『梅若伝説と太田川梅若唄念佛踊について』 - 泉崎村

梅若伝説と泉崎村梅若和讃唄念仏踊(概要)
梅若伝説
梅若伝説とは、母と子の悲劇の物語です。
京都の武家に生まれた梅若丸がある日、信夫藤太という人買いに連れ去られ、途中隅田川のほとり
で息絶えてしまいます。梅若丸の悲運を忍んだ人々が隅田川のほとりで一周忌を行っていたところ、
我が子を探し旅をしていた母親が偶然にこの場所訪れます。そして、我が子の死を知らされ、悲しみ
のあまりに隅田川に身を投げてしまうという物語です。
梅若丸が葬られている塚は現在も東京都墨田区の木母寺というお寺で供養され、この悲しい母子の
話は能や歌舞伎などでもしばしば公演されております。
さて、実はこの梅若伝説は、本拠地である東京都墨田区ばかりでなく全国のあちこちに伝わってお
ります。 そのうちの一つが泉崎村に伝わる梅若伝説ということになります。
「梅若丸の悲話と木母寺」
『梅若伝説と太田川梅若唄念佛踊について』
1.梅若伝説とは
全国的に有名な悲話
歌舞伎や能の作品にも取り入れられている
2.念仏踊りとは
空也上人(903~972)や一遍上人(鎌倉時代)1239 年
生)が仏教を普及し、 民衆を救済する手段として、踊
念仏をはじめたと伝えられる。
3.なぜ、梅若唄念佛踊なのか
旧暦の 3 月 15 日に実施される年中行事
4.梅若伝説といずみざき
泉崎村に残る、梅若伝説の痕跡
日本最古の梅若和讃本
5.伝統を伝承していくということ
昭和 51 年 6 月 22 日 泉崎村無形民俗文化財指定
昭和 57 年
太田川梅若唄念仏踊保存会
福島県芸能大会出場
断絶期
平成 17 年 11 月 梅若唄念仏踊 復興
平成 21 年 4 月 太田川梅若唄念佛踊保存会再興
平安時代の中頃、吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人
娘・花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。
若くして吉田少将がこの世を去った後、梅若丸は比叡山月林
寺で修行に励むようになります。
しかし、同輩との諍いが原因し、月林寺を下山した梅若丸は、
琵琶湖のほとり大津の浜(現・滋賀県)で人買いの信夫藤太と
出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)
へと旅を始めます。
長い旅を続けて二人が 武蔵国と下総国の間を流れる隅田
川の東岸 関屋の里までやって来た時です。梅若丸は幼い身で
の長旅の疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなっ
てしまいました。
信夫藤太はそんな梅若丸を置き去りにしたのです。
関屋の里人たちに見まもられ、いまわの際に
『尋ね来て
問わば応えよ 都鳥
隅田川原の 露と消えぬと』
という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわず
か 12 歳の生涯を閉じてしまうのです。
一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を
探しさまよい歩きました。
信夫藤太と梅若丸から遅れるこ
と一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、川をわたる
舟の中から、東岸の柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念
仏を唱えている光景を目にします。
舟から上がった花御膳に問われるままに里人は、当時 12 歳の
梅若丸という幼子が病気になり、此の地で亡くなったのが、ち
ょうど一年前の今日であり、塚を築き、柳一株を植えて供養し
ているところだと告げます。
『其は我子なり
梅若丸は此処にて果てたるか』
探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御
膳は深く嘆き悲しみながらも、里人たちとともに菩提を弔いま
す。
その後、塚の傍らに庵が建てられ、花御膳が暮し始めますが、
悲しみに耐えきれず水面に身を投げ、自ら命を断ってしまった
そうです。
墨田区堤通の 梅柳山 木母寺 は、梅若丸を供養するた
めに建てられた庵が起源とされています。元は 隅田院梅若寺
と呼ばれていましたが、天正 18 年(1590 年)、徳川家康によ
って、梅若丸と塚に植えられた柳に因み、「梅柳山」 の山号
が与えられたそうです。その後、 梅の字の 偏と旁 を分け
「木母寺」 となったそうです。
喜藤太と梅若伝説(標準)
泉崎に喜藤太屋敷跡という場所があり。
この屋敷に住む男、信夫の藤太といって奥州 54 郡に名の響く盗賊で、昼間は農作業、夜は泉崎から会
津まで出かけて、盗みを働いていたという。
さて、なぜこの地名が現代まで残ってきたかというと、藤太がある伝説に関わっていたからである。
その伝説を「梅若伝説」という。
梅若伝説はざっとこんな話。今から1000年くらい昔、京都の武家に生まれた梅若丸が信夫の藤太と
いう人買いにかどわかされ連れ去られてしまった。陸奥までの長い道中を旅する途中、隅田川のまでき
たときに病にたおれ、藤太に置き去りにされて息絶えてしまう。梅若丸の母親は行方がわからなくなっ
た我が子探し、諸国を訪ね歩きとうとうとう梅若丸が眠る隅田川のほとりにたどりつく。そこで我が子
の死を知らされ、悲しみのあまり隅田川に身を投げて死んでしまうという悲しい話。
この話に登場する信夫の藤太という人買いが、泉崎に居を構えていた喜藤太であったらしい。
梅若伝説には、語られていないが藤太は梅若丸を置き去りにしたあと梅若の大事にしていた守り本尊
の不動様をもって泉崎に帰ってくる。しかし、役人に追われているうちにこの不動様を川に落として、
捕まってしまう。後にこの不動様を村人が拾ったのだが、良くないことが続いたので太田川村の泉川ほ
とりに梅若を供養する不動堂を造った。ところが、それでもまだ奇怪なことが続くので烏峠にある円満
寺に預けた。けれど円満寺はなくなってしまい、この不動様も行方不未明となってしまった。
今でも毎年命日には、梅若唄念仏踊を踊って供養するようにしている。また、藤太が住んでいた泉崎
村でも、梅若伝説が記された和讃本を持つことを禁止して、命日に番場踊りを踊って供養らしいが、こ
れはもう行われていない。
喜藤太と梅若伝説(方言)
泉崎の中ノ内部落の先に喜藤太(きとうだ)っちゅう地名があんだ。
んで、ここには昔、喜藤太屋敷があっだっていわれてるんだ。
この喜藤太っちゅう男、奥州 54 郡に名の響く盗賊で、昼間はまじめに農作業をしでるんだけっど、夜は
泉崎から会津のほうにまで出かけてって盗みをはだらいたんだと。
この話がなんで今でも泉崎に残ってるかっでいうと、この喜藤太っちゅう男が「梅若伝説」ちゅう話に
関わっていたからなんだ。
梅若伝説っちゅうのはざっとこんなんだ。
今から千年以上前のずーっと昔、京都の武家に梅若丸っていうこどもがいたんだと。だども幼いときに
父親は死んじゃって、梅若丸はお寺で面倒みてもうらうことになったんだども、ある日、信夫の藤太っ
ちゅう人買いにさらわっち、なげー旅をすることになっちまったんだ。武蔵国の隅田川まできたときに
は、とうとうくたびれて病で倒れちまって、一人取り残されて死んじゃったんだと。梅若丸の母親も息
子の行方がわからなくなってからあっちこっち探して旅してたんだけっど、隅田川のほとりで村の衆が
梅若の供養をしているとこさ、たまたま通っちまって我が子が死んじゃったのを知っちまったんだ。そ
れからしばらくは梅若の供養をしてたみたいなんだっけど、あんまり悲しくて後をおうように川に身投
げしちまったんだと…。悲しい話だなぃ。
この話さでてくる信夫の藤太っつう人買が、泉崎に住んでた喜藤太だっていわれてて、古い話が残って
んだよ。
隅田川に病の梅若を置き去りにしたあど、藤太は梅若の大事していた守り本尊の不動様をもって泉崎に
帰ってくんだ。だども、役人に追われているうちにこの不動様をおっことしちゃって捕まっちまった。
後になって村人のひとりがこの不動様を拾ったんだけっど良くねぇことが続いたんで川のほとりに不動
堂をたてて梅若を供養したんだと。だけっどそんでもまだ良くねえことが続くもんで、今度は烏峠にあ
る円満寺に不動様を預けたっていわれてんだけど、円満寺はなくなっちゃってこの不動様もどこいっち
ゃったんだかわからなくなっちゃったんだ。こんときつくった不動堂では今でも梅若の命日さ念仏踊り
やって供養をしてんだよ。あと、藤太が住んでたとこの近くでは梅若丸の話が書かれた本さもつのは駄
目だっていわれてて、やっぱ命日には番場踊りやって供養してたんだけっど、これはもうやんなくなっ
ちゃったんだよ。おしまい。