④近殿神社考察

「ちかた」の神「ちかつ」の神
深谷市本住町の富士浅間神社は、深谷城の濠の址のすぐ内側に祀られてゐる。康応(1389~90)のころ
に城(館)を築いた城主・上杉憲英によって、城(館)の守護としてまつられたものとの伝承がある。祭神は、
主神に木花咲耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)と瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、配祀に天太玉命
(あめのふとだまのみこと)である。
この神社は、明治の初めまでは「智形明神」の名であり、今でも氏子たちは「智形さま」と呼び、「智形
神社奉賛会」が組織される。
明治の始めに神社明細帳を作るときに、やむなく「富士浅間神社」と改称されたらしい。のち氏子たちに
よって元の名に戻さうとする動きもあったが、なかなか認められなかったとのことである。何故に「富士浅
間神社」の名が選ばれたかは不明である。
近隣市町村にも「ちかた神社」はいくつかあり、少し紹介してみる。
本庄市小島・智方神社(天児屋根命)
川本町田中・知形神社(彦火瓊瓊杵尊)
児玉郡
大里郡
熊谷市本町・千形神社(天津彦火瓊瓊杵尊) 大里郡
羽生市堤 ・千方神社(興玉命)
加須市土手・千方神社(興玉命)
北埼玉郡
北埼玉郡
加須市中央・千方神社(興玉命、神日本磐余彦命、藤原千方)北埼玉郡
北埼玉郡地方の三社でまつられる興玉命(おきたまのみこと)とは、猿田彦に似た神ともいひ、伊勢神宮
御遷座のときに倭姫命を五十鈴川の上流の地に導いた神とされ、伊勢の二見浦の二見興玉神社に関係
する神である。この神は、塩釜神社(茨城、愛知県)、碇神社(愛媛県)、河守神社(福岡県)などの祭神で
もある。「塩釜」とは潮流の意味であり、潮流~碇~河守となり、海の沖からやってきた神霊が川を遡って
ゆく様を神格化した神のやうに見える。
加須市の千方神社の藤原千方といふ祭神が問題である。伊勢の一志郡の雲出川流域に、天智天皇の
ころの伊勢の豪族・藤原千方の反乱の伝説がある。藤原千方は敗れて首を斬られ、その首は雲出川を
遡って、水源地の若宮八幡神社近くにたどりついたといふ話を、若宮八幡神社の禰宜の岡野さんに昨年
聞いたばかりなので、伊勢の藤原千方のことかと思ったわけである。ところがよくよく調べてみると、埼玉
の藤原千方は、時代の異なる別人物と思はれる(※同一ともいふ。続稿参照)。加須市の千方神社のことでは
ないが、新編武蔵風土記稿に、堤村(羽生市堤)の千方神社について、藤原秀郷の男を祀るといふ文句
があり、幕府の記録者によって「按ずるに六男修理太夫千方といふ人あり、この人か」と付け加へてゐる。
音の一致による類推からおこったものが近隣へ伝播したものと思はれるが、それはともかく、俵藤太は下
1
野国が本拠地なので、栃木県を調べると、「ちかた神社」が二つあった。
小山市武井・智方神社(思兼神、配祀=兎道稚郎子)
小山市田間・血方神社(少名彦命、配祀=伊弉冉命)
共通の祭神名はなく、それぞれの祭神名がますます多彩となるばかりではある。
さらに見てゆくと、よく似た神社名で、関東地方を中心に「ちかつ神社」「ちかと神社」が多く祭られてゐる
ことが、わかった。
福島県では「近津神社」の名で、東白川郡を中心に七社。味鋤高彦根神が多い。
茨城県では「近津神社、千勝神社」の名で、十三社。味鋤高彦根神や猿田彦命、面足尊など。
栃木県では「智賀都神社」ほかの名で九社。二荒山にも祭られる味鋤高彦根神、大国主命、事代主命、
鹿島の建御雷命、香取の経津主神など。
群馬県では「近戸神社」など七社。大国主命、上毛野君の祖の豊城入彦など。
埼玉県の東部にも「千勝神社、近津神社」が六社ある。北部の「ちかた」を含めると十二社である。
千葉県にはないが、神奈川県、山梨県、静岡県にも数社づつある。
長野県でも十社あり、「千鹿頭神社」では祭神は「千鹿頭神」とあり、独自の祭神名になってゐる。
これだけ関東周辺といふ一定の地方に数が出てくると、「ちかた」も「ちかつ」も同種のものと見ざるを得
ない。俵藤太の六男の話は、地域の限定された伝説が習合された結果なのだらう。
別表のやうに、東国のこれらの神社の祭神には特長がある。大きく二つに分類され、一つは、東国開拓
の神である関八洲の一宮の神や、古代の国造の祖神(赤城神、秩父神)たちであり、もう一つは、興玉命、
猿田彦神、手力男神などの道案内の神、護衛の神である。
思ふに関東の国土開拓の神は、他所からお招きした神が多いので、地元の道案内役の神が必要にな
る。そこで、ちかた、ちかつの神は、猿田彦や興玉神となって現はれたのかもしれない。また単なる道案
内の神としてでなく、開拓の神自身として現はれる場合もあった。これは、御眷属の神などが、元の神自
身としてふるまったり、神自身の霊を憑依して現はれたりするのと、同じことなのだらう。また国造の祖神
たちに代はって、実際に村々の開拓にあたった祖先たちを、国造の祖神の御家来の神の名で祀ったとも
考へられる。または土着の神で服属した神もあっただらう。
ちかつの神による道案内の道程は、川を遡って良い場所を探すものだったらう。埼玉県のちかた神社、
ちかつ神社は、県の東部から北部に分布し、古利根川や元荒川の流域である。他県のいくつかを見ても、
大きな川の岸辺やそこにごく近いところにあるものが多い。
かう考へてくると、伊勢の藤原千方の首が、川の流れをを遡り、雲出川の水源地近くに祭られた伝説も、
まったく無関係の話ではなくなってくるのである。
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それでは「ちかつ」の語の古い意味は何か。似た発音の語がアイヌ語にあり、「鳥」のことであるらしい。
「ちか」は、恐らく日本語とアイヌ語と共通の古語で、「岸辺の鳥」を意味するものと思はれる。
やや直感的な物言ひで恐縮だが、「ちかた、ちかつ」の神とは、社を鎮祭する場所を川辺から飛び立つ
鳥の行方によって卜定したことから来た名前なのではないかと思ふ。俵藤太(藤原秀郷)には時々鳥に関
る話があるが、東京・烏森稲荷神社の創建の由緒に、かうある。
「秀郷は御礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐あらわれて、神烏の群がるところが霊地だと告
げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営した。
それが烏森稲荷の起こりである。」
<※この例はぴったり来ないが、「4、鳥の湖のちかつ」を参照>
熊谷市にもう一つ「ちかつ」の神があった。熊谷市下増田の近殿神社(稲田姫命、須佐之男命)で、通称
「ちかつさま」とある。祭神の稲田姫命とは、開墾された美しい田を守護する神のことで、一宮氷川神社の
神でもある。「大里郡神社誌」によると、水害を逃れて、浄地を相して祀ったとある。水辺に関係のある神
なのだらう。
以上は最初の発想の形をとどめながら一部を改訂した(h14/11)。
追記
「柳田國男集」によると、柳田國男は「近戸神」の名で代表させてゐるやうだが、詳細な解明はされなか
ったやうだ。<遠戸神と近戸神があって、門神の一種で、境の神だらう>といふ記述が「諏訪の御柱」とい
ふ論文にある。道案内の神と、門神とは、同じ神である。別表のやうに用例の多い「ちかつ」の名で呼びた
いと思ふ。
深谷市の智形神社は、城の濠のすぐ内側にあるので「門神」の名にはぴったりくる。
※「遠戸神」については第6章などを参照。
追記2 智形神社の祭神の天太玉命について
「ちかた」とは、柳田國男のいふやうに、門神、門を守護する神のことであらう。古語拾遺に「豊磐間戸
命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。深谷市の智形神社
の祭神(配祀)が天太玉命であるといふのは、このことと関連するのだらう。また天太玉命は、主神の瓊瓊
杵命が天降ったときの伴の五柱の神の一柱でもある。(h14/8)
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参考 ちかた神社、ちかつ神社、ちかと神社 一覧
○印は関八州一宮神と国造の祖を祀る赤城・秩父の神、都々古別の神
☆印は門神、道案内の神とみなされる祭神
都々古別神社○味耜高彦根命 福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場
近津大明神
都々古別神社○味耜高彦根命 福島県東白川郡棚倉町棚倉八槻
近津大明神
近津神社 ○味耜高彦根命
福島県東白川郡棚倉町大字山田字芳ノ木
近津神社 ○味耜高彦根命
福島県東白川郡塙町大字山形字森ノ上
近津神社 ○味耜高彦根命
福島県東白川郡矢祭町大字関岡字飯野
近津神社 ○味耜高彦根命
福島県東白川郡矢祭町大字高野字高野
近津神社
不詳
福島県西白河郡東村大字上野出島字坂上
近津神社 ○味耜高彦根命
福島県西白河郡矢吹町諏訪清水
久来石神社☆事勝国勝長狭命 福島県岩瀬郡鏡石町久来石
(境)近津神社 ○味耜高彦根命
通称=千勝神社
福島県須賀川市大字浜尾字鹿島前 鹿島神社境内
近津神社 ○味耜高彦根命
福島県郡山市安積町荒井字安倍
知賀多神社 埴山姫 大物主
福島県喜多方市慶徳町松舞家字走下り
都々古別神社
福島県西白河郡表郷村大字三森字都々古山
都々古山神社
福島県西白河郡表郷村大字高木字向山
都々和気神社
福島県西白河郡表郷村大字梁森字石崎
若都々古別神社 ○味耜高彦根命 福島県東白川郡矢祭町大字金沢字沢岸
都々古和気神社 ○味耜高彦根命 福島県石川郡玉川村大字南須釜字八又
石都々古和気神社○味耜高彦根命他 福島県石川郡石川町字下泉 式内社?
近津神社 ☆面足命ほか
茨城県久慈郡大子町上野宮
近津神社 ☆面足命ほか
茨城県久慈郡大子町下野宮
近津神社 ☆面足命ほか
茨城県久慈郡大子町町付
近津神社 ☆面足命
(境)近津神社
大山祇命
(境)近津神社 ○筒胡別命
(境)千勝神社 ☆猿田彦命
近津神社 ○武甕槌命
茨城県久慈郡金砂郷町薬谷
茨城県久慈郡金砂郷町下利員 日吉神社境内
茨城県多賀郡十王町黒坂 黒前神社境内
茨城県日立市金沢町
伊勢神社境内
茨城県鹿島郡大洋村大蔵
4
近津神社 ○武甕槌命
茨城県鹿島郡大洋村阿玉
近津神社
茨城県鹿島郡大洋村汲上
速玉男命
近津神社 ☆手力男命
茨城県鹿島郡大野村津賀
千勝神社 ○味耜高彦根命
茨城県稲敷郡新利根村寺内
千勝神社 ☆猿田彦命
茨城県稲敷郡茎崎町泊崎
千勝神社 ☆猿田彦命
茨城県下妻市古沢明神
千勝神社 ☆猿田彦命
茨城県下妻市坂井
雨引千勝神社☆猿田彦命
茨城県真壁郡大和村本木
近津神社 ○味耜高彦根命
千勝神社
栃木県那須郡那須町大畑
事代主神
栃木県那須郡湯津上村湯津上
智賀津神社○経津主神
栃木県塩谷郡氏家町狭間田
近津神社 ○天児屋根ほか
栃木県芳賀郡茂木町坂井
(境)千勝神社 ☆猿田彦命
栃木県芳賀郡二宮町長沼 長沼八幡宮境内
智賀津神社○大己貴命
栃木県宇都宮市宝木町
智賀都神社○二荒山神
栃木県宇都宮市徳次郎町 (ちかつ)
智賀都神社○二荒山神
栃木県宇都宮市板戸町
二荒山神とは大己貴 田心姫 味耜高彦根
近津神社 ○武甕槌命ほか
智方神社 ○思金神
栃木県上都賀郡西方村本城
栃木県小山市武井
血方神社 ☆少彦名命
栃木県小山市田間
大胡神社 ○大己貴 豊城入彦 群馬県勢多郡大胡町河原浜 旧「近戸大明神」 大胡城
近戸神社 ○大己貴 豊城入彦 群馬県勢多郡粕川村月田 (ちかと)
膳城
近戸神社 ○大己貴 豊城入彦 群馬県勢多郡粕川村深津
近戸神社 ○大己貴命
近戸神社 ○大己貴命ほか
近戸神社 ○大己貴命
群馬県前橋市上大島町
群馬県前橋市笂井町
群馬県前橋市上増田町
千賀戸神社 日本武 千賀戸姫 群馬県利根郡昭和村栃久保
親都神社 ○須佐之男命
群馬県吾妻郡中之条町五反田
智方神社 ○天児屋根命
埼玉県本庄市小島
富士浅間神社 木花咲耶姫
中之城
埼玉県深谷市本住町 通称=智形神社 深谷城
5
知形神社
瓊瓊杵命○思金命 埼玉県大里郡川本町田中 畠山重忠館北
千形神社
瓊瓊杵命
埼玉県熊谷市本町
熊谷直実館跡(熊谷寺)
近殿神社 ○稲田姫命
埼玉県熊谷市下増田 通称=ちかつさま
近殿神社 ○稲田姫命
埼玉県妻沼町飯塚
千方神社 ☆興玉命
埼玉県羽生市堤
大田神社に合祀
千方神社 ☆興玉命 神武天皇 藤原千方 埼玉県加須市中央
千方神社 ☆興玉命
埼玉県加須市土手
千勝神社 ○大己貴命 天穂日 埼玉県久喜市吉羽
千勝社
○大己貴命
埼玉県久喜市上早見
千勝神社 ☆手力男
埼玉県久喜市本町
近津神社 ○武甕槌 経津主
千勝神社 ○大己貴命
千勝神社
埼玉県北葛飾郡杉戸町清地
埼玉県北葛飾郡鷲宮町中妻
事代主☆猿田彦 埼玉県北葛飾郡栗橋町伊坂
近戸権現社 藤原秀郷
埼玉県入間郡越生町 梅園神社に合祀
近殿神社
三浦義村
神奈川県横須賀市大矢部町 (ちかたじんじゃ)
近戸神社
大山祇命
神奈川県小田原市前川
近戸神社
埴安彦 埴安姫
近戸神社
瓊瓊杵命
近戸八幡
近任神社
山梨県甲府市高町
山梨県韮崎市清哲町青木
山梨県韮崎市旭町上条北割
大国主 事代主
山梨県南都留郡秋山村
近津神社 ○味耜高彦根命
長野県佐久市大字長土呂字本宮
千鹿頭神社☆千鹿頭神
長野県茅野市米沢字下河原
千鹿頭神社 内県神
長野県諏訪市大字豊田字宮垣 (ちかとう)
千鹿頭神社☆千鹿頭神
長野県諏訪郡富士見町富士見字河原休戸
千鹿頭神社☆千鹿頭神
長野県諏訪郡富士見町富士見字坂上峯
千鹿頭神社☆千鹿頭神
長野県松本市大字千鹿頭山
千鹿頭社 ☆千鹿頭神
長野県松本市大字里山辺
知方神社
長野県下伊那郡阿南町大字西条字城山
春日神ほか
近戸皇大神社 天照大神
長野県上水内郡信州新町大字越道字小井土
6
地方神社
菅原道真 菊理姫 静岡県駿東郡清水町新宿
智方神社
護良親王 菊理姫 静岡県駿東郡清水町長沢
越方神社
菊理姫
静岡県駿東郡長泉町竹原
千勝浅間神社○咲耶姫
静岡県静岡市稲川丁目
智勝神社 ☆猿田彦 事代主
智勝神社 ○思兼命
静岡県焼津市策牛
静岡県藤枝市下薮田
千勝神社 ○須佐之男
静岡県掛川市原里
千勝神社
静岡県掛川市原里
吉備武彦
知勝神社 ☆猿田彦命
(境)千勝権現神社 不明
近津尾神社 誉田別命
近津神社
(境)近津宮
静岡県小笠郡大東町入山瀬 小笠神社境内
滋賀県大津市国分丁目
瓊瓊杵 児屋根 天太玉 兵庫県小野市粟生町
知賀地神社 伊弉諾 伊弉冉
近津神社
静岡県小笠郡菊川町友田
兵庫県津名郡東浦町浦 (ちかち)
伊弉諾 伊弉冉 迦具土 福岡県直方市大字頓野
景行天皇
熊本県山鹿市津留 彦嶽宮境内
近戸神社
鵜茅葺不合 玉依姫 宮崎県えびの市大字西長江浦
地方神社
月読命
近戸神社
天神七代地神五代 鹿児島県加世田市内山田
近津神社
鵜茅葺不合ほか
近津宮神社 不詳
近都宮神社 島津忠秀
鹿児島県鹿児島郡桜島町藤野
鹿児島県肝属郡田代町麓
鹿児島県肝属郡佐多町郡
鹿児島県日置郡郡山町油須木
滋賀県以南の例は複雑な様相を示してゐるが、名前が似てゐるといふことで列記した。
2、武家と、ちかた社
イ、城の守護神(深谷城の智形神社、大胡城の近戸大明神)
瀬藤禎祥氏に群馬県勢多郡大胡町の大胡神社の由緒を紹介していただいた。
この神社も、明治42年まで「近戸大明神」の名であった。
「『一筆致啓上侯 御堅固之段珍重奉存侯 然者 其地赤城大明神 当城之鎮守ニ近戸大明神と奉祭度
侯間 其元父子之中此方江引越神祭奉頼侯 万事家来(折紙)口上申入侯 謹言 常陸介 天正十七年
7
十一月九日 奈良原紀伊守殿』
大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城の守り
神として、赤城神社を近戸大明神として祭りたいので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらいたいと
の内容である。……しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。」(平成祭データ)
「平成祭データ」の「由緒書」で閲覧したものだが、「赤城信仰」と題するパンフレットからの転載で、考証
を試みたりする論説風の内容なので、あへて評釈をする。
手紙文の「近戸大明神と奉祭度」を「近戸大明神として祭りたい」の意味としてゐるが、「と」の解釈が現
代的になりすぎるので、「近戸大明神とともに祭りたい」の意味だと思はれる。文中の「近戸大明神」の前
後にだけ「ニ」「と」のかながあり、当時のものでないかもしれない。昔から城に祀られてゐるが、祭神もよ
くわからない近戸大明神だけでは士気があがらないので、ぜひ赤城大明神に後ろ楯になっていただきた
い、といふ意味だらうと思へるのである。
あるいは「奉祭」の意味からすると、分祀や合祀の依頼ではなく、もっと単純なもので、「其地赤城大明
神」への報賽の祭も怠りなく行ひます(寄進します)ので、「当城之鎮守近戸大明神」の神事も行ってくださ
い、といった意味にもとれる。手紙の簡単な内容からいって、それは年中行事だったかもしれない。
いづれにしろ、既に「近戸大明神」は「当城之鎮守」として存在したと思はれ、それはおそらく築城当時か
らの神で、「しかしこれ以前に大胡城内に神社があったと推定」する努力はしなくも良いと思ふのである。
大胡城には近戸大明神が祀られ、康応(1389~90)のころ深谷城には上杉氏によって智形明神が祀ら
れた。この種の神を城に祭ることは、上州や北武蔵の地方ではごく普通の習慣だったのではないかと思
ふ。それは、城を守護する神として、最もふさはしい神だったからであらう。(8/26)
<補記> 大胡神社の前出のパンフレットでは「近戸は赤城の神を近いところに勧請したことを意味す
る。」ともある。この「近い所」とは里や村に近い所といったニュアンスである。しかし勢多郡粕川村月田の
近戸神社では「近戸と称するは赤城神社に近きが故なるべし」とある。里に近いのか、山に近いのか、解
釈語としての「近き所」の語の使はれ方としては、後者のほうが古いだらう。しかしこれらは、「ちかと」の古
語の意味が失はれてしまってからの赤城山周辺での再解釈であらう。できあがった「近い所の神」の通念
から、「近戸大明神として祭りたい」の解釈も出て来るのだらう。「由緒」の執筆者に対しては失礼かとも思
ったが、関連の論考を見ていただければ、真意は理解いただけるものと思ふ。また旧の月田村には膳城
があったことにも注目したい。
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掲示板から
61. 大胡城の近戸大明神の「と」 神奈備 2002/08/26 (月) 16:17
ちかたの神の改訂追加版拝見いたしました。
管理人さんの読解の AND の方がよさそうですね。
その前の文中の「=」次の「と」と、片仮名と平仮名の混在も原文はともかく、『祀りデータ』へのインプット時の
仕業かどうかですが、案外、当城之鎮守ニ近戸大明神 の = はイコールの意味で神社が記し直したのか
も。
赤城大明神を勧請する手紙に「既に祭られている神社名」を書くのは少しは不思議ですが、礼儀として記した
のかも。並祀して具合の悪い神-天照大神と大和国魂-もありますから・・。
ロ、川本町の知形神社と熊谷市の千形神社
前稿で述べたやうに、群馬県や埼玉県北部の、ちかと、ちかた神社は、武家の城や館を守護する神とし
て広く祀られたものである可能性は高い。
熊谷市本町の千形神社の主祭神は 天津彦火瓊瓊杵命、合殿に 天児屋根命 天太玉命 とあり、深
谷の智形神社と類似する。この千形神社について大里郡神社誌に「社地境域は古来広汎なりしと言ひ伝
へ」とあり、その広大な社地の中には、今の社地のすぐ西にある熊谷次郎直実の館跡とされる熊谷寺の
地も含まれてゐたらう。熊谷直実の館の鎮護の神として祀られた可能性があるのである。
川本町田中の知形神社は、吉田東伍によれば延喜式内社・田中神社ではないかともいふ。主祭神は
「瓊瓊杵命」で、深谷や熊谷と共通するが、配祀や合殿の神は公表の資料にはない。また新編武蔵風土
記稿では「思金命を祀るといふ。此命は秩父国造知々夫彦命の十世の祖なれば由ある社にや」とある。
風土記稿は、信頼度の極めて高い書である。現在公表の一柱の祭神が何故に熊谷や深谷と同じになっ
たのかは不明であるが、同名神社であるために、明治の初めに、郡内二大都市部の深谷や熊谷に従っ
たのかもしれない。
田中の知形神社は、荒川の北岸の台地の上に南面して鎮まってゐる。荒川の対岸は、畠山重忠公の
館跡がある旧畠山村、今の川本町畠山である。秩父の出身である畠山重忠が、秩父の椋神社(むく-じん
しゃ)の神を勧請したのが、荒川南岸の井椋神社(ゐむれ-じんしゃ)であるとされる。畠山氏は畠山村周辺
に、八幡社、稲荷社、浅間社、諏訪社、日吉社、荒神社など多くの社を祀ったとされるが、しかし秩父地方
のもう一つの有力神、秩父国造の祖を祀る秩父神社の神を、畠山氏が勧請したといふ記録は、詳細を極
める大里郡神社誌、その他を探しても、南岸にはないのである。畠山氏は、井椋神社を南岸に祀り、思金
命を北岸に祀った(または式内社田中神社に合せ祀った)のかもしれない。二社を荒川岸に祀ることによ
り、領地と河川交通の玄関先の鎮護の神としたと想像もできる。思金命を北側に祀ったのは、当時既に秩
父神は妙見信仰との習合が始まってゐたためであらうか。
むかし畠山重忠が、榛沢郡榛沢(現岡部町)から急いで畠山村の館に帰らうと馬を走らせて荒川の岸ま
で来ると、川は折りからの雨で水が氾濫し、どこが浅瀬かわからず立ち往生した。すると、どこからか鴬の
声が聞こえ、鴬は川面低くをすうっと飛んで南へ渡って行った。重忠は、これはまさに神の助けと、一首を
詠んだ。
○時しらぬ岸の小笹の鴬は、浅瀬たづねて鳴き渡るらむ
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畠山重忠
鴬の渡った跡を追って、重忠は無事に川を渡ることができたといふ。これを「鴬の瀬」といひ、畠山村の
井椋(ゐむれ)神社の裏手の渡し口になってゐる。(大里郡神社誌より)
同類の話は浅草の鳥越神社その他、社名に「鳥」のある神社の由緒にはよく語られる話である。この場
合、渡り終はった場所ではなく、渡る前に渡る場所を決めた側での話になってゐるのが普通である。とこ
ろが「鴬の瀬」がさうなってゐないのは、北岸の田中村には畠山重忠に関する事蹟そのものがほとんど伝
へられず、南岸の畠山村にだけ伝はる伝承になってゐるためであらう。
前述の知形神社と畠山重忠の関係については、単なる可能性にすぎない話である。知形神社は井椋
神社より1キロ近くも川下であるし、館址からは更に離れてゐる。
とはいへ、田中村は、熊谷秩父街道と今の県道深谷嵐山線の交じはる地であり、田中の台地までは荒
川は流域を変へたことはないといひ、東の低地には格好の船着き場である沼(菅沼)があったと思はれ、
交通の要所であったことは間違ひない。(やや下流に白鳥飛来地がある。知形神社には藤原秀郷関連の
伝承はないとは神職及び氏子諸氏の証言である。)
追記
深谷市大字伊勢方はもと田中村といった。もとの集落は今の小字田中にあり、正徳~享保年間に集落
が南へ移住したといふ(大里郡神社誌・深谷市大塚島・鹿島神社の項)。元の地は、今も「元屋敷」と呼ば
れるらしい。この元屋敷の地は、康応のころ上杉氏が深谷城(館)を築城中のとき、仮の館を立てて住んだ
地との伝承がある。伊勢方の旧家の香川家は、上杉氏の家臣の末裔といひ、香川家の氏神の傍らには
今も小さな千形神社が祀られてゐて、上杉氏在住のころからあったものを香川家が引き継いだものらしい
といふ。「田中村」の名が気になるところではあるが、館の鎮護の神だったのだらう。
追記2
埼玉県久喜市本町は、古河公方足利政氏が、後継問題の内紛に敗れて、永正 15 年(1518)に館を構へ
て隠棲した地である。この館から真正面(南)約200メートルのところに、千勝神社(祭神 手力男命)があ
り、足利政氏が祀ったものとされる。政氏は、館の裏鬼門の守護には八幡社を祀ったともいふが、この千
勝社も館の第一の鎮護のためのものだったやうだ。しかしこの位置としては「遠戸神」でもあるのだが。
10