三輪山伝説と大神民 ㈹三輪王朝と三輪山 大和の三輪山に鎮まる大神神社の祭神大物主神は、記 紀 では、 幾 つかの神僻説話が語られている。 先ず﹁古事記﹂の神武の巻に見える、神武帝の大后 ホ ヒメ の ポト を突き、 ヒメ が 驚 いてそ の矢を床辺に ヤタタラヒメ のもとに、三輪の大物 ススキ ヒメ 、またの 名ヒ メタ タ ライス ケョリヒメ の出生 譚 である。 になって、便所で 固くと、美男子となつて ヒメと 通じ、イス ケョリヒメ を生んだとい ぅ 話である。 イク タマ ヨリピメ のもとに、 次は、﹁ 古申記 ﹂の﹁失神託﹂に見える、大仰氏の祖 大 m 日供 子 @えっかみのみこと @瓦 ム 叩の女 河内の陶 夜毎に男が逝い、妊娠する。男の正体を見きねめるた 松 一 U 健 留まった。この神の子が大田田眼子だという。 姫 が神の に苧の糸をつけ、翌朝 苧 のまにまに尋ねて行ったところ 、それが も@ づ や@ 淳県 の陶邑︵和泉日大局部陶器村 ︶を経て、大和の御 諸山に至っ み タ マグ シヒメ に夜毎に通ったが、 ﹁新撰姓氏録﹂大和神別の大神朝臣の条に見える話は 沖の三島の満 杭月 のな 、 大国主が した鉗を男の衣にさし、翌朝糸を辿って行くと、三輪山 の神の社 通 に 摂 という。形は﹁崇神話﹂の大田田眼子のいわゆる﹁ オダ マキ型 ﹂ 茅x 次 属するが、関係する人名は、むしろ神武の后妃の出生譚と 重複 す た に 孝霊の皇女ヤマト トトヒ モモ ソ ヒメ は 大 を見せて呉れと求めると、神は櫛笥の中に美麗な小蛇 となって 示 主の誤となったが、大神は昼は見えず夜のみ訪れたので、 姫が正 ﹁箸墓 ﹂の伝説である。 もう一つの説話は、﹁日本吉紀﹂の﹁宗仰紀 ﹂に見え , る 現した。姫は驚き叫ぶと、大神は恥じて も名づけられる山を神体山 としている、きっすいの大和の上着 神で 伸茶席︵﹁出雲国造神賀詞﹂︶とも三諸の神込山︵﹁万葉集﹂︶ と 一 た。姫は悔いて箸で ホト を突いて自殺した。その墓を箸墓 といい、 あった。この司祭家 として知られていたのが、いわゆる大神民なの 空 高く飛び、 御 諸山に登っ 夜は神作り、昼は人が作ったという。 であった。 この神社は古来拝殿のみで本殿はなく、拝殿の奥の三つ鳥居を通 以上の神 婚譚は 、みなそれぞれ多少タイブが異なって いて、同系 の説話の異 伝 とは考えられない。神武の后妃の話は、賀 茂の縁起 神 れぞれ神聖な磐座があり、またそれらを含む神聖な禁定地には、 古 して神体山を拝するのであり、神体山の山頂、中腹、山麓 には、 そ ﹁オダ マキ﹂ 式 、それに 箸 衷の話は、﹁蛇体顕示﹂ 墳時代から奈良時代までの多数の祭器具が発見きれ、調 査 きれてい 話に見える型の﹁円堂 矢﹂式のものであり、大田田根 子の話は 、 き タイプである。同じタイプの物語が、色々な異なった 人物にっ い る。古代の物々交換の市場であり、記紀や﹁万葉集﹂に名高い男女 式と でもいうべ て語られるというのなら不思議はないが、こんなに全く違 つたタイ の交会の﹁歌垣﹂の行事の場でもあった海石瑠市は、そ に行われたのであろう。 この神の祭祀は 、最も古くは恐らく初期の大和朝廷によ って直接 麓を流れる初瀬川のほとりにあり、その社の門前市であった。 プ の話が 、 同じ神の身の上について語られているのは、 私はこれを、それぞれ異なった時代に、別々の方面か ら、 入って 来 て、この仲の崇拝に結びついたものであろうと考えている。これら の説話の結びつきの過程の歴史的再構成は、容易なこ と ではない れ以前の崇 神 、 華仁から 仲哀 までの三 % と 区別し 、前 者を応神 王朝 それ以前の王統とは関係のない豪族であるとして、新王朝 と見、 そ 近年、応神、仁徳などの難波・河内方面に根拠を持つ難波 朗を 、 この大物主が出雲大社の祭神オホナムチの別名であるとし ︵﹁日 ないし河内玉柳、後者を崇神 王朝ないし三輪王朝と名。 つける説が 、 が、 試みに一つの仮説を提示して見よう。 本書紀﹂一書の六、および﹁古語拾遺Ⅱ﹁旧事本紀ヒ ︶ 、あるいは 多くの歴史学者によって強く打ち出きれている。 この 崇神 、 垂仁、景行などの百王朝は、大体、三輪山を中心に宮 その霊魂の名であるとし︵コ日本書紀L 一書の六、およ び コ出雲国 の事実であるが、本来は別系の神であり、大和盆地の東南部シキ 地 殿 が営まれ、またその陵墓も大体乙の付近に営まれていた。これを 造神賀詞 L ︶、出雲系の神として位置づけられていることは、周知 わち大御和 め 万に 鎮座する大和の国魂の神であって、二一輪山、すな 三輪王朝と名づけるゆえんである。 崇神の磯城の瑞垣 宮 の故地は 、 %在の桜井市金屋の式内壮志貴御県巫神社の辺りであ ったとされ、 やまぺ の のみち @ の のみさ ?さ その陵墓は山辺道上 陸 である。重任 は柿木玉垣 宮 にいまし、 そ まき れ@ こは三輪山の北の穴師山の山麓の纏 向 にあったといわれ、士ま*に目ハ 尻何 ま吉{ む はこれまた 纏向 の口代官にいまして、天下を治めたと伝 えられ、 そ は行われ、その古い記滝が、 モモ ソヒメ に オ ホモノ ヌシ が想り 移っ ヒコ の謀反を予知したというよ う なコ日本書 て政治を指示し、またこの姫は瑠明 ・叡智で、よく未来 のことを 識 刑 し、タケ八二ヤス 組ヒ 崇神 紀の伝承になって残ったのであろう。 この神と 姫 との婚姻は、もともとは祭神とこれを祭る斎 女 との 関 現在の崇神 ・景行陵 と指定されたものが、果たして史 実のものか な結末を語る、﹁箸墓 ﹂の伝説がこれである。神が夜 のみ訪れて、 転化して、民譚的な物語となっている。同じ巻に、こ の姫の悲劇的 係 であったが、巫女は神の妻であるとするシャマニッ クな信仰から め、 モモ ソヒ の陵墓は山辺道上陸と名づけられた。 どうかは不明であるにしても、この現在の二陵 をはじ 顔 が判らないので、女がこれを知りたいと願い、蛇体 としての正体 ピッド とフシ ケ﹂型にも見られるが、日本のモモ ソヒメ は 、夫の禁を おかして 正 を覗き見るのは、欧州 に古くから語られる﹁キュー メの御陵とされる三輪箸中の箸 墓や 、また桜井市の茶臼 山 古墳な 体を覗き、見るのではなくして、最初は夫の許可を得 て、櫛笥を覗 メートル以上もある、四世紀前半だるの前期の大型 古墳 群がこの付近に集中しているのは、やはりこの 三瑞山を中心と き見、その姿が蛇体なので驚くのである。姫が驚くの で、神は自分 ど 、みな 二 00 して、大和に君臨する大王クラスの支配者がいたことを表 わしてい あって、その古い形は・神がその櫛笥を姫に授けて、 仰天したので、神が腹を立てたことになっているのは、 一 ・ゆめ開くな 後世の形で でもない。﹁自分の姿を見ても驚くなかれ﹂と戒 しめ たのに,姫が 故姫に 恥を与えられたといって去るのか、いきさか不 明の点がない に恥を与えたといい、去ってしまうのである。この形で は、神が何 る。茶臼山古墳から、王者の持つにふさわしい五枚 や、 魏 の鏡 とい 大王クラス われる三角線神獣鏡や多くの鉄剣・鉄鉱などが出土しているのも、 の支配者であったことを物語っている。 これらの古墳 群 の校葬者は、単なる地方豪族ではなく、 こうした初期の王朝は、多分三輪山の神を奉じ、その神託を斎女 王などの媒により男工がきき、政治を行う というよ う な・祭政一致 かれ﹂と 戒 しめていたのを、好奇心にかられて開けた ところ、その ひみこ の呪的 王朝であったのであろう。ちょうど 門魏志 口倭人伝の卑弥呼 神が 蛇体の姿を現じ 、飛び去って、永遠の別離となる というのであ さこえ と男帯、沖縄の問特大君と国王のような関係が、三輪王朝 において 一一 ろ う。この﹁キューピッドとプシケ型﹂に属するといわれる、中世 四 るようになってからも、多少は残っていたらしい。 ね、これを開けることを禁じられるが、その禁を破って破綻が来る 向かって誓いを立て、もし違えば﹁天皇霊﹂がわが子孫 を絶やき む それぞれが行なったと夢見たふるまいから王位継承の決定 がなされ に、天皇が二人の皇子の夢、 す な れ ち 御諸山︵三輪山︶ 岡田精同氏などが説いているように、コ日本書紀L の ﹁崇 袖細﹂ のである。日本では巫女は、一種の呪県 として、また 神霊の容器と け ほう ヮに、箱を持 して、後世の歩きみこが常に外法箱を拐帯していたよ, ム 1ゲン っていたことは知られる。朝鮮の巫 堂 がよく神霊の容器として行李 ︵し け を携帯しているのと似ている。殊に櫛笥は、水注浦島子の玉櫛笥 や と述べていることは、天皇の威霊とこの三輪山の神との間 に神秘的 の後、大物主と事代主 とが八十万の神々を天高市に集め、天神に 忠 コ日本書紀二神代巻の第九段の一書の二に、オホナムチの国譲り あめのたけち や そよう ろ る 。﹁ 敏達紀 ﹂に、蝦夷の アヤヵス が、初瀬のⅢに入り、三輪山に たという伝承は 、古い王位継承と三輪山での神ト との 関 係を偲ばせ の嶺の上で 伊勢大神宮の神宝の櫛笥に見られるように、きわめて神聖祖され、 な融即 があると信じられたことを表わしている。 の御伽草子﹁天稚彦物語﹂でも・やはり蛇神の夫から辛櫃を与え ろ タブー視されていた例もある。櫛は神霊の宿りますところと考える れていたこともあったらしい。越中射水郡櫛田村の櫛日神社の神体 が女の櫛であると伝え、大蛇が一女を呑もうとして櫛 がのどに引っ メをめ あわせ、更に忌部の祖 フトダマと 中臣の祖アメノ アメノ マヒ コヤネ にム叩 誠を誓ったのに対し、タカミム スビが大物主に自分の 娘のミホツヒ じ、この神の祭祀を掌らせ、タオ キホオヒ、ヒコサチ、 ﹁万葉集﹂ 巻こに﹁玉くしげお ほ ふを 安み ・・・⋮﹂とあるう よ に 、 常日頃は トツ 、アメノ ヒ ワシ、クシ ア カルタ てなどの忌部の部下の工匠の神 かかり死んだとい玉縁起を伝えている。殊に玉櫛笥は みだりに開けないことが・これを奉持した巫女の心得で あったので に命じて種々の祭具を作らせたという。この神話は、出 雲の国譲り 、 つ0 従 つてこ あり、これを犯すと、神は去り、巫女は死ぬのであろ, を前提とした神話ではあるが、その骨子は南大和を中心とした物語 ぅ部 ひ 比売神社︶ 神社︶、また城下 部 鎮座のミホ ツヒメ ︵式内わ 村 ・屋 ﹂, 坐 申 ず 弥 に ろ富 はめ の大物主、同じく高市郡に鎮座の事代主 ︵式内高市御県巫 であったらしく、大和の地名から出た天高市とか、この域上郡三輪 れは恐らくこの蛇神に仕えた巫女の秘儀的なタブーの由来話なので 崇神 王朝が 、こ の神と結 あろう。 それはともあれ、初期の大和の大王家、 びついていたことは、この神が大和の国魂とされていたことと多分 無関係ではない。この意識は、後世に伊勢の天照大神を皇祖神とす などが登場するのである。高市郡には、またぁ 天め の 高﹂ 市け 神ち社 があり、 ま ふと@ た のみこと @l たまのL み と た忌部氏の大王命神社や部下の玉作部の櫛王命 神 社の名がコ姓 喜 式目に見える。 ③西田長男﹁古代文学の周辺﹂︵ 昭㏄︶。 ㈲大神氏の台頭 の崇 神の巻に 、 もう一つ見えるこの神の神婚譚は @ はたたれこ モモ ソヒメ の奇怪な 神婚譚は 、﹁古事記 L には見えないが、記紀 いて天孫に帰順 し、国土を献上するに当って、天神系の ミホ ツヒメ 自の話である。 この話から出雲国譲りの要素を除去すると、大物主が事伏玉を率 と結婚し、天孫側の司祭家によって永代の祭祀を受ける という、 大 職 となった動機 は 、この神の崇りで疫病が流行したからであるが、 何故そうした 崇りがあったのかは明らかでない。コ日本書紀L では ﹁古事記﹂によれば、この大田田棋子が新たに司祭 、大田田板子の出 和 一国の国譲りの話となる。ここで、事代主と ミホ ツ ヒメ が登場す さい、この モモ ソヒメ に証 語 があって 、国の治まるよう天皇がこれを祭ったが るのは、西田長男博士が論じているよう に、壬申の乱の こめ 二神と宇佐の生霊神とが高市郡大領の高市県主許梅に想 り 移り、 神 い@むすワ 託を発して、皇孫︵大海人皇子︶の守護神として仕え むといった 史 験がなかったと う。それで天皇およびヤマトトハヤ カムアサ ヂハ い おほろ は@ちの( す ね ラマ タハシヒメ ︵モモソヒメ の別名かという︶、大水口宿禰、伊勢 あみのきみ 麻績 君 らの共通 の夢に、大物主が現われ、その子大田田棋子を神主 を 除くと、 大物主の国土献上に対して、天神側がこれを祭祀する という形とな として自分を祭 って呉れと舌口ったといい、それで河内方面からその 実 ︵大武前紀 ︶の投影もあろうと思われるが、これらの神 り 、出雲の オホナムテ の国土献上に対して、天孫側の アメノ ホヒ,が 人物を探し出し て 来るのである。 自殺 譚 があり、 うまでもなく、 大和の国魂の神で、 後の大倭神社の祭神である。﹁ 崇袖細﹂を見ると をまつっていた が、神威を畏れて、皇女 トョスキイリヒメ に命じて この神は皇祖神 アマテラスとともに、最初は天皇が同敗兵末 でこれ 和生大国魂神社 コ延喜式目に見える山辺郡の大 同じ﹁ 崇神託﹂では、話は多少前後するが、前述のモモ ソヒメ の やまとお (に はた @のかみ また 倭 大国魂神の神妻の話がある。 倭 大国魂はい 祭祀するという、出雲国譲りの形と同じである。かつ て大和朝廷の 祭官が、この神の祭祀を掌っていたことの記憶ではあ るまいか。 コ古代氏族と天皇口 ︵ 昭 ㏄Ⅰ 上 口︵ 昭鍋 ︶、水野祐コ 日本古代王朝 史論序説し︵ 昭 四︶、直木孝次郎 註①井上光貞﹁日本国家の起源 仁 徳が、こ 田正昭コ大和朝廷 口 ︵ 昭蛇 Ⅰ岡田精日刊古代王権の祭 話口 ︵ 昭巧 ︶。但し水野氏は、 厄 神は実在と認めず、 書。 の 王朝の実際の創建者であるとしている。 ②岡田、前掲 五 メを 大国魂 ヌナキィリヒメ は髪が落ち体も れが をちの( す ね 疫病鎮圧を祈った。 アラミタマ とは、アレミタ あ・ り まつみ りや ユ ー / Ⅹ@ マ、つまり神霊が示現する形 であ 伊勢内宮の別宮の荒祭宮が、大神の託宣や示現などに関わりが みつえしろ の御杖代としてこれを祭らせたが、 よ う に、この三輪の荒魂の社である狭井社も、 恐らくこ の神の 神功 紀 主は、 ﹁ 柱 となっている。託宣の ョリマ シと しての と託 語の神をまつっていたのであろう。事代 および事代主神の五 大神荒塊神 、大物主神、 ヒ メタ タ ライスズ ヒメ、セヤ タタ ラヒ した機能を持っていた神であろう。後世の社伝 では、 こ の 五座 痩せて祭ることができなくなったので、大倭直 の祖長尾市 宿禰を 、 崇 神朝は伝承 も しこれを 別神 大和の国魂 直が 代々その祠官と なったとい これに 伐 って祭主とした。爾来大倭 ここで、この倭の大国魂とは一休何の神であろうか。 とすると、大和には二つの国魂神がいることになる。 神の代表としては前述の三輪の大物主がいるから、 の神は三輸の宮廷内にあったことになる。同じ話が、不 思議なこと 三輪の神の一変相であることが判る。恐らく三輪山の山頃 に 祭 そうして見ると、この秋井の地から遷したという大倭国魂と ﹁大武前紀 ﹂に見るよ う に、一般に神託に出て来る神である。 倭大神︵倭大国魂︶が穂積日 の粗大水口 目土の守護神として大倭国魂神と名づけ、斎女王などに祀らせ たこ から、 宿禰に神懸りし、国土の守りとなると契ったのに、 先考崇神の祭り あなしのむら が不十分であると宣う たので、 ヌナキヮカヒメ が神地を 六機 邑に定 とがあったのを、何時の時代か祭祀が絶え、これが色々な形で によると、三輪の神域に直ぐ接した シキ の瑞垣宮 にあっ め・六市の長岡岬に 大倭大神を祭らせたが、姫は身体が弱り、祭祀 モモ ソヒメ の奇怪な死も 、ヌナキイリヒメ ので、改めて新しい司祭家を任用し、これを祭らせたのであろ 神の祭祀と宮廷との結びつきの終末を物語るものではあるまい の体の衰弱も 、みな こうした出来事が色々とあった後、疫病がはやり、神の商と に ﹁垂 仁紀﹂にもあって、 不能となったので、長尾市宿禰に伐 らせたという。 穴 師も大面も 長 た大物主の分霊を、三輪王朝では、最初宮廷内にまつって、大 岡も 、三輪の近くの地名であったらしい。長岡の岬は ﹁大倭神社 註 避状 目 によると・﹁いわゆる大市長岡岬 とは、今の狭 井社 の地 是の いるが、恐らく史実上は、もっと後世のことであったのであろ 地 なり﹂と見える。快弁神社は、三輪山麓にある大神神社の別宮 春 の鎮花祭で る大田田 棋子の登場があるのである。同じ崇伸朗のこと と きれ 古来大物主の荒魂を祀るといわれ、疫病の神とされ、 で、﹁延喜式﹂に、 狭芽生大神荒塊神社五座とあるのが それである。 多い。 は 、 茅浮具︵和泉 国 ︶の陶邑の出身である。陶邑は和宗国大鳥 郡 、 小文治の伝説などや、また蛇管入の昔話、五月節供の由来などに、 か、﹁平家物語﹂に見える豊後の緒方二節伝説、また越後の五十嵐 日本や沖縄にも昔から民間に流布していて・この三輪伝説のほ 現在では泉北郡の陶器村 であり、﹁延喜式﹂の陶 荒田神社のある 地 広く語られている。日本や沖縄の場合、男の正体はみな大蛇であっ 日本書紀 L で 大田田眼子 長尾市の登場も同様である。 みれ ひら 大田田棋子は、﹁古事記﹂によれば河内の美男付、﹁ である。古くから陶器の製作が行われていた地である。 て 、朝鮮 と 一致している。昔話の場合は、﹁正嫡 型 ﹂ な どのよ,っに、 この スヱツ 、女の家族が立ち聴きし、懐胎した蛇 の子をおろ が やはり してしまう話もあり、ここでは完全にその蛇は怪物視されている その蛇の話し声を の母 イク タマ ヨリビメ はス エツ ミミの女であるという。 すゑびと ミミも、陶人の一人なのであろう。 ﹁古事記﹂に見える、 イク タマ ヨリビメ の神婚譚は、有 名 は ﹁お 朝鮮の ヨ 二国遺事﹂に見える後百済の斬萱の出生譚 、推 け理﹂,, ,。が 、それは信仰の崩れた形である。 だまき型﹂の説話である。このタイプは、いわゆる﹁若潮 ﹁おだまき型﹂の話であるが、蛇ではなくして、ミミズの寄胎 とい ある。朝鮮、旧満洲︵中国東北地区︶、中国、安南 な どに分布し 、 うことになっているのは、この人物がとかく後世に評判 が良くなか またこれが多く 然し、こうした話が、名家の祖先箱とか偉人や英雄の出生譚に 語 ったからであろう。 多くの場合、王朝の始祖の英雄や豪傑などの出生伝説 となっている 吾 膀彰英などの ことは、鳥居竜蔵、今西竜、高木敏雄、松本信広、 諸氏によって明らかにせられている。清の大祖の伝説は 最も有名で られていることは、どういう意味なのであろうか。 ある。その大筋は、㈲ある娘のもとに見知らぬ男が毎夜 訪れ、女は 懐妊する。㈲男の素性を知ろ うとして女は男の衣のす そに針 と糸巻 なのであろうか。 の場合、 蛇 とか 瀬 とかミミズとか、木霊の形であるのは、どう意味 の糸を縫いつける。㈹ 男は 逃げ去るが、 女 またはその親族は 、糸巻 かわうそ の糸をたどってすみかに行くと、怪物︵多く柑 とか 蛇 のような水棲 の司祭主 古代の王者や土侯などは、為政者であると同時に一種 であった。彼は人民に対する政治的支配権ばかりでなく、まわりの 動物︶であることが判る。㈲怪物は死ぬが、女はその子を生み、 子 供は後に佳人や名家の祖となるという形である。 自然や天候などに対する 呪的な支配 力 と責任を持って いると信じる アジア大陸が 中心であるが、朝鮮では、特に 蛇と 結びついて語られ ていることが セ に力りのや Ⅰ ソ 尤も、三輪とこの円堂矢の伝説や、鉄鉱 や タタ ラと の関係などの 細部の説話は、後世河内・和泉方面からの新努力の侵入 に基づいて れた。特に農耕に必要な雨水の供給は、そうした司祭王 の呪能 に帰 せられた。司祭 王は 、雨水の神である竜神・雷神を祭り われて のであろう。 動 刮 のさなか ﹁古事記 口 によると、仲夏は能曽を征討に神功皇后と九 さい、神の崇りで 崩 じ、また﹁日本書紀﹂の 一伝によ 熊 曽の矢に中って崩じたといわれる。何れにしても、 で 急死されるのである。 守 、穴戸など 九 州の生まれ い。それには、その王家がその雨水の神である毒蛇神の紳商でなけ の海上部族、水軍を率いて、近畿・大和に攻め上った新勢力の統率 仏神は記紀の所伝では仲 哀の子とされてはいるが・ ると、天皇は るが、 或 いほこの王朝自身が仲哀を最後に一旦瓦解したことによる 時期に何等かの事情で一旦断絶した。その事情はさっぱり不明であ ともかくこうした三輪の古王朝と、三輪山との関係は、多分ある できた物語であると思われるが、これは後に述べる。 ア などの 王 給を祈った。その祭祀は、そうした司祭王の義務でもあると同時 に 、その特権でもあった。中国やインド、朝鮮、東南アジ 早肱が続 くと、不徳を 者が、とかく 竜蛇神に結びついているのは、そうした理由である。 天子は水徳を有しなければならぬといわれ、 責められ、また身をもって雨を祷った。日本でも皇極女帝が雨を祈 ったことなどは、著名である。三輪王朝が雷神・蛇神である大物主 行 の祭祀を行なったのは、そうした永徳保持のためであったのだ る ぅ 。新羅や王氏高麗の宮廷にも、そうした竜神祭祀が 処 で、そのような祭祀権き 、特定の王家が得たとすれば 、当然、 ねば ならない。その神の血筋を受けたもののみが、その神の祭祀 権 者であった。これが果たして本当に九州出身であったか、それとも その家だけがその職掌を伝えていることの、根拠がなければならな 徳の由来として王家の先祖の竜女・と 累 河内方面に興った豪族であったかは、諸家によって意見の分かれる そ 乙でそ の神階 譚か 竜神奇 胎伝説などができるのである。高麗圭家では、 先 ところであるが、何れにせよ先王朝の仲哀 との血縁関係 は 、後世の を 持つのである。 祖 の作 市塵 が 竜女・と婚し、王祖を生んだという伝説を 持ち、その の 作物らしいことは、諸家のほ ほ 一致した意見である。 和泉万 面の出身だと伝えていることに注意しなければならな い。河内方面 ここで三輪の神の正式な司祭穿 となった大神民 は 、河内 えに代々腋の下に竜鱗があると伝えられていた。建国の祖の神武帝 の大后がこの三輪山の神の子の伸聖 な 女畦 であったとい うのも、 根 本 的にはそうした原始信仰に基づいている。 ら陶器製作に関係した集団 | 多分朝鮮半島からの渡来者集団| 族長が、新王朝の河内大王家の大和侵攻の後に、大和の シキ地方 か 上に広く語られた﹁おだまき式﹂の神婚譚を唱え、その祭祀権の 侵入し・己れの家系を、三輸の神の神育と称し、かつての母郷の の に 占を図ったのであろう。三輪王朝との関係が断絶した現在、その 韓 祀の相続は、この新しい豪族によって容易になされたし、周囲も 独 して高麗に派遣きれた二輪引田君難波麻呂などがそうである。外交 に 通じた氏族と見なされていたのである。 またこの族の分かれで山城に在住した大神民は 、楽家 となり、 有 名 な高麗楽の﹁蘇志摩利﹂、一名﹁廻庭楽 ﹂を伝えて いた。朝鮮系 の楽曲の伝来者であることも不忠議 である。 ﹁日本書紀﹂の 崇神 紀の大田田板子の話に 、 ﹁もしこの 天皇に示教したという話があるのも、この氏族と海外との関係を物 てわれを祭らせば、海外の国もおのづから帰順 せむ ﹂と 、大物主が この厄神の母の神功によって、北九州の大三輪の社が建てられた 妾旧 っているのである。 神社のことであるといわれるが、新羅外征に当ってこの神の祭祀 必要だときれた伝えは、重要である。神功の御代といっ ・のは、史 ではなかろうが、五、六世紀どろ、朝鮮半島の諸国と大和朝廷 と 盛んに外交的・軍事的に交渉を持ったころ、その媒介役として大 氏が九州に派遣きれ、その社を建てたのであろう。 大三輪︵大神︶氏は、神別を称しているにかかわらず、不思議と 八幡宮の創建を行ったという大神仙義や 、奈良時代に大仏鋳造に乗 おはみかJ め もり じて上京した巫女大神社女などはその族人である。 八幡の神が 、も と韓国に縁が深く、また鍛冶と関係が深かったことに ついては、 多 くの諸学者が論じているところである。 大和の大神神社も 、 古くから 鉄鍛冶と関係が深いこと は 、注意す べきであろう。大神神社の附近に、金屋の地名があり、 またこの 社 の北側に、式内名神大社の穴印生兵主神社がある。この兵 主神は土 二輪甫 東 きことである。文化元年︵六四五︶百済に派遣された 一 、同五年︵八四九︶に新羅へ派遣きれたコ一輪岩 夫笛 、天智 二年︵ハ 二︶新羅に遠征した三輪君根麻呂、大武十二年︵六八コ一︶大使と 九 であったらしい。六師とは、﹁日本書紀﹂の垂 仁紀に 、楯部 、弓削 た軍神笛 尤 であり、また同時にこの武器を製作する鍛治部の守護神 橋寛氏などの研究にも明らかなように、もともと渡来者の祀って い 使節や将軍の名に、この大神民の一族の人物が多いことは注目す 鮮半島と関係深い氏族であった。セ世紀 どろ朝鮮半島 に派遣され この一族の分かれは、豊後に住し、宇佐八幡宮の社人となった。 いう、同日本書紀二の伝承は、後の筑前回夜頃郡の式内於抹茶宇 誌 したのであろう。 祭 承 智。 と が 実 が 仰 朝 た べ 人 六 紀を上限とするといわれる。一般には六、 一O 部、矢作部などならんで大穴磯部の名が見えるよう に けての出土物が多い。三輪氏 に関係する文献記事は、 -八世紀末以後 これは @ロ =え として六世 ゼ 世紀から 奈良時代にか て採鉱を行 う部曲﹂のことである。金屋や柳本町山田付近 には鉄浮 に多く出て来る。吉井 巌 氏も論じるように、三輪氏 が主 ﹁穴を掘っ を出す地層がある。この付近で古く鉄鍛冶が行われた ことは明らか 紀以後にはじめて活躍する、比較的に新しい氏族であることを 物妾舶 おは . のなし ぺ である。 っている。陶器製作者と大神民との結びつきの面でも、 新しい司祭 家 となった大和国造の大倭直ら、神武の東 征 のときに 活 この三輪の神の一分霊と考えられる倭大国魂神の、これ も 同じく である。後世るであろう。 神武の大后とその母は 、何れも タタラ を名とする女性 である。 タ タラ は 、 い う までもなく、鍛冶に用いる ブイゴ のこと でも、金屋の徒のことをタ タラ 師 といい、仕事場のことをタ タラ場 というのを見ても、この名と 鍛冶部との関係は明瞭で ある。 にいた海人出身の氏族であって、実は河内王朝時代に大杣 入りをし 理 する シヒネツヒコ 、一名 ウズヒコ であって、もとも と大阪湾沿岸 説的な巫女の名 か、もしくは彼等の奉じる女神の名で あったか、 何 たものらしいことは、岡田精司氏が詳述しているところ である。 古 恐らく、この二人の姫は、タタ ラを踏む鍛冶部・金工 0集団の伝 れかであろう。後世の金屋、タタラ師の奉じる金屋子 きんなども、 い大物主・大国魂の祭祀は、これらの新氏族によって、恐らく根木 的な変革が加えられたのであろう。 一般に女神だといわれる。 タタ ラという語も、﹁日本書紀﹂の継体紀 、敏 達紀 、推 古 紀など ぬ文の賀 力モ 系の神 婚譚 で、 ミヮ の神 とは関係がな 神武の后妃の丹 塗矢 伝承 は 、もともとは﹁山城風土記﹂ 茂 縁起に見えるように、 に 、階調の 津 、多多羅 原 、多多羅 邑、多多羅城などと い う 地名が 、 南朝鮮にあることや、﹁新撰姓氏録﹂諸蕃の部に多多 良 ゑ ︵任那系︶ かったのであろう。 と鴨 君 との共通 ミワ氏と カモ氏の二 氏は、何時のころか の王氏族は全く別系の氏族であったのを、河内王朝以後、河内方面 らか同族化されて行ったものらしい。私は、もしかすると、元来 こ の祖先としているように、 然し、同古事記 L では、大田田棋子を三輪君大神民 0名があることなどから、大陸系の語であることが判 る 。恐らく 三 輪や六師などの鍛冶集団は 、恐らく半島系の賦縛汗紅 であったので あろう。彼等も恐らく河内・和泉方面から大神民の大 和 入りにきい し 、これに体なって来たのであろう。 三輪の祭祀遺跡は、考古学の調査によると、四世紀末ないし 三 世 ら出て来た大神民 が、ミワ の祭祀権を掌握するとともに、南の葛 の力での神々の祭祀権をも手中に収め、力モの古い丹塗 矢の伝説 か 、 ミ%の神の神 婚譚 にも取りこんだのではないかと考 ,えている。 城 にぬりのや ヒメを生んでいる。円堂矢 はその一変相である。 る。 大Ⅱ︶。今西竜﹁朝鮮古史の研 ②鳥居竜蔵﹁有史以前の 目木ロ︵ 大 究 ﹂︵昭巧 、全集再録︶。 高木敏雄﹁日本神話伝説の研究L ︵ 者同日本の神々 L ︵ 昭杓 ︶参照。 託宣を司る神であり、立女の神格化であったらしいことは、拙 あらわれる神が荒魂である﹂としている。また伊勢の荒祭宮も 註①山中裕子﹁三輪伝承口 ︵ 昭仰︶も、﹁巫女の幻想のなかに 頭ち われる六世紀の継体朝 以後の ことではないかと考えられるのであ 承 と仕立てたもので、現在の形の成立は、神武伝承の成立したと思 承 として取り入れ、更にこれを建国の英雄とされる神武の后妃の伝 その神話を大物主と、大神民の傘下の鍛冶部の タタラの女・神との伝 の中では最も新しく、河内出身の大神民が、力モ系の社を包摂し、 このように見ると、神武の后の丹塗 矢の物語は、この神 の神婚譚 社 がならんで見える。多分この地がこの説話の母胎地 であろう。 ﹁延喜式神名帳﹂を見ると、摂津国庸丁邦に、二高嶋 神 社と 清作 なぞ︵ ひ 甜神が鸞紺に 化して 自蛇湿擬席 に通い、神武の后 ヒメ タタ ライス コ日本書紀日神代番の一書によると、大物主ではなくて を 犬ヒ ィ ズ Ⅱ︶。松木信広﹁東亜民族文化論放し︵昭昭︶。三彰 品英司建国 健 ﹁古代伝承と宮廷祭祀 口 ︵ 昭弗︶参照。 昭弼︶。 神話の諸問題﹂︵ ④﹁高麗史 口第一巻、高麗世系。 ③松前 ⑥土橋寛司古代歌謡と儀礼の研究﹂︵昭如︶。 ⑤松前歴﹁日本神話の形成﹂︵ 昭蝸︶参照。 昭㎎︶。 ⑦樋口清之﹁三一輪山﹂︵﹁神道考古学講座﹂第五巻︶︵ 巌 ﹁三輪の王権﹂︵﹁古代の日本研 ﹂秀出版、昭邸︶。 ⑨岡田、前掲 書。 ⑧吉井
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