稲城聖書教会 週報

2015 年 11 月 22 日
2015 年 11 月 22 日
【礼拝次第】
礼拝:午前 11-12 時
司会:松 永 旭兄
説教:金 俊 起師
奏楽:永守めぐみ姉
稲城聖書教会 週報
前
奏
招
詞
詩篇 89:1
*頌
栄
聖歌 108
*主の祈り
祈
祷
一
同
司 会 者
使徒信条
一
聖書交読
第Ⅱコリント書 5:1-9
代々限りなく私の口で知らせ
賛
美
聖歌 471
ます。
聖
書
マタイ福音 21:1-11
私は、主の恵みを、とこしえ
に歌います。あなたの真実を
(詩篇89:1)
〒206-0804
東京都稲城市百村 66-8
Tel・Fax.042-377-5546
牧師・金 俊起(090-9809-5838)
http://church.inagibch.com
[email protected]
同
説 教 題
子ロバに乗ったイエス様
賛
美
聖歌 320
献
金
礼拝の前に捧げる
感謝祈祷
吉 川 姉
報
告
司 会 者
*閉 会 唱
聖歌 386
*祝
祷
金 牧 師
後
奏
(*印は一同起立してください。)
【午後集会】
2015 年 11 月 22 日(日・午後)7:30-8:00
聖 書・詩篇89篇
賛 美・聖歌 471、320
・89篇は3回に分けて考えることにします。今日の個所は19-37
節です。神の恵みと真実は、ダビデと結んだ契約によりさらに
明らかにされます。神の真実に対するハイライトは30-33節で
しょう。 「もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたし
の定めのうちを歩かないならば、…わたしは杖をもって、彼ら
のそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。しかし、
わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。」
この真実さは、ダビデと彼の子孫だけではなく、信仰によって
アブラハムの子どもとされた私たちすべてに与えられた神の
約束にも及ぶものです。ところが、知識だけの神の真実と恵み
は人々にあまり影響を与えないかもしれません。しかし、信仰
によって生きようとするとき、神の真実と恵みがどれほど偉大
で、素晴らしいものであるか、それを深く味わうことでしょう。
【水曜祈祷会】
【お知らせ】
・教会堂の移転のためにお祈りください。
床張りの工事は終わりました。これから新しい仕切り壁工事
が始まります。引っ越しは、11月30日(月曜)に行います。
・来週からアドベントが始まります。また、今の場所での最後
の礼拝となります。
・11月23日にクリスマス・バザーがあります。10時からですの
で、協力してくださる方は当日の9時頃に集まってください。
・今週の水曜聖書の学びは引っ越しの準備のために休みます。
・体の弱い方々のためにお祈りください。
・来週(11 月 29 日)の礼拝/マタイ福音 21:12-17
『祈りの家』
2015 年 11 月 25 日(水・午後)7:30-8:30
聖 書・第1列王記17:17-24
賛 美・聖歌 514、519
・(先週) エリヤが登場します。北イスラエル王の悪政に対す
る神の人の登場です。しかし、登場はしますが、すぐ身を隠し
ます。このようなエリヤの登場は、まず神が歴史を傍観しない
ことを意味します。そして、隠されるようにも公にすることも
神はできることを教えるものです。ですから、私たちの歴史は、
偶然や運命、循環などで成り立つものではなく、神によって動
かされるものです。つまり、歴史は神の計画によって進行し、
完成されるということです。このことは、人間の反応と選択、
責任が無視されることを意味するものではありません。それら
を用いながらも最終的には神の計画通りになれるということ
です(ローマ書11:25-27)。そして、この神の計画の根底にはあ
われみであること(ローマ9:18-19)を聖書は教えます。…
【11 月の奉仕担当者】
1日
8日
15 日
22 日
29 日
司 会
岩崎兄
金牧師
岩崎兄
松永兄
金牧師
祈り当番
松永姉
岩崎姉
永守(み)姉
吉川姉
片岡姉
掃除(前日)
南潤兄
松永兄
岩崎兄
吉川姉
皆が
【説教の要約】
2015 年 11 月 22 日
聖書:マタイ福音 21:1-11
説教題:『子ロバに乗ったイエス様』
・イエス様は十字架で殺されるためにエルサレムに入りますが、
大勢の群衆は「自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々
は、木の枝を切って来て、道に敷いて叫んだ。ダビデの子にホ
サナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と、王を迎
えるようにイエス様を迎え入れました。今で言えば、レットカ
ーペットを敷き、外賓を迎えるような姿です。王が凱旋すると
きにまたがるのは馬であってロバではありません。馬は権力の
象徴であり、戦場における最強の武具の一つですが、子ロバは
貧相な動物としか見えないものだからです。しかし、イエス様
は馬に乗った王ではなく、子ロバに乗った王でした。
・イエス様が馬ではなく、子ロバに乗ったのは何故でしょうか。
まず、マタイは「預言者を通して言われた事が成就するために
起こった」と語ります。そして、「見よ。あなたの王が、あな
たのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それ
も、荷物を運ぶろばの子に乗って」(ゼカリヤ書9:9)を引用し
ます。旧約聖書のメシヤ預言が「今、子ロバに乗ったイエス様
によって」成就されたということです。もう一つは、来るべき
メシヤは権力を待つ王ではなく、柔和な王であることを示すた
めでした。「柔和」を表すヘブル語アーナーウは、卑しい、奴
隷状態にあることを意味します。そこから転じて、自分を神の
貧しいしもべと見なし、隣人に対して怒りや傲慢な思いを抱か
ない状態を指す言葉として用いられました。謙遜という言葉と
しても訳されました(民数記12:3)。
・私たちは16章のペテロの信仰告白の後、イエス様が多くの苦
しみを受け、殺されると語ったことに対する弟子たちの無知な
反応を見てきました。それに対してイエス様は、「先の者が後
になり、後の者が先になることが多い」(19:30、20:16)、「あ
なたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者にな
りなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あ
なたがたのしもべになりなさい。」(20:26-27)と教えました。
この教え通りの姿が子ロバに乗っているイエス様の姿です。
・コロサイ1:13-14では、「神は、私たちを暗やみの圧制から
救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦し
を得ています。」と語っています。王としてのイエス様の支配
は、私たちのために「贖いの代価として、自分の命を与える」
ことでした。一般的に王というと、一国の権力の頂点というイ
メージがありますが、良い王は、絶対的な権力を自分のためで
はなく、責任を負うべき国民のために使う者です。イエス様の
支配は、まさにご自身の民のために命までも与える王の姿です。
ですから、王としてのイエスの支配は、愛による支配だと言え
るでしょう。それで、人々は、キリスト教は愛の宗教だと言い
ます。ピリピ2:9-11は、御国で一番認められることが何かを教
えます。それは、イエス様が行われたことを行うことです。
「ご
自分を無にし、仕える者の姿をとり、…自分を卑しくし、死に
まで従い、実に十字架の死にまで従われた」ことです。犠牲と
仕える姿です。人々はなかなか自分のプライドを捨てませんが、
自分の子どものためであれば捨てることさえ喜びます。子ども
が自分よりも立派になるために親は絶えず心配し、犠牲さえも
惜しまずに愛します。ある時には奴隷であるかのように子ども
に仕えたりもします。つまり、犠牲や仕えることは、愛により
支配されている御国の統治の原理であり、中身です。子ロバに
乗った王の姿は、神の支配が何かを教える姿でもあります。
・子ロバに乗ったイエス様に対して、私たちは馬に乗る者にな
りたがる傾向があります。犠牲や仕えるために生きることより
も、自分の生活のために信仰の名で報われることにしか関心が
ありません。神に認められ、喜ばれることよりも人々に認めら
れ、満足すことが優先の生活をします。「最も小さな者たちの
一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」という言葉に耳
を傾け、愛の支配を受ける御国の民らしく歩みますように。
【설교 요약】
2015 년 11 월 22 일
성경 : 마태 복음 21: 1-11
설교 제목 : "나귀 새끼를 타신 예수님"
는 너희를 섬기는 자가 되고너희 중에 누구든지 으뜸이 되
고자 하는 자는 너희의 종이 되어야 하리라"(20:26-27)라고
가르쳤습니다. 이 가르침 그대로 주님은 나귀 새끼를 타신
왕으로 오신 것입니다.
·예수님은 십자가에서 죽기 위하여 예루살렘에 들어가시지
만 군중들은 "자신들의 겉옷을 길에 깔고 또 나뭇 가지를
잘라 와서 길에 깔며 소리 높히 외치며 "호산나 다윗의 자
손이요. 찬송하리로다"라며 왕을 맞이하듯 주님을 영접했습
니다. 지금으로 말하면 빨간 카펫을 깔고 국빈을 맞이하는
듯한 모습입니다. 왕이 행진할 때 타는 것은 말이지, 나귀
는 아닙니다. 말은 권력의 상징이며, 전쟁에선 강한 무기
중의 하나이지만, 나귀 새끼는 연약한 동물로 밖에 보이지
않기 때문입니다. 그러나 주님은 말을 타신 왕이 아니라 나
귀 새끼를 타신 왕이었습니다.
·골로새서 1:13 에는 "그가 우리를 흑암의 권세에서 건져 내
사 그의 사랑의 아들의 나라(지배)로 옮기셨으니"라고 말하
고 있습니다. 왕으로서의 예수님의 지배는 우리를 위해 "대
속물로 자신의 생명을 주는"것입니다. 일반적으로 왕은 나
라의 권력의 정점이지만, 좋은 왕은 그 절대적 권력을 자신
을 위해서가 아니라, 국민들을 위해 쓰는 자입니다. 예수님
의 지배는 백성을 위해 목숨까지도 주시는 것입니다. 그래
서 왕이신 예수님의 통치는 사랑에 의한 지배라고 말할 수
있습니다. 보통 사람들은 기독교를 사랑의 종교라고 말합
니다. 주님의 지배가 사랑을 근거로 하고 있기 때문입니다.
빌립보서 2:9-11 은 주님 나라에서 가장 크게 인정받는 것
이 무엇인가를 보여줍니다. 그것은 주님이 행하신 것입니다.
"자기를 비워 종의 형체를 가지사 사람들과 같이 되셨고…
자기를 낮추시고 죽기까지 복종하셨던" 그 희생과 섬김을
말하고 있습니다. 사람들은 좀처럼 자신의 자존심을 버리지
않습니다. 그러나 자식을 위한 것이라면 버리는 것까지도
기뻐합니다. 아이가 자신보다 훌륭한 사람이 되도록 부모는
끝없이 염려하며 희생까지도 마다하지 않습니다.어떤 때는
노예인 것처럼 아이를 섬기며 사랑합니다. 즉, 희생과 섬김
은 사랑에 의해 지배되는 주님 나라의 통치 원리이며 그
내용입니다. 나귀 새끼를 타고 오신 왕의 모습은 하나님과
그 나라의 통치가 무엇인가를 드러내는 모습이기도 합니다.
·예수님이 말이 아니라 나귀 새끼를 타신 이유는 무엇일까
요? 먼저 마태는 "선지자를 통하여 말씀하신 것을 이루려
하심"이라고 말합니다. 그리고 "시온 딸에게 이르기를 네
왕이 네게 임하나니 그는 겸손하여 나귀, 곧 멍에 메는 짐
승의 새끼를 탔도다 하라 하였느니라"(슥 9:9)를 인용합니다.
구약의 메시아 예언이 "지금 나귀 새끼를 타신 예수님에 의
해 성취된 것임을 가르치기 위함입니다. 또 오실 메시아는
권력을 드러내는 왕이 아니라, 온유한 왕이심을 가르치기
위함입니다. "온유"의 히브리어는 아나우로, 천한 노예 상태
를 뜻합니다. 이 뜻으로부터 자신을 하나님의 천한 노예로
여기며, 이웃에게 분노와 오만한 생각을 품지 않은 것을
가리치는 말로 사용되었습니다. 겸손이라는 말로도 번역되
었습니다 (민 12:3).
·우리들은 16 장의 베드로의 신앙 고백 후에 주님이 제자들
에게 자신이 고난을 받고 죽을 것이라는 말을 했는데, 이에
대한 제자들의 무지한 반응을 알고 있습니다. 그래서 주님
은 "먼저 된 자가 나중되며 나중된 자가 먼저되는 경우가
많다"(19:30,20:16) ","너희 중에 누구든지 크고자 하는 자
·우리들은 나귀 새끼가 아니라 말을 타려고 합니다. 희생
과 섬김보다는 자신의 삶에 신앙으로 무언가 받고 싶다에만
관심이 있습니다. 주님께 인정받고 주님을 기쁘시게 하는
것보다 사람들에게 인정받고 자신이 만족할 것을 더 기대합
니다. "가장 작은 자들 중 하나에게 한 것이 내게 한 것"이
라는 말씀을 품고 사랑의 지배를 받는 자답게 행하시기를.