I-11 飛鳥古墳の被葬者のなぞ

I-11
飛鳥古墳の被葬者のなぞ
船氏王後墓誌
銅板
小野毛人墓誌
金銅版
*古墳の被葬者がなぜ決まらないの?
文献資料が殆ど残されていない奈良期以前の古墳の被葬者が明確になっている事例は僅
かしかない要因の一つとして墓誌の有無が挙げられている。
墓誌は中国では墓の被葬者を示すものとして墓と一体になって出土するのが常ではある
が、我国では僅かの事例しか発見されていない。
土葬の事例としては上記に示す二例があるが他は火葬墓からの墓誌で 16 件が発見され
ているのみである。
宮内庁は陵墓治定の変更は「墓誌が発見されない限りあり得ない」と主張しているが、
今後も発見される可能性が殆ど無いことを予想してのことであり、我国の墓誌の多くは金
銅製の小片で移動可能出土品のため古墳との関連性が希薄な場合が多くあり、被葬者の決
定的証拠とは成り得ないことも承知で主張しているとも考えられる。
例えば卑弥呼の「親魏倭王」金印が発見されたとしても発見された地域が邪馬台国であ
ると主張出来ないのと同様である。
発見された 16 事例も古墳の発掘調査中に発見されたものは殆ど無く、偶然発見されたも
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のが殆どで古墳や墓との関連性は後付けの予測でしかあり得ない。その中で太安満侶墓誌
は発見された場所を発掘調査した稀な事例である。
従って野口王墓の如く文献にて裏付けられた遺品があり、客観的に決定付ける証拠が認
知されなければ被葬者の確定に至らない事になる。
特に宮内庁指定陵墓に関しては学会が調査結果に基ついて被葬者を設定しても、宮内庁
が治定変更をしなければ決定には至らない。
更には根本的な問題が存在して基本的に考古学は相対年代を割り出す手法であり、絶対
年代決定資料が得られるケースは稀である。
考古学手法では層位学(堆積土層、火山灰、花粉等)編年法や型式学(土器、石器、金
属器、木器、骨角器等)編年法では相対年代しか設定出来ないため設定年代に 50 年以上の
幅がどうしても発生するケースが多い。近年開発された理化学的(カリウム、ウラン、放
射性炭素、電子スピン共鳴等)編年手段は絶対年代の測定可能ではあるが必ず誤差が伴い
相互検証が不可欠で簡単には適用できない。一年程度の誤差の範囲に収まるとして活用さ
れている「年輪年代測定法」は法隆寺再建論でクローズアップされたが採取試料に制限が
あり万能では無い。
また文献史学では暦年から絶対年代が割り出せるが古墳時代の如く元号使用以前の干支
表示では 60 年の差異が発生する。従って学会では種々の手法を用いて年代を予測するが絶
対年代を割り出せる事例は僅かである。
*飛鳥期の古墳で被葬者決定しているのは?
飛鳥期の天皇陵では学会で誰もが認知しているのは天智陵(御廟山古墳)、天武・持統陵
(野口王墓古墳)のみで、改葬されたとされる例では用明陵(春日向山古墳)、推古陵(山
田高塚古墳)
、舒明陵(段ノ塚古墳)程度でしょう。
*宣化陵に指定している鳥屋ミサンザイ古墳は建造が 5 世紀末とする和田説で異論あり
*欽明陵は梅山古墳でほぼ決定とされていたが森説で見瀬丸山古墳が有力視されている
*敏達陵は太子西山古墳説以外に二子塚古墳説あり
*崇峻陵は赤坂天王山古墳が有力視されている
*皇極・斉明陵は岩屋山古墳が有力視されていたが牽牛子塚古墳が現在本命視されている
*孝徳陵は山田上ノ山古墳としているが付近から海獣葡萄鏡の出土のみで実証性に欠ける
*文武陵は中尾山古墳が学会では通説となっているが宮内庁は認めていない
現在宮内庁が指定している陵墓は江戸期に治定されたものをそのまま引き継いでいるの
が実態で、新たに考古学調査に基ついて被葬者を決定した事例は無い。
*天皇陵以外の皇子墓の被葬者はどうなの?
天皇陵以外では皇子墓についての被葬者調査の事例が多いのは陵墓指定されていない古
墳の考古学調査の結果である。
*竹田皇子墓:推古の一人息子で植山古墳に埋葬し、隣接した石室に推古が追葬されたの
は通説なるもその後改葬されたため?副葬品が殆ど無いとされているが盗掘に遭って副
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葬品が逸散してしまった可能性もある。改葬の実証は山田高塚古墳を調査するしかない
が推古陵指定のため謎のままでしょう。植山古墳は現在橿原市により整備中で近々公開
されるがどんな形で復元されるか興味あり。I-3 参照
*押坂彦人大兄皇子墓:敏達の長男で次期大王候補なるも母が非蘇我系のため蘇我系の欽
明の皇子等に先行され即位できずに没して広陵町の牧野(ばくや)古墳に葬られたとさ
れるのが通説となっている。この大兄の息子が舒明として即位しその後の皇系となった
ため皇祖大兄と称されており、この墓は延喜式で「成相墓」
(ならいのはか)として治定
されている。
*聖徳太子墓:現在宮内庁指定陵墓「聖徳太子磯長墓」とされている叡福寺北古墳を学会
も認知している。この古墳は明治12年修復工事で学術調査がされた稀な事例で石室内
に母・本人・妃の三棺が確認されているが遺骨は風化して確認できなかったとされ、石
室入口はコンクリートで閉鎖された。2002年に結界石保存整備時の限定公開が実施
されている。
*山背大兄王墓:聖徳太子の息子とされているが「上宮聖徳法王帝説」によるもので「日
本書紀」にはこの記載は無い。一説には欽明の皇子で推古や用明の12番目の弟とされ
ており聖徳太子から見れば叔父にあたるが年代的には同等か年下の可能性があるとされ
蘇我系の皇族で有力皇位継承者とされた。しかし蘇我入鹿に攻め滅ぼされて延喜式では
平群郡北岡墓に葬られたとされ、宮内庁は斑鳩町の「岡の原」にある小山を「富郷陵墓
地」として参考地に指定しているが実証はされていない。学会では平群町の西宮古墳が
1975年に橿考研・河上邦彦氏により調査され辺36Mの方墳で山背大兄王墓と推定
されている。
*草壁皇子墓:天武と持統の息子で即位直前に没したが墓所は日本書紀に記されていない
ため不明であったが、高松塚古墳発見で被葬者説あるも出土人骨推定年齢が40~60
歳のため対象外となり、マルコ山古墳説も出たが昭和59年橿考研・河上邦彦氏が発掘
調査した束明神古墳が現在通説となっている。
*大津皇子墓:天武の皇子で最も嘱望されていたが持統の策謀で処刑され姉の大伯皇女が
哀しんで詠んだ二上山に葬られた。雄岳山頂に宮内庁による大津皇子二上山墓があるが
幕末に設定されたものであり、麓の鳥谷口古墳の方が可能性有りとされている。出土土
器から7世紀後半の築造で石槨の石材に石棺として製作されたものを転用しており急造
したと予測され改葬墓とも見られているが実証性ある遺品は出土していない。
*高市皇子墓:天武の長男で壬申の乱の英雄とされるも母が地方豪族の娘のため皇位継承
権が低くされたが持統朝では最高官僚として持統を支援した。延喜式では広瀬郡の三立
岡墓に葬ったとあるが相当する古墳無く、上牧町の久渡2号墳を充てる説あるも未調査
で実証出来ていない。現状高松塚古墳説が原田大六、河上邦彦氏等に支持されているが
キトラ古墳説が猪熊兼勝氏により提唱されている。
尚「高松塚古墳」は弓削皇子説(梅原猛)、忍壁皇子説(直木孝次郎・猪熊兼勝)等天武皇
子墓に比定する考古学者が多いが百済王禅光説(千田稔)や石上麻呂説(白石太一郎)等
諸説あり。
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一方「キトラ古墳」に関しても高松塚と同じく天武の皇子説と高級官僚説があり、高市皇
子説(猪熊兼勝)、忍壁皇子説(王仲珠)、官僚では阿部御主人(あべのみうし)説(白石
太一郎)があるがいずれも7世紀末から8世紀初めに没した人物であり被葬者確定には至
っていないのが実情である。今後も「なぞ」として残るでしょう。
*陵墓指定されていない豪族の墓は?
学術的調査のみで被葬者の決定は可能ではあるが、平安末期から全国的に武士による武
力闘争・戦乱が頻発することで古墳そのものが要塞化で改変されたり破壊の可能性があり、
財宝目的の盗掘が常態化していた。従って被葬者決定資料となるべき遺品が消失しており
現在の考古学技術を駆使しても決め手となる証拠を見つけ出せないのが実情である。
また古代においては大王家と豪族で権力把握では大差なく、実権としては豪族が上回っ
ていた可能性もあり大型古墳の築造力は充分あったでしょう。従ってめぼしい大型古墳は
殆ど陵墓指定されているため調査不可で解明できないことも謎の要因となっている。
*蘇我氏墓:石舞台古墳は蘇我馬子墓として通説となっているが直接資料は無く間接資料
から推定したものである。最近の調査で石舞台の南にある都塚古墳が方墳でピラミッド
状の墳丘を有することが判明し、馬子の父・蘇我稲目墓説が出されている。
馬子の息子と孫にあたる蘇我蝦夷・入鹿父子墓が双墓(もろはか)として日本書紀に大
陵・小陵と称したあり、水泥古墳・水泥塚穴古墳をそれに充てていたが、今年1月に小
山田遺跡の現場説明会があり50M以上の方墳の可能性から舒明陵か蘇我蝦夷墓説が
ある。現時点では方墳か他の遺跡かは不明なるも、もし方墳なら隣接する菖蒲池古墳と
併せ双墓の可能性がある。菖蒲池古墳は30Mの方墳で7C中頃の築造なるも石棺内部
漆塗りで特異、二石棺、一世紀も経ないで7C末に改変されている謎の古墳です。
今年4月以降の小山田遺跡の再調査の結果が楽しみです。
D-2 参照
*物部氏墓:古代では大豪族として存在感を示し欽明朝で物部尾輿や守屋が活躍したが蘇
我氏との勢力争いで守屋が敗れたため忘れ去られた。従って被葬墓も不明で守屋の墓と
しては天理市のハミ塚古墳(48M方墳)とする河上邦彦説や「石の宝殿」を未完成墓
とする森浩一説がある。その後天武期に石上朝臣姓を賜った石上麻呂の墓を高松塚古墳
とする白石太一郎説がある。
D-3 参照
*大伴氏墓:5C~6Cに大豪族としての黄金期を迎えた大伴氏は大伴金村が任那割譲で
守屋尾輿に責められ失脚後は忘れ去られた。その後壬申の乱で活躍したため天武朝で復
活したので歴史上に再登場し、大伴御行墓としてキトラ古墳説がある。奈良時代には万
葉集歌人として活躍した大伴旅人や家持が出自する。伝説としては大坂の帝塚山古墳を
大伴金村墓とする説もあるが築造が5C~6Cで可能性は低い。
D-4 参照
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*なぜ我国の古墳に被葬者名を入れないの?
多民族国家においては自己主張しなければ埋没してしまう可能性大で認識して貰うため
には名前を残すのが不可欠であった。
中国の古墳においては魏・蜀・呉の三国時代以降石製の墓誌が殆ど残されており、被葬
者の経歴、業績等が判明している例は多い。これは覇権国家であるが故の理由もあり、国
の覇者が変われば先代の国が滅びて抹消されてしまう運命にある。
従って生活の知恵として覇権を握った勝者は敗者の国の歴史を綴ることで中国の歴史は
保たれてきた如く文字として残すことが不可欠と云える。
一方我国は単一民族であるだけでなく、島国であるため民族の単一性が維持される環境
にあり、年月が経ても伝承で語り継がれると信じられていた。
従って文字を導入した後も被葬者名を記した墓碑を入れる習慣がなかったのでしょう。
しかし火葬墓の発生で遺体が消滅するため墓誌の必要性を感じた一部の人が利用したと考
えられるが、多くの人は過去の習慣に従っていた結果として墓誌が殆ど残されていない。
一説には中国から葬送儀礼としての石製墓誌の文化が伝わってはいたが、古墳築造に係
わる石工集団には文字を駆使する作業経験がなく、渡来系の金工集団による異質の墓誌が
一部に採用された事例としている。
<註>
二子塚古墳:山田高塚古墳の東南200Mにあり、二基の方墳が連接して双方墳と考えら
れ築造は7Cの横穴式石室と刳抜式石棺を一基ずつ保有している
赤坂天王山古墳:江戸期には崇峻陵と治定されていたが明治期に宮内庁により1.7Km
南西にある倉梯岡陵が指定された
天武の皇子:高市・草壁・大津・舎人・長・穂積・磯城・弓削・新田部・忍坂の10皇子
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