大 塚 節 治 - 日本宗教学会

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組織紳畢の方法に就いての一考察
∴
大
塚
節
治
基督敢が自己の眞理性をま張し、これを世に訴へて以て其唇音を侍播し、紳の固一で凍張せんとす
れば、先づ第一に自己の信仰を整頓し組織し且つ其眞理性を開明せねばならぬ。而してこの任務を
塘ふ魔の畢は即ち組織紳畢である。然るに信仰の整頓、組織は畢発信仰の本賓を定め々れ一曾敷節す
ることであるから、組織紳草の根本的課題は基督数倍仰の本質の確定と其眞理性の陶明にある。と
ころが基督数の本革で捕へ且つ㌣れが眞理であることをま張せんとすれば基督敦信仰は自己を記述
し表現するのみでは足うない。それは必ず他の諸文化、殊に背畢との関係を考察せすしては不可能
である。併しな
信仰が自己の猫自性と普遍性とのま張のために考察す可き文化は自ら一定の範囲に限られて居る。
凡そ基督数が自己の本質を圃如し且っ其真理性を樹立しやうとすれば二つの途が可瀧増やうでぁ
る。一つは抽象的へ甘理論に訴へてこれ一紆なすことであり、他は具億的事耳にこれを質すことである。
若し組織醐畢が前者の行方一で取れば、それは自然科挙上の畢設を用ひ左こともみるが、大憶哲畢に
組織耕挙り方法に就いての一考辣
553
机織榊挙のカ法−二就いての一考容
二
よるものと行了り、後者の行方を取れば歴史と賓験とによるものとなる。而して歴史や賓陵も亦.自
然利率上の賓記を介むでは居るが、この場合には歴史は特に一般宗教史と基督敦史に集注し、賓瞼
は内的惜瞼を政扱d庭の心理草と密接な閉係を有つことゝな㌃。されば基衡敦が人間敢骨と遊離せ
す常に赦骨に印して北ハ異埋中小し、其融合的存在の意義を発揮せんとすれば其信仰と敢魯文化との
関係一で考慮せねばならぬが、しかも基考慮す可きものは、自ら再挙、歴史や、心理畢等に集注、限
定されるのである。然こに若し紳隼が信仰の自立性一ぎ前週し漫然信仰をこれ等三尊に依威せしめる
昨は即ち紳寧は夫々、介埋ま義の紳草、歴史ま義の神学、心理ま義の紳単に.陥るのである。故に信
仰とこれ等三撃との榊係を正Lく規定すこことは其督教組縦軸草の根本間題を解決するに嘗って務
め決定す可き方法的課題である。
更に基督致信仰は吉雄或はこれを個人中心的に或はこれを軋食中心的に解辞し凍り、今日は殊に
著しくこの南解澤が封立して居るかの如き観がある﹁︶抑も近代に於ける融合寧の螢遽は凡ての社食
現象を自然環嘩殊に赦曾環境の光に於いて眺めんとする傾向を生ペニれが食めに凡ての文化現
象の説明に於て榊人の影は薄くなつて敢曾仝憶の要が著しく浮き上って凍た。従って基督敢の救済
軌に於ても偶人のノ救よりも敢竹の救済が重要親され、個人の魂よりも敢合の組織が婁要崩さるゝか
の如く見えて凍た。斯く政令費的研究に依って刺戟された基懲教組織紳塑の問題は上述の如き基督
放り個人的封融合的解澤の問題の一外これに㈲聯せる個人と社食との関係問題.並に融合的環境と個
∂53
人的精神力とり閥係の関越等一でも含むものである。而してこれ等の関越の解決は軋骨琴的研究か
光を仰ぐことが少くないから基督教は其信仰の憐桝に於て又政令割と牌係交渉を保ち以て自己を正
しく解辞し説明して如かねばならぬ。
l′‘lより軋食草も︰偶の合理的髄系であ∵リ、又歴史的邦画王立脚するもりであるが故に歴史的撃と
考ふる串が出凍る﹁故にこれ一ど理性や歴史の閉域に溶解せしめることも出水るが、然かも融合畢
研究はそれ自身として特殊な悶鱒で紳隼に提出す乙が故にこ、には背畢−歴史、心理寧等と和並む
で紳準に封正するものと考へて術︿。併乍ら融合型的問題は基督教組統帥単に於ては理性︵贋義に
の本質を確定す乙と云ふ数理や的問題に興って居る外、基本貿の
僻す︶や雁史や燈巌の如くに韮要な役割を持って㍍乙とは思へぢい。これ等三者は唯に基軒数信仰
ドケ†チックアポいゼナリグ
ドレ・tツタ 的に閥係して居るのみに−しす又謝辞率的にも脚係して居る。従ってこれ等三者は動もすれば信仰自
恍と封斉して北ハ淵源となり、規範と打アリ、而して信仰の自証性た〓さんとする。然ろに軋食草
察に依って組織所草に提起さる∼問題は教理単に於ては前述の如く先哲教の救済を個人的に解する
か敢骨的に解するかと云ふこと∼打てり、倫叩単に於ては最高書を人格の完成と見乙か軋愈の完成と
見るかと云ふ問題とぢり、卵詑堺では唯物史観の如き反共軒数的思想に封トて基督の眞理を非恕寸
乙ことゝぢん■いでJり一む。然乙にかゝる新設は基懲教皇旦侍すると云ふ賢践の一証場からこそ大なる意
義を有つが、紳単上の理論的興味から云へば巳に昔に片つけられた問題で今更歯牙にかける必要が
軋轍耕聖の宗法に就いてり⋮考案
564
組織酬畢の方法に就いての一考帯
四
ない如く思はれ一心。されば政令畢的燭心から提起さる∼組織紳畢の問題は羊として救済本質の問題
であつて真理問題には関係が潤い。故に理性.歴史、倍験が本質と眞理の雨着に深大の牌係を持っ
て居ろに比して梢重要性に於て劣って居る。
新棟に敢食草的問題は理性や歴史や酷験に比すると第二次的の意味しか持たないのである一が近代文
化科隼の諸閉域に於ける赴食草的関心は賓に著しいもので基替歌紳挙が濁りこれに対して風馬牛た
ろこと一竺得ない。さiLば基暦数に於ても歴史醐畢殊に原始某智致の研究の如きは賓に融合的環境の
研究に没頭して屠一っ右ほであぇ。又致曾虹及数理史の方面に於ても同様に赴曾畢的興味に刺戟され
て漸次に融合寧的考察が行はれんとして居る。又近代諸椎の政令問題は賓践紳単一ぜして其解決指導
の大任に向はしめて居る。斯様定次第で濁り組織紳隼が敢骨単に対して無関心ではふ∵り得ない。さ
れば組織軸やにとつては寧ろ第二次的の関心一でしか喚起しない融合畢的問題も基督数紳畢各値に封
しては極めて重大定る、否最も帝大なる意味を持つこと∼なるのであろ。
斯くして組織紳隼は自ら、信仰封理性、信仰封歴史、信仰封慣歯.信仰封軌骨畢的関越と云ふ四
叙上、四封の問題が基
歴史封健験、歴史封赴食草的問題、健
封の問題を持ち、信仰とその各の関係一で正しく決定す一?︼とが其根本的な課題の一つとなるのであ
る。而して理性封歴史、理性封健麓、理性封政令堺的問嘩
瞼封牡合理的問題と云ふ六偶の徒虜的な問題も生じて凍るが目下の盛大嘩
督教組戯画革の方法論上の問題となるのであをじ而して我々は先つ信仰の自立性のために信仰一ぜこ
5る;
の四着から瞳別し信仰の特異性を肌かにし然る後に信仰の北‖遍性のためにこれ等用意との結合をな
さねばならぬ。若し信仰の特異性一で明かにせすして唯、漫然と稚性や歴史や醗掠や政令撃と結合
し、これ′で利用して信仰の本貿並に眞坪一官立てんとすれば、そこに紳劉は或ほ合理ま義の紳撃とな
り或は歴史ま義の紳如とハ与り、或は心理ま義、ま粗主義の紳畢と打アり或は所謂浅薄なる融合的紳撃
となるの恐れがある。これに反して新し信仰の特異性、非合理性のみーざ葺張してそれが人間の理性
や歴史や健勝や敢曾との交渉・で少しも顧みない峠は和琴は即ち猫断的超自然ま義に隋らて基督政信
仰は普遍冬営牲を蚤推し待す自ら赦骨よら遊離して敢骨と没交渉とへ与る。前者はカント以後の軸畢
老が、部分的にのみ避け而して全倍的には避け待ぢかつた庭であつて今日危機軸畢をして英銀螢を
振はしめる所以であ・る。後者は徒凍の猫断的保守ま義が取り且つ危機前挙が再び陥るかの如ぺ見ゆ
る虔であつて保守的基督数が兎角政令から遊離しやうとする所以である。
ジアスターゼジンナーゼ
そこで信仰とこの四老との分 解と綜 合とは組織紳撃方法問題の中心でぁつて甜畢の歴優は賓
︵一︶ にこの分解と綜合との歴史であると云って差支ない。併し問題はみ汀で亜きて㍍ない。吾々は某督
敦信仰と叙上阿者との分離、結合の外に四者の関係一㌢如何∫に考ふ可きかの問題を持って居る。我々
が一方に信仰の礪自性を高調し乍らしかも同時に理知又は常畢乃至形而上学のみJ曾利用して歴史や
髄駿を顧みない畔は紳隼の興味はまとして紳軌の問題に集注し某智紳畢は有紳暫畢の如くなる。蝦
令これがカントの如く遺徳の方面から論差されたにしてもそれは矢張い合理的紳単に堕す一Qのであ
組織紳単のカ法l二就いての一考綜
五
組織紳準のカ法に就いて占二考察
六
る。更に我々が若し信仰の燭自性を力説し乍ら歴史のみに立脚して憶険や理性を顧みない時は神埼
一一 の中心は自ら基督に集注し或は十字架の煩のみを反覆力説して非の赦しに安住ト、道徳的精進空&
るか、然らずんば.イエスの道徳を説′、道徳敦に終る一り恐れがあろ。前者は保守的ルツテル泥の傾
向と云ふ可く後者はリッチユ〝派の短所と云へやう。
又我々が理性や歴史を顧みす専ら倍瞼を革んする時は問題の中心は各自の内に働く紳のカの経験
即ち聖蛋の作用となり、聖寒中心の紳挙が坐する。而して其結果は一種の神秘ま鶉とた7リ心理ま義
の紳撃とてり動もすれば道徳的に下向するの恐がある。叉我々が政令畢的問題一で中心として考ふ
時は紳畢の中心部は紳の闘の問題となる。而して若しそれが三一所信仰の尊家でないならば単なる
0000000
社食的思想となつてしまう。即ち叙上の四者は骨其督信仰の全能に関係を持っては居るが、しかも
ら父と子と空室と紳の固と云ふ某密教本質を構成する四要素に夫々特殊な謝係を持って居ることを
見逃してはならぬ。加之四老の関係が如何にある可きかは叙上の考察に依って自ら明かでぁる。即
ち四者は其重要さに於て同一であるが唯初めの三者は三一紳に閲し最後の一つは三一紳の事業に騙
は先づ世と離れねば乍らぬ。されど﹁柵はその満子を賜ふほどに世を愛し給へりL︵同三ノー六︶。故
これを世の文化と引き離すことである。﹁汝らは世のものならす﹂︵ハヨネ博一五ノ一九︶。然ら・、信仰
課題は、先づ理性と雁虹と曜陵と赴曾学的問題とに対して其督数倍仰の猫自性を明かにし、而して
するの差あるのみである。而して何れも皆紳信仰に於て統一綜合される。されば組織紳草の根本的
556
5あ7
に毒督戦信仰は更に世の救済のために世の文化と結合せねばならぬ。
0〇〇〇〇〇
更に叙上の父、子、垂蛋、紳の閲の四者を綜合統一する根本的信仰は三−一紳の信仰であるが故に
000 組織神輿の統制的原理はこの信仰でへ・ててはならぬ。故にリッチェルの如く紳の囲を以て紳畢の統
︵二︶ 制原理となせるは不曹である。唯倫理単に於てほガ〝ガイも云へるが如く人間の課題を問題とする
〇〇〇
が故に白む前の囲を以て統制原理となさねばならぬ。さて富商の問題は、信仰と前記四着との離合
の問題でめるがこゝには信仰と常畢とのそれのみを考へ、他は別の横倉に譲ることゝする。
〓
基替歌の信仰は最初から或は﹁復活なり、生命打アりしとして︵ヨハネ侍十一ノ廿六︶或は罪から解放
軋犠耕拳の方法に就いての一考察
七
元亦、基督敢の信仰が理性又は背撃と関係一ぎ保ち乍らそれと異った鴻時のものでぁることは信仰
性との柾合の関係に就いて考へて見やう。
し分解して凍たかは今軍1∼に繰返して叙述する必要もない。我々は宣に通俗的に基督数倍仰と理
ヘーゲル、シュライエル†ッヘル、リッチュル畢汲、新フリー.ス派、危機紳畢等に於て如何に結合
原始基督教以凍信仰と密議、紳撃と背撃とがギリシャ教父、中世紳単著、さてはカントフィヒテ、
蹟﹂、ギリシャ人の﹁哲華﹂と底別して︵コリ∴/ト前書一ノ十八以下︶﹁軸の能力﹂でJのると云つて居る。
されて居るが.殊にバクロはそれ雪言の智慧㌧智者の智慧﹂﹁世の智慧L猶太人が求むる﹁戚螢的奇
する﹁廣理Lとして︵同人ノ三十二以下︶他の何物よりも異ったものであることが聖書の到る庭に主張
.
55き
組織紳草のガ法l二就いての一考擦
八
が合理化されることを要し乍ら然かも合理化し切れないことを意味するものである。従って信仰と
理性との牌係問題は信仰の合理化の方向が多様であればぁるだけ多方面に渡るのである。だが大健
に於て姦智致信仰が合理化されると云ふ場合はそれは二つの方向を取る。脚ち一つはそれを知識億
系と同一視し、理知によつて基礎つけやうとすることであ∵り他は、それを道徳と同一親し、道徳に
よつて基礎つけやうとすることである。基督数倍仰の合理化と云Å場合、宗教の轟術的解辟や政令
的解滞をも食み得るが、通常、合理化と云ふ場合は先づ叙上の二方面に於ける合理化を問題とする。
道徳と基督信仰との関係は他の機骨に考察することゝして、こ∼には信仰と知識憶系としての暫畢
との関係のみを考察することゝする。
借てこの問題は人間の主観的能力の方面からと、輿へられた客観的内容の方面からと二つの方面
から考へて行かねばならぬ。前者は信仰と理性との関係の問題であり、後者は啓示と自然との節係
の問題である。前者は信仰認識と理論認識との和典の問題であり、後者は信仰内容即ち啓示と主と
して哲畢的有畑諒との相異の問題である。我々は先づ主観的能力としての信仰と理知との圃係を考
へて行かう。
さて入間の認識能力にほ認識と云ふ語を原義に解する時は凡そ四稀類ある1二嵩へやう。感度と知
力と直歴と信仰との四つが即ちそれである。
我々が外界の事物一ど認識するに何よhソヰb先.サ第一に用ひて居るのは戚畳、推壁、映発、味覚、観
559
塵等を司る戚官であるが、これ等の戚官に依って認識する世界が成官特有の性質に依って把握され
た世界であつて決して在bの僅を描焉したものでないことは今日の物理華や賓絵心理畢等が示して
居る虜である。例へば我々は客気が一砂時間に十六から三高八千まで振動するの一里晶低強窮種々の
音響としてこれを知覚するっ又エーテルが一砂時間に約四百兆振動する時は我々の限はこれ一ぎ赤と
︵≡︶ 認識し漸次振動数が埼卸し約英二倍位に達するまでを橙黄緑青藍紫と威するのである。エクスネル
に依ると人間は一秒時間の五首分の一と云ふ微少な時間を知慶し得ると云ふが、その位ぢ迅速な速
へM︶
度で教へても四育兆と云ふ数はこれを数へるに凡そ二萬五千年以上を要する。斯接な物質の運動を
我々は知解し固定して色と認識するのである。以て賓際の世界と我々が認識する世界とが如何に相
典して居るかゞ列かる。従って偲魔に依って物の賓和を知らうとす一?とは無益な希望である。斯接
に我々が直接に鴨知し得る世界で寸ら戚螢を通じて丑ハ賓和一で把卜得ないとすれば.紳とか凍世とか
の如き超絶的対象は到底戚螢に依ってこれを認識することは不可能と云はねばならぬ。
其虜で問題となるのは宗教的天才や神秘家が賓験せる不可思講な軽駿である。例へばイエスが受
洗の嘩紳の御婁の領の如く降るを見、且つ﹁これは我が愛しむ子わが悦ぶ者なら﹂と云ふ天よ
りの葬を聞いたと云ふが如き、︵マタイ偵三ノ十∴ハ、十七︶。又.ハウリが〆マスコ城外で﹁ナウV、ナ
ウV、何ぞ我を迫害†るか⋮・・二・・▲﹂と云ユキリストの語を問いたと云ふが如き、又多くの弟子が復活
いキリストを見たと云ふが如き、又ルソテルがアルトゾルゲ城で志魔の幻・で見ハトと云ふが如きは一
黒1L械榊祭り方法に就いてり一考宛
九
560
弧線醐畢のカ法に就いての一考わ
ー〇
見.戚費に依って把握し得ないものを把捉した如くに考へられる。惟ふにか∼一心不可思講なぇ事柄
は或は聖書の記事の批評的研究によつて虚伸又は寓意と解滞され,或はパウロの賓廠の如きはガテ
ク書の一ノ十五の﹁御子を我が内に撤しL云々に基いて、全く内的へ㌧心の白魔又は光雇と解辞され、
更に心理畢的には幻費又は錯魔などとして説明されるであらう。併し我々は常人が持たない直税カ
に依って、宗教的天才が異常なる事柄を戚得することを否定することは出凍ない。唯我々はこれを
戚費的知覚と区別して直観能力として考察したいと思ふ。従って感覚としては超絶者を認識するこ
とは不可能と見倣さゞるを得ない。
そこで次に考ふ可きは知力的認識の限界であるっこ∼に知力と云ムはカントが悟性並に理論理性
と呼むだもので.其思惟の形式は普遍にして必然であると思へる。例へば恒同伴とか矛盾梓とか因
果律の如き根本的思惟の法則及びこれ・官基礎として成立った論理華や教畢上の法則は普遍にして
然であると思へる。勿論敷畢上の定理の如きは或は訂正されたら接張されたりすることばあるだら
ぅが、それは人間の思惟進行に於ける螢展でぁつてその事は数畢上の思惟の必然性一ぎ害するもの
は云へない。カントが考へた様に斯様な思惟憬系が唯経頗の世界にのみ妥督して超経験の世界即ち
叡知界には妥督しないものかは別としてか∼る抽象的思惟による分析や綜合で倍仰の対象たる紳や
凍世のことを把握し待ないのは勿論、意志の自由の問題すら解決し得ないことはベルグソソの如き
が詳細に論記して居る虞である。
5(;l
更に盛男的解鰯駒村料を内容とする我々の常識的日常の知識や又自然科挙上の知識さては文化科
畢上の知識も亦、時間的に客間的に限られた経験による輿科を基礎とするから到底客叔的存在に就
いての完全なる認識をなすことは出来ぢいβ経鹸が犠張されるに従って輿科が据加し、輿科が材加
するに従って判断が礎化する。加之、自然科畢は勿論、文化科畢であつても人間の関心は一小部分
に限られ、其限られたる閥心に導かれつゝ対象を眺めて行くから決して事物の仝憬を起す得るもの
/
さて次ぎに考ふ可きは直観である。直観能力は古来の哲理者、紳畢者の問でこれを尊重した者が
組織所草のカ法に就いての一考察
少くない。而して其考は必すしも一様ではない。夫々皆兵ったものであるに違いないが其虞には自
−、、
この結合は分離のための結合であ・り結合は即ち分離皇息味する。
ても使用せねばへ与らぬ。少くともこの意味に於て信仰は哲撃と結合せねばへ†っぬ運命にある?だが
にも述べるが如く信仰畢乃至は基密教紳畢は日己の燭自性開明のために認識論的思考だけはどうし
知力と典った猫自の性質を有って居ると云ふことは理知的な認識論的思索によるものでぁつて、後
主知的有紳冷や形而上撃と相敗れねばならぬのである。併し斯くま知的形而上学と細別れ、信仰が
ハ言が木骨に成功することは出凍ないと見ねばならぬ。そ■
れに観れるものではへ住い。されば信仰封象を知力によつて理解しやうとすることは理解の助けとは
してそれが如何に蓄積され進歩してもそれは賓在についての思考で賓在英物を端的に把捉し又はそ
ではない。そこで我々の知力的認識が不完全であることは今更、諭するまでもないことである。而
さ
562
組織調製のカ法lこ就いての一考察
ネポンナーけ丁ス
甘1ト∵チック
一二
ら和通する庭の共通性があると思ふ。惟ふに紅軌は端的に事物一竺掴む庭の能力で、其特質は非推理
的直壁的であり、自費的であり、文略には機械的、自働的、受働的である川又それは直接的で確か
さの確信官命む庭の知的洞察.戚慣的光雅である。べ〝クソンのHふ宿願の如きは可なら複雑であ
るがしかも大憶斯捜な性貿一で祈って居ると云へる。
我々は自然科邸上の研究や暫畢上の思索に於てもこの種の認識能力が件用すること一竹屋々附かさ
れるのである。例へばサー・ヰリヤム・ローソン・∵、ルーソが突然四元法︵き蔓1・ニぎェに思ひつい
′封ノ
たと云ふが如き、又ベルグソンがクレ〝モン・フエランり学校に敦へて居阜撃エレ仮の寧詭を講
′六︶
.†ユレ・・ 鶉して後に常の如く散歩して居る時突然、彼の哲学の小心思想たる﹁特質Lの思想に思ひ及むだと云
ふが如きは其例である。而してこんな例は幾らでもある串で、今ことごとしく云ふ必要もない。
これに類した直観的の能力は‡家や音楽家等の蟄術家が持つ特殊の惑端的才能の内l二も見出すこ
とが出凍る。而して宗教的天才に於ては殊に著しい様に思はれる。先きに示した如き或は幻影を見、
幻環を聞く1こ去った諌類から内的の光雅に至るまで稀々の相異はあるが、それを或る特殊の心意の
件用と見ねばならぬ。勿論今日の心理畢では斯様な特殊能力が人間に存することを認めることは困
郵であるかも知iLぬ。併し少ともか∼一句♯殊な作用一箪認めぬ謬には術かぬ。漸フリース派の人々が
競璧、泉の湧くが
特殊な宗教的認識能力としてアーメング︵ンl⋮⋮一5即ち感得カを認めるが如き蓋し逝く可・ちぎるこ
︵七︶
とヽ思へる。近くは綱島梁川・∽見仰の鱈腹の如、き、突然心に輝き一ぎ戚じ.紳肇
如き一で戚じたと云三は、これ一で唯、病的現象として一笑に附する繹には行かぬ。我々人
気で働いて居る問は常識的な知髄が働く代りにか∼る直観力は願倒されて殆んど姿を現はさぬ。と
ころが一度病気にでもなり心が静かになる時は始めて斯様な能力が働き始めると云ふことが
宗教家が速く人環を離れて寂漢の山林に修養する意味は一つにはこ.ゝにあると思へる。
インスビレーシコン
基懲故に於ける窟 戚の賓駿はかゝる能力一で許容することに依ってのみ認識論的に是認
然るにこのことは普通超
験経
的と思はれる信仰対象との直接接触の可能性を意味するのみで、そ
で其対象が知り悉くされると云ふやうなことば勿論云へない。それは何度までも信仰の封象
残る。換言すれば信仰と直観とは典って居る。従って信仰の対象は直観に依って直接我々と
るがしかもそれを超越したるものである。この意味でベルグソソの云ふが如き・又オットー
ふが如き直観力を如何に教養してもそれで信仰の判象が完全に理解されるものではない〇即
の封象は唯に戚璧や知力一ピ溢れるのみならす直観力をも溢れる。斯く認識能力としての限
することに依って基督数倍仰と暫撃とが自ら男らねばならぬことを想像し得るのであるが、
諭するが如く更に其認識の内容に於て基督教信仰は猫時のもの・で待って居る。哲学が説く
督敦の醐に該管するにしてもそれは唯該嘗するのみで、基督に現れた紳町内容を示すことは
い。加之.憬命直観に依って賓在と交はると云ことも、そは基督敦に云j塑要の息化一軍蒙るとか、叉永
組織所掌の非法に就いての一考察
生を得るとか云ふことと同一であるとは云へない。更に紳と一致すると云ふことは単に直観
663
564
組織調製のカ法lこ就いての一考察
一四
て賓在と合一すると云ふ普通一般の紳私的経験とは典った内容を持って居る。我々はリッチュルが義
︵七ノ
認の倫理的意義のみを高調して一般に神秘的繹隆一で排し、所謂紳私的融合を接斥した琴神秘的経験
に無理解なものでない。又ブルンネル等は直接櫻駿は﹁.言﹂の仲介一で不用烏らしむるもので、紳の﹁言﹂
′九︶ と相容れぬと考へ、極端に神秘的経験を排して居るが我々はこれに同意するを得ない。然も直観と
の淘自の立場が承認されねばならぬ。斯くして直観と信仰との分解が自ら要求されるの
基替致信仰、直観哲撃と其督教組織紳撃とは別物であることを認めざるを待ない。こ∼にも亦信仰
■シ′スターゼ
然らば信仰とは一倍如何なるものであるかと云ふに、其内容を問はす作用の方南からのみ考ふ一ん
なればをれは璧戚、知力.直観等の根祇に存する確信.であつて畢な畠知力的作用に止まらす意志や
戚情を合む全人格的作用と云ふことが出来やう。斯る全人格的の作用として信仰は著名な紳尊者の
思想に於て費見することが出挙Q。例へばメラソクトンはアポギアの内に﹁人一で義ょする信仰は翠
に庵史︵上の事賓︶を認めるのみでなく、キリストの故に無償で罪Ⅵ赦しと義認とが輿へられると云
︵一C︶ ふ紳の約束に射する確信である﹂と云って居るが、これは信仰が畢なる知的承認でへ㌧く情意的確信
であることJで物語って居るものである。カルケンの信仰観に於ても同様な考が窺はれる。彼れは﹁基
督数原理﹂に於て信仰の完全な定義として次ぎの楼に云ってをる。﹁信仰は、其督に於ける無償の約束
︵︰一︶
の眞理に基いた。而して空小先に依って我等の心意に啓示され且つ我等の心情に確かめられた、我等
に対する紳の恩愛に就いてり不動、確賓の知識である﹂。こ∼にも信仰が単なる認識でなく.不動確
叙道
賓な認識として意志的方面が高調されてをる。
リッチュルは更に一層信仰に於ける意志の方面を重要戒して居る。彼は﹁信裁としての信仰は.最高
二二︺︵一﹁︰
︶
と云って居る。斯様に信仰が軍に知的承認でハ仏く全人格の作用であることは何人も認める庭で
↓フL然らば宗教信仰は其封象を認識し得るかと云、こ知力的にも直観的にもそれを充分に認識し
得ないことは前述の通bである。信仰はこの意味で二種の胃除である。ブルンネルが﹁信仰は未曾
有の胃除である。経験の立場から見れば狂気の業である﹂。と云へるは多少誇張の嫌はあるが、確
に曹って居る。さればヒブル書の記者が︵十一章ノー︶﹁それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を
眞賓となす﹂心の働きであるとせるは萱雷である。この文句の原文の批評的解滞は別としてこの日
本評が示して居るやうに未だ見す即ち直接経験しない慶の物を異質と信する信頼の藤度が信仰で
る。然らば宗教信仰は全く不確賓なあやふやなものであるかと云ふにそこには働かす可らざる確
さの確信がある∴しれが宗政信仰の線色で今OC
二き一・イヌンケダラウペンネソセン
カントは第一批判
憶見は客観的にもま軌的にも不推賞な知識とL、信仰ほ客観的には不確賓なるもま観的には碓賓な
知識とし、知識ほ客観的にもま軌的にも碓軍住ものとして居る。而して彼は更にこの信仰吏二種に
リライ†エリシュドクトりふル
イうクナッシュ け、貨用的、理論的,及び賓践的とし、第一を輝者が判り悪い病気を推定するが如きものとし、琴一
案11.機紳撃Ⅵ≠法に就い一\の一考わ
組織紳埜のカ法に就いての︼考容
一六
を物叩的鯛畢︵目的論的石鯛諭︶の如き確賓性の大行てる信仰とし、第三一ピ椎封的に必然な信仰として
居る。而してこれは理性信仰︵レクラム六二七︶又は道徳的信仰︵同六二五︶と呼ばれて居る。カントが
る虞の全鰭的作用である。こゝに信仰の他の認識能力に封する分解鮎と綜合鮎とがあると思
ば信仰はこれを心意の作用として見る場合戚魔や知力や直観と兵るがしかも又それ等を綜合
ものであつて一般に信仰は知力や直観を包介し且つ其根祇に常に構たほつて居るものでぁる
これは信仰の内から知力的要素や直観の要素を取去ってそれ等のものとの対照に於て信仰を
であるが、信仰の場合はこの対象に対する直接性が乏しく従って調和的要素が少い様に思へるC併し
ので殆んど瞳別ほ出凍ない場合もある。唯、直観の場合は端的に賓在と交はり又はそれを把
ても云ひ得ることである七思ふ。而してこの阻かさは先きに考察した直観の作用と極めて相
理論的認識の限界を越えて居るが放である。このことはカントの様に物自健と現象とを峻別
的には否定も肯定も出水ないものであることだけほ明かである。これほ前に述べた様に信仰
客観的封象の賓在を告ぐ〃。ものであるか否かはこゝに詳しく考察するの暇はないが、唯・
ヵントの所謂質蹟的信仰の如き又基督敦信仰の確かさの如き、直覚的な確かさが、果してそ
可ざる必然的な確信たる鮎に於て、又知識的にほ客観的に諭記し難き斯に於て相類して居る
又それが道徳的確信たる鮎に於て基督致信仰の宗教的たると異っては居るが、しかも其確乎
こ、に云ふ賓践的信仰はそれが人間理性の自律たる鮎に於て基督数信仰の寧ろ紳の恩寵たる
566
三
以上は如何に信仰の作用が成畢知力、直観等の件用と異って居るか。又異つで居るに本拘、ケれ
と結合して居るかを瞥見したのであるが、これのみでは未だ基督数倍仰の特異性は一向に示されで
は居ない。何となれば超合理的なものを信する作用としての信仰は如何なる宗教にむ存し、宗教以
の文化即ち道徳や轟術にもある。従って其形式的な認識論的な方面に於ては基督数倍仰の特異性迂
充分に明かにされない。それは其内容、其滞源に依って他の動きと区別され.他の信仰と区別される
のでぁる。この問題は基督数倍仰の本質の問題であつて結局基督教本質の問題となるのでみる。併
しこゝにはこれを啓示と自然との対立として考へ、而して啓示の核心が何であるかを見やう。
徒凍基督数紳華や票数膏畢などに於ては啓示と自然とはよく対立して考へられたが雨着の概念は
必ずしも確定しては居ない。即ち.カントの宗教論の如き唯理圏内に於ける宗教は理性票数と呼ば
又自然に存する理性の濡敦と云よ意味で自然宗教とも呼ばれる。これは理論で考へた宗教を基督敦
の如き啓示された宗教や其地歴史上の宗教たる歴史的宗教に封立さして考へた場合の名辞である。
これに反して・ヘーゲルの如きは歴史的宗教を自然宗傲、精即事琴啓示宗教の三着に分ち、自然を
合即ち絶封の意味に用ひそれをば基督故に限って居る。其他倫理畢に於ては自然を道徳又は自
ば白魔的精細に射する無自費なものゝ意味に用ひ、啓示を精神の自然に封すか超越と内在との綜
′二
︵一六︶
絶域紳孝の方法に就いての一考寮
対立さセて考へるので自然の意味や啓示の意味は多少複雑となつてを右。
567
66S
絶域紳孝の方法に就いての一考寮
−八
元氷、啓示と云へばこれを贋く解辞する昨はユ初の意味ある現象を啓示と云ふことが出家る。こ
の意味で超自然的啓ホとは其内で超理性的なもの∼みを折すこと∼なる。即ち自然界と云ほす、人
間の歴史と云はす︰偶人の内的緯蛤と云はす、凡そ何物かノで又何等かの意味を吾々に示す場合、そ
れは悉く啓示であろが其内埋窟で説明の出水ない意味を持っものが超自然的啓示である。
併し基智致で啓示と云ふ場合は特に締り意志が働いて我々人間に或事が示されるのを云ふのであ
る。而して其れが特別な紳の意皇心であるかないかは、其事件の意味内容と示現の方法とによつて判断
されて居る接である。即ち其意味内容が卓絶して居るとか、其示現の方法が﹂異常であるか又は自然
因果枠で説明の出来ない様な場合にそれが紳の啓示又は教示と考へられる。換言すればヘルマソの
︵︰七︶
云へる如く紳の現在一曾威せしめる楼ぢ出水郭が啓示で・わる。而して斯様な事件ほ基督敬に於ては多
くあるが、しかも其中心は新約聖書にホされたぃのであり、而して其核心はイエそキリストの人格と
事尭とでぁる。従って基督敦信仰はイエそキリストに於ける啓示を封象として居る。これに依って
基督数倍仰は一切の思索的、直観的暫単傍系と其内容を異にし其燭自.の領域を占領し得るのである。
さて、イエでキリストに
く二二的の紳であつた。こ針ことは原始基衡敦の経験であり基督敦史を通じての賓駿でぁる。チッべ
︵一入︶ ルミンの如きがこれを以て基智敦の本質とせるは極めて普然のこと∼云はねばならぬ。而してか1
る紳は﹁榊の固﹂一ぜ意志するが故に基督数倍仰の内容は﹁父なる紳﹂﹁基督﹂﹁空室﹂及び﹁紳の固﹂の四つ
56t
であると云へる。而して其内何れの一つを欠いても基督数倍仰は不完全なものとなる。かゝる内容
を有つ基督敦の信仰は石碑哲車と同一戒されざるは言ふを保たない。
斯様に我々は理論的思索的又は直観的知識倍系としての暫型と某督数倍仰とを引き離したの一であ
るが.この信仰が少しでも世に樽へられんがためには出凍るだけ其合理的なることを明かにせねば
へ‖廿らぬ。技に必然的に哲学又は理性と信仰との提携が要求される。第一に其非合理性をま張して其
燭自の立場を明かにする時巳に理論的思索的な認識論を利用して居る。されば信仰内容の超合理性
をま張して一・切其諭澄を放棄するとするも少くとも認識論だけは必要となる。カ∴/トが信仰に除地
を輿へんがにめに理知を取除いた時には賓に骨の折れる認識論に依ってのみこれをぢL待たのであ
る。又リッチュルが極力形而上畢を折み乍らも荷ほ若干の認識論を用空し屠るのは叙上の理由によ
るのである。従って信仰と理知との分離のために理知が已に用ひられて居るが更に積極的な意味に
於て信仰と理性とは精分せねばなPりぬn何となれば人間は意識の統一を求める着であつて、二重の眞
チタス
現に安住し得へ㌧いが故七一山勿
る論
し基憩致信仰と暫邸的牌系と一ぜ異った立場に於ける思惟の型とし
て恰かも型補的作‖l,1.の如くに考へるならば二束は愚か、三禿でも四華でも同時にこれ・ぎ受け容れる
必ずJれが綜合と統一とをぢさね
二とは出水やう。併し営畢的思考にせよ、基智数倍仰l二せよ、凡ての考ヘカ一ざ統一して翠一原理の
†に凡ての物一で見やうと†ムが故に互に和典る見解がある場今
ば止またい。されば其竹教紳隼は基語数信仰が理論的に考へてもー通り埋窟の通ったもの、少くと
親扱糾鮮りカ法lニ就いてり一考掠
570
組織紳畢の方法−ニ就いての一考察
二〇
も矛盾のないものであることを示さねばならぬ。但しこの場合それが必然的に合理的であると云ふ
こと皇義孝ることは不可能である。若し其可能を主張すればそはカント以前の覇断的合理ま義に
立鯨へることゝなる。従って我々は基督数倍仰が超合理性を有し乍らも岡ほ理論的に整合である一
−t≦ プヾ 五 ニ
Ib・四声
︵一章
p−声
■
︵−e
C巳Yin︰T邑i−ut3ウ〓訂Cど汝罫5︼紆︼山号㌣t,bヽA︼leヨ.邑こ●ワた芦
′ W・H3ヨ呂コ︰せ謡mptik−G。tぎl謁ひP−P
︵一入︶G・WCbbermiコ”S盲em已訂訂Th邑つg訂l,訂曾ざ︼や芦甲望︼●
HI∼ge−︰く○ユ灰u扁∼n叫iberdieヨi︼0容p己命der謬︼i萌iOn●柑づFei︼・
内岩t︰同rit芹d巧rein穿く巧n誓き︵出訂EPm︶S一票︵R
︵〓︶
−琵¢・ぎT−−阜四声
)
ヽJl
)
)
A・Ri官軍。p・dt・㍗芦
︵岩︶ ぎF宍ぎぎロ︰A旦。giedeり︵首n計数。コ・ぎ︼呂eどど己Werk♪Fer呂膏geb昌召n買告ichA磨邑苧邑♪訂i官尊
●
Jこ竺不すを以て満足せねばならぬ。されば問題は如何にして積極的王基督数倍仰を合理的に詭明耳
るかと云云ことに仁るが、こは更に大きな問題となるから.金は叙上の如くに理性と信仰上が必然
的に離合せねばなら甲Jとを示すに止めて筆を欄くことゝする。
︵∧︶ A・Ri宮已︰謬c11t訂ユ⋮g亡ng亡ndゴ︼・鼓訂ung‡●︼0000餌柑00●冨−買
︵七︶ ぎdO︼、OttO︰内岩t首Fヨi乳邑わR監督専管i一宮p巳℡T詳ingen■︼琶●弾−−︼弗
︵〇 A・Ru訂呂d声試才u一︰H⊇1i汐rg岩戸∴F冒dOP︼讐A●ワー↓■
︵五︶ ∽すrb喜好︰TFの対馬eFO︼Og﹃Or謬ligiOn、芦Y●︼讐亘pp●ご○巽
︵−︶ 寧∴謬r叫容n︰己邑かreet買hmOire、つ告ぎ︼器︼−甲田芦
︵三︶ J﹂Ⅰ・SnO司den︰T訂ノぎr︼dpぞiritu已ぞ告m、芦Y●−讐P
︵ニ︶ Gpヨie︰T訂Ril再三iPn TF邑Ogヨ︼害い柑p・迂∽・
旺︵−︶ 増訂ロn⋮内乱Orr︰せ監守Oble−ゴdeニh邑○閃i乳訂コ冒n訂ヨ、訂ipNigこ宍戸S●巴声
_
︵九︶ 声寧日nner︰Di巾試︸ユikundd琵WOr予丁旨i点昌こ¢芦p︼巴諦
′‘ ̄ヽ ( ′ ̄\ ′ ̄ヽ
671
唯識三十頚の立場
虞、瀬
文
し+∵¶
豪
▲二
■
凡て偶数思想の展開は十二縁起の思想に源を発して居ると見ることが出水るもので、随ってその
哲畢的ぢ諸種の立場︵悌敦思想の真の理解は畢克立場の理解と云ってよいのでぁる︶はこの根源の
立場を見極めてそこから清拝して行く.ことに於て始空し之を明晩にす㌃ことが出奔るもの、である。
殊に所謂る縁起思想︵頼耶と眞如︶なるものは十二縁起の直系に属すかも町であるから、この十こ
繰起の思想を鎗廟にしてはそれ等の意義を軌放することは出凍ない。で、・今風耶縁起の立騒教諭す
︵〓
るに曹つ・ても1先つ第一にこの十二繰超伊思想を解脱しなければな.む風の†あかがごあ思想の一⋮−
とは拙著十解鹿方法論⊥に可打了り詳細に論じておいたから/−∼では唯その結論を述べて、此の為
の出費鮎を定めるに止めておかうと思ふ。
一億十二縁起は帝迦が解脱を得るに至つた内的経験を心理的に追究して行って、遂に迷の肢洗が
乳執意志︵議了行︶にあること一で突詰めたものに外ならぬ。即ち先づ吾人の垂死の苦悩の存在すを
唯我三十嘲の立場
唯革二十囁の立場
二二
ヽヽヽヽ 所以から考察を始めで、それを我の生存︵生︶と云ふことに給し、更に何に因つてその生存が在る
かと尋ねて、そは境界︵有︶が有るからだとし、境界は叉執着︵取︶に因って現はれるとし、執着
ヽヽ 重曹である。で、今﹂の意欲の費動さへ滅すれば︵起らぢいやうにすれば︶、我執の心も無くなり、
働因ではなく.軍に無智と云ふことに過ぎないから∵Jれは十二縁起の系列から除けて考ふるのが
ヽヽ せられるものであり、叉我執の心は意欲︵行︶をその原動力とするとしたのである。無明は迷の能
ヽヽ く﹂と考へる、その﹁我.︵名色︶の認儲に於て現はれ、﹁我﹂の認識は我執の心︵議︶に因って確立
﹁開くことL等︵六入︶に於て現はれるものでぁり、﹁見ること﹂﹁聞くことLは﹁我が見る﹂﹁我が開
ヽ は愛より起り.愛は感受に於てあり、成受は又物を戚鯛することによつて起り、戚簡は﹁見ること﹂
ヽ
諸比丘、草し無明欲を離れて明ふ生ぜげ、彼誰れの老死ぞや、老死誰れにか屠†る者ぞ、老死則
●−
︵二︶ である。随って最早や﹁我Lが生じ、﹁我﹂が死すると云ふ苦備のま憶は無くなる罪である。難阿合
於ける﹁我﹂の生死でなく、唯﹁我の生死﹂と云ムー自然現象として認識されるに過ぎなくなるの
吾人が生死を苦幡とするのは、その執着的認識に因るので、執着さへ無くすれば、徒死は、世界に
のは、それ等の事賓至芸ふのでなく、それ等の執着的認識を指したものであると云ふことである。
以上の意味に於て注意しぢければならぬこLほ/−ゝに云ふ生死とか−境界とか・1我Lとか云ふ
ヽヽヽヽ ■をの曹然の締結として我の生死をも滅することが出水ると云Åのである。
573
573
断するみ知る.
とぁるのは即ちこの意味を現はしたものである。僻、この文に無明欲とあ一心のは、無智な
欲︵行︶を指して居るのである。
それで、結局解脱と云ふことは、これ一ぜ心理的に云へば、唯掛卦の感情意志一芸ると云
ことであむが、畢にこれだけのことを知ったと云ふだけならば、極めて卒凡打了ことで.螢詑とか,
解股とか耕する程の償僅はない。無論輝迦の解脱も之・竺経頗心理畢の上から見れば.是の如き申凡
なものに過ぎないので今¢が、秤迦の軽食に於ては、単に執着の威情意志だけ一ぞ除いた.のではなく、
認識の感度の樽換によつて.執着のない結果を獲得したのである。即ち妄執の認識感度︵有漏︶か
ら無我月然の認識態度︵無漏︶に樽じて.こ∼に現法認識のまゝ解脱したのである。故に秤迦の内
的座像を現はした十二縁起の老儲、生▼有.名色.識等は、その下に﹁の妄執認識Lと附加して見
るのが本嘗の見方なのである。即ち有馬法として見るのである。
頼耶の縁起も矢張りこの妄執認識の考察をしたのでぁるが、頼Ⅷ縁起の見方は十二縁起の
は除程遠って居る。十二縁起は妄執の認識を漸次その瀕へと追究して行った形のものである
耶繰超の方は具億的な妄執認識を諸方面に於て心理畢的抽象を試みたものである。但し抽象
ても.意識の心理畢に於ける如き純然たる抽象ではなくして、諸種の方面から具憶的認識を見たと
云ふに過ぎないので、具健的経皆の立場を離れての抽象ではない。これは唯識思想が認識育
唯仙学二十項の立場
離
唯準二十囁の立場
二四
乳を最守して居るところで、唯識の心理的詮明を見る上に於て常に心に止めておかねばならぬとこ
ろのものである。
先つその意志的方面︵能働的方面︶を抽象して之・ぞ末邪論と廃して居る。意志的方面と云ふも我
執意志であるから、そは我療、我見、我慢、我愛と云ふことに於て現はされて居る。頓に﹁思量す
ヽヽ
でもあ卜”叉そのすがたでもあるとしたのである。で、この意志︵兼邦︶は妄執認識の基本的のも
ろを性とも相とも属すLとあるのは.﹁思量するL︵我執的に︶と云ふ賓践の能働を,その概念の性質
ヽヽヽ
ので、差曹ら十二操起に於ける識と行とに相督する。十二操起に於ては我執意志即ち我の執蒔から
吏に輔棒意志の概念即ち意欲を抽象して之に別に行の名を奥へたのであるが、頼耶妹起では我執意
恵そのまゝを東邦として現はして居るのである。伺起信諭に現はされたる縁起を見ると、これは十
三操起の方埠と同じく行︵業讃︶と識︵特識︶とに分けて居る。今その詑明を見る.と、
︰妄㌻語㌻警光﹂。苧、悪のカに蓋の心警が故に。二には名け蓋吾。動心に俵つて牒相わ
るが故に1
Lみ㌢1心動く﹂とは意欲の訝勒であり、能見とは見分即ちま粗衰を執持することで
ヽヽ
次に頼耶縁起は、妄執認識を形式方面から見て、之一で了別議と名け、諸種に分類して居る。頚に
甘﹁墳を了する一ぞ性とも相とも属す﹂とあ牒雪嘘一ぎ了する﹂と云ふことは1思量すること﹂†ある
が∵思量識・︵末都議︶と云ふ時は、その能御方南から云ったのに封し、これはその形式方面から云
676
ヽヽヽヽ
ったのである。而して、この了別識の分類の仕方は、一には彿温習修に於ける認識の現ほし方で別
疑、悪鬼とし、更にこれ等の煩倦に思するものとして細かく二十
けて、之を欲︵欲軌境の意味︶、勝解、念、定、慧、の五とし、二には彿道習修を妨げる煩悩の捕類
を奉げて.之一ピ貪.隕、擬、嘩
の種類を分けて、之等を随煩悩と呼んで居る。その他別−こ彿温習修に蕃なる認識と、善悪不足の認
識とをも列重して居る。
弔
身の五識のとこを説いて居る。この五識は認識の経験を
以上で一應妄執認識の分析と分類とが済んだ謬であるが、更に別に了別讃︵意識︶に於て、吾人
の五の戚官に封應して、限、耳、畢
五の開城に於て分けて見たのであるから、五の戚発と云ふ意塊とは全然臭って、﹁見ることし﹁開くこ
と﹂等﹁封壕の認識﹂を指したものである。頓にも﹁縁に随って現す﹂と解してある。即ち繰境の
意味としたのである。こ∼で一寸注意すべきことは、唯識三十頗は認識貰践の分け方を、本務は種
子識と末都議と了別識との三ツに分けたもので︵三能率︶、八誠に分けたものではないと云ふことで
ある。茄識は丁別誠に就いてだけの分析であ一〇から、認識賓嘘︵阿戯耶識︶の直接の分析にはこの
場合関係が無い。然るに、この五識をも前の三と合せて八誠に数へて見ることは甚だ嘗を得ないこ
と∼云はねばならぬ。但し、稔伽諭笹一﹁五識身粕應地﹂に説いてあるやうに一兵倍的な認識を限
耳鼻青身にのみ分けた場合には、これ一で以て阿戯耶識の五の見方とすることが出来るが、この識の
分け方は三十亜のとは全然追って居る。三十頻と同じ分け方は別に﹁意地Lのところで説いて居る。
唯哉三十額の立婁
各7G
唯歳三十頑の立場
二六
思がこれである。椀とは﹁外境の戚
唯高三十項は又妄執認識︵阿類耶識︶の内容を心理畢的に五の要素に分析して奉げて居る︵前の
−ま方面燕尾に於て分けたのであるが︶。即ち簡、作意、受、喝
観知﹂であり.作意とは﹁外境に封する蘭働意志し︵志向︶であり、受は戚惰であら、想は概念的認
識.思は複雑なる思惟である。
〓
以上述べたところで大健三十頗に於けろ妄執認識の考方を見て凍たのでJのるが,これだけでは単
なる表面的な観察で、繹迦の内的経験の眞謡上は嘲れて居らぬ。群迦の解脱は異なぇ心理的意味で
なく.認識貰践の藤度の輯換であるから、その鱒駿は外境と自我との赤壁どレその中においてのこ
とである。繹迦自身はこれ等の存在の問題を健瞼の中に解決してしまつたのであるが、後聴概念に
於てその憬検内容の意義を考察するやうになると、髄駿の心理的意義以外に、この存在の問題解決
の意義が曹然起って凍なければならぬ。而して、この存在の形而上畢的意義の考察こそ大乗彿数の
暫畢的中心思想とすべきもので、頼耶縁起の思想も又この問題へと進んで行ったのであ一〇。で、こ
の間塩は十二続起の思想には全然無いもので、随って弼耶、異如の二縁起はこ∼に十二繰起以上に
特殊の領域を提げたと見るべきである。
併し本木から云ふと、十二縁起の概念から直ちに=の存在の形而上学的意未申索め出すこと化容
易ではない。無論、十二縁起の立場が存在を食んだ認識賓践の意味で、意識の心理的意味ではない
釦7
けれども、矢張り一種の︵虞鶉に於ける︶心理的な親方であるから、この見方から形而上畢的意義
を線はすことは寧ろ不自然である。殊に彿教の思想は、思想の薦めの‖心想でハて、賓修の必要に迫
られて現はれた思想と見るべきものでJ・∵りから、かうした心叩的式場から形而上琴的意義を考へ出
すやうな仕事は一寸練達い評である。
然らば∵−の存在の形而上畢的意義は何廃に於て莞つ現はれたかと云ふに、それは十二繰起を滅
した解脱の立場に於てゞある。この立場に於ては、今まで我れと外境が封立としてのみ見られて居
たのが、封立そのまゝ直接経験の中に見らる、やうになる。帥十り我注が一枚の醗験の中に直観せら
ヽヽ る、。今−の解脱の経険を妄執認識の経験に較ペて考へると・後者にあつては認識の貰践が手取L
のみ戚知せられて、射場に於ては戚知せられて居甘いが︵能働と所働に別れて認識されるから︶・前
ヽヽ
者にあつては、我法一様にこの賓践の戚知が現はれる澤である︵直観であるから︶。而してこの我法
ヽヽ
一様に質践の現はれることは、取りも直さす、我法存在の形而上畢的根基が直接現はれて居ること
になる。何となれば、存在は凡て﹁認識すること﹂一でその根基と†るからである。
ヽヽ
而して、是の如く我法に即して嘗践が成知せらるゝ時、その憶陰者がそⅥ形而上畢的意義を璧知
するに至ることは極めて口然であらねばなちぬ。何故なれば/−の場合﹁我法はこの成句せられた
ヽヽ
貰践に於て存在するものごとの判断が容易に出水るからである。而してこの判断こ㌣客の概念を
ヽヽ 作るに至ったものである。即ち容とは我法に印した賓践の感知空涙現したもので、その客と呼ば
唯我三十項の立場
678
唯我三十領¢先鋭
ヽヽ
ヽヽ
ヽヽヽ
るに至った所以は、その賓践は単に優駿で、思惟の封象とすることの出来萬とこイ〃から、絶概念の
︵円︶
意味に於てしか呼ばろ∼に至ったの一である。色郎是室とはこの戚知の賓践に於ける諸法の存在を云
ひ衣はしたものであり、﹁容の義あるを以てり故に一加法は成することを得、若し客の義なくんば一
ヽヽ
切は即ち成せす﹂とはこの戚知の賓践を一切法の根克として概念したもので、明かに存在の形而上
畢的意義を云ひ表はして居る。
ヽヽ
併しこの中晩諭の語は未だ十分には形而上畢的意義を概念の上に現はしにものとすることは出来
ヽヽ
ぬ。何故なれば、その窒甘る概念は、絶概念の賓践に繰入せしむる焉めに凡ての概念を否定する意
味の概念で︵即ち方便の概念で︶、賓践そのもの∼意味一ぞ衷はした概念ではないからである。彼の八
ヽヽ
不と云ふ如きは全くこの客の否定の意味を現はしたもので、何等積極的な意味のないこと空不して
ヽヽヽヽヽヽ
居る。若し桔極的な意味に於てこの形而上畢的意義を現はさんとすれば、賓践を明かに概念の上に
現はして﹁一切法は認識することに於て成せられてあるLとせなければならぬ。併しこの積極的な
概念への進出は直接客観の思想からは現はれなかった。容軌は賓に存在の形而上学の思惟形式を輿
へたに止るものでーその形式の中に内容た乙﹁認識す一匂一しとし︵認識賓践︶の意味を入れることは他
の思想を惰らねばならなかったのである。而してこの別の思想は恐らく如来蕨、如来法身、衆生心
︵五︶ 性などの思想から凍た唯心観であつたらう。この唯心軌はそ.れ自身一の形而上畢的意味を持って居
たが、これが客観的立場と結合してこ1に心真如の形而上畢思想を大成するに至ったものと思はれ
る。加水親等の思想から凍た唯心軌は元凍個人的憶験の意味から現はれたものであるから、
はどうしても個人的意味がく.ッついて居る焉め、純粋な客観的、超越的な形而上畢的概念として完
成したものとは云ひ難いが、客観は一切法に印したもので、一切法をそのまゝ︵加是、質相︶に見
るところにその面目があるから.この形式に個人的唯心観の思想を入れる時︵或は現はす時︶、こゝ
に始めて客観的超越的な認識賓践としてこの唯心観が成立するのである。即ち客観は値段︵賓践︶
︳ として一切法に印する形而上畢的意義を現はして居たが、唯健験するのみで.その意味の概念む有
して居なかったのを、個人の認識経験の憲政に於て一切法の根源を見る思想に依ってそⅥ意
をされたのでぁる。故に眞如の唯心敷こそ形而上的思想として沸教膏畢を完成し竺の型J云止な
ければならぬ。
三
併しこの客観から敬遠した形而上畢的思想と別に、先きに困難として見た認識質践の心理
十二縁起系統の立場からの形而上畢的考察を或る度まで成功したのが稔伽系の唯識観でぁる
ばこの喩伽系の思想がどうしてこの立場の全然臭った︵心理的と滞而上畢的︶と思宜れるもの竺
に見ることが出水るやうになつたのであらうか。このことを考へるには、容貌の系統が理論
ぬ。即ち同じ﹁認識の貰践﹂一三は諸法の直観に於て見たのに封し、他は認
唯我三十頚の立場
ヽヽヽヽヽヽ
観的であつたのに封し、喩伽の系統は賓践的、心理的であつたと云ふことから出費せなけれ
879
唯識二十期の正弘
て考へたところに、両者山形而上軍的〓心肺形式を異にしたので争¢C
稔伽の‖心恐が十二継起∽m蒜を披いで妄執認率ぃ考寧竺qるや、その認識の哀現と云ふことを第
一に考へねばならへ号かった。これは心理的ではあ乙が、認識繁盛としての心理的考察で
上畢的意味としての認識賓躍りことである。それで、こ1に酷とJ‡も賓は賓鯨の意味では打了\
とあろは、即ちこ′い意味を現はしたものでJ・芸。稲子力ことは後に説くが、兎に角こは存在の形而
輸伽に亦説く、諸り相守り甲無始畔より死、作木右なりご錐も、而も渠浄に由つて新たに義教ぜらス・U
︵八︶
論に
コ 封境をも現はす意味を負ふことになる。これが唯誠忠想に規はれたる新京説の根披であ
認識の慶祝に於て封境︵有馬法︶の成立む見る峠、薫習は畢に以上の心理的意味に止らす・客観的
認識自恍には染挿の定貿のないことを表はしたものである︵無別薫習、眞加東習︶。ところが−この
故に、則ち香気みるが如し﹂とある如く∴︶−は吾人の認識が或は染に、或は浮に成り行くもので−
∴ハ︶ 義朝の意味は起信諭に−未墾の義とは、世間の衣服賓ほ香触⋮けれども一新し人香を以て薫習するが
である。而して、この心理的形而上隼の現はれた意義を最も如密王示すものは薫羽の概念で
とをも考ヘスニことになる。こ∼に自然と心珊的考察がそりまゝ形而上畢的考察をも生むに至ったの
識すること﹂が次々に現はれて挙匂、と考ふゃ1とに、同時に封象︵客観的存在︶が現はれ凍るこ
その心理の考察は必然に封象としての存在を企みつゝ成されて打ったのでぁる。吾人の﹁妄
5バ0
G,q
認識賓践一ぜ本椚的に‖心僻した意味で∴る。こり意味の本有山認識賓践︵先壊約諾識賓践の意味︶が
染に渾に新たに壁現†争1と一三・■‖つ十叩いであるから、そこには研かに存在の形而上挙的意味をも現
はして居乙“惧しこの鞍M現について㍑能嘉桝兼と分けてlも説いてある︵︶こい詮方一軍見乙と、何だか
心と外埼とが対立して聖茨邪の意眈、仰Jり緯廠心理邸に於ける意味の如くに‖心はれ一心が、唯識の立
場が﹁認識の質践﹂の上にある以上、二んな封丑的恵昧U︶成立たう道理が触⋮い。これは認識賓践が
染になト押になると云ふことから、その認識賓践を勲記性の本石として概念したより起った思想で、
︵九︶
正しい考方ではない。このことは成唯識論の契緯よりの引用文に
諸法‘ェ試l二於一ユ賊ぜられ、識は法に於て弥相互り、正互に炎症y元り、亦常に田仲ミ焦ろ。
とあぇ二軍見ても知七ことが出来る′−法と識︵認識仰封距︶とが互に阿呆︵能薫、所薫︶となるとは、
畢なる考ガ︵論理的意味︶で、車仰封は法識︰畢甘心こと一で現はしたものである。
.
斯くの如く薫禦と云ふ意味が封嘆い形而⊥学的意味一等b右すとな乙肺、元雄心理的な意味である
この語一ピ、その⊥Jミ形而上草的意味一で表ほす託として洗川することは常一竺得ないこと1なる。何か
別に形而上草的意味を衣はし而も心叩的意義からも鞋れない他の適語を鎗見せなければならぬ。而
してこの要求に應じた語が種子と云ふ語でJの′0。この稲子の思想は随分古くからあつたのであるが、
唯識⋮心想に於ては特殊の意味一で現はして居る。即Jり稲子とは﹁認識す今Jと﹂の常満として、心理
的で而も形而上川︼.的意義を税はすに至ったもりである。﹁認識すラ︼と﹂は先般的雷名としで現はれ
唯丑∴十頻の立場
682
唯琴二十囁の立場
±二
るもので、そは心理的であるが、同時に封墳が・﹁認識すること﹂に於て普焉的に奥へられる1
意味に於て形而上畢的となる。成唯識論に
︵一⊃︶
此の中何の法をか名けて種子ご発す。謂く本式中親Lく白黒ね生†ろ功能差別光り。
′
とあるのは:この意味を現はしたものである。本識とは認識賓践で貰有ではないから、﹁自果を生す
る﹂と云ふも、囚が先づあつて生する魔の意味ではなく、前にも述べた如く.因と果とは三であ
る。即ち﹁認識すること﹂に於て現はれた諸法が﹁認識すること﹂.の自果なのでぁる。随って功能
とぁるも何物かの作用と云ふ意味ではなく、﹁認識する一jと﹂の雷名の意味に外ならぬ。ゴーエソが
罷産と所産とを二つに見たのも結局この意味に於ての純粋思惟に外ならぬと思ふ︵産の文字は穏昔
本哉及び併生臭ミは不一不具、鰻月田奥の理應に写∂べきが故に。
でないが︶。
︵〓︶
′
四
以上で種子の形而上畢的患義を解明した評であるが、これに由って、十二縁起の心理的立場から
進んで存在︵封象に合めて見る︶の形而上畢的意味を現はし、以て繹迦内在の意義を概念の上に鞠
明したことになつたのである。そこで、三十項にはこの意味を種子識として、末邦、了別の二識の
ヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽ
上に置き、かくて解脱の心理畢的及び膏畢的意義卑琴全に現はすことゝしたのでぁる。三十項の文
の上では、この種子識を第八識として阿頗耶識の名に於て呼んで居るが、これは正しい名の附け方
883
とは云へない。阿頼耶識とは妄執の認識質践を表はした語で.詰り末都議の説明も.了別識の説明
も皆この阿頗耶識を取b扱ったものである。然るに種子誠にのみ阿頼耶識S名一ぜ冠したことば諸種
︵一二︶
の誤解を起さしむる源となるものである。現に起信論には此の阿頼耶識を論いて
所謂る不生不滅ヾJ生滅ミ和合・して、一に非す、異に非す、名けて阿黎耶哉亡兄す。
とL.阿頼耶識を以て認識質痍︵不生不滅︶の妄執性︵生滅相︶を有するものと解し.更にその阿
戯耶識が、︼には兜の認識︵不生不滅性︶とも成b行くが、又生滅相を取る妄執怒識即ち不魔の認
ヽヽ
識として、業︵行︶を起し.能見︵我執︶と境界︵封墳︶を現はし、やがて益、執拗な頼傭∽すがた
・ヽ として執着の埠長して行くさま︵智識.相府議等︶を説いて居る。而してこの阿腰耶識の訣別を心
ヽヽヽ
ヽヽヽヽ
生滅門とし、之に対して別に認識賓践の形而上畢的意義を心眞如門として奉げて居る。起信諭が是
の如く認識質践の形而上畢的意義と妄執認識︵個人的認識︶
の包含的説明︵形而上畢的意義をも阿頼耶識の中に於て考へたこと︶よらも進んで居る。それで、
唯識の思想も之を明瞭にする食めには、一起信論に倣って、第八識の位置を種子識の名で現はし、こ
′.一、
れ■ぞ純粋な存在の形而上畢的意義とし、東邦讃以下を阿照耶識の名で現はすペきである。
併し.又考へると.唯識の思想が形而上畢的意義を包含的に扱ってしまつたことは強ちその不徳
底を責める評に行かない理由もある。元凍唯識の思想は起信諭の思想の如く形而上畢的原理を説く
と云ふ目的はなく、始めから賓践的に妄執認識の心理を説かんとし巧ものであるから、その立揚を
唯歳三十唄の立場
5S4
畔護三十頃の立む
三日
経れて純板和論ノで税は†・一とはその好←柔けいとごろであつたらう。而して、この唯識の包倉的態度
は後にそが仰人的識の意味か超越的識の意味かり問題が試せらる∼に至った所以であるが、その妄
執認識の禦践を対象として居るところはどこまでも個人的意味でなけitばならぬ。唯その中に督然
分離せ・しるべき超個人的な識の形而上寧的意味が胚胎して居たゞけである。
五
今まで述べて雑たところは、妄執認識の心坤的分析と、存在の形而上畢的意義とであるが、この
ヽヽ
まゝではまだ唯識三十茹の‖的とするところが壷されたと云ふことは出水ぬ。三十擁の眞の目的と
するところは、さうした串賢の思惟にJのるのではなく、誠性︵認識の賓践︶に任すること、之を云
ひ換へればー封項を妄執す一ら認識態度から、存在に印しての認識態度︵触⋮焉︶に挿することにある
のであるから、最後にこの種依のことを〓占せなければハ与らぬ。而してこれは三無性訣として現は
吾人が妄執に於て認識する対象とし
ヽヽ
されて桝るものである。それで三無性設は専ら賓践諭で、識性に任することに就いての考方.即ち
粗法を示したものに外ならぬ。
ヽヽヽ
今その税法の現はれた順序を平たく訣別すると.先つ第∴
ヽヽ
ヽヽ
ヽヽヽヽヽ
ての我と境界は無性一で宥するものではハ一けいと云ふのでJのる。その・謬は、﹁認識すること﹂に於て基礎
つけられたもの∼みが賓l惟一で石寸るぃで、それは唯も・の∼存在寸ることだけでぁる。もの∼存在す
乙ことは謂識すること∼一つで一肌乙から、之が賓性一〃−右することは白州のことであ一っが、恍に存在
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
585
を賓性とすれば、その存在を封墳と見ることは重く夢幻の如きものと云はなければならぬ。即ち存
ヽヽヽヽ
在の認識の眞賓性に対して封境の認識は虚妄であ一㌔それで吾人はかゝる棍妄の認識桂皮即ち妄執
認識の態度から異質の認識騒度即ち触表白然の認識程度に移らねばへ㌧らぬことヽなる。遽計所執の
触⋮性説とは以上の意味を述べたもSである。成唯識論に
二三︶
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
三界り心及び心所は無姑より架、庶妄講習lニ山つて、各椚一光リミ錐も、而も∴に似て生す、訊く几相分、帥ち能併の取尤り、
是の如き∴介は帖にl工われども理にlミ光・し、此の相を訊いて通計怖軌ミなで。
併し、畢にそり妄執の依から股離すラJと一ぜ説いたゞけでは未だ確賞に識性に住せしむることは
困難であ牟。日放なれば、理蛎王よつて識性に安住せしめんとすれば、単に妄執認識の意義を知ら
−
しめるだけでなく、妄執を去って識性に什した位の認識の意義をも桝かにせなりればならぬかLで
ある。新しこの意義一ざ明にし克かったならば、その加⋮我の琴誠なるものが如何なるもので■叱るかと
ヽヽ
云ふ疑問が経じて、安桃の擬に速ふであらう。そこで、この意義をーりJかにせんとしたのが、依他起
と厨成賓の説明である。
我、我所の妄執を去って無我に入った認識と云っても別に襲ったものではへ一bい。凡てのも山をそ
れ等の和瓦㈲係に於て有りのま∼に見ることである。即ちn然の姿をそのま∼に綻軌することであ
る。しかし、こい一場合注意を要することは、︰如何に自然のま∼に見る一三云っても、自然山国練現象
そのもりに意義があるのではぢい︵﹁そい▲︶ミに見る∵と云ふ時、その﹁見ろ.L︵鱈粍︶に意義があろ
唯歳三十瑚の先島
586
唯準二十嘲の立場
ヽヽ
ので今0。回線の現撃で見る︵或は考へる︶倍率
三六
これが誠性で一りるから、﹁そのま∼に見る﹂と云
ヽヽ ふことはこ・の詣性を指ホして居ることを忘れてにならぬ。讃性が見る慣瞼であると理解して後.内
妹の現象亨てのまゝに見る帖、こ∼に始めて識性に安住することが出凍るのである。唯議の説かれ
成賓とほ、その依他起を﹁見る﹂機験に放した意味即ち識性に任した意味である。即ち依他起は髄
t
●
た目的はこ∼に始めて通せられるのである。依他起とは因縁に於て成立せる現象の意味であ♭、固
喩から離して見た認識の形式の意味で中り.固成算は認識の直観で、健瞼としての現象の意味即ち
色帥是牢眞如のことである。されば、依他起の意味ほ妄執認識即ち遍計所執の場合にもぁり得る
もので、語り認識一般︵無我と妄執に拘らす︶の形式である。而してこの意味から、風成算即ち識
性に件することば、依他起に於てのことで、・依他起を離れた意味でほないが、唯その依他起に妄執
した通計所動の認遥から離脱したものと云云ことが出水る。この意味を頚には
︵俵他︶に於て︵存、し︶、前︵通計︶のな逮経ぜる性光り。
彼々の遺計に由つて、種々の物な遍計す、此の逼計併軌の自性は併有写し。俵他起自性li、分別り綾に=生ぜらる。相成梵は彼
とある。僻遠計所執の無自性のことは既に述べた通りであるが、依他と固成の二億一ぎも無性とする
のは峯の立場からである。即ち同じ無自性を説きながらも遍計の場合と依他、鳳成の場合とには大
なる相違のあることを注意せなければならぬ。遍計の場合は二十諭頚の立場と同じく封墳の無なる
こと智述べたので.そこにはその結束として厨成算性即ち一切法存在の自性を現はしたのであるが、
5さ7
ヽヽ
彼の場合はその自性は概念さる∼賓性ではなく、鰹廃の峯なること卑小したのである。頗にはこの
三の自性を暗別して
和めには即ち相無性、吹l二ほ無自然性、後l二ほ前の桝軌の我法中速詳せろに由る性なり。
と説いてある。依他の性を無自然性と云ったのは、邁計に於ける封象性を無して、認識賓践内に一
ヽヽ
切法を直税すること一里荷岐したのである、即ち依他は客観的自然性でないと云ふのでぁる。又成唯
議論は固成賓性の無性のこと一ぜ勝義鮎⋮性と云ってあるのは全く賓践の原理としての容性を指したも
のである。
了別謡と並べて、第八讃を稲子識よりも典熟詣で衷
以上で唯識三十偵の立場を大憶説明論評し終ったが.最後に一言附加しておかなければならぬこ
とは.異熟識の思想である。茹に異熟、思畢
はして居るところを見ると.この識の意味は種子識よト・も一盾大切ぢるもの∼やうに思はれるが、
貰はこれは他の思想の混入したもので、純借款思想からは取り除くべき性質のものである。異熟議
とは、衆生が筆意の糞力に因って、夫々苦欒の世界を現すると云ふ思想から水た一種り個人的唯心
論で、随ってその誤謬なることに、偶数本凍の執着の意味としての菜思想、及びその無我無自性説
から考へても明瞭ぢことである。
唯歳三十射り立場
か将
︵四︶
︵二︶
大正火絨群
大正大蔵粧
唯戴二十頗の先堤
三二、訃七七小
︵ニ︶ 大正大破緯
娃︵こ▼ 拙庸﹁解脱力法盃﹂八L−..
ノヽ プ÷
︵七︶
同
⊥に阿C土叩
大正大破群
下
︵九︶
三∴、五七八上
大正大毅経
︵ニ〇
大正大挙粁︰三、八上
火正大減耗
三二、五七六申
同
)
)
)
)
‖ 上
︵〓︶
二、八五土
二︰〇.二二二土
二〓、開示上
︵鋸︶ 沸教の唯心説は﹁認識り資躇﹂わーりそ方に於て舐い㍗もりてわろから、唯心論ヾJ名く.へきもりでl‡互い。
′ヽ ′ヽ ′■■ヽ ′一ヽ
音典文革に於けるエリュ
ルギリウスの
レクム
ーーー⊥エごしてウェ
黒
田
止
死後に於ける世界観に就いて、そうした思想の侍就から眺めるとーウェルギリウスは神曲
ー
の究局的綜合と見れば丁クェγ
で最も大切な文献であると言って可い。即ち紳曲が殊に中世期精神−弦では例の古典の遺産と琉
実の新たなる財産とを中気で混じた甚だ鷹い意味での
古典時代の最も豊かな安座であるからである。即ちクェルギリウスにはホメWスやプラトーンなどを
始めギタユシアの暫単文畢上の材料が流れ込んだぼかりではなく、基だ都合の好いことには
ズムやエレクシスの俗間に於ける神秘的宗教も混すれば、或は常時に於けるロー†の民間の
取入れられて、墓場の彼方に於ける世界を見るには極めて重軍甘博物館でゐ㌃。
がアェネアスを噂いて
私はさきにクェルギリクスの地獄の妖膚塞いや而てこの呵吾観念に射すも恵頑極楽とすい
ふべきエリュシタムの思想が次に開けて凍る。シゼルの巫女竺キ旨
に近づいたとき彼を管め望一差に、﹁此虞より造は岐れて二つとト与る。右は虞大なるデイ
青臭文畢に於けるエリユシサム
下を過ぎて我等の行くなるエリュシクム担甘言への道なり。左は悪人の呵責を行ひ惨酷なる
5S9
古典文革に於けるエリユシウム
︵二︶ ルスへ彼等を琴QLと。これに依るとクェルギリクスはその一地敬界は罪人を呵責すべきものなること
をe琵邑l鳶蓋巨p−Orum明にしてゐる。それと共にエリユシクムは﹁歓喜の観﹂l¢C〓邑であり.
﹁︰︶ 1成東されたる者の森L冒t≡一翼彗卓β=写実呂⊇−仁であつて此庭に造らるペき者の如何なる部類の人
にメネラオス一人に過ぎない。しかも彼がブ
んとし先つヘラクレスを訪ね下界への波布皇軍ねる、それに射すろヘラクレス望一義を見
クホスは、此追の達人等が相次いで亡くなつたことを概して下界に下ってエクサビデアヤ
いつて可い。これがアリストファネスの作品になってはや∼趣を異に⊥てゐる。戯曲の守護紳バッ
道徳的観念も宗教的應報もない。とは言へ後世に洗行したエリュシクスの思想の源流は此
か優るとも劣ることなきアクヒルレゥスでさへへーデスの圭簡たることを欺いてゐる。別
エクスの娘へレネの夫といふ姻戚関係をもつてその資格を得たのである。されば武人とし
︵円︶ なりGLこれによるとエリュシタムに入り得るものは僅か
大洋は西風のそよぎ・で迭bて揺さをもたらす、そは御身はへレーキを妻として細々の御娘の夫なれば
トスが住み・彼虞七ては人はいと安らけき世を造る。雪降ることなく、風の暴る、なく、
らす。不死なる赫々は君を引てエリュシオンに地の涯に作ひ行かむ。彼庭には髪美しきフ
そのエリュシタムに就いて言ふ、﹁死することも或は馬牧ふなるアルゴスにて蓮命に遭ふ
可い。即ちホメ甘スにあつては甚だ素朴であつて罪と罰の思想が此虞では決Lて表はれてゐない。
ぢるかを明に描いてゐる。然るにこれをホメロスの未凍界に比較すれば甚しき遽歩である
別抑
界の司ブタユトーの門に到る迄に、まづ底無き湖・どカロンの舟で渡b−次に泥土と汚物の諌ふ淵に
胡う此度には罪人がのたうつてゐる、不正守心者、惨忽なる考不親切なもの、詐備
姦者、親々詔書せるもの、盗倫考、償記者、穀客等々多くの患人で満ちてゐる。此
景﹂重し、﹁和やかなる饗するは笛と人の琴、美しくひろがる光はこの地上に於け
l≠︶ 金媛の小路には歓び瑳ぐ男女の斐げなるやからLがある。ニの幸福なる輩は1神秘り故に入れる者L
で考。元虞で職賞罰の軌念が十分に現はれてゐると同時に重職を享受する老は、あ
で通†その信奉者でぁることである。アリストファネスで特に我々の興味を惹く卦
が何時も大衆に呼びかけてゐることで、此麒でも俗間一般の信仰なるエレウシチ神
凍て、ゐることが解る。而て﹁神秘宗致は生と死の牌心と結果に係は乙世未的宗教
︵六︶ る魅力はこの宗教が死の神秘に対して生と不死霊讐=﹂と一でもたらすにある。こゝに此岸と彼岸と
一品合するに宗儀の遵奉のほかに倫理をもつてするに到った′ノブラトンの未凍界
きを置く。ホメ:ではエリュシオンの所在に閲したゞ地の涯と言ったのみで明瞭を快くが一光も
それだけ後世の未凍界のコスモグラフィには都合の好い想像的除地を残して呉れたー1へーデスと
古典文学lニ於けるエリユシウム
迫つてキュクロブスが粟へた壁とアーチの門がある、此虞から内に入る老はまづ浄水re⋮1ニ芦
ju2
下に置いた。帥ナ品獄を去って、暗い賂を過ぎると中間地備萱tiuE−宍旨1E︰かあh・−更に此度を
は何等関係なく全︿別の位置にあるアリストフ丁ネスでは地下になつてゐるいウェ
591
r
朗把
古典文学に於けるエリJシウム
︵七︶
四二
一で身lこふりかけ木一で入口に植ゑる。か︿て始めて軟#の地エリユシタムに入る。由是エリュシウム
l探き波逆巻く大
は地獄とは隔てられてはゐるがその帝である。エリ∵ノウム・の位置l二就いては大概二つの洗がぁろ
︵八︶
といつて好い、 一つは地下で、他は大洋中に躍く、後索では例へばへシオド子S
︵互︶ 洋の磯幸福の島﹂の如く、ビングロスも﹁大渥頂は華棚の島の川カよ・り涼風を吹き送り﹂といひ、
或はブラトソのかの有名なアトランティス山容想上の話も亦こり溌を汲むと見るべきである。これ
︵一∩︶ はやがて古代に於けるユトビア系の文率Al■巧言tlti⊇の如き・はた〇等号山増設な㌣に反映する
ものと言って好い。
﹁アユ、牙アスの歌﹂に描かれたエリュシクムの内部の光景イで見よう。
前に粥げた常春の野に幸された亡婁共は﹁紅い光を出すアユテル﹂を浴び、彼らには特布の・太陽
︵山一︶ と屋の光とがある邑enl宅e萱一n︸︶竺p聖eI■⋮−01■⋮1t・或は戯れ、踊り、歌を歌ム。この中にて特lこ日
︵一二
に映じた者は、七絃琴を輝するオルフェクス.及トロイアの布の建設者、吏王繁くべきははるか離
︵両コ一︶
れて甲田戦車武器軍馬が普の僅の姿で立ってゐるっ又ある者は芳しき鉦樹の森蔭にて栗しげぢる.ハ
Ⅰ皇−賀一兢あり、無薮の
エアシを歌ひ、芝生にては寄集を聞く。伊太別のエリガスス即ち今‖Sポー河はこの査より洗を敬
するといふ。又遠くの谷蔭には木々が繁り合ひ、こ1に忘れ川レクェウス
亡室は宛ら花に群れ集Å蜜蜂のやうに集ってゐる。彼等は﹁迂命の紳によつて第二の肉倍一ぜ待ペく
︵lH︶
定められたる者にて今や永久忘却・り慰めの水を飲む﹂ぃであ”U二▲ノ三≡1喜⊇ヨ¥≡﹁喜≡云々は蔽
卵=
ちに重職の島≧已空室−−謡Oiを憶起させる、而て気候−い泥和ハサ?1と.穀物の豊睦なえ二と∵明る
い光、繰の野.花、競技.歌、踊.長丑無病などは概ねエリュシタムの特徴である、従ってこれに
は古き傍証上の黄金時代が容旨に結合†るりホメⅤス山エリュシオソが如何に彼等民族の現鱈珪
へ∵J の理想的欲求の反映であるかを知る、そしてへシオドスにてもさうでぁる。祝賀座活のはか琴、苦
悩多きに胸の迫まる﹁券作と‖々Lの作者は何塵にか華湖山尤一で求めようとしたが、幸廟はすべて
過去に存して今?1とを知った、而一一し北ハ梯菓たるや﹁年に三姥も穀物の収穫山ある地﹂に過ぎない。
前にアリストフナネス戯曲車ム⊥リ㌧シウムでは官菓と歌舞とエレシニアとを登見した。.ソラトー
介耶、雀栗、冬
ソ備蓄と挿せられろ﹁アクヒオ∴﹂スL、も亦=れと殆ど同じ′、、昔嘉に撞かれ〃Uちいが幸せ・しれる庭
には、†べての好ましい物が捕ら足り′.鶉尊者り協議もあれば諸人連山劇宣・▼りへ
﹁.Lノ
雅やかであつて若者の窟の戯れさへあるり
︵∵へ. もよもな′、常春郷であご、ヰ。してエレクソニ7.が軍畑いビングロ子⋮ル一で放かh㌧い。羅掲〃
文人では殊にティゾル人・いエソしシウ.︰は
喉より妙号る歌を吹き鳴らして此カかへ︰1たに飛び交ひ.地は耕さざえにルを珪じ、恵みあ〃り人地
り∴一ススは御自ら我を守りてユリ.シウムに送らめ。かし二に踊のたゆむ三とへ∵レ、小鳥は細き
カツシγ
死すら愛のために気もたえ入り、彼等の髪は見るからに桃令鳩の北い冠なりっ一
−二は香芳しきばらの花咲︿り若率ぃ炸は乙女とともに戯巧⊥変り仰げそり職を止むる二と∵し
︵.ルノ
エリュシウムでは原則として此塵にゐる者の什所を帖劃しない、−一ご一≡︵・er;︵一つ喜S⋮⋮:されど群
古典文やに於けろエリユシウム
古典文単に於けるエリ∴シウム
四四
一でなすものに自ら特色があるやうだ。此の鉦の.森に集ってゐる書き亡蜜共は、他国の焉めに戦死し
た人々、フてフスに協ふ純な詩人及び撃一日者達許cer宣ま、原理を費見して人生を高め、又有名な人
︹∴∵ 類の恩人ぢど公的につくした人々でJのる。此の仲間の一人でかつオルフ∴ウスと同じく神話的な詩
人り始動lムサエクスにアユネアズ等は導かれて小高き斜面に登ら粘ける野垂u−︶︵⋮訂−邑仇を見る。
そして紙の谷間にはγ∴ネγ.へが骨にむと望んで充たアンキ七スが今や己が婿務め子孫撃三々検
閲してゐる。逝返したる二人に寧で流して喜び、7.∴ネγスは嬉しさの除り、
﹁三度そ・い鹿を彼の頚に投げかくれば、その要は嬉しく抱かれて、宛ら轢き風の如くその腕よりの−
がれぬ、袈ある夢の如し。﹂
ニれによると亡蛋−ほそむ死する以前戎にそい最も相性的な性能は有してゐるが、それにi≡品こに
組織を混する。即ち邑喜⋮=コ己でJ申乙、︰れ・で艶物殊に人間に就いて見るに、二・い≡lニー︼:三≡L叫
やうな説明を輿へる。天地海及び日月には一つの監丁乞1・il=⊥又は心≡−肌が#し∵今慣を司配し全
られてゐ乙蛋魂輪何の詮はブラト
ソー
式でも一項る。ウ∴ルゼリクスはγンキセス山口一曾通じて次山
併しダンテとの比較は、次∽レナに就いてり説話によつて一層接近トて凍る。同時に此度で論じ
一︶ る影よ.三度わが腕はそれを抱けども、しかも二度とも手はわが胸に掠りぬr﹂
トVクⅤスを想起する。否それよりも滋も近しくダンテを想ひ較べる、﹁あゝただ外もの要なる峯な
過ぎないことがわかる。ホメロスの如くおはィりげなろ夢ではない。我等ほ今此度に夢中に現じた
5如
595
訪盲
と︼1已yから成立す
すle宏︷温・然るに有害へ仏るまた破捜す
が物貿と結合すると各個憶の生命の本贋を成すのであ・つて、而て生命は
一り。その未だ内債に阻られざる以前にあつては火性であ一じ
mi等ris−︵己−−−詮−古山te訪は長い間に吾人の中に喰込んで凍たもので
︵二〓︶ べき内債の牢獄に.閉籠めらる∼が故に、技に霊性本務の平静・で授乳し.所謂情潜の汲潤一ざ焦する。
斯く肉冊より凍る耐、疫病2已um
あろから、人が死しても容易に去らない、故に霊を本の如く眞純にするためl二はその滅罪の訓歳が
必要である﹁されば彼等は刑罰によつて訓茸され、古き罪過のため呵責を受卜鳶後の基督教時代に
於ける浄罪p弓g註○−−の思想が、既に異数時代に明に表現されてゐる。渾罪の方法として、ニ轟の
エリュシ
苦行が寒げてある、第一は﹁中客に懸け伸ばし透明な凪に﹂さらし、第二は﹁渦巻て洗で托はれ﹂、第
︵二六︶
三は﹁火中に焼かる。﹂次の数行は意味の明瞭一でや∼放くが、大健左の如き意味であらう.
クムに造られた者の内にてあな少数のものが此虞に留り、その蛋曽愈
リ几シクムの野を披けてレテの水を呑み、かくて次の内懐一ピ取り生命に締ると。
以上説くところに依って死後の世界が三種に分たれることを知る、而てこは亦神曲の地獄、浄罪、
憎urg已○㌢
の思想に、後者に就いては基督敦の再生
︵二八︶ 天堂の三界を暗示する。ウェルギリウスのエリェシタムでなほ吾人の興味一ぜ喚起する問題は、滅罪訓
蓑と輪廻樽生とである。前者に就いては彼の
の思想に関係づけて考へんとする。又今一つのことは、彼のエリュシクムに入れられてゐる人々は侍
詭上の若くは歴史上の偉大なる人物である。又ホメ∇スではメネラオスを見.プラトンでは赫々に
古典文畢に於けろエリユシウム
t95
59t;
古典文筆に於けるエリユシウム
近づき得る哲草書を見る、これらはやがて英雄安井︵紳箭上、叙事詩上、又は事賓上の︶や彼の発光
乞Or︸に結びつく。
拉︵一︶ 本誌五、望ド
ヘニ︶ ゝ壬eisノ、−・P;1ふらP︼−︼告=二㌻p=一ごG︼㌣空手・
︵チ︶ ノこ・㌘壱・
︵川︶ Odlノ一定㌻lく・ひ≡−γ尤も︼〓1己巳−−蔓−≡〝に地獄の裁判役に二代つ㌔
〓︶ ン=望仇−≠Cソ︻り土3⊥己宣三1巳一︻lG=・㌻ti≡ニ∵夢
二︶ く﹁更岩1女声︰り儀式l工ヨPへP℃雪r竜へRな想−工ぜろ。
︵〇 芦diCdGS−F撃︼ハヒl︻⋮⋮山ヨ・
︵九︶ ○︼︶卓piMl−T・已・︼γ
︵二︶ Til−−篤○肌声
︵〓︶ つ︼●莞予−空戸
︵三︺ §−1ニmコe7tiのか互tヱ心昧か、ほt亡拉がそれにゐろかほネ勅也。・トロイア斯学な綿†ほ工明らか光り。
︵三︶ ︼ど≡︵︵∑ハ・︼﹀L2−︶も・、∴′‡一G=り講釈写?もこ∴、に祀勝の歌、票り−宕P
︵一告 ご“−ごひ−
︵妄︶ リー昌e駕nCS㌍ひいAュ1icCl夏∽ぷ仁Crg㌻l′誓㌢
ツエけスは第四の輔族わ作つ㍗。=れに前の薪よりL高山でかつヰしく、紳の如き英雄に・してde≡i・gOd
ミ桝す。T−1eb巳−Tr〇㌻等の戟で多くに亡びrが殉存ぜろ常に、りエウスほ人界離れて任所な輿へ、地の踵に化草し
︵云 ︼g−−芦
む。彼等托大海原の深与波逆よく横車編の島昌≡ハlぎーO≡l害iに悲むよそに住み拍。この英雄蓮のナ∵りに垂徳光†大
597
地に年二三度賓を統べり。不死光る紳々み離れて遠くクロノス統治ゆたり。﹂
︵一七︶ トヒOCl︼CS当ド
︵l八︶ ○︼︶・≡p㌻︼︼●−OC−︼宏︰然ろに菩冗ネ且は、夜も雲tひ与しく永へに輝く太陽な有、し、背光き生の慕わ受く、乏Jき
たつきを補はんが篤lニ手を草して土に芸からひ、まtlェ海の水な怒ら†=ヾ1光︺。雷な守り︺肴l工務く・紳の前にて涙
知らわ生空︰.丁\その魂な認容によつてけ†=克く.つミめて沖く亨し者ほツエウスの追を過ぎてクロノスの特に蒙り
行かむ。=ゝにほ太陽の微風た・乙す華⋮⋮り島に四方より吹起り、求金の花l工機逸に又lェ輝けろ木々lこ光り、ほ王水lェ
ぁろものな拳ふ。花より作り、し花火むl工、ラグマンツスの草しき裁許にLたがひ、或は手にぇごひ、ぁろひl工花冠ごす。
同上Pg∴亭︶も略同じく、光、紅光ろ薔薇、草野、芳lェ亡与太僅、帯技などがぁろ。
︵一九︶ Tibu︼︼u旺l、ド琵・−芦
︵云︶ 警○−票ひ■i−1召lt玩pu亘qui妄p≡e詫C︼u雪eper邑i㍗ar仏ほ必ず−しも㌘○⋮雪Feu払lニあろやう先物尤ものl‡かりでl
なく、一般に哲撃や科畢の原理をも指す。
︵三︶ All︹訂e∽が比虞で示ぜろ人々の要は、その子孫、特に︼ど=u一uヤに至る迄︵ぷーー詔書ごレu雲Stu洗わ生写してJul㌻2−訊
束の人々︵諾∽−筈q︶⋮冒C≡Pの諦王ミ共和時代の偉人物︵SO∽−S冨︶
︵ニニ︶ l﹀urg芝○︼・i〇l−●づ㌣−S︼︰Oi C⋮bre苫lC、ruO−・C訂−邑l、賢pette言e乙t丘ret−・〇P︼乃〓e⋮冒i雲チ一斗et旨t︰
n巳▲旨n e鷲巳p﹁一ttO●
寸与ろ如く庖又lェ火花ご見らろ。︵ぎ一︼・gicO−1に日く、蜜蜂も榊智ビアエテルの滴な
︵ニ三︶ 諾P すl⋮㍍邑 ○≡肌まgO−・et C邑e.己∝〇l山gOSe≡i註己鵠●≦℃−・=冒i2︰:−≧乙i圧純∈己空でぁろ。:れほ古代で
︼エ︼el−≡PコCerOコ Fi−︸¥C︻︼e肌
けtりゴ ー diユ〓⋮re≡e三i∽etFu∽tuエ芦二le︼・㌻ン︼く.望C−1っ誓.
cH亡き=lu−・=顎⋮−買主巳
︵二e 記∝・E=︰=きu=t⋮piu主uごdC︼邑g呂d星雲e−コごue呂r畠d首iL∈一l・=り退の写さC言︸には.きiei喜 の
な見ろ。
︵云︶ ゴ岩−告e−・gO e曽−Cclきrl至コi:一etのrun︷﹂lleロ︼巳C−u⋮SUl乞i㌢昌写乙u=t・︰ゝl二ぁろ
古典文筆lこ於けろエリユシウム
698
古典文単に於けろエリユシウム
刑罰にいふ。○買取畠罵か参照。
︵二大︶ 可芦mコぎユ一一rほ十字架に礫すろ意に屏†る人もぁる。
天︶ 元よりヨ号n考を除外†る謬では兄い。
一■
︵云︶ヨ†ム彗・冒吉一qu⋮意u山てel貫き1睾警1旦ue寧=コ2・乱mp−訂訂官eヨ●
︵
島
牡曾の進化階段とカトリレズム、ブロテスタンチズム
及びソ
∴
政令の進化階段は大路三つに分けることが出警。第二塑堺始時代、第こ期武断的︵封建的窟成
立義時代、第三期公民的︵観民的︶自由ま義時代是である。而して凍らんとする時代は第四期として
β
の国際的整掌義時代とでもいふべきものであらう。今宗教殊に基督敦の費展を
照して観察して見ようといふのが本稿の目的である。
二
原始時代の事に警は今述べ.る必要は雪まい。武断的︵封建的︶権威主義時代といふは人類の赴
曾が原始時代の後期父様赴骨p賢弓巨象e−叫の状態より進んで種族移樽←首註○−−と征服・牒
⊥l邑と一ぎ経て、国家組織を現出し、征服階級が武力を以て強烈なる統制を行ひ、宗鼓を以て政治的
統制の用具としたる時代をいふ。スペンサーが︼鼓−邑−I壱○︻薫ietyと呼び・ギ雰・シグムか
ノノ、 邑i訂r賢這−宣ぎ亭の時代といひ、ホツブハウスが邑FO音の時代と言ったのが略之に軸督す烏
批骨の進化階段ごカトけシズム、∴フロテスタンチズム及びノーシァル・クリスチャニチー
産業は農業と牧畜とで雪。種族移持と征服とは人口の埠加と土地に封する欲望
ら9ひ
600
融合の進化階段寸−カトリシズム、ブロテスタンチズム及びソ′−シァル・クⅥノスチャニチー
五〇
起りたるものであらう。征服種族は武力を以て︸征服の結果を保持せんとする。被征服種族は強い
武力に依り止むを得す統制に服せしめられる。征服階級は政治上の焉政階級たるのみならす、又経
済上も支配者であちま人でぁる。生産用具たる土地は征服階級の土地とされる。被征服階級は政治
上被支配者であり服従着であるのみならす、経済上も奴隷でふ∵り被搾取者である。征服が一同しか
行はれす種族の混合が翠純であることは稀で、征服は数回行はれ、数種族が混合することが一般で
あつた。従って政令に場数多の階級が存在することになり、最上の点政階親より最下の奴隷頗民の
階級に至る迄の間に幾多の中間赴曾盾が存在するのが普通であつた。
となる。国家の範囲一ざ以て共通用の範囲とし、人格的多神教たること
此胱感に於て宗教は前時代の剋先崇井としての民族や部族を範囲とするものより一進して、所謂
民族宗教邑i。−1已re−igi。−1
を以て通常とする。宗教と道徳と法とは原始時代以来未分化の状態にあら、従って政治と宗教とは
未分化のものであつたが、此時代に入上しは政治的統制が上述の如く拙著強烈となつたが故に、従
って之に伴ふ所の宗教的統制も意識的、目的的に強烈となるに至った。納ま政治t−1e宍・r胃yは此時
代の特色である。
ま樺者は紳そのものであるとか、紳の子.紳の子孫又は紳の特別へ与る代表者打アりとされた。され
ばヰ樺老を出して居る支配階級が最も紳に近く、最下層の奴隷賎民は最も紳に追いものとされた。
紳に近いとか速いとかいふは政令的惜偵許倍であつて、紳に近いものは神聖戒せられ、之に速いも
のは汚職視せられた。中等といふが如きは此時代に於て夢にも環‡ことの出牽ない筋であつた。政
治的統制と宗教的統制とが未分化に合一して居るのであるが故に、宗教中に未分化に包合せられて
居る畢閃や思想や道徳や基地の女化憬伍上s一切の樺成は、政治上の主権者之を鰭現代表して居る
ことになり、自由といふことは宅末も認められす許されぎる欺愚にあつて、為政者は文化侶伍の樺
威を代表して居ることになるが故に、之一ぎ樺成ま義といふのでぁる。
此軋骨朕岱に於ては多くの場合に封建制が行はれる。封建制といふは土地の領有といふことを基
礎として、同一土地の上に上下幾階段の餅有様が、同峠に存在して行はる∼複合的統治組織でぁ
る。最下盾に在りて貰際土地を耕作するは農奴であり臓民でぁつて、土地を硝石する領主が幾階段
にビラミット形に存在し段上位に最高徹有着たる閲王が位する。硝石権の階盾は同時に上下の人と
人との間の服従と支配との捌係一ピ意味し、融合は君Hま彼の関係に於て幾階段に組立てられて居る
妖牒に在る。此の如き封鯉制は一見如上の一武緋駒構成ま義の社食に選る他の原理を附加したる如く
見ゆるも決して然らす、たゞ事態を少しく複雑にしたるのみであつて、謂はゞ複合的武断的権威ま
アッシ,ア、バビロン、印度、支那、日本すべて然りである。
融合の蓮庵階段ミカトリシズム、.フロテスきンチズム及びアーシアル・クリスチャニチー
たゞ異る所は画室政治に於ける宗教的色彩の強弱濃淡と封建制随伴の有鮎⋮とぐらゐのものである。
ダヤ、ギリシャ、p−マ、エデブト、
武断的権威主義の状態は、政令の進化階段としては何れの観に於ても見出さる∼所であつて∵ユ
義に外ならないのである。
6q.
602
社食の進化階段寸1カトリシズム:フロキスタンチズム及びソーシァル・クリスチャニチー
五二
欧洲中世紀は正しく此状態である。而して他のすべての場合に於ては民族的多神教の焉したる作
用を、此場合には普遍的一神教たる基督数が点したる部が異るのみである。
欧洲中世紀には未だ民族︵近代の眞の意味に於ける︶なるものは出現せす赴曾胱感は原始時代の後
期を去ること速からす、部族民族の状娃にあつたもめでJのる。之に対して政治的統制と宗教的統制と
一で輿へたものはローマ致曾と紳聖ローマ帝国とであつた。法王と皇帝との勢力寄は歴史上有名な事
ではあるが、原則としては雨着は車の両輪の如く、蜜俗両方面の最高代表者として、蟹族統治の任務
に普って居ったものと軌なければ乍らぬ。而して、土地贋大にして交通機関の幼稚なる昔時に於ては、
必然封建制を現出するに至り、法王と皇帝とは封建諸侯の最上位に位したる統治者支配者であつた
のである。ローマン・カトリシズムの地坪約数樺主義、形式的律法ま義、自由非客観的絶封服従ま義其
他殆んど一切のその特殊的形相は此武断的櫛威主義時代の宗致たることに由蒸して居るのである。
此時代の宗教が以上の如き形相を呈するの故を以て、宗教そのものが、グムブロタイツツやマルクス
の言ふが如くに、階級支配的なもの、搾取的なものと解するは預である。
人類の赴曾は以上の如き状態を通過して始空し、血縁をまとする赴骨よら地縁を立とする赴骨に
進み、数多の其れる文化を持っ異種族異部族が同一土地に混任し、強烈なる同一武力的統制に服す
ることに依りて漸次融合混一して、後に遽ぶる民族なる一段高次の政令を現出するに至ったもので
60.j
ヽヽヽ
あつて、向−播力に服従しての融合混一の過程に、敢曾遊化の根本原則たる政令化筆il己邑いiOロ︵ス
.ヘソナーの語を似りて言へば統合㌻︷e七・atiC−−︶が行はれて居るのである。赴曾化が行はれるには一
方、上にある柿力老に射する心的服従と他の二カ、同二椰カに服従する者同志の間に於ける接簡融
i−1き岩︷亡−.芸b−已乳C−−と呼びフィアカン
と呼んで居る所の服従本能即ち自己を否定して自己よら優越せる偉大な
マクドー・ゲルが
和との雨着が行はれることに依りて可能でJ釣る。人間の本性は政令性に在る。武力的権力者に対し
ても時ととも.に心的服従を捧げるに至る︶
トが 仁山tererdllu鹿茸⋮各
るものに服従する傾向キ暇命之を本能の〓楷とすることに議論はあらうとも、人心に根ざせる一
っの根本傾向であることは拒むことの・出水ぢい郵賓である。被征服者も睦とともに、武力的征服者
の統制に甘んじて服従するやうになるは、斯くの■如き人心勃根本的傾向に従うての普然の結果であ
ヽヽヽヽヽヽ
る。此虞に於て主権者と服従濱と山間に一耗の共同就骨牌係︵ぎ︼Ci−邑≡ぎ喜一一己t−−i正が成立するに
至る。即ち権力圃係の外破のうJりに、何時の問にか共同赴骨閥係が茄芽し寮生するに至るのである。
又同一土地に定住し、同一権力に服従せ一︺老の問に於ても、その始め慣習や言語や風俗の其れるに
も拘らず、漸次、融合混一して共同融合聞係の成立するに至るは人間本性としての政合性の螢蕗の
結果として雷然のことである。斯くして梯力的支配のうちに軋令化作用が働きて、政令を進化せし
めて一骨高次の社食たる民族を発現せしむる準備一どする。
宗教が階級支配的又は搾取用具的に見ゆるも此時代の特殊相が然らしむるのであつて、宗教の本
批骨の進化階段ミカトリシズ′∴︺ノロテスタンチズム及びノーシァル●クリスチャニ手−
机
正行の進化隅投ごカトリシ、スム:フロテスタンチズム及びソーtシγル・〝リスチャニチー
五四
賀でに∵い。朴毒㌫本欄〓︰γ此ハ川赦曾捌係にれって、閣乍腐係や樺力榊係に非ぎる如く、㌫教の本貿
も亦共同敢骨闘係的ハ′′もの■、結令増進的なものでぁつて、岡澤融係や権力㈲係助長に在るのではな
いっ抑こポ敢が附級支配的に叉推服的に有効なる用典と行アり得るといふことも支配者だけの一方的
目的や意思で出水今︼与し、にへ与ぺ、洗︿人心の根本に根ざし、被支配考破搾取者をして之に依りて
服従せしめ得るが男め一であるに外字・りぬ︹﹀自己否定的服従本能といふほ賓に㌫数的本能とその根本
性寧で同じぅするもぃで■再つて、㌫故が﹁紳﹂とい∴対象に向つて、人間をn已香定両夜戎的に服従
せしむるものが、敢曾的に発露すiLば、乱曾s優越せる構力者偉人英雄等に対する自己否定的没我
的服従とならしむろものであつて、両者の根本性質ほ嬰Qものでほない。又n己否定の反面は自己
肯定窒息昧し、﹁紳﹂へのn己否定的没我的鮎服は反而に﹁紳﹂への参加﹁紳﹂に於けるn己骨足音意味
あづか する。同一﹁紳Lへの共同的没我的服従は同﹁紳﹂への共同的特権的参輿となり、同一﹁紳﹂に興る者
をして一種の精神的共同惜・で形成せしめ.之に締服せざる他の乱脅集圃に対して強く自己を砧別せ
形相ノで有し乍ら、而も基本望に於ては、再ポ教本凍の性質としてぃ入関共同酢
しめヰ張せしめる。政令結合は此が鶉めに燕何となる。此意味に於て.此岬代の宗教は階級支配的
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
て居るものと軌ハ甘ければならぬのでJ釣る。
三
酢伊のその衆の進化階段は公民的︵同比的︶R由ま弟の時代である。此は農業に対して商工業が勃
6t)5
興し、村落に対して都市が除塵と打㌻り、武士階級に別して都市の町人階級が描頭したることに依
て東女云。商⊥某の費建とともに、交通開け、人和は進言、富は薫精せられ、郡市は粂え町人階級
は勢力を特務るにつれて、封建訪伏と武士階級は段々に衰微して凍らざるを得なくなつた。諸楳中
の雄へ・守るもいは恍に観‡として民族的統一同家を建設する機述に在ったが、今や勢力を得凍っ
新興町人釈放が此闘王を奉戴して、小間の封娃諸侯と武士楷銀と一で挟撃厘迫して、妻滅に掃せし
国王中心の艮旗国家を現出せしむるに至った。
上述の如く勅命の進化は軋倍化に依るものでJ吋つて、既に数多の異相族典部族の混一融合は、新
しき軌骨、前よりろ範聞の廣い一軍‖何次の政令′で現出せしめんとする気呵をょして居ったので
が今や.上述の憫勢に依りて刷上民族−乏i三−ぢるものは結成せられ比教団家mtiC〒St旨なろもの
は出来上った。艮戯囲家レ︶初期は聞‡中心の専制ま義であつて、前時代の紳ま政治を民族の範囲に
於て.套姫したものに過ぎない状媛であつたが、自由講義中等主義の精紳に依る立憲轟面が起ト∴
幾多の革命も石はれて、遂に寸芯囲家デモクラシー由家となつて、以て今‖の服態に迄螢達するに
至ったものであろ。
捗て.乱行が期の如く進んで来れば−昔‖の武断的椎威正義時代に於て、基時代の敢曾佳活に取
りて、有力互ろ育成的機能′で眉Lたる再“教も、今は却って、配合進化の根橋よなり.J拘らゆる推蓮
の附相済と∵乙に至るは晒易き珊で一項つて.此塵に於て如何にしても宗教改革が現はれねばならぬ
正行の進化椚段ごカトリシ.ぺム、ナロテスタンチズム及びソーシァル・クリスチャニナー
腑
証伊の進化階蔭i嘉トリシスム、ナ⋮スクンナ・スーム及びソーシァル・カーリス.チャニ手−
五六
機運に向つた。斯くて現れたものが即ち、サボナロラ、ウィク.リフ、フス等を先編者とし・ルー一7
ル、ツウィングリ、カルゲイン等を大成者とすり︺桝り桝刊州宗教改革−㌢さき≠已iO−ニ∫める。
而して斯くして生れ出でたろ新しき形醗を右する基督教が即ち.フロテスタソチノムに外ならね。.
ブロテスタンチズムの融合的機能は要約Lて商†資本ま義の螢建促進と民族︵国民︶国家の完成と
に在つ佗ものと言ふ二とが出来やう。
先つ便宜上民族固家り完成をさきに考へて見やう。p−マ数曾と所要ローマ帝国との支配樺の下
に於ては・−各民族が猫立して民族観家を形成するといふことは可なり困難守1とであつたに蓮ひ無
い。之を可能ならしめたものは、ローマ法王の教権に封する反抗運動としての新教連動でぁつたと
いふことは極めて理解L易き所であって、比准尉家形成の梯運の早かりし英国が逸早く一種の新教
を採用して、ローマ法王に射して覇立を宣告するに至ったるは此好適例である。
薪故にも大軍一種類あらて、国家的なものと、自由ま養的なもり主に分れる。前者は英観の国数
や、燭逸の国数の如きもの一望息味し、後者はまとして、ブレスビテリアニズム、コングレダーショ
ナリズム、ククエーカリズム等を合む所のビュリクニズム窒息味する。資本主義を勃興せしむるに
興って力あつたものは後者であつて、その間の聞係は次に説︿通りであろが、民族観家完成に封し
ても、之をジムメルが説けるが如くに観るときは、稜老も亦重大打アる役目を演じて居る。即ち自由
ま董個人箋姦の掃紳は、個人ノでしてその家族内にれりては家長の樺威から解放せしめたものであ.り、
郷藩に在ヱしはその領主の樺威より解放せしめたものであつて、小敵骨小権威よりの解放は
の方面より観れば、自由ま我と個人ま義との精神の教務として、政令解髄的に見ゆるも、解
果は民族といひ国民といふ一骨大なる高次の敢骨の形成に在ったものであつて、些息味に於
自由ま義は同時に国家ま義であ丁り個人ま義は同時に国民主義でもあつたと言ひ得られるの
又ビュブタニズムの自由ま義と個人主義とは国家を何時迄も国王中心の紳樟的専制主義の
放置することはしなかった。すべての構成の個人の良心内に在ることを信するピエタクエズ
家櫛力以上に個人の良心の自由を令重しま張せざるを得なかった。斯くて個人の権利自由Ⅵ
生み、天賦人様説軋合奏約詭等の赴骨再挙に対して精神的気呵を供給して、紳標的国家権力
辞と男ら革命を産み、遂に信教の自由以下諸種の自由権の承認と焉♭、塵政樺の賓現と行rり、三権
分立が法治ま義の確立となり、結局試合を中心としての国民自治に迄徹底し、観家をして近
憲国家、デモクラシー国家と焉㌃しむるに至ったものである。
新教が商工資本ま鶉を螢蓮せし畏ことは疑の無い事貫であつて、その両ポの間には密接ぢ
があるが、近凍此等の鮎に関する研究ほクェーバー、トレルチ、ク
トユ
ーソ
ニシ
ーュ等の畢者に
就骨の進化階段ミカL﹁“りシズム、.フロテスタンチズム及びノーシァル●クリスチャニチl
のとならしめたるは非干渉ま義−已語註1ぎに徹底したる自由ま義的新教即ちビュリクニズムでゐ
ら無戒することの出水ないものがあるが︵保護ま鶉的費遽︶、資本ま鶉そして直に資本ま鶉らしきも
依りて徴に入ら紳を穿たんとして居る。資本ま義の費迂にとらて国数的新教の陶奥せし部分
土 807
60さ
一尺骨の蓮た緊Rミう・、・Ⅵ・、=、∴、イ ロニスタン千↓㌻﹂及びソーシTル・クⅥソスチャニ手−
五八
ったことは言を侯たない所である。今ビュリクニズムと資本ま議の教達との榊係を要約すれば次の
如くであらう。
一、ブロテスタンチズムは竿ば現世ま義でふ∵り竿ば彼岸ま義であつた食め、票数と産業とが接観
し乍ら、産業の全面を宗教が支配せす、産業の世界は産業の理法に任せ、宗教の世界は宗教の原則
一でして支配せしめたる焉め、産業の世界は所謂利己的﹁絆折人﹂主義が支配するに至った。
二、道徳観は形式ま義枠法主義であつて、ユダヤ思想に近い。たゞ樺威ま義的紳ま政治を否定し
て、その様成・ぜ個人の良心に置き換へたに過ぎぢい故に、形式的錘怯ま義は内部的白樺的形式ま義
仲法主義と鼻じたに過ぎへ㌧い。カ∴/トの道徳観の如きが最も之一でよく例語して居る。形式ま義律法
ま義は同胞愛よケも寧ろ正義を高調する道徳であつて、正義の高調は商業に於ける取引上の正美、
自由競軍の規正原理となるに通して居った。
三、紳軌が超在的紳観であつた。超在的櫛成的であつて慈愛の天父性を高調するよりも、権威者
であり審判者である威厳の支配者を高調した。紳を斯く超在的に軌る結果は、人と人との問係を又
併列的離索的個人主義的に観て、その間一で仲するものは、厳正なる正義の律法のみと観るに傾くが
故に融合の猫自性と人類の紳に於ける連帯性が閑却され同胞愛の精細が稀捕となh′、結果として競
瑠ま義の是認助長となつた。
円、天職 っ乙li−1gの信仰が形式的相法的道徳観に背景イ寸けられたる虜め、冷厳で駐進的で掲車馬
的であった。﹁紳の発光﹂一笠鱒す虐め、紳より輿へ1れし天職一で淫行†る男め、自己の常葉に勤勉努
力する結氷、富は自然に蓄積し、資本ほ増大し商貞は繁‖=L、n然上資本家とへJらしむるに至った。
常時ビュリクエズムの最も弘通し倦播せられたる昼鱒苗山新鱒階疲︵ブルジヨγ︶の問でぁつて、
ねばヘナつぢかったが、此峠代の宗教に就てはその
級支配的ぢりしため、宗教そのものが階級支配の
資本ま義の鎗蓮との榊係は以上の如くであつたのである。
前時代の票数に就てはその呈したる特殊和が
用具の如く誤認せらる∼ことあるに対して警戒
特殊相が個人主義なえの故を以て、宗教そのものが偶人内心の問題であつて、融合的なものでない
とする謬想に封して、吾人は警戒せねばならぬ。
個人ま義なるものは構成主義よりの解放に件ふ必然のイデオロギーである。配合が桔成ま鶉的階
級的に構成せられて居るに対して、階級一で打破し中等を主張し自由を賓現し、彼腫迫階級が解放せ
られる焉めには、個人の職位と竹巌とが極度に高調せらる∼は普然のことでぁる。斯くして近代の
新しき政令は出来たのである。農業の政令に商工業が隆雄とハ与り、自給経済の敢曾が貨幣痙顔の社
食にと進み、身分の赴骨が契約の赴合にと鼻り、封建割墟の政令が民族閥家へと統一せられ、立憲
開家デモクラシー国家にと進むことが出来たのである。之をジムメルの言ふやうに言へば、個人ま
⋮義自由ま義は個人一でして家長の構成より解放せしめ小小甘る村落政令とその蕾き慣習より解放せし
祉何の進化階段ミカトリシ、ズム、.フロ子スクンチズム及びソーシァル・クリスチャニチー
;10
武骨の進化賠段モカトリシズム、.フロテスタンチズム及びノーシァル・クリスチャニチ一
大〇
め.郷滞の閉まの権力よら解放せしめ、中等等質なる艮疲といふ高次赴曾へと結成せしめたのであ
る。之一ぞデュルケム洗に言へば、此時代に入りて個性が明にへ仏り、分業が盛にな♭、軋曾の紐帯が
弛んだやうに見ゆるも、賓は祀曾連帯が類同に依ろ機械的連帯一F邑id弓itご已昌己︵l一−eOt一p弓乳m・
i已iユdll已i邑iO︼l が進
i−ぎd謡より個性と分業とに依る有横的辻帝㌻s乙己弓itかC−■登︼i宅のへと進んだのである。又之をス
ご1tつgまぎ︼融合化ぎCi乙iき︷iC〓が進んだのである。
ペンサーやマツキブアーの言を暇りて言へば分化di謬芦lti註e−−個性化
たるとともに、統合
之を賓際に就て観るも確に軋曾化は前略代に比して一段の埼進卑小して居る。各閉ま、各藩の武
士と武士とが互に闘守関係に立ち、動もすれば私闘が行はれ復躍決闘が行はれて居った融合が法治
の赴骨となり、民族といふ大きな融合を賓現して、一国に裁判に依る裁断を似て、武力に依る同軍
に置き代へたことは此上もなき敢骨化であると′いはねばならぬ。解析上の自由麗辞の如きも、之を
前時代の利益が武力に依りて寧奪せ・・りれたるに比すれば、一段の進歩であつて、敢曾化の一束現と
軌なければならぬ。又政樺の軍密の如きも投票に依る多数のカに依りて決するに至ったのは前時代
の武力に依る争奪に比すれば確に一段の進歩であつて、敢曾化の一夫現に外ならぬのである。なほ
封建時代の鰯故老の武断的権力が壁じて、政令への奉仕的なるべき近代的政府と存アリ、官鹿となる
に至りたるは、所謂樺カの樵能化卑小すものであつて、敢骨化の一束現と軌なければならぬ。なは
家長の支配的柿カが舜じで奉仕約親擢となるに至りたるも.柿カの機能化の著しき事例として見逃
611
してならぬことである。
嫉くて、前時代の樺力関係のうちに成立して居った所の、そして圃軍関係に依りて区切られて居
った所の多数の悉元金なる共同赴曾が融合化に依りて融合化成し権力の機能化に依りて樺力関係を
解脱して、等質平等なる個人を似て構成する所の近代の民族なる新しき一大共同社食へと進展した
ので雪Q。されば個人ま義自由ま儀中等ま義の解放精紳は反敢曾的に見え、政令解憶的に動くが如
く見ゆるも賓は斯の如く/より大なる共同政令結成への指導精細に外ならなかったのである。
ブロテスタソチズムはその良心至上ま義を以て個人の良心の直接﹁紳﹂に交り得べきを数へ個人至
上の償偲と宮殿とを輿へ、地上の権威は個人の良心の外に無しとする迄に個人ま義に徹底せしめた
のである。此に依りて自由主義もその魂を獲得したものと言ふべく中等主義もその精神的基礎を獲
得したむの皇一日はねばならぬ。・新興町人階級は此信仰に依らて商工業にいそしみ、公正なる取引に
徒事し、白ま燭往、勤勉力行して産を起したのである。敢曾︵昔時は国家︶の上に自由と権利とを﹁紳﹂
に依りて自有する個人ありとの信念が、天賦人権説政令契約詭の精神的気呵老となつて、国家に自
由権を保持せしめ、之をして、立憲洛冶.の国家とならしめたのでぁる。
赴曾︵国家︶の上に個人あり、赴曾︵国家︶その手段に過ぎすとの思想は、一見反社食的信仰の如く見
ゆるも.その個人と個人とは﹁紳﹂に於て、深き内面的共同性に立っと考ふるが故に此虞に深き自律
的内面的共同政令関係を辣定することに守Q。たゞ此時代の信仰に於ては、個人と個人との間を繋ぐ
二 祉骨の進化階段ミカトリシズム、ブロテスタ㌢チズム及びノーシァル●クリスチャニチー
61:三
新村の進化階段ミカL﹁再リシズム:フロテスタンチスム及びソーシァル・クリスチャニチー
所の連銭は政令といふ超個人的存在に非す又之に内在す乞.紳﹂といふ超個人的存在でもない。﹁紳﹂
は超正し政令︵常時は国家︶は個人以下の手段的外面的存在に過ぎぬもの一と考へられたが故に、個人
と偶人と一で繋ぐ朗の連鎖は超越的立法者にして同時に審判者たる﹁紳﹂に基づく、形式的梓法的道徳
︵自然法時代には道徳と法とは未だ十分に分化せす︶と考へられた鮎が、偶人ま義の個人主義たる特
色であつた。此瓢は﹁鹿骨﹂一官僚見したろ以後の現代の思想と著しく異る。此形式的粋法的規範に依
りて繋がれたる意味での自梓的内面的共同政令聞係に産業と経済との内容を撼れば、常時の商工資
本ま鶉切穀倉と打てり︵ブルジョア敢骨といふ︶之に政治と法種と・の内容と墟ったものが蕾時の法締ま
義立憲ま義に外ならハ与かったのである。
之を要するに.フロテスタソチズムは偶人主義の特殊相を呈するも、此第三期公民的自由ま義時代
の共同政令を育盛する機能に於ては他の如阿なる宗教ようも顕著であつたことを認めハ仏ければなら
ぬのでゐる。
四
十人世紀の後年より十九世紀の前年にかけての産業革命は全く事琴竺鼻せしめた。エ菜は始め
手工業だったものが所珊州家内工業とハケり、ついで†場工業となつては分業と組織とに依♭て大規模
の企業とへ㌧ろに至ったが、更に加ふる∴機械の薇桝に伏トて、機械†業とハ㌧ろに至って今日の如き
状態を呈するに至った。
11i3
大規模の機械を据ゑ付けて、大工場一£醍條して鮮賛寸土ことは、莫大り資本の所有者たること一
要とし、資本は段々少数者の手に集中′し、毎産労働不力数は段々に増加し、軌禽は少数資本家階
と無産労働者大衆との二階毅の画才で.小⊥一†に至ったl・今日に於ては安来家は櫛力薪であり資本の私
アダム・スミス等の自由説軍祀論は有名二ものである。自由競争に依り
有は権力の把握一望息味する。労働者は碇接此権力下にれる﹁賃銀奴隷﹂であるっ初め資本主義は
競軍を以て出費鮎とした一J
て滑墾者顧客ほ利益すると考へこれた﹁−然ろに自由競軍は本務一種の闘隼であるが焉に、強者を資
本家とならしめ弱者を労働者と∵了bしめて権力樹係にと慶するに至った。然し乍ら資本的樺カは決
して破雇傭着たる券働者にのみ封†るものではぢい。自由競争より段々燭占的になるに至れば生産
者としての資本家は消費者としての一般融合に射して搾取的にへ与るものであつて、権力支配は一
赦骨にも及ぶ。労働者も亦滑著者であぃ
一、
般政令の大字一で構成する構成分子㍗アりとすれば、労働
者は二重に搾取せられる立場に立つ。資本家労働者の中間に所謂新中流政令としてのサ一ノリーノ
なるものが存在する。サラリーメソは労働者と同一ではへけい。然し破雇傭宕として資本的権力一
に在る意味に於ては同一である﹁J賓に今日の産業融合は鍵形の封建赴曾であつて、大ぢる燭占的企
菜が封立して、互に闘草・り状態に在乙こと、群雄が割接し又は雄藩が封立して居ると選らす、そ
下にその組織的樺力下にサラリーメソ、努働者の働ける様は、封建的鞠主計絶対専制的権力下に武
十百姓町人等が階段一で属して、存在し二ると相似たるも■山か在る。嚇ヤト今口に於ては、資本
鉦曾の進化階段ミカトリシスム、ブロテスタンチスエ及びソ.−シァル●クり′スチャ三′−
社食の進化階段ヾ1カトリシズム、ブロテスタンチズム及びノーシァル・ク町スチャニチー
六四
は封建領まの土地の領有に似たる否それ以上の権力努意味するのである。
此権力はたゞに産業敢曾に於ける権力たるに止らない。既にデモクラシーの賓現せ
無産階級の雄叫びの孝は吾等町耳粂を打って挙っ。此はマルクスの言ふが如く階放
であつて、赴曾化とか結合の智進とかいふべきものでは無いではないかとは何人も
級の結成は改案どして−組合として.着々として進みつ、ある。資本ま義の牙城に向つて突貫する
如何に考ふべきか。無産階級の璧醒−こ勃興とは日に月に目愛しい。潮の満ち凍るが如くでぁる。階
之を赴曾遊化諭特に赴曾化の原則に依りて政令の進化一ぞ理解せん4する赴曾進化論の立場からは
とは思はれないのである。
現代政令の情勢は以上の如く、賓に深刻なむ赴骨問題を率ムで居って、到底赴曾は此ま∼で済む
主義即ち是でぁる。
融資本主義︶此民族的利己心を誘う一\他の競守尉に対して武力的競瑠の態度に出でしめる。帝国
食め、原料品−uの生産地を確保せん虐め、又近くは資本そのもの∼放下地一ぎ見出さん食めに︵所謂金
れば互に侵略的闘寧的になり易きものであるが、資本ま義は自己の生産物の市場を
自由との原理の賓現せられて居る国家に反影する。国家の政権は資本家の董断する
はその階故の利益の食めに運用せられ、労働階級の解放運動に射しては極度の抑腰
て加へられる。又国際関係に於ては、混族国家の割墟封立は、民族の集囲利己心に
Glヰ
歴史上階級間等の事茸も無成することは出来ない。然し敢曾を進化せしめる根本動因は階
では仁い。階級間にせよ︵マルクス︶種族間にせよ︵グムブロタイツツ︶個髄間にせよ︵ダークイy︶隅等
を以て政令の進化を理解せんとする企ては、すべて失敗に蹄して居る。赴曾の進化は結合の
あ♭、赴曾化の原理に在る。此粘はコムト以下スペンサー、ジムノル、デュルケム、ホッブ
ッキプア−エ
、ルクッド等社食畢の正系の結合本位思想に正しさがある。
資本的権力は、権力的専制的統制の下に、生産者をして組織的協力的の訓錬を点さしめ、
証曾の進破顔段ミカトサシズム、ブロテスタンチズム及びノーシァル●クリスチャニチー
義政含の賓現は赴曾化の一層進みたる政令の賓現であり、自由競学童義のブルジョア武官に
ューレーションとに慶することは闘雫の進化皇息映し是亦政令化の妄面に外ならぬ。故に赴
髄化を意味する。而して、企業と企業との間に於ける自由競寄としての闘守が渦滅して∵協
つる評であるが、此場合の資本的権力の滑滅利己的生産の奉仕化は敢曾化の一方面として権
需要の焉めの生産と頻るに至って︵社骨董義の賓現︶初めて此率㌻れて居る新政曾は現賓に生れ出
間に、一層高次の吐合を準備しっゝある。資本の私有が靡せられ、利己的螢利的生産が、政
リーメソもすべて、一つの組織のうちに協力的に生産に徒事する位置に置かれて、.知らず知らずの
出さんとして居る。権力下に在るものは労働者のみならす専門技術家も、簿記合計の事に嘗
燭占的にハ†り行いて、自由競苛ま義り社食よりも、もつと赴曾化したる赴骨を自らのうちよb作り
薪なる忘高次の赴曾を準備せしむる。自由競季といふ、各個別々の産業赦曾が、漸次権力的
6】6
61(ミ
鉦骨の進化階段J−カLrJりシ一ハ■∴.フ亡こて々ニキ一:−ぶぴり′−シγル・ガーリスチ†ニチー
共同赴曾よ・?も二厨進ん㌻っ共同敢曾が席濃に帥して焦れ出でんとして居ると観るべき着でぁる。
簡際的方面も亦融合化・い配剤に於いて理解せられ得る。開院問には氏族り集囲利己心と之を誘う
て帝観ま義的たらtむ一上里り貿本ま弟とが一山つて、国際間に、虎槻耽々たろ列国直哉国的割接封立
でみり、武力的岡澤の修羅場で一のるが如きも、此外桁∴∵フJりに国際協力の串賓が除々に発展しっゝあ
る。個人と個人との控柵交通に依る融合捌係の問際的篤大一ざ根本的基碓として、諸国間の私的国際協
力圃鰻の発達、次で国家と国家と山間に於ける諸相山間際わ政聯合︵萬固郵便聯合食はその著例︶の
発達、而して最後に間際聯糾皿の如きも′い∼発達は阿ノで意映す一〇かと言へば、すべて混艮族的世界的共
同政令二=∴〓言=≡二三≡︼二==⋮1≡主、の発逐一窒息味†乙。今や共同牡曾は民放の範囲よ・り一段高次の
混艮族的世界的共同敢曾に迄妹大せんとLつ∼あ乙も山と軌へ㌧ければ王らぬ。而して此事は交通機
関が.域道や汽解より一特して飛行機の時代とぢるに至って特に著しき進展を示すものと思ほれる。
産業的方面と国際的方面との両方面より斯く敢骨は進まんとして居る。之を赦曾の新ハ与る進化階
段として、閏際的政令ま義時代と呼んでも差支あるまい。
lぎ註三−已.芦で
赴曾が斯く進むに至って、国家外に敢曾の存†ることが明白とヘケQ。閉家は最早や決して仝鰭赴
骨と考ヘムニーとの出来ないものである。多元的闘家論が国家む以て一稀の職能囲健
葺i註⋮ として、共同乳曾と陸別し、全標社食と陸別†乙に、軋合の此事後に普而しての説明とし
て、最も常ノで得て居るのてあこ。
617
敢食が観官化し、共同軋曾が世界的になり、軋食ま義的になるに至れば、国家は如何になるペき
sL芳uノさJl書−1t
i−ニー乙=賢y
の原理が賓現せら
かと言へば、外部に対する防彷的職能一ピ喪失すると∼もに、生産業を中心としての新しき職能を澹
督する阿既となるであらうと思はれる。岸潔白治
れて、生産者は生産者としての比較的燭立ぢる自治圃髄に依りて、生産を行ふとしても.結局之を
国家組織の一部として蓮賛する外無かるペく.結局国家の職能の購大一豊息味することになるであら
ぅ。購凍の国家は軍備観防の方南の必要が無くハ与ることに依りて、徹底的に艮生ま轟的になら得る
であらうが、同時に二生産業い澹常に依hてその職分の東大性一主都ふるであらう。此が依然国家と呼
ばる∼は治安維持の職能に於て麺り無きが放でみる。
今や人相軋骨は箪二期山公艮而︵囲艮的︶自由ま義時代の終に乾き、第四期として国際的融合重義
畔代の階段に人らんとしつ∼あ.乙。現代り悶え.現代の問題は寸べて.此大慶草を中心として屠る。
法種も之に依りて大境単一で遂げんとして居る。道徳も之に依りて大慶単一で遂げんとして居る。宗教
も亦決してそい例に漏れることは出水∵いのてある㌧
斯の如き漸増運り前に従来のブロチノタンチノムが新珪命の粍批とハ㌧り′、軋曾進化の阻持と㍗アリ
っ、みるは、梓めてn然ツ丁乏しある。間数的ブリテスタンチ.、スムはあまりに陶家的駒椎的である。
自由ま義.ソUテ′スクン予ズムはあ享りに偶人正義的自由ま義的でぁつて、資本ま鶉のイデオVギ一
に結介し過ぎて㍍ろ“新興東夷輌疲の闊際主義的和合ま義的運動に勤しては揮搬的反動的阻禅的で
札付の進化階段ごカトリソブム、ブロ一†﹁タ、ンチ︻∵山北⋮いり一−シァル●〃=スキヤニチー
618
証曾の進化階段ミカLr−=ソシズム、ブロテスタンチズム及びノーシァル・クリスチャニチー
六八
ある。意識的に然り、又無意識的に然りである。之に封して無産階級の理論家の側より宗教は階級支
配の用具打†りとか、無産階級の自覚心を減軽さする鶉片打†りとかいふ費の起るは普然のことである。
然し乍ら宗教の本質が階級支配の用具に非ざることは既に述べた通りである。ブロテスクソチズ
ムの場合に於ても.民族国家の形成期や資本ま義の勃興期に於ては絶大なる政令的機能を♯って居
ったものであつて.昔時の支配階級に対しては思ひ切ったる抗学的革新的精神であつたのである。
今や時代が資本ま義時代の末期となり、新興無産階級が接頭して、国際主義政令重義の薪社食新文
化を蘭さんとするに至って段々に反動的保守的役目を潰する新生命への樫括となり、階蔽支配の用
具と慶じたのである。此は宗教の本質の問題ではなくで、pりr責㌢1−の問題である。無産階故の鵠
片付了りといふも同様であつて、斯の如き支配階級の用具と化し、保守反動のイデオロギーとなつて
居るものを信奉することは、無産階級の白魔と革新的気塊とを麻痺せしむるは普然のことでぁる。
然しブてアスクソチズムが昔時の新興階級たる平民階級一ざインスパイアし気呵し激励して近代の新
政曾を作らしめたることを思へば、宗教本務の性質が鶉片的であるのでないことは直に首肯出水る
ことである。
要は宗教的改革の必要にあつて、宗教そのもの∼否定にない。宗教そのものは政令生活にとらて
法や道徳とゝもに、必要欠くべからざる機能を有するものである。否定すべきものでもなく、否定
し待らるゝものでもない。たゞ宗教が時代と∼もに進展し改革せられ革新せらるペきは曹然のこと
619
買ia−︹︼鼓t㌻=i︷yと呼ぶことゝすれ
てちる。現代は避ほ免この宗教改革の行ほるぺき秋でろる。凍らんとする人類の大共同融合を育成J
するに足るべき新基督数の現るべき咋てある。
今期の如き意味に於ける新基曹敦を絶祁して融合的基督故
人類の新
ば、敢骨的基軒数は既に産業革命の常時十九壮紀の初頭から現はれて居る。サン・シモンの新姦智数
コ〇一lくe⋮C−1r宣21訂2eは恐らくその茄初のものであらう。サン・シモンが産業革命の結華
政令が生れるべきことを考へた特に直ちに従元の宗教では駄目であることに気が付いたの一は誠に興
味ある意義深いことであらねばならぬ。又組合的薪能合の建設を理想としたロバート●オークェンが
宗数に射して可打アりラデカル窒息見を持って居ったことは周知の事賓である。次でサン・シモンの
キング.スレ一等の連動に於ては恐らく某智敦の政令的應用として政令ま議
鉦骨の進化酔顔富力トリシズム、.フロテスクンチズム及びソーシァル●クリスチャニチー
のと言はなければ小甘らぬ。最後に我囲に於ける賀川剛−u在民り宗教運動は政令的先哲放としては恐ら
に迄徹底して居ないものもぁるが、宗教そのものとしては配合的基智放として一大進歩を渇したも
セソブプシュ、ウォード等の政令的某省数は初期のものに於ては産業問題王就ては必やしも配合主義
かと思はれる∵手世紀初頭以建水闊に現はれたグラブデン、ピーボディー、セラ・マシュース∵スタ
運勒の方面がまとなつて居って、某督致そのものは未だ十分に軋骨的基督故になり得て居なかった
て知らるゝ. モーリそ
ものなるは、エルクッドの言を保たすとも研なことである。英国に於け今準督致配合ま老荘動とし
弟子であるコムトが唱へた人道教iEigi昌dニ出﹁1m2・itかなるものが赴骨的某語数の先轟を点せる
●
6鯛
証骨り進化階段ミカトリシズム、ブロテスクンチズム及びソーシァル・クリ
七ス
〇チャニチー
く、以上の何れよりも進歩しにるものといつてよいものであらう。ぢほ斯の如き新基督敦運動は英国
に於ても燭逸に於ても亦露西亜に於ても必ず近きうちに日醸しく進展するであらうと考へられる。
賓に第∴の票数改革は既にナン・シモンの時代より飴ょり、現に確に行はれつヽあるのである。
然五に何故此が赦曾の視聴を惹き頂代の大問題とならぬかといふにそれは、現代がルーブルやカル
ダィソの時代と畢。からである。第一にルーテルの時代に於ては政治と㌫敦とは同一であり.政権
と数樺とは同一で一のつに・が故に、宗教上の反抗は政治上の反逆窒息味し、多くの先凝着は焚殺の極
刑に廃せられ、時空りて初めて〝−テルが成功して大衆運動となり、ローマ敦骨の教権に封抗し得
る勢力と打†り待たのでJのる。然るに現代に於ては信教は白山であり、政治と宗教とは分化し政碓と
教権とは瞳別せられてゐる。宗教改革は必すしも政治上の革命窒息味せす、自由に徐々に比較的中
程に行はれ得るやうになつて居る。攣一に、現代は最早や一二の英雄的大京敦家に依りて指導せら
れる時代でなくて、すべての運動が民衆的である時代である。故にルーテルやカルダィソの如き宗
教的英雄の出現無しとて宗教改革が現はれて居ないといふことは出凍ない。第三に中世紀迄は道徳
と法とが宗教と未分化で一倍でありしのみぢらす、又軍閥も蕃術も宗教と未分化であつて、㌫敦は
すべての文化の革質上の踪合着であり統括者であり、常時の文化そのものでJのつたのである。然る
に現代に於では、道徳も法も、畢閃も轟術も宗教よら分化して各燭光し、宗教は最早や此等諸文化
の綜合着流感者に草して此専文化中のl様に過ぎないものとなつて居る。是現代に於ける宗教改
6三汀
竜加前時代に放ける宗教改革の如くにー顕著でない所以でぁる0
国際的社食ま義時代の宗教は、此時代の祀骨を最もよく育成するに足るものでなくてはならぬ。
私の観る所では、中世紀が﹁紳LJでローマ法‡に依りて埋解したるに封し、凍らんとする時代に於て
は﹁紳﹂を軋骨︵多数自我の複合慣たる共同配合︶に依りて坪解せねばならぬであらう。ツーシァル・
クリスチャニチーは、政令的である鮎に於てはカトリシズムに似て自作的内面的なる鮎に於てはブ
ロテスタンチズムに同じ︿、而も両者と典り両者の新しきシンナシテ竺与すものであらう。
五
一現代は賓に怯も、道徳も宗教もすべて大慶草の前に在る。大慶草の前に常に必要の威せらる∼は
法に就ては正しき法理畢であり、道徳に就ては正しき倫理畢であり、宗教に裁ては正しき宗教哲学
である。古き物の前に斧が置かれて、新しき物が作り出されんとするに普bては常に、その本質、
機餞が吟味せられる。法の本質、機能その進化の動因、何の棲準に依りて理想法を判定すべきか等に
就て、正しき法理畢の必要が帰成せられる。遺徳然ら宗教亦然りである。現代に於ては奥の宗教哲
挙が現れて、票数の本質、その機能その進化の動固、坤想宗教の謬らざる標準等を明にせねばならぬ。
●
於ける融合機能を標準としての新文化の標準等
現代に於ては此等諸文化り慶革期に祭りて之に封して有力ハ与る彗一日を点せるものは唯物史観千あ
る。唯物史観は政令橙革の動因、諸文化の乱曾機能的本質、その棚方あ問の有機的関連将来赴骨に
■で兎にち角にも示して居る。然L、唯物史観は唯物
社命の進化階段寸Jカトリシズム、ブロテスタンチズム及びリーシァル・クーリスチャニ手−
8望2
証曾の進化胞段ヾしカトけシズム:フロテスタンチズム及びソーシァル・クワスチャニチー
七二
的で宗教を否定するの一事を別とするも、なほ、年産牌係の偏局的過重戒と、階級問尊重義の固守
本位的赦曾進化軌と必至諭に依ろ没慨鹿的立脚地等に於て幾多の首肯し難きものがある。
一方慣偵の哲寧、規範の畢としてはカントのアブリオリの式場に打ち勝ち難き強味がある。たゞ
アブリオブで形式的に解せゃして生命的目的的に解しその個人ま義を政令本位に改め、その非歴史
主義を歴史的蚤展的に改めるの必要あることは拒み難い。
宗教は之を重智主義的に解して、哲学や科挙の稚拙なる代用物の如くに考へてはならぬ。宗教は
主意的全人的惜偲保存的なる角度から理解すべきものである。又宗教音型は宗教を人間の櫓頗とし
て観ねば甘らぬ。﹁紳Lの立場から宗致を観ることは必ず一宗一仮の信仰内容としての﹁紳﹂から観る
ことでみつて、紳琴には写。が、宗教哲学にならぬ。宗教は﹁紳Lといふ宗致経験の成立する以前の
ァブリオリ︵形式的ならざる︶から理解せねばならぬ。而して之を敢曾的に観るべきは、人間の生活
、 1 1 1 1 ヽ 1 1、 ヽ 1
1
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
1
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1
1
1
1
1
ヽ
ヽ
ヽ ヽ ヽ
斯く考へて私は宗教は人類の共同敢骨が成立せしめ、共同社食の結合を培養し育成する機能を有
が社食生活であ♭∵人間の意識が敢曾的に制約されて居るものであるからである。
、、、、1 、、、1 、、、1
1、、、1、、、、1、、11111111ヽ1ヽヽヽヽ
、、、、、、、、、、、、1、、、1
するものであり、共同政令の進化発展と∼もに、進化発展し︵宗教の中心たる紳粗が進化帝展する︶
その時代の共同赴留を最もよく育成するに足る宗教がその時代での坪想宗教であると信するもので
ヽ
ヽ
ある。
︵斯の如き人間本位赦骨本位の宗教者撃を信仰と紳撃との立場から軌正して、融合と人心とに内在
623
せる彗命とLての﹁剥Lが
人類に宗教信仰を起さしむるものでぁると考ふるは考ふる人の自由であ
♭、信仰の立場としては否定出水ない尤写1とでぁる。筆者も亦信仰の立場としては斯く考へない
ではない。︶
本稿は宛もデュルケムが原始政令に於けるトーテミズムに就て説いた研一く第二期の武断的権威
ま義の融合に於いて、カトリシズムに就て説き、第三期公民的自由ま義政骨に於てブロテスタソチ
ズムに就て説き、第四期岡際的融合ま義融合に於てジーシアル・クリスチャニチ一に就て説いたか
の軌が一りる。
就骨の一つの進化階段には丁度それに適した宗教が現はれ、他の何れの宗教にも勝りてその融合
.
に対して、軌骨的桟龍一ど争フするも▲S∴言ことは讃薪の鱒、了解せられし所であらう。覇者の残る疑
問は恐らく、カトリシズムが、武断的樺威ま義時代の宗教であ・り乍ら、公民的自由ま義時代にも戎
存し、なほ恐らく国際的軋食ま義時代にも殺摂するであらうと思はるゝりは何故であるか、プーチ
スクソナズムも亦文化と時代と融合の進化階段とを超越して残り得るであらうが、そは何故である
かといふことであらう。此は他の一面に於ける疑問としてり何故薪Lき進化臍段に於ける新しき宗
教が全然新しき宗教としてり形惜を拡王寺して、同〓歩数の形標に於て新内容を獲得するに過ぎな
いかといふことゝ開通して居る。此は道徳や昭習やその他すべての赦骨の文化現象に就て軌らるる
現象でJ項つて、既に機能を麗し丁へた過去のもりが敢魯の一隅に、階級的に職業的に又は地方的に
新竹の進北耶段ヾJカトリシズム:フロテスクンチスム及びソーシァル●ク叩ス手ヤニチl
欄
洗骨の進化階段ミカL﹁■=ソシズム、ブロテスクンチメム及びソーシァル・クーリスチャ言−
七日
残存するは珍らしいことではない。又新しきものが古きもの∼形髄のうちに、新内容を接って現は
るゝといふことも珍らしいことではない。然し就中宗教が最も著しく期の如き現象を呈するは、宗
教が他の如何なる文化現象にも勝りで、侍統的加給性に富み、最も大なる就骨的惰性を和して居る
からであらう。
625
−
枝
義
−
夫
≡﹁紳の子﹂の
五奇蹟の賓際とその創作機能
二﹁紳の図﹂賓現方法としてぃイエスの奇蹟
イエス奇蹟の歴史性とその信仰
一奇蹟の観念内容と研究方法
−
を裸足する。﹁自然法﹂が紳的カによつて破壊
詮としてのマルコの信仰−1由信仰の謁見とならし奇践物語
∴
奇蹟︵Wuコder︶は一般に﹁自然法﹂︵芽︷urg毒t且
されたと信せられた時に奇蹟の観念が生する。イエスが紳的カによつて自然法を破壊したと信せら
れ侍へられにのがイエスの奇蹴物語である。
か∼る意味の奇蹟概念は普通一般であつて、此が票数において取扱はれるのは多神教と一神教と
で汎神敦が厳密に支持される庭では存しない。紳と自然法としての世界との相互関係は二つの不等
式、葺<停学暑V帝睾と二つの等式葺=停学に表現される。前者の周係、彗<再挙は世界を人間と
共に活躍する紳の活動舞毒とし.紳は人間より勝れて居る限−りそのわ眉は超自然的となト奇蹟であ
ると考へられるものゝ関係で、まとして多神教の奇戯観念はこ∼からfIミサる。豊>再挙の関係は一
神教に於て見、紳は全能であるから、意のま∼に自然法を破損することが出来るといふ見方である。
イエス奇蹟の歴史性ミその信仰
626
イエス在折の歴史件ミその信仰
七六
然し享=序章い関係にある場合には、自然が帥紳で、自然の小に紳が内在し、自然法が紳のカその
ものであると考へられるから、奇蹟は自然に従って生じ、﹁自然法﹂そのものに他ならなくなる。即
ち汎細論が巌密にせ持される時には﹁自然法L破放としての奇蹟は考へられない。
一般に﹁自然法Lと糾するも、その意識反省山村埠解澤如何によつて多様の奇揖諭が論議される。
ノルヘン
童話においては物語は想像的に虚聞し、﹁自然法﹂は刷瞭に意識されないので、物語皇位は奇蹟に
ょって沸される奇現象を蓋し、歴史的人物の古い便説になると、﹁自然法﹂の意識がさう不明瞭に止
まることが出家す、蕪軋的奇蹟の影は甚だ淡くハ芸が、未だ﹁自然法Lを反者する域にまでは達して
居ない。帝青書時代の﹁自然法Lの観念も同抜でぁる。如何にして揖蹟が起ら琴らかといふ﹁自然法L
に対する深い思索反省なしに、イエスの奇蹟物語が容易く物語られて居るのであつて、此の事はイ
エス時代の奇精粗念の一時貿として数へられるヵ
然し﹁自然法Lの意識が明瞭となると奇蹟物語の創作横能は減退してその説明が問題となる。素朴
無反省時代に物語られた奇蹟物語を.そのーまゝ信じま張することは不可能であるから、こゝに自然
法を顧慮しhけがら奇蹟問題を解滞しやうとする努力が必要とへ与つて凍る。中世めアウグスチン.ト
マでアクイナスの奇蹟論が夫でみ一︺。殊に奇蹟圭一様式あら、紳が﹁より高き款序﹂をして﹁より低
き秋作﹂に入らしめ、後寧で前者にまで高める時の﹁勅封奇蹟﹂︵呂⊇⊆︵一︶とl紳が最高原因とし
て直接た作用す一〇﹁絶封奇蹟﹂︵⋮ぎ三−1≡=︶とあり二.祁封奇損﹂は悪魔天使も亦自然払慶更によつて
渇し得るが、﹁絶対奇蹟﹂は畢に紳のみに可能であるといふトマス・アクイナスの
関係を説明したもので、紳ほ勿論天使悪魔も奇精を行ひ得るが、その能力ー性質に
いふ信仰ほ、亦イ土スの環境においてもー般に信せられて居った。︵使徒行竺九︰辱に奇警行つ主
意窟へて曾︶此事もイエス時代のも一つの奇蹟観念の特質として指摘すべき射である。
⋮ノザが高教的キリスト教的奇蹟を汎神論的哲畢上から否定し、軸ほ自然である故に
然法を破壊し待ない、奇蹟とは自然法の破壊ではなくして我々に知られて居ない自
じた事件であるに過ぎないとし、奇蹟をま観的に解してから奇蹟についての各縄の批判が勃興し,
その結果は奇蹟の観念内容に重大な慶吏を輿へるに至った。時間客間内の現象が一
無成するものとは考へられす、自然法破壊としての奇蹟観念の支持が困難と字⋮、こ∼に奇蹟の
と主観的に解したことも、
内容を慶吏して主観的なものLする奇蹟解滞の琴−の段階に到達する。シュライエルマツヘルが奇
蹟を﹁事件の宗教的表現﹂︵derre︼igi宮Au乳rtlCkf守宮geb邑−eヱ
ては偉大なるものといふ観念は、自然法を顧慮するといふ足場がなか
ヽヽヽヽヽ
﹁同心﹂の現象の中に奇踪を見やうとする解澤も、何れも此の種の解繹である。璧
ヽヽヽヽヽ
ることが出水すに、容易に自然法破壊としての奇置の観念に陥るに至った?
ヽヽ 然しイ・エ芸奇蹟物語を見る際には物語られた内琴で直ちに客観的革質と
イエス奇横の歴史性ミその信仰
主観的に解しやうとすることも同時にメ可である。何となればイエスの言行を記銘
827
625
イエス群持の歴史性ミモの信仰
ヽヽヽ
七八
ヽヽヽ
粋の歴史書ではなくて、種々なるま軌的信仰、教義的努力等によつて修飾された一種の信仰書である
から、史的事賓と信仰的要素とを拓別し∵1の史的事賓に基づいて奇蹟一ぎ見乙のでハ与ければ何等の意
特にその鮭史性について
味を持たなくぢっからである。この意味においてメェスの奇蹟物語に閲す一〇限り、先つ第一に物語
ヽヽヽヽ
資料の批判吟味を欠くことは出水ない。資料の吟味ハ㌧しにイエスの奇嘩
諭することは賓際において不可能でもめり無意義でも今心。近代に勃興した聖書の原典批判は、こ
の意味において紳単に対してコベルニスク的意義を輿へて居るものである。而も食い歴史限は絶対
に必須であつて、もしさうでい甘ければ合理ま童がすべての奇践物語を合理的に解した態度や、耽喩
的物語として解し事らうとする試みや、神訴の一新に押し進めてその歴史性一里否定しやうとしたシ
一物語を純粋に客観的に取扱ひ、歴史的事案でぁるにし
トラクスの■濃度と同一結果に陥つt一し、事賓の異相一ぎ欠く明を失ひ、ま軌的判断・曾加える失敗を放返
すことになるだらう。
かくして物語自身をして物語らしむる
ても非歴史的革質であるにしても、只物語の述べる言葉に従、ふ。といふ憩皮こそイエスの奇蹟物語
の特筍その塵史性を閏輌する唯一の残された鍵であつて、その執るべき方法は即ち歴史的批判的
研究.この方法をして有効たらしめる焉には鎗い原虫限を絶封に必要とする。
〓
現代批判界は、歴史的イエスの最も有力ぢ資料として共艶福青書︵孝きーーtis︹11eEノ、茎gユie−−︶マル
629
コ
n
、
マクイ抽、ルカ比︶
を奉げる。共軌璽量はその字の示す通う、類似の材料、膳序、用
語を用ひ三番の内容は此を封比しっ、見る事、即ち共粗することが出水る。この興味ある現象はマ
ルコ及び現在亡映した文献﹁Q﹂−マ子、ルカのみに共通なイエスの説教記事の出揮を鱒写した薪奥の文献でQue〓e
︵資料︶り頭文字きつて名付︶−の二審がマクイ、ルカ雨音のま軍与資料文献になつたとすることによつ
て解滞される。︵所謂﹁二資料説﹂︵N象‖Que〓e︼︼≠eO−■iこ
†ルコ侍はべ一プロの同伴者マルコによつて紀元七十年生別、ロマに於て外国人偽造用として記さ
れたもの一、﹁Q﹂は同時代に恐らく使徒ヤクイによつて、ユダヤに於て記されたイエスの説教集の
ヂ
ポ離ラ
︵SOロderg阜T−餅で衷はすーを附加Lて紀元七十年後
間γ
もス
なく
散のユダヤ人の焉に記された
ヘブライ語原本からのギリシャ語渾でありマ
、タイ侍は胱、qを二大資料とし.それに特殊材料
.1し
もので、著者は不明。ルカ嘩は独、qの外にルカの特殊材料−LSで未はすーを附加し、紀
抽︵独.Q、群︶
は︵肌、
q、
針︶
︵
元七十年後閑もなく.ハクワの随伴老膵老ルカによつて記され、テオビpと挿する者に捧げられたも
Q
のである。従って共祝福青書を資料別一にすると
となる。
此等の資料中奇蹟物語は大別して次の三補である。
一意鬼を追出す奇蹟。蕾時病気特に一祁の精翻摘は悪鬼の作用によつて生す一Qものと信せられた
︶
イエス奇蹟の歴史性ヾ;、の信仰
630
イエス脊蹟の歴史性ミその信仰
︵
第一に︰ハリサイ人がイエスにメジャの印として天よりの微=奇蹴=を求めた時、イエスは﹁何
此等の種々なる奇蹟物語資料中、イエスの奇蹟の史的事賓を判定するに重要な記事が二つある。
三自然法の現象℃関する奇驚例へば海の上を歩き、嵐を鎮めた奇蹟の類。
が、その悪鬼を追出して病気をいやしたといふ奇蹟。
︶
二病気をいやした奇蹟。
︵
︶
ヽヽヽヽ
し一〇し
よ、ヽ、、1ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 故今の代は徴を求める明か、君達にいふが、微は今の代には断えて典へられないのだ﹂と答へて、
断乎拒絶したといふマルコ八、三︵=マタイ一六二以下︶の記畢この奇蹟拒絶の記事はQにもあ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ら﹁予言者ヨナの他に微は典へられない﹂といって拒絶した話でぁる︵マタイニー三八−三九・竺−四二
=ルカ一一、〓ハ.二九1圭二︶。
この二つの記韓によるとヨナが三旦二晩魚の腹の中に居ったやうな超自然的奇街は今の代の中に
︶
一イエスは超自然的奇蹟を重税しなかったこと
︵
的僧偵ある記銘たること空不して居る。そこ.で、こ∼から二つの史的事暑が明瞭となる。
的奇蹟思想−!奇麗は紳の子の最重要な葦接であるーと相反する素朴な物語である鮎とから・史
樽へて居るものである。この記事は後に見るやうに信すべきQの記事である鮎と、マルコの数義
難題な要求であるーといふ見界のも・とに、三スは断乎かヽる種類の奇蹟要求一で拒絶したことを
ほ絶封にあり得ない。ししメシヤの印としてか∼る奇蹟をイエスに要求するならば、甚だしい無理
(
β31
︶
二イエスは超自然的奇蹟を行はなかったこと
︵
、、、、、、、、1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ 1 1 ヽ ヽ
第二に、イエスは故郷において、人々の不信仰の焉に多くの能力ぁる菜=奇蹟=を行ふことが出
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
蒸す、具少数の者の病をいやしたといふマル三ハ、千丈の記事である。
︵
此も†ル三般の奇蹟思想と相反する素朴な物語から明瞭に史的事賓である。而してこの物語は
、リ.﹁−ゝl﹀⋮︰i−...︼.....﹂′.︶ 一奇蹟の確信帥ち信仰を有する人に対してだけイエスは奇蹟を行ふことが出水たこと、二かゝる奇
︵
蹟は自然法破痩の如きものではなくて、病気治癒の如き相対的心理作用による種の奇蹟であること
を示して居る。
この二つの注目すべき記事は、イエスの奇蹟事賓と、その種類み異相とを不用意のうちに侍へて
居るものであつて、これによるとイエスは畢に悪鬼を追出す精神病治癒と病気治癒との奇蹟をなし
て、自然に関する奇蹟は全べ行はなかったことを、明かに示して居るものである。
この興味ぁる史的事賓は他方頑青首白身、イエスが自然に射する奇蹟を重要視せす、此に反して
病気治癒の行男を樫のて重成した鮎を侍へて居る.ことによつて裏書される。天よりの微を求められ
ヽ ヽ ヽ ヽ
たイエスが此を拒絶した話は超自然的奇蹟一ぎ重ん守た者の行男としては理解されない。此に反して
/.1、
ヨ♪ネが獄舎から弟子を道してイエスに﹁凍るペき者︵キリスト︶は宕であるか、或は他に待っペき
、、、、、
、、、、、、、、
1
1
、、1
ヽ
、、
1
1
ヽ
1
1
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽヽヽヽ であるか﹂と尋ねさせた時、イエスは﹁行きて君達が見開きした所をヨハネに告げよ、百人は見、
故老は歩き.瀬病人は清められ、聾者はきき、死人は剋へらせられ、−貧しき老は福音を聞かせられ
イエス脊靖の歴史性ミその信仰
6こ;ゴ
イエス奇招の廉史什寸Jその信仰
い、およそ自分に頂かない者は幸である﹂と答へ
八二
の記事におけるイエスの言糞は、蕎約に琴言された︵バザヤ三五、三以下︶メシヤ王観の状況を繰返
して述べたものであるとしても、特に病気いやしの奇蹟軒重親したことを樽へて居るものである。
患鬼を追出す奇蹟を見て人々はイエ子ぎ患鬼の甘である鰯に悪鬼を追出すことが出凍ろのだと非難
した時、イエスは此を如何に熱心に反駁したかをq︵マクイ一l一三二1二七=ルカ一二一望一七.完︶
ヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽ
もマルコ ︵三三二−二七︶も倦へて居る。†ルコがイエスの一般活動を叙する時に、例へば﹁偏く
ガリラヤり食堂にて数を宣べ且つ悪鬼を逐ひ出し給へりL︵二三九︶と述べて、説教と粕並んで病を
癒すことが如何に印象深い重要にして確へ㌧事賓でぁるかを示して居る。イエス.は弟子達を諸方に道
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
し、此に﹁稼れし嘉を制する椛を輿へ﹂︵マル三ハ、七︶たので﹁往きて悔改むべきことを宣侍へ多くの
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽ
悪鬼を逐ひ出し、多くの病める老に抽を塗って塔したL︵マルコ六、三−三︶といふ物語は何れも此
の事賓を示すものである。
然しイエスが悪鬼を逐出した事は、此によつて自分の超自然的偉大な能力を示すものとして自ら
重税したのではなくて、主として﹁紳の囲﹂賓現の手段として重要成したのである。病気特に精細病ほ
悪鬼の作用であると信せられたから.紳自身の支配する﹁紳の囲﹂の到水質現に婁カしたイエスが、自
己の粛要な使命の一つとして、病気治癒.即ち紳の支配範囲を掠張し同時に悪魔の支配範囲を狭める
方法として、悪鬼′で追出し病気をいやすことが、教へ訓すことゝ舶並んで重要な使命と考へたもので
6:i3
ある。このことほ甚だ注目すべき鮎であつて﹁蛋がお前達に服するの生者ぶな、お前連の名が天に
記されたの宣告ペ﹂︵ルカ一〇∵一〇︶といつてイエスはその弟子達を戒めて居る。
要約すると、イエス自身は賓際に超自然的奇臆を重要成しなかったし、同時に質和もしなかった
ことは確かでぁる。然し病気いやしはメシヤの重大な使命の一つとして重税し.同時に又此を賓行
したー このことだけが歴史上の事貰として福音書自身が侍へて居る庭である。而も現代の督畢は
病気の大部分が、特に精細痛が一稚の心理的方法によつて治癒の傾向をとることを敦へて居る。破
働者の確信と、加働者の全人格的信念との結合が.心理的刺戟を奥へ治癒の特機をとらしめること
は、さう理解し待ないことではない。只悪鬼追出しの奇妙ぢ話法は以上の事賓の衣に過ぎないもの
で、賞際悪鬼につかれて精油病が生するといふ信仰が眞面目に考へられだ庭では、病者は恰も患鬼
につかれた按に術動し、又さう解され、それがか∼る心理刺戟 を受けると恰も怒鬼が逃れ出した様
に術点し.又さう解されたことは怪しむに足らぢい。こ∼から奇妙な悪鬼につかれた奇蹟物語が侍
へられて居るのである。
三
この史的革質としての奇蹟が原始キリスト教徒にとつて如何なる憺偲を持ち、如何に樽へられた
か。
直接イエスに従った使徒マタイの書いたイエスの説教集︵︸L邑1↑︶のギリシャ謬と恐らく同一物で
イエス奇蹟の離史牲ミその信仰
834
イエス奇蹟の歴史性ミその信仰
八四
JウQと信せられるQでは、病気をいやし︵マタイ八、五⊥○=ルカ七、丁一〇︶悪鬼・ぞ逐出した︵マ
ヽヽ
ヽヽ
タイ一二、二二−二七=ルカ一一、一四・一七・一九︶といL奇蹟の事践物語が二つと.奇蹟に閲聯した談話
が二つ物語られて居るだけである。而も此等の記事は次
即ちユバネの質問︵マクイ一一、二1一一=ルカ七.一八−主八︶と奇蹟を拒絶した話︵†クイ一二、三八−
三九■竺−甲子=ルカ一一、一六・二九−三二︶
の鮎で異相に近い寄算を侍へて居る。
二奇缶内容が超自然的奇鈷を拒絶し、病気一どいやし志鬼を追出す奇故にメシヤの重大な使命ゐ♭
一書者がイエスを賓際に見知ったものであること、
︶
︵
︵
︶
ユダヤ人にもない外国人の篤い信仰
三奇蹟を特に﹁紳の子Lの教義を結合して解辞しやうとする後代の教義的努力が全く存しないこと
と認めて血種の奇蹟だけを貫行したと侍へて居ること。
︶
︵
病気いやLの詰も奇蹟そのものを侍へやうとしたものでなく、
にイエスが驚いたことを侍へるのが目填であ♭、悪鬼を追出した詰も、その時イエスを悪鬼の首だ
といふ非難に答へたことがま要な内容をなして居る。こ∼では明瞭に奇蹟物語は純客観的に、紳の
同質現の手段としてイエスが行った事賓のま∼に叙述されて居る。
マルコに至ると歴史的奇蹟の意味は全く﹁軸の固L寛現の手段から特じて﹁紳の子﹂を記しする方法
といふ意味に解された。こ∼では奇蹟は最も興味ある紳畢的努力の封象となつて、著しい教義的色
彩を持つことにぢつた。
63う
マルコはイエスの一生の串蹟を﹁紳の子イエでキサブ一トの琴音L︵一二︶として見やうとする特殊
な信仰から出費して居り、特に活動行為を佃へることを第一とし、説教を第二としたので、活動事
に比して造かに豊富で廿款筒を款へ得、その内容はQの内
ヽヽヽヽヽ
蹟の中に﹁軸の子Lとしてのイエスの要一で明瞭にしやぅとして好んで用ひたのが奇損の事蹟である。
マルコの侍へた奇蹟物語の欽はq
容に自然現象に脚すィり奇蹟を加えて三種勧の奇蹟を物語って居る。即ち窓鬼を逐出す奇蹟について
具健的記事三︵一三I∴八・五、丁二〇・九、一四1二九︶単に多くの窓鬼を出したといふいはゞ徳宿的
記墾ニ︵一三二土一国・三九・三,一丁二こ一般赫束いやしは鼻腔的記事入︵一三九圭一二一、四〇−
四五・二、丁三・三.丁六・五二千←二四・七三丁三七・入、二二−二大・一〇、讐丁五二︶と患括的記事
讐一三二−三匹・三、乍⊥〇・六−五・至去六︶自然現象に潤する奇蹟は何れも具患的記空ハ、嵐を
鎮め︵四三五⋮血二︶死せる少女をいかし︵五三丁讐一︶︰ハソ五、魚二で五千人に食沸せしめ︵六、
三丁五二︶、海上を歩み︵六、空丁空ハ︶、四千人に食事せしめ︵八、丁−九︶、餐集貨の樹を呪って枯した
︵一一、三⊥四・二〇−二六︶といふのが夫である。マルコが此等の奇蹟物語を﹁紳の子Lの否故にしや
一最後受難の部分を省いて、イエス公4檻中の活動と設故に閲する物語材料中、奇置物語が約四
ぅとした努力は次の諸卦に現れて居る。
︶
︵
身の一理を占め居一Qこと。従ってマルコ樽全健から受けるイエスの印象は説教老イエスの要は邁か
後方にかくれて、到る庭であらゆる奇蹟一竺矩ふ者としてのグロテスクな姿となつて著しく前而に汀
イエス脊損の席虹件寸しその信仰
;:;6
イエス奇托の歴史作ミその信仰
び上って居ることでぁる。
二奇践内容に悪鬼放逐、病気治癒の二種の奇蹟の外更に自然現象に関する奇蹟を加えて居ること。
︶
︵
従ってイエスは自然現象をも意のまゝに徒はせ得る何一層すぐれた能力者と打アり明瞭な紳の子とぢ
︶
ることに成功して居るっ
の著名なぺテロがイエスを耕して
は甚だ注目すべき仕方で殆んど全部奇蹟物語によつて
だ奇帯の配列順序が教義的努力目的によつて居ること。一、〓二二、一七に達磨して多数の奇蹟物
語が記されて居るが、特に甲三先−八、二六
浦され、全奇蹟物語の大部分は此の巾に包括されて八三七以下
﹁あへ仏たはキリストであるLといつた物語に直接接績して居る。即ち此の配列順序は、奇蹟に対す
る弟子達の梵樗と疑問と一ぞ伴ってイエスの本質を明にした最後の一瓢﹁イエス帥キリスト﹂にまで押
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
し進めて居るのでぁる。嵐を鎮めた奇蹟に驚いて弟子達は﹁こは誰であらうっ風も海も順ふとは﹂
︵四、讐︶といつたと述べ、五千人に食事を奥へた大奇蹟の後、海上を歩いたイエスを見て﹁弟子達
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
は心の中でひどく放いたL︵六、空︶が、此は全く﹁彼等が前の.ハンの準を覚らへ与いで、反ってその
ー
拒絶の理申雪今の代l=は晰えて帯紙は
心鈍くなつたが秀であるといひ﹂︵六、五二︶四千人の食事の後にも拘らす.ハリサイ人はイエスに奇蹟
・ぜ求めたので、木エスは﹁深く心に嘆じてL︵入∵二︶此を拒絶し
兵へられて属ない﹂からミ・し㍗のl‡マルコのこの臼的に速肯する。﹁既に数多の脊踵は示、したから﹂ごいふなら格別、鱒し==に︰
の物語が歴史的償値な持つ︰寸﹂な示・して居る。一マタイが=の物語なマルコに従つて使用した時qの同棲な物語のやうに墾更J︵一
♪ハ、︻、Qのtil二二三ハトわり︶ルカが全然除い㍗のl王道般の滑息堅牢て−1舟に乗った端卵子通が忘れたパンについ
G37
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
て囁き合っわごりでイースほ弟ヱrと次のヰせ甥へ㌧談話をしヤ∵といふっ
イエスいふ
ヽ ヽ ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
﹁なせパンがない虜だらうと語り合ふのか、未だ知らないのか、お前逮の心はハ仏ほ鈍いのか、目
ヽ ヽ ヽ
ふ∵りて見ないのか、耳ありて聴かないのか、又お前連は思ひ出さないのか、五つのバンをさい
て五千人に輿へた時その際bを幾籠ひろつたか﹂
弟子達答へて﹁十二﹂
﹁七つのバンをさいて四千人に輿へた時その除りを幾麗ひろつたか﹂
弟子通いふ﹁七つ﹂
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
そこでイエスはいつた﹁まだ悟らないのか﹂︶八、︰七1二こ
イエスの焦燥を極めたこの努力の後に、百人をいやし、そこで初めて﹁お前達は私を誰だと思ふ
か﹂といふ濠要な質問を弟子達に馨した。その答は明瞭である。
.ヘテロ答へていふ﹁あなたはキリストであるL︵八三九︶
この配列順序にマルコが努力してイエスを紳の子としやうとした意固が明かにうかがはれる。こ
の努力によつて得た.ヘテロの信仰は又詠者に対する強制である。此等の奇蹟物語によつてベラ′ロが
待たと同じ信仰′で、読者も亦得ペきでぁるといふのがその眞意である.奇蹟物語を重成したマルコ
の態度は此新において最も明瞭である。
イエス脊托の歴史性ミその信仰
ヽ
隅
︶
イエス脊紙の靡史性ミそり信仰
八
甲・−れは滑塵的ぢ努力である。奇折によつて﹁紳の子㌧で‡張したにも拘らず、常時のヱ〆ヤ人ほイ
︵
は簡単である。イエスはユダヤ人からメシヤと認められることを欲しなかつたからであると。イエ
エスを信せすに此を死に逐ひやった。このマオ府の解準で如何にするかといふことである。マルコの答
ヽヽヽヽヽヽ
スは自分を紳の子と認めた者に一揉に口外するなと命令し、弟子達にも︵八∵ニ○︶志鬼にも︵一三
五・三四︶奇揖を受けた本人に封しても絶封私家にすべきことを命じた︵一、四四●五、臼三●七∵ニ六●
八∵〓ハ︶この沈獣によつて奇蹟を祈ったにも拘らす礫刑に越せられた事賓が合理的に解決された。
マルコの奇践物語には以上列記した如き奇蹟一で中心にした記者の強い信仰心が動いて居る。そこ
でその各々の物語が歴史的串賓に由来して屁るかどうかゞ問題とハ㌧り.隆史的事貰でないのはぁ何
にしてさういふ形をとつたかゞ別にせられなければならなくハ㌧る。
マルコ全憶に洛託て居る物語の素朴性は歴史的資料としての職位空不して居る。マルコは奇蹟を
紳の子の印として、一々の物語を注意掟く取扱ったが、この努力に相反する物語をも取入れて居る。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
故郷において奇蹟を行ふことが出水なかつたといふ物語は、マルコ本家の奇蹟観念と確に相反する。
たL︵〓二二九人︶と歪められて居るではないか。マルコにこの純粋な慶史的記述が存して居ることは確
記者の或は記者と同一の信仰を持った宕のま軌的軌念を透して歪められない純粋に歴史的な物語の
ヽヽヽヽ
要がそこに飛び出して居る。マタイ侍記者の信仰をl旦透った、この素朴な物語は﹁奇蹟をしなかつ
ヽ
かに威謝してい∼。即ち既にイエスにおける歴史性を判断する際に苅要仁一資料として取扱った理
6こ‡9
由がこヽにちる。或ば叉記者の執念・ぞ透つで幾分歪められたが、全く記者の思想に溶け合畦すにl
奇妙な形をして本務の歴史性を残存せしめて居るのは前述の奇蹟拒絶の物語である。マルコは自
の特殊な目的の下に取扱ったが未だ歴史性を失はすに居った。此も亦重要な史料として既に使用
たものである。
かくの如き信仰的ま軌的努力以外の物語に、史的億偲を求めることは容易であるが、翻ってゲー
テが﹁奇践は信仰の託見である﹂︵plニぎnderi∝tdつ∝G︼∈b昌こi︵をc訪苧−d・︶といつたやうに、信仰
は多くの奇蹴物語を産む母倍であることを我々は強く鮮臆して居るから、紳の子り否披として奇
●
′−\
和名を見たマルコの政義的努力のもとにある、以上の奇蹟物語から直ちに史的侶伍を求めることは
出水ない。その理由三つ。
こルコには紳の子の信仰より生れた物語が明かに存在すること。例へばマルコはイ三枚括の
︶
事賓が確賓なものとして、初めて去を訪問した好人達が五大な墓石が既に取除かれ、墓の内部が客
虚であつたのを碓めた瓢とを述べで居るが︵一六、﹁八、九以下の物琵マルコの等ない故省く︶紀元四十年代
に記した.♪タロのコリント前書の中の復活物語︵二重丁一一︶には︰ハクp自身の見たイエスの復
活とキリスト教徒最古の侍承とを侍へて居るが、此によるとイエスの復活は単に幻影的な委をもつ
て現れ、︵影的をいふこミについては、パケ品心の際のイエスの琵ヾJ、人莞清に′ノいてのづロの思想−望五節以下
−碁笥此の紅扱が唯一の独活の詮披であると押し、マルコの如き去の重患﹁ついて物語って居ない。
イエス奇指の歴史代ミその信仰
640
イエス奇絹の歴史性ミその信仰
九〇
弟子遁に顕れた順序もパウロとマルコその他の璽量とは全く選って居る。幻影経験のま粗的確賓
︵
軽から、墓の容虚といふ客観的椎茸性にまで高めたことは確かに物語内容の進化創造であつて、約
三十年間における﹁紳の子﹂の信仰の生んだ創作物語である。
二イエスは自然現象に関する奇蹟をメシヤの使命の粘から重税せす、不可能であるとさへ考へた
︶
︶
が、マルコは此の事賓に反してメシヤと不離の関係において見、重要ぢ意義を此に奥へた▼Jと。この
︵
︵ユ告では
三昔時のユダヤ並びにヘレニズム文献には†ルコの如き奇蹟物語は多数侍へられて居ら・かゝる
ことは歴史尊貴と全く相反し、従って一の如き紳の子の信仰の生んだ物語であることを示して居る。
︶
奇蹟は時代の共通思想信仰であつたこと。悪鬼を追出した苗や病気をいやした話は勿論
ー︻2一ぎニー。−、Dつ芦ヘレニズムで1ミく眉鼠芦Ap。l−。。訂ほ何れも爾脊持を行つて居ろ︶。死者を復活せしめた話︵或ラビ
が誉㌔岩亡妻Pに芸︶、嵐を鎮めた話︵R・G喜一i三−A・D・冨︶、海上を歩いた話︵舛er旦、少量の食物で多
数人に食物を奥へた話︵穿usの芋、戎誓f呂inptきざ歩の苦、無果賓の樹を枯らした誘︵要NerA.D●
筈⊥uβ等を.マルコの物語と率行させて一々指摘することが出水る。
此等の理由で少くとも自然現象に関する奇蹟だけは史的葺ではあるま心。然しその由凍は必ず
しも一様ではない。或文献、例へば嘗約の換言者エリシヤの奇蹟物語等から改慶したものではなく、
最初に見たやうに普時の思想一般が奇蹟物語の創作に容易でふ∵り、そこから誰かゞいつたやうに1人
間の想像力は割合に貧窮﹂であるので同じやうな奇蹟物語が物語られるに至ったものであらう。然
64し
し印象深い自然現象を奇蹟と戚じた事も或はあつたかも知らない。後に述べる創作動機の種々なる
作用がこ山場合にも働いて居ることは疑ひ得ないだらうが、こ∼では特に説教内容から特化した奇
の内容から特化したことは明かでぁる。こ∼から奇蹟物語の中には説教の内容か
蹴物語のめ一りことが指摘される。無果賓を呪った話は、イエスの場合は、イエスの敦へた昔話︵ル
カ、一三、六−九︶
ら廼吏したものもあるといふことを知り得る。
要約して奇蹟の﹁紳の固し賓現の方法とする歴史的観念から、﹁紳の子﹂の澄披とする教義的観念へ
の礎吏は、著明な現象であつて、この信仰の託児として種々なる奇蹟物語が産み出されたものであ
る。然し此の創作作用が特に悪鬼放逐、病気治癒物語の中に迄及んだ事は勿論だらうが、如何なる
程度にまで及んだかは確められな車。
四
qとマルコがマタイとルカの資料となつた時、マタイ、ルカ両記者の愚度一般は、特にマルコの
原本が保存され岬居るので甚だ明瞭である。
ヽヽヽ
タイは﹁奇蹟かわひ得ぢかった﹂︵マル三ハ、五︶といふ記事を﹁行はなかった﹂︵一三、長︶/と訂正し、
ヽヽヽヽヽヽ
一信仰の謁見にろ奇蹟物語を更に信仰によつて愛撫成長せしめやうとした態度が特に著しい。マ
︶
︵
1ヽヽヽ1ヽヽヽヽヽ
ヽヽヽ
ルカは此を省した如き、﹁多くの病人をいやした﹂︵マルコ一、三四︶といふのを﹁すべての病人をいや
した﹂︵マ々′イ八、一六︶と壁夏し、二同日に初めて完全に盲人をいやした記事︵マルコ八二二−二五︶を
イエス脊踵の歴史性ミその信仰
842
イエス奇蹟の歴史性ミその信仰
両者共に省いた如きその例である。
二特に外部の批判に通應するやうに物語内容一ピ極東したこと。復活物語がその適例であつて.マル
︶
︵
コが復活の確認として塞げた墓石が取除かれてあつたこと∼、去の内部が峯虚であつたこと1では、
盗難による去の容虚と解され易く、弼喪マタイが記された時にはさうした非難、噂が流布されて﹁ユ
︵二七、六大︶
ダヤ人の中にひろまつて居った﹂.︵二八、一∴⊥五︶。この時の摺護を目的としてマタイはマルコの復
活記事を採用しながら内容に慶吏を加えた。臼く去は封印され番兵によつて固められ
ヽヽ
墓石は婦人連の眼前に地
ょる莱の容鹿Lからは免れることは出家た。こ∼から我々は外部との関係から物語られて居る奇蹟
物語も事登存することを知り得る。
マタイ、ルカが各自使用した特殊材料も著しく超自然的色彩に富み、此によつて紳の子の委を明
ヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽ
瞭たらしめやうとして屠る。超自然的出生物語がさうである。イエスは紳のか仰水によつて生れた最早
能力においてではなく血においての生水の﹁紳の子﹂である。こ∼に著しい信仰の静展があり、此物
語は勿論この種信仰の産物であつて史的事賓ではへ与い︵押由五、六み敷へ狩ろが今l‡次の記事だけで足りやう︶。
マタイの誕生物語とルカの夫とは皆時に於ける物語の二法式一で偶然に憧へて居るものである。二つ
の物語は畢にイエスⅥ父母︵ヨセフ、マリヤ︶と誕生地︵ベリレヘム︶とが一致Lて層るだけでJのつて、
その他は全く異なる。天使ヨセフに現れて受胎を告知し、左に導かれた博士の祀井、直ちに挨及に
843
難を避けたといふ佳麗にして悲壮な物語︵マクイ一−三︶零その一形式であり、天使マリヤに現れで
受胎を告知し、野営の吸着成井し、天使の群此に和して琴乙、静めの日清ちて︵七日︶彼故郷に締っ
たといふ優麗に⊥て喜びに満ちた物語︵ルカ一−二︶は誕生物語の他の形式である。こ∼で父母の名
の一致は歴史的布質一軍示し、誕生地の一致はメシヤはペソレヘムに生れるといふ裔約ミカ五、二の
琴盲に一致させんとした努力を示すものである。こ∼から又裔約琴言に邁應させんが焉に物語られ
ヽヽ
放じてSL中の奇蹟はイエスの偉大なる能力互選書する記事ばかトである。一人の瀬病人をいやし
た奇蹟物語も存在することを知った。
ヽヽ
ヽヽヽヽヽヽ
史話をマルコより受けた︵五、一二−一六︶他に、十人の蛎病人いやしの物語を侍へた︵一七、一一1一九︶
ヽヽ
が如き﹂特に死したばか♭の娘を復活せしめた物語をマルコより取った︵八、四?立六︶他に、更によb
困難な復活奇街である葬列を止めて復活せしめた物語︵七∵一1⊥七︶一ど侍へて居るが如き夫である。
ヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ
ヽヽヽ
此等の記事はイエスの﹁能力のより偉大さ﹂一ど強調しやうとした努力から産み出された﹁より困難
な奇蹟﹂を示して居る。特に復活奇戯が死後直後から葬式のHに進み、更にヨ♪ネ侍において死後四
を高めて
五
イエス寄庚の歴史性ヾJその信仰
」
に高められて行く経過を看取するに、さう困難一ぞ戚じない。こ∼から我々は又奇蹟物語に奇蹟の封象
日を経た去にあつて既に腐敗しかけたラザロの復活一ピ侍へるに至って︵一一︶﹁奇蹟の困難性﹂が次第
ヽ
小=
イエス奇蹟の歴史性ミその信仰
両者書記老はすべての奇蹟物語を歴史的串賓であると確信したが︵ルカ′二
九四
三ニ:二竺一一.二田︶
我々の見るところでは或謙の病気いやしだけが史的邦貨であつて、その他の特に自然現象の奇蹟は
明かに史的串賓ではない。
奇蹟が紳の子の教義的興味から重要成された怖に、﹁信仰の託兄﹂として初めて多数の奇蹟物語が
産み出された。産み出された奇蹟物語は絶えず信仰によつて発展生長させられ、もし不備の鮎があ
︶︶ 生れた奇蹟物語三外的攻撃に射する梓護から生れた奇蹟物語四曹
︵
れば、努力して完成させられる。イエスの奇蹟物語はこの根本信仰を汲想して、次の如き種々なる
一′■\
︶ 原因動機によつて生み出されたものである。即ち一所の子の信仰の費展から生れた困難七奇駄物語
︶.
二番約の撃一己に一致させんとして
話から生じた奇蹟物語。
︵
自然現象に関する奇蹟物語の中には、或は印象深い自然現象が奇蹟として物語られたものも
はないだらうが、確かな語族はない。
64∂
北方民族の巫術の起源に就いて︵承前︶
赤
松
智城
︵二∩︶
さてニオラジェの新著に就いては近くポッべとアタグスタインとの批評紹介があつて、特に前者
は言語学者として聞えるだけに、先つ望喜⋮といふ言葉の﹁原意﹂に関して批評を下してゐる。蓋
しその意義には知らる∼如く徒凍幾多の畢者に依って樺々の臭った解群が輿へられてゐるが.それ
︵二こ
︵哲賀蔓エに蹄して、古い一の輸入語と認めるものである。後者は寧ろ衝
は大別して二稚とすることができる。即ち一はこの言葉を蒙古及びトルコ系統のものとし.他はこ
ヽ れを梵語のシュラマナ
設に属し.近凍は多く前者が採用されて、現にニオラジトの如き亦たその一人であつたが、ポッベ
ラウトゲゼツツ
は却て断然その薯説を承認して、﹁全て前者に威する説明ほ普該の言語の音別に何等の支持一で見出さ
︵二二︶ ない﹂と明言してゐる。今技には固よ=ごこの商談の可否を決定することはできないけれども、嘗設
の慣僅が言語畢上岡ほ新しく保持されてゐることは特に注意に伍するであらう。
次にアクグステ㍉ソの批評は甚だ簡単ではあるが、それは私がさきに論評した﹁個人的巫術﹂と
﹁家族的巫術﹂との発展上の牌係に観れてゐて、氏も亦た﹁個人的巫人から家族的巫術への費展の必
然性は認めることができない﹂と断言し.且つ少へ与くとも家族的巫補の現象には他の読切の可能を
北刀民族の訳術り起源に就いて
北去族の蒜の起源に就いて
九六
︵二三︶ 暗示したいと述べてゐる。尤も氏は未だこの野蒜分に詳説してはゐないが、その意向に於いては
薙ふて見やう。
︵二五︶
今1のブリヤートの巫術の中には、特に1精寧品物に移す﹂儀式︵ad已1⋮一gO−且が雪が、サ
問題に就いてのみ私の三疑問とする所を下に簡越して置きたいと思ふe
る。これは他の部族の震の上にも暗示姦へる禁少亨ないが、抜には
に依って螢表されたサンデエフの1アラーレン・ブリヤート族の世界観と巫術﹂と題する一論がゐ
シベリアの或る=軍務の巫術に㈲する最近の詳しい研究の儒︼に・.さきのアタグスタインの覇評
′
︵二川︶ 殊に要すペき節が雪と信じてゐるCしかし今はこれに立入ること芸格して、更に他の近業を
ーの意味をもち同時に聖化石っ音−色の作用一芸す至と字−に就いては、氏の説明と開聯Lて
シヤ;の起源に就いてのみ少しく論評したのであるが、僻ほ進んではそのシヤ︰の服飾
などの意義に㈲しても、更に考慮すべき問題が倉まれてゐて、就中夫等の璧息と重息と
常に正確ではないから、その説明宝ぞ唯だそのまゝ認容してはならない。それでさきに
ので雪て、.何等の準備もない讃者には敢て推奨し得るけれども、その個々の詳細な鮎は必ずしも
′
門家への焉めではなくして、廣い通俗の彗昇にシベリアの巫術の梗概を輿へる食めには
卑見と略々同様で雪やうに見える。要するにこのニオラジェの著作はポヅ・へも許した
646
︵二六︶
ユーバーナライブゼル
ンデ;はこの儀式の由凍をば賓に往古のトー一Jミズムに漸求して、以てこれをその残存と見徹さ
ぅとしてゐる。蓋しこれは恐らく特異な一新託と云ふを惇らないであらう。弦には固よりそ
の詳細に亘ることはできす.またその過程の中に巫術的行事がぁることも事貰ではあるが・しかし
その起源をかくトー一アミズムに認めることは果して許されるであらうか疑なきを待ない。
く﹁精霊の任する空所﹂たる意味に於いて﹁生ける偶像﹂であつた。さればそれは要するに一種の醐聖
動物に構婁を移すことは知らるゝ如く多くの民族の中にも行はれ、この場合にはその動物は
レペンヂ、イドIル
動物の観念に外ならぬのであつて、決して本務の意味に於いてのトー一7ミズムではなく、従ってま
たその残存でもないのではなからうか。尤もサンデエフは自記の一枚披をば古く第十三世紀
シアの歴史家の記事に求めてゐるけれども、これも亦た必ずしもトーテミズムの存在を立記
は足らないものでぁる。恐らく氏は唯だかの神聖動物を認める所謂﹁宗教的動物形態貌﹂︵re−i粥1宥
北方岳族の施術の起振に就いて
︵二八︶ 勿論これは事賓として承認しなければならぬであらう。しかしかく精室を動物に1移す﹂ことはたと
れは動物・で犠牲としで精婁に委ねる意味に於いての一種のWelF2−gではないと見倣されてゐるが、
ノノ、
僻ほこれと開聯して上述の儀式が氏に依れば動物を特車に向つてさゝげる行事ではなく、
︵二七︶ に併記してゐ畠ことに依ってもよく窺はれると思ふ.のである。
るのではないでぁらうか。蓋しこれは現に氏がその宗教的動物形態粗とトーテミズムと一針
Z8m。昔訂ヨ且と特殊の意義及び制規を有するトーテム動物及びトーテミズムと
647
6jS
北力民族ゆ砿飾り超源に就いて
九八
ひか∼る意味に於いてのノくCニ⋮=g︵聖供︶では甘いとしても、確に一の詳i−igu=g︵聖化︶であるこ
とは疑一で容れない。これは現にその動物がシヤマンに依って特別の制規の下に取扱はれて、他の動
物とは全く拓別されムことに依って観ても鞘瞭である。㌢ればかくの如く精嘉を移入することも或
はまた他の場合に於いて見るが如く或る精憲特に患小㍊を移出することも、原本的には結局積極的か
或は泊極的に聖化の意義ノピもつてゐるの・であつて、この原意は賓に巫術の一原則であると共に、ま
たそれは云ふまでもな︿他の呪術と宗致とにも共通な一の根本的作用であつた。それでさきのポッ
ペも云ったやうに、﹁シヤマンが脱胎未開人に封して悪霊に憑かれることを防いで以て祭司と常師と
の役目一ざ務め、彼等の生存競軍に於いて援助者となる﹂のも、原本的には賓はこの聖化の作用と意
義とに基くのであつて、従ってかのシヤマンの種々の持物も服飾もその原意とま意とは全くその聖
化の用具としての祭具たるに締すること一で牢記しなければならない。
シベリア其他の民族のシヤマンに所謂白巫と黒巫との二類が封立して細字ふてゐることは既に知
られてゐるが、サンデェフも亦たブリヤート族にそれがあることを詳述し、且つその起因をも推考し
︵二九︶
ブイクルス てゐるのはまた特に注意すべき関越であらうと思ふ。今氏に依れば、種々の精霊とジャマン
若くは稚類の伍別一で解決する粟はまとして今日の吾々には不明な何等かの歴史的関係にこれを求む
べきであつで、即ちブリヤートの巫術はもと種々の′異民族︵ッングスかトルコ放か︶の宗教制度の
G49
交戦の結果を示してゐるやうに見える。然もこれは夫等の精室の任所が何等かの理由に依って東
と西方とに介在されてゐるのを見る時に、益々確賞の程度を加へ、恐らく此等の方向に何等かの
俗的及び文化的移動配置が行はれたであらうと推想される。それで氏は大概上ブリヤートを中心と
して見た東西の部族のもつ精蛋の相違とその混合とに基いて、ブリヤートの白巫と黒巫との起源を
推定してゐるのである。
この暇設には固よケ詳細なる民放恕上の事由が映げてゐるけれども、一般に典った方向と民族と
フレム.チ に就いて、その精霊のもつ性質と惜偵とにも相違を認めることは、かの膏凶の﹁方角﹂や﹁異人﹂に関
する特殊の原始的観念に於いて吾々の屡々托志し得る事賓であるとすれば.今このブリヤートの場
合にも艮族とその文化い異同と地位とに由って.これに威する㌫教観念にも亦た相違を凍たし、従
ってその混合わ結氷は同一の㌫数的制珪の下に舶反した二様の形式を認めるやうになったのかも
れない。それで私は敢てこの割に就いては氏り暇説を難じないのみならす、それは寧ろ白巫と黒
との起源上にも一の新説む提示したものとも云はれるであらう。Lかしかく民族と文化との相違及
び交錯上からその宗教観念の兼房一ピ考察する場合にも、更に荷ほ遡って追求し且つ確認しなけれ
ならぬ心理塾的串賓は、かり聖なる意味に於いての清澤と不浄若くは吉祥と本石との粗食の分化で
J・︰つて、白蓮と里⋮巫との分化も亦た賓に技に苑いてゐ一?㌻とに留意しeければならぬと思ふ。蓋し
本務は同一り﹁聖なる人﹂として・りシヤマンの中にかく相反する性質と惜俺と一ぜちつた二楼の
北方民族の巫術の起源に就いて
650
北方民族の巫術の起源lこ就いて
一〇〇
マンが存在するのは、心理畢的には全く清澤吉祥の聖と不浄不言の聖との分化封立を示す一の例詮
に外ならぬのであつて、かの民族や方角や文化の相違などは賓はか∼る両室貌念の相反封立を謂は
ゞ具象化する繰たるに過ぎなかったのである。
僻ほさきにも二言したシヤマンの持物と祭具︵例へば太鼓や杖や鞭など︶の意義に就いては.サン
︵三〇︶
デエフの所説は甚だ簡畢ではあるが、しかしよくその眞意が記されてゐて、その意昧は所詮また聖
化の用具であらその方使たるにあつたやうである。今氏の論文には更にこの外にも勿論幾多の興味
ある巫的事茸が詳述されてはゐるが、荘にはもはやそれに論及することはできない。しかし恐らく
この論文はブリヤートの巫俗に関しては最も詳密な信憑するに足るもの∼一であるのみならす、他
のシベリア部族に閲聯して見ても甚だ有益な一業績たるを失はないであらう。
終♭に更に北方の一大民族でぁるかのエスキモーの巫術の起源に就いて興味ぁる一近業に細れて
一
置きたい。蓋しそれは既にこの方面の専攻の単著として知られたクー〝ピッツァーが最近に公けに
︵三一︶ した一論文﹁エスキ毛−の岩井する細々﹂の中将にその第三節に掲げられた起源の問題である。
氏は先イエスキモーの種々の神話侍詮の馨生移動の途を考察した後に、それは確に歓洲即ちアイ
スチノドとノールタェーを経てグリーンランドに達したのではなくして、却.ってシベリアを経てベ
ータゾ〆滞峡を越え.更に東漸したものであると断定し.従ってエスキモーの巫楠と巫人︵A−1g註訂k
651
と稀せられる︶の崇葬儀穐の状態もアジアから起ったことは特に疑を容れないと明言してゐる。僻
ほ氏に依れば、エスキモーの巫術は少㍍くともこのアンガソコクの敷設と活動とに結び付いてゐる楕
ヽヽヽヽヽヽ
が北東に進んで、遂にそれがエスキモーの信仰の甚だ原始的な暦の上に蝶がっ
々高い宗教的崇拝の形式であるが.それには骨てアジアの内部に於ける巫術文化の改︵琶−≡⊇芦計テ
i胃訂舞ulturwe−訂︶
たことを指示すろ跡が現存してゐる。然もこれは全く一民族から他民族への宗教的倖捧の一例に外
ならぬのであつて、それは書々が普通に歴史から畢ぶ多くの他の事例と同一轍であつた。但しその
アジアのトルコとこのエスキ毛−とのシヤマンはその外面上の特徴に於いては固よち多少異っては
ゐるけれども・その根本観念と儀頑的行点其老とは賓に厳密に同様であつて、それは雨着に於いて
ー
唯だ必然的に起るべき多少の蒙
全然共通してゐる。そこで両者の間には確に一の薔生的関係があつて.特にトルコ族を中心とする
中央アジアの思想とこれに属する岩井儀蹟とは殆ど麺化せすに
化を経てーーかのベーリング海峡を越えて北アメⅥノカの氷地帯に進入し、かくしてエスキモーの宗
教的生活を件り上げたと云ふことには、恐らく何等の疑をも挟み待ないであらう。勿論これに.は種
々の樽設上の理由が怒げられるが、要するにエスキモーの巫術の起源殊にその賛辞地は北欧にあら
ゃしてアジアに在ると云はなければならぬと。
上述せるクールピッツァーの見解に就いては、私は固より俄かにその可否を断定することができ
へ与いのみぢらす、氏の掲げた紳話侍説上の考澄に㈲しても殆ど何等の意見を挟み得ぢいのであつて、
北力鹿族の巫術の起源に就いて
65:王
北方曳族の巫術の超渡に就いて
一〇二
唯だそれはエスキモーの巫術のアジア特にトルコ起源を明示した一の新見として.暫らくこれ一里認
めて置く外はない。しかし卑見に依れば、今1の巫彿の起源若︿は落地には.前述せる問題と相伴
ふて更に注意すべき鮎が別にあつて、然もそれは賓は既にクールピッツァーの所詮の中にも少しく
見えてゐることではあるが、以下簡畢にこの鮎を考察して本論を終りたいと思ふ。
をもつてゐる人間を謂ふのであつて、それは多くは老婆で
︵乞茎ハ︶と桝せられる老がある。これは特に
総じてエスキモーのシヤマンには現に氏の記載に依って観ても賓は二種類あつて、一は即ち上記
︵乞ヱ▼
︵ニ︼二︶ のアンガヅコクであるが、その他に僻ほクイラリク
地中に居る一精婁であるクィラ
あるが、まとしては病者に対して特殊の呪術的治療に徒事し、更にそ山外にも盗まれた物や失はれ
物などを云ひ雷てるやうな占ひをもする一種のシヤマンである。然もか∼る呪術ほ蕾にエキスモー
のみならす全ての北方民族に甚だ贋く分布し∵シベリアの多くの民族にもまたラッブランド人まで
語根からは更に乞雪βと云ふ動詞が導き出されて、それは﹁まじなひをする﹂ことを意味
にも行はれてゐる。尤もそのクィラと云ふ言菓が本務は何を意味するかは僻ほ本別であるが、この
ッ丁ウベルン
それがqニPまと云ふ名詞となれば、そのまじなひの食めの用具を意味して、それは即ちかの巫術に
ツアウ.ハートロム′ル
常に用ゐられる呪太鼓でぁつた。然るにさきのアンガソコクはこのクィラリクと同様に勿論シヤマ
ンであろのみならす、彼等は賓に公けに高く、政令に認められて、エ子キモーの大神と交通し得る
唯一の巫人であつた。それで彼等の職務と活動ほ轟かにクイラククを凌焉し、後者ほ甚ド簡暇なる
653
儀式を行ふに過ぎなかったけれども、前者はその敢食に於いて顔要な聖務を執行し、従って後者
にせ 蔑親してゐた。それでクールピッツァーはアンガッコク一雪大祭司L︵○訂rpri告r︶、クィラリクを﹁償
尊者﹂︵曾c訂已訂r︶と意辞し、種々の鮎に就いて両者を区別してゐるが、しかし彼等ほ何れもシヤ
マンであるから、或は簡単に前者を公巫と呼び・後者を私巫若くは潜巫とも挿し得るでぁら︰霊
然らばかくエスキモーのシヤマンにその地位と職務上高下の随分があるのは、本来何皇息味す
のであらうか。前述せる如くクールピッツァーはエスキ竜−の巫術としては主としてアンガブコク
に開聯する1よら高いL崇辞儀惑を認め、これに対して他方クィラリクはエスキモーの信仰Ⅵより
原始的な盾﹂であることを暗示してゐるやうである。而してこの原始暦の上にかの高いアンガッ
の儀頑の形式がアジアから侍播して凍たと解せられてゐる。されば今若しこれを許すとすれば.た
とひそのアンガッコクの巫術はアジア起源であるとして
エも
ス、
キモー其者の巫術の起源少なくと
もその原暦若くは素地はやはりむの民族に土着な在凍の低いクィラリクの巫術に存してゐたので
ないであらうか。即ち若しアンガッコクよりも更に原始的なエスキモーの信仰の盾がぁることを
むると同時に、またこれをばクィラリク・の﹁より簡単なる儀祀﹂に開聯せしめるとすれば、エ
ーの巫術の原本的素地は寧ろ既に固有のクィラリクにあつたと云はなければならないであらう。
かくこの巫術に﹁二様の瞑分﹂があぇことは、やがて﹁一民族から他民族∼宗教的侍播﹂があつ
たことを暗示する意味をもつてゐるとすれば.さきのブリヤートの巫術の場合と格々同棲に、吾々は
北力民族の巫術の起源に就いて
¢糾
北方鹿族り巫術の起源にこ就いて
一〇四
技にも一種の﹁原始文化の侍摺と柘合﹂の一形式を見出し得るのではなからうか。然も今Jのエスキ
毛−に於いては上述せる如くその巫術の素地は賓は本務用意されてゐて、僻はそれは真にその上に
高い所謂.巫術文化の改﹂を蒙わ、これと拓合したのであつたらう。
上凍私は唯だ北方の巫術に関する近業の二三を瞥見して、それの種々の意味に於いての起源を少
︵ニ三︶
ゝnt冒OpOm、Op●Cit.−印篭p
しく吟味したに過ぎないが、かゝる起源の問題に就いては併せてかの巫術文化の波動や合流をも考
察する必要があることを特に注意しなければならぬと思ふのである。︵完︶
A卦こ等号r:p・CitこS●︼声
旺︵ニ○︶ A㌢巳告r−く○︼●暮∵ヨ勇−一●−諾ごAntFOpO∽、巴●H舛Ⅰ一字.u−Aこ諾り
︵三︶ ヨ。rPdze−。ワeit・−∽・︼n ︵ニニ︶
ヒym㍗¢ゴ岩
S.¢巴読唇−、弾冨P
A−罵en・冒音声An誉○竃、戸出HI、Il
︵ニC一∩ト雲。r賢。、。p・Cit・●弾軍さ遥・ヾ買、諾P買−苫こ00ト後述するサンデエフはアサヤート族の巫衝に就いてのニ
ナラジエの記述が不破茸であつて謙語がちる己批難・してゐる。
Hbこ
︵三〇︶
A邑亭こぎ∴謬一山各員ま箆口答きH舛ヨ.巳.−∽−トヨ.声亡露
An誉OpO普監●舛舛t−pのラ買
︵ニ古
︵豆︶ ¢弓m・許nd邑各きW已百呂ぎ亡ungundSch賀冒6.1妄deH
タ巴・舛H−−Ht’∞−♪m−P
︵完︶
︵美︶ AntFOpOm−監・舛舛Ⅰ−Ⅵ・¢望巧簑舛Ⅰ−弾め蛮声
︵ニ人︶ A旨rOp。㌘望・阿哲H−∽・冨ト
︵三一︶ Th巳bご琵、舛ult釘訂ロGOtt訂訂ロder詳kぎOp
かば、全く帝ほ不明でぁるミ去ってゐる︵穿つye︼。p岩d㌻。︻謬︼igiOコ昌dEt霹乎ぎ︼.H一p.監8。
ム一夕ン
.
﹁
骨イJツカロックはエスキモーの巫術が、土着の菅生でぁるか、或はアジア民族の影響の岩鼻、そこから稔入され圭
︵至︶ T−′巴b許er、○ワCit●−∽●巴gト
ぁつて、現lこ彼等l‡屡々﹁潜めろムータン﹂ミも呼lrれてゐる。
︵三︶ 朝鮮−こ於いても謂−ェゞ公認されt巫貌の外に同校に私かに兇術的冶療や占ひに従事†ろ多くの巫人︵書∑て巫女︶が
655
横
超
悪
l〇五
日
明らかならしめんとせられたのであるから、其
企てには購凍の侍数研究に封する揖針室不され
たもの圭言ムことが出水やう。私は倍数に至る
までの思想を歴史的に研究することによぅて、
少くも国境誠に関する限り、支那日本に於て十
分なる思想的背景があつたこと一ど知ると同時
に、倍数自らの思想の中にも亦、偉大ぢる猫自
の卓見が存してゐたことを認めることが出水
た。未熟なる研究で未だ其全豹を知ることは出
水ないけれども、卑見の概略を記して識者の虹
正一ぎ仰がうと思ふ。
樽致の固頓戒に射する先凝着としては、凍朝
修道覇・注進等の系統と、
れた一り新天台畢の系統とが考へられるが、真申
便宜上先に支那天台山に於ける戒律思想の鼻蓮
ー常盤教授及び二宮氏の所詮を蕾むー
固頓戒に就きて
∴
我が国卒安朝の沸教は侍敏弘法の二大師によ
って開創せられた。其中弘法は顛密二数及十住
心の数列により密教を大成せる鮎に於て、日本
偶数の誇り得べき大思想家と認むることに何人
も異論はない。然し倍数に閲しては、古家其思
想の創見に対して史家多く疑を懐いてゐるやう
である。彼の樽ふる朗の四宗は、未だ融合せら
れぎる凝然たる四宗に止まると考へられ、彼が
晩年の壮烈なる大乗戒壇建立の運動に.関して
も、其の由凍を世俗的理由にのみ求められてゐ
るやうである。此卦に於て昨年常盤教授が倍数
の園頓戒告諭するのに﹁一心金剛戒鰭和決﹂に
依ってせられたと言ふことは、似合共著に眞偶
の諭ぁりとは言へ、之に依って偶数の白内澄を
拙頓娘に就きて
鳥56
軌組成に読手て
を概観してみることにしやう︵︶
抑t天台大師の散華に於て戒律は如何なる地
位を有してゐたかと言ふに、彼は戒律を以て定
r〇六
戒を隔つる二となく、一切骨摩河術へ与りといふ
J
あるといふことは、他に封しては仮に許したま
断じてゐる。是を以て見ても、梵網が菩薩戒で
けれども、次に至って此詭狩是待盛の戒のみと
菩薩の解をなせば然るべしと一往は許してゐる
は是菩匪戒なりと主張せるに封して、若し別脚
とをしなかった。﹁法華玄義﹂には、他者が梵網
封立せしがて.慣値的に優劣一で列するといふこ
大乗戒・小乗ノ戒・菩薩戒・啓開戒といふ様に
乗の具足戒であつたのである。然も彼は雨着を
る所の戎を食むと雌も其またるものは固より小
而Lて彼の律儀戒なるもの∼中には、詩経御す
Lて、決して封等の地位を認めてゐなかった。
儀誠に就いて見るも、他の揖善兢生の二戒に比
かった。然るに剤渓は此を用ひて、自らの大小
自ら進んで積極的にま張せんとするものではな
鯛を別固の戒とすることは、既に言へる如く、
句にあることは、言ふまでもない。元天台が梵
許して言へる﹁著作融卸菩薩解衰可顔云云Lの
言ってゐるが、その根接が天台が他の焉に一應
を認めた剤渓は、別図雨敢は梵網を専らにすと
て認めうるのである。既にして大小二戒の封立
してゐる。之が焉に、公卒に見る限ら天台の本
旨を逸したと見なければならぬ箇所を往々にし
小乗戒の封立と云ふ見地に立って、天台を解辞
得なかった。剤挨は天台に反して、明らかに大
る所として、戒梓思想の上にも自ら嘩蓮なきを
然るに剤渓に氷っては如何に。天台教畢の復
興を自任して立った彼と錐も、時勢の然らしむ
U
ことが.彼の戒梓観に於ける最後の締結であつ
でゞあつて、天台自らは進んで梵網を草間戒に
二戒封立といム立脚卦を保存せんとしてゐる。
†−
封すろ昔陛戒として主張せんとする意志のなか
天台と剤渓と其のカの入れ研が正に正反対であ
︻
ったと言ふことは明白であらう。而して法華の
るといふことは寧はれぢい串質である。故に剤
慧に入るの初門となし、三乗渾戒としての硫梓
問合一ぜ以て究極の玄旨とする天台は、趣戒の妙
867
の重軽l一篇を配してゐるといふことは長江意す
撰も亦天台畢一で奉する限り、開合一ど以て究寛的 圃致の菩薩は専ら之一で持すべきものと見てゐた
立場とするのであるけれども剤渓と天ム‖との問 と考へられる。更に明囁が一切戒を接し亜すも
には、戒の大小を高調して開骨するのと、戒の
のとして天ム‖以凍用ひられ乗った所謂大諭の十
大小・ピ諭せすして開骨するとの相違があつて、 戒なるものを解するに普り、其の梓儀誠に梵鯛
此鮎は侍敦の脚頓誠に費達すべき粛芽の存する
維持すること\
大乗戒の燭立を高調すること
所と見ることが出水る。剤漢はかくの如く梵鋼
べき事であつて、之は前記の私の考を確める有
を以て別間雨敢の苫陳戒としたのであるが、飼
力なる澄枝となるであらう。かくして明囁に至
それは理想論たるに止皇つてゐた。即ち現賓に
って相持戒としての大喪菩薩戒の思想は、剤渓
於ては出家は菩薩と雄も白四殉磨の小成による
に更に一歩を進めた脱があるけれども、彼も亦
と詭いてゐるのであるから、此所に﹁別風雨敢専 終極は天台の開合の碍外に出づることは出水な
於梵網﹂圭一一口へる先のま張と矛盾せぎるを得な かつた。然し翻って思ふに開骨思想に締結する
くへ仏つた。此開合を締結とし乍ら相持戒たる大 者にとつて、・彼が大襲戒を高調するといふこと
乗戒を高調する者の嘗然達すペき結果である。
は、甚だ無意義なことではないか。否それのみ
次で剃漢の弟子明囁となれ町費首の影響に
へ与らす曾通すべからざる矛盾撞着一曾さへ生じて
ゐるのでぁる。即ち理論よト・すれば開合思想一ぞ
ょって三東洋室二身の困とし、天台の止観一
満
ど、戒梓に封して頗る重要な惜偵を認めること
ゝは、決して両立することが出水ないのであ
る。故に此戒樺思想をして矛盾なからしめんと
するには、開骨思想のみに止まつて相律戒たる
対立思想を拗棄するか、然らざれば相棒戒とし
と錐も、別敢の人は漸具打アりと言ひ、次で梵網
になつた。而して梵網は別固の菩薩同じく棄く
は圃融の菩薩戒ならと言ってゐる所よりすれ
ての大乗戒を推し立て∼開合思想の規範を臆す
一〇七
ば、彼は進んで梵網は風教の菩薩戒なるが故に
圃碩戚に就与て
658
一〇八
■
卸硯城l二就きて
るか、此二つの中の何れか一方を選ばなければ
燭立の運動に奮進することが出水たと言ふこと
大軍言もなされ、三園偶数に未曾有の大乗戒出
ならぬであらう。入店Lて剤漢以後の新天台単
歩入析南淡ニー切琴癖和備軽挙於叡夢進和上絆検︼−於束
を、容易に甥解せられるでJのらう。一心頑丈谷
00000000
に接したる我が倍数は今や戒律上の問題に閲し
て重大なる岐路に立つこと∼なつた。此際倍数
に射して其進路を決定せしむる上に最有力な
りしものは.彼が入唐以前より変讃しゐたる道
を示したものと言ふべきである。以上甚だ簡単
琴戒倭留−一山撃滅辣研−森夢︵借金一宮3
られる。就中道場より粛早くより行表を通じて
一乗思想の威化を安くる所最大なるものがあつ
ではぁるが侍敦の固頓戒が十分なる思想的根披
000000
革入唐之旦掌於天台智者山門海南成文ニニ稀之文蓼於山
たのであるが、倍数が開合を度して純大乗の戒
を捕って興起したものであるといふことを論じ
場・注進・智周等の﹁註梵網﹂であつたと考へ
壇建設に突進することになつた所以は、賓に商
囁の華厳及雇によつて自性清澤の暫畢を高調す
題に関して、敦種の雑誌に最貴重なる研究の結
常盤教授は昨年暮我国初期の戒律史上の諸問
〓
と言へるは、貰に簡明に侍敦の風戒思想の源泉
店造喝の﹁註梵鯛経﹂の港南に基くものであつ
た。かくして倍数の固頓戒思想の中には、剤潔
た心算である。次に常盤教授及び二宮守人民の
併設に閲して少しく愚考を記したいと思ふ。
る潮洗と、更に鑑眞門下の注進よち凍れる天台
明晩等の梵網を国数の菩薩戒とする潮洗と.造
畢の思想潮流と、些二者が融合して此所に幽玄
から.之に封する畢界の輿論は吾人の乾い興味
果を費表せられた。教授は之に依って舌凍の定
説を一慶する新しい結論に達せられたのである
なる侍教覇自の心澄を酷醸したのである。凡庸
不文なる私は今それを付度し表現することは出
一で以て期待する所であつた。日本沸教史の研究
は近凍頗る不振の傾向にあるけれども.教授の
水ないけれども、識者はさ様な熱烈なる信念が
l−.−・1
あつたればこそ.小誠実拾と言ふやうな峯前の
659
五輯の上に、二宮守人民の﹁常盤博士の固頓戒
新設に封する反響は、先つ﹁大正大草々報﹂第
鮎からのま張ではない。教授は侍敦の天台畢が
鑑真一派に負ふことは、前に﹁草葉﹂第七・八
を開明せられたのであつて、日本天台宗といふ
る諭は、侍敦の囲頓戒に射する先串者なること
二故に亘って諭せられた所であるが、唯固頓の
諭を譲みて﹂と言ふ論文となつて現はれた。私
は早速之を一讃しノたのであるが、遺域なことに
、
出費鮎に於て此の如き誤解が存してゐる焉に、
澄悟は造媚よりの相承にして、鑑具より待たる
ること∼いふ教授の二大主張に封Lて、二宮氏
氏の批評も亦的外れの非難とならぎるを得なか
二 南都或は稔伽戒なること
の根本的批評を見出すことが出水なかつた。金
った。然し一々の論難についても首肯しかねる
ものに非ることを力説せられたのである。既に
貨悉く教授に射する非難反射を以て浦されてゐ
ものがあるから、項はしくはあるけれども氏の
二、侍敢の鳳頓或は比蘇道堵に負ふ所最大な
かに拘はらす、氏の積極的意見は、殆ど捕捉す
論文の次第に従って順次に卑見を述べることに
肝レ説海難義行畠訣之事何食信用裂
州−不忠之詞著凍土遠州朗孝夫一何況比率自然智也
一〇九
といふ三早がある。二宮氏は此中の自然智とは
︵借金一︼宝︶
000
英文云争天下食堂軍女凍上寧嘗今析レ貴社訣之事声見£連
0
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
論日軽澄向レ庸雄レ不レ巡−天下諾♯食草巳見−二隅亦待l新制−
0000
〇〇〇〇〇〇〇〇〇
骨統奏日鼓澄只在£遠州融便淫楽寧知峯天下諸寄食草彿之
開下示見三庸一隅−知主天下上座−明塘上十八
先づ第一に﹁轟戒諭﹂の中に
する。
ることが出水ない。殊七其反封の鮎を一々調べ
てみると∵概ね教授の詭を誤蟹呈
租文を曲解tての立論であつて、其動機が反射
、
せんが焉に反封するといふ如き不純なものでは
なかったかと疑はぎるを得ぬ。
三
先つ氏は教授が濫掘を以て日本天台宗の先駆
者として侍数の法規ならとま張されたものゝ如
く考へ、専ら此立場から攻撃して居られる。然
し之は最甚しい誤解である。教授の道掘に閲す
咄囁娩に就与て
「
660
榔頓戚lニ放さ一\
師承を待たざる猫悟り聖者といふ意味であるか
⋮一〇
自らは道箱の帥承互きを高調してその影にかく
いが、博士の言はれる如く此文鐙に依って艦長
宣解群に賛成することは出来ない。
桁に陥ってゐるではへ与いか。私は断じて此の楼
ら、便数は之に尊敬一ざ誹ってゐぢいわけではイ、与
れたもめとするならば、そは論法として全く 矛
以上に造編を重く見たといふことを論断するの
であつたらうか。私にはさうは思はれぢい。且っ
果して二宮氏の解せらる∼如き左校な卑怯な人
ろ非難一里析誰したことに互乙のであるが、彼は
れろ。酌み此説によれば、伸教は先非のより大な
る失を奉ぐることによつて、自己に向けられた
ないか﹂と言って應酬したものと解滞して居ら
火である。然るに卿等はそれ一旦認めてゐるでは
それ故に自分の速州朋輩の失よりも更に問題は
射して、﹁追魂ほ師承一で禦けない自然智でJウ㌔
対しては.樽致が遽州の闘撃と非難されるのに
のである。自然智の■指固に依る所竃末の誤もな
も、金は自然智たる比蘇の指示を受けてゐるも
いか。況や自分にはよし閑牟の失はあらうと
も、汝等自身は基逸州すらも見てゐぢいではな
は余に勤して逸州の開塾一で以て難するけれど
﹁拗戒諭﹂の先の文も教授の解された如く、﹁汝等
ふ如き意味でないことは明かであらう。従って
へるに徹しても、単に帥承なき燭悟の堂老と言
数の人馬を叙して、﹁性別天輿、智刀自然﹂と言
る最高の費鮮である。﹁一心戒文﹂が序の中に倍
封智とも言ふべき憲政であつて.一人格に封す
然らば其自然智とは如何なる意味か。其は絶
又伯数が追嬬に師承互きを理由として、自己の
い﹂といふ意味でJのつて、濫掘に封する深き信
は少しく早計なりと言はれる。而して右の文に
失を飾らんとする如き陣劣なる心−り持主であつ
とは未仁速州・でも見ざる不忠の詞行㌻り﹂と.大
らう。自然智を此の如く解する時、﹁未見遠州不
んでゐるといふことは.容易に覇取されるであ
たへ㌧らば、如何にして﹁今奏す一っ所の誰誤の黎 向と造箱より何州承せることの誇とが、文底に潜
脇に逆数することが出水やう。況や﹁未見遠州
不忠之詞﹂と十‖つて付紙等ノで駁しておき乍ら、 忠之詞﹂の句も千釣の秀一チで布寸ること∼存rク、
6t;1
て凍るではへ仏いか。鑑眞との比較は背く置き、
遽州の見聞と雄も之に封して愈々其侶伍一で帯び
でみればよい。然し自分は未だ彼︵貿燥︶が其
ことの出水ない轟賓である。
侍敦の道嬬に対する絶封の信蠍は到底否定する
を唐より日本に侍へたといふこと一宮聞いたこと
がない。それとも追昭や知通が侍へた設だと言
ふならば、古記の中に其葦墟を示せ。若しキ徳
所博の語だと言ふへ与らば、左様なことでは稜畢
﹁.法華秀句トピ引いて居られ一っが、岡らやも亦そ
Jっ←信せしむることは出家ない。然し乍ら若し比
次に氏は自然智といふことの解澤に開脚して
れは却って倍数の道蠣に封する信向の稗度を知
らしむる一躍左となるのである。﹁法華秀句﹂巻
若し然らすLて自己一分の所悟であると言ふな
蘇や蓑掃から侍へたのだと言ふならば、彼等は
自然智であるから真東する所はぢい。汝は此二
人の中より相承したことがあると言ひ得乙か。
上末に日く
0000000
000
苛ぎ宛胡巧パ︻■帥野末−知肺帥博エロ本褒ぎ遣昭及知遇一昔詑
り白木に憎へたといふことと、勒比蘇及養淵を
自然智ハけりとして其より票承の有触⋮一で論じてゐ
ることと、此二鮎が攻撃の重要ぢ骨組となつて
ゐることは、何人にも容易に気付かれるであら
ぅ。以上の二丈ノで合はせ讃む昨、偶数の造碍に
してゐ一っが.此論法の中には、川帥の師が店よ
ら
早誌く此の邪見ノ官給てよ。
之中示■一北ハき考古三吉徳所情話︼不レ足レ令し信一砲
撃ば
野、
裏革
蘇及載淵日照智宗無レ析レ勇知副何首レ有し勇知粛軍ぎ自作倍
悟数はか︿の如く色々の方南から徳一を追窮
0000000000COOOOOO
早速姶二離此邪旦寧琴l名利轟二聖梓一也︵博全三三︶
此虞には比蘇及弟淵一で並べ輿げてあるけれど
も.其自然智の意味は前の如く維待智の意に解
しへ㌧くては論理が徹底しへ㌧い。文に狂って明白
でぁるけれども、蛇虐一で加へて解説すれば次の
如︿である。
傾倒する事の如何に深い.もの一であつたかといふ
ことは、掩■二からぎる事賓であるっ因に侍敢
若し汝知副︵徳一を指寺ノ︶が師の詭一里黒けて
草でま張†=つのだと言ふヘサしだ、汝の師︵修固︶
一一一
及徳︰両面・り舶承一ざホせば次の如くである。
ー
い帥︵m封憬︶がテい寧で情よ・り日本に伯へたり
M
GG:三
蹴頓戒に就きて
店偲道埼︵比蘇︶
−
行衷
義淵−宣致−蛍橿−修聞−徳一
次に二宮氏は﹁顛戒諭﹂中の
開丁示利他之攻撃t小律儀一明墟止八
−
倍統奏日叉富永他故仮要一小律儀嘉炬恥−髭衰
寂澄
律儀︼今山家亦先学菩薩戒︼後利他之故撃仮受︼ネ儀已撃
論日鋸眞和上十六出家十有八歳費三菩薩歩後利︼ネ根仮受−一小
00
000000000
和上志向及−融言矢岳謹寛大唐停戒師名記大和上鑑眞俸云
︵中略︶舶批明知我大日本圃停戒大和上先受三大乗城−後受−−小
乗戒l利︼︼小根改定肇﹁〃娘豆不知他︼哉著樋レ敬白利可レ不レ
骨大著野心成夫可レ不三日制向日稀−大儀仮受二挙例貫也
︵偉全一諾︶
の文に関して、これは決して逆境の名を重く引
いたに比して鑑真の軽い引き方であるとは言へ
へ甘いのみならす、寧ろ鑑真の方が重く引かれて
ゐると言ふべきでぁると論点て居られる。然し
二二
カなる手段として、敵方の祖師を引記するとい
ふことは一般に慣用された所であつて.借款も
亦例言の非難に酬ひんが虜に南都戒壇の銀盤眞
を引いたまでである。而して此文に於ては其以
上に師承としての意味を認めることは出水ない
のである。
扮て﹁顕戒諭﹂に引かれた上記の二人即ち進
境と鑑真との中、何れか多︿倍数によつて敬意
例言之詰反軍和上一︵中略︶已療工法州重信−一比琴
を示されてゐるかを簡明に比較する焉に、﹁上額
戎諭表﹂の中より各々に相管する文句を引いて
見る。
00000000
︵停会一皆8
︵借金一︰雷︶
例言之詰返事和上l︵中昭︶敵軍遠州一声傾昆琴
例言のはてには反って和上をさへ罵ると言ふ
此蘇を信するやうなことはなからうと言って其
其の所謂重い引き方圭一一口ふ意味が、重要なる諭
るが、食垂令敬の意を表示すると言ふ意味なら
ば賛成することは出水ない。何となれば此は引
の信せざる愚を芙ひ、或は鞭く遠州と誇っても、
披と言ふ意味ならば私も亦大に同威するのであ
澄ではぁるが反封の材料としての引澄であるじ
自然智の此蘇は如何ともする.ことが出水ないで
文句から相承の意を見出すことが出来ないに此
し、巳に遠州と言って嫌ふやうな輩であるから
常時自派の詭を相手方に承認せしめるのに最有
663
あらう。自分はその比蘇の指圃を受けてゐるの
だといふ中には、共に温堵に対する強い強い信
凪が存してゐるの一で見ることが出水る。
次に氏は又﹁長講法華経後分略願文﹂を引い
てその中に鑑眞及其門下には一々名を奉げて蹄
敬し乍ら.遂に一言も道頓に及ばざるは何ぞや
と言って居られるが、そは閻頓戒と法華宗とを
混同しての非難である。此願文は英名によつて
も想像される如く、法華宗といふ鮎からその相
承を列ねたものであるから、之に依って固戎に
沸する道堵の地位を拒むことは出水ない。然し
強ひて言へば
大唐停謀師
及諸宗飾付
麟生々師暦 天竺付法師
三論宗師甘・法相宗師借
0000000000
華厳宗師倍 大発祥師僧
云々︵偉仝四誓柏︶
000
甜彼攣我国併弟子誰忘三二聖寧者哉︵借金四︼︶
侍敬白ら言へる如く、法性宗即ち天台宗は固
より聖徳太子と鑑眞とに依って建立したものに
相違ない。然し其事が直ちに固戎に関する心謹
の上にも、億敦と鑑真との間に相交渉する所の
あつた語族であるとは言へないのである。
、一民は更に﹁註金剛鉾諭序﹂の二聖が太子と鑑
真であるから、﹁一心戎文﹂にある二聖も教授が
達磨と造埼と見られるのは誤であつて、矢張太
子と鑑眞を指したものと見なければならぬと主
張せられる。然し二聖とし言へば天台宗に関し
て言ふ場合も、図頓誠に関して言ふ場合も、侍
敦の著述の中に現はれた場合も、光定の撰述に
現はれた場合も、曹同一内容を意味するもので
あるといふ筈はない。﹁戒文﹂中の二聖が何人・で
甫岳忠犬師 天台旗大師
と言へる中、華厳宗師偲と大乗律師付とが諸宗
指すかは、少しく前後の連絡に注意して讃むへ仏
0
の中の最初に奉げられてゐる。其の中に道碕が
l、
0
′
一一三
0
うば自ら明白となる。﹁博通一心成文﹂下巻に日
く︵停会一己∽以下︶
夫一乗戒者蓮普之和幸却悪之前陳
勝賓年中鑑良和命帝王於埠重野日本国
0 0 0 0 0 0 0
天平年中道廃和上一乗戒荷レ之蹄朝
0
合まれてゐるといふことは言ふまでもない。
次に氏は又﹁註金剛鉾諭序﹂を引用せられた
が此も同じく法華相承に関する文であろ。
締着心餞伏顔速仰一一上官大子近畢過確和上象−豆此宗一報亀
000
今新法性宗龍猛苔裔南岳子孫也性相郎融理事具足発着明師
0000
0000
漸頓戒に就青々
661
親相成に就さ一一、
0000
延軒年中皇帝陛ド詔t京源空活∴伸一誠一−美ム・.卑−︰臼於大庶︼
求工於西隣︼
00UOO
弘仁年中如こ藤原人臣一姫−石一乗成一誰夜於大下︼
〇
〇
〇
〇
〇
〇
〇
〇
一一四
掘轟こ干淀地こ等と言へるものは、賓に此滑息一曾
語るもりである。既に光定は﹁道璃和上一乗戒
荷レ之録朝一と言ふと雄も.鑑異につきては唯﹁荷二
於戎珠短三日本圃こと言ふゃり。一乗戒僧戎の
二空が太子と鑑真の二人に非ざ′lニーとは一宅の
僻此所に不審とすべき鮎がJのる。其は、偶数
疑一ピも容れぬ。二宮氏は﹁造嬬和上一乗戒荷於
〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇 〇 〇
之録朝云云と言へる如き上りたりは、確かに鑑奥
よりも造塙一で重く見た傾がめる﹂と言って居ら
れるが、此文が重く見た傾があるといふ程度の
解澤ですまされるであらうか。畢蒐一乗戒の何
ものなるや一で解せられぬが秀であらう。
みである。﹁先師の倍戒二聖い後に在ト﹂と言ふ
つ
弘仁ヱ隼略レ弘レ此戒師早川“価滅こ緩詐二博宗符一度接受戒
0 0
0 U O O
日歩一博成之帥一
〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇りつ
遊一“粟溌純一
然則有一矢州﹂付戒∴十八帥−雅邦∴十・へ帥菩提達磨鱒二粟“胱
0 0 0 0
〇 〇 〇 〇
二聖後−
つ 0 〇
明知聖典三上加ヰー交L跡利レ吐二爪革二戒垂灸山門一先.坤鱒成在−
光定は﹁別に知る撃と聖と跡一三父へて雄一で利
し一乗の戒山門に侍はる﹂−と言ってゐるが、今
此所に一乗戒・で伯へた帥としては道覇と建桝一り
二聖が遁放と道端でろ一?Jとは如何にも明々白
は﹁血脈譜﹂等に於て入店伯戒といふことを強
調し、造霧系統の一乗戒佃持とい∴ことは少し
も述べてゐぢいのた反し、光定は専ら達磨及道
霧の踵系統より一乗戒を和承せることを述べ
○ つ 〇 〇 C ,し 二 っ こ −、− こ
に伯へたる空である■︶光定は恐らく山家倍ふる
て.大店の道蓬より受戒せることノでさ⊥まで重要
○⊃OJ
文﹂の小に、或は﹁準声天竺建二重破こと言
唐土に侍へたる聖.一は即ち此一軍居士より本朝
々ではないか。一は即ち一乗誠一で彿閣天竺よ・り
ふ所に無限の心強さ一で兜えたので上りらう三.戒
何の戒が傭閲しょり端々相承せるものであると言
視してゐないと言ふことである。此は何に由る
のであらう。光定も亦﹁一心戒文﹂の終の方で
は、便数が台州龍輿寺に二於て天ム‖第七の傾注遭
ひ、或は﹁侍戒帥々相承串者従二摘天竺き千日
遇よ・り回教の菩薩戒一で受けたと言ってゐるけれ
︻−⊃■︶一︶J⊃﹁
本−南天竺王第三王子菩提達磨一乗之戒受−優婆
C
6(;5
きは到底之と比較にはへ与らへ与い。此所に私の卑
言ふ所は速断系如承でぁつて、天台系相承の如
ども、朝廷への奏文一で初め﹁戒文﹂小の所々に
地に立ち非鼓督寧が重要へ㌧る基礎一ざなしてゐ乙
通して見る限ら初期山甜戒思想は縮減一致町見
乙理由ではへ㌧かつたらうか。光定石二心戒文七
讃し、之一〟⊥明、.りかへ†らしめんとすることか主へ㌧
佗敦は之一で造魂に待たのでJ′ぃる。況や次に述ぶ
見一箪述べれば、蓋し次の如き理由に基︿もので
一倦数の大理想は風致の三撃を確正して、日
る如く、伯敏一でして小城によらざる純大乗菩薩
ニーこ・.で認め得るが、確誠一致の思想も華厳率も
本に一向大乗寺一で興さんとするにあつた二従っ
戒の一弼立一で決意せしめたものは、商店帥造礪の
はなからうか。
ヽノ
て苅戎撃も亦回数の戒でぁる。彼が天ム〓系い和
﹁珪兜新緑﹂であつた。光定が道礪を以て一乗戒
ヽ.ノ
/し
承′笠岡調せる所以は此に一項る。
の憎来者となすは此に由る。
︶
二次に又鵬而には前に述べた如′、、一乗戒が
居傍誠七高調しへ㌧ければ、泣顔高来L・チりハり加東
設といふことが最緊要事でノ・′︰つ十けが、光定に至
之一〟﹂要するに、便数に一めつては固頓戒壇の建
︵
あらしむ乙男に、人情悼戒といふ串砕ぺ
天竺しチ・地歌に芋三三ご崩々相承せるものであ
二束に亦南都一派に封して叙山山抒誠一で椎威
の源は小先山聴衆の−面詰天ム〓が繹迦彿よ・り親愛せ
と言ふ如きホに依っては、摘和の許容し能はぎ
ってに粍に戒的り姫寸∵b勅許せ1れたのである
′..一.1\
しに基くとい÷−と▲でホLて之J‡批巌寸一乙こと
らう・と想像されろこ
乙ことをホさんと寸ら意味も不仲ってゐたであ
ること固よりてノ・い乙一一こ・れ佗数が天ム‖系山新承
から﹁新一竺し伯致の国賊附㌫小の源流を尋ぬる時.
而も北ハ
が必要であつたに初速へ︺い。若し作歌にして入
一で■い■み強くヰ躾せ一〇印由の第二である。
遺露より一い相承が北ハ根幹とハ㌧つてゐるのを強︿
ヽl′.
一然らば光定は何故にm咄減を造璃より伯へ
意識した彼は、憧ご所な︿之一で公表することが
/..1\
しものとしたか。そは性欲の凪減思想が苅韮要
出来たのであらう。光完が一乗或は泣璃より伸
一一五
ぢる要素に於て迫疏に負ふ所長大へ㌧ることを意
粗相戒lこ就さ/し
瑚頓戒に就きて
へ仁と言ひ乍ら、倍数滅後場戒の勅許を得た場
合に、﹁度海受戒以寧商魂之師﹂と言へるものノは、
私の如上の想定を確かむるものではなからう
か。此瓢に閲しては識者の御批判一で仰ぎたいと
〇〇
一一六
以レ人斥レ小弟維摩耗︰エ心沖故衆生浄心垢故衆生栃木レ出一︼
∴東経撃帥犯三軽垢非一法撃貪−衷小乗二二蔵草庵不l輿共作上
00000
於如女迦菜破レ吋云我従レ是来不工復勒レ人以主筆翔辟支伸行︼
三調三伏城言受小乗一昔一朝萱地以上菩薩現作二二乗−同−三乗法︼
000000〇
及欲■森孝不﹁輿エ∴準而相通背上四開レ小人レ大老如三弦撃き
而調︻−伏之一総見三十賢菩薩若出家省一一骨愛三行二乗城準
00000
沖等析レ行是菩薩道漸々修単悉常三成俳東大脛云菩薩摩詞蔭
持工四重禁及突宕羅敵或豊凶等址州王差別一駅加持陽管用亦同−一
のことを言ひ、﹁場数大師は此商店造蠣一で自己の
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
此誠一天台法華宗俵二二鱒革暫一十∴年相隔令レ修何燕一重敬一
戒論﹂の中に新宗所偶発網園戒等と言へる所一で
終局に於ては開骨に止まつてゐた。倍数が﹁顕
の高調は殆ど絶頂に達した脱あるに拘はらす、
支那天台山に於ては、剤渓・明囁以水大乗戒
凍を、氏は何虞に求めんとするのであるか。
べきでぁる。倍数をして此英断に出でしめに由
行に移さんとした所、正に破天克の英断と言ふ
ば賓に許し難き反逆であつて、それを直ちに貴
ある。かくの如き馨は侍統的戒律思想より見れ
何なるもめであつたか。そは小森具足戒を棄給
して純大乗梵鯛戒を燭立せしめんとするもので
倍数畢生の大事業た♭し固頓戒の運動とは如
︵偉全一︼雲︶
也
たる顕戒諭に引いてゐるのであるから、博士の
不答今以一一四撃料簡初大小相鱒畢禦此鱒些一念二乗心l撃
南唐註搾云間大乗戚菩薩庸レ争学問戒律儀亦待−真書薩併撃
00
00000
であらうか。左に全文を掲げる。
潤色と言ふ如き軽き意味に解し去らるべきもの
ま張の潤色と考へて居られるが、英文が果して
店わ﹁註経﹂が引かれた所以を以て、大乗戒の
史諭の中に説いて居られる。而して氏は今此商
経﹂に関しては教授も﹁峯斐﹂第十耽天平文化
理由であらう﹂と言って居られる。南唐の﹁註
れぬものであるのに、之を逸したのはどういふ
立論の焉には之より都合のよい詮墟は又と得ら
、
大乗戒の主張の潤色となし、畢生の心血を混ぎ
戒諭にある﹂と言って倍数所引の商店﹁註経﹂
次に二宮氏は﹁更に博士を喜ばせる大物が頻
﹁思ふ。
666
667
で推し上げにる俳味の‖心想を損承する∼・りのであ
似てすれば、明かに彼は梵那戒一で回教の戒にま
強さを覚えしめたことでJ山−しう。かくして便数
人城山猫立を強訴する彼にとつて、其枚接が﹁法
′∴十二年和隔て∼催せしむると言ってゐる。
華﹂に在りと︰﹁∵でJとは、何故一でLて如何群心
るけれども、その小戎を棄てて大戒一里捕立せし
め、開合む去って廃立に出でたる究極原因に至
っては、蓬に之一で天ム‖山に求めることが出凍ぢ の固頓戒壇建設の運動は法華・梵鋼二鮮の意に
い。然らば仰が倍数一でして此英断に出でしめた 依るものであるっ既に其の二鮮の意に依ること
のか。私は卦ハを商店即進境の﹁註梵網羅﹂存㌻り が造魂の指南に基くとすれば、髭ちに倍数を動
と断言せぎるを得ない。国よ・り剃漢・明囁の疏 かしたる最強きカが道碗にあ・りといふことを断
中に見える西方彿固は大小別使と云ふ読も亦其
言するのに何の不可があるか。潤色等とは宗備
に病みて本末を耕せざる薪の言である。
一国であつたこと一里育むものではへ.与いけれども.
最強く伯教の心を動かしたもの■は必す苗稀であ
氏は吏に言ふ。撲陽智周亦此設に同じとある
から、造堵一で法租とするならば智周も法剋とせ
未だ其燭立を卓張し行なかった支那天台山の不
依ること一ざ説いてゐる。梵鋼回戒右高調し乍ら
舶附であつて、然も基は法華・死刑二緯の意に
て四つの場合を森げてゐるが、・其の第一は大小
網﹂の中に於て、菩薩の小戒上封、する態度とし
に法刺と三三考に捉はれすぎて居られるが.今
ひと同格に見ればよいことになると。氏は廠・り
之恒るから.此文丈からは﹁依憑集﹂の黎何の扱
ふべきかを、﹁依悪天台集﹂に明示してみるので
ねばならぬ。而して倍数大師は智周一竹−いかに扱
ったと信す乙。何となれば遣璃は前掲の﹁註梵
徹底上比して、泣編の此の如き明碓定る判決は、
は法剋を定めんとしてゐるのではない。倍数の
固頓戒が如何へ㌧る所よう源を発したかを切にせ
んとしてゐるのである。故に潰瘍と智用心並斎
一乗lt−心想に燃ゆる便数の熱情を何として打たす
して止むことが出水やう。果して彼は註祥一で引
は何等不都合は七いけれども、﹁撲陽勢用亦同比
一山七
きたる後に天ム‖法燕宗は二経い意に依って、西
川相成に拭き/・、
66R
設﹂の一句を固執して、憧教と泣蒋との問に存
畔mるには、北ハ派の共許する群論若しくは其派の
には何等不都合はないので一項る。反封派の故に
一∵八
する特殊関係を無祓するへ﹂らば、私は北ハの偏狭
皿相成lこ就き一\
l︶ 一で笑はぎるを待ぬ。翻﹁依憑基﹂の序に叫厄笹岡
套手段であつたこと′で銘記しなければへ・㌧らぬっ
兢師の説に依って破るといふことが、常時の常
000000つ
0000
天台こと言へる二丈の如きは、二宮氏の莞一で汚
鋼祥成﹂であること一で、現今出城絆に残ってゐ
く俸々引用されてぉるものは.法祁宗智何の﹁梵
も出である。そ一り中・lに冊屁旦解滞日として断らぢ
因に慈覚の叫勘揚大戒諭﹂は其傾向の最顕著な
店之彼再び瓦二ポ東唐之訓卵独城端Lとキ︰ひ、抜
に﹁叶乎賓哉生動東上埋知者次此言有以也、不レ
00こ.つ〇〇〇⊃
出;門戸天下可レ知立客侍哉、此間在比琳夫焼印−
く∴足る詐文であ︼?フっ
る客本と∂比較によつて最近経めることが出来
、︶、︶
四
る例言の難に應酬せんが虜に鑑眞一で引讃したの
したもので・■のつて、恰も便数が何奴よ・り受けた
所チビ成せんが焉に伸致の帥承せる道蠣を引馨
があらう﹂と言はれる。然し之は南都より叡山の
剋ならば、どうして南都の人が之一で引澤†る賃
意に同じきなりと∴コ﹂ある二道稀が伯数の法
渾影に依って破し//∴次に道垢和上も渾影の
菩薩比丘の性一で成することが⋮⋮凍るといふ説Jで■
絶交†れげけ別∴比丘ノ別鰐脱璃Jで安け∵いて、b
に閻しては﹁箪欒﹂第十能の上に常盤教授が仮
すると言ふことを心得て居らねばぢらぬ。此鮎
何に博くとも.基の中に生きた一三つの宗が存
ある。凡そ人の思想を見るに借っては、撃は如
、−っれるっ然し之は宗と撃との別を知らざろ諭で
法相にも自由に出入し得た人であると言って居
は決して梵網誠に立て舐る人でへ㌧く、四分にも
たことへけどJでのべ、かくの如くであるから造嬉
一で歓迎し、E心詑に請ふて苑子に四分一で畢ばしめ
J−
氏は又﹁東征伯﹂に依って道瘍が鑑眞の入国
︵−⊃
と同一の筆法で一のる。然も此説は伯数の創喝す
に説き韮されてゐるから、今私が更に煩はしく
二宮氏イ.1東大寺戒壇浣亭壷式.∴二一生浮城ノで
る所であるから、造編の説と其ればとて歴史的
669
都戒の根本をへ一けす南山戒が喩伽戒ぢることを説
とは断じられぬと言はれるが、教浮のま張は南
又氏は教授の設一で評Lて、南邦戒は琉伽戒丈
たとは、﹁戒文﹂巾の何れの文を指すのであるか。
私には未だ左様に見得る箇所は少しも見普らな
を日本一の菩薩何と仰ぎて叡山戒の権威に推し
戒の敵に非す﹂と言って居られる。光定が鑑真
して欺かざるなりっ梵鋼の紳を得し造蠣亦南都
かれたのであつて.南都戒が喩伽戒のみ行アりと
いっ邁嬬亦南都戒の敵に非すといふことも、之
其を諭するには及ばない。
言ふのではない。
は南都に反抗せし倍数が遺蠣の数を承けたりと
せば道礪自らも南都の敵なるべしと推論して、
道端が南都戒の故に非すといふ事を許すれば、
次に氏は鑑真が天皇に授け奉った戒が梵網戒
大事件と耕して居られる。然し乍ら元々−四分戒
従って亦道端と侍敦との関係をも断ち得ると考
へられたのであらう。然し此の論理は成立しな
へ了匂ことを知って、此問題に対する驚天動地の
壇にて菩薩戎を授けた事が常盤教授疑問の出費
鮎でぁった。四分戒と梵網戒とを併せてそ里二
次に氏は鑑眞は﹁梵鋼﹂一で講せることがある
い。唯便数のま張が道塙の夫れより一歩も外に
のみ売らば出凍ぬのが稔伽戒なればこそこれが
衆戒に統一したのが稔伽戒の喩伽戒たる所以
出水る。此事が教授をして稔伽戎を主張せしむ
から梵網宗ハ与りと言はれる。若し此の様な事を
言ふへ与らば、天台は﹁経歴﹂を講せるを以て練磨
出でざる場合にのみ其論理は妥普し得るけれど
る根墟であつた。鑑臭が天皇に授け奉
宗、確門ノぜ講せるを以て稀宗と言ふべく、又慈
で、比丘には硫律儀戒一で授け俗士には硫書法誠
梵網戒なりと言ふことは、驚天動地の大事件で
恩は﹁法華﹂を講せる一ざ以て法準宗、﹁推摩﹂を
も、そは伯数の猫創を滅却するものである′J
も何でも互く、寄ろ教授のま張一で助くる資料と
講せるを以て維摩宗と言はねばハ仏らぬであら
一で授︿るといふのが教授のま酪である。四分戒
なるのである。又氏は﹁先走が鑑眞を日本一の
ぅ。然かのみならす鑑眞の戒哲説くのに全く凍
一一九
菩薩借と仰ぎて.叡山戒の権威に推すことは決
別頓成に就与て
汀0
肘岨戒に就きて
一一い○
然に依って寸一︺が如きは頗る非であ一〇。∵故て
に我
稔国に於ける撞か一つの慶和位を云々す一心の
伽戎と梵網誠を博士の考ふる如く敢射的のもの は伶りに限界が舞い。笠岡には、多安堵がザラ
とは決して取扱はない﹂と言はるゝ如、きに至っに彫刻せられて慮る事は、﹁支那偶数史蹟﹂第二
ては、果して氏に他人の論文一で理解するの能力を見れば正ちに分る。教授は多賓塔の信仰が天
ありや否やを疑はぎるを得ぬ。教授は阿分と焚 下に普及するに至ったのは、朝野を動かした楚
網は相封す、稔伽は両者を綜合すと説かれてゐ 金の郵蹟が国縫を成したと言はれたのである。
るではないか。然かも其は印度に於ける成立の 而して今開通とせられる郡は南都戒柄に多賓塔
起現に㈲する諭である。氏は更に支那に於ける が安黙されてあつたといふ串に閤Lて、戒的に
天台大師より近くは日本の安欒梓までも持ち出 多資格一ピ置くことの起原如何と言ふことであ
して、四分と焚網とが両立しないと言ふことが る。従って氏が引かれた痛代の﹁触⋮行戒的舎利
誤ってわると主張せらる∼が、そは全く印度に
賛﹂に多貨の語あろ如きト戒壇の安堵安置は
於ける起原と支那日本に於ける洗傍とを混同せ 支部伯楽のもの小甘るべし圭盲ふ常盤教授の説を
る非難でぁる。
確める一資料と亨qに過ぎへ㌧い。氏の如く此資
ヽ
︶
〓
しカ
五
料と嫁然よりも更に有給年も遅いと言ふ密教単
次に戒壇の多発塔に糾しても、氏は﹁多発塔 著行啓の作﹁境丑抄﹂が、戒机の第三暦に金剛
は長谷寺所樽に依ト1 早く我天武朝に存せし法
解書院所造の賓塔一ど安置する圭一臼ふ記事とを連
華慶相中に現はる∼ことを知るべく、必ずしも
結して、南山戒壇の中心に多堂塔が安潤されて
博士の言Å如く多賓塔婁術を後世に下すを要し あつたと師走すろことば、除りに早計であるま
ぢい﹂と言はれる。氏は此に依って見るに多資格
い一起原を論じて屠られる様であるが、若し起掠 次に氏は﹁博士は三乗壇が三界誠一で表示†る
を言ふならば、恍に法華絆に基ける賓塔に封し ことにしよト・、南都戎病が旅伽によることをま張
6Tl
せらる∼のであるが之又大に然らすLと言ひ、
終に﹁三泉浮戒の思想が必ず稔伽誠に限ると言
ふことにはならぬ﹂と結んで居られる。之は亦
何といふ甚しい誤解であらう。教授は三束渾戒
なるが故に喩伽戒なりとま張せられるのではな
い㌧敦浮わ諭墟は、三艶誠には理路系と舘仙系
とあつて、苅中前者の航律儀或は兜網の十戒で
あり後ポの基は小乗の典忍城である。然乙に南
山誠は小城一で描して然も三袈戒なるが故に耽伽
戒七三べ︿、従って之を便へた乙鑑奥の戒︳亦
弦伽誠な乙ぺしと嵩ふのであ乙。減通別鼠の関
数に三泉戎があるから、三衆渾戒の⋮心想は稔伽
誠に限らぬと言ム非難は的を外れた矢である㌧
氏は又更に進んで﹁減通別固の門数に菩薩があ
る。既に二親敢にも菩薩がある以上.三減数に
も自利利他の桁たる菩薩の三変浮戒が存するの
は常然なりLと言ひ、﹁博士が剤猥が﹁小乗にも
三東の名あり﹂と言ったのを、或は兜朗より見
た地帯系のものを指すであらうかと言はれたの
は謂那でJル乙﹂と批評して居られ今果してさ
ぅであらっか。左に天台C制渓一し桝喋▲し倍数印
刷場戒に胱ぎ々
帥の設を引いてみる。
︵大台
菩薩戒経基疏上︶
著挑律儀箱書法抜衆姓些二東成名山三方等地鱒ネレ畢三就−
党略示主軸を二二相−新野謂瑞祥構成挑書法戒餞益有構成
0000000
舵法本レ戒小弟亦宥三光名藤
招北=既成儀︶
ロ
リ
O
弊須胱耕一三光胱狭偏餌之棚一以作⋮わ新期心之本義不レ爾新
︵刑渓
こ
我−
菩薩戒緯疏下︶
O
OUO〇.〇〇
篤雁⋮上菩比重三豊沖誠二二緊沖城川法不L描小乗既黎ニュ泰
0
︵明噺
招菩薩戒儀︶
党略示≒相こぎ三相元而レ謂繍神儀成城手法戒餞益有構成
︵怖教
O J O
火三厳教有二三集新ニ
此に依って見るに、剃漢及倍数は三鋭敏にも
二米の名あ∵りと言ってゐるが、天台及明晩は三
薮に三衆戒なしとしてゐる。剤渓等が三減数に
も三果の名ありとは恐らく追共戒C定共戒C枠
低減の如きものを指すのであらう。若し二宮氏
の如く二疲故にも硫梓儀し硫書法。能益有情の
三一で内容とす旦二束浮戎があると言ふ意売らと
寸ればそば、天台及び明囁の許さぎる朗である。
大
一ニー
67三三
阿鴫戒に就きて
氏は教授が﹁天台の戒疏に六椰の戎本を輿げ
られてゐろが、其中地帯。高畠の二本は稔伽戒
に属するけれども、大師は特に之を借別せなか
った﹂と言はれたことに閲して、隣る憤激して
一二二
と呼ぶ理由はないと思はれ一U。安然が天ム‖の六
木に関本む加へて、遁肋木C妙柴本。朋囁本。
和国本と並べた順序から推しても考へLれるや
居られる。教授のま張は、この二本は玲伽系の
ぅに、それは妙柴本に基いて多少之に修正を加
へた樽致の授潜薩戒儀でふア匂こと言ふまでもな
0
し
次に氏は云く﹁博士は喩伽戒即ち五泉渾戒な
ヽ
ものであるが、天台は喫洛系と稔伽系との聞に
特に陰別をせなかったJ言ふ意である。氏は之
るものを如何なるものと考へてゐら一1∼であら
∴
を誤解して、地持と高島とは別本なるに天台が
区別せなかったとま張されたものと思ひ、天台
れども作法少しく贋しと、断ってぁるにあらす
意味は天台大師之一ざ明かに、もと地拝より出づ
小二戒の調和ならと諭診せられた経過を全然理
っいて説明あらん事を﹂と。此語にlって見る
﹂ に氏は教授が﹁性相﹂第二輯に於て喩伽戒が大
ぅ。捕士はくりかへして小乗戒と梵骨の調和 の焉の戒で
あると言ふ。願はくば一分の戒相に
や﹂と言って居られる。然しさやうハせ︼とは今
解して居られぬやうである。稔伽戒が梵舶理洛
等の菩薩戒と小乗具足戒との調和打アワと言ふこ
に封する暴言ならと難じて、﹁よし同系にても贋
略の戒儀の相違は明了にせねばぢらぬなb。其
更言はすとも自明のことではないか。要するに
解股戒を抗した所にある。即ちその調和といふ
とは、それが二乗を排撃する喫洛戒よ上二束戒
てゐる中の第十和固本に就いて氏は南都の戒
ことは組織の上に存してゐるのである。戒粕に
氏の倣怒は従らに自らの誤解を凝蕗せしのみ。
儀のことかと疑って居られるが、安然が菩薩戒
っいて一々説明されたしと言ひ.或は侍教や凝
の形式を取り、其中の硫葎儀減に七衆所受の別
の戒儀として南都の戒儀を教へたとは考へられ
然の寧で持ち出して共に反射する如きは、寧ろ
次に安然の﹁普通贋梓﹂に十本の戒儀を塞げ
ない。暇命ヌ偶に南都の戒俵とした所で和尚本
G73
滑稽と言はねばへ†っぬ。
又氏は曇無誠や畢諦の佗誠に閲す乙愕読む述
べて、喩伽或は其流布頗る岡野とせらわハ﹂山に、
ベて居られる。それが某して雁史的に認容う、jL
得一〇も、いへケリや否や、私は華ギ公夫せ■㌧れ/ハこ
と一で期待す一?もい一て一山る。
とになつたと結んで居られる。然し乍ら斯様h与
梵嗣は早︿よb∴世一で風靡してゐた。若し喩伽
七
戒にして四分。梵網調和の戒であるならば此矛
氏は凝然の﹁相通縁起﹂の設を殆どそのまゝ
盾の律する管はたいと言ふことノで論じて足られ 借用して鑑眞所伯の減の性質を論じ、﹁南都の人
る。氏の憲一ピ推して考ふるに、兜嗣は早くより 自ら言ふ如く、南山の戒柄は四分の人は之に四
四分と並び行はれてゐたのに喩伽が北ハ流布容易 分一で授かり、華厳の人は之に非放を得、三論の
でぢかったと言÷︺とは、梵網と阿分は和解れ
人は之に三論を得る戒壇である。三艶戒と言ふ
す喩伽は二戎の調和であるといふ託と矛盾する
意味もそれである。然り而して兜網戒も無論之
一ど散とするものではない云云﹂と論じ、以て南
都戒培が喩伽戒なりといふ教授の説は皆らぬこ
と言ふのであらう。然し此非難は既に根本に於
て僅か一二の倦説が根掠となつてゐるにすぎな
い。のみならす叉調和の戒な、吾箕流布も容易
︼二三
であらうと言ふことを暇足しての立論でJのる。
論澄に対しては私は軽々に基に費戊することが
然し乍らそれは印度に於ける起原と支那に於け
出水ない。抑モ源卒時代に復興せられた南都梓
る流行とを混同した詭であつて.如何に由凍が
は所謂奈良朝以凍の首相を復興せんとしたもの
調和の焉の戒であるにしても、北ハ洗行が必す容 でふ∵るけれども、常時新に伯へられた北京件の
易でなければならぬと言ふ理由はない。否却っ
影響もあり、又久しく既に叡山件の影響も受け
て喩伽は調和の戒なればこそ遅く他罪せられた
っゝあつた。殊に疑然に至っては鎗眞以凍の古
のではないか。氏は梵網の方が四分疲伽の調和
押のみならす、華族貿骨の梵網の註滞も高調す
れば又北京排をむ加味してゐる。然のみぢらす
なるぺしと言ひ之につき一筒の見を有与えと逃
回頓城l二就子て
;丁4
刷相成l二就きて
彼n身は秋山の固頓戒′でも受推してゐたと言
ふ。故に凝然の戒伴が鑑眞以凍の純粋のもので
〓一匹
道門人所動戒克也。︵天台丹パ叢帯安然捕捉都∴︼β
光明青嵐扁L世瑚謹法次第相木玄奨画人準正法革†則弘
000000つ○
〇〇〇
或ほ﹁枠宗綱要L、り読を情宣或は﹁仲通繰起﹂の
る以上南都の鑑眞一派でなければならぬ。南布
言ってゐるが、基弘道門人とは既に叡山に非ざ
安然は﹁今則ち弘道門人所動の戒是行アワLと
記事一で引いて鑑奥の戒,〝⊥諭すろ如きは、青枠と
戒が稔伽戒ハサQこと此一文が給して恰らある。
ないことは∴..︰ふまでもない。共にも拘はらす、
新作との駄別を知らざる着である。﹁便通縫起﹂
した文んL、博士は弗某に基いたと言はるヽが、
次に氏は臼く﹁追蠣の註梵鯛よら光定が引諾
想を以て鑑眞の▼戒−ぎ論じてゐるのであるから、
之は梵網が華厳部に威守一Qことを知ら聖一日ひ分
の記串と雄も、紳宗に謝す一り限り克然自らの⋮心
此瓢は大に警戒しなければならない。
見ると、帥祁に三あつて諦彿帥と菩薩帥と凡夫′
とである“其申請碗帥の戒とは梵網の如きで
ることが出水る。東大院安然の﹁普通成澤﹂を
授のま張に射して、更に有力なる詐披を提供す
発くものならと言ふのである。此文は便数に対
華厳部に成して居る所より一.追瑞の﹁於自性描押
帥
心中不犯一朝戒等﹂と言へる思想一で華放哲学に
既に説遣されてあるではないか。教授は兜削が
との隣保は教授の普‖の著﹁彿典の解説﹂中に
でJ叱るLと。イlI∫たこ無祀ぞて加療﹂と﹁梵網∴
あつて今東山に僅ふるのは是であると言ふ。さ
して自性清澤の三塾と言ひ、或は自性清澤の︰
仰私は南都戎が稔伽戒であつたといふ常盤教
て北ハ次の菩薩仰の誠に㈲すろ記事は基経意に伍
心戒といふ思想一ピ鼓吹した詐抜として、梅めて
非巌上二寸⋮脚寸乙が故に純火桑い一背泳誠一で唱道し
に結局は岡倉∴丑・ご∵リ、我が便数は自性清澤・い
ぬじ僻目に支部天ムり山号捏撃扶持の意に依るが佗
重要なろ賛蕗でノのることノで銘記しなければなら
するG
DJOUO
二菩薩師弟且壷菅聖像謂最北︰蒔像準H凡圭阻止巌こ菅生頁舎
利若鶉彿錫鉢若法鼻音判七重葎論‖パ加工瑞相決持分
り吏無㌫北‖構早融手長上一箪鰯靴且克一*ニト、燕小−■∴義一托講二桁
勒一†面閲周一於︰綾夜分一課工論仲声価京緑肥し.衆一卜し独伊〓へ一
875
たのである。
戒の法租玄突その人の西域記が一向大乗寺を主
然らば問ふ。一向大乗の内容何度にふ∵りや。文
張する唯一の文語となつてゐサつに非すや﹂と。
年の官符に、
民の所謂それ丈では満足することの出凍ぢいも
次に各宗の年分度者を定められた延暦二十五
梓業二人詳伯詰蛸︵借金一可︶
極的に明示せられねばならぬ。侍敢に封する此
無理解に私は唯驚くの外はない。個数の大理想
は完全に没却されてゐるのでぁる。
の一ぞ持ってゐたとは何を意味するか。それ一ぎ積
れる。然す。而して其は亦南都に於て梵網と喩
伽の二戒が並び行はれたこと空不すものではな
抑、侍敦が晩年の孤軍奮陶は何の秀であつた
とある。氏は之を以て南都に梵網が稔伽と同
じ勢力で読まれたことを示すものであると言は
いか。鑑眞は章安の弟子弘景よ鼻天台撃で博へ
か。徳一との樺賓の零と言ひ、南都との戒塙の
語を﹁西域記﹂より取れる如きも、此理想の重
たから、従って亦天台系の梵網戒︵剤渓の梵網
又氏白く﹁偶数が南都の戒壇の外に比叡山戒
大なる出費鮎に射して、南都の非議を封威せん
我と言ひ、皆是一乗思想の血に燃ゆる伸敦が、
壇を立てねばならなかった理由は、博士の言ふ
とする周到なる用意の現はれに外ならぬ。然ら
に非す︶をも侍拝したであらうけれども、彼の
如き梵網だ稔伽だと言ふやうな呑気互問題では
ばその一向大乗寺建設の要件は如何。一乗の定
我が日本に一向大乗寺を建設せんとする大理想
ない。倍数は梵朋を謹む丈のことならば梓宗の
慧は天台に起ると雄も、一乗の誠に至っては和
宗とする所の南山城が喩伽戒であつたと言ふこ
人に任せることが出水たのであるが、それ丈で
漢未だ其燭立を見ない。此所に於てか小戒を経
賓硯への過程であつた。偶数が一向大乗寺の文
は到底満足することの出水なかったものを持っ
えぎろ純大喪戒の覇立と言ふことは一向大乗寺
とは此官符から推しても知られる所である。
てゐた。諭より霞城顛戒諭全巻のどこに梵網稔
建設の焉の先決要件でぁつた。侍敦の戒檀運動
一二五.
伽の勝劣諭ぁりや。其所ではない。稔伽三衆澤
卸頓戒に就きて
∵
676
脚岐波lこ就きて
に雷然でぁる。然るに何部の排付は如何。自ら
数が﹁梵網﹂一で以て一乗の園戒としたことは誠
らも毎に﹁梵網﹂の文を諭してゐたといふ。便
華﹂﹁梵網﹂二経の意に契ふことを説き、且っ自
道媚は、梵網の註豆於て小戒を交へざるが﹁法
に給すべきことを稟く﹂と言へ一匂和上行表の師
噂数が﹁血脈譜﹂に於て﹁即ち和上に心を二乗
十八戒な♭としてゐる程である。然のみならす
するに嘗り、律儀戒ヘサQ前三或は﹁梵鯛﹂の五
でしてゐた。明喋の如きは﹁火諭﹂の十戒を粁
ば、彼庭に於ては梵鯛を高調して固致の戒とま
然である。倍数が入唐して天台山へ行ってみれ
を拒否する﹁梵網﹂が之に雷るのは理として常
る。既に純大乗戒の燭立を鼠るとすれば、二乗
けんとせる悪党の﹁拙揚大戒論﹂が.此瓢を力
撃に應酬し、経論の上t於て叡山の戒を謹抜放
ゐたといふことは、倍数の後を受けて南都の攻
嗣の守が叡山戒と南布戒との膠劣諭を代表して
大乗寺の建立を企固したのであつた。四分・梵
を澄明し、以て大乗戒壇の猫立、引いては一向
文に基いて梵網戒を受けて大何と存㌻り得ること
ぎることを断定した倍数は、更に﹁梵納経﹂の
気付かざる眉である。かくして四分の大乗に非
が梵鯛。川舟の優劣諭に還元されてゐることに
全巻のどこに梵網漁伽の勝劣諭ふ∵りやとは、そ
記に依って破斥してゐろではないか。﹁揖戒諭﹂
宣が﹁此四分京菜夢大乗Lと言ったのを、志和の
餌であつた。現に他敦は﹁原職諭﹂の中に於て、造
誠が阿分の具足戒であると言ふ鮎に封しては、
一向大乗を発振する極致の極力軍はねばならぬ
一二六
は大乗の律帥と祁し乍ら招く一じ桝の梓依戒は阿
説してゐることによつても知られるであらう。
の興らぎるを得なかった所以は賓に此所にあ
分種である。勢此所に兜舶戎と南都戒とり優劣
収め∴れ∴一心阿分枠でJの一Q。地中二栄城といふ
るならば、川も事新しく南都の誠は稔伽戒小甘り
伶lりに無理解でJ?Q。倍数が鎗伽戒と言って屠
の′問過が起らざる一で待ぬ。而して南都或は稔伽 氏は伯致の著述中に、南都の誠一で稔伽戒と言っ
戒である。更に之・で﹂こ︰へば二︰岩城い形式力下
てに
へ一ナいとて、教授の新説を攻聾して甲レれるが、
鮎に封しては攻撃を加へる必要はハ㌧い。別枠依
67丁
伽城中に統一せられた四分戒王らと諭せられた
にすべきであらう。故に氏の言はる∼如く﹁彼
滞貨の自内澄を推想するやうな行き方である。
それがよくないと言ふならば、非難をする前に、
先つ侍数の自内澄を示すべき文澄を奉げてから
と論じ立てるに及ぶまい㍉誰も彼も四分戒とし
のであつて、そこに彼の論文の特色がみるので
か言って居ないから、教授はその四分戒は、稔
ある。心を留めて甫嶺せられんことを希望す
書の如きを便数の眞撰として取扱ふことは大に
回ると思ふ﹂といふ非難は全く普らないのであ
る0
数があれ程の熱烈なる減枠連動を惹き起したに
決﹂に偽撰の疑があるといふこと位は固より承
に於て自ら断って居らる∼如く、教授と錐も﹁秘
して、頗る非難J暫して居られる。然し乍ら誌上
思想が便数の他抄著述に於て見らる∼法華或の
と著しく異ってゐたと言ふことを認めざるを得
ない。然のみならす従雄一般に侍敦又は其直弟
の筆になれるものと考へられてゐる所の﹁畢生
式問答﹂についても、其小心ま張たる法華戒の
けれども、其の思想は﹁秘決﹂に見らる∼もの
数の思想の中には濫掘・法進及支那天台の三者
が融合して彼を固戒運動に向って精進せしめた
る。然し正直な所私の未熟な研究に依れば.倍
就いては、﹁郡決﹂に見らるゝ如き最固熟せろ信
思想と著しく典って居り.其他多くの新に於て
最按に氏は教授が倍数の固頓戒を諭するのに
仰が存してゐたに違ひないとは推測するが、造
﹁丁心金剛戒憶秘決﹂に依ってせられたことに対
ひないと推測するものの、倍数の他の著述から
は、之に関する資料を見出すことが出水ぬしさ
疑問を懐かしむるものがぁるから、私は英一ぜ叡
山初期の作として認めることが出水ない。然し
其をま張するのが皆而の目的でないから、それ
いて借款の園頓戒を論じられ克といふのは、倍
知の上である。それにも拘はらす教授が之に基
ればとて勝手に自説を持ち出す事を避けんが虜
は後日Jで期することにする。
鵬二七
に、倍数の名によつて成立して居る此書によつ
て諭せられたまでである。恰も﹁華位紅﹂よ,リ
M鴫戒に就きて
完敬耕験に於けろ知ご情寸J
岸
本
英
︼二八
夫
くなつた。智の発達に反比例しで萎縮しっ1あ
時その重要さを嫁して行った。本館は、もはや、
文化人にとつても残されたる過去の遣物でほな
っれて.本能及成情の地位は心理作用中に、漸
に複雑な関係の伏在してゐる事が見出されろに
宗教経験に於ける智と情と
′
智は光の様なものである。四遽を照らして明
るくする。けれども、カを持たぬ。人間の行焉
や思考作用が行はれる為には、機関を動かす時
の熱が必要でぁる。その原動力となるものは、
本能でぁり戚僚である。
十九世紀迄は、一般に主著重義の傾向が強か るトのでもなくなつた。人間の心の底には常に
とし
同じ桂な本能が潜んでゐて、その行動や、
った。その影響を受けて、心理畢の中心問題も 動
智物
に偏
てゐた。額断的雪或る場合には数億
精神作用に重要な働きを奥へてゐると考へられ
的な、偏僅粗を伴って、魯のみが人間に相應L
て充た。只密議の進歩に従ってその活動の状態
に制額が加へられ、形式が憂へられてゆくに過
い心の属性と考へられ勝であ.つた。威情は智の
W・宰旨点盲氏があ
れを中心として心理現象を詭明しようと試みた
輝きを晦ますものとして、又本能は智に凡向ふ ぎぬ。
ものとしてのみ、存在の理由を認められてゐた。 本能と戚傭との間に特殊な関係を見出し.そ
併し.ダーク﹂ソが生物畢的に戚情の系統を
な法則が費見されたり.キヤノンがアドレナ,
ソの存在を澄明したりtて.心理と生理との間
る〇
一般に、本能の作用は、行動を促す衝動的の
辿ったのを初として、ジェイムス、ラソグの有名ものに、ヤクドーガル
678
カとしてのみ考へられてゐる。併し、それも矢
情はこれを出費鮎としてゐるのである。
もつと複雑なものである。Pri巨弓yemOti昌のみ
我々が貰際に経験する戚情は、多くの場合に
らば、その中に三つの過程が含まれてゐる筈で
では託明出水ない。それ等は、幾つかの宇官薫
窮す心理作用の一つとして、詳細に観察するな
ある。第一には、末栴神経に輿へられた刺戟が
em鼓○■lが種々に結合した結果と考へられる。そ
ぅ考へる事に七って、凡ての複合感情が苫m弓y
智尭神経を辿って中枢に至る。第二は、中枢に
於け・〇作用。最後は、運動神経を下って行動に
終る。この三過程の中、第二の作用が戚備と密
例へば、奇異の情は
H思i邑Ofe弓i宝古
から、
em象Onから導き出されたと見る事が出水る。
ヽヽ
接な関係を持ってゐる。それが顕著になつて雅
Ⅰ邑in。t。r軋や戸b罵mentから生じ
服魔の情は
ヽヽ
ると戚欺のと云ふ複合威信を生する様な具合で
たPrim巴ヾemOtiOnで㊦る。その雨着が複合す
ヽヽ
た時に傭庸の芽生えがあらはれるのである。凡
での動物が本能的行焉と同時に、あらる感情の
宗教経験に於ける知ミ情ミ
単な.単純なものに過ぎぬ。併し、あらゆる戚
跡、宗教経験に伴って起る戚情も.斯様な複
ヽヽヽヽ
A弓eが生じて凍る。又一般に、戚謝の情は慈愛
町情H昌deremCtiOnと服従の傭との合成であ
ヽヽ るが、畏敬に之が加はる∵それほ更宜崇敬の情
一二九
る畏敬や崇敬の傭を、こうして詮明する事が出
の芽学兄、即ち亨i白雪当em〇ti。−1は、極めて簡 Re弓re日記になる。我々は宗教経験に伴って起
ふのを常とする如きである。こうして起る感情
の情が伴ふ。又、人が行勒を妨げられた時に、
ヽヽ
その障害に対して働く隅守本能は、怒の情一ピ倖
ぁる一っの本能からは、常に夫々一つの賂有
合威情に外ならない。戚欺の情は、奇異と服従
な感情的昂奮が生れて凍る串になる。例へば、
の備との結合であつたが、更にそれに、逃避本
ヽヽ
ヽヽヽヽ 危険に而して生じた逃避の本能には、必ず
ヽ恐
ヽれ 能かち賛した恐れの情が、加はると.畏敬の情
と呼んでゐる。
の芽生え一ぞ、マクドーガル氏はPrim弓yemOtiOあ
巨 る〇
昂奮を示すのは、それ放である。1その債務
679
680
に含まれてゐる要素も別になるわけである。即
凍る。逆にそれを柳るならば、宗数的戚情の中
群験膚にとつて、それは真理獲得の鰭陰と解せ
甥ceti〇qu已iマー1を持つ事を特徴とすると云ふ、
一三〇
ヽヽヽヽ
験は、神秘家共通の解繹によれば、智的性質−−
宗秋経験に於ける知ミ怖ミ
ち崇敬り中には、奇典・恐怖・服従・慈愛等の戚情
られるのである。ジェイムスはこれ・ピ第二に奉
げて、それ等二つ■ギ特徴として並列してゐる。
が合まれてゐ.る。′
斯様にして、マクドーガル氏によつて宗教的
この卓見は.宗教経験に於ける智と情との交錯
意が肝要でぁる。それは、こゝに説明されたも
髄として見ようとする場合には、祈.一つの注
力な説明である。併し∵我々が宗教的経験を仝
絆股を見てゆく場合に、智一でも情をも偏重して
る程、智に傾いた時代はあつたが、我々は宗教
骨って教理と宗教とを同一成したかと思はれ
を物語ってゐるのである。
のが宗教経験に伴って起る感情であつて、宗教
はならない。皆の辿る数理の蔭には、常に暖い
宗教感情が潜んで居♭、情は智に導かれて、は
戚備の一つの解澤が提出されてゐる。それは螢
表以凍廿年と云ふ年月が経ってゐるに拘らす有
経験の全部ではないと云ふ串である。丁度、寧
じめて奔る事が出水る。智のみを切り離しても.
くなつ/⊥わる。智と情とが一つの票数絆歯の中
情のみを抽象Lても、それは既に全経験ではな
が宗敢経験の全部でぢい様に。
ジェイムスは、四つの紳秘経験山特徴の中、次
の二つ一宮鱒もま史としてゐる。
その一つは、神秘総敏.三日尭に出して或は文
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
字に記して∵冨ひJのらはし難い弔1i−岩夢bi≡tく
に如何に〓係してゆくかゞ問題なのである。
Su音︵賢。WCrL与とした。客観的崇眉とは紳宣
て、客観的安井︵︶音etiノdノく雪資−︶とま粗的崇拝
ブラット氏は、渋井を二つの特徴によつて分け
ヽヽヽヽヽ
智を侍へる道具でJの・る。従って、言ひあらはし
を意識的に封象として、これに対して、効果一ど
ヽヽヽヽヽ
難いと云ふ事は、それが智よりも寧ろ備に近い
及ばし或はこれと交通しようとするものでゐ
ヽヽ
事を示すもめである。にも拘らず、一方との経
− である。言尭は概念り象徴である。それは、
ヽヽヽヽヽヽ
/
881
の心柿の小に、信仰ぢら宗教的戚情なりを導き
る。主戦的瑞祥とほ、対象よりも、寧ろ曹尊者
的岩井がま軌的効果一ざ無意識の目標としてゐる
いがある。ブラソト氏の言葉を借みれば.客観
客観的崇祥は、その性質上、先づ封象になる
賓が、紳窒の存在と云ふつもりのお蔭で大慶好
ヽヽヽ
事になるのである。宗教的戚情の満足と云ふ串
腱の紳姦の存在を前提として認めなければなら
都合を得てゐる。即ち、そこに一つのからくり
ヽヽヽヽ
が潜んでゐるわけである。そのからくりを繰っ
ヽヽ
出す事を目的とするものである。
仁い。そして、その耐震は、どれだけかの程度
て智と情とが相関聯してゐる。こ∼にも観察す
ヽヽヽヽ
で具憶的へ与力や屈性一軍持ってゐなければならな
べき大事な材料がある。
ヽヽヽ
い。そこに、智的の要素が多分に織り込まれる
若し、つもりの方に重鮎を置いて、数理の上
の矛盾一ぜ避け楼と努めると、彼のデイズムの接
徐地がある。然るに宵際には、喜藤老の考へて
ゐる様な紳嘉や具髄的のカが存在しないとする
ぢ結果がぁらはれて凍る。理に落ちた票数は糸
ひ上って仕舞った。最も合理的な宗教を獲得し
ならば、この如き方は智的需璧に基いたものと
併し、基づく塵は錯螢であつ.ても、安寧ぜ欲
た笠の人々は、無宗致の沼の中に一歩踏み込み
の切れた凧の如く、人の手の届かぬ天上高く舞
する心持と黒井の事蜜とは賓際に存在してゐる
つヽあつた。
云ふ串になる。
のである。人々は.封象が賓はÅのシムポルで
あらうと葬想であ′らうとかまはすに、兎に角、
ヽ
ヽ
ヽヽヽ併し、現下の宗教のより重要な問題は、智に
偏し過ぎる串でほなくて、科畢其の
ヽ
より、古き意味での和室の存在が、
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
一三一
ヽ
ヽヽヽ い。この寧ろ剖的である事賓と、寧ろ情的で た事である。つも♭が結局、只のつもりに過ぎ
宗教新曲に於けろ知ミ情ヾJ
ヽ
水か、‘に
それを和合よ︿解澤して、御霊を井んだつも♭
になつてゐる。そして.その行眉によつ.て.賓
て の建
らくりが、人々の心に承認せられなくな
ち の
は自分の宗教的な戚情を満たしてゐる場合が多
つ新発
なかった串に、人々が眼醒めつ∼あると云ふ専
即他
ヽヽ
ある事貰との問には、嘗弾着の気づかぬ喰ひ連
、
6S2
宗教軽験に於ける知ミ情±
〓l三
程度に迄、賓際の宗教軽食に働きを持ってゐ七
か。我々は、先づそれを再検討して見る必要が
ある。考へるものは智のみと考へられてゐた事
貰である。曾って宗教と云ふ一言昇と紳蔓と云ふ
ゐた。虞が、その楯が二つに割れて宗教の中に
もあつた。併し、今我々にとつては.論理の心
ヽヽ
ヽヽ
言葉とは、楯の両面の如くに密接に考へられて
紳塞が必須の要素ではぢくなりかけてゐる事で
理も問題である。又出mOt㌻n
そして、亡びゆくものと伸び叩くものを区別せ
ねばならぬ。それは、全宗教経験に於ける育と
情との問題である。
ThiE訂でぁる。
ある。
こうして、客観的岩井の意味が疑はれ、それ
が行はれ難くなつて凍た。客観的崇拝が行はれ
なければ、それに伴ふま粗的効果も望まれ得な
、
いわけである。そしてま軌的崇拝のみが残され
た宗教に湾る。理智の宗教である。ブロテスタ
ソトに封して、儀蹟の宗教である虞のカトリック
が復興しっ∼ある宗教界の現状は、この傾向を
革質の中に物語ってゐる。併し、ま軌的崇拝は﹂
未だそれのみでは、カが至って倣易である。殿
堂や儀絶や膏薬によつて宗教的威情は湧き立つ
にせよ、今迄の宗教は決してそれのみではなか
った。少くとも、致租の残した敦へ即ち数理が、
外観上の中心であつた。されば、古い意娩の数
理を棄て∼何廃迄宗教が生きて行く事が出水る
か、それが今後の問題である。
外貌上の中心をハ仏してゐ常数理が、賓は何の
l
8さ3
ラーマーヤナと本.生評
侍設
甲
斐
賓
︵穿−1y旨p︶の痕跡を存せるのみ。其の痕
立は西紀後二世紀の線竿に属するものであら
二
私は印度の二大叙事詩の〓仏るラーマーヤナ う。初期偶数の三蔵中にはラー†−ヤナに関す
る記事なく、僅かに凝摩太子の行路を記せる青
の成立に就いて研究をしやうといふのでは無
い。†ハーバーテクやラーマーヤナの如き、.尤
普波慮捺新城に十事︵せ喜丁邑1芦︶といふ王あ
難なる、印度民族の叙事詩の虚立の考察には種 跡とは巴利彿典中の十車王本生耗で雪。
々の吟味すべき問趨の解決一で要する。それで私 此の十事王本堂諦は次の如くである。
は今ラー†−ヤナの成立に関して、提供せるべ
き資料として、漢評価典及び巴利彿典に於ける り。正義仁政いたらぎるなし。王に一高六千の
ラーマーヤナの物語と同類の物語を輔接して、 妾膿みりしが、第一夫人羅歴とどklハー1卓二Ssk・
㌻k畑2甚;︶と牒掛姫とを生みて後死せり。於
卑見を述べ清孝の堤漸を仰ぎ度いと思ふ。
︵一︶
芦 Wi−旨rnitN氏に披ればラーマーヤナ全部
此大臣宰相相謀り第二夫人を立てゝ王を慰め
一三三
しこと一で思ひ出し、.やむーど得す動かに荘原と
劇。王第二夫人を鍾愛し、夫人やがて懐姫して
七篇中第一第七雨篇は後世附加せられにもの
で、第二焉以下第六篇の五篇は屈原太子一代の 一子字書lt箪を生む。昼旨⊇ど十六歳にならし
行路を述べた英雄詩として舌代より印度の民間 時第二夫人王に懇請して日く﹁我子に王位を紹
が℃むべし﹂と。王は先きに第∴夫人に輿威せ
に侍へられたものであり、ラー†−ヤナとして
も純粋なる部分である。ラーマーヤナ全巻の成
ラーマ−ヤナ.ざ本姓露
=r、■−
684
ラーマーヤナざ本牝謹
ーり○
−LpEハ︼1P琶とSit押姫とをよびて事の始終を告げ 之一ど迎へ直ちに
自国にあるはかへって生命さへも危き所以を諭
一三四
Si︷封姫′で配して其の妃となせ
その時の十車王はわ
が父浮飯王是れなり。羅摩の母は摩耶夫人是れ
彿比丘衆に告げ給は′\
父王の命に徒ひ占舶者が‡の貴命は今より十二
難陀是れなら∴Fklハー一馬2は舎利弗是れなり。而
し.早く危難を他国に避けよと告げぬ。彼等は
年間保たるべきこと・で告げしかば、十二年間洗
離間聞の生を造らむとで、汲羅捺斯城を馨して
して賢明なる羅健太子は我が身是れ打了り。
〓
行アり。Si訂姫は羅喉罪是れなり。出−一弓已2は阿
雪山の麓泉水湧出し巣鴨寄る魔王居を卜して居
ること九年㌻打k訂琶と褒︷芦.姫とは罪摩太子を
扶養し敬草し居たり。十車王は太子の出城彼憂
巴利十車王本生諦の目的は辞迦俳の前生なる
⊇一叫ラ 羅摩太子が忽辱の行一で修し、其の果報として今
務をみるっ政治の正しからざることあれば草履
しめぬ。於此大臣等草履を玉座の上におきて政
㌻k写眉2Sぎ姫の三人一で披羅捺新城に蹄還せ
し、自ら自己の草履を脱ぎ、之を持して寧弓註●
ば仰三筒年の月日を異国に閲すべきことを固執
ふ。定席は蜘一で出で∼漸︿九年父王の命を奉せ
旗・で整へて好摩の許に到り再三彼の蹄遠を請
Ph・で王位に帥かしめんとす。椎骨むせす.軍
としての羅摩太子のこと一軍述べた十華‡本生滞
代の菩薩の暇身に配してゐるのに、傭陀の前生
♭、動物や鳥類一ぞ滞迦彿の前彗
生諦中には動物や鳥類の説話に富むものがあ
の方が重要なる部分となるのである。多くの本
も寧ろ羅健太子の字弓a︷芦に封する訓誠の偽領
話に屈するのである。それで本生謂の内容より
るから、一三ロter︼1i︻ホの所謂本生育中の道徳的訓
世に生れて正餐を成せられたことを敦ふるにあ
悌惟伸して遂に崩御せり。臣下相試して
王座の上にあつて左右に動き、その正しき時は
には少しも動物の訪が出てゐないっラーマーヤ
Mlユln
膏なくして静止せ♭。かくすること三年.足健
ナの第四篇只山号コ≧−己ハぞ今
には推摩が猿彼
菩薩道修行時
太子期満ちて改選捺新城に還り大臣等歓呼して
C85
は之位にして今少しく内容に入って両者の異同
のために奪
・で集めて林中にて洗剤
を検するに、十草本年譜では第一夫人が雁摩、
︵家有季︶
はれた S試 姫を奪ひ返さうと計委した話があ
ⅠしPk−ハーーa宰2
姫の二子を生み、第二夫人が
るが、十車王本生諦には何等此Ⅵ話がない。要
]字弓P訂一ざ生んだことになつてゐる。而して
Sit笹
するに十車王本生讃はラーマーヤナの第二篇
偶数的に換骨奪胎したものであるとすれば、換
も此の本年苛がラーマーヤナの全篇を要約して
内に侍へられた物語の筋が誤卜侍へられたので
る。是は
城に錆還した後は之を納れて其の妃となしてゐ
の記事だけにすぎない。若し Sユ由姫は羅摩太子の妹であろが羅摩が披羅捺新
言すれば、十車王本堂讃が沸教敦閣内に於てラ
もあらう。何老父王の命によbて太子が流鑑の
Ay邑一等兵富dp
ーマーヤナ全蔚が語り侍へられて以後の作品で
刑に廃せられた場合には其の死も夫と命を共に
㌻謡en氏もいってゐる通ら沸教々閣
あ一Qとすれば、もすこしはラーマーヤナ全篇の
することは印度民族の風習であつたからであ
る〇
︵七︶
︵六︶
巻、十香王繰、他は六度集経窮五笹第四十六経
むれば渓謬経典に二つある。一は雛賛成経第一
巴利の十尊王本生帝以外之と同類の経典一ざ求
三
︵瓦︶
面影を侍へさうなものでぁる。反之此の事なき
は偶l以て此の本坐諦がラー†−ヤナ全篇成立
きものが青侍設へ穿l一y封nユとし′い民間にも侍へ
以前のもの即ちラー†−ヤナの原型ともいふべ
︵M︶
られ惹いて彿数々園内に樽持せられて本生諦の
素材として偶数経典中に取り入れられたもので
あること一で稔明してゐる。﹂一J−−︷雪註N氏が羅摩
︵八︶
である。前者は耽に巴利の十車王本堂讃と∼も
一三五
ふ。開浮提に王たり。王の大夫人一子を生む。
昔、人音萬歳の肺一王あり。眈Lて十奮とい
本年渾と大憬梗概は一致してゐるのである。
に畢界に紹介せられてゐろ程で、巴利の十事王
太子の行蹟を話せる青侍詭の寝跡を初期彿敦三
液中に認めることが出凍るといったのは此れを
意味するのでぁらう。
十串王本坐諦とラー†−ヤナとの梗概の比較
ラーマ−ヤナざ本生渾
ラーマーヤナ寸1本生年
〓ニ六
舶教程Lて風化大に行はれ人民其の堵に安んじ
名けて展摩といふ。第二夫人あり。一子を生むか。
に綜遺せば仁子孝親の養に背くL。汲展陀兄の
名けて罪漫といふ。罪摩は大勇武ぁりて那雁延
決意固きを見て兄の草履を索め待て緑園t囲政
のカ・ど具し粂ねて威厳︵でpごあト。之に危害
を統窮し、常に草履を坐上に置き日夕朝秤問訊
を加ふるもの無し。時に第三夫人一子を生む。
の儀兄在すが如し。亦常に人一で遺して山中に到
披展陀といふ。第四夫人一子を生む。滅怨悪と
って屡々兄に綜邁を請はしむ。展摩初め肯せざ
いふ。王は第三夫人を敬愛したりしが、王疾患
りしが年満ちて踪還し、父王の業を負荷し兄弟
に遇うて生命も危き暗雁摩太子を立て∼王位を
紹がしむ。第三夫人心に嫉妬を生じ王に懇請し
蛾盛豊浦常に十倍せり。
て其の子波羅陀を立て∼王となさしむ。屡摩於
四
此靡せられ其の衣冠をも奪はれ十二停年流鑑の 十脊王繰と十畢王本年帝.とが同工奥曲なるこ
刑に廃せらる。鹿摩父王の命一ぎ奉じ速く深山
とに
は一滴して明かである。但し内容に立入って
入る。
見ればいさ∼か.出入がある。先づ十車王の四夫
汲尿陀素と二兄と和睦恭順なら。父王崩じて
人が四子を生むといふのはラーマーヤナ及び十
後大軍を率ゐて羅摩兄弟のあ㍗りし深山の際に
車近
王本年育と異る。第一夫人の子鹿摩に就ては、
き此度に軍衆をとゞめて濁り尿摩の許に到りて
十車王本生諏の何事をも物語らぎるに、
脆挿す。雁摩汲雁陀に日く﹁今月軍衆を率ゐては那罪延天︵欝rど卓盲︶即ち葦紐天︵七首葛︶の
此虜に凍る。何故ぞ﹂。汲羅陀答へて日く﹁道
カ途
を具足すといつてゐるが、これはラーマーヤ
賊難に遇ふを恐る。故に今兵衆を率ひて以て防ナ第一篇︰野−守舞茸dP−ダ・ご・に尿摩が第一夫
衛せしのみ。更に除意あること無し。願はくば
人︼ハぎsそー︹から葦如天の精の半分を受けて生
固に還り閉政を統理せよ﹂と。在庫又日く﹁先
れ出でたといふ紳詩的な羅摩太子降誕の簡単な
きに父王の命を受けて速く此虜に凍る。若し蓮
説明として頗る要儀一ぜ待たものである。第二夫
886
8S7
人の子鹿漫はPl冨喜膏のことで披那陀ほ.望7
罵声tp である。第四夫人の子滅怨窓はラーマー
たのでは無からうか。殊に十奮王終に羅摩に那
摩延カありといつたのは、既に述べたやうにラ
も十脊王繰も四子といふ鮎に於ては同じいが一
の附加だとすれば−それはラーマーヤナのやう
も寧ろーWi已ernitN氏のま張追号第一景が後世
のことで巴利十事王本生諦 ー†−ヤナの雁摩誕生の簡単な説明といふより
は一夷人他は四夫人を之に配し、巴利の方では
に神話的叙述の無い本源的な説明として興味あ
ヤナの 9tr亡gl=︰p
Sit勘姫を第﹂夫人の子とする等記事の混乱があ
るものでは無からうか。
の中には本生諦もある−の註群書一ぜ認めたのも
傭音︵Pdd−−agl−○雄エが古註を参照して三蕨−そ
印度に欄現したものとせ.ねばならぬ。儲蘭島で
形に成立し各々ラー†−ヤナ、ニーブごフ﹂
既にラー†−ヤナ及びマハーブごフクが掘った
くとも西紀囲世紀の後年以後五世紀の初までに
に鳩摩展什三裁の都詳したものであるから、少
︵一l︶
大進駐諭経は弘始年中︵南紀囲〇二−四一二︶
於ける尿摩延書及び喝雁他書に関する記事であ
る○
最後に一言すべきは大荘厳論経の中天竺観に
るが、洗鑑の期間十ニケ年は渓巴よく一致して
ゐる。
︵九︶
要するに雑費戎経は北魂の孝文帝の延輿二年
︵西紀四七二︶西域三蔵膏迦夜の謬出したもので
あるから、おそくとも西紀末世紀には此の経が
ほゞ同時代であるから、南北其の系統を異にし
ラクの轢題一曾似て中印度に洗布せられ、且つ婆
〓C︶
ては居るが同じ零囲気によりで橋井せちれた二
何者大井巌論鮮第五巷に壊れば、中印度に於て
羅門の奇祭L譲讃する所となつたのであらう。
︵一二︶
っの物語として、雨着の一致は注目に偏する。
諸婆羅門が東落主の焉に雁摩延書や婆産地書を
氏の所謂青侍説として早︿か
ら偶数々園内に侍蒋せられたものが本生諦に取
説き陣中で戦死したものは天に生じ,火に投じ
即ち Wi−1︷ern許
入られ偶数的に換骨奪胎せられ、一は巴利の十
たものも亦天上に生すると説き天上の快斐をも
一三七
革‡本坐禅となり、他は漢詩の十蒼王繰となつ
ラーマーヤナご木生存
Jタ■山
Gj8
三茸に深く敬信一ピ生せしめたといつてゐるから
一比丘が凍て彼の婆羅門の所詮を欺証㍍トとL
説いたから彼は之一ぜ聞き火坑に投せんとしたが
によりてラーマーヤナの青侍詭の件数的に改作
もトナQが、前記二本生諮の叙蓮の簡効なること
ーマーヤナの右傾説ならと主張し得ないことに
貨賓戒鮮の十脊王縁や巴利の十尊王本埜琴牢フ
一三八
である。之によれば前記の如くラーマーヤナや
せられたものと見て差支無からうと思ふ。いは
ラーツーヤナヾJ本生存
マハーブハーラクを嘩羅門が奇祭讃諭したが却
んや大荘厳論鮭所出の経歴延書といへども未だ
や否やも明らかぢらぬに於て一でやである。
現在我等に伸ふる所のラーマーヤナと同一なる
って一沸教徒に其の欺許なることを説破せられ
存す
ることは偶々ラーマーヤナやマハーブハー
たやうになってゐるが、か∼る記事の偶数側に
巴利十車王本生狩や雑貨戒絆十杏‡繰がラー
五
を有すろに到った事を反顕してゐるのである。
マーヤナの青侍詮の傭数的改作を経たものとし
ラクの民間に流布せられ、牢乎たる宗教的勢力
然ら而して其の勢力の益々碍固とへ与るや蓬にス
ても、此の種のものは之で亜きるであらうか。
〓lニ︶
カンダブラーナには﹁およそ羅摩延書の名を憶
罪悪一ぜ解脱し、人は最高虞に到る。罪摩延書と
存する事を知ることが出水たのである。
ラーマーヤナの青侍詮として他の臭ったものゝ
私は前記六度集経第五巷第四十六経を読んで
いふ名目一ぜ一度唱ふれば即時に罪悪を離れて、
六度集経第末輩第四十六終に披れば
念することによつてこそ一倶肪の大罪と一切の
葦紐天の世界に到るなりLとさへいつてその讃
茸
信仰の茄芽は既に大荘厳論経の出現時代に印度
く聞えぬ。舅亦王とぢり異観にありしが性貪に
菩薩大国‡とへ与りて衆生を育護し名草速
詞の功徳一ざだ∼へてゐる程であろから、かゝる
におこつてゐたとも考へられる。
り。
王︵菩薩︶は元の光一竺連れて囲一曾委して亡げ去
して恥無く兵を興して菩薩の陶を奪へり。於此
それで雑貨減軽の出現時代も大荘厳論経のそ
れと年代上にあまり差異がないから必すしも光
ラーマーヤナヾし本生硬
一三九
舅菩薩の駒に入って貧と埠と一で以て政治をなめよ﹂い︰と。牧衆探し廻る時宜鳥の晃一で柄めしも
し忠点・ぎ致し偉盤を進め政苛にして、民皆嘗芳めに遇ふ′り 鳥悶ふて〓く ﹁汝等何を尋求する
一で思詠せり。
や﹂。樅等日く﹁人王その‡兜一ピ失ふ。吾等今之
時に王は元の如と山林にあト′しが海中の邪龍 を尋求する打アリL。烏口′、﹁龍‡妃わ盗めり。今
妃の光顔一ぞ兜み、梵志に化して王に近づき、其海中の大洲中にあり﹂と言ひ終って絶息せり。
の際に乗じて妃一ぞ奪ひ去り、山程にて巨鳥の翼 板王衆を率ひて海濱に二到る。之を済る髄はす
一で張って小径を塞ぐに遇ふ。龍之と交戦し震電偶々天帝繹化して禰樅となら櫛枚衆に命じて石
と打アりて其の右翼を打ら堕し、遂に大海に逼る一ピ負ふて海中に立たしめ大洲に斬ることを得た
ーり○
ことを待たり。
菩薩王虎の許に還り既に王妃を見す恨然弓を
龍之を知り寺務を作って狼衆に吹く。皆病み
執ら矢一ざ挿しで諸山を経歴し一発流の源に亙樹て地上に仙る。時に小牧天菓を以て衆牧の鼻の
枝あらて哀働せるを見る。王憤然として日く
中に注ぎて進軍せしむ。龍亦風雲を輿こして天
﹁爾何すれぞ哀めろや﹂と榔級円く﹁吾舅と肩を日を掩ひ電准ひらめき霹靂地を宴はし、衆板畏
併べて王たbしが舅自己の勢力一ざ似て吾衆を強
怖したりしが小牧日く﹁人王は射に妙なト。電
奪せり。吾之を訴ふるもの無し。﹂王答へて日く濯は龍なれば矢を発して凶を除くペし﹂とパ大
﹁吾爾と憂相解し。吾亦兜を失ひ未だ行く併を 王矢を馨して電耀を射るに直ちに龍胸を破りて
知らす﹂。板日く﹁子吉が戦を助けよ。吾が士衆之を殺す。小准龍の門鎗を披き之を開きて王妃
一ガ復せば子の焉めに兜一ど尋ね必や之努獲む.1と。
を外に出だす。天成葺ぶ。
明日牧舅と哉ふ。‡弓一で執って華職す貝王様催 時に舅王死しで嗣無し。臣民奔馳七て償君を
して馳せ去れり。枚王佐せし所の十衆に命じて 尋求す。かの山肌に於て臣民蕾君を見て豪放し
日く﹁王の元妃迷ふて此虞王あゎノ。汝等尋ね求て倶に逼り、王は自己の領地ど男王の領地とを
689
690
ヲ1†−ヤナ寸J本生存
併せ獲たり。大赦寛政黎民常欣々たり。
一円〇
芦1㌻をして楔伽島に到る橋梁︵評t仁︶を作らしめ
たR旨茸属官七︻・柑柏ム○苛︶のと似通った物語で
ある。龍の寺務の食めに批衆骨柄み地上に外れ
彿諸比丘に告げたまはく、時の固‡とは我が
身是れなり。兜ほ供爽、舅は調達.天前澤は弼
に尿摩、Faks≡名声及び猿独軍が致命傷ぉ魚うて
たので小牧が天稟を以て衆批の鼻吼にそ∼ぎ蘇
六度集鮮では脛摩の名なくたゞ菩匪又は国‡
仲れてゐた時J翌日bp召tの命tよつて日昌2ロ岩
勒是れなり。菩薩の法温度無極なゎ′1偶の忽辱
といふに過ぎす、父王の十事王のことすら出て
が夜陰に乗じて舞邑訝pに飛翔し薬草︵○嘗d−1i︶
生せしめた許は、ラーマーヤナでは鼎刺との戟
ゐない。洗畠の由H練も−フー†−ヤナや十華‡本
を探り凍って樗伽島に締り、罪摩Ⅰ−P有望琶及
を桁じたまひしことかくの如し。
生等と異り頗る簡単である。叉山林に遅れた王
生した催下︵R旨1音名Pくf・ご一芸−さ︶を想起
び猿批軍は悉く柴草の香気を囁いで苦痛去り蘇
くだり
海中の大洲中に居る邪龍である。が之はラーマ
の元兜を奮ひ去ったのは羅剃︵旨k登用エでなく
たと同工異曲であるともいへる。菩防が互櫛粧
に含ひ男王と職ひ其の復せし独衆を以て親王と
第五篇Suごd弓旨首曾第六蔚Yudd−−㌣只者曾に
第三篇Ar眉yp唇音号第四貸日管−邑亨.只首甘
焉めに天帝粋が櫛批と化して批衆に命じ石−ぞ負
するともいへる。なほ軍勢が渾中の大洲に到る
羅摩の軍勢として尿刺を攻めたのと軌を同じく
や十者王嫁が第二篇Aycdhで.⊥ハ眉曾の簡単な
要領に外ならぢい。それで前記の十車王本生得
亘る説話の簡畢なる.主人公を異にした物語の
ーヤナに於ける楔伽島の展剥が Si許姉盲奪つ ′ せしむるのでぁる。
之を要するにこの此六度集経はラーマーヤナ
戟を交へたのは猿王H呂ul占ロビが衆批一ぎ率ひて
ふて海中に立たしめたのはラーマーヤナでは
で彼此相補ってラーマーヤナ全軍︵第一、第七
概要とすれば、前者は尿摩の勇武を物語♭後者
は其の仁慈寛宏を物語るものとして、此の三経
くi等↑k萱巨︼lの子
≦b−1官署の建言によつて︵冒l已y名声く︻∵冒−
“e︶好摩が海神に祀諭して
891
両君を除く︶の概要をつくしたものといはなけ
ればならない。故に前述の如き意味に於て十車
王本生詔や十春王繰がラーマーヤナの青侍設の
偶数々閣内に於で改作せられたものとすれば、
此の六度集経第五巻第四十六経も亦同様ラーマ
︵ニ︶
︵三︶
︵岩︶
已一lr1−声合¢.
A.Web巧︵亡br d宏]雷・
ibiニ●∽こh芦Dutつit笥tPk9一声∽●︼畏会−せ§p・
m音p膏︶−C−F琵en氏︵−ndi衿heA〓星ど2許弓dの
r邑一aJぎ訂此の談li
氏ほ両氏の読を踏襲・したlこ過ぎない。
︼IS・讐8が既に壬生・してゐる併でW㌻t巾rnごN
II
S.ご亘
已l︼r
1.S.AU−
解説梵語拳附巻九四貫
Alteユゴー弓l用k亡コp∞ll、p筈l。
芦一ヨ︼l−乎nit♪0窒︰t一ic−1tedel・ln︵一訂已馬コ︼Elt3・
ibi︵l
C●Hし叫宅eコーーコdi邑le
亮三郎博士著
三、二六真
大正蔵紅四、四四七頁、
同右
一四一
一三克︶
SpPC訂−S.望や∽●
王の治他の
度にこ出現L邁に錫何点lこ克つて三戴の誅梓苓をか
が、彿音の倦詑lェ頗る紳怪不可思議で到底彼が印
七年lこ束圭±か︵ビルマ彿博の祝︶セビ種々ぁる
は少E−旨ぎP王釘崩御lこ先だつ二年前西撃二八
ミか或li西紀四l三年に彼が錫圃島に東上きか壷
間︵A・P⊥≡丁ふ諾︶に錫蘭島に爽王︵大史の耽︶
彿音が西紀五世紀の前牛己旨ぎPヨp
︼¢諦
W●Ge山gき誓︼i巳t雪Pt弓uコd
出三蔵託集第二巷︵同右
閑元樺教銀第六巷︵大正蔵搾五五.五四〇貫︶
歴代三賓紀男九巷︵絹蔵致六、六十三右︶
樹
′【\ ′ ̄\ ′ ̄ヽ ′ ̄ヽ /′ ̄\ (
九 ノヽ ・」≦ ブヾ 五 F■
)
)
)
)
)
)
ーヤナの青侍設の偶数々園内に侍へられ改作せ
られたものと考へて差支なからう。
︵一二︶
加之六度集経は赤鳥十年︵西紀二四七︶に建
発に到れろ康付合三寂によつて繹出された経典
であるから、おそくとも西紀三世紀の中頃まで
には印度に出現したものである。故に前記十脊
王繰よ↓は二有年以上も古き時代に現れた経典
であγリ.従って此の経に含まれた本生諦の素材
たる物語も比較的古いものと断定してよい。
私はラー†−ヤナの成立に閲する研究には巴利
十事王本生帝や雑費戒経の十春王練の外六度集
経も亦その資料として考慮に入れなければなら
ヲーマーヤナ寸﹂本生葎
任︵こ 芦ノ一言lleヨitざGe邑l㌻Jt:一笑Hndis♭⋮lし〓er・
る0
種の資料のあることは興味深い事と思ふのであ
ぬと思ふが、殊に撲評経典に時代を異にした二
ヽ
弓ge
ラーマーヤナ寸J本隼雄
い㍗等に信用ぜられ兄い。悲言るに西紀四世紀よ
紀り中葉−ニ巴利語り三蔵の註将書か雄=㌢れるやう
り五1−ヒ紀に亘りて錫踊り怖救が繁柴を極め、五世
に在り此等を棚郎つける㍗■り、併音ミいふ一暇死
無からう。︵岩=董︵・発声︹−︼e己−eS萱⊥しCぎ亡≧.
人物一で利仙写し㍗まてゝ、むそら′\賛花的人物てほ
1−き.岩︼∽芦−こ芦︼芸︶たほ︵ぎ蔓.音l互ぃl一ぎ・
巳ハいl︵D三〇⋮︻J三註ニ︻・望lっ︶ の詐搾芋lニ菩醗¢
父・で十車王ヾJいつてゐろが、之lニよりて見れlご五
世紀噴飯にラーマ−ヤナが錫阻彿散々囲に博へ知
られてゐ㍗のでに加⋮からうか。
大罪腰論緯か馬鳴の眞揮でぁるか膏かに就ても議
︵〓︶開元坪数銀第四番︵大正戎鰐五五、五一三頁︶
論がわろやうだから、私ほ著者の寧ど避けて大荘
ご・し㍗。
取論握出現時代ミいふ曖昧尤言重石応用†るこミ
︵三︶ 大井戯論雀第五巻縮戒馨四、八十九右︶
︼1ぎ〓︶■も票−G∽●
︵ニユ︶ 芽邑キヨr書手⊥ヨtき・日吉与lI−︵−↑旨J箋盲l守
四
仙じ
故島地大等師の
■天台数学史﹂を讃む
∴
本書は.著者が明治の晩年、若L︿は大正一り
坂
本
幸
男
得難き資料一軍参照せるもの少へ㌧からす。彼の績
戎経日本犬薄紅及び沸教全書等の完成せざてりし
者の畢的忠貸さに封しては、先つ以って敬服め
初年頃▼ 講義用として草某したるもの一ぜ、門人 昔時にあらて僻.かく多数の材料を集失せし著
硲慈弘氏が、その講義筆記と封照して、整理訂
正もつて上伸の・運びに到らしめた乙ものへ与り。 外へ与し。
従って著者が晩年め最も固熟せる畢讃よりすれ
三
新思想に封する理解一でもち、古典に関しては、
伯統を重じへ㌧がらも而かさ︶常に之を、新しく組
ば、其の問、思想進展上に多少の径庭あるも、
著者が一家の畢たりし天台に関する限り、他に
との念・チりして出版されしも・りへ㌧・りじ
れ′匂ことに依卜七.畢界一ピ稗益するむのあらん
締れる文献少ハ与︿、而かも一方.本書の公にさ
織し直さんと勤め、或は原典批判に、或は思想
進展の経過一で明にする上に於て、絶へす餞き批
列を下すは著者の畢風㍗アりしが、之等の特徴が、
本書に於いて最もよく発揮せられたるは第二に
〓
すれば、思想史的にユニり跡一で辿る際に、単に之
若草か本≠苧でもの†乙に昏・りては、汗牛もた 敬服すべき割と了。勿論進める今日の学風よ,り
だ写しね天台の文献は勿論、それと関連†一心他
Jで沸教内に限りて、庚く一般・り文化史的考察を
一因三
や添ぃ重要へ㌧るもの一で▲・ツ披見し.中には極㌫±
一.天山‖秋雄史﹂一貨諏む
691
﹁天台教埜史﹂中予む
も併せ焉さゞりしことは、些か物足らざるもの・
あれど、要するに是の如きは、焼を得て萄を望
むものにして、通常の立場よりすれば、殆んど
遺憾なき迄の注意′で梯へるものといふも不可な
■
一四四
以て天台大師の戒律観ヒ関係せしめたるは.ノ先
ずもつて、出費鮎に於て卓見空不せるものとい
はぎるペからす。
績いて、羅什、入支昔時の概勢及びその思想
の分裂より進んで、悪文・倍大士、南岳等の思想
を考究し、遂に天台に到る.其の間見るペきも
の多し。
然れども一方法準程より出費せざりしは、少
からん。
四
末期に及ぶの一千七百年に亘る天台思想の費蓮
なくとも天台思想史の考察としては.その形式
本書の内容は、龍樹より支那を経て乳が徳川
舜蓮を一部五編四十八章に分ちて論究せしも
想と法華のそれとは、密接不離の関係めりて、
門を表現する上に於て法花を利用せし鮎に、よ
り重要さの存するもの捏アワと雄も、法華経自身
との関係を論究せぎりしは、何んといつても遺
域といはぎるペからす。
天台の敦畢を叙するに曹りては、稗や簡に失
するの恨なきとせぎるも、良くその眼目を捕へ、
殊に玄義を色心等分の質相諭よらして唯物論的
に、止観を賓威的要求の立場よりして、唯心論
直接負ふことよ人ソ・b、寧ろ天台が巳心所詮の法
而かも、.その関係たるや、天台が法華の思想に
上完全を映ぐ虞ぁるもの∼如し。蓋し天台の思
の。以下順を追ひて、其の特質の一端一宮紹介せ
ん。
先す始めの立剋相承諭の如きは、ともすると、
︵ 超歴史的に百倍するか、然らざれば非歴史的甘
♭として一蹴し去り易きものにも関らす、著者
は蕨正なる批判によりて百倍に陥ることなきと
同時に、一方立租設の裏面に潜める意義を見出
すことに依りて、之を一蹴し去ることも無かト
しは、これ一見識なり。
次に龍樹の思想を述するに普り、特にその戒
律軌に於て、六度相生、戒々互生を論じ.諸法
宰相の立場よりして、置不罪不可特に締着し、
てしても容易に知り待らるペし。
﹁天台軟畢史﹂年讃む
一四五
る一場面にして、或る意味の賓相諭と縁起諭、
貰即
に日本偶数の母胎たう。俄嘩大師の滅後、
ち華厳と天台との論争とも見得べく、従って其
相應に依りて修瞼同峯行が晶導されて以務、内
の論難も歓に入り細に入りて錯綜を極めた♭。
的には、・孝明凍、一斉神道を出し、源平鎌倉に
然かも現存する文献は、濁り山家四明派のもの
及んでは、外的に法然の浄土、一遍の時宗、親
のみ、多くして、山外派講師のそれは極めて少
鸞の眞宗、日蓮の法華粂酉の臨終宗等の碑文を
な㌢にト圃はちす、著者は、あらゆる資料中よ
蒸せ♭。斯か牒多種多様の思想的粛芽を蕨せし
り、その竪一日隻句を集束し、以って能ぐ其の
日間
本天台の思想螢蓮の経路を揺ることは犠打て
の滑息を明にせ♭。そが畢界に於ける償僅は、
至井のことに鹿す。著者が此等各宗の数理に射
且って此の部分が十不二門講義として、公刊︰さ.
すを造静を背景とし払がち、之等に到る間の思
るゝや彼の天台宗綱要と共に、明給時代に於け
想蓉展の経過を絶えず注意し、据璃せしことは、
る天台.の二大名著として推賞されし拳賓を以っ
本書の最も特色よイか所にしで、又八宗条畢の
琴ふ丁りし著者に非すんば、なし能はぎる虜な♭。
つⅧⅧ
的に配し、以って賓相論よ打線起諭への推移の 日本天台は、著者が最もカを注ぎLもの∼如
根披を明にしたるは着限へ仏り。
く、山家大師以前、所謂準備期の日本天台とし
徒水天台畢を講するものは、多く剤深の註滞て、大安寺の邁堵、行表等より筆を超し、平安、
を指南とし、虐めに天台と浅利との思想的同異
藤原.顔中鎌倉、南北朝、戦国時代、の舌代天
を明確に意識せぎるもの多し。之に反して、著
台を経て元線享保の近世のそれに及ぶ、其の間
者の爛眼は此の鮎を見逃すべくもなく、宗派・
章敦
を分つこき二手有五.賓に三宮頁の多きに亘
相貌心の三方面よりして、劃然と両者を思想的bで論述せり。
に区別し待たるは、之れ亦注目に侶す。
次の週末天台史は、沸教思想史上長も牽かな
695
696
次いで慈愛・智祀・安然に於ける台密教相定成の
大師の敦単に就いては、特に鳳戒に留意卜
畢的思索一で焉す上に於て、購た票数的横槍の問
上の特色、本迩二門の問題及びロ博法門等は密
其の他、日本天台−り解坪法、横根の分類、数列
一四六
経過を細説し、培いて事和の大成者皇慶並びに
一天ム‖歓智血石講む
その門流分瀕−り和琴で叩にせり。其間組へす東
最後の近世天台史は伶りに簡に過ぎるの嫌あ
題一で取扱■♪上に於て、含蓄あるもの極めて多し。
畢史に譲れるものか?
るも、恐ら︿近く公刊さるべき筈の日本偶数々
条との関係交渉一で顧慮†る等、著者の苦心の跡
一で窺ふに足るものあら。
巾に就いて著者の最も努力せしは、慧檀二派
て、斯畢の専門家と雄も容易に解し能はぎる所
ょり、其の内容たる千極めて深遠ぢるものあト
も糾すべき本曇思想山最も固熟せしものヘナQに
に取り扱へるもの∼最初の試h㌧るだけ之を進め
稿にして、而かも支那及び日本偶数を思想史的
いて二言せば、二は前述.り如く二十年前の未定
経りに臨んで、本書・り畢界に於ける低値に就
五
行アり。然るにこの本費思想は著著の最も得意と
る今日の畢界よりする限り、多少の独唱なきを
の数学なるもの∼如し。こは日本天台の心髄と
する魔王して、そが論究に際しては賓に精細一で
らす。殊により偉大なる貢献は、内的に幾多の
極め以って殆んざ余蕊な㌢までに到らしむ。殊
憶的にして、且つ簡易へ与る賓践形式一で要求する
研究題目ノで指示せると同時に.外的には、之れ
天台思想史一で完成せしことは、多とせ.ざるべか
と同時に、他方に於て、所軌の封象として理想
に依ト・て地学派の占むべき地位が明にされ、虐
保せすと錐も、未だ何人も組織し能はぎりし、
的人格一で求め蓬に念傭と阿浦陀と′で得るに到っ
めに将来此の方面−り、研究の基礎一ざギ†ものた
に慧桓二師が法華中心の理軌に係らすして、倶
た、その心的悩みの跡一で辿るあた・りは、賓に著
一匂の斯にノウしん。
四・八・四、於遍照光院♯
者の頭脳の銀さと明晰さとが遺憾ヘナ、発揮され
たるを費ゆ。
43
1・/.、・′.1■i\I.、一・・′
紹
⋮
董ノl′−1−く\︵ノ\一一1
サ
uコd
B旨h父菩Hぎ∴苫iedを︼1・
JOhaココeS
k﹁¢t訂ヨuの.
り巴i宕HtⅦOCi已y一POndOnこ詑00・
仙↑y雪i−︼ic︵−菖ヨ2乙已tt実写il−icつ︼−薫エ
B⊂dd一一adat−au∽Maコua一00.Part甲︵5−→
Buddhadatta︵A.P.︶.
heニ空音tisc訂
労音貫首宣−宇讐
の二詰も掠めてゐるに封L
yHコ
此S
菩の
︶l
≒tl︵岩︼8が阿見達磨集与してAb︼1己h呂︼mチ
て、此ほ毘泰平晃ざして如上の二が編主れてゐる。編者の
蔓草二こ
言ふ如く此等に勿論暗議用にこ作られ㍗とのに過ぎないでわ
に琴つくものでわるミいふ簸でわる。その各論には大に痕
て、奪納的、ユダヤ的徳永、殊にヨハネ前の基せ数的惇承
料に基き、中lこほ名の見えて居るのもちる事である。此等
コーサご同時代の人の手に光り︵編者ミに異人︶首謹梓の資
の模式むも彷彿亨しゆる。更に托意す.へきは、此等の辛が
ほ昔時の原典の如何光り・しかな暗示†る寸J共lニ叉その解梓
錫蘭悌教ゎ代表†るミいふよりlェそり編集された場所在る
靡史研究lニ何者か寄奥する廊ぁろを思ほLむるのである。
南井印度の沸教わ背景に井つてゐる鮎に於て、中古沸教の
●
の異許ほ理想されるlニ亡ても、可成り詳密lニ破綻克くその
主からでちろ。ヨハ・外lニ勿論濁自性、個性代わる、が然、し
時パレスチナユダヤ教等むも包括†スエ大文化徹底でわつ
る与らひがぁりlェ・し兄いだらうか、シンクレティムスは雷
典協骨の委嘱lニより此等の研字を試み㌣のでわらうが、そ
主ざして問答琴−、取扱び分類ね附・して居る。編者は巴利凛
絹少に止よらす、同じ事柄に就て三首二十四霊草旬を以て
雪写illic︵訂yP・の方ほ一の補遺でぁるが而も前者の畢光る
≦遥y当iuice訂yplミ約三千章句より成る律を撮め、qtT
叉異邦的要素の多分がぁる事も菅まれ互い事でちり、.之わ
の充分型術的克出版た叶lし=ミに就ては、深大の感謝な捧
︵合板︶
げnlで光らわミ信†る。
︵丸川︶
常にシンクレティムスの中のLのミュダヤ的h∵bの二こに分
新 刊 紹 介
思ふ。
けて考案・しやう革†る悪度そのもりが大豆こ疑問ミされろミ
的に見て常時のシンクレティムスな飴りlこ極限Lて見過ぎ
指摘に成功Jてゐる鮎圧認め光けれげなら兄い。然・し全態
ダヤ人でぁり、叉基督数社でぁるヨ︵ネのそゐ本来の特色 を古ぃ序放の蓬筋わ辿って指示ぜん写しt卦、そ、して発分
′、.へきも¢がある。ギタシヤ見文化の中にぁつて長刀苑ユ
らうが、而も伺癌自の債値ちりミ見らるべ与鈷li、アサダ
ニスティッシュシンクレティスムスから由来、したのでほ克く
居着り明かにぜん寸Jする畠注、ヨハネり根本載念がへレ
¢資雫巴0デー富加●
der
′﹀ヽノ\ノ\一l,ノl’l’\くlt−1ヽ′ヽ′ll‘ヽ′ヽノll−一ヽノーー\tヽミノ一
新瑚刊
−
44
新 刊 紹 介
Chri裟aコily−
CadOuざC軋−JO︼芦
Ca宴0:c訂ヨaコd
HbndOn−︼讐声
七有余真に亘る全巻で博学多識に多くの諮問産わ取放つ
なる副題が示Jてゐる。それほ先づIi訂邑
二
或−‡に就ては、﹁私に此祝わ大建恐れてゐ㍗。私ほ他の世界
所謂死滅に蹄†る=ミで克く・して、本音に涜特†る=ミ、だ
の存在な固く信じてゐ圭・し、徒て私が目的写してゐtのは
へば、人の行くべき逆転如何にLて歩むべきかわ意嘩して
から﹁蓬﹂ミいふのも如何に流樽界む行くべきか、更に言
︵合阪︶
dOSOC亘Og︻0﹁堅g訂u望W①t
つari∽こ篭]●
分ほ矢波り同じ年齢で逝いtかのギュィヨー、Irr票giOn
三十三の著さで世界大戦に戦死・しゎこの著者の豊か先天
fか︼k一〇﹁e.
Mか一aコg¢00
〓0ユN.RO訂rt・
の樺や偉統の徴キ洗って見直・してみる必要はあるのでぁる
るもの1研究lこ於て、斯くの如き反省ね以亘時†モの草間
何に於てもそうでぁるが殊lニ沸教の知手古き歴史を有す
への非難を洩さぜてゐる。
尊敬Jてゐたが決・して生写してでほ光かつt﹂等亡弟子蓮
人間だから一寸も私の感化ほ及lて光かつ主。優婆梨ほ私を
菜は彼の禁欲的光傾向で数へわ訣よらぜぢし元来自主的先
くゐ光がら私の語を彼等白月¢ヾJ定換ヘヤ﹂卑官托・しめ﹁迦
たに相蓮互い。故に著者托亦俳鱒暫して﹁彼等は充分知つ
の管反托既にその直弟子蓮、徒てその結果の際にも現liれ
てゐる本香の内容の概嬰はA5.ndi邑iOn OへprOgre軋烹ゐ㌣積りだつ㍗﹂ミ訴へてゐる。息ふに斯くの如さ俳陀へ
prOt乱写t訂ヨ
早釆占hurcナの見地からカツサシズムわ吟味Lてその特徴
徳的の三線に分岐・して剋明に検討されてゐる。而Lて終り
わ充分公平に許慣・してゐる。批列ほ哲撃的・歴史的及び道
lこほ基督軟骨の賂東lニ封−して著者の明快光る見解ヱ彗モー
HbndOn,−¢N〃.
が述べられてゐる。董・し力作写して推†lこ足る書。︵首野︶
lh¢Maコ.
ロaく迂¢︵C・A・句・Rす阜
COtaヨa
此香住研究書±・してlェ一見薪らJい憾戦わ採ってゐる。
抑ち著者lミ僕関わこて第一人稀を以て語らLゆ、所謂﹁ぁ
の世よりの通信﹂の形式に於て、根本敦耽の串間的或l‡宗
況的固定に批判な加へてゐるのでぁる。
例へげ無我説lこ就て托、﹁私行芸人bに就て語る時l二l王立ご
こて否定的l二語つたが=れはいけ光かつ㌣。だが私l工唯私
の時代の我祝が捕ってゐる機先或る常恒的七賞在の意味を
﹃人bド附すろ=ミな出先るだけ避け㌣かつ上のだ﹂ミ誇り、
45
de︼−雪⊇irの著者な偲ば、しめろ。
デュルケム畢渡の殊lニ宗教社食撃lこ於て新進の一大構成
でぁつ㍗ヘルツほ最も研究か取離ごされて未開拓でちつ七
出版され㌔初版lェ一九〇九年で最近托殆んご手lニ入ら克
Of
Saコのk三﹁iteralurO・
︵青野︶
かつ主=の好替に接する=ミの出爽上のほ宗教畢徒写して
深い革びゎ感ぜざるを待布い。
−¢柑00.
対対河一Ⅰ+ひ宗●〇六ぎd︰C一彗e乙つコヲe撃
A〓iのtOry
KOニh.A●謬rried已?
人間件の暗い反薗.Cri≡e、盟n、puヨisぎーent−訂rgi完コ箋
等に探求の歩竪琴禦㌔彼lェ﹁未開人統合に於ける罪ミ頻
発﹂に朋†る労作を費表†る昔でぁつt。=ゝlこ紹介†る
彼の師モスーニよつて鱒某され圭新刊は師も語る如く、ヘル
ツの多面的尤諸研究の序曲に†ぎ互い。、しか・し、それでも
大いにiE日†べ与好論文な配列︺てゐる。
云ほlて草紙余技でぁつた。而もその好革草子してT聖ベス﹂
光らす古典劇の頼も除かれてゐろ。結局純粋の文勢頬、カ
は聯か趣きを異にJてゐる。吠陀頼、史詰、ブラーナのみ
此種の表現に封Lて通念ミ・して想像せうれる棲克内容ミ
及び職鰻中で集わtコントやじ調の研究がぁる。︵三及び
ーブィヤ、前借詩、物語、小説頬の文字的光散文物が詳密
民俗撃ミ紳話撃ミは宗教祀食草の外lこ彼が愛着、してゐた
四︶第一の﹁死の集圃的表象に関する研究﹂や二の﹁右腕の
に説かれて、此迄試みられ化かつた機先スケールでサンス
三
考へられる。が例へlでパーサ諮lニ脚︺てli索引にも二個所
な論t亘ゐろ︰寸Jに俵て、或ろ程度よで場合ぜがつ∼、ぜ丁も
原、その使用の範囲、文筆与しての費蓮、俗許頬ミの開係
古代の作品な秩除・してゐる鮎ほ序説の部分に梵語の起
沸教、曹那秋め如き数頁お出でざるものもぁる。
ろ著書ざ冗ろ.へきもの光き関係上、中には棲く簡単に殊にこ
てゐる。可耽り詳密でliぁるが厳密に言へlて各一々彪大光
律、政治、哲畢宗教、管単、天文、占起草、敷革在取扱ふ
ターリツト詩学、印度詩の諾単記、批判、西洋文字ミの闊係
優越 −宗教的雨樋の研究﹂の如きは奇警に・して而も根強
要部分さ・して更lニ、構蜜に科挙的作品、彩香類、文法、法
を説いてゐろ諸事ミ照應・してゐろ様に思ほれる。以上わ主
︵市野︶
い櫨砥に立脚†る好論文でわる。絶後のロシアの芸妓、﹁紳
ヽヽヽ
一
の人々﹂及びスコナト涯に就いての.グラスの研究わ紹今し
ら√︶ゆてゐる。
㍗一文の如きはフランス埜涯のわる一面の行き方な用如上
〓ubert対Mau設.
M告コgOのdゴ誉告de¢ROニgぎの.
ド 監.
ヤ巨資−1汽や●
久亡い前から∴版の⊥梓が珠普されてゐ㍗本書がやつミ
新 刊 紹 介
46
新 刊 紹 介
Lか克く、又その彿教徒が吠陀語の助けをかりて白月の方
四
巻の最初にテッキストがあり、次にワルドシュミットの
ふてゐる。
仲紀聞の開成でぁろ丈けlこもつミ決定的先議論ミ立証が必
言わ改作︺て造り出、しt言語だご†ろ説の如きは、過去牛
⊆er
ミ超する論文が附加
巳ぎpり説明比較、第二部は此の給真の様式の説明及び他
Rロ︷sc訂
der警−d寛一ぎ己短m孟O
その第一部は給腰帯より取られたる二十六J芝pkpOrA7
ausQ篭i−bei
d訂Prsteごun票n亡11d
要でわらうミ思lェれる。此他lこも間庖ヾJ光る新設が可なり
︵合阪︶
見出されるが、それだけ亦此捕の書の中で特色のぁるもの
ミ言へろでわら・つ。
れ上る壁婁の説明でわる。
振ミの比較、第三部ほ同地方の洞窟寺院の閻天井より取ら
殊に沸教研究者に興味ぁるほ此の第一部第三部でぁり、壁
︵龍山章眞︶
ヲ○コp−
SyPtdく翌a∋aコJari■
Prabhaka﹁.Aユーを巨註∫ai︷Or・
王の如き著L主ごものでわる。
二種、‡喜nl乙.訂pJこぞ蔓Odぎl︼壱J.こ亭胃ぎ呂drト
れ㍗ミ稀・してゐろ。その中例へば芦冒k旦Jこ払iEJ.の
アイデンティファイ
カ亨宅十の璧婁に封すろ六十の説話ほ確定的に比 定さ
董二百以上に封・し説話八十種以上が取扱‘iれ、中、百六十
Sp巴aコl斉eぎMi宇
﹁eCOqA・さーlわWa一d誓h∋空こご
ロie buddh訂ti告he
せ讐︼jコーー詫∽.
e一a¢訂コ.S︻C〓S↓︻R↓ロ戸−N︻U︻B芦DM︻RK︻.
Ⅰ 一
触刊の前講巷ヾ1同りしく此怨も亦雄大なろ委を持つ。此巷
ほル・コック教授がクチャ国附近にて蒐めよトる壁蓋︵A・D・
七・八惟転のものミぜらる︶寸1、ワルドシュミット教授が整
理ぜる本文ねその研究寸Jより成る。先づ巷の後部わ成†壁
青郷教の単借Ⅰ︻2−PC21drF︵︼OS∽−〓記︶ほ昔時﹁カサ
連l‡ガンダーラ渡より直接派生ぜるものに・して所謂音波に
属・し、叉席朝露凪の影響も認められろ。その作品ほ蟄術的
巧みでぁり、色彩彗か光ろ原意を努算?しめる。例へlでプ
時代の仝智者﹂︼ハ已i一己P・誓一・ロjぎミ稀乍bれ㍗る大草者に
く−rt≧一−一↓Pt望琵︵=l巳声︶
にも可光り光完全性わ保持・してゐろ。而・して稚字も極めて
一ほ
A︶■Og弓ちヨCl一aikpミ呼げれ青郷秋の直接的詑明香
StつtrpOr望三iの形な探れる三十二現つつの二作がぁる。
への訴歌
論﹂Y〇g乳g互畠:む第一さ丁し、叉教組︼きき言−−・p
の面前で彿陀が
・して、その著作に首蝦に亘る中、曹継故に闘・しては﹁瑞伽
く弓鼠訂⊇▼
レート第十三はそり脆一lニ・して、彿陀が一群の比丘わ愕へ
る。此れlェ阿国梨の大臣所行
て河畔に立ち、河の向側lこは貴人蓮が惑押の委を光︺てゐ
恒河な飛び鰐え給ひ・し奇蹟か塞けろもの耽らむミ編者住吉
4ア
ソF︼︼百官
でぁり、他はAコアO習■苫召eざ軋ikp.ミ呼lてれ間接的に異教の
諸員右破Lてゐる。而Lて此り後者に封†るり
雷riのま︵本文白月に上れば一二九二A・D・lニ終るミ︶が
此真に紹介†る晋岩島d写︼艮官二謹蕗の花瑳︶でぁる。
異教ミ・して圧勝詮正理を圭ぎ;しその他をも寒ける。又二ぜ・
岩島dPミli元来mざ己︵副詞ナ丁して﹁或る意味lニ於ては﹂寸J
いふ意味︶の立場によれる思惟法で、同一主格ふ探り光が
ら立場み幾lタるこ寸11ニよつて種々光る客語が正亡く首ひえ
られるミいふこミな表ほ、し、かゝる立場li七つぁるミぜら
︵龍山章眞︶
試詳︵︰ざ袋Ⅰ訂l巨e§drpノコen、−認¢−な序でに紹介†る。
EaのtOrコBuddhi巴−VO﹁ く、NPP
SuHuki甲声、edibr●
↓hO
RyOtO−○どコiヨli↓電乱t¥−監声
此の雑誌ほ周知の如く鈴木大軌氏り編輯lこかゝる本邦唯
一波l‡、鈴木大拙﹁梼伽経研究序脊﹂、杉平顎智﹁西山混め
一の英文悌致痢究雑誌でぁる。今度費行され上る茅五巷第
閂組征空の浄土教﹂、南條文雄、泉芳壕校訂﹁焚文金光明綬
シ.ツーン
れ.それ故に∵許pざbざ乳gTnpyp
H珂↓−︶
耕法き考へられる。︵っ、Jn81−﹁¶r H﹁]戸∴対ロ己● lnす一p●
容比較、三木文異同の例示、四、諸品間の闇係l二就いての
研究lェ、一、支那諜lこ就いて、二、支部三謬ミ梵本ミの内
品︶、新刊紹介及び雑録より成る。此等の中鈴大氏の樗伽軽
↓l■p・−OMq冒mb竃㍉㌫警︶、此れは校訂宜しからす、故に
検討、五、樗伽紅ビ菩提達磨︵支那辞宗の弧、六薄鼻以茄
の費表は本論を以て喘矢ヾ与る。次に費表j托㍗る梵文金
浄土教に造語深き青年沸教畢着でぁる。本誌上に於ける氏
芽ya︼
Suヨr官prpb吉事誓trぎ浮t●q告t勧二品︵序品・如来存立
誇はヤコピによつて焦されてゐる。︵J覧0己︰D訂EntまcT
英語.より成る。八十東に亘る
支那日本lニ於ける本経の研究、七、標伽軽序品帥羅婆那王
歎請品一群ざ忠dllヽe琶思
マチャンrヲの﹂3t賢者邑0−r申OrJ旨tiに封†る註繹ミさ
光明護りテヅオストは、政商侯博士が官つて清美中一八八
五
所蔵竺宕、及び后に叡橋大草所蔵本ヾたより
惟ふに此等二書lェ単に別名㌣るにすぎす、‡は同二菅でち
J巳コpゝ㌢l訂弾
一年頃軍需されtるもの︹蜃b︼iOt冒gue屠邑On巴㌘
新 刊 紹.介
ャンドラに就ては G.声i已er︰宴電d冨︼訂beコd盆
るらLい=ミである。︵その論証lミ此慮lこ略†︶命へーマチ
れ、且鱒要り宰臣三r墨1冒i旨tlp寸しlミ別ミされてゐろが、
長論文でぁろ。次に杉平氏l三大谷大挙英語教授にして且つ
Ol鼠n眉p︰せer J己ni冒ug p●−︼○00l二よれげ、本書はへー
伺注意†.へきはWiコte⊇ぎ︰P1−㍗召︼●‡●p■空相●及
lungd隻GOtt軋d霜訂i den Inderヨーp●︼OM8。
此度の校訂出版は意義ぁるものでわ㌃。又本書の満要約碍
笥pmi吉tr中計の名の下に出版ぜられ㌣が︵牢盲苫m巴P−p三
ヽ
次に此¢二者の出版に就いては、骨って乎i−E宣ir曾
寸Jも呼ばれる。一種の詭
」
4S
新 刊 紹 介
て校訂︶−こ、持回後東京京都大学所蔵本ざ校合され︵一九
一五年に終る︶、氏の死後泉氏が大谷大草所蔵西戎愕三木及
び支那誇︵竺法話諾その他︶ヾJ校今し上るものでぁる。金光
明粧テッキストの既刊され上ろものは、
︼涙声︵禍十帥如汁バ、き〓坤〓磨︶
六
記五鼎の三着に隈つて、1−−e訂11er⋮⋮害コ召Hi官︼
る。その取材の選持も頗る薔在得てゐる。・しか・し資料む前
︵青野︶
彼の暖く和んだ人格を側面から詫明Jてくれろ手記か看過
及び↓Lett⋮どm出arOコ蔓ニIl官〓Opヨeceの如き
芽室膏prpb冨肋a、宮dd11⋮芝Teまぎciel:〓已㌻、C已星t︻∫・し上のほ惜・しいこ寸Jでわろ。
勺・W・声賀i〓er︰已ぎこ顎#。≡r冒巨〓cP対貞P⋮・
手際のよい解撃J簡単光批列的評雪Jに、宗教心環撃の入
CO♪ノゴ≡pコこam2S−ヲall一人n扇ぎattつn−訂ubヱヤご㌔
的解説を下L㍗ものでぁる。解説さるろ諸家は、st邑u阜
的現象に閲すろ代表的請大家の研究?万法ご右奥ミに批列
−室gi。−ご寸Jぁろが、更lニ之を厳密に首へば、宗致の心理
そのサブタイトルーこほASlu古i−︰heり蔦−10︸Ogy〇︻
C︼prk、︼琵¢.
ROCeコtRe=g−OuのPのyChO一Ogy・
Uぎ
reコ一戸く.A.−㌣
っg已二讐P勺el︼iPt︰eコヲp写en︷dllぎヨr雲p︼・宣l
∽.●tr・3i−買川en巴・ieコ邑.り邑sこ望u.
︵龍山章眞︶
倒梵文金光明経の既刊牙︵pワ芋︼eに一部五拾錦にて同
協骨より求や乙られる。
↓hOrO声A⊆AきeP
Readぎg¢frOヨF﹁監﹁穿く0コ〓︹何eL
トOnd.むTrgtOこ諾00.
に言へば、多く甲宗放心理学者は全然内的票数わ知らすL
エルンスト.トレルチのブロテスタンチズムl=於ける如
門
書また概説書亨して手頃であるが、併・し本書の最も重要
く、フォン・ヒユダルほ世界でも代表者克カトリシズムの
且つ興味ぁる部分ほ第三部の結論でぁろ。著者は現代の宗
教心理単に野して決﹂て空風な蓑†るものではない。彿単
︵︵The写宣ぎー
理解者でぁり信服着でぁつ㌔彼は︵︵Ete−・コal E亙︶な語
り、君ロOp の聖カタリナな主恩に・して
E訂E邑0︻謬痘。n︶︶な究甲し、或ひは︵︵穿蔓わAd一・?
て詰論に急いだ、寸しいふのが彼の主張でぁろ。
屋Ontbe苫i︼○∽。pす○へ謬︼i号コ︶︶に深い宗教哲畢的造
著者の主張は正鵠な待てわる。宗教心環撃者が解決ぜね
語の片鱗か窺−‡Jゆ㌔=れ等の名著を抜琴して、宗教∼
ば光らね訳大間庖が共産に存する。ミ同時に宗教心理畢の
の近付き、一里着の魂.宗教哲単の三腐に分つて配列﹂㍗
危機が共虞に存†る。
のが本書で、原著な積むミは叉自ら異つた味ひん這草してゐ
亜
宗敦資料調査曾瘍
宗教調査資料︵第一若菜一統︶
宗教調査室料編隣席普霜
我圃に於ける現行宗教法規は、明治初年の大政官布告以
来りもので、角政着も宗教家もその運用上に怒する支障困
難l‡捻く克く、新宗教法妾は近く必す解決されれげならn
問魁でわりヾ=れまでlこも、明治三十二年の第二次山解内
閣以東幾度かその制定を発Lて、未だ確立な見るわ㍗はす。
・しかも他方lこli、政治界lこぁつても宗教界にあつても、共
調査研究の未だ全からざる辻憾がぁる。かゝる見地より・し
て、今岡新主に宗軟質料調査曾の設立成って、=の﹁宗教
..
所萱資料﹂の第一懇の蜃刊な見t。論説にほ、紳噂一作、
溝老葎亮、伊藤道草、戸塚文脚、木村春賀諸氏の論な奉げ、
要
聯食糧闊の概要 − 新興宗教大戦 − 宗教行政費考害並び
資料の主要光るもの次の如J。﹂・世界各国憲法中の信教
に閤†る規定 − 鱒俳基各敢宗派の現努 − 調停基三敢各
lこ闊係論文一覧。等。︵靖谷︶
綱
天理教護友放置行
ー。最近共産芸事件ミ相前後、して
魔の戒ぜらろゝは察†るに難く克い。その朝食細揃l︰ポて
その教理の慈成に於て
世上を甲し圭天理研頚骨の如きも天理教の異端写してオル
ソrクス天理教に何等かの反省ミ自戒ミわ兵ふるものでぁ
つ㍗ら、つ。本天理教綱要は、かゝる時に嘗つて天教理がそ
のオルノドクシーみ構成ぜんビ丁しつゝある途上の一産物ミ
考へられる。第一章に於て先づ一般世人の天理教に封†る
無理解ふ解くべく﹁天理教ミはごんな信仰か﹂光る綱目を殴
督致に於てパウロの如き使琴〒昌号べ与・−−飯降伊歳氏
け、次に﹁天軍歌の豪群﹂ごLて教組及び本席・−例へば基
の生活、敢へわ試き.第三に﹁天理教基本教養書﹂写しての
泥海古記、みかぐらうた、おふべさき、お亨しづを椒改・し、
を牢し、進んで天理教数達の経過ね述.へ、更lこ﹁天翠敦敢
次いで=れらよりシステマタイズされ王﹁天理教基本教理﹂
努﹂﹁天理教々移執行り組織及同感﹂﹁天理教内¢事業﹂等の
圭鱒空撃ミ天翠敢の歴史及び現状み明かに†るを縛る。
綱目がかゝげられてゐろ。之によつて我々ほ天理教自うり
宗教研究に普つて、日本新輿の諸宗敦が比較的無慮ぎれて
ゐる現在かゝる書の出現ほ敦外者lニごつても大に意味ちる
定
根
安
誇
︵丸川︶
事である。=の鮎lこ於て我々ほ︰の書¢出現の悦びむ分つ
ものでぁる。
屋
ヰサヤム・ジェイムス著
比
七
天理教遣友正編
天 理 教
丹波市町
天理敦立秋以来既に百年に近い歳月も経、その間迫書愛
撫の幾歳かみ申して後今やその基礎な固め隆々教勢の碩張
介
に向はんざ琴してゐる。然t内部lこ猶清算†べ与幾多の間
新 刊 紹
−
50
警
醒
辻
はれ㍗事は大き克喜びでぁる
話雄
畢著
東京
諭
同
文
舘
八
萩
版
′ ̄ヽ 岸
先寧して出版され圭=の紳語草上の傑作はやがて本誌上で
﹁宗教研究叢書﹂の第二編を飾って=1に焚書シーズンに
神武
指南車tろ︰ヾ−を信ごて疑l三光い着であろ。
の冨y
gOing
︵吉野︶
空前の出来費えでわらう。我等は本書が長く斯畢研究者の
の多面的に・してその考察の明敏光る蓑Lわが国所話草丈献
ばほ薪lニ執筆された未刊の論文から克つてゐる。・その取材
に別れ、牛ばli既lこ本誌上lこ常夫され主上あでぁるが、牛
欧宗教耐語り基督教化、フィンランド宗教紳話研究の覚書
宗教紳話の文化史的考察、希膿宗教紳話の近代的襲容、北
日本紳話lこ関†ろ若干の考察、日本紳話ミ民族文化、森脇
ろ掛念を全く一掃・し圭載がぁろ。内容ほ締結撃の新展開、
tごころでちつた。Iしかるに本書ほ一度上梓さる1やか1
先方法l二立脚すべき=ヾJを巽つてゐ㍗我等の頗る注憾ミJ
畢み宗散華り重要七補助部門亡者倣Lて窃かlこそれが豊由
に叉pかl?−m巴0に跡づけられ圭傾向がちつ上のは.神話
いか克必ずLも最密に拳的でなく、多少ミも
最近に於ても紳話拳闘係の書物代数積出てにゐるが惜・し
に止
めt
。 ミ並
Tわる。彼が哲鹿界へ貢献J六名着工ヲPgm介邑
s
mい。
宗教心埋草者ミJては彼の前にスターバックがあろ。蕾
んで、最も重要なものでぁろ。
間洗わ用ゐて三丁訂汐盲○︼Og﹃○、出ゐl葱On、、ち著はL右
バックの功措ね簑・しい態度で跡づけてゐる。それは。㌘e帥・
折畢の先臨着でぁる。Jソエイムスはその著書の中でスター
n−邑旭m、、の中で、埋れたる先盛者ビア−スの卓見を群え上
彼の如き具眼の士によつてものされt原書は、単に一審
のミ双んで、筆者ミLての彼の高潔光心事を語ってゐる。
間者写して意義わ蒋つのみで克く、そ¢中lニ、生き上人生
が︳動Lてゐるのに、讃簸ぜざろわ件ね。永邁lこ看き古典
でわる。宣光る故。千入官九十六年のギツフォーr、レク
チ†−に招かれて原著を形成†べ与講演わする迄にに、彼
lェ秘かlニ集わ練って非常の苦心わ重ねtのでぁつ圭。それ
暫く、接する墓ゐ出来なかつ六原著の邦語が、再びあら
を淳者の解鹿lこよつてはからすとそれわ知旬得王。
本 )
新 刊 紹 介
宗教経瞼の諸相
東京
ヰリアム・ジェイムスl二就いては、最早や多くわ云ふ必
要はわるまい。哲単著心理孝養写して、十九世紀から廿世
紀へかけての最大の人であつt。のみ光らす、彼がその菅
拳的、心翠畢的薙誓右傾けて、宗教現象を取扱つ㍗結果に、
村
雷のあらlェれが、原著ミく邑eti袋er謬︼i乳〇一広勺H罵ri告Ce。解読ミ批列ごが試みられる筈でぁるから今はtゞ阜光る紹
宗教畢及宗教心埋草の創成者ざも七つ上のである。其の落
松
凡舛研
昭和四年八月廿五日印刷
昭和四年九月一日俊行
編鞘者
右代襲者
螢行者
印刷者
印刷所
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東京市耐田匪表紳保町二番地・株式合祀同文舘
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