血みどろ博士

■連載小説『血みどろ博士』
第
血みどろ博士
回■
遠藤徹
endou touru
ところが、牧師の上機嫌は長続きしない。ひとたびは上機嫌になった人食い牧
師だったのに、不意に顔をぐにゃりをしかめてしまう。
「いや、だめだ 」
がっくりと頭を垂れてしまう。
「え、どうされたというのです」
「だって、考えてもごらんなさい。もしわたしに家族がいるのだとしたら、この
現在の状況をどう説明すればよいのです。どうして、わたしは、こんな出口もな
い部屋にひとり取り残されている、あるいは閉じ込められているのでしょう」
物語るからには、
なるほどそうきたかと博士はおのれの考えの浅さに思い至る。
すべてを説明しきらねばならないのは当然なのだ。
「ううむ、それ は 」
苦吟する歌詠みのように博士は言葉を絞り出す。
「いわゆるひとつの試練でしょうな」
「試練? 何の試練です」
「もちろん、神のですよ。あなたの残酷なる神が与えたもうた試練なのです」
ひとたび口にしてしまった以上、博士としてはこの路線を突き進むしかない。
博士は自分の脳が全力で活動し始めたのを感じる。そして、それは決して不快な
感覚ではない。
「わたしの神? そうですか、わたしにはほんとうに神があるのですね」
覚えず牧師の口調はすがるような感じになっている。
「だってそうでしょう。そうでなければ、あなたは牧師になれないのですから。
あるいは牧師である意味を失ってしまうのですから」
理屈は通っているはずだと、博士はゴリ押しする。
「あなたの自分に対する信仰心にゆらぎがないかどうかを、このようにあなたを
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家族から引き離して隔離することによって神はお試しになっているのではないで
しょうか。もしかしたら別の部屋で奥様やお子様も同じ試練に耐えているという
可能性だってある。それこそ、あなたの残酷なる神らしいなされようではありま
せんか」
「おおっ」
感動の声があ が る 。
「ありがとう」
そして牧師はたまらず涙をこぼす。
「おや、どうさ れ ま し た 」
突然のことに、博士は戸惑ってしまう。いや、実のところは、人が泣くところ
を初めて見たような気がして、そのことに戸惑ったのかもしれない。
「あなたはお優 し い 方 だ 」
せつなげに人食い牧師が息を吐く。
「優しい? このわたしが?」
意外な形容詞を投げかけられて、今度はほんとうに戸惑ってしまう。どうだろ
う、「優しい」血みどろ博士ってのは? なんだかすわりが悪いような・・・。
「 だ っ て そ う で し ょ う。 あ な た は、
まっさきに頭に思い浮かんだ考えを
塗りつぶすために、そんなお話をな
さったのでしょう」
「なんのことです」
「いいですよ。おとぼけにならなく
ても」
諦めたように人食い牧師は、悲し
げな笑みを浮かべる。
「わかっています。わたしに家族が
あったとしたら、まっさきに連想す
べきは、わたしがたしかに人を食っ
たことがあるような気がしていたと
いうあの台詞です。とすれば、わた
しはこの部屋であの肉のかたまりよ
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り前に、誰かほんとうの人間を食った可能性があるということになります」
「そう、なりま す か ね 」
困ったことになったと博士はためらいながら相槌を打つ。このままでは、事態
はかなり面倒な方向に流れて行ってしまいかねない。
「なりますとも。となれば、わたしが食ったのは家族だったことになる。ああ、
なんてことだ。わたしは食べてしまったのだ。妻をそして子供たちを」
「いや、興奮なさらないでください。これは単なるつくり話にすぎないのですよ」
「無駄ですよ、博士。そうやって、わたしをごまかそうとしても。最前、わたし
たちはさんざん話し合ったではないですか。わたしたちに何もない以上、わたし
たちにはわたしたちの物語をつむぐ権利があると。そしてこれはまさに、逃れよ
うもなくわたしの物語であり、語ってしまった以上、物語はその内部へとわたし
を引きずり込む。その物語が、わたしにとってはゆるぎない事実と化してしまう
のですよ」
それは突っ走りすぎだとなだめようとして、けれども博士は不確かになる。い
や、ほんとうにそうだろうか。確かに何も記憶を持ち合わせない以上、そうする
しかないのかもしれないではないか。物語ることで自分を作り出すしかないのか
もしれない。
「たしかにこれは試練だった。もっとも
残酷なるわたしの神は、わたしを真に試
されたのだ。わが子をささげようとした
あの老人のように、わたしがわたしの最
愛の家族をすら、神のために食らうこと
ができるかどうかを」
やはり、宗教者というのは自虐的の傾
向があるようだ、と血みどろ博士は若干
引き気味にその姿を見つめている。物語
なんてどんなふうにでも変奏が効くとい
うのに、どうしてこんなふうに自分にと
ってもっとも苦しい選択肢を選び取るの
だろうか、この人ときたら。
「おお神よ」
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不意に床に膝まづいて、人食い牧師が祈り始めた。
「しかとご覧になられましたか。わたしがあなたへの忠誠心をこの口と胃袋によ
ってお示ししたのを。神よ、残酷なる神よ、わたしは食らいました。わが妻を、
わが子を。ご満足いただけたでしょうか。それともさらにも残酷なるあなたは、
そんなわたしをただ愚か者とあざ笑われるだけなのでしょうか」
その訴えは悲痛に響く。むろんどこからも応えなどはない。それでも、人食い
牧師は、そんなことにはおかまいなしに、自分の物語に食われていく。
「おお神よ。ただただ無慈悲にわたしをお付き放しになる神よ。わかりました。
あなたの御教え確かに了解いたしました」
血みどろ博士は見る。人食い牧師の目が、常ならぬ怪しい光に輝き始めている
のを。もはや、誰の言葉も通じない領域へと牧師は入っていこうとしているのだ
と、博士は悟る 。
「確かに、こうなった以上、わたしはもっと前へ進むしかありませんね」
牧師はほほ笑んでいる。怪しく輝く目を大きく見開いて、何もないコンクリ打
ちっぱなしの天井を見つめている。
「さあごらんなさい、わが親愛なる残酷なる神よ。これがわたしのあなたへの究
極の信仰心です」
声を張り上げるが早いか、人食い牧師
は自らの手首をがっぶりと噛む。
「ちょ、ちょっとあなた、いったい何を」
「わかるでしょ」
いまや血みどろになった口を大きく開
けて、人食い牧師は奇態な笑い声をあげ
る。げはははははははははあっ。
「忠誠心ですよ、信仰心です。帰依の心
です。わたしは全身全霊をもって、その
名にふさわしい行為をしようとしている
だけです。これぞ真の宗教者。これこそ
読んで字のごとく献身そのもの、つまり
は究極の殉教ではありませんか」
がっぶり、もはもは、がっぶり、もは
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もは。
人食い牧師は、嬉々として自らを食らう。がっぶりと、そしてもはもはと。血
みどろ博士は瞠目せざるをえない。その勇気に、あるいはその狂気に、あるいは
その狂喜に。
そう、まさに狂喜だ。それは、人食い牧師の面目躍如というにふさわしい情景
だからだ。牧師が手を食う足を食う。おのれの体をむさぼり食らう。
「悦ばしきかな わ が 食 欲 ! 」
自らの内臓をくっちゃくっちゃと咀嚼しながら、牧師は叫ぶ。
「これこそ聖なる食欲である。これこそわが勤めである」
苦しい姿勢もなんのその、もはやむさぼる口器と化した牧師は、骨まで食らう。
ついに首だけになっても、懸命の努力で口を広げあるいは移動させて、耳を、目
を、額を、顎を食らおうとする。むろん、その努力は報われない。
「無理ですって。もうそれ以上は、口の位置からして食べられっこありませんよ」
血みどろ博士は、あくまで自分が理性的であることに感謝した。さすがは血み
どろ博士というだけのことはあると、自分の落ち着きぶりに驚きすらした。確か
にこうでなくっちゃ、血みどろな実験はできまいなあと新たな自分を見出したよ
うな気がして感 慨 に ふ け る 。
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「いや、思う一念山をも動かす。海を開いたあの人のように、死よりよみがえっ
たあの人のように、強い信仰心は不可能を可能にするのです」
「なにをするお つ も り で す 」
血みどろ博士の声は、期待と恐怖の入り混じった感情で震えている。
「さあ、ごらん な さ い ! 」
見る間に人食い博士の口が変化する。大きく広がる。顔面一面が口となる。ミ
ミズの口のような、池面に開かれた鯉の口のような、巨大な空洞となる。
「なるほどその 手 が あ っ た か 」
博士はトポロジーという言葉を頭の中に思い浮かべながら、目の前で起こりつ
つあることをじっと観察した。そう科学者の目で。
「自らを飲み込むクラインの壺というわけですな」
そう、口はどんどん広がって、自分を飲み込んでいく。頭部が完全に裏返って、
人食い博士の顔 は 消 え 去 っ た 。
「なんとこれは 」
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驚きに、一瞬声を失う血みどろ博士。
彼の目の前には、ふたたび出現していたからだ。
あの血みどろ の か た ま り が 。
自らを食い尽くして、最後に決死の反転を試みた人食い牧師は、裏返った結果
あの血みどろのかたまりと化したのだった。
「お見事です」
血みどろ博士は拍手する。むろん、血みどろのかたまりが応じることはない。
それはただ、弱弱しくふるふると震えてみせるだけである。
「それにしても 」
しげしげとその塊を観察してみて、血みどろ博士はため息をつく。
「なんとみごとに元の姿に戻ったことだろう。まるで、これでは人食い博士では
なく、当初のわ た し の 」
「わたしの」なんなのかが、あいまい
とそこまでいいかけて博士は口ごもる。
なままだからだ。弟子なのか、同僚なのか、恋人なのか、愛人なのか、あるいは
回 了)
そのうちのいくつかが複合しているのか。あるいはそのいずれでもなかったりす
るのか。
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