山梨のジュエリー産業の変遷 草創期~江戸時代 ■水晶の国、山梨 山梨といえば「水晶」と言われるくらい、山梨は古くから透明良質の水晶の産地として有名である。 「甲州水晶」といえばすぐに金峰山と連想されるように、塩山の竹森抗を除けば、水晶産地のほとん どは、昇仙峡の奥金峰山一帯を中心とする地域に集中していた。 山梨のジュエリー産業は、この水晶工芸に始まり後に貴金属工芸いわゆる宝飾(飾り)業とともに 発展し、水晶工芸においては京都、飾りにおいては江戸の影響を受け、その後、山梨独自の文化とし て生成されてきた。山梨でジュエリー産業を研磨宝飾産業とも言うが、それは、この「水晶工芸=水 晶研磨」と「貴金属工芸(宝飾=かざり)」の2つの流れから発展してきた歴史があるからである。 ■県内における水晶原石と加工品の発見−1 山梨県内における水晶およびその加工品は、縄文時代前期および 中期遺跡(約 5000 年~3000 年前)の住居址から、水晶石鏃(せきぞ く、やじり)およびその原材料となったと思われる水晶原石が発見さ れており、これが県内における水晶加工品の第一号と言える。石鏃は、 石で作った弓用のやじりの事で、矢の先につける刃を水晶で作ったと 思われる。 水晶勾玉(まがたま)の出現は、縄文時代前期に石鏃として登場し て以後、ようやく古墳時代(紀元前3、4世紀~8世紀)に至って、 古墳副葬品の中から、初めて装身具としての玉として発見されている。 「山梨県遺跡調査地名表」には、勾玉6個があり、そのうち、水晶製 4、硬玉・碧玉各1個が記録されている。玉という語は、たとえば水 晶のように透明で美しく光沢のある原材料を指す場合にも用いられ、 その材料で作った装身具などの製品を指す場合にも用いられた。 ■県内における水晶原石と加工品の発見−2 前述の縄文式石器時代の水晶石鏃とその原材料の水晶原石、また古墳時代の副葬品中にあった装身 具としての水晶勾玉に次ぐものとしては、約 1000 年以上前に発見された塩山市竹森の玉諸神社(たま もろじんじゃ)のご神体である、巨大な水晶の天然石がある。往事は、水晶のことを「水玉」と言い、 また「玉石」と言い、その美しさが尊ばれ、最高のものと言われてきた水晶に神秘めいたものを感じ、 これを神体として祀ったことは、水晶の山としては極めて自然なことと言える。 ■県内における本格的な水晶加工−1 前述のように、県内における水晶加工品は、縄文式石器時代の人によって作られた狩猟用の石鏃で あることが明らかになっているが、県内で水晶工芸の加工が行われるようになったのは、はるかに後 世の江戸時代末期になってからである。 ●甲州と京都との水晶の交流 甲州と京都との水晶の交流は、南北朝時代の元徳2年(1330)に始まった。建武2年(1 335)上洛した普明国師が、生国甲州から水晶を取り寄せ、それで京都の玉づくりに数珠を作 らせたことなどから、甲州の御岳から良質の水晶が豊富に産出するということが、京都の玉造り たちに知られるようになり、次第に甲州水晶が広く、また多く要求されるようになり、交流が活 1 発になっていったものと思われる。普明国師は、甲州生まれ。塩山恵林寺その他数ヵ寺の開山で、 名僧夢窓国師の甥であり、夢窓に劣らぬ名識をうたわれた禅僧である。南北朝時代の建武2年、 京都嵯峨の覚結雄山鹿王院の開山となってから、しばしば甲州から水晶を取り寄せて、京都の玉 造りに数珠を作らせたと言うことが、鹿王院に伝承されているということである。同院の寺宝で、 重要文化財の伝説の銘石である「如意宝珠」には、甲州水晶の特徴であるたな(くもり)が見ら れるので、甲州産の水晶であることは間違いないと言われている。 ●玉屋弥助の玉造りの技法伝授により水晶工芸が始まる 京都に発達した、玉造りなどの水晶工芸の伝統は、玉屋弥助を 通じて、京都から甲州へ伝えられたが、水晶産地である甲州では その強みを発揮してたちまち発達し、主産地になった。御岳の水 晶工芸品発祥は、玉屋弥助の技術伝授によるものと言える。玉屋 弥助は、文化・文政・天保年間(1804~1843)に京の12代玉屋 卵兵衛に番頭として仕え、水晶買い付のため京都—甲州を往来。 この間に御岳の神官たちに玉造りの技法を伝授したと言われてい る。玉屋弥助が伝授したと言われる玉造りの技法は、金剛砂を使 って、包丁や鍬(くわ)などの鉄板の上で、水晶を磨る方法であ った。 甲州の水晶工芸の発達にひきかえ、京都の玉造りは、明治中期 には全く衰徴して影を潜めてしまった。玉造りをしていた玉屋は 、その後水晶印材を主とする篆刻(てんこく)に転換したそうで あるが、これらの印判にはすべて甲州産の印材が使用されたそう である。こうして甲州と京都の水晶交流は、明治の末期まで続い た。 ●県内における水晶原石の発見−3 天正3年(1575年) 、金峰山麓で水晶が発見されており、この発見には2つの説がある。 ○発見説1:金峰山麓での水晶の発見、金峰山登拝の行者たち 今より約430年前、武田勝頼が三河の設楽原(しだらはら) で織田・徳川の連合軍に大敗を喫し、武田家滅亡への第一歩を踏 み出した、いわゆる長篠の戦いのあった年であったと言われてい る。土地の人たちの伝承によれば、水晶を発見したのは、嶮しい 山道を金峰の奥宮に登拝した行者たちであったと言われているが、 これを裏付ける資料はない。しかし、甲州水晶の産地は金峰山を 中心とする一帯の地域に集中していたので、いわゆる金峰参道の 沿線には、各所に水晶の露頭が見られたと思われる。水晶は、発 見されてから幕末ごろまでは「水精」と言い、「甲斐国誌」にも そのように記載れ、 「古事類苑」でも「水精」とされている。要す るに、各水晶産地の山岳地帯に源流する各河川の清冽(せいれつ) な流れが、あたかも清く澄んだ透明の水晶からにじみ出た水の精の ようであったから「水精」としたものと思われる。水晶となったの は、明治維新以後と言われている。水晶をはじめ、めのう、こはく、さんごなどを維新以前は「玉 石(ぎょくせき)」と呼び、宝石という呼び名のはじまったのは、明治中期である。 ○発見説2:金峰山麓での水晶の発見、金桜神社の社宝 金峰山を本宮とする御岳金桜神社(みたけかなざくらじんじゃ)の社宝である白色透明3個の 「水の玉」と茶色透明2個の「火の玉」 、合わせて5個の銘石は、神社の伝承によれば、神祗官領 の許可を受けに上洛したかつての神職たちが、上洛の際水晶の原石を持参して京都の玉造りに加 工させたもので、その年代はつまびらかではないが、これが水晶発見の最初であると伝えられて いる。 2 ■県内における飾り業−1 飾り技術の伝来については諸説がある。江戸時代末期に江戸と甲府の交流が開け、甲州街道により 人や物資の輸送とともに、江戸のいろいろな技術がもたらされたと考えられている他、江戸の幕府か ら命じられて配属された甲府藩藩士の内職から伝えられたという説もあるが、いずれも推測の域を出 ない。しかし、これらが次第に発達し、江戸末期の甲府の飾り製品は、銀製平打ちの「甲州かんざし」 が主で、他、中ざし、キセル、たばこ入れ、かますの口留金具などが作られていたようである。中で も平打甲州かんざしは技術が優秀で、価格が安かったので一般によく売れたということである。 甲州かんざしは、平打ちといい、おもに銀製で、先端に小さな耳かきがつき、それに接続して銀貨 のような平の丸板があり、その下に2本の足がついているものである。 山梨の研磨宝飾産業のひとつ、研磨(水晶工芸)は、江戸時代末期、玉屋弥助の伝授により水晶工 芸品として御岳に発祥し、細工人がその技法に習熟し生産も多くなるにつれ需要もおこり、まず金峰 もうでの信者などに歓迎されるようになったものと見られ、これに目をつけた甲府の商人たちがその 製品を引き受けて中継ぎ販売をするようになり、甲州一円から江戸表をはじめ全国に売出されるよう になった。 山梨の研磨宝飾産業のもうひとつ、宝飾(飾り業)も、江戸時代に甲府に飾り屋が存在したという 記録は見当たらないが、水晶工芸が発達した同時期の江戸時代末期から県内に存在し、水晶研磨と共 に一個の独立した企業として行われてきた。しかし、古くから伝わる甲州の飾りが現れることのなか ったのは、日本一の水晶産地として水晶研磨加工が盛んに行われていたので、すべてその陰にかくれ て、一般に知られることが少なかったからと言える。 明治時代になると、研磨、宝飾ともに、産業としての体制が整い始め、活発になっていく。 次回へ 参考資料:「水晶宝飾史」 発 行:甲府商工会議所 【お願い】 この宝飾史に関する文献、製品、資料等がありましたら、ご一報ください。 3
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