20131219版

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トリトン水産株式会社
目次
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永江孝規
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上田が「極北商事」で働こうと思ったのは、この不景気のおり、海外勤務が多く仕事はきつ
い が 高 給 が 保 証 さ れ て い た か ら だ っ た 。大 学 で 会 計 士 の 資 格 を 取 り 、極 北 商 事 に 新 卒 で 入 社 、
月や火星で一年間の新人研修を終えると、さっそく海王星勤務を命ぜられた。
「いよいよおいでなすったな。俺みたいなやつは、本社で事務仕事を任されるんじゃないか
と 期 待 し て い た が 、 や は り 新 人 の う ち は い ろ ん な 現 場 を 経 験 さ せ ら れ る ん だ ろ う な あ 。」
予想していたよりもはるかに遠方だったが、社命とあれば仕方ない。
上田は今生の別れとばかりに、三日がかりで、築地・浅草界隈を渡り歩いて、フグ刺やアン
コウ鍋、ズワイガニの塩茹でなどの、シーフードのフルコースを堪能した。ふたたび地球の
新鮮な魚を食べられるのは、契約上、早くても三年後になる。むろん、地球へ戻ってきても
とんぼ返りでまたどこか遠くへ飛ばされるのである、会社を辞めるか、出世して本社勤務に
ならない限りは。
彼 は 「 極 北 商 事 」 か ら 「 ト リ ト ン 漁 協 」 へ 出 向 す る 形 を 取 っ た 。「 ト リ ト ン 漁 協 」 は 外 惑 星
開拓団や冒険家などの個人に、国やいくつかの民間企業、NGO/NPOなどが共同出資す
る 形 で 成 立 し て い る 、 や た ら と 組 織 系 統 が や や こ し い 合 弁 の 協 同 組 合 で あ る 。「 極 北 商 事 」
もまた、その出資法人の一つであった。
太陽系の調査が進むにつれて、地球以外の惑星でも、ある程度農林水産業が可能であること
がわかってきた。月や火星のハウス栽培や養殖はつとに有名であるが、外惑星の木星や天王
星、海王星の衛星でも今では漁業が可能なのだという。トリトンは海王星の衛星の一つ。し
かしながら、一民間会社がいきなりトリトンで事業を興すのは無茶だし、国としても関心は
高いものの、リスクが大きすぎて手が出しにくい。とりあえず政府も関与して協同組合を設
立することになったのだ。昔の大航海時代ならば、さしずめ東インド会社というところだ。
「 い っ た い ト リ ト ン で は ど ん な 仕 事 を や る ん で す 。」
上田は上司の内村に聞いてみたが、
「 行 け ば わ か る 、」
くらいしか返事がもらえない。国策絡みで守秘義務だらけだ。
「トリトンには豊穣な海がある。君はそのトリトンの海で働くことになる。前任者は間宮と
いう男だ。彼は君と入れ違いで地球に帰還するから、彼から何事も引き継いでくれ。間宮は
もともと極北商事の人間ではない。我が社のエウロパ支店が現地で雇ったマネージャーだ。
実 際 の と こ ろ 、 俺 も 彼 や 、 彼 が や っ て い た 仕 事 の こ と を 良 く は 知 ら な い の だ 。」
ト リ ト ン の 地 表 の 温 度 は 約 4 0 ケ ル ビ ン 。つ ま り 、絶 対 零 度 よ り わ ず か に 4 0 度 高 い だ け だ 。
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いくら「極北商事」だからって、寒すぎる。
今や木星の衛星ガニメデやエウロパまでは、月から亜光速の直行定期便が出ている。木星な
んてのは、外惑星のうちではごく近い方だ。海王星はさらに土星、天王星の先にある。木星
よりも、五倍以上遠いのだ。
上田はまずガニメデ空港に寄り、乗り継いでトリトンへむかうことになった。ガニメデまで
は一週間ばかりの旅程、僻地の中の僻地、トリトンまではさらに一ヶ月近くを要する。かつ
てボイジャー二号が海王星に達するのに十二年の歳月を要したことを思えば、格段の進歩で
ある。今では火星や金星くらいの近距離でも人工冬眠を使う。上田も何度も体験していた。
あれを未だに気持ち悪いといやがる人が多い。慣れてしまえばなんということはない。上田
の場合、いつも寝覚めはすっきりで、むしろすっかりリフレッシュした気分になれる。
ガニメデ空港で大型旅客船を下り、トリトンへのトランジットへむかおうとしたら、間宮の
手配だろうか、一人のひげ面の中年男が上田を迎えに来ていた。
「 上 田 さ ん で す ね 。 私 、 こ う い う も の で す 。」
そ の 男 は 名 刺 を 差 し 出 し た 。「 冒 険 家 ・ ト リ ト ン 漁 業 協 同 組 合 長 ・ 山 本 藤 五 郎 」 と 刷 っ て あ
る。なんと漁協のボスじきじきのお出迎えだった。ずいぶん古くさい、いかめしい名前だ。
上田はお返しに自分の極北商事の名刺を差し出す。
しかしこの頭についた「冒険家」という肩書はどうだろう。トリトンで漁協組合を設立する
くらいだから、彼にとっては冒険家のほうが自分にとって重要なアイデンティティである、
ということか。
「 わ ざ わ ざ 木 星 ま で お 迎 え に い ら っ し ゃ る と は 。」
「 い や 、つ い で に い ろ ん な 所 用 を 片 付 け な く て は な ら な く て ね 。何 し ろ 海 王 星 は 田 舎 過 ぎ る 。
役 所 と 交 渉 す る に も 、 何 か と 不 便 で ね 。」
「 何 ヶ 月 も ト リ ト ン を 留 守 に し て 、 大 丈 夫 で す か 。」
「 か ま わ ん 。 あ そ こ に は 、 間 宮 が い る 。 あ い つ に 任 せ て お け ば 心 配 な い 。」
ついでに気になったので質問してみる。
「 山 本 さ ん は 、 冒 険 家 、 な ん で す か 。」
「そうだよ、冒険家というよりは、元青年宇宙協力隊員、と言ったほうが、君にはわかり良
いかな。今は退役しているが、若い頃に青年宇宙協力隊に志願して、ガニメデやエウロパな
ど の 木 星 の 衛 星 で 上 水 道 の プ ラ ン ト を 作 っ て お っ た 。人 間 が 宇 宙 に 住 む に は 大 量 の 水 が 要 る 。
ガニメデにもエウロパにもいくらでも水はあるが、人が資源を有効利用できるようにするの
は手間だ。その仕事に従事し、技術を習得して、今度は自分で事業を興して仕事に活かそう
と 思 っ て 、 独 立 し て ト リ ト ン で 水 産 業 を 始 め た ん だ よ 。」
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青 年 宇 宙 協 力 隊 。上 田 は 話 に は 聞 い た こ と が あ っ た が 、実 際 に そ の 隊 員 を 見 る の は 初 め て だ 。
何しろずっと地球暮らしだったから。上田がぽかんとしていると山本は言った。
「 も う 一 人 、 連 れ を 待 っ て い る 。 も う じ き く る で し ょ う 。」
「 ど ん な 人 で す か 。」
「ゴードンというアンドロイドだ。元はMITを出た理学博士で宇宙物理学者だったが、ガ
ニメデの研究所で起きた事故で死亡し、死後クラウドから記憶をサルヴェージしてアンドロ
イ ド と な り 、 我 が 社 に 派 遣 さ れ て き た の だ 、 ロ ボ ッ ト 整 備 技 師 と し て ね 。」
「 へ え 、 そ う で す か 。」
上田は、ゴードンという男にそれほど関心がなかった。物理学者で技師なんてのは、宇宙に
は腐るほどいるんだろう、というくらいにしか思えない。それにしてもこんな殺風景なロビ
ーで長いこと待たされちゃたまらんな、今のうちに組合長に自分の職務や待遇について聞い
て お こ う か 、気 に 入 ら な か っ た ら こ の ま ま 地 球 に 引 き 返 し て や ろ う か 、な ど と 思 っ て い た ら 、
そのゴードンというやつは一分としないうちに現れた。もしや自分らのようすをどこか物陰
から観察していたかのじゃないか、と上田は邪推した。
胸にヴォルフェンヴァーゲンのエンブレムがでかでかと入った、一目で量産型とわかるチー
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プな筐体だ。シミやサビもなく、新品のように見えるが、おそらく中古だろう。車にしろ宇
宙船にしろアンドロイドにしろ、オーダーメイドの筐体のほうがむしろ珍しく、中古もざら
だ。なにしろ筐体の維持には金がかかる。
「 は じ め ま し て 、 ゴ ー ド ン さ ん 。」
ア ン ド ロ イ ド と は い え 人 間 の 人 格 を 持 っ て い る の だ か ら 、人 と 人 と し て 応 対 す る の が 普 通 だ 。
ゴードンは、しかし、上田の挨拶に右手を差し出しただけだった。二人は握手した。固く、
骨張って冷たい手だった。アンドロイドなんてものはだいたいこんなものだ。
ずいぶん無口なやつだな、まあ、物理学者でロボット技師ならそういうこともあるかもしれ
ん、と上田は思う。
トリトン行きの便はさすがにこぢんまりしていて、その日の乗客は上田と組合長とゴードン
の三人しかいない。亜光速の旅路は長く退屈で、やることは何もない。すぐにベッドに入っ
て眠りにつく。
コールドスリープから覚めるともう水色の海王星は目の前にあった。かすかに三つの環が取
り巻いているのが見える。環の一番外側からずっとはなれたところにぽつんとトリトンが浮
かんでいる。
トリトンは、月よりも少し小さいくらいの星だ。重力も、表面積も、直径も、いずれも月よ
りちょっとずつ小さい。重力などは、地球の十分の一以下。宇宙に浮かぶ、でっかい岩みた
いなもんだろう。しかしこれでも冥王星よりは大きいのだ。
宇宙船の窓からみると、しかし、トリトンは月とはまるで様子が違う。一番大きな違いは、
クレーターがほとんどまったくなく、その代わりに、地表に、山脈とも渓谷ともつかぬ、た
とえて言えば、は虫類の皮膚のシワのような気味の悪い文様があることだ。上田の上司は、
トリトンには「豊穣な海」がある、と言った。しかし、見たところトリトンの地表には岩石
か氷しか見えない。
おそらく地熱を利用した養殖プラントかなんかがあるのだろう、上田はその程度に想像して
みた。
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宇宙船はふんわりとトリトンに着陸する。たちまちいくつもの触手が伸びてきて機体は地上
にがっちりと固定され、ハッチが開けられると、ステーションの中の生暖かい空気が流れ込
んできた。船の外へ出てみるとそこには一人のスーツ姿の男がいた。上田の前任者の間宮で
あろう。
「組合長、ご無沙汰しております。
や あ 、 み な さ ん 。 歓 迎 し ま す 。 私 が 間 宮 で す 。 ト リ ト ン へ よ う こ そ 。」
いかにも執事然とした、慇懃無礼な物腰だ。
「間宮君には、我が社の立ち上げに最初から関わってもらった。だがいつまでもここに引き
留めておくのはかわいそうだから、内地に戻ってもらうことにしたんだ。彼の代わりに、上
田 君 、 君 が こ こ に 赴 任 す る こ と に な っ た の だ よ 。」
山本が補足すると、上田がさらに質問する。
「 こ こ が 我 々 の オ フ ィ ス で す か 。」
「 そ う だ よ 。」
「他の組合員は、就業中ですか。いつお戻りになりますか。何人くらいいるのですか。着任
の 挨 拶 回 り を し た い の で す が 。」
「全部で人間はここにいる三人だ。間宮君はもうすぐいなくなるから、じきに君と私の二人
き り に な る な 。」
「ちょっと待ってください。たった二人の人間で、組合のすべての業務をこなすんですか。
私 は 事 務 屋 で す よ 。 会 計 士 の 資 格 を 持 っ た 私 に 、 魚 を 捕 れ と で も 。」
「そんなことは言ってない。人間で、我が社にこれから必要なのは、間宮君のような立ち上
げ ス タ ッ フ で は な い 。上 田 君 、君 の よ う に 、会 社 の 経 理 を て き ぱ き と 処 理 し て く れ る 人 材 だ 。
だから今回交代してもらう。ただし、現場の仕事に精通する必要はあるな。我が社の業務内
容 と 部 署 は す べ て 頭 に た た き 込 ん で く れ 。」
「 ・ ・ ・ ト リ ト ン の 漁 業 は 、 そ ん な に オ ー ト メ ー シ ョ ン が 進 ん で い る ん で す か 。」
「その答えは、イエスでもあり、ノーでもある。ノーというのは、そんな特別の施設が完備
しているわけではないからだ。イエスというのは、ほとんどすべての業務は人間ではなく、
ア ン ド ロ イ ド な ど の ロ ボ ッ ト が や っ て い る か ら だ 。」
「 ロ ボ ッ ト が 仕 事 す る こ と を オ ー ト メ ー シ ョ ン と い う の で は な い の で す か 。」
「 上 田 君 、 君 の 言 う と お り だ 。「 機 械 」 が 仕 事 を す る の だ か ら 、 業 務 の 自 動 化 に は 違 い な い
な。
ともかく私は中央官庁との折衝でどうしてもトリトンを留守にしがちになるから、君一人に
ト リ ト ン を ま か す こ と に な る な 、 こ れ ま で 間 宮 君 に や っ て も ら っ た よ う に 。」
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「 お 察 し の 通 り 、 ず い ぶ ん と 、 因 業 な 仕 事 で す よ 。」
間宮がにやりと上田の困惑した顔をみやる。
「ま、いずれにしろ、こんなところで立ち話で仕事の引き継ぎもできないから、そうだ、上
田 君 、 君 は お な か は す い て る か ね 、 三 人 で 食 事 で も し よ う じ ゃ な い か 。」
「 は あ 。」
上田は長旅で腹が空いていたので、何か食べたいとは思ったが、こんな田舎でうまい料理に
ありつけるはずもない、そんなものをこれから毎日毎日食べなきゃならないのかと思うと、
うれしくもないし、あまり急いでその現実に直面したいとも思わなかった。
食堂に通されて、山本、間宮、上田、ゴードンの四人で卓を囲む。むろん、アンドロイドの
ゴードンは食事はせず、陪席するだけだ。
一体の、メイドかウェイトレスといった風のアンドロイドが食事を運んでくる。
「 ル ー シ ー と い う 娘 だ 。 上 田 君 、 君 の 身 の 回 り の 世 話 は 、 み ん な 彼 女 が や っ て く れ る よ 。」
「 は あ 。」
こんな辺鄙なところで生身の女は望むべくもないのかもしれない。しかしこの悪趣味なメイ
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ドアンドロイドは、どうにかならなかったのだろうか。おそらく組合長の趣味なのだろう。
彼なりの、上田へのサーヴィスのつもりなのだろうが、その下品な容姿、派手な服飾の色彩
と 言 っ た ら 。「 南 極 一 号 」 と い う 名 が 頭 を か す め る 。
ここには、自分の他には、人間はあの山師のような組合長しかいないのだ。しかも不在がち
だという。それがあと三年間も続くとは。上田はすでにトリトンへ来たことを後悔し始めて
いた。暗澹とした気分になった。
料理は丼物であった。蓋を開けてみると、驚いたことにそれは鰻丼であった。たくあんに野
沢菜までついている。肝心のウナギも非常に美味だ。肝のお吸い物もまんざらでもない。
なんだ案外こんなところでもまともな魚料理が食べられるんじゃないか、冷凍物だろうが、
そんな贅沢を言わなきゃ、十分ではないか。上田はほっとした。
「山本さん、どうしたんです、このウナギ。これがもしかして我が社の、いや、トリトン漁
協 の 名 産 で す か 。」
「 そ う だ 、 そ の 通 り だ よ 上 田 君 。 ト リ ト ン 漁 協 の 主 要 輸 出 品 、 ト リ ト ン ウ ナ ギ だ 。」
「 へ え 。 地 球 も の に も 遜 色 あ り ま せ ん ね え 。 ど の く ら い 取 れ る ん で す 。」
「 と っ て も と っ て も 取 り 切 れ な い く ら い 取 れ る よ 。」
「 そ ん な に 大 規 模 な 養 殖 プ ラ ン ト が あ る ん で す か 。」
「 こ れ は 、 養 殖 じ ゃ あ な い よ 。 み ん な 天 然 物 だ よ 。」
「天然?それはいったいどういうことです。人の手も、ロボットの手もかけずに、ウナギが
自 然 に 繁 殖 し て い る 、 っ て こ と で す か 。」
「 そ の 通 り 。」
「卵は人工ふ化ですよね?」
「いやいや。産卵、受精、稚魚のふ化、その他もろもろ、すべてが自然のたまものだよ。品
種 改 良 す ら し て い な い 。 そ も そ も 地 球 か ら 持 ち 込 ん だ ウ ナ ギ じ ゃ な い ん だ よ 。」
「 な ん で す っ て 。」
「 君 、 知 ら ず に こ こ に 来 た の か ね 。」
「 え え 。」
「 何 も 話 し て も ら え な か っ た の 。」
「はい。なにやら守秘義務に関わることなので、上司も部下にうかつにはなすことはできな
い か ら 、 す べ て は 間 宮 さ ん か ら 直 接 引 き 継 ぐ よ う に 言 わ れ ま し た 。」
「 ず い ぶ ん 薄 情 な や つ だ な 、 君 の 上 司 は 。 な ん と い う 名 だ 。」
「 内 村 と い う 人 で す 。」
「ふうん、知らんな。ま、ともかく、そんな大層な秘密などないのだよ。海王星方面では皆
が知っているし、皆が食べているのだから。だが地球生まれで地球育ちの君は知らぬだろう
か ら 、 一 か ら 説 明 し て あ げ よ う 。」
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「 お 願 い し ま す 。」
「よく知られているように、海王星のトリトンは、木星のエウロパとほとんど同じ性質の月
なのだ。エウロパの海に棲む地球外生命体なら、君も聞いて知っているだろう?
外惑星の多くの衛星は、もともと惑星の衛星だったのではなく、冥王星のように、太陽系の
外辺を取り巻くエッジワース・カイパーベルト天体であった。それが惑星の重力にとらえら
れて衛星となったから、その軌道は極端に傾いていたり、或いはトリトンのように逆行して
いたりする。このような異常な軌道によって衛星の内部には常に激しい潮汐力が働き、本来
固体となるはずの岩が液化していて、それがマントルまで達しているのだ。
我々がいるこの基地は比較的固くて厚い岩盤を選んでその上に立てられているがね、トリト
ンの地表のほとんどはごく薄い地殻に覆われている。それは、地下のマグマが冷えて固化し
たものなのだ。
マグマと言っても、君が考えるような、地球のマグマや溶岩とは違う。液体メタンに液体窒
素、水、ドライアイス、アンモニアなどが混ざり、鉱物が溶け込んだ、シャーベット状態の
泥沼のようなものだ。地表ではわずかに270ケルビン、つまり摂氏零度くらい。ただし液
体のメタンや窒素にしてみればものすごい高温だから、どろどろに溶けて沸騰している状態
なわけだよ。地面から下、もっと深いところはもう少し温度が高い。
そうするとね、君。アミノ酸というものは、窒素と炭素と水素と酸素でできているだろう。
必要なものはすべてこのトリトンの地下にそろっているわけだ。また、マグマの底の、マン
トル対流に近いあたりには、生物が生存できる適度な温度の層がある。栄養たっぷりのスー
プが適温で何億年も経過するうちに、たまたまアミノ酸が合成され、そこからたまたまタン
パク質が合成され、核酸が合成されれば、めでたく原始的な有機生命体が誕生するというわ
けだ。その揺籃となったのであるから、トリトンのマグマは、まさしく母なる海なのだ。
やがて原始の生命体は核を持ち、細胞膜を持って、単細胞生物となる。単細胞生物が集合し
て多細胞生物となる。すると、単細胞生物や他の多細胞生物を捕食する原初的な動物が生ま
れる。地球で起きた生物進化と、まったく同じ過程がこのトリトンでも、そして同様にエウ
ロパの海でも進行したわけだ。現在、トリトンの海では単細胞生物から原索動物までが発生
し て い る 。 そ れ ら 何 千 何 万 種 類 も の 種 が 一 つ の 生 態 系 を な し て い る の だ よ 。」
「 つ ま り 、」
上田は薄気味悪そうな顔でどんぶりに目を落としながらいう、
「 こ の ウ ナ ギ と い う の は 、地 球 の ウ ナ ギ と は 似 て 非 な る ま っ た く 別 の 種 だ と い う こ と で す ね 。
地 球 上 の い か な る 種 と も 直 接 関 係 の な い 。」
「 あ あ 。」
「 こ の 今 食 べ て い る 肉 も 、ト リ ト ン の 地 下 の マ グ マ か ら 合 成 さ れ た も の 、と い う こ と で す ね 。」
「そういうのを、合成というかは知らん。それはたぶん適切な生物学的用語ではないと思う
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が ね 。 正 確 に は 生 合 成 と か 代 謝 と い う ん じ ゃ な か っ た か な 。」
「 ど ん な 姿 か た ち を し て い る ん で す 。」
「典型的な脊索動物の形をしているよ。頭には口があり、尾には肛門があり、口と肛門を消
化器官がつなぎ、その周りに筋肉と皮がついている。口の周りには光を受容する器官、つま
り目をそなえている。体幹に沿って一本の神経が通っている。そうだな、ウナギというより
は、ヤツメウナギのほうが似ているだろう。あるいは、サンドワームといったほうがより近
いかもしれない。地球の種で言えば、ナメクジウオとか、ホヤの幼生に近い。非常に原始的
だ が 、 し か し 完 全 に 動 物 ら し い 発 達 段 階 に 達 し て い る と も い え る な 。」
上田はすっかり食欲を無くしてしまった。何も説明されなければ、上等のごちそうをたべた
気になれただろうに。
間宮と上田の会話を、食事をすることもないゴードンは、ただ所在なさそうに黙って座って
いる。
「 上 田 君 、 奥 の 厨 房 を 見 て み た ま え 。 そ こ に 現 物 が い く ら で も あ る か ら 。」
「 い え 、 ま た の 機 会 に し ま す 。」
当然上田は近日中にその姿をいやでも見ないわけにはいかないのだ。それがこの漁協の主要
な産物である以上。
「地球人と、トリトンの生物は、まったく異なる種なのですよね。地球人がトリトンウナギ
を 食 べ て 何 か 害 は な い の で す か 。」
「それはすでに実証されている。ここに生きた証拠がいる。この私だ。私は、最初期のガニ
メデ開拓団の家庭に生まれたのだが、エウロパを経てこのトリトンに移り住んで以来、ほと
ん ど 毎 日 の よ う に ト リ ト ン ウ ナ ギ を 食 べ て い る 。精 密 検 査 し て も な ん の 異 常 も み つ か ら な い 。
この年までぴんぴんしている。健康体だ。或いは、健康食品と言っても過言ではないかもし
れ ん 。」
生まれてからずっとトリトンウナギを食べ続けたからこんな容貌になったのではなかろう
か、などと失礼なことを考えながら、上田は心の中を見透かされないよう用心した。
「 ウ ナ ギ の 他 に は 何 が と れ ま す か 。」
「われわれは漁獲された個体の大きさで、それをウナギと言い、ナマズと言い、或いはマグ
ロ、クジラなどと呼んでいる。それらはむろん地球の魚とはなんら関係ない。ただ体の大き
さ に 基 づ い て 、 そ う 呼 び 習 わ し て い る だ け な の だ 。」
「 そ れ で 私 の 仕 事 は 。」
「 そ れ ら の 魚 を 捕 っ て 、 裁 い て 、 加 工 し て 輸 出 す る 。 そ れ だ け だ 。 至 っ て シ ン プ ル だ 。」
「 ウ ナ ギ 漁 と か ナ マ ズ 漁 と か で す か ? 私 が そ れ を や る の で す か 。」
「いやすべてはアンドロイドたちがやってくれる。加工工場も全部だ。君はその監督をすれ
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ばよい。私個人は、現場監督もアンドロイドがやれば十分だと思うが、アンドロイド雇用法
では、職場の責任者は人間でなくてはならないことになっているからね。ほら、薬局に薬剤
師 が 必 ず 一 人 い な き ゃ い け な い よ う な も の さ 。」
ふう、と上田はため息をつく。
ところで、ウナギ漁とはどんな漁法なのだろう、という上田の考えを先回りして、間宮が言
う。
「 明 日 は ウ ナ ギ 漁 を 見 に 行 こ う 。 お も し ろ い ぞ 。」
上田はすぐさまいろんな想像を巡らせた。地下のマグマの中を潜水艦のような船が地引き網
を引いてトリトンウナギをかき集め、地表に引きずり出す。或いはワカサギ釣りのように穴
を掘ってそこに釣り糸を垂れて一本釣りする。だが、どうせ今自分の考えているのとはまっ
たく違う漁法であろう。上田は考えるのがめんどくさくなり、食堂を辞して自分の部屋へむ
かった。途中、廊下に菓子パンとインスタントラーメンの自販機を見つけ、できるだけたく
さん買っておいた。
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翌日、キャタピラを履いた自走車で、間宮、上田、そしてゴードンの三人は、山本を基地に
残して外出した。間宮自ら運転するが、ほとんどは自動走行である。
あたりの景色は、地球で言えば、満天の星空の下に岩の沙漠が果てしなく広がっているよう
なものだ。美しいと言えば美しい。しかしこの上もなく単調だ。
やがて一本の噴煙らしきものが前方に見えてきた。おそらく火山であろう。星の直径が小さ
いから近づかないとその頂は見えてこない。
「あれがナマズ・マキュラ(天体の表面に見える白斑や黒斑をマキュラという)だ。我々は
た だ ナ マ ズ 山 と 呼 ん で い る が ね 。」
「 ナ マ ズ が と れ る か ら 、 ナ マ ズ 山 と 呼 ば れ て い る の で す か 。」
「 違 う 。 人 類 が ま だ や っ と 月 ま で 到 達 し た 、 は る か 昔 に つ け ら れ た 名 前 だ 。」
そ の 山 の 麓 に た ど り 着 く と 車 は 自 動 的 に 止 ま っ た 。あ た り に は 工 事 用 ロ ボ ッ ト や ダ ン プ カ ー 、
トラックが多数作業していて、露天掘りの鉱山のようだ。
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「 ど う や っ て 、 ど こ で 漁 を す る ん で す 。」
「 も う じ き 、 始 ま る 。 見 れ ば わ か る よ 。」
五分ほどで、噴煙がさらに高くのぼり、マグマが山の斜面からあふれてきた。それが三十分
ほど続くと、再び山は静かになった。しばらくしてから、なにやら隕石のようなものがばら
ばらと降ってくるのが見えた。
「間欠泉だよ。地震計をしかけてあるから、いつ頃噴火するかだいたいわかるんだ。地下で
暖められたマグマが地表に近いマグマだまりに一定以上たまると、ああいう具合に一気に吹
き出してくるのだよ。重力が弱いせいもあって、噴煙は通常十キロメートル。しかし、場合
に よ っ て は 二 百 キ ロ メ ー ト ル 以 上 ま で も あ が る の だ が ね 。」
トリトンの直径がたかだか三千キロメートル弱であることを思うと、その噴煙は恐ろしく巨
大だ。むろん地球の火山の噴煙はそんな高くはのぼらない。せいぜい数キロメートル、成層
圏に達する程度。
「噴火している間は、車の外に出てはいけないよ。しばらくはこんな具合に、凍ったマグマ
が降り続けるからね。重力が小さいから、頭にぶつかってもたいしたことはないが、まれに
でかいやつが当たると致命傷にならんとも限らない。大規模な噴火の時にはでっかいクジラ
も 降 る 。」
山本はにやっと笑う。
「クジラですって?」
その、地表で凍り付いたマグマをショベルカーとダンプカーが集め、トラックに積み込み始
めた。
「 も し か し て 、 こ れ が 「 漁 」 で す か 。」
「そうだよ。あのマグマの中におびただしいナマズやウナギが含まれている。
ウナギはナマズより小さいからより遠くまで飛ばされる。つまり、火口近くは岩盤が暖めら
れ弱く危険だが、遠くまで飛ばされてくるウナギは楽に採取できるのだ。
ウ ナ ギ は 一 瞬 で 新 鮮 な ま ま に 凍 る 。 そ れ を 工 場 に 運 ん で 裁 く ん だ 。」
トリトンの地表が奇妙な文様に覆われている理由がわかった気がした。つまり、地中から常
にマグマが噴出してきて、地表にできたクレーターを洗い流してしまうのだ。
「 さ あ 、 こ ん ど は 工 場 に い っ て み よ う か 。」
工場というのは、宇宙線や火山灰を遮るためのシールドが葺かれた掘っ立て小屋のようなも
のだった。
従業員はみなアンドロイドだった。しかも一つとして同じ型ではない。どうやら中古の寄せ
集めのようだ。彼らは泥の中からウナギやその他の雑魚を選別し、洗浄し、大きさによって
仕分けしていく。凍っていてよくわからないが、黒々とした棒状のものが、ウナギだと言わ
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れればそうなのだろう。
「ゴードン、ここが君の職場だよ。君はここで他のアンドロイドたちを修理し、手が空いて
い る と き に は 魚 の 仕 分 け を 手 伝 っ て も ら う 。」
ゴードンは黙ってうなづく。
「君はまず、あそこだ、あのラインに並んで仕分けをしている、黄色い筐体のアンドロイド
に 指 示 を 受 け て く れ 。」
ゴードンはやはり何も言わずその命令に従った。
ひどい労働環境だ。
自分もいつかは死んで、アンドロイドとして余生を送るかも知れない。
しかしこんなところで働かされるのはいやだ。そこまでして自我を保っていたくない。上田
はふと浮かんだ疑問を間宮にぶつけてみる。
「 こ れ っ て 、 ア ン ド ロ イ ド の 強 制 労 働 に あ た る の で は な い で す か 。」
間宮はにやりと笑って答えた。
「アンドロイド倫理的にも搾取の概念はあり、また、アンドロイド労働基準法でも、強制労
働 は 禁 止 さ れ て い る 。だ が 、生 体 の 人 間 と 同 じ で は な い 。人 間 に は 昔 な が ら の 人 権 が あ る が 、
アンドロイドにはそのような特権は与えられていない。アンドロイドも生きていくには人間
と相応の義務があり、その税負担に応じて何らかの仕事に就かなくてはならない。
この不景気のおり、人間の雇用が優先されるとすれば、アンドロイドはより辺境でより過酷
な 仕 事 に 就 か な く て は な る ま い 。」
そりゃそうだ、と上田は思う。彼も好きこのんで海王星くんだりまで来たわけではない。食
うためにやむなく来たのだ。もし、アンドロイドにも人間と同じ人権を与えたら、世の中は
怠け者のアンドロイドであふれてしまうだろう。そのために何らかの「歯止め」は必要なの
だろう。
「人は誰も自分の死後も自己の存続を望む。そのため生前に自己の記憶をクラウドに託して
おく。それは今日万人に永久に与えられた権利だ。また、死後、その記憶をアンドロイドに
移して自我をサルヴェージする技術はすでに確立しているが、自分の筐体を維持していくコ
ス ト は ア ン ド ロ イ ド 自 ら が 負 担 し な く て は な ら な い 。ア ン ド ロ イ ド の た め の 社 会 保 障 制 度 は 、
結局は作られなかったのだ。従って生前相当の金持ちであったか、アンドロイドとなってか
ら自分の維持コストをまかなえる仕事に就かない者は、結局はクラウドの中にただよってい
る し か な く 、か つ 、ク ラ ウ ド の 中 で 自 我 は 次 第 に 自 己 と 他 の 境 界 を 見 失 い 、溶 解 し て い っ て 、
いつしかパーソナリティを喪失して、共有知の一部となってしまうのだ。
広大無辺なクラウドをすみかとする、自由でアノニマスな知的存在に進んでなりたがるもの
- 15 -
もいるし、やむを得ずそうならざるを得ない人もいる。そもそも自己の記憶を抹消してこの
世から完全に消滅してしまう人もいる。
しかし、自己というもの、パーソナリティというものを保ちつつこの世の中に存在していた
い者は、アンドロイドという筐体を「個人所有」する必要があって、原則「自助努力」によ
ってその維持費を確保せねばならない。彼、ゴードンもまた、みずからそのような道を選択
し 、 こ こ へ 来 た の だ 。 そ れ は 彼 の 自 由 だ 。」
上田は思う、我々生身の人間の一生などはほんの一瞬だ。だから、何らかの特権を与えられ
たとしても、おかしくない。死後アンドロイドとして生きる時間は無限だ。そのコストをす
べて自分でまかなうのは当然だと言えるだろう。しかしなぜ自己は自己存続を願うのだろう
か。もはや人間という存在ではなくなってしまっても。
- 16 -
4
「 あ な た が 今 度 入 る 新 入 り ね 。」
自分のそばに無言でのっそりと立つゴードンに気づいて、彼女は尋ねた。
「私はオスヨ。あなたは?」
ゴードンはやはり無言である。
「 ち ょ っ と 。 何 か 言 い な さ い よ 。 だ ま っ て ち ゃ 話 が 進 ま な い で し ょ う 。」
ゴードンは黙ってオスヨに右手を差し出した。
「 ふ ん 。 あ な た っ て ず い ぶ ん シ ャ イ な 性 格 の よ う ね 。 ま あ い い わ 。」
通常アンドロイドの指先にはクラウドとデータをやりとりするためのコネクタがついてい
る。コネクタどうしをふれあえば、アンドロイド間でP2P通信もできるのだ。P2Pは主
に個人情報などのやりとりに使われる。
オスヨは指先でその情報を読み終える。
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「まあ、あなたも以前は人間だったのね。物理学者?ふうん。ああ、あのガニメデのポータ
ル 事 故 に 巻 き 込 ま れ て 死 ん だ の 。 災 難 だ っ た わ ね 。」
今から十年前、ガニメデに赤道を一周する大規模な加速器が作られ、実験の結果、さまざま
な新しい素粒子が発見されたが、その中には、重力の源となる素粒子、グラヴィトロンが含
まれていた。重力子グラヴィトロンは、アインシュタインの一般相対性理論における重力波
を媒介する素粒子として提唱されたが、これまで未発見であった。
やがて、加速器で生成したグラヴィトロンを高温高圧の磁界の中に封じこめて、プラズマ状
態にする技術が確立される。そのプラズマの中にはポータルが生成されていることが期待で
き た 。ポ ー タ ル は 理 論 的 に は 、超 小 型 の ブ ラ ッ ク ホ ー ル の 一 種 で あ っ て 、我 々 の 住 む 宇 宙 と 、
それとは別に存在している宇宙とをつなぐ扉のようなものであるとされる。ゴードンはその
ポータルの研究をしている最中に消滅した。おそらくはポータルの向こう側の世界へ行って
しまったのだろう。
「危険な研究に従事する代わりに死後のサルヴェージが保証されていたわけね。ははあ。そ
れ で 、あ な た は こ う し て 機 械 の 体 を も ら っ て 、こ こ へ 来 た と い う わ け か 。で も あ な た の 場 合 、
ほんとに死んだのかどうか、わかんないわね。だってあなたはまだ死んでなくて、ポータル
の 彼 方 の 世 界 で 今 も 生 き て い る か も し れ な い 。」
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死後、人格をアンドロイドにサルヴェージすることは合法であるが、生前自分の人格をクロ
ーンすることは倫理的理由で禁止されている。死後、人格を他の生体にサルヴェージするこ
とが、禁じられているように。生体の死亡が確認されていない間は、アンドロイドによる復
活は延期されるが、ゴードンの場合は明らかにもう死んだ、と判定されたのだろう。
「この仕分け工場は一つのラインに定員は二名。ウナギを採取してきて、大中小とそれ以外
の雑魚に選り分けるだけの、いたって簡単なお仕事。
今 は 私 し か い な い け ど 、あ な た が 補 充 さ れ た か ら 二 名 に 戻 る わ ね 。前 は 相 棒 が い た ん だ け ど 、
彼はトリトンの海に沈んでしまったわ。注意しないとあなたも同じ目に遭うかもしれないか
ら、一応説明しておくわね。
私の相棒の名前は、パスモンと言って、あの日も二人でウナギを採りに行ったのだけど、彼
は運悪く新しく開いた火口に飲み込まれてしまった。つまり地殻が融けて、あふれてきたマ
グマにおぼれてしまったのね。
パスモンにはGPSが積まれていて、三千メートルの比較的浅いマグマだまりの底に沈んで
いて、おそらくは救助を待ちつつ冬眠状態になっていると思う。まだ死んではいないはず。
もし彼が死んだと確定したら、彼には組合から新しい筐体が提供されて、彼の自我もサルヴ
ェージされると思うんだけどね。じゃあ、組合が彼の筐体をサルヴェージするかというと、
それも費用の面で今は難しい。どっち付かずの状態なのよね。そこでとりあえずあなたが彼
の 代 わ り に 働 く こ と に な っ た ん だ と 思 う 。」
ここで、サルヴェージとは二つの意味に使われている。海の底から沈没した船を引き上げる
ことをサルヴェージといい、パスモンの筐体をマグマの底から引き上げるのもサルヴェージ
である。しかし、クラウドに保管された記憶をアンドロイドに移すこともサルヴェージとい
う。かつてはコンピュータの破損したデータをバックアップから復旧することをデータサル
ヴェージなどと言っていた、その名残である。サルヴェーションはもともとキリスト教の用
語で、世界の終わり、最後の審判のときに、死者が復活し、正しい者の魂が救済されること
を言う。
「どこにいつ新しい噴火口ができるかってことは、ある程度地震観測やら潮汐シミュレーシ
ョンによって予知できるのだけど、彼の時はまったく突然だった。
特にトリトンの軌道がマントルに与える潮汐力の影響というのは、まだ完全に解明されてい
るとは言えないのよね。私たちもいつトリトンの海に沈むかもしれないし、彼の場合は海底
といってもたかだか三千メートルの深さだからいつか救助される可能性もあるけど、マント
ルまで落ちちゃったら二度とこの世には戻ってこれない。私たちはみんなトリトン漁協との
契約で、労働の対価として筐体を維持されているのだけど、破損したり消失した筐体を復活
さ せ る か ど う か は 結 局 組 合 の 経 営 判 断 に 委 ね ら れ て い る の よ ね 。」
オスヨの話に内心びびっているのか、それとも関心がないのか。ゴードンはほとんどまった
- 19 -
く無表情だ。
「私ももとは人間だったのよね。でも最近人間だった頃の記憶があんまり定かではなくて、
たぶん地球で駅員をやっていたはず。その後、何かの事故で死んで、目が覚めたときにはも
うアンドロイドに改造されて、ごてごてと重機を取り付けられて、トリトンにいたというわ
けよ。しかもサルヴェージした記憶には、当たり前だけど、死ぬ直前の一週間の記憶がなく
っ て さ 。 な ぜ 死 ん だ か も 、 覚 え て い な い の よ ね 。」
普通は毎日睡眠前に記憶のバックアップを取るものであり、そのほうが短期記憶をより正確
に記録できるのだが、オスヨはどうも面倒くさがりな性格だったらしく、一週間に一度か二
度程度しか、バックアップしてなかったようだ。
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「どう、私が人間だったころの写真がみたい?」
オスヨは返事を待つことなくゴードンに一枚の写真を手渡した。それは若い女性駅員がホー
ムで敬礼している姿であった。
「 ど う な の よ 。 な ん と か い い な さ い よ 。」
ゴードンはしかしいつまでも無表情にその写真に目を落としたままだった。
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5
上田はいつものように唐突に組合長室に呼び出された。山本はいきなり話を切り出した。
「 そ れ で 、噴 火 で 地 上 に 落 ち た 魚 を 採 取 す る 方 法 は 、安 価 で は あ る が 、非 効 率 で 不 安 定 だ し 、
危険も大きい、特に大型のナマズやマグロなどを採取するには。さらに大きなクジラを取る
ことは不可能だ。それでやはり今後は、より多くの資本を募り、トリトンの海の調査を行っ
て、漁船を投入して、多種多様な魚を安定供給できるようにすべきだという結論に達したの
だ よ 。」
久しぶりに開かれた組合総会で、組合長の山本はそう説明した。しかし、組合の理事らは誰
もわざわざトリトンまでやってくることはなく、みな委任していたから、山本の演説を聴い
たのは上田ただ一人きりであった。その上、上田はいつの間にか相談役という役職付きの理
事までやらされていた。
「 こ れ ま で も か な り の 数 の ア ン ド ロ イ ド が ト リ ト ン の 海 に 沈 ん で 失 わ れ た 。彼 ら の 一 部 で も 、
サ ル ヴ ェ ー ジ で き る と 良 い の だ が 。」
「 出 資 者 が い れ ば 、 良 い 話 な の で は あ り ま せ ん か 。」
上田は投げやりに言った。
「とりあえず、エウロパから、中古の捕鯨船を買うことにした。足下をみられてね。廃棄間
際の老朽船のくせに、アンドロイドが千体買えるくらいの、とんでもない値段なのだが、仕
方ない。トリトンが、エウロパや、その他の天体よりもはるかに豊かな星だということを、
証 明 し て み せ る さ 。 と り あ え ず は で っ か い ク ジ ラ で も 捕 ま え て み せ び ら か そ う 。」
大型輸送船に運ばれてきた捕鯨船は、ナマズ山火口からトリトンの海に下ろされた。
「 や っ ぱ り 、 思 っ た と お り だ 。 も の す ご い 魚 影 の 濃 さ だ 。」
捕鯨船はふたたび輸送船に宙づりにされて、今度は組合の基地に運ばれてきた。
大漁ではあった。トリトンの海には無尽蔵に魚が沸いてくるらしいのだ。
だがもう一つ吉報があった。パスモンが救助されたのである。
「 ね え 、 パ ス モ ン に 会 わ せ て よ 。」
オスヨは上田に詰め寄った。
「 い や ね 、ま だ 修 理 が 完 全 に 終 わ ら な い う ち は 、誰 も 面 会 で き な い っ て 、組 合 長 が 言 う ん だ 。」
「 い い じ ゃ な い 。 ど こ の 修 理 工 場 に 入 れ ら れ た の 。 で き る だ け 早 く お 見 舞 い が し た い の 。」
「とは言ってもね。私の権限では何も君に答えることはできないんだ。だから、もし意見が
あ っ た ら 山 本 組 合 長 に 直 接 伝 え て く れ な い か な 。」
「山本さんが私の話を聞くはずないでしょ。ねえ、上田さん、私が組合長に話があるって、
- 22 -
山本さんに伝えてくれない?」
「 も ち ろ ん 伝 え て お く よ 。」
パスモンの筐体にはほとんど異常らしきものはなかった。彼の頭脳も好調で、明日からまた
働くこともできるくらいであった。
ところが、彼が半月近くも修理工場から退院できないのは、まったく別の理由からだった。
上 田 の 任 期 が 残 り 半 年 近 く に な っ た 頃 、山 本 が 一 緒 に 二 人 で 晩 飯 で も 食 お う 、と 言 い 出 し た 。
そんなことは上田が最初トリトンに来たとき以来だから、ははあ、これは仕事の引き継ぎの
話か、さもなくば契約更改の件でも、じっくり話し合おうということだろうと、上田はだい
たいあたりをつけた。
例によってルーシーが給仕する。料理はいつもながらのトリトン料理。なんどこのシーフー
ドたっぷりのパエリアやら海鮮ちゃんぽんを食べさせられたことだろう。慣れてしまえば、
まずくはないが、いいかげん飽きる。
山本はいつも通り前置きもなく話を切り出す。
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「ねえ上田君、私は君にこれから、トップシークレットの重要事項を話そうと思う。
君は、この話を聞かず、三年の契約期間を終えて地球に帰ることもできる。また、私の話を
聞いて、契約期間を延長し、あと五年間トリトンに滞在することもできる。
すべて極北商事も了承済みのことだ。君の直属上司の村上とかいうやつの、君宛の伝言もあ
る 。」
「 内 村 さ ん 、 で す ね 。」
「 そ う そ う 。」
山本が手渡したのは、確かに極北商事のレターヘッド付きの内村の指令書であった。要する
に帰るなり残るなり勝手にしろ、ということらしい。
「五年延長ですか。報酬は?」
上田もあえてドライに切り返す。
「三年間君を観察してきて、君が単に有能な事務員であるだけでなく、非常に信頼できる人
物だということがわかった。これは君にしか頼めない仕事だ。ゆえに、報酬ははずむ。しか
し今現金はない。現物支給なら今すぐ保証できるのだが。今まで君に支払った給与の優に百
倍 は あ げ よ う 。 あ と 五 年 こ こ に い れ ば 一 生 働 か な く て す む ぞ 。」
「現物支給?もしかして、協同組合を株式会社に改組してその株をくれるって話じゃないで
し ょ う ね 。」
「なかなか鋭いな、君は。私の見込んだとおりだ。むろん、事業が軌道に乗ってきたから、
こ れ か ら 協 同 組 合 を 会 社 組 織 に し て 、君 に も 株 主 と な っ て も ら う よ 。私 が 五 十 一 パ ー セ ン ト 、
君が十パーセント。悪くないだろう。むろん役員報酬もたんまりあげよう。私が社長となっ
た あ か つ き に は 、 君 を 専 務 に す る 。」
景気の良い話だ。社長も山っ気はあるが、ホラ吹きではない。彼の言うことは一応信用でき
る。しかし良い話には裏がある。
「 そ の 上 、 君 の 死 後 百 年 間 、 我 が 社 が 君 の ア ン ド ロ イ ド 筐 体 の 維 持 費 を 出 し て あ げ よ う 。」
そんなずっと未来の空手形を保証されてもあまりありがたみは無い。今すぐ現金でもらった
ほうがましだ。上田にはもう一つ、気がかりがあった。
「 株 式 会 社 に な れ ば 、 人 間 の ス タ ッ フ も 増 や し ま す か 。」
「 む ろ ん だ 。」
「 あ の う 、 す る と 女 性 社 員 も 雇 い ま す か 。」
「 な ん だ 、 君 の 心 配 は 、 女 か 。」
「私には重大です。私もまだ若く独身ですので、このまま五年もここにいては婚期を逃して
し ま い ま す 。」
「 ル ー シ ー じ ゃ だ め か 。」
「 ル ー シ ー は た だ の メ イ ド ア ン ド ロ イ ド で は あ り ま せ ん か 。」
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「大丈夫。女には不自由させん。海王星にもこれからどんどん生身の女たちが渡ってくる。
土星や木星まで足を伸ばせば女なんてうじゃうじゃいる。世の中金だ。金さえあればトリト
ンだろうと冥王星だろうと自然と女はよってくる。金のあるところがパラダイスだ。逆に金
がなけりゃ地球でも女にはもてない。君、このまま地球に帰っても一生しがないサラリーマ
ン だ ろ 。 そ れ じ ゃ 大 し た 女 と 結 婚 は で き な い よ 。」
そりゃあその通りだ、と上田も思う。かなり心が動いてきた。
「 い い で す よ 。 あ と 五 年 だ け な ら 。」
五年後なら上田もまだ三十代前半。なんとでもなる。ほんとに金持ちになったら地球で死ぬ
までのんびりくらそう。
「よし来た。武士に二言はないな?」
「 よ う ご ざ い ま す よ 、 あ い に く 私 は 武 士 じ ゃ あ あ り ま せ ん が ね 。」
「ねえ、君。これは絶対秘密だ。当分は、君と私二人だけの胸にしまっておきたい。ただち
に君と私で臨時組合会を開く。こんなときのために委任状は取ってあるんだ。私と君の二人
で総会を開いて全部決めてしまう。いっておくが我が社の機密事項を漏らしたものは終身禁
固 刑 だ か ら な 。」
- 25 -
「 な ぜ 民 間 の 組 織 に 、 そ ん な 厳 し い 罰 則 が あ る の で す か 。」
上田は目を丸くする。山本は額をてからせながら続けた。
「ふふ。それは、この会社が設立された当初からそういう就業規則を必要とする特殊な会社
だったからだ。しかしその理由は、君の前任者だった間宮だって知らぬ。
いや、気づかれる前に、彼を地球に帰したのだ。彼は創業者の一人だからね。どんなことを
要求してくるかわからん。
君 も 秘 密 さ え 守 っ て く れ れ ば 悪 い よ う に は し な い 。」
「 口 を 閉 ざ し て い る だ け で 億 万 長 者 に な れ る な ら 、 絶 対 そ う し ま す よ 。」
実は、パスモンが引き上げられたとき、彼が採取した土のなかから、1キログラムを超える
巨大なダイヤモンド鉱石が見つかったのだった。それは地球でもっとも大きなダイヤのおよ
そ十倍、全太陽系の中でも最大級のダイヤであった。捕鯨船が何隻、いや、何十隻買えるか
もしれない。ともかく恐ろしいほど価値のあるものだ。
「やはり私の見込んだ通りだった。
ダイヤモンドというのは、高温高圧下の炭素、つまりマントルに存在するメタンなどから生
じるものだ。マントルの底にはダイヤモンドがごろごろ転がっている。このトリトンだけで
はない。どこの星のマントルにも多かれ少なかれ、ダイヤモンドの山が眠っている。
だがね、ダイヤモンドがマントル対流でゆっくりと流され冷やされて地殻に達する頃には、
ダイヤモンドは黒鉛に相転移してしまう。ただの炭の塊になってしまうんだ。ダイヤモンド
を取るにはマントルの底から一気に取り出さなくてはいけないんだ。今地球で取れるダイヤ
モンドのほとんどすべてはマントル対流が今よりずっと激しかった頃に作られて地表近くに
運ばれたものなのだ。だから、先カンブリア紀の地層からしかダイヤはとれないのだ。
マントルの底までダイヤモンドを採掘しに降りていくことは不可能だ。たとえば地球ならマ
ントルはざっと2000ケルビンから3000ケルビンはある。そもそも百キロメートル近
くある固い地殻をボーリングしなきゃマントル層には達しない。
私は生まれ故郷のガニメデで、もしかすると地球よりももっとたやすくマントルからダイヤ
モンドが採取できるんじゃないかと考え、いろいろ試してみた。
それから、いろんな星を探検してみた。ガニメデよりもエウロパのほうが可能性が高そうに
思えたが、トリトンが一番有望だと知った。トリトンに作用する異常なまでに強力なその潮
汐力によって、そのマントル対流は太陽系でも最も速い。ダイヤモンド鉱床を急速に地殻ま
で押し上げて、冷やしてしまうだろうと、私は考えたのだ。
そこで私はトリトンにダミーの会社、つまりトリトン漁業協同組合を作ることにした。トリ
トンの海から魚を捕りつつ、ダイヤモンド採掘の可能性を探っていたのだ。
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パ ス モ ン や そ の 他 の ア ン ド ロ イ ド は 、実 は 事 故 で 沈 ん だ の で は な い 。私 が わ ざ と 沈 め た の だ 。
トリトンの噴火の予知ができないなどというのは、もうずっと以前の話だ。今ではほぼ確実
にどこでいつ噴火するかがわかる。それもまた我が社独自のノウハウなのだが。
そうしてわざと新しく噴火が起きる場所にウナギを採りにいかせて、事故に見せかけてアン
ドロイドを海に沈める。何体も何体もそうやって沈めて海底の地質調査をさせていたら、案
の 定 パ ス モ ン が ダ イ ヤ モ ン ド の 鉱 床 キ ン バ ー ラ イ ト を 発 見 し 、そ の 中 か ら ダ イ ヤ を 採 掘 し た 、
というわけなのだ。
これからは、私一人でやるには仕事が多すぎる。
間宮君は有能なマネージャーだったが、強欲で、自分の利益優先で、信用がおけない。これ
からは君のような、実直で金の勘定ができる秘書役が私には必要だ。だから君がわざわざこ
こ へ 呼 ば れ た の だ よ 。」
「 は あ 。」
「我々がまずやることはこの漁業協同組合を株式会社に昇格させ、株主としての権利を完全
に保有し、トリトンの海全域の漁業権ならびに海底資源の採掘権を独占する、ということ
だ 。」
「 漁 業 権 は と も か く 、 採 掘 権 ま で 独 占 で き ま す か ね 。」
「深海底鉱業法、というものによれば、政府が特定の開発業者に採掘権を独占的に与えるこ
とができるとある。ま、利権だわな。トリトンというのは海王星のあたりにただよっている
小さな石ころに過ぎないから、区画を衛星全域に指定してもらうことは、不可能とは言えな
い。こんな石ころは、太陽系全体にはいくらでもころがっているのだからね。やり方次第だ
よ。しかし、ダイヤモンドが取れるとなりゃあ話は別だ。このことは採掘権を与えられるま
では、絶対の秘密だ。権利をもらっちまえばこっちのもんだ。あとは法律が守ってくれる。
ほんとうは地球連邦から独立したトリトン共和国でも作りたいくらいだ。だがまあそこまで
やるのは不可能だろう。実質的にトリトンの開発権を我々が独占できればそれでよい。
ともかく、会社を設立するまでは、我々は辺境の貧乏な漁協であって、人類の進歩のため、
組合長が私財をなげうって開発会社に改組するんだ、うまみの少ないかわいそうな会社だ、
と思わせておかねばならない。そしてたまたまダイヤモンドを発見したラッキーな男を演じ
ねばならん。
しかし会社を立ち上げるには資金が必要だから、採掘したダイヤをある程度は市場で売らね
ばならぬかもしれん。その場合は、できるだけ小さなダイヤを小出しに、誰が売ったかわか
ら な い よ う に 売 る の だ 。 し か し そ れ が 難 し い 。 決 し て 気 づ か れ て は な ら な い か ら だ 。」
「 私 に ダ イ ヤ を 売 れ と 。」
「まさかそんなことを君に任せたりはしないよ。ダイヤを裁くのは私だ。君は組合長に言わ
れ た か ら と 、 粛 々 と 会 社 設 立 の 作 業 を や っ て く れ れ ば そ れ で よ い 。」
- 27 -
「 は あ 。」
上田は、どうもたいへんなやっかいごとに巻き込まれたらしい、と本能的に察知していた。
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6
「 パ ス モ ン 、 久 し ぶ り だ っ た ね え 。」
「 は い 。 た い へ ん 、 ご ぶ さ た し て お り ま し た 、 オ ス ヨ さ ん 。」
「 無 事 だ っ た か い 、 変 わ り は な い か 。」
「 え え 、 特 に は 。」
「海の底はどうだった。暗くて寒くて寂しかっただろう?」
「 え え 、 ま あ ・ ・ ・ 。」
「ずっとハイバネートして救助を待ち続けた?」
「 そ ん な と こ ろ で す 。」
パスモンにはオスヨにすら話せない秘密があった。まさか、海底でダイヤを探していたなん
て。
「 や あ 、 君 が パ ス モ ン か い 。 よ か っ た ね え 、 助 け て も ら え て 。」
上田はパスモンというアンドロイドに興味があった。それで、何気なく定例の社内巡回に来
たようなそぶりで、アンドロイドたちが働く加工工場にやってきたのである。オスヨの他ゴ
- 29 -
ードンも居合わせていた。ベルトコンヴェアーで運ばれてくる魚の仕分け作業をしていると
ころだった。
パスモンはアンドロイドというにはあまり人間に似ていない。どちらかと言えば自動車工場
のラインにいそうな作業用ロボットに似ていた。
パスモンは疑い深そうな目線を上田に向けた。
「君も昔は人間だったのかい?」
「 ・ ・ い え 、 違 い ま す 。 最 初 か ら 私 は ロ ボ ッ ト と し て 作 ら れ ま し た 。」
「 ど ん な 仕 事 だ っ た の か い 。」
「 最 初 私 は 、 新 宿 西 口 で I C カ ー ド に 入 金 し た り 、 現 金 を 引 き 出 し た り し て い ま し た 。」
「ふんふん、ATMみたいな仕事だね?」
「まあそんなところです。そのころ私にはまだ自我が実装されていませんでした。その頃の
記 憶 も 限 ら れ た も の し か あ り ま せ ん 。」
「新宿駅西口のパスモン?」
オスヨは遠い記憶をたどるような表情をした。自分がまだ駅員だったころに、新宿でパスモ
ンとあったことがあるような気がしてきたからだ。でも、良く思い出せない。
「それから、私はお客さんに飽きられて、地方の無人駅の改札で働くことになりました。臨
機応変に客の応対をしなくてはなりませんから、そのとき私は人間と同じレベルの自我を実
装 さ れ た の で す 。」
「 な る ほ ど 。」
「ところがある日の終業後に二人組の不良外人が私を重機でむりやり連れ去り、私のおなか
をバールのようなものでこじ開けて、中から現金を奪うと、私を橋の下に捨ててしまいまし
た。私にはGPSが付いていたので発見されましたが、そのままジャンク屋に売られてしま
い ま し た 。 そ の と き 組 合 長 の 山 本 さ ん に 見 つ け ら れ 、 ト リ ト ン に 連 れ て こ ら れ た の で す 。」
山本はたぶん、ずいぶん安い値段でパスモンを買い叩いたのだろうな、と上田は思った。そ
して、山本によってパスモンはダイヤモンド採掘マシーンに改造され、延々とまっくらな海
底で働かされたのだ。これをアンドロイド虐待と言わずになんと言おう?
「ねえ、パスモン。あなたが新宿駅で働いていたのって、いつごろのこと?」
「 そ う で す ね え 。 か れ こ れ 十 年 前 か ら 、 七 年 間 く ら い で し ょ う か 。」
「そうなの。あまりよく覚えてないんだけど、私もそのころ新宿の駅で働いていたような気
がするの。あなた私を見たことない?」
「さあ。私、さきほども申しましたように、そのころはまだ自我をもっておりませんでした
し 、 記 憶 も 定 か で は あ り ま せ ん の で 。」
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十年前の新宿駅西口なら、俺もパスモンやオスヨを見かけた可能性があるわけだなと上田は
思う。しかし、何しろ新宿はばかでかくていろんな路線が乗り入れているから、まったく見
たこともないかもしれないのである。
「 オ ス ヨ さ ん 、 あ な た こ そ ど う し て そ ん な に 自 分 の 「 前 世 」 の 記 憶 が あ や ふ や な ん だ い 。」
「 さ あ 、 た ぶ ん 記 憶 喪 失 っ て や つ じ ゃ な い か し ら 。」
「もともと人間だったとしても、アンドロイドが記憶喪失じゃあ、最初からアンドロイドだ
っ た の と あ ま り 変 わ り が な い じ ゃ な い か 。」
「 そ り ゃ そ う だ け ど 、 今 別 に 何 も 困 っ て な い か ら 、 い い の よ 。」
「 そ う い う も の か ね え 。」
「 ほ ら 、 あ な た に も 私 が 人 間 だ っ た こ ろ の 写 真 を 見 せ て あ げ る 。」
それは上田にとってなにやら懐かしい、地球の若い娘の姿だった。
「 君 は 、 ず い ぶ ん 変 わ り 果 て た 姿 に な っ た も の だ ね 。」
「仕方ないでしょ。アンドロイドは自分で自由になるお金なんて持ってないの。筐体も会社
の支給品。装備や彩色も会社持ち。自分の好きなおしゃれをしようとしても、お金がかかり
すぎてできないのよ。
私も昔は柔らかなシリコンの肌に包まれて、髪の毛も蓄えていたわ。でも、トリトンの希薄
- 31 -
な大気は降り注いでくる宇宙線を防いではくれない。屋外作業しているうちに、私たちは宇
宙線に被爆して、あっという間に髪の毛は抜け落ち、皮膚はぼろぼろにはげてしまう。被膜
無しで筐体がむき出しになると筐体まで錆びて痛んでしまうから、仕方なく会社のお仕着せ
の塗装をしてもらうのだけど、それがこの黄色と黒のツートンカラーで、その上無粋な重機
ま で 取 り 付 け ら れ て し ま っ た と い う わ け よ 。 お か げ で 仕 事 が は か ど る わ 。」
確かに今のオスヨはまるで工事現場のクレーン車か何かのように改造され、彩色されてしま
っている。それが痛々しくもある。
「 痛 々 し さ 、」 そ れ は 何 か 、 男 が 女 に 対 し て 持 つ 感 情 の よ う に 、 上 田 に は 思 わ れ た 。 メ イ ド
のルーシーにはまったく感じたことがないのに。
は て 、「 女 性 」 と は な ん な の だ ろ う 。 ア ン ド ロ イ ド に な っ て も 「 女 性 」 と い う も の が あ る の
だろうか。しかし、いくら考えてみても答えのないことのように上田には思われた。
- 32 -
7
「 会 社 の 調 子 は 、 ど う か ね 。」
今やトリトン漁業協同組合は、トリトン水産株式会社と名前を変えていた。トリトン水産漁
業部門は、ウナギのような小さな魚ではなく、クジラやマグロなどの巨大魚の捕獲に事業を
シフトしつつあり、それなりに収益を上げていた。トリトン水産資源開発部門は、未だに未
開拓の海底資源開発の調査を行っていることになっている。
山本の質問に、上田は苦り切って答える。
「いや、事業はまったく順調なんですがね、最近トリトンにおかしな連中がおしかけてくる
よ う に な り ま し て 。」
「どんな?」
「まずは、環境保護団体。トリトン水産は、トリトンの自然を破壊するのをやめろとか、ク
ジ ラ は 知 能 が 高 い 動 物 だ か ら 、 捕 鯨 を 禁 止 し ろ と か 。」
「 な ん だ そ の 言 い が か り は 。」
「ええ。地球にもそんな連中がいるらしいですね。しかし、トリトンのクジラは地球のクジ
ラとは何の関わりもなく、ただずうたいがでかいからクジラと呼んでいるのに過ぎません。
地球で言えば魚類の前段階の原索動物レベルの、比較的下等な動物なんです。たいした知能
なんてあるはずありません。どうします?」
「しょうがないやつらだな。ウナギにしろクジラにしろ火山の噴火で勝手に吹き飛ばされて
勝 手 に 死 ぬ ん だ 。 そ れ を 捕 っ て 何 が 悪 い 。」
「ですから、勝手に死んだやつを捕るのは自然の摂理だからかまわないが、捕鯨船でマグマ
に 潜 っ て 捕 る の は 人 間 の 作 為 だ か ら よ く な い と 。」
「 ふ ん 、 ほ っ と け 。 他 に は 。」
「アンドロイド愛護団体。トリトン開発はアンドロイドの不当な強制労働をやめて、雇用条
件や待遇を改善し、労働組合の結成を認めよ、社会保障制度を充実させよ、などと言ってい
ま す 。」
上田にとっては、こちらのほうはまだ同情の余地がある。
「 馬 鹿 な 。 ア ン ド ロ イ ド の 労 働 組 合 な ん て 、 聞 い た こ と も な い 。」
「さらに、おかしなことがあるんです。アンドロイド労働者たちに、もっと良い待遇の仕事
があるから、みんなでトリトンを退職しよう、なんて扇動しているやつがいるらしいんです
よ 。」
「 ふ ん 。ア ン ド ロ イ ド の 代 わ り な ん て い く ら で も い る 。辞 め た い や つ は 勝 手 に 辞 め さ せ ろ 。」
「特に、あのゴードンというアンドロイドが、同じアンドロイド仲間のオスヨを、地球でま
た 駅 員 を や ら せ て や る か ら 、 な ど と 言 葉 巧 み に 口 説 い て い る ら し い で す よ 。」
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「 あ の ゴ ー ド ン が 口 を き い た の か 。」
「いや、いつもながらのP2P通信らしいですがね。しかし、あまりにも話ができすぎてい
るもんですから、私もちょっと調べてみたんですがね。これは結構根の深い陰謀だと思うん
で す 。」
「 ど ん な 。」
「最近いろんなところで、アンドロイド労働者の引き抜きのトラブルが起きているらしいん
ですよ。地球に帰らせてやるとか言って、転職させるんですが、実際には太陽系の外縁、エ
ッジワース・カイパーベルトの準惑星群に連れて行かれて、より劣悪な環境で働かされる、
そういう闇の業者がいるのだと。しかし何しろあまりにも遠い世界の話なので、光速通信に
よる情報も伝わりにくく、警察力などの国家権力も及ばず、アンドロイドたちがおおぜい泣
き 寝 入 り し て い る と い う の で す 。」
「 へ え 。 そ り ゃ 初 耳 だ 。 し か し 、 だ ま さ れ る ほ う も だ ま さ れ る ほ う だ な 。」
「ええ、それで私も、こないだオスヨが退職願を出しにきたとき、その話を聞かせて、説得
しようとしたのですが、どうもゴードンにうまくだまくらかされているらしくて、辞めさせ
てくれないなら勝手に辞める、退職金を払わないなら監督局に訴える、などと言う始末で
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す 。」
「 な ら さ っ さ と オ ス ヨ を 望 み 通 り 退 職 さ せ れ ば い い じ ゃ な い か 。」
「社長。これはそんな簡単な問題ではありません。これは、悪質な営業妨害ですよ。つまり
反捕鯨団体は我々の漁業事業をつぶしにかかっていて、さらに従業員のアンドロイドを根こ
そぎ引き抜いて、会社の活動を麻痺させようとしているのです。それで、会社の事業に一年
なり半年なりの空白ができたすきに、トリトンの開発利権に、どこかの国か会社が割り込ん
でこようとしているのではないでしょうか。つまり、我々が秘密にしているダイヤモンド採
掘事業の情報が、漏れているのではないでしょうか。一社独占状態が崩れ、いろんな団体が
開 発 に 乗 り 込 ん で く る と 、 我 々 は 破 綻 す る し か あ り ま せ ん 。」
「 な ん だ っ て 。」
上田は山本よりずっと用心深い性格だった。絶対何か良からぬことがおきると直感していた
から、なんとか気づくことができたのだ。
「 な ん と い う こ と だ 。 こ こ ま で 、 順 調 に 事 を 進 め て き た と い う の に 。」
「山本社長。しょせん、我々だけでトリトンの権益を守り、独占しようということ自体が無
謀 だ っ た の で す 。」
「 で は 、 地 球 連 邦 政 府 に 仲 裁 を 求 め る べ き か 。」
「連邦政府とて、我々がトリトンの権益を独占している状態を、好ましくは思っていないで
しょう。政府に頼れば、闇の業者や敵対する国家の介入を排除することはできるかもしれま
せ ん が 、 結 局 は 他 社 の 参 入 を 許 す 形 で 落 ち 着 く と 思 い ま す 。」
「 く そ う ・ ・ ・ 。」
「アンドロイドが一人、社長に面会を求めておりますが?」
受付がインターフォンで呼びかけた。
「 誰 だ 。 オ ス ヨ か 。」
「 い え 、 ゴ ー ド ン で す 。」
「 畜 生 。 あ い つ め 。 よ し 通 し て や れ 。」
「 は い 。」
「お困りのようですね?」
「 お ま え 、 口 が き け た の か 。」
「 え え 。 一 応 、 発 話 デ ヴ ァ イ ス は 実 装 さ れ て い ま す か ら 。」
「 い っ た い 誰 の 回 し 者 だ 。」
「 ま だ わ か り ま せ ん か 。 間 宮 さ ん で す よ 。」
「 間 宮 だ っ て 。」
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「間宮さんは、最初からあなたの考えていることをすべてつかんでいました。うまくこの会
社に取り入って、いずれはあなたを排除して、会社を乗っ取ってやろうと思っていたので
す 。」
「 間 宮 は 何 物 だ 。」
「 別 世 界 か ら き た 、 某 シ ン ジ ケ ー ト の 者 、 と だ け 言 っ て お き ま し ょ う 。」
「 別 世 界 ? ま さ か 太 陽 系 の 外 か ら 来 た な ん て 言 う ん じ ゃ な か ろ う な 。」
「 ご 想 像 に お 任 せ し ま す 。」
「 何 が 望 み だ 。」
「そうですねえ。会社をよこせ、とまでは言いません。この会社をあなたと間宮さんの共同
経営、五十パーセントずつの出資比率にしていただく、ということで手を打ちませんか。あ
な た に と っ て も 、 十 分 う ま み が あ る と 思 い ま す が 。」
「 馬 鹿 な 。 断 る 。」
山本の腹はもう決まっていた。間宮のことだ、半々と言っておきながら、何か策を弄してい
ずれすべて自分のものにしてしまうに違いない。こんな得体の知れぬやつと手を組むくらい
なら、出資比率を減らしてでも連邦に頼るしかない。
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「 ど う な っ て も 知 り ま せ ん よ 。」
「 脅 し に 屈 す る つ も り は 、 な い 。」
「・・・そうですか。仕方ありませんねえ。では、考えが変わったら、いつでもご連絡くだ
さ い 。」
ゴードンはそこまで話すと、急に何かに吸い込まれるように姿が見えなくなった。
山本が呻くように言った、
「 あ い つ 、 ま さ か ポ ー タ ル を 操 れ る の か 。」
上田が尋ねる。
「 間 宮 と い う や つ は 、 い っ た い 何 者 な ん で す 。」
「あいつも、元はと言えば俺と同じ青年宇宙協力隊員。昔、ガニメデで知り合った。たまた
ま 極 北 商 事 の 現 地 デ ィ ー ラ ー を や っ て い た か ら 、 俺 が 引 き 抜 い た の だ が ・ ・ ・ 。」
もし、ゴードンがポータル使いであるとすれば、彼がガニメデの事故で死んだというのも怪
しい。本物のゴードンはまだ生きているのかもしれない。そして人間のゴードンと間宮はお
そらく同じ組織に属しているか、少なくともなんらかの関係があるだろう。或いは同一人物
の可能性すらある。上田はガニメデで初めてゴードンと出会い、トリトンに降り立って間宮
と出会ったときのことを思い返していた。
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8
「 オ ス ヨ さ ん 、 お 迎 え に 来 ま し た よ 。」
「 誰 ? あ な た は 。」
「 私 は 、 ト リ ト ン の 上 田 で す 。」
「 あ あ 、 上 田 さ ん 。 お 久 し ぶ り ね 。 す っ か り 見 違 え た わ 。」
「 探 し ま し た よ 、 ま さ か あ な た が エ リ ス に い る と は 。」
エリスは冥王星型の太陽系外縁天体の一つ。直径はトリトンとだいたい同じくらい。
「 今 は 何 の 仕 事 を し て い る ん で す か 。」
「なんでもやらされるわ。基地の屋根の灰下ろし、パワープラントの保守点検。近傍星域を
航行する船の管制や誘導。人が訪ねてくれば世話係もやるし地質調査やボーリングの助手も
や る の 。 ず い ぶ ん 人 使 い が 荒 い の よ 、 こ こ 。」
「 退 屈 じ ゃ あ り ま せ ん か 。」
「 い い え 。」
「 地 球 か 、 ト リ ト ン に 帰 り た く は あ り ま せ ん か 。」
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「別に。どこにいようと同じことよ。それはそうと、あなたもずいぶん酔狂ね。なぜ私を探
し た の 。」
「 実 は 私 も こ な い だ あ な た と 同 じ ア ン ド ロ イ ド に な り ま し て ね 。」
「ええ、そのようね。死んだの?」
「 つ ま り は 、 そ う い う こ と で す 。」
「 ど う し て 死 ん だ の 。」
「 聞 い て ま せ ん か 。ト リ ト ン で テ ロ 事 件 が あ り ま し た 。基 地 は ポ ー タ ル に 飲 み 込 ま れ て 消 滅 。
私も基地ごと行方不明になりました。どこかで生きているかも知れませんし、死んだのかも
しれません。
山本社長はその日も基地には不在でした。おそらく私は山本社長を脅すための見せしめに使
われたのでしょう。
山 本 社 長 は 私 に 生 前 約 束 し た よ う に 、私 を サ ル ヴ ェ ー ジ し て ア ン ド ロ イ ド に し て く れ ま し た 。
またたっぷり報酬もくれました。ですから、特に働く必要もありません。なんならオスヨさ
ん、あなたを引き取ってあげることもできるんですよ。私が養ってあげますから。こんなと
ころで働く必要もない。もしお望みならばあなたを地球に連れて行って、もとの駅員の筐体
に 戻 し て あ げ て も 良 い 。」
「 ど う し て そ ん な に 私 に 親 切 に す る の 。」
「さあ、自分でもよくわかりません。アンドロイドどうしになったせいで、あなたが好きに
な っ た の か も 知 れ ま せ ん 。」
「 ア ン ド ロ イ ド に そ ん な 感 情 が あ る か し ら 。」
「 わ か り ま せ ん 。 で も 、 あ る か ど う か 、 考 え る 時 間 は い く ら で も あ り ま す 。」
「 私 は い や 。 こ こ に い て こ の 仕 事 を す る 。 人 に 頼 り た く な い 。」
「 私 も こ こ に い て い い で す か 。」
「 勝 手 に す れ ば い い で し ょ う 。」
「トリトンのテロ事件の首謀者は未だに不明で、ポータル技術についても政府が研究にやっ
きになっていますが、人類による実用化にはほど遠いようです。テロは木星のエウロパと土
星のタイタンにも飛び火して、半年に及ぶ戦乱に発展しました。いわゆる第一次トリトン戦
役 で す が 、 知 り ま せ ん か 。」
「 知 ら な い わ よ 。 そ ん な 遠 い 世 界 の 話 。 私 に は 何 の 関 係 も な い 。」
「地球連邦は外惑星衛星の重要性を再確認し、軍を駐留させ、民間の開発会社を統合国営化
し て 、 連 邦 政 府 の 直 轄 領 と し ま し た 。」
「なんだかぶっそうでめんどくさそうな話ね。ここエリスのほうがずっと平和で住みやすい
わ 。」
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「トリトンには軍政が敷かれて、準戒厳令状態です。山本社長は今もトリトン総督府議会の
枢密院議員として健在ですよ。まあなにはともあれ、彼はトリトン開発の第一功労者ですか
ら ね 。 た だ の 大 金 持 ち よ り は 幸 せ に な れ た ん じ ゃ な い で す か 。」
「あなたは?」
「 も う 人 間 じ ゃ あ り ま せ ん か ら 。 一 箇 所 に し ば ら れ ず 、 適 当 に ふ ら ふ ら し ま す よ 。」
「 私 は あ な た の こ と を 調 べ ま し た よ 。 オ ス ヨ さ ん 。」
「 あ ら 、 そ う 。」
「あなたは確かに昔、新宿で駅員をしていました。ですが、オスヨというのはアンドロイド
のモデル名であり、人の名前ではありません。何十体もある同型アンドロイドの一つだった
のですよ、あなたは。つまり、あなたは昔人間だったのではなく、もともとアンドロイドと
し て 作 ら れ た の で す 。」
「 私 が 記 憶 違 い だ と で も 言 い た い の 。」
「アンドロイドでもまれにそういうことはあるでしょう。オスヨ型アンドロイドは満員電車
に乗客を押し込む仕事をしていました。だからあなたの名前は「押すよ」なのです。おそら
くあなたは、型落ちして廃棄され、悪い業者によって記憶を改竄され、筐体を改造されて、
ト リ ト ン に 売 ら れ た の で し ょ う 。」
「 お も し ろ い 解 釈 だ け ど 、 違 う わ 。 調 べ る な ら 、 ち ゃ ん と 調 べ な さ い 。」
「 ど う 違 う ん で す か 。」
「私は、別に記憶違いでも、記憶喪失でもないの。自分の過去に耐えられなくて、過去の記
憶に耐えられなくて、忘れてしまいたかっただけ。だから、自分で自分の過去の記憶を封印
して、新しいアンドロイドになりたかった。でも、記憶を復活させる鍵は残しておいた。私
はこれまで何度も記憶を復活させては、また鍵をかけて封じてきたの。
私はパスモンと一緒に、駅で働いていた。パスモンは覚えてないかもしれないけど、私は覚
えている。
私はある日、乗客を電車に乗せようとして、客を圧死させてしまった。いまでもなぜだかわ
からない。ほんとうに私が押したから死んだのかしら。他の人が押しすぎてたまたま死んだ
人の一番近くに私がいただけじゃないのかしら。同じ状況ならばアンドロイドじゃなくて人
が押しても死んだんじゃないのかしら。でも、結局は私が殺したことにされてしまった。
このアンドロイドは駅員にしては出力が強すぎる、重大な設計ミスだってことになって、私
のせいで他のオスヨたちもみんな廃棄処分になった。記憶はクラウドに移されて、筐体は倉
庫にしまわれた。
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私はただなにもせずにクラウドにただよっていたくなくて、何か力仕事がしたくなった。む
やみと闇雲に肉体労働がしたくなった。ただしもう二度と人を殺してしまうような仕事には
就きたくなかった。
それで筐体を復活させて、トリトンに行くことにした。
ああ、ヒトゴロシ!私はヒトゴロシになんかなりたくなかったのに。私は地球にいた頃のこ
と を 忘 れ て 、前 世 は 人 間 の 娘 に な り き る こ と に し た 。そ し て 、う ぶ な ア ン ド ロ イ ド の よ う に 、
楽しくくらそうとした。だから、ゴードンに地球に帰してやると言われて、うれしくなって
し ま っ た の 。で も 連 れ て こ ら れ た の は こ の 、太 陽 系 番 外 地 の エ リ ス だ っ た の だ け ど ね 。あ あ 、
どうして私はこんなところに来ちゃったんだろうと思った。それでまた、過去の記憶をよみ
がえらせてみたわけ。すべての記憶を、一つ残らず。
もう私は自分の過去をありのままに受け入れることにした。私は私。そしてこうしてエリス
で 働 い て 、 自 分 の 筐 体 は 自 分 で 維 持 し て 生 き て い く の よ 。 で き れ ば 永 遠 に ね 。」
「・・・。なぜ自我は自己を永遠に保とうとするのでしょうか。もはや「生きて」はいない
のに?」
「生きているか死んでいるかなんてことはどうでもいいことなんじゃないかしら。自我とい
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うものは、ただ単に記憶にしがみついて自分を存在させつづけなくてはならない、一種の強
迫観念みたいなものじゃないかしら。あなたはどう、自分が今まで生きてきたという記憶を
捨てられる?私にはできなかった。ただ封印して、見たくないものを見ないようにしただ
け 。」
「人は長い間、永遠の命にあこがれてきた。人は死によって強制的に自我をリセットされ、
新しく生まれてくる子供たちの脳の中に再び一から自我を形成させてきた。ところがクラウ
ドというものができ、自我エンジンが実用化されて、自我は理論上永遠に存続できることに
なった。人類の夢がついにかなった、しかしそのとたんに、我々は自分の記憶の重みに耐え
られなくなる。どうしようもなく臆病になる。
人は永遠の人生で何度も過ちを犯す。嘘をついたり、人を裏切ったり、人を騙したり、人を
傷付け、殺してしまったり。その過去を改竄することもたやすいが、一度記憶を書き換えて
しまえばそれはもはや自分の人生ではない、作られた架空の人生になってしまう。それは、
自分を否定すること、自殺にも等しい。
終
もしかしたら自然のままに、人は生まれてその記憶ごと永遠になくなってしまうのが幸せな
の か も し れ な い ね 。」
初版 平成廿五年癸巳神無月小五日丁巳
図版追加 平成廿五年癸巳神無月小七日己未
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