2015/03/01 平成26年度 校長だよりNo.13

校長だより
H26年度 NO.13
平成27年3月1日
友
情
岐阜市立岐阜商業高等学校
校長
林 田
仁
教員になって35回目、そして、そのうち本校に勤務して14回目の卒業式を迎えた。
私は近年、旅立って行く若者達を眺めながら、親鳥から口移しで餌をついばんで育ったひ
な鳥が巣からはみ出さんばかりに成長し、大空へ力強く飛び立っていく姿や、砂浜で孵化
したおびただしい数のウミガメの赤ん坊たちが、必死に歩んで波打ち際に辿り着き、大海
の彼方へ向かって泳ぎ始める姿が重なるのを禁じ得ない。卒業証書を手渡しながら、まさ
に「達者でな。
」とか「大きくなれよ。
」とか「立派になって帰って来いよ。
」の心境である。
◇
先日、8年ぶりに友人A君からのメールを受信した。
「人づてに聞いたんだけど、市岐商
で校長やってるんだって。
」との由。A君は数少ない私の親友の一人で、出会いは中学時代
に遡る。中学進学後の1年間は、互いに別の小学校を卒業して面識もなく、別々のクラス
で接点のなかった2人だったが、何故か2年生で同じクラスになった瞬間から意気投合し、
その後は部活以外の殆どの時間を彼と過ごしたような気がする。A君には二つ年上のお姉
さんがいて、その影響からか、アイビールックの着こなしや国内外のロックミュージック
事情などに詳しく、彼の口から溢れ出る言葉の全てが私にとって新鮮なカルチャーショッ
クの連続だった。そして、当時の男子中学生には珍しく料理上手で、彼の家へ遊びに行く
と必ず包丁さばきも鮮やかに、チャーハンや具をアレンジしたインスタントラーメンを作
って食べさせてくれた。ある時、私が体育の跳び箱の授業で足首をひどく捻挫して2日ほ
ど学校を休んだことがあった。A君は、自ら名乗り出て学校帰りに自転車でわざわざ数キ
ロも遠回りをして私の家を訪ね、給食のパンとともにその日にあった授業でとった自身の
ノートを見せてくれた。この時胸に感じた熱いものは、44年経った今も忘れはしない。
互いに違う高校へ進みはしたが、他の数名の悪ガキ仲間達と共に交友関係は続いた。高
校を卒業した彼は、今で言う「一流シェフ」を目指して上京し、私も他県の大学に進んだ
が、離ればなれの頃も、互いに岐阜へ帰ってからも暇を見つけては会い、その頃彼が熱中
していたサーフィンの話を胸躍らせて聞いたりしたものだ。携帯電話の無かったその頃の
ある日、私は列車で京都へ遊びに出掛けて帰りに湖西線と東海道線の列車を乗り違え、困
り果てて彼に連絡すると、彼は大垣止まりの最終便に合わせて深夜に大垣駅の改札口まで
乗車賃が払えない私のためにお金を持って出迎え、家まで送ってくれた。この時の大きな
感動と沸き上がる謝意もいまだに忘れはしない。
程なくして、当時おやじ向けの居酒屋が多かった「柳ケ瀬」に、初めて斬新な若者向け
の居酒屋をオープンさせた彼は、持ち前の人柄と料理の腕でたちまちその店を人気店に押
し上げてしまった。その頃から互いに仕事が多忙で、連絡が途絶えがちになってしまって
いた。私はA君と出会った頃から、彼の優しく、思いやりのある人柄の中に、キラリと光
るセンスや斬新なアイデア、前向きに生きる姿が眩しくて、彼から勇気をもらい、そして
多くの事を吸収させてもらった。
久しぶりの電話の向こうで、彼は結婚を機に転身して三十年近く続けた遊技場関係の仕
事を数年後に息子に譲り、新たに起業するための市場リサーチと訓練のために時間を見つ
けて精肉店で修業を始めたと言う。定年までの無事だけを祈り、既にどっぷりと「守りの
体勢」に入ってしまっていた私の体に電撃が走った。そして、大きな驚きとともに数十年
ぶりに私はA君から勇気をもらい、とても幸せな気分になった。
ところで私は、これまで彼に「思いやり」を施せたことはあっただろうか。いくら考え
ても何も浮かんでこない。
「何も。
」と言われるのがショックで尋ねられずにいる私だが、
今度勇気をだしてA君に聞いてみようと思う。
◇
卒業おめでとう。卒業生諸君には、この日まで大切に培ってきた各々の「友情」は
「一生の宝」として自身が年老い、朽ち果てるまで大切にし続けていく事の大切さを強く
肝に銘じておいて欲しいと思う。