1 ヨハネ16:16~24 「悲しみは喜びに変わる」 今朝の御言葉

ヨ ハネ1 6:1 6~2 4
「 悲しみは喜 びに変 わる」
今朝の御言葉の中には、 ひときわ光 る一節があります。それは 言うまでも なく、説教の
タイトルにさせていただい た、 20 節の 、「あなたがたは悲しむが、 その悲しみ は喜びに変
わる。」という言葉です。 こ れは決して 、「苦あれば楽あり、楽あれ ば苦あり」 という 意味
の、
「たとえ今日嫌なことがあっ ても、生きていれば、きっとこの先 に は、良いことがある
さ」という話ではなくて、「 悲しみが喜 びに変わる。」 ということ。 以前には悲 しみでしか
なかった、その同じ事柄が 、喜びに変 わると いうことです。
今朝のこの礼拝は、阪神 淡路大震災 から 20 年という節目を記 念して持た れていますけ
れども、私がこの御言 葉と出会ったの は、20 年前 、板宿教会でボラン ティア をしていた時
のことでした。牧師館に寝 泊まりしな がらのボランティア生活の 中で、誰か が、朝のミー
ティングの時にこの御言葉 を読んでく ださったのがきっかけで、この御言葉が 目に留まり、
ボランティアをしている期 間の間中、 この御言葉が私の頭から離 れませんで した。
けれども、この御言葉は 私には不可 解で、当初は全く意味が分 かりません でした。 悲し
みは悲しみでしかないはず です 。そし てそれが深い悲しみであれ ばあるほど 、その悲しみ
は、時と共に重みを増して 、 心の奥に 沈み込んでいって、 腹の底 に重く溜ま って いくはず
で、悲しみは悲しみとして 、それは変 えられるものではないだろ うと思って いましたし、
板宿教会でボランティアを していた時 の私は、 震災時の大変な被 害と、そこ にいた人たち
の苦しみ痛みの深さに状況 に圧倒され ていましたし、 特にその働 きに入った 前半は、わざ
わざ東京から被災地に入っ ておきなが ら、 当時高校三年生だった 未熟な私が 、その状況の
中で、具体的に何かの役に 立つという ことは当然なく、 何かの責 任を負って 仕事をすると
いうこともせず、せいぜい ここに避難 していた子どもたちと遊ん でいること ぐらいしかで
きず、本当にそれぐらいの ことしかし ていません でしたので、私 は、自分自 身の、全くの
無力さを知らしめられて、 果たして、 自分が今ここにいる意味は あるのかと 問われ、 とて
も悔しく、これは何なのだ 、私は何な のだと絶望し、その 自分自 身が、 とて も悲しく、腹
立たしかったです。
ですので、「悲しみは喜び に変わる。」という御言葉を目にした 時、聖書に こんな言葉が
あったのかと驚きつつも、 だったら、 変えてくれよと、私は半ば 、神様に喧 嘩を売るよう
な気持ちで、心の 中で神様に文句をぶ つけていました。
「 間違いなくこの言 葉 が本当 である
のなら、この私の こ の悲しみを喜びに 変えて見せてくれ 」と、
「被災者の 方々 の この悲しみ
に溢れた現実に、こんな言 葉は本当に 通用するのかと、適当なこ と言うなよ と、 神様は本
当にそれができるのか」、「 それができ るなら 、今すぐそれをやっ てくれ 」と 、神様に対し
ても怒りを感じながら、私は、とても苦 々しい思いで、この御言葉を睨み つけ て いました。
その時の私には、自分の 周りを包ん でいた悲しみが、喜びに変 わるなどと 言うことは、
時計の針が逆回転して、神 戸が地震の 起きる前の神戸に戻れるな らばまだし も、それは 考
えられないことで、それは 無理だと思 っていました。 大きな悲し みをはらん でいる 、目の
前のこの現実の、このどこ に、これが 喜びに変わるような見通し があるのか 、 いかように
すれば、その状況を喜べる ようになる のか、全く 見当もつきませ んでした 。
けれども、この御言葉を 読んでみま すと、 この今朝の御言葉の 中で 、この 時主イエスの
言葉をその口から聞いてい た弟子たち も、 同じ様にして、現実的 な悲しみを 受けながら、
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この言葉を聞いたことが分 かります 。 この時の状況は、主イエス が十字架に 架かられる前
の夜、最後の晩餐の食事の 、そのあと のことです。ここには 、こ のあと主イ エスを裏切る
ことになるユダを除い た 11 人の 弟子 たちがいました。 11 人と主イエスだけ の、とても小
さな輪がそこにはありまし た。そして そこで、明日御自分が十字 架に架かる とい うことを
悟っておられた主イエスは 、弟子たち に、突然 、遺言を語り始め られました 。主イエスは
ここで、これから自分は去 っていくと 。さらにあなたがたは残さ れて、 泣い て悲嘆に暮れ
るし、また死の危険にもさ らされるだ ろう、というようなことを 、ずっとヨ ハネの 13 章
から続く、長い言葉で語っ ておられま した。
この時弟子たちは、せっ かくエルサ レムにまで入ってきて、過 ぎ越しの祭 りの前日の食
事をしている。そして明日は、人々が集 まっている前で、華々しくデビュ ーす るというか、
そういう舞台で力を示して くださるは ずだと、 彼らは主イエスに 期待してい たのです 。
けれども、彼らの思いを裏 切って、主 イエスは、 私は死別する、 いなくなる 、と言われ
るのです。これは、弟子た ちにとって は、虚を突かれるというか 、残念極ま りない、 相当
に大きなショックでした。 もう明日の 日が暮れる前には、 あなた がたは私を 見なくなる、
私はあなたがたとは死別す ると言われ る。 そして世の力に、世と は ここの文 脈では、サタ
ンとか悪魔のことを指しま すが、その 世の力に 私は敗北すると、 敗北宣言を される。 そし
てあなたがたは泣いて悲嘆 に暮れるが 、世は、サタンの側は、勝 利の喜びに 沸くと、そう
いうことを、主イエスは言 われるわけ です。
17 節 には、「弟子のある 者は互いに 言った」と書かれています が、 この衝 撃的な主イエ
スの一連の告白に対して、弟子 たちは 、ここで、ものすごく戸惑ってい るわ けです。
「じゃ
あこのあとどうなるのか? 」と、「これ は話が違うんじゃないか」 と、「これま での歩みは
一体何だったのか?」と、
「自分たち は この先どうなってしまうの か?」と、お互いに 顔を
のぞきあうことしかできま せんでした 。
主イエスは 20 節で、「 あなたがたは泣 いて悲嘆にくれる。あなた がたは悲し む。」 と言
われました。この悲しみという 言葉は、ルぺーという言葉で、これは、英 語で言 えば、Pain
という、痛いとい う 言葉です 。この悲 しみという言葉は 、英語の聖書でも Sad という言葉
では訳されていません 。Sad は、
「惨め さ」だとか「空 しさ」を意味 しますが 、ここでの悲
しさとは、Pain 痛みです 。そして 、そ のルペーというギリシャ語 が示すのは 、あるべきも
のがない、失われたという 、喪失のダ メージです。 そしてさらに 、その喪失 のダメージの
背後には、神様がいるのに なぜこんな ことが起こるのかという、 つまずきが あり、 愛が裏
切られたのか、という、神 様への信頼 が崩れるという 問題が横た わって 、い ます。
私が神戸で直面した問題も 、これでし た 。そこにあったはずの神 戸の町並み が 、一瞬で
無くなったという痛み。私 たちは昨日 もテレビや新聞で、神戸の 町から火災 の 煙がもうも
うと上がっている映像を何 度も見たと 思いますけれども、あの状 況をリアル タイムで見た
痛みがある。愛する神戸の 町がひび割 れることによって、体の一 部が傷つけ られるような
痛みが、自分の懐にも走る 。震災の前 の日まで生きていた多くの 命が失われ てしまった、
一瞬で全てが変わってしま ったという 喪失感。 これは何なんだ、 という問題 です。なぜ神
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様がいるなら、こういうこ とをするの か?神様は愛をもって、私 たちに命を 与えてくださ
る神様であると聖書は語っ ているのに 、なぜこんなかたちで、6400 人以上も の人の命が失
われなければならないのか ?私たちに 注がれるはずの神様の愛は 、もう費え たのか?ここ
に神様の愛は、あるのか無 いのか ?そ して結局、神の愛なんてな いなじゃい か? 時がたっ
ても、依然として、悲しみ は消えない し、癒えることがないでは ないか?一 体どうしてく
れるのかと。
しかし、御言葉によると、 主イエスが いなくなるのは、しばらく の間だと言 われていま
す。しばらくという言葉は 、ミクロン という、 ほんの少し、とか 、とても小 さいという言
葉です。主イエスがいなく なるのは、 ほんのミクロな時間だけだ と言われて います。そし
てその時、主イエスはなぜ いなくなる のかというと、主イエスは 、 この次の 日 、十字架に
架かって、しばらくの間、 実際には三 日でしたけれども、 その三 日の間、 い なくなると、
言われたのです。
先週の御言葉にありました けれども、 主イエスは私たちを、憐れ んでくださ る方です。
そしてその憐れみとは、英 語でコンパ ッション コン、共に苦しむ 、痛みを同 じ立場で味わ
うという言葉でした。主イ エスは、 そ の、共に痛み苦しむという ことを、 十 字架で、行動
に移してくださいました。 あの十字架 の上にあったのも、主イエ スの Pain です。痛みで
す。傷です。そして、山々 の向こうか ら、山々を超えたところか ら、神様が 、共に苦しん
でくださるために、共に痛 んでくださ るために、私たちのもとま で来てくだ さった。この
方が、私の隣りに来て、私 と同じよう に、私の分まで痛んで、苦 しんで、十 字架に架かっ
てくださった、という事実 があった、 そして、その共に痛み苦し んでくださ る主イエスが
いるという事実は、悲しみ に暮れ、痛 みを抱えている 私たちにと っての救い です。
私は、ボランティアをして いた時、言 いようもなく、悲しかっ た のです。そ してその悲
しみが、本当に言葉で言い ようのない 、言葉にできない悲しみ だ ったからな のだと思いま
すが、板宿教会に来て、数日たったあと のある日の、昼休みだ ったと思う ので すけれども、
気持ちが限界に達して、ひ とりでに 目 から涙が出て来 ました。つ うっと涙が 目から落ちた
と思ったら、途端にそれが止まら なく なり、誰もいない 、牧師館の 奥の洗面所 にこもって、
私は生まれて初めて、息が 吸えなくな るぐらい に、泣き腫らしま した。
私は、怒っていました。 自 分に対する 怒りが、最初ありました。 何で生きて んだよ。何
してんだよ。何しに神戸ま で来てんだ よ。お前何もできねえじゃ ねえかよ。 目の前にこん
なに沢山苦しんでいる人が いて、どう すんだよこの状況を。どう するんだお 前は!
そうやって自分を責めたあ と、今度は、神様に対する 怒りを、声に出して ぶつ けながら 、
私は泣きました。
「 神様助けてく ださい 。たすけてよ。あんた神様だろうが。神様は何やっ
てんだよ。この状況どうな ってんのよ 。しんどいよ。 もう俺のこ とはいいよ 。死んだ方が
いいんだよ。」その時初めて、死んで し まいたい 、自分は、本当に消えてなく なったらいい
と思った。「もう疲れた。要 らないなら もう 俺を消してくれ。」と言 葉を発しま した。
そして最後には、体の中の すべての力 が、使い果たされてしまっ て、 もう泣 く力もなく
なって、ああ~っとか言い ながら、 う ずくまっていました。 もう 立てなくな って、ひざま
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ずきながら、神様に、
「助けてください 」
「助けて」
「助けて 」と祈りました 。初めての本気
の祈り、裸の祈りでした。
私は、あの時、自分はある 意味 で、死 んだんだと思っています。 エネルギー がゼロにな
った。だましだまし虚勢を 張って、大 丈夫なふりをして 、いろん な場面で自 分取り繕うよ
うにして生きていましたけ れども、そ ういうまやか しも、全ては ぎ取られ ま した。あそこ
で、電池が、完全に切れた 。もううん ともすんともいわない。立 ち上がる力 もない。手を
握る力もない。言葉も出な くなり、も う「ううう~」 としか言え なかった。
完全な挫折でした。けれど も、その絶 望的な悲しみが、喜びの源 となる。 そ こに主イエ
スが、おられるからです。
ひざまずいて祈り、動けな くなったあ と、そ のあとしばらくして 、何か感覚 が変わりま
した。誰かに 、ふっと持ち上 げられるよ うな感じがしました 。そして私は 、立ち 上がって、
洗面所を出て、牧師館の書 斎 の出窓の 前に立ちました。差し込ん で くる陽射 しがすごく綺
麗で、暖かかった。手を握 ってみまし た。 手を握る力がある。そ の手を心臓 に当ててみま
した。自分の心臓が 、まだ動いていま した。それが凄く新鮮で 、嬉しかった。「ああ、自分
の心臓はまだ動いているん だ。」と思い ました。そしてその時、この手、この心 臓、この体、
これは、今自分が自分で動 かしている もの ではないと、そして手 を握りなが ら、この手を
握る力も、新しく息を吸う 力も、その 力は、神様が、今この自分 に与えてく ださっている
力なのだと。神様がいらっ しゃるから こそ 、自分は生きているん だ。だから こそ自分は歩
けるんだということに、その時、深く納 得することができました。とても 平安 な 気持ちで、
窓際にいながら、頭の中で 考えていた のは、イエス・キリストの 十字架でし た。
私たちには、悲しみに暮れる 時があり ます。20 年前に起こ った震災、これは 、ここに暮
らす私たちが抱えている共 通の悲しみ です。そしてそれだけでな く、家族と の別離や、自
らの病などの悲しみに暮れ る時があり ます。
けれども、私たちは、その 悲しみの淵 に、一人で立たされるので はありませ ん。 その悲
しみに、コンパッションし てくださる 方がいる。それを共に味わ ってくださ る方がいる。
主イエス・キリストは、そ の十字架 の 、その悲しみ、そしてそこ にある 死そ のものを、避
けて通ったり、飛び越えた りなさいま せんでした。 主イエスは十 字架に、し っかりと御自
分の体を打ちつけてくださ り、 その悲 しみを、主イエスも深く 味 わい、共に 悲しんでくだ
さり、主イエスは傷ついて くださいま した。
私たちの一番つらいところ 、そこに。
「 もう自分は死んでしまう 」と思われる ような危機
や、敗北や、その絶望の場 所に。主イ エスは、共にいてくださり 、私も一緒 に、そして代
わりに十字架で死に、敗北 し、挫折 し 、世の力に敗北する。しか し代わりに 、私はあなた
に、そこから立ち上 がるための 必要な 力を 与えるから、
「お 前は生きよ」と言 ってください
ます。悲しみの底、その場 所が、そこ に立っている主イエスの 十 字架が、私 たちと主イエ
ス・キリストとの、出会い の場所です 。
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主イエスは 16 節で、「しば らくすると 、あなたがたはもうわた しを見なくな るが、また
しばらくすると、わ たしを見るように なる。」と言われ 、十字架で見えな くな られた三日後
に、主イエスは復活して、 弟子たちに 現れてくださいました。
その時には、 22 節で、「 わたしはふた たびあ なたがたと会い、あ なたがたは 心から喜ぶ
ことになる。その喜びをあ なたがたか ら奪い去る者はいない。」と 語られてい ますように、
その時には、単に悲しみの 前段階に戻 ることではなくて、悲しみ を、質的に も量的にも凌
駕する、大きな喜びであな たを満たす と、主は言われる。陣痛と 出産をへて 、 元気な赤子
の顔を見たら、その瞬間、 母親のそれ までの 苦痛痛みが一瞬にし て吹き飛ん で 、大きな喜
びが与えられるように、あ なたがたは 心から喜ぶ。そして、それ を奪い去る ものは誰もい
ないと、主イエスは約束し てくださっ ています。
実際そうです。私も、神戸 で のその悲 しみのあと、神様の深い愛 を知ること ができまし
た。あの時の板宿教会での 経験こそが 、私にとって、霊的な死と 復活という 再生の時であ
り、あの時のキリストとの 出会いによ って、私は主イエスに救わ れ、捉えら れたという思
いを確かにされました。あ れから後は 、私は自分の力で生きてい るのではな く、神様の力
で生きていると思っていま す。大変な 現実がそこにはありました が、神様が 愛を与えるの
をやめられたのではなかっ たことを知 ることができましたし、今 後も、絶対 に神様は自分
を見捨てられはしないとの 確信があり ます。悲しみに満たされて いて、この ことのどこに
希望があるのかと本当に叫 びたくなる ような時にも、しかし私た ちは、決 し て神様の愛か
ら切り離されることはあり ません。
主イエスを信じる私たちに は、永遠の 喜び、永遠の命が、約束さ れています 。 それらは
決して、たとえ死によって も、奪い去 られることのないものです 。
この御言葉を、私は、東日 本大震災の 二日後の日曜礼拝でも読み ました。ま だ電気も通
ってない中での、薄暗い会 堂での、 マ イクも使えず、肉声で語っ た説教でし た。私たちの
前にも、予期せぬ悲しみは 、今後 も必 ずやってくるでしょう。そ して私たち の間には、今
も、現実に悲しみはあるのです けれど も、その「悲しみは 喜びに変わる。」こ の約束の言葉
が与えられているというこ とが、私た ち希望です。私たちの悲し み を、主イ エスは、喜び
に変えてくださいます。悲 しみを共に 担ってくださる、主イエス の、その十 字架が、私た
ちのためにも立っています ので、 その 場所から、この心は、命を 取り戻す。 あんなに悲し
んでいたこの心が、あんな に苦しかっ たあの出来事が、 そこが、 主イエスと の、新しい出
会いの場所へと、変えられ ていく。 そ こで、 私たちは、主によっ て、生き返 り、主によっ
て生きるのです。
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