弘法 大 師 空海 (以下、大師と略称) には 、 四 種 の 御 遺 告 の成 立過 程 に つい で は じめ に 御 遺 告 と 称 さ れ るも のが 伝 存 す る。 (一)遺 告 二十 五 ヶ条 ( 以 下、 二十 五)、 ) ( 二 遺 告 諸 弟 子 等 ( 以 下 、 諸 弟 子 ) 、 (三 )太 政 官 符 案 并遺 告 ( 以下、官符案)、 (四)遺 告 真 然 大 徳 等 ( 以下、真然) の四 種 で あ る。 これ ら は、 いず れも 複 数 の文 章 ・内 容 か ら な って い る 武 内 孝 善 先 学 の見 解 を み てお き た い。 私 見 も 併 記 し 、 年 代 順 に記 す 。 ( 1) 稲 谷 祐 宣 説 ( 空海作 と伝える ﹃ 御遣告﹄の諸本 に ついて 二十 五 詣弟子 官符案 真然 二十 五 (2) 上山 春 平 説 ( 朝 日評伝選 24 ﹃ 空海﹄ 空 海 僧 都 伝 官 符 案 真 然 真然 官符案 ) 諸 弟 子 が 、 本 稿 で 考 察 の対 象 と す る の は、 主 に 大 師 の伝 記 を記 し た (3) 白 井 優 子 説 ( ﹃空海伝説 の形成 と高 野山﹄ 空 海 僧 都 伝 二 十 五 諸 遺 告 ( 官符案 真然 諸弟子) 真然 温説 ( ﹁丹生津比売小考﹂ 官符案 諸 弟子 諸 弟子 八三 こ の な か、 (1) 稲 谷 説 は 基 本 的 に は私 見 と 同 じ であ る が 、 次 の点 で異 な る 。 稲 谷 氏 は真 然 だけ を諸 弟 子 か ら の抄 出 と み な 寛平御伝 二十五 5) 私 見 二十五 (4) 門 屋 一) で は第 一条 、 (二 ) で は 承 和 二 年 三 月 十 五 日 付 の 遺 告 諸 弟 子 等 、 (三 )で は 承 和 元 年 十 一月 十 五 日 付 の遺 告 住 山 弟 子 等 、( 四 )で は 承和 二年 三月 十 五 日 付 の遺 告 真 然 大徳 等 で あ る 。 これ ら の遺 告 は、 古来 、 大 師 の真 撰 と み な さ れ て き た が 、 明 治 期 の釈 雲 照 以来 、 大 師真 撰 を 疑 問視 す る説 が 出 さ れ 、 今 日 で は いず れ も 偽 作 と み な さ れ て い る。 し たが って 、 今 日 残 さ れ た問 題 は、 い つ、誰 が 、 い か な る目 的 で撰 述 し た のか の 解 明 であ る と いわ れ る。 そ こ で、 本 稿 で はそ の 一環 と し て 、 はじ め に、 四種 の御 遺 告 の成 立 過 程 に関 す る 四 種 の御 遺 告 の成 立 過 程 に つい て、 私 見 を 述 べ て み た い。 先 学 の検 討 印度學佛教 學研究 第四十三巻第二号 平成七年 三月 −607− ( 御 遺 告 の成 立 過 程 に つ いて ( 武 内 ) 八四 は、 単 独 で文 意 が 通 じ る か と いえ ば 、 否 であ る。 こ れ ら舌 足 線 部 を 繋 ぎ あ わ せ た も の で あ る 。 これ ら 官 符 案 ・真 然 の文 ら ず な 文 は、 諸 弟 子 か ら抄 出 し、 簡 単 に繋 ぎ あ わ せ た 結 果 で す のに対 し 、 私 は官 符案 ・真 然 とも に諸 弟 子 か ら の抄 出 と み 一は基 本 的 な 考 え方 が 、 項 目 の少 な い簡 略 な も のから 項 目 の あ り 、 文意 の通 じ な い官 符 案 ・真 然 から 諸 弟 子 が 増 広 さ れ た なす 点 で あ る 。 (2) 上 山説 に は 二 つの点 か ら 賛 成 でき な い。 第 多 い 詳細 な も の へ増 広 さ れ た と の固 定観 念 に 基づ い て継 承 関 であ る。 第 二 の 疑 点 は 、内 容 的 にき わ め て密 接 な 関 係 にあ る と 思 わ れ る 空海 僧 都 伝 ( 以下、僧都伝)と 二 十 五 と の あ い だ と は、 到 底 考 え 難 い。 こ のこ と は 全篇 に わ た って言 え る こ と に、 全 く 性 格 の異 な る 官 符 案 ・真 然 ・諸 弟 子 のグ ル ープ を 位 係 を想 定 し て おら れ 、 逆 の 場合 − 詳 本 ・広本 か ら略 本 ・抄 出 あ る。 先 述 し た如 く 、 少 な く とも 諸 弟 子 ・官 符 案 ・真 然 の 三 置 づ け て いる こと であ る 。官 符案 ・真 然 ・諸 弟 子 の主 題 は 、 本 が 作 ら れ る 場合 のあ る こ と− が 全 く 考慮 さ れ て いな い点 で 種 に関 し て は、 一番 詳 し い諸 弟 子 か ら官 符 案 と 真 然が 抄 出 さ 高 野 山 が 丹 生 津 比 売 命 から 譲 渡 さ れ た こと を 強 調 す る 点 にあ る 。 し かも これ ら 三種 に は① 播 磨 国 で行 基 の弟 子 の妻 から 鉄 れ たと 考 え る。 上山 氏 が 増 広 され た と す る 個 所 にあ た り、 こ 矣 。※官符案 この項なし 。 のことを確認してみよう。 班土 鉢 を 施 与 され る話 、 ② 伊 豆 国 で の大 般 若 魔 事 品 書 写 の話、 ③ ( イ) 真 然 此 時 。吾 父 昔 征 敵 毛 被 天 平 十 二年 の丹 生 伊賀 豆 の藉 文 が 収 載 され て い る の に 対 し 山 説 に は 賛 成 で き な い。 ( 3) 白井 説 は、 上 山 氏 と遺 告 の順 序 は て、 僧 都 伝 ・二 十 五 に は こ れ ら は見 当 ら な い。 以 上 よ り、 上 諸 弟 子 此 時 。 吾 父 佐 伯 氏 。 讃 岐 国 多 度 郡 人 。 昔 征 敵 毛 口 顕 菩 薩 ︹之 ︺威 。 ※︹ ︺ は真然 。 濁向 班 土 矣 。 母 阿 刀 氏 人 也 。 ※三十五は諸弟子と同文。 被 淹留苦行。明星入 ( ) ロ官 符 案 ・真 然 名 山絶 幟 之處 。 嵯 峨 孤 岸 之 原 。 遠 然 広 さ れ た − は 上 山説 と 同 じ であ る。 よ って、 白井 説 にも 賛 成 異 な るが 、 基本 的 な 考 え方 − 簡 略 な も のか ら 詳 細 な も の に増 でき な い。 (4)門 屋 説 は、 官 符 案 が 直 接 二 十 五 を参 照 し て成 立 猫向淹 留苦 行 。 或 上 阿波 大 龍 嶽 修行 。 或 於 土 左 室 生 門 崎 寂 暫 。 諸弟子 名山絶幟之處。嵯 峨孤岸 之原。遠然 心 観 明 星 入 口。 虚 空 蔵 光 明 照 来 顕 菩薩 威 現 佛 法 之 無 し た と す る点 が 私 見 と異 な る。 官 符 案 が 諸 弟子 か ら 抄 出 さ れ る 個 所 を 指摘 し て お き た い。 そ れ は、 大 師 の出 家 ・受 具 の個 に官 符 案 が 二十 五 で は な く 、諸 弟 子 を 典 拠 と し た と 考 え ら れ たと み る私 見 に つ いて は後 述す る こ と と し 、 こ こで は 明 ら か 二。 ( イ) は 大 師 の出 自 を 、) ( ロは 求 聞 持 の修 行 を 記 し た 個 所 で あ る 。 ( イ) の真 然 の文 は 、諸 弟 子 の傍 線 部 を繋 ぎ あ わ せ た も の で あ る。 ( ロ) の官 符 案 と 真 然 は ほぼ 同 文 であ り、 や は り諸 弟 子 の傍 −608− 所 であ る 。 二十 五 爰 大 師 石 淵 贈 僧 正 召 率 。 発 向和 泉 国槇 尾 山寺 。 於 此 剃 除 髪 髪 。授 沙彌 十 戒 七 十 二威 儀 。名 称 教海 。 諸弟子 於 和泉国槇尾山寺 。此修行胴 也。 於 其處 剃 除 髪。於 東大寺戒壇院 受 具足戒。 に官 符 案 にあ って諸 弟子 に な い項 目 は 、① 巻 末 の二十 五 から の引 用 文 ② 真 然 への高 野 山 付 嘱 の二 つであ る 。 つぎ に 、諸 弟 子 か ら 官 符 案 が 抄 出 さ れ た と 考 え ら れ る個 所 を 例 示 す る 。 (イ) 諸 弟 子 更 作 発 心 。以 去 延 暦 廿 三年 五月 十 二 日 入 唐 。為 初 学 習 。天 鷹 慇 懃 戴 勅 渡 海 。 彼 海 路 間 三 千里 。 (中略) 州 司 。州 司 披 看 。 即 以 此 文 已 了 。 此間大使越前国大守 正三位藤原朝臣 賀 能 作 手書 呈 衡 官 符 案 の東 大寺 戒 壇 院 に おけ る受 具 の話 は、 二十 五 に はな い 官 符 案 爰 東 大寺 戒壇 院 受 具 足 戒 後 。 こ と か ら 、 こ の部 分 は 明 ら か に諸 弟子 に基 づ い て書 かれ た こ 唐 貞 元 二 十 一年 也 。 能 大 夫達 向 者 歸 国 。 惟 延 暦 二 十 四 年 電 時 也 。 即 配 一定 。 注 繋 着 岸 。 或 人 言 告 。 天 皇 某 者。少僧懐 悲給 素服。 首尾 都不 八五 ( イ) は 入唐 、 ) ( ロは 帰 朝 、(ハ ) は 神 泉 苑 の祈 雨 の個 所 であ る。 官 符 官 符 案 亦 於 神 泉 苑 池 祈 雨 。 御 修 法 霊 験 其 明 。 龍 王類 。 (中略)御 修 法 之 比 託 人 示 之 。 ( 以下略) (ハ) 諸 弟 子 亦神 泉 園 池 邊 御 願 修 法 祈 雨。 霊 験 其 明 。 上 従 殿 上 下 至 四 元 。 此 池 有 龍 王 名 善 如 。元 是 無 熱 達 池 官 符 案 以 大 同 二年 歸 本 国 。 日時崩 争 ( ) ロ諸 弟 子 少 僧 以 大 同 二年 歸 我本 国 。 此 間 海 中 人 人 云 。 日 本 国 天 皇 崩 云云。 聞 諫 是 言 尋 本 口言 。船 内 諸 人 論 惟 延 暦 二 十 四 年電 時 也 。 前 国 守 正 三 位 藤 原朝 臣 賀 能 等 同船 入 唐 。 即 達 向 者 歸 国 。 官符案 更作 発心 去延 暦二十 三年 五月 十 二 日。 大 使 越 大 (中略) 此 間 大 使賀 と が 知 ら れ る 。 よ って、 官 符 案 は 二 十 五 から 直 接 で は なく 、 二 十 五 か ら 諸 弟 子 へ、諸 弟 子 から 官 符案 へと 継 承 ・抄 出 され た と 考 え る 。 し た が って 、門 屋 説 に も 賛 成 で き な い。 三 種 の 遺 告 の成 立 過 程 前 掲 の私 見 は 、 四 種 の遺 言 を① 二 十 五 と 諸 弟 子 、 ② 諸 弟 子 と官 符案 、 ③ 諸 弟 子 と 真 然 、 ④官 符 案 と 真 然 のそ れ ぞ れ を 一字 一句対 照 し た 結 果 、 こ のよ う に考 先 述 のご と く 、 四 種 の遺 告 は① 播 磨 ・伊 豆 国 の話 ② 天 平 十 え る に いた った 。 以 下 、対 照 し た 結 果 を 略 述 す る 。 二 年 藉 文 の項 目 の有 無 か ら 二 つに 大 別 でき る 。 す な わ ち 、 こ れ ら の項 目 が 全 く な い二 十 五 と存 在 す る 残 り 三 種 のグ ル ープ であ る 。 そ こで 、 まず 三 種 の遺 告 の前 後 関 係 を み て おく 。 第 一は、 諸 弟 子 と 官 符 案 の関 係 であ る。 諸 弟 子 にあ って官 符 案 にな い項 目 が ① 出 自 ② 三教 指 帰 の著 述③ 珍 賀 の 疑義 ④ 中 内 ) 務 省 供 養 ⑤ 少 僧 都 補 任 ⑥ 承 法 師 ⑦ 絵 図 ⑧ 国 判 の 八 つあ る。 逆 御 遺 告 の成 立 過 程 に つ いて ( 武 −609− 内 ) 庭 既畢。 御 遺 告 の成 立 過 程 に つ い て ( 武 案 は いず れ も 諸 弟 子 の傍 線 部 を 繋ぎ あ わ せ た 文章 で、 し かも 者猥雑 師 資 相 傳 為 道 場 者 也。 八六 非 門徒 ( ) ニは師 資 相 伝 、 (ホ) は東 寺 給 預 の話 であ る。 真 然 は いず れ も 諸 弟 子 の傍 線 部 を 繋 ぎ あ わ せ た も の であ る。 さき に、 諸 弟 子 と 豊可 第 二 は 、 諸 弟 子 と 真 然 の関 係 で あ る 。諸 弟 子 にあ って真 然 官 符 案 で例 示 し た 三 つの対 応 関係 ( イ) ・) ( ロ ・(ハ) は、 そ っく り諸 哉。 諸 弟 子 の最 初 の部 分 だ け と か 、 最 初 と最 後 の部 分 を抄 出 す る にな い項 目 が ① 入京 ② 勤 操 と の出 逢 い③ 三 教 指 帰 の著 述④ 播 と い った 、 極 め て安 易 な 方 法 が と ら れ て いる 。 磨 国 の話⑤ 出 家 受 具⑥ 恵 果 と の出 逢 い⑦ 呉 慇 の纂 ⑧ 珍 賀 の疑 然 は 、諸 弟 子 か ら官 符 案 が 抄 出 さ れ た のと 同 じ方 法 で 抄 出 さ 弟 子 と真 然 にも あ て は ま る 抄 出 個 所 で あ る。 これ ら よ り、 真 れ て いる ことが 指 摘 でき る。 義 ⑨ 中 務 省 供 養 ⑩ 少 僧 都 補 任 ⑪ 承 法 師 ⑫ 絵 図 の十 二あ る 。 逆 に、 真 然 に あ って諸 弟 子 にな い項 目 は全 く な い。 つぎ に、 諸 第 三 は、 官 符 案 と 真 然 の関 係 であ る。 官 符 案 にあ って真 然 十 五 から の引 用 文 の四 つあ る。 逆 に、 真 然 にあ って、 官 符 案 弟 子 か ら 真 然 が 抄 出 さ れ たと 考 え ら れ る個 所 を例 示 す る。 金剛薩 垂。金剛薩垂傳 龍猛菩薩。 龍猛菩薩 下 至 大 唐 にな い項 目 は① 出 自 の 一つだ け であ る。 と は いえ 、 官 符 案 と にな い項 目 が ① 勤 操 と の出 逢 い② 受 具 ③ 呉 慇 の纂 ④ 巻 末 の二 玄宗粛宗代 宗三朝灌 頂国師特進 試鴻 臚卿大興善 寺三蔵沙 真 然 の大 師 の伝 記 部 分 は、 項 目 の配 列 ・記 事 の分 量 な ど ほぼ ( ) ニ諸 弟 子 夫 師 資 相 傳 嫡 嫡 継 来 者 。 大 祖 大 毘 盧 遮 那 佛 授 門大廣智 不空阿者梨 六葉 焉。恵果則 其上足法化也。凡 ず か し い。 こ の 二 つは 、① と も に諸 弟 子 か ら 抄出 さ れ た と考 同 じ内 容 をも って お り 、 そ の成 立 の前後 を確 定 す る こ と は む え ら れ る こ と、 ② そ の抄 出 方 法 が 酷 似 し て いる こ と 、 ③ 今 日 八代也。 真然 夫師資相傳 嫡嫡 継来 者。大 日金剛薩 垂龍 猛龍 智金 高 野 山 に 奉納 さ れ た こと 、 し か も これ が 文 献 に あ ら わ れ る 最 勘 付法 至 于吾 身 相傳 剛 智 不 空 恵 果 。 凡 勘 付 法 至 于 吾 身 相傳 八 代 也 。 初 であ る こと の 三 つ の理 由 か ら 、 ほ ぼ 同 じ 時 期 に諸 弟 子 か ら さ れ た のが 官 符 案 であ り、 真 然 であ った と考 え る。 の前 後 関 係 は 、 ま ず 諸 弟 子 が 存 在 し、 諸 弟 子 から 別 々に抄 出 抄 出 さ れ た も のと 考 え る 。 以 上よ り 、 諸 弟 子 ・官 符 案 ・真 然 哉。 真言密教庭 既畢。 伝存 す る官 符案 ・真 然 は 平 治 元 年 (一一五九)七 月 に そ ろ って 也 。 雖 圓 妙 法 非 五 千 分 。雖 廣 東 寺 非 異 類 地 。 以 (ホ)諸弟 子 但弘仁帝皇給 以 東寺。不 勝三歓喜。 成 秘密道 場。努力 努力勿 令 他人 雑住 。非 此狭 心 護 真謀 何言 之。 ( 中略) 勅 書 在 別 。 即 為 師師相傳 為 道場 者 也。豊 可 非 門徒 者 猥雑 真然 但弘仁帝皇給 以 東寺 。勅 書在 別。即爲 真言密 教 −610− 的 な 荘 園 名 に書 き 改 めら れ て いる 点 で あ る 。 こ の書 き 替 え の 開 田 三 許 町 が 見 開 山 地 花園 ・阿 帝 河等 四 ・五 箇 所 な り と具 体 こ こ で想 起 さ れ る の が 、 寛 弘 元年 (一〇〇四)九 月 から 同 結 語 残 さ れ た 問題 は 、 二 十 五 と諸 弟 子 と の前 後 関 係 であ 五 年 十 月 に か け て 、高 野 山が 阿 帝 河 荘 の領 有 権 を 主 張 し て い 裏 に は、 あ る 時 代 の高 野 山 を と り ま く社 会 状 況 が 色濃 く 反 映 目 に⑤ 出 家 受 具 ⑥ 丹 生 津 比 売 命 か ら の高 野 山 譲 渡 説 の 二 つが る こと であ る 。 詳細 は別 稿 に譲 らざ る を え な いが 、 二十 五 か る。 二 十 五 に あ って諸 弟子 に な い項 目 は皆 無 であ る。 逆 に、 あ る 。 こ のな か、 ② ③ ④ ⑥ に は共 通 し た 考 え − 丹 生 津 比 売 命 ら諸 弟 子 への書 き 替 え は こ の寛 弘 年 間 の前 後 であ った と考 え 諸 弟 子 にあ って 二十 五 にな い項 目 が ① 播 磨 ・伊 豆 国 の話 ② 天 か ら 大 師 への所 領 譲 渡 説 − が う か が わ れ る 。 な か でも 特 に注 る 。 つま り諸 弟 子 は 、阿 帝 河 荘 は高 野 山 領 で あ る と高 野 山が さ れ て いる と 思 わ れ る 。 目 さ れ る のが ⑥ であ る 。 な ぜ な ら 、 二 十 五 と 諸 弟 子 と の相 違 主 張 し た 際 、 そ の領 有権 を 主 張 す る 根 拠 と な る 記 録、 い いか 平 十 二年 藉 文 ③ 絵 図 ④ 国 判 の四 つ、 両 者 で 内 容 が 相 違 す る項 内 容 が 、 諸 弟 子 の成 立 年 代 にも か かわ る問 題 を はら ん で い る より 、 安 和 二年 ( 九六九)ま で は遡 る こと が でき る。 よ って、 ったか と 考 え る 。 二十 五 の成 立 は、 現 存 最 古 の写 本 の奥 書 に 以 上 より 、 諸 弟 子 の成 立 は十 一世 紀 極 初 期 の こ ろ で はな か 正 し さ を 強 調 せ んが た め に遺 告 の形 を と ったも のと 考 え る 。 し か も 、 大 師 の遺 言 状 に 明記 さ れ て いる と す る こと で 、 由緒 い所 領 の 一部 で あ る こと を 証 明 す る 記 録 と し て作 成 さ れ た。 え る と 阿 帝 河 荘 は 大 師が 丹 生 津 比 売 命 か ら 譲 ら れ た 由緒 正 し と 考 え ら れ る から であ る。 ⑥ の本 文 を みよ う 。 二十 五 雖 云 萬 事 無 遑 。春 秋 之 問 必 一 往 看 。 彼 山裏 路 庄 是 也。 邊 有 女 神 。名 曰 丹 生 津 姫 命 。 其 社 廻 有 十 許 町 澤 。 ( 中 略 )如 今 件 地 中 所 有 見 開 田 三 許 町 。 名 常 諸 弟 子 雖 云 萬 事 無 遑 。 春 秋 之 間 必 一往 看 。 彼 山裏 路 邊 有 神 。名 曰 丹 生 高 野 。其 社 廻 有 十 許 町 澤 。( 中略) 如 今 件 地 中 見開 山 地 花 園 阿 帝 河 等 四 五 箇 處 。 凡 名 常 で諸 弟 子 、 そ し て諸 弟 子 か ら 官 符 案 と真 然 が 抄 出 され た、 と 四 種 の御 遺 告 の成 立 過 程 は 、 二十 五 が はじ め に位 置 し、 つ い 八七 ( 高野 山大 学助教授) <キーワード> 空海、四種 の遺告、丹生津比売命、阿帝河荘 私 は考 え る。 庄 是 也。 二 十 五 と諸 弟 子 の問 で 内 容 が 相 違 し て問 題 と な る の は、 傍 線 イ ロ と ハ の二 個 所 で あ る 。 イ ロ で は女 神 が 神 に、 丹 生 津 比売 内 ) 命 が 丹 生 ・高 野 の二 桂 の神 に書 き 替 え ら れ て おり 、 ハ で は見 御 遺 告 の成 立過 程 に つ い て ( 武 −611−
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