1 「運命を変えた人」

 神の歴史−27 「運命を変えた人」 2016.1.17
創世記 41:37-52、マタイ 25:31-46、ロマ 8:31-39
3377 ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に関心した。 3388 ファラオは家来たちに、
「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、3399 ヨセフの方を
向�いてファラオは言った。
「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明
で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。4400 お前をわが宮廷の責任者とする。わ
が国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしは
お前の上に立つ。」4411 ファラオはヨセフに向�かって、「見よ、わたしは今、お前をエジ
プト全国の上に立てる」と言い、4422 印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフ
の指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾�りをヨセフの首にかけた。4433 ヨセフを王
の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラ
オはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、 4444 ヨセフに言った。「わたしはフ
ァラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げては
ならない。」 4455 ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポ
ティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの
国にあまねく及んだ。 4466 ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはフ
ァラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。 4477 豊作の七年の間、大地は豊かな実りに満ち溢れた。 4488 ヨセフはその七年の間に、
エジプトの国中の食糧をできるかぎり集め、その食糧を町々に蓄えさせた。町の周�囲
の畑にできた食糧を、その町の中に蓄えさせたのである。4499 ヨセフは、海辺の砂ほど
も多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた。 5500 飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた。この子供を生んだ
のは、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトである。5511 ヨセフは長男をマナセ(忘
れさせる)と名付けて言った。
「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせ
てくださった。」 5522 また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。「神は、悩
みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」 Ⅰ. 失われた未来
ただいまお読みした創世記41章は、エジプトに奴隷として売られ、囚人の世話をするという最底辺の生
活をしていたヨセフが、エジプトの宰相にまで上り詰めた出来事を伝えています。しかしそれは、世間一般
でいう「立身出世物語」ではありません。
ファラオの誕生祝いから二年後、王は一夜のうちに二つの夢を見ます。その夢に「責めたてられた」王は、
国中の賢者たちを呼び集めますが、王の夢を解き明かすことができた者はいません。その時、給仕役の長が
二年前の出来事を思い出し、ファラオに告げます。こうしてヨセフは牢獄を出て、ファラオの前に立ち、フ
ァラオが見た夢の意味を解き明かすのです。ファラオの夢は、神がこれからなそうとしていることであると。
つまり、7年の豊作の後に7年の飢饉が襲う、と告げ、豊作の間に食料を貯蔵しうる賢い統治者が必要だ、
と進言したのです。これを聞くとファラオは、ヨセフこそまさにその任にふさわしい者であるとして、ヨセ
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フを王に次ぐエジプト全土の支配者とし、そしてオンの祭司の娘アセナトと結婚させるのです。ヨセフは、
7年の豊作の間、計画的に穀物を蓄えます。その間に二人の男子が生まれるのです。
ここにおいて、37章以来、神が夢によって将来起こることを啓示するという、ヨセフ物語の一つの主題
はクライマックスを迎えます。これ以後ヨセフ物語は、ヨセフが17歳の時に見た夢、すなわち兄たちがヨ
セフにひれ伏すという夢の実現を巡って展開されるのです。
兄たちに憎まれ、九死に一生を得て、エジプトに奴隷として売られ、囚人の世話をして13年、それは長
い年月でした。時間が長かっただけではありません。待つことの空しさをかみしめたからだけでもありませ
ん。人間の心の冷たさ、身勝手さ、冷酷さをつぶさにかみしめた日々だったのです。ヨセフは給仕役の長に、
あなたが幸せになった時、「わたしのことを思い出してください。どうかわたしに恵みを施してください。
ファラオにわたしのことを話してください。この家からわたしを出してください」と、4 度も念を入れて頼
んだのです。今月はきっと……今日はもしかしたら、と待ちわびて、2年の歳月が流れたのです。
アウシュヴィッツを生き残り、そこでの経験を『夜と霧』に書き綴ったフランクルは、「絶望との闘い」
の章でこんなことを書いています。「……自分自身の未来を信じることのできなかった人間は収容所で滅亡
して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したの
であった」と。
ヨセフは、内側から崩される力に身をまかせることなく、虚無に身を沈めませんでした。ヨセフは17歳
の時に見た夢、つまり自分自身の未来を信じ続けたのです。
ところで、わたしたちが今、現に生きている世界は、自分自身の未来を信じることが困難な世界です。イ
スラム国に象徴される破壊と混乱は、まさに「未来を失うと共にそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体
的にも心理的にも転落した」人の姿を炙り出しています。
この破壊と混乱に光はあるのか。そのことを思いめぐらしていた時、高橋和巳の言葉が思い起こされまし
た。高橋は言います。
「『廃墟』を見てしまった人間にとっては『三つの生き方しかない。……一切を廃墟に
還元する破壊的な運動に身を投ずるか、さもなくば……自己を無限に荒廃させてのたれ死をするかーーそし
て今ひとつ、廃墟の中にも営まれつづけた悲劇でもない日常茶飯……を頑固に守りつづけること、……その
日常性の地点から他の者がおかされつつある虚妄の理想、虚妄の希望を批判し拒絶することだ。』」
わたしたちがヨセフの獄中生活、つまり考えられる限り最も低い生活で見たのは「廃墟の中にも営まれつ
づけた悲劇でもない日常茶飯」ではないでしょうか。ヨセフは死の家に身を置きながら、囚人たちのわずか
な顔色の変化を見逃さなかったのです。ヨセフのこの日常性は、「一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身
を投ずるか、さもなくば……自己を無限に荒廃させてのたれ死をする」かのような現代社会に、光を投ずる
のではないでしょうか。私たちはその光を、ここ41章のファラオの夢解きに見るのです。
Ⅱ. 変えられた運命
ファラオが見た夢、雌牛が他の雌牛を貪り食い、穂が他の穂を飲み尽くしてしまうという夢は、まことに
非現実的な内容です。にもかかわらず、その夢はあまりに真に迫っていたので、ファラオは目覚めると、
「そ
れは夢であった」
(7)と自分自身に納得させなければならかなったのです。語り手はファラオの不安を、
「朝
になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせた」と、生き生き
と描き出します。
しかし、召し出された賢者のうち誰一人、ファラオの不安を解消することはできませんでした。その時、
給仕役の長が思い出したのです。「わたしは、今日になって自分の過ち(=罪)を思い出しました。」
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自分の罪を思い出す者がいて初めて、ヨセフが神の言葉を語る者であることに光が当たったのです。言い
換えれば、
「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある」
(ウィリアム・
ジェームズ) のも、また、同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまったのも (ホプキンズ)、
罪の認識の欠如の帰結なのです。罪の感覚の衰えは、キリスト教の中心理念を失うことにつながり、それは
キリスト教を消滅させてゆく喪失です(フォーサイス)。自分の罪を知る者がいなければ、十字架の言葉を語る
者に光が当たることはないのです。
ヨセフがファラオの前に進み出ると、ファラオはヨセフもまたエジプトの魔術師のような専門家の一人で
あると勘違いします。ヨセフは、その考えを決然とはねつけます。
「わたしではありません(「ビルアーダーイ」)。」
これは、文字通りには「わたしなしで、わたしは別として」という意味です。つまり、わたしのことなど考
慮に値しない、ということです。ヨセフは、夢解きは神によるとしたのです。
ファラオが見た夢、雌牛が他の雌牛を貪り食い、穂が他の穂を飲み尽くしてしまうという夢を聞くとヨセ
フは、それは「神がこれからなさる」ことであり、神はすでにそのことを「決定」し、それを「すぐにでも」
なそうとしていると解き明かします。しかもヨセフは、「神がこれからなさる」という表現を三度繰り返し
たのです (25、28、32)。
「神学的に見て注目に値するのは、ヨセフのこの言葉が、強度に宿命論的な内容を持
つ」ことであると言った人がいます。
神はすでにそのことを「決定」したのです。ヨセフのこの言葉は、ファラオに大きな衝撃を与えました。
興味深いのは、この夢の解き明かしに続けて語られたヨセフの言葉です。「このような次第ですから、フ
ァラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督
官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収」すれば、「飢饉によって国が
滅びること」がないようにできると。
このヨセフの発言も、夢解きの一部分であると言った人がいます。このヨセフの発言で特に目を引くのは、
神が決定した運命を変えられるとしたことです。ヨセフの夢解きは、強度に宿命論的な内容を持つのです。
この強度に宿命論的な内容、飢饉による滅亡をヨセフは変えられるとしたのです。
私たちは、運命は変えられないと考えています。「運命」とは「超自然的な力に支配されて、人の上に訪
れる巡り合わせ。天命によって定められた人の運」だからです。七年の豊作の後、七年の大飢饉が起こるこ
とは神の決定、つまり運命なのです。ヨセフはその神が決定した運命を変えられると進言したのです。とい
うことは、この世界に、変え得ない宿命などないのです。
Ⅲ. 悩みの地で
語り手はこの後、ヨセフの身に起こった運命の転換を描きます。ファラオは、エジプトを飢饉による滅亡
から救いうるのはヨセフしかいないとして、ヨセフを宰相に任じたのです。語り手はこのヨセフの叙任を、
エジプトで実際に行われていた儀式、法的慣習で描きます。特に重要なのは、王が自分の印章をヨセフに渡
して管理させることです。これによってヨセフは、公的に王自身の意志決定の執行者となったのです。また、
栄誉の象徴として金の首飾りを授けます。このような数々の栄誉を受けてヨセフは、エジプトでファラオに
次ぐ地位に就いたのです。
ヨセフの身に起こったこの運命の転換は、改名によってその本質を表します。ヨセフの新しい名「ツァフ
ェナト・バネア」は、「神は語り、彼は生きる」と訳されます。この改名もまた、宮廷における重要な儀式
的行為です。これによってヨセフは、エジプトの宮廷生活の中に完全に受け入れられたのです。それは同時
に、ヨセフがエジプトの神々の保護領域に組み入れられたことを意味します。
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ある研究者は言います。信仰の面から見ると決して疑問がないわけではないヨセフのエジプトの宮廷への
組み入れが、これほどまでにとらわれなく物語られていることは、奇異の念を感じさせるほどである、と。
わたしはこの奇異の念に、この物語が、単なる立身出世物語でないことの理由があると考えています。
ヘブライ人ヨセフがエジプト人となり、エジプトの神々の保護領域に組み入れられたことをどのように受
け止めればよいのでしょうか。語り手は、ヨセフの人生における途方もない運命の転換の叙述を、二人の息
子の誕生の記事で完成します。「ヨセフが息子たちの名前を説明する言葉は、彼の人生をこのようにまった
く新しい計画の上に乗せた、予想もしなかった転換とその成就に対する感謝を表現している」と言った人が
います。私は、「感謝の表現」は、そう単純ではないと考えています。ヨセフは次男に「エフライム」とい
う名を与えます。その意味は、「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」です。子孫が増
えることは確かに感謝です。しかしヨセフは「悩みの地で」と言っているのです。ヨセフにとってエジプト
は〈約束の地〉ではなく、〈悩みの地〉なのです! この言葉に秘められたヨセフの思いは、ヨセフが臨終の床で語った言葉に暗示されています。ヨセフは兄
たちにこう言い残したのです。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださ
り、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。…�…�そのときには、
わたしの骨をここから携えて上ってください!」エジプトはヨセフにとって安住の地ではないのです。
ヨセフはエジプトを飢饉から救うために、それは結果的には「多くの民の命を救うために」(50:20)、
「悩
みの地」で生きることを我が身に引き受けたのです。言い換えますと、ヨセフはエジプト人になることを、
ヨセフが17歳の時に見た夢の一部であると理解したのです。エジプトの宰相となったヨセフに兄たちはひ
れ伏すのです。つまり、ヨセフがエジプト人になることもまた「神がなさること」の一部なのです。この神
の決定、ヨセフの運命によって、エジプトが滅びの運命から救われただけではなく、多くの民の運命もまた
変えられたのです。
神の決定、運命は変えられる! そのことを黙想していたとき、マタイが伝える、最後の審判について語
られた主イエスの譬えに導かれました。それは次のような譬えです。
人の子が、天使たちを従えて栄光の座に着くと、すべての国民をその前に集め、羊飼いが羊と山羊を
分けるように、右と左に分けるというのです。そして王は、右側にいる人たちには、「わたしの父に祝
福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい」と言い、左側にい
る人たちには、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の
火に入�れ」と言われたのです。
王はその理由を、わたしが飢えていた時に食べさせたか否か、喉が渇いていた時に飲ませたか否か、
旅をしていた時に宿を貸したか否か、裸の時に着せたか否か、病気の時に見舞ったか否か、牢にいる時
に訪ねたか否か、であると説明します。すると、祝福された者たちも呪われた者たちも、「いつわたし
は」そのようなことをしたか、あるいはしなかったか覚えがない、と言います。それを聞くと王は答え
ます。
「 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」、
また「しなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と。
ロシアの文豪トルストイが、
『靴屋のマルチン』
(愛あるところに神あり)で描いた世界がこれです。ある
町に腕のよい靴職人マルチンがいました。彼は妻に先立たれ、子供にも先立たれて、絶望の淵に突き落とさ
れます。あまりの不幸に神を呪い、死を願うほどでした。そんなマルチンのところに、ある日幼馴染みが訪
ねてきて、一冊の書物、聖書を置いていきます。何気なく手にした聖書の言葉にマルチンは徐々に引き込ま
れて行きます。その日も仕事を終えると、聖書を読み始めます。眠気に襲われ、まどろんでいると、「マル
4
チン」と呼ぶ声を聞きます。
「あしたは通りに気をつけていなさい。わたしは必ず訪れます」と言うのです。
翌日、マルチンは仕事をしながら、なんども窓の外を見ます。見慣れない靴を見ると、顔を確かめたりも
しました。神らしい姿はそこにはありません。
ふと窓の外に目をやると、老人が寒そうに雪かきをしています。マルチンは老人を家に招き入れ、お茶を
振る舞います。
しばらくすると、夏服を着た母親が赤ん坊を抱いて、風を避けようと壁に寄りかかっているのが見えまし
た。マルチンはその母子を家に招き入れ、暖炉の近くに座らせ、食事を食べさせ、暖かい着物を着させます。
また、しばらくすると、お腹をすかした少年がお婆さんのりんごを一つくすね、それが見つかってこっぴ
どく叱られている場面に出くわします。マルチンは少年に代わって代金を支払い、一緒に謝ってあげるので
す。
こうして1日が過ぎます。神様は来なかったと肩を落とすマルチンに、神は語りかけます。わたしは雪か
きの老人、みすぼらしい母子、りんごを盗んだ少年の姿で、あなたを訪ねたと。そしてトルストイはこの物
語を、マタイ福音書25章35−40節の言葉で結ぶのです。愛のあるところに神あり、と。
この話は私たちの心に暖かい火を灯します。しかしこれが、主イエスがこの譬えで語られた福音でしょう
か。もしそうであるならば、マタイの福音書はここで終わっていいのです。しかし、マタイはこの後、十字
架のキリストの場面を描いてゆくのです。
なぜマタイは、この譬えの後に、十字架のキリストを描いたのでしょうか。私たちの中で、神に祝福され
た右側の人間が何人いるでしょうか。聖書はなんと言っているでしょうか。「義人はいない、ひとりもいな
い。悟りある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになって
いる。…�…�すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いる! 私たちの中で、神に祝
福される右側に入る人間など一人もいないのです。私たちは皆、左側に分けられた呪われた者なのです。
マタイがこの譬えの後に、十字架に上げられた神、イエス・キリストを描く理由がここにあるのです。神
の御子イエス・キリストは呪われた者の運命を変えるために十字架への道を歩まれるのです! 然り、私た
ちの愛のあるところに神がいますのではなく、神の愛のあるところに私たちはいるのです。ヨセフがエジプ
ト人になって多くの人の命を救ったように、神の御子イエス・キリストは人間になり、この世を救ったので
す。
わたしは思います。結局、私の一生の中で話す値打ちのある出来事は、永遠のロゴスが肉となって私たち
の間に宿られたこと、つまり不滅の世界がこのつかの間の世界へ侵入したことであると。この内的な出来事
に比べると、私の周囲についての他のあらゆる記憶は色あせてしまうのです。外界の出来事は、内的な体験
の代わりにはならないのです。
結びに、不滅の世界がこのつかの間の世界へ侵入したことで、他のあらゆる記憶が色あせてしまったと語
るパウロの言葉を聞いて終わりたいと思います。パウロは言います。「もし神がわたしたちの味方であるな
らば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その神子をさえ惜しまず死に渡さ
れた方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。…�…�わたしは確信し
ます。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいる
ものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神
の愛から、わたしたちを引き離すことはできない!」
神の愛のあるところ、すなわち十字架のキリストを知る神の絶大な価値に比べれば、わたしの周囲にある
あらゆる記憶は糞土のようなのです!
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十字架につけられたイエス・キリストを目の前に描き出す主の晩餐から、他の者がおかされつつある虚妄
の理想、虚妄の希望を批判し拒絶したいと思います。アビシネの殉教者たちは言います。「主の晩餐なくし
て我等は生きながらえることはできない」と。初代のキリスト者たちは迫害の中、主の晩餐によって生きな
がらえたのです。廃墟の中にも営まれつづけた悲劇でもない日常茶飯、主の晩餐に、世界の根源的な救いが
あるのです。
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