酒井 奈々子 - アイヌ文化振興・研究推進機構

「ウポポの心を受け継ぐ」酒井奈々子
ウポポの心を受け継ぐ
8 月 27 日(月)18:30∼20:00 札幌会場
9 月 06 日(木)19:00∼20:30 東京会場
講師
酒井奈々子
帯広カムイトウウポポ保存会会長
で、この「カムイトウ」を保存会の名前に使っています。
皆さん、こんにちは。帯広から参りました酒井奈々子
と申します。アイヌ古式舞踊の伝承活動を長年続けてい
私たちアイヌの歌や踊りは、村の祭りや祝い事や先祖
る帯広カムイトウウポポ保存会の会長を務めさせていた
供養などの時に、神様や御先祖様の霊に見て楽しんでも
だいています。今日は、「ウポポの心を受け継ぐ」と題し
らうとともに、自分たちでも楽しむものだったと聞いて
まして、私がこれまで取り組んできたアイヌの歌や踊り
おります。歌や踊りは、宗教的な意味合いとともに、昔
について、自分自身の経験を踏まえながらお話しさせて
は、カラオケやテレビのようなものがなかったので、人
いただこうと思っています。
が集まった時にみんなで楽しむためのものでもあったの
です。
まず、生い立ちについてですが、私は、十勝地方の帯
広市の出身です。私が生まれ育ったところはフシココタ
しかし、明治の時代になって、和人による開拓が進む
ンと呼ばれ、もともと多くのアイヌが暮らしていたとこ
中で、アイヌのさまざまな儀式や習慣を伝承していくこ
ろです。ちなみに、「フシコ」というのはアイヌ語で「古
とが、政府の行った同化政策や差別、偏見のために難し
い」という意味です。父親は、私が物心つく前に亡くな
くなりました。もともと私たちの先祖は、アイヌ語を話
っておりましたので、母親は女手一つで農業を営みなが
し、山の幸、川の幸をいただいたことに対する感謝の儀
ら、私たち兄弟を育ててくれました。母親の名前は荒田
式、熊送りの儀式、先祖供養の儀式など、さまざまな儀
マツエと申しますが、「ウポポ」、「歌」という意味のアイ
式を行い、アイヌの風習を守りながら暮らしていました。
ヌ語ですが、そのウポポの歌い手でした。私は運動が得
それが、明治以降、日本語や和人の習慣を取り入れて生
意で、元気でやんちゃな女の子でした。特に走るのが得
活しなければならなくなったのです。川で魚を捕ったり、
意でした。
山で木を切ったり、鹿猟をすることが禁止され、厳しい
さて次に、私が活動している帯広カムイトウウポポ保
生活を強いられたのです。そうした中で、アイヌの歌や
存会についての話をしたいと思います。まず、この「帯
踊りなどを披露する機会が減り、アイヌ語が忘れられ、
広カムイトウウポポ保存会」という名前についての説明
先祖から伝わってきた大事な文化も、次第に消されてい
をします。「カムイトウ」というのは、私の生まれ育った
ったのです。
フシココタンにある沼の名前です。かつては、大きな沼
私たちの帯広カムイトウウポポ保存会は、このように
だったそうですが、町の開発を進める中でだんだん埋め
失われかけた歌や踊りを受け継ぎ、次の世代に伝えると
立てが進み、今では小さな沼になっています。この「カ
いうことをしながら、道内や道外のいろいろなところで
ムイトウ」は、通常、「チョマトー」と言われております
アイヌの歌や踊りを披露するという活動をしています。
が、もともと「チホマトウ」と呼ばれていました。意味
しかし、もともとは、この名前ではなく、「十勝アイヌ
ウポポ愛好会」という名前で活動していました。戦後、
は「恐ろしい沼、害を受ける沼」というものです。
どうして、そのような名前になったかと言うと、昔々、
加藤ナミエさんという帯広にいた女性が、地元のフチた
十勝に他所から攻め込んで来た人たちがいたそうです。
ち、「フチ」とは「おばあさん」という意味のアイヌ語で
北見アイヌとも、日高アイヌとも言われていますが、そ
すが、フチたちから「ぜひ、アイヌのウポポを残してほ
の人たちが空腹を満たすため、この沼でカモを捕まえて
しい」と頼まれて、ウポポを伝承するために仲間を集め
食べていたそうです。それを十勝アイヌが取り囲んで攻
て立ち上げたのが「十勝アイヌウポポ愛好会」です。
め込んだため、逃げ場を失った人たちはみんな、この沼
当時は、地域の集会所に集まってウポポの練習をして
に飛び込んで死んでしまったという伝説が残されている
いたそうですが、私の母親も、ナミエさんとともに愛好
のです。沼の底に死体が沈んでいると考えると、あまり
会の活動に参加していました。アイヌの歌や踊りは各地
気味のいいものではありませんし不吉な感じがすること
に伝承されていますが、地方、地方で異なっています。
から、この沼を「チホマトウ」と呼ぶようになり、それ
また、十勝は観光地ではないので、例えば阿寒や白老、
がなまって「チョマトー」になったようです。ただ、こ
旭川のように、踊りを踊って人に見せるという場所でも
れは、あくまでも伝説の話ですし、この沼のことを「カ
ありませんでしたので、私たちの先輩たちは、踊りで収
ムイトウ」、「神の沼」という呼び方もありますので、本
入を得るとかそういうそういうことではなく、純粋に先
当にあったことなのかどうかは分かりません。私たちは、
祖から伝わる大事な文化を自分たちが学び、子孫に伝え
アイヌが暮らしているフシココタンにある沼ということ
たいという思いで愛好会を作ったのだと思います。
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「ウポポの心を受け継ぐ」酒井奈々子
それでは、ここで「十勝アイヌの歌と踊り」というビ
りも分かります。当時、阿寒には、アイヌの歌や踊りに
デオ、これは昭和 44 年頃に撮影された記録映画ですが、
詳しいお年寄りが何人もいて、私もそうした人たちに習
これを、ご覧いただきたいと思います。17、8 歳の私も
うことができたのです。
また、当時、東京の新宿には「蝦夷御殿」という高
写っています。
級料理店があり、そこでは北海道のアイヌを店員とし
て雇い、客に踊りを見せていました。私も人に誘われ
(ビデオ上映)
て、友達と一緒に東京に出て、その店で働いたことが
あります。寮で生活をしながら、料亭の店員、踊り子と
今から 35 年くらい前のビデオを見ていただきました。
して働いたのです。その頃は、私も若い娘でしたし、休
また、話の方に戻りたいと思います。
みの日には買い物に出かけたりして、東京での生活を楽
ウポポとリムセの魅力についてです。アイヌの踊りは、
しんだという思い出があります。
基本的には歌と手拍子だけで踊るので、非常にシンプル
なものです。見た目の派手さはないのですが、踊ってみ
その後、私は結婚して、息子と娘を一人ずつ産んで育
ると非常に疲れます。体全体を使った、特にひざの屈伸
てましたが、子供が小さい頃、一時期、神奈川県の川崎
運動のある踊りは、本当に大変な踊りです。帯広のバッ
市に住んでいたこともあります。
帯広に戻ってからは、ずっと保存会で踊っています。
タキウポポなどは、見ると分かりますが、特に大変な踊
長年踊りを続け、平成元年に副会長になりまして、そし
りの一つです。
次は、私とウポポ会についてです。私はフシココタン
て 4 年前には会長となり、責任のある立場となって会の
に生まれて、ウポポの伝承者でもある荒田マツエという
活動に携わっております。子供の頃から踊りを続けて、
母親に育てられましたので、物心ついた時には、母親に
気がついたら指導者として、後輩を指導、育てる立場と
連れられて地域のウタリの集まりに顔を出して一緒に踊
なっていました。私にいろいろ教えてくれたフチたちは、
っていました。そのため、アイヌの歌と踊りは体に染み
もういません。私がフチたちから習ったことを、今度は
ついています。ウポポを聞くと、自然に体が動き出しま
私が後輩たちに教えなければならないのです。先ほど、
すし、心が躍ります。
名前を出しました、加藤ナミエさん、安東ウメ子さん、
上野サダさんたちも、この 10 年の間に亡くなってしまい、
当時は、私の母親の荒田マツエ以外に、会の中心メン
バーだった加藤ナミエさん、そして、先生役として伏根
昔のウポポ会を覚えている人は、私以外にいなくなって
ヤヨさんや田辺トヨさん、三浦ノブというおばあさんた
しまいました。先輩たちはいなくなってしまいましたが、
ちがいました。三浦ノブフチは、先ほどのビデオにも出
そのかわり、新しい世代が育ちつつあります。最近は、
ていましたが、アイヌ語で「シヌイェ」と言う入れ墨を
次々と若者が、保存会に入会してくれて、私の息子も娘
していました。ノブフチは、十勝で入れ墨をしていた最
も、今、保存会に入って踊ってくれています。孫や甥た
後のおばあさんということになります。私の母、荒田マ
ちも踊ってくれていて、うれしく思っています。私の身
ツエの叔母にあたる人です。また、ビデオには、晩年、
内以外にも、何人もの若い人たちが一生懸命に活動に取
ウポポの歌い手として活躍した安東ウメ子さん、今年の
り組んでくれているので、心強く思っています。最近で
2 月に亡くなった上野サダさんも、まだまだ若く、踊り
は、北海道の中でも帯広カムイトウウポポ保存会は、若
手として参加していました。
い会員がたくさんいる保存会であるという評価を受けて
おり、私もひそかに誇りに思っているところです。
会の発足当初は、今よりもアイヌへの差別、偏見が厳
しく、アイヌの同族からも反対の声が多く、先輩たちは
それでは、「神々とともに」というビデオ、今から 4
大変苦労したそうです。今でもそういう空気はなくなっ
年ほど前に撮ったビデオです。今の保存会の若い子たち
ていませんが、差別や偏見に痛めつけられて、アイヌで
が踊っている 10 分間ほどのビデオなので、ご覧いただき
あることを隠し、文化、言葉もすべてを捨てて、和人の
たいと思います。
中に紛れて暮らしていこうとするアイヌの仲間が大勢い
(ビデオ上映)
たのです。本来仲間であるはずのアイヌウタリからの反
対や妨害にあいながらも、先輩たちは、それに負けずに、
これは、私たち帯広カムイトウウポポ保存会の一番新
耐えて耐えて、あきらめずにやってきたのだと思います。
そのように先輩たちが頑張っていてくれたおかげで、今
しいビデオで、4 年前に作ったものです。30 数年前のビ
の保存会があるのだと思い、本当に感謝しています。
デオと比べると随分とウポポが違っています。ウポポ愛
私は子供時代から、ずっとアイヌの踊りに親しんでい
好会を作った当時の加藤ナミエさんや安東ウメ子さんと
たのですが、中学卒業後、阿寒湖のアイヌコタンの民芸
か上野サダさんからウポポを教わってきたのですが、ど
品店で働くことになり、観光客に民芸品の販売をしなが
っかこっか違ってきたのだと思います。なるべく昔に近
ら、観光客相手に踊りを見せる仕事もしていました。そ
いウポポをやりたいなと私は心がけております。そして、
のため、私は、帯広の踊りだけではなく、阿寒の歌、踊
このウポポを残してくれた加藤ナミエさん、そして私の
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「ウポポの心を受け継ぐ」酒井奈々子
母、偉大なる母、荒田マツエに少しでも近づけるような
語る英雄の物語の練習などにも取り組んでいます。これ
ウポポを歌えるよう努力していきたいと思っています。
は、節をつけて歌うように語る物語で大変難しいもので
私は長年、踊り手として活動してきたのですが、1 人、
す。しかし、このサコロ ベは、上野サダフチに教えても
また 1 人と歌を歌えるフチがいなくなり、先輩のフチた
らって、練習していたのですが、サダフチは今年亡くな
ちから「奈々子、お前も歌え」と言われ、ウポポの練習
ってしまいました。
をして、次第に歌い手として活動するようになりました。
アイヌ語には地方地方で独自の言葉があって、十勝地
アイヌの歌は、歌謡曲や日本民謡とは違う独自の節回し
方にも独自の言葉があります。例えば、「踊り」のことを、
があって、とても難しいです。今は、少しでも先輩フチ
十勝では「リ ム セ」と言いますが、地方によっては「ホ
たちの節回しに近づこうと頑張っています。本当は踊り
リッパ」と言うなど違う言い方をする場合があります。
の方が好きで、体力的にもまだまだ踊れるのですが、踊
全ての言葉という訳ではありませんが、単語によっては
りに取り組む若い会員も増えてきたので、最近では踊り
全く違う言い方をすることがあるのです。十勝地方のア
の指導をしながら、歌い手として活動することが多くな
イヌ語に詳しいお年寄りが、ここ数年で次々と亡くなり
りました。
ました。これからは、次の世代がアイヌ語を守り伝えて
私は歌や踊りに長年取り組んできましたが、アイヌ語
いかなければならいと、私もしっかりと胸に刻んでおり
については詳しくありません。しかし、私が生まれ育っ
ます。
たフシココタンはアイヌが多数暮らす地域だったので、
次にアイヌ料理についてです。まず、私の母親がよく
身の回りには、アイヌの言葉や風習に詳しいエカシやフ
作ってくれたのは「ポネオハウ」です。「ポネ」というの
チがたくさんいました。身近に接していたお年寄りたち
は骨、豚骨です。「オハウ」というのは「おつゆ・汁物」
は、ふだんは日本語を話しているのですが、その合間合
という意味です。「ポネオハウ」、日本語で言うと「骨の
間にアイヌ語の単語を交えることがありました。また、
おつゆ」という意味になります。ジャガイモやニンジン、
大正生まれの私の母親も、時々アイヌ語を使っていたの
ゴボウなどの野菜を入れて作ります。今、私が作る時に
で、それを聞いて覚えた単語がいくつもあります。ただ
は乾麺、干しうどんを入れてポネオハウを作ります。本
し、母親のアイヌ語は、すらすらとアイヌ語で会話をす
当においしいので、機会があったら皆さんにもご馳走し
るとか、昔話を語るということではなく、本当に身近な
たいと思います。3 時間も 4 時間もかけて骨をぐつぐつ
アイヌ語を、断片的に単語をぽつりぽつりと話していた
煮るので、今日みたいに暑い日にはとってもじゃないけ
というものです。
どやってられないので、夏には食べることはありません
例えば、子供がおしゃべりをして騒いでいたり、大人
でしたが、冬場には特においしく食べることができます。
の話に口を挟んだりして、大人から「トゥ シ テ ク !」と
味付けには昔は塩を使っていましたが、今は味噌もあり
言って怒られた覚えがあります。これは、日本語に訳す
ますので、好みにより味噌でももいいと思います。私は
と「黙りなさい!」という意味です。それから、人の言
味噌で味付けをします。この料理は、今でも時々、作り
った言葉が聞き取れなかった時などに「ネコン カネ?」
ますが、子供も孫も大好きで「ばあちゃんのお肉のおつ
と聞き返します。これは「何だって?」「何?」というよ
ゆ作って」とねだられます。
それから「ムニニモ」、日本語で言うと「しばれイモ」
うな意味の言葉です。こういう言葉は私にも多少分かり
ます。また、覚えなくてもいいような言葉は先に覚える
です。これは、まず、冬場にジャガイモを、雪の下で寝
もので「ハイタクル 」という言葉も覚えています。これ
かせて凍らせます。そのため、しばれイモというのです。
は「ばか」という意味です。この他「サウレ」、「怠け者、
春先になると、雪解けと同時に、凍ったイモを水につけ
怠ける」という言葉、
「イポカシ」北海道弁で「みったく
て、何度も何度も水を取りかえながら、搾ったり、突い
ない」という言葉、それから「ポンノ イホシ キした」、
たりして、粉にします。そして最後には、だんごにして
「ポンノ」が「少し」という意味で「イホシ キ」が「酔
油で焼いて食べます。今はバターで焼いて食べる人もい
っぱらう」で、「少し酔っぱらった」という意味の言葉で
ます。これを私はよく食べましたし、有名なアイヌ料理
す。それから「イコロ」は「お金」という意味で、「イコ
なので、ご存じの方も多いと思います。
イサム」で「お金がない」という意味になります。そ
それから、アキアジの頭や白子などをたたいてつくる
れから、十勝地方の冬のしばれは厳しいものがあります
「チタタプ 」という料理も食べました。これも有名なア
が、堅い雪のことを「ウカ」と言います。このような単
イヌ料理なので、皆さんもご存じではないかと思います。
語については、多少分かります。特に教えられたという
私はこれが大好きで、アキアジ、シャケがとれる時期に
訳ではありませんが、自然と覚えました。
作るものですが、毎年 9 月 23 日には、シャクシャイン法
ロ
この他、日常生活に使うアイヌ語の単語も、少しは覚
要祭がありますし、毎年そこで食べているので、今年も
えていますが、アイヌ語について詳しいわけではないの
楽しみにしています。これは作るのが大変な料理で、シ
で、今、地元のアイヌ語教室でアイヌ語を一生懸命勉強
ャケの頭や軟骨、シャケはカムイチェップと言われてい
しています。また、最近、「サコロベ」というアイヌ語で
て本当に捨てるところがないのですが、このチタタプに
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「ウポポの心を受け継ぐ」酒井奈々子
は、ヒレも入れます。これらのものに白子を和えながら、
手が痛くなるくらい包丁で叩いて叩いて、細かくしてさ
らに叩いて、塩と長ネギで味をつけます。これは本当に
おししい料理です。料理の話はこれで終わります。
踊りを踊る時や先祖供養などの儀式の時に着る民族衣
装、アイヌの着物ですが、これには地方によって刺繍の
しかたや文様に違いがあります。私の着物は 120 年以上
の前の十勝文様の着物を復元したものですが、十勝には
十勝独自のものが残っています。踊りや歌だけではなく、
言葉や料理、着物など、大事な文化が残っていますので、
今後、伝承していきたいと思っています。
保存会の話に戻ります。最近は、さまざまなところで
踊る機会があります。これまで、北海道内各地はもとよ
り、本州、四国、九州、さまざまなところに行ってきま
した。この推進機構のアイヌ文化フェスティバルにも何
度か招待され、東京や熊本で踊ってきました。また、関
東のアイヌの人たちとの交流も増え、レラの会やペウレ
ウタリの会などとの交流も行っております。一昨年は東
京・中野のチャランケ祭りに呼んでもらい、十勝の踊り
を披露してきました。今年の 2 月には文化庁の「国際民
俗芸能フェスティバル」に招かれ、国立劇場でロシアや
ネパールの人たちと共演してきました。
アイヌ化への関心は年々高まっているようで、最近は
いろいろなところからお呼びがかかります。これは、ア
イヌ文化を見てもらう絶好のチャンスであると私は考え
ています。阿寒や釧路、旭川、日高、胆振など、歌や踊
り、言葉や着物にしても、本当にさまざまなものがあり
ます。それぞれにいいものがあると思いますが、私たち
は何よりも、十勝地方の踊りを伝承していますので、そ
の十勝地方独自のウポポやリム セの魅力を一人でも多く
に分かって欲しいと思っています。
私には会長としての重大な責任がありますが、これか
らも後継者の育成に頑張り、祖先の残してくれた大事な
文化を未来に伝えていきたいと思っています。私の母親
や先輩のフチたちが、これを無くしてはならないと、差
別や偏見のある、大変な生活の中で苦労しながら伝えて
くれたウポポやリムセです。差別や偏見があっても、そ
れに負けずに文化を受け継ぎ、アイヌとして堂々と生き
ていこうという思いを胸に、私たちの先輩たちは頑張っ
たのだと思います。ただ形をまねするだけではなく、そ
の心も受け継いでいきたいと思います。また、保存会の
歴史や先輩たちの生きざまを、私の子供や孫、後輩たち
に語り継いでいきたいと思います。
つたない話でしたが、これで私の話を終わらせていた
だきます。ありがとうございました。イヤイライケレ。
(拍手)
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