中江兆民「原政」 1878 年 11 月 政治の目的はどこにあるか。人民が政治を必要としなくなることにある。 なぜこういうことを言うのだろうか。詩経で、人民が天から与えられた人の道を守れば大きな立派な徳を 望む。人民に人の道をしっかり守る心があれば、すぐに善に移ることができる。善に移ればすぐに徳に満 足して安心する。人民が徳に満足すれば、法令刑罰は不要になり、牢屋も不要になる。武器をもつ戦争も 不要になり、誓約も不要になる。恨み嘆いて政治を用いることも不要になる。 これが聖人が期待したものである。人民を善に移すにはどうしたらよいか、と言い、これを救うには道義 で行うと答えた。人民を導くのを道義で教えたのは中国古代の三世の治世である。人民を工業技術で誘っ たのが西洋の方法である。西洋人が考えたことは、人は生まれるとだれでも欲望をもつ。だから、衣類で 暖を欲し、食は飽きるまで欲し、住まいで安住を欲する。欲して得られなければ、すぐ争い、争いが止ま らなければ社会は乱れる。しかし、この世の資源や産物にはおのずと限りがあって、急に増やすことはで きない。そこで、西洋では技術を発達させて利殖を高め、人々をそのことに夢中にさせてひたすらその欲 望を満足させることだけを図っているが、これはまことに思慮がないやり方である。 欲望は満足させるべきでなく、利殖も勝手気ままに求めるべきではない。技術の発展がもたらす弊害はま ことに大きいと言わねばならない。その理由は何か。物事が精微になれば人は細かいことにこだわるよう になり、算数が細かくなれば人はケチくさくなり、医療が巧妙になれば人は臆病になり、言辞が明快だと 人は偽りに悩む。これに加えて、満たすべきでない欲と勝手気ままに求むべきでない利が心の中で交わり、 不満が高まれば、天下が乱れないのを望むほうが不可能になる。 中国古代の三代の法はそうではない。学校の設置も都から地方へ広がり、そこで教えることは君臣の義、 父子の親、夫婦の別、幼長の序列、友人間の信頼などで、これらはすべて自分自身を修めて、他者を治め るものである。 そのため、人民は徳義に従って利欲に振り回されることがない。人民が徳義に向かえば、次第に浸透して 至善の地に達し、やがて自治の域に至るだろう。仏人・ルソーが本を書いて、西洋の政治を非難している と聞くが、その意図は、教化を盛んにして技術を抑制しようとすることにあり、これもまた政治に見識を もった者だろう。
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