レビ記とNT

レビ記とNT
4.レビ記とNT
• イスラエルの歴史を通じて,その人々の生活の土台にレ
ビ記の制度があったとすれば,そのイスラエルを通して
与えられた聖書全体を理解するために,レビ記の果す役
割は大きい.
• 主イエスが,律法と預言者のすべてがかかっていると
言って申6:5と共にあげたみことばであるレビ19:18の,
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」は,新
約全体を貫くメッセージであり,キリスト御自身のみわざ
の本質と深くかかわっている.レビ記には新約聖書の教
理の型,または説明として理解される要素が多い.
4.レビ記とNT
• 幕屋における祭司やいけにえは,キリストのみわざを予
表するものであった(ヘブ3:1).イスラエル人たちの間の
神の臨在(レビ26:12)は,キリスト者を御自身の宮とされ
る神の臨在と重ねられている(Ⅱコリ6:16).しかし,より
総合的なこととして,W・H・ジスペンの次のような指摘は
重要と思われる.レビ記はキリスト者に,イスラエルの神
がイスラエルにおいて罪と戦われる道を宣言する.神は
いけにえときよめの定めによって罪と戦われ,社会の罪
に対しては安息の年とヨベルの年により,性の罪に対し
ては,懲らしめをもって戦われる.また約束と警告をもっ
て戦われる.この罪との戦いにおいてレビ記はキリストを
贖罪,聖化として提示する.
4.レビ記とNT
• 新約聖書とレビ記の関係の理解には困難も伴う.たとえ
ば今日,レビの律法のどこまでが有効であるかということ
についての問題がある.
• 一般には律法を道徳律法,民法,儀式律法に分け,この
うち,十のことば(十戒)に代表される道徳律法だけが今
日のキリスト者が守らなければならないものであるとする.
しかしウェンハムが指摘しているように,たとえば安息日
についての律法は道徳なのか儀式律法なのかということ,
つまりどこで区分できるのかという問題が出てくる.この
種の問題についての解明の前提としてイスラエルの律法
は本来一つのものであって,道徳律法以下に分類する考
え方はなかったという理解をすべきであろう.
4.レビ記とNT
• すべては主の前の歩みのための主の律法であり,生きる
ことの全体にかかわることであった.ウェンハムは長い論
議の結論の中で,キリストがその贖いの死を遂げられた
のはレビ記のいけにえの教えそのものの理解に従っての
ことであったこと,レビの儀式律法が今もなおその意義を
決して失っていないことを指摘している.儀式律法の全体
は,ある意味では確かに今日のキリスト者に直接つなが
らないものになっているが,それはあくまでも,キリスト御
自身がその死によってすべての律法を成就したからなの
である.したがって今日でも,神に近づくためにレビ記の
示す礼拝の意味は失われてはいないのである.