伊那の歴史年表4:平安 - 伊那北高校関東15期会

伊那の歴史年表4:平安~鎌倉編
1
2
3
4
5
794年~1333年(540年間)
王朝国家->武家政権へ
平安~鎌倉時代は王朝政権から武家政権へ移行していった時代
●平安末期の上伊那域の推定人口は約1.9万人で現在の略1/10、平均寿命は40歳くらい(Wikipediaより)
根拠:現在の長野県210万人・上伊那域(2市3町3村)18万人、1150年の信濃国22万人で比例計算した ●税制は奈良時代の律令(租庸調、個人課税)が限界となり、土地課税への方針転換が進んだ
年代5区分の流れ:略100年の区間で4分割し、これに鎌倉時代を加えて5分割区分でのイベント
540年間 天皇中心の政治から、平清盛以降に武家の政治へ
特記事項:伊那春近領(平安時代)、北条得宗家と伊那(鎌倉時代)、戦乱
上伊那地域は公領が中心であり、各郷村は公領・牧・荘園のいずれかに組み込まれていた
平安~鎌倉時代の年表:各年のイベント一覧(伊那との関連は太字)
1.年代5区分の流れ
摂政関白体制
王朝国家体制
平安Ⅰ
平安Ⅱ
794~893
894~993
100
100
年数
桓武-平城-嵯峨-淳和醍醐-朱雀-村上-冷泉天皇 仁明-文徳-清和-陽成円融-花山-一条(7)
光孝-宇多(10)
太政大臣
藤原家
藤原家
大伴弟麻呂、坂上田村麻
将軍
藤原忠文
呂、文室綿麻呂
区分
西暦
行政
摂関政治
中国
唐->五代十国
朝鮮
新羅
その他
摂関政治、延喜式(法令)
薬子の変、弘仁新羅の変 平将門の乱
、承和の変、応天門の変
文化
カタカナ出現
神社
源義仲
白河院政
五代十国->北宋、遼
北宋
後三国(後高句麗・後百
高麗
済・新羅)->高麗
農村で掘立柱建物が一 飯田・伊賀良井_用水開
般的へ
発
戦乱
災害
天皇・上皇・院
平清盛の時代
武家政権680年の始まり
平安Ⅲ
平安Ⅳ
鎌倉
994~1093
1094~1185
1186~1333
100
92
147
三条-後一条-後朱雀-後 鳥羽-崇徳-近衛-後白河 土御門-順徳-後堀河-四条-後嵯峨冷泉-後三条-白河-堀河 -二条-六条-高倉-安徳- 後深草-亀山-後宇多-伏見-後伏見(7)
後鳥羽(9)
後二条-花園-後醍醐-(南北朝) (14)
藤原家
藤原家、平清盛
多数の公家系
前九年の役、阿久利川
事件、後三年の役
竹取物語、伊勢物語、土
佐日記(ヒラガナ)、古今和 枕草子、源氏物語
歌集、金太郎、伊那郡郷
富士山噴火、貞観地震、 名
十和田湖火山の大噴火 富士山噴火
仁和地震
諏訪御柱祭り、御射山社
大宰府天満宮、高遠・鉾
、経ヶ岳、大山田神社、 持神社
鎌倉鶴岡八幡宮
京都・吉田神社
将軍9代(源3代、藤原2代、親王4代)
金・南宋
執権:3代源実朝から鎌倉滅亡まで北
条氏16代、御成敗式目
モンゴル帝国->元
高麗
高麗がモンゴル帝国の属国へ
平家政権
高遠城、箕輪_上之平城
保元/平治の乱、木曽義 梶原の乱、城資盛の乱、畠山の乱、和
仲/源頼朝が挙兵、平家 田の乱、承久の乱、宮騒動、三浦の乱
の都落ち、一の谷合戦/ 、元寇の役、元弘の乱
壇ノ浦
平家物語、吾妻鏡(6代の将軍記)
永長地震M8.5、浅間山噴
諸国大飢饉、疱瘡の流行、鎌倉大地震
火、養和の大飢饉
大山田神社->御射山大
中川村_八幡神社
社
仏閣
郡郷
赤穂・光前寺、高遠・遠
照寺、東寺、高野山真言 京都・真如堂
宗
現・伊那市以北は諏訪
現・伊那市北部は諏訪郡
郡、蕗原荘園
平等院鳳凰堂
現・伊那市以北が伊那
郡へ
中尊寺金色堂、大鹿村
福徳寺、京都_青蓮院
高遠_(峯山寺,弘明寺,建福寺),箕輪_
無量寺,飯島_西岸寺,西春近_深妙寺,
赤穂_光前寺_早太郎犬、福井_永平寺
官営牧場、伊那春近・禁
伊那春近・関東御料
裏御服料所
2.540年間 天皇中心の政治から、平清盛以降に武家の政治へ
王朝国家(おうちょうこっか)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%9B%BD%E5%AE%B6
日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期
までの期間に存続したとされる。律令国家体制は中央集権的な政治機構に立脚し個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えて
いたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。
9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への
方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。
天皇は平均在位が略10年と短く、太政大臣-摂政-関白といった役職が天皇中心の政治を維持していた。
平安時代末期には平氏政権の確立により、平清盛が太政大臣になるなど武家にも公卿になる道が開かれた。鎌倉時代では源頼朝は権大納言、源実朝は右大臣にのぼり、
以降は征夷大将軍が公卿の身分を持つ伝統が生まれた。
源氏が鎌倉で実権を握ったのは頼朝・頼家・実朝の3代・23年間のみで、残り124年間は執権・北条氏による支配であった。
4代目以降の将軍は10歳前後で就任しており、京都からの飾り物に過ぎなかった。北条氏の執権は3代将軍・実朝のときから始まり16代・130年間継続したが、
足利氏・新田氏らと鎌倉幕府の戦いで破れ滅亡して行った。
3.特記事項
伊那春近領(平安時代)
上伊那地域の歴史
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html
近府春近領(松本市)、伊那春近領(伊那市)、奥春近領(長野市)で、その内の伊那春近領が上伊那地域。
伊那春近領は、小黒川より南に広がる天竜川の西段丘上から片桐(松川町)付近まで広がっていたとされ、幾つかの郷に分けられていた。
伊那春近領はもともと公領(国の土地)で、平安時代末期の院政の頃は、宮中の御服など上布類を調進する禁裏御服料所であった。
鎌倉時代になると源頼朝によって関東御料とされ、政所が所管するところとなり地頭が派遣された。
北条得宗家と伊那(鎌倉時代)
上伊那地域の歴史
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html
鎌倉幕府の執権職をほとんど独占し、北条時政-北条義時-北条泰時と続く北条家の嫡流を北条得宗家と呼ぶ。
鎌倉幕府の関東御料とされていた肥沃な伊那春近領は、しだいに北条得宗家の領地とされ、政所・地頭代と呼ばれる得宗家の家臣が、伊那春近領に派遣されてきた。
北条得宗家は、諏訪大社を中心として諏訪地域から上伊那地域の支配を強めて、経済・軍事力・或いは思想面の基盤としていた。
上伊那地域には、諏訪氏の系流と唱える藤沢氏・中沢氏・平出氏・宮所氏・松島氏・深沢氏などが、北条得宗家の地頭をしたり在郷を支配していた。
片切郷・飯島郷には物品を交換する市場があり、京都へ通じる東山道沿いとして物流の拠点となっていた。
戦乱
「戦い」や「合戦」
「乱」
「変」
「役」
軍隊同士の大規模な戦闘
国家や公的な組織に対する内戦・反乱・クーデターに当たる争い
国家や公的な組織による内戦、反乱、クーデター
外国・異民族との戦争
1 薬子の変(くすこのへん) 810年:平城上皇と嵯峨天皇の対立、平城上皇が出家して決着
弘仁新羅の変
820年:朝鮮・新羅の流民・帰化人による犯罪や海賊行為
2
承和の変
842年:藤原氏による最初の他氏排斥事件、皇太子をはじめ多数が処罰された
3
応天門の変
866年:応天門が放火され、大伴氏父子が流刑に処された、古代からの名族・大伴氏の没落
4
平将門の乱
935年:平氏一族の死闘、940年に朝廷への謀反とされ将門が追討され戦死
5
前九年の役
1051年:奥州豪族の安倍氏の討伐戦、「役」は奥州が異国とされていた為、1062年に安倍氏が滅亡
6
阿久利川事件
1056年:陸奥守(朝廷側)・源頼義vs安倍氏の謎の事件、安倍氏側の夜討ちが発端
7
後三年の役
1083年~1087年:東北で朝廷側に味方した清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場した
8
保元の乱
1156年:保元の乱で朝廷内の内紛が原因で平氏・源氏が絡んだ乱
9
平治の乱
1159年:平治の乱で朝廷内の対立が原因、平清盛が勝ち平氏政権の基礎を作った
10
木曽義仲が挙兵
1180年:木曽義仲が諸国源氏と伴に挙兵、1183年に都入り、1184年に源頼朝に討たれた
11
源頼朝が挙兵
1180年:源頼朝も伊豆で挙兵し鎌倉に入る、1183年に関東を平定
12
平家の都落ち
1183年:安徳天皇と建礼門院を連れて京を離れ、代わって源義経が京に入る
13
一の谷合戦
1184年:一の谷(神戸市)合戦で平家が総崩れ
14
壇ノ浦の合戦
1185年:屋島(香川県)の戦いで源義経に破れ海上へ、3ヶ月後に壇ノ浦(関門海峡)で平家が滅亡した
15
梶原の乱
1199年:源頼朝の死後、幕府内部の政争で、頼朝の腹心であった梶原景時が追放された
16
城資盛の乱
1201年:越後平氏の流れである城氏が越後で乱を起こし、鎌倉幕府に追討された
17
畠山の乱
1205年:二俣川(神奈川県)で武蔵国・有力御家人・畠山重忠が北条氏に討たれた、鎌倉幕府内部の政争
18
和田の乱
1213年:鎌倉幕府内の有力御家人・和田義盛の反乱、幕府軍が圧倒し北条氏の執権体制が強固に
19
承久の乱
1221年:後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げて敗れた、この後幕府が皇位継承に影響力を持つ
20
宮騒動
1246年:北条氏内部の主導権争いと将軍権力の浮揚を図る御家人の不満が背景、北条得宋家の専制権力へ
21
三浦氏の乱
1247年:宝治合戦、北条氏と有力御家人・三浦氏が鎌倉で武力衝突、北条氏が勝つ
22
元寇の役(文永)
1274年:文永の役、元軍が対馬・壱岐を攻め落とし博多湾まで来たが、暴風雨で全滅
23
元寇の役(弘安)
1281年:弘安の役、元軍は兵糧攻めと暴風雨で壊滅、元軍の溺死体で埋め尽くされた
24
元弘の乱
1331年:後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府倒幕運動、新田義貞が稲村ガ崎から鎌倉へ突入し幕府が倒れた
25
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
平安時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
4.上伊那地域は公領が中心であり、各郷村は公領・牧・荘園のいずれかに組み込まれていた
平安末期~鎌倉時代
平安前期の伊那郡は伊那市南部が北限であり、伊那市以北は諏訪郡や諏訪大社に属していた。
平安後期から伊那市以北が伊那郡となり、伊那春近の禁裏御服料所は鎌倉期に関東御料となり地頭が派遣された。
荘園は上伊那地域では箕輪町の蕗原荘園のみであり、他は下伊那地域に分布していた。
辰野町
公領
箕輪町
宮田村
駒ヶ根市
中越郷ナカゴ 赤須郷(春近領、北条得
シ
宗家)(赤穂赤須)
飯島町
飯島郷(春近領、北条得
宗家)
中川村
田島郷(春近領、北条得
宗家)(田島)
大井弖郷(大出)
大萱郷(大萱)
上古田郷(上古田)
藤沢郷(諏訪大社)(高遠)宮田郷
上穂郷(赤穂赤須)
片切郷(春近領、北条得 横厩郷(ヨコクルワ)(横前)
宗家)(&中川村)
松島郷(松島)
甲斐沼郷(富県貝沼)
中沢郷(中沢(中曽倉な
ど八ヶ村))
岩間郷(岩間)
福地郷(富県福地)
黒河内郷(諏訪大社)(長
谷黒河内)
小井弖二吉郷(春近領、
北条得宗家)(西春近)
殿島郷(東春近殿島)
御園郷(御園)
笠原牧(左馬寮領)(美篶
笠原)
平出牧(左馬寮領)(平
牧 出)
宮所牧(左馬寮領)(上
島)
(平出&宮所が諏訪上社へ
寄進、1180(治承04))
小野牧(左馬寮領)(小
野)
立野牧(左馬寮領)(辰
野)
(立野&岡屋が諏訪下社へ
寄進、1180(治承04))
(岡屋:岡谷市三角川流域)
荘園
伊那市
蕗原荘(北小河内)
公領 113箇所/信濃国、26箇所/伊那郡
現上伊那地域:21箇所、現下伊那地域:5箇所)
飯田郷
飯田市上飯田
大河原郷 下伊那郡大鹿村大河原
鹿塩郷
下伊那郡大鹿村鹿塩
大島郷
下伊那郡松川町元大島
名古郷(春
下伊那郡松川町大島名古
近領)
牧 上伊那地域では有力な官営牧場が4箇所あった。佐久地域の規模程ではないが、ここで産出された馬は
信濃国司の分として府中(松本市)にあった信濃国府へ送られたり、遠く朝廷へ献上されたりしていた。
平出牧と宮所牧を支配していたのが平出氏と宮所氏で、ここで生産された馬が平安時代末期から軍事力
として利用されていった。木曽義仲の四天王として活躍した樋口次郎兼光の墓が平出牧推定地にある。
荘園 もともと公領であったのが、中央の有力権門に寄進され荘園となった
上伊那地域には荘園が1つ:蕗原荘(ふきはらしょう、箕輪町北小河内)で、天暦8年(954)から、
後院→堀川天皇の中宮 篤子内親王→関白藤原忠通→近衛家と、所有者が遷り変わり、有力者の間を転々としていた。
下伊那地域には荘園が4箇所あった
伊賀良荘 下伊那郡飯田松川以南、阿知川以北
中村郷(飯田市中村)
河路郷(飯田市川路)
殿岡郷(飯田市上殿岡・下殿岡)
郡戸荘 下伊那郡飯田松川以北から飯田市・上郷町・飯田坐光寺・高森町・松川町
伴野荘 下伊那郡松川町生田・豊丘村・喬木村以南で泰阜村あたりまで
江儀遠山荘 下伊那郡南信濃村など遠山川流域
5.平安~鎌倉時代の年表
平安時代
一般
794~1185(392年)
外交/交通、公園、土地/治水/利水
神社仏閣、学校、文化文明
794_延暦13
796_延暦15
797_延暦16
800_延暦19
50代・桓武天皇が平安京へ遷都
804_延暦23
坂上田村麻呂_胆沢城<-加賀城
空海・最澄が入唐
805_延暦24
806_大同01
51代・平城天皇即位
最澄が唐から帰国(天台宗を開く)
空海が唐から帰国(真言宗を開く)
809_大同04
52代・嵯峨天皇即位
東寺_真言宗総本山_空海
坂上田村麻呂=征夷大将軍
富士山延暦噴火
蝦夷の英雄_アテルイが京都で処刑される、富士山噴
802_延暦21
火(裾野市HP)
カタカナ出現
諏訪御柱祭り、坂上田村麻呂が桓武天皇に諏訪神社の加護と報
告、天皇が7年毎に信濃の祭りで諏訪社の造営を指示
時宗_長楽寺_平家物語
坂之上田村麻呂_天皇の勅命で御射山社を建立/大山田神社を
建直し
薬子の変_平城上皇が敗北し出家、検非違使(警察
官・裁判官)を設置
811_弘仁02
坂上田村麻呂歿54歳
810_弘仁01
812_弘仁03
814_弘仁05
815_弘仁06
厳島神社が名神大社_朝廷から幣帛
空海_風信帖
小野岑守_凌雲集
国司の任期4年へ
慈覚大師が十一面の救世観音を彫りその木の切れ端にお経を
書いてこの山に埋めた->経ヶ岳2296m*その後弟子の藤原法
師が寺を作り養鹿山藤宝寺・神護山、 高野山金剛峯寺_創建
高野山真言宗_空海
816_弘仁07
819_弘仁10
820_弘仁11
弘仁新羅の変(朝鮮・新羅の流民・帰化人による犯
罪や海賊行為)
822_弘仁13
53代・淳和天皇即位
823_弘仁14
在原業平生誕_平城天皇の孫
825_天長02
827_天長04
出羽国秋田で大地震
830_天長07
山城・河内両国に氷室を増置
831_天長08
正税の欠負未納を毎年国司に補填させる
832_天長09
833_天長10 54代仁明天皇即位、・諸国に米穀の売買を行わせ
る
834_承和01
富士山噴火(裾野市HP)
835_承和02
836_承和03
最澄没55@比叡山中道院
空海が東寺の塔用に稲荷山の樹木を伐採
藤原常嗣・小野篁らを遣唐使に
遣唐使_難波より出発_遭難して肥前・対馬に漂着
1
824~上田市_安楽寺(曹洞)_八角三重塔(国宝)
空海没61@高野山、承和昌宝を鋳造
遣唐使_大宰府へ向う_再び遭難し壱岐島・値賀島に
漂着
837_承和04
畿内の群盗を左右衛門府の府生・看督らに逮捕さ
838_承和05 せる。大和の富豪の資財を困窮者に貸し出させる
諸国に庚午年籍を写させる
839_承和06
改正格式を施行、淳和天皇没
840_承和07
大宰府の曹140人を対馬の防人に
841_承和08
承和の変_藤原氏による最初の他氏排斥事件
842_承和09
遣唐使・藤原常嗣ら大宰府に帰着
日本後紀完成
長門国_渤海使の来着
諏訪大社_従五位下へ
畿内校田使を任命、前筑前守文室宮田麻呂の謀
843_承和10
反発覚して伊豆に配流
畿内斑田使を任命
844_承和11
845_承和12
846_承和13
大宰府_新羅人の来着を報ず
畿内諸国に諸家の氏姓の出自と皇胤を調査
西大寺講堂焼ける
円仁(えんにん、第3代天台座主=慈覚大師)_唐人
を連れ帰国
847_承和14
848_嘉祥01
大洪水_河陽橋・宇治橋・茨田堤らが損壊
諸国の米価を改める、大宰府_豊後権守登美直名
849_嘉祥02
の謀反を報ず
850_嘉祥03 55代・文徳天皇即位、富豪の山野占有を禁止
長年大宝を鋳造し旧銭と併用
中尊寺開山/奥州藤原氏
天下の諸神に一律に位階を授ける
851_仁寿01
852_仁寿02
諸国の国司・郡司に池堰を修築し農業を催勧
京畿内外の天然痘流行の地の庸調の未納を許し
853_仁寿03
医薬を与える
陸奥の農民_凶作により困窮_兵士逃亡
854_斉衡01
855_斉衡02
856_斉衡03
857_天安01
860_貞観02
円珍(天台宗の僧)_唐商船で唐へ出発
大宰府_漂流した新羅人30人を帰国させた
藤原良房が太政大臣、京・平城の群盗を捕獲
京中の洪水_穀倉院等の米穀・塩を窮民に与える、
858_天安02
56代・清和天皇9歳で即位
粗悪な調庸物を貢進する国司を罰する
859_貞観01
橘嘉智子・橘氏公姉弟_学館院創設
地震で東大寺盧舎那仏像の頭部落下
真言宗_泉涌寺
開元大衍暦経を廃し五紀暦経を採用
円珍帰国
饒益神宝を鋳造、京都_吉田神社
赤穂29_宝積山光前寺創建_天台宗、高遠_日蓮宗_遠照寺創建
(重文)、 石清水八幡宮創建(京都府八幡市)
諸国の禁野での狩猟を禁ず
陸奥国・出羽国より国外に馬出し禁止、福岡県_直
方隕石が落下、武蔵国の郡ごとに検非違使を
山陽道・南海道諸国等に海賊追補を命じる
862_貞観04
861_貞観03
863_貞観05
864_貞観06
865_貞観07
石清水祭り
富士山貞観噴火
前年末より春_阿蘇神霊池沸騰
2
866_貞観08 応天門の変_応天門放火の罪で大納言伴善男が流
罪
867_貞観09
868_貞観10
869_貞観11
貞観地震 M8.3~8.6
870_貞観12
874_貞観16
57代・陽成天皇即位
876_貞観18
諏訪大社_従一位へ
新羅人20人を陸奥国等に配置
879_元慶03
祇園御霊会=祇園祭りの記録
貞観永宝を鋳造
醍醐寺_真言宗醍醐派
八坂神社の地に観慶寺創建
大山田神社を羽広に建立、大御食神社_石清水八幡宮から八幡
神を迎える
出雲/山城/京都で大地震、在原業平没55歳・貴族
&歌人(6歌仙)
58代・光孝天皇即位
884_元慶08
880_元慶04
885_仁和01
886_仁和02
肥前国来着の新羅使を帰国させる
美濃国で斑田(口分田)実施
仁和地震_東海・東南海 M8~8.5、59代・宇多天皇
887_仁和03
即位
寛平大宝を鋳造
890_寛平02
894_寛平06
897_寛平09
菅原道真が遣唐使をヤメ
60代・醍醐天皇即位
水内/高井/埴科/更級/安曇/小県/佐久/諏方/筑
900_昌泰03 摩/伊那の10郡_「延喜式」の中の長野県
右大臣菅原道真が太宰府に左遷
901_延喜01
905_延喜05
915_延喜15
916_延喜16
919_延喜19
927_延長05
930_延長08
935_承平05
竹取物語(作者不明),ヒラガナ,小野小町没75
紀貫之_古今和歌集
十和田湖火山の大噴火
受領功過定が宣旨により開始
延喜式(古代法典)_東山道・宮田駅の記述
61代・朱雀天皇即位、清涼殿落雷事件
平将門の乱_東国
高麗が新羅を滅ぼし朝鮮統一
937_承平07
939_天慶02
藤原純友の乱_西国(瀬戸内海)
940_天慶03
平将門討死
941_天慶04
946_天慶09
947_天歴01
951_天歴05
藤原純友獄死
62代・村上天皇即位
大宰府天満宮創建
延喜式が完成
紀貫之『土佐日記』(初の平仮名日記)
源順(みなもとのしたごう)_承平年間に「倭名(類じゅう)抄」(漢和
辞典)を編纂_伊那郡郷名が判明
平将門の乱_上田の信濃国分寺が消失、諏訪大社_信濃国一之
宮へ、成田山新勝寺創建
北野天満宮創建
真言宗_六波羅密寺
3
蕗原荘(ふきはらしょう、箕輪町北小河内)の荘園
(所有者:後院→堀川天皇の中宮 篤子内親王→
関白藤原忠通→近衛家)
954_天歴08
955_天歴09
956_天歴10
960_天徳04
966_康保03
967_康保04
信濃国の農村も竪穴住居と共に掘立柱建物が一般的となる
金太郎生誕
平安京内裏が全焼
伊勢物語
63代・冷泉天皇即位
64代・円融天皇即位、安和の変(左大臣源高明を太
969_安和02
宰府に左遷)
970_天禄01
971_天禄02
975_天延03
984_永観02
986_寛和02
990_正暦01
992_正暦03
996_長徳02
999_長保01
1000_長保02
1001_長保03
1002_長保04
1011_寛弘08
信濃守・源重之が鉾持(ホコジ)神社を伊那郡笠原ノ荘に祀る
祇園祭が毎年へ
平井常榮堂薬房の創業
皆既日食
65代・花山天皇即位
66代・一条天皇即位
藤原定子が入内,藤原兼家没
天台宗_真正極楽寺=真如堂(京都)
奈良_正暦寺_一条天皇_清酒発祥の地
歌人_清少納言「枕草子」
富士山噴火(裾野市HP)
この頃_箕輪町中曽根の権現桜(樹齢1000年)
日本最古の飲食店「一和」が創業、国宝・長保寺創建
大和国の百姓が愁状を提出
紫式部の源氏物語の成立
67代・三条天皇即位
坂田金時=金太郎没55、尾張国の民が国守藤原知
1012_長和01
光の善状(善政を讃える文書)
68代・後一条天皇即位、藤原道長_摂政、尾張国郡
1016_長和05
司・百姓ら国守藤原経国を訴える
越中国の百姓_国司の善状を提出、伊勢国の百姓_
1017_寛仁01
国守藤原孝忠の重任を申請
1019_寛仁03
1031_長元04
平忠常の乱_源頼信が鎮圧
1032_長元05
富士山噴火(裾野市HP)
1036_長元06
69代・後朱雀天皇即位
1037_長暦01 禎子内親王が69代・後朱雀天皇の中宮->皇后へ
70代・後冷泉天皇即位
1045_寛徳02
前九年の役開戦(陸奥国)
1051_永承06
1052_永承07
1053_天喜01
刀伊の入寇_女真族が隠岐・対馬・九州北部へ
平等院by藤原頼通
平等院鳳凰堂の建立(国宝・雲中供養菩薩像)
4
1056_天喜04
阿久利川事件(陸奥国)
1062_康平05
前九年の役終戦_朝廷側の勝利
1063_康平06
1068_治暦04 70代・後冷泉天皇崩御_71代・後三条天皇即位
後三条天皇譲位_72代・白河天皇即位
1072_延久04
1075_承保02
1078_承暦02
広範囲で金冠日食
1080_承暦04
後3年の役開戦(陸奥国)
1083_永保03
1086_応徳03 白河天皇が譲位し院政へ、73代・堀河天皇即位
後3年の役終戦(陸奥国)_奥州藤原氏へ
1087_寛治01
1090_寛治04
1096_永長01
永長地震M8~8.5 東海・東南海連動
1101_康和03
1102_康和04
村上源氏が公卿の過半数
1105_長治02
73代・堀河天皇歿、74代・鳥羽天皇即位
1107_嘉承02
1108_天仁01 浅間山噴火
源清光生誕
1110_天永01
平清盛生誕~1181
1118_元永01
鳥羽天皇譲位_75代・崇徳天皇即位
1123_保安04
1124_天治01
大治の荘園停止令
1127_大治02
白河法皇没、鳥羽上皇が院政開始
1129_大治04
1136_保延02 宮田村司の解状_20数戸の集落
1141_栄治01
76代・近衛天皇3歳で即位
1145_久安01
清盛:正室に時子
時子が宗盛を生む
1147_久安03
1149_久安05
1150_久安06
平清盛が棟梁へ(父・忠盛没57歳)
1153_仁平03
近衛17歳で崩御_77代・後白河天皇即位
1155_久寿02
鎌倉鶴岡八幡宮の建立
飯田_伊賀良井_用水開発で水田へ
左京_法勝寺
最古の「仏涅槃図」_金剛峯寺_国宝
天台_聖護院
第一回十字軍
大地震_興福寺金堂・大門倒壊。興福寺vs金峰山_僧徒争う。
藤原清衡が中尊寺建立
中尊寺金色堂
平清盛が石清水祭りの舞人に選ばれる:元服
大御食神社_本殿再建2代目
天台宗_青蓮院_京都
中川村_片桐景重が保元の乱で後白河天皇方で勝
利、鳥羽法皇歿、保元の乱_源義朝/平清盛が勝
北条政子生誕
1157_保元02
後白河天皇が譲位_78代・二条天皇即位
1158_保元03
1156_保元01
5
中川村_片桐景重が平治の乱で平清盛と戦い討死
1159_平治01 、源義経~1189、平治の乱=清盛が源義朝を討->
1160_永暦01
1165_永万01
1167_仁安02
1168_仁安03
1173_承安03
1175_安元01
1177_治承01
野間_墓
源頼朝を伊豆に配流、村上水軍発祥
79代・六条天皇即位
平氏政権、清盛が太政大臣へ->3ヶ月で辞任
80代・高倉天皇即位
大鹿村_福徳寺_本堂(重文) 創建
後白河上皇_三十三間堂創建
厳島神社社殿造営, 大輪田泊
親鸞聖人生誕
浄土宗_知恩院_法然
鹿ケ谷の陰謀->反清盛、安元の火災(方丈記)
高遠城築城、 清盛の娘の盛子(24歳)・息子の重
1179_治承03 盛(42歳)が死去
平安末期:伊那春近は公領で禁裏御服料所、木曽
都で竜巻,福原へ遷都,頼朝/義仲が挙兵,治承・寿永
1180_治承04 義仲が挙兵、武田が大田切郷の菅冠者(平氏の方 の乱~1185、81代・安徳天皇即位
人)・小田切友則を滅ぼす(吾妻鏡)
平安末期:官営牧場が4ヶ所(美篶笠原,平出,宮所,
1181_養和01 小野)、平清盛没64歳、養和の大飢饉
1182_寿永01
源頼家_生誕
1183_寿永02
養和の大飢饉、平家の都落ち、富士山噴火(裾野
市HP)
平安末期:上ノ平城(丸山城、神之平城)_源為朝(現箕輪町東箕
輪)
大山田神社は御射山大社へ_その後、神護山は本福山と改名、
頼朝が藤宝寺を再興、12の坊を建て御射山大社の別当寺として
繁盛
木曽義仲(旭将軍) 征夷大将軍へ->宇治川の戦
1184_元暦01 いで歿31歳(巴御前も参戦)、一の谷合戦
1185_文治01
鎌倉時代
平家滅亡->落人_長谷・浦地区(平重森の墓)、義
経逃亡、屋島/壇ノ浦の戦い、京都大地震(方丈記)
1186~1333(147年)
下伊那の荘園(伴野荘_豊丘村、伊賀良荘_飯田市
1186_文治02 、江儀遠山荘_南信濃村)、 静御前_鶴岡八幡宮で
舞、82代・後鳥羽天皇即位
1187_文治03
1188_文治04
1189_文治05
1190_建久01
1191_建久02
1192_建久03
1193_建久04
奥州の秀衡没
義経追討の宣旨、院の御所焼亡
頼朝が奥州藤原氏を倒す、義経殺害
鎌倉期:伊那春近が関東御料で政所が所管_地頭
が派遣された、頼朝上洛
佐々木定綱を配流
後白河院の崩御、源頼朝が鎌倉初代将軍へ
曽我の仇討ち
高遠_峰山寺_曹洞宗_鳥居家の墓、 西行没72歳
6
1194_建久05
1195_建久06
東大寺再建供養
九条の失脚
1196_建久07
1197_建久08
後鳥羽院政、83代・土御門天皇即位
1198_建久09
源頼朝没52歳
1199_正治01
1200_正治02 北条氏が梶原景時を討つ(頼朝の腹心、追放され
る)
城資盛の乱
1201_建仁01
2代将軍・源頼家(よりいえ)、連日蹴鞠会有り
1202_建仁02
曹洞宗_道元_生誕
北条氏が引企氏を謀殺、1代執権・北条時政、3代
将軍・源実朝(さねとも)
源頼家_修善寺で殺される
1204_元久01
北条氏が畠山重忠を討つ、1代執権・北条時政が実
1205_元久02
朝の暗殺に失敗して失脚->2代執権・子の北条義
時
1206_建永01
運慶・快慶による(東大寺南大門金剛力士)像が完成、快慶
・「善財童子立像」_国宝
1203_建仁03
高遠_本学山・弘妙寺グミョウジ_日蓮宗(現・ゴルフ寺)、 藤原定家・家隆ら「新古今和歌集」を編纂
1207_承元01
1208_承元02
1209_承元03
1210_承元04
法然配流
神宮寺建造
後鳥羽上皇が土御門天皇を退位_84代・順徳天皇
即位、彗星出現
1211_建暦01
1212_建暦02
1213_健保01
1214_健保02
1215_健保03
1216_健保04
1217_健保05
1218_健保06
朱雀門転倒
法然没79歳、鴨長明「方丈記」
北条氏が和田義盛を討つ、建礼門院・平徳子没58
@大原・寂光院
1代執権・北条時政没78歳
陳和郷_唐船を造る
1222_貞応01
政子が上洛_叙位、藤原頼経生誕
3代将軍・源実朝が公暁(こうきょう、源頼家の次男
、僧侶)に討たれる_28歳、北条政子が尼将軍:藤原
頼経が鎌倉殿へ2歳
藤原頼経が着袴3歳
承久の乱_倒幕に失敗して後鳥羽上皇が隠岐の島
へ、朝廷を監視する六波羅探題が設置される、85
代・仲恭天皇/86代・後堀河天皇即位
彗星出現
1223_貞応02
上皇方から没収した地に地頭をおく
1219_承久01
1220_承久02
1221_承久03
諸国に土地関係の書類「大田文」の作成と提出
を命じる
7
1224_貞応03
箕輪町・北小河内_西光山無量寺(真言宗) 重文・阿弥陀如来の
守護_別当寺(神社を管理する寺=神宮寺)
2代執権_北条義時没62歳->3代・北条泰時へ
北条政子没_複数執権制へ、連署と(評定衆)をおき
執権の手助けをさせる
1226_稼禄02 4代将軍.藤原頼経(よりつね)_征夷大将軍8歳
1225_稼禄01
1227_安貞01
1228_安貞02
1229_寛喜01
1230_寛喜02
1231_寛喜03
尊長法印(僧侶のトップ)が自害(鎌倉幕府打倒に失敗)
3代執権・北条泰時の嫡子・北条時氏没28歳
諸国大飢饉
87代・四条天皇即位、3代執権_北条泰時の御成敗
1232_貞永01
式目=貞永式目制定
1233_天福01
1234_文暦01
1235_嘉禎01
1236_嘉禎02
1237_嘉禎03
1238_暦仁01
1239_延応01
1240_仁治01
1241_仁治02
経時が元服
疱瘡が流行
4代将軍・藤原頼経が上洛_20歳
5代将軍・藤原頼嗣(ヨリツグ)が生誕
執権補佐・北条時房没66歳、諸国で旱魃
武蔵野開発、歌人_藤原定家没80歳
88代・後嵯峨天皇即位、執権・北条泰時没60歳、宗
1242_仁治03
損親王生誕
岡山_高梁城(天空の城)
鎌倉大仏の開眼
1243_寛元01
4代将軍・藤原頼経辞任_嫡子頼嗣任ず( 5代将軍_.
藤原頼嗣(ヨリツグ)5歳)
藤原頼経出家、藤原頼嗣嫁娶
1245_寛元03
89代・後深草天皇即位、4代執権・北條経時(ツネトキ)
1246_寛元04 没23歳->5代執権・北条時頼、宮騒動(北条氏内部
の争い、頼経を京都へ追放)
宝治合戦(三浦の乱、北条氏と三浦泰盛の戦い、 荘園領主が地頭に領地の半分を譲ることで共存
1247_宝治01
北条氏の勝)
をはかる「下地中分」がおこる
(第7回十字軍~1249)
1248_宝治02
1249_建長01 裁判を迅速に進めるため「引付衆」を設置
(インカの統治~1438)
1250_建長02
1244_寛元02
永平寺創建_道元_曹洞宗
1251_建長03
1252_建長04
5代将軍・藤原頼嗣を廃す_宗尊親王任ず、6代将軍
・宗尊(むねたか)親王10歳
仏教説話集「十訓集」が成立
8
高遠_臨済宗_建福寺開山、 鎌倉建長寺_5代執権・北条時頼_臨
済建長寺派 、日蓮_法華を説く(立教開宗)、道元歿53
橘成季が古今著聞集を著す
1253_建長05
1254_建長06
1255_建長07
4代将軍・藤原頼経引退、5代将軍・藤原頼嗣18歳
没
1257_正嘉01
8代執権・北条時宗が元服、鎌倉大地震
1256_康元01
1258_正嘉02
1259_正元01
1260_文応01
90代・亀山天皇即位、諸国大飢饉
6代将軍・宗尊親王嫁娶
1261_弘長01
8代執権・北条時宗嫁娶(かしゅ=結婚)
1262_弘長02
1263_弘長03
5代執権・北條時頼没37歳
惟康親王・生誕、6代執権・北条長時没34歳->7代
1264_文永01
執権・北条政村、彗星出現
イラク_アッヴァース朝_モンゴル帝国に滅ぼされる
高麗が元の支配下へ
御射山社が兵火に遭い再建、 日蓮が立正安国論を著す
東海道の宿々に2疋の早馬を常備(鎌倉~京都3~4
飯島_西岸寺_臨済_大覚禅師が創建
日)
親鸞没90歳
元朝アイヌ族を攻撃=北から蒙古襲来
1265_文永02
続古今和歌集
宗尊親王を京都へ送還24歳 、7代将軍・.惟康(これ
1266_文永03
やす)親王2歳
1267_文永04
1268_文永05
1269_文永06
1270_文永07
1271_文永08
1272_文永09
1273_文永10
クビライvsマルコポーロ北京
1.15歌御会始め
7代執権・北条政村->8代執権・北条時宗
7代執権・北条政村没68歳
1274_文永11
91代・後宇多天皇即位
1275_建治01
1276_建治02
1277_建治03
8代将軍・久明ヒサアキラ親王生誕
第8回十字軍
中国・元、9回十字軍~1272, 伊マルコポーロ旅へ
9回十字軍end
ハプスブルグ家~650年間
元寇文永の役(900隻、3万人余りの兵力で九州・博
多に押し寄せた、元・高麗連合軍、暴風雨で敗退)
殿岡の地頭_四条頼基(金吾)日蓮に銭・白米・餅・酒・串柿・ザク
ロをおくる
1278_弘安01
1279_弘安02
1280_弘安03
1281_弘安04
東本願寺,大谷廟堂_親鸞墓所
宋の滅亡
イタリアで眼鏡を発明
元寇弘安の役(4400隻、15万人余り)、台風で元が
敗退
1282_弘安05
阿仏尼が十六夜日記を著す
円覚寺_時宗_臨済宗円覚寺派、日蓮歿60才
9
飯田市_文永寺_石造五輪塔及び石室(重文)_知久敦盛が建
立
1283_弘安06
1284_弘安07
1285_弘安08
8代執権・北条時宗没34歳->9代執権・北条貞時
北条氏が安達泰盛を討つ(霜月騒動)
天皇家が皇位継承を巡り二派に分裂_持明院統
1286_弘安09
と大覚寺統の二つ
1287_弘安10
1288_正応01
1289_正応02
1290_正応03
1291_正応04
円覚寺舎利殿建立
92代・伏見天皇即位
鳩ヶ嶺八幡宮(飯田市松尾)の誉田別尊坐像がつくられる
8代将軍・久明(ひさあきら)親王13歳
南禅寺_臨済宗大本山_亀山法王
小笠原貞宗が飯田市に生まれる(7代当主へ、後に
1292_正応05
信濃国の守護)
九州に鎮西探題を設置
1293_永仁01
1294_永仁02
1297_永仁05
1298_永仁06
蒙古襲来絵巻の成立
京都_八大神社(宮本武蔵が祈願)
永仁の徳政令_御家人の借金が帳消しに
93代・後伏見天皇即位
西春近の深妙寺_三位公入道が日蓮宗へ(あじさい寺)、 「一遍上人伝絵巻」_国宝
この頃、吾妻鏡が完成(6代の将軍記)
1299_正安01
1300_正安02
1301_正安03
1308_延慶01
1311_応長01
1312_正和01
1315_正和04
1316_正和05
1318_文保02
1321_元亨01
1322_元亨02
1324_正中01
94代・後二条天皇即位、守邦親王生誕、9代執権・
北条貞時->10代執権・北条師時
95代・花園天皇即位、9代将軍・守邦(もりくに)親王
7歳
9代執権・北条貞時没40歳、10代執権・北条.師時没
37歳->11代執権・北条宗宣
11代執権・北条宗宣->12代執権・北条煕時ヒロトキ
12代執権・北条煕時没37歳->13代執権・北条基時
13代執権・北条基時->14代執権・北条高時
96代・後醍醐天皇即位
後醍醐天皇の親政が開始
赤穂_光前寺の山犬・早太郎が寺に戻りひと吠えして息絶えた
浅草三社/舟祭
国宝・短刀 銘 来国俊(愛知・熱田神宮)
イアリア・ダンテ「神曲」
正中の変_後醍醐の倒幕計画が事前に発覚
14代執権・北条高時->15代執権・北条貞顕サダアキ1326_嘉暦01
>16代執権・北条守時
久明親王没53歳
1328_嘉暦03
1330_元徳02
1331_元徳03/元弘01
大谷本願寺->西本願寺
虎閑師錬が「元亨釈書」を著す
後醍醐天皇・「仏舎利奉請状」_国宝
吉田兼好「徒然草」
中川村_八幡神社、 京都御所
南北朝の始まり、元弘の乱の始まり
10
1332_正慶01/元弘02
1333_正慶02/元弘03
後醍醐天皇が隠岐の島へ
新田義貞と鎌倉幕府の戦い、13代執権・北条基時
元弘の乱で後醍醐が勝利で建武の新政->鎌倉幕 没47歳/14代執権・北条高時没31歳/15代執権・北
府滅亡(9代将軍・守邦親王没32歳)
条貞顕没55歳/16代執権・北条守時没39歳 執権4
人戦死
11