Nara Women's University Digital Information Repository Title 能登川扇状地における古墳時代の開発史の検討:集落遺跡の発掘調 査成果や周辺の古墳の様相をもとにして Author(s) 安井, 宣也 Citation 安井宣也: 都城制研究(1) (奈良女子大学21世紀COEプログラム報告 集 Vol. 17), pp. 35-85 Issue Date 2007-11-30 Description URL http://hdl.handle.net/10935/2737 Textversion publisher This document is downloaded at: 2016-08-01T16:31:46Z http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace 能登川扇状地 における古墳時代の開発史の検討 ∼集落遺跡の発掘調査成果や周辺の古墳の様相 をも とに して∼ 奈良市教育委員会 安井 宣也 は じめに 奈良盆地北東部の奈良市内にある能登川扇状地 における古墳 時代 の開発史 について、扇 央部 に位置す る古墳時代の集落遺跡である東紀寺 ・南紀寺遺跡や扇端部で確認 された弥生 するが まち 時代後期末∼古墳時代 の集落遺跡 ( 杉 ケ町遺跡 ・三条遺跡 ・大森遺跡等)の発掘調査成果 と周辺の古墳 の様相 をもとに検討 を試みた。 あわせ て、「開発」、「開発史」及 び 「 遺跡 の発掘調査」 といった関連す る基本的な概念 及 び事項や、奈良盆地 における古墳時代 の開発史 についての筆者の見解や展望 も記 した。 Ⅰ.開発 ・開発史 と遺跡の発掘調査 1.開発 と自然環境 について 開発 人 は生活するうえで陸上の様 々な自然環境 に適応 して、岩石 ・鉱物、水、植 ・動 物 を利用 ・加工 して生活資源 とし、地形や植生 を改変 し、水流 をコン トロール して 自らの 生活 に好都合 な土地利用 を行 う。 「開発」 とは、人が陸上で生活す るうえで、生活資源の 確保や生活 に好都合 な土地利用 を行 うことを目的に地表 を改変す る行為 をさす。 自然環境 人 を取 り巻 く自然環境 には、気候、地形 ・地質、水、植生、土壌 といった諸 要素があ り、 これ らの要素が相互 に作用 し合 って成 り立つ ( 図 1)。 例 えば陸上 における地形 ・地質は、太陽の放射エネルギー とその影響 で生 じる地上の大 気 ・水等 の流動 といった外作用、地球 内部 に由来する熟 と重力 といった内作用や、人類 出 現後 には人の土地利用 に伴 う改変行為が複合的 に作用 して形成 される 水 は太陽の放射エ 。 ネルギー に よ り循環 し、陸上か ら蒸発 した水 は降水 ( 雨 ・雪) に よ り陸上 に戻 る。 陸水 ( 陸上の水) には地表水 と地下水 とがあ り、分布 は地形 ・地質 と関連す る。 植生 と土壌の 成立 と分布 は、気候、地形 ・地質、水、生物 ( 動物、人、微生物)・時 間 といった要因 と 関連す る 。 開発 と作用 ・反作用 前述 したように人 は生活資源の確保や生活 に好都合 な土地利用 を 行 うために開発 を行 うが、 自然環境 の各要素 間に相互作用が成 り立つため、開発 とその後 の活動が 自然環境 の変容 をもた らし、変容 した環境 に適応せ ざるをえな くなるとい う 「 作 用 一反作用」 の関係が成 り立つ。例 えば、開発 に伴い森林 を伐採 した結果、そ こに生活 し ていた動物が人里 に下 りて きて農作物 に被害 を及 ぼ し、人がその駆除に追われる事態や、 工業生産の活発イヒや森林伐採 による大気 中の二酸化炭素の増加がオゾ ン層の破壊 による紫 外線の増加 を招 いて地球温暖化 をもた らし、気候、海水準や生態系が変化 して人の生活 に 影響す る事態があてはまる。 反作用 は新 たな開発 の きっかけ とな り得 る。 -3 5- 非 生 物 的 環 境 者 産 太 陽 エ ネ ル ギ ー 生 C O 2 , H 2 0 , 0 2 ( 緑 色 植 物 ) 栄 養 塩 類 ヽDl a/? 分 解 者 自矢印 :エネルギー の動 き ( 有機栄養微生物) 旦 黒矢印 :物質移動 2. 生態系 1. 地表の様子 ︻ 作用系列︺ 侵食領域( 陸上) 堆横額域 ( 緯底,湖底) [ 課 r 堆梯作用) 形( 続成作用) 繋件 ] 輔 1 2 3 4 地学ハ ン ドブ ックか ら改変 ・引用 山岸 ( 1 989) を一部改変 中西他 ( 1 983) 紺野他 ( 1 991 ) を一部改変 ︻ 准響 石の性質] 4. 堆積物の形成 図 1 地表の様子 とさまざまな関係 -3 6- 図2-A 学園前付近の景観 ( 陸地測量部 「 西大寺村」( 1 8 8 7 ) 、1/ 2 5 , 0 0 0 ) 図2-B 学園前付近の景観 ( 奈良市全図 ( 1 9 7 9 ) 、1/ 2 5 , 0 0 0 ) -3 7- 開発 と社会 ・自然環境 開発の 目的、内容や規模 は自然環境だけでな く社会の内容 ( 体 制、経済、技術力)や規模 に応 じて異なるため、人の生活 と自然環境 とが相互に作用 し合 う関係は社会の内容や規模 によっても異なる。 例 えば奈良市西部の学園前付近は、主に1 9 6 0 年代以降に大規模 な住宅開発がなされるが、 その前は農村であった ( 図 2-A ・B)。 農村の開発 は、開析谷の谷底低地の水 田化 と丘陵 端部の造成による集落の形成か らなる。 集落間は水系 を通 じたつなが りをもち、丘陵の森 林では薪炭材が採取 されて 「 里山」の様相 を呈する。 道路 は主に谷伝いに通る。 一方、大規模 な住宅開発 は大手私鉄会社 と住宅公団によって計画 ・実施 された もので、 大型重機で森林 を伐採 し、丘陵や谷 を平坦 に改変 して宅地造成 を行い、住宅や団地 を建設 している。 また、学園前駅へ至る幹線道路が新 たに造 られている。 この開発 は当時大都市 である大阪市周辺で良好 な住宅地の確保が困難であったことが背景にあ り、巨額の投資 と 土木 ・建設技術の進歩により可能になっている。 開発後の生活については電気や上下水道 が完備 し燃料 も都市ガスで、食料や生活用品の確保 は商品経済による。 農村 と住宅 ・団地 とでは開発やその後の生活で人の 自然環境 に対する認識に明 らかな違 いがある。 農村 の開発 と生活では自然環境 は維持 ・活用 の対象 として認識 されるが、住 宅 ・団地では人に都合が よい社会 ・経済の しくみが優先 され、 自然環境 は維持 ・活用の対 象 として認識 されていない。人の生活における自然環境 に対する認識は、開発 とその後の 土地利用 といった行為 を通 して地域の自然環境のあ り方に反映 される。 2.開発の研究について 研究の着眼点 ① 開発 を研究する際の着眼点は、 1を踏 まえれば以下のことが考 えられる。 開発前の人の生活 と自然環境の様相 ( 参 開発の 目的 と内容 a 開発の 目的 と動機 となる社会 ・自然的背景 b 開発の対象 ・内容 とそれ らに要する知識、技術、労力、資本、社会体制 ⑨ 開発後の人の生活や 自然環境の様相 相互関係 ・作用の理解 開発の主体者 となる人は、秩序や利害関係等様々な社会関係の 上で生活 を営んでいる。 開発の内容や規模 は、その主体者 となる人の社会 ・経済的立場や 技術力、権能等に規定 される側面がある。 また、開発の対象 となる自然環境 も複数の要素 が相互に作用 し合 ってお り、開発 とその後の活動が 自然環境の変容 をもた らし、変容 した 環境 に適応せ ざるをえな くなるという 「 作用 一反作用」の関係 も成 り立っている 開発の 。 内容 ・性格や様々な側面 を検討するためには、開発 に関連する人や社会、 自然環境の要素 の属性 と要素間の相互関係 ・作用の理解が不可欠であると考える。 大局的な見地 人里への野生動物の進入や地球温暖化で例示 したような開発 とその後の 人の活動が 自然環境 に及ぼす影響は、周辺地域や より広範な地域で捉 えられる事象である。 また、奈良市西部の学園前の住宅開発の例 も従前の地域社会の動向とは別に当時の大阪市 -3 8- 近郊の住宅事情や大手私鉄会社 ・住宅公団の動向 との関連で捉 えられる事象である。 開発 の必要が生 じた社会的背景や開発が 自然環境 に及ぼす影響 を理解するためには、開発 され た特定の地域や時点だけにとらわれない大局的な見地が必要 と考える0 関連する研究分野 と方向性 人の生活 と自然環境の様相は、地域 によって異な り、時間 の経過 により変化する。 開発 もまた同様である。 したがって、開発 は地理学、人類学、歴 史学の研究対象 となる。 自然環境の個々の要素 については気候学、地形学、地質学、水文 学、植生学、土壌学 といった個別の研究分野があるため、研究内容は人文 ・自然の両分野 にまたがる複合領域的なもの となる。 複合領域的な研究を進めるには関連分野の研究者の共同研究が前提 となる。学界が人文 ・ 自然の 2分野に大別 され、研究分野が細分化 されている現状では、最初 に各研究分野にお いて共通認識 として必要な内容 をピックアップし、一つの体系 にまとめて研究者間で共有 し合 うことが必要 と考える。 31開発史の研究と遺跡の発掘調査について 開発史の研究 開発史 とは文字通 り開発の歴史であ り、開発史の研究は開発の研究の一 環で、過去の開発の様相や変遷 を把接 し評価する研究 と捉 える。研究にあたっては、前述 した開発の研究の着眼点、理解や見地 を踏 まえる必要があると考える。 開発史の資料 としての表層地質 人類出現後 における陸上の表層地質、すなわち地殻表 層 を構成する物質の性状 は、前述 したように自然の作用である外作用 ・内作用 と人の改変 行為が複合 して形成 されるため、 自然 と人為 とを総合 した捉 え方が必要 と考えられる。 両 者 を総合すれば、岩石 ・鉱物 ( 無機物) を主に人を含む生物遺体 ( 有機物) とで形成 され、 ① 岩体 : 岩石 ・鉱物の集合体 ( 火成岩 ・変成岩 ・堆積岩) ( 多 古土壌 : 過去に地表で生 じた土壌 ( 彰 生痕 : 過去 に生息 していた生物の活動痕跡 ④ 遺構 : 過去の人の活動 に伴 う陸上の改変行為の結果生 じた物的遺存体 といった成因や性状の異なる諸要素で構成 される複合体 と捉 えられる。 岩石 ・鉱物 と生物 遺体 は、 自然のままの もの と、遺物、すなわち過去の人が何 らかの 目的で直接利用、ある いは加工 して製作 した物的遺存体か らなる。 過去の人の活動や 自然環境の様相は表層地質の諸属性 に反映される 人の活動は遺構や 。 遺物 に、 自然環境のうち地形 ・地殻変動や水流 は岩体 に、生物相 は生物遺体や生痕 にそれ ぞれ反映される。 また気候 は化石地形 と生物遺体や生痕 に反映される生物相か ら推測で き る。 したがって、過去の開発の様相 を表層地質か ら読み取 ることが可能であ り、表層地質 自体 を開発史の研究資料 として扱 うことができると考 える。 開発史の資料 としての遺跡 遺跡 とは、近藤 ( 1 976)によれば「 一定の拡が りの内にある遺 物 ・遺構 と、その諸関係の一切 によって構成 された構造体」と定義 され、「 一定の人間集団 の全活動の化石」として捉 えられる。 「 一定の拡が り」とは、「 基本的には関係の連続 とその限 -3 9- 界をどう捉えるかにかかる」 としている。筆者は人の活動が自然環境 と関連することを踏まえ、 遺跡が存在する場の過去の自然環境を反映する地形 ・地質をも含めた構造体 と考えている。 遺跡は、その場で過去 に起 こった現象だけでな く、当時の人の活動の動機 となる社会背 景や 自然環境に対する認識や思想が把握できる。 開発史の研究では、遺跡は開発の動機や その後の土地利用 に関連する認識や思想 を把握で き、地質の分析や遺構の埋土に含 まれる 生物遺体の分析 により当時の 自然環境が推察で きる総合的な研究資料であるといえる 。 考古地理学 「 考古地理学」 とは、地理学辞典 (日本地誌研究所編 1 989)によれば、歴史 地理学の一分科で、主 として遺跡 ・遺物などによって、先史お よび歴史時代の地域の特質 を復元研究するとある。 調査 ・研究の体系は小野 ( 1 9 80)に詳 しい。 考古地理学の観点は、過去 に行われた開発の様相や地域の自然 ・社会環境 との関連 を把 握する際に欠かす ことがで きない。研究にあたっては、人の活動 を反映する物的遺存体で ある遺構 ・遺物 と当時の自然環境 を反映する状況証拠 ( 地質 ・生物遺体)を手がか りに当時 の地表の景観 を復元 し( 景観復元)、復元 した景観 をもとに地表で生 じた自然 ・人文の両現 象の相互関係 ・作用 を検討 し、把握することになる 。 「 埋蔵文化財」の発掘調査 と開発史研究 現在、 日本各地で文化財保護法の手続 きに基 づ く開発事業に伴 う事前の遺跡の発掘調査がなされている。 文化財保護法では、「 一定の拡が りの内にある遺物 ・遺構 と、その諸関係の一切 によっ て構成 された構造体」である遺跡 は土地の埋蔵物である文化財 ( 「 埋蔵文化財」 ) と位置づ けられ、それ らが分布する ( あるいは可能性がある)地域 は、「 周知の埋蔵文化財包蔵地」 として 「 遺跡地図」に記載 される。 「 埋蔵文化財」の指定 と管理 は現在都道府県 に権 限が あ り、調査 ・研究機関が実施 した地表での分布調査や発掘調査の成果を参考になされる。 「 遺跡地図」は行政 目的で作成 された台帳で、 自治体が発行 した土地利用図を基図に用い て 「 周知の埋蔵文化財包蔵地」の範囲を記載 した ものである。 「 周知の埋蔵文化財包蔵地」 の範囲は実際の遺跡の範囲 と必ず しも一致 しない し、地域の遺跡の全容 を示す もので もな い。 したがって、遺跡 を含む過去の地理に関する情報資料 は別途に作成する必要がある。 「 埋蔵文化財」の発掘調査 は、特 に開発事業 に伴 う事前の発掘調査の場合、行政指導 に より開発者の協力 を得て実施するため、場所、時間や費用等の条件 に様々な制約がある。 また、遺跡が所在する自治体、調査機関や調査担当者の取 り組み ・力量によって内容や質 に差がある。 調査対象 ・内容 に関 して、重点が置かれるのは概 して周知 された特定の時代 や種類の遺構や遺物であ り、過去の自然環境 を反映する状況証拠 ( 岩体 ・古土壌 ・生物遺 体等)や重点が置かれない時代の遺構や遺物については調査が省略 されることが多い。 「 埋蔵文化財」の発掘調査 と関連 して開発史の調査 ・研究 に取 り組む場合 には、筆者の 経験か ら思いつ く限 りではあるが、共同研究 とともに下記の取 り組みが必要 と考える。 ( 丑 市町村程度の単元で概要 を把握する研究 と扇状地や氾濫平野 といった小地形程度の 単元で詳細 を把握する研究 を併行 して行い、調査 ・研究の 目標 を明確 にしてお く。 -4 0- ② 埋蔵文化財の発掘調査の方針 は、行政的な手続 きにより一定の基準で実施 される現 状では根本か ら変えることはで きないので、調査項 目の追加や詳細化 を検討する。 ま た、 自治体や調査機関が もつ様 々な事情 を配慮 し、着手可能な調査か ら進める。 ③ 表層地質 自体が開発史の研究資料 と考えられるので、従来重点が置かれない傾向が あった地層 ・古土壌や遺構埋土の調査 ・記載 を詳細 にする。 なお、従来の遺跡調査の 際の慣用的な記載法は主観的で統一性 に乏 しいので、地質学や土壌学の記載法 を応用 し、慣用的な記載によるデータについて も記載の対比 を行 う。 Ⅰ.奈良盆地 における古墳時代の開発史を考 えるにあたって 1.開発史研究の必要性 奈良盆地では、古墳時代 に首長墓である前方後円墳が初現期か ら大型の ものが築造 され、 東北∼九州地方の各地に時期 を追って波及することか ら、奈良時代の律令国家の母体 とな る大 きな政治権力 をもつ集団 ( 以下、「 大和政権」 とする)の存在が想定 されている。 奈良盆地 も 「 大和政権」の支配下にある。 盆地内の当時の地域社会は、各地に古墳時代 の集落遺跡が分布することか ら複数の共同体の集合体 と捉 えられる。 人は生活資源 を確保 し、生活 に好都合 な土地利用 を行 う際には 「 開発」 を伴 う。 特 に 「開発」の規模が拡大す る場合 には、生活領域 との競合や侵入 など共同体間には様々な利害関係が成立 した可能性 があ り、 これが政治権力 を持つ集団による社会秩序の維持が必要 となる要因 と考えられる。 したがって、「 大和政権」の成立や政治的活動 は、当時の奈良盆地の地域社会の動向 と密 接 に関連する可能性があ り、地域社会 と 「 大和政権」 は一連で捉 える必要があると考える 。 地域社会やそれに政治的に関与する 「 大和政権」の活動の様相 は、当時の集落の様相か ら捉 えられるはずである。 集落に関連する 「開発」の様相 には、共同体の活動 とともに秩 序の維持 に関与 した 「 大和政権」の政治的活動 も反映すると考 え られ、「 開発」の様相か ら地域社会の様相や 「 大和政権」の活動の様相 を読み取れる可能性がある。 したがって、奈良盆地における古墳時代の地域社会やそれに政治的に関与する 「 大和政 権」の様相 を解明にあたっては 「 開発」 を捉 えることが大 きな鍵 とな り、過去の開発の様 相や変遷 を把捉 し評価する研究である 「 開発史研究」が必要 と考える0 2.考古資料 に基づ く開発史研究の方向性 ( 1 ) 集落遺跡 ・古墳の資料的特質 古墳時代 における奈良盆地の開発史研究にあたっては、過去の 「 開発」の所産である遺 跡、特 に集落遺跡 と古墳の調査成果の活用が重要な鍵 となるといえる。 集落遺跡 は、過去 に共同体 を形成 して社会生活 を営んだ人の居住地の痕跡であ り、古墳 は、「 大和政権」 に関係する首長や有力者の墓である。 両者の展 開及び位置関係 に関連が 認め られる場合 には、地域社会 と 「 大和政権」 との政治的関係や地域社会 における古墳の 被葬者の地位 ・役割 を解明できると考 える 。 -4 1- 集落遺跡の資料的特質 集落遺跡は、過去 に共同体 と形成 して社会生活 を営んだ人の居 住地の痕跡であ り、地域の自然 ・社会環境 との様 々な関係のうえで営 まれた生活の様相が 把握できる。 集落遺跡の成立や性格 を理解す る際の留意点は、以下の通 りである。 ( 丑 自然環境である地形 ・地質、水、植 ・動物の地域的特色 ② 生活資源 として活用 した岩石 ・鉱物、水、植 ・動物の種類 と分布 ⑨ 集落の人口 ・社会構造及び成立の社会的 ・歴史的背景 ④ 生活資源や居住地の確保 と維持 に関わる労力や知識 ・技術、社会秩序 ⑤ 交易の対象 となる生活資源の原産地 とそれを確保するためのルー ト ⑥ 近接する集落 との関係 また、 自然環境の調査 ・研究 も必要で、 とくに生物の活動や水 ・熟の配分に関連する旧 地形 と、生活資源であ り環境指標 となる植物遺体 は総合 して取 り扱 うべ きと考える。 古墳の資料的特質 古墳は 「 大和政権」 と関連する古墳時代の墓制である。 近藤 ( 1 966) によれば、墳丘、内部構造 (-埋葬施設)及び副葬品、外衣施設 ( 茸石 ・埴輪)等の諸要 素の全部 または一部の有機的結合 として存在 し、変異が極めて大 きい特質がある。 古墳の築造は労働力 を動員で きて初めて可能になるので、被葬者 は築造工事 に見合 う労 働力 を動員で きるだけの社会的地位や権力 を有する首長や有力者 と考 えられる。 墳丘の規 模 ・様相 と作業の内容、労働量及び労働力 には相関関係がある。 例 えば、周濠を巡 らし、 外衣施設に埴輪や茸石 を施 し、埋葬施設が竪穴式石廓で多 くの副葬品を収めた全長200mの 前方後円墳の築造は、周濠や外表施設がな く、埋葬施設が木棺直葬で副葬品が少ない径 1 0 m の円墳の築造 よりも作業の内容、労働量や築造工事に要する労働力がはるかに多い。同 時期 ・同地域の古墳の場合、墳丘や埋葬施設の規模 ・様相や副葬品の内容の差が被葬者の 生前の社会的地位や権力 ・影響力の違いを反映すると理解で きる。 ただし、あ くまでも葬送儀礼 を伴 う政治的なモニュメン トであ り、被葬者の生前の政治 的活動 を直接反映 しない。葬送儀礼は死後の観念世界 を反映する可能性がある。 ( 2) 奈良盆地の 自然環境 と集落の様相 奈良盆地における古墳時代の旧地形 ・植生や集落について、既往の研究か ら把握 されて いる様相は、以下の とお りである。 旧地形 奈良盆地内の現地形 と表層地質は、武久 ( 1 98 2)、尾崎 ・寒川他 ( 2000)、西岡 ・ 尾崎他 ( 2001 ) 等に基づ くと、以下の特色が把握で きる ( 図 3) 。 A 概 して花尚岩の基盤岩か らなる山地の山麓部か ら低地部に向かって後期更新続の砂 磯層か らなる中位段丘、最後期更新続の砂裸層か らなる扇状地、完新続の泥 ・砂層か らなる緩傾斜扇状地、氾濫平野の順で配列する 緩傾斜扇状地では、扇状地の砂裸層 。 の上を完新続の泥層や砂層が覆 う 。 B 盆地 を流れる主要河川が西辺中央部に収束する扇状の水系が成立 し、主要河川の収 束部付近 と主要河川沿いに氾濫平野が形成 されている。 また、扇状地の扇面や氾濫平 -4 2- 1 E! 澗 - 一 ′ ■ ■ ■ 一 t 1 図註 ( . i . ; : L i ; ' : I . ド . r ■ 1 :丘 陵 2 :高位段 丘群 3 :中位段 丘 4 :低位段 丘 Ⅰ 5 :低位段 丘 Ⅱ 6 扇状 地 7 後背湿地 ・谷底低 地 8 等高線 ( 50 m間隔) 9 活 断層 警 m 三 冠 3 田 ;ワ 8 T 6t A 9 ※武久 ( 1 982) との対応 2-上位砂礁 台地 3- 中位砂礁 台地 4-下位砂礁 台地 ・やや隆起 した扇状 地 5-扇状 地 6-緩傾斜 扇状 地 7-氾濫平野 ・谷低平野 地形分類 :池田 ・大橋 ( 1 997) 400, 000) 図 3 奈良盆地 の地形 ・地 質 (1/ ⊂コ E ヨ 沖積層 段 丘堆積層 阪下 団 中新世堆積岩類 【Ⅱ 】 丹波層群 【 三】 中新世火山岩類 田 領家複合岩類 \ \ - E ! E !河床 が一段低 い 図 5 弥生∼古墳時代の扇状地周辺の地形 一植生景観想定図 ※ 図 4 奈良盆地 を模式 とした近畿地方中央部における植生 993) と農耕の変遷 ( 金原 1 ※ ニ ヨウマ ツ類 :マ ツ属複維管束亜属 カシ類 :コナ ラ属 ア カガ シ亜属 ウ リ類 :キ ュウ リ属 河川 :中井 ( 1 9 8 3 ) を もとに想 定 植生 :金原 ( 1 9 9 3 ) を もとに想 定 野には複数の旧河道を反映する凹地や水田地割が認め られる。 C 緩傾斜扇状地や氾濫平野を流れる河川の河道が条理 プランの水田に規制 され、堤防 によって人工的に固定 されている。 中井 ( 1 9 8 3 )は、奈良盆地内の1 9 遺跡の発掘調査成果か ら縄文時代後期か ら平安時代 にか けての旧地形 を概観 し、以下のような特質を指摘 した。 ( 丑 縄文時代後期か ら平安時代後半頃までの遺構面が同一である。 ② 箸庵遺跡 ( 広陵町)と土橋遺跡 ( 橿原市)では、縄文時代後期以前に成立 し平安時代後 期の1 2世紀代 に機能を失 う大 きな旧河川が確認 されてお り、 この旧河川が存する時期 と同一ベースを生活面 としていた時期 とは一致する。 ( 釘 奈良盆地内の縄文時代後期か ら平安時代後半頃までの旧河川は盆地底 を侵食 しなが ら流れてお り、 この河道が埋没するまで変更で きなかった と考えた方がよい。 植生 金原 ( 1 9 9 3 )は、ボー リング試料や遺跡の遺構内の堆積物や埋没土を試料 とした花 粉分析結果か ら奈良盆地の縄文時代以降の植生の変遷 を考察 し、図 4に示すモデルを提示 した。古墳時代の植生については、下記のような様相 を捉 えている 。 ( ∋ 盆地周辺の丘陵地か ら盆地内の台地 (-段丘)・扇状地 には、縄文時代以来継続 し てカシ類 を主にスギなどの針葉樹 を伴 う照葉樹林が広 く分布 した。 ② ( 氾濫)平野では、縄文時代 までは高位部でカシ類 を主にスギなどの針葉樹 を伴 う照 葉樹林が分布 し、低地部の湿地や微高地でイネ科 ・カヤツリグサ科 ・ヨモギ属の草本 類が分布 したが、弥生時代以降は水 田耕作が開始 され、拡大するとともに草本類が増 加 して照葉樹林が減少 した。 ( 彰 古墳時代か ら奈良時代 にかけては、畑作が行なわれるようにな り、古墳時代後期の 6 世紀後半には水田化が平野か ら緩傾斜扇状地に及ぶようになる。 また、古墳築造など の土地改変により照葉樹林が局地的に遷移 し、丘陵地ではエノキを、それより低い地 域ではニヨウマツ類やエノキをそれぞれ主 とする途中相林が出現 した。 集落 山川 ( 1 9 9 3 )は、水稲耕作 を生産基盤 とする弥生時代 を中心に古墳時代 までの奈良 盆地の集落の動向について、山麓 に連なる扇状地では水系が扇状地単位で完結 し扇側部の 河川が地形上の境界 となることや、条里制施行後の旧都境が扇状地界 とほぼ一致する点を 踏 まえて、旧都に則 した1 2の単位地域 を設定 して検討 し、扇状地 とその周辺低丘陵を単位 とする地域的なまとまりを兄いだ している 。 また、扇状地 とその周辺低丘陵を単位 とした 一つの地域内の集落について、立地 と性格 をもとに類型化 した上で、 ① 弥生時代前期の集落は、縄文時代晩期末 ( 凸帯文期 としている)の集落 と立地上の 差異はあまりな く、両者 は密接 な関係 を有するようである 。 ② 緩傾斜扇状地や氾濫原 (-氾濫平野)においては、弥生時代中期 になると集落が分 化 し、集落拡散の母核 となった と思われる 「 拠点集落」が確定するとともに、「 拠点 集落」の周辺で水利 に好都合 な水田適地に立地する 「 低位集落」や、上流寄 りの丘陵 -4 5- I 46 - 氾濫原 l 後傾鵬 氾鮒 l 鯛 状地 斜扇状地 l 献 地 l 低丘陵 ( 鮎 , l 山地 氾桝 l 経傾斜献 地 暮 献 t 献 地 l 低丘陵 ( 段丘)l 山地 図 6 弥生∼古墳時代の集落立地のモデルパ ター ン ( 山川 1 9 9 3 、一部改変) 地 l 鮎 能く 段丘) 上 1 雌 辛 逮 共 AL辛 射 放 地 佐 西 盆紀 地 莱 古 墳 北 群 蘇部 北 盆 東部 地 群 生東 柳 東 砧 向古g 田 掌t群 中 生 中 大 和古 山地 g 暮l 盆地 X郡 部 柳 g E l ; 群 本南本渋 古 谷 石 名菓 淡多子号 ■l 4 5 九●1 等2 8 期 期 如 2 1 期 前 4 期 3 佐 + 妃 2 0 7 剛 術張 04 5 東大 ●1 40 寺山 石塚 ●2 佐紀 1 8 山 佐 札林 妃 牛 ●9 山 6 五 ● 2 牡 7 5 神 ● 菜 5 5 8向石貨 ●9 3 ft ●2 8 0 中L 蛙龍 酉殿額 東穀壊 ●1 4 I ●2 ●1 J *書 1 山 2 1 3 1 0 0 9 ヒエ賛 ●1 25 和帯 下神 ●I 社 1 0 5 裏 不 *●1 ●7 通 # 山寺 0 3 J1 赤土山 1 0 西山 l l B O 宝●2 兼2 山 7 ホナノ山 ●9 0 楯●2 ●1 山5 0 淡谷向山 烏●1 口山 1 0 行 丑 山 4 2 ●3 0 0 南 桜 部 井 盆地 南部 盆 南 西部 地 盆 ・馬 舵 地 高 西枕 前 見 中 央 群 蘇 盆 地北 西 部 盆 中 地 央 五俵 盆 盆地 地 宇 周陀 辺 一 都郎 小 泉大堀 ● 8 8 柳本大境 ●9 一 茶 桜井 臼 ●2 山 0 7 石 名草 ●ll l 巣 山 42 04 佐味 i +1 H宝 1 2新山 ■1 37 富雄 丸 09 山 0 竹林 ●4 5 等 ノスリ ●2 山 5 0 薪沢5 ●6 0 0号 2 -E ! P J 期 5 期 中 塩 塚 ●1 8 5神 平 市 コナベ ヒン 鹿 常 明野 ● ●2 ●7 7ケ 1 0 5 1 号 0 4 9 ' 7 期 6 平塚 ●7 2 8 号 木取 ウ ワナペ ●1 ● 山 2 7 1 0 0 柏 基 大安 ●1 ●山 84 0 寺 5 期 8 A 竣 ●前方 後 円項 ■前 方 後方 墳 ○大 形 円顎 口大 形方墳 堀 ● 8 抜上 屋 ●1 ## 敷 3 ヰ 5 山 +9 ●1 -1 子3 0 4 羊 8 9 川合 l 中長 l l % *# 丸 ●1 04 山8 9 u 3 J石 坊額 も 04 6 0 0 ペ ンシヨ ●7 額0 酉兼 東兼職 小養 搬 ●7 ●1 ●8 2 5 1 8 別 石 ウワナ 所 大リ 上 ●1 束琴 ● 塚 1 0 1 5 7 9l 邦 # ● 1 新 % ナ 乙女 池上 木 ガレ山 ●1 ● ●2 山 8 0 3 0 0 3 7築 山 コン 山 09 ●2 ビラ 5 1 0 桝 山口8 5 みやす 重大基 m # 05 04 ●2 0 3 8 茅 凍大 基 05 6 西 山塔 ●1 1 4 珠城 山 3 2 1号 ●4 ●7 8 5 狐 井城 ●1 山 4 0 川合 城●1 山0 9 市 見三 宮塚 島韮 才 ● ●6 ●5 1 山 0 3 6 8北 平 =# 花 林内大塚 +6 ●9 ●5 0 5 瓦塚 瓦壌 2 1. 号 号●9 5 7 島ノ ●1 山9 5 近 内頼08 子媒 5 三 陵暮 04 西 0 五健 つ 今井 じの 丸 1 03 [ ●3 コ 号 山 5 0 1 三 陵墓 ●1 東 1 0 独 旗尊 日前 5 ● 0 部 本 山新 山0 1 ● 2黒 田大背 ●7 0 甫 山 阿 田大塚 ●3 0 勢 野茶 臼 山 ●4 ダケ ●48 (1- 4期 一今 尾 , 5- 7期 一関 7 1 1 , 8-1 0期 一前 鯉 の原案 を もとに 3着協 鎌 の上 .作 成 した ) 図 7 奈良盆地の古墳 の概要 ( 今尾 ・関川 ・前園 1 99 2) やその周辺で小浅谷の水 田適地に立地す る 「 高位集落」が顕在化する ③ 弥生時代後期 ( 庄内期含む) には、緩傾斜扇状地や氾濫原 (-氾濫平野)において 弥生時代中期に成立 した 「 拠点集落」 は規模 を縮小 し、「 低位集落」 も途絶える一方で、 従来集落が立地 しなかった緩傾斜扇状地の上流寄 りの地域で新たに集落が成立する。 ま た、「 高位集落」 とその周辺域 はさらに規模が拡大する 。 こうした集落の動向の背景 として、港 概技術や農耕技術全般の進歩 を考えている。 ④ 古墳時代前∼中期以降には 「 拠点集落」がなくな り、「 低位集落」が農村である 「 生 産集落」 に、「 高位集落」( 厳密 には重複せず)が支配者層の居住域 ・政治空間 ・祭紀 空間や特殊 な工業製品の工房 として機能する 「 特殊集落」 に再編成 されて二極化 し、 扇状地 とその周辺の低丘陵か らなる地域が水系 を媒介 にした政治的な一単位 としての 要素 を有するようになる 。 とい う動向を盆地北東部の菩提仙川扇状地 をモデル として提示 している ( 図 6)。 ( 3 ) 奈良盆地の古墳の様相 今尾 ・関川 ・前囲 ( 1 9 9 2 )は、奈良盆地の古墳群の大局的な変遷について概ね以下のよ うにまとめている ( 図 7) 。 ① 盆地東南部では、前期前半か ら全長2 0 0m級や1 00m級の前方後円墳が複数築造 され、 前期後半には同北部や同西部で も全長2 0 0m級や1 0 0m級の前方後円墳が複数築造 され るようになる。 ② 中期 には、盆地北部 と同西南部で全長2 00m級や1 0 0m級の前方後円墳が継続 して複 数築造 されるが、同南西部では築造が停止する。 同南西部 ・中央部で新たに古墳の築 造が開始 される。 古墳群の分布の変化 は背後勢力の動向 と深 く関わる。 ( 彰 後期 には、盆地北部 と同西南部で際立った古墳の築造がな くな り、同東部 ・南部に 全長1 0 0m級の前方後円墳 を含む大規模古墳群が新 しく現れる一方、後の群単位 にほぼ 匹敵する範囲ごとに中小規模の古墳群が築造 される。 古墳群の分布の変化は 6世紀初 頭 を中心 とした中央政権 (- 「 大和政権」) の再編成 とその後の動向を反映する。 ( 4) 想定 される奈良盆地の開発の様相 古墳時代の旧地形については、現地形 と中井 ( 1 9 8 3 )の研究成果 をまとめると、中位段 丘 と扇状地は現状 と大差はないが、扇状地の扇端部か ら下流寄 りでは現状 と異な り、緩傾 斜扇状地では扇状地か ら続 く旧河川の河道が開析 されて河床が一段低 く、氾濫平野の範囲 が狭い様相が想定で きる。 この地形の成立が縄文時代後期 まで遡 る可能性があ り、低地で も比較的安定 した土地条件が継続 したことが推測で きる。 旧地形 ・植生 と集落の関連については、下記の点が把握で きる ( 図 4- 6)。 ① 完新続の泥層や砂層で構成 され、比較的開けた水田適地の氾濫平野や緩傾斜扇状地 では、弥生時代中期後半∼後期 に 「 拠点集落」 を中心に 「 低位集落」が拡散 して集落 が展開 し、古墳時代 に農村である 「 生産集落」が分布する。 -4 8- ( 参 弥生∼古墳時代 にカシ類 を主 とする照葉樹林が分布 した後期更新続の砂磯層か らな る中位段丘、最後期更新続の砂裸層か らなる扇状地では、弥生時代 には氾濫平野や緩 傾斜扇状地 ほ どの集落の展 開はみ られず、古墳 時代 には支配者層の居住域 ・政治空 間 ・祭祀空間や特殊 な工業製品の工房 として機能する 「 特殊集落」が営 まれる。 したがって、弥生∼古墳時代の集落に関連する開発 は水田適地である完新続の泥層や砂 層で構成 された氾濫平野や緩傾斜扇状地を主に展 開 し、カシ類 を主 とする照葉樹林が分布 した後期更新続の砂磯層か らなる中位段丘、最後期更新続の砂磯層か らなる扇状地ではあ まり進 まないことが うかがえる 氾濫平野や緩傾斜扇状地では、弥生時代中期後半∼後期 。 に 「 拠点集落」 を中心 に 「 低位集落」が拡散 して集落が展開する動向を示す。「 開発」が 拡大すると生活領域 との競合や侵入などで共同体間の対立が推測でき、 これが 「 大和政権」 の成立の要因になった可能性がある 。 古墳 と集落の関連については、山川 ( 1 993) に基づけば弥生時代中期後半∼後期 と古墳 時代では集落の様相は大 きく異なることか ら、古墳の出現 と集落の様相の変化 は軌 を一に すると理解で きる。 また、山川 ( 1 993) が指摘す るように扇状地 とその周辺の低丘陵か ら なる地域が水系 を媒介 にした政治的な一単位 としての要素 を有するようになることを踏 ま えれば、古墳時代 には 「 大和政権」が地域社会の社会基盤の整備 に関与 してお り、集落に 関連する開発が 「 大和政権」の支配下で行われた と考 えることがで きる 今尾 ・関川 ・前 。 園 ( 1 99 2) は古墳の築造開始時期が地域 によって異な り、後期 に様相が大 きく変化する動 向を把握 している。 このことか ら、「 大和政権」 による地域社会の基盤整備の着手時期 に 地域差があ り、後期 に再編 されたことが想定で き、 この社会的変化が集落に伴 う開発の様 相 にも反映 している可能性がある。 ( 5 ) 考古地理学的観点 による地域調査 ・研究の必要性 ( 4 ) で記 した奈良盆地の古墳時代の 「 開発」の様相は、あ くまで もモデルに基づ く仮説で ある。 山川 ( 1 993) の弥生∼古墳時代の集落変遷のモデルも奈良盆地東縁部の扇状地 とそ れに面 した氾濫平野の様相 を前提 としてお り、実際の盆地内の各地域の集落変遷 とは違い がみ られるはずである 。 また、地域社会の様相 を把握する手がか りとなる古墳 も前述 した ように築造開始時期が地域 によって異な り、後期 に様相が大 きく変化する。 したがって、考古資料 を活用 した 「開発史研究」 によって地域社会や 「 大和政権」の活 動の様相 を把握するには、主 として遺跡 ・遺物 などによって地域の特質を復元研究する考 古地理学的な観点による地域調査 ・研究を進める必要がある。 Ⅱ.能登川扇状地における古墳時代の開発史の検討 1.研究の 目的 と方法 Ⅱで記 した考え方に基づいて、奈良盆地北東部の奈良市内にある能登川扇状地における 古墳時代の開発や地域社会の動向について検討 を試みた。一つの扇状地 を対象 とした理由 -4 9- にはし この時期の地域社会の一つの単位 となるとした山川 ( 1 9 9 3)の論考に基づ く 。 能登川扇状地の古墳時代の集落遺跡については、扇状地 ( 以下、扇央部)では東紀寺 ・ 南紀寺遺跡で前期後半∼後期 の ものが、緩傾斜扇状地 ( 以下、扇端部)では杉 ケ町 ・三 条 ・大森の各遺跡で弥生時代後期末∼古墳時代初頭の ものが、三条遺跡 とその南方約1 0 0m の西木辻町内で中期後半∼後期のものが、いずれ も発掘調査で確認 されている。 当時の自然環境 については、扇央部では南紀寺遺跡で遺構埋土の植物遺体分析 による中 期後半の植生、扇端部では三条遺跡で旧地形の変遷、中期後半の前方後円墳の杉 山古墳で 周濠埋土の植物遺体分析 による中期後半∼後期の植生の検討がなされている 。 能登川扇状地及びその周辺において現状で認め られる古墳 には、前期後半∼中期末の全 長1 00m前後の前方後円墳 と前期後半∼後期の一辺1 0-3 0m程度の方墳あるいは径1 0-3 0m 程度の円墳がある ( 図 8)。 ただ し、集落遺跡 については調査面積が少 な く全容が把握で きるものはな く、 自然環境 の調査 ・研究 もデータが少 な く断片的な成果 しか得 られていない。 また、古墳 についても 後世の改変で消失 し現状で確認で きないもの も存在するはずである。 したがって、断片的に得 られた調査 ・研究の成果 をもとに検討 を行い、仮説の構築 を目 標 とした。古墳時代の集落の様相については、発掘調査で把握で きている集落遺跡の様相 と後述する山川 ( 1 99 3)が示 した弥生時代中期後半∼古墳時代の集落の動向 との対比で、 自然環境のうち地形の様相 については現地形 と集落遺跡で確認 された遺構面 とその被覆層 や旧河川の状態か ら、植生 については断片的な検討結果 と後述する金原 ( 1 9 93)が示 した モデルとの対比で、それぞれ想定を試みた。 また、地域社会の様相 については想定 される 集落や古墳の様相 ・分布 と自然環境 との関連 に基づ く可能性 を示 した。 2.能登川扇状地の概観 主に領家変成岩類 ( 片麻岩)か らなる大和高原北西部 ( 標高4 0 0-5 0 0m) を源流 とする 能登川が形成 した扇状地で、奈良市丹阪町付近 を扇頂 ( 標高1 5 0m) とし、そこか ら約3k m 西方 までが扇央部 ( 標高8 0mまで)で、その西方 1- 2k mは扇端部の緩斜面 ( 標高6 0-7 0 m) となる。 基本的には最終氷期か ら数万年前 までの低位段丘堆積物の砂裸層で構成 され、 扇端部ではその上 を時期が下る泥や砂の堆積層が覆 う。 扇央部の扇面には、東西方向に細 長い微高地 とその間を流れていた旧河川を反映する凹地がみ られる ( 武久 1 9 8 2、尾崎 ・ 寒川他 2 0 0 0、西岡 ・尾崎他 2 001 、図 8)。 3.集落遺跡の発掘調査成果 ( 1 ) 扇■ 央部の集落遺跡-東紀寺 ・南紀寺遺跡一 束紀寺遺跡 ( 東紀寺町) は、能登川扇状地の扇央部で現能登川の右岸に位置す る古墳時 代の集落 と小古墳か らなる遺跡である。 南紀寺遺跡 ( 南紀寺町)は、現能登川の左岸で東 紀寺遺跡のす ぐ南に位置する古墳時代の集落遺跡で、南限は現岩井川である 。 なお、 これ ら 2つの遺跡は、位置関係や時期 ・性格 を勘案すれば、一連で捉 えることがで きる 。 -5 0- 山 山地 ・丘陵 忽 やや隆起 した 扇状地 高位段丘 皿 職 中位段丘 喜∃ 緩傾斜扇状地 低位段丘 ∈ ≡∃ 谷底平野 E j -野 人工改変地 図 8 能登川扇状地周辺地域の地形分類 と古墳時代 の主要な遺跡 (1/ 5 0 , 0 0 0、武久1 9 8 2を改変) 図 9 東紀寺遺跡 主要調査地位置図 (1/ 1 0 , 0 0 0) - 51- 扇状地構成層 ( 南紀寺遺跡 市第 4次) A.東紀寺遺跡 遺跡の北東部、西辺部及び南半部で発掘調査が実施 されている ( 図 9)。北東部 と西辺 部では後述するように古墳が確認 され、南半部では以下のような調査成果が得 られた。 a.古墳時代の遺構面 概 して水田面下0 . 3-0 . 5mの扇状地構成層の上面で、北東部 と西辺部の調査地で粘土や砂 質土、南半部の調査地でシル ト混砂裸や砂混粘土 となってお り、中世以降の耕地化 に伴 う 改変 を受けている。 b.検出遺構 ・出土遣物 検出遺構 には中期後半か ら後期にかけての ものがあ り、遺構や旧河川か ら出土 した遺物 には前期後半か ら後期 にかけてのものがある。 前期後半∼中期前半 遺構 は今のところ確認 されていないが、遺跡の南半部西寄 りの調 査地で確認 された旧河川の埋土にはこの時期の遺物が含 まれる。 奈良県立橿原考古学研究所 ( 以下、橿考研)が1 996年度 と1 998年度に実施 した調査では 奈良時代頃に埋没 した旧河川が確認 された。埋土最上層の粘土層か ら奈良時代の土器や木 製品 とともに古墳時代前 ・中期の土器が出土 した。 また、2 0 01 年度に橿考研が実施 した調査では古墳時代の旧河川が確認 された。埋土中か ら古墳時代前 ・中期の土器、川西編年 Ⅱ期 もしくはⅢ期の円筒埴輪、 フイゴの羽口、鉄淳、 木器や加工 した木材が出土 した。前 ・中期の土師器は小型丸底壷や高杯が多 く、一括投棄 されているのが特徴で、祭紀行為 を反映する可能性が強い と示唆 されている。 中期の土器 には初期須恵器 を含む。フイゴの羽口や鉄淳は前期の土器 とともに出土 してお り、当時周 辺で鍛冶が行われていたことを示す ( 図1 0 )。 中期後半 遺跡の南半部東寄 りで奈良市教育委員会 ( 以下、奈良市)が実施 した第6 次調 餐 ( 2 0 0 3 年度)では、古墳時代後期 に埋没す る旧河川が確認 された ( 図1 1 ) 。遺構面か ら 1 . 1 m まで掘 り下げたところ、埋土の上位か ら後期の土器が、下位か ら多 くの古墳時代中期 後半の土器、木製品 ・木材、モモ核等が出土 した。中期後半の土器には、須恵器の蓋杯 ・ 高 杯 ・器台 ・魅 ・嚢 と、土師器の嚢 ・高杯 ・鉢 ・鍋 ・甑 ・手づ くね土器、韓式系土器及び備 讃瀬戸沿岸や大阪湾沿岸か らもた らされたとみ られる製塩土器がある。 また、木製品には 農具 ・工具 ・紡織具 ・武器 ・容器 ・祭紀具 ・雑具等がある ( 図1 2 ) 。樹種はコナラ属アカガ シ亜属、 ヒノキ、ヤブツバキ等 カシ林の構成種 であることが把握 されている。 後期 遺跡の南半部東寄 りで奈良市が実施 した第 5次調査 ( 2 0 01 年度)では、掘立柱建 物、掘立柱列、溝が確認された。溝の埋土か ら須恵器蓋杯 ・ 施 ・嚢 と、土師器杯 ・高杯 ・甑 が出土 した。す ぐ北側の第 6次調査 ( 2 0 0 3年度)では前述 したようにこの時期 に埋没する 旧河川が確認 されてお り、最上位の埋土か ら土器が出土 した ( 図1 1・1 2 ) 。 B.南紀寺遺跡 遺跡の北西部 と南西部で発掘調査が実施 され、以下のような調査成果が得 られた ( 図1 3 )。 -5 2- 発掘区平面図 (1/1 , 2 0 0 ) 〉 ・ 平面図中 Cの土器群 (1/8) 平 面 図 中 A の 土 器 群 ( 1 / 8 ) 平面図中 Bの土器群 (1/8) 図1 0 東紀寺遺跡 平面国中 Dの土器 と埴輪 (1/1 0) 橿考研 ( 2 0 01)調査地 旧河川 と出土遺物 ( 県概報2 0 01、一部改変) -5 3- l O r_ L ■ 1 I J l L . l I t l I 'l I A ! 1 1 洲 I 橿考研 ( 1 996) / / /// / . -Ll .帆 市 第 6次 / / / / -糎 E ! - / / / . // // O 橿考研 / // / LI . 71 1J / . ノ ′ / / / -J J. 740 O / ( 1 998) / / / / 旧河川 / / / / / // / / / / // // ′ ,忘// / 橿考研 ( 1 998) 図1 1 東紀寺遺跡 l I 準 後 期 の 掘 立 柱 建 物. 市第5 塀 一 ・ 、 一 1 次 溝 l t q 南半部東寄 り付近の調査地 (1/ 8 0 0、市概報H1 5、一部加筆) i I I 50m -1 4. 7m 琶 ヲ @・ 6)・ 闇 ・ ‥ ・ 苦 闘 a , 側 ..L .3 ,) . ・ : ..: 包 竜 王 ∋ ≦≡∋ J 霞岳 買- 2 0 c m I5 5 - ※の須 恵 器 杯 身 は 上位 の埋土か ら出土 a ( ∈ 書 芸 ≡ 喜 倒 i こ ≡ 一 帯 = こ て 汀 こ 違憲7- 」 二 物 』二 二 ⊥ 一 _= 叩 m o (1/1 0) 図1 2 東紀寺遺跡 市第 6次調査 旧河川出土遺物 ( 須恵器 ・土師器 :1/8、製塩土器 :1/4、木器 :1/8、市概報H1 5 ) 野 . _叩 c m a.古墳時代の遺構面 概 して水田面下0 . 3 - 1mの扇状地構成層の上面で、北西部の調査地で砂混 シル トや砂裸、 南西部の調査地で砂横合土 となってお り、中世以降の耕地化 に伴 う改変 を受けている。 b.検出遺構 ・出土遺物 検出遺構 と出土遺物 には、中期後半か ら後期 にかけての ものがある。 中期後半 遺跡の北西部で奈良市が実施 した第 1次 ( 1 9 9 0 年度)・第 2次 ( 1 9 9 1 年度)・ 第 4次 ( 1 9 9 3 年度)の各調査では、石積みで護岸 した区画遺構 ( 濠 ・溝)・井泉が確認され 8 0m、南北6 0mに及び、形状か ら首長居館の た。石積みで護岸 した区画遺構の範囲は東西1 濠の可能性 も想定 されている。 第 2次調査地では能登川の旧河道 ( 北隣接地の市8 8-1 8 次 調査で確認)につながる水路が設けられてお り、河川の利用 を意識 した と考えられている。 第 4次調査で確認 された井泉は、湧 き出す水が素掘 りの溝 を通 じて区画遺構 に流れ込む仕 じょのこし 組みであった と想定 され、三重県伊賀市の城之越遺跡の祭紀遺構 と機能的に類似すること か ら、同様の水 に関わる祭祀の場 と考 えられている。 これ らの遺構 は後期 には埋没 し、廃 絶する。 石積みで護岸 した区画遺構の埋土か ら須恵器の蓋杯 ・器台、土師器の壷 ・嚢 ・高 杯 と管玉状の土製品が、第 4次調査で確認 された井泉の埋土か ら土師器壷 ・嚢 ・高杯が出 土 した ( 図1 4・1 5 ) 。 遺跡の南西部で奈良市が実施 した第 3次調査 ( 1 9 9 2 年度)では、竪穴住居、溝、土坑が 確認 された。溝や土坑の埋土か らは、須恵器の蓋杯 ・ 高杯 ・器台 ・嚢 ・薩、土師器の嚢 ・高 杯 ・鉢 ・鍋 ・甑 ・手づ くね土器、及び製塩土器が出土 した ( 図1 6 ) 。 後期 遺跡の北西部で奈良市が実施 した第4 次調査 ( 1 9 9 3 年度)では掘立柱建物 ・塀、溝、 土坑が、南西部で実施 した第 3次調査 ( 1 9 9 2 年度)では、竪穴住居、掘立柱建物、溝、土 坑がそれぞれ確認 された。溝や土坑の埋土か ら須恵器蓋杯 ・嚢、土師器鉢 ・高杯等の土器 が出土 した ( 図1 5・1 6 ) 。 なお、遺跡の南西部の第 3次調査地で出土 した中期後半∼後期の須恵器 には窯壁が付着 した り焼け歪んだ りするものが含 まれることか ら、付近に窯跡が存在する可能性がある 。 ( 2 ) 扇端部の集落遺跡一杉 ケ町 ・三条 ・大森遺跡等一 束紀寺 ・南紀寺遺跡の北西約 2kmの扇端部では、弥生時代後期末か ら古墳時代 にかけ ての集落遺跡が認め られる 杉 ケ町遺跡 ( 杉 ケ町内 :仮称)・三条遺跡 ( 三条本町内 :仮 。 称)・大森遺跡 ( 大森町 ・大森西町内 :仮称)では弥生時代後期未か ら古墳時代初頭 にか けての、三条遺跡 と大森遺跡東方の西木辻町内では古墳時代中期後半か ら後期 にかけての 集落の様相 を示す遺構や遺物が発掘調査 によって確認 されている ( 図1 7 ) 。 A.弥生時代後期末∼古墳時代の遺構面 概 して水田面下0 . 3 -0 . 5mの扇状地構成層の砂質シル ト・粘土層上面で、中世以降の耕地 化 に伴 う改変 を受けている。 奈良時代の平城京域 にあたるため、同 じ面で奈良時代の遺構 もみ られる。 -5 6- 市第 4次調査地 図12 南紀寺遺跡 調査位置図 ( 1 / 5 , 0 0 0 ) 図1 3 南紀寺遺跡 市第 1・2・4次調査地 区画遺構 ( 南西か ら) 同 井泉SXOl ( 南東か ら) 平面図 (1/ 3 , 0 0 0 、 古代庭 園研 究 Ⅰ の挿図を引用) -5 7- ー ∽∞ - … 闇≡ … :古墳後期∼飛鳥期の遺構 SD1 5 I / A ≡ヲ て ここ T ミニ T 琶 ≡ ヲ ∈書 凪 ①m m 皿 ㊥ 左 : SDO 6 右 : SDO 8 図1 5 南紀寺遺跡 二 市第 フ 4 次 調 査 ○ !_. _ . . __二 _ _ _ _ _ 「 ナ 平 面図 (1/400)、 出土土器 ・土製 品 (1/8) ( 市概 報H6、一部改変) 遺物包含層 I / '曹 j ′尋 /義 く 〒T 頂 :古墳 中期後半の遺構 -5 9 - 琵室 賀萱 宅:古墳後期∼飛鳥期の遺構 管 図1 6 南紀寺遺跡 市第 3次調査 平面図 (1/ 4 0 0 ) 、出土遺物 (1/8) ( 市概報H4、一部改変) B.検出遺構 ・出土遺物 a.弥生時代後期末∼古墳時代初頭 杉 ケ町遺跡 三条遺跡に近い遺跡の北西部で奈良市が実施 した第1 4 4 次調査 ( 1 9 8 7 年度)で 竪穴住居 と土坑が、第3 6 0 次 ( 1 9 9 6 年度)・ 3 8 8 次 ( 1 9 9 7 年度)・ 4 2 3 次 ( 1 9 9 9 年度)の各調査 で溝 と土坑が確認 された。遺構 の埋土か ら壷 ・棄 ・鉢 ・高杯 ・器台等の土器が出土 した ( 図1 8・1 9 ) 。土器には山陰系 ・東海系 ・近江系の外来系土器を含む。嚢や鉢の底部に籾圧 痕がみ られるものがあ り、水稲耕作が営 まれたことを示す。 三条遺跡 遺跡の東半部でJR奈良駅東側の区画整理事業に伴い奈良市が実施 した一連の 発掘調査 で区画遺構 の一部、溝、土坑が確認 されてお り、遺構や旧河川の埋土か ら壷 ・ 嚢 ・鉢 ・高杯 ・器台等の土器が、旧河川の埋土か ら木製の農耕具が出土 した。土器には山 陰系 ・東海系 ・近江系や北近畿系の外来系土器 を含む。嚢や鉢の底部に籾圧痕がみ られる 2・2 3 ) 。 ものがあ り、水稲耕作が営 まれたことを示す ( 図2 大森遺跡 遺跡の北西部で奈良市が実施 した第3 5 0 調査 ( 1 9 9 6 年度)では竪穴住居 と溝が 確認 されてお り、溝の埋土か ら壷 ・棄 ・鉢 ・高杯 ・器台等の土器が出土 した。大森町 ・大 森西町一帯の区画整理事業地内で奈良市が実施 している発掘調査で も溝や土坑が確認 され てお り、埋土か ら壷 ・嚢 ・高杯等の土器やサヌカイ ト製石器が出土 した。 b.古墳時代中期後半∼後期 三条遺跡 遺跡の北東部 と西辺部において奈良市が実施 した調査で、古墳時代中期後半 ∼後期の集落に関連するとみ られる遺構や遺物が確認 されている ( 図2 0・2 6 ) 。 北東部では、第4 6 2-1次調査 ( 2 0 0 1 年度)で埋土か ら古墳時代中期後半の土師器高杯が 出土 した土坑が確認され、第4 6 2-2次調査 ( 2 0 0 1 年度)では弥生時代後期末∼古墳時代初 頭の区画遺構の覆土か ら古墳時代 中期後半の須恵器蓋杯や土師器高杯 ・禁が出土 した。な お、第3 7 7-1次 ( 1 9 9 7 年度)・第4 5 2-1次 ( 2 0 0 0 年度)の各調査では時期不詳の掘立柱建 物 ・塀が確認 されている。 第5 1 2-1 次調査 ( 2 0 0 4 年度)では埋土か ら古墳時代中期後半の 須恵器蓋杯が出土 した土坑が確認 された。弥生時代後期末∼古墳時代初頭 に埋没 した旧河 川上 を覆 う低地の堆積層では、奈良時代の堆積層直下の泥層上面で無数の人やウシの足跡 がみ られ、古墳時代後期頃の畜力 を用いた水 田耕作の形跡 と考えられる。 西辺部では、第3 2 5-2・6次調査 ( 1 9 9 5 年度)で確認された西流する流路の埋土か ら中 期後半∼後期の須恵器蓋杯 ・壷や土師器壷 ・嚢 ・鉢が出土 した。 西木辻町内 町内の北西部で実施 された発掘調査で遺構や遺物包含層が確認 されている。 奈良市の第1 4 8 次調査地 ( 1 9 8 8 年度)では中期後半の溝 と遺物包含層が確認されてお り、溝 の埋土や遺物包含層か ら須恵器蓋杯 ・高杯 ・施 ・壷 ・嚢 と土師器壷 ・棄 ・高杯 ・甑が出土 した ( 図2 7 ) 。同第3 3 3 次調査地 ( 1 9 9 6 年度)では同後期の溝 ・土坑 と遺物包含層が確認 さ れてお り、溝 ・土坑の埋土や遺物包含層か ら須恵器蓋杯 ・高杯 ・壷 ・嚢 と土師器壷 ・嚢 ・ 高杯 ・甑が出土 した ( 図2 8 ) 。同第2 9 8 次調査地 ( 1 9 9 7 年度)では後期頃の掘立柱建物が確 -6 0- 町 遺構あるいは遺物) 古墳時代中期後半∼後期 - × ( A: 杉 ケ町遺跡 D :西木辻町内 B: 三条遺跡 弥 生 時 代 後 期 -● 連 構検 出 ・遣 物 出土 ⊂)遣 物 出土 中期 - ■遺 構検 出 ・遣 物 出土 □辻 物 出土 時 期 不 明 - ▲連 構検 出 ・遣 物 出土 △ 遣 物 出土 C: 大森遺跡 ( 数字 は調査次数) 図1 7 扇端部周辺の弥生∼古墳時代 の遺構 ・遺物分布 図 (1/1 0 , 0 0 0 、市 リーフレッ トに加筆) ∈≒ _ 1 日 4 5 1 m 0 0 図1 8 杉 ケ町遺跡 1 m 9 5 = = ' ・ 一 二 雪 l /l T B 1 巾 市第1 4 4次調査 平面図 (1/ 3 0 0 ) 、SKO5出土土器 (1/8) ( 市概報S6 2 ) SDO6 ノ=∃… く く 9 杉 ケ町遺跡 図1 市第42 3次調査 ▼\ 出土土器 (1/8、市 概 報Hl l ) -6 1- 復原 した微地形 と周辺の地形 との対比 ( 1 / 2 0 , 0 0 0 基図は都市計画図) 1 00m i 】 ※J: 縄文時代 Y: 弥生時代 K: 古墳 時代 南 ( 節: 前期 中‥ 中期 後: 後期 晩: 晩期) >. ●縄 文 ∼古墳 時代 の徹 地形 と遺構 微高地と網状河道がみられる I . . . . . l l t . J . . I . I . . "景観概念図 [= ]掘立社建物 ロ井戸 扇状地 とその周辺の地形及び縄文時代草創期のロウプの様相 - 日 掘立社塀 清 ●土器埋納遺構 o土坑 弥生∼古墳時代の微地形 と遺構の分布 " / J J " - ぎ ざ・ ∼ / A 河道0 2 河道0 4 呼声で / i ・ ・ . ( 再び低地を侵食して河道が形成) ・ ・ . ( 河道が次第に埋 没し 、 湿地化) ■ J I → 1 . ■ 4 + . ◆ ▲ 弥生時代後期前葉∼奈良時代前期 弥生時代後期初頭 弥生∼古墳時代の微地形の変遷 図20 三条遺跡における弥生∼古墳時代の旧地形 と遺構 ( 安井 2005) -6 2- 4 1 , l d ■ ■ 1 . . N l x: -1 46, 850 sE x: -1 4 6 , 8 9 0N lY: -1 6 , 3 1 0 W -弥生∼古墳時代 遺構面 -1 4 C年代 BP ( 流木) 市HJ477-5次 深堀部分東壁 6 4. 0m 1・2:縄文早∼後期の泥層 (シル トが主) 3 :縄文草創期のロウプの砂磯層 ( やや砂勝ち) 4 :低位段丘堆積物 とみ られる砂棟層 ( やや固結) 市HJ477- 3次 扇状 地 構 河 道 06西 ・南 岸 匡塾 ヨ T( 泥混)巨 ∃ S g a ( 砂混) 匠 T‥ . : :: い : 巨 図2 1 三条遺跡 1 0, 1 30 iZ gJ ( 補正) 成 層 の 様 相 ・ . . . 二 二 1 l. 羊 ∃窟 雷、 堅果 ∴ ∴ . 2005、 一 部 加 筆 ) (安 井 l Y: -16, 290 水 田耕土 水 田床土 3_ ' 3 . l , : . I . ・ T a ・ : Ai E l ! . ' < r v i ' ? 1 4C年代 BP (3a層 ・根株) :1 , 980±6 0( 補正) ※スケッチは、写真 ・注記をもとに加筆 64. 0m 貯蔵穴SKOl (縄 文晩期中葉) 1 :縄文晩期中葉以前の堆積層 ( a:砂磯、b: 泥) 2 :縄文晩期末 ごろの堆積層 ( 砂質泥、長原式土器片) 3a :弥生時代後期初頭の堆積層 ( 腐植混泥、カシ ・サクラ ・エゴノキ根株) 3b :弥生時代後期末の堆積層 ( 泥、砂、遺物含む) 匿 園 4 馳 ⊂ = ] やや馳 ‥奈良∼平安時代の堆積層 ( 砂裸、遺物含む) 口裏 ] 泥噸 ラミナ [ 三 三]木の板・ 木片 ◎ ■ ー_ 6 ; W8 市HJ 4 2 9 -2次出土 : 3-1 4 市HJ 4 46 次 出土 : 1 、 2、 1 5、 1 6 . - 0 l 2 0 c m - 1 6 図2 2 三条遺跡 市第4 2 9-2・4 4 6 次調査 放棄河川の断面、出土遺物 (1/ 1 0 ) ( 安井 2 0 0 5 、市概報Hl l・1 2 、一部加筆) 流路 ※ 市概報H9 0 20cm ※ 0 市概報 Hl l 2 0 c m 図2 3 ( 左)市第4 2 0次調査出土遺物、 ( 右)市第3 7 3 次調査出土遺物 (1/ 1 0 ) -6 3- ( B層出土 ) 図2 4 三条遺跡 市第5 1 2-1次調査 B. 。 ‥去慧驚烹雲海†霊窟 く ( 慧諸 賢忘物含む) ( 右) 旧河川の断面、 ( 左) A層上面 ( 安井 2 0 0 5 、市概報 H1 5 ) ‥ヽ 弥生後期末 古墳 中期後半 iI . :: I - 0 く 20m : ! .. . . ; 図2 5 三条遺跡 市第4 6 2-2次調査 ( 市概報H1 3) 区画遺構 S Xl l(1/500)・同出土土器 (1/1 0 ) ∈ 王 ヲ ∈∃; 二 プ ∈n 6 三条遺跡 市第3 2 5-3次調査 図2 1 0 )( 市概報H8) 流路 出土土器 (1/ 二三二) ∴二ヽ ∴ t _ ヽ_ A 1 1 「 : ∴「ヽ 図2 7 西木辻 町内 市第 1 4 8 次調査 出土土器 (1/ 1 0 ) ( 市概報S 6 3 ) ; ・ 裏目 i 5 /「 二 二= J T TJ _ ∴) 二ノ 二∴ ノ 二ノ 図2 8 西木辻 町内 三 つ 市第3 3 3 次調査 出土土器 -6 4- (1/ 1 0、市概報 H8) 粉 花 木 村 辛キ屑辛属属料料 ⋮ = ] o g T tナラ属アカガ シ亜属 nナラ属 コナラ電属 ブ ナ属 クリー シイ属 ク マシデ属I アサダ ヤ マモモ属 イチイ科Iイ ヌガヤ科Iヒノキ科 スギ 宗 主 ● 2 コウヤ マキ -豊灰 ツ ガ 属 す石許1許「 東面 周硬外旋側地点 ( 古墳築造∼大安 寺道営まで) マモ マツ属社椎管東 証属 2 量 茎2 軍 書1 。 宴 宇4 凱 諾塁 5 0 % 南紀寺遺跡 における花粉分析結果 ・寄生虫卵分析 ( 花粉総数が基数) 子子子 種種 種 潤 「「 属 - エノキ屑-ムクノキ ニレ属-ケヤキ 属 コナ ラ 属 コナ ラ 韮 属 コナ ラ 属 ア カ ガ シ 亜 ク リー シイ属 ク マシ デ 属 - ア ヽ /一 ヽ ス 属 0 子子実 子 種種果種 ー 局 局 「;l r 霊l 葦本棚 「 タ デア カ 属カ タ ヤ サザ ナ科ナ ア ソ ン エ lデ ブ ラ ス タ ヒシ ラ マ シ ミ デ エ コナ メ ソ レ 料 節 料料 料 属 料 属 料 料 料 属 14 21 5 15 絹 65 - ナデシコ科A ナデシコ科 B ヒエ科 へビイチ: 嘱-オランダイチ -キジムシロ属 アブラナ科 カタバ ミ属 セ リ科( チドメグサツ属型) エゴマ Cr uc i f e r ae Oxal i s Umbe l l i f e r ae ( Hydr oc ot yl et ype ) Pe r ul aj ht e s c e nsBr i t t on v ar] aponi c aHar d Mo s l a イヌ コウジュ属 Sol anac e ae ナス科 ハダカホオズキ ? Tuboc q ps L Z L T naT Wmal z L T n M且ki no? ar bor he r b 撃歪 仙 M M"M I T 0 言 訂 ー 巾N - --M ----L 許… 601311 571 ⊥ 1 2 3 1 9 4979 6 25 3 1 7 6 4 日 リ 161 1 41516 7 7 633 1 5 2 649 4 3 1 1 1 1 21 0 02 6 8 実 実 子 子 子 子子 果 実種種種種種 タデ科 タデ科 ザ ク ロソウ ギ 辛 料局 局 局 属 ダ 「 35 ミズ アオイ属 イポグサ カヤツリグサ属 カヤツリグサ科 ミゾ ソバ 31 日 U l イネ科 i+ 1'.: ] ・ . .; : . .I. : . 捕属 偶 子 子実 実 実 穎種 種果菜 果 I Mo 7 uS RubzLS Ruubz L Sb z L e r ge r iMi qL L e lりpe PT WnL L SPe r S i c aL. Zant ho xyl 払m ai l ant hoi de s Si de . e tZuc c . I hxht i foua伽 め. Ampe l o ps i sねe oi de sPl anc h. Ckッe r αj q po ni c a7 7 i u nb. Eu T Taj a po T u kaThumb. Ar al i ac e ae _ S j_ ∼ _ r _ a _ ざ _ i gp _ o j! l c l a "Si 宣 卓 二 _ 錠_ _ Z¥_ C _ C こ _ . he r b Gr amhe ae Mo T WC ho r i a AT Wi kT nahe i s ahuHdssh. C bJ Pe T 7 L S Cy pe T ue ae Pol ygo num t huT u) e r gL I Si e b.e tZuc c . Pol ygo T m Pol ygonac e ae MolhL gOPe nt qPhyuaL. Car yophyl l ac e aeA Car yophyuac e a J eB AT nar ant hz L S Duc he s T Wa Fr a gar i a Pc ・ t e nt i l l a マ ツ 属 被 維 管 束並居 二 鞘 分竺 ar bor Que T u ghu c a Thunb. e xHur r ay ワ ヲ 三 g ガ 。イ相 ニキ 属 科 マサ レ属 アサ tス l 属ジ [カン モニ ハエモ ガイイ Iオオ ム メシウチシカトブ イゴクツマカラ ウミモモ クガヨルノキエチ ドグノノセツズズクバマコクダダ イ ノ シウシキギヂノウミキキイジミラサラメギリカカ 属科料属属科 科料満月属 キ ワ属属凧同属 重言 ア カ 属 カ ヤミサ ザ ッズナ 科 1 )アエ l 柑 クリヒ キ 朋属 表 南紀寺遺跡 SXOl 最下層 における種実同定結果 ( 試料1 0 0 c c 0 . 2 5 m m ) ※ 南紀寺遺跡 :金原 ・金原 ・中村 ( 1 995) 杉 山古墳 :金原 ・金原 ・環境考古学研究所 ( 1 997) ● + ∼ 6 7 8 9 Y Y Y Y Y Y 据 凍 J EY Y Y Y Y Y 側 周 底 凍 外 姫 部 鞘 P・・.・・L・・・ S q %ト1場 所 杉 山古墳周濠外堤側地点 における花粉 ダイアグラム 図2 9 植物遺体分析成果 一覧 糊 帥 i 排 0 5 0 1 00% 認 されている。 4. 自然環境の検討 ( 1 ) 扇央部 植生 南紀寺遺跡の第4次調査では、古墳時代中期後半の区画遺構や井泉の周辺の過去の 植生 を把握するために、区画遺構の埋土について花粉分析 を、井泉の埋土について花粉分 析 と種実同定 を行った。その結果、花粉 はコナラ属アカガシ亜属が最優 占し、種実はザク ロソウ ・ナデシコ科等の人里 を好む草本 とアラカシ ・ヒサカキ等 カシ林の構成要素が多い ことがわか り、区画遺構や井泉の周辺は人為干渉を受けたカシ林が分布 し、周囲は草本が 繁茂 した と推察 されている ( 金原 ・金原 ・中村 1 9 9 5 、図2 9) 。 ( 2 ) 扇端部 微地形の発達 三条遺跡では、縄文∼古墳時代の遺跡の様相 と関連する旧地形の把握 を 目的 として、旧河川 と扇状地構成層の調査や層中に含 まれる遺物や木本遺体の14C 年代測 定億 による形成時期の比定を行った。その結果、扇状地構成層の砂質 シル ト・粘土層が縄 文時代草創期 に形成 された砂裸のロウブ上 を同前∼後期 に覆ったことや、砂質シル ト・粘 土層上面の河川がロウブの凹地 とほぼ対応する位置を西流 し、弥生時代後期初頭頃には河 床が低下 し放棄河道内では森林化 してカシ ・サクラやエゴノキが繁茂するが、その後上昇 に転 じて同後期末には埋没 して湿地化 したことが確認 されている ( 安井2 0 0 5 、図21 ) 。 植生 奈良時代 に大安寺の境内に取 り込 まれる古墳時代中期後半の前方後円墳である杉 山古墳では、古墳築造直後か ら室町時代 までの古墳及びその周辺地域の植生や環境の変遷 の把握 を目的 として、周濠埋土の花粉分析が行われた。 このうち、周辺地域の植生 を反映 する外提側の古墳時代中期後半∼奈良時代初頭の埋土では樹木花粉の占める割合が高 く、 コナラ属 アカガシ亜属 を主にスギ、マツ属複維管束亜属が多 くみ られることか ら、 この時 期 に周辺地域ではカシを主にスギやマツの針葉樹が混ざる林が分布 していたと推察 されて いる ( 金原 ・金原 ・環境考古研究所 1 9 9 7、図2 9 )。 5.能登川扇状地 とその周辺の古墳 能登川扇状地及びその周辺の古墳 には、前期後半∼中期末の首長墓 とみ られる全長1 0 0m 前後の前方後円墳 と前期後半∼後期の有力者の墓 とみ られる一辺 1 0-3 0m程度の方墳ある いは径 1 0-3 0m程度の円墳がある。全長1 0 0m前後の前方後円墳 は、奈良盆地北東部では前 期後半∼中期末を通 じて最大規模の古墳で、前期後半には天理市株本町付近で もみ られる が、中期以降は能登川扇状地及びその周辺だけ となる。 以下、時期 ごとにまとめて概要 を記す。 ( 1 ) 前期後半∼中期前半 この時期の前方後円墳 には、東紀寺遺跡の北東約2 . 5k mの若草山山頂にある前期後半の鷺 塚古墳 ( 全長約1 0 7m、図3 0 ) と北西約 1 . 5 k mの油阪町内の中位段丘上 にある中期前半 と推 定 される坂上山古墳 ( 全長約1 0 5m、図31 )がある。 鷺塚古墳 は外衣施設に茸石 と円筒埴輪 -6 6- 図3 0 鷺塚古墳 (1/ 2 , 0 0 0 ) \ 、 図31 坂上山古墳 (1/ 2 , 0 0 0 ) ※図3 0・ 3 1:大和前方後円墳集成 図3 2 杉 山古墳 (1/ 2 , 0 0 0 、報告書) 三 盛 三 / こ= 三 ∴卜 ℃ ∴ 二 二 二 二 . .I 3 古市方形墳 (1/ 8 0 0 、奈良市史、一部改変) 図3 -6 7- 二二 二 二 B : 第2埋葬施設 図3 4 吉備塚古墳 ( 墳丘 :1/ 4 0 0、埋葬施設 :1/1 0 0、報告書 を一部改変) ( . 「 二 [ . I.._ihl ※ 市概報H3 図3 5 東紀寺遺跡 市 第2 43次調査 地( 1 / 4 0 0 ) 日 描 . ‖ 巨 ∪ 日 ‖ 25 1 _ r . H ト . I . J 日 . ・・. . 7 頭塔下古墳 ( 報告書) 図3 図36 春 日山第 2号墳 ( 奈良市史) 68 - 列が認め られ、小型の内行花文鏡 と石製斧頭が表採 されている。 南紀寺遺跡の南東約500m の古市町内の中位段丘上 には古市方形墳 ( 方墳、一辺約27m、 粘土榔 2)や石 ケ平古墳 ( 方墳、一辺約30m) 等の前期末∼中期頃の小古墳が点在する。 前期末の古市方形境 は外衣施設に茸石 と円筒埴輪列が認め られ、東西 2基ある粘土廓の う ち東榔か ら鏡 ・鉄製工具 ・鉄剣 ・玉類 ・琴柱形石製品等が出土 した ( 図3 2 ) 。 ( 2) 中期後半∼後期初頭 南紀寺遺跡の西方約 2kmの大安寺町内の扇端部 にある中期後半∼末の前方後円墳 であ る杉 山 ( 全長1 54m、図33)・基山 ( 全長80m以上)・野神 ( 全長40m以上、竪穴式石榔 +衣 形石棺)の各古墳 は、埴輪や埋葬施設 ・副葬品の特徴か ら杉 山一基山一野神の順で築造 さ れたと考えられている。 杉 山古墳では周濠を伴 うことや、墳丘について第2 段 目以上が盛土 で外衣施設に茸石 と円筒埴輪列があることが、墓山古墳では周濠 を伴い外衣施設に茸石 と 埴輪があることがそれぞれ発掘調査で確認 されている。 野神古墳の竪穴式石榔内か らは馬 具が出土 した。杉 山古墳 と南紀寺遺跡の石積みで護岸 した区画遺構や井泉 とは、築造時期 と機能 した時期が重複 し、茸石 と石積みの工法 も似 ることか ら関連が うかがえる。 東紀寺遺跡の北東部で奈良国立文化財研究所 ( 以下、奈文研)が実施 した第240次調査 ( 1 992年度)では周濠 を伴 う径 1 0m程度の円墳 ( あるいは方墳)が3基確認 された。 また、 西辺部で奈良市が実施 した第243次調査 ( 1 991 年度)では一辺約1 0mの方墳が確認 され、周 濠内か ら須恵器蓋杯 ・薩が出土 した ( 図3 5 ) 。いずれ も墳丘は削平 されている。 ( 3 ) 後期 能登川扇状地上や周辺の中位段丘上で小古墳がみ られる。 束紀寺遺跡の東約200m の高畑町内の扇央部には、中期末∼後期初頭の円墳である吉備塚 古墳 ( 径25m以上、木棺直葬 2)がある。 墳丘は盛土で、南北 2つの埋葬施設のうち、南 側の埋葬施設の撹乱坑か ら画文帯神獣鏡の破片が、迫葬 とみ られる北側の埋葬施設か ら桂 甲 ・馬具 ・鉄刀 ・銑鉄がそれぞれ出土 した ( 図3 4 ) 。 南紀寺遺跡の南西約 3k mの扇端部にある杏遺跡 ( 杏町)で奈良市が実施 した第337・340 次調査 ( 1 995年度)では、墳丘が削平 された後期前半の周濠 を伴 う方墳 3基 ( 一辺 1 0-20 m) が確認 された。 東紀寺遺跡の北約 1k mの中位段丘上に頭塔下古墳 ( 高畑町、墳丘不詳)や径 1 0m前後の 円墳か らなる春 日山古墳群 ( 春 日野町)、同北西約 1-1 . 5k mの中位段丘上に径約30m の円 墳 の脇戸古墳 ( 脇戸町)や率川古墳 ( 本子守町、墳丘不詳)、南紀寺遺跡の南東約500m の 中位段丘上に径 1 0-20m の円墳か らなる護国神社境内古墳群 ( 古市町)がある。 これ らは 後期半ば∼後半の ものである 頭塔下古墳 ・護国神社境内古墳群は埋葬施設が横穴式石室 。 で副葬品に馬具が含 まれる ( 図3 7 ) 。春 日山古墳群 は埋葬施設が小規模な横穴式石室で副葬 品に馬具は含 まない ( 図3 6 ) 。脇戸古墳 と率川古墳 は墳丘が削平 されているが、周濠 と円筒 埴輪 を伴 うことが確認 されている。 -6 9- 6.古墳時代の自然環境の様相について ( 図3 8) 微地形 扇央部の東紀寺 ・南紀寺遺跡では、扇状地構成層上面の古墳時代の遺構面は現 地表面下0 . 3- 1m程度 と浅 く、後世の耕地化 に伴い改変 されている。 また、同後期 に埋没 する西流する旧河川がみ られる。 したがって、扇央部の微地形は基本的に小高い微高地 と 西流する河川か らな り、河川は古墳時代中期後半 までに河床が次第に上昇 し、それにつれ て水流が緩やかになった後 に後期 に埋没 した と想定 される 。 扇端部の三条遺跡で も、扇状地構成層上面の古墳時代の遺構面は現地表面下0 . 3-0 . 5m と 浅 く、後世の耕地化 に伴い改変 されている。 また、縄文時代草創期のロウブの凹地 とほぼ 対応する位置を西流 し、弥生時代後期末には埋没 して湿地化する旧河川がみ られる。 した がって、扇端部の微地形は小高い微高地 と西流す る河川の名残の湿地がみ られる低地か ら なる様相が想定 される。 森林植生 前述 したように、奈良盆地 とその周辺の古墳時代の森林植生について、金原 ( 1 993) は山地 ・丘陵か ら低地の縁辺部にかけて概 して主にスギ等の針葉樹 を伴 うカシ林 が縄文時代以来継続すると想定 している。 能登川扇状地の扇央部については、東紀寺遺跡の旧河川か ら出土 した中期後半の木製品 の素材の樹種がカシ林の構成種であ り、南紀寺遺跡の区画遺構 ・井泉埋土の花粉分析 でコ ナラ属アカガシ亜属が最優 占することか ら、中期後半にカシ林が広 く分布 していた と推察 で きる。 遺構の分布や遺物の出土状態を考慮すれば、中期前半以前や後期の開発の規模や 周辺-の影響は中期後半 よりも小 さい と考えられるので、カシ林が古墳時代 を通 じて広 く 分布 していた可能性がある 。 扇端部について も、三条遺跡において弥生時代 中期末∼後期初頭に放棄河道内でカシが 繁茂することや、杉 山古墳 の周濠外提側 における古墳時代 中期後半∼奈良時代初期の埋土 の花粉分析でコナラ属 アカガシ亜属 を主 とする樹木花粉が優 占することか ら、扇央部 と同 様 に古墳時代 を通 じてカシ林が広 く分布 していた可能性がある。 前述 した東紀寺遺跡の木製品の樹種 にはヒノキやスギが、南紀寺遺跡や杉 山古墳の花粉 分析 で把握で きた植物群集にはヒノキ、スギヤマツがそれぞれ含 まれる。 したがって、能 登川扇状地の古墳時代の森林植生 も金原 ( 1 993) が想定する様相 を示す と考えられる 。 森林植生 と集落の開発及び生活 とは密接 に関わっていると考えられる。 集落を開発する 際には森林 を伐採する必要がある。 また、三条遺跡で弥生時代後期末∼古墳時代初頭の木 製の農耕具が、東紀寺遺跡で古墳時代中期後半の木製品がそれぞれ出土 してお り、後者の 樹種がカシ林の構成種であることを考慮すればこれ らの素材が集落周辺のカシ林か ら確保 された可能性が高い。 また、時期 を問わず煮炊具 を含む土器が多量に出土することか ら、 多量の薪炭材が使用 されたことが うかがえる 。 したがって、弥生時代後期末∼古墳時代の集落周辺のカシ林 は様々な森林資源 を確保す るための入会地 として認識 されていた と推測す る 南紀寺遺跡の市第 4次調査地の植物遺 。 -7 0- 体分析 ではカシ類 が人為干渉 を反映す るアラカシと確認 されていることを踏 まえれば、伐 採 の影響 で二次林化が進 んでいた と考 え られる。 7.古墳時代の集落 と耕地の様相 について ( 図3 8) ( 1 ) 発掘調査成果 から把握で きる様相 3で記 した発掘調査成果か ら、能登川扇状地 における古墳 時代 の集落 は扇央部では前期 後半∼後期 に、扇端部では弥生時代後期末∼古墳 時代初頭及 び古墳 時代 中期後半∼後期 に 営 まれた ことがわかる。 発掘調査成果か ら把握 で きる古墳 時代 の集落 と耕地の様相 の変遷 については、以下の ようにまとめることがで きる。 A.集落 と耕地の様相 a.扇央部 前期後半∼中期前半の集落 2001 )調査地で、旧 東紀寺遺跡 の南半部西寄 りの橿考研 ( 河川か ら祭紀行為 を反映す る様相 を示す土師器や、前期 の土器 とともに鍛冶が行 われてい た ことを示す フイゴの羽 口や鉄淳が出土 した ことか ら、 この付近が集落の一画で水 に関わ る祭祀場 と鍛冶工房が存在 した ことが うかが える す ぐ南方の南紀寺遺跡で この時期 の遺 。 構 が確認 されていない ことを踏 まえれば、集落の南辺部 にあたる可能性がある 。 水 に関わる祭祀場 と手工業生産 に関わる施設が共存す る点で後述す る中期後半の集落 と 通 じる様相が見受 け られることか ら、その前身 となる集落 と考 え られ る。 中期後半の集落 東紀寺遺跡 の南半部東寄 りか ら南紀寺遺跡 の西部 にかけての地域で遺 構 や遺物が確認 されることか ら、前段 階に比べ土地利用 の範 囲が南方へ移動 あるいは拡大 した可能性がある。 東紀寺遺跡では、南半部東寄 りの市第6 次調査地で旧河川か ら集落の様相 を示す土器、備 讃瀬戸沿岸や大阪湾沿岸 でみ られる製塩土器 とカシ林 の構成種 の樹木 を素材 とした様 々な 種類 の木製品が多量 に出土 した ことか ら、 この付近 に集落が存在 して交易が行 われた こと は明 らかで、木製品の工房 も存在 した可能性がある 。 南紀寺遺跡では、北西部の市第 1 ・2 ・4次調査地で川べ りに営 まれ る水 に関わる祭祀 場 を もつ区画が確認 されているが、 こうした区画 は通常 の集落遺跡 ではみ られない ことか ら首長居館 の一画の可能性があ り、政治的な機能 を有 していた こ とが うかが える。 建物、 溝等 の遺構 を確認 した南西部の第 3次調査地で出土 した中期後半∼後期 の須恵器 に窯壁が 付着 した り焼 け歪 んだ りす る ものが含 まれ ることか ら、付近 に窯が存在 した と想定 される。 水 に関わる祭祀場 と手工業生産 に関わる施設が共存す る可能性がある点 を踏 まえれば、 前述 した前期後半∼中期前半 の集落 を拡充 した もの と捉 え られ る 。 後期の集落 中期後半の遺構 がみ られる東紀寺遺跡 の南半部東寄 りか ら南紀寺遺跡の西 部 にか けての地域 で建物、溝、土坑が確認 されてい る 。 中期後半の木製 品が多量 に出土 し た東紀寺遺跡の南半部東寄 りの市第6 次調査地で確認 された旧河川では後期 に木製品をほ と ん ど含 まない層が堆積 し、南紀寺遺跡 の北西部の市第 -7 1- 1・2・4次調査地で確認 された中 期後半の水 に関わる祭祀場 に関連する区画遺構 や井泉が後期 に埋没す ることか ら、中期後 半の土地利用が後期初頭 には廃絶 し、その近接地や跡地で新 たに集落が営 まれたことが把 捉で きる。 この集落は出土遺物の様相か ら手工業生産が生活基盤ではないことは明 らかで、 農村 の可能性が考 えられる。 集落周辺の耕地 扇央部においては、東紀寺 ・南紀寺遺跡で耕地に関連する遺構 は確認 されていないため、詳細 は不明である ただ し、前述の森林植生の様相や、 。 ( 丑 東紀寺 ・南紀寺遺跡では、上面が古墳時代 の遺構面 となる扇状地構成層が水 田耕作 に不向 きなシル ト混砂裸、砂裸や砂磯質土であることが多い。 また、同時代の旧河川 は同中期後半には緩やかな水流があ り、後期 に埋没 した と想定 される。 ( 彰 東紀寺遺跡の南半部東寄 りの市第6 次調査地で確認 された旧河川の古墳時代中期後半 の埋土か らモモ核が出土 している。 ( 彰 東紀寺 ・南紀寺遺跡では、古墳時代前期後半∼中期後半の水 に関わる祭祀場 と工房 か らなる集落の廃絶後の後期 にも集落が営 まれる。 といった点 をふ まえれば、下記のように把握で きる。 A 古墳時代 中期後半以前 には、集落周辺 は森林が深 く旧河川 も緩やかな水流があ り水 田適地 となる湿地がほとん どない状態 と推察 されるので、水 田が営 まれた可能性 はほ とん どな く、畑地が集落の一画に営 まれた程度 と考 えられる 。 また、集落の一画には モモが植樹 されていたようである。 B 同後期の集落は同中期後半以来の手工業生産が行われた形跡がないことか ら農耕が 生活基盤である可能性が高 く、埋没 した旧河川 に水 田が営 まれたか、あるいは集落周 辺で畑地が営 まれたと考 え られる。 b.扇端部の集落 と耕地 弥生時代後期末∼古墳時代初頭の集落 ・耕地 杉 ケ町 ・三条 ・大森遺跡で確認 された弥 生時代後期末∼古墳時代初頭の集落は、三条遺跡で弥生時代後期末に微高地間の低地 を流 れる旧河川が埋没 して湿地化することが発掘調査 で確認 されたことや、杉 ケ町遺跡や三条 遺跡で籾圧痕が残 る土器や農耕具が出土 したことを考慮すれば、扇端部一帯で広 く行 われ た微高地間の低地の水 田開発 に伴い成立 した農村 と考 えられる。 また、広域的な開発 を行 うためにはまとまった労働力 と食料 ・資材が必要 と考 えられる ので、 これ らを供給で きる開発の母体 となる大集落が農村 と考 えられる集落の付近 にすで に存在 した可能性が高い。 古墳時代中期後半∼後期の集落 ・耕地 三条遺跡 については、 ① 北東部の調査で中期後半の土坑や後期頃の低地の堆積層上面で畜力 を用いた水 田耕 作の形跡 と考 えられる無数の人やウシの足跡が確認 された。 ( 彰 北東部の遺構の埋土や覆土か ら出土 した中期後半の土器や西辺部の西流する流路の 埋土か ら出土 した中期後半∼後期の土器の器種が、 ともに集落遺跡 と近い様相 を示す。 -7 2- 弥生時代後期未∼古墳時代初頭 ① 主 に扇端部で集落が展開 ( 彰 低地の水 田開発 に伴い成立 した 農村 と開発母体 となる大集落 とで 構成 された可能性 ( 彰 扇端部の河川は埋没 して湿地化 ④ 集落周辺の森林か ら木製品の素 材や薪炭材 を確保 した可能性 古墳時代前期後半∼中期後半 1. 扇央部の集落 ① 手工業生産の工房や祭祀場が 存在 ( 耕地はほとん どない) ② 中期後半には水 に関わる祭祀 場 をもつ区画が造営 ( 首長居館 の可能性) ( 彰 交易が行われた 2. 扇端部の集落 ( 丑 前期後半∼中期前半の遺跡は 未確認 ( 存在 した可能性) ( 参 中期後半に新たに開発 された 低地で水 田耕作 を営む農村の可 能性 古墳時代後期 1. 扇央部の集落 農村+ 耕地 ( 畑地か水田) 宕i 喜;≡集落) ( 集落周辺は入会地) 、 ・ R ・ ・ ・ 一 ・ . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ . . . . 一 ・ ・ . . . ・ ・ ・ ' ' ' ' 鎧 ( 丑 中期後半 までの集落が廃絶 し、 跡地 に新 たな集落が形成 ( 参 集落の周辺で耕地 ( 畑地、あ るいは水 田) を営んだ農村の可 能性 ③●河川 は埋没 2. 扇端部の集落 ( 丑 中期後半 に開発 された農村が 継続 した可能性 ( 彰 水 田耕作 に畜力 を活用 した可 能性 図3 8 能登川扇状地における古墳 時代の集落展開概念図 ー7 3- といった点か ら、遺跡の北東部付近において微高地問の低地で水 田耕作 を営んだ農村 と考 えられる。なお、同北東部で確認 された時期不詳の掘立柱建物 ・塀 はこの時期の集落に伴 う遺構の可能性がある。 また、西木辻町内のこの時期の集落遺跡については、 A 集落に関連する遺構や遺物包含層が町内の北西部で確認 されている。 B 市第1 48次調査地の溝の埋土や遺物包含層か ら出土 した中期後半の土器の器種や市第 3 33次調査地の溝 ・土坑や遺物包含層か ら出土 した後期の土器の券種が、 ともに集落遺 跡 と近い様相 を示す。 C 三条遺跡 と立地があまり変わらない。 といった点か ら、町内の北西部付近において微高地問の低地で水 田耕作 を営んだ農村 と考 えられる 両遺跡 ともこの時期の遺構 は前期後半∼中期前半の遺構 と共伴せず、遺構の埋 。 土や遺物包含層に前期後半∼中期前半の遺物が混入 しないことか ら、中期後半に新たに開 発 されて成立 し、後期 まで継続 したと考えられる。 前述 した扇央部の東紀寺 ・南紀寺遺跡 で首長居館の一画の可能性がある区画 を伴 う集落 と同時期 に成立することか ら、両者が同 じ社会的契機の もとで成立 したことが うかがえる 。 B.扇■ 状地全体における集落の様相の変遷 Aをまとめると、能登川扇状地における古墳時代の集落の様相の変遷は以下のように捉 えることがで きる。 弥生時代後期末∼古墳時代初頭 扇央部において東紀寺 ・南紀寺遺跡の各調査地でこの 時期の遺構 ・遺物がみ られず、森林が深 く水 田適地がほとんどない と推察 されることを踏 まえれば、主に扇端部で展開 したと考 えられる。 扇端部の集落は、弥生時代後期末に微高地間の低地を流れる旧河川が埋没 して湿地化す ることが契機 とな り、扇端部一帯で広 く行われた微高地問の低地の水田開発 に伴い成立 し た農村 と、広域的な開発 を行 うための労働力 と食料 ・資材 を供給で きる開発の母体 となる 大集落 とで構成 された可能性が高い。 この水 田開発 は労働力 と食料 ・資材 を供給で きる社 会基盤が前提 になると考えられるので、 この大集落は、弥生時代後期後半以前か らすでに 営 まれていた と推測する。 古墳時代前期後半∼中期後半 前期後半∼中期前半の集落については扇央部の東紀寺 ・ 南紀寺遺跡の調査で断片的に把握で きる程度であるが、中期後半については扇央部 と扇端 部で集落が営 まれ、前者 と後者では性格が異なる様相が うかがえる。 扇央部に位置する東紀寺 ・南紀寺遺跡の中期後半の集落には、 ① 首長居館の一画の可能性がある水 に関わる祭紀場 をもつ区画がみ られる。 ② 木製品や須恵器などの手工業生産が行われた可能性がある。 ③ 備讃瀬戸沿岸や大阪湾沿岸でみ られる製塩土器が含 まれる。 ( 彰 周辺は森林が深 く旧河川 も緩やかな水流があ り水 田適地 となる湿地がほとんどない 状態 と推察 される。 -7 4- といった特徴があることか ら、手工業生産や交易 を生活基盤 とし、政治的に機能 した非農 村的な性格が うかがえる。 また、東紀寺遺跡の前期後半∼中期前半の集落は、水 に関わる 祭祀場 と鍛冶工房の存在が うかがえる点で東紀寺 ・南紀寺遺跡の中期後半の集落 と機能的 に通 じる点がみ られ、その前身の集落の可能性がある。 一方、扇端部の三条遺跡や西木辻町内の中期後半の集落は、前者 に水 田耕作の形跡が認 め られることや立地が似ていることか らともに農村 と考 えられ、前期後半∼中期前半の遺 構 と共伴 しないことか ら、 この時期 に新たに開発 されて成立 したと考えられる。 したがって、中期後半の集落は扇央部では手工業生産や交易 を生活基盤 とし政治的に機 能する非農村的な性格 を、扇端部では農村の性格 をそれぞれ有 してお り、立地によって機 能分化 した様相が うかがえる。 この様相は前期後半にはすでに成立 していた可能性があ り、 中期後半に拡充 したと捉 えられる。 古墳時代後期 扇央部の東紀寺 ・南紀寺遺跡では、従前の集落が廃絶 して農村化 したこ とが うかがえ、扇端部の三条遺跡や西木辻町内の中期後半の集落はこの時期 も継続するこ とか ら、扇状地全体で農村が営 まれた様相 を示す と考 えられる。 この時期 に地域社会が変 容 し、それに伴い集落が変化 したことを示す可能性がある。 ( 2 ) 「 単位地域論」の類型 との対比 1 9 9 3 )が類型化 した奈 ( 1 ) で把握 した能登川扇状地の集落遺跡の様相 は、前述 した山川 ( 良盆地の集落の様相 と対比すると以下のように把握で きる。 弥生時代後期末∼古墳時代初頭 杉 ケ町 ・三条 ・大森遺跡の集落は、扇端部一帯で広域 的に行われた微高地間の低地の水田開発 に伴い成立 した農村で、開発の母体 となる大集落 がその付近に存在 した可能性が高いことか ら、弥生時代 中期以来の 「 低位集落」の様相 を 示 し、開発の母体 となる大集落は 「 拠点集落」 として捉 えられる。 古墳時代前期後半∼中期後半 扇央部に位置する東紀寺 ・南紀寺遺跡の中期後半の集落 は、首長居館の一画の可能性がある水 に関わる祭祀場 をもつ区画がみ られ、木製品や須恵 器の工房が存在 した可能性 もうかがえることか ら、「 特殊集落」の様相 を示す と考えられる。 東紀寺遺跡の古墳時代前期後半∼中期前半の集落は、水 に関わる祭紀場 と鍛冶工房の存在 が うかがえる点で東紀寺 ・南紀寺遺跡の古墳時代 中期後半の集落 と似た点がみ られ、その 前身 となる 「 特殊集落」 と考えられる。 扇端部に位置する三条遺跡や西木辻町内で確認 された中期後半に成立 し後期 まで継続す る集落は、 ともに扇端部の微高地間の低地で水田耕作 を営んだ可能性があることか ら、「 生 産集落」 の様相 を示す と考 えられる 。 古墳時代後期 扇央部に位置する東紀寺 ・南紀寺遺跡の後期の集落は、中期後半の土地 利用の跡地や近接地で新たに営 まれた農村の可能性があることか ら、立地は異なるが 「 生 産遺跡」の様相 を示す と考えられる 扇端部では前述の三条遺跡や西木辻町内で確認 され 。 た中期後半に成立 し後期 まで継続する 「 生産集落」の様相 を示す集落が営 まれる。 -7 5- したがって、能登川扇状地の弥生時代後期末∼古墳時代後期の集落遺跡の様相は、山川 ( 1 993) が類型化 した奈良盆地における単位地域内の集落の様相にほぼ対応すると考えら れ、下記のように理解で きる。 A 弥生時代後期末∼古墳時代前期初頭 には扇端部で 「 拠点集落」 と 「 低位集落」か ら なる弥生時代中期以来の様相 を示す集落が展開する 。 B 古墳時代前期後半には扇央部で 「 特殊集落」の様相 を示す集落が、扇端部で 「 生産 集落」の様相 を示す集落が営 まれ、中期後半にはともに再開発 により拡充する。 C 同後期 には扇央部で従前の 「 特殊集落」の様相 を示す集落が 「 生産集落」の様相 を 示す集落に置 き換わ り、扇端部で 「 生産集落」の様相 を示す集落が継続 して営 まれる。 なお、弥生時代後期末∼古墳時代の 「 高位集落」の様相 を示す集落については、南紀寺 遺跡内の水田で弥生土器が表採 されていることから扇央部付近に存在 した可能性がある 古 。 墳時代前期後半∼中期前半の 「 生産集落」の様相 を示す集落については相当する遺跡が今 の ところ確認 されていないが、「 特殊集落」の食料基盤 を欠 くのは不 自然であ り、存在 し たと考えるのが妥当 と思われる 。 8.集落 と古墳の動向の関連について 6・7で前述 した古墳時代の集落の様相 と同扇状地及びその周辺の古墳 について様相の 変遷 を対比すると以下のような関連が見出せ る。 ( 丑 扇端部で弥生時代 中期以来の様相 を示す集落が展開する弥生時代後期末∼古墳時代 前期初頭の段階では、古墳 はみ られない。 ② 扇央部の東紀寺遺跡で水 に関わる祭祀場 と鍛治工房の存在が うかがえる前期前半∼ 中期前半の段階には、全長1 0 0m前後の前方後円墳である鷺塚 ・坂上山の各古墳が扇状 地北側の山地や中位段丘上に点在 し、小古墳 は古市町内の中位段丘上で古市方形境や 石 ケ平古墳等がみ られる。 表 時期 集落遺跡 集落遺跡 と古墳 の関逮 太字 :非農村 的 古墳 ): 群在 太字 :大型前方後円墳 、( 弥生後期末 ∼古墳初頭 扇瀦部 杉 .三条 .大森 ( 農村 的) ※ ケ町 弥生的様相 古墳前期後半 ∼中期前半 扇央部 東紀寺 ( 祭祀場、工房) 古墳 中期後半 扇央部 東紀寺 .南紀寺 ( 区画 +祭祀場) 扇央部 吉備塚 .( 東紀寺) 扇瀦部 三条 .西木辻町内 ( 農村 的) 扇瀦部 杉 山 .基山 .野神 扇央部 東紀寺 .南紀寺 ( 農村 的) 扇端部 ( ∼後期初頭) 古墳後期 -7 6- 周辺部 古市方形填 鷲壕 .坂上山 .石 ケ平 ( 杏) ③ 扇央部の東紀寺 ・南紀寺遺跡で水 に関わる祭祀場 をもつ区画を伴 う非農村的な集落 が営 まれ、扇端部の三条遺跡や西木辻町内で新たに集落が開発 される中期後半の段階 には、全長1 0 0m前後の前方後円墳 と小古墳 はともに扇状地に分布するようにな り、扇 端部で前方後円墳の杉山 ・基 山 ・野神の各古墳が、扇央部の東紀寺遺跡で小古墳がみ られる。 東紀寺遺跡の近接地にある後期初頭の小古墳である吉備塚古墳 も様相的には この時期の動向で捉 えられる。 ④ 扇央部か ら扇端部にかけての地域で農村 の様相 を示す集落が営 まれたと考えられる 古墳時代後期の段階では、全長1 0 0m前後の前方後円墳がみ られず、小古墳が扇端部や 扇状地周辺の中位段丘上に分布するようになる。 特 に注 目すべ き点は、集落の様相が奈良盆地北東部で最大規模の全長1 00 m前後の前方後 円墳の動向 と関連 して変化することが うかがえる点で、古墳時代前期後半以降の集落の形 態が 「 大和政権」の地域支配に関連する 「 政治的産物」であることを示す と考えられる 。 9.想定 される地域社会の様相について ( 図3 9) 6- 8を踏 まえると、能登川扇状地における古墳時代の地域社会の様相は、以下のよう に想定で きる。 a.弥生時代後期未∼古墳時代前期初頭 この時期の集落は主に扇端部で展開 したと考 えられ、扇端部一帯で広 く行われた微高地 間の低地の水 田開発に伴い成立 した農村 と、広域的な開発 を行 うための労働力 と食料 ・資 材 を供給で きる開発の母体 となる大集落 とで構成 されていた。 この時期 にはまだ古墳が築 かれていない ことか ら、「 大和政権」の支配下 に入ってお らず、弥生時代以来の社会構造 を維持 していた と考える 。 微高地間の低地の水田開発 に伴い成立 した農村 と、広域的な開発 を行 うための労働力 と 食料 ・資材 を供給で きる開発の母体 となる大集落 とは、「 本村 一分村」の関係で捉 えるこ とがで きる 集落の形態は、「 本村」( -「 拠点集落」 )の周辺に複数の 「分村」(- 「低位 。 集落」 ) とそれに伴 う耕地 とで構成 されていたと想定する。 「 本村」である大集落の共同体 は、「 分村」の開発母体であることを考慮すれば手工業生 産や交易 に携 わる集団 と共同体 の首長 ( 以下 「 共同体首長」 とす る)か らな り、「 分村」 である農村の共同体は食糧生産に携わったと想定する。両者は一連の共同体 ( 以下 「 扇端 部共同体」 とする) を形成 し、分業 を営んでいた と捉 える。 「 扇端部共同体」の社会空間 〔( 狭義)特定の社会集団により知覚 ・占有 ・利用 される空 間 :最新地理学用語辞典 ( 大明堂) 〕は、集落での生活 を考慮すれば 「本村」 と 「分村」 及び耕地が分布する地域 とその周辺の森林で、境界 は明確でなかった可能性がある。 集落 周辺のカシ林 は生活資源 となってお り、入会地 として認識 されていた と考 える。 b.古墳時代前期後半∼中期前半 奈良盆地北東部で最大規模の全長1 00 m前後の前方後円墳が能登川扇状地の周辺で築かれ -7 7- る時期で、前段階 とは集落の構造が変化することか ら、「 大和政権」の支配下に入 って社 会構造が変化 したことが うかがえる。 この時期の集落は、集落は扇央部では手工業生産や交易 を生活基盤 とし政治的に機能す る非農村的な性格 を、扇端部では農村の性格 をそれぞれ有 してお り、立地によって機能分 化 した様相が うかがえる 扇央部の集落 (- 「 特殊集落」) は主 に農耕以外の経済活動 を 。 営む点で前段階の 「 本村」(- 「 拠点集落」 )と、扇端部の集落 (- 「生産集落」 )は農耕 を営む点で前段階の 「 分村」(- 「 低位集落」 )とそれぞれ同 じ性格 を有すると考える。 し たがって、「 大和政権」の政治的な意図により前段階にみ られた扇端部の 「 本村」(- 「 拠 点集落」 )が扇央部へ移動 させた形態 と捉 える。 移動の要因 としては、 ① 弥生時代後期末∼古墳時代前期初頭 に扇端部で広域的に水 田開発が行われた結果、 港 概 に伴 う河川管理の必要が生 じたので、「 共同体首長」 に扇状地 を流れる河川の水 利権 を掌握 させ、扇端部 を流れる河川が収束する河川管理に好都合 な扇頂部や扇央部 を占有 させる必要があった。 ② ( 彰と関連 し、従前の 「 扇端部共同体」ではあまり明確でなかった社会空間の境界 を、 河川管理や地形界が河川であるといった扇状地の地形的特性 を利用 して明確 にし、山 川 ( 1 9 9 3 )が指摘するように扇状地 を水系 を媒介にした政治的な一単位 として認識 さ せ る必要があった。 ( ※理由は1 0で後述) ( 彰 従前の集落が展開 した扇端部では、森林の伐採が進み生活資源 となる樹木が不足 し たので、森林資源 を活用 して手工業生産 を行 う 「 本村」 を扇央部-移す必要があった。 といった点が想定され、地域社会の社会基盤や生活基盤の整備 に関連する 「 大和政権」 の政治的意図が働いていると考える。 束紀寺遺跡や南紀寺遺跡で確認 された水 に関わる祭 配場 は、おそ らく水利権の掌握 を象徴する 「 共同体首長」の政治的な儀式のために営 まれ たと推測する。 扇央部の集落 (- 「 特殊集落」) の手工業生産や交易 に携 わる集団 と扇端部の農村 ( 「 生産集落」) の共同体 とは、同様 に経済活動 に携わっている点で社会的立場 は対等 と考 えられ、両者の間には扇央部の集落 (- 「 特殊集落」 )が製作 した農耕具 と扇端部の農村 ( - 「 生産集落」 )が生産 した米等の農産物 とを交換 し合 う等必要 な生活物資を相互補完 し合 う関係 を想定する。 両者 は 「 共同体首長」 によってまとめ られた一連の共同体 ( 以下 「 扇状地共同体」 とする) として捉 える。 「 扇状地共同体」の社会空間は、前述 した ように 「 共同体首長」が扇状地 を流れる河 川の水利権 を掌握 していた という想定 を踏 まえれば扇状地全体 と考 える。 なお、扇央部の集落 (- 「 特殊集落」) の立地について、青柳 ( 2 0 0 3 )は大和東南部 と木 津川 を結ぶ南北交通路 と能登川 をさかのぼ り大和高原の田原盆地へ至 る東西交通路が交差 する交通の要衝 と想定 している。 前述 したようにこの集落が 「 大和政権」の政治的意図に より成立 していることを踏 まえれば、交易権 は 「 大和政権」が掌握 してお り、集落の形成 -7 8- 弥生時代後期末∼古墳時代初頭 山地 ・丘陵 ① 大集落 と農村 とは、 「 本村 一分 村」の関係で、一連の 「 扇端部共 同体」 を形成 ② 大集落の共同体 は、 「 共同体首 長」 と手工業生産 ・公易 に携 わる 集団か らな り、農村の共同体 は食 糧生産に携 わる 高位段丘 中位段丘 や 扇央部 ( 集落周辺は入会地) ( 釘 「 扇端部共同体」の社会空間は、 集落 と耕地が分布する地域 と周辺 の森林で、境界 は不明確 ④ 「 大和政権」の支配下ではない 「扇 端 部 共 同体 」 ( 社会空 間) 古墳時代前期後半∼中期後半 ( ∋ 「 大和政権」の支配下に入 っ て社会構造が変化 ( 勤 前段階の 「 扇端部共同体」が 再編 されて、大集落が扇央部へ 移動、 「 共同体首長」 は水利権 を掌握 し、扇状地が一つの政治 的単位化 ( 彰 扇央部 と扇端部の集落は生活 資源 を相互補完 しあう一連の共 同体である 「 扇状地共同体」 を 形成 ( 彰 奈良盆地北東部 に政治基盤 を もつ 「 大和政権」 と関係が深い 「 政権首長」が支配 ⑤ 中期後半には、再開発 を契機 に 「 大和政権」が共同体 を掌握 古墳時代後期 ① 「 大和政権」の支配体制に大 きな変化があ り、それに伴い地 域社会 も変化 ② 前段階の 「 扇状地共同体」が 解体 され、 「 政権首長」や 「 共 同体首長」が整理 されて、 「 大 和政権」が直接支配 図3 9 能登川扇状地における古墳 時代 の地域社会の展開概念図 -7 9- と交通路の形成は一連で行われたと捉 えることがで きる。 C. 古墳時代中期後半 奈良盆地北東部で最大規模の全長1 0 0 m前後の前方後円墳が能登川扇状地に築かれる時期 で、集落や耕地の再開発 による拡充がなされる。 この再開発 は古墳の分布の変化 と軌 を一 にすることか ら 「 大和政権」によって行われた と考える。 後期 には後述するように 「 扇状 地共同体」が解体 されることを考慮すれば、開発 を通 じて土地利用の権利 を掌握する意図 があった と推測する。 この段階では従来の地域社会の構造が基本的に維持 されているが、 実権 は「 共同体首長」ではな く 「 大和政権」が掌握 していた可能性がある。 東紀寺遺跡でこ の時期に小古墳が営 まれることもその傍証 と考 える。 d.古墳時代後期 扇端部の農村 (- 「 生産集落」 ) は存続するが、扇央部では手工業生産や交易 を生活基 盤 とし政治的に機能する非農村的な集落 (- 「 特殊集落」 )が廃絶 して農村 (- 「 生産集 落」 )に置 き換わる。 大型の前方後円墳 もな くなることか ら、「大和政権」の政治体制に大 きな変化があ り、それに伴い地域社会 も大 きく変化 したことが読み取れる。 扇央部の集落の変化 については、「 大和政権」 によって 「 共同体首長」が整理 され、手 工業生産や交易の体制及び扇状地を流れる河川の水利権が再編 されたことを反映すると考 えられ、前段階で見 られた 「 扇状地共同体」が解体 されたと捉 える。 扇端部 と扇央部の農村の共同体 は食糧生産を担 う点では等質 と考えられ、両者の問には 水利 を介 した関係 を想定する。 1 0.「大和政権」の地域支配について ( 1 ) 古墳の被葬者の性格 鷺塚 ・坂上山 ・杉山 ・基山 ・野神 といった前期後半∼中期末の全長1 0 0m前後の前方後円 墳の被葬者 は、奈良盆地北東部では前期後半∼中期未を通 じて最大規模の古墳であること を踏 まえれば、 この地域 に政治基盤があ り、「 大和政権」と関係の深い首長 ( 以下 「 政権 首長」とする) と考える。 また、地域内に複数の河川が合流扇状地 を形成することを考慮 すれば、扇状地 ごとに能登川扇状地 と同様の 「 扇状地共同体」が成立 していた可能性があ り、「 政権首長」は奈良盆地北東部の複数の 「 扇状地共同体」 を支配 したと想定する。 同時期の小古墳の被葬者 については、前述 したように墳丘の様相が被葬者の生前の社会 的地位や権力 ・影響力の違いと関連すると考えれば、全長1 0 0m前後の前方後円墳の被葬者 である首長に比べて社会的地位が低 く、政治権力や影響力 は小 さい と捉 えられる。 小古墳 のうち、前期後半の古市方形境 と後期初頭の吉備塚古墳の被葬者 は、副葬品の種類 も多 く 外衣施設に埴輪 を伴 うことか ら序列的には 「 政権首長」の直下 と考えられ、 9で前述 した 地域社会の構造 を考慮すれば扇状地の河川の水利権 を掌握する 「 共同体首長」に比定で き ると考える。 また、東紀寺遺跡で確認 された中期後半の小古墳の被葬者は、やや時期が下 るが吉備塚古墳 よりも墳丘の規模が小 さいことか ら、手工業生産や交易等の経済活動に携 -8 0- わる集団の有力者 に比定で きると考える。 後期の小古墳の被葬者については、扇端部の杏遺跡で後期前半の ものが確認 されている ことや想定 される地域社会が等質的なことを踏 まえれば、扇央部 と扇端部の農村 (- 「 生 産集落」 )の有力者に比定で きると考える。 ( 2 ) 想定 される 「大和政権」による地域支配の動向 9で前述 した地域社会の様相 と( 1 ) で前述 した古墳の被葬者の性格 を考え合わせれば、能 登川扇状地における 「 大和政権」の地域支配について、 ① 古墳時代前期後半に奈良盆地の北東部に政治基盤がある 「 大和政権」と関係の深い 「 政権首長」が扇端部付近 を社会空間とし弥生時代以来の社会構造をもつ 「 扇端部共 同体」を支配下 に置 き、扇状地全体 を社会空間 とす る 「 扇状地共同体」に再編 して 「 共同体首長」に維持 させ る間接支配の体制 を確立 し、中期前半 まで継続する 。 ( 参 同中期後半には、「 政権首長」が集落や耕地の再開発 を行 うことを通 じて、「 扇状地 共同体」 を維持する実権 を掌握する。 ( 彰 同後期 には 「 政権首長」 と 「 共同体首長」 を整理 して 「 扇状地共同体」 を解体 し、 扇状地全域 を直接支配する体制へ と移行する。 という推移 を想定する。 ( 3 ) 前期後半の再編について 古墳時代前期後半に行われた 「 扇端部共同体」の再編 は、見方を変えればそれまでの地 域社会に 「 大和政権」の地域支配が必要 となるような生活基盤や社会空間に関する問題が 顕在化 していたことを示す と推測する。 9で前述 したように 「 扇端部共同体」の社会空間が 「 本村 」(- 「 拠点集落」 )と 「分村 」 (- 「 低位集落」) 及び耕地が分布する地域 とその周辺の森林で、境界が明確でなかった 可能性 を考えれば、水 田開発が拡大するにつれ、隣接す る 「 扇端部共同体」との問に境界 や港概用水の確保 を巡る争いが生 じたことが想定 される。 また、伐採による森林資源の減 少 も考えられる。山川 ( 1 993) によれば、奈良盆地では弥生時代中期後半か ら 「 本村」(「 拠点集落」 )と 「分村」( - 「低位集落」 )か らなる集落が展 開す る。前述の生活基盤や 社会空間に関する問題は奈良盆地一円で生 じていた可能性がある 。 「 大和政権」 による 「 扇端部共同体」の再編 は、それ までの奈良盆地の地域社会が抱 く 構造的な欠陥を解消 して地域社会 を安定 させるためには必然の政治活動 と捉 える。 ( 4 ) 後期の再編について 古墳時代後期に行われた 「 政権首長」 と 「 共同体首長」の整理や 「 扇状地共同体」の解 体 による地域社会の再編 は、同前期後半に成立 した地域支配の体制に不具合が生 じていた ことを示す と推測する。 前期後半に成立 した地域支配は、前述 したように 「 政権首長」が弥生時代以来の 「 扇端 部共同体」が抱 く構造的な欠陥 ( 不明確 な境界か ら生 じる利害関係の対立、伐採 による森 - 81- 林資源の減少など) を解消 して地域社会 を安定 させることに主眼が置かれた と想定する。 再編 された 「 扇状地共同体」 をまとめるのは従来か らの 「 共同体首長」であ り、「 政権首 長」 は政治基盤 となっている奈良盆地北東部の複数の 「 扇状地共同体」か らなる地域社会 の体制 を維持する役割 を担 っていた と考える。 「 政権首長」の収奪 については、地域社会 の維持 に対する代償 として 「 共同体首長」か ら得たと想定する。 9で前述 したが交易権 を 掌握 していた可能性があることか ら 「 扇状地共同体」 との交易 にも携わったと想定する。 後期 に行われた 「 政権首長」 と 「 共同体首長」の整理や 「 扇状地共同体」の解体 による 地域社会の再編後 には、「 大和政権」は手工業生産に携 わる集団 と扇状地の農村 を直接支 配することにな り、収奪 も少な くとも 「 共同体首長」 を介することはな くなる。 したがっ て、前期後半に成立 した地域支配の体制の不具合 は、「 大和政権」 が政治活動 を行 うため の重要な経済基盤である共同体か らの収奪 と交易 による利益が得 られないことで、社会 ・ 経済基盤の安定化 による 「 共同体首長」の自立が要因 と考える。 後期の再編は、「 大和政権」が前期後半以来の地域支配で顕在化 していた構造的問題 を 解消 して政治的な影響力 を強化する目的があったと捉 える。 中期後半に 「 政権首長」が集 落や耕地の再開発 を行 うことを通 じて 「 扇状地共同体」 を維持する実権 を掌握する動向は、 この再編への足がか りとなる政治的動向と捉 える。 ( 5) 古墳の性格 8で前述 したように、能登川扇状地の古墳時代の集落 と同扇状地及びその周辺の古墳 と は、様相が変化する画期がほぼ対応することか ら関連性が見出せた。集落の様相は地域社 会の様相 を、古墳の様相は 「 大和政権」の活動 と権力構造 をそれぞれ反映する。 集落の様 相 と古墳の様相に関連性が見出せ ることは、地域社会が 「 大和政権」の支配下にあ り、両 者が連動性 を有すること反映すると考える。 従来、古墳は 「 大和政権」 と関連する古墳時代の首長や有力者の墓 としての性格が強調 されていた。 しか し、「 大和政権」 と地域社会の連動性 を踏 まえれば、「 大和政権」の地域 支配や地域社会の様相 を反映する トレーサーの性格 も有すると考えられる。 したがって、 古墳の様相か らその所在する地域の 「 大和政権」の地域支配や地域社会の様相が把握でき る可能性がある。 古墳 はその所在する地域が 「 大和政権」の支配下であることを示す 「 政 治的モニュメン ト」の役割 を果 していた と捉 える。 まとめ 「 開発」は陸上で 自然 ・社会の両環境 との関わ りの上で展開される人の生活 に伴 う改変 行為で、 自然 ・社会の両環境の地域色や、それに対する認識や対応 によって様々な様相 を 示す特質がある。 「 開発史」は 「開発」の歴史であ り、過去の人の営為 と自然環境が複令 して反映する表層地質は、陸上で自然 ・社会の両環境 との関わ りの上で展開される過去の 人の生活の様相 とその変遷 を把握で きる総合的な研究資料である。 特 に遺跡は、開発の動 -8 2- 機や とその後の土地利用 に関連する認識や思想 を把握で き、地質の分析や遺構の埋土に含 まれる生物遺体の分析 により当時の自然環境が推察で きる。 本稿では、奈良盆地における古墳時代の地域社会や 「 大和政権」 の活動の様相 について、 奈良市内の能登川扇状地を例に、集落遺跡の発掘調査成果 と古墳の様相 に基づ き 「開発」 や 「 開発史」の観点による検討を試みた。集落遺跡の様相 については、山川 ( 1 993) が提 示 したモデルと近似する可能性が認め られ、古墳 の様相の変化 とも連動性が見出せた。以 上の検討結果か ら得 られた仮説は、以下の通 りである。 a.微地形 ・植生の様相 ① 扇央部の微地形は、基本的に小高い微高地 と西流する河川か らなる。 河川は古墳時 代 中期後半までに河床が次第に上昇 し、後期 に埋没 した。扇端部の微地形は、小高い 微高地 と西流する河川の名残の湿地がみ られる低地か らなっていた。 ( 参 森林植生は、古墳時代 を通 じて扇央部か ら扇端部にかけてカシ林が広 く分布 してい た。集落の生活資源 として木製品の素材や薪炭材 に活用 された。 b.集落 ・耕地の様相 ( 丑 弥生時代後期末∼古墳時代前期初頭の集落は、主に扇端部で展開 した。扇端部の集 落は、微高地問の低地の水田開発 に伴い成立 した農村 と、水 田開発 を行 うための労働 力 と資材等 を供給で きる開発の母体 となった大集落 とで構成 されていた。 ( 彰 古墳時代前期後半∼中期後半には、扇央部で手工業生産や交易 を生活基盤 とし、政 治的に機能 した非農村的な集落が、扇端部で農村が営 まれた。両者 とも中期後半に再 開発 により拡充 した。 ③ 同後期には、扇央部で従前の集落が廃絶 して農村化 し、扇端部で農村が営 まれた。 ④ 扇央部の集落に伴 う耕地は、周辺では森林が深 く河川に水流があったため、その一 画で畑地やモモの植栽が営 まれた程度であった。同後期 には農耕が集落の生活基盤 と な り、埋没 した河川に水 田が営 まれたか、あるいは集落周辺で畑地が営 まれた。 ⑤ 扇端部の集落に伴 う耕地は、古墳時代 を通 じて微高地間の低地に営 まれた水 田で、 後期 には畜力 を用いた水 田耕作がなされた。 C.地域社会 と 「大和政権」の活動の様相 ① 古墳時代前期後半以降の集落の様相が奈良盆地北東部で最大規模の全長1 0 0 m前後の 前方後円墳の動向と対応 して変化 してお り、集落や地域社会の様相 と 「 大和政権」の 活動 とは連動性 をもっていた。 ② 弥生時代後期末∼古墳時代前期初頭 に扇端部で展開 した集落では、農村 と大集落 と は 「 本村 一分村」の関係が成立 していた。「 本村」の大集落の共同体 は手工業生産や 交易 に携わる集団 と 「 共同体首長」か らな り、農耕 に携わる 「 分村」の農村の共同体 と一連の 「 扇端部共同体」 を形成 した。社会空間が不明確で、他の 「 扇端部共同体」 との問に境界や港概用水の確保 を巡る争いが生 じる危険性 をは らんでいた。 -8 3- ( 彰 前期後半には、「 大和政権」による社会基盤の整備がなされた。前段階の 「 本村」 を扇央部へ移動 して非農村的な集落を形成 し、一つの扇状地を社会空間として 「 共同 扇状地共同体」 に再編すると 体首長」が河川管理 を介 して流域の共同体 をまとめる 「 ともに、「 共同体首長」を奈良盆地北東部 に政治的基盤 をもつ 「 政権首長」の支配下 においた。この地域社会の様相 は中期前半 まで継続 したが、社会 ・経済基盤の安定 と ともに 「 共同体首長」が 自立する傾向をみせた。 ( 彰 中期後半には、「 大和政権」により集落や耕地の再開発 による拡充がなされた。開 発 を通 じて従来 「 共同体首長」が保有 した土地利用の権利 を確保する意図があ り、従 来の地域社会の構造が基本的に維持 されたが、実権は 「 政権首長」 に掌握 されて後期 の地域社会の再編への足がか りとなった。 ④ 後期 には 「 大和政権」の支配体制が変化 し、地域社会 を直接支配することにより政 治的な影響力 を強めた。「 政権首長」や 「 共同体首長」が整理 されて 「 扇状地共同体」 が解体 し、扇状地一帯に農村が展開 した。 なお、筆者が本稿で強調 したいのは上記の仮説ではな く、人の生活 と自然 ・社会の両環 境 との関わ りの上で展開される 「 開発史」 について、地域の地形 ・地質 と遺跡の調査成果 とを活用 したアプローチの仕方や思考のプロセスの提示である。 能登川扇状地の古墳時代 の開発史に関 しては資料不足の感が否めないので、今後の資料の蓄積 により再考 したい。 今後の課題 として、人文 ・自然の両分野 を総合 した調査 ・研究の取 り組みの実践があげ られる。従来の考古学の調査 ・研究体系 には含 まれていない自然環境の復元に関連する地 形 ・地質及び生物遺体の分析 を遺跡の発掘調査の一環 として取 り扱い、考古学のプロパー である調査者 と自然地理学や環境考古学の研究者が共同で取 り組む必要があると考える。 主要参考 ・引用文献 Ⅰ :小野恩典 ( 1 980) 『日本考古地理学』 ニューサイエ ンス社 大久保雅弘 ・藤 田至則編 貝塚爽平他 1 994) 『 地学ハ ン ドブック 第 6版』 築地書館 ( 『 写真 と図で見 る地形学』 東京大学出版会 ( 1 985) 近藤義郎 ( 1 976) 「 原始資料論」 ( 『 岩波講座 日本歴史』別巻 2 岩波書店) 紺野義夫 ・島津光夫 ・増田孝一郎 1 991 ) 『 改訂一般地学 』 共立出版( J . G. エヴァンス ( 加藤晋平訳) 『 環境考古学入門』 雄山閣出版 ( 1 982) 人類紀 自然学編集委員会 地学団体研究会編 中西 『 人類紀 自然学 一地層 に記録 された人類 と環境の歴史 -』 共立出版 ( 2007) 『 地表環境の地学 一地形 と土壌 哲 ・大場達之 ・武田義明 ・服部 保 新版地学教育講座 9』 東海大学出版会( 1 994) 『日本の植生 図鑑 1 森林』 保育社 ( 1 983) 絵本忠夫 『 生態 と環境』 生物科学入門コース 7 岩波書店 ( 1 993) 山岸 『 現代の生態学 宏 第 3版』 講談社 ( 1 989) 1 992) 「 第1 0章 Ⅱ :今尾文昭 ・関川尚功 ・前囲実知雄 ( 大橋 大和」 『 前方後円墳集成 健 ・池田 碩 ( 1 997) 「 奈良盆地の地形学的研究」 ( 『 奈良大学紀要』1 5) -8 4- 近畿編』 山川出版社 ( 「 花粉分析 法 に よる古環境復 原 」 ( 『 新版古代 の 日本 』1 0 旭他 ( 200 0) 「 奈 良地域 の地質」 『 地域 地 質研 究報告 (5万分 の 1図幅)』 地質調査所 ) 尾崎正妃 ・寒川 金原正 明 ( 1 993) 古代 資料研 究 の方法 近藤義郎 ( 1 966) 「 古墳 とは何 か」 ( 近藤義郎 ・長沢長治編 『日本 の考古学 Ⅳ ( 武久義彦 ( 1 983) 「地形 」 『 土地分類基本調査 角川書店) 古墳 時代上』 河 出書房新社) 奈 良県』 ( 大 阪東 部 ・奈 良 ・桜井) 奈 良県企画課) ( 「 奈 良盆地 にお け る旧地形 の復 原 」 ( 『関西大 学考古学研 究室 開設 3 0周年記念 西 岡芳晴 ・尾崎正妃他 ( 2001 ) 「 桜 井地域 の地質」 『 地域 地 質研 究報告 (5万分 の 1図幅)』 地質調査所 ) 中井一夫 ( 1 983) 三 田村宗樹 ( 1 993) 「 奈 良盆地 」 ( 市原 山川 実編著 『 大 阪層群 』 創 元社) ( 考古学論致 』1 7 「 葛城 とワニ」 ( 『 古代近畿 と物流 の考古 学 』 学生社) 均 ( 1 993) 「単位地域 論」 『 橿 原考古学研 究所紀要 Ⅲ :青柳泰助 ( 2004) 考古学論叢』) 奈 良県立橿 原考古学研 究所) ( 金原正 明 ・金原正子 ・環境考古研 究所 ( 1 997) 「 杉 山古墳 にお ける植 生 と環境 の変遷 」 『 史跡大安寺 旧境 内 Ⅰ一杉 山古墳 地 区の発掘調査 ・整備事 業報告 -』 奈 良市教 育委員会) 1 995) 「 南紀寺遺跡 第4 次調査における花粉分析 ・寄生虫卵分析」 ( 市概報 平成 6年度) 金原正 明 ・金原正子 ・中村亮仁 ( 奈 良県立橿 原考古学研 究所 編 奈 良市 史編纂審議 会 『 大和 前方後 円墳 集成』 学生社 ( 2001 ) 考古編 』 吉川弘文館 ( 1 968) 『 奈 良市 史 ( 安井宣也 ( 2005) 「 奈 良市 三条本 町一帯 の縄 文∼平安 時代 の 旧地形 と土地利用 の変遷 につ いて」 『 奈 良市埋 蔵文化 004) 財調査 セ ンター紀 要 』2 【 遺跡関連文献 】 ( 概 報 ・報告書、主要分) 1.東紀寺遺跡 県概 報 :1 999年度 、2001 年度 市概 報 :平成 3年度、平成 7年度、平成 8年 度、平 成 1 3年度、平成 1 5年度 1 99 4) 『 東紀寺遺跡 一奈良女子大学附属中学校 ・高等学校構内遺跡発掘調査報告』 奈 良国立文化財研 究所編 ( 2.南紀寺遺跡 市概 報 :平成 2年度、平成 3年度、平成 4年 度、平成 6年度 3.三条遺跡 0年度、平成 11年度、平成 1 2年度、平成 1 3年度、平成 1 4年 市概 報 :平成 8年度、平成 9年度、平成 1 度、平成 1 5年度 4.杉 ケ町遺跡 2年度、平成 8年度、平成 9年 度、平成 11年度 市概 報 :昭和 6 5.大森遺跡 市概 報 :平成 8年度、平成 1 3年度 奈 良市教 育委員会 ( 2007) 「 奈 良市埋 蔵文化財 調査 セ ンター速報展示 資料 」No . 29 (リー フ レッ ト) 6.西木辻 町内 3年度、平成 6年度、平成 7年 度 市概 報 :昭和 6 7.杉 山古墳 奈 良市教 育委員会 ( 1 997) 『 史跡大安寺 旧境 内 Ⅰ一杉 山古墳 地 区の発掘調査 ・整備事業報告 -』 8.基 山古墳 県概 報 :1 996年度 9.吉備塚古墳 奈 良教育大学 ( 2006) 『 吉備塚古墳 の調査 』 1 0.頭塔 下古墳 、春 日山古墳 群 奈 良 国立文化財研 究所 ( 2001 ) 『史跡頭塔発掘調査報告 』 ll.杏 遺跡 市概 報 :平成 7年度 1 2.脇戸古墳 市概 報 :平成 6年 度、平成 11年度、平成 1 2年 度 1 3.率川古墳 市概 報 :昭和 61 年度 日本 地誌研 究所編 『 地理学辞典 』 二宮書 店 ( 1 989) 浮 田典 良編 『 最新 地理学用語辞 典 ( 改訂版)』 大 明堂 ( 2004) -8 5-
© Copyright 2024 ExpyDoc