介護問題上の親子の互いの想いの葛藤 高齢者の介護の問題では、高齢となった親ご自身の想いと、介護する子の想いのずれの 問題がある。 両親が元気な内はいいが、一方が逝去したり入院し、特に男親が家に一人で居ることに なると、子は心配する。 ま あ 一 人 で も 日 常 生 活 に 支 障 が な け れ ば い い が 、軽 い 認 知 症 等 が 見 ら れ る よ う に な る と 、 なお更である。 子としては、生活拠点である今在住の地に親が来てくれるのであればいいが、高齢であ る 親 は 故 郷 か ら は 離 れ が た ら な い と い う 、親 子 間 の 葛 藤 の 問 題 を よ く 耳 に す る 昨 今 で あ る 。 我がコミュニケ-ション論(生きる→人間関係→コミュニケ-ション)から観ると、高 齢者が介護の問題で故郷を離れるのは、やはり自分を知る人が側に居なくなる寂しさ故で ないかなあと思う。 「 生 き る → 人 間 関 係 ( 人 と の 係 わ り 合 い )」 の 中 で こ そ 自 己 認 識 、 自 己 肯 定 で き る と 思 うだけに、故郷から離れて子の住む土地に来て知人が少なくなるということは、その知人 の中に居たご自身がいなくなること。 「 人 間 に は 死 は 2 度 あ る 。 一 度 は 肉 体 的 に 死 ん だ 時 、 も う 一 度 は 忘 れ 去 ら れ た 時 。」 と いう言葉がある。 つまり、高齢者は故郷を離れるということは、今までの生活の地であった故郷の知人か ら「忘れ去られる=死」という想いというか感覚が忍び寄るのでないだろうか。 言い換えれば、人生という長きに渡り実感してきた自分という存在が次第に削がれてい くような感覚を抱くのでないだろうか。 この感覚は、各自異なる感覚の問題だけに、子であっても恐らく解ってもらえないだろ う と 思 い 、ま た 、感 覚 だ け に う ま く 表 現 で き な い こ と も あ り 、「 た だ 故 郷 を 離 れ た く な い 」 というわがままと受け止められるのでないだろうか。 かといって、子は子として親を側で世話したいと思うもの。 この親子の葛藤は親子である証とも云えることで、また、介護の問題ではこれがベスト というものはないだけに、周りの第三者や親戚等があれこれ言おうが、親の想いを考慮し つつその状況の時々にベタ-と思うことをしていくしかないと思う。 ただ、子だけが介護を担うのでなく、あらゆる社会資源を活用する勇気を持ち合わせて 欲しいとも思う。 我がコミュニケ-ション論は、年齢に関係なく、人が人として生きて行くことに伴うあ らゆる側面の本質を突いていると思うのだが……。 阿部幸泰 ( 2011 年 1 月 28 日 記)
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