E-10 記紀歌謡と万葉集 *そもそも歌謡とは? 広義には曲または節(ふし)を伴う詩歌を総称するもので、文学ジャンルでは音楽性 を伴う韻文形式の作品のことで韻律文芸の総称とされている。 古くは歌謡が文字化されること無く口誦で伝えられて来たものだったが、中国最古の 詩集である「詩経」ももとをただせば歌謡であり音楽・舞踏を伴なうものであったとい う。後に漢詩は歌謡から独立して朗読する文芸となっていった。 歌謡は日本の思想形成に果たした役割は大きく、単なる文学作品では無く思想表現の ツールとして活用されており、記紀・万葉・風土記に出てくる歌を一括して上代歌謡と 言う。日本では神楽歌、催馬楽、今様、和歌、短歌、長歌、連歌等を総称する。 *記紀歌謡とはなに? 万葉の時代及びそれ以前の我国で最も古い歌の姿です。 記紀歌謡として「古事記」に112首、「日本書紀」に128首が収められているが - 38 - 両方で重複している歌が44首あり、記紀歌謡は200首前後が実数です。 特に倭建(やまとたける)の歌四首は古事記と日本書紀では異なる説話で異なる人物 により詠われている事からも記紀歌謡での「詠う」ことと「作歌」は同じではないと考 えられます。 また7~8世紀のものを除く大部分はその時代に作歌されたものではないでしょう。 しかし記紀歌謡は史実との関連において伝承されていたと考えられる史実であり、創 作では無いでしょう。従って記紀歌謡には説話が伴うことになる。 記紀歌謡の背景には宮廷での祭宴で演じられた歌舞芸能が存在し、その多くは口伝え に伝承されたのでしょうが、時代が下がるにつれその詞章を管理する楽人及びその詞章 を書きとめた歌謡集類の存在が在ったとも考えられる。 古くは宮廷歌謡と民間の歌が未分化だったが雄略朝あたりから饗宴の儀礼化が進み、 宮廷歌謡として認知されるようになったのは王権の権威付けに活用しようという意図 があり、日本の宮廷文化の完成度を押し上げたと考えられ万葉集の巻頭歌に雄略大王の 歌が採用されたのでしょう。 *和歌は万葉集から? 和歌の訓(くん)は「やまとうた」で和の代わりに倭の字があてられることもあり、 広義には「万葉集」に収録されている歌体の総称とされている。 大陸文化が導入されるに伴って漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に 表現する歌が盛んにつくられるようになった。 古今和歌集の仮名序に和歌は素盞鳴尊(すさのおのみこと)に始まるとあり記紀にも 収録されている歌は 「やくもたつ いずもやへがき つまごみにやへがきつくる そのやへがきを」 これを和歌の起源とし「八雲の道」とも呼んでいる。 現在では五七五七七の三十一文字でつづる短歌の事を指すが、古くは長歌や旋頭歌 型式のものもあった。 和歌の成立は舒明期以降で初期万葉の時代とされ、それ以前の作は伝誦的性格が強く 口誦文芸であったものが、この時期に記載文芸へ質的転換したとみなされているが、文 字により歌が作られるようになったのは七世紀末ごろの柿本人麻呂歌集の段階で定着 したと考えられる。従って口誦から書く歌への転換点が人麻呂歌集と云えるが文字を持 たない民衆的社会では口誦歌が保持され続けていたのでしょう。 *記紀歌謡の引用例は? 万葉集・巻2に仁徳の皇后・磐姫の相聞歌で始まり空白をおいて、天智の大津宮から 持統の藤原宮までを時代順に並べ、引続き挽歌を元明期まで収録している。 これらの空白も謎とされており、記・紀の歌謡との比較がKEYとなろう。 万葉集の編者は古歌集、古事記、日本書紀を検索して歌の由来を明確化していた可能 性があり、相聞歌の冒頭に磐姫の恋歌四首を掲げたのはこの歌の主に異常な関心を持っ - 39 - て巻頭歌に据えたことが問題で、磐姫の出処は葛城曽豆比古(かつらぎのそつひこ)の 娘で仁徳大王の皇后となり、三人の皇子を生んだが履中、反正、允恭と倭の五王に即位 しているという伝承を承知で選歌したと考えられる。 この磐姫が万葉集編纂時代に特別な関心を持たれた時期があった。聖武天平元年(7 29)に藤原夫人・光明子の立后の宣旨(せんじ)で臣下立后の先例として仁徳が磐姫 を迎えたと述べることで周辺の猛反対を退けたとしている。 本来皇后は皇族出身でなければならず臣下の藤原氏の娘では夫人止まりである。 おそらく藤原氏の陰謀ではあるが難波・高津宮での仁徳の故事で聖帝としての位置付 けを計り、その皇后としての磐姫を正当表現しようとしたのでしょう。(実際記紀に描 かれている磐姫は嫉妬深い女性であったらしい) 勿論万葉集記載の四首は磐姫の作とは考えられず伝誦歌による詞人の製作である。 現に巻一の舒明の国見歌(巻一・2)は豊かさの象徴として国原から立ちのぼる煙の 表現で仁徳の故事に倣い、史実の上に文学を置くことにより日本人の理想を表現しよう としたのではないでしょうか。 古事記の宮廷寿歌の世界を継承する「万葉集」は古事記・下巻の時代として仁徳期を 最古の時代とし磐姫皇后、雄略大王、聖徳太子等の記紀歌謡を巻や部立の始めに据えて 舒明朝以降の歴史としての万葉の時代を描いている。 従って万葉集にとって記紀歌謡は枕詞(まくらことば)的な存在と云えよう。 <註> 詩経:中国最古の詩集であり、周時代につくられたとされ「周詩」とも呼ばれる 儒教の基本経典・五経の一つで漢詩の祖型 神楽歌(かぐらうた):日本の神道における神事で催される神楽において詠われる歌 催馬楽(さいばら):平安時代に隆盛した古代歌謡で、各地の民謡・風俗歌に外来楽 器伴奏を加えた型式の歌謡で、語源は馬子唄や唐楽からきてい るとする説あり 今様(いまよう) :平安期に発生した歌曲で「現在的」という意味で、末期には後白河 法皇が愛好し、編纂した「梁塵秘抄」の一部が伝わっている 倭建命:12代景行天皇の皇子で14代仲哀天皇の父とされて日本書紀では日本武尊 と書かれ、日本各地の征討二活躍した伝承の人物 旋頭歌(せどうか):和歌の一種で記紀歌謡にも作品あり、五七七を2回繰り返して 六句からなる、頭句を再び旋らすことから旋頭歌という 葛城曽豆比古:4C~5C頃実在した葛城地方の豪族・葛城氏の祖先とされ記紀にも 記されており、外国資料の百済記にも記されていることから実在の 可能性は高い 仁徳天皇:五世紀に実在したと考えられる倭の五王の一人、難波・高津宮での記紀の 逸話(民のかまど)でこの治世は仁政として諡も仁徳とされた。 その陵墓は我国最大の大仙陵である - 40 - 光明子:藤原不比等の娘で聖武天皇の夫人となったが、藤原氏の策謀で皇后に格上げ しようとして高市皇子(たけちのみこ)の子・長屋王を排斥(長屋王の変) した上、聖武に宣明を出させて反対派を押し切った 臣下立后:飛鳥時代以降に皇后は大王直系の皇女とルール化されており、有力豪族で も夫人か妃しかなれず、皇后は不可とされていたため「臣下立后」なる特殊 な用語がつくられた 宣旨:律令期以降の日本における天皇・太政官の命令を伝達する文書の型式名 部立(ぶたて):万葉集で歌謡の種類の分類を言う、雑歌・相聞歌・挽歌等がある - 41 -
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