②万葉は勅撰和歌集か?

万葉集は勅選和歌集か?
E-2
勅選和歌集一覧
成立
古今
1 和歌
集
後撰
2 和歌
集
905 年(一説 905
撰者
下命者
序
紀友則、紀貫之、凡河内
皇
躬恒、壬生忠岑
951 年下命、
村上天
大中臣能宣、清原元輔、
957-959 年成立
皇
源順、紀時文、坂上望城
1005-07 年
花山院
花山院
なし
藤原通俊
仮名序
成立)
数
歌数
序、真
名序
なし
20
巻
20
巻
1100 首 最初の勅撰和歌集
1425 首
拾遺
3 和歌
集
後拾
4 遺和
1087 年
歌集
白河天
皇
20
巻
20
巻
金葉
5 和歌
1126 年(三奏本) 白河院
源俊頼
なし
集
10
巻
1351 首
1151 年頃
崇徳院
藤原顕輔
なし
藤原俊成
仮名序
集
千載
7 和歌
1188 年
集
1205 年
歌集
1235 年
650 首
(三奏
本)
院
(実際には後鳥羽院の親
20
巻
415 首
世上に流布したのは
10 巻 665 首の二度本
勅撰和歌集中最少の
歌数
1288 首
仮名
序、真
名序
20
巻
1978 首 寂蓮は奏覧以前に没
後堀河
天皇
藤原定家
仮名序
20
巻
1374 首
鳥羽院や順徳院の歌
が撰定途中に除かれ
た
続後
歌集
定家、飛鳥井雅経、寂蓮
巻
増補したもの
政治的な配慮で、後
歌集
10 撰和
後鳥羽
撰)
新勅
9 撰和
院
源通具、藤原有家、藤原
新古
8 今和
後白河
10
藤原公任『拾遺抄』を
1218 首
詞花
6 和歌
備考
仮名
醍醐天
年下命、913-14 年
巻
1251 年
後嵯峨
院
藤原為家
なし
-5-
20
巻
1371 首
続古
11 今和
1265 年
歌集
後嵯峨
院
藤原為家、藤原基家、藤 真名
原行家、藤原光俊、藤原 序、仮
家良
名序
二条為氏
なし
二条為世
なし
京極為兼
なし
二条為世
なし
二条為藤、二条為定
なし
20
巻
1915 首 家良は奏覧以前に没
続拾
12 遺和
1278 年
亀山院
歌集
新後
13 撰和
1303 年
歌集
後宇多
院
20
巻
20
巻
1459 首
1607 首
玉葉
14 和歌
1312 年
伏見院
集
続千
15 載和
1320 年
歌集
後宇多
院
20
巻
20
巻
2800 首
勅撰和歌集最多の歌
数
2143 首
続後
拾遺
16
和歌
1326 年
後醍醐
天皇
20
巻
1353 首
下命後為藤が没し、
為定が引継ぐ
集
風雅
17 和歌
1349 年
集
新千
18 載和
1359 年
歌集
新拾
19 遺和
1364 年
歌集
花園院
真名
監修、光 光厳院(親撰)
序、仮
厳院
名序
後光厳
天皇
後光厳
天皇
20
巻
足利尊氏執奏。武家
二条為定
なし
20
巻
20
和歌
1384 年
後円融
天皇
二条為明、頓阿
なし
巻
二条為遠、二条為重
新続
21
和歌
1439 年
後花園
天皇
集の最初
1920 首 部奏覧後に為明が没
し、頓阿が引継ぐ
足利義満執奏。下命
仮名序
20
巻
集
古今
2365 首 による執奏勅撰和歌
足利義詮執奏。四季
20
新後
拾遺
2211 首
1554 首 後為遠が没し、為重
が引継ぐ
真名
飛鳥井雅世
序、仮
名序
集
-6-
20
巻
2144 首 足利義教執奏。
*勅撰和歌集とはどんなもの
勅撰和歌集とはどんなもの?
どんなもの?
和歌集を編纂するにあたり天皇や上皇の命令で撰上されたものを勅撰と呼び、我国で
の勅撰和歌集の最初は905年に醍醐天皇の命で撰上された「古今和歌集」とされてお
り、室町時代に後花園天皇の命で撰上された「新続古今和歌集」まで21の勅撰和歌集
があり、総称して「二十一代集」と呼びます。上記一覧参照
従って万葉集は勅選和歌集ではありません。
*万葉集は天皇が命じたのではないの?
万葉集は原本が残されておらず、写本にも序文が無い為編纂の経緯が不明で推定する
しかないが、遺された資料からみて一度に編纂された訳ではなく約百年かけて二十巻本
にまとめられたのではないかと考えられています。
諸説ありますが巻1は持統万葉、巻2は元明万葉とも呼ばれ、巻16までは元正太上
天皇の命で大伴家持が編集したとされており、785年頃に二十巻本にまとめたが藤原
種継暗殺事件で朝廷に没収された後、806年に平城天皇により世に出されたとされて
いることからも、撰上には天皇が関係していたことは事実でしょう。
しかし続万葉集とされている「古今和歌集」が勅撰和歌集の最初とされていることか
ら万葉集は勅撰和歌集と見なされていなかったことに成ります。
*どのように万葉集が編集されたの?
A-3 万葉の起源参照)
どのように万葉集が編集されたの? (A-3
万葉の起源
古今集の序文に平城天皇の御世から百年十代を経て万葉集に収められていない古歌
を編纂する旨が記されていることから、「古今集」が撰上された905年には「万葉集」二
十巻本が存在したことが解かり、勅撰和歌集は全て二十巻本に纏められていることから
も「万葉集」が基本になっていると考えられている。
しかし「古今集」の中に現在我々が読んでいる「万葉集」の和歌が15首含まれている
ことから10世紀以降も「万葉集」は改訂を繰り返されていたとも考えられますが写本
時のミスの可能性もあります。
特に現在の「万葉集」は鎌倉時代に学僧・仙覚が当時伝来されていた約20種の写本を
照合して独自の校訂を行った「仙覚本」を底本にしているためとも云われています。
最近非仙覚本である「広瀬本」が発見され見直しされていますが、これも江戸時代の写
本であり確定は出来ません。しかし現在冷泉家文庫が調査されており「定家本」が発見さ
れる可能性があり、平安時代に読まれていた「万葉集」に改訂されるかもしれません。
いずれにしろ「万葉集」は勅撰和歌集のように天皇の命で短期間に編集して撰上され
たのではなく、長期にわたり何度も改訂を加えられながら二十巻本になったのでしょう。
*なんの目的で万葉集がつくられたの?
万葉集には序文が遺されていない為に編纂経緯は不明ですが、万葉集の編纂起源は八
世紀初め頃と考えられ、巻1,2は我国の国史としての「古事記」「日本書紀」が編集さ
れている途上に造られたと予想されている。
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701年に完成した「大宝律令」を持参した遣唐使が派遣され、対外的に近代国家とし
ての認知を受ける為には律令制度の確立と共に我国独自の文化を誇示する必要性があ
った。
このため国史の編纂と同時に唐の文化である漢詩に匹敵する我国独自の文化・和歌を
漢字表示(万葉仮名)で編集したのではなかろうか?
現に古事記は推古朝で完了しているが万葉集は次の舒明朝からが意識されており、巻
1,2は他の巻と異なり年代順に記されて歴史書的要素も有している。
従って初期万葉は政治的活用法を意識してスタートした可能性もあるが、その後歌謡
文化・和歌として成長し順次改訂が加えられていったのではなかろうか。
*和歌は女性文化ではないの?
万葉集がもてはやされるのは平安時代になってからで、奈良時代までは中国文化吸収
時期でもあり漢詩が主流であったのは事実でしょう。
勅撰集も9世紀までは全て漢詩集であり、和歌集が勅撰になるのは10世紀にはいっ
てからである。これからも万葉集が勅撰集ではなかったといえます。
この背景には万葉仮名があり初期は日本語を漢字の音や訓にあてはめたもので、男女
を問わず漢字の知識を有した者で無ければ理解できなかった。たとえば額田姫王の作品
でも中国史書を読んでいなければ詠めない和歌があり、中国文献知識を披露する場でも
あったわけです。
その後万葉仮名が漢字から<い、ろ、は>の「かな文字」化することで完全に表音文字
となり、女性も簡単に利用できるようになったのが平安時代で、この時期には漢字表記
の万葉仮名は一般の人には詠めなくなってきており、万葉集の注釈写本が出始め現在に
まで至ている。
<註>
勅撰漢詩集:凌雲集、文華秀麗集、経国集でいずれもが9世紀前半に撰上されたもの
底本:モデルにする本で現在二十巻伝来する鎌倉期の写本「西本願寺本」が底本とされて
いる
藤原種継:桓武天皇の寵臣で長岡京の造営を命じられていたが皇継問題で大伴氏に暗殺
されたとして直前に死亡していた家持まで冠位を剥奪され、万葉集も没収さ
れた
広瀬本:藤原定家が源実朝に送ったとされる「定家本」を江戸時代に書写したという写本
冷泉家文庫:藤原一門で定家の出身家、現在の京都御所の北に屋敷があり多くの古文書
が遺されているが現在調査続行中
万葉仮名:(E-1
E-1 参照)
漢詩:現存する最古の日本漢詩集は「懐風藻」で751年作成の序文あり、編者は大友
皇子の曾孫の淡海三船とされているが確証は無い、近江朝~奈良朝まで64
人の作者で116首を収めるが殆どが五言詩で平安期の七言詩とは異なる
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