城説明

津和野城(一本松城,三本松城,石蕗城)(国史跡,100 名城)(鹿足郡津和野町後田)
津和野城(つわのじょう)は日本の城。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高 367 メートルの山上、島根県鹿足郡津和野町後田にある山
城である。築城時からは少なくても室町時代後期(戦国時代)までは三本松城(もしくは一本松城)と呼
ばれていた。尾根伝いに南にある出城の中荒城は、当城と併せて史跡指定されている。
江戸時代には津和野藩亀井氏の居城であったが、藩庁は急峻な山城を避け山麓に置かれた。
歴史
鎌倉時代
鎌倉時代、元寇の翌年の弘安 5 年(1283 年)吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に
赴任した。永仁 3 年(1295 年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324 年)完成
した。以後、14 代にわたり吉見氏が居城とした。
戦国時代・江戸時代
吉見氏は戦国時代には当初、大内氏に属していたが、11 代当主正頼は天文 23 年(1554 年)に大内氏を滅
ぼした陶晴賢と 100 日以上に及ぶ籠城戦が生じる(三本松城の戦い)。その後、吉見氏は防長経略を経て
毛利氏の配下となり、引き続き津和野城を居城とした。その後、慶長 5 年(1600 年)関ヶ原の戦いにおい
て毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が防長 2 か国に押し込められたると、吉見氏も津和野を退
去して萩に移住した。
代わって東軍に属した坂崎直盛が 3 万石(後に加増され 4 万 3468 石)で入城し、城の大改修を行った。大
手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。この時、二の丸に天守を築いた。直盛は
元和 2 年(1616 年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。
元和 3 年(1617 年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が 4 万 3 千石で入城。以後、明治維新まで 11 代にわたり
亀井氏の居城となった。貞享 3 年(1686 年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以
後再建されることはなかった。
近現代
明治 4 年(1871 年)廃藩置県により廃城となり、翌年、山上の城は解体された。
昭和 17 年(1942 年)10 月 14 日、国の史跡に指定される。昭和 47 年(1972 年)と平成 19 年(2007 年)
には、史跡の追加指定が行われて指定範囲が拡大した。
昭和 46 年(1971 年)には山上への観光リフトが完成した。また、平成 18 年(2006 年)4 月 6 日、日本 100
名城(66 番)に選定された。
遺構
明治時代に廃城となり、山上には石垣や堀(堀切、堅堀、連続堅堀など)が残る。山麓には馬場先櫓(島
根県指定文化財)、物見櫓が現存している。また、藩主屋敷は島根県立津和野高等学校になり、庭園は嘉
楽園となった。
Wikipedia による