龍樹天親の法華経観の再認識

龍樹天親の法華経観の再認識
∴
蔀浄三赦はその﹁南港寄錯停﹂︵巷一︶に
山
智
應
︵合
天親龍樹、内鑑冷然。外撃時空各棟所レ接。両人師偏解、畢者筍執。途輿二失石↓各撃一逮可大学空夢
楷樹大観の法華裾槻の再認誠
一︶に日照三蔵の詮を引き、中観、玲伽におの︿三時敦を立つることを、
と、外形は異るも、其の内容の合すべきあるをいつてゐる。また賢首法蔵大師は、その﹁大乗起信給養記﹂
也。
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と、龍樹、無着繭大士の教系の合すべからざるをいひ。天台智者大師は、﹁摩討止観﹂︵巻五︶に、
之、幸無レ琴鼻白割叫
結即位行則倶升1疲岸↓棄背則並溺二生津可西国埜行、理撃諦競可改野悪日↓詐撃是非可任二久習︼而修レ
斯並成撃聖教↓執是執非。同契轟架↓何虞何倍。意在下断二除煩悩↓按巌衆生加畳欲下廣致二紛転↓
所レ云大乗、無レ過﹂姦讐一則中観、二乃稔伽。中観則俗有虞杢、慣虚如レ幻。稔伽則外無内有、事
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龍樹天親の法華経親の再認誠
二
天竺囲三蔵法師地婆討準暦日三日照一:⋮・予親開。翠玉、近代天竺郊蘭陀寺、同時有二二大徳諭師可一日三城
軍一口二智光1。:褒垂天竺↓各一人而巳。遮断衰宗異、立教互逮。謂、波賢則、速筆弼撃無着↓近撃
藻草難陀∵鱒東森等控、稔伽等論づ立二三種敦叫以二液相大乗↓撃虞了義︼。謂、怖初鹿固持二於四諦小乗法
輪↓詮有馬法、徒レ終生叫以破二外道日代困莞叉由こ終生姦二人我巌、撃彼外道、詮レ有二我莞然猶未レ
軍法無我讐郎阿含経等。第二時中、錐下依二偏計析執↓両軍諸淡白性皆竺御中彼小乗加然於二倍他由成↓
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森田初唯
拘束レ詮レ有。即諾部般若。第三時中、就二大来室竺具撃三性三無性等↓方撃轟撃即解深密控等。是政
於縁生港↓詮レ有、即撃布達両次唯詮レ彗郎撃基連ペ眈各曙レ逮。供非二了養叫後時異説所執性
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茎、飴二鳥右、契二合中華方撃了義可此依二解深碑撃判。二、智北論師、遼東二文殊・龍樹↓近稟二捷撃
清軒↓伐二般若等控、中親等寧亦立ニ≡致叫以レ明二無相大軍二軍衰了義叫謂、彿初鹿園、撃諸小林↓撃
於四諦↓明二心境倶有相次於二申時二撃彼中根∵軍法相大乗↓明二項垂心有−唯識道理巧以下根粉雪未誌レ
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・即是仕手等一莞是政釦
以義怖壷此虞挙故、猶撃保有↓而撃引之可後時方就究寛大粟↓撃此終生﹁
初則漸、破二外道自性筆故軍国終生港、決定是有叫攻則漸破二小乗繚生茸有之執↓故撃依他閃株保有可
令レ入一事等眞基↓改作真説叫於二第三時二撃上襲撃錬相大乗↓輝こ心境倶牢乎等蒜ご箪責了義珂叉
ヽ、ヽ
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刊二法相大乗、有所得等〓㌘第二時.非衰了撃也。此三数次第、如春光諭師、般若燈論群小、引二妙智撃
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詮加
と示し。而して此む雨完の矛盾に就き、無骨と無木骨の二義を轟げ。無骨の義は、これ﹁大智度論﹂の柑悉慣ゎ
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小む、各々馬人悉概、﹁庫大東論﹂の四意趣の中の、衆生意欒意趣に基く.封機の相異であるから・和命するを要
龍樹大観の法華親敬の再認該
といへるものでないかとおもはれる。而してその同右記悟とは.即ち﹁法輩経﹂を以て、彿陀究克の秘密無上
師の如く、異れる基準において無不合をいへるものでなく、寧ろ同一の基準においての同一の詮悟を、内鑑冷然
さらば天台大師が、天親龍棟内鑑冷然といへるは、いかなる意味に於てゞあらうかと薮ふるに、それは賢音大
〓
斯の如尊意昧よ少の言なるべきかを考へると、寧ろ共の然らざるが思はる1のである。
約し、稔伽唯識を以て棟数と馬し、中観無相を以て寧ろ茸教に属してゐるが、天台大師の内観冷然とは、果して
仮有な少とし、経りに因縁生皆是れ性基を顕はすといへるものぞと説き。更に賢首は攻節に於て、樺教・茸教に
二乗をして大乗に入らしむること能はす、経りに轟く大乗に入らしむ。初めは因縁生を賓有とし、攻は因縁生を
すことの増徴より推究するが故に、初めは但だ小乗の釜、次些二乗併べ説き、大小通じて益するも、未だ趣寂の
する音数、此は具に三乗を説き、苗機の敦を具すとするのであゎ。智光論師は、衆生利益の漸次と、眞理を顆は
故に、小薬と般若とは、各一類の横を擁するに過ぎす、深密等は大小の両横を擁す。また彼は各大小の一概に封
を諭する基準の典るに因る。戒賢論師は、これを横を接するの寛狭と、商機に封する音数の具開から論究するが
と同じい。無不倉の養は、戒賢・智光の両論師が、此の如き矛盾の主張を馬せる所以は、畢蒐して了義・不了義
せす、各利益してゐるものぞとするので。これは養渾三瓶の壷、及び天ム‖大師の、碁柿に擦る桝あり﹄とする
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龍樹大観の法華経観の再認誌
粟なりとしてゐたもの1如く推想せらる1のである。
之力用也。
且唖、永野反復叫語数主研レ棄、諸腔方薬不レ行。今則本併智大、妙法葵良。色身不レ衣、如・揮琉璃刊内外色
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共耳一時、撃十法界鷲其舌一時、随二一切類↓演二璧日聾∵今二切開叫能以二一雄↓縞馬中泉用皿如是今経
像、悉於旨硯。争一心智不義、開二示悟三入仲之知見ペ令下客作購人、付二菩提豪華高原陸地、授二伸連票
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死人∵拾則不義。二乗夜身滅智、萩レ身則色非二常任叫滅レ智則心慮巳壷。焦芽敗種、復在三高原陸地?眈聾
智嘗挟峯、方薬無レ用。至茹畠契能冶間彗此則焉レ易。間接心智不レ滅。夫有レ心考皆軍作俳句非一衰
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二乗怖二長生死↓入基取レ詳。生=安穏畢生一己度想ご讐三無馬坑↓若死若死等苦。巳如三敗種吏不二還生可
とり之を治す。即ち如木内詮あ境界を開顕したまふ所以であるとし、﹁法華玄義﹂︵巷九︶に
心である。然るに二乗は衣身滅智して、その心を亡す。これ最も治し難く、諸控の施す能はぎる所、﹁港華控Lひ
併せざるものなし、悪人女人皆ひとしく心を有す。患を作すの心はまた菩を鴬すの心、迷へる心はやがて悟りの
受決作彿を以て、﹃婁レ毒倉レ薬﹄とせる語を引き、﹃心彿及衆生、是三無差別㌫故に、およそ心あるものは成
控絶無の法門で、﹃難レ拾能拾、稲レ之焉レ妙﹄とするについては、しば︿龍樹菩薩の﹁大智慶論﹂の、阿蘇漠
代語群に超越し、諸経を牧擁する所以の教義として、唯有一乗を主張してゐるのであるが、其の二乗作俳こそ諸
の二乗作彿諸放資相を中心とし、本門において寿菩⋮の久遠賢成三世釜物を中心としー此の連木二門を以て、一
何故にかくの如き推究が成立するかといへば、衆知の如く、天台大師の﹁法華準﹂観は、迩門において方便品
四
とい払、また巷六に
0
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無心成彿。此則内外谷屠妙。
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っ
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浮捏架不欒。如二控如来如茸知見三界之相︼故。控具t重義↓諭出三共義刊不レ作二上梓忘争争一経論一耶。
二、報俳書捷、十地満足、得■東壁警如二控我賛成俳巳釆、無量無逮劫︼故。三、法触菩提、謂、如来赦性
論云、示二硯成大書接無上一着、示二三経書捷ぺ一、應化菩提、随レ所レ應レ硯、郎馬示現。如三控出二繹氏官姦。
身なりとする時
身﹄にして、﹃法華之前、亦明二囲如来哀、同是迩中開詮耳。蟄迩拓本三如来者、永琴藷撃﹄ところの無上の俳
るを排し、一身即三身、三身郎一身、三身郎一の如来。支倉轟便に従って特に中心−竺止つれば、﹃上其下契正在報
薔量品を絆して、倍叡・道朗・慧観・道生等が法身を以て梓し、光宅法雲等が紳通延詩の應身を以て解かんとせ
蒜景品観に就いては何の引く所なく、却って天親菩薩を引いてゐるのである。すなはち﹁港聾文句﹂︵巷九︶に、
発しての内鑑は、﹁法撃控﹂を以て、秘密最深の無上粟とせるものなることが示されてゐる。だが天台は、龍樹の
いひ、或は﹃龍樹、於二大智論中牽墓忘鱒甚深又触豊といひ、龍廟菩薩は、般若・中観を弘むと雄、畢
といひ、また﹃繹論⋮第百巻云、法葦是秘密、般若非二秘密可焉レ不レ明二二乗作彿一﹄、﹃論云、如用レ毒焉V薬﹄と
0 0 0 ︶
心倶敗、共於二五欲∵準所二復堪ヅ︰⋮今於二浅草品目得二作彿↓此希有事。最上欝王、欒レ毒焉レ弊。能治二敗種
一切有レ心、冊常∴作併用間接不レ断レ心、狗有二反襟↓作彿何難。二乗茨城。滅レ智則心誼、衣レ身則色轟。色
ブタJ7
と説いてゐる。けだし天親菩薩は、その﹁法華論﹂において、二百以上の法門を開かれてゐるが、就中一項日中
幣樹大観の法華経観の再認識
五
龍樹大瓶の法華経視の再認識
六
最も多くの語を費せるものは、箕に天台が﹁文句﹂に引ける、十無上の中の第八の成大書捉無上の法門で
今その全文を紆けば
八考示二硯成大菩提無上一故、挙一塊三種仰喪品苛一着、示二硯應俳書撃随レ所レ應レ見而馬示現。
如奔出二樺氏官︰去二伽耶城示レ遠、坐二於道場”得レ成申阿持多薙三衆三菩翠政。二軍示二硯報俳
行満足、得■常捏輿琴故。如レ控、善男子、我賛成俳巳釆無量練達百千高値邪由他幼故。三者、示二
捷叫謂二如来蔵性浮淫楽常恒清涼不欒等轟可如レ撃如釆如レ茸知=見三界之相珂乃至不レ如三三界見あ三界姦。
三界相者、謂衆生界郎捏棄禁不下離二衆生畢布巾如来赦上故。無レ有二生死若返岩出哀、謂二常恒清
政。亦撃在せ及滅度衰、謂下如来蔵虞如之礎、不レ郎哀生埜不義二衆生軍政。非レ茸非レ虚非レ如非
000000000
故。是故琴言下如来明見無宥二錯謬壷、我本行壷醸造︼今狗末レ浦軍以二本願l故。衆生界未レ琴願非二究
謂撃四種相可四種相者.是無常故。不レ如三三界見二於三軍考謂払如来能克能義眞如法身↓凡夫不良
0000000000つ
克”些至未満叫非レ謂二菩捷不満畢也。所成寿命復倍三上敦哀、此文嘉下硯如来命常、手巧方便期中
過二上敷畢不レ可二数知蒜評宗レ詳欝三脚郵都、卿即押郵貯軒評蒜蒜酢宗卸町
とある。嘗て清水柴山師は、その﹁法華経概論﹂において、天親は洪身正軍天台は報身正意、日蓮は應身
と説き、﹁港華論L﹁港華文句﹂﹁御義口俸﹂を以て之を許せんとせられたが、而かも天親の此の文を見るに、決して
法身正恵とすることは机来ないのである。何となれば、此の三梗菩提の、勝報二彿は初めに略説し、港俳
やゝ解説してあるが、その法俳菩捷の文は.﹃是政寧言加東明見、無右二錯謬飯﹄までで、以下の﹃我本行平藤
ルポ
道.ケ獅末適者⋮・非レ謂二菩提不満足一也﹄は囲行の本鹿に約し.﹃桝成語命、復畔上数・:・過二上敷”不レ吋二敷
知﹄は報應の化物に約し、而して最後の﹃我浄土不毀而衆見焼轟音、報俳如来眞貴浄土、第一義諦之囲織故﹄は
常在冨山の木俳を以て、報身なりと結論してゐるに斉しいのである。されば天台はこの他.十七名・十三甚深・
七喩・三千等・十無上、乃至.四種整聞等て多く天親を任用して、或は﹃彼論解二伸経↓今疏冥符ユニ撃可レ
謂下輿二修多薙・優姿接合一骨合上也﹄といひ、或は、﹃論輿レ今、養相應﹄といふ等.天親書醸は、﹃外連二時事﹄凌に
おいては、稔伽・唯識を説くと錐、その内鑑は、龍梯と同じく、﹁法華経﹂を以て、虞茸無上莱となすものとして
ゐることが暗示せられてゐる。
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簡樹大観の法華経観の再認誠
七
﹁大智度論﹂は、もと全課せば千巻に及ぶべきを首巻とたしたとせちれてゐるから、その本経たる﹁大般若経﹂
いて菩薩の﹁法華経﹂税を見るを、最も安富とすべきが如くである。
﹁大品般若﹂の梓諭とはいへ、その内容は寧ろ大小乗の通申論ともすべきほど廣博なものであるから.それにお
評論﹂及び分別明菩薩の繹せる﹁般若燈論﹂比丘自在の樺せる﹁菩提資糧論﹂等があるが、就中、﹁大智度論﹂は
龍樹菩薩の撰述の漢詩は、﹁大智度諭﹂﹁巾諭﹂﹁十二門論﹂をはじめ、﹁十任艮婆沙論﹂﹁十八重諭﹂﹁宝輪慮迦論﹂﹁同
三
て、無上粟と焉せるものとすべきや否やを概観せんとするものである。
此の一小箱は、潮つて龍樹・天親の繭大士の﹁法華経﹂観は、果して天台大師の解するが如く、﹁港華控﹂を以
●
髄械大観の法華雑観の再認故
八
或化俳詮、或大菩薩詮、或聾聞詮、■或諸得道天詮。是事
所謂、本起経・断一切衰生疑経・華手軽・港華経・雲経・大要経・港雲脛・摘勧閉経二ハ汲羅蜜経・摩討般
の廣博−たることは∵諭中におのづから示されてゐる。すなはち諭巻四十六に、諸大乗経を引例して.
〇〇〇
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若波薙蜜経、如レ是等無量無凌阿倍祀経。或俳軍
和合皆名二摩討術べ此諸経中、般若披薙室長大。
と、般若波羅蜜経が諸の俳経中の最も大部の控なることをいひ、更に此の﹁磨討般若波羅蜜経﹂のみが般若波辣
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諸除菩港、入二般若波薙蜜一着、是諸餞経、所謂、港華経・密迩経等十二部控中、義同二般若一着、錐レ不レ名寧一
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蜜なるにあらす、諸傲の善港はみな般若波羅蜜の中に入るべきものであ少、その場合には﹁.港華経﹂もまたこれ
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般若波羅密であるとて、第五十七には
ヽ
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般若波維蜜群↓然義理卸間二般若波薙蜜ペ
といつてゐる。彼の﹁港華﹂分別功徳品に、一念信解の功徳は、八十寓億郭由他劫の問、前五波薙蜜を修行せる
功徳にも優ると説く時、特に般若波薙蜜を除くとせられてゐるのは、蓋し﹁法華﹂もまた般若波薙蜜の一なるに
因るのであらう。故に深般若波薙蜜は、俳母の茸相、成俳得道の捷疾路.三世諸俳は、みな此の中よ少出づとし
乃至、聾聞の薦めの詮改も.ま舟みな般若を讃するものなりとて、第七十九には、左の如くいつてゐる。
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是探般若溢赦、是十方三世諸俳母、能争−入疾至二俳道ぺ如二経中詮↓三世諸彿皆琴一般若毎。乃至亮∵啓開人一
語レ法、其中骨是讃二般若事叫
而かもまた、斯の如く鹿養に般若を見る時は.おのづから大別して二種の般若を出さゞるを得ざるに至る。故に
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諭の第三十囲に、控の
﹃我箇羊於二菩捷樹下−坐、四天王天乃至阿迦佗咤天、以一天友一巧手座斉、常レ準般符波羅
蛮∴㌻を膵する†に問答していふ。
関目、何以根嘉㌻諸天敷衣↓不レ準一十方諸大菩薩焉レ仰敷・レ座。請書薩等、仲野政道一時、皆焉レ彿敷レ座、戎
麻長一巾旬、十育†萬倍乃至無量由旬。高亦如レ走。此諸賓座、是菩薩無漏栢徳生。故是諸天、目桝レ不レ見。
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答R、般若波薙蛮.有二二種ぺ一着、輿二草間菩薩諸天一共説。二者、但輿一斗住具足菩薩l誼。是般若波羅蜜
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仰視手解。十方三≠諸俳、降魔■得道、肝臓僻事、竹悉照見、誓如二明鏡叫如レ是妙座、何以不レ誼。
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中、應レ誼二菩薩焉レ仲野レ座。所以対向。諸天知二伸思↓不レ及二一生二生詔大菩薩ぺ如レ是菩薩、云仰不下以・赫・
ヽ︳ヽヽ00
通力︼而供中東彿加︵而︶是中合二聾聞l詮、是政不レ誼。
また第四十一に
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般若波薙蜜有二二種刊一着共壷聞菩撃合説。二者、但輿二諸法身菩優森。苧難率故、命二須菩哲男首、
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及二摘勒・舎利弗■繹提桓困可
また第七十二に
般若有二二種刊一着、唯輿一夫菩薩一説。二者、三乗共誼。共姦画一詮申、須菩提是怯レ彿生。但輿二菩薩一説時
不レ誼二須菩提随レ彿生叫何以故、法性生身大菩薩、是中無レ有二結発生身珂但有二攣化生身↓滅二三毒−甲三界↓
教一一化衆生再浮∴彿世界ぺ放任二世問↓此中郡無二一切啓開人ペ
とある。即ち般若波羅蜜聖一種に大別し、三乗と共なる般若波薙蜜を﹃共般若﹄といひ、濁り菩薩の焉めに説く
龍樹大親の法華㍍粗の再認識
九
龍樹天親の法華経敬の再認級
0
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と同共せぎるが故に、﹃別敬一粟﹄なりといへるが如き、此の﹃共般若﹄﹃不共般若﹄の扱ひに類似せるところがあ
り、惑ふ者のある握れがあるからである。
四
﹁智庇論﹂第百に、控の嘱累晶に、般若波薙蜜を、阿難に喝具せられたろに就いて、四番の問答がある。其の
0 0 0
第二林間答以下は、此の問題に就いて、鼎常明瞭なる答を暗示するかの如くである。まづその節二番の問答にい
、0 ゝ♪
閏〓、阿新見智聞人、付出以二般若波羅軍帽異、而不レ咽一・累摘勒等大菩薩ペ
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〇
謂師い如き、華厳・法華を同じく一乗と馬し、﹁淡華控﹂は二乗と同共せるが故に、﹁同数一乗﹄、﹁華厳経﹂は二乗
果していづれに扱ってゐるであらうか。これ常然起るべき問題でなければならぬ。何となれば後に支那華厳宗の
波羅喪わ山÷あるとすれば、それは﹃共般若﹄に廃すべきものか、﹃不共般若に廃すべきものか。龍樹菩薩は、
とあ一心如きもので、此の﹁不可思議解除経﹂は﹁華厳経﹂の別名とせられてゐる。﹁絵筆控﹂も名は興るが、般若
撒、管如下坐渾人人二一切鹿足中↓能使t二切皆水皆火↓而飴人不古見。如二不可思議解脱控中厳談ぺ
0俳0
00000000000000つ00COO00000
撃諸大菩薩↓撃不可思議解脱粁ぺ舎利弗・日蓮在二彿左右高不レ得レ聞。以レ不レ種卜是聞二大兼行挙国線上
なはちr大品般若﹂等の諸部の般若であるが、いはゆる﹃不共般若﹄の例は、論の第三十三に、
般若波羅蜜は、これを﹃不共般若といつたので、此の場合、二乗・菩薩・諸天を共じて説く﹃共般若﹄は、す
●
答円⋮︰・弼勒等譜大菩薩、仰滅度後.各々分散、事由桝レ應鹿衆生閣土り弼勒箪一兜率天上”此度羅紐・文
殊帥利、亦字面應レ庇衆生鹿”俳文以三光誹菩醗、深知一般荊波線蜜力﹁不レ須∴弊喝累ぺ阿難是馨聞入、随二
小寒讐是政仰感熱嘱異。
﹁大般若波羅蛮多控﹂は大乗の経で哲る。何故に諸ゐ大菩薩に付嘱せすして、阿雑食者に付嘱せらる1か。此の
疑問に封して、諸の菩薩は、繹尊の化導を扶くるために婆婆世界に来れるも、俳の捏架の後は、各またその應化
すべき靡に往いて其の化を垂れねばならぬ。﹁大般岩波羅蜜多控﹂は、二乗の人須ギ捉を首めとして、よく之を用
まゞ
ふることを得る。故に阿難に付嘱したまふ。且つ菩薩は深く般若波羅賓の力を知り、おのづから之を護念する。
努はしく鳩巣するを須ひないが、阿難等の聾聞の人は、もと小薬の人なるが故に、大乗の般若に於いて心斯かる
っ〇〇
● ところあるを免れぬ。此の故に嘱具すといふのである。そこで、然らば何故に、法華経及び諸多の大乗控は、菩
薩に嘱具せられてゐるかと、第三問答が来る。いはく
○つ0つ〇
間日、若爾者、法華経及諸詮方等控、何以嘱∴累菩王︵等︶諸菩薩等ぺ
〇〇〇〇〇〇
答日、有人言。是時俳撃甚深難信孝讐聾閑人不レ在。又如私寧不可思議解脱撃五百町薙準雉レ空彿
凌い而不レ聞。或時得レ聞而不レ能レ用。是政嘱二男請書薩叫
0000
此の答の中に三重がある。第一は、聾閲、座に在らす、すたはち聞くことなきが故に、付嘱せられる筈はない。
第二は、窄聞、座にあれども、野の如く唖の如く、何等聞くところがなかつた。これまた付嘱せられる理由がな
レ。以上二義は、﹁華厳経﹂の如きが直接の例である。第三は、聞くことを得たるも、用ひること能はすとある。
龍樹人軌の法折井組の再談論
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龍樹天城の法華糾敬の再認識
一二
間くことを得たるは、聾聞の在座を記し、且つ解悟するを待たるを示す。而も用ひること能はぎるは、﹃甚探難
信之法﹄なるを示し、かくの如き溶こそ、﹁法華経﹂なることが暗に示されてゐる。こ1においてか、第四の問答
に入って、それを今一骨明確にせんとするのである。諭にいふ。
問日、更有下何港、甚探勝二般若︼者山而以二般若∵昭二累阿難叫而餞控、嘱∵累菩薩可
答日、般若波薙蜜、非二秘密法刊而法華等諸控、誰二阿羅漢受決作彿↓大菩薩能受持川。壁如下大薬師、能以レ
毒焉鯵薬。復攻、如二光説︰般若有二二種璃一着、共二啓開一説、二者、但馬下十方任l十地大菩薩上線。非二九任
00000000000〇〇っ〇〇〇〇〇〇っ0⊃〇〇〇UOO
0000000000000
〇 〇
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〇 〇 〇 O C 0 0 0 っ 0
つ 0 0
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所聞↓何況新畿意者。復有二九地所聞乃至初地所聞↓各々不レ同。般若波羅蜜、絶相定一、而深溝有レ典。是
政︵此怒︶嘱二累阿難↓無レ答。
と。﹁般若波薙蜜多控﹂吼秘蜜の法ならざること。厳重の般若波羅蜜中においては、璃霹の法なるこ上を説き、さ
らば、いかなる法が甚深なること般若に勝る1法ぞと索めて、﹁法華経﹂等に阿羅漢が仰の記蔀を受けて成仰を決
せるは、眞の甚深秘密の法であつて、馨聞其の座に在り、また具さに之を開くといへども、之を川ふること能は
ぎるは、勒持品に他土弘控を誓へるも、此の土の弘控は堪へすとして之を避けたるに明かである。この故に彿、
﹁法華経﹂を麗蜘に嘱具せすして、菩薩に付嘱したまふのであるとの義、ここにおのづから示されてゐる。而し
て以下に、般若波羅蜜に、﹃共・不共﹄の二種あることを重誼し、その不共においても、十地の桝聞乃至初地の桝
聞、十任聖坤聞乃至初任の析聞等々の深浅の差別重々あることを説き、今め﹁般若波薙蜜多控﹂は、﹃共般若﹄に
して、而かも盤脚また用ふることを得るの般若なるが故に、之を阿難に鳩巣するに各なきなりと結してゐる。
Jク.タイ
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以上の問答に依るときは、﹁法華控上は、完ハ般若﹄なゎヤ、﹃不北ハ般若﹄なりヤといふに、﹁法華経Lは準用の座に
あるに約すれば完巌声﹂の如くであるが、葦はそm峯閲む化して悉く菩薩とし丁れろもむであるから、粁にも
﹃教菩薩法、俳桝護念﹄とも、﹃於諸菩薩小↓正直拾二方便↓但詮無上道−﹄ともある。故に上引の論文に、﹁法華
経﹂等を何故に書王等の詔書薩に嘱果するやの答へに、﹃俳準一甚探難信之準﹄と奉げ、その下に、峯Ⅲの不在座
と、在座といへども如撃如唖と、在座得益すといへども用払る能はぎると三種を蓼げられてゐる。而して﹁法華
経﹂は其の夢二に雷ることは、論文眈に明かであるヵすなはち龍樹芋薩に依れば、﹁法華経﹂は審問在席得益の形
は﹃共般若﹄の如くであるが、その啓開は直ちに肉身の菩薩として、法身の軍陣と同じく、唯一淡味の′得益を受
くるがゆゑに、資質は唯菩薩法の﹃不共般若﹄の如くである。聾聞共に聞いて得益するゆゑに﹃不共般若﹄とい
ふべからナ、聾聞みな菩薩と化するがゆゑに﹃共般若﹄といふべからす。然らば結論して何といふべきであらう
か。龍樹における﹁法華経﹂の資格は、この下において決せられねばならない。
五
論文の嘱累を諭する経りの﹃復次﹄以下の如くむば、龍樹芋薩は、﹃不共般若﹄の中には、十地の菩薩の所聞は
九地の桝聞に非す。九地乃至初地おの︿其の境界の桝聞あることをいつてゐる。さらば、﹁法華経﹂は甚深難信
俳法於二五大不可思議中一毅第一︵不可思議︶−今言二漏慕阿羅漢、還作レ彿︵是︶唯彿能知。論議者、正可レ諭二
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の法として、いかなる菩薩の所聞であるかを考ふるに、論の第九十三にいふ。
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龍樹大観の法軍歴横の再認識
ノク.;占
龍樹天親の法華詐取の再認識
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其事↓不レ能二測知叫是政不レ嘩政論叫若求二得体︼時、乃能了知。傲人吋レ信、.而木レ吋レ知。
﹁法華経﹂に説けるが如き阿羅漢の成体は、唯だ仰のみの所知であつて、論読者の測如し得べき分際ではない。
僻地を求め得たる時、乃ち能く了知することができる。餞の等党十地の菩薩も、たゞ信すべきものにして、彼等
の慧を以て知るべき境界ではないといふのである。
何故に阿羅漢の成俳は、斯の如く不可思議なるか。唯これ仰の墳兇にして、菩薩の境界にあらすとせらる1か
蓋し﹃心俳及衆生、是三無差別﹄、心よく仰となり叉よく衆生となる。若し心あるもゐは間接もなほ難しとしな
い。阿羅漢は心を滅無してまた生ぜざらしむ。これその最も治し難きところ。法華ひとり能く治す。菩薩これを
受持し用ひて弘通に堆ふろも、拳闘は自行にこれを受持し得るも、弘通においては受持し用ふるに堪へない。何
となれば、聾閲は﹁法華痙﹂において、菩薩と同じく一乗数に蹄して自行に之を用ふるも、長く孤調解除に慣れ
て、化他m難わに練れない。然るに此の﹁法華経﹂は、﹃如来現在、狗多怨嫉、況滅鹿後hとあれば、聾聞之を用
ひて他た化する力なし。故に此の土の付喝に預らないのである。
ヽヽヽヽ︳ヽヽヽ︳ヽ︳ヽヽ
ヽヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ︳ヽ
元来、﹃共般若﹄と﹃不共般若﹄との目は、草間と菩薩とを興るものと認めての立名で、根性の不融よりいはる
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1も〃である。然る鑑今の﹁港華控﹂は、敗種・壮⋮井・破石・探院とせられ舟る帯川をして、化して菩薩となら
しめた。すなはち﹃共般若﹄﹃不共般若﹄の目を超えしめ、唯一甚深不可思議の彿帳若に開粧せしめたるもので、
ヽ ヽ ヽ
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﹃共般若﹄ ﹃不共般若﹄を止揚せる経典なることを暗示せるが如くである。而Lて更にそれを紆援立て得るもの
は、この﹁大骨庇論﹂における仰身観である。
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迩門の誰が、二燕と共なる﹃共般若﹄の形に即して、二乗釦菩薩となり、但菩薩の﹃不
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華﹂涌出品の誰相とを示し、おのづから此
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龍樹人親の法華経椒の再認識
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されば諭の第三十三に、控の﹃復東食利弗、菩庫摩調塵、欲レ在二一切啓開躍夏仰前︰欲レ拾∴情緒仰︰欲レ箪諦
にす、
仰内庭品禦欲レ箪天界嵐”欲レ拍二幸醍春帰︰欲レ招洋捕人埜常レ里t融打沈雄琴㌧む押
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†誹伸鈴丹
内容嵐・大谷帰む論じていふ。
欲レ箪藷併給佐一者、如二繹迦文俳一未二州宏一時、申匿拾使、優陀耶戯笑、耶枇耶一耶机陀等諸株女、箪一内
幕嵐ぺ出家古ハ年苦行時、五人給使。得レ道時、弼菩羅陀・須邪利多羅・阿難・密迩力士等、是名三内森高霊大
葬足者、舎利弗・日蓮・摩河迦薬・須菩提・迦杓延∴︰Ⅲ棋郵・阿泥慮豆等詔聖人、及摘勒・文殊師利・牌陀
婆羅、諸阿枇銀致、一生補慶菩薩等、是名二大脊嵐現
役次、沸石二種身り一斉、法性生身。二者、随世間身。世間身脊鳩、如二先謀り法性生身者、宥∵無量無数
阿倍砥一生神慮菩薩一侍従。所以者何。如一示可思読解眈控︼例説卜欲レ生時、八萬川†一生補塵菩薩、在レ前導
菩薩壷レ後両川。讐如車陰雲亀むパ。叉如二法華絆↓説.綻レ地桐申出菩薩上等、皆是内幕展大脊屠。
﹁法華控﹂は、其の阿羅漢成俳の誰、すでに﹃共般若・不北ハ般若﹄を止拐統一してゐるのみならす、其の教主ま
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一である。而してその﹃不共般若﹄の仰なる法性生身において、﹁不可mル読解睨控﹂即ち﹁華厳﹂の誼州と、﹁法
、 、 − 、 、
門は陪世間身の俳陀であつて、その迩門随世聞身の俳陀に即して、本門の法性生身の仰陀が鞭はれてゐることは
たこれに依れば、﹃共般若﹄の随世間身と、﹃不共般若﹄の法性生身とを止揚統一してゐるのであ去。すなはち迩
ヽ
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龍樹大観の法華経観の再認識
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ぐ﹃雲ハ腔粁﹄が即び、がが仰がが肝ぐ鮮㍗鮮〃がγ鮮ずヾが㌍㌢が、阿即軒鮮肝㍗㍍でぴてがぴザが㍍榔
控の優降を表はしてゐるのと、同一揆ともいふべきではないか。
かくの如く解し来れば、天台大師が、二乗作彿と久遠茸成とを挙げて、以て﹁法華経﹂の眉目と焉し、一代詩
経の蹄結とせるてとは、龍樹菩薩の﹁大智皮論﹂の思想と、最もよく符契せるものなることが了解せらるゝので
六
控﹂﹁金剛般若経﹂﹁十地控﹂﹁道教控﹂﹁捏類推﹂﹁畿菩提心経﹂﹁一勝思惟梵天肋間控﹂﹁文殊師利閉経﹂﹁繁華控﹂
っぎに、天親菩薩の﹁法輩控﹂観は、既に﹁法華経論﹂が漢謹せられてゐる。鐸経論としてはこの外﹁撫養詔
ある。
■
﹁特法輪痙﹂等の群論。適中諭としては、﹁蹄大燕諭繹﹂﹁中速論﹂﹁供合論﹂。別申論としては﹁唯識論﹂﹁彿性
論﹂等が現存してゐるが、就中、﹁無量語釈論藤生侶﹂の信仰的なると、﹁妙法蓮華拝牽波鹿合﹂の無上法門を骨
張してゐるのとは、最も著しい時色あるものである。何となれば、他の謂論においては、かくの如き信仰的の文
節と、かくの如き法門光揚の積柚的なるを見ないからである。
概していへば、他控の繹論は、其の控の説相を讃歌して、之を種々に分別開示し、或は領解を深刻ならしめ、
ヽ︳ヽ
ヽ以
ヽて
ヽ全
ヽ沸
ヽ教
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ヽる
ヽこ
ヽと
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或は依行に資益あらしめてゐるものであるが、ヽ
決ヽ
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てヽ
そヽ
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勝︳
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門ヽな
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もヽ
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とはし
てゎない。穀も特色多く〓念的光彩深き﹁控世帯経論桐生偶Lにおいても、また蘭りであ∴。然るに減り﹁法軒
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経論﹂は、序品を押せる七成就の申の、第∴・第二は、革に通序を搾せるものに過ぎす、第三の﹃欲説法時至成
彗は、粁m竃二諸華厳﹂華人東経名毎法蓮華、敢基=躍法、仰研誰念︼﹄む絆せるもぃであ・Uが、此の†にぉ
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いて、先づ有名なる十七名を列ぬて、此の経が仰の最上秘密の法門なることを、各而から明かにしてゐる。諭に
いふ。
如釆欲説法時雫成就斉、鱒藷謹薩二軍大乗撃故。此大乗修多薙、有二十七種名ご撃示甚深功鱒二讐知。
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諾彿大害捉一散。
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以∴此法門︷能戒︰蕗彿阿揮多羅≡撃二菩提可非∵飴修多羅汝。
ヽ
一名二無音義蒜誓成一就字撃故。以此法門議二被甚深法妙境畢故。彼甚深激妙境界者、諸彿如舞最借境界政。
何等十七、云何軒示。
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二名二最膵修多羅ペ於二≡戚申︰穀藤妙蔵、此法門申、菩成就故。
、、、、−、■、、−ヽヽヽ︳ヽヽ
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三名二大方駅控可望見大乗門、︵於レ︶小善成就故。随二順衆生根↓住持成就故。
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准一血粁一。
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非二受法器↓不巾授輿上故。
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四名二教軍陣学者、以遠レ教∴化株熱芋隣↓随二階法器↓羊成就上故。
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五多面所護念東、以下依二如来一石巾此法上故
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六名二一切謂彿秘密学者、此法甚深、唯仰知故。
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七名三切諸俳之蔵一者、如来功徳三昧之絨、
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八草二切諸仰秘密慶一者、以ド根未熟衆生、
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九名二能生一切諸俳控一着聞、
ご此法門↓能威
十名ニー切諸俳之道場一斉0、0
髄樹大観の法難絆観〃再認諾
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籠樹大観の法華経親の再認識
十一冬t一切諸彿所持法輪︼者、以二此法門∵能破二一切諸障擬⋮
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十二名ニー切諾仰堅固舎利哀、謂如爽眞茸滅身、於二此修多羅り不小畑壇上故。
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十三名二一切諸仰天巧方便撃者、使二此法門可成二大菩提己、革衰生森二大人草聞辞去仰等諾善法政。
十四名二詮一茶撃者、以一此法門↓訂〓不如来阿指名準二雅﹂二菩提究克之膿ペ些豪遊、非二究軍政。
十五名二第一兼任哀、以二此法門即是紹仰如乗法身究先任些故。
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ヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽ
十六名一妙法蓮華撃者、有三種義珂何等二種。一斉出水兼。以二不可撃担廓小束混濁水産。叉復有レ義
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界∵得レ詳乙如来探矯赦甲二者蔀閃義。以下詔衆生、於二大衆巾↓其心性弱、不個能レ生レ巧是政閑二示諸彿如来
如三被蓮華、申l泥水可喩丁諸啓開、得下入二如来大衆申l坐い如内諾菩薩坐一蓮華圭聞レ詮丁如来無上智慧清浄境
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押妙法身↓介レ生二信心直。
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十七名義上法門哀、持戒就故。持戒就者、撒二取無量名句字身↓有二頻婆羅阿閑婆等節慮迦l故
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のには、の
﹁無催義経﹂と﹁妙法蓮華控﹂との二名あり、他の十五名は悉くみな読立である。それゆゑに此の十七名その
蓋しこの十七の名は、菩薩が此の﹁法華痙﹂の法門より掃約して命名せられたるもので、拝そのものには、たゞ
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
芋醸■﹁法華㌍﹂観が、おのづから顧はれてゐると認めて、竜も美文へはないのである。すなはち菩薩
、、、 、、、 −、−
が、
此m﹁法華結﹂こそ、仝沸教中里単勝法門なることむ骨張してゐるところの、第一の開門ともいふべきもの
である。就中、竃・諾芋薩↓詮一大乗撃﹄の経文を標出して、まづ二乗の春布を㍊めす、二乗を悉く菩薩と化し
たろ此の紆巴=し川た明かにし、而して1骨腫論Lが、阿羅漕いそ決作仰に、畔仰ぃみ知り︰しれす囲、伶人は目す
Jβ〝け
べし、仰にセつて則ち知らんと璃せる雪此の論には、筆ハ名において一読法甚彗唯伸知故∵エ三は
注=すべく、竺名には露伸如来、巌勝境弗﹄とし、第十二れには、霜来誓読身−こし、姉十川名には、品
根熟の焉めに寧汀八第四名︶。不熟の者の焉めに説かす︵第八雲。これ三赦小、最勝妙赦︵第二名︶、無量大乗門小
の諸菩、天・人、章⋮・辟夏桶等の二凍人天の諾薯・みな此の申より流出す︵第三名▼第十三警。たゞ如来によ
りてのみ此の法は在り︵第五名︶、如来の功徳三昧の蔵、みな此の㌍に在り︵第七名Y此の法門は、聞けば能く諸
仰の大菩薩を成じ︵第九名︶、能く一切わ謂の階戯の事を破す︵第十一名︶、能く諾仰の阿糖喪怨訂成するは、たゞ
此の法門にして飴の修多羅に非す︵第十名︶。これ無量法界の有ゆる善法を抽め、頻婆羅t阿聞苧等む軍属迦あ
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の宗要を明してゐない。第十六名の妙法蓮華控において、出水と難関の二義を以て一芸要を明して
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るに至る最勝法門なり︵第十七名︶とし、以上の十六名において、此の控の惜川?功徳む明してゐるが、未だ共
0
龍樹た親の法華経観の再認識
如来の渾妙法身を開示して、信心を生ぜしむるが故にとある。此の井関の読は一貫肺大聖‖赦は、
っぎに筆問の義は、諸の衆生が、此?無上大乗の巾に於いて、信心を牡する能はぎる怯弱のもの1焉めに、諸彿
之閻不攣義政﹄とある、その﹃如来戚﹄即ち衆生心中の仰性をいふもむなる故に、いはゆる迩門の
とあるは、論の方佃‖⋮の搾の七穐説成就の巾あ、﹃諮怖加水、能知彼法究憲完故、言蚕棚哀、謂
説くを聞き、如来の探密叔を許するを得とは、迩=−門の二乗作怖たるは明かであつて、その﹃柑レ撃如来秘密些﹄
水の義は、諮の聾閲が、小乗の泥水を桝で、詔の菩薩と同じく、蓮華の上に坐し、如来無上の智慧
0 0 0 0 0 0 0 0
0 0
0000000 釆阿持芳掟究克之憫﹄とし、第十五名には、﹃如来法身空荏艇﹄とし、かくの如き兼俳自記の教法なるが故に、
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龍樹大観の法非継親の再認汲
疏﹂︵巷十こに
二者、就壷閃義↓喩者、就二華関所茸抑↓如ニー乗数閑、l薬理硯可閑二示如来渾妙法身↓令ニー切衆生得星二
浮信義。揮妙法身郎是控題妙法也。
と、﹃如来渾妙法身﹄を、是の控の題目を以て説いてゐるが、その題目は﹃一乗理硯﹄で、法身常任の理に約せ
ものゝ如くである。また我が智㌍大師薗珍は、その﹁改革論記﹂︵巷一︶に、
衆生於二大粟小↓心性弱不レ能レ生レ信者、三・五・七・九、不レ知三云何得二無上慧叫戎疑或悔、信棍末
狭劣不レ解二此遣刊故日三栄生乃至不レ能レ生レ信故”此所以、世尊撃此倒琴三豊聖ハ動問二方便門ご二反
虞貴地⋮見二不思議清澤法身⋮正成二共信↓生壷相鱒∵讐P閃嘉如来渾妙法身↓令レ生二信心l故山大師繹レ
序克、法雨之文、兼撃本迩姦。今、出水在二迩門↓革関空本地ぺ錐レ有二傍証︰義相互通、閻着日心レ之∪
と、﹃四聖ハ動、閑二方便門”≡反干涌、示鹿茸撃﹄﹃山水撃迩門↓華関空木地−﹄と、﹃閃二示諾彿如来渾妙法
身一﹄を出て、本門望見の閃額とせるは、論文の意に如へるものであらう。何となれば山水の下では、﹃如来探
殺﹂し﹂仲仕に約し、華悶の下は、﹃如来渾妙法身﹄と、明かに炎上の妙法身に約してゐるからである。且つ粁
別功徳品にも、﹃閲∴俳毒命長追加基、乃至能生二一念信解一﹄と、詰量俳身の開示に依って、信心を生するこ
を論いてゐるのは、此の論文と別称するからである。
龍樹大士は、﹁法華﹂の二爽作仰を以て、﹃共般若・不共般若﹄を止揚統一せるものとし、また彗晶身を華荘
の彿身と併擬して、暗に﹁法華L崇富川顧は、随世間身と法性生身た止揚統一せること︼竺休し、連木二〓C∴ホ
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審を挙げて遠華﹂が﹁般若﹂﹁華厳﹂む統一せる仰内謹法たるむ明し、人′また天親菩薩も、開巻の十七名に、
其ぺ﹂に﹁法華紆﹂m鰐川㌢■明仁かにし、りでーいハバ要む明す畔、日永∴井関の二衣む出て∵池本二‖の悶組む拳げ、
出て仰究克再訂の法門としてゐる。両大士がかくの如く同lの踪結に入れるは、かの天台大師の﹃内鑑冷然﹄の
語の徒設ならざるをおもはぎるを得ないのである。
特に十七名の第九名において、﹁閲二此法門↓能成二諸仰大害撃故﹄と、成俳が記印控﹄に在るを示し、第十
取掛大観の法郭紆軌の再認識
の五経能を説き、應化仰山触わ十川
000〇
二、生二怖畢巳、令レ入ユニ乗数道ご二、入二製造己、生二究蒐捏架心ペ焉レ破二如レ此増上慢心一散、準大乗法
000000
華等眞葦法教↓令下諸衆生、拾二本囲執パ輔車取慈悲・般若・方便即四、持己、於二無上粟聖而成二熟之可五、
撃五因縁ぺ一、雷撃無常・苦・無我・峯・埠琴整禦由∴此正室H啓↓能令下衆生於二三布巾↓而生巾怖畏上
事を出したる下に、仰の説法の五因縁として左の如く説いてゐる。
明す中に、法身の五相五徳、應身︵適法の報身︶の三穂、化身︵通達の艇身︶
す、菩薩が﹁法華経﹂を以て、俳陀の敢後蹄入の法なりとするは、﹁仲仕諭﹂︵塔凹︶に、三種の仲仕と仰の三身を
天親菩薩の﹁法華論﹂の内容に入りては、諭すべきこと多々あるが、今は之を略し、単に﹁法華諭﹂のみなら
七
しといふべきであらう。
㊥◎ 名に、語量俳身に封する﹃信心﹄む収めたるが如き、造かに天台・妙欒、乃至、‖蓮聖人に呼應する桝、甚だ探
◎◎
〃細り
稚棉大槻の法華経親の再認識
成熟巳、授五ハ無上菩提造記・。是寧一化身串一。
これに依れば、膝化俳は、必らす、︵一︶四諦の法を説き、三有に怖れを生ぜしめて、︵二︶二乗の聖遺に入らしめ
︵三︶二乗遣に入つて、これ究克の浬盤なりとの心を生する故に、此の樹上憎心を破する禿めに、﹁淡華控﹂を説き
彼等の但基捏奥の本執を拾てしめ、︵四︶無上乗の﹁法華経﹂において成熟し、︵五︶成熟せるは授記す。これ麒化
仰の定跡なりとしてゐるのである。
また無着菩薩の﹁棒大乗諭﹂に封する天親菩薩の群論は、陳の眞諦諾と、隋の笈多諜と、唐の玄非繹と
現行すろ。就中、虞諦諜は概して詳悉であるが、諭の終末近くに諸仰の五菜といふことが論じてある。此
る天親の膵は、隋庸二諾は繹なきに押しきに、陳諜濁り詳密であるから、これ眞諦の搾の混入せるもので
との詮もあるが、必らすしも蘭か断定し能はぬものがある。いはゆる五菜とは、諸俳に五菜あり、第一に
横菜。古・撃・狂等を救ふ。第二に激務悪跳尭。意趣を出でゝ善道に入らしむ。第二に救所非方便窯。外
道む庸てゝ、如来の正教に入らしむ。第囲に救済身見業。身見を離れしめて三界を超川せしむ。第五に救
散華に趣かんとする菩薩、及び不定種性︵陳諸には未定相性︶の詔の聾聞をして、安慶して大乗の行を修せしむ。
此n五菜竺切謂仰の平等の発としてゐる。隋庸二謂には、節五菜に封する天親の繹はない。而して﹁大乗荘厳
群論﹂等の一乗の十囚に照らす時は、畢克して第五の救済兼業とは、不定件の菩薩と、不足性の二兼の需
安慶して大東を修行せしむる糞といふに掃する。すなはち﹁婆華控﹂を説くことを意味する。故に笈多・
謂に依っても、艦化仰は必らす陀後に﹁法華経﹂た詮′、こと牢小したるものな・Uこし﹂は興ら氾。H−㌧㌍鱒澤に依
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そで
い、
ペ躍
板〓
持膵
る時は、救酒席業とは、カ便兼たる三兼を救洒し、悉くJ伸塞に揖人せしむ↓Uをい・・ルわ
ニせ∴∵ろ1もmは、左の如くである。
論〓、五、救二番乗一馬レ菜。諸菩薩、欲三偏行二別業↓及未定根性婁聞、能安∴立被↓焉レ修∴行大乗一散。
ケ
繹H、此明二荘葦数カペ薬石二人・法ぺ人石二大兼人↓有二小乗人00珪石二方便乗法↓有二正乗法刊特二万便乗↓
修二清正乗刊故名レ救二番東リ⋮・小乗詮、革聞若得二倍等五根↓不レ名ニハ山根現以二末得・レ聖歌。若得∴未知欲知等
。新得∴に根性↓則不レ可卜棒。如レ此襲闘、
三根↓則名二足根1以レ得レ聖故。若至二頂位再不レ名二定性り以レ不レ免二川悪道一枚。若草恋化”名箪一定性”以レ
免二川悪道政。新棟二小寧解。未レ得こに根性↓則叶二晒し小箪夫
無レ有二改レ小焉レ大義ぺ今依二大乗一解。未二専修■喪醸造¶悉名未定根性↓政一切革闘、皆有レ叶レ摘、焉二大義鳥
安二立如レ此大小英人︰令レ修二行大瀬畑
この故に若し﹁棒大乗論精﹂の眞諦譲に伐れば、彼の唐謹の龍一乗の十川なるものすら、決して不定件の二森等
の蕎めにのみ説かれたるものに非すして、定根性の啓開をしても、練媒して菩薩たらしめ、悉皆戒伸を説明され
たるものなることを、左の如くに説いてゐるのである。︵此の文は、析誰の十因の、法仕手等意柴の別義と化故
の下にあるが、其の文は願る要領を柑なくなつてゐる。︶
00000000000000000000000
復攻、於二港輩大集中︰有二請書薩⋮名同三舎利弗等べ此菩薩、柏ュ此意∵仰焉授記、故垂l一乗再︵法如平等意
の別兼第﹁︶
l一一
復次、仰化二作舎利弗等聾聞︰鶉レ其授記。欲了介三巳に根性登聞、東棟レ媒箪喪薩↓未定株牲馨m、令中也修い
馳柏ぺ硯の法準浩冊〃在朝仲裁
Jタβj
二田
彿道↓由二休学般捏輿上如二俳言↓日、我今撃了過去世中↓2撃璽蒜数幼↓依壷聞来由捏棄、欲下城三
龍樹大観の法華継械〟秤認識
〇〇〇〇〇﹁00
小乗非三雲兄虞↓令巧l共拾レ小求占大政.硯撃此事ペ由二如レ此養↓故誼二一乗ぺ
更にまた十因の究克故の下には、一乗は無等無右上莱にして、此の乗出づれば、彼の粟は失渡すと説いていふ。
諭日、究党説二一乗ペ
繹日、邪寧薬毒刊惟是一乗是東、所詮非レ粟。若過二此準〓竺別行一故、飲薬石上、所謂仰粟。由二此撃故
若破乗比二此莱↓此乗無レ等。彼乗失準牧草一究克べ由二如レ此撃故撃一乗叫
と。﹁法薬論﹂には、﹁法華﹂を以て無上究克爽、三乗及び人天来みな此の中より出でゝ、此の中に踪すとし、
00
の啓開を説き、迫害捷心の拳闘と、應化の拳闘は直ちに授記し、決定と増上慢の二の聾聞は、﹃根未レ熟故、不
00
輿二掟記邑として、棍の未熟に約し、決して成菩提根性なき定性に約せす。故に﹁俳性論﹂に、﹃焉レ破二如レ
世心一故、撃大乗法華等眞茸法数レ﹄といひ、次下に﹃於二無上兼中毒成二熟之一﹄と﹃成熟己、撃北ハ無上菩提道
記一﹄と、執未熟に約し↓拝大乗論絆﹂に、﹃令己定根性草聞、吏練レ根讐菩薩↓末下定根性客間、令直修二彿
申細道般捏盤上﹄と、同じく決定草聞の練熟をいつてゐるのである。
以上、﹁法華論﹂のみならす、﹁彿悍論﹂﹁棒大粟諭柁﹂に見るも、天執芋薩が龍樹菩薩と同じく、﹁法華経
以て最後の先発一乗とせることは、また否むべきところなきを覚ゆるのである。=一二、二、一四=
ブタββ
ー
修験道研究序説︵一︶1
民族的宗教の形態欒俄に就いて
∵
民族的ルポ放の形態攣化に就いて
村
上
俊雄
れらの梢成要素の如何なる悍質と精神とが、その完数全糟に於いて如何たる役割を損じ、如何なる機能を持ち、
する丈でなく、それらが歴史の動向に準指して働ける方途と、並びに、迎にその完教の形態や性格から見て、そ
これを民族的宗教に就いて観ても、そこには各種の要素が包含されてゐる。がその要素を只漫然と指摘して諭
たものである。
ば、一定の歴史の正しき動申に準撼して篭揮し、鍛錬し、而してこれが他の要素と調和して牽展し、更に止揚し
で何等その特質を示すことゝはならない。文化の異聞相はそり構成要素の株砥に存する倍化された要求や精神を
化現象を捕へて、そこから抽出し得られる諸々の要素を指摘し、これらを只漠然と素朴な姿に於いて羅列した所
のものであるならば、それは巳にどれ程か按偶融合にょつて畿達した特殊形態に外ならぬ。従ってある一つの文
文化は接偶と侍播、堪洛と融和なしには喪展しない。謂ふ仰の同市の文化と靴も、文化の名に位する程の内容
7ご川ア
乾族的宗故の形懲欒他に就いて
如何たろ地付む占めてゐるかを歴史的に、具標的に究明しなければならない。
尤もこ1に民族的宗教と、ユ‖ふ場合の民族なろ意味は茸は容易に規定し難い。近代資本主義の穫衰に従って勃興
した民族意識を基調とし、生産共同態としての国家的冊側にまで統一された国民と言ふが如きものよりは、より
前代的な、又より狭義なものむ指す。今言ふ民族とは、人棒言語準史慣習等の同一を内容とすることは勿論では
あるが、歴史的に美化水準の近似性と配合的生活條作が比較的新同する人mわ生活共同態の謂である。従つて客
観的現茸的には政治的支配踊係に於けろ地位が同一で祀倉的存立の傑作もほゞ同様の闘係にある民衆と言ふ位の
桝に見蕾む陪Gてゐるし故に、かゝる集閣的祀倉にはそれだけ峠妹な旺倉的歴史的付統があり、その侍統が㌫数
的観念や思想に就いては勿論、硯茸のハ示教的行事や慣習に於いても、一種共通の址脊的迫力となつて働き、薬
の成員は大照かゝる祀曾力の共通の影轡下にある。即ち薬園の成員の‖心惟と行動とが同校に拘束される如き批
である。故にこゝで言ふ民族的宗教とは強いて言へば民間庶民の︷示教で哲勺とは言へ、それは桝謂民m信仰の
如く民間に土着し、批倉わ準例に川化した習硲と言ふが如きものではなく、常に時代の㍍遁と衣稟して動く一般
大衆庶民の︷一▲小数、乃至は上来迎べた如き酢倉暦の宗教と言ふが如きものである。
漠然たるの憾みはあるがか1る意味での民族的な宗教は、あ二わ方向に著しく特徴的な牲
格わ豆て具象すろ。か
ゝろ性格具象むその事褒的な内的必然関係に於いて捉へ、且つこれが一定わ形態にまで牽展するにいたつたむ的
攣化と脈絡のあとむ辿り、かゝる攣化獲達の申にあつて、或はそれに即して、不断に働く仰の恒存的作用を把握
ナウ﹂とは民族的※埜イ一理解十る上に於けろ第∴珊誓闇でたけれげたらぬ。付し去れば∵■小故に於け・0東通−一Lは、
プガ/J.?
ある一定の法則に従って、内存せる力が外的條件の刺激下に噂鴇的に進行せし机る攣化であると首ふ事がH氷る
と思はれるからであ↓匂。
次に※敢形態と■...‖ふ串に就いてであるが、これは簡笹に諭する串は出来ない。宗教形態に就いての詳細は近く
民放的㍍故の形態欒化に就いて
て時代的建造に対する顧慮なくしては殆ど意養を持たない。修験の内容は勿論.その外組も各時代にょつて著し
難い。尤もその教義鰻系や行事の系列、或は完周的川根踊係等は比較的明確に把捉することが〓来る。がこれと
桝で今考察せんとする民族的宗教としての修験道の完数的性格は、極めて複雑にして一義的には春易に規定し
ヽ な類型を指すのではない。然るに狸態の字さへ用ひられて意味不明瞭の場合が吋成ヤ多い様である。
照として撹む立場から言つての宗教の姿であり、働きである。それは囲化した外的た型や色7﹂並べられる瀞的
如何なる様態をとるか、宗教わ性格が、全鰭的に如何なる特徴的枝村を呈するか、その作川向作用態む動的に全
事象的に組織附けられた全膿の様態こそ、宗教形態と呼ばるべきものであろと考へる。加ち∵㌶数が動く場合、
のである。具餞的なる宗教の内容と表現と作川と、これが歴史に印して機能を兆す場︿‖の性格、即ち宗教現象
明せんとするものであつて、宗教が歴史のそれ′ヾの硯琵何に捌くその具惜的なる令㈹過程の椋祁を指し三‖ふ
丹木教場象の綜合的統一的なる把捉を目指す吾々の立場に於いて、その事象的必然幽係から、それが急用過程を
る場合の型ではなく.叉汎神論とか一神論とか言ふが如き付加教の種々なる類型を指すのでもない。宗教形態とは
不明確に、不用意に使川されてゐる嫌ひがある。宗教形態とは、例へば所稽塑の宗教とか解脱捜の宗教とか栴す
別㈹り論Ⅲに移す考であるが、宗教に限らす、形態なる語は今日あヰ㌣りにもしば′ヾ、叉あまりにも無内容に
Jp打∂
民族的完敗の形態轡他に就いて
二八
く異る棟相を呈してゐる。故に縦にも横にも、一義的にのみその性格規定を行ふことは、や1もすればその本質
から逸眈するばかりでなく、永い問に亘っての歴史的攣化?準茸に忠葦なる所以とはならない。とは言へ、方法
と観鮎にして過らないならば、やゝ統一的にその全貌を捉へることも強ち不可能の事ではない。故に今は修験道
構成り諸要素が時代的経過の中に︰如何に混紡し攣化し、終には一桐猫自り宗教生活の一形式とまで襲展するに
いたつたかを明かにすることによつて、修験道形成の内的紺聯を辿って見庇いと思ふ。
こ
そも′\宗教が進展し俸播するに鱒種々の原因喪臨が伏在する。が、これを閥家の支配的力との閲係に於い
て考察する時、宗教の持つ轡導感化の力が原動力たることを前提として∴示教の側から言つて、次の如き四つの
場合が分けて考へ得られるかと思ふ。即ち、
一、宗教がその持つ一定の理想目標に向つて、閉豪を大桝高所から郷導すること。
二、宗教が岡豪の動向や政策に従ひ、これに追随はせぬまでも合流一致して進むこと。
三∴小数が祀合、国家の矛盾紋隋を衝き、部分的にもこれが是正の志向を持って進むこと。
四、宗教が人心の不安動揺間隙、特に人情の機微を捕へて進むこと。
制度ん問題し﹂して現はれるに封し、後い二者は旺抒や昆心に保た張↓て、言はゞ現象的必然し﹂して硯はれる。軍
の四ツの場合であつて、これは相互に閲聯するが、前の二者が、宗教と国家の申接幽係として宗教政策や宗教
、
Jり7け
一は暫く招くとして、現代の■如く閲壕の動向がある∴定の方向を建る幡、〓本の尺疲意識を准胡とした閉域的な
尺族㍍数は囲豪動向の紬に滑ふて新展開㌔試みるであ左り。かくわ加キl弐鱒㌫職人=土日ふべ津である。鱒二の
ヽヽヽ
場合には時代の歪曲髭・バ数的に是正せんとする志向が濃厚である丈に、か1る志向が︰バ教の内容に亘つて具鰐的
に反映し、節用の場合の如きは祀倉の裏面や人心の中に深く喰ひ入って、特に批倉的現象と見らるべき性質が最
も多い。
民冊に囲足した信仰は言ふまでもなく、今言ふ民族的なる宗教の動向は、第二の場合の公認的な、又は公的な
骨箱の完教に封して、特に第二∵第四の場合として特殊な性格を形成し、著し.く庶艮的作質を持つ。即ち、それ
は統合の紋陥に芽生へたものであるが故に、その動向が国家の動向とは別途にHで、又は固家統制の外に舵逸し、
或はそれに追随し指すして取残されて進む。後れたる大衆の宗教となるのはこの馬であ少、時あつてか反支配的
な傾向をとるにいたる事のあるのも亦この故に外ならない。且つその内容が人情の弱鮎と巧に結び付いてゐるが
故に頑強なる問執性を持つ。かくして民族的な宗教の形熊衰化は第二の場合と封択的に考へられるものであり、
従って公の骨箱の宗教に封する庶民の宗教と言ふ意味が弛も重くなつて凍る。故に民族的宗教は、主として第
三、第四の二様の過臆過程の交錯によつて決定される。然らば修験道はか1る観鮎よりすれば如何たる欒化にょ
って形成されたのであらうか。それには先づ修験の内容上の欒遽に就いて説明するの要がある。
由来喜が閥に草生した宗教は何れも神道的地般皿の上に教生して民族精神の横溢せるものであるが、この民族精
神を燭聾し指導してこれに一定の内容と方向とを輿へて進展せしめたものは、外来の宗教特に仰教の力である。
民族的ルル数の形態絹一他に就いて
ブタ7J
民族的宗教の形態努化に就いて
ニー〇
修験道の襲生も、巳にある一定の段階に達してゐた吾が民族文化の一面たる信仰や風習が、外賓示教の刺衝と
混清とにょつて欒化したものであり、その異質的なるものへの畿展であつた。即ち吾が民族が一定優の蟹連に於
いて有した信仰は違例等の外来的観念と行事とにょつて幾多の影響を受けて新しく組み立て吏へられ汚それは
外延の拭大と内包の充茸とをもたらした。が勢ひそこには形質共に攣容されざるを得なかつ袴。即ち山嶽宗教と
してだけの修験を見ても自然崇拝あ一たる山嶽に封する考へ方や信仰には豊富なる遺仰の内容が盛られ、否、道
彿的に、別言すれば呪術宗教的に欒化し、特に山嶽に関する行事は怖教に於けろ修行の風と結び付き、次第にそ
れを整備充寮費展せしめて、終には修験をして特殊な意義を持つ一流の宗教形態にまで結成せしめたものであ
る。而もか1る特典な宗教形態の形成と襲展は、それ′ぐ1の時代と祀倉の推移に照臆し、常代の支配的宗教の紋
隋を衝いてゐる。
これを以下停宜上次の如く後生的地般皿と外奔的要素との混酷から論じて見たい。即ち、一、非常の更生と活動。
二、山嶽崇井の襲展。三、諸杜奉幣や順祀の風。これら蟹生的地盤の上にもたらされた外来的要素として、四、
頭陀打拗あ行。五、密教的な修行道場軌。六、宋畢の精紳的鍛錬。をあげ、それ1ドーーの要素が互に混紡し攣遷し
行く事情をそれ′〃∼時代的闊聯のもとに説明して行きたいと思ふ。
勿論この場合の草生的地般皿と言ふのは最初に論じた如く、所謂問有のもののみではなく、それ白身巳に外来の
要素と融合蚤展して固有化してゐたものゝ栴である。故に蔑生的地般肌と外水的要素と分けたのも、考察の便宜上
のことであり、それは歴史に於ける文化の興った二ツい種類乃王統れた指してかく、−・=づたに†ぎない。和もり√■れ
7ク7ヲ
ヽ
むたゞ耶に塾生と外水との文化の流れとして指摘する丈でなく、固有土着のもり㌻喚び起し、新しい流れむ必輩
として積極的にこれを取り⊥けて行く帖倉的春情む背後に見∵であ一心。
三
民族的宗教の形態轡化に就いて
法に基いて重大事は虞理され氏族甲秩序は保たれた。特に諸々の宗教的表象の拘束力と結び付いたか1る巫術に
れた方法であり、巫者が氏族の安寧と統制とのために荷はされた役割を兆すための手段であつた。そしてその方
くから行はれた太占、矩卜、夢骨、更に盟紳操瘍等は、何れもか1る賃嘲の重要事作や衝動的典欒に際してとら
一種狂熱的な感情と夢想が働く。シヤマニズムが力む蟄捧し、巫者が活躍するのはか1る時である。吾が閥に古
化さへ成員の興奮を容易に駆上皿て柑る。故に薬園にとつての典欒の起った時、落付いた知性や洞察の代りには
求められる。氏族の長は同時に祭司の長でもあつた。特にその築閣の緊落的性質からすれば、偶然的な事情の欒
られてゐる氏族の長や元者の類にこそ氏族英樹にとつての重要事や突蟄的事象に就いての問題解決の千がかりが
を安定し統制する機能を持つてゐる。そして集困の一般成員以上に控除を蓄積し、又は特殊の能力があると信ぜ
氏族祀曾を基礎として蟄生したシヤマニズムは他り完数的観念行事と均しく、氏族の成員む拘束して氏族配合
ぬれば遠くして古い。
としてのそれであつた。然しそれら巫術的な習俗や呪術に封する信仰、並びに巫者や山伏の徒も、その源淵を尋
修験道が民間に受け入れられた根本の力は、その呪術宗教的信仰にあり、修験山伏の徒の活動も呪師又は巫者
J卯J
氏抜仙十卜次の形龍山ポ化に就いて
封すろ民衆の信頼は愈々頑者の活動を必須的にさへする。
最初ゐ血線的組係から巳に地縁的それにまで覆展し七ゐた氏族の宗教も、氏族の欒化と共に欒化する。即ち民
族的意識の⋮朋填とその空止を可能ならしめてゐた控済的串情の攣化は、地縁的氏族祉合をも漸次崩壊せしめ、
それを結合統一して、次第に民族的な国家組織を獲展せしめる。それにつれて各民族の榊や地方的た神々の冊に
も職能的分化と、その間相互の統一組絨が行はれ欒遽が起る。園豪的統一のための修史の史籍たる紀記に見られ
る紳の巌他の攣化と和紙組紹の統一は即ちこれである。か1る神祇概念の分化と牽連と組織とは、やがて巫者の
間にも、儀式的に公の国家的祭祀に於いて神祇に奉仕する者と、なほ酢合の裏面や民間にあつて紳を祭り、卜ぺ
油託、所麗筆を事とする者との問に漸次明なる封立餌別を生じて来る。即ち一方では国家的なシヤマンの仕事は
一部の有力なる氏族に猫占され、従来の燕者の系統たる中臣、忌部等、閥家的祭紳に奉仕する一群の豪族が・祭
政一致の中央政治の前面に進出して来るのである。これに反して、他方では岡豪わ公の祭祀に興り得ない民問に
とり増された巫者の類が、れ水の土俗的面や信仰に榊執して民川に於いて有力粥川たる地盤む囲める様になる。
かゝるシヤマンの分化牽連の傾向に拍印をかけたものは仰数の新渡来である。巳に隋牌の統一的大間豪あ下で
鍛錬されて豊たる国家的内容を持ち、絢欄たる各種の文化背景を背負つてゐた新渡来の仰教は、一面それ白身囲
家的統一事業を稽極的に助成すると共に、他面そ竺切衆生普成仰の理想や窯囚因縁を説く新嘩昔によつて、従
来の氏族割振闘年の弊風を制することに異常の力を振つた。祀倉の項毒には制度組織の根本的改攣と共に、従来
ハ観念い打破ヤ前代的畔付点撒い崩壊王必要とし、なほ新事態たよ持ナや桝なや点激の條成を不可紋の要件とす
Jク7壬
†0。彿放り世外的性質ヤその普遍的理想は常時0偏狭執拗た↓0氏族ほ識亭打破するに恰好ぃものであつたし、叉
Ⅲキ0苦心識とし∵岡安統一n届け情■竺翼成した。加之伸教はそれ自身に囲豪的鉦∵事菜にむ按石川な各科い文化財
打抜的小小数の形熊誹∼他に就いて
整はそれ′ル∼の時代の焉政者望息糊と、特に各時代の支配的㌫教の動向とその桝在とにょつて益モ弛められたU
たる庶民の迷信に封する要求としての信仰上の背景であり、これが修堰遣の完数的地盤lLであつた。そしてこの地
たらなかつた。それは民族の素質としての心理的傾向ではなく、何時の≠にも現葦的に恵まれない曲損民や、おくれ
る源流にまで潮り得る修験の遣統む永く存続篭居せしめたものは、巫術や呪術に封する民族的な信仰の背景に外
源は正しくかゝる一群の系統の中に求められ、修験の思想的㌫数的遺統も亦かゝる源流に草してゐる。而もか1
税念及びこれと閲聯する督硲信仰が、件数の一部の思想と習合したものと見られよう。教生的に見た修験者の起
に吾が囲在来の平常と俳者の一部との問にl種の合膿が出来上った。内容的にこれ里・rlへば、従来の土俗的紳孤
稽や小道雄術の療病が.彿道修行者連の一部の人々や、民問に取り残された巫者の職分の申に織り込まれ、こ1
功徳∵吉凶桐扁の卜刑等は特に後者に封して。何れも強大なる吸引力であつた。これらの申、特に増幅除災の所
の経典及びその信仰は特に前者に封して。大陸の俗信や道教と習合した帥攣不思議の信仰、買験の思想、紳呪の
大きな魅力であつた。国家の仲川路に封しても、一般庶民に封しても。即ち、囲豪わ所蒔仰教として牽達した各種
然しながら沸教もか1る新鋭の英束の外になほ幾多の呪術宗教的非難物をも併せ持つてゐた。これが文一つの
C∴小数としや制度化さへされたのである。
む仰有してゐた。かゝるものであつたればこそ、時の馬故老に取サ上げられ、篤き固豪的似護の下に終には骨箱
〃け.・;
民族的宗教の形態歩化に就いて
三田
然らばか1る性質と傾打とを以て蟄展した基者の宗教的勢力やその統合的活動は如何なる意義を有するか。か
1る巫着こそ修験山伏の前身であつて、彼等が民衆の問に占める地位とその潰する吐合的役割は又修験道形成の
推進力となつて作用する。こ1に修験道の性格を規定付ける有力なる一要因が存するのである。
囲家的祭祀に奉仕する一群の巫者、官符の宗教となつた沸教、この二者に封して、民間に残った巫者、在来ゐ
習俗と新米の俳教の一面たる呪術宗教的諸要素と結合した信仰、この傾向を典にする二群の巫者と信仰を封比し
て考へる時.事情は明となる。即ら、国家統一の中央隼槽的傾向は、宗教に就いても亦統制の強化となつて硯は
れる、然L国家わ強力にして急激なる宗教統制は、信仰の差異や特に同家に封するその機能の相違がもたらす所
㍗統制上の弱鮎を誘致して宗教界を分裂せしめる。かくて後の二者は園豪推力の直接的支配の外に立つ。か1る
同家統制わ圏外にはみ机た宗教、時代の歩みに追随し得ないあぶれた信仰、これが時代の不安と動揺、祀合の矛
盾と紋隋に乗じて跳梁放屁する。
即ち嘗時は氏族制度が崩壊に瀕して批禽不安が頂上に達し、新政府の樹立と言ふ一大轄換期であつた。
更に崩壊しっゝあつた氏族制度む一馨に打破して中火集樵の張力なる国家的統一の事業をなし途げた大化の革
新も、土地制度の上には多くの矛盾を包含し、班円の制は漸次崩れて土地囲布は早くも私有へと移行する傾向を
辿ってゐた。革新の革朝に於いてさへ、寺院は寺田を領有するの杵利を輿へられてゐた程である。か1る土地の
固有から私布への過程に於いて墾田の開恐が盛となる。特に人口の増加、生産手段の襲蓮、国家財政の膨脹は一
定根庇い歳入以上を期待し難い飛州い制を被ハノてそい捌け〓を求めろ。かゝるオ臍と、前時代い姥存的存在たム
ノク7♂
碓者、並びにこれを支持する民衆の信仰とが結び付く。而もこの均分民衆に封する直接的魅力はその呪術宗教的
か、それ自身反支配的運動と特化し、少くともかゝる勢力と容易に結合し得る危険性あるものとして首路を最も
仁仰円客にある。かゝるハ小数が同家統制からり離脱むはかり、政府の常菌に射して否定的作用む減じ、時あつて
柑〃
民族的宗致の形繋努他に就いて
生命や活物たる山笠は山そのものとは別個に存在し締るものと考へられる。更に進むとそれは個別的に考へら
即して、即ち、山と一緒に考へられてゐた即物的一如的な生命−拾物は吏に山の重となる。即ち有情たる山の
怖の念に打たれる。かくして山岳を紳艶なるものとし、これを生命ある有情活物と考へる。最初は只漠然と物に
秀麗にして幽軍規々として牽ゆる深山高原は驚異の念と神秘の感をそ1少、その雄大華厳を仰いでは崇高長
四
る。その過程は内容の性質上先づ分析的に究明されなければならない。
る。即ち古来の山嶽崇藤はか1る宗教的融合的事情わ下に山林修行となり、更に蔑展して所謂山嶽宗教を形成す
群盗、好乳の行馬、山野への衆集停任等。こ1に巫術的宗教者の活動と山林修行の凪が必至的に方向づけられ
教的妄想が絶大なる力を振ふは常然である。妄説即納運動の進展、小道巫術による療病の流行、私道場の建立、
への熱望、宗教的浮浪の従の氾濫等々。而して浮浪化し窮乏化せる者に妄想と自棄と逃避とは附き物である。宗
地の開墾、冊侶階級内に於ける身分上の分化、私寺の既設、得度制度の寮乱、臍侶の行業規軍一般民衆の恰侶
悩ました。この間の湘息は兵鰭的に詳述するまでもない。たゞ項目的に列車する丈でも、官寺の保護、寺院所有
′
民族的宗敦の形態轡他に就いて
三六
れ、其の山には某の紳壷と∵ふ様に特殊的に州別化し、終には最少限度ではあるが、自意識と意志とを持つ桝の
一種の人格的布衣の観念とまで費展する。か1る仰別化と人格化との結典は即ち山紳の信仰を生み、かくして山
揖の崇拝へと導く。
極めて紬象的な右の叙述は革に文跳の上からのみでもこれを具餞的に記示することが削来島。それを詳細に述
べる暇はないが、高峰峻嶺や特に火山の多い吾が囲では、山の神攣霞典はその欒化のま1に畏敬せられ、或はそ
こに精婁耐性が鈍るとして崇井せられた。即ち、蔑m山、三原山、阿蘇山等の火山には早くから一種の宗教的信
仰があつたし、又その他の山も狩猟等の種物から桝謂山の幸を血ハへられ、溌漑の水を供給され、風雨を起す紳照
として祀られた。粘に早くから曲昆排時代に入つてゐた上代日本人の㌍摂生活は山相和や水分紳を祀りて、或はこ
れを封象としての宗教的行事や山小での宗教的儀躇と閲聯することなくしては進められ椙なかつた。何となれば
その地粥的事情車生産手段輩連の程度からも、叉耕作に於ける風雨笛産等の自然現象の決定的重要性からも、自
然は原始的曲=排を左右するものであつて、それらの天憫自然の気象は山嶽を中心として起きる現象であるからで
あろ。若井、大峯、熊野を始めとして、後に修随の道場となつた諸困の山々はか1る鮎からして元来の釜山とし
てあがやしル、卑くから山神が祀られ、宗教的態度の封象として稜々のハ小数的儀楷の行はれた所である。
然しながら山揖※拝も軒にそのま1では未だ所謂山嶽︷一端教ともならなければ.史に特殊の意遣ある修験と言ふ
ハ小数生活の一形式とまではたらない。抑叫に山⋮獄の人相に惹き起す畏怖の惜や只霞山を今川パすると、==ふ程度のもの
であ・ご圧、hげアニミズム仙H晰に十ぎたい︹山⋮狛︰小紋とし∵い惟瞼道が成し証するためには、以上に述べた如き山
Jり7斤
嶽わ威鞭と迫力と紳秘とがその棟木となつてではあるが、か1る自然と人冊との用に 惹き起こされる素朴な腐植
以上に、山㍑わ丹心非が佳清≠腔ヤ隼席一段〃閥偉い申に入り来り、廿つそこにょり賊烈な︰小数的精細が働かなけ
れげ寧りない。郎上山嶽い紳埋感の外に山招崇拝が、先に指摘した如く、各地を巡歴して雨を名山大川に折る謂
紳奉幣の政治的宗教的行宜と結び付き、それが事賃上の紳仰の介閻や行場の地理的関係から、沸教的な通解修行
の宗教生活たる頭陀の行と混︿口して呪瞼の詐柑を日精す如き宗教的動壊が働き、又之が順祀の風ともたり、更に
神道的な楔祓の精油が密数的修法の方法の申に活現し、且つ席数の道場観によつて黎調され、なほ降つては実学
霊碑丹示の崇高な東洋的宗教観自然観によつて精面的鍛錬を加へられる等、種々の過程を腔なければならたかつ
た。かくの如くにして山嶽※井に賛した修験道は特殊な止‖心義と内容と方法とを持つ科搬修行となり、山は心身練
行の道場となつて後永く奪㍍されたのである。
山林修行もかくの如き山嶽崇非の後足に於けろ一過程に過ぎない。而して奈良刊末期からの山林修わは宗教的
動機よりも紅顔的な動機が強く.巳に指摘したるが如く土地制度の矛盾を破つてその梓柵を睨せんとする窮乏化
せる畏民の要求に應じ得る傾向を持つた宗教遊動の一形態であつた。彿法わ紳呪に方術神仙思想の結人‖した巫術
、
的乃至呪術的仁仰及び重税の徒の活躍は、骨川代の安寧秩序を妨げ、農民の利益や要求と結び付いて反支配的分力
を結成するものとして禁止されたのである。とは﹂=へ、修験はか1ろ直接の反支配的作裳むのみ持ち組けたので
けない。反支配的性質は庶民的性格の一部として時あつてか硯はれる。㌫数の庶民的性格としての必須傑作は寧
−・ハ功利と黙止に直接卑近に應じ得る効験の思想と紳緑遊興に封すろい仰を有すると言ふことにある。か1ろ爪仰
い∵扶的∴紬ハの形憩.⋮正に就いて
膵アナI
民族的宗致の形繋欒他に就いて
三八
やかゝる信仰を背景とする一群の存在と活動とが、国家の主動的勢力との関係に於いて、或る時は国家動
持助長の役目を持ち.或る時はそれに封して否定的に働きかける。如ち、時の焉政者や国家的動向との関係に於
いて反支配的性質は規定されるにすぎない。故に修験山伏敢生首初の事怖はそのま1移して以て形成の途上又は
形成彼の機能に於いても全然同一なりとすることは出奔ない。即ち、草生倍初の性格機能を、その後の襲
いても持ち披けるとは限らない。最初の教生的な基礎傑作と、その後の襲展を促して、これを支持し押し
行く要因とは常に必ずしも同一ではない。吾人が先に民族的宗教の轡化の中にある恒存的要素と言へるも
かゝる他者との関係に於けるものではなくて、それ自身が常に有する所の宗教的内容の性質を指したもの
′ る。尤も恒存的内容も他者との関係にょつて攣春あり、従って壊能も攣化する。とにかくか1る意味に於いては、
所謂起源論と牽達論とが同一根援にょつてのみ律せられないと同時に、その磯能も時代的攣化に即應しな
的確に把捉山木ない。即ち宗教の性格規定け歴史を無親して只一義的にのみ機械的に規定する事は許され
特に草生後の整備や畿展には、事象に封する観念疲想がその重要な契機となる場合が多く、加之宗教の如
っては、行動上の儀穐並びに慾求と理想の方向が、主導的役割を演じっゝ、その内客形態を批判し鍛へ上
上けて構成して行くことは注意む要する。前に奉げた外米的要素は特にか1る観鮎からの考察を迫られる。
然しながら全館として山林修行のか1る宗教生析を押し進めた原田は、内的には眞言ゎ宗教の中に含まれる自
己オ盾の蟻大破綻であり、外的には奈良朝僧侶の厳賓なる身分規定と、平安朝の支配的宗教の局部的偏尭
ってその民衆への封銭他にあつた。︵未完︶
Jn.?∩
[H
序
二
結
問題の具櫻的軒先
沸教の祭祀的兢受
果
論
論
史的展開の終曲
一 史的展開の序偶 − ︵以上本能︶
国史的事情︵受胎的必然性︶
ll
一本質的地盤
地歴的事情
ll
一題目の意義及び問題の範疇
論
俳教公侍と太子﹁篤敬三貿L
Ⅰ
Ⅱ
Ⅱ
Ⅱ
︻ 序
一題目望口心韻及び問題の範疇
彿数公俸と大子﹁麓敬三宜﹂に到る闘史的事情
に到ろ国史的事情︵上︶
堀
﹁仰数公侍﹂とは欽明天皇壬申又は戊午年と記録せらるゝ百済圃聖明王献仰の史寛と、其の公に俸来せられた
ヽ
印β
仰・兢公停と大子.篤敬二蜜﹂に到る閣史的事情
EO
る俳教が粒々なる串情わ下に公に、問豪的に佃播したる市仰ハを指すのである。而して其の小⋮時に於て共の開家的
榛東及び俸播に封應して閣内的にも歴史的経過に件ふ受容的なる諸事情ありて、此の偶然的麟仰が文化む的に極
めて重要なる必然性を生じたのである。されば其の固史的諸事怖、即ち新し草俳教及び其の文化に封する固史的
地服飾及び前提史鑑の探究は仰教公侍の史的必然性を具愕的に或る程度迄論許することでもある。
従来一般にか1る必然性む日本仰数後来の畿展の跡に求めて、或は﹁一大乗の囲﹂と稲し﹁大乗相應の・地﹂と
白斑したるは眈に早き時代に現れて居り、今日の日本文化兜に関心と興味を有する者は何人も仰教の渡来が我閲
に取りて極めて重要なる必然性を石したる事を否む者はないであらう。しかも其の必然性む考察し北ハの史的畿展
の跡を辿れば、此の前提としてか1る必然が更に遠く深く宿命的なる木㌍地鵜血と其の受容的準備とを閣土内に甘
み居たる事を知るのである。我々は日本沸教の文化史的研究に入るに先ちて、こ1に沸教女化の河川が如何なる
地勢風土の団に流入したるかを北ハの先付的囲史火料によつて具惜的に探究せん言するものであり、引いて我が日
本沸教の貼群的諸現象、諸侯現に封する根本的なる後備概念を蔑見し規定せんとするものである。
7トリス
凡そ一偶の精油文化が未知の由土に来りて其虜に極わて本質的の棟を振り花を開くには、其の囲上の根砥に於
て此の文化を受容し養育するに足る胎鳩山の存在する♯は疑ふ傲地がない。併しながら設ひ其の文化が封持迄押寄
せ、或は蜃々侵入が企てられたにしても、北ハの胎般皿に受胎能力が生じて居なければ、渥烈な侵入は胎般若破壊す
るか甚しノ\パ宜曲せし釣ろ故に、別佃ひ人篤的地盤に征睨的に成長し、又は全然悲劇的︺.圧獲通しか遂げ得たいであ
らよノ0
Iり.\l)
_
■
沸教公庫と大子﹁㌫敬三圧﹂に到る悌史的牛情
円一
﹁申宕史料より見たる仰教公侍の図史的事情﹂とでも題すべきであらう。しかも問題は極めて困難にしてデリケ
穀高の槽威とし、其の整理と解繹に基いて立論せぬばならぬのである。故に以下り論述は史料的株接よりすれば
知識は少くとも﹁書紀﹂成立と日される萎老四年若くは其の前後に於て葉柄せられたる乱雑なる編年史料む以て
するのであり、更に其の間には大化改新たる囲家機構の大政攣あり、加ふるに他に類例を求むる事乏しく、其の
下少数の根本史料とするものも、共の成立午時よりすれば考察封象の最も近いものですらも約一百年の瞑離を有
しかも考察及び詑明の資料については、時代が閉る上代に遡る馬め、今日我々に許されてゐる﹁口本書紀﹂以
ぎないのである。
覆して我々に残されたる教偶の資料む再検討し、従水飴り顧みられざりし貧要なる二三の鮎藍川意強調するに過
して始めて立論し指られる桝であるが、人′はその方耐の研究わ成典を考慮に入れつ1も、極めて自統的立場に川
学等々の全般的援助の下に綜合的に掃納せられねばならぬのであり、観察、葦験及び資料の俄範囲な揉衷に従事
誓海洋撃、気象人類誓文は人種撃、民族撃、土俗撃より祀倉畢、法制史撃、㌍商学∴一加数由十、神話撃、国文
而してかくの如き史観に関しては、閥史的文化史的取扱ひの外に吏に自然科挙、例へば地球気象撃、民族地理
軒脅的空掴史的革質であつて、此の両者の相関性に於て始めて文化史概は成立するのである。
両面より槻禦い井む進禁圧ければならたい。地照的たるもmは木塞的本石的なるもいであり/、受胎的なるもいは
そこで我々は円木沸教が其の磯虚史的に示す棲めて﹁自然﹂にして究尭的なる成鼎を逝前凍として、積って
、−、、−、、
ヽヽヽヽヽヽヽ ﹁仰教公悼む囲史的事情﹂豊浦する場合にも、一方に地盤的なる瑚情と更にその歴史性ある受胎的たろ
J.1け
併教公保と大子﹁篤敬三賢に鄭る閉史的串惜
四ニ
ートであり、且つ諸部門に渉る薦め、観察解樺に於て自ら誤解し、他より誤解せらる1産れなしとせす、更に概
論的法則的の誤謬、用語概念の不正確、不安箇なるものも少くないと思ふが、今はたゞ試論として
間題の具照的所在
ヽヽヽヽヽ
び二三の空目を陳列するに過ぎないのである。切に講者諸氏の公平なる批判と叱正を仰ぐ次第であ
二
聖明王麟俳を磯とする例数公倖の歴史的事茸については﹁日本書紀﹂は極めて金光明津的なる見界を以て之れ
を待遇して居少、此事白襟は書紀編纂者及び其の時代の人芸俳敦の国史的必然性に関する偉大なる自覚と認識
′ノ
於二諸法中義軍一殊勝再難レ解難レ入。
と識見とを示すものである。即ち
ノ′
と云ひ、
此法生二準竜無遼稲座頭報ペ乃至成二舞無上菩提可
と説き
所願依レ情無レ所レ乏。︵以上、書組十九、啓開系本l三二二︶
流叫︵同前︶
ニッタヘムト7’
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ と述ぶるは奈良朝彿教の囲家的株抵でもあ少、民族性の俳数的搬硯であるが、更に
スナリ ′′クマフ
ノ
畢一彿研 記我法粟
の記事に到りては、恐らくは印度人が西域を指し、或は西城人が支那を目して馬し王でもあらう析の此のプ;
乃βイ
エシーを畢的に且つ断首的に我囲む究尭地と自発したる重要なる意義が存†るのである。日本沸教と云ひ切れす
とも、少くとも奈良朝仰敢の根本的な﹁基線﹂の一は此の文化史的な必然性の認識自覚から出蟄してゐるのである。
然しながら、史料わ息賓なる考察の結果よりすれば、史的事案としてぃ欽明朝公侍に際して、か1るi・.小数感情
Lろしわみゃけ 若くは動機の純粋性を認める事は椚来ない。祭明王が天皇打勝善の徳と其の所用す弼移居の縮緬を所願して丈六
の彿像を造りたるは欽明天皇六年九月の事であ■り、その信仰と意臥とを示すものではあるが、彼の殿怖が決して
其れ自照神聖なる宗教遠征ではなくて、牛島三岡紺係の急迫に作ふ兵力懇請の一助として他の伎整、物資、財賓
の貢献と左したる差異を認め難いのである。従って、少くとも其の献俳に際して、朝廷が廊党堅一分して迄も其
ミカホキラヰラ・シ
以不。︵紀十九、同前︶
イナマフイナ†
の採否を決定せねばならぬ程に緊迫せる事情が存在したとは革奥の表面からは考へられたい事である。欽明天皇
レル ノ
が新死の仰像経論を前にして諮拘せられしは
Jクエノ
西希 敵俳相貌端麗。全未二骨看叫可レ祀
の二語であり、畢に俳傑の相貌端麗なる事が鰻丼の封象に関する重要なる指摘であつたし、此の記事は常時の茸
際を或程度迄倍へてゐると思ふ。
然るに其の結兼は既に史茸の示す如く、崇仰排仰の両派が蹄んど天下を二分して利抗草し、欽明、放達の両天
皇は殆んど朝令暮改、其の収拾に非常な辛労を致された。しかも排柳沢は武力に於て概ぬ崇彿派を離画したかに
さへ見られる一方に、之を契機として彿傑経論恰侶は陸続として将来せられ、其の信仰状態も亦た牢固なるもの
ありて、連に崇彿派の勝利となり、三寒興隆の大詔が喚獲せられたのである。
彿教公俸と大子﹁無数三寒﹂に到る国史的事情
拍郎
彿数公伸と大子﹁駕敬三.▲とに到・∴国史的宰楷
我々は此闘の経緯を充分に考察し、更に崇排稲沢の氏族の沿革及び共の国家生活上に於けや能力、特に此の新
文化の矯めに選抜せられ、進んで功績を致したる諸部族の活動に留意して、欽明天皇前後む契機として、その壊
その時、その囲に於ける新なる宗教文化に封する極めて複難なる諸事情、強烈なる必然性の布せし事を知るので
あ・る。
聖徳太子が﹁和﹂を以て口木精紳の心髄となし、和の政治、和の国家統合理想を高揚せられた事は、硯代の我
々に封しても透徹せる先聖の識言として反省と首肯の力強き迫力を要請せられて居るのであるが、しかも其の理
スクナシ
想茸現わ梶本傑件の第一に﹁篤敬三賓Lの語を掲げ給ふたのは極めて熟慮必然の結亜セあつたのである。此庭に
説かれる
則四生之終録。萬囲之極完。何≠何人非レ畢一是法相人鮮二尤恵叫能教徒之。其不レ蹄二三賓ぺ何以直レ柾。
︵十七條適法節二條、紅二十二、花︰国系Ⅰ三七七︶
、、、、、、、、
以レ和一鵠レ貴。無レ什篤レ宗。人皆有レ其。亦少二達者ペ是以或木レ順義父叫乍挙手隣里ぺ然上和下睡。撃於論一
との訓.小む熱税して、吏に
ヽヽヽヽ
レ≠。則雄理自適。何事木レ戒。︵同第一條、川前︶
の一語を顧る時、我々は太子が唯だ一蘇我氏に封する噂獣の反省要求や自己の信仰、新文化への憧憬を焉政者とし
て獲せられたと.ムはんよりは、寧ろ擁政として﹁和囲建立﹂の熱意に燃え給ふ太子が、かく述べかく行ひ拾はぎ
るを槻ない常時り張力にして切賢なる国内的諸事情が存してゐたと考へられるむである。太子の太子たる所以の
押gノ
ものは、他の偉人と同じく深く其の歴史的地整に依り、其の必然の推移を遡りて抜本痍濾あ政治を行はんとし給
ふたに存する。私が﹁伸教公悼の囲史的≠情﹂を論ぜんとするm∵も亦た其の歴史的骨景に遡りて事佃圧む解明せん
地盤的事情
とする〓志和lに外J.し、りない。
〓
一木質的地盤
00000
日本民族性、或は我が精神文化の地盤とは何か。我々は此の問題を説く事にょつて仰数公侍の地盤的なる事情
即ち必然性に答へる事が出水る。
と指摘せられ、奇しくも奈良朝末
︵綺紐三十令以後椅在︶の人々によ
神代史む播き、開史の発展史的文化史的考察に準接する限り、我が民族性の水質を大和的性格なりと諭するは
いみじくも聖徳太子によつて﹁以和焉菅﹂
0000
って大倭に大和の表現自覚の生じたると北小に攣品祇のある謂ひである。
口向族が日本列島に接航せる以前に於て、如何なる民族的和合が行はれたかは眈に語族撃、人類肇の領域であ
あまのさhなわうけひ
り、其の地理的、時間的、乃至は生活文化の分野に到つては今庸ほ模索の度を川でない.のであるが、天孫降臨の
前後に到りては天県名非の約誓を小心として刑雲放との交渉が甚だ暗示的た物語として侍承せられて居り、更に
帥武天皇東征に際しても幾多の先任士族が皇軍の下に馳せ参じて、其塵に等しく天皇の臣民となりて上代の国家
配合を構成したのである。かくの如き大和的性格は
彿数公博と大子﹁驚敬三甘﹂に到ろ鞘史的事情
J錮r
丁ラブ ル カミケナフ ハラヒウ′ヒラグ丁 マツPハ言トドモブ マシ了シテゥ昌
彿致公俸と大子﹁篤敬三穿﹂に到る闘史的事情
コト ムケエ シ
十贅図系Ⅷ六九︶
000000
メ
カ
シバラメ−三
メタマヒ千
草向ヂ和
琴六合l以閃レ都。掩二八紘一而焉レ宇。︵紐三、奮闘系Ⅰ九一︶
の一句にも伺はれる。即ち
●●
荒天琉耐撃
退姦
不レ伏人等南坐二
望︵
畝火之目標原宮叫浩二
天下一也。︵古事記中、停二
の所以である。而して此の如賞の威光は囲豪の氏族的構成に求める事が出来るであらう。此の祀倉制度は極めて
童必随レ時。筍石レ利レ民。何坊二聖霊且常下野沸山埜撃讐呂窒ぺ而恭轄三寒位︼以揖中元
7々′
元山上則答二乾冨
自然に牽達したるもので、﹁書紀﹂にょれば神武大農は
ヲ シ コ⊃ニ
7メノ⊥刀∼ノ・く一票ヒヲわウーフリチ ア グコUサレメ
・リザマラ
アレクリト
ニ
ク
白∵我東征一於肇ハ年実。接以皇天之威。凶徒就教。雄二浪士未岳 飴妖佃梗ぺ
ニクヒ ノヒラキ ハカリッケル ;アフカナ 0 0
1ニ小∴タカ∵フノ⊃コPスナホナリ、、、− ヽ ヽ ヽ−
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
誠宜豆恢廓 皇郡毎中巻 天神山両今運撃此屯蒙叫民 心 朴 素。異種穴任。習俗椎常。夫大人立レ制。
、、、、
、、、 ヽ ヽ ヽ ヽ オ新人タカラブ ヽ ヽ ヽ ヽ︳
−−、、 、、、、
との令を下し、同軸事代主と三島溝柵耳の女王陥讐﹂の由に生れし嫉桁五十鈴媛命を以て正妃とし、行賞
技レ園之穂現下則弘二皇孫蕃レ正之心ぺ︵紀三、啓開系Ⅰ九こ
ヽ︳ヽヽヽヽ、スノ∼†ヽヽヽヽ
みぞくひみみひわただらいナゞひめ
作氏の遠軌道臣命に宅地を築坂邑に賜ひ、その部曲大来日をして畝傍廿以西の川遼の地に居らしめ給ふ
棍
軍学葛城国連ペ文頭八哩㍍亦入食倒刊其≠‖裔釦若野主殿準‡部北也。∴紀三、薔囲系Ⅰ九
以珍学軍倭聞達ぺ叉袷あ狩猛⋮邑べ閃筆猛⋮準王ご疋克⋮主水部遠租也。弟磯城名器速。軍機城野雲
t−†⊥′′
みちのぶーサつきさかかきぺおはくわ
′′
二ケり+・†ノ
ガハ
接以二脚
ッルギ不−イプ
.トノLリノ
二 − 三︶
イ
ふ.十た山上 とある如く、先任土扱は或は開法となり、大部分−rま軒主として供米の土地人民を餌有する黎む許されたのである。
Jク、〔斤
メ
開化天畠以前の御勝代天皇は多く磯城、十市時の僻童の媛を后妃とせられ、率先して部族和合の聴を垂れ拾ふた。
更に物部氏、根橋氏の遠刷にして周刷たる便通‖が先陣の大潮なりと認められし如く、天耐用油は征棚署封被征
.ナ一、ヵ′ト㌣バ鴫ヤリこ 服甘的封h止感情を川舟い・0車が〓米ぬ計りでたく、被等い千路は一打し∵紳別氏族とた=、り〆い氏上た一〇作造、
くにの∴ヤつこむりじかばねた
地力にある国 造 は連の姓名を桝する者を最大氏族として夫々に直、造、首等の姓を栴して本宗家となり、之
やから に族と稲する敷支族を以て一族とし、その下に大作氏に.於ける久米部、物部氏に封する物部、中臣蓮に於ける中
かキペ 臣部の如き部曲を有して居た。部曲は夫々に土地を有する艮︵人民︶の衆困軍位であり、彼等は一文は数十地方
に散在して共の所布地及び家人、使丁、奴娩等の私贈を隷屠せしめてゐたのである。賎は其の主の安易使役に紅
封服従すべきものであり、法的人格む認められて居らす、直接天皇に廃する人民ではない。朝廷に属するものに
みたLろペみこしろぺみやけ
酒部等の如き職業的品部があ少、官贈は雄略天皇十一年紀にょれば侍宿に信濃囲吐
丁、武蔵図面丁が記録
は後代の御名代部、御子代部、屯倉があり、叉祭祀儀蝿の祭具その他に奉仕する例へば玉作部、春米部、山守部、
とのゐつかへよぼろ
仰故公倍と大子﹁鮎敬〓ノ.穴﹂に到る剛史的事情
ささしきやま
の皇千稚武彦命の子孫王=備臣、孝元天良工第一皇子大貴命の子孫たる阿倍臣、踊臣、阿閏臣、狭狭城山君、筑紫囲
あへ
夫々にその族、部曲、土地、私服を宥してゐた。申に就きて最も期首なるは神武天皇第〓呈ナ紳八非耳命の子孫
わに
おはゐつかひ 多臣、安寧天皇の第二皇子磯城津軽命の子孫猪使連、葦昭天皇第一皇子天足軽園押人命の子孫和珂臣、孝露天皇
神武天皇以後人皇の御代が重なるにつれて、皇千里鮫の臣籍に降下せられるものも多く、その子孫は皇別氏と
わけ
おみきサかば揖 して大概ぬ華北天皇以前の皇別は臣、開化大出以後は公の姓を精し、出でて地方に土着せるものは別を姓として
て居るから、彼等が官巾守衛の任にも蕾てられし事を知るのである。
Jが9
偶数公停と太子﹁篤敬二旛﹂に到る閥史的車情
四八
準越国造、伊賀臣の七族、第三皇子貴大忍H命の孫たる武内宿欄とその子孫平群、正勢、葛城、紀、蘇我等の
氏族である。︵紀四 − 五︶
斯の如き制度が我が上代の氏族岡安の構成であり︵別憲二参照︶、朝廷直巌の土地人民以外は、氏上たる伴造、
聞達が北ハの私有の土地人民た‖由裁竜的に統御し、中央政府の政治道川の控臍基礎も、すべて氏上を通じての土
いみぐら 施に封する租、人民︵良︶に封する調、庸が忌部氏の毎掌する所赦に集牧せられ、その祭祀の伏料として充思せ
られるものに依つたのである。雄略天皇の御遺詔に
臣連伴遥。毎∩胡参。開局郡司随レ時朝集。︵紀十川︶
とあるは、氏族制度国家に於けろ統帥の系統を明にせられたものである。かくの如き構成は大関大化改新迄攣形
おふしか■つちのあたひ′
之等の各部族は夫々に部族紳を有し、部族信仰を以て氏紳に奉仕した。例へば大仰連に於ける天忍日命.久米
しっゝも連続し、其の後と雉も名と分を典にして戎程度迄王朝時代より封建時代に穏承せられた。
ノ′
及げ阿童適に於け畠底津少量、中津少量、表津少量の三命、筑紫の水
、
′′ 直に於ける天津久米命、出雲臣、土師連族の天機目命、凡河内直、山代直等に於ける天津彦根命の
如、
き、
租光軸、
わだつみうはつみぬまみちぬしのむち、、、、、
以て部族圃結ゎ中心となしたのである。即ち氏紳に奉仕する氏子としての部族にあて‖ソては、部族の能力、意志、
人格、行動が氏上を通じては行れると共に、その共同衆落の生活、囲結、行事、人事、進退等が氏上の神官的行
作にょる氏植ゎ祭祀、氏刷に対する依撒によつて取行はれ、表示せられ、代行せられて、偶々の人格は之によつ
て柴剛的部族人格に蹄lせられてゐたむである。
J9∂0
七
︵
部
釆女臣−釆女部/
忌部甘−忌
部\
率拝承−中称部
名代部
部
大伴氏−久米部
物部氏1物
婦奴使
丁
︵揖尉榊抽消却咽鵬珊瑚翫鋸恥器翫胱謂蠣粗相用︶
←部曲
カキべ
( 民
lI
ll
完本
_1二
族;
氏1鉢墾鮎
上
良
_−一一
− ̄ \
ノr
中臣連−中間部
地 ユニ
地 ニヒ
氏
首造血
曲
)
長
大
別(地方在住者)
公(開化以後生別〕
精足︵士族多シ︶
大連−連
田(孝元以前皇別)
願主︵士族多シ︶
家
人
臣
参考末節一上代氏族軌虔及祭政政治の系統
天皇‖
族祀祭
八○氏)
(部忌臣坤)
(氏五九八)別 紳
フ 族支 ′
川∂r
仲秋公保と七三駕敬三塞諺到る囲史的事情
m九
す葦際に統御し、其の各能力を以て朝廷に奉仕せしめたム大和的性格は二万に莞雷中心とする血族
従ってかゝる能力的部族、即ち土地人代に封する政治力、繹臍力、並びに職能力ある部族を理論
皇
彿教公俸と大子﹁篤敬三賛﹂に到る国史的事情
五〇
信念及び結合にょるのであるが、か1る信念及び結合の根城は部族信仰を通じ、之を統べろ朝廷の精神力、即ち
祭一祀力の如賓にして偉大なる働きにょるのである。祭祀控釦ちマツリゴト︵政治︶であつて、氏族生活を通じて
ヽヽヽ
ひも一っぎいはさか
闊豪生活に踪一せしむる統一根祇であるj我々は此の原理の茸際む問家政治の開幕たる天孫降臨時に於ける御鏡、
紳離禦境、並に殿内防護の神勅によつて佃ふ事が出来る。即ち﹁書紀﹂によれば
以琴一
スノ、し7ノ
t︳ヽ︳ヽヽヽヽヶ
天津帥離及天津撃項∵貫や東孫l奉レ蔚。汝天見屋命太ま命宜持二天津紳籠一
内五日箪l防護ご︵紀二、神代下︶
ミ′フカーウナ
さるわ
いしこりどめ
見時天照夫帥手持二貿鏡ペ控二天忍穏耳金一印刷之口。吾兄印加賓鉱一常レ狗レ税レ吾。可︼l向へ同レ床共レ殿
止ギテ
降二於葦原中国一亦箪五孫一奉レ筋焉。︵乃俊二二伸陪二綻天忍穏ヰ隼−以降之。︶﹂
オコシタテテ
高皇床町衆韓国勅口。吾則起﹁樹
ソヘテ
ユニJ,ニミュカミアラカス
筋鏡ご
儒二伸亦H侍殿
ネガハクパーマ・ン
復勅こ天兄以命大玉命↓惟
た麦の︰小ヤ
いつとものむ
︵1︶
とあり、主立記﹂によれば天見屋、大玉の二面の外に猿女君の粗大字受東、鏡作蓮の租伊斯詐理鹿茸の二女紳と
たまのおゃ
ま組連い組ま柑命を以て五作紺とし皇孫の側近に奉仕せしめられたのである。
かく卯如き閥豪生活は紳と人との利益合緋の政治でもなく、紳ゐ超人悶仕に於ける専制でもない。紳の純粋な
る意志によりて行仏給ふ政治を紳の子たる者が祭祀を通じて斯現せんとするものである。殿内防護の神勅を受け
たる天見屋命の後なる中田連及び太王命の裔たる忌部首とは特に祭祀族として閥家祭祀の集凝能力を掌り、宮中
深く奉仕して紳鏡と同床共殿の天皇を補佐し奉り、事茸上の国家政治に参興したのである。︵別表一参照︶
拍βg
冊数の祭祀的挿受
、、、
︵2︺
のである。此の蹄伐と受行と修菓こそは和聞建立の根本でもあり、闘宏一伶伽︵sa蔓瞥a−
の意義を、法賓は控教弘通の理により、臍蜜は行受の故に、仰賓は依数修昔稗智戒排の鶏に大下重要親せられた
︵4︶
ヽヽヽ︳ でもある。常世易らせ給ふなき天皇の絶対なる愛民の精油と臣民の忠貞なる翼賛奉仕︵随順︶こそが和国の長の
かくて其の後を受けし奈良瑚の彿教ヽ
示︳
精ヽ
紳ヽ
に︳
於て常に天出愛民の大御心と三賛一憫の﹁和﹂の精紳と?即融に
姿であり、踪依三賓にょる行#の建立成東でもある。
○
彿孜公侍と大子ナ郡敬三宜﹂に到る関東的革桔
J別け
二
聖明王厭仰い常時.祭祀は既に相克圧清⊥ハカとしては甚だ稀沌になつて居たと樗へらか一心が、しかも其わ深
く長き付紙い力は民族粧む本質的鰍現であ■つたが故に、一度び此の新しき宗教文化を脚家として受容するに際し
︵3︶
ては直ちに之が祭祀的化格を出て行ぜられた却は、大陸の模倣と云はんよりは更に探き民族的木有性の目覚めで
あり、本能であつた。
之等の具醗的た論評及び政教一致に到る史的拝過については眈に他に蟹表した研でもあるから、今は極めて鮫
著なる二三の葦例む撃げるに止める。
太子の三賓観は﹁勝軍結託疏﹂に説かれる常化一惜の三賛であり、そこに図醗国家図法の精紳根描を見出し﹁港
が、太子は之を以て我が民族精油の土に利用厚生せしめ、眞わ帰依三賓の精神を徹底葦視せしめられたのである。
聖徳太子の仰数的領解は﹁≠川虚妄畔仰是眞﹂にあり、﹁諸悪共作衆善奉行﹂の棟木要請に春せられたのである
.
草野あ純一大乗の囲醗信念に還録すべき事を北ハの理想とせられた。而して一方に於ては其の桝謂る﹁梯符三賛﹂
ヽ
借款公俸と大子﹁鷲敬二蜜﹂に到る園史的事惜
五二
〇〇 よつて国民生活に植付けられた。一面に於て三論や法相の学派俳敦が全盛を極めつ1も、之等聖撃檜が官更とし
たのである。御歴代の仰事勅修の詔を挿し、或は僻綱等の奉答奏上の語を見れば、そこに天に蟻∵り
て固豪的祭祀行事に奉仕する時は、純粋に鋲護囲家、利民療災の馬に護国三部絆その他生硯諦解説し害鳥供養し
せぐく麦ぬきあし
午年中行事となりし濫触として.正月の御所倉
最勝訴、吉群悔過︶が新年祭に、持統天皇の頃より始りし季
て神祇を弄し給ふ大御心と中臣忌部が之に奉仕したる精神とを明に看取する事が出発る。更に形式的に見るも後
ごさい奈としこひのまつり
御讃控合が朋夷祭に、歳末鵬程酔過︵御伽名︶が大祓に、一代l慶大仁妄が餌代大昔褒に大蒜常し、更に史
粟に放すれぽ俳に封する讃控が紳に封する奉幣、設蔚が両紙的意義に解されて﹁ヲガミ﹂と訓ぜられ祭祀とか碓
建立せられ、大官大寺を始め十大寺、十五大キと栴せられ、型式天皇の御代には国分二寺の設置
井の意に川ひられ、寺院の伶尾は諸批の硯部と同等の待遇をせられたのである。又園の大赦に封して園の大寺が
おほつかさのおはでら
である。
大化改新以前の民族的彿数についても、我々は其の組先約祭祀精紳の再現としての許跡を襲迭、真樹、氏専制
︵5︶
虔に見、又迫平伏蕃や干皿閥盆倉にその嘱目の篭連を見る挙が旧来る。
ヽヽヽヽヽ
奈良末期に到りて桁甘の政治が指狸せられて平安に都が遷され
中城哲都。元来多レ寺。臍尾根多。濫行履闘。
、・h㌧
として草姑hハ宗は甚しく遠離せられたが、しかも仰致それ日醗に封しては﹁災を療ひ瞞を殖うるは僻数尤も勝
るLとして新京に糾する新仰敢のハ=ノ結しLなつ右目■ぃである∩打−iして此暗に苦りて前代いそれより引機がれたる桝は如
川∂J
ち飛鳥時代に於ける部族的信仰、奈良時代に於ける親疎国家の凰想であつたが、此の弥賓は逆に叉此の二つが上
が、之につきても
更に上代に於けろ四天王寺的な沸教、叉行基的たる彿教は新しい文化運動としての普遍性と新文化抜取の別な
ヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽヽ〇〇〇つ00シ†○ヲ
年六月廿五日大政官符、終三︶
仰訣公保と大子﹁鮨敬二・冥﹂に到る国史的郵帖
と考へられてゐたのでも察せられ、その理念は亦た部族の国家統一的態度が是に及べる事を知るのである。
叉於二定額莞雉姦立石レ主本棚異姦。両弊護国家東軍分別ぺ此倍救レ壮利レ物侍二子不朽哀也。︵仁寺三
き性質を有してゐた。眈に早く諸氏の大寺は或は国の大寺として、又定額寺として国家行事に参劃したのである
家人的性格を見遣す繹にはいかない。しかも理念内にありては、氏の大寺も亦た閥豪沸教として包馳せられるべ
︳ヽ︳ヽヽヽヽヽ
とは別望‖心味に於け亘僧綱、踵*、長雫二綱の徹主的性格、寺院檜侶の部的的性格、寺購及び寺領民の郎常的
それ自照の部族性.寺院中心の衰族化の現象を醸し出した。伶兵抜足の時代に於ける彿数は奈良末期の政教一致
平安末鎌倉の以前に於て、国家の彿数は大照部族的信仰と囲家的信仰とより成り立ってゐるが、教圃には宗派
等にも倍大たる先駆と試厭をなしたものであぇ。
方面とをホしてゐろ様に見える。此の恥骨施設的な、私度的なる分野は後代の口本俳教の興隆、配合文化、文蟄
、ヽ、、−、’ヽヽヽ、ヽ−ヽ、−
して開家の大桁数育む辛張し、大仰の戎輯準凡を企てたる事とは共に充分に歴史性のある事である。
ヽ︳
前代の無統制的′付満む隼備し二欠い儀酌む牌来・撃止叶云事刑仰数と.件数大師が囲安い大法・囲宏の大寺に封
代仰敢を甘く敢も視き特色であり、民族性に合致せる指導精油であつたと忠はれる。弘法大帥が周東沈要に於て
柏紺
価故公庫と大子﹁篤敬≡烏﹂に到る閥吐的事情
叉濾信僧都、法然上人、親幣聖人り念彿門や明通上人、道元繹師、口蓮聖人等火の所謂る鎌倉的なる完成せる
日本俳教にも、その根概的思想に於て紳紙祭祀の株本精帥が柏現せられ、活用せられ、其れを地般皿として民衆
働きかけたる要素の存在せし事は、他方面に於ける本地垂跡思想の流行と共に、意識せられしとせられざりしと
岡史的事情︵受胎的必然性︶
ノに紺らす、充分に認め得る所であり、そこに口本的性格を賦興し得る所以でもあらう。
三
支部に彿敦が渡来したのは、具惰性のある霊㌢しては西歴筑二≠紀中琴後摸明帝の時代であり、牛島俳敦
の檻仮は第四≠紀後年、我が仁徳天皇の末年とせられるが、我闊に此の完散文化の受胎が行はれしは更に諒紀
年後れて訟∽牛、或は父還年、即ち欽明天皇成年或は壬中年とせられてゐる。封外交沙は眈に泣か前代り崇面垂
天皇紀より行はれてゐたに関らす、何故に約五行年を経過して漸く欽明天皇の前後に於てかゝる歴史的事寛が現
れて釆たか。此の関越を諭するには我々は更に上代に遡りて其の文化史的控過を明かにせぬばならぬ。
欽明天自責前に於て断片的なる囲史を文化史的に綜合して見ると、凡そ重要たる三相に分ける事が日米る。第
一.期は国内的に日動的な展開左たしたと想傑せらるゝ崇油垂仁天皇む中心とすろ時期、第二期は封外交捗による
受動的な展開を示した■應沖天皇を申心とする時期、第三凋は此の両用の影響が濃匪敏感に反映結兆したる堆略
皇以後り博明で虔接木題目の澄明となろ諸事情の現れし時期である。
抽弼
一
︵黒パ油頑仁天皇を中心とする︶
史的腱閑の序曲
第一期
︵7︶ レ・モレテ c諾−皇蓋︶従米同床共殿し給ふた紳鏡が天皇の大殿を⋮でて笠縫より遠く伊勢に鋲りましたるは、﹁.然畏三共
我々が此い期む自動的展開となすけ園豪か人的誉警に到達したる尊貴む指す筈ある。り沖天畏∴午︵B
かさぬひ
ヒル
ツギ タリノ
一−ナリ
彿数分倦と太守﹁㍑敬二せLに到ろ閥軋的事情
かむところかむペ
ハソニシラススノラミコト
是以。天神地祇北ハ和事。雨風雨順レ峠。吾穀川成。家給人足。天下大学英。政柄郡融撃開天草也。︵紐五、
はつくにしらす
ほつくにしらすすわらみこと
孫であり、又は其り紳斉に奉仕せる氏部族の入園豪的地位も走ったゎであるが、同時に紳と人の意
まうしたると相並べて文化史的に極めて意義深きものが存する。
かくの如きは祭祀政治の襲展成果であつて・八十萬わ天紳地祇に図家的性格が輿へられ、従って
と讃へ奉りしは蓋し常然の頚セあり、こゝに﹁御韓囲﹂との荒は神武天皇を﹁始駁天→2天皇﹂と都評粁め
蕾国系l一一円未︶
ニ
申奉献︵呉十年︶の事も皆我国が人間豪としての統一的自だ到達せる書記明する史料である。毒紀Lが
び両地納戸を宏給ふた雷記して屠る。常代に行はれし四造脾票窒十年︶戸籍課役︵同十三年︶望蒜賓甘
力を以て天照大緬が大使王窒の組油よりして高く図太租紳となり給ふたとの白㍑竪琴ものでなけれ
あまつゃしろくにつゃしろ
従って要は続いて翌年の紀に於て大物主紳及び倭大囲魂紳を始めて別に八十苗の群洒を祭り、天祀
天皇の柿限の御白党であり、紳の国家より人の開家へ蒜認識藍蒜すると共に、神武釦止以来の讐た
軌軌﹂芸北正ク三不レ整と感じ給ひしにょるのである。かくの卿き紳慮は忘に紳に封する天皇、紳
みあらか
7脚‡
皇が紺碧壷の御任しのま1に行蒜ふ政治にあ阜も、部族の能力的協賛が不可紋のもあとなり彗たのであ
おほかト麦
沸教公僅と大子﹁鷲敬三蜜﹂に到る閥史的事情
五六
分離が著しく自警られる妄、行政槽の中央還的努力が要請せられる雷に、紳人一如の政治形態に於
よさまつりことヽヽ︳ヽヽ
〇〇〇
る。こ1に上代の人国家に於ける阿道将軍を経て五大夫の政治が起ったので警。垂仁天皇紀に於ける五大
ひこくにふく
いつたりのまち争サたち
とちね
夫とは阿倍臣㌫
錆ぬ
別な
︹か
用宗
︶、和珂n完声囲茸
た武け
代警
わ一け
苧千根であるが、之にて知られる如く草本大の内容は聖者の皇別、大鹿島の祭祀族︵州別︶後二者の紳別の
毒力氏族によりて組織せられたものでJ祭祀と箕恵によや豊窒基線的政治形警ある。後に硯はれる大臣、大
連い政治は五大夫より祭祀族が抹杓せられた皇紳両別の尖鋭強化せられしものである。
丹新天皇四年十月壬午の詔には
〇
〇
〇
〇
ヨ;
まム;ヲ
惟我皇組。諸天童。光二臨羞考芸二妄乎。宗下山評こが
流毒撼芸1険撃承大運璃愛二育翠霊何革ヂ一運豊根之跡∵水俣二無窮之昨完ハ群卿育僚。撃簡忠良刊
′シ‖シノスハアマツレツ・↑チ
っ00Jペソクごテレ0000︶イアン′つ0
甘我畏粗大搾二鴻莞其後聖業遜高。王凪博盛。不レ意。→軍舵≠敦有二災害義朝無毒改憲∴箕面些
.並軍一天下可不二亦叶一乎。︵紀五、花山別系l一〇七︶
と仰せられ、又七年二月には
、呈、、−−−、−ントハ1、ニ、−、00チつ0
耶。︵同前︶
我先出御⋮城人斧正十竣姉火畏︵諜︺軒数作常飲明聴連︺深執蔽損志懐一沖誓約由塵禦町紆
と詔し拾ふた。更に奄仁天窒一十五年二〃里ナには特に五大夫を召して、
・
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ILサカケーり,J
Jクク∫
︳︳︳ヽ−●−−I●Iヽ−
0
0︳︳■●▼︳︳︳
和紙可別レ已勒レ射。日慨二一口可是以。人民官足。天下太平也。今野腋世可琴祀神祇可畳得レ有レ怠乎。︵紐
六供同系本i一二門︶
捌
と宰りて居る。かくm如き一群い詔勅は極めて儒教的色彩い濃厚なもので、固より常時わ勅語をありの倦に倖へ
たとは信じられたいが、我々の云はんとすろ歴史的意囲は、要するに群卿百僚の認識であり、其の政治的地位を
示すものでもあつて、天皇の後代に一貫して現代に連る圃家統帥の御天職に封する尊き御精油の発議として丼承
し得るであらう。而して共起には前代に嘗て見得ぎりし帝皇の御意志を伺ひ得るのであ少、帥の道に謬ふこと無
からんとして別己勤窮し給ふ天皇の御姿を辞する事が出来る。天皇の愛民と群卿百僚の忠貞とは政治の理想形態
として示されて店少、そこに人紳の司壮者としての天皇の神祇祭祀が説かれて店るのは、政治上に於ける紳の地
代及び能力の椎限に関する認識を物語るものでなければならない。
しかも一面に於ては大使王朝の領土的勢力的振眼が次第に遠隔の地に及んで茸際的統御が複雑となり、祭政の
分離が次第に撞着となるにつれて、之と刑伏相踊して氏族の祭祀的紺心が部族生活、延いて閥豪生活の全般を統
帥捨賞し得たくたつて、硯茸的な能力的部族の能力分措の政治へと移行せんとする傾向が見られなくはない。既
にして崇輌と申し、屡々敬神の詔の衰せられたるは此の過渡的なる時期に際する加寮の現象である。氏族の夫々
の天地紳に封すろ観念の攣化の異相的なるものは文献の表面からは知り得たいし、叉﹁書紀﹂に記述されてゐる
常代の紳の概念も或は﹁司牧人紳﹂、﹁取替於和紙﹂等の語からすれば甚しく支那的で、天皇、両、政治の関係も
儒教道教の形響む思はせるものであるが、少くとも仰教化来以前の或る時期に於て、紳が幾分相克紳、氏神、政
彿秋悠悌と大子﹁㌦情状二律﹂に測ろ周史的事席
丁
珊敦公悌と大子﹁解放三埴﹂に到る閥史的坊酷
五入
治紳としてよりも寧ろ宗教的色彩を得て、冥紳的性質を帯び、紳の≠界と現葦≠兇との宙別が生じて釆てゐた事
かく一面に祭政の分離、紳に封する部族り信仰内容の攣化しっ1あつた反面に、之と和瓦相紺して国家生活上
第二朋′應紳天皇を巾心とする︺
ほ断言し得る事茸であらう。
ヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽ︳
に於ける部族の能力にも桓々なる分業的分化が生じた。
既に述べたる如く上代の国家生活の株底は躍重に土地に限られ、共の能力上に於ける分化も職業的品部の存在
によつて一應確立してゐた様ではあるが、しかも之等の部と雉も北ハの能力的基礎は夫々の﹁品﹂にあるのではな
作
也。︵記中、碑仁天皇紀︶
くて依然土地を離れては有し得なかつた事は有名なる﹁古事記﹂の
カレ
トコいヌクマツクリトゾイソナル
︰::撃作レ玉人等⋮骨撃其地瑚故諺H。不レ柑レ地王
の物語にも察せられる。
然るにかゝる土地依存ゐ生活は垂仁天皇より景行成務雨天皇以来大倭王室の勢力振脹と用土拡大につれて夫々
いほきいりひこ
に膨張し来った事は想像されるが、氏族それ白愕の審殖力も亦た累増し、加ふるに歴代諸日宇が皇別氏となりて
わかたらひこ 地方に川で、問題国別となる者も.多く、景行天皇の御代の如きはR本式軍稚足貴大望、五日加入務皇子む除き
て七十散弾十が赤く囲郎に封ぜられて夫々に赴亘給1た。更に用廷‖lけ政的基礎と地〃的堅眺望止桐地としての
みヤけ 漫欝抑新風、柳田及びその官舎は之む屯倉︵甘寂しと糾したが、之は垂仁木真二十王牢に来日邑に置き給ふた寵
g囲0
始めて、巽星置領の倭薗倉、景行天皇の桐部屯倉、仲哀天皇の淡路屯倉、仁徳天皇の英田屯倉を始めて請鯛に配
思せられ、中大兄皇子は全図に捗りて打数十節桝を徹有せ、hれた程である。文鳥量及び皇族所有の郡民にして之
んたしりみこL′
にょり
れげい
垂仁と
天皇し
の伊わ
芳志和
に天皇、皇后又は皇族の名む冠して†の部曲とせ・U御名代、御十代は﹁下県
別冊
今般嗣二践賛昨叫夙夜兢慢。然琴冗盃簡。不レ俊二野心瑠是図郡旺⋮君長刊願邑旺∵甘渠一斉焉。自今以後。閥郡
立レ長。解邑駐レ首。郎取下草一国之幹了泰郎任二英国郡之首長ぺ是軍司︸匿之務昇一也し︵四年二月の詔、紀七、贅
彿沃差付と大子﹁世故一▲賛﹂に到ろ用史的事情
仲哀天皇紀には新羅討征の神託を記して
和状態的均衡が一歩進みて最早や自然の考展に委するむ得ない状態Lなりし事を示すものである。
る。之は皇威わ地方的畿展であり皇室の葉推力の強化であると共に、土地に依存する限りに於て、氏族症倉の飽
と仰せられ、囲郡
に桁た
遣 ぎしゎし
みゃつ解
こ邑い
国系本Ⅰ一五三︶
ヽヽヽヽヽ︳︳︳ヽヽ︳ヽヽヽヽ
ヽ︳ヽ−−、ヽヽヽ
が激烈に繰返された事は想像される。成務天皇が特に
然組究以来鹿大たる土地人民む占有しその統治の自由を公許せられ光る細別氏族との問に、土地的なる摩擦交渉
かくて皇室自身の官有地官有民の増加に件ふ中央集標的意固と、新しき皇別氏の地方的土坤硝石の意託とは骨田
裁の資力ともなり来ったのである。
天皇紀の大后石之目安の御名代葛城部の如きものが、逐年増加し来って、皇室の中央集権力を澤田にし、氏族制
いはのひめ
みこたけるぺ 親王のチ無きによりて千代として伊登志部を定められしを始として、景行天皇紀の口本式今に対する式部、仁徳
−
例数公停と大子﹁篤陳三密ごに到る囲史的事情
六〇
ブンムナシキクユノツエコエTOl−ヽヽヽ−ヽヽヽムカッケ一一 天皇仙憂鹿梨ン弄Ⅴ服。是裔之貧困也。ハ且単車レ兵伐奉。愈二弦団三相有−■賛固靂﹂如二美女之野市二向韓国り
墓
を械み、沿海を浮捗りて射ら西征したまうた﹂ と侍へら
タクノ八マ
眼炎之金銀彩色多在二北ハ幽刊是謂二稲会新羅囲一焉。︵天皇八年、絶入、華図系i一五入︶
︳ヽ︳ヽヽヽヽヽヽ︳ヽ
0000
tいひ、紳功皇后紀にも繰返して
000
欲し求二財賓囲一︵紀九、同〓ハ○︶
肛西欲レ求こ財囲一︵同〓ハ一−ニ︶
000
淡こ財土一︵同一六二・−二︺
みた麦ふゆ と記し、かくて皇后は﹁神祇の敢を被け、皇他の
れてゐる。
我々はこ1に皇威の充寛と国力獲展の自然性を充分認めつ1も、しかも其の故に.何故に﹁書紀﹂が此の牛島
遠征に就て執拗に﹁財賓囲を求めん﹂と欲せられた事を述べねばならなかつたのかを考へさせられるのである。
而して部族の限られたる沃野耕作が閣安生活の一律的能力であり、謹番生活の基礎であり得なくなつた時代的要
求を想はない諸には行かない。
嘗て政治上わ茸牲は中臣氏り祭祀と忌部氏の閣豪財政の中枢たる翳蔵管掌の二大能力によつて行はれ来りしも
のが、漸く中臣氏は宮中を離れ、忌部氏亦た神官分離に随ひて政治圏を去り、武内宿梱が皇別氏より出でて大臣
の化に上り隼鳥遠征に大功を樹つるに及んで、閥豪政治の上に部族の能力的分掌が仝黙立脚地た異にすろ郁族群
にょって代表せられる形勢となつた。大口大連の連介政治が之である。
βC¢?
う
既に土地的洩る沖別氏と土地に凝れぎる曇別氏との土地拭謡は自然の勢であつたが、しかもその抗争が最早封
的経済能力を掌握する事となつ鷲しかも外交事情は敏感に国内に反映し、任那日本府、渡官家の興
仲秋公倖と大子﹁鷲敬三賛﹂に到ろ閉史的審怖
汝小l臣之桝ル不レ識也。︵紐二十一、膏園系本Ⅰ三ハ二︶
輪君逆旦殺害したる守屋が、馬子の.﹁天下之乱不レ久夫﹂と聖側然歎且あ語に報いて、
み 天童殉官龍於ける馬子と守屋の不語慨なる嘲罵の事案、叉用明天皇如偉に閲し穴横部皇チの軒乱視観に備へし三
わのきみさかし
沸教の信奉可否についての両者の異見、其彼の排俳的行馬場庚寅法難、乙已法難として個へられて居り、故連
であらう。
と新興皇別派生の文化外交族の代表者たる蘇我氏の抗争の事賞を見、又両氏の滅亡時の茸情を比較すれば足りる
封大仰金村、大伴金村封許勢椙持及び物部尾奥の間にも見られるが、侍粍的両別土地依存族の代表者たる物部氏
が起り、政椎の争奪、政策の反日が繰返され、引いては感情的封立に迄進んでゐる。此の撞着な茸例は平群眞鳥
かくて園内の武族政治と海外の外交政治とは別佃わ氏族群の専有となり、両者の問に極めて顕著な能力的分党
治上の可及的重要事となるにつれて、彼等の部族の地位は次第に確固不動のものとなるに到った。︵後車参照︶
みまなわだのみやけ
氏等の清躍と、牛島遠征を横として踪化せる幕別氏を駆りて外交、貿易に進出し、封外的な知的文化能力と動産
内氏いチ孫たる蘇我、平群、宜勢、葛城、紀等わ諸民族が北ハの父組の築きし地般ルによ少て、海洋族たる阿曇、胎
そわ打開せられたろ囲情に即して逸早く十地的意欲た別佃い能力的方向に特出せぎるむ得たい。婁別氏申特に武
象とする土地的僚裕の宥せぎる事情に立到れば、武力根抵に於ても、叉発生的にも敢も弱く新しい皇肌部族は、
鱒甲
偶数公伸と大子﹁篤敬三寮﹂に到る国史的串情
六こ
と放言せし如き、叉守屋篤子等が用明天皇㍑仰わ可否を辞ひたる如き、皆両者の反日の串茸であるが一之等が箪
に感情や政策上の封立たるに止らす、全然其の能力的地般皿を異にせる氏族問の封立抗争なりし桝に重大な根接が
存するのである。
物部氏の滅亡に際して罵言れたる攻撃には、泊瀾部、竹田、厭戸、難波、春日の諸皇チ、蘇我、紀、文勢、膵、
培弱恐怖。三廻却
葛城の蕗氏、並びに大伴、阿陪▲.平群、坂本、春‖、佐伯、土師の諸軍族より舎人に到る迄殆んど皇窒、大氏族
大連親筆ニナ弟輿二奴軍叫築二桁城南戟。⋮:英軍弧盛嘱レ家硲レ野。皇ナ等軍輿二群臣衆ぺ
の大部分を動員して一物部氏に向つたに関らす、倍誰によれば
ヽヽヽ、ヽヽ、,
ヤツコラ
とみのおぴといちぃ
竹⋮.店嗣仰天之チ也。臣不レ知レ罪。乞垂審察。︵枇二十四、駕閉系本一円二ニ︶
ミコ
勿論互勢徳陀が﹁天地開聞より君臣始て有ることを以て曜某を説き﹂入鹿誅教の研以を知らしめて日登的武装解
れしに過ぎない。しかも蝦夷も亦た僅に天皇記開記珍賓む焼去りしのみで殆んど無抵抗に自匁してゐる。之には
と痺就詐即したるのみにて誅に伏し、古人大兄は私官に入りて杜門不出、小犬兄は法興寺に入りて彼等に備えら
コファキラノクマへ
みかど が環申持兵して大臣家の馬に立ちしに関らす使に衛門府を戒め十二通門を鎮めたるのみにて入鹿はたゞ
之に封して蘇我氏の滅亡時は中大兄皇チが諸国に行数十の屯倉む猫占せられたとはいふものゝ、撃感等の窄屈
とあり、眈に危かりしを聖徳太チの四天王誓朗と猛勇速見首赤樽の強弓によりて僅に最後の勝利を拉たのである。
還。︵紀二十l、啓図系本Ⅰ三六六︶
ゾク
′′イクサ†ゾ†ゾレテ、lタビシッ
グ
除む姿給したる結氷ではあるが、しかも此誓一の恥仰の記述には明かに物部、敵地の和代衣氏族の立つ地盤、非
g仰・‘
′
の国家的能力が根本的に相達してゐる事社有示してゐる様に恩ふ。
かく一方に於て氏族〃能力的分業状態が鰍著とたリリ1れ■ると共に、他面自王威ハ園内的草根に作ふ自警至の寛力
的肇植の昔閥にょつて、紳別土地氏族は其の後展を茸力的な土地争奪に終始せざるを得なくなり、祭祀的精神の
或
低下につれて次第に環力主義的傾向を辿る事となつた。部族餉豪の根祇をなす氏姓の混乱に陥りしはこ1に胚胎
してゐる。既に允恭天皇の四年九月に
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽクガハ人
ヽヽヽtヽヽ︳ヽ
詔口。土笛之治。人民得レ桝。姓名勿鉛。今推躇軒於レ致四年英。上下柏餅。百姓不レ安。戎鋲失二己姓ペ
怖・躾公倖と大子﹁篤敬三賛﹂に到る図史的挙措
くかたち
︵未完後輩参照︶
桔抗し指す、次第に大氏族に吸集併呑せられて精油的にも生柄的にも著しく貧虚なるものとなつて来た。
ばする程益々甚しくなり、同時に少数の文化外交氏族の国家的能力に鷹倒せられて、分野的にも蟄展的にも之と
に復したりとは信じられす、国家基調たる氏姓の混乱は土地的部族が其の土地に膠着し之む保守せんと努力すれ
たのである。しかしながら其の伐て来る桝遠きものが唯此の一同の明几紳探揚にょつて直ちに全てが﹁上古之治﹂
とて群臣の議定にょりて更に詔して昧軽正之軒納戸押に探濠喪家坐えて盟紳操湯の行事を施行して氏姓を正され
あまかしの.小かのことの麦がとのきぎくがペナ
コトサラ 故 認二高氏ぺ其不レ草薮治一着。蓋由キ是也。舵維二木賢叫⋮瓦非レ車乗錯一乎。︵紀十三、奮闘糸本Ⅰ二二二︶
ヲ
gO郎
び学説︶−−第一部
人
スパチ︰、、シュ
哲人.ワーチャス。ハチ・ミシユ′
哲人ダーチャ
︵人及
︵1︶
ラ
金
印度の文化史上、著名な人として少くとも二人のゲーテヤス。ハチ・ミシュラ
倉
六四
固
︵く抑caspatim替a︶
が春木す
る。その一人は十五≠紀後年の法典家であり、他の一人は共よりも数百年古く、一骨有名な哲学者である。安に
﹁人の部﹂に限る︺
Ny抑yasPc−.已
少しく後者について論述を試みょうと思ふ。まづ始め﹁人﹂に就いて考琵し、次に﹁革詮﹂に関して考察を加へ
よう。︹但し本絹は
●●
に作られたり。
不幸にして新人ブーチャス。ハチの事蹟は殆ど明経でない。其の年代について言へば、彼の作品
bandha の終りに
此の﹁ニヤーヤスーチーエバンダ﹂は
グーチャス。ハチ・ミシュラによりて
敬虚心に満ちたる悦びにおいて
八九八年︵くaSモレPka・くa苫・くatSara︶
ク00♂
と紗侶が出てゐるが、之が彼の年代を推定すべき唯一の確かな手掛りとなる物である。たゞ此の八九八といふ牛
︵2︶
︵3
が、何れり印度麿に捕る牛敷であるか、此鹿に明ホJい一れてゐない。曾て印度人の墾斉ハラブラサード・シヤース
ッリ
■︳
推定に閲し允づニルマニ・チャクラブルチが疑ひを挿んだ。そして後にウツヅ徴授が此の年数は寧ろギクラマ暦
に撮るべきであらうと主張した。その理由は︵一︶北印度の作家としてはギクラマ暦が通常である鮎。特に︵二︶
シヤカ暦にて計算する時はブーチャスパチとUdayanaとの隔りが僅々七年間となり.接近に失する瓢。︵三︶
質種︹後述参照︺がブーチャスパチの詮に精通してゐるにも拘らず、正理軍泥の新しい睦婿ウダヤナに全然閲説
ヽヽ
︵4︶
してゐないと言ふ三鮎である。そこで之をギクラマ暦に掠って考ふれば、此の一二鮎を困難なく解決できる。故に
ヽ︳ヽヽヽヽ
︵5︶
前記の年数は、西暦八四一年に該督すべきギクラマ暦年を指すものでなければならないと主張した。その後ウツ
ヅの修正意見は専門家の任用する所と成ってゐる。今之を我が国に常てゝ言ふと、平安朝檜基海示寂わ平年誓ア
ーチャスパチは前記の作‖Mを編修したといふ事になるであらう。
といふ法典に掬する幾程かの著述があ
Litteratur‡Band−S.g︺参照。
s2COndseriesく01.戸−苦心.p.已
p.H邑i.因みに上記の侃文に〓づる年数を根捷と
AuthOrS︵lOurnalOf theAsia
Cint釧ma思
Hndischen
MSS
Indian
Sanskrit
der
の宮廷に什へた人で
Of
る。M・Wniternit2−Geschichte
了︶ 此の法典衣は西勝一川七五年頃Mithi−仰
︵2︶ Harapras邑aS訝tri−ZOtices
Chakraくarti、ChrOnO−OgyOf
Tracts.−讐〇.p.戸
Seriesく○︻.声−苫叫.p.NO∽︶
︵3︶ スエヨani
︵4︶ l・コW。。ds、Y。ga・SyStem。fPata誉a〓︵HOS.︶−−警吏
哲人プーチヤスパチ.︰、、シごフ
gO〃
哲人プーチヤスパチ︰、、シュラ
ょって年代を推定せる
Indian
六大
等の誼が、認容されないことに就いては、此の昔
PhこOSOphy−戸−苫N、p∵岩戸
COWe〓−Bar声MacdOne〓−Pathak
ず、他の材料︵主にブ亨チャスパチの著書に引用されたR巴alく腎ttikaをBhOjaR巴aに関係ありと見る事︶に
Of
S腎首adhギapaddati
の記載を用
Nyぞa孟rt蕗a︵Ch。Wkh.S.SしのBhロmik抑p﹂㌫f.に於いてく.P.D5.完dinは
Gupta−HistOry
の、p.舛已iを見よ。
︵5︶ たとへばDas
尤も一九一五年出版の
八九八の数が依然シヤカ暦年次を一雄すべき旨を主張してゐる。典嬢は主として
ゐてゐるが、然し其の論評は吾人を十分に満足せしめる物ではない。且叉ウツブの提起した三伯の難鮎は全く解決
●●●
きれてゐない。
次に彼の田生地について考へると、先づ問題となるのは、ブーチャスパチ︰、、シュラの編纂だと言はれる
Nyぎas己ra・邑dh腎aの序詞の記述である。即ちそこに
mu已・m冒dhロya・いr=gautamamat短召ma・hまニ
賢i・乱caspatiヨi許e雲mithi−e晋a岩S冒i息一
−ikl︺yate
、、二ディラーの君主の︵下なる︶学者驚ブーチャス∴ハチミシュラにょりて
︵l︺
梨賢の首位なる聖ガウクマの偉大なる学説が記述せらる。
と放べてゐる。之に掠って見ると、グーチャス。ハチ・ミシュラは、、二アィラー即ち現今のテルフート↓irh00︻Or
﹁正理控ウツダーラ﹂
と言ふ苔が、果して我々の問題としてゐるゲーテヤス。ハ
Tirh望 の北部に存した人でなければならない。恐らくそこに生れた人と考へられよう。ウツヾツ教授の如きも其
のやうに記してゐる。然し此の
チ︰、、シュラむ編纂であるか、それとも川名異人か舶修であ,鳥かに関して、雛はしい野が作れする。此の斯に成
クけ0β
いては、後に彼の著述を一括して諭する際に詳しく放べようと思ふが、之な他人の作だとすればー
我々の問題に血接囲係の無い串現とならねばならない。然し何れにしても・此m他に被告、テイラI仕れの人で
更に彼の他の著述Bh抑mat叫の結餅には
かの大名婁ある君主聖ヌリガ︵N呵ga︶
奇人プーチヤスパチ︰、、、ンL7
があるmは、良く之と表する。更に彼がミテイラー人であつたといふ理由に、次の如きものを盤げうる↓正理
であることは良く知られた事茸である。故に、パーマチーの終りに、ヌリガ王の時に此の帯を作っ
居城がネポール閥項に存した事は、古城壁の姥留にょつて推定せられる。そしてキラーク族が人に
ャヵ暦一〇完年にミテイラーの王であつたN旨deくaより以前にミテイラー王たりしKir琵dhipati王の
る。今日でもミテイラーにはB訂mpt︵Bhぎa−こといふ名の柑があり、叉パーマチーといふ古い弛もある。シ
その梵語の序文に於いて﹃此の偉人︵即ちブーチャスパチ︶がミテイラーの婆羅門であつた事は殆ど確賓であ
綴を嫁した人であるか全く不明である。骨てGangぎ賢PJh抑がS首khya−a−−く註auヨud︷を出版した際、
との句があつて∵自らヌリガ王時代の人であつたことを明示してゐるが、然し此の王が印度の歴史
の下にて予は此の菩を作れり
る。従つてダーチャスパチ・ミシュラも亦∵、二アィラーの出身であつたと推定しうる串とならう
︵2︺
Suciユta・邑許aなど、すべて﹁ミシュラ﹂といふ語に経る名をもつ人はミテイラー人であ
Ⅴ・P・ドギグエーディンの言ふ所に依るとMa且aロa・mi腎a,Mur賢・mi冨︸P賢has普athi・m誉
ぁ■づたと推定せしめる別仰”痙由が存在する。それはグーチャスパチ︰、、シ言と言ふ彼の姓名
雲ひク∂
常人.ワーチャス。ハチ・ミシュラ
六八
控﹂の作者ガヤクマはミテイラー人であ少、﹁正理経疏﹂の作者ウツヅヨークカラもミテイラー人であり、﹁パリシ
.且ッデイ﹂の作者ウダヤナや、、テイラー人である。1さすれば其の中間にある﹁クートパルヤ﹂の作者、即ちゲー
テヤス。ハチが、如何して不相應な他国人であつたと疑ひえようか﹄云云と述べてゐる。氏の主張の要鮎は、前掲
の王名ヌリガが﹁人に乗る﹂意味があるので、之を同じ意味と関係のあるキラークと結び付けて、ナーンデーブ
王の党代の王と推定した鮎にある。然しキラークとヌリガを同一視する氏の論披は畢なる臆誼に過ぎない計りで
なく、仮に之を事茸としても、ナーンデーブの﹂〇一九年と、﹁ニヤーヤスーチー﹂に刑づる八九八年との問に桟
はる育二十傲年の間隔は、箪にキラータをナーンデーブの先代︵pr厨bh意︶と言ふのみでは十分に詮明が輿へ
られた主.りへない。恐らく斯様な紋鮎を自ら意識したためであらう、近頃﹁クットブカゥムデイー﹂の改訂版を
︵3︶ 糾すに際して、前述の梵語序文は全部之む削除してゐる。何れにしても、我々が略ぼ椎茸に言ひ得る鮎は、ブー
チャスパチがミテイラー人であ少、ヌリガ王の治下にゐた人であるといふ事のみであつて、此の王に関しては何
次にゲーテヤス。ハチの帥托に就いて少しく考究しよう。彼の著述﹁パーマチー﹂の始めに錆敬を表す七偽があ
●●
初版は西暦一入九六年、二版は一九三Pq年。
前掲チョーカムパー版﹁ニヤーヤ・ブールッチカ﹂ブー、、ハヵー一四四巧
HやrapraS監alS抑str=−NO什ices.−く○︼.戸p.浣.
事も知られてゐないと言ふ他はない。
)
)
)
るが、そわ節閏偶に
ご/り()
( l′ ̄ヽ
3 2 1
(
ナぺての成就む扱け
各人にょりて敬はるべき
M誓l ta鼠atilakasく賢−i・ヨal品ga雲pati衆む
我等は敬絶す。
︵l︶
と放べてゐる。そこで此のマールタンダ・チラカスグーミンを彼の師托であると推定した早着がある。然し此の
語が課して特定人物の姓名を表すか如何かに就いては疑問がある。その理由は、既に十三川≠紀頃の詫麺豪
sa旨p里中匂t〓aka卓S品minas
は、普通の田版で見ると、
註ityasya
哲人.ワーチャス。ハチ・ミシュラ
日々に太陽紳の穏葬をなし
︵8︶
aく苫nuy抑tニ
ロートの大辞典︵tごakaの下3︺で示してゐるやうに、飾標を示すものと見なければたらぬ。そうして全鰹は
︵Slハanda賽凌陀天︶を指し、チラカの語は﹁黄金等にて造られ、或は銀にて造られたる﹂と説肌するが故に、ポエトリツサ
であるJさて此の法典の最も権威ある註繹啓Mit裟怒r印に撼って之を解すると、比の巾のスアーミソといふ語はスカソダ紳
mah囲ga卓apate掛caiくa kurくan Siddham
tath耕一
今批の鮎に少しく立入って見よう。註繹者によると此の語は右法典第一軍の終り第二九川偶に関係するといふが、其の侃
ーヂユニヤブルキア法典﹂を調べて見ると、之を佃人の名と考へることは困難であるがためである。
︵2︶ Aヨa︼賢andaが之を解押するに際して、常該の語をY告aくa−kya・いⅠ蔓iに関係のある言葉としてかろが、﹁ヤ
gOJI
哲人ブーチャス.ハチ︰、、シュラ
蕃建陀紳と大ガナバチ紳に関する飾標を造り
︵我を知りて︶解脱を得べし。
の意味に解繹すべきである。そこで此の解繹を前掲﹁パーマチー﹂の問題の侭句に雷てゝ考へると、﹁チラカ・スアーミご
は個人の姓名を表す語でほ無く、一句全健が﹁法典﹂の偶に示された紳の名に関係するものだと推定せねばたらぬ。さうする
と、其の中で﹁マールタンどの語は太陽紳を表すと戻るべきであらう。批の語は古くから太陽紳を表す語として存してゐる
のではないが、作者の時代には既に太陽神の意味に用ゐられてゐたと考ふべき択抜が十分にある。然れば、此の語は方しく
ti−akas孟m川と註繹し、次に前掲と全く同じ﹁法典﹂の侭を引用して
﹁法典﹂の侭の巴itya︵太陽紳︶なる語の代用として使用せられた事が明かとならう。次に﹁チラカ・スサー、、、ソ﹂である
が、アマラーナンダは、之をtこaka・priyaすs畠mi
︵4︶
ゐる。して見れば、此の語は飾標を愛する者、飾標の主、を表すと考へた事が明かで、前掲﹁法典﹂の話繹と比較して、塞建
陀紳を表すべきものと見倣したことが推定せられる。尤も批の法典には、普通の出版以外に古完本を基礎にした新旧版があ
︵5︶
り、繭寮内容が可なりに相違してゐるが、古本によるとtこaka召S孟minastath阿の所がtilakasくぎinastath抑 となつ
てをり、従って意味も違ふことになる。法典を依用するに際して、アーチャス.ハチほ恐らく古本釆の物を、アマラーナンダは
森本即ち普通の出版に見る釆統の物を用ゐたのである。斯く考へると、問題の侭句と詫繹の関係が風洞に了解される。古本に
は古い詳繹が附けてあるが、其虞では、問題の語を﹁極めて明かである﹂spa誉manyatと片付けてゐる。常時チラカ・ス
︵我等は敬担ナ︶
アーミソとい・去mほ一般に知られ疑問のない言葉であつたらしい。
−
之を.婁するに、ア﹂、ラーナン〆の註将によれば、問題の句は
大協紳、飾襟の主︵即ち袈建陀紳︶、大ガナバチ前に
針)7β
へ■V︶ と解すぺざであつて、之を個人の姓名、即ちす1チャスパナ︰、、シュラの師ほの名と比ることはできない・
−
駈Sa芳ara S芽abト別電
その後此の詑に推ったもハにモニエ
BUmbay﹀Nirnaya・Sagar
︵1︶ たとへばT・A亡frecぎCata訂gusCa邑OgOrum.Le首Nig−00芦S.小声
ル・ウイリアムイの祇興齢拠がある。
Bh国mJti−Ka︼pataru、Pariヨa−aの骨本に操る。右の昔、本文四賀参Hri刷。
︵2︶ 計群昔の名をKa官taruといふ。自分は一九一七年
Sastri−↓he
前引ポエトリンクも﹁飾槙﹂
の意味の下に
Series
BhMmati
﹁法典﹂
Catuss芝ri−p・這∞によると、tこakaは胡腕︵seいam
くi晋ar昔a
ed.by
の関越の侶を引用してゐる。
Of
S抑stri、−¢昆一
N〇・L舛ごく︶p.−遥.第二八九侶。此の方で言ふと侶は
︵5︶ Y巴訝くa−kya・Smri︹i wi旨the COヨmeロtary
Of
lnd.an
Phi−OSOphyく0︼.戸p.−〇〇は、﹁ミグークシヤラー﹂が直接Tこa
︵即ち塞建陀︶並びに大ガナパテ紳に敬捜して、解脱五和べし﹂の意味になる。
Sanskrit
t00y
塞雄陀天と指摘してゐるやうに叙べてゐるが、黎㌍さうはなつてゐない。
︵6︶ Dasgupta︵Hi
の記述にょると、ブーチャスパチの師匠は、Tri−OCanaといふ人物であつたらしい。即ち
椚人ゾーチャスパチ︰、、シユ′
第掴侶を解絆するに雷つて﹁UddyOtaka岩の誰は、時の経過に由つて不明瞭となつた。然しブーチャスパチが
ウダヤナはブーチャスパチのNy晋aく腎ttika・t誉paぺya巾ik抑といふ著書に詫繹を苦いてゐるが、その中で序詞
然るに Ud童ana
Ganapati
分はやはり金泥や銀泥を用ぁて額や身鰹の他の部分に飾りとして宗く榊の象徴を表すのが本非の語義だと考へる。
知れぬ。‖然し少くとも﹁ミグークシヤラー﹂に披る限り、﹁金鉄忙て造られた﹂胡捕といふことは意味をなさぬ。自
す意味も存し、宕の解稗は字義其の物としては必ずしも不常でなく、或はアマラーナンダも其の意味であつたかも
ラカス.ワー、、、ンは﹁胡鵬を好む痛−“Hr﹂の意となるべしと言ふ。酢菩に渡るとチラカの譜には胡鵬鳳に徹する椛物を表
︵4︶ S≒yanarayaロa
−笛N の第三版に墟った。同昔八八文を見よ。
︵3︶−許繹は≦j鼓責aの作。自分はBapuShas−riMOghe出版の骨本BOmbOyL.M.Gurjar︵printed
ヽ
gJJJ
哲人プーチヤスパチ・、、、シュラ
七二
師匠ツリ甘−チャナから其の虞意を直接授けられたので、ウツヅ■ヨークカラの苗誰に新生命む斌興するために、
の註記が之を明かに示してゐ
︵l︶ 実に此の著述をなす﹂といふ意味に此の侶を解粋すべきであると放べてゐるのである。而して、、此のツリローチ
︵3︶
ャナが、教師の名に相違ないことは、ウグヤナの説明に封するくardhaヨぎa
2︶
る。又、ダスダブクの指摘にょると、ブーチャスパチは今言へろ蕃の坤でツ”/ローチャナの名を奉げ
師ツ”/ローチャナの明示せる道を追随せむと所期する我等は
その畳に綻ひ、如賛に之を斯く説明せり。
N〇.岸p.−叫㌣に照合して見ると、ツ¶ノP−チャナの桝はテ
︵4︶ と放べてゐる。ダスダブタは一八九八年ベナレス再版の本八七穴より此の侶を引用してゐるが、私の所有する一
九二五年同所出版の本K芸Sans粁ri−Series
ローチャナとなつてゐて、正確には一致しない。今哲版が手許に無いので、とかくの論を差控えたいが、ツリ
︵tri︶とチ︵ci︶とは梵字の苔閻が斬似してゐるから、何鹿かで誤りが生じたのであらう。前記のウダヤナは西
暦九八四年前後の人であるから、ツり/ローチャナがグーチャスパチの師匠であつたといふ此の人の記述は大惜信
川してよいと〓心ふ。
︵1︶ ㌔tijarat︷n瑚m。itiUddy。takara・Samprad叫yOすam茸叫やyauくanaやこancak巴a・p鼠p・
B↑Ⅰ己﹂OC.Ciこ
nコ川m誉計TrニOCana・gurO甘sak認印dupadeざras省ana首訝監itamamu望卓punar
iくa、k⋮
dlya−ai−i
︵3︶ Dasgup︻a、Op.Cir
︵り∴︸ Tri言cana仇t計算rtOユキ抑guru甘
別‖リ
︵4︶ くi乱an品rgPS賀S打込S乳房︵申enギe凸ヤあると偲ふ。かーシー焚浮華甘も同じ出版所である。
Chaコdraくi争a
然らばツり/ローチャナとは状して如何なる人物であらうか。此む人の事跡も明〓には判らぬが黙し此〃人に紺
する断片が請書に引用されてゐるので、寄木の人物であったことは疑を容れぬ。骨てSatis
が此の断片を著書のあちこちに授引したことがある。今それらを此虞に一括しH此ハに潮つて少しく丁
abhidhぎa・七atyayayOh
笥nam aロyぎyatくam
upap邑a且tGm
常人プーチヤスパチ︰、、シュラ
nimittam
iti●
iti.
l
七三
k⊇maくa−sahak腎i・n抑n巴く註apik岩ヨaくa−k腎ya・nぎ巴苫papa−−2r
a訂kya召bh警−抑冨−ヨ
tuすーyaSm註d5.くidha召S抑martすaヨnijam錮gant亡ka召CaSahak腎y・antaram
T−i−。CanaSy首yaya召Sa召訂音tぎhaF粁腎yan−2畠hisahak賢雲ヨapek芭e﹀nak腎yO
とあ少、叉、﹁刺都城成就﹂︵原文五十八貢︶に、
因であると亨ふ。︶
︵然るにツリローチャナほ日ふ。罵性牛性等の何と異の自己の折伏に於ける和合が岡であると。即ち同とは名稀と離念との
S管長lnyam ity
yattu Tri−OCana甘︶a㌣atくa・gOt註dinp.召S抑ヨanya・鼓e朝甚.抑召Sく鑑raye sama乱ya
︵2︶ 腺放﹂︶とK竃雷bha署asiddhi︵﹁利那滅成就︶﹂の二者がある。即ち﹁離成就﹂第十三頁に
先づ直接ツリローチャナの名を掲げて其の詭を紹介してゐる物に、Ratnalハirti︵賓挿︶のAp¢hasiddhi﹁離
寧に観察して見よう。それには一次的のものと二次的の物とに分つて考ふるのが傾利である。
ヽヽ
ヽヽヽ︳︵l︶ bhusana
gのJき
野人プーチキスパテ・ミシュヲ
七四
︵ッり′[−チャナの意廿を簡単に言へば、果は確かに協力因を必■染上する。即ち果を生ぜしめる因ではない。何となれば
︻果を!1ミする︺力は、其白々のものと、他の偶黙的な協力牒たろものとの二稗であるからである。然りとすれば︹ツリロー
チャナ等の如く︺剰那椚減を認めざる人にあつても、隈秩に従って協力因は魚種名枝であるから、果も亦機線に従って多啓
多伎に生ぜわはたら机。虻に、有が刹那毎に順次に他であることを諭記し得ない。︶
賛稀は自己の主張を確立するために、之等の著述の中で、クマーリラの誰、前掲昇、法上︵Kaum腎i−a誌註
kara︸DharmOttara︶、ブーチャス。ハチ等の一流の印度析=単著の誼を援引し反駁してゐるのであるが、その一つ
として前記の如くツⅥ′ローチャナの詮を掲げてゐるのから判断すると、常時︵大間十世紀中葉頃に︶ツり′ローチ
ャナが樵威ある聾者として依然尊敬を受けてゐた事が明かである。そして右の二種の断片から、此の人が略ぼ膵
仰ツⅥ′。−チャナを勝諭正理学涯系統の人であつたと推定するために、二次的のものではあるが、吾々は次の
論証珊単派系統の人であ少、其の関係でブーチャスパチの師匠として應はしい聾者であつたといふことも明日に
たる。
ヽヽヽヽヽヽ
如き典披をあげることができる。
Bh訝aヨaj訂のNy冴as抑岩︵正理精要︶の比貴賓に似喩む諭する節研があるが、始めに凡そ十二種の似喩
ヽヽヽヽ
む例示したる後、更に進んで﹁然し、他の人は不碓定に墟って他の八種の似喩を説く﹂anye tusandeha・d品
BFat冨
の紅配に撮るとツリP−チャナを指すので
re富pa訪n a笛aく亡d詳ara宣b試s賢二声3ay.
a已iと==つて、それを一々例ホし∵ゐ史Bib−iOthecaIコdic
版十三頁以下︶。朋で此鹿に首ふ﹁他の人﹂とは、R抑加計写a
都り〝
でこ
あると叫ふ虻自分は・ラーガすの洗記軋る針のを見ないけれども、サチス・チャンドラの著者に血の事が出てゐ
︹月穣族の或︺臣下の如し。
︵4︶
て∵其の鮎は信用してよいと想ふ。仇つて﹁証鱒捕吏﹂に川てゐる所謂﹁他の人﹂の一課く匪む次に課目して兄エ
らノ0
︹一︺不確定なる所立。たとへば、
彼大統治を作すべし、月槌族の出身なるが故に、意中の
︹二︺不確定なる能立。たとへば、
彼は全智にあらず、食欲等を有するが故に、路上の人の如し。
︹三︺病者︹所サ能立共に︺不確定なる場合。
意巾の彼は天界に行くべし、白法を得たるが故に、掟婆達多の如し。
︹凹︺不確定なる折依。たとへば、
彼は全智にあらず、多締着なるが故に、提婆達多の未だ生れざる子の如し。
大統治をなさざるべき者は凡て日種族の田身にあらざるべし。幣へば他の臣下の如し。
︹五︺不確定なる折立不通に次の如きあり。
︵5︶
︹六︺不確定なる能立不遇に次の如きあり。
全智なる者は凡て食欲等を離れたり。昏へば全部の諭書を知れる人の如し。
︹七︺不縫ぃ尤なる両者︹折立能立︺の不通に次の如きあり。
県人ゾーチャスパチ・ミシュラ
gOけ
常人.ワ一千ヤス。ハチ・ミシュラ
天界に行かざるべき人ほ凡て白法を得たる人にあらず。蟹へば不率なる人の如し。
︹八︺不確定なる所依に次の如きあり。
全智なる人は凡て多耕なる者にあらず。提婆達多の未だ生れざる子の如し。
之に依って考へると、似喩を臥喩と典喩とむれ′ヾ四稜に分って合計八種の場合を示してゐるのである。従っ
てデーガブの註記に接れば、ツ三−チャナは似喩に謝して喝自?諭む立てた人であ少、叉其の鮎から言つて此
︵6︶ の記事は彼が膵諭正理学派系統の人に相違なかつたと言ふことを詳明する肋けとなるべきものである。
以上は哲人としてのツ”/ローチャナの断片であるが此の外に詩人としてのツリローチャナの断片の存在してゐ
ることを注意しておかぬばならぬ。
︵丁︶
KaくHnd忘くaCana・Sam亡CCayaを見るとツⅥ′ローチャナの詩が三首収載されてゐる。此の詩集の出版者の研
︵8︶
究に依ると、彼の製作とされてゐる詩が、佃此の他に紆r蒜adh賀apaddhatiの中に≡首あり、その中の二甘
が
はPadyaracan抑・にも引用せられてゐる。そして叉、之は岩本であるが、S賢im亡k−甲、a︼叫の中にも一首収録
︵9︶
せられてゐる。﹁シヤールンガダラ。ハッダチ﹂の出版は晶切のためす白身之を秘め柑ないが、古くAufrecht
此の巾の二首を研究して蟄表してゐる。それにょると、此の詩はツり/ローチャナが詩人B甘a及びMay賢aの
斯様に詩人ツリローチャナが存在したことも断片にょって疑はれない客襟であるが、供して之が仲人ツリH−
才能を栴讃したも一のである。
、、
ヽヽ
チャナと阿∵人物であつたか如何かは的擁匿定め難い。R且a訂霹巴﹁欄rQ作った持と停へられる物に﹁㌢日ソP−
即Jg
チャナ以外に誰が 勺腎tFa5.甘甘a
を作る能力があらうか﹂といふ句があり、ツ¶′けーチャナは﹁.ハールタギヂ
.帥︶
ャヤ﹂といふ本■を班‖いたと推定されてゐるがその本が如何たる西春ハ物であったか、用≠では之竜明かにするこ
︵11︺
とができぬ。然し此針苦り題名、及び此の詩の引川されてゐろ前後の事情から考へると、アウフレヒトが推察し
︵lヱ︶
たやうに恐らく一篇の詩巻であつたらう。そして若し此の詩が著名な劇作琴フーヂヤシエーカラの贋作だとすれ
ぱ、此の劇作窺は太閤町膚九百年前後の人とされてゐるから、此虐に言ふ詩人ツⅥ/ローチャナがプーチヤスパチ
の師匠と同一人であつても年代上では格別支障む生じない。又、被が前述の如く凡そ七≠紀前年の詩人バーナ及
︵13︶
bha岩雲にょると、ツⅥ′ローチャナはくikraヨ註itya
Ny葦a
Tracts
ed.by
が、然し此の菩は十六≠紀頃の書主言はれる物で、何程のー史葦を悼へてゐるか疑はしいと∬ふ。
Si舛Buddhist
︵1︶ H鵬stOry Of lコdian LJgic︸−¢N︼.
参州⋮。
︵3︶ 前引﹁印度諭珊撃史﹂三六九天、許。
the
C
mmentary
Of
︵14︶
Harapras抑d
く訝udeくa
Of
Kashmir−P00n
は﹁壬十﹂r抑japutraとなつてゐる。そして此鹿以外にも多少刑達した難かあるが、今は撃﹂ビ
哲人ブーケヤヌパチ・・、・ウ,ラ
ヽ1ヽヽヽ
いふ併走法を有しないので似喩となる意味である。従って三子﹂よりも﹁臣下﹂を的確な表現と信ずる。仰此の
法はあつても研立法の無い場ムを指すから、此鹿でも月柿族の臣下は月種族といふ能立法を和するも総治をなすと
、、、、、
ブリオテーカインディカ版忙嫌った︰﹁閃明入正珊論﹂に披って考へると、析﹂凡不柵定なろ場合の似扁は、喩に鵜立
下﹂r巴apuru芯
︵4︶ プーナ出版の別本Ny叫yas抑ra
with
−ndica︶、なほ、ラトナキールチに就いては、之以外の数稚の著鱒か西赦に停滞きれてゐる︶﹁西城大赦締結〓鋒﹂
︵2︶ 共に焚文のみ現存。出版は
Sh訝tr⋮−−讐○
胡の詩人に数へられてゐて、人′︰∵=つた鮎と齢鱒む来す
びマユーラに説き及んでも、その射では何等問題を生じないであらう。堆石くWeberの研究したJyOtirくid㌢
gO川
︹五︺
押入プーチヤヌパチ・ミシュラ
似同法喰に封して
︹五︺
の似典法喩を封照して考ふべきであ去。
︹〓以下の同喩に封して輿喩を元す。故に
法を排しない、故に不確定であるといふ意味。
﹁巳、 ︹五︺以下は
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
の所立不達は、他の臣下は統治を行ふといふ所立
p・烏・
RepOrt︸p.雷.及び前鵜クアツケンボスの記述参照。
によろと、此の二甘は
︵GOS.︶p.∽︰の
剋は必すしも之だけで解決したいではない。それ止彼い他い拝述N︶一抑壱㌧aユーハト封の序詞に
阜ふ博せ息官立中層炒n叫匂月y抑呵plmP豊aHi層1uCiH抑m
ヌ派
5叩ご∩
於いて刑骨⋮に著名な川十者に利達なかつたといふことを明かにした。然しグーチャス。ハチの師匠釦ち甲問系統の閃
ュ
には、TrこOCani
Subh釧忽taratnabh⋮
︵6︶ 前引﹁印度論理撃虹﹂三七三Hによるとく≒adar誉aのT賢kikarak協.もツリローチャナに闘記するといふが臼
分は之を経め往なかつた。
NDP−G.Bd.N可−p.記N.
S誓くadar訂ロa・Sごうgraha
の莱昔ツリローチャナを記し、久、前掲サチス・チャンドラの芋二七川賞には、ヰシ
此の他に Abhyankar
の系統にツリローチャナたる人を記すが、之隼蒜今門朋にしてわる人物とは隼代⊥勿■ト別人でた
Muk︰晋a〒ュk囲
ければならぬ。
く山富u S急∃首
の〓版した
ThOmaS−Op.Cit.p.00○いWinternitN、Geschichte戸p・∽L
Aufrenht−C.C.p.N∽00.
Pe蒜rsOn−SecOnd
NDMG.Bd.N↓−p.∽N.
にもツり′ローチャナの作として収載してあるといふ。
Of才冒苫ra−−C−↓−p●ひぃ●
︵7︶ F.W.ThOmaS、Bib︼.−ndJntrOductiOn
)
)
\J
\−ノ \J
)
︵8︶ QuJCkenbOS−Sa崇krit POemS
141112111(19
以上五=人はブーチャス。ハチの師匠がツリローチャナといふ蒼在わ人物であり、その人が勝論証理勘十派わ系統に
( /′ヽ ( ′■■ヽ /■ ̄ヽ ′ ̄ヽ
無知わ閻む除く輝く Nyぞaコ呂巴ar可
笥芝電瓦t諸pr註p乳首腋まd嶋州・ta⊇くe
▲心・りは
甲州い指南甘︵くidy巴aru︶帥匠に録敬す
namO狗u旨くe.
を作り辞せる
といふ一個の存することである。之に就いてダスダブタは前引苔に於いて、此鹿に一∵=声師匠は恐らく現有﹁ニヤ
と思ふ。
押入J−チャスパチ・、・、シュラ
F・W●↓hOmaS.〇p.Cit.p.A.
A●B.Keith、Karma・mMヨ餌卓S餌−p.−㌣
を放べるに際して共の派に理解の深かつたヂャヤンクを師匠として敬祀することも、理としては十分ありうる事
あるから、膵論jE理学派系のツりノローチャナ以外にも帥匠の存在したことは可能であり、ミーマームサー沢の詮
暫く他口の宿題として保留したい。何れにしても、後に言ふ如く、ブーチャス。ハチは各堅派の詮に通暁した人で
ヤ・マンヂヤリー﹂と﹁ニヤーヤ・カニカー﹂とを詳細に比較して研究すれば、的砕な断定おうるかと川心ふが、
年頃の人故.その父ヂャヤンクがゲーテヤスパチり師匠であつた革も年代上不可能ではない。此り断は﹁ニヤー
︵2︶
しては事典の現象と思ふからである。尤もトマスの言ふ桝に振るとヂヤヤンクの子Abhinandaは凡そ西松九百
スパチC森の引川があるといふ。さうすると∵師匠が弟子の軍で引川してゐることゝたつて、常時印度の習慣と
︵l一
少の疑㈹が存しないではない。キースの研究に依ると、ヂヤヤンクの﹁ニヤーヤ・マンデヤリー﹂にはブーチヤ
ーヤ・マンヂヤリー﹂の著者Jayanta︵Bha巾;︶を指すと見るべきであろと敢べてゐる。然し之に閲しては多
gOクJ
哲人.ワ一千ヤス。ハチ・ミシュラ
●●
経りに彼の著述に就いて述べよう。﹁パーマチー﹂の最後を飾る偶頒の巾に
﹁ニヤーヤカニカー﹂と﹁クットゲサミークシヤー﹂と﹁クソトブビンヅ﹂とにょり
正理と教諭と稔伽と吹摺多に関する著述にょり
予は大功徳む積めり。此︵功徳︶の大なる凍報を予はへ紳に︶搾ぐ。至上湘之憂嘉し給へ。
と記す。此の低の詫梓﹁カルパタル﹂を見ると、
入○
Brahmasiddhiの解註。
︵一︶ ﹁ニヤーヤカニカー﹂Nyptyakaこkむ暮とは<idhiくiiくekaの誰絆。
とは
の学説にょつて白ら作れる著作。
Bh抑mati
Tattくa・訂↓ad叫
Tattくa・kauヨ亡di
Ny首a・忌rttika・t巴paHya宣㌫
Bha巾巾a
︵l一︶ ﹁クツトゲサミークシ十−﹂Tat.tくaSamik笛
とは
L﹂ま
︵三︶ ﹁クツトゲビンヅ﹂
︵四︶ 正理に脚する著述
とは
とは
t﹂十人
︵五︶ 教諭に関する著述
︵六︶ 稔伽に関する著述
︵七︶ 吠博多に鍾する著述
Mi許aの著述に封する解読である。共の他の六書は現有し、出版もせられて居
であると説明してゐる。此の中で︵二︶の﹁クツトゲサミークシヤー﹂は、現在までに未だ㍍木が後見されてゐ
ないが、前記の如くMa鼠岩a
り、ゲーチャスパナの、㌔要なる著述L﹂見るべキ物牢小す。
着船七涯め著作︵六確︼叔︶.の他に、榊若†徽の著述と桁せちれる物が存在する。次にそれを︰∵〓ふと兜づ
gOヱg
︵八︶ Zy研甘岩魚c叫niband計甘
︵九︶ Nyぞas巳岩・uddh甘a
む率げねばならぬ。︵八︶は既に幾稚かい〓版もあわ、人口に脚気せる桝でありて、︵四︶㌣補足として編述した物
であ㌃うと言はれる。之は正理経の紛錯を=完した物で、控の研究には指摘書として極英姿なものであるが、編
者自身の∬想を具醍的に述べた物ではない。
︵九︶は鞘に一一二=へる如く問題の書である。予の知る限り、此の書はハラブラサーダ氏の﹁林几語鳥本草ど琴一
巻九八頁に報昔がⅢてゐー0だけで、旧版にたつ芦事があるか明かでないが、恐らく鳥本だけであらう。人品の報
常に掠って考へると、此の苔の内容は︵八︶と殆.ど同一であつて、正理経の乱脈を校併せうと試みた物であぇ。
ヽヽヽ
︵l︶ 唯序詞と結朗を異にし、︵八︶に於いて多少内春に加筆が認められる。そこで若し︵八︶と︵九︶を同一人の作だ
とすれば、︵九︶虻︵八︶の草稿木とも言ふべき性質の書である。眈述の如くウツヅは之を同一人の作と見ろ立場
であ少、ハラブラサーダも亦、前掲苔の序論に掠れば、同じ立場を探ってゐる。仰が︵九︶は全く同名異人の作
哲人.ワーチャスパチ・ミシュラ
如何か明かで無く、予自ら右の事資を柿め得ないが、暫くサチス氏の言ふ研について老へるに、発してハラブラ
示してゐるのである。−ピッリ・バクチ・クランギニー﹂といふ書名は坑木目録にはあるが、H版となつてゐるか
︵2︶
曹軍書を著したと記してゐる。そして此の小で少くも川谷は詐跡があると論じ、その一つに問題の苔︵九︶を捉
チ・ミシュラがあ少、︵Abhinaくa・く訂aspatiM替aともいふ︶其の甘述Pi号bhakti・tara君i且に十
に椚邁ないと見撤す革新も別に存在する。サチス・チャンドラにょると西暦一同五〇年頃に別人ブーチャス。ハ
g〃gJ
哲人ゲーテヤス。ハチ・ミシュラ
八二
サーダの報告した︵九︶の書を、直ちに此の別人の著と見て全く過ち無いか如何か、氏の記す桝は必ずしも十分
へ3︶
であるとは言払えない。更に氏の記述よりも一骨雑貨な許嫁を任用して同名異人誼を主張してゐる人に、Ⅴ・
P・ドギザエーデインがあ去。その此ハ接は︵九︶の結頚に
p邑a亡natくぎaくargada︻二
か、付研究を要する問題であコ﹂、現在の研、眞惰未決といふ他はないといふ結果とならう。
見るに、︵九︶は果して︵八︶と同一なるブーチャス。ハチ︰、、シュラの作であるか、それとも目名興人の作である
々はドヰヴエーデインの解精にょつても、此の#を同名興人の作と決定することはできないと思ふ。之に巾つて
ない。恐らく先入見に琴つく故事つけか、・箪たる推定であつて、客観的安苦僅あるものとは考へられぬ。故に我
ヽヽヽヽ ふのが如何して一閃の敦む表し前者と結合してギクラマ暦の一E二八年と成ろのか、そこの所は全くはつきりし
スアクシは直接には八二.叉印度わ数字の謹みカに従って逆に二十八の意味とも成りえよう。然しブーサブとい
八年に造られた物であると主張するのである。今之を考へて見ると、ブスは八、アクシは二の数を表すから、ブ
とあるのにょる。ドギヴエーデインは此鹿にブス・アクシ・ブーサブとあるから、此の書はギクラマ僧の一甲一
正理控と稀する物をブス・アクシ■ブーサブの二月に書きわけたり。
幸に解脱を授けぬふこよなき柄足尊に踪伏して
くya−ekhiロyぞas已rかkhya膏Cait諾くaSくak朝i息saくeニ
押iく2na亡raSiくidh呵tau
、
更に7ウフレヒトの﹁目録Lにょつてダーチャスパチ・、、、シニフの下を見ると、前記わ他に仰敷種の著述を列
ど〃gノ
/
記してゐるが、兼して余部が屁作であるか如何か疑はしい。しかし我々は此膚でか1る惰薄の刊盤に携はる暇を
存しない。専ら贋作に捕って被い川霜心わ一班む明かにせうといふゎが木精の〓的であろ。故に一々之む墾げて論
甜gJ
ヽヽ
への紺詮が認められるが如きであ
ことは轡に述べた。そして若し︵九︶を︵八︶の草稿本だとすると︵囲︶む著述するためには正理経の審理む必
然的に禄想するから、先づ︵九︶を作って置いて︵四︶を著し、その最後に︵九︶の清書である︵八︶を附した
のではないかとも雅俊される。然し此の鮎は州叫純なる推定である。
)
)
4 3 2
は弼に述べた。久、内容に於いて︵八︶
では数酷を掲げた後に、それと一括してヰ題を捉一.小してゐる。たとへば
iti dく詳hy叫卓S誉r詳hy抑m abh︰dheya・prayOjana・SanJbJndha・prakaraロリm
前掲﹁印度論理塑史﹂四五九H以下。
之が全く除かれてゐる。
同上.一四川王参照。
前掲﹁ニヤーヤプールツチカ﹂ブーミカー一五〇H。
哲人プーチヤスパチ︰、、シュラ
\J
といふが如し。然る
する要は無いと思ふ。而して前表の諸著が被自らの作品であることは﹁パーマチー﹂の結頚が明示してゐる計少
でなく、又、著述相亙川の援引が之む立記してゐる。即ち︵六︶及び︵七︶に於いては︵一︶と︵二︶を饗げて
と述.へ、︵四︶にあつては︵一︶と︵二︶に開設し、︵三︶にあつては︵一︶
﹁共庭に於いて吾人は精しく説明した﹂と言ひ、︵五︶に於いては、﹁吾人は此のすべてを︵四︶に於いて説明し
る;た
順に並べた物であらうと推定される。そして藻後が﹁パーマチー﹂であつた。尤も︵八︶が︵四︶の附錬である
そこで之等を総括して考へると、前掲﹁パーマチー﹂の経りに示す著書は大醗ブーチャスパチの著作を年代
0、ノ 」
︵1︶ ︵九︶ のけ詞が.ワーチャス。ハチの隼閻を推定する瑞料となり、︵八︶の結鋭か年代た推定すろ禿要な材料となること
( ′′ヽ ′、
哲人.ワーチャス。ハチ・ミシュラ
八四
以上の叙述を要約するに、哲人ブーチャスパチ・ミシュラは八九八年即ち西暦八四一年頃に生存した人であ
る。尤も八九八を西暦八四一に推算する手続きに輿詮が無いではないが、現れでは此の兵誰を布力なものと見る
ことはできない。そして恐らく北印度東寄りのミテイラー地方に生れ、ヌリガ王を共の君主と仰いだ。被の師匠
は其い名をツ¶′ローチャナと言ひ、勝論証埋撃派系の単著として相菖に著名な人物であつたに相違ない。被は多
方面り学者であつたから、師匠もツリローチャナ一人では無く、他にも存在したといふ事が確かに想像される。
著書としては﹁パーマチー﹂の結餅及び﹁カルパタル﹂の講記に拘ぐる七鮎聖典作と見るべく、六布一枚であ
る。此〃他﹁二ヤーす・スーチー﹂も眞作に相違ないが、著者の具櫻的な⋮霜首栽べた物でなく、箪に石地ハの校
正とか修祁とか稲すべき性質の物に過ぎない。故に彼の川心想とか畢詮とかを知るためには、現存の六種の書を王
としなければならないであらうといふことになる。
︹後記︺ 本稿は本木﹁節二部勲記﹂と相伐って一価揃を㍍成すべきものだ。筑者の手持えとしては﹁撃沈﹂に闊する郡
は原稿に成ってゐるが、然しそれは必ずしも本誌に紅ちに連載を隷糾するものではない。ヰに識者の訪撃ご乞ふ。
ま0二〝
﹃義人﹄.レ
モ
ン
︵1︶︵2︶く
丁4︶
大
︵5︶
畠
の孫なるシモン一≠、二≠
gOgア
﹃穀人.山 シモン
︵9︺
−、﹃適人﹄シモンの年代を三世紀初とする訟
BOuSSet︸J●F●M00re等を額げ得る。
︵8︶
ン二≠を﹃読人﹄シモンに擬して、このシモン堅一≠紀初めに年代づけるものとしては
︵6︶
J・Haヨbur的er−W・
︵7︶
人﹄シモンと考ふるものにはH.GraetN︶M.Braunschwei駕r﹀F●Weber︶E・Sch︵首er
︵3︶
シモンとし、年代孝一種と▼いはる。﹃韮人﹄シモンの年代聖二≠紀初と定むるもの、即ち、シモン一≠む以て﹃韮
紀初のシモンと言ふのはオニブス二≠のナ、即ちシモン一世の孫なるシモン二≠。それらそれぞれ一人を、この
モンとする。三≠紀初のシモンと言ふのはOnias一≠の子、即ち大祭司Jaddua
この﹃義人﹄シモンの年代考に閲し二誼がある。一は紀元前三≠紀朝のシモンとし、他は紀元前二世紀初のシ
一、義人シモンの年代考
長芋の律法倍承者は、︶匝bhぎFI山に遺されたるSiヨへぎha篭adh”一竹﹃益人﹄シモンである。
背約時代以後の人物のうち、曹約直後より紀元第五≠紀に及ぶ資料たる哲約窯証書、﹃クルムード﹄の俸ふる
活
竿が
﹃義人﹄シモン
かのJOSephus
︵11︶
︹10︺
八六
の侍
F−aくiusの﹃ユダヤ古代史﹄に於ては、Jadduaの孫な一〇シモン︵一≠︶にかぎ莞Qへてふ
の記す﹃養人﹄シモンとが一致する。かくて、シモン一世こそ﹃義人﹄シモ
尊稀を附して尻る。これは﹀卸bhgh︻18に言ふha切芯dh詳とその意味に於て全く同一である。ふbh含h
︵12︶
ふる﹃義人﹄シモンとJOS童hus
Sirach金こ苧誓:.∫竿これであ
ンであると論断せられる、と言ふのが、Graetz﹀BraunschweigerVWebりr︶Sch︷i完H 等の桝誼
しかるに、﹃兼人﹄シモンに関しては、更に佃一つの資料がある。Jesus
通に横る考へと‖心はれる。
﹁13︶
﹃義人﹄シモンの一資料となされる所以であ
ろ。こはシモンなるものの功績に封する讃歌である。但し、北ハの書には﹃義人﹄なる尊栴は見常らない。しかし
こ1に邸はれて居るシモンの行焉は十分に﹃益人﹄に伯して軍篭
るO
、15︶
da︷ieren
︵16︶
する。従つて、この節桝はJesusS
Gra2t∼﹀Braunschwei驚r﹀Schtirer等は無論この資料をも顧て居る。たゞこの資料の取扱ひ方に個人
GraetNはJ2S亡SSirach聖一〇〇年−一七六年に
認められるのである。
︵14︶
が一世紀前の﹃義人﹄シモンなるシモン一冊の韮を某ひ、徳を糾ったものであるとする。
は﹃故人﹄シモンに関しては、ひ・たすちに
JOSe勺Fus
にのみ拭ってシモン︼壮絶を園専した。
Sirachでふ∵0と■一=ふのであろ。
︵17︶
Braunsch宅eig2rは、しかし、JesusSirachをシモン一世︵第三世紀初︶と同時代の人と説く。シモン
ScF許er
世の輝く功攣でまのあたりして、栴ふるイ葉もたく班め歌ったゎがJesus
′18■
タのg片
へけ一
彗:・∴古・記載わシモンに脚してはシモン一世にあ左亮㌧
Jesus SiracFに放ては、これを一九〇年−・∵七〇年の人と推定して、GraetNわ推定年代と幡同じであ↓0。し
告:芋
Si芯Ch
e小口en
‖那二世細川〃、郎・h
I
︵Aロ㌻ng
des ∽・J
SimOn Wege
ist・NachJOSephusw賢ee
Huhenpriester
Chr一︶gemein
HOheprieste巧SiヨOn
J︵idischenく○−kesの節用版に於ては、右り貴張に引続
der
c.誓rtihmt
des∽.Jahrh.くOr
nuぺSein﹀Ob
des
飢徳するところのシモンはシモン二≠である、両者は別人である、と主張したのである。
Sirachと日時代の人なるシモン二1世なるべしと諭する。如ち、﹃韮人﹄シモンは第三世紀一朝Cシモン一
かし、Jes亡S Sirach
r餌︶ Jes亡S
世、Jesus Sirach
︵21一
しかし、Sch脊erはGeschichte
kaロn
を附加挿入して、自らの考へを訂正した。
﹃英人﹄
preistseiロe
we−ch賃er
シモン
Geset詣Streue
Nu
den
anzunehmen・
gり訂isie完ロ
Schi−derungsichnurauf
iヨGe鷲nSatN
JOSephus
SCh完ibt.Daseine
bei
も考へらるるも、一方les亡SSirach芸:.去†
のシモンはJ2SuS
Sirach
と閃時代の人物とより外考
JesusSirach頚ふところのシモンはその徳行よりすればJOS2ph亡Sの倍ふる㌻ぎ璧べたるシモン一世と
かくて、Sch︵irerは、
ist wOE einりくerwechse−ung
der Neitこn
er−ebtund
er d2n Teヨp2−di2nSliロal−2りP岩Ch−くerW・a︼−ヱhab2・Erhatdi2N2i−d2SSe
Aber Jesus
Od.SiコJOn肖︵Ende
Frag−ich
g〃g〝
﹃義人﹄
シモン
Sirachのシモンをシモン一世と者達へたるものではないか、
八八
れざる放その斯からはシモン二世なりと断ぜざるを得ぬ、或は後代JOSephusがさも≡ふ卓章至言貞の
編纂に菖りJes亡S
然るに、いまこのJOSeph亡S
Sirach
とが同時代でなければな
がへ無論、この場人口、シモンに閲すろ限りに
Sim︵㌢ha朝芯dh影=むシモン一世なりと断定せろはたゞたゞ
のこの自説訂j−二は、同時に、シモン一≠説に封する決ハ心的なる批判む意味するものではない
2、シモン一世詮に封する批判
と考ふるに至ったのである。
さて、Sch︵i完r
︵23︶
/ヽ であらうか。何となれば料bh含hIほの倖ふる
︵22︶
JOSephus を株接としてである!
Sirach記載のシモンとJes亡S
於て︶疑はれたのである。シモン一≠詮の根底涙危うされたものと考へる。
BraunschweigeHはJesus
︵25︶
Sirachを約一世紀潮行せしめたことは、甘甘し能はぬ。
もSch雷er
も馬さざるところであつ
SirachとJes
︵24︶ 十分認めて居る。たゞ、シモン一≠詮を川守すろ飴り、シモン一世に年代決にの基礎を求めて、より年代的正確
さを持つJesus
︵26︶
Bra亡ヨS註weiger
G岩2tNはJes亡SSirachを第二≠紀初と正骨囚に推定した。たゞGraetNはJes亡S
︵27︶
のシモンとのmに、約一打年の差を駐いた。これは
た。そのために如何たる無理が彼の所説に起ったであらうか。
に斬條れたるシモンをシモン︼せと信じたが故に、
は毎に安息〓有漢んでエルサレムむ攻いンしむ肺腺した。あたかもシモ
はJOS亡∽SirPC㌻
I︵だ?ふ芸︶
Gr払et心
二二一C牛 PtC−eコJaiOS
ンl世の時代やある。さて、
〟JO
●
nU
Je岩S Si芯註き一字の内容を以てシモご世の歴史的行島を肉附けせんと試みた〇かぐて・Gr琵INは 即
JesusSi岩Ch誓:・ふに基きー﹁被︵シモン一≠︶はPt01eヨaiOSIが取毀せしめたるエルサレム〃城壁を
︵封︶ 軸建せしめき。言ふまでもなく彼は王︵PtC︼eヨaiOSi︶よりそい許可む乞ひ得たるなり﹂と説明する。
に至った
ユダヤ人が信仰的に、叉、律法的に創を把り路ぎる安息‖む選んでエルサレムを攻略した程校狩なる彼、PtOナ
emaicsIが、叉、三山五年−三〇一年AntigOロCSにょつてエルサレムを奪取さる1如き苦杯を嘗めさせられ
︵用︶
た彼が、果して、シモン一世の乞ひのま1に、明に危険性わ糟夫するエルサレム城壁再建といふが如きことを許
の死後︵二〇五︶の戦乱に際しユダヤ人は
Se−eukOS家のシリア王
可したであらうか。寧ろ、これはシモン二≠に踊係したことゝ考へる方が歴史的にょり正調を柑たものと〓心ふ。
︵30︶ JOS2phusに掠れば、Pt012maics葛
AntiOChOS白︵蛸誌−−00ごに組して之を授け、彼のパレスチナ合併を成就せしめた。その謝雌として、王はエ
ルサレムに特枕を附興したのである。かかう情功め下に於て初めて城壁の再建などといふ如き大事糞は可能なの
Si⊇Ch第五十童の記事を強いてシモン一世に蕾て撮むる事む放てしたものでは
ではないであらうか。而して、この時代は正にシモン二≠の時代に苦云。J2S亡SSi岩Chのシモンをシモン一世
と信じて、G2e︹NはJes亡S
ないであらうか。
倍、シモ三世誼をとるものには、如上、GraetN︶野aunschweiger︸Sch︵ireりの外、weberがある
h多の桝倍をたゞ信じて、シモンを説いて店る。これはein
としては菖然なる態度である。しかし、こ1はもはや信仰の≠界である。批判を超えた
へ31︺−詑︶ 尋ebelはユダヤ教の倖承にたゞ豊臣、﹀きl
シモン
j註ischer T訂。l。ge
﹃義人﹄
﹃先人﹄
シモン
信仰の≠界である。吾人も亦、巨⋮仰の曳き平和を撃の名に於て乱したくはない。
要之、曽hぎの仰ふる﹃売人﹄シモンをシモン一昔するGra2−N﹀Braunscトwei竃﹀Sch︵首等
は、いづれもJOS2phusを食も信すべき資料と警て居る。かくて、Gra2−z−Braun岩l⊇eigerはJes亡
SirachをJOS2phusに張ひて一致せしめんとし、Sch︷1記rは之た排除せんとしたのである。
これに封して、﹃売人﹄シモンをシモン二≠と推定して、
ぅ、﹃養人﹄シモンの年代む二≠如.朝とする訟
をとるHanき蔓r−BOuSSe−︶M00r2等は何れもJ2SuSSirachを食も信すべき資料とたし、JOSeph
Antt・琶㌔﹀♪を信すべからざろものとなして居る。蜘ち、
Haヨb亡rgerはシモン一世を義人﹄とするJOS2phusの記述を不定し、J2SuSSirach餅ふとこ
︵鋸︶ モンの﹃轟人﹄的行焉を基としてシモン二≠を﹃韮人﹄シモンなろべし、と説き、
BOuSSetも亦、
祭司の年代末は全く信を置く能はす、自由に創作せられたものであらうU﹂
﹁JOSeph亡Sはシモン二世のⅢ11父なるシモン一≠に﹃兼人﹄てふ曾稲孟へへて居る。しかし、JOSephusの大
︵34︶
と述べて、こ㍗明順に閥するJOSeph亡Sの史的正確ぺ一一Jイ一万足し、更に、
﹁後≠ユダヤ教の侭承に於て靡く知られ探ぺ敬はれた﹃英人﹄シモンが、SiracFが紅大なる衝失を畳した一¢
gβ.?
大祭周と同一であると音ふこむは、直に心に迫る推測ei㌃呂ヨittelbaり乳eFp㌢f計賢駕nd巾
ungで警。35い
即
と記して、JesusSirach串字革丁ギに拗はれた一;モンこ︰〆二義人﹄と栴へらるるに最も州應しき人物
であると主眼して居る。
﹃義人﹄
シモン
〓、﹃義人﹄シモンの思想
は、史家のつとめではないであらうか。
︵鋸︶ 共に認むるところであつたのである。疑義を挟む徐地のある資料よりも、より史的正確さを持つ資料を川ふべき
たるScト︷旨白ら眈に疑義む挟んで‰㌃、JesusSi≡hの年代的蒜さに就いてはGraetN盲h音er
荒し、﹃義人﹄シモンに閲するJOSeph亡Sの記述に封しては、JOS2phusむ敢も信頼すべき資料なりと考へ
ては、胃aヨbu蒜eぺ︸BOuSSet︸M00re普−1q様である。
容を通してそこに稀へられたるシモン即ちシモンニサ﹂そ﹃義人﹄と言ふ尊稲に敢もふさはし
シモン一世に﹃養人﹄と言ふ禽栴を典へたJOSephusの記事を否定し、JesusSirach芦−苧革了ギの内
.︵36︶ の人である○コiasり子なる大喪司シモンたらん、と説いて居去。
M00reも上記の人々と同じく、JesusSirachに撮って、﹃英人﹄シモンはSirachの子Jesusと
▲
﹃義人﹄シモン
︷40︶
九二
世界を支ふる三
﹃義人﹄シモンの恩義ふべき資料としての被の言葉は、條に︸きh草巧に俸へらるるもののみである。
即ち、
︵41︶
︵43︶
三つのものの上に世界は立つ
︵42一
律法の上に
宗儀の上に
めぐみぶかき行ひの上に
このシモンの言葉は、﹁座法、宗儀、めぐみぶかき行ひのこ聖這、︵恰も鼎の足の如く、︶
文桂である﹂の意味と考へられる。≠界の三文柾−それなくしてせ界は崩漕せざるを柑ぬ三文桂一−それが、
律法、宗儀、めぐみぶかき行ひ、であると言ふのである。シモンが如何にこの三者聖女繍したかがこの短竺菜
から十分知られる。
一
しからば、﹃義人﹄シモンをしてか1る言葉をHださしめた時代的背景はいかゞであつたらうか。
へ移行した時代に菖
﹃義人﹄なるシモン二せの時代は︰ハレスチナの支配杵がPtO−emaiJS家よりSe−eukOS家へ移行した時
︵44︶
代、即ち︰ハレスチナに封する政治的、文化的指導槽が、A−e雲ndriaよりAntiOChip
る。
誓○−e盲aiOS豪の支配下に在っては、ユダヤ人は蝕めて寛大なる取扱ひを受け、エジプト王家の軍人、官吏に
!−αブJ
乳附せ.軒輔たる甘のナぢあゃ骨−=彗ダヤ人腋や和礫粧.財訂儲か賢iかの文化に同化す思機曾む典へられ、こL妃
﹃義人﹄
シモン
に聖㌫み起ったもわではなく、パレスチナn′ユダヤ人の申にも亦、桝甜希脱化
SeleukOS葛こ裳−−ヨ︶
Heニenismus
のエルサレム紳殿の財貨の掠奪となつて現れ、遂に
の影響む蒙ったであらうことは十分想像しえられるとこ
ratieの主樵者としてユダヤ人の上に君臨したのである。醒めたる指導者として、シモンは、囲民の無反省なる
シモン二≠は、茸にかくの如き時代に、ユダヤ教圃の最高指導者として大祭司の暇に就き、ユダヤHierOk・
はぎるに至ったのではあるまいか。
︵如︶
ろである。かくて、恐らくは、ユダヤ教の律法、完儀、倫理等も、国民の宗教生活の上に、昔日の樵威を持つ能
︵47一
の下に於ては、ユダヤ教の教養すらが
づ希脱化し、国民亦之に習ひ、ユダヤ教樹は清々として希賦化の一途を辿って行つたのである。かくの如き情勢
︵46︶
政樵に直接囲係を持てる大祭司であつた。かくて、ユダヤ教の正統を守り、ユダヤ人の文化㌢護るべき大祭司先
eniⅦmuSのか1る願力を故も強く受けたのは、無論支配骨の人々、特に、A−e誓ndria政柿或はAntiOChia
▲︳
政清と言はす、宗教と言はす、ユダヤ人の生活の全面に、A−eHandria及AntiOChiaより迫り来るH2宇
AntiOChOSEpiphaロeS︵−謡−−空しのユダヤ教迫害となり、その極限に達したのである。
かくして、この傾向は、躾て
んで、ユダヤ人の中和裡のHe−−enisierun的は、ユダヤ人に封するHe−−enisierun準の強制にまで進展した。
︵損一 He−−enisiemngの傾向が現れたであらうことは、想像に難くない。AntiOC︸−iaがA−e誓ndria に代る
雅代の所謂DiaspO岩juden
ユダヤ人の希楓化なる現象が起ったのである。か1るHe−−enisヨuSへのユダヤ人の同化は、常にA12琵ndria
都J卓
﹃先人﹄シモン
九四
希臓化を衷心より憂へたものと思はれる。殊に、ヘレニズム文化に溺惑して、国民がユダヤ
︵49︶ の律法とその宗儀とその倫理とを願ざることは、彼の耐へうるところではなかつたと思はれる。民のか1る行焉
箪がて紳の警警しめ、芸姦警L脚︶、ユダヤ人已てもはや地姦ぐこと差せしめざるに至ると、
彼には考へられたが故に。蓋し、シモンは大祭司として誰にも勝って紳を畏れ∵王槽粛とし
亡びを憂へたと思はれるのである。
牽国、畏紳の﹃養人﹄、シモンは、こ1に、起つたのであ↓ハし。A−e琵ndriaとA已iOChiaとよりのHeT
かくして、シモンは、一方、国家の主樵者としては、曾てPtO−e喜iOSIにょつて破壊せられたエルサレム
−2nisヨuSの重願をユダヤ人の上より彿険し、ユダヤ教の正統を守つてユダヤ人の破滅をたゞ救はんために。
︵51︶
へ凝︸−...︰こ.⋮こ二■⋮.、甲▼ の城壁を再建し、神殿の基礎を高くし範む高くして神殿を修築し、地下に水道を穿つてEtamの泉より水を導
一︵54︶ き、之を神殿の基礎の下に設けられたそ大貯水槽に蓄へて一朝有事の秋に備へる等、政治的軍事的にHe−訂.
nismusの樺楷より除却すべく力を致したものであら㌢。又、伯方、教圃の畢偽樵威者としては、彼は、ヘレニ
ズム文化に酵ひ痴れてユダヤ教わ仲枕を忘却せる民に、彼等が棄て1願ざる律法と宗儀とめぐみぶかき行ひこそ
へ55︶ ユダヤ人を救ひ世界を支ふる三大支持である、と説いて、国民にH2−︸2nism亡Sの迷夢よ少の覚醒を促し、進
んでユダヤ教の正統を民に再認識せしめ、かくて、民が律法を守少、宗儀藍宵み、めぐみぶ
人救はれ、世界支へられんことを、こ1ろ切に求狛たのではないであ∴うか。その由の抑‖首我等に佃ふィ什もの
こそ、止紀、阿已も昇一−しめや摩ンの音楽ではないであちうか○
押誹
要
詮
′
憂囲わ大祭司シモン二世は、ユダヤ人わ生活の全面に於けるHe︼lenis一声S わ浮潤に、開山わ危機を見、わ
︵射︺
︵56︶
﹁その兄弟のうちにて最も陵れたるもの、その民の冠﹂
シモン
であつたと考へる。
﹃故人﹄
九.山
教の正統を再認識せしめてその迷夢を覚醒せんとして、誠に、JesusSi岩Chの頚ひたるが如く
●
かくの如く、シモンは、出でては国民をHe−−2nism亡Sの樺桔下より救はんと企閲し、入力ては国民にユダヤ
る。
宗儀、めぐみぶかき行ひの三者の最も重んすべきを致へ、かくしてユダヤ教の正統を民に再認識せしめたのであ
世界を支へ民む救ふものはヘレニズム文化に非すして、律法、宗儀、めぐみぷかき行ひであると説いて、律法、
再建し水道む調へて有事の林に備へ、かくしてHe−−enismusよりの氏の解放を企閲し、内、民に封しては、
こゝに於て、シモンは、国民の危機を救ひユダヤ教の危機を救はんため、外に向ひては、エルサレムの城壁を
れて民は滅亡以外なしと彼は考へた。
■
へられす、寧ろHe−−enismusに接ろ時に世界は崩壊せざるを得す、He−︼enismusに趨りユダヤ教の俸統を離
▲ けて、ユダヤ教わ危機を見た。彼にとりては、He亡enismusの如何たる原理も世界を支ふるに足るものとは考
g¢βr
﹃義人﹂
シモン
九六
佃、彼の﹀卸冒さⅠ拍の言葉は如上常時の国民にユダヤ教の正統を再認識せしめたるものであるが、同時に
又、これは彼以後のユダヤ教の進むべき方向に封する有力なる示唆を意味するものと考へられる。かくの如く考
■絹︶
へれば、被は、既に、ユダヤ教の危横を救ひ、ユダヤ教の進路を決定したる、謂はゞユダヤ教中興の組とも言
ふことが出来竜と思ふ。クルムードの編者が彼を碓宗以後に於けや律法俸承者のいやさきのものとなし、クルム
亦
の中、節四S2dh腎︹Ta−mudは六の﹁編﹂よりなる
ードのユダヤ教が彼に始ると考へ、先聖﹀卸bhどhの言葉Pir官を集録せるPir官﹀>lbhひ許のいやさきに彼
≠lbhぎhは現存Ta−mudのMischnatraktate
れの一義定めたむべたるかな、と考へるものである。
︹1︶
■■−■
一重−
Ordnung︵複数形Sedh芝m−Oanungeコ︶これである。希のS乱h賢は七乃至十二の﹁部﹂に分たれる。所謂
る NeN買h︵Besch監igu︼genl民法、刑法を也結︶の第九布けに催する。マカペア直前の時代︵前郷二世紀初︺よ
Traktat、Mass欝h誓hがそれである。このMass賢h賢hが更に幾つかの﹁章﹂P誉堕打に分れてゐるのである。︺た
おゃ
かゝる内容からこのTraktatの表題Pirkて回bhぎhを一般にこSpr許hederく巴er。﹃剃連の撃皇と課して
ウMi㌢詳杵島の時代︵後竺一世紀未︶に至る律法悌承の畢者の横言を悠嫁したものである。
Ab。t∫]訂ipzig−讐∽−S・−・Fiebig、P
Sけr2−i−z−監∽−S・=∽↓・Strank・Ein迂tu
居る︵くg︼.Snh守er−Ge山CEcぎedesl註ischenく。−kes綽JLeipzig−∞声S・−のの−S・芳一↓・Hamburge
亡ndMidrascFM旨chen−篭−.S.翠Strack.Pirqe
EncyclOp註ief賢Bibe−und Ta−mud・Ab−eilungP
おゃ
丁旨ingen−警声SトFi2big︸Der↓alヨ阜Le首Nig−?汐∽・=−・GO−dヨann︸DerTalmud−Leid2
芦等々︶。しかし、pirk仰はp腎算︵Absch已声Kapi−e−︶の神敷︹”性︶p2ralニヨのStatu山COnStruCtuSイ
あやから、七れ施..∬首宵宮彗と闇サるは懲らない。虻ち、p昔kり旨hひthはた三抑捷bの懸︵Capitapatr。
紺。ごβ
Tr旨tatをたゞ
ご騨bhぎhこ
によつて出版せられた
tO
tFe■〆︼m∈㌣ウ訂考
とよんで閉る︵b∵B抑Jb印−Kamm阿−uOa・Rabh
Cambridger
Ta︼mudkOde舛︵=M︶にma一S粧kh警hポbhだh︵der
Traktatこく誉er
dbhひtbとのみある。仰、
Mischnaha且sc冒ift︵=C︶及所謂 B
lehud
T、Cambridge−篭↓−p.−笥一穴.?larti・G.B川er∴Abひt.Gie
或はÅg鼓乱打.官許已邑と詳きろべきものであろ ︵く邑.g.試⋮巴軋n乎−1PtrOd仁etiOn
n身この
こpirlハ小一”b一ふ旨: 上﹂†ハ・未研け申≠に始五ものヤ、東邦は、こ、旨hぎh。であつたのでJ直る。即ち、
S.Ⅰ舛.Strank、Pirq化AbOth.Leipzig−讐ひ−S.−.︶
YOrk−∽N∽、p.−N.MOOre︸ludaism
−かー∴
も察知出殊る。
−阿bhだh=はMiscゴロakOde舛
[義人L シモン
Talmud
︵軒謂Ta−mud
−
Traktate
に於て結集さ る︶及Tかs茸
の析に付置して居る。久
の第九希‖に概して居るが、Mにあつては節
Ta.mudより約一世紀年前Pa−訝tina
の後、即ち所謂K−eine
たるBaby︰Onischer
の敢詑飾停放を隼鋒せるもの。Sedh腎、Mass旨h賢bP賢詳甘Mischnaに
u.M.−M旨chen−¢N︻−S.Nコ。しかし、所謂料bhぎh計・舛abbi Nat
︸詳hひ早節五のT抑m琵h−Middぎh−置nnぎ等を軟く︺に於ては全く之を軟いて居
冨[の畢者﹄
の
なるに封して、料bhぎhには殆どⅠ︼a芯kh抑h
の吋に於ける特殊なる倣置、及び、他のTraktateに比して著しく帆ハろその内容
︵他のTraktateが大部分、諜数法雨郡分即ち所謂Ha−買b賢
かくの如きMischnatraktate
浩ジー−pt−∽00.K Marti=G.Beer∴Ab曾.Giessen−篭↓、S.舛1.︶。
IJ.Lけipz︰g︼若00、S.−∽P Strack.Ein一.i.、r.u.M.−MロコCheJ−篭T.S.記.M00re−Judaisヨ.
に ㍉回bhぎhこ の数行乃至追加即ちそのTかs昔ht抑.と考へられる︵くgL Sch賢er、Gescb.d.J監ischeロく○︼kes
る︵くg1.Strack、Ein︼.i.T
rilじ。仰、箪川Sedh賢
.uウ にかけて活躍せる
stinischer
六Se︵−h賢なるTeh腎ひth︵Reinigkeiten︶
の中C及Kに於ては第凹Sedh皆
CにもmaSS隕kht阿−de.印bhかth︵↓ractatusもatreS一Jとあつて、もirk巾︼如bhだhこと呼ばれてゐない
た︵鳥眞版にて︶MロコChener
P︷。schnakO計×Kaufmaココ︵=K︶等にもたゞ
葉︶。その外、LOWe
へり、碍仰鷲きものたらんと欲するものはNezikFの言葉を充すべし。R各haN若1∽N言へり、−旨hだhの言
Tヒnlud
gO8伊
︵の一︺
﹃義人﹄
シモン
九八
Snh守er、GescF
︵Dいese
d.J監ischenく○−kes
Rech什
cOdificirt.ent
a亡fgencmmen.ge宗rt aber
によつて、本木はMiscぎaに原超せずと晰ぜられた
くg1.M00re、Juda⋮smこ、p.−∽P
Mischna
−
der
の故にこ菌b訂thこはSch賢er
Tractate
的なるものがない
die
−∞声S﹂票︶
unter
ist
Sirach−Scb賢er、Gesch.d.J.<.
j仁dische
das
に特殊位置を興へんとする、乃至、Mischnatraktate 申より料b
Jesus
nur
in計r
Weise計s
SOnSt
Sammlung
Senten詣n
hin.Denn w恥hrend die Misc訂3a
SaヨヨーungくOn
写schnatraktateに於てふbhぎh
に特殊佗置を附興せんとするは形式偏禿でしかなく、−回bhだh
の
die
geistige
Gesamt訂−tu品
は全く他の
排除せんとするかゝる見解に肯して敢然戊封するものは、Kar︸Mart甘G20rg汐erである。彼等は、料bhかth
GesamttOra
の槻念を畢生に椛ゑ附け以て律法の本末を明かにするた
に於て底流をなしてゐるものが、こゝでは表面潮流となつてゐるのであ
Mischnatraktateと同一である:ぎbか旨で取扱はれておるものは個々の律法の抑則ではなく、GesamttOra
る、と訟く。久、律法爆召の終了に際して
鯉的埴法である。他のMiscFロatrak什ate
めに、律法弊習前期終了に常る第凹Sedh皆の終り、或は後期終了に常る節六Sedgrの終りに、、レbhぎhを教
の終りに、M︵M仁nchener Talmu
Misch3abaヨdschrift︶、K︵Budapester Miscbn
Sedh皆
︵Cambridger
に於ては葬円
授したものである。かくて、C
MiscFnatrak︷ateに比して特異ならぎることが解る、
.レビhぎhが仰筐づけられてゐるのである。加即ち、ふbhぎh嗣其のRn勺をGe山amttOraの主張と考ふる時に、はじ
mann︶
めて、その内容はもとより、その外形に於ても、何ら他の
M︹附詳、稚法をシナイ︹山︺より受け、之をヨシアlegmua.に停へ、ヨシアは長老等
︳ と説くのであ去 ︵くg一.K.M︼rt宜G.B川er∴AbOt︸Giessen−¢N↓−S.舛Ⅰ−S.掃く︶。
山血中㍗押出声
a.M.−00中ロ−S.N∽↓一−S.ゞ−.
J仁den︸−Leipzig−000000﹀S.∽N巴.
Mischna−Frankfurt
der
に、長老等は準富者等に、而して簡富者等は之を犬猿骨ke註s賢h訂ggedhひざの人々に侍へたり云々。﹃義人﹄
、少bhぎh−L・N︰モーセ
︹生︺洩り
H.GraetN−く0︰kst仁m︼iche Geschicごe
シモンは大集曾の
︵3︺
M.BrauロSnh弓eiger.Die︼bhrer
如一皿褐肝相馬巳画像温瀞㌧朝肝眉目皇宮ふ屡に肝胆思料百∴愚者眉年嵩且二雇苛首鼠官ヤ甘首足ぎ眉﹂訂昔風
der
︵4︶
hほル
紬JO
und
Ta.mud一AbteiどngざStresitN一l琵∽、S
Jm岬F9r−sti叫.岬卜什甘乱明−笥∞,S.u申巴●
J.嵩amb仁rger.Rea︰1−Encyc一Op抑die≠賢Bibel
N致tpJt什r
︵7︶
J.F.M8re−Judaisヨ:−Cリmbridge−浩ジpp.∽−−∽の.
W.BO巳Set,Die
碁叩u⋮出P
︵8︺
Alten↓estaments の一。
︵10︶
Reli腑iOndesJudeコtumニ
︵9︺
des
㌻p〃望責へQq巾ヨもミ﹂払句へk d⋮鼓ヂ訂↓ぎ?ぎ⋮lÅ訂喜ごα月いざ↓0どぞ○官︶皇六m戸さ≡
ApOkryphen
ゴ旨へ立正でべ︻㌢YへD︵AntiquitatesJudainaeにより以後Antt・と略稀︶竺ここ・
くg一.Sch賢er.a.a.〇.弓−S.∽∽∽.
︵11︶
1esus
Iィ○叉日日巾へ\倉と稀した。MO思ぃと言ったのは所謂﹁ソロモンの書﹂
と呼ばる。しかし、所謂﹁ソ′ロモンの横言﹂と扮しきため、後、ギリシャ諸に
Sirachにつきて。これは所謂背約の外典D⋮e
︵13︶
︵12︶
書名はもとMi揖−”m︵Spr許he︶
︵琴盲と停逆の菩︶を﹁知豊の菩﹂Siphre官khm印Fと稀へたのに倣ったものであらう。
てはMO息:、で00C告Mmへ\身或は兜約して
の孫の誓いた序詞に彼︵孫︶が王Euergetesの第三十八年に
著者は∽〇.N↓.に自ら、、琶Og C㌻U Mへ.︺即Nひヘ音呂ぎ下へJ霊と名甘って居る。
Sirach
Euergetesご
PhyscOn
るから、こゝでは問題にならない。他は帥ちP邑emaiOSくll
である。枚は初め︵−⊇1
の治世の和め、
の孫がエジプトに到りたる年代は紀元前−∽N年となる。
Sirachは大膿紀元前−苫1−召に生活し、著作してゐたのであらう。
Sirach
Euergetes
﹃義人﹄
Fragヨenけeが雅兄されて苑た。
シモン
NA↑−∽〇.N↓. 知想と律法について。
−小︸NPIN∽、N↓.創造に於ける紳と、紳に封する入関の地位について。
内容、こ.−−の.N∽. 知慧の本質について。
木次節にその
原本はヘブライ語にて寄かれてゐた。HierOnymuSは之を知ってゐたが、今日は停はつてゐない。たゞ−㍍の年以
従って、彼の机父JeいuS
一七〇年より数へてのことであらう。即ち、Je呂S
−食︶兄弟と共に治め、後︵−缶以後︶隕猫にて治む。こゝ竺一日ふ第三十八年は無論
エジプトに宛ったと記されて居る。PtO訂m許r荻にはEuer駕teSを栴する王は二人ある。lは治世二十五年であ
年代、この菩をギリシャ語に課したle山uS
g8IJ
﹃鶏人﹄
シモン
紳とその民について。
結び。
追加︵lesus
一〇〇
Geschich−2deこudenI㍍・∽芦−S・∽芦Sch賢er−Ge邑−ich−ed
Sirachの感謝の祀り及如意に志すことに関しての訓戒︶
自然と歴史に於ける紳のあかしに封して紳を讃美す。
再び、創造と創造に於ける人間の地位について。
批骨的共同生活に封する教訓と規則。
∽○、N00.・−∽のYNN.
∽のーN︺.−∽¢−u.
料N.−∽.1∽〇一NP
∽¢、
−N.−−烏、−P
−∽〇.
ぎーN﹂.−N¢.
竺↑
く○■kes戸S.−芦−S﹂声E.Kautzsch﹀DieApOkryphenuロdPseudepigrapbendesとten
くg一.Gr賢2、ぎーkst仁m=che
l−pp.雪−舎●
Anmu●
:.T旨ingen−警○−S.N∽01.S.彗∽.BOuいSet−DieR2厨iOndeUこudentums−S・P00・u・a・ヨ・M00r
Graet♪a.a.〇.S.︺£.
Graetz−a.a.〇.S.∽lヾP
Braunschwe首er︸a.a.〇.S N∽00
Sch賢er、a.a.〇.霊.S∴00N Anmぴいl∽●S.∽∽∽●
Braunsnhweiger一P a.〇●
Sch賢er、a.a.〇.肖ノS.−∽P
Sch仁re﹁.a.a.〇.貞−.S.N−ゴ
Sch賢er.a.a.〇.肖J.S−∽P
lOSephus−An芹.只−Ⅰ.N、P
Braunschweiger一a■a・〇・S・N誌・Anヨ・∽・
Sch賢er.a.a.〇.1ノS.−缶Anm㌘]胃.S.︺設・
GraetN.a.P〇.S.摘心い.
Braunsnhwei駕r、a.a.〇.S.N誓f.
j拍ノク
′ヽ
(
( ′ ̄ヽ ′ヽ {
(
′■ヽ (
(
′ヽ r\ (
) \_ノ
)
2625 2423 22 2120191817161514 ) \J ) \ノ ー\ノ \J ) しノ ) )
39383736353433 32313029 ) ) ) ) \J ) しノ\J \J ) \J
\_ノ
/{ヽ 41 40 \−ノ
( ( ′一ヽ ′ ̄ヽ ( ′ヽ ( ′【\ ′■ヽ ( ′ ̄ヽ
GraetN.a.㌣〇.s.敗茶.
aufba完n仁nd
die
er∃n
PtO訂m賢s
d2ヨK旨ige
Jeru琶−2ヨS−W21nhe
sc
die Er︰a
H・hatte
Neitgescbicbte、TFbingen−宍声S●NN・
Nweif21hat
Mauern
befe旨gen.〇hne
G−aetN−a.a一〇一S.∽N∽1Eニiess
wieder
くg︼.〇.HOコNmann−Netlte山tament−iche
、Abhかth I︸−−N.
lOSephus−Antt.舛IH∽,∽●
Weber、a.a.〇.S.∽00.
Haヨburger−a.a.〇.S.〓−∽−S.−〓P
BOuSSet、a.a.〇.dase−bst.
BOuSSet−a.a.〇.S.−票.Anm−.
M00re、ibid.pp.uか−∽∽.
これである。
に冠詞なしにて用ひ
hazz詳︵この世︶、h抑貞矧mhabb聖︵死去べき世︶等の用婆のり。
られ、節二番‖は:、−bに有冠詞にて川ひられ、而して第三番目はシモンの言葉に於て布冠詞にて用ひられて居る
hat㌫r欝..レbぎhに於て使用せられて居るこの言葉の順位では第三番〓。算一番目はiこa
の意味に用ふ。従って、h抑︷慧m
盛期ヨはNeubebr巴scFにてはギリシャ語のc一⋮かヾ︵マダイ一三ノニニ、マルコ四ノ一九参照︶と同じく、we−t
廿as抑dh−ヨ.
−b・h脚j巴−ぶmerこ・紆−綜hdebh冒ぎh芸−矧mぶmedh.aThattOr聖F一雪e、aT宗へabhg試h we■aT
GraetN.a.a.〇.S.∽烏.くg1.S.∽Nの.Sch賢er、a.a.〇.肖00●S﹂∽P
Scb賢er、a.a.〇.声−.S.N−ゴ
川畑
﹁義▲へ﹄
シモン
K・M三i“G・Bルer\AbO−、Giessen−つN↓−S・声L・GO−d
一〇一
B;y−OnischeTa︼mud:〆Beユin−讐卓S.の芦仰、ロマ菩九ノ四、J訂:㌻参衰。
・PirqかAbOth、1e⋮p2ig−讐∽、S・P
︵牢︶ 許諾bhgh賢はderGOtteSd仙enstの意。くg︼●P・Fiebi叫、Pirque.abO声丁旨ingen−どのーS﹂・
′■ヽ
﹃義人﹄
シモン
一〇二
und
MidrascF
F ankfu
Liebest賢glハeitの青。<g1.G.Daぎan、Aram禦s・
Handw響terbuchN仁Targum、Ta一mud
の意味を有す。従って、gem琵th官s註hぎにてはdie
︵43︶ gemごpth官s註h訂7⊥もs琵hはーi2breich−g芝ig.gem琵thはgem2︵Tat︶より醇化せるものにてWOEt
Ch・Neu訂br巴sches
︵45︶、aヱigenas︵=.Aミへぺミ○匂︶の如くユダヤ人にしてギリシャ名を持つものが現れたり、或は、las呂︵=l旨ウどaJ
︵44︶ NON年、シリア王AntiOCFOS肖。ハレステナをエジプトより奪取。
したことは、パレスチナのユダヤ人のギ
luden−、S.∽−りff.
の如くユダヤ名をギリシャ風に呼ぶものが現れたり︵勿論。ハレスチナに︶
リシャ化を物語るものであらう。
︵N00ut︷り舎︶?治世中にA訂雲ndr.aに於てギリシャ語誰背約聾昔○磨きさ萱畠
︵46︶ くg︼.Graet♪く○−kst仁m−ich沌Gesnhich蒜der
︵讐 P互emai。SコP∴−adelpl−○Ⅷ
a.a.〇.S怠弓
P仇e仁depigrapbeコⅠ﹀T㌃b
の治世中AristOb已亡S︵−苫−⊥
D旬metriOSがヨ⋮〃aニてTて、○亡登拍曾ま㌻℃を著
PhiOmetOr
︵septuagiロ.ta int2rp−.e什es︶が完成し、二〇〇年頃には
KぎtNSnJ
ApOkr︶phen亡ロd
してイスラエルの歴史をギリシャ風に改編し、久、ptO︼emaiOSくI
念記.
Sir諾h等−−.ノ.色.Et
Jesus SiracIJ∽○こ●−サ∵<g︼・E.Ka三2SCh−D⋮e
三二〇年。
同上参照。
、ゝbhかth一山参照。
.Abhぎh IN参照。
O年頃︶がユダヤの律法観にEるゝことなく曾曾㌻訂苧臥を苦いて居る。
)
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\J
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Jesus SiracJ M古.−.!鼻
︹59︶、かbbかtF
︵57リ Jesus
、Abhかth IY N
Jes仁S S仙rach∽○、−.−み.
、レbhひt︼︼i一N h。
山r照
H−.・−N.参照。
、トbhかth i−.−N.参肘。
紛擾
( ′■ヽ (
′ヽ (
しノ
)
しノ
′一 ̄ヽ ′‘ヽ /■ ̄、\ ( (
52 51 50 49 45
5S 5C, 55 54 53
盆−
花
考
池
L
正
勿論花崇=心味を究明すろに骨因つては盆行事に於ける
種々たろ宗教的わ事に於いて花が更要なる意味む有 に就いて若†の考察を試み庇い。
してゐた事は我々の屡々粁験するところである。殊に
盆
帖に
考
頂者は此り問題1−花と死者の菜魂との信仰的聯踊1
の頃より、大江戸のまち仲りよきちまたに、むしろ引
一〇三
へたきに、けふばかり時めきぬるは、いかなるすぐせ
て此の行事の婁要なる役割を課されてゐるのである。 めり、︵小略︶みぞはぎてふ草花のロビろはめづる人さ
に盆行事に於けう盆花は完数的要素宕有するものとし わたし、あき人のかぎりつどひ釆て、くさ′丹トひさぐ
味を布するものとして耐教組せられて居た︵証一︶。殊
へものうらんとて、門の戸もまだ明やらぬ、いなのめ
に用ひられた花は⋮叫に鑑賞川のものではなく㍍数的意
要なる側面を有してゐたのであつた。即ち宗教的行轟 の記録を見るに﹁ふみ月の小三目、た・き人まつれる備
さに依る装飾的意味の側面以外に完数的意味の他の重 文政年榊に於ける江戸年中行事を記した罵琴の革市
的効用に着眼せられてゐろが、茸は一般に花は英美し
現在では宗教的行事に用ひられろ花も主として装飾 意味﹂といふが如き問題は他の横倉に譲る事とする。
つ意味に就いては経木散り顧みられてはゐたかつた。づ盆花のみに限る宜とし、﹁宗教的儀他に於ける花の
てゐろ事は改めて言ふまでもたいが、然し此り花わ持花一般に就いて翫察究明の必姿があるが、致では一光
孟蘭盆の民問行事に於いて花が不可紋な要嘉を形成し花の意味のみたらす更に駒汎なろハ▲加数的行雄に於け去
別けき
一〇四
草が盛ん濫費られた事が知られる。叉天保年間の記録
は必ず立ってシキミ草、ミゾハキ、女郎花等の秋の七
は草市或ひは盆市と呼ばれて盆花を要る市が盆の前に
柑では特に盆花の事を﹁シヤウラエバナ﹂と呼んでゐ
に接して思き、十三日の午前中に新しい花竹筒と共に
マツナギ︵萩︶堅言ひ七月七日に野から探って釆て桶
現在宮崎解酉請願郡眞宰相島内では盆花は莱花、コ
ものとして考へる事が安常なのである。
にも﹁七月十二口、草市叉盆市とも言ふ。精憲祭少、
ミソハギ
魂棚飾物の市なり、何れも卯の刻より始る。鼠尾串、
てゐて前と同じく山野から探って乗る事になつてゐる
のちはひにかあらむ︵下略︶﹂︵堅一︶、とあつて常時
肺がら、︵中略︶共外径々の供物、供花等商ふ﹂︵許三︶、
︵聖ハ︶。之と同一の慣習は長野解下伊部郡見開柑新野
野から容易に盆花を探って来る事の出奔なくなつた社
も看取される。勿論革帯乃至盆市と呼ばれるものは山
深い事の決して今日のm心ひ付ではないのは之等からで
花と言はれてゐる桔梗、萩等の草花が特に盆と紺係の
家々是を⋮見て盆中の供花とす﹂︵訃四︶、とあつて現在盆
花は桔梗、刈菅﹁女郎花にかぎる、他の花はまじへす
り︶十五日まで、近き山里より花裏山る、盆花と呼び
盆花が貸られてゐて、間男歳時記には
深い聯踊を保有する琳を預想させるものであらうと思
を持つばかしでなく、更に盆行寓そ?ものと本質的に
盆花が死者の貰魂への手向けの花として重要なる意味
事が盆行事にとつて重要な要素となつてゐる事は軍に
の準備は経るとされてゐる。斯︵の如く盆花迎への行
始まる︵託九︶、と同じく盆花が採られて釆て初めて盆
乗るのが一般の風習とされ恰も盆が夜の迎へ火を以て
にも行はれてゐて︵乱入︶、盆花は山野から自ら探って
でも行はれて居り︵証七︶、更に岩手解岩手郡雫石地方
供へる事になつて居り︵計五︶、叉富山顆上新川郡太田
と見えて居り、更に上野開高崎附近でむ天明年間には
命的事情から隼ドハ後代的行串に過ぎぬのであつて、
ふ。
﹁︵十三日朝よ
魚牝と盆行革と喧革和む神社以前から探い聯脚を持つ
が必
て花が屡々紳を招く﹁招ぎ代﹂であり、又同時に紳の
ヨーン
﹁依り代﹂として信ぜられてゐたといふ事︵許十︶、を
察知されるのでたくてはならない。殊に前代人にとつ
れを特に﹁盆花迎へ﹂とゝ三=つた事に盆花本来・の意味が
然し特に盆花を野から探って来る事を必要とし、叉そ
黄巾で購った化でもそ〃〓的は連せられたであ、hウ。
窓前を飾る篤り花であつたとしたならば戎ひは盆市、
道を作る事が重要た要素を成してゐて、営口は朝卑く
が改め定まつてゐる。そして花を迎へると同時に一方
には豪に依り叉一家とか地斯に依って迎へる山と遺と
れてゐる。一般に之を﹁盆花迎へ﹂と言ってゐる、之
時に山から之を迎へる儀式があつて二重の迎へが行は
とか寺とかを封像に行はれたが、別に七月に入ると同
北謹欒郡では死昔㌘衆魂迎へは十∴‖又は十四‖に英
韮の依り代であつた事は晴々推察される。現在愛知願
せ裾へるならば迎へられるものは遇っても花は共に醐
考察い袖に入れるたらば盆花迎への行事が現に花を探
家々の定まつた道を蹄んで定められた山に行く。目的
盆花が単に本凍死者の寒魂へ鱒手向けの花でiあゎ、
る焉の目的のみで行はれたのでなかつた事は略々想像
とする地瓢の多くは隣村との境をなす峯であつて、此
ヲシP
山木るのである。
鹿から蒲とか女郎花とかを刈って凍る。鐸途は道を賓
ヤリい十り
ふた雑草や木の枝む沸ってHて来る。之む特に﹁精憲
越後の出雲崎では﹁藤の花立﹂と稀し毎年閏月七日
には婦女精進潔解し、八日には早天に晴衣を着て近き
道﹂又は﹁暗室の遺作り﹂と言ってゐろ︵許一三︶。
三脚
山々に行き藤の花房の手頃の二枝を探り還り仰檀に供
良い事にされてゐるが、恐らく嘗つては盆花の探らる
眈に現在では盆花は山野の何鹿からでも探って来て
は欝八月の定まつた日に鳥の御嶽山に登少、谷救明翻
1〇五
可き場所が上例の如く一定してゐた事と思はれる。現
考
む勧請し、錯途には必ず﹁ハナ﹂即ち石楠の枝を折っ
栽
に盆花が一定の山から探られた事の三河だけでの慣習
盆
て凍るといふ行事が行はれてゐる事嘉一二︶∵等む仰
へるといふ行事が行はれてゐる︵託十一︶。叉屋久島で
ヤク
ナ
一〇六
花︵をみなへしをしかいへり︶の多ければいかぐいふ
でなかつた事は稜々ハ報今にも知られるところである いふ野あり。こ1にふん月の頃たままつるにそなふ粟
例へば群馬願多野郡R野付年上l]野では盆花は柑の北
方にある山の特に﹁盆棚﹂と呼ばれてゐる地鮎から掠 となん。きちかう、水かけ草にましり、女郎花の野も
って来る常になつて盾少、この花を探りに行く時は他 せにさけば、これを盆花とこそいふめれ﹂︵詫一入︺、
之も恐らくは盆花を抹る吋き場所であつた事と思ふ。
の川をせぬ事になつてゐて、州仕事のついでに採ってとあつて﹁盆花たひら﹂といふ地名が見えてゐるが、
来る等といふ事は厳禁されてゐる︵証一四︶。叉稲島螺
石 城郡草野村字北■潮脊では盆花は柑の共有株草刈山如上の諸例からも推測される如く盆花が一定の山か
た事は事茸であつて、去とか寺とかを封象とした死者
から探って来る事になつてゐて、蹄途は三河と同じく ら探られて来たといふ慣習の可成り就い範囲に行はれ
近々経で草を薙いで来る事になつてゐる︵託一五︶。更
に長野弊上諏訪叩では盆花は上諏訪と四賀柑との境を の竪魂迎への外に盆花にょつて山より迎へる一形式の
ては山は屡々この≠と紳菜の仕ふ榊界との堺日であり
たす﹁オダマ山﹂から十二日に探って来る事になつて あつた事は認めたくてはならない。殊に前代人にとつ
居り︵謙一六︶、同蝶上伊那郡中簸臨付では盆の精室迎
へは近付手良材にある六道原といふ高原地の略々中央同時に山は紳の此の世を訪れる最判り天降りの場所で
にある﹁六道﹂と呼ばれてゐる森からとされてゐて、 あると信仰されてゐた︵許一九︶。従って紳と死者の冨
迎への日には此産まで行き花の代りに松の枝を求めて 魂との納者を判然と匿別する事なしに考へた前代人の
蹄り、死者い態魂は之に乗ってゐると信ぜられてゐる 仁仰としては、死者の小異魂を迎へるのにも又山よりす
︵許一七︶っ 詰読癖川名部町れ紳附近い≠を記した憲政
るといふのも相骨⋮わ根株があつた謂である。即ち盆花
五年の舵鋏む見るに﹁石紳をへて、呼んばなた仏らとが特化血から迎へられた串は山が死者の韮魂の天降少
甜ノβ
聖い花と信ぜられたわで警心。恰且化が紳む招き且つ
ではなしに死者の重砲わ依り付く可き依り代として榊
考へると山上から迎へられる盆花も異なる自然的な花
す可啓場牌であると借ぜ㈲轡か熱か計である。かく
味を一鮮明確に我々に示してくれるものである。
い必す行はれてゐる事は、盆花迎へのわ事の本来望息
られた山から安までの冊に一価仙の道を新に切り拓く謡
と同時に精選遣、又は輔笹の述作りしし稲して総花の搾
の坤なuのは瀧想ざ胤る。儲漣ひ鵡牒三河で盆花迎∼
稿島解石城郡草野柑北紳谷で盆花迎への踪途草を薙
ヲシ一
ヨ●シー
紳の依り都心く﹁招ぎ代﹂又は﹁依り代﹂として信ぜら
れたと同山の考へ方に根接があつたものと思はれる。
に﹁シヤウリヤウハギ﹂︵堅一三︶、鹿兄島螺大島那龍
又熊本解阿蘇郡宮地町林田では盆花車のメドハギを特
町では﹁オシヤウレバナ﹂︵託二二︶、と呼んでゐT㌔
﹁シヤウリヤサバナ﹂︵堅二︶、新潟解西蒲原郡内野
ラエバナ﹂︵許二〇︶、稲井顆大野郡下味見柑折立では
を刈る事の行はれてゐろのも︵些一六︶、茸際盆花を探
他柑へ向ふ咋の一定の場所から理までの問の道の草木
燦多野郡日野村上口野で盆の十二11に造作hソと稲して
峠まで遺む付ける事が行はれて居り︵証二五\
解三石郡階上付赤保内では七日盆には部落近くの山の
のも恐らく之と閥瀞む有すろ行≠であらう。現在青森
の前に山から埋までの道む修理する事の行はれてゐる
いで氷る事は前にも述べたところであるが、一般に盆
郷付久場では﹁シヤウロバナ﹂︵託≡讐、と呼んでゐ
●
るのも単に夫等が死者の婁魂に捧げられる花であるか
って来る事の本来の重要であつた事が忘れられ、山か
現在富山願上新川郡太田柑では特に盆花を﹁ショー
らといふ故を以って名附けられた名栴でなしに、更に
ら黒まで迎へられて来る途中の行事のみが無意識的に
又群馬
夫等の花が死者の藁魂と極めて緊密な踊係を持つもの
慣わされてゐ一〇、==はば前代の盆花迎へ行事の名残では
一〇七
であると考へられたからではなからうか。勘くとも盆
考
なか左うか。
花
花が⋮単純に峯前を飾る馬のみ”目的として迎へられた
盆
ガ押.
一〇八
た遺作りの行事のみが長く取り球され地方に依ってか
ての盆花に依って死者の貰魂を迎へるに際して行はれ
つ事が推測される。即ち本来死者の軍魂の依り代とし
迎へに附随して行はれた精婁遺作少の慣習と聯閲な持
事であるが、速くその蟹生国を潮つて行くならば盆花
習も死者の買魂を迎へる焉の準備である事は疑ひ得ぬ
り﹂︵託三一︶、等と呼ばれて相中の道の難草刈少の慣
り﹂︵軍二〇︶、茨城牌久慈郡中里付入四悶で﹁盆遺作
慣御許二九︶、更に静岡解周智郡奥の媒での﹁狩造作
るハ詐二八︶。叉岐阜解加茂郡西口川村での盆草刈りの
寄せ、蕾分人は道の両側を歩かぬばならぬとされてゐ
の道脇に茂ってゐる雑草を土と一緒に遺の尻車へ削り
りL乃圭﹁ショPミツツクイ﹂と稲して柑巾ふ∵王た遺
造作り﹂︵些一七︶、宮崎願眞宰相島内では
て来れば完蘭盆の快く可からざる慣習とし∵一年へられ
して釆たものであらう事は想像に難くない。斯く考へ
里へであつたものが何時とはなしに去から家へと推移
慣習であらう︵堅二六︶。随つて元来は精婁道の山から
として行はれる様になつた事に起関するいはゞ後代的
庶民の間に墓標が普及し盆の祭儀が寺乃至墓地を封象
院が専ら死者の管理を行ふ様になり他方之と並行して
なると共に切支丹禁制に伴ふ寺相関係の確立、更に寺
民の信仰生活の中に深く授潤し始め、殊に穂川時代に
象とされてゐる。然しこの現象も近≠仰敦の感化が庶
れてゐて︵聖二五︶、一之等にあつては某地が特にその封
坂︵許三四︶、及び青森願八戸打でもの行串間棟が行は
にたつてゐるハ聖二三︶。更に長野顆東筑摩郡山形相小
ミナナギ
﹁道雄﹂と呼び墓所から部落までの小径の草を刈る事
にたつて屠り︵詐三二︶、又茨城願浮島地方では之を
字の者一同が菩提寺まで道刈と稲し道路の草を刈る妥
く﹁盆草刈り﹂ ﹁狩造作り﹂乃至は﹁盆迫作り﹂と呼
てゐ至二乗螺十心摩郡安兼付でm﹁ムショザラヱL︵証二
盆を迎へる準備として佐賀解杵島郡武雄町では﹁盆
ばれる侶習として恒はれてゐるのではなかL∵↓か。
七︺、瀾腕足サ腸側溝での﹁珊沌膿五Lハ華三八︶︰愛
﹁山道作
.現在栃木解捜谷郡泉村立足では琶七月叶六日には大
都万0
●
乗って家に釆たらん事を乞ひ、携へ揃って豪の水棚に
草花を供へて碓井し後栗枝を捧げて死者の簑魂の之に
知願長岡郡中央部の諸相で曹七月九日頃去を掃除し、
嘗つて行はれた事は認めなくてはならぬであらう。高
盆花む依り代として山から死者慧猥魂を迎へる方法の
される。兎に角基を封象とする死者の重魂迎への外に
芸道作りの行事と何等かの閥聯を持つ雄は容易に首肯
一度の草刈り掃除も襲生的には盆花迎へに行はれる精
口町︵詐四二︺、での﹁去ハラヒ﹂と呼ばれてゐる年に
願志津川地心︵詳凹一︶、及び秋川螺仙北耶南楢岡村川
茨城顆新治郡上大枠柑での﹁其ナギ﹂︵詑l∼qO︺、宮城
事は勿論早計であらう。然し斯く﹁シカ花﹂が特に葬
が家から葬地へ川て行く吊を意映するのだと説明する
て考へられ、之が葬地に運ばれる事が即ち死者の買魂
の依り研であり、同時に死者望完を象放するものとし
現在行はれてゐる﹁シカ花﹂の凡てが死者の藁の一時
に挟み女は髪に挿して葬列に加はる部にたつてゐる。
紙む巻いて作った紙製の花であり、男は之を耳又は襟
野螺諏訪郡諏訪地力では﹁シカ﹂は細い割竹に細長い白
持って葬列に加って行く事になつてゐる︵許四五︶。長
りハ許四四︶、武州蕨セは親族い者は凡て﹁シカ花﹂を
に持づ〆㌧〓普、理非地い土に立て1凍ろ将にたって居
新島では倉葬者は紙製の花を結び付けた雅楽を手に†
Aに輿へるものであるや伊覚
入れる事が行はれ、之を特に﹁花枝折﹂と呼んでゐる
送の俄に必要とされてゐろといふ事茸を偶然的現象と
﹁遺直し﹂
事は︵許讐二︶、盆花に依って死者の針先魂を迎へた事の
して見る目車は出来ない。勘くとも死者の買魂と﹁シカ
の
嘗つて此の地方にも行はれた事を示す一つの詔左では
花﹂との糊に信仰的聯幽が嘗つて信ぜられてゐなかつ
花
孝
一〇九
現在石川螺能美郡膣廃寺附近では葬列の後から麻程
たならばか1る償朝は饅生し得なかつたであらう。
なからうか。
更に葬送の場︿‖略竺全囲的に﹁シカ花﹂と呼ばれる
名
花の特に必婆とされてゐる事は花本来の持つ意味を考
﹂ L
gP封
たものを現轟後葬地の上に立てる事が行はれてゐる
して、周り二寸ばか少の■竹む花立とし、棉一木を挿し
︵許四七︶。又和歌山螺H遼町附近では﹁一本花﹂と精
紙を結び付けたものを葬地に立てる事になつてゐる
田村及び同燦志太郡小川柑では竹棒の先に花の代りに
て1行く事が行はれて居り︵訃讐ハ︶、静岡顆安倍郡長
の先に柿の花又は葉を結び付けたものを持って注々立
るゝ如く、一般に花が人間の買魂乃至死者慧業魂と結
っの茸例として見る事は出来る。以上によつても知ら
らぬが、花が婁魂を依らしむる料として考へられた一
︵託五〇︶。勿論此空間念を普遍化する事は趣けぬばな
り廻し之で重魂が再び子供に範められたとされてゐる
ゲーン
れ掠る。家に着くと遊魂を連れて釆た者は門先から子
途々尾花む振り振り遊魂を慰めつゝ誘ひて我が家へ連
一一〇
︵鈷四人︶。之等霊化が柳田間男氏の言ふ如く凡て身を
び付けられて考へられた事は明瞭である。随つて死者
考
離れた死者の買魂を依らしむる料であつた︵証四九︶か
の累魂迎への一つの形式であつた盆花迎への行事に於
花
否かは未だ論究の傲地ある問題であらうとも、花と死
ける盆花が本来如何たる意味を持ってゐたかは自ら推
盆
者の重魂との聞に特殊な信仰的連銭を想定する事は強
察される事であつて、恐らく之等の盆花も元来は死者
の菜魂の伐り代であつたらう。そして去む対象とする
供の名を呼び、次に子供の頭の上で例の尾花聖二同振
ち不菖ではあるまい。
†ン.︰ル
死者の卵競魂迎への外に山の峯を封象とし盆花を依り代
沖縄の山原では子供達が痩せて食事が進ます元気の
無い時や、或ひは棉度に驚いた時には藁魂が落ちたと
とする死者の累魂迎へが山村地方に於ける盆の重要な
聴わ作り聴花立患乾せ把火甘焚く番に倣って展ゆ、
阿波藩邸郎牟岐付いビm死者霊岬瑠璃迎へに、渥川圧に幻
る行事の一であつた。
7プ 言って之を包める事が行はれてゐる。踪仁柑では﹁魂
イゴ
包め﹂さる可き子供が驚いた場所へ母親か又は租母が
げ・ノ 御茶米と御摘む析にいせて持へ∵行き、H花む結んで
世態心七度惣蘭骨小布置烹朋於や七能牡厳せて.蘇る
紛閃
︵耗五一︶、叉紀州有田郡の諸相では﹁ゲ.ハナ﹂と科し
く行はれてゐる邸は一々例語を壌げる迄もない事であ
ナ﹂と呼び碇前に木や竹で︰〓高両村に作ろ雷になつ
た雨㌫竹仙辛い先に化を結び付
ろが圧ハm五、六む榊▲小すろと/辟捕大鳥ては﹁ミズク
▲ け∵−・り∵ろ姉が糾明−壬“り∵一ゐ心ハ計㌃∵−︺。現に武州
てゐる︵計五五︶。長〓の和島では門〓に立てる事にな
て七〃十二、〓に高予川′
岩槻査閲付での死者の釜魂迎へは門から家へ至る迄の
信仰の布衣を併せ考へるならば、此の竿班の花も死者
慣習も死者の貢魂が天駆つて此の≠を訪れるとされる
ぅ。唯武州岩槻で見る如く特に竿頭に花を結ぶといふ
て累魂の依り代であると見る事は猫断に過ぎるであら
形式として注意さる吋きであらう。勿論之等の花が凡
様であるが、之等の諾例は特典な死者の累魂迎への一
象とする盆花に依る死者の貫魂迎へは行はれてゐない
になつてゐる︵誅聖二︶。.之等の諮地方では別に山む封
津其村大桑では‖‖に之む作り盆花は四隅の支粍に結
形を作る事になつてゐて︵証六二︶、愛知輝北設欒郡下
和歌山螺那賀郡安欒川村では糖†に関本竹で檜葉の家
では之む﹁アラタナ﹂と呼んでゐる︵許六一︶。此の外
ケバ.ヰ■ノンダナ
てゐる︵註五九︶。i山蝶上道郡ハナ野付では之を﹁ミ
取市附近では之を縁先に封し声家わ外に作る事になつ
くは之を﹁ソンシヤウ棚﹂と呼んで居り︵詰五入︶、鳥
三尺五寸描に作って庭先に置き︵証五七︶、淡路では古
問に花を結び付け一た竹計二止て批の下で迎へ火を焚く事 ってゐて︵許五六︶、更に徳島脂肺柿郡川Hl町川東では
の菜魂と密接な聯閲があつたのではないかと思ふ︵託
び付けるハ計六三し。伊豆内浦三津では之を﹁精重の腰
掛け﹂と呼び八日帰=に渥へ流す︵許六四︶、更に秋田
ズダナサマ﹂と呼び︵註六〇︶、和泉囲東浦郡将井倍達
五四︺。
考
一一一
十三口に供へる事にたつてゐる許六五︶。之等の諸例
ぬのは略々全図的に行はれてゐる所謂
懸﹁
守粘
鹿▲
郡菜
揖棚
†﹂
町と
で呼
は王一‖に作り桔梗等の盆花は別に
次に此の問顔を考へて行く上に注意しなくてはたら
シヤウりノ′ウグナ
荘
ばれてゐる盆の慣初である。精基棚が略々全閉的に炭
盆
gOお
盆
花
考
に於いて特に留詣さる可き彗は余聞的に廉く行はれて
■一一二
ら下ヘ音竹の梯子をかけてゐる︵聖ハ七︶。之と同一の
深い㍍数的意味を認めてゐた前代人にとつて死者の祭
要は認められ得ない。殊に祭儀に於ける各々の行雷に
て行はれて塞たとしたならば特に戸外に高く立てる必
の置魂への供物を供ふ可き棚としてのみの意味を以っ
るといふ鮎であぇ。本寒粕崖棚が眈に迎へられた死者
︵託七〇︶、奈良螺生駒那北倭柑では此の梯子を特に
側に琴き、オガラ製わ梯子をかけ花を供へる凪がある
大阪府下地H町では精宗棚を簡椚叫に﹁タナ﹂と呼び縁
で千島形に竹を折り付けて階段を作ってゐる︵註六九︶
幡柑では精蛋棚を粘に﹁餓鬼棚﹂と呼び地上から棚ま
此の下で焚く事になつてゐる︵聖ハ八︶、紀州有田郡八
ゐる精婁棚が多くの場︿‖凡て戸外に地上福く設けられ 事は鳥取顆東佃郡上中山村八重でも行はれ、迎へ火は
儀の罫要なる要素む構成してゐる精重棚が特に無紺心
るゝならばか1る慣習の葛生を促した主なる原因は本
を持つ市は認めたくてはならない。恨りに推論が許さ
設けられる車も決して偶然的現象ではなく必然的意味
の中央から長い索鮎を懸ける事になつてゐる︵証七三︶
川ひる︵託七二︶、節岡煉〓方郡韮山相反崎では精墓棚
生活の豪の如く作りその梯子には普通の丈夫な梯子を
郡川上柑では盆の死骨の蛋魂む迎へる祭増は凡て樹上
﹁九ツ梯子﹂と呼び九段に仕切る︵許七一︶、同願吉野
木精霊棚が大鰐ける死者の蜃魂の先づ天降りする神聖
が之も恐らくは肥前五島の鯛の捕逸で﹁ミタナ﹂と呼
に営まれたと見る事は拇−1釆ない。精簑棚が戸外に・蒔く
な座として考へられた事にあると恩ふ。
の前に作ると同時に特に之に小さな階段を設ける事に
﹂止∵かける︵証七▲九︶.ぃと〓一い意味ぃもいであつ∵
郡柑谷で棚の前に竹を三木建合して端む結んだものを
ぶ精基棚の下へ石を置き︵註七四︶、或ひは徳島螺実篤
なつてゐる︵証六六︶。淡路∴偵郡倭文相では軒先に一
近能小関わ苧穀の梯十に鼎常するものではないかと∬
現在徳島願板野郡堀江村に行はれてゐる精墓棚は家
間樟の高さの杵を立て此の上に精鉱棚を作り、正面か
gOJイ
る≠は興味ゎあろ≠であつて、相﹁む用払た事は死者
ふ。此の将器棚へ梯子をかける慣習の顔く符はれてゐ
聯囲するものであつて、死者ハ小難魂の依り代として思
ち盆花時盆祭儀の梶木む形成し死者の貫魂と本質的に
荷ほ前述の如く㌫数的儀祀戎ひは更に靡く㌫数的現
酢せら力十−ゎた車わ指摘した。
したものであらう。即ちかゝる意味に於いてこの梯子
象に於ける花一般り意味に就いての考察は、他日を期
︹小量魂が特牛佃肌棚から宏へと来臨†る道順む扶愕的に.示
を川ひる慣習は精婁棚が死者の嘉魂の一時の依り憑く
すろ一︰車とし、大方の叱正を仰いで一光づ此の稿を経る
歳時都二
四八東。
民俗撃仲村第一番所載﹁花の
﹁葦市﹂新燕石十種
苫代研究
場起として考へられた前代り信仰む示すものではなか
折口信夫
事とする。
註
東珊歳事記三、宕事類苑
託﹂参照。
横澤馬琴
第二
︵二︶
照勝幸成
三〇H。
七ノ七一四入京。
間里歳時記下
十七ノ六八二H。
︵三︶
川野過賞
二川一貫。
前同
妓と侍誼
二一貫。
二ノ五一七六正。
七ノ七
民族
gOJ占
一一三
及び迎へ火の宗数的意味に就ては沸教考音型講庫
H聞に於ける孟蘭盆行事が迎へ火を以って始る事
放と伴読
民m風俗年中行事所載
︵四︶
︵一︶
らうか。兎に角精菜棚が死者の纂魂への供物む供ふ可
き冊早なろ棚としてのみ本来後生し来ったものである事
は、凡そ推察し得るのである。斯く考へ来ると精簑棚
へ飾られる盆花も箪に装飾と見る事は必ずしも安菖な
碑鐸とはなり得たいのであつて、精婁棚が精墓の依り
粥心く紳聖なる座とすろたらば盆花は死者の憲魂を招く
/’−ヽ ′ ̄ヽ /(\ ′ ̄−\ (
親ぎ代であり同時に死者の累魂から言へば依り代とし
て信ぜられてゐたのであらう。
老
) しノ
)
\、_/ )
以上此の小論に於いて其の本木の意味に於ける盆花
は叩叫に品聾削を飾る装飾的意味以外に宗教的意義を宥す
証
るものである事の一應の究明は兆し得た事と思ふ。即
公
九 八 七 六 五
︵十
盆
︵一一︶
ヽ 0
花
考
節六准所載の刑由﹁盆火の行事﹂を参照せられ度
郡一巻所載.﹁髭籠
四ノ十一六五九H。
折口信夫 宮代研究民俗撃筒
郷土研究
の話﹂参照。
民俗畢 四ノ七
五四二H。
二J一一五証文。
︵一三︶
高木誠一氏朝。
松川絹氏朝。
民族
Ⅶ亡γだ弛
︵一四︶
小〓伊乙代報。
苗ほ長野螺諏訪郡冨上且村では
革になつて居り、一般に
一一四
﹁オショロサマ﹂が此の
よとされて尉る︵夏H一平氏報︶。又同賑同郡下
花に乗ってゐるとされ途中で犯罪を企はぬ様にせ
川村宇下mでは家に依って盆花を採るtUは興るが
晶泡は凡て葦を刈り乍ら乗る革にたつて居り之に
菅江眞橙全集第六秦所載﹁をふちのまき﹂七三
。
︵永江土岐吹氏報︶。
依って死舟の仲川山塊は迎へられたと信ぜられて解る
︵一入︶
七ノ七
二十H。
﹁シヰレ
﹁宕典研療﹂一入文を参照せられ庇い。
刷滋が山の雄に大降りする却に就いては折口信
焔と憧訟
夫述の
︵一九︶
︵二〇︶
︵ニ一︶一︰⋮鳥正代報。
の
■
︵一九︺
︵一六︶
有賀其一氏報
佃ほ高知市附近では盆に供へろ花を特に
盆花は大澤山から、久仲洲村では北ハ布山から探っ
︵一七︶
て来る事に一定してゐる︵小〓伊乙氏報︶。久何勝
欒化したものかも知れぬ︵抜本久詩氏報︶。
ー﹂
︵二二︶.鈴木武松氏報。
﹁シヤウリヤウL
上伊那郡H腸村宰新山では北の代りに松が川ひら
月六日に行き松の堰を胃つて塞て彿将に供へる事
︵二三︶
l=か切登氏報。
松川餌代部。
︵二五、小井川潤次郎氏朝。
一門七Jf。
と呼んでゐるが、或ひは
れてゐて 死後三年迄は隣村実篤柑の六道原へ八
になづてゐる︵春日東‡氏轍︺。更に同順鼠宿では
︵二四
八木二二氏軸。
り花を折って来る未明に躍って古里になつてゐて、
七月十二〓の深夜直火を持ってH放棄の‡山に登
之を﹁盆栽折り﹂と謂ってゐる︵凡俗い・l・報二一四
パル∵=、.氏⋮川。
セノ七
︵二1二︶
骸と侍説
︵二六︶
ハニ八︶
舞一九吊︶。愛知賭では描く此の惧召が行はれて
んで∴北Lぱ聖拙卜津八軒†は十川り雄幸小皿硝鶴首 −■・−−−一1
へ各個しての脱法仙の端にて少し荘を凍って来る
アロJ/J
.∨
︹二九︶
沃、住払い 里ノL に関守バ。
民族 二′五 一しハ十京。
︵四七︺
伐と俸説
六ノ七
九二宵㍍
︵三こ
放と俸説一七ノ七
伴内萬詩氏報。
闘ゎ粒升比
花を供へ花のない季節には亦と自の小さな布花を
花を押して聡く事になつてゐる︵張と倖説
∵対・き択町田へ
十む小針に症−﹂Hキい⊥Tリ▲上′へ
六ノ七一二二冥。
七七︸艮︺。
旅と俸訟
十一ノ五
市七冥
二三三宮。
−
宮入京。
人一天︶。久伊豆刷津島では毎朝早く基上へ
六ノ
㌧.
︵三二︶
小林寛嗣氏報。
川、渥島艮俗誌
槻踊の堰などに結び付けたものを供へる︵本山桂
Hほて叫牌膵㍑仙〃でけ基11辻へ炭鐙車l︼川排すると
︵三三︶
小井川潤次郎氏報。
。
︵二∴ノ
︵三関︶
此の事は我が国に於ける葬制並びに基制の攣遷
︵四人︶
票数研究
円ノ四
山原の土俗
七
︵三五︶
一般の問題に開聯を有してぁる。之に関しては
︵四九︶
郷土研究
島袋淵七
四六H。
︵三六︶
﹁人類頼経誌五宵雑記余人類準論叢﹂所載の柳〓
︹五一︶
︵五〇︶
九八H。
七五正。
六ノ九
北ハi−丁隋雉
此の信仰は刷粟が天駆って此の世を訪れ光づ喬
山中共i7
一五入H。
量章講座﹂第六巻所載の拙稿﹁盆火の行事﹂を参
七ノ七一三川艮。
七五二H。
伐と塗説
間男氏の論文﹁葬制の沼革に就て﹂及び﹁彿数考
︵五二︶
︵五三︶
照せられたい。
︵五四︶
七ノ七・九四其。
四ノ四
一五三文。
︵五五︶
人知製靴誌
一一五
﹁宮代研究、民
十八ノ二省一甘十H。
事﹂を参照叶、りれ庇い。
するもので、之に関しては前出の拙稿﹁盆火の行
明が竿頭に結び骨けられる革もM一の根様に山水
俗畢仙川﹂算一巻所載の論文﹁璃籠の話﹂ に見える
・シメヤて
梓川の條を参照せられたい。仰ほ†皿蘭舟山の迎へ松
ので、之に関しては折〓信大氏の
木に大降りするといふ信仰にその根披を和するも
旅と停誼
放と傍証
二ノ十二
入H。
一六四冥。
民俗雄一ノ一四一穴。
失頭利一氏報。
︵二八︶
︵三九︶
尺俗埜 三ノ二
︵三七︶
︵凹○︶
相馬御風氏報。
風俗諜報
郷十研究
二五五流
︵四二︶
︵四一︶
へ円三︶
郷十研究
二二九京。
︵四五︶
︵四囲︶
考
民族一ノ六
花
︵四六︺
盆
gO占7
花
考
島 lノ三
は庭先に立て
二五九瓦。
︵黍閏秀倍氏報︶、岡山輝小豆島で
冊ほ鹿見島螺大島郡寵里村宇秋名でも同株精華棚
︵六四︶
︵六三︶
︵六二︶
焔と倖読
郷土研究
箪者探蒐。
七ノ七一入京。
五ノ二
片山竹之助氏報。
四九人京。
凹ノ一六五苅。
原冊武一郎氏報。
も〓株門口へ置いてゐる︵結 三三四京︶。
淡相。
小倉武氏報。
﹁︰∵.、︺
︵五七︶
︵五九︶
岡山文化資料
︵六五︶
宮川竹〓氏報。
四ノ八
︵六〇︶
︵六六︶
基地光流民軸。
民族一ノ五
∴ハ一︺ 郷土研究
︵六七︶
官七十方。
一二三H。
︵六八︶
椅ほ摘某棚に梯子をかける事は島根豚仁多郡八川
四川月。
一六
村宇坂根︵小林畑十氏徹︶、及び鳥取願気宗回郡酉
川〓
部の諦村でも行はれてゐる︵民放一ノ五
人頁︶。
址しし佃正 LJ− 八■ハ点じ
師岡 <八m。
郷土研究
一一六
入入京。
四有川十文。
六ノ十一
四ノ七
︵七ニ︶
放と博訟
石井恒雄氏軸。
︵七−ノq︶
人類拳難詰
十二ノ三ニニニ八七京。
︵七二︶
︵七五︶
ク().了?
流動性に富む唐代の輝宗典籍
−−類畑山十脊於ける南膵北宗の代表的作品1
隆
よつて表現せんとする時は如何しても理態的に組純さ
芳
印度に於て西紀前后から大乗㌍典が色々た形式で銅
れ潤系づけられる。朔くたるとそれは川定化するのは
野
賞されて来たことは今更言ふ迄もない。大乗数が清澄
必然で、再び時代の動きに従って更にその㌶数的閏験
久
期にある問は毎に之を衣現する教理は流動し、之た文
の︻見直し.再吟味が要求されるのも又自然の勢であら
ちノ0
字言語の上に表現した絆此ハは常に川入あり訂正あり加
上がある。之は仰数文革の革要た問題で、宗教的醗騒
普通≠附的の文字を以ては到底表現〓来ない特彿の醍
来ろ。蓋し聖なる境地は言語道断、心行囲滅と言はれ
代を北‖景とすろ膿験の相違にょつてその表現も典って
て製作されたといふ事葦も又この程の研究に於ての好
であつて、かの大柴絆H蔵分月臓分が巾央亜細亜に於
の数理的内容が絶えす攣化して行くことは常然の事貴
以来、その通過する土地.時代、柾倉に順應して、そ
沸教がⅢ度に起り中央部紬亜を経て支那に悼来して
験の境地であることむ特色とすろ。通常の経験とかけ
題目たるを失はたい。支那に於て惰紆の型作された事
が記録の上に表され、文字ゐ上に古き闘ぃめられると時
離れた抱封者との共立北ハ春の境地を概念的な形で批へ
茸も又詑繹の形式む以て自己の苦心見を述べ、群山ハその
一l七
ろことが不可能であると言ひながら、一方之む言語に
油朗他にハ︰⋮む▲い﹂代だ嘩宗典籍
g仇貯
流動性に富む唐代の膵宗典籍
■
ものの内容と退かに遣った内容の著作を表すことも、
この種の観鮎から常然注目すべきものであると思ふ。
しかし支那に於ては何と言ってもLT堰も興味ある研究
題目は此等償控或は訪韓の形式による新吉見で克くし
かつた。
一一入
幸に緻蛭田土の古見本章見以来相骨凪に南北両完分裂
前後の此
ハ顆
が陸
とれ
して
に盤硯
、≠大にこの方面の研
究に対してよき資料が提供されたのである。
この意味で中庸前後にその数理内容が極度に発展し
語録或は著作から新沸教精神を観取することである。
史並に古膵錯関係文献に就て﹂であり、その内容は大
吹博士の鳴沙徐問解説第二部申の﹁煤煙出土支邦苫膵
と
も英[
J館⋮
を心中
何
言て
っ大
博物
所蔵
として論じた矢
て、自己の抱懐せ一£‖心見を明瞭に記述した、全く新なろ 此等の典籍に摘七﹂最も注目すべき帯誌畢的論文は
た膵宗の此ハ籍を調薬することは興味ある一題口たるを
iE大赦控八十五巻舌逸部に収められておる。
﹁両分和相選集﹂である。
次には巴埋囲立間#舘蔵本を中心とした胡適氏の
失はない。
碑文挙が確定的に落付いたのは宋代になつてからで
あつて、中庸以前は未だ閉らす、申炉以後漸く膵惜験
北㍍榊秀門下霊崇蒜遠になる﹁輯伽師資記﹂であろ。
此等の申、史的閥係を間明した資料としては第一に
而して晩厨頃には申壁削後の滞㌫の偉折=の義妹が往々
第二には懇談、無和、無佳を圭とし、精伽帥資記を論
の記録が一種の型を作って≠に現れるやうにたつた。
租仰の名の下に≠に知られ、蓬に達摩和相の富として
駁せる無住門下の幻眞の挟と稲せムろ1﹁暦代法賛記﹂
仰
べき巴理閲読闘告析出の各櫛即断片も常時即柄北分裂 部
胡適氏によつて編纂H版せられた沖合の語録と認む
である。
相蕾多くの書物が後世に残さる1る経典となつた。
然るに支那に於ては膵完の書物は席末末代のものは
古から州営人′H道川=蕾に侍ったが、最も碓宗の析撥湖
忙甘ぇ小店の潤い諸励トナ我々は之を知ることが山水な
その筋二は北諾系む代衣的適作とも見るべき﹁太虚
酉政文に音繹されたものが、英囲印度省所蔵椒蛙出土
のである。この二本とも文案に異同なく、一本の点し
之は燥鰹木筆致では有名な三界寺道眞の筆になるも
1伽J
の一束既む知るに有力なる辛抱Ⅴとなつたことは堪貨で
紳秀の作と推定し得べきものである。之は二種ハ畠本
北㍍左右仲〓﹂と名′\\きもぃで、
叉﹁侍法貨紀井序﹂は珊法師の作で、法如、紳秀と
がある。第一βペリオ木琴一〇五八希で文字は極めて
正〃便北八木し或は
同時代の苔として粕骨別珍重すべきものである。此等は
鮮明であるが、不幸にして﹁六棟木雑木却了貪噴挺性
訪∵わ。
沈に大正赦控八十五雀宮逸部に張表された躍宗史わ重
基見劣木取貧寓語﹂迄で申耕されてゐるのであろ。
第二はペリオ本第二二七〇希で菅尾や、一針Hしてゐ
要資料であるが、常時の膵烹の教理に閲しては﹁大燕
関心粘性頓悟眞宗論﹂﹁無心諭﹂﹁宙天竺図書提連座膵帥
.墨を以て出目し、前年は解語し難い。
軌〓﹂へ之は音副準上重要と川心はれる骨何時の支那音の位
ろが薄
腎臓本に有し、現にオックスフォードのトーマス教技
然るに此塵に注目すべきは大英博物鈴鹿スタイン本
として決定的Jはものと見てよい。
ゐろ。︶ 文面秀作と考語せらる1﹁親心諭﹂等申唐時
第二五〇三春に﹁大乗無生方便門﹂たる題名聖同内容
の巻千木ぁあることである。
とは疑ひないが、各文句の異同や文責の前後ハ順序相
是は前の二本と甚しく典少、大綱は同一内容たるこ
てゐないのを知ったので、旅申参考書の不足なるに拘
一一九
之は常時未だ膵宗文学の表現法が川まらなかつた時
逮は極めて甚だしい。
流動性に曾⋮む庸代の押上小枇、籍
すべき義務あ一?﹂とを考へ、忽々のmに筆を執った。
はらす、後の訂正を覚情しながらも、一應撃界に報知
小二種の重要な↓u首相籍が未だ撃常にょつて研究され
私は巴異に滞在して図立間書館所蔵の賦鰹木を渉猟
代の膵文学が我等の眼前に旧版され、展開された。
と筆者とが北ハ同研究むして近く畿率することにたつて
■
流動性に付⋮む居代の祀宗典籍
一二〇
で極めて流動的であることを訂する。即ち宗派的に
態固
躍を王張したのは本鬼門を主としたものであつて、
まらたい時代の廃物として好適例とたるものである
こ。
の事は初粗達磨に於ては勿論南北両系の特色を兼ね
さてこれが北完の典籍としての特色を挙げれば、
具へてゐた。
しかし、如何しても目性本渾詮を重んじ、時々沸拭
なく、決して小乗教り膵定に退化したものではない。
北完と雉も達磨のこり大乗挿に終始したことは疑ひ
乗繹を首唱した塵に特色がある。
第一に静的躍定む主とし凝紺的膵む重んじてゐたこ
連座の膵は原始的な叉小乗的な止軌輔定を嫌って大
とは冒頭の文に於て﹁向前遠看。不住寓琴⋮:向後遠
茄。不住萬琴⋮:﹂の如き句によつて知られる。
﹁蘭巫時平両端身正
之は輯完の一方両で、師資記弘忍俸中にも︵大正大
蔵経、八十五彗一二八九頁C︶
座。冤放身心。誅ホ際近着一字。日石次第﹂とある
すよ
る主義に立てば勢ひ漸修主読にな少、動態描からは
り見ても一の字を遠くホ際に置いて看つ釣ろ凝融的
遠、
ざかるり勿論修行主義を守るのも文相の一方所を代
やはり仰の基調をなすことは砕かである。今この﹁大
静態膵が症几際に行はれてゐたもので、北︰バ系は
表こ
すの
る方
ものであつて、決して軽親すべきものではない。
両年里んじてゐたことは瑞賢である。
之に封しては惑龍一派殊に紳倉は斯くの如き瀞態乗膵
五井便北宗﹂にもこの苦心味の表現は表はれ、有名な
の句に近いものとしては
㍗蜂ひ凝刷膵を排斥して、、ヨとして動態膵を主眼﹁
し身た
=蛋=提樹。心如明鏡小雪時々動沸拭。英櫻惹塵瑛﹂
ことはよく人の知る川である。
受持加水骨。椚心木逃散。門前持帰掠.
苅二は拙く北宗が挿態膵を市心としてゐる以上その﹁如来如去寛刑王。心如放逸情寂照之。久米無菌粁。
巨兼に漸修的であ=、︰甲堤H∵宣㌣叫す∴ニ∵﹂は又止む
む紺ぬことである。栴いル融能い派が之た批二﹂軌怖
と動
いふ旬を揆び出すことが川氷る。
∫「れ●ご
は甲骨わょく知る研であろ。従って横川した経典享は
や納付の語録には時折雑席綬の旬む引用してゐること
憩能瀬け金剛般若た・※としたといふ分け方は賛同する
甫北棋に同じもいで訊づて、いべ.隼む描伽中心金.
剛
さて私は単著が北完醐秀派は梯伽躍を立とし、甫凍
わけにHかぬ。
般飛車心とするわけたは行かぬ。
次に﹁紀聞諭﹂と栴するものが巳異に三木ある。
ヱも一應尤もな解撫ではあるが、必すしも決に的で
たく、紳秀涯五金剛般若を重んじたことは語録に徴し
第一はペリオ本節二七三二番で、売木として最も古
く苫ほも完本ではあるが、洋紙の溌紙む以て補綴して
ても判るし、恵能派が秩伽を菟んじたことも相常例・を
挙げることが冊氷ろ。たゞ紳倉が金剛㌍むキとしたの
ある矯め椚常謹み雄くたつてゐる。
しかし、最も請い鳥本のやうである。
け北宗に封抗する許諾的のものが祀んでゐたことは事
茸であろが、その外の諸帥はそれ程でたく、殊に両沢
北宗﹂に於ては後≠の提唱の如きことを行ってゐろ。
つて、恐らく捕完荷澤沖合の弟子澄膵帥の筆になつた
梨各執一本校勘詑﹂とあり、こ”年は糾合の寂年であ
﹁大店真元十年蔵甲成伸×拾八日因州××除去澄聞
即ち緋摩耗の不思議品節大の部分を突然に托し凍って
ものと推定出来る。注目すべきは首題は﹁.入理緑門﹂
とも経歴控を重んじた形跡がある。この﹁大乗五井便
説明してゐる∪
とあり、朱書にて﹁論﹂と加へ、﹁是ネ絶侃﹂とあり、
尾題は﹁紘門諭一巻﹂とあり﹁繚門﹂を死にて﹁結翫L
而してその説明は多少古い時代の抑摩控の疏を利川
してゐることは経歴控疏︵大正八五、三七三貞∴柑名
と訂正してあることである。
一ニー
観論也﹂で終っており、之が全篇の構想から考へると
更に﹁汝欲流通於≠。零関根名。請岩牧躍。故名綻
控紺中澤抄巻上︵同五〇五頁︶の不思議‖⋮第六の詮明
の虜と比較したら類似的の句のあること生絹者は直ち
動件に冨む情代の耐十﹂仙︵
に気付くであらうとm心ふ。南完に於ても墟能の﹁輯控﹂
溌沸
ク8仇!
、
流動性に冨む席代㌘嘩景典籍
終りと見るのが至菖である。
節二はペリオ木琴一〇七四番で首題は﹁紀観諭﹂と
に年代が古い丈に車嬰である。
一︰小︼山
何とたれば是は荷繹帥倉の弟子澄膵師の筆算になる
といふ膵無があるといふことであろから、之と関係が
開く虔にょろと北京赦類焼本に﹁翫打法無名上土集﹂
あり、更に﹁菩薩心境相融云口論﹂とあろ。文字は極 ものであるからであ二る。
めて鮮明であるが﹁色不受。心不動。此付帯也﹂で中
断しておる。
からう。書き出しは﹁無心払どの﹁夫至理無言。要恨
兎に角大膿に於て紳倉或はその弟子の語録と見てよ
夢二はペリオ本筋二八八五番で首部は粉々に切断さ ありはしないかと〓心ふ。
れて土を含むことが多い。この巻千木の特色は﹁放言
絶睨論也﹂と一應第一本の如く完結するのが骨M然と思
はれるに拘はらす﹁間口。人皆作付方便。得無心生﹂ 言両軸理。大道無用焉接鹿而見形。人∵∬暇立二人共談
和して﹁.無心諭﹂は糾合の﹁鞘宗記﹂と封此せられ
からも無心論と〓時代の作と考へられる。
より﹁如来織是無我之異名。亦是轟義也﹂といふ加上 無心之論尖﹂とあるのと辛く同構想であるからこの鮎
的な問答がある。
注目すべきは﹁達摩和尚結勅諭一巻﹂−こ末尾に題し
Grub︶
.、、■−・・lノ
リ
ー一
し=
正約肌恥隼植付此∪=誉什心法亦合人≠⋮加目回
此
例へば、﹁間口。諸俳聖人詮青lI■減赤〓刑法。何意。
が川東る。
は有〝〓た人
膿この絶槻論も帥倉或はその弟子わ述作と考へること
﹁辛巳年三月六日烏記櫓法成﹂とある、即ち年代は西たる﹁頓悟無生娘砦班﹂を包含するのであるから、大
紀八六一年に苦る。法成︵ChOS
膚春櫓で﹁稔伽諭r記L﹁分門記﹂、頭迦卑昆如来像法滅
講記﹂等の著者であり頗焙彿如に於ける重要なろ人物
であ∴て=㍗か・ト別=∵芯昧いじ沃成り妊描−一﹂巨∵曾南+∴
きであるが、今の喝人‖は節一の新二七三二番の方が粟
不賃。若偲知∵切物上。或見脊或見弥。郎︸切押隠皆
gOウイ
●
煉裔笥加奇人牌放光明作柴犬譲也﹂とあるのは紳倉の
語録にも〓趣抒の旬む兄目し得る。
﹁連座逃﹂と法域畠記に止れるが一般に連煉逃とあ
る木で連座の述べたものか如何かは二入川行詮を除い
に・生きやうかとした努力が窺はれ各爪〓である。
以﹁北︰ポわ代大作﹁大兼五力便北小木﹂南描い、作品
﹁綻剛論﹂か損文む、二木或に∴木封照し∵緋介する
ことを以て眞生命としてゐたことを表示するものであ
その前後の人々の膵の諦得が、達磨の精神を襲粧する
作がそわ倍達摩述とせらる1様になるのは二伸倉或は
み抜いた結北生れたものである。耐倉前後の人々の述
に祀師の眞精油に生きやうといふ後世の膵師等が苦し
後≠の亜帥の述作が連座に恨託されたのか。それは常
不佳苗境。芸身直照。営林分明。渾塵紬看。不住萬境。
十方須宥。不住蕎境。董身近照。常妹分明。開虔執心看。
常非分明。向†近着。不住萬境。㌫身血照。骨Ⅲ冊分明。
碁身也照し常醗分明。向上遠弟。不住苦境。黍身世照。
不住萬境。姦身也照。常醗分明。納捏追弔。不作蕎境。
向前述宥。不住蕎境。∵H身尻照。常妹分明。向後遠宥。
大乗五方便北京
こととする。
る。仰が㌶として渥川になればなる程、その派の人々
賽身血照じ常鰐分明レ得什等茄。不住萬境。責身直照。
て殆んど仁じ能はぬ。然らば何故達摩述として多くの
の醗験はその創始者たる租帥の愕験と常に一致するこ
る。達膣の語録として正しいかの二人用再論の申あ
る意識が深まれば深まる程問祀への反省意撒虹渥くな
染。即〓窒H捷路。心憲史分明︶身寂則是菩提樹。閏魔
看無塵刑應。巳−即是仰∪硲裕右雫石不住湛力無速際不
宥宥無物。阿推看。畳心宥。連弟十方外。清澤無宝物。常
とを重刷するのは完撃一般の傾向である。白小一示に封す 常躯分明。坐臥等宥。不住萬境。閏着時宥。何物宥。
﹁理人﹂がこの絶軌諭では﹁入理先生﹂として主人公
雉入鹿。大盤園満。逝能軌。間。是綴是川魔。答∴机
一二三
役に取扱はれてゐることは、如何に筆者が岨加ゎ精神
流動性に・嵩む席代の膵石高典雛
ゴ朋β
流動性に富む明代の絆†典籠
一二川
螢在心某。心れ恒産鹿。
名稲見︶党在何役塵。
俳是西岡妹凡語。此地御
養生死し仰能養生死。
法界。是衆生界。限見
想生隔障不通。郎走染
是十八限兄貴知念起多
意知定法兇。是十八界。
離念則退。法界一利者。
法身︺虚蛋不生不滅∪離念亦不生不滅。虚容無相無為。
心赤身真。身春何役鹿。
意知離念釦無隔障∪即
悩魔。天魔。薙魔。死魔。思想饗縁=疋煩悩魔。身僻怠
身在忘念。理覚忘念。
是浮沈界。是俳界一
離念亦無相鯉盃。虚ハ仝不埼不滅。離念亦不増示減。虚
透身心。達本蒐︺畳妄
州。無相無一二村。即
是薙魔。外遊境界是天魔。功夫間断是死魔。不見心心
念是始覚。透身心是本
是費用。貴相即走法界
茎無心。離念亦無心。無心故等無所木混。有念卸本過︺
党∪始見是伸道。本塩
一和し
不生。不見身身不死。不兄身心粕只者理養生死。誰能
是仰醗。研一一▲‖畳者。馬
問。是絃蓮如来。答∪
身心如如。随境不漑。即是加水中等法身。依此法身説
身心離念。離念是遺。
渾法身。得人彿遣。身心離念。着力硬看清洋本畳じ待
名水堤。畳心硯起心無川棚。遠離微細念丁虻心性。性
離心心如。離身身如。
人伸道。身心酢念∴整合川里︰坊津微哩牛車・〓端正椚
瀾世名班藩腱㍉鹿名港身彿。.知六瓶麻凍不動一。兜冊水
身心離念返照。熟宥清
念相者。等虚客界。無折本過。法界一柵卸起如凍中年
ク07G
嘲腑光遜堆か馳象萄晰心膝蜜鄭温冊喝=︰
此〃便。正定釦落邪定。貪著韓味讐一乗捏禦り以得此
離方
念便
是非机捲憩。亦能正長。是川智〓。苗穂智。新木彼
念北不動し此不動徒長壊惑。カ便問惑‖いm是亜。此
自在聞肝十方。姓名化身彿。清浄無一物。姓名法身仰。
難念。色饗香味横地亦復如赴。開。離念赴液 答。離
云何光耀。‖毎夜北川。答り
兜/分明︺是板身彿。知見〓在。‖疋化身仰。。.身吊.躯。
∵異倶小倶 用︺
硯。乱闘見知是川。寂是鰐。照是用。点加/常用∪川面
而常用し則寅肌色。用面常寂。則色刷蛋\寂照照寂。
動。是意是川。是名開智恵門。鴬汝閑静恵門克。
名閃仰知見。知見郎是菩提心。不動=疋智。是基五棟木
常寂。寂而常用。即事則理。用而常寂。則理則事。寂 方便宜定則得園寂。是大況紫智川∪智恵用。先見。是
衣照囲性赴粕。照寂地相鋸性∪寂照牢小異色︶照寂色
不異蛋じ宛先展。照是巻。厨則禰倫於法界。巻則惣寮 有力度衆生。是綴‖霊水生。是複走力。答。不動走力。
動。答。八風吹不動。是夜是八風。答。利衰毀替稀磯
於毛塘。吐約分明。両用自在。問。身心既塞い誰吐離妄念是衆生。身心不動。是名度衆生。間。是液是不
椚。答。身心蛋︶無吐納。郎胤ハ無為合。伴無馬連貧相。
身心塔寺廻向。廻向背捉。許眞常欒。常封境界心無桝 苦楽。間。既達眈順。答。四違四順。衰毀横管是達。
死渾。遭遇出三界。間。幾程人間柑恵〓。答。三種入
斎。身心二法染浄。依有念無量桓沙煩悩。楳離念無量 利聾鵜禦走順り菩薩於違順心不動是俳。須銅山抱起生
恒沙功得依。
謝∪作按生得聞。二乗作殺生聞。菩薩作夜生開。答。
閲し法身有三稜義。間伐衆云何。是醗是後先使先後先関恵‖。凡夫。二種乗じ菩薩。閃。凡夫有聾無聾聾落
栗。答.身心が念是惜。両難念故。棒無量恒沙生死。
一二五
菩薩石蟹無整牽落謝常聞。間。菩薩有聾従聞無整。作
滅無量恒沙功徳。桓沙功徳楳離念仕。是依無用修行。 凡夫有登別聞無聾馨落木聞。二乗有整無聾整落謝不聞。
住持功徳不敬。楽諸功徳。充満法身。由離念故︶萬境
流動件に︺口⋮む坪代の蹄宗≠箱
郎即
浬契︺答。由栗酉軌梵語此名園寂。智慧誠意惧改名風
一二大
後生聞ノ答∪革鰐常散じ問。云何聞膿。答。不動是聞
寂︺云何番菩提。答。芋提西天梵語此名知見。知心木
沈動作に・富む桝代空蝉完典籍
閻。聞知鏡面。有色亦照。無色亦照。所以有聾亦聞。
玄功不動畿如来恵。恵自如如正如来定。玄功不動後背
此不動修行巳得。此方保証先。卸相国寂。是大捏整。
門。聞光恵。於耳楳速記相聞恵∪知六根本不動常順。
撃壁洛謝本間。不問合着膵味昭二乗捏整。菩薩開得意
即動。畏動執。不動滅六識。符貧寂捏架。所以有聾無
耳株速。許相聞感。昔研不問如今相聞心生顆善し微音
膵味堕二乗況案。答。二乗之八川得意〓。聞是恵。於
心利篤棟木智。知見自春木染六塵是得智。以北詐焉根
後得智外用自在。云何番根本後得智。答。焉先許離身
云何内相分明。云何外用白衣。答。根本智内照分明。
根本挙不動。内照分明。外用白布。先天乗眞常不動。
念執不動。穐五楳六識不行。是小乗敗懐不動表口薩知六
動。無人無末入如是示動。二乗之人。心外見不動。起
是眞不動。入任得香。若見有入亦是動。栗見無入亦是
若見石動亦是融。岩見不動亦是動。不見石動不見不動。
無牽亦開。問。一種入関得意門ニー乗人■筑波事。合着 不起。見身木琴貧相應不問断故名得不動。間。動不動。
捷遣∪造自和知証捏架性︶玄功不動塗無明刑。自動如
云何ホ動。答。不動是川。閏。誰能榊得智慧‖。答∪
得智。耳闘感心不起是根本智。関白在是後得智。最古
記後得名明後得智。眼見色心不起是根本。智見自在是
藍化巌紅。玄功不動功柑利。光明花波頭塵瑠璃光。問。 本。若不詳焉先。所有知見竹随染。明知々見白衣。於
善知識能糊得智慧〓。閃華知識語情得六根一木動。是外
薫如拙。誰走出華知識。答。懇意苑内恵︰知識∪云何是 身昔亦復如是。根本後待避々分明鹿々解睨。粒々不起
裟婆世界。鼻是香机≠界。舌姓≠露≠井。身是衆花≠
誇詐洋心心木起棋摂生。第一通。眼是光明世外。ヰ是
内善知識糊加‖恵‖。向捏整情#扶相木動。−ム何北川。
禿︰脂遭妙碁世掛川i葉蘭鼎群書常葉
・智慧。答レ知是智誠。是恵特恵成智。了識戚惑。是名
番。不働烏槻叫﹂芯何侶智拡。盤H。︼不動鰯智濾。⊥警卿悠一
紬蕗
政壊不安之刑。是名無吊心力便縛。
任不動亦是動故。送致絆云。一切世相動不動法。砦是
云何無方便縛。答。二乗之人心是方便。二乗之人格心
待園寂﹂是大捏整。是名石方便惑解。
質落謝︺常開常順。此不動植竹J以得此方便宜定。即
ム何有力便惑解。答。菩薩知一ハ根本来不動。有睾無革
生。m定心放課法無定。水洞名乾惑弛。是名無感方便縛。
人出定即聞入定。不問入定。無連木能説法。亦不能鹿衆
ホ勤番仰事。云何無方便惑縛。有方便惑解∪答。二乗之
界花北如来以東帖化罵仰︰1.”。仙上汁≠恥法明如来虹●切払
衆香焉仰〟ザq甘露匪井≠︰路如来以≠露昧一得仰≠。牡北世
光明≠界燈明如来以光明馬仲春。番輝北界香押如奔以
名石恵方便解。
此不動修行。以得此方便正定。即得園寂是大害掟。是
本。廻向阿裾多準二死三菩提。有賓客落謝。常開館順。
不和菩掟。馬諸菩薩離合嶋欲恵那見諸煩悩。而碑衆経
了貪噴振作貧。見貧不取蛋篤詑。︵P.望諾︶不貪生死。
而殖衆徳。弛向阿祷多羅三貌三芳掟。知六根本釆不動。
云何石恵方便解。答。菩薩電離諸貪欲瞳迂邪見諸煩悩
味昭二乗洞察
見諸煩悩。両殖衆穂本。有撃無郡療落謝不問。合着輯
不取蛋篤詐∪厭生死。詐取捏架。篤菩薩佐倉欲噴志邪
邪見現有軌得心。詐紺∴根不動。丁貪嘩病性ハ仝。見込
諸肌偶。而姉衆相木。食用捏棄。欲篤欲際。嘱偶像督。
避方便解。云何無力伴紳。答。馬苛礎佳食欲鴨義邦見
是名無惑方便縛。
云何有方便恵解。答。菩薩不貪捏磐。了見闘党知心不
無上せ。心慮五縛篤世界。如塩基。塩基心不動是智。
鹿≠界如虚蛋。如蓮花不着水。心清浄超於彼。稽首鰻
云何無意方便縛。答。焉諸菩薩以愛見心非巌仰土成就
和声花不着水。薄花是身。身不動北恵。卿綺渾超破 五
.
衆生。於貧無刑無作法車両自調伏。愛馬捏盤。見焉清
媒。名題於被。稽骨相。稽首是敬糟じ是順常順。常順
動。是名石恵方便解。
浄不動焉荘腿∪六損得仰土。誰相木ハ根本鋤。了合唱転
智惑。智意修行故名稽骨組土倉。常順無相理。m見本
l二七
作ホU見ホ不取貧篤謹。不膜壁死。不取捏整J是名石
流動性に冨む川代の蹄ル▲小曲︰範
gO紺
繭時≠曾拐帯背離説大乗控。数菩薩法彿囲謹念。詮此
到。凡夫二乗不能到故、二=深。外道天魔不恍壌故.︰囲。
同湖成無漏。法躯是法花絆。眞蒼戚深囲幽遠。無人能
動是聞方便門。定惑是眞葦路。に恵妙是如来秘蔵法相
開力便〓・小罵れ路。云何是方便〓県費路。答。六媒不
天人之回愛敬。所以穆之賃喩。未得に恵着分指定惑。
乱闘登仙自在︵、不被六塵之研染。和声花開敷布菊青雲。
於世叩小粋≠糊。如蓮花雉鹿於水中.不被水之所染。
一ム何妙法蓮花J定恵是妙法蓮花絆。是喩。両石最悪。
令廣.心木動=霊化厳。身心寂滅不動是仰方贋花厳控。
川般告沌羅賓結。云何俳力駅北巌絆︵﹀答。身不動是方
仙=頭。心不動是令。身不動=尤剛。身心如々不動。是名
法薄北粁∪■ム何食剛般若。答。般︵若︶是西方梵語此云
法。身不動是蓮花身∪心木動人無量兼鹿三昧。是名妙
心源故名無上尊。▲ム何巧妙法燕=化蛙。答。心木動是妙
壇上捜比一h路嘩於大坑。末得指得末謹篤謹。有如此失。
甚深微妙法我人イ巳丑ハ得。唯我和光利。十方仰亦然︺
二乗、有功有作造菩薩。無功無作是諸仰。無漏木‖ル議
薩。内外根本動是諸彿。有作無功是凡夫。有功無作是
勤外勤是凡夫。内勤外不動光二兼、外動円本鋤是菩
若鯉川山水釦能智仰。云何思求棒恩威智故名測彿智。内
云何篤五什啓開不能側仰智。答。五相客聞鴬有思求。
何。答。令利弗及幹弟ナ躍支仰新畿意菩薩及不遇匝。
生滅及思執動揺即易解易入。五位聾聞不能側仰智。云
人身石生滅故難解。黎聞之人有忠勤勤務故難入。若無
海無痛放言甚深。見聞見知超過六塵故言無量。凡夫之
能知。云何篤甚深無量。答。智乃甚深。惑則無量。智
恵甚深無量。其智恵門難解難入。一切客間辟支仰所木
心不動.爾時≠隼従三昧安砕而起。貴命利弗。諸俳智
是心正心。修行入一葦刑義。社名入無︰︰且益塵三昧。身
入無量童庖三昧。布心釦石葦。無心即無量。三是甫妹。
一二八
絆L結跡扶坐。人於無=一旦兼庖二昧U・身心不動。
れ無両得法是呵土法。増加有情得心∪慢他仁法名呵上
′伊代▼ノ品∵.︰1⊥J
.べH是大乗控。答じ神慮北大兼絆。欽苦痛加悲J法。仰
世。.櫛脛旧態じ庵庸衝檜沈潜⋮﹀髄勝こ脛卿将止畿バ叔
−∵⋮
新鮮鹿ゾ腫漆≠愈。綻此脛だ鮪蝕救坐虻衣身心弥血盟
gO7り
期得法。凡聖批ハ有小満党首故名月得。亦名上沈じ上沈
明五蔭中川。向五蔭申示。向党無理悟。向無鴬理入。
人。関根仰竹入帰修り道人。.ム何問.亦情人。答。向無
問彿知見。示仲知見。、輔彿知見。人外知見。云何泊哀
無〓他州。若有自他相帥名糖上‖。彗兄白身修道。見
記法龍三昧。悟到不思議如如解脱。
称ユ梁増徴相称隠微名相上陽中上洩無許著無線燕詑針
他不備道。是即慢他土は。不見自身傭遺。亦木見他不
云何法花三昧。答。不動智慧走法花三昧。研鶉彿法者。
情入。答。不動篤問。関北示。閉併走悟。無用修行是
修道。二相辛等。慢釦木生。従此道上得離婚上慢。故
釦非仰法。是名仰法。三世諸仰同説以不動。即非仰法。
即離村土慢。桝言我人′〓㌃八X∴八ソ物可柑故∪名指柑無
名仰遺。
即非≠人執相。仰法是名無用。仰法不軌相是小人。無粕
一
攻梓六波羅蜜。相波羅蜜西囲梵語此云布施。君自身布
琴二時運不‖心読。第四川大不思議。第五五蔭不思議。
是恵。乃至三=相並如前解。云何名木mハ議如々解粧。
慢。・1兄名上品摺波羅蜜。㍗波羅蜜此云持戒。
節穴心識木‖八議。第七塩基不思議。第八仲仕木瓜議。
施じ見化石布施。丑山慢他上江。不見∩身布施。亦木
蜜此ム忍辱、枇梨耶波羅蜜此云精進。輯波羅蜜此云輯
第九仰身木川ル議。第十解脱不思議。第二衆生不思議者。
答。不思議有十種。第一≠界不日心議。第二衆生不思議む
ハ尤。般若波羅蜜此云智恵。
凡夫二乗張‖心強議。郎是朗倒。若木思ホ議衆生。即是
見他木布施二一相平等。慢釦小生。従此施土得難増上
誹仰≠曾。唯⊥1一大阜因縁故。〓硯於世。云何一大事。
如々解睨。乃至第十亦復如是。
提波羅
答。心‖疋大身‖記事。身心川縁名一大串。云付知見。答。
。
一二九
心木M心心如。〓不議身如。身心如々。即〓■山木∬議如々
不‖心議‖⋮第山ハ。云仙焉木瓜議、答。心不忠。‖不講。
溌舶∴hむの踊・∵符
加水王宮隼埜柳城。亦名川硯於壮。仰世尊木組衆生、
し名−
政
山。
親≠
知心木不起。見身本来蛋。五蔭篤≠界。照見五蔭暴
β0〃
l三〇
法界。厳飾第一師子座。八萬四千由旬。理性適法界。
流動性に富む唐代の繹宗典籍
蘭時舎利弗是初心人。見此薫申。是作意塵。無有床坐。
厳飾第一。長者経歴詰視軸通力。静鰻加功照徳。令三
高二千師子座高髄厳飾。釆入緋摩詰童。三是三身。萬 是義理
是諸法杢作是念。是初心人迷於蛋理。且詔書薩大弟子
衆。首於何坐。諸法眈杢格付成俳。緋摩話是渾醸。舎
王等。普研未見。共宝巌博。諸菩薩是久修行人。令利
。餞照初心。云何人新馬法来耶。求床坐
利弗是初心渾
耶。思議不思議同示。我馬法来非篤床坐。夫求法者示
蘭時排煙詰語文殊帥利就師子座。文殊師利言居士。輿
弗是初心人。智恵未園。不適法界。所以不見悉包容融
簡時経歴話北澤醍
謂菩薩上人倶座電視中等。爾時維樫詰唯今利弗就師子
禽拒命。正光不m心議刑應時。不見宥姫命。不見有受相
鉢妙藩相應時。仁者遊於無量阿倍砥三昧。何等柳生有
厘。舎利弗言居士。此座高廣五=示能弁。維摩詰言。唯
三番二†柚子之座無研妨碍。於枇郡部城及閉洋掟四天
好上妙。成就帥チ之座。何等党智有妙有決定椚應軽安。
舎利弗焉須消燈王如米作祀。乃可得座。於是新発意菩
行識。不見有法檜。不見有若葉滅遣。木見有害提。不
文殊師利言居士。渾醜妙惑刑應時。東方有本蒐∪鹿是
薩及大弟子釦篤須摘燈王作祀。便得座師ナ腫。須摘是
下亦不迫蓬。枇耶離是身。閉浮提是心。身心亦不迫迂。
透。三是三轟。十是十恵。六是六識。恒河沙是煩悩。
不動。燈是明。王走心。祀是順。常順不動明王。潮時
見有取捨。不見有佐着。説法時。五首天子是五棟。於
達覚智之時。撃二毒十恵六識等諸煩悩。有≠界名須獅
経歴ヒ刷唯舎利弗誹仰菩薩有解眈。名作不可県議解脱。
衆穂備︺
朝≠外。是畳替須摘是不動用。是寛刑党知不動葦鼎。
∬休心小県心加.心鮎結縛。心得解脱。〓不議身如。
諸法申走者根。六楳一時満渾。
旺ハ仰視須輌燈王伸じ須摘是■小動∪燈是明。王=疋心.昆
身離船締。身帝都股。是名任不可風儀解脱。菩薩似顔
語文殊帥利。文殊帥利是妙惑。渾
世不動明王。今見在彼俳身。長八萬闇千両旬じ食性過
甜7β
桝無糖減散。名木相和敢。両四大†硯利諸人小異小知
是色如。同一加刑。無所増減。須摘山王本州如故。如
鞘之電照内水子中銀牌増減。心不鳳心如。須輔芥す仇
誅塵。和木仲人右往米用。署〓出講即行往来頼。告無‖心
何不異小知。答。馬有‖心講。叉相違置本塵。堤本不〓心
用地。恒河沙苑煩悩。茶巾衆生不魔不知巳之朗筏。
者。乃見須摘入芥子申。此馬耶怖革聞除其心宣。客間
申。云何唯應度者。答。以不思議鹿過思講。是名畔應鹿
後。答。須摘是色し色走身。唯應庇者乃見須摘入芥子
天。答旬 五棟五識是硯利諸天。須獅滞入。加須摘是
党知。云何是四天王。答。四大是川天王。云何例利諸
障。惑眼分明照彼此州入有妨。無円心無不忠無鼎復無椚。
宥潰促利。無想無不忠無相接無想。須楠本自暴芥子元無
生馬之七日。凡夫欒久代≠。二乗不欒久住。皆有思議
不欒久住≠而可鹿者。菩薩釦従一助以馬七日。令被衆
菩薩即演七‖以一烏一班。令被衆生焉之一班。或宥衆生
名木相如故。叉舎利弗。戎有衆生。米久任≠而叶度者。
己之朗入。云何不党不知。答。馬有望峨。若鮎⋮思議則瀧議釦無往来血。而此世界本桐如故。知六根本衆如故。
未悟。見房細入芥子申宥大小刑。革聞巳悟丁須摘芥子
於此衆生亦無所焼。又舎利弗。拙取三千大子≠界。如
故。諸龍鬼輌楳大海仕。阿修羅等不覚不知巳之囲入。
所増減。而被大海本棚如故。如研無糖波及。名木相知
性之巌。心不忠心如。四大海水惧是色如。同一如相無
読解睨 菩薩又以四大海水入一毛孔。不痩魚筆硯亀水
詰是渾醗。文殊師利是妙恵。渾愕妙悪用虹時心不起、
清浄。是諸法正性。維摩詰言。羊来。文殊帥利。経歴
眼見是欲際。鼻香。音味。身燭光欲際。心不起常無用
正性。答。心執見聞蒐知。五蔭各石白姓。是自僅識緑
分明m被此相入石何妨。忠益堅守普網明。云何諸法
無思無不忠痕相復無想。三†本日黍。衆生元無帽惑眼
本性茎無入無不入。乃見須弼入芥子中。是名佳不正可児 大海本日蛋毛孔元無陣。恵眠分明照彼此相入有何妨。
陶家輪着右掌中。郷過恒河沙世界之外。知本石県議石
是華来談不生。是意。限耳鼻音身舌等。於見開覚知心
一三l
倉噴擬。結集生死輪廻。六道是陶家輸。斎右掌中着由
流動作に富む唐代の柿余興籍
流動性に雷む席代の躍㍍理経
一三二
不起。並如々首相解脱︺畳了練意。色聾香味明法見聞 種々拝。無能無所彿頂撃U。無量無遼是三常。明慈日
覚亦如前解。於眼棟申入韮受。於色塵中三昧起。示現 月光明照。眞蛋妙有朋力症。婁化症厳棟白衣。般若清
鎖豪州日。聖知日覚月光明。花賓蓮花走庭鹿。報身堅
色作木‖ル議。諸天≠人英能知。於色艶申入韮受。於澤
眼法界主。三昧正受無陸相。五〓成就此法王。努力勲
根。.昧赴。.示現色法不忠。諸天≠人英能知。耳鼻音身
音亜如上解。於眼根中入正受。知眼於色起足心木乱。 田如金剛。枇椙遮舵是虞醗。無陸相眼透十方。普硯色
知服無生無自性了察。寂滅無所有東西捕北。地獄餓鬼身俳性利。如来如去茸相王。心如放逸伍寂照之。久木
八人し凡聖男女。有情無情∪一身多身。一法多法。並如
無据緋。受得如来智。賓心不運散。門前骨箱掠。院汚
上解。眼光無陸相。遣唯有知見。猫存光明。遍照無塵置功天。基金木目有。好客不如無。放暁従化餐。潰造
塞珠光解脱遺。無電大道現然牛。只篤修人不解行。欲 往縦横。躍横付鹿去。鹿賀法界里。法界無馬界。虚基
求仰典走力照。巨弾根透質紬研行。研研研玄玄玄妙妙妙
本。
白如。身心寂不動。妙有揮然扁。見身不不見。見心
身心惣解脱。即‖賀‖提心。若布身心相。身心木綿解脱。
無中速。佃栗今生横路微塵劫。不作出頭天。了性。大 不不見。不見身身解批。不見心心解脱︺身心惣不見。
智無分別=正大惑。大に走法身仰。大智走報身彿。大意
是化身仰。二法倶日間。一切法無共成仰木成仰。無典 解脱是日赤義。不見身心相。無去亦無来。羨然無一物。
清浄無陸相。党々相應畢売木附断。永無難斎。是無碍 菩提門白川。不動是開裕然。無念是定。見聞覚知是
有力庇仙恥隼。.ム何=霊水生。答。一切動念隼浦安想勧倒
解睨通し離念相者等虚ホ。功成徳満仲遣通。仰閻清挿 惑。典汝開智恵〓克。
無障障。感服明照〓端零。功極性■L∼l不動照。蒔︰正ハ妃惑
‖光明。花波叫摩不動色∪悪眠明照刑刑光。小県議鷺 計鹿北北米隼。.ム何踵衆生。篤無刑群相木附断基底衆
峻三賞聞。如々東成浪士杏。正性離生供贅乾。穀粒解除
生。云付足解版凝レ解放赴自在菰。L蕾鳩叛不名自
ま074
麗魂。不敵食吼腐。嵐則自准弟。著燵六阻墳。不名自 六棋む外有六輿。−中間六激三六十凡界。六棋不適六道
木。不随天腫境釦北自在。鹿ホ無遼。心亦無遮む虚ホ小生。古ハ道木生即北開閉一切諸悪趣〓。常往於被無篤
腫⋮量。心亦無策。有心即有遮。無心刷無粋h?ム何仰是。 一り■■
應病輿♯っ令得服行。無量功徳皆成就。無量俳主皆厳
安聖。▲ム何両生正道∪出現北ハ身㍊大開王。苦痛衆病。
問翫恒沙煩悩相成無漏功往聴衆。楽造本散義。
坐。此義云何。答。六株不起六道不生。六道不生是出
有。問。令利弗。大安坐者。不於三界硯身意。是焉宴
流朝性∴=⋮む情代い亘∵典雛
m聞∵切悪趣〓十八木共法。答。眼.耳鼻古身意。内有
〓二三
名園満。有戒無断配本名園満。市城無解脱知見本名踊
界染法界。答。心起是染法界。不起心追捕法界。云何 光明遍照。解睨知見。有戒無定木名園溝。有戒無意不
一朝助走無利。無相即寛刑。葦利走法身閻。云何渾法名之馬戒。定常不乱。連破無明。六株不出。名馬解脱。
不適。有心即不適。無心即避。云何法界一利。答。法界
身。解脱身。解脱知見身。減防身〓七支。不犯連日。
故名如来。云何離念。答。離念想者。等鹿賀界。無期 無妄念起精進無有律。五分法身惰詐。戒身。定身。恵
六楳惣不起事理静渾。則是如来赦。如来祓斉木瞳仙境 云付加此。法旬絆云。著起精進心是妄非精進。若人心
溝。云何篤如来義。答。意根本起理如。五根本起事如。
地。亦無上下欲剋精進便戒御意。
不起自利。五根本起利他。ムハ棟惣不起名目利利他悉園
見身心刑則木見有天地。用心之時。法性海中不見有天
六株惣不起名馬党浦∪云何百離離他悉関脇。答。苦心媒
膿。使天上去相木。答。若布身心刑則見宥天地。不
色∪心色倶畳名馬見浦。意根不起日畳。五根本起覚噂。
三界。即不於三界現身意。是虞宴坐。観照常寂了諸幻
▲ぶ何是三根義。答J白根覚他見満。臼畳畳心。党他党
身有こ義醗佳栗。離念北醗。位相修行不問断故。山不 渾。云何眞ホ妙有。答。心木起是眞ホ。見聞党知是妙
等虚室井。無所木違法界一利。如是如来平等法身。法浮。答。六根本起。畢功徳皆成就。離念無量彿黄皆厳
答。彿西方梵語此云蒐∪研一=党強心醍。離離念念刑者
β0†さ
名和合。破五蔭結集崇敬而取締食。因縁所生義。是義
馬不受故。法身不食焉成就無漏功徳故。所以乞食五蔭
次行乞食焉不定故。應行乞食蕎壊和合相故。應取捕食
識照修行。知諸法本不生是寂滅童。迦葉佳平等法。應
養。.法木本生今則鯉城是寂滅義。維座詰言迦琴軍人
苦轟。諸法畢韮無所有是蛋童、於我無我而不二是無我
尊意不生不滅。是無常家弟。五受蔭洞連木無断起。是
養。維摩詰言。唯迦栴延。無以生滅心説葦刑法。諸法
迦旛延説五董。馬無常義。苦童。容量。無我義。寂滅
二相平等。慢釦不生。飴五波羅蜜准上解智如。
戒。見他破戒。心釦生慢。不見自持戒。不見他毀戒。
見白布施。木見他慢怯。二刑平等。性別不生。見白持
養。断智東種性。見白布施。見他樫怯。則生慢心。不
定。智憲。布施義。布牙怖也。施者心木起。則是布施
菩薩六波羅空相上慢義。布施。捧戒。忍辱。精進。膵
浦。此是圃洒報身亦名五分法身。義朗一不可。
先知是川。=尤〓赤芽冤∴柿死。い分段死。二攣坊死。
定慈恵典宵緬。閏用分明。紳僻目在。心木起是醍。見川
方便門。示眞賛相。共義云何。六株不動是開方便門。
卸識悟入。展修行入関善知識相聞。悟入無篤之理。開
不動是川闘。是示領解是悟無糊惰行。是入関。是頃仲
玲々嘱詐有閑。音符鞘悟。分明記入。修行取無賃道。
阿藤定惑聖等。所以能到。開示悟入義云何。軍人耳株
法亦爾。二乗有定無索。石森無定。研不能及。菩薩摩
爾。其童幽固深遠∪無能到着。啓開二乗所不能及。妙
恵。蓮花是喩讐。如蓮花久住世間不染於世。妙法亦
一大事因縁。故〓硯於≠。妙法蓮花義云何。妙淡是定
於≠。其養云仰。答。知是因見是縁。知見清浄故。名
亦不可得。幻亦不可得。詔彿≠令惟一大事因縁故出現
界如幻化。由如塘踊木人亦如窟京子。畢克不可得。如
法由如幻。如幻不可得。云何無本。答。五経六根十八
恵。不長是定面長是惑。一則一切。管一切則一管。諸
定再来光恵。不見是定所見道悪照茎。不達是定而遠是
一三四
滅胆化滅。二兼滅々諸牛減点。=.霊場滅井化什≠=薩惑。
轟闘二乗免分段死。不発蟹易死。.俳及常勝焚分段死。
流動性に富む席代の膵完典籍
華塞。女教師利。不来朝柚木木見州雨見。苓。不非韮
gけ7/J
有増減。其養云何。答。有恩則宥恕。宥恕別布妨。石
碍日通。著書薩住道解政審。以須摘之高廣内芥子申無
郎是清淳車扱。硯紳通養云何。答。無田心口榊。大小無
能度。得恒河沙煩悩。無∬無想乃能鹿。得恒河沙煩悩。
恒河沙是煩悩。須摘是身。燈是明王。是心有思議経木
王。其養云何。答。二=空一毒。十是十恵。六‖空ハ躍。
東方庭井六恒河沙固有世界。名須摘朝。其彿批須摘燈
在。経歴経木∬議‖⋮。.
以許焉先所有知見則随染。今見聞覚知於六堪申蛾然自
開覚知白布名後得智。亦名了俗了先山詔篤根本。若木
棟木練炭。後得了俗。先以詐六棟木起名根本智。後見
吐則吐恒沙煩悩。納則納無量功徳。棟木後得云何。答。
弼輪法界。巻則れ於毛箱。巻先に。常北恵。旺納兼。
照是恵。用両党寂是定。寂而常用是恵。葺巻義。静則
諸法竹㌍小執.川面常。寂両常用。寂照付寂。寂先王。
指冤礎易死。滞川∴兼党分段毎。分投是身。嘩後有。
亦免努易死。沸及背縫発繊細朝来P煩悩滞尭不生。名
五吾長者チ是五経七賢。莞‖冗七識合成三皿一。一切琉佃
星辰無典。五行長者。誓喩繹。
河経典。天地無典。青井無典。赤白無異。日月無典。
無典。大小無典。束酉無輿。南北価夷。上下無典。山
今年等。見大床不見小床。大床則長。小床則短。長短
従本来常白寂滅刑。不可言宣。方便焉五比丘詮。限量
用心時。眞如海中亦不見有阿檜紙抽。本不動義。諸彿
迷。若不用心。則見石山河大地日月蔵敷長短期先。着
明爽々不見乱援々用鹿。悟則瑚凡碁架。不悟永劫長
離過終生法有春哀之法醍自室。所以有益不相違。見時
大是識大。有基部過。有則不蛋。ホ則不在。云何解室
に。伸子非撃闘。五大六大云何。答。五大是ハ仝犬。六
菩薩示現作魔王者故。行逼迫令行人進趣修道待無思想
軽。一票報鹿。二示現魔。糞報魔着陸造不令待人進趣。
摩王者多。是住不可思議解脱。菩薩云何。答。魔有二
妨。君無想無州心。∴州†等。則是不‖h藩。十〃≠非作
須楠本H苓。芳予尤雅陣。感服分明。兄被此用人有何
妨側瀬膵︹無膵則丑僻腺。無風無不凰。無想凍無想。
二二五
妨則有障。無想則無想。無想則無妄。無妄則無妨。無
流動件に・冨む席代?嘩㍍典籍
相打
大正大赦絶入十五令、写ロ.N00∽A
﹁大乗無年方便門、﹂一
一三六一
等細山無情物悉於申硯。.ム何一切山河大地。日月星
二七三頁b
流動什に富む岬代の躍㍍典籍
山。水流泉泌。有情無情。有想無想。非石和非無用。
略、随意比較を乞ふ。
絶勅諭︵入理線門論
善
−一ll七入貢a迄の封照は紙数の関係上省
無足二足。四足多足。惣砦無典一物。常惜別無典合蓼
羅。砦有一物骨柄則有
死。非長亦非短。解脱
﹂巻
罪一切無付人一道出生
人所行無碍遣。離塵解
薩心境相融一合論︶
是名繕親
脱道。酢塊光明遍照。
歴是間道︵?・︶
夫大道神慮幽寂不可以
唯有知見猫布。定則解
除無塵釆染。五段了致
︵心︶合。不可以言詮。
ヒ乙0
ユーノ
人′者且︵今直︶恨正二人
共談。眞貴所名入理。
第一勲章彿櫻。亦名離
念門。第二問脊索門。
弟子牧口緑門。於是入
ハ叉下欄旧。潜無有心。云仰草道り谷田。始非心甘︵悪
心。︵入理︶答H。汝不須立心。亦不須頗安可謂安夫。
︵時乃︶維〓忽起問。入理先隼〓。一ム何名心。云何安
理先生︵寂︶無言詮也。
亦名木動凸。第三軸木
mル議門。節用明諸正性
門。第五了無累門。亦名北上小五力便門 。
︵五班柏餅し
三界球道眞︵P●柏貼り0︶
即7.‘i
起︶関目。大言聖人斉常断何法。常得何法。面云空也。
口。荒馬時是。答臼。︵一︶不馬蹄是。︵於走︶緑門︵復
人〓道理不。答口。若∵︿品ハ不八=。亦不離妾想。︵叉︶関
及見︵及︶滅新木離妄想。︵又︶関口。不遇滅︵道者得
︵叉︶間口。衆生妄想云仙︵′可︶得滅。答日。若見妄想
物。答日。︵無︶心即無物。無物蜘天眞。天眞釦大道。
車両立︵心故︶。カ是︵生︶妄想也。又︶間口。無心有何
答〓。若︵一切︶衆生葦石心者加飯倒。強︵?・︶馬於無心
︵念︶釦無心。無心即尻道。問〓。一切衆隼華有心木。
曾︹念︶。答‖。石倉︵念︶即有心。宥心即確道。無骨
念何尭於心︶何生於心也。間口。宕非心髄几恕︶食玖何
口。唐木如汝所説。何以故。若一人得者。遺如不適。
耶︺焉惣共有之。馬本来・宥之。馬橋成得︵有︶之。答
道有馬一人柑︵之耶。焉衆人得︵之︶耶。馬各々得︵之︶
有今無敵不可言無道。之興我讐類可知。︵又︶間口。大
我非是無。何以故。砲非先無今有故不可言石毛。非先
有我應是転。若造有無⋮豆非有無之見。答口。道非是有
者。如械執石地毛兎狗也。︵又︶閃日。若如此者道應是
毛喩於我故。聖人無我両石遺也。但破凡夫両石我有名
汝付出説此難。叉問。無何毛喩恒也。答〓。価喩於誤り
是畢尭無令人畢何物。答‖。我詮弛毛無。不託細無。
朋。如鹿弛屯兎角也。︵又︶間口。苦虫人同聾毛嵩印旛
得者。造作非虞。叉間口。究韮云何。答冒。離一切限
無東宝甘如無典典非典也。︵又︶間口。若無異者聖名何
妄。聖無桝相加無虚妄。諭︵有虚妄者釦︶無同血ハ不同。
日。凡夫眼見耳開身覚知。聖人釦木簡。非眼見乃至意
見聞璧知。究人有身亦︵有︶見開螢知。巾有何典也。答
二王
知。何以故。過限長政。叉間口。何故維申擾詮聖人無
流廿里にけ⋮む肝代の滞※典範
立。隼、︰H。凡夫之輿望人二惧是名車遺無二。即無毒
究無所得。然得典不得有何典。答口。凡有所得釦有養虚
分別命欲。︵於是︶練門︵復起︶関目。凡夫有身亦︵有︶
宝石研断。婁有所得︵故︶。︵叉︶聞日。今言凡有朋得。
入理口。一法不断。一法不得。郎馬聖之。︵又︶関口。
若布衆人得者。遺釦有窮。若各々得者。遺釦有数。若
若木得不断典凡何典。答目。不同。何以故。一切凡
惣夫
共有者。方仲卸蛋。若木釆有者。萬行虚設。若修成
朗囲
不。答日。如是。︵叉︶閃日。若寧葵嘉︶聖人︵道本︶何
ご一人
見聞覚知者何︵也︶?答日。聖人無凡夫見開党知。非
不令︵追︶衆生念暴雨令念俳。答日。焉悉痴衆生数分念
済動他に訂む牌代の柁宗典籍
無聖境兇。非有無折箱。離分別也。︵又︶間口。凡夫貴
然。夫言草相者如是蛋無相也。︵於是︶緑門︵復︶起閃
市凡境界耶。答日。茸無妄有本釆寂滅。但虚妄計着俳生
。若布道心之士。︵念蛋求得︶釦令税身寛相。観仰亦
於朗倒。︵又︶間口。我不解。若鳥聖見非眼見。聖知非
︵菩薩︶卸本爾。了達錬我故。︵又︶関口。白布始凡初撃
心意知。答日。法鉢我見離︵難見︶。讐況∵我︶叶知。如
日。語間外道亦得五通。菩薩亦柑共被布何異也。入理
被玄光監物。如照研照非有能照之服。叉加陰陽候物答似
日。不同。何以故。被外道謂有能︵我心︶得︵者︶。
知所知非有能知之意。︵於是︶緑門︵復︶起間口。遣先発
入理未聞︵徹︶琶県如。薄知妙理。輿彼外道五通何者勝
︵也︶。答日。無取入理徹謬者。何川彼遺帝五通乎。
馬離。答H。究韮無所属。如蛋無所使。遺︵嘉着︵所︶
繋観音。即有遮有用有士有事。
蓼羅焉法川︹也︶。
以故。一切世間人。心多著州。合縁事業。恨惰乳眞。
未知然却知遇事自防亀犯。ハ丑不勝哉。答日。不然。何
又間日。云何馬道本。云何篤法川。答日ひ鹿宗毎道︵本
又。
︶関口。若得五涌恵。交焉世桝隼。交焉≠所壷。前
︵叉間口。於申離篤迭作者。答口。申貴無造作︵者︶。
贋俄牌撫脚肺姫㍑塞桓
無草木無罪。答〓。未言鋸者。竹光就情約輩非正造
︵大ノ道無榊不適。︵又ノ聞〓。持道適宜H故無人有罪。
猫衣於形器之申耶。亦赤於草木之申耶。入禦答ノ日。
法界佳日然。︵叉︶間口。不可不足衆生糞力所篤耶。答
彼緋有勝詣之通。尊慮之排。若不知葦相之理斉。皆不
日。犬受業者而鶏糞繁囲縄目閃無両。何順境海机山
。役︵魂︶於梨地之患。︵於是︶維門︵復起/間口。遺著焉
・免
委天川山地。︵叉︶関目。霊聞菩薩有意生身。岩石︵不由︶
帥通之力耶。答H。凡夫有漏之莞。聖人有無漏之菜。
彼拙勝γれ抹。由来・=疋〓粧∵﹂道。故緯■て種々詰隼身
我詮馬心景。︵叉︶陶日。鉦官爵悠荘本︵者︶。暴露
︵熱線軋れ恕鰍此者隠阻惑村尊貴酢郵一威珊瑚。答
於鐸氏。此常道食用許無︶同座不滅不生。了知幻化虚
若手潮時。不應更間療手付本。
酢。叉間日。若人醒時致酔何在.。答H。如干潮婁︵時︶。
︵又︶関口。抑葦蛋者。何馬受章。若眈受薫肌几成基地。
何馬︵有︶梨通凡擁。答日。妄︵動義政擁。眞揮故通。
H。墨色〓H譜詑不二。︵叉︶閃日。若一切法益︵者︶。
聖人無心説差別法。但破衆生白心怖望硯故。政経云。
廻六趣。︵叉︶関目。聖人宝木詮五乗有差別耶。答日。
白隋隋他故。白隋者所謂日加於遣。隋他者所謂不発輪
天幕不益︵菩︶哉。答日。至埋無益吏招二損。何以故。
化識︵者︶何焉也。答日。如奇珠非馬貧窮之研識。尻人
一三九
gけ甜
糞。帥云罪他。草木1永︶無情。.本木食道理。紺乳故町
触⋮女﹂不詳。加小論訓輿井罪。犬無我分遣甘。祀‖形
。加
不然。井惑即是道。非離惑是道。何以故。加入酔
無故。郎不論駅東非誹。︵叉︶関口。若草木久寒ハ亦︶合
︵於是︶緑門︵復起︶関目。若人不達此理︵者︶得説法化衆
平木被′枇し桝。如桝林政。叉殊執別於理科㌔窓鵬時持
非刀
軋之時。非酔然不離。碑石酢亦、イ離︶非酢郎是
遣ハ者︶。控中何故木記草木成体。乃偏記入也。答日。
日。︵叉︶間口。随其智力方便化之畳木綿耶。答日。君
非猫記人∪草本亦記。繹云。於一級壁中換合一切法生。
不。入理答日。不得。何以故。白眼未開唯︵焉︶治他
亦︵一≡切亦如也︶。一切衆生亦如也。如無二無#肌元。
達道理者。可名智力。若不達道理者。名馬無明力。何
以故。助己煩悩気力故︵作起力故︶。︵叉︶閉日。畔然如
︵於是︶緑門︵復起︶関口。如是単発貧理。︵常於仙求し。
菖於付託。入理︵答︶目。常於一切色中求。薔於自語申
答日。大言妄者不冥不知︶忽両起。不蒐忽而言基質茎
若破心減点無乗及兼者。我説馬一乗。︵於是︶縁門︵復
流動性に富む席代の畔宗典籍
宋音解蛋理︵斉葦︶不恨修道。只鶏於容不蛋。生於宥惑。
衆生卸本作造。仰山故。自然性是故。答日。一切衆起生
︶間口。何有︵有馬︶虞撃︵是︶遺人不焉他所知。不電
中餞無有一︵法︶而受薫︵者︶。︵叉︶間口。若賓貧者一切
詐。叉間日。云何常於一切色中求。常於自認中詳。理答
化人。且︵以理導運人且︶数衆生行十善五戒。安産人
t
流動性に㍍む席代の抑∴恥箱
非群惰之囲知。︵文面〓。世有名人不州立理。外硯威
一円○
有因縁得行燈不。答〓。天葎於地。陽合於陰。痢東上
︵又両〓。可無作者乎。答口。非有無作者。︵叉︶関
無分加。︵父︶問〓。何馬無分別。答日。於淡不生心。
起︶間口。串何菩薩行於非道馬通達俳道。答口。善悪
招群火。最宍粟衆蠣。此篤名相之数。︵於是︶繚門︵復
住坐臥耶。答日。但行住坐臥何須立身見耶。又関口。
妄語。︵於是︶繚門︵復起︶間口。若布不有身見云何。行
音。心同如此。彿遺亦是無事。若不如此者乃至栴彿亦
不。答日。語而攣王。言一切而無心。馨何錠翻窺知風
者。乃至白衣婦亦汚憫心。︵又︶関目。巨石因縁得妄語
儀。串精≠業︺多鳥出女囲親近者恒也。答口。如妊
瀾女
。泉樹於溝。心同如此。一切無障蹴。若生惜分別
口。可不覚知乎。答口。雉知無或血。︵又︶間口。無我
眈不能得赤心者。得思惟義理不。答日。若計石心者木
輯師静坐両翼慮。猛風乳動而無心。︵於足︶絃門復起︶
瓜惟。亦有若了無心者。設m確亦無妨。何以故。撃如
何有知。答H。知亦無自性。︵又︶開口。遺我︵有︶何
妨。答〓。知︵名︶亦不妨。只恐心中有事ぐ︵又関口。
石墨有何妨。答H。無妨釦無事。無事m何妨。︵又︶間
合遣乎。答H。一間不須封治。何以故。可避避之。不
〓。若筒石事取無事斉。云何名行非道耶。答口。其
間茸
口。若有初学遺人忽遇因錐。他欲水害。云何封治而
無≠。汝張遣他作何物。︵叉︶間目。匡有因縁得無生
輿他有我見人何別、答口。如杵和鐘其啓白然田地。何
不。答日。野火焼山。・狂風折樹。崩崖鷹獣。流水可漂
。。可忍忍之。不可忍突之。︵叉︶間口。苦衷者
避虫
任之
心同如此。︵合︶人亦伴侶指。若布狗後見生見。無申有
也。︵叉︶間日。人之哀芙申有情動。皿且同錆聖地。答
心木蒲粛。乃至蒜仙︺蟻ナ亦錆十命菜。叉問〓。匡必有
即因
有我乎。汝若弛︵死提︶心胡薗喋忍。此乃在天我
綾指輪盗木。答H。蜂探池蓮。雀衝庭栗。年波墜止。
心扮朋慣冊い欄偲泊暦〃︵鷹僻盟靂掬準恰深塵塚
情昭蘭木。畢正木作他物斬新合出所亦撃取得。葉木〓如
。一、==吊輿不同者。棋是汝多東宝相県東作。是開署無
此寮。乃至針鉾搾粟整亦繋傭痢作奴蔽笥.︵叉︶関田。恒
三相?g
人。本多轟精持戒︵不︶護威儀。不勅勘心。不化︵朗︶衆
理。無妨振出。′於北︶縁〓︵楳起︶問〓。我見有壁通
若了一切法︵即︶無我者。黎典不饗。勃興不動∪惧合道
不共魂。色不変。心不動。此何飽満渇︷鴫■沌弓扱節目。
〓。化門方便旭。間〓。諸仰方便縄付而珪。答。︶諸仰
眞葦非虚妄。問〓。云何粁寵児惟。人′言不忠椎。︵答
諸俳壇界非思惟思廃品禦叩知。閉口。俳畳妄語耶。答。
水七日思惟起乎方便。云何雨宮兼有計佼之心。答再。
一切︵諸右︵見︶。雉似騰々任運面内行無間。
馬道。云何名馬攣化。云何名馬常任。
︵於是︶縁門︵復起︶間日。我不知。云何名焉仰。云何名
生。酪々任選者仰意地。答日。欲亡一切分別心。欲滅 不生。但彼心生緑化寓有。接木無名。
間日。如此行者乃更生他小見之見。云仙︵栴︶言滅見
法界〓馬雌化。究光寂滅馬借任。閃云。云何名一切淡
耶。答口。仰滅汝見。何慮他生。讐如魚舵深淵。何慮 入理答日。党了無物∪謂之鳥俳。通彼一切。謂之道。
捕者嫌蘭。関目。著於此者釦是︵益己︶損他。何名大
開。云何名馬法。何名馬非法。︵何名馬︶非々法︵旭︶。
士。答日。汝見若木生。彼軸木生。汝今玄慮他生者。 悉是彿法。答日。非法非々法。是一切仰法。
乃是自生非他生也。
非々法。間云。此詑詐符。答口。此誰非詐。云付言許。
叉間口。内通大理。外現小儀。於法何損。答日。汝今 答日。是法名是法。非名非法。是非非閉量故。名非法
強欲要他大老子作小鬼戯。於理何益。
流動性に富む丹代空蝉完典籍
應。無心計佼。有須作算︵計︶之心。︵縁︶関口。我開如
関目。無誰何説。答口。無誰無詮。釦生玉詮。問日。
一四一
解除人。間日。此法凧名。答口。荷無有法。何況有
間口。若無方便。云付利益。答日。物釆両名。事至両 詮者郎一切衆生本来解除。答H。椅無撃縛︵者︶。何宥
照。燈撃不明。間口。作何方便。答日。華曙無方便。 計。答日。計者但語之申無語。計者亦無。間口。若此
滅。関目。如此大士。亦能化生不。答口。何布目出不 何名邪説。答口︶ 計石詮者。間口。是誰之計云何無
間口。如是見大士何能知。答H。詔者力知。行者能
●
如蘭
流動性に富む席代の縄某典籍
一円二
名、開日。若此詮者我特不解。答日。茸無解法。汝勿 也。︵間口。他眈未言。聖人玄詮其病未牽。肇治何也。
心生緑何現世。答目。夫太平之世︵年︶端革終生。間
求解。間口。云何至先覚。答。無始終。間口。可無囚 答日。︶如大霜攫動。必有川應。間口。大聖如来眈無有
典耶。答日。無本釦無末。閃日。云何説詳。答H。眞
縁滅旭。間口。吾聞聖人衰従定起。悲化群生無擬大
仰八紘州詳説。関目。彿云付知見。答日。知一切法如見
口一
。如釆眈非命姦。云何硯滅。答口。飢荒之世。五穀
切法竿。関口。何心之知。何日之見。答H無知之知。
無見之知見。問。誰詮是言。答口。如汝楯岡。関目。 通。⋮豆同瑞草生也。谷口。定謂法身。報身四大冥身是
跡。︵於是︶練門間H。云何得形影埜︵倶攣︶滅︵也︶。入
期見無有一法︵者︶。如被外道排撃隠形而未能滅影亡
縁門復間口。云何似見非正︵理︶見乎。入理答H。汝今
爾時人理先生即語緑門日
確詐。而吋封説。
︵日︶、汝何以不言。緑門各日。我不見一︵切︶法。如級
路門再思再審。寂然聖二口。於是入理︵先生︶反問弟子
云何如我肋間。答H。汝自観︵身︶閃。答亦吋知。於走
説酢。答〓。起心易滅。戒心耕。有作身易・。無身無作
答H。甚難非易。関目。眈遣﹁若木時前身是。云何名
間口。若如詮斉︵如来︶即=一礼易柑。云何言三大劫惰戒。
来。何論得似不似。
於恒沙劫。傭道極々不及。砦了者。衆生蕾身︵即︶是如
間口。衆︵生︶何時値川卜︵通路仰加篭答。若木了︵斉︶
身無慮鉢合警仝。仁物無心。被弾謂之悲也。
通∪故目無碍︵生︶也。間口。云何言悲。答日。但以化
也。分別前項應此謂化身。法無囚繁。無縁由。出産虚
︳−一い
理谷口。本無心境。汝共起生滅之見。
於是縁門長歌。菅満十方。寂然無−昔。都然大情。玄膵
間口。凡夫所以間。聖人所以詮。答口。有疑散開。鳥 珊。故知よ功棚倉.妙理珊合。木棚即眞。三畢希及。
沢故詑。問〓。吾聞聖人無間而=諒骨。何決也。︵′代ご
是有法可能耶。満足玄見地疑耶。答日。骨是封病施燕 智光及音兜凝U.無始並非㍉周故永息。始知畢週番斯。
卿克
●
皆是量起心生。歩謂多端。克巳無物。汝欲流通於世。
嘲乍∪両詔抜門口。犬至理幽碩無有文字。汝向来所間
於是入理先生身安不動臼︻繁無言。︵願︶観相四方。・町々
名誰何法。
葦無闘而皿。m湛J答而寂塞無語。不知先生向東関答
徒典夢臆面郎。高撃歌口。善哉。如先生無詮而詮。我
答。覚知色嘩=疋白心硯想。即木生故む印鑑如来絨。
生。華妾可息。知心無心吋息=正也。聞。仙名如来・赦。
名妄想。答。想念心是。閏。云何息妄想。答。知妄不
閏。何名無分別加。欠い。現縄小什。畳親木起=疋“閃。何
甜作=疋井。閃。仙名仰法り答。知心法無。即追伸法。
閉。有人飲酒食宍竹五欲。作伸法椰。答。心上不布。
時有心。久後釦慢。故〓。覧行者。不可詮覆遣也。叉
閏∪世人惰挙押遣木。答。惰道改行不可成。世人皆初
級門諭一巻一−先にて絶概論一食と訂正せり、凍害にて
云。兵怯不可擬敵。罵劣不能代歩。
寄問憬名。講岩牧躍。放言綿疲盃。
ー1大倍貞元十年歳甲戊仲×拾八日西川××瞳志拝聞梨
間。云何無相法。答。心裏研求詮無人我詮。釦暇名言。
能動性に富む居代の柿ハバ典籍
者。不日入心是也。
妄見。心細得久。後還蛮。粁云。菖米比丑。加太途塊
一川二
照客。但火箸時。主人北照。菩軽=産米生。然功徳尭
夢中無人。嬬時畢蒐無物。
間。仰誓鹿衆生油然後成仰。衆生未鹿。彿巳成体。
間。云付入遣。答。心非有無。何問入道。欲識入道 答。俳白有解。讐馴有客坐宥闊皐。主人吹火。意欲無
間日。一切衰生。如幻如夢。弟子無之。有罪不。答H。
不達人。如帥ナ途人木蓮塊。塊白息。傭道之人若木了
若見衆生。無之相加。不見衆生。是衆生郎無可整、如 心。亦復如是。更増生死。
自心妄想。知三界如幻葦蛋。始可相克。
餌憬相。見聞知畳有何名相。
閉日。人冊作付方便。得無生心。答。下中上條。能見 閏。作何行。即生死色界。答。此人不知方便。皆=背心
各執一本校勘託。P.N記山
クー)∫β
溌朝畑﹁冨む苗代〃躍∵典籠
一円凹
是本法。誓如鏡申雉有北ハ金。若木施功徳。終不可得。
閉。衆生本法.べ何。答。無彿無衆生。不見人我想。即
即説有父母研生。若木自見身。亦不得論父母。仰就衆
又閃。如来減量誼始有著薔。答自。如人若見身寛者。
是。人語有如来蔵。若木自身者。即不盆石如来臓。
関口。如来赫是衆生。云何。答日。加水癒着馬見身
用功∠甘。乃推全英。心亦如是。雉知本来常寂。若不
生見寛。即説如来蔵。衆生根本皆如来蔵。遺業但遁業
足、在前成彿。
軌察不得に也。是勧請単著。一切時庭恒向内照。物得
法
成
︵P.諾00豊
即受報誼。如来蔵者=疋不了教諭。又知如来赦是無我之
異名。亦是塞童旭。
じ斡。薪有人求道。不習此法。千劫萬劫柾功夫。従白
夜肇忍辛苦。究寛不党堕三塗。讐如来薙鱈括。不致力
達磨和樹紀概論一巻
立間丑=館にて執錐す。
一九二六年四月廿三日薬園へ向けて出発の前日、巴異観
恰
辛巳年三月六日需記
藩不能獲。定由愚智者。求心不求仰。了本心濾者釦無
徐。亦如来蘇鱈濃乳。不費其功疾成蘇。
間〓。諸俳聖人説青茸赤〓観法。何意。答日。韮約衆
生使佳此。是佳心法亦合人識知所見皆木質。若焉知一
切物上。或見青戎見井。如一切桝見皆無寛。如各人将
放光明作聖大譲也。
問い。作槻亦伽通去未来若鳥。答日。摘心静知。縦使
知亦是木茸。叉間。彿得他智如過去未来等事。亦可是
木既。答U。亦不定寛。控云。菩薩無水去。今云︵今︶
何兄過土木巫等串課仲兄油土未来。得他心如‖。是丁紀
誰。
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海外雑誌論文
一、宗教学関係論文
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パーリテクス、1協曾々長リス、デブイツブ夫人に
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二、印度闘係宗教・暫撃論文
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﹁蓮如上人石宜﹂及び﹁請阪対校五瞑御文定本﹂を
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撒きに
Berichtungen zu、、MOses und NarathustraLes亡Sun・
in
田夫野人を対象とするに於て益三雲‖口の信仰が沸教を趣
一円七
旺的問題でなく、願段数撃の関越としてゞもなく丑椚の可鵜
も
のである。斯る史的税鮎よりしても、亦その倖ヰ態度の如き
契機として完全に教則としてとゝのった醍裁を持つに至った
ては十分の牌系を持たなかつたが蓮帥に至って信長の迫宮を
仰の背次第とこのもとにあつまるに至ったが、未だ欲閉とし
数理的机純の調整に伐り内的充㌍が次第に深くたると共に信
小さいもので、未整理的であつた買宗数闊は、螢、存両仰の
親㍊聖人在世常時は未だ数囲と稲すべくあまりにも規模の
の研師道如上人の法文を集大成して撃界に造ったのである。
の長きにわたる昔話輿的にH解なる検討を総て買宗教間中輿
公けにして、その睾柚木領を明かにしたる智者は今亦た七年
SChrift f声﹁d.e Kunde de加MOrgeコーandes、缶.Band
d Muhaヨmed
S.−ff.By1.J.Meyer p.N冠.
晦外雑誌論女
劇飢澗
新 刊 紹
介
的地某として実数を蹴ると云ふ信仰者として立場よりしても
正に眞采史七百年の俸耗に最も劾績を有するは蓮如上人であ
る。此の瓢に於て蓮如上人遺文の研究は猶り虞宗史の問題の
本書に牧むる併は、上人の沿息所謂﹁御文﹂或は﹁御文章﹂
みにあらず日本価致史上の葦要な問題でなければならぬ。
一四人
討しっくして本音からH東上ってゐる。正に蓮如上人の滑息
び、慶海福輯の﹁帖外御文展本及拾遭﹂、﹁十帖御文校本﹂、﹁拾
退御文﹂、﹁蓮如上人令書﹂.﹁蓮如上人仝亀﹂等に至るまで槍
の仝貌の虞賀を示すものとしては完壁に近きものと云はねば
ならぬ。
の貝箪、書富の㍍員版十六菓、﹁正信偶託樺﹂、﹁正信侃大意﹂ 本書には臆測猟師を認めず、誌挙的思案に於てよりよく、
るは富国する所でない、たゞ日本案敦史︵乃至は彿教史、虞
る。故に本著作はそのまゝ何等かの純綿的珊諭を示さんとす
上人遺文の員賽鼎を提示しする斯に本著の主眼があるのであ
ども、その内容は殆んど存里師の六更紗そのまゝの菩富とも
宗史その他あらゆる立場から︶
このうち、﹁正信侶註柁﹂は西本願寺に眞築本二本を有すれ
﹁諸文集﹂、﹁和歌亀﹂である。
云ふべく、﹁正信侶大意﹂は眞笹本は停はらずその内容は﹁正
して厳正的確なる資料を投供するものと云はねばならぬ。
ある。この解説、索隠は本著の償偵の大牛を占むると云ふも
されたる解説は目次、索隠は重要なる部分をなしてゐるので
従って本署はその本文と同じく、或はそれ以上に巻末に附
の研究、或は数理的研究に対
信偽証程﹂を晋き下したものと解すべく、和歌集も上人の風
も上人の本領を把握すべきものとは云へぬ。本書中著者自身
過言ではない程、この佃誼は詳柵であり厳密なものであり、
格を伺ふには貴重なる今のなれども未だ、史的とも数理的と
た上人遺文の研究としては常然のことでなければならない。
本文中に引摸したる諸本については成立の事由、年時、人物
論述の方法に於ても整った形を有してゐるものである。如即ち
最も甘心したるは﹁論文集﹂と云ふべきであり、こちにはま
諸文集については、現存の六十通内外の眞輩本を中心とし
てゐるが1 これについては禿氏砧砕氏の編輯による﹁蓮如上
息蓮する内容により自己の信仰を語れるもの、孜化を主眼と
きを斥けて資料批判を行ひ、次には油息の構造について、椚
新富本、遭某所窟本、蓮能析嘉本、高田和文、堺御文、名拍
せるもの、制條む掬げるもの、附徒の行神長いましめろ等、
等につき校照し、蓮如上人員作の意に最も近きを指示し、遼
御文、彗如下附本十一一種、丘帖御丈など級∪厳密に比較封放
てたもの、酎臆にあてたものなどを分赦し、モの地文の鯉城
宛名より付従に典へたもの、外部に射してのもの、㈹人に宛
人御丈﹂、越中赤尾の行徳寺に博雅せる展輩の御文一帖、そ
して本文中に絶て詳記を施して、各文末には必ず引提の哩抹
の外各地に散在する貝笹本五四を絶て封放し、加ふるに連崇
を明紀してぉる。その外吏に帖外御文の路本曲計八十二洩及
gUJメJ
て、洋民族か〓已国有の文化なる儒遺二数並に友邦化した沸
れ文化榔東研を開明する・に問し
教に依り、焼畑たる文化を宥するに比し、井津族の回有文化
本音は、非済族と諾蝿腹と、1
ること大であり、次の和歌についても御文本文と封検したる
次の御丈‖次は諸本比封検のl日次であるがため研究澹を佃す
次いで
先づ
﹁奥丹の寺院﹂凡そ百十傑寺を遼史その他にょって詳
﹁突丹民族の興亡とその仰教文化の渾流﹂を概訟し、
が共通な一種燭特の形式を存し、嘲脱式又は純支那式の仰塔
述し、﹁奥丹の彿塔﹂を列車してその特徴を袖出し、それ、力
企、元、明各減との著しく興る特徴を諭し、且つ此の丹赦新
編峡、用紙、文字輩を考究して、宋赦及び之に依頼した麓、
に於ては、遼金塔の名の存する如く契丹固有の棚塔の形式は
一四九
gOクg
などについて感べてぁる。次に和歌にりき解改してぁるが、
目次を附し、本文中に出る人名地名寺既はすべて索陰に於て
と協力しっゝ、漢民族文化に封抗し凍ったものは沸教文化で
殆んど見るべきものなき中に、その固有文化に代り、又は之
て見られるのであるが、此れを特に契丹民族文化史上に於て
ある。となし、この節箕は眈に五胡十六閣、南北朝時代に於
照造︶
考察するのである。
引なるものが附されてゐることであ亀語彙は五十音に排列
着
とまつた拳的努作である。︵館
神 尾 式 春
とは仝く興り、契丹民族固有の文化を表現してゐる鮎を明白
沸教の弘通・興隆は必ず人を伐ち時庭を得て初めてその完
靴の基礎的準備としての彿典音義の新孝と算出石経の紺刻を
契丹備政文化史考
きを致すものである。彿欲火漸の串琳八は怖数のもつ軍適性が
述べ、﹁契丹高僧の小俸と其の数畢の傾向﹂を明かにし、﹁契
の肺造に就て、時期、塑伶、及びその内容形式、
にし.次に契丹偶数文化史上に於ける劉期的大事業たる﹁突
此の人・時・庭粕麿の事実を物語るものである。而して此の
丹大赦纏﹂
人・時・庭とは歴史的には、賛に西域、支那、満蒙に興亡せ
丹彿故文献の末流﹂
大連
る諸民族の文化を内容とするものである。従って休教文化史
鋒を通して明らかにし、丹赦の脆叔に興へた影竹を明示し、
介
の下に、先づ丹木葦疏の高麓停塞を未完
の考究に際しても、此尊氏族特有の性格・文化を無論するこ
最後に﹁企元彿故に封する突丹彿故に対する契丹彿数の寄輿﹂
新 刊 紹
の特異性も発揮せられるのである。
とは︰1爽ない。寧ろ諸民族の民族的特質の上にこそ彿致文化
溝洲文化協骨
本文附錬相保って上人遺文の祈究としては綜合的牌糸的に・ま
味より指空し風発紗改邪砂などの典嫁をあげてゐる。とまれ
して例へば﹁三信﹂については三信について遊ぶる御文を香
指摘されてゐる。なほ本著の特色の大なる一つは御文成語索
■
一五〇
こゝに著者の拍紳史理解の基礎的な立場があるやぅに思ふの
て近代神津の推移を通観してゐる鮎をも認めるものであり、
介
そのまゝ企の文化に醍承せられたこと、及び元叔と丹本体典
新 刊 紹
との関係を研究せられてゐる。
この章に於て紹介された宗教暫塑の理解は僚りに傾向的に見
え︵例へば、ライゼガングに掠って宗教哲畢の諸挙証を紹介
である。第二輩は、奇々にとつて特に興昧あろ部分であるが
することは秘めて危険だといはねばならない︶、また近代灼
従凍の支那彿致右研究に於ては、湛民族沸教文化史にのみ
たる契丹民族に民族特有の彿散文化が展開せられ、宋代価数
重瓢をおいて、他を顧みない傾向が存したが、本書は非漢族
文化と対抗し、或は交流した事実を指適して、契丹民族文化
思れはる。それは結果的に見て、神輿の優位を語るよりも、
堂
把えられねばならぬ鮎にある。仝牌として、本音に於ては、
問題の析衣よりも、現代に於ける細撃の猫自性がより別称に
といへる。たゞ昏々の期待するところは、紳塾への志向性や
り、節四茸は紳撃者としての著者の方向を親元してゐるもの
がある。節三章は恐らく、著書の最も得意とされる部分であ
むしろ著者の博識と本書の百科射手的傾向のみを示すおそれ
紳への紳撃的影響を必要以上に蹟範閏に求めてぁるやぅにも
生
︵勝又俊数︶
の展開を盟なる漢民族文化の浸潤とのみ見る従来の考へ方を
著
訂正し、以て支邦彿数史の再吟味を要請してゐる。
熊 野 義 孝
現 代 の
新
著者自身の紳埜は説かれてゐないが、吾々は本書の主潮とも
北京
本音は現代紳撃の状況を近代粕紳との聯闘に於て把握しょ
とtて生長した著者の菅偶を感ずる。しかしそれも、革なる
思はれる終末論の流れの巾に、近代配合と近代精神とを母胎
矛盾としてではなく思想的発展の奥磯としてであり、やがて
うと試みたものであつて、先づ第一章に於てシュライエルマ
完成さるべき紳撃膿系を約束するものといへよう。
ッハー以後の ﹁近代紳撃の推移﹂を見、第二葦に於ては﹁榊
〃十と宗教哲雄との交渉﹂を紳塑の側から詳細に論じ、第三章
いづれにしても、本辛が洒壁の発展とその現代的問題を叙
に於て﹁耕詔法的御輿﹂、箪何章に於て﹁現状科挙の諸問題﹂
述したものとして、最も呑ルた堺作の一つであろことに反対
身の蔀−−1畢の語られる日せ報っものである√
するものはないであらち。吾々は、本北=をけ克として評甘口
著書は、第二早の叙述は﹁妹忙デイルタイ、トレルナ、カ
を叙述してゐる。
ッ予 ンイッシュ等に仏・り虚か$い﹂ と紬ってJ㌻りルろか、吾
︵小〓伸一︶
一般これを認めろと同時に、新着がデイルタイ仙簡憩に基い
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牛、猿と共に象は印度人の坐清と秘めて密接な関係を有す
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The Dhaヨヨada.Trans︼ated
Buddha
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Essay On
に親しては侍りにもよく世人
New YOrk﹀LOndOn−−吟駕.
彿数文革に於ける ﹁法句縫﹂
部課も亦数種を数へるに至ってゐる。本書は評者が多年芳心
る動物である。印度美術に関心を持つ者は何人も之等の動物
の知る虚である。之が研究、緋課は眈に春闘に於てなされ、
の粁果、パーリ・テクスト協曾の出版によつてマックス・、、\
ゐること看過し得ない。就中象に関しては他に比類なき贅紡
が線審に彫刻に最も秀れた観察と技巧とを以て表現せられて
的作品が餞されてゐるのみならず、またその他妖、飼育或は
エラーの名謂を基礎とし、他の繍課をも参考として最も原文
鼓に蚤表せられたものである。課肴はハーグアード大準フラ
昔俸詑苓に関する特殊の古い文献の存在することをも吾人は
に忠賓に、且つ文革的にも悪を用ひたといはれ、評者の死後
ンス文革教授たりし人で、印度準或は沸教控の事門家ではな
知ってゐる。
古いものではないが、而もその信仰はアジア諸国に遍く海を
象甘をもつ幸稲の柵ガネーシヤの信仰は印度に於てあまり
いが、その怖故に闘する造詣は本譜の後に附せられた﹁彿陀
評ありし評者の観察には沸教事門家の立場を典にした一柿の
ットネパール、中央アジア、或はビルマ、シャム、印度支那、
越えてはジャヴア、。ハーリ、ボルネオの諸島に及び、又チベ
と西洋﹂なる論文に見るも明かである。文摩批評家として定
解鐸を認むべく、この論文に於て評者は現代の枇食間剋を捉
更に支邦、日本にも抹がり、印鑑数より怖故に入ってその宗
Buddhism.
へ来り、彿陀の歓談にょり解決を興へんとしてゐる。本課の
NOr旨ern
教的内容にも粍多の棋蓮を経過してゐる。
Of
一五一
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より見たる仰散文華中の傑作たる﹁法句歴﹂とその仰群は興
本書の著書は葉に、The
語草的償値は固より郁要祀する必要もないが、第三者の見地
介
味あるものといふべきであらう。︵川中於蒐爛︶
新 刊 紹
甜鋸
新 刊 紹
介
N nd ed.LOndOロー¢N∞
necess.ty
一五二
Of
Te−igiOn、GOdLesus
Of
Christこ
のつ
等の題目に従って編まれ
の蒐集品を受脱いで
Christ︸The昔u.−sOf−he spirit−→he inneニife.Li
それ等が、The
著してその手腕を認められて
想ゐ
家る
の書中より選んだ宗数に関する抜粋が集められてゐろ。
H.Getty
が、阿菩の序文に於て自ら並べてゐる如く、著者は元雑務門
の焚語草着ではなくHenry
てゐる。
pi一griヨage、TheJOurney仰end
インゲ師の親鮎から集められた抜粋に対する興味は勿論な
多数の優秀な印度美術品を析耕せる東洋美術研究家である。
美術書たるにあるであらうが、而も著者のこの旋範閑竺且る
る。それは此の挟炸をつくるに対する師の心構へを記す意味
がら、巻頭三十入貢竺且る帥の序文は誠に意義深いものであ
本書の著作も固よりその目的はガネーシヤ紳像を主題とする
宗教研究者にとつても稗益する庭決して砂からず、アシェ一
で書かれたものであるが、それは直ちに、神秘主義的な某数
刺の起源、並に停播とその信仰内容を物語る畢術的記述は、
博士の序文と相供って、その償値は大いに補すべきものがあ
行的婆素の必要と意義とを誠調しながら、然もそれを、帥骨
的傾向、個人的傾向と祀骨的傾向の対立を論じ、一両には甘
宗教に於ける隠遁的傾向と現世的傾向、否定的傾向と肯定
して見られる。
思想家としての仰の、宗教槻・キリスト教敬の端的な叙述と
Truth
LOndOn.−諾の.
and
る。︵川中於蒐輔︶
Inge﹀W●R●
FreedOm︸LOくe
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的肯定的に展開させて行く考へ方の如き、誠に傾聴すべきも
著者イング怖が、..Christian Myst⋮c蒜mこ∴↓he のP
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。又かゝる立場から、三the
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institut岬OJ=.と去って、故刷的たるものの存
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Of
より
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へ.Mys什inism
を強調しょうとする榊秘主義的な立場に立ってゐながら、
歴史的な偶然的な附加的要素を弗ひ除けて、心の奥の宍致
代まで簡明に辿ってあるのも有益である。
sOphy Of P−Otenusこ.等を著はして居り、紳相生義
な研
が究
りに
に於いて、キリスト教の歴史を、キストの時代から現
関する、最も膵れた撃着であると同時に、現代の宗教思想奴
として第一流の人物であることは、改めて云ふまでもない。
既に二十那に近いその移しい著昔群の申に、更に久一那、本
署が加へ、ぃれた評てある。
本音は aコthO−0山y︵粗野使︶ てあって、上はP−atO
下はWb.te−1eadに到るまで官十傑名の読取雛・哲拳・者思 在常教を研かにしてゐる鹿蹄、−方に偏しない塞成した琉敢
創β∂
思想家の何日が或はれる。︵樺本英夫︶
L亡ndhO︼ヨーHe打e
Of
Be−ief
Duke Un︰く.Press、−譜面
↓he PsychO−Ogy
新 刊 紹
介
に苧五いてから眈に七八咋になる郡故、背骨として、北部
調
氷る。McDO弓乳ll敦捻髄︷−メトド針封管で、廿旨か1九串 卯
る。︵岸本英夫︶
川作として、影珊される塵も多かったであらうと、想像され
の巾で試みてゐる虚であるが
本圧=は、吏に、それを一席展開させたものと考へることも山
がその者SOC困a−Psych010gy
後者の傾向をとるものである。それはl●McDO亡ga〓教授
端として分析的に行く傾向とがあるとすれば、これは明かに
て闘納的に行く傾向と、心理隼の側から、一般心理研究の一
宗改心理の研究の行きガに、︷小紋控の側から資料を整理し
導き出すことが出水るであらう。﹂と云ってゐる。
般的研究の中から容易に信仰の性質や根原に関する考へ方を
仰の問題は殆んど爛れられてゐない。併し、諸藩は、この一
くるべきものである。著芋も、﹁本書に於いて、は宗教的信
宗教の心規的研究の立場からも、極めて茨要な研究吸表と見
理の究明を基礎としなければならない。その昔昧で、本書は
る。信仰の心理の.研究は、一般的心理現象としての信念の心
︵fait︼こ即ち宗教的信女は一般的な信念の中の一っの塑であ
︵be−ief の分析が試みられてゐるのである。併し、信仰
と封書は断ってゐる。純粋な心規準の関越としての信念
ものであると考へられてはならぬ。﹂
﹁本音は、その表題からして宍放心現に関する叙述を試みた
、
ー一往
△執笹者紹介
−
山川佃Ⅵ應氏は文握博士、立正大型講師。村上俊雄氏は文部省宗
教有職託。堀一郎氏は日本文化協骨研究生。金倉血涙氏は文型
博士、丸北帝大数掟。大畠満氏は尭京帝大講師。・池上膜正氏は
昭和贋尊敬授。久野芳隆氏は九京帝大印度斬単科恍身。
△本匪の準什が大ゾ迎れたことをお詫びします。次触は既に編輯
を丁ってをりますので近日中に費行いたす換定です。
紋
研
究
印
正
嗣
園七
眞
刷
骨員希望の方は現骨
貝の紹介に金五mを
添へて準行所へ御小
込下さい。
東京市牛込匹山吹町一
原
原
東京市牛込析出吹町一
東京市芝踪芝公
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野
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加京醇同大坪文軍部研究室内
嗣稗者.小小
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昭和十二年
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六冊︵骨貝︶企鼠、00
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