【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 【Historiographical Institute, Okinawa Perfectual board of Education 】 Title Author(s) Citation Issue Date URL Rights 「公文備考」にみる沖縄の海軍施設−中城湾需品支庫と喜 屋武海軍望楼について− 吉浜, 忍 史料編集室紀要(28): 59-68 2003-03-20 http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7762 沖縄県教育委員会 史料編集室紀要 第 28号 ( 2003) 「公 文 備 考 」 に み る 沖 縄 の 海 軍 施 設 一 中城 湾 需 品支 庫 と喜 屋 武 海 軍 望楼 につ い て - 吉浜 忍 1. 「公 文 備 考 」 とは これまで 「 公文備 考」 を防衛庁防衛研 究所 図書館 が所蔵 してい ることは知 られていたが、 簿 冊が膨大 な量で あ るためなかなか収集 に手 をつ けることができなかった。 平成 5年 にスター トした新沖縄県史編集事業 は原始か ら現代 までの期間の県史を編集す ることで、 あ らたな史料収集 を事業 として展 開す るこ とに した。 旧沖縄県史編集事業は沖 縄 近代史の編集刊行 であったが、そ こでほ とん ど触れ られていない、いわば空 白のひ とつ で ある近代 沖縄の軍事史 を埋 めるために、新 沖縄県史編集事業 として防衛庁防衛研究所図 ( I ) 書館 が所蔵す る沖縄 関係 軍事史料 を調査 ・収集す ることに した。 そ の結果 、陸軍省 の文書 の 「 壱 大 日記 」「弐大 日記」、それ に海軍省 の文書 の 「 公文類 纂 」「 公文備 考」 を発 掘 ・収集 す るこ とがで きた。 なかで も 「 公文備考」 は前述 した よ う に量が多 く、史料編集 室 は委 託事業 と して、平成 12年度は明治期、平成 13年度 は大正期、 平成 14年度 は昭和期 と、 3期 に分 けて収集す ることを計画 した。その際、 目録作成 を在東 京 の研究者 に委託す るこ とに し、委託 の成果物の 目録 をもとに、沖縄関係 に限定 して収集 ( 2 ) す る方法 を とった。 「 公文備 考」は海 軍省 の普通文書で あ り、海 軍の軍政関係 を知 る うえで貴重な史料であ る。 防衛研 究所戦史部 の 『史料庫利 用 の手 引き』 に よれ ば、 「 海軍省発受 の公文 は、法令 部 門では 『公 文提 要』 と 『軍機 号』 に別 け編纂 された。法令外部門の文書は 『 公文備考』 と 『機密公 文』 に別 け編 纂 され た。 以上 の よ うな状況 か ら現在戦史部で保管 され てい る 「 公文備考」は海 軍省 の保管 していた普通文書であ り法令 関係及び秘密文書 を含 んでいな Yos HJ HAh, L AShi l l Obu. 'AnT n t l ' Oduc t i ont oOki na wa r sMi l i t a l y Fa c i l i t i e si n Kobunbi ' k o:A Qua r t e r ma s t e r De poti nNa ka gus kuBa ya ndaNa va lWa t c ht owe ri nKya n ( 1 ) この事業は著者が史料編集室に勤務 していた時に担当した。転勤後も事業は継続 されている。 ( 2) 「 公文備考」は5,313簿冊ある。目録作成は元防衛庁防衛研究所戦史部の原剛氏に委託 した0 -59 - 史料編集室紀要 第2 8号 ( 2 0 0 3 ) い こ とに注意す る必要 があ る。」 と解 説 してい る。 また、海 軍省公 文書類 の編纂 は 「 海軍 創設 以後一 八八 二 ( 明治 十五)年 迄 は 『公文類纂』で あって、毎巻首 に件名 目録 を提示 し、 又 、別 に 『類纂便 覧』 を設 けてあった。一八八三 ( 明治十六)年以後 は、主 として 『公文 ( I ) 提 要』『公文備 考』及び 『公文雑輯』 の三種 に大別 され る」 ことか ら、 「 公 文備 考」が海 軍 省 の公 文 書 と して編纂 され た こ とが分 か る。 これ まで収集 した 「 公文備 考」の 「 土木」 ( 海 軍用地、海岸埋 め立て)や 「 兵員」 ( 海軍 志願 兵) の項 目には沖縄近代軍事史の空 白を埋 める貴 重な史料 が収 め られ てい るO 本稿 では、海 軍 の 「 土木」項 目のなかか ら、沖縄 に設置 された海 軍施設 、 なかで も佐敷 料 ( 現在 の佐 敷町)津波古の 中城 湾需 品支庫 と喜屋武村 ( 現在 の糸満 市) の海軍望楼 に限 定 して紹介す る。 本稿 は 「 公 文備 考」のいわば 中間報告 であ り、史料分析 による全面的 な紹介 は今後 の課 題 と したい。 2. 中城湾需 品文庫 (1) 中城湾 と海 軍 1 886年 ( 明治 1 9)、沖縄 を視 察 した内務 大 臣山県有朋 は 「 沖縄ハ我 南 門」 であ り 「 最要 ( i ) 89 5 年 ( 明治 2 8 ) には、北 白川官 衝 ノ地 」 と述べ てい る。 下関講和条約 で台湾 を領有 した 1 能 久親 王 ( 近衛 師 団長)、樺 山資紀台湾総督 、有池海 軍 中将 らが 中城 湾 に合 流 し、上陸作 ・ , I 戦 の会議 や台湾領 有施 政方針 を宣 言 した。 この ことは沖縄 が帝 国の 「 南 門」 で り、 中城湾 は 「 要衝 地」で あ ることを示す 出来事 となった。翌年 の 1 8 9 6年 になる と、佐敷村津波古 に 中城湾需 品支庫建 設のための敷 地が確保 され るこ とになる。以後、 中城湾 は海 軍の艦 隊の ) ) ( ( 補 給基 地 とな り、南方 に向か う艦 隊は投錨 した G ( 3) 菊 田慣典 「 公文備考」( 『防衛研究所年報』第 2号 平成 11 年) 。 ( 4 ) 原 剛 『明治期国土防衛史』( 錦正社 平成1 4 年)参照。 ( 5 ) 又吉盛清 『台湾支配 と日本人』 ( 同時代社 1 9 9 4 年)参照。 北白川官能久親王の中城湾寄港を記念 した石碑が佐敷町役場構内に立っているO石碑 には 「 能久 親王御寄港之碑」 と刻まれている。この石碑は1 9 2 2 年、沖縄史跡保存会によって建てられた。 ( 6) 明治4 1 年の 「 艦隊平時編制」によると、第一艦隊、第 二艦隊、第三艦隊、練習艦隊に編制 され たo中城湾に投錨 した第一艦隊は、戦艦 ・一等巡洋艦 8隻以内、二、三等巡洋艦 ・通幸 朗監2隻以内 ( 必要に応 じて駆逐艦を付属)で編成 され、本邦 と韓国 ・清国沿海を巡航区域 とし、主に本邦沿 必要に応 じ 岸を警備することを任務 としていた0第二艦隊は、 巡洋艦 ・海防艦 ・通幸 朗監6隻以内 ( て駆逐艦を付属)で編成 され、揚子江以北の晴国沿海や韓国および本邦沿海を巡航区域 とし、主 に清国北部や韓国沿岸の警備することを任務 としていた。 _6 0_ 史料編集 室紀要 第2 8号 ( 2 003 ) ( 7 ) 91 0年 ( 明治 43) 1月 1 5日第二艦 隊、同年 2月 3日第-A 艦 『沖縄 毎 日新 聞』 に よる と、1 ( A ) 隊 、1 911 年 ( 明治 44年 ) 2月 1日第二艦 隊 、1 91 2年 ( 明治 45 ) 2月 22日第一艦 隊、同年 3 月1 7日第 一艦 隊、 同年 1 2月 2 8日第 二艦 隊 、1 91 3年 ( 大正 2) 1月 1 2日第一艦 隊 、 同年 3月 8 日練 習艦 、 同年 1 2月 1 7日第 二艦 隊 、1 91 4年 ( 大正 3) 1月 5日第 二艦 隊が 中城 湾 に投錨 91 0年 か ら1 91 4年 の 5年 間で第 -一 艦 隊 4回 ・第 二艦 隊 5回 の計 9回 とな り、毎 してい る。 1 年約 2回 は 中城 湾 に投錨 した こ とにな る。 921 年 ( 大正 1 0) 3月 6日には皇太子 ( 昭和天 皇)御 召艦艦長漢 那 その後 、 中城 湾 に は 1 憲和 大佐 が御 召艦香 取 、鹿 島( いずれ も 1万 6千 トン) で第 三艦 隊編 成 し、投錨 してい る。 そ の際 、皇太 了一 らは内火 艇 に乗船 して、長 さ1 30メー トル の仮 与那原桟 橋 に上 陸 してい る。 1 922年 ( 大正 1 1 ) には漢那大佐 は戦艦扶桑 の艦 長 とな り、 中城 湾 に投錨 し上陸 してい る0 1 933年 ( 昭和 8) に は連合艦 隊 中城 湾 に入 港 、1 93 4年 ( 昭和 9) には海 軍 軍令 部総長伏 見 9 40年 ( 昭和 1 5) 空母 蒼龍 と空母飛龍 が 中城湾 に入 港 宮殿 下 が乗船 した軍艦 比叡 が投錨 、1 9 41 年 ( 昭和 1 6)、 中城 湾 には臨時要塞 が建設 され 、 してい る。 そ して、太 平洋 戦争 開戦 の 1 要塞 司令 部 が 置かれ た。 (2) 中城 湾需 品支庫 9 01 年 ( 明治 3 4) の 「 国頭 高小 の旅行 記 」 『 佐 敷小学校創 立 百周 年記念誌』 に よれ ば 、1 に、津波 古 には門標 「 海 軍需 要 品貯 蓄所 」 が掲 げ られ 、石 炭庫や石造 りの桟橋 や水管 2個 が あ り、水蔵 ・水源 ( 取水湯 ) は新里 にあった こ とが記 され てい る。 これ らの こ とを地元 ( 9 ) 海 軍省 の施 設 」 「 海 軍省 」 と呼 んで いた とい う。 では 「 海 軍省 の敷地 」 「 水蔵 ・ 水源 を総称 して、正式 には 「中城 湾需 品支 「 海 軍需要 品貯 蓄所 」や桟 橋 、水 管 ・ 庫 」 と呼 ばれ てい た。 以 下、 この海 軍施 設 の建 設過程 、建物 や設備 の変遷 につ いて、 「 公 文備 考 」 の史料 を も とに紹介 す る。 ( 7) 『沖縄毎 日新聞』は艦隊寄港 と歓迎行事を連 日報道 している。以下、『 沖縄毎 日新聞』の記事 を要約 して紹介する。中城湾に寄港 した第二艦隊 ( 司令長官島村達雄)の艦船は八雲 ・淀 ・見島。 陸戦隊が上陸行軍。官民あげての歓迎会や物産陳列所の開設。一般住民の艦隊縦覧。21日に抜錨 し鹿児島に向かった。艦船-の乗船は与那原の浜か らボー トを出した。 ( 8) 『 沖縄毎 日新聞』は第一絹監隊寄港 も第二艦隊同様に報道 している0第一 一艦隊 ( 司令長官上村彦 , 5 0 0 名が上陸行 之丞)は敷島 ・三笠 ・石見 ・肥前 ・相模 ・周防の戦艦が中城湾に投錨 し、陸戦隊2 軍、 盛大な歓迎会を受け、 5日には抜錨 して台湾に向かった。なお、戦艦-の乗船は与那原に造 ら れた仮桟橋からボー トを出 した。 ( 9 ) 佐敷町史編集委員会 『 佐敷町史 4 戦争』 ( 佐敷町役場 1 9 9 9 年)参照。 -61- 史料 編 集 室紀 要 第 28号 ( 2003) ① 土地取得 と建設 1896年 ( 明治 29) 年 5月 21日、海軍大 臣か ら内務大臣に対 して、以下の文書が送付 され ( 1 0 ) た 。 沖縄 願下佐敷間切津波古、新里両村地内二於テ 一 章 測坪数 五千 四百拾六合 六 夕五オ 右ハ石炭庫其他建設地 トシテ必要二付テハ該地坪 ノ内 仕 明地二属 スル分ハ 百姓地 卜交換 ノ上首省用地二組 替方等 可然 取計相成度別 紙 書類及 図面相 添此段 及 照会候也 文書は佐敷間切 津波古、新里の民有地 を海軍省用地に組み替 えす ることを取 り計 らって ほ しい、 とい う件 で あ る。以後、 この件 は海軍省、内務省 、佐世保鎮守府 と手続 き され、 地所受領御届」 の件名で 「 沖縄 7月 7日には佐 世保鎮守府 監督部長か ら海 軍大臣あてに 「 ( l l ) 県 系ヨリ受領 ノ手癖 ヲ了シ候 」内容 とす る文書が送付 され たことによ り完了 した。 土地を取得す る とす ぐに工事 が開始 され たが、水道線変更問題 が起 こった。変更に伴 う 用地 として、民有 地 「 百八拾壱坪二合 六勺六オ」が海 軍用地に編入 された。 ただ し、すで ( 1 2 ) に編入 していた 「 七拾八坪八合 五勺」 は返却 され ることになった。 さらに、水道線変更は ( 1 ' H 水源地か らの分水 問題 も起 こ り、結局住民が分水制限す ることとなったC l 卜 ここで、 5千坪余 の海軍用地 にあった建物 ・施設 を紹介す る。 兵舎 ・便所 木 造平家 1 5.5坪 石炭庫 木 造 平家( 2棟) 350坪 周囲柵 木造 1 75間 門 木造 1カ所 水道 2吋瓦斯鉄管 1 50間 水 咽 下水 石造 1 48 水溜 煉 瓦石 造 1カ所 漏れ池 8尺 3寸4 1カ所 水道 鉄 管敷設 1 451 .5合 桟橋 石造 1カ所 ( 1 0) 官房第二一一 五紙 ( 起案文書)」 。 ( ll ) 佐建第八十 六号 ノ十 二 「 地所受領御届 」 ( 1 2) 佐建第 四号 ノ二 「 地所受領 ノ件御届 」 。 。 ( 1 3) 佐建第一 五 九晩 ( 1 4) 中城湾需品支庫に関する文書の施設部分を筆者が整理 したr , -62 _ 史料 編 集 室 紀 要 水源地 沈殿 池 第2 8号 ( 2003) 煉瓦石造屋根付 1カ所 煉瓦石造屋根付 1カ所 ② 施設 の閉鎖 に よる民間業者の無償使用 1903年 ( 明治 36) 11月 17日、沖縄 県知事奈 良原繁 か ら海 軍大 臣 山本権兵衛 あて に 、 「 水 ( 1 5 ) 溜 、番 舎 、石炭庫並敷地等」 を無償使用 させ ては しい とい う文書が送付 され た。 この嘆願 書 はす ぐに条件 付 で許可 され た。 その条件 とは①使 用期 間 中の修理は使用者 の負担 、修理 の際 は原形 を保 持す るこ と②軍艦船が給水 を必要 とす る時はいつ で も応 じる こと③敷地 内 に あ らた に施設 を建造す る場合 は海軍大 臣の許可 を得 ること④海 軍が必要 とす る時は何 時 ( 1 ( ) において も施設 の使用 を止 め ることの四つで あった。 これ をみ る と、 中城湾需 品支庫 は 早 公 文備 くも開設 して 7年後 は閉鎖 され た こ とにな る。 閉鎖 の件 につ いて記 した文書 は 「 考」 にはない( , したが って閉鎖 の理 由ははっき りしないが、台湾領有 にる港 の補給施設 の 建 設や奄 美大 島古仁屋港 の施設充実が考 え られ る。 ただ し艦船へ の給水 は続 け られていた。 904年 には県殖産発展 のた め と理 由で民 敷地施設 の無償使 用 を許 可され た沖縄 県 は、翌 1 間業者 に 白下糖製 造 を条件 に貸 与 してい るo Lか し、 この業者 はま もな く事業不振 にな り、 1 906年 には那覇 にあ る沖縄醸造株式会社 が焼酎製造 の工場 として使用 したo この会社 も事 り 7 ) 業失敗 の上、多額 の負債 を生 じて倒産 したD ③ 村への払 い下 げ 1912年 ( 明治 45) 1月 11日、沖縄 県知事 日比重 明は内務 大 臣原敬 ・海 軍大 臣斎藤 寮 あ 2月 1 5日佐敷村 長 てに 「 官有地並建物柿下願 二関シ副 申」 を提 出 した。 これ には明治 44年 1 2日村議会決議案 「 官有 津波常助 の 「 官有 地並建物御排之義二付願 」文書 と明治 44年 12月 1 ( 1 8 ) 地並建物沸 下出願 ノ件」が添付 されてい る。 以下、佐敷村 長の文書 を要約 して紹介す る。 ( 1 J ) 当村立佐敷尋常高等小学校が昨年の43 年に火災のため焼失する不幸にあい、村民は失望 ・落 胆 し、途方にくれている。国民教育は一 日とて止めることはできず、その善後策 として沖縄 県 庁の許可を得て、当施設を貸与 している人から約 9百円の巨費を借 り受け、修繕 し仮校舎 とし ( 1 5 ) 出第一披。 ( 1 6) 海総第三八二一触ノ臥 ( 1 7 ) 佐鎮第二〇七競 「 石炭庫虞分ノ件」。 ( 1 8 ) 四四佐秘第二三八#L「 官有地並建物御株之義二付願」。 ( 1 9) 明治43 年 11月 7日午前 3時頃、小便室か ら出火 し全校舎が焼失。 この火事は、「 奉安の御真影 『沖縄 毎 R新聞』明治4 3 年11月 9日) とし も他に奉持 し得 ざるとは未聞の失態にして言語道断」( て糾弾され、宿直の先生 と校長が懲戒免職 された。 -63 _ 史料編集 室紀 要 第 28号 ( 2003) て使用 しているが、教育施設 としては不十分であるO 本年の村民の公費負担は 1戸当た り9円余 りになる。420坪の校舎新築にかかる費用は4,664 円の巨額になる。本年は砂糖不作の見込みであ り、その上近年金融逼迫とな り、 民力は疲弊 し ているr J貧弱なる当村ではとうてい校舎新築は不可能である。 海軍施設は近年、不用 と帰 している。海軍施設が造 られた際、村民は日清戦争の国家戦時体 制を微衷 して土地提供に便宜をはかった。この村民の国家に奉ずる心情を封酌 して、不用な建 物は相当な価格で、敷地は無償で払い下げてもらいたいO この 「 請願 書」 を受 けて、海 軍省 は秋 山貫之第一艦 隊参謀 長に現状視 察 を依頼 した。第 旧中城 -・ 艦 隊 は明治 45年 2月 22日、中城湾 に投錨 した時、機 関大尉尾形十郡 を上 陸 させ 「 湾需 品文庫 」 ( 報告書で 旧を冠 してい るのに注 目)の現状視察 を行 った。 「 公文備 考」 には、 この払い下げの件 につ いての決済文書な どの史料 が ないが、恐 らく 佐 敷村 に払 い下げ され た と思われ る。 それ は、 この案件 を処理 した佐敷村 か ら別 の海 軍施 設 の無料使 用 の 申請書 を関係省庁 に提 出 していた ことか ら予想 で きる0 1 91 4年 ( 大正 3) 4月 1 3日、沖縄県知事高橋琢也 か ら海 軍大 臣斎藤 賛 ・内務 大臣原敬 あ てに 「 官有地位水 道設備貸 下願 二関シ副 申」が提 出 され た。 同文書 に添付 され た佐敷村 長 平良亀助 の請願 書 に よれ ば、 「 海 軍用地 4,532坪 と潅水池 と水道設備 を佐敷尋常高等小学校 の農業実習地お よび農業試 作地 に使用 したいので無償借用 したい。借用 の条件 として①使 用期 限は許可 の 日よ り29年②海 軍が必要 な時 には無償 で建物物 を撤去 し返却す る③海 軍艦 ( 2 O) ( 2 1 ) 船 が給水 の必要 あ る時は無償 です る」 とあ る。 この件 は同年 5月 8日に許 可 された。海軍 省 は翌 9日、各艦 船 号 に対 して、 「 海 軍艦船 が必要 ある時 は無償給水す る こ と条件 に認許 I 二 ・ ・ l した」 を通牒 した。 さ らに、 同年 9月 12日、沖縄県知事鈴木 邦義 か ら海軍大 臣加藤友三郎 に 「 海 軍用地敷設 水道鉄 管移 転 ノ義 二付副 申」が提 出 され た。 これ に も前 回 と同様 に佐敷村長 平 良亀助 の申 ( 2 1 ) 請 書が添付 され てい る。 この件 は 「 村 で腐食 した鉄管 を修理 し、津波古住 民の飲料水 に供 す るた め水源 地 を変更 した い」 とい う内容 で あった。 この件 につ いて 2カ年 にわた り、関 91 9 年 ( 大正 8) に佐敷村 が 「 水道線 に要 係省庁 と手続 きをめ ぐる文書 が往復 され たが 、1 ( 2 4 ) す る土地買収 が財 政上難 しい」の理 由に よ り願 書 を取 り下げた。 ( 20) 佐□第一一〇竜 虎「 官有土地並督造」 。 ( 21 ) 官房第一一九三号ノ五 ( 起案文書)。 ( 22 ) 佐経建第一九六鍍ノ二二 「 無料給水二関スル件 ( 23 ) 佐第一二四既 「 敷設水道鉄管移転ノ儀二付願」。 ( 24) 佐経建第五壱漉ノ四 「 元中城湾需品支庫水道鉄管移轄立 鋤く 源地轡更ノ件 」 。 」 -64 - 史料 編 集 室 紀 要 第 28号 ( 2003) ④現在の状況 現在 、 中城湾需 品支庫 の石炭倉庫等 が あった場所 には馬天 自動車教習所 が建 っていて、 その痕跡 は見 当た らない。桟橋 ( 現在 の桟橋 の西側 にあった) もその痕跡 はないが、桟橋 のあった場所 には艦船- の給水施設 と思われ る水道管 を支 えた 「 支石」 らしきのが沖に向 か って点在 してい る。 また、字新里樋川原 には水道施設 の一部 と思われ る レンガ造 りの給 水 タンクが残 ってい る。 3.喜屋武海 軍望楼 ( 2 5 ) 敷 地 として寄付す る」 申請 が内務大臣内村 忠勝 に提 出 された( ,同年 1月 21日には島尻郡長 ( 2 6 ) 斎藤 用 之助、 さらに 2月 10日には沖縄県知事奈 良原繁 か ら副 中書 が内務大 臣に提 出 され た。 ( 2 7 ) 以下、提 出 された 申請書 が関係す る官庁 と佐 世保鎮守府 に よって処理 され た経緯 を記す こ とにす る。 2月 28日 海軍省経理局 良か ら佐世保鎮守府 司令 長官 あての 「 喜屋武崎海 軍望楼の位 置 ( 2 8 ) について佐 世保鎮守府 が承知す るこ と」の文書0 3月 15日 佐世保鎮守府 司令 長官か ら海 軍省経理局長 あての 「 海軍望楼 の敷 地について ( 2̀ ) ) 了解 した」 の文書。 3月 25日 海軍大臣か ら内務大 臣あての 「 沖縄 県か らの献納地 についで 百有 地に編入す ( 3 0 ) ることの照会 」の起案文書. 4月 4 日 内務大臣か ら海 軍大 臣あての 「 献納地 について了承 し、沖縄 県- 訓令 した 」 ) ( 31 の文 書 4月 9日 海 軍大臣か ら佐 世保 鎮守府 司令 艮官 あての 「 地所 を官有地 に編 入す るこ とに ( 3 2 ) ついて内務省 と協議 済み なので現地受領 して届 出 るべ し」 の文 書r , ( 25) 三五喜第六号 「 喜屋武崎海軍望楼敷地之義二付き申請 」 ( 26) 内二第四三ノ壱号 「 海軍望楼敷地寄附ノ義二付副申」 。 ∩ ( 27) 佐 世保鎮守府は1 889年 ( 明治22) に開設。佐世保 ・横須賀 ・舞鶴 ・呉の 4 カ所に鎮守府が置 かれ、九州 ・沖縄は佐世保鎮守府が管轄 した。鎮守府司令長官は海軍大臣の命を受けて管轄区の 軍政を担当した。 ( 28) 経建第一七八翫ノ二C , ( 29) 経建第-七八既ノ三。 ( 30) 海絶六八一 一 一 紙ノ二 ( 起案文書)∩ ( 31 ) 海軍第八号。 ( 32) 海綿第六八一統ノ四 ( 起案文書)。 -65- 史料 編 集 室 紀 要 第2 8号 ( 2003) ( . ‖ ) 6月 1 8日 佐 世保鎮守府 司令 長官か ら海 軍大臣あての 「 地所受領済」の文書。 こ うした手続 きの結果 、喜屋武 間切喜屋武村 が寄付 申請 した土地 「 喜屋武村字具志川原 山野八百二 十坪六合 六夕五 才」は官有地 とな り、海軍望楼 が建設 され るこ とになった。 海 軍望楼 は、当初 、 1 894年 ( 明治27) 6月 30日の 日清戦争直前に制定 された海岸望楼条 例 ( 勅令第 77号) に よって、海 上 の見張 りや付近 を通航す る艦船 との通信及び気象観測 を 明治 33) 5月 20日の海軍望楼条例 ( 勅令 20 任務 とし、全国に 15カ所設置 され た。 1900年 ( 5号)制定 によって海 軍望楼 と改称 され 、 日露戦争前 には 19カ所設置 された。望楼 は鎮守 府や要港部の管轄 とされ 、九州 ・奄美や 沖縄 は佐世保鎮守府 の所管であった。鎮守府の望 ( ' H ) 楼監督官が所管望楼 を監督 した(, 喜屋武村 が海 軍 望楼 敷地 を寄付 した 2年後の 1904年 ( 明治 37) 8月 9 日、内令第 325号 によって全国79カ所 に望楼 が開設 された。 そのなかには喜屋武望楼 と西表望楼が含 まれて ( ' 3 F ) ) い る。 191 4年 ( 大正 3) 8月 17日付 の海 軍省経理部長か ら佐世保鎮守府 司令 長官あての文 書 「 皆通 、 連戸崎 、喜屋 武、平安名 、西表 、南三 山特設望楼設備 工事要領書」には、喜屋 ( 3 6 ) 武特設望楼 の設備 工事 計画が次 の よ うに記 されている。 見張所 木 造 平家 二坪 信 号竿 一木 水溜 一 ヶ所 一棟 無線電信室 木 造平家 一三坪 二五 〇 一棟 発電機 室 木 造平家 六坪 一棟 電信線架設 ( 既 設修繕使用) 「 公文備考」には 1904年 開設 の文書 はない。 191 4年の前述 した文書に電信線架設 を 「 既 設修繕」使用 としてい るこ とか ら、喜屋武望楼 はすでに1904年 には開設 していた と思われ るO この根拠の も う一つの資料 に 1 91 4年 1 2月28日付の 『琉球新報』 の記事がある。 この記 事は 「 望楼勤務員 帰営」 の見 出 しで 「 戦時中書屋武岬に建設 された る海 軍望楼勤務員 中の 海 軍技手富 田五郎 、若 狭確輔、今村兼彦 三氏及び秋吉機 関兵曹、栗原、高浜両一等水兵、 栃木一等機 関兵 の諸氏 は昨 日出港 の京城 丸候 にて佐 世保 に向け出発せ り」 とある。 この記 ( 33 ) ( 公文名 は判読 で きない) 「 地所 受領済届 ∴ ( 3 4 ) 原 『明治期 国土防衛史』 ( 錦正社 平成 1 4 年)参照。 ( 3 5 )嗣 剛 上 o ( 36) 政薯第一二号 「 訓令 工事要領書 」 0 -66 - 史料編集室紀要 第2 8弓一( 2003) 事の 目付 か らみ る と1 91 4年 1 2月 には開設 していた ことや短期間で前記望楼施設 を建設 した こ とが分 か る。 また、記事 の 「 戦時 中書屋武崎 に建設 された海軍望楼」の 「 戦時」 を 日露 戦争 と解釈 した ら、前記 「 内令第 325号」に よって 1904年 に開設 された こ とと符号す る。 開設 当時は恐 らく簡 単 な施設 であ り、 1 91 4年 には本格的な望楼施設が建設 された と考 える。 望楼 か らの通信連絡 については、海 軍省 が逓信省管轄の郵便局の電話線 を使用す るため、 逓信省 と文書のや り取 りを し、許 可 を得てい る。喜屋武望楼 は、喜屋武か ら糸満 間に電話 ( l i ' ) 線 を架設 し、糸満郵便局 を利 用す ることになった。 喜屋武 岬 ( 喜屋 武灯台)付近の地名 を地元では海 軍ボー ロー と呼んでい る。 ボー ロー と は望楼 の ことであ る。 地元の人の証言に よると、沖縄戦時には海軍見張所が設置 され、電 イ 言施設の兵舎 もあ り、兵 隊が旗 をふ っていた とい う。 沖縄戦時には望楼か ら海軍見張所 に 変わった と推測す るO 現在、喜屋武望楼 があった喜屋武略 には灯台 と平和の塔 ( 慰霊塔) が建 ってい るO海 軍望楼 が あった敷地 には望楼施設 の跡 はないが、地下に 「 水溜」 と思わ ( 3 8 ) れ るコンク リー ト造 りの貯水 タンクが残 ってい る。 なお、前述 した 1914年 の文 書には表題 の通 り、喜屋武の外 に、辺戸崎、平安名、西表 に も特設望楼 が設置 され ていた。 「 設備 工事要領書」か らみ ると、辺戸崎、平安名 、西表 の 施設規模 は喜屋武 と変 わ りない。 しか し、宮 古の平安名 、八重 山の西表は喜屋武同様 、郵 ( 3 F ) ) 便局の電話利用 につ いての文書 はあるが、辺戸崎 にはない。 4.今後 の課題 「 公文備 考」 に よって 中城 湾需 品支庫 の開設の経緯 、施設の内容、民間への払い下 げな どがある程度 明 らか になった。 沖縄 を 「 我 力南門」 と位置づ け 日本海 軍は、 1 894年 ( 明治 27) 日清戦争 以前には海底電線 の敷設、水路部 による沿岸測量調査、軍艦 を派遣 しての沖 縄調査 な どを実施 し、沖縄 が軍事的 「 要衝地」であることの確認事業 を実施 した。そ して 日本海 軍は 日清戦争 後 、1 896年 ( 明治 29) 中城湾需 品支庫 、1902 ( 明治 35) 年八重 山西表 島船浮 に水雷艇石炭庫 、今帰仁村運天港 に水雷艇石炭庫 、 1 904年 ( 明治 37) には喜屋武望 楼 、開設年 は現在 の ところ不 明だが辺 土崎 望楼 ・平安名 望楼 ・西表望楼 、 と本格的 な補 給 。監視通信基地 を沖縄 に開設 したo ( 3 8 ) 糸満市文化課市史担当職貝がらの情報提供による現地調査で確認。 ( 3 9 ) 「 公文備考」には辺戸崎望楼、平安名望楼、西表望楼の土地取得に関する文書はない。 -67- 史料 編集 室 紀 要 第 28号 ( 2003) ところが、1 91 2年 ( 明治45) に中城 湾需 品支庫 は事実上 「 閉鎖」 され る。 この 「 閉鎖 」 の理 由は今 の ところ明 らかではないが、 中城湾需品文庫 に替わる補給施設 は設置 されてい ない。 この こ とは沖縄 に変 わって台湾 が 「 我 力南門」 とな り、沖縄 の軍事的位置が相対的 に低 下 したのか。 この時期 の 日本海軍の戦略にお ける沖縄 の位置 との関連 も含 めて、今後 の研究課題 と したい。 も うひ とつ は望楼 の ことである。喜屋武望楼 は大かた明 らかになったが、辺土崎望楼 ・ 平安名望楼 ・西表 望楼 については 「 公文備考」の範囲で しか分かっていない。 それぞれ現 地調査 を踏 まえて、明 らかに したい。 それ に して も、 日本海 軍が設置 した施設 は、沖縄戦 において も、中城湾需 品支庫の周辺 は中城湾臨時要塞 、船浮周辺 は船浮臨時要塞 、今帰仁 の運天港は魚雷艇 ・特殊潜航艇の基 地 として引き継 がれ てい る。 これ らの地 に、軍事基地建設 を提案 した人の眼力 には驚か さ れ る。 -68 -
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