Kobe University Repository : Kernel

 Kobe
University Repository : Kernel
Title
フィヒテ哲学の研究 (その3) : 後期知識学の構造を中心
として
Author(s)
斎藤, 義一
Citation
兵庫農科大學研究報告. 人文科学編 , 4(2): 65-75
Issue date
1960
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006187
Create Date: 2014-11-14
一、問
ア
哲
で
t
"
ι
件
の
││後期知識学の構造を中心と
在
たことは、屡々一彼が言明したととろからも疑いの余地は有り得ない。併乍ら、
知識学が自我の哲学即ち自我を究極原理とする観念論として終始一貫して稔ら
なかったか否かは、疑問なしとしない。初期に於ては自我は﹁全而ごなるも
のとして、活動即実在、自由即存在、主観即客観という意味で﹁全実在﹂その
ものであった。勿論、自我は知的直観により根源的原理として立てられるので
否定的対立者たる非我を媒介して綜合的統一たる実を示さざるを得ず、かくて
あるが、それが行的性格をもっ以上、それが即且対自的たるためには、自らの
山
口
EE口問)﹁非我は存在すべからず﹂という理性の裁断は、絶対我
M
g開
た
。(
絶対我が、純粋我と区別されて﹁実質的﹂理念として立てられることになっ
こそ究極的な実践的目標理念として立てられるべきであるという要請││勿論
カント的意味に於てではない、却って既に前進即還帰的として実在性を含んで
いるのであるがーーを裏面に有っている。自我は単に理論我 (
l理性)たるの
ではなく、同時にその根本に於て実に実践我︿1 理性)たるのであり、その実
践的活動即ち実現作用の過程の媒介契機として理論我を認めるが如き倫理的理
想主義こそが、フィヒテの初期の思想の核心で占めることは既に我々の見て来た
ところである。然るに、フィヒテは所謂無神論論争を境として今や、彼の思想
を深く宗教性を渇えたものたらしめ、自我と絶対者との関係、知識学と宗教的
には当時の浪没的思潮に対する共感と対決、特にフィヒテの思想的敵対者たる
生l実在との関係が彼の関心の中心に置かれるようになって来た。勿論、そこ
研
。
h
して│││
Yし
その三
グザアピエ・レオン、ハイムゼ lトの﹃フィヒテ﹄論参照)を我々は採ること
は出来ない。寧ろ、彼自身のうちにその絶対主観的立場に長く踏み止まるこ
とを許さぬものが原理的に必然的に存在したと見ることの方が、正しいのでは
なかろうか。それは哲学思想史上の謂わば一原型に属するものであることは、
その三 -後期知識学の構造を中心として│(斎藤)
得ない事柄である。
の﹁転換﹂││ヴントのみ明瞭にかく言っているーーを抜きにしては到底考え
る。倫理的理念的な見方が神生命的愛の見方に深まったことは、フィヒテ自身
自身が倫理的認識論的色彩を脱皮し、宗教哲学的になり、マ yクス・ヴントも
指摘した如く、それ自身一個の﹁宗教諭﹂ PEn宮九・ ω・自3 に化したのであ
絶対者との関係における自我・自由・知を取扱う立場に変換し、かくて知識学
よいであろう。非我!自然との関係における自我・自由・知を論究する立場が
らの思想内容を深化せしめただけではなく、変貌を必然的に招致したと言って
せしめ、特に宗教的実在の問題との関係に於て、その真理を主援するうちに自
の哲学的職分としたのであったが、今や自らの哲学を新たな思想的風潮と和決
ト哲学を唯一真正の観念論即哲学として標拐し、知識学を樹立することを自己
は啓蒙時代に根をもっ独断論並びにこれに対する懐疑論との対決によってカン
ているがーーを超出せしめる恰好の機会であったことは否めない。初期に於て
学の立場││彼自身飽く迄これを堅持する唯一の人であることを幾度も宣言し
る。兎に角﹁絶対者﹂の問題との対決はフィヒテをしてある意味で所謂批判哲
デ力ルトに於ても、近くはハイデッガーに於てもさえも、看取し得るからであ
4
a
与えるのは、単にシェリング哲学等を反駁する必要に迫られてのフィヒテ自身
の叙述方法の変化に起因する、という一般的定説(例えばクノ l ・フィシヤ l、
な機縁として介在していた。知識学自身が前期と後期に於て踊る異なる印象を
韮
ヒ
所
シェリングの自然哲学乃至同一無差別性の哲学に対する対決という事情が大き
藤
イ
の
フィヒテの知識学がカントの先験哲学を深く掘り下げるととによって成立し
題
フィヒテ哲学の研究
6
5
斎
フ
兵庫農科大学研究報告
第四巻
第二号
人文科学編
神を否定し、これをその欲望充足者的性格の故に、﹁偶像的﹂として峻担し、
﹁軒わかその中に生きる﹂(同・ ω・
53 掛骨骨ιrkm冊として生きた神を立てる
ことこそフィヒテの真意なのであった。それは、どこまでも倫理的行為的に深
、フィヒテの﹃人間の使命﹄や﹃浄福なる生への指示﹄等の生々しい体験的表
湛えていることも右の事情に由ると言わざるを得ない。我々は後期のこの問題
の立場に成立っているのであって、決して自然的実体的な概念ではなかった。
まることによってこれに即して聞かれて来た神の概念なのであり、従って又信
白に充ちた思想の展開が、前期の宗教的倫理的諸著作には窺知し得ない深さを
を検討する前に、謂わば中間的移行期の彼の思想に触れておく必要があるよう
の正当性を主張した。併し同時に、その聞に自づと新しい観点に一歩踏み出し
引退る態度には出ず、大阻不屈の反撃を即座に企てることによって自己の立場
兎に角、フィヒテは一旦点火された非難の攻撃に対して、カントの如く温順に
に思う。では﹃人聞の使命﹄に到る迄のフィヒテの思想は如何なるものであっ
たろうか。
的﹁無翌副幹事﹂を機としてフィヒテは彼の倫理的自由(自我)を宗教と真
l
剣に対決せしめることになった。﹁無神論者﹂としての貼札を彼が負わされる
たことは否定し得ない。
今や宗教的実在は生に於てのみ触れられるという観点からして、生の次元と
ω-N03 であるとして規定することによって、田山弁の次元に立つ知識学は生
哲学﹂、﹁思弁は非 t生﹂(同・
思弁の次元とは全く異なるものであり、﹁生は非 l
に到った理由は色々一挙げられるであろうが、直接には彼が﹃神的世界支配への
信仰の根拠﹄という論文を草したことが意外な反響を起したことによる。この
論文は彼の処女作たる﹃啓示批判﹄が余りにもカント的であるに比して格段の
経験から独立すべきことを明確に指摘するに到った。神とか宗教とかは生の中
進歩を示しているのみでなく、独自の立場の萌しを示していると息われる。道
徳的存在者の全体的集合体たる世界が感性界から独立せる英知界即道徳的秩序
ト教と矛盾撞着せず、却ってこれに理論的基礎を附与するものであると彼は断
にのみ存在する(︿向一回・同・ ω
M
H
M
) のに対して、知識学即ち哲学はこれに就いて
の﹁掛か﹂を与える役目を果すにすぎない。知識学は﹁生の智慧﹂たるキリ λ
﹁この道徳的世界秩序が神そのものである﹂(同・ ω・ω3・として規定され、こ
の秩序に属する全ての個人は恰もライプニ yツのモナドの世界に於けると同じ
どこまでも場的活動的にのみ捉えられていることは、従来の実体認識的な神の
-MH30 彼によって神が﹁oaooE
定した(戸 ω
EE﹂(戸 ω-Eav として
として把握され、後者が感性界の実在性を保証するものと看倣された。而も
仕方で考えられている。併し道徳的世界﹁秩序﹂が即神とされた点に、所謂神
えられていること、従って又、この観点からフィヒテの所謂生命の立場へは尚
換言すれば、神は人閣の道徳的活動的生の全体を包容し且つこれをあらしめる
捉え方を排して神の概念を﹁現実的生﹂と一体的に理解すべきことを示唆する。
同
の独立的実在性の否認が見られると共に、神の実在性が謂わば活動的場的に捉
一歩を要するのみでゐることは明白である。神は単に個人道徳的に思惟される
フィヒテの道徳的天才は実に独特の神観を樹立するに到ったのである。道徳的
背景として、これと密接不可分的にのみ立てられることを意味する。その限り
意志に﹁意義と目的﹂を与えるために宗教が人聞に不可散とされた。即ち、道
のではなく、人類全体の理念乃至その実現と一体不可分的に理解されているこ
と混同され、無神論的として難ぜられるに到ったので必めった。併しフィヒテは
徳的心術的行為による結果に対する絶対的﹁根源的確実性﹂に宗教の本質が存
とは否定し得ず、そのためにこそホ lルベルクの余りに個人的な自力的道徳観
道徳と宗教との結びつきを人類的全体に亘って求め、人類の道徳の神的起源を
て﹁創造者﹂として実体的対象的に考うべきではないーーにより維持され支配
するとし、英知界が﹁創造作用﹂そのものとしての神(戸 ω・担。)││決し
体化の方向にではなく、正に反対的方向に、即ち創造作用としてどこまでも人
確立し、人類的存在理念に一個の絶対性を与えんとしたのであって、汚名を着
誕地であり﹂(同・ ω・Mmg・﹁感性界は前者の反照﹂として、実は﹁我々の義務
の質料﹂(同・ ω・ロ乙であると言ったのもそのためである。一般になされるが
ヒテの思索と体験は深まって行ったのである。而もその際、創造の概念が明か
類の主体的活動的生と相即的にその根抵をなすものとして理解する方向にフィ
されるということが、上述の考えの前提をなしているのである。神を対象的実
如く、感性界からの推論││力ントの﹃第一批判﹄に即して強いて言えば、自
せられた如く、決して無神論者ではなかったのである。﹁超感性界が我々の生
然神学的神証明の仕方に該当する擬人的推論であるーーによる実体化としての
6
6
為の営学としては他に比を見ない無限に深い内容がこれに秘められている。従
哲学の展開過程に於て劃期的な転換点をなすものである。意志の形而上学、♂行
制守人聞の使命﹄は前述の観点を最も明瞭に示したのみでなく、フィヒテの
的方向に移って来たことは看過すべきではないであろう。
に示唆する如く、初期のフィヒテの個人道徳的方向も拡大深化されて人類倫理
ピlの適切な言明からも知られる、カント哲学のアポリアをなす所謂物自体の
概念が、フィヒテによって完全に斥けられたことは、既に我々の見て来たとこ
接態と、絶対否定を介しての一体化との相異があると思われる。兎に角ヤコ l
ωピ)。直観に於て物我一体であり、物とは精神自体なのである。ここで、
ω・
遠く奥義者や仏教の真理に呼応する如き響きを感じさせられるが、両者には直
には﹁我自身が物であり﹂、﹁外に見るものは悉く常に我自身なのである﹂(同・
って、へ 1ゲルが言った如く単に﹁通俗的﹂なものとして、考え去ることは出
ろであるが、ここでは﹁理由律に従って思惟により指定されたもの﹂(同・ ω・ω
ω
臼)であるとして、その実在性││後に明かになる如く、怠志に物自体の実在
来ないであろう。我々の意識の側からすれば、懐疑・知・信の三段の過程が、
夫々その関係領域たる科学(独断論)、哲学、宗教(倫理)と相関的に高揚し
性が帰せられるのであるからーーを剥奪されている。
にすぎぬのであるから、人聞は思惟と﹁知﹂によって一切のものへの依存性を
かくして事物の体系たる自然界は人間の思惜の所産即ち﹁表象界﹂そのもの
てゆく姿がこの本に於て生々と示され、人間の本来的使命の意味が何処に求め
られるべきかがフィヒテ自身の体験の深まりと相即的に叙述されている。
独断論││これの思想をフィヒテは若き日にホンメル(国 OB500 に,より鼓
せられることを担み得ない訳である。結局、知は﹁世界 t像﹂の体系を樹立す
の他には唯、諸々の﹁像﹂が存するのみで、我自身もやがてこの像の一つに化
超脱し﹁自由﹂であり得ることになる。併乍ら、かかる知の立場では我の意識
いかなる例外をも許なさい。そこでは人間自身も巨大なメカニズムの一項であ
ることによって、独断論の所謂実在界(感性界)を皆無に解消するを得たが、
bop 出口伊丹 0 0昨日。口付四日間話回 U・
日ω
吹されたと言われている p
)ーーによれば
存在全体は時空的に限なく規定された一つの完結せる因果聯関的体系をなし、
り、予定論的必然性をもって自然法則に規定されることになる。人聞は外的に
その代りに知の世界自身も何等の実在性を有せざる﹁夢幻﹂像となって了うこと
を求めずにおれない。﹁知は自己自身を根拠づけ得ない﹂(同・ ω・
23 と確認
することによって、フィヒテは今や、嘗てアウグスチヌスが体験した如く、こ
を免れない。ここに人間の内なる魂は安住を見出し得ず、﹁像の彼方なる実在﹂
も内的にも自然の次元を脱し得ず、結局、人間存在は﹁自己規定的な自然力の
悪と﹁懐疑﹂の湧起することを禁じ得ない。内なる自由への街動、﹁自然の主﹂
現れ﹂(困・ ω・
83 にすぎぬものとして悟性から見られる。併しそれにも拘ら
ず、内なる魂は自由と独立を求めて巴まず、自然メカニズムの専制に対する嫌
の知の立場を超えて信(意志)の立場に高まるべきことを強調するに到った。
いでいたが、無神論論争を介して再び本来的な関心を示すようになったことは
カントの先験的観念論に傾倒していたがために、暫く宗教に対する関心が薄ら
若き日に宗教家たらんと志していたフィヒテは、カントにより哲学者となり、
たらんとする街動は悟性的平面的な自然理解をその底から突き破って現れてく
る。ところでこの衝動は存在から意識を捉えるのとは正反対に、﹁意識から存
在を理解する﹂ところの知的反省の立場への高まりを可能にするのである。
否定し得ない。戒は、より正しくは、彼の倫理的理想主設がその究極的到達点
この﹁知﹂の立場は一切の存在を人間自身の直接意識に還元し、そこから逆
後期知識学の構造を中心として│(斎藤)
であり、良心によってのみ真理と実在とが人聞に現じて来る(︿包・固・ ω・
83
純粋意志としての良心に今 M此処に於て聴従することが人間の﹁唯一の使命﹂
し、﹁実在﹂把握の拠点をなし、﹁一切の真理﹂の出生地なのである。
意志的なものであることは断る迄もない。信は実に心術戒は意志の底か島発露
てよいであろう。従って、彼に於ては信は単に感情的なものであるのみでなく、
に一切の(意識 1)
存在を導出するのであり、換言すれば、対象意識に直接先行
l
に於て宗教と必然的に対決を迫られ独自の宗教観を生み出すに到った、と言っ
最も直接な知は自己 1意識であり、摺の所謂自然(物)の意識は実にこの自己
する自己意識によって対象も初めて可能になるとするのである。人間にとって
l
意識に媒介された、従って間接的な知たるにすぎず、人間の知性の現実的活動
の所産なのである。何故であろうか。知性としての自我そのものは本来、﹁主
客の同一性﹂(所謂事行の別称)であり、これが意識的反省作用によって主客に
その三
分裂せしめられることになるからである。従って、フィヒテに拠れば、根源的
フィヒテ哲学の研究
67
第二号
人文科学編
道徳的努力がそれ自身だけで妥当性をもつのではなく、信に裏打された努力に
第四巻
のみならず、他の人聞の自由・独立性も単なる非我的性格を脱して、人格的に
兵庫農科大学研究報告
根拠づけられるのであり、所謂目的自体の国が可能となる。それのみではな
前に道徳的法則とされた人間の絶対独立性は、今や純粋意志として動的﹁現在﹂
こに、フィヒテの所謂﹁観照的﹂生が現れてくる根拠があると恩われる。又以
変って来たと考うべきであるう。
又未来も単に未来ではなく、現在における善意志の決断と相即的に媒介的関
係に立つが故に、単なる憧慢的未来とは異なって来ざるを得ないであろう。そ
(
d
F
いべ所謂非我たる現象界の実在性もこれによって真に保証されることになるの
である。物は人聞に対する関係によって存在性を得るのであり、対象界は﹁入
閣の掛砂の領域﹂としてその実在性を有するに到るからである
戸 830
行為への要求成は意志から所謂現実界が初めて成立してくる。かく見てくると、
真の生命と永遠との源泉である﹂とか言った所以である。そしてこのことが確
83。謂わば現生不退的とな
に於て成就され得ることになるであろう(同・ ω・
るであろう。フィヒテが﹁決断によって、水遠を捕える﹂とか、﹁私の意志こそ
83。ここに既に意志が物自体的性格を有ち得ることは明白であろう。
る
﹂ ・
ω
(良心は単に断言命法的であるのみでなく、同時に亦その行為の結果たるべ
他方
なければならぬと断言したことも当然であろう。キリスト教の所謂回心にも準
83 が体験され
証されるためには、一度は﹁地上的なものへの断念﹂(同・ ω・
実践的理性(意志)はカント的意味を超えて、﹁世界 実
B 在の原因たるのであ
き目的に保証を与えるとされている。従って、現実界は高次の理想界への通路
たものが、今や一方では崇高な絶対意志として絶対化され秩序の原理とされる
得られるとされた(同・
えるべき、﹁死すること﹂を通しての﹁根本的改善﹂によってのみ真の智に達し
乃至手段たる意味をもつことになる。所謂倫理的理想社会は﹁地上の目的﹂で
あるが、フィヒテの理想主義に於ては更にこの理想界の実現が﹁超地上的永遠
の目的﹂に資すべきものとされている。この目的こそは先の倫理的社会の実現
れる。良心が有限意志と無限意志との媒介道路となる。絶対意志は世界の法則
と共に、他方ではこの絶対意志に対する分極として﹁有限意志﹂として規定さ
ω
s
s。嘗て単に主体的努力意志として考えられてい
とは異なり、宗教的世界の実現と言われるべきであろう。後者に於ては意志の
みが原動力として作用するとされている。地上目的たる理想界の理念は未来永
認めることは、感性的次元では不可能に終るに反し、全人類の共通の源として
遠的方向にあるに対して、この超地上的意志界は﹁既に﹂我々の現在の直只中
の一なる絶対意志がその自由なる﹁分肢﹂を成立せしめるという自覚によって
せしめる働きを担うのである。前にも触れた如く、人閣が他者の独立的自由を
﹁墓場の彼岸﹂にあるのではない、と開明していることは、紛れもなくキリス
のみ、可能になるからである。かくて﹁永遠な絶対意志は世界の創造者であ
として有限的意志的存在者全体の﹁普通的媒介者﹂としてこれ等を相互に結合
ト教的信仰原理の一面と符合するものでおる。永遠と時間、天国と地上、彼岸
に臨現しているという極めて注目すべき思想が示されている。それは、純粋心
と地岸との弁証法的媒介関係がフィヒテ自身のうちに明確に確立されて来たこ
のである。前に世界秩序作用として考えられた神が、今やこの作用を作用たら
る﹂(同・ ω・呂田)と言われ得るのであり、正にこの絶対意志がフィヒテの神な
情・純粋意志と常に一体的にのみ閲かれる永遠界(天国)なのであり、決して
は、理想主義の根本的性格上未来的方向にのみ据えられる││のみではなく、
しめる者として新たに規定されたことは看過されるべきではなかろう。更にこ
と、それ故に、永遠絶対は単に道徳的意志的に捉えられているーーその場合に
宗教的実在的に現在的に生きられるものとなったことが指摘されなければなら
:
、
。
こに注意されるべきは、フィヒテの崇高無比な主意主義に於て絶対意士山が物質
から世界を造るのではなく、た Y我々の魂の内にのみ世界を作るということで
‘v
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知の立場l│勿論後期に於てこれに新たな意義が附せられるに到ったことは
感得されるべきものであるからである。意志に於て神と人間とが一つに結びつ
とは、厳に戒められなければならぬ。彼自身も指摘する如く、哀の宗教は神秘
く面が示されているからといって、比処にフィヒテの神都主義を奥ぎつけるこ
ある。それは、飽く迄も主客対立以前に於ける意志的生命の深みの内で純粋に
暫く措くーーは言う迄もなく、単なる道徳的意志の立場も超えられて、宗教的
信的意志の立場に彼の体験は深まって行ったことを示すものである。善意窓こ
そ超地上的目的とこの生とを繋く紐なのである。かく言っても、フィレ﹄テの未
来的理想主議が宗教のうちに解消され尽したのではない、寧ろ止場され、所謂
6
8
主義とはどこまでも一線を劃すべきであり、﹁私が神となるのではない﹂(同・ ω
生そのものたる根本意識の中で自我は思惟する者として謂わば反省の反省とい
﹁反省﹂する自我が現れて来るのであり、次に第三の最高のポテンツに於ては
された。生の第二のポテンツに於て生という根本意識からの解放高揚として
が謂わば絶対的に自由に﹁自己自身となる﹂或は﹁人聞が自らの内に出来るだ
意識の根本規定自身のうちに体系的聯関が既に潜むことを前提としているので
う立場に立つのである(同・ω
-g∞)。従って、知識学は第一ポテンツに於ける
h
g
) からである。寧ろ逆に、絶対意士山はその絶対性・無限性の故に、有限者
である。このことからも推知し得る如く、彼に於ては人間の自由が徹底的に独
一体的な生 1経験が第一ポテンツであるとすれば、表象作用による所謂物の意
ある(同・ ω・勾∞)。知識学は﹁生そのものの複写﹂に他ならぬのである。物心
け人間性を完全に充たす﹂ということを宥すものと、フィヒテは考えているの
(宗教的立場)とは抵触しない。(後にフィヒテがこれを﹁愛﹂として表現し
立的になること(道徳的立場)と絶対者がその絶対性を維持するということ
に言えば、対象と意識とをその同一性としての自我性から説明することが可能
識が第二ポテンツに於て可能となり、第三ポテンツに於て逆に物を心から、更
となる。それは生の徹底的な自覚態で島り、﹁知識学によって人聞の精神は自
たことは、周知の如くである。)両者を結びつけるのは良心であり、これに聴
意志との結びつきも﹁死﹂を介しての良心によって有限者に確保されるもので
従し、今比処でなすべきことを果す限り、﹁祝福﹂が贈与されるのである。絶対
あることは、宗教と道徳との連関を考える上に注目されるべき事柄と言わなけ
完全な像を与えることによって、逆に生に作用してゆき人聞に独立性の自覚を
己自身に還帰する﹂ことになる(同・
以上見て来た如き生の理解は、次第に深められて宗教的実在論の問題に導い
可能にするところに、その存在価値があるとされている。
ω
s
s。結局、知識学は、生そのものの
ればならない。﹃人間の使命﹄は後の﹃洛福なる生への指示﹄に対する関係に於
てのみではなく、後期の諸著作、就中﹃知識学﹄に対しても必須の前提をなす思想
て行くという意味に於て、極めて重要でゆめる。フィヒテに於ては生の智慧とし
を含むことは、疑い得ないところである。フィヒテ自身この警の観点を﹁実践
的な先験的観念論﹂として規定しているのであるが、寧ろ倫理宗教的実在論
て宗教が考えられ、生の根源として絶対者が考えられることによって、知識学
への共感を禁じ得なかったけれども、彼は生命を単に、感情的に理解するとい
﹁生命﹂への洞察を鋭く深めるに到ったこと否定し得ない。当時の浪漫的思潮
くして、より豊かな、より深みのある、而もより身近なものとして見られる国
の概念との関係に於て理解されることを通して、謂わば倫理的道徳的色引がを蒋
である。﹃人間の使命﹄に於て絶対意志として考えられた所謂神は、今や生(命)
は今や宗教への唯一の正しい指示を与える役目を自らに課することになるから
とでも言うべき内容を展開していることは、上来見て来た如くである。
うよりは、彼に固有な実践的行為の立場から生命の本質を捉え、所謂実在の問
ては論じられなくなったことは、フィヒテ哲学に於ける発展であるのみでな
を示して来たと言ってよいかもしれない。知識学が今や絶対者との問題を離一れ
内﹃人間の使命﹄に於て展開された意志の形市上学はフィヒテをして益々
て新たに展開される必要を増して来た。換言すれば、知という主観主説的形式
題に肉迫して行ったと思われる。知識学もそのために生 l実在論との対決に於
主設的な原理ーかかるものを示すものとして知識学は一般に理解されていた│
意味ではなく、依然として知識学は知の絶対性を認め乍らも、それは絶対者の
絶対性の謂わば応現として絶対性を得ているという意味である。このととは、
く、・てきな転換である。勿論、それは知識学は全く相対的位置に堕したという
ては、﹁知は生に係わる限り価値をもっ﹂(同・ω
-gS と言われ、一切の知の
ーが生という客観主義的な実在に対決を迫られたのである。﹃明白な報告﹄に於
て示されている。フィヒテは知識学の難渋なるがための一般の無理解を是正す
﹃一八O 一年の知識学﹄に明瞭であり、更に﹃一八O四年の知識学﹄に於て明
瞭さを増し、最後のコ八一 O年の知識学﹄に於ては完壁な且つ簡明な叙述を以
知としての知の絶対性が謂わば否定され、従属的地位に立つ如き言辞すら見ら
れる。それほどに生 l
実在の立場への傾斜が看取されるのである。事実、彼は
るために、幾度も知識学改訂版を草したのであったが、上記のうち前の二つは
シェリング的概念たる﹁ポテンツ﹂を用いて、知の次元を生のポテンツ自身の
特に我々に晦渋であると思われる。従ってフィヒテの言明通りに、知識学はそ
ー後期知識学の構造を中心として│(斎藤)
高まりの中に据えるに到った。生の第一ポテンツに於て自我は自己没却的在り
その三
方をし、実在そのものを生きると考えられ、それが他ならぬ﹁経験﹂の本質と
フィヒテ哲学の研究
6
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第四巻
第二号
人文科学編
自己自身による絶対自由とを統一融合せる﹁永遠に自己同一的な知﹂であらざ
兵庫農科大学研究報告
の内容が首尾一貫して﹁同一不変﹂である、ということを何処までも信用して
るを得ないのである。
併し言う迄もなく、フィヒテにとっては﹁知の存在は知の絶対自由の表現で
ゆくか、それとも実際には知識学に一つの転換が見られるということを確信す
あり﹂(弓・ ω-M3、従って﹁知の中に現れる限りに於ける一切の存在は自由に
るか、によってフィヒテ研究者の閲にも従来二つの異なった意見が存してい
た。我々は後者の立場を採るべきであると考える。それでは、フィヒテは絶対
よって基礎づけられたものとして見られる﹂(弓・ ω・呂)こどになる。このよう
ω
﹁自由即ち知は存在それ自身であり﹂、逆にコ切の存在は知である﹂(圃・ ω・
&と言わなければならない。絶対知は正にその絶対性の故に、自己外に何もの
つのである。(同 4・
ω日叶)このことは知識学にとって新しい分野の開拓を表はす
と言ってよいであろう。兎に角知的直観に於て存在と自由は一体的であり、
Earg﹂たる意味をも
謂知的直観なのであり、知的直観は絶対知の﹁対自(
に絶対知が自由と不可分的に結びついていることを証示してくれるものは、,所
者と知識学との関係をどのように考えたのであろうか。
八
一 O年の知識学﹄に対する関係と比論的に考えた方が良いと思う.何故なら、ー特に実践的な
ハ
註
一 u
私は﹃人聞の使命﹄の﹃一 λO一年の知識学﹄に対する関係を﹃浄穏なる生への指示﹄の﹃一
ものの観点の特に理論的なものの観点に対する関係が如実に示されていると考え得るからであ
る.そして右の如ま考察から初めて透徹せる理解が﹁知識学﹂体系に対して可能となるからで
ある.勿論、我々の持論たるフィヒテに於ける理論と実践との交互媒介性を否定するのではな
いが、﹁特に﹂右の如き見方が必要であると考える・
﹃一八O 一 年 の 知 識 学 ﹄ │ 絶 対 知 と 絶 対 脊 在 の 関 係l
をも有せず且つ自己のみを見るのであるから、この知的直観によって知の一切
が汲尽されるのである。知的直観それ自身は﹁無からの絶対的な自己産出作
この本は、裳ては知識学の立場の唯一の継承者と目されていたシェリングの
同一性・無差別の哲学を反駁するために書かれたものである、と言われている
自らの対象として反省する時に、自らを絶対的として知ることになるのである。
多の一への融合との有機的統一として﹁知そのもの 2g 巧町諸国)﹂であると
も言われている。このように知識学は単に学的体系的な抽象知ではなく、それ
を内に成立せしめる如き生々たる和めかな知であり、人間自身の本質として主
あり﹁直観﹂であり (H・
4
ω・ご﹁我々自身の眼﹂であり、本質的には﹁人閉そ
れ自身﹂︿弓・ ω・
5) であるとさえ言われている。或は又一の多への流出と、
一切の知の知としての知識学は、正に一切の多を一瞥裡に総括する﹁知﹂で
識学に見られる導出と大同小異なるがために、比処では割愛したい。
ことによって、所謂多様知を可能ならしめる。これ以下の詳細は既に従来の知
我々に知られるのであるがーーから由来する必然性︿1非自由)と統合される
然るに他方、知自身は飽く迄絶対的統一のうちに止住し得るが故に、そこに知
片して正にこの反省に於て、知は絶対自由による産出として認識されることに
なるのである。而も直観は即自由なのであるから、自由(形式的)は﹁知の絶
用﹂の意味をもつのであるが、それが自己を反省する時に、即ち知そのものを
QZM由吋FEREnE028ロ 宮 田 宮 戸 ︼Y 8 3。フィヒテの行動的論争
的な性格によって、彼の知識学の内容が深められたことは否定し得ない。知識
山市山川現前的にはたらく知である。ところで、絶対知は正にその和持性の故に、、
た箇所を手懸りにしてこの問題を究明してみよう。知的直観によって絶対知は
学はここでは﹁絶対知﹂として規定されている。
絶対者そのもの││これは﹃人間の使命﹄では絶対意志として別称されていた
ーーといかなる関係に立つかは、今や﹁知識や﹂にとって重大問題として現れ
者 (A) は一切を拘束し、一切の知に前提される﹁自体的なもの﹂として、知
w
a
c。
の正に依属している﹁感情﹂として示されるにすぎない(喝L
自明的であるが、絶対者に絶対知が如何に関係するかは把握され得ない。絶対
問題は絶対知と絶対者との関係に存する。フィヒテの考えが要約的に示され
れて知の所謂法則を与えることになる。かくして、自由は存在││感情として
の確実性の直接﹁感情﹂があるのであり、この知の絶対的同一性が存在と結ぼ
対的質﹂をなし、自らを無限に分割可能なものとすることが出来るのである。
て来ざるを得ない。
いって絶対者から始まる訳にはゆかたい、却って飽く迄も絶対骨から始まらざ
併乍ら絶対者は同じく絶対的性格をもっ絶対知たるべきである、換言すれば
フィヒテに於ては絶対者はシェリングが考える如く思惟と存在との同一・無
差別ではなく、正に絶対争であるが故に、知識学が絶対知を問題にするからと
るを得ないのである。絶対知はそれ自身、自己内止往的な和め存在と、端的に
70
ー
、
一
対自的になるべきである。絶対者は知を絶対自由をもって産出する、市も他な
しての Aの対自たるべきこものである。つまり、絶対者は自由なる知の中での
知であるのみでなく、それの前提からすれば、﹁絶対知に於ける且つこれを介
実体と様態との無媒介性を彼は難じている。絶対者と世界との問に知の形式的
型と目されるスピノザの哲学をフイヒテは挙げ、その不備を突いている。所謂
の世界観なのである。これに対限的な立場に立つ思想として、シェリングの原
これは元来知識学に潜んでいた思想の別種の言廻しであり、否フィヒテの独自
右のような考え方に対して異様な感を受ける人もあるかもしれない。併し、
のである﹂(司・ ω・
∞
由
)
。
み自らを﹁可視的に﹂することが出来るのである。兎に角、絶対知は絶対者か
自由が介入することによってのみ両者の真の移行関係が可能になると主張する
らぬ﹁知の中に﹂産出するのである。従って、知はそれ自身自由の産物として
ら分離されてはならず、両者の悶には﹁絶対的聯関﹂が存するのである。絶対
結局、一切の知にはこれを限定する永遠の一者(絶対者)が知の彼岸に存す
自己凹)﹂たらざるを得ない根拠を見出している︿門戸 ω
-giuo)0
uggどであると共に、他方コ一元論(ロロ色町・
学がどこまでも﹁一元論(ロロx
のである。ここに色々の問題が考えられるのであるが、フィヒテ自身は、知識
知は対白態であり且つ自由によって産出されるが、同時に絶対者とどこまでも
いう意味に於て否定的に││結びついている、と考えるべきである。
8)と
││色々問題はあるけれども、﹁知の非存在が絶対存在である﹂(戸 ω・
かように、フィヒテにあっては絶対者は知に於てのみ現れ得るのであるが、
るが故に、﹁観念的には﹂一元論であるけれども、他方知は絶対自由と絶対存
このことは重要な意味をもっと思う。今や意識、否知そのものの根本条件乃至
前提としての﹁実在﹂が明瞭に論じられるようになったからである。勿論、絶
在的には﹂二元論なのでらる。併乍ら、この到達すべくして到達不可能という
って達し得られることはなく、た立思惟し得るにすぎないのであるから、﹁実
意識のうちに知の永遠の展開性が含まれていることは言わずして明らかであろ
在とを自らの(二つの)原理として有する関係上、絶対的一には現実的知によ
知の中に構成されて来るのであるが、この感情 (
1確実性の感情)に於ては絶
現して﹂来たかの如くに意識されるのでゐる(弓噌 ω・白印)。感情によって実在が
対自由と絶対存在とが一つに結びつけられているのである。とはいうものの、
肯定的に入り込むことーーだからと云って、絶対者の絶対同一的自己完結性が
う宏
ZES。部にも触れた如く、絶対者が絶対知の中に謂わば自己否定的即
対知に対して絶対者はた Y感情としてのみ関係するがために、﹁恰も知から発
シヤ│の語を籍りれば、﹁知を存在の認識根拠としても、存在を知の実在根拠
53、知の同一性をどこまでも
知の絶対存在となることによって(︿関口戸 ω・
可能にすると共に、他方個的自我の知覚にとっては神的力が﹁感性界の永遠の
決して失われることなくーーによって、即ち絶対者は絶対知に於ける且つ絶対
絶対存在が絶対知の﹁起源﹂をなしていると看倣されるべきではなく││フィ
(註己
明
23 のである││却って逆に絶対知はど
としてはならない﹂ (E
w
z
o
ω ・
こまでも﹁自由の絶対的なはたらき﹂(阿戸 ω・芯︺に基ずくとして考えられる
﹁不変性﹂を強調する根拠が見出されるが、我々は知識学の絶対独立性そのも
O
Z
E白)﹂となり、常に未来的発展を確約するのであり F従って神は
創造力 (
﹁現象界の英知的根拠なのである(弓λ山・呂田)。我々入聞は﹁神の愛﹂に生か
べきである、とフィヒテは考えているのである。ここにもフィヒテが知識学の
のが絶対者の絶対根拠性と両立すべきことを指摘しなければならない、擁て明
の単なる図式化作用となるのである。右に明かな如く、絶対者は明確に神とし
の善を拡げることを可能ならしめられるのである。かくて、人間の自由も実在
て規定されて知識学の体系の謂わば基礎の基礎として据えられるに到ったこと
されることによって、それ自体では﹁無﹂である世界に道徳的意志によって神
兎に角、反省面に於て思惟は絶対存在を把握し且つこれにより貫徹されるに
れると考えなければならない。
対し、直観は発現の対自として流動的であり、知の無限性を可能にするのであ
r
h
wか活動的原理から出発した以前の立場からの大きな転換を示
は、知識学がι
しはしないであろうか。実践的道徳的な立場に立っていた知識学が今や宗教的
瞭になる如く、絶対者によって知の独立性が、謂わば絶対性移譲の形で与えら
る。そこに無限量化の可能性の領域が聞かれてくるけれども、この可変性の領
実在的な立場に深まり変貌を来したことは、紛れもない事実と言わなければな
-後期知識学の構造を中心としてl(斎藤)
域は突は﹁無﹂にすぎず、世界自体は絶対存在である。換言すれば、世界即ち
その一ニ
感性的現実界は永遠な絶対者の表現ではなく、﹁形式的自由の像であり表現な
フィヒテ哲学の研究
7
1
第四巻 第二号
人文科学編
って﹂純粋に統一状態に止まるのであるが、それが存在と思惟に分裂するのは
光の生命には一切の分裂・分離もなく、従ってそれは﹁自己から且つ自己によ
兵庫農科大学研究報告
らないであろう。このことは﹃一八O四年の知識学﹄に於て一一層判然とすると
とを示すものでおる。概念(的認識)には限界があり、概念は﹁その彼岸なる
遠不変の同一性として確証する、と同時に概念的認識に特有の役割を認めるこ
概念の内に且つ概念によってなのである。目このことは、フィヒテが絶対者を永
思う。
ν
(
註 -v 己のフィ ャーの言葉は一応正しいプイヒテ盟解を示すと考えられるが、併し全面的には支
持し得ないであろう。何故ならば晩年の知識学の立場からは、これを否定する思想も看取され
るからである.それは、存在の概念が、物自体的なものから神的なものに変って来たことによ
るのである.
8
0
)。
そのためである((︿三・同﹃・ ω・
永遠の同一性たる光の洞察に於て存在と思惜の分割及び多様性への分割が可
生命即ち神的生命を指示する﹂ことが出来るにすぎない、と言われているのも
能になるのであり、従って概念は光の内にも、洞察されたものの内にもなく、
﹃一八O 四 年 の 知 識 学 ﹄ │ 先 と 発 出 の 問 題l
ここでは先ずフィヒテは自らをカント哲学の正嫡者として示しつつも、同時
さず、概念の絶対否定者であり、謂わば絶対否定的に自らを像に変貌すると言
この生の内にのみ存するが故に(弓・ ω-M8t忠岡)、知識学の根基はこの光乃至
その生命の中に求められるべきこと明瞭である。光はそれ自身では概念化を許
念化以前に於て)この生命の内にあり、この生命そのものであり﹂、実在性は
かように、フィヒテに於ては﹁光は生命そのものの内にあり﹂、﹁我々は(概
正にその﹁中間﹂にあり、単なる﹁相互貫入(ロロ同岳民自国品目同とそのものなの
である。
Epgu 宮田仲鈴n富田)﹂的であると指摘・批
にカントの立場を﹁事後綜合3
判し、知識学は逆に真に﹁先天的綜AE 的であるとし、その独自の意義を闇明
ゲネシス
53。換言すれば、知識学は﹃第三批判﹄の観点を徹底し、
している(弓・ ω・
﹁蝕くるととなき集中専心﹂を以て絶対知そのものに達し、二世界を一原理か
ら概念的に発出的に導き出すことを課題としている ( H・
4
ω・忌凶)。絶対知は原
本質的知として﹁明証自体﹂であり、この明証に於て絶対知は絶対者と直接関
わるべきであろう。換言すれば、概念は自らの本質的性格たる﹁UERE
﹂を介
9ン ペ グ , イ ヲ ' ツ ヒ ペ グ リ ? " ツ ヒ
係に入るのである。フィヒテに拠れば、絶対者は客観的に表象される限り、死
せる概念にすぎないが、﹁それ自身は不可捉ではない﹂のであり、た立概念的
の発出百四回目島)﹂に高まるべきであると考えている(岡戸 ω・
83。益々深ま
る精神の笑中力によって達せられるこの発出の次元では、﹁絶対者の絶対的自
併しフィヒテは右の考えをも猶且つ﹁事実的﹂にとどまるとし、更に﹁高次
と流出が絶対的﹁間際会官宮田)﹂によって分離されているのである。
イ?ネ yhr
して光なる生命の現象を示して来るのである。内なる生が﹁先(匂民
あ
gどイで
ン'ネシト
り、概念は﹁後(吉田宮ユE
)﹂である、と言われた所以である。内と外、内在
認識を試みることによって不可捉的となるのである。つまり、この不可捉性は
直接明誌のうちではその意義を失わしめられるのである。明証の光は﹁自らの
ゲネシス
内で自らを発出として﹂示すことが出来る (H・
4
ω-E3。従って、知識学は
今や明らかに明証的絶対真理自体の自己展開として、換言すれば、﹁真理が自
離作用)の否定・廃棄によってのみ達せられるものでありつつ、逆に概念を自
であるーーが、同時に知識学は﹁との自体者の光の内で生ける自己構成に没頭
己構成と(根源的)光とは全く不可分である﹂││これが高次の実在論の立場
らの力によって自らを作りゆく﹂ (
H
F
ω・
8 8 という観点から、見られて来る
1分
ことになるのである。明証の光の内に﹁生命﹂の本質があり、光は概念 (
らの現象とすることによって存在するのである。かくて、光は直接に知(概念)
する﹂l│これが高次の観念論の立場である││のであるが故に、実在論は即
ト
ピ
山w
の内にあるのではなく、光を客観化し且つこれを否定する﹁像﹂を通して我々
の内にあるのであり、像は逆に原型(即ち光)を指示することが出来る。従っ
以上から推知し得るが如く、﹁絶対者は光であり、光の中に指定される﹂の
て、概念の内で像と原型との﹁相互渉透﹂即ち絶対的統一が自づから可能とな
H
F
ω・
ることは明らかである(
M
M
M
)。
観念論であり、両者は一体的たり得るのである。実在論は﹁生の発出﹂に、観
念論は﹁概念の発出﹄に係わるのであるが、両者は今や相互に結びつくとされ
)。
るのである(弓・ ωM
・g
右のフィヒテの考えのうちにも、知識学が、単に観念論であるのではなく、
であって、我々のうちに措定されるのではないハHFω-sg。絶対者としての
7
2
、
一
どこまでも実在論と表裏一体党なし、実在の自己構成そのものに自我が没入的
に謂わばなりトっち働くことによってのみ、自らの真の在り方を貫徹するとい
るものが自己構成するということになる(司・ ω臼凶)。つまり光はそれ自身一
くて観念的自己構成と実在的自己構成との区別は消失し、光・理性・絶対存在な
する時に、それは絶対者の本質の内に必然的に基礎づけられることになる。か
うことが看取出来ると思う。﹁事行﹂の代りにギリシャ語の﹁発出(の2
0曲目的)﹂
の上に拡大されてゆくのである。この光からの第一の絶対的自己創造としての
切の自己構成の元として、即ち全ての﹁から︿D
E の元として一切の﹁から﹂
﹁から﹂は﹁であるゲ同﹂の根源なのである。発出の絶対原理が光そのものの
いう語もこれ迄に於けるが如く単に主体的性格をもっのみでなく、頗る存在論
内に求められ得ることは明白である。光自身は言う迄もなく我々が生きること
を用うべきことの指摘のうちにも明白に這般の消息が語られている。﹁理性﹂と
) とか、﹁意識は真理の現象にとどまる﹂とか、知識学が一面
にある﹂(司・ ωミω
的概念となって来た。﹁真理の根拠は意識の内にではなく、真鯉そのものの内
するが、知は自らを﹁客観的且つ間際を通して﹂しか見ることが出来ない。従
っ。光自身は内的本質的に自らを﹁実体転化的に﹂投射作用並びに直観作用に
存在﹂であり、﹁その投射作用は原理づけ作用﹂(弓・ ω・
8 3 という意味をも
l
って絶対知は二元性に分裂する。一方では飽く迄も根源的であり乍ら、他方で
光は存在でゐり、かかるものとして絶対的に確実である。光は﹁内在的原理
べきであろう。併し絶対的自体者が現象するのは、﹁非合理的間際を通しての
MglSH)。
投射﹂の形でのみ外的実存形態に入ることを意味している(弓・ ω・
自体者の内的本質は飽く迄も﹁自己から、自己に於て、自己によって﹂あるの
であって、﹁全き活動に於ける存在公明日白山口自白82E)﹂なのである。そこで
は追構成(勿論絶対的に一なるものであり続けるが)となる。換言すれば、根
のうちにあり、否光は我々自身成は絶対我に他ならないと極論されている。
活動の只
は、存在と生命とは同一であり、我々自身即ち自我はこの実在の生 l
源的不変的統一が像の本質を貫通すると同時に、それは正に投射作用として自
BgoHO阿佐)﹂であるとか言われるに到ったことに注意を払う
﹁現象論(司冨ロO
(
弓
・ ω-N8・呂田)という注目すべき、市も一見奇妙な言葉がフィヒテ自身によ
中に生きるのでゐる。﹁存在自身が絶対我であり、逆に我々自身が存在である﹂
像と客観的法則に分つのである。
らを投射的に固定的客観 1
かくて光は内的に自己内に生きるものであり乍ら、他方どこまでも﹁流出的
って告げられさえする。フィヒテにとって従来、絶対我が究極原理として知識
学に据えられていたが、今やそれが絶対者(存在)と関係づけられ、これと一
の﹁像化作用﹂という窓味を得てくる訳である。ここから﹁知識学﹂が絶対知
830 従苧て絶対知も亦自ら
に像化作用(回52)﹂であることになる(戸 ω・
を﹁像﹂として指定し、且つ像を説明するために像化作用の法則をたてる一個
体的に考えられるに到ったと解すべきであるう。存在自身は決して自らの外に
出てゆくことゐり得ず、常に﹁自己内完結的単一者﹂ではあるが、併しかかる
右の立湯から、一見にキリスト教(特にヨハネ福音書)と知識学はその根本に於
ωglg)。
て矛盾するものではない、と断定している(弓・ ω・
人聞は永遠の生命に認識・知を媒介してのみ到達し得るからである。絶対者
はその直接的客観化作用││以前の所謂﹁創造作用﹂ーーのうちにのみ見出さ
真理論と現象論というこつの観点の相違によるものだからである。フィヒテは
︿註己
あろう。この規定は以前の規定と矛盾するものではない。何故ならば、それは
﹁道標﹂たるにすぎない、とフィヒテが規定するに到った理由を理解し得るで
の我々のうちに現れ来る作用百四日曲目印)を洞察するものであり、絶対知への
真理論から﹁必然的にして真実の現象﹂として事実的な一切が導出されて来る
今見た如く、存在が外出することがないとすれば、存在自身の自己構成を我
ことが、我々にとって大きな問題である。
々がそれに成り切って遂行せざるを得ないことは明瞭であろう。従って存在の
﹁掛かか﹂な自己構成に於ては、洞察は﹁非合理的間際によって外的実存形式
れるべきであり、この謂わば絶対作用を生きてみることによってのみ絶対者に
その三
-後期知識学の構造を中心として1(斎藤)
ω-S30 この﹁ベ
なものとならざるを得ないことである。つまり﹁現存在は有り得るか有り得ざ
併し注意すべきは、この外的実存即ち現存在は右の関係からして、﹁無原理﹂
るかの軌れかとして現れるべきである﹂ことになる(弓・
真に触れ得るのであり、この体験的事実が即理性の生命なのである。そこでは
M
E
)。
の中に絶対的に投射する﹂ことに存することになる訳である(同ア ω
存する。併乍ら、この﹁ベき﹂の観点から、現象的実存を神の啓示として措定
きG
o
-ごということのうちに、実存が﹁無からの創造﹂であるという意味が
フィヒテ哲学の研究
7
3
兵庫農科大学研究報告
第四巻
第二与
人文科学編
﹁事実即ゲネシス﹂、﹁ゲヰシス即事実﹂ということが言われ得るのである。
円証一)この区別が速くAFj--デ旦・プラト yの思想に週ずるものを含むことも、フィヒテの思想
が存在論的実在論的な性格をも勺て来たことを暗示しないであろうか.一元来知識学にはこの区
別を予料するものが潜んでいたが、明確にこれを指摘するに到ったことは深化であるのみでな
︿、主体的なものが存在論的に把担されて来たという転換を量味するであろう.
コ 八 一O 年 の 知 識 学 ﹄ │ 神 と 知 識 学 の 関 係 │
に人間の絶対的使命(規定)が存する。そのためには人間能力は絶対自由をも
なる。従って我々は自己の能力を神的生命の図式として見るべきであり、そこ
a
o
) により遂行される必要があるのである(︿・ ω・230 ゾルその
ってゾル
の現存在たることになるのである。それでは如何にしてこの絶対規定的な自覚
ものが神の存在によって規定されるのであり、人間自身即ち知識学自身が、神
即ち神の図式たる自覚に高まり得るのであろうか。そのためには知識学におけ
自らを時空的に図式化する人聞の能力はその原初的在り方では﹁街動﹂の形
る理論と実践との関係の問題が採上げられるざるを得ない。
をとるのである。街動に見られる能作性は物体界であり、この物体界の直観を
この本では知識学は簡潔にして市も完全な明確さを以て提示されている。
﹃浄福なる生への指示﹄に於て確立した彼のヨハネ神学的な宗教諭の余韻は歴
介して自らを肉体として見る。
2 3。
﹁図式﹂であるところに絶対知の存在性が認められることになる(︿・ω・
ない。﹁神の存在の外にある神の存在(即ち現存在)﹂、即ち﹁神の像﹂であり
ば、それは﹁神そのものであり、而も神の外に存し得る﹂ことにならざるを得
の内にも外にも新しき存在はあり得ず、従って絶対知が存すべきであるとすれ
他の存在になることなき神は﹁生命そのもの﹂であり実在そのものである。神
れでは、神は如何に知識学に関係するか。永遠の自己同一であり、不変でおり、
ではなく、諸我の世界に分かれる﹂(︿・ ω-BS ことである。換言すれば、衝
我﹂が現れて来る。併し注意すべきは、能力はここではこつの自我であるの
の方向即ちゾルの方向に向けられるのである。そこに自己直観に高まった﹁自
れる。知るはたらき(山口件相毘色。円四回)は無規定的に多へ向うのではなく、一つ
を解放する。そこに知の立場が関かれ、そとでは思惜の能力及びその作用が現
には自らをゾルの洞察に高める規定が合まれており、これにより衝動から自ら
この図式は末だ神的生命の図式ではなく、本来無にすぎない。他方、この能力
直観の全領域はこの街動的能力の単なる表現戒は図式に他ならない。併乍ら
(註一)
おり、神と知識学との関係も極めてすっきりした形で纏め上げられている。そ
然としており、彼の所謂絶対者は﹁神﹂として名指されて積極的に用いられて
知は神の作用ではなく、神の存在の﹁直按結果﹂である。それは統一的全体的
動の次元での直観では個人のみが存するのであるが、知に於ては他我の認識が
ダ1M4
す y
かくて知識学は神のロゴス(言葉、思想)を伝える立場に立つわけである。併
知たるものとして、突に﹁神の言葉﹂(ヨハネ神学の意味で)そのものである。
可能となるのである。
であり、﹁純粋能力﹂であると考えている。この能力は図式を実現する能力と
能力(拡大して言えば、自由能力としての人間一般)も亦それ自身表現である﹂
る神的生命の図式たりうることを洞察する。﹁知は神の表現であるから、この
かく直観の多様から解放された知は、閉山惟の力によって自らを支える根底た
し他方知識学は現実的知の多様と関係し、その根拠を述べる必要がゐる。フィ
して(更にはこの能力の知として)﹁絶対自由の能力﹂と言われている(︿・2
して考えられるからとはいえ、﹁私個人がさうで占めるのではない、﹂のであっ
と言われた所以である(︿・ω
-S3。但し、知は神的生命の図式たるやか、ものと
ヒテはこれを神の外にあるこの存在(現存在)は死せるものではなく﹁生命﹂
であるが、これはひとり知識学のみ自覚し得るのである。ここに知識学が絶対
3。図式一般はその現存のために必然的に神(存在)を歓くことが出来ないの
換言すれば、それは、個人が個人の能力を和か酌勘的に遂行するその限りに
こにも亦フイレ﹄テが所謂神秘主義を否認して、人類の道徳的宗教的使命の面か
らのみ神的生命との結びつきを考えていることが明瞭になる。
於てのみ、現実に神の図式たり得るという考え方なのである。﹁私は私のなす
て、それはゾルとして能力(人類の能力)のうちに合まれているのである。こ
ところで現実的知が自らが本来単に図式たるにすぎぬことが忘却される時に
者の把握││一八O四年では毘詳5 的に不可捉とされたが、今やロゴス的に
可解的になるーーに対して唯一の通路たる意味を我々は判然と認めなければな
るまい。
所謂客観界・現実界が必然的に立てられ、その図式的性格が隠蔽されることに
7
4
四
ィヒテがカントのモラリスムスの精神を最もよく発揮しつつ、而もカントの立
での魂の自由)を終始追究して己まなかったという事実のうちに、我々は、フ
ングやへ 1ゲルが同じドイツ観念論の系譜の中に位置するとはいえ、余りにも
場を超越するに到ったことを率直に認めざるを得ない。これに反して、シェリ
自由の実現(﹃浄福なる生への指示﹄に明らかな如く、絶対否定即肯定的な意味
而も主体的内面的な根本自覚の立場から人間全体の真の解放(解脱)と絶対的
は直観界では無限の課題となるのである﹂(︿・ ω-S3 という彼の言葉が這一般
ベきを知っているが、しかし私は直接に神の図式ではなく、その図式の図式に
すぎない。個人たる私は能力によって私が真の本質として超感性界で直観する
もかを感性界の中に表現し得るようにすべきである。併し、私のなすべきこと
課題の実現に抵抗するのは感性的街勤であるが故に、実践的にこの衝動を完
の事情を明白に示している。
の学ではなくして、これを底の底から支えるフィヒテ自身の実践的体験の豊か
大ぎさとかは別個の問題である。知識学はその名称が示す如く、単に知的思弁
な知的改鋳の所産なのであり、初期に於ては道徳を、後期に於ては宗教を基底
観想的i思弁的でふめることは否定し得ない。勿論、思想の深さとかスケールの
するーーが必須とされる。この意志こそはゾルを観ることによって、神的生命
とする実践的│知識学であったことは、上来我々が検討して来たところから明
な意志﹂l│﹃浄福なる生への指示﹄における高次の﹁本来的﹂道徳性に該当
の図式を現実化するのであり、かくて知識学の実鹿部門は﹁智慧論﹂と化する
瞭になったと思う。(未完)
全に否定することが可能とならなければならぬ。そこに不退転の﹁絶対的純一
のである。嘗て智慧論を知識学から峻別した彼は、今やこれを知識学の頂点に
!後期知識学の府造を中心として│(斉藤)
︹誌一﹀ここで、この﹃浄福なる生への指示﹄に盛られている思想を述べることが必要であると考え
られるが、それは別の機会に詳細に触れるつもりであるから、割愛することにした・
その完成として据えるに到ったことは注目されなければなるまい。
知識学はどこまでも知の絶対的能力を遂行し、自らを神的生命の﹁全き図
知識論であるが、同時に亦その究極態に於ては、絶対不動の意志が自らを再び
式﹂として、神的生命への必然的な唯一の媒介者として認識する如き、純粋の
る。かようにフィヒテに於ては哲学は実践のための理論であり、理論を介して
現実的生へ献身没頭し得るようにする智慧論(宗教的倫理論)に達するのであ
の実践の確立を眼目としているのであり、どこまでも両者(理論と実践)は無
知は絶対者の﹁啓示﹂として、知自身が絶対者と関係づけられるに到ったが、
関係に成立するものではないのである。ただ初期と異なり、後期に於ては絶対
知識学自身は矢張それ自身一種の絶対的独立性をもち得るのである。極論すれ
して必然的に存在性を担い得るところに知識学の独立性が確証されるからであ
ば、絶対者への上り途として必然的に存在性をもち、又絶対者からの下り途と
る。宗教と哲学、生と思弁とは相関的に捉えられ、益々宗教諭的に純化徹底さ
れて行った。このことは、知が正しく信に等宣されて人類の救済力として作用
としての知識学はへ│ゲルの﹃精神現象学﹄的考察││これは根本的に言って
すべきことを強調した晩年の彼の思想に徴しても、疑い得ない。勿論絶対知と
観想的であるーーを行つてはいない。併乍ら、どこまでも知を実践問題と関係
づけて論じてゆくその態度││言う迄もなく﹃現代の特徴﹄﹃ドイツ国民に告
その三
ぐ﹄等に見られる如き歴史哲学的思想をも含めてのことであるがーーのうちに、
フィヒテ哲学の研究
7
5