③万葉20巻の編者は?

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万葉集 20 巻の編者は?
『萬葉集註釈』文永六年完成:表紙と冒頭部分(古写本)
*万葉集に原
*万葉集に原本は有るの?
万葉集は 7 世紀~8 世紀の二百年にわたって詠まれた和歌を収録したもので、
時代毎に詠み手も編纂者も異なり多くの人が関与してきたと考えられます。
通説では巻一が持統万葉と呼ばれ、巻一~巻二の 2 巻本を元明万葉とされて
おり、その後 16巻本までを編集させたのが元正天皇で大伴家持が関わったと考
えられ古写本として「元暦校本」「尼崎本」等がある。
その後大伴家持が残巻増補して 20 巻万葉集として纏め上げたのが 783 年頃と
されるが、桓武天皇が遷都のため長岡京造宮使に任命した藤原種継の暗殺事件
が 785 年に発生して大伴一族が連座したとされ官位剥奪、財産没収され、既に
没していた家持にも類が及び完成していた万葉集 20 巻も朝廷に没収され陽の目
を見なかった。
平城天皇の特赦(806)で公にされたこの 20 巻本が万葉集原本とされます
が、消失しているため大伴家持が編集したそのままか?没収後の 20 年間に手を
加えられたか否かは不明です。
*現在読まれている万葉集は何物なの?
20 巻本の最古の全巻そろった古写本が「西本願寺本」で「底本」
(正テキスト)
とされ、現在発刊されている万葉集本は全てこの写本を基礎としています。
「西本願寺本」は足利義満が皇室に献上した写本を天文十一年(1542)
に後奈良天皇が本願寺証如上人に与えたのがこの本の名の由来で仙覚校訂本の
写本です。
仙覚律師は鎌倉時代の天台宗の学問僧で寛元四年(1246)に時の将軍北
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条時頼の命で万葉集の校訂本作成に着手し、それまでの諸写本を校合して定本
を作りこれに注釈を加えて文永六年(1269)完成の注釈本が上記写真の「万
葉集註釈」です。
仙覚は「訓」を附した時代毎に 3 区分し、古点本・次点本・新点本とした。
古点本:天暦五年(951)村上天皇の命で選和歌所が創設されその要人・梨
壺の五人(大中臣能宣、源順・清原元輔・坂上望城・紀時文)が万葉
集に訓を附して本にまとめた。
現代確実な古点本・写本は残っておらず、古点本の一部が「桂本」
「藍
紙本」として伝えられている。
次点本:古点本以降新点本までの間作成された訓を附した万葉集 20 巻本だが全
てそろった完本は発見されていなかったが近年に江戸期の写本「広瀬
本」が発見された。
「嘉暦伝承本」「元暦校本」「金沢本」「類聚古集」「広瀬本」等がある
が藤原定家校訂の冷泉家系の写本が「広瀬本」です。
新点本:仙覚校訂本で寛元本系統として「神宮文庫本」
文永本系統として「西本願寺本」がある。
*家持が編纂した「万葉集」に戻す方法はあるの?
最も可能性があるのは冷泉家文庫から藤原定家自筆の「定家本」が発見され
ることで万葉集フアンの期待を一身に集めている。
近代までは写本しか普及の手段がなく、写本では必ず誤字脱字が付きまとい
完全な原本は不可能に近いと云えるが、写本する人がその本の内容をどこまで
理解しているかでその精度は異なってくることは文献調査で周知の事実である。
仙覚本は鎌倉時代に現存する資料をもとに復元したものであり、それまでに
原本を改訂されておれば校正のしようが無いわけで非仙覚本との比較で修正す
るしか無く、極力原本に近い時期の写本を見つけ出す必要がある。
「西本願寺本」に勅選和歌集第一代「古今和歌集」の和歌が15首含まれて
いる事実をどう捉えるかで原本の姿が変わってくる。
「古今集」の序文で「万葉
集に収録されていない古歌を」とあり勅撰集であるがために重複する訳がない
との前提で解釈しようとしている。
更には現在においても解読出来ない謎の万葉歌が存在し、これが転写ミスな
のか万葉仮名が故の発音解釈によるものか等の議論がなされており仙覚本の物
足りなさを非仙覚本でカバーしょうとする学会の動きも存在するが、鎌倉期に
此処まで纏めてきたのは仙覚の功績で当時の後嵯峨上皇から賞賛の御歌が与え
られている。
確かに仙覚本が無かったならば現在の原本への復元度は無かったと考えられ
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現状で満足すべきかも知れない。
*万葉集に序文は有ったの?
本の構成上「序」は不可欠で本文の構成や分類、編纂過程と将来像等が記さ
れるのが通常で序文があれば原本への復元は容易である。
712年に編纂された「古事記」には太安万侶による序文があり、
「日本書紀」
には原本が喪失しており序文は無いが「続日本紀」に編纂過程が記されている。
我国最初の勅撰和歌集である「古今集」には2種類の序文があり仮名序、真
名序と呼ばれている。
「古今集」も原本は無く藤原定家の自筆本に俊成本を校訂
して底本としているが特に紀貫之による仮名序は信頼性が高く万葉集の分析に
も活用されている。
20巻本万葉集は二世紀にわたる編纂の歴史があると考えられることからも
家持は飛鳥期からの積み重ねであることを承知でその集大成するに当たり序文
にその経緯を詳述していたはずである。
これらの編纂の流れから推測すれば大伴家持による万葉集序文が存在したと
考えられるが、完成時における政争に巻き込まれて没収され混乱の中で喪失し
たと考えるのが妥当でしょう。
もし万に一つ家持の序文が発見されれば万葉集に関する多くの謎が殆ど解か
れることになるでしょう。
*20巻本になったのは何時なの?
通説では大伴家持が集大成した奈良末期時点と考えられているが、異説もあ
りその根拠は「万葉集」の名が現れる最初が菅原道真により書かれたとされる
「新撰万葉集」の序文で893年作成されており、ここには数十巻との表記が
あり20巻より多かった可能性がある。
古今集では万葉集に記載されている歌は除去したと序文に表記していながら、
何首か万葉歌を入れている。この重複した歌が属する数巻は「古今集」の編者
にとって「万葉集」では無かったことになる。
万葉集が20巻本とはっきり記されて登場するのは11世紀末で1087年
に編纂された「後拾遺集」の序文である。
しかし最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」から第21代「新続古今和歌
集」まで20巻本として統一していることから905年時点で万葉集は20巻
本として認識されており、これに倣って以降統一したと考えるのが妥当でしょ
う。
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<註>
万葉集原本:編纂された時点の万葉集を指すが編纂者・大伴家持が政争に巻き
込まれたこともあり原本は不明、平城天皇の特赦で公にされるも
その間に手を加えられたか否かも不明、従って現存するのは写本
のみで何を手本として書写したかを辿るしかない
冷泉家文庫:時雨亭文庫と称され京都御所の北側にある公益財団法人。藤原定
家の子孫であり、歌道の家として知られる冷泉家(上冷泉家)に
伝わる古写本、建築、年中行事などの文化遺産を保存活用し、冷
泉流歌道を継承することを目的として設立された。
勅撰和歌集:E-2勅撰和歌集
勅撰和歌集参照
勅撰和歌集
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