プシュケの心臓 密室天使 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ プシュケの心臓 ︻Nコード︼ N5720BH ︻作者名︼ 密室天使 ︻あらすじ︼ 誰だって法規を犯したいと思うし、道理に反したいと思うし、禁 忌に触れたいと思う。ただここから先は踏み込んではいけない領域。 それでもあんたは、この物語を読んでみようと思うのか? 引きこ もりの妹に、中二病の学友、次いで、この物語の主人公にして大い なる被害者、緑葉千尋は今日もよどんだ青春を颯爽と駆け走る︱︱。 1 第一話 兄︵1︶︵前書き︶ 今止まらずにいつ止まる。 2 第一話 兄︵1︶ ︻兄︼ 1.兄弟のうち、年長の男性。 2.二人称。男子が手紙などで親しい先輩・同輩を敬っていう語。 3.誰かのために戦える人。 ◆◆◆ 未来とは不確定で明るくて希望があって楽しくて幸せで⋮⋮とい った意見が世間的に一般的であるが、ぼくの場合、それはきっと淀 み、腐りきった未来なのではないか、と思う。 異常で異質で異端で、気持ち悪い過去、現在、未来⋮⋮。 ぼくの人生は概してそんなもので、だからこそ、これまでにあっ た数少ない幸福って奴を探さなきゃいけないと思うんだ。 こんなぼくにもわりかし普通な日々があったってことの証左にな るかもしれないからさ。 春。 石倉市。 夕刻 降りけむる霧雨。 ぼくはマイスイートルームで物思いにふけっていた。というより、 胸裏にわだかまるもやもやとしたものを持て余していた、といった ほうが適切かもしれない。つらつらと紙の上にペンを走らせる。ぼ くの頭はおぼろげながらに数式を演算していくけど、途中で別の何 3 かにすりかわっていく。数式の代わりに形成される目、鼻、口⋮⋮ 曖昧模糊としたそれは人の形をしていた。 妹。 同じ母の腹から生まれた同胞、隣人。でもそんなに姿形は似てな いし、仲もよくない。むしろ絶縁状態にあるといっても過言ではな かった。 ぼくはペンを放り出した。やってられないよ、と敷きっぱなしの 布団に倒れこむ。気恥ずかしさのようなものを感じ、何度も寝返り ぬかあめ を打った。でも離れない。妹の像はぼくの頭から一片たりとも離れ ない。 鬱々とした気持ちで外の景色を眺めた。糠雨。細かい雫が窓ガラ スにへばりつく。 この感情はなんなのか。 自問する。胸に手を置いて、自問する。この感情はなんなのか。 この感情はなんなのか。 この感情はなんなのか。 答えは出ない。 と。 携帯電話が鳴る。 途切れる思考、思念。 ぼくは机の上に放置していた携帯を手に取った。バイブレーショ ンしている。誰かから電話が来たみたいだ。﹁もしもし﹂ ﹃オレだよ、オレ﹄ ﹁⋮⋮オレオレ詐欺は間に合ってるよ﹂ みどりば ﹃いや、違うっつーの。勝手にオレを犯罪者に仕立て上げんじゃね ぇよ、緑葉よぉ﹄ 緑葉千尋。 それがぼくの名前だ。 ﹁それで、おれに何か用か﹂ ﹃いやさ⋮⋮﹄ 4 ががしま ﹁なんだ、煮え切らない奴だな﹂ぼくは窓の縁に腰を下ろした。﹁ すぱっとすっぱ抜くのが蛾々島の性分じゃないか。らしくないぞ﹂ ﹃そういうおまえはオレの何を知ってるんだよ﹄ ﹁うーん、多分何も知らない。おれたち会ってからまだ一、二ヶ月 くらいだろ。そんな短い期間じゃ分からないよ、何も﹂ ﹃オレは知ってるぞ、おまえのこと。何でも知ってる﹄ ﹁変なこというな﹂ ぼくは蛾々島が笑っているような気持ちがした。 雨がしとしとと立ち込めている。 ﹁笑ってるのか、蛾々島?﹂ ﹃もしかして怒ってんのか、緑葉?﹄ ﹁おまえが変なこというからだろ﹂ ﹃はは、オレはおまえのむっとした顔が見たいだけなんだよ﹄ ﹁電話越しなのに見えるのかよ﹂ ﹃言ったろ﹄と蛾々島はやや声のトーンを下げた。﹃オレはお前の こと、何でも知ってるってよぉ﹄ ﹁千里眼でも持ってんのか、おまえ?﹂ ﹃オレはどちらかっていうと、邪気眼のほうに分類されるだろうけ どな﹄ ﹁邪気眼⋮⋮?﹂ ﹃オーケー、おまえはまだネット社会に汚染されていないピュアな 奴だと判明した。だからなのか、オレはおまえのすねたような純真 な表情が好きなんだよ。泣きはらした女の顔みたいでそそるんだ﹄ ﹁視力だけでなく趣味も悪くなったな﹂ 付言すれば、蛾々島は右目に眼帯をはめている。 ﹃でもおまえよりはるかに頭は良いぜ﹄ ﹁学年一位に比べられたら、大半は頭の悪い連中に区分されるだろ﹂ まったくもって気に食わないことだけど、この電話の相手は勉強 だけは結構できる。メチャクチャできる。勉強している形跡がない のに、順位が一桁より落ちたことがない、と前にいっていた。蛾々 5 島はまがうことなく優等生だった。 しかしながら、その中身はとても優等生とはいえない。 ﹃不満なのか? オレみたいな落伍者が勉強できて﹄ きか ﹁不安なだけさ。こんな奴が二年後に社会に出ると思ったらな﹂ ﹃カカカ、そんときゃおまえがオレを養ってくれよ。まさに奇貨お でいねい くべし、だな。オレは運動もできるし勉強もできる。顔もいい。だ が、人付き合いだけはどうしてもできないんだ﹄ 奴は頭のイカレた文句を口にした。 ぼくは窓の外にある電柱に目を向けた。糸のような雨が畦や泥濘 へきすう に降り敷く中、灯りに虫が群がっている。ぼくの住んでいるところ は僻陬の港町だ。田畑と海、それと森。自然豊かといえば聞こえは いいが、交通の便は悪く、移動には不都合な片田舎だった。それで も、ぼくはこの町が嫌いじゃない。 どうやら電灯に集まっているのは蛾のようだった。体を雨に貫か れても光を求めている。なんだ、蛾も人間と変わらないじゃないか、 と思った。人間も障害や壁を乗り越えて、燦然と輝く光を追い求め る。その光に己が身を焼き焦がされることがあっても。イカロスは 天高くは飛べないのだ。 ﹁それで、おれに何か用か﹂ ぼくは話を振り出しに戻した。 ﹃ったく、こちとら楽しく話してるってのによぉ、話の腰を折るん じゃねぇよ、緑葉﹄ ﹁おれはおまえに話の筋を通せっていってんだ。脱線しまくりじゃ ないか、おまえの話は。間違いなく車両事故だろ、これは﹂ ﹃車両事故に付き合うおまえもおまえだな﹄ ﹁減らず口言うなよ﹂ ﹃そうかよ、じゃぁな﹄ ﹁って、おい! 蛾々島!﹂ 電話が切れた。 ぼくはまじまじと携帯電話を見る。 6 ⋮⋮なんなんだ、あいつ。 結局何のために電話したんだよ。 なんだかバカらしくなって、再度布団に倒れこんだ。このまま寝 てしまおうか。まだ七時過ぎだけど、それはそれで良いような気が した。 体が睡眠を欲している。疲れた。蛾々島との通話でかなりの体力 を使った感があった。 そんな時。 そんな時、僕の意識は急速に現実に呼び戻される。 ﹁⋮⋮おい﹂ 一瞬、息が詰まりそうになった。鼓動を速める心臓。 部屋の外から声が聞こえる。 ぼくはこの声に聞き覚えがあった。幾度となく耳にしてきた、彼 女の声だ。 ﹁これから夕ご飯だから、早く来てよ﹂ 声は寂々として冷たく、ナイフのように鋭く尖っていた。熱も情 緒も感じさせない声だった。ただ事務的、機械的だった。 階段を駆け下りる音。 生ぬるい熱気が冷や汗に濡れた体を包み込む。 陰々滅々とした雨に呼応してか、ぼくはどうしようもなく気分が 沈んでいくのを感じた。 階下に着くと、食欲をそそる芳しい香りがした。 母は炊飯ジャーから四人分のご飯をよそっているところだった。 せっせと楽しそうな表情。いつもの光景だ。 テーブルではすでに父が新聞を広げていた。目をせわしなく動か して記事を流し読んでいる。いつもの光景だ。 妹は不機嫌そうに頬杖をついていた。ぼくの姿を視認すると眉を 7 ひそめて嫌そうに舌打ちする。いつもの光景だ。 ﹁ほらほら、千尋も席に着く﹂と母はぼくに着席するよう催促した。 テーブルに視線を投じてみれば、漬け物がやたらとある。﹁あのね ぇ、お隣さんから漬け物をたくさんもらってねぇ、ありがたいこと よねぇ、千尋もお隣さんと会ったらお礼、いっといてちょうだい﹂ 母の言葉はほとんど耳に届かなかった。どうしたらいいんだろう か、とそんなことが脳内で繰り返される。 ぼくは躊躇を覚えつつも、座る。妹の隣に、座る。 また舌打ちが聞こえる。 少し苛っとしたが、ぼくは大人、ぼくは大人と胸底で呪文のよう みどりば に唱える。ここは紳士としての対応を⋮⋮。 ﹁いただきます﹂ 水面下の不穏を抱えつつも緑葉家の夕食が始まる︱︱。 今晩の献立は焼き魚、冷奴、ご飯に漬け物とごくありふれたもの だった。庶民の食事。ぼくは黙々と食事を摂る。この苛々をやけ食 いという形で発散したかったのかもしれない。蛾々島の電話のこと もある。ぼくの人間関係は少なからず崩壊していたり、破綻したり していた。 豆腐にしょうゆをかけ、かきこむように口の中に入れた。 と。 妹はちらちらとこちらのほうを見ている。その視線を辿ってみる と、さっきぼくが使ったばかりのしょうゆに注がれているのが分か った。 ぼくはしょうゆを妹に差し出してやった。 妹は少し驚いたようだが、ふいにひったくるようにしてしょうゆ を取った。感謝の言葉もない。感謝の言葉が欲しいわけじゃない。 しずえ でも、一言くらい何か言うのが人としての礼儀なんじゃないのかな。 ﹁静絵﹂きっとぼくの声は過当の怒気が込められていたに違いない。 ﹁おまえ、おれに喧嘩売ってるのか?﹂ 妹は︱︱静絵は︱︱無視。あたかもそこにぼくが存在しないかの 8 ような態度を取っている。あぁ、とぼくは怫然と沸いてくる憤怒を とめることができなくなった。﹁静絵﹂ぼくは静絵の腕を掴んだ。 なぜこうも邪険に扱うのか、剣呑とした態度をとるのか詰問したか った。これまでのことを振り返ってみても、妹の言動はとびっきり にイカレていた。中学校に上がった時からぼくを露骨に無視したり、 遠ざけたりしていた。 ない交ぜになる感情。 ﹁触るな、バカ兄貴﹂ ぼくの怒りはたちまち沈静化した。立ち消えていく憤激。ぼくは へなへなと手を離した。 母は心配そうにぼくたちを見ている。 父は新聞の一面を熟読している。 ﹁ご馳走様﹂ 妹は面倒くさそうに席を立ち上がっている。 ぼくは去り行く妹の後姿を眼で追っている。 9 第二話 兄︵2︶ 幼い頃ぼくと妹はわりと仲がよかった。幼稚園、小学校が終われ ば二人で近所の公園に遊びに行ったし、手を繋いで買い物に行った こともあるし、小学校低学年の時までは一緒にお風呂にも入ってい た。仲睦まじい兄妹だった。 けれど。 ﹁なんでこうなったんだろ﹂ ぼくはリビングのソファーでため息をついていた。 妹は。 静絵は。 不登校になっていた。原因はまぁ、なんだ。いじめって奴だ。典 型的過ぎて笑える。でも、本人にとっては重大なことで、度重なる 嫌がらせが妹の心と体を確実にむしばんでいったのだ。 不登校は中学校の頃からだった。妹は小学校の時分からいじめを 受けていたらしく、ぼくがそのことに気付いたのはいじめが発生し てすでに半年ほどたったときだった。ぼくは小学校の先生に談判し たり、妹の友達からいじめについて聞き出したりした。両親もいじ め解明に乗り出し、事態は一応の収束を得た。多分いじめもなくな った。 でも。 すでに妹の心身はダメになっていた。ずたぼろ。高等学校にも在 籍していない。外出なんて月に一回あるか、ないか。それも母親を 連れ添わなければコンビニにもいけないくらい。重症なんだ、ぼく の妹は。 雨は降り止まない。それはぼくの心象風景を表しているように思 えた。 ⋮⋮帰るか。 ぼくは自室へと続く階段へ向かった。 10 一段ずつ上がっていく。 ぼくはぼんやりとしていた。それがいけなかったのか、眼前の障 害物に気付けなかった。一生の不覚。でも遅かった。 ﹁あ﹂ ﹁きゃ﹂ やけにかわいい悲鳴がしたと思ったら、ぼくは何かを巻き込んで 前のめりに転倒していた。何かに躓いたらしい。こんなときでも脳 は状況の分析を怠らない。周囲の光景がスローモーションになって いく。 かろうじて両手両足をついた。四つん這いの姿勢。ぼくは無意識 的に閉じていたまぶたを開けた。 目の前には。 目の前には︱︱。 妹がいた。 意志の強そうな瞳。形のよい鼻。つぼみのように可憐な朱唇。そ の手の匠がこしらえた彫刻みたいだ、と思った。 ぼくは妹を押し倒していた。 この構図は⋮⋮。 妹は目に見えて真っ赤になった。小動物のように体を縮こまらせ、 ぼくを凝視している。 ﹁だっ、大丈夫か? 怪我は⋮⋮?﹂ そんな言葉が口から飛び出した。 静絵は。 心ここにあらず、といった風だった。ただ視線が下がっている。 今度は逆に、顔が青ざめていた。 不思議に思って視線を下げてみると、ぼくの足が妹の足と足とに 挟まっているのが分かった。妹はスカートをはいていて、裾が少し めくれていた。ぼくはかぁーっと体の芯が熱くなった。 ﹁ち、違う﹂と慌てて否定しようとしたが、すでに手遅れだった。 事態は常にぼくの一歩先をいく。ぼくは現実に翻弄されるばっかり 11 なんだ。 ﹁この、変態ッ!﹂ ぼくは妹に強烈なビンタをされた。ひりひりと痛む頬を押さえて いると、がらあきの腹に拳を入れられる。コンボ攻撃かよ、とぼく は薄れゆく意識の中で悪態をつく。妹は脱兎のように自分の部屋へ と戻っていった。 ﹁くっ、クソガキがッ⋮⋮!﹂ 廊下でのた打ち回りながらも、言葉とは裏腹に妹に怪我がないら しいことに安堵している自分がいた。 ぼくは日記をつけている。内容は雑多な日常を書き綴っただけの 味気ない奴だ。と言うのも、つれづれなるままに、日暮し、硯に向 かひて心にうつりゆくよしなし事を、ってやつさ。誰にでも覚えは あるだろ。ふと気付いたこと、日ごろの所懐、苦悩、そういった感 情を言葉にしたくなる気持ち。意味なんてない。でも、日記という ものは案外書いてて楽しいもんだ。意味なんて数十年後、日記を見 直したときに分かるだろう。 今日も代わり映えのしない一日だった。せっかくの日曜日だと言 うのに調子に乗って昼まで寝て、ずっと本を読んで、変な奴から電 話が来て、妹に無視され、罵倒され、ビンタされ⋮⋮と散々だった。 たいしたことのない小事、些事を叙述したぼくは、日記を閉じた。 かれこれ日記をつけて五年になるだろうか。ちょうど中学生になっ たときと重なる。きっとその時から変化する環境や、家族へと接し 方なんかに苦労していたのだろう。周りには相談できる相手もいず、 ぼくはその代替として日記を選んだ。ただそれだけのことなんじゃ ないのかな。 それでも、これまでにつけた日記を前に、﹁これがぼくの人生の 集大成だ﹂と息巻くのも楽しい。思想、雑感、価値観。ぼくの全て 12 がここに詰まっていて、数年後、数十年後のぼくはこれをみて、い ったいどんなことを感じるのかな。そう思うと、自然と筆も進むも のだ。 後三時間もすれば明日が来る。明日は月曜日。学校が始まる。明 日も今日みたいに変化のない一日なのかな。分からない。でも、生 まれてこの方、似たような日々を送っている。だから、明日も似た ような一日が来るだろう。そして、人によっては早く明日が来ます ように、と祈っている人もいる。反対に明日が来ないように、と祈 お っている人もいる。千差万別。地球は様々な人の思いを背負って自 転を続けているのだ。 うが ぼくはさっさと寝ることにした。布団を敷き延べて、ゆるりと横 臥する。そして、うわぁ、今日の睡眠時間、何時間になるんだろ、 とか思った。 13 第三話 兄︵3︶ 予想通り代わり映えのしない朝がやってきた。起床したぼくは掛 け布団をはいでリビングへと向かった。時刻は七時半だった。 ﹁あら、珍しいことがあるものねぇ﹂と朝食の配膳をしていた母は、 寝ぼけ眼で突っ立っている息子を見て言った。﹁今日は千尋のほう が起きるの、早かったみたいだわ﹂ ﹁ん﹂とぼくはリビングを見渡してみた。確かにいつもならぼくよ り朝が早い妹がいなかった。 ﹁ま、こんな日もあるのねぇ。貴重な日だわ﹂母親は朝刊を流し読 みしている父の肩を叩いた。﹁千尋、静絵を起こしに行ってくれな いかしら﹂とさらって言ってくれるが、それは非常に困難な試練だ。 ﹁お父さんも新聞読んでないでテーブルについてくださいな﹂ ﹁母さん﹂ ﹁なに?﹂ ﹁⋮⋮分かった。行ってくる﹂ ぼくは再び階段を上がった。考えてみればそう気を張ることもな いじゃないか、と思った。 たかが妹だろう、妹。 しかし。 昨夜の出来事が思い出された。不慮の事故と言っても差し支えな い過失、前後不覚の過誤⋮⋮。頭の片隅にはまだ、そのことがくす ぶっている。静絵はあのことを気にしてるのかな。だったら気まず いな。ぼくはそんなことを思った。 妹の部屋がまるでうず高い壁のようにぼくの前に立ちふさがって いた。 ぼくは決起してドアをノックした。もしここで妹が起きているな ら、何らかの反応が来るだろう。 でも。 14 来なかった。 ⋮⋮寝ているのか? ちょっとした異常事態だった。妹は高校に進学していないくせに、 ぼくより遅く起きたことがないのだ。 ひょっとしたら具合が悪くて、起きるに起きれないのか。トラウ マの再発。妹は時々、狂ったように悲鳴を上げたりする。 その可能性が脳裏をかすめた。一抹の不安。ぼくは妹の部屋に入 室した。 はたして妹は︱︱寝ていた。ベットの上ですやすやと寝ている。 妹の部屋に入ったのは小学校を卒業した日以来だと言えた。久し ぶりに見た妹の部屋はやはり小学生当時の面影を残す少女趣味だっ た。ベットには数個のぬいぐるみや大きい姿見が置かれており、ピ ンクを基調とした一室。そして子供っぽい内装とは不釣合いなでか いパソコンと周辺機器。妹の最大の娯楽はおそらく、インターネッ トであると容易に推測できる。 朝の清廉な日差しを浴びた妹は神々しかった。艶のある黒髪が放 物線を描いて散らばり、子猫のようにシーツに腕を絡ませていた。 普段からは想像もできない姿。二面性。ぼくは不思議と言うか、奇 妙な感覚に囚われていた。コインの裏表と言うには、その豹変ぶり が異質なものに見えた。 ぼくは抜き足で妹の眠るベットへと接近した。へたな物音で妹を 目覚めさせてはいけないような気がした。 間近で見た妹の顔は清潔な美をたたえていて、どこか艶かしかっ た。このままずっと眺めていたいと思った。 と。 寝返りを打った妹はゆっくりと目を開けた。 その刹那のことだ。 ﹁なっ、なっ、なっ⋮⋮なん、で!﹂ ぼくはものすごい怒号と共に突き飛ばされた。 ﹁なっ、なんでおまえがいるんだ!﹂ 15 ベットから起き上がった静絵は枕を持ったまま、明らかに狼狽し ていた。なんでなんでなんで、とうわごとのように呟いている。 ﹁なんでって⋮⋮母さんにおまえを起こすよう言われたんだ﹂ ﹁だっ、だったら、無断で、わわ、わたしの部屋にっ、入るな! ドアをノックしろ!﹂ ﹁ノックしても返事がなかったんだよ﹂ ﹁返事はした! ちゃんと聞けよ、バカ兄貴!﹂ 妹はきっと前後の文脈がおかしいことに気付いていない。反射的 にぼくの言葉に反駁しているだけだ。﹁嘘つけ。おまえ、今起きた ばかりだろ。それともイルカみたいに脳の半分だけ眠らせたりでき る奴だったのか?﹂ ﹁わたしをバカにするな! バカのくせに、変態のくせにぃ!﹂ ﹁あのなぁ、昨日のことはいわば事故みたいなもんで、悪意とか作 為とかそんなもんなかったんだ﹂ ﹁なんだよ、昨日のおまえ、妹のわたしに欲情してたくせに、なに 不可抗力みたいに言ってんだよ! どの面下げて言ってんだよ、妹 に欲情してたくせにぃ!﹂ ﹁してない﹂と言うか、するかよ、バカ。 ﹁してた! 鼻の下伸ばしてわたしを見てた! おまえ、隙を見て わたしを犯すつもりだったんだろ! 警察に訴えるぞ! 禁錮百年 だからな、無期懲役だからな!﹂ ﹁おまえがそう思ってもさ、おれはそうは思わない。善人なら正直 に自分はやってないって言うし、悪人なら自分はやってないって嘘 をつく。んで、おれは我ながら結構な善人だと思うよ。ま、自分は 善人だと標榜すること自体、善人のすることじゃないけどさ﹂ ﹁お、おまえのどこか善人なんだよ! 善なる箇所なんて一個もな いぞ、このバカ!﹂ ﹁おまえに付き合ってやってることだよ﹂ 妹は泣きそうな顔になった。 ぼくも泣きたくなった。 16 そんな顔するなよ、と思う。 思い出す。 小学校の頃、あいつはいつもそんな顔して家に帰ってきた。泣き 笑いみたいな顔して、一人部屋にこもっていた。ぼくは変だと思い こそすれど、大して気にしてなかった。気にしてなかったから分か らなかった。静絵の実情、苦しみ、分からなかった。 扉を隔てた先からしくしくと泣き声が聞こえてくる。 妹がひどいいじめを受けていると知ったのは、それから随分あと のことだ。 ﹁ほら⋮⋮早くしないと飯が冷めるだろ﹂ ぼくは静絵に背を向けた。 妹は何も言わなかった。 静寂が流れた。 ドアノブに手をかけたぼくは、﹁静絵﹂と妹の名を呼んだ。﹁昨 日のことはごめん。おれが悪かった。朝ごはんのおかず、おまえに やるからさ。こんなバカで変態な兄貴を許してやってくれないかな﹂ ◆◆◆ ﹁それで、バカで変態な兄貴はその実、妹思いの良い兄貴でしたっ て言う展開に持って行きたかったのか?﹂ ﹁やっぱり兄貴はただのバカで変態だったってことだよ、蛾々島﹂ 代わり映えのしない朝が来るなら、代わり映えのしない昼も来る。 学校の昼休み。 ぼくと蛾々島は教室の隅で食事を摂っていた。ぼくは母が作って くれた弁当を、蛾々島は購買のパンをそれぞれ食べていた。 17 ﹁それにしても﹂とぼくは早くも後悔していた。﹁なんでおまえに こんなこと、話しちゃったんだろ。おれも焼きが回ったな﹂ ﹁んだよ、殺すぞコラ。右目開放するぞ、コラ﹂ ﹁なんだよ、おまえの右目にはなんかあるのか?﹂ ﹁当ったり前よ。オレの右目には古の時代より封じられてきた悪魔 が宿ってんだよ﹂と蛾々島は右目の眼帯に触れ、﹁それでこの眼帯 はその悪魔を一時的に無力化する装置なんだぜ。でもよ、いざこい は つを外しちまったら、あたり一面廃墟になっちまうぞ﹂と端正な顔 を近づけた。﹁そうまでしてオレを怒らせる覚悟はあるのか?﹂ ﹁⋮⋮おまえを怒らせる覚悟ねぇ﹂ぼくはむしゃむしゃと野菜を食 んでいる。相変わらずうそ臭い上にきな臭い奴だよなぁ、と思う。 一方の蛾々島はもうぼくの言葉なんざ気にかけていないようだっ た。いつもどおり、観客のいない一人芝居を続けている。 ﹁疼く、疼くぜ、この右目が暴れたいと疼くんだ﹂蛾々島は芝居じ みたしぐさで己が右目を押さえた。激しい動きで長い髪の毛を振り まき、タイルの床に膝を折った。﹁ダメだ、もう制御し切れねぇ。 ついに、ついに、奴が封印から目覚めるぅ!﹂ すでに悪魔とは別のものが目覚めている蛾々島は、衆目を完全に いないものとして扱っていた。衆目も蛾々島をいないものとして扱 っていた。 そして。 蛾々島は。 ちらちらとアイコンタクトをしている。顔が少し赤い。どうやら 引っ込みがつかなくなったらしい。 ぼくはため息をついた。﹁ったく、毎度つき合わされるおれの身 にもなってみろ。すっげー疲れること請け合いだから﹂ぼくは蛾々 島に手を伸ばした。 ﹁あぁ、目が、目がぁ⋮⋮!﹂ ﹁もう、一切喋ることなく、一切動くこともなかったら、結構おま えもかわいいんだけどなぁ﹂ぼくは屈んで蛾々島のスカートについ 18 たごみを払ってやった。﹁おまえも少しは女の子らしく振舞ったら どうなんだよ﹂ ﹁オレは女の子なんかじゃねーよ、タコ﹂と口汚い蛾々島は拳を作 り、﹁オレは次期魔王候補の一人だッ!﹂と言い放ちやがったんだ よ⋮⋮。頭いかれてんだろ、蛾々島よぉ。 ﹁はいはい、それで次期魔王候補はなにをご所望なさいますか﹂ ﹁うむ、では玉子焼きをくれ。おまえの母君の作った玉子焼きはた いそう美味でな、仮にオレが魔王の任について人類を滅ぼそうと思 っても、おまえの母親だけは生かしといてやるよ﹂ ﹁それは光栄なこった﹂ ﹁魔王の慈悲に感謝するんだな﹂ ﹁玉子焼きをくれてやるおれの慈悲にも感謝するんだな﹂ 蛾々島め、うまそうに玉子焼きを食っている。多分ぼくの話を聞 いていない。独断専行はこいつの得意技だということを忘れていた。 ﹁そんなことよりも蛾々島、昨日の電話はなんだったんだよ。何か 用事でもあったんじゃないか?﹂ ﹁あぁ、そのことか﹂蛾々島は口元によだれを垂らしながら、﹁実 は用事なんてなかったんだ﹂と言った。 ﹁⋮⋮なかったのか﹂ぼくはポケットからハンカチを取り出して、 よだれを拭いてやった。﹁ならなんなのさ﹂ ﹁おまえの声が聞きたかった。それだけだよ﹂ と。 蛾々島はぼくの腕をつかんだ。ひんやりとした感触がして、蛾々 島の目がまっすぐに網膜に飛び込んでくる。強い光を孕んだ、閃々 とした目だった。ぼくの脳裏に灯りに群がる蛾がフラッシュバック する。蛾々島の目にはその灯りのように妖しげな光芒が噴き出して いたんだ。 呆けたようにしていると、蛾々島がにっこりと笑って言った。﹁ おまえもさ、それなりに家族のことで苦労してるんだな。オレもさ、 家族とうざってぇ揉め事起こしたりしてるんだよ。だからおまえの 19 気持ち、結構分かったりするんだ。だからさ、お互い、励ましあっ てさ、自分なりにがんばっていこうぜ﹂そして蛾々島は握手なんか を求めてきやがった。 ﹁⋮⋮蛾々島さ﹂ ﹁なんだ、そんな辛気腐った顔して﹂蛾々島は和やかに笑いかけて 来るんだよ。﹁そんなんじゃ、幸せは逃げちまうぞ﹂ ががしまあんな ぼくときみ。 緑葉千尋と蛾々島杏奈。 互いに家族間での悩みを抱えているもの同士。 ぼくは妹。 きみは親。 それぞれ異なった様相を呈していても、本質は同じ。根源は人の 醜い欲、腐った闇、淀んだ悪⋮⋮そいつは決まって、弱い奴の弱い 心を支配する。そして、より弱い奴に矛先が向くんだぜ。不条理な 世の中だと思うだろ。そうなんだ、世の中ってのは九割方不条理に できてるんだよ。 ぼくは差し出された手を握った。強く握った。これ以上ないほど 力を込めて握った。 ﹁痛いだろ、タコ助﹂ ﹁痛いのはおまえの格好だろ、眼帯女﹂ ﹁あぁもう、うっせーな! 魔王に喧嘩売るなよ、この小市民よぉ。 灰にするぞ!﹂ ﹁おまえがハイになってるだけだろ。おれはおまえと漫才をしに学 校来てるわけじゃないんだからな﹂ ﹁ははっ、そうかよ﹂ 蛾々島杏奈、鼻で笑いやがった。 それでも。 握り返してくれたその手は絹みたいにすべすべで、じんわりと暖 かかったんだ。 20 21 第四話 妹︵1︶ ︻妹︼ 1.年下の女のきょうだい。 かん おこり 2.︽古︾男から姉妹を呼ぶ語。また、男性から親しい関係にある 女性を呼ぶ語。 3.理解不能な生物。 ◆◆◆ しこ あの人の顔が指呼の間にあった。 じゃっき 全身が沸騰したように熱くなるのを感じた。瘧にかかったような 冷たい熱っぽさと憎悪にも似た肉欲が烈々と惹起する。伝達。体の 節々に伝達されるのは、忌々しくもうっとりするようなあの感情だ った。 あの人の目、目蓋、鼻、口、頬、髪の毛、うなじ⋮⋮わたしは恥 ずかしさと罪悪感とでぐちゃぐちゃになってしまいそうになる。朝 起きるときも、ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも、夜寝る ときも、あの人のことを思い出さない日はない。いつもあの人のこ とを考えている。あの人のことだけを考えている。あの人のことし か考えていなかったから、注意がおろそかになって、こんな痴態を 招いたのかもしれない。いやだ、わたしは何をやってるんだ。 ﹁だっ、大丈夫か? 怪我は⋮⋮?﹂ と。 あの人は言った。 22 あぁ、と思う。嬉しい。猛烈に嬉しい。あの人に声をかけてもら った、心配してもらった⋮⋮。と言うことは、あの人はわたしのこ とが大切ってことだよね。わたしのことが大切なんだ⋮⋮わたしは 火照る頬を隠そうともせず、内心悦に浸っていた。有頂天だったん だ。そして気付いた。 下半身のほうで違和感がする。股の辺りだ。スカートの内にある 肌が何か温度のあるものに触れている。 その方向に目を向けてみると、すーっと頭の中が真っ白になった。 あの人の足。あの人の右足がわたしの太ももの間に挟まっている。 あの人は何か弁解のようなことを述べた。でも、耳に入らなかっ た。あの人の足に触れていた部分だけが異常な熱を発しているのが 分かった。その部分だけが悲鳴を上げていた。もっと触って欲しい と悲鳴にも似た欲望の咆哮をあげていた。気持ち悪いと思った。こ んなことで悦んでいる自分が気持ち悪いと思った。穢れている。淫 奔。でも、押し倒されてもいい。あの人とセックスがしたい。淪落 した精神、肉体。堕落の一途、禁じられたよこしまなる想い⋮⋮。 ﹁この、変態っ!﹂ わたしの己の本質を否定したいがために、嘘をついた。変態は自 分だ。わたしは実の兄に抱いてもらいたいと思ってしまったのだか ら。 この一見清いように思えるこの恋情も、一皮めくればタールのよ うにどろどろとしたものがとぐろを巻いている。そのことを自覚し たわたしは、壮絶な自己嫌悪を八つ当たりのような形で目の前の人 間にぶつけた。身勝手な自分。わたしは一目散に自室へと駆け戻っ た。 かんしゃく 扉を閉めたわたしは壁にもたれながらずるずるとくず折れた。手 で顔を覆う。わたしはなんてことをしたのだろう。癇癪に任せてあ の人を打ち叩いてしまった。悔悟の念が勃然として湧き上がった。 わたしは自分がいやになった。 わたしの部屋にはほとんど外出しないのに大きい姿見がある。お 23 母さんが買ってくれたものだ。その鏡面にはいまだ顔容を朱に染め たわたしがいた。 部屋のぬいぐるみがわたしを見つめている。罪深いわたしを、欲 深いわたしを、非難交じりの目で睨み付けている。 わたしはベットに突っ伏した。こみ上げてくる涙を止めることは できなかった。 わたしには好きな人がいる。 実の兄だ。 学校に行くのが嫌になったのは小学校高学年の頃。その時のわた しは今では考えられないほど社交的で友達もいっぱいいた。引きこ もりの変態妹ではなかった。 当時、わたしには結構仲良くしていた男子生徒がいた。なんとか 君とか言って、女子に人気があった。わたしはそのなんとか君と給 食を食べたり、教室でおしゃべりしていた。 世間は狭いとは言うが、人の心はもっと狭い。わたしがなんとか 君と仲良くしてるだけで嫉妬する女子生徒が何人もいた。そいつら は徒党を組んでわたしに嫌がらせしたり悪口を言ったりした。わた しは生来ちゃらんぽらんな性格で、そんなこと初めは大して気にな らなかった。あるいは、優越感。そんな卑しい感情がどこかにあっ た。 けれど、いずれは決壊する。誰にだって限界はある。靴の中に画 鋲入れられたり、筆箱の中にカッターナイフの刃を入れられたり、 ノートのページを全部剥ぎ取られたりしたら、誰だって怒る。当た り前だ。 だから抗議した。 いじめは激しさを増した。 許せなかったのはなんとか君のことだった。わたしが被害にあっ 24 てもへらへら笑うばかりで取り合おうともしない。なんとかしてや るよとか言って、なんにもしない。なんとか君はクラスの中心人物 だったけど、あいつは幼心ながら、その立場に執心していたんだ。 誰にも嫌われないようそれっぽい人気者を演じるだけの道化。わた しはそんな連中に翻弄される自分が情けなくて家族に相談しようと はしなかった。 そんなある日、いじめが露呈した。ちょっとした異変に兄が気付 いて、事態は一気に大きくなる。一つ上の兄は教室に乗り込んで、 いじめに加担していた連中を片っ端から殴っていった。女子生徒に も容赦がない。顔の形が変形するくらいぼっこぼこに。兄は先生に 捕まって厳罰に処された。兄は精神に問題があるとして、数度精神 病院に通院することになった。その後、わたしがいじめにあってい ることが発覚した。 急転直下。いじめはあっけなく解決して、両親はいじめ解決に奔 走してへとへとになって、兄は病院から追い出されて、わたしはダ メになった。 わたしは思ったより強くないらしい。頑丈だと思っていたメンタ ルも、想像以上に脆く、危うい。悪意に晒され続けたわたしの心は、 ぼろぼろに腐食していたのだ。 小学校は保健室登校になって、休みがちになった。ちょっとした ことで苛々してその鬱憤を兄や両親にぶつけたりした。狂人のよう に喚いて、物を壊して、家出して、それで決まって兄に見つかって 連れ戻される。そんな日々。 中学校にいたっては登校した記憶がほとんどない。と言うより人 と接することができなくなっていた。両親か兄に手をつないでもら わないと、心の平常が保てない。学校に行っても兄のことがひたす ら恋しくて、兄のいる教室に駆け込んだりした。兄は嫌な顔せず一 緒に保健室に行ってくれて、しばらくするとお母さんが迎えに来て くれる。兄はわたしの姿が見えなくなるまで見送りをする。 わたしはこんなにも弱い自分が家族の足枷になっていることに名 25 しゅうお 状しがたい羞悪を覚えた。でも、ずぶずぶと堕ちていくこの感覚に 安らぎすら感じていた。落下する快感。インターネットにのめり込 むようになるのも、ある種の必然だった。 どんどん自分が惰弱になっていくのが分かった。胸中には家族や 先生に申し訳ない気持ちとやるせなさが混合していた。あるいは、 憎悪。壊れていく自分。 それでも最低限の身だしなみには心がけた。異性の目はほとんど なかったが、幼少期に培った最小限の社交性が、女としての品格を とどめさせた。わたしは引きこもりには似合わぬ化粧品や流行の服 などを家計を圧迫しない程度に買った。もちろんネット販売で。 鏡の前に立ってみれば、結構美人だ。でも、社会不適合者だ。 そして一歩も外に出ないわたしがメイクする本当の理由は、兄の 存在にあった。わたしは兄に見てもらいたいのだ。綺麗な自分、美 しい自分を⋮⋮。丈の短いスカートをはくのも、わたしに女として の色気を感じて欲しいからだ。入念な髪の手入れをするのも、わた しに見とれて欲しいからだ。と言うか、わたしに欲情して欲しい。 そんな倒錯した思慕を恋々と溜め込んでいた。 せいちゅう けれど、現実のわたしは苛烈に兄と接した。くだらない自尊心と 気恥ずかしさが掣肘となって、わたしの行動を制限したんだ。話し かけるなと拒絶しても、実はもっと話したくて、触るなと罵っても、 実はもっと触って欲しくて、つれない言動とは裏腹にもっと構って 欲しかった。矛盾。兄と口論になった夜はぬいぐるみを抱いて寝た。 涙が出た。 わたしは兄の一挙手一投足をうかがいながら、非生産的な毎日を 過ごしていた。 26 第五話 妹︵2︶ 窓からは涼風にそよぐ草花が見えるが、そんなものクソ食らえだ。 わたしはパソコンのキーを叩いていた。ネットサーフィンで見つ けた怪しげなサイト。その内情はただのダメ人間の集まりだ。次い で、この社会はダメ人間が生き抜くにはあまりに困難なものだった。 だから、こんな退廃的なサイトが誕生する。世の恨みそねみはこの 延々と続くスレッドをもってしても書き尽くすことはできないらし い。 ふとベットのほうに目を向けた。思わず笑みこぼれる自分がいた。 三時間前、あそこにはあの人がいた。すっかり熟睡していたわたし は、兄の気配に気付くことなく昏々と寝入っていたのだ。そして、 わたしは兄に要領を得ない罵言を浴びせかけた︱︱。 夜遅くまでインターネットをしていた、と言うわけではない。兄 に︱︱千尋に押し倒されたあの出来事が頭から離れなくて、胸がと きめいて、眠れなかった。千尋のはく息が、間近に感じられた体温 が、どんどん妄想を加速させていく。あのままいってたらどうなっ てたのかな。大変なことになっちゃうのかな。目が冴えてとても眠 れるものでもなかった。 すんごう 今想起しても歯がゆい。いっそそのまま千尋を襲えばよかったん だ。昨晩でも今朝でも、チャンスはあった。千尋は寸毫もわたしを 拒絶したりしない。したことがない。悪態をつきながらも当たり前 のように受け入れてくれる。だから、わたしの愛も受け入れてくれ るはずなのだ。それがどんなにトチ狂ったものだとしても。 ﹁千尋﹂ 言葉にしてみた。その一言は虚しく雲散霧消していった。 ﹁千尋ぉ﹂ 愛しい。早く逢いたい。帰ってきてほしい。その顔をわたしに見 せて欲しい。 27 学校なんてさっさとサボってしまえばいいのに。 わたしは検索ボックスに近親相姦という文字を打ち込んだ。暫時 して検索結果が出た。絡み合う男女や連綿と続く卑猥な文章、そし て禁忌の二文字︱︱。わたしは震える手で新しいページをクリック した。して、頭を抱えた。やっぱりダメなことなんだ。近親相姦は いけないことなんだ︱︱。 その事実を再認識するたびに、身が焼き焦げるような不安と憂い が胸を掻き抱く。悪逆、背徳、醜怪⋮⋮。行き場のないこの想いを、 わたしはどこにぶつけたらいいんだ。 パソコンをパタンと閉じる。わたしはベットに飛び込んで枕に顔 をうずめた。自分が気色悪くて仕方がなかった。 高校にも行かず、仕事もせず、うじうじと家居し、親のすねをか じってばかりで、兄を恋慕の対象にする女⋮⋮。 のっそりと起き上がったわたしは、階下へと向かった。もうお昼 過ぎだ。お腹が減った。これといって運動しているわけでも勉強し ているわけでもないのに、やっぱりお腹は空くものだ。せっせと仕 事に励んでいる父に立つ瀬がなくて、そんな度しがたい罪の意識が わたしをさいなむ。 リビングには果然、母がいた。小さく笑って洗濯物を畳んでいる。 わたしは家事に忙殺される母の横をすり抜けて、残り物のおかずを レンジで温めた。 ﹁静絵ちゃん﹂ と。 母の声。わたしはどこか後ろめたい気持ちで振り返った。 母は慈愛と疲労とが混じった笑みを浮かべていた。﹁静絵ちゃん、 体調のほうは大丈夫?﹂ ﹁大丈夫です﹂ ﹁お薬、いらない?﹂ ﹁いらないです﹂ ﹁明日、お医者様のところに行くけど、静絵ちゃん都合つくかしら 28 ?﹂ ﹁はい﹂ ﹁どうしたの、元気ないみたいだけど﹂ ﹁そっ、そんなことない!﹂ わたしは体の底から絞り出すような大声を上げた。 はっとしてうつむく。 母はそんなわたしを哀れむような目で見ていた。 ﹁ご、ごめんなさいお母さん。大声出しちゃって近所迷惑だよね。 ごめんなさいお母さん﹂ ﹁いいのよ、静絵ちゃん。お母さん平気だから﹂ ﹁⋮⋮ごめんなさい﹂ わたしは拳を握り締めて、母に頭を下げた。こんなわたしを愛し てくれる優しい母。母をがっかりさせたくない、失望させたくない ⋮⋮わたしはいつもそんなことを思っているんだ。 と。 母は。 おもむろに。 こんなことを言った。 ﹁静絵ちゃんもね、もう少しお兄ちゃんと仲良くしなさいね。あん なお兄ちゃんでも、お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょう? 千尋もあ なたのこと、すごく大切に思ってるから﹂ ﹁あ、あ⋮⋮﹂ ﹁もちろん私だってお父さんだって、静絵ちゃんのこと大好きよ。 でも、千尋は私たちよりももっと、静絵ちゃんのことを宝物みたい に思ってるのよ。だからね、気が向いたらで良いから、一回千尋と お話してちょうだい﹂ ﹁う、うぅぅ⋮⋮﹂ ﹁分かったわね?﹂ 母はわたしをじっと見つめている。穏やかだけど有無を言わせな い口調︱︱。 29 思考の停止、四肢の痺れ、意識の断絶⋮⋮。 あの。 あの感覚だ。 認めたくない現実、情けない現状を認識した瞬間、胸に釘を打ち 抜かれたような痛みがほとばしる。これまでの後悔の情と、わたし を理解してくれない社会への悪念、そして兄との不和、それらの陰 鬱な思念が、襟懐に忍び寄って来るんだ。 軋む。 軋んでいく。 わたしの心。 ガラスのように脆弱な、汚濁しきったわたしの心。 専一に実兄を恋い慕うこの心︱︱。 ﹁ふ、ふざけるな! なな、なんであいつと⋮⋮! いやだ! 絶 対いや! 死んだほうがマシ! わたし、死ぬ!﹂ わたしはリビングから飛び出した。 背後から母の声が聞こえてくる。魂の底から絞り取ったような制 止の叫び。でも、わたしはそれを無視して、自分の部屋に引きこも った。 いやだ。 いやだ、いやだ、いやだ。 しっこく なんでわたしがこんな思いをしなくちゃならないんだ。 なんでわたしが家族の桎梏となっているんだ。 なんでわたしの好きになった相手が実の兄なんだ。 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。 気持ち悪い。 頭を何度も壁に叩きつけて、夢から覚めろ、となんども念じて、 でも覚めることのない現実。屹とそびえる現実⋮⋮。 逢いたい。 逢いたい、逢いたい、逢いたい。 千尋に逢いたい。 30 千尋に慰められたい、千尋に手をつないでもらいたい、千尋にぎ ゅってされたい、千尋と心ゆくまで遊びたい、千尋に好きって言わ れたい。 大丈夫だよって、子供みたいに頭をなでなでしてもらって、えへ ってちっちゃう笑うわたしがいて、ほほえんでくれる千尋がいる。 幻視。まぶたの裏で現出する嘘、幻想。幸せな未来、表裏をなすあ りえない未来。それを夢想する哀れな自分、わたしを見限る千尋の 隻影⋮⋮。 止まらない慕情が決定的な罪責を生む。 胸が締め付けられるみたいだ。 年がら年中兄を拒絶して、反抗して、無視して⋮⋮でも、心の中 では千尋を愛しいと思う感情が膨らんでいって、恋しいと思う感情 が肥えていって、自分のものにしたいという想いが芽生えていって、 血続きの相手と交わると言う、イカレた妄想に明け暮らしている。 朝な夕な、ずっと妄想。千尋の血肉を、においを、胸の中で思い描 いているんだ。 さっと時計を盗み見た。 午後五時。 もうすぐ千尋が帰ってくる時間だ⋮⋮。 わたしの日課は、登下校する兄を姿が見えなくなるまで窓から見 守ることだった。その時だけは純真な乙女のように千尋のことを思 いやれた気がする。 するすると窓の縁に手をかけた。 鮮烈な夕空がどんよりとした黒雲に遮られていく。 ぽつぽつと雨が降り出してきた。 わたしは曇天の下で兄を見た。 見知らぬ女と歩いている兄を見た。 31 第六話 妹︵3︶ 学校の下駄箱を開けたとき、またか、と思った。 澄み切った夏の日のことだった。 みどりばしずえ ありていにいえば、わたし緑葉静絵はいじめられている。 小学五年生、暑気たけなわの七月。 わたしは一汗かきながらも、泥と石灰にまみれつくした上履きを 体育館のトイレのゴミ箱に捨てた。 これで三つ目になる。 お母さんにはサイズが合わないだとか、野犬に噛み千切られただ とかいって買い換えてもらっている。けれど、こう何度も続くと怪 しまれそうだ。現にわたしが上靴をねだるときも、お母さんは財布 の中を手探りつつ不審そうな顔をしていた。 どうしようかな⋮⋮。 階段を上がりながら、悶々と考える。もうこれ以上せがむのは無 理がありそうだった。でも、上履きがないとどうしようもない。今 日もまた靴下のみで一日を過ごさないといけない。 なんとも憂鬱だった。 ﹁おはよう﹂ 一瞬、教室内に妙な沈黙が流れた後、﹁おはよー﹂とか、﹁緑葉 さん元気?﹂とかいった返事が返ってくる。わたしも適当に言葉を 返して、自分の席に座った。 わたしのいじめは学校に認知されていない。先生や生徒の大半は いじめのことはおろか、わたしの名前さえ知らないだろう。 けれど。 わたしのクラスの過半数はそのことを知っている。 けれど。 32 口には出さない。 声高に注意することもなく、かといってわたしを完全に無視する わけでもない。 わたしが挨拶をすれば、相手も挨拶を返す。 わたしが物を貸してといえば、ちゃんと貸してくれる。 しかしながら、わたしの味方になってくれる人は皆無だった。み んなは事態の趨勢をうかがっているだけなのだ。流れを見て、機を 見て、判断を下すつもりなのだ。 汚い、と思った。醜悪。連中は下手にわたしに味方して、自分が 排斥されるのがいやなのだ。第三者の立ち位置。見ているだけで何 もしない、何もなさない。表面的な交誼、親交を取り結ぶだけ。そ して、いずれは、縁を切る。そんな企図、算段⋮⋮。 教室には三十人近くの人間がいる。 それでも、遠い。近いようでいて、遠い。心を通わせられない。 手を伸ばせば触れられる距離なのに、隣人の考えていることが分か らない。 人は生まれたときから孤独なのかもしれない、といっぱしの詩人 のように、そんなことを思った。自分と周囲には埋めることのでき ない溝があって、越えることのできない壁があって、互いに理解し あえないのかもしれない。理解した気でいるだけで、理解していな いのかもしれない。 なんでいじめられるのか。 勘案してみても、その理由は僅少なものでしかないように思えた。 きっかけは小さな出来事だった。でも、気がつけば大きく波及して いった。みんなひそかにいじめに加わるようになっていた。 連帯感。 わたしをいじめることで連帯感や仲間意識にひたってるのだろう か。ちゃんと仲間の輪に入れた、とでも思っているのだろうか。そ んな奴らを哀れにも思うし、ずるいとも思う。 わたしは椅子や机に危ないものがないかどうか丹念にチェックし 33 て、着席した。椅子の上に画鋲が置かれていたり、机の中にカッタ ーナイフの刃が入れられたりしていたこともあった。そのせいか、 今のわたしは以前のわたしよりもはるかに注意深くなっているのだ った。 しかしながら、今度の趣向は当たり前と言えば当たり前なもので、 傷つくといわれれば傷つくし、怒りも覚える。 わたしは筆箱の中から消しゴミを取り出して、縦横に書き殴られ た落書きを除去していった。 消しても消しても、なくならない。 書かれた悪口が脳の細胞に焼きついていく。無意識のうちの机上 の文字を頭が記憶しているのだ。だから、なくならない。消したよ うにみえても、しっかり保管されている。中傷の文句が脳内に渦巻 いているんだ。 きつい。 猛烈にきつい。 わたしの体は早くも疲労を訴えていた。朝っぱらから体を動かし たものだから、それなりに汗が吹き出している。そして、冷や汗。 無際限の悪意に包囲されたわたし。その包囲網は着実に狭められて いる。今すぐにでもわたしの居場所がなくなるか、しれたものでも ない。 先生が来た。 先生はニコニコ笑って、﹁今日は道徳の授業をしましょうね﹂と 言った。﹁みんな仲良くが大事なんですよぉ。では、教科書の三十 二ページを開けてくださいねぇ﹂ みんな、﹁はーい﹂と元気な声を出して、各々教科書を開いた。 幸せそうに笑っている。 一片たりとも己が幸福を疑ってはいない。 アホな奴ら、とわたしは小さくつぶやいた。 34 そんなアホな奴らに、﹁調子乗らないでよね﹂といわれた。 体育館の裏側にはこんもりとした木立が繁茂していて、うだるよ うな夏の酷暑を涼しげな木々の風が和らげてくれる。 ﹁おまえさ、自分がかわいいとでも思ってんの?﹂といわれるが、 少なくとも連中よりは容姿は整っていると自負している。 ﹁頭悪いくせに、私らに歯向かうとかきもいんだけどぉ﹂といわれ るが、学校の成績で五位以下からこぼれたことはない。 ﹁いい加減にしてよね、マジで。こっちも疲れるんだよね﹂といわ れるが、自分の言った言葉がおかしいことに気付かないのか。 ﹁あぁ、そんな顔すんな、イライラする!﹂ 鉄火を押しつけられたような痛みが腹部から体の枝葉に至るまで ほとばしった。 蹴られた、と知覚したときには、すでに三人の女子生徒に四方を 囲まれていた。 うざい。 うざい、うざい、うざい⋮⋮。 けたたましく聞こえる女たちの誹謗、罵詈雑言の交響曲。 わたしは袋叩きにあった。 背中を丸めて、胎児のようにうずくまる。歯を食いしばり、必死 に痛くない、痛くない⋮⋮と強く念じてみても、この痛みは紛れも ない本当のものだった。 鈍った聴覚はもはや、音を拾わない。 視覚のほうもぼんやりとしてきている。 痛覚は⋮⋮依然、やむことを知らない。未来永劫、続いていくよ うな気もする。 反抗、という気持ちは薄まりかけていた。いまさら反抗したとこ ろで、どうにかなるとも思えなかった。加速。たとえ一時期、いじ めが減退したとしても、連中がブレーキを踏むなんて、天地がひっ くり返ってもありえない。むしろ、アクセルを踏むだろう。 35 だから。 だから、これでいいんだ。 不思議と安らかな心持ちになった。 胸が穏やかなものに満たされていく。 それはきっと、虚無と呼ばれるもの。 虚無の海に沈んでいく、わたしの体⋮⋮。 ﹁しっかりしろよ、バカ﹂ せみ時雨に混じって、海の底から声が聞こえてきた。 あぁ、と閉じきったまぶたを広げる。 体が優しいぬくもりを感じている。 それは心穏やかでも、暗い海の冷たさとは格段に違った、確かな 熱を持つぬくもり︱︱。 ﹁⋮⋮千尋﹂ ﹁どうせこんなことだろうと思いはしたさ﹂ 千尋は散々に痛めつけられたわたしの体を抱き起こしていた。 ﹁ったく、バカな奴め。おれが通りがからなかったら、おまえ、ど うするつもりだったんだよ﹂ ﹁⋮⋮しるか、バカ﹂ わたしは悪態をつく兄の胸を掻きむしり、頭を押し付けた。 鼻腔から兄の体臭と、夏の草木の香気がにおってくる。 わたしは兄の肌を求めるように、その背中に手を回した。そこで 初めて、自分が土や己が血にまみれていることに気付いた。 ﹁⋮⋮きついなら、きついって言え。つらいなら、つらいって言え。 言わないと、伝わらない。伝わらないと、こうして助けられない。 こんなことも分からないのか、このバカ妹﹂ バカバカ言うな、と我ながらバカなわたしは、わたしよりももっ とバカな兄をそしる。 連中の姿はどこにもない。 涙腺がうるうると、潤みかかっていくのが分かった。 ﹁⋮⋮これでも、大切なんだ﹂ 36 と。 千尋は。 ﹁だから、あんまり、一人で溜め込むな。困ったら、おれがいる。 お母さんもお父さんもいる。相談しろよ。おまえをすごく、大切に してる人が三人もいるんだ。いるんだから、頼ってもいいんだ。軽 蔑も非難も、するわけがない。大切だから⋮⋮静絵が、大切だから ⋮⋮﹂ 兄は⋮⋮千尋は、それ以上、何も言わなかった。 体を密着させているせいか、ひどく蒸し暑い。互いの汗が互いの 肌にまとわりついてくる。猛々しい暑気。それでもわたしは、兄の 体から離れなかった。離れたくなかった。ずっとそばにいて欲しい と思った。 ﹁家に⋮⋮帰るか﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 付着した土を払い、勝手に先へと進む兄の後姿についていく。先 般、あんなお涙ちょうだいなことをいったのにもかかわらず、千尋 はすたすたと前に行く。横に並んで歩く、と言う発想がないのか、 と思う。わたしはさっきまで感じていた兄への愛着、安堵がバカら しいものに感じてくるのだった。 兄は後ろを振り向くことすら、しない。わたしがついてくるもの と信じている。 兄とわたし。 兄に追いすがる、わたし。 その様子がはたから見て主にお供する従者のように感じられたの で、早足で兄を追い越した。追い越して、兄が来るまで足を止めた。 そして、横になって一緒に歩いた。 千尋は口を真一文字に結んで、颯と走り出した。 山間から野鳥のさえずりが聞こえてくる。 わたしと兄の、自宅までのかけっこが始まった。 37 第七話 兄︵4︶ 社会は汚い。 嘘にまみれている。 でも、その汚らしいものが人を成長させるとしたらさ、嘘って奴 も案外、必要なのかもしれない。 ぼくは君の兄でよかったと思ってるよ。 ⋮⋮あぁ、これも嘘かもしれないけどさ。 ◆◆◆ また雨が降ってきた。にわか雨だ。ぼくは慌ててカバンに手を突 っ込み、折り畳み傘を取り出した。 ﹁べ、別にいらねぇよ、そんなの。濡れて帰る﹂ ががしま ﹁遠慮するなって。おれの家はすぐそこだからさ﹂ ﹁で、でも⋮⋮﹂ ぼくは無理矢理蛾々島に傘を握らせ、﹁また明日な﹂と勢いを強 める雨の中を疾駆した。 蛾々島はしばし立ち尽くしていたようだったが、やがて舌打ちを しゅうう くろ して傘を広げた。相変わらず、素直じゃない奴。 驟雨が呼び水となったものか、畔の辺りから、かえるの鳴く声が 聞こえてくる。 傘を用意してきてよかった⋮⋮と胸のうちで安堵しつつ、我が家 に飛び込んだ。短期間ではあったが、制服はすっかり水気を吸って いた。 38 ﹁お帰りなさい⋮⋮と、あらあら﹂母はすぐさまタオルを持ってき てくれた。﹁今すぐお風呂を沸かしますからね﹂ ﹁ありがと﹂ぼくはタオルで髪の毛を拭きながら、自分の部屋へと 向かった。 向かおうとした。 ﹁⋮⋮おい﹂ と。 呼び止められる。 顔を上げてみると、目を針のように細くし、廊下に佇立している 妹の姿があった。 周囲を見渡してみたが、ぼく以外、誰もいない。 ﹁⋮⋮おれ?﹂ ぼくの顔はきっと、とびっきりの間抜け面に違いない。 一方の静絵はえもいわれぬ表情をしている。凄みのきいた目だ。 吸い込まれそうになる。 ﹁おまえ﹂ 転瞬、本能的な恐怖が全身を貫いた。静絵の体からは刺すような 殺気、害意が禍々しく噴き出していた。 静絵は一歩、歩み寄った。 ぼくの肉体は凍りついたように動かなくなる。 一歩、また一歩と、静絵が近づいてくる。ゆっくりと、それでい て着実に、確実に、だ。 やがて⋮⋮。 静絵は何も言わず、ぼくの手をつかみしめた。ひんやりとした手 が、ぼくをいずこかに連れて行く。 ﹁静絵、静絵⋮⋮おまえ、どこに連れて行くんだ﹂ しんい 静絵はただ一言、﹁わたしの、部屋﹂とだけいった。 恐ろしい。 静絵の顔色は悪鬼のように凄絶で、瞋恚の炎がゆらゆらと揺れて いる。 39 ぼくはくしくも、妹の部屋に再度立ち入ることになった。 静絵は入室したとたん、雑なしぐさでぼくを床に放り捨てた。 ﹁おい、静絵⋮⋮﹂ ﹁黙れ﹂ と。 言下にぼくの言葉を切り捨てる。そして、倒れ伏すぼくを押さえ つけて、馬乗りになった。 一驚を喫すぼくを尻目に、﹁さっきの、なんなんだ﹂と険のこも った口調で詰問した。 ﹁さ、さっきのって、なんのことだよ﹂ ようちょう ﹁おまえがさっきまで、一緒に歩いてた奴だ﹂ 静絵の窈窕たる顔がすぐ近くにある。幽鬼のようにおぼろげであ りながらも、壮絶な、存在感。それははかなげな清らかさと艶やか さをたたえていて、思わずごくりと生唾を飲んでしまいそうな危険 な美があった。 ﹁さっきのって⋮⋮﹂ ﹁早く、答えろ﹂ ﹁それがおまえと、何か関係でもあるのか﹂ ﹁答えろ﹂ ﹁まさかおまえ⋮⋮はは、嫉妬だったりする?﹂ 殴られた。 殴られて、ぼくの首の辺りに顔を寄せた。十センチもない距離。 痛みなんかそっちのけで、全身が総毛だつのを感じた。 静絵の肌が濡れたぼくの服や肌に吸い付いてくる。生々しい湿気 と熱気。火照っていくぼくの体。 ﹁し、静絵⋮⋮!﹂ 危うい。 頭の中が真っ白になっていくのが分かった。先刻の鈍い痛みが神 経を鈍磨させ、麻薬のような女の色香と瑞々しい肌が正常な思考を 惑乱させる。動悸が止まらない。自分の体じゃないみたいだ。 40 思考がゆるゆると弛緩していくのが分かった。なぜぼくを連行し たのかとか、なぜ蛾々島について問い詰めるのかとか、そういった 当然の疑問がすべからく吹き飛んでいった。ぼくの頭にはただ、静 絵の生々しい血肉だけがあった。 静絵は濡れるのをいとわず、ぼくの服の隙間から手を伸ばし、ぼ くの背中を愛撫した。その部分だけ、過度の熱を発する。 ﹁お、おまえが⋮⋮いけないんだ。ほかの奴と一緒にいるから、わ たしにつれないから、いけないんだ﹂ 静絵はねっとりとした視線をぼくに向けた。赤い舌をちろちろと 出して、熱っぽい目をする。 それは家族に向けるようなものではなく、明らかに異質の⋮⋮何 か。 ﹁静絵﹂ぼくは自然とこんな疑念を口にしていた。﹁おまえ、本当 に静絵なのか﹂ ﹁⋮⋮たりまえだ﹂ ﹁⋮⋮ん?﹂ ﹁当たり前だっ!﹂ 静絵は泣きはらしたような顔をして、ぼくの胸に顔をうずめた。 ﹁当たり前に決まってる⋮⋮わたしは、わたしは⋮⋮静絵だ。おま えの⋮⋮妹、だ﹂ その語尾は、ふるえている。まるで認めたくない現実、といわん ばかりに⋮⋮。 ﹁い、妹なら﹂ ﹁こんなことしない、か?﹂ 静絵はみぞおちの辺りのボタンを一つ、二つ外し、薄いぼくの胸 板に手を這わせた。 ぼくは達磨のように跳ね起きて、静絵を突き飛ばした。静絵は襖 に叩きつけられた。 はぁ、はぁ、はぁ⋮⋮と途切れ途切れの息が密閉された空間に充 溢している。 41 ﹁⋮⋮大切って、言った﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ ﹁わたしのことが大切って、おまえ⋮⋮言ったよな﹂ 切りそろえられた前髪の間から、射るような目が飛び込んできた。 ﹁ずっとずっと、前。わたしが袋叩きにあったとき、おまえが助け にきてくれて⋮⋮言ったんだ。わたしのことが、大切って⋮⋮﹂ 遠い遠い、過去の記憶。 掘り起こしてみればなるほど、確かに昔、そんなことがあったよ うな気がする。あぁ、ぼくはずっと前にそんな恥ずかしいことを言 っていたのか⋮⋮。 ﹁嬉しかったんだ⋮⋮すごく、すごく、嬉しかった。わたし、変な 意地があって、いじめのこと、言い出せなかった⋮⋮毎日が苦しく て、つらくて、わびしくて、ゴミみたいな時間だった﹂ 切々とした静絵の告白。これまでに聞き出そうとしても聞き出せ なかった、静絵の感情、考え。 ﹁⋮⋮なんで、こんなこと、言うんだろ。バカみたいだ、わたし。 ほんと、バカだ。もう、遅いのに⋮⋮﹂ 静絵は頭を抱えて、ぶつぶつと何かを呟いていた。 狂気じみている。 なんだこれ、と思った。今日の静絵はおかしい。箍が外れている。 何かあったのか? そう思わずにはいられない。 と。 静絵は不意に、かっと目を見開き、するすると蛇のように肉薄し てきた。 ぞくぞくするような怖気と官能が、血の巡りを、神経の伝達を、 大いに阻む。うるうると潤んだ瞳が、どこか悲しげにぼくを見つめ てくるんだ。 ﹁千尋⋮⋮﹂ はかなげな声で、そう呼びかけてくる。 ﹁千尋⋮⋮ねぇ、千尋⋮⋮﹂ 42 第八話 兄︵5︶ 千尋、と僕の名を呼ぶ彼女は、媚態を示してゆっくりと︱︱進行 していく。縮まる距離と静絵の淡い呻き⋮⋮。 絨毯が敷かれている。 それが静絵の体に触れると、その部分がじゅくじゅくと腐ってい くような錯覚があった。硫酸をかけられた肌、熟れすぎた果実⋮⋮ 静絵の肉体は狂おしい瘴気を放っている。逃げなくては、と本能を つかさどる何かが焦心して命令する。ここにいては危ない、死ぬぞ ︱︱と。 ﹁わたしから、逃げるな﹂ 気がつけば静絵の生白い細腕がぼくの腕をつかんでいた。 ﹁わたしのこと、受け入れてくれるよな⋮⋮?﹂ 受け入れる。 ⋮⋮受け入れる? それは︱︱。 箱の中の愛欲か? 檻の中の肉欲か? 牢の中の色欲か? 暗く閉ざされた楽園、妄執に塗り固められた精神世界⋮⋮おまえ はそれを、それを︱︱実の兄に許容せよ、と言っているのか? ﹁おまえ、頭がおかしいんじゃないのか?﹂そう言わずにはいられ ない。﹁なにおまえらしくないこと言ってるんだ。普段の静絵はそ んな、イカレたこと言わないぞ﹂ ﹁これが本当の、わたしなんだ﹂静絵は静かにぼくにもたれかかっ た。もたれかかって、﹁大切にしてくれるって、おまえ、言った。 だから、これは許される行為なんだろう⋮⋮千尋﹂と呪いのように 耳元でささやく。静絵はぼくの背中に手を回して、愛しそうにぼく の頭をさすった。﹁わたしのこと大切なら、受け入れてくれるよな。 43 わたしの想いを、思慕を、な。そうだろう、千尋。おまえだって、 薄々と気付いてたんじゃないのか。違うか、違わないだろう、千尋。 だって、おまえだって、想っていたから。わたしのこと、ずっと⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮違う!﹂ ﹁違わないんだよ、千尋!﹂ 静絵は強くぼくを抱きしめた。 ﹁おまえだって、おまえだって⋮⋮わたしのことが気にかかってた んだ。それくらい、分かる。おまえの気が、わたしに向いてるって ⋮⋮いいだろう、これで両想いだ。誰も困らない。幸せを享受でき る⋮⋮ごめんね、今までひどいこと言って⋮⋮わたしが子供だった んだ、自分の想いを素直に口にできない、できの悪い子供⋮⋮。で も、卒業する。ずっとこうしたかったんだ。千尋に、愛してもらい たかったんだ⋮⋮わたしって、好きな子をいじめる中学生みたい。 けど、それが愛情表現で、それしかできなかったんだ。ごめん⋮⋮ ごめん、千尋﹂ ﹁なに言ってんだよ﹂ 静絵はきょとんとした風になった。 ﹁ごめん、じゃないだろ。おまえは、自分がしようとしていること が︱︱分かってるのか? イカレてる。やれ両想いだ、幸せだとバ カじゃないのか? 狂ってると、そう思わないのか? 世界のどこ に実の兄に恋する妹がいるんだ。︱︱いるわけないだろ!﹂ ﹁いる﹂ と。 静絵は。 ﹁ここにいる﹂ ﹁おまえ⋮⋮!﹂ ﹁理屈じゃ、ないんだ。わたしのそれは理屈で片付く感情なんかじ ゃないし、理屈で片付く感情を、人は、友情とか愛情とか、言わな いんだ﹂ 44 ﹁なら、おまえのそれは、愛情か?﹂ 静絵はこっくんと首肯した。 ﹁では、おまえの怒りは、嫉妬か?﹂ またも静絵は首肯した。 ⋮⋮破綻している。 意味が分からない。嫉妬。それは恋人同士が抱く感情だろう。で、 ぼくとおまえはそういう関係か? 違う。まったく違う。兄妹。そ れ以上でもそれ以下でもない。兄妹とは決して色恋沙汰には発展し ない、ある種完結した関係⋮⋮。 静絵は柔らかい肌をぼくに押しつけている。その感触は紛れもな い女のもので、くらくらするような艶かしい芳香や、清楚なシャン プーやせっけんの匂いが、ぼくを欲望の奈落に落としいれようとす るのだ。 ﹁⋮⋮好きなんだ。千尋のこと、好きなんだ⋮⋮家族としてじゃな くて、異性として、だ。しょうがないだろう、好きになったんだか ら。人を好きになるのにいちいち、理由をこしらえたりする奴がい るか。だったらもう、ぶつければいいんだ。好きになった相手に⋮ ⋮想いの丈を、ぶつけたらいいんだ﹂ 静絵はぼくの肩を掴んだ。 まっすぐにぼくを見つめている。 そして。 静かに。 唇を閉ざし、﹁ん﹂と突き出した。 ⋮⋮え? ぼくはおおいに周章狼狽した。 静絵は両目を閉じて、何かを待っているようだった。時折片目を 開けては、ぼくをうかがうようにし、頬を朱に染めている。早く早 く、と催促しているようだった。 何を? 分かってるさ、それくらい。さすがにここまで来たら、静絵の望 45 んでいることくらい、誰にでも分かる。分かるが⋮⋮それがどんな に異端で頭のねじの外れた行為なのか、おまえは分からないのか? 静絵はぎゅってした。ぎゅってして、ぼくの手を固く握りしめた。 甘い官能が脳髄に流れ出るのが分かった。 このままでは。 このままでは︱︱。 ﹁お風呂、沸いたわよー﹂ と。 母の声。 静絵ははっと夢から覚めたように体を離した。爾後、火照った頬 を隠すように両の手で顔を覆い、ぶるぶると全身を震わせた。 わけの分からない興奮と罪悪感がないまぜになっていく。言える ことは、あやうく禁忌手前まで踏み込んでしまった、と言うこと。 くさび ぼくは静絵から逃げ出すように、﹁今行くー﹂といって、部屋か ら出て行った。 ◆◆◆ はり それは組み木の楔を引き抜くのと似ている。堅固な塔も、重厚な う 梁も、要となる部分を取り除いてしまえば、あっけなく瓦解、崩落 する。必然の結果。骨組みに不足あらば、その迂は推して知るべし ⋮⋮か。 並々と張られた湯が冷え切った全身を優しく包み込んでくるのが 分かった。ぼくは肩の辺りまで浴槽につかり、漠たる思索にふけっ ていた。 揺曳する湯気。 46 いんぽん 視界がうすぼんやりとなる。その視覚の不明瞭さが、放埓でいて 淫奔な想像を誘う呼び水となった。みずみずしく熟れたとき色の肌、 硬く引き結ばれたあだっぽい唇、烈々と思いつめた両の瞳︱︱。 どっと煮えたぎるような血の環流が、奇妙な怖気とともに全身を 廻っていく。めくるめく妄想を打ち消そうとしても、あいつの手が、 肌が、それを許さない。頑強に縛る。 枷。 ぼくの心は思いもよらぬ相手に束縛され、身動きが取れなくなっ ていた。湯の温かさや、たゆたう湯煙なんかがすべからく、感知の 外に追い出されてしまう。それくらいぼくは、彼女のことを深く考 えていた、ということなのか⋮⋮? 浴槽から、上がった。 蒸れこもる熱。 今まで立っていた場所がすとんと抜けてしまうような喪失感を抱 えながら、ぼくは風呂場から出た。出て、簡素な服に着替えた。T しい シャツにジーパン。ぼくの普段着は得てしてこんな感じだった。 と⋮⋮。 そんな埒もない思惟に気をそらせながらも、この閉めきられた空 間からどう動けばいいのか、皆目見当がつかなかった。というより、 この場から動きたくない。動いてしまえば、彼女と鉢合わせになり そうで怖かった。どんな風にして彼女と顔をあわせればいいのか、 なんて考え出すとますます出たくなるなる。なんというか、この物 憂げな心中は、好きな子を廊下で見かけて思わず階段裏に隠れてし まうような、そんな甘酸っぱい心理に似ていた。 緑葉千尋、我が家にして進退窮まっていた。 けれどそんなとんまにも、一抹の救いくらいは用意されているよ こうり うだった。 それは行李の中にある。 聞き覚えのある音楽がくぐもった音響を発している。加えて、無 機質なバイブレーション⋮⋮。 47 わらにもすがりつくような、あるいは、怖いもの見たさに、そい つを服のポケットからさぐってみる。どうやら入れっぱなしにして いたらしい。そのずぼらがくしくも、我が身を救う結果となるか、 否か。 携帯画面を開いてみれば、一通のメールが受信されてみた。 開いてみる。 あて先は。 ふじみやよみたろう はくせき あて先は︱︱。 藤宮詠太郎。 きしょ しょし 頭の中に長身白皙、黒縁眼鏡をかけたあの男の様子が想起された。 種々雑多の古書、稀書を取り扱う書肆然とした奴の、その身からほ しゃく は とばしる凛と張り詰めた空気、雰囲気⋮⋮。藤宮詠太郎はいわゆる、 笏を持ち、緒・下襲の裾を後ろに長く引き、飾り太刀を佩かせれば あら不思議、あっという間に平安貴族のおでまし、というような風 雅な伊達男だった。 でも、空気は読めない。風趣は解するが、冗談は解しないという、 奇態な人間でもあった。 そんな奇人の文面曰く︱︱。 俺の家に来い。 と、やけに簡略なもの。むしろ拍子抜けだったが、機械嫌いかつ 人嫌いの藤宮がメールを打つという事実だけでも驚愕に値する。怪 奇。 ぼくは、﹁手土産は明鏡堂の白雪煎餅でいいか﹂といった旨を送 信し、携帯電話を閉じた。 脱衣所の開き扉から首を突き出し、ねずみのように左右を確認。 誰もいないことを確かめて、こっそり玄関のほうへと向かう。財布 も脱衣した服のポケットに入っていたので、自室にとりにいく必要 はない。 ぼくは何も思わず、何も考えず、ただただ水溜りのできた小道を どこか、早歩きに歩いていった。 48 ふ 第九話 兄︵6︶ いらか 藤宮の家は甍の葺かれた日本家屋だった。檜の表札には堂々たる 墨跡で﹁藤宮﹂と一筆してある。 インターホンを鳴らすまでもなく、﹁ここだ﹂といった声が聞こ こんききょう えた。庭のほうからだ。そっちに行ってみると、縁側に腰掛けた藤 宮がいた。 藤宮詠太郎、紺桔梗の浴衣を懐手に、楚々と咲く山法師をぼんや りと見つめている。 ﹁ほらよ﹂とぼくは道行く途中に買った土産を藤宮の前に差し出し た。﹁おまえの好きな明鏡堂の白雪煎餅だ﹂ 藤宮は横目でちらりと、箱を一瞥する。﹁やはり﹂藤宮はやおら、 板敷きにあるきゅうすを取って茶を注ぎ、静々と飲み始めた。﹁や はり、茶は玉露に限る﹂ ﹁⋮⋮少し見ぬ間に、ずいぶんと老けたな﹂ ﹁それが、例の﹂ ﹁明鏡堂の白雪煎餅。徳用の十二枚入り﹂ ﹁や、それは⋮⋮お得だ﹂ ﹁だろ﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おれにも茶、くれないか﹂ ﹁今、湯飲みを持ってきてやる﹂ 藤宮は奥に消えていった。 藤宮に習ってぼーっと庭の花々を見ていると、藤宮が帰ってきた。 お茶を飲む。 雲間から鮮やかな西日が差し込み、雨上がりの涼気が清々しい。 さつき 鳥が、さえずっている。 ﹁若葉の薫る、皐月の時候となったな﹂ ﹁ああ﹂ 49 ﹁空も、清い﹂ あささはぬまの ﹁雨上がりだからな﹂ ﹁五月雨に 花かつみ かつ見るままに ゆくかな、とは、世に聞こえたる、名句⋮⋮﹂ ﹁藤宮﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁用を⋮⋮言ってくれないか﹂ 藤宮は瞳孔を大きく広げ、一驚を喫した風になった。 そして。 かくれ ﹁こいつ、なんとも⋮⋮風雅を害するやつ﹂と露骨に嫌な顔をした。 うぐ ﹁⋮⋮あのな﹂ ﹁迂愚め。興が、そがれる﹂ ﹁おれはやる気のほうがそがれる﹂ ﹁む⋮⋮益体もなし﹂ 藤宮は箱の包装をとき、煎餅を食べ始めた。 ぼくは頭を抱えた。 メールが来たとき、ほんの少しだけ、よしと思った。これで妹か ら︱︱静絵から︱︱一時とはいえ、理由をこねて逃れられる。だか ら、そう思った。思ったが⋮⋮。 ぼくは藤宮詠太郎を甘く見ていたようだ。 ﹁⋮⋮藤宮さ﹂ ﹁⋮⋮まずは、一口﹂ ふと視点を転じてみると、一人の女の子がすぐそばにいた。 つきこ 目の前には豆が練り込められた饅頭があった。 ﹁月子の自信作だ﹂ ﹁⋮⋮いいの?﹂ ﹁遠慮しなくていいからさ、ま、食べてみてよ﹂ さじまつきこ と。 ぼたん 佐島月子は剛毅に微笑んだ。 大輪の牡丹。 50 めいぼうこうし そんな表現が似合うような、放胆な明眸皓歯。そして、奇怪なこ とに藤宮と男女の交誼を結ぶ人でもある。 ﹁では、ご賞味﹂ ぼくは饅頭を口いっぱいに含んだ。 ﹁⋮⋮これは﹂ それ以上は言葉にせずとも伝わったらしい。 佐島月子はにっこりと笑った。正座をとき、富士宮の隣に腰掛け る。 藤宮はぼんやりと、庭先の光景を見ていた。 ぼくもぼんやりと、茶を飲み、漫然としていた。 ﹁時に、緑葉﹂ ﹁ん⋮⋮なんだよ﹂ ﹁おまえ⋮⋮﹂ 藤宮は少し、ためらいの色を見せた。 ﹁おまえ⋮⋮蛾々島と付き合ってるのか?﹂ ぼくは含んだ茶を噴き出しそうになった。 ﹁⋮⋮ついに気が狂ったな﹂ ﹁俺は、正気だ﹂ ﹁それが聞きたかったのか?﹂ ﹁いかにも﹂ そういって、藤宮は隣の佐島月子のほうを見た。 ﹁⋮⋮と月子は言っている﹂ 首を伸ばしてみれば、佐島月子、照れたような表情をしている。 ﹁ま、そういうこと。私、緑葉君のメアド知らないから、詠太郎に メールしてもらったってわけ。で、どうなの? どうなのよ﹂ ﹁そんなんじゃないさ﹂ぼくはそっけなく駁した。﹁蛾々島とはそ んな関係じゃない﹂ ﹁でも、ずっと一緒にいるじゃん。ご飯も二人で食べてるし﹂ ﹁一度、辞書で不可抗力って言葉を調べてみるといいよ﹂ ﹁それって、彼女といることが楽しくて、いつの間にかそばに彼女 51 がいないとどうしようもないんだよぉ︱︱ってこと? 魂の叫び?﹂ ﹁どうしようもあるし、叫んでもない。単なる惰性みたいな感じだ って﹂とやはり、にべもなく答える。 ﹁そんなこと言ってもさ、見えちゃうんだよね﹂と佐島月子は燦と した笑みを浮かべ、﹁はたから見ても、二人、すごく仲よさそうだ し、よく喋ったりしてる﹂とぼくの顔色を伺うようにした。 そこでふと、蛾々島とぼくはいったいどんな関係なんだろう、と 思った。ぼくにとって蛾々島は、どんな存在なのかな。 ﹁俺も、思うことがあるのだが⋮⋮﹂ 藤宮は身を乗り出す佐島月子を制しながらも、相も変わらず、の んびりとした口調で言った。 ﹁なにさ﹂ ﹁いっかな、男女の形態とは千差万別であるし、その心持ち、胸懐 の は真に奇々怪々たる様相を呈するのが世の常であるが⋮⋮おまえ、 好きな女でもいるか、どうだ﹂ 藤宮の鋭い目がぼくを刺し貫いた。 匂い立つ若葉、暮れなずむ空。 ﹁帰る﹂ ぼくは縁側から立ち上がり、門のほうへと向かった。 少し、イライラした。 藤宮は何もいわなかった。 門の手前の畑道まで来たとき、佐島月子が、﹁もしかして怒って る?﹂と声をかけてきた。 ﹁怒ってない﹂ ﹁怒ってるよ﹂ ﹁藤宮は?﹂ ﹁手枕で横になってる﹂ ﹁⋮⋮暢気な奴﹂ ﹁あのさ﹂と佐島月子は決まりが悪いような顔つきをして、﹁こん なこというのあんまり好きじゃないんだけど、蛾々島さんと親しく 52 するの、やめたほうがいいよ﹂と目じりを下げた。 ﹁⋮⋮そう﹂ ﹁蛾々島さん、友達いないし、なんか変だし、一緒にいてもいいこ となんかないよ﹂ ﹁忠告か、それ﹂ ﹁そ。一応彼氏の数少ないお友達だしね、忠告くらいはしておこう と思って﹂ ﹁そっちこそ、あんなのと付き合ってよく疲れないな﹂ ﹁慣れてるから﹂と言うその顔は、寸分の恥じらいと過分の幸福と が感じられるものだった。 ﹁おれも蛾々島の奇行、奇癖は慣れてるつもりだよ﹂ ﹁⋮⋮それは麻痺してるんだよ﹂ と。 佐島月子は。 ﹁私、中学校あの人と同じクラスだったんだけど、それはもうすご かったんだからね。確か緑葉君、南中の出身でしょ? だから、あ の人がいかにおかしいか、知らないだけ﹂ 緑葉千尋の知らない蛾々島杏奈。 そういえば、蛾々島といるとき、蛇のように粘着質な視線を感じ ることがあった。 ﹁⋮⋮だから、色々と気をつけといてね。話はそれだけ。それじゃ﹂ 佐島月子の後姿を見やりながら、ぼくは不思議な感覚に囚われて ひんぴん いた。 かくはん 頻々たる怪事、妙な忠告。静絵のことや、藤宮のことや、蛾々島 のこと⋮⋮。 波紋を描く。 ぼくの心。平静。攪拌される。そして、どうしたらいいのか分か らなくなる。見のふり方、しかるべき処決、できなくなる。 心の水面に一石を投じる何か。ほのかに芽生える情、猜疑、疑問 ⋮⋮。精神の平安を大いにかき乱していくのだ。 53 これからどうしようか。 ぼくは足任せに歩を進めていく。 広がる田園風景が炎熱の砂漠のごとく、乾いたものに映る。 ぼくは旅人だ。 行く先もなく、帰る場所もない、旅人。遊子。何かを求めてさす らう、悲しき放浪者。 西日が、まぶしい。 どこに続くかも分からない道を、ぼくは歩く、歩く、歩く⋮⋮。 54 第十話 蛾︵1︶ ︻蛾︼ りんし 蛹 ー 成虫という完全変態をおこなう。 ・鱗翅目の昆虫のうち、チョウ類を除いたものの総称。卵 ー ・他者から忌み嫌われる存在。 ◆◆◆ ー幼虫 善と悪の境界を、清と濁の境界を、陰と陽の境界を、飛び回る。 飛び回って、困惑する。善と悪も、清と濁も、陰と陽も、結局は人 間のエゴの産物ではないのか、とそう思ったからだ。己の醜さを、 弱さを、浅ましさを、もっともらしい論理で軽減したい、あるいは ないものとして扱いたい⋮⋮と。 醜悪だ。 吐き気を催す低劣。同時に、そんな愚にもつかない世界にわたし は生きているのか、と失望にも似た嘆きをもらす。色を失う世界、 消失する自己⋮⋮。 ﹁あなたはね、なるの。お勉強もできて、 礼儀正しくて、きめ細 やかな貴婦人に、なるの。そしてすばらしいお婿さんをもらって、 わたしたちを喜ばせるのがあなたの最良の人生なの。分かった? 分かった、分かった、分かった?﹂ とち狂った母は、毎日のようにそんなことを言う。勉強しなさい だの、礼儀を覚えなさいだのなんだのとヒステリックに叫び立てる。 そんな母は、醜かった。世間の評判や名声にこだわるばかりの、 55 俗物。自分の希望を娘に押し付け、それを強制する愚かさ。謙虚で ありなさいという、謙虚でない姿勢⋮⋮イライラする。矛盾してる じゃないか、と胸の内で悪態をつくわたし。そして、わたしを産み 落としたものの正体が、虚妄に塗り固められた怪物であることを痛 感するのだ。 ﹁いい加減にしろよ、このクズ女が! なにお高くとまってんだっ。 やく わたしはおまえのペットか、着せ替え人形か? 違う、圧倒的に違 う! そうやって色々なものを強いて、扼して、わたしの人生をメ チャクチャにするつもりなんだろ、そうだ、そうに決まってる︱︱ あぁ、クソったれ!﹂ 母は口をあんぐりとあけ、しばし呆然とした風になった。 わたしは腹の底に溜まっていた思いを、その場の勢いに任せて洗 いざらいぶちまけた。日頃被っていた化けの皮がはがれた瞬間だっ た。深窓の令嬢、聞き分けのよい娘は、一夜にして口汚いあばずれ に豹変したのだ。 母は見る見るうちに血をのぼせて、わたしの頬を叩いた。 鈍い痛みがさらなる怒りを呼んだ。 わたしは母を組み敷き、その細い首を絞めようとした。母は必死 に抵抗するが、無駄。圧倒的に無駄。わたしは積年の恨みを持って、 母の生命に終止符を打とうとしたのだ。それも無意識、獣に帰一し たような本能の赴くままに︱︱。 世界とは。 世界とは元より、食うか食われるか、殺すか殺される、といった 二元的なものでしかない。やれ平和、やれ隣人愛、反吐が出る。そ んなもの、架空。空想上の産物。明けても暮れても人は咬みあい、 騙しあい、媚びあい、貶めあい、裏切る。負の連鎖︱︱明々白々な 事実。終わらない戦い、小競り合い、紛争。 世界の史実において、戦争が本当になくなった期間はわずか三週 間とすら言われている。右手で握手をして、左手で拳銃を握り締め る、それが人間の姿。現実を否定するな。否定してなんになるのか。 56 武器を捨てても、捨てた武器で殺されるだけだ。肯定しろ。肯定し て、己が欲望を昇華させろ。 ふにゃふにゃした皮膚の感覚。その裏側で脈動する血、生命のと もし火⋮⋮それが漸次として、弱まっているのが分かった。 母は、向かっている。死へと、魂の終焉へと、向かいつつある。 それを推し進めているのが、わたし。娘である、わたし⋮⋮。でも、 死ね。死んで、詫びろ。わたしの人生をメチャクチャにした罪を、 己が命脈で償え︱︱。 ◆◆◆ 深いまどろみの中、わたしは目覚めた。あの夢だ。またあの夢を 見た。従順であることを捨てた日。庇護されることから決別した日。 のみ たがね めまいがする。この感情はなんだ。胸にぽっかりと穴が開いたよう な気分。鑿や鏨で心臓の一部をくりぬかれたみたいだ。貫く。螺旋。 激痛の糸車。紡がれる。打ち抜かれる。楔。釘。きりきりと痛む。 乖離する体。わたしはこの感覚に見覚えがある。痛覚。いや、違う な。これは痛みとは違う。もっと感情的で理性を排した何か。生得。 まみ 本能。たぎる悪意。あふれる悲しみ。そう、これは︱︱。 と。 耳障りな音が聞こえてきた。快眠を妨げる魔魅。チャイム。 同時にペンやノートを片付ける音がして、号令がかかって、椅子 を引く音がして、寂たる教室はたちまち騒がしくなった。 手枕を作ってまどろんでいたわたしは立ち上がるのも面倒で、そ のまま授業を終えた。注意する人や注視する人も特にいず、中年の 数学教師は何事もなく教室を後にする。 57 まだ淡い眠気があった。わたしは授業の大半は寝てすごしている。 いわゆる、昼寝。授業時間はほとんど寝てる。起きない。いや、熟 睡が死と同等の状態だと仮定すると、起きた時にまだ寝ていたいと 思うのは、実は死ぬのが気持ちいいからかもしれない。死の安寧に つかっていたいと、そういうことかもしれない。⋮⋮その旨を彼に 話したら一笑に付された記憶があった。﹁逆に言うならそれは、生 きるのがつらいってことなのか?﹂とそして彼は心配そうに言う。 始まりのチャイムが鳴れば、いつものようにくだらない授業が延 々と展開される。先生が公式を書いて、生真面目な生徒がカリカリ と板書して⋮⋮とそれだけで眠気が喚起される。自然と手枕を作っ てしまうのもしょうがないことだと思うんだ。 わたしはぼんやりと窓の外を眺める。右手に深山幽谷、左手に砂 浜と碧海。わたしの住み暮らす石倉市は山と海に囲まれた辺鄙な村 落だ。海運は開かれてはいるものの、陸の交通事情は壊滅している。 でも、わたしはこの村が嫌いじゃない。 妙に生徒の数が少ないと思ったら、どうやらすでに四時間目を乗 り切っていたらしい。と言うことは四時間まるごと安眠をむさぼっ ていた計算になる。どうりで⋮⋮とわたしは腹の辺りを押さえる。 わたしは椅子から立ち上がり、購買部へと向かった。弁当は諸事 情あってないから、やむなく購買のパンで露命をつなぐこととなる。 毎日菓子パンだから正直言って、飽きる。ま、冷凍食品や夕飯の余 りなんかが詰め込まれた弁当よりはずっといいと思うけど。 春の影の降りる廊下に足を踏み入れた。みな奇異なものでも見た ような視線をよこすが、わたしのほうはもう慣れた。モーゼの十戒 のごとく、道ができる。 ぼんやりと歩を進めながら、﹁あいつもつれてくればよかったか な﹂と友達と仲良く連れ立つ生徒を見て思う。情けないとも感じ、 弱い⋮⋮というか気持ち悪い自分をも知覚する。 58 ががしま ﹁蛾々島さん、ちょっといいかな﹂ 購買部に寄った直後、珍しいことにわたしに声をかけてくる人間 がいた。 ﹁んだよ、コラ﹂数個の菓子パンを購買のババアから受け取って、 代金を支払うまでの過程のことだ。﹁気安くオレの名前を口にすん じゃねーよ﹂ さじまつきこ ﹁相変わらず口が汚いのね﹂ 佐島月子はどこか哀れむように言った。 一瞬顔と名前が一致しなかったのも、進学以来顔を会わせなかっ たからだろう。月子はさりげなくわたしを避けていた。明々白々。 でも今になって接触してくるのはなんだか解せなかった⋮⋮ってこ の文脈だと女々しいやつみたいだ、わたし。 ﹁口が汚いもは元からでね、んで、腹も黒いのさ﹂わたしは月子の 横を一過した。それで会話を終わらせるつもりだった。 だが。 唇を引き結んだ月子は険しい顔をしながらもわたしの腕を掴んで きた。一驚を喫したわたしは、しばし考えた後、月子のほうを振り 向いた。 眼前には目を針のように細めた月子の可憐な顔とマネキンみたい に調和の取れた肢体があった。 ﹁⋮⋮このパンが欲しいのか?﹂ ﹁ち、違います! わたしは人のものをたかるほどいやしん坊でも 食いしん坊じゃありませんっ﹂ ﹁でも﹂わたしは月子の両の目を覗き込んだ。夏の蒼海が内包され ているかのような透明で涼やかな瞳。水晶を入れ込んだ眼球。きっ と月子の目の窪みはこの綺麗な眼球をはめ込むために掘削されたの だろうし、月子の網膜は清冽な世界を見るために視神経に繋がれた のだろう。﹁結局おまえ、ベットの上では暴れん坊将軍なんだろ?﹂ ﹁な﹂と月子は目に見えて赤くなった。 59 図星⋮⋮なのかな。 ﹁もしかして、おまえ⋮⋮﹂ よみたろう ﹁ち、違うよ、わたしはそんなんじゃ⋮⋮けど最初に求めたのはわ たしからだったしなぁ⋮⋮でも、途中から詠太郎のほうからわたし を組み敷いてきたんだよぉ。そ、そのあとは前後不覚だったから覚 えてないに決まってるじゃない!﹂ ﹁なに衆目の前で性生活を暴露してんだよ。みんな恥ずかしがって 下向いてるじゃねぇか﹂ わたしはそそくさと離れていく周辺の生徒をあごで示してやった。 すると月子はまた泣きそうな顔をした。ころころと表情が変わる。 スロットマシーンみたいで面白い、とわたしはそんなことを考える。 ﹁⋮⋮また変なうわさが立ちそう﹂ ﹁とっくに立ってるだろ﹂ ﹁そうね⋮⋮﹂ ﹁亭主自慢はもういいのか?﹂ 月子の顔がゆでだこのようになった。﹁黙って!﹂ ﹁なんだよ⋮⋮話がしたいといってオレを引き止めたかと思えば、 今度は口を閉ざせ、かよ。オーダーを途中で取りやめるのは感心し ねぇなぁ、こいつはよぉー﹂ ﹁無理矢理詠太郎のことを引き出すのが悪いんでしょ? あなたの ような口の達者な人をペテン師っていうのよ﹂ ﹁寝技が達者なおまえはさしずめ、夜の女王だな﹂ ﹁⋮⋮殺すわよ﹂ ﹁⋮⋮オーケー、怒った顔はおまえには似合わないぜ。オレはおま えの笑った顔が見たい﹂ ﹁言動には気をつけることね﹂ ﹁で﹂わたしは全身をクールダウンさせた。女は常にクールでない といけない。クールじゃないやつは美しくない。だろ。﹁いい加減 みどりば 用件を言え。オレは気の長いほうじゃないんでね﹂ ﹁緑葉君にこれ以上近づかないで﹂ 60 と。 月子はぴしゃりと言った。 冷や水を打ったように静かになる。 閑寂。 ここだけ瞬間冷凍されたみたいだ。 ﹁そのセリフ⋮⋮もしかして修羅場? 三角関係のもつれ?﹂ ﹁なんでわたしとあなたと緑場君とでトライアングルを描かなくち ゃいけないのっ。わたしは詠太郎一筋よ﹂ もちろん返答はイエスしか認 ﹁そのなんとかってやつも幸せ者だな。こんだけ言われて﹂ ﹁そんなことはいいから返答は? めないけど﹂ ﹁オレの家系は先祖代々浄土真宗だからよぉ、新興宗教はお断りな んだよ﹂ ﹁⋮⋮イエス・キリストなんて私言ってないし、それにキリスト教 は新興宗教でもなんでもない!﹂ ﹁おいおい熱くなんなよ。ホットになるのはベットの上だけにしと け﹂ ﹁もう、セクハラ親父みたいなこと言うな! 話が進まないっ﹂ 月子はすっかり疲れていた。叩けば響く、と言う言葉が脳裏によ ぎった。ひょっとしたら彼以上の感度かもしれない。⋮⋮あぁ、い っておくがそっち方向のことじゃない。 ﹁⋮⋮それで蛾々島さんは緑場君のこと、どう思ってるの?﹂ ﹁友達だろ﹂ ﹁嘘﹂ ﹁だから友達だって﹂ ﹁絶対嘘﹂ ﹁⋮⋮いいか、空がなぜ青いのかと言うとな、地球の周りの空気が 青い光を反射してるからなんだぜ﹂ ﹁⋮⋮好きなんじゃないの、緑場君のこと﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 61 ﹁蛾々島さんが緑場君に付きまとってるから、緑場君迷惑してるよ。 人も寄ってこないし、友達もできづらいし、彼女だってできやしな い。そうでしょう?﹂ ひんやりとした空気が汗でべたつく肌を乾かしてくれる。 喉が渇く。 ひどく。 嫌な気分になった。 ﹁蛾々島さんは自分が異常なんだって分からないの? おかしいっ て思わないの? それで緑場君が困ってるって思わないの?﹂ ﹁⋮⋮黙れよ﹂ ﹁こんなこと私だって言いたくないけど⋮⋮でも、緑場君は妹思い の優しい人なのに蛾々島さんのせいで被害をこうむってる。このま 、 、 、 、 、 、 、 、 、 まじゃ一人ぼっちだよ﹂ ﹁⋮⋮聞こえなかったのか?﹂ と。 わたしは。 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 月子の胸倉を。 ﹁黙れって言う言葉が聞こえなかったのか? オレは黙れと言った。 なら、黙るのが筋ってもんだろ。鳥みたいにぴいぴい鳴きやがって、 ここに猟銃があったら撃ち殺してたところだぜ﹂ ﹁く、苦しい。蛾々島さん⋮⋮﹂ ごう ﹁気安く呼ぶな。オレはおまえと親しくなったつもりも友達になっ たつもりもない。毫もない。それともおまえ⋮⋮まだ勘違いしてた のか? 言っとくけどよぉー、あれは善意とか慈愛とか、そういっ た高尚な、すばらしい感情から発露した行動なんかじゃない。⋮⋮ おまえさ、こういう経験ないか? とある公園だ。ガキ二人が一つ しかないブランコを取り合っている。一人は貧弱そうなガキ、もう 一人はいかにも強そうなガキ⋮⋮結果は見えてるよな。でもよぉー、 そういうの見てるとイライラしないか? レベルの低い争いしてる なって、そう思わないか? そういう時はさ、割り込むだろ。ブラ 62 ンコ。割り込んで独り占めしたいだろ。せっかく必死こいて争って いたのに、第三者がそれを掻っ攫う。漁夫の利。オレはそういう理 不尽な結末が好きなんだよ⋮⋮分かったか? 利害が共通していた だけなんだ。おまえのはいわば生存競争で、オレのほうはと言うと 単なる気まぐれ。整理してみると単純だな、きっちり証明された数 式みたいによぉ。⋮⋮いいだろ、もう。おまえはもう弱くないんだ ろ。友達もいっぱいいるし、いい男もいる。それで何が不満なんだ ? それとも︱︱意趣返しか? 笑わせるなよ、タコ。しょせん矮 小なんだよおまえは。ほら、早く彼氏のところに言って慰めてもら えよ。傷跡舐めてもらえよ。それとオレとあいつの仲にくちばしを 差し挟むんじゃねーぞ。あいつはオレの唯一の理解者なんだ。バカ にしてんじゃねーよ。それくらいのことであいつがオレと飯食った りするの止めるかよ⋮⋮あいつは気の毒なくらいお人よしだからよ ぉ、オレみたいにカワイソウな奴見てるとついつい体が動いちまう 性質なんだな。分かったならさっさと消えろ。反吐が出る。⋮⋮そ ういえばおまえ、へこへこと頭下げながら逃げ帰るのが得意だった よな。あれは傑作だった。まさに世界の縮図。でもその勢力図はす でに塗り替えられたんだ。あとはおまえの好きにしたらいい。⋮⋮ 分かるだろ?﹂ 63 第十一話 蛾︵2︶ 佐島月子が売春しているといううわさが立ったのは、ちょうども みじの緋の葉がひらひらと舞う秋されの頃だった。 そくぶん 誰が言い出したのかは定かではない。けれど、気がつけばそんな 軽々しい仄聞が広範に及ぶようになっていた。その当時は社会の裏 も表も知らぬ中学生。薄々と性を自覚する春愁富む年頃。だからな のか、同級生の売春と言うショッキングなうわさが過剰なまでに伝 播した。もっとも、片田舎の村里で売春が横行しているとは思えな いし、中学生が春をひさいでいるなんて常識的にみても考えづらい。 でも。 きっとそんなことはどうでもよくて、ようは変化のない日常に刺 激が欲しかっただけなのだろう。朝起きて、学校に行って、勉強し て帰宅。夕食、就寝⋮⋮すばらしきかな安逸の日々、うねることも 曲がることもない生活の軌道⋮⋮。そんな安楽とも言える緊張感の ない暮らし、倦みつかれた性情がうわさを肥え太らせていったのだ ろう⋮⋮。 ﹁一つ、発見がある﹂ あいつの声。 緑葉千尋。 公立石倉高等学校二年、身長百六十九センチ、体重五十八キロ、 やせぎすだが割りと筋肉質。家族構成は実母、実父、実妹の計四名。 千九百九十四年七月十七日生まれ。十六歳。男。血液型は几帳面と されるA型だが、性格は大雑把。交友関係は狭く、部活動にも属し ていない。いかにも平均といったステータスだが、ところがどっこ い、こいつは普通じゃない。 奴はまじめ腐って人差し指を立てた。得意顔だ。機嫌がいい。﹁ 聞きたいか﹂ ﹁発見? おまえのことだ、どうせろくなもんじゃないんだろ﹂と 64 切り捨てるが、気にならないこともない。それに普段は感情を表に 出さない奴が、珍しく破顔しているゆえも気になる。 ﹁ろくでもないかどうかはおまえが決めたらいいさ﹂ ﹁⋮⋮やけに挑発的な物言いだぜ︱︱緑葉。顔に書いてあるぜ。何 か強烈でいて新鮮な︱︱いいぃことがあったってよぉー。いいこと ってのはおまえの発見とイコールってことだろ。男の喜ぶいいこと ってのはあれだからな、男女関係に限定されるからなぁ。オレには 分かるんだぜ、おまえのいいことって奴の正体がよぉー﹂ すると奴は笑った。楽しそうに笑った。自然な笑み。わたしには できない笑顔。﹁いや、これは千里眼のおまえにも分からないんじ ゃないかな﹂ ﹁カカカ、おまえの余裕そうな表情は見ていてイライラするな﹂ ﹁蛾々島は昼飯にパンばっかり食べてるから、カルシウムが足りて ないんだよ。それと人間力﹂ ﹁オレは魔王だからな、人間の基準でオレを判断するもんじゃねー よ﹂ 奴はふっと笑った。 わたしも鼻で笑う。 その一瞬がひどく、かけがいのないもののように思えた。 胸の中に温かな風が吹いてくる。閉塞感を吹き飛ばしてくれる、 清新な涼風。それはぽっかりと開いた心の穴を埋めてくれるようで、 絶対的に足りない何かを補ってくれるようで⋮⋮落ち着く。わたし は彼の隣にいると、心の律動が徐々に安定していって、やがて静か きしょうぶ な調べを奏でるのだ。凪、無風、名状しがたい安らぎ⋮⋮。 道端の黄菖蒲が楚々と咲いている。 わたしたちはしばらくの間、無言で田舎道を歩いていった。 心地よい。 ひどく心地よい。 ずっと味わっていたい。 永遠に噛み締めていたい。 65 あぁ、人はこの感情をなんと呼ぶのだろう。このキリキリと蝕ん でいくような苦しみを、渇きにも似たうずきを⋮⋮けれど、不快で はない。この感情を形容しうる言葉が見つからない。 時々殺したくなる。 狂おしいほどに、彼を殺したくなるときがある。 今がそのときなのかもしれない。平和。大いに満たされている。 でも、心のどこかで破壊したいとも望んでいる。破滅への我執。わ たしは彼を壊したい。猛烈に壊したいと思っている。でも、彼のい ない生活を想定してみると、目の前が真っ暗になった。わたしには 彼が必要なんだ、といった結論に行き着く。 あぁ、人はこの感情をなんと呼ぶのだろう。 今なら自信を持って言える。 この感情は︱︱。 悪意、であると。 ﹁おまえさ、これからも佐島と仲良くしろよ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 不意をつかれたわたしは素っ頓狂な声を上げた。佐島? なんで このタイミングで彼女の名前が出る? 混乱をよそに、緑葉千尋はその解をわたしに与える。 ﹁昼休みに佐島と話してるところを見たんだ。おれは委員会の集ま りで視聴覚室に行っていた。一方のおまえは佐島と購買部に行って たんだろ。仲良く話しながらさ﹂ ⋮⋮見ていたのか。 合点がいく。どうやら目撃されていたらしい。それも都合のいい 箇所だけ。わたしと佐島月子とがじゃれあっているシーンだけ。 奴はきっと知らないのだろう。佐島月子が過去、売春疑惑がかか っていて、一時周囲からいないものとして扱われていたことを。そ ふじみやよみたろう れらを蛾々島杏奈が皮肉と嘲笑を持って露払いしたことを。そして、 その後始末に藤宮詠太郎が一枚噛んでいたことを。 宿業。 66 さしずめ、宿業。 醜い黒歴史。 ﹁視界の端に見えただけだったから、何を話してたのかは分からか った。でも、話してたってことは確かだ。会話は親しい奴同士がや る行為だからな﹂彼は遠い目をしていた。雛の巣立ちを祝する親鳥 のような顔。﹁今から失礼なこと言うぞ。おれさ、おまえに友達な んていないと思ってた。でも、そうじゃないらしい。それを見て、 ちょっと安心したんだ﹂ 緑葉千尋は前々からわたしに友達がいないことを憂慮していた。 そういう緑葉も友達が多いほうではないが、わたしほど皆無ではな い。蛾々島杏奈の対人関係は緑葉千尋を除いて壊滅している。それ もこれも、このキャラクターのせいなのだろうけど。 だから、奴には蛾々島杏奈の友達探しなる気概を持っていた。折 を見ては、﹁友達作れよ﹂とか、﹁女の子らしく振舞え﹂とか言う。 大きなお世話だ、と思うが、それが一般的なものの考えかた。わた しの思考は常軌から逸しているのだから。 しかし。 器の狭いわたしは、これ以上誰かと意思疎通なんてできそうにな い。彼一人で手一杯なんだ。ほかの奴と親しくするなんて、多分無 理。 わたしの神経はそこまで複雑にできていない。一人の人間の 思惟を予想するだけでもきついのに、二人にも三人にもなれば、必 ずパンクする。ショート。わたしは彼の気持ちしか受信できないし、 彼にしかわたしの気持ちを送信できない。 同時に、満足している。この関係、距離に満ち足りたものを覚え ている。彼以外の夾雑物はいらないのだ。 でも。 もしかしたら。 彼はこの関係に満足していないのかもしれない。二人だけの閉じ た世界が嫌なのかもしれない。開拓と発展。それらを願っているの かもしれない。わたしは開拓も発展も望んでいないのに。 67 そんなことを考えると、体が鉄火のように熱くなった。燃え滾っ ている。何が燃えているのか。⋮⋮心? バカ言え、それではまる で、わたしが緑場との関係だけを希求しているみたいじゃないか。 一人自分の殻に閉じこもって、緑場の厚意に甘えているだけみたい じゃないか。 それではまるで。 緑場のことが好きみたいじゃないか。 ﹁緑場﹂ ﹁ん﹂ わたしは半身を引いて蹴りの体勢をとった。 奴はとっさに体をひねって、わたしの蹴りをかわした。地面に手 をつく。そしてやれやれと首をふった。﹁相変わらず手荒いなぁ、 おまえは。暴力はさらなる暴力しか生まないんだぞ。負の連鎖なん だぞ﹂と奴の顔には蹴りを回避したことの満足感があった。他人に おもねらない清廉があった。 ﹁なら、おまえのところで断ち切れ﹂わたしはきっと酷薄なものを 表情に浮かべている。﹁やっぱりイライラする。おまえの言葉は聞 いてるだけでイライラする﹂ ﹁⋮⋮イライライライラっておまえよぉ、そのうち血管が破裂する んじゃないか? 顔は割りと綺麗なんだからさ、怒った顔するとも ったいないよ﹂ 奴はぽんぽんと土を払って、わたしを見た。 その距離約一メートル。 はいぜん クリアに澄んだ薄暮。野鳥の鳴き声。電線によって区切られた空。 火照る頬。 雨が降り出した。沛然たる通り雨。たちまち夕空を暗雲が覆い、 寒冷な雨が地上に降り注いだ。 ﹁おまえと帰ると、たいてい雨が降るんだ﹂彼は苦笑しながらカバ ンから折り畳み傘を取り出した。﹁使えよ。おれの家はすぐそこだ から﹂ 68 ﹁あっ⋮⋮でも、おまえ⋮⋮﹂ ﹁この傘がおまえに使って欲しいって言ってるんだ﹂ 緑葉は無理矢理わたしに傘を握らせて、雨でぬかるんだ畔を走り 去っていった。 わたしは暫時呆然の態だった。先刻の感情の動きがよく分からな かったからなのだろうか。幸か不幸か、曖昧模糊としたそれは緑場 との別れで立ち消えてしまった。 冷たい雨が空っぽのからだを満たしていく。 わたしは舌打ちをして、傘を広げた。 69 第十二話 蛾︵3︶ 帰宅すると玄関にきらびやかなハイヒールが一足あった。 嫌な予感がした。 彼から借りた傘を適当に傘立てにいれ、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。 ちゅうたい 吐き気にも似た焦燥感だ。吐き出したくなる。まるで呪いだ。わた しの人生を束縛する重荷、罪の十字架⋮⋮。それは血を紐帯とする 忌むべきつながりでもあった。 断ち切ってしまいたいけど、断ち切れない。 切り離してしまいたいけど、切り離せない。 もどかしい。 ﹁あら、お帰りなさい。杏奈﹂ そいつは化粧をぬりたくった醜悪な面でわたしに挨拶してきやが ったのさ。 丸型テーブルには三十代後半の女と齢傾いた伯父がいた。二人は 兄妹の関係のはずだが、歳は十五も離れている。兄妹の仲は悪い。 もちろん、わたしもこの女が嫌いだ。殺人が罪に問われなくなるっ ていう法が施行されたら、この女を真っ先に殺すだろう。 わたしはかっと女を睨みつけた。おまえは不要だ、ここにいるべ き人間じゃないと、呪詛の思念を込めて。 ﹁もう、それが実の母親に向ける目かしら。まるで蛇みたいよ﹂ カラカラと笑う。 その笑い声は金属を摺り合わせたようで拒否反応が出る。でも、 妖艶。女の声や姿態は見るものを引き付けるほど艶やかで、隠れも ない色香が漂っている。 騙されない。 それは熟れすぎた果実が放つただれた色艶だ。退廃と堕落を意味 する危うい美しさだ。触れたものに破滅をもたらす。一皮向けば中 にどんな獣がいるか、知れたものではない。 70 ばいた ﹁なんのようだよ、この白粉臭い売女がっ。おまえに居場所なんて ないんだよ!﹂ ﹁そんな汚い言葉、どこで覚えたのかしら。やはり、それなりのと ころに通学させないと、性根まで腐ってしまうものなのね﹂ ﹁腐ってんのはおまえだっ! おまえのせいでどれだけ人生を無為 に過ごしたか⋮⋮おまえにはその償いをする義務があるっ! おま えはオレと伯父さんのATMであればいいんだよっ。二度とこの家 に来るなっ!﹂ 女は平然と受け流している。それで? そんな表情。まるで物み たいにわたしを見る。あぁ、あいつにとって私は単なる所有物に過 ぎないのか⋮⋮。 家族。 産み、産まれるから端を発する血縁集団。両親やきょうだいと愛 を育み、基本的なことを学ぶための機構。 ある種、木のようなものだと解釈している。幹が父親で、根が母 親、そして枝や葉に当たるのが子供。栄養の供給がなければ木は枯 れる。幹や根が腐敗すれば、枝や葉も道連れになる。反面、枝葉が 腐敗しても幹や根に直接的なダメージは出ない。家族とは得てして そんなものではないのか? 根っこが腐るから枝や葉が腐る。 そういうことじゃないのか? ﹁杏奈も少しは口を慎まんか! いくらこんな親でも親は親だろう ? そんなことを口にするのは⋮⋮悲しすぎる﹂ ﹁伯父さんもこいつの肩を持つのかよ!﹂ ﹁そういうわけではない。ただわしは嫌なのだ。こんな骨肉相食む の惨を演じるのは⋮⋮人倫にもとる。わしとて妹と姪が争う光景な んぞ、見たくもない﹂ ﹁だったら⋮⋮!﹂ ﹁だから話し合いの機会を設けたのだ!﹂ 伯父は烈火のごとく怒った。いつもは温厚な伯父が手を振り上げ 71 てテーブルを打ち叩いた。 わたしの母親はその様子を冷ややかに見ている。 伯父は悲哀の表情で呟いた。﹁こうなったのは少なからずわしに も責任がある。妹を正しい道に導けなかった責任⋮⋮姪に過酷な人 生を歩ませた責任⋮⋮わしはここで清算したい。これはけじめだ﹂ ﹁⋮⋮分かったよ﹂わたしはへなへなとくず折れた。そんなことを 言われては折れないわけにはいかないじゃないか。わたしは仕方な ていだん くテーブルのそばによった。 鼎談。 元凶は︱︱父と母との不和にあった。元より愛情など露ほどもな い。打算と営利のみで契られた婚姻だった。 そんな中生まれたのがわたし︱︱蛾々島杏奈だった。 母は幼少期の頃からわたしに英才教育を施した。過剰な教育、過 剰なしつけ、過剰な指導⋮⋮わたしの生活は徹底的に母親に管理さ れていた。友達なんていない。そばにいるのたいてい母親か家庭教 師。 それは一種の代替行為だった。母は自分ではなし得なかったこと を娘を通じてなしたかったのだろう。自分の理想を子に押し付けた のだ。でも、子供の脳みそは真っ白だから、疑うことなく飲み込む。 気がつけば母親に言いなりのお人形ができる。 人形が自我を持ったのは十三歳の誕生日だった。その辺りから自 らの環境が閉鎖的で不可解なものだと気付いた。箱の中から箱の外 は覗けない。気付くのにかなりの時間を費やした。 そして。 爆発。 わたしは胸襟にくすぶる違和感や、何者かに操られているような 居心地の悪さを暴露した。 後から振り返ってみても、それが分岐点だった。 わたしは脱出した。母の財布からくすねたカードと現金を持って 逃走。縁者を頼ってはるばるこの石倉市へと流れ着いた。都道府県 72 を一つまたぐ程度だったので、そう大規模なものでもなかったが、 生まれてこの方一度も電車等を使ったことがないからすごく苦労し た。苦難の旅だった。 初めは一週間ほど逗留して母親の考えを改めさせよう、といった 考えだった。けれど、伯父との素朴な生活に愛着を感じ始めて、母 親からの連絡は全て無視した。伯父も母の鼻につく性格が嫌いだっ た。 目くるめく開放感。わたしは自由を知った。愛情を知った。人間 の生き方を知った。 一ヶ月ほど学校や両親を放り出した。母親からの連絡は絶えてい た。わたしの家出が原因で離婚したらしかった。わたしは完全に冷 かすがい え切った父と母を想起した。当たり前だった。そう長く続くはずが ない。子は鎹。夫婦をつなぐものは愛ではなく子︱︱。 心のどこかで、これでやり直せる、と力む自分がいた。伯父との 生活は充実していたが、やはり寂しさがあった。それは本来母親が 埋めてくれるはずの空洞。そのときのわたしはバカだったから、母 親に対して道徳とか倫理とかそういった架空のものを本気で信じき っていたのだ。 親権は母にあったが、わたしは伯父や他の親類の勧めでこのまま の生活を持続することになった。母は子を扶養できる状態ではなか った。なんというか、錯乱していた。正常ではなかった。人格崩壊。 わたしは半年も通っていない有名女子高を中退し、地方の高校︱ ︱石倉南中学校へと転学。父は他に女を作り、母の消息は途絶えた ⋮⋮。 わたしがオレになったのも、きっとこの頃。幸いと言うか、伯父 の家には古ぼけたパソコンがあった。それがわたしの第二の人格を 形成したのだ。わたしも母同様、微妙に人格が崩壊していたので、 虚構世界の一部を持って、その空白を補填しようと︱︱。 ﹁なんだおまえがここにいるんだよ﹂わたしは悠然といる母をねめ つけた。﹁トチ狂ってお友達にでもなりにきたのか?﹂ 73 ﹁私はあなたの母になろうと思ったのよ﹂と母はトチ狂ったことを 宣いやがった。﹁やり直しましょう、杏奈﹂ ﹁ほざけっ! 都合がよすぎるんだよおまえは! オレに散々なこ としやがったくせにいけしゃあしゃあと⋮⋮﹂ ﹁でも、寂しかったのでしょう?﹂ と。 母は。 ﹁私がいなくて寂しかったでしょう?﹂ ﹁⋮⋮てめぇ﹂ ﹁あなたは心のどこかで母の存在を恋焦がれていたのじゃありませ んか? あなたの隣にはいつも私がいました。あなたから見れば私 は煩わしい存在だったのでしょう。けれど⋮⋮けれど、けれど、け れど、私の持つ、すばらしき子供、と言う理想がいつしか、あたか もあなた自身の目標として認識されたのではないですか? 母に気 に入られる子供になろうと、そう思っていたのではないですか?﹂ ﹁虚妄だっ! おまえの言っていることは虚妄! そんなわけない っ。オレはおまえのおもちゃじゃないっ!﹂ ﹁あなたは⋮⋮いつ“オレ”になったのかしら。少し前までは“わ たし”だったでしょう? 私を排したその日︱︱あなたは私という 存在から開放︱︱素朴な田舎暮らし︱︱でもそれは、これまでの人 生を否定するような生き方︱︱失う前の回帰︱︱だからあなたは、 補填したのでしょう? 人格を取り繕った。空虚な自分に耐え切れ なかった﹂ ﹁オレは⋮⋮ずっと前からオレだったさ! それよりもっ! オレ はっ! 何でおまえがここにいるんだってことをっ! 聞いてるん だ!﹂ ﹁私はねあなたと一緒に暮らしたいと思っているわ。過去のことは 水に流して、親子水入らず、でね﹂ ⋮⋮わたしは呆れて、これまで無言を保っていた伯父を見た。伯 父は渋面を作って瞑目していた。 74 女はふわふわとわたあめみたいな笑みを浮かべている。 なんだよ。 イカレてる。 わたしはおまえの束縛が嫌だったから、全てを捨て去ろうと決起 したのだ。そしておまえは、行方も知れず、伯父に娘の扶育を丸投 げして、わたしをほったらかしにしていたんだろ。だったらそのま ま、おまえは社会の隅で泥やら霞やらを食って、かろうじて生き延 びていればよかったのだ。それなのに⋮⋮一緒に暮らしましょう、 なんて羞恥心と言うものがないのか。 ﹁実はね杏奈、私、近々結婚するの。それであなたを引き取ろうと 思う。今日来たのもあなたや伯父さんに打診するためよ﹂ ﹁はっ、結婚! オレがいたときは何の色も艶もねぇーおばさんだ ったのによぉー、オレがいなくなってから急に色気づきやがってっ。 これはオレって言う足枷がなくなったから、本来の下種な本能が開 花したってことなんじゃないのか? おまえの本質はやはり、俗気 多い毒婦だってことだろっ! そんなクズ女に引っかかる男はろく でもない奴って相場は決まってんだ。オレはそんなクズ夫婦の下で くだらねぇ家族ごっこなんざしたかぁねぇーんだよっ!﹂ まるで咆哮だ、と思った。たまぎるような叫び。母親に対する嫌 悪感が莫大に膨れ上がって、どうしようもなかった。 それにまがいなりにもこの女は、結婚と言う幸せを掴もうとして いる。こんな母でもそれなりに愛する男がいるということなのか。 腹立たしい。私はなおさらこいつのことが嫌いになった。 ﹁ま、落ち着け。⋮⋮落ち着け。お前の言い分はもっともだが、少 し頭を冷やしなさい﹂ ﹁伯父さん!﹂ ﹁今まで連絡を取っていなかった母親が急に来て動転したのだろう。 どこかに行っていなさい。こいつとはわしが決着をつけてやろう﹂ これまで静観を堅持していた伯父は颯と母を見据えた。節くれだ って手がテーブルに添えられ、厳しい顔つきになる。一方の母は相 75 変わらず白痴に笑っている。 逡巡する。伯父のことは信頼している。けど、これでは責任放棄 みたいで嫌だ。 と。 いわお 伯父の背中を見る。 まるで巌のように壮健な背中。白髪はすっかり薄くなり、畑仕事 で鍛えた筋肉はげっそりと削げ落ちている。けれど、その背中のな んと頼もしいことか。 ﹁分かったよ⋮⋮買い物にでも行ってくる。夕飯は肉じゃがにする よ﹂ ﹁うむ﹂ ﹁あぁ、言っとくが、食材は二人分しか買わないからな﹂と捨て台 詞をはいて、振り返ることもなく居間から中座した。 開けた扉の先には晴れ渡った夕空があった。 視線を傘立てに転じる。 ⋮⋮返しにいこうかな。 彼の顔が見たいと思った。傘を返却するついでに、彼の顔を見よ う。それでとりとめもないことを話して、お礼を言うのだ。日頃彼 にはひどいことをしているから、詫びもかねて、さ。彼ならからか い混じりに許してくれるだろうし、わたしの淀んだ陰鬱をも晴らし てくれるだろうから。 わたしは彼の傘を持って、柄にもなくルンルンと歩を進めていっ た。 76 第十三話 兄︵7︶ 人は一人では生きていけない。 人は二人では生きていける。 でもさ、二人で生きていけるとしても、二人っきりではこの世界、 生きていけないと思うんだよ。 あの日︱︱。 しょうらい ぼくと君が乗り越えた行路の先には、もう道は続いていなかった。 ◆◆◆ さいがい 際涯のない田畑の地平を見ると、秋めく松籟のように胸がざわめ いた。 ざわざわ。 得体の知れぬ焦燥が忍び寄ってくる。それは世界から切り離され るような感覚に似ていた。 ぼくは電柱に体を預け、ぼんやりと薄暮の空を眺めていた。 太陽が沈んでいく。 もうじき、月が空に浮かび上がる。 人生は螺旋階段のようなものだ、と人は言う。 日常。同じ景色。ぐるぐると回っている。 そうじゃない。 見える景色は変わらない、ように感じる。ただ、少しずつではあ るが、上昇している。 77 徐々に、徐々に。 螺旋階段は文字通り螺旋を描く。円。高みへと続く螺旋。幾許の 星霜を経てなお、無限⋮⋮のように見える有限。確実に終わりがあ る。渦。人の織り成す渦。 人生も同じだ、と人は言う。 知らぬ間に高いところへ行っている。普遍の日常。ありきたりな 毎日。人は思う。疑問を持つ。自分は変わっているのか。何かが変 わっているのか。 そう思うのも無理はないんだろうね。 気がつけば、人は成長している。変わらないと思っていたものは、 無意識のうちに変質していくのだ。 階段を上がっていけば、やがて見えてくるのだろう。疲れたら階 段の上に腰掛けて休んでもいいだろう。 欲していた答え。 望んでいた願い。 いずれ、近づく。手に入れることができる。 でも⋮⋮この愛だけは、このときめきだけは⋮⋮ダメなんだよ。 いけないことなんだよ。分かるだろ、静絵。そんな感情、家族に対 して持っちゃいけないんだ。家族は家族。ぼくはおまえの兄で、お まえはぼくの妹じゃないか。なんで愛を罪だと、思わなくちゃなら ないのさ。 と。 隻影。華奢な一個の人間︱︱。 ﹁よぉ、緑場﹂ そいつははかなげに、剛毅に、笑ってみせた。透き影を作る頬、 弧の形を描く唇、どこか幸薄げな笑顔⋮⋮。 ﹁そんなとこにうずくまっても車は止まってくれねェーぞ﹂ ﹁言っておくが、ヒッチハイクじゃないからな﹂ ﹁でもよぉー、こんなど田舎じゃぁ、止まってくれるのはせいぜい トラクターってのが関の山だぜ﹂ 78 蛾々島杏奈はころころと笑った。 あぁ。 邪悪だ。 うつぼつ 彼女の笑みはひどく邪悪だ。世に対する恨みであるとか、あくな き憎悪であるとか、そういった不の感情が鬱勃している。純然たる 悪意。それは触れてはいけない美醜の極地。屈折した優美と突出し た醜悪とが混ざり合った、この世にあらざるもの⋮⋮。 手元には。 手元には︱︱傘がある。 ﹁⋮⋮律儀な奴だな﹂ ﹁は? 何がだよ﹂ ﹁それ﹂ぼくは傘を指差した。﹁返しに来てくれたんじゃないのか﹂ すると蛾々島は困ったような嬉しがるような、そんな奇妙な笑み を浮かべた。﹁いや、その⋮⋮まぁ、そんなところだよ、バカ﹂ ﹁バカって言った奴がバカなんだぞ﹂ ﹁んだよ、魔族に対する宣戦布告かコラ。人類対魔族の全面戦争か コラ﹂ ﹁傘返してくれたら和平条約結んでやるよ﹂ ﹁はっ、謹んで受け取りやがれ愚昧なる人間がっ! おかげで雨に 濡れることなく家に帰れたぞクソヤロウ﹂ ﹁またそんな汚い言葉使ってさ。誠意は伝わったけど、もう少しお 上品に言ったらどうなんだ﹂ ﹁おまえはオレのお守りかよ。そういうときは自由奔放でよろしゅ うございますね、だろ﹂ といいながらも、蛾々島は楽しそうだ。 ぼくは立ち上がって突き出された傘をもっともらしく拝受する。 受け取る際、互いが互いを窺うように、彼女はぼくに上目遣いを 向けて、ぼくは気恥ずかしげに頬をかいた。 目が合うと、二人して腹を抱えて笑った。その様子がおかしかっ た。赤らんだ蛾々島の面貌がかわいらしいものに見えた。 79 ﹁なぁ、緑場⋮⋮﹂ ﹁なにさ﹂ ﹁オレの買い物に付き合えよ。今日は肉じゃがだ。オレの得意料理 のよぉー﹂ ﹁⋮⋮分かったよ。どうせ反対しても無駄なんだろ。無駄を省くた めにここは“イエス”といっておく。おれは無駄って言葉が死ぬほ ど嫌いなんだ﹂ ﹁その考えには同感だけどよぉー、それは失礼ってもんだぜ⋮⋮拒 否権はないけどな。おまえに拒否権はないんだけどな﹂ ﹁だろうと思った﹂ こうべ ﹁すっかり主従精神が板についてきたな、緑場ぁ⋮⋮さ、主人の散 歩だぜ⋮⋮ついてこいよ、おれの後ろをよぉ⋮⋮こう頭を垂れて、 従順によぉー﹂ ﹁だから、なんでそうなるんだ﹂ ﹁ほら、さっさとついて来い。日が暮れる⋮⋮夜がくるぞ⋮⋮もう すぐにな﹂ 蛾々島はぼくなんぞ意に介さず、踵を返している。スーパーに向 かう気なのだ。土ぼこりの立つ畑道。背中はついてくるようぼくに 促している⋮⋮。 ﹁⋮⋮やれやれだな﹂ 蛾々島との買い物が終わると、太陽はすっかり西の空に没してい た。 気付いたことがある。自分が思う以上に時がたつのが早いという こと。そして、蛾々島が意外に家庭的な人間であったこと︱︱だ。 食材を選別する蛾々島の手の動き⋮⋮長年ああいうことをやって きた手つきだ。値段と味とを考慮している。蛾々島家の食事は奴に よってまかなわれているのか? だとしたら、蛾々島杏奈に対する 80 認識は大きく変わってくる。⋮⋮奴は家庭的な女なのか? おそらく、七時を回っている。 これからどうすればいいのか悩んでいた。このまま家に帰るか、 だれかの家に泊めてもらうのか⋮⋮。ぼくは半分妹を無視するよう な形で家から飛び出してしまっている。返答をしていない。静絵の 想いに対して、﹁はい﹂のか﹁いいえ﹂なのか、答えていない。 でも、彼女を拒絶してしまえば大変なことが起こりそうな気がした。 元々静絵は情緒不安定な性格で、今の枯淡な生活がかろうじて心 の均衡を保っている状態なのだ。それがぐらりと揺れてしまえば、 崩れてしまえば、いったいどうなってしまうのか。想像が易いだけ に、想像したくない。きっと彼女は壊れてしまうだろう。 しかしだからといって受け入れる、と言う選択肢はありえない。 ぼくは彼女を一度もそういう風に見たこともなければ、女として意 識したこともない。確かに静絵は割と綺麗な顔立ちだけど⋮⋮ほら、 あれだろ。妹だろ。恋愛対象としてみるわけないだろ。むしろ、守 るべき存在。庇護し温かく見守ってやるのが兄の務めと言うもので はないのか? 我ながら無意味な葛藤をしていると、ぶるぶるとポケットがバイ ブレーションした。ポケットがふるえるわけないから、しまいこん だ携帯が誰かからの着信を知らせているのだろう。 二つ折りの携帯をあけてみると、青白い画面にはただ一言、静絵 と表示されてある。 背筋に嫌な汗が流れた。 一瞬、切ってしまおうか、といった思考が働いた。 けれど。 ﹁⋮⋮もしもし﹂ ﹃⋮⋮千尋?﹄ 画面の向こうからか細い声が聞こえてくる。彼女の声色からは安 堵という感情が読み取れた。それと喜び。女の喜悦。にじみでてい る。 81 ぼくの携帯には小数なれど何人かのメールアドレスなんかが記録 されている。しかし静絵のそれはおそらく家族のものしか登録され ていない。彼女と外界とを接続する術はなく、また外界に属する友 人もいない。連絡する相手は家族だけ。一般的な学生が静絵の現状 を見れば、ひどく悲しいものに映るに違いない。 ﹃いきなりどっかに行くなんて、ずいぶんひどいじゃないか。どこ に行ってたんだ。わたしを放置して、どこに行ってたんだ﹄ ﹁⋮⋮気分転換に外の空気を吸いに出たんだ。それで、それで⋮⋮ 偶然友達と会って、それで⋮⋮﹂ ﹃それって︱︱女?﹄ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹃とにかく、帰ってくるんだ。逢いたい。わたしは千尋に逢いたい ⋮⋮。千尋はイジワルだ。わたしに寂しい想いをさせるなんて、怒 りを通り越して呆れているぞ、わたしは﹄ と不満げにいいつつも、静絵の口調は妙に柔らかい。刺々しさと いったものはすっかり消えている。 そして⋮⋮静絵の言い分はまるでぼくの彼女みたいだった。あた かも睦まじい恋人のように接してくる。そこに違和感を覚えた。も しかしたら静絵の頭の中では、ぼくという存在が別の何かに置換さ れているのかもしれない。 置換。 兄。 緑葉千尋という存在。 82 第十四話 兄︵8︶ ﹃⋮⋮そう、まずは玄関の扉を開けて⋮⋮お母さんはいないよ。町 内会の集まり。八時まで帰ってこない。お父さんは今日、夜遅くま で残業なんだよ。だから、二人っきり⋮⋮玄関の扉を開けると、右 手に階段がある。それを上って⋮⋮一歩、また一歩⋮⋮少しずつわ たしと千尋との距離が近くなっていく⋮⋮早く逢いたいな。早く着 て。早く上ってきて⋮⋮小さな廊下。わたしの部屋と千尋の部屋。 奥にわたしの部屋がある。無愛想な扉。ドアノブをにぎって。そし こわく て、ひねるんだ。ひねってみるとほら⋮⋮わたしがいるよ﹄ 静絵は椅子に座って蠱惑的にほほえんでいた。 背後の出窓から、はかなげな斜陽が漏れ出ている。 携帯電話から囁かれる妖しげな声に導かれて、ぼくは妹の部屋に 入室した。ぼくは道中静絵の声を聞きながら、帰宅の途についたの だった。気が変になりそうになる。なにせ、静絵はまるでぼくの恋 人のように振舞うんだから。認識の相違。 ﹁おかえり﹂ 携帯電話から聞こえる声と眼前との声が一致する。静絵の声はこ れまでとは打って変わってかすかに甘い響きがあった。 ﹁寂しかったよ。おまえがわたしを置いて、どっかに行っちゃった から。女に恥をかかせるな。⋮⋮異性の告白を前にして逃亡はない だろう、逃亡は⋮⋮それで、どうなんだ? 好きなのか? わたし のこと。どれくらい好きなんだ? わたしのためなら地球が滅びて もいいくらいか? わたし以外のものを全て失っても、それでいい と思えるくらいわたしのことが好きか? わたしは⋮⋮好きだ。千 尋のことが好き。大好き。千尋にわたしを受け入れてもらいたいっ て思ってる⋮⋮千尋の全てが欲しい。わたしに千尋の全てを投げ打 って欲しい。わたしも千尋に全てを委ねたい。それくらい⋮⋮好き。 こう、千尋のことを想うだけで胸が苦しいんだ﹂ 83 静絵は胸に手を当てて神妙な顔つきをしていた。匂い立つような 美しさ。妖艶。赤いワンピースをはいている。すごく様になってい て、こうしてみると結構美人だった。裾から伸びる上腿はすらりと 伸びていて、セミロングの黒髪は綺麗に夕焼けに映えていた。 普通の女の子と変わらない。 けれど。 この違和感はなんだ。 ぼくは無言のまま突っ立っていた。意味が分からなかった。現実 感を欠いている。目の前の現象が信じられない。 静絵は︱︱妹は︱︱ぼくへの慕情を切々と訴えている。可憐に伏 ふんぷん せられた眉も、小さくすぼめられた唇も、どこか愁いを帯びた両の 目も、芬々たる香気を放っているんだ⋮⋮。 幼い頃の静絵は意地っ張りのバカだった。ぼくを見る目はどこか 反抗的で、好奇心にあふれている。まるで血気盛んな少年のよう。 しかしいじめを境に欝っぽい目になって、いつも顔を打ち伏せるよ うになった。中学校の頃は毎度ぼくの教室に駆け込んできた。そし てぼくが高校に進学すると同時に、ぼくを無視しだした。ねめつけ るような眼差し。 乖離している。 そう思った。今までの静絵とは大きく乖離している。 静絵の眼差しはあだっぽく濡れていて、舌をちろちろと出し入れ していた。 ﹁千尋⋮⋮聞いているのか、千尋。よそ見をするな。悲しい。わた しを見ろ。わたしだけを見ろ⋮⋮﹂ 静絵に腕を掴まれた。 目が合う。 ﹁あ、あ⋮⋮﹂ ぼくはふやけたような声を出して、静絵を直視していた。静絵に 触れられた箇所が熱を放っている。 ﹁千尋⋮⋮﹂ 84 静絵がゆっくりと肉薄してくる。 ぼくは。 ぼくは︱︱。 ﹁静絵﹂ ぼくは静絵の肩をつかんだ。 ﹁う⋮⋮うん⋮⋮﹂ 静絵は頬を赤く染めて小さく震えている。 決断を︱︱迫られているのではないか、と思った。 た 過ちを正す機会。 偽りを矯める機会。 何が正で何が誤なのか。 何が誤で何が正なのか。 何が真に何が偽なのか。 何が偽で何が真なのか。 人は悲しい生き物なのかもしれない。隣にいるものが何を考えて いるのかすら分からず、自分が何を思っているのかもまた、分から ない。自家撞着に悩み、この世の矛盾に苦しみ、生と死の狭間とに 揺れ動く。 死はすなわち︱︱ゼロであるという見解。人は死んでゼロになる。 では、生とははたしてなんなのだろうか。 プラスなのだろうか。 マイナスなのだろうか。 人の生涯は常に微妙なマイナスであって、死んで初めてゼロに戻 る︱︱ということではないのか? 生きることはつらい。だから、 生きながらえるのはマイナスを受容し続けるということではないの か? 人は往々にして苦役や苦難に耐え忍んでいる。他者と共有で きない苦しみ。降り注いでくる苦難、痛苦⋮⋮親しいものの気持ち すら理解できない。離れている。どうしたって近づけない。触れ合 う距離にあるのに、相手の意中が、真意が、計りがたい。むしろ、 疑わしいものにすら見える。 85 ろくろく 人は碌々と困窮、困苦を受け入れる。仕方がないと諦めて⋮⋮放 棄。見て見ぬふりをして等閑に付すのだ。 すぐそばにある不幸。苦しみは永遠になくならない。人の宿業。 生まれながらにして断末魔の十字架を背負っている。不幸からは逃 げられない。人生の幸福や不幸、プラスとマイナスの形は上下にう ねる波ではなく、ただただ不の直線でしかないのではないのか? そうとしか思えない。絶対的な何かによって定められている。 そして。 もう一つ、定められている。人間は決してなくならない受難、そ して︱︱使命のようなものを帯びているのだ。使命。ぼくの場合は 何だろうね。平凡に生きること? あるいは︱︱大切な人を守るこ と? ⋮⋮大切な人。それはいったい誰なのか。おまえはそれに心 当たりがあるか? ぼくはいままで、誰のために生きてきたんだ? 分かるわけないさ。 悲しい生き物だよ。 人は。 ぼくは。 ﹁静絵はさ、おれのことが本当に好きなのか?﹂ 静絵は目に見えて真っ赤になった。困ったように目を逸らす。新 鮮な反応だ。ぼくはこれまで、妹にそんな表情をされたことがない。 ﹁⋮⋮好きに決まってるっ。わたしは好きなんだ。おまえが、千尋 が、好きなんだ。あぁ、この感情がおかしいってことは分かってる。 わたしは狂ってるんだ。でも⋮⋮おまえがいない世界なんて、考え られない。ずっとそばにいて欲しいんだ。隣にいて欲しい、抱きし めて欲しい、愛して欲しい⋮⋮それで、おまえは、おまえは⋮⋮わ たしのことを、どう思ってるのか、気に、なる⋮⋮教えて欲しいん だ。千尋の胸のうちを⋮⋮臆病だから。わたし、臆病なんだ。おま えの感情が分からない、何を考えているのかも分からない。びょー きなのかな。分からないんだ、相手が何を思っているのか。だから、 だからっ! 言葉にしてくれないとっ、分からないんだよ⋮⋮。千 86 尋。おまえがいないと、だっ、ダメなんだ。ダメになる。心と体が 使い物にならなくなるんだ。自分の腕が自分のものとは思えない、 自分の足が自分のものとは思えない、自分の感情が自分のものとは 思えない⋮⋮欠落している。通常の思考回路が断絶してるんだ。人 格が壊れてるんだよ。それでさ、千尋。直して欲しいんだ、おまえ に。おまえだけなんだ。おまえだけがわたしを救ってくれる。籠の 中の鳥はもういやなんだよ。普通の人間にしてくれよ、わたしをっ ! 千尋を愛してもいい人間にしてくれよ、千尋っ! 頼むよ⋮⋮ お願いだから⋮⋮わたしを⋮⋮﹂ 静絵はぼくの胸に手を押し当てた。もう片方の手は不安げにワン ピースの袖を摘んでいる。 ぼくは。 君は。 静絵は今にも消えてしまうそうな表情をしている。思いつめた顔。 専一にぼくだけ見ている。 記憶がフラッシュバックする。 手ひどくいじめられていた静絵、悲しそうに笑う静絵、鬱々と沈 み込む静絵⋮⋮。 静絵が静絵であるために。 君は。 ぼくのことが必要かい? 87 第十五話 兄︵9︶ ﹁いただきます﹂ さや 眼前には一膳の箸と一組の皿。各々に焼き魚が三尾、大根おろし とともに盛られている。それと一莢のさやいんげん、一椀の味噌汁 ⋮⋮質素な我が家の夕食。 三人が食卓を囲んでいた。ぼく、父、母の三人だ。 ﹁千尋、学校のほうはどうなの﹂母さんが聞いてくる。 ﹁普通だよ、普通﹂とぼくは受け流すが、さて、普通とはなんだろ う、と思った。普通。みんなが好んで口に出す言葉。それだけで大 まかな意思疎通が図れる。けれど、﹁普通﹂の乱用はコミュニケー ションを薄っぺらいものにしてしまうような気がした。 ﹁勉強はちゃんとできてるの? 友達は? 仲良くしてる?﹂ ﹁勉強はやってるし、友達も⋮⋮それなりにいるよ﹂ ﹁そう。頑張りなさい﹂ 母は会話を切った。 飯を咀嚼する音だけが寂と響く。空洞の箱の中に物を落としたか のような、そんな密やかな静かさ。凪。 緑葉家は欠陥を抱えている。いびつともいえる家族の不備ともい えるし、長年の心労がたたったのか、父と母からは骨の髄までしみ こむような暗然たる弊があった。 ﹁勉強は大切だ。勉強するだけで評価される時期は学生のときにし かない﹂ 魚の身に箸を突き刺し、歯ですり潰す。 ﹁人の価値は勉学等の能力だけでは決まらない。それはアホの考え だ。されど、社会は人の価値を能力のみで判断する。人格はほぼ考 慮されない。能力だ。薄い人間関係を紐帯するものは能力であるし、 厚い人間関係を紐帯するものは人格だ。千尋。おまえは学問を磨き、 人格を練りなさい﹂ 88 父は厳格な顔立ちをわずかに、柔和にたわめた。そのしわは社会 の荒波にもまれてできたもので、そのえくぼは人を愛することを知 っているからできたものだった。 胸底で父さんの至言が反芻される。ある種の真理ではないか、と 不肖ながら思索を走らせた。人をつなぎとめるものは能力であるし、 損益でもある。愛情とは本来、架空のものだ。愛という概念がある ほうが、社会と言うものをより円滑に進めることができる。愛がな ければきっと、社会は秩序を失う。愛とは一種の規律でもあった。 そんな中、無償の愛というものがあるらしい。キリスト教におけ る究極的な相互愛だ。蛾々島がいっていた。﹃無償の愛。そんなも のがあるなら、みんな金に糸目をつけず買いあさるに決まってんだ ろ﹄。そして奴はぬるま湯みたいな世の中を俯瞰して、冷たく笑う んだ。 ﹁ご馳走様﹂ 夕餉の膳を流し場に移す途中、﹁これ、届けてくれないかしら﹂ と母がテーブルを指差していった。その先には手付かずの食膳があ った。﹁こぼさないよう気をつけるのよ﹂ ﹁分かった﹂ぼくは二つ返事で頷いた。飯の品々を盆に乗せる。あ ぁ、それと、と付け加えるように、﹁母さん、いつもご飯作ってく れてありがとう﹂といった。 ﹁え?﹂とは母は面食らったような顔をした。 ﹁行ってくる﹂ ﹁あ⋮⋮行ってらっしゃい﹂ どこかずれたような会話をしながらも、ぼくは居間をあとにした。 階段を一歩ずつ上っていくたびに、なぜぼくは﹁ぼく﹂から﹁お れ﹂になったのだろう、と考量してみた。 まず考察すべきは﹁ぼく﹂が﹁おれ﹂になったきっかけだろう。 89 時期は⋮⋮中学校に入学したころかな。あれ以来、﹁ぼく﹂は﹁お れ﹂になった。﹁おれ﹂という自称を手に入れた。 おそらく家族とのつながりが関与している。父母ではない。父母 はぼくに対して不干渉を貫いていた。なにもぼくが気に食わないか ら、という悲しい理由からではない。きっと娘の看病にいっぱいい っぱいだったからだと思う。結果、ぼくは放牧された牛のようにの びのびと育ったんじゃないかな。それでも、心のどこかで実妹の影 があった。ぼくは妹が大好きだった。あぁ、なんといえばいいのか な。 無償の愛⋮⋮? ともかく、折を見てぼくはぼくなりに妹のことを大切にしよう、 とは思っていた。しかしながら、とことん無視されたわけだけど。 総括すると、一人称の変遷はきっと妹という存在が根幹にある。 強い人間になろう、とでも思ったのだろうか。﹁ぼく﹂は﹁おれ﹂ という一人称に、強く、荒々しいイメージを幻視していたのか? 階段を上り終えると、二つ部屋がある。ぼくは奥のほうに向かっ た。 ノックする。 ﹁入るよ﹂ 返事はない。 仕方なくドアを開けた。 薄暗い部屋の中に、彼女がいた。 ﹁電気、つけろよ。目が悪くなるぞ﹂といって、ライトをオフから オンにした。とたんに明るくなる室内。 静絵はベットに座っている。 物憂げに窓の外を見ていた。 四角い枠の内から夜気が立ち込めている。 ﹁心配してくれるんだ﹂静絵は妖艶に笑ってみせた。雪のように白 い肌が心をぞわぞわと波立たせる。 ﹁嘘だよ﹂ぼくは盆を机の上に置いた。﹁さっきの言葉、全部嘘さ。 90 これから本当のことを言う。用件は二つある。一つ。“飯を食え”﹂ 静絵は皓々とした月明かりに照らされている。表情はあまり読め ない。うつむいている。 ﹁母さん、ちょっと嬉しそうだった。おまえが珍しく着込んでるか ら、外に出ることを期待してたみたいなんだよ。親の期待に応える のは子の役目だろ。たまには外出しろよ。おまえ、結構綺麗なのに もったいないぞ。⋮⋮嘘じゃない。おれが本当に思ったことだから な﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁用件二だ。“無駄な心配をかけるな”。母さんにも、おれにも﹂ 静絵は陰々滅々としている。おぼろげな蜃気楼のようだ。実体が ない。感情や情緒といった熱が死滅している。 と。 静絵は。 よちよちとまるで幼児のようなつたなさで歩き出した。見るから に危うかった。静絵はゆらゆらとからだを揺らしてぼくのところに きた。 そして。 静絵はぎゅーっとぼくの服の袖を握った。袖を伝って最終的にぼ くの指をつかむ。本当に幼児のようだった。 ﹁わたし、おまえに無駄な心配、かけてるのかな﹂とか細い声で言 うんだ。﹁こんなんだから、わたし、ダメなのかな﹂ ﹁⋮⋮ダメじゃないよ。大丈夫。静絵は大丈夫だよ﹂ ぼくは彼女の頭をなでてあげた。静絵は泣き笑いみたいな表情を 浮かべた。その様子は親鳥にあやされる雛鳥を連想させるが、どこ か名状しがたい歪みが内在している。 静絵はぼくの胸にすがりついた。これまでぼくにぶつけていた意 固地さは消え、ただもう⋮⋮ぼくに。 ぼくに。 ﹁大好きだよ、千尋﹂ 91 肌と肌とをこすり付けて、静絵は空っぽの笑みを浮かべる。 ﹁おれも大好きだよ﹂ 決めたんだ。 彼女とともに歩む。そう決めたんだ。どうしようもない。今まで 信じてきた価値観や常識なんかでは、とても静絵には太刀打ちでき ない。取り払わなければならない。そうしなければ、静絵は助から ないだろう。静絵は踏み込んでしまったのだ。深淵を、目くるめく 深淵を⋮⋮。 ﹁わたしのこと、大切にしてね﹂ ﹁当たり前だよ﹂ ﹁おまえがいないとわたし、ダメなんだ﹂ ﹁分かってる﹂ ﹁なるべく迷惑かけないようにするから﹂ ﹁遠慮なんかしなくていい﹂ ﹁世界で一番好き﹂ ﹁ぼくも﹂ ﹁幸せに、なろうね﹂ ﹁うん﹂ 思う。 人は誰にも使命を帯びている。大なり小なりそういった因縁があ るのだ。そうとしか思えない。そうでなければ、整合がつかない。 静絵の崩壊の説明がつかない。それを食い止めるために、ぼくは︱ ︱緑葉千尋は誕生したのではないのか? 社会は嘘にまみれている。 社会には嘘しかない。 信じられるものは己だけ。あるいは⋮⋮無償の愛。損得勘定に左 右されない、絶対的な愛情なのではないのか? 静絵はそれを︱︱ 禁忌という境界を越えてでも、体現しようと我が身を奮い立たせて いるのではないのか? だとしたら。 92 ぼくは。 愛を。 禁じられた愛を。 受け入れるしか。 93 第十六話 妹︵4︶ 社会は汚い。 嘘にまみれている。 わたしは汚い。 禁忌にまみれている。 現実は酷なだけ、むごい真実にあふれている。 耐えられない。 こんな弱いわたしに真実はいらない。必要なのは優しくて甘った るい嘘だけ。 甘ったるい、あの人の嘘だけ。 ◆◆◆ ﹁千尋﹂ ﹁ん﹂と千尋はペンを止めてわたしを見た。 二回の私室。 兄はわたしのテーブルを借りて勉強に励んでいる。その光景だけ でも極めて珍しい。千尋はあまりわたしの部屋に出入りしない⋮⋮ というのも、わたしが千尋を露骨に無視したりして、関係が険悪な ものになっていたからだった。けれど、わたしを受け入れるという 選択をした千尋は、折を見てわたしの部屋を訪ねるようになった。 嬉しい。わたしはにやける顔を必死に隠して、何食わぬ顔で千尋を 招き入れるんだ。 ﹁なんだよ﹂ 94 わたしはベットに寝転びながら、﹁なにやってるの﹂とてすさび な風に質問した。わたしの片手には漫画が握られている。それで顔 を隠した。その隙間から、千尋をガン見しているわたし⋮⋮。今に なって、千尋の顔を見るだけで胸がドキドキした。 ﹁数学だよ﹂ ﹁なに、二次関数?﹂と漫画をずらして千尋を覗き見る。 ﹁中学生じゃないんだから﹂と千尋は柔和な表情をして、﹁おれが やってるのはベクトルだよ、ベクトル。数?Bの範囲﹂と応じた。 はぅ、とこのわけの分からない感情に翻弄されながらも、﹁それ って難しいの﹂と尋ねた。学校に通っていないわたしに、ベクトル などといわれても分からない。 ﹁難しいさ。すっげー難しい。手間もかかる。これを考案した数学 者に文句を言ってやりたいね﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 漠たる静寂。 わたしはベットのシーツに身を沈めた。なんだろう⋮⋮恥ずかし い。わたし、千尋と会話してるんだ⋮⋮。 千尋と忌憚なく話していること、一緒の空気を吸っていること、 千尋の目がわたしを見ていること、その全てに悶えそうになる。ま るで小さい頃に戻ったみたいなんだ。漠然と兄のことが好きだった 自分。憧憬と恋慕。そんな淡い感情を抱いていた幼少期︱︱。 千尋はペンを走らせて、ノートに記号を連ねている。 ちゅーしたい。 手を伸ばせば、千尋の体に触れることのできる距離なんだ。それ に、心の距離も⋮⋮近く、なってるのかな。どうなのかな。千尋は どう思ってるのかな。わたしのことを、緑場静絵を︱︱どう思って いるのかな。 妹ではなく、一人の女性として、見てくれているのかな。 千尋は自然体を保っている。わたしと違って、緊張した様子はな い。⋮⋮そんな千尋が愛しくもあり、恨めしくもある。わたしはこ 95 んなにドキドキしているよ。心臓が高鳴ってるよ。あなたは、わた しの部屋にきてもどうも思わないのかな。だとしたら、悲しい。 段々と欲望が高まってくる。いつもと変わらない千尋を、犯した い。この手で、千尋を、汚したい。わたしと同じ感情を抱いてもら いたくて、わたしと同化してほしくて、そんな埒もない妄動をたく らむの、わたしは。 実行には移さない。 怖い。 千尋が離れていくのが怖い。 ずっとわたしのそばにいてほしい。 あぁ⋮⋮イカレてる。わたしは、イカレてる。わたしは今、実の 兄に悪しき感情を抱いている。そして、その人を手放したくないか ら、その虚妄を必死に押さえ込もうとしている⋮⋮。 罪深い。 わたしは罪深い。 でも。 ﹁こっち、向いて﹂ 千尋は何気ない風にわたしを見た。 ﹁あのね﹂ ちゅーしてほしい。 ﹁肩に髪の毛ついてるよ﹂ わたしは手を伸ばして、千尋の肩をはたいた。 ちゅーしてほしい。 なんていえないよ。 ﹁千尋ー、お風呂﹂ 階下から母の声がする。 ﹁今行く﹂と千尋は立ち上がった。﹁おれ、風呂入ってくるから﹂ 96 ﹁いってらっしゃい﹂ ﹁⋮⋮いってくるよ﹂千尋は少し面食らったように笑い、わたしの 部屋から退出した。 静かになる。 わたしはベットの上で体操座りになり、膝に頭を押し付けた。 罪悪感がよぎった。 お母さんの声がしたとたん、言いようもない羞悪が脳髄を貫いた。 千尋の肩に置いていた手。服越しではあるけど、千尋には触れてい る。そのことがなんだか、ひどく悪いことのように思えてくる。だ から、わたしは慌てて、ベットの上で後退し、千尋から離れようと 思ったんだ。 矛盾している。 緑葉静絵は名状しがたい自家撞着を抱えている。 行為に及んだことはない。好意こそあれ、行為に及んだことはな く、粘膜をこすり合わせたり、相手の口の中に舌をいれたりなんか したことはない。前にトチ狂って千尋に迫ったことはあった。隙あ らばやりたい、なんて心の底で思ってるかもしれない。わたしは千 尋を蹂躙したい。 しかしながら、心地よいとも思っている。この変哲もない距離感 に安逸を感じているわたしがいる。 距離感。 近づきたいのか、そのままがいいのか、離れたほうがいいのか。 近づきたいと思っていて、でも、離れている。 良心の呵責、といえばいいのだろうか。わずかに残っている倫理 観が、わたしの行動を阻害する。こんなに好きなのに、愛してるの に、ためらってしまう。ま、当然だよね。兄妹だもん。 鬱々と沈み込むわたし。 一人しかいない。 千尋はお風呂に入っている。 一人。 97 一人⋮⋮。 兄と和解し、わたしを大切にしてくれると誓ってくれてから数日 が経った。 わたしに手を出すそぶりはない。 わたしはスカートを着ている。丈の短いやつ。それと、白っぽい カーディガン。わたしは家の中にいるというのに、おしゃれには結 構気を遣ってるんだ。女らしくあるよう、心がけている。化粧も少 しした。 それもこれも、千尋にわたしに女を感じて欲しいから。千尋がわ たしに手を出しやすくするようにするため、ともいえるかもしれな い。すっかり思考回路が変態チックになってる自分がいる。 そもそも、こういう考え方自体がおかしいと思わなくちゃいけな い。相手は兄で、自分は妹。家族。家族なんだ。だから、千尋もそ んなことは思わない。千尋はわたしを大切にするとは言ってくれた けど、そういう風な関係になるとはいってないし、望んでいるかど うかは⋮⋮分からない。でも、わたしは望んでいる。それでもいい、 と思っている。むしろ、千尋と契りたい、とすら思っている。どう すればいいのかやり方は知らないけど、わたしはセックスがしたい んじゃないかな。千尋と。わたしは千尋が欲しいんだ。心も、体も ⋮⋮。 わたしは千尋の残り香が残っていることに気づく。 ﹁千尋⋮⋮﹂ 興奮と罪悪感がないまぜになる。その背徳的な高揚が、わたしの 肉体に淫靡なものを湧出させるんだ。 わたしは静かに立ち上がった。 部屋を出る。 階段を下り、左折すると、流し場とトイレが併設してある脱衣所 がある。 一枚の仕切りを隔てて、揺曳する蒸気と水の滴る音がした。 胸が釣り鐘を鳴らしたみたいに高鳴る。わたしの興奮は頂点に達 98 しようとしていた。 こうり 周囲には誰もいない。 竹で編まれた行李には、千尋の脱いだ服があった。 よこしまな思惟が一過する。 わたしは恐る恐る、それに手を伸ばした。 かぐ。 犬みたいに、かぐ。 わたしはそれを鼻に押し付けて、すーすーとにおいをかいだ。 ﹁千尋の匂いがする⋮⋮﹂ 余薫があった。このにおいをかぐと、ひどく安心する。精神の安 定。わたしは気が狂ったように千尋の衣服をかぎとり、肺を通して 千尋のにおいが、体の隅々まで行き渡るようにした。 気持ち悪い。 自分が気持ち悪い。 こんなことをしている自分が気持ち悪い。 でも。 気持ち悪くても。 たとえ気持ち悪くても、こうしていると、千尋をわたしの全部で 感じ取ることができる⋮⋮これは、すごく幸せなことだと思うんだ。 99 第十七話 妹︵5︶ 千尋が学校に行くと、とても寂しくなる。 わたしは自室の窓から、歩を進める千尋を見送るんだ。学生服を 着た千尋。左右には田がある。千尋はポケットに手を突っ込んで、 何気なく歩いている。 間遠い。 離れている。 わたしの行動範囲から、千尋が外れていくんだ。 千尋は学校に通っている。 わたしは学校に通っていない。 前者には未来があり、後者には未来がない。 後者には未来がなく、前者には未来がある。 この差を感じたとき、焦心に駆られる自分がいた。胸が苦しくな る。この差は何? 兄と妹でこんなにも違う。 わたしをこの世に留め、紐帯するものは兄と父と母との関係しか ない。家族とのつながり。それくらいしかない。 わたしは机に隠しておいたペーパーナイフを取り出した。 手首に当てる。 わたしはゆっくりとスライドさせた。鋭利な刃。肌に突き刺さる。 しとしとと赤い液体が滴り落ちた。 血は床に泉のように溜まっている。 血。 わたしと家族を結びつけるもの。 血液がわたしの存在を立証している。わたしの体を循環している この液が、ここにいていいんだよ、と語りかけてくるんだ。 すごく幸せ。 わたしはナイフを引き抜き、突っ立った。 すごく不幸。 100 恋慕が禁じられた背徳となる。あの人を想うこと自体が邪悪なの だろう。そのなのだろう。わたしは普通ではないのだろう。当たり 前だろう。わたしは引きこもりの社会不適合者なのだろう。わたし は兄に恋する人格破綻者なのだろう。 わたしは今になって、普通であることを欲する。 普通、普通⋮⋮とよく聞く。人は他者と同一であることに安心を 覚える生き物なのかもしれない。あなたとは同じ価値観を共有して いますよ、というサイン。共同体。わたしもその一員である、とい うことを暗に自分の言葉に忍ばせている⋮⋮。 いくらか滑稽なこと、と認識していた。他者と迎合するその姿勢 が卑小なものに映って見えた。おまえに自己というものはないのか、 と嘲笑する。そしてわたしは、他人と交じり合わない純潔の自分を 誇る。他者はあなたと同じであることに安堵を覚え、わたしはあな たとは違うということに自己同一性を覚える。 人はこの世に存在しているように見えても、人を介してでしか、 見えない。少なくとも、認識はされない。人は誰かに認識されない 限り、存在しないものとして定義される。 いくら他者から認識されずとも、わたしと言う存在はそれ以前に 厳然としてそこにある、という意見は卓見ではない。愚見。それは 真実にも似ていて、真実はいつも一つ、とは限らない。個々人の受 け取り方によって変動する。埋もれてしまえば、隠されてしまえば、 それは真実ではなく、事実ですらなく、何物でもなく、むしろ、な かつぜん んであるのか⋮⋮説明できる? ナイフが戛然と音を立てて、落ちる。手から滑り落ちた。 わたしは泣いていた。 ベットに転がり込む。 わたしは枕に顔を押し付けて、湧き上がる倦怠感と退廃的な悦に 満たされていく。 落下する快感。 わたしはナイフ。床に広がる血の沼に沈んでいくナイフと同じ。 101 わたしはあなたと同じ。底なしの沼なんだ。わたしはナイフ同様、 赤い深淵に身を横たえている。深いんだ。すごく深い。もしかした らこれは、わたしの罪の深さなのかもしれない。 この苦しみと安息はある種、心身が浄化されていくような不思議 に似ていた。朗らかでいて、清らかな心持ちなんだ、わたしは。 寝てしまえば、無に返る。 この気持ちも寝てしまえば、うやむやになる。以前からそうして きた。いやなこと、つらいことがあったら、寝たらいいんだ。眠っ てしまえば、解決する。忘却。頭から抜け落ちることを期待する。 淡いまどろみの海に沈没する。 考えないようにしよう。 考えない、考えない、考えない⋮⋮。 わたしには彼がいてくれればいいんだ。 それでいいんだ。 ◆◆◆ お昼になった。 午後一時。 五時間寝た。 貴重な時間を無駄にした、とは思わない自分が怖い。一般人にと って、五時間は貴重なものなんじゃないのかな。色々なことができ る。でも、何もしなかった。睡眠に費やしてしまった。無意義。 わたしの人生はぼんやりと砂時計を眺めるのと似ている。 さらさらと落ちているんだ。砂が上から下へと落ちている。わた しはそれを、茫洋とした心地で眺めるんだ。有限であるはずの生を、 102 活用すべき時を、無為にやり過ごす。無駄とも思わないのは、活用 しようとしないからだ。この身に宿る生命を役立てようとしないか らだ。ただ、座して時が経るのを待つ。 姿見の前に立つ。 寝ぼけ面のわたしがいる。泣きはらしたような顔。みっともない。 わたしは机の上のポーチから化粧道具を取り出した。 上塗りしようと思った。 口紅を塗り、白粉をはたき、アイシャドウを引いた。前に兄が、 ﹁このアイシャドウ、いいよな﹂といっていたのを思い出した。き っと、お世辞の類とは思うけど、以後、わたしはこのアイシャドウ を愛用することにしている。単純なんだ、わたしは。 好きな人が好きって言ってくれたものを、使いたいんだ。 身づくろいをして、鏡の中の自分を見る。 セミロング、というんだろうか。黒のセミロングに黒のアイシャ ドウ。肌は白い。﹁静絵の顔は本当、お人形さんみたいだわ﹂と母 が言っていた。どちらかというと、マネキンみたいだった。表情が ない。欠如している。わたしの顔は笑うことを放棄し、楽しむこと を自粛しているような、そんなつまらないものだった。 服装は線の細いインナーワンピースとスキニージーパン。ワンピ ースの色合いは墨を流したような黒。わたしは黒という色が好きな のだろうか。分からない。自分の嗜好すら疑問符。わたしは黒が好 きなのか⋮⋮? それくらいファッションに自信がないことの表れ なのだろうか。知識で知ってはいても、外を歩いたことがないから だろうか。寂しい。 103 第十八話 妹︵6︶ 私室から出て、階下に降りた。 居間にはテレビを見ている母がいた。 わたしの姿を見た母は、少し驚いたようだった。﹁あら﹂と口元 に手を当てて、パチパチとまばたきを繰り返している。 ﹁お母さん﹂わたしは気恥ずかしいものを感じながらも、﹁どうか な﹂といった。 ﹁き、綺麗よ﹂母はひどく嬉しそうな顔をした。﹁綺麗よ。すごく 綺麗。似合っているわ﹂ ﹁そう⋮⋮﹂ 母は立ち上がった。少し興奮している。﹁どうしたの、静絵ちゃ ん。着飾っちゃって﹂ ﹁外に﹂わたしはこんなことをいっていいんだろうか、と思った。 いって後悔するかもしれない。﹁行きたい﹂でも、認められたい。 初めはダメかもしれないけど、少しずつ、少しずつ、進めばいいん だ。﹁お金、貸して﹂ ﹁まぁ⋮⋮﹂ 母は手を震わせている。 その後、いそいそと財布の中に手を入れた。﹁持っていきなさい﹂ ﹁こんなにいらない﹂ 渡されたのは、一万円札が三枚だった。 ﹁いいから﹂母はむりやり万札を握らせた。﹁いいから、持ってい きなさい﹂ ﹁でも﹂ 母の目には涙が溜まっている。﹁いいから﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ わたしは何も言わず、お金を受け取った。母の手は深いしわが刻 まれていて、優しく、暖かかった。 104 ﹁静絵ちゃん﹂ 居間から出ようとすると、背中越しに母が声をかけてきた。 止まる。 ﹁いってらっしゃい﹂ ﹁⋮⋮いって、きます﹂ 日差しがまぶしいんだ。 まるで自分の醜い部分が克明に照らされているように感じる。 道行く人は概ね、農家の人だった。麦藁帽子を被り、長靴をはい ている。わたしは目を合わせないように通り過ぎた。通り過ぎると、 ばんじょう バクバクと脈打つ心臓が少し落ち着いた。それでも脈動は継続して いる。 石倉市は萬丈の山に囲まれた僻地だった。第一次産業を業種とす る人が多い。つまり老人が多いから、わたしの格好は微妙に浮いて いる。それに今は昼間なので、学生であろう若者が昼間にうろつく のは奇異なことだと思う。さっきの人も、胡乱な目でわたしを見て いたに違いない。 外に出るのは久しぶりだった。一年ぶりくらい。前はリハビリと して夜中に町を散策したりもしたけど、飽きて止めた。どうでもい いと投げ出して、年中部屋の中にいたんだ。 お昼時だからか、通行人は少ない。人通りが僅少なことに安心を うと 覚える。人がいないと、精神が安定する。でも、心のどこかで人の 温もりを求めている。人を遠ざけたいのか、人を疎んじたいのか、 自分でも分からない。分からないから、怖い。本当の自分はいった い何を希求しているのだろう。 畑道をしばらく進むと、希少なコンビニエンスストアが見える。 僻村に数少ないチェーン店舗。 わたしは汗をかいている。暑さからではない。針のむしろに座ら 105 された思い。熱を帯びた血液が激しく体中を巡っている。まるで日 射病みたいだ。くらくらする。 そのくらくらを押さえ、店内に入った。 ﹁いらっしゃいませ﹂ 年配らしい声がする。わたしはそれを無視して、足早に店員から 離れた。声をかけないでください、と切に思う。それと、あなたが 嫌いなわけでもありません、と心中で何度も謝った。わたしは身勝 手な罪悪感に囚われた。 わたしはポケットの中で握り締めていた万札を、おずおずと取り 出した。 何を買おうかな。 棚には食品や日常雑貨が置かれてある。どれも魅力的に映る。久 方ぶりに出歩いた興奮も手伝ってか、手元にあるお金が魔法の道具 のように思えた。なんでもできる、と言う錯覚。 わたしは菓子パンを手に取った。 安い。 記されている値段は、所持している金額からすれば、桁違いに安 く感じる。わたしは軽いショックを覚えた。なんだこれは。安すぎ るって。 この一驚を、千尋に伝えたい。 わたしの感じたこと、驚いたことを、彼も同様に感じてくれたら、 すごく嬉しいだろうな、と思った。共感してくれたら、きっとわた しの心は安らかになるだろう。 うきうきしていた。これから起こるであろう幸せが、早くも予測 できた。 チョコレートが好き。パン生地とチョコレートが絶妙に合してい る。これしかない、とわたしは気負いこんだ。まるで稚気溢れる子 供のように、わたしは新鮮な喜びに包まれていた。これまで鬱々と 家居していたことが嘘のように感じられた。わたしって意外に明る い⋮⋮? 106 ﹁これ、ください﹂ それでも、店員と目を合わさないようにした。胸中にはいまだ、 人に対する恐怖があった。この子供っぽい高揚も、裏を返せば他者 に対するおびえ、おののき、おそれが内在している。わたしのそれ は小動物のように神経質で、気が小さく、やや病的でもあった。 ﹁百二十円になります﹂ 無言で一万円を出した。 店員はどこか胡散臭そうに札を領収した⋮⋮ような気がした。そ う思うだけで身のすくむような不安が湧いた。わたしはこの人にど う見られているのだろう、おかしい奴と思われているのかな、どう なのかな。わたし、怖いよ。 わたしは膨大な釣り銭を受け取った。多い。 ﹁君﹂ と。 ﹁君は学生だろう。学校には行かないのか﹂ ﹁あっ、え⋮⋮﹂ ﹁半日と言うわけでもないのだろう。⋮⋮サボりかね﹂ ﹁い、そ、の⋮⋮﹂ ﹁どうせ親のすねをかじっているだけなのだろう。きちんと学校に 行ってはどうだね﹂ ﹁あうぅ⋮⋮ち、が﹂ ﹁この金も、親のものだろう⋮⋮違うかッ!﹂ やめてください。やめてください。やめてください。そんなに怒 らないでください。わたしをいじめないでください。 わたしはかちかちと歯の根を鳴らして、この場から逃げた。心臓 が急激に収縮している。手足の感触がない。 後ろから男の人の怒声が聞こえる。 ﹁聞こえない。聞こえない。聞こえない﹂ わたしは自己に暗示をかけるように呟いた。そうすることで平静 を保とうとする⋮⋮。 107 そうなんです。 そのお金はお母さんのものです。 わたしはいけない子なんです。 怒らないでください。 転んだ。 足を捻ったらしく、うまく立ち上がれない。 周囲には畑を耕作している人が何人かいた。その人たちはわたし には気づかず、農作物の土寄せをしている。 誰も気づかない。 誰も助けてくれない。 孤独。 ﹁うわぁああぁぁ⋮⋮﹂ わたしは石につまづきながらも、泣きながら道々を走っていった。 108 断章 これから歪んだ恋物語をつむごう。 * 強いて言うなら、彼女は完璧ではない。 れいろう 欠点があり、欠陥があり、欠落がある。玲瓏に見えて醜悪で、絶 佳に見えて俗悪で、秀麗に見えて暗愚。つぎはぎだらけの彼女。取 り繕っている。彼女は美しい皮を被り、ドロドロと負の感情の溶岩 をたぎらせているような女であった。邪悪だ、と思う。 そこがいい。 惚れてしまう。 彼女は天使。 見るものを釘付けにする。あぁ⋮⋮人はこの魅力を魔性とでも評 するのだろうか。足らない。その程度の表現ではとうてい、彼女の 美しさを形容できるわけがない。彼女は深淵にいる。境域。常人で は立ち入ることのかなわない陰陽の、善悪の、美醜の境に立ってい る。彼女がそこにいるだけで、周囲の人間は気がふれてしまうだろ う。現にかくいう自分も、気がふれてしまっているのだろう。 彼女を見てしまったのだから。 彼女を感じてしまったのだから。 全てを失ってもいい、と思った。彼女のためならば、なんでも犠 牲にできる。虚偽ではない。真実。確実にそんなことを思惟してい る自分がいる。恐ろしい。自分は一人の女のためだけに、全てのも のを投げ出そうとしている⋮⋮だがしかし、それでいいのかもしれ ない。それだけの価値がある。彼女にはそれだけの価値がある。 109 欲しい。 彼女が欲しい。 気弱に伏せられたまぶた、可憐な目元、漆を溶かし込んだような 美髪、清冽に澄んだ双眸⋮⋮その中にあるどす黒い不善。邪曲し、 屈折した心が美しい殻に陰々と閉じこもっているのなら、一思いに 露呈させてみたい。全部を白日の下にさらす。そうすれば、新たな 高みに上れるような気がする。一度底辺まで落としてみれば、頂上 では見えなかった景色が見れることだろう。あぁ、眺めてみたい。 その景色を彼女とともに眺めてみたい。そう思うのは罪か? はた して愛か? あるいはこれが恋なのか? 不完全ゆえに。 不完成ゆえに。 この己が精神と魂を持って、片羽の彼女を補完したいと思ってい るのだろうか。自分ならば、もう片方の羽を補える。彼女の補完は 自分にしかできない。むしろ、自分こそがふさわしい。自分ならば、 彼女を幸せにできる。 幸せ。 彼女とともに歩む行路。 なんとしても手に入れる。 誓う。 彼女を手に入れる。 * 心にエナメルを塗った。 優しい嘘を貫き通すために。 110 心にエナメルを塗った。 意中に愛をささやくために。 一点で交差する想い。 異なるスペクトルに彩られたそれは、神を失墜させ、悪魔を引き 摺り下ろし、死神すらも手玉に取るような運命に導かれて、同じベ クトルをたどる。 ﹃世界﹄すら詐術の一つに過ぎなかった。 もう。 絵本をとじるころかな。 111 第十九話 兄︵10︶ ま、結局、こんな世界だし。 ◆◆◆ ががしまあんな ﹁鳥になりたい﹂ ぼたん かや 開口一番、蛾々島杏奈は憂うような口調でそんな妄言をはいた。 五月。 路傍には楚々と牡丹の花がそよいでいる。濃い茅のにおいがする んだ。遠くを見てみればなるほど、真新しい入母屋造りの家がいく つかあった。 ﹁なれないよ﹂ ﹁それはやってみなくちゃ分からないだろ﹂蛾々島はむきになった ように返答した。 蛾々島の無軌道ぶりには慣れているので、﹁やんぬるかな﹂とた だ一言だけ言って、黙った。蛾々島に理論は通用しない。だから、 鳥になりたいなんてバカですかな、とは思っても、口にしないこと に決めてるんだ。 ﹁あぁ⋮⋮翼が欲しい。空を自由に羽ばたける翼が欲しい⋮⋮この 胸のざわめき⋮⋮夢で見た天女はオレに何かをささやいている⋮⋮ たおやかな羽衣を着た天女⋮⋮これはきっと、俗世を離れ、隠遁し、 瀑布に打たれて仙道を極めよとの天啓に違いない。天意だ。これは 天意なのだ⋮⋮﹂ ﹁おれの親戚に著名な精神科医がいるんだけどさ﹂とぼくは蛾々島 112 のほうを見ずに言った。﹁一度紹介してやろうか﹂ ﹁⋮⋮んだよ、オレの頭がおかしいってことか? そんなひどいこ とを言うなんてよー、見損なったぜ、緑場よぉー﹂ ﹁おまえは自分を見失ってるんだ﹂ため息混じりに言う。ぼくは本 当におまえの頭を心配してるんだ。いや、本当本当。嘘じゃない。 ﹁おいおい、オレは正気だぜ。オレは自分を見失うほどやわな精神 してねぇーんだ﹂ ﹁むしろ正気で、鳥になりたい、とか言うほうが怖いね﹂ ﹁なんだ、おまえはなりたくねぇのか?﹂蛾々島は無防備に顔を寄 せてきた。綺麗な顔。﹁鳥によぉー﹂ ﹁おれはどちらかというと猫のほうがいいな。ほら、見てみろよ、 あの猫﹂とぼくは道の脇を指差した。﹁のんきに日向ぼっこときた。 おれたちはこれから学校って言うのにさ、ちょっとうらやましいな と思うんだ、おれは﹂ ﹁あぁ、分かるぜ⋮⋮その心境。オレは珍しくもおまえに“共感” って奴を覚えたぜ。そうだな、猫も悪くねぇ⋮⋮鳥も捨てがたいが﹂ 蛾々島は鳥になるか猫になるかについて迷っていた。うーんと唸 っている。⋮⋮おいおい、と突っ込むべきか? 判断に迷う。そん なことしたら、与太話がさらに長引きそうだ。 畑道を歩いている。 よく、蛾々島と一緒になるんだ。登校時間がかぶっているらしい。 家を出てしばらくすると、示し合わせたかのように蛾々島と出くわ す。逢着。そのまま蛾々島と田畑と畦の道を歩くんだ。二十分くら い歩くだろうか。校舎は周囲を山と海に囲まれたところにある。ひ なびた村落であるが、どうにかこうにか生徒数を保っている。帰属 意識が高いというか、あまり村から出たがる村民が少ないからだろ うか、過疎化著しいとは聞かない。石倉市には三百人程度の学徒が いる。 徐々に生徒の数が多くなってきた。はるか前方には屹とそびえる 正門があった。 113 ﹁蛾々島﹂ ﹁ん。⋮⋮ついたみたいだな﹂ ﹁考えはまとまったのか?﹂ ﹁あぁ⋮⋮オレはやっぱ、魔王のままのほうがいいんじゃないかっ て思うんだが、おまえはどう思う?﹂ ﹁⋮⋮魔王様が鳥や猫なんかの動物に落ちる必要はない⋮⋮と思う ぜ﹂ ﹁そうだよな﹂蛾々島はぱーっと笑顔になった。﹁そうだよな。せ っかくオレ様は魔王だってのに、わざわざ畜生に成り下がろうとす るなんざよ、オレもやきが回ったようだぜ﹂ 空想製造機の蛾々島杏奈、今日も平常運転を崩さない。 頭が痛いけど、これはこれでいいように思う。いつも通りの毎日 に戻れたような気がした。蛾々島との埒もない会話がぼくに寧日の 安らぎを抱かせる。この安息はおそらく、朝の奇異な一事に起因す る。何せ、ぼくはついさっきまで、実の妹と抱き合っていたのだか ら。 ぼくは“罪”という単語を辞書で調べてみることにした。 ︻罪︼ 1.道徳・宗教・法律などでしてはならない行い。悪い行い。 2.悪い行いや悪い結果に対する結果・刑罰。 3.思いやりがない様子。無慈悲な様子︵形動︶。 教室は話し声や雑音に満たされている。営為と騒乱と煩累の渦。 人の織り成す波⋮⋮。 そんな教室の中で、ぼくはただ一人、孤独の極にあった。 周囲とは相容れない。 114 ぼくは漠然としたもやもやを抱えて、机にもたれているんだ。 罪。 ぼくは罪を犯している。度し難い過ち、姦通⋮⋮ぼくは血続きの 近親と恋愛関係のようなものを形成しつつあった。いけないことだ。 常軌を逸している。ぼくの行動は人倫にもとっていた。 分かってる。 分かってるんだ、そんなこと。ぼくもそこまでバカじゃないし、 血縁関係の女を手篭めにするほど愛欲に飢えてるわけでもない。違 うんだ。問題はもっと、複雑で奇怪で、イカレてるんだ。常人の理 で理解できる領域じゃない。これは本能とか禁忌とか、そういった 忌むべき理の作用する領域なのだ。 肌がいまだ、生暖かい女の熱を覚えている。 緑葉静絵の柔らかい肉の感触。 華奢な体からは想像もできないほど豊満なししおき。彼女の肌は うっすらと血管が見えるほど白く、透明で、滑らかな質感。雪肌。 軽くさすると、くすぐったそうに笑って、ぼくに体を押しつけてく る。髪は烏の濡れ羽色といった風で、一本一本に艶がある。目は悩 ましげに伏せられており、紅色の唇は切なげな吐息を漏らしている。 ﹁千尋﹂ 彼女がぼくの名前を口にすると、全身の血が滾ったように熱くな るのを感じた。鳥肌が立っているのが分かった。それは実妹と触れ 合う後ろめたさに対するものではなく、単純に女の体に触れている、 という興奮からであった。ぼくの体は、本能は、確かに緑葉静絵を 一介の女として認めている⋮⋮その恐るべき事実! イカレたのか と思った。ひょっとしたら自分は、理性を司るどこかのねじが取れ たのかもしれない⋮⋮だがしかし、そういった正常な思考すらも、 彼女の血肉に取り込まれてしまう。 彼女はうっとりとしている。 恍惚。 ぼくの服の裾を強くつかみ、やがて背中に手を回してきた。 115 一階には母親がいるというのに、ぼくと静絵は二階の室の中で互 いの体を温めあっていたんだ。 兄妹なのに。 兄妹なのに。 静絵の右手首には、刃物で切ったような跡があった。 どうしたの、とまるで好きな女に語りかけるような、自分でもぞ っとするくらい甘い声が口から飛び出していた。 静絵は悲しげな表情をしたまま、何も答えなかった。寡言な彼女 の頬は青白かった。 その傷跡が、単なる切り傷でないことは明白であった。それはさ ながら、自らナイフでえぐったかのように深く、鋭い。死神の鎌。 縄目の跡にも見える。 ぼくは彼女の手をとって、手首の傷を舐めた。 静絵はあ、あ⋮⋮声にもならない悲鳴を上げた。 唾液の滴る音が響いた。 体の芯から熱湯が押し寄せてくる。圧倒的甘美。トチ狂っている、 と思ったがしかし、体は言うことを聞かない。静絵はぼくの頭に手 を置いて、歯を食いしばっていた。 舌が染み出た血をすくった。ぼくはそれを音を出してすすった。 ﹁いや⋮⋮﹂ よがる静絵。 舌を動かすぼく。 体内に取り込まれた静絵の血はその実、ぼくの体にも流れている。 ここ 起源を同じくする静絵の血とぼくの血が渾然と混じり合い、絡み合 い、やがて一つになる。母胎の人を共有し、この世に呱々の声を上 げた隣人。隣人たちは手と手を取り合い、片やよがり、片やすすっ ている。色欲、禁じられた性の渇き⋮⋮陶然とまどろむ理知。止め ることはできない。交錯する愛情と劣情。ぼくたちはその身に宿し た想いを、拙劣な風でしか表現できないのか⋮⋮。 あぁ⋮⋮いっそぼくたちが理性ある人間ではなく、理性なき鳥や 116 猫であったなら⋮⋮もう少しましな人生が待っていたかもしれない というのに。 先生が来た。 思索を打ち切る。 ぼくは漠とした意識の中、つまらないホームルームを受けた。 117 第二十話 兄︵11︶ ぼくは幸せなのかもしれない。 ぼくは不幸せなのかもしれない。 分からない。 分かったらきっと、苦労しないんだろうな。 寂々とかげる夜。 ﹁千尋はさ、高校卒業したらどうするの?﹂ と。 ベットに腰かけていた静絵が問うた。 ﹁多分⋮⋮大学に行くと思う﹂ぼくは窓の縁にしりを乗せ、夜風に 当たっている。涼しい。 ﹁それは﹂と静絵は言いよどむも、﹁この村を出るってこと?﹂と 訥々とした口調で、伏し目がちにぼくを見た。 ﹁おそらく﹂ 石倉市に大学はない。高校はぼくの通うところ一つだし、そもそ もここは辺境の地だった。教育機関は少ない。だから、高校を卒業 した生徒は大きく二つのグループに分かれる。 一つは家督を継ぐか、どこかの店に住み込みで働くグループ。 一つは故郷の石倉市を離れ、上京するグループ。 緑葉家は一般的な核家族なので、継ぐべき家業はない。また、こ れといったつてもないので住み込みをするのも難しい。緑葉家は両 親の代で石倉市に転居した家族だったので、縁戚のつながりが薄い のだ。 幸い、成績のほうはそれほど悪くない。先生からも大学に行くこ とを勧められた。返事はしてないが。 静絵は真一文字に唇を結んでいる。 沈黙が降りた。 ﹁わたし、これからわがまま言うね﹂と静絵は顔を上げて、﹁千尋 118 と離れたくない﹂と切々と語尾を震わせた。﹁千尋がいなくなっち ゃったらわたし、生きていけないよ﹂ ﹁静絵⋮⋮﹂ ﹁千尋の未来を考えたら、こんなこと、言っちゃダメなんだ。でも ⋮⋮正論に押し潰されるほど、わたしの想いも弱くない⋮⋮! 想 像すらできない。千尋のいない毎日が考えられないんだ﹂ 静絵は泣きそうな表情をしている。痛々しいんだ、その顔が。ま るで親にすがる子供のようで⋮⋮。 どうしたらいいのだろう。 どれが正解なんだろう。 こんなぼくに正解が導きだせるのだろうか。 そもそも、正解とはなんなのか。ぼくと静絵において、もっとも 最良な選択とは一体なんなのだろうか。 ﹁静絵﹂ぼくは己が手を彼女の手と重ねた。﹁おれ、考えてたんだ。 ずっと、考えてたんだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁おれは高校を卒業した後、都会の大学に入ろうと思ってる。⋮⋮ 何もおまえを見捨ててのことじゃない。そんなわけないだろ。おれ は教師になる。教師になって、いっぱいお金を稼いで⋮⋮それで、 おまえと暮らしたいと思ってるんだ。このままダラダラとおまえと 付き合ってたら、おれたちダメになる。堕落するんだよ、静絵⋮⋮ おまえだって分かるだろ? このままじゃダメだってことくらい。 いずれ、ばれる。明白だ。こんな風に危うい綱分かりをしていたら、 いずれ必ず、父さんか母さんに知られてしまう⋮⋮最近、おれたち が度を越して仲がいいもんだから、母さん、おれたちのこと、不審 に思ってる。これは予想じゃない、予感だ。母さんはうすうす気づ いてるんだ、おれたちが禁忌に踏み入れようとしていることに。そ こで、おまえに決断して欲しいことがある。おまえがどうしてもと いうなら、おれは大学には行かない。この村に留まる⋮⋮おれは誓 ったんだ。おまえを大切にするって。でも⋮⋮これは破滅の道。道 119 は続いていない。破局。そして、もう一つ、選択肢がある。おまえ の元を離れるという選択肢⋮⋮つらいかもしれない、わびしいかも しれない。でも、でも⋮⋮おまえが本当におれとの未来を望むなら、 おれを見送って欲しいんだ。この先ずっと、おれとともにいたいと いうのなら⋮⋮﹂ ﹁千尋⋮⋮﹂ さんざん勘案した。これからどうすればいいのか、ぼくが取るべ きことはなんなのか⋮⋮想を練り、熟慮を重ね、考えを絞る。静絵 を第一とする人生。そのための行路、軌跡を作るための案を⋮⋮。 バカなのかもしれない。 ぼくは悪しきことを考えている。実の妹に我が未来を使おうとし ている。愚考と愚行。倫理に反し、道徳に背き、大義に外れようと しているんだ。けど、だからといって静絵を捨てることなんてでき ない。狂ってるんだ、ぼくは。 静絵は。 静絵は︱︱。 さんさん 泣いていた。 潸々と泣いていたんだ。 ﹁⋮⋮静江?﹂ ﹁ごめん⋮⋮ごめん⋮⋮ごめん⋮⋮﹂ 静絵はたわごとのように誰とも知らず、謝っている。謝り続けて いる。そんな狂態。 ﹁わたし⋮⋮子供だから、子供だから⋮⋮社会では生きていけない。 誰かの保護があって、ありのままのわたしを愛してくれる人がいな いと、わたしという人格が保てない⋮⋮わたしは社会不適合者で、 引きこもりの女だから。よりにもよってお兄ちゃんを好きになっち ゃうバカだから、誰かの助けがないと生きていけないんだ。だから わたしは⋮⋮千尋がいないと生きていけないって⋮⋮でもそれは、 千尋のことをないがしろにしてて、自分がかわいいだけ。千尋を大 切にしていないんだ。本当に千尋が好きだったら、千尋の思うとお 120 りにさせなきゃいけない、ちゃんと自分でも考えなくちゃいけない、 自立しなくちゃいけない⋮⋮! 大人にならないとダメ。そしてわ たしは、大人じゃない⋮⋮千尋は大人だね。きちんと未来を見据え てる。嬉しいな。千尋、ちゃんとわたしのこと、考えてくれてるん だ。嬉しいよ、千尋﹂ ﹁大丈夫だよ。大丈夫だよ、静絵﹂ ﹁⋮⋮決めた。わたし、働く。わたしも千尋の力になりたい⋮⋮ッ !﹂ ◆◆◆ これが。 これがただの恋人同士の会話だったら、どれだけ幸せだろう。純 粋に相手を想い合う、一般的なカップル。でも、残念なことに、ぼ くたちは一般的なカップルなんかじゃなかった。兄と妹の、禁じら れたカップルだった。 ぼくはやるせない気持ちになって、窓の外の景色を見た。 広がっているものは、木々越しに見える渺たる海とたゆたう船舶 だけだった。いつもの光景。ため息。ぼくは気が滅入った。 静絵は成長した⋮⋮と思う。 働く意欲を見せてきた。これはすごくいいこと。その後静絵は、 きんきじゃくやく 自ら両親に自分の気持ちを伝えた。わたし、働きたい⋮⋮と。両親 はともに欣喜雀躍の態で、幸せそうに笑顔をこぼしていた。しかし、 なぜ働こうと思ったのか、という理由を聞けば、その笑顔はたちま ち曇ってしまうだろう。ぼくは慄然としたものを覚えながらも、口 を閉ざしたままその場に突っ立っていた。 121 しかしながら、問題があるとすれば静絵の雇用先だった。中卒で ひきこもりの静絵を雇ってくれるところがはたして、あるかどうか。 母は静絵の就労のために狂奔していることだろう。でも、見つかる かどうかは⋮⋮分からない。おそらく、無理なんじゃないかな、な んて後ろ向きなことを考える。 さじまつきこ ﹁どうしたの? 辛気くさった顔しちゃって﹂ と。 さじま 女の声。 ﹁佐島⋮⋮﹂ 眼前には隣のクラスの佐島月子がいた。 ﹁まるで、明日地球が滅びるみたいな顔してるけど⋮⋮どうしたの、 ふじみや 一体? お姉さんに話してみなよ﹂と佐島はイタズラっぽく笑うん だ。 ぼくは頬杖をといて、﹁おまえこそどうしたんだよ。藤宮のクラ スは三組だろ﹂とからかうように言ってみた。 すると案の定、佐島は顔を赤くして拳を振り上げた。かわいい。 ﹁ち、違うよッ。廊下を歩いてたらブルーな君を見つけただけだか ら﹂ ﹁そっか﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁佐島﹂ ﹁なに﹂ ﹁明日地球が滅ぶらしいぞ﹂ ﹁え⋮⋮はは、緑葉君は冗談がうまいね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮マジ?﹂ ﹁嘘だよ﹂ ﹁だと思った﹂佐島は脱力した。その後、ぼくの前の空席を陣取る。 ﹁で、何か悩みでもあるの、緑葉君?﹂ 悩みはある。 122 でも。 誰も解決できない。 ﹁今、もしかして昼休みなのか?﹂とぼくははぐらかすように言っ た。 佐島は大きなため息をついた。﹁うーん、重症だよ、これは。緑 葉君は時刻の読み取り方も忘れてしまったみたいね﹂と柱に取り付 けてある時計に目を向ける。 ﹁おれは時間に囚われない人間なんだ﹂ ﹁むしろ、定石に囚われない、というべきね。詠太郎と一緒で﹂ ﹁藤宮と同列か⋮⋮光栄というか、恐れ多いというか⋮⋮﹂ ﹁緑葉君は詠太郎が変人だっていいたいの?﹂ ﹁まぁ、常人ではないだろうね﹂藤宮が常人だとしたら、とっくに この世は崩壊している。 ﹁うう、否定できない私がいる⋮⋮でも、そんな詠太郎と付き合え るなんて、緑葉君も十分すごいと思うけどなぁ﹂ ﹁なんだか他意を感じる⋮⋮それはおれも性格的に変だってことか ?﹂ ﹁性質的に、だよ。緑葉君の周りには、やけに変な人が多いじゃん。 詠太郎しかり、蛾々島さんしかり⋮⋮なんだろう。変人をひきつけ てる⋮⋮? 緑葉君はきっと、そういう性質だと思うんだ、私は﹂ ﹁変人専用の磁石になった覚えはないけどね﹂ ﹁それとね、緑葉君。君、それなりにもてるって知ってた?﹂ ﹁え⋮⋮はは、佐島は冗談がうまいんだね⋮⋮﹂ ﹁嘘じゃないって。本当だよ、本当。緑葉君、結構かっこいいし、 優しいし⋮⋮でも、ちょっと中身は変わってるけど﹂ ﹁最後の一文はいらなかった﹂ ﹁とにかく、もっと自信を持ちなよ。緑葉君ならいけるって。当た って砕けろって言うすばらしき恋の格言もあるんだしさ﹂ ﹁ちょっと待った。なんでそういう流れになるんだ? まるで、お れが佐島に恋愛相談をしているかのような﹂ 123 佐島月子は手の甲に頬をつけて、楽しそうにぼくを見た。 ﹁⋮⋮佐島?﹂ ﹁青春だなぁ。緑葉君ももうそんな年頃なんだね﹂佐島はすっかり 自己完結している。﹁緑葉君、好きな子いるでしょ?﹂ ﹁は﹂ ﹁とぼけなくてもいいよ。高校生の男子が窓の外を見てため息をつ くなんて、それはもう恋の悩みしかないでしょ。違う?﹂ どうしよう。 微妙に違う。 沈黙を肯定ととったのか、﹁私の目はごまかせないんだから。よ し、これから昼休みが終わるまで私が相談に乗ってあげるから、何 でも話してよ﹂と佐島は目を爛々とさせて身を乗り出した。 うむ。 ﹁実はさ⋮⋮﹂ と。 ぼくは男子生徒に絶大な人気があるも、個人的にさほど興味もな い女子に関する話を、佐島に切り出した。 124 第二十一話 兄︵12︶ ぼくの作り話を真に受けた佐島月子は、﹁このさい、今から告白 してみたら?﹂と正気を疑うような提案を持ち出してきた。﹁善は 急げっていうし⋮⋮ね?﹂ あらかぜ ﹁正気か、佐島﹂それがおまえにとっての善なのか? 佐島月子の 善悪基準に疑問を禁じえない。 ﹁正気も何も、本気よ本気。この勢いに乗じて、その荒風って子に 告白するのよ﹂ 佐島月子、馬耳東風に押せ押せしてくる。﹁ま、待てって。いき なりそんなこと言われても⋮⋮﹂ ﹁びびってんじゃないわよ。度胸のない男は嫌いよ、わたし﹂ ﹁おまえは遠慮ってのがないんだ。ほら、昼休みも後五分で終わる だろ。告白は次の機会に⋮⋮﹂ もちろん、告白するつもりはない。 ﹁君の言う“次”は二度とやってこないかもしれないじゃない。緑 葉君は、明日頑張る、明日頑張るといって翌日何もしないへたれと は違うと私は信じてるわ﹂ ﹁変なところで信用されてるッ!﹂ ﹁とにかくッ! 行くのよッ! 神風ッ! 君は神風だッ!﹂ ﹁⋮⋮玉砕確定なのかよ﹂ ﹁だってわたしもその荒風って子知ってるけど、メチャクチャかわ いいのよ? 男子にも人気があるし、一部では雑誌モデルもやって るって噂もあるわ﹂ そんなすごい子に告白しなくちゃならないのか。﹁佐島。落ち着 けって。勇気と無謀は違うんだ。ここは少し思慮を働かせてだな⋮ ⋮﹂ ﹁まどろっこしいのは嫌い﹂と佐島月子、ぼくの手を引いて隣のク ラスに連れ去っていく。強引にして放胆。やはりこの傍若無人さが、 125 そじょう あらかぜねい 藤宮詠太郎と交際できる秘訣なのだろうか⋮⋮? 隣のクラスというのは話題の俎上に上った荒風寧が在籍している 三組のことだ。 ヤバイ、ヤバイ。 こんなことなら、調子に乗るんじゃなかった、と思った。しかし、 時すでに遅し。ぼくと佐島は三組の教室に入っている。 ﹁⋮⋮や。月子ではないか。それに⋮⋮緑葉も﹂ 教室には和綴じの本を読んでいる藤宮詠太郎がいた。さすがの藤 宮も目を点にしている。⋮⋮あぁ、藤宮も三組。 ﹁ちょうどいいところに⋮⋮ッ! 詠太郎、ここに荒風って子、い るかしら?﹂ ﹁荒風⋮⋮? 俺はそのようなものは知らぬが、この教室は出席番 号順に並んではいるぞ﹂ ﹁サンキューッ! さ、緑葉君﹂ 佐島はぼくに行け行けと合図をしている。佐島のおかげで、二年 三組の教室はすっかりさわがしくなってしまった。 そんな中。 窓際の前の辺り、複数の女子に囲まれながらも、不思議そうな顔 をしている少女がいた。 切れ長の瞳に癖のない黒髪。清楚と言う言葉がよく似合うみめよ い容姿。そんな顔で微笑まれたら、きっと男子もイチコロ。 ぼくは佐島に押し出されてしまう。 教室では何事かと遠巻きができる。恥ずかしい。 ﹁ワタシに何か用ですか﹂ と。 前記の女子が一歩、前に出る。﹁荒風はワタシですけど⋮⋮﹂ ﹁ほら、緑葉君﹂ ﹁なんでおれが⋮⋮﹂ ﹁いいからいいから﹂ 何がいいから、なんだよ。なんでぼくが、衆目の面前で告白をし 126 なくちゃいけないんだ。 そんな怨嗟が沸々と湧き上がるも、もはやこの状況を収集するこ とは不可能だろう。みな、何かを期待するような目を向けてくるん だ。この場を収めるにはやはり、告白しか︱︱ないのか? この窮 状は身から出た錆なのか? 自らが招いた奇禍なのか? やっぱり、 ほらはダメだよ。ぜんぜんそんなつもり、なかったのにさ。 嘘をついた数だけ、不運が舞い降りる。 嘘をついた数だけ、不幸が積み重なる。 ぼくは︱︱覚悟を決めることにした。 ﹁荒風さん﹂ぼくは彼女の顔をまっすぐ見た。﹁ずっと前から好き でした。付き合ってください﹂ ﹁喜んで﹂ 荒風寧はにっこりと笑った。 ﹁⋮⋮は?﹂ ﹁その申し出を受ける、と言ったんですよ。緑葉千尋君?﹂ ﹁は、はぁーッ!﹂ 騒然となった。 それはもう⋮⋮本当に。 ﹁うっ、嘘だッ! 嘘だと言ってください﹂ぼくは荒風さんの肩に 手を置いた。﹁そんなことないですよね。ウイットに富んだジョー クですよね。そうですよね、荒風さんッ!﹂ ﹁荒風さん、ではなく、寧、と呼んでくれたら嬉しいな﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮﹂ ﹁実はワタシも、あなたのことが気になっていました﹂と荒風さん はポケットからハンカチ⋮⋮を取り出した。﹁これ、あなたのもの ですよね﹂ そこでぼくは合点がいった。﹁あの時の⋮⋮﹂ ﹁偶然とは恐ろしいものですね。ですがワタシは、この出会いは必 然だと思います﹂ いや、単なる偶然でしょう、とは思うが、﹁そうかもしれません 127 ね﹂とかいう。﹁それよりも、怪我のほうは大丈夫だったんですか ?﹂ ﹁おかげさまで⋮⋮大事には﹂ ﹁よかった﹂ 荒風寧は静々とした挙措で歩み寄り、そのハンカチをぼくに握ら せた。﹁しかと返還しましたよ﹂ ﹁承りました﹂ ﹁これからは末永く⋮⋮よろしくお願いします﹂ 荒風さんは深々と頭を下げた。 ぼくもつい釣られて、﹁こ、こちらこそ﹂と同様に低頭した。 と。 ⋮⋮あれ? おかしいな。 なんでだろう。 ﹁お、おめでとう﹂と目を丸くした佐島が近づいてきた。それでも、 佐島は嬉しそうにぼくの手を握って、ぶんぶんと上下させた。ぼく は状況に流されるまま、呆けた面を周囲にさらしている。﹁荒風さ んも緑葉君のことが気になってたってことは⋮⋮これで二人は念願 の両想い、すなわち恋人同士と相成りましたッ! 二人の愛に乾杯 ッ!﹂ ◆◆◆ 皐月の咲くみぎりだったように思う。 昼下がりの穏やかな日だった。 買い物に行っていた。母親に言いつけられ、なじみのスーパーに 128 足を運ぶ。 その帰り。 ぼくは一人の少女を見つけた。道端には日傘と洒落たバックが落 ちており、少女は足の辺りを押さえ、うずくまっていた。 ﹁どうかしましたか﹂ぼくは少女に声をかけた。少女の顔は前髪に 隠れて見えない。 ﹁怪我を⋮⋮してしまって﹂ ﹁ちょっと待っていてください﹂ ぼくは買い物袋を地面に置いた。ポケットからハンカチを取り出 し、彼方のほうに走り出す。 道をそれれば、葦の群生する河畔がある。清冽に流れる小川。水 が綺麗で有名なんだ。ぼくはそこでハンカチを洗って、とんぼ返り した。 血がにじんでいる。﹁しみますよ﹂とぼくは傷口にハンカチを当 てた。 少女は苦いものを飲み込んだような顔をした。 周囲に目を向けてみれば、風になびいて折れた木製の柵があった。 おそらくあれにひっかかって、少女は傷を負った。 ﹁帰ってこないと思いました﹂心細げな声だった。﹁走ったきり、 帰ってこないと思いました﹂ ﹁あれを置いて?﹂ぼくは放置したままの買い物袋を指差した。 すると少女は、口元に手を当ててくすくすと笑った。 しばらくハンカチを当てる。 ﹁応急処置はしましたけど、お医者様に診てもらったほうがいいか もしれません。ばい菌が入っているかも﹂ ﹁ご親切、痛み入ります﹂少女は礼儀正しい性格らしく、律儀に頭 を下げた。 ぼくは気恥ずかしくて、目を逸らしてしまった。﹁感謝されるほ どでもないです﹂ ﹁でも、あなたのおかげでワタシが助かったことに変わりはありま 129 せん﹂ ぼくはどう返答していいものか、迷った。人に感謝されるのは久 しぶりだった。 ﹁傷に加え、足をくじいてるみたいです﹂とそう判断した。事実、 足が痛むのか、時折顔をしかめていた。ぼくは少し考えた後、﹁な んなら、おぶって行きましょうか?﹂と親切がましい提案をする。 ﹁そんな⋮⋮おぶってもらうなんて﹂ ﹁その⋮⋮やっぱり、親切がましい、かな﹂ ﹁いえ。そういうわけではなくて﹂ ﹁あなたの日傘とバックなら、おぶっていってもどうにか持てます けど﹂ ﹁なるほど﹂とふいに少女はくすくすと笑って、﹁あれを置いて、 ですか?﹂と放置したままの買い物袋を指差した。 ぼくは赤面した。 ﹁あなたはよほどの力持ちなんですね﹂ 買い物袋にははちきれんばかりにものが詰め込んである。それが 二つあった。おぶっていては、とても持てない。 ﹁だいぶ、楽になりました。もう、あなたの世話をかけるわけには 行きません。先に行ってらしてください﹂ 少女の声は気丈だった。これ以上迷惑はかけられない、といった 風。 少し心配だったが、﹁では﹂と彼女の意を汲むことにした。﹁ハ ンカチは差し上げますね﹂ ﹁重ね重ね⋮⋮ありがとうございます﹂ 少女は丁重にお辞儀をした。長い髪が肩や胸の辺りに垂れて、簾 のように少女の顔を隠す。 ぼくは買い物袋を持ち上げ、帰途に着こうとした。 と。 ﹁必ず﹂ 少女は。 130 ﹁必ず、ハンカチはお返しします﹂ 背中越しに少女の声を聞いて、そのままその場を去った。 三日もたてば、彼女のことを忘れている。 少女︱︱荒風寧との邂逅は、その五日後のことだった。 131 第二十一話 兄︵12︶︵後書き︶ まさかの新キャラ登場。 みどりばちひろ みどりばしずえ 既存のキャラを含めると、計六名。 ふじみやよみたろう あらかぜねい ががしまあんな さじまつきこ プシュケの心臓は、緑葉千尋、緑葉静絵、蛾々島杏奈、佐島月子、 藤宮詠太郎、そして、荒風寧なんかが運営すると思います。 それと⋮⋮佐島月子がやけに明るいキャラに変貌したように思うの は、作者だけ? 杏奈ちゃん、出番ねぇ。 132 第二十二話 兄︵13︶ ﹁ただいま﹂といって家に帰ると、居間には母がいた。気だるそう な表情をしている。居間にはテレビがついているのだけど、見向き もせず、疲れたように虚空を見つめている。 母は緩慢な風にぼくを瞥見して、﹁あら﹂といった。﹁おかえり なさい﹂ ﹁ただいま﹂ ぼくはなんとなく、母の気鬱が読めた。 きっと。 きっと︱︱。 妹の就職先が見つからなかったのだろう。母は気の毒なぐらい狂 奔していた。娘のために身を粉にして職を探し回っていた。でも、 なかった。簡単なことじゃない。引きこもりに用意される仕事なん て、そうそうない。 分かりきっていた。 そんなこと。 でも。 つらい。 座る。丸型のテーブルがある。ぼくは適当なところにかばんを置 いて、母同様テーブルに頬杖をつくんだ。 沈黙。 テレビの雑音。 母は。 気づいているのかな。ぼくと、静絵との関係。どうなのだろう。 勘付いているのだろうか。母や父の前では普段と同じように振舞っ ていたつもりだけど⋮⋮親だから、分かるのかも。 静絵はここ最近になって元気を取り戻している。母の話では一人 でコンビニに行ったと聞く。すごいことだ。これまでの静絵では考 133 えられない行為。静絵は家族のサポートがなければ、外出もままな らない。それを鑑みたら、成長してるってことなんじゃないのかな。 静絵は強くなっている。確実に。いまだ脆弱さはあるが、それでも ︱︱その小さな一歩が嬉しいんだ。兄として。恋人として。 偉業だよ、偉業。 ﹁千尋﹂ 思索にふけっていると、後ろからぼくの名前が聞こえた。 静絵だった。 服を着ている⋮⋮当たり前だけど、服は服でも明らかに外出用と 分かる、それ。黒のワンピースとスタイリッシュなジーンズ。こう してみると、静絵の体型はすらりとしていて、無駄な贅肉がないよ うに思われた。金塊をやすりで削ってできた彫刻みたいなんだ。研 ぎ澄まされている。なのに、見事なししおき⋮⋮下世話な話、彼女 の体を抱くと、弾力のある肉と通っている血の暖かさが、じんわり とぼくの体にしみこんでくるんだぜ。 ﹁外出かい﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 静絵はうつむいている。歯がゆそうに片方の耳を掻くんだ。表情 は前髪に隠れて見えない。でも、静絵が頬を赤くしているのが分か るんだ。うつむいて耳を掻くのは、静絵の癖で、そのときの静絵は 決まって、面を紅に潮するんだ。 三日くらい前かな。自立しようと決起した静絵は、昼頃に単身、 コンビニに行ったんだ。初陣さ。その話を静絵から聞いたとき、素 直に感心したね。ぼくは思わず、静絵の頭をなでたんだ。よくやっ たねって。すると静絵の奴、気恥ずかしげに顔を朱に染めるんだよ。 かわいいんだ、本当に。ついほほえましい気持ちになるんだぜ。そ れで、気づくんだ。ぼくは静絵のことが好きなんだなぁって。 けれど。 その後の静絵は悲しそうに目を伏せて、さめざめとすすり泣くん だ。華奢な体を押し付けてくる。初めは困惑したさ。でも、こうい 134 うときは優しく抱きしめるのが男の務め、なんてよく言うじゃない か。ぼくはガラス細工を扱うみたいに、なるだけ丁寧に触れたんだ。 背中に手を回す。内にある彼女の体温。分かってるんだ。抱きしめ ている彼女が血のつながった妹ってことくらいはさ。でも、ぼくは ついつい変な心持ちになったんだ。許してくれよ、男の習性なんだ から。 静絵は哀調に事の顛末を語るんだ。目を湿っぽくして、ね。静絵 はコンビニの店員さんに怒られたみたいなんだ。 ぼくは身につまされるような感じになる。ぼくはもう、静絵の温 度を感じることしかできない。頑張ったね、くらいしか言えない。 そこで、ぼくは弱い存在だってことを忸怩とした思いで自覚する。 幸せと不幸せ。 コインの表裏。 幸せが表に当たり、不幸せが裏に当たる。 もし人生の禍福がコインみたいに単純に説明できるもので、表裏 一体だとしたら、ぼくは怖いな。コイントスなんてできないよ。保 留する。幸せでも不幸せでもない状態を維持しようとする。曖昧が 好きなんだ。ぼくは。 だから、弱いのか。決定しようとせず、選択しようとせず、決断 に猶予を持たせようとする。それが優柔不断の原因なのかもしれな い。ぼくの弱さの根源なのかもしれない。 どうしようもないんだ。 弱い部分は誰にでもある。 弱くない人間なんていない。 強くない人間もいない。 ほどほどに弱く、ほどほどに強い。 均衡があるんだ。一方的に天秤が傾くことはない。 ぼくは静絵を守れるくらいの強さがあれば、それで十分だよ。 さて。 静絵を蝕んでいるものは孤独なのかもしれない。人と触れること 135 を忘れ、接することを恐れ、外界に恐怖を抱いている。ついさっき まで、静絵の世界は狭い一室にすぎなかった。閉ざされている。遮 るものは一枚の壁と扉程度であるが、心的には絶大な懸隔があるん じゃないかな。 だから、静絵はまず、人との清い付き合いを学ぶのが吉なのかも しれない。人は他者と交際することで成長する。だとしたら、静絵 はいまだ雛のまま、ってことになるんじゃないかな。巣の中の雛。 ぼくは彼女を解き放ってあげたい。なにも、世界はぼくだけしかい ない、とは思って欲しくないんだ。ぼく以外にも、人はたくさんい るし、中には静絵のことを大切にしてくれる人もいるだろう。⋮⋮ そりゃ、静絵を独占できないのはつらいさ。でも⋮⋮独占欲は愛じ ゃない。妄執の一種なんだよ。 世界は広がっている。眼をつむる必要はない。少しずつでいいん だ。ぼくが後ろで支えるからさ。静絵のペースで少しずつ、少しず つ⋮⋮。 ﹁いってらっしゃい﹂ ﹁いって、くるよ﹂ 静絵は微笑んで、颯爽と玄関へと向かった。敢然と敵に立ち向か うような顔。凛々しいその横顔に、普段の静絵とは違ったものを見 る。 母と目が合った。 母は笑っている。 ぼくも嬉しくなって、笑う。 よくなってる。 これが自立の足がかりになって欲しい。 ぼくは安らかな気持ちでテーブルに突っ伏した。 ◆◆◆ 136 朝だ。 嫌だ嫌だ。 がが 起きると、決まって悄々となる。ちょっとだるいんだ。誰も一度 くらいはあるだろう。窓から注がれる朝日、峨々と連なる峰、鳥の さえずり⋮⋮死にたくなる。学校なんていいから、ぼくはもっと寝 たいんだ。この睡魔をどうにかしてくれよ。 静絵。 寝ている。 ぼくの布団で。 昨日、﹁いっしょに寝ていいかな﹂といって、枕を胸に抱えて布 団にもぐりこんできた。 拒絶はしなかった。 静絵は胎児のように丸くなっている。放物線状に広がる髪。ぼく は彼女の柔らかい頬をなでた。 制服に着替えたぼくは、机の上に放置しておいた携帯電話をポケ ットにぶちこんだ。どうせあってもなくても変わらないんだけど、 なんだろう、目についたからさ。ぼくの携帯は基本、電源を切って も生活には困らない。それがどういう意味かは⋮⋮推して知るべし、 だよ。 居間にはすでに母が配膳の準備をしているところだった。 椅子には新聞を広げた父が座っている。 いつもどおりの光景。 飯を炊いている母。 新聞を読んでいる父。 実妹と寝たぼく。 そんなありふれた家族の、ありふれた食事風景。 その数分後に、緑葉家の食事が始まる。 137 静絵はいない。 まだ寝ているのだろう。 朝ごはんはご飯に味噌汁、冷奴と簡素なもの。パクパク食べるよ。 と。 ピンポーン。 気の抜ける音。 ﹁あらら、誰かしら⋮⋮﹂ 首を傾げつつも、玄関へと向かう母。懐疑。 しかし、その後おかしな歓声が上がる。母の声だ。 どうしたんだろ。 ﹁ふふふ﹂と帰ってきた母は笑みをのぞかせて、ぼくのほうを見た。 ﹁千尋も隅に置けないわねぇ﹂ 椀と箸をおいて、母の妙な態度を問うた。﹁なにがさ﹂ ﹁ま、玄関に行ってみなさい﹂ 釈然としないものを感じつつも、母の言うとおりにした。 すると。 ﹁こんにちわ﹂ いた。 あらかぜねい 女の子だ。 荒風寧。 まるで風の妖精のように。降臨した女神のように。 そよそよと黒髪が揺れている。 ﹁⋮⋮荒風、さん?﹂ ﹁寧、って呼んで﹂ ﹁⋮⋮寧、ちゃん﹂ ﹁ちゃんづけは、いや﹂ ﹁⋮⋮寧﹂ ﹁よろしい﹂ 荒風寧はいたずらっぽく笑っていた。 カバンを握る手首は、強く握ったら折れてしまうんじゃないかっ 138 て思うほど華奢にできていて、胴回りは細くしなやか。首の上には 綺麗な顔が乗っているんだ。間然するところなく配置された目、鼻、 口⋮⋮。 人の理解を超えた造形美。 ぼくは震える体を御すことに腐心しながら、﹁なにしに、ここま で﹂といたって無意味な質問をした。 ﹁なにって⋮⋮決まっているじゃないですか。お迎えにきたんです﹂ 寧はそう答えた。 139 第二十三話 兄︵14︶ ﹁それにしても﹂と母は上機嫌にこう切り出した。﹁千尋に彼女さ んがいたなんてねぇ。それも、こんなにかわいい⋮⋮﹂ テーブルの空席︱︱本来なら、静絵の席︱︱についた荒風寧は、 困ったように笑ってみせた。すみれのように頬を淡く染める。﹁そ んな、かわいいだなんて⋮⋮﹂ それを見た母は、悶えたようだった。えくぼを浮かべる。そして 母は、一人分の食膳を配した。﹁ま、荒風さんも朝ごはん、食べて ちょうだい﹂ ﹁いえ、そんな﹂と寧はやんわりと断った。その様はなんとも控え めで従順そうで⋮⋮言葉にできないはかなさ。艶麗な色気が匂い立 すうせい っている。 事態の趨勢を一通り見守ったぼくは、寧の手を握った。﹁寧ちゃ ん。学校、行こうか﹂ ﹁こらこら、千尋﹂と母のたしなめる声。﹁強引だわ﹂ ﹁寧ちゃん﹂ ぼくは彼女の手をむんずと引っ張った。いすから立たせる。寧は 困惑の態ではあったが、強く拒みはしない。柳腰。どこか憂鬱そう に上目遣いをぼくに向ける。 ﹁学校、行こうか﹂ぼくはもう一度、言った。 ﹁千尋君⋮⋮﹂ ぼくはいつになく強い口調で、﹁寧ちゃんの分はいらないから﹂ と母にいった。﹁というかそれ、静絵の分でしょ?﹂ ﹁でも、静絵ちゃんは⋮⋮﹂ ﹁静絵は後でちゃんと朝ごはん食べるよ。それに、寧ちゃんはとっ くに朝飯を済ませてると思う。口元にパンくずのあとがあるし﹂ 寧は己の口元に触れた。 パンくずのあとはない。 140 ﹁とにかく、早く行こう﹂と我ながら荒々しく、寧の手を玄関まで 引いた。 寧は無言を保っている。 ぼくは急いで靴を履いた。 片方の靴を履き終わろうとしたとき、空気の変化を感じた。ちら と横目を向けると、しゃがみこんだ寧がいた。 寧は凝然とぼくを見つめている。 何かを咎めるような。 何かを責めるような。 視線。 ﹁ごめん﹂ぼくは謝った。乱暴だったかな、と反省する。 ﹁千尋君って、意外に強引な人だったんだ﹂と寧は手首のあたりを ぼくに示した。浮かび上がる静脈と、縄で締め付けたようなあと。 ﹁ずいぶん強く、握られたなぁ﹂ ﹁ごめん﹂ 爬虫類を思わせる眼球と、セロテープを張ったように薄い肌。ぼ くのつかんだ手首をちろちろと舐める。生々しい。﹁あとがつくぐ らい、がっちりつかむものだから、痛くて痛くて⋮⋮これが君なり の愛情表現? 手荒な人は女の子に嫌われちゃうよ。嫌わないけど﹂ ﹁ごめん﹂ ﹁なんで、あんな嘘をついたの。パンくずなんて、ついてなかった のに﹂ ﹁ごめん﹂ ﹁ちゃんづけは、いやって言ったばっかりなのに、もう破ってる。 寧ちゃんっていうとまるで、“姉ちゃん”って風に聞こえるからワ タシ、いやなんだよね。普通に寧っていえばいいんだよ﹂ ﹁⋮⋮寧﹂ ﹁うん。それでいいの﹂ 柔和な笑み。 寧はそっと、ぼくを安心させるようにぼくの手を握った。ひんや 141 りとした感触が心地よい。 そして、近づいてくるのが分かる。接近する甘い吐息。寧はぼく の耳をなぶるように噛んで、そっとささやいた。﹁それが千尋君の 愛なら、少しくらい痛くても、ワタシ、平気だよ﹂ ぼくは耐えきれなくなって、思わず寧を突き飛ばしてしまった。 ぞくぞくっ︱︱とした。ぼくの体は官能的な寒気に貫かれた。い けないと思った。このままいったら、手遅れになってしまいそうだ おこり った。怖かった。ぼくは臆病だ。心臓が痛いくらいに鼓動している。 がくがくと瘧にかかったように、全身が痙攣していた。 荒風寧︱︱。 思えば、戯れでしかなかった。思いつき程度の冗談。それがくし くも、予期せぬ事態を招いた。身から出たさび。ぼくは愚か者だっ た。けれど、よもや応諾してくるとは思わなかった。荒風寧は気ま ぐれな人間なのか? 一度会っただけの人間の告白を、ああもやす く受け入れるものなのか? 男女の機微に疎いぼくでも分かる。荒 風寧の対応は明らかに奇妙だった。作為のようなものを感じる。愛 の告白をしたのはぼくのほうだけど、それでも、何か突拍子もない 仕掛けが用意されているような、そんな風。 おそらく。 おそらく、荒風寧には何か、裏がある。 寧はゆっくりと起き上がった。呪い殺すかのように、険のこもっ た目でぼくを見る。それはくしくも、純な外見とはまったく異なる、 毒々しくもあだっぽい姿だった。露出する太ももと前髪に隠れた表 情。寧は肩で息を整えて、口元を手でぬぐって、なぜか。 なぜか。 綺麗な笑みを浮かべて。 ﹁殴っても、いいよ﹂ ﹁⋮⋮はぁ?﹂ ﹁顔はダメだけど、別の箇所なら、いいよ﹂ 寧はぼくの手を握った。握って、白魚のようなその指が、ぼくの 142 手の甲に突き立てられた。痛いと思った。爪が肌に食い込んでくる。 肉を裂くような痛覚に耐えながら、彼女を注視した。彼女は唇を吊 り上げて、ぼくに不自然に柔らかい微笑を返した。 ﹁千尋君、興奮してた。ワタシを突き飛ばして、気分が高揚してた。 ワタシを犯したいって、思ってた。違う?﹂ ﹁ば、バカ言うなッ。思ってない、そんなこと。思ってない⋮⋮そ れに、寧を犯すだなんて⋮⋮﹂ ﹁君は多分、心に獣を飼ってる。獰悪な獣⋮⋮ワタシには分かるん だよ? 千尋君は何か、いけないことをしてる。社会通念に反する 行為⋮⋮だから、殴らせてあげる。それで、千尋君の気が休まるな ら⋮⋮﹂ なにを。 なにを言っている。 この女は。 殴らせる⋮⋮? 寧は見た目からは考えられないほど艶っぽく、むせ返るような色 香を持って、ぼくに顔を近づけた。﹁ワタシのことが好きなら、殴 っていいんだよ﹂ ﹁や、やめろッ! 変なことを、言うなッ!﹂ あざ ﹁変なこと、じゃない。ワタシには分かる。千尋君の与える痛みが、 愛に変わる。相手のことを死ぬほど好きなら、痣ができる。相手の ことを深く愛しているなら、傷ができる。それが、愛の証になる。 傷つき、傷つけた分だけ、二人の仲は濃いものになる⋮⋮許されて るよ。好きなだけ、ぶつけていいよ。君の不安や鬱憤、全部、ワタ シが受け止めるから⋮⋮﹂ 寧はとろんとした表情をしている。 荒風寧は狂っていた。 予想に反して、見た目に反して、狂逸な妄執を抱えていた。 イカレてる。 でも、かくいうぼくも、十分イカレてることには違いない。 143 ぼくは寧の頬をひっぱたいた。ひっぱたいて、倒れ付す寧に手を 差し出した。差し出された手を、寧は弱々しく握った。満足したか い、と思った。寧は気持ち悪い笑みを浮かべていた。しかし、家を 出る頃には、すっかり凛としたたたずまいを取り戻していた。その ギャップがイカレてるとは思ったが、言わないことにした。 左右には田畑が広がっている。ぼくと寧はつかず離れずの距離で 歩いていた。 その途でぼくは、遠くなっていく我が家を振り返った。 静絵⋮⋮。 二階の部屋の明かりはついていない。まだ起きていないみたいだ った。 よかったと思う。ぼくは運がいい。禍事を免れた。緑葉静絵は静 みずみず 穏な眠りにまどろんでいる。そのまま安らかに眠るんだよ、静絵。 視線を横に向ける。 一輪の花が咲いている。瑞々しく濡れた花弁と清艶なつぼみ。妖 花。こんな人がぼくの彼女なんだぜ。イカレてるだろ。不釣合い感 半端ねぇー。こんな美人に告白したぼくの勇気っ。褒めてほしいね。 でも、この感情は恋情ではなく、一種の憧憬。博物館に飾られた絵 画。匠の描いた絵なんだ。それくらいのこと。テレビ画面の女優に 恋愛感情を持つ奴がいるかよ。まぁ、少しくらいいるかもしれない けど、それよりもまず、住んでいる世界が違う、と思うんじゃない かな。手の届かない位置にいる。でも、なぜか、ぼくの場合、届い た。腕が伸びたんだろうね。びよーんって。捕まえちゃったんだ。 お互い、何も言わずに歩いた。 学校も近い。 数人の生徒がこっちを指差したり、驚いたりしている。人の群れ。 ぼくたちはそれらを無視して、正門に向かった。 と。 ﹁おっはよーッ! 元気ですかぁー! 緑葉君元気ですかぁー! そんなつまらなさそうな顔したらダメですよぉー! せっかく恋人 144 同士になったんだから、もっとニコニコしないとっ! ちなみにっ。 わたしは元気ですっ! もうバリバリっ! バリバリバリっ!﹂ 佐島月子はいっぱしに敬礼なんかしていやがる。隣には藤宮詠太 郎。ぼーっとたゆたう蝶々を目で追っている。 ぼくは天衣無縫な佐島に殺意のようなものを覚えた。﹁おい、藤 宮。相方のほうがうるせぇーんだけどっ﹂ ﹁うるさくなんかありませーんっ。元気いっぱいなだけでーすっ!﹂ ﹁それを世間一般ではうるさいって言うんだ﹂ ﹁こんにちわーっ! 荒風さん、元気ですかー!﹂ ﹁おれの話を聞けよ﹂ ﹁ええ、元気ですよ﹂と荒風寧、静かに微笑んでいる。 ﹁よかったねッ!﹂ 珍奇な会話。 常識が通用しない。 二組のカップルが行く。しゃべるのは主に佐島月子。応じるのは 主に荒風寧。﹁ええ﹂とか﹁そうですね﹂などと相槌を打っている。 一方の男性陣はその後ろを主従のようについていくだけ。鼓膜が破 れているのか、ぼくの声に応答しない藤宮。 教室のほうまで着くと、﹁またねー﹂と佐島・藤宮カップルと別 れた。うるさい。そして、荒風寧とも別れる。彼女はぼくに意味あ りげな目まぜを寄こして、去っていった。なんだろう。でも、そん なことをしたら周囲が誤解するかもしれないよ。そう心の中で思っ たが、早くも周囲︵男子︶からの嫉視がひどくなっていることに気 付く。 ぼくはまっすぐ自分の席に着いた。ぐてーっとなる。朝から大騒 動。どうしてこうなった。⋮⋮あぁ、ぼくのつまらない嘘からだっ た。早く解消しないと、どんどん波及しそうだ。現にぼくと寧との 交際は衆目一致するところに至っている。それもそうだよ。みんな のいる前で告白したんだから。 ぼくは頭を抱えた。⋮⋮なんて幸せすぎる悩み。加えて、邪悪だ。 145 彼女は度し難い暗黒を内在させている。まるでキチガイみたいだぜ。 あの女、痛みを愛と勘違いしていやがるんだ⋮⋮。見てくれは綺麗 なのに、中身はキチガイ。食虫植物を連想させる。 疑問を抱いていた。寧との交際。このままでいいのか、どうか。 というか、寧の本性を垣間見た気がして、怖かったんだ、ほんと。 いっそ、彼女に嘘を明かそうか。﹁ごめーん、あのときの告白は 単なる冗談なんだよねー。許して﹂とか言うのか? それはそれで 男連中に不敬罪で惨殺されそうだ。かといって、寧と交わりを持つ のは不純と言える。静絵の耳に届くところとなれば、ぼくは首を吊 たち らなければならない。ぼくは静絵だけを大切にすると確言したのだ から。 嘘から出た真。 そもそも、寧はぼくのことを好いているのか? それこそ性質の 悪い繰り言に聞こえる。そう少しましな冗談をつけよ、と思う。で たが ふうてん も、あの様子だと、あながち⋮⋮っておいおい、どれだけクルクル パーな奴なんだ、ぼくは。荒風寧は想像以上に箍の外れた瘋癲だと いうのに。 少なくとも、あれは愛ではない。 妄念の一種。 ﹁ったく、とてつもない大穴が開いちまったぜ!﹂自宅から全力疾 走したらしく、蛾々島杏奈は肩で息をしていた。﹁緑葉ッ! 現在 の時刻を教えろっ!﹂ ﹁八時三十七分﹂ ﹁あと三分か⋮⋮さすが飛行速度に定評あるレッドワイバーンだぜ。 十二秒っ。驚異的なスピードッ!﹂ 蛾々島は自分の机にカバンを置いて、どかっとイスに腰掛けた。 隣の席。彼女は薄ら笑いを浮かべている。ぼくは言った。﹁遅刻す れすれだったな﹂ ﹁しかたねーだろッ! オレもよもや、鎮圧にこれだけかかるとは 思わなかったさ。地下実験室に魔界へと続く大穴が開いたときには、 146 き、肝を冷やしたぜ。危うくアークデーモンの軍団が大挙して押し 寄せるところだったんだからよぉー﹂ ﹁それは大変だったんだなー﹂ ﹁想像を絶するってのはこのことを言うんだろうな。オレは次期魔 王候補だからな、おおかた別の魔王候補の仕向けた刺客に違いねぇ。 汚いまねをしやがる⋮⋮だが、ここで“魔風幻影波”が炸裂ッ! カカ、身の程を知りやがれッ、下級悪魔がッ!﹂ ﹁蛾々島﹂ぼくは恐る恐る、教卓のほうを指差した。﹁先生来てる ぞ﹂ 147 第二十四話 兄︵15︶ 蛾々島杏奈という人間は妙な奴で、顔の造詣はいいのに眼帯をし たり、おしとやかに振舞っていれば十分もてるのに男口調で話した りする。誰かが蛾々島に話しかけようとすると、﹁ふん﹂とあざけ るように鼻を鳴らして相手を困らせたりする。素材の味をいかして ない、って感じ。何もしなければ美人の典型。 そんな蛾々島は、今日も変わらず肉食動物のように、歯をつきた ててパンをかじっている。荒々しい。彼女には自分は女であると言 う自覚はない。気随気まま。メチャクチャな奴なんだ、蛾々島は。 ﹁⋮⋮んだよ、オレの顔に何かついてんのか?﹂ ﹁⋮⋮パンくず﹂とぼくは蛾々島の口元についていたパンくずを取 ってやった。食べる。﹁ついてる﹂ ﹁あっ、あぁ⋮⋮うん。ありがと﹂ 顔を赤くするなよ、と思いながらも、﹁そういえばおまえ、実家 にお母さんが来てるっていってたけど、その⋮⋮どうなんだ? 首 尾は﹂と話題転換。 ﹁さいぃっあくだぜッ!﹂と蛾々島は大いに力んで、拳を振り上げ た。﹁あの売女っ、気がついたらオレの家に住み着きやがってよぉ ー、それも体から血と肉を剥ぎ取ったみてぇーななよなよ男と一緒 にいやがるんだ。身長百七十五センチッ、体重はたったの五十七キ ロッ、腕は鳥の手羽先みてぇーに細ぇし、うだつの上がらなさそう な面ぁ、してやがるんだ。あいつ、クソババアのどこに惚れたかぜ んぜんわっかんねーけど、クソババアはクソババアであのなよなよ 野郎のどこに惚れたかわかりゃーしねぇッ! どんな経緯あって結 婚に至ったのか⋮⋮永遠の謎だぜ。マチュピチュに取って代わって、 世界七不思議の一つに数えてもいいくらいだ﹂ 蛾々島が前々から家族間で問題を抱えていることは知っていた。 両親の離婚。 148 しかし、再婚したらしい。 蛾々島は滔々と語る。﹁しかも、だぜ。一緒に入りやがるんだ。 風呂。気持ち悪いったらありゃしねぇ! 白粉だらけのクソ女と骨 だけ骸骨男とが一緒に入浴する⋮⋮お笑いだぜッ! んで、浴槽か らいかにも楽しそうな声が聞こえるからたまんねぇ! あのクソ女、 年頃のアホみてぇにキャピキャピ言ってやがるッ。吐き気ッ。ブッ 殺したくなるような吐き気が、胸の底からこみ上げてくるんだッ!﹂ 蛾々島は滔々と語る。﹁それだけならまだいいっ! 我慢してや るッ! オレは寛大な魔王だからよぉー、ちょーっとくらいのこと なら許してやってもやぶさかじゃーぁねぇ。でもッ! 我慢できね ぇーのはここからッ! 飯ッ! ほら、よく漫画とかアニメである だろ。“あーん”って奴だ。それを、それを⋮⋮してやがるぅーッ てんぴん ! 不快感マックスだぜッ! 見ているだけでこの吐き気ッ! あ いつら、人に嫌悪感を抱かせる天稟でもあんのかよッ! ヘドが出 るって言葉はこのときのために用意されてたとしか思えねぇッ!﹂ 一度しゃべりだしたら止まらない。激しい口調で両親の不平不満 をぶちまける。 周りの人間はぼくたちを迷惑そうに見ている。 ﹁ああもう、分かった。分かったから、それ以上しゃべんなって蛾 々島。おれはさ、おまえに“共感”って奴を覚えたぜ﹂ ﹁おぉ、そうか、そうだよなッ! おまえもオレの気持ちッ、分か ってくれるよな! そう思ってたッ。おまえなら分かってくれると 思ってたんだッ!﹂ 蛾々島の奴、ぼくの両手を強く握って、爛々と目を輝かせていた。 ぼくは、﹁ははは﹂と笑って、目を逸らした。 すると。 ﹁なんで、そんな顔をするんですか﹂ そこにはお弁当らしきものを携えた荒風寧がいた。 教室にどよめきが走る。 ﹁あーん?﹂と蛾々島は殺伐とした口調で、﹁おまえ、オレたちに 149 なんか用かよ﹂と問うた。 ﹁はい﹂と寧は朝のそれとはまったく違う、穏やかな笑みを浮かべ た。﹁一緒にお昼ご飯、食べたいなって﹂ ﹁⋮⋮はぁ?﹂ 理解できない、といった表情をする。 蛾々島は暫時目をパチパチさせた後、﹁まさかおまえ⋮⋮こいつ のこれだったりするの﹂といって、小指だけを立ててみせた。 荒風寧、静かにうなづく。 静寂。 嵐の前の静けさ。 ﹁ははははははははッ! 笑止ッ! 緑葉に彼女︱︱それもおまえ みてぇーにかわいいぃ女がいるわけねーだろッ! お笑いも行き過 ぎればただのバカだぜッ!﹂ ﹁バカはひどいですねぇ。本当ですよ、本当。あなた、知らないん ですか? 千尋君は勇気を振り絞って、みんなの目の前で、ワタシ に告白してくれたんですよ。ですよね。千尋君﹂ 寧は確認するように、期待のこもった目でぼくを見た。曖昧に笑 うぼく。一波乱が起こる⋮⋮と心の中でそうした危惧を覚えながら。 蛾々島は少し呆けたような面になった。 ﹁⋮⋮マジ?﹂ んだよ、そんな顔すんな。 ぼくは逡巡するも、かすかに首肯した。 ﹁はぁぁあぁッ!﹂ 蛾々島の絶叫が響きわたった。 ﹁ここここここいつにッ、かの、じょ⋮⋮? おいおい、冗談はよ してくれよ。面白くねぇーから。ぜんぜん面白くねーから⋮⋮。お い、緑葉。この女、名前はなんて言うんだ﹂ ﹁⋮⋮荒風寧っていうんだ。荒い風に丁寧の寧﹂ ﹁荒風ッ!﹂と蛾々島杏奈、いきなり立ち上がった。﹁荒風ってい やぁ、御鏡のアラカゼだぜッ! ﹃黒の王国﹄第三章、十一コマ目 150 に颯爽と登場した、マスコーウ国の剣士︱︱アラカゼ=アズグラン グルッ! 何千にも及ぶ魔術師師団をたった一本の刀で粉砕し、魔 術は剣術に優越するという大原則を打ち破った規格外の人物ッ! その武勇は一躍、ラグマーク大陸の端にまでとどろき、周辺諸国は その圧倒的武威に恐れおののいたと言う⋮⋮﹂ 忘れてた。 この女、生粋のオタクだったんだ。 頭を抱える。 ぼくはちらと、寧のほうを瞥見した。荒風寧は一体、どんな反応 をするのだろう。想像するだけで気が滅入る。というか、ぼくの周 りには精神異常者しかいないのか。 さて。 寧は忍び笑いをもらして、﹁それは︱︱漫画のお話ですか﹂と楽 しそうにそう、尋ねた。 無機質めいた笑み。 しこ 次いで、蛾々島に顔を寄せた。 指呼の内にいる。 すんげぇ近い。 寧の呼気が蛾々島の顔にかかるくらい。アーモンド形の眼は緩く 細められ、その唇はみだらに弧を描き、まるで悪戯好きな猫のよう に、蛾々島を見る。凝視する。寧は蛾々島の目を覗き見た。眼球が 触れ合うくらいの距離。いくばくもない。 ﹁いけませんねぇ。そのようなフィクションを、千尋君の耳に、入 れては﹂ 蛾々島はピクリとも動かない。手はだらしなく垂れ、いつもの挑 発的な眼差しは、すっかり寧の眼球に吸い込まれてしまっている。 蛾々島はまるで蛇に睨まれた蛙のようだった。⋮⋮あの蛾々島が? 恐れと恥を知らない蛾々島が? 蛾々島ほどの人間が、誰かによ って無力化される⋮⋮おかしいぞ、それは。おかしい。そんなこと、 ありえない。 151 でも、ありえている。 ﹁千尋君は“純粋”なのですから、汚してはいけないのですよ。真 っ白な心。あなたはそれを、穢そうとしていた﹂ ﹁けっ、穢していた⋮⋮﹂ ﹁そう、ですよ。よく分かりましたね。立派ですよ﹂ 荒風寧は魔性だった。吸引している。蛾々島の思念を、思考を、 思索を⋮⋮蛾々島はすっかり全身を弛緩させている。おかしなこと だ。催眠術をほうふつとさせる。 寧は口元を蛾々島の耳の辺りにあてて、つぶやいた。 ﹁分かるということは考えを巡らせるということです。考えをめぐ らせるということは理解するということです。理解するということ はワタシに従うということです。ワタシに従うということは立派と いうことです。あなたは、立派な人間になりたいですか⋮⋮?﹂ 首肯する。 寧は穏やかに笑んだ。 ﹁では、今日限り、お昼ご飯はあなた一人で食べなさい。千尋君は ワタシが貰い受けます。そうですね⋮⋮あなたは、千尋君を、ワタ シに、譲り渡したい、と思っている⋮⋮そうですね?﹂ 首肯する。 寧は穏やかに笑んだ。 ﹁その選択はすばらしいことです。すばらしいということは幸せと いうことです。あなたは幸せになりました。ワタシも幸せです。千 尋君も幸せでしょう。みんな幸せですね。あなたはそう思いますか ?﹂ 首肯する。 寧は穏やかに笑んだ。 ゆっくりと離れる。蛾々島から離れていく⋮⋮。 蛾々島は魂が抜け落ちたように放心していた。放心とは、我なが ら言いえて妙だと思った。心を放す。蛾々島杏奈は心を荒風寧に解 き放った。 152 教室は異様な雰囲気に包まれていた。 意味不明な論理が作用する空間。寧と蛾々島の奇妙な問答。荒風 寧はどのような手段で、蛾々島をたなごころにしたのか。︱︱あの 女、何か妙なものを隠し持っていやがるな⋮⋮。ぼくは不審の目で 寧を見た。 寧は。 笑っている。 微笑んでいる。 まるで、ぼくと笑い合えて幸せだと、そういわんばかりに。 ﹁邪魔者はいなくなりましたよ﹂ こ 寧は骨抜きになった蛾々島を打ち捨て、こちらのほうに歩み寄っ わくてき た。するすると這う蛇。可憐な花を思わせる挙措も、その奥には蠱 惑的な妖美と退廃があった。 ﹁では、二人で⋮⋮二人だけで、屋上に、行きましょう﹂ 153 第二十五話 妹︵7︶ 届かない祈り。 叶わない願い。 伝わらない想い。 大切なものを得た瞬間から、失うことを恐れなければいけない。 失うことを恐れなければ、大切なものを得ることはできない。 なんて。 なんて不条理な、この世界︱︱。 ◆◆◆ 兄と寝た。 人目をしのんで兄の室の戸を叩く。コンコン⋮⋮と反応が小さく 返ってくる。徐々に高鳴っていく体。ちょうつがいのすれる音。夜 気に冷えた木の床。素足のひんやりとした感触。窓が開いている。 そこから、冷え冷えとした、風⋮⋮。 許可を求めるわたしの声と、諾する兄の声とが薄暗がりに溶けて いった。夜陰に紛れて布団の中にもぐりこむ。すぐ近くに暖かな熱 の塊がある。それにつかまった。すがりつくように。 手を伸ばすと、何も言わず、兄が、手を握ってくれた。 月明かりが差し込んでいた。 背中合わせで寝ている。手はつながっている。兄の小動物のよう な呼吸が空気がふるわせた。 ドキドキしている。 154 背で兄の体温を感じている。服越しではあるけど、確かに感じて いる⋮⋮。心臓が飛び出してしまいそう。わたしはちらちらと、向 こう側をうかがう。すると、兄と目が合った。わたしは体を縮こま らせ、目を逸らした。兄も慌てて体の向きを変えた。かすかな布擦 れの音。きっと、わたしの顔は真っ赤。兄の顔も真っ赤、だったり して。 相手の様子を探るような行為。断続的に繰り返される。互いの鼓 動を感じあって、繭の中のような半睡に沈み、意識はやがて、認知 の外に追いやられてしまう。 そばには、恋しい人肌のぬくもりがあった。 幸せだった⋮⋮と思う。 けれど、朝になってしまえば、そのぬくもりはなくなってしまう。 寂しい。 わたしは掛け布団を胸元に寄せて、千尋のぬくもりを感じようと した。午前十時。隣に千尋はおらず、ただ朝の陽光だけがあった。 鼻腔が千尋の体臭を拾う。わたしはそのにおいを持って、ぽっか りと穿たれた空洞を埋めようとする。昨夜の記憶を、肌の感触を辿 り、恋慕の情を強くする。わたしはびょーきなのかもしれない。す ごく胸が苦しいんだ。千尋が恋しい。千尋の体の火照りを、全身で 感じたい。 わたしは禁忌だとか、人倫だとかの向こう側に、恋々たる想いを 馳せていた。 寝ぼけ眼をこすり、一階に下りる。リビング。母は難しい顔で家 計簿を広げていた。 わたしの足音に気付いたのか、母は小じわが目立つようになった 老顔を上げた。五十にほぼ近い母は、わたしを見てぱっと明るい表 情を作る。そして、﹁静絵ちゃん﹂といって、手招きした。 困惑しつつも、近寄る。少し怖い。意味もなく怖い。変化を恐れ る体質。母の笑顔。わたしはどこにいけばいいのだろう。このまま 前進であっているのかな。どうかな。 155 ﹁驚かないで聞いてちょうだいね﹂と母はもったいぶるように指を ふった。たっぷり間を取る。その間、わたしの視軸は虚空をさまよ っている。﹁三十分くらい前かしら。電話機が鳴ったわ。受話器を 手に取った私は、開口一番、信じられない一言を聞いたわ。あなた を採用します︱︱って﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁一瞬、耳を疑ったわ。電話番号、間違っていませんよね? って 何度も確認したわ。でも、どうやら、そうらしいの﹂ まさか、と思った。そんなはずない。そんな、都合のいいことが、 そう、やすやすと。 ﹁静絵ちゃんの就職先は︱︱あなたも行ったことがあると思うけど ︱︱一本松の和菓子店よ﹂ ﹁え、うそ⋮⋮﹂ ﹁うそじゃないわ。全部本当。真実。あなたは、緑葉静絵は、今日 という日から、アルバイトみたいなやつだけど、きちんとした職を 得たのよ﹂ ﹁お母さん⋮⋮﹂ きんき わたしは手で顔を覆った。胸の奥から、静かな喜びが浮かび上が ってきた。不思議な気持ち。欣喜と興奮がないまぜになって、わた しに迫って来るんだ。 一本松の和菓子店。 小さい頃に時々、千尋に手を引かれて行ったことがあった。古び た屋根と退色した和菓子屋の看板。隣には威容を誇る一本松があっ た。わたしは店の縁側で、兄と一緒にお饅頭を食べたんだ。 今となってははるか昔日の記憶。追憶を巡らせるには、あまりに 遠く、現実とかけ離れている。わたしがまだ千尋を兄と慕っていた、 アルバムの中の一ページ。 でも。 ひょっとしたら、また⋮⋮。 千尋とその店で和菓子を食べる日が、再びくるかもしれない。 156 そのときの。 わたしは。 ﹁ご挨拶に行ってもらいたいわ。そちらさんは出向かなくてもいい とは言っていたけど⋮⋮礼を欠くのはいやだわ。あなたが働くのは 明日。今日中に行きなさい。もちろん、無理に、とは言わないけど ⋮⋮﹂ 母は難しい顔をして、わたしの表情を伺った。 答えは。 答えは決まっている。 ﹁い、行くよ、わたし﹂震えている。声が、体が、震えている。そ のふるえを抑えて、思い切り声帯を振り絞った。これはチャンスな んだ。わたしが今一度、千尋に認められるためのチャンス。千尋の パートナーになるための試験。わたしがダメ人間から脱するための、 試練。 そうだとしたら、戦わなくちゃいけない。 前に進む。 濃い闇があろうとも、人の目があろうとも、道が閉ざされていよ うとも⋮⋮わたしには篝火がある。暗黒の中、煌々ときらめく一条 の光芒。わたしを深淵から引っ張りあげてくれた、優しい灯火。 もう、千尋の足枷にはなりたくない。足手まといには、もう⋮⋮。 母は満足そうに頷いた。﹁そっか。あなた、強くなったわね。お 母さん、すごく嬉しいわ。小躍りしそうなくらい﹂ ﹁わたしも。嬉しい。でも⋮⋮体が震えてる﹂ ﹁それはね、一般的には武者震いって言うのよ。知ってた?﹂ 母の悪戯っぽい笑み。 わたしは救われたような気持ちで、一筋の光明を見た気がした。 当たり前だった。わたしを照らしてくれる光は、何も千尋だけじゃ ない。お母さんも、お父さんも、わたしのために、出来損ないの娘 のために、汲々として⋮⋮。 ﹁ま、とりあえず英気を養いなさい﹂母はラッピングされた膳を示 157 した。﹁腹が減っては戦はできぬ﹂ かけがいのない、とはこのときのために用意された言葉のように 思えた。お母さんの何気ない一言が、わたしの緊張を解きほぐして くれる。幸福。きっと、この感情は幸福と形容されるもの。そうな のだろう。 テーブルに着いた。お腹は空っぽ。わたしは自分でもはしたない かな、と思うくらいにがつがつと食べた。それを咎めることのでき るのは母しかおらず、また、母はわたしに冷ややかな目を向けるこ ともない。安息。小学生の頃に感じていた閉塞感はないのだった。 周囲の人間に監視されているような息苦しさは、このテーブルには 存在しない。 ﹁そういえば﹂ 暴食をほほえましそうに見ていた母は、不意に声を上げた。 箸を止める。ほんの些細な気持ちで、母を見やった。 母は笑いをこらえ切れないといった風に、幸せそうに唇を曲げて いった。﹁そういえば今日、驚嘆すべき慶事がもう一つ、起きてい たことを忘れてたわ﹂ 眉をひそめるわたしは、なになにと無言で催促する。 気分のよかったわたしは、単純に何があったんだろう、と無邪気 にそう、思った。 続かない。長くは。平和は。安穏は。分かっていた。初めから理 解していた。そんなもの幻想でしかない。虚構の一種。幸せな日々 なんて、永久には続かない。そんなこと、分かりすぎるくらい分か っていた。千尋との幸福な毎日も、いつか、終わりがあると⋮⋮で もわたしは、その事実に眼をつむっていた。見ないようにしていた。 一度見てしまえば、その真実を認めてしまえば、弱いわたしは、ガ ラス細工のように、あっけなく、なす術もなく、崩壊する⋮⋮。 ﹁今朝、千尋がべっぴんさんの彼女を連れてきたのよ﹂母は口唇を ゆるくした。 158 159 第二十六話 妹︵8︶ ﹁好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い⋮⋮﹂ そこで、花びらが途切れる。 散ってしまった。 わたしの手には花片をむしり取られた、一輪の野花があった。細 長い茎は頼りなくたわみ、死んだようにこうべを垂れている。 一掬の涙が手の甲から花に伝った。だんだんと勢いを増すそれは、 洪水のごとく、涙腺を刺激する。“それ”とはすなわち、悲しみだ さんぜん った。悲哀。胸中が宇宙空間のようになる。膨張する暗黒と虚無。 際限はない。延々と継続する。 気がつけば、顔に手を当てて、潸然と泣き伏すわたしがいた。 堤防。眼下にはそよそよと流れる小川があった。対の岸には、白 斑の河鵜が翼を広げ、小刻みに震わせていた。そのなにげないしぐ さに苛立ちを覚える。無神経な顔⋮⋮。わたしは身勝手な憤りを、 近くにあった小石にこめ、思い切り投擲した。当たらなかった。河 鵜は何食わぬ顔で水面を滑っていった。 きょ 花を持つ握力が、漸を追って強くなる。やるせない怒気と物寂し い虚しさ。いくあてを失い、彷徨する。 わたしは握りつぶされたそれを、堤の脇に掘られた渠に打ち捨て た。 意思も思考もなく、浪々と水流に身を任せる花。 ひとがたなが それはまるで、手足をもがれた人のようだった。 ふと。 ふと、人形流しを想起する。 祓いの川に流れる、人の形をした紙。積もり積もった己が罪や穢 しんとう れを人形に封入し、﹁祓えたまえ。清めたまえ﹂と唱え、人形を送 る、神道由来の儀式。 罪業と不浄。 160 かきょ 光の射さない河渠。ひっそりと漂う、四肢を立たれた人形⋮⋮。 ﹁祓えたまえ。清めたまえ﹂ 小さな声で、つぶやく。 ﹁祓えたまえ。清めたまえ﹂ 浮き沈みする緑茎を凝眸している。 ﹁祓えたまえ。清めたまえ﹂ きょき 念じている。あの花に、人形に、この度し難い罪が付着するよう、 心底より祈念している。頼みます、お願いします、神様⋮⋮。 わたしの罪は清められました。 わたしの咎は拭われました。 わたしの邪は封じられました。 だから。 どうか。 なんでもしますから。 神様。 わたしから兄を奪わないでください。 一度は止んだ嗚咽が、ひっくひっく⋮⋮と視界を曇らせる。歔欷。 胸の底から、失意と憂戚がこみ上げてくる。止められそうにない。 ようらんき わたしはこのうら悲しさを止められそうにない。 思えば。 いつも、隣には千尋がいた気がする。揺籃期からずっと、ずっと、 そばにいてくれたんじゃないのかな。わたしが露骨に無視しても、 口汚く罵っても、悪態をつくだけで、見放すことはしなかった⋮⋮ と思うんだ。 叫びたいことがあれば、耳を傾けてくれた。 逃げだしたいときがあれば、手を握ってくれた。 すぐに思い起こせる。切れ長の目に、中途半端に長い髪。わたし と似た形の、小ぶりの唇⋮⋮。あぁ、わたしは彼のどこに、恋をし たのだろう︱︱。 すぐには思い出せない。わたしはいつから、彼にときめきを抱く 161 ようになったのか⋮⋮。 ありふれた毎日。 思う。彼との日々は安寧ながらも、幸せな心持ちで過ごせた。順 境。健やかな幸福。近親同士という、歪んだ想いがあったとしても、 そこにはまぎれもなく、愛があった。少なくともわたしは、彼を、 千尋を、愛していた。 千尋にときめいていた。 嘘じゃないんだ。本当のこと。彼の一挙一動にいちいち反応して、 わたしの名を呼ぶ彼に、甘えたような声で返事をして、彼が近づい てきたらほんの少しだけ、キス︱︱なんかを期待したりもして⋮⋮。 でも、不純。汚濁している。この感情は倫理の枠から明らかに逸し たものだった。 人は長年生活を同じくしてきた相手に恋心なんぞ抱くはずはない。 愛憎半ばする想いがあるだけで、それが凄絶な恋愛感情に結びつく ことは通常、ありえない。緑葉静絵は狂ってる。人の道を踏み外し た畜生。兄の血肉に愉悦する、気持ち悪い女⋮⋮。 だから。 でも。 しかし。 解答を求む。正確無比の、文句のつけようのない解答。わたしは どうしたらいいのだろう。この喪失感はなにを持って、埋めればい いのだろう。わたしは彼をあきらめたほうがいい⋮⋮? けど、そ れだったら、わたしは。 わたしは。 これはことごとく、わたし視点の心得違いの私見、願望。彼の意 わたしの勝手 思を反映しているわけじゃない。彼がわたしと一緒にいたいのか、 ともに添い遂げてくれるのか⋮⋮その心中は不明。 な解釈なんだ、これは。あまりに楽観的で、空虚な幸せに満ちた、 ひっせい 浅慮。実現の余地はない。だって、兄妹だもん。いくらなんでも、 妹に一度限りの畢生を尽くそうだなんて、思わない。考えない。兄 162 の選択は正常。普通。わたしは彼を責められない。普通の人を選ん だ彼を、責められないんだッ! 悲しいれど。 いやだけど。 彼の幸せを第一に考えれば、これが最上。良識ある選定。 諦めるしか、ないのかな。 どうしよう。 どれが正しいのだろう。 どっちが正しいのだろう。 寂しい。 千尋に、逢いたい⋮⋮。 自立。 誓った。千尋に誓った。自立する、と。それがたとえ、彼に恋人 ができようとも、関係ない。わたしは自立しなくちゃいけない。こ れ以上家族に迷惑をかけちゃダメなんだ。鬱々と家居する状況から、 脱却するんだ。 そして、千尋に認められよう。普通の人間になって、千尋に、﹁ えらいえらい﹂って頭をなでなでしてもらうんだ。 人形はとっくに見えなくなっていた。 どれくらい、ここにいたのだろう。 袖は涙でぐちょぐちょになっている。 着替えないといけない。 お母さんにはなんて言い訳しよう。あの知らせを聞いた直後に家 を飛び出したから⋮⋮変に思ってるかもしれない。それで、無我夢 中になって、一キロ先の河畔まで走ったんだ。その途で人知れず咲 く野花を見つけた。 あは。 バカみたいだ、わたし。 行かなくちゃ、いけないのに。 進まなくちゃ、いけないのに。 163 同行者はもういない。わたし一人の、孤独な旅。でも、勝ち取ら なくちゃいけない。わたしはもう、子供じゃない。困難を前にして、 ただ立ちつくすだけのわたしじゃない。 気がつけば、薄暮の空。 決意を新たにして、川沿いの野道を歩き出す。 一本松の和菓子屋は、高峻たる山々を背にした日本家屋だった。 軒先は長く、引き戸の奥には和菓子が雑然と陳列されてある。 わたしと千尋が前に通ったときより、わずかに壁や柱が腐朽して いるのが分かった。 こみ上げてくる懐かしさが、一時の感傷をもたらした。自室に引 き篭もっていたからか、千尋との思い出の場だからか、胸の高鳴り は天を摩する勢いだった。 ここなら、と思った。 推察するに、和菓子を売却するだけの楽な仕事と見た。周囲を見 渡してみても、人気はほとんどない。社会を経験しておらず、コミ ュニケーション能力を大きく破綻させたわたしには、おあつらえ向 きの職場のように思えた。 心の中でガッツポーズ。 前向きに、前向きに⋮⋮。 さて。 立ち往生。店主さんはこの中にいるのだろうか。人がいるように は思えないけど。外出している? にしても留守番一人いないなん て⋮⋮。ふふふ、無防備だなー。そんなことだと、お菓子盗み食い しちゃうぞー。 と。 ﹁んんー、怪しい人物発見。至急拘束します﹂ ﹁え?﹂ 164 ﹁おぉー、いい体してるねぇー。上から、八十二、五十九、八十四 と見たッ! うわぁ、理想的なプロポーションだねぇ。えへへ﹂ ﹁えっ、あのッ﹂ 誰かがいる、と理解したときにはすでに、体中をぺたぺたをまさ ぐられていた。くすぐったいのと羞恥心、そして掻き消えない恐怖 心がない交ぜになる。 ﹁やっ、止めてくださいいいぃっ!﹂ ﹁あのねぇ、うちの店の前でうろうろされるこっちのほうが困るん だよ。分かるかな﹂ うちの店⋮⋮? ﹁今日はねぇ、めでたい日でさぁ、なんとこんないつ倒壊してもお かしくない店に、アルバイトさんがくるんだよ。ちょっとわけあり の子らしいけどさ。でも、信じられる? 信じられないよねぇ、正 直わたしも、あんな薄給な求人に応募する奴なんて、絶対いないと 思ってたのに﹂ その人は滔々と何かを話している。 内容から玩味するに、それは⋮⋮。 ﹁でもまぁ、結果オーライってもんだよ。わたしも詠太郎以外に話 し相手が欲しかったからさ。あぁ、詠太郎ってのはわたしの彼氏で、 平安絵巻物から抜け出したみたいに古臭い奴なんだけど、それはな んとも爽やかな男でさ、メガネ男子っていうのかな。黒縁メガネが すっごく似合うんだよね。でも無口だし、変に格式ばってるし、い すいか きなり和歌とか詠みだすし! けどまぁ、いい奴なんだろうけどさ﹂ んで、君の名前は? 快活そうなその人は、わたしの前に回りこんで、誰何した。 多弁に気圧されていたわたしは、とっさに答えることができない でいた。 それを感得したらしいその人は、白い八重歯を見せて、﹁君、う ちのアルバイト生でしょ?﹂と尋ねた。 こっくりと頷く。 165 すると、﹁やっぱりなんだ﹂とその人は見るからに嬉しそうにし た。朗らかだった。人の緊張をほぐすような笑み。 ﹁おっと失敬。相手の名前を尋ねる前に、まず自分の名前を明かす のが筋か⋮⋮わたしの姓は佐島、名は月子、人呼んで、おんぼろ菓 子屋の跡取り娘⋮⋮なんて言われてる、一介の学生だよ﹂ 166 第二十七話 妹︵9︶ 和菓子の立ち並ぶ土間に案内されたわたしは、﹁ちょっと待って てね﹂と佐島さんに言われて、大人しく待つことにした。 胸部を手で押さえてみれば、心臓がバクバク鳴っているのが分か った。 家族以外の人間と話すのは、ずいぶん久しぶりだった。困惑と安 堵。口に唾が溜まって気持ち悪い。 糸を張っている。 緊張の糸。 爪で弾けば、揺れる。振動する。細く、繊細な、琴の弦。緑葉静 絵なる肉体の殻の中、それはまるで、蜘蛛の糸のように張り巡らさ れていた。 あんたん 衝撃があれば、糸は律動する。神経質に、過激に、官能的に、退 廃的に⋮⋮。拠なき暗澹と狼狽。もたらされる毒。怖気づく。わた しは怖くなって引きこもる。抑鬱。そして、程度の劣るいいわけを 作る。わたしは悪くない、わたしは悪くない、わたしは悪くない⋮ ⋮と。 ︱︱卒業するって、決めたのにね。 おののく四肢を、むりやり御した。 御しても御しても、御しきれない。これでは、のた打ち回る、蛇。 大蛇。わたしの心に巣食う、醜怪な悪鬼。 鎮まれ、鎮まれ⋮⋮。 わたしの、体。 前を見る。 わたしと同じくらいの歳だろうか。天衣無縫、といった風。千尋 たたき の通う高校の制服を着ている。チェックのスカート。スマートなカ ッターシャツ。 佐島さんは鞄を三和土に置いて、無造作にお菓子を一つ、選び取 167 った。包装をといて、口に入れる。 ⋮⋮え。 しばし、混乱する。食べたのかな。食べたよね。食べていいのか な。商品なんじゃないのかな。疑問が渦巻く。土間の隅で縮こまっ ていたわたしだったけど、思わずそう突っ込みを入れる。心の中で。 精神は相も変わらず、萎縮しており、肉体は指の先まで硬直してい た。 ﹁⋮⋮ん﹂とわたしの視線に気付いたのか、﹁あぁ、これ﹂といっ て、なんてことないように笑う。﹁君も食べたいの?﹂ 顔の前で手をぶんぶんと振る。顔を見られて恥ずかしいという思 いも手伝ってか、わたしは顔を俯けた。 ﹁なーんだ。お饅頭はお気に召さず⋮⋮か﹂佐島さんは残念そうに 呟いた。 かくせい 早くも次の甘味を物色している。 隔世の感があった。長年他者との意思疎通を絶っていたからか、 どう反応していいかわからない。 以前のわたしなら、切れのある言葉を返していた。 たった数年で、わたしを取り巻く世界は大きく変容している。 ﹁わたしはさー、きんつばが好きなんだけどさー、香ばしい芋餡が いいよね。あれ、うまいんだよなかなか﹂佐島さんは舌鼓を打って いる。そして、さりげない風に、﹁でさ。君、対人恐怖症でしょ?﹂ たがね と尋ねた。 胸に鏨を突き刺さされたような衝撃。 ﹁たたたっ、たい⋮⋮﹂ ﹁君の瞳孔って、カメラのレンズみたいに調整できるレア仕様だっ たんだね。全開だったよ。視線も忙しなくキョロキョロしてた。そ れに、意味もなく手をグーパーしたり、靴の上から足の指が動いて るのが分かったんだ。体は口ほどに物を言う。的を射た至言だと思 うんだよね、わたしは﹂ 佐島さんは口をもぐもぐさせて、わたしを見ている。 168 恬とした表情。 舌がチロチロと覗いている。 体の熱が、潮のように引いていった。 瞬間冷凍された空気。 汗がひどい。 ﹁⋮⋮何もとって食おうってわけじゃないんだからさ、楽になりな よ﹂佐島さんは相好を崩した。﹁ここは古ぼけた和菓子屋で、君の 目の前にいるのはただの学生。気を張る要素も、理由もない。おー けー?﹂ ﹁⋮⋮おーけー﹂ ﹁よし、素直な子だね。お姉ちゃん、そういう子は好きだな。そん ないい子には、ご褒美を上げちゃおう﹂と佐島さんはひょいっとお 菓子らしきものを放った。 わたしは足をもたれさせて、それを受け取った。﹁あわわ﹂と千 鳥足になるあたり、運動不足が祟っている。うぅ、恥ずかしい。 ﹁きんつばだよ。それを食べたら、誰でも笑顔になるんだ﹂ 食べなよ、と促される。 汗ばんだ手が、包みを掴み締める。このまま握り潰してしまいそ うだった。 ﹁御代は頂かないよ﹂ 視界が徐々に揺れ始める。おかしいな。地震でも起こってるのか な。 ﹁⋮⋮いただけま、せん﹂ ﹁遠慮してるの﹂ ﹁食べれ、ないぃ、んです﹂わたしは歯をカチカチと鳴らした。﹁ 人、の前で、ものがたっ、食べれな、いんで、す⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮無神経なことをしたね。ごめん、謝るよ﹂申し訳なさそうに 頭を下げた。 ﹁いっ、いや、わたしのほうが⋮⋮無神経、だと思います﹂ そんなことないよ、と佐島さんは言った。﹁わたしのことは気に 169 しなくていいから。でも⋮⋮わたしにもその感情には覚えがあるか らさ、その辛さはよく分かってたつもりなんだけどなぁ、とは思う んだよね﹂ 妙な突っかかりを覚えた。 佐島さんを見る。凝視、といっても過言じゃない。 ﹁わたしも君と同じなんだよ﹂佐島さんは空虚な笑い顔を見せた。 ﹁わたしも一時期、対人恐怖症だったから﹂ わたしは押し黙った。 きんつばは潰れている。 ﹁体操服をズタズタにされたり、給食に虫の死骸入れられたり、教 科書を黒く塗られたりとまぁ、色々あってさ、引き篭もっちゃった んだよねわたし。学校に行くのが嫌でさ、ご飯もろくに食べられや しない。んで、一念発起、がんばろうと思って登校したら、なんか ちっきょ 勝手に解決してさ、わたしをいじめてたクズが全員、別の暴力沙汰 起こして蟄居してたんだよ。それで問題は解消されたけど、心はと っくにボロボロ。死んじゃおうかなーなんて思って首吊ろうとした とき、あいつに止められたんだ﹂ それまで険しい顔をしていた佐島さんは、ふいに幸せそうに頬を 緩めた。照れくさそうにあごの辺りをかく。 わたしの反応を無視して、佐島さんはふわふわと一人、自分の世 界に没入する。 今になってこの人が、微妙にズレていることに気付く。わたしが 言える道理じゃないけど、佐島さんはアンバランスな人だった。 所々思考が断絶する中、引き戸を開ける音がした。 振り返る。 地に伸びた隻影。 斜陽に塗りつぶされたそれは、人の形をしていた。 ﹁逢魔が時である。闇夜に備え、篝火を焚くのだ﹂ それは足音もなく忍び寄ってきた。 ﹁月子よ、このままでは、宵に至りて鬼が出るぞ﹂ 170 詩を低吟するような声色だった。 わたしの隣を通りすぎ、佐島さんの肩を掴む。 佐島さんの顔は紅に潮している。 ﹁聞いているのか月子。そんな腑抜けた面では、魑魅魍魎が嬉々と して近寄るではないか。早急に篝火を燃やすのだ﹂ 肩を揺り動かすが、佐島さんは気の抜けた顔でされるがままにな っていた。 蚊帳の外に追いやられたわたしは、じつと身を丸くした。虎が過 ぎ去るのを草むらに隠れて待つ小動物の心境だった。 ﹁おい、聞いているのか月子。涎が垂れているぞ。まさか⋮⋮鬼に とり憑かれたのか。愚か者め。だからあれほど﹂ 颯。 颯。 颯。 引き戸の隙間から吹き抜ける夕風。 ﹁うむ﹂ その人は顔に手をかざして、振り向いた。 時宜を得たように、夕風がやむ。 やむ。 ﹁や﹂ 整った眉宇をひそめ、メガネ越しの虹彩を広げた。 注視を一身に受ける。 じょう その眼光はこの世のものとは思えぬほど鋭く、常軌を逸していた。 嫋。 嫋。 嫋。 艶やかな和琴のしらべ。 けしょう それは涼やかな松風の音色であったか。 ﹁雅なる化生の妖しさかな﹂ 一言を吟じたその人は、佐島さんを突き放して、射るような目つ 171 きをもってわたしを貫いた。 はくせき 初めて視認できたそれは、白皙の妖美だった。女のように透き通 った肌、艶のある黒髪。浄瑠璃の人形を思わせる貌。 一歩、進行する。 一歩、後退する。 迫るその人と、引くわたし。 遠くで山鳥のさえずりが聞こえる。 他と隔絶した空間。わたしと対峙する、名も分からぬ人士。二人 きり、と称しても差し支えない。一転して、佐島さんは空漠たるこ の場からすっかり締め出されている。 じゃっき 人に対する恐れすら忘れていた。 神仏に対するような畏怖。惹起する。わたしは眼前の人にそれこ そ魔物のような、そんな神性すら感じている。人の形をした怪異。 妙だ。 この人は⋮⋮なんなのだ。 ﹁聞くが⋮⋮おまえ、兄、あるいは弟はいるか﹂ と。 唐突に。 ﹁いるか、いるのであろう。⋮⋮決然として答えよ﹂ 詰問じみた口調。 その眼圧に恐怖を感じながらも、﹁いっ、います﹂と気力を振り 絞って、返答する。 寂とした静けさが、妖精のように一過した。 その人は唇と頬を、人形のように吊り上げた。 ﹁いやはや、巡り合わせの不思議さよ﹂その人は芝居がかった手振 りで額に手を置いた。﹁事実は小説よりも奇なり⋮⋮とは、よく言 ったもの﹂指の隙間から漏れる眼差しは、どこか艶かしいものが含 まれているように感じる。、 危ういものが胸底から突きぬけ、後ずさりした。 空気が全身にまとまりついているような錯覚を覚える。足の裏が 172 地面に張り付いている。縫い付けられたのだろうか? 釘が足の甲 を貫通している⋮⋮? 視線を下げる。釘はない。妄想。この奇妙 にズレた雰囲気が作り上げた幻影。 かっけつ ﹁名を、申せ﹂ 喀血する病人のように、その人は己が口に手を当てた。 壁に片手でついて、体重を支えている。 陰々とした気迫が充溢している。 ﹁みどりばっ、しず、え、です﹂ ﹁緑葉⋮⋮静絵とは﹂ 能のように、ぴたと動きを静止させる。 静。 静。 静。 ﹁藤宮詠太郎⋮⋮と言う。おまえの兄と旧知のものである﹂ ﹁ち、千尋、と⋮⋮﹂ ﹁さればよ﹂ と。 その人は。 その言をもって。 ﹁篝火に たちそふ恋の 煙こそ 世には 絶えせぬほのほなり けれ⋮⋮月子よ、まきをくべ、炎々と燃ゆ篝をあらわせ。もたもた しては、忌むべき夜が来るのだぞ﹂ ﹁はぁ⋮⋮なんかさ、いつにも増して意味不明なんだけど。変なも のでも食べた?﹂ ﹁それは、おまえの作った、弁当のことを言っているのか?﹂ ﹁だからさ⋮⋮なんでわたしが、お弁当に変なものを混入しなくち ゃいけないのよ﹂ ﹁ごまと昆布をあえたものは、うまかった﹂ ﹁⋮⋮そっか。朝早く起きた甲斐があったよ。仕込み、大変だった から﹂ 173 ﹁昨夜、あれほど逢瀬を交わした、というものを⋮⋮﹂ 佐島さんは耳まで赤くなっている。﹁よっ、詠太郎ッ!﹂ ﹁房事もさることながら、飯炊きもうまい。掃除もする。俺は、お まえのような女を持って⋮⋮“幸せ”だった﹂ 藤宮さんは遠い目をしていた。 違和感を覚える。 二人の会話に、ちぐはぐな印象を受ける。 ﹁静絵ちゃん﹂ 名前を呼ばれる。 ﹁帰りなさい﹂ ﹁かえ﹂ ﹁帰りなさい﹂ ﹁でも﹂ ﹁帰りなさい、とわたしは言った。だから、帰るのよ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁明日、待ってるから﹂ 174 第二十八話 兄︵16︶ 聖人は言った。 ﹁罪を重ねるのはやめなさい﹂ 賢人は言った。 ﹁己を欺くのはやめなさい﹂ 哲人は言った。 ﹁嘘をつくのはやめなさい﹂ 咎人は答えた。 ﹁分かりました。分かりました﹂ ◆◆◆ 屋上には一台のベンチがすえつけてある。それがコンクリートの 海にぽつんと存在していた。 ﹁あそこに座りましょう﹂ 寧はベンチのほうを指差した。 手にはお弁当を提げている。 ﹁風が涼しいね﹂ 荒風寧は風にさらわれた髪を押さえながら、清楚として水平線を 望んでいた。 絵になる光景。 なぜか。 違和を覚える。 ﹁今日のご飯は豆腐ハンバーグと金平ごぼうだから﹂ 175 寧はすたすたと歩いている。前方にはベンチ。潮風と昼の日差し。 ﹁がんばって朝早くから作ったの﹂ 振り向きざまのその顔は、彫刻のような静止した美があった。 ﹁⋮⋮どうしたんですか千尋君。返事がないよ﹂ 生白い腕がぼくの二の腕をつかんだ。寧の指が一本ずつ添えられ る。ぞわぞわと肌が総毛だった。その仕草は無機質な昆虫のうごめ きを思わせる。 ﹁寧﹂ ﹁そんな怖い顔しないで﹂ 寧の白魚のような指がぼくの頬にかかった。女の顔をしている。 顔はりんごのように赤く熟れ、ぼくを見やる瞳はしとしとと濡れて いた。つばを飲み込む音、舌なめずりの艶かしさ⋮⋮。 頭がおかしくなっちゃうよ。 女は恍惚のこもった視線を隠すこともせず、体を密着させる。抱 しせき きしめたら木の枝のように折れてしまいそうなほど細い腰なのに、 熱のこもったそのししおきは弾力性に富んでいる。咫尺の間。気が つけば、そばにいる。 ﹁千尋君はワタシの彼氏だよね﹂ もう片方の手で手首を握られる。それが万力のような強さできゅ っと締めた。痛いと思った。でも、寧の迫力に気圧されて何もいえ なかった。 ﹁ちゃんと告白してくれたよね﹂ おかしいと思った。寧の表情は墨で塗りつぶしたように無表情だ った。 あぁ⋮⋮と思い巡らす。 ひょっとしたらぼくは、とんでもない地雷を踏んだのかもしれな い。 綺麗な外見はただの張りぼてで、中身を覗いてみれば、底の見え ない奈落が内在している。人のゆがみ。甘かった。人を見る目がな いなぼく。この女、予想以上に。 176 寧はどんよりとした目をしていた。無表情は早くも鳴りを潜め、 暗渠のようにどす黒い何かがちらついている。﹁気に食わない﹂爬 虫類みたいな目だ、と思った。胴回りの太い蛇。感情のこもってい ない、鉱物のような目。﹁気に食わねぇーんだよ。気に食わねぇ、 気に食わねぇ⋮⋮﹂ 寧は背中を丸め、がりがりと頭をかきむしっている。はらはらと 抜け落ちる髪の毛。体中が青ざめている。セロテープを、肉の上か ら一枚だけ引っ付けたような薄く、透明な肌。どくどくと巡る血管 が透けて見える。 荒風寧の奇怪な変容。精神疾患を想起させる。狂気。語調が荒っ ぽくなっている。普段の寧ではない。普通の寧ではない。ぶつぶつ と何かをつぶやいているだけなんだ。 ﹁⋮⋮寧﹂ さすがに気になって、声をかけた。寧の様子は、明らかに変だっ た。いや、変というも、びょーきみたいだった。心の病。 すると。 すると。 ﹁あぁぁぁあ⋮⋮﹂ 彼女はほえた。獣のように。腹の底から吐き出された咆哮は、地 鳴りすら生じさせる。ぼくは思わず、耳をふさいだ。 ﹁お、おい。寧﹂ 突然の変化、変質に息を呑む。 ﹁千尋おぉぉぉ﹂ 寧はぼくの胸倉をつかんだ。すさまじい力。首が圧迫される。苦 しい。﹁あ、あ﹂ ﹁なんでおまええぇぇぇ、ワタシ以外の女と飯食おうとしてんだよ ぉおぉぉぉぉッ!﹂ え。 壁に叩きつけられる。背骨がコンクリートの壁にぶち当たり、悲 鳴を上げた。 177 ﹁あのクズオンナめぇええッ! ブッ殺してやるッ! ワタシがッ ! ワタシがッ! 千尋とッ! 飯を食うんだよぉぉおぉッ!﹂ 散々に振り回され、呼吸が途切れ途切れになる中、地面に叩きつ けられる。寧はだらだらと唾液を垂らして、ぼくに馬乗りになった。 血走った目がぼくを縫い付けた。 ﹁死罪ぃいいッ! ワタシ以外の女と飯を食うと死罪いッ! ワタ シ以外の女と仲良くすると死罪いッ! ワタシ以外の女としゃべる と死罪いッ! ワタシ以外の女に触ると死罪いッ! ワタシ以外の 死罪ッ死罪ッ死罪ッ 女といると死罪いッ! ワタシ以外の女を見ると死罪いッ! ワタ シ以外の女と同じ空気を吸うと死罪いッ! ! おまえはどれだけッ! 死罪になんだよバカぁぁぁあッ! ワ タシ以外の女と楽しそうにすんじゃねぇーええッ! うざってぇぇ んだよぉぉおっ!﹂ ぼくの顔にポタポタと寧の唾液が落ちてくる。生ぬるい感触。身 やく 動きが取れない。がっちりと寧のももで体を挟まれている。肩も寧 が執拗に扼していた。寧の瞳はギラギラとした獣性がこもっている。 楚々とした寧はどこにもいない。眼下には獣。一匹の獣。激痛が走 る。 ﹁ワタシをイライラさせんじゃぁねぇーええッ! おまえの体舐め まわすぞクソがぁあぁぁッ! ジュルジュルのベタベタにしてやん ぞおぉぉおッ! あああぁぁああぁッ! そんな顔すんなあぁぁあ ッ! 首絞めたくなるうぅーうッ! イジメたくなるんだワタシは ぁあッ! おまえを見てるとそそる、性欲が燃え上がる、犯したく なる、壊したくなる、潰したくなる、染めたくなる、ワタシの体で おまえの全部を骨抜きのぐちゃぐちゃにしてやろうかぁああ?﹂ 寧はぼくの首に指を添えて、ぎぃーっと力を入れた。あうあう、 と息が途絶する。 ﹁ワタシの体が欲しいか? 欲しいか欲しいか欲しいか欲しいって 言えぇえええッ! どうせおまえもワタシとセックスしたいんだろ ? セックスしたいって言えよセックスしたいって言えよセックス 178 したいって言えよ、言えば楽にしてやるとろけるぞぉぉぉッ! 浄 化してやるううぅッ! 浄化だ浄化ッ! ワタシの血肉でおまえを きれいきれいの赤子に戻してあげるようふふふふふふふ。ワワ、ワ タシはぁあッ! おまえがほかのクズオンナと一緒にいるのが耐え られねぇえんだよぉおッ! 我慢してやったのにいいぃ、辛抱して やったのにいいぃ、おまえがッ! おまえがッ⋮⋮ほかの女と飯食 ったりするから⋮⋮ぐすん、ワタシ、悲しいよ。涙もろいの、ワタ シ。だから、こんなことするんだよ。罪をね、償いやがれバカぁあ あッ!﹂ ガンガンとぼくを揺り動かす。意識が遠のいていく。首の圧迫感。 ﹁好きなのぉおおッ! ずっと前からッ! 好きだったのぉおおぉ ぉッ! 一年前からああぁッ! 入学したその日から一目惚れの好 き好きだったのぉおおッ! でもワタシッ、臆病だから、弱虫だか ら、告白なんてッ、できなくてッ、この恋は実らないって諦めてて ッ、その内考えるのを止めていってッ、千尋のことも思い出さなく なってッ、興味も薄らいでいってッ、このままいったら千尋のこと を忘れられるかなってッ、期待しててッ! でもッ、おまえがッ、 ワタシに告白なんてするからあぁぁぁッ! 思い出しちゃったのお おおぉッ! 温かくてポカポカしたの、思い出しちゃったのおおぉ ッ! 打ち捨てるつもりだったのにいいぃぃッ! おまえガッ! おまえガッ! 好きとかッ! 言うからああぁぁぁッ⋮⋮﹂ 寧はぽろぽろと涙をこぼしている。ぼくの胸をドアに見立てるよ うに拳をぶつけて、﹁ふぇーん﹂と泣き喚いている。 首締めから開放されたぼくは、そっと、そっと、彼女の背中に手 を置いた。 ﹁ちッ、千尋おぉぉ﹂ 抱きついてくる寧。震える背中。ぼくは、そっと、そっと、彼女 の肩に手を置いた。 置いた。 ﹁うっせぇーんだよぉぉッ荒風えぇぇ!﹂ 179 思い切り突き飛ばした。 ﹁あ﹂ 気の抜けたような声がして、寧はしたたかに背中をぶつけた。 ﹁あいたた⋮⋮首が、いてぇ﹂僕はげほげほと首の辺りを押さえた。 上体を起こした寧は、﹁なん、で﹂と目に涙をためて、訥々とし た言葉を上げた。 ﹁なんで、じゃねぇーんだよッ! 首絞めて告白するバカがいるか よ荒風ぇッ! 危うく死ぬとこだったわッ!﹂ ﹁えっ、でもッ、千尋はワタシのことッ、好きッ、なんだ、よね? そうだよね? 千尋﹂ ﹁んなもん嘘だよ嘘ぉおッ! 事実無根ッ、嘘八百ッの大嘘だっつ ーのぉッ!﹂ ﹁そそ、そんな、嘘、なんて⋮⋮冗談は止めてよ。つまんないよ、 それ﹂ ﹁嘘じゃねぇッ! ほんとのこったッ! おれはッ、佐島のアホに 強引につき合わされただけッ! おまえのことは好きでもなんでも ねぇんだッ!﹂ 僕は真実を口にした。 寧の瞳が色を失う。 180 第二十九話 兄︵17︶ 命題;愛は罪か? 回答;罪が愛であるならば。 命題;彼女は女である以前に妹であるか? 回答;彼女が妹である以前に女であるならば。 命題;家族間の恋愛感情は成立するか? 回答;それが夫婦間であるならば。 ◆◆◆ もう遅かった。 ぼくはとんでもないことを披瀝してしまった。というかぼく、今 すっごいひどいこと言わなかった? 寧はしばしポカンとした後、﹁ふえ、うぇーん﹂と大泣きに泣い た。幼い子供みたいに臆面もなく、さめざめと泣きはらした。 ぼくはあわあわと彼女の近くに行った。ぼくはバカなもんだから、 目の前でそんなに泣かれたら、どうしようもないよ。これは優しさ っていうより、陳腐な同情みたいなもので、ようはバカなんだよ、 ぼくは。バカってのは救いようがない。なんせ、中途半端に同情的 なのに、危機感が致命的に欠如しているのだから。 ﹁それでも﹂ と。 181 寧は。 ﹁それでも、ワタシはいいよ。あなたがワタシのことを好きじゃな くても、ワタシがあなたのこと、好きだから、別に、いいよね? このまま付き合っても﹂ ﹁は、はぁ?﹂ 彼女はぼくの腕をつかんで、幸せそうに頬をすりすりした。﹁う ー、好きぃ。千尋君、だーい好き﹂ ﹁離せって﹂ぼくには好きな人がいるんだ。 ﹁いーや。はなさなーい﹂ すっかり幼児化した寧は、かたくなにぼくを離そうとはしない。 無邪気そうにぼくを見上げては、満面の笑みを浮かべるだけなんだ。 人格崩壊。 本当の荒風寧は、想像以上に幼い。 ﹁あのね、寧﹂とぼくは彼女と視線を合わせて、﹁お願いなんだけ ど、手、離してくれないかな﹂となるべくやんわりと言った。 返ってきたのは、寧の唇だった。 口付け。 寧の唾液がこちら側に流れ込んできた。寧の指がぼくのあごや頬 の辺りに添えられ、口付けを促進する。軟体動物のような舌が口腔 に侵入し、満遍なくぼくの口の中を探検した。 ﹁ぷはー﹂寧は無邪気そうに頬を緩めて、﹁これが、お返事﹂とに っこり笑った。 ﹁⋮⋮あう﹂ ﹁あう、だって。千尋君、アシカみたーい。好き﹂ともう一度、口 付けた。今度は諸手をぼくの首に引っ掛けて、より深く舌を潜らせ る。供給される唾液。無理矢理押しつけるもんだから、歯がカチカ チ当たって痛いんだ。 思考がまどろんでいく。 彼女の甘いにおいが、麻薬のように身体を蝕んでいくんだ。徐々 に視界が霞がかっていく。感覚は口内にしかない。虫のようにうご 182 めく彼女の舌。頭の中が真っ白になる。 死亡する意識の中、一度も静絵とちゅーしたことないのに、とど こかで思う。 ◆◆◆ そううつ ワタシ、昔から躁鬱の癖があって、感情が高ぶると理性がメチャ クチャになるの。頭の中が真っ白になって、気がつけば相手の首を 絞めてたり、殴ったり、蹴ったりしてる。暴力好き、ってわけじゃ ないけど、それに一類するものだと思うな。注意疾患とか多動性障 害とか。ADHD。ワタシ、発達障害者っぽいんだ。 不思議って思うでしょ。普段のワタシからは想像もできないって。 いつものワタシってほら、おしとやかだとか大人びてるとか言われ てるから。でも、それは嘘偽りの姿。本当のワタシは獣みたいに暴 力的で、気持ち悪くて、幼稚で、整合性に欠けてて、頭がおかしい の。こんな風に取り繕うの、すっごい努力したんだ。血反吐をはい てがんばったの。これもお母さんのおかげで、お母さんの献身的な 介護と粘り強い指導と体中殴られたりご飯抜きの刑なんかのおかげ でワタシ、こんな風に普通になれた。死んじゃったけど、お母さん。 そんなワタシだから、普通の交友関係なんかで作れなくて、殴っ ちゃったんだよね。バットで。気に食わない相手がいてさ、手元に あった金属バットで殴っちゃったんだよ。爽快だった。気持ちよく てさ、鼻の穴からすーっと空気が抜けていく感じ。それで、気がつ いたら病院の中。そこで初めて、ワタシがADHDだって判明した。 軽度だけどね。 あー、ADHDってのは簡単に言えば先天的な脳障害で、注意力 183 が散漫だとか、時間感覚が維持できないだとか、情報をまとめるの が苦手だとか。常人から見ればなんでそんなこともできないのあん たって感じの病なんだけど、これはこれは実際にかかってみないと この苦しみは分からない。サイケデリックに歪む視界、ぐにゃぐに ゃに曲がる秒針、全方向から聞こえるノイズ⋮⋮思い出しただけで 吐きそう。今では大分改善されたけど、やっぱりきついな。 ⋮⋮あれ、驚いてる? 無理ないかな。ワタシ、偽ってきたから。 一般社会に溶け込めるよう常識を理解して、いい子いい子な女の子 になるために敬語体で話して、女子社会から爪弾きにされないよう 適度にファッションなんかに気をもんで、適当に男の子と付き合っ て、別れて⋮⋮本当、お遊びみたいな感じ。イニシエーションだよ。 ワタシが一般人になるための通過儀礼。人なんてお化け。妖怪。ワ はえ タシを騙すんだ。告白してきた男もどうせ、ワタシの体が目当てな んだろうけど。寄ってたかってくる蝿なんだ⋮⋮あぁ、君はちょっ と違う。いいんだ。君のこと、好きだから。単純でしょ、ワタシ。 ワタシ、痛いの好きなんだ。痛覚はワタシに生きている実感をく れる。お母さんから縄で縛られたり、裸のまんまでベランダに投げ 出されたときはちょっと悲しかったけど、これもお母さんの愛なん だなぁって思って我慢した。痛みは愛なんだね。学んだよ。だから さ、本当に互いのことを思ってるカップルは、相手に刻印を刻む。 刻んで、刻んで、刻んで⋮⋮互いの愛を確かめ合うんだ。幸せなこ とだよね。フォーエバーなラブ。ワタシもひそかに憧れだったんだ。 にしてもなんでだろうなぁ。なんで一目ぼれなんて益もないこと をしたのか⋮⋮多分、立ち込める雰囲気にやられたのかな。君のそ れは妙に背徳的で、ミステリアス。世間に対して斜に構えた態度も、 中途半端な孤独に悩む姿も、どれもどうしようもなく愚かで、つま らない。でも、ワタシそっくり。親近感を覚えたよ。ひょっとした らあの人も、ワタシのように何かを欠陥させているんじゃないかっ て。 ⋮⋮しにても頭が痛いなぁまったく。いきなりごめんねキスなん 184 かしちゃって。はめはずしすぎちゃった。本当にごめんね。気持ち 悪かったでしょ。時々あぁなる。深層心理のワタシ。自分を認めて 欲しくて、誰かに愛されたくて、でも認められず愛されず、ただ孤 独に打ち震える赤子⋮⋮。その実、ただの色狂いの女って寸法︱︱ 笑えるね。笑っていいよ。 185 第三十話 兄︵18︶ 荒風寧のほうが笑っている。 ぼくは憮然としている。 風が寧の奇麗な髪をさらっていった。涼味のある夏風だった。 荒風寧は異常をはらんでいる。表と裏をすみ分けて、別の顔を持 っている。その深層が露呈したとき、寧は獣になるのか。 でも⋮⋮。 ベンチに座る寧の顔は、泣きはらして子供のように見えた。 ﹁そんな顔するな﹂僕は寧の手を握っていた。そんな顔をしてほし くなかった。荒風寧の異質にはきちんとした論理があった。納得の いく異常。そういうものがあった。寧本人もそういうものを必死に 抑えて過ごしていることも、おぼろげながら推察された。ふいに寧 が哀れに見えた。﹁せっかくの美人が台無しだろ﹂ 寧は悲しげな表情をした。 しょせん。 他人の言など救いにもならぬ。 寧の言っていることが真実であれ虚偽であれ、そんなことは些細 なことでしかなかった。その仔細は不明だが、寧がなんらかの障害 にぶち当たっていることに違いはない。 問題に向かい合っているのは己自身であって、他人ではない。そ の間には大きな懸隔がある。越えることのできない壁。寧の四方に はそうした隔たりがあって、僕の声は届かない。鋳型が違うんだ。 性別も違うし性格も違う。出生も大きく乖離しているだろう。人と 人は理解し得ない。 ﹁ありがとう。嬉しいよ﹂寧は僕の手に己が手を重ねて、ニッコリ と笑った。空虚。 その笑みは反動なのかもしれない、と思った。寧のうそ寂しい笑 顔も、精神の暗部に巣食うものを鎮めるためのもののような気がし 186 た。取り繕っている。その笑みに傷跡のような生々しさがあった。 別に興味もない。 荒風寧の歩みなど知るよしもない。でも湧き上がる同情。僕は愚 かにも寧にそのような感情を抱いている。悪いほうの同情。健常者 が障害者を哀れみるような感じでさ、タチが悪ぃんだ。 僕の目を覗き込むように見ている。寧の眼球は水晶球みたいに透 徹としていて、心の底を見透かされてしまいそうになる。細く長い まぶたと赤い唇。寧は申し訳なさそうに言う。﹁ごめんなさい。そ の⋮⋮初めてだった?﹂ ﹁初めて?﹂ そこで寧は唇に指を添えた。 かぁーっと全身が熱くなる。僕は気恥ずかしくて顔をうつむけた。 言葉が出なかった。 寧もまた、困ったように顔を朱に染める。先ほどの態度とは一線 を画す反応だった。大人っぽい顔が初々しくなって、花のような可 憐さがあった。本来の寧はこう言う風なのかもしれない、と思った。 同時に、その変貌ぶりに人間として振り切れたものを感じる。まる でコインみたいなんだ。裏と表、容易にひっくり返る。 ﹁ファーストキス、じゃないよ﹂僕はそっと寧をうかがうように言 った。 ﹁そう、なんだ﹂ 寧は寂しそうにした。そんな顔にさせているのが僕だと思うと、 自分はなんて罪深い男なのかと、そんな痴愚な意識に囚われる。 なんつーか⋮⋮一気に男としてのレベルが上がったみたいな錯覚 があって、イヤな気分になる。名状しがたい。なんといえばいいの か。別にそんなことないのに。 ﹁誰?﹂ ﹁⋮⋮妹。おれ、妹がいてさ、小学校の頃におふざけ半分でしたこ とがあったんだ﹂ その後で不登校気味になった。 187 その頃は自分のキスのせいで、妹が学校に行きたくなくなったの かとうろたえてしまった記憶がある。今思えば、なんておかしなこ とだろうと失笑するのだった。 ﹁千尋君、妹さんいたんだ﹂ 寧は首を傾けて、柔らかな表情を作った。 その目は妖しげな光を帯びている。 彼女は言った。 ﹁一度会ってみたいな﹂ ◆◆◆ 寧との食事は辞退することにした。あんな雰囲気でご飯を食べれ るほど肝も座っていなければ、胸に潜む罪悪感をやすやすと控除で きるほど肝が太いわけでもない。あれほど魅力液に映った寧のお弁 当はその輝きをくすんだものにした。灰色になる。僕はなんだか退 廃的な気分になって、屋上を去る。 途中振り返ってみると、ポツリとベンチに座って細々と箸を動か している寧を見やる。よく見ると、口が動いている。当たり前だ。 しかしその動きは食べ物を噛み砕くという動きではなくて、何かし らの言葉を紡いでいるように思えた。 どうやら隣に話しかけているようで。 耳を澄ませてみれば、聞こえる。とても楽しそうに声を弾ませて、 寧は存在しない架空の人物と熱心に話し込んでいた。 あーん、と箸でレンコンを掴んで、差し出す。 隣には誰もいない。 背筋に悪寒が走る。 188 ﹁はい、あーんして。千尋君。甘辛く煮付けたレンコンですよ。早 起きして作ったんだから﹂ 寧はまるで、僕がそこにいるかのように幸せそうな顔をした。 虚妄。 虚妄だ。 寧の頭は常軌を逸した虚妄で糊塗されている。 僕はいたたまれない気分になって、早々と扉を潜り抜ける。 三階へと続く階段を下りながら、豹変した寧のことを思う。 寧は壊れていた。 まるでスイッチを切り替えるみたいなんだ。容易に入れ替わる。 その変化の度合いが急激すぎて、人間的に破綻しているように思え た。 会話の端々から推察するに、寧の過去には何か、強烈なトラウマ があるのかもしれない。おぼろげながら耳に届いた情報は、どうや ら寧は母親に虐待を受けていたのではないか、ということ。親から の外圧を受けて、精神がいびつな形に歪曲した。それは間違いなく 不幸なことで、報われない。しかし、一度曲がった金属板が二度と 元の形状を取り戻さないように、二度とは矯正できない。人の心は 複雑で、入り組んでいて、説明がつかない。あっさりと常識を覆し てくる。それはもう、人の理の外にある理なのだ。人を好きになる という想いもまた、不合理に軋んでいく。壊れてしまったから。戻 らない。無邪気な子供に幼児退行していく。純粋な自分を取り戻し たいがために、行動や言動が何年もさかのぼる。外圧に押し潰され る前の無垢な自分。緑馬千尋を好きなのだと自覚したとき、回路は 錯綜し、一昔前の自分が返り咲く。深淵に住む獣。 だから、おかしいのだと思った。空想の僕を作り上げて、現実を 捻じ曲げている。トチ狂ってるんだ、寧は。 結局のところ、何も解決していないのだと思った。静絵のことも、 寧のことも。そして、蛾々島のことだって、なにも変化していない。 停滞している。 189 せいちゅう 限られた選択肢。不当な掣肘をかけられ、矮小な自分を嫌悪する。 そんな中で、最善のものを処決しなければならないのだとしたら、 僕もその渦に自ら身を投じるしかないのかな。 僕は悄然とした気持ちで、昼休みの雑踏に埋没する。 190 第三十一話 兄︵19︶ 荒風寧との一件があったあとは、何事もなかったかのよう一日が 過ぎた。午後の授業があって、退屈なホームルームがあって、それ だけ。 一緒に帰ろう、と寧は言わなかった。僕は後ろ姿を見ていた。別 のお友達と帰る後ろ姿を、僕は頬杖をついて教室の窓から見ていた。 知らず知らずのうちに安堵の吐息が漏れていた。昼休みから緊張し ていた筋肉が、元の形に収縮するのを実感している。肩の荷がおり たって感じだ。でも、表裏をなすように、僕は一抹の寂しさを覚え ている。現金な性格。僕は身勝手なやつだろうか? 自分本位な考 えと取るか、悲しき男のサガと取るか⋮⋮。 ぬかるんだ畑道を歩いている。水たまり。畦からカエルの鳴き声 が聞こえてきた。 漫然と心を漂わせている。 まるで水のなかにいるみたいだ。水槽の底に身を横たえている感 じ。キラキラと光る水面を境に、世界が二分されている。手を伸ば しても、届きそうにない。遠近感覚が狂っている。奇妙な酩酊が僕 の中にある。 光に群がる蛾のように、玄関を扉を開いた。﹁ただいま﹂と帰宅 したことを告げる。意識は剥落している。習慣づけられた行為。 今には誰もいなかった。静絵もお母さんもいない。無音。寂しく なって、テレビをつける。 リモコンを取るさい、テーブルに置き手紙があることに気づく。 リモコンを操作しながら手にとって、読んでみる。そこには、お 母さんがパートに行っていることと、静絵がバイト先に挨拶に赴い ている旨を知らせるものだった。 茫然自失の時間がしばらくあったあと、ふいに鮮烈な驚きと興奮 が湧き出てきた。祝福すべき一事。手紙の筆致は溢れんばかりの喜 191 びににじんでいるように思えた。文面からそういった感情が読み取 れた。母を上機嫌にさせるにはもってこいの出来事なのだなと思う。 展望が開けてきた、と思った。静絵とともに歩む行路。とある夜、 僕の決意を聞いた静絵は、自らによって立つことを目指すようにな った。性格も明るくなったようだし、思ったことを行動にも移すよ うになった。これもそのための一歩なのだろう。僕は嬉しくなった。 未来が光あるものになった感じなんだ。たとえ周囲に忌避されるよ うな悪しき道であろうとも、その未来は僕にとって、静穏な幸福に 包まれている。愛を育もう。彼女を幸せにしてやりたい。静絵を受 け入れてから、決然となる自分がいる。 でも、幸せを保証してくれるものはどこもないし、何もない。険 路だ。踏破することは難しい。それでも自分たちの手で切り開かな くてはならない⋮⋮まったく、なんて因果な選択をしたものか! もと もはや普通の人生は望むべきもないというのに。 人倫に悖る宿業。その果てにはかない希望を求める。そして、わ ざわざ置き手紙を残してくれた母はそのことについて知らない⋮⋮。 心の柔らかい部分を刺激する。申し訳なさとやるせなさが混合し て、置き手紙を持つ手が過度にふるえた。 でも。 でも⋮⋮。 僕はふと、静絵に思いを馳せた。今頃はきっと、拙い口調で挨拶 をしているのだろう。そう思うとまた、嬉しいような悲しいような、 あるいは罪悪感のようなものが湧いた。 思えばこれまでの彼女の人生は、苦難にあふれるものだった。不 当に虐げられ、怒りや無力感を放出せずにグツグツと溜め込むよう な不器用な生き方をしていた。けれど、もう我慢しなくていい。僕 が受け止めよう。 僕が静絵を幸せにするから。 と。 ﹁ただいま﹂ 192 声がする。 ◆◆◆ 扉が開いて、床の軋む音がした。耳慣れた足音。段々近づいてく る。転じてテレビの雑音がやけに空々しく聞こえた。 誰かの気配を感じ、振り返る。そこにははっと僕を見る静絵の姿 があった。 三日月の髪留めを付け、清楚なワンピースを着ている。こうして 見ると普通の女の子と遜色ないな、とそんなことを思う。 ﹁あっ、あ、あっ﹂静絵は妙な声を上げている。シャクリをあげて るみたいだ。どこか困ったような表情をしている。 僕の頭に疑問符が浮かぶ。 静絵は拳を硬く握りしめている。何かに耐えているかのようだっ た。 ﹁静絵﹂不審に思って、彼女の名を呼ぶ。 すると静絵は、何も言わずにきびすを返した。くるっと体を反転 させ、階段を駆け上がっていくのが分かる。僕は呆気にとられた。 静絵の反応は奇妙だった。 と。 気づいたことがある。床だ。フローリングの床。目を凝らしてみ てみると、変なものがあることに気づく。さっきまで静絵のいた場 所だ。僕は膝をつき、指の腹でフローリングをこすってみる。⋮⋮ 水滴。とふいに、脳髄に電撃が走った。 息を飲み、慌てて階段をのぼった。予感があった。イヤな予感。 思索を巡らせる。 193 おそらく、静絵は自室にいる。 そう推量する。部屋の中で閉じこもっているに違いない。僕は焦 燥に駆られた。 ﹁静絵!﹂ 僕は彼女の部屋の扉を叩いた。 こうひ 反応はない。 叩扉する音だけが虚しく残響する。 僕は考えていた。突然の退避、不自然な表情、床に落ちた涙の意 味⋮⋮。 ﹁静絵、静絵ッ⋮⋮聞いたなっ! 俺が学校に行ったあと、母さん から聞いたなっ! おまえッ! 今朝ここに女が来たって聞いたな っ! 俺の彼女を名乗る女⋮⋮﹂ 言って、しまったと思う。これではまるで、僕が彼女を責めてい るみたいじゃないか。糾弾。そして、それを自覚するさいに生じる 後ろめたさと罪悪感⋮⋮。僕は打ち付けた拳に後悔を覚えた。もう 元には戻れないというあくなき後悔︱︱。 静絵は沈黙を保っている。その沈黙が不気味⋮⋮嵐の前の静けさ ⋮⋮。 ﹁千尋﹂ と。 声。 声がする。誰の声? 扉の向こうからする。やけに冷え切った声 調。情緒が含まれていない。僕の背中に一筋の汗が流れる⋮⋮。 ﹁なん、だよ﹂ あぁ、声がする。これは誰の声だ? 僕の中からする。ひどく震 えた声。死刑執行を命じられた囚人みちだ。で、誰が死刑執行を命 じる⋮⋮? 返答の代わりに、扉を叩く音がした。 194 第三十二話 兄︵20︶ 金槌を打ち付けたみたいな鈍重な音だ。指の関節を使って、扉を 叩いている。まるで僕を責めるようにけたたましく、執拗に⋮⋮。 僕は耳をふさぎたくなった。でも、ふさいでしまったから、拒んで しまったら、僕は僕でなくなる。僕を手放したくはない。逆に、耳 をそばだてる。扉に耳をくっつける。うぉ、轟音。 ﹁気にしてない気にしてない気にしてない﹂ 轟音に混じって聞こえるのは、早口言葉みたいな呪文だった。鼓 膜を通過する。聴覚が壊れそうだ。でも、むしろ押し付ける。 ﹁本当に気にしてない気にしてない気にしてない﹂ 今度はガリガリがりと言う音に変化する。黒板を爪で引っかくよ うな感じだ。神経を蝕む雑音。僕の聴覚が本格的に機能不全になる。 それは怨嗟。憎悪。罪悪。後悔。 首をかきむしるように、扉に爪をつき立てている。静絵の絶叫と ともに、扉が悲鳴を上げている。しかし、止めることはできない。 静絵はひっかいている。 ﹁千尋が幸せなら、もういいよ﹂ くぐもった声だ。 ガガガガガガと音の質が変わる。きっと歯だ。爪ではなく、歯。 静絵は唇を扉に押し付けている。木材をかじるねずみみたいに、扉 にかじりついている。だから、声がくぐもっている。そう推測する。 ガガガガガガ。 ﹁わたしじゃやっぱり、千尋を幸せにできないから。兄妹で付き合 うなんて、元から無理なんだ。気付くのが遅かった。だって、幸せ だったもの⋮⋮わたし、幸せだったもの⋮⋮﹂ ﹁おい、歯医者に連れて行くのは俺なんだぞ。あんまり無茶するな よ⋮⋮自分の体ぐらい、大切にしろよ⋮⋮。ただでさえ外出がキラ イなおまえなんだ。これ以上歯を傷つけると、歯医者に連れて行か 195 なくちゃいけないなる⋮⋮。俺か、あるいは母さんが半場強引に連 行する⋮⋮﹂ ﹁わたし、思ったんだ。本当に千尋のためをするなら、別れたほう がいいんだ。わたしたち。千尋は普通の人と付き合ったほうがいい よ。妹と付き合うなんて、異常だもん。社会が許容しない⋮⋮そん な地獄を、千尋に味わってほしくない﹂ ﹁うっせぇ︱︱ッ! それ以上言ったら張り倒すぞッ! んなもん 知るかッ! 社会なんてどうでもいいんだ。おまえが幸せなら、俺 はどうでもいいんだ。おまえが望む幸せをつかむまで、そばで支え ていたい⋮⋮ただそれだけの願いなんだ﹂ ﹁ありがとう⋮⋮ありがとう⋮⋮千尋、ありがとう⋮⋮。わたし、 千尋の妹でよかった⋮⋮﹂ ﹁なんだよそれ⋮⋮まるで諦めたみたいな言いようじゃねぇか。ま るで俺と付き合うことを諦めたみたいな言いようじゃねぇか。恋人 としてじゃなくて、ただの妹に戻るって、宣誓したみたいじゃねぇ か!﹂ ﹁もう、いいの。苦しめたくない。わたし、頑張るから、自立して、 一人でやっていけるようにするから⋮⋮今日だってね、アルバイト 先に挨拶に行ったんだよ? 前までのわたしじゃ考えられない進歩 だよね。中卒の私をよく雇ってくれたって感謝してるの﹂ ﹁あぁーもぉーなんなんだよ、おまえ。なんなんだよ、おまえ。俺 が悪かったよ。多分、全部俺が悪いんだな。今朝来た女はさ、俺の 彼女とか何とか言われてるけど、そうじゃないんだ。あれは手違い ⋮⋮って言ったら都合がいいかもしれないけど、とにかくっ、手違 いとしか言いようがない⋮⋮佐島の奴にはめられた⋮⋮そう、手違 い。自分史最大の失態⋮⋮﹂ ﹁今、佐島って言ったよね?﹂ ﹁⋮⋮食いつくとこ、違わないか?﹂ ﹁わたしのアルバイト先にも、佐島って人がいるよ。高校生くらい の人で、メガネの彼氏さんがいる⋮⋮﹂ 196 ﹁そういえば佐島の実家は、菓子屋やってるって聞いたことがある な﹂ ﹁すごい偶然だね⋮⋮やっぱりつながっているのかな。どうやって も切り離せない糸みたいなものがあるのかな、わたしたち兄妹には﹂ その言葉には、感慨とも取れるトーンだった。 感慨っていうことはさ、昔ってことだ。遠い過去を振り返るさい に行われる行為だ。 静絵はもしかしたら、遠い過去として扱っているのか? 僕たち の歩むはずだった行路を、破滅しかないように思える道から、それ るつもりなのか? それが賢い行いだと、そう思っているのか? おまえはそれでいいのか? 僕たちの道に先はない。静絵はそれを知っている。だから、方向 転換するつもりなのか? 破滅の未来を回避するため、僕との関係 をやめるってことか? それが賢い行いであっても、悲しい行いだ ってこと、おまえは気付いているのか? 僕は悲しいよ。引き金を引いたのが僕だって意味でも、すごく悲 しいし悔しい。僕が過ちを繰り返さなければ、事態を避けられたと 思うと、たまらなく悲しいし悔しい。 もう決めたのに。 静絵の望むことをしようって、決めたのに。 それが本心に思えない僕がいる。 ﹁おい⋮⋮確認するぞ。確認だ。これからおまえは二つの道がある。 一つは俺の弁解を聞くという道。二つ目は、俺と決別する道。とり あえず、俺の言い訳がましい弁解をきくって言う選択肢は、おまえ の頭にないのか? 俺の弁解を聞いて、とことん罵倒して憎んで、 このスカタンってなじるっていう選択肢を残しておこうって、おま えは思わないのか?﹂ ﹁罵倒なんてしないよ。無理を言ったのはわたしのほうだし、今朝 のことを浮気とも思わない。きっとさ、このまま彼女さんと付き合 うほうが正しいんだと思う。その、荒風さん? って人とさ、幸せ 197 な青春してよ。楽しんでよ。だって、千尋の幸せがわたしの幸せだ から﹂ ﹁静絵の不幸は俺の不幸だッ! おまえは嘘を言っているッ! 俺 の幸せがおまえの幸せだと、嘘を言っているッ! そんなわけがな い。静絵の存在を排した上で手に入れる幸せなんて、まがい物だッ ! 間違っているッ! 少なくとも俺はそう思っているんだからな。 今のおまえは、とても悲しい顔をしているって、分かるんだからな ⋮⋮何年おまえを見ているって思ってるんだ⋮⋮お兄ちゃんを舐め るな。これはうぬぼれとか傲慢とかじゃないぞ。扉越しでも分かる ⋮⋮おまえが嘘をついていることがはっきりと分かる⋮⋮﹂ ﹁嘘なんかじゃ、ない﹂ 声の震え。冬の寒さに凍える犬みたいに、ちっぽけだ。 手形をつけるみたいに、扉に手をつける。手の甲に骨が浮かび上 がるのが分かった。透けて見える血管。血が流れている。静絵にも 流れている。 僕は今、高揚している。この血の因果を憎んでも、恐れてもいな いって証明したい気分だ。僕たちの仲は、禁忌という足かせ程度で は抑えられないってことを、高らかに宣言したい気分だ。 もはや、禁忌は意味を失した。 兄と妹の紐帯は、血ではなく⋮⋮。 ﹁おまえと生活していた分かったことがある⋮⋮おまえを受け入れ て理解したことがある⋮⋮教えてやろうか? 別に否やがあっても 教えるけどな。簡単なことなんだ。俺は多分、惹かれていた⋮⋮妹 としてのおまえではなく、女としてのおまえには、引力を感じてい た⋮⋮俺はおまえを、いい女だって思ったんだよ﹂ ﹁やだ、やめて⋮⋮そんな、決心を揺るがすような、決心を根底か ら覆すような、そんな言葉は⋮⋮とろけるような甘さに満ちた、溶 けるような優しさに満ちた言葉は⋮⋮﹂ ﹁カリギュラ効果だッ! 禁止されるとかえって、その行為をした くなる心理⋮⋮そんなことを言われたら、余計に言いたくなるって 198 のが人間心理だよな⋮⋮にしてもこっぱずかしいな、こんなことを 言うのは⋮⋮でも言わないと、後悔しそうだ。後悔する人生はもう、 送りたくない。引き戻すぞ、おまえを﹂ 流されてしまったからダメなんだ。 いまさらそのことに気付いた。 荒風寧に関しても、流された。彼女のことは気の毒に思うけど、 身勝手だと思うけど、優先順位をつけさせてもらう。 優先順位をつけるってことはさ、逆に言えば、優先順位をつけら れることを許容しなくちゃいけないってことなんだろ。僕の選択で 荒風寧が僕を軽蔑したりしても、文句は言えないってことだ。近親 と姦通していることを、蛾々島や佐島の知るところになっても、き っちり受け入れるってことだ。ありのままの自分⋮⋮それを社会に ふとうふくつ 示す。他者に疎まれたり、遠ざけられたりしても、毅然と振舞うっ てことだ。不撓不屈の意志を持つってことだ。 さしずめ、誰かを取って、誰かを捨てるってことなんだと思うん だよ。優先順位を設けることは、自分が捨てられることも考慮しな ければならない。今になって、寧の悩ましい肉体が惜しい、とだだ をこねるのは許されないってことだ。捨てたものを拾うことはでき ないってことだ。 取ったものはなんとしても守らなくちゃいけないってことだ。 覚悟なんだ。 一を得るために、百を捨てる覚悟を、問われている。かけがえの ない一のために、その他大勢を犠牲にしなければならない。苦しい 選択。でも、処決しなければならない。でなければ、大切なものを 失う。その覚悟を、問われている。 そして、決死の覚悟ってのは往々にして、身勝手で盲目的だって ことだ。 結婚式を挙げる新婦の手を、むりやり引くような強引さなんだ。 自分を犠牲にして仲間を助ける選択をしたやつを、むりやり助け にいくような強引さなんだ。 199 ﹁静絵⋮⋮なぁ、待てよ。今朝のことは納得のいくよう話すからさ、 待ってくれないかな。無理は言わない、なんて言わない。無理にで も、って言うぜ。だからさ、扉を開けてくれないかな⋮⋮母さんも かんもく いい加減不審がってるだろうしさ⋮⋮﹂ しばしの緘黙。 扉は。 扉は︱︱。 開かない。 200 第三十三話 兄︵21︶ 雨がしとしとと降っている。 翌日の朝。 河は凝固したように流れを停滞させている。水量は多いが、停滞 させている。草が潅木のようにぷかぷか浮いていた。 ﹁あれ、緑葉君じゃない?﹂ 後ろから声をかけられた。 振り返ってみると、佐島月子がいた。相合傘をしている。親密そ うに腕を絡めている。相手はもちろん、藤宮詠太郎だった。 ﹁なんだよ﹂ ﹁傘、飛んでるけど﹂ 僕はそう指摘されるまで、体が雨で濡れていることに気付かなか った。﹁あっ﹂と声を出すひまもなく、視界の端で傘が踊っている のが分かった。荒っぽい風に揺られて、今にも河の中に突っ込みそ うだ。 でも追わない。 まるで呆けたように、転がっていく傘を見つめた。魂が抜け落ち てしまったみたいだ。 その様子を不審そうに眺める佐島。﹁いや、傘、ヤバイんだけど﹂ 佐島は困惑した表情をしている。﹁ねぇ、聞いてる? 聴覚のほう は大丈夫かな﹂ ﹁大丈夫に決まってるだろ﹂僕はぶすっとした。 ﹁とてもそうには見えないけどね。詠太郎もそう思うでしょう?﹂ 佐島は藤宮にアイコンタクトを試みるが、藤宮はただ突っ立ってい るだけだ。反応しない。しかし、慣れているのか、佐島は満足そう だった。 ﹁バランス感覚がさ、おかしい奴に言われたくないね。誰かの体に もたれるってことはさ、バランス感覚に自信がないってことだろ? 201 腕を組むってことはさ、バランス感覚に相当自信がないってこと だろ?﹂ ﹁ちがいますー。これは愛情表現ですー。登下校の恋人のたしなみ なんですー﹂ 佐島が唇を尖らせるが、藤宮はやっぱり無反応だ。 ﹁にしては相方が死んでるって感じだ﹂僕は率直な意見を述べた。 雨に濡れている。 ﹁雨が降ると決まって、こうなるのよ。詠太郎の元気メーターは、 降水量に左右されるのよ﹂ ﹁新種の雨男ってことか﹂ ﹁そういえば﹂と佐島はいつもの強引さで別の話柄を挿入する。﹁ あなたの妹さんが、わたしの店にきたわ﹂ ﹁⋮⋮そうかよ﹂ ﹁話してみると、結構いい子じゃない。家族に愛されてるって感じ の女の子だったわ。仕事内容も速く覚えてくれるし、頭の回転も速 い﹂ ﹁やればできる子なんだ、静絵は﹂ これまではやらないからできない子だったんだけど。 佐島は静かに笑みを浮かべている。 一転して、藤宮は漂わせていた視線を僕にすえた。刀の光芒を思 わせる眼圧が、僕に向けられる。﹁緑葉よ﹂ ﹁なんだ、雨男?﹂僕は胸のこわばりを感じている。鉄の釘を打ち 付けられたイメージ。﹁俺に何か用か?﹂ ﹁俺は知らなかったぞ⋮⋮おまえに、妹がいたということ⋮⋮知ら なかったぞ⋮⋮﹂ ﹁教えなかったんだ。知ってるわけがない﹂ ﹁いい女だな﹂と藤宮はふいに唇を緩めた。﹁あれはいい女になる﹂ それは予言のようでもあり、予告のようでもある。 ﹁それって浮気宣言? 見過ごせませんなぁ﹂佐島が藤宮の腕をつ かんだ。そして、耳を強く引っ張る。 202 いたたたたた、と藤宮は悲鳴を上げるが、佐島は酷薄な表情をし ている。青筋が浮かんでいて、ご立腹のようだった。 藤宮にさっきまでの鋭さはなく、ただ痛がっている。歳相応の男 子が浮かべるような、困ったような表情をしている。 僕は不穏なものを感じている。 佐島と藤宮とはクラスが違うので、途中で別れることになった。 藤宮は依然としてしばかれていたが、﹁その辺にしたらどうだよ﹂ という僕の忠告は届かず、やはり藤宮はしばかれたままだ。気の毒 だった。 先刻みたいなことを藤宮が言うのは、珍しい気もした。がともか く、佐島は焼きもちのようだった。ほほえましいようで、羨ましい ようで⋮⋮。 ﹁おはよう﹂と言って教室に入った。 入って、異変に気付く。 なんと言うか⋮⋮ざわざわしている。死体発見現場にたむろする 野次馬みたいに、ざわざわしている。何かが起こったってことを、 雰囲気が如実に表している。 ﹁⋮⋮なぁ、どうしたの?﹂ 隣のやつに聞いてみたら、﹁おい、来たぞッ!﹂と言われた。好 奇心満々って感じの顔をしている。 いや、何が? と思っていると、みんなが一斉に僕のほうを向い た。その異様さに、一驚を喫す。 僕が雨でびしょ濡れだから? と思うが、どうやらそうではない らしい。気にしていない。雨でびしょ濡れだなんて、眼中にない。 みんなの顔には、ただただ困惑の色があった。まるで助けを求める みたいなんだ。どうにかしてくださいよぉーって感じの表情だ。 ﹁いや、何が?﹂ 203 僕がそういうと、ふいにモーゼの十戒みたいに道が開けた。 それは窓際の席にまでつながっている。 道の先には、見慣れぬものがあった。 長い、艶やかな髪をしている。漆を塗りこめたみたいに漆黒で、 さらさらしている。頬杖をつき、物憂いに斜めを見る姿は、近寄り がたいものを感じさせた。浮世離れしているって言葉は、この人の ためにあるのだ、と思えるような俗気のなさ。 と。 彼女は。 憂うように髪をかきあげ、首を動かし、切れ長の瞳を僕に向けた。 彼女の唇が笑みを形成した。 僕はポケットに突っ込んでいた手を、思わず出した。 手のひらを確認する。 手汗がひどい。 ﹁ふふふふふふふふ⋮⋮﹂ 笑っている。 口元に手を当て、静々と笑っている。 空気が凍結したように動かなくなった。誰も身動き一つ取れない。 彼女がそうさせている。 ﹁ふふふふふふふふ⋮⋮なぁーに呆けてるんだよウスラトンカチ!﹂ ﹁あ?﹂思わず、素っ頓狂な声が出る。 ﹁そんなに珍しかったか? この姿がよぉー、さなぎから蝶の脱皮 を想像させるこの大変身によぉー、驚いたってことか?﹂ 僕は狐につまされたような心持ちになった。 その声に耳覚えがあるぞ⋮⋮なんなんだ、この奇妙な感覚は⋮⋮。 思わず周囲を見渡す。 みんな申し訳なさそうに、僕から目をそらしている。 再度、少女に目を合わせる。﹁も、もしかしておまえ⋮⋮﹂ ﹁そういうのを三流芝居っていうんだぜ。何が、もしかして、だ。 もしもクソもねぇ︱︱ッ! とっとと呼べやがれ、オレの名前をよ 204 ぉー、言いなれた名前をよぉー﹂ ﹁が、蛾々島ッ!﹂ ﹁そうだよ、それでいいんだよ﹂ 蛾々島杏奈は非常に色っぽいしぐさで、髪をかきあげた。 ◆◆◆ なんてこった。 異常事態だ。 静絵の一件も異常事態だが、それに比肩しうる異常事態だ。少な くとも、予想だにしない出来事ってやつだ。 ﹁ふふふふふふふふ﹂ 蛾々島杏奈は眼前にいる。 眼帯も取り、きちんと化粧をした蛾々島は、明らかに清らかな印 象。一目見て、清楚って言葉が目に浮かぶ容貌をしている。 おそらく、元がよかった。元の造詣がよかった。でも、変に加工 してしまったから、素材を殺していた。しかし、きちんと磨けば、 これほどの逸材⋮⋮。 ﹁んだよ、何かおかしいかよ?﹂ ﹁いや、おまえ、随分変わったなってぇ﹂ ﹁そうか? ハハっ、そりゃまぁ、めんどくせーこといっぱいした からな。変わってなきゃ詐欺だぜ、詐欺﹂ ﹁本当に詐欺だよなぁ、この変わりようは⋮⋮﹂ ﹁何か含んだ物言いだな、それ﹂蛾々島は胡乱な上目遣いをした。 なぜか、うろたえる。 ﹁ま、どうでもいいよ、んなことは﹂蛾々島はすっと体を引く。そ 205 の様子すら優雅さを感じさせる。洗練された美を感じさせる。﹁そ せっこう れよりもさ、どうよ? これは。この変わりようを文学的に表現す るなら、ただの石膏が匠に彫られて一流のビーナス像になるって感 じだぜ︱︱ッ! ビーナスッ! 美の女神が人間界に降臨したッ!﹂ ﹁今度は女神に転身かよ。魔王じゃなかったのか? おまえは? ワイバーンを使いこなす次期魔王候補⋮⋮﹂ ﹁兼務だッ! 方や魔王、方や女神⋮⋮もちろん、ワイバーンは自 宅の庭で放し飼いだぜ﹂ ﹁⋮⋮設定はちゃんと生きてるわけだ。外見は変わっても、中身は 変わらないってわけだ﹂僕はきっと、呆れた顔をしているに違いな い。﹁でもさ、なんていきなりそうなったんだ? 蛾々島の変身に おかしさを禁じえないな﹂ ﹁細かいこたぁいいじゃねぇーかよぉッ︱︱! 呼吸することにい ちいち理由がいるか? 右腕を動かすことにいちいち理由がいるか ? なるべきしてなったッ! そういう解釈だ﹂ ﹁で、本当のことを言うと?﹂ ﹁実はさ、あの母親もどきが化粧しろってうるさかったからさ、し かたなしにしてやったんだよ⋮⋮あぁ、顔の表面が粉っぽくてかな わないぜ﹂ ﹁そっかそっか。そりゃぁ、粉っぽくなるよなぁ⋮⋮化粧は顔の表 面にするもんだからなぁ﹂ どうやら、自ら率先して変身したわけではないらしい。仲の悪い 母親に言われて、化粧をしたようだ。 どうも時の流れが、親子の確執を溶かしたように思えた。 蛾々島は母親を嫌悪していたが、今の顔を見る限り、それほどで もないみたいだった。母親に対する嫌悪感が減退している。どこか 嬉しそうに話している。自分の誇りを話すみたいに、身振り手振り を加えて話している。 うなづいたり相槌を打ったりしているうちに、チャイムが鳴った。 担任の先生が入室する。 206 ﹁けっ、これからが山場だってときによォー﹂ 蛾々島がしぶしぶ、話を切る。 前の蛾々島なら、先生なんて無視して話していた。 これも成長というやつなのか⋮⋮? と僕は、無性に嬉しくなる。 207 第三十四話 兄︵22︶ 昼休みになると、周囲が浮き足立つのが感覚で分かる。長年学年 生活を積んでいれば、そういった動きが分かってくるんだ不思議な ことに。おかしなことだと自分でも思う。 蛾々島の周りには、それとなく人が集まっている。まるで美術館 の絵画を見るみたいに、みんなの視線が注がれている。 それを蛾々島は、なんてことないように受け流す。イヤミを感じ させず、清新なものを見るものに抱かせる雰囲気だ。この人は違う 世界の住人だなぁ、と思わせる雰囲気だ。 その姿を頬杖ついて眺めてると、おずおずした感じで女子が話し かけてきた。多分、好奇心に負けたんだ。蛾々島は光っていた。道 端でふと、キレイな人を見つけたらついついナンパしたくなるみた いにさ。僕は経験ないけど。 ﹁ふーん、松下っていうんだ﹂ 蛾々島は思ったより大人びた応対をしている。僕に接するような 無軌道さはない。大人の余裕ってやつがあった。 僕はカバンから携帯電話を取って、ポケットにぶちこんだ。 廊下に出る。 階段の踊り場に人気はない。 プッシュする。 しかし、返事はない。何度プッシュしても、返事はない。反応の ない画面が恨めしい。反応のない緑葉静絵という名前が表示されて、 胸に穴を穿たれたような空虚を感じる。 結局、静絵は部屋から出なかった。 僕の説得が拙劣だったからか、僕を強く恨んでいるからなのか、 詳しくは分からない。分かることといえば、静絵は僕との接触を拒 んでいると言う事実。原因は僕にあると言う事実⋮⋮。 ため息をついて携帯を戻した。 208 と。 なにやら、気配を感じた。それは後ろからする。 最近振り返ることが多いな、と思いつつ、振り返る。 その先にいるのは、一人の男だった。 藤宮詠太郎。 階段の上にいる。右手を後頭部に沿え、片膝を微妙に曲げて立っ ている。ポケットに手を突っ込み、僕を見下ろすような姿勢をして いる。 ﹁⋮⋮藤宮﹂ ﹁おまえ、俺の目の前で電話をしたな﹂ ﹁は? 電話⋮⋮? 確かにしたけどさ﹂ ﹁その電話、ひょっとしておまえの妹に通話しようとしたのか?﹂ ﹁なんだよ、やけにつっかかるな﹂ ﹁いや、すまなんだ。ちょっと気になってな﹂ 僕は一瞬、何でおまえがそんなこと気にするんだ? と思った。 それに静絵のことを知っていることも気になる。佐島から聞いたの だろうか? あるいは、一緒にいたのか? 佐島とともに、和菓子 屋のところにいたのか? ﹁そういえば緑葉。今日、荒風寧は欠席しておるぞ﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ ふ ﹁なんだ、やけに反応が薄いものだな。それがはたして、恋人が病 床に臥しているときの反応であるのか? そんなことでは、勘ぐっ てしまうぞ。おまえに別の女がいると、勘ぐってしまうぞ﹂ なんだ。 なんなんだこいつは。 恐る恐る藤宮を見る。 藤宮は静かに笑んでいる。 その笑みの凄絶さ。 藤宮はくるっと体を反転させる。 ﹁にしても、蛾々島の変わりようは奇観を呈していたな。鮮やかに 209 花開く白百合⋮⋮﹂ 視界から消える藤宮。奇妙さを包含する残り香⋮⋮。 気がつけば、足の付け根の裏をガリガリとかいていた。イライラ したときの僕の癖だ。 ◆◆◆ こっからが歪んでいる。 ポケットが携帯のバイブレーションで振動しているのを感じる。 てっきり静絵からだと思い、嬉々として電話に出た。﹁静絵、静 絵だろ?﹂ ﹃静絵じゃ、ないんだよ﹄ 僕は携帯電話を耳から話した。 画面を確認する。 荒風寧。 今度はこっちか⋮⋮。 ﹁寧。今日学校で休んでるらしいじゃないか。風邪なのか?﹂ ﹃風邪じゃ、ない﹄ ﹁風邪じゃ、ない?﹂ 僕は階段を下りながら、耳をそばだてる。遠くから雨音と生徒の 歓声の混じった雑踏が聞こえてきた。 そして。 電話機のほうから雑踏が聞こえてきた。どこかで聞いたことのあ る雑踏︱︱。 ﹃あのね、千尋君。ワタシ、確認したいことがあって、電話したん だ﹄ 210 ﹁おい、なんで学校休んでるんだよ﹂ ﹃千尋君は、ワタシのこと、好きかな﹄ 一階まで下りた僕はふと、前方の中庭に目を向けた。 風雨に揺れる木立に挟まれ、ぽつぽつと降る雨の中、人影が地面 に伸びている。 パジャマは雨で透けて見え、白い肌にぴったり張り付いている。 限界まで水分を吸いましたって感じだ。しとどに濡れた髪がすだれ のように表情を隠している。 まるで亡霊のように突っ立っている。 携帯電話を片手に荒風寧が突っ立っている。 電話口から雨音と生徒の歓声の混じった雑踏が聞こえてくる。 ﹃ねぇ﹄ 粘性のある声が、鼓膜を一過して脳に伝達される。 ﹃千尋君はぁ、わたしのことぉ、死ぬほど好きなんでしょ? 別に 確認するまでもないけど﹄ まるで涙を流したみたいに、寧の頬に雨が伝っているのが分かる。 平和的な花柄模様のパジャマがその異質さを際立たせている。 ﹃きっと間違いなんだ。千尋君は、ワタシのことが好きなんだ。大 好きなんだ、死ぬほど⋮⋮分かってるよ、そんなこと。分かってる、 そんなこと⋮⋮当たり前の真実⋮⋮﹄ ﹁なんでよ、学校休んでるのか言えよ荒風寧︱︱ッ!﹂ 僕は叫ぶように言った。 恐怖から逃げるように言った。 ﹃寧って言ってよ。フルネームじゃなくて、名前で言ってよ⋮⋮寧 って。愛しの愛しの寧ってぇ、言ってよ⋮⋮ワタシの彼氏でしょ、 君は⋮⋮﹄ ﹁僕の言葉が聞こえなかったのか? なんでおまえ、パジャマ姿で ここにいる⋮⋮?﹂ ﹃考えたんだ。何度も何度も、ベットの中で考えたんだ⋮⋮千尋君 はワタシのことが好きで、みんなの前で告白してくれた。それは厳 211 然たる事実だよ。だから、そうなんだ。千尋君はワタシが好き、千 尋君はワタシが好き⋮⋮そういうことなんだ。もう関係ない。ワタ シがキライなんて千尋君の言葉、やっぱりイヤ。そんなの真実なん かじゃないんだ。そんなことを言う千尋君は、ワタシの知ってる千 尋君じゃない﹄ ﹁どうやら、怪電波を拾ったらしいな。虚妄で塗り固められている ⋮⋮ひょっとしておまえ、ADHDっていうの、真っ赤な嘘だろ? 自分の本性を糊塗するための嘘⋮⋮。おかしいんだ。ADHDが その程度なわけないんだ⋮⋮日常生活をそうやすやすと送れるほど きけい やわな病じゃないんだ⋮⋮。本当のおまえは、重患な病を持ってい るわけでもない、普通の異常者なんだ。突然変異で生まれる畸形み たいに、そいつは現れる⋮⋮﹂ ﹃もう耐えられない。千尋君はワタシのことが好きなのに、あの後 電話もしてくれない。せっかくワタシがADHDって告白したのに、 何の連絡もない。安否も確認しない。お休みのお電話も、行ってら っしゃいのお電話もない。これって変だよ。ワタシたち、愛し合っ ているのに⋮⋮将来を約束した仲なのに﹄ ﹁そういえばおまえ、雨に濡れてるのに携帯電話壊れないな。防水 加工でもしてんの?﹂ ﹃今から、そっち行くから﹄ 途切れた。 ツーツーツーと音がする。 荒風寧もまた、携帯電話を耳から外す。携帯電話を持った右腕。 脱臼したようにぶら下がる右腕。顔をぶるぶると振り、前髪を払う。 髪の隙間から見える、赤く充血した両の瞳。ぎちぎちと僕を眺める 荒風寧︱︱。 僕は逃げ出した。 212 第三十五話 兄︵23︶ 一階の廊下を全力疾走で走りながら、﹁神様ってやつがいたら、 全力でぶん殴ってるところだな﹂と一人愚痴る。シャレにならない 逃走劇。藤宮の様子も何か変だったし、寧だって尋常じゃない様子 だ。何かを狂わせた目をしていた。 後ろを見たい衝動ってやつだ。猛烈に沸きあがってきた。見ては いけないとは分かっているのに、つい見たくなってしまう。でも、 確認してしまったら、この狂態を認識しなくてはいけない。見るか 否かの胸中の葛藤⋮⋮。 ﹁ぐぉぉォ﹂ 首だけで振り返る。日本人形みたいに、ぎこちない動きで振り返 る。 背後には幸か不幸か、獣性のこもった目をした寧がいた。パジャ マ姿のまま、女子とは思えないスピードで走っている。 メチャクチャな光景なのに、やっぱり寧は美人に映る。そして、 猟犬の様相を呈している。死ぬまで獲物を追う犬。獲物とはすなわ ち⋮⋮。 ﹁んだよ、昨日好きな女の子にフラレたばっかだってのにさ。最近 の僕はツキが悪すぎるんだッ!﹂ 僕は一年生のいる教室の前︱︱その廊下で、必死の逃走を繰り広 げていた。なんていうことだ。先輩の面目丸つぶれだ。 にわかに騒擾となる教室。だがしかし、疾走する。ちらと後ろを 見ても、きちんと寧はついてきている。 と。 そのとき、再度携帯電話が鳴った。 閃いた僕は、電話に出た。 これで助けを呼べる︱︱そう思ったのが間違い。 ﹁もしもしッ!﹂ 213 ﹃ねぇ、何で逃げるの? ワタシから、何で逃げるの?﹄ ﹁ただいまお取り込み中ですので後からかけなおしてくださいッ!﹂ 電話を切った僕は、さらにアクセルを踏んだ。加速だ。寧から逃 げる。捕まるわけにはいかない。捕まったら間違いなくヤバイ。本 能がそう警告していた。 僕は無我夢中で階段を駆け上がった。二階へと続く階段だ。 上がってて気付いたことがあるとすれば、﹁二階に行くのってマ ズくね?﹂ということだ。二階は二年生の教室が密集している。そ んなところを二年生の僕と寧がチェイスしていれば、間違いなく騒 ぎになる。 判断を誤った。 そう思ったね。 でも、事態は僕を待ってはくれない。現実って言うのはいつも、 当事者に対して苛烈なものだ。 通り過ぎた生徒がぎょっとして僕たちを見やるのが分かる。 仕方なく、そのまま三階へと駆け上がることにした。 いまだに立ち寄ったことのないテリトリーだ。僕は三年生の廊下 を、上靴が脱げるのも無視して全力疾走した。 背後を見れば、きちんといやがる。追いすがってくる。僕の影の ように付かず離れず、だ。 当学園に四階はなく、屋上に逃げ場はない。これ以上、上へあが ることは不可能だ。 廊下を直進した先に、下へと続く階段があるのを視認する。 このままじゃイタチごっこだ。また階下に向かっても、根本的な 解決にはならない。逃げ切れないって予感がメチャクチャする。い ずれ捕まってしまうって、自分の冷静な部分が告げている。 でも、進むしかないじゃないか。 進むしか⋮⋮。 ﹁いや、逆だッ!﹂ 214 僕は︱︱止まった。ストップだ。急停止。 手を壁につける。窓の外には運動場が見え、わいわいとバスケを している連中がいる。 その平和的な光景を視界に納めながら、覚悟を固める。覚悟の深 呼吸。 荒風寧は確実に肉薄せんとしている。 ﹁⋮⋮今の真情を一言で表すとしたら、﹃クソッタレ﹄ってのがも っとも適当だろうな﹂ 僕は窓から飛び降りた。 校舎の壁に沿うようにして、常緑樹が植えていることを確認して いる。開け放たれた窓。そこからクッションになりうる程度の高さ、 柔らかさを有した常緑樹があることを確認している⋮⋮。 常緑樹の身長は高く、枝葉を縦横に張り巡らせている。ふかふか の緑のじゅうたんってわけだ。 ﹁どららぁぁあァッ!﹂ 窓べりに足を乗っけた僕は、空中に身を投げ出した。 ものすごい空気抵抗があるのを感じる。あぁ、僕は今、圧倒的と すら言える重力を体感している。スカイダイビングってのは得てし てこんな感じなのか? こんなすさまじい重力、日常生活ではまず 体験できない。 そして襲ってくるものは、複雑に巡らされた枝と葉だ。そいつが トランポリンのように僕を弾いてくる。制服が破れる音、皮膚を切 り裂く音⋮⋮。全身がチクチクする。例えるなら有刺鉄線の網に全 身を横たえるような痛みだ。ックソ、枝の切っ先がズプズプと肌に 食い込んでくる⋮⋮出血した。至るところで生々しく出血している ぞ⋮⋮。 しかし⋮⋮。 215 樹枝に手足を預けるようにし、視線を三階のほうに上げた。 荒風寧は窓に身を乗り出し、固唾を呑んで僕を見ていた。言動を 狂わせても理性をなくしたわけではないらしく、常人がする反応み たいに、瞳孔を見開いて驚倒している。僕の頓狂な行動にけっこー な驚きを抱いているって感じだ。 にわかに生徒が集まってきた。僕のほうを指差したり、声を大き くしたりしている。それは運動場にいた連中も一緒で、視軸を僕が 引っかかった木に固定している。 騒ぎがでかくなっているな⋮⋮とひとごとのように感じている。 ﹁おっ、おいッ! おまえ、何やってんだよ⋮⋮ッ! おまえ、何 自殺の予行練習みたいに颯爽と飛び降りてんだよ緑葉ッ!﹂ その声は二階からした。 木の高さは二階と同じくらいあるのだが、視線がぴったし声の主 と交差した。 蛾々島杏奈は荒風寧以上に息を呑み、あわあわと僕を指差してい る。今にも膝が崩れそうだ。 ﹁ななななッ、なんなんだよおまえッ! 意味が分からんッ! オ レには意味が分からんッ! おまえが飛び降りる理由と意味が分か らんッ! というか、さっさと木から降りてこい︱︱ッつんだよコ ラッ!﹂ 僕は肌に突き刺さった枝を抜いている。深々と刺さっていて、相 当痛い。枝の先端に血がついている。僕はうぇーっとなった。 と。 僕の眼球がすさまじいものを捉える。 それは窓から片足を乗り出して、今にも飛び降りおうとする寧の 姿だった。 完全に僕と同じことをするって言う体勢をしている。 ﹁今、行くから﹂ 周囲があわてて止めようとするが、もはや聞く耳を持たない。制 止する手を払いのけ、飛び立とうと羽を広げるカラスのように、臨 216 戦態勢に入った。荒風寧、百パーセント飛び降りるつもりだ。そし て僕は、荒風寧がそれをやり遂げるだけの気概を持った人間である ことを知っている⋮⋮。 ﹁なんだよ、おまえもスカイダイビングしたいのかよ﹂ 僕の顔はきっと、辟易としているに違いない。と言うか、僕が言 うのもなんだが、これ以上騒ぎを大きくしないでほしい。 ﹁おい、蛾々島﹂とやけくそ気味に彼女の名を呼んだ。 蛾々島はなんだかポカンとしている。事態を呑み込めていない。 僕がなぜこんな凶行に及んだのか、まったく理解していない。 おそらく、三階で今にも寧が飛び降りようとしていることに気付 いていないのだろう。三階の騒ぎを僕が飛び降りたからだと解釈し ているのだ。これからさらに、もう一人飛び降りるだろうとは想定 していない。 次いで、なぜ僕が自分の名前を呼ぶのか、不可解だと思っている に違いない。 ﹁なっ、なんだよコラ!﹂ ﹁窓から離れろ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂蛾々島杏奈は間抜け顔になった。﹁いや、何でだよ。 説明しろよこのタコがッ!﹂ ﹁俺はさ、こう見えてサーカスの曲芸師にあこがれてた時期があっ たんだ﹂ ﹁なっ、なんだよいきなり。このタイミングでなんで、んなこと言 う必要があんだよ⋮⋮オレはなぜッ、おまえがそんなとこにいるの かについてッ、説明を求めてるのによッ﹂ ﹁群集がさ、舞台を取り巻いているんだ。衆人観衆っていうのかな。 よくあんなところで綱渡りとかできるよな⋮⋮曲芸師は常に過度の 緊張と戦っている⋮⋮。ところで俺が一番すごいと思っているのが、 空中ブランコってやつなんだ。ブランコからブランコへと移動する 曲芸。だってそうだろ? 中空で飛び乗るんだぜ。下はマットなん かじゃなくて、フローリングみたいな硬めの床だ。失敗は許されな 217 い環境。失敗は死につながる⋮⋮。俺は改めて、曲芸師ってやつを 尊敬したい気分だね﹂ ﹁だから何が言いたいんだよ︱︱ッ! 緑葉︱︱ッ!﹂ ﹁俺はこれから、空中ブランコの曲芸をするってことだよ﹂ 手の位置は下だ。背中を丸めて、手のひらに太い幹をあてがう。 足は、バネだ。柔軟なエネルギーを溜め込んだバネ。跳躍する俊 敏な鹿のイメージ⋮⋮。 陸上選手がスタートラインに立つみたいな手と足の配置だ。あれ ってクラウチングスタートって言うの、知ってた? ﹁まっ、まさかッ! おまえ⋮⋮ッ!﹂ ﹁この緑葉千尋、未知なるものに挑戦する意志を放棄したことは︱ ︱過去ッ、一度もッ、ないッ!﹂ 僕は木から飛び出した。 218 第三十六話 兄︵24︶ 曲芸は往々にして危険と隣り合わせだ。ギリギリのスレスレに、 曲芸の真髄がある。スリルとリスクとのサンドウィッチ⋮⋮曲芸師 は自分の軽業に命を賭けている。 人は何かを決断するとき、レイズをしなければならない。チップ を積み上げる行為。そのためには恐れとか怯えとかを、覚悟を妨げ るものを捨て去らなくちゃならないんだ。 ま、どちらにせよ、そのチップの多寡でそいつの意志の強さが分 かるってもんだろう? ﹁どららぁぁあァッ!﹂ 強靭な枝のしなりを利用した。 その様相は強くたゆんだ弦だ。矢を弦にこめるように、自身を矢 のように扱った。この柔軟性に富んだしなりが、無謀ともいえる挑 戦を結実させた。僕は弦から放たれた弓矢のように、足の裏でしっ かりとしなった太い木の枝を捉え、二階の窓に向けて一直線に飛ぶ。 それはさながら幅跳びのようで、予想以上に三メートルという高 さは、それなりの恐怖を感じさせるんだな、と思った。 窓と僕がいた木との距離は約一.五メートル。 眼前にコンクリートで固められた壁と、全開された窓がある。 目測に誤りはなかった、と思う。きっちりと寸法を測った。でも、 僕はヤバイと思った。どこかで足を引っかけたのか? 失速してい るぞ。このままじゃ激突する。灰色にくすんだコンクリートの壁︱ ︱。 ﹁空気抵抗を減らすッ!﹂ 僕は猫のように丸まった。 減速するのはマズイのだ。窓にたどり着く前に、その下方の壁に 衝突してしまう。だから、空気抵抗を受ける面積を減らす。減速を 回避し、速度を保つ。速度を手放さないフォーム。 219 四角形に切り取られた空間。その奥にある廊下︱︱着地点。人は いない。速度はきっちり維持されている。 視界に及び腰になっている蛾々島の姿が映る。 足が硬質の床を捉えたとき、体中に電流がほとばしったような衝 撃があった。足の裏から頭のてっぺんまで貫く一本の槍。衝撃を吸 収しきれず、前にのめった。が、かろうじて、持ちこたえる。 ﹁あ⋮⋮あ⋮⋮あ⋮⋮﹂ 空気が凍結している。 着地と同時に、廊下はすっかり静まり返ってしまっている。 僕はこの空気を知っている。例えるならとある授業、先生に当て られて自信満々に述べた答えが見当外れの過誤であったときに生ず る空気⋮⋮。間違いを指摘したいのに指摘できないような、そんな 奇妙な空気だ。 沈黙の中、ポンポンとズボンについた土を払っている。 ポケットから取り出したハンカチで汗を拭いた後、蛾々島に向け て言った。﹁後は頼むよ、蛾々島﹂ポン、と蛾々島の肩を叩いた僕 は、九十度体を転回させ、細長い廊下を疾駆する。 どっと火山が噴火したみたいに静寂が解け、やにわに騒然となる 周囲。事情を聞こうと僕を引き止めるやつらもいたが、無視して進 んだ。有象無象にかまっているひまはないのだ。事態は予想よりは るかに深刻。 遠くで何かが着地する音が聞こえてくる。それに追従して起こる 悲鳴⋮⋮。信じられない光景が目の前にある⋮⋮って感じのトーン が混ざっている。 僕は痛む足を引きずりながらも、走るスピードを速めた。 諦めるつもりはない。 それをどうやら、行動で示すつもりらしい。 ﹁もう、どこに逃げるの? 千尋君はどこまで逃げるつもりなの? ねぇ、鬼ごっこはもうやめようよ⋮⋮結果の見えている鬼ごっこ ⋮⋮どこにも逃げ場なんて、ないのに⋮⋮ワタシの愛から逃れるこ 220 となんて、絶対に不可能なのに⋮⋮﹂ ﹁うっせぇェ︱︱ッ! トチ狂った女はお呼びじゃぁねぇんだよッ !﹂ ﹁ワタシの愛で千尋君を満たしてあげるわ﹂ 盲目の愛を振りかざし、荒風寧は狂逸な言葉を紡ぐ。 みんなが唖然とする中、悲劇的で喜劇的な鬼ごっこが、つれづれ なるままに再開されていく。 荒風寧との距離は結構あると踏んでいる。寧は無謀ともいえるス カイダイビングをしており、現在樹上にいるのだ。先般の宣言も同 じく、樹上で行われているに違いない。 となれば、逃走時間はかなり稼げるはずだ。寧が僕同様、木から 窓に跳躍して渡る可能性も十分にあるが、なんにせよ、時間は稼げ る。それは間違いない。その間に距離を広げる。寧が僕を見失うく らいの距離まで逃避する。 昼休み終了まで、あと二十分。腕時計で確認した。昼休みが終わ れば、五時間目の授業が始まる。 昼休み終了のチャイムが追跡の中止を意味しているわけではない のだが、僕はそれを区切りとして解釈する。寧はどこまでも追って くる。そんな予感がある。とりあえず昼休みが終わるまでは逃げ切 る。チャイムによる区分。対処はその後考える。逃走に難しい思考 はいらない。逃げ切るって言う思考のみを抱くってことだ。 科学準備室に身を潜めた。 誰一人いない教室の中、荒い呼吸だけが漏れる。散々走ったり跳 んだりしたから、息が乱れている。今になって心臓が激しく脈動し ていることに気付いた。 思う。 なし崩し的に逃げてしまったが、そもそもなんでこのような事態 になったのか⋮⋮? いきなりの急展開ってやつだ。意表をついて きた。寧もメチャクチャだ。僕の予想よりはるかに思いつめた行動 をしていた。 221 どこか釈然としない心持ちだ。 しばらく、じっとしている。 呼吸を落ち着かせている。そうしている間、校舎が明らかに騒が しくなっているのが分かる。それを肌身で感じているが、気配を消 すことに努めている。雑踏の外。僕は狂おしい気持ちになった。と てもじっとしていられなかった。こうしていると、気がヘンになり そうだ。 十分ほどたった後、テーブルに手をかけ、ゆっくりと立ち上がっ た。一箇所にとどまるのは危険だと判断した。ため息をついた。僕 は動き出す。 化学準備室前の廊下は閑散としている。 そーっと抜き足で忍んだ。 そのまま一階へ。階段のすぐ近くには家庭科室があった。 僕がいる棟は移動教室が密集しているところだった。 家庭科室は次の授業があるらしく、かまびすしい。エプロンを着 ている連中もいる。 ﹁あっ⋮⋮﹂ そうして僕は、ありえないものを視界に入れる。さっと階段の影 に身を隠した。 前方に荒風寧がいた。一つ一つ、教室の中を覗いている。寧は今、 地学室を覗き込んでいる真っ最中だ。 背筋に冷や汗が垂れるのを感じた。 ピンチだ、と思った。 幸いなことに、寧は遠ざかっている。地学室の次は、地学準備室 だ。間違いなく遠ざかっている。僕のほうに来てはいない。 逆に考えるんだ。ピンチをチャンスだと考えるんだ。寧が僕を追 うのではなく、僕が寧を追うと考えるんだ。逆転の発想につなげる ⋮⋮。 僕は尾行を開始する。 222 ◆◆◆ 逃げてしまえばいずれ捕まってしまうが、むしろ尾行してしまえ ば捕まることはないのではないか、というのがこの行動の原点だ。 寧の足跡をなぞるように追跡する。追っているつもりなのに、逆に 追われている⋮⋮その状況の奇妙さ。 僕の背後を追っているつもりだからか、自らの背後はがら空きだ。 寧は舐めるように周囲を観察している。僕の姿を探しているのだ ろう。でも一向に見つからないからイライラしているのだ。奥歯を 強く噛んでいるのが遠目でも分かる。 僕は変な高揚を感じている。ストーカーにでもなった気分だ。そ して、この作戦は功を奏しているな、とも思った。寧は僕に気づい てはいないようだ。感覚としては、盲点をついたって感じだ。思わ ず安堵の吐息を漏らした。 と。 ふいに、シューベルトの魔王が流れてくる。滑らかな旋律だ。 誰だよ、と思う。 誰の携帯電話が鳴ってんだよ⋮⋮。 ﹁もう鬼ごっこはおしまいみたいだね﹂ それはすぐそばで聞こえた。 床に下げていた視線を上げると、眼前にキレイに整った女の顔が あった。にっこりと笑っている。熟れた果実が放つような、妖艶な ものを濃く匂わせている。 ﹁あ?﹂ ﹁やっとワタシを見てくれたね。嬉しいよ⋮⋮千尋君が見てくれる とワタシ、とっても嬉しいんだよ。ワタシが単純だからかな⋮⋮? 223 どうだろ﹂ その手には携帯電話が握られている。 画面に表示されているのは⋮⋮緑葉千尋。 魔王のおどろおどろしい旋律とともに、途絶した意識がよみがえ る。 はっとなってポケットに手を突っ込むと、何かが振動しているの が分かった。震えている。取り出してみると、しっかり震えている のがよく分かる。 僕はくるっと体を反転させ、脱兎のごとく疾駆した。 224 第三十七話 兄︵25︶ ﹁えっ、まだ続いてるの? もうイヤだよ。ワタシから逃げないで よ⋮⋮悲しいよ⋮⋮絶対に逃げられないのに﹂ 後ろから声がする。 階段を三段飛ばしで駆け上がった。全身から汗が吹き出ていた。 ﹁考えろ考えろ﹂僕は着信を告げるメロディーを切った。シューベ ルトの魔王だ。あれは僕の着メロだった。 ﹁考えろ考えろ﹂着信を入れてきたのは十中八九、荒風寧だ。確認 しなくても分かる。策を練っていた。寧は受信のさいに発生する着 メロを使って、僕の位置を特定してきた。携帯から僕の位置を割り 出してきたんだ。 気がつけば、さび付いた鉄扉を開けていた。 まばゆい光が視界を覆う。 コンクリートの敷かれた屋上。鉄柵が張り巡らされている。 屋上のちょうど中央のあたりだ。一旦そこで止まり、振り返った。 扉の近く、艶やかな黒髪を風でたなびかせる彼女がいた。 ﹁嵌めやがったな﹂僕は言った。 ﹁なんのこと?﹂寧はとぼけてみせた。笑みをこぼしている。楽し くて仕方ないって表情。 柔らかい日射が降り注いでいる。 やがて、荒風寧は伺うように言った。﹁君のそばに、行ってもい いかな﹂ 僕は無言のまま。 寧は上目遣いで僕を見やり、そっと一歩を進める。 ﹁好きだった。入学式のときから、好きだった⋮⋮一目惚れでした。 ズキューンって胸にきたの。でも臆病はワタシは、千尋君に告白す ることもなく、胸に秘めたままだった⋮⋮いつしか想いは想いでは なくなって、ここ最近なんて、君のことなんて、思い出しもしなか 225 った。ほこりが堆積していたのかな。うん、きっとそう。でもね、 神様は思わぬ拍子に幸運をワタシに落としてくれた⋮⋮あぁ、嬉し かったなぉ。君に告白されて、すっかり忘れてた想いを思い出した んだ⋮⋮その瞬間に感じた幸福感、君にも味わってほしかったなぁ ⋮⋮﹂ ﹁それで、何のようだよ﹂僕はなるべく無機質な声を出すようにし た。 ﹁ワタシとヨリを戻して﹂ 寧の要求は簡潔なものだった。 なんと言うか⋮⋮どこまでも純粋な女の子だった。 寧は目をキラキラさせて僕を見る。 ﹁千尋君はきっと、動揺してたんだと思う。ワタシがいきなり、あ んな告白するから気が動転したんでしょ? 分かるよ、よく分かる。 でも、やっぱりそういうのはいけないと思う。キライとかウソとか、 イヤだよ。そんなこといわないでよ⋮⋮胸が痛いよ。千尋君、とっ てもイジワルな人だよ⋮⋮﹂ ﹁事実なんだ﹂僕は寧から目をそらした。﹁あのときの言葉、全部 事実なんだ﹂ ぴく、と神経質に眉が動いた。 歯と歯がすれる音がする。歯軋りだ。ギィギィとやけに金属的な 音が残響する。 荒風寧は爬虫類のような目をして、僕を見ている。 ﹁ウソ、だ﹂ ﹁本当だよ﹂ ﹁そんなわけない﹂ ﹁そんなわけある﹂ ﹁ワタシにウソなんか言わないよね? 千尋君はとっても優しい人 だから﹂ ざんげ ﹁その節は本当にすまないと思ってる﹂ ﹁何それ⋮⋮懺悔? つまらない、実につまらない、冗談⋮⋮﹂ 226 ﹁冗談なんかじゃない。事実なんだ﹂ 地面が激しく揺れる。寧が足をコンクリートの床に振り下ろして いた。 寧は唇を強くかみ、ギチギチと服の裾を歯ですりつぶしている。 ﹁まだ、間にあうよ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁ごめんなさいしたら、許してあげる﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁ゆゆ、許すって言ってんだろッ!﹂ 一歩前に踏み出した寧は、獰猛な目で僕を見た。足の付け根で固 く握られた拳は痙攣を起こし、唇は紫に変色している。尖った歯が 下唇に食い込んでいる。 ﹁なんでよ⋮⋮なんで、ワタシにイジワルするのよ⋮⋮ひどいよ、 ひどいよ、グスン。そんなの、千尋君じゃない。優しくてカッコい い千尋君じゃない⋮⋮。偽者だ! 偽者偽者偽者。千尋君はワタシ に優しい、ワタシだけに優しい⋮⋮。その点、おまえは偽者⋮⋮贋 作⋮⋮偽り⋮⋮千尋君の皮をかぶった贋物⋮⋮﹂ まるで呪詛のように寧はつぶやいた。ぶつぶつ、ぶつぶつと、吐 く息に瘴気を含ませながら、空気を侵食させていく。周りの空間を 濃く塗りつぶしていく。 やがて。 寧は銃口をつきつけるように手を伸ばした。右手には鋭利なナイ フが握られている。その切っ先は僕に向けられていた。 片足を前に出し、じりじりと漸進する。 距離が狭まるにつれ、滝のように汗が出る。手汗がひどい。顔が 熱い。風が内にこもる熱を取り払ってくれない。 はたして寧が大きく踏み出せば十分に届く距離になったころ、僕 の緊張は極に達する。 ﹁お、おい﹂僕は及び腰で後退した。 ﹁なに?﹂寧は般若のような形相で応じた。 227 ﹁ナイフを、しまえ﹂ 一転、寧は不思議そうな表情をする。僕の言っていることが理解 できない、と言った風だ。子供のような無邪気さで、ナイフの側面 をなでたりする。 ﹁そんなもの持ってたら、怪我するだろ。手放せ、それを﹂ ﹁イヤ﹂ ﹁手放せ﹂ ﹁イヤ﹂ ﹁俺はおまえに、手放せって言ってるんだ﹂ ﹁なんで手放す必要があるの⋮⋮?﹂ ﹁危険だからだ﹂ ﹁誰が?﹂ ﹁⋮⋮おまえが、だ﹂ ﹁でも、これを持ってるのはワタシのほうだよ? 千尋君ならとも かく、なんでワタシが危険なの?﹂ ﹁分からないのか?﹂僕は猫のように背を丸めてみせた。雌伏する イタチのような体勢。﹁俺が抵抗するから危険なんだよ﹂ ﹁抵抗? なんで? ワタシはただ、千尋君の偽者を倒そうと思っ てるだけなのに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうかよ。分かった、分かったよ、寧の言い分は。ようは自 分に優しくしてくれない俺は偽者で、自分に優しくしてくれた過去 の俺が本物ってわけだ。前者も後者も俺に違いないのにな。同一線 上の存在だってのにな﹂ 僕は後退させた足を前進させる。後ろではなく、前に出る。僕と 彼女との距離が縮まっていく。寧ではなく僕が、距離を狭めている。 そしてタイル一枚分の間隔になった。 僕はゆっくりと手をあげた。あげた手を水平にする。寧の握るナ イフ。その刀身に手を添える。握るように添える。皮膚に刃がすれ る。ズプズプと肉の繊維の隙間に入り込んでくる。 寧は目を大きくして、それを見ていた。 228 ナイフの刀身が僕の手に包まれて完全に見えなくなるまで、約十 秒。熱湯に手を突っ込みたくなるような痛みが襲う。表情筋が笑い とも悲哀ともつかぬ表情を形成しようとする。しかし、むりやり固 定する。ポタポタとコンクリートのタイルに水溜りができる。血の 雨。 ﹁あっ、あっ、あっ﹂ 寧はしゃくりあげるような声を上げた。 229 第三十八話 兄︵26︶ ﹁やっ、やめて。手が、手が、血だらけに⋮⋮﹂ ﹁やめてほしいか?﹂僕は逆に、ぎゅっとナイフを握った。すると 一気に、赤い液体が噴出した。体中に寒気が忍び寄るも、体は熱を 帯びる。ナイフに添えられた右手がジンジンと灼熱にあぶられた鉄 のようになった。﹁やめてほしいか?﹂ ﹁け、怪我してるよ。指が千切れちゃうよ。そんなの見たくないよ ⋮⋮千尋君の顔が苦痛に歪む姿なんて、絶対見たくない﹂ ﹁だったら、ナイフをしまってくれるって、手放してくれるって、 約束してくれるかな﹂ ﹁えっ⋮⋮﹂ 寧の顔が戸惑いの色を浮かべる。不安と懐疑。目の前の存在が怪 しげで不可解なものに見えてしまう錯覚。囚われている。 おのずとその態度に苛立ちを覚える。﹁何ためらってんだ。とっ とと手放せよ﹂僕は右手に次いで、左手をも添えた。鋭い刃が左手 にも食い込む。突き刺さっていく。僕は限界を感じるも、我慢する。 心の中で冷静に、後何秒⋮⋮と計算をする。 ﹁でも、そんなことできないよ。そんなことしたら千尋君、逃げる つもりでしょ。ワタシから、逃げるつもりなんだ⋮⋮﹂ ﹁逃げないよ﹂ ﹁逃げなくても、ワタシを突き放すつもりなんだ!﹂ ﹁なぁ、寧﹂ と。 僕は。 諭すような口調で、懇々と話す。﹁そもそもおまえはさ、そのナ イフで俺をどうしたいと思っていたんだ? ん? それで俺を刺す のか? まぁ、そうだよな。刺すよな、普通。ナイフってのは刺す ためにある道具だもんな。でもさ、それで俺を刺したところで何か 230 解決するのか? 俺が死ぬか重症を負うかして、おまえは満足なの か? 血に濡れたナイフを片手に、おまえはその後、どうするって んだ? ⋮⋮そうだな、話を変えよう。おまえ、俺のこと、好きか ?﹂ 寧はかぁーっと顔を赤くした。あわあわと視線を逸らす。困った ように頬を高潮させる。﹁え、でも﹂ ﹁言葉にしてくれなきゃ、分からないよ﹂ ﹁すっ、好きだよッ! 好きに決まってる⋮⋮大好きだよ。愛して るよ。千尋君のこと⋮⋮﹂ ﹁そっか。ならさ、一般論で言えば、好きな人には触ってもらいた いし、手を握ってほしいし、自分に好意的に接してほしいって、思 うよな。それが愛情にせよ、友情にせよ、きちんと自分に向き合っ てほしいって思うよな。自分を見てほしいよな﹂ ﹁当たり前だよッ! 見てほしい。触ってほしい。千尋君に、触っ てほしい﹂ 僕は右手をやおら離した。手のひらはヒルに吸われたかのように 肉が崩れていて、血がにじんでいる。ぐちゃぐちゃになっている。 僕はその汚らしい手を、そっと寧の肩に置く。寧の体が魚のように 跳ねるのが分かる。それを確かめた後、肩から肩甲骨へ、そして背 中へと、手を這わせた。 ﹁あっ、あっ﹂ ﹁俺が怪我したら、俺が死んじゃったら、こんな風に二度と寧に触 れることはできないんだ。そして寧は、俺のことが好き⋮⋮。好き な人と触れ合うことができないって、すごく悲しいことだよ。むな しいことだ。それを寧は、自分からしようとしたんだ。そのナイフ で、俺を貫こうとしたんだ。なんだろうな、これは。改めて考えて みると、愚考ってやつだよな、それは。俺と寧との関係性がどうで あろうが、恋人だろうが友達だろうが、こうやって触れられないっ てのは、イヤなことだよな﹂ ﹁イヤなこと⋮⋮﹂ 231 自分の制服に血がべったりとくっついていることに、寧は頓着し ない。ただ僕の手に己が手を重ね合わせて、愉悦している。血が付 着しようと関係ない。 それとは別に、僕との問答で苦悩している。難しい顔をしている。 僕は右手を手放した。やはり、煮崩れしたかぼちゃのようになっ ている。手に突き刺さったガラスの破片をむりやりとってしまった 後みたいになってしまっている。気持ち悪いしメチャクチャ痛い。 細い針で何本も刺し貫かれたような激痛。手をグーの形にして、そ の表面を見ないようにする。 寧は血まみれの、所々肉の付着したナイフを見て、おぞましい ものを見るような目をした。わっとナイフを手放す。戞々︵かつか つ︶たる音が響く。金属同士が打ち合うような残響だ。そして寧は、 僕を畏怖するような目つきをする。気持ち悪さと痛々しさ、狂おし さと愛くるしさを内包した視線。 ポタポタと手から血がこぼれている。 ﹁俺はさ、おまえのことを大切な友達だと思ってるから﹂ 僕は寧の隣を通り過ぎた。別れの言葉だった。ナイフを回収する ことを忘れない。きっちりポケットの中に収容する。 ﹁あ⋮⋮﹂ 寧はとっさに、横から僕の腕を掴んだ。見捨てられた子犬がする ような目つきをしていた。庇護欲を誘う表情。 崖から転落して、手を伸ばしている。僕はその手を掴んでいる。 そういうときの命脈危うい転落者が表すような、“助けてください ”って顔を、寧はしている。もしそんなやつの手を放したら、どう なるだろうか。 試してみたい。 僕は寧の首を掴んだ。血濡れた手だ。そいつで華奢な首を挟む。 ギチギチと万力のように締める。寧のキレイな顔が苦痛に歪んだ。 そして寧は、その苦痛に意味を付加させようとしている。僕がこん なことをするのは、何か意味があるに違いないと思っている。錯覚。 232 変換している。脳内で構築される自分に都合の良い解釈をもって、 事実を虚妄に変換している。 やがて寧の顔に喜びが浮かんだ。﹁もっどぉ、首絞めてください﹂ ﹁するかよ、バカ﹂ 手を離した。 寧の首には赤い絵の具で塗りたくったようになっていた。血のア ートだ。グロテスクでいて、危うい色香がある。 僕が背を向けると、寧がさめざめと泣くのが分かった。くず折れ るさいの布ずれの音がした。涙に濡れた声がする。 ﹁千尋君、千尋君、千尋君⋮⋮いやだ。行かないで。もっと首を絞 めて。もっとワタシをイジメて⋮⋮それが君の愛なんでしょ? ワ タシに愛をちょうだい⋮⋮じゃないとワタシ、生きていけない。千 尋君がいないとワタシ、生きていけない⋮⋮。死んじゃう。ごめん ね。ワタシ、千尋君に気持ち悪いことしちゃったね。⋮⋮謝るから ッ、謝るからッ、ワタシを見捨てないで⋮⋮﹂ 妙な雑音に混じって切るような風のうねりが聞こえてくる。夏の 涼しい風だ。汗と血をスパッと乾かしてくれる。 ポケットに手をつっこみ、中途半端に長い髪が風にさらわれるの を感じた。 最後に。 最後に、寧は。 ﹁諦めない、から﹂ 今にも風で掻き消えてしまいそうな声量だ。しかし、不思議と耳 に届いた。精神の深淵から発したかのような物狂おしい執念を感じ た。絞り出したみたいな甲高い声なんだ。背筋を凍らせる。心まで 凍結してしまいそうになる。 ﹁いつか絶対ッ、絶対⋮⋮千尋君を手に入れる⋮⋮諦めない。絶対。 約束する⋮⋮﹂ 五時間目を告げるチャイムが鳴る。 233 第三十八話 兄︵26︶︵後書き︶ ヤンデレヒロインと対決する主人公ってのは、果たしてありなんで しょうか。 議論の分かれるところですね。 234 第三十九話 兄︵27︶ 教室の生徒たちは、授業中に入室してきた僕を不審な目で見てい た。犯罪者を見るような目つきだ。おそらく伝播しているのだろう。 先般の騒ぎがこの教室にも伝わっていると見るべきだ。三階から飛 び降りる変人か、木から廊下へと跳び渡る狂人か、女の子に追われ ている奇人か⋮⋮どちらにせよ、僕の評価は今日を境に反転した。 僕は肩身の狭い思いで教室の後方を歩いた。自らの席に向かう。 誰も言葉を発しない。先生も僕の挙措を伺っているのは分かるが、 無言を保っている。 着席すると、隣の席から声がした。キレイな黒髪に清楚な雰囲気。 イメチェンした蛾々島だ。﹁おい、緑葉﹂蛾々島は声を潜めて言っ た。 ﹁帰る﹂ ﹁は?﹂蛾々島は呆けたような表情をする。﹁帰る⋮⋮? なんで ? 怪我でもしたっつーのかよ﹂ 僕は蛾々島の質問を無視した。両の手のひらを見せないようにす る。 僕は先生に向けて、声量を大きくして言った。﹁すみません。気 分が悪いので早退させていただきます﹂僕はカバンをからった。革 の取っ手が傷ついた手に食い込んで、傷口に塩をねじ込まれたよう な痛みを生じさせた。 僕は何食わぬ顔で教室を横断する。 ﹁お、おう﹂先生は慌てて返事をする。 周囲にひそひそ声が蔓延する。 僕はその空気に耐えられなくて、早足で教室をあとにした。退室 したらもちろん、カバンの持ち方をショルダー式に変えた。 人の気配のない廊下を歩いていると、ふいに整った顔を歪める蛾 々島の姿が想起された。不満そうな蛾々島の横顔が印象的だった。 235 視界の端に保健室が見えた。包帯を巻いてもらおうかな、と思っ た。しかし、どうしてこんな傷ができたの? と言われれば、どう しようもない。女の子にナイフを突き出され、刀身を握ってできた、 とでも言えばいいのだろうか? 家で手当てをしようと思う。 それで手当てをしたら、彼女の様子を見に行こう。 この時間帯だったら、彼女はまだ働いているはずだ。しかし、母 親には早退の件をどう言い訳しよう。母親は僕を責めるだろうか。 どうだろう。困ったな。前途多難だよ。 おのずと。 おのずと楽しい気持ちになる自分がいる。 ◆◆◆ 意外なことに母親の反応は淡白だった。あっそう、で済ませてい る。あまり注意を払っていない。別のことに関心がいっているって 感じだ。 午後二時。 おずおずと家の玄関に足を踏み入れた僕だが、心配事は杞憂に終 わった。 母親と顔をあわせた後、自室へと向かう。タンスの引き出しを開 ける。中に救急キットが収納されている。白い包帯とはさみ。両の 手がやられているから、手当てに時間がかかった。 そして僕は、再度階下へ。 リビングには皿洗いをしている母がいる。水の流れる音。それ以 外に音源はなく、テレビもつけられていない。 僕は母親の後ろ姿に声をかけた。﹁ねぇ、静絵は? やっぱりア 236 ルバイトに行ってるの?﹂ 母親は答えない。 ん? と思った。母親の態度は奇妙だった。 聞こえなかったのかな、と思いもう一度声をかけようとしたが、 ﹁千尋﹂と母の声に遮られる。﹁あなた⋮⋮今、静絵と言ったわね﹂ ﹁⋮⋮言ったけど、それがどうかしたのさ﹂ ﹁家に帰って開口一番に言うセリフが、﹃ねぇ、静絵は?﹄という のは、おかしいこととは思わない? そもそもあなたたち、最近や たら仲がいいわね。母親の私が不自然だと思えるくらい、睦まじい わよね、あなたたち。初めの頃はいい兆候だと思っていたのだけれ どね﹂ 僕のほうを振り向かず、皿を洗ったまま、言う。 僕は酩酊にも似た感覚に囚われた。今まですっかり忘却していた 危機感。同時に、藤宮の一言が思い出された。やつはこういうこと を言っているのだ、ということに気付く。藤宮の真意を理解する。 ﹁どうもあなたたち、毎日片方の部屋に入り浸っているようね。そ れっておかしいことだわ。急激な変化⋮⋮なぜあなたたちが、ああ まで関係を修復させることができたのか、私には理解しかねるわ。 もちろん、母親として兄妹仲がいいことは幸いよ。でも、そういっ た幸いを通り越して、私は今、不気味な感情に囚われているわ。暗 雲立ち込めるモヤモヤに囚われているわ﹂ ﹁なっ、何を言うんだよ母さん。それこそおかしいってやつじゃな いか。兄妹間に疑義を抱いてるってことじゃないか。それが何を意 味するか、うすうす理解しているって感じじゃないか﹂ 母は水道の蛇口をひねった。水が止まった。皿洗いが終わったの だ。 振り向いた母親は、ひまわりのように爽快な顔をしていた。﹁そ うよね、私何を言ってたのかしら。意味不明よね。ごめんなさい、 さっきの言葉は忘れて﹂ ﹁つ、疲れてるんだよ、母さんは。静絵のために張り切ってたもん 237 だから、疲れが溜まってたんだよ。ほらほら、休んで休んで⋮⋮﹂ 僕は母の肩を抱いて、無理やりソファーにつかせた。リモコンに 手を伸ばし、テレビをつける。 ありがとう、と母は言った。 どういたしまして、と僕が言った。 不穏な空気が流れた。 イヤな沈黙が流れた。 どれも僕が経験したことのないような雰囲気だ。少なくとも、母 親とこのような空気になったことは一度もない。こんな、互いを疑 うような空気⋮⋮。 ﹁迎えにいってあげて﹂母親は言った。視線はテレビのほうに固定 されている。﹁もうすぐで静絵ちゃんのアルバイトも終わるから。 あなたが迎えにいってあげて﹂ ﹁分かった﹂ 僕は母親の肩を離した。 母の肩には、黒ずんだ血がべったりとこびりついていた。 238 第四十話 兄︵28︶ それは一本道だ。直進すればいい。側面には畑。耕作している農 家。トラクターがうねりをあげて稼動している。 ポケットに手を突っ込み、路傍の石ころを蹴りながら歩いていた。 遠くに峰を望み、ぼんやりとしている。気がつけば石を蹴るのを やめていて、茫々と繁茂するすすきを見つめていた。 空虚な時間が流れていた。空っぽなんだ。すっかり飲み干されて しまったペットボトルのように、胸に空気が満ちていた。どうする こともできない抑鬱。そして、一抹の期待⋮⋮。しかしそれは、退 廃芸術を見て感じるような愉悦に近い。そんな両極端の感情に呑ま れている。渦だ。呑まれている僕がいる。 一昔前の屋敷のような外見をしているそれは、二十分もすけば到 着する。木でできた看板がそばに立てかけてあって、佐島菓子屋と 墨で一筆書きされている。筆致はかすれかけていて、腐朽している。 辺りは物静かな雰囲気だったが、中から人の声がした。二人だ。 お客さんだろうか? しかし店内を覗き込んで、その憶測が違うこ とを知る。 まんじゅうやきんつばなどが並んだ店内には土間が設けられてお り、土を固めた小高いところに二人の人間が腰かけていた。一人は 静絵で、もう一人は齢傾いたおばあちゃんだ。灰色の髪をこぎれい に束ね、人のよさそうな笑みを浮かべている。一方の静絵はじゃっ かん顔がこわばっているものの、時折笑顔を垣間見させて、話しこ んでいる。 静絵の視線は下を向いている。 おばあちゃんはにこやかにうなづいている。 僕は店外から様子を伺っている。 おそらく、佐島の祖母なのではないか、と思った。佐島の家は三 239 代続く菓子屋だと耳にしたことがあった。それで佐島の祖母はボケ 気味で、何を言ってもニコニコするだけだと言う。言葉を返すこと はなく、うなづくだけだ。病も進行しているのだろう。土間に投げ 出された脚部には、生々しく骨が突き出しているのが分かった。 静絵は手振りを加えて熱心に話している。おばあちゃんはうんう んとうなづいていた。 会話の間隙で言葉が途絶えると、痛々しい静寂に包まれた。おば あちゃんは相も変わらずうんうんとうなづいている。不気味に思え るくらいに、老婆は健やかな笑みを浮かべていた。 静絵はそれに気付かず、必死に次の話題を見つけているのが分か った。顔に汗を垂らして、何とかしないといけないって感じの表情 をしている。話題を探し出すことに汲々としているがしかし、おば あちゃんは静絵を無視するようにニコニコするだけだ。 僕はなんだか、狂おしい思いに囚われた。 ﹁静絵﹂いよいよ堪らなくなって、僕は声をかけた。﹁静絵﹂ 静絵は体をこわばらせて出入り口のほうを見た。僕はその反応に むなしさを覚える。 僕は土間に入った。 静絵は僕から視線を逸らした。いたたまれなさとか恥ずかしさと かを混合させた、人間らしい表情をしていた。 その点から見ても、彼女は人間的に成長したように思う。引きこ もりのころの静絵はまるで人形のように無機質だった。反応らしい 反応もせず、情緒を感じさせることもなく、ふいに感情を爆発させ て母さんを困らせる。行き着く先は家出だったり、自室で篭城だっ たりする。どうにかするのは決まって僕の役目だ。静絵から逆襲さ れて、いまだに首を絞められたあとが残っている。静絵は我が家の 地雷だった。 おそらく、社会に触れたからだった。今回のアルバイトだとか、 ネットだとか。その成否はともかく、徐々に人間っぽくなったよう に感じられた。なにぶん、初めは社会不適合の欠陥人間だったから 240 か、そのギャップが狂おしい。 僕は静絵に声をかけるのは諦めて、﹁おばあちゃん﹂ともう一人 のほうにアプローチをかけてみた。﹁これ、食べていい?﹂と近く にあった菓子を手に取る。 おばあちゃんはうんうんとうなづいている。僕は包装を解いて口 じご に入れた。﹁代金はここにおいて置くから﹂とおばあちゃんの手の ひらにお金を置く。十二円。 おばあちゃんはうんうんとうなづいている。 静絵はいけないものを見たような目つきをしていた。爾後、喪失 感と虚無感を合わせたようなものが顔にあらわれる。 ﹁これ、全部もらっておくから﹂僕は売り物のお菓子を箱ごと抱え て、きびすを返した。制止の声もなく、二人から遠ざかる。 店先まで出たところで、﹁千尋ッ﹂と後ろから声がした。静絵だ。 困惑するような、まいったようなトーンが混ざっている。 僕は箱を抱えたまま振り返った。すると近くまできた静絵と目が 合った。 慌てて彼女は、僕の視線から逃れようとする。追おうと思ったが、 箱が邪魔で視線が届かない。けれども、静絵の顔が朱に染まってい ることは感覚で分かった。 そして静絵は、おずおずと抱えられた箱を指差した。﹁そ、それ﹂ ﹁ん﹂僕は言った。﹁なんだ、これかよ。ちゃんと返すさ。あとで、 ちゃんと﹂ ﹁そっか⋮⋮﹂ それっきり、静絵は黙している。 僕は会話の糸口を見出せない。 仕方なく、佐島菓子屋に戻った。 土間では先ほどと変わらない姿勢でおばあちゃんが座っている。 僕は棚に菓子の箱を置いた。 ちらと静絵を見やる。 241 静絵は黙しておばあちゃんを見ている。 ﹁あと何時で終わるんだ?﹂と僕は問うた。﹁バイト﹂ ﹁あと五分﹂ ﹁帰るぞ﹂僕は静絵の手を握った。強引に引っ張っていく。静絵の 柔らかい手の感触。汗ばんでいるのが分かる。 静絵は困ったような表情をしている。僕の手を握り返すこともな く、ちらちらとおばあちゃんのほうを伺っていた。 従順だった手が止まった。不思議に思って後ろを向いてみると、 静絵は立ち止まっていた。 どこか物悲しい気持ちになりながら、﹁帰らないの?﹂と言った。 ﹁手を、放して﹂蚊のなくような声量だった。 静絵は顔を伏せている。 僕は遠くを眺めた。﹁いや﹂ ﹁お願いだから、放して﹂ ﹁けど、おまえの手は放してって言ってないよ﹂僕は静絵のあごに 優しく手を添えた。﹁その手か、その口か⋮⋮。どっちの静絵が本 当のことを言っているんだろうね﹂今の僕の顔はきっと悪い顔をし ているに違いない。おのずと笑みがこぼれてくるんだ。この感情を なんていうんだろう。⋮⋮加虐心? ﹁放して﹂ 地面が濡れている。地面を穿つ水滴。 雨が降ったのかと思った。僕は空を見上げる。しかし、空は快晴 だった。 雨は静絵の両の目から落ちていた。 僕は手を放した。 くるっときびすを返す。 僕は狂おしい気持ちになっていた。心の収拾がつかない。僕はこ れからどうすればいいのだろう。何が正しくて何が誤っているのか よく分からない。どうすれば静絵のためになるのだろうか。そんな 埒のないことばかりを考えている。そんな自分が気持ち悪い。 242 ﹁ごめんな﹂僕は静絵の手を放した。手のひらに残るほのかな温か さ。むずがゆい。意味もなく胸をかきむしりたくなる。僕は名状し でいねい がたい無力感に苛まれた。自分では何もできないと気づいた。そん な自分が気色悪い。 手持ちぶさたにポケットに手を突っ込み、僕はそのまま泥濘の敷 かれた畑道を歩いた。自分の弱さ、身勝手さを噛み締めて。でも、 振り返ることはしなかった。 足音は一つ⋮⋮。 243 第四十一話 兄︵29︶ これほど憂鬱になる朝は生まれて初めてだと思った。 起床。 窓から照りつける光は鮮烈で、網膜がチカチカと点滅している。 かくはん まばたきをするたびに一秒前の前景が残像となり、まるでパラパラ 漫画のようになった。酩酊。視界が途切れ途切れになるんだ。攪拌 される意識。換言するなら、一本の線だ。精神と肉体とをつなぐか すがい。迷路のように入り組んでいるけど、その糸のほつれを解き なた ほぐしてピンと伸ばしてみればきっと、一筋の直線になるだろう。 その線が鉈のようなもので寸断されている、とでも言えばいいの か。好きな子に受け入れてもらえない虚しさや、どうすることもで きないやるせなさが混合し、抑圧された性欲がそれらをぐちゃぐち ゃにかき混ぜる。曖昧な思惟が水のように形を喪失し、線形である ことをやめ、気持ちの悪い円形をなし、やがてドロドロと濁りをた たえた渦状となる。そして歪みが潮流を形作り、負の感情が絡み合 い、つながり合い、化学反応のごとく、心を穿つ怒涛の奔流に様変 わりする。終わりのない螺旋。相生し、相克する。 この感情の羅列にどう決着をつければいいのだろう。だから朝は 憂鬱なんだ。 僕はかけ布団を下肢にかけたまま、愚にもつかない思索の渦に呑 み込まれていた。 おぼろげに、静絵の顔を想起する。この世に生を受けて十七年間、 起居をともにした隣人であり同胞。同じ母胎を共有する兄妹。そし て、一時期愛を交し合った恋人⋮⋮それは世間一般な家族愛ではな く、男女の睦みを連想させる性愛。しかし、今となっては崩壊して いる。 それが良いことか悪いことか、頭の悪い僕じゃ分からない。でも 心のどこかで復縁を望んでいた。僕の心が、体が、静絵を欲してい 244 た。もう止めることはできない。あふれ出る。過去の思い出で溺死 しそうだ。 まさに人倫に反する感情。でも正論で片付く感情を友情とか愛情 とか言わないなんて、彼女はいっていたように思う。確かに、理屈 でどうにもならないから感情ってのは厄介な代物だった。それゆえ に彼女が愛しい。 不条理な想いに身を任せて、不条理な境遇を嘆きながらも、理屈 では説明できない通好を求める。感情は理で割り切れない。その余 りが直情径行の愛であるなら、それはきっと純粋なものに違いない。 彼女は多分、遠慮しているのだと思う。僕が普通の人生を送るこ とを願っている。荒風寧という血の鎖に縛られない存在。そんな女 に僕を譲り渡そうとしているのだろう。 そんな彼女にいじらしさと言うか、僕に対する確かな愛を感じ取 って、やるせなくなる。彼女は真の意味で僕のことを深く想ってく れている。僕の幸せを考えてくれている。その行路に自分を退けて ︱︱。 でも僕はそんなこと望んでいない。僕は僕のために、隣に他でも ない静絵がいてほしいと思っている。君じゃないとダメなんだ。君 とくだらない話をしたいし、手をつなぎたいし、キスをしたいし、 セックスもしたい。だから寧を遠ざけた。僕はわがままなんだと思 うんだ。僕のことを大切に思ってくれている人の意志すら無視して、 邪魔して、反故にする。他人のことなんて本当はどうでもよくて、 でも何よりもその人のために尽力したいと思っている⋮⋮人とはま まならない生き物なのだな、と改めて思う。そうした無鉄砲で盲目 な覚悟が空回りした結果、前日の惨状を導出したに違いない。 でもきっと答えなんかないんだ。自分で答えを編み出すしかない ちゅう ま のだろう。世界に対して自分で練った回答を提示するしかないのだ ろう。 線形の想いを柱状になり固め、宙を摩するバベルの塔を作ってみ せよう。僕たちの想いを天に届けてみせよう。その果てにまだ見ぬ 245 ものを求めて。 じゅんち ﹁決めた﹂今一度静絵と話し合おう。まだ終わったわけじゃない。 また始めればいい。 段々と網膜が光に馴致し、明滅がなくなった。パラパラ漫画の後 には清々しい朝が待っていることを知る。 布団を跳ね上げ、服を着脱し、階下へと向かう。朝ご飯の卓に彼 女もついているかな⋮⋮そんな一抹の期待を胸にして、階段を下り る。 居間には新聞紙を広げている父がいた。キッチンでは飯を持って いる母の姿がある。静絵の姿はない。 食卓についた僕はぼんやりとテレビの映像を追っている。 ﹁あら、おはよう﹂母さんはイスに座っている僕を見て、少し驚い ているようだった。時計と僕とを見比べている。 ﹁僕だってたまには早く起きるさ﹂ ﹁きっと目が冴えたのね﹂食器を並べる母さんは含み笑いをしてい る。﹁目が冴えれば朝も早くなるわ﹂ ﹁何か含んだような物言いだね﹂ 母さんは静かに笑っている。何事もなかったように配膳を再開し た。 と。 そういえばと言わんばかりにふと、母さんは頬に手を添える。﹁ そういえば⋮⋮彼女さんとはどうなったのかしら﹂と暫時して、何 かを企んでいるようなイタズラっぽい表情になった。年端の行かな い童子のようだった。 ﹁⋮⋮寧のこと?﹂ ﹁そうに決まっているじゃない。他に誰がいるのよ﹂ ﹁あぁ⋮⋮そうだね。他に誰がいるんだろうね⋮⋮そうに決まって るか。簡単に予想できる事実﹂ ﹁それで、彼女とはうまくいっているの? ずいぶんかわいらしい お嬢さんだったから、競争率高かったんじゃない?﹂ 246 ﹁よくものにしたのねって言いたいの? 母さんは﹂ ﹁だってずいぶんと育ちのよさそうなお嬢さんだったわ。深窓の令 嬢って感じよ。たおやかだったわ﹂ 確かに僕の第一印象もそんな風だった。﹁いやさ、寧はそんな簡 単なやつじゃないんだよ﹂ すると、母さんはニヤニヤしている。﹁ふーん﹂と意味深に僕を 覗きこんでくる。何かを取り違えているなって感じなんだ。 もう否定するのも面倒くさくて、そのままにしておいた。ご飯を かきこむ。手が怪我しているから食べにくい。あとで包帯を巻き直 そう。 母はきっと、僕と寧が本当の自分をさらけ出せる仲になったのだ と解釈しているのだろう。確かにその通りでもあった。寧はその身 に秘めた本性をさらけ出した。そうして僕たちは決別した。 思うに、母さんのそれはひやかしってやつだ。この後に彼女が迎 えにくるんでしょ? とそういった風に僕をからかっているに違い ない。猫みたいな茶目っ気な笑みを浮かべている。しかし、そんな ことは金輪際起こりえない。そう断言できる。 ﹁⋮⋮おまえ、恋人がいるのか﹂ 唐突に横から声が聞こえた。 父だった。 父は新聞紙越しに声をかけている。﹁女を扱うというものは、絹 で包むようなイメージだ。割れ物のガラス細工。丁寧に扱ってやれ。 女は玉のように大事にするに越したことはないのだからな﹂やけに 重苦しい口調だった。言っている内容と似つかわしくないのが面白 い。 だから僕や静絵が生まれたのだと思った。 僕は言った。﹁そうやって母さんを口説いたの?﹂ 父さんは口をつぐんだ。新聞紙で顔を隠している。 母さんは目を逸らし、顔を赤くしている。 静絵の姿はない。 247 248 第四十二話 兄︵30︶ 結局静絵が姿を現すことなく、朝食は終了した。母さんは不安が るような、でもどこかで安堵するような表情をしていたのが印象的 だった。母は何を思っているのだろう。あるいは、何をどう勘ぐっ ているのだろう。これも親子だから分かるのだろうか。血の紐帯が 非言語的な直感を働かせるのか。 ﹁ッんだよ、辛苦腐った顔しやがってよォ。こっちまでメランコリ ックな気分になっちまうだろうが﹂ 登校中、声がして後ろを見てみると颯々と黒髪をなびかせる蛾々 島がいた。僕のほうに肉薄してくる。﹁蛾々島﹂ かいぎゃく ﹁まッ、真面目腐った顔よりゃ数倍マシかもしんねェけど﹂蛾々島 は唇を吊り上げて見せた。埒もない諧謔を織り交ぜてくるあたり、 今日の蛾々島は上機嫌に相違ない。﹁けどさァ、悩みでもあんなら オレに相談してくれてもいっこーに構わないんだぜ﹂と親指を立て てみせた。 結構いいやつなんだなと思ったが、残念ながら他人に話せるよう なものではなかった。この苦悩は胸中に秘し隠されるべき類のもの だった。﹁ちょっとさ、お腹が痛くてさ、まいったもんだよ。今朝 何回トイレに行ったんだっけか﹂ ﹁んだよ、そんなキタねェ話すんじゃねェよバカ。これほど爽快な 朝に似合わねェ話題はないぜ﹂ ﹁勘弁してくれよ。朝っぱらから漫才だなんて結構体力使うんだか らさ﹂ ﹁オレはおまえと漫才コンビ立ち上げた記憶なんざねェぞ﹂やれや れと蛾々島は額に手を当てた。 それはこっちのセリフだ、と思う。少しは自己を振り返ると言う 習慣をつけたほうがいいんじゃないのかな。 僕が眉をひそめているのを看取したのか、﹁おい、なんだよその 249 目は﹂と脅すような口調で僕に迫ってくる。いつもの蛾々島だ。し かし姿形はみめよい淑女であり、そのギャップが新奇なものに映る。 見た目と中身が調和していないって感じだ。きっちりと裏切ってく るって感じだ。﹁おまえのその目つき⋮⋮それを人は睨みつけてや がるって解釈する目つきだぜ﹂ ﹁非難してるんだよ﹂襟首をつかまれて話しづらい。﹁この目つき はおまえを非難してるぞって無言で伝える目つきなんだよ﹂ ﹁ようは放せってことか?﹂ ﹁おまえは手荒いんだよ﹂ ﹁おまえはオレに胸倉を放してほしいか否かを答えりゃいいんだ﹂ ﹁行動がそこら辺のチンピラと変わらないな﹂ ﹁チンピラと魔王を一緒くたにすんじゃねェ﹂ ﹁どっちも社会不適合者じゃないか﹂ ﹁荒風寧とはどうなった?﹂ 蛾々島杏奈は刃物のように鋭い視線をよこしてきた。寸鉄人を殺 してくる。簡潔な言葉で僕の中身をえぐってくるんだ。 ﹁答えろよ。オレはおまえに答えろといってるんだ。え? そうだ ろ? 質問にはイエスかノーか、あるいは誰が、何を、いつ、どこ で、なぜしたのか答えるのが礼儀ってもんだろ。国語の授業で習っ ただろ? オレは知ってるんだぜ。オレは昨日の事件に遭遇し、目 撃し、見聞し、言わずもがなオレはその場に居合わせているのを忘 れたのかよ。教えろよ⋮⋮事の経緯、その顛末をよ⋮⋮﹂ ﹁一つだけ確かなことがあるとしたら﹂と僕は前置きをして、一呼 吸して、言った。﹁僕は寧をふった﹂ ﹁⋮⋮あの男どもが群がるような超優良物件をか?﹂ ﹁否定してほしいのか?﹂ ﹁てめェの正気を疑ってんだよ。信じられねェ。あんないい女ふる なんざァ、人生を棒にふったも同然じゃないか﹂ ﹁狂気の沙汰さ。おまえも見ただろ? 寧は根本的なところを狂わ せていた。パジャマ姿で校内をうろつき回り、果てには三階から飛 250 び降りたんだからな﹂ ﹁それはおまえも一緒だろうが﹂ ﹁似ているようで違う﹂ ﹁何が違うってんだ﹂ ﹁狂気だよ﹂ 蛾々島は押し黙った。僕の発した言葉を咀嚼し、その意味を吟味 しているように見えた。 はたから見れば少女に恫喝される男子生徒って感じの構図だった。 いい加減手を放してほしい。僕はふっと息を吐いた。﹁見た目はか わいらしい女の子になったってのにさ、そんなことしたらせっかく の変身が台無しだと思うんだ﹂ ﹁かッ、かわいい⋮⋮?﹂ しばし黙していた蛾々島は一転して周章狼狽した。襟首をつかむ 手を離し、あわあわと頬に手を当てた。なかんずく頬を朱に染めて いる辺り、言ってるこっちも心が乱れてしまう。 その反応がやけに生々しくて、愛らしくて、本当に従来の蛾々島 じゃなくなったみたいだ。外面が変わったからおのずと内面も変化 を生じさせているのだろうか? こんな反応、僕は初めてだった。 ﹁なッ、なんてこと言うんだッ! か、かわいいだなんて⋮⋮女の 子に面と向かって言う言葉かッ!﹂僕の視線に気づいたのか、まる で難詰するように排撃してきた。整合性に欠けた文句を縷々︵るる︶ と垂れてくる。﹁どッ、動揺するだろがッ!﹂ ﹁⋮⋮なんつーかさ、変わったな。おまえ﹂ ﹁ど、どういう意味だよッ!﹂ ﹁すっげぇかわいくなった﹂ 蛾々島は魂が抜け落ちたような表情をした。 僕は思ったことを素直に口にする。﹁言動がいちいちさ、年相応 の女の子っぽくなったって言うか、いじらしいって言うか⋮⋮なん か少女漫画チックになってった感じ。ちょっと前の蛾々島じゃ考え られない反応だと思うんだ﹂ 251 ﹁そ、それで⋮⋮?﹂ てんいむほう 蛾々島は透徹とした目を向けてくる。穢れを知らない快活な処女 のような天衣無縫さ。僕は対応に困って、頭をかいた。﹁なんつー かさ⋮⋮いや、やめよう。言うのは﹂ ﹁言えよッ!﹂ 僕は恥ずかしくなって、気がつけば早歩きしていた。顔が赤くな っている。新鮮な経験。これまで蛾々島を女と意識したことがなか ったせいからかもしれない。今になって蛾々島がかわいい女の子に 見えてくる不思議。 互いが互いを意識しているというのに、目が合ってしまえば目を 逸らし、何か言いたそうに唇をかんでしまう。そんなはがゆい雰囲 気。 ﹁おまえはさ﹂ と。 ﹁おまえはさ、なんでオレが似合わない化粧なんかしたと思う?﹂ ﹁そりゃ、お母さんに言われて渋々。だろ﹂ ﹁違うんだ、それ﹂と蛾々島は熟れたリンゴのように頬を朱に染め た。﹁それはまぁ、きっかけってやつだ。押せ押せなんだよ、あの ババァはよ。でも、原因じゃないんだ、こんな風にしたの。きちん とした理由があるんだ⋮⋮。まぁ、おまえにも見当もつかないとは 思うけどよ﹂ ﹁確かに見当がつかない﹂ 僕が一息に言うと、蛾々島は下唇を強く引き結んだ。何かを決心 しているような表情だ。これから重要なことを言うって決意したも のの目だった。﹁もしもッ! もしもの話だぜ⋮⋮もしオレがッ、 おまえのために化粧したって言ったらァ、おまえどうする?﹂ それは突拍子のない言葉だった。 反応に困った僕は、蛾々島の顔を注視した。 蛾々島は僕の表情を見て、にわかに顔をしかめた。しまったって 顔をしている。 252 足元に風が吹き込んできた。 ﹁なにそれ、おまえ、俺が好きなのかよ﹂茶化したような口調なん だ。というのも、僕は蛾々島が冗談を言っているのだと思った。あ まりに素っ頓狂な冗談だったので、意表をつかれたのだ。だから僕 も、いかにも冗談ですよってトーンで応じた。 ﹁ははッ、んなわけねェだろ。オレがッ、おまえを好きだなんて、 たちのワリィ冗句だ。百人中百人が笑わないようなくっだらねェ軽 口⋮⋮そうだよなぁ、そうだよなぁ⋮⋮﹂ 蛾々島は泣きそうな顔をしている。目に涙をため、子供のように はらはらと頬を震わせた。 僕はやにわに、焦心する。もしかしたら僕は、とんでもない間違 いを犯したのではないかと思った。 ﹁殺してやる﹂ 蛾々島は憤怒を前面に押し出して、僕に手を伸ばしてきた。迫っ てくる。身の危険を感じ、撤退する僕。 何がなんだか分からなくて、いつの間にか地雷を踏んでいて、被 爆していたことを知る。 ﹁殺す殺す殺す﹂ 蛾々島は執念深い殺人鬼みたいに追いすがってくる。それを振り 切ろうとして、僕は足をバネのようにして走り出していた。 ﹁待ちやがれって言ってんだよタコッ! 謝れッ! 乙女心をもて あそんだ罪を謝りやがれッ!﹂ ﹁なんだよ、ただの冗談なんだろ!﹂ ﹁殺す﹂ ﹁殺すとか理不尽﹂ ﹁なぁーに、死期が少し早まるだけだぜ﹂ ﹁俺はきちんと寿命を全うして死にたいんだ!﹂ またいつものように追いかけっこが始まる。僕が逃げて、彼女が 追いかける。往々にしていたちごっこ。終わりがない。しかし、ど うやら彼女に心境の変化が訪れているらしい。 253 むずがゆい気持ちが湧き上がってくるのを止められなかった。な んなのだろう。判然としない。なぜ僕は走り出しているのだろう。 分からない。きっとこれまでの事件が重なって混乱しているだけな のだろう。だから彼女の本意が理解できない。理解できないまま等 閑に伏してしまう。滑稽だ。まるで漫才。互いの本心をさらけ出す ことなく、表層の会話のみで成立させている。蛾々島はその暗流に 終止符を打ってくれようとしたけど、僕はそれを単なる冗談と解し てしまったのだ。 結局、僕と蛾々島の漫才は学校の玄関前まで続くことになった。 254 第四十三話 兄︵31︶ 教室は微妙に居心地が悪かったが、気になるほどではなかった。 時折ひそひそ声がして、僕に視線が集中する程度。睨んでやったら さっと目を逃がす。平穏。隣に蛾々島がいたのが奏功したのか、激 しく詰問されることはなかった。 ただ、僕と蛾々島との関係がやけに親密に見えたらしく、﹁荒風 の次は蛾々島に鞍替えかよ﹂と言った声が所々から聞こえてくるの がうざかった。そんなつもりなんてないし、蛾々島とは寧と交際す る以前から友達だった⋮⋮だってそうだろ。手をつないだこともな いし、キスをしたこともない。そんな男女を恋人と形容することは 一般にはしない。ちょっと変なことがあったけど、やっぱり友達な んだよ、僕たちは。 でも、周囲はそうとは思ってくれない。 いたたまれない空気が漂う。 四時間目の科学が終わり、昼休みの鐘が鳴る。カバンから母さん が作ってくれた弁当を取り出し、風呂敷をといた。 僕はいつものように蛾々島が強引に机をくっつけてくるものだと 思っていた。無理やり迫ってくる蛾々島をあしらいながらも、不承 不承会食となるのがいつもの流れだった。 しかし今回は違ったようで、﹁蛾々島のやつ、こないな﹂と思っ てふと蛾々島のほうを見てみると、数人の女子と楽しそうにおしゃ べりしていた。ほほえましくもあり、かばかりの寂しさもある。僕 はなぜか複雑な気持ちになった。 蛾々島は僕に気づいたのか、会話を一旦中断し僕に近づいてきて 言った。﹁悪い、オレあっちと食べるから﹂蛾々島は両手を胸の前 に合わせ、すまなさそうにした。次いで、通達を終えた蛾々島はあ っさりと去っていった。 返事をするひまもない。僕はただ、うめき声のようなものを上げ 255 るだけだった。 くだんの少女たちはひとつの孤島を形成していた。数個の机をよ り合わせ、かわいらしいお弁当を開帳し、一つのコミュニティを築 いている。 一方の僕も孤島を形成してはいたが、構成要素は僕一人だった。 周囲もそれらの少女たち同様、仲のいいお友達とで島を作っていた。 しかしながら、僕のみが孤立している。 一瞬、蛾々島に声をかけてみようとも思ったが、自分がすごくか わいそうなやつに成り下がってしまうのでやめておくことにした。 蛾々島は僕に目もくれずに購買のパンを食いながら、お友達との会 話に興じている。一瞬僕に対するあてつけなのかなと思ったが、も っと自分が惨めになるだけだった。 僕は弁当箱を包みなおした。途中包みのを失敗して何度かやり直 した。周囲の喧騒が聴覚に届いてくる。中身は楽しそうな笑い声、 煩雑な会話⋮⋮。 弁当箱を小脇に抱え、教室を出る。 廊下にはちらほらと生徒がいた。窓から漏れる日光。ほこりが浮 かんでいるのがかすんで見え、汚いなと思った。 落ち着く場所を図書室に決めて、階段を下りようとする。 すると相識の顔と逢着した。佐島だった。 佐島は階段の壁にもたれかけ、ぼんやりとしている。トイレの帰 りなのだろうか。ハンカチを手にしている。 声をかけるかどうか迷ったけど、﹁どうしたの?﹂と結局、声を かけることにした。 佐島は茫漠と視線をたゆたわせている。まるで亡霊みたいなんだ。 いつもの天真爛漫さはなりを潜めている。奇妙だった。この雰囲気 の沈み具合は従来の佐島とは著しく乖離していた。 固唾を呑んで見守っていると、突如佐島の体がくず折れた。糸の 切れた人形みたいだった。﹁お、おい!﹂と慌てて佐島を抱きかか えるが、当の本人は虚空を見つめているだけだった。﹁なんだ、貧 256 血か? どうなってんのよこれ﹂ ﹁よっ、よっ﹂佐島はまるで嗚咽するように横隔膜をひくひくさせ た。 ﹁ん? なんだ、伝えたいことがあるのか?﹂ ﹁詠太郎がっ、いない⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮藤宮がか?﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ ﹁なんで﹂ ﹁さっきまで、教室にいたのに、いなくなった⋮⋮﹂ ﹁どっか行ったんじゃないの?﹂ ﹁そんなことないッ!﹂と佐島は過剰に反応した。まぶたが痙攣を 起こし、唇が病的にたわんだ。歯がカチカチとイビツに鳴り、腕を ガリガリとかいている。﹁そんなことない⋮⋮約束したのに⋮⋮詠 太郎は、お昼休みに、一緒に食べてくれるから⋮⋮約束したのに。 裏切った。私を。でもいない。どこいったんだろう。ねぇ⋮⋮知っ てる?﹂そして彼女は無垢な表情をした。 知らないというと、佐島は悲しそうな顔で下を向いた。 そういえばと僕は思い出す。これは蛾々島から聞いたことだが、 佐島は中学校の頃イジメを受けていたらしい。それを蛾々島が気ま ぐれで犯人をボコり、その後始末を藤宮がしたという。そうしてイ ジメが収束した後二人は彼氏彼女の間柄となり、今に至る。その期 間実に四年。浮沈の激しい中高生にしては長い交際期間だと思う。 そして佐島は、助けてくれた恩もあってしばらくは藤宮にべったり だったとも聞く。依存しているのだろう。佐島は。 佐島は小動物のようにおろおろとしている。穴から周囲を臆病に 見渡すねずみのようだった。 危うい綱渡り。落ちてしまえば心とか感情とか情緒だとかを一つ にした結晶体が一挙に崩れてしまうだろう。ガラス細工の宝玉を床 に叩きつけるように。 僕は佐島の背中を一定のリズムでタップしてやった。赤子を眠り 257 へと誘うような穏やかなリズムだ。佐島は静かにまぶたを閉じた。 しばらくした後、佐島は自力で起き上がった。﹁ごめん。迷惑か けた。ちょっと錯乱しちゃったみたい﹂ ﹁みたいだね﹂ ﹁恥ずかしいとこ見せちゃったな﹂佐島は方目をつむって舌を出し た。 廊下では相も変わらずやかましい雑音と自己主張の激しい信号と がまぜこぜに残響していた。まるで衛星通信のように互いの電波を 飽きることなく交換している。きっと自分はここにいるよと他人に 送信したいのだろう。それが己の存在証明となる。 佐島との海の底みたいな静寂の中、それらの雑踏はとても間遠い ものに思えた。隔絶していた。 ﹁それじゃ﹂佐島はそれだけの言葉を残してこの場を辞した。靴音 だけが徐々に遠ざかる。その後姿ももやみたいに跡形もなく消えた。 妹のことをよろしく、と伝えたかったが、言うタイミングを逸し てしまう。 聴覚が再び、諸般の雑音を拾った。先ほど佐島の体に触れたから か、手のひらが麻痺したみたいにジンジンした。 暫時立ちつくしていたが、ふっと息を吐いて階段を下りた。佐島 のことを考えるのをやめて、図書室で朝食をとろうと思った。 藤宮のことは⋮⋮思慮の外。学校を抜け出したのだろう、と単純 ちしつ にそう思った。あいつがサボるなんて珍しいけど、ありえないこと ではない。僕はあいつの突飛な性格を知悉している。あいつはいつ も、みなが予期しないであろう盲点をつく天才なのだ。 だから藤宮に関して佐島に言及することもなかった。 僕は氷のように透徹と凍てついている男について想いを馳せた。 そいつは心の底まで見抜けるような眼球を黒縁のメガネのレンズで 隠し、周囲に絶対零度のバリアーを張っている。藤宮詠太郎は宇宙 空間の中で一人ぽつりと佇んでいるような男だった。 階段を一歩下りていくたびに、様々な人間の輪郭が湧いては消え 258 ていく。静絵、母さん、蛾々島、佐島、そして藤宮。 人は変わらずにはいられない。 知らず知らずのうちに環境に適応していく。それは進化であり退 化でありゆがみでもある。 のちに、それがさだめだと知る。 259 第四十四話 兄︵32︶ 開け放たれた窓が一枚ずつ閉じられていくのを眺めていた。施錠 されている。今日の日直が放課後に窓を閉めるのだ。僕はそれを頬 杖をついて見ている。 ホームルームが終了すると同時に教室内はかまびすしいなったが、 十五分もすれば潮が引くように生徒たちが退室していって、雑音は 机や壁にとけていった。まるでスポンジのように音を吸収していく 教室。 学校はつつがなく終わり、帰宅を残すだけとなる。 カバンを取って教室を出る。廊下には思い思いに雑談する生徒に あふれていたが、どこか遠い景色のように映った。位相が合ってい ないんだ。明暗の異なる紙を二枚重ねたような感じ。焦点が定まっ ていない。 そして昇降口には、蛾々島杏奈がいる。 蛾々島は物憂いに下駄箱の下方を見つめ、ふと僕の姿を認めると かいこう 唇を弧の形にしてみせた。 予期せぬ邂逅。どうやら蛾々島は誰かを待っているようだ。 ﹁遅かったじゃねェか﹂蛾々島の視軸は僕に当てられている。 どうやら僕を待っていたようだった。 僕はいささか面食らった。視界の端で友達と一緒に教室を出る蛾 々島を視認していた。﹁今のこの心境を表すとしたら、はとが豆鉄 砲を食らったって比喩が適当だろうなと思ったね﹂口調がおのずと、 斜に構えるような尖った言い方になっていることを自覚する。 ﹁そんなビックリするこたァねェじゃねえか。昇降口にオレがいる ってだけなのによ。驚くに値することか?﹂ ﹁友達と帰るんじゃなかったの?﹂ ﹁やめたよ﹂蛾々島は澄んだ双眸を向けた。﹁やっぱり無理するも んじゃねェな。化粧をしてこのかた、あっちから歩み寄ってきやが 260 る。まるで昔からのお友達って雰囲気だ。オレはそんな気全然ねェ のに、親しげに話しかけてくるんだぜ。まぁ、それも無理ねェとは 思うさ。見た目も話し方も変えたからな。普通に順応した。それで 親しみやすくなったんだろうぜ﹂ ﹁どういうことだよ﹂ ﹁やっぱりお友達ごっこは疲れるってことだよ﹂ ﹁そういえば、昼休みの間、クラスメイトと仲良さげに話してたな﹂ ﹁誘われたんだよ。一緒に飯食わねェってな﹂ ﹁よかったじゃないか。友達ができて﹂ ﹁でもよ、オレはあのときほど他者との溝を認識したことはなかっ たぜ。驚いた。昨今の女子高生はアニメの話もできねェのかってよ ぉー﹂ ﹁女子高生みんなオタクってわけでもないしな﹂ ﹁きちんとした日本語を話してくれーっつーんだよ。ファッション とかメイクとかいわれても分かんねェよ﹂ ﹁確かに、めかしこんで姿見見てるよりも、マウスに手を添えてパ ソコン画面見てるおまえのほうが想像しやすいもんな﹂ ﹁なんつーかなァ﹂と蛾々島は仕切りなおすように言葉を切り、﹁ やっぱりおまえと一緒にいるのが一番気が楽でいいんだよなァ、こ れが。オレも初めは女子連中と一緒に帰ろうと思ったんだけどよ、 考え直した﹂と天真爛漫に笑ってみせる。﹁なァ、一緒に帰ろうぜ﹂ ◆◆◆ 蛾々島杏奈と言う人間はおそらく、生まれたときから他者との懸 隔を感じていた少女だったに違いない。 261 僕も断片的にしか彼女の私生活や家庭環境を知らないが、おぼろ げながら彼女の両親が不誠実な人間なんだろうなと推測をつけてい た。昼休みはお弁当ではなくいつも菓子パンだったし、三社面談は いつも最後に回されていたから。 彼女の不幸な人生はまず、家族との不和に端を発しているのだろ う。イビツな環境に呑み込まれて、今の不自然な人格が構築された。 眼帯をつけ口調を変え、周囲を睥睨するような雰囲気を発していた。 孤高なんだ。他人との交わりを忌避するような性情。しかし彼女の 周縁の壁は屹とそびえ立っているように見えて脆弱で、深く掘られ た溝も、実は誰かに埋めてほしいと思っている。 人は遠い。離れている。一瞬心と心が触れ合ったように感じても、 時とともにその気持ちは風化する。想いはやがてただの産業廃棄物 になる。分かり合うことは難しい。分かり合えてもすぐに離反する。 人はいつも自分本位。身勝手で盲目の論理。誰だって自分を受け入 れてほしいと思っている。 第一に、自らが水であることを欲する。第二に、自分と言う液体 を存分に満たしてくれる最適な器を探している。他者に器としての 役割を押し付ける。しかし、寛大な器を持つ人間はなかなかいなく て、世界は無限の水にあふれている。洪水。ダムが決壊した心は破 綻へと至る。汚濁した水の奔流なんだ。そのあふれんばかりの狂気。 結局、まがい物なんだ。誰かの気を引くために作られたかりそめ の器。打算に満ちた醜い器。ある種、穴が開いている不完全な入れ 物に過ぎない。一旦相手の気持ちを受け入れる代わり、それ以上の 想いを相手にむりやり受容させる。そのための器。損得と損益で緻 密に計算された汚らしい器。その駆け引きによる奇怪なつながり。 それこそが世間一般に言う優しさなのかもしれない。優しさですら 損得勘定で見積もられる。誰もが自分を受け入れてほしいと思って いるから、あなたを受け入れてあげる、といったポーズをする。自 分を受け入れてもらいたいだけなのに。 蛾々島はいつものようにくだらない話をする。 262 平素変わることのない会話。 ﹁なぁ、蛾々島﹂と僕はふいにこれまでの話題を区切った。﹁ちょ っとよりたいところがあるから、ここでお別れな﹂といって曲がり 角を指差した。 ﹁ん? なんでだよ﹂ 僕は反応に詰まる。頬をかいた。﹁ちょっとな﹂ ﹁ちょっとな、じゃ分かンねェーよ。どこ行くんだよ。答えろよコ ラ﹂蛾々島は鷹のような眼圧を放ってきた。 僕は蛇に睨まれたかえるのようになってしまうも、﹁さ、佐島の 家に行くんだ﹂と弁解するように言った。佐島の家というのは即ち、 佐島菓子店のことだ。 佐島菓子店は学校から一キロほど北上した先にある。僕や蛾々島 の家はその周辺に立地していた。 蛾々島は胡散臭そうに僕を見た。疑っているように思えた。 僕は蛾々島から顔を逸らす。蛾々島は追うように僕の視線を捕ら えようとする。 やがて⋮⋮。 ﹁だったらオレもいく﹂と蛾々島はにわかには信じられないことを 言った。﹁あれだろ、佐島の実家って菓子屋なんだろ? いいな、 それ。菓子食いてェよ。ていうかおごれよなァ、緑葉。確か男は女 の分までおごらなくちゃいけねェって昨日、女子連中に借りて読ん だ雑誌に書いてあったぜ﹂蛾々島はもう乗り気になってしまったの か、率先して十字路を曲がろうとする。 まずい流れになった、と思う。蛾々島を連れて行く気なんて全然 なかったのに、困ったことになった。こうなるなら一度家に帰って から向かったほうがよかったかもしれない。しかし、事態は常に推 移している。 ﹁なんだ、菓子屋にいかねェの?﹂蛾々島は不思議そうに僕を見た。 ﹁⋮⋮もし俺が一人で行きたいって言ったら、おまえ怒る?﹂ ﹁あ?﹂ 263 しせき ﹁だよなぁ﹂蛾々島の眼光は多分に獣性がこもっていて、僕は小動 物のようにひるんでしまった。 僕はただ、菓子屋で働く静絵を見たいだけなのにさ。 濁った夕日を浴びながら、かち歩きをする。菓子屋までは咫尺の 間だった。 ﹁こんにちわ﹂僕たちは暖簾を分けて店内へと足を踏み入れた。 しかし予想に反して、店内は静寂に包まれていた。 不思議に思って奥深く進んでみると、足が妙な物体に行き当たっ た。 そぉーっと視線を下に向けてみると、信じられないものがそこに あった。 ﹁佐島ッ!﹂ それは床でぐったりとへばっている佐島月子だった。制服を着て いる。きっと学校帰りなのだろう。 店内が薄暗くてよく見えない。僕はしゃがみこみ、佐島を注視し た。すると、後頭部が赤黒く腫れ上がっているのが分かった。髪を かき分けてみるとなるほど、大きいこぶがある。 きっと背後から殴られたのだ。 僕はいいようのない恐怖に囚われた。 蛾々島も呆然としたように僕と佐島を見比べている。僕と同様に どうしていいのか分からないらしい。 佐島は何も言わない。先ほど脈を図ってみたが、気を失っている だけだと判明する。 ﹁きゅっ、救急車だッ! 救急車を呼べ緑葉ッ!﹂ 蛾々島はたまぎるような大声を上げた。 その声に一時停止していた思考が活動を始める。僕は慌ててポケ ットに手をつっこみ、携帯電話を取り出そうとした。 と。 ふいに、ある着想が舞い降りてくる。 ﹁⋮⋮そういや静絵は?﹂ 264 第四十五話 兄︵33︶ はっとなって周辺を見渡してみるが、その姿はない。掻き消えて いる。僕の背筋に再び冷や汗が伝った。 僕はおろおろと倒れ臥す佐島と周囲とを見やる。 ﹁おっ、おいッ! なにやってんだッ! さっさとポケットの中に ある携帯電話で119番しろってんだよッ!﹂ そんなこと分かってる。分かってるが⋮⋮。 どうしたらいいのだろう。またも思考が混線状態になった。蛾々 島の言葉が聴覚に入っても脳には至らない。視界がぐにゃぐにゃに 歪む。 救急車を呼ぶべきか、静絵を探すべきか⋮⋮ひょっとしたら静絵 は誘拐されたのではないのか? とどんどん悪い方向に思考が流さ れていく。本来ならばありえない状況だった。なぜ佐島が倒れてい るのか、なぜ静絵がいないのか⋮⋮。 ひょっとしたら。 ひょっとしたら、佐島が殴打されているのも、犯人に抵抗したか らだとしたら⋮⋮? 静絵をかどわかそうとした不届き者がいて、 佐島がそれに抗したのだ。しかし力及ばず朽ち果てた⋮⋮。十分に ありえる筋書き。凍るような戦慄にさいなまれる。 僕はたまらなくなって棚に手を置いた。吐きそうになる。しかし、 吐いているひまなどない。適切な処置を講ずる必要がある。 ﹁クソッタレッ!﹂僕は木製の棚に思い切り頭をぶつけた。気合を 注入した。もう動揺はしない。 まずは警察と救急車だ。僕はこれらの奇態に事件性を察知してい る。 そして、そして、だ。 ﹁うぅ⋮⋮﹂ うめき声がした。佐島だ。意識が覚醒したのか? 慌てて駆け寄 265 り、その華奢な体を抱き上げた⋮⋮そういえばとこうして佐島を抱 きかかえるのは今日で二度目だなと埒もないことを考える。﹁だっ、 大丈夫か? おい、しっかりしろよ﹂ 佐島は苦悶の表情を浮かべている。頭をさすって顔をしかめた。 ﹁あんまり触らないほうがいい。怪我してる﹂ ﹁うぅ、分かってる、よ﹂佐島は強靭な精神力で上体を自ら起こし た。﹁それで、どうなってんの﹂ ﹁それはこっちが聞きたいね。一体全体どうなってんだよ!﹂ ﹁知らないよ﹂佐島はすっけない返答をした。どうやら僕と同じよ うに状況を呑み込めていないらしい。 ﹁⋮⋮静絵は? 静絵はどこに行きやがった?﹂ ﹁静絵ちゃん⋮⋮? あれ、いないの?﹂ ﹁⋮⋮知らないのか?﹂ ﹁知らないよ。気がついたら背後から殴られて、意識が途切れて、 それっきりだもん﹂ どうやら事態はより深刻らしい。 蛾々島は固唾を呑んで見守っている。この緊急事態に、さすがの 蛾々島も動揺しているようだ。 ﹁意識を失う前までは静絵はいたか?﹂ ﹁そんな質問攻めしないでよ﹂ 僕は佐島の肩をつかんだ。我もなく手の力が加えられていくのが 分かる。佐島が苦しそうにした。﹁頼むから、答えてくれ﹂ ﹁い、いた。いたよっ。やめてよ⋮⋮っていってもやめてくれない みたいだね。いたよ確実に、ここに。さっきまで一緒にお菓子食べ てたもん﹂ ﹁商品のやつをか?﹂確かに床にはお菓子の包装が散らかっていた。 手の力を弱めて言う。﹁それ、マズくねぇ?﹂ ﹁いいのよ、ここ、わたしのお店だから﹂ 一瞬朗らかな空気が流れたが、視線が交差すると佐島の顔が険し くなるのが分かった。きっと僕の顔もいかめしくなっているに違い 266 ない。空気が一気に張り詰める。事態はもはや焦眉の急を告げてい る。 ﹁緑葉君、警察に連絡を﹂ ﹁あ、あぁ﹂ 僕は改めて取り出した携帯電話をプッシュしようとした。 と。 携帯電話が鳴る。 僕は呆然として自前の携帯電話の画面を凝視した。佐島も、そし て蛾々島も同様に覗き込む。 まず画面の左方に﹁荒﹂の字が浮かび上がる。次いで、﹁風﹂、 そして︱︱﹁寧﹂。この三文字の羅列。一文字一文字ではたいした 意味を持たないそれらの群れが、三位一体となってある一つの人間 の存在を示唆する。 ここにきて全てがつながった気がしてくる。ここにいる全ての人 間が息を呑んだ。 僕は携帯電話を握りつぶしそうになった。 ﹁なっ、なんて書いてあるの⋮⋮?﹂ 僕は無言で携帯の画面を突きつけた。 文面の内容はひどく簡潔で、﹁緑葉静絵は預かった。場所を指定 する。警察に連絡するな﹂とただそれだけが電子データとして送信 されていた。 ﹁そんな⋮⋮﹂ そうこう 佐島は手で顔を覆って、嗚咽を漏らした。 僕はのっそりと立ち上がった。 店を出ようとする。 ﹁ど、どこに行くンだよッ!﹂と倉皇たる蛾々島の声。 僕は振り返って言った。﹁ちょっとさ、添付されてたんだ。さっ きの脅迫じみた無機質な電子メール。それにはちょっとした画像が 添付されていたんだよ。それには縄で縛られた静絵、そして画面の 端にはその場所の地図が記されてあった。ごめんね。救急車を呼ぶ 267 こともできないんだ。下手に犯人が勘ぐるといけないから。ひょっ としたらすぐ近くにいるかもしれないし。偶々居合わせただけの蛾 々島には悪いけどさ、しばらくの間佐島のそばにいてやってくれな いかな。頼むよ﹂ ﹁ななっ、なんだよそれ? 意味分かンねぇーよッ! そもそも静 絵って誰だよっ! 答えろよ。おまえの女なんだろ? ⋮⋮おまえ の女なんじゃねぇーのかよッ!﹂ ﹁二人はここにいてくれ。俺は行くから﹂ ﹁ちょ、ちょっとッ! 緑葉君ッ!﹂ 後方から追いすがるような声が聞こえるが、それを無視して駆け 出した。むかむかした。胃が裏返ったみたいに気持ち悪い。ドライ バーで心臓を抉り出されたら、こんな風な気持ちになるんだろうな と思った。 ◆◆◆ 表示された場所までは佐島菓子店から約二キロほど先で、竹林の すぐそばにあった。こじんまりとした民家で、所々塗装が剥がれ落 ちている。とても人が住んでいるようには思えない家屋だった。表 札の跡があることから、以前は誰かが住み暮らしていたのだろう。 近くに人気はなく、閑散としている。 それゆえに監禁場所としては実に適しているところだと思われた。 縛られた静絵がプリントされている画像の背景には、竹林があっ た。角度や方角から鑑みるに、家の裏側なのだろう。僕ははやる心 を抑えてゆっくりと裏手に回ろうとした。さっきまでずっと全力疾 走だったからか、心臓がうるさい。犯人に聞こえてしまいそうで怖 268 くなる。 極度の緊張からか、ひどく喉が渇く。壁に手をつけて忍び足で回 りこむ。そぉーっと息を殺して、存在を殺して。 白い漆喰の壁には、はめ殺しの窓が設置してあった。通風には不 向きなつくりで、ほこりっぽい夕日を採光している。 僕は屈みこみ、下から室内をのぞき見ようとする。鉄格子がはめ られていて見づらい。目を凝らして内部をうかがう。 部屋の造りはまるで堅牢な独房のようだった。豆電球のようなも のが屋上から垂れ下がっており、弱々しく明滅を繰り返している。 鉛色の壁。床には織り目の粗いむしろが敷かれてあった。そしてそ の上には、縄で両手を縛られた少女︱︱。 僕はその少女が誰であるか瞬時に分かった。 ﹁静絵⋮⋮﹂ 僕は奥歯が砕けんばかりに歯を噛み締め、拳を握り締めた。猛烈 な殺意が湧いた。犯人が︱︱荒風寧のことが、心の底から憎いと思 った。 どうやら静絵は気を失っているらしく、むしろに倒れ臥している。 声も届かないだろう。それに大声を上げたら寧が駆けつけてくる可 能性もあった。愛憎に狂った彼女が静絵に何をしでかすか⋮⋮不安 で不安で下手に動くことができなかった。そんな歯がゆい状況。 と。 僕が扉のほうに視線を向けようと思った矢先、まったく想定外の ものが視界に入り込んでくる。一瞬、頭が真っ白になった。 むき出しの冷たい鉄の床に縛られて横たわっているのは、まごう ことなきあいつだった。 269 第四十六話 兄︵34︶ きっとそのときの僕の顔は、ひどく間抜けたなものだっただろう。 道を歩いていて、いきなり見知らぬ誰かに殴られたかのような感覚。 痛みや怒りよりもまず、首を傾げたくなるような困惑が先行する。 意表をつかれたって感じだ。 そいつは両手両足を後ろに縛られ、仰向けにうつぶせている。放 射線状にその美しい髪が伸び、セロハンテープのように薄い皮膚は 血の気が通っていない。その様相はなんとも扇情的で淫猥で、場違 いな妖艶さをはらんでいた。インモラルな想像を駆り立ててくる。 肌の毛がぞわりと逆立ち、倫理観に抵触するような背徳感すら見る ものに抱かせるんだ。 そいつは︱︱彼女は︱︱冷たい牢の中にいる︱︱てっきり犯人だ と思っていた︱︱は、間違いなく。 間違いなく、荒風寧その人だった。 不可解。明らかに不可解。予想が外れた、とでも言えばいいのだ ろうか。盲点をついてくる。てっきり静絵をかどわかしたのは寧だ と思っていた。情欲に絡めとられた突発的な奇行。そう解釈してい た。しかし、前景から察するに、その解釈は間違っている⋮⋮? なら犯人が寧ではないとしたら、一体誰なのか。奇妙。僕は奇妙極 まりない光景に遭遇している。 沈思黙考。 糸を張り詰めたような緊張、そしてあふれてくる疑問の渦に呑ま れそうになった。答えのない設問。謎が突如として出現する。一刻 も早い救出が急務だというのに、湧出する違和感が行動をためらわ せるんだ。 物音がした。 草を踏みしめるような音。後ろからだ。聞こえてくる。風のざわ めきに混じって過敏になった聴覚がそれを拾う。 270 振り向いた。 索漠とした一陣の風だ。土のすえたようなにおい。大気の流れが 近づいてくる何かを知らせている。狼のように獰猛な気をまとった それは、着実にこちらに肉薄してくる。 一筋の汗が額をつたうが、緊張でぬぐうことができないでいる。 口がカラカラと渇き、息苦しさで生唾を呑みこんだ。 二メートルほど先に、透徹とした目を持つ一人の人間がいる。歩 くのをやめ、一心に僕を見つめている。 黒縁のメガネはふくろうのような知性をたたえ、すらりと伸びた 背筋はヒョウのような俊敏さを秘し隠している。強烈な存在感。野 鳥がおびえるようにばさばさと竹林の上を飛び立った。 そしてやつは、世界を俯瞰するような無感動な目で、なんてこと ないように僕を睥睨するんだ。 ﹁ついぞ、修羅にいたる﹂ やつはいった。 腹の底から響くような重たい声だった。 ああ、なるほどと、ふいに理解した。そういうことか。そういう ことだったのか、と胸にすとんと落ちる。得心したんだ。この状況 を作り出した張本人が誰であるかが、何の説明もなく確信できた。 それでも、どこか違和感があった。そいつはそんなくだらないこ とをするような人間ではなかったし、第一似合わない。そいつのキ ャラに符合しない。先般のごとき浅ましい情を抱くような、そんな 浅薄な人間ではないのだ。 なのに。 なのに⋮⋮。 なんで。 ﹁おまえ﹂ かすれた声が僕の口から漏れ出る。まるでガスのようだった。言 葉はすぐに雲散霧消した。 そいつは猫が首をもたげるように、そのキレイに澄んだ両の目を 271 僕に定めた。間然なく配置された目や口や鼻や耳。精巧に作られた 人形を思わせる造詣の顔。きっと粘土をこねたのだろう。聖なる神 がじきじきに粘土をこね、創生した。 そんな美しい口が、やにわに笑みの形になる。やつは高らかに哄 笑するように、唇をゆがめた。﹁それほど、実の妹が大事だと、み える﹂ そして藤宮詠太郎は、背中に手を回すように、腰部に手を当てた。 ◆◆◆ ﹁なんだよ、そうなのかよ。やってくれるな、藤宮。俺は自分史最 大の衝撃を受けている最中だぜ﹂まるで悲鳴のように発散される声 は、蚊の鳴くようにか細いものだった。とても自分の声とは思えな い。 藤宮詠太郎はその様子を、静かに眺めている。﹁緑葉よ﹂ ﹁んだよ。俺に声かけんな。俺は今ッ、怒りではらわたが煮えくり 返りそうなんだからな﹂ ﹁怒りで我を、忘れるものではない﹂ 僕は冗漫な藤宮の物言いにイライラした。﹁本当、イライラする 口調だな。間伸びしてて、聞いてるこっちが眠くなる﹂ ﹁おまえは怒ると、とたんに饒舌になる癖があるな。人間らしくて、 俺は好きだぞ﹂気持ち悪いことを言うな、と思った。男に好きって つづ いわれて嬉しがる男がいるかよ。﹁本邦のイザナギ・イザナミも、 西洋のアダムとイブも、人の原初を綴る神話は往々にして、兄妹婚 を初めとするからな。そういう意味でも、おまえは人間らしい﹂ ﹁⋮⋮おい﹂自然、怒気が言葉に混ざる。﹁それ以上言ったら殴る 272 ぞ﹂ ﹁おまえも、修羅道に落ちたか﹂ 藤宮は意味深なことを言った。 茫漠とした空気が漂う。互いが互いを牽制するような雰囲気だ。 どうこういきょく のんびりとは振舞っている藤宮だが、視線は油断なく僕を見ている。 ﹁同工異曲の、悪しき忌みものをともに、はらんでいるらしいな﹂ ﹁忌みもの?﹂ ﹁業なのだよ﹂と藤宮はやはり意味深なことを述べる。﹁おまえは 兄妹の枷を解くことができず、俺は淫蕩の咎を受けねばならないの だ﹂ ﹁枷と、咎か﹂ ﹁しかり。俺たちは、忌むべき宿業を背負っている。違うか?﹂ 僕は黙したままだった。 ﹁いや、みなまでいうまい。いわずもがなでもある。安心しろ。俺 はおまえを糾弾するつもりも、指弾するつもりも、ない。ただ﹂ ﹁ただ⋮⋮?﹂ ﹁貴様の妹は、俺が貰い受ける﹂ ﹁それは相談か?﹂ ﹁命令だ﹂ ﹁貰い受けるとか、静絵を物みたいに扱うな﹂ ﹁女は、物だ。男の所有物﹂ ﹁ずいぶんと前時代的なことを言うんだな﹂ ﹁時代が下っても、変わることのない事実が、世の中にはある﹂ ﹁時代の変動を肌で感じ取れないんだな。事実や常識は常に変化す ちぎ るってのに﹂ ﹁近親と契ろうとした、おまえが言うか﹂ ﹁ほざけ﹂ ﹁常識に囚われるのが俺の性だとしたら、おまえは常識を破る不届 きものだな。吐き気がする﹂ ﹁女をさらって監禁する犯罪者に言われたくないね﹂ 273 ﹁貴様の妹をさらったのは、俺ではないぞ﹂ 僕はにわかに周章した。﹁なら、誰だってんだよ﹂ ﹁荒風よ﹂藤宮は一口に言った。﹁貴様の妹は荒風がかどわかした﹂ 藤宮はさらにもう一言、付け加えた。﹁そして俺が、漁夫の利を得 た﹂ ﹁誘拐犯をさらに誘拐したってことか﹂ ﹁察しがいいな﹂ ﹁勘だけが取り柄でね﹂ ﹁されど、おまえも罪深い男だな。必死におまえの気を引こうした、 荒風がかわいそうだよ。たとえそれが、弾劾すべき犯罪行為であっ てもな﹂ 僕は藤宮の話を聞いて、徐々に状況が呑み込めてきた。 これは僕の推測でしかないがおそらく、佐島菓子店にいる静絵を かどわかしたのは荒風寧だ。そのさい邪魔してきた佐島月子を黙ら せ、この場所に静絵を監禁した。そして僕の携帯に連絡して、前み たいに僕とヨリを戻すつもりだったのだろう。静絵を人質にとって。 しかし、そこで静絵を狙う人物がもう一人いた。藤宮詠太郎だ。 静絵を誘拐する寧を見取った藤宮は、誘拐犯の寧を昏倒せしめ、静 絵と同じように縄を打ったのだ。二重の誘拐。ストーカーをさらに ストーキングするかのような、恐るべき狂態。藤宮は労せず獲物を 得ることができた。そして、網を張ったのだ。携帯に受信された寧 こうじ からのメール。あれを打ったのはおそらく、寧ではなく藤宮だった のだろう。静絵と言う好餌をまき、僕を待ち伏せた⋮⋮。 ﹁概要は理解できた。でも妙だな。なんでおまえ、俺の妹が欲しい んだよ﹂それは暗に、おまえには佐島がいるだろ、ということをほ のめかしている。 一方の藤宮はというと、おかしくてたまらないと言った表情をす る。やつもこんな顔をするのかと、僕は驚きを隠せないでいる。僕 の脳裏に感情の乏しい藤宮の顔が去来するが、今の藤宮はまるで、 獲物を前に牙を向く肉食獣のようなんだ。 274 ﹁そうだな⋮⋮さしずめ、一目ぼれというやつだろう﹂ 275 第四十七話 兄︵35︶ ﹁あ?﹂ 僕はなんだか、ひどく場違いな言葉を聞いた気がした。 ﹁彼女と初めて顔をあわせたのは、月子の店だったな。そこで出会 った。一目見ただけで、心も、魂も、奪われた﹂と藤宮はおかしそ うに笑った。﹁人とはどうも、ままならぬものだな。俺には月子と いうよくできた女がいるというのに、別の女に目移りしてしまった。 不覚であったよ。よもや、俺が、ここまで思いつめたことをすると はな﹂ ﹁ようするに二股ってわけね﹂ ﹁無粋な言い方だが、的は射ている。俺も罪な男だ。月子に立つ瀬 がない。だが、後悔もしていない﹂ ﹁佐島を裏切るってことかよ﹂ ﹁だからこその修羅道﹂ 藤宮は強い語調で言った。 ﹁俺は、大切なものを自ら裏切った、人でなしだ。自分の欲望に素 直に従う、四つ足の畜生だ。だからこそ、俺は修羅道に落ちて、闘 争の化身たる修羅にならねばなるまい﹂ ﹁その先に未来はあるのかよ﹂ ﹁貴様こそ、彼女に妹以上の感情を抱いているのだろう? ある意 味、俺よりおぞましく、また未来もないだろう。そんな道を自ら選 んだおまえが、俺には理解できん﹂ ﹁俺もおまえが理解できない﹂ ﹁互いが互いを、異端視する。ひどく滑稽だな。互いが理解できな いから、俗世は戦いがなくならんのだ。その本質は変わらん、とい うのに。両者ともに、異端。俺も、おまえも。同じ修羅道だ﹂ ﹁それで、何で俺をここまでおびき寄せたんだよ。何か理由がある んだろ﹂ 276 ﹁道は一つしか通じていない、ということだ。それが修羅道であっ ても、その真理は変わらん。そして俺は、未来へと続く道をも、勝 ち取ろうと思っている。おまえと手合わせしてな﹂ こがたな 藤宮は腰のポケットに手を突っ込んだ。 僕は息を呑む。 取り出したのは、二本の小刀だった。 ﹁人類で一番最初の、闘争の火種は、得てして女だった。妻を巡る かんか 争い、その一言に集約される。歴史の裏には、常に女が絡んでいる。 そしてこれは、干戈を交える両者、そのどちらかの歴史の幕を閉じ る戦いでもある。つまり、俺はおまえと、往古より今へと連綿と続 く、崇高で醜悪な、そんな戦いをしたいと思っているのだよ﹂ 藤宮はナイフを放った。投手が正確に、捕手のグローブにボール を投げるように、僕の手に小刀が吸い込まれていく。 藤宮は、小刀を鞘から引き抜いた。陽光に刃が反射し、鋭い光芒 がふき出す。小刀を片手に刀身に見入る藤宮は、まるで一幅の絵画 のようだった。 ﹁しょせん、戦いは、痴情と怨恨の連鎖だ。明らかに、不毛と言わ ざるを得ない、営み。それでも人は、戦わずにはいられない。我を 通すため、自分の信念を貫くため、敵を殺すしかない。少なくとも 俺は、憎むべき敵を殺した後から、後悔したい。もちろん、戦いは 何も生まないと、知ったような口をきくやからもいる。だが、敵を 目の前にして刀を下ろすなんぞ、そんな無様なことは、したくない。 俺はその覚悟をしてきた。全てを背負う、覚悟。残されたものの恨 み、憎しみ、悲しみ、その全てを一身に受け入れる、気高き覚悟だ。 そして、戦いは常に、フェアでなければならない。殺すものと、殺 されるもの、両者に差異があってはならない。結局、本質は同一な のだからな。どちらが闘争極めて修羅となるか、ただそれだけの違 い。かばかりの、相違﹂ 僕は手のひらにある小刀を、ただただ眺めていることしかできな い。 277 ﹁抜け、緑葉千尋。戦わねば、明日はない。女のために、そして自 分のために、武器を取れ。その覚悟が、おまえに問われている。そ ほふ の手は、神に祈るためにあるのでは、断じてない。武器を握るため に、敵を屠るために、あるのだ﹂ 心がふるえる。 魂がふるえる。 僕は奇妙な興奮に包まれている。 心臓が早鐘のようなリズムを刻んでいる。 僕は柄を握り、すうーっと刃を引き抜いた。 ふぐたいてん 眼前に、妖しい光を放つ白刃があらわれる。僕はその輝きに目を 奪われた。 ﹁そう、それでいい。それでこそ、我が相手。不倶戴天の、宿敵。 一人の女をかけて、いざ、いざ、果たしあおう﹂ 藤宮は体の重心を落とし、雌伏して、小刀を腰のあたりに添える。 僕もゆるゆると中段の構えを取った。 烈々たる緊張の糸が張られた。身動きが取れない。胸の奥が痛い。 風が舞った。 僕はふいに、笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。バカ げたことだ。江戸時代じゃないんだから、真剣同士で果たしあうな んて、滑稽極まりない。でも、なされている。互いの命脈を賭けた、 文字通りの真剣勝負が今、繰り広げられようとしている。そして、 僕はその当事者なのだ。これを笑わずしてどうすればいい? もう、 やるしかないだろう。決着をつけるしか、ないだろう。 ﹁俺さ、おまえのこと、結構好きだったと思うよ。多分だけどさ﹂ ﹁そうか﹂ ﹁この戦いを止めることはできないのか?﹂ ﹁今になって、無粋なことを言う。言葉で語り合ったところで、益 もないのだ。しからば、剣と拳で、語り合うしかあるまい﹂ ﹁分かったよ、藤宮。おまえの想いは分かった。だから、もう、俺 は、座して死を待つことだけは、しないつもりだ﹂ 278 手汗のひどい手で小刀を掴む。柄が汗で滑ってしまいそうになっ て、これから訪れる戦いに恐怖しそうになって、藤宮の冷酷な視線 に意志がくじけそうになって、どうにもならなくなる。けど、僕は あえて、一歩前に出た。 前に出て、最後の言葉を。 ﹁静絵は、渡さない﹂ ﹁笑止﹂ 藤宮は走り出した。 ◆◆◆ じりじりと焦げたものが、心底から湧き出てきた。それはきっと、 焦燥とか戦慄とか言われるものだった。僕は紛れもなく、眼前の強 敵を畏怖していた。 藤宮は躊躇することなく、僕の懐に飛び込んできた。猛烈な足裁 き。僕は薄氷を踏むような心持ちで体を横にそらし、その一撃を回 避した。顔すれすれに刃が一過する。その後、横に倒れる勢いを殺 すことができず、僕は無様に横転した。足をひねったらしく、受身 が取れないでいる。 地面に叩きつけられた僕は、一瞬の間、冷え冷えと僕を見下ろす 藤宮と目が合う。赤黒い空を後ろに抱え、藤宮は硬い意志を宿らせ た目で、僕を射抜くのだ。 そして藤宮は、小刀を逆手に持ち替えた。 振り下ろすつもりだ。 僕は地面を寝転がった。その横を再度、通り抜ける刃。 雑草が服に絡み、木の枝がチクチクと肌を刺す。僕は片膝を立て 279 て立ち上がり、ぱっと飛びしさった。 早くも息が乱れているのが分かった。肩で呼吸をしている。過度 の緊張と不安で、石になったみたいに体が動かない。足がすくんで いる。 地面に突き刺さった小刀を引っこ抜いた藤宮は、平素変わらぬ冷 静さで、命のやり取りをしているにもかかわらず、呼吸は落ち着い ている。泰然自若と構えている。そんな藤宮が、なおのこと怖い。 両手を交差させている。小刀を持った右手。それを左手の上に重 ね、右足を引いている。そして右手は美しい半円を描き、そして手 首を曲げ、静かに突き出した。 その動きは舞いにも似ていた。戦闘舞踊曲。藤宮はまるで、僕に 向けての葬送曲を作曲しているかのように、流麗な体の動きを見せ た。 頬に触れてみると、血が流れているのが分かった。 僕の脳裏に、刀で切り刻まれる自分のヴィジョンが映じられる。 小刀を取り落としそうになる僕がいる。 その様子を感得したかのように、藤宮は静かに唇をたゆませた。 笑っているようだった。﹁まるで、生まれたばかりの、小鹿のよう であるぞ。足が、ふるえている﹂ それは意図して見ないようにしていたことだった。 僕は藤宮を無視するように、沈黙を守る。揺れた心を落ち着かせ ようとして、痛いくらいにぎゅっと柄を掴みしめた。 ﹁さあらば、よ。勝負にすでに、決したのであろうな﹂ 藤宮は着実に一歩、また一歩と、距離を縮めてくる。そうするた びに死との距離が近づいていくようで、のどに手を突っ込まれたみ たいな息苦しさ。 僕はとっさに、藤宮に合わせて一歩下がろうとした︱︱がそうで はなく、むしろ前進の一歩を進もうと悲壮な覚悟を決めようと思う も、逆に。 逆に。 280 僕は円を描くようにすり足で移動する。横だ。前でも後ろでもな い、横だ。僕はゆるやかな弧を描こうとする。 ﹁ふむ﹂ 僕の行動に眉をひそめる藤宮。だがしかし、やつは前進をやめる ことはない。 結果として、僕と藤宮との位置は、やや斜めに推移していく。 そして、ある一定の距離で、藤宮の動きが止まる。止めて、僕と 同じように円状に足を滑らせた。そうして、一昔前の時代劇のよう に、剣を片手に互いを伺うような場が形成された。 僕は後ろに竹林を背負った。半周したのだ。 胃がきりきりと痛むような緊張が、ますます高まっていくのが分 かる。対峙して、かれこれ五分。決着はついていない。僕のほうが 劣勢って感じだ。 ふっと、小刀を握る力を緩める。左足を引いて、身をよじらせた。 刃は、まっすぐ藤宮のほうを向いている。 そして。 ﹁いくぜ⋮⋮﹂ ﹁しからば﹂ 藤宮もまた、腰部に小刀を当て、姿勢を低くした。 僕は。 僕は、藤宮に背中を向けて、竹林の中に逃走した。 281 第四十八話 兄︵36︶ 網膜に焼きつくものは、あっけにとられたように口を開ける藤宮 ま の顔だった。横目でそれを視認した。 鬱蒼と茂っている。夕空を摩する竹。その中を、竹を避けて走る。 全力疾走だ。自らの影を引き離してしまうかのように、息も切れ切 れに疾駆する。 ﹁それはないだろう﹂ 僕の荒い呼吸と軌を一にして、声と足音が重なってくる。動揺す るような、困惑するような、憤慨するような声だった。まるで猟犬 のように追ってくる。 走っている。 いりあい 暗い暗い竹林の中を走っている。鮮烈な夕空はやがて、漆黒にぬ りつぶされんとする夜空に変わろうとしている。入相の刻。獣の体 臭のようなぬるい夜気が足元から忍び寄ってくる。滝のように流れ る汗が下着にべったりと張り付いて気持ち悪かった。 逃げているうちに、足音が強くなっていくのが分かった。草や折 れた竹を踏みしめる音だ。近づいてくる。 ﹁どこだ、緑葉ッ!﹂ 立ち止まった藤宮は、油断なく周囲を見渡した。目を凝らしてい る。しかし、僕を見つけられないらしく、隙のないそぶりで小刀を 脇に構えていた。 皮膚に汗がにじむ。腐食した雑草のにおいに満ちた竹やぶで、じ つと息をこらす。 数メートル先には、藤宮がいる。 顔を土にほぼ密着させ、機会をうかがっていた。虫のすだきと野 鳥の鳴き声。くすんだ土にムカデが這っている。生理的に受け付け ないねじねじした動きをしているんだ。僕は節足動物が苦手なのだ。 ついつい悲鳴を上げたくなるが、口を閉じて悲鳴を封じ込めた。 282 汗が一滴、雨のように青葉の上に落ちる。 会話もなく、声もない、森閑とした静寂があたりを包んだ。 だっ、と足をバネのようにして、斜め前方に飛び跳ねた。僕の跳 躍に気付いて、視線を動かす藤宮。僕は密集する竹の一群に身を潜 めようとする。しかし、藤宮がそれを逃がすはずもなく、肉薄して きた。 万般がスローモーションのように緩やかになり、時が飴のように ひが 伸び縮みして、体感時間がグニャグニャに歪曲する。どれを持って 時間を、彼我を区切ればいいのか、その手段を失する。 転瞬。 ﹁取ったッ!﹂ 小刀をしならせ、会心の一声を上げる藤宮。柄にもなく声を大に している。 しかし、斬ったのは、投げ出された小刀。 藤宮は、地面に落下しようとする小刀を見て、一瞬の間、思考を 断絶させた。 藤宮は反射的に、飛び出してきたものを斬ろうとして、小刀を振 るったのだ。飛び出してきたものとはすなわち、僕がおとりとして 放った小刀だった。 ﹁取ったッ!﹂ 僕は、ただ佇立する藤宮の背後に回り込み、がら空きの後頭部に 拳を叩き込んだ︱︱。 ◆◆◆ ﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂ 283 どさっと倒れる藤宮を前に、気息奄々︵きそくえんえん︶の呼吸 を整えようと、胸に手を当てた。 万感の思いで藤宮を見る。 藤宮は物言わぬ死体のように、地面に倒れ臥している。 その様子を見て無性に泣きたくなって、哀れにも感じ、同時に藤 宮に対する敬意すら抱く。罠をかけてすまない、とも思う。僕は黙 祷をささげるように、こうべを垂れた。 一人の女のために行われた静かな戦いは、沈黙とともにその幕を 閉じることとなった。 僕はきびすを返した。名残惜しい気もして、一度だけ振り返って、 でも竹林を駆け出す。一刻も早く、静絵を助けたいと思った。縄を 切るために、小刀を回収することを忘れない。 竹林を抜け、例の監獄にまでたどり着く。四角い壁を回りこんで、 扉らしきところの前に立った。 呼吸を整え、ドアノブを握る。開いた。ぎぃーっと言う開閉音と ともに、腐朽した鉄のにおいが鼻についた。 四方をすすけた壁で取り囲まれた房。そこには拘束された二人の 少女がいる。 僕はまず、荒風寧に近寄った。彼女は汚らしい床の上でえびのよ うに体を反らしていた。荒縄できつく縛ってあるからだろう。無理 な姿勢で放置されていた。 その姿に一抹の憐憫を覚えるも、救おうとは思わなかった。もは や、そんな悠長なことを言っている場合ではないのだ。少なくとも、 静絵をかどわかしたことに変わりはない。僕は他人を許せるほど大 人ではないようだ。 そして、その先には⋮⋮一人の少女。 むしろの上で丁寧に寝かされている彼女の、規則正しい胸の鼓動。 胸のおくからこみ上げてくるものがあって、目が熱くなって、ど うしようもない。この感情を形容できる言葉を、僕は持ち合わせて いない。だから、僕はそれを行動で表そう。 284 柄に親指を添え、縄に小刀をあてる。徐々に切れていく縄。はや る気持ちを抑えて、慎重に切断した。 姫を縛る縄はほどかれた。 ﹁⋮⋮静絵﹂ 彼女を抱きかかえ、呼びかけてみる。 ﹁⋮⋮静絵﹂ その声が彼女の心を溶かしてくれることを祈り、その体のこわば りが解けることを念じ、その想いを熱くたぎらせてくれることを願 う。 僕はもう、楽園の果実をもぐことをもいとわない。イバラの道な んだ。急峻で険しい道のり。でも、二人なら、二人でなら、乗り越 えられるような気がした。むしろ、乗り越えて見せようと思う。そ の先にある景色を二人で見てみたい。 だから、彼女の美しい笑顔と、淡くつぶやかれた僕の名を聞いた とき、僕は静かに彼女を強く抱きしめる。次いで、彼女の手がゆっ くりと、伸びる。その両の手は僕の首に絡みつき、そっと僕の胸に 顔をうずめた。 彼女の頬は涙に濡れていた。 そっと顔が近づいてくる。朱に潮した唇が、その距離を縮めてい く。おそらくそれは無意識の産物で、ただ本能の命ずるがままに体 を動かしているように見えた。ぼんやりと潤んだ瞳が、あふれんば かりの恋情を訴えているようで、心臓がバクバク脈動して、頭が真 っ白になる。 そして⋮⋮。 暗く冷たい壁に囲まれた密室、狂おしい熱気が蒸れこもる獣の檻 の中で、僕と静絵との距離は完全に︱︱ゼロになった。 285 第四十九話 兄︵37︶ 白を基調とした廊下だった。ちり一つない床。時折ナース服を着 た女性が忙しそうに往来する。 僕は過ぎ去っていく看護師さんをわき目に、病院の長い廊下を歩 いていた。 目的の病室を受付の人に教えてもらったが、どうやら迷ってしま ったらしかった。思った以上に部屋や廊下が入り組んでいて、何度 か足を止めてしまうことがあった。 結局、十五分近く院内を放浪して、目的地にまでたどり着くこと ができた。 扉は開け放たれてある。だから、遠慮することなく、入室した。 病室もやはり、清潔な白を基準にした部屋だった。四人部屋で、 わと 白いカーテンで各々区切られている。 その右手前、上体を起こしたまま和綴じの本を読んでいる、やつ がいる。 そいつは僕に気づいたらしく、ふっと笑ってみせた。口角をゆが め、冷涼な笑みを浮かべる。 ベットの脇に、イスが置いてあって、少女が座っている。その少 女はベットに顔をうずめ、昏々と寝入っていた。頬には涙がつたっ ていて、その姿は美しい乙女を連想させた。 ﹁結局、女泣かせなのは、おまえも一緒じゃないか﹂とついつい、 口が出てしまう。 藤宮詠太郎は何も言わず、ただ佐島月子の髪をなでた。その様子 はどこかしら、慈愛を感じさせる手つきだった。顔も柔和に落ち着 き、雰囲気も穏やかなものだった。 ﹁何しに、来たのだ﹂ ﹁様子を見にきたんだ。おまえと、佐島を、さ﹂ 藤宮は苦笑したようだった。 286 あの事件の後、一時的に錯乱状態にあった藤宮は、後頭部の怪我 も相まって、短期間の入院が決定した。その折、その付き添いとし て佐島月子が志願した。 佐島はなぜ、藤宮が入院しなければならないのか、その理由を知 らない。ただ漠然と、その想いを推察するのみだ。 簡単に言ってしまえば、藤宮は佐島を裏切って、別の女に鞍替え しようとしていたということになる。許されない行為だ。でも、当 の被害者は詳しくそれを知らなくて、事態はもやに包まれている。 というのも、それは僕が望んだことだった。藤宮の裏切りを知れば、 佐島は深く傷つくだろう。静絵の誘拐も、ただの通り魔がした犯行 だと虚偽の説明をした。佐島を殴ったのも、その悪辣な犯罪者がし たって。 そして藤宮も、けなげな看病をしてくれる彼女に、少なからず心 を傾けているようだった。佐島を見る目つきは深い愛にあふれてい るように見えた。藤宮も、自分に向けられた愛情に、いまさら気付 いたのかもしれない。そして、かつて別の女に向けられた恋情が、 ただの錯覚だと思うようになったのかもしれない。急速に燃え上が った火が急激にしぼむように、その恋心が沈んでいったのかもしれ ない。 どれもが嘘に塗り固められていて、身勝手な虚妄に包まれている。 まてんろう 自分本位。かりそめの結末に決を与えて、取り繕うだけだ。今にも 瓦解してしまいそうな砂上の楼閣。その上に僕は、天を貫く摩天楼 を築くつもりだった。 ﹁元気か﹂ ﹁おかげで、この通りな。貴様にやられた傷も、もうすぐで、完治 する﹂ ﹁それは皮肉かい?﹂ ﹁よもや、貴様に不覚を取られるとはな﹂ ﹁正々堂々不意打ちするのが、俺のモットーだからな﹂ ﹁そうか﹂ 287 藤宮はおかしそうに笑った。 開かれた窓から海風が吹いてきた。この病院は海に近く、潮の混 じった風が鼻腔を刺激するんだ。僕はこのにおいが嫌いじゃない。 なんだか懐かしい気分にさせてくれるんだ。これも母なる海ってや つだろう。 ﹁気付いたよ﹂ 藤宮はふいに、静かな声を出した。 ﹁俺が貴様の妹に惚れたのは、危ういからだ。危うく脆く、弱く、 はかない。だからこそッ⋮⋮! だからこそッ、俺はああまで惹か れたのだ。定期的に補給される愛に飽き、まだ見ぬ何かに、踏み込 んで見たいと思った。ふふ⋮⋮ひどい男だな、俺は。大切なものを、 忘れていた﹂ だが、と藤宮は短く鋭い声を出す。 ﹁だが、同時に、熱湯のようにたぎった、あの想いを忘れることも また、できん。相克する。その螺旋の中に、俺はいる﹂ 男の恋愛は、名前を付けて保存だといわれる。それぞれの女との 恋愛を、名前を付けて胸の奥にしまう。交際相手ができるたびに上 書き保存する女とは違い、男は弱く、愚かで、過去を引きずる。螺 旋の中でぐずぐずとぐずる。 ﹁それで、おまえはどうするんだ?﹂ ﹁知ったことか﹂ と。 藤宮は。 ﹁いちいち、これからのことを確約できるほど、俺は万能ではない。 その時その時、その場その場の気分で、決める。悪いか﹂ ﹁悪いとは言ってないさ﹂そのあっさりした物言いに、たまらなく 笑いたくなった。﹁そうだよなぁ。逐一自分の未来を規定すること なんて、誰にもできないもんな﹂ ﹁少なくとも、言えることはあるぞ﹂ ﹁なんだよ﹂ 288 ﹁熱が再発すれば、またおまえに決闘を挑むことがあるやも知れぬ、 ということだ﹂ ﹁はは、勘弁してくれよ﹂僕は再度、藤宮と戦って勝てる気がしな い。 ﹁ま、気が変われば、だが﹂ 藤宮は、佐島の手をぎゅっと握って、眠るように目を閉じた。 潮時かな⋮⋮。 僕は黙って、病室をあとにした。リノリウムの床は硬質で、足音 が響く。 壁に背を預け、ふと、﹁多分、やつの気が変わることは、二度と ないんだろうな﹂と心のどこかで思う。 289 第五十話 兄︵38︶ 廊下にすえつけられたベンチに、一人の少女が座っているのを発 見したとき、僕の胸は奇妙にざわめいた。 そいつはサラサラの髪を肩までつからせ、今様な洒落た服を着て いた。唇にはうっすら品のいいルージュを塗っており、匂い立つよ うな艶麗さを漂わせている。 ﹁よぉ﹂とそいつは陽気に手を挙げて、僕に声をかけてきた。いつ もと変わらぬ気軽な挨拶だ。身構えていた僕は、少し気が楽になる のを感じた。 ﹁なんでさ、なんでおまえがここにいるんだよ﹂ ﹁いて、悪いかよ﹂蛾々島杏奈は子供のようにほおを膨らませてみ せた。﹁オレも一応、あの場に立ち会ってるからな。ほら、佐島と 藤宮⋮⋮怪我、どうなんだ?﹂とそっと伺うようにつぶやく。 その様子がなんともかわいらしく、純真に映ったものだから、知 らず知らずのうちに笑みを浮かべている自分がいる。蛾々島も案外、 普通の人間と大差ないのだと思った。普通に他人の心配をし、気に かける。突飛な口調も奇抜な発想も、その根っこはただの善良な人 柄なのだろう。 蛾々島もやはり、真実の詳細は知らない。やっぱり通り魔的犯行 に僕の妹や佐島が巻き込まれ、そして藤宮すらも巻き込まれたと概 説したに過ぎない。深い真相を知る必要はないと思ったから。藤宮 も僕の言動を黙認している節があった。藤宮もやはり、自分の行動 が身勝手であることを理解していたのだろう。 ﹁オレも関係者だろ。だからッ、魔王御自ら来てやったってことだ ぜ﹂ ﹁それは光栄至極ってやつだよ﹂僕は相槌を打った。﹁それで、病 室には入らないのか?﹂ すると、蛾々島は気まずく視線をそらした。﹁いや、なぁ⋮⋮﹂ 290 ﹁⋮⋮視線が泳いでる﹂ ﹁ッンだよ、うるせェな!﹂ ﹁別にやつらはいちゃいちゃなんかしてなかったよ。入りたきゃ普 通に入ればいいのに﹂ ﹁でもほらっ、その⋮⋮してる最中に乱入するのは、野暮だろ? オレはそういうことにもきちんと配慮できる、分別ある人間なんだ よ﹂ 蛾々島は困ったように顔を赤くした。 意外にうぶなやつだなと、僕まで影響されて顔が熱くなった。 妙な沈黙が数秒間、流れた。時折カツカツと靴音がして、それだ けだ。 ﹁おまえはさ﹂蛾々島は、ふいをつくように、あるいはダムが決壊 したかのように、唐突に口を開いた。﹁そういや、荒風寧とは結局 どうなったんだよ?﹂ ﹁気になるか?﹂ ﹁だァ︱︱ッ! さっさと言いやがれッてんだッ! オレはッ、て めェにッ、良識ある回答を求めてるんだぜ︱︱ッ!﹂ 僕は荒風寧について思考を馳せる。 荒風寧。 そっと後ろに回って、縄を切って、それだけだ。 先般の房でのことだ。静絵を救出した僕は、荒縄で拘束された寧 じご と対峙していた。その後、縄に小刀をあて、滑らせた。切断。気絶 している寧を起こすこともなく、爾後、寧とは顔をあわせていない。 今何をしているのだろうかとは思うが、何をしているか知りたいと は、思わない。 私見を述べれば、あれを機に寧とのつながりは切れたのだと思う。 寧のほうからも音沙汰ない。断絶した。僕は心のどこかで、もう二 度と寧とは会えなくなってしまうような予感があった。 ﹁寧とはさ、なんにもないよ﹂ ﹁本当、なんだな?﹂蛾々島はやけに念を押してくる。僕の手を掴 291 んで、顔を近づけてきた。﹁本当、なんだな?﹂ ﹁なんだよ、執拗にくるな﹂ ﹁あのさッ!﹂ 蛾々島は真摯な目つきで睨むように僕を見つめている。何かを覚 悟したものの目つきだった。変な気迫があった。 ﹁好きなんだ﹂ すとん、とやけにあっさり、まるで水がスポンジに吸収されるみ たいに、胸に入ってくる。例えるなら、厳重に戸締りをしたのに、 泥棒をして簡単に突破されたかのような、そんな感じだ。えっ、そ うくるの? って僕は驚いている。 蛾々島は訴えかけるように僕の胸にすがった。上目遣いを向けて、 切々と僕と目を合わせようとする。 ﹁好きなんだッ! おまえがッ! ずっと前からッ! ずっと前か ら⋮⋮﹂ 蛾々島はぽろぽろと涙をこぼした。頬をつたる紅涙が彼女の想い の丈を表していた。蛾々島は僕のシャツをつかんで、うぅ⋮⋮と涙 交じりに嗚咽していた。 ﹁え⋮⋮おい、なんだよ。冗談だろ。そりゃ、たちの悪い冗談って やつだぜ、蛾々島⋮⋮なぁ﹂ 僕は予想外の展開にあっけに取られて、目をそむけてしまう。 ﹁こっち見ろ、バカやろう﹂ しかし、蛾々島に頬を挟まれ、強引に顔が向き合うようにされる。 蛾々島の真剣な瞳に気おされている僕がいる。 ﹁冗談なんかじゃ、ないんだよ。本当なんだ。おまえのことが好き なんだよぉ﹂ ﹁バカっ、そんな大声出すな﹂ ﹁化粧したのだって、おまえのためだ。おまえに女を感じて欲しい から、化粧をしたんだ。分かれよバカッ! 女が化粧する理由なん て、一個しかないだろッ! 好きな男に振り向いてもらうためだろ がッ! 違うかッ!﹂ 292 その勢威に押され、﹁違いません、です﹂と口が勝手に動く。ど うなんってんだよこれ。どうなってんだよこれ。僕の脳の演算速度 をはるかに上回るこの事態。 ﹁そうだろう、違わないだろがこのスカタンッ! だからッ! 察 しろよバカぁ﹂ うるうると目を潤ませて僕を見やる蛾々島は、楚々とした色気に 包まれている。くしゃとアルミホイルを丸めたような表情は、痛切 な情を物語っていた。 周囲からひそひそ声がしてくる。騒ぎを聞きつけた患者さんや看 護師さんたちが、物陰に隠れて僕たちを伺っていた。 恥ずかしい。 ﹁あー、もう。なんだよ、分かったッ! 分かったから、みんなが 見てるから、結構恥ずかしいから﹂ ﹁ンなもん関係あっかッ! そんなことよりもッ、イエスかノーか、 はいかいいえ、それだけを答えりゃいいんだよおまえはッ!﹂ ﹁いや、なんの二択だよッ!﹂ すると蛾々島はじれったいを言わんばかりに頭をかいた。﹁おま えは本当に頭が鈍いな。オレはおまえの頭が石で構成されているか どうか疑っている最中だぜ⋮⋮。ようするにな、オレと付き合えっ て言ってんだよぉ︱︱ッ!﹂ ﹁だばーッ!﹂ 僕は卒倒しそうになった。口から変な声が漏れた。心臓がバクバ クと脈を打ちまくっておいおいそんなに血を供給しなくていいんだ ぞ僕の心臓と叱責してやりたい気持ちになる。熱を帯びた血がグル グルと体の中を巡っているんだ。 僕はとんでもない二者択一を突きつけられたのだった。 予想だにしていなくて、唐突にぶつけられ想いにどう答えていい のかわからなくて、でもその答えはとうの昔に決まっていて、どう すればいいのか分からなくて。 分からないから、もう。 293 ﹁だぁ︱︱いきなりおまえは何を言ってんだッ! 好きだの嫌いだ の、予想外ッ! いきなりそんな恥ずかしいこと言うなぁ。おめー は花も恥らうおにゃのこだろーが﹂ ﹁なんだ。おまえ、気付いてなかったのかよ。百人斬りして血がべ ったりの日本刀よりもにぶいやつだな。ラブコメの難聴型主人公か よ、そんなのはやらねぇーゼ﹂ ﹁自分に向けられた好意には鈍感型主人公なんだよ﹂ ﹁ホントタチ悪ィ主人公だな。女の敵だぜ﹂といつものごとく軽口 を叩くけど、顔は泣きそうだった。 この胸に去来するのは、罪悪感と呼ばれるものか。けどさ、いま さら主人公の性格は変えられないから。人の人格なんて矯正不可能 なんだよ。でも、ごめんな、蛾々島。その想いには応えられないよ。 っていうかなんというハーレム。高校生になって、二人の女性に告 白された。一生に三度しかないもて期到来か? 逆に怖い。人の人 生は往々にして幸運の量が決まっているというが、もうとっくに使 い果たしてしまった感が異常。空の瓶を手で振るみたいに、すっか らかんになっちまったのかも。 それでも、まぁー、な。 蛾々島もさ、もしここで僕が君の告白を受け入れるような人間だ ったらイヤだろ。だって僕にはすでに好きな子がいるんだ。それに もかかわらず付き合ったりしたら、二股ってことだろう? 二股は ダメだよなぁ。二股が許されるのはかろうじて少女漫画くらいだろ うに。第一僕にはそんな度胸ないし、日本は一夫多妻制を採用して いないので。却下。つーか、ここは未開拓のアフリカじゃないんで。 放縦に過ぎる。 もし静絵を旧だとしたら、蛾々島が新だ。これは古女房とかいう 意味じゃないんであしからず。⋮⋮それで、もし蛾々島のほかに新 しい女性が現れたとする。それで僕がこの子︱︱新しい子に首った けになったら、僕は蛾々島を軽んじるだろう。新しいものを優遇し て、古いものを冷遇する。蛾々島を受け入れるってことはさ、静絵 294 を軽んじるってことと同義だからさ。いずれ蛾々島もおんなじ思い しなくちゃならないって思ったら、この告白を諾すべきでないこと は明瞭だろう? それだけにごめんな。ほんとごめん。 僕は言葉にすることができなくて、深々と頭を下げることしかで きない。きっかり九十度だ。氷河期な就職難にあくせくするアルバ イトの面接生でも、こんな分度器で図ったとしか思えないようなお 辞儀はできないだろ。前面に現れる謝意。視線はリノリウムの床に 固定。 ﹁うわーん、緑葉のッ、バカやろうッ!﹂ だから、彼女の拳が僕の頬を貫いても、何の文句も言えないのだ ろうと思う。 295 第五十一話 兄︵39︶ 蛾々島に渾身の一撃を食らった僕は、あまりの衝撃に尻を激しく 床に打ちつけ、尾てい骨を強打するという激痛に見舞われた。背骨 に電流が突き抜けたかのような悶絶だった。 蛾々島は、﹁ちくしょー﹂と手でごしごしと涙を拭きながら、一 目散に走り去っていった。ただ事ではない速度だった。そして、残 された僕のいたたまれなさ。周囲の視線が僕を責めるようにうごめ いている。被害妄想だろうか。でも、どこかからどぎつい舌打ちの でんぶ 音がするのは脳内だけの出来事ではないだろう。 打ち付けた臀部をさすりながら立ち上がる。にしても強烈な一撃 をかまされたと思う。女の子だと思って油断していた。⋮⋮ってい うか僕、メチャクチャ悪役よなぁ。女の子振っちゃったよ。すげー。 明日から蛾々島とどう振舞えばいいんだろう。友達やめよってな 感じになるんだろうか。ま、しょうがない流れだけどさ。僕はいつ でも友達やめる準備はできてるよ。少なくとも、僕が実の妹を好き だって知ったら、蛾々島に限らず同級生とか近隣住民たちとか、両 親とかに峻厳なる断交を申し渡されそうだ。だから、なるべく早く 縁が切れたほうがいいのかもしれない。そのほうが傷が浅くてすむ。 蛾々島だって、妹に欲情してる彼氏を持つことを回避できたんだか ら、将来的に言えばむしろいいことなのかもしれないしさ。あーあ、 言いわけに余念がねえー。 彼女の病室は、最北端の棟の三階にあった。今度はきちんと受付 のお姉さんに道筋を教えてもらい、迷うことなく、たどり着くこと ができた。 中庭を横切り、階段を登る。リノリウムの床。車椅子のおじさん に挨拶をして、目的の部屋へ。 コンコンとノックをし、﹁入るよ﹂といって、ドアノブをひねる。 病室には、長い髪を一つに束ねた静絵がいた。囚人服みたいな真 296 っ白な服を着ている。藤宮同様ベットで上体を起こし、ぼんやりと 窓の外の風景を眺めていた。 ベットの脇にはパイプいすが二つ用意されてあった。それぞれお 父さんとお母さんが座っている。お父さんは憮然とした表情で腕組 みをし、お母さんは甲斐甲斐しくリンゴの皮むきをしている。 病室にはくしくも、家族全員がそろうことになった。 静絵は片膝を立て、子猫のようにシーツの端を掴んでいる。時折 母さんが八等分したリンゴを静絵の口の前に差し出し、それをパク っと食べていた。親鳥に餌付けされる雛鳥みたいで面白い。 リンゴを食べ終わった静絵は、また視線を窓に定めた。 その様子をぼんやり眺めていると、﹁あら﹂と母さんが一驚を喫 した。入室したのが僕だと気づいて慌ててもう一人分のパイプいす を用意しようとする。 ﹁いや、俺の分は﹂と言外にいらないことを伝えて、ベットに接近 した。 そっと静絵の横顔を盗み見る。かわいかった。見慣れてるはずな んだけどなぁ。僕は斜めに傾いた横顔に、少しの間見ほれていた。 妹を見つめる兄ェ⋮⋮。今なら、おまえってマジ気持ち悪ィ性癖し てんなってみんなに糾弾されても、そうだよって満面の笑みを浮か べられる自信がある。僕ってつくづく変態になってしまったんだな って自分の堕落具合に驚愕する。こうなってしまったことに悔いは ないけどさ。 そして。 彼女は何気ない感じで首を曲げて僕を見つけると、一瞬驚いたよ うな表情をして、すぐに笑みを浮かべた。こんなこと、まったく予 想してなかったって感じの笑顔だ。 ﹁千尋﹂ 彼女は、緑葉静絵は、澄んだ発音で僕の名前を呼んだ。弱々しい 感じはするが、肌に血はしっかりと通っているようだった。栄養も きちんと取れているのだろう。看護師さんに加えて、きっとお母さ 297 んの看病が何よりも奏功したんだと思う。母さんは慈しむようにめ くれたシーツを下肢に被せてあげて、またリンゴの菓子をむき始め る。静絵も母の優しさに知らず知らずのうちに、弛緩した微笑で応 じていた。引きこもり少女とは思えないほど爽やかな笑顔だ。母の 力は偉大だね、とひとりごちる。 ﹁元気、だったか?﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 静絵は一転して、恥ずかしがるような、はにかむような笑みを浮 かべている。ぎゅっとシーツの上で拳を握った。頬がちょっと赤い。 それで僕と目が合うと、慌てて顔をうつむけた。照れてるのかな。 もしかしておまえ、あのときのこと覚えてんの? と思わず邪推 したくなるのはしかたないことだろう。母さんはほほえましそうに 見ているが、ある意味母親以上に静絵と接してきた僕には分かる。 静絵は困ってるんだ。自分の感情に当惑して、対処に四苦八苦して る。静絵の心境の動きが手に乗るように分かった。 僕はイジワルな気持ちになった。あれは無意識ゆえに行われたこ じんあい とだと思っていたけど、ひょっとしたら、意識はおぼろげながらあ ったのかもしれない。なんだよ、確信犯かよ。でもま、塵埃まみれ の納屋の中なんてロマンのかけらもなかったけど、おまえとキスで きてとても嬉しかった。 静絵はまぁ、元気そうだった。 それだけでもう十分って感じ。静絵が元気なら、もう、それで⋮ ⋮。 ﹁もう帰るの?﹂ 母さんが不思議そうに質問してくる。思ったよりあっさりしてた から疑問に思ったのだろう。交わした言葉もほんの少しだし。 ﹁帰る﹂ でもほら、世の中には以心伝心って言う素晴らしい四字熟語があ るじゃないか。言葉ではなく視線で、表情で、空気で、たっぷり会 話したから大丈夫。言葉と言う限界を超えた非言語的会話。人と人 298 は言葉の外で語り合い、理解し合える。だから、大丈夫。僕たちは もう、大丈夫だ。そうに違いない。 ﹁ばいばい﹂ きびすを返した僕は、ゆるゆると手を振って退散する。 染み渡る安堵と変な寂寥感に包まれて、僕は誰もいない廊下をゆ っくりと歩くことにする。 あー、リンゴもらっときゃよかったよ、と今になって後悔する。 299 第五十二話 兄︵40︶ あれから静絵の見舞いに赴くことはなかった。初回の一回きり。 あとは家でごろごろしていた。 時候は七月。学校は夏休みに突入している。 藤宮詠太郎都の一件があったのは七月の中旬でのことだった。そ れからすぐ夏休みとなった。だから、蛾々島や藤宮、佐島月子と縫 着したのは病院だけだった。荒風寧に至っては、あれ以来会ってい ない。今何をしていて、どういう状態になるのかすらもようとして 知れない。また、あまり会いたくもなかった。罪悪感に押しつぶさ れそうで。 母さんはあれからも隔日に病院に通って、静絵の容態を見ている ようだった。心配なのだろう。せっかく社会に復帰できそうだった 矢先にあんなことに巻き込まれては。 しかしながら、紆余曲折を経て緑葉家は収まるところに収まって いるように思えた。収束している。静絵も徐々に精神的に自立して いったようだから、一般倫理で言うところの“健全”な家族になれ しゅよう たのかもしれない。社会不適合者のいない建設的な家族。壊れた箇 所は修繕され、悪性の腫瘍は控除された。施術はすでに敢行されて いる。 それ以上の何を望むのか。 自室のベットに横臥して、ゆるゆるとそんなことを考えている。 窓から涼味を含んだ夏の風が入ってきて、室内に溜まった熱を流し てくれる。酷暑。エアコンが壊れた僕の部屋で、扇風機がせっせと 働いている。 天井のシミを数えていると、携帯電話が鳴った。アドレス帳がま っさらな僕の携帯には珍しい現象だ。多少の驚きを持って携帯を手 にとってみる。送信者は母だった。文面を読んでみるに、静江の退 院の迎えに行きなさい、との趣意だった。どうやら母さんはパート 300 の時間が重なったらしく、病院に行けないらしい。それで僕に、白 羽の矢が立った。 きっと母さんは僕が暇を持て余していると思ったのだろう。文面 から、﹁あんた暇でしょ﹂というのがにじみ出ていた。その通りだ った。部活をしているわけでもバイトをしているわけでもない学生 の夏休みは暇で暇でしょうがないのだ。家で怠惰に暮らしている。 それこそ青春の無駄使いのようで、でも無駄遣いってのは楽しいか らやめられないのであって、多分しょうがないんだと思う。先立っ て退院した藤宮と会うってのも味気ないしさ。どうせあいつらはあ いつらでイチャイチャしてるんだろうし。 そこに割ってはいるわけにも行かず、病院に出向くことにした。 バスに乗車して、病院を目指す。停車したバスから降り、玄関を抜 けた。静絵の病室は少し離れたところにある。 リノリウムの廊下を歩いていると、変な感慨にさらわれる。海を 漂う潅木になったかのような気分だった。なまじこの病院をよく知 らないだけに、さ。未知なる場所に足を踏み入れると、なんだか心 が精神の水の中を漂流するんだ。 病室はま、当然だが、静絵がいた。清潔な白の服を着ており、髪 は後ろに束ねてある。清楚ではかなげな雰囲気がそよそよと揺れて いた。 裾から出たおてては、今にも折れてしまいそうなほど細く、色白 い。 無言で入室した僕に気づいたらしく、静絵は視線を窓から僕に移 した。 ﹁よぉ﹂と僕は、それだけを言った。たたまれていたパイプイスを 立て、座る。 静絵はその様子を、静かに見つめていた。なぜ分かったかといえ ば、視線が僕に固定されているのが肌で分かったからだ。気配がこ ちらに向いている。それを皮膚が過敏に感じ取った。 ﹁お母さんは?﹂ 301 ﹁パート﹂ ﹁だから﹂ ﹁そういうことだよ﹂だから僕がここにいるんだ。 静絵はそれだけで伝わったらしく、﹁そっか﹂とただ、口角を緩 めた。艶麗な微笑を浮かべる。﹁嬉しいな﹂ ﹁何が、さ﹂ ﹁千尋が、来てくれるの﹂と静絵は顔をうつむける。 あの事件以来すっかり、恥ずかしがり屋になってしまったのだろ うか、と思った。初めの頃は静絵のほうから積極的に迫ってきたっ て言うのに。今となっては純情な乙女みたいになりやがって。かわ いいぞこら。 しい 静絵はおずおずと手を出してきた。僕の前に手を差し出す。 それだけで静絵の思惟が理解できるあたり、僕は自分が怖い。 そっと、にぎってやった。細くしなやかな指が僕のごつい指と絡 んだ。まるで綿飴にみたいに柔らかい。でも肉付きはしなやかだ。 程よい。手を握り合う。両手がつながった。 ﹁嬉しいな﹂と彼女は言った。﹁千尋と会えて、嬉しいな﹂ ﹁大げさだな﹂ ﹁だって、来てくれなかったから。初めの一回以来、一度も﹂ ﹁恥ずかしかったんだよ﹂ やく ﹁ん﹂と静絵は手を放して僕の背中に手を回してきた。きつく僕の 背を扼して、顔を僕の胸に押し付けてくる。 こわごわと静絵の肩に手を置いた。 ぽぉーっと潤んだ目を上目遣いに向けてくる。麻薬をやったばか りの患者のように、トロンとした色合いだ。 すっぽりと静絵が僕の体に納まる。ごしごしと僕の薄いまな板に 頭をこすり付けてくるんだ。髪が振り乱れて、なんとも扇情的な光 景に映るのだった。これも兄ゆえの贔屓目なのか、今の静絵はめっ ちゃかわいく見えてしまう。兄ゆえ⋮⋮ってのも面妖な気もするけ ど。名状しがたい。 302 ﹁こらこら﹂ ﹁イヤ、離れたくない﹂ ﹁分かった分かった。ほら、よしよし。ずっとそばにいてあげるか らね﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ ﹁なんだよ、疑ってんのか﹂ 静絵は静々と首を振った。 ぎゅっと抱きしめられる。 そうして、ひさしぶりの再開は頬を寡言とし、ただ肌を触れ合わ せるだけとなる。 ◆◆◆ 病院の中庭。中央には噴水が設置しており、いくつかのベンチが 円状にすえつけられている。噴水を囲むみたいに、白い服を着た患 者さんたちがぼんやりと座っていた。 その中に、僕たちも混ざることにする。 ベンチに座って、千切れては流れる雲を目で追った。 隣には静絵がいて、肩を持たれかけさせている。両の目を閉じ、 昏々と眠っているかのようだった。 ﹁そういえば、話してなかったことがあった﹂ と。 僕は、これまで話していなかったあの事件について、話すことに した。主犯の藤宮のこと、犯人の寧のこと、佐島のこと⋮⋮。あり こさい のままに話す。乗せられて寧に告白したことも、全部。包み隠さず、 遺漏なく、巨細漏らさず、説明する。 303 それが彼女に対する義務のように思えて、今になって話さなけれ ばと思った。躊躇も逡巡も消えて、訥々と語りかけるように。なん とも、彼女に対する誠実を問われているような気がして、さ。病室 で抱き合って、突如そんなことを思った。 静絵は瞑目している。話を聞いているのかどうか、その表情では 読み取れない。でも、聞いているものとして、話を続けた。 まるで飴のように時間が流れる。話し終えると、どっと疲れが押 し寄せてきた。 ﹁静絵を騙してた。僕は寧と付き合うつもりだったんだけどね。荒 風寧って子と付き合うこととなった。それで、あんな事件に⋮⋮。 ごめんね。静絵がひどい目にあったのも、おれのせいなんだ。おれ がしっかりしていなかったから、あんな事件が起きた﹂ ﹁そう、なんだ﹂ ﹁ウソだったんだ。全て。虚飾されていた。誰も救えなかった、と 思う。ウソで自分を塗り固めたんだ﹂ それでも、と。 僕は。 ﹁それでも、おまえが、静絵が、好きだったんだ。まったくなぁ、 身勝手だよなぁ。でも、静絵が好きだった﹂ 僕は静絵の反応を待つように、口を閉ざした。受け入れる覚悟を している。結局、二股ってことだから。それに静絵がひどい目にあ ったのも、元をただせば僕のせいで、諸悪の根源は僕なのだろう。 間違いない。取り繕っていた。そんな自分は、己の誠心を証明する ために、己の罪状を暴露するしかない。なんと滑稽なことか。道化。 盤上で踊るピエロに成り下がった。 ﹁好きなら、それでいいじゃん﹂ ﹁え﹂ ﹁わたし、バカだから、何も言わない。お兄ちゃんを好きになる、 バカな妹だから、お兄ちゃんのこと責めないよ。欠陥のない人はい ないから。誰しもみんな、壊れてる部分がある。醜いところとか、 304 汚いところとか、必ずある。それを含めて受け入れるのが、本当の 愛情だと思う﹂ ﹁静絵⋮⋮﹂ 僕は泣きそうになる。 ﹁逆に言えば、その人しか受け入れない、とも言えるよね。その人 以外のことを、どうでもよく扱う。人は完全な博愛主義者にはなれ ないから。人のキャパシティーはせいぜい、一人の人間程度なんだ と思う。どうでもいいんだよ、きっと。みんな、どうでもいい。千 尋の罪なんて、罰なんて、どうでもいい。結局、わたしを愛してく れれば、事足りる。そんな自責の念なんて、いらないんだ。ただ、 そのことを後悔してくれれば、わたしを愛してくれれば、わたしの そばにいてくれれば、わたしを必要としてくれれば、それで⋮⋮わ たしは満足。人は身勝手だから、わたしも身勝手になる。許しても いいよ。千尋のこと﹂ ﹁⋮⋮そっか﹂ ﹁千尋のほうこそいいの? わたしに本気になっちゃったみたいだ けど、ここから先は地獄だよ。お父さんとお母さんとも向き合わな いといけないし、お友達とも向き合わないといけないから。それで も、わたしと一緒にいてくれる? そっちのほうが、二股よりも、 事件のことよりも、罪深い。近親相姦。実の妹と恋愛するなんて、 痛々しくて気持ち悪いってみんな、思うでしょ。当然、みんなの蔑 視や軽視にさらされる。それでも、千尋は、わたしと、いてくれる ⋮⋮? わたしはそっちのほうが心配かな﹂ 静絵はぎゅっと僕の手を握った。その動作はまるで、もう離さな いといわんばかりのものだった。くもの糸に絡めとられるイメージ だ。そしてそれは、夫を思いやる貞淑な妻の優しさにも似ている。 静絵は爬虫類のような感情のない目で、僕を見やる。その眼球の 裏には、常軌を逸した妄念が渦を巻いていて、僕を捕捉しようとし けいけん ている。怒りとか悲しみとか、そういったものを度外視した、深淵 のような恋情があるように思えた。同時に、神に全てを捧げる敬虔 305 な乙女の祈りにも似ている。自分の全てを投げ出すような真摯さが あった。 ﹁ずっとそばにいてくれるんでしょ? その言葉に偽りはないよね。 ずっと未来永劫、わたしだけを愛してくれると誓えるよね。約して くれるよね。絶対だから。千尋がいなくなったらわたし、死んじゃ うから﹂ こわく あっけらかんと言い放つがしかし、強大なゆがみをも内在してい る。 彼女の瞳は魔性のように、僕を蠱惑的に併呑する。 ﹁それでさ、わたし、子供が、欲しい。子供は夫婦の証で、絆で、 愛そのものだから。結婚はできないけど、千尋との子供、欲しいな。 お父さんとお母さんには申し訳ないけど、でもわたし、好きな人と 笑いあって、愛する子供を育てて、それで静かに過ごせる毎日が欲 しい。もちろんお父さんとお母さんも大切な人。だけど、千尋もそ れとは別次元に、大切なんだッ。社会に望まれない恋愛でもいいか ら、社会に祝福されない恋でもいいから、千尋と一緒に暮らしたい。 それも、約束できる? 約束できるなら、許してあげる。わたしに 全部を捧げることができるなら、今回のことは不問にしてあげる。 その上で、わたしの心と体、千尋に全部あげるから。好きにしてい いよ。わたしの唇も、胸も、顔も、手も、足も、全部、千尋のもの になる。千尋がワタシのものになるなら、だけど。この約束を誓え たら、だけど﹂ そして。 最後に。 静絵は。 ﹁誓えますか﹂ 静絵は澄んだ口調で言葉を紡いだ。 僕はそっと、静絵の手を離した。 離して、静絵の前にうずくまる。片膝を立てて、静絵のキレイな 顔を見上げた。 306 そうして改めて静絵の手をとって。 ﹁誓います﹂ それは主君の前に頭を垂れて、聖なる剣を肩で受けるというよう な、厳粛な騎士の叙任式を想起させた。 顔を上げると、満面の笑みを浮かべる静絵がいた。 僕は彼女の頬に手を添えて、潤んだ唇にそっと、禁忌に触れるよ うに、己が唇を近づけた。 307 最終話 −幕引き− プラットホームは閑散としていた。寂々としていて、やっぱりこ こは田舎の駅だよね、と再認識。ラッシュアワーを一度も経験した ことのないお年頃なのだった。 駅舎の壁に背を預けて、列車を待った。カバンは近くに置いてお く。携帯用音楽プレイヤーをポケットにしのばせ、時刻表をぼんや りと見つめる老人を眺める。 ここは僕の地元からもっとも近い駅の一つだった。実は列車を利 用するのは修学旅行以来で、ここに来る前まではちょっと緊張して いた。田舎物だから、公共交通機関の利用頻度が極端に低いのだ。 しかしながら、その前途あふれる緊張はあっさり裏切られたのだが。 埒のない妄想と音楽で暇を潰していると、アナウンスが聞こえて きた。どうやらもうすぐ来るらしかった。カバンを持ち上げ、音楽 プレイヤーを切ってポケットにぶちこんだ。手荒に入れたからか、 新品のスーツにしわがよった。 これは高校の卒業記念に母に仕立ててもらった新調のスーツだっ た。大学の入学式に必要になるし、将来必ず使うからと、強引に採 寸を測られた。僕は着やせするタイプなのか、ぶかぶかになるんじ ゃないのと危惧していたわりに、姿見に映った僕は贔屓目に見ても スマートに映っている感じだった。偶々通りがかった蛾々島が爆笑 していたが、まぁいいんだろう。どうやらやつも大学に進むらしく、 僕と同様にスーツ選びをしているようだった。隣にやけにけばけば しい女の人がいたが、おそらく母親なのだろう。悪態をつきながら も楽しそうに会話に興じている辺り、親子仲は良好のようだった。 服に着せられてる感は尋常ではなかったが、母さんは息子の晴れ 姿を見て嬉しそうだった。そのさい蛾々島との関係をさぐられたが、 適切にお茶を濁しておいたから大丈夫だと思う。 僕は地元から県をまたいだ都会に進学することになった。勉強に 308 専心したおかげか、第一志望校に合格することができた。奇跡だと 思う。自分史最大の快挙。堅物な父も合格発表のときは万歳三唱し ていた。 僕は、教師になる。 部屋にかかった真新しいスーツを見て、決心を新たにした。必ず や職をゲットして、がっぽがっぽお金を稼いでやるんだ。それで、 あわよくば⋮⋮。 だから、これでいいんだと思う。 白線の内側に待機してくださいと駅員さんに注意されるあたり、 僕はなんだか勇んでいるようだった。 しばらくすると予告通りに目当ての列車が来た。扉が開いて、人 が出たり入ったり。僕もその群れに混じろうと思ったけど、ふいに うこさべん もし間違ってたらどうしようと列車を前にして切符を何度も確認し た。右顧左眄。おろおろと情けない。それを見かねた駅員さんがす かさず助けに来てくれる。これだからいなかっぺは⋮⋮と嘲笑され じくじ ている気がしないでもないが、ぺこぺこと駅員さんに平謝りして、 やっと乗車した。忸怩たる思い。やたらと体感時間が長く感じた。 列車内は当然のようにすいていて、ご老人方に気兼ねすることな く着座することができた。 発車します、と知らせが流れて、やにわに車体が動きだす。窓に まどべり 映る景色が絵巻物みたいに様変わりした。横にスライドしていって、 どんどん移り変わる。とても物珍しい光景だったので、窓縁に頬杖 ついて子供みたいに視線を流していった。 にわかにポケットが振動しているのが分かった。誰だろうと思っ たポケットに手を突っ込んでみると、携帯電話の画面には見慣れた 名前が表示されていた。 ここ、列車の中なんだけどなぁ、と思って回りを見渡すが、人は ほとんどいない。チャンスだと思った僕は、きっと腹が黒くて性根 が腐っているのだろう。 にやけすぎて顔面崩壊しないよう表情筋に力を入れる。僕はちら 309 ちらと周囲を瀬踏みしつつ、ボタンをプッシュした。 ﹁もしもし⋮⋮うん、今乗ったとこ⋮⋮期待にたがわぬ人の少なさ ⋮⋮ん? いや、おまえ元引きこもりだろ。冗談はほどほどに⋮⋮ いや、人ごみにはだいぶ慣れたって⋮⋮ぬーん、それこそ冗談って やつだぜ。⋮⋮⋮⋮そういや母さんは元気? ⋮⋮あぁ、だよなぁ。 でもな、それにはもう一つ、隠された秘話があってだな⋮⋮﹂ 電話越しだというのに、身振り手振りを加えて話しこむ自分に苦 笑する。でもま、いっかって感じで、彼女の話に耳を済ませた。そ れで、気がついたら長時間話し合っていた。 列車はガタンゴトンと止まることなく、すいすいと進んで、とど まるところを知らない。まるで線路がどこまでも続いているかのよ うだった。 それはどこか、これからの未来を暗示させる。 初めから間違っていた、なんて思わない。 スタート地点がマイナスだっただけで、禁じられていただけで、 その過程は間違いなく黄金だった。 あの頃の僕たちは純粋だったから、間違いを犯そうって言う罪の 意識もなくてただ、僕は君が好きで、君に笑ってほしくて。 僕は君がいないと、ダメなんだ。君と一緒にいたいんだ。 たとえそれが、忌避すべき禁忌の果実であっても。 その果実を君は、僕のためにもいでくれるかい? 願わくば、君とともに歩む道を。 310 最終話 −幕引き−︵後書き︶ ◆キャスト みどりばちひろ ・緑葉千尋。 十六歳。男。存命。 RPGで言うところの立ち位置︱︱勇者。 座右の銘︱︱今止まらずにいつ止まる。 みどりばしずえ ・緑葉静。 十五歳。女。存命。 RPGで言うところの立ち位置︱︱引きこもり。 趣味︱︱ネットサーフィン。オンラインゲーム︵課金ダメぜった い︶。 ががしまあんな ・蛾々島杏奈。 十七歳。女。存命。 RPGで言うところの立ち位置︱︱剣士。 飼っているペット︱︱レッドワイバーン。ダースドラゴン。ケン タウロス。 ふじみやよみたろう ・藤宮詠太郎。 十七歳。男。存命。 RPGで言うところの立ち位置︱︱魔王兼ラスボス。 特技︱︱俳句。ナイフジャグリング。 311 さじまつきこ ・佐島月子。 十六歳。女。存命。 RPGで言うところの立ち位置︱︱僧侶。 好きなこと︱︱家事。和菓子作り。 あらかぜねい ・荒風寧。 十六歳。女。存命。 RPGで言うところの立ち位置︱︱魔法使い。 人生訓︱︱愛情と狂気は紙一重。 プシュケの心臓、いかがだったでしょうか。 連載に約一年かかりましたが、無事完結することができました。こ れも読者様のおかげです。 このような駄文に付き合っていただき、ありがとうございました。 っていうか、意外なことに死者が一人もいないこの作品っ。 312 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n5720bh/ プシュケの心臓 2014年4月22日03時12分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 313
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