再び固頓戒に つ い て

再び固頓戒に
つ
い
て
自分は、昭和三年四月費行の﹁性相﹂に﹁商都戒嶋盃﹂を革L、同五月費行の﹁宗教研究﹂に﹁倦教の蘭岐
戒を給す﹂を革L、同八月費行の﹁寧欒﹂lニ﹁倍数大師の法敵濾塘り日本件数如上に於けろ位置を湘
明†﹂皇軍し、先是、同亡く﹁寧欒﹂に﹁嬰泉和倫き日本の文化﹂一ど草L㌔之l=野して、昭和四年二月
弊行の﹁大正大半々報﹂に、二宮守人氏の﹁常盤博士の卸頓戒論を謹みて﹂が現ほれ、更にそれl=野し
常
盤
大
︵昭和七年二月十八日︶
から、更に之を諭すろにつきては、相宮中準備が無けねばならねが、今や撃年末l=際Lて、事志l=
沌l‡拍。寺門実の耽を見ろに、自分の論旨がよだ能く理解ぜられて居らねミ思ふので、此際従前の
併耽に野して補足を加へ、かねて諾凍り訣l=鍋祝・し、後日更に縞を新にぜん事を期する。
て南條の主張とその反響
再び昔戎について
領があつて、絶えずこの雨意趣と敲癒しつ1−之を行ったのであつた。即ち一は遣確の華厳斡と辟とが行表を通
自分が.南都の戒壇を論じ、借款の閻頃戒を蕊じ、而して登眞を論じ、遣確を論じた意趣には一次の南條の王
定
常堺者よりこの間成につきて、更に一文を草ぜよの指令を籍t。斯くまでに論議ぜられた後でぁる
まわ昭和七年一月の﹁宗教研究﹂lこ久野芳陣氏の﹁臥頓成瀬流論﹂が出で㌔予の胤岨戒論の拙稿が
斯くまでに内外多敬の堆老−こ注目ぜられ、論議の好度目ミ光つた事lェ、望外り光煮でぁる。昨年二
月脊綱に遭準し、可なり長日月に亘つて沓射lこ盛ざかつ吾が、寄鍋後年しく一周年を迎へ米今月、
て、同年八月の﹁宗教研究﹂に捕超慧日氏の﹁圃頓成に就与て﹂が出で、昭和五年四月にこの固成論
必然の開係わろ問題を取り扱つわ拙著﹁彿性の研究﹂が出で、昭和六年十二月り﹁山家単軸﹂に、扁
尭劇氏の﹁卸戒の正依法撃、傍俵梵綱紀にこ就て﹂、硲忠弘氏の﹁顔戎論の比蘇自然智私考﹂が出で
加β
再び刷喧癒たついて
二
して、停敦の風頃の託悟となつたもので、停敦の生命ば、この茫悟で無けねばならぬ。借款を見んには
と畢とを拓別するの要がある。その拳の方面に於ては.璧眞に承けた併.賞に多いのであるが.然し宗に至って
は道蒋に得たのであるから、この髄を明丁に認識せんでは.その本質に解れぬ事となるといふ事を力説したので
あつた。二は南都の戒は、三束の形式を有する壌伽戒であつて.その律儀戒の中に川分戒を塙し、その擁書法戒
の中に焚網戒を擁したのであつ冤同じく梵綱戒であつても、四分戒と伴ふものは、言は羞義網戒であり
に射する侍教の梵綱戒は、全く阿分戒を離れたものであるから、言はゞ不共梵網戒であつ冤南都の威を
てこそ、すべての疑問が滑りなく解け得るといふ事をカ訳したのであつた。然し常初に在っては、南都
戒伽戒であらうと気づいたが.まだ十分練れて居なんだが楚に、その叙述の中に不十分な粘もあり・言ひ足らぬ
鮎もあつたから、直に阿噴戒論を草して.意のある肝を重さんとした。前後に於て・多少の乱酔があつたら、彼
のものを以て本旨とすべきは三−一Pふまでも無い。この南意趣は.全く斬らしかつたのであらう。二宮氏の如き専
門の聾者の聞から、痛烈な反響が起った。こは、素より政則せる肝であつた。さて自分は一道痔を倍数の
するにつきて、法租とは言ふたが感に﹁天台宗租﹂といふ名将を避けたのは、理由のある串であつた。
宗﹂とで皇昆ゞ、或は綴謬が幾分避けられると思ふが、天台宗といふ語の中には・多くの倦統がある。自
倖統を多分に含む語を通して之を見たので無く、雨着の内証の方面から見たのであつた。若し停統を含む
といふ上からせば、璧眞の方に組師と仰がねばならぬ理由がより多くある。而も俸敦自身その印宗血腹
登眞を加へて無い靡からすれば、そこに三顧せねばならぬ問題がある。何は究もあれ、倍数を見るにつき
2ク∂
心は.その画境の詮悟であつて、これが彼をして血の出る揆な三一棟寛の評あらしめ、又、不共園戎の主張あら
再び減額戒ドゥいて
二宮氏の文に勤してl棋超拳士の批評があらはれた。捕粧しがたき文意を汲み取って、キビ/\しく文を行つ
に基づいて居る。
は立ち入らぬ事とする。氏は、随分輩を極めて免語を連蓉してあるが、要するに拙稿の意の存する併を了解せぬ
を開いたゞ竹でも、斬る事の言はる1筈が無い。四分・梵納の事は、この篇の中に繰り返して出るから、こ1に
は、南都に任せて置けばよい﹂といふてあるが、何の事やら一向に分らぬ。停敦の熱血の凝れる﹁顛戒鎗﹂の一兵
ても、二宮氏の論旨は﹂至って捕捉しにくい。或は﹁四分或は何とでも相通する﹂といひ、或は﹁梵網戒の事など
に聞くまでも無い。況んや遣循と璧眞の軽重論の如きは.いよく以て横道である。また第二の塊伽戒の鮎に於
異系に仰いだといふ事は、自分が障屏に言つて居るのであるからーこの事を以て租師とするの意ならば、今更氏
う。若し然らば、俸敦の内証も璧眞より承けたといふのであるか、それを明丁に承りたいのである。天台拳を翌
に謝する意見は捕捉しがたい。察するに天台宗絶としては、道蒋よりも要眞の方を重要とすべしといふにあら
を入れる事となつたが、要するに自分の時に注意した鮎に関しては、何等の理解をも有せず、随って自分の主張t
にして、遣環を天台索敵としたといふ方角蓮ひの立脚飽からしたから、頗る妙な論議となり、枝未の事に力こぶ
が悠であるといふ厭から、自分は特に天台宗といふ名稀を避けたのであつた。然るに二宮氏の批評は、璧眞を外
必ずや行表を通して道瑠に承けたもので無けねばならぬ。その敦単に、華族畢の色彩の著しく見らる1のは、之
しめたのである。この許悟を外にして、停敦を見んとする時はーその正鵠を得ぬ事となる。而してこの許倍は、
β07
\ 再び弼頑戒について
四
て居る。その他旨が通徹して居るが、今は之にも立ち入る事を避ける。新に現れた久野拳士の緻据な研究は、如
何にも掌徒に相普せるものである。その結論だけを見るに、第一の樽敦の詮悟を遣砺に求めた鮎に牌しては、﹁妥
昔である﹂と言ひ、第二の鮎に就いては、南都は解輝上磯伽中心であり、璧典は梵綱と四分待とを井設したもので
あらうと言.ってある。殆んど自分の二つの主張を承認したものである。自分は、よし如何に反射論があつても、
必ずや終局に於て賛成者があると自信して居た、今久野率土が、その細密な研究に於て.殆んど承認するまでの
域忙至った串に封して、自分は知己を得たの感がある。たゞ少し違ふ師は、癒伽戒を嬰眞にまで遡らぬ新にあ
る。率土はこ1に年代較を押入して居らぬが、南都といふのは、何時代よりの事であらうか。哲競に﹁主として
最澄渡文以前の奈良朗彿敦を考察す﹂とある以上は、少くも件数時代までを包含せしめての事であらう。若し然
らば窃眞から僅竺一世しか陥って居ない。どの時代から琉伽中心の肺癌転下したといふ事になるのであらうか。
聖典上り件数までの開に於て、南都の戒律減に大なる持回を偏せる律師ありとせば、そは、法進とか豊安とかで
あらうから、是等の人が、梵網・−四分を統一せんが娼忙、この節梓を娼したといふのであらうか、或は南都の六
統が、侍故に射して、四分律む擁護せんが弱に、この解将を施したといふのであらうか。久野氏の意は.蓋、後
者セあらう。﹁螢典の解粋が如何であつたかは、史控の徹すべきものが無い盛め不明である﹂と言つてあるのは、
皐徒として頗る無雑の意見であるが、然し物足らぬ。自分の出費粘は、璧眞が同一戒壇に於て、梵桐と四分とを井
接した肝に、疑問を起したのであつた。軍に之を便利とのみ見ては、如何であらう。況んや上に多賀塔を載せて
あるが、之をも単なる俵慮とのみ見ては鎗りに都合がよいといふ排に出費し、多少の材料を集めて、之を結論し
2α9
たのであつた。氏の結論では、失張この疑問が持される事となる。之に関しては、支那の南山以前の戒律史、特
に南山の戒律論老練席的に取り調べねばならぬが、これはかねて希望しっ1、今宿懸菓のま1に残されて居るの
である。
〓、比蘇の自然智と、邁確
硲氏の﹁斡戒論の比蘇自然智私考﹂なる論文は、比載自然智を以て、法相宗の紳叡なりと論じたもので、秩序あ
ゎ∴興味のあるものである。これは直接に園頓戒についてのものでは無いが、この比蘇自然智が∵氏の主張の如
く、果して法相宗の紳叡でありとせば.道稽と借款との相承掬係が破顔せられて、障って囲顧戒論の上に東大な
■■一
幾化を来す事となるから、之について大に研討する必要がある。氏の論定の根撼は左の二條にある。
昔今併葵詫誤之事、東レ見轟州︰不忠之詞、若嬬畠遽州牌畢失︰何況比蘇、自然智也︵﹁顕戒論﹂、中巻︶
苦言詑蘇及義現自然智宗、無レ併レ稟︵﹁法華秀句﹂巻上末︶
氏は、最俊に、﹁自然智を以て、稚封智の意味なりとするも、無師燭悟の意味なりとするも.比蘇の紳叡である事
の史的事箕に於ては、恐らくは些の動烙をも来すものでなからう﹂といふ首倍を以て蓉表したのである。立論の
閃灯些の間隙を許さぬまでに、整然たるものがあつて、奥へられたる材料よりのみ見る時は.何人も異説を唱へ
得ぬ底の好論文である。然しそれで以て、遣確を比蘇の自然智と悠した、古来の確定詮を覆へし得らる1であら
うか。之に館して、自分の見る併を述べて見る。
﹁依恐天台宗﹂は、侍敦が天台を宗とする依憑を集蝕したもので、倖敦が新京を創喝するにつきて、極めて重要
再び叫囁痕lニついて
五
20ク
再び脚相成について
なものである。その序の中に、次の文句がある。
00000000
最澄南唐之後感慧糀〓泰東康之訓廟森戒疏東面珠於海西顧■連城於海束可
000000 南庸といふのは、言ふまでもなく、道瑠の事であつて、俸敦妊この道稽に謝して−1此一宗を稟く﹂とまで渇仰し
て居るのである。束庸といふのは、これまた言ふまでもなく、潜進の事であつて、倖敦は一法遊の﹁梵綱経疏﹂
に、天台の拳を承けたと言ふのである。件数の宗と畢との院別は、斯る肝に見られねばならぬe若しこれを封等
に見て.いづれからも−天台宗を承けたといふては、綱格が立たぬ事となる。いづれも停敦の恩人であるがー然
00000
しその生命がいづれに得られたかに注目する必要がある。偉敦の道碍勧を知らしむる文献として、鰐一着に之
知って置かねばならぬ。又、同書の中に、次の文句がある。
0000
呼乎賢哉、生知者上、畢知者攻唾言有白也。不由l門戸天下可知崖察倖哉。此間在■l比蘇天居間天台可
此間在元締一の句中にある比蘇は、何人を指すのであらうか。こ1には自然智の語がないけれど・生知者上・不
出■門戸天下可誌と言って居ふのは、無師猫悟とも見らるべく−更竺歩を進めて紹封智の意味を含んで居ると
も見らるべく、横言すれば自然智の事である。﹁日本に於ては比鮮寺に在少、支那にあつては、天台山に聞い
とまでに式台山に封著せらるる比蘇は東して唯諸家の紳叡の事であらうか。若し之を唯識家の紳叡とせば、序
の中に件数が著有法相宗者、非−−僕陽之蹄依密■青龍之制経︼とまでに、唯詩家を批評した趣旨を授却する事となる。
こ1は.何としても道環の事であらねばならぬ。之を道確としてこそ、前掲の序の文句とも相應する事となる。
更に停敦作﹁天台付法線起﹂の文として、﹁博通線勉﹂の中に引許せらる1ものに・次の如き文字がある。
且伯
0000
0000000000
大箱律師、先入和国︰乃倖−画明︰利恵有情︰白塔檜統、後遊白木恋席面義↓開工彿知見り所以大安贋律、琵誠経於比蘇︰
00
東大恰統、往き梵網於庸院︰両聖用y心、弘天台義︰群生同欽一l天上甘琴
大前律師といふも、大安唐待といふも、道稽の事である。白塔侭統といふも、東大伶統といふも、法進の事であ
る。こ1にも停敦は、遣確を比蘇に閲聯せしめて居り、而して道塘・法進の二人に、両聖の最敬語を加へて居る。
二宮氏は借款の二聖といふのは、どこにあつても、聖徳太子と過海和上とを指すのであると言ふが、そんな事が
いへるものでなく、前後の文勢によつて判断せねばならぬ事の例経として、この一文は最も遠雷なものである。
00
00
猶、また﹁上鰯戒論表﹂の中の己嫌轟州道且信−−比蘇文は鞭醤兎州︰無傾庇琴の比疎も、停敦の用例から推して、
適確とするのが、穏健であると思ふ。
斯の如く種々の文献から、件数の比蘇を集め来る時は、■いつも道瑠を指す事を看取する事が招乗る。前掲の﹁顛
戒盆﹂及び﹁法華秀句﹂の比蘇も.また同じく道確であらう。黙らすば、その用例がくづれて仕舞ふ。若し単なる
此蘇は道噂で、比蘇自然智は紳叡であるといふならば、﹁依憑天台張﹂の生知者上の比蘇を何と解すべきである
か。要するに紳叔にも自然智の名があつたらうが、道痔もまた自然智として自他共に公認して居たに相克ない。
然らずんば、借款が斯くまでに道砺を出す筈が無い。斯くて事歴不明の紳叡を出して来るよりも.古来の定説の
如くに、之を道痴とする辛がすべての事例を滞りなく説明し得る。場合によつて、或は紳喀とし、或は道痔とす
る事は、如何あらうか。因に、自然智なる語は、﹁法華経﹂嘗喩品にある一切智、彿智、自然智、無師智から来た
ものであらう。嘉群は﹁義疏﹂の中に之を解して、一切智とは峯智であ少.彿智とは有智である、自然智とは是等
再び鵬額癒lこついて
七
2ノヱ
再び脚幌成について
八
二智を合せて、任蓮に容有の二墳を照す無功用智であり、無師智とは是等三智の師より得ざるをいふと言って居
る。悪思の﹁玄蟄﹂も、殆んど同様に解して居る。天台は、﹁文句﹂の中に、辟支彿の自然憲を解して、彿天人
作にあらざる自然の十二縁門より入るが蛋とし、文化より聞かざる断ともして居る。斯くして自然智には無師濁
悟の意味もあ少.また無功用智の意味もある。停敦が比蘇を自然智と言つたのは、恐らくは是等の解輝を汲想す
るものであつて、華道痔に封する大なる艶美である。讃美は、同時に信向の表白で無けねばならぬ。
三、不共梵網戒と共梵網戒
停教の晩年に於ける大活動は、梵嗣戒を戒相とする閏戒を南都戒以外に猫立せしめ、これによつて出家得度せ
しめんとするにあつた事は、今更言ふの要が無いまでに明白な事と思って居たが、大師の宗を組述する二宮氏の
如き畢者が、大師の活動は、﹁梵綱だ戒伽だといふ様な呑気な問題ではない、倖敦は梵駒を読むだけの事なら・
二 宗の人にまかせる事が出来た﹂と言はれる。斯くの如くに大師を見ては、﹁顛戒論﹂撰者の趣旨が全く没却
るから.先づ之に開して数言を加へる必要を感する。先づ試みに、﹁論﹂の開巻第一に載せられてあるー六統表に
つ0
加へた倖敬の麓躍を見ても、梵綱戒に射する停敦の悪度が、明了に見らる1では無いか。その孜数利数、良在一法
王あ語に放しては、梵網之教、利数巌制、撃重合那.寧不一法事也と言ひ、非法王敬重以伝受一の語に麓しては、心
0つつCつつ 地囲璃千彿大戒、除・闘野外、誰不宿学也と言ひ、彿自制巌、非垂薩撃の語に殺しては、五十八戒、舎那自制也、騎非一
小彿制︰況夢菩薩撃也と言ひ、入店拳壁道照道慈寺⋮天竺菩提、盾瑚翳眞等⋮穂高■敵陣如辞典議一の文を押し
OeOつ は、是等諸檜の時には、猶未だ文殊上座の制が無つたから、異議が起らなんだのであるとてー上座之制、克典鹿
2Jβ
︹C
圃三方南恕、何有夷議迦といひ.只雅趣州由便濁水、今私歩式といふを膵じては.和上︵遣避︶薄悲、一心二痕、停−−
0000
於〓真書薩園戒、授敵至信一として、園戒の相承を運べ、南都の誠に射して此式を造れるを述べては、今此上式意
乱ほ
者璃添加戒一喝封趣螢此武一と言ひ、而して南都の誠と全然流れを輿にすべきを‡張しては、天台智者、帖≒釆
0ウnC
ウOqO
旨定一一洞教師誠二算数建一二彿粟︰六度有如、戒匪何問、受法不向、威儀登園哉と言ひ、大小別巻、玉石野草受戒爽
000 添.清濁分誌と言ひ、六統の挙げたる玄筆先押の所見併閲をまで、自己に奪って、玄突飛挿、各造一⋮記伴︰大小別
ものである串を、振り返し︿論述してあるのに、氏は如何にして斯くも取り遼へて居るだらう。
再び以囁娘lニついて
九
根本的間恕に於て.既に予の‡張を見誤って㍍るからである。自分は、摘伽或は、川分と梵網とを調和せしめた
が触⋮いと‡張したと見て居るらしい。道理こそあれ、氏の給既に頗る理解しにくい節々が随所にあるのは、この
て居るが、これで見ると、氏は梵納戒と琉伽誠と一班正反射のもの、授交渉のものとし、而して予が南都に梵網戒
網戒を奉絆する串を忌避しない例として、法並等の梵約研究を挙げ、﹁南都或は瑞伽戒だけ♪断じられぬ﹂と言っ
盟に、語気を強めて打った結果、いつの問にか斯る始末になつたのではあるまいか。氏はまた南都の人々が.梵
者の中に、斯くの如き川分律胞のあるのは.何ともA‖鮎が行かぬが.之を一考するに、恐らくは温く反射せんが
何にてもあれ.庶大桐備に包臨するものである﹂といふに至っては.唯果然たるのみであるゥ大師の流一望汲む聾
・人小の別寺別拳を‡張せるに、氏が、﹁我南都彿教の四分なるものは.決して畢なる小薬経ではなくー梵網・漁伽
て、閻戒運動の圭張も方針も、悉く現はれて居る。.件数は斯くまでに熱血をこめて、樺に射して川戎を主張し−
畢、具載−.両邸と言つて居る。無い六統の上奏に加へたる筏又は膵は、その数十六に及んで居るが、その中に於
0
再び圃碩戎1こついて
一〇
以上の前置きを焉せば、こ⊥に不共梵網戒と共梵網戒との問缶に説き入る事が、頗る順序よくなる。
戒といふのは四分戒を離れたものをいひ、共梵網戒とは四分戒を件ふものを意味するのである。言ふま
く、不共は件数の主張せるもの、共は南都の梵網戒である。自分が南都の或は塊伽戒なりといふ見嘗を
は、葦にこの共焚網戒よりしたのである。共梵網戒といふのは、換言すれば滴伽戒中に統一せられた梵
ふの意である。確伽戎といふにつきて、後に一言するとして.こ1に共・不共の梵嗣誠に航する文献を見る事と
する。さて﹁梵納経﹂は、勿論樽敦大師以前より行はれ、道痔と聖典も之を顛揚したのであつた。然し
分戒と共にしたのであつた、件数の主張は.これにあらすして不共梵網誠にあつたのである。第一著にこの鮎を
明丁に膵別して置き、梵網の、名辞さへあれば、直に之を同一成してはならぬ。之を魔別せぬ併に、曳
起るのである。件数の不共梵網或は、既に前掲に於ても明白で、今更之を立証するまでもないとは思ふ
夫此十重戒、雉克体技姦但有表名三役騨其義毒以得レ弾奏停真義壷。然泰解l一風義l故、猶琴小儀表。︵﹁穎
専門家の中にさへ之を明丁砿認識せぬものもあるから、少しく之に閲する文献を尋ねる事とする。
0000000000
戒論﹂、中︶
十壷戒といふものは、梵網の十重禁戒をいふのであつて、先に小俄に共して停授した十重戒といふのは
に誰が膚したものであるか。南都の戒壇にあらすして、いづこに之を求め得べきぞ。
護命伶統跡奏にいふ、又大乗戒倖来久夫。大店高徳、此土名喝相尋嘩授至み不詣と。之に射して、係数
ふ、
2J塵
000000000
梵網之蝿維尭代体感間受へ界解■一園意所以用垂聞律儀南衰綱威儀宕同毎聞儀荷以制二念り此幽名徳.弾受一︼
大乗戒宋短大安居亦雄大発布琴不麺哀受戒︰泰置夷殊之上座東海加園之威儀り︵﹁顕戒論J、中︶
再び押収戒について
寺に一向大牢一向小雫大小粂行の三種を認め.而して一向大乗寺を以て、初修業の菩薩伶の併任−大小発行寺
不共梵網裁と共好網戒との厩別を知れば、高大乗寺と大小兼行寺との瞑別が、直に明了となる。借款は、彿
に、之を解決し得べきでは無い。
である。同じく梵網戒でありながら、いづこに斯の如きまでの差があるか。不共と共との差に之を求むるより他
梵納の聞戒で、天台の将によらざれば、成立せざるものである﹂とて、南都の梵網戒を繍准儀とまで蛇したの
梵網誠にして、此地のものが梵鯛誠にあらすといふは、何故ぞ﹂と間へるに射して、停敦は﹁自己の圭張するは
これ肘掛等が、﹁梵網或は既に早くより此地に於て弘俸せられた。停敦は、何を伴んとするぞ。倖敦の‡張のみ
非画律儀宇続伸旛、非三郷献儀室岡旨可ぬ哉。︵﹁如戒諭﹂中︶
荷茅歴帰梵網劇戒、分備歯先徳︰準引一同根ご戸和国戒圃臓園戒同郷風慧非天台輝藤村藤説包含尚徳原嶽、
非ずして、下流の授くる併、何を以てかこれ戒なる﹂と・いへるに謝して、停教は論じていふ、
又相続が﹁今新に停流すといふは.これ何等の戒にして、而も停流すべきぞ.高始の停ふる屏、何を以てか戒に
られた梵桐戒に外ならぬではないか。
ば、如何に之を解挿すべきか。共梵綱戒とは、四分戒と共に授受せらる1ものにして、予の所謂壌伽戒に統一せ
件教が、啓開律義に同ぜる梵網威儀とは、何人がいづこに行へるものであるか。南都に共梵網戒ありしと見すん
乱持
再び脚頓成−ニついて
三
を以て.久修業の菩薩宿の併任と規定し.初修業の葦薩何が二十二年の修練を経て.得業しての後ならば・憤
りに小戒を受けて、綴りに発行寺に任すを符しむとして居る併から見れば、発行寺に任するを以って・
易の事と茄したのである。然るに菩薩偲を以て任する一般のものは、漠然として発行寺に任して居る。
捕恨串とする肝であつた。是に於てか、伴教は、共菩薩戒を奉する∵預言すれば川分戒を必須とする大
にあらすして、不共菩硬誠による、横言すれば、四分戒を敗れたる一向大乗寺を建立せんとしたのであ
菩薩戒を外にして.一向大乗寺を雄正する基捷を.何起に求め得べきか。不共菩薩戒を外にして、一向大乗寺を
建立せんとするは、内容なき墨名に過ぎぬ。而して樽敦は、一向大乗寺が自己の創意にあらざるを証せ
講宗組の撰に成れる﹁大店西域記﹂中より、頼はしきまでに醸例を求めたれど、こは南都の論鋒を封ぜ
法で、梯教の一向大兼寺は、名は印度のに等しいけれど、その内容を異にするのである。停教は速く之
求めたるのみならす、また近く円本にもその例む求めて、行基芋薩の囲十九院を以て之に擬し、而も是
以後川分戎を受くる串によつて、今や一向大乗の寺に非るを論じて居る。行基菩薩の川十九院が、一向
るは、東大寺操律師の論に依れるものであるから、この一例のみでも、日己の主張に射して、有力なる
る。棟数蛙、葦磋桁にして、聾周の別解脱を受けたるものをー比丘菩薩と呼んで揺る。比丘菩薩とは、
戒に川分戒を東ぬるもので無けねばならぬ。比丘菩薩の任する等を、大小乗わ寺といふ。件数は斯の如
て、小律儀に同する半鐘と、同ぜぎる菩薩とを陥別した。小律儀に同ぜる菩薩とは一党伽誠によれるも
して何ぞやである。
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四、梵網戒観の攣蓮と停教
件数が不同小律儀の菩薩を高潮せる根按としての経典に、賢に︻法華経﹂であつた。論じていふ﹁寺房を共にせ
︵︵︵
ざるの制は、分明に彿経に載す。何を以てか法華の制に順ぜすして、更に野間の小律儀を聾す一〇や﹂と。﹁法華の
︶
制﹂といふは、﹁掛戒論﹂に、商店の注経を引証せる中に見らるる。貪藩小粟三蔵垂者、不−興共任一とあるのが、そ
︶
︶ れである。南庸の托経に、﹁菩薩たるもの、啓開戒の律儀を聾するを得るか﹂の問題に謝して、一﹁法華耗﹂による大
ヽt■′′
小相隔、二﹁維摩経﹂による以大斥小、三調伏括受小乗、川﹁法華﹂﹁浬葬﹂南経による開小人大の叩鶉を以て、之
を料簡せる中よ少、席数は初二義を取りて、﹁天台法華宗は、二経の意によつて、十二年間相隔って燈せしむ﹂と
言つて居る。南府道ギには四義の料簡があつたが、停教はその中より痔に相隔の義を取り、以て﹁法華経﹂に立っ
て小律儀を交へざらんを主張したのである。停教のこの主張は、その思想的根城を、常時の大陸彿教に窺うて屠
るのである。これは電大なる問題であるから、他日詳論する磁曾があらうが、これには梵網戒戟の襲遥といふ問
題もあり、大小雨戒の交渉といふ問題もあり、之を分析し行く時は、頗る面倒な事となるが.唯その一般を叙す
る事とする.
再び蹴頓戒について
あり、陳の智文は十詞律の畢着で、﹁菩薩戒疏﹂両巻の著があり▼、陥の道成は空た十詞律の壌着で、菩薩戒を講じ
戒に変ったのを見る。而して又支那の聾者の中にあつては、賛の等光は.四分律の聾者で、﹁大乗律義尊﹂の著が
伽﹂の三種戒中、兢書法の中に.またこの十藍が臨められてある。この中に、梵網戒の取扱が、律儀戒より善法
梵納戒は、経典の上にあつては、﹁項洛﹂の三受門中、律儀戒の中に十重として琉められ、﹁地持﹂・﹁苦戒﹂・﹁塊
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再び脚岨成について
一四
た。是等の大乗律や、菩薩戚は、何乍あるか分らぬ。臓の浮影は﹁地持﹂の三栄戒のみを菩薩戒として、梵嗣戒
は放き入らず、而して小魂法中には畢灯律依のみ、他の二米滋しと言つて居る。以てその戒律観が、三莱戒を大
乗とし、律儀戒を小乗とするを知るべきである。これには大小の区別が見られるが、而も大乗戎なるものは、﹁
持﹂の三栄戒に外ならなんだ。隋の天台は.﹁梵経戒疏﹂の中に≡来戒は地特に出るもので三蔵に通ぜすとし、而
して地持戒を別園二敦の戒たらしめて居る。.これ﹁地持﹂が﹁漁伽﹂の別讃なる事が.まだ分明ならざる時代である
から、﹁地持﹂と﹁理洛﹂.﹁梵網﹂との間に、浅沈の分別をせなんだのである。またその﹁玄義﹂の中にはー一腰は戒
の鹿妙を区別して居るが、三乗に別衆なしの尭堤より、戒通菩薩と別国書薩とを握別するは、待免の上の併談の
み、もし免を関して妙を顕はす時は、鹿妙の隔てがなく、三師五戒十善土百五十、皆これ摩討街である。之を紀
勢妙戒と名付くと言って居る。天台が.一方には均持戒を別囲背薩のものとし、他方には、一切の小戒を大戒とせ
るは、いづれも開合思想・閲敵思想の上から禿たものやある。又その中に、梵網につきて、他がこれを菩醗戒と
いへるを引いて、別に菩薩衆なしの立場より■、戒の上に相異のあるぺからざるをいへるは、大いに注意すべき
る。天台のこの梵網戒鶴・大小二戒交渉我が.樽敦の大小柏隔と輯化せるは、何といふ重大な醍化であるか。軽
軽に天台宗の相乗左口にすべからざるは、この一片鱗を見たゞけでも、肯背せらる’併であらう。
この重大なる特化につきては、横転拳士が嘗て綾香に研究した。その結論だけをいへば、店の賢付は新興唯識
拳に刺乾せられて、三外一乗の高唱によつて、之を超越した。この不共一乗の思想は−やがて戒律親の上にも反
映せねばならぬ。即ちその﹁梵網戒疏﹂は.この不共一乗の思想によりて解輝せられたものである。臍の剃渓は、
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四敦に各三末戒あ少と言ひ、梵網戒を以て別囲不共の菩薩戒なりとした。この時代は:−地持﹂や﹁善戒﹂が、﹁線
伽﹂の別本なる事の明了となつた障で、その三未申の律義に七衆を含む折から.この共律儀を以て三東共通の菩薩
再び潮境浪lこついて
動が出凍やう。こ1で≡一棟蜜の開放、特に彿性問題を出さねばならぬのであるが、そは﹁併任の研究﹂に委越し
ある。知と行とを別々の範疇に置く概念的の見方である.知日と行足との合一するに非んば.いかでかの彼大活
立超勤と同時に起った.かの三一棟箕の論争が、この運動に関係なしなどいふ妊、停教整一重人格に見るもので
られた論評に見らる1︼乗の思想である。更に刻賓すれば、一乗思想の背後に横はる国境の詮悟である。園戒濁
るものゝ大牢が、他に奪はれし痛感もあつたらう。然しその中軸をなすものは、何としても徳一との間に交摸せ
として.必ずや閏清寺に於てすら、具或を受けねば大戒を受け得ぬにつきての痛感もあつたらう、叡山にて痩せ
併に、樺敦の彿敦史上に於ける重大性があり.日本沸教の誇りがある。倦敦をしてこの大勝を敢行せしめた横扱
に於て啓開の具足戒を受け、遺遮和何の肝に大乗菩薩戒を受けた事によつて知られる。これを貨行にまで移した
察せらる1。さはれ、賓肯にあれ、荊瑛忙あれ、明瞭にあれ、そは思想としてに止まつた事は、義眞が囲清寺
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停敦の不共梵網戒なるものは、一カは遺循を通せる撃取拳より兼少、他方は明瞭剃漠の梵納戒蹴より衆たもの
扱には、経典の上に於て、人師の上に於て、以上の如き華北があつたのである。
至って風教濁特の梵網内容の三乗戒が成立したものである。これ賓に不共梵綱戒で無けねばならぬ。梵綱戒の取
敦菩薩は頓具なりといふ域にまで達し、逸に三乗戒中の琉律儀戒を以て、梵綱の五十八戒とするに至った。是に
戎とし、これによつて、小乗にも三乗戒ありと言つたのである。その後を承けた明嫉は、別教書薩は漸具で、園
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再び脚頓戒について
て居るから、こ1には之に立ち入らず﹂唯園戒問題と表裏して居る事をいふに止むる。
徳一の名がこ1に出たから、言を添へる。自分は﹁併任の研究﹂の中に於lし、1囲界章﹂の中に曾津煤の佐和上
といへるを引証し、又、﹁団界草﹂が弘仁九年の探なるをいうてあるから−此年には徳一の曾津にあるのが首然な
るに閲はらす、同畠の中に、倖教の寂後二年にして東国に諭せられたと言つたのは、明
歳の高齢の徳一が、件数の入寂時.洛南都ぬ鹿存したといふ二行は、茸は革芸問に追加したものである。この
時、自意日華下着常陸囲、年七十六、云云の文の伊澤に於て−不園・窓口寺が南都にあるものと思惟した折か
ら、この誤算を伸したのであつた。其後之に気ヴきて.時機を待ちつ1ある間に、伏見邦英侯の骨津行の記事を
関して、意日寺が曾津に現存するを知り、望外の快を感じー早速侯にその喜びと誤りと
﹁山家拳報﹂の中に載せられた盤入氏の綿衝なる徳一考に謝してーその畢者的磨度に敬
言せられてあるが、前掲の通す.既に自ら気づきつ、1あつた事を、この横倉にーこ1打二言する。事の序を以
て、猶、道喀行衆との園係につきても、誤りを襲うて居た事を、こ1に追加する。1元亨梓書﹂にも、1本朝高僧
停1にも共に誤って居る併のもので、恐らくは多く之に迷はさる1だらうと思ふ。そは行表が七十三衰の時にー
自分より年下の道瘡に重ねて戒法を受けた時に、道蒋は大に感じて、如来蹄を授けたと
る痛快膏のであるが、琴延膵十三年の居室帳の文を誤読したが偏に、斯る誰が起ったも
燈大法師位行表、年七十三、臓五十二﹄、﹃以天平十五年三月二十九日、於興病寺北倉
らぬものであつた。率戯之に射する時は、受戒時の行表の年が七十三となるが、之を引
2即
讃み行く時は、和上延暦十六年、春秋七十有飴.道化於大安寺西唐院とある.ので、七十三といふのは、娃暦十三
年の年齢なのである。これより推算する時は、行表は天平十五年、二十二歳にして受戒し、其後十七年を経て、
三十九歳の時に、その師道喀が入寂した事となるを知り得るのである。﹁本朝高伶條﹂の如きは、同じ誤りを倖へ
て.百聞十歳入寂として居る。不問した事から、大なる誤りが起るものである。といへばとて、敢て自分の失を
梓護するのでは無い。他より指摘せらる上刑忙、自ら之を訂正して置かんが馬に外ならぬ。
五、間戒と場数ゐ精鋼
大小相編の凧戒の根撼を﹁法華経﹂に求めた偉敦は、同じく﹁顛戒論﹂の中に、大乗の受戒作法は﹁軌曹貿経﹂に上
って㍉輝迦牟旭彿を和上とし.文殊師利及び常魔の粥勤を阿常梨とし、十方の諸彿を以て証明者とすべきを論じ
て居少.﹁天台法華宗年分庭番回小向大式﹂の中にも、大乗の受戒は、﹁叡智餐経﹂に依って、三師澄等を講ふぺき
を叙して居る。椒捷を﹁法撃経﹂に求めた不共梵網戒に、園義を輿へたのは、天台の揮で.而して叉その受戒作法
雪戟曹資経﹂に求めた以上は、﹁戒相﹂を梵粥に取ったまでで、そ
といふぺきであらう。作法を求めた﹁甘聖経﹂の中に自誓法があ少、又信カによる五分法身成就の文がある。﹁法華
経を信すること、彼が如くなる借款が、この信力成就の文に着眼せぬ筈が無い。自分は停教の園戒に.借入の意
に於て、﹁法華﹂の汝等併行、是菩薩道の文と、﹁最膠王経﹂の欲求阿縛菩提、雷行啓聞燭螢之
.
義ありしを信ぜんとするものである。
倦敦は﹁斯戒論﹂
道の文とを封立して、前者を頓悟の苔欝とし、後者を漸悟の菩薩行とし、而して、古来の度者毎年十人なる
再び閻囁戒lこついて
2クJ
再び脚峨戒lこついて
一入
に.先帝が南口を新加せるは.専ら画境の戎定慧を博授せんが鰯なるむ論じて居る。而して又囲戒の如何なるも
のなるかを論じて.﹁大集月蔵経﹂を引許して.第一義六度、坐臥山林中い一切起急時、悉令画清一也と徹底し.更に
﹁諸法無行軽﹂を引託して.菩薩比丘の草根と、比丘法師にして菩薩行を行ぜる膠意とを封宜して、園戒の箕相を
示さんとて、長々しく経文を引証し.以て自証に代へて居る。聖教量に訴へた論法忙、無限の力がこもる。菩薩
比丘といふのは、不共梵桐誠にょれる人であ牛菩薩行の比丘法師といふのは・共梵網戒によれる人である事は
云ふまでもない。件数はょつて以つて菩薩比丘書取を以て自ら任じ.南都の相続等を以て、比丘法師勝意に擬し
たのである。寄根法彿は、質直端正にして√威儀を遠せざれども、世法を捨てず・少欲知足を稀讃せずして・
に敦ふるに.たゞ諸法案相を以てし.三寺の牲はこれ諸法の性なりといひ、能くその教化の目的を達した。然る
些膠意比丘は.禁戒を護持して.十二頭陀を行じ.居士子の前に於て、寄根法師の過失を詮いた。これ勝意比丘
が人音撃法門を率せざるが楚に.彿の青草を聞きては乱び、外道の音響を聞きては喋るによつたのであるq書根
如是三事中有無畳彿適
若有人分別
食欲嗅念靡
是人去彿道
管如天奥地
菩薩は、この比丘の必ず降職の罪業を起すべきを念ひ、偏に探法を説かんとて、衆伶の前に於て・
食欲是捏繋 患擬亦如是
を初とする長偽を説いた。即時に地裂けて.膠意比丘は.大地獄に堕したといふのが・この﹁無行軽﹂の詮であ
る。借款は簡単に結語としていふ。
明知叡山被読者惑去兼併抱、何不迦白菜吏恨▲地縁来︰顧得一今身償栄ぇ恵道東也
﹁今南都に誹誘せらる1は、宿業の然らしむる靡.他を恨むべきで無い.此宿業を今身に償ひ、以て悪道に入るな
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からん﹂といふのである。之を反面上りいふ時は.南都の付統等が.菩薩法師の過を説くは一入音琴法門を拳せ
再び圃頃戒豆ついて
ので.此中には借款の筆がある、大に後世の加筆があらうとも.その骨膀を焉す園戒救に於て、借款の異能に解
らるゝに於てをやである。少くとも自分は、串者の僑撰といふものを通して、停教の面目に接した
訣﹂や﹁戒鰹﹂にも、俸教の本地の風光が存する事を信するものである。況んや主要な綱紡が、そ
らう。﹁華厳経﹂が.樺告の菩梶を開放せるもの、塵挙が天台の彿敦を穎揚せるものなるを倍ずる自分は・1秘
髄をつかむを忘れ.その将帥に爛れる事を忘れたなら、輝隼の沸教−天台の沸教の如きは、どんなものになるだ
ば、直に償値が無いかに思惟せしむる文献畢風に満足するを得ぬが感である。単に文献拳にのみ走
して、之に加ふるものが無いといふ斯から、可なゎに細心の注意を彿ひつ\立論したのであつた。償蹟といへ
間に議静のある事を随所に言及しつ1.而もあの活動ならしめた椒砥としての・本地の風光を伺はしむるものと
剛戒鰹﹂﹁一心戒文L﹁臓揚大戒論﹂﹁普通廣帝﹂等を第二資料とし、中に於て、﹁秘訣﹂と1戒鰹﹂とには一挙者の
本地の風光を説かんが悠に.﹁顛戒論﹂﹁畢生式﹂﹁畢生式問答﹂等を第一質料とし、﹁一心金剛戚鰹秘訣﹂﹁一心金
於て、﹁一心金刷戒際秘訣﹂と共沌の歩調を有する。自分は、風戎の箕相を説かんが悠に、一歩を
を諭するもの.悉く之を引証せぬは無い。諸法箕相上り進んで.三等郎悌道と徹せる倍数の園或は、その骨髄に
この﹁諸法漉行経﹂は、賢者が項数と判ぜるもので、序数は之を探って漸戒の箕相を説くの質料とし−後の囲戒
く経文によつて立論し、碗曲の輩を以って相続等の心に迫って居る併に、停教の熱血が・最高潮に
ざるが食で、やがて膠意比丘の併席にならふもの、必ず障碍の罪業を起して大地獄に堕すべしとい
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再び圃頃娘について
二〇
れて居るに相達ないと信する新に於て、今も猶煙りが無い。この意趣を全く泥却して、無條件に樽教の眞撰とし
たといふ、二宮氏の筆は、他を誕ふるものである。藤田老師は、﹁畢生武関答﹂は、後世の撰であるが、法華戒
立てる哲日に於ては、停教の意を得て居るといはれる。聾者として穏健の難度である。﹁秘訣﹂や﹁戒鰹﹂につ
も、董∵同様な事が言はれはしまいか。
三毒郎彿遣の嘗相戦に立つ凰戒は、不捨世法の眞俗一貫に徹底せすんば止まぬ運命を有する。但l不捨世法な
どいふ事は、容易に言はるべきで無い。件数が之について、先決問題として、布山十二年の久修業を必須として
居る事を忘れてはならぬ。而も在山十二年、得業の後に、綴りに小戒を受けて、初めて大小兼行寺に偶りに任す
る事を認めたのである。l一宮氏が件数の一乗は、眞俗一貫を目標としたといふに就きては、誰も異存はあるま
い。然しこの一乗は、支那彿敦史の三一躍賢の寧など1捜交渉のものである。その一向大乗といふは、梵嗣戒や
塊伽戒などの撃とは没交渉.のものであるといふのは、合鮎のゆかぬ事である。眞俗一貫は、大乗菩薩の常道で無
いか。﹁雑陛﹂を見ても、﹁膵ぎを見ても、菩薩大乗の終局は、常に之を目標として居る。中にはー彿魔一如を
も祝いて居る経典があるでは無いか。﹁梵網だ輸伽だといふ撲な呑気な悶挺ではない﹂と強調した意地の那遽に
るかを、自分は興味を以てながめたが、﹁山家畢報﹂の﹁日本天台用語に於ける一乗の意義﹂を舘むに至って−1ハ、
これ皇屈んが悠であつたか﹂と、今に至つて知るを得た。然し前掲の﹁諸法無行撃一巻を見ても、眞俗一貫とい
ふだけには、自分は新味を感ぜぬを遺憾とする。停教の停敬たる併は、一乗の思があ少、画境の澄悟があ少、之
を筆打に移さんが偏に、不共梵親戚による一向大乗寺を建設し、初修業の菩薩を擁取してl在山十二年間、囲種
22≠
の三昧の箕修あらしめんと要した肝にありと宿する。久修業の結果が、大乗菩薩の常道たる眞俗
再び胤頓戒lニついて
列だけは、遠慮したいものである。
たのである。前後が明丁であるなら・之を明白にして戴きたい。然し畢者には畢者の鰻があらう
の後輩なるは・明白な事であるがlその容有の論評を・≡問題の初費と見た先哲があるから、自分は之に随っ
がある。これ.に勤して、山門に喜びがあつたと推想するのがー如何にして見嘗蓮であるか。又、遣詮が俸教同時
を襲用した肝腎明白に見られる。是に至って、孤猫無援であつた山家を顧み来る時は、今昔の感
だらう。然し三論豪は三諭家であり、撃勝家は華厳家であるからーその間にはぎ洞の差はあらう
のであ㌢試みに是等諸家の論旨と山家のそれとを封照して見られよ。全くそのま1に襲用して居るのが知れる
僅少の部分を讃盲れたものではなからうか、願はく竺少部分に滞らすに、全鰹に関する十分の批
方を得た心がせられたらうと言ったのを冷評して、見営造ひの甚しいものと言つて居るが、氏は
研究﹂にも言及して、自分が、南都の二面家や、撃腋家の、山家の論旨と共調した所に、山門に
この日奉天台の根砥が、何にあるかを窮めてほしい。また何人忙得たかを尋ねてほしい。是に来
の軽重論の如きは、雲散落滑するであらう。自分が天台宗組なる譜を避けたのは、そこにある。
る。氏は特に﹁日本天台用語の一乗﹂として、日永天台の形容詞を用ひて居るが、こ1に大問題があるのである。
自分からすれば、眞俗一貫を徒に口にするこそ、呑気な沙汰で、倍数の熱涙をくみ得ぬものだと言
よーその主張主義の骨髄は、大小相隔の厳粛にあり、而も猛然として之を賛行に移した併にあり
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再び脚悦戒について
大、南都の玲伽戒
三栄戒の目は、天台大師に擦れば、方等﹁地持﹂に初まつたものであるが、その内容は時
して居る。その中に於て、最も寵要なものに南系がある。一は﹁地持﹂ニ轟戒﹂、﹁漁伽﹂
三乗戒はその律燐戎を以て七衆戎とし、稿善法戒の中に梵納戒を含める。二は名を之に取る
した、刑演明瞭等のもので、これはその律儀戒を以て梵綱戒とし、全く七衆戒を除き去って
はあるが梵網戒よりいふ時は、前者は共梵網戒であり、後者は不共梵網戒である。前者は南
敦の俵憑である事は、既に之を説き蒸した。前者よりいふ時は、飽くまで﹁普戒痙﹂の指針
蒲誠に入り、沙弗戒より比丘誠に入り、丘比戒より菩薩誠に入るの約束を守るので.支那の出家はーいづれもこ
の約束を殿守したのであつた。囲清寺に於て、義兵が大乗戎を受けんが焉に、先づ具戒を受
適例である。南都の単著が、出家に具戒の必然む要求したのは、支那彿敦の立場からは至梅
明瞭の流を汲んだ件数からする時は.梵網戒を律儀戒とする事によつて、具戒を出家に必須とせなんだのであ
る。但.件数は初修業と久修業とを分けて、初修業のものは、梵綱戒によつて出家し、決して具戒を顧みてはな
らぬが、在山十二年の修練の後に至らば、利他の男に憤りに小成を受けてもよしとて−久修業のものに具戒を受
くることを許した。その行き方が.前者と正反射である。彼は塊伽戒の規定を守つて.小戒より大戒への順序で
あるが、これは大戒より小戒への腑序を取ったのである。
以上は南都のを強伽戎と見ての解梓であつて、而して塊伽たるの証明として・﹁位相﹂の
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げたが、まだ撒威せぬ憾みがあるから.猶一應.こ1に重要と思ふ資料をまとめて見る。
再び咄喧戒にづいて
Cつ〇
三−停教が久修業の後に憧りに小戒を受くるを許すといへるに憤れる相続等は、凡そ受戒なるものは上品殊勝
いて見ねば、すべてが混乱に落ち入るがーさて、之を通して停教を見る時は、如何なるか。
是等の二例は、安然時代に於て、南都のを璃伽戒と見た定跡として、十分であらうと思ふ。この桐格を演に置
に弘道しっ1ある稔伽戒とは、南都のものでなければなちぬ。
00 第二の塊伽誠の下に、今則弘道門人併軌誠と言つてあるのは、腔瓢の撃でかつて、どこゐを指すのであるか。現
台系を指す峰明丁である。中に地持戒本︵蜜は虎伽戎︶を加へて居るのは、天台大師の節制に従ったものである。
二菩薩鮎⋮:・是如塊伽決揮分菩薩鱒::・玄莫西入乗員正法戒↓今則弘道門人併執誠是也と言って居る。節一が、天
0000000000〇
二−同番の示師相の煉下に、椰相に三ありとて.一に諸彿︰⋮・是如梵網戎本⋮⋮文如地持戒本とし、その次に
網戒とを統︼した塊伽の三荒城と解樗してのみ、初めて明丁となるであらう。
或は如何なる関係に於てせられたか。叉四分戒が如何にして大戒地に於て授受せられたか。たゞ之を四分戒と梵
のみでは、如何に分邁大粛の解繹を加へても、落も付かぬと思ふ。囲今戒と共に菩破戒を搾けたからとせば、両
後者宅大乗戒地﹂と解しては、傲りに随意である。さて、璧兵のが大戒壇と耕せらる1理由如何。単なる四分戒
と言って居る。両者に大戒壇と言って居るのは.大乗誠壇の意味でなくてはならぬ。前者を﹁大きな戒増﹂とし.■
后.授泰陳誠一といひ、之に次ぎて、倖教和上.大唐台州凶清寺西廊下、愛妻薩大伶戒菰仁皇帝、途於東山重大戒噌−
一、安然の﹁普通席梓﹂の搾道場の中に、我日本観勝野十六年、大府磐典和上、於東大寺大仰前﹂筆大戒壇完皇大
000
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再び餌蛸戒−こついて
二凹
の怖求を璧起して.方に得戒するものであるぐ既に畷受と知らば、誰かそれに戒を受けんやと奏した。傾受など
といふものには、断じて受戒を許さぬといふのである。之に封して、停敦は論じた。
っっっっCOつつつつ
つつつつ〇つ○
論、日歩利他故、攣起上品殊勝怖求謹大乗律師、不換感受耶。⋮⋮而侶受者不話者、蒙不二向小乗律師蔑。
倍数の惹は、利他の男に嬰心せんに、之に授戒せぎる大乗律師あらんや。若し之を琴亡ずば、一向小棒師では
無いかと逆襲したのであるJこの論理は、南都が大廉律師を以て自任して居らぬ限りは、何の敢果も無いので
あるが、大乗律師を以て自任して居るから、次の一向小乗律師の批評が、頗る殺果的となるのである。さて南都
が、大乗律師を以て自任したのを、如何に説明すべきか。梵網戒を取り扱ふからといへば、それでよいが、然ら
ば大乗律師が如何にして小戎を取り扱ふか。それは出家となる約束だから、大小以外又は大小以上であると言ふ
位では、収まりがつかぬ。何としても川分戒を必須のものとする旅伽戒に於てのみ.初めて成立すべLといはぎ
るを得ぬ。
この使にて、停敦は、四分宗武宮大乗の義を解せる慈和の﹁記﹂の、三晶の発心々明す中に、云何上品要言我,
今発心受迦、夢成−主栄戒−故、趣≒腹門義求誌恒巣上といへるを引証註して居る。戒壇の三重は、もと三察を表す
る。これに二衰戒の意味があるや否やといふ事が、畢者の問題となつて居るが、慈和が南山の分通大乗を説明せ.
んが盛に、≡兼戒によつて三脱門に趣くといへる肝に、両者の意味を含まして居る事が看取せらる1。而して又
この藩和の﹁記﹂に、四分戒が三兼戒申に琉せられた茫跡とも見得られて、頗る興味ある資料となるのである。
くて南都が、四分戒を菩薩戒中のものとして取り扱った事が見られる。然し樽教は、断乎として、之に抗論を下
2つ8
して、明知其律奉公塑泰足魚エjE義扁執ホ儀︼以夢園儀一也といつて居る。つまりー南都の四分戒に封する解鰐を
斥けて、之を純小乗戒と渇したのであつて、件数のこの決搾は.律儀誠を梵約戒のみとするに基くものである。
川、同じ ﹁掛戒諭﹂の中に、棟数が仏法準経宗交一■小律儀︼といへるに反射して.附統等が此観の比丘は小黒を
求むるなしと奏せるに勤して、件数は反駁した。
此団之比丘、元錐−無.求工小異求転向威儀︰社則求一一小国︰寧不巨同‘小果︰
此の方の比丘の小黒を求むるなきは、冊統も件数も共に認むる併である。小英を求めぬとは.菩磋心の謂であ
る。啓開戒を持して.而も菩薩たる理由を、いづこに求め得べきか。斯るものこそ.自分は塊伽戒なりと主張す
るのである。
て、その即由を、未−師−同率と獅華一小依一との二偶に置いて居るのも、また梵網の十軍戒を、その抜善法戒中に
収め.その紳儀戒に七衆戒を収めた璃伽戒を通して眺めてこそ、初めて通徹する。同様に、明知梵納所隷書薩借
叫び州岨戒lこついて
受戒の後に先づ必ず二部の戎本を訝諭せしめ、﹁四分紳妙﹂を暗果せしむとある。蔵伽草間戒とあるのは、明白に.
方.﹁緋誠論紘起﹂の巾に見ゆる大政官符に、印業二人に証して、井全レ讃売約経、菜摘伽啓開誠一とあり、而して
的の踊係を附して、﹁苧戒絃﹂の如く、之を段階的に見た併に起らねばならぬのである。
練り返していふが.四分戒と梵網戒とを、井改して㍍るといふだけでは、この破斥の赦果は無い。その間に必須
不兵曹閲小紺燐由といふのも、亦南都が梵納戒と小戒とを、必須的に交渉せしめて居た併に起った破斥である。
ヽ
件数が梵網の十衷誠について、﹁先に樽捜して居たが、たゞその名があるのム、未だその義を停へなんだ﹂と
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再び脚碩戒七ついて
二六
昔時漁伽戎があつた事を語る。而も受戒の後に四分戒太を譜盲しむとあるから、必ずや三乗戒として先づ之を通
愛せしめて後、その律儀裁としての国分戎本に練熟せしめたもので無くてはならぬ。
六、以上の如くに見て来る時には、時代は下るが.凝然が南都の戒壇のlニ重を以て、三乗戒を梼するものと言
ったのは、至抽常然の事となる。単にこれのみでは.疑問が起るけれども.之を保綬すべき茸料はー前掲のにて
十分と思ふ。瑠提寺の無感が、二百五十の別解挽戒は、醸伽華薩戒中の輌律偶戒で.これにょらずんば、大比丘
たるを符ぺからず、之を小成といふは誤りの甚しきものなりとて、噂教以来、北嶺が十重四十八によつてー比丘
何となるに反卸して居るのも、至持崩常な材料となつて来る。
斯の如くにして、南都の戒が塊伽戎であるといふ事が、種々の材料から立許せられたと思ふ。この事は怜歓呼
代まで言ひ得る。件数より鷲鼻までの閃に、大なる年代の偏りが無く、且つその間の戒律に藍大なる発化のあつ
た事が考へられぬ。然らば件後時代のものを、そのま1璧兵略代に邁富せしめて、何の諦椎も無いだらうと思
ふ。
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紳と命とによる神代史の資料批判
∵
原
田
敏
日本の古代賓料を取扱ふに昔り、誰しも托意するのは.、そこに表はれる紳名乃至は人名に、﹁紳﹂と﹁奪﹂又は
紳亡命ミによる紳代史り資料批列
明
料を眺めるとき.何れに於いても全鰹は虎個かの部分に応分することが出来、更にその間に織りなされる紳名の
用されること無く、偶令多少の例外はあるにしても、その使用には一定の法則があるので、それに則ってその資
出するにある。少くとも古代資料特に蕃紀古事記に於ける紳代記事には、この﹁紳﹂と﹁命﹂とは多くは混周文比流
こ1ではかく取り換へても差支へない此の﹁紳﹂と﹁命﹂との使用例によつて紳代史の賛料批判に封する一案を提
では無い。
明かにすること咤、古代日本人の紳概念を明かにする上に重要なことでもあるが、今はそれらの問題に解れるの
,▲
義の如何に拘らず、記録の上では多くの場合、これを取り換へることが根来るものであるだけに、両者の関係を
は、これまで多くの人々の所詮もあるが、これに閲する吾々の考は別の機禽に述べること1する。而してその原
﹁命︼と云ふ字の添加されてをることである。この﹁かみ﹂及び﹁みこと﹂といふ語の原義並びに相互の関係について
β3J
紳亡命ミによる紳代史¢資料批舛
表現によつて、日本古史紳繭の構成の一端が鴇はれるやうに思ふのである。
以下運べるところは、恰かも背約六書の資料批判に於けるヤーべ一文書とエロヒム文書との鋸係
′
あるが、或は吾々の見雷と調査とに何等かの大なる紋隋と不行届とが無いとも限らない。倍ほ且
持ち合せないための誤謬も壁することを恐れるがー唯だ古史賃料批判の一策としてこ1に提出し、細大に拘らす
諸方面の高教−鑑仰いで、再槍討に賛したいと希望する次第である。
先づ叙述の便宜と必要のために、吾々の使用する朋審と記渋とを示せば、古事記は図史大系本
版に依るのであるが、その隋分をするには、便宜のため出来るだけ古事記倖及び日本書紀通辞の
し書紀に於いては日本雷紀通将によつてA章票早:⋮・とするが、たゞ紳代七代章の後年︵系訂一ノ三−川通繹一
ノ七三参照︶を封輩とし、更にその川紳揖1岬章節ニー書の後年︵通祥一ノー七三参照︶を本文︵E系訂一ノ一一︶と
し、それに頼く謙一部をD輩の各一番に引輯き節二二部より第十一一書︵E。誓⋮⋮莞︶に至り、これを凡てⅩ章
︵四卿机他輩出︶とする。かくて各章をA章空車よりK輩に至るまでとし、特にその本文をA資料、一昔をAl資料
A2資料といふやうに名けておく。伶ほ古事記書紀を﹁紳﹂文書と﹁みこと﹂文書とに依って障介する場合、特に古
事記には節を朋ひ.書紀には部を用ひて、その混同を避けること1する。
〓
今弦に﹁紳﹂と﹁命﹂との使用例の貨際に脱して、先づ古事記に就いて見れば、古事記は﹁紳
命に勤して﹁奪﹂を塙ひることをしない。而して古事記の文はこれを幾個かに瞑介して見るとき
β3β
との使用に大いなる特徴が費見されるやうに思ふ。
今暫く、その陰分を左の如く五節として見る。
第二節、榊植七代まで︵系七ノ九1−一〇J
第二節、掛能碁呂息の殴より御月泊り段までハ系七ノー〇3・1ニーJ
第一二節.三種黄御子御事俵の段より天石屋戸の陛吏で︵系七ノニー5・−二八J
﹁命﹂
﹁命﹂
第四節、勿佐之男命御破避の段より大開圭紳圃避の段までハ系七ノ二八5−五〇5︶﹁紳﹂
第五節、御孫命天降の段以下ハ系七ノ五〇汚以下︶。
この内、第一節では紳々に謝して凡て﹁帥﹂といふ字を用ひる。従って伊邪那岐伊邪那英二甜に就いても同様に
﹁紳﹂と記してある。︵但し九川の一ケ肝のみ︶
然るに第二節になると、特に伊邪那岐伊邪那英二紳に就いては、多くは﹁命﹂と記されてある。
岐命1一〇守一〇モー〇い、二で二。り.一正2、一茄モ一六8、一七わ、︼七7、一八。:一八6、ニー巧凡十三ケ併
琴平⊥○誓一〇7、一〇川、二ぞ二C、−六7、一六り、−七じ、l八。、l八8凡十ケ所
但しその一.部分には、﹁帥﹂と記されたところもある。
第一節 1.岐紳、芙紳︵九川︶
第二節 鼠 芙紳︵一四J一五J
3.岐大紳︵一九1︶
5.︵二二J
第三節 4.岐大御神︵二二リー、二二1、︶
岐大紳
紳ミ命ミlこよろ前代史の菅料批列
β33
躊ミ分立1こよる前代姐の資料批判
上
三〇
これに就いては既に本藍且長も注意と向け、上の段には﹁抑﹂とあるのを.ここより﹁命﹂といつてをるが一別意
ある辞でないとして居る。︵古事記伸糊、全集一ノ一九四︶。
此の岐英二紳以外は一般に﹁紳﹂と記されてあるが、併し一二の例外がある。
意富加串京菜命︵一八J
底博之男命︵二〇6二一〇J
中博之男命︵二〇8、二〇川︶
上何之男命︵二〇8、二〇川︶
宇郭志日金折合︵二〇J
月譜舟︵ニーl︶
建速射佐之男命︵二一J
′
而して此の節では特にその最初の部分︵一〇。・・二ニ1︶はその他の部分と鱒妄の趣を異にし・特に大八洲の夫
夫に人格的な名前をつけてあるが、それに﹁抑﹂とも﹁命﹂ともないのは他の場所に無い特徴である。かくて吾々は
暫く此の節を分って回︵一〇3−一三1︶分び阿︵一三11ニー一︶とする。
第三節になると、一般正﹁命﹂を使ってあるが.倫旛〓二の特例がある。即ち岐紳は伊邪那岐大卸紳ともされ
︵既出︶、その他、
御倉疲琳之紳︵二︼7︶
高柳慶巣日鋼︵二大7︶
腺金紳︵二六丁︶
2β4
大手力男翻ハニ七尺り、二八J
が見える。伶ほ天照大紳は大都紳とあるが、これは此の部分のみならす、一般に通じて用ひられるところであ
り、のみならず伊部那岐に就いても大部紳と云ってをる場合がある。
次に第四節になると、又一般に﹁紳﹂と云ふ文字が用ひられてある。併しこ1にも多少の例外がある。
須佐之男禽︵諸所︶
御節英日御組合︵二八拍、四一8、五〇J
紳虔巣日之合︵三三鋤︶
額努稚魚貿倉︵三田9.三八詣︶
高比貿命︵四Og、四七1︶
多紀増尾頭底︵四OJ
赤水下光比茸倉︵四〇J
新屋楯此安倉︵四〇3︶
荘原世評男命ハ四一J
奥津比靖命︵四二J
天私怨耳舟︵些ニ9、四三?︶
この内でも須佐之男命は旋虎視はれるが、例外なく常に﹁命﹂とある。紳塵巣日は、此の外﹁紳﹂と記したところ
が一ケ併︵囚07︶あるが、これと並立の腑係にある高卸産集日は一に高木柳とも柄せられ.何れの場合にも例外
なく﹁紳﹂とされるのと比較すれば.特に注意さるべきものであらう。葦原色許男については、これより以前には
紳亡命ミにこよる譜代凰の資料批如
235
紳亡命ごによる紳代史り資料批列
三二
既に﹁紳﹂とある所があり︵≡1。︶、書紀︵ⅡJでは特にこれを刷ってをるところから見ると何等かの特別な意味
があるかも知れない。天窓穏耳命、多紀理昆官命は須佐之男命と共に、後にも述べる如く一天孫系の紳名として
他の場合と一致するものである。須勢理鹿妻命及び下光比覚命は他のところでは命とも紳とも記さない場合があ
るが、高比実の如く凡て二同とも﹁命﹂とあるところには何等かの意味が存するのかも知れない。
又讐ニ8−五〇︶開平御議の投より大開圭糾問避の段まで。
の字が用ひられるものは、
ゑ,β
弟五節の天孫降措の段以下では、又・一般に﹁命﹂と云ふ字が使用されてをる。而して此の場合の例外として
る。
ればよい。今此の応分によづて、さきに挙げた例外のものを見ると:その多くは此の何と㈹との内に入るのであ
如何なるものも書紀の物語竺致すると云ふのではない。唯だ櫻って介在して甘る鮎に特徴があることを指摘す
此の内、何と㈱とは古事記にのみあつて、書紀には全く見えない部分である。固より此の外の部分に於いては
、
孔︵四二6−四三7︶大年前羽山声調御子等の段。
nバ四二﹁由二J少名良市郵耐の投及び革攻寄魂の段。
h︵三二11由〓3︶相羽乗鬼の段より大国主調御未紳等の段よで。
臥ハ二八5−三二1︶須佐之男倉御報避の段より大国主調御組り段吏で。
今それによつて更にこれを資料分けすれば大鰹次の五項となる。
而して此の節の特徴とするところは.書紀の本文にも一書にも見富らない物語が包含されてをることである。
\
高木紳︵五〇β、五〇9、五一3︶
天宇受責紳︵五一J
潜世息金紳︵五一9.五一山︶
手力男紳︵五一9、五二J
天石門別所︵五一9、五二1︶
赤毛聯石忠紳亦名豊石悪所︵五二J
萱由宇魚紳︵五二1︶
撰田見古紳︵五一8、五三4、五三7︶
榎田風音之男前︵五三J
..援田鹿音大紳︵五三J
大山津見所︵五四1、五匝管玉四J
線権醐︵五六管玉六5︶
組津見謝︵五六J
組津見大所︵五入8︶
佐比持紳︵五九J
がある。此の内、高木紳はとれまで︵四五8まで︶高御産柴日紳とあるのと同一紳とされるがーこの記鉄上の菱化
に就いては既に本居宣長も旋ひ.或は屏俵資料を異にした食めであらうとする。︵古事記倖十三、全集一ノ七三
一︶。併しこの紳名が日本書紀に全く見えないところには、何等かの別な意味があるのかも知れない。何れにして
も﹁紳﹂の字を用ふる例外としては、思金紳及び手力男紳と共に、既に夢二節でも挙げられたところである。天字
紳ミ愈童にこよる網代史の資料枇列
2β7
紳亡命ミによろ紳代史の資料払列
三四
受窯跡は一般には﹁命﹂︵五一7、五三。一、五三。︶とあるところから見れば、或は何らかの誤りであるかも知れい。
開脚物語。
大隈以上の如く見て来ると、古事記の各節は、
問﹁紳﹂のみ。
脚立写して﹁耐﹂。開閉物静の草薮。
閏生写して﹁命﹂。天孫系の物語。
天頂亮の物語。
㈹生写して﹁卵﹂。出雲系¢物蕗。
脚立ミLて﹁命﹂。
となるのである。
以上古事記に就いて見にところ、或る部分、鮎も第一、二及び四節の如きは﹁称﹂の字を用ひるに射して、他の
部分即ち第三及び五節に於いては﹁命﹂を王とし、それらが組合さつて古事記神代記事の全脛系をなして居るので
あるが、か1る各部分の相違があるにも拘らず、伶ほ爵る軽のものは.常に例外として全脛を通じて焚りなく記
されてある。
今この﹁紳﹂文書と﹁命﹂文書と、その相違した各節に亘つて、一貫して﹁紳﹂若くは﹁命﹂の一方のみを使つてある
ものを挙げると、先づ如何なる節にも同じく﹁紳﹂と云ふ字を使ふものには、
高御座累日紳又は高水沖
天照大御耐
忍金紳
β3β
手力男紳
などであ少、又﹁命﹂と云ふ字のみを用ふるものには、
︵伊都郷岐命、伊邪那芙命︶
額佐之男命
天忍穣耳合
邁々拝命
などである。
三
次に此の1紳﹂と1命﹂との記法吉本書紀に就いて見ればー多くは﹁命﹂又は﹁寧妄用ひ、−而して
至貴日食。自飴日命。並訓美容止也。下管倣此。ハ系訂フ一︶
三−二二︶
︵﹁専﹂﹁命﹂︶
﹁耳﹂
﹁紳﹂
紳王命ミにこよる前代史の資料批列
第二部E6−票︵同
竺部 A−鷲︵系訂一ノ一−三︶
から記録の全鰹豪大隈五部に分つことが出来るやうに思ふ。
今神代紀に就いて−その紳名並呼人名に謝して用ひられる1奪﹂1命﹂又は1紳﹂の表れ方晶討すると、その粘
定の制限があゎ、更に1紳﹂といふ字の使用にもーの法則があるやうに思はれる。
1みこと﹂に勤して更に﹁紳﹂といふのが用ひられ、而してこれは殊にその神代紀に於いては、使用される場所に一
とあ少、両者の使用誓明かにして雲。此の法則は書紀全醍を通じて少しの攣りも無いが、唯だ併し、こ
β39
二三−三七︶
﹁紳﹂
﹁寄﹂﹁命﹂
紳ミ命ミlこよる酬代史の資料批邦
第三部 F −G8︵同
三八−六九︶
︵﹁紳b
﹁尊﹂﹁命﹂
︵﹁耳﹂﹁命﹂︶
第由部 Ⅱ −Ⅰ8︵同
弟五部 J −E4︵同 六九1八七︶
先づ弟一部は古事記の第−節及び第二節に首るものであるがー古事記が凡て卑称﹂と記すに謝して書紀の此の
部分で、凡て彗隼﹂と書いて居る鮎は大なる特警、南記録編者の抱く痛﹂の親書知るには重要なる
つものと云ふべきである。
第二部即ちE壷料に至ると、突然紳名や人名に謝して、これまで全く無い1紳﹂といふ字が用ひられ、同時に
又﹁芦に射する﹁命﹂といふ字も現はれて来る。而して1尊﹂と1命﹂と誉れ以下凡てに通じて併用されるのである
が、それは全く書紀自身が巻頭の証に表明した法則によるもので・従って第一部に於いて凡てに1隼﹂字を用芝
のも、凡ての紳が﹁魯﹂字に値する至貴の紳であるとされたからである。
彗部に入ると再び殆んど﹁尊﹂及び﹁命﹂のみとなる。その内でもF章に於いては全く例外を認めないが、G章
になると多少の例外がある。
息東新。
息兼紳、手力雄紳。
¢1資料
天手力雄紳。
¢資料
Gさ資料
併し此の二紳は此の章に該督する古事記第三節に於いても簡捷の例外とされたものである。
第四部になると、又更に﹁紳﹂といふ字が見える。その内でもⅡ章とⅠ章とは多少その趣を異に
を回及び何の二項に分って見ること1する。而して又このⅠ章に於いても、その前年は古事記の第四節㈹項に該
洲ざ命モによる紳代奥の資料地軸
高畠東庄音 Gl、Ⅱ6、Ⅰ、Ⅰ3、Ⅰ4、工6、工7、工さ
ひられる。その重要なるものを上ぐれぼ、
部以下︵駿密には粛︼部㈲項回項、即ち古事記第二節に昔る部分をも含む︶では極めて限られたるものにのみ用
るかを検討して見ると、第一に﹁尊﹂と云ふのは.第一部では全醍に就いて用ひられたものであるに拘らす、第二
そこで今この五の応分に於いて、如何なるものが﹁尊﹂の字を用ひられ、叉﹁命﹂若くは﹁紳﹂の字を用ひられて居
ふのである。
そこで腋密には栢ミ穣首を放くが、青々はこの第二第四両部を特に﹁紳﹂文書と耕し.その他を﹁みこと﹂文書とい
在して居るので恐らくは此の間に何らかの異なる他の資料が綜合されて居るのでは無いかと推定するのである。
は書紀編者が最初に設けた法則に発動が無いが、たゞ第二第四南部に於いては、更に﹁紳﹂の字を用ふるものが介
い。殊にその昇一部に於小て﹁尊﹂の字のみを使用すること\夢二第五両部に於いて﹁尊﹂と﹁命﹂とを併用するの
以上の如き書紀紳代記事の区分は﹂固よhヱこれ聖二種乃至五種の資料の綜合されたものと云ふことは出来な
然現はれない。
次に第五部はJ章及びE章の全部であ少、こ1では全く﹁奪﹂と﹁命﹂とのみより成少﹁紳﹂の字を添へたものは全
つあるのみで、凡て﹁奪﹂と﹁命﹂とのみである。
督するが、後年は天孫降臨の條にして古事記第五節に含まれるべきもので、此の部分では﹁紳﹂の字は特殊の例一
βまJ
紳早舟ミによる紳代史の資料批判
紳皇族震度 Ⅰ7
伊奔放草 E6、E9.ElO
伊井諸寄 E6、E7、E8、E9、E川、E11、F、03、Ⅰ4
月刊耳 E8、Ell
棄頚鳴尊 E6、Ell、F、Fl、F。てF。、G、GミGり一いG3、n、Hl、H≡H3、H。、Hて
天忽穂耳奇 F、Fl、F2、F予G3、Ⅰ、Il、Ⅰ⋮16、IS
汲々群書 Ⅰ、Il、Ⅰ望、Id、Ⅰ6、Ⅰ7、lさ
彦火々出見葦 Ⅰ、−㌔てⅠ?15、IC、王7、−㌔∵J、Jl、J2、J3、J﹂
亦口火折軍 J4
葺不合音 J、Jl、J3、K
盤余彦耳 Ⅹ、Kl、Ⅹ苧K誉E4
亦日佐野母 El
であ少.此の外には僅かに稚日女票Gl︶、天之杵火々置瀬尊︵Ⅰ7︶、天大耳尊︵I7︶、といふのが夫三回宛
あるが、これは特殊の例外と見てよからう。
そこで積ってこれを古事記の場合と比較すると、古事記は一般に﹁紳﹂を周ひるに拘らす例外として﹁
用ひる壊合があるが、その内でも常に例外なく﹁命﹂の字のみの用ひられたものがある。而してそれらが
いて﹁隼﹂の字を使はれるものと殆んど全く一致してをるのである。固よりその秀一部回項︵A章−玉章︶即ち古事
記の第一節に該督する部分は雨着全然反射に、凡ての紳名に射して古事記は﹁静﹂を用ひ・書紀は﹁尊﹂
勿陀
るので.此の場合切り離して別に考へたい。かくて第二部以下では唯だ高畠東亜尊と静皇産室告とが古事記と一
致しないことになるが、その内.紳量産婁奪はⅠ7賓料に見える特殊の異称であり︵系一ノ六九︶、これを例外と
紳ミ合ミによる紳代史の資料批判
章料︶に於いても、命こ1に証記される天照大静と云ふ名で表はされて居る。こ1に此のD資料の記事が特殊の
とあるがー此の大日婁貴と云ふ名は、此のD資料並びにDl資料限りで、此の後に於いては、本文︵F、G、Ⅰ各
於是生日紳壊大日婁貴⋮⋮一書云天頗大紳、一番云天照大日産貴。︵系訂一ノ九︶
関しては第一部のD資料に於いて、
とあるのみで、その内、後三つは特殊の例で、寄ら天猟犬紳を指していつたとしても過言ではない。天賦大所に
猿田彦大神
住吉大辞.E8
泉門塞之大所、邁返大紳、E
天照大神、D.E8、Em、F、F空、G、Gl.Ⅰ、Il、Ⅰ望
今これを書紀について見ると、
事記の両者に於ける賄係について考察することにする。
次忙 ﹁紳﹂といふ字を用ひた事例について見るに先立ち、特に﹁大神Lと記されたものを指摘し、それが書紀古
﹁命﹂と辞せられることなく、高卸売集日紳又は高木紳と辞せられる特殊のものであることを指摘しておいた。
するに差支は無からう。濁り高畠産玉食だけは、古事記ではむしろ反射に常に如何なる節に於いても、決して
ゑほ
紳ミ分ミによる紳代史の資料批列
意味を持つと云ふべく、殊にこの部分が警部に属することは注意すべきことである。
而して此の証記にある﹁壷﹂が何吻を指すかは不明であるがー此の註記に天照大神といふのもー叉木文に1日
紳﹂と云ふのも、これより後の部分には慶蒜はれるところで一首智l甘︿d2G3各茸料︶それらから見ると、
此の日紳と天照大紳と大日婁貴との組み合せには、少からす編者の有意的な働きが表はれてをるのではあるまい
か。それは何れにしても、諾扮±告の子と点れ一月草案舎の姉とされて居りながら、1至黄白尊﹂その1撃と云
ふ字を用ひないのは、一面にはその紳名の内容からも来ることであらうし、又大紳と耕することが更に鄭重なる
奇警あつ雪見ることも出来るが、それは編者の原則にも背くことであゎ、従つてたゞこれだけでは充分の解
鰐では無からうと考へる。
天照大御所、︵拷庚に出づ︶
故にこれと封比するために、一方古事記に於いて1大紳﹂と記されて居る場合を見るにー
茸泉津大神、一八8、伊邪邦枝大紳のこミ
道教大神、︼八、右に同宅
伊郡部岐大神、−九1、二二6
伊邪那岐大御紳、二二り−、二二4
道反大神、︼八り
亦云塞坐黄泉戸大紳、一入10
︵墨江之三前大紳︶、二〇10
迦竜大御紳、四〇3
β44
捷田毘音大耐、五三℡
があ少、この内、迦毛大都紳は墨江之lニ前大所など1同じく編者の註記であつて見れぼ、書紀と較べると、唯だ
諾紳及びその別名に於てのみ相加するので、その他は全く同一である。而して天照大御神は屡々表はれるが、そ
の他のものは極めて特殊の例でその場併も限られてをる。命且つその場併が亦た古事記と書紀と一致し、殊に渡
田昆盲犬紳の如き、古事記に於いて同じ併に猿田昆古之男紳︵五三3︶又は猿由昆高柳︵五三〝、五三7︶とも記され
て居るのが、書鹿に於いても猥田彦大神とあると同じ肝に猿田彦紳ともある。これらの一致は果して何を物語る
か。古事記及び書紀が或る同一の賓料に基いて作られたと云ふことが出来るにしても、それは飴りにも、甚しい
類似である。むしろその一方が他方に依接して縮せちれたと見る方が更に穂首であるかも知れない。これらの問
喝に閲しては、改めて紳代記事の構成について別の磯曾に論ずること1する。
以上の如くして﹁紳﹂と記されるもの1内、天照大紳又は日紳とある如きを特殊のものとし紳名に添加される
﹁紳﹂の例から除外すれば、﹁静﹂と云ふ文字の使用されるのには柏普の制限が認められる。即ちその最も表はれて
居るのは、
臥 E8︵附E7︶、欝寄の黄泉逃将に開Lて生する所々。
h I草︵I、11、IJ、大同主御国譲りに衰はれろ神々。
仁 G帝︵G、Gl、GJ、息粂紳ミ手力雄耐。
であ少、その他は多く特殊の例で一回的のものである。此の内、臥hは共にこれに相富する古事記の記録が﹁紳﹂
文書︵第二節界関節︶に僻するために、これを書紀と比較して、書紀に﹁紳﹂とあるもの1特性を知ることは出来な
耐亡命ミによろ耐代姐の菅料批列
飲拍
雪舟ミによ晶代告資料批判
讐
いが、管芸璧昆、古事記では﹁命﹂文書︵第≡簡︶に属するに拘らサー書紀と同様に伶ほ1紳﹂を用箸をる。
郎ち思金紳︵系七ノ二六︶天手力男紳︵系七ノ二七︶と雪が、果してこれは何妄意味するか。少くともこれが特殊
なる警あることは、天照大紳と密接なる脚係にある事軍殊にその相殿の紳として奉警れる粘
来ることである。
以上は書紀紳代記事の各部の特徴を示し・その内、章節の如何に拘らす1奪﹂とし雷1紳﹂とするものがー古事
記の場合と全く一致することを明かにしたのである。
而して﹁紳﹂を基本とする古事記に於いて、而も信任常に1命﹂と耕せられるものが、概して天孫系統の紳芸あ
ること、及び﹁みこと﹂を基本とする書紀に於いて一両も常に1紳﹂と耕せられるものが、大鰐に、黄泉に閲するも
の、印議長現琵る抑て及び天照大紳とその附闊紳に限られることを知つたのであるが、吾蒜こ1に古事
記啓紀共に少くともその紳代記事に於いて、1紳﹂文警1命L文書との複合を推定し得ると同時に、命品紅時代
以前の﹁紳﹂乃至﹁命﹂の内容を釈ふことが出来るやうに思ふ。
四
最後に更に古事記の各節と書紀の各部とを封照して、その各節各部の間の特徴を明かにす
β必
事
記︺
︹日
本
書
−
九︶
四︶
沸代七代︵丁−1−三︶
同
−
位︵三
C華人洲惣肩︵四
︼こ
−
地︵︼一−二三︶
正章紳鼻翼庸︵八六−八七︶
J章薄青遊行︵六九−八大︶
Ⅰ章天孫降臨︵四七−六九︶
︹書紀に軟け余る物静︺
Ⅱ章†励出洩︵三八−四大︶
G章■■帽搾︵三〇1三八︶
F章筍珠量面︵二三−三〇︶
R章同
D華甲請出生︵九
︵九11。2︶∧=〓⋮⋮
a︵一〇8−一三1︶
紳モ倉ミによる紳代奥の資料批判
︵
︶
第一部尊
ヽノ
︶
′し
第二部紳
第三部
而⊥てこの部分が古事記に於いてはその竺節、即ち神代七代の部分に該督するが一高事記は−さきに指摘し
幸は、既に他の横倉でも診じたやうに、思想としても後の所産であゎ、恐らくは編纂者の時
編者の宇の最も多く加はつた部分であらう。
朗7
︹音
︵
ヽノ 第一節紳
︵
︶ 第二節紳
−●●■■⋮‘りγ
//
︵ニアニ八ゼハ〓〓
a︵二八5−三二︼︶
b︵三二1−四一J
e︵四一4−四二8︺
d︵四二6−四三7︶
e︵四三8−五〇J
M肌
︵五〇6−六一4︶
′
′J一
b︵三1主−プハ〓〓
ヽ
ヽヽ
第三節釦卜l
′\
⋮⋮一■︰
︵
部 (紳)
〔尊)
第
四
第
五
部
/
此の表に就いていへば、先づ書紀編者が特に﹁奪﹂の字のみを以て記してをる部分、即ち第一部の回項のA章B
︶ 第五節命
/
叫!・ ニー
紳亡命ミにこよ声調代及の資料批判
四四
たる如く、此の部分に於いては、特に﹁静﹂の字のみを用ひてをるので、書々はこれを他の部分と比較して、書紀
の墟合と同じく、特に編者の宇の多く加はつたものと考へたいので、その鮎では何れも、これを奮約聖書批判上
のp文苔に富るものと云ふことが出来る。
併して斯く書紀と古事記とに於いて、特に夫々の編者の意志の最も表はれてをると見そべき最初の部分k於い
て、同一の紳名に射し、その一方では﹁紳﹂とのみ耕するに反し、他方では﹁みこと﹂殊に﹁争﹂とのみ稀し、その間
に存する正反射の事箕が、﹁紳﹂と﹁命﹂との関係を知るには重要なる役目をするものと見てよい。而もその上に、
書紀古事記の夫々においてその神代記事を通じて、﹁紳﹂とのみ解せられるもの、及ひ﹁みこと﹂︵奪︶とのみ稀せら
れるものが、殆んど全く一致するといふ事鷺は、書紀古事記の編者の﹁紳﹂及び﹁奪﹂の文字使用に射する意志の如
何によらす、それ以上に﹁かみ﹂﹁みこと﹂の本来の意味を開示するものと考へてよい。
次に第一部㈲項、即ち0章は、古事記では第二部の㈱項に該督する。此の場合の特徴は何れに於いても活劇±
告より外の紳が現はれないことで、古事記ではたまく併生の島々に固有名が附せられて居るが、此の場合に限
って一切﹁紳﹂とも﹁命﹂ともない。かくて古事記の此の部分は﹁命﹂文書であると云ふことも出来るが、紳名の事例
少く、従って前後の聯絡から、今は暫く﹁紳﹂文書の一部に含めておく。
書紀のD章とE章とは古事記に於いては琴一節㈲項に雷るが、その内容の順序は却って反射になり、古事記に
於いても書紀D章即ち四紳出生章に該督する部分は﹁命しの字を用ひ、書紀に於いてD章がその第一部﹁みこと﹂文
書の一部分をなすに勤して、古事記の此の部分はむしろ第三節の﹁命﹂文書と連絡するものと云ふことが出来る。
β4β
書紀第二部はE章の後年にしてその物語内容は古事記第二節に含まれ、共に﹁静﹂文書に属する。
書紀第三部即ちF章とG章とは古事記第三節に苦り、何れも﹁みこと﹂文書に属する。但しG章に於いては、既
紳ざ命ミによろ御代虫め普料批判
は改めて別の横倉に述べること1する。
的研究に於いては.その資料の批判が基本的事業であるからである。而してこれより生ずる種々の問題に就いて
し夫れこれが正しいとすれば、それは古史神話の研究には重要なる関係を持つものと云はねば
以上述べたるところは命ほ杜撰な鮎も少くないであらうが、これで二湿りの資料分けが出来
書紀第五部及び古事記第五節は、共に天孫降臨以後の部分であ斗何れも1みこと﹂文書に屠する。
に雷るが、天孫降隊に関するところは、既に古事記忙於いてもその筋五節の﹁命﹂文書に屈す
﹁みこと﹂文書に属し次の第五部に屠すべきものである。
項はⅠ章の一単に常る。即ち書紀−章の大国王紳の囲譲りに関するところは﹁紳﹂文書にして古事記第四節の㈹項
らない物語内容即ちその阿項と㈹項とを含んでをるが、此の部分を除けぽ㈲頂と伺項とは書紀のE章に普少、伺
古事記第四節は書紀第四部に常少、何れも﹁紳﹂文昏であるが、たゞ古事妃に於いては、此
に述べたる如く、思求紳と手力雄紳とが特殊の例であるが、これは古事記第三節に於いても全
ろから、特にこれを﹁みこと﹂文書の内に入れておくのである。
βメタ
般若小品の浮出者lこ就て
林
屋
友
四六
次
郎
の上になしたものである上に、その嘲繹の年代迄明か
般若小品の謬田老に裁て
大部般若経中最も古く支那に翻辞されたも.のは、支
出のあつたことだけは粍封に香定出来ないであらう。
婁迦誅辞の遣行般若品経であつて、後漢の靂帝の光和 になつて居ったものであるから.支婁迦識に本鰹の繹
二年︵西紀一七九年︶の謬出と云はれて居る。故に、この
般若道行品経は大乗経典としても最古詳の一つである。 果して然少とすれば、本鰹は現在如何になつて居る
本柁が支誅の渾出に係ることは既に東晋の繹道安の査 であらうかっこの粘に関して開元鉢巻塵〓︵大正蔵、前
定になるもので、彼は本踵の照に経序を書き、その発 掲四八七頁︶の支誅辞任の部分を見るに、﹁道行般若波羅
一巻に簡畢なる註解をなした。伶祓の出三戒記集客第衝撃巻鯛詣詣願詣謂新報卯詣鞘贈柵鵜試
射馴齢罰則﹂とあつて、それを以上穏在とある中に記し
て居る。又これを現存の戒経中に瞼するに∵縮刷戎経
−
道安録をその儀継承せる部分1には﹁般若道行品経
月映第六普及び大正戒経第八巻般若部四の中には遣安
二︵大正戚、第五十五春日錬部六頁︶の支婁迦識繹経中
基礪雛畑棚諾憎媚謂﹂と記載し、この記載鱒法経
乍併.この道行般若経の内容を瞼する時は.その用
たる走行般若経十馨が収められて居る。
線三貨紀等を始め其後の経線に其億継承されて居る。 の序を附して後湊月支団三蔵支婁迦識詳と撰名せられ
而Lて、この査定は古代の繹出経に就て最も精通して
居った繹道安が自ら註蛙を書き、経序を書いたその経
β占0
語の鮎よ少之む以て後漢代の古辞経と認め難いやうに
思ふ。蓋し出三蔵記集第一の末尾に︵大正蔵、前掲五‡︶
前後出経典記第五なる目があつて.新経と蕃経との間
除饅除陛女
乾沓和
阿縛多羅
比丘比丘尼
乾闊婆
三森三等提
性薩阿錫阿
藤三耶三彿
榔讃謂絹㌍
乾陥落
比丘比丘尼
羅三耶三等
に存する用語例の相違を指摘し、その例として二十四 の如き関係を元す。この比較に依て見るに、現存の道
25J
阿那含
斯陀含
頭陀担
購云若
靡文飾
苫健棒河鹿
併、天中天
遊行般若の用語例
溝 首
靡 納
頻菩提
文
長
殊
者
須菩提
文殊師利
長
陰
者
須扶浪
舎利弗
五
五
舎利弗
陰
五 衆
合粟子亦秋露子
般若小品の謀出者に就て
ー。従て本鰹はそ
四七
も、道安錬は後に説く如く巻数を記載して居らなかつ
安詠も支諸に道行経の翻弄のあつたことを記載せる
十巻と記載したものは出三蔵記集である。その前の道
を道行経の揚合に就て云へば、支払の道行鮭を初めて
の聞達ひは現存戒経中には猶無数に存して居る。これ
は、一見甚だ不思議に思はれるかも知れないが.此種
のを支婁迦藷葬と瑛名して収蔵して居るといふこと
現存の戎経中に斬る西晋代以後の葬経と忍むぺきも
である。
の用語例の上から絶封に支婁迦識謬とは認め難いもの
此鮎に就ては後に猶詳しく述べる
大隈に於て執呉代又は西晋代の葬経と認めてよい11
時代以後の繹経と迄は目し難いものであるけれども、
語を奉げで居る。これを標準として該遣行般若経にあ 行般若経の用語は新古両様の辞旬を使用し、無論羅什
る文字だけを比較して見るに、
新繹用例
隋婆若
頭陀垣
阿那含
斯陀含
財経銀lこ掌ぐる菊維新種の用語例
警経用例
衆 蘇
我蹟亦云閑士
各併亦濁世
簡云著
護持這亦濫勝
場薩寄
無著具亦推嵐亦應儀阿藤湊亦嘗阿羅討 阿羅漢
不遥巣
頼爽具亦一往爽
繰菩世
般若小品の詳出者に放て
︵此鮎ほ常盤博士記念論文
四八
ゎ、道安録k支議が道行経を辞すとあると兎も角もそ
その評者の葬経と定め、それを総裁に収めたもののや
ぅに思はれる。其結果そこに道行経と標題した経があ
た。而してこの出三戒記集なるものは、伶蕗が道
如安
き鉄
ことは事葺の上に出来ないことであつたから、■自
を基捷に彼の任院の輪蔵豪集め、その冷蔵の内容
然を
経基
錬に記載せる評者の浮腰と名搭の一致せるものを
礎に編纂したものであつたが
集甲に於ける拙稿﹁晴代諸経線の特質﹂参照︶、伶蕗が道安録
に基いて諾経を集めた時にも、羅什以前の繹経は.評
が十巻であつたからその総裁を資料に編纂された出三
者の撲名はもとよ少、経名すらないものが多かつ
のた
経か
を支識穿と撲名したのである。而してその道行接
ら.そこに集められた諾菅それに経名があつたとし
ても、其等は後人に依て定められたものであつた
戎。
記道
集は支誅辞道行経を十巻と記載したものに他なら
安録で旺支識葬の小品を道行経と名付けて居つた
なけ
いれ
。かくその評者の辞経の碇定は考詮畢的所究に俵
∵ども.始めからそれが道行経と巻衷に題せられて居つ
て査定されたものでないから、それが屡々思はぎる誤
たものでないから、他の人は其経を内容の上から
り大
に明
隕つて居ることも止むを得ないことであつた。而
度無塵経と呼んで居った揚合もあつたであらうし
し、
て又
、斯く一度誤られたものが後の経線に其俸継承さ
他の人の詳した小品に道行経の名を輿へて居った
れ場
て合
居る点に.法経飯乃至開元録.貞元鉄等を基礎と
もあつたであらう。従て、正解に其等を整理する
しに
た其後の経戒の内容経忙も自然その羨少が残されざ
は、私が現在なして居る如き方法に俵てその用語
るの
を比
得なかつた。
較や経の文鰹の比較上から査定しなければならなか
斯の如く現在支識謬とある道行経は、支識穿と見る
ったのである。然し.輪裁に収むべき経典を一方に集
ことの出来ないものであるけれども、然し、それは輸
めながら、其等に謝して一々斯る煩雑なる研究を
戒な
のす
亜理者の誤少に属するものであつて、其盛庭支議
ゑ5β
それと共に其中の通日詮般若、放光般若.新大品の如
きは遣行経の異出経と見るべきものでないから、賛際
に般若邁行品経の詳出のあつたことを否定することは
出来ない。受に於て自ら生じて来る二つの問題は、一
の遺行経の異出経は支婁迦識辞道行経十巻.竺朔彿辞
凋約諾箪二耗梅原羅什詔
第一諾
蜜搾逆行品第一、但文不足三分過二、准這行
右〓学長房内典二銀云、是外囲軽妙者等之兼帯
文理力典小品這行経等同太異諾故初圧云、摩詞
摩討般若波羅蜜紗経五巷
摩埠共竺併合諾 第六諾
か鰭顎⋮⋮霊天竺沙円盤
本録の般宕部を見るに︵大正蔵、前端五入二頁︶
これを開元録に就て見るに、その春第十一の有穿有
小品十巻の八人八経異出となるであらう。
経二審、曇摩埠出産討鉢羅岩波舜密経五番、羅什出新
法誇謬更出小品経七巻、衛士度抄摩詞般若波羅密通行
道行経一巻、支飛澤明度経四番、喪伶倉澤奥品経五巻.
つは本宮の支識詳が現在どうなつて足るかといふこと
であり、他は現在の支識詳と云はれて居るものが何人
の詳であるかといふことである。此問寓を解決せんと
するには、勢ひ昔から般若の小品の翻弄者がどれだけ
あつて∵現在その美辞本がどれだけ存して居るかを調
●−
べ.その比較の上に研究をしなけれはならないのであ
る○
まづ穿者の研究から始めることにしょう。出三蔵記
集夢二巷ハ大正蔵、前撮一四某︶の新集異担経線第二を見
ると﹁般差配諾棚帽洋鵬講器鮒鵬輔卵瑠蝶ト
晰剛鰍
光軽二十専一名歯小品法竺護夏出小品搾七巷衛士嘩抄
君波羅蜜道行癖二者重層埠出席訝鉢羅君波来賓軽五螢
鮎摘諾聞翻用甥椚﹂として右一撃人異出となし
三詳
四九
大明度悪琶巷脚禁紙朗芳支優婆葦謙譲第
第七誇
小品般若汲羅蜜軽十笹
て居る。然し、固執巻琴一の新集経論錬東一の支謙謬事迦裁許
経の中には︵大正蔵、前端七頁︶明度経園舎を垂げ、又康
伶骨繹出経の中には︵前岡晰︶呉晶経五番を挙げて居る
から.箕際は九人異出でたければならないのである。
般若小品の辞出者lこ就て
β∂∂
般著小品の詩出者に就て
逆行密偵有鼻面無井本
諸戯縦有印兵小品文同但度目異
耳故不重出前後八諾五存三関
*大智度経四巷
詳
逆行経l懸
有者
誤也
五〇
暇総監誹誠開後決天竺沙門竺俳勅
高
五本義、三本圃、鶴誓紬憫鮒細緻諾稚餉詑紅酢
方三経典大般若第四骨岡本、前後八謬
右四軽、兵大般若第四命房本異束諾
糟武に
撼
臓描哺
晋描
西域酒
三読
多蜜
諾控
第肺
五諸
とあ少.又其巻第十四の大乗脛重繹園木鉢を見ると
誉聖餐抑鵬糾呉蔓二震筈詩第三詔
諒
新道行軍巷脚舶糾鮎摘詣西晋三成竺遠謀第四
公飯有新道行経中有大智腔無権経四巷
とあつて、この有謬部と無謬部とを合して八経が挙げ
元
銀
られて居る。これを出三戎記集の奉げて屠るものと比
又接長房等級、竺法謹諜中、・更有小品脛七巻潜不然、護
較するに
開
五
遭行般若汲親密感
這行程
大明度簸極経
典品控
新道行経
歴討般若汲蘇蜜釣経
四
十
支 識 語
竺朔併詩
文 謙 諾
康博骨諾
竺法務課
小品般若波羅蜜細
細蓋
大智度経
諸
螢
懸
巷
巷巻巻巷巻
開元鈷が衛士度謬の大智度経開館豪除いた理由に閲
き、舐多賛辞の大智度鮭四巻を加へて居るのである。
什
戒多密〓詩
薙
十五四一十
嘆
出三成 記集
支 識 誇 這行般若経
竺朔僕謀
薄行推
支 謀 諾 明度無権経
靡肘骨諾
典品経
竺法護諸
更出小品経
掛士度抄
歴
討般若汲輝密造行疲
卦摩埠謹
摩詞般若汲雑蟹経
凝 什 詔 舐小品
とな少、この封照表に依て見るも明かな如く.開元蝕
懸怨春巻奄巻春巻
は出三絨記集が挙げて居る衛士度抄蔓行経二番を除
2β4
十五ニセ五四一十
ては、同線の馨第二の西晋代詳経の中に於て︵大正蔵、
この記載は大鰹前経線を継承して居る記事であるか
ら、その以前の歴代三賓紀及び内典録を瞼して見なけ
多賓の謬経を記するところセ見るに︵大市赦、第四十九
挙げて居るが、その二十五郎四十六番に就て彼は﹁一部
大智度経に閲しては、同線春希lニの束晋の汐門舐多蜜
用して居る。而して開元鉄が典接として居る竺道租の
である。又内典錬はその巻第三に於て三賓紀の億を引
般若小品の語根者に耽て
五一
巻器削豊譜晰舶嬰詐撃と記されて居る。そ
晋世雑録は、智昇の時代には既に失はれて居つた経鉄
の典撞は伶祓録及び竺道弧線を挙げて居るけれど
、から.智昇自身が晋世雑録を調べてこの典援を
でも
ある
の霹経の中に於て︵大正献、前掲五〇八貫︶﹁大智度経面
門謬
品の
経一巻園として、樅に一部しか挙げて居らないの
雷然であつた筈である。開元鉄が追加した紙多蜜
なかつた。此理由から開元録が之を除いたことは
て寧
見ろ
ても、同線の新集経論隷には紙多寄謬としては普
失はれて居ったのみならす、梵本から謬拍したも
この
とで
を断って居るのである。又之を揖三戒記集に雷つ
とあるに依たもので、この衛士度抄出は伶痛常時
蕗既
録に存して屏つたものは、その中の一部に過ぎ■孜い
諾㌍韻右一部。凡二怨。晋蕾陣。衛士度略出﹂ 見侭藤山三成記、已外並出離別語録併載﹂と云ひて、伶
︵大正戚、前諷一〇夫︺﹁摩討般若装慧行経二審掴瑚
と云つて居る。猶愛に長房録を馨げて居るけれど
昌も
上、
宗長
二十芸粗銅発と雪中に存して雪も
房の此記事は出三蔵記集の魅恵三の新集経論線第の一
での
あつて、祀多蜜の繹経は全部二十五郎l明十六巻を
枇鮎諾㌍既取書経刑略郎非梵本別翻。載別姦 若史博部七一貫︶薩に大智度経四谷を黎げて居る。然し
中。此不在存也
この大智度鮭川巻は理路経十二巻、維摩詰経国巻と共
若波羅密造行痙二審云.従香道行中刑攻略出諾掴
叉長房専政云。優婆塞衛士度。於恵帝代。出摩
れ討
ば般
ならない。この意味に於て歴代三頸妃巻第七の舐
前掲五〇一貫︶
月∂∂
なるものは開元録に依て見るも菩薩十任経一巻と貿如
は出来ないかも知れないけれども.然し祀多蜜の謬経
る以上.耗封にその繹出のあつたことを否定すること
なる経鉄忙大智度経なるものがあつたことを停へて居
る。尤もその償植は解らないにしても、既忙再来新線
の償値も今白から明かにすることの出来ない経線であ
ても二三鯖節引用されて居るけれども、その編者もそ
あるが、この南来新線は歴代lニ賛紀には他の場所に於
ると南来新線のみを基礎に考へなければならないので
載は全然誤記であつたと見なけれぼならない。さうす
記載して居ることはない。して見ると問元蝕のこの記
あつたらうと推定して居られる。この推定は碇に常っ
が正しく、その原語は恐らく許診g訂・b乱d訂︵衆発︶で
朔彿として居るものとあるが、境野博士は竺朔彿の方
の竺朔彿忙就ては英名を竺俳朔として居るものと、竺
線の基腱になつて居る。猶序でに注意して置くが、こ
時。於洛陽浮出﹂。とあり、この記載は其後の距ての経
巻。漢頼帝障。天竺沙門竺朔彿粛胡本至中夏。別室帝
﹁遺行経一巻眼船畦詳鮎禁棚絹地外右一部。凡一
あつて、同線の新集経論録第一︵大正蹴.前端六頁︶には
朔彿の澤経を始めて挙げた経線は伶蕗の出三戒記集で
になつて来るのは竺朔俳の遣行経一巻である。この竺
にあつたことは轟に述べた通りであるから、次に問短
五二
来三昧経二巻の二部三春の他現存しないものであるか
て居るだらう。故に私も竺朔彿に陥って置かう。
般若小品の請出者に就て
ら︵この二部三春に就ても猶研究を要するが︶.現存の
この出三蔵記集の新集経論鈷の記載は、大鰹竺法謹
直後迄は道安録を継承し勺居るものであるけれども、
研究に於ては之を除外して置いて差問へないであら
う。従て現在研究を必要とするものは、出三蔵記集が
伶祓自身が既忙、
安公錬併載。其張帯秦景竺朔彿維舐難竺賂炎白廷内
線前出握。自安世高以下至法立以上。凡十七家。並
挙げて屏息八家の中衛士度を除いた七家の繹経である
と云はなければならない。
この七蒙の詳澄の中.支婁迦諸声に就てはそれが確
2∂β
が附せられて居ったものである。道安に斯る逆行控の
輝を集めてそれを下註となして編纂し、それに彼の序
法敵。凡七人是蕗校衆錬新獲併附。入自衛士度以経
後の
。第一巻だけにその中の難解の旬に今迄に存せる証
皆祓靡新撰︵大正威、前端一〇莱︶
と指摘して居る如く.其中には偲砧の新撰に係るもの
三九頁︶
の新集安公証趣及び雑経志錬筍四︵これは道
も含まれて居って、現在問題になつて居る竺朔俳の編
道審があつたことは、揖三蔵記集客第五︵大正蔵、前硯
行緩も.伶痛が之を附加したもの1一つである。従て
竺朔彿に逆行般若の鐸があつたといふことは伶蕗の安
見自身の経線の中にあつたもの︶の中に﹁通行品者。
解で、道安は之を認めて居らなかつたものである。般若抄也。彿去世後。外国高明者撰也。節句質複首尾
︵
附随せぎるものとがあつた筈である。この両者は何れ
に.支謝辞遣行晶経には遣安の註を附隣したものと、
伶痛が何が故に斯る記戯をなせるかに閲しては、次
互際。虜集異江一巻﹂とあるに俵ても明かである。故
︶ のlニ理由を奉げ得るだらう。即ち一支識詳遺行品経に
は道行品経其健に流行せるも.のと、道安の註解を附記
して流行せるものとの二種類があつたこと・出道行も
品支識謬たる鮎には相違なかりしも、道安の註はその
︵
のは一巻本にをつて居った謬である。これを一巻本の
経は苦から支識の通行品経とも竺朔俳の道行品経と中
もの第一巷だけであつたから、遣安の註を附債したも
︶ 云はれて居つたこと、三倍絡が現存の十巻本の道行品
経を支識繹の道桁品経なりと誤認し居たること是れ道
で行経と思ったところに伶蕗の第一の聞達ひがあつた
︵
鮎は既に境野博士も指摘して居られるが、この支識と
ある。この三粘が錯綜して伶砧をして思はぎる誤解に
のである。
︶
二道行晶軽は支識とも竺朔彿とも呼ばれたこと、此
︵
陥らしめたものに他ならない。
↓通行品経に二税額の流行本があつたこと、遣安の
五三
註解を附した道行経といふのは、道安が支諌謬の道竺
牢朔彿とは同時代甲評者であつて、両者共忙後瑛の福
般若小品¢謀出者に就て
ク∂ア
般若小品の帯出若に就て
五四
帝の未に洛陽に充た人である。然し竺朔彿は支識
る程
もに
のは、竺朔俳に依て洛陽に青らされ、支識に依て
支那譜が堪能ならざりし悠、自己の賂来経を支識
郡と
摺共
されたものである盛に、その道行控を呼ぶ揚合に
あれば、評者を主にしてモ識の道行経と云つた場合も
詳した場合が砂くなかつた。されば出二義記集の
将令
来弟
者に敬意を表して竺朔彿の道行経と云った場合も
十三にある伶膵支識博窮二の︵大正戒、前描九五、九六頁︶
て居る憲吹の高僧停第四の朱士行停には.彼が西域に
の中を見るも、﹁竺朔俳軍天竺人也横柄帝時、亦
あ黄
る道
。されば同伶停の朱士行停節五、並にそれを承け
行経兼邁洛陽.郎轄胡鰯洋、繹入時滞排有失旨、然案
るを通ぜんとしてその元になつた大品を迎へなければ
文存質探得経意、勤又以退席光和二年、於洛陽謬
赴掴
い般
た動機を、竺朔彿繹の遊行般若経の意義の通ぜざ
舟三昧経時識馬壁一日.河南洛陽孟癌張蓮筆受﹂とあつ
て、般舟二転蛙の如きは竺朔俳がこれを将卒した
もいといふことにあつたものとして記載して居
なる
らな
の通行般若を云ったものであつて、伶砧が誤解した一
支識がそれを郡繹したものである。故に遣行粍も
る亦
。そ
此場合の竺朔俳の道行般若なるものは勿論支試謬
れを洛陽に某したのは竺朔俳であつたけれども.それ
を棚詳したものは支識であつた筈である。それに
巻も
本拘
の道行般若ではなかつたのである。知新、支識繹
とも呼ばれて居った盛に、遣安の証群を附記した一巻
らすこの出三城記集の支識仰では、道行経は自ら
のこ
道れ
行経は支識の道行経とも呼ばれ.竺朔彿の道行経
を瑛辞したもののやうに記載して居るが.然しこれは
偲蕗が一巻本の道行寧芸廟彿繹なりと誤信して居
本っ
の道行緩も支識の追行経の註繹とも呼ばれ、竺朔俳
たことが先入概念となつてこの記事を作らしめた
のも
道の
行経の註繹とも呼ばれて屠った場合があつた。然
であつて、この記事があるからとて竺朔彿繹の存
た妬は一巻本道行経と全巻本とはその内容迄興っ
るし
に侭
ことの論謹にはならない。要するに支識鐸の通行
て経
居な
るものと誤解した篤に、後者を支論評となした槻
β占∂
道行品鮭の誌伸を竺朔彿鐸の註輝と誤解して居つたこ
他ならない。従て、竺朔彿謬なるものは現在の研究か
た竺朔彿謬なるものが存せる如く誤解せしめたものに
要するに、以上の三粘が錯綜して賛際に存しなかつ
とは、彼が竺朔彿辞の道行般若経の下註に﹁安公云道
らは常然除外されてよいものである。
係上前者を竺朔彿葬となしたのである。彼が支識謬の
行品接着般若抄也外的高明者肝撰安公爵之序庄﹂とあ
る序や許群が二種類存しなかつた以上.支講評道行座
ることに依ても明かであつて、遣安の遺行品蛙に射す
が見ても現存の蹄什辞小品が羅什辞たることには問題
の中経什繹は既にその評語が推定されて居るから、誰
謬、輿脾蛸竺彿念共謬、羅什辞の五つだけとなる。こ
さうすると、残る問題は支謙繹、康伶曾謬、竺法護
の外に竺蜘彿辞の通行経なるものが存する澤がなかつ
は起らない。従てこれも除いて芳問へない。文教歴塊
る文が前摘の註緩、維蛙志錬の文を共棲に引用して居
た。檜前に対して一屏この誤解を助長せしめたものは
謬の闇討鉢証若汝羅蟹経瓦窯は、出三蔵記集に従へば
には有繹本と倭って居少、現存戒経中に於ても縮刷蔵
を執り、竺彿念が之を評出したものと記載し、開元録
晋の憫文帝の時︵秦の符堅の建元十八年︶曇輝埠が古本
次の第三鮎である。
︶
仁惰紡が現存の十巻本遣行蛙を支誇辞なりと誤認し
たること∴葦際の安雄帝は後に論証する如く現存の明
度無痛趣でなければならなかつた。故に遣安もこの明
められて居る。開元鉢巻祷三︵大正麻、前渦五一一束︶を
︵
経目映第八冊及び大正蒲経の第八巻舵苦部四の三に牧
伶祓は後に詮く如き理由から現存の十巻本を支講評と
見ると﹁脛討般若政経贅紗経墓脚紙和議酎欝踊
︶
なした悠に、葦際の支識謹がそれと別物の如くに考へ
脚籠相舶触郡表納絹糾鮎明右議五真木見在。
度無掩経の上に藍伸をなして居るのである。然るに.
られ、竺朔彿繹が別に存したもの1如く誤解するに至
汐門限牌蛤。琴言法愛。印度人。法事明敏志存弘喩。
五五
つたものである。
般若小品¢諦出者に就て
β∂タ
踊摘鮒鯛悪筆受。宏校定。共停云。輿大品放光光
以符堅建元十八年壬午。評般若紗経一部。彿護岸停
相品鮨六に至る間の如きも何等かの形で現れて居らな
鍬へば之と羅什謬大品に就て云へばー序品第一より音
光讃の面影が現れて来らなければならないのである。
玉ユ′
讃岡本着じ或恐尋之未審也﹂とあり、又同番第十一︵大
ければならない筈である。又大品と小品と多少その記
般若小品の諦出者lニ就て
正蔽、前端五八三頁︶を見ると、﹁右一繹長房内些一級云、
是外囲軽妙者、尋之未解也、接其文理乃輿小品道行経 載を異にして居る六度相続品第六十八や、浮俳団品第
等岡本異謬、故初琴云、摩封殺若汲羅蜜経道行晶第一、八十二の如きは、大品の説明に従て居って小品の詮明
但文不足三分過二、准邁行経後臨十品﹂とあつて、こ に従て居ってはならない筈である。然るにこの摩討
の摩討般若波羅蜜紗経五巻は道安がこれを放光光讃と 般若汲扉驚紗経の内容を見ると、是等の鮎の比較上之
同本と云って居るに勤して、内容が小品と同一である を光讃.放光の抄出と見ることは出来ないのであつて、
ところからそこに疑問を覆して居るのである。この疑 後に之を道行経と比較する時に説明する如く、純然た
ても.出三蔵記集の新集経論録には摩討鉢羅君波羅蜜
る小品の略出と見るべきものである。且その綬名に於
安の本経に射する序は出三戒記集巻第八︵大正蔵、前端
経とあ少.叉遣安の抄序も摩討鉢羅若淀羅蟹綬抄序と
+
五二頁︶ に収められて居って.その序文に従へば曇摩
なつて居る。従て凍経の内容中には摩討鉢繹茸汝羅蜜
問は賓際常然起らなければならない疑問であつて、道
坤の執木の原本になつた大品は一部四首二牒l一十千首
鹿のものと云はれ、彼が贅際に計算した結果十七千二 なる用語が何良かに出て衆なければならない筈であ
百六十首慮と二十七字であつたと云つて居るから、彼 る。然るに現存の般若泥羅蜜妙経の内容を検するに皆
の云ふ如く放光、光讃と同種墳のものでなければなら 靡討般若波轟繁になつて居って、摩討鉢揮若改羅蟹な
なかつた。若し然りとすればその謝辞の上にも放光・ る語は一語も存して居らない。更にこの摩詞般若政経
ββ∂
蜜抄経の用語が曇膵蝉、竺彿念の共繹にたれるものと
して認められ得るか香かを瞼して見るに、この鮎に於
ても疑問がある。此揚合桑摩鴫と竺彿念と共謬と云っ
ても.丑摩坤は胡本を執ったゞけで嘗際の朔繹げ竺俳
念がなして居る管であるから、他の竺併合が筆受を勤
めた辞樫の用語とこれを掛比するならば、それが果し
七往来
世
耳
七死七生
天中天
王舎城
閥浮洲
摩河野
閲浮利
舎利子
鼓
行
想
受
色
羅開成
色
試
この用語例の比較から見て陛討般若改帝賓紗経は滝封
が相乗ると思ふ。この意味に於て軌本番は蓮ふが、・等
と之を比較するに、次の如き相違を蓉見するのである
に竺彿念辞とは見ることが出来ない。寧ろ色受想術語
合利弟
︵賛際の掛照は紗経の用語全般に捗りセるも、この封
を色痛搾思想生死諒となして居る数等より見て、西晋
味
五七
に貨際の摩討鉢羅苦渋掻苦経なるものは犬品の砂辞経
個のものであると云はなければならないのである。故
埠及び竺彿念共出の摩討鉢羅若政経賛軽妙とは全然別
代以前に於ける何人かの小品の評出経であつて∵塁摩
野革果上り云へば、現存聖犀河般若政経告抄経は西晋
照表は他の藩経の封臍表と共に別に一括して蓉表する
止める︶。
羅
便
埠一阿含
阿蘇討比丘
方
来
含
便
如
阿
方
整
来
中
阿羅漢
如
砂
湛憩拘舎擢
捏
捏典︵況担界︶
泥 督
般若小品の諦出者lニ就て
世薩阿錫
軽
代以前の辞出経と見ることを至嘗とする。是等の研究
舎 鼓行想受色羅闇大社世
から、愛では紙数の閲係上その最初の一員を掲げるに
しく竺彿念が筆受を勤めた中阿含及び檜一阿合の用語
て畳摩坤、竺彿念の共澤なりしや否やを判断すること
死想 膵
死
将
城利発生専
(‡
閲 浮 兼
又
利
弗
生 息痛
2β‡
般若小品¢請出肴に就て
五入
になるのである。此意味に於て、般若道行経、明度無
にして、加之も早く失はれたものとして現在の研究中
よの何れの澤経であるかをきめなければならないこと
り除きたいと思ふ。
愛に於て求めなければならない帝捲としては、支権
講樫、般若洗練茸砂経の三者の繹譜を比較する事にし
評、支牒謬、康拇曾葬、竺法護摩ぬ固辞があゎ、現ょ
在う︵次の比較表には什淳小品.法護葬光讃般若の淳
蔵経中に存して居る小品異葬経としては支諌穿と撲語
名を附記して置いた。此比較は後に必要があ急からで
光讃般若︵竺法謹辞︶
めの一巻と後の或部分だけを掲げた︶。
せる通行般若捷、支滞と撰名せる明度無権経と前鴻あ
のる。猶全巻の比較をなすだけの鉦鼓がないから、始
井村般若汲薯抄捷との三慕のものがあるのである
小品般若︵羅廿薄︶
聞知長
から、この三稀の謬経を併発してそれが其等のE家の
知見我閲
摩対比丘借五千倶
森阿武曹閣嘱山
︵盛唐坤誇︶
王舎城曹間鴨山
経
相知是
大比丘借千二百五十人
砂
過
千二官五十比丘
親閲祓普同幅山
行経︵支濃諾︶
大明塵無様縄︵支謙滞︶
無恥紙著聞鳩山
漸︵薄︶首菩薩
怒氏菩薩
須菩提︵賢者︶
他の薄儀に
てほ蠣む女
殊とゼる場
合纂ね多し
陳謝比丘樹不可計
簡勒菩薩
有事提︵詰︶
賢者舎利苑
雄
天中天、世寄
衆紘︵併の十鮨の場合︶
性薩阿喝
阿
舎利弗
寄
雛
地著汲羅盤
世
俳
阿
般若波羅蜜
文殊師利菩薩
御物菩薩
希書混
合利弗
般若浪費蜜
発着阿雛
恨薩阿渇
天中天
︵
大比丘衆不可計
瑚勒菩薩
和知盈
王含国井払山
泊氏博士
文殊師利害健
須菩提
敬
舎利弗
.
卵管撃
般若波線蜜
明度無塵
阿
雛
阿 雛
智、 座
彿恨薩阿鴇
天中天
加東大士
世 専 傍
2♂β
無辞三昧第一
善男子
菩薩摩討薩
族性子、族性女
望貞慧第一
善男子
寺女人
善女人
色
行空 第一
新撃大乗苫髄
薩
第一
色
新賛意菩薩
菩
善男子
新畢菩薩摩詞薩
菩薩摩詞薩
空貞憲
色
菩薩摩珂薩
菩薩大士
賢者子賢者女
族姓子族姓女
山汚行第一
色
新撃菩薩
善女人
色
哉
懲.
異単発泥
中
況
憲
道
担
段通人
況
担
想
識
行
先厄梵志
薩著串智
渡
道
英
智
中
彿十力
道
四無所長
十種力
彿十八不純之法
六
衰
彿十八事
五
六
陰
裏
五
六
陰
倍
四無慮智
鱒撫所長
六 根
陰
︵彿十八津不共之事︶
瓦︵盛︶陰
耶縛文陀弗
分持文陀尼非
分受陀尼如
五
富櫨郡浦多羅尼子
五 陰
分浬陀尼如
分轄文陀尼弗
郡郁文陀羅弗
摩討僧都宿直
要綱鵬習
腹討肩掛紺痙
摩河野三抜致諦
五九
大心東大荘脳
菩薩腹討薩善知識
喫河修那甘捏
履詞街三拭致
大乗三抜諦
四分別癖
十八不共請併之法
十八不共法
中
受
初認溝闇士
想
妬
行
識
鼓
薩芸者
泥 担
十種力
十種力
陳芸者
中 道
四無断畏
異外道
如来十力
四事不譲
四無所長
憲
四無所長
一切知︵智︶
死想痔
怖十八事不同
つ弓■
生息痛
四事不謹
死想痔
昇於大乗有
弘管之鎧
般若小品の諾出者に就て
邁担悪道若 死想拝
づ土■
中沢智外薩武生思痛
生息痛
藩男子、善女人
2β3
天帝揮
大 乗
焚多食天
焚迦英人
秤捉桓凶
摩河野
首陀給天
梵迦美人
粍拉桓囚
摩河紆
津居天
梵天王
梓提痕囚
大
繹提桓因
摩討街
六〇
発衆天
梵 天
首陀衛浄属
諮 天
闘士、大土
菩薩摩討薩
般若小品の詩出番に就て
梵輔天
菩薩鹿討薩
乗
闘士︵閑士︶大士
斯陀含
阿那含
斯陀含
須陀担
蟹同地
阿掃多蘇三耶三等
阿羅漢
阿部含
斯陀含
須陀担
聾
阿縛多羅三撃二菩提
須陀担
蟹開
溝 汚
拘
歴討迦栴娃
腱阿拘掃経
呵惟越致
辟支俳、絵像
阿羅漢、無者
阿那含、不達
斯陀含、往来
流布
阿縛多罪三耶三俳
阿部含
阿羅漢
恨薩阿錫阿部呵三耶三
彿
坂 東
阿捉沃
辟支俳
錬所著正眞道長正号
不 還
辟支俳
阿惟匪致
辟支俳
不退轍
阿見政致
摩討拘綺羅
慌戸迦
博
應 儀
阿惟趣致
陛詞拘節羅・
摩討迦栴建
弟子地
紘一党
磨何拘私
腔討迦栴延
恒河抄劫
鮮
無
果
拘
離
欒︵苦︶
常︵無常︶
果
恒逸沙劫
巽
恒逸沙
禦︵苦︶
沖︵不浄︶
常︵無常︶
沖︵不浄︶
虚
拘
須陀担
不退柑
摩呵迦栴延
繹−
恒沙劫
離
江河沙
休
数
好︵甑︶
欒︵菩︶
無
欒︵苦︶
無 籍
好︵醜︶
ββ4
我併︵非我併︶
我︵無我︶
空︵不空︶
我︵無我︶
福
空ハ不空︶
七征衣生死
是我所︵非我併︶
七往来生死
福
滅
般派檀
滅
度
一死一生
無籍無解
幻
般浬盤
減
一
便
死
田
不
具︵無風奥︶
七死七生
具︵無痛奥︶
不 動
般掘垣
悪知識
田
七死七生
一死一生
動
︼死︼生
滅 座
無背無縛無股
力
師
師
師
度
滅 乾
幻
巷
惑
帥
幻 人
菩薩善
無帝無稽無脱
不着不繕不況
菩薩意
不著不縛不解
慈 友
然
尊知識
性
自 性
薩陀沈滞菩薩
自
塵無痛阿戒鴻羅
薩陀波倫菩薩
本
菩 友
本 性
自 然
啓怒闇士
一切人
衆生︵︼切衆生薩和薩︶
薩和薩
六汲辣蜜
大鹿無塵
六︼
六汝羅蜜
ヨ藍
六汲藻蜜
酸
六浪羅蜜
生 時 猛語施康濁
柁波羅蜜叉ハ布施
衆伺 利 愛布四虫
掩波羅蜜叉ハ布施
典金欒施事
布施波羅蜜
等 餞軟布四
櫓汲濡蜜
等餞秋和四
般若小品の浮出者にこ就て
布 施
典金策施事
法楽闇士
生 典金 柴施徳
大鹿無塵
衆等 俵勘布四
26∂
持
忽
綺
戸披露蜜
毘梨耶波薙蜜又ハ精進
届拉波薙祭文ハ忽辱
戸綿波親祭叉ハ持戒
惟速波羅蜜又ハ精進
展波羅蜜叉ハ忽辱
戸没羅蜜叉ハ特城、行戒
六二
戸波羅班
惟連破親密
囁波羅蜜
般若小品の許出費lこ就て
尿堤波辟怒
群汲羅蜜叉ハ祀定
討三耶三俳
惟逮汲流麗
膵液薙蜜又ハ群定
群汝羅蟹
法
藤波罷蜜
碍
空
不
繹迦牟多阿喝阿羅
無想︵相︶
般若汲羅蜜又ハ智慧
般若故郷雀
相
作
空
空、空無相
無
無
般若汲罪賓叉ハ智詰
般若法認蜜
無
触麒、触⋮顔三昧
空
願
智
空
相
四 衆
比丘、比丘尼
優婆塞、優嘩夷
断
勅
碍迦牟尼如来
無
無
四 輩
比丘、比丘尼
優波塞、優婆夷
能儒︵如︶如束
相
無
比丘、比丘尼
優嬰塞、優埠夷
樺迦文
燃蛭併
四.部
四 部
陰謀衆、除鮭女
晴信士、清信女
砕迦文
捉和鴇絃悌
受 決
受 訊
提和堵雇併
決
託
定ハ鑓︶光俳
帯迦文
授
甲典併
決
叉
想 於於志
問浮掟ハ地︺
於併於法
於僧得信
夜
路拘巷衆経於
閤浮提
受
閻浮利
信仰信法
十善道
信比丘僻
授︵受︶決
闘浮投
信彿信拝
信比丘何
十
巷
十
方 便
四 膵
膵
四 渾
四 諦
五 旬
湛悪食羅
四
諦
請天人寵
国 見
五紳道
東天龍
遇想拘舎羅
誠
信併信軽
信比丘膚
十誠︵痕︶
四 糞
四
般連句
四抜管 .
空五通
講陶叉鬼紳
諮天人誇龍
βJ♂
辞天人鬼瀧
四湛十念念発
定 邁専政
誰願唯物鬼耐
諸耗陀隠鬼紳
諮劫櫨痙鬼紳
阿頚倫
諮乾陀羅鬼紳
人非人
便暇休︵勒︶
叛
陀
迦櫻羅
阿須倫
腱陀羅
人非人
療曙兼伽
安部綻
迦櫻羅
阿修羅
乾閲婆
この表の上で見る時は大明度無極経が最も古い用語を
い。乍併.是等の評者の中支識を除けば支謙が最も古
度無極経が支講評であると考へられなければならな
︵勒︶
諸人訴非人
使用し.般若道行経と控討般若波轟帯妙経とはその用
いものであるから、現存小品の中最も古いものが支謙
はれて居ったかも知れないのであるから、単に三者の
語例が略々合致して居る粘から、飴り時代を離れざる
兎に角、囲名の評者があつて三木の謬本があつたと
中の最も古いものであるといふ意味だけで、大明度無
謬で、それより古い形を持って居った筈の支講評は失
するならば、其等の澤経中位も苗陛を存するものが最
梅経を無條件で支識詳と査定することは出来ないであ
†時代の霹経と考へられるのである。
も古い評者に配富せらるべきことは自然の順序であら
らう。︵未完︶
碁
碁
うと思ふ。然る時は現在支評鐸と沸名されて居る大明
般若小品の詩出者に就て
β67
座元便法事輯の遣痔門︵上︶
詮・・
来
代宗
教法制
野
六四
なからうか。此書は富木のみで俸ってゐ七.、本邦に於
可成り時代は降るけれども、現存する最古のものでは
牧
の一資料−1
慶元健法事類のこ池澤門︵上︶
−
■ 序
慶元俵法事類は南宋の法典であ少.遥拝門は掟法事
類中の邁祥一義に施する部門である。一脛、支那に於 ては恐らく静嘉堂文庫に陸心源氏十萬怨楳蓄蔵の一本
載して簡畢に註解を加へることにする。本篇の穿表を
て俳道二敦が努力を得ると共に、次第にそれに封する が存するのみであらうと思ふ。故に次に原文を逐次分
団菜的法規が制定されたことは.史停によつて知り得、
ることであるが、此等法規原文は殆ど凡べて亡伏して 快諾して下さつた静嘉豊富局の方々に謝しては深謝の
丁つて、僅かに講書に引用され略祝されてゐる肝にょ 意を表するものである。なほ原文には註解の都合上香
ては一席の義仲椿に基くと耕せられ宗邦養老の借地
を切に巽ふ次第である。本文に入る前に簡単に此書の
には誤謬遺脱が定めし多いことであらう。多方の是正
って其の概略を斌ひ得るに過ぎない。此の意味に於い 城をうち且つ句読反鮎−品転読鮮並びに句讃反鮎
今は、支瞥姦法制研究の上にも貴重なる参考資料で
性質を詮明して置かう。
︵一︺三浦周布博士著﹁法制史の研究﹂申の﹁侭尼に開†ろ浅
あると云はねぼならない。而して支那固有のか1る纏
︵二︶
った文献としては、此の慶元旋法事類の道将門こそ・
2♂β
謂濾肩林が唐に於ける其の本来の名辞であつ圭か香かlこ
律書﹂ハ東洋畢報第十八巻第一舵併載参頗。LかL私は所
別の起渡﹂、並lこ満州政次郎氏の﹁令集解に見えろ唐の法
色﹂ミみるのみで、義解lニl‡﹁其俵内教、奴埠者不評出家、
人奴掛等、著有出家、後犯還俗⋮⋮:並迫持脊主、各俵本
ミ云び、殊に第二備については、養老今lこは単に﹁凡家
のは、前記自氏六帖併引の南部梯が二條共に﹁別勅﹂云々
而此締出哀者、緩英人道、免桟奥度故﹂ごわり、集解lニも
は疑がぁるご恩ふ。少くもそれl三尊邁の格lこは含よれて
ゐ兄い単行甲特殊光格では尤かつたのであらうか。私め
ざき甲してゐる=ミでぁる。一健.合集解席引の註梓警
﹁秤無別也﹂ミ云って今秤の解も亦義解寺岡Cでぁつt=
は、落居格、本格、庶路等三宅ひて、道修格を引くこミ屈
かく兢ふ理由は大憶次の如与ものである。
てぁる。︵同僚仁井田陛氏の教示による︶
自氏六帖︵巷二十六︶にほ次の知手二俵の詞都路が引用L
南部格、王公巳下弟、別勅許度人者、親王二十、三晶巳めて多きに拘らす、自氏六帖併引の南部格に明文が存す
の道修賭そのものlこ此の規定が克かつtからでわらう。
上三人、並須亡者子孫及要應、並通取周親筆腰、不頚試る併の﹁部曲奴娩不許出豪﹂のみに隈つて、内敦む云々L
発、若敷不足、准見在度、如有償冒、不在原首之隈、 本格を引か互いのll何故でわらうか。恐らく=れli唐初
かく考へて行く亡きは、唐初の這惜格托自氏六帖の南部
†るこ寸しミ叱る。然るlこ、此鳥にもう一つ上記の想像を
格に相嘗†るのでl‡布く亡て、南部格断引の別勅に相嘗
飼部格云、私家部曲客奴押等、不待人革如別勅許出家
此の第二條の後年ほ養老令lこも相欝候文がぁるのでぁ
稜、犯達俗者、迫蹄菅生、各俵本色、
る。而Lて唐大典︵巷六︶江によれば、開元昔時には格ほ
名例律除名比健三年條疏議lニ引用Lてぁる併の
基書きするが如き革質がぁる。それほ故暦律疏議ハ巷三︶
俵格、藩士等職者俗服者、蓮俗、
何者省二十四司の名を冠する二十四鍼に分れてゐ主音で
俵格、道士等有席門数化者、百日音便、
ぁる。六典によれば南部格はわり得るが這爾賭けあ両得
ない。・しかL、上述Lた範幽内では未だ私が先に述.へた
に相場Jて居られる様に、則天武居以約のものミ考へら
棲互結論lェ出て来光い。道僧格耽る名稗に、瀧川氏が眈
す丁して引用してちろ=ミでぁる。以上の二條文は塾老今
には道士等わ肩尼lこ作り、且つ第一候の遠俗わ官日音便
光る格が、采刑統︵筆ニ︶の相嘗個所でほ二條共豆﹁俵制﹂
格ご稀ぜられわものが開元以後飼都路き改科され圭ので
六五
亡†る外、全く一致するから道修格の後月叱ろ=軍ほ疑
座元條法暮類の遁碍門︵上︺
わらうミ云ふこミだけでぁる。Jか・し此虞に問題に光る
れる。故に上述の範囲で考へられるのほ、恥に膚間道甘
○
2βタ
六六
の源流わな†ミ考へられる苓庸香高軌本紀、武徳九年夏
犀元條法事頼の道将門︵上︶
ない。︵唐六典巷四淀lこも﹁著脱俗衣:⋮⋮漠俗﹂ミぁる︶一
五月辛己條のヽ
居住、給衣食、勿今乏短、共有不能精進戒行者、有閑、不
00
塙供養者、並令罷注、各達桑梓、所司明焉條式、務俵法
諸侭尾道士女冠等、有精勒続希守戒律者、並令大寺観
億、膚では開元二十五年に律令格式な統一的に改修J、
それが来朝まで略.共感循用されt。故唐律疏譲は即ち
教、連利之串、悉宜停晰、云々
この琴空一十五年律疏でぁり、宋刑統ほこれを其俵取入
は︼寸考へる旦讐鱒し難いこミでぁる。私ほ=れを開元
十一月招日、⋮⋮:比問多有付従淘於流俗、或仮託鬼紳、
されろ所の彿沌席代邁載︵希十一︶併載の、長粒九年、
ミ云ふのも、又溝川氏が以て道修格の編某lニ相嘗†るミ
妄倖妖怪、成語稗撃巫友達求利、⋮⋮凡此等類大麻聖
0
れたのであるから、両者の問に此の如き差異が存†るの
〇 二十五年律疏に比元就﹁制﹂ざわつtのが、故唐律疏議で
何故光らば、現存の故唐律疏議は元代の板本の系統ふ引
−‡後世へ博来する間に格㍉直され圭ものモ解梓・しゎい。
ゐろ激が多々ちるからである。︵此等の鮎lこついてl工、
くもので、板木写してli采刑統の方が古い形式を戎Jて
ぅから、開元二十五年には遺骨格の後月は少くも格でに
い︶。自氏六帖の岡部格も、恐らく開元二十五年格であら
東方挙動、東京第一那、第二那併載、わ参照ぜられ㍗
れを遣侭格でぁるミ推草して居られるが、これま王水薇
ぁつて、支那の文献には見えない棲でぁる。光lほ藤原佐
を指摘Lて置かう。道修棒先ろ名琳は日本の文献にのみ
ミ云ふ記事も、皆健式傭制等ミぁつて、格ミほない=ミ
の格這別光単行法各でぁつたら.しい。︵三︶それは、故
凱
教、陳情萩譲蒋、必触覚貸、自今宜合併司俵附六律、
00
丙申参以金科、明盛便利、
00
て行く主我々は更に養老愴尼令中に﹁加平使條制外、複犯
格五巻、率挑格二号開元格十巻、同新路玉食、同級格
同僚仁井田陛氏ミの共同論文丁改暦律疏議製作年代考﹂、
罪不至還俗者﹂なろ句ね費見すろ。=ゝに﹁令﹂ご克く・し
の様に宕諭し告い。︵一︶日本文献に見える庸の覚悟格な
九巷ミ江別託されてゐろ。以上述べt併によつて私は次
克くて﹁制﹂でぁり﹁別勅﹂でぁつたのでわら、つ。かく考世
への日本国見養育日lこは骨格一巻ミぁつて三浦博士は=
此令元是格、故云制也﹂寸Jぁるlニよ?て明らかでぁる。帥
て、﹁健制﹂ざぁろ理由ほ集解析引の合評に﹁候制、格也、
制が本名では発いか。︵二︶少くミもそれは最初から一般
る名稀は草して本名でぁるか否かに托疑があろ。寧ろ條
寧ろ條削が本名冤のでl‡先からうか。光ほ恐くは道修格
のでぁる。合樺は格だから制ご云ふりだビ云ってゐあが
ち此の條利光る語は唐制の原文がそのまゝ戎存亡てゐる
○
碓製作年代考参照︶。かくの如く唐では碍遺二故に就いて
︺、恐らく宋初まで使用され㌣らLい。︵前記、故唐律疏
ゐる揮ねみろミ開元二十五年の法典整理以後も効力を有
庸律疏誠、宋刑統、自氏六帖併引の南部格等に引用されて
−ニぜよ、賓†ろに本書ほ後lニ述.へる斯lこよつても明かな
憶にこ朋すろ欠鮎でわる。,しか・し、かゝる不完全さはわろ
そ¢ものの欠鮎でぁり、第二の欠鮎は僕法事横縞慕の仝
む全部容げてゎたか否かlェ疑Jい。第一の欠鮎l王道繹門
与し候法事類全能が悟ってゐたミしても宗教閻係の法規
通り、官吏の国東の便のために、漑ハの編者が造攣一散lこ
本沓の償値は=れのみで既に細大尤ものでわら、つ。
関係ありミ考へ㌣法規を琴攣し㌣官撰の法規集であろ。
lこ単行法令を作つてゐたのな、宋で托合中に這押合な設
は根本法典上る符合た於ては殆ど僅か︺か締れすに、別
っ㍗。円本に於ても、一般に刑常に言及L互い=軍を原
則ミする統二を破ってよでも、唐の単行法合を修厄令ミ
Lて合中に取入れてゐる。宗教法規わかくの如く別物故
ひlこ†るのぞ然らざるdヽ何れが宗教を寄零すろ=ビ∴トニ
なるかは別間毯ミLて、兎lこ角托日†べ与坦北でぁるで
考へられろ。唐の制度‘‡六朝のそれを受け蔽いだもので
わらう。菅、染、特等の律令の題目の今に僅へられろも
のには、常道紺の=ミを特に規定仁王倍日はない。
︵二︶かく云ふ=ミは決Lて道秤門が全然遺漏の兄い完全な
一に本新米lこ集線Lて置い半襟lミ本書の他の部分に存
ものでぁる=ざ学窓味すろわけではない。それほ発づ弟
する道僧脚係法規の覚要尤ものを欠いてゐろ鮎に於て、
不完全でぁる。従つて本琶の陶侠・し主部分にもまだ′\
我々の知ら互い法規が含よれてゐたかも知れ互いのでち
る。第二にそれは度疲らこミなやか草しく云ひ溌がら、
如心の度牒の形式を現げてゐない粘光ビから考へるミ.
座元惟法事類の這商門︵上︶
月一月煩行、賜義條法事類、
また宋史刑法志に﹂
六七
華佃鮒二歩恕門三十三如門四冨二十夢明年三
法糖類↓膵事分再、纂夢一章七年五月二十八日成
詣敷、乃詔勅局或覿令格式申開醸倣東部七司焼
義女、今若分再編次、来l政一鹿︰則調垂悉見.史不
︵淳照︶六年正月庚午、櫨雄葵、士大夫寧海象律︰吏得
一腔、條法事墳なる法典は、玉海︵巻六十六︶に、
つtに過ぎ塞い。原著は九行二十字詰でぁろ。
ちつて特に行を改めてない併は、本誌の印刷の字詰lこ従
行以外か二享下げてぁろ併を和行並に直L、叉、原書に
︵三︶以上の外に原寄に奨更な加へ圭所ほ、原書にあつて初
け、英他、勅・格・式でも一層詳細な規定を設ける棲にな
β7J
一軍冗便法串頼の近侍門︵上︶
とあるのは、年代、編者より見れば同一書であ少、単
大入
之︰凡卿改丸首飴條㌫野淳麒勅令鱒式帝復以,其審
に其の編纂年代によつて茶番と名附けたに過ぎないの
y併引及刑統一也、
散喝用y法之際、官不r畷森閑︰吏凶得包容︶姦、今融
であらう。本名は慶元旋法事類であつたと思はれる。
臣僚音、乾道新書伶多転借︼、宙声部倍音秦光一辞−衰
合肝ご訂門編レ煩、夢一軍名日海燕繰法事頬︰前庇
而して慶元と名附けた理由に就て、近代の萩書志煩
た吏部七司條法線顆の形式に倣って、勅・令・格・式及
肋・令・格・式が閲覧に不便なために、常時行はれてゐ
とある通少、南宋の孝宗の淳無年間∵常時の法典たる
三日、上二慶元條法事頼国有三十七聾者目云ム八十重
000000
元年詔編真筆﹂とあるによれば、夢前年代も亦嘉事な
ってゐるが、玉海.︵巻六十六︶に、﹁茶事二年八月二十
は、奉前の年が慶元であつたから慶元と名附けたと云
︵円︶
法令之節奏有也、朗年七月鏡レ之、
び申明の五番を一つに整め之を分類し直して作ったの
ること明白で、慶元勅令栴式を基礎として編纂したか
へ五︶
が最初である。寧宗の慶元年間に淳照の軌・令・箱・式
ェハ︶
を改修すると、條法事類を藩政修して嘉泰二年に其書
ら慶元と名附けたのであらう。現存茂木の内容によつ
史本紀
てみても慶元勅令格式の成った壁詣年九月︵ 采
並に玉晦
倣▲七司鰹亦レ門修鄭、別琴一一章以垂類−頒y名.至基.
表上、初史部七司有顔法線琴淳照新書既成、孝宗詔
暮春條法事類八十巷、天#謝探甫子庸等、古事二年
元繰法事叛こと見えてゐる。故に直穿百錬解短に、
深甫等、上薩元條法事類r同三年七月辛東條には﹁歩度
宋史整文志に八十七春とあつて、各々異つてゐるが.
十七巷、直努書録解題並に玉海併引の書目に八十巻、
されてゐるのである。なほ本書の巻数は玉海に囲百三
るに係らす、巻由十八に二度引用されてゐる嘉泰元
00
年六月十四日勅に限って綺附戸婚申明として特に院別
“墟︶以前の申閑はすべて名例申明、戸婚申明等とあ
成った。宋史寧宗本紀、寡孝二年八月甲午旋には﹁封
夢慶元新葺俊足頗降、此音便敷瞼間引用︰惜乎不
芝7β
しかない。愛日精庶蔵書志、蛾琴銅剣棲蔵書志、善本
︵職制門七︶、巻十一︵職制門八︶、巷十二︵職制門
制門川︶、巷八︵職制門五︶、巷九︵職制門六︶、巻十
門一︶、巻五︵職制門二︶、巻六︵職制門三︶、巻七︵職
名詩、避名稀等の別門を含んでゐる︶。巻川︵職制
巻ニK巻音数菓を欠き門名不明である。限飾券物、
みると、此書は巷八十で完結し、直封書錬解題、玉海
の書籍に於て最後に配せられる部門で終ってゐる併を
最後が、刑獄.常頗、取制、壁夷.畜産.経と、多く
本が既に残閲してゐたことと思はれる。而して此書の
泳本も同一ケ屏が開けてゐるのを見ると、共通の組
書室蔵書志、邁南武書志、江南厨書館善本書目等の著
静嘉堂本は残関本で、
九︶.巷十三︵職制門十︶、巻十囲︵選拳門一︶、巷十
屏引昔日併載本と同一種であらう。但し、慶元前の淳
無僚法事有が四盲二十巻︵玉海︶、又慶元後更に改修さ
によれば、玉海の四育三十七巷説も一概に否定出来な
れた淳南條法事額が四百三十篇︵宋史理宗本紀︶とある
二︶.巻三十二︵財用門三︶、・⋮:寧二十六︵庫務門
い。淳照焼法事類ぼ総門三十三l別門卯即ごご掴轍鮒
︵財用門
一︶、撃二十七︵庫務門二︶⋮⋮巻川十七︵賦役門
︵刑獄門捌︶、春七十五︵刑獄門五︶.巻七十六︵常脱
二︵公吏門︶、⋮⋮巻七十三︵刑獄門三︶、巻七十四
巻五十︵道澤門一︶、巻五十一︵蓮梓門二︶、巻五十
する別門を含んでゐるから、別門を各濁立に一巻と計
らう。今停本は一巻中に少き竺二つ、多きは九つに遷
薮を有する本は、皆別門を直ちに一巻に教へたのであ
首二十巷と一致するから、恐らく上掲の四首以上の馨
王滝巷六十六
雑記甲集巷四、
︶あったと云ひ、別門数が玉海併拳の四
門、巻七十七︵服制門︶、巻七十八︵㊥夷門︶、巻七
六九
算すれば、全鰹で咽首巻以上になるのは必しも難事で
座元健法事頬の道癌門︵上︶
十共著産門︶、番人十︵鮮門︶、
000000000000000
一︶、巻園十八︵賦役門二︶、巻川十九︵賦役門三︶、
禁門二︶、巻三十︵財用門一︶、撃二十l
寺門二︶、︰⋮・巻二十八︵権禁門一︶、巻二十九︵梅
.一一︻
五︶、︵選畢門二︶、巻十六︵文書門一︶、巻十七︵文
j灯3
慶元條法祁桶の遭痙門︵上︶
住
巷第五十一
はない。八十巻本と期首巻本とは畢に巷の分別法が臭
ってゐたので、内容は恐らく大差なかつたものであら
道将門二
少な残本とを除いて、宋代の法典が全部侠失して丁つ
供
行
束
帳
遊
勅・格
勅・今・格・式
勅・令・格・式
勅・今転・式・申明
七〇
た今日、紳宗以後著しく面目を改めた宋代法典の大貌
約
夜
勅・令・格
勅・今・格・式
は腎に本書む通じてのみ知ることが出来るのである。
亡
犯
持
而して春五十並に容五十一の二審になつてゐる遣繹門
錐
︵七︶
う。宋初編基された宋刑統と未来の更部條法組敷の僅
が、前は谷川十九の賦役門、稜は巷五十二の公吏門に
以上、門目下に勅令等とあるのは、其門内に其等が
挙げてあると云ふことである。一位、南宋では紹輿・
挟まれて、完全に保存.上れてゐるのは我々にとつて何
よりも率なことと云はねばならない。巻首に存する日
乾遥・淳無・慶元・淳蕗の五度勅令格式を改修した。本
勅・令・格・式・申明
勅・令
に於ける王安石賞と司馬光義との衝突を調和するため
之を察することがⅢ来る。又、南宋の勅令格式は北宋
ないであらうから、本書によつて南宋の制度の大隈は
けである。しかし、其等峰改修されたとは云へ大差は
書は即ち此、の第四回目座元の勅令格式を含んでゐるわ
︵九︶
蝕を樽載すれば、其の欄門目は左の通り十一ある。
巻第五十
遣将門︼
勅・令・格・式
に、王安石執政前の昇砧の療法と王安右派の編姦した
紙 法
師戟腔牒
勅・令・格
政和の勅令格式とを調和して出来たものである。故に
1.試控横腹
遵法剃度
和・令・式
︵一〇︶
受 戒
374
本書には.後忙述べる様忙、北宋時代の邁制と思はれ
定め圭ものでぁる。式托﹁彼をLて之に効托Lむ﹂ミ云
る人の死にほ如何光ろ喪に服すべLミか云ふ様な=ミを
指
載Lてぁり、それで、それ以前の勅令格式を改廃補充†る
年月は記載されてゐないが、申明lこは必ず澄明年月が記
にも申明があつた=ミは明かでぁる。勅令格式には費布
申明がぁり、永柴大典本東部條沃化ごに上れげ少J、︼b今
で、本書にl‡情動申明Lか収められてゐ克いが、刑統lこも
でぁる。此外.申明三宅ふりは、﹁申べ明らかlこ†る﹂り
ふのであるが、多く事培規定、特に等式を定めたもの
るものも可成り多い。なほ南宋時代には宋の勅令格式
と相並んで贋律が未だ生きてゐた。これが直訝番線解
題が條法事煩を許して﹁惜乎.不振ニl及刑統一也Lと云った
理由であ鷲故に私は本管於ては直密書鉢解蟹の此
の批評に従って、律のこれに囲係ある部分は必ず註解
中で言及することとする。それでは懲t本文に入らう。
様になつてゐろ。︵座元條津事頼仝他に含よれてゐろ勅令
議製作年代考、東方畢報、東京第二那、七五頁参順︶。
格式申明の筋目條敦に就ては、仁井田、牧野、敢唐符疏
︵四︶玉渦l二よれば六年に舶墓を辞めた三石ふ・し、邦灸以来
朝野餓亀甲塑毎由lこは﹁七年初月乃成、線門三十三、別
たので、菜食要、食貨部漕蓮笹六が産元條沫事短から全
疏議製作年代考を書い六時lこ托未だ本書な見てゐ先かつ
天現わ想像するこミが出来る。セほ、栽は前記、故唐律
彰印J㌣本邦富岡氏蔵の永典大典本真部條沫により其り
︵六︶東部催法比類については、羅振玉氏が雷石塵湛書中に
門四宵二十、招硬行之﹂ミわるから、宋姐刑法志ら﹁四
年七月埼之﹂ほ取りでわら、つ。宋史孝宗本紀lこほ﹁汚照
確立され否もゐ
閏年七月甲子に﹁桃搾取咋推知合格式﹂ごちる。
︵五︶勅令格式の隋分l‡紳宗の元聖年間lこ
で、紳書に其の紀我がぁるが、その原則ほ後lこ奉げる具
憬的な例によつても明か克通り、要†ろlニ、
で、勒li唐の律の如く、巳に搾を犯し王者を泊†る刑法
が、︵前場論文、八〇黄参照︶今更部絶類を検する寸1全く
ら取られたものかも知れセい三宅ふ疑を存Jて定いた
部撮銀L㌣もので、=れによつて現在の確閉の一部和補
撃於此南逆義之票謂乏格↓撃於些両便哀効乏、
珊昌之式り蓼■於未然↓謂︼乏竺夢其巳然り謂土之勅︰び締る、主な論じ圭際に、或は=れが東部條法線頬か
であつ㍗。合止﹁未然l二禁する﹂所謂敦令的法規でぁる。
七1.
照代﹁彼の至ろわ逆ゆろ﹂三富ひ、例へげ箕格ミか風刺格 東部特有の接合のみを含んでゐて、債法事類ミは全く内
ミか、如何光ろ卓を†れげ如何なる賞なやるミか、如何尺 容を異lニする=ミが分つ圭。来室要lェ條沫事頼から取つ
度元條津事頼の清輝門︵上︺
lO〟
座元候法事頬の這樺門︵上︶
たこモーェ疑ない。序でに附申して置く。
れるもの托各円首lこ簡単光根要がついてゐろ事だけてぁ
︵七︶前沌併記の東部便法を槍†る寸J、本書・〇り多いミ思は
る。此外、申明lこ、随勅申明のみで克く他の申明があろ
法
一二〇−一二一束参照。
組
遺将門一
門
七二
何、同一成されたこミについてl‡、前掲論文、第二那.
二
巻第五十
櫻でぁるが、それにJても申明だけで八十巷が四首巻以
上lこ膨張すろミl‡思へ布い。采敷番文志ほ可成り訣が多
勅・令
線法
枚一嗣レ財政蓬俗、
何語童行奥レ師相犯、諭細島師弟律︰不レ入▲十寧郎蓮∨
井避′罪戦u、或犯貞私罪徒・公罪流井編管友再犯私罪
間者道犯丁寧詐奉唱財物重職︰若博購及故欧義人上
揮諸芸夢野蒜麺俗南争恩原章票俗、餉施蛸壷
間諸膝レ購入、夢伶夢而争邁俗呑▼不ゾ在比誌晩熟之例︰
綱誠抽重量徒苧惑臍、
宗雪犯私罪枚挙東雲鍵犯簸私罪杖、猥柵政
綱細岡、
川諸蒋l観寺呑.宮院同病■励道一考尼女冠句碑一一室首一着
名例助
勅
いから其¢八十七馨三富ふのも飴り信用ほ出来兄い。か
では互いかミ息ほれる。.
う考へる寸\現存の條法事頼は先づ完全lこ残ってゐム¢
︵︵︺前任所載の吏部條法線頼は永楽大典本で、其の巷一四
六二八及び笹一四六二九の二審′しかなく、関陛、改官、
磨勘聖二門を含むl二過ぎ克い。︵累氏の灰l二二巷二門ミ去
甘の二門、啓一四六二八に顔勘門が含まれてゐる︶原著で一
ってぁろのほ同邁でぁろ。間際ほ巷一四六二八に開陛政
は暇に=れが四五巷l二化つてゐ㍗ミLても、仝鮭で四十
希わつ一昔の東部線蛎のほんの一部に過ぎない。
︵一〇︶同右。
︵九︶先史刑法志、文献邁考、荒海等参照。
︵〓︶末代lこ唐律が勅令格式ミ相並んで行はれてゐたこミlこ
就いてほ、前端故舵律琉議製作年代考、第一那、一五一
頁、一五入頁、第二鼎.六〇−八〇頁参照。栗刑統が虐
待わ主要部分ブ丁して其億取入れてゐろ=ミについては、
前謁論文、常四節参照。な‘ま帝宋に辞ミ刑統ミが塵−洗
β7♂
璧若鮎謳冴丸論衰師罪敦読者、蓋、泄鯛レ猷
者俵五
木法可
令
遣辞令
印譜寺私通垂節︰應レ進ゾ疏者、聴y伊遮、
抑諸六品以上官女及孫女拍家考官智行琴聴−不レ赴.
は、
新興三年二月、度山道法師、申創部省碑、集札之後、遭士印冒
資品、林荘素王沖法華、湖南府薪甚衆、連合遭士官居借上、埼
康建炎、遺土成甘自行迫毀、而阿忠行菅、寺院合資、猶敢倣鵜
00000000000
原上、其蔑戒圃法、有著此者、今欲復還組宗昔制、偲史将兵載
毎朝奥付先遣後、・・⋮⋮叉槍鱒嘉前端赦弁解輿新車、並以修道
0000
立文箱吹、其政和候内道修凧寺及道士、位在階上、艶己湘去不
行、零穿朝旨、依催改正、以隠居士︵伸融統紀巷四十七︶
尼女冠等一般に彿が道Q上にあるに反し、︵発一條に叡
本門名例勃
然るに本書に於ては法文内容に於ては府道、寺概、
上に書いてあると云ふのである。
南宋で出来た招輿勅令格式では、府道と審き伶の方が
拘許侭逆夢封訟寺職内野者、許誌童首︰主首不ゾ可レ坪者、
とある。即ち此文によれば、政和の勅令格式に於ては
中速官司︰
遺脂耗寺等、道の方が伶の上に置かれてゐるが.高藤
・㈹藷偲適量行仙野許一蹴幻被刑事者、筆耕逓司︰具完犯■定
編動、並びにこれと政和勅令格式とを封修して新しく
奪保明中主何番刑部︰
㈹爵府道不‰得−受恕廠以上食長押︰
断獄令
Ⅲ諸伶道犯私罪︰晰花、以所池月日刑名︰批毎度牒妻印
給速、
㌣めかも
︶編名峰道輝門、遺#令、毒式、道輝格等骨
知れ狩。
根銅器謂瑚博㌍ほ噌憎
紀︵巻四十三︶によれば、﹁開架五年、訝、府道毎常朝集、
︶
︹註︺先づ遣将門なる門名からが問題である。俳弧統
偲先道後、並立殿庭﹂とあり、其後−微宗の際、遺士
道が彿の上にある。これは↑篇名を直し残したもの
の位を他の上たらしめたことがあるが、南宋になつて
か∴蕗元前に又道が彿の上になることになつたか、
︵
七三
犀元鹿渡事頼り法梓門︵上︶
β77
︶
摩元條法事頼の溝搾門ハ上︶
三或は座元後に道が彿の上になつて、荒名だけを直し
︵
七四
とあるのは名例勅第一條に表現にこそ其れ同じ事を蓮
a︶
す﹂と云ふ律は、第六條の﹁論如師弟子律﹂と云ふ効と
と弟子との関係を伯叔父母と兄弟の子との脚係に比
︵〓︶
て法文内容を直し残したのか、或は又瑚後人が膵手に べてゐるから問題ないが、其の次の﹁耗寺に於ける師
′■■lヽ
篇名だけを蹟倒したのか、今は明かでない。
次に法文内容に進まう。勅は厚誼息に述べた様に
刑法であるが名例軌のみは線則であるから刑前が記し ﹁不同﹂であるから無欲である。一際、此の第六俵の
てないのである。節一雄並に弟六俵の一部分は唐名例 ﹁篤行輿師相犯。論如師弟子律﹂なる規定は同義語反杏
謙稲占遣士女冠脊.伶旭同.若於衰師一撃伯叔父母由、
業而非私畢者.信業謂痙業、非私拳、訝弘文鯛子州踪等拳.
畢者﹂と規定し、更に疏議には此事を解して。﹁取席偲
︵三︶
の如く見えるが、唐津では師とは﹁謂服僻隠業而非私
其於由子爽兎弟之子向、糾寺部曲奴脾於三網奏−1壬
〇〇〇〇〇〇〇〇
私畢者、郎穏云豪有塾薫有序之塀、如有相犯、並同凡人﹂
律︵怨六︶に、
之翌由、飴道士輿重義腕︼旦押通通⋮者
講黎師例蒼顔紳、摘鞄琵諾上・律無鞄
閲係は座元旋法部癒刑獄門所収の名例勅に、
眼中にない。故年前記名例勅弟六條は寺戟に於ける師
犯すあれぼ、並に凡人に同じ﹂で、律に於いては何等
のである。私塾に於ける師弟閲係の如きは﹁もし相ひ
とあるのと寵復する。一般に宋代に於ける待と勅との と云ひ、全く官立拳揆の膚畢の師のみに限られてゐる
及例不向者、従き勅令l
とある通少、勅令と待と不同の場合、若くは律に規定 弟㈲係を官拳に於ける師弟甜係と同徐にすることを意
なき場合には勅令に従ふけれども、逆に勅令に規定が 味するもので、決して畢なる同義語反覆ではない。然
なく律に其の規定がある場合には律が生きて来るので らば、伯叔父母と兄弟の子との関係と官拳に於ける師
ある。故に前端名例紳に於て、﹁覇道士女冠者伶尼同﹂
弟の関係といづれが親藩かと云へば、勿論伯好の閥係
27∂
かセ毎を加へても杖八十であるに勤し、伯叔父母を
見受業師加凡人二等﹂とある通り普通が杖六十である
である。例へば官畢の師弟の関係は闘訟律には﹁郎橿傷
ば絞罪に威せられること、伯叔父母に等しい寺観の師
に謝し、一般人に等しい官拳の師が弟子を奴隷に覚れ
戟の師壬は弟子を奴隷に棄つても僅かに徒一年牢なる
大差を物語るものである。而して師を殺せば律に於て
圭を弟子が告訴すれば賛際罪を犯してゐても徒一年中
より郎幼を犯した場合は特に軽くなつてゐるのに謝し、
は十悪中の第九の不義を犯すことになるが、これさへ
殺伽すれば流二千里に虚せられる。即ち此間には七等
師弟の抑係は一般に云って他人の閲係であるから特に
も宋勅は﹁不入十悪﹂として十悪に入らないこと1して
に威せられるに謝し、一般人に等しい官畢の師は謹告
明文によつて規定されてゐる屏は摘めて少く、前記の
ゐる。・これを律に於て伯叔父母を殺せば十悪の第四の
の大差がある。親族の尊卑関係を厳重に維持しょうと
際傷の例によつてみるも一般人の場合と大差ない。殊
悪逆罪に入ると比較すれば、此間にも亦大差があると
さへしなけれぼ無罪であること等、皆﹁伯叔父母に比す
忙紳には弟子を犯した場合の規定は全然ないのである
い監ばならない。︵謂㍍指摘誤瑞︶しかもト
した庸律に於ては、伯蛭間の相犯は至る所に特別に規
から.此の麹合は全く一般人に等しいのに反し、若し兄
宋助は、律に於いて親鳩舎長を犯した場合の方が一般
一る﹂ことと単なる﹁師弟子の律に比する﹂こととの間の
弟の子に等しいとなれば、憤りに前記殿傷の場合をと
人を犯した場合よりも軽い唯一の場合である伊の財物
定され、卑幼より令長を犯した場合には特に歪く尊長
ってみれば、単なる傷では全く無罪であつて殴殺して
を私用した場合に限っては、﹁諸相邁及童行私用本師財
●■
丁つて始めて徒三年の刑である。これを一般の殺人が
物者、給如卑幼覿用客﹂と空してゐる。︵詑門︶
︵円︶
死刑に鬼せられるのと比較すれば、其間には資に大差
即ち宋勅は寺翫に於ける師主の特梯を凡て剥奪して了
七五
があると云はねばならない。此外、伯叔父母に等しい寺
房元條津事類¢遣癌門︵上︶
β79
慶元俵法事類の這将門︵上︶
七六
って弟子の特腫は相燈らすこれを残してゐると云って 第五経は邁俗罪に関する規定であつて、此中、第二條
も甚しい過言ではない。なほ前掲名例紳に存する戦寺 の府道鉄は将官の伶鉄道鉢、筋三條の﹁不在比罪牧賦
の部曲奴婦と三網並に一般檜道との関係規定は、宋勅 之例﹂は即ち先程挙げた名例律の還俗を徒一年に比較
には別に存在しないから、まだ壁きてゐたと見ねばな することは此揚合に限り許さぬと云ふこと、第五経の
るまい。椚凱は一年の喪に服する現場で本邦符令の二 編管は吏笹指閂に﹁宋法、不吉文面商流者、謂乏編管こと
三年錬の、﹁若誕・左n道士女冠肱麺俗衰、比由一年︰其燃さ
令の五等親に相常する。此外、名例律︵巻三︶除名比徒
されたい。天子の誕生日である聖節に疏を朝廷に進む
第︼旋については例へば赦俊吉丈清規の聖節倹を春田⋮
けば別に破談する必要はないであらうと思ふ。道辞令
等親に相督し、総戯は三月の栗に駁する親腐で本邦律 云ふとある通ゎ、流刑の一種であることを説明して置
苫使−者十〓比三等十︰宮司出入、者.罪亦如レ之、﹂と云ふ條も
︵蒐︶
宋軌にないから、恐らく生きてゐたのであらう。即ち べきものは郵鋪に付することを許すと云ふのである。
これは椚道が澤俗罪を犯してゐると謳告すれば徒一年 節二條は宋刑統︵巻十二︶所載の唐開元二十五年の
の後身であらう。此等の人の威厳を保つために行列に
に適し、苦班罪を犯してゐると誹脅すれば十日毎に響 砥部式﹁諸伍品以上女及綴女出家者、官許行遺骨賠不預﹂
十にぬすと云ふのであるが、待は都政n反坐を原則とし
てゐるから、遼俗罪は徒一年に相富し、苦使十日は筈 加はらないでもよいと云ふのであらう。第三條は寺観
︵震珊謁郡㍑仰即諾現柏諸相馴現
司は一路の長官、府道に閲することは普通は州で扱ふ
るが長くなるから今は省くこと1する。第四條の樽蓮
十に相督すると規定してゐると見撤すことが出来る。 内の自治に関する規定、これについては甚だ欒遷があ
場︶望、第一炊禦條に非常に手間どつて了つた
が、節二総額≡條は牧賦に閲する規定、第三佐郡洞條 が、菟罪を訴へる場合には州より一段上の路で定奪保
β∂∂
明させることを規定したもの、定奪とは酢折には﹁去
取之義、凡滞移繭可ナし事、以己志定其可否、謂之定奪﹂と
ある。筋五條は例のやかましい父性之拝に閲するも
の、これによれば、慶元頃には、府道は父母の拝を受け
るどころか、凡そ正式の親展では最も疏遽な絶巌流尊
長の挿をも受けることが出来なかつたことがわかる。
最後の断獄合は度牒に前科を一々書入れることを規定
したもの、取り立てて云ふ程のことはない。
︵︼︶遭一字恐くは行学。
︵ニ︶律は一般に道士女冠にょつて、偲尼よでな代来さ﹂て
ゐ諸に封L、勅ほ僧遭ミ云って尼女撃よでJせ包含させて
ゐろから此の差が生ご㍗のでわる。女冠托孫爽律音我lこ
年のそれでわら、ヱJ云ふ推定についてに、前記仁井田、
勅・令・格・式・申明
試経桧皮門
照。なほ唐六典︵奇四︶江にこも此式ミ同文り規定がぁろ。
牧野﹁故庸律疏試製作年代考﹂の第四節﹁宋刑統の研究﹂参
三
試壁慧戊
劾
戸婚助
川諸試経樺レ度、末寺義金貿牌藤良寛行、戎伶遇陳告︺紫
衣師糖戻秦不レ依レ式或事節未レ備而鞭奏者、杖愛伯、鮎
勘官滅古式等︰
問詰童行、令入代試す経、及代乏者、雄一一不合格︰各徒式年.
甲南同保人、井本師主音、及経歴干賢人、知ゾ情、輿同罪.
は女甘ビ背くりが正・しいミ云ふが、一般に女冠ミ苦かれ
る横でわる。女造士の=寸1でぁろ=寸Jほ云ふよでも互
伶退助速俗、並許人糞不レ知サ晴着、各杖陸十、
判
七七
挿話私自活夢悪戯別要具改正夜罪如海相
減疏等主産御宿叉滅.一参筆並速俗、
印譜義行、両州供薩試顔者、徒一年、許人音嘉師知レ情、
い。なほ第六條以下lニ塵、童行寸1わろのl‡邁童及び行者
の=ミである。而・して︰れが女でぁる時は各、女冠童
子、厄張三石ふ。
︵三︶脚訟律、殴妻前夫千條托、並びに名例梓十感慨疏譲。
︵四︶唐律疏議l二ほ明記・して兄いが、突如統ハ巻六︶の疏碩lこ
は﹁誠三、殺帥真人一恵逆Lミわる。
︵五︶究刑就中の敬布年月の詑・してない合格式が開元二十五
段元條法事頼り道梓門︵上︶
及紀
七八
寺概師壬法名節習軽業垂節前垂拾日、本州鉄奏雨己
座元鱒法事頼の逝澤門︵上︶
合
奏而遊死、成有扱不顔産着.具事寧中一伊香踵部︰度
m諸寺斬、過重節蓼度寿商膳所度考硝故滝︰雛、
牒己到考批書緻納、
遥拝合
川諸天産板金増牌
荒殿供養物、輪知遥士、諾卵監及上名望
諾声望行度牒考朋端鯉詣錦綱経書水師保
各変名︰守紫蘭参年額一艇失ご野度占守掌道真郎有野
一手
療年内恕度、有−−裏革琴最後軍併度藤野岬
失︰差ゾ人承替、
行︰乞y回出碑紫衣或師戟一者喝
脚諾意行、己伊帳或年方許読恕、應扱炭者、亦如乏、明、無一重準乃給、其聖節應海撥一一度恵渾一而無藤帳
閉講克行、各不レ野念詭大般若経︰逼塞許友一−道徳寮賛度
岬譜寺概、骨賜一徹審議収輩考過重節義薩係添上義
童行︰偶発レ試、
閏諸撥庭井試純應薩府道、及紫衣師喝紅白申奏嘉不
野由、乃保明、伊州、勘宙奏.
人王京山歩虚滑災薄命赦岩壁車重讐野師状乞▼試印
、譜寺弼以一一堂節︰及毎年撥顔紫衣者、琴有行巽東艶
︵二︶
㈱諸式趣・差喪以下責就占鼓酢蛸鞄鞄相銀肝
一閃油限ぬ道以去毎問不レ得y過蝕字︰取知多者一挙合
椅道教同.取尭係飯箸藤岡、取尭出家翠又同、以憩︰
其膳■l雄性藩政試、
何語過重節可弊嘩試恵行、以兎在州係海道士女冠附厄磨度、葉襲牒而身死、及事故薄着、聴知禰轟縄
帳者、許上衣年併繁
衣節戟南保奏、及府道童打嘩並香皆勤勘.閏嘩乃得‘
開講試綴撥度、若守義金賓牌歩度童行・或伶遺陳を紫
人数︰英樹道己係振而行進出払東南経疎帳開準考 レ以王女人↓摂度、無レ係〆
亦琴在如之欺l郎新庭瀬ね道重曹函係帳之琴撃方
二戸計教戒少不∨搾取入着、翠各取壷名︰
阿蘇寧度童行︰主首保執行虫異人数姓名年甲榔資質 中英︰
コ始9
‡合
田諸費幾重行胃巌穿冥帳︰食入代試︰井代乏人▲考其
−賢哲雷.並先以官蟻一代乏、チ犯人同保及本柿木寺勧
善若草包嘩紳輔鞄訝噸官翠試壁官司以
ゾ法境‡、
格
追付烙
印聖伸葬度童行︰
・ 試
道童
念森櫻給紙
行者
.金森豊伯紙戎讃薩伍伯統︰
念−農染拾築或夢揆参伯紙︰
掩蓋
産
道士女考慮伍拾人、
各萱名
慶元條法事頬の道梓円︵上︶
各署、相葉
伶尼、毎雲伯人、
質烙
印諸色人
美州
錦萱拾質、
七九
誉芸吏卑語試経−除元金格︼外、今黍詳摂動
身亡羊政府道人等敷一外、差衰官箸等正負眼監
巻檜道等文饗照封.珍自恕夢以後、至一試経−以前、
聖節藤一府道正司保唄禦係巌童行.及野菜年分中
嘉云云由舶鍔莞伏、夢葦
唯一
道梓式
印
保奏試違重度童行︼妖
式
草,推竃ね於南州疎抜詳綬考
鏡圭伯貫、
草獲寿令入代夢莞代乏者、毎名、㍍鯛ボ臥碩
鋤
座元條法事輯の遭癌門︵上︶
合格童行、並係以象管見在俗遣等教︰放塵.貴重首
等束帯保明︰別無塵擬︰謹具如レ後、
一本州、嘉裏年品襲鍔鍔花笠
八〇
飴依馳同軸嚢寅靴鮎確
朝
旨↓
名紙
等敷︰下項、
数︼
道士若干、毎衰千人一度勉童萱名︰除転内一
已琵剥離碍㌍弼桝麒碩語空脂御
問落辞外人教一外.計度恕重義千人、
瑚
文帳義姉死、郎云壷年月8本師身死補
一若菜、年若干喜美虚、其年月晶垂州銅
甜野菜官空士英人事由蒙係詠美年
一道責苦干.
今池■︻
女冠伶尼、准恵士式砧無、如示無.
一本州、自重帳以後至試迦以前妄亡事故盛土 空軍倉療薩帳高上名道童一
若干.如無、郎云耗敵レ鵬鮒鮎
一道童若干
一姓名某.年若干、本音某嘩某年月晶垂州、
■節善悪士莞手下一出家、係ニl
弊銅殉雛脚綿鮎如帳内有丁上表夢事故一
萱年限内↓若随添過幻到別宮載㌫聖二屋
奉係護持友盟宋白蓮犯如晰癖軸
レ晋鼻試蕾経蓮諾言是上毎
概英人一声師.骨輿哀沓改名︰在卑心不迦▲
供其年文帳︰若師死如云丁某年月日本師距表記舶顎至裏年月旦同義本宮
身死頭野靂絹鞄舶萌別至裏年月旦
回議本宮載英人一声師.骨輿レ不脊改名
在輿衰謹壷年限内、若随敵弾封別官
職り聖一戸係輿示嶺仕挿︰及国典−不由一
過犯繭欝雛適念詣蓋撃干紙数︰
j始よ
出レ外聞落.或別掩l息揮い郎幡琴名、各具一事
翌月旦鰭鞘鍼親祈髭那翫握醐
開
訊、
飴俵施用、触感嘩輔嘩
右謹件如レ前、州司俳誌試撥度朝一前項合格童行、官吏
聖組殿供養吻守輩、筆某年月旦金周年清.郎無一
疎虞︰今斬y多度道童英人係一己供−帽某年文帳一上名
年月
日一俵一−常式︼
之人い別無▲重野州司保明並是語草、謹鉄葵
聞、伏候主
具一宮臣姓名粘勘
勅旨一
申明
保明、別兼一途磯、並足詣琶謹録奏
冊、伏候▲
随勅申明
を宣言してゐる。即ち試経撥度は唐に始少、五代に至
収の紹輿七年勅は今後試経撥度を捲り忙停止すること
ばならないのは、最後の戸婚申明セある。此の申明併
︹註︺本門を読むに際して、先づ第一に注意しなけれ
奉島特旨谷−感知軌葵▲不y行.
動、臣僚恩例、及試y経酵︻放度牒︰並棟行住レ蛤、維†
頼興柴年睦月辞日
戸婚
勅旨一、
兵員官臣姓名む勘
年月 日−儀ち常式−
保・T葵守封輩金費牌
聖組麒供毒物︰年清乞y度道真い状
其州
鱒翌司状重夫慶軌主首真人状云孟離職乾
右槍准一
命重義尋帖一望司誠音別要人係如義士一時−
榊親舶桐油軸印莞係上蓋行左白兎年月
八一
て度牒が買キされる様になると共に、次第に衰へ、南
︵七︶
月給幻芳子道士英人道端某入鹿一交到、上伸
金其貨
って
制大いに調ひ.北宋にも行はれてゎたが、やが
牌、井
よ元♯津事頼の彊碍門ハ上︶
gβタ
八二
流之冗幣也、上可英美.付執攻、下付司具格式、以供申
慶元條法事頼の濫痔円︵上︶
宋では最早殆ど行はれなかつたらしい。併租統紀︵巻
不明.貴名中書併狙.
なる秦状は、痛言の鮨に於いて極めて面白いものであ
四十七︶併載の.
︵淳無︶十一年上竺左街付録苦調節子、洪堆、聖朝連用
唐制、立試軽度借之料、蕪辞大乗高伶侍浜豊囁檜責
る停
が.試経の典撥を廉く求めてゐるに拘らす、急に南
併載、自珪隆閑静、至於南渡、名穂高行、常先発試
華及
、んでゐない。兼文また試経の中轟が既に年経
米法
には
大部分が宙宋に於ては最早重文に過ぎなかつたことは
然役得度、以由此経是如来出世一化之妙喝群生之宗
てゐることを示すものであらう。故に木門中の法規の
換.峡唯七考繁簡邁中.故事著者習.兼邁奥不及之患、
嘲らかで袈。そのた監香かは姑く措き−本門中に
詳符中.方士王鱒本寿卒、嘗以罪配沙門島、舘作黄金.
自唐至今五首年来、喝重合臭.経下及萬世、可拳而行唐
同試童行.此朝廷開試也.若付史略我.朱鷺時不評私度﹂
有老鍛工畢升、骨在禁中、頸捷鍛金、升云其法鮨放電、使
は古い字句が多く見えてぁる。先づ第一に金賛牌であ
願出家老入京比試、蕪辞三書之意、昔是天下童行.先紀
人隔鰭鼓帝、鳶不欲人魂其啓開也、其金銭超之、初自
世之式産莫、及我朝而甚辞.如文隻湖山鉄筆旨初帝州
州郁試.中.然後入京、執敢闘揚親監惑試、桑名奏上、乃
治申出命黒.凡百像南蛮一併雇餅軽解‡負八片、誘之
るが、これは夢喪筆談︵巷二十︶に、
下痢部拾陳、若持前疏息.如建隆八千喝太平骨度十七
勝野金者是也、今人命有義軍上令緒方錦名金亀金牌.
檜童読経.此州都比試也.験陽辟田鉄我、執政宋綬夏嫌
再.期又不在読経之限、或訝右腕朗用者、則井封之日、但
於毎歳、以千隈、濱試経之擬、郎以千牒之賓、均於各
餞教
牒育
、、亀以賜近臣、人一枚、時受腸考除戚里外在庭者
停不能斎経而裕於財者亦得求度、灰今天下伶冗英、十
試有七人、飴悉埋玉清昭應宮東符開及殿基之下、以長
経以行古道、貴喋以限常人、誠足以復親宗之成法、安
赦頃
未牌腸天下州府軍監竺・今市之金貨牌者是也・洪 飾
午條に.﹁窟天下、置天慶祝﹂とある通り北宋眞宗時代
州李簡天真有一重、乃其伯組慮己所得者、蓋十七人之い。天慶頼もまた宋史真宗未紀大中群符二年冬十月甲
歎也、英銀花中在任出遊、煽然有光癌之則無断待.其家
に置かれた。勿論、此概は前掲藩政癒志にも常餞天慶
概とあ少.老草庵筆記︵巷六︶にも叩州の天慶観に遊ん
至今匿蔵、
と云ひ.清淀雑志︵容一︶に、
製寺院及外州名山聖跡之慮﹂牌長三尺許、厚寸飴.文十
も﹁海陵徐整調、居天慶観﹂なる詔があ少、山西通志
手唸、讃青天慶救﹂.なる記事があ少、孫公談固︵下︶に
天聖初元、内出聖弧醇化金賓牌、令景婁宮、分於在京だ
官記事があ少、龍川略志︵巻一︶にも﹁予幼居郷間、徒
二、日玉清喝應宮成天空萬金賀曹文五日永倶森地勅.
匝、或云.用王居正典金併製、凡不経兵草州都皆蜜義之、
でも存膚したものがある程で、決して南宋になくなつ
年建.明洪武闘、置遺骨訂於内﹂とあるから.清代ま
其周郭醒應軋瑞花聴之状、梼彩換擢、封以繚嚢、盛以に
漆よれば辞楽瞑治東南隅にある天慶載は﹁宋大中絆符
拝普見於上島天慶載、妻留籠虎山、
たわけではないが、後に有名な遣観が帝山出索たに拘
らず、天慶観を特に挙げてゐるのは、此の俵法事類が
とあ少、老草庵筆記︵巻一︶に、
天爵中、以王権所作金賛牌.陽天下、至宝和末.叉以方士
北宋の碁祀煽動の影響を受けてゐるからではないかと
思ふ。毛草庵筆記︵巷九︶にょれば、﹁政和紳答玉清萬需
劉知常肝錬金輪.簾之天下紳百官、︰⋮・
と云ひ、真裏蔓棚批謂に、
ものであることが知られる。但し王安石時代に始まる
とあつて、遺梓式珪に存する天寧萬春宮また政和前の
とあるによれぼ.錬金術染みた奇怪なものであるが、
入三
と云はれる保甲制に関係ありと思はれる甲演同保人等
座元條法事類の蓬謬円︵上︶
北宋の眞宗仁宗時代に作られたものなることは疑た
戴寺中、
棲霹寺、在頼叫仁廟時、嘗賜金賓方喝無寧喝取寄撃 宮、初止改天寧萬需飯盛之、後別改宮載一節、不用天寧﹂
2∂7
野元礫法事難の泣将門︵上︶
の譜も見えるし、叉勅令格式の応分の如きも訪砧時代
には本書の如きものと異つてゐたこと1思はれるから.
八四
付虹研究、三島一氏の﹁完ゆ菓牒に就いて﹂︵姐攣雑誌鹿四
十霜、十二舵所祇︶曾我部群雄氏の﹁宋の度牒弼考﹂︵岡上、
第四十一編第六紙所載︶、坂本尊陳氏り﹁集り財政難ミ沸
教﹂ハ桑原哺士遣酵紀念東洋史論集所蔵︶参蛸。
︵六︶慶元一一年.ハ月の序がある容琴二繁ハ巻九︶の恰浅科日な
全部が罫祐の制度であると云ふことは勿論できない。
次に簡単に法文一々につき簡単に述べる。本門衛彼の
論じ主條も、市来lこ試推のなかつ上記墟ミすろ:ミが出
紹興二中正月焚酉、詔、諸路州軍、遇天申節、俵葡読経
ミぁり、同じく巻五十一lこlェ、
例等、並横位、
搾灸三咋七月戊軍顔、諸州畢武繹塀放塵牒、及聖節恩
凍やう。但・し、建灸莱繋年嬰録ハ巻二十五︶lこlェ、
戸始動は庸律に相常候文はない。戸婚軌、遣繹令共に
外に大した問題はないが、唯試経制度を理離する上に
於いて最も電要な道繹令第五條と遣輝格、道輝式の保
奏試経摸度量行状について不明な所がある。それは遣
繹格忙定められた一年に圧し得る定員と、念経讃経の
是、細部局外簸郡植詞部王爪音、本部故障滞路空名度
語数暦法度牒、毎三盲人、政一人、建炎末梢任式辞、萱
恐有未安、故障是旨、
肝、各不下五六萬、而井関力無一人繰読経者、揆之人情
能力との閻係である。試経及第肴が定員以上にある墟
合、試経及第者が定員に浦たぬ場合に、各、如何にな
まで試綴lミ行lミれ互かつたのでわらう。
間も光︵、前記戸婚甲明が出て、それ以後li座元に至ろ
ミわろによれげ、南完動、一寸は試凝を行つ㍗ら、しいが、
るか.。私忙は途に坪解し得なかつた。なほ本門併載の
賞今は、官上り出す班鏡を結局犯人及び其の関係者か
ら回収する掩めて注目すべき規定である。
︵一一︶士の字、或lェ静か。字義不明。
︵こ長兄li遭搾式ミ比較すれげ、長吏の訣でわらう。
︵四︶此の頼も野草ではぁるよいか.
︵三︶此の道の字も恐くは野草。
︵五︶座牒、特に其の買賓lこ就いてほ、郡菓君山氏著支那祉
j始β
宗教に於ける理性と想像との人間的解坪
田
淵
正
範
人間的解滞に常る意識はあまりにも登健なる概照の想
蕪術的観想の衝動が劾勃として脈動せる頃故、宗教の
サンタヤナが人間的想像の要約史として世に贈った
﹁理性の生命﹂ハThe巳狩Or詳琶n︶全五魅の思想鰹系は
齢四〇余才頃の事業であつて、彼の思想史の正に柑念
央であり、此の想念の宗教的事賓に泌み入る現象的叙
のき書出しはベーコンの有名
スとジェイムズとの相反する思想上の長所と融合せし
を占むるものであるが、製の第三巻﹁宗教に於ける述
理は太だしく文拳的である。是れは明かにその節ワイ
性﹂︵田富Onin詳︼i音色
な言責﹁貧霧なる哲轟は人間の心を無細論に傾けるむ
。るために.即ちロイスの観念的現象の光苦に於いて
然しながら哲拳的に探きものは人間の心を宗教へ運ジ
んェイムズの人間的現象内に潜む物質の賓質的精力を
でゆく﹂を以つて初まつてゐるが、サンタヤナの■照
宗明
教せんとする意園に連ふため.併しながらそれは史
に於ける理性と想像との人間的解梓は拘に此の命題的
の停統の解揮では明かに柵起するものなるが故に、一
に蓮れて、理性と想像との歴史的争議を受動的寛容性
九〇
曹拳的紳秘の■秘奥に解れることを以つて始まり且つ
同〇年に於ける此の和し妊き史的相剋の陣螢を邁か
時に終る。
の濃い塾術的詩心を以って解滑せんとしたのである。
彼は其の思想史に照らして明かなる如く、此の思想
八五
醍系を含む前後十蝕年間はわけて物質への詩的・美何
的と
・なれば理性的にせよ想像的にせよ、又それらの交
宗教に於ける理性軍想像きの人間的解梓
2∂9
票数に於ける理性ミ想像ミの人何的撃砕
入六
錯的なるものにせ上、高き辞心はその傍撤するそれ如
ら何なる情緒をも青々の方に求めようとはしない。宗
の解さ暮き矛盾の奈落の底が速ければ速いほど轟々教そ
は理性に新しい資質へ試ざrEしを以って重みを附け
の静心の志す高ぶむ本質的に檜すことが出来るからる
でことに依つて生活の中へ或る秩序を持ち充たす。理
あつて、且つ宗教の繭術的意味は理性と想像との矛牲
盾は自然的な賓実に、唯だ理性がその中鱒導き入れる
自性忙風雨するのが宗教をして長の菅畢的凍みに基屏
礎の完全な秩序のみを附加するのである。合坪牲は唯
づける所以であるとなす。而して彼は言ふ﹁宗教に︼
はつの形式の外の何物でもない。即ち其れは経験が
様々の宗教がある。繹山ある。然し理性は一つしか多
な少具性的なものにする屏の理念的構成に過ぎない。
い。宗教は嘉的な理想・希望・熱心及び信仰の封象宗と
教は経験そのものの一部分であゎ、情熱や理想の︼
他は登サゆく苦悶する力である。宗教のこの登りゆく
よれ成立つ。乃ちそれは恩寵によつて働き、祈りにつ
依の塊である。︼は犯すことの桝森ない原理であゎ.
って集える。然るに理性はとれとは異な少.畢忙原理
であ少、可能的なる秩序である。そして耳にそれを苦反
悶するカとそ、人間を永遠な何物かに向けるやうに
省して吾々はそこ士で澤することの出来るものであ思
るはれる。其れは魂の内部の終局的調和・及び魂と魂
が、然し単に理念としてのみ吾々の中にあつて如何が
な依りか1るところの総てのものとの問の終局の調和
る若の震化も歴迫も輿へられることなしに存在するを埠進するやうに思はれる。この故に宗教はその意志
むのである。青々はそれに従ったり従はなかつたり忙
す於いて、敢曾や料亭や峯術よりも邁かにより多く意
る。それは青々を催促もしなければ叱りもしない。請又
的であ少、且つより多く直接的な理性の生命の追求
それは理性がその性質や割合に應じて展開する肝ので
諸ある。何となれば是等の敢曾や科挙や婆術は、試験
種の封魚忙依つて、自ら喚び巣盲された情緒の外に的
、に且つ断片的に理想的な生活に近づき、それを充た
之ク∂
−
宗教も亦、本能的な盲目的な側面を持ってゐる故に、
哲邑○ロ︶ に就いて注意しなかつたりするからである。
れらの本能的な目的の最後に義とせらるることハJ邑i・
あらう。然る忙サンタヤナの宗教は理想主義の精細的
ることの出来る理想主義宗教の一両を保有するもので
ものとなすのであつて、是れ明かにロイスをも想起す
教的指示を費見することを以ってその本質を認め得た
政治も料率も婆術もサンタヤナに於いてはそれらに宗
偶然的な貰行や直農のあらゆる方法に於いて泡立つ。
現俸の他に世間的習俗不合理性を席掩的に認容してゐ
さんとし、そして殆どその目標を凝はなかつたり、そ
併しがら間もなく宗教は事物の中心の方へ自分の道哀
る。それは﹁宗教鱒想像︵i冒品甘ぇi昌︶を通じて合理性
つ一︶
感得してゆく。そしてそれが如何なる方面から来たに
を追求するからであるL。科挙は畢に理性の目的として
充足される想像を採用するが宗教の場合は濁創的精妙
︵一︶
漢音せば生命酷寒賓から渾推する形式的埋性は人間
に富める究趣的詩的想像力を以って生命そのものを解
出訂︼igi昌・
せよ終局の方南に向きなほるのである。﹂と。
的でない。落陽に映ゆる秀雀の証取はその時併的実態
in
解せんとするのであつて、客劇的眞理の報草は此の想
Repぎn
の華質が無限の宇宙と際まりなき地殻の宏粕性に依附
召−甲
G●仇写すy呂p;peit・p●−P
−宮戸p,p・甲−由
○︻冒um呂吋−Ogr窪●
G・∽トロtp
像の俸承的堆積を意味するのみである。
︵ニ︶
︵一︶
することの色欲であるよ
然的なるものと題詩することに依って人間腰の個人的
及び壬覿的限界を解放して理性的なる人間性を指示し
てゐると言ふ.べきである。死を契機として不死そのも
彼に従へば一切の生命的事象は白痴に依つてゞはな
くとも少くとも夢想者に依って物語られたる慌たゞし
のが人間性となり、吏に死そのものが輝かしい幸扁の
啓示となり践郁たる永遠約意味となつて禿る。果たし
い諸々の夢である。衷がそれは腰めて意味決き理性的
入七
て理性の資質的機種女斯くの如く宗教と呼ぶならば、
宗教に於ける理性王朝倶ミの人間的解繹
29J
宗教に於ける理性ミ想像ミの人間的解繹
︵一︶ なものである。彼のショベンハウエルと印度吋橋脚即
八八
一である。然しながら私の見るところその自我は茸際
捨離せる本鰹ではなくしてカルマ
へ三︶
ち彿教への理解は此の人間的自発から出費するも
はの
物で
質である﹂。唯心的抒情、智慧紆悟は苦粟的自我を
あつて、彼の輝かしい近業﹁本質の王閲﹂︵一九二七年︶
る苦悩愛怒の悪椿的自我であらねばならぬ。サンタヤ
に依附す
及び﹁物質の王国﹂︵一九二6年︶はその前身﹁懐疑主
ナの白魔は批判的自我の最梅なるものを匂輸してゐ
ハヨ喜鼠︶
義と動物的信仰﹂︵一九二三年︶と踪合して此の人間的
評議諭の鰹系を作るものである。世界現象とそれ
るに
直随
螢的現質的自我を感得することである。﹁自我とは
伴さるる人間行男が成ろ資質的精力を自覚すると
如き
何資
なるものであるか、或る意味から云へばたとひ形
在は木質性に締着したといふべきであるが、その
式白
的魔
で透明的なる純粋精細とは雛も、直発の存在が自
は人間の貨践的生活の最も率直なる将帥、換言せ
我ば
の輿
存在に等しきものである。いくらかより以上具鰹
へられざち事賛を﹁聴信﹂に翻へして経験する人
的我は直覚が恒常的埋想的目的の継積中に展開さ
的間
な自
行悠、乃ち彼の併謂動物的信仰の内部作用である
、議論中に包含されてゐる。何となれば放で
れ。
た﹁
場眞
合の
に偶然的秩序を附加するから﹂合群的なるものと不合
理がひたすらに事賓であると云ふ徴示は総ひ眞理
自が
我永
は単に見託されるのみならず、列挙されゆく論塩
四︶
遠の形式のもとに叙べらるるにはせよ、兎に角、︵入
間が眞贅に考ふるものを懸命に主張するその人間
理の
的なるものとの意識的所詮や、事憩的なるものから
熱意と急激性とである。其れは動物的信仰の封象
先で
験的なるものへの理論的遡及は、それが如何に叡智
の精巧を誇るにしても究尭者へ向つて探ぐり入る機縁
は純粋精抑であつて彿教哲挙が そのものは諸文化の融合せる未熟な自我の命そのま1
︵二︶ あつて純粋思粟の封象ではない﹂﹁俳敦の先験的自我
︵Tr呂蕎nden已S聖︶
意志と呼ぶ統轄・偏執・遅命の原理と撞着しなが
でら
あも
つ同
て客戟的には常然倦みであるべき理性の矛盾葛
盈把
藤を曝施するものである。濁逸理想主義が生命現象の
内側或ひはその近傍で、言はゞその形式忙如いて本命
︵四︶
︵三︶
の木質を論じ、ジェイムズ一波が意識の蔭に潜んで自我
CtぎニOpⅥy旨−︸︰〟=︼l−山−○岩pす一誌CJ●p.は∽P
S旨lP苫nP;てCi︷.p.−㌫●
S21︷P︶、Pnpぢづeit●7−彗.
﹁寅はエッセンスとエッセンスの直放とは決して同
を批判したことは北へにサンタヤナの遺憾とする鮎であ
であらう。軽かに動物的範噂はその範噂自陛の領域内
ぅ。而して両党は如何なるエッセンスをも嶽はさない
e−1蕊が解滑せば直魔の機構と機曾とは亡くなるであら
る。人㈲的想像の沃野に流れてゐる清き直観の流れ
一ではない。もし一切の動物的節囁︵§㌻已ヲ乙ical17
は、流れの根源と終末とが永遠に沃野に焚して沃野の
培養に轟きるべきである如く想像界のエッセンス︵本
質︶、エ関根とを牽貼附に瓶別し、論理的に封立せしむ
に生ずる事件に依って亡ぼされる王はないし、且つ一
ることは人間的解繹を構成しない。僻統の哲挙的直観
切は一切の直螢が生じたならば穎現するものである。
を持ってせすに、精神の賓質的詩力の中へ数々の概念
併しながらエッセンスと直覚とは、生命や神聖なるも
と情緒とむ解放するとき眞の生命を解絆することが出
のの有する素晴らしき光輝から全然離れては、それは
来る。エッセンスと直観との封立的交渉が埴命を分析
語ることの出来ない単なる論理的美拳的論題である。
するものであると云ふ鴎世紀の方法を顕倒して、本質
直覚なきエッセンスは︵常にあるが如く︶非存在なるの
から直税を剥ぎとることなしにその射光的交渉が高次
みならす、甚しきに至っては非思索の封象であ少.非
の原理直先に還元され、其鬼に於いて材料的自我の事
努力の決膠卦であゎ、非生命の奥妙又は非生命の稚封
態的戟想を試みることが彼の㌫敦汗挙の蹄越である。
blAd2已∽臼云dソ㌻ニポue・−諾し・p・−〇引P
的理想となる。其れは無償値であらねばならぬ。純粋
︵こ C〇nte⋮pOr2・yAコ壱⋮c21望i︼○琴pすT〇一.声望i巨
八九
︵二︶ 許n︷薫い5ヱ∽=∼plic⋮ぎP己Aロ㌻已戸己二Ⅰ喜Odu
一観が心に筋す歓喜と自由の意味は全然重症である。
客
宗軟に於けろ理性ご想像ヾJの人間的解柁
293
上の合目的々な人間と祀曾とそれらの知識的所産とは
九〇
そしてエセンスは若し生命がその不安定性を亡くする
何をその慾望充足の剥一拍規準とすべきであるかの茸
宗教に於ける理性ご想像亡の人間的解押
ならばエセンスの抽威の総べてをも失くするであら
用主義思想の暢手が働けるのを認めることが出来る。
︵一︶
ばジェイムズの如く経験的考察の類推を用ひて人間意
但し思想の動向に個人心理を単位とはせずに、彗言せ
う﹂。ごダヤ人は何等の哲拳をも持たなかつた。そして
彼等の幽民的伴統が理論的に解滞され梓明されるやう
になつて来たときに、彼等は子供らしいスコラ野草や
識の原理的基準を求めすして、専ら自らの内的教養に
見せんとしたのである。人間的現象々個別的目的に向
i−1Reli・
於ける現象唐を包括する云はゞ一種の理想的縛噂を萱
ょって高められた思索的穿同気より一切人間の宗教に
P已Anぎ已mith・p.p.
狂妄な偏狭に出写るを得なかつたい叱
︵一︶ 許n官呂P”ぎpti卦nl
−柏00−−怜¢.
︵三︶ S旨t鯵笥nP⋮Th∼F詳ウ︻詳○いOnいヵe培On
g岩ロp●−予
怖れる蝕が、サンタヤナは此の歪み川げられたプラト
ると認めらる▲が、人生の此の批判的敏感的な志向を
苦悶しながら饗質的ならざる蛙験を重ねつ1進んでゐ
像界は宗教的な本来の相む失ひ和し欺き論争の経過を
客概化するならば、吏に形式化し施式化するならば想
論を見出すことが出来たのである。﹁詩と同棲に宗教は
の宗教論と甚だしく按併を異にせる解繹拳的宗教現象
・宗教は想像的生活を解挿する人間的現象とな少、従来
彼の静裕な教養上り表現されたのである。弦に於いて
見するのには﹁詩的概念﹂を用ふべきであるとの想ひが
を菟耕してその捲利の抽限なるもの1坪想的原理を黎
って陶汰し精錬するのは料率的省察であるが、総べて
ー的論誰をわけても宗教は特に嫌ふべきものであると
冊界を改善されたものと想像することに依ってのみ世
想像躯から合理性が分析せらる1ときその合理性が
する主張が鋭い。弦に寛人生はなまな素生な状態に於
︵一︺
界を改善する﹂﹁吾々が経験の詩的解輝に閲心するな
いて如何なる政見を欲するものであるか、或ひは倫理
j汐塵
来た彼の解樺拳的鯨結に於いて青々は貰用主義ならざ
の人間的解揮忙基づいて宗教的なるものを高め出して
拇指示と理想的指示の総和の中から特に理性と想像と
響を受けてゐないわけでもないが、人間的現象の想像
味するのである﹂の言葉にはプラグマチズム思想の影
富を意味し、そして普遍妥首位へのより近き進路を意
らば矛盾は只獲化し、焚化は任意む意味し、手段の豊
であるのみならす、伶又創造的活力であると言った
トン拳漉の徒にはその償値︵く巴ues︶は理想的なるもの
ditieOn㌻崗ng−試F︸訂−⋮giO宏ぎOugざー毘ひ︶に於いてプラ
宗教思想に於けるプラトー的停統﹂
った。槍玉ウヰワァム・ラルフ・インヂは其の薯﹁英幽
しても命その文拳的劇的精神の注入的抽窟を忘れなか
その畢の終局に於いて、自然拳、天文畢を叙するに際
とが彼のプラトン解繹の規準である。箕際プラトンは
︵三︶
る一種の宗教論む提示せられたと思ふのである。
︵TbOヨPt昌ieTr守
九−
を基本化するものはプラトン主義の婁魂そのものであ
植のみならす、伶叉総べての自然的形相や論理的概念
られるかも知れない。然しながらそのときさ様な諸痕
念的本質を立派に代表してゐる中性的言葉として受取
や美をそれらが基本化される以前に呼んだところの通
味において遁辞的である。償値なる語はプラトーが薯
﹁億値なる譜は特に主戦的非想像的であり又或る意
述べてゐる。
でインヂの此の書に謝する補修的批判に昔り次の如く
サコンタヤナはその快著﹁プラトン主義と精細生活﹂
︵7︶ Ⅵ呂tP?nP︰T訂巳諦○︻Re扶On−詳PdコiコH訂︼iが
g、
iO
p●−ド
︵三︶ 明呂tP﹃PコPいOp●CF p・−ジ
プラトーへの彼の本質的反省.
養に述べた吻質諭に於いて既に明かなる如く︵宗教
研究第八巻第五鋸参照︶
即ちプラトーの精細は自然を愛すること、言はゞ事腰
的な自然上り湧出する人間的話力を愛することをサン
タヤナは用ひて以って自己の思想の詮系としてゐる。
先づ我々はプラトン主義を人間の現象内に燃ゆる思念
の蛸と限定しなければならぬ。プラトンの思想を第一
に善悪の問にある思惟の資質的閲係に基づかしむるこ
宗故に於ける理性ミ想像ごの人間的解梓
29β
宗教に於けろ理性ヾJ想像ミの人間的解搾
った。そして華と美が基本化されて紳又は唯一者、ア
イディアスハHde且造物主︵夢=iu−・g邑又は世界の精細
となつたとき、それらのものは最早償植ではなくして
︵こ
九二
許n言ぎP︰ヨal。−1is1日pndゴ︼。S号il邑巳声芸
当●p●p●∽−野
人間性の彼方で償倍が理性的批判の所産となること
人類の慾望や憧憬がそれらに一切の債権を辟せしむる はたゞ街拳的であ少、たか⊥ト1のところ人間の軌跡的
遠か以前に猫立して存在する諸白光着である。侶植は 諦観に依って論理的技巧に酔ふだけのことである。人
と満足を目的とする椎威である。若し紳や︸de旨が単
遍繭的な素地の直発的意識の生命を反省するときーそ
いくらか細射的であり、それが生けるものに翳す思惑 は文明の停統的軌跡内に直照されてゐる尤も配接的な
ヾ ト
なる快粟や健康の如き償植であつたならばそれらのも れは詩的宗教的善美の鮮質であるが.そこに非人間的
のは非革質であつてたゞ何か他の意慾的作償的完成で な理性の究尭者が停統の混迷なる現錯の中で何ら接着
あるであらう。賓際それらのものは若しそれが生きて を起さすにプラトー的鋼和の宇宙を構成してゐるのを
ゐたならばそれら自らの見る限りでは低値を有したか 蓉見することが出来るといふ。文化の諸償植はサンタ
も知れなかつた。抑く人間や紳は自己が存在する以前 ヤナの此の人間的相場の中で熔解され、一種の調和的
に自己の存在を貧窮することは出来ない。自律的調和 愉仮なものに錆淀められたとき.階級的異質約諾偲植
は人間が鎮命の傾向を識別するまで忙、生命の不完全 がそれらをも含めて或る同質的償植を表現する様にな
を苦しむまでに、成は生命のより偉大な完成を憑ひ憤 るのである。一切の概念的思排的存在の中にあつて且
れるまでに既に彼の生命の中に建設されてゎなければ っ又それらを包括してゐる腎質的世界、言はゞ彼の尉
それらの形式的概念を構成せるものが夫々材料的に同
ならぬ。此の調和そのものは調和の創造する精神が嗣 的調和の状態に腔かに近世文明の封既約批判的脚絆を
︵一︶ 和をさ様に謎める群由に依って善である﹂。
β5好
性にまで有機化されたものであつて、弦では特に此の
数的理解と教養が、その深き哲拳的戟念に依って精紳
併し此れは後に明かにする如くサンタヤナ自身の基督
される直接なる人間性そのものが紹封な歓びである。
辞ならしめんとしたものである。意識的想像困に表象
史の全面的惑乱を収容し、思惟の諸粟素を宗教的に静
間的話力の綜合的宰相を充足せしめる範噂を以って歴
一に心的と言はず、一に物的と言はす節するところ人
質なる所以を反省せしめて理性の抹滑的野禽を鎖め、
る。萄術は草稿ならざるものを紳聖にせんとする政治
う。故忙事前を識別することは萄術の魂そのものであ
と化するところの本然の敬虔さを鰹現することであら
停統、質讃、懲正の自然的方法などを生命の歌の句節
得的債権、傷ましい死、慶ばしい愛.紳聖なる公民的
進歩.或は理性の生命と共にあるものであるがーー・・生
ある。⋮⋮幸福を合理的に得ることは
日ふ﹁塾術の償値は人類をして草稿ならしむることに
である。然らば態術の本質的償値は何であるか、彼は
の根本は人間性への復括にあらねばならないとするの
結局彼は此れを宗教的法悦を唱へてゐるがこの歓びは
快楽でもあり宰癌でもあり、美でもあり菩でもある。
直接なる人間性の中より湧敬する不可思議な歓喜は
をも見出さない場合は出来る限り闘争を解いて身霹ひ
見出し或は創り出せる諸々の調和を歓ぶ。そこに何物
心は創造力ある想像の如︿、心が人間と自然との間に
ば少しも歪めることなしに表現するのである。自由の
その事痛は
想念の民衆への十全なる軍質的契機を強調してゐるも
的或は形而上拳的な暴君遜が牽強附督する様に経験を
単に宗撃哲拳・美拳等の個別的文化意誠の特質ではな
しながらも何ものかに庄日し又耐へ忍ぶのである﹂幸
ー
のとは思はれぬ。
く.璽魂の富源より泉み出る一種の高き塾術的渇仰熱
痛な歓喜を表象する人間現象は其の一切の形式と名稀
︵一︶
意であつて、其の精紳が特に﹁幸福﹂を粛して現箕に蓉
を掻き棄て、また知性や情意性を捨て、其れらの箕賓
九三
越してゐる所以に基づき、宗教・哲拳・美拳などの目的
宗教lこ於けろ理性ざ想像ミの人間的解梓
β97
サンタヤナの宗教の心髄を語ることは出来ない。何と
宗教構成の基礎として浮ぷ出たものならば其の精細は
的であつてもそれが料率的分析的な心理に依る理論を
の表象でなければならぬ。知性は勿論のこと縦へ情意
抹を溝へてゐる想像的理性の海洋∵言はゞ董彿的意識
一醍であつて、個別的宗教をも数へ入れた諸文化の泡
詩情値の合一が見つかる。サンタヤナの宗教は此の合
そのものを謬誇せば、所謂眞善美等の歴史的世間的な
馬的な意味に於いては、人間の存在の源への人間の恭
サンタナヤに従へば﹁畏敬とは其の更に高伶な且つ羅
からして兎に角畏敬は宗教解輝の一要質である。だが
多棲であるが謬ligiO●㌘ligiOSi等の語そのものの歴史
畢的三分解により本悪的意識要素とするものなど茸に
もの、或ひはマイヤーズ・サボーの如く知情意の心理
するもの、ヤコピやリッチルの如く紳秘的内戦とする
の如く崇拝告伸そのものとするもの、滝射的従属感と
情調とするもの、ティーレ、又はシュライエルマサヘル
九四
なれば理論的なるものは塾術的意識の香りに酵ひ痴れ
しき接解を意味し、その接鱒に依って人間の生活を堅
宗軟に於ける理性ざ想像ミの人間的解拝
たロマンティシズムと共に人間の存在を想像すること
敬は眞正なものであるときは寧ろ尊徳性の偶然的な表
︵一︶ 許ntPy呂a︰T訂Li訂﹂○、PgOコこ↓謬貿○ロi−︼ゝユ此
・ の世界に於ける長い間の沸騰の最後の泡である﹂﹁畏
︵一︶
固にする事を意味すると言はれ得るものである。魂は
′
P■ワ詑柏−㍑∽・
るもの、キングの如く最高、究寛、普遍の意識とする
も様々である。ヘフヂングの如く償値保存の信仰によ
のである。斯くの如き調和した本能が意識の中に於い
的な程度や調和した程度に準じて必然的に道徳的なも
の段階にまで遷した有意志の生活は、其の本能の異性
の解梓 現である。其の起原は全く自然的なものである。反省
もの、デュルケーム・エイムズの如く融合的に拘束され
て表はされて、最後に持つことの出来る結果、即ち、
宗教拳に於いて所謂敬虔或ひは畏敬︵piety︶
た義務感に基づくもの、ジンメルの如く融合的関係の
βタ∂
が出来ないからである。
r
共にその性質を焚更すると云ふ事は腔史が明瞭な姿で
る紳はその紳を崇弄する現蜜的な感動に於ける牽吏と
かされることはⅢ兼なかつたからである。愛せられた
なかつたし.又其れに依って如何なる行男にまでも動
ゃしては﹁紳の愛﹂といふ旬に意味を輿へることは出来
現貨的事物を愛することの多過ぎる必要や作用を持た
も、照はたゞその象徴に過ぎない。何となれば誰でも
の愛は基軒数的愛の根本であると言はれてゐるけれど
畢者に委任されてゐたものである。斯くして例へば紳
ない。そして其の結果の記述は邁か以前に詩人や押詰
徳の目的となる結果は容易に想像し得られるものでは
心の上に厭ってゐることの人間的自覚を烹昧するもの
来の相は自己の存在が平衡してゐること、動かざる重
を承認する傷ましい悲哀を時に停ふとは錐も.畏敬本
邁に平和と理解とを譜す。従って畏敬は自己の有限性
の悪徳的重荷も此の想像力を通して道徳化し情緒化し
ることが出来る兵理であるL。融合の不合理も風習運命
してゐる﹂。﹁人間的ならざるものでも人間的に利用す
る。か1る故に敬慶は﹁知性も及ばざる大知慧を包含
承認せられ、人間味を附けられ、世間的にせられてゐ
祭儀、断食、堂字、墓、風俗、生活などは理解せられ、
劇的畏敬に依って具鰹的地方的な民族的樽統、律法.
精紳を以って比喩し文拳化してゐるものである。此の
︵こ︶
示すところである﹂
九五
となつて人間の理性を充たし、想像を自由に生かしめ
の活動や外部的強制あるにしても、宇宙が物質的叙山
及び宗教的に従陥するものでもない。樅へ要素的感情
的移入ではなく、又宇宙的人格、宇宙紳などへ神秘的
だ自然観魚への怖れ、歓び,成歴、不可思議等の感情
である。サンタナヤの宇宙的畏敬を見ても、それはた
︵一︶ 許コす竃nP∴コ1巾ヒ訂已Re已On⋮甲出会rOn㌻㌘宇
g−○−︼−ワー還・
︵ニ︶ S呂︷pyP畠︰Op・Ci︷・p●p・−竺Tl−∽Ⅷ・
サンタナヤにとつては歴史も科挙も厳密な意味では
想像的であるが、敬虔畏敬は特に人生に倫理的な詩を
象徴するものであつて理論的抽象的な原理的詮明も宗
教的道徳的葦鮭及び義務、情操.儀式、概念等を詩的
宗教にこ於けろ理性ぜ想像ビの人間的餅梓
宗教に於ける嘩性ミ想像ミの人間的解梓
九大
てゐる限少、紳ともなり悪魔ともなる宇宙はその想像 的根汝に根ざしてゐて.自然を熱親し、過去に光柴を
的登化自陪に於いて人間性の戯曲拍車扁を快存してゐ 輿へてその使命を自分のものとして楷摺する。精紳性
die冒tか
まe
ら宇
本、質性を直親し.その直観の表敬を以って生命の
るものと云へる。ヴエルナーの費蓮心埋拳に於ける童 は斯くして獲得されたるそのカを朋ひて肝奥の革質恐
心の説明力や︵lH・Weりner︰担n2ざungin
未来と理想境とを創造するのである。
uロ笥勺払yeざ01品ie・−民声 ∽−¢・ロiO WirEie露を眉b賢3
beim同iOdOPP−坪Tl︼∽βオース!フサヤ土人の整術的
所謂迷信曾pe邑iti。n︶は哲拳の初歩なるのみならず
関心なども、サンタヤナの此の戯曲的人間性の解痔に それが理性の生活に介在することに依つて経験の世界
相通するものが多くあると思はれる。我々は宗教的畏 が擁大され生命の辞カが充溢する。デルフォイの祭司
敬が、オットーにせよ、ダウパーミンにせよ此れらの宗
の理性に依りアポ三脚の巫女の論語から明確な政治が
教拳はたゞに畏敬に限らす此の種の人間現象を或る情 高め出された。サンタヤナに於いては歴史の究局を見
意の分析的範噂を通過せしめることに依って規定せん﹁
つめるとき今白の進歩は迷信であるかも知れぬ。だが
としたものであるが、サンタヤナに於いてはそれが人 此の迷信こそ、人間の経験の閣の具申から一歩登別に
間性の想像力に理解されて、邑認識、超批判の自由な 進めて明りを乗って人間を案内し必要に謄じて人間に
現寮的資質に概念化せられてゐることを注意したい。 創造的なカと道徳的な自由の念とを輿へる合理的幻想
ty︶の二部状腰を以って宗教の人間性を組癒してゐ
畏敬と、理想的結果への熱誠、即ち精辞任︵塚rぎ亭
る。迷信の世間醍では迷信者は﹁低度の範疇の前に邁
的償値の測定に基づいて相射的に構成された幻想であ
た意識状潜も.自然的な本来の意識的世界から或る知
サンタナヤの合理的宗教は必然的制約への誠資、即ち である。目的々概念や、賛際的飲用性の範噂で守見し
る。長敬は人間約勢力や.自然的秩序の深奥なる原理
3の
ものである。こ1よりこそ迷信は湧いて来るのであり
る様に跳び込むけれども、また記憶に依って葦はれる
て文科拳に徒ふべきものであり、想像は記憶を妨害す
い混乱を生じたことである。詩は科挙を汲想し、そし
かに高度の機能は汚されたために最も悪い最も傷まし
あらゆる範囲に於て、邁かに低度の機能は乱され、遠
る。それは偽りなくされてわる。人間の華南とその経
質的には詐欺ではない。宗教は経験の一つの膵群であ
基づく理解から云ふのであつて、即ち﹁原始宗教は本
利的でないと云ふのはその宗教搬の塾術的な人間性に
認識してゐる。彼が屏始宗教の所りは本質に於いて功
理となり戯曲化して遠ざかり行く斬りの運命性を強く
はジェイムスの所り■に於ける寛刑的迫力を避けて不合
であり冥想的であ少⋮⋮⋮叉燭語である﹂。彼に於いて
︵一︶
たがサンタヤナでは﹁所感の本質吟詩的であり表現的
宗教の魔術的機能は湧いて来るのである﹂迷信に於い
験的な族件とを顧慮してなされてぁる此の解樺が詩的
かに高度の範頓を適用する!即ち特例といふことは
て理性的な俸群.喘着、破壊が見ゆるにしても.その
︵三︶
︵l︶
行者.卑官者、卜者.婁感者、巫女などの心理とその
S呂tay6p”Op・eF
評ntPy冒P⋮Op●Cit●p●留●
︼牽Onp●p●望・−柏㌢
Spntpy呂p︰T訂巳諦○へ封$谷戸宇野箆On
なものであることば云ふまでもない﹂
行動が形而上畢者の如く眞蟄で合理的であつて、道徳
︵こ
︵ニ︶
p●讐●
︵三︶
逆言せば人間性は想像の原質を持たない。世間的な
九七
る。幻想の封免は調和に櫻はれた理想的精油界である
On︶を以って意諭しっゞけてゐることが命の辣饅であ
理知を契機としての再生的想像︵repr乙ueチエ白鼠n註・
in H訂・
的な心の中で道徳的色彩を描いてゐることを見失って
はならぬとサンタヤナは云ふ。文化融合が経えす培養
して止まないものは理性の根源と迷信とが心の中で結
合されて融合の要請する統合的欺用にその幻象的事象
が附崩し、進んで融合の環境的赦果を高めることであ
る。従つて宗教に於ける新帝、犠牲の如きもジェムズ
は是れを人類の利己主義の著しい表象に他ならぬとし
宗故に於ける理性ご想像ミの人間的解挿
3∂Ⅰ
宗教lこ於けろ理性ミ想像ミの人間的解繹
九八
が、宗教の人事は凡べて此の理想的精紳界に統制され 而して此の深みあると共に幅苛の廉い宗教の資質には
てゐるのではなく、理性の意識に依って諸種の條件を 彼自らの思想の教養的情操が多分に氾濫してゐること
文化と交渉して蓉遷するものであるがその培養素は矢
宗教の文化史的蟹澤は人間の内両性が外部の自然や
踪合第配して寧ろその理想的捕紳界を培養せんとして を見失ふわけにはゆかぬ。
ゐるのであると彼は認める。従って経験を回想して事
控を餃述することが精緋の本鰹である。原始人の魔
術・犠牲・所縛などを彼はその著明な箕例となし、彼等張り人間的にせよ、民族的にせよ、想像の解繹にょる
の要論するところの鮒望の充足・理想の途行は必ずし ものである。ヘブライズムは基常数となるまでにその
も精巣的に光野を桝するものではなくー何となれば知 固有の買感へローマの想像を附加したものと認められ
・位は既にそれらが紙巣的に照現するであらうことを改る。叉基密教は希職人の思想を以って思辞的にされ.
切し符ないから、伏して此の統共的ならざる諸々の思 背痛的にされ.理想化され、且つ叉同時に偶像信者の
ひと行ひの中に理想暁を移動せしめるからである。故 習慣を採用することに依ってて造形的にされ、献身的
紳郎的な音づれ、夢−幻影・幽婁等の心的事象と輝き合
こと、及び、人間を紳に祀り上げることは偶像信者の
であらう。紳と入関との形に於いて受肉降誕せしむる
に好運・病気・災厄・暴風・死、膠利などの地上の事案には
されなかつたならば倍たゞ猶太宗としてのみ残った
って﹁みこ1ろを成させ給へと﹂一種の情緒を以つて理
想隈を戟醸しながら永遠に人間的可能性を保存するも 統合であり、偶像信者の宗教的情操、及び哲畢の表現
のである。彼の解輝畢的宗教によつてその賢鰹を云す である。然もそれらのものを除いては基督敦は亡ぶで
ものは淘に現象性が滑極的である。吾々は此の解繹能心あらう。而してそれは畢に基軒数の紳畢︵それは無く
度をむしろ宗教の文鉾的酢梓と言はなければならぬ。 ても済み得ることであるが︶む失ふばかりでなく、基 抑
舟場で相異を生ずるヘブライズムと希臓紳諒とは教徒
な慈悲、歌書をも失って了つたであらう。歴史哲拳の
替歌の精帥的抱賀や垂術的な類扱や、その形而上拳的
紳のその時代の習俗に適合する回想的情緒、人間的秘
詮を排して宗教史の歴史性はその節するところ人間精
張と云ふ意味は骨迫の宗教解将に於ける意慾説・願望
なものであると云ふ含蓄的な主張である﹂。合帯的な主
︵一︶
と民族が法る靡き意味での興味的黎建の富源はアポロ
義の想像猪語にあるとすることであらう。
ぎコど箋コ臼⋮ヨeヒ訂○、芽詫○コこ甲R8∝On㌻Re・
︼igiOn■p●S︼●
サンクヤナの見解で哲挙が富然無理を記蓮し得ると
︵一︶
的、デルメル的−イエス的等の間に侮熱和せざる理性
的要点があるにしてもそれらの意味を何等敵解するこ
となく、香益々精妙な表現を加へて歴史的に宗教の停
統を語りつゞけてゆくの恨、宗教の木質性が概念的憑
はそれに依って非常に明かにされ、力づけられる。つ
験に基づける旬に依って表現したのである。其の情緒
な戯州に依って情緒を表現し、ギリシャ人はそれを経
的形容の代りをした。即ちヘブライ人は僅かの奇蹟的
に於ける多くの狸り目に際して、形而上畢的秘据は詩
である。先に於いてサンタヤナは言ふ﹁湛督教の俸統
を停遷せんとする言語である故、文明の解輝は此の言
吐くことになる。文化の放ては象徴に依って何ものか
ると云ふことは、単に人間性を東成する観念的虚偽を
なものではなくして字糞通りの眞埋や生活の表現であ
哲拳の深さを物語るものである。併して宗教を象徴的
ンの言へる如く宗教性を哲拳の核心とすることはその
が哲畢を導く人間的本質であるからだ。従ってベーコ
同様に非合理性をも述べ得るとする所以は免徽的解繹
まり鑑に其れは始めて賓際に表現されるのである。何
語で頼られた紳許や寓話の中に表はれてゐる敬虔さを
駄を骨子とする人肌的精糾そのものであることの詮嫁
となればキリストが祭壇の上に立って、倍吾々の人間
尊重し、その詩的概念を了解することに依って個人と
九九
の肉と混するといふ概念は.キリストの力や愛が永遠
宗教lこ於けろ理性ミ想像ミの人間的解梓
ぶβ3
宗教に於ける理性ご想像寸1の人間的解搾
批界を塾術的に観想するととである。それは餌ち理性
一〇〇
に於いては形既約美と精静的美、菓えに於いては一時
聖なる叔智とよぶヌースぎ一−∽やロゴスど竃はその
めて祀扁しっ1、呪ひつ1あること恰も小穿と簸草と
根本的に相容れざるもの1衛突が或る資質的新規を求
の生活抽望一声せば話力の賽蟻である。プラトン拳徒が神 的柴えと永久的費え、制度に於いては融曾と軟骨との
後来の思排的左宇宙的目的、形而上拳的意味を暫く預
が一定の地面を求めて葛藤抗争しっ1終に疲れ発てる
︵︼︶
かるならば、それは根本に於いて理想的必然性を物語
様に似てゐる。
p◆P.¢U.1岩、
苧nt童Pn≡ゴ10F.訂Cr討つP言︰甲詳記On㌻謬・
︼iい号n
殉教に打たれつ1此の人間性の終末を、敢て人生の、
人間は宇宙の神秘に照し、賢哲の論琵に則り聖者の
︵こ
るヘブライズムの精紳、頓首せば猶大人の創造の概念、
冊外の所望政治の観念を受けついで、と言ふよりも寧
ろそれらと通有する人間性に依って、紳の本質、紳に
ょる化身︵i−1ePr邑iOn︶としてのヌースやロゴスを設き
高めたものと認められる。
る二つの都、道徳に於いては自然的な道徳と超自然的
性﹂の中で言へる如く、人類の全歴史は本質的に相射す
の具鰹なるものを認めるのである。﹁宗教に於ける理
したものであつて、人間事象の現賛的象徴性に融合性
を宗教、輩術、科拳等の総和なるものから叙述せんと
敢曾の自然悪、自由悪.理想磨の三段階の綜合的磯距
の如く造形実を或るものはアポロApぎ○の如く書架を
愛することも出来、或るものはへフェスタスJ訂首蚤um
とも出来、或るものはヘルメスⅠⅠヨl望の如く運動を
る。或るものはヘスティ7芽邑Pの如く不動−仁愛するこ
於いて自己の夢の垂術性に滝封性を認めることが出来
味するのであつて、人は此の統合性を認識することに
人間性を必然的に許容することがその囲結的共存を意
彼の﹁理性の生命﹂の第二巻﹁敢骨に於ける理性﹂も、 而して教徒の白日夢を了知してゐる。故に融合は此の
な遣椿、哲単に於いては合理的哲拳と啓示的曹拳、美
∂のl
愛することが出来るのである。
が、サンタヤナにあつては事憩的なものに附加して来
命、即ち文化の現資性を楽しむことである。フオイエ
サンタヤナの宗教に於ける人間的解梓はフォイエル る云はも一回的でたく再生的な想像に依って理性の生
.ハブハ及び其の拳徒等の人間的解繹、即ち理性と想像
との根底にそれらの資践的興味を指導する意欲又は本 ルパヮハの如き垂術戟は彼が濁逸唯我主義として頼力
館願望を辟礎するものとは明礁に陸別せらるべきであ 忌むところであつて、彼は此の唯我主義に反抗して人
ヒューム以来の英餌宗教観に於ける経験的教養と認め
る。フ▲一イエルバ、ツハに於いても宗教及び紳の本質文
は主
人義的宗教を尊重するものである。私は此れを特に
間の想像力に依って現象的存在を附輿せらる1が、併
しそれは紳と交在する人問性の解輝ではなくして紳と 度い。紳を思排的に分析声明せんとして往々紳をとり
ポザソケットは言ふ﹁宇宙は全醍としては善そのも
存在を十全に止揚することである。
封鑑する人間性の能力批判に終る。従ってフォイエル 逃すよりも、紳を横掩的に経験することに依って静的
.ハブハも宗教を人間の賛践的興味に萱生する詩的塾術
的想像力の所産と言ふけれども、其の節産たるや、能
力的人間、慾望的人間の一元性を脱し得ない。サンタ の.或は悪そのもの1存在であるよりも寧ろ善悪の劇
ヤテの宗教的所産に於ける詩的塾術性は人間の意志な 場であらねばならぬ。かくして宗教的諌仰の封象たる
る元的一位性を顧慮しない。諸種の観念の集成に依っ 静は宇宙が善と悪とを完全に吸収して丁つてその全笹
て生ぜる生命の調和の中に人陶は自己に映ゆる宗教性 性を表はさんとせるものであると云ふよちも寧ろ悪は
表象である﹂と。即ち紳は事態的なるもの1表象であ
︵こ
を愛することを以ってサンタヤナの人間性はその想像 曹に鉦肘されつ1あるものとして考ふる場合の宇宙の
の餃他に這入る。フォイエル.ハブハの宗教は人間の先験
ー〇一
的詩カを現世的施設に整衝的に投影することであらう って個人の舘力投寄を辞するのではなく、文一方.ジ
宗教lこ於ける理性ミ想像ミの人間的解梓
3の5
宗教−こ於けろ理性寸J想像ごの人間的解繹
エイムスが閉鎖された宇宙︵b−。ekedqロ⋮竃邑として反
一〇二
例へば未開人の狩猟耕作の場合の儀線上の特殊形式が
教的であつて終鱒宗教的に終るものである。弦に於い
射せるヘーゲルの形式的世界精神は同様にポザソケッ そのま⊥塾術であるよりは既に以前に根本に於いて宗
トも美観経験主義の立場より採らざるところである
が、此の思惟に依る排詮的栃限と背進的先験性との中 てサンタヤナの整術はその宗教観に基づいて峯衝の在
間に人間性の最も理性的な想像腰を措定することそれ 来的定義を脱して、それは概念性に制約された知性が
自鰹がサンタヤナの宗教である。弦に於いて宗教は辞 人間的想像の母胎たる紳秘的幸痛感の中に滑滅してゆ
示しなければならぬ。宗教即詩力郎蕪術的美意識は趣
であり塾術であらねばならぬとする思索的根接が認め く過橙の中へ高まつてくる敬虔と精紳任そのものを指
らる1であらう。
封m︼ig㌻Pd臨¢e訂te払︶−監−−S柏.
C・声E・ヨn巳Fユm讐二Rel直Ol−Sp一−i−○蕃pl一iC︵D訂
﹁言語・科学峯術・宗教・及びあらゆる大望ある想像
︵︼︶
事痛感を語り綴る人間の本有性の顕現である。
︵こ ]P冒章壱et∴コーCぎぎ芦10est㌻句○〓lleH己
iに
・ 於いて宇宙の事象的一切を象形文字として自己の
限
まdu已﹂詑P p−柏いP
併しながら既にハルトマンに依つて明かにせられた
︵一︶
如く若し宗叙が辞の膜政界に遁れ、整術の候象に溺れ
るならばそれは生命の麻痺堕落を意味するのである。
又宗教の質的限度を萄術的に突破することも単に徒事 は表象に依って構成されたるものである。生命は諸種
な迷想を重ねるに過ぎない。勿論生活そのものは種々 の概念を寄せ集めて出来てゐるものであつてーそれは
の首的概念の結合であつて、たゞ濁自的な目的性病は 恰もかの蒼天が諸種の星を寄せ集めて出来てゐるのと
抽象に過ぎない。けれども此野間宗教の猫自性が綜合 同様である。そして是等の理想や超個人的なる封象
鰹の中に解滑することは宗教を語り失ふことである。 は.時間に橋を架し、種々の標準を定め、種々の償梧
るものであつて.箕に永遠の装飾なのであり、かの理
ゐるからであつて、従って、斯くの如き所詮に依る蛮
的そのもの1うちにあつて人間行鷹の内容を改定して
を建設し、あらゆる生活の自然的報酬を構成したりす は静的なるものと人間的なるものとの基本的封立が人
性の目標でありl且つ玩具なのである。そして其の理
性は、他の何物かと同棲に、生命的且つ自蓉的な心の 術意識と宗教意識との交渉は既にクローナーも言へる
中に於ける一つの本能である。或ひは寧ろ理性は恐ら 如く有限的自己を静的自己のうちに滑失せしめること
く一つの附加して来る本能であ少、それに依って、あ を以って始ま少、紳的自己の有限的自己への授落を以
くの如き想像的表象.言はゞ眞理の理想醍を反省する
は有限的自己の貴賓約諾カを強く確認することであつ
タヤナの想像界は静的自己の投影であり、その理想界
︵一︶
らゆる他の諸種の本絹が解拝されるものであらう。﹂斯
って終る、然るに叙上幾度も繰り返へせる如く、サン
こと、辞諭することに依つて.宗教は理性的なものを
帯びる。併しながらその理性的宗教は眞理なる想像的 た。吾々は此のダンテ的想像とゲーテ的理性の交錯そ
解梓運動を見失ふわけにはゆかぬ。
綜合拉の、而してサンタヤナの語を用ふれば﹁眞理の のもの1裡に新世紀初扉来の目鼻ましき思想の教養的
軌跡﹂を辿りつ1ある他、何ものでもない。将帥現象
−⋮giOn・p●p一望↓1誓00●
︼〇三
論の整備に於けるヘーゲルの所謂﹁自由なる規定性﹂そ ︵こ S邑P箋牒ち訂巳諦○へR諾On・甲謬琶niコ謬・
のもの1宇宙的適用がサンタヤナの宗教界であつて、
ヘーゲルの聾術の未来に属する宗教、戦術の一段階か
最高の解放をなす場合の宗教の如き理性的な外面的規
準に自己意識が解滑するのはサンタヤナに背教する思
考である。何となればもとく此のヘーゲルの思考に
宗教に於ける理性ミ想像ヾ1の人間的解繹
307
英米に於ける宗教曹畢の現状
英米に於ける宗教哲拳の現状
大
島
現代英米に於ける宗教哲畢の主潮はカントーシュ多
ラいのである。而して千九百武拾四年に於けるカント
託生武官牢記念講演の凡てが、我々の現代宗教観はカ
イエルマツヘル.ヘーゲル垂の思想に淵源するのみな
ソトに翼ふものであると言つてゐる。賢際我々は・時
は役に立たないといふ事等をカントに巽ふ看である。
いといふ事、或ひは又純粋理性は紳畢の分限にあつて
間的及び客間的存在の範疇に由つて宗教を理解し得な
らす、今も辟、拾八世紀後年より拾九世紀初頭に於け
︵一︶
る思潮の渦中に在るが如く見ゆるのである。
∴
故忙例へば、プリングル。ハティリンの結論﹁寮即
在ち
のカ
究ントは現代に於ける宗教哲拳の諸問題の光とな
極的本質への導線としての眞償に謝するカントの概る
念ところの根元を輿へたと見て良い。カントは、宗教
はカントの時代以後の凡ての概念論的哲拳の基礎的は
論本質的に人生と懸度とに牌することである故に償値
鮎であろ﹂ハPring︼?Pttぎn−Ⅵ.A∴T訂ld⊇○、G〇dint訂
の領域に願するものであり、従って宗教的教義は単な
る理論又は論理的分解でなくして表象的眞理を表現す
巳gぎウ、㌘cent字i訂。号yら謡いCnpp.会eに勤し殆
此の、紳拳の象徴的本性の概念、或ひは又宗教は認
んど異議しないし亦、﹁有紳論の最も代表的形状はる
カも
ンのである事を、我宗教へ如叱
トに翻り寄ぬべきである﹂ハHbid.こγ㌫︶に同意する者
3αヲ
TheヲOb−e20、C冒i註a−1ity︶、エームス︵Aml∽㌦↓FO汐﹁
cどl〇g﹃OrRe︼直OuSEHp几ri3Ce︶、キング︵Ri札∽碧eP・
詩的所産ではなく、超理論的経験の普遍的牽観である
とする概念は、亦同様にシュライエルマニルの主要な
Ye首nle呈二ち︼㌢一i昔n︶
等に由つて此等が第一問題であ
る教義である。併し彼に取っては、宗教は道徳からす
ることを知り得る。
べきであるとさへ、多くの畢徒は主張するのであるが
を輝明するにはシュライエルマサヘルの併設を以て始む
現代思想に非常なる感化を及ぼし且つ、現代宗教理論
ばならない、と主張するに到つたのである。邁例をあ
めると同様に、宗教的事案をも認めて取り入れなけれ
而上畢的醍系は料率的知識及び其他の経験の要素を認
のであることが明かにされる。同時に曹聾者選ば、形
斯くして宗教は哲畢及び紳畢とは全く異なりたるも
.然るが故に今日、シュライエルマゥヘル復興をドイツに
げるならば、ミュアヘッド︵J.声写−ir訂pd︶は最近、彼
中に認めるのである。然し此の経験論は単に主観的精
響を及ぼして、合理的個性珪活の梶田たる姿を宗教の
教心埋草が食って無かつたが如く研究されたと云ふだ
倉荷するに到つたことは香足し得ない。それは畢に宗
に於ける宗教経験の猫自且つ永蓮的意鶉を全く新しく
の編著なる﹁近代英国の哲拳﹂に於て次の如く言ってゐ
紳の吟味のみを以て満足せす、客観的精細の研究を以
けではない。個人及び人類に於ける現象としての宗教
︵≡︶ である。
て禰ふのである。赦曾的集別の関係及び其括動、宗教
に於ける心理的と歴史的との興味は宗教を単なる造物
る。﹁プラウドレーが︵現象と賓在︶を書いて以来、人生
的囲鰹のカ、或ひはそれらの歴史の主張鮎等を理解す
︼〇五
と見たる菅拳的等閑と全く両立し得る。寛在世界の新
英米lこ於ける宗教菅撃の現状
ることが、宗教哲拳の重要同位となる。ロイス︵ぎ︸乳仏
次に現代哲拳の主潮である経験論が宗教の研究に影
於けると同様に、英米に於て見るのは不思議でないの
るに到つた。而してシ、ライエルマッヘルの宗教観念は
ら完全に解放せられ、経験の自律的形相として確立す
劇婚
一〇六
ミ主張する。又、ウェブ托宗教が非合理的要素を含
英米lこ於けろ宗教哲畢の現状
見地が魂に顕示するところの人間経験の最高線を代表
むけれど.之れほ決Jて宗教の本質的合犠牲を破域
も亦、﹁哲拳ミは凡ての合理的人
ミり胸係を決定する=ミであるご述べてゐる、出打7
最後の問塩は我々の最高的慣低ミ仝憶写しての存在
ミl‡屑値把任に於けろ信仰でぁろミ定撃し、哲畢の
︵ニ︶HP邑dHかB㌢gは彼の名著﹁宗教哲撃﹂に於て宗教
ろ。
すろものでlェないミいふカントの見地を固持Lてゐ
するものとして宗教を認めることが大切である。ブラッ
ドレー及びポーサンケの如き観念論者も、アレキザン
ダー教授及びロイF・モルガン教授の如き賓在論者も
シラー博士の如きプラグマチストも此の鮎に於て全く
同一なのである。﹂︵C邑emp毒3こ裟tisll字i−○筈pぎS?
eOndSeri庄−pp●皆1誓︶
想もーつの筋の立つてゐろ全憶亨して理解するにあ
r︸Sidgまe好
ろ﹂︵P邑0∽。pすこt町野。p¢AndRe︼註0−−功、p.望︶
かくの如く、現代英米に於ける菅笹者の多くは熱心
に、推験論的立盃から宗教を解挿するに到つた。以下、
︵三︶Sel麦erm邑erの名著の岳乙enぎeり詳伝Onご
方法で若合する事が青草の仕事亨し㌣。
ミ言ひ、どtモーd邑ミを合理的に且つ満足される
旺
其主潮を腹改したい。
︵一︶例へlて、Ⅰ2m冒ue−内岩tこ¢柏血T・−苗ナビいふ題名
只﹂弓・ヲe−−Cbこ∽篭︶の罵で諾され、ミG−Pube邑e冒eミ
lェJO︼−nOmPロによつて∂nRe︼igiOn。︵どndOn︰
︵q−きer告yO︻Cl−ie品○
によつて。TlleTh▲
の二書、英一に︰戸什・Wi︼ヨ︵Y已e戸i重苦芋
GgrgeC3訟
O、許Eeier2g訂r;
■症旨leiけrmpe一品r︰A
述・し主。
Criti2︼巳已∴胃i巴Ori2︼St〒
dy;︵穿毒Y。rk︰ヨ・憎・Dlltt〇コ紆C〇.こ賀肋︶わ著
が
クスフォードのマンスフィールド大草長弓■甲S仲買e
亨e軍︼¢ご︶亨して抄課され、千九官給三年にオッ
e〇一〇gy
はシカ.コ大草¢
窪︶により編ぜられたろもの、他に声㌢ScFllb
C.C.J.
︵T訂Opeロ9uユPbli許⋮.gC〇・︶の編慕の書な見
るべきであろ。又オクスフォーγに於て
︵○騒乱e巳尋乱t﹃亨窪−−岩缶︶写して出版・しtも
宅ebbが詩準し、閂Pnt㌦字−︼。Sつ盲y e﹃謬︼igiO−︼
の中参照す.へ︺。
ウェブ教授ti、カントが基せ敬ほ倫理的でぁそ言
が共時色でぁろミいふ鮎を、今命、畢ぷべで与あろ
3J∂
千九首二十大卒−こ
Op昌9ul・t
三S01i
司OrP︵eL勺rie求が非常に有用
光る序説ミ研究書目録ミを附記、し十王:ろの
−〇quie00。み英琴し主 ︵C己2gO−T︼一e
を特に参照す.へ、し︶。
〓
過去参拾年以来、科挙の菅建と共に、宗教の本質の
研究に科拳的方法を朋ゐるに到り、心理畢が個人の宗
吋ロbl五−5.gCe●︶。彼はシュライエルマッヘルの。ber
C冒i什t︼訂訂G︼a亡be。に開﹂て﹁紳撃の億系l‡宗教経
験ね象徴†るものミJて理解すろにぁろミいふ此書
教経験の解剖の仕草ど始めたのである。第一にG.St・
の根本義は、宗教の解搾にこ興味なもつ有らゆろ階級
の人々の中lこ、今日よりも、遊歩ぜられ㍗︰ミはな
PndAdOl籍eき・㌔︼まー呂et昌Re訃司こ00∽8が科挙的に宗
Cbr賢iMln︸Y
教的現象を研究し得る事を示すと、其数年後に三人α
畢徒に由って、宗教経験は心理拳的解剖に屈服すべき
であるとされた。かくして宗教心埋壊への路を此の三
g山C己ヨ蒜nつn−つnPミロd義Og山c已Se已呂・旬Apr
人即ちJ・︸叫・訂u訂︵ミAぎ阜⋮nニーeプ互−○︼〇gyO↓Re︼i・
を参絹Lてゐる。戎ひは叉、J。︸1n出邑−ie︵筆者がエ
SIPrb邑ハ︵読〇ヨeAゼ邑sつへRe︼igiOu
P
英米に於ける宗教暫拳の現妖
い﹂た。而して千九首二年ウキワァム・ジェームスがギフ√
︼〇七
ざを祝いてゐろ。︵Ibd・−p﹂可−ぷーー∽−g∽−巴P誓
等 講演に於て表敬的経験の種々﹂を以て、宗教心埋
到ろご=ろlニシュライエルマッヘルの大切でぁるこ
ePnJOum已〇︻汐yc邑Ogy︶○︹︷・−︼S箋︶”のeOrge A●COe
い畢生でぁつたヾJ許され㍗︶は被り近著−−T訂︸nt?
︵.−T訂叩嘗・it邑︼iぞーAbi5乳。コー穿宅Y弓kこ苫○︶が開い
ゼ﹁el註On已⊥碧ligi。nミ︵Ch邑esSeribneニー罠βの
ふ㍗時老教授ほ、ジョン・ベサー=そ自分の一節良
ディンバラに今冬、プサングルパティソy教授な訪
ジェームスへ寸Jいふゲオペルミンの標語﹂ ︵p.笠︶
れ、そう﹂てシュライエルマヅヘルからウヰリアム●
られてゐろこミ、及び﹁シュライエルマッツヘルへ締
︵p・芝n・︶の如き現代聾者lこよつても同様に生娘ぜ
続的重要牲を力説L、Le芭吾コ一再nds昌、巳c︵小きユ
︵警句YOユ√−琵8に於てシュライエルマッヘルの永
∽Onは近著 ミThe ¢Od O︻︷訂 巳be旨l
い。﹂すp・ITii〇、寸言つてゐろ。叉PS∴ぎbin・Pnl︷・y−r已︼︵へへゴーe日OrP−Pnd詳︼藍〇宏丁邑ningOへCl︼己ren
3JJ
英米に於ける宗教哲嬰の現状
拳に於ける第一の貢献を成したのである。
一〇八
敦現象を.フロイディアンといふ僻目を以て見たもの
の興味のみに支配されたる偏執狂の様なものであると
斥けて、精細病趣轟の方法を山み桐ゐ、宗教とは自我
才。Sp邑i且と行動主義方法︵汐−′ヨiOr訂t少訂旨Od︶ とを
である。彼は宗教心理畢の研究に普つて、内省法︵In・
れることによつて著しく進歩したが、過去拾年間に於
tl
lす
の る。而して、夢及び紳経病掟侯と同じく、宗教
主
張
爾来、宗教心理拳は新しき掛率的研究方法を取り入
七石の代表作とはJ・声冒lt、00貞−の家igi。eC。邑。忌
ける三つの代表作を許する事に由つて其進捗を見よう。
tO
ne屠ご ︵l箆○︶−R● 寧 月hO已窺√;An−ロtrOd仁註On
ない、といふのである︵ヒd●も.芦−声︶。かくして、
汐ycぎーOgyO︻Re−i告n。︵−岩lっ︶︶W●声S詮iqm占he
甥信
y・
的
條は防禦、報酬及び迷路の幻想的機械作用に過ぎ
eぎ︼OgyO、謬︼宣昌︵−り旭加︶である。
宗教は客救的賓在と何等の囲係も無く、経験といふ苦
しい事寒から逃れる方法に過ぎないだけのものとな
この第一と節三との薯晋は其心理拳的立場と方法と
が最も不偏的で穏健な態度であつて、其研究の材料の
る。之れは畢尭するに、宗教的経験を研究するために
︵ご
取捨も亦安富である。第二の著書は最近拾年間に英幽
心理拳的結論を用ゆるのではなくして、フロイディア
ンの研究結果を説明するために宗教的現象を利用した
に於て勃興し来たつた新心埋拳を最も通常に應用した
ところに、其特徴を見得㌔此苦千九首二忘年に
へば.其鮨給費牽︵不死の信仰︶に於て印度の宗教概念
宗教に閲する料率的知詩に射し環特の文献である。例
前述のブラ,・卜の書は単に見識あるばかりでなく.
出版せられたる声P巳邑in㌧旨e試旦eり句0、謬︼僚On。と見るべきである。
︵呂計甥疇騒こ野○︷才色と比較することによつて其態度が
︵三︶
も完全に、宗教の解将に用ゐた鮎に於て第一人者であ
を取扱った事、及び末輩に渡って紳秘主義の研究を述
明かにされる。マルチィンはフロイド畢次の方法を最
るが、同時に飴りにも一方に偏した見解であつて、宗
乱ほ
宮n邑t
の
ミA字ilO若p已邑.哲已yO〓r昔st訂訂m、、は観念
ベ最も安富なる結論に遷した事等である。あらゆる鮎 的論述に謝し.千九雪一十三年に出版されたる仁A一
忙於て此書は宗教心理畢の研究が如何に進歩草薙した
る。
かといふ茫操車ボし、且今、宗教心埋拳が宗教曹拳に 論の来場から.紳泌主鶉を詮明せんとするものであ
貢献するところあるといふ可能性を明かに許するに到
に従って、紳秘家自身は彼等の経験のみが眞の遺であ
︵田︶
ペンネットは神秘主義の解剖を、紳秘経験の内容の
つたのである。
特種の問題に閲して、最も卓出せる著書は、千丸首 研究より始める。ハーバ丁−トのホゥキング教授の見界
二十五年に出版せられたるJ−ヨ●卜eubP−m。T訂欝叫各?
で ると信じてゐるといふ立場を王張する。紳秘家は質在
との理解あり且つ生々した接鱒を発しんだが放に、崇
︼OgyOへ㌘−直○伝写甥tic訂m−、︵H雪eO弓︷−冒PCeむ︵∀.︶
高なる幻想と力とを獲得し得たのであると言ふ。
其後、ペンネサトは。宅Or許甘i口許こ茅i訂竜三c已試e・
あると思ふ。サユー.ハーは蓉生心理拳の上から研究を
求めるところの恍惚境と、印度の塊伽冥想と、神秘主
P=㌻g。︵J。弓n已0︻謬ligi昌二変声﹂ヨ.︶に於て、鍍挿と
進め.多くの民族が韓及び其他の物理的手段によつて
義の最高度との間に一晩の連鎖を認める。次に比較研
世的生活を休止する特怒であると説明してゐるけ同様
究を進めて、■一代表的紳秘世義とヒスチリ、紳経衰宙は
、.人が敬虔奄る心を以てー紳に服従した時、全く現
精紳昏迷.藤樹昏作の如き科拳的に解僻し得るところ︸
︵玉︶
番数の立場から論じたものに、宇訂d合計ぎn宰ig巴
のものとの間に、著しき輯似を費施する。而して凡て に、神秘王義の重要性を主張するものであつて、捧馬
此等の問題を.解剖的能力と、茸際的にも理論的にも
︼〇九
次に注意すべきは訂uケ告。The官li乳in¢Od呂dlm・
邪魔になる範囲に在る智誠の前衛に進むところの熟練 の著香がある。
とを以て、解決せんとする。サユーバーの此の賓詳論
英米lこ於ける宗教哲堕の現状
∂Jき
英米に於けろ宗教曹畢の現状
一一〇
統計によつて、科挙者の過年数が人格的不死を信じな
を科挙的に腰用した先貼である。Jリユーバーは、彼の
版である。此書は.宗教的信仰の研究に、統計的方法
である。文明幽人に取っては、其媒介者は紳であつ
情操が凡ての他の衝動に優るものであると、信ずるの
介者を、持ってゐる。而して、最高の宗教は・宗教的
的に認識せられたる何位の保存を求め得るところの媒
Hlさ邑it㌔︵T㌃○官nCC巨PblishgC〇.−諾−︶の第で
二 あつて、この宗教的情操は、その封象として.融曾
いといふ事を立証してゐる。これは英国の腎聾者であ
て、彼を通して、敢骨的に認識せられたる低値の啓蹟
︵六︶
って臨床の経験から、人格的不死の信仰を是認したJ.
A●
ヨ乳琶dの論文?T訂呂已呂山t︼led邑nご︵ぎ⊥㌢ne? を求めうるのである。紳は、人間が頼みとする箕在の
である、とする此の紳の概念は、現代に於ける多くの
邑1−gI−−20r邑i︷y−e旨edb︸Slreetel・こ2ご.と表
良き
象 はなく、畢に人々の最高理想低値に封する別名
象封で
をなすものである。
怖、倉恕、好奇心、群居等の如き宗教的本能をもつて
の如く主張する。厳正なる科拳的意味では、人間は恐
念に基づいて、宗教哲拳によき貢献をなした。彼は次
マクドゥガル及びシャンrの心理単に於ける情操の翫
の論寧を産んだ。例へば、エームスは組織されたる宗
覿念に封しては、いろんな方面の比評家に由つて多く
教とは最高祀曾債植の意識である、と定義する。此の
教授を挙げたい。彼はシカゴ撃波の中堅であつて、宗
に興味の中鮎を置いた拳者の代表者として、エームス
撃者に由つて唱導されてゐる。融合心理拳及び政令畢
ゐない。成ひは又、遊戯、模倣及び暗示の如き天賦の
教の信者と融合に奉仕する無紳論者との間に、重要な
︵八︶
宗教的傾向をもつてゐない。併し、宗教的衝動は、環
る差異のあることを謎めぬ失敗をしてゐるとか、又は、
千丸首二拾二年にダートマス大挙のライト教授は、
境に膳臆するため出来た通常の習慣或ひは暦度ではな
シュライエルマッヘルの所謂﹁信頼の情操﹂或ひはプラゥ
3J4
︵七︶
い。然らば、宗教的衝動は何かと云ふに、一種の情操
●
と著しく同一祓さる1に到つた事、又如何なる時代に
に勤して、エームスは現代に於て宗教は敢曾的理想論
箕を無税してゐるものである、といふ。これらの批評
取扱ふのに合理的且つ好結果を得る方法を供給する、
其経験の科挙即ち心理拳は箆在︵宗教的賓在をも合︶を
ぜとならエームスは一策在は経験のうちに輿へられ.
の如き機能宝玉者がもつてゐる露骨な信念である。な
析鱒の見界である。併し之れはまた、前述のエームス
於ても紳の観念の葦鰹は其集他の精細に過ぎない、と
と言つてゐる。鈴ほ又、ヴューバーは彼の。A眉旦与
トの﹁運命の究純的決定者への態度﹂等といふ根本的事
答へる。かくしてエームスはデュルケムと同様の立場
3Jう
々及び宗教の紳︵形而上拳に於ける紳と院別す︶は宗教
望udyO=己igi三l、∴試PCl邑Fllこ芝βに於て、静
︼Ogie已
エームスの此の宗教概念に全然満足しないアイディ
的即ち内的経験から推断された節約的推理に基礎を道
︵九︶
になるのである。
てリストとしてホゥキング教授がある。彼は、賓際的
ば、それは融合的意志でなく他のものでなければなら
酷な掛象であつて平和及安心の源泉があるとするなら
し符ないものである。而して、もしも宇宙に鰻丼の正
面的であり、不明で.且つ個人の精紳的要求を理解
る。如何なる場合に於ても融合の秩序の精細は多少表
な目的にすら集翻精紳は紳と同一でない、と論争す
である。この超人閃的精神界即ち帥を心理拳封象と為
理拳の結果として生する哲拳的限界を明白に見ないの
のものを理解して得ないため、箕線的或ひは料率的心
理拳の一部門に過ぎないと言ふ。寮に彼は抽象的性質
く、而して此の領域は全然心理拳に厳し、紳拳も亦心
一一一
ダーは彼の名著議富岳−Ti2勺−A−己Ueiモー︵H.p.宗β
マンチご︵クー大拳の名巻数授サムエル・フレキサン
紳の存在を論じ得ないものである。
︵一一︶
し符ないことは勿論であつて、叉心理拳の材料を以て
英米lこ於けろ宗教哲畢の現状
べきであると諭ぜらる1に到つた。之れは主に精細分
次に、宗教野草も紳畢も共に心理拳のうちに融解す
︵一C︶
ない。
.
英米に於ける宗教哲嬰の現状
lこ反・しプラクトほ宗歓心埋草ミ宗教哲畢ミの職務を
一一二
︵ニ︶新心理寧は英国めA●P
H訂邑eモ。T訂甥e名辞Y
区別J圭︵吋邑t︰ワ畠●︶等が妥普でぁろ。
︵⋮〓︶ に於て.最も適昔に次の如く論述してゐる。
﹁眞理の世界に連結せずに中ぶらりに人間経験の一
部分む残したところの哲拳は鼻面目に疑ふべきであ
に由つて代表されろもので
ぁつて、書き心理畢の各挙汲︵謬訂ま○弓i∽mぉも含
Alleロ鈴eロま︻−−−冨○︶
註010gyAndiオ︼紆一已iOntO巳訂。︵どロdOnこ紆月讐
む︶寸ノブロエド及びユングlこ由つて唱導ぜられたる
る。宗教的感情を思索的に理解しやすくする其失錯は
思東約款宙を表示するものである。何故とならば宗教
Of封の一ig山Ou∽せOg2P㍉、
︵JO弓n已○、憎hi一〇写p己e巳望udi認−く01ゴー¢∽○︶む
つhOu︼遷︰;T訂芽苫訂]品y
伺此の意義︵第二の立場︶わ明かにすろ食ゆにli、
ろ。
政談ひ、無意識の行動ね特に重大執すろものであ
ろもりでぁつて、構紳病理畢の立場から主に材料を
汐苫ど・An已嵐sミを線括Lた心理畢でぁるミ主張す
的感情は経験の一部分であり、且つ経験論的野草は何
かの形を以て経験の全詮を包括すべきであるから。﹂
賛に丁レサンダーの主張の如く.宗教経験も亦、形
︵一︶プラクトは個人的宗政経験ミ集囲的宗教ヾJを一カに
.而上拳的輝明を必要とすることは、昔然の理である。
駐
参照すべJ。
︵三︶
マルティンほヤクコーミック紳畢校卒業後、数年問、
究の結具でぁろ粘に於て、宗教心埋草の著書中、第
一の傑作でぁる。且プラクトはエームスミ鼻先り
なり、共後、牧師を解めて彼の書中離線・し、すぐ何
組合数骨の牧師を冗Lて後、ユニテサアンの牧師ミ
偏†るこ草花く研究J㌣事ご、拾ニケ年間の永き研
︵出・鱒Am法∵ヨ品︼耳号賢一〇gⅥOfRe巳giOu払出Hpe・
iロHuヨ5︼首p?
ri13eつこ讐○︶ミ集光り、宗教王道徳ごわ碓然ミ
院二
別の要ミ結婚︺、此苧空曹ご㌔此の履歴が彼
年第
甥已‘1e呂d
i︷∽出訂日計ing。︵Y已eeni忌乱lアワ竜−
rieneq、︵Y巳eローr乳首∴才芸−−り一拍︶.■貞ul己n
︵田︶HOみing︰。T訂試e呂ingOへのOd
L、叉、エームスが宗教な社食的意識であるミ橋場
の宗教に射すろ態度一ど証明﹂てくれろ。
lニ見上のに反︺、個人の宗教経験の所産でもぁる事
な見逃さ光かつ圭、及びエームスが宗教心埋草ミ宗
瑚習草ミわ殆んざ周一戚・してゐる︵Am余す軍︶
3J6
︵五︶
ー¢−00︶−ミづhe 哲︼?穿こ貫首写dヲe∼d昌lミハY已の
い頑挿には形而上撃的射象が必要でぁる。確拝の対
lこ、功利的目的のtめに作られてゐろものでl‡互
生活に於て有金なる結果を増進さぜるけれども只里
い。即ちそれは紳でなければ光らね﹂︵JOu2已○、
象物li虎拝すろにふさわJいもので光ければ叱らな
S︷已告t、∽吋ElOmOpす○へ出㌫・
出訂︼igiOローさl・lIl−−−¢相加︶。
︼i乳On●、−罠−、Hく●た¢・⊥のβを参照。この書の第二
A童邑sO〓訂R邑giO忌Sen一ime
g訂n;︵星e弓YOみ−試旨ロli〓呂CO●︶ミ
︵七︶W・戸Wrigぎ㌧A
t︼−e
喧嘩好、性愛、野心ミの関係に就いての彼の眈明li、
On
enγe乳t﹃ヮ窟こ冨00︶等み参照†べ︺。基督教主
今日最も論議ぜられるミ、ろでぁる。
特に次の二番を参照 ミ対戦py∽ 鈴 Add苫捨袋
勺r彗容p︼︼y O、R監giOn︸、・︵トOndOコーJ●芦せe已鈴
Her句ri乱♂ミ
許眉︼琵−︶−.j訂試y已2−ヨemenこnH訂︼igiOn観
望已i乱iロS︷.Cptberinの○へGenOppヨd
︵皆01P−¢賃︶
H呂de一句●浮Pロd︶に彰辞されてゐる。此の心理単況
守Oup∽︵試○ユ昌冒iロee−Wi︼︼Fm宰こど竜一︼︶A︼?
の代表書lェ、︰試●
篇︵宗教ミ自我︶は、現代心理撃lこ於ける句u−■pO乳賢e
でぁる、而Lて不死ふ信する者?っち、心理筆者が
ヨ旨dPmen︷P甘0、同仁m旨汐r容邑itヨ当Orm已芦d
主着果は、其三分の一ほ人格的不死わ信じ.次の三
他の科挙者lニ比、して琴←く僅少である、モ報じてゐ
O、Cb弓?
ld監二ち︵ざdミ
−つ貸︶”A●句.Sb昌d︰■jFO句0冒d畏○ロm
︵試買mi︼16●−¢巴︶”Wimpロ試eせ○?
dneOn乳0易−当訂
る。
AbnOr︼ピ13
甲㌻eO︰ごTFO
サユーバーほWi︼︼iPml写壷−Trまn内国in㌘Edヨ・
唱ll︰=○已lFeO、汐苫F010g㌔︵CF邑金野ibne‡︰
ミに由つて定義†.へきでぁ
eterミ︵試罠miEnクー黒岩︶。
︵〇ChreneOA磨邑iロe寧汚好まtナ∵−Tbe
︵試P旨i日昌こ岩随︶に其代裳的論述を見得る。ペック
一一三
我々が最後に主よりミ†ろ†ミろの最も紳聖に・して
サイズ教授の出百訂−試OnOtbe6.ロに反︺て、紳は
lこ見得る、﹁沌辞任廠曾
写し、或時は道徳支挿者亨し、成時li友人ミ﹂て用
英米に於ける宗教哲拳の現廠
其尿封論の通例わとOe江口g
ひられる﹂︵試C鼓t−く〇一−舛︷−p●彗l︶。
或時lェ愛の封象写して用ひられ、或時は食物調達者
るご主張†る。彼は言ふ、﹁所は知られてゐ光いが、
く、試昏監局亡く已莞
rdPA日euの如く、謝は試算p百計に由つてで克
分ノーは疑問のうちにぁり、残りの三分¢︼は不信
リユーバーが種々の科畢者に質問†る事に由つて持
訊け
英米に於ける宗教哲学の現状、
一一四
で食った時、彼は﹁新質痘患者で宗教を信すろのは
詳Lてゐた。然るに英国の茸療法着で耐を信じてゐ
寄きカでぁるミ主韻†る代表写して、エール大草¢
BrO司口許
おか・しい﹂ミコロンビヤ大型のモンクギユー教授を
○、︵ぎ︿leditedbヽJ・﹃︰宅eま○ロー巳tt10
せ○磨]覧C・少︷邑ま厨F︰、■WFpt¢Od訂、−︵int訂Id昏
tt訂司∽︰−dOdiロCbr宣旨TどugぎAnd
Pp乳・
ぁる。彼ほユダヤ人で今年、七捨象歳り老教授で
CO﹂琵ヾ︶ミロンドン・キングス大草りW.Rる
巳哲F
聾・
者が唯一人ゐる。それは、アレキサンダーで
莞n窺;告dj訂く巴idi耳○?旨こdepO、GOdバJ?
紳ほ存準してゐる。調性li性質でぁり、紳li存在で
紳軌でちつてT耐性lこ向liん軍†ろ余事甲子しての
enceミ︵ど已On−甥詳温顔OP−冨○︶ざを推奨
す。る
あろ
彼。
の大作﹁空問、時間、耐性﹂︵千九百式拾年
︵九︶声S.Amま︰こReligiOnFTe︻邑○へSOCi巳9日乳?初版︶竺一巻ほ彼¢宇宙論でぁろが、共庶諭ほ彼の
uヨ已0、出註giOn−−琵−、Ⅰ︶を見るベL。
するこ寸1である﹂寸1、言ふ。今冬筆者が彼ミ一夕、
わろ。現郵の紳は珠想でぁり謂にば理想的紳を推測
tO¢Od㌢1A︻−吋r邑i邑才rpOSe雫︵JOヨロP10へ
サミJてゐろ三日liれ㌣。
食談L㍗時、彼は彼の宗教叔をもつモ真髄的l二書か
g已邑昌t
謬li各nこ畠−こ・︶㌔Hl−ieit甥告邑i計gOへ穿ligi・
︵一〇︶E・W・HOe好iコg︰−へⅠニ訂GrOupぜirit
〇n;︵JO弓210へ謬−山giOnこ呂βを参照すべL。
︵〓︶Ⅶエーバー9直弼学位も適切に批評・し㌣ものほ次¢
二書でぁろ。冒註︰︵㌔ど謬︼ig5.u∽CO岸iOuヨ宥㌔
pp・会†・00︶いWaterぎu鴇︵jコ石︼㌔i︼○容pす0、出?
︼igiOu払出打periene♪pp●冨3。サユーバーミ全く相
のWil︼㌻日野○ヨ︰︵。Re︼igiOnP己巳弓︶み推奨
反・し圭宗敢の見方をする心癖盛者写して、ロンドン
すろ。
アミベルトランド・ラツ■セルミな先顕に二、皆.紳¢
︵三︶英国に於けろ新発在論の哲塑者lェ、ヂー・イー・ムー
存在わ信じ塞い。筆者がムーア教授lこケンプリッヂ
3∫∂
聖サヰエル一が日本停造の横線
根
安
定
に刺戟を輿へた。サビエルが偉道の志を立てたのも、
屋
妨崎博士の名著﹃切支丹倖道の興慶hの琴二幸﹁サビ
その報道に接した外に、親しく蒲次郎に拷解して彼を
此
エルの来着と侍道開始﹂に.﹁天文十八年︵−冨り︶、異楼
信実
徒にしたのに始まる。即ち船長の報告では、日本人
の人間の一行八人が薩摩の勝兄島に上陸し宅その
はつ
中て
々、
敏捷で知識を求め、今まで接した東洋人の中で
内者は、薩摩生れで、何か故郷に居られぬ事情あ
エルであつた⋮⋮此に先つこと六年、天文十二年︵−ひ
て一行の等師は、ゼスス畑の院将.印度の関数者サビ
をして禿た蒲次郎︵又は単四郎とも停ふ︶なる者、而し
が停はるに至つた機縁を、最も要餞よく捕へた好叙述
たのである﹂といふ條を見る。これは、日本に碁替歌
ならば、敦を弘めるに最も頼もしい人民だと考へ出し
遣を求めるので、サビニルは之が日本人の通性である
最で
も修
勝れ
国外に逃れ、マラッカでキワシタンになり、ゴア
行てゐるといふにあり、而して蒲次郎が熱心に
畠︶ポルトガルの一商船が支那海で風の痛めに航路を
で西
あ洋
ると
。予は以下、博士の餃蓮を裏書するため史料を
失ひ、薩南の種子ケ島に着い卒⋮・兎に角、此が
一︼五
そ四百年前の日本に基有数が停はつた径路を考へて見
渉の
猟船
し、併せて自家の臆測を少しく混じて解改し、凡
日本烏の接牌の始めで、先に記した粥次郎は、そ
に便乗して海外に袴み出したのみならす.その船長が
よ商
う人
〇
滞らし蹄つた日本に閲する報道は、ポルトガルの
塾サヰエルが日本倖這の横線
3Jク
聖サヰエルが日本博道のれ臓
聖サヰエルが日本樽邁を志したのは.印度に於てで
ー〓ハ
巴里モンマルトルのノオトル・グム含堂に集少、耶詐
園鰹が、後に千五百川十年教皇の軌許を蒙ったところ
あるから、叙述の運びのため、彼が欧躍巴から日本へ 曾の謂ふところの心室修行をなし、誓約して結束せる
の足耐まりなる印度へ来たまでの前年全音.極めて摘
葡萄牙の国王ジョン第三世は、その儀有である印度植
草に述べて置かう。フランシス・サヰエルは、千五首 の耶蘇曾であつた。
六年商班牙団ナデル顔のサヰエル城に生れ、父はナデ
ル公ジョンに仕へて宮中顧問官の顛峨にあ少、大蔵卿に
民地を基督教化せんがため.有馬の停道者の派遣吾求
任ぜられた事もある。聖サヰエルが九歳のときナデル めてゐたが.耶赤倉のことを停閲して、教皇に美辞し
儀は汝亡し、ジョン公は蒙崖し、サヰエル城も廃墟の如
た。Pヨラは旨を承けて、サヰエルを指名したので、
留嬰し、聖.ハルべ掌院に入h㍉後に耶蘇曾の線長とな
牙のリスボンを出帆し、翌年五月六日印度のゴアに到
文十四年︶四月七日、その夢二十五回の誕生日に葡萄
くなつた。サヰエルは十九歳にして、彿蘭西の巴里に 華ナデル儲の名家の出サヰエルは、千五首朋十一年︵天
ったイグナシウス・Pヨラと相識るに至った。ロヨラ
挿したが.頁悔して療養せるを少.信仰生活に入つた。
は︰コアの病院内に泊少、病人を看護しその俄悔を避
王の任をうけた印度浄督が駐在してゐた。サヰエル
は西鍾牙の騎士にして、幾度か戦場に馴騙して武励を 着した。ゴアは、葡萄牙の植民地の中心にて、葡萄牙
乃ち武装を解いて聖母マザアに捧げ.聖地エルサレム
所﹂、﹁使徒信経﹂、﹁十戒﹂などを授けた。彼はゴアに
に順結し、由来して聖パルべ畢院に入って、紳畢を修 き、監獄を訪れて囚人の儀悔を聴く外、鬼童に﹁主の
めんとした。pヨラがサヰエルと交を締したのは、こ
ネガパタム、メリヤプウル、マラッカ牛島、香料諸島な
の時期であつた。ロマ〓フを中心として将進した連中 留まること数倍月の後、コモワン岬、漁夫海岸、錫蘭.
祀.千五首三十川年八月十五日聖母マ.サ了昇天の日、
3クβ
どを巡廻し、席温まる喝がなかった。その間およそ六
度人の無知と無定見.日く日本人聖倍.ハサロ蒲次郎、
い。日く印度に於ける葡萄牙人の堕落、日く常時の印
既に記した如くゴアは、葡萄牙の植民地にして、葡
倍年、洗橙を俵するもの敷を知らず、欧羅巴から来れ
た?印度の基督教化は.サヰエルを通して、着々とし
萄牙団王が派遣せる印度総督の駐在せる肝である。ゴ
日く蒲次郎を通して斌ひ知る日本晴息などである。予
て進渉しっつあつた。然る忙彼はやがて日本倖道を志
アの人人は、自負して東洋のヱネチアを以て任じ、東
る停遺著を印度各地に遺はし、ゴアの聖.ハサロ畢院を
すこと数年、途に千五眉十九年︵天文十八年︶六月マ
洋と西洋とが混じた此の都骨はl印度の物貸の集まり
は此等の成粘より覗いて、印度滞留中のサヰエルの日
ラサカを出帆し.同年八月十五日聖母マワァ昇天の祓白
西欧人の曾する断として、外戟の実は人目を眩してゎ
擁張し.印度人を敦へて停道者に挙げ.サヰエルは印
に、わが鹿鬼島に上陸した。日本基音数史の第一貞
ぁ。然し賓にゴアは、印度におけるソドム、ゴモラで
本停道の動機を詳かにしよう。
は、箕に弦に始まると云はねばならぬ。印度修道の業
あり、悪の挙が毒々しく嘆ける花園であつた。ゴアば
度にある葡萄牙人と土着人との信望を一身に集めてゎ
牢ばにあるサヰエルは、何故また如何にして新たに日
かりでなく、印度における葡萄牙人の植民地全醍が、
ゐた葡萄牙人は商人にあらざれば兵士、或は商人と兵
本倖道を志すに至ったか。その機扱を考へ、彼の心理
何人でも、新た忙何事をか褒さんとする折.可な少
士とを粂ねた連中である。数倍屏を除くと、印度には
基督教の融合的痩感から甚だ速かつた。常時、印度に
多くの動因に促される。サヰエルの日本倖邁も亦、こ
葡萄牙婦人がゐなかつたから、多くのⅢ稼ぎ葡萄牙人
を斌はんとするのが、本稿の目的である。
れを許する。予は、彼をして日本倖道に赴かせた原因
は.印度嫁入と精細する外なかつた。そして植民せる
一一七
として、少なくとも以下の譜粘を指摘せざるを得な
聖サヰエルが日本等票i逼
き2J
聖サヰエルが日本博這の横緩
一一八
印度における葡萄牙植民地の弊風が斯くの如くであ
悪を以てし、総督を初め官吏が官樺を利用して利を求
の祉は掻き捨てどころでなく.狂暴と安逸と不倫とに
るからー印度の基督教の教勢も亦、自ら甚だ振はなか
葡萄牙人は、条乏なるため、冒険して嵩を独んがため、
相率ゐて陥れる者が少なくなかつた。印度航路を管見
った。勿論.葡萄牙人にして停道せる者もゐたが、多
めるに梼暴であれば、上の解すところは下これに倣う
したデスコ・ダ・ガマは、無輩の人人を麒制したことあ
くは無知にして燐怠であ少、印度の土語を畢ばうと志
異郷の奔放なる生活む認ぶため、各地に流縦して、そ
ゎ、葡萄牙王に代って土着人を統治すべき印度総督の
さなかつた。沈んや、葡萄牙人にして事故せる者は、
て、富を集めるためには全く手段を選ばなかつた。如
中忙も専制肴が少なからず、アルブケルクは阿刺比重
教が少なかつたのみならす.単に父親の信仰をそのま
の心は金員すさんで白旗自棄した。一攫千金する事も
の婦人の鼻をそいだ革あり、アルメイダはナイル人の
ま無反省に停承したに過ぎなかつた。彼等は、散骨へ
何なる文字を用ゐても、印度における罪悪の巣窟であ
胴玉をくり披いたことあ少.印度在留の葡萄牙人が本
詣でず、説教を恐かす、教育も受けず、これがため不
稀でなく、また印度竺二年のあひだ労働すると、その
国の棟努を振りかざして、無事の民衆を虐過した例は
信と無知と不徳とが、葡萄牙人の間に蔓延してゎた。
るゴアの内幕を描くことができない。サヰエルが到着
教知れなかつた。葡萄牙人が、印度人を梓に捕へ己が
斯くて、基督敦の信仰は地に堕ちて顧られす、四旬節
賃餓の多鶴なる、葡萄牙へ辟威しても安東に放生が透
奴隷となして虐待し.或はこれを他へ棄ることは、首
以外に聖餐を領することは、悌尊者の矯す業である、
した時のゴアは、正に斯かる状態であつた。
都として許されてゐた。特にゴアは都曾であるだけ
と膿められた。葡萄牙人の不信仰が、彼等の間だけに
れた、といふ位であつた。印度にある葡萄牙人は、旗
に官民ともに墜落し.西洋の悪の上忙重ねるに東洋の
∂2ク
田まれることば、サヰエルの倦むところにせよ、命ほ ベき貯策を抱くもの少なからず、これがため基停敦の
忍ぶべしであつた。葡萄牙人の不信仰は引いて、洗惑 倖道は甚だ箕劾を挙げがたい。印度に基督敦を布く
その他の植民地官吏が、寄掛にして不倫なるをり、こ
を受けた印度人を威かせ、新たに回心せる印度人を妨 最上の方法は.葡萄牙閲王が詔勅を下して、印度糖督
げて、内は基替歌の名を祉かしめ.外は異教徒をして
基督教を恨ましめるに至った。モハメット教徒が基督 れを速に懲罰し、彼等が印度の基督教化に大責任を真
教徒を敵成し、隊伍を組んで改宗せる印度人の基督信 へることを、諭示するにある。もし王命を蒙つて印度
布教の賛績を挙げすして杢しく辟囲する者あらば、こ
徒を迫害したが、これは命ほ忍び得ないでもないが、 へ赴任した官吏にして、基替歌の停遣に力を蒸さす、
基階数の塘壁内から起る同店の徒の妨碍は、忍ぶ.へか
らざる洗髪であつた。外から嚢ふ患よりも、内から起 れを懲罰し、その資財を政府が授収し、常人を獄に下
る更に、サヰエルは憤激せざるを得なかつた。そして すべきである。総ひ彼が如何やうに梓疏するとも、断
として激越の群を以て、その悲憤を上奏した。同年同
憤慨の飴り彼は、姑らく葡萄牙人を避けて、阿弗利加 じて耳を借して宥恕し給ふなかれ、とサヰエルは櫻々
に樽適しょうか、とも志した。千五首l明十八年一月二
月同日同断よ少、サヰエルは親友シモン・ロドリゲズ
十日コチンよ少、彼は葡萄牙閲王ジョン弟三惟に上奏文
を奉って、印度に在留せる葡萄牙の官吏や商人を乳非 に青梅を透ったが、これにも同じ主張が見えるのは.
した。その大意を捗するに、印度忙ゐる葡萄牙の官吏 サヰエルの胸中に博窮してゐた偏に外ならない。印度
や帝人の非基督数的行動や、その印度人を虐待せるこ を基督教化する道は、印度総督や葡萄牙官吏が、自ら
とは、我等が印度人を基督教化するのに、大なる妨書 進んで布教するに越したるはない。葡萄牙国王は.印
︼一九
である。印度には、表に敬慶を茨ひながら、内に恨む 度へ赴任せんとする総督に向ひ、汝は任地の印度にて
聖サヰエルが日本停法り横線
β23
聖サヰエルが日本停道の横線
多くの基督信徒を起すべし.然らぎれば汝が師団する
一l一〇
ルが授洗して、暫らくして再び巡回布教して見ると、
の日、汝を捕へて獄に投じ、財産を投収すべし、と彼
宣等はいつの間忙再思にか庚つてゐた。第二の人々は、
はねばならない、と。サヰエルの言辞が奇矯なるま宗
で教上の動機よりも、政治上の利金打算のため、便宜
に激越なる、以て如何に彼が印度在留の葡萄牙人の上
不基督敦を奉する輩である。昔時、印度にて基替歌を
信且不綾なるに失望したかが、明白である。故に予奉
はす
、ることは.間接に西洋文化に浴することである
印度に於ける葡萄牙人の堕落を以て、日本へ赴かざが
る、直接には葡萄牙から一種の政治的特棟を得る道で
から好適され、最賞され、他の異教徒たる印度人より
までも、印度を去らんとするサヰエルの韓心の原因あ
のつた。即ち印度人でも基督信者を装へば、葡萄牙人
一つに、教へる。
然らばサヰエルの教化を蒙る印度人は如何にといふ
も便宜を多く得るのであつた。障って彼等は、便宜がよ
に、朽木は彫るべからすとの救があつた。彼等は、け
彿れば受洗するが、便宜悪しければ基母数を捨てて顧
敦ならざる迷信化せる印度敦に溺れて、教義よ少もみ
祭なかつた。政治上の狸遷により、印度人の基奇数信
儀を重じ、信仰よりも供蟻に専らであつた。サヰエ仰
ルが滑長したことは頻々として各地に生じ、サヰエル
は、印度の西海岸なる臥亜とコモリン岬との間なるが
屏これがため焦慮した事は、歴々として明かであつ
謂漁夫海岸、錫蘭、マラッカ牛島から、速く香料諸た
島。
まこれが褒、サヰエルが印度人の政治的情勢にカを
で布教し、流感を受くるものを多く出した。さて受用
洗ゐた事も、一再に留まらなかつた。第三の人々は.
した人々を大別すると、三種ある。第一痩の者は、基
印督
度敦を奉じたに蓮ひないが、モハメッド教徒の迫害に
敦の卑俗なる方面に溺れた人々で、基督敦に入つた抗
のし得す、途忙基督敦を捨てた者が多かつた。モハメウ
ち、再び萄信仰に造作もなく庚る撃であつた。サヰド
エ教が印度を襲ひ、如何に沸教や印度敦を摸爛した
8β4
か、これは印度宗教史が詳かにする。サヰエルは、印 ところ、彼は予を歓迎し厚遇した。彼は、予をサヰエ謝
度倦遣に決して不熱心でなかつたが、上述の停道状態 ル師のもとへ伴ひ行かうと欲した。マラッカへの航海
中、アルすレズは基信教を予に教へた。予は、マラゥ
は、或は彼をして、﹁豚に眞珠を投げ輿ふる勿れ﹂との
基督の敦を想起せしめなかつたか。サヰエル自身も、 カ忙到着し、洗顔を受けんことを願うたが、予が先に
予は日本へ蹄航する途上、暴風に襲はれて支那に漂着
印度停邁に失敗もしたが、失望もした事を記し、停道 異教徒の婦人と結婚したため、司教は捜沈を矩んだ。
の地域を他伝求めた。
以上は、サヰエルをして印度停道に失望させた原因 したが、葡萄牙人7ロンヅ・アズに激励されて再びマ
ウロ拳院に入るやうに、勧められた。マラッカにて、
であるが、弦に彼をして新たに日本停道を蓉起させた ラ,カへ赴き、彼地にてサヰエル師に遇ひ、ゴアの聖パ
・直接の原因が現れてきた。即ち鹿見島の青年頚次郎
が、サヰエルを来訪した串にして、日本に基母数を停 ジョルジ・アルアレズと再合し、サヰエル師に遇はんが
ルアレズは、予と師とを損手せしめ、予はこれまでの
兼させた近因は、箕にこの弼次郎その人であつた。覇 ため、教曾に赴いた時、師は結婚式を司つてゐた。ア
次郎とは.如何なる者ぞ。千五百川十八年十一月二十
日本にて来信育たりし時、成る動機のため.人を殺し
ス・1ヨラヘ音き透った。その大意を抄するに、﹁予は
へ赴いた来歴を、掻馬忙おける耶蘇官長イグナチウ
.ハウp拳院に入辱せJと命じた。予が枕絵を受けた日
萄牙譜を解したので、師と歌語を交へ、師は予に、聖
一目見ただけで満足し、甚だ慰められた。予は些か葡
理なる旨を知少、大いに喜悦した。予はサヰエル師を
来歴を語った。サヰエル師は予を抱き、萬事が紳の硫
九日附を以て、粥次郎は郷里腱見島を拍奔してマラヅカ
たが.押緯から耽れんがため、一花逐電Lた。船長の
〓〓
ジョルジ・アルアレズといふ一葡萄牙人に遇ひに行ったはペンチコステ節日にて.ゴアの司教から授けられた
聖サヰエルが日本停道の横線
垂サヰエルが日本俸道の横線
一二二
が、日本から伴うた従者も受沈した。矛は葡萄牙語ダ
の・ガマは印度洋航路を賛見した。千五首十六年即ち
讃み書きを早く畢び、マタイの俸へし夢青書を諸記明
しの正徳十一年には、葡萄牙人が席末肝近にて貿易を
である。既に葡萄牙人の植民地になつた印度まで来た
た。サヰエル師は、日本へ旅行せんとて準備してゐ開き、使節を支那政府に渡して公けに通商を求めた位
る.頗はくば、圭が師を助け給はん事を。予も亦、三
が日本に多くの果賓を結ばんことを望む﹂と。瀬次サ
郎ヰエルは.印度に失望せすとも.何時かはマルコ・ポ
ありしこ・とは、マラ,カへ赴くとき従者二人を伴うた
に相違ない。葡萄牙のアジュク公衆固審餌に.筆者不
者忙なりたい、といふ使徒的大志が感に起ってゐた
は鹿鬼島の人にして、門地も卑しからず、相雷の家サ
産ロの所謂ジパングを訪れて、基督敦を最初に停へる
串や.サヰエル、を束等して鹿鬼島へ蹄るや、島津貴久
人が種子ケ島に上陸したのは、千五首四十二年であつ
初に日本を費見した者、即ち謂ふところの葡萄牙人三
年代史家と耕すが、これに揺ると、欧躍巴人にして最
に謁見し得たことに欲せられたやう。或は、その生明
家の﹁日本敦骨史﹄が戒してあ少、﹃聖サヰエル停﹄二
は外囲貿易を業とし、島津家に御出入御免の家柄で審
あを著した耶蘇曾士クロは、この不明の著者を姉港の
ったかも知れない。
欧藤巴人が初めて日本あるを知ったのは.十三世紀
頃に牽し、マルコ・ポウPの有名なる﹃東洋紀行﹄を待
ことは、弦に詞を須ひない.この記念すべき千五百四
ってである。彼が日本を想像化して、黄金無轟戒のた
粟。欧羅巴人の間に流布せるメソデス・ピントオの屏
土と見撤したのに憤憬して、クリストファア・コロ謂
ム日
ブ本硬見の記事が、信嫁すべからざる偶作評である
スは期せずしてキュウ.ハ島を黎見し、葡萄牙国王ジョン
見島上陸に先だつこと六年である。爾来、葡萄牙の商
の夢二子ヘンリイの遠征陳は阿弗利加西海岸の諸島十
に二年は日本の天文十二年にして.サヰエル一行の鹿
澤し︰ハルトロメオ・ヂヤスは革望峯を過少.デスコ・
3β♂
サヰエルは日本から蹄航せる商船の船長船員から、ジ
日本徒邁の船舶が必ず船がかりする併であつたから、
徳と挽い機智とを有する青年である。可なり長文の書
倍率院には、三人の日本人畢生がゐるが、何れも良い
生むことを、予は舵信するからである。ゴアにある聖
し、日本における俸道が、堅賓にして永琉する結果を
パングの滑息を農度となく親しく耳にしたであらう。
翰を貴下へ逸るパウロ弼次郎は、殊に傑出する。彼は
船にして日本へ航するもの紗なからず、印度のゴアは
使徒パウロがト・ロアスにありて.来りて我等を助けよ
う、と予は粟観する。予は、日本渡航の計轟を捨てる
八倍月の問に、葡萄牙語を十分に読み書き語り得るま
然し更にサヰエルは、漠然と日本に着目せすに、滴
事ができない。蓋し日本停道の志望は、斯くも大なる
といふマケドニヤの要請を聞いたやうに、サヰエルは
次郎に捜して、日本人の才能を頼侍しく思ひ.基母数
からである。この俸道の精細は、日本人。ハウロが予に
で至った。彼は現に心室の修行中であつて.甚だ良い
をこの有望なる日本に停へよう、と決心した。彼は瀦
告げた靡から生じ、或は神都自身が予に語った靡から
印度のゴアにありて、来りて我等を助けよといふ日本
次郎に接して、彼が基督教に射する求道心の熱誠な
饗したとも云へやう。日本が琴音の種子を受けるの
結果を奉げ、其督敦の教義を十分に畢んだ。紳砧によ
る.また彼の性格の眞撃にして才能の俊敏なるに、頗
に、如何に通常な又準備した観であるか。貴下は、こ
の希望を感じたのであらう。沈んや印度に失望したサ
る感じ入った。乃ち千五首囲十九年一月十四日附を以
の次席をパウロ蒲次郎の記蓮に徹して、理解するに相
りて、日本にて多くの人人が基督敦を信するであら
て、サヰエルはコチンより羅馬の耶蘇曾長イグナチク
違ない﹂と。サヰエルは、同じくイグナチウス・ロヨラ
ヰ土ルは、日本に活路を求めんとしたに相連ない。
ス・pヨラに書翰を遭った。その中に日く、﹁予は、大
︼二三
へ宛てた書翰に、以下の如く蒲次郎に就いて日く、﹁彼
聖サヰエルが日本饉道の横線
なる幸頑を感じて、日本への航路に就かんとする?蓋
327
求むるに熱心なる事、覇次郎の如くであれば、日本人
︼二四
は、間もなく基督信者になり、露名をパウロと耕し
の才能は、他の如何なる臨をも凌駕してゐる。覇次郎
聖サヰエルが日本侍遣の横線
た。彼は我等と共に、聖信パウロ拳院に留まり、葡萄
は、その畢習せるところを譜記して反覆し、甚だ理屈
何にてもあれ、速には賛成しないであらう。然し彼等
た。彼の答に上ると.日本人は、その間くところの事、
れば.日本人は基啓信徒に成るであらうか.と問う
と、﹁予は頚次郎に向ひ、予が彼を日本へ伴うて停道す
と弼次郎との閉に交へられた。サヰエルの書翰を引く
である﹂と。次いで最も注目すべき曾話が、サヰエル
渇してゐる。この渇望は.速に眞理を知らしむるもの
に合うた多くの質問を出しれ。眞に彼は.知識に頗る
牙語を諌み布きすることを畢び、我等の聖教の中心な
る教義と賓行との提要音、日本語に謬した。彼は、所
癖と欺想とに耽少、主イエス・キ町ストを呼び求めた。
手彼の善良なる事は.容易に語り経いほどである﹂とb
▼ヘ サヰエルは、瀬次郎を親しく誘って、嘱望するところ
甚だ多かつたに相違ない。
個人瀬次郎が、サヰエルの眼に、日本人全鰹を旗大
させて映じたことは.自然である。千五首四十八年一
月二十一日附の轟文書翰は.銀燭なる耶麻合の本部に
は.予の停来する宗教に就いて、頗る多くの質問を管
するに相連ない。要するに彼等は、予の言行の一致せ
宛てたものであるが、その中に注目すべき一節があ
る。抄すると、﹁マラッカにて、常信なる葡萄牙商人が
るや否やを、考へるであらう。もし予が二つの事を即
承認を受ける時には.天子、諸大名、凡ての成人は.
貼がなければー一基階数が十分に検査されて、人々の
て満足せしめ、また予の生活が良くて、非難せしむる
ち、彼等が訊ねる問題に就き、矛盾せざる設明を輿へ
予に向ひ、日本のことむ告げたが.これ忙撼って考ふ
るに、盛督敦の停道は、印度よりも日本の方が、邁に
進捗するかも知れない。蓋し日本は、知識欲の洗い鮎
において、他団を凌寵するからである﹂と記し.さら
に舗次郎に就いて日く、﹁若し他の日本人も亦.知識を
3ββ
醍に基督の徒の間に加はるであらう
−
何となれば、
注目して記せる逸り.流石に椰蘇曾傑伶の着眼の凡な
本人の知識欲を賞揚して.日本へ停遺しに凍る宣教師
らう.と﹂。後に、サヰエルが8本へ渡って後にも.日
は.停道上の漁備知識としてよりも.一種の尋問的興
雷然の事であつた。サヰエルは、日本の状態に就いて
宿昔の使者たらんとサヰエルが志願したことは、最も
を睨れないが.サヰエルのこれを故越せること可な少
が、予は本文にては専らサヰエルー個人を通して推測
︼こ五
したに過ぎない。
聖サヰエルが日本停道の横線
詳細である。殊に.政治上の状態や、他宗教の内情に
武士の行状、潔瀞や葬儀の規定など、多少の舐停ある は.別に融合的或は文化史的原因のあること勿論だ
せる事、政治状態、彿敦檜佗の生活、日本の風土気候、
まる。基督敦が日本に停廃するに至った径路に就いて
ことを得た。日本文字の記し方、宗教が天竺から停来 日本基督教史の第一頁は、サヰエルの腰見島上陸に始
パウロ涌次郎を介して.間接に日本の事情を多少知る
サヰエルは、印度にゐた噴から既に、葡萄牙細入や 畢へも倖澤しょう﹂といふ意味が、二三の書鴇に散見
する。
本へ渡って基督教を僻遺しょうと決心するに至った。 事詳しく記して透らう。巴里の大挙や、欧羅巴の諸大
を通して日本人の知識欲を頼母しく思ひ、いよいよ日 見、日本の大串の人々と交際したら.それに就いて商
味を感じたらしく、日本に渡蒸して後、﹁日本の経典を
ぬ、と印度の耶蘇曾へ要請したが、サヰエルは、蒲次郎
の賓椅を拳げて.]庶の知識ある人物でなければなら
働くほど、印度に於けるよりも良い停道ができるであ れど宗教上に可憐を感ぜしむる日本、速くこの日本に
予が日本へ渡航すると、理知の支配する囲にて働けば る輔次郎型の群集せる日本、されど知許上に頼母しけ
日本は理知の指導に従ふであらう、と。また、日本か らざるを思はしめる。既に日本事情を耳にして、大い
に興趣の湧くを禁じえざるサヰエルが、知識欲の盛な
ら蘇ってきた葡萄牙商人は悉く.予に経書して日く、
32タ
こ軍享賞賛我浄の意味
客と常磐我浮の意味
重
りては又それだけ席上げられた思想のビラミドの中に
智
諸彿法無量有著大海、隋衆生意故種々説法、或訟有
突入つて、よく其等の特殊を超克し、其等の上に現さ
本
或詮無或訣常或詮無常或詮苦或詮索或訣我或詮無我
る1肝の本質的普遽的なるものを獲得する事は困難と
藤
或詮勤行三業披講書法或詭一切法無作柄、如是等種
ればよいであらうか。我々の根本智は如何にして思想
なつて来るのである。然らば特殊の超克とは云何にす
切彿語、常是轡法不相違背
蓉蓮史上に於けるある一助の現はす眞意を獲得する事
種異説、無智聞之講演前錯、智者入lニ種法門、翫一
私蓮がふり返って、彿敢思想の辿って充た道を挑む
を得、龍樹の云ふ親一切俳譜皆是賢法不相違背の智者
ハ大智度論第十八巻︶
るならば、其虚には悲智人法両面の開合としての般若
の立場に立つ事を得るであらうか。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽ
てゐる事を見るであらう。勿論其等の特殊こそは個人
想を分析する事によつて、其の思想の依けて立つ特殊
に其の中に幾多の特殊性を有する一の生命を有する思
先づ個人及時代の環境に線少て成れる肝のかるが故
波羅蜜法即ち本質的なる普洩的なるもの、を現蜜化個
及時代の静境より織り伸さる1ものとして、思想的に
別化する屏の特殊が鎗りにも多く封鍍反覆錯綜せられ
或は敦囲的に封鍍反裡錯綜せらる1事によつて彿数思
性を明かにする。更に分析された其等の特殊性を綜合
ヽヽヽ
構重して、個々の抽象から一の現賛的なるいのちにま
想の蓉澤に寄奥して来たのであるが、同時に我々に取
β3β
般若波羅語法を獲得するカは根本智の作用の他の一面
遷する。此の綜合構茄の上に於て俳階数示の目的たる
の立場に勤して、云ひうるならば立場以前の立場、鮎
のを直把せんとする。故に無分別智は分別の分析構塞
之等を批評し顛草する事によつて本質的骨逸的なるも
めて来た。室別に於ては法相分別の上に立ち乍らも.
たる夜戦的館力によるものである。此時其の人に取っ
で持ち来らす串に於て本質的督迭的なるものにまで到
て、特殊は本質的なるものに返附され、其等を現箕化
ちすべての分析構童等の媒介の有する逝くべからさる
ヽヽヽ
規定性・香山性を排除するが故に、全鰹的なるいのち
直戟的方法討取るものである。従って察門に於ては先
そのもの・般若波辟蜜法に直参せんとする仕方、即ち
する肝の契機として新しい意味を生じて来る。
ヽヽヽヽ
推三
此の根本智に於ける分別作糊としての分析及構童と無
ヽヽ
分別智としての商戦とが、一の円心憩に於ける特殊をよ
性は今や其の規定性の故に捨去られてしまふ。故忙第
に本質的督遽的なるものを現賓化するに役立った特殊
方法である。此の分別軒と無分別智とを共の両面の機
て超克して.本質的骨法的なるものを獲得するための
.
正一
一義静に於ては併謂盲非を推するゆき方であつて、す
ヽヽヽ
能として右する統一的なるものを根本智と祁し.更に
︼二七
阿見達磨の本義よりするも法性甚深能楽軒底故。縫
る。
て始めて各自の作らきを完うする事が出来るものであ
然し本来此の二方面は離れてあるべきでなく相侯っ
た。
の二の方法は思想的のみならす腔史的にも封宜して来
べての特殊の規定性の否定に始終するのみである。此
註二
根本智の獲和せんとする般若眈錐葦法・本耶的督遼的
ヽヽヽヽ
なるものを根本正法と邦してもよいであらう。
根本智に於ける分別智の分析縫轟作用の方面は阿見
故門によつて代表さる1方法であり、無分別智の直観
的方面は峯門にょつて代表さる1方法である。
此故に阿見遷厳に於ては許法の眞荊を説くために、
諸法の自柵共掴む分別し各々和の法相を建立するに努
空ご常策我浄の意味
β∂J
空ざ常襲我浄の意味
曹顔蓉無姶幽朗併知法性故。と阿尾澤磨講師自ら述べ
てゐる通り法相のみならす法性のあ少のま1を把握せ
んとするものであるから分別と表裏の関係にある直概
泣出
を捨てるわけにけゆかぬ。分別の内題は究轟する肝直
裁の間取へ行ってしまふであらう。垂範に於ても同様
に其の一拍無相の立場に於ける直概は法相の分別によ
って助けらる▲ものであつモ.箕にかくの如き所以は
︼二八
L乳rO句a︼−t訂つri鎗呂dtOre甘藷
焉3PbO霊b
一くdil・e且弓邑訂intuiti〇n−nOt
O乙eりーO
訂孟
祥.是般若出撃ハ穏知放言雛、︵智度論、六十四巻社四
㈲是般若波薙密難解雛知、件答非猫汝雛、一切衆生無
見者無開者無知者無試着無待者、耳鼻古貞意併不哉不
mu邑ieintuitiOn●等参照。
其他p・怠−㌫lt訂r邑et冒P︼宮dd訂cOgロised㌻
inOrdeニ○諾pl覧ei−b句Pn2召−訂○学
崇司e
in
Tbi肋pr−nCip−e二bepilえ○ご訂童話m−訂e邑乱upOn
何S︷cher訂t浄Y︰誓r忌写p.芸.
謹三、
ヽヽヽ 分別と直裁が其等をしかあらしむる根本智の表裏をな
すl一方面に過ぎないからである。
我の中に旬掘する事の出光互い性質のものでぁる。
分別︶に射する根本智托根本無分別智であつて、此れ唯
菖一、
p●−¢b︶
分別の機構に就ては本誌停職鎗現代沸教の研究中の
謹四、大乗に於ける阿見達磨たろ唯識の阿掩耶識に於ける
﹁俳軟に於ける分別及び分別祝ミ辞記法﹂に於て宮本教授
俵附の問庖は此の滑息を終ろものでぁり、根本認︵相本
が分別の原静くd封引叫.ミくd電l竺石語根に基
く種々の用例からLて苧しく論究ぜられてゐる。
謙二、
で、共闘密着せる関係にあるものである。籠樹は大智度
ち本質的督遽的なるものを得るために説かれた沌の
根本智及び根本正法なる言葉は宮本教授毎﹁根本申¢ 四諦十二園線及び三法印等は何れも般若波痛苦法即
研究l∧宗教拳論集併載︶中に使用されてゐるものを拝借
L主ものでぁる。唯誠に於けろ根本智は根本哉に旬塙力
至封立†るものでぁるから、我が此虚lこ用ひ㍗ものほ唯
我に於けろ意味をそのまゝ用ひ十∵ものでは光い事を斬論
っ第二十二審に於て﹁俳詮三種賓法印、廣詭則四種、略
ておく。
詭則一種﹂と説く。故に其等がすべてもの⊥ありのま
βユ9
まの姿を浮び出させんとしてゐる粘に.即ち振起を設
くの主張を匂臨しうる如きものを取って表峨となせる
けるものなる事に着目した場合にはいづれも諸法箕相 ものであつて、英数は三印でも四印でも乃至は其れ以
の一印些渾元され得るものである。則ち三法印は一案 上であつて差支へないのみか、もつと多数忙ある方が
相印とな少、脚絆もまた捏輿経等では四踵四静に別け ● 贅際の貌に近いのである。我々は唯其の立て方によつ
られ最後の無作四諦の智は如来非苦非集非滅非道非静 て思想の菱遷蓉澤をあとづけ得る。尤も三法印なり四
是箕洩る諸法貰柏にまで持って行かれて居る。十二因 法印なりを立て1特に表峨とせねばならなかつた事自
縁に就ても同く捜索捷に於て四種の十二図録親を放く 騒が既に思想が相常に費選挙遷を経てゐた事を示すも
が最後智たる上上智の栽する不思議不生不滅十二田放 のであるから、明瞭に彿教の表峨として出したのは蝕
とは、また此立場に立つものであり、智度論に説く三 程後世の事で.我々の材料に於ては≡法印と明に銘打
度諭に出て来るものは.それにも拘らず既に複雑なる
種の十二因縁概中第三の講書薩の求むる甚溌なる十二 って出た最初のものは、既に大智度論である。然し智
因縁の根本相とはまた等しく本質的普通的なるものに 駐一 郎す
る話法箕相の一印の立場に外ならぬのである。 詮議を件つてゐる厭から考へると二二法印と特別に嘔
私は先づ沸教の表峨とせらる土二法印に就て、其上 ましく云ふやうになつたのは、或は大乗運動に謝する
︵容︶、非我、︵非我靡︶を戟ずるもので、雄阿合巻一及
思はれるものは色受想行詰の五藩に就て無常、苦.
のではないかと考へらる1。三法印の最も古い型と
に如何様に般若汲羅蜜法・本質的督邁的痙るものが現 反動として、かへって其の諸法賓相印に款成せられた
はされたかを見たい。
諸行無常.諸法無我.埋葬寂静の三法印は時に苦印
を加えて四法印とせらる㌔然し法印はまた法耗であ
空ミ常簗我浄¢意味
一二九
るから、彿陀歓談中の最もよく特長を現はし、且つ多 び寧一や許阜苫tt守宮罫苫HM.諾Si﹃垂t訂や試P亭
お3
空ざ常欒我津の意味
屋gaこ.♪∽㌣⊥声等に出て来るものであ響
一三〇
の諸法は五濫を意味すと原始的意味に恩賞に軽く取扱
此の次は捏柴に謝する考穿を進めた結果蓮に捏紫寂
次には諸行無常、諸行菩、諸法無我の形を取るも へる難度を拐くる一のものである。
ので冒Pmm眉已P舛舛一ぎggp≦ggPヨ.当∞−彗¢や、
度論十五春及廿二巻等に於けるものである。
の形となつたのである。大毘婆沙論盲二十六巻.大智
Angl己prP誓k茸pコ:・−芦︵ノd=p・琵の︶等に現る1も静の一印を加えて現在の諸行無常・諸法無我・捏柴寂静
のであ無筆行無我より諸法簑へ慧蛋豊濫の
観察より有馬法無念法にまで次第に考察の範囲を薦評
め点
は等しく眞賢正和を得て、我生己轟、梵行己立−所作
て行ったもので、従って淫楽に封する考察もそれだけ以上三法印に就て少しく見たが、云ふ迄もなく其等
進んで発たものと見うる。法旬経に出て来るもの1各
侭の終りに﹁智を以てかくの如く知る時、苦界を厭巳
棄作、自知不安後有の心解脱を得るために、或は智を
するに到る、是れ解脱へ入るの遣なり﹂と一々述べ以
ててかくの如く知る時、苦界を厭粟するに到る、是れ
ある事は注意すべき事である。
解脱へ入るの道と云ふ様に般若波羅蜜法を得る事即ち
それから一切諸行無常二切諸行苦、一切諸行無我捏
、柴を得る楚に詮かれたもので、之等が遜に捏契印の
は層印を加えて︶と捏柴印とは全然ゆでかたが異つて
淫楽休息と云ふやうに既に捏磐印を立て乍ら諸法無定
我立にまでなつたのであるから、彿敦の表峨として等
でなくて諸行無我と古き形を残してゐるのもある。し
例く三法印と並べて上ぐるけれ共、無常印・無我印︵或
立田 へば檜一阿合の四法太夫に於ける如きものである。之
の例等は龍樹が諸行無我に封する諸法無我の意味をゐ
鎗る事を錆意する必要がある。龍樹は第二雨中説二印
りに厳格窮屈に直別し過ぐる傾きあるに射し、彼の果、是名寂滅印︵諾蒜ざp・エと讐、更に進
宮dd訂gど膏が字冒2Pp乙芸ぎ訂tb卿に於て諸法無我んで捏菓法印名諸法資相︵訝麺管二p・望﹁F︶破常誠
334
度論
社;ご㌻︶と述べてゐる。即ち
八巻
倒放談無常⋮︰占疋封治悉檀、非第一義悉檀.諸法資相
非常非無常︵璃
いのちそのものに即してゆく事が節一義許諾法案相の
ヽヽヽ
舟場であ少、彿の悟の世界に立つ事である。寅に扱起
果たる捏架静寂印の立場である。無常印無我印と捏紫
無常印無我印は凡夫の無明愛着を根底として其上に展 を見る者は俳を見るのである。是れが無常印無我印の
開さる1世界に閲するものであり、淫楽印は眞賓正観
り、且つ其れが結局三法印から一案相印へ進展すべき
の型に於けるものよりの将帥を受けてせるものであ
三法印が最後の型に於て、担架寂静を加えた事は初
によつて無明愛着を打破した悟りの世界に隣するもの 寂静印はしかくゆきかたを異にする。
であるひ
無常印苦印無我印は凡夫生存の現賓を.併陀の悟り
の世界から批評せられ宥のであつて.無明を除き去
界の苦集二許と理想界の滅遣二諦とに別ける考へや、
った上に開展する世界の彿陀に取っては畢ひに常任な 事を暗示せるものである。是事はまた四蹄に於て現寅
るものなく.無常なるものもたい。従つて苫もなけれ
探、智度論八十潜在臼p.;¢.
︼三︼
根故、但求究露十二回線根本相⋮:・:是第三十二因練乳甚
人於浬盤、不究罷求諸苦相、三者諸事薩摩詞薩大智人利
老病死心殿欲出世間、求考死因鰊由生故力至是但城菅故
起請煩悩光、往来生死中、二者賢聖以法眼、分別諸法、
祝十二田繰有三種、一着凡夫肉眼所見、頼倒著我心、
謙一、
であるっ
柴もあるまい。常と云ひ、無常と云ふ、我と執し、無 十二因扱に於ける順逆二親等と共に考へねばならぬ事
我と彼すは.いづれも皆凡夫の誤れる賓在観を基調と
して論じたものである。此の誤れる二進の出費鮎に立
紆少、之を批評する事によつてもの1あるがま1の異
相を見んとする中道の立場、線起の立場は中諭一部の
中に最もよく現はされた精糾であるが、是れまた取り
もなほさす将奪の眞精紳であつた。即ち分析梼墓底親
等の方法を以つて、最も現賓的にして最も理想的なる
空ミ常斐我浄の意味
83占
空ミ常#俄浄望風味
謹二、
︼三二
大智度論啓二十二、牲二p.bb.
彿法印有三種、一着一切有角法愈々生滅皆無常、二者
︼切法無我、三者寂滅捏輿、
註五、
如是我問、︼時併任曾新関武村給孤猫尉、財時世奇骨
諾比丘、色無常、無常帥苦、吾郎非我、非我者亦非我所、
如是敲者、名鼠算正観、如鼻糞慣行哉無常、無常印書、
苦帥非我、非我者亦非我所、知見根者名眞貨親、聖弟子
如是敲者、歴於色、厭愛想行裁、概故不禦、不弊政得解
川路、十二因線、≡法印等がいづれも縁起の立場、
脱、解脱者乳質菅生、我生己悉、梵行巳立、所作巳作、
初捲法輪に於いて充比丘に勤して説かれた肝の欲粟に
ものなる事は既に述べた肝である。鰐告が鹿野苑での
を浮出させんとするもので頼めて密着せる牌係にある
自知不受後有、時諸比丘聞彿所課、叙事奉行、雑阿含啓本質的普遽的なるものに即してもの1ありのま1の姿
一、大正p・b P
註三、
DhP冒m眉乳㌘H舛試毒票′■︰l嘉〇.
れ.苦悩の解決に於て異に問題の眞相を捕え、根本を
の誤れる資在観と、快東宝義の洩浄なる感覚論を離
中道と云ふのは.取りもなをさす、修定壬鶉苦行主義
耽㌢溺すると、徒らに自らを苦しむるの二遽を離れたる
巴ぎ2.bbind已叫du穿訂 − 頸Pm岩票:計uddl一iY
● ほヨ読旨be筐詩宗r馴冒i諷。︷iy已ぞ呂コ肯Pp転Pl㌣
誓00遠旨訂仇P賢訂r阿d各︼崇ごご乱釦p臼田諜yPp岩鼻
已ba nibbind芝川dukkn
F−
e品等
−1ぎ項
da
dhi思.
已bpn夢bind邑d已彗訂−−魂Pヨ馬
讐
5.
Sud︵萱y抑・
当り戎Pb訂dhPmヨ帥冒芝:i苫款paP㌢yPp呂阜
TheO訂n呂PpPdP−憎・↓・S・p・告●明かす事によつて適宜の虚置を取りうる事を云ふので
ある。是れが即ち有無の二途断常のl一過を離れたる中
今村四法本末我窮自知之、而作詮於四部之衆天上人中
証四、
諦八正道を設き十二因汝靭を説かれたのである。而し
云何食四、一着一切諸行皆悉無常、我今知之、於四部之道であり、もの1あるがま1を把握せん●とする練起概
である。此の中道の眞精紳を停ふるために.繹争は四
東天上人中而作正、二者一切諸行苦.畜矧仰矧乳
四者捏欒休息、堵一、十八巻四意噺噺品、大正p●雷¢.
33β
て此の精紳に立つとき彿出づるも出でざるも常任一其 論及智度静に現れたる根本彿敦の組蓮者、阿含の眞の
之等はすべてもののあり方に就ての探究であるが、
のD訂mm風習t巴馴−ロ訂星lPni甘己註些石はれたのであ解詭着たる懸度からすれば一宿明瞭なる事である。
若政経蜜等を説明する時は、いづれも阿合に於ける凶
冒Pn12畳已t孟、冒呂m冒i盲目ptp
許十二同線≡法印に於ける彿は世不出世に拘らざる常
任不壊一貫の線起の
を述べたる手法を意識的に用ひてゐる。之は籠樹の中
空ミ常簗我浄の意味
dhaヨ臼︼⊃tt已︷已師
idPppae⊇q芝寧
gptぎa日p眉甘dPま〝ゴ邑㌫gpl抑n冒二已t笹↓a訝d訂tu
ゴ邑∴Pt訂g賢pb已謬白b鼻訂已ab宗旨a、pbF訂mbu・
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e已i
−三三
際、有価無彿法相常任焦不証本失政、是苓儀せ詞薩行
復吹須菩捉、是四聖静如不具、按相法性津任法位賃
丸大品般若経四諦品第八十四
註二、
る併であつたから、彼等が如、法性、諸法案相、贅際、般
れを費拝せしものなる事は、まさしく大乗人の自任せ
此の垂範の立場が梓舎の中道の精神に直属し且つそ
されてゐる。
更に此鮎よりして小乗三法印は大乗一箕桐印に止ヒ揚
注三、四 彿法十二部控が詭かれたる事を運べ更に三種十註二
線邑yutb・崇訂苫邑●柏p.声
一固
、S
■′
j鞋pPC2︶・馴b已好打霊J≡ヨar巴盲2Upp己p乱丁邑馴・
戦が説かれ、諸法貨相が詭れてゐる。
せんとし、大智度論にては是の不可荷室によつて一切 のである事を併せて考へて置く必要がある。
茸もすべてのものが成じ得る事を詮いて諸の戯諭を漉 へる、吻をしてあらしめると云ふ意味を持ってゐるも
論を書いて因泳法を明し重義成するが故に囚聖諦も三 繹さるゝので、執する、物に規範を輿へる、根接を輿
正二 無併有・糊聖諦平等・初空許如不異と云つた。籠樹
は中
一位D訂−−1≡aはQ金吾壱Orヨー謬cぎ冒t男nd嘗eitと
た一
る。また是精神を停ふる旛に般若は峯を詮き、諸法性
∂∂7
空軍常襲我浄の意痕
般若波搬丑時停通達甘諦故行般若渡羅班
L大品般若経七喩品基八十五
諸法性触所有、非彿所作、非辟支俳所作、非阿羅漠所
、
作、非阿部含斯陀合邦作、非向法人非繹巣人非諸菩薩
謹三、
軋中論祝囲諦品廿川第十四偏
見有空車故、一朝凍結成、苦熱空義者、一明則不成
h第二十侶
若一切示空.則燕有嘔罠、如是則無有、四散諦之法
q第四十偽
足敢相中誠、若虻田絹法、別席能見併、見若集減速
誌四、
乱智度論六八懸社四p・会¢・
般若波糀鞭是三成根本
h同二十五怨牲二p■uひb●
彿法中不可得空、於諸法独房恕、国是不可待空、舐一
間彿法十二部押誉如虚空無所有而一切物皆依以長成
仏同六十三巷維四p﹂ヾP,
所作有価無悌常任不壊相、衣折倒壁深法及果報中則汚
詩法賓相衛押、非俳揮作、非苔確辟支俳聖閤一切凡夫
不沖、是蹄浄有綿々名字、戒名如沃化茸際、戒名般若波
一三四
羅蜜、戒名道、戒名無錠、戒名惣滅、空、触⋮相、顛作、
無知、知和、戒名畢覚空等、知見等無盈無連名字
以上は根本智の施設によつて狩らるべき肝の、薫悲
と智苦、常男と存在.宗教竹なるものと哲撃的なるも
のとの南面の開合としての本質的なる普遽的なるも
の.般若波揮容法.縁起に於てすべてのものの依りて
立つ冒22−︼2︼富⋮a七日.︸せl−旨−喜号itat馴即ち相腰部の筆
法を周ふれば、如来の之を発し之に澤して之を宣し之
を告げ輿へ評語し分別し明瞭にされたる肝の根太正法
に就て論じた。本来かくの如きものは、言語道断心行
鹿波のもので第一義諦のすべての規定性を否定するも
琵一
のであらねばならぬ。
ヽヽ
然るに上述の如く振起の法は排出世不出世に拘らざ
ヽヽ
る常任のものであつた。彿の所作に非す乃至凡夫の肝
作にも非らざる諸法案相は常狩であ少、此法を棺現せ
し浬整は凡夫の苦悩より離脱せる安毯なる境地であ
るとなされてゐる。
か1るゆきかたはすべての偶数内を通じて流れてゐ
33β
る。繹尊に取っては其の節得の法の眞理性の常恒にし
樹等も屡々捏柴常集、自然常渾と越てゐる。
則の常任不壊相をうけたるものなる事は既に述た。紹
し、囁異を断じ捏奥常稟をうるために説かれたもので
想心見を得るによつて衆生の憂畏を度し、苦悩を威
て常等の凶穎倒を破するけれ共、結局それは不躊例の
安楽の思想をも可成り見出し得る。囲念魔の戦法に於
正法尊重三世諸彿一貫の法の考へを始めとして、清浄、
ないのである。原始彿故にあつても梵天勧請に現る1
滅したる淫楽の境地は安楽清浄のものでなければなら
けは、思想的には他の常東沖等と共に含まれてゐなが
不浄と逆られてゐるから。然し唯く我に閲するものだ
法案相に於ては何時でも非常非無常非我非無我非辞非
無我翫から隋別する必要はないと思ふ。何となれば諸
とさへ述べてゐる。烈し殊更に不浄観のみを無常戟や
ではないから、無常苦茎無我等の十六空行中に入らす
も注意すべき事である。詑樹の如きは、不挿現は賓概
また不渾漑が三弦川乃至国法印から除かれてゐる事
注七
て不発なる事に謝する信念の問題があり、その苦悩を
ある。故に詫樹は客門に於ては四念戟に於て異門を以
ら、他に比しては鎗り現はされてゐない。尤も横手部
光二
って詮くと云ひ、捏輿経では百尺竿頭一歩を進めて八
は非即非離葱の我を説いた。之は恐らく花樹も述べた
装四
鉦八
倒を詭いてゐる。部派に到つても捏無知焉に槻する考
る如くアートマン思想に謝して、無我詮が強く彿教の
鮭三
察を進めて、有部の三無感から大衆部の九無碍化地
特色として表面に出てゐたからではないかと思ふ。然
︼三五
か1る事は如何様に解すべきであるか。即ち此の本
る。
は之等のものが如来戒、併任となつて開展したのであ
鮭九
部の同く九無盛等があり、大衆部の心性本浮説を始
し如来戒思想系のものによると大我を詭いた。で途に
立五
め、眈婆沙の紹介する屏の分別論者の心性本浮説、並
びに舎利弗阿見曇論の心性本澤設等がある。
般若に於ては小品大品が等しく渾甚探.畢克措辞、
注六
木清渾を論じてゐる。般若雅羅審議法貨相が縁起の法
空ミ常盤我浄の意味
∂3タ
性の否定に始終するのみであるけれ共、梓告の事蹟よ
質的普遍的なるもの般若波躍書法は本来すべての規定
此浮甚探は小品に於ける無垢無浮なるが故に辞.大
相
非菩薩膵支彿啓開一切凡夫所作、有彿無彿常任不壊
一三六
りするも、それは現茸の苦悩から睨せんが褒めのもの
品に於ける不生不滅不垢不浄なるが故に清浄なりとす
空ミ常欒我津あ意味
であつた。また生老病死等の現箕の苦悩に悩まさる1
るものの証明であつて、まさしく根本俳教より一貫せ
る法爾の立揚、本質的骨遽的なるものへの呼び名であ
人の等しく醍得せん事を巽ふものである。
即ちそれは眞しく悲智両面の開合の法であつた。故
常であり苦であり非我であり不評である凡夫を敦ふべ
分骨依心あたりのものをきつかけにして如来戎思想へ
之れが途に十地経の三界虚妄唯是一心作、十二因縁
る。
きもの、浮楽我浮でなければならぬ。之は求むる者の
の開展となり、此と併行して登超せる法身思想と相侠
にそれが特に丑の方面から見られた場合は、現箕の無
要求であり、讃美の酔である。智度論六十三巻社四p.
勝なる宣言がなされたのである。此の常粟我浮の如き
って捏紫綬に於て彿性思想となり、彼の常柴我押の大
是浮甚決着、揮有二種、一着智憲浮、二者肝泳法浮、
は勿論如来戒思想の草薙や外部諸思想の刺乾及ひ作者
−ヾa●に浮甚探の意味を詭明してゐる。
此二事相棒、離智浮無縁浮、離赦浮無智渾、所以者
ヽ
ヽ
ヽ
固着して、其の上に現はさる1精紳を忘れたるに封す
は小乗人が四念魔の解輝を始め多く停統的なる解将に
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
の宗教的要求等の黙らしむるものであらうが、一つに
ヽ
薪火無断然、有智故智縁演繹.無智則不知線辞、此
ヽ
ヽ
何、一切心心教法従線虫、若無線則智不生、替如無
ヽ
ヽ
る可成り底意地き悪攻撃ではないかとさへ思はれるの
ヽ
中智挿相待世間常法、是中訣離智離縁、諸法案相本
、、、ヽ ヽ
自講評、男心心教法所縁、則汚染不清渾、督如育種
である。
ヽヽヽ
美食輿毒同音則不可食、諸法案相常挿、非彿併作.
34∂
諸法不可待、滅一切戯論、無人亦無慮、俳亦無断改
註一、中論軌畢典品廿五
観不待貞、以無所得故、於月食庭中、観月而不生月費覿
足寄甚雛三念慮亦如足
許五、
臥異部宗輪給
心性本浄、客魔稽煩悩之新報染、祝魚不浄
註二、木村奉賛教授托、響て阿見達磨の議義lニ於て、繹寛
られ圭。
h舎利弗阿見盛論二十七潜
が生滅変化に亘ら拍三穣のものを認められ上蔀あ兎.へ
1.現象界を作らね法則の常任、即ち繰起の法則l‡俳の出
心性清浄、烙客靡染、凡夫未開放、不能如質知見、亦
無修心、聖人開放、如質知見、亦有修心、心性清浄、
世不出世lこ拘らす常任不壊らり。
の]捜奥の絶佳不襲、不生、不成、無作、無銘
h大品に於ても小品ミ全く一致Lてゐる。唯次に掌ぐる
沖無垢無幹、併言辞故、世耳基幹無得無臭、俳号浄故、
世専是浄無知、伸首沖故⋮⋮︰
浄不生欲昇不生色界不生無色界、係官浄故、世擾.是
盈辞甚深、俳言辞故、世茸是浄明、悌言辞故、世寄是
世尊我浄故受想行哉浄、儒者畢莞浄故・・⋮・・
サ小品般若歌津品第九
常時須苔癒自彿首、世音、我浄故色浄、彿青草尭浄故、
註六、
人開放、如賓知見亦有修心、
鮮者腰塀、凡夫未開放、不能如賃知見.亦無惨心、聖
註四.大智度絵巻一、社一p.−旭P
る。大品歎浄品第四十二
如く沖甚探lニ於て少Jく挙哲進ゆてゐる辛が見られ
利弗首、何洗浄散見浄甚探、彿言、色浄故、是浄甚深、
舎利弗自俳言、冊寺、是浄甚深、彿言、皐党浄故、舎
︼三七
不得点、以無断砧故、如免税外月収内外貞・於貞不生餐
空ミ常奨我浄の意味
以異門祝般若汲薙蟹、如併親等儀胤内貞、於貞不生食軌
十六物、除欲貪病、知見叙外為観内外見、今於些念虎欲
復吹署河、於是比丘、親内旦ニ
修め捏盤へ進まんミ†るもの光る事首を侠圭ず
其地相一、雑阿含等lこ見ゆるものも之によつて七貿位を
能念慮、澱心如心念虔、覿法如法念慮
正浩、謂四念寧⋮⋮、云何虞四、軌貞如貞念崖、取党知
常時世寄合比丘、有︼道浄、衆生度憂長城苦憶断嗜英綽
寧ニ、中阿含廿四、念盛品
あるミぜられてゐる。
が之等l‡結局.不生不滅の捏盤の無為に持せらるべきで
変異性なる事。
3敏郎ち四静の歌碑及法則の眞理でぁり、不慮真性、不
β4∫
空ミ常欒我浄め意味
故力至十八不共法浄故、菩薩浄故、併沖故、一明智一
受想行舐綽故国念鹿渾故乃至八塑造分沖故、俳十力浄
切種智浄故、是浄甚深、
仁大品触作茸相品第四十三
不生不滅不垢不浄、是名愛想行識清浄
彿言、若色不生不滅不垢不浄、是名色清浄、愛想行識
六十三懲祉由
伺此斡甚藻、畢党浄め問呟は茸軌に射すろ待解職の開
成ミ共に考へてよいでわらう。
p●会P
p﹂↓P其他十九懸牲言●−望b・二十特姓一p・−じG2
誰七、大智度論六楷牲一p−会P
ヽヽ
臥諸法亦如是、如法性加々、如眞際自然普沖
ヽヽ
h入三解脱門空撫相無作、則持精解常弊政、是名甚技法、
ヽヽ
仁清活発相常浄、非俳所作力至一切凡夫併⋮⋮・・
無不好欒而悪苦、狂感樹倒無知故、不知捏典常襲
ヽヽヽヽ
&著作悪人及出家、誇天世人及螺動、一切十方五適中.
良能持浄戒名比丘、能親空名行定人、一心常勤精進者.
ヽヽヽヽヽ
是名最寮行道人於諸欒中第一者晰諸渇愛減狂沫、檎五
窄月及逆波、是琴常欒得捏盤
註八、大智度論巻六十三巷牲四p﹂ひb■
不浄親風初入門非賓軌、是故不入十六聖行、是十六行中
戟無常苦空無我、不軌不浄、浄距倒放生姥欲、破浄放言
不浄非是賞、
謹九、大智友論二十二祐二p●ヾP
︼三八
有人説、紳是常追加相、以是政訊一切法中無我
最後に捏柴経自身に就て、常衆我浮が如何なる意味
のものであるか見なければならぬ。
純陀品節二には明かに彿陀は純陀の焉めに無常、苦、
容不浄等の侭を詭かれてゐる。
汝今昔概、諾彿境界、悉皆無常、諸行性相亦復如
ヽヽ
無際、流韓無休息.三界皆無常
ヽヽ
諸有悉非集
有道
是、郎鳥鮨陀而設俗言
ヽヽヽヽヽ
一切諸世間.生者皆蹄死・⋮︰無有法常任⋮⋮衆苦輪
ヽヽヽヽ
本性相、一切常客無⋮︰・此身苦併集、一切皆不渾⋮
・︰我度有彼岸出過一切苦、是政於今者、怯受上妙粟
此事は汚紫綬に説く常粟我浮が.決して停統的立場
を無税したるものでなき事を示すものである。其伯哀
歎品に於て、虫食木偶成字の例や.有字無蓋、有字有
義、等を引きて、世間的の或は外道的の囲揖倒として
の常無我挿と辟箔に隋別せる革を以ってすれば.滑紫
べきである。
綬の遊ぶる清爽我常が如何なる意味のものなるか知る
窪一、二
342
l
是無籍.苦正見希應詑如来定是無碍⋮:純陀、如来
如兼正法不可思議、是政不腰定説如来定是有馬、定
って畢克じて捏盤音符る事を説く。十想は檜一阿合の
次後自営庚詭、我之輿汝倶亦雷電如来有馬、有番無
迦菓品の偶には無常想、苦想、無我想等の十想によ
十想を始め、長阿合の五想、七想、九想以来の停統的
輩安の之に封する註は更に第三の立場を真書するも
馬且共正之
なるもので般若あたりでも同様のものが述べられてゐ
蕾三
る。
善男子、著書薩摩討薩、比丘比丘尼、優婆塞優姿夷、のである。
館腰十想、常知是人絹得捏英、云何演十、一考無常想、 また聖行品に於ては囲穂川諦を詭き、最後智たる雑
二者苦想、三者無我想、間者厭離企想、五者一切世間 作閃諦は本控の尭揚を明はすものであるが、如来非苦、
案優姿夷、修習如是十種想者、是人串尭定得汚盤
聞損の十二因縁観を説き最後の立場たる不思議不壁不
於て是賓者釦是箕相中道俳性也と繹してゐるし、また
りとなしてゐる。此の外常無常等の十種の封治を説
れと云って.有為無痛を止揚した第三の立場を遇てゐ
て彿敦思循に一貫せる繹舎の根本将帥に立ちて、根本
一三九
正法、般政経蜜法、本質的曹遼的なるものへ直参せん
空ざ常葉我浄の意味
る。
法なるべからす、有展無為の上に立って無為なりと知 の常無我挿が直接には般若の峯碗を受け、それを通じ
純陀品第一一にては文殊が純陀に勤して、如来は有馬き、八絹倒を説いてゐる鮎からすれば、明かに淫楽経
要成してもよいであらう。
統的なるものを受くる捏菓経の正しきゆき方として重 滅の十二因縁を以って中道、併任、常盤我渾の立場な
之は一々に就て可成り詳細に記述してあるから.停
相、十者無愛想、善男子、菩薩摩錮薩比丘比丘尼優姿 減、非道、非諦.是貨と述べて居り智者大師は玄義に
ヽヽ
不可無想六老死想、七者多過罪想、八脊椎想、九者滅 ヽヽ 非集、非滅、非道、非諦、是贅、躊察非苦、非集、非
3f3
空電散策我浄¢意味
と試みたるものなるを知りうるのである。
弦に建染経が敢へて常*我繹の兼職と掲ぐる事によ
って四念虚の停統的酵将の固化を.大腰に密ょく打破
少、根本法に於ける悲の方面に於て未だ他経典の渇し
得なかつた濁件の味を偏し逸げたものである事を忘れ
てはならない。
、、
一四〇
辛が出来た故に.之に刺戟された結果であらう。智者
大師の敦制よ少するも捏輿経は法華経の意義の結末と
付け完全さしたものであるから。
比丘嘗知、是館外道断百我者、・如虫食木偶成字耳、是故
饉−、大般捏彙脛撃一、真数晶弟三、大正p.警00.
ヽヽヽヽ
無我、有田線故、亦祝有我、如彼良撃善知於乳是
知爽於併法中、嶋言無我銭.聞衆生故、鑑知時故、如是
ヽヽヽヽ
非如凡失併計普我
世間亦有、常襲我沖.出世亦有、常襲我浄、世間沈着有
琴一、大典捏欒軽挙一、去警加筆二大正p.害.
事無義、出世固着有事有義、何以故、世間之法有印掛倒
故不知畿、云々
て.常東我沖に士で到れうる粛芽を有しながら、経典
空夢河般若汝蜜経巻第︼序晶第一大正p●巴P
h槍︼阿合、第四十二巻厳禁品ノ九、大正り諾〇.
十悪者無常顆、苦慮、無我憩、食不浄怒、一切世間不
可欒想、死想、不浄想、晰想、肝欲想、顎憩
彿陀に結付けられた蒋に上少、重税の洗鋏された思想
を根底として、新たなる意義、宗教的生命を環推する
仏具阿含衆集純及び十上鮮、大正甲声p.芦p.芦
βっは
法華経に真ふ併があるであらう。即ち容赦と共に次第 世専管諸比丘、其有修行十想者、健在有洞獲適作詮漸
に蓉堵レて充た法身常任思想が・法華経に於て歴史的 至捏盤、云仰角十、併鵬白骨想、肩癖想ヽ隋膿恕ヽ食
不滑想、血想、敢想、有常無常想、★食想、死想、一
切世間不可襲想、
柴経が大脇にも常無我紺の貫首を点しえたのは、堆に
経の如く首尺竿薪一歩と進めえなかつたのに射し.捏
かくて前来の諸思想がいづれも宗教的要求よりし 鉦三、
節子吼晶二十五巻、
無柴無我無渾.彿性賀非無常無果無我無渾、
併任、是政彿性常無我浄.以諸衆生不能見放、無常
中道能破生死故名馬中以是義政、中道之法名超
号
L復有五沈、謂五趣解脱、妄貞不浄想、二者食不浄
想、三者一切行無常想、短音一切世間不可無想、五
若死想、
死想、無常感、無常音感、苦無我想、
払云何七生沃、滞七想、不浄想.二間世間不可欒想−
孔云何九生活、謂九想、不浄想1覿食不浄憩、︼切世
間不可襲想、死想、無常想、無籍菅想、昔無我想、
壷想、無欲想
空ミ常集我浄の意味
3≠∂
代
督
基 督 時
F基
時
代﹄
−1三枝義夫氏著﹁基督時代の基督致﹂に就いて
−
森
一四二
かへたにとどまらす、ラテン文化の修正と、ヨーロツ
までもない。それはただに宗教史上の世界地図を塗り
文化史上の大事件であつたことは、今さら改めていふ
キリスト教の興起が、あらゆる意味において、世界
今日までの事案は之に反してゐる。我観におけるキリ
る歴史的科挙的研究とは理論上離れ得ぺくして、而も
〓事故に封する壁際信仰の普及と、その宗教に閲す
ロテスタソト帥螢界に勤して深謝しなければならぬ。
歩をあえてしてゐる。この鮎吾々はとくにドイツのプ
たっ就中在日に超する挙がらは、その研究方法の牽達
.ハ文明の哺育とによつて此の宗教の重大な影響が、ほ
スト教の停統は日荷浅く、従ってその摘心範囲も亦き
今まで、日本の拳界に富然あるべくして無かつたも
とんど全人類の歴史に、直接間接改及したからである。
わめて限られたものであゎ、この鮎よりして、キリス
である。現代忙おけるキリスト教史の研究方法は、直
されば此.め宗教の歴史的理解、殊にその野生昔時に関
ト教に関する畢的理解が、欧米拳界のそれに比して著
のの一つは、キリスト教に閲する本格的な研究書であ
する研究のもつ役割は甚大であり、近代ヨーロッパに
るしく未開拓の状悪にあつたことは、けだし己むを得
ちに採ってあらゆる宗教史研究上に参考するに足る進
おける原始キリスト教史研究の曹澤は、かうした動因
ぎる事情による。加ふるに、キリスト教の寮際信仰を
つた。
に促されて己に一世紀に鉛る急速な進歩の遺をたどつ
3三好
t︳
日本に脾来した者の大多数が、拳的即究には到つて扱 介にとどまるものではなく、之を洩れなく取り入れた
どほい諸相除から逸られた宣教者たちであつた事が日 上、更に研究書としての猫自の存在を埜界に‡張する
本の畢界におけるキリスト教研究の進歩を阻碍こそす 賓桔を十二分に備へてゐる。先づ、放論として巻頭に
れ、これに功献するなどは思ひの外であり、その蕾む 掲げちれた﹁研究の歴史と訣監﹂は、過去一世紀飴に
ところの数椎の大多敬に於ては、今なほ研究と詮敦と 亘る世界の斯拳研究記録を.きわめて親切に叙述し、
の院別判然たらぬ、宛ら中世紀に在るが如き講義さへ 且之に公平な批判を加へて、立後れた我幽キリスト教
閃かれる。所謂キりスト教研究非と銘打って出版せら 畢界に封する啓蒙的功献をなすに十二分の成功をおさ
るるものの多数が、その今日における斯拳研究の失職 めてゐる。殊にやうやく最近ドイツ塾界の一角から唱
とは何のかかわりもなき猫斯もしくは陳腐の耗物であ へられて、ただに原始キリスト教研究上のみならず、
﹁様式歴史的方法﹂︵此の評語も亦本著者の蟹菓にたり
今後口・本の畢界に公定術語として採用せらるるに相臆
フォルムゲシヒト叩ツヘ・′トーチ
すものとして世界拳界の注意を呼んでゐる新研究方法、
ることも、あながち筆肴ひとりの見ではあるまひと信 あらゆる高等宗教の初親経典研究に重大な暗示を翳ら
ぜられる。この意味において、ここに紳介せんとす
る、三枝義夫氏の新著﹁基斬時代の基解散﹂が、純幽
産のキサスト教師究#として挙界に税はれたことは、
紹介してゐる著者の功桁は、これのみを切り醒して見
語なく多くは原語のま1使用してゐる模揆である︶を
それ自身すでに、我観宗教拳坂越史上における一つの しきものと信ぜられる。英俳の拳界には未だ通常の評
エポックを形づくつたとこを意味する。
本市は.正しき意味において日本でなされた原始キ
一四三
の詳細な解読及び著者の之に謝する批評は本文中﹁イ
リスト教折究の最初のものである。この書は決して、 ても、浸すべからざるものがある。︵木酢究方法に就て
代
ヨ1Pツ.ハにおいて己になされた研究の桃評または轍
巣 食 時
∂47
歴史と課短﹂の華中.カサツキー等唯物史家のキサス
亘つて掲げられてある。後節参照︶又同じく﹁研究の
っっ、然もその舞婁に或はれた個人的天才がもたらす
を著者は先づ指摘する。背景癒合の状態を鎗く考察し
此の両者が互に載察した一つの盾の両年面であること
基 せ 時 代
一匹四
エス件の質料と其の歴史的便値﹂の項に、二十四
に事箕を知る些一の材料であると主張する立琴
歴真
史的
ト教起源詮.及び戦後ドイツの一■部に於て喝へられ、
サスト敦を知る正しき手段であるとするのが、之に封
最近わが国キサスト敦界の一部にも其の影響を見
意る
義肝
を十二分に直観する.この止揚的控度こそ原始キ
謁.危機紳皐﹂一浪の原始キサスト頼を解放し・之らを
短的近再吟味してゐるあ菅は本著者ならではと密
すか
る本書者の立楊である。更に著者は、かかる方針に
霹が、未だそれ自身目的に非ることを注意し占的は−
れ、之を﹁時代の書﹂一として見ても大成功の部
属さるる.資料としての聖書の歴史的心理的経
ょ類
っに
てな
する。然しながら.以上は本書の垂翠二十五真に鮮や
更に﹁かくして得た資料を客載的科皐的方法にょつて
生かし、組接し.結合し.かくすることによつて.か
かな手際で取わ入れられてゐる﹁線誰Lの一部分に過
ぎす本書の同定はこれから展持をはじめる○
過去における研究方法の歴史的解故に膚いて著っ
者ては
は有機的に生きて居つた.昔時の歴史そのままを
自身の課磨の存するところを明らか忙してゐる。
ぅ即
っち
して、生けるか如き陰に創少上げる﹂に在ること
世界の串界において今日まで把なし途げられた原
を始
提キ
案するっこれは只に著者の.原始キサスト敦に脚
サスト敦研究の結果は、一方においては個人的宗
す教
る天
研究態度を明らかにするに止らず、まさに世界の
才を唯︼の問題として其の言動により昔時の宗教
全事
宗情
教拳界に謝して呼びかくる新操業として甚だ注目
を凍らんとする立揚、他方においては前者の誤謬
にを
値指
する。
嘱して個人的天才の意義を溌ひ、その武官的背景こ
美そ
に射する限少なき思慕の念が.美術史軒究者に普
3β
然の資格として要求せらるるが如く、宗教それ自身を ヤ的キサスト敦の成立時代、他はパウロを中心とする
び洗轟音ヲハえの蓬動に及ぶ。然る後に、此の編の中
●●
根本接伴を具備して居られるやうに思はれる。この事
心人物イエスに関する詳細な考察に移少、更にイエス
代
に第二緬﹁へ︶妄ム文化へのキサスト敦の進出﹂に
を有して展開する。即ち一はイエスを中心とするユダ 潤いてゐそ。
基 甘 時
一四五
キサスト時代におけるキサスト敦の歴史は、二つの軸 次展開とも見らるべきヨハネ思想の考察に割いて筆を
第一世紀を呼ぶに﹁キサスト時代﹂の名稀を以てする。の人物研究に進み、更に最後の一章を、此時代の第二
豪亜及び萱展を叙述するにある。著者は此キサスト敦 界の宗教事情より詮き起して、そこに登場した.ハサロ
本書の目的は、紀元恭一世紀におけるキサスト敦の おいては、キワスト敦進出以前におけるヘレニズム世
たことを.吾人は共々に歓喜せざるを得ない。
団における此の短日の最初の専攻者として其の人を得 ルサムム原始敦囲の研究を試みて編を結んでゐる。次
サロを描くに際して、明らかに裏書せられて居少、我 の直後の時代.帥ち主として使徒行停を材料とするエ
‡は以下述べんとする本書の内容、殊にイエス及び.ハ
ツ型の料亭的精練を併せて、まさ鱒宗教史菜としての 悪を観察して後、昔時の特殊傾向売りしメシヤ期待及
わざの尋常一億ならざるは、また言ふべくもない。然 たヘレニズム文化の興隆に筆を起し、之に射するユダ
るに太著者は、ょくその東洋人らしき直税カに、ドイ ヤ民族の反應、.並に常時におけるユダヤ本土の敢骨状
今、更に之鱒蒙ね備ふるに拳徒としての才を以てする 代史として、アレキサンダー大王の東洋産征に費端し
みづからの正しき把握が甚だまれにのみ見出さるる昨 ダヤ思想とキサスト敦の誕生Lにおいては、先づ共時
宗教者を以て自任するものの間に於てさへ、宗教それ 地に立って著者は本書の内容を二編に分ち、第一締﹁ユ
誇ることは、宗教畢徒にとつての生命である。然るに ヘレニズム・キサスト敦蓉展時代がそれである。この見
β卓9
基 常 時
代
一四六
本書のねらひどころの第一は、その時代史的考察で 部分を切り離しても、優に一つの新イエス停を形成す
ある。殊に第一銅における時代背景の叙述には六十囲 る。加之、その純科畢的取扱にも係らず、得られたイ
頁を鞋して、イエスの宗教の歴史的理解に封する遺を エス物語が、一編の文畢的作品にも等しき生命をもつ
となへてゐる。この背景の中心的動きは、。ハレスチナて現はれてゐる鮎は頗る注目に催する。.ハサロを取扱
に於けるヘレニズム思想とユダヤ主義との闇寧の渦ま ふに留っても亦同様の効果が示されてゐる。畢徒とし
きである。この時代に起ったあらゆる事象および意固 ての著者のみを知ってゐた筆者は、本書を播くに及ん
で、宗教者としての著者をも賛見し、むしろ意外の感
関する部分に於て、其の賓料検討の方法の一つとして
ここに著者の に打たれた。僻、上述の如く、此の内界一のイエスに
は.すべて此の角度から理解せられる。キリスト教も
亦決して此の渦巻の外にはなかつたー
閏心の東新がある。
然しながら、大書における最高峯は、やはりイエス 所謂横式歴史的研究方法が詳らかに紹介、且賛漬せら
及びパウロに糾する考察で争わ。殊灯此の著者濁自の れてあるのは、只に我国に於てなされた最初の試みと
イエス伴再建への試ろみは、一つの新機軸を示してゐ してにlヒらず、・恐らく帝琴冗たるドイツ以外の団の畢
る。おそらく此の問題は著者が最も得意とする鮎であ 界でなされた最初の適用であらうと思はれて甚だ興味
の﹁史的イエス再現方法﹂は、たしかに前者を止揚す
らう。まつ新約書が提供する個々のイエス停資料の歴 を惹く。然も之につづいて提案せられてゐる著者燭特
史性に射して腋jEな料率的検討を加へ、之を素材とし
第三に、芽者が総論に於て企固した、敢骨的背景と
て新たにイエス停の組立を志してゐる。その取扱方法 るに成功してゐる。
は、現在に於けるあらゆる新約批評上の笹詭を考慮し
てゐるのみならず、屡々著者燭光の創見を加へ、此の すぐれた人吻の猫自性との問の調和が、本書の内容に
350
おいて成功を以て答へられてゐこるとも見逃しては東
な面に配した鮎など、印刷形式上のテクユタにも細心
らぬ。本書の各章それぞれが、立派に個々猥立のヘの
レ注意が排はれてゐる。
何人と挟も異存がないことと信ぜられる。然も著者が
吾々は此の横合に、著者の前途に謝して心からなる武
りにも、苦心の跡が現はれ、叉テキストを本文と同型
代
の活字で組込んだこと、脚証を出来得る限り本文と同
基 督 時
︼四七
調子を示さんが馬に特に永井謬聖書を引いてゐるあ期
た待を置くべく励まされるものである。
必要に應じて引用テキストを口語詳し、或は原文藤
のを透ると共に、我観宗教拳界の搭乗に封して一屠の
ろ多い試みと思はれる。
批判と共に証して居る。之は著者の畢的責任感を明畢
か界への門出の書として、これだけの労作を軍表せら
にするものであると共に、読者に勤しても讃するとれ
こたことは、吾々をして意を狙うせしむるものである。
と並行に、著者みづから渉猟した参考文献の譜見解を.
たしかに著者の新考実の一つである。
或ひは不可能ではなからう。然しながら全鰹としての
著者は大々の問題を取扱ふに富つて、原資料の提本
示書の意矧が敬服に倍する成功を示してゐる鮎には、
れる。かくして、﹁キリスト時代﹂の名にふさわしき本
一書における著者の見解に勤して新説を出すことは
っの時代が此鬼に描き出痩れてゐる。此の構成形式自
は由であ少、叉木書中に後納の畷壇を指摘することも
追って居り、そこに全巻を通する一貫の論理が見出て
さ途中巻を閉づる純はぎらしむるものがある。
係らす、その全鰹は一つの歴史的発展の有機軌純を書
形を通説に容易ならしめ、一たび此の書を播く者をし
史︰ハウ口跡究、ヨハネ思想考察等をなしてゐるにと
もは、よく此の複雑は内容を有つアカデミックな研究
ニズム時代ユダヤ文化史、新イエス侍所究、使徒時代
著者に慈まれてゐる文拳的表現の妙と、史眼の冴え
3βJ
伽耶及び彿陀伽耶の史的研究
伽耶及び彿陀伽耶の史的研究
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菟
禰
れ七居る、又、小野玄妙氏の此の大塔建立に閲する所
︵一︶
聖地、彿蹟として伽耶及び彿陀伽耶は印度人一般は 築篇に於て、若干大塔に閲する建築上の解詮を加へら
勿論.汎く世界彿教徒の信仰を集め、その遺蹟は又印
買t凰 のF彿陀伽耶﹄︵占仁美訂Gト息・−ニ00声︶は従来こ
居る。ラージェーンドララーラ⋮.トラ︵R号nd邑巴p
氏の前著﹁ハルフート碑文﹄︵占弓どtHn笥ipt山。ロSJ﹃ウダ
せられたことはミトラの大著に接し得す、且つパルア
るパルア氏が今回﹃伽椰及び彿陀伽耶﹄の寿一巻を牽表
度蛮術宗教の研究家にとつて好個の研究封象となつて 詮も興味ある諭である。カ・ルカック大挙バーⅤ語教授た
の悌蹟の研究として最も構成あるものとせられカーlン
ヤギサ及ひカンダギザ洞穴の古ブラフミー碑文﹄︵。01d
官許miIn弓iptiO己in詩話■qdPでgiriPnd.内Fnd品irin町一1
ハム・フ丁−ガ,リソ等の書と共に畢者の看過し得ざる
書である加、既に滝版となつて容易忙接し能はぎる慮
となり少からざる不便を感じてゐたのである。先輩逸 乳じを知る者にとり非常な欣びであゎ、更に頼刊せら
氏の今回の計蓋は左の如き五部より成る極めて周到
見梅簗氏は数年前印度留拳嘗時、苦心撮影せる彿陀伽 るべき教巻に多大の期待を残すものである。
耶大塔並に欄楯等の明快なる富眞帖を刊行してミ!フ
且つ詳細なものである。
の書に優る遺頗の悌を修へ、更に﹃印度彿敏美備考﹄建
3丘ク
金一、悌教以前の伽耶の歴史。
試詳巴m苫︶
摂った史料として﹁ガヤー・ヤーハートサムヤ﹂唇音 謝
﹁ヴ丁−テプラーナ﹂︵霊苫Pr昔p︶の最後の部分を形
なる文献を引いて居る。この文献は元来
巻二、俳陀伽耶の古寺院1−概観
巻三.同
成するものであつて、その述べんとする鬼は、︵一︶伽
碑文
春四、彿陀伽椰の高石問−1薄肉彫
耶の地域の古く且つ紳聖にして重要なることを稲揚し
−
巻五、圃鉢。
︵二︶この基地への巡鰭︵のpy㌢.Y等馴︶の菓円書としての
地理的詮明と共に巡鎧肴の行事を述べ、且つこの地Q
ものであるから、之に従ってその内容は、この露地の
膚値を強調せんとするものである。その目的が斯かる
以上の中、第五番たる㈲録が、その主要部なること
は序文にも述べられて居るが、既に刊行せられた第一
春に於て吾人は寧ろ多くの興味を感するのではあるま
..一■︻
いか。何となれば今この第一粒に説かる1虎は、彿陀
明を加へて寧ろ荒唐無稽の訣をなして居るもので、此
山河草木等の事物には悉く之にプラーナ流の紳癒的証
ではなくして、此の露地の由来線起を諭する歴史的乃
の文献を重要成してその中に史的事案を賛見せんとし
伽耶大塔に園する、建築上、或は美術上の批評、探究
至文峯村、地理的な問題であるからである。
る。.ハルア氏の著は先づこの停詭の内容を桁介し、更
たミトラをすら最初に一㌔Wi−d賢r㌧、と欺ぜしめて居
を集めて居る以外に、印度教徒の聖地としても多数の
に之忙謝する、、、トラの所謂﹁哲拳的、歴史的﹂解輝の
伽耶の地︵辞叫欝棚eぎ︶が彿蹟として印度一般の信仰
巡緩着を集めた事箕は、この史蹟を研究するもの忙と
雷日を停へてゐる。
一四九
シュヌ紳の崇拝者に心て巨大なる腔躯をもつ阿須詳ガ
抑く﹁ガヤー・マーハートゥムヤLの語る押詰とは、ゲイ
って問題となる虞であつて、ミ!フは之によつてこの
地方に於ける彿教と印度敦の盛衰の紺係を知らんとし
たのである。彼は此の地に関する婆雄門文牟の唯一の
伽耶及び俳臨伽耶の史的研究
た結果に外ならないので、横言すれば彼が異端者な少
一五〇
ヤ︵中馬紆弓−︶が飴りに膵き敬紳の結果ヴイシュヌに乞ひ
しことを示すものである。而してこの特徴は常に婆薙
伽耶及び俳由伽耶の史的研究
て己を見、己に覇る1すべての物を清澤不死ならしむ
る力を輿へられ、逸に之等のものを悉く梵天の不死の 門数に射する彿敦の脛度にあてはめられることであつ
世界に昇らしめ、之が偏にヤマ及びインドラの世界に て彼等は極めて敬既にして苦行、冥想を伶び乍ら而も
及びゲイシュヌに射する苦行献身としてその身を汽。l巴−
るものに造ひない。﹄といふのである。更に又﹃ガヤの
にこの場合に於ける阿須羅ガヤは正に彿敦を人格化せ
住む者は紹え、却って之等の所々の熊嵯によつて梵天 婆羅門に射する犠牲や祭式を疏にするものである。故
巳a の丘に横へてその上に諸所をのせ、動く能はぎる
なりといふ停訣はその占むる地域が南はカリンガより
巨大なろ醍謳がその長さ百二十五由旬、周同六十由旬
に至りし物語を云ふもので、この地の別名﹁ブラフマ・
ガヤー﹂︵野已lEPG竜吾﹀及び阿須羅ガヤの記念たるガ
ヤー︵伽耶、GPyエ乃至ガヤー・クシュートラハGP忘恩et北はヒマラヤに及び、東はベンガルより西は中央印度
に亘ることを示し、この紳話の作られた時代︵ミ!フ
且の名粥は之に基づいて居るのである。
ミトラの之に射する解将に従へば﹃阿須羅は元来悪 は西紀、三−四世紀とする。︶に彿教の弘通せし地域を
雌であり紳一に射する反逆者なるにも拘らず、ガヤー 指して居るものである。﹄と述べ之に依って、﹃要するに
阿窮羅ガヤの停詮は印度敦の彿敦に射する膠利を比喩
は決して斯かる言動なく、敬虞なるゲイシュヌ崇拝者で
ある。傲りに熱烈且つ単純なる敬紳の念が却って諸所 的に物語るものである。kとの結論を下して居るのであ
ミトラのこの意見に射して反射の来場に立つものに
の恨を賢けたりとはいへ、彼の受けた最大の罰すら又 る。
前に射する苦行献身の行鮨であつたことは、要する忙
︵二︺
幼が梵天、ゲイシュヌの倍を誤り、その道に従はなかつオー・マレー︵○、・ll已︼eじがある。彼は容想的な印度柳話
3∂重
から事寛の根城を得ることの困難なるを諭き、、、、トラ
パルア氏の併設は以上の両氏の詭に謝し、大鰐に於
るに拘らす伽耶の荒蓼たりしとの法顛停の記事及び玄
墨?⊥窟︶ 雷時、彿教、婆羅門敦、両つ乍ら行はれた
yぎ欝の起源見るべきであるが、法穎の入竺︵A・P
もその時代と詮に基いて起れる留首㌢dd訂及びG守
三1囚世紀の作なりとすれば、同じく阿須藤ガヤの停
が、氏の脚註が時に書名のみをあげてその文章.或は
ヲ㌻gY邑已︶ト已ぎ5訝rP−宮dd11pC胃ぎ等を挙げて居る
られてゐたものである。︵
教に於ても特に中道論者によつては避くべきこと1せ
特徴ではなく、すべての宗教に通ずる要素であゎ、沸
ょって反射して居る。即ち苦行献身は必ずしも馴致の
パルア氏は之に就いて
弊三戒の此の地を訪れし時︵A・P詰りよ畠︶に千飴の
巻、章等を省略して居ることは退憾であるi−1b︶更に
伽耶及び俳陀伽耶の史的研究
てミトラのこの神話の成立年代に反駁して居る。
門的非印度数的のものではないとし、たとへ然りとす
力と恩恵を強調し、伽耶の地域の紳聖を飾る神話的技
一五一
話乃至エルクタ.ヂャ一夕カ等の記載に迄及びミトラの
巧を物語るに過ぎすとして居る。氏の論は更忙吠陀紳
ゲイシュヌ崇拝を立てたのは十国状紀なりとの詮によつ
く、更に又Gp笠急l∽が南印度に於て彼等の宗教として
るも結局は梵天、シヴァゲイシュヌ等の印度敬語静の威
至辞甘SrPddbpとして来集せしものなりしかは疑はし
か、又西域記に言ふ魔の婆羅門が果してGpyぎ巴り乃
事よりして、この地が常時番場として有名なりしか否 又ガヤの馬した行鰯は決してミトラの云ふ如く非婆羅
−
婆辟門豪族を有する一村落なりとの西域記︵第八︶の記
ミトラの言ふ如く﹁ガヤー・マーハートゥムヤ﹂が西紀
化なりとせる設に射し、オー・マレーとは別の諭接に
が敬紳の念、探しとの侶定む否定してゐる。更に若し 居る。氏は先づミトラの阿須藤ガヤを以て彿敦の人格
来彼等はすべてゲイシュヌの崇拝者であつて、ガヤのみ
り古き婆羅門文拳或は彿教文畢に新しき諭凄を求めて
がその論接として拳げた阿須羅の性質に臓しても、元 て後者の立場を支持するものであるが、更に多くのよ
β∂β
伽耶及び傷臨伽耶の史的研究
一五二
地殻の噴火運動を暗示するものな少との新改を出して
阿須藤ガヤ郎彿教の設を飽く迄否定してゐる。
へ、又、ブラーナ的、宇宙論的比喩に地餐皐特恵義を
次に阿須尿ガヤの三大なる脛謳に閲しても、﹁ガ求
ヤめ
ーてこの件詮の背景として古代に於ける此の地方の
ヤーハートゥムヤLの記事は、先づ由旬なる術語忙封す
る正隆なる概念を得ることが困難なるのみならす、居
地る。
之に射するオーマレー及び.ハルア氏の反論は以上の如
理的にも無理を生するものなることを詮き、僻りにミ
﹁ガヤー・マーハートサムヤ﹂に節するミトラの論及び
!フの詭を首肯して、而もその成立年代聖†四世紀
聖地.伽耶に閲する文献としてこの﹁怪奇的物語﹂に
い。
なりとすれば、常時の彿敦弘邁の範囲が印度以外にき
迄ものである。本書はこの神話に閲して牟に起き紙数
及んでゐた事箕を知る者にとつて巨人ガヤも一介のを
倭割いて居るが評者も今や些か結末を急がねばならな
人に過ぎないこと1なると痛論し、この紳話の停へる
巨人の占むる範尉は北西に走る穿−賢巴pの山脈と、
伽椰の南西よ少安富見き註に亘ることを述べてゐる史
。的事茸を求め、パルア氏に従ってその成立を十三−
最後にこの神話がミトラの云ふ如く果して婆羅門敦四
の紀のものとし、ミ!フの改を悉く附曾の論なりとし
ては大なる疑問を残し.この物語の奥へる問題は彿教
この鮎に閲し比較的注意を沸はなかつたのであるが.
文献を求めなくてはならないであらう。従来の研究は
彿敦に射する膠利を暗示するものなりしか香かに閲て
しも、吾人は更にこの地に脾する他のより古き断片的
と印度教.とが反射的立場にありとの僻定に寧ろ相反す
るものであつてミトラの詮は殴りに乗張附曾なりと.
しハルア氏の今回の著はその資料を極めて廣範囲忙求め
敦文拳に現れて居ることはこの研究によつて相常璧富
之と触れてこの停詭の持つ比喩的意我としてゲイシて
ュ居
ヌる。伽耶及び彿陀伽椰の名辞が婆羅門文拳及び悌
の足跡︵≦笥口付已P︶を信仰する鮎に天文畢的解揮を輿
3∠好
なることむ知少、且つこの両宗教が如何なる見地よ少
この霊地を見たかは詳細なる説明によつて読者に清見
を輿へるものではあるが、著者の筆致は之等の各章に
■
於て印度流の複雑なるものとなつて居る。
要するに吠陀紳輔に於て死及び暗黒の悪魔たゎし阿
須尿ガヤの停設による伽耶の地は彿陀在世昔時世は婆
羅門の間に葬祭の露地として知られ、彿陀成道の基地
となつて後茸に印度教と悌教の骨合拍動とせられたも
ので.ハルア氏が此の結論の痛に汎く文献を求めて従来
の論を批判し、特にその資料を彿敦以前に於けるこの
地に閲するプラーナ以外の比較的信じ得べき藩文献に
二〇九−−ニー五
得たことは氏の所詮を一暦偲植あらしめるものといふ
べきであらう。
馳陀尿の例数夷術
J●A●S●声−父芯●pp・箆︰
ヽ
伽耶及び俳弛伽耶の史的研究
OF邑○ヨGa箋S鼓F芦d¢ぢぎ﹁pF
(二)(一)
劇汀
締畢及びその研究法に就いて
一
田
遺
賢
部の人士の問に軽々の意味に於て行はれ、今なほ蓉繹
柴
同田宜法師の﹁藤畢研究法と英資粁﹂を誼みてー1
繹寧及びその研究法に就いて
∴
ふ語を使用して居るのが極く古いもの、其の流行は明
事に属する。明の胡文炊が躍宗博覧の中忙﹁繹畢﹂と云
し﹁般に云ふならば躍拳など1云ふ牽則な言葉より
て居る。或は只﹁蹄の教﹂と云ふ意味の場合もある。然
云ふ語は﹁嗣の研究﹂と云ふ位の意味に於て常用せられ
する特志の人が紗くない。其の人士の中に於て再挙と
治廿七、八年頃に起つたものらしい。それは要するに
澤撃と云ふ言葉が流行語となつたのは板めて新しい
辞の研究が新時代に更生しょうとして用ひられた標語
も、只﹁蹄﹂と云ふ語に依ってより多くが物語られて屠
る。
するも、道元、桑西を始め、膵宗の悶絶が時代の寵克
来なかつた。親好と日蓮とは一時祀曾を風靡し得たと
たものとし、自らも許し他も之を認めると云ふ節線鰹
ことに依って、その公案を透過すれば蹄は把掴せられ
押を賢修し、師家に就いて公纂−ぞ受け、工夫を凝らす
︵一︶
の一部をなすものであらう。然し渾の研究は明治より
膵を研究するには、従来多く直接僧堂に出入して坐
となつた事、或は其の言行が融合を指導したことば近
駿的方法が王となつて居たっ其の傾向は今伶ほ相常に 謝
︵二︶
昭和にかけて容易に時代、祀曾の潮流をなすことは出
い時代には見受けなかつた。けれども.蹄の研究は一
有力であつて、抑を研究する人は常滑堂に入って渾を 博士である。博士妓曾ても論じた如く、辟教の不二を
群撃及びそめ研究法に就いて
が賓現せられるのであらう。その一方の樺威は忽滑谷
る。これに依って恐らく押宗内部からの押宗の革新
来た締の研究が今やその業績を世に問はうとして居
論、繹拳批判論等の諸研究は博士の尊い労作として、群
の研究に重要なる地位を占めて居る。青々はこの主張
﹁押の宗的方面﹂と﹁畢的方面﹂とは如何に囲係するであ
ても膵の眞備に透し得ると云はなければならない。善
書は更に深く教師不二の主張に依って絆拳が拳として
︼五五
この著はその序にも述べて屠られる如く、﹁膵の初畢
〓
究法と其賛料﹂に就いて述べよう。
る辟宗の一時の流行の後に淋しくも力強く躇みしめて の門下に研鎖して居られる岡田宜法師の近著﹁繹拳研
去りにせられた人々は眞創にその癖路を見出さんとす 注意して、これ等の人々に依って取られる方法を博士
時代は精細文化を外にして急テンポで進展する。置 の可餞を証明すべき重大なる問題が秘んで屠ることに
のものではなかつたらうか。
躍拳の流行.殊に明治三十年頃の押拳は恐らくこの種
伶の痛快味のみを擁ようとする着である。然し彼等に らうかと。餌ち先づ第一に繹が学的に把掴し得るもの
依って辟の新しい椅向は恐らく望まれないであらう。 であらうか。敦押不二ならば、拳的研究のみを以てし
鉢.従容鍬、一休法語、白除法語等の一端を聞いて膵
世には碍を趣味として弄ぶ一額の人々がある。繋巌 に勤して幾分の疑問を差挟む飴穐を持って居る。即ち
る。
ぶ可からすと。こ1に世の鍔畢の一方法が論ぜられ
た事がない。然し彼等は云ふ。繹は参す可くして、拳 畢思想史﹂となり、﹁朝鮮群数史﹂となつて表れ、繹畢新
僚堂も、岡垣の蹄堂も、何應の雲畳も備衆の言を問い 持って居られるのである。その結果は着々として﹁絆
修祷する。それも今や昔日の盛戟は見られす、建仁の 充填として、膵を草間的にも把掴しようと云ふ主張を
β丘9
せられたものであつて、吾々の見る虚に依れば、蹄宗
者に射し﹂繹拳の﹁部門と研究法と資料と﹂を示さうと
の一般文化との交渉、及び膵の水質との比較研究が曳
位園料簡、停法等の研究が列容せられ、後者には飴他
究、押的敦判の研究、粗鉄.法規.挿戒の研究及び五
一五六
の研究に於て従来悶怒とせられた大部分を網羅して、
足せられて居る。が此の章把於ては専ら前者が主とな
繹拳及びその研究法に就いて
蹄拳折究の大勢を示されたものと見ることが相乗る。
って後者に屈するものは膵辞相関の研究が概論せられ
って親切な叙述が試みられ、殊に押的経典の研究は彰
第三章は殆ど全鰹の九分の七を占めて、各項目に亙
て居るに過ぎない。
︻円︶
若者は第一輩に於て研究の悪度を略述して批判的研
究法の主観的立場を壬とし、之に客搬的立場を加味し
て、抑拳の合理性を明にすることを目的として居られ
⊆〇
甘る。この鮎に就いては後に諭すること1して、更に此
て先づ資料たる肘何等を列馨し、印度の辟︵宗︶的傾向
第二章に於ては﹁史樽研究法の概要Lを述べようとし
に於てや1之を放つ。清規研究法に於て述べられた事
吟味以上に進んだ叙述ではないが、公案の研究がこ1
られる如く.椅冗長である。租鉄の研究も殆ど史料的
大な部分を占め、阿合の如きは著者の序文に述べて居
及び支那.日本の辟︵宗︶の概観をして其虚に問題とな
も、殆ど従来歴史的に清規の麹蓮を研究すること以外
著の梗概を詭明しょう。
るべき鮎を指摘し、第三章に於て其の資料たるべき高
に出て居ない。帝戒の研究は稀出色のものであつて、そ
坐辟論と如何に槻係するかと云ふ間取に多くの蔵敷が
謝
僧停、偉燈蝕等多くの史件が概観されて居る。
法に於ては封内的研究と封外的研究とが分類せられ、
使用せられて居る関係上、﹁渾戒の位系を有せる料率的
の大要は辞戒の歴史的研究ではあるが、従来の研究が
前者は群数坤濁自の研究を以て、その内容と償値とを
研究﹂に注意が向けられて居る鮎は大切である。著者
琴一︻輩として教理研究法が概況せられる。教理研究
明にすることを目的とする。井底には辟的経典の研
とは此著の序文に於て忽滑谷博士が述べて居らる1如
く、蹄﹁何方八両より研究孝来して、辟の眞相を明か
が停法の研究を数理折究の中に燭立せしめられたのは
如何なる見地によるか。﹁嗣法又は停法と云ふ意義を問
にせられ﹁誠に畢界の好指針Lであることは吾々の同感
憾である﹂と述べて、、大いにその抱寅を示して居られ
う。然し問拳研究の最初に皆って取るぺき感度及び其
ったから、其の内容に付いては多くの批評を差控えよ
己に述べた如く此の薯の目的は初尊者への指針であ
三
かったと思ふのは飴りに無理な証文であらうか。
れたと思ふ。欲を云へば今少しく簡結に叙述して欲し
に於て膵の初畢者への伴侶と云ふ目的は完全に逢せら
だけを充分把握しなければならないと思ふ。この意味
手せんとする者は、是非とも此著に依って問駿の存在
に堪えない虚である。少くとも初めて押宗の研究に着
顕することは、繹教理の重大なる鮎であると云
ふだけでは之を教理研究の覇立項目とすることは締不
充分である。只三物の議論が曾て宗門の嚢要なる論題
となつた鰯に猥立の一科とするのは歴史的問庖であつ
て、理論上は清規の一部門を占め、三物の倍植付けの
如きは或は歴史的意義に終るのではなからうか。
次に帝浄相舶の研究が歴史的に叙述されて居る。こ
れ忙就いては序文に於て、﹁大なる問題であるにもか1
はらず.一人としてこれが研究を欒表し居らざるは造
るだけに、廉く大きく傾向を指示せられたことは書ば
の方法は常に反省せられ、批判せられて然るべきもの
︵七︶
しいもので▲ぁった。然し.蹄浮の㈲係については、鈴
であると思ふ。この意味に於て青々は此の薯の研究法
︵八︶
未大拙氏の如き心理壌的研究も常然戯られねばならな
について二言し度いと思ふ。
此の薯が何人も殆ど企て及ばない様な席汎な内容を
かつたと思ふ。
以上に於て此の著の大要を紹介し得たと信ずるが、
一五七
網羅し、其が柏首級織的に叙述されて居るにも拘らず、
繹単及びそり研究法に就いて
其の内容の床机なること、その研究題目の詳細なるこ
劇汀
膵撃及びそ¢研究津に就いて
読後抱く最も大きな不備は研究法と云ひながら、方法
︼五八
著者は研究憩度として、正統的研究法と批判的研究
論らしいものを見出さないことである。著者は研究法 法とを分類し.前者に演繹的方法と節約的方法を述べ
と研究とを殆ど同意語に解して居られるのではないか て、前者は料率の時代的展闇曾の如きもの、後者は歴史
と思ふ様な場合が到る鬼に散在して居た。例を史侍所 の倒叙法の如きものとして居られる。その何れを取っ
の研究と.一般彿教史上北於ける紺畢の時虚位の研究
は.第一は史停の研究である。史停研究に於て、彿停
嫡常で方法と云つた方がよいと思ふ︶がある。前者は
之に主観的悪疫と客観的麿度︵唐度と云ふ語は寧ろ不
方法とは押拳の﹁畢的合理性﹂を見出す方法であつて、
究法に取るの﹁押拳研究誌の内容を具鰐的に分封する時ても之を歴史的方法と見ることに反射はない。批判的
−中略−宗武史とも耕すべき研究は.押拳研究上に於
ける史的方面の好短日として努力すべき事項である。 ﹁自己が最も合理的安富と記むる思想を中心として﹂、
後者は滞理を一般思想と封比して、其虚に祀の畢埋的
然しこれ等の研究に勤して基本的智識を提供するもの ﹁蹄埋を批判し、繹拳の合理性を見出す﹂方法であ少、
︵九︶ は史停の析究である﹂と。此の場合史停の研究が繹拳
の研究方法であると云ふことには方法論的な問題は包 合理性を見出さんとするものである﹂と云ふ著者の意
んで居ない。兜停を如何に研究するかと云ふことに酎 見であるから、前者は論理的方法に額似し、後者は比
究方法が存在すると見なければならない。この概念の 較研究に類似して居る。そして著者の取る研究方法は
混同の馬に一見方法論がない様に見ゆる此著にも決し 批判的方法の主戦的悪度を以て﹁押拳に封して合理的
の研究の態度と云ふ鬼には発分方法論の序説.が示され
よく鯉梅して使用する磨度に出られたものである。こ
を牽拝せん﹂とするのであるから、批判的方法を都合
て方法論が示されて居ないわけではない。即ち藤一章 色彩を抽出し、客観的憩度によりて、益々其の合理性
て居る。
∂♂2
繹畢思想史に於て蹄拳と云ふ言責は甚だ不明瞭なもの
意味は不幸にして知ることが出来ない。忽滑谷博士の
の見地から見る時、葉音の﹁繹軍靴論﹂は正しくこの方
法によつて辟拳の概戟をせられたものであつ、弓
って、殆ど﹁躍宗﹂と同意語であり、王守仁が辟畢の素
師の渾拳に於て最も根本的な問題は恐らくこの節究 であつた。其の序文に於ては﹁荷車の史賛に暗﹂いと云
法に依って示された如く、m小想を主にして放りに合理
性と云ふ卦に重きを置かれることではなからうか。﹁自
養を持って居たと云ふ場合には蹄宗的思想、拳訣と云
己の明経なりと信ずる理性を中心として押理を批判す ふに近い様に思はれる。﹁碍畢批判論﹂ではその内容上
る﹂ことが抑拳の方法であるならば、理性に依って節 り見る障帝京的思想畢訣と云ふ意味に考へられる。こ
ひ落された多くの悶監は何うなるであらうか。曾て仰 れ等を取って考へても一時の流行語となつた渾畢なる
の﹁蹄草紙論﹂の批評に﹁思想史的躍翠概論﹂であり、
語些
の概念を整理したければならない時に常田して居る
解せられた。又普通には古人の古則括提を意味L、辞
とは心拳なり﹂と論ぜられた時には、甚だ非畢術的で
︵︼二︶
的思想と解せられる場合が多い。忽滑谷博士が﹁蹄拳
〓一︶
骨て渾撃と云ふ譜は参群拳道又は蓼辟と云ふ意味に
かも心理畢的河の考察がなされて店ないと云ふ批評を のである。
︵︼0︶
見たことがある。吾々はこの鮎に於て更に反省する要
はないであらうか。こ1に岡m師の蹄隼に封する根本
的開担が潜んで居るはに思ふ。
四
︵一≡ノ
著者に此等の問題の生ずる松本原因は何虚忙あるの ﹁人間とは動物なり﹂と云ふ以上に漠然として居る。用
か。吾々は先づ師の軒究封象即ち押撃と云ふ語の概念 語例を倖畢要鑑に取る。﹁膵拳之旨、但安富人直下郎
一五九
要鑑、欲使人知辟﹂は繹宗の解設である。かく繹拳と
の不明瞭さを指摘しなければならない。押掛とは躍理 了、﹂の蹄畢は帥秘的鰹駿的な群を意味し、﹁撰述群拳
のA‖理的叙述を意味するのか。明の糾文炊が使用した
群撃及びその研究法lこ就いて
の漠然性を考へて居られたらうか。﹁帝とは何ぞやLの
︼六〇
云ふ語は統一された意味を持たず、帝.辞宗、参辞.
問は常に振返される問題であつた。而もそれに答へる
再挙及びその研究法ドニ就いて、
禅的思想、辞宗思想.辞的轟理と云ふ様な意味が漠然
と混入されて居るのである。この封魚の漠然さにもか 事は其自身矛盾であるとせられ.﹁辞とは何ぞや﹂の問
.
かはらす師のみならず一般正之を顧慮しない理由は何 に卸して答へら≠た事はない。恐らく内容的に答へよ
虎にあるか。害鳥は之に射して辞宗の宗乗と云ふ概念 うとした少、叉、再宗の盲則、各菓の流を習つて乾尿
味を持ち、他の語に依って置き携えることが出来なか
と想ひ起す。京菜と云ふ話は帝宗の信仰教詭と云ふ程 撥と示した餐でもあらう。夫は極めて形而上霹的な意
のものである。其慮には更k踵有の意疎が付隣するに
しても宗乗はこの胱念を中心とする。辞宗の信仰は辞 った故であらう。其の掴み得ざる∵神秘的な旅行的鮒
である。帝を解明することが宗乗である。辞を解明す 新法に従へば何ものをも包括し得る辞、それの学的研
るのは又一般に再挙として理解せられて居る。かくし 究﹂とは一位何を意味するのか。かくして辞争なる語
て再拳と云ふ譜は宗乗の代名詞となつたのである。然 は宗乗或は宗拳からも離れ、畢的研究と云ふ立揚から
想史的一部門を提督することになつて丁つた。
し一方流行語となつた﹁辞争﹂は﹁帝﹂と同意語に使は
も研究封象の事由不正堆の食に排斥されて、帝宗の思
れて、其の内容の漠然牲をも伴染させられたのであ
によりて、合理的に承認したる﹂︵繹の︶﹁数理﹂である
帝畢は辞を啓的に研究する﹂こと、即ち.﹁理智的判断
放くと云ふ結果壱滞らしたのである。然し、吾人は彼
ひ、帝拳概論を述べるに雷つて、優に﹁帝理﹂の一部を
ならば甚だ素朴な、そして不明瞭な研究法となつて丁
︵一円︶
る。従つ.て、衛藤氏も再皐と宗拳と同意語に使ふこと
要するに著者鱒再挙研究法を述べながら、其の折究
を畢的の立場からは樽躇して居られる。然し岡田師は 封象の把握が不明瞭であつた食に、近代科挙から見た
︵一五︶ と解して居られるらLい。此の場今師は辞と云ふ語
劇指
雲を掴む様な暗中榛東に終る。従来帝を乾尿椒と云つ
は辟を何とか具陳的に規定しなければ.蹄串は結着、
空夢撃聯論に比較してー此の著は大いに慶香寺べき傾㌔こぎ芸
向を示して居ると思ふ。
五
此著の慶賀すべき傾向とは、たとひ折究法は素
た朴
りな
。巌三斤と喝せざるを得なかつたのは結着蹄の内
理性主義であるにしても、其の折究の方面が極め
廉現であつて、之を詮明するものではない。然し
容て
的表
沢に序適せられて居ることであ少、吾人が新しき
宗料率的立場に立つ限り如何に彼等再考が詮明を
青群
々は
の研究をするには大いに忠孝にすべき組織を以て
叙、
述之を斥けても、蹄の概念規定をし尭ければなら
嫌ひ
せられて居ることである。それは史修研究と教理
研。
究こ1に於て吾々は蹄の所在を見る。膵は如何に
ない
子を示されたことである。青々は以下思ひ付くま1に
されるのである。殊に辞は辞宗の生命であ少.揮宗の
生きる道はない。帝京の中にこそ辞の雑兵な妻が見出
とを分類して、少くとも折究法を分けねばならな
いの
様意見を持つ人々があつても辞宗を離れて、蹄の
反封
吾々の帝拳研究法を述べて見度い。
青々は先づ従来の辞皐と云ふ語に依って表され
宗る
教種
としての生命であるとするならば、辞宗の中にこ
宣の概念を畷理して、蹄騰が何を目的とするかを
究何
射庭を切つても帝の躍動が見受廿られるのではあ
そ、
ば、﹁辞は蹄宗の中に嫡員相承せられて屠る宗教的生命
しなければならない。已に述べた如く多くの人々
依か。若し吾々の見解を以て正しいとするなら
るに
まい
って診ぜられ、表現された蹄譲も結着.挿の解明を目的
とするといふ鮎に於ては何人も異論はないっ従っ
吾﹂と定義することが出来る。即ち﹁正博の彿法﹂
でて
ある
〓ハ一
る。こ1に於て青々は押と云ふ不可得な封象を帝宗の
吾は其の目的を新しい立場から遂げる偏に帝の科
的 と云ふ戟念を中心にして生きて居る辟宗のいのちであ
ヽ挙
ヽヽ
研究を絆墜であると大粒に定義してい1と思ふ。然し
輩及びそ¢研究法に就いて
繹単及びその研究法にこ就いて
中に完全に封鎖することが出来た。従って其の繹宗を
一六二
挿宗の科畢的研究に於ては岡田師の嘩言せられたる
研究することに依って、蹄の拳的研究と云ふ概念の具 如く、只単に歴史的に研究する方法が存在する。それ
鰹的な内容を何ふことが出来る。かくて辟拳とは辟宗 は近代の史拳に於て検討せられた方法を應用すること
の科拳的研究を綜合する名将であるとし度い。それは に依って膵宗史と渾宗思想史が結果として表れるであ
︵一七︶
従来の如く.参繹や参畢斯道を意味するのではなく、
らう。其の中に含まれる研究事項と題目とは岡田師の
辟宗の研究と云ふ何鹿迄も科挙的な宗教畢の一部門を 所詮の如く、彿停の研究も、組師の倦記も、教曾史的研
なすものとして之を認め度い。かくすることに依って 究も大成せられてい1問題であると思ふ。但し其の研
従来論ぜられた種々の問題はこの中に組織立って網羅 究方法として一般史撃と異る鮎は史料の瞼討に於て或
せられるのである。かくて禅学の研究封象は従来の漠 る程度の躍宗竹位験と其の検討とを主張し度い。其は
理な見解を避ける悠である。
次に禅宗の拳的組織、或は腔系的研究が要求せられ
︵一入︶
然たる辞ではなく、鍔宗と云ふ一種の文化醍である。 萬事を肯定する信仰主義ではなく、常らない批判と無
吾々はこ1に於て初めて再挙の研究方法を諭する立場
を見出したのである。
一の宗教を研究する漕艇に紳拳と宗教撃とがある。 る。こゝに於ては分析と綜合とが主なる方法である。
然し両者は儲来はいざしらす、近代では事賛に於てそ 骨て宗教史拳流転宗教の史的研究に依つて、宗教の踪
れ程多くの差があるのではなく、根本的立場に幾分の 合醍系を試みた如く、こ1には歴史的方法も役割を主
差を持つのみである。吾々も其庭に着眼して蹄の研究 張する。宗教心理拳漉が諸宗教の綜合的研究を試みた
如く、辟宗の研究に於ても亦心理畢的研究方法は主要
な役割を活する。宗教哲拳の方法も亦普然一部の主張
3β♂
は.甜拳及び宗教拳の方法と悪度とを参酌することに
依つて研究の分断と其の方法とを運べよう。
■
棲の意味に於て充分科挙的であり得る。
等の方法を應相することは宗教拳が科挙的であると同
を持つであらう。膵宗の研究の綜合的醍系としてこれ
宗乗たる地位を占める程越権は主張しない。然し、再
る限界とを冒密しなければい1のである。辟拳は自ら
ぁる。只鐸拳は頗宗の宗粟の燭自性と科畢の辞に封す
と。この事は押挙に於てもやはり首然肯定せられねば
分離の宿の糾合であり、結合は即ち分離を意味する﹂
畢と結合せねばならぬ。運命にある。だがこの結合は
しなければならぬ少くともこの意味に於て、信仰は哲
濁自性開明の焉に認識論的思索だけは何うしても使用
る論文を想ひ起す。﹁信仰拳乃至は基督教紳拳は自己の
て骨って大塚節治氏が﹁組織神学に就いての一考察﹂な
的研究のみを目的としてい1のか。吾々はこれに就い
問題が存する。挿挙が宗乗であり得る展には畢に科挙
務を持って居ると云ふ鮎に於ては同様の料率である。
思想信仰を饗蝕し,組織し、其の英理性を阿明する任
るものであるとするならば、抑拳と距も同様に膵宗の
理し、組織し、且つ其の眞理性を開明する任務を有す
其の信仰の料率的研究であるとして、自己の信仰を整
と全く同一な役目をなすものである。基利督敬神拳は
顔するであらう。其虚では基利常数に於ける組織紳拳
握されるものとすれば、開辱は宗兼の地位を完全に占
ふ。群が若し拳に醍系化せられて其庭に充分知的に把
の償値を自ら失ふのを救ふ役割は充分蓋し得ると思
挙は信仰告白的宗粟が披樺にも科挙をも冒頭して自己
ならぬことである。押は畢以前のものである。之を辱
其の意味ならば辟拳は宗粟として認めることが出来
こ1に科挙的蹄宗の研究と云ふことに就いて一つの
的に佗系付けるのが秤畢であるとするならば、其虚に
る。−人なほこの貼については更に後日論究し廉いと
︵一九︶
渾拳の可能と蹄畢の限界とが関田になるであらう。然
思って居るが今は控へ度い。︶
一六三
蹄宗の研究は然し其の歴史を研究し、その教理.信
しそれは一切の料率の前提を批判する哲拳の一部門を
なすものとして、官邸の他界に一任せらるべきもので
躍畢及びその研究法に就いて
抑
希拳及加その研究法lこ就いて
〓ハ四
條を組総するのみでは轟きない。帝宗は生きた宗教
で的に解せられて、﹁押﹂は全く曹皐思想の中に生きて
季
ある。この意味に於て、敦圏制度の研究も、倦道方
居法
るかの如く考へられて居る誤謬である。衛藤氏が辞
の研究も、又宗教的融合施設の研究も必要である。
を其
宗教として拳的に研究すべきで択㌘云荒る主意
慮には敢倉科畢的研究方法が断然自己主張をするでは
あ恐らく繹崇あ宗粟に限らす、一般に﹁彿教卒﹂をも含
らう。勿論其の歴史的研究、数理的研究の背景の必
め要て、これ等を叔単に曹畢的思排のみ些閉ぢ込めない
究すべきであると云ふ意味ではなからうか。その主意
なことは云ふまでもないけれ共、宗教が人間の世界
に、廉く人間の生命としての青葉、或は彿教空蝉を研
で
生きて行く偲にはこの方面の折究が断然必要であるハ
。ニ一︶
斯くして辞畢の部門は大別して基刺青敦紳皐校には
於とにかく、青々は膵を徒らに哲皐相思排に於てのみ
けると同棲、歴史と教理組織と、県域的研究とに分
眺類
めせすして、更に耗く人間の生命の動きとして見る宗
られることになつた。勿論其の折究方法は前述の如
教畢的見地から研究することを主張するのである。か
く、各部門に依って集るけれども、其の研究の結果
くはして要は新しき各部門から種々の考察が加へられ
互に相補はねばならす、更托その全鰹を綜合する蹄て
挙も.帝宗の研究と云ふ鮎に於て、同一封象から生する
が可能になることも考へられる。然しそれは哲畢的一
に群の科畢である。勿論其の場合野草的に考察して・
謝
要求せられる拳としての醍系と云はねばならない。
再挙濁自の研究方法が診ぜられるならば、宗教研究に
従来膵睾研究方法と云へば、野草に於ける方法論於
のける宗教哲畢の方法の如く、帝宗哲畢の方法と云ふ
如く、締拳猫自の方法論が存在して、共に依って繹べ
がきであらう。
畢的に把握せられるかの如き考へが重きをなして居 かくして吾々の蹄拳は従来の考へ方から一挿して科
た。それは己に述べた如く﹁膵﹂と云ふ概念が漠然
挙と
と哲な少、膵の研究の新しき立場に立つものである
.
が、従来、﹁辞は参すべくして拳ぶ可からず﹂と云る
ふ。
所足立氏の方法論の如きは殊に堪った研究の様に見脚
︵ここ︶
謂資金宴究の方法と如何なる賄係になるか。之に勤受
しけられる。それでさへ、青々はなほ直観的方法の意義
て答は簡単である。辟の箕蓼箕究は拳ではなくしてが
拳明瞭でないと思ふ。師家の提唱と青々の坐帝の賛行
以前のものである。其れは亦吾々の辞畢の研究封象と
とから把握される論が果して野草的に云ふ直観的方法
なるものである。即ち其れも亦材料を輿へるものでを
あ適用したと云ひ得るであらうか。それは畢以前であ
於て更に一屏辞拳の領域を検討しなければならないと
に於いて只単に公案の鵜呑をするよりは研究的態度に
って、決して辟拳の反封でも、膵拳に依って打毀さっ
れて
る、其れを研究するのが畢ではあるまいか。この貼
ものでもないα恐らく群辱はか1る方法に勤しては敬
虎な悪度を以て其の錯腰L重大さと壱認めるであら
然しとの大問題に謝して軽率に論断することは今は
う、所謂合理重義の徒らなる批朝と典解を排撃して思
。ふ。
大
廉く、大きく、膵宗の生命に向つて突き進む鹿に凡ゆ
帝拳折究法に就いては著者の意見に反して従来種差
々控へ度いと思ふ。只徒らに従来の見解に捉へられず、
の議論がなされて居るJ殊に足立蹄悦氏、衛藤郎應氏、
大内青竹氏、身の他師家、辟拳研究者に於ては多かる
れ帝拳の領域が構って居ることを注意して、飴り方法
等の研究の態度と方法とを充分に考慮して、膵宗を研
少かれ、辟の軒究∵参禅の方法等について論ぜられ論
てに拘泥せす、信仰の偏見に囚はれす、宗教拳.紳掌
居る。然し多くはR哲拳的見地からのみ之を論じて﹂
究する、其慮に辞畢が大成せられるであらう。
以上青鬼は先輩に謝して飴りに不遜であつたかも知
所謂拳−科辱的見地から充分これを論究した屏論は
ない様に感ぜられる。吾人はこの鮎.立壊と封象とを充
一大五
分検討して、新しき立場と脛系とを碓立する必要がれ
あない。然し同日師がこれだ・けの努力を世に公にせら
昇華及びそ¢研究法に就いて
絆畢及びそ¢研究法に就いて
れたのに勤して更に一歩の進展を期し度いのが吾空拳
徒の望みである。殊に其の全鰹の形式が吾々の基利替
歌紳畢及宗教撃とを研究比較して考察した耶宗の研究
一大一ハ
一八八−ニー〇頁、三八丁・四〇大貫。︶
宗教研究︵新刊紹介︶、︵新第七巻、六鍍、︼七八−
此著、八東。
九頁。︶
海老澤四郎、﹁膵宗及群畢の誤謬﹂、︵日本宗教第六
︵三︶
︵ニ〇
大塚節冶丁組織神学の方法lこ就いての一考菓﹂︵宗
衛藤帥臆、﹁年報創刊に際︺て﹂、︵駒澤大草彿軟骨
三六−1三九真二九−三二頁︶。
定立繹悦、﹁蹄聾の一方法﹂︵渾撃研究、第二渋、一
散華協骨年報第二年︶。
衛藤帥應、﹁件数の宗教撃的研究lニ就いて﹂︵日本俳
年報、第一輯四1七五頁︶。
︵二〇︶
教研究、新第六巷、第五渋、二頁︶。
︵一九︶
究、新玉巷、七五五−七五九頁︶。
佐野勝也、﹁宗教信仰ミ撃的研究ミの関係﹂︵宗教研
此背、八頁。
=の部に閲Lての議論は他日に譲らう。
此者一−二束。
年報、第一輯、三東︶。
衝藤郎應、﹁年報創刊lこ際・して﹂︵駒澤大学彿秋草曾
膵畢要鑑、序、三高。
忽滑谷快天、絆撃新諭、四頁。
蚊、三〇一真下段︶。
を加へることであらう。些か祀を失してまでおこがま
らば、碍拳の史的研究は恐らく逝き賂来に一段の精彩
的方法を重要成せらる1鮎は更に一段の算展を見たな
と殆ど相似して尿ることを思へぼ、膵宗研究の将来の
)
)
鱒に三一口せざるを得なかつたのである。殊に師が史畢
(
′【ヽ (
(
( ′ ̄ヽ (
四 三三 ニニ )
) )
′ヽ 一日 フーく 五 ) )
しく批判した乙とを謝して.i自己の研究に精進し度い
と思ふ。︵一九三二、二、一〇︶
妊︵一︶ 駒澤大頼・間者㈹痴、躍鱒目録四一五頁。
澤四郎↓鮮宗及絆撃の誤謬﹂、︵日本宗教、第六批、
三〇一頁参照。
此著三賞。
同 八六−七頁。
同 四八〇真。
同 質音数終三頁。
同 要言激評四頁。
鈴木大拙・﹁君話ミ念俳﹂、︵宗教研究、新第四巻、
37()
︵ニ︶ 彿歌論文親日線、俳秋草関係難誌論文日銀.海老
〔 ( /■■ヽ ( /【ヽ ′{\
ノヽ 七 六 五 E可 ≡三
)
)
)
)
)
)
新 刊
井藤中軸著
紹
政令思想と近代生活
サ
東京
同
文
餉
現代のわら岬ろ開腹lこ開Lてさうでぁろ如く社命曹単に於
いても解決わ要求する中枢課題は、普遍主義ミ個人主義ミの
封立でぁるが、=の両生義の封立の相接ほ証合本箕に関する
解梓の差に求ゆらるべきでぁる写し、人間縫合生活の種験的
形態lニこの両袖の結合又ほ止揚を求めんミすろのが著者の意
哲の様に思はれを。
言
と
エミール・ブルンネル著
の
菊地雄一詳
細
世
東京
界
新
生
堂
=の昔は耕詮法的紳単著の代表者の一人が、昨年三月イギ
りス各地の大草でな﹂t丼詮法的紳拳の紹介講演を公に上玉
ものでぁる。飯l二本欄でも紹今し圭同亡者者の米国講演書ミ
比較するミ本書の方が轟かにわかりよく述.へられて居るミニ
ろに特色がぁる。﹁前の言ミ理性﹂﹁キリストの首鼠歴史﹂﹁聖
詩より成つて居る。︵三枚︶
生嗣
の
研究
明治聖徳記念拳骨
−
霜の首ミ心理畢﹂﹁聖書の言i科拳﹂﹁敢骨の言ミ敢骨﹂の五
邦
加藤玄智者
本
東京
−−生飼の史警官其心理分析
はれ、研究の大材を息は、しゆたが、今纏ゆて一昔モ光L、そ
研究費表わり、本年度の東大文畢部講義lこも生肩の研究が行
博士の生飼研究は既に古いミ聞く。最琴二この拳骨lニその
聞雑読その他lに費表されtる大小廿一策の論文を牧野して社
社食思想上の諮問呟に封†る著者のかゝろ態度から曾て新
食思想、財政軍菰曾生活ミの閻係、スポーツ、シネマ等lこい
本書の持つ第一の問題は先日本lこ生飼の存在すろ=ミの‡
の成
が公にされ王=ミは慶賀に堪へない。
tるよで近代生活の諸相み描いたもの。流行ミ曹修品モ
街果頭
荘でぁろ。茸にこの角に本書の九働迄が割かれ、項を分つ=
スナップざを外にLて所謂近代生活を論じ㍗も¢に飴り接す
ろこ寸Jのなかつ余韻者ほ必すや社食政策案攻の著者の取泰に
l六七
ミ七十飴、雲上柳生嗣み初わ首飴の生紳が指摘され、且その
介
よつて会する所が多々ぁろミ思ふ。︵井上︶
新 刊 紹
β7.!
新 刊 紹
介
範囲も内地仝鰻に及んでゐる。
著者は=の事茸の祝明言して、先人開業拝が世界の各地に
〓ハ八
請でぁる。琴し斯畢l‡甚だ廣範囲に亘るもので一人の手でこ
れをまミめる=ミが困難である=ミli、斯畢の指針ざ発つて
見られろ例証、それが凡て紳人同格数宗の民族に於てのみ見ゐる出口諾訂ロこl︼邑弓ier訂く望訂rぎndOが幾人かの項畢ミ
られるこミを就き、日本に見られる生飼は大部分智的倫理的長い年月ざ空軍して出来上つ㌣=寸1によつても知られる。本
頭され圭成典でかつて、人種単組諭、人種畢各脊︵前編、後
宗教写しての文明教に屠†るものがあそ言一ぎ棉靖された。書は著者が斯畢の権威栓村瞭博士に就いて書心この研究に没
最後に生飼ミ墳墓及記念碑の差連を試き、Lかも後者Jり
でぁり、日本の生詞も亦=れに苦るミ解されろのが、著者の
て、人類撃方面の完備L主著作を要求されてゐる時、本書の
亘る勉大先着作である。文化科撃の茸荘的研究が進むにつれ
前者への推移が紳人同格教型の宗教意識に於ては儲ゆて容易編︶︵後編の方托近々出版されそ主に克つてゐる︶の三春lこ
結論でちる。
︵各
論︶
写して言語畢lこ基く︶によつてなされてゐる。=の文化圏の
るこミ︵二︶人種の地理的限界をするlこあ㍗つて、文化廊︵生
こミ特に最近蓉琴しっゝあろ軟部人類革まで考慮されてゐ
種徴表の理解及び計測が今迄のものより非常lこ精密に克つ㌣
本書の特に弄れ六時色ミJて昔々の注意を引くのは︵一︺人
本書については近土子野先生の畢的批評が見られる筈であ 如きが出版羊れた=ミを寄ぷ。
る。︵諸声︶
小山襲三着
人 種 畢
この意味で民族畢廣哉には人穏撃は文化科単一般の第一要ミ考へるが本書中に出る民族の分布を地園の上で苧して項 椚
区分、排列の適切克こミ︵三︶締囲寓眞の完備Jてゐる=ミー
東京 岡 書 院
草間に於ける概念主義が克服されて茸詮主義が接琴し圭今1茸詑科畢の基礎写して最も賓面元條件の一つである適切光
日、何れの文化科単の研究者も民族的特性や地理的援囁を離焉眞を多く入れろ呈声ふ=ミは、法憾セがら今日よでの人種
れて研究すそ、ミは園雛である。普々が文化事現の研究ご云畢の殆んビ凡ての著作が失敗・してゐろ。=の激本書ほ全く易
ふのは氏族、地理、歴史わ根本候伸写して出来上つわ、文化備に近いもので、著者の苦心の濯が察ぜられる。
相が各自特有の進歩方向な辿って常連する、︰の進歩の方向 最後lニ本書lこよつて指導されて行く後輩の貰際の必要から
を研究・して法則性を究めるこごである。
生すろ希望を申ぜげ、=れは人種轡の範囲の外にある=ミか
信するが屁族名は全く多種多様で異名同族、頬名兵族も可叱
やうにLて頂くこミ。及び恐らくこれほ後編で完成されるミ
き、精密を縮めてゐる鴇形指数分布地陶ミ比較封照が出爽る
レネクスやエビファニウスの異端叙謹言同じ意味で重‡でぁ
﹁基督軟骨分振め研究﹂l‡、日本の無数倉連動によで及び、イ
ら、資料写しての役目托持ってゐる書物でぁる。殊にこ後年¢
鼓
のl‡、この種の著作にliわらすもが先の惑。︵森︶
外
る。−々、ギザシヤ語や︵プライ語の凰静を庶事で挿入J上
盛諸
︵インサツヒ・クノー替
玉城
宗教及び信仰の起源
内
、、ql眉2ngd色∴謬巳giOn宕dd認GO洋銀頃︼呂beぷミ一望∞で
イエ・ツアイト﹂誌上に戟琴した論文を自ら一升lこ纏めた
原著liドイツ証倉民主集糸のロ9日○司が二十年程前﹁ノ
東京
いて=れ¢みでも民族妥モ光るやうに克つtらよい,ミ息
︹昭和七年︶
り多く、初畢lこli誤りを犯lし易いから立派先発引を附けて頂
ふ。︵杉渦︶
染谷 治者
基督数含の諭按批判
︵基︳緻思想康叶算七巻︶
カトサック主義を立場ミL圭一稽の﹁傾向歴史的﹂著述であ
る。菊判千頁近くの大冊が、而も同一著者の手にならんミす
の邪改論駁の沓を息ほぜる。先づカトサック軟骨及びその教
Lの形であり、気胸わたるべからざる内容もま王、いにLへ
の規模農大亨・ミ、古代ギザシヤ∵フテンの教父㌣ちもはだ
次に曹展L㌣ものミ見る。=の蕾展の基礎に社食の組織、形
そこから薮祖業拝、トーテミズム、組先崇拝、自森屋舜七飯
らの非難もあらう。著者に宗教の起漁ねアニミズムに定き、
時に報賞の反宗教齢垂主有機的lこ関係・してゐ稚い激で太東か
教史を取扱つ圭もゐ1中でほガツチタL主部であら、つ。ミ同
ろ﹁基督敦思想原論﹂仝十三巷中の一巻でぁるミ去ふから、そ 既に敷版を重ね、廉く譲よれてゐる。唯物史覿の立場から宗
義の歴史的増援を論託する秀に大串の頁な費やJ.つゞいて
態に在り、それl‡更に経済生清lニよつて決定されるモL、無
数の例を暴く鹿族拳的資料に求ゆて説明Jてゐる。多く¢不
派が普然カトリック散骨lこ筏蹄すべ与=ざ年華美Lてゐる。
其の表咤や大部の東歌にも係らず、普き方ほ、各盛に著者自
充分な粘はわつても現在の宗教単に反省を鹿茸如き示唆に富
基せ赦各分派の起源及び傾向を叙準して、世界のあらゆる分
貞の魚嫡を加へ㌣、極ゆて賞際的セものでぁるから、この書
〓ハ九
む事も香よれ光い。又著者の立場写して嘗然キサスト歌的敢
介
の拳的僧値を判断するのは正常ミほ考へられ兄い。然t兎か
新 刊 紹
j貯β
一七〇
かゝる見嘗を以て解脱の意鶉亡箪鹿iを中心写し雅致の諸政
澄明ぜんミするもので、言はゞロゴスの意義の説明でぁる。
介
理信仰に飾れろ事多く、世界創造や天国ヾJ地獄克ごの静坐史
新 刊 紹
的説明には別に章を設け、型番の原典批評に閲Jても一流の
たものでぁり、その取材は印度の解脱思想、阿含、般若、法
は西洋哲撃にも拭き珊解を有する若者の思索の道程から生れ
意見を準へる事を忘れない。自然崇拝が宗教の起源だ寸﹂す撃
るに斬らL与メスわ深く下Lたものが本書でぁる。その見地
二章を嘗て1ゐる。
故の反駁lこは特lニカを用ひ、インドの古代宗教の説明に終の
畢
文
館
型
と
の写して推︺圭い。︵村上︶
者
液
気
質
ではなく普遍的宗教菅撃わ目指Jてゐろ。類似の書中出色も
沸教の理論に依ろミほ言へ、決Lて彿教宗派のみの宗教哲畢
ての生彩ある撃−こ接すろ=ヾJが出来るでわらう。而も本書は
なかつ㍗者は必ずや本書に於いて思考態度の異る世界に就い
哲単に於ける問題の配置寸J解決ミのおうむ返Jの論述に惰ら
ヽヽヽ
その宗教的方面な診じたもの。在来のキリスト教中心の宗教
法論﹂が生写して沸教の菅畢的方面を取扱へるに賢し本書托
詩文は必・しも正砥でなくーミスプリントも少くないが、華
謹、を中心亨し密教、醍宗、キサスト軟にも及ぷ。別著﹁解脱方
哲
襲
や原籍を親切に収載Lてぁろのは書げLい。ハ佐木︶
顕職文彦着
輔宗 教
大阪
今日宗教の意義わ求めろlこ雷つて意義の重勤の置き所以外
lこ更に原始的宗教の起源にまで遡ろか、高等宗教を抹ろかり
相違がある。著者は、青草・科拳・遺徳・政治等のあらゆろ生
活形態わ内容ミサる含蓄的光原始宗教よりも、後世分化L純
血
化し圭高等宗教から更に粉飾ミ雑多ミ混合物ざを除去︺圭内古川竹二
容に於いて、宗教そのもりゝ薄遇的生命を考察するを妥嘗で
ぁるミ†ろ。
束京 三 着 堂
殊に宗教哲畢た於いては高等宗教の経線から出費すべきほ言 情意の生活、帥ち昔々の気質が昔々の肉憶ヾ、密接の陳係に
ィルタイ等の泉質の研究lこよつて澄明ぜられてゐろ。更にク
ふまでも互い。かくLて著者に従へば宗教曹撃ミは榊の客軌
ぁろ事は古くはヒポクラテスの時代より認められ主席でち
的質在、本性に就いての探究や、宇宙原理亨しての認識ではり、近くはカント、シラフィエルマツヘル、ヘルパルト、デ
克くLて、前の根源わ普人の紅顔のあろ様態に於いて畢的lこ
J74
レチエメル氏の鰭型ミ性格寸しの閲係に射する研究は一博=の
岩
波
﹁督閻主我日蓮の人壮観﹂
町
町
厚
費
腰
生
文
間
麹
閣
堂
院
破
荒木良仙苛
振
巻
寺
逆
生
奈良螺
京都市
行
秋
吟
隆
龍
吉田億胤編
法
刊
新
寺
社
倉
生 堂
日曜世界祉
春
岡
田
大l娠絹
紳
菊地碓︼諾
︼七一
社
室
淳普
麹
紫尾日新背
丁五〇
小瀧
二・〇〇
﹁彿陀の祝い上面白い話﹂
三・〇〇
建築﹂
丁二〇
紳
口本椅
三枝道夫著
二・二〇
代﹂︵下︶
名古屋
美濃晃版藩
二・〇〇
﹁新諸俳敢聖典詳解﹂
時
ブルンネル
二・二〇
ミ世界﹂
田
坂
中村耕隆丑
丁五〇
沸教制度道草四﹁市城之研究﹂
﹁弓波和上法語集﹂
の
社 ﹁H薄聖人御法文講義±︵宗要篇発こ
赤
﹁法隆昔
督
﹁苔鑓達磨浦山史踏大槻L瀦尾順敬監修
措
舘 ﹁基
・七〇
﹁
閻懲約 女性物諦﹂ 田中免之助背
﹁紳の言
問 ﹁末光の創造﹂軍水徳磨説教集二
諮
粘わ明lニLエトのであろが、本署は野草上の新管見、血液型lこ
泉質の根城を見申し、血液型にょつて餐ゆ相通を統計的に
新
潮
ミによつて、至難の仕事ミぜられて死上=の稚の究研が一段
研究L圭ものである。著恭の廣般な文献的研究ヾJ綿密な半額
ミ促進乍しめられたのを菩ぶものであろ。︵上野︶
生田長江憩
田
学
道
文
大束∵出版社
込
新刊宗教関係書目︵朝⋮馴牢十二︰二仙︶
﹁宗 教 書 上﹂
牛
紳
軍部能成諸
芝
本荘可宗著
一・五〇
﹁宗教の批判ミ理解﹂
丁五〇
ヵント著作集五﹁宗敢雷撃﹂
庸雅文斎藤
三・二〇
﹁沸教宗教哲二撃﹂
法
襲
弘
輿
小田宕之丈
田
日本橋
桃屋耕匡著
一・八〇
﹁控・戒 講 話﹂
神
石川解
京邦吊
金子大柴校訂
丁三〇
﹁信珠院順襲師宗典研究﹂
三・五〇
介
﹁北岡の一向宗一揆塊﹂
新 刊 紹
37∂
新 刊 紹
介
丁二〇
紳 田
紳
紳田
新
新
田
明
刊
同
堂
︼七二
生
行
文
書
倉
舘
biO︼Og釘Fなものでぁる。即ちプラトーの理念の世界、・トー
†ス・ヤクイナスの天使の世界、或にスコラ哲畢的の創造的
観想、夏lこほショウベンハクエルの意志の世男等凡て︼き旨・
g訂F尤ものに野して、本質及び構紳を中心ご†る試訝・
るミ原始人の観想の特色圧生命、連動等を中心ミするbi01?
化の母胎ふね寸呪術的世界載の本質を述べてゐる。:れによ
精醐文他史観を圭準したものである。先づ第一章に凡ての文
軌破J圭。これlこ基いてマテイブアサズムに反封する一種¢
︺、その根幹に流れる構紳生活り特質が呪術的軌想にあるミ
るミ云ふ見解に基いて、古代から近代iでの文化史を再吟味
が明かにねつ圭。文化科単に於てほ既に=の#に祀されるこ
進化諭托今日自然科拳た於てさへ、殴りに偏重されたこミ
生
堂 ミが甚ぢしいのであろ。著者ほ進化ミ托振子連動的曹蓮であ
治
院
著書ほ=れによつて▼アティサアリズムねすつかり清算L上 郡
︵dt詳F胃紆.日思︶の時代まで各々に厨式的にぁてにめてゐる。
以後托今日普人の見る凡ての思想が見られるミ断じ、これ等
色々の特色ぁる思想文化の黎明時代から今日のアメサカ重義
文化を祝明t、呪術的載想の全盛は前古典時代で終り、それ
の文化を述べ第三章lこ至つて=の特色の紗く克つ㌣ギザシヤ
ィシユ・トーテム等か説明︺てゐる。第二章で托未だ呪術的
な叔想¢最も素朴なものミLて原始社食に行な止れたフエテ
迎
館 世界初の強力犯地中海地方・インド・パピロニヤ・エジブ一等
biO︼Oh宮F電動想に基くもりでぁるモ云ふ。試e昏iO︼&邑
束
文
−
繁
三枝・上野
日本梼
−
院
日本基督致聯血
同
基督教書頬骨紐
廣田花崖諾
日
市外雄司ケ谷
相村正久著
一・〇〇
.コルrン著
一・二〇
﹁聖アウダスティヌス停及紳の都﹂ 中山邑樹菅
﹁基督再臨の考察﹂
﹁頼村全集﹂三︵説教篇下︶
﹁基督数年鑑﹂︵昭利七年版︶
丁五〇
紳
松岡静癒着
田
青戸淀江著
二・〇〇
﹁紆記論究﹂︵建国篇四日代官︶
﹁醐杜祭式行事作法教範﹂
新
山田覿哉著
二・八〇
﹁日本射敦の志明﹂
丁五〇
一三・〇〇
静岡市
﹁儒 教 要 義﹂ 北村薄青曹
B芳コOr︵内・G・︶
Mag−♪Muま彗aニOrKu−tur
已辞軋訂苧−莞芦
ミ・してゐるが、曹人の見る併でほ情操を重んすろ︼種の溝浸
主義的辞梓ミ恩ふ。︵杉浦︺
Fa声︵句︶
−
東邦
ぎま︷gPrt、−器○
宗教的ミいふ語を超越的ミ解すろ=ミが集Jて正︺いか、
新lしい勅与た‡食さろる=ざな壌想さす事、を結論Jてゐる。
誤謬ごすればど=に内容を置くべきか。▲ジムボルざは何か、
﹁表象﹂﹁比喰﹂等ミ明智に区別、し、且っ、紳畢的意味lこ捉はれ
ずに活用L得ろか。労働詩ミは何な指すか、トルラア等を社
aコd
〓Obの0コ.︵J・A●︶
00d
T訂冒umS㌢∽の第十三巷。宗教ミ経済ミの闇
Ma∋∋0コ.
そこを押貫かうざすろ努力は多ミ寧ねば光らね。︵佐木︶
て材料は捉へ雛与−詩である。従つて幾多の軟鮎は嘗然だが、
射光堤合、里なろ同語反覆でliないか。右の如き疑鮎lニ加へ
の特質を癌論Lようミサるのは、殊に限定¢理論的根提が薄
一群の詩人を限つて階級の代表ぎJし、それを素材モLて階級
derのegeコWart−
ロir reニg啓器Sy∋bO斉derd空訂c一一e食
コ詩人写してブロ詩人モ区別するやうに用心li・しても、或る
Arbe許rd訂h−uコg
チュービングン大襲来邦撃ゼミナール公開論文集
語草一般宗教史論叢︵巳ttm冒n︼Hauer監輯︶の第三巷。副
プレ−ガー、レルシユ、ぺツオルト、シエンランク、ツエツ
慮は﹁ブロレタサアートの宗教性に閲すろ研究﹂。パルテル、
ヒ其の他多数の﹁プロレタワァ詩人﹂の作品な分析L、その中
ジムポル地上的尤もの︵地、人間、労働等︶のジムボル牝、紳
に多様な宗教的ジムガルを見出革うミサる。解放への惰性¢
的に跡づけたもの。材料ほ前ユダヤキリスト敦時代︵原始宗
トOndOロー一誌−
教的ジムボル、キリスト教的存在︵キサスト、教骨、十字架
的なもののジムポル、終末職ミそのジムポル、労働連動の宗
等︶のジムボル等に章わ別って例示、し、一、プロレタリアー
る。叢書り性質上極めて概説的で例証に芝Lいのl‡注塘なが
教︶、中世、新教、現代散骨わ貫く一線を中心に集められてゐ
ら巳むな待光い。]字書e﹃爪ソ出色igiOnp已t訂R訂0︻臣・
への憧悼ミの若付きが中心的でぁろ=ミ、二、儒統への無園
心が著Lく、特に連帯性ミ創造力のジムポルに於いて新こい
介
︼七三
現世利金を中心ミサる原瀬及び古代の宗教に於いて階侶ほ
pi芭ism等が主要参考香lこ克つてゐる。
新 刊 紹
性l‡軟骨の前途わ欒祝さぜろもので無く、逆に軟骨が斯かる
特徴を申してゐそ言、三、従つてブロレクサアートの宗教
トの間に旺盛耽宗教性が存・し、その表現博多岐であるが解放
訂7
新 刊 紹
介
最初の寄生的職業電光り、紳殿lミ財物の貯蔵所ミ他Jて、富
ミ閑暇わ神主紺侶階級は高い真北な費展さぜたが、儀式呪術
に射すろ懐疑¢珂火ミ共に宗教の精紳化が観り、キサスト歌
が生れキ。﹂か・し中泄致命托﹁清貧﹂の羊踊を掛け光がら、
初はェ奴隷制度を正常づけ、資本圭亜の勃興lニも以Lて、富め
一七四
uコぞer笛ニe・
Krap葛∴A・ロ︶
My算〇一Og︻e
りPriⅥ、−冨○
著薪が怖兜蹴記であろミ同時にこ、=れわ手ざはよくよミめ
傾向の著Lい現れでぁる。︺か・し押掛の証骨的統制の理恕
ぁるが世界各地の紳話の概軌がよ︰ミに解かにこ描き出Jてあ
論lこよくわらほれてゐる。本訴ほ僅々四官僚貫の小冊子でほ
る︰ミに非凡なオ能を縛ってゐろ=草江、本書及び民俗単板
や、農事の改良等は中世救命り功境でぁる。資本主我は新教
い。紳話撃ミ民俗学写る〓早ほ数頁でわり、且叉、全く一面
ろ。序説及び紳話撃祝史は摘めて簡阻で別に云ふ=寸しほ互
集積の機脚ミ化L圭。煉獄思想の利用や脛罪符の販賓l‡此の
を生んだが、︰れの数理は必・しも新Lい情勢な充分自軍して
況ほ最も自覚的でぁつ圭ミ云ヘヤ、つ。=れほ資本主我的富り
はゐ克かつ㍗。軟骨に封﹂て個人主我的でぁつ主力ルゲイン
lニ光って近代紳話撃研究がインド・ヨーロッパ紳話の研究l二
和まつt踊係から、著希はェインド・ヨーロッパ紳話一J非イン
の見方にすぎ兄いが暗示に富んでゐろ。世界紳話を概述する
是認され圭。労働者の支持一卜起ったウェスレイ涯の社命性弧
ド・ヨーロッパ紳話ミ比較・し光がら非常に手ぎはよく紳話餅
蓄積lこ道徳的根凄を輿ヘヤ。自由競争は痛奴徒lこよつて全く
調主義も、産業革命にこ應C㌣新Jい資本主義的道徳を給する
い、双生妃紳話、動物紳話及び捕物紳託等二三の間庖な取つ
の間抱を鳥眩陶的lこ親切Lてゐろ。次に耐講華中特に興味深
て可光り詳細な研究を我ぜて今日の紳話撃研究の側面的弗寓
斯くて著者はマンモンが常に紳にこ封L優位を保つ主事を認
事に終った。
め、大陸の就骨主義が新進督命±紹廠t王事を認めるが、﹁坪
ルメェヤ・スラブ・パルチック・ゲルマン・ケルト・イタニリー・ギ
わ試みてゐろ。以上を終って弗七草以下にインド・イラン・ア
﹁社命
い﹂宗教がその本氷の立場を守つて粁済ミ並び存すべき都を
主義﹂及び英国致命を支持・してゐろ。︵佐水︶
希望てる折衷的立揚を表明する串lこよつて、イギザス
日本・フィンランド・シベリヤ・アメサカの十四章lこ亘つて各
リシャ・セム・エジプト・アフリカ・インドネシヤ・大洋洲・支那
各の紳話を栂池Lてゐろ。︰の概逃が非常に特色ぁるもので
ぁろ。即ち今迄の匪界紳括lこ踊†ろ著述は二三の代表的先物
∂7β
語りな集め㌣世界神話集か、それでなければ=れ等を集大成
L㌣大きセ叢書であつ㍗。従って初学の紳話研究者が全世
界lこ弘がる紳話甲概要を簡単に知ろ圭めゐ参考書を軟いてゐ
の関係を明かにすろ=ミが必要である。著者が=の鮎に留意
た。特lこ草間的研究lこわ㌣つては紳話ミその文化及び屁族ミ
i⊃gCia一
Cbi2gつeniくer乱tyゴ1窪、−竃−・
Martyr00一a巴udy
Ridd−e︵DO−︼已d宅●︶
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COコtrO一.
ろかミいふ見地を主にLてぁる。心理的にl‡大分ビヘビオリ
が生ずる場合、迫害を受ける側が如何叱る統御で之lこ封抗す
れ、又ロマ帝国の法細間痙にも立ち入らず、追書の中に殉教
Lて文化遠壕・民族系兢をも考慮︺て説明,してゐる併﹁よ
ミ﹂ミ超†るが、キリスt致初期の殉教を社食統御の
殉=
教者
1こ好個の世界紳諸学概説であるミ息ふ。︵杉浦︶ 開腹写して研究・し圭もの、散骨史や聖者停ミいふ見地を離
R軋ch︵ArFr︶
tecF
n⋮q宕に依って生ずるミいふ見方を強める楚lこ、恰も衝兼l
もりlェわろが、殉教永由心はその併巌幽憶の統御方法
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已①
ハ︷の立場に立つてゐる。︼種の見地与して見るべき
ロ空﹁∽訂gd¢Sab¢Oluteコtdea︼訂ヨu00ス
.ムの態度を執り、歴史的lこは新華涯三雲l‡れろ ﹃Or巨g率
LeipN軒−器−●
謬gr旨d2gde00Chris訂n−ums吉m
derゴ⊇21詩M岩S・
よう寸Jする試みが、一つの大き冗撃界におけろ傾向を形追つ
﹁新研究﹂lこ多く見る錬新であろが、在米の殉教研究に新方面
光ろ信仰の内容lニは殆ど成れてゐない。此等は壮年単著の
超理性的光逆説¢上にキリスト教及び宗教一般な基礎付け動かされてゐろミいふ様に祝い・㍗鮎が多く、その統御のカモ
て居る時lこ際﹂て、著者に理件lこよつてキⅥこ︵ト敢を基礎付
寸J、他力理性に基づく哲学ミほ一致、し、わら岬ろ非合理的な
けようミすろ。即ち一方キサスト敢信仰の痕範ゎなす聖書 を開拓ぜんざする熱心は見え、叉その見地の範囲内に於ては
来軟骨史の研究に野して多少反抗的刺激か典へるカliある。
材料の取捨調査は可光り周密に又客観的に出来てゐるから在
最後に、同様の見地から新約沓な研究Lてあろが、洩てを飴
信ぜられ塞いものは哲単lこよつてのみ排除され、かくLて曹
撃ほ宗教の礎石ミ光るこくを明かにLよう子し圭も¢でち
い。叉金憶に五つて、﹁迫書﹂ミ﹁靡迫﹂寸Jの間lこ哉然余る区別
りlこ多く自分¢見地lこ引きつけて解揮†るミの非難な免れ布
︼七五
さるべき著書である。︵三妓︶
介
ろ。かゝる主張が何庭よで成功L㍗かは関越でわるが、洗志
新 刊 紹
き79
新 刊 紹
介
をなL得るが如く見て、それによつて種々の朔断な下してぁ
るが、此亦﹁菰曾的統御﹂ミいふ見地に基いて、研究上の便宜
一七大
︸nす邑邑昏内0竜亀昏記曹長首0−Ogiニヒ屠笥
味ね引いてゐるこミが窺−1れち。
甲報告が行なはれてゐるのね見ても、宗教蓮華研究
本書ほ宗教心埋草の立繁ら雷nn竃皇のスチタ†岡
む飴りに革質の上lこ強行ぜんミするもの、活きた人事を扱ふ
上に概念的図式な應用L†丈ヱトものでぁる。但・し、材料モモ
垣に閲す孟禁書L三九三言頃︶のW邑阜居宅・
同Ongr鎧
に
争な集ゆ圭ものである。︵杉浦︶
買芸er︼ie訂等甲報告・意見及び彼等の問に蟹荘れた論
の一種の取扱方に於ては特色あり長所む少なからね著作でぁ
る。︵姉噂正治︶
WuコdOr一〇︵声︶
U∋KOココO﹁望.空きコeuO盟0﹁○ニgiOコ・
W苧Nb弓g−−竃−
名¢yOhO一〇g訂OhOロOkuヨ彗tO■
三年窄前濱田本悠先輩が蹄朝挨拶に於てスチグマ同産lニー
筆者・宗教畢者の問に問度ミされろのlェ別lニ具ミするに足ら
言膿れられ圭こミを紀憶する。勿論之が沓教徒及び春歌の紳
布いこミゝ考へる。然ナ二般人中lこも斯かろ紳秘的現象に謝
る=ざは注意すべきでぁる。紗くミも内〇nn宅宅e已bのTF?
する冷藤尭料畢的批判を加へんミすろ傾向がわらほれつ1あ
くこ†が強かつた。従って=れが宗教心理学の新開塩ミ︺て
達男きm旨ロなる人lニ起るスチグマ間周lェ一般の関心を引
議論がやかよJくなり、一九三〇牛一月エルフールトに於け
る ]訂te邑iOn已en r監giOロ眉あyeど︼Ogi汚訂n
W告d邑e の公演があり一九三一年五月のウインに於けろ
庚始
貴
報
第二同宗教畢大骨準備骨げ記
第一回打合骨
二月十日ハ水︶午後一時より第︼回打合合ね嘗番校王え大正
大草宗教撃研究室に於て開催す。帝大より宇野助教授、石津
事務の引槻を写し且つ次の事項を決定Jた。
氏∼大正大聖より矢吹、札野両教授並に研究生、畢生等卑し
一、嘗大骨時日並に順序
闘争⋮⋮⋮⋮⋮・■⋮ふT前十時より約二時間
五月七日ハ土︶︵骨強大正大撃は苗日休校︶
研究サ東食⋮⋮⋮︰牛後一時より豹二時間
五月八日︵日︶
研究費表骨⋮⋮⋮:午前三時間・午後三時問
二、正大で引受けJ事項ほ一、講師交渉、二、倉場、三、宜
倖、四、第二次人名誘、五、食丑徴集、等で夫々委員
を上げ直ちに貰行に移る布。
三、溝硬骨傍聴券蓉鱒の件︵金さ拾純世の操定︶
四、勧誘状は次回の打合令後置塗すべき事。
以上の芸亀讐毒散骨L㌔
草宗教畢研究室に於品等。帝大憫よ豊津、財部、村上
の質、大正側から曇敬捜、需氏姦墓墓孟暮
第一一同打合骨
宗掌大真二同町昔年入日へ未︶牛後蒜よ是正大
竺回打合合後大正大草でに監教授蛋空位言、研
今し二岡豊の慧禁令への誓加勧誘笠に研究芸
究生、畢簑芸是呈ちに驚に移り、二十=日に各種
く美正大畢宗敢研究室ほ今や妄霊星J、大君要
︵土︶午後一時与り大正大雪驚喜に於て開催†。!呈
︼七七
栗・歪大蒜枚の草生のみで聖言.
雪空の竺回卒集雲散暮簑記の如く二月十三B
宗教草々生聯翼竜文蓉表曾
︵東記︶
塞寧しつゝ慧清雷撃、大寒備に化
l‡勧誘状・研究芸申込俵織笠聖富釜誓彗㌔か
焉状の印刷わ俵粗t各要具嘗活動の莞、二十六日−こ
X
申込俵乳装霊芝→主に等し㌔其他
詳細に協讐等笑に大骨を導かん基
正に五時。 X
j貯J
乗
報
尊
︼、日本に於ける絆林の創開について
東大
︵特に俳軟・印度敦を中心与して︶
氏平君
土田
周君
竹園緊了君
福泉晃道君
︼、マックス・ウエーバの宗教政令撃lニついて
大正大
一、情操的態度ミLて見王え宗教
東大
一大正大
一、法華経堤婆連多品孝
先づ帝大の峯君は文化史的悪席み寸Jりつ\口本の躍林が
如何に、して成草し、叉如何にLて費嘩し行きLかの問題わ経
済史・社食史の部面から究明ぜんごぜられtが、時間の都合
一七八
得られるものでぁるミ前提・し、=ゝに宗教心理撃の質椒的方
法を採用され光岡、猫逸¢宗教心埋草耽を廉く詳細lこ引用L
ものでぁろ亡君諭され㍗。勿論宗教心理単の労法論lこついて
且つ批評﹂、若様宗教は情操的態度与して我等の生活に臨む
は異論ぁろも、引用の濃潤にJて詳細、論述の理路整然たろ
事、正に雷日の白眉でぁつ㌣。最後に大正大の土田君l工法華
経の提婆連多品を綿密に原文批評畢的に解剖ぜられ且つ単に
び、各積の典撞から滞貨寸J掟婆ごの札轢わ究明亡、結械=り
梵語撃の立場lこ止らす進んで提準連多の宗教史的考証lこ及
両者の争は彿者寸J曹群数ミの申を亦ぜろものミ諭晰し、以て
かくLて四君共に各異つトト特異な立場lニ立ち熱心に過去三
提婆の本領わ解決羊れ上。
れつゝ、或ほ彼の宗教社命撃の方法論、或は宗教ミ搾済ヾJの
社命堕、殊lニ彼の彿数・印度軟に節すろ畢祝を詳細に紹介さ
かつ主事は遺憾の中の遺憾でぁる。
標な事l‡娩衆者の少与事で、立正・駒澤・日大の諸兄の参加セ
く宗教畢界にデビューせられん事を切撃して止よない。具造
を輿へられ圭もわでぁろ。願はくげ本日の熱を以て輝やか︺
上単にこ論文の構造りみを概括的に準へろに止められその筋ケ
論年の研究の結集を費東平.っれt蔀は、本日の=の研究語義
に按ぜざり・しは造憾でぁつた。次に扁泉君はウエーバの宗命
教を意義あら︺ゆ、且つ普宗教草々提聯盟の費腿に力強き掩
教−こ野†ろ謀れろ見解な論破する等、約一時間飴の長成就を
幣接党閥係等を論じ進んでl‡彼マックス・ウエーバの東洋宗
︵東記︶
君一流の熟三息免ミを以て論じつくされた。近時宗教の経済 終了後研究室で茶を飲みつゝ各自、胸襟わ開いて歓談L、
的研究の勃興ぜろ時、︰の横威¢単記を詳細に招介された事縛来の畢生聯盟の費展を斬りつ1薄暮五時年頃散骨▲した。
君−‡、宗教の水質豆忽念的思索的の方法で求め待ろものでな
は我等後輩lこミつて会すろ併多大でぁつ㍗。次に帝大の竹田
く.あく迄生々、し七生命の用勤王ろ心的現象の中にこそ求め
3β2
−−後+記1Ⅰ
△九巷第二渋を送り出す。編輯事啓¢関係上刊行期
日が旬日ぁまり遅延,し主事詣認着諸氏に御詫L克
ければ光らない。
△・しかJ撃ピ重ね既を迫って清新、結賓あろ内容な
盛り侍ろ事ね諾者諸氏ミ共に喜びたい。これに本
誌¢特長でぁり、又本誌の驚展もそれによつて約
束されてゐろ。
△前戟で琴翠しイ\置い圭通り﹁外囲文記念論集﹂に
近ノ\刊行きれろ。藷望9方ほ早速申﹂込んで頂き
、、ヽ ○ ナ.レ
△菜報にこ見られろ遮り、第二回宗教撃大倉が光ろ五
月大正大挙に開かれる。関係諸氏¢参加在切望す
る。︵で・Ⅰ︶
︵克償金璧国︶