵り︼︶更に又河内闘志紀郡、井上寺−γ一創立して︵りこ右
京弘迫の箔揚とせることなどに伐て謹せられろ。井他被が僧正に任ぜ・hれた︰ハニと.挿朴ルイの洛翠揖Ⅴ帥に謹はれ
たり︵4︶と俸へらる1ことなど、彼の行賃につ写植へら︰一リ1かゝる描けrl勺記︰⋮川のみを綜八〓するだけでも、絃が常
時の敬界に於て租る筑要たろ付置に揖かれたを︶とは、充分察知せられ言わけであろが、三論憲糾棋界たろ彼の
フγオナー
かゝる串運は、彼の佃へたる本ハ・バ漫展のたゎに蹴ろ有利なる因子たりしことも亦容易に箭枇せられリハ・。加ふるに
彼の筏相新には集約蹄克、及びその野†聖礪、紳小㍍あり、智拭け︰昂然︰︹本︷・ホバ二伸昔とたす隼匠であり、軸木又
法隆寺三論憲の机たれば、共に本誌の弘拍にニ㍑逃したろべく、竹城の琴十道蒸又在∫11テ小義評の法軍冗眠に捉つて
二明∵宜
奈良朔三諦宗焚由孝
二四大
三論を畢び、蹄罰するや凝然の所謂琴二次倖釆を左して大安寺流の組となのノ、かくて三論完は元興、大安.投降の
許大寺に三流鼎立の盛観を見るに至つたのである。殊にその教権的地位に至りては隣る恵まれたる情勢にあり、
天平初期より訴せる奈良末期本完の衰運
らゆろ節子偏に法祁に務め、三論に至っては多く其の菜を腰す﹄と詔ひ、或は﹃抑徒三諭を箪ばず、畢h法相を
極端なる衰微を見ワハに至ったかに就いては.︵エ桓武天皇が延屑十七年及び二十二年の詔勅に於て或は﹃比奔あ
息を堆粁に物語るであらう。次に奈良靭に於ける本宗のか1ろ情勢が、その末期及び平安初期に亘って、如何に
末に至るまで六七十年が問、彿教史上に満開する椚豪は、全く三論家以外のもののみである一等、能く其問の拘
有せることと、後者が大安寺建立に功あり、天平九年同寺に大般若韓讃の慣例を開きしことを除き、爾後奈良朝
を讃する具標的頚寧竺二拳ぐるならば.先づ天平以福本宗は前通せる如く斡正恰l正、及び道慈律師・を脾綱頓に
され、奈良末期に及んでは気息奄員殆んど磨滅せんが如き有様となつたことは、思へば不可解の極みである。之
想外に邁持し、既にこの頃より本宗は反つて衰頚の下り造を辿りつ∼あり、天平年間に於て早くも法相宗に弼倒
凡ゆる方面より観察して誰しも益く黎展するであらうと預想した至二論宗三体完結後の形勢は、然るに全く意
こ
てょかったわけである。
れば、努々聖武天皇御即位前後の三論宗は地口耕天の勢を以て興隆し得る折る有望なる情勢に恵まれしものと見
十七年間大冊都に鞋任し、天平年代に入りては耕正︵辞︶少檜都が累進して恰正となり、遺志叉律師に任ぜられた
早く︹5︶和倦時の恵港よ旦帽亮、智蔵と相接ぎて恰正に奉げられ、近く元興尊敬戒は和銅五年より紳泡五年まで
●
宗とし、三諭の畢殆んど将に絶えなんとす﹄と詔ひ、︵7︶
三論纂裏頚の原因
見ば.証人も思ひ牛ばに過ぐるものがあちう。
三
そめ前後廣く法相三論並行の要を鎗徒に諭させ拾ふを
本宗が、その初停以来着々弘洩興隆に向ひ、その第三倖を経って益ミ有望なる終発を譲期されたるにも拘らず
事葦は之に反し、斯くも甚しき衰頚に堕したる原因は.そも郵連にあ少や、是れ本論の眼目であるが、古来併談
史家は口を揃へ、筆を一にして、か1至二論宗の麦類は全くその論敵法相有宗の興隆に由衆すと験する。︵8︶
抑も法相宗は本宗の倖釆に後る1こと約四十年にして和博したるも−常時は本宗の隆運に塵されて未だ珪頭の
横と得赴かつたのである。然るにその第lニ倖者智風の高弟義淵が、その非凡なる世才を以て二十六年間の信正在
任中に数多の龍象を仕立て上げたる功援と、彼の門下にして法相
の恩寵を悉にせる幸運とに伐て、法相宗は一躍奈良朝俳教界の主導的地位を獲得するに室少、故にその東金時代
を現出するに至ったのである。試みに天平九年玄紡が修正に就任せる彼の教界を祝ずるに.そは全く法相宗、就中
義淵一叢の狗占舞墓にして、時に長詐の如く彼の所見比法相宗を懸れたろ取あるものなきにあらざれ共−彼も亦
元義淵の門よ少出で、その七上尾の一人に敦へらる1紆家に外ならぬ。事怒斯の如ければ二二論宗の豪商は全く
法相宗の興隆に起因すと説くの論も常らざるに非す、香吾人も亦之に賀意を表するに昔かなろものではないが、
思ふにこは一際概親的に説明をなす韻合の表面上の原因にして.偽ほ一際内面的に、更に深く、その原因−而
〓酉七
も諸種の原因ありと信するが﹂それら諸種の原因を検討する必要があらうと息ふ。足れ吾人がこの小論を牽表
奈良朝三論京衰園考
奈良朝二一諭宗褒由考
して叱正を先輩同畢の諸士に仰がんとする所以である。
二四へ
吾人些二論宗の蓑田を法相宗の興隆に膵する所論に封し、更に根本に遡りて﹃何が法相宗を巣えさせ、何が三
論宗を衰へさせたか﹄なる疑問を呈出せんとするものである。因に吾人が故に取扱はんとする問題は只後者に封
する答案を得るに暫宗、之を一隊明かにせんためには必要なるが故に、宛も本宗の衰
相宗興隆の原因をも見て行くこととする。
さて三論宗の衰因につき、第一に気附く鮎は本宗に於ける人物の有無及びその性格の如何である。前にも述べ
たる如く此時代活躍の伶豪は殆んど法相家に限られ、三論家の名は殆んど之を聞かぬことは、本宗の麦類を物語
る野猿たると共に、避に叉人物なきに困てその結果本宗の衰頚を惹起せることも亦見適し得ぬ等質である。更に
又かの陸続として輩出せる法相宗の名匠が殆んど皆義洞門下なることに考を致す蹄、彼と同時或は前後に於て三
論宗には一の義淵伶正なかりしことが、杢示の運命を左右せる重要なる因子となつたことも寧はれぬ。常時本宗
にも先には親戚.後には排正あり、共に敦樺境張上略モ養淵と同位地にあつたけれ共、親成は僧正義淵の下風に
立ちたる上に、解る潔癖なりし禽か、或はその才乏しかりし寓か、門下養成の鷲なく.文辞正が檜綱職の首席に
上りし時には、︵9︶恐らく既にその部下たる法相家就中義細門下の英才達に制附されて、彼も亦その職権を志に
行ひ以て自宗の勢力を張ることを許されなかつたもの1如くである。最後に道慈の如きあ・少律師の末席む汚せど
ノ\
も、天平九年玄防が僧正就任後、恰糾職が全く法相義淵門下の聾断する桝とな少ては、直情径行なる彼として断
然解放
き有様であつた。従ってかの義淵が囲韓潤達にして時勢を見るに敏なる性格の所有者なりしことは、法相宗の興
隆を致せると同様に.わが這慈が愴尼の俗世と交るを諷刺し.昔時の風潮に奮恍するが如牒性格の持主たりしこ
とが、三論宗に於ける人物の快如を招来し、惹いてその衷頚を致せる有力なる一因となりしことは、明々白々の
畢琶といはねばならぬ。かくてこの義描封道蕃の性格の相違が爾宗の運命を支配せること1なるが、この相韓は
タイプ 宛かも雨宗恰家に夫々通有の性格を最もよく代表する弊型であつたことは、常時雨宗に於ける名倍達の性格を比
較する時.容易に額かれることであらう。
上乗述べ参る所に依て、三論宗の蓑頚は宗勢携張に重要なる田子たる人物の映如に因ることから、進んで太宗
借家の通有性格に由ることを明かにし得たが、善人隼︼の通有性格も亦更に由爽する桝あるを見超すことは出来
ぬ。而してその折由たるキ吾人が本宗衰頚の第三因として捉示せんとするものであるが・而もこの素因こそは
あらゆる原因のうち食も根本的なるものなりと信する次第である。その折由とは何ぞ、本宗自らの敦畢的特徴之
である”而してこは法瑚宗の夫と全く相反的立前を有するが故に∵︼の両家教蓼の相反的特徴が、わが国特に昔
時のわが俳敢界の情勢に封する適否如何がーやがて爾宗の運命を支配するに至つたものといはねばならぬ。
然らば常時の彿敦界の情勢は如何、之を要言すれば、そは或は建寺潰塔に依少、或は箪備に依り、或は罵経に
依少、主として現世利益を日梗として之計信仰するもののみ多く、探き敢畢的思排乃至第一義的修行に心を致す
奈良朝三静宗襲囚考
奈良朝三論衰衰由孝
二五〇
/
ものゝ如き畦殆んど皆無であつた。而して之が最もよき代表的事象は、国分寺の建立、大併の鋳造、及び官営的
幕密事糞等に於て見られるが、法相有宗の敷革は、その立前として肯定的傾向を有し、殊にその五性各別詮の併
性論的見地よりするに、常然これらのあらゆる功徳糞に夫々相普の横倍を認め、之を是祝典画し得るが故に、こ
れらの大事業は皆法相宗家に伐り計暮され賃施されたる、叉故ある哉である。然るに三論基宗の教皐は之に反し
範封否定的立揚を有し、八不中道の法門に徹し、−念不生無所得の境地に入るを以て、一切衆生幹悟か極致とな
し、八不の旨趣に迷ふ限りは如何に深遠なる哲理も、如何に完全なる観臨も所詮無意義な少とする。況んや昔時
抒行の深慮たる曹棍功徳そのものには、.一顧の伺催すら認め得ざりしことも亦昔然すぐる程嘗然であつたのであ
る。従ってかの道藩が愚志一巻を著して昔時日本の道俗が俳法を行ふの如法ならざることを痛論し11鍵つて上
述の天平時代彿敦の三大事業にも、勿論賀意を表しなかつたものと見なければならぬIl而も時に容れられぎる
や、律師を解し山野に遊ぶに重りし︵讐ことに思ふも、叉かの克典専流智光が時を得すして隠遁的拳究生活に一
生を簸れるに見るも、こは濁り道蕃智光等の性格の然らしめたるにあらすして、更に深く三論宗教墜の根本的特
撃吉是言嘗然の膵鋳で思ったのである。
かくの如くして、その教畢の根元思想が嘗時の教昇一股の情勢に合はぎるが鳥に、三論宗は次第に昔時の官符
の僻教と遠ざか少、遽にその甚しき素顔を見るに至ったのであるが.他方民衆に封する三論豪の興味は、更に更
に微弱であつたものであらう。法相宗に於ける道昭行基の如く、諸歯に造化し.或は方便詮を設き、或は公益寄
集等を起して、その間民衆に接し、知らず知らずの間に∵俳数的持紳を植付け、以て彼もの尊信を急にするに室
′
りし人士も三論宗には一人もなく、叉かの役小角、泰澄の如く密教的要素を含む一種の仙術を以て民心を
底の人物も本宗にはなかつたの′である。従って官符の沸教に遠ざかれる本宗は民間信仰に封しても全然
なったのであるが∵之亦その所由を討ぬる時、前岡棟の結論に導かれざるを得ぬ。之を思ひ、彼を考ふる
良潮三論宗の素因はその最も根本的なるものとしては、本宗の敬畢潔白身の特徴な少と断言しゼもいゝと
尤も三論宗と全ぐ反封の理由に伐て、滴が上にも興隆せる法相宗は新興の宗沢であつて、立宗以来他宗
て立つ所.の経典に依少、之らを一括して菅謬俳数と蔑親しー猥少自宗のみ新語怖教なりとして、之を誇ってゐた
ことは、周知の寧賃であるが、贋朝文化の華やかさに心酔し、常に新しきより更に新しきへと只管新奇を
\,′
急なる奈良朝時代上下Ⅵ心情が、新韓の美名に眩惑されたであらうことも、さもありぬべきことなれば、
■ 相宗吏果えさせ、惹いて三論宗を衰へjせた一因とも見られる。従つて吾人叉この事は勿論其他に就いても、本
纂の東国と見らる1もの上述の外に絶封になしと断言するものでは勿論ないが、その中最も根本的なるものとし
て、本宗の敷革そのものを捷示したにすぎぬ。而も特に吾人の之を破調する所以は他ならす、こは三論宗
)
)
)
扶桑略記
中巻
欝摺︵国史大系本五〇四頁︶
扶桑略記 帯円︵五〇五貫︶
三国俳法停泊繰越
奈良朝三論宗衰囚考
二五一
直積因たる上に、前述せる如く、吾人の馨げたろ蘭飴の蓑田−本宗家に蘭有なる硬骨的性格も乃至は人物の快
′ヽ ( (
3 包 1
如も等しく常、この歌畢的特徴より放生せるものなればである。︵ュ1︶
註
( ′■ヽ ′「 ′ヽ (
奈良親三詩宗乗回考
藤寺縁起集、元亨辞音
節十八等。
つ、yハ何度▼デモ政義ノ優劣問題ヂハナク、ソノ時勢;封スル通有開祖ヂテル一事ヂアル。
本給−一於テ吾人ハ本宗衰因ノ最モ原本的ナルモノトシテ夫自身ノ款義ヲ琴不シタガ、・最後三筋ツテ丑キクイコ■ト
親日本紐解十五、︵国数大系本二五四貫︶及ビ横風薄。
良敏、行達ハ共一l義滞ノ七上足ダリ。
少倍都紳叡、良敏。律師乗沸、行違、泰済、這慈ヲ率ヰテ彼ハ僧綱磯夕統べクレ共、畠慈ヲ除キ皆法相家エシテ
ニ依ツテ玄デハ之−−墳レヌ。
反シ、本宗−二カ、ル寺ガナカリシコトニ之7月出デソトスル記古来コリ存スレ共、ソハ事平安朝時代三周スル
借料就退職ノ年月ハ絞日本紀、七大寺年表、檜飼補任参照。下問ジ。
載粟国灸第台七十九。十七年詔ハ国虹大系本ニー七貫、廿二年ノハ同一一一八貫。
在席サー牢、廿三年等ノ詔、顕家国史首七十九ア見ヨ。
此ノ外三三斡宗ノ蓑田ハ、法相宗ガリノ氏寺グル輿扁寺ヲ有シ、毒腺氏ノ有力ナル外詳ヲ得テ宗蓼ヲ維持セルニ
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田
阿爵陀浄土の要事なろ荘厳ヾ︼その融合的意義
津
敬
武
吾々人間は相共に考へ、それによつて共通の理想を持ち、それを日韓として進み得るのであるが、その理想は
欒化し韓歩する鮎に重大な意義があると思ふ。
さて阿礪陀浄土の岡像に表象された浄土思想も人間の社命生活のうちに蟄達した大なる理想である。よつてそ
の本質及宗教思想史上に於ける位昏を明かにしてその杜倉的意襲を徹底的に解繹することは大切か研究であると
思ふのである。故に吾人は統合的に表現された周像そのものゝ形恕及その間像と悶聯して溺はれた環境のうちに
一 如何なる浄土思想と、如何なろ人間的斬望が表現されて居るかを明かにしたいのである。更に換言すればそ
像に含まれて屠る思想的内容を研究すると同時にその思想とそれを表象して居る形悪との間に如何なろ関係ある
かを知らなければならぬのである。
阿猫陀俳の形像の起原はガンダラで蓉達した繹迦像にあることは明かであるが最■制に阿鏑陀像の円釆たのは
度ではなくして支部であつたやうである。即ち確証ある最古の阿摘陀快は支那の隋唐になつてはじめて蔑見され
二五三
て居るのである。さて支部に於ては庸の華尊大師の頃は既に院る盛んであつたやうで、我が図へも常時その同棲
阿湖陀浮土の空車たる荘厳とその穀倉的意義
阿積陀滞土の室幸なる荘厳とその杜曾的‡義
二玉田
が俸へられたことは恐らく疑ひないこと1察せられる。大和の常勝寺に凍って居る雷肺塵芥経の原図などは即ち
その常時の揖保であらうと考へられて居るのである。
然しながら銅陀の形像とその浄土の親像が最も盛んになつたのは藤原時代意心像都以後のこ上で、志心
撃と停へられ、最も名高レのは高野山の阿弼陀併及二十五菩薩来迎の筒である。
今その園を見るに、阿禰陀如来は雲上の蓮華座に結加療坐し、両手を上下に捌き、.上品下生の来迎印を結び、
前方を正成して硯娘を梢下方に垂れ・静寂のうちに無限の慈悲心を蔵し、上下に捌いた両手の暴風二指に
措かれた風輪にはその慈悲の心の生動せる姿が現はれて居る。併世の輪髄を現はすには醍張手足何れの部
肥政なき極めて繊細な朱色の描線を用ひ、胸諭にあげた右の手にも垂れた左手にも特に力を入れて筋肉を
しめた所なく、組まれた雨足にも無理た感じがしない。眉目鼻昏を措いた線も同様に少しも肥陵なく極め
︻−
微細であるが故に、そ・の形状と相侠って絶封的慈悲相の表象に最も邁はしい感じを輿へて居る。かくの
にも殊更な有力の偏重を現はさず、金牌の相好のうちにすべての部分が同一の目的を以て綜合統一され、
動の姿態がよく表現されて居るのである。さてかくの如き結果を生み出した要素は決しイ二朝︼夕にして出奔た
作者の創意ではなく、・そこには拉貞なる要素∵借統及過去現在の敵合的背景に基くものがあつて重大な
持ギ居る。併身の金色は繹迦三十二相中の重要空相好の一で、古来伸像の殆んどすべてが金色ならざる誓
有様である。袈裟には卍字ったぎと亀甲文の精巧な戟金模様が祐されて居るが、卍字は太陽のシムポルと
く用ひられ、それが世界的分布を有して居ることは一般に謎められて居る所である。原始民族の間にも蓉見され.
アポロンの像にもある。偶像に於ては仰の光明と密接な関係を持って居るのである。次に鴨甲文は支部の神仙鹿
想に胚胎せる蓬莱山の思想と密爾離れぎる関係があり.支那苗木の不老不死の思想より‖で1−支那で附加され、
日本へ輸入されて炭く用ひらる1に至ったことは更めてこ1に諭するまでもなく明かであろし光背はその輪廓−.虹
金色で説はし、外周に滑ふて金色の光明が燃え上って尻る。その状は恰も太陽が皆眈して復田しはじめた剰郵に
現はれる光明の様である。
要するに弼陀の親日然的光明はかくの如く続々たる樽統と形式をかりて葦現されて居ろが、そのすべては人肌
的形態に∴つて綜合され、統一されて居る。殊に惰れなば應へんとする人間的持味の溢れ﹁卜両税によつてすべて
が調和され無差別平等なる阿弼陀如死の某悲郷がよく奉象されて居るのである。
中食の前後克右をとりかこんで居る詳宰薩はその身陀何れも白色で、輪廓の描線は水食とりH様に肥陛なき柴線
を以て結かれ唇に号濃き紅㌃指し、炭鉱た大口袴をはき、そC服用模様、色彩たどは鰻原時代に於ける趣味を遺
恨なく肇坪して居るのである。放に光明王菩薩の襖笑を湛へて琵琶と澤じて吊ろ姿態表帖の如きは、殊に塊鴎佼
経である。叉鳳凰堂屏翰の持越阿弼陀惚に伯せりり裡清規り如きもそC義朗仙い続開攣宍たろほ恰も突入憲の如き駁
がある。
要するに此等充告の周閏上侍一一︼る群書薩い姿愚鈍飾のうちには現た情事幅、霊的牧羊及女性的リビドの確かさ
が両隼阿弼陀如来い結封的慈悲相㌢中心として一大調和をもとい、∴.そこに現葦と靴想の調和せる眞‡芙の珊想境
を現出して屈るのである。故に阿弼陀仰の敢せ願は祀・曾的#に基建材けられて居∴と云ひ得いりのである。即ち世
阿編陀淳土の責輩なる詐蕨とその赦骨的意義
阿掬陀膵土㌫室率なる茫放とその蔽骨的意義
俗的なるものと抱せ桁的・替り結納の抽入=せる理想の世非−霊視はして居るのである。
吾人は阿邦陀路上に表現され・㍗圭半なる肛巌のうちに兄〓きれるこの三の空軍い一一般宗訣史上に於て
位地をパめて居ろかを叩かにしたけれはその批捏的恵露を十分明瞭ならしめラ︶とH〓妹ないりでを七
光づこれをキリスト敬山勘術と比較するとそこ﹁多′\の興ろもの1あることを知ろと同時∴その緑木に於ては
極めて一致せるものがあ︰Uのである。キリストの相貌に就ては琴ホ録たはいしめ囲稲音ポ仁二は大損の恥ける如く闘
いて尻たことを凱⋮り、紀元l叫五碑紀頃に作られたキリストの餞は金也に輝いたモザイックハ悦であづた。モーり校
紀元雛十二三世紀以氷韮解散が入関化されるー同時にその問棲も賞しく入関化され、それが.揖・一∴論い紀ルネサニ
ス政雄期に至つて再訂に達したのであるご︶の時代のキリスト竹は績めて附鱒、信入関として描き〓ご√㌫やうに
なつたのであ︰ハら彼のルイニー肇のキリスト佼へ圧どに符んど立件実に近い講元の†ン由にして居りりの
フィリビノ■リリビ、ポチセリ、ラファエル、フラアンジェリコなどの描いた受胎J−、山知キリスl陣誕固、マドンナ
及天国の岡倶妄見れば直ちにこの期嵩む窄見することが〓未∴のである。
かくの如く阿獅陀将士の躍巌尖に於ても、キリスト致の∵へ園児憩に於ても、等しく葦ヤかなリビドを持
るのであるが、その棍柾に些一の︰鱒志すべき誼穴な川心恕が流れて居るのである。それ㍑釦ち生と死に封
である。特に阿闘陀浄土の閲像に於てはこ〃覧鈍い御管か恐らく址も完全に理想化されて隼やと〓心はれろ
る○
人間は一面に於て白から進んで華なるもの、実はしきもの汲登損なるものを得んとして容・刀して屠るが
一両∴於てはそれを未来に得やうーする塙望を持つものである。而してモの昭誓は速に、隼︰故にまで※長JUれて行
くものである。即−り阿弼陀故に於ては械聖往生㌢−翫ふやうになるのであワ︰山。椚陀れ持上のいと.∴聖賢肛には即
ちこの嘱望に應へたものである。
更に遡って恥耶両歌以前にあつてこの生死の関学平取扱った蛍も箱型投打パ舐‖心想の何でわつー■∴かモ冊はねばな
らないが、それは太陽崇持と氷水租であつた三苧でことが出水ると〓∵ふので㌧∵ハJ。而してトバh黒バ“頼は叛㍍印︰Jと
留接なろ関係を布し、朱≠取は死に封すろ観念から電通して居るのでをり。この二C〓山裾心い共用両日十衣㍑は一に大
腸細の形俊となり、他は墳去の粥︰拍となつて現はれて店るのであろ。太陽紳り一何としてギリシャヘアポロ仮の
形相生周介したい。即ちこの形快は髪を蛙形に結び淑・てのやうた相好︶γ現はして居りりのである。次にH㌫ハ撃佃
に於ても陽ホの棺びを表決せんとする傾向は入野の共通的痴空である。口本省紀∴m小人〓お三十川隼に蕪水損
子を桃掠の共に誹るとあるのもこれに似た県愁であり、ギリシャパ代の招に二に什器の井に霊苫︰拍零して居⋮り人
形ヱ刷窮せるのも亦獅似の思想である。右塞死者のために生々とした悪化牢十向けろのJへHじいハ恕に外なら.ぬの
である。射ち此等の払俗のすべてに通じて復涌〓心想を比ることが〓殊るのである.
生者必滅わ理は・Ⅵ軍人撃γ悩ました問題であるが、人間埠での死を以てー給ろもぃで二いと竜へて朱たのであつ
て、死に即すろこ日代心比は役所〓霜心となり、不純凱上なつてmはれてHる﹂であろ。㍍つ揖・ガにい・も幸ひたる
渾土む仰軒先領つ1その持分でも彗現化せんとす−り舅力にはそこにこの不沌聞の㌘∵昆︰いイい㌧り/、洞弐畏克夫京−乞
貰ノ\理想ハ椰きがあろ。阿弼陀浮土山淀も麓婆なる批曾約定競は釦ちこの打にあワハ■の丁㌧∵リ。
阿摘陀揮∴∴の空事なる荘巌とその祀骨的意義
阿拍陀浄土の杢串なる荘厳とその社食的意義
二平八
死と生の間怒に閑聯して最も重要なる表象は女性芙で・める。即ち太陽紳の形快に於て.キリス、﹁敢の同棲に於
て、墳其の萎術に於て、叉我が阿禰陀餅の間像に於てもこの女性美は極めて重大な性質をいて︰Hるのである。か
くの如′\生も、死も、ともにその日指す所は女性美を中心とせる陽春の芙を得んとすろに錯著し一∴居るのであろ。
然しその現はれには個人的と祀命的の南画があ少、個人的C実時粧禽的の更に融合することによつてはじ聖J永
遠の生命を得るに至るのである。禰陀の浄土は即ち杜禽的芙の世界であるのである。
さて禰陀の浄土に表象されたる実は弼陀の絶封的燕悲相を中心とせる突であろが沃にその女難実は現寧ヤ超越
し、死より蘇った天上の芙である。そこに紳秘的希望の輝きがあると同時に一報云ふべからざM︰恍惚状撃表現
されて店るのである。浄土の照巌を仰ぎ望んだ時の菩びは自己を禰陀の絶射的轟轟のうちに没入せる欺‡の世界
である。かゝる時に於ける心的状憩は併の心と最もよく調和せる時である。寧りこり場合に於ける心は主狐と容
取の封立を見きろ境涯である。この境涯に達して人は最もよく美を感するのである。その芙に打たれた満足の瞬
間は永遠そのもので、そこには男女の囁別もないのである。よつて阿弼陀将士の柑像に衣紋された群銀契ほ現嘗
より未氷に捗って霞大なる政界的意義を持って居るのである。
附固参照
(諸乳妄言原語諒
.森閑瀬端翌
軋倍睡蓮担符亘こL事
・用言.三讃琵仁ノ軋届
声昂京諒.β米丼票
。認置法論
咄声ト÷∴こユ持男告ぎ言
謹言三等封荘重l当
惑亘e↓ ヰ
弐1吋諭冠≡
什器吉村
付帯岩e片寄胃義軍
(一 書 重 軍〕
¶斗∵・箋憂︵︾違ざ︺一室詫∴芦だ空
目=・LH−︺−ご〒ニ︰ユニこJ近業蜃恵0
二三
三、し一.・し
ご・三二
﹂
二三′
二一二′一〓.ご︷
二・、↓∴−†∵∵予二鱒≒一ご帖≒‡﹁三=≒−∴
上
宗教的情操蛍蓬の研究に封する一疑義
∵
野
隆
誠
徒死英米心理笹沢に於て牲宗教心の開花、蟄展を青春期の特殊現象とし、これを蟄開法にょってこの時期の宗
教経験を間ひ、且つその時親を年齢別に示して雅た。然らば英米心理皐派に於ては、この青年期の宗教経験の蟹
達を心理上、如何に説明するのであらうか。彼等は先づ青年期に於る宗教意識乃至経験の婆達の前縫として、見
童の宗教に執する傾向や能力の存在を論詮しなければならない。
近代税率の牽達以前には.兄童に於る宗教的能力や傾向は、正邪を告げる良心の撃と共に兄正に内癒せるもの
と紳嬰的に考へられてゐた。然し米国流宗教心理車は、か1る神輿的立場と選を異にし、この紳革的立場三軍余
に放棄してゐる。従って吾々は往時信仰せられてぁた﹁兄童に於て天閻﹂の如き契翫的な憶説を㌫改心製革の内に
見る寄はない。兄韮はたゞ諸宗の感党●本能●反射運動等の心菅生理的な諸相向からを㌢掛的に云へば、兄
︵一\■
童には﹁動物性﹂が宿るのみ一であると云ふのが、その立場であス▲。従って宗教心理嬢に於て見立に宗教的傾向や
二五九
能力を許すとしても、それは此等の心理生理的な諸傾向、特に此等の傾向の分化蟄展の小に宗祇的傾向を蟄見し
宗教的情操葬途の研究に凍する〓鱒義
宗教的碍望誓岩岳先に封丁る〓釈義
なければならない。
︵一︶ J呂−e00冒・邑旬邑t−ヨけe Re︸慈〇一応CO戻eiO転−虞こJ●≡⊥声
l〓ハ○
それは云ふ進もなく、幼少期に最も早く視るる怒品仙怖蒜A等の情緒・怖換に見て釆たので
然らば従来の宗歓心理拳は此等の諸傾向申その何れこ示教に封する故も有力な質素として見童の内に見出して
釆たのであらうか?
ある。然し情緒の情操と云ってそれが幼少期に最も早く蟹達すろものにしても.吾・々は先づ怖紹・情操の何たる
かを心理的に規定してをく必要がある。
前述するが如く、宗教に封する兄童の諸傾向中、その主なるものは情緒惜換でなければならないと云ふ。然し
情放と云っても∵︺れを遺元すれば一の主なる慣習になり、習慣を還元すれば本能にな︰卓上云ほれる。何故なら
ば本能は修飾せられて習慣と組椒し.叉習慣の最も重要なもの托情披であるからである。その意味に於て情操と
は﹁ある封象に向つて所動せんとする本能的甜傾向を組鞍統一したもの﹂で、換言すれば情披とは一の人格を形
成象徴するものである。今愛・恨・敬の形成さる1過提について見るに、第一愛情がある封象に向つて習慣的に喚
●
起せらる1結果、愛と云ム情操が形成せられ、本能的な怒がある封象に向つて習慣的に喚起せらる1結英、憎悪
の借換が形成せられ、白卑の本能が習慣的に喚起せらる1結英、尊敬の楠扱が形成せられるので、此等の情操は
何れも一の慣習−辞する事が出来やう.更に此等ハ情操は革に何々の封象物や事物の短観を中心として形成さる
l詐りでなく、抽象的概念、例へば自由、正義.展排、紳等を中心として形成せらる1寄は云ふ迄もないり
以上の如く怖扱ちある封象との関係に於て、本能的傾向の不断に喚起せられた結炎と見ればそれは一の習慣
であるが、然し情操は習慣と撮本的に相違したものであろ。何故ならば.習慣は情塊に比し容易に形成せられ.
叉惰換よ少も容易に椛壊せられる。叉多くの習慣は日掛的に形成せられ、その械能は主として注意力の挺所やそ
の所用 主としたものである。然るに借換とは上述するが如く、吾々に封し慣倍ある封象物に封する吾々の感附
や本能的傾向を根本的に組織統一したもので、端的に云へば借換とは人間の愛し憎み食敬するもので、叉その意
味に於て情操が一の人格を象徴すろ専任前述した通りである。
以上の如く、情披はその始め幼少期の本能的諮傾向が組績統一せられて、叉それが諸の僧位を封象として習慣
的に形成せらる1ものとすれば、それは既に幼少期より人格上主たる傾向となつて存在してゐろ串は云ふ迄もな
いが、叉これが環境と教育とによつて厭々萌大深化せられ、青年期に至りて人格上長も租衷的な相同となつて蟹
達すろ革も明白な所である。宗教心理箪ば、恰かもこの暗線の更展を主要祝し、もし少年が宗教的環境の内に成
一所謂従来い宗教
すれば此情抜は宗教的情操となつて宗教覚醒の経験が説る1寄∼如上の惰扱が既成宗教︵紳・教組・聖典・故国・
︵一︶
横路等︶に封する怖挽となつて黎屈し.且つこの情操によつて倫理的な内容が探化せられる
覚醒といふ宗教経験即ち入信の現象が現れると云ふのである。且つこの宗教経験の牽達形式に就いては、それが
漸次的とされたり急激的とされたりして、粒々の形式が畢げられて衆たのであるが、勿論上述する所の宗教帖塊
蟹達の形式け漸次的た宗鮒、欝験た主とするもので、かの急激的な劇的なレ.ハイ.ハル等の入信形式とは全然相異し
たものである。又上述するが如く、情錯構挽の蟄建の中に完敬構操の輩展古見るとすれば、これに環境と故習と
を配すれば、青年期に至りて宗教情操は黎達し宗教的入信のm現象の現る1軍は自然の過程と考へられやう。
環数的情換希望の研究に対する一疑義
宗教的情操発達の研究に射する一疑義
︵一︶ WHigぎA Stud︵nt.∽吋E浣Opす○巧R2−igi眉こち軍鼻声
〓
ニ六二、
然し以上の如く漸次的な宗教情換蟄達の形式に封し、その形式上吾々の注意た曳′∼もわは、ス一クーパツクやジ
ェームスの挿する危機的な入信現象、釦ち同心であらう。釦ち入信の現象を上述するが如/\漸次的な蟄達に見ず
寧ろ青年絹に於ろ心理生野的な危機に伴∴痛烈な現象とし、その原因をスターバックは﹁不完全感﹂﹁罪悪感﹂と
し、ジェームスは﹁努力﹂﹁自己屈服﹂に見、且つこの現象を青年期の特殊現象として論じてゐる鮎である。
勿論上述するが如き吾々の怖換の蟹達の申から宗教覚醒を見る寄は、人格蟄展の上から見れば、白然の過程の
様に思はれるが、此詮明は情扶の黎達を環境と教育とに即して、その蔓達七律せんとするので、放く宗祇的慾求
から牽すろ宗教覚醒の現象肇設明するものとは云へない。叉それは既成宗教の円に成育する者の人格的蟄達の中
に宗教情嶺の優位を認めて、入信の過程を詮明するものと考へられるので、炭く青年の一般現象を詮明してゐる
ものとは考へられぬ。寧ろ公平な眠から見て、宗教覚醒と云ひ入信の現象と云ひーもしそれが青年期の現象とす
れば、上述するが如き淡水の如き牽達ではなく、危機的な慾求から黎達すろものー〃一しなければならない。その意
味に於て.吾々は先づ宗教的覚醒に至る過程たる宗教的慾求の起源について一腰考察して見る必宴がある。
フラワーは主として宗教の菅生的要素、即ち人間の宗教的慾求の蟹生を進化論的心理単によつて論語し、その
ノ ヽ 慾求の普漣性・永久性を詮明しやうとしてゐる。即ち吾々の心理的生命の黎展を遡り求めて行けば、トロピズム
︵ゴ○甘m︶の支配した段階、反射運動の支配した段階、本能の支配すろ段階が求められるのであるが、此等の牽
展の段階を検討して行く時には、トロピズムの破壊の産物が反射遅効の中に見られ、反射運動の破壊の産物が本
能的反動の中に見らる1と云ふ順序となるのであるが、叉此等の段階は何れも外界への適合の形式としては、不
完全のものとして進展して釆たのである。人間は現在、此等の心理的生命の奪展過提示.本能的段階にゐる事が
考へられるのであるが、叉この本能的傾向も外界への適合の形式としてい仏、不適合の形式たる寄が謹明せられて
ゐる。従ってこの本能的反動は破壊せられて意慾の段階に進んで行くのであるギl然し現在人聞直行劫に主とし
て本能的反動を主とするものと考へられる。然し上述するが如く.此等の本能的傾向は外界への適合の形式とし
ては、不適合のものであるから、その傾向の中にはへ例へば二個以上の本能が刺戟さる1場合︶毎々の矛盾錯綜
︵一︺
が生起して来り、こ1に此等の本能的傾向は破壊ヤられなければならない。そこには所謂人間のヰ︰仙識が現れて釆
るのであるが、此本能的反動の破壊−1そこに意識の黍明と完欽の起涙があると云ふのである。
︵一︶ 句−箋笥−ゝnA買rOpeFb昏α芽︸註e−0顎︵ちH蛋igiO己−アニー諾●
上述する所は本能的諸傾向が外界と調和適合せざる結媒に現は1所の意識塩生の現象であるが、然しこの本能
的傾向の破壊後に於ては、本能的諸傾向と外界環境との調和は、勿論意識乃妄想像の働によつて浦され、文書々
宗教的陪損葦蓮り研究に対する一疑競
その状慧に封して投影せられ、叉この投影せ一しれ∴心象や想像に封㌧て反動が輿へられるのであるが、此反動が
部分的な適合が葦魂されてゐろ揚八‖があるぺ此時にも布横潤は同じく不安な状態に括り、鶉に一方心象が環境の
綜が除去せられても、なほ環境の状恐が依然として未知の状想に止り、これに封し完全に通分すろ寄が出来ヰ、
の右横慣はこの拗によつて平街の状窓々持つ却が‖釆るのである。然るに此等望息識乃至想像・乞以て外界との錯
ヽ
宗教的情操襲邁の研究に封する一疑義
二大四
.
環境の状態と現賛的に適合しないものである限り、この反動は完全な適合の形式ではない。この反動.この適合
の失敗、此が宗教的反動として最も重要なものである。即ちこの錯綜の経験は、上述丁るが如き、単なる本能的
傾向の破壊せられた時の宗教経験ではなく、寧ろそれは人間意識馨生後に於ける錯綜の摂腺である。その意味に
於てこの鮭験は人間が自己の力を以て適合すべからざる﹁あるもの﹂を環境の内に識謎した結果としなければな
らない。
於ても、外界との不調和、錯綜の経験がある。そこに人間はたヘザ適合せんとする﹁あるもの﹂.を要求して、此
を適合の形式とせんとするので、結局外界との錯綜の茫験から宗教的慾求が起ると云ふのが、フラワーの宗教的
㌣慾求に封する心理的説明である。
もし以上の如く人間に於る宗教的慾求が進化論的に叉心理的に存在する事が許さる1ならば、その理論は叉直
に青年期に於る宗教的慾求の経験に油用せられ.叉それにょつて、スターバックやジェームス等の柄する危機的
な宗教覚醒の経験か開明せられ、第一の形式と異りたる青年期に於る宗教覚醒の展相が理解せらる1であらうと
思ふ。
三
云ふ迄もなく、青年期は心理・生理上、仝生命の一大欒革観である。その中にも遺偉された諸の本能的傾向の
︵一︶
成熟と蓉建と、この成熟牽達の中に現るゝ心理的反動とは∵㌻最も著しい現象と考へなければならない。換言
すれば、青年期はラーンの云ふが如く錯綜の可とせらる1状態を特質とする等である。その意味に於て青年期は
心理生理上の所謂庚義の同心現象の蟹生期であると云へやう。
︵︼︶ ぎP−Seieロe。邑−謬−igiO∈巳r♪王−r山戸
反之少年期は青年期と異p、その行動は主として自己中心的であ少、少年の反動的諸傾向と環境には一致し.
その間に何等の錯綜に現れてゐない。プラッーが云ふが如くーその行動は主として心理以下のものであり、叉そ
の反動は主として環境によつて充足されて、環境と調和を持つと云ふべきものでlその傾向と環境との間には矛
盾は現れてゐないのである。叉少年白身この環境との調和によつて環境の内に﹁別異﹂のものを自覚せしめられ
●
ると云ふ事もないのである。換言すれば、その傾向と環境とは、よく統制せられ調和せられてゐるので﹂又少年
白身環境との矛盾を自覚する迄に成熟してゐないのである。
然るに青年期は上述するが如く、諸種の傾向の黎達と共に、幼少期の単なる反動的能力よ玖識別的能力の馨生
黎達しで行く寄−即ち﹁反動的能力以上﹁識別力の超過して行く寄﹂肇特徴とする。換言すれば、少年期の適合
的段階より、反動的傾向と識別された環境との不均衡へ、即ち錯綜の拉験の可とせらる1状髄心に進んで行′、のが
その特徴である。もし青年期のか1る特徴を以てすればーフラワーの宗教蟄生詮1し
との調和の持たれた少年期に於ては宗教的控験は見られす、寧ろ本能的誰何向の破壊せられ錯綜の経験の視る1
青年期にあろ頚は云ふ迄もない所であらう。叉その意味に於て青年期い憲政的見離が節一の形式の宗教覚醒と異
りたる意味に於て問題とせられて来るのである。吾々が第一の形式の宗教的塩酸と分ってスターバックやジェー
ムスの云ふ危唐的な宗教覚醒を螢げたのは、如上の意味からであるく
宗教的惜損蟄達の研究に対する一疑義
宗教的情操襲遵の研究に対する一疑義
二大六
既に述べた如く、此瞳の危機的経験から蟹する宗教黒酢を論じたのは、スタトハックとジェームスであらう。
唸って先づスター.ハックの記述した所の宗教兇醸︵同心︶の形式について考零してみやう▲。スターバック峰宗教
覚醒の型を﹁罪から逃るゝ醒﹂と﹁窺的光昭型﹂の二に分ち更にこの覚醒経験を一に分ち︵一︶罪悪感︵二︶不完全
の感情とし﹁もし吾々が研究してゐる覚醒が代表的たるものとすれば、不完全の感情を伴った覚醒型は罪悪感を
伴った覚醒型よりも一般的である﹂と云って、青年期の宗教的覚醒の一般的原因を不完全の感情としてゐるので
ある。今これをフラワーの錯綜詮を以てすれば、こゐ不完全の感情とは、即ち青年期の錯綜の経験に基くもので
ぁるが、詳言すれば錯綜の経験から蘭して適合せんとする﹁あるもの﹂を追求する努力によつて将来せしめられ
た︼の心理的情緒的状態であると云ふ事が出奔る。
︵一︶ ∽すb莞打こFO謬勺eノ已Og﹃○、Re厨iGn、ワ00㌣芦
然し以上の如き錯綜によりて将粥せしめ
回復されなければならない。もしこの状悪が解消されない璧口には、身心の破滅を導く寄とぅ芸である。従っ
てもし此心的状態に封し、より強烈な感鯖の中心となつて働く様な心象が輿へられるならば、その情緒的状態に
は奨化が輿へられ、叉その状態は解消せられーβのであるが、そこに心理縛換が賛現せられ、心理上の平街が回復
せられて来るのであろ。この心理的韓換が射ち従来宗教的覚醒・即ち﹁回心﹂として.宗教的には﹁敦ひ﹂によ
るものの如く考へられて釆たのであるが、その心理的過程は結局、心理的活動に封し、その満足すべき道が開か
れてその活動が沸さる1現象を指すのである。若し以上の如く、青年期の宗教兜醍現象が錯綜∴伴ふ心理的情緒
︵こ
を解消する心理現象であるとすれば、その現象の特質は.コーの云ふが如く.∴一︶自我の根本的欒革、︵二︶この
︵﹁一
欒辛が自費的なものと云ふよりも、他蓉的のものと考へらる土葛、︵三︶生命態度の欒畢、︵四︶自我の向上解放、
端大等の四義に要約せらる1であらうが、結局自我の解放境大と云ひ、それは情緒的状悪の解消せられて、心的
縛換の行はれた一の琉大せられた意識状態に過ぎないのである。此経験が宗教的−辞せられるのはその情緒的状
悪を解消するものを、主として既成宗教的要素に求めて釆たが雷に、所謂宗教的覚醒﹁入信﹂等と柄せられ
たのであるが.もしこの情緒的状態盲解消するものを異にすれば、所謂非宗教的な覚醒l例へば黎明蛮見等の経
験となつて視る1寄は、随所に見らる1現象である。
︵一︺ ︹Oe−T訂汐uchつー。gle︻Re︼⋮giOゴーア一声
その意味に於て、青年期の宗教的覚醒の現象はその村に於て、.宗教的とも非宗数的とも考へられるのであるが
今もしフラワーの云ふが如く、環境わ内に知的に把捉すろ寄の出挙ない状態が存在し、又この状慧との関係
て宗教的慾求の存在する事が進化論的に誇明さる1ならば、こ〃現象皇亦数的経験と考へても決して誤謬ではな
く、この詮明の方が従来考へられて架た入信の現象と興った意味で、宗教覚醒の一般性を理解する寄が出来
思ふ。
乗数的栢指穴通り研究に封すーQ一充溢
宗教的本能にづいて
宗教的本能について
宇
二六八
野
園
空
宗教を人肌の或る特別な生活々勤とみて、それが心的経験としても身鴨的行動としても、宗数的といふべき猫
特な内容と形式をもつのは、それが持警空つのホ能のはたらきによるからだといふ考へは∵琶戊の宗教的思想
に可なり古くからその兆が見える。自然的小加数︰㍗人mに春旦の脚の観念であるといふ理紳論者の主㍍も.宗教の
先天性を想定する思想−のあらはれであるが、こんな思想は耐畢や︰喜敦哲箪の戦闘では、つねに何らかの形で党験
的に承認されて束た。それでこれを多少経験的に論許する場合には、その先天性はやがて本能といふ言薬で億き
かへられ、往々心鱒箪的た意味で詰数的能力や傾向を、特殊の本能として説明するやうになつた。﹁たとへばマ
ス●ミュラーが宗教た特殊の心的能力または性向に蹄着せしめた時/′てのいはゆる信仰は感覚や理性と封立して、
lノ l
別に無限を直観する先天的な認識能力であつたが、インジは同じくこの信仰をば.紳を見かつ求める*能たもと
づくといふ。
それで宗教が人顆に普遍的であるといふ寄苦から、それの詮明庶政として︼つの先天的な本能を仮定すること
は、方法論的に全く理由のないことではない。しかしそれが単に紳や無限を認識する特殊の能力であつたり、宗
するのみである。
︰
マーシャルがこれを生所行動′統制本能喪といふ鴇合にも、宗教と道徳との混同があるやう
取的な人生観世界観をもつ生得的な傾向であるといふのでは、宗教そのものを全く主知的に理解した立場に愛音
曲
であり、特に宗教的な接近の本能几訂ti−J象→fジョ妄C−−−亡か、撃八的な存在と関係して満足た求める人川の本性
3
とかいつたところで、 それが果して軍天的経験をまたない拍旗的造侍によろ傾向であるかは問題であつて、そ
れが他の粒々の本能に還元されない特殊の傾向であるかどうかも疑はしい。宗教が自己保存の本能に起因すると
か、美的な生きんとする雲に撃といふのは場裏的兢の一般的基礎姦明し葉け芸つてそれは
宗教に猫特た傾向でもなければ、また一つの本能として仙と封立する特殊たものが指示されてゐるのでもない。
この意味で特殊の宗教的本能といふべきものゝ存在は、その心即畢的考察がす1められるほど益々閤難に太り、
トD
宗教的た生活行動を特定の水能のはたらきに錯鶉せしめることには、近頃多/\の皐者は反封の立場軒取ろうとサ
る。 フラワー代宗教は特殊の本能によろ生儒行動の調節では琴\むしろ生得的、な傾向としての本能によろ調
節が不可能な場合に、その環境を知的に理解して、これた支配すろ新しい圧政の形式を取高代りに−牛ば未知のま
句
′J.1ヽ
1急いでこれに伐應するのが宗教であつて、そこにl分バ未知または淡岸be︶1。−乙冨辺をのこして、それを或る
程度だけ支配︸いa声c旨trごーすろ傾向にすぎないといふ。しかしこん声傾向がそれ白惜一つい本能ではなくても、
ウエーバやサゥレス丸森認丁るやうに、粒々の本能的傾向が宗教的盆前の各部にはたらいてゐ右ことは塾蜜であ
る。そして宗教は本能にちとづく粒々り慾求によつて、その借伯‡諒を支持され、それの講嬰王口約と卜て割く
二六九
ばかりで∴ノ\、それ㌣晒徴づける情淡的紆段目鴨が、粒々の本能的基庚の上に立つ∵ゐる〃であつて、オッt−
宋数的本熊について
乗数的本能について
二七〇
が宗教的た紳聖の経験の根概に、冒mど○芳への或る自然的素質を想定した場合にも、それは一つの特殊な本能で
︶ 7
あるよりも、寧ろ必然に宗教的な畏敬の情操を瀞すべき二三の生得的な傾向の結合をさしてゐるやうである㌔
宗教に必然的な経験として畏怖または崇敬の情操をみとめ.さらにこれらの博捜の要素的情緒として.マクド
︶ 8
ガルのいふやうに祭具、卑下、恐怖及び愛好憎悪等があるとすれば、︵これらが夫々れ紳秘感、威厳感、及び不
安と安堵などの博捜に持換した場合にも、各々その基礎に本能的な傾向がはたらいてゐることを認めなくてはな
らない。すなはち驚異の情緒の根砥には異常なものを審かる好奇の本能があり、卑下の情緒は力づよいものに封
する屈従の本能の意識的方面でぁり.危険をのがれ客毒を在斥し、また一般に利害に封して近向もしくは背離の
9
態塵盲とる本能的傾向が、その封象に関して意識される時に、恐怖や好意の情緒があらはれることは、大鰐に於
て雪常な詮明として人々の是認するところである。︵もつとも情緒は畢に本能的行動にともなふ感情的意放とい
︵10︶
ふよりも、むしろその進行が拒止された時の緊張の経験として見た方が適切であり、特に驚典や紳秘の感じは、
知的な同化作用が余儀なくもしとは故意に停止された時に意識されるものである。しかしいづれにしてもこれ
らの情緒が、各々それに特有な本能のはたらきと表裏して経験され、それの延長であり派生である情放でも、少
n旨inOSeに射する近向魅
それ白身一つの本能ではなくても、それは幾つかの本
︵11︶
くとも間接にこれらの本能弟基礎として成立つことは疑はれないのであつて、たとひ
着の態度とか、紳秘そのものを求め愛する傾向たどが、
能から派生し結合された情換や鮮度に外ならない。
それで畏敬の情操がいかに本能的な情緒と遠ざか少、取念的反翳的な感情内容と動向とをもつ場合でもーそれ
には多少本来の本能的な箪素的情緒に應ずる性質が保留されてゐて、全′\生得的な性向の支持を況してはゐない
のであつて、好奇、屈従、愛撫、危険からの逃避または害毒の痘斥等の本能は.宗教的情操の蓋捷としてその成
立に快くべからざるものである。そしてこれらの本能が宗数的生活に必然的な基礎である意味に於て、また特に
それらが宗教的怖塊を支持する場合に、これを総括的に宗数的本能といふことは必ずしも不苫ではないので、少
くともこの意味での宗教の本能的基礎をみとめりごJとは重婆である。しかしそれが川中一な特殊の本能でなくし
て、複数的な幾つかの本能の紙箱であnノ、かつその何れもが宗教的生活のみに濁特なものでなく、非宗故的な他
の生活に㍉共通ににたらく本能であることは.この場合特に︰誓=言れたくてはならないのであ■りて、此鮎では常
識的に想定されたいはゆる宗教的本能とは、判然と琶別さるべきである。
しかしまたそれらの*揖ヤ惜細の基礎に於て、その拉人‖として持放されるM冥敬の隔銀はー⋮=ニ一∵てれらの集合や
︵19︶
総和のみではたいので、畏怖ヤ崇敬の惜拉は各々それ自身一つの精細として、猫白の衝動と目的とを基へてゐる
ともいはれる。したがってその撃嘉としての本能や帖紹が一つの宗数的情拉−牢成すのは、m単にそれら打偶然的な
結合によるのではなく.迅雷にその精細的投合いり㌃形くゎノ、それを畏敬の構珪として標験すること白惟が、また一
つの生得的な傾向すなはち本能であろかも知れない。現に多くの人々が宗教的本能といふ時に、その意味は主と
してこの傾向を岩すりで、畏怖ヤ崇敬の構細的拉・∵を成立せしめるのは、生柑的傾向や槌族的遺樽ではないが、
同時にまた偶人の特殊た控蛤よhソは祉恵的倍溌により、大略人翫に一般的にあらはれ︰り傾向だからである。それ
でモルガンはこれ㌢・多少通俗的た意味に於て本能的傾向とよぶことを詐∵のではあるが、同時にまた巌斌な意味
宗数個本能について
宗教的本猥について
での一つの本能ではないといふのであつて、それは一定の衝動と棺紹をともなふ好奇、屈徒、逃避等の拍殊的本
二七二
能と封立すべきものでも与\また遊戯.模倣等のいはゆろ非特殊的な生得的傾向とも匿糾さるべきである。
13︶
要するに人類に一般的なこの畏敬の情故への傾向が、宗教的本能といはれるか否かの問題に、本甲こいふ言葉の
許義をいかに阻定するかにか1るぃではあるが、宗教的情操の複合を成立せしめる鵜抵としては、一たゞ同校た刑
したがってもし宗教的本能といふべきものがありとすれば、それはむしろ・︰諦敢的郎蛤に
戟や封貌の観念に應じて、同藻な反應を生する人性の一致があるといふほか、これを特銑の圧ね的た相向に録す
︵ュ4︶
ることは国難である。
於ける要素的怖紺の基礎となろ幾つかの本能を、特にそれが憲政的生餌を支持する場合L概糾する謀叛に於てゞ
あつて∵︺の鮎で宗教的描線が正接相接に本能的基礎の上に立ってるる革質は、明確にこれを認識すろことが必
要である。
︵鞋︶︵エロ写M試已︼βHn才a邑⋮βすき¢琵琶の。へRe︼igi。n−−のぶ字︼アーサHき首esOnさゐCri号讐dGづ弓奄th。へ
穿−.giきー雪00らp●B・巴こ﹂司・昇丁冒g♪訂it︼⋮nditb吋mヽさ已。gゴー買ご■・声
す︶スターバックのいはゆる宗教的本髄は、その内容が明かでないけれども、前後〃記述から見て、大吐こんな生得的傾
向を悪魔ナるやうである。︵声D●St邑−宕k︼芦e欝叫e訂︼。g﹃。rR屋号n■−笠りらp・↓・−簑e七つ・︶
︵㌣巳計e∵誓示串塞F賀d
G買き。﹃
す︶声R茅rWF一︼こ1︼邑n鼠§dわ宴8−−00岸7琵山いβシ目弓dさぎ○謬壱。伝どtinc√−冨u、p︰■・誤・缶”PG干
賢者増−つ訂吋註0占首﹃0﹁R註g5.ロこ¢−♪葛●誓−川声
︵4︶声C冒W−童−芦のTreeOr巳ダA警且こち穿︼igi。n−−箸別−写二喜忘声
出訂−igi8−−芝♪p∇㌣戸
甘こ・訂ubP︼芽駕EO乳色望已﹃。、謬︼igi旨こ¢−匝、pp−甲占−−㌣−ご︵㍗㌢︵訂−弓訂宮句註d彗Of謬︻山giきー¢−βpd
箆−ム誌”R戸穿邑眉An冒ぎ︼邑︻0ロす昏汐﹃eぎー。g﹃亀R註OqiOn.−諾βpア一宏⊥芦
甘︶シ l♪彗。弓er−AnApp︻gFす昏①芽苫E虐﹃0、謬︼i音n、−¢彗−pアロヂ党√盟・芦
了︶ROtt。−せ監冒ei︼ig♪︵筈A邑●一−琵β、pア一芸・−声オブトⅠ自身は往々これを他に琴干レ得ない先般的な素質と
見なしてゐるが、賃際それの心理畢約分析は、そんなに単純な想定をゆるさない。
︵8︶一う・宗旨宮囁きAnFt︻&詫哲nすm訂i已欝句っEOgy−茎00ーpワ一望⊥声
︵ぎ倉d−−
︵9︶qP旨r内呂−占邑inet..︵H邑in乳Pβ占首邑ip。﹃Re−ig.。n筐d空巳記−51も7∽ぴ00・誤β.これらか︰鮎は今一々
詳記する傲裕がないので、それはすぺて近々刊行さるぺき﹁宗教畢﹂の中の説明にゆづる。
.
︵ュ0︶ゴRi富−訂苫eb。︼鼠ニ︻袋=買日tim昏す一言研、冒窒PgG∵r声穿邑−碧Q句Gl一nd鼓○星Qへ9弓eぎ
旨g︶宇か畠ふ早出雪見計−ど邑邑i。ロ=三ちE鼠eこ冨ご︼7g・冨”シせヨe︺こ邑已.F罫ロこ買.
p7−缶L駐、−警⊥警−誓?望−.
︵11︶ニざ卓Oit−7藍・告ごS訂已−卓ei予−事罠−雷・紳虫への自然的葉栗とオットーがよんだの・は、惣はこんな
傾向を先天的のものと見なしたのである。
︵∽〓芦呂d−卓eぎり会00こF唱n−亨et.pワ警干讐−.
この場合の宗教的傾向とは、フラワーに於ては本慌的反感の惑乱、泣却による草加的調
︵空試蔓n、。ワeit、冒誤冨ぞ声戸﹂言gFt−ぎ已e呈∵ワE−宮pざ○︻Re−ig.〇l1.−琵−.苫r誓中頭置
立︶ヨ富岳−学ei√軍学芦
節の傾向であって、それ自澄︼つの本能ではないのである。
宗教的本能について
併発奄料としての阿合紐批期の標準
傍説資料としての阿合綻批判の標準
∴
正
造
二七四
桟・雄
所謂阿含経、即ち、琵琶阿合︵身盲且、巴利怯五尼村耶︵当茸p︶が併設の串攣=室料た∵りことについて
はー今や笹永普遍の認定皐受けてもるといふも.酌て証言とはいふ之憤しないであ・hうが、その阿合麗料仔細に
覿察すると、
一、明白な後代の隙取的寄琶が銭多見えてを少、
二、その含む思想傾向が極めて多様なるものがあり、
三、また、その中に指摘される矛盾が鸞に移しい山聖賢﹂存し.
四−その阿合鑑のみとは必ずしも眠らず、その内外に克て鍔く者ると、抑も謂ふ斯の併設白醍蛙何うしても純
粋のま1で停はつたとはすべからぎる理由もあり.
これを約めていふに、到底そのま1が仰訣の資料だとはし得べからぎろ囲である。
是を以てか、従来既にその俳詮資料としての阿食撃〆−如何に批判すべきか、そD批判培準こいふことが笹者の
まづその第左往年のマクス・ミュラー盲H萱−er︶翁及び爾の按のゼー・ヱチ・
問に間警なつてゐたが.私かに接するに、そうした拳者によつて今喜2に提唱せられ誓の榛準に概ね三あ
る。
〓
ヽノ
1、一、一......′.■︰︰︰.り
−
が主張したもので、自分は侶甘にこれ主義担的梗準と雪ける。蓋し巴利盟ハ中のあれ彼れに勤し、
批判を加へて、その昔霊的に古い部分料歩くとも併設に近いとし、でないのを然らすと判断するといふ榛誓
ぁ少、やり方であるが、故に、−この榛準を適用した諸単著の克く表した罰はゞ必怨的とも考へらる1結論によ
●
ると、凡そ経の散韻二丈の要素から成立してゐるものの中、その韻文要素は散女要素の方よりも芯
同音霊的棟準についての批評は騰がてその控申の親交要素が古いとの設の批評に塞きるかに考へらる1が、無
論この中で.かう、経の韻文要素が古いといふことは、直ちにそれあろが故にーその韻文要素は併設であるとい
ふことには偽ならぬことは暫く論外としても、
−、一題その控の閏丈要素の古いといふことは、経の貼韻二丈の婁嘉から成立せ孟虹のみに限ろことで、金談
空挺此︵と比照する鴇介は自ら結論の相違鼻水す析ではないのか。
ニ、由来どこの国で㌧また、いつの時代でも、総じて訊文といふものは擬古の賂の富ばれるもの
今挺の散文要素が省く見ゆるといふことは、必ずしも仝副文要素そのものが眞に琴作年代の上
いふ意味ではなく、革に古い形式を見せてゐるといふに過ぎぬかも知れぬが・そこの凱は果し
併設黎料としての阿合恕批邦〃捷準
二七五
3
か。
併設資料としての阿合鯉批判の倭準
ヽlノ
三、而もかく考へて釆て諸蓼者の諸の意見に敬すると、元来痙の散敬二文混設のことは少くと
つていつたといふ鮎に於いては、後の梵文飾典黎展の寄輿であり、影響に過ぎぬなどともいはれるが、か
1る問題とは果して如何に調和しうるか。
あげ氷って、幾多論難をまぬがるべからざるものがこの言語塾的榛準であつて、少くとも.それが右経の韻文要
ヽノ
素の方を古いとするのを冥約的の結論とする限り、その貸雷性や、決して十全といふべからず。いな、殆ど否定
的なる外のないこと推すに足るべきである。
lニ
氏の如きが唱導にか1る療準であつて、氏に従へば、今も巳に記したやうに、現阿合祀はその中
その二は、自分は且らくこれを歴史的棟準と呼ば亀即ち、専らブラーハ︵暫邑大串教授ウインターエッ”
︵雲ゴぎ︻itN︶
に分明な後代の解史的の革貰を載せてゐるものが少くはない。故にそうした怒は何はとにあれ併設材料の論の関
する限り除外して考へねばならぬと。無論氏の主張や大に敬意を債するは言を戎五ざるペきであつて、挺の明白
な後代歴史的蔀苦のあるものを、そのま∼彿陀に彼れ見れ関係させるなどいふことの出来ない、のは暇詮も待ぬが、
然し,
一、一漂現在の四阿含.草尼村耶を絶托して一高とも指を屈すべき鮭の中で、所謂膳史的寄賛の指摘し得るも
のはどれだけあらうか。故に、その際史的事案を含まぬことを理由として直ちに、その悉くの軽を俳陀美
蹄するなら、その暴は素より論評の故地も壊さぬといはなくてはならぬ。
二、且つ、暫らくその歴史的寄箕の記載ある経でも、果してその会所載を奉げて凍らず捨て1よいかは同じく
問題たらねばならぬ所以があらう。
かくして、この榛準や、また大に債値あるは一面正しく香むべからすと堆も、他面その困難も亦蔽ふに由のない
所であつて、つま少、倫以て未だしとすべきこと見るに足る。
四
この度史的標準に於ける第二の難鮎、即ち、歴の歴史的記載のあるものも、その全円容を必ずしも悉く併設に
無関係だとは断定し難いといふことから、所謂併設蛮料としての阿合鍵の批判といふことはまとまつた各一の挺
を規準にして必ずしもすべき所ではなく,寧ろその脛の個々の針子、即ち、各一の名節、命題等を妄その規準
ヽ
岳ノ
にしてすべきであるといふことに雷然結論は固着しなくてはなるまいが∵こ1らに着眼し、故リス・デビヅ︵Rす中
り
て、自分はこ1にはそれを経詮の数量的榛準といふ名によつて示したいけれども、とにあれ、二教授の、や1合
揉的に綜合しての所見に従うと、今の全阿含経の中で、度数を多く現はる1ものは.それが単語であれ、命題
tF乱sその外であれ.それだけ苗代俳教員圃に於てもてはやされたことのある詮嬢である。而もそうもてはやさ
れるといふことはまたそれだけ併教思想としての重大性の否定し得べからざるの謹撰でもある。故に、そうした
二七七
卑語、命題その外は、それだけ、正しく併設に、少くとも最も近いと判断し得ねばならぬ研とするを得ようと。
併設薬科としての阿合喪批邦の標準
併託重科としての阿合無批邦の療準
二七八
√て
知るべし、宗教に於ける教組の意義を考へ、併教が尊貴彿陀を罷れては熱倹し縛べきでもないことの寄茸を思ふ
とき、かうした鮭詮り数量による操準の雷然有しうる債位は想像に剰りあるが.たゞ、忘れてはならぬことは、問
題の阿含経は例の合揉及び雑博さである。然ればかうした年面の消息を恨りにその硯鮎と⊥て寄ら想像するなら
飴多ある場合の中には、却て腔詮の数量の多いことが.それだけ後人の白ら寄興したものを喧しくもてはやし、
反覆経論した結果たることを澄明するに過ぎない如きこともあるかも計ら準じ亜て、この標準の慣値は何として
も掩ふべからざること.言を要しないながら、またこの極めて些細な現毯を拭ふべからざるを如何せんやであら
ちノ〇
五
で、以上三詮、各特徴があつて、また各困難もあ少.約めていへばl併設資料としての阿合躍批判の榛準は伺
要する所、嘉からすとするの外もないだらうか、既に然らばこれを果して如何にしたらよからうか。
六
私かに接するに、併侍史上有名な苦行無毒の判定及び同軍行の持薬は、︵こ如上妨疇教授ら打着日すべき榛準
としての経詮の教皇上︵︵イ痴俸紆典の上からも、︵エ又阿合・律等に見らる1それからも︶に反省するも.︵ニ︶
その苦行捨菜を因縁に悌陀は上一切の外道哲拳を打乗ると共に、下所謂無師痛惜したといはる1その所謂銀師覇
悟の成績・蟄落としての阿合鍵が享琵何といつた所で、その全堤の色調の外道のそれとは相違してゐる鮎に徴見
し縛らるさ︼とに鑑みても、内外相併せてまづこれを苓驚とし得るに近い所でなければなるまいが、蓋し、そう
いった苦行無養の判定及びその捨琴延ひてはその結果に於いての無師猫悟たる、併停牡上
中にも着日を要する所でなければ注らぬ虎であつて、つま少、それは上に向つては一切外道諸教詮に封しての併
陀の批判的結論でなくてはならなかつたと相並んで、下に向つてまた、向束彿陀の應に執るべきの一切の立場、
一切の態度を所謂混沌未分の聞穿としてその・甲に包含し、かくしてそれらに向つて解氷應さに赴くべきの約束の
結晶そのものでもなくてはならなかつた。故にその意味に於いて、もしかうし■た・把賓を十全に諭址的に解剖し、
その上−その結果をまた例の妨崎教授らの経詮の数畳的榛準にも照合参酌する庭があるならば、そこに普然彿陀
の哲畢的腰度、論理的板木立脚地が誇明・開著せられ得べきものでなければならぬ。而も己にしてその哲箪的憩
度或ひ盗紬理的立脚鮎が開明せらる1を得るならば、それにょつてもう一度かの妨胎教授らの掟設の数墓的榛準
を照明し、そこに内外相併せ、論拠の必然と控詮の普通安貸と彼此互に相照応して、自在縦蛸にあの梯設袈料と
度が詮明さる1専管があるのであるからして、これ㌢二とし、わが姉崎教捏らの所謂怒詮の数量的嘩準を他の一
意味に於いて、少くも併設衆論的としいふ限り、問題の阿合綻批判の陳嘩はまづ車に方途あって悌陀の哲畢的患
しての阿合檻を批判することを得るであらうことはまた何分の雛をもこゝに試ること要しない狩らう。故にこの
\
併記薮科としての河合甑批判の標準
二七九
枢的解析覚の内容をこそ試練し得るであらう限り、満足の恵庭姦し得るに足るべきことはまた知るべきであらう。
大覚の中枢たる内容をまた少くもその小心としたること冨キ要しまいから.今の捺準むもつては正しくか1る中
ては∵所謂併設の全外延に亘ってこれを洗練することが机来ぬ。然し併設と按炎して何をいふか。舛諭そ略併陀
とし、五に相補う所にこれを獲べきが、少くともその一とすべきではなからう、か。素よりこの庖の標準を以てし
ヽ
併託責科としての河合鯉批判の標準
二八
因みに、如上所謂苦行無毒の判定等に基き、試練することの出来る彿陀の哲墜的麿度そのこ、との如きに至つては、
自分は︵一︶貰利主義︵宮内m註胃︶、︵二︶その昔利主義を正に徹底し得べき所以としての会規主義︵R註On邑冒︶、
︵三︶同合理論的認識論或ひは科畢的認識論.乃至、カンt﹁︼灯冨tの所謂純粋理性の範囲に於ける認識論、︵四︶無
闇論︵臣甘m︶等をあげうるであらうと考へるが、今は暫らくや1傍論に亘るとして、それらの解詮は叉の横
倉に謀りた.いと思ふ。
車に高評に接するを得ば感銘これに過ぎぬ。
刷In昏言扇ぎ。岩昌ngl藩う邑註2。岩ぎ旨冒針︵甲声声Y昌H︶島悌時政改﹁現身悌と法孟﹂序句・㌢
拘 訂tr乳房昏nO︻F訂巳容出色浄曾已忘Fti80︻H−ざまー鉾訂−p●PP倫この言語嬰的唐草の主張者・一般については新著﹁併
陀敦況の外延﹂憎●−怠の証取参照。
周 鱒へば弓宣命邑訂︰せ訂G邑i旨。d・訂d●巳訂邑すこ監・m甲声の併託の如きを参照せよ。
附把−一般にこの音符拳的項準の批邦に増しては右出耕考﹁併陀教説の外痘﹂中﹁伽他併記論豪農ふ﹂の︼丈参照。
鶴 biO¢乳Fi象Od.Fd.巳訂邑弓声HI−甲声以下五尼村耶の解敵中の諸所を見ょ。而してその中、氏はまた
イ、償陀の遺物あ崇舞、塔婆供養等の記事ある趣も後代の幡係がある。
て蛇、意魔などを列ずる食めの新藤呪術を置くものも同段に解ナぺし。
ハ、沸陀と彿弟子とを押詰的奇怪辞中にとじ込め、年前的な坂扱ひをナることも後人?寄奥とすべし。
モ∵過去例、未来伸相伴のものも然,。
ホ、種■の恐ろしい果報を犯するものも同じに解ナぺし。
へ、菩薩入胎出臍に開す、b寄瑠を記するものも亦同段。
ト、桑野慰鹿崩G苫bロ邑乱邑OFに記くものについても然p。
チ、阿見蕪腱的形式あるものも同学。
辱とヽ説いてぁるが、長の如きはまた自ら別個の批判倭準をもとめなくてはなるまい.
舅.︼どdd已鼠FP訂p﹂笠. ︵
㈹ ﹁現身飾と法身備﹂序p■甲・芦
併記薬科としての河合紐批判の預準
炊煙出土諦戟音容本に就いて
煩焙出土布観音貸本に裁いて
矢
二八二
吹
慶
輝
放坦は現せ紀に入って僅王手飴年間に遥かに世界の東洋畢者の注意を喚起するやうになつた地名で,その石
豊から出た移しき盲為本は現に英、併−支.日の間に分散してゐる。そしてスタイン氏蒐集轍焙石童本は零簡竣
清までも合すると約八九千鮎になるそうだが、その中で併敦に廃するもので.且つ序か放かに年故を有ってゐる
ヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ
島本の長官のものでは、建初元年筆鳥の十諦比丘戎本がある。これは大英博物館東洋部副主任のジャイルス氏も
そう云って居られたし.自分の調べた中でもそうであつた。この建初は﹁建初元年歳在乙巳﹂といふ干支からす
ると、帥教が支部に渡釆してから建初といふ年披が前後三岡ある中で、後萄李特と複葉桃長との建初︵前者は発
亥で西紀三〇三.後者は丙戊で西紀三八六の改元︶ではなくして、西涼李竜の建初︵乙巳西紀凹〇五改元︶と推
算される。李高は初め赦穀令から身を起し.北涼王段柴に事へて轍焙太守となつたが、晋安帝の隆安四年︵西紀
阻
〇五︶に改元して建初と云ったが、同十三年に爵が死んでその子の歌が立ち、間もなく北涼王蒙孫のために亡
四〇〇︶に自立して涼公と持し又王に進み、轍坦清泉二部に接って藩を晋に栴した。そして菜晋養鷹元年︵西紀
ぼされたから.この年競は僅か十飴年間摸いた地方的のものであつた。この完本の中で梵語の翻諸に常時の支部
を指して﹁秦﹂と云った少﹁晋﹂と云った少してゐるにも拘らず.年競だけはその地の支配者李氏の建初の年波を使
ったことがわかる。
貴は文 l撃牢好み令名があつたので、偶々今の西安府即ち昔時の晋昌の太守であつた唐環が寂した際、その打手
の側に在りて次第に勢力を加えたが、自ら涼公と柄したのは術数豪から﹁君、位人臣を棲むべし﹂−エー還れたの
に起因する。この西涼連動の十飴年間に後燕、南燕、南涼、後秦など相次いで亡び、丙晋を合せて十五主盲五十
六年の官立の亡びたのが、この西涼の亡びた西紀四ニー年の前々年であつた。
羅什は初期に於いての彿群朝諸に一期を劃した人で.今でもその劇澤が現に各宗の問に行はれ、その中でも有
名なのか阿蒲陀脛、妙法蓮華脛等であるが、薙什が長安に入ったのが弘始三年︵西紀四〇一︶で、法華経を課した
のがこの克木の香かれた建初元年の一年後であつた。研が秦檜阿邁が高勾既に俸道に釆たのが前奏建元十年︵西
紀三七四︶であり、魂の畳始が把律数十部を扉ちして渡来に停道に釆たのが四世紀末だから、恰かも遼東や朝鮮
ヽヽ に件数が停はつた頃の焉本である。それから之を為した成具といふ檜は、一時底山の慈速が止任したことのある
江陵上明寺に居った神輿に精通した高幡であつたり叉此の為本の内容は十諦比丘戎本たが、それが叉大成紅申に
ヽ︳ヽ
収められなかつた逸典で、十謝比丘戎本として現存のものでは、悉らく最高の未倖逸典であつた。
ヽヽヽヽヽヽ
それから数多の膠聖経の註繹中で、現存最古のもので且つ未だ骨てせに知られてゐなかったものに、北魂正始
︳ヽ▼ヽヽヽヽ
元年︵西紀五〇四︶に肇為された膠髪経の註樺たる勝隻義記一巻といふのがある。それからそれに次ぐ竃い同脛
こ八三
の註繹で、北塊延昌閏年︵西紀五一五︶に爵され虎照法師、膵髪鮭疏がある。そしてこの解法師の証繹を為した
轍担出土希親書写本に就いて
蝮規出土稀観音焉本に就いて
二八四
人は高昌客道人といふから.今の吐魯菅産れの人で、遠かに轍煙に禿て居たものであつ漉ことがわかる。曾って
元添十六年に日本の逼塞が、音域の膠覧繁治富本邦で鋸熟した時、今や一千飴年を経て、支部で無くなつたむの
が日本に穣存してゐることは珍らしいことだと記してるるが、この安富が書かれた時より約百年も前に出て支那
西陣の石堂に包もれてるたものが、今保た世に出るといふことは稀有のことと謂っても過言ではあるまい。高昌
ヽヽヽヽヽ
は最近鴻逸のル・コク氏が探検されて既に大部の報告も公にされてゐるが、スタイン島本中に層寿十四年筆焉の
ヽヽ
経歴癒がある。この延寿といふ年競は普通の支部年表に載ってるないもので、これは一時此地を支配した麹氏の
年放であつた。麹氏はこの高昌の地で百四十四年も績いた所謂支部西陣の豪族で、この時.高呂は中原が鼎の沸
き立つやうな騒ぎの圏外に亀然と尤て小康を得た図柄であつた。延寿は麹文泰の年放で、その十四年︵西璽ハ三
七︶は唐の貞取十−年に常少、その後間もなく文泰の子の智盛の時に麹氏は唐宝に統一された。これ等の顕末は
近く故羅振重民の永豊郷人雑著、高員数氏年表に出てゐる。スタイン氏の近著第三同族行報告たるH−鴬m邑計ip
にも延寿の年競を有ったものが載ってぁる。
最近民国の胡適教授からその近糞︵昭和五年四月公刊︶紳禽和倍速集を寄贈されたが、これはスタインーベリオ爾
ヽヽ−︳ヽ
博士の炊煙蒐集鳥本を基礎とした融合に関する新研究で、支部の締宗史を見直すべき幾多重要なる蟄見が報昔さ
れてゐるが、英資料中に引かれてゐる官本六阻害能大師の法箕坂軽は自分から造った篤農に蝮って研究されたも
ので、此苗木六甑蜃経は現流行本に比較すると、苗木は紙数も釣竿分位で内容も亦鯖る簡単であ少.胡適氏はこれ
を紳倉の編作とされてるやうだが、それは兎に角、繹宗史上に重要なる研究論題を提供するものである。支部の高
倍中で鹿も贋く人口に吟失した名は達磨大師であるが、その著述があつたか無かつたかが抑も板木問題であると
してⅤ曾て寮名だけは俸はつてゐたのに現存のものがない。然るに眞佑は別としても焙堤本中に共著蓮と荊す
那併教史の古い所で韓めたものは北魂の曇賛であつた。そしてその著述として讃阿痢陀伽侶、略論安楽浄土義、
るものが現はれて釆てゐる。日本件数では浄土宗、眞宗などに代表さるる浄土教が大き孜潮流を作ったが、之を支
ヽヽヽヽ’ヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ
往生論注等が今現に流行してゐるが、この中の或者に封しては、日本の単著の中で和製詮を唱へた人もあつた。
lしかし舐煙から唐貴賓の年耽何の為本が出たので、和製詮は最早成り立たなくなつた。昨年日本で千二百五十年
忌を勤めた唐の善導の著述なども.駁坦本の中に交って存在してゐる。
ヽヽヽ
支那六朝廷いては隋厨の仲秋の思想研究には、群論宗や地論宗や捏撃示や三階数の各沃の研究を必要とするが
今日材料の快乏のために周密に辛が届かない。三階数の如きは全く燥坦本に掠って薄くモの教義が明かになつた
が、これからは他の併敢諸畢次の新研究にも﹂恐らく放燥本から光を投するやうなことがあるやうに思はれる。
ヽヽヽ
支郵で特選教が盛に償箆㌢製作したが。俳敦内部からも数多の疑慌澄が出た。時に佗彿致聖地ハ中の五分の一が怪
しい茫典であつた場合もある。だから麗代それ等の疑償監は除来したが、その中には常時の忠恕なり遊動なりに
重要な役割−〆由じたものもあつた。だからそれ等の賓料は特に重要のものが好くないが、惜しいことに散逸して
ヽ︳ヽヽヽヽ
仕舞った。然るに白分の知ってろ隕少でも、蚊短から三四十部のこれ等の揖償紅が蟄見され東。彼の武周革命に
有力な口智︸二興へた詳香火本囚経の如きは、全く武周革命の障れた秘史であつた。それか・h今日では全ノ、亡びて
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
一r八.五
無くなつたが、第三世紀頃の世界的宗教であつた摩局数の教壇断試たる下部讃や摩柁光沸教法域略がある。その
敷坦出土希載吉富本に就いて
油煙出土稀載古宣本に就いて
二八六
中に今打エスを耶蘇と漠詩してるのが夷敦となつてるる。唐代にはエスを英数と音詩されてゐたことなども興味
あることと謂ってよい。
自分は近くスタイン氏蒐集併典高鳥本の中から現に世に倖へられなかつたもの、︵未停飾籍︶.及び右記殊にそ
の名を存して今倖はらないもの︵古逸怖典︶、その他稀親荒木類約二百鮎ばか少を集めて、鳴沙徐韻としてその影
印と解説とを岩波書店から公にするつもりであるから、詳しいことはそれに謀ることにする。、
コントに於けろフェチィシスムに就いて
赤
松
秀
景
宗教の語は﹁我々人間の精神的及び肉慣的なあらゆる方面が、一つの共通な目的に封って常に集中する場合の
ヽlノ
完全な統一の状態であつて、我々人間が個人的であると同時に配合的である事を明かにする歌麿である。従って
l
宗教は各個人の何位吏抑制して、全ての他の偶人の個性を結合する事に存する。﹂之は、コントが北ハの晩年、人道
教を組赦し、膏践に入ってから、﹃問答書﹄の始めに示してゐ各所であるが、之と同年に公刊した丼の社命畢の哲
畢的﹃慣系﹄に於て、巳にこの意味材詮き、而して宗教は人類と世界との眞の統一であり、この統一は、怖と知
q一 変と信、この協和︼が要件とする。それが嘗際に於ては教義とたり、崇拝と制度とに規はれた組髄と見倣される。
之等がコンーの宗教に封する定義と考へられる.
若しもコントが、理論的のみならす嘗践的にも宗教㌻詮いてゐるとして、それは文化史上に於ける﹁三階の盤
﹁ノ
剛﹂から社命拳の惜系を成し、叉驚躁的に宗教にも進んだのであつて、彼れの言にもある如㌔皐的研究の結盟
と見られるが、他方、少壮時に於ける反カトリクの悪度とも封比して、一骨その宗教に就いて研究の関心を惹く。
之が為には、常時の配合的関係思想的事情を考へる寄も必要であり、人としてのコントをも見るべきであらうけ
コントに於けるフェチイシスムに就いて
コントに於け一つフェチイシスムに就いて
二八八
れども、其の科挙的主張の中に之を見るとすれば、﹃哲革講﹄に於てゞあらう。之に試みてみる鮭史的考察は、同
、−ノ
時に宗教の間讐なしてゐるのである。然tこゝでは、其の警十二評論じてゐるフェチィシスム豊とせる
鮎を考察するに過ぎないけれども.Zは恰も宗教に就いてはその原始的形態を詮くものであり.叉その科謹的思
度を知る事が出奔やうと息ふ。
始めには其の恕虔である。科挙的研究といふ慧口、之は等茸の祝祭であるといつても.単に多くの事蜜を知り
多くの寄琶を究める謂ではない。その間に﹁論理的制限﹂を必要とするのであつて、研
保件を具へた等苦と考へらる1ものを揮んで表的基本的考察から進まなければならない。之竺言にして﹁最
も知られた事驚﹂t紆発する。然るに、知的現象に就いて其の依って存する倣件を求め、其の稲超の後を辿って
見れば、原理と事葦との問の調和を得しむる傾向を以て知性が働いてゐるのであつて.この調和が不充分な場合
には、欒畢となつて更に均衡に導かしめる。この関係の﹁論理的法則﹂托本質上、何れの時何れの虚に於ても.
亦、あらゆる問題に就いてー根本的には不欒共泡であるが一之を人苅の鮭兜中に見れば
て差がある。か1る配合的蟄達の祝祭は.常然鮭史的苓嘗に依って、その間の料率的関係−忙求めりり垂となる。さ
れば人類祀昏の長の境木的進歩を知る為に、学芸き寄寓は.汲も完全に且つ最も特質のある蟄達に於てゞあり
之にょって社命的進歩の表傾向・γ蜜詮的に捕ヘー然る後特殊的な場合に進転べきである。此の意味から.政争
的蟹達を最も完全に示してゐると見られる駄洲民族及びその歴史に直接間接の関係を有す
其の問に於ける知的蒲動の特質を鮭史的に潤って、最も原始的な表現たフェチィシスムに認めたのである。
之を以て取れば、こ1で宗教形思を直接取扱ったのでない事は明かであるが、而もそれが研究の中心をなして
ゐるのは何故であらうか。﹁この﹃哲畢講﹄の前の所で幾度か次の様な寄を認めろ横合があつたのである。即ち.概
して最も普通な現象は、常に、驚詮科畢の考察すべき最も根本的なものでもある事で、﹂﹁科挙は∵殊に最も通俗
な現象に専注しなければならないのである。﹂此の立場が宗教形態を浮ばしめたのであるが、それは同時に宗教が
人類の配合生活に於て、極めて重要な意義を有する反琵と見て差支ないと思ふ。之等の諸鮎を敦へて、コントの
科阻的研究に封する賓詮的恐虔を知る事が出来ると信する。
次には、フェチィシスムの所詮に於てt如何に之が械込皇れてゐるか。此の問題自鰹としての考察には、其の
鮮明にしてゐる悪虔との問に、大なる間隔を看取し得る抽象論に近いものであるが、この矛眉は、巳に鰯セノお
いた様な研究生硬からいへば、フェチィシスムに関しては殊に研究すべき事貰が不完全であり、其の知識に乏し
い一部分であるが.而も歴史的研究の初めに於て其の叙述の要がある鳥である。従ってこ1では、宗教的形態と
してフェチィシスムに如何なる射で宗教の一般的特性を捉へてゐるかを見る事になる。彼に従へば、知性の自然
的原始的蓉現は、必然的にフェチィシスムに始まるので、之は一切の外界の事象を説明する一律の基礎であり、
斯の如きは如何なる他の宗教の時代にも見られない知的頗動の原始型である。それは、﹁自然的なものでも人為
なものでも、あらゆる外界の諸物が人間の生命と本質的には同じ或る生命で活きてゐるとすりひ原始的傾向の自
コントに於けるフェチイシスムに就いて
nソトに於けるフェチイシスムに就いて
二九〇
的直接的な飛躍を特徴とすろもので、其の問には、畢なる強度の差があるのみである。﹂かくて、外界の一切の現
象は、嘗嘘的なものは勿論黙らざる影ゐ如きものに重訂まで.詮明をこゝに得てゐるのセあるり之はやがて.仰
別的であると共に具惟的である事がその特性をなし、眈物神としては、夫々特殊の限定された引物をなし、無
敗の呪物紳が考へられる。之は亦、原始的な心的状態に於ては、あらゆろ削念が特殊的典鰐的である寄と、全く
−致するものであるが.知的活動が斯の如きである寄は、惰性が知性よりも泣かに力猥く捌いて居る雷で、之は
﹁解剖皐の公式﹂が脳院の横能を詮喝する鮎からも知れるが、それは、親祭圏内に於けるあらゆる事象を個別的
擬人化せしめる所以であ少、之によつて人と外界との完全な調和に達してゐるが、他の一面では、知性が、部分
的或は一時的にも抽象的に拗乳絡ない所以でもある。
然しこれでは、フェチィシスムに配合的結合たる槙能を十分に形悪の上で見られないが、コントは之を司祭国
の特殊組綴の成立に節して論じ、其の有無がこの社命的効果を分つのであつて、其の過渡期に進んでゐる薫辰崇
拝に至っては、己に此の傾向が看取せられる状思にある。それは責宿には先物としても巳に一般性を有するのみ
ならず、之に達する能はぎる鮎から、その間に媒介を要するからである。然しながら原始的なフェチィシスムと
しても、配合的効果に於て経済的に生活上必要な動植物の保護の如きを之等の崇拝と開運せしめて奉げてゐる。
斯の如きコントのフェチィシスムに於ける考察が.何等かの新しい意味で此の問題を今日の宗教単に、提供す
る.とは考へてゐないのであり、又、コントの宗教を検討するものとしても∵てれは寧ろ、そⅥ料率的主張が宗教
の研究に直接関係する事を指摘したのであるが、その第一は、コントの科単に対する賓謹的主張を示してゐる瓢
につ・いでゞあり、第二は、宗教を科挙的に取扱ひ得るとせろ慧度に関するものである。
前者については、更に繰返して述べないが、後者では、和めに奉げた宗教に封する特質が、巳に批年の研究の
問に窺はれると共に、之では特に宗教が杜合的である事を明かにしてゐると考へられる。換言すれば社命的関係
に謄じた根底の上に、その形髄心をなしてゐる寄である。従ってその云ふ所のフェチィシスムが.果して今日に於
ても許されるものであるかの如きは問題ではないのであ少、敢て之を詳しく述べなかったのである。
註
一、Pt曾詳m¢冒巴苧ist¢OdSOnJm已詔ぷ︶乱tiOnde︼pRe−叫g⋮Ongi詔r邑訂こ∞び田︵霞tiOnp−芦芭i宅のー一芸−︶●p
ニ、晋急mOdヱ官憲宅e冒邑i扁−Ou苧邑仇derOeiO︼虚訂in裟tl一呂〓⋮lRe−直⊇d①︼虚∈仁呂諾−く已.巳−−∞昌︵号芦−望♪
巳b当卦id対象沫■訂︰○︶●マ一声
三、曽訝meまd︸Au内房−の︹ぎ声音−だd二変声p.芦
凹、凸ぎヨdeワE彦ゼF⋮∞p象tiTO↓・警e首Onこ︺・−占−−︼00山戸︵警告−笛♪S乱心宗p邑苧⋮乳e︶
本論中誅四の引用文に対しては単に括弧︼γ画するに止め、一々容m⋮貢教を示さない。
コントに於けるフェチイシスムに盈いて
第一篇
C
祝賀骨に於ゆる祝瀞
井
上
曹
次
郎
今岡宗教墜講座創設二十五年の疏架式が奉行されるに就いて時宗敦畢欝庭創設以前の宗教関係の講義及び其の
他常時の畢界の状況に就いて記憶する所を述べて之を統解に代へようと思ふ。
東京大草.︵即ち後の東京帝国大串︶は明治十年に創設されたのであるが、印度曹拳︵即ち俳敬啓拳︶の講義を
開いたのは確か十二年の春であつた。何うして印度哲峯の講義を開くやうになつたかといふことに就いて三一口述
べ督くことが必要であるやうに思ふ。共の昔時自分はまだ畢生であつたけれども.時の組理加藤弘之博士とは厘
†草間上の署に就いて親しく話をLた。或る時.加藤楓理が併教にも何か管拳のやうなものがあるからして、大
串に於いて其の講義をさせてみたら何うかと思ふ、といふやうな話で、白身もそれは宜からうといふやうな話を
したことがある。それから自分の聞いたところでは加藤地理が島地敷富民に相談してみたところが、それならば
哩山氏を津単に訪ひ、相談の結果.氏に講師として
自分よりl好適佳肴と思はれる原曲一山といふ人があるから、其の人を招脾して講義をさせた方が宜からうと斯う
いふ話であつた。其虚で加藤組理が自分自身で出掛けて原
大草に衆て印度哲畢︵即ち件数管掌︶の講義をして貰ふことになつた。
祀
辟
二九六.
庶坦山氏は大畢に於いて先づ大乗起信論の請義を開いたのである。之れを克く者は青々常時の哲単科の畢生で
あつたけれども、珍らしい講義であるから加藤地理を初めとし、時の教授外山正一氏、それから文部省の西村茂
樹氏などいふ人も傍糖に出て来られたことを記憶して居る。それで注意すべ亨︼とは印度哲拳の講義は宗教とし
ての沸教を諦ぜしむる悠めに開いたのではなくして、俳敦哲轟を癒かんが食めであつた.。加藤弘之博士峰宗教と
しての沸教を信じた人ではなかつた。叉何の宗教も信じないで、宗教なんといふものは必要無塵もの、現在の宗
教は皆な賂束亡びて了ふものであるといふやうな考の人であつた。然れども.哲畢には多大の興味を抱いて居ら
れた。だからして印度哲畢︵即ち沸教哲拳︶を試ぜしめた理由で.全く哲墜に封する畢的興味より釆たのである
と斯ういふこ上を注意すべき甘ある。それならばそれは少しも宗教に関係が無かったかといへば、さうではない
一倍明治初年に於いては件数は排彿毀繹の後を永けて一世に不振の状態に在った。ところが、西洋皐術翰入の泉
邁が非膚に旺盛なるが食めに、俳敦、信教何れも引潮で殆んどせに顧みられないすった状態となつて居った。大
坦山氏を招騰して印度哲畢といふ題月の下に大乗起信論といふやうな俳典を講義さ
畢の如きも其の講するところは主として西洋の串術であつて、東洋の串術などといふは見皐影も無かつたやうな
有様である。
其際東京大串に於て、原
せたといふことは沸教の復興に一樽壇壱促すことになつたQである。何故ならば沸教などといふものは、もう願
計る横倍の無きもののやうに世間では思はれてるるところに、大串に於いて之れを試することになつたのである
から、併談にも給て撒きところりあるといふ強い信念をせ人に輿ふるやうになつたからである。自分自らの感想
を逮ぶれば自分は原
坦山氏の講義を穂く前に己に英.狽の野草を多少研究して居った、ところが短信論の講義
を聴くに及んで、沸教曹畢の詮くところは猫逸曹拳の詮くところと飴程相似たところのあ点ことを知って、多大
の興味を有するに至った次第である。而して後日−更に印度菅孝之研究し、叉特に大乗俳敦の教理に多大の趣味
盤山氏が其の端緒を開いて呉れたから
哩山氏の講義が経となつて遽に併教育畢と断つに断たれない関係を有するに至つ東夷第
む抱くに至ったのは少年時代の間接の影響もあるけれども、直接には原
であると思ふ。即ち原
亀山氏の講義は廉く諸種の方層に直接間接
亀山氏に講義を依捜したのは件数哲畢を把かんが食めで
である。其のやうな理由だから自分の立場から推して考へると、原
の影響を及ぼしたであらうと思ふ。大草に於いて、原
あつたけれども、叉薙いて沸教といふ宗教方面に多大の勢力を輿へたことは否定すべからざることのやうである
● 哩山氏は名は良作、曹洞宗の檜で奇行が甚だ多い。著述としては惑病同璧帥、心性賓歯偏等教踵あるのである。
是等は皆縛めて些山和偽金集に載せてあるのである。
其の後、原 坦山氏に次いで印度哲畢の講義を措任したのは大谷派の檜菅谷覚寿といふ人であつた。何んでも
明治二十一年頃から二十三年頃迄約三年間ばかり講師として初め捺印度哲攣後には東洋哲畢として講義をされ
たのである。名柄は印度哲畢であらうが、東洋常襲であらうが、内容は彿敵背畢に他ならないのであつた。青谷
光春上いふ人は著事として﹁明治諸宗綱要﹂といふのがある。
青谷発語氏に次いで講師となつたのが同じく大谷次の檜村上専持氏であつた。村上専持氏は明治二十三年頃か
軒
ら東洋哲学又は印度哲塾の題目で仰致哲学釘講義されたのである。村上専持氏は後、正教授と成られたことは
疏
周知の事茸である。
それから、村上有精氏よn大分過れて木沢本願寺の伶前田悪霊氏が帝大の講師と成つて、東洋哲轟といふ題目
で沸教哲拳を講義された。それは確か明治三十四年噴からのことである。菅谷.村上両氏は何れも大谷次の人で
あるところからして、西本願寺の人が木沢の人も採用して貰ひ庇いなどと言って釆たのであるが、何も大塾にそ
んな俳教仰の釣合を念頭に督くものでないけれども,然し立沢な皐者があれば講師にしないことはないが、さう
いふ人があるかといふたところが、あゎます、前田寮軍といふ人がそれであるといふことであつ.た。それから鉛
/、 んで印度哲畢の講義をして貰ふやうになった次第である。
衝の結果村上氏と封立するだけ竃者冨ると認めたからして、大挙の講師に成って菜箸、村上氏と共に相並
叉明治三十一年l二高楠順次郎氏が文科大拳の講師とな少、其翌年教授とたり、後、梵文革講痘を拍任して葬ら
希望者に印度哲畢を講じたのも亦大に注意すべきことのやぅに恩はれる。
原 些山氏を初めとして、青谷党籍氏、村上苺持氏、前田悪質氏などいふのは何れ鳥講師であつた、但だ村上
博士だけは後、正教授に成つたことは前に述べた通りである。であるが、印度哲峯の研究は漸次牽達して今望二
講座も出釆てゐる。其の中の〓講座は繹宗済民の寄附講座である.斯様にして町虔曹蟄の研究が帝大内に起って
釆たのは畢り立に止まるわけでなくして、他の帝大に及び.叉私立大夢にも影響して印度野草の研究托大いに勃
型山氏であつたといふことは決して志るペきではない。
興して釆たといふて差支無からう。少くも明治初年と比較封照して考へてみると非常な差であると息はれる。而
して其の端緒考開いたのは原
それから、自分が初めて東洋哲皐史の編纂㌃始め、而して其の講義を開いたことに就いて二言して督くことは
決して無駄で無からう。自分が東京大串を卒業したのは明治十三年七月であつた。卒莫後、直ちに洋行紅命ぜら
、
るべきであつたけれども、故あつて三年延期となつた。其虎で、加藤博士の忽腰もあつたので.自分は東洋哲笹
免税幕を思ひ立って.初めは文部省編輯局に於いて、後には東京大単に於いて其の嘗行に取り掛ったのである。
が東洋哲畢史の原稿も敦冊出来た後、加藤地理が何うだらう、其の東洋哲串史の講義を始めたらといふやうな話
でそれから明治十六年の春頃から其の講義を始めたのである、其の時の聴講者は十名内外であつたやうに息ふが
其の中には三宅鱒三聖井上園丁等の諸氏が在った。自分の東洋哲塾史といふのは主として支那の野草史であつ
た。叩清朝年に併数が顧みられなかったと同様に信教も過去のもののやうに考へられた、甚し苫は常時の先輩に
して、六控は腐れたりなどと絶叫したる人さへあつた。
然し支部の背撃にもなか︿良いところがあ渇ので、眞理は時世の襲化によつて攣っものではないのであるか
ら、野草としては央張り研究空風るべきではない。密拳は西洋のみでない、東洋にもある。東西洋の哲拳を研究
して虞理を探究するの要があると考へ、斯ういふ理由から東洋哲拳史を編等し、叉その講義を始めたのである。
一倍東洋哲拳と云ふ名柄は自分が始めて用ひたのである。之に封して西洋哲堅と云ふ名辞を用ひたのも自分であ
った。それけ兎もあれ大串杢鮭の基気が甚しく西洋に傾いてゐる時に際して一方には東洋哲草餅究の必要㌢・感じ
て致に至った次第で、従って其の東洋主義的精紳は細々として畢界に倖はゎ、而して叉臍く社命.に影響するやう
鮮
になつたかと思ふ。見れは直接宗教に関係の無い事のやうであるけれども、倍数道教などを許するのであるから
鋭
祝
辞
矢張り間接には宗敦思想の上にも関係のあることであると思ふ。
さう云ふ詣であるから常時の事情は之れを今日明かにして音くべきであらう。何故なれば、それはもう
は明治初年の旛史となつて居るからである。
自分は留畢生として明治十七年二月に机聾して歓洲に赴くことに成った.が欧洲では主として猫逸に滞在して
居った。而して明治二十三年十月に蹄朝致したのである。蹄朝後間も無く帝国大草教授と成ったのセある
\一
も、講義は其の翌年即ち明治二十四年の春より始めたのである。而して其の講義題目は単に扁垂﹂といふ
﹁比較宗教及東洋野草﹂といふのであつた。﹁哲畢﹂の方は時によつてはカント、及びショーペγ︵ウニル等の哲畢
を講じたこともあり、叉哲畢概論の如きものを請じたこともあるが.其の方は始らく措いて生じ宗教塵に関係の
有る﹁比較宗教及東洋習畢﹂の講義に就いて二言して皆くことが必要であるやうに思ふ。
洋行前は東洋野草史として主に支部哲皇を療じたのであるけれども、蹄朝後は支部哲拳を講じないのでは
つたけれども、大いに印度哲単に力を用ひて、六沢哲拳其の他外道哲単に及び、後、併敦の講義を始めた
る。何分、印度哲畢及び沸教のことに論及して来ると、何うして皇亦敦の問題が開崩して来る。殊に草薙
の沸教だのといふものは一方に於いては哲畢であるけれども、一方に於いては宗教吏ある。宗厳と哲拳と
不凝り卵係を有して居るものである。其虚で哲峯の講義ではあるけれども、さういふ問題を取扱ふところ
て宗教のことにも論及せざるを得なかった。さういふ場合には狛犬教だの基衡敦だの、其の他の宗教を引
に出して比較封照して研究することが必要であつた。さういふ必要があつたのみならず、基督敦は幕末か
西洋文明の輸入と共に輸入されつ1あつたが、外囲宣教師などの主眼が飴り喘兢に感ぜられた∪眞の宗毅は唯だ
基督敢のみで、併敦其の他の宗教生娘の宗教でないといふやうなことを公言して、件数などを完敬と認めないや
うな風であつた 叉、紳は基番数の紳だけが展の紳でl他の宗教の紳は悉く似而非の紳であるといふやうた嗣子
で、一切基督敦以外の東洋の宗教を無宿鹿のものであろといふやうに論断し去るのが通例であつた。今日でも其
のやうな排他的の気分接多少は残って居るとは思ふけれども、今は飴程明治の初年とは違って、大分鮫和されて
1来て居る。明治の初年はそれが飴程ひどかつたのである。其の時自分などはそれは陰り隔した排他的の見解であ
ると斯う考へた。公平に局外より祝祭するとしたならば決して其のやうに論断すべきではなか・hう。つまり外観
宣教師等の飴り偏頗の忠虔に封して、自然にレボルトを感じたのである。有りの催㌢言へばそれである。叉、外
国宣教師のみならす、我が日本の基督敦界の牧師連も、外国宜教師の口吻をそつくり屋似たやうな調子であつた
自分は明か倍数、俳数等を研究して居ったからそのやうな不公平たむち偏院な見方をすべきではなからうといふ
感が強かつた。それだからして、一骨是れは克く件数、儒教、両道其の他の宗教を研究して公平なる立場に立ち
て青年畢生を指導すべきであると云ふ痛切なる塾的要求を以て、﹁比較宗教及東洋哲皐﹂の講義を開いたやうな次
第である。
自分が﹁比較宗教及発祥哲畢﹂といふ講義題目で講義したのは約七年間に及んで居ろ。即ち明治二十四年の春
から明治三十年迄であつた。丁度明治二十九年率菓の那崎教授は桑木匿閻舛、建部邁吾、高山林次郎諸氏と同じく
辞
三〇一
畢生とLて自分の六派哲畢及び其の他外道哲拳の講義草葦かれたのであらう。自分はそれ等の講義を経って繹迦
祝
耽
節
三〇ニ
倖の論義を開いたのであるから、明治三十年卒柴の蟹江義丸、菅田賢龍、塚鹿政次、それから今の文革部長瀧精
一諸氏などは其の繹迦停の講義を聴かれたであらうと思ふ。藤崎教授だの高山氏など何づれも卒業後倫ほ研究を
授けられた方で、自分が其の指導教授であつ冤高山氏ほ宗教は燥ひであると言ろて居ったけれども.央張り白
身が講義中に拉三蒜のことを論じたのが繰となつたのであらう、後には繹迦停皇封いたり、叉、日蓮主義に熱
中したりして経ったのである。朗崎教授が宗教拳研究といふ方面に向つたのも央張り自分の比較宗教の講義が其
虎に導く放となつたのであらうと思ふ。
明治三十年に自分は俳画巴塁忙開曾じれた萬国東洋拳骨に参列したのである。それから膵朝後は比較宗教に就
いては講義しなかつた、然し哲峯と東洋曹峯︵撃っ支部哲畢︶の講義は依然として桔梗したのである。妨崎教授
は明治三十妄の九月、講師と成つて宗教堕の講義を始められ.後.明清三十三年留畢生と成って礪其の二固に
赴かれたので雪。而して明治三詳録朝し一節朝後菅宗教畢の講義吏拾任しl明治三十八年に豪皐慧の
設思せらる1に雷って之れを措任し、今年宗教畢講鮭創設二十五年の祀賀式を開催するに至った次第である。そ
れで城崎教授の宗教嬰講義以前に自分が﹁比較宗教及東洋曹撃といふ題目の下に宗教峯を講じたことは今日か
ら考へて見れば駐史的寄暫として看過すべからざることとなって居る。而して其のやうた宗教的方面の講義は自
然自分が妨崎教授に誘った形になつて居るのである。
さういふわけで宗教輿論底創設以前に宗教の講義を開いたのは自分であつた。然しながら、直接間接宗教と閲
馳有a講義は際 坦山氏跡併興け講義、叉埠日分の東洋哲畢の講義であつた。斯ういふことも宗教畢識痙創設以
、
前の宗教に関する講義を討究する上に於いては必ず考慮に入れなければならないことであらうと思ふ。
それから倍ほ立に宗教単に就いて忘れてならないことがある。それは他ではない、礪逸の大草などを見ると.
大抵托紳畢部︵テオP−ギッシエ、ファクルテート︶がある、但だフランクフルト大草、ハンブルヒ大拳、ケル
ン大草などには紳拳部を設けたいで経済畢部が督いてある。さういふ例外はあるけれども、大抵は神輿部といふ
特別のファクルテートがあるものである。弼逸以外の諸国に於いても紳畢部のあろ所は随分多いので、基番数図
に於いては其の必要があるであらうと思ふ。然し我が日本の大串に於いては其の必要を認めない
の精細を以三切世界の宗教㌢研究すべきであろといふ、斯ういふ精紳を以て自分も比較象を講じたのである
が之れを以て東京帝関大峯の方針としたのであス・。それで、東京以外の帝国大串が相次いで設置せらる1に督っ
て何虎も此の精紳を取って宗教学を試すい︹ことにたつて居る。足れに封して最も茸任の有るのは自分である。白
分が主としてさういふ方針を取り、而して共の精紳を貫くことにしたのである。響ウド〆マに掠らすして選的研
究に揺り.凡ゆる世界の宗教に封して公平無私の研究的恵庭女取るやうにした次第である。
最後に佃ほ一言附け加へて田き庇いことがある、それは、宗教といふ言葉の問題であろ。宗敦といふ言草は何
ぅして起ったかといふことが歴々笹者の問に問題になってゐる。或る人は見れは明治年間の新詩語であると言っ
てゐる、而して其の新詩語は自分︵井上︶が括らへたのであらうなどといふ人があt篭又、哀は走れは解散の言
責であるけれども、彿教で峠宗と敬とは別であつて、Religi旨を宗教といふのは是れは全く明治年間の新詩語で
辞
三〇三
あると斯ういふ風に考へて居る人もある。果してさうであらうか、一倍宗教といふ富美は維新前には飴り使はな
祝
三〇四
離
取
かったのである。今日宗敬と云ふやうな場合には桑昏と云ったものである。ところが、明治初年から
言葉が流行り出した。足れは常時世に行はれて居った英和群書のR暑Onといふ所に宗教といふ評語が附いて
ゐたじそれで書芸此の詩語む取ったのである。而して大挙の講義に宗教といふ題目を附けるに至って
が畢術上のl術語となつたのである。哲拳闘係の術語は飴程、西周氏と自分が造った。今日世簡では人が気附
かぬであらうが、西周氏と自分の遭った術語が就く畢界に朽揉れて居るのみならず、其中の或ろ言葉
として靡くせ間にも行はれて居る。但だ此の宗致といふ言葉は西周氏の造った言葉でもなければ自分
官等もない。是れは矢張り俳敦の言喪である、仰典に深山酎て来る言葉冨ないけれども、然し併敦の
あることは確かである。華厳鮮合論たどには宗教といふ言葉があるけれども宗と敦とを直別して論じ
憬俳数に雪て咋宗を主観的に見、敢を客観的に見、宗と敦との問に主客の相違あるものとするのが通
須−亮英霧底漢ぺ
う表し怠ら何時でも箕に箕のやうに宗警見て居ろとは限らない。碧良縁第晶の垂示に
大凡扶二竪宗教可
と云ってある。此の慧E於けろ筆数は宗と致とを主、客の両方面に分って言って居るので腋ない。此の場合
の宗教は多分併敦を意味して言ったのであらうけれども、然しそれを特用すれば世界の凡ゆる宗教と
もなるから、宗教といふ出輿は廉く檜俗に愛読せられて居る穿巌録と見て差支無からう。然し宗教の
錬の外五敷革などにも屡々見えて居る。斯る事は群する迄もないやうである。けれども宗教といふ言
は迷ふ人も決して歩くないと息ふから故に其の出典を明にして督く次第である。是れ計一統離となす
祝賀に封すろ感謝.
姉
ヽ
l
崎
正
治
昨日と今日開かれたこの記念倉は、同情者諸窟の援助、単音の研究史表、その他諸方面の協力に
い記念寄集を奉げ穆まし冤その結果はー今日頂戴しました論文の出版、その他伺ほ縫いて世に出る
な少、それによつて忘斯笹の意義を世に紹介し、且つ後に来るべき人々の盛に研究の途を進める寄
ちノ○
此の二十五年問に於ける宗教畢の進歩は、或竺三の他の串間の進歩、又世界の襲鱒ほどには著し
でせう。それでも研究問題があらゆる方面に延び・且つ探さを増した寄は、近くは今回の研究費表
文献の陳列によつても1端を伺ひ得べく、叉此間に内外誇大単に宗教箪講痘が著しく増加した事によつても渕少
得ると考へます。
此等の方面から見て感謝を表すべきは、第一に挨東西に五つて人斯の京城心に光明を加へ搾みを
空でありますが、もつと直接には、研究の途を開いたビールメフ始めの先達から、近くは私共が師
仰いで共に研究を進めた人乍−総ての先輩に封して、此摂食に甚探の敬意と感謝を表したい。その人芸中少数
耽賀に封する感謝
祝賀に封する感謝
三〇六
を︼ゝに畢げるには苫揮に迷ふ位で、一々列舜する写は、他の横愈に謀りたいが、然し私一己の関係だけから見
ても、ドイセン、ゼーデルプロム、カーペンクー、ジャンレビユ、レビ、リスデギヅ、オトー、日本では井上、
村上両先生だけでも奉げておきたい。それと共に其々研究に従事した同輩同僚の数々、叉後進とはいへ、共々に
刺激し激励して、今までも叉今後にも此串間を進めつ1ある卒業生その他の諸君に対しても、河接敬意と共に終
末を親宿する意計表したい。
峯科の上に於ては、此外昨日の記念倉で、少しく来臨や希望を述べましたが、さて此の記念愈の表菓として、
論文集が出来て、今それを頂鼓し宅此には諸君各自の祝意示研究として現れてゐるのであるが、叉講庭措任看
︵
たる私に封する御厚意がこもサてゐる次第であるから、私は公私両方の意味で此の賜を受掠て、悦びと謝意を衰
する。
その上叉今夕の命合に諸君が此席に集まり悦びを共にしていたゞく外に、今頂放した此のF巨bl≡e︼”の葺妥
に依って、私一偶に封する事変なる個人的好意を表せられるに至つた。此度の記念昏が蓼科講痙の岱であつて、
私個人の偽の様にたらぬ事は、委員諸君に重々お願ひしておいたのですが、此の墓参を作る事と、それを私に潜
られる事だけは、別に考へよとの事で、私もその御璧息を感謝してお受けをした次第で、従つそ此に封する御起
としては、少しく私一個人の方面からの謝意を表するのは、常然の専と考へられます。
取れば明治二十六年、大挙に入笹してから今日まで三十七年、講師として宗教箪の講義を試みてから、lニ十二
年、私は一日として大拳との関係を絶った事なく、今後四年、事に無事に定年退腋を許される克らば、その時ま
で四十一年間、私は全く此の大草の人として終始し得るわけで、公私あらゆる方面に於て.大串の先饗なり同僚
なりに負ふ所は計量し得ないものがある。井上先生の指導誘披は申すまでもなく、故外山先生の鞍桓激励、大西
耽君の同情奨静、その外一々列車し得ませぬ。而して此請痙が設けられてから二十五年の閤、党輩同僚の外に、
後進の卒発生や畢生から受けた刺激、微塵、援助.此が私の公私の生活にどれだけのカに写り思澤になつたか、
此も亦一々詮き諾し得ないものがある.今回の記念食も、今夕の此禽合と、そこに表せられる御厚意も、常此の
毀大な厚意と思澤とのlつの現れ、それが今度の横合に具鮭的に揮ったものとして、今夕の御紹には、それ等絶
てに封する感謝がこもる次第で、只今の感謝は、過去二十五年或は四十年近くに亘る一切の感謝を、此の数分閻
に、僅に言葉に表して見るに外ならぬ。昨日も申した如く、今回の記念倉や叉今夕の祝賀の如く、公私両方に亘
って感激の深く感恩の恩ひ切なる場合に、私には叉特に感銘の深いものがある。それは我々の生命に三世の聯路
断つべからざるものあるを痛切に思ひまする心で、それは何れの宗教にも動いてゐる生命聯締の濃験と申すべき
でありませう。
繹専は成道の始に、嘆じて一偏を詠まれた。
過去の緒等発着.朱釆の鋒等発着、
現在の等発着、衆生の菩を除く覚者、
薯法を垂じ放た尊ぶ、見れ諸俳の法性、云々
此の意味に於て私些二世の聖者を超し、一切の撃匠智者に膵敬する革によつて、我等が益す精進して眞別の光
就賀に対する感謝
祝賀に対する感謝
三〇八
を黎揮する様に、共々助け合って進みたいといふ切なる朗を表し−それを幾分でも成就することを以て諸君の御
厚意に封する御絶と致したい。
記
発
ー
±
 ̄ ±
篇
骨
事
A鰭馳牌瑚報記念曾の成立事情
−十九世紀後年から廿せ紀の初頭にかけて、宗教に関する新研究の勃興に際し、我観に於ては、明治升八年︵一
九〇五︶林崎正治教授を倹って宗教峯の講座が東京帝国大草に創設された。殊に∵︼の宗教輿論座は.先進諸国
の宗教嬰研究が、一般に宗教史畢の域を眈せす、紳拳的臭味を壌存しl多くは紳峯の一分科に過ぎなかつたに封
記念曾の成立事鹿
創設廿五年記念倉﹂の成立を光るに至ったのである∪次にその成立三での経過を多少詳細に記述丁ろことゝしや
節してこれを受けす、むしろ公的た講座創設記念の催しとしてはとの敬没の意潜にもとづきl葱に﹁宗教峯講座
斯拳出身者はこの敬語と感謝を表すべき方法を考旛し.党づ妨崎教授のための謝恩の催しを試したが、教授は田
恰も昭和末年は兼京帝国大塾に宗教察講庭が創設されてから廿荒周年に訝ろので、それに先立つ四年前よ少.
つくり、爾後その成長に心血を注がれた妨崎教授に封しては、後拳の感弾指く鴇はぬところであつた。
この隆盛を招来せしめた諸先聾に封して深甚の敬意と感謝とを禁じ得ざるものがある。殊に、講鹿創設の基礎を
またその成果を思ふとき、吾が宗敦拳はつねに世界の畢界に封してその使命と両目とを誇りうると同時に、今日
はじめ、公聴誇大畢に於ける宗教拳の講座或は講義は十指にして足らざる現況にある。顧みてその歴史を想ひ、
後二十有飴年.吾囲に於ける斯畢研究の索道は年を逐ふて嶺屈し、今や京都、東北.九州、京城の各帝関大畢を
して−常動から拷宗教の批判的科畢的研究−だ首唱した純然たる猫立の講盛であつたことを誇ることが出釆た。爾
.
う○
記念骨の成立事情
大正十五年六月廿二日l帝大構内山上御殿に於いて蓉起人命を開催した。この倉合の恨牽隠人は石揺智信、矢
吹医揮、宇野囲基の三氏であり、姉崎教授以下せニハ氏の出席があつた。
・
文集の拐輯方法等は、貰行委員において考慮を重ねること1なつた。
この合合に止って講座創設記念倉は大隈その輪廓を得て成立したが∵︼の計壬の互細及び寄附金募集.記念論
貞は恨蟄超人三氏を中心として約十人を選定すべく、その選定は仮蟄超人に依嘱すること。
顎超人吐昔日出席者全部−及び本日わ紋席者並びに他種出身の親近者の中より若干名を加ふること、‡行垂
五1牽超人及び驚行委員の選定。
四、寄附金を募集すること.
右の出版は記念合そのものとは国別し、有志の草葉として企つること。
三、宗教単記念叢書を出版すること。
を充箕せしむることを申し会せた。
右については海外よりの寄周Jに付いても考慮すること、\本草科出身者は及ぶ限りの畢的研究を寄稿して内容
二、記念論文集を出版すること。
l、宗教奉拝座創設の記念合薮催すこと。
先づ央吹博士が立って、含合の動横を詮明し.石橋博士を座長に推し、大腰次のごとき事項を議決した。
、
野
今岡信一長
敏
碁
紳
木
林
龍
隆
司
浮
植
石
木
椿
諌
智
英
信
︵以上十名︶
鈴
大正十五年十月九日、本郷燕欒軒に於いて賃行委員倉第l同の合合が催された∪仮華麗人によつて選定された
信
芋
田
茸行委員十名の氏名は次のどたく、蕾日は全員出席した.
大 島 春
輝
原
囲
央 吹 優
景
明
赤 払 秀
牽超人倉における議決の概要を線括し今後の賛行を規定するために趣意書草案を宇野氏より捷琴募金規約の
数ケ保を修正して承認、倫ほ本苓兼の主濃左﹁宗教拳講座創設廿末年記念合﹂とすることを決し汚
その後、次のどとく数回の茸行委員倉を開いて計撃募金、編輯、庶務のことを練ったが、その詳細はこれを
昭和二年九月廿六日
昭和二年四月十六日
昭和二年二月廿二日
節五同賞行委員合.
第四同質行委員愈∵
第三岡賓行委員合∵
第二回鷺行委員合、
.
昭和四年一月廿六日
第六同軍行委員倉、
省く.
昭和四年十月十九日
この節六回は鵡大苦行委員禽となし、新たに選定したる大命準備委員をも含めての倉合であつて、同時に大倉
準備委月食であつたがlその後は、研究室を中心として在京斯導出身希は毎曜命合し、こぞつてこの単に参じ・
記念曾の成立轟鰭
記念曾の成立事情
殊に、我国最初の牽たる宗教皐大倉をして望外の盛禽に琴トしむることを得た。
記念宗
教畢大命
宗教畢講座
記念観賀愈
創設廿五年
なほこの宗教畢講座創設廿五年記念昏の諸事業はl次の四部に分つことができる。
踊雲合
銅踊銅㈹銅摘絹純絹讐蛋璧琴欧文豪畢論集、及び豪拳聖
摘漕夏雲献展雷
﹁
その各寄集に就いては以下の記事を参照されたい。
B椙馳憎硝種記念曾要項
一船級憎硝軸記念宗教学大倉要項
時
所
日
帝大構内法文墜部十九番数室
昭和五年五月十日︵土︶十一日︵日︶
︵附、協
場
議
骨︶
宗教皐講座創設廿五年記念倉の中で最も重要にして且つ意義深き事業はこの記念宗教皐大倉であつた。
この記念宗教畢犬舎は、研究費未着.合点、聴講者の三者より成立した。研究費表被依扱者は、︵一︶宗教畢を
講するもの︵東京帝国大草印菅梵文拳はこれに準する︶︵二︶東京帝国大草宗教拳科出身者.︵三︶本草文畢部各研
究宝主任教授に推方を依頼せるもの︵史料編纂所及び各帝大の宗教印哲梵文畢はこれに準する︶︵三︶葦行委員合
︵一汁︶重点
の推粛によるもの。合点具一︶研究費表被依頼考︵二︶宗教拳を許するもの︵研究蟄表被依頼者第一項の補遺︶
︵三︶東京帝国大草文皐部数官全部、︵讐印哲梵文単科卒発生中の在京者∴五︶雑誌﹁宗教研究﹂寄稿者
倉の推潜をうけたるもの、︵七︶他に推粛を倍額せるもの、︵八︶各大草宗教畢卒業生の中より。聴講者は制限はな
︵三︶研究費表音甜係
三一五
︵讐﹁宗教研究﹂含貝
かつたが.次の如き範囲と方法とによつて聴講券を配布した。︵一︶本草部畢生、卒糞生、研究宝関係者︵各研究
宝宛︶︵二︶各専門畢校職員畢生、都下中等教員︵畢生課生徒課宛︶
記念号要項
記念せ事項
三〓ハ
︵五︶各宗沢宗務普局者︵宗務併宛︶.︵六︶特別希望者∴七︶各インスティチュート、︵八︶合点の関係者︵合貝の申
込によりその関係者に︶。僻ポスター.新開、雑誌による宜停方法を利用した。
この記念宗教畢大倉は、昭和五年五月十日︵土︶及び十一日︵日︶の爾白にわたり、第一日の午前は蟄脅式及び記
念講演、牛後は研究蟄表、第二日の午前は研究牽表、牛後は研究蟄表及び協議倉の漁定であ少、殆んど改定と達
ふところなく進んだ。
昭和五年二月十五日をもつて研究蟄表の依頼状を豪速したが、その依頼状には﹁由来吾困の宗教畢の研究はせ
界の墜史上に大いなる整史と使命をもつて居ると信じますが、この横倉に本邦最初の拳骨としてれく斯拳御研究
の諸氏にその御蟄表を顧ひ、記念倉の主要た催しとして成果を志さめたいと存じます。﹂とその抱負を述べ、億
ほ研究牽表軒應諾下蔓る節には、竣め次の諸項を含み下さるよう願った。
樺概を八百字以内に御認めの上御逢わ由ひます。
て研究襲表の申込期日ほ昭和五聖二月十五日迄とL御申込みの際成可く辛表題日御差添へ際ひ迫て画月十五日迄に内容
以
上
て研究の襲表は原稿朗讃に困ひ▼ます。︵但し昔日御出席なき場合に嘗万に於て代讃いたします︶
て舞蓑時間は十五分以内、但し質問ある際は質問時間十分。
街ほ発表の日割、時間は瞥方に御任せ厨ひます。
・︼、御梁表下さいまLた研究は大倉紀要に群銀することを御承諾麒ひます。
一、紀要戟錬のため原稿ほ営口御梁奉縫直ちに委員に御手渡し餌ひます。
かくて、研究蟄表伐粗㌢應課されたるもの四十一名に及び、我が国宗教畢界の構成を網親してあますところな
かったことは、本革命のひそかに誇りとするところである。
愈員はすべて倉員席に着席し、研究蛮表者に質問をすることを得.取識者には質問及び討論の遠慮を闘った。
本宗教撃大倉の命ぶは薙崎正治博士.印曾責は波多野精一博士であつたが.波多野博士ほ病気のために出席不
可能となり、朋ぢ∫締氏︰ひこれーギ代用した.
記念宗教畢大智第一円︵五月十日︶
萬端の準備を了り、記念宗教箪大食を明日に軽へての末月九日の衣は.生憎の豪雨であつたが、明けて五月十
ロー革命常日は思ひもかけぬ清々とした晴天であつた。
︹午前の部 牽倉式︺
午前十時十四分−貰行委員宇野囲基氏が開愈を宣言Lた。命湯︵帝大法文笹部二糖短十九番数窒︶は六百石飴
、
の走︰員を有するものであつたが、間もなくして定員に満ち.聖講者には遺憾ながら入場をお餅りしたむきち多か
つた。
午前十時十瓦分−嘗行委員代表石橋智信氏登壇してー講座記念倉及び記念宗教畢大骨の趣旨及び軍業の報告が
あり、次いで十時甘充分、宇野園察氏は祀軍〆朗譲し.副食長波多野精一氏が病気のために紋席すること、その
代理羽撲了諦氏が多少遅参することを報告し終って.教授瀬峰正治氏の登壇を促した。
午前十時二十山ハ分、姉崎正治教授は鱒のどとき疫張を壇上に道び、午前十一時三十三分に至る叫時間有飴に宜
紀念骨要項
記念甘辛項
三一八
って︰記念講演﹁宗教畢謙虚廿五年の想出﹂を説き凍り説き去った。その内客は前掲の通りであるからそれには
爛れない。
午前十一時三十四分、副食長代理羽渓了諦民事野囲碁氏の紹介によつて登壇、代理及び遅参の挨拶を了へて、
直ちに司合着の選定に移った。即ち、研究費表の司合着として五名を選定すること、なほその選定は倉長の指定
木
匿
宗
輝
鹿
宇
赤
野
抵
国
智
益
城
石
椿
智
信
によるべきことを合点に講った。かくて合点一同拍手して賛成の意を表し、命長は次の五氏を司骨者に指名し、
鈴
央
吹
再び一同の拍手があつた。
司合着氏名.
次いで、
︹牛後の部 研究費表︺
牛後一時四分、司令者央吹慶蹄氏司倉者新代表して挨拶あ少、次のごとき内規の通普をなした。
一、研究費表者はA迅C順にて黎表すること、なほ大倉事務の関係或は快席のため壇上の孝養はこれを行は
す記念宗教堅大倉紀要にのみ載録するものあるべきこと。
二、研究哉表者は司合着の指名によつて登壇すること。
三、蓉表時間は十五分.十三分にして濠普の鳴鈴あること。
四.質問者は自己の香坂氏名を呼びてその上起立されたきこと。
五、質問は時間の都合上十分以内に止むること。
央吹氏︶
次いで直ちに研究費表にうつつた。
赤一枚智城氏 ﹁朝鮮の聖樹﹂︵司昏
鈴木氏︶
.t
∵.▲
一−︸
一時八分よ旦二十二分まで二十四分間。質問者なし。内容は第一編前掲のどとし。︵以下同様︶
相原一郎介氏 ﹁露園長近の素数政策﹂
一時三十二分より五十分まで十八分間。質問者なし。
原田敏明氏 ﹁紳話に於ける死の起瀕と罪の意識﹂
一時五十一分より二時二分まで十六分間。質問なし。
羽渓了絆氏 ﹁俳陀時代に於ける十拉致圏に就いて﹂
二時八分より三十六分まで二十八分問。質問なし。
久松選一氏 ﹁人間性の限界外の宗教﹂
二時三十七分より末十五分まで十八分問。質問なし。
︵五分間休憩︶
︵司倉
帆足理一郎氏を明日にまわし、中井龍瑞氏と襲更する。
中井龍瑞氏 ﹁金剛頂控の成立年代﹂
記念曾要項
イノ
記念曾要
項
菅表誓り三時差よ豊十分まで二十五分問u司令串の鈴木宗忠氏質問あるによp−司富宏氏に
ゆづって質問をなす。中井氏これに答ふ。
補永茂助氏 ﹁所謂心悪研究に封する宗教堅的批判﹂
三時三十五分より五十三分まで十八分間。質問なし。
石棒智信氏 ﹁天啓の宗教畢的考察﹂
三時五十四分より四時二十九分まで三十五分間。質問なし。
菅 聖罠﹁基督教に於ける禁懲主義の起顔﹂
四時三十分より五十分まで二十分間。質問なし。帖
加藤玄智氏 ﹁本邦生嗣存在の事苦﹂
四時葦妄より蒜六分喜十五苗。那崎正治氏お質問曾ソ、加藤氏これに答へた。次いで蓑田
囲の生耐と日本の生嗣との相違などにつき質問あ少、加藤氏本日は専管の報告に止劇る旨を
この時、中井龍瑞氏自席より起ち、先刻の中井氏の研究牽表に封す晶木氏の質問に封して
ころもありし故に、二三分の啓明を許され度き由希望があつたが、妨崎正治氏よ少ソニの問
層である故に特別の研究に誇られんこと牽提唱し、中井氏これを諒とした。
かくて、五時十四分、司合着宇野囲基氏登壇しー本日の研究費表竺れで経ること・朋日.のプログラムのこと・
及び.明晶功の慧宗教草丈猷展署のことについて述べるところがあつて、記念宗教拳犬舎鹿二日の是を
終った。五時十七分。
記念宗教守夫舎第〓日︵五月十一日︶
午前九時三分振鈴、司合着石橋智信氏登壇して、前日に引績き研究牽表示一行ふこと三豊E、なほ、研究頚未着
・
多数なるが故に、費表時間を大皆十分位に顧ひ、延びても十五分を恋えざるやうにしたきことを脅員には
倉員は拍手をもつて賛意を表した。
︹午前の部 研究費表︺
加藤精銅氏 ﹁文珠普資二菩薩の研究﹂
﹁牽生心琴畢より見たる宗教史の取扱﹂
九時六分より九時十五分まで十五分問。質問者なし。
城戸幡太郎氏
九時十九分より九時三十五分まで十六分間。質問者なし。中
黒任宗武氏 ﹁紳祀と宗教との関係等項一二﹂
九時三十七分より四十五分まで六分間。質問者なし。
こ⊥で、木村寮費氏一身上の都合にて遅れしため、後まわししにする由を司合着より通普、松原氏萱
抱原寛氏 ﹁ヘーゲル哲単に於ける宗教の地位﹂
九時四十六分より十時一分まで十五分間。質問者なし。司合着宇野氏と交代。
記念骨要項
記 念骨 要
項
枝村武肝氏 ﹁紳入閣鰐としての山の外者﹂
十時三分より二十介まで十七分m。質問希なしじ
蓑‖附⋮普氏 ﹁マルキシズム封シキシマノミチ。﹂
十時二十一分より三十五分まで十四分問。質問者なし。
宮本jE尊氏 ﹁軍門輩としての沸教凰﹁﹂
十時三十六分より五十二分まで十七分閤。質問者なし。
こ1で木村奉賛氏出席につき薔表を断ふ首司命者より通告。
木村春眠艮氏 ﹁部浜仰故に於け石分別上廣部の地位とその宗詫の定め方︶﹂
十時在十三分より十一時四分まで九分冊︶質問者なし。
鼓で司命肴より九時より十一時に及びし故五分闇休憩したき山を提議し、拍手賛成あり。轍ほ、今口牛後一
時より記念宗教畢文献展覚命を特に御案内御説明巾しあげ、同時に帝大附展勘案館を本革命のために開放され
ること、及び研究語末後命員のみ記念焉虞を撮ることを菰肯した。
充分問休憩.司命者矢吹氏に交代。十一時十二分挿開。一
西澤額應氏 ﹁宗教的情操の話形忠︶﹂
質問者なし、時間不明。
大村桂巌氏 ﹁最近教育畢詮と宗教々育。﹂
質問者なし。時間不明。
闊 寛之氏 ﹁日本見童の宗教意識の研究。﹂
質問者なし。時間不明。
鈴木宗息氏 ﹁俳身論に於ける報身思想の意琴﹂
先づ椎属舞匡氏の質問ありて、鈴木宗息氏との問に数次の應酬あり、更に加藤精油氏の質問ありー鈴木
れに答へた。消費時糊不明であるが、椰昔時問を要し一た。
これに先立ち、今岡信一長氏より、研究蟄表者はあと敦氏のみであるが、裸足時−−用を多少超へて㌻京故、笠
食時一時間の休憩五−省いて摂行して比如何との提議あ・り、賀成約ヰあつて・幸枝の部は午前の部に引絞いて行
はれた。司令肴鈴木氏に交代。
寺崎修一氏 ﹁奈良瑚三論宗嚢因考。﹂
零時五十一分より一時九介まで二十分闇∪加藤精細氏の質問あり.寺崎氏それに答へた。
津田敬武氏 ﹁阿獅陀浄土の至率なる肛臓とその配曾的意義﹂
一時十二分より二十七分姦で十五分=りり質問なし。
草野国益氏 ﹁宗教的本能に就いてJ﹂
一時二十八分より二十二分まで川分川。極めて㈹⋮叫に秘概のみを述ぶ′︶質問者なし。
渡遼操雄氏 ﹁伸詮琉椚としての阿合評批判の頼埴﹂
記念骨要項
記 念食要項
一時三十分上り五十草分まで二十二分問。質問者なし。司合着赤松智城氏に交代。
矢吹豊郷氏 ﹁類焼出土末俸僻典に就いてU﹂
一時五十五分よわ正二時まで充分問。質問なし。
これにて研究智東を終了し、副命長調渓了諦氏登壇、我が国畢界の重刑の盛合であつ琴︼とをのべ、研究費表
者、禽員、譜論者各位に感謝の意を表した。たほ今より附属副書館前にて記念撮影をなす故参集された誓言、
及び二時牛よわ協議愈にうつる由を抱督した。更に倉長姉崎正治氏萱堕し.感激と感謝との羽演氏に同じき旨を
\
ヽ
簡単にのべ、二暗闘分、記念宗教拳犬舎を鮭了した。
協 譲 曹
凱念宗教拳大倉の研究蟄表後、即ち五月十一日牛後三時より四時に亙り、大台の合盛において協議倉なるもの
が開催された。この禽合は記念宗教畢大倉の愈員に於いて、宗教畢研究の促進並びに聯括の方法等について恵談
の横倉を得んとするものであつて、その成果としては日本宗教拳合の創立を見るに至ったのであるが、その詳細
は後述の﹁日本宗教拳骨の成立﹂の項に記すこととする。
日
昭和五年五年十︼日︵日︶
二、記念兢賀曾要項
時
場 所 上野 持葺軒
宗教堕講塵創設廿五年記念祝賀禽は記念倉の中心をなすものである。
出席者約百七十名.青空吹奏裡に合易に着席−司倉石橋智信氏の開合の鮮に開合・賢行重点代表宇野阿基氏の
藁報督があり、次いで東京帝国大審文畢部長瀧精=巧∵京都帝国大単文嬰部代表羽凛了締氏l蹄l脇食代
表阪谷芳郎巧名啓教授井上哲次郎氏等の疏群があつた。それらの中で井上博士の祝辞望蛋暴論座創
後の事情をつくしたものであるので、第一椒にその全文を載録してをいた。
次いで、門下生柏起立の裡に、門下生絶代椎尾潮匡氏は、感思と感激とを︶めた謝警義盛創設以来の教授亜
崎正治博士にさ1げ.また矢吹匿鞘氏は記念品︵常像及び宗教輿論集︶を教授に呈上した。官僚鱒薄拙太郎氏の
肇になるもの。宗教畢論集に放てはその項を参照されたし。それに封すス妨崎教授の謝軍司合着の
て六時四十分閉今別童における睨裟にうつつた。妨崎教授の謝雛の重文は第一講じ載録した﹁祝賀
酎﹂がそれである。
呪詮の席上では二二上参吹博士、高橋順次郎博士、長井眞琴博モ鈴木宗息博士・妨崎正治博モ.小松道雄氏
三二五
等の卓上演説及び高島幸三郎氏.の宗教担講座創設廿計年記念禽を頚へるの詩の費表があつて、盛倉裡に九時牛散
紀念曾要項
合した。
氾念曾要項
時
所
日
帝大附甘固骨館廻廊
昭和五年五月十一日︵日︶
三、記念宗教学文献展覧曾
場
三〓六
−
この記念宗教草丈款展覧曾は、欧米及び我国の宗教峯現時の蓉達に至るまでの経路を示さんために、斯単に関
する文敵のうち、比較的に得易い範囲に物例を求めて、一般に宗教単に関心を有する人々の展党に供せんとする
趣意によつて企てたものである。この事糞はその性質上相嘗困難なものである上に、期白さし迫つての牽案であ
ったために、充分なる準備をと1のへる時日のなかつたに拘らす、赤松秀景氏等の非常なる努力によつて、粕皆
の成績をあげることが出来たように息ふ。
この展覚含の仕事を細別すれば
一、宗教草丈猷及び皐界事項の年表作製展見。
二、重要支線の蒐集展兇。
三、宗教草丈麻展発令日錬の作製提供ひ
四、城崎教授初期の原稿類及び欧米碩畢の吾簡の蒐集展党。
の四つに分つことが出来る。
陳列の為所は、束大圏書館の向つて左側の
日午前九時より牛後三時に至るまで開場した。なほ宗教草丈鹸展見合日録は、斯単に関する﹁日本の著竺
の著碧及び内外
その後も各蘭書館及び有志者の要求に膝じて多数掩供するところがあつた。飼ほ本目録を入手せざる人々
A乳邑0ぎei¢tyOr宮品已創立︵印度︶。
に、こ1に﹁墜界事項﹂のみを再録して参考に供したいと思ふ。
一遍−︵天明4︶
ROy已A乳註0研焉i阜Ofど已en創立︵イギリス︶。
−琵N ︵文政6︶ 哲ci訟ねL訂i邑首岳dO謬ri草創立︵フランス︶。
−00ゞ ︵同 6︶
A巴邑0野鼠e百OfJ名臣創立︵日本︶。
−00冒 ︵明治甘︶ 試買試已−Q︻RO首Ⅰ邑i巨0︵どnd。n︶に宗教蓼を講す︵イギリス︶。
−00蒜 ︵同 6︶
ー00記 ︵同 6︶−巧C昌乳=n−er邑i昌已d認○訃已已賢00バリに開催。爾後フランス其他の各地に開催。凡
そ二十同。此の頃スヰスの大草に﹁宗教史﹂開講︺
Hi穿ユFect焉辞開講︵イギリス︶。
どideぎA邑8日d冒.吉邑t−Gr邑ng芭二四大畢に﹁宗教史﹂講庄を設く︵オランダ︶。
記念骨要項
q甥已p大草に﹁宗教史﹂講座開設︵スエヂソ︶。.
−00蒜 ︵同 11︶
−慧 ︵同 9︶
ヽ
91−厨Odひ句r旨e¢︵勺賢i班︶に﹁宗教史﹂講痙開設︵フランス︶。
三二八
−笠0 ︵同 13︶
東京帝国大串文科大草内に﹁哲串合創立。数年後よ仇検閲誌刊行。
記念骨要項
一審−︵同 17︶
冒u驚l大堅に﹁宗教史﹂講座を督く︵ベルヂク︶。
、
穿0−窪d留守已窃回すd荘︵才訃︶に宗教畢部︵評象Ond法家昏e金野︼i管∈且増設︵フラン
井上囲了博士﹁哲拳館﹂を創立し﹁宗教拳﹂を講ず。
−00監 ︵同 14︶
ス︶。
−笠ヾ ︵同 20︶
G琵琶d訂eオ弓昏開講︵イギリス︶。
井上哲次郎博士﹁比較宗教皐﹂を東京帝関大畢文科大草に開講一。
−浣¢ ︵同 22︶
−翌¢ ︵同 23︶
トロ已e冒どct喜⋮n昏¢Hi賢りyO嶋Re−を畠﹁
竜○已謬㌫腎星謬r−i旨邑シカゴに開催。繹宗演、平井金三、岸本髄武太、等出席︵アメリカ︶。
の委員合成り翌々年開講︵アメリカ︶。
−聖地 ︵同 25︶
−曽∞ ︵同 26︶
岸本、姉崎、鹿田等の諸氏﹁比較宗教堅含﹂を創立。
J眉冒SO¢誉﹃OfどndOn創立︵イギリス︶。
−00冨 ︵同 釦︶
深邑FO−mにCO臼gr巾ロd軍哲iene監R2−igi空謡二開催︰スエデソ︶。
林崎教授浄土宗高等畢院に﹁宗教拳﹂関節。爾来私単に﹁宗教畢﹂を請するもの漸く加はる。
−雷叫 ︵同 30︶
東京帝国大串文科大草に課外として耕崎教授﹁宗教畢﹂開講。
大西、横井、姉崎等の諸氏﹁丁酉懇談合﹂を組轍。翌々年﹁丁酉倫理合﹂と改柄。次いで椀紬雑誌刊行。
一望芯 ︵同 31︶
ー苫〇.︵同 ㍑︶
バザに盲9n唱訂Il−tem邑○邑d.巨富Oi岩d認封各号己開催。藤島了橙、近角常穀雨師含
員た少。︵フランス︶。
曾C昌gr訂Ⅰロす巨tiO冒−d出i告ぎd圧︼gli乳Onu.ハーゼルに開催︵スヰス︶。
9琶各点盲犬皐に﹁宗教史﹂開設︵デソマルク︶。
−−苫−︵同 87︶
東京帝国大草文科大草に﹁宗教皐﹂講座開設。林崎教授姶任。
京都帝国大串に文科大草増設。同時に﹁宗教畢﹂講座を加ふ。
−貿芯 ︵同 88︶
−苫の ︵同 89︶
曾9重訂Ⅰロ才一冒雷n已d出iき5.d盛︼訂−ig︰Onnオクスフォードに開催。妨崎教授参加︵イ
﹁印度草食﹂﹁宗教草食﹂を東京帝国大勢文科大草内に組絞.
ギリス︶。
−苦り ︵同.42︶
号QO扁r釘Ⅰロ訂rnati◇ロ已d.Hi賢訂d昏]ぎーi乳8孤
謬註n大草に﹁宗教史﹂講座を開く︵ドイツ︶。
大正1︶
−∞−〇.︵同 43︶
ー¢−N ︵同45
︵オランダ︶。
訂i鼠g大蓼に﹁宗教史﹂講座を設く︵ドイツ︶。
東京帝国大串文科大草に宗教拳研究象開設。
三二九
爾後二蓼年間威崎教授H弓邑大草の招脾に焙じ同地に日本宗教史等を講述。
泣渾、嫉崎、成瀬等の持氏﹁好一協合﹂創立。
−¢−∞ ︵大正2︶
記念骨要項
ライデンに開催。石椿助教授参加
−筈鈎 ︵同 41︶
、
記念骨要項
−讐忘 ︵同 5︶
を創刊。
三ニ○
東京京都両帝固大草文科大草印度哲蓼宗教単科関係者により〓示教研究倉﹂を阻結し撥紬誌
・・
SOCi鼓とi註q占OdO謬ri鴎創立百年祭奉行。白鳥倉吉博士参列。
妨崎教授Q邑厨¢dO句夢gOに降せられ日本宗教史を講述.
京都帝国大畢文科大串内に﹁哲拳骨﹂創立。戦随誌蟄刊。
−200 ︵同 7︶
−品柑 ︵同 11︶
曾︹○ロ雪訂Ⅰ旨2邑○邑d.罠賢irQdO︼才一igiOn脚バリに開催へ︶榊亮三郎教授出席。赤於秀景
東北帝歯大畢に法文畢部の増設と共に﹁宗教拳﹂の講座を設く。
−品∞ ︵同 12︶
合員に参加。
︵以上︶
東京帝国大串復興筒音館の竣功に伴ひ英一部に文峯部研究宝仮設。宗教畢研究室も四合含仮
京城帝国大拳法文拳部に﹁宗教畢﹂開講。
九州帝国大草法文畢部に﹁宗教畢﹂開講。
﹁宗教研究﹂の組練を靖張し新輯第一巻を刊行●
闊東大霹災により東京帝国大挙文堅部宗教草餅究宝曜災む
一品−︵同 18︶
−違和 ︵同 14︶
−品﹃ ︵昭和2︶
一品¢ ︵同・4︶
建築より移樽。
−蔓 ︵臥 ′エ東京奇観大草文畢部宗教畢講座創設二十五年記念倉開催U
四、記念出版要項
大正十五年夏城崎博士在職三十年記念合を嚢起した普動から、記念論文集刊行を計暮したが、■その後
論集﹂の序文にも諭したやうに、教授は私的謝恩の催しは固辞されてむしろ公的な講座記念合としてはと
に従って講座記念の出版となつたのである。
教
上平
論
集
爾来記念宗教畢大倉、記念祝賀倉の諸計董に並行して出版計喜を進めて釆た。
宗
普初夢科卒業生百飴名及び印度哲畢励敢闘係其他教授の秋をうけられた諸氏及び宗教畢講庭に関係ある
この論集の計蓋を要義して寄稿を乞ひ、結局ガ崎教授の外に廿底の寄稿を得.昭和四年十月完成の濠定であつた
が極々の事情で出版を延期し途に昭和五年五月−記念宗教畢大倉の数日前にこれを完成して世に造った。九百五
十真の大冊、我国宗教畢廿五年の研究糞鎮の一結晶である。
序文には.この記念論文集の出版の由来を述べ、我国に於ける宗教畢桝究の夢虫的鳥取をなし、妨崎教授の主
要出版者目をのせた。
妨
絵
崎
智
正
城氏
治氏
執筆諸氏の論摩は左の通りである。
宗教的理想と生活の琴貰
赤
三三一
宗教畢の黎明時代
記念食事項
アポロン宗教の一面1アポロン.サウPクトノスの研究
稔伽脛に及ぼせる関数の影響−特に三世嘗有論を主として
宗教夢中より見たる両道の特異性
心性の鮭史的蟄達に就いて
アッシサヤの陰陽道と朝鮮の陰陽道
西域詩﹁無畏論﹂は龍樹の眞作なりや
米国人に於ける死の取念
賛在するものとしての紳
オーギエスト、コント少壮時代の論考と宗教研究
長
官
粒
木
加
碑
石
池
原
村
正
武
村 泰
藤 玄
琴氏
尊氏
雄氏
賢民
智氏
隆 浮氏
田 澄
也氏
橋 智 信氏
田
防
井 展
本
排 匡氏
波多野精
赤
野
宗.息氏
三三二
根本中の研究
佐
尾
司氏
記念骨要項
巴利伸教の特徴について
推
木
龍
淀氏
秀 景氏
原始キリスト教圏の成立とその生活
鈴
木
大
松
認識論上の併教
鈴
堰
達氏
敏 明氏
一兵
絶封意治と窓の間厚
常
・唯識哲皐に於ける因能葬具能筆の問題
俳性論尊の中心題目−無性有情について
因の三相の起瀕
人身供犠と首狩の蓉生
一二階教と日本件数
事
字
吹
野
井
囲
伯
碁民
寿民
慶.坪氏
夫
欧文宗教畢論集
右の宗教畢論奥の計警共に、姉崎教授の畢友或は宗教堕顔係の欧米の諸聾者にもー宗教
を披慶して研究の寄輿を悠腰し、海外の宗教拳闘係の諸構成の執筆になる欧文の記念論文集を計毒した︶
lそれ等の諸氏竿ペて木骨の藁計喜姦揚せられ、嘉の快諾晶たもの十罠、その萱−・チャールス・
言オツー︵穿2rl金巨Ot︶は去る三月、ジョージ・ムア教授︵冒−昌⋮○毒冒−旨且は去る末月−と
もに不膵の客と誉れ、遺憾ながら寄稿を得なかつたじその外ドテク;教授︵冒ざ○竃H邑D已買Oi凰と
ベルパルカ一教授︵冒fe警蒜珂・写已旦とは寄稿の快諾を得lその後数回督促したが未だに到着しない。
従って日下印刷を急いでゐるものは左の十氏の論文である。
DieR告d①mD邑①巳imre痘許臼2各苧⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮圭⋮︰ゴ良計喜A邑F8Al−
芽−ぎ宣旨a=n匡家苧⋮⋮⋮⋮︰・︰⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮︰冒評○昌邑A−−i宅
夢nandt許口旨季⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・︰﹃言わ宏豆∵巳訂b邑寧GO喜
Aきn邑邑邑急ぎEpiO冨与⋮︰⋮⋮⋮⋮⋮⋮蔓草声一言bき茸打in隕
ぎngデdut号⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・︰=⋮⋮︰冒−2誓二萱をn訂ま
記念曾要項
記念骨要
項
三二︰川
Re︼i的ぎl弓d旨e010gi誌−i−︼tFe肯邑註昌t〇th:Ci昌3︹叫reli争︶nこ⋮勺邑e琶r
Ed言己つ●、己○つrO
O︷︷○
舛弓r・↓⋮こ⋮︰⋮⋮⋮⋮⋮︰P♭訂巧Gきー・g紆ぎ旨買l巳H
P・
rOr寧er討已○︼f
眉官許−−①ul乙g−邑bigeヨむml一︼打k告・⋮⋮⋮⋮︰・⋮︰︰⋮︰⋮︰⋮⋮⋮
せerミGr壷¢寧藍−、de訳冒軋厨el−﹃旨lN
A笛弓害悪i︼1邑igiO苧⋮︰⋮⋮⋮︰⋮⋮⋮::︰⋮:⋮⋮⋮⋮⋮︰⋮⋮⋮︰ATCFil︶i已
謬li乳On富邑−ee苧?⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮︰主⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮守ごり雲卓円空ll邑lぎl︼−こ雪Ⅶ
伶ほ木部には﹁宗教輿論集﹂の論文を続文で概括して収録する筈で、これ等の編棋印刷の新治は口下その通年
を終へてゐるから釆箪瑚十月頃には‖版すろ頂定である。
本音に於ても﹁宗教輿論集﹂の辿りに谷毎に邦崎教授の記念焉毘壱通せろであらう。
宗教撃紀要
宗教蓼溝施創設廿五年記念曾の凡てに閲す︰′ハものの紀婆であるが、就中、記念小一ポ敢嬰大や孟芯として.その
倶
谷
丈
牡
︰丁 野 岨 室 ’●▲
増
矢
野
吹
猫
駐
三
原
枝こ減
m
敏
芯
明
席上における記念溝猥、研究蟄衣の公文を服鈷したので.記念宗教笹大倉手工として記念倉各厳にわたるものを
従としたかたちでぁる。
石 橋 智
誠
佃ほ机版闘係の委員氏名は先の如くである。
上 野 隆
石 沖 昭⋮璽
失
一
C 記
念
事
業
一日本宗教学曾の成立
先月十〓旦記念宗教畢大分麗後に行はれた協議倉の結果は、つゐに‖本︰表箪魚の創立を見るに
経過は次のごとくである。
五月十日の記念宗教畢大命鹿〓日午前の致命式後、記念命の葦行委︰=から殿㌫︰の命艮に封して、協議薗とその
議題に錮する次のどとき覚へ竿が配響じれた。
協訴愈とその節随について
十盲午綾の協試昏は、本大命の何日に放て、宗教塔研兜の促準聯絡の方法等に閲し瑚鸞芸横倉
ます1−﹂れについて爺lヨに付帯かの御粒寛があれば、前以って㌍行李−1才で椚叫⋮打つ・嘉㌫利1存じモて
常記念宙の常郡碧からは、弄だ概警あげ⋮たやうなH本山蛋堅牢憲の作品警研賛同をい・⋮き庇い心組で
円本宗教革命創立の件
登
記
念
倉
行
二三五
監
黍
n
あります。それの可否について澱め御考慮†て去やうーい山裾し号・′。
左 記
車
桐人及び咽醍の研究通路、促進のた′め日本宗教軍宙霊祀立する.
記 念
記 念
事
菜
差昔って帯業は二年毎に一同大骨を開催し聖賢義行ナること。
大昏開催地ほ成べく主要都市の持廻りとL、前厄に衣岡の開催地を決定すること。
聯絡本部は腎舟木彗蛋草野究室にて引受けろこと。
軽費は官員の官費、聴講敷によるー㌧と。
官員資格の多少の制限。
曾員は毎同官費とLて金参園を提出し、紀要の無代乾布をうけること。
役員は曹長、割合長のほか、賛行委員若干名を選出し、里香を常務委員とす。
︵詳細は協顔色に上程の時説明談合のこと︶
協議含は五月十盲三時三食開合J矢吹氏先づ前記覚へ吾のごとき彗星のべて開合の解となし、妨崎倉長
によつて座長に狽瑛氏を指名した。
豹渓氏座長の席につきー協議合に入喜、直ちに、苦行委員より塊案ありト是宗教草食創立の件を
宇野氏、豹瑛氏、鈴木氏、黒住民、高島氏、推尾氏、加藤︵精神︶氏等の間に楼芸議論があつたがー是宗教拳
骨の設立に封しては殆んど兵曹く通過−その内容時季員附托とすることに決定、その委員選定に墓少の議論
︵駒澤︶
赤
渓
抵
了
智
許
城
︵京大︶
︵京城︶
久
薄
松
田
艮一︵龍谷︶
本・悠
︵立正︶
羽
はあつたが、結局座長指名によつて次の諸氏を選定した。これ峰宗教畢の講座或は講義のある畢校
拳校閲係以外より二名となつてをる。
相原一郎介
明
︵九大︶
原 田 敏
︵青山︶
帆足理一郎
比屋根安定
︵早大︶
今岡信一艮
野
恭
囲
寛
堂
碁
之
︵臨済︶
︵東大︶
︵東洋︶
︵法政︶
宇
野
城戸幡太郎
柴
︵立教︶
︵智山︶
書
菅
龍
国
倍
︵東大︶
石 棒 智
蓑
快
闊
寛 ︵日大︶
高島平三郎
本
︵慶應︶
︵東北︶
山
喜
松 原
息
︵大正︶
陶
鈴 木 宗
細
田
加 藤 精
むち以上のどとくにして日本宗教畢倉の創立を見たのであるが、その後委託委員に於いて草案したる日本宗教
畢含規約は次のどとくである。
日本宗教畢曾規約︵美︶
一、木骨ハ宗教拳ノ研究三関係アル同盟及ビ偶人ノ研究上ノ連鮨ヲハカルヲ目的トス。し
二、木骨ハニケ年毎三岡︵日本宗教学大倉ヲ開催シ紀要ヲ蟄行ス。
大倉毎二次同開催地ヲ命員ノ協議ニヨリ決定ス。
三、合点ハ偶人ヲ単位トシ加盟国慣及ビ常頴委員合ノ推潜ニヨツテ入倉スルモノトス。−
四、合点ハ大倉毎三食費トシテ金参固ヲ境出シ紀要ノ無代配布ヲ受ク。
五.大倉ノ経費︵合点ノ合資、合畠二非ザルモノノ貯講料ヲ以テコレこ充ツ。・
六、本倉ノ役員︵含長副食長及び委員†ス。
黎
七、含長副食長︵大倉毎二番貞倉二於テ選拳ス。
記 念 事
、)
記 念
事
業
但シ副食長ハ吹田大倉ノ開催地悶横着トス。
八、委員ハ加異国位ヨリ大食毎二撃7推薦ス。
雪二八
委員ノ中五名ヲ常務委員トシ委員雪於テ互選ス。但シ次回大雪由僻地ヨ
九、聯枯木部ハ雷分東京帝国大串宗教墜研究墓二置ク。
十、水禽ノ規約ハ委員昏ノ決議ニヨツテ欒番スルコトヲ得J
二、日本宗教学々生聯盟の成立
\
二
去る昭和五年五月十日−二日、東京帝国大勢宗教箪講虚創設廿五年記念宗教歯大昏が催されたが、その時聴講
者として集った宗教関係の大串専門塾生は五月十旦竺堂に合して親睦禽を開いた。席上各拳校に於ける宗教撃
研究の現状が紹介され、またそれに封する隋臓なき意見が交換されて、相互に啓讐亡れるところがあつた。これ
を横合に、今度宗教拳々生が主となって拳術的聯盟を組赦し、互ひに研究を襲撃し、叉親睦を固少、以て若き宗
教畢徒の協同努力に賓せんとの鑓案があつた。この縫案は満劫一致で可決されて、聯盟組披に閲すろ具濃責は、
帝国大軍日本犬畢、
去月中旬より準備委員倉皇開き.聯盟規的の草案を註し、次いで作成された規的草案を勧誘状と共に金柑完致
関係の大串専門畢校に蟄迭した。九月、準備委員禽を再開して規約草案に就き更に慎重協議するところがあつ
た。十月初頭、漸く規約が制定され、直ちに聯盟牽含式の日時を定めてその準備にかゝつた︺
昭和五年十l月十五日、日本宗教畢々生聯盟の費倉式は奉行された。
加盟校は、大正大草、日本犬峯、東京帝国大草、立教大畢、立正大畢、駒津大堕、早稲田大草、藍應大草、同
志社大畢、大谷大畢の十校で、′現在の命員数は約古五十名である。
聯盟は各大拳専門輿校研究の畢生国醍を以て組摸されてゐて.宗教草餅究の促進並びに倉員相互の親睦を躍る
のが目的である。その事菜の主なるものは年一同の公開講演倉−各畢期毎の研究禽で、専務は加盟校の一校が一
・年交代でとる事になつてゐる。
三、嘲風曾の成立
夫
石
紳
津
林
照
隆
鐘
浮
楼
枯
井
木
詰
匡
英
薄
田
本
の結果、創立重民をあげて準備にとりか1ることになつた。その時に選ばれた創立一撃員は次の七氏であつた。
英
今岡信一良
岸 本
記 念
事
業
末月十八日第一同創立委員合を疲究宝に開腿.穆井氏の草案を土裏にして酎別を払少、七ケ條より放る禽則と
悠
かくて、記念宗教蓼大倉に際して催された畢科目身宥恕親分の席上において、同窓昏創設の提案があり、協議
畢科出身者の親密の度がいよ′く・−、増して発て.蓬に、同窓倉を作らうとする気運を醸成したことである。
悦ばしかつたことの一つは、この記念・曾が横線となつて、先輩後輩の連綿交渉が繁くたり.研究室を中心として
宗教畢講塵創設廿五年記念愈は、内に外に毎々の影響を増したが、その中にあつて、斯輩出身者にとつて最も
、
記 念
事
昭利五年七月
空
業
意
起
推
転
書
人
炉
匡
今岡信一艮
悪
性
宗
武
三四〇
相原一郎介
此際会団に遍き本重科関係諸氏の御協力御壌助をひたすら御厨ひいたす次第であります。
田ほ本草科開設の意義キ記念して姉曙光生に因み木曾を嘲風合と魚名いたしました。
は扱く相成めて斯草の興隆を庶幾く外は凍く相棒り相扶けて社合駒精進を揺さんことを期す
惟ふに本笹宗教蓼科創設以来二十五年、出身相Lき蓼徒日に多きを加へ、今や翠界多時武舎多難の時に万りましてほ内
に全国の同門撃徒に激することゝな匂まLた。
懇親の集りを掃きました節諸先輩方の控訴と満場の熱誠なる賛同に基き単科出身者の同窓昏設立の鎮がまとまりまLて裁
めるところであわ、お互の喜びとするところであわまT。其幣束都に集まられた宗教拳科出身者並に布撃中の拳徒が一夕
今寺開催されました宗教濁講座創設二十五年記念含が最も意轟捷き斯拳棄民の一段摺を築きました事は、贋く一般の認
趣
創立趣旨書、嘲風合々則、第一次委員等は次のどとくである¢
十月九日、創立組合を畢土合館に開くに及んで、正式に﹁嘲風合﹂は成立した。
の雅競﹁嘲風﹂にちなんで﹁嘲風合﹂と解することに決定した。僻.第三、第四の創立委員含を重ねて、途にl
委員愈を開き、禽別に多少の修正を加へ、倉の名辞について協話したが.結局、蓼科創設以来の教授姉崎正治氏
作った。更に五月二十八日、赤坂山王下の事聖において記念宗教畢大倉慰労倉を開けるを壇として、第二困創立
1
木木津井田熊木木
夫堆 塑 匡 喜 渡 英 忠
帯﹂膜 木骨ハ嘲風合卜締ス
上 山 枝 野 出 坂 村 橋
俊 正 薮 陸 =毛 道 邦 智
堆 番 犬 誠 邁 ■光 長 信
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西
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川
田
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文
悠
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慶
俊
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吹
谷
文
夫
矢
柾
谷
仁
次
比屋根垂定
秀
樽
川
健
村 古
教撃科に在拳スル畢生トス
第四膝 本官一委員若干名ヲ置キ倉務ヲ虞理ス
季員︵昏員ノ互遥ニコルモノトシ、ソノ任期ヲ一ケ年トス
ヰ
桑
撃ハ條 木骨員ハ昏費トシテ︼ケ年金萱圃也ヲ収ムベキモノトス
記 念
三田一
第五條 本昏ハリノ目的賛現ノタメ毎年一同結合ヲ開キ、含報、合点名摺ヲ竣行スル外随時集合ヲ開ク
占・山 人夫
殻
丸
部
ふ記譜英
赤
財
琴一條 木骨︵倉見相互ノ親睦ヲ計p、且ツソノ遠路提携ヲ全ブスルヲ以ヲ目的トス
村 中 三 上 小 犬 上 石
昇≡膝 木骨員︵東大文革部宗教翠科卒業生、選科修了者並二宗教拳科二期係アル者ニシテ委員ノ推薦ニコル者及ビ宗
田 野 本
諸 宗
胞
秋 一一 昭
東大宗教墨科同意書‘則
佐 藤 石 櫻 蓑 大 穂 鈴
記 念
事
葉
帯七條 本命︵各地二支部ヲ匿クコトヲ得
本
悠
村
今岡信一長
第一次嘲鳳至冨琵名
演 田
堆
︵A月C厩︶
俊
文
窪
上
埼 谷
風
託
地に畢生委員二名
宇 野
附
堆
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石
木
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智
夫
信
三四二
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浄
智
余ギルバート・ポールス
駈
松
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相二原一郎介
夫
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一雑
津
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雄
立
藤
位
俊
治
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部
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財
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田
藤
一記念宗教尊大骨出席食員氏名
溶
蟹
遠
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園
治
村
松
阿 部
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妹 蜂
部
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明
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布
海
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薬
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川
美
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清
明
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野
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音
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南島直四郎
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今岡信一良
谷
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宮
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武
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茂
常
村
小
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村
西
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中
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田
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夫
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木
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二 記念祝賀骨出席者氏名
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︵A丑C昭︶ 外三木拳科草生酪馬丁八名
三 記念骨役員氏名
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一記念宗教畢大骨役月氏名
曾 長
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其他の役員︵記録係、進行係、襲来係、接待係、新脚僻、受付係、案内俸、曾揚怖、文展俸、聯路傍︶
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二 記念就賀曾役月氏名
司 甘 石
皐他の役貞︵鱒録係、受付併、記者僻、菅栄併、寄露伴、着席係、接待係、聯絡保︶
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相原一一郎介
四 宗教撃講座創設廿五年記念合字附者氏名
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重
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疾
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茂
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田
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石
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凹
良
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川
澤
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石
誠
龍 絆
京
京
茂
胡 装
林
干 泡
借
宮
帆足現一
一
今岡
入 澤
助 詮 男 堆 僻 招 成 汚 景
辺 俊 正 秀
明 逸 一
嫁
俊
罷
清
畢
甲
伊
嬰
藤
柑嶋
準
行
三
金
伊
倉
藤
団
成
円
冶
金
藤
田一京助
伊藤告之助
石
藤
加
金
伊
山
澤
藤
幹
韮
堆・ 亀 谷 凌 雪
釣
文
辞
治
山
正
美
紳
藤
正
冤
生
加
卒
龍
臣
幹仙
紀
村
安
繋
扱
信
木
仕
次
斌
紳
行
忍
藤
日
啓
澤
藤
近
麦
行
陰
加
泣
揖
田
茂
林
唆
管
式
行
霜
幣
和
武
出
義
男
田
藤
逸
小
調
正
布
三郎
加
川
相
廓
口
田
義.二
松本文
智
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辞本龍夫大
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